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黒田家 砦Link(ログインしている状態ならLinkから直接MAPに飛べます) 48 46 43 39 34 28 21 21 28 34 39 43 46 48 47 44 40 35 29 22 15 15 22 29 35 40 44 47 45 41 36 30 23 16 10 10 16 23 30 36 41 45 42 37 31 24 17 11 6 6 11 17 24 31 37 42 38 32 25 18 12 7 3 3 7 12 18 25 32 38 33 26 19 13 8 4 1 1 4 8 13 19 26 33 27 20 14 9 5 2 - - 2 5 9 14 20 27 27 20 14 9 5 2 - - 2 5 9 14 20 27 33 26 19 13 8 4 1 1 4 8 13 19 26 33 38 32 25 18 12 7 3 3 7 12 18 25 32 38 42 37 31 24 17 11 6 6 11 17 24 31 37 42 45 41 36 30 23 16 10 10 16 23 30 36 41 45 47 44 40 35 29 22 15 15 22 29 35 40 44 47 48 46 43 39 34 28 21 21 28 34 39 43 46 48 戦況などの報告や情報連携に使えるかも。 名前 コメント すべてのコメントを見る
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豊臣家 砦Link(ログインしている状態ならLinkから直接MAPに飛べます) 48 46 43 39 34 28 21 21 28 34 39 43 46 48 47 44 40 35 29 22 15 15 22 29 35 40 44 47 45 41 36 30 23 16 10 10 16 23 30 36 41 45 42 37 31 24 17 11 6 6 11 17 24 31 37 42 38 32 25 18 12 7 3 3 7 12 18 25 32 38 33 26 19 13 8 4 1 1 4 8 13 19 26 33 27 20 14 9 5 2 - - 2 5 9 14 20 27 27 20 14 9 5 2 - - 2 5 9 14 20 27 33 26 19 13 8 4 1 1 4 8 13 19 26 33 38 32 25 18 12 7 3 3 7 12 18 25 32 38 42 37 31 24 17 11 6 6 11 17 24 31 37 42 45 41 36 30 23 16 10 10 16 23 30 36 41 45 47 44 40 35 29 22 15 15 22 29 35 40 44 47 48 46 43 39 34 28 21 21 28 34 39 43 46 48 戦況などの報告や情報連携に使えるかも。 名前 コメント すべてのコメントを見る
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徳川家 砦Link(ログインしている状態ならLinkから直接MAPに飛べます) 48 46 43 39 34 28 21 21 28 34 39 43 46 48 47 44 40 35 29 22 15 15 22 29 35 40 44 47 45 41 36 30 23 16 10 10 16 23 30 36 41 45 42 37 31 24 17 11 6 6 11 17 24 31 37 42 38 32 25 18 12 7 3 3 7 12 18 25 32 38 33 26 19 13 8 4 1 1 4 8 13 19 26 33 27 20 14 9 5 2 - - 2 5 9 14 20 27 27 20 14 9 5 2 - - 2 