約 86,331 件
https://w.atwiki.jp/savagetide5th/pages/73.html
SUNRISE 棍棒地区と同様に、旭区は元来住宅地である。彼らの多くがサザリン市周辺地域に点在する数多くの荘園に資金をつぎ込んでいるために、旭区の少なくない市民が、一般的にその隣人たちよりも若干良い暮らし向きをしている。 旭区を代表する貴族家はノウラン家である。他の地区の貴族とは異なり、ノウラン家はエルフである。アニフェイタス・ノウラン卿と彼の家族は、この地域の野生をその中心部に保存することに力を傾けており、サザリン市のスタンディング・ストーン・パークの設立は、彼らが最も誇りに思っている業績の1つである。 勢力陣営 サザリン市の市民として、君のキャラクターはまた、この都市を基盤とするいくつかの勢力陣営組織の1つに所属しているかもしれない。これら7つの勢力陣営の概略は次の通りである――もしこれらの内1つが君のキャラクター用として興味深いものであると思われたなら、その勢力陣営のメンバーとしてキャンペーンを開始することについてDMに問い合わせること。 暁の評議会 サザリン市を支配する貴族階級は暁の評議会として知られているが、実際のところ、この勢力陣営は、小貴族家、賢者、筆記人、書記、その他この都市の日々の行政を手助けする人々すべてによって構成されている。サザリン市の都市警備隊は暁の評議会によって統制されており、さらに7つの公的教会がこのグループを任命してもいる。サザリン市の市壁を超えると、暁の評議会のエージェントは、大使、使者、宣教師、そしてスパイとしてすら働いている。クレリック、バード、パラディン、そしてファイターが、この勢力陣営に最も適したクラスである。 怒りの竜巻の寺院 おそらく、ここで紹介する6つの勢力陣営の中で最も神秘的な組織が“怒りの竜巻寺院”であり、デーモンの物質界侵略に対抗し、同時に彼らのパトロンであるエラドリン・パラゴンのグウィンハーウィフへの崇拝を行なう同志たちによる準秘密結社である。 彼らは、公然と危険な軍勢と対抗すれば、公然と復讐をうけるという理論のもと、サザリン市の中にその存在を潜めている――そうするよりも、情報を集め、不意討ちの利を取る方が良いと考えているのだ。怒りの竜巻の寺院が説く教義は「すべては大いなる善のために」というものであるが、この教会はあらゆる職業の者と技術者を受け入れる。それゆえに、彼らはしばしば法の影の面でその活動を行なうことになる。クレリック、バーバリアン、そしてレンジャーが、この勢力陣営に最も適したクラスである。 エメラルドの波頭団 サザリン市が独立を取り戻して以来、その船乗りたちは世界中の海に乗り出して行った。海賊、海のモンスター、嵐や暗礁地帯といった自然の脅威に、船の墓場や幽霊船といった超自然的な脅威に満ち溢れた危険な海で生き残るためには、連帯することが必要だと悟った船乗りたちは、ここ最近の1世紀の間に、緩やかに結びつきを持った海の組織を形成した。このメンバーたちは新たな航海の海図を作り、新たな海図を製図し、遭難した船舶の救助を行ない、神話や伝説の謎を解明しようとしつつ、後進の教育にも当たっている。海の神格を崇めるクレリック、バード、ファイター、ローグがこの勢力陣営に最も適したクラスである。 ゼルカルーンの角団 ゼルカルーンの角団はとりわけ、彼らがサザリン闘技場において運営している大人気イベントの開催地、闘士地区を基盤としており、剣闘士、大型猛獣専門のハンター、傭兵、そして周辺の荒野の探検者で構成されている。サザリン市の市壁を超えると、角団のメンバーはしばしば単独活動(あるいは少人数のメンバーでの活動)を開始し、闘技場の戦いに出すための新しいクリーチャーを探したり、あるいは単に彼ら自身の名声や栄光を高めるために冒険と財宝を求めたりする。バーバリアン、ファイター、レンジャー、そしてローグがこの勢力陣営に最も適したクラスである。 探求者団 探求者団はほとんど世界中のあらゆる大都市に存在しているが、彼らの存在を知っている者は数少ない。良くても財宝収集を目的とする冒険者の集まり、悪くすれば盗賊と墓荒らしを生業とする邪悪な結社と見なされているが、探求者団自体は、個人的な利益や目的のために古代の秘密や失われた魔法を探し回る探検家、冒険学者、そして財産目当ての求婚者たちによる、緩やかなつながりのグループである。すべてのキャラクター・クラスが等しくこの勢力陣営に適している。 緋色団 緋色団自体は船を操る暗殺者、スパイ、あるいはもっと悪い存在として悪名高いが、サザリン市における彼らの存在は、緋色団大使館の設立によって大きな転換を迎えた。