約 1,803 件
https://w.atwiki.jp/shooto/pages/1153.html
【大宮フリーファイト47】 日時:12月23日(木・祝) 開場:埼玉県さいたま市/PUREBRED大宮*リング使用 主催:PUREBRED大宮 リンク:X-SHOOTO 第1試合 クラスCライト級 ×川井 一将(R-GYM) [39-41] ○福地 一真(パレストラ千葉) 第2試合 グラップリングルールライト級 ○鏑木 利行(PUREBRED大宮) [2R1分00秒 腕ひしぎ十字固め] ×鈴木 智仁(TEAM TOPS) 第3試合 クラスDフェザー級 ○山崎 聡(PUREBREDアリーナ) [45-44] ×伊藤 登志夫(GUTSMAN修斗道場) 第4試合 クラスDライト級 ○長谷川 隆大(PUREBRED大宮) [40-29] ×安富 広毅(GUTSMAN修斗道場) 第5試合 クラスDウェルター級 ○磯ヶ谷 梓(PUREBRED大宮) [48-43] ×平田 真実(ポゴナ・クラブ) 第6試合 クラスCバンタム級 ○新藤 明彦(PUREBRED大宮) [1R1分32秒 アンクルホールド] ×添野 瞬(和術慧舟會東京本部) 第7試合 クラスDライト級 ×沓澤 一孝(パレストラ仙台) [37-41] ○木部 洋一(PUREBRED大宮) 第8試合 クラスDライト級 ×近藤 嗣仁(パレストラ吉祥寺) [40-65] ○岸 貴之(クロスワンジム湘南) 第9試合 クラスCミドル級 ○大城 和彦(PUREBRED大宮) [66-42] ×菊地 孝幸(GUTSMAN修斗道場) 第10試合 クラスCミドル級 ○マテウス・イリエ・ネシオ(PUREBRED大宮) [1R2分37秒 腕ひしぎ十字固め] ×高階 修(田中塾) 第11試合 クラスCウェルター級 ○星野 大介(田中塾) [42-40] ×田口 公一(PUREBRED大宮) 第12試合 クラスCウェルター級 ○田村 一聖(KILLER BEE) [2R2分05秒 腕ひしぎ十字固め] ×漆山 浩之(GUTSMAN修斗道場) 第13試合 クラスCバンタム級 ○鍋島 潤(RJWセントラル) [44-43] ×仲治 良浩(和術慧舟會A-3) 第14試合 クラスCフェザー級 ○小澤 健一(パレストラ八王子) [1R TKO] ×小野 貴章(RJWセントラル) 第15試合 クラスCライト級 ○ 山本 勇気(パレストラ千葉) [41-36] ×鷹島 大樹(GUTSMAN修斗道場) 第16試合 クラスCウェルター級 ○大石 貴史(PUREBRED大宮) [57-39] ×仲本 貴紀(GUTSMAN修斗道場) 第17試合 グラップリングライト級 ○鏑木 利行(PUREBRED大宮) [1R1分11秒 三角絞め] ×薄井 勝也(GUTSMAN修斗道場) 第18試合 クラスDウェルター級 ×磯ヶ谷 梓(PUREBRED大宮) [43-47] ○斎藤 吉陽(TEAM TOPS) 第19試合 クラスDライト級 ○高橋 悠士(TEAM TOPS) [2R1分10秒 三角絞め] ×沢田 卓(RBアカデミー) 第20試合 クラスDフェザー級 ○山崎 聡(PUREBREDアリーナ) [45-36] ×鬼塚 輝紀(GUTSMAN修斗道場) 第21試合 クラスCバンタム級 ×新藤 明彦(PUREBRED大宮) [2R2分18秒 スリーパーホールド] ○河村 竜弥(GUTSMAN修斗道場) 第22試合 クラスCライト級 ○浅場 淳平(パレストラ東京) [47-41] ×吉川 大作(GUTSMAN修斗道場) 第23試合 クラスCウェルター級 ×中村 俊就(マッハ道場) [40-43] ○中易 俊之(ポゴナ・クラブ) 第24試合 クラスCミドル級 ×山本 哲裕(GUTSMSN修斗道場) [2R12秒 KO] ○本間 克也(PUREBRED大宮) 第25試合 クラスCウェルター級 ×鈴木 祐作(タイガープレイス) [37-48] ○中島 邦男(マッハ道場) 第26試合 クラスCヘビー級 ×西坂 竜彦(クロスワンジム湘南) [41-44] ○高橋 祐一(GUTSMAN修斗道場) 第27試合 クラスCバンタム級 ×益子 武敏(PUREBRED大宮) [31―39] ○鈴木 大輝(STG横浜) 第28試合 クラスCライト級 ×藤田 雅史(パレストラ仙台) [1R2分20秒 肩固め] ○北田 俊亮(パレストラ千葉) 第29試合 クラスCウェルター級 △稲葉 友久(無所属) [40-40] △高橋 佳典(マッハ道場) 第30試合 クラスCライト級 ○荒木 浩太(パレストラ千葉) [43-40] ×石渡伸太郎(GUTSMAN修斗道場) 第31試合 クラスCミドル級 ×大城 和彦(PUREBRED大宮) [1R36秒 アームロック] ○小林 和宜(GUTSMAN修斗道場) 第32試合 クラスCミドル級 ×丸山 俊彦(大河内軍団) [2R2分58秒 腕ひしぎ十字固め] ○本間 克也(PUREBRED大宮) 第33試合 クラスCフェザー級 ×安永 有希(東京イエローマンズ) [43-49] ○薩摩 竜仁(和術慧舟會) 第34試合 クラスCライト級 ×田村 和也(マッハ道場) [36-49] ○孫 煌進(スクランブル渋谷YTG) ※孫煌進選手プロ昇格 第35試合 クラスCフェザー級 ○矢作 尚紀(PUREBRED大宮) [47-33] ×河南 大介(和術慧舟會東京本部) 第36試合 クラスCバンタム級 △菅原 雅顕(和術慧舟會) [40-40] △三木 龍一(GUTSMAN修斗道場) ※菅原雅顕選手・三木龍一選手共にプロ昇格
https://w.atwiki.jp/l_ten/pages/31.html
2011 10月アップデート 2011 10月アップデート [#p01ec2c6] 新MAP『チベット』 [#kdca35b2] 新装備『頭飾り』 [#e9023d36] 新アイテム『カバン』 [#mc508000] 新規改造『武器の五行属性改造』 [#k93336e2] 新機能『ミニマップNPC表示機能』 [#w283b67e] 『闘魂システム』 [#q95071a0] 『靴/具足 強化改造開放』 [#vb107a83] 新規アイテム実装 [#f01f31e5] 天上五行具 [#y6e531ef] 特殊付与石 [#k24caa5a] 極限練武石 [#hd3ba033] 一人用天上梯クエスト緩和 [#rc6e391d] 魔仙遠距離仕様変更 [#c2010503] その他 [#k915af89] 追加命中率の表示変更 [#jbc31820] アイテムステータス変更 [#w935ea54] 匠具リニューアル [#ib802c27] 『便利アイテム価格変更/販売中止/リニューアル』 [#h90b464a] 掲示板 [#tf631bce] 新MAP『チベット』 ●チベット敵モンスター 密州僧 :男性の修行僧。書物を持ち不思議な力で攻撃してくる。 耐性 11150 宮徒 :扇子を持った女性の修行僧。 耐性 11050 宮女 :金剛杵を持った女性の修行僧。 耐性 10450 狂魂餓狼:とても凶暴な飢えたオオカミ。 耐性 10950 狂魂獅子:炎を纏った凶悪な獅子。 耐性 11950 ドロップアイテム名 防御 重量 ドロップ対象モンスター 剣神無極鈴 防御51 重量255 火龍の鎧 防御292 重量1460 火龍の外套 防御136 重量680 狂魂獅子 火龍の具足 防御142 重量710 火龍の靴 防御53 重量265 青血道着(上) 防御142 重量710 青血道着(下) 防御123 重量615 宮女 祓魔の鎧 祓魔の外套 祓魔の具足 祓魔の靴 十全大補湯(気力回復アイテム) 五香頭(体力回復アイテム) 祓魔の鎧(セット防具) セット効果 「祓魔の鎧」「祓魔の外套」「祓魔の具足」「祓魔の靴」を全て装備すると、 ⇒体力+20,000 攻撃耐性+150 熟練度+200 さらに「封龍奇縁武器」を同時に装備すると、 ⇒力+100 主な施設 ポタラ宮(X173 Y25付近) 納木錯料理屋(X90 Y224付近) 新装備『頭飾り』 装備インターフェースに新規スロットが追加されます。 新規スロットには、新装備『頭飾り』を装備することが可能です。 『髪飾り』は既存の防具と同列の装備品であり、 属性に応じた付与値改造や強化改造などを行うことが可能です。 崑崙寺の製作台にて「髪飾り製作」を選択できるようになります。 「髪飾り製作」には、通常の生産素材の他に新たに拠点修練場にてドロップする 『雪虎の爪』が必要となります。 製作に必要な材料 堅い薪5個、神秘の合金5個、丈夫な皮革5個、雪虎の爪20個、手数料20万 「髪飾り」製作時の属性及び、重量はランダムとなります。 ※髪飾り作成時の成功率は50%となります 雪虎覆面 防御100 重さ500 雪虎仮面 防御120 重さ600 雪虎頭巾 防御150 重さ750 雪虎被帽 防御190 重さ950 雪虎兜 防御240 重さ1200 新アイテム『カバン』 装備インターフェースにカバンアイコンが追加されます。 カバンアイコンは、新アイテム『皮のカバン』を使用することで活性化します。 崑崙寺の製作台にて「カバン製作」を選択できるようになります。 「カバン製作」には、 通常の生産素材の他に新たに鍛冶屋管理人が販売する『革糸』が必要となります。 製作に必要な材料 皮革100個、雪虎皮革100個、革糸10個、手数料10万 「カバン製作」が成功すると『皮のカバン(5)』が生成されます。 カバンアイコン活性化中、1個につき所持量の最大値が10000上昇します。 『皮のカバン(5)』を使用すると5日間、カバンアイコンが1個活性化します。 カバンアイコンは最大3個まで活性化できます。 活性化したカバンアイコンをクリックすると10枠のインベントリが出現し、 通常のインベントリと同様にアイテムを収納できます。 取引不可能なアイテムはカバン内に収納できません。 活性化期間を満了すると、カバン内のアイテムを取り出すことは可能ですが アイテムを収納できなくなります。再度活性化させるには、 カバン内のアイテムを全て取り出し『皮のカバン(5)』 を使用する必要があります。 風水で得られる古代のカバンを使うと所持量+1万の効果があります。 新規改造『武器の五行属性改造』 全ての武器に「五行属性」のステータスが付与されます。 「五行属性」の実装に伴い、全てのモンスターに 「五行属性」によるダメージの増減が実装されます。 ※特殊モンスターに付与されている属性とは別に、 全てのモンスターに五行属性のいずれかが付与されています。 ●詳細 崑崙寺の火鉢にて「武器属性改造」を選択できるようになります。 「五行属性」を強化すると、対応する属性を弱点とするモンスターに 通常よりも高いダメージを与えることができます。 五行属性値が高いほど高い追加ダメージを与えることが可能です。 「五行属性改造」によってダメージが減少することはありません。 「五行属性改造」には五行具と、特殊強化材料(藍銅石/鎮邪石/白鉛石/煙水晶)の いずれかを使用する必要があります。 ※属性値が高い五行具、上位の等級の特殊強化材料を使用することで 五行属性改造の成功率が上昇します。 五行属性改造」には「成功」「維持」「下落」「初期化」の可能性があります。 失敗した場合は、「維持」「下落」「初期化」のいずれかが発生します。 ・維持・・・使用した材料を全て消費し、武器の五行属性値は変化しません。 ・下落…五行属性値+5⇒+6の改造から発生し、使用した材料を全て消費し、 武器の五行属性値が- 1下落します。 ・初期化…五行属性値+10から+11の改造から発生し、使用した材料を全て消費し、 武器の五行属性 値が「+0」の状態に変化します。 五行改良の効果 付与 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 効果% 1.5 3 4.5 6 7.5 9 10.5 12 13.5 15 22 30 39 49 60 「五行属性改造」は五行属性値+15の状態から改造を行う事は出来ません。 特殊モンスターの属性と「五行属性」は干渉いたしません。 モンスターの属性は外見から判別することはできません。 モンスターの種類によって属性を見極め、戦闘を有利に進めましょう。 武器の属性変更は「崑崙寺」の火鉢(X 40,Y 95)にて行えます。 新機能『ミニマップNPC表示機能』 「Tab」キーを押すことにより表示させる事が可能な ミニマップに、マップ内いるNPCの場所、NPC名を表示させる事が 出来る機能です。 ●詳細 F12「環境設定」をクリックし、 「NPC表示」にチェックを入れると ミニマップを開いた際にNPCの情報が表示されるようになります。 『闘魂システム』 河南省 嵩山北方料理屋「魔侠」(X 274,Y 42付近) 河南省のNPC「魔侠」から1日1回、1時間の『闘魂の風』効果を受けられます。 効果中キャラクターと同程度の名声、又は高名声のモンスターを倒すと 『闘魂ポイント』を獲得することができます。 『闘魂ポイント』を貯めると「魔侠」の会話メニュー「闘魂商店」にて、 修練に役立つアイテムや闘魂防具を購入することができます。 獲得できる闘魂ポイントについて 名声が極端に低いモンスター:0ポイント 名声が同程度のモンスター :1ポイント 名声が極端に高いモンスター:2ポイント 名称 闘魂ポイント 効果 闘魂逆天符 3000 1時間、全ステータス成長率2倍(軍閥符と同時使用不可 闘魂逆天符(力) 750 1時間、力の成長率2倍(軍閥符と同時使用不可) 闘魂逆天符(名声) 750 1時間、名声の成長率2倍(軍閥符と同時使用不可) 闘魂逆天符(攻撃耐性) 750 1時間、攻撃耐性の成長率2倍(軍閥符と同時使用不可) 闘魂逆天符(熟練) 750 1時間、熟練度の成長率2倍(軍閥符と同時使用不可) 闘魂逆天符(敏捷) 750 1時間、敏捷の成長率2倍(軍閥符と同時使用不可) 闘魂防具箱 4000 闘魂防具6種の内ランダムで1つを獲得 闘魂属性変更符 750 闘魂防具の属性を変更する符 闘魂防具仕様 詳細情報(公式) 種類 防御 付与 強化 修練 念力 鎧 311 12 7 - 付与5 外套 ? 12 7 - 付与5 服上 146 12 7 5 修練5 服上 146 12 7 5 修練5 具足 127 12 7 5 付与5 靴 50 12 7 5 修練5 耐久:10,20,50,100 取引、露店、DP:不可 倉庫、削除:可 『靴/具足 強化改造開放』 今まで強化改造不可だった靴、具足の強化改造が可能となります。 上衣、下衣、頭、鎧、外套と同様に 「製造壺」のメニュー防具強化にて強化改造を行うことができます。 新規アイテム実装 天上五行具 →付与値+12の防具で付与値改造を行うと付与値+13に改造が可能なアイテム。 ※使用時、「50%」の確率で改造に成功する。 失敗時には改造に使用した全てのアイテムは破壊される。 洛陽城の道具屋メニュー「アイテム改造」にて使用可能。 特殊付与石 →1つの武器に7等級の能力値及び、追加能力値を付与する。 付与される能力:体力+2800、力+100、気力+ 280、敏捷+140攻撃耐性+210 特殊付与石改造時必要アイテム 【7等級の藍銅石、鎮邪石、白鉛石、煙水晶を各1個、特殊付与石1個】 崑崙寺の火鉢メニュー「能力値特殊付与」にて使用可能。 極限練武石 →練武石または強化練武石の代わりに使用し、 強化値+7未満の装備を100%の確率で強化値+7にする。 洛陽城の製造壺メニュー「防具強化」にて使用可能。 一人用天上梯クエスト緩和 一人用天上悌クエスト達成に必要な「喚龍石」につきまして、 従来「喚龍球」を100個集めることで獲得できておりましたが、 アップデート後より「喚龍球」10個で獲得できるようになります。 魔仙遠距離仕様変更 魔仙専用遠距離武技「幻影瞬歩」「弓身弾影」につきまして、 派閥本陣内で使用した際、対象の座標にワープする機能を廃止し、 通常の遠距離武技として発動するように仕様を変更いたしました。 (韓国と同様の仕様に変更いたしました) ※武技のダメージ倍率には変更ございません。 その他 追加命中率の表示変更 武器の追加命中率が0の場合、右クリックで表示される 詳細に追加命中率の項目が表示されませんでしたが、 アップデート後より追加命中率が0の場合でも表示されるようになります。 アイテムステータス変更 下記のアイテムのステータスを変更します。 透骨寒陰指秘術 取引 ○ ドロップ × 売却 ○ 削除 × 個人商店 ○ 倉庫 × ↓ 取引 ○ ドロップ × 売却 ○ 削除 × 個人商店 ○ 倉庫 ○ 匠具リニューアル 基礎修練石、金の輪、耐久符(指輪)(中)が登場。 公式:http //tenjouhi.gamechu.jp/member/lottery/takumi_list.asp 『便利アイテム価格変更/販売中止/リニューアル』 一部便利アイテムの販売中止、価格変更、リニューアルを実施いたします。 販売中止アイテム 量々符(1000) 量々符(2000) 調整符(鍛冶) 調整符(裁縫) 調整符(大工) 初級格天符 下級格天符 中級格天符 初級格殺符 下級格殺符 中級格殺符 防御符 所持量上昇符 陰陽陣(幻) 四象陣(幻) 六合陣(幻) 遁甲百獣符 遁甲千人符 遁甲万霊符 遁甲天上符 幻影符01~32 価格変更アイテム 名称 変更前 変更後 天上周遊券 300 100 挌天符改、挌殺符改(初) 160 100 挌天符改、挌殺符改(下) 240 150 挌天符改、挌殺符改(中) 320 200 調整符(各職) 500 100 移動符 110~200 50 草上符 250 100 凌空符 500 200 天上符 750 300 掲示板 総アクセス数 - 今日 - 昨日 - #pcomment_nospam #inputtoolbar
https://w.atwiki.jp/pstudysystem/pages/64.html
