約 1,803 件
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/1506.html
達奚珣 たつけいじゅん ?-757 盛唐の官人。安禄山の大燕の宰相。河南尹であったが、安禄山の叛乱を予見し、安禄山が馬三千匹を献上するため京師に向かおうとした際に反対意見を述べて阻止した。安史の乱が起き、天宝十四載(755)十二月に洛陽が陥落すると安禄山に降伏、翌年、安禄山が雄武皇帝と僭称し、国号を燕とすると、左相に任じられ、安禄山の子飼の将の張通儒・厳荘よりも上位にたった。洛陽が唐に回復すると唐に帰順したが、重罪とされ、腰斬の刑に処された。 本紀・志 『新唐書』巻五 本紀第五 玄宗 天宝十四載十二月丁酉条 『新唐書』巻五十六 志第四十六 刑法 外部リンク フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』達奚珣 https //ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%94%E5%A5%9A%E7%8F%A3
https://w.atwiki.jp/orifusai/pages/78.html
袁紹 姓 袁 名 紹 字 本初 誕生年 ? 死亡年 202年 出身地 予州汝南郡汝陽県 年表 年 所在 立場・事跡 出典 備考 ? 洛陽 郎となる 魏書・袁紹伝 魏書・袁紹伝の沮授?の進言によればこのとき20歳か? ? エン州東郡濮陽県 濮陽県長となる 魏書・袁紹伝 ? 母の喪に6年間服す。 魏書・袁紹伝 ? 洛陽 招聘に応ぜず、張邈?、許攸?、何(禺頁)?、曹操ら少数の友人のみと交友を結ぶ。 魏書・袁紹伝 ? 洛陽 何進の掾となる。 魏書・袁紹伝 ? 洛陽 侍御史となる。 魏書・袁紹伝 188 洛陽 中軍校尉となる。 魏書・袁紹伝 いわゆる西園八校尉。後漢書には188年のこととある。 189 洛陽 仮節・司隷校尉となり宦官討伐を行う。が、何進は殺される。 魏書・袁紹伝 後漢書には司隷校尉就任は189年のこととある。 189 冀州勃海郡 董卓?を避けて冀州に逃亡する。勃海太守・[亢β]郷侯となる 魏書・袁紹伝 190 冀州勃海郡 1月、挙兵。諸侯との連合が成立し、車騎将軍となる。親族が董卓に皆殺しにされる。 魏書・武帝紀 190 司隷河内郡孟津県 王匡、曹操らと河内に駐屯。 魏書・武帝紀 ? 韓馥?と共に劉虞?に使者を送り皇帝即位を求めるが断られる。 魏書・袁紹伝 このあたり時期の前後関係が不明確 ? エン州陳留郡延津県 延津に駐屯。 魏書・袁紹伝 ? 司隷河南尹梁県陽城 予州刺史に任命した周昂?に袁術?、孫堅の陣を攻撃させ、公孫越を戦死させる。 魏書・公孫(王賛)伝 袁術寄りの記述と袁紹寄りの記述が散在していてわかりにくい、、 ? 冀州 安平を公孫(王賛)?に追われた韓馥から冀州牧の地位を得る。 魏書・袁紹伝 ? 冀州清河郡広川県 界橋で公孫(王賛)を撃破。 魏書・袁紹伝 魏書・公孫(王賛)によれば袁紹軍は広川に陣を敷いた。 ? 冀州 龍湊で公孫(王賛)を再び撃破。 後漢書・袁紹伝 193 冀州 皇帝(劉協?)の使者趙岐?に従って公孫(王賛)と和睦。 魏書・袁紹伝 この事跡、三国志では黒山討伐の後の記述だが、後漢書では前の記述となっている。 