5 9 14 20 27 33 26 19 13 8 4 1 1 4 8 13 19 26 33 38 32 25 18 12 7 3 3 7 12 18 25 32 38 42 37 31 24 17 11 6 6 11 17 24 31 37 42 45 41 36 30 23 16 10 10 16 23 30 36 41 45 47 44 40 35 29 22 15 15 22 29 35 40 44 47 48 46 43 39 34 28 21 21 28 34 39 43 46 48 戦況などの報告や情報連携に使えるかも。 名前 コメント すべてのコメントを見る
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山口館の戦い 山口館の戦い(よしだやかたのたたかい)は永禄11年に毛利家と姉小路家との間で起こった戦い。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・浜田城兵 旗本隊:足軽隊18500:姉小路頼綱、山中幸盛、ルーミア 博麗隊:鉄砲隊5000 :博麗霊夢、江馬輝盛、江馬時盛 霧雨隊:鉄砲隊5000 :霧雨魔理沙、原長頼、鈴仙・U・イナバ 近江隊:騎馬隊9000 :磯野員昌、海北綱親、紅美鈴 西国隊:鉄砲隊5000 :明石全登、稲富祐秀、遊佐続光 明智隊:鉄砲隊5000 :斎藤利三、明智秀満、遠藤直経 後詰隊:騎馬隊8247 :三木顕綱、磯野員昌、紅美鈴 毛利・山口館守備兵31226 守将:小早川隆景 第一迎撃隊:足軽隊7500:島清興 第二迎撃隊:弓隊7500:因幡てゐ 第三迎撃隊:弓隊8000:長船貞親 第一奇襲部隊:足軽隊3000:毛利元就(6月20日) 第二奇襲部隊:足軽隊3000:吉川元春(6月25日) 第三奇襲部隊:足軽隊3000:陶晴賢 当初、兵力数は2 1で姉小路側で優勢であったがルナサ・プリズムリバーが9000を輸送している。 毛利側としては本州最後の城であり、これを死守すべく毛利元就を始め主力武将がそろっている。 概要 姉小路軍は毛利軍を本州より排除すべく、いまや本州毛利領最後の防御施設である 山口館を攻めとるために対三好防衛隊を除く西国攻略隊全軍を浜田城に集結させた。 対する毛利方は四国防衛の兵を最小限にし、その他の全軍を山口館に集結させた。その陣容は毛利主力軍といってよい。 しかしながらその兵数の差は懸絶しており、山口館が平地に建っている分吉田郡山城などと比べて 格段に防衛施設として劣っていることから、毛利方の苦戦は避けられないものと見られた。 五月五日、姉小路軍は周防山口館に向けて出陣した。 しかし周防長門国境付近で兵糧、物資不足に陥る危険が生じた。 姉小路軍は通常、前もって侵攻地の豪族や惣村などの有力者を調略し、 兵糧を供出させたり、運搬させるなど、兵站の大部分を担わせていた。 しかし、毛利方が姉小路方に通じた豪族や惣村を焼き払うなどの見せしめを行った事で、調略の甲斐なく協力が得られなくなった。 これまではこのようなことがあっても、後方領から物資を運搬させることで対応ができた。 だが、今回の場合は浜田城と山口館との距離と難路の多さ、下関港が毛利方であるため制海権を持たないことから物資の運搬は困難であった。 隘路で長蛇の列を作っている姉小路方の荷駄隊に幾度となく毛利方の小隊が襲い掛かった。 如何に姉小路方が荷駄の護衛に人数を割いても地の利を得た毛利方を短時間で撃退することは難しく、幾度となく兵糧物資が焼き払われることとなった。 これは、今回の合戦の最初から最後まで影響を及ぼす事となる。 明石隊や終盤の後詰隊は兵糧が尽きて一時撤退したし、明智隊も弾薬不足で二度までも戦線離脱を余儀なくされた。 六月五日、交戦開始。明石隊と合戦直前に突如行方不明となった霧雨隊が不在であったが、それでも姉小路方の兵数は圧倒的であった。 毛利方は島清興の第一迎撃隊が近江騎馬隊を押さえ、第二、第三迎撃隊が旗本隊、近江隊に矢風を浴びせたが、旗本隊はそれらの攻撃をすり抜けて城壁にたどり着いた。 