224 :名無しさん@英語勉強中:2014/05/26(月) 22 57 47.73 ID vVL7ilqn Pico TTS(ピコ ティーティーエス)(無料) 英語(アメリカ合衆国) 英語(イギリス) フランス語(フランス) イタリア語(イタリア) ドイツ語(ドイツ) スペイン語(スペイン) 英語以外の言語のTTSも発音がなんか英語っぽい。 639 :名無しさん@英語勉強中:2015/07/22(水) 10 21 44.70 ID Dqj121bo https //play.google.com/store/apps/details?id=com.acapelagroup.android.tts hl=ja referrer=utm_source%3Dgoogle%26utm_medium%3Dorganic%26utm_term%3Dacapela+tts pcampaignid=APPU_1_9e6uVa-xDcLXmAWl5YDIDw Acapela TTSもリピたんで使える。 英語のTTSが大量にある。 IVONAみたいに有料だけど。 アプリ内購入をして使うみたい。 535 :名無しさん@英語勉強中:2015/05/10(日) 13 54 01.05 ID 4xGs3byY Pico TTS、IVONA TTS、SVOXってなんて読むのが正しいの? 537 :名無しさん@英語勉強中:2015/05/11(月) 00 33 50.96 ID +BF2W95B 535 SVOX は分からんけど IVONA TTS はサンプル音声が「アイヴォナ ティーティーエス」って自称してた 538 :名無しさん@英語勉強中:2015/05/11(月) 12 17 02.06 ID w/cm2alM Pico TTS ピコ ティーティーエス IVONA TTS イヴォナ ティーティーエス SVOX スヴォックス って読んでいた。 どうやらアイヴォナが正しいようなので今後は改めるけど。 eSpeak TTSはイースピーク ティーティーエスで良いんじゃなかろうか。 598 :名無しさん@英語勉強中:2015/07/09(木) 02 37 52.00 ID HRbxzDkk Syntalkはポーランド語のリピたん用TTS。もちろん無料。 http //neurosoft.pl/produkty/syntalk/ 532 :名無しさん@英語勉強中:2015/05/07(木) 12 19 26.66 ID D/HjUXU8 リピたんで中国語とか韓国語の音声を出せないかね? 539 :名無しさん@英語勉強中:2015/05/11(月) 12 38 49.30 ID GxvHYw9D リピたん用中国語TTSはここにある。 讯飞语音TTS下载 http //ifly-tts.softonic.cn/android 讯飞语音TTS中文语音包下载 http //ifly-tts-resource.softonic.cn/android 617 :名無しさん@英語勉強中:2015/07/13(月) 21 28 12.29 ID WXiTrqh/https //play.google.com/store/apps/details?id=com.iflytek.speechcloud referrer=utm_source%3Dgoogle%26utm_medium%3Dorganic%26utm_term%3Diflytek+tts+android pcampaignid=APPU_1_tayjVcXpGsGMmwXatbPABg 539からダウンロードできなくなっているので貼っておく。 これをインストールするとiflytex.TTSも自動的にインストールされる。英語と中国語が表示される。 619 :名無しさん@英語勉強中:2015/07/13(月) 21 55 14.02 ID kOEl9l0G リピたんにiflytex.TTSを入れたあとに 設定 音声再生の設定 音声データのインストールと進むと 普通話4人に加えて東北話、河南話、湖南話、四川話、台湾話、粤話(えつ話)、英文をインストールすることができる。 おう話というのは広東語のことで、台湾話というのはここでは閩南語(ビンナン語、ミンナン語)ではなく台湾華語のこと、英文は英語のこと。 普通話だけでなく中国語の方言まで読み上げをさせられるとは思わなかった。 542 :名無しさん@英語勉強中:2015/05/13(水) 12 47 53.59 ID +qr3Jpnv IVONA TTSはPico TTSの上位互換だと言っていいね。 音質も良いし、対応言語も多い。 SVOXは有料なので、IVONA TTSにない言語だけでいい。 585 :名無しさん@英語勉強中:2015/07/01(水) 01 00 25.64 ID 2qEkO5IX リピたん用の日本語のTTSってないの? PSSでは日本語を読み上げできるけど。 587 :名無しさん@英語勉強中:2015/07/02(木) 14 50 03.13 ID aO0+sqM5 N2 TTS(エヌツー ティーティーエス)なら日本語の読み上げができる。もちろん無料。 https //play.google.com/store/apps/details?id=jp.kddilabs.n2tts feature=search_result#?t=W251bGwsMSwyLDEsImpwLmtkZGlsYWJzLm4ydHRzIl0. fa001が女性の声、mb001が男性の声。 588 :名無しさん@英語勉強中:2015/07/02(木) 15 00 09.12 ID aO0+sqM5 ドキュメントトーカを入れても日本語読み上げはできる。無料版で十分。 ただしこれを入れると、ブラウザとドキュメントトーカの選択の表示が毎回出て、わずらわしいことこの上ないので結局アンインストールしたけど。 うまいことTTSのみを入れる方法はないだろうか? https //play.google.com/store/apps/details?id=jp.co.createsystem.DTalkerTtsDemo
https://w.atwiki.jp/jukai_bao/pages/210.html
官方集运の防疫政策に関するお知らせを掲載します。 原文もスペースなど一部編集しています。 翻訳は機械翻訳と、多分こんな感じだろう翻訳です。 間違えていたら優しく教えてください。 官方集运がなにかわからない方は海外への配送方法/官方集运-空运を先にご覧ください。 2022/09/18 义乌の倉庫閉鎖済み発送前の荷物は送付先変更をすべし 4/6 倉庫変更のお知らせ原文 機械翻訳 3/14 出入庫遅延のお知らせ原文 機械翻訳 お知らせの見方 じゅりさんの元ツイート配送遅延について 倉庫変更について コ○ナの最新の状況など……中国政府网 2022/09/18 义乌の倉庫閉鎖済み 2022/09/18 义乌の倉庫は閉鎖済みです 発送前の荷物は送付先変更をすべし 义乌の倉庫宛荷物は、送付先変更(カスタマーサービスとチャットをしての転送手続きが必要)か、キャンセルして再注文、もしくは他の転送業者宛へ変更してください。 4/6 倉庫変更のお知らせ 要約 防疫政策期間中もサービス継続します。 上海がロックダウン中なので、その影響で日本向けサービスの集荷倉庫が変わります。 変更前:上海 変更後:浙江省金华市义乌市稠江街道东河南街388号东宇物流园F1一楼【CN日本集运】 4月7日12時(北京時間)以降の注文は、義烏での受け取り予定。 上海市の倉庫に残されてる荷物についての通知はなく、また、ロックダウンの影響で荷物追跡が途絶えてる場合は各々運送会社やセラーに連絡とって対処してね!とのこと。 公式集运倉庫は入庫から20日を超えると転送手続きをするまで1日あたり1元の延滞金が発生するので、上海倉庫に既に着いてる荷物がある人は、辿り着いてくれない他の荷物を待たずに早めに転送手続きしちゃったほうが良いかもしれません。 参考:4PXの保管期限と延滞金 原文 2022/04/06更新内容: 日本官方集运疫情防控期间服务不降级通告 亲爱的会员 受国内疫情管控政策影响,部分地区交通出行处于管制状态,经过菜鸟多方协调,日本官方集运收货地址由原有的上海,调整至浙江省金华市义乌市稠江街道东河南街388号东宇物流园F1一楼【CN日本集运】。预计北京时间4月7日中午12:00以后支付的订单,将会在义乌进行收货。 由于疫情管控政策对作业人员密度以及消杀要求,包裹入库时效延迟1-2天。经过菜鸟的不懈努力,集运仓签收后,您的包裹流转不受影响,服务不做降级,欢迎您体验菜鸟官方集运-日本空运。尽管菜鸟已经取得临时通行证,但是国内部分地区受疫情影响,快递送仓时效可能出现延迟,对此给您造成的不便,我们深表歉意,特殊时期,也请您务必做好个人防护,祝平安。 FAQ: 1、我的包裹之前已经在上海集运仓签收了,后面的包裹在义务签收,是否会影响我合单? 您好,不影响,您正常合单即可,包裹经过消杀后,会根据您合并的数量一起发出。不过受疫情管控政策要求,您的包裹显示到达集运仓后,需要经过消杀后才能上架,预计在包裹显示到达集运仓后1-2天才会展示在待合单页面,恳请您耐心等待。 2、包裹会不会有疫情传染风险? 您好,包裹到达日本官方集运仓后,会进行全面消杀,作业人员会按照疫情防控政策进行核酸检测,货物也会进行检疫,您可以放心收货。特殊时期,请您做好个人防护,感谢您的理解和支持! 3、我的包裹已经到达集运仓了,但是你们反馈没收到是怎么回事? 您好,受上海当地疫情管控政策影响,国内快递几乎处于停运状态,您反馈的情况不排除国内快递提前操作了签收,目前菜鸟官方集运仓安排专人收货,暂无积压。建议您联系卖家或者对应快递服务电话进行咨询反馈。 機械翻訳 以下、主にDeepLで翻訳しました。 一部編集。 2022/04/06 更新しました。 日本官方集运防疫対策期間中のサービスダウンなしのお知らせ 会員の皆様へ。 国内の疫病対策政策の影響で、一部の地域の交通移動が規制されています。 CaiBirdが調整を重ねた結果、日本の公式集荷先が元の上海から、浙江省金華市義烏市周江街東河街388号東湧物流園F1階【CN Japan集荷先】に調整されました。4月7日12時(BST)以降にお支払いいただいたご注文は、義烏での回収を予定しています。 消毒の必要性とともに、オペレーターの密度に関する防疫政策により、宅配便の入港時間の遅れは1~2日となっています。菜鸟の絶え間ない努力の末、集荷倉庫のサインオフ後も荷物の流れに影響がなく、サービスのダウングレードもありません。ぜひ、菜鸟官方集运-日本空运を体験してください。菜鸟は臨時許可を得ていますが、一部地域では伝染病の影響を受けており、特急便の配達時間が遅れる可能性があります。お客様にはご不便をおかけしますが、特別期間中の身の安全を確保していただき、ご安心くださいますよう、お願い申し上げます。 よくある質問 1、私の荷物は前に上海の集荷倉庫ですでに署名されましたが、後の荷物は義務で署名されましたが、私の組み合わせ注文に影響しますか? お荷物は消毒後、おまとめいただいた数に応じてまとめて発送させていただきます。ただし、疫病対策として、お荷物が混載倉庫に到着後、棚に並べる前に消毒をする必要があり、混載倉庫にお荷物が到着してから1-2日後にしか、保留中の注文ページに表示されない予定です。 2、小包は伝染病の危険性があるのか? こんにちは、お荷物は日本官方集运の倉庫に到着後、十分な消毒を行い、オペレーターが防疫方針に基づいて核酸検査を実施し、商品も検疫されますので、ご安心ください。特別期間中に個人的な保護を行ってください、あなたの理解と支持をありがとうございました 3、私の荷物が倉庫に到着しているのに受け取っていないというフィードバックがありますが、どうなっているのでしょうか? こんにちは、上海の地域防疫政策の影響を受け国内の宅配業者はほぼ停止状態です。 お客様のフィードバックは、国内の宅配業者が事前に商品の受け取りサインをするために操作したことを除外していません。 現在、菜鸟の公式回収倉庫では、特別な担当者による商品の受け取りを手配しています。 今のところ未処理のものはありません。 販売者または対応する宅配便の電話番号にお問い合わせいただき、ご相談・ご意見をいただくことをお勧めします。 3/14 出入庫遅延のお知らせ 要約 コ○ナの影響で遅れるけど許せ 原文 日本官方集运仓出入库时效延迟通知 亲爱的会员 受国内疫情管控政策影响,部分地区交通出行处于管制状态,日本官方集运仓为配合当地疫情管控政策,即日起会进行全面核酸检测和深度消杀,集运仓出入库时效可能会出现延迟。整体出入库时效预计延误3-5天,我们正在积极协调资源,尽力保障您的包裹尽快送达您的手中,但是国内部分地区受疫情影响快递送仓时效可能出现延迟,对此给您造成的不便,我们深表歉意,也请您务必做好个人防护,祝平安。 FAQ: 1、疫情到底影响了哪些地方?为什么会延迟这么久? 您好,目前国内疫情呈现散点状,日本官方集运仓所在地上海也出现少量确诊,为了确保包裹的安全和集运仓作业人员的身体健康,集运仓会进行仓内环境消杀,作业人员核酸检测,在此期间,集运仓暂停出入库作业。除此之外深圳、东莞等地也有不同程度的疫情发生,您从淘宝购物的包裹送往集运仓的时效可能会出现延误,恳请您耐心等待。 2、包裹会不会有疫情传染风险? 您好,包裹到达日本官方集运仓后,会进行全面消杀,作业人员会按照疫情防控政策进行核酸检测,货物也会进行检疫,您可以放心收货。特殊时期,请您做好个人防护,感谢您的理解和支持! 3、预计什么时候能恢复正常的时效呢?会不会进一步延长送货失效 您好,准确的运输时效恢复时间暂时无法预估,我们竭尽全力保障您尽快收到包裹,如有其他变动会另行通知,建议您关注官方物流通告。 2022/03/14 機械翻訳 以下、主にDeepLで翻訳しました。 一部編集。 会員の皆様へ 国内の防疫政策の影響により、一部の地域で交通・移動が規制されています。 日本国内の公式収集倉庫では、今後、地域の防疫政策に合わせて、包括的な核酸検査と深部消毒を実施することにしています。当社では、お客様のお荷物が一刻も早くお手元に届くよう、積極的にリソースの調整を行っておりますが、中国国内の一部地域では、疫病の影響により遅延する可能性があります。ご迷惑をおかけいたしますが、体調管理には十分にご注意ください。 よくある質問: 1、どのような地域で流行しているのでしょうか?なぜ、これほどまでに遅れるのか? 荷物の安全性と倉庫内で働く作業員の健康を確保するため、倉庫内の消毒と作業員の核酸検査を実施する予定です。また、深センや東莞などでは、疫病の程度も異なります。淘宝網からのお荷物は、倉庫への輸送中に遅れることがありますので、ご容赦ください。 2、小包は伝染病の危険性があるのか? こんにちは、お荷物は日本国内の正規の混載倉庫に到着後、十分な消毒を行い、オペレーターが防疫方針に基づいて核酸検査を実施し、商品も検疫されますので、安心してお受け取りいただけますね。特殊な期間、個人的な保護を行ってください、あなたの理解と支持をありがとうございました 3、通常のスケジュールは、いつ頃再開される予定ですか?配送停止をさらに延長するのか こんにちは、正確な出荷時間の回復は、当分の間予測することはできません、我々はあなたができるだけ早くあなたの小包を受け取ることを保証するためにあらゆる努力をする、今後の変更点については、追ってお知らせいたします。我々はあなたが官方集运の通知に注意を払うことをお勧めします。 2022/03/14 お知らせの見方 日本物流公告(お知らせ)の見方 春节(旧正月) 日本物流公告(お知らせ)の見方 特殊なスケジュールになる大型連休前などにはお知らせが出ます。 画像は地区設置が日本の場合。 地区設置が中国大陸の場合はアプリトップの海外集运から跨境物流へ飛べます。 春节(旧正月) 春节(旧正月)の時期は中国では大型連休です。 その年によって日付が違うので毎年確認してください。 2022年春节中のスケジュール じゅりさんの元ツイート 配送遅延について 日本官方集运仓出入库时效延迟通知 m.tb.cn/h.foTT9wU 2022.3.14 タオバオ公式転送サービスの防疫対策に伴う遅延についての通知が上がってます。 要約すると「コ○ナの影響で遅れるけど許せ」です。 倉庫変更について タオバオの公式転送サービス(日本向け)は、上海市のロックダウンの影響を避けるため、4/7以降の注文については上海市ではなく義鳥の集运倉庫宛に切り替えるという通知があった模様…… いや急😂 上海市の倉庫に残されてる荷物についての通知はなく、また、ロックダウンの影響で荷物追跡が途絶えてる場合は各々運送会社やセラーに連絡とって対処してね!とのこと 公式集运倉庫は入庫から20日を超えると転送手続きをするまで1日あたり1元の延滞金が発生するので、上海倉庫に既に着いてる荷物がある人は、辿り着いてくれない他の荷物を待たずに早めに転送手続きしちゃったほうが良いかも?しらんけど コ○ナの最新の状況など……中国政府网
https://w.atwiki.jp/tenj/pages/1318.html
コンセプト アバター改造システムNPC アバター効果付与符について アバター効果付与可能アバターについて アバター効果付与符の使用方法について アバター効果変更符について アバター効果変更符の使用方法について アバター強化について アバター強化方法について アバター強化の効果について 新アイテムの獲得方法について 対応状況 コメント コンセプト 一部永久アバターに効果(能力)を付与できる「アバター効果付与符」という新アイテムが登場します。 また、アバター効果付与符によって付与させた効果を変更することが出来る 「アバター効果変更符」という新アイテムが登場します。 さらに、アバター効果が付与されたアバターアイテムと同種類のアバターで アバター効果が付与されていないアイテムを合成することで、アバターを強化することが出来るようになります。 アバター効果付与、アバター効果変更、アバター強化の3つの新しいシステムのことを まとめて「アバター改造システム」と呼びます。 アバター改造システムNPC 河南省洛陽城「天女」(145,274)より「アバター改造」コマンド アバター効果付与符について 一部永久アバターに効果(能力)を付与できるアイテムが「アバター効果付与符」となります。 なお、付与することが出来る能力は以下の4つのなかでランダムで1つとなります。 力熟練度攻撃耐性敏捷性 アバター効果付与可能アバターについて 現在のところ、下記の永久アバターにのみ「アバター効果付与符」を使用することが出来ます。 $1大唐西域記$0$A大唐西域記$0陰陽転化(男)陰陽転化(女) 軍師扇子(男)軍師扇子(女)パンダ護符四聖獣「朱雀」 四聖獣「青龍」四聖獣「白虎」四聖獣「玄武」兎禁書 舞姫天書幸運術書修行心得書着袍「童子武双」 着袍「下午門徒」着袍「月柳聖女」着袍「妖狐」着袍「魏武王」 着袍「白麒麟」着袍「黒麒麟」着袍「赤兎馬兵」着袍「不死鳥」 着袍「流浪人」 アバター効果付与符の使用方法について アバター効果付与する方法について説明します。 アバター効果付与可能アバターとアバター効果付与符を手に入れたら 洛陽城NPC「天女」のところへ行きましょう。 天女の会話タブ「アバター改造」を選択。 アイテムがセットできるUIが表示されたら、アバター効果付与可能アバターとアバター効果付与符の 2つをセットし、確認ボタンを押してください。 すると、アバターに効果(能力)が付与されます。 アバター効果変更符について アバター効果付与符にてアバターについた効果(能力)を 再度、4つの能力からランダムで変更することが出来るアイテムがアバター効果変更符です。 アバター効果変更符の使用方法について アバター効果付与符によってアバターに付与された効果を変更したくなったら そのアバターとアバター効果変更符をもって洛陽城NPC「天女」のところへ行きましょう 天女の会話タブ「アバター改造」を選択。 その後、アバタ―効果を変更したいアバターとアバター効果付与符を アイテムがセットできるUIにセットし、確認ボタンを押してください。 すると、新しい効果がアバターに付与されます。 アバター強化について アバター効果付与符にて効果を付与されたアバターはアバター強化することが可能になります。 アバター強化に必要なアイテムは「アバター効果付与されていない同種類のアバター」となります。 アバター強化すると、付与されている効果が上昇していきます。 付与される効果の上昇値はこちら アバター強化方法について 強化をさせたいアバターをもって洛陽城NPC「天女」のところへ行きましょう。 天女の会話タブ「アバター改造」を選択。 その後、アバター効果付与符によって効果が付与されたアバターと それと同種類のアバター効果が付与されていないアバターをセットし 確認ボタンを押してください。すると、強化は成功し、アバター効果の値が上昇します。 ※なおアバター効果が付与されていないアバターはアバター強化により消失いたします。 例) ・兎禁書(強化値1)×兎禁書(強化値0)=兎禁書(強化値2) ⇒兎禁書(強化値0)は消失 ・兎禁書(強化値1)×兎禁書(強化値1)=強化不可 ⇒材料となるアバターは強化値が0でなければいけない。 ・兎禁書(強化値1)×幸運術書(強化値0) =強化不可 ⇒強化させたいアバターと材料アバターは同種類(同じアイテム)でなければいけない。 ・兎禁書(強化値0)×兎禁書(強化値1)=兎禁書(強化値2) ⇒強化値がついているアバターが強化される。兎禁書(強化値0)は消失。 アバター強化の効果について アバター強化により強化されたアバターは以下の能力が付与されます。 強化値 力 熟練 攻撃耐性 敏捷性 +1(アバター効果付与時) +30 +30 +50 +100 +2 +60 +60 +150 +150 +3 +90 +90 +200 +200 +4 +120 +120 +200 +250 +5 +150 +150 +250 +300 +6 +180 +180 +300 +350 +7 +210 +210 +350 +400 +8 +240 +240 +400 +450 +9 +270 +270 +450 +500 +10 +300 +300 +500 +550 新アイテムの獲得方法について アバター効果付与符…呪符術士 10,000,000銀 アバター効果変更符…平安京の全モンスターから一定確率でドロップ 対応状況 2013年9月25日 情報の掲載・導入 コメント 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/iwateganbare/pages/22.html