193 冀州魏郡[業β]県 3月、魏郡が黒山の于毒?と結んで反乱、太守の栗成?が死亡。斥丘を守る。 魏書・袁紹伝 後漢書には193年3月とある。 193 司隷河内郡朝歌県鹿場山蒼厳谷 6月、于毒、冀州牧の壺寿?を斬る。 魏書・袁紹伝 同じく年月は後漢書から。 冀州常山国 黒山の張燕?を呂布と共に破る。 魏書・袁紹伝、呂布伝 195 冀州魏郡[業β]県 右将軍となる。 後漢書・袁紹伝 195? 冀州魏郡[業β]県 袁譚を青州刺史、袁煕を幽州刺史、高幹を并州刺史に任命。 後漢書・袁紹伝 魏書・袁紹伝では易京を落した後に息子達を外に出したように書かれているが実際は袁譚はもっと早くに曹操から青州刺史に任命されている。後漢書・袁紹伝では195年の記述である。 195 幽州漁陽郡[シ路]県 麹義?、劉和?、鮮于輔?らに公孫[王賛]の漁陽太守鄒丹?を討たせ、公孫[王賛]を易京に追い詰める。 魏書・公孫(王賛)伝 後漢書・公孫[王賛]伝によれば烏丸の峭王(蘇僕延?)と共に195年公孫[王賛]を破ったとある。 196 冀州魏郡[業β]県 9月、太尉・[業β]侯となるが太尉は辞退。 魏書・袁紹伝 曹操の下となることを恥じたためと武帝紀にある。 196 冀州魏郡[業β]県 10月、大将軍となる。 魏書・袁紹伝 後漢書には197年にやっと任命を受け入れたとある。 196 冀州河間国易県 麹義軍は兵糧が尽きて撤退。 後漢書・公孫[王賛]伝 麹義が袁紹に殺されたのがいつかは不明。後漢書・袁紹伝では194年の記述だが、公孫[王賛]伝では195年に漁陽を攻撃したとある。 199 冀州河間国易県 張燕の援軍を撃退し、易京を落して河北を平定。 後漢書・袁紹伝 200 冀州魏郡[業β]県 監軍の沮授?の権限を郭図?、淳于瓊?に三分割。 魏書・袁紹伝 200 エン州東郡白馬県 2月、曹操討伐に出陣。東郡太守劉延?の篭る白馬を攻撃。 魏書・武帝紀 200 エン州東郡白馬県 4月、顔良、文醜?が曹操軍に討ち取られる。 魏書・武帝紀 200 エン州東郡延津県 延津に進軍。 魏書・武帝紀 200 司隷河南尹官渡 8月、官渡に撤退した曹操と交戦。 魏書・武帝紀 200 司隷河南尹官渡 10月、烏巣の兵糧が焼かれ総崩れとなり退却。 魏書・武帝紀 201 冀州 冀州各地の反乱を平定。 魏書・袁紹伝 202 冀州魏郡[業β]県 夏、病死。 魏書・袁紹伝 備考 三国志さいこうじゃぁぁぁぁぁ!!! -- 諸葛孔明 (2007-11-20 14 34 44) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/100man-san/pages/19.html
01 楼桑郡 02 河南郡 03 弘農郡 04 河東郡 05 京兆郡 06 陳留郡 07 沛国郡 08 山陽郡 09 琅邪郡 10 ショウ郡 01 楼桑郡 番号 クエスト 実行武将 部隊消費 経験値 獲得金銭 ドロップ指南書 ① 民を脅かす山賊を倒せ - -1 +1 +10 - ボス戦 劉備 VS 山賊頭(HP500) 仕官:皇甫嵩 02 河南郡 番号 クエスト 実行武将 部隊消費 経験値 獲得金銭 ドロップ指南書 ① 兵糧の輸送 - -1 +1 +7 程普 朱儁 皇甫嵩 曹豹 ② 武器の輸送 - -1 +1 +8 韓当 程普 糜竺 朱儁 曹豹 ③ 輸送隊を襲う山賊 劉備 -2 +3 +33 韓当 程普 朱儁 ボス戦 劉備 VS 山賊頭(HP384) 仕官:盧植 03 弘農郡 番号 クエスト 実行武将 部隊消費 経験値 獲得金銭 ドロップ指南書 ① 弘農王の護衛 - -1 +1 +10 曹豹 程普 糜竺 朱儁 ② 函谷関を守れ - -2 +3 +10 糜竺 程普 ③ 白波賊、襲来! 