旗本隊はその勢いのまま館を攻撃、城壁を越えることに成功した。 しかし、歓声が上がったまさにその時、元就の遊撃隊による奇襲が行われた。 隊が城内と城外に二分されて連絡がとりづらかったことも手伝って山口館内に侵入した兵は 痛手を負って完全に撃退され、城外の隊も混乱して寡勢の元就隊に押し込まれた。 ただ、やはり寡兵で長期間大部隊である旗本隊を押し続けることはできず、 近江隊が一時援護し、各鉄砲隊が元就隊を攻撃したことで余裕が生まれ、旗本隊は立ち直った。 この後に吉川元春と陶晴賢の奇襲も行われたが、旗本隊は動揺することなく逆に敵を押し返した。 しかし、これすらも元就にとっては布石に過ぎなかったと言える。 元就は旗本隊から発せられる数多くの伝令達を密かに討ち取ったり生け捕りにすることに成功した。 旗本隊内部に送り込んでいた間者によって伝令の動きをつぶさに知る事ができたし、旗本隊は陶隊、元春隊、元就隊によって三方を囲まれており、 伝令がどの道を通って各部隊へ指示を届けるかは地理に詳しい毛利方にとってわかりやすいものとなっていたからである。 毛利方は生け捕った伝令を買収したり、代わりの偽伝令を数多く放つ事で各隊に次々と疑心暗鬼を植えつけていった。 七月五日朝、毛利方は狼煙を合図に行動を開始した。 元就は偽伝令の数を一気に増やし、各隊に偽報が一気にあふれた。これによって各隊の指揮系統は脆くも崩れ去った。 さらに、各隊に潜んでいた間者達は厩や陣、物資に火をかけ、或いは公然と鉄砲で他の隊を銃撃した。 これらの異変を味方部隊からの攻撃と判断した隊もおり、実際に同士討ちとなったケースも存在した。 その上で元就隊は姉小路方を急襲したので被害は拡大し、姉小路軍はこのまま崩壊していくかに見えた。 姉小路軍を全軍の崩壊から救ったのは姉小路頼綱の機転と山中鹿介の勇気であった。 頼綱は自部隊の上空にルーミアを飛ばせ、点滅させたのだ。 これによって各隊は旗本隊の位置と頼綱の無事を知る事ができた。 また、一度全将兵が空を見上げる事で一種の気分転換となり冷静さを取り戻す一助になったと言われている。 鹿介は各隊を攻撃し終わって、引き際の元就隊に単騎で飛び込んだ。 誰が敵か味方か分からない混乱状態の自軍の兵を率いるのは危険と判断したから単騎で突撃したと言われるが、真実は分からない。 しかし、この蛮勇というべき突撃は思わぬ効果を生み出した。頼綱は鹿介が出撃したとしるや、すぐさま自身の馬廻を差し向けた。 引き際の元就隊は思わぬ足止めを食った形となった。 そこへ、遅れて戦場に到着した霧雨隊が駆けつけた。 この隊は元就の情報操作を殆ど受けておらず、全軍の統制を保ったままの部隊であり、他の部隊に目もくれず真っ直ぐに元就隊に襲い掛かったのである。 寡兵で戦い続けて疲労が溜まっていたところに、山中鹿介及び頼綱の馬廻の一撃を立て続けにもらい 大損害を被った所に霧雨隊の銃撃を受けた為、流石の元就隊も壊滅した。 情報操作を行っていた大本が崩れた後、各隊が再び統制を取り戻すのに殆ど時間は必要ではなかった。 混乱が収まった後も姉小路方にとっては有利な状況ではなかった。既に姉小路方と毛利方の兵数の差は逆転していた。 合戦の最初から最前線で戦場の一角を支配し続けていた近江隊は損耗率90%を越え、撤退を余儀なくされた。 旗本隊も死傷者が多く、撤退は時間の問題であり、このままでは全軍撤退は避けられないと思われた。 姉小路方が再逆転を果たすきっかけは霧雨隊が作った。彼女らの銃撃(砲撃?)はこれまでの損害の蓄積もあって一撃で城壁を打ち崩した。 城壁はすぐさま臨時修復されたものの、城兵は大いに動揺した。 その動揺した城兵の十数人を今度は博麗隊が調略、館に火をかけさせた。 おりしも日照り続きで空気は乾燥しており、火は短時間で派手に燃え広がった。 下手人たちは逮捕されたものの、混乱は収まらずにむしろ全軍に広がっていった。 混乱が収まる頃には、毛利方は迎撃隊、遊撃隊が長船隊を残して全て壊滅していた。 一方、姉小路方も最大兵力であった旗本隊が撤退するなど、櫛の歯が欠けるように数を減らしていった。 