宮古市20 加藤廣昭 休暇村 加藤琴美 休暇村 北村寿郎 休暇村 北村春子 休暇村 北村大地 休暇村 細越権二 休暇村 細越京子 休暇村 吉田フミ 休暇村 浜崎朝子 休暇村 木根守 休暇村 木根啓子 休暇村 木根千恵子 休暇村 木根一樹 休暇村 船木テイ 休暇村 木根一禎 休暇村 熱海タミ 休暇村 松村信子 休暇村 盛田幸子 休暇村 関川一 休暇村 関川すゑ 休暇村 佐々木正春 休暇村 本田ミチ 休暇村 本田英子 休暇村 新沼孝志 休暇村 武田イネ 休暇村 舘洞京子 休暇村 舘洞雅昭 休暇村 盛合陽子 休暇村 阿部和子 休暇村 舘洞サヨ 休暇村 舘洞チヤ子 休暇村 山坂光子 休暇村 山坂啓子 休暇村 澤泉裕子 休暇村 岩船良治 休暇村 岩船久子 休暇村 船木眞一郎 休暇村 船木良子 休暇村 船木ミワ 休暇村 館洞美代 休暇村 佐々木サヨ 休暇村 倉平ミヤ子 休暇村 山崎シヅエ 休暇村 中宿礼子 休暇村 伊藤佐知子 休暇村 伊藤祐太 休暇村 上田香奈江 休暇村 上田角美 休暇村 上田郁子 休暇村 上田麻里 休暇村 鈴木洋子 休暇村 山口博志 休暇村 山口ノブ 休暇村 戸塚和信 休暇村 戸塚裕美 休暇村 戸塚悠仁 休暇村 戸塚悠太 休暇村 戸塚力 休暇村 吉田徳三 休暇村 木場久美子 休暇村 木場愛 休暇村 木場剛 休暇村 木場洋 休暇村 蓬田明子 休暇村 蓬田晴香 休暇村 蓬田明日香 休暇村 石崎薫 休暇村 石崎泰弘 休暇村 金澤栄治 休暇村 金澤貞子 休暇村 金澤英世 休暇村 金澤誠 休暇村 藤田ヒデ夫 休暇村 藤田政子 休暇村 酒井一治 休暇村 酒井クマ 休暇村 酒井丈治 休暇村 吉田裕子 休暇村 昆キミ 休暇村 昆祐次郎 休暇村 小島静子 休暇村 佐々木ソヨ 休暇村 細越シズ子 休暇村 千葉ゆき 休暇村 岩船ケイ 休暇村 駒井浩二 休暇村 駒井志久子 休暇村 駒井悠生 休暇村 駒井風花 休暇村 駒井洋一郎 休暇村 駒井和子 休暇村 長洞チヨ 休暇村 山根アヤ 休暇村 山根美智夫 休暇村 山根秀子 休暇村 佐藤禮子 休暇村 佐藤誠 休暇村 佐藤精一 休暇村 佐藤卓三 休暇村 大森千枝 休暇村 大森康弘 休暇村 熱海トヨ子 休暇村 熱海慶男 休暇村 工藤孝二 休暇村 工藤ミサホ 休暇村 工藤博志 休暇村 工藤優子 休暇村 工藤孝裕 休暇村 工藤朋美 休暇村 工藤未羽 休暇村 工藤大空 休暇村 佐々木達雄 休暇村 佐々木敬子 休暇村 岩間幹雄 休暇村 岩間敬子 休暇村 岩間明孝 休暇村 岩間憲子 休暇村 久保孝子 休暇村 本田義則 休暇村 本田真喜子 休暇村 本田卓 休暇村 本田理乃 休暇村 本田カツヘ 休暇村 小瀬川健治 休暇村 小瀬川カノ 休暇村 佐々木聡 休暇村 佐々木里恵 休暇村 佐々木陽亮 休暇村 小瀬川彩 休暇村 嶋崎専造 休暇村 粟津トミ子 休暇村 佐々木昭治 休暇村 佐々木光枝 休暇村 佐々木英明 休暇村 佐々木勝 休暇村 三浦正之 休暇村 三浦満江 休暇村 三浦洋子 休暇村 三浦悠斗 休暇村 三浦花奈 休暇村 三浦真奈 休暇村 関川功 休暇村 関川龍 休暇村 関川優斗 休暇村 関川フミ子 休暇村 榊カン 休暇村 小川ミヤ 休暇村 盛合幸吉 津軽石小 盛合政子 津軽石小 久保田京子 津軽石小 上野サヨ 津軽石小 上野美希 津軽石小 盛合保雄 津軽石小 盛合初子 津軽石小 長洞栄 津軽石小 猪又文雄 津軽石小 猪又ウメ 津軽石小 猪又正弘 津軽石小 長洞清 津軽石小 山野目輝雄 津軽石小 山野目幸子 津軽石小 山野目アキ 津軽石小 長洞俊美 津軽石小 長洞辰子 津軽石小 長洞純子 津軽石小 長洞恵美 津軽石小 若狭和博 津軽石小 若狭牧子 津軽石小 高井澄夫 津軽石小 寺舘武夫 津軽石小 寺舘リツ子 津軽石小 盛合秀男 津軽石小 盛合洋子 津軽石小 盛合キエ 津軽石小 久保田章 津軽石小 久保田淑子 津軽石小 久保田剛司 津軽石小 久保田沙織 津軽石小 久保田稟 津軽石小 久保田光 津軽石小 村上恭子 津軽石小 村上満江 津軽石小 久保田繁 津軽石小 久保田徳子 津軽石小 久保田勇夫 津軽石小 久保田純子 津軽石小 久保田充 津軽石小 長洞正人 津軽石小 長洞美恵子 津軽石小 長洞綿美 津軽石小 長洞利林 津軽石小 有田勉 津軽石小 野崎ミヨ 津軽石小 野崎昭敏 津軽石小 野崎幹雄 津軽石小 野崎政博 津軽石小 前川賢一 津軽石小 佐藤弘 津軽石小 山崎信雄 津軽石小 盛合徳彦 津軽石小 山根未澄 津軽石小 山崎平治 津軽石小 倉賢治治 津軽石小 久保田吉太郎 津軽石小 山崎富士 津軽石小 長洞勝 津軽石小 山崎正徳 津軽石小 中島英司 津軽石小 中嶋トキエ 津軽石小 中島健輔 津軽石小 野崎一雄 津軽石小 千葉国太郎 津軽石小 長洞文夫 津軽石小 山崎元廣 津軽石小 山崎秀義 津軽石小 山崎ノリ 津軽石小 盛合安彦 津軽石小 松村義男 津軽石小 奥一郎 津軽石小 奥良子 津軽石小 久保田均 津軽石小 久保田真知子 津軽石小 清水弘喜 津軽石小 野崎辰男 津軽石小 野崎恵美子 津軽石小 岡田房子 津軽石小 岡田寛枝 津軽石小 久保田均 津軽石小 久保田玲子 津軽石小 長洞麻林 津軽石小 山野目範夫 津軽石小 盛合孝夫 津軽石小 盛合キヌ子 津軽石小 盛合保男 津軽石小 盛合ハツ子 津軽石小 久保田正行 津軽石小 久保田アヤ子 津軽石小 久保田ハツ子 津軽石小 盛合文雄・妻・孫 津軽石小 盛合清正 津軽石小 盛合サキ・息子・息子の嫁 津軽石小 盛合忠朗 津軽石小 盛合トセ 津軽石小 盛合千賀子 津軽石小 盛合美賀子 津軽石小 盛合大輝 津軽石小 盛合光子 津軽石小 盛合享一 津軽石小 盛合礼子 津軽石小 盛合キヨエ 津軽石小 盛合覚 津軽石小 中島要一 津軽石小 中島光子 津軽石小 中島ムツ子 津軽石小 中島和孝 津軽石小 中島久仁子 津軽石小 中島靖章 津軽石小 沼里嘉男 津軽石小 沼里津江 津軽石小 沼里信夫 津軽石小 沼里千穂子 津軽石小 沼里一輝 津軽石小 盛合延之 津軽石小 盛合り江 津軽石小 盛合ウタ 津軽石小 盛合博美 津軽石小 盛合恵美子 津軽石小 盛合千翔 津軽石小 豊間根修 津軽石小 豊間根弘子 津軽石小 豊間根雅通 津軽石小 盛合留美子 津軽石小 盛合茂樹 津軽石小 盛合恭子 津軽石小 盛合陽生 津軽石小 盛合姫那 津軽石小 山﨑勝則 津軽石小 山﨑茂子 津軽石小 山﨑勝矢 津軽石小 山﨑慎吾 津軽石小 菅野広美 津軽石小 菅野啓子 津軽石小 菅野ヤスエ 津軽石小 長洞武彦 津軽石小 長洞君子 津軽石小 長洞美香 津軽石小 長洞スエ 津軽石小 長洞タカ 津軽石小 中嶋信 津軽石小 中嶋キミ 津軽石小 中嶋幸子 津軽石小 中嶋寿子 津軽石小 中嶋舞瞳 津軽石小 坂下悟 津軽石小 坂下あゆみ 津軽石小 坂下航平 津軽石小 坂下レイ子 津軽石小 三浦直樹 津軽石小 三浦恵 津軽石小 三浦健伸 津軽石小 三浦舞彩 津軽石小 三浦陽子 津軽石小 渡部新次郎 津軽石小 熊谷福三 津軽石小 熊谷静枝 津軽石小 熊谷祝子 津軽石小 熊谷大義 津軽石小 熊谷佳恵 津軽石小 根井静子 津軽石小 根井美香子 津軽石小 根井将太 津軽石小 古舘正吉 津軽石小 古舘光子 津軽石小 古舘真紀 津軽石小 若狭武 津軽石小 久保田俊幸 津軽石小 久保田アキ子 津軽石小 佐々木仁蔵 津軽石小 佐々木ヨウ 津軽石小 佐々木豊 津軽石小 佐々木貞子 津軽石小 佐々木由利子 津軽石小 佐々木利律子 津軽石小 佐々木明 津軽石小 佐々木淳 津軽石小 中嶋勝文 津軽石小 中嶋啓子 津軽石小 中嶋智人 津軽石小 中嶋郁真 津軽石小 中嶋枝梨奈 津軽石小 中嶋郁美 津軽石小 久保田昌平 津軽石小 久保田正弘 津軽石小 久保田容子 津軽石小 久保田眸 津軽石小 久保田圭一 津軽石小 若狭一成 津軽石小 若狭なおこ 津軽石小 若狭ヒデ 津軽石小 山野目巌 津軽石小 山野目節子 津軽石小 中嶋敏孝 津軽石小 盛合彰 津軽石小 盛合康代 津軽石小 盛合辰徳 津軽石小 盛合智美 津軽石小 盛合和昌 津軽石小 盛合博宣 津軽石小 盛合栄 津軽石小 盛合キミ子 津軽石小 盛合柚花 津軽石小 盛合リュウト 津軽石小 小笠原征四郎 高浜 小笠原榮子 高浜 野表利光 高浜 野表昭子 高浜 野表徹 高浜 野表莉央 高浜 岩間リサ子 高浜 岩間弘明 高浜 岩間武夫 高浜 盛合昭平 高浜 盛合定子 高浜 岩間弘行 高浜 岩間芳子 高浜 岩間良善 高浜 千葉しも 高浜 岩間良一 高浜 岩間チヨ 高浜 後田正男 高浜 後田幸子 高浜 岩間ヨシ 高浜 岩間啓 高浜 佐々木好栄 高浜 佐々木有喜江 高浜 佐々木スミ 高浜 藤沢克人 高浜 太田守 高浜 近江勝定 高浜 近江きよ子 高浜 佐々木昭夫 高浜 佐々木ヨシエ 高浜 米澤良平 高浜 米澤シロ 高浜 米澤敏彦 高浜 関川博安 高浜 古舘リワ 藤原小学校 城内隆美 藤原小学校 城内満美子 藤原小学校 石沢チエ 藤原小学校 石沢寿一 藤原小学校 藤田善一 藤原小学校 藤田トシ子 藤原小学校 大井孝輔 藤原小学校 大井洋子 藤原小学校 千葉志津ゑ 藤原小学校 千葉みちこ 藤原小学校 松井春江 藤原小学校 斉藤登 藤原小学校 斉藤孝子 藤原小学校 斉藤有花 藤原小学校 斉藤広大 藤原小学校 斉藤真央 藤原小学校 松井武 藤原小学校 松井幸子 藤原小学校 青山幸彦 藤原小学校 塩越政夫 藤原小学校 塩越吉子 藤原小学校 塩越昇 藤原小学校 工藤スミ子 藤原小学校 工藤雅子 藤原小学校 中野秋菜 藤原小学校 山内秀一 藤原小学校 山内文子 藤原小学校 中坂正一 藤原小学校 中坂富美子 藤原小学校 中坂正人 藤原小学校 佐賀すみ子 藤原小学校 大井晃章 藤原小学校 飛澤寿男 藤原小学校 飛澤礼子 藤原小学校 飛澤久美子 藤原小学校 馬場順厚 藤原小学校 馬場タエ 藤原小学校 中居文男 藤原小学校 中居絹子 藤原小学校 中居美枝子 藤原小学校 新谷ケイ子 藤原小学校 横山公司 藤原小学校 横山照子 藤原小学校 中居昭二 藤原小学校 中居勝子 藤原小学校 眞岩ツギ 藤原小学校 塩越ツヲ 藤原小学校 大井良子 藤原小学校 大井拓美 藤原小学校 大井知美 藤原小学校 坂下紘 藤原小学校 坂下洋子 藤原小学校 佐々木清喜 藤原小学校 佐々木里子 藤原小学校 山内芳郎 藤原小学校 山内美千子 藤原小学校 大井孝子 藤原小学校 大井福子 藤原小学校 吉田稔 藤原小学校 吉田房子 藤原小学校 花坂嘉夫 藤原小学校 花坂寿子 藤原小学校 坂下武夫 宮古商業高校 坂下庄一 宮古商業高校 三浦與志幸 宮古商業高校 北村良子 宮古商業高校 関長五郎 宮古商業高校 関キン 宮古商業高校 関敏 宮古商業高校 関エツ子 宮古商業高校 関健太 宮古商業高校 澤田栄夫 宮古商業高校 澤田美喜 宮古商業高校 澤田伸康 宮古商業高校 澤田美香 宮古商業高校 澤田ゆきの 宮古商業高校 木村洋秀 宮古商業高校 小池徳之 宮古商業高校 小池美智子 宮古商業高校 船越清美 宮古商業高校 船越茂子 宮古商業高校 畑中富吉 宮古商業高校 畑中アイ 宮古商業高校 中村重光 宮古商業高校 中村郁子 宮古商業高校 中村祐介 宮古商業高校 川戸一夫 宮古商業高校 橋本賢吾 宮古商業高校 橋本ルイ子 宮古商業高校 橋本武 宮古商業高校 橋本牧子 宮古商業高校 橋本祥子 宮古商業高校 小野寺功夫 宮古商業高校 小野寺照子 宮古商業高校 小野寺功 宮古商業高校 野崎健治 宮古商業高校 野崎盛子 宮古商業高校 野崎由美子 宮古商業高校 大石明法 宮古商業高校 大石貴子 宮古商業高校 白間忠平 宮古商業高校 白間フサ 宮古商業高校 白間正人 宮古商業高校 白間美由紀 宮古商業高校 白間美帆 宮古商業高校 白間千尋 宮古商業高校 白間雄大 宮古商業高校 三浦茂子 宮古商業高校 坂下幸子 宮古商業高校 神林由紀子 宮古商業高校 関信男 宮古商業高校 関いね子 宮古商業高校 関和明 宮古商業高校 伊藤芳美 宮古商業高校 伊藤静子 宮古商業高校 根市豊 宮古商業高校 根市弘子 宮古商業高校 根市奈津子 宮古商業高校 佐々木弘子 宮古商業高校 盛合シノ 宮古商業高校 関光行 宮古商業高校 関ヤエ 宮古商業高校 関スミ 宮古商業高校 関秀典 宮古商業高校 摂待勝 宮古商業高校 摂待一輝 宮古商業高校 橋本文男 宮古商業高校 橋本明美 宮古商業高校 橋本彩花 宮古商業高校 橋本秋絵 宮古商業高校 橋本キン 宮古商業高校 小林定男 宮古商業高校 小林サチ子 宮古商業高校 小林貴弘 宮古商業高校 小林洋恵 宮古商業高校 小林歩夢 宮古商業高校 小林瑞輝 宮古商業高校 小林花恵 宮古商業高校 相沢つさ子 宮古商業高校 ハシモトキミ 宮古商業高校 ハシモトサチ 宮古商業高校 橋本茂樹 宮古商業高校 橋本修子 宮古商業高校 橋本直樹 宮古商業高校 橋本美保子 宮古商業高校 橋本海斗 宮古商業高校 橋本洋斗 宮古商業高校 橋本貢 宮古商業高校 神林幸樹 宮古商業高校 神林純子 宮古商業高校 伊藤平助 宮古商業高校 伊藤克宏 宮古商業高校 伊藤瑞明 宮古商業高校 伊藤未波 宮古商業高校 伊藤栄海 宮古商業高校 船越ミヤ 磯鶏修道場 船越仁 磯鶏修道場 船越恵美子 磯鶏修道場 中前田麗子 磯鶏修道場 笹平節子 磯鶏修道場 笹平キノ 磯鶏修道場 長澤泰幸 磯鶏修道場 長澤キヨ 磯鶏修道場 長澤良子 磯鶏修道場 長澤能婦子 磯鶏修道場 長澤久美子 磯鶏修道場 長澤美幸 磯鶏修道場 長澤千秋 磯鶏修道場 長澤翔平 磯鶏修道場 星野久子 磯鶏修道場 佐々木美佐穂 磯鶏修道場 中前田幸一 磯鶏修道場 中前田幸夫 磯鶏修道場 中前田眞利子 磯鶏修道場 中前田裕子 磯鶏修道場 中前田信夫 磯鶏修道場 中前田修子 磯鶏修道場 中前田千代 磯鶏修道場 2011-03-16・20 59 21・07.宮古市 宮古市19 下島野公子家族一同 磯鶏小学校 伊藤立見一家(西が丘) 伊藤章夫妻(小山田) 田老第一中学校生徒、職員 小和田貢司郎(長根) 自宅 小和田恭子(長根) 自宅 木村正昭(実田) 自宅もしくは小和田家 木村萬貴(実田) 自宅もしくは小和田家 田川宮子(宮園) 自宅もしくは小和田家 田川晋(宮園) 自宅もしくは小和田家 川崎理津子(茂市) 中道秀男(重茂) 親戚宅(舘地区) 中道セイ(重茂) 親戚宅(舘地区) 中道サミ(重茂) 親戚宅(舘地区) 長井達也 中央公民館より盛岡市内のホテルへ 2011-03-16・20 51 50・07.宮古市 宮古市18 船越ミヤ 磯鶏西 山本商店近くのお寺 中前田麗子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 中前田千代子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 中前田修子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 中前田信夫 磯鶏西 山本商店近くのお寺 細越英彦 磯鶏西 山本商店近くのお寺 昆喜代美 磯鶏西 山本商店近くのお寺 昆香里 磯鶏西 山本商店近くのお寺 昆大智 磯鶏西 山本商店近くのお寺 昆康子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 佐々木信彦 磯鶏西 山本商店近くのお寺 角舘宏 磯鶏西 山本商店近くのお寺 角舘宣子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 角舘雅美 磯鶏西 山本商店近くのお寺 角舘勇樹 磯鶏西 山本商店近くのお寺 角舘樹那 磯鶏西 山本商店近くのお寺 角舘那瑠 磯鶏西 山本商店近くのお寺 中前田幸一 磯鶏西 山本商店近くのお寺 中前田幸夫 磯鶏西 山本商店近くのお寺 中前田真?利子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 鶴田信一郎 磯鶏西 山本商店近くのお寺 鶴田スミ 磯鶏西 山本商店近くのお寺 鶴田信夫 磯鶏西 山本商店近くのお寺 鶴田佳子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 佐々木美佐穂 磯鶏西 山本商店近くのお寺 佐々木功一 磯鶏西 山本商店近くのお寺 佐々木登美子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 昆喜代美 磯鶏西 山本商店近くのお寺 森田キソ 磯鶏西 山本商店近くのお寺 森田美樹子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 三河照子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 三河善行 磯鶏西 山本商店近くのお寺 三河真葵 磯鶏西 山本商店近くのお寺 三河奈央 磯鶏西 山本商店近くのお寺 三河民侍 磯鶏西 山本商店近くのお寺 笹川トヨ子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 笹川久美子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 笹川勇太 磯鶏西 山本商店近くのお寺 関口維 磯鶏西 山本商店近くのお寺 関口伽風 磯鶏西 山本商店近くのお寺 種市清子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 古里サチ子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 田中喜代治 磯鶏西 山本商店近くのお寺 田中節子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 八木澤寿 磯鶏西 山本商店近くのお寺 八木澤節子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 八木澤清美 磯鶏西 山本商店近くのお寺 岩下悠佑 磯鶏西 山本商店近くのお寺 有原敦子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 星野久子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 星野健志 磯鶏西 山本商店近くのお寺 落合久三 磯鶏西 山本商店近くのお寺 落合礼子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 落合浩子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 佐々木和子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 佐々木梨香 磯鶏西 山本商店近くのお寺 平沼つね子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 笹川博 磯鶏西 山本商店近くのお寺 笹川美穂子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 笹川廉 磯鶏西 山本商店近くのお寺 笹平キノ 磯鶏西 山本商店近くのお寺 笹平節子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 三浦直志 磯鶏西 山本商店近くのお寺 三浦ユウ子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 長沢キヨ 磯鶏西 山本商店近くのお寺 長沢良子 磯鶏西 山本商店近くのお寺 長沢のぶこ 磯鶏西 山本商店近くのお寺 阿部光宏 磯鶏西 山本商店近くのお寺 山崎賢司 磯鶏西 山本商店近くのお寺 山崎ハツミ 磯鶏西 山本商店近くのお寺 金森一民 避難先:山田町荒川 2011-03-16・20 21 13・07.