盧植 -3 +5 +51 韓当 程普 廖化 簡雍 ボス戦 盧植 VS 李楽(HP576) 仕官:黄蓋 04 河東郡 番号 クエスト 実行武将 部隊消費 経験値 獲得金銭 ドロップ指南書 ① 皇帝の塩田 - -2 +2 +14 程普 廖化 糜竺 ② 横流しされた塩 黄蓋 -3 +4 +54 程普 ボス戦 黄蓋 VS 胡才(HP624) 仕官:曹洪 05 京兆郡 番号 クエスト 実行武将 部隊消費 経験値 獲得金銭 ドロップ指南書 ① 長安の城壁修復 - -2 +2 +22 韓当 曹豹 程普 簡雍 ② おごる董卓軍 曹洪 -3 +4 +58 曹豹 廖化 程普 ボス戦 曹洪 VS 張済(HP1167) 仕官:王允 06 陳留郡 番号 クエスト 実行武将 部隊消費 経験値 獲得金銭 ドロップ指南書 ① 陳留守備軍を援護せよ - -2 +4 +10 韓当 ② 曹操軍と合流せよ 曹洪 -3 +5 +48 ③ 豪族、李乾を救え 劉備 -4 +8 +48 ボス戦 劉備 VS 薛蘭(HP1296) 仕官:満寵 07 沛国郡 番号 クエスト 実行武将 部隊消費 経験値 獲得金銭 ドロップ指南書 ① 曹嵩護衛 曹洪 -5 +6 +77 簡擁 王允 ② 張ガイを救え 曹洪 -6 +9 +72 ボス戦 曹洪 VS 張ガイ(HP1464) 仕官:曹休 08 山陽郡 番号 クエスト 実行武将 部隊消費 経験値 獲得金銭 ドロップ指南書 ① 泰山の精鋭 曹休 -4 +5 +63 廖化 ② 障害物を取り除け 満寵 -4 +5 +65 ③ 精鋭を傷つけるな 満寵 -5 +8 +72 ボス戦 満寵 VS 李封(HP1800) 仕官:曹休 09 琅邪郡 番号 クエスト 実行武将 部隊消費 経験値 獲得金銭 ドロップ指南書 ① 堤防を修復せよ - -4 +6 +36 ② 泰山賊の砦を攻めよ 干禁 -5 +8 +80 ③ 泰山賊,呉敦を迎え撃て 干禁 -5 +9 +74 ボス戦 于禁 VS 呉敦(2223) 仕官:典韋 10 ショウ郡 番号 クエスト 実行武将 部隊消費 経験値 獲得金銭 ドロップ指南書 ① イナゴに苦しむ民 盧植 -5 +8 +80 ② 黄巾賊、来襲! 典韋 -6 +10 +70 黄蓋 ③ 何儀を逃がすな 典韋 -7 +9 +85 諸葛瑾 ボス戦 典韋 VS 許チョ 仕官 許チョ
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/38.html