ただこの時点で戦場での兵数は五分であるとはいえ、姉小路方は8000以上の後詰騎馬隊が出陣しており、ほぼ勝負は決まったと言ってよい。 長船迎撃隊が壊滅して後、守将小早川隆景が山口館にて孤軍奮闘していたが、 元々大した防備ではない上に城壁が破られ、次々に鉄砲隊によって撃ち減らされていった。 九月一日、粘りに粘った末に落城。戦いは集結した。 当初5万を大きく上回っていた姉小路方が1万8千を割り込んでしまう、非常な激戦であった。 合戦の影響 毛利方は本州のほぼ全てを失い、西国一の大大名から四国の一大名に転落した。 姉小路方の西国攻略軍の受けた損害も大きいもので九州攻略にはすぐに取り掛かれないが、対三好の部隊が健在であるから本州制圧には影響はなかった。 しかしながら毛利・三好同盟は瀬戸内海を押さえる拠点を維持しており、 対三好として拘置していある播磨軍も備州攻略において発生するであろう問題からしてその兵力の全てを維持しきれるとは断定できない。 本州制圧以後の四国・九州征伐の遅延は免れないと思われる。 また、今回の戦で顕在化した兵站問題についても改善が図られることとなった。 戦となれば数万単位の兵を常時運用するうになった現在、現地調達ではまかないきれぬ程の糧秣が必要な事は以前よりはっきりしていたが、 今回の経験を機に、より近代的な対処が取られることとなった。 これまでの戦では、姉小路家の前線兵士と後方支援兵士の割合はおおむね10:1の割合であったが、 以後は大幅に改められ、状況によっては10 4程度にまで引き上げられることとなった。 兵站の要となる馬も、狭隘な地や険しい山間部でも十分な行動が可能な御崎馬や対馬馬といった品種の馬が使われるようになった。 これらの馬は山岳部の急斜面で育った種で、生まれながらに山坂の登りが巧みであり、山間部での輸送に大きな効果を発揮した。 護衛にも余剰の砲筒を渡すことで自衛能力を増加させたほか、専門の護衛部隊が新設されることとなった。 この当時は、『輜重輸卒が兵隊ならば蝶々蜻蛉も鳥のうち』と呼ばれる程に各大名の兵站、輜重、補給全体に対する関心は低かった。 特に半農半兵の兵士にとっては、首級を上げる機会に恵まれぬ後方支援任務は敬遠される場合が多く、姉小路家もそれの例外ではなかった。 だが、いざ実際に部隊が物資不足に見舞われたことで、その偏見は払拭されていくこととなる。 改善されたのはは部隊だけに止まらず、街道にもその影響が及んだ。 食料はまだしも、銃、弾薬の策源地が遙か東となった現在、迅速な輸送手段の確立は姉小路家にとって不可欠であることから、 長期使用計画に基づいたな街道の整備までもが行われることとなった。 結果、姉小路家の兵站状況は著しく改善され、栄養不足による疫病の蔓延を押さえた他、略奪などの問題が大幅に減少する副次的な効果までもたらした。 弾薬の使用量の増加も、堺、紀州、琵琶湖沿岸の産地の優秀な人材を丸ごと抱え上げ、生産量を引き上げることで補えるよう、対処が施された。 この時代、気づいたものはほとんど皆無だったが、既に時代は短期戦を主眼とした旧来の戦争から脱皮し、 前線の兵士はもとより、後方支援、引いては糧秣を生み出す農民、火薬や弾丸を生成する職人までもを含めた大規模な消耗戦、あるいは総力戦への移行の気配を見せつつあった。 なお、兵站問題の顕在化の理由としては西国における電撃的な侵攻によるものである。 山城制圧後の西国征伐はこの周防・長門にいたるまでわずか4年足らずであり、東国・北国のような後方整備が為されぬまま突き進んでいる。 兵力も投降兵・現地での志願兵であり、今回の辛勝はこの電撃戦の限界点であったと言えよう。 逸話 山口館は元々大内氏の居館であった。毛利氏が防長経略によって手に入れた後は毛利元就の居館となった。 西国の京と謳われる山口の美しい街に相応しく白壁に金の瓦が映える壮麗な作りであった。 武士の居館らしく土塁なども備えており防御力もあった。 山口の街は毛利氏が大内氏と違って博多の権益を持っていないこと、 家風が質実であることもあって、往時ほどの賑わいはなかったが、それでも西の京といわれるだけ繁栄していた。 