宮古市 宮古市17 宮古市立磯鶏小学校名簿 石崎 B 大野ひとみ(石崎) E 三浦ミト子(石崎)67歳 :八木沢、佐藤昇宅 E 三浦清子 (石崎)74歳 :八木沢、佐藤昇宅 E 勝山妙子 (石崎)58歳 E 小林瑠海 (石崎)11 小林久美子(石崎)37 E 小林依香 (石崎)5歳 E 田代里子 (石崎)60 E 長澤ツヤ (石崎)90歳 :宮古病院へ E 長澤智子 (石崎)59歳 :拙宅へ E 長澤寛 (石崎)63 滝川暁久 (石崎):中里→宮古二 中里⇔不?? 佐藤 (宮古漁協) 森田隆ひろ(石崎) C 藤澤キヨ (石崎)62 C 藤澤幸男 (石崎)70 C 佐々木トシ(石崎) C 伊藤可奈 (石崎)29 C 野沢三枝子(石崎)61歳:向町へ C 府川寛征 (石崎)38 C 永沢美雪 (石崎)13歳 C 伊藤凛 (石崎):滝沢の実家へ C 伊藤洋平 (石崎):滝沢の実家へ C 三?道?・祐子・?司・?子(石崎) :→修道場 H 渡辺タエノ(石崎)70歳 H 行森勇之進(石崎)76歳 H 関川みかこ(石崎)59歳 D 三河博子 (石崎)72歳 :自宅 D 三河等 (石崎)73歳:自宅 H 関川司 (石崎)65歳 H 北村ミツ (石崎)89歳 H 北村恵子 (石崎)67歳 H 北村宗子 (石崎)69歳 D 長澤洋子 (石崎)83歳 D 長澤悦子 (石崎)68歳 B 工藤喜一 (石崎)89歳 :→ヨモギダ宅 B 工藤裕樹 (石崎)33歳 B 工藤徳恵 (石崎)34歳 B 工藤源喜 (石崎)3歳 D 佐々木武蔵(西町)21歳 D [村上 馨](石崎) :[]内予測される文字 D 村上[敏樹](石崎)43歳 :[]内予測される文字 D 村上恵子 (石崎) 2011-03-16・17 53 08・07.宮古市 宮古市16 宮古市立磯鶏小学校名簿 西 C ハシバタツノリ(西)7歳 :佐々木ナカ宅(大家さん) サチコ(西)51歳 :佐々木ナカ宅(大家さん) キヨミ B 鎌田ゆかり(西)38:一度自宅へ。大丈夫だったらそのまま自宅避難。 B 鎌田優貴 (西)17 B 鎌田恵 (西)9 G 鈴木瑞枝 (西)80歳 F 後川?子"ようこ"(西)56歳 G 佐々木キヨ子(西)62歳 :自宅へ D 宮手唯 (西)10歳 D 宮手アイ子(西)74歳 D 大越ふさ子(西)63歳 D 大越辰治 (西)70歳 G 佐々木勇輝(西)1歳 :山口の佐々宅にいる G 佐々木??(西)27歳 :山口の佐々宅にいる C 坂下晴香 (西)18歳 :自宅へ F 下西後川 (西)63歳 :家自宅へ A 森田晃次 (西)15歳 A 森田みえこ(西)70歳 F 北村ミヤ子(西)77歳 :自宅へ F 北村ななみ(西)18歳 :自宅へ F 北村友也 (西)17歳 :自宅へ ? 53歳 カスミ 53歳 北村さんの家族(石崎) 沖 H 小名茂子 (沖)68歳:帰宅 H 小名テイ (沖)92歳:帰宅 H 三河真 (沖)42歳 E 宗村セイ子(沖)70歳 G 塩谷暁一 (沖) H 横田拓哉 (沖)13歳 H 横田拓海 (沖)8歳 H 横田美津子(沖)44歳 H 佐々木キミ子(沖)78歳 H 伊藤テル (沖)76歳 H 山根サト (沖)69歳 H 細越雪子・壽司・元(沖):花輪 H 谷地悌二 (沖) G 根木地泰?(沖):帰宅 G 根木地奈穂(沖):帰宅 G 小林金蔵 (沖):帰宅 C 山うちなおたろう(沖)7歳:上村関口宅 C 高橋幸子 (沖)67歳:上村関口宅 G 小林チエ (沖)76歳:帰宅 G 根木地喜一(沖):帰宅 G 根木地?子(沖):帰宅 C 森田雄行 (沖)61歳 C 森田文子 (沖)54歳 F 澤田儀郎 (沖)75歳 C 佐藤ノブ子(沖)81歳 C 中村陽子 (沖)60歳 C 中村悟 (沖)36歳 G 佐々木チヨ(沖)85歳 G 中村スゲ (沖)75歳 G 中村福ェ門(沖)80歳 F 岩船豊 (沖):帰宅 F 岩船詩央 (沖):帰宅 F 岩船鈴加 (沖):帰宅 F 岩船倭京 (沖):帰宅 F 三浦朋子 (沖)47歳 :西ヶ丘へ行く C 押田知子 (沖):帰宅 F 柏木剛 (沖)36歳 :一度盛岡へ 坂下重夫 (沖) : B 田嶋龍央・信彦(沖) E 佐々木利夫・ミサ(沖) :帰宅 M 鈴木孝 (沖)66歳 G 越前カツ (沖)87歳 :一戸へ G 佐々木友江(沖)4?歳 G 佐々木健太(沖) G 佐々木愛美(沖) H 横田千代子(沖)75歳 横田 (沖5-6)74歳 H 横田賢一 (沖)43歳 C 中沢巣子 (沖)66歳:帰宅 A 生内美江 (沖)42歳:大通りいます C 山田義之 (沖)43歳 H 森田セイ子(沖)65歳 G 岩間サダ (沖)90歳 D 鈴木イネ (沖)86歳 :ひきめ、自宅です→新山誠(西町) D 佐々木つぎ子(沖)67歳 C 山内和江・結衣(沖)43歳:上村 関口宅 C 山内雄一郎(沖)12歳 :上村 関口宅 G 岩間富士子(沖)64歳 C 高橋力 (沖)71歳 A 生内憲一郎(沖)13 C 押田理恵子(沖)68歳 :帰宅 A 生内友和 (沖)10 G 関村明迪"アキフミ"(沖)9歳 G 関村志津子(沖) G 関?怜美 (沖) 中村絵美子・渚・悠香・珠?"シュウ"・耕介・蓮(沖) G 根木地泰惠(沖) :体育館 G 根木地タキ子(沖) :体育館 G 稲用龍作 (沖)4歳 :自宅 G 稲用清作 (沖)6歳 :自宅 G 稲用皆子 (沖)42歳:自宅 今津雄一 (沖):自宅 今津妙子・京一(沖) 2011-03-16・17 52 36・07.宮古市 宮古市15宮古市立磯鶏小学校名簿 実田 G 三河真葵 (実田)10歳 B 佐々木れいな(実田)8歳 :自宅へ B 佐々木? (実田)4?歳 :自宅へ↑のご家族のようです H 粟津かおり (実田)37歳 H 三河光子 (実田)66歳 H 粟津竜次 (実田)13歳 G 三河照子 (実田)67歳 :自宅 G 三河奈央 (実田)9歳 :自宅 B 笹平浩美 (実田)48歳 :河南中へ。私と真裕美。 G 三河民侍 (実田)5歳 :自宅 D 藤田ケイ子・陽希(実田):自宅 C 斎藤モト子 (実田)35歳 C 斎藤哲人 (実田)35歳 C 斎藤陽紀 (実田)2歳 C 及原吉次・信子 A 佐々木光男 (実田)79歳 :一時帰宅 A 佐々木フミ (実田)77歳 :一時帰宅 C 松倉久美子 (実田) :夜は家 C 松倉久 (実田) :夜は家 C 松倉みゆき (実田) :夜は家 B 吉田由美・?明・彩佳・佳織:夜だけ友人宅 C 遠藤純子 (実田)34歳 :日中は自宅 C 遠藤志恩 (実田)1歳 :日中は自宅 神林 C 白間千尋 (神林) :商業へ C 白間美由紀(神林) :商業へ C 小笠原由美子(神林)41歳 C 小笠原光歩(神林)8歳 C 小笠原潤 (神林)43歳 C 畠山歩 (神林)9歳 :宮町 佐々木ムサシ C 畠山亜理香(神林)21歳 :宮町 佐々木ムサシ C 畠山一子 (神林)41歳 :宮町 佐々木ムサシ C 畠山凛香 (神林)7歳 :宮町 佐々木ムサシ C 畠山怜 (神林)14歳 :宮町 佐々木ムサシ C 畠山優香子(神林)17歳 :宮町 佐々木ムサシ C 畠山はげむ(神林)42歳 :宮町 佐々木ムサシ C 白間雄大 (神林)10歳 :商業へ C 白間美帆 (神林)13歳 :商業へ F 岩淵悟 (神林) :自宅へ 西 D 岩船幸子 (西) 67歳 :自宅 F 北村千鶴子(西) ?9歳 :自宅 G 佐々木? (西) :宮古?宅へ A 坂下チヨ (西) 87歳 西 G 佐々木歩 (西)30歳 :宮古?宅へ A 坂下チヨ (西)87歳 :自宅へ A 坂下正吉 (西)88歳 :自宅へ A 坂下正典 (西)55歳 :自宅へ E 重茂叔夫・凌子(西) :自宅へ 沖 B 橋本テイ (沖)76歳 B 橋本育子 (沖)48歳 B 三河博子 (沖)67歳 A 佐藤光男 (沖) A 佐藤正恵 (沖) A 中塚富美子(沖) G 塩谷暁一(ヒサヨ)(沖) :八木沢・塩谷悦男宅へ 細越よしかず2名(沖) 細越美智子7人 (沖) :→細越かおる宅 沢田周作3名 (沖) :→細越かおる宅 H 中村よう子(沖)76 :津軽石・中村しんじ宅 中村政晴 (沖)49 H 鈴木昌子 (沖)55歳 :田鎖へ C 押田紀雄 (沖)76歳 :帰宅? B 山崎博子 (沖)68歳 2011-03-16・17 51 49・07.宮古市 宮古市14 宮古市立磯鶏小学校名簿 浜中憲子(上村) 43歳 1人 小林洋司(上村) 61歳 2名 遠藤裕 (上村) 42歳 5人 柴上誠 (磯鶏) 53歳 4人※名字が読み取りにくく間違っていおそれ有 磯上祐恵(磯鶏) 32歳 3人 根木淑子(西) 45歳 4人 根木康司(西) 51歳 今津雄一 (沖) 47歳 2人 今津京一 (沖) 76歳 2人 田代かおり(沖) 41歳 2人 佐竹剛 (沖) 37歳 4人 中屋恵美子(石崎)74歳 他1人 野崎京子 (石崎)53歳 2人 山口裕章 (沖) 5人 西川有美子(石崎) 43歳 2人 中村絵美子(磯鶏中)43歳 5人 森田隆広 44歳 1人 海老原香 (沖) 42歳 3人 畠山亜希子(石崎) 41歳 1人 佐々木孝一(沖) 68歳 1人 その他 藤原 南町 鍬ヶ崎 Dブロック 田村武彦(実田):自宅へ 。みんな無事。 C 山内喜代子(藤原)68歳 :上村関口宅 F 三浦柚月(藤原上町)4歳 :自宅へ F 三浦由加里(藤原上町)25歳:自宅へ D 佐々木由喜江(高浜)59歳 昆チエ・?子:自宅へ 佐竹剛:(佐々木2 西川3 高山2 12名) D 田代まき 58歳 B 小向恵美子(赤前)?6歳 B 小向恵美子(赤前)36歳:自宅へ帰る B 熊谷節子 (金浜) B 長澤みづほ(港町)34歳:崎山へおばちゃんちへ H 中居香南子(向日町)69歳 H 山口照子(鍬ヶ崎)69歳 H 粟津マキ子(金浜)69歳 B 斎藤法子 (八木沢)38歳:河南中へ移動 B 斎藤李羅 (八木沢)12歳:河南中へ移動 E 出雲正一 (藤の川) :自宅へ E 出雲圭子 (藤の川) :自宅へ E 出雲愛洸・叶愛 A 坂下たかし(鍬ヶ崎) そけい C 小笠原清子(磯鶏)73歳 F 佐々木夕海(磯鶏)23歳 F 佐々木海と(磯鶏)2歳 F 佐々木陽愛里(磯鶏)1歳 F 関川碧 (磯鶏) F 菊池広子 (磯鶏)36歳:帰宅 H 田川俊一 (磯鶏) E 重茂叔夫・凌子 あすかた F 佐々木久子(あすかた)62歳 F 佐々木俊平(あすかた)17歳 D 國下祐揮"ユウキ"(飛鳥方)15歳 D 荒矢のり(あすかた)79歳 H 高橋佑幸(あすかた町内)72歳 H 高橋敏子(あすかた町内)71歳 H 高橋敏幸(あすかた町内)40歳 G 木村直美(磯鶏あすかた)12歳 :自宅へ G 木村和人(磯鶏あすかた)10歳 :自宅へ G 木村みゆき(磯鶏あすかた)45歳 :自宅へ D 沼山長次朗(あすかた町内)77歳 D 沼山チヨ子(あすかた町内)66歳 C 山崎槇士 (あすかた)2歳 D 國下絹子 (飛鳥方)42歳 國下菜々美 F 若船スメ (飛鳥方):帰宅 F 岩船京子 (飛鳥方)70歳:帰宅 F 岩船健三郎(飛鳥方)70歳:帰宅 G 長澤美香子(飛鳥方)75歳 G 岩崎エミ子(飛鳥方)69歳 :自宅か山田へ G 木村厚子 (飛鳥方)69歳 :自宅へ C 山崎久美子(あすかた)39歳 C 山崎勝広 (あすかた)11歳:豊間根の母実家へ E 山崎利雄 (あす方)63歳 山崎悦子:小山田に避難 E 山崎義男(あす方)64歳 F 細越麻布(磯鶏):河南中おばあちゃんか磯鶏小に 細越睦恵・三穂・房子 F 大久保博・恵美子(あすかた) H 澤田サト (飛鳥方)73歳 中前田麗子(磯鶏):修道場に行きます。 H 田川京子(飛鳥方)82 H 澤藤勝利(飛鳥方)66 H 澤藤明子(飛鳥方)54 D 沼崎優子(あすかた)29 D 沼崎菜奈美(あすかた)7歳 D 沼崎彩花 (あすかた)6歳 D 田中セツ子(あすかた) G 化粧坂昭三(飛鳥方)73 E 古舘一男 (あすかた) E 本間タエ (あすかた):体育館 F 橋場好 (あす方)91歳 F 橋場亮一 (あす方) F 橋場ヨウ (あす片)69歳 F 橋場敬子 (あす方)34歳 F 橋場英雄 (あす方) F 荒矢勲 (あす方) C 山崎雅登 (あすかた) F 佐々木光樹 (あすかた)42歳 :自宅 F 佐々木真?"マコト"(あすかた)14歳:自宅 近江与一・勇・キミ子:校庭 ・春雄:近江屋 豊人:河南中学校 ゆかり:刈屋 G 化粧坂糸 (アスカタ)65歳 D 田中Eシ (あすかた)91歳 2011-03-16・17 51 16・07.宮古市 宮古市13 畠山みのる・たきお・まり子・まさひこ・さゆり・えいせい・こうや (田老)自宅にて無事 皆川透(田老)夫婦無事 吉田勝治(ヨシダカツハル) (田老?) 藤澤たけし・みつこ (田老) 佐々木昭彦・トモコ 宮古市内避難所(盛岡市平内美奈子家族) ウエノ トキオ 自宅で無事 ウエノ アヤコ 自宅で無事 磯地ソノ 知人宅(松山) 金沢家(八木沢) 山下家(金浜) 古舘家(藤原) 2011-03-16・16 59 00・07.宮古市 宮古市12 宮古市津軽石荷竹自治会館に現在避難されている方 ハナサカ ヒロマサ ハナサカ ユウコ ハナサカ ユナ コボリナイ サヤカ コンノ リョウイチ コンノ チエコ コンノ トモカズ コンノ ユミコ キタムラ マサミチ キタムラ ミキコ キタムラ トメ キタムラ シンジ キタムラ サトル 2011-03-16・12 00 45・07.宮古市 宮古市11 箱石ムツコ(太田) 箱石ムツコ娘家族 箱石ムツコ長男 二戸 盛合恵美子(金浜) 宮古市総合福祉センター 佐々木利江(板屋) 宮古市総合福祉センター 石塚雅子(板屋) 宮古市総合福祉センター 関畑安子(板屋) 宮古市総合福祉センター 小松平文恵(板屋) 宮古市総合福祉センター 大久保英男(日影町) 宮古市総合福祉センター 音部秀男(八木沢) 宮古市総合福祉センター 佐々木百合(南町) 宮古市総合福祉センター 米沢扶佐江(金浜) 宮古市総合福祉センター 阿部テツ(熊野町) 老人デイ 佐々木トシミ(西町) 老人デイ 木村嘉男(栄町) 老人デイ 佐々木カツ子(熊野町) 老人デイ 佐々木小一郎(熊野町) 老人デイ 三上マツエ(栄町) 老人デイ ほほえみの里利用者、入所者、職員 グループホームたろう利用者 ほほえみの里 すずきれいこ みうらつねお 菊地晟 宮古市の小学校 山田ノリコ 伊藤厚子(津軽石) 自宅 伊藤きよし(津軽石) 自宅 佐々木清春家族(赤前) 橋場みずき 馬場一家(藤原) 皆野川きみよ 皆野川たかゆき 皆野川美保子 皆野川なお 皆野川まゆ 2011-03-16・10 49 05・07.宮古市
https://w.atwiki.jp/mainichi-matome/pages/2401.html
2009年2月24日発売のサンデー毎日3月8日号広告掲載企業 印刷:凸版印刷株式会社 関連ページ 2009年2月24日発売のサンデー毎日3月8日号広告掲載企業 印刷:凸版印刷株式会社 第三文明社「池田大作」 モノクロ NTTドコモ 2ページ全面カラー 新光証券 全面カラー JR東海 全面カラー アサヒビール「スーパードライ」 全面カラー 宝酒造株式会社「焼酎 ハイボール」 カラー 京都市伏見区竹中町609番地 http //www.takarashuzo.co.jp/ 株式会社ホッタインターナショナル「PauL Picot(ポールピコ)」 東京都中央区銀座7-13-10 日本興亜銀座ビル2F http //www.hotta-group.co.jp/ http //www.paulpicot-japan.com/index.html 2ぺ-ジ全面カラー <サンデー健康アカデミー9> 2ページ全面モノクロ 富士フィルム「空間清浄機KPD1000」 資生堂「Ag+(エージープラス)」 株式会社岐阜フットボールクラブ「今西和男,FC岐阜」 全面カラー http //www.fc-gifu.com/ アカデミー出版「EA(イングリッシュ・アドベンチャー)、家出のドリッピー」 2ページ全面モノクロ 東京都渋谷区鉢山町15-5 http //www.ea-go.com/ (記事広告?) タイムズ スパ・レスタ(タイムズサービス株式会社) 1/2カラー 東京都豊島区東池袋4-25-9 http //www.timesspa-resta.jp/ フォーシーズンズホテル椿山荘 東京 1/2カラー http //www.fourseasons-tokyo.com/ 帝国ホテル 1/2カラー http //www.imperialhotel.co.jp/index_j.html 京王プラザホテル 1/2カラー http //www.keioplaza.co.jp/ 如心の里 ひびき野 1/2カラー 群馬県伊香保町403-125 http //www.j-hibikino.com/ MUSEO(ムゼオ) 1/2カラー 港区西麻布3-20-3 http //www.nishiazabumuseo.com/ 大江戸温泉物語株式会社 1/2カラー http //www.ooedoonsen.jp/ 東京ヴァンテアン クルーズ 1/2カラー http //www.vantean.co.jp/main.html <連載 会社の流儀> 株式会社i-tec24(アイテック24)(エレベーターメンテナンス)(社員20名) 全面モノクロ 東京都世田谷区大原2-7-2 http //www.i-tec24.net/index.html ブライズアカデミー(結婚相談所)(社員30名) 全面モノクロ 大阪市北区芝田1-12-7 大栄ビル新館7F http //www.brids-academy.com/ エヌエイチアカデミー(整腸マッサージ) 全面モノクロ 大阪市北区鶴野町1-3-403安田ビル4F http //www.nhacademy.co.jp/ ユニバーサルアンダーライターズ(保険代理業務)(社員19名) 全面モノクロ 神奈川県厚木市田村町10-18 2階 http //www.uui.co.jp/ 宇治徳洲会病院 全面モノクロ 京都府宇治市小倉町春日森86番地 http //www.ujitoku.or.jp/index.php 幸の鳥レディスクリニック 全面モノクロ 広島県福山市春日町1丁目7-14 http //www.kohnotori.com/pc/index.html 西八王子病院 全面モノクロ 東京都八王子市上川町2150番地 http //www.ims.gr.jp/nishihachi-hp/ 司法書士法人のぞみ 全面カラー 東京都中央区日本橋本町4丁目1-5 篠崎ビル5F http //www.nozomi-sodan.jp/ 福山大学 福山平成大学 モノクロ 広島県福山市学園町1番地三蔵 http //www.fukuyama-u.ac.jp/ 広島県福山市御幸町上岩成正 http //www.heisei-u.ac.jp/ 立正大学 モノクロ 東京都品川区大崎四丁目2番16号 http //www.ris.ac.jp/ 大阪芸術大学 モノクロ 大阪府南河内郡河南町東山469 http //www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/index.html http //www.osaka-geidai.ac.jp/index.html ケフィア事業振興会「ののじ・耳かき」 全面カラー 東京都千代田区神田須田町1-21-5 http //kefir.jp/ 第一薬産株式会社 モノクロ 日本財団 モノクロ 興亜産業貿易株式会社「増毛器」 モノクロ 大口製本印刷株式会社 全面モノクロ セネファ株式会社、せんねん灸株式会社 モノクロ 滋賀県長浜市内保町77 http //www.sennenq.co.jp/ リヨン社 稲葉クリニック「わきが・多汗症」 モノクロ http //homepage3.nifty.com/inaba-clinic/ コノコ医療電機株式会社「シンアツシン」 全面カラー 東京都 東京都品川区西中延2丁目12-13 http //www.conoco.co.jp/ 介護予防・認知症予防総合フェア2009 全面モノクロ (問合せ先:東京都渋谷区神宮前1-17-5原宿シュロス603 ナカダ株式会社内) (TEL03-3423-3602 FAX03-3423-3601) 主催:介護予防・認知症予防総合フェア実行委員会 後援:厚生労働省/東京都/東京都医師会/東京都歯科医師会/東京都薬剤師会 東京都社会福祉協議会/シルバーサービス振興会 特別協力:財団法人東京都高齢者研究・福祉振興財団 東京都老人総合研究所 協力:NHK 、毎日新聞社、環境新聞社 http //www.tmig.or.jp/J_TMIG/3_kaigoyobofair/kaigoyobofair.htm 関連ページ 2009年1月- 6月 毎日新聞に広告を出していた企業