189年 中平六年→ 光熹元年→昭寧元年→永漢元年→中平六年(漢) 皇帝 劉宏(漢霊帝)→劉辨(漢少帝)→劉協(漢献帝) 皇后 何氏(諱某・南陽宛県)→劉宏崩御に伴い皇太后に。臨朝。→死亡→(空位) 皇太子 (空位) 三公 相国:(新設)→董卓(前太尉・189~191) 太傅:袁隗(前後将軍・189~190) 太尉:馬日磾(前射声校尉・188~189)→劉虞(幽州牧・189)→董卓(前司空・189)→黃琬(前司徒・189~190) 司徒:丁宮(前司空・188~189)→黃琬(前豫州牧・189)→楊彪(前司空・189~190) 司空:劉弘(前光禄勳)→董卓(并州牧・189)→楊彪(前太中大夫・189)→荀爽(前光禄勳・189~190) その他の要職 録尚書事: ■何進(大将軍・189)→(死亡) 太僕:? 大司農:? 光禄勳:→荀爽→? 執禁吾:丁原→? 大司馬:劉虞(前太尉・189~) 大将軍:何進(前河南尹)→(死亡)→(空位) 車騎将軍:何苗#1(前河南尹)→(死亡)→(空位) 驃騎将軍:董重→(死亡)→(空位) 衛将軍 地方官 司隷校尉:袁紹/樊陵→(死亡) 冀州:? 幽州牧:劉虞 并州牧:→董卓→ 青州:? 豫州牧:黃琬(188~189)→ 兗州:? 徐州:? 河南尹:/許相→(死亡) 荊州:? 涼州:? 揚州:? 益州:? 交州:? 主な事件 春二月、左将軍皇甫嵩が陳倉において王國を大いに破る《後漢書孝霊帝紀》 三月、幽州牧の劉虞は漁陽の賊張純を説き伏せ斬った《後漢書孝霊帝紀》 下軍校尉の鮑鴻が獄に下され死ぬ《後漢書孝霊帝紀》 夏四月丙午朔、日食有り《後漢書孝霊帝紀》 四月、太尉の馬日磾が免じられ、幽州牧の劉虞を太尉と為す《後漢書孝霊帝紀》 四月丙辰(4月11日)、皇帝劉宏が南宮の嘉徳殿で崩御する。年34歳《後漢書孝霊帝紀》 四月戊午(4月13日)、皇子辨が即位。年17歳。皇后何氏を尊んで皇太后とし、臨朝する《後漢書孝霊帝紀》 四月、天下に大赦する《後漢書孝霊帝紀》 四月、光熹と改元する《後漢書孝霊帝紀》 四月、皇弟劉協を渤海王と為す《後漢書孝霊帝紀》 四月、後将軍袁隗を太傅、大将軍何進を参録尚書事と為す《後漢書孝霊帝紀》 四月、上軍校尉の憲*磧は獄に下され死ぬ。憲*磧が渤海王協を立てようとして発覚した為である《後漢書孝霊帝紀》 五月辛巳(5月6日)、驃騎将軍の董重(孝仁皇后の兄の子)が獄に下され死ぬ《後漢書孝霊帝紀》 六月辛亥(6月7日)、孝仁皇后董氏が崩御《後漢書孝霊帝紀》 六月辛酉、孝霊皇帝劉宏は文陵(洛陽の西北20里。陵墓の高さ12丈、周囲300歩)に葬られた《後漢書孝霊帝紀》 雨水《後漢書孝霊帝紀》 秋七月、甘陵王の劉忠が亡くなる《後漢書孝霊帝紀》 七月庚寅(7月16日)、孝仁皇后を河間慎陵に帰葬する《後漢書孝霊帝紀》 七月、渤海王劉協を陳留王と為す《後漢書孝霊帝紀》 七月、司徒の丁宮が罷める《後漢書孝霊帝紀》 八月戊辰(8月25日)、中常侍の張譲・段珪等は大将軍の何進を殺害。このため中郎将の袁術は東と西の宮を焼き、宦官を攻めた。《後漢書孝霊帝紀》董卓が到着する前に何進は敗れ、虎賁中郎將の袁術は南宮を焼く《後漢書董卓列傳》 八月庚午(8月27日)、張譲・段珪等は少帝と陳留王を連れて北宮の徳陽殿に御幸した。何進の部曲の将である呉匡は車騎将軍何苗を擁して朱雀門の下で戦い、何苗は敗れ斬られた。《後漢書孝霊帝紀》何進の部曲の將である吳匡は、もと何苗が何進と同心しないことを怨み、又宦官と通謀していたのではないかと疑って、軍中に「大將軍を殺したのは車騎将軍だ」と命じた。遂に董卓の弟の董旻と兵を率いて何苗を朱爵闕下で攻め殺す。《三国志魏書董卓伝に引く英雄記》 八月辛未(8月28日)、司隷校尉の袁紹は、偽の司隷校尉である樊陵、河南尹の許相及び諸宦官を捕らえるよう兵を御し、しばらくして之を斬った。