この戦いで館のかなりの部分が焼けてしまったが、主な建物は修復可能な程度の損害であり、高名な枯山水庭園は無事であった。 街にも損害はでたが、あくまで館周辺の一部であった。 西の京山口はこれほどの戦火にも関わらず奇跡的に後世のために保存された。 この戦いでは毛利方の部隊は全て壊滅したが、姉小路方の損害は勝利者であるのにも関わらず多大なものであった。 特に損害が大きかったのは博麗隊である。 この隊は常に戦場にあって旗本隊が健在のときは副将、退却の後は主将となって一貫して指揮を行っていた。 特に旗本隊が退いた後は指揮権を委譲するべき後詰隊が遅れたり、 兵糧不足に陥るなどの理由から壊滅寸前になっても引き上げる事ができなかった。 幸い、部隊が壊滅する前に戦闘を終結させることができたが、 当初5000人いた隊が、傷兵除いてたったの89人にまで討ち減らされたという悲惨な状況であったという。 頼綱は後に、生涯で最も危うかった一戦にこの戦いをあげている。 同士討ちによる混乱が長引けば、毛利勢に各個撃破されて全滅の可能性すらあったからだ。 それを回避した頼綱の機転は大したものだが、敗れたとはいえそこまで追い込んだ元就は流石である。 戦の中で元就は「姉小路に将多かれど、真に強き戦の出来うるものは竹中重治・朝倉教景の両名のみ」と語ったとされる。 BGM
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【用語名】 小田原征伐 【読み方】 おだわらせいばつ 【詳細】 6巻下で本格的に行われた歴史再現。 史実では豊臣が従わない北条を倒した戦いでもある。意見がなかなか決まらないみたいな言葉である 小田原評定もこの戦いで出来た。 武蔵側としてはこの戦いを起こすことにより、関東解放に一歩近づくことになったり、 P.A.Oda側に本能寺の変を起こさせるようにも出来るようになるはずであった。 しかし、5巻下で北条・氏直が毛利・輝元や滝川・一益と共に現れて、事態がややこしくなっていく。 氏直や輝元、滝川は、北条視点で見れば小田原水攻めで負けて終わるみたいなもんだから、 同じく水攻めされる備中高松城の戦いとか滝川の敗北で終わる蟹江城の戦いとかまとめてやろうぜ と持ちかけてきた。 この後の歴史再現のこととか踏まえて各勢力それぞれが話し合いや探り合いをしていき、 まず、蟹江城の戦い兼第二次上田合戦が行われることとなった。 次に毛利(六護式仏蘭西)はここで戦争して勢力を集めて大勢力を作り、歴史再現やヴェストファーレン会議を 終わらせたりしてから外界に出ようとしていた。 そして北条の方はムラサイ勢力で、P.A.Odaに監視される中、毛利と組んで、六護式仏蘭西が羽柴を 押さえている間に戦争を短期終了させ、武蔵を呑み込んだ三勢力合同で羽柴をつぶすことを目的とした。 目的に気づいた本多・正純は、北条と毛利と組んで関東を解放することを提案。 小田原征伐を終わらせて、関東解放及び慶長の役を歴史再現することを提案する。 6巻中にてネシンバラと北条・氏直が交渉したことにより、小田原征伐に上越露西亜や伊達家、最上家、羽柴も参戦。 ほかの歴史再現を交えながら、相対戦による小田原征伐が行われることとなった。 結果として毛利、北条、武蔵は三国合同で相対戦を行い、さっさと小田原征伐を終わらせ、関東解放に備えることとなった。 【各国の相対戦参加者】 武蔵シロジロ・ベルトーニ ハッサン・フルブシ 大久保・忠隣/長安 北条北条・氏直 北条・氏照 北条・幻庵 小太郎 毛利人狼女王 世鬼・政定 羽柴加藤・嘉明 可児・才蔵 上越露西亜本庄・繁長 真田・信之 伊達伊達・成実 最上最上・義光 里見・義康