https://w.atwiki.jp/animesaimoe2008/pages/116.html
2008年7月18日(金) @投票所板 01 00 00~23 00 59 一次予選 第11組 出場121人 一人持ち票9票 1位~9位まで本戦進出、10位~30位まで二次予選進出 組み合わせ コピペリスト 結果 詳細データ 01組 02組 03組 04組 05組 06組 07組 08組 09組 10組 11組 12組 13組 14組 15組 16組 17組 18組 19組 20組 一次予選第11組 コピペリスト(抽選ソート順) 生田蒔輝@ケンコー全裸系水泳部 ウミショー 百枝まりあ(モモカン)@おおきく振りかぶって 山本シナ@忍たま乱太郎 カティア@CLAYMORE すずな@アイドルマスター XENOGLOSSIA シフォン@シナモン the movie 河南子@CLANNAD 烏丸霧火@かみちゃまかりん さくらこたけ(まる子の祖母)@ちびまる子ちゃん セリーナ・カイル(キャットウーマン)@ザ・バットマン 小岩井フローラ@ななついろ★ドロップス ノーマ@アリソンとリリア 露理@ドージンワーク アンケセナーメン@サクラ大戦ニューヨーク・紐育 大河双葉@サクラ大戦ニューヨーク・紐育 若葉沙頼@ヴァンパイア騎士 ラム・ホア@マクロスFRONTIER 田中千春@ラブ★コン 青葉未知@ななみちゃん 天枷美夏@D.C.II ~ダ・カーポII~ 咲倉ゆん@最終試験くじら 八広蘭@シゴフミ 鷺ノ宮伊澄@ハヤテのごとく! 増子美香@Yes! プリキュア5 シリーズ ナツミ@サルゲッチュ ~オンエアー~ 2nd 芝浦かねよ@やっとかめ探偵団 おばあちゃん@きらりん☆レボリューション 水無月かれん(キュアアクア)@Yes! プリキュア5 シリーズ シルフィード(タバサの使い魔)@ゼロの使い魔 ~双月の騎士~ ネリダ@デルトラクエスト 北野ソーラ@ドージンワーク 姫百合瑠璃@ToHeart2 シリーズ 桜庭ひかる@らき☆すた 橘霧香@風のスティグマ サラ@クリスタル ブレイズ ガーネット・マクレーン@DRAGONAUT -THE RESONANCE- ノーブル・スカーレット@ああっ女神さまっ 闘う翼 つぼみの担任@ないしょのつぼみ 六瓢(むびょう/本物)@我が家のお稲荷さま。 フレイヤ(久賀舘要)@史上最強の弟子ケンイチ 浅上藤乃@劇場版 空の境界 the Garden of sinners 園崎茜@ひぐらしのなく頃に解 キャンティ@名探偵コナン ベアトリス・ミッチェル@風の少女エミリー ドゥーエ@魔法少女リリカルなのはStrikerS 麻央(スーパーノヴァ)@きらりん☆レボリューション 吉野屋先生@ひだまりスケッチ 特別編 双海真美@アイドルマスター シリーズ 向井万夏@KITE LIBERATOR 菊子@ひぐらしのなく頃に解 キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー@ゼロの使い魔 ~双月の騎士~ ロザリー・シェルブール(ソフィアのママ)@シュガーバニーズ エレオノール・アルベルティーヌ・ル・ブラン・ド・ラ・ブロワ・ド・ラ・ヴァリエール@ゼロの使い魔 ~双月の騎士~ クロミ(クルミ・ヌイ)@おねがいマイメロディ シリーズ エレナ・フラン(シフルの母)@舞-乙HiME 0 ~S.ifr~ ダークレモネード@Yes! プリキュア5 鏡の国のミラクル大冒険 マダラ@狂乱家族日記 ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール@ゼロの使い魔 ~双月の騎士~ 松永芙美@もっけ レイテ・ジョーキン@天元突破グレンラガン 麟盟(リンメイ)@獣神演武 -HERO TALES- 村田鉄子@銀魂 江戸前留奈@瀬戸の花嫁 波川舞@やっとかめ探偵団 ジョディ“ブルーアイズ”ヘイワード@エル・カザド 守東由美子(守東由利子)@桃華月憚 せりか@アイドルマスター XENOGLOSSIA モカ@シナモン the movie 水谷きよえ(水谷の母)@おおきく振りかぶって ララウェル@破天荒遊戯 レディ(メアリ・アン・アーカム)@Devil May Cry スー@うちの3姉妹 カノウ姉妹(ミカ)@ヤッターマン ミカサ@怪物王女 エクセレン・ブロウニング@スーパーロボット大戦OG タチアナ・グリゴリエフ@機神大戦 ギガンティック・フォーミュラ だんごやおばば@ぜんまいざむらい 新藤千尋@ef - a tale of memories. イン@劇場版 BLEACH The DiamondDust Rebellion もう一つの氷輪丸 戸丸都@素敵探偵ラビリンス 矢胴丸リサ@BLEACH 猫目静@ロザリオとバンパイア レイチェル@バッカーノ! サチコ(ちょめ助)@D.Gray-man アールヴ@KIDDY GRADE -TRUTH DAWN- 黎明篇 天眼通の阿国@銀魂 音羽/神楽ひなた(本物)@H2O -FOOTPRINTS IN THE SAND- 京介の母@ef - a tale of memories. 田中里奈@もえたん エヴァ(村長の妻)@ポルフィの長い旅 穂坂みずき@瀬戸の花嫁 フォー@D.Gray-man 間宮リナ@ひぐらしのなく頃に解 シャーネ・ラフォレット@バッカーノ! 天野卯兎美(うっちぃ)@機神大戦 ギガンティック・フォーミュラ 六条章子@桃華月憚 巻@瀬戸の花嫁 若月冴子(朱里の義母)@Myself;Yourself 小糸春華@二十面相の娘 魚々戸真綾@ケンコー全裸系水泳部 ウミショー りん@ながされて藍蘭島 ジョディ・スターリング@名探偵コナン 丸野まるみ@あたしンち サナカン@プロローグ・オブ・BLAME! 原田小夏@バンブーブレード 優@もっけ なっちゃん@CLANNAD 崩月散鶴(夕乃の妹)@紅 佐々木@灼眼のシャナII モニカ・ラング@マクロスFRONTIER 秋川零奈(レイナ)@湾岸ミッドナイト 第5艦BLUE@BLUE DROP ~天使達の戯曲~ アイン・ルー@舞-乙HiME Zwei 白雪みぞれ@ロザリオとバンパイア 粂川よね@やっとかめ探偵団 立石尚子@シゴフミ 東葉月@桃華月憚 クスハ・ミズハ@スーパーロボット大戦OG 新美らん@ケンコー全裸系水泳部 ウミショー 田端ゆい@H2O -FOOTPRINTS IN THE SAND- ミケ@スケッチブック ~full color's~
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/387.html
唐書巻二百二 列伝第一百二十七 文芸中 李適 韋元旦 劉允済 沈佺期 宋之問 閻朝隠 尹元凱 富嘉謨 劉憲 李邕 呂向 王翰 孫逖 成 簡 李白 張旭 王維 鄭虔 蕭穎士 存 陸據 柳并 皇甫冉 蘇源明 梁肅 李適は、字は子至で、京兆万年の人である。進士に推挙され、二度猗氏県の尉に任じられた。武后は『三教珠英』の書を修撰するのに、李嶠・張昌宗を使とし、文学の士を選んで編集させ、ここに李適と王無競・尹元凱・富嘉謨・宋之問・沈佺期・閻朝隠・劉允済が撰述にあたった。書が完成すると、戸部員外郎に遷り、少しして修書学士を兼任した。景龍年間(707-710)初頭、また修文館学士に選ばれた。睿宗の時、待詔宣光閤となり、再び工部侍郎に遷った。卒し、年は四十九歳であった。貝州刺史を贈られた。 かつて夢に人と大衍の数(五十)を論じており、目覚めると「我が寿命はここに尽きた」と述べた。その子に命じて「霸陵原の西に京師を見ることを私は楽しみにしてきた。ここに墓を造影し、樹は十本の松を植えなさい」と言い、病になる前に、衣冠を正して石榻の上に寝転がり、『九経要句』および白琴を前に置いたから、士はその達観ぶりを貴んだ。 子の李季卿もまた文をよくし、明経科・博学宏辞科に推挙され、鄠県の尉に任じられた。粛宗の時、中書舎人となったが、通州別駕に左遷された。代宗が即位すると、召還されて京兆少尹となり、また舎人を授けられ、吏部侍郎・河南江淮宣慰使に昇進した。閑職から抜きん出たから、「振職」と号した。大暦年間(766-779)、右散騎常侍で終わった。遺命して布車(霊柩車)一台のみの葬とした。礼部尚書を贈られた。李季卿が朝廷にあっては、才能のある若者を推薦し、人と交わって始終をよくした該博の君子であった。 それより以前、中宗の景龍二年(708)、はじめて修文館に大学士四名・学士八名・直学士十二名を設置し、四時・八節・十二月を象徴した。ここに李嶠・宗楚客・趙彦昭・韋嗣立を大学士とし、李適・劉憲・崔湜・鄭愔・盧蔵用・李乂・岑羲・劉子玄を学士とし、薛稷・馬懐素・宋之問・武平一・杜審言・沈佺期・閻朝隠を直学士とし、また徐堅・韋元旦・徐彦伯・劉允済らを召集して定員とした。その後選ばれた者は一ではなかった。おおよそ天子の饗宴や春秋の巡行において、ただ宰相および学士が従うことができた。春に梨園に行幸したり、渭水で祓除すると、細柳の圈(わ)を賜って病気を払った。夏に蒲萄園で宴し、朱桜を賜った。秋には慈恩寺の塔に登り、菊花の酒を献じて長寿を讃えた。冬には新豊県に行幸し、白鹿観を経て、驪山に登り、温泉の入湯を賜い、香水・香油を給付し、行き従うのに翔麟馬を賜り、品官に黄衣がそれぞれ一人ついた。帝は感じることがあれば即興で詩を賦し、学士は唱和した。当時の人々は羨望するところであったが、しかし皆軽薄で軽々しく、君臣の礼法を忘れ、ただ文華によって寵愛を得ただけであった。韋元旦・劉允済・沈佺期・宋之問・閻朝隠らのような者は他に称えるところもないが、附篇として左方に置く。 韋元旦は、京兆万年の人である。祖父の韋澄は、越王府の記室で、『女誡伝』を撰述して世に広まった。韋元旦は進士に及第し、東阿県の尉に任命され、左台監察御史に遷った。張易之と一族が婚姻関係にあり、張易之が失脚すると、感義県の尉に左遷された。しばらくして召還されて主客員外郎となり、中書舎人に遷った。舅の陸頌の妻は、韋皇后の妹であり、そのため韋元旦も頼んで官位を復したのだといわれる。 劉允済は字も允済で、河南鞏の人であり、その先祖は沛国の出で、斉の彭城郡丞の劉瓛の六世の孫である。若くして父を失い、母につかえて非常に孝行をつくした。文章を巧みにし、王勃と名声を等しくした。進士に推挙され、下邽県の尉に補任され、累進して著作佐郎となった。魯の哀公の後から十二世をとって戦国につなげた『魯後春秋』を著して献上し、左史に遷り、弘文館直学士を兼任した。 武后が明堂を完成させると、奏上して賦で功徳を述べたから、手ずからお褒めの詔があり、著作郎に任じられた。来俊臣に無実の罪で死刑に処されるところであったが、母が老いており余生を過ごすことを願ったから、死を免れて獄に繋がれ、赦免にあい、大庾県の尉に貶された。また著作佐郎、修国史に復職した。常に「史官が善悪を必ず書くのは、驕った主や賊臣を恐れさせ、この権力は軽いものだろうか。しかし班固は金を受け取り、陳寿は米を求めたことは、僕は浮雲のようなものだろと見るだけだ」と言い、鳳閣舎人に遷った。(張易之・張昌之)と昵懇であったことに連座して、青州長史に任じられたが、清廉の呼び声高かったから、巡察使の路敬潜が言上した。母の喪のため官職を去り、喪があけると召還されて修学館学士に任命された。排斥されて長らくたっていたから、喜びは甚だしく、家人と楽しく痛飲しすぎ、数日して卒した。 沈佺期は、字を雲卿という。 相州内黄県の人である。 かれは進士に及第したあと、協律郎から、給事中や考功員外郎にひきつづいて任ぜられたが、賄賂をとって、弾劾され、その件がまだ結審しないうち、あたかもそのおり張易之らが失脚し、それでかれは驩州へ流罪に処せられた。のちややとりたてられて台州の録事参軍事となり、帳簿を持って報告に上京し、そのおり中宗に召し出されて接見をたまわり、そして起居郎に任命され、修文館の直学士を兼任した。やがてかれは中宗の宴席につらなることができたが、そのとき天子は修文館の学士たちに命じ、回波の舞いを舞わせた。沈佺期はこのおりとばかり言葉たくみに天子の機嫌をとり、ふたたび牙笏と緋衣をもらった。ほどなくかれは中書舎人そして太子少詹事の官を歴任し、開元年間(713-741)初頭になくなった。かれの弟の張全交と張全宇は、いずれもすぐれた文学の才能をそなえてはいたが、沈佺期にはおよばなかった。 宋之問は、字を延清という。いまひとつの名を少連といった。汾州の人である。かれの父の宋令文は、高宗の時代に東台の詳正学士(弘文館の詳正学士)をつとめた。宋之問は容姿風にひいて、弁舌にすぐれていた。かれが成人となるや、武后はかれを召し出して、楊炯と分担して習学館の学士の任にあたらせた。のちかれは尚方監の丞や左奉宸内供奉にうつった。武后は、あるとき洛陽の南の龍門遊覧におもむき、そこで供の臣下たちに詩を作るよう命じたところ、左史の東方虯が最初に詩を作りあげたので、武后は錦の袍を授けた。しかし、宋之問はそのすぐあとに詩を作りあげて武后にたてまつり、則天武后はその時に目を通すや、感嘆して、あらためて東方虯から錦の袍をとりあげてかれに授けた。 その当時張易之らは情人として武后に馴れ親しみ、武后からたいそうな寵愛をうけていた。宋之問は、閻朝隠・沈佺期・劉允済とともに、かれらにけんめいに婚び従い、張易之が作ったもろもろの詩篇は、いずれもみな宋之間や閻朝隠が代作したものであり、張易之のために便器をささげることまでするほどであった。張易之らが失脚するにいたって、宋之問は瀧州へ、閻朝隠は崖州へと左遷され、どちらも参軍事となった。しかし宋之問は逃亡して洛陽へもどり、張仲之の家へ身をひそめた。ちょうどそのころ武三思がふたたび権力をもっぱらにしており、張仲之は、王同皎とともに、武三思を殺して、唐の皇室を安泰にしよう、とくわだてていた。ところが宋之問はその計りごとの内容を知って、兄の子である宋曇と冉祖雍とに、緊急の異変を言上させ、そのかわりに自分の罪を赦してほしいと懇願し、それによって鴻臚寺の主簿に抜擢されたが、世の人びとはみなかれのふるまいを汚らわしいと嫌った。 景龍年間(707-709)に、かれは考功員外郎にのぼった。かれは太平公主にへつらいつかえ、そのためとりたてられたのであった。安楽公主の権勢が大きくなると、かれはこんどは安楽公主のもとへ出入りしてその心をかうにつとめたので、太平公主はひどくかれを憎んだ。のち中宗がかれを中書舎人にとりたてようとしたところ、太平公主は、かれが貢挙を管理した考功員外郎であったおり、賄賂をとり不法をはたらいたことをあばき、中宗はかれを降して汴州長史の長史に移したが、まだ任地に行かないうちに、越州長史に変更した。越州にあってはかれはすすんでなかなかよく職務にはげみ、またそのかたわらの剡の山や川をあまねくめぐって、酒をくみ、詩を作り、その詩は都にもひろまって、だれもかれもがみな誦し伝えた。 睿宗が即位すると、宋之問の悪辣なる罪過きわまりなし、とのかどで、詔を下してかれを欽州へ流刑に処した。冉祖雍は中書舎人や刑部侍郎を歴任したが、尚書省の中で酒宴を開き音曲歌舞をもって騒ぎたてたので、御史に弾劾の上奏をされ、蘄州刺史に左遷された。そしてこの時になってかれもまた嶺南の地へ流罪となり、どちらも桂州において自殺するよう命ぜられた。宋之問は自殺を命じた話を聞くや、震えおののいて冷や汗を流し、東にあるいは西によろめいて、とうてい自殺などはたしえなかった。それで冉祖雍は使者に願った、「之問には妻や子がおります。なにとぞ別れを告げさせてやって下さいませ」。使者は許可した。しかし宋之問はとりのぼせて胸は早鐘をうち、家務を処理することもできなかった。冉祖雍は立腹して言った、「そこもともわたくしもみな天子さまに背きたてまつったのだ。死罪となるのはあたりまえ、それになにをぐずぐずしている」。そこで二人は最後の食事をとり、体や頭を洗い清めて、死んでいった。冉祖雍は、江夏王李道宗の甥である。進士の試験に及第してから、世に名を知られた。 魏の建安年間(196-216)以後、東晋に至るまで、詩律はたびたび変化した。さらに沈約・庾信になると、音調韻律の理論によって詩の形を秩序だったものとし、対偶は細やかにすぐれたものとなった。さらに宋之問・沈佺期に至ると、なおいっそう華麗となり、音調韻律上の欠点を避けるにつとめ、句々篇々みな正されて、その詩篇はあたかも錦や繍が模様を作りあげているかのようである。かれらを学ぼうとする者たちはたっとんで、「沈・宋」と称し、「蘇と李とは前にあり、沈と宋はかれらと肩を並べる」と言いはやした。蘇武と李陵とのことを言っているのである。 もともと宋之問の父の宋令文は、文の才能が豊かで、その上書法の技術にすぐれており、また人なみはずれた大力の持ち主であった。人びとほかれを「三絶」と言いそやした。そのころ都に一匹の牛がいて、たびたび人を突いたが、だれ一人としてその首に縄をかけようとする者はいなかった。そのことを聞くと朱令文はまっすぐに牛のところへ進み、その角を抜きとり、その首をひねって、殺してしまった。のちに宋之問は文学によって世にあらわれ、その弟の宋之悌は身軽で勇敢なことで有名となり、その弟の宋之愻は草書や書の書法にすぐれていたので、世の人びとは、いずれも父の一絶をもらっている、と評判した。 宋之悌は、身のたけが八尺あった。かれは開元年間(713-741)剣南節度使・太原尹を歴任したが、あるとき法にふれて、朱鳶に流罪となった。ちょうどそのとき南方の異民族が驩州を占領したので、かれは総管を授けられて、敵を攻撃するよう命ぜられた。そこでかれは八人の勇士を集め、堅固な甲冑を身につけ、大声で叫びながら敵に肉迫し、「えびすども。じたばたすればただちに死ぬぞ」とどなった。敵の七百人はみな平伏し、立ちあがることができなかった。かくて賊を平定した。 宋之愻は、連州参軍となった。連州刺史は、宋之愻は歌がうまい、と聞いて、自分腰元たちに歌を教えるよう、かれに言いつけると、かれは毎日笏を手に持って、腰元の部屋の外に直立し、歌をうたって平然たるものであった。 閻朝隠は、字は友倩で、趙州欒城の人である、若い頃から兄の閻鏡幾・弟の閻仙舟と皆著名であった。兄弟連ねて進士・孝悌廉譲科に及第し、陽武県の尉に補任された。