張譲・段珪等はまた少帝と陳留王を連れて小平津に走った。尚書令の盧植が張譲等を追って数人を斬り、其の他は皆黄河に身を投げ死んだ。少帝は陳留王とともに夜数里行き、民家で蓋も無い車を得て共に乗った。《後漢書孝霊帝紀》この時京師では「侯であって侯でない、王であって王でない、千乗萬騎北芒」という童謡が謳われていた。《後漢書孝霊帝紀に引く続漢志》河南の中郎将閔貢は天子を見つけ、騎馬を率いて之を追った。黄河で追い付き、閔貢は大声で張譲等を責め、張譲等は再拜叩頭して天子に辞し河に身を投げて死んだ《後漢書孝霊帝紀に引く献帝春秋》皇帝は八月庚午に諸黃門のために連れ出され步いて穀門を出た。走って河上に至り、諸黃門は黄河に投身自殺した。時に帝は年十四#3。陳留王は年九歲。兄弟は孤独に夜步行し還宮したいと願った。闇暝、螢火を頼りに行く。數里して民家があり露車に乗っていく。辛未、公卿以下と董卓は共に帝を北芒阪下に迎える。《三国志魏書董卓伝に引く張璠の漢紀》董卓は時適至るまで顯陽苑に駐屯し、帝が還えったのを聞くと兵を率いて帝を迎えた。《三国志魏書董卓伝に引く獻帝春秋》帝は董卓の兵を見て泣き叫び公卿たちは董卓に兵を退けるよう命じた。董卓は「公諸人は國の大臣でありながら王室を匡正することができず、國家を彷徨わせた。どうして兵を下げられようか!」として俱に入城した。《三国志魏書董卓伝に引く典略》董卓は帝と語ったがよくわからず、さらに陳留王とも語った。この騒乱の訳を問うと王は初めから終わりまで遺失なく答えた。董卓は大いに喜び、廢立の意を持った。《三国志魏書董卓伝に引く獻帝紀》河南中部掾の閔貢は皇帝と陳留王を助けて雒舍に至る。帝は一人騎乗し、陳留王は閔貢と一緒に騎乗していた。雒舍から南行し、公卿百官は北芒阪下において奉迎する。昔の太尉である崔烈が前導した。董卓は步騎數千を率いて來迎し,崔烈は退かせるよう叱責したが、董卓は崔烈を罵って「昼夜三百里を来てどうして退かねばならないのだ。私が卿の頭を断ち切れないとでも思っているのか?」言った。前に帝を見て「陛下が常侍小黃門に亂を作らせたようなもの。この責任は小さくありませんぞ?」又陳留王に歩み寄り「私が董卓です。私が抱き上げて行きましょう」と言った。閔貢から王を奪い取り抱き上げた。《三国志魏書董卓伝に引く英雄記》陳留王は董卓に抱えられるのを良しとせず、馬に騎乗し併走して行く。《三国志魏書董卓伝に引く英雄記》 八月辛未(8月28日)、還宮《後漢書孝霊帝紀》 何進、何苗が死んだことでその部曲は所屬が無く、皆董卓が収めた。《三国志魏書董卓伝》 天下に大赦する《後漢書孝霊帝紀》 昭寧に元号を改元する《後漢書孝霊帝紀》 并州牧の董卓は執禁吾の丁原(字建陽)を殺す《後漢書孝霊帝紀》董卓は又呂布に執金吾の丁原を殺させ、その部曲も併呑する。《三国志魏書董卓伝・後漢書董卓列傳》 司空の劉弘(字子高)が免じられ、董卓は自ら司空となる《後漢書孝霊帝紀》久しく雨が降らなかったので司空の劉弘を策免して董卓を之に代える。《三国志魏書董卓伝》 九月甲戊、董卓は皇帝の廃位を行ない、弘農王と為し《後漢書孝霊帝紀》、劉協が皇帝に即位した。年九才。母は王美人。《後漢書孝献帝紀》これより先、董卓は廢帝を謀り、朝堂に臣を集めて廃位を議したところ、尚書の盧植が反対した。