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滅機の最新型を開発していたというのは本当だ。 万が一のときのため、本丸近くに準備している。 しかしそれは本命ではない。 大口径の大砲を多数設置し、絶え間ない砲撃を可能とする要塞――それが富獄だった。 砲撃の精度も距離も速度も、すべて元親手ずから改良した会心の作だ。 何より苦労したのは試射。 豊臣に知れたら最後、苦心して大筒の試し撃ちにまじえようやく済ませたものだ。 しかし、なにもこれで豊臣兵を全滅させられると思っているわけではない。 砲撃が可能なのはこの浜辺一帯で、例えば陸地から攻められたら富獄の真価を半分も発揮しえない。 冷静になった竹中半兵衛あたりが、それを指示すれば無力化させるのもたやすいだろう。 これすらも、ただの足止め。 足止めのために本気で国が傾きかけた。 「――ほんじゃ、任せたぜ」 「戯言はよい、見事盤上を動いてみせよ。貴様も我が策の糧となれ」 元親は今、海の上にいる。岩陰に隠れるような小舟だ。 同乗しているのは、主に長曾我部軍の精鋭、わずかな手勢のみである。 その唯一の例外が――毛利軍の大将・毛利元就だった。 冷たく言い放った元就は、体重などないような動きで横付けされている小舟に跳び移る。 すぐにその舟は進んでゆく。 そして元就は、手にしている采幣を、何かに祈るように高く掲げた。 芸術としか言えない速度で、先ほどの豊臣兵の動きと遜色ないほど整然と、小舟があちこちから現れた。 豊臣の戦艦と比較したら鯨と蟻だ。 しかし、元就の采配のもと、無数の舟から無数の矢が射かけられた。 狙いは軍船ではなく――岸を目指している第三陣。海の上の豊臣兵だった。 日の本一を謳われる毛利水軍は、強弓でも知られている。 矢は惜しむことなく雨のように浴びせられ、瞬きするごとに豊臣兵を減らしていった。 豊臣軍も、不意を突かれたなりに反撃をしているが、いかんせん毛利水軍には及ばない。 巨大な軍船からの砲撃も、毛利軍は巧みに船を操って被害を最小限に抑えている。 稀代の策略家・毛利元就の本領発揮である。 元親とは根本から相容れぬやりかたではあるが。 鳥無き島 14
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武将名 のみのおおかた EX乃美大方 毛利元就の正室・妙玖の死後、その継室として元就に嫁いだ。穂井田元清、小早川秀包らの母。父の乃美隆興は小早川氏の一族であり、元就の三男・隆景の擁立に貢献していることから、結婚が成立したといわれる。「さあ、悪い子にはお仕置きしましょうね」 出身地 安芸国 コスト 1.5 兵種 槍足軽 能力 武力4 統率6 特技 防柵 魅力 計略 情炎の注入 範囲内の最も武力の高い毛利家の味方の武力が上がり、兵力が最大兵力を超えて回復する。ただし効果終了時に兵力が下がる。 必要士気4 Illustration 小山宗祐 2012年9月7日~10月10日に実施された第3弾EXカードキャンペーンにて、合計11059名に配布されたEXカードの1枚。 病院の手術道具やメスに見立てた長刀を持った、怪しげな女医のような雰囲気(一族のUC乃美宗勝を意識してのものだろうか。)を漂わせる毛利元就の後妻。 子だくさんな元就の子供達、四男(R穂井田元清)と七男(天野元政)、九男(小早川秀包)の母親である。 武力はやや心許ないものの、柵と魅力を持つ槍足軽という、弓の多い毛利家には嬉しいスペック。 計略の「情炎の注入」は投げ計略。 計略効果:武力+3、7割ほど兵力回復(兵力上限突破効果付きの)するが、効果終了時に兵力が4割ほど減少する。 効果時間:8.8c(4.0c+統率*0.6c)(2.12B) 「決死の戦い」の投げ計略版だが、士気が1高いかわりに武力上昇値が1高い。 その分、兵力回復量はややマイルドになっている。 投げ計略なので、同一部隊を連続して強化・回復させることも可能。タイミングを合わせれば兵力減少での撤退を防ぐこともできる。 決死系計略は「後方で戦う弓足軽が使うと強い」ということは、UC清水宗治が証明している。 弓足軽にかけると、兵力が減少しても2割ほどの兵力が残るため、効果が無駄にならない。 特に高武力弓で終盤の兵力回復が肝となる計略を持つSR毛利元就とは、夫婦ということもあってか好相性。 あるいは、後の兵力減少効果が気にならないSR毛利隆元にかけ、先駆けとして使うことなどが考えられる。 しかし漫然と撃つと、兵力がただ2割回復するだけの計略となってしまうので使いどころには注意が必要である。