中宗が太子となると、閻朝隠を舎人として厚遇した。性格は滑稽で、詭弁を弄したから、武后に気に入られた。累進して給事中・仗内供奉に遷った。武后が病となると、少室山に行って祈祷し、沐浴して、身を俎板の上に横たえて犠牲とし、武后の代わりに病となるよう祈った。戻って奏上すると、武后もまた快癒したから、大いに褒賞された。その性格が諂い媚びることはこの通りであった。景龍年間(707-710)初頭、崖州に流されたが赦免されて戻され、著作郎に累進した。先天年間(712-713)、秘書少監となったが、事件に連座して通州別駕に左遷されて卒した。 尹元凱は、瀛州楽寿県の人である。慈州司倉参軍であったが事件に連座して免職され、失意のうちに漂泊して世に出ないこと三十年にも及んだ。張説・盧蔵用に起用され、詔して右補闕に任じられた。 当時また富嘉謨・呉少微がいて、名を知られた。 富嘉謨は、武功県の人で、進士に推挙され、長安年間(701-705)、晋陽県の尉に任じられた。呉少微は、新安県の人で、また晋陽県の尉に任じられ、最も互いを友として親しかった。魏郡の谷倚なる者がいて、太原県の主簿であった。あわせて文章を担い、当時の人は「北京三傑」と称した。天下の文章は徐摛・庾肩吾の宮体詩を尊んだが、世俗の者はこれに競うことはなく、ただ富嘉謨・呉少微だけは経術をまなび、純正寬厚かつ気性が雄々しくすぐれており、人々は競って慕ったから「呉富体」と称された。『三教珠英』の編纂事業がおこると、韋嗣立は富嘉謨・呉少微を推薦して左台監察御史としたが、すでに富嘉謨は死んでおり、呉少微は病となっていたから、これを聞いて慟哭し、また卒した。 劉憲は、字は元度で、宋州寧陵県の人である。父の劉思立は、高宗の時に御史として名をなし、当時、河南・河北が大旱となり、詔して御史中丞の崔謐らを、道を分けて慰撫に派遣させることとしたが、劉思立は「農業がまだ収穫が終わっていないのに撫巡の使者を派遣するのは、使者が来ればねぎらいの宴会をしないわけにはいきません。また賑給は出納の総帳簿を見て出入を考えなければならず、行き帰りは停滞し、農業を妨げることはますます大きくなるのです。もし駅がなければ、馬はあらかじめ集めなければならず、一馬を数家で用いているので、今農事は雨を待って作業しようとしているのに、一日の仕事をやめて、一年の経理を破るのは、もとより安らぎを求めているのに、さらに煩わしくなっているのです。願わくば州県に指示して前借りさせ、秋を待って使者を派遣するとよいでしょう」建言した。詔して聴され、崔謐らが行くことは中止となった。考功員外郎に遷った。始めて明経科で填帖(提示された経典を記入すること)と、進士に雑文を試験することを加えるよう議した。在官中に卒した。 劉憲は進士に及第し、河南県の尉に任命され、左台監察御史に累進した。天授年間(690-692)、詔を奉って来俊臣の罪を取り調べることとなったが、劉憲はその罪を憎んで縄で拷問して痛めつけようとしたから、かえって問題となり、潾水県令に左遷させられた。来俊臣が死ぬと、召還されて給事中となり、中書舎人に転じた。張易之と親しかったことに連座して、京師より出されて渝州刺史となった。太僕少卿、修国史に任じられ、修文館学士を兼任し、太子詹事に遷った。当時、玄宗は東宮であり、常に思いを史書典籍によせており、劉憲は「殿下の位は君をたすけ、人の才能から隔絶しています。章句をつまむようなことはあってはなりません。大意がわかればいいだけなのです。侍読の褚无量は経に明るく行いを修めた学識豊かな宿老です。しばし召して尋ねられその発言を推し量るとよいでしょう」と申し上げ、太子は受け入れた。卒すると、兗州都督を贈られた。 武后の時、吏部に勅して氏名の上に糊ではりつけて名を隠して成績を調べることによって優秀な人物を求めた。ただ劉憲と王適・司馬鍠・梁載言が第二等に入った。王適は、幽州の人で、雍州司功参軍で終わった。司馬鍠は、河南の人で、神龍年間(707-710)初頭、中書侍郎で卒した。継母に仕えて孝養を尽くし、奉禄を自分の家に入れなかった。弟の司馬銓と伯父の司馬希象とともに皆、殿中侍御史となった。司馬希象は、剛直で諂わず、主爵員外郎で終わった。梁載言は、聊城の人で、鳳閣舎人を経て知制誥となり、懐州刺史で終わった。 李邕は、字は泰和で、揚州江都の人である。父の李善は、行ないは優雅で、古今に精通していたが、文章は得意ではなく、そのため人に「書簏」と呼ばれた。顕慶年間(656-661)、累進して崇賢館直学士、兼沛王侍読となった。文選の注を行ない、事細かに調べあげ、上表して奉った。賜物は非常に手厚かった。潞王府記室参軍に任じられ、涇城県令となったが、賀蘭敏之と親しかったことに連座して、姚州に流され、赦免されて戻った。汴・鄭の間を居候して講義を来ない、生徒たちがあちこち遠くからやってきて、その学業を受け継ぎ、「文選学」と言った。 李邕は若くして名を知られた。始め李善が文選に注を加えたが、事を逐次解釈して文意を忘れていた。書ができると李邕に出来栄えを尋ねたが、李邕はあえて答えなかった。李善は詰め寄ると、李邕は文意を改めたいと思った。李善は「試しに私のために補ってみてくれ」と言い、李邕は事象について義をあきらかにした。李善はそれを自分の注とすることはできなかったから、そのため両書は並び行わなれた。成人となると、特進の李嶠と会い、自ら「書籍はまだ多くは読んでいません。一度秘閣の書籍を見せて下さい」と言った。李嶠は、「秘閣は万巻あって、どうして短い日時で習うことができるようか」と言ったが、李邕はどうしてもと願ったから、そこで試しに秘閣の書籍にあたらせた。しばらくもしないうちに別れの挨拶をしてきたから、李嶠は驚いて、秘閣の奥や隠された書籍を試問してみると、言い終わるや答えることは響きが応じるかのようであった。李嶠は感嘆して「君もまたその道の名家なんだな」と言った。 李嶠が内史となると、監察御史の張廷珪と李邕の文章が気高く端正で、才能は遠慮なく率直に諌めるのに任ずるべきであると推薦し、そこで左拾遺を拝命した。御史中丞の宋璟が張昌宗らの悪行を奏上したが、武后は応じることがなく、李邕は階下に立って大声で「宋璟が述べたことは社稷の大計です。陛下は聞くべきです」と言ったから、武后は顔色をやわらげ、そこで宋璟の奏上をよしとした。李邕が退出すると、ある者が「君は位が低いのだから、一たびご意向に背いたら、どんな禍いがあるかわからんぞ」と言うと、李邕は「そうでもしなければ、名もまた伝わらんさ」と答えた。 中宗が即位すると、鄭普思が怪しげな術によって寵愛を得て、秘書監に抜擢された。李邕は諌めて「陛下は自ら政務にあたって日が浅く、全国は厳かであって、道では勝手気ままに論議するようなことはありません。今、鄭普思が詭き惑すことに民衆は騒乱し、吉凶を説いていますが、陛下はご存知ではなく、濫りに用いようとされています。孔子は「詩経には三百もの詩があるが、その詩に書かれていることは一つの言葉でくくることができる。それは「よこしまなでない、まっすぐな気持ち」ということである」と述べています。陛下は本当に鄭普思の術で長生きできるのでしたら、爽鳩氏(斉を古に支配したという古族。左伝昭公二十年伝にみえる)もまた長らく天下にあったということになるので、陛下は今天下を得られたのでしょうか。神人を呼ぶことができるというのでしたら、秦・漢もまたそのため長らく天下を有していたことになるので、陛下は今の天下を得られなかったのです。仏法ができるというのでしたら、梁の武帝もまた長らく天下を有していたということになるので、陛下は今の天下を得られなかったのです。鬼道ができるというのでしたら、墨子や干宝もまたそれぞれの主に献じて長らく天下を有したでしょうから、陛下は今の天下を得られなかったのです。古より堯・舜は聖者と讃えられていますが、臣がその讃えられる行いの理由を見てみると、すべて人間の事にあり、人々がそれぞれ仲良くして、身分や立場に見合った振る舞いを行うといったことで、鬼神の道によって天下を治めたとは聞きません。陛下はかえりみて良し悪しを考えてくださりますように」と述べたが、受け入れられなかった。 五王(崔玄暐・張柬之・敬暉・桓彦範・袁恕己)が誅殺され、張柬之と親しかったことに連座して、京師より出されて南和県の県令となり、富州司戸参軍事に貶された。韋氏が平定されると、召還されて左台殿中侍御史を拝命し、弾劾の任にあったったから、人々は非常に憚った。譙王李重福が謀反すると、李邕は洛州司馬の崔日知とともに支党を捕らえ、その功によって戸部員外郎に遷った。岑羲・崔湜は崔日用を憎んだが、李邕は彼らと親交があり、玄宗が東宮であったとき、李邕は崔隠甫・倪若水と同じように礼遇されたが、崔羲らはこれを嫌ったから、李邕を舎城県の丞に左遷した。玄宗が即位すると、召還されて戸部郎中となっった。張廷珪が黄門侍郎となって、姜晈が寵愛されると、共に李邕を助けて御史中丞となった。姚崇は李邕の落ち着きのなさを嫌って、括州司馬に左遷し、起用されて陳州刺史となった。 帝が太山にて封禅して帰還すると、李邕は帝と汴州にて謁見し、詔によって賦を献じると帝は喜んだ。しかし矜持が強く、自ら宰相に匹敵するといっていた。李邕はもとより張説を軽んじて、互いに憎み合っていた。ちょうど敵対する人から李邕が賄賂を求めて法を曲げているという告発があり、獄に下されてその罪は死に相当した。許昌の男子の孔璋が天子に上書した。「優れた君主が過去を捨て、才能をとって過去の行いを捨てるなら烈士は節に抗い、勇者は死を避けることはありません。だから晋は荀林父(中行桓子)を用いるのに過去を不問とし、漢は陳平を任じるのに行いによらず、秦の禽息は百里渓が用いられるためならこの身が死んでも生きることを祈らず、晏嬰の無実を訴えて北郭騒は頭を砕いて死を惜しみませんでした。もし荀林父が誅殺され、陳平が死に、百里渓が用いられず、晏嬰が追放されるならば、これ晋は赤狄の地を得られず、漢は天子の尊さはなく、秦は強くなく、斉は覇者にならなかったのです。伏して見てみますに、陳州刺史の李邕は、剛毅かつ忠烈で、難事からは逃れられません。むかし二張(張易之・張昌宗)の横暴を鎮め、韋氏の野望をくだき、身は流謫に屈したとはいっても、悪人の企みを阻止しており、李邕は国に功績がある人物なのです。かつ李邕はすぐれた人物で、孤児や貧困者を救い、救済困難であっても与え恵んだから、家には私財がないのです。今、賄賂に連座して獄吏に下され、死は朝夕のうちにあると聞いています。臣は、生きても国に無益な者は、身を殺してこれによって賢者であることを明らかにするのにこしたことはないと聞いています。臣は願わくば六尺の身を処刑台に横たえ、李邕の死に代わりたいと思っています。臣は李邕と平生の交際はなく、臣は李邕を知っていますが、李邕は臣を知らず、臣は李邕の賢明さに及びません。賢を知って行動するのは仁です。人の患いに任せるのは義です。二つの善を得てから死んでも、臣はまた何を求めましょうか。伏して考えてみますに陛下、李邕の死をゆるし、前人の徳にしたがって行ないを改めさせるのです。李邕が荀林父・曲逆公(陳平)の功績をおこせば、臣は瞑目することができます。禽息・北郭騒の跡を継ぐのなら、大願は終わるのです。もし春が訪れようとしていて、重ねて大殺戮を行うのなら、そこで臣を殺してください。あえて役人の手を煩わせることなく、天神地祇は本当に臣の言を聞くでしょう。昔、呉楚七国が叛乱を起こすと、漢は劇孟を得て心配がなくなりました。一人の賢人が七国の軍に匹敵したのです。伏して考えてみますに、恥辱にたえる道、過去の過失を忘れるの意によって、遠くは劇孟を思い、近くは李邕を取るのです。ましてや岱宗(泰山)に告げ、天地は刷新し、赦してまた論ずるのなら、人は誰が罪なく、ただ明主がこれを図るのでしょうか。臣は、士は己を知る者のために死すと聞いていますが、臣は死ぬ者のために、彼が知るところでなくても、甘んじてここに死ぬ者です。特に李邕の賢を惜しんでいるのではなく、また陛下が才能をもつ者を憐れむ慈悲をなそうとするのです。」上疏が奏ぜられると、李邕は死を免れて遵化県の尉に貶された。孔璋は嶺南に流された。 李邕の妻の温氏は、また李邕のために辺境の防備を自腹で備えたいと願い、次のように述べた。「李邕は若い頃から文章を習い、悪を憎むことは仇敵のようで、衆を受け入れず、偽善に憤怒したので、諸儒は目を側立ててきました。頻繁に遠郡に流謫され、朝臣に任用されないことは十年にとどまりません。去った歳月を惜しみ嘆き、聞く者は心を痛めるのです。たまたま国家が泰山の事業を行ない、天子の車駕は道をゆき、李邕は牛酒を献じて、常々の恩寵を受けました。私は正しい人が用いられれば邪な人が心配すると聞いています。李邕の禍いの端緒は、つまりはここから始まったのです。また李邕が外官に任じられると、ついに邪な人は一つの心配もなくなり、天子の心をしばし振り返って、罪や咎は生まれては消えていくのです。諺に「士は賢愚に関わらず、朝廷に入ればそねまれる」と言います。これは陛下もご存知でしょう。李邕ははじめ厳しい尋問を受け、牢屋に繋がれ、水は五日以上も口にできず、息も絶え絶えで、獄吏はここから聞き出そうとします。事件は獄吏の口から生じ、李邕に罪を認めたという手書を迫るのです。人に蠶の卵を借りるとように、これによって法をまげているのです。市で朝廷の献納物をつかみとって、これを指さして賄賂であるとするのです。目安箱は朝堂にありますが、護衛が堅固に守っており、天に叫んで地に訴えても誰が聞いてくれるというのでしょか。血の涙を流して国を去り、骨を辺境に投じて、長らく帰ってくることはありません。私は願うところは李邕に一兵をあてがい、力を王事につくし、北方の辺境に油を塗り、骨や糞が砂の土壌となって、李邕の平素の心根となるでしょう。」上表は朝廷に入ったが、採用されなかった。 李邕は後に宦官の楊思勗にしたがって嶺南の賊を討伐するのに功績があり、澧州司馬に遷った。開元二十三年(735)、起用されて括州刺史となり、害悪を除くことを喜んだ。再び讒言に連座して罪を得たが、天子が李邕の名声を知って、詔して弾劾を禁じた。後に淄州・滑州の二州の刺史を経て、京師に報告した。それより以前、李邕は早くから名声があり、義を重んじて士を愛したが、長らく排斥されて京師から出されていたから、士大夫と接することがなかった。入朝すると、人々は李邕の容貌が特に優れていたことを聞いていたから、数百数千の人が集まって見に来て、面会しようと門や町に人々が溢れた。宦官がやってきて、文章を求めたから天子に進上した。讒言のため京師に留まることができず、出されて汲郡・北海太守となった。 天宝年間(741-756)、左驍衛兵曹参軍の柳勣に罪があって獄に下され、李邕はかつて柳勣に馬を贈ったから、そのため吉温は李邕をひっ捕らえ、かつて善悪について互いに語り合ったことについて、密かに財物を贈ったとした。宰相の李林甫はもとより李邕を嫌っていたから、罪を並べ立てた。刑部員外郎の祁順之・監察御史の羅希奭に詔して北海郡にて李邕を杖殺した。年七十歳。代宗の時代に秘書監を追贈された。 李邕の文章は、碑頌を最も得意とし、人々は金や絹を贈ってその文章を求め、文章によって得た揮毫料は巨万に及んだ。李邕は排斥されて昇進しなかったが、文名は天下に名高く、当時は「李北海」と称された。盧蔵用はかつて「李邕は伝説の双剣の干将・莫邪のようなもので、鋭さを競って打ち合わせることは難しく、ただ傷ついたり欠けたりするのを恐れるだけだ」と言い、後に言った通りとなった。杜甫は李邕が非業の死を遂げたのを哀しみ、「八哀詩」をつくり、読むものは悼み悲しんだ。李邕の性格は豪放で、行ないを細やかないすることができず、贈り物や謝礼を受け取り、狩猟して気まま勝手にしていたから、ついに非業の最期を迎えたのだという。 呂向は、字は子回で、その世系・本貫の記録は失われ、ある者は涇州の人であると言っていた。若くして親を失い、外祖母とともに陸渾山に隠棲した。草書・隸書をよくし、一筆で百字を連ねて書くことができ、編んだ髪の毛のようであったから、世間は「連錦書」と呼んだ。学問への志が強く、薬を買いに行くたびに市で書物を読んだから、ついに古今の書に通じることとなった。 玄宗の開元十年(722)、召されて翰林に入り、集賢院校理を兼任し、太子および諸王に侍って文章をつくった。当時、帝は毎年遣使して天下の美女を集めて、宮中の後宮に入れており、これを「花鳥使」と称していた。呂向はそこで「美人賦」を奏上して諷刺して諌め、帝はこれをよしとし左拾遺に抜擢した。天子はしばしば渭川に狩猟に出かけたが、呂向はまた詩を献上して諷刺して諌め、左補闕に昇進した。帝は自ら文章を作り、石を西岳に刻ませ、詔して呂向を鐫勒使とした。 起居舎人となって帝の東巡に従い、帝が頡利発および蕃夷の酋長を引き連れて仗内に入り、弓矢を賜って禽獣を射させようとした。呂向は上言して、「梟は変な声を出さないからといって、瑞鳥にはなりません。虎がおとなしくしていても、仁獣(麒麟)とはいいません。ましてや突厥は残忍暴虐で、君父をかえりみることはありません。陛下は突厥を武の道をもってのぞみ、文の徳をもって手なずけられた。そのため彼らは勢力を伸ばすことができず、そのため膝を屈して臣と称して懸命に使者をよこすのです。陛下は内従の官を引き連れ、封禅の盛礼にお供させていますが、矢を前に飛ばさせ、獣を獲る楽しみをともにさせようとされる。これはことを軽んじすぎるものです。あるいは荊軻のような暗殺者があやしげな振る舞いをしたり、漢の武帝を狙った馬何羅のような暗殺者がしのびよってきて、天子の列の警蹕に迫りより、襲いかかるようなことがあれば、たとえ単于を討ち取って塩辛とし、彼らのテントを蹂躙して汚したところで、誰が責任をとるのでしょうか」と述べた。帝は受け入れ、詔して蕃夷を仗内から出させた。しばらくして主客郎中に遷り、専ら皇太子に侍り、称賛や賜い物は非常に厚かった。 それより以前、呂向が生まれると、父の呂岌は遠方に出かけて戻らなかった。若くして母を喪ったから、墓の場所もわからなくなり、葬ろうとして、占い師に探させたが、父が生きているのか死んでいるのかもわからなかったから、招魂して一緒の墓に合葬した。後に伝えで父が生きていると聞いたが、長年探したがわからなかった。ある日、朝廷より戻る途中、道で一人の老人を見かけ、問いただしてみると果して父であった。馬から降りて父の足に抱きついて慟哭し、行きかう人はそのため涙を流した。帝も聞いて感嘆し、呂岌に朝散大夫の官位を授け、錦や綵を賜い、内教坊の楽工を給付して、その心を喜ばせた。卒すると東平太守を追贈された。 呂向は、喪があけると、再び中書舎人に遷り、工部侍郎に改められた。卒すると華陰太守を追贈された。かつて李善が『文選』の注釈をつくったが精密であるが煩わしく、呂延済・劉良・張銑・李周翰らと改めて注釈をつくり、当時「五臣注」と称された。 王翰は、字は子羽で、并州晋陽の人である。若くして豪健で才能を誇示し、進士に及第したが、菖蒲酒を楽しむ日々を送った。張嘉貞が并州長史となると、王翰を優れた人物として厚遇した。王翰は自ら歌って踊り張嘉貞に従い、神々しい気は高くあがったが平静のままであった。張説が後任として赴任してくると、ますますあつく礼遇された。また直言極諌によって推挙され、昌楽剣の尉に任命され、また超抜群類科に推挙された。政務の輔弼について説いたから、召しだされて秘書正字となり、通事舎人・駕部員外郎に抜擢された。家では歌手や俳優を抱え、目や顎で指図し、自らを王侯のように見立てたから、人々で憎まない者はいなかった。張説が宰相を罷免されると、王翰は京師より出されて汝州長史となり、さらに仙州別駕に遷った。日々才士やごろつきと一緒に飲んだり狩猟して遊び、太鼓を打って楽しみを極め尽くしたから、連座して道州司馬に左遷されて卒した。 孫逖は、博州武水の人で、後魏の光禄大夫の孫恵蔚はその先祖である。祖父の孫希荘は韓王府典籤となり、四世代で一子のみであったから、近い親戚がいなかった。父の孫嘉之は、若くして親を失い、母の実家を頼り、渉州・鞏州の間を居候した。