董卓は怒り、罷免して誅さんとするが侍中の蔡邕に諫止されて免じた。九月甲戌、董卓はまた大いに會を開き、廃位を謀る。《三国志魏書董卓伝に引く獻帝紀》 董卓によって何皇太后は永安宮(周廻698丈、洛陽故城の中に在る)に還る《後漢書孝献帝紀》 天下に大赦する《後漢書孝献帝紀》 元号を昭寧から永漢に改める《後漢書孝献帝紀》 九月丙子、董卓は皇太后の何氏を殺す《後漢書孝献帝紀》 六月から九月まで雨が降る《後漢書孝霊帝紀》 是まで無員であった侍中、給事黄門侍郎員を各六人とする。公卿以下黄門侍郎に至るまで家人一人を郎と為し、諸署の宦官の欠員を補わせた《後漢書孝献帝紀》 九月乙酉、太尉の劉虞を大司馬と為し、董卓は自ら太尉と為し、鉄鉞(斧。生殺与奪権の付与)と虎賁(近衛兵)を加える《後漢書孝献帝紀》#2 九月丙戌、太中大夫の楊彪を司空と為す《後漢書孝献帝紀》 九月甲午、豫州牧の黃琬を司徒と為す《後漢書孝献帝紀》 使者を遣わして故太傅の陳蕃、大将軍の竇武等を弔う《後漢書孝献帝紀》董卓は司徒黃琬、司空楊彪らとともに上書して、陳蕃、竇武及諸黨人のことに関して追理し、人望に従った。そして陳蕃等の爵位を悉く復し、子孫を適用する。《後漢書董卓伝》 冬十月乙巳、霊思皇后を葬る《後漢書孝献帝紀》 白波賊(黄巾の郭泰等が西河郡の白波谷で起こしたのが始まり)が河東を冦略する。董卓は配下の将牛輔を遣わして之を撃つ《後漢書孝献帝紀》 十一月癸酉、董卓は自ら相国と為す《後漢書孝献帝紀》董卓は相國に移り、郿侯に封じられ、贊拜不名、劍履上殿の特権を得る。又董卓の母を池陽君と為し、家令、丞を置く。《三国志魏書董卓伝》 十二月戊戌、司徒の黃琬を太尉、司空の楊彪を司徒に、光禄勳の荀爽を司空と為す《後漢書孝献帝紀》 扶風都尉を廃し、漢安都護を置く。扶風都尉は比二千石の官で、武帝が元鼎四年に設置し後漢になっても続いた。しかし羌族が三輔を擾乱するに至り、之を省き、都護を置いて西方を総統させた《後漢書孝献帝紀》 十二月、詔して、光熹、昭寧、永漢の三号を除き、中平六年に復する《後漢書孝献帝紀》 冬十二月、曹操は己吾に於いて兵を起こす。時に中平六年。《三国志魏書武帝紀操》陳留の孝廉である衛茲は家財を投じて曹操に出資して兵を起こさせる。五千人。《三国志魏書武帝紀操に引く世語》 この歳、孝廉に挙げられたのは荀彧(後に梁国の亢父令)《後漢書鄭孔荀列伝》。 中平六年、董卓を并州牧と為す。又その吏兵は皇甫嵩に属させることになった。しかし董卓は再び上言して拒絶。再び勅命を違えた。その後、何進が召すところとなる。《三国志魏書董卓伝に引く靈帝紀》 誕生者 死没者 劉宏(諡孝霊皇帝) 鮑鴻(下軍校尉・下獄死) 憲*磧(上軍校尉・下獄死) 何進(大将軍・暗殺) 何苗(車騎将軍・戦死) 丁原(執禁吾) 董氏:孝仁皇后。 注 *#1何苗は何太后の同母兄。先嫁の朱氏の子である。《三国志魏書董卓伝に引く英雄記》大将軍何進は異母兄。 *#2後漢書とは異なり、三国志魏書董卓伝では司空から太尉となり、假節鉞虎賁の後、廢帝、王と何太后の殺人、陳留王擁立の順に書かれるが、ここでは後漢書にならった。後漢書董卓伝では、太尉に移ったとき前將軍事を領し、加節傳斧鉞虎賁、さらに郿侯に封じられたとなっている。 *#3少帝は、後漢書皇后紀靈思何皇后では翌年の初平元年、享年18歳で亡くなったとしており、後漢書孝霊帝紀でも即位の中平6年に17歳だったとしている。14歳は誤りであろう。 ▲PAGE TOP 188年<< >>190年