垂拱年間(685-688)初頭、洛陽に行って書を献じたが、返答はなかった。進士に及第し、襄邑県令で終わった。 孫逖は幼い頃から文章に優れ、親類は頭の回転が早いと思った。十五歳のとき、雍州長史の崔日用に面会し、土火炉賦をつくらせると、筆をとると篇が出来、出来栄えは非凡で、崔日用は驚き、遂に互いの交流を持った。手筆俊抜科・哲人奇士科・隠淪屠釣科・文藻宏麗科に推挙された。開元十年(722)、また賢良方正科に推挙された。玄宗は洛城門に御して引見し、戸部郎中の蘇晋らに命じて優れた文章によって及第させ、左拾遺に抜擢された。張説は子の張均・張垍に行って拝礼させた。李邕は才能に自信がある人であったが、陳州から京師に入って、その文章を褒めて孫逖に示した。 李暠が太原の藩鎮となると、上表して幕府に従事した。起居舎人によって京師に入って集賢院修撰となった。当時、天下は事件が少なく、帝は群臣に十日に一度宴し、宰相の蕭嵩が百官と会して「天成」・「玄沢」・「維南有山」・「楊之華」・「三月」・「英英有蘭」・和風」・「嘉木」等の詩八篇を賦し、雅・頌の体裁で継がせたが、孫逖は見事に完成させてみせた。考功員外郎に改められ、顔真卿・李華・蕭穎士・趙驊らを採用したが、全員天下の有名の士となった。すぐに中書舎人に遷った。当時、父孫嘉之もまた八十歳で、まだ県令であったから、孫逖は自身を外官に降格するのを求め、代わりに父の俸給を上げるよう願った。帝は嘉納し、孫嘉之を宋州司馬に任命し、致仕を聴した。父の喪があけると、また舎人に復職した。開元年間(713-741)、蘇頲・斉澣・蘇晋・賈曾・韓休・許景先および孫逖に詔誥を司らせ、最も文章をつくり、天子のお言葉の代わりの最上とし、そして孫逖が最も精密で、張九齢がその草稿を見て、一字を変えようとしたたが、ついにできなかった。職につくこと八年、刑部侍郎となったが、卒中の病のため解官を願い、太子左庶子に遷り、遂に長年用いられなかったから、少詹事に遷った。上元年間(760-761)に卒し、尚書右僕射を追贈され、諡を文という。諸子では孫成が最も名を知られた。 孫成は、字は思退で、蔭位により推薦されて出仕し、洛陽・長安の令に任命された。兄の孫宿は華州刺史となり、卒中によって失語症となったため、孫成は行って見舞いしたいと願ったが、答えが来る前に行ってしまった。代宗はその悌を喜んで責めることはなかった。しばらくして倉部郎中・京兆少尹に遷った。信州刺史となると、その年は大旱魃となり、倉を開いて安価で民に売り、そのため飢えても死ぬ者はいなかった。翌年には五千戸の人口が増加したから、詔書によって褒賞された。蘇州に遷り、桂管観察使に改められ、卒した。 孫成は経術に通じ、奏上しては正しくあるように議した。かつて喪中に、弔問客が来たが、孫成は縗(喪服)を着替えずに面会した。弔問客はどうしたことかと思い、その理由を教えるよう聞いた。「縗は、古では喪中の常服で、これを脱ぐことは喪があけることです。今巾幞(幅巾)にしているのは伝が失われているのです」と答えた。子の孫公器もまた邕管経略使となった。 孫公器の子の孫簡は、字は枢中で、元和年間(806-820)初頭、進士に及第し、鎮国・荊南の幕府の従吏に任じられた。累進して左司・吏部の二郎中に遷り、諌議大夫・知制誥より中書舎人に昇進した。それより以前、孫逖が知制誥であり、代宗の時代になると、孫宿もまたその職にあったから、孫簡にいたるまで三世におよんだ。 会昌年間(841-846)初頭、尚書左丞に遷り、建言して以下のように述べた。「班位は品秩によって等差となっています。今官は台・省を兼任していますが、班位の場所が誤っており、これを定法とすべきではありません。元和元年(806)、御史台が奏上して、常参の官で大夫・中丞を兼任する者は、検校官を視て、本品同類の官の上におらせることになりました。その後侍郎で大夫を兼任する者は全員左・右丞の上におらせました。当時、侍郎が大夫を兼任する者は少なく、ただ京兆尹が兼任するだけでした。京兆尹は従三品で、今、位は本品同類の官の従三品の卿・監の上にあり、太常・宗正卿は正三品下、左丞は正四品上、戸部侍郎は正四品下です。今、戸部侍郎兼大夫は本品同類の正四品下、諸曹侍郎の上にあるべきであって、正四品の丞・郎の上にあるのはよくありません。また右丞は正四品下、吏部侍郎は正四品上ですが、今、吏部侍郎の位は右丞の下となっています。思いますに丞は督察糾明の任があって重く、吏部の品位が高いとはいえ、それでもなお下にあるので、だからこそ戸部侍郎は大夫を兼任するからといっても、どうしてその上にあることができましょうか。今、散官は将仕郎から開府・特進に至るまで、品の正・従ごとに上あり下ありで、名位・品級はそれぞれ異なり、つまり正従上下はこれを同品ということはできません。京兆府・河南府の司録および諸府・州の録事参軍事は規律・法令を操り、正諸曹は尚書省左・右丞とともに六曹の綱紀をとりしまることは大体同じであり、たとえ諸曹の掾が功労によって台省の官を加えられたとしても、どうして位が司録・録事参軍の上にあることができましょうか。かつ左丞は政権を弾劾し、省内の禁令・宗廟の祠祭の事をつかさどり、御史が担当しなくても、これを弾劾奏上することができ、本当に台官が奏上するところを、先例にあうか否かを拘泥するから、事の軽重をおしはかることはできません。道理にしたがって規律にしたがうべきで、先例がないとはいうのでしたら、自ら行うべきなのです。そうでなければ、旧い法令であっても正しく改めるべきなのです」武宗は両省の官に詔して詳細に議論させ、すべて孫簡の奏請にしたがった。 河中・興元・宣武節度使を歴任し、検校尚書右僕射・東都留守となった。弟の孫範もまた淄青節度使となり、代々家の名声は顕れた。 李白は字を太白といい、興聖皇帝の九代目の孫である。その先祖が、隋王朝の末ごろに罪を理由に西域に追放されたが、神龍年間(705-706)のはじめに逃げ帰ってきて、巴西に身をよせた。李白が生まれるに当たって、母親が宵の明星太白星を夢にみたので、その星の名をとって名前がつけられた。十歳で詩や書をよく理解したが、やがて大きくなると岷山にこもってしまい、州の役所が「有道(すぐれた才能をもっている人)」とし推薦したが応じなかった。蘇頲が益州長史になったとき、李白にあってその才能がすぐれていることを見ぬき 「この人物(若もの)はずばぬけた才能の持ち主だ。もう少し学問をすれば司馬相如に匹敵するものとなろう」といった。ところが彼は、横術や撃剣のほうが好きで、侠客ぷり、気まえよく人に金品をふるまう暮らしをしていた。あちこちあるきまわったあとで更に任城に身をよせて、孔巣父・韓準・裴政・張叔明・陶沔らと一しょに徂徠山に住み、毎日、酒びたりの生活をしていた。この六人は「竹渓の六逸」とよばれた。 天宝年間初頭(755)、南方の会稽に行き、呉筠と親しくしていたところ、呉筠が帝に召し出され、それが機で、李白も長安にのぼった。長安で、推挙をたのみに賀知章をたずねたところ、賀知章は彼の文章をみて、「君は天上からこの世界に流された仙人だな」と感心していった。賀知章が玄宗に李白のことを言上したので、召し出されて金鑾殿で拝謁し、当世の問題について意見をのべ、一篇を奏上した。帝は李白に食事をたまわり、手ずから料理をすすめられた。詔が出て翰林に供奉することになった。李白はそれでもなお、飲み仲間と、さかり場で酒に酔っていた。あるとき帝が沈香亭に御し、得られた感興を李白に作詞させようとして召し出されたところ、彼はすっかり酔っていた。左右のものが顔に水をぶっかけると、少し酔いがさめ、筆をとりあげ、たちまち文を作りあげた。その作品は美しく曲折変化にとみ、すらすらとできていて、しかも考えて渋滞することはなかった。帝は彼のそうした才能を愛し、よくひまな時に目通りを許して召し出した。李白がかつて帝のお傍にいたとき、酔っぱらって高力士に長靴をぬがさせたことがあった。高力士はもともと高官であったから侮辱されたと思いこみ、李白の詩を悪意を含むものとしてぬき出して中傷し楊貴妃を怒らせた。そのため、帝が李白を官位につけようとするとそのたびにいつも妃が邪魔をしてやめさせた。李白は、帝の側近のおぼえがよくないことに気がつくと、いよいよおごり気ままにふるまい、行いをつつしまなかった。賀知章・李適之・汝陽王李璡・崔宗之・蘇晋・張旭・焦遂ととも酒中の仙人といわれた。山にかえりたいと熱心にお願いしたところ、帝は黄金をたまわって自由にかえることを許された。李白は、四方ところ定めず旅をしてくらした。あるとき、旅をして崔宗之といっしょに采石から金陵まで行ったことがあるが、宮中で着る錦の上衣をきて舟に坐を占め、傍若無人にふるまった。 安禄山が叛旗をひるがえした。李白は宿松(安徽省の県)と匡廬(江西省の廬山)の間を往ったり来たりしていた永王李璘が召し出して幕僚にとりたてたが、永王李璘が兵を起こすと彭沢に逃げかえった。李璘は失脚し、李白の罪は死刑に該当した。ずっと以前のことだが、李白が并州に旅していたころ、郭子儀と知り合い、その人柄を買っていたので、郭子儀があるとき法にふれて罪をこうむったのを救ってやったことがあった。この事態を知った郭子儀は、自分の官位を返上するから李白の罪を許してほしいと願い出た。詔が出て、夜郎に追放されることになったが、恩赦にあって潯陽にかえった。そこである事件に連坐して獄に囚われていたが、ちょうど宋若思が呉の兵三千をひきつれ河南に行く途中、潯陽を通り、囚われている李白を自由の身にして参謀に召しかかえたが、李白は間もなく辞職した。李陽冰が当塗の県令であったので、李白はこの人に身をよせた。代宗が即位し、左拾遺の官につけようと召し出したが、李白はすでに世を去っていた。六十歳余であった。 李白は晩年道教を好んだ。牛渚磯をわたり姑孰に行き、謝家の青山が気にいったのそこで余生を終わりたいとのぞんでいた。亡くなったときは山の東麓に葬られた。元和年間(806-820)の末に、宣歙観察使の范伝正が、彼の墓を祭り、墓地でのたきぎ拾いを禁じた。子孫をたずねたところ、二人の孫娘が残っているだけであった。二人は農夫と結婚していたが、そのたちいふるまいには、さすがに血筋のよさからくるゆかしい風格があった。范伝正の来意を知ると、涙ながらに「なくなった祖父は青山に葬られることをのぞんでおりました。ちかごろ東麓に葬ってございますが、それは本意ではないのです」と訴えた。范伝正は願いをいれて墓を改葬し、二つの碑を立ててやった。二人の孫娘に、あらためて士族のものと結婚しなおしてはどうかとすすめたが、身よりもなく貧しくこのように落ちぶれましたのも天の命ですからと辞退し、嫁入りしなおすことをのぞまなかった。范伝正はその心がけをたたえて、彼女たちの夫の徭役を免除した。文宗の時代に、李白の歌詩、裴旻の剣舞、張旭の草書を三絶とするという詔が出された。 張旭は、蘇州呉の人である。酒をたしなみ、泥酔するたびに叫んでは狂ったように走り、そこで筆をもって、あるときは頭を墨で濡らして書き、酔いがさめてから自分自身の書をみると、素晴らしいと思ったが、再び同じようにはできなかった。そのため世間は「張顛(頭のおかしい張さん)」と呼んだ。 それより以前、仕えて常孰県尉となった。ある老人がいて牒を持って判を求めてきたが、以前に来ていたのにまたやって来たから、張旭はその煩わしさに怒って責めた。老人は、「あなたの筆の奇妙さを見て、家宝にしたいと思っただけです」といい、そこで張旭は所蔵しているものを聞いてみると、老人はその父の書をすべて出してきた。張旭はこれを見て、天下の奇筆であると思い、これよりその書法をつくした。張旭は自ら、「始めは公主が担夫と道を争っているのを見て、または鼓吹(軍楽)を聞いて、筆法を得たのだ。意は俳優の公孫が剣舞を舞っているのを見て、その神を得たのだ」と言った。後世の人が書法を論じて、欧陽詢・虞世南・褚遂良・陸柬之は皆異論があったが、張旭にいたっては、過失があるというものはいなかった。その法を伝えるのは、ただ崔邈・顔真卿がいるのみという。 裴旻は、かつて幽州都督の孫佺とともに北伐し、奚のために包囲されたが、裴旻は馬上に立って刀を振り回し、周囲から飛んでくる矢を、すべて刀で叩き落し、奚は大いに驚いて引き上げた。後に龍華軍使となって北平を守った。北平は虎が多く、裴旻は弓をよくしたから、一日に虎三十一頭を射て、山の麓で休んだ。老父が、「これは彪です。しばらく北に行くと本当の虎がいます。将軍がこれに遭遇すれば負けてしまいます」と言った。裴旻は信じず、馬を怒らせて走った。すると芒の草むらの中から虎が出てきて、小さいながらも猛々しく、地によって大いに吠えると、裴旻の馬は後退りし、弓矢はすべて落ちてしまい、これより二度と射れなかった。 王維は、字は摩詰である。九歳のときにすでに文をよくし、弟の王縉と名声を等しくし、兄弟仲がよかった。開元年間(713-741)初頭、進士に及第し、太楽丞に任命されたが、連座して済州司倉参軍に左遷された。張九齢が宰相となると、右拾遺に抜擢された。監察御史を歴任した。母の喪に服し、枯れ木にようにやせて骨と皮になるまで悲しんだ。服があけると、給事中に任命された。 安禄山が反乱をおこすと、玄宗は西に逃れ、王維は賊軍の捕虜となり、薬を服用して腹を下し、表向きは詐病した。安禄山は昔から王維の才能を知っていたから、迎えて洛陽に留め、脅迫して自身の給事中とした。安禄山が凝碧池で大宴を開くと、ことごとく梨園の諸工を集めて合奏させ、諸工は皆泣き、王維は聞いて悲しみにたえず、詩を賦して悼んだ。賊が平定されると、全員獄に下された。ある者が王維の詩を行在(粛宗)に教え、また当時弟の王縉が顕官にあったから、官職を返上して兄王維の罪を許されるよう願ったから、粛宗もまた憐れみ、格下げにして太子中允に遷らせただけであった。しばらくして中庶子に遷り、三度尚書右丞となった。 王縉が蜀州刺史となってまだ長安に戻る前に、王維は自ら上表して、「私には五つの短所があり、王縉には五つの長所があります。臣は宮中の門前におりますが、王縉は遠方にあって、戻って任官されること願っています。臣を田里に放ち、王縉を京師に帰らせてください」と述べた。議する者はこれを罪としなかった。しばらくして王縉を召還して左散騎常侍とした。上元年間(760-761)初頭に卒した。年六十一歳。病が重くなると、王縉は鳳翔にいたから、書をつくって遺書とし、また親しい者に書数幅を残し、筆を置くと息を引き取った。秘書監を贈位された。 王維は草書・隸書を巧みにし、絵をよくし、名声は開元・天宝年間(713-756)に盛んであり、親王や貴族らはうやうやしく席を清めて迎え、寧王李憲・薛王李業といった諸王は師や友であるかのように待遇した。絵は神品の腕前で、山水や平遠な地、雲の勢いや石の色、天才的発送であり、絵を学ぶ者では真似することができないものであった。客が楽の図を持って見せてきたが題や識語がなかった、王維はおもむろに「これは「霓裳羽衣」の第三畳の最初の拍だ」と言い、客はわからなかったが、楽工を招いて曲を退かせると、そこでようやく信じた。 兄弟は皆篤志家で仏教を信奉し、臭い野菜を食べず、衣は色模様があるのを着なかった。別荘は輞川にあり、地は奇勝で、華子岡・欹湖・竹里館・柳浪・茱萸沜・辛夷塢があり、裴迪とその中で遊び、詩を賦して互いに詠みあい音楽を演奏した。妻の喪にあったが再婚せず、独り身を三十年貫いた。母が死ぬと、上表して輞川の邸宅を寺とし、死ぬとその西に葬られた。 宝応年間(762-763)、代宗が王縉に「朕はかつて諸王の席に連なって王維の作詞の歌を聞いたものだ。今どれくらい伝わっているか」と言うと、宦官の王承華に取りに行かせ、王縉が数百篇を収集して献上した。 鄭虔は、鄭州滎陽の人である。天宝年間(741-756)初頭、協律郎となり、当時の出来事をまとめ上げ、八十篇あまりの著書を書いた。その草稿をみた者が、鄭虔を告発して国史を私撰していると上書したから、鄭虔はあわてて焼却したが、罪とされて十年間流謫された。京師に戻ると、玄宗はその才能を愛し、左右に置こうとしたが、官職についていなかったから、更に広文館を設置して、鄭虔を博士とした。鄭虔は命令を聞いて、広文館の役所がどこにあるのかわからず、宰相に訴えた。宰相は「お上は国学に増設して、広文館を置かれ、賢者をおらしめられた。後世の人をして広文館博士は君より始まったと言わしめるのだ。なんと素晴らしいことではないか」と言ったから、鄭虔はそこで職についた。しばらくして雨が建物を破壊し、役人は修理を完了させなかったから、国子館に間借りしたが、これより遂に廃された。 それより以前、鄭虔は古書に補筆して著作したのは四十篇あまりになり、国子司業の蘇源明はその書を『会稡』と名付けた。山水を描くのを得意とし、書を好んだが、常に紙が無いのに悩まされたから、慈恩寺に柿の葉を数舎貯蔵し、遂に往年葉を取り出して書を練習し、長年にして上達した。かつて自らその詩を写して画を添えて献上すると、帝はその末尾に大書して「鄭虔三絶」と書いた。著作郎に遷った。 安禄山が叛乱をおこすと、張通儒を派遣して百官を捕らえて東都(洛陽)に勾留し、鄭虔に偽の水部郎中を授けたが、中風に罹ったと自称して、市令に任命するよう求め、密かに霊武の粛宗のもとに密書を送った。賊が平定されると、張通・王維とともに宣陽里に捕らえられた。三人は全員絵をよくし、崔円は壁画を描かせ、鄭虔らは死を恐れ、そこで思いをつくして崔円に釈放してくれるよう祈り、ついに死を免れ、台州司戸参軍事に貶され、王維は追放を免れた。数年後に卒した。 鄭虔は地理も学んで、山川の険しいところやなだらかなところ、方々の物産、兵力の多少など詳しくないものはなかった。かつて『天宝軍防録』を著し、述べるところは詳細であった。学者たちはその著作をよくすることから敬服し、当時の人は「鄭広文」と号した。在官中はかなり貧乏であったが、静かで落ち着いていた。杜甫はかつて詩を贈って「才名四十年、坐客 寒きに氈無し(四十年もの名声を保ちながら来客に座布団さえ出せない)」と述べた。 鄭相如なる者がおり、滄州からやってきて、鄭虔に師事しようとしたが、鄭虔はまだ挨拶もしないうちに、それまで何をしていたのか尋ねると、鄭相如は、「孔子が「周のあとがあったとて、百代までも知れている」と言ったと聞いています。私もまた知ることができます」と言ったから、鄭虔は驚いて、「開元は三十年を期に改元したが、十五年を期に天下が乱れて、賊臣が皇帝位を僭称しているが、君は自らの身が偽官に汚されようとしたとき、ならないですむことができるのか」と言い、鄭虔はさらに「どうするか言ってみろ」と言うと、「この相如は官にあること三年、衢州で死にます」と言った。この年進士に及第し、信安県の尉に任命された。三年後、鄭虔は吏部に問い質してみると、鄭相如は果たして死んでおり、そのため鄭虔はその発言を思い出し、ついに賊に仕えなかった。 蕭穎士、字は茂挺。梁鄱陽王恢(梁の武帝の弟)の七世の孫である。祖父の蕭晶は賢く、智謀にだけていた。任雅相が高麗に遠征した際、上表して彼を書記官とした。越王李貞が挙兵した時、杖ついて出かけて行き、三つの策を申し述べたが、王は用いなかった。蕭晶は、彼は必ず敗れるだろうと考え、そのもとを去った。後に広陵で客死した。 蕭穎士は四歳で文を作り、十歳で太学生に任ぜられた。書を一覧しさえすれば暗記することができた。百家の系譜と籀書(装飾的字形)の学に通した。開元二十三年(735)、進士に合格し、対策試験成績第一であった。彼の父の蕭旻が莒の丞であった時、罪によって罰せられようとした。蕭穎士は出かけていって府佐の張惟一に訴えた。張惟一は、「旻はいい息子をもったものじゃ、わしは旻のためにとがめを受けても恨まない。」そういって彼をゆるした。 天宝年間(742-755)初頭、蕭穎士は秘書正字に任ぜられた。時に、裴耀卿・席豫・張均・宋遥・韋述は皆彼の先輩であったが、彼の才能を認めて対等なつきあいをした。このことによって彼の名は天下に広まった。使命を奉じてうずもれている書物を趙・衛のあたりに探し求め、久しく滞在していて復命しなかったら、役人に弾劾・免職された。濮陽に逗留していた。