https://w.atwiki.jp/tenj/pages/1797.html
必要名声: 開始条件(1):4段以下(4段は含む) 開始条件(2):力・熟練度のいずれかが500 以下であること 褒賞:草上符 凌空符 帰還符(いずれか一つ) 開始場所:河南省洛陽城 呪符術士(107,254)「会話」 呪符術士と会話し、空呪符の情報を得る 陝西省で蜘蛛を倒して蜘蛛の糸を入手 蜘蛛の糸を5個持って陝西省西安の行人と会話し、『空呪符』を入手(蜘蛛の糸は6個以上持っていっても超過分は没収されます。蜘蛛の糸5個入手するごとに交換に行きましょう) 湖北省で白馬を倒して白馬の尾を入手 白馬の尾を3個以上持って湖北省武漢の道具屋と会話し、『筆』を入手(こちらは超過分の没収はありません) 空呪符、筆を持って再度洛陽城の呪符術士と会話し、報酬を獲得 報酬の種類によって多少の銀銭を必要とします 条件を満たしている限り繰り返し挑戦可能です 名前 コメント 上へ
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/2041.html
源乾曜 げんかんよう ?-731 盛唐の宰相。相州・臨漳(河南省安陽市付近)の人。先祖は拓跋族の出身で、北魏いらい高官であった。父源直心は唐の高宗朝の司刑太常伯。源乾曜は進士にあげられ、中宗の神竜年間(705-707)殿中侍御史として江南方面の治績を評定した。その後、諌議大夫にすすみ、古礼尊重の立場から、久しく廃されていた公卿百官の射礼復活を建言した。713年姜皎の推薦で、少府少監兼邪王府長史となり、716年には黄門侍郎・同紫微黄門(中書門下)平章事にすすんだ。玄宗の洛陽行幸には、長安の留守役をつとめた。720年黄門侍郎・同中書門下三品となり、以後約10年間, 宰相の任に当たったが、門閥派と非門閥派との対立を底流とする当時の政争のなかで、源乾曜は前者に属しながら も、つねに消極的態度で身を保ち、恩のある姜皎の失脚を見殺しにしたので、世の非難をうけた。 参考文献 『アジア歴史事典』3(平凡社,1960)
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/1484.html
盛王李琦 721-764 盛唐の皇子。玄宗の第二十一子。母は武恵妃。初名は李沐。開元十三年(725)盛王に封ぜられる。開元十五年(727)揚州大都督となる。開元二十年(732)開府儀同三司となり、名を琦に改める。天宝十五載(756)六月、安史の乱のため玄宗が蜀に行幸すると、広陵大都督、江南東路及淮南河南等路節度支度採訪等使に任じられた。広徳二年(764)薨じた。妃の武氏は、武敬の娘で、吉温の妹の孫。子に真定王李償、武都王李佩、徐国公李俗、許国公李係がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。 列伝 『新唐書』巻八十二 列伝第七 十一宗諸子 玄宗三十子 盛王琦 『旧唐書』巻一百七 列伝第五十七 玄宗諸子 盛王琦 外部リンク 維基百科,自由的百科全書 李琦(盛王)(中文)