ここで尹徴・王恒・盧異・盧士式・賈邕・趙匡・閻士和・柳并などが、皆弟子の礼をとり、順次学業を授けられ、蕭夫子と称した。召されて集賢校理になった。宰相の李林甫が彼に会いたく思ったが、蕭穎士はちょうど父が死んだばかりで、行かなかった。李林甫はある時蕭穎士の友人の家に赴いて蕭穎士を迎えたが、蕭穎士は出かけていって、門内で声をあげて泣いて待っていた。李林甫は已むを得ず出てきて弔辞を述べ、そこで蕭穎士は立ち去った。李林甫は彼が己れに下らないのを怒った。広陵参軍事に格下げされたが、蕭穎士は気短でそれががまんならなかった。「桜桃の樹を伐るの賦」を作っていうには、「役にも立たぬ材であるのに抜擢され、幹と枝との関係にあることのおかげを蒙っている。先ずおたまやに薦めるものとは申せ、あつものを味つけする塩加減ではない」と。こういって李林甫を謗ったという。しかしながら時の君子たちは、彼の狭量を残念がった。たまたま母が亡くなり、広陵参軍事を免ぜられ、呉・越の間を放浪した。 ある時、こういうことを考えた。「孔子は春秋を作り、それは後世の多くの王たちのための不変な法となった。司馬遷は本紀・書・表・世家・列伝を作ったが、書き方がどっちつかずで正当な評価の下し方を間違え、模範とするに価しない」と。そこで漢の元年から隋の義寧年間(617-618)まで、春秋の書き方にならって伝記百篇を作った。魏では、高貴郷公の崩御の事件を、「司馬昭が帝を南闕で殺した」と書き、梁では、陳が梁から帝位を引き継いだことを、「陳覇先が反乱した」と書いた。また自分が梁の末裔なものだから、「梁の宣帝は正道に逆らって天下を取ったが、正道に順ってこれを守った。だから武帝のお祭は三紀(42年)も続いた。昔、曲沃で文公が晋を簒奪し、後に文公が五覇の一人となったが、孔子は隠しめなかった」と書いた。そこで陳をしりぞけ隋を閏位(正統でない天子の位)であるとし、唐の土徳が直接に梁の火徳をうけ継いだのだとなし、皆自分で断を下し、諸儒とは議論しようとしなかった。太原の王緒という者がおり、王僧弁の末裔であったが、『永寧公輔梁書』を作り、陳をしりぞけて帝とは認めなかった。蕭穎士は彼の説を援護して、彼もまた『梁蕭史譜』および『梁不禅陳論』(梁は陳に帝位を譲っていないという説)を著し、そのことで王緒の著書の書き方を人に解るようにはっきりさせたという。 史官の韋述が、自分の後任としてその職に就くよう蕭穎士を推薦した。蕭穎士は召されて史館にやってきて待制となった。蕭穎士は宿つぎの馬に乗って京師にやってきた。ところでは李林甫はその頃威光をかさにきてほしいままにふるまっていたが、蕭穎士はそれでも屈服せず、ますます憎まれた。まもなく官を免ぜられ、鄠・杜の間を往き来した。李林甫が死ぬと、あらためて河南府参軍事に任ぜられた。倭国が使を入朝させてきて、その使は、「国人は蕭夫子を先生として迎えたいと願っています」と述べたが、中書舎人の張漸らが諌めて沙汰止みとなった。 安禄山が寵愛をたのみに、ほしいままにしていた。蕭穎士はひそかに柳并に、「胡人(安禄山)が寵をたのんで騙っている。乱が起こるのは目に見えている。東京(洛陽)がまっ先に陥落するだろう」と話したが、病気を口実にして太室山に遊んだ。安禄山の乱が起こってから、蕭穎士は河南使採訪の郭納に会いに行き、防御の計を開陳したが、郭納はいい加減にあしらって用いなかった。蕭穎士は、「肉食者が子どもの遊びのまねではげしい賊を禦ごうとしているが、うまくいくまい」と嘆いた。封常清が東京で布陣していると聞き、行ってみたが、泊らないで帰ってきて、蔵書を箕山・穎水の間に隠し、わが身は山南道に避難した。山南節度(副)使の源洧が彼を書記に招いた。賊の別隊が南陽を攻め、源洧は恐れ、退却して江陵を守ろうとした。蕭穎士は、「官軍が潼関を守り、兵糧を急ぎ必要としています。江・淮の地からの兵糧の転送があってやっと足りるのです。それを運ぶには漢江・沔水を経由するとすれば、襄陽こそは天下ののどもとです。ある日突然陥落するようになったら、すべてはだめになってしまう。その上この山南道には数十もの郡があり、百万の人がいる。兵を訓練し、反乱軍を追いはらったなら、国家に対する大きな功績です。賊は今、崤山・陝県を専らに攻めています。あなたはどうしても急にこの土地を軽々しく人でに渡して天下の物笑いになろうとするのですか」と説得した。そこで源洧は兵をとどめて出なかった。たまたま安禄山が死には囲みを解いて去った。源洧が死に、金陵に行って客となった。永王李璘が招こうとしたが、行かなかった。 このとき盛王李琦が淮南節度大使となったが、玄宗は彼を蜀に留めて派遣せず、副大使の李承式が淮南で兵をもてあそんでいてその形勢は振るわなかった。蕭穎士は宰相の崔円に手紙を送り、「今、兵糧の拠り所は東南にあります。ただ楚や越の地方は、重なり川が入りくみ、昔から中原が乱れれば盗賊がまっ先にこの地方に蜂起しています。こんな時こそ盛王を派遣して江准を防衛すべきです」と書いた。まもなく劉展がその言の如く反乱を起こした。賊は雍丘を囲んで泗水のほとりの軍を脅した。李承式は兵を遣わして救援させたが、大いに賓客をもてなす宴を張って歌妓をその席に並べたてた。蕭穎士は、「天子が雨ざらしになっているというのに、今は臣下が歓びを尽くしている時でしょうか。そもそも兵を不測の地に投じておきながら、華やかなところを見せたり聞かせたりでは、もし兵士たちが一旦帰りたいと思って逃げようとした場合、誰が命を投げ出して戦ったりするものですか」と諌めたが、聞き入れなかった。崔円がこのこと聞き、即座に揚州功曹参軍を授けたが、赴任して二晩泊まっただけで去り、その後汝南の旅館で客死した。五十二歳であった。門人たちがその諡を文元先生とさだめた。 蕭穎士は他人の美点を認めるのが好きで、後輩を引き立てるのを自分の任務としていた。李陽・李幼卿・皇甫冉・陸渭ら数十人が、彼の引き立てで皆名士となった。天下は、彼には人を知る明があるとして推賞し、「蕭功曹」と称した。かつて元徳秀に兄事し、殷寅・顔真卿・柳芳・陸拠・李華・邵軫・趙驊を友とした。当時の人は、「殷・顔・柳・陸・李・蕭・邵・趙」と、いつもこの八人を続けて一組に呼んだが、それは彼らが最後までつき合いを絶やさなかったからである。交際した者は、孔至・賈至・源行恭・張有略・族弟の張季遐・劉穎・韓拯・陳晋・孫益・韋建・韋収であり、彼らのうちで一人李華だけが彼と名声を等しくした。世間では「蕭李」と併称した。ある時、李華・陸拠と洛陽の龍門に遊び、路傍の石碑の文を読み、蕭穎士は一度で暗記してしまったが、李華は再読、陸拠は三読してやっと全部暗記することができた。このことを聞いた者は、三人の才の高さもこの通りだと考えたことである。一人の下男が蕭穎士に十年間も仕えていたが、蕭穎士は彼を何かと言えば厳しくむち打った。ある人がその下男にそんな辛いところからは去るよう勤めたが、彼は「去ろうと思えばできないことはないのですが、ご主人さまの方が気に入っていますから」と答えたという。蕭穎士はしばしば「班彪・皇甫謐・張華・劉琨・潘尼は、古えにのっとることができたが、世の中にうずもれてしまって知られなかった。しかし実力は曹植や陸機も及ぶ所ではないのである」と称えたものだ。また「裴子野は著述にすぐれている。当世で認めるのは、陳子昂・富嘉謨・盧蔵用の文章と、董南事・孔述睿の博学だけだ」とも言っていた。 子の蕭存は、字は伯誠で、誠実な性格は父を受け継いだ。文辞をよくし、韓会・沈既済・梁粛・徐岱らと親しかった。浙西観察使の李栖筠は上表して常熟県の主簿とした。顔真卿が湖州にいたとき、蕭存と陸鴻漸らと古今の韻字の起源を考察して、書数百篇をつくった。建中年間(780-783)初頭、殿中侍御史から四度役職が代わって比部郎中となった。張滂は財務を掌握していたが、蕭存をしりぞけ、京師に留めて業務を行わせた。裴延齢と張滂は仲が悪く、蕭存はその邪なことをにくみ、官を去ったが、中風のため卒した。韓愈は若いころから蕭存のおかげで世間に知られるようになっていたから、袁州より帰ると、蕭存の廬山の住んでいた家に行ったが、諸子はそれより前に死んでおり、ただ一女だけがいるだけであったから、通り過ぎるたびにその家をみるようになった。 殷寅は陳郡の人。邵軫は汝南の人である。 陸拠は、河南の人で、字は徳鄰、後周(北周)の上庸公の陸騰の六世の孫である。心が広くて聡明で、よく物事を理解した。三十歳のとき始めて京師にいたり、公卿たちはその文章を愛し、交際するのを名誉とした。天宝十三載(754)、司勲員外郎まで昇進して終わった。 柳并は、字は伯存。大暦年間(766-779)、河東府に招かれ書記となり、殿中侍御史に転任した。喪が明けると家で没した。それより以前、柳并と劉太真・尹徴・閻士和は蕭穎士に学んでいたが、柳并は黄老の思想を好んでいた。蕭穎士はいつも、「太真は私の入室の弟子であるが、その文は失墜することはなく、将来この子に頼ることになるだろう。尹徴は博覧強記で、閻士和は深謀遠慮であることは、私もすでに彼らに及ばない。楊并は受命せずに黄老を尊んでいるから、私もまたどうして誅殺されるような不幸がおきようか」と言った。 柳并の弟の柳談は、字は中庸で、蕭穎士はその才能を愛し、娘を妻として娶らせた。 閻士和は、字は伯均で、『蘭陵先生誄』・『蕭夫子集論』を著し、そのため歴世の文章を独占して、さかんに蕭穎士の素晴らしいところを推した。そのため、「蕭氏の風を聞く者は、五尺の童子でも恥じて曹植・陸機を称えた」とされた。 皇甫冉は、字は茂政で、十歳でよく文章をつくり、張九齢は異彩ぶりに感嘆した。弟の皇甫曾とともにみな詩をよくした。天宝年間(742-756)、相次いで進士に及第し、無錫県の尉となった。王縉が河南元帥となると上表して書記に任命された。累進して右補闕となり、卒した。 皇甫曾は、字は孝常で、監察御史を歴任した。その名声は兄の皇甫冉と拮抗し、当時は張氏の景陽(張協)・孟陽(張載)兄弟に比せられたという。 蘇源明は、京兆武功の人で、初名を預といい、字は弱夫である。若くして父を失い、徐州・兗州の間をさすらった。文章に巧みで、天宝年間(742-756)には有名となった。進士に及第し、さらに集賢院を試験した。累進して太子諭徳となった。京師より地方官に出されて東平太守となった。当時、済陽郡太守の李倰が、済陽郡が黄河にせまっているから、宿城県・中都県の二県を増領して民力を緩めることを願った。二県は東平郡・魯郡に属していた。ここに蘇源明は済陽郡の廃止を建議し、五県を割いて済南郡・東平郡・濮陽郡に隷属させることを願った。河南採訪使に詔して濮陽太守の崔季重・魯郡太守の李蘭・済南太守の田琦および蘇源明と李倰の五太守を集めて東平郡で議論させたが、決めることができなかった。済陽郡が廃止となると、従属の県をすべて東平郡に属させた。蘇源明を召還して国子司業に任じた。 安禄山が京師を陥落させると、蘇源明は病と称して偽官の任命を受けなかった。粛宗が長安・洛陽の両京を回復すると、考功郎中、知制誥に抜擢された。当時、戦乱の余燼をうけ、国庫は乏しく、宰相の王璵は祈祷・お祓いするよう上進した。禁中で祈祷すること日夜に及び、宦官が事にあたり、給付が繁多かつ冗長となっていたが、群臣はあえて諌める者はいなかった。昭応県の県令の梁鎮が上書して帝に淫祀を罷めるよう勧めたが、その他の者はしようとする余裕がなかった。蘇源明はしばしば政治の得失を述べた。史思明が洛陽を陥落させると、詔して東京(洛陽)に行幸して親征しようとしていた。蘇源明はそこで上疏して強く諌めて次のように述べた。「長雨が続いて道路が泥濘んでいるので、不可の第一の理由です。春から大旱魃となり、秋の苗は半減し、収穫がまだおわっていないのに、その前に道を清める戦役を行っており、これを繰り返せば兵糧供給が困難となりますので、不可の第二の理由です。宮殿・廊下を建造するたびに旗の下を視てみると、飢えた男が鉾を持って、その間に斃れ死んでいるのを一日に二・三人見かけます。市井では飢えた者が食を求め、道端で死んでいるのを一日に四・五人見かけます。不可の第三の理由です。悪者や泥棒小僧が軒を連ねて、研鑽して陛下のお出ましを待っており、御史大夫は必ず混乱を鎮めることができません。不可の第四の理由です。聖皇(玄宗)が長安を脱出して蜀を巡行された時、都内の財貨・吏民の資産は道路でなくなり、馬だの驢馬だのに乗って宣政殿や紫宸殿に乗り入れる者がいる有様です。ましてや陛下は天下を治めていますが、威制は往時には遠く及びません。今ここで東行すれば、賊臣が陛下を誘い出すだけになります。詩に「三星は天の一隅にあり」とありますが、危亡はわずかな間にありというべきであって、臣は嗚咽にたえず、陛下のためにこれを悲しむのです。願わくば速やかに行幸を罷められ、そうでなければ、貧しい農夫は禍いを楽しみ、すでに腕の下をしばっています。これが不可の第五です。昨今、河・洛間の駅路が騒動となり、江湖は凶徒が跋扈しています。詩に「中原に菽(まめ)あれば、庶民これを采る」とありますが、彼の史思明・康楚元は皆菽をとる人なのです。陛下はどうして突然万乗もの大軍を軽々しく動かして急いで事をなそうとするのでしょうか。不可の第六です。大河は南北に縦断し、あちこちで盗賊が出て王公以下は糧食の給付が途絶え、将兵に与える糧食はわずかに日々の食を支えるだけとなっているのに、宦官に与える食は余分なままで往年から減っておらず、梨園の雑伎たちは、今日いよいよ盛んであるのに、陛下は未だに穏やかに枕を高くして眠ることができず、何と危ういことでしょうか。中書省が使者をして派遣させたり、太常寺が正楽でつかうのでなければ、他は願わくば全員を放ち帰らせ、長期証明書を給付して仕えさせず、五・六年の後を待って、職掌を省きます。集めて別人に給付するのは、不可の第七です。李光弼は河陽を陥落させ、王思礼は晋原を下し、衛伯玉は焉耆(カラシャール)を追い払い、析支を通り過ぎ、日も立たないうちに到達するでしょう。御史大夫の王玄志は巫閭を圧迫し、幽州に迫っています。汝州刺史の田南金は闕口を越えて、嵩山の太室山・少室山の二山を遮っています。鄧景山は淮河・泗川を凌ぎ、ため息をして西に向かいました。狂賊は勢力を弱め、緱山の麓で息を潜め、北はあえて孟津をこえず、東はあえて甖子を通過せず、日を数えて自ら手を後ろに縛って降伏してくるでしょう。陛下は座せずにこれを受けていますが、そこで親征しようとするのは、一時の怒りにしたがっているだけなので、不可の第八です。王者の天地神祇においては、これを祀って犠牲や捧げ物をするだけです。記に「方士に祈らず」とありますが、彼の淫祀の祭司どもはみだりに人に代わって説をのべており、不可の第九です。天子は物事の規律にしたがって動き、人は皆これを幸せと思えば幸せと言い、人は皆これを病と思えばこれを不幸と言います。臣らはしばしば見聞きに違えば、連なって朱塗りの階の下に伏せ、拝礼・流涕して出て、陛下が寛容で死を聴されたとしても、だいたい百人の臣下が必ず朝廷で発言を明らかにしても、万人の口が外で誹謗しているので、不可の第十です。臣はこのように聞いています。子が父と諍いしなければ不孝である。臣が君と諍いしなければ、不忠である。不孝不忠は、栄禄を受ける身であったとしても、囲われた家畜には及ばないのです。臣は賎しい身ではありますが、身を家畜のように囲われることはできません。樵夫に指を差されて笑われるでしょう」 帝はその切実な直諌を喜び、ついに東幸を罷めた。後に秘書少監の官で卒した。 蘇源明は常に杜甫・鄭虔と親しく、最も褒め称えたのは元結・梁粛であった。 梁粛は、字は敬之で、またの字を寛中といい、隋の刑部尚書の梁毘の五世の孫であり、代々陸渾に住んだ。建中年間(780-783)初頭、文辞清麗科に合格し、太子校書郎に抜擢された。梁粛は再びその人材を推薦され、右拾遺、修史に任命されたが、母が老いて衰えたから赴任しなかった。杜佑が淮南掌書記に任命されると、召還されて監察御史となり、右補闕・翰林学士・皇太子諸王侍読に転じた。卒した時、年四十一歳で、礼部郎中を追贈された。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百一 列伝第一百二十六 『新唐書』巻二百二 列伝第一百二十七 巻二百三 列伝第一百二十八
https://w.atwiki.jp/22shisakki/pages/171.html
542.明從賊官六等定罪 解學龍傳,福王時,定從賊官罪,倣唐六等。其一等應磔者,吏部員外宋企郊、舉人牛金星、平陽知府張嶙然、太僕少卿曹欽程、御史李振聲、喩上猷、山西提學參議黎志陞、陝西左布政使陸之祺、兵科給事高翔漢、潼關道僉事楊王休、翰林院檢討劉世芳十一人也。二等應斬緩決者,刑科給事光時亨、河南提學鞏、庶吉士周鍾、兵部主事方允昌四人也。三等應絞擬贖者,翰林修撰兼給事中陳名夏、戸科給事楊枝起、廖國遴、襄陽知府王承曾、天津兵備副使原毓宗、庶吉士何孕光、少詹事項煜七人也。四等應戍擬贖者,主事王孫蕙、檢討梁兆陽、大理寺正錢位坤、總督侯恂、副使王秉鑑、御史陳羽白、裴希度、張懋爵、郎中劉大鞏、員外郭萬象、給事中申芝芳、金汝礪、舉人呉達、修撰楊廷鑑及黄繼祖十五人也。五等應徒擬贖者,通政司參議宋學顯、諭德方拱乾、主事繆沅、給事中呂兆龍、付振鐸、進士呉剛思、檢討方以智、傅鼎銓、庶吉士張家玉、沈元龍十人也。六等應杖贖者,員外潘同春、呉泰來、主事張琦、行人王于曜、知縣周壽明、進士徐家麟、向列星、李棡八人也。其留北俟再定者,少詹事何瑞徴、楊現光、少卿張若麒、副使方大猷、侍郎党崇雅、熊文舉、太僕卿葉初春、給事中龔鼎孳、戴明説、孫承澤、劉昌、御史涂必泓、張鳴駿、司業薛所蘊、通政參議趙京仕、編修高爾儼、郎中衛周祚、黄紀、孫襄十九人也。其另存再議者,給事中翁元益、郭充、庶吉士魯、呉爾壎(後同史可法同死揚州)、史可程(即可法之弟,後居宜興,四十年而卒)、王自超、白孕謙、梁清標、楊棲鶴、張元琳、呂崇烈、李化麟、朱積、趙熲、劉廷琮、郎中侯佐、呉之琦、員外郎左懋泰、鄒明魁、行人許作梅、進士胡顯、太常博士龔懋熙、王之牧、王皋、梅鴞、姫琨、朱國壽、呉嵩孕二十八人也。其已奉旨録用者,尚書張縉彦、給事中時敏、諭德、衛允文、韓四維、御史蘇京、知縣黄國琦、施鳳儀、郎中張振聲、中書顧大成、姜荃林十人也。有旨周鍾等不當緩決,陳名夏等未蔽厥辜。侯恂、宋學顯、呉剛思、方以智、潘同春擬罪未合。新榜進士盡汚僞命,不當復玷班聯,令再議。後又議周鍾、光時亨等各加一等。時馬、阮專柄,殺鍾、時亨,即傳旨二等罪斬者,謫充雲南金齒軍,三等者,充廣西邊衛軍,四等以下,倶爲民,永不敘用。然案内諸犯多漏網,一等者皆隨賊西行,實未嘗正法也。 案福王時所定六等,蓋就一時聞見,草率成案,其實尚多遺漏者。李自成入京時,閣臣魏藻德等率百官表賀,坐殿前俟命,爲群賊所戲侮,事見明史列傳,而六等中無之。他如大學士李建泰、尚書張炘、侍郎劉餘祐、光祿卿李元鼎、庶吉士張端明以及御史傅景星,爲賊兵政府侍郎,陝西監軍道陳之龍,爲賊寧夏節度使,御史柳寅東、張懋爵倶爲賊直指使,此皆文臣之降賊者。錦衣衛左都督駱養性降賊,仍原官,宣化總兵姜瓖、密雲總兵唐通皆降賊於居庸,盪寇將軍白廣恩降賊封桃源伯,副將南一魁、董學禮降賊爲總兵,此武臣之降賊者。事見我朝二臣傳,而六等中亦皆無之。可見所定之案之疏略也。就所定中一等者,固隨賊西去,二等中亦祇周鍾、光時亨二人正法,其他仍漏網,三等中如陳名夏入我朝,官至大學士兼吏部尚書,可見六等之案固不過懸擬罪名,實未嘗能行法。其留北俟再定者,入本朝轉多有至大官,梁清標、党崇雅、衛周祚、高爾儼皆至大學士,劉昌、龔鼎孳皆至尚書,孫承澤至左都御史,薛所蘊、熊文舉、葉初春皆至侍郎,戴明説、張若麒皆至京卿、方大猷至巡撫,諸人在福王時既以傳聞未確,得免麗名於六等之内,入本朝官位通顯,又莫有記其曾汚僞命者,皇上命詞臣以明臣之仕於我朝者編作二臣傳,其中有降賊者據事直書,然後失節之處,昭然莫掩,此真彰癉之大公,可以立萬世之大閑矣。 時蘇州諸生檄討其郷官從賊者,奸民和之,少詹事項煜、大理寺正錢位坤、通政司參議宋學顯、員外湯有慶之家,皆被焚劫,常熟又焚給事中時敏家,燬其三代四棺。(祁彪佳傳) 前頁 『廿二史箚記』巻三十六 次頁 流賊僞官號 542.明從賊官六等定罪 明代先後流賊