https://w.atwiki.jp/rinseidou/pages/131.html
出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 天忍日命(アメノオシヒノミコト)は、日本神話の神。大伴氏の祖神とされる。 日本神話では、『古事記』の天孫降臨の場面にのみ登場する。『日本書紀』には現れない。久米氏の祖神とされる天久米命(アメノクメノミコト)と共に武装して瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の先導をした。 『古事記』には出自が記載されていないが、大伴氏の系図などでは天忍日命(アメノオシヒノミコト)は高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)の子とされている。神武東征の際に随伴し、大伴氏の祖となった道臣命(ミチオミノミコト)は、その天忍日命(アメノオシヒノミコト)の曾孫とされている。 天忍日命を祭神とする神社は少なく、降幡神社(大阪府南河内郡河南町)、油日神社(滋賀県甲賀市)、矢保佐神社(長崎県壱岐市)などに祀られている。 降幡神社のある場所は、大伴氏の支族が住んでいた地域である。
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/2140.html
王敬蕘 おうけいじょう ?-? 唐末・五代の武将。潁州汝陰の人。潁州の牙将となり、唐末、王仙芝らの侵攻を受けると潁州付近の刺史で防ぐことができるものがおらず、王敬蕘が刺史となった。潁州は淮西に近く、しばしば秦宗権の攻撃を受けたが、防衛し、河南の諸州は陥落しながらも潁州のみは降らなかったから、付近の諸州の民は逃げ込み、潁州は二万戸の繁栄を誇った。乾寧四年(897)清口の戦いで朱全忠軍が大敗し、潁州を通過すると、大雪となり、兵士は凍えたが、王敬蕘は薪を焚いて粥をつくって食べさせ、兵士はこれによって活力を取り戻した。朱全忠は武寧軍留後に任命し、節度使を拝命した。天祐三年(906)左衛上将軍となり、後梁が成立すると致仕した。『新五代史』に伝がある。 列伝 『新五代史』巻四十三 雑伝第三十一 王敬蕘
https://w.atwiki.jp/tenj/pages/190.html
運気調息とは地面に座って気を集中することです。 グラフィックは1段から仙人までのキャラクターの男女でそれぞれ違います。 段が上がり仙人に近づく程、派手なグラフィックが用意されているようです。 運気調息の仕方 運気調息の効果 運気調息の使用メリット コメント 運気調息の仕方 一部の地域では出来ません(洛陽城や河南省や抗争地では不可) コマンド【/運気調息】【/muse】と入力する事で運気調息状態になります。 運気調息の効果 累計の運気調息使用時間が24時間になるごとに最大気力が1上がります。 運気調息使用時は体力と気力の自然回復の回復量が2倍になります。 運気調息使用時にダメージを受けた場合、通常の2倍のダメージを受けます。 運気調息使用時は武技が使えません。 運気調息の使用メリット 主に戦闘で減った気力を一時的に高速で回復させる時に使います。 移動武技や防御武技と併用ができないため、最大気力を上げるためとしてはなかなか使う機会がありません。 コメント 名前 コメント