このグループは他の国ともっと暴力的ではない交流を模索している。数多くの国々を操るための最近の企ては、緋色団に途方もない出費となった。もちろん、多くの人たちは緋色団大使館の設立は、緋色団の邪悪な世界征服の試みの新たな段階にすぎないと信じている。このグループの計画をはっきりと知っているのは、この勢力陣営のメンバーだけである――緋色団の謎めいたリーダーが意図している事の真相すべてを分かっているわけではないとしても。バード、モンク、そしてローグがこの勢力陣営に最も適したクラスである。 魔女看守団 サザリンの魔術師ギルドは何世紀も前にウィー・ジャスに仕える神官魔術師によって設立されたが、現在、魔女看守団はもっと世俗的なものとなっている。そのメンバーたちはあらゆる形態の魔法を学んでおり、新しい呪文を発明したり、世界中を回って古代遺跡から失われた知識を取り戻したりしようとしている。彼らは魔法的な脅威から都市を守る責任を負っており、そのメンバーの多くが都市の上流社会とつながりを持っている。ウィザード、ウォーロック、ソーサラー、そしてバードがこの勢力陣営に最も適したクラスである。 都市警備隊 棍棒地区と同様、旭区は元々は住宅街であるが、材木置場の存在や、青空地区に隣接しているために、その辺縁はやや活動的である。旭区都市警備隊はペイロア寺院の影響下にあるが、この地区の安全を守るにあたって、そのほとんどの場合、彼らだけで何とかやっている。7つの警備隊の中で最大の組織を持っており、その結果、その指揮官がすべてを管理することが困難になっている。ここでは汚職はかなり一般的となっているが、衛兵たちは通常は正しいことを行なっていると信頼されている。 市民 もし君が旭区出身であるなら、君の持つ平等精神、人懐こさ、そして楽観主義といったものに誇りを持っている。もちろん、サザリン市にもやくざ者は山ほどいるが、いろいろな理由で、彼らのほとんどは旭区を避けている。君は自然世界に対して健全な興味を持っているかもしれず、その場合は、スタンディング・ストーン・パークの安全地帯を散策することに長い時間を費やしていたのだろう。ここに住む人々の多くは南にある荘園の1つで働いており、適正な日当をもらって農場で働いたり、荘園経営のための使用人や専門家として働いていたりする。君の知る人々のほとんどはペイロア神を信仰しているが、ここではサザリン市で公的に認められているあらゆる宗教が歓迎される。 重要なNPC アニフェイタス・ノウラン(男性のエルフ) ノウラン邸の君主にして、暁の評議会における旭区の代議員であり、他のどの市民よりも長くサザリン市に住んでいる。 ベイサー・フィン(男性の人間) ベイサーは、市壁の外に住む数多くの荘園主たちが不在のとき、これらの勤勉な人々を代表する人物である。 ケラ・ゴサラー(女性の人間) ケラはペイロア寺院の高位の尼僧である。彼女はサザリンの犯罪は不幸な事柄だと見なしているが、それらに対する撲滅運動を行なうよりは、この都市のまともな人々に、放蕩や犯罪がこの都市に災難をもたらすものだという事を訴えかけていく方を好む。 旭区の主要な場所 1:橋の小屋(賭博場) 2:メドウダスクの家(賢者――〈知識:自然〉) 3:サンダー川の材木 4:イスタスの社(運命の女神) 5:土地所有者会館(荘園主たちの集会所) 6:不眠のライオン亭(居酒屋) 7:狩人の罠亭(居酒屋/賭博場) 8:ウィンメスターの宿(宿屋) 9:サイレンの家(宿屋) 10:日の出市場(日常品) 11:旭区都市警備隊詰所 12:無限の闇(賢者――〈知識:ダンジョン探検〉) 13:テピナルの売店(日常品) 14:剥製師ギルドホール 15:レルディバーの店(日常品) 16:震える猫亭(居酒屋) 17:エメラルド・ウォーター孤児院 18:飢えたゴリラ亭(居酒屋) 19:ハイローニアスの社 20:たばこ屋ギルドホール 21:曙光の孤児院 22:ゴンドラ乗り場 23:歴史学者ギルドホール 24:ゴンドラ乗り場 25:ノウラン邸(地区の代議員) 26:スタンディング・ストーン・パーク 27:暁の家(地区教会) 28:マイアヘンの社(保護と武勇の女神) 29:ラオの社(平和と静穏の神格) 30:ゴンドラ乗り場 トップページに戻る
https://w.atwiki.jp/terico/pages/16.html
いつも有難うございます>< 名前は順不同です ☆セントレア 愛知県在住31歳 南海キャンディーズの山ちゃん似(本人談) 2009年9月未明10歳年下の彼女にフラれる ゴールデンウィークに伊勢神宮行った事からフラグがたってた 昔から10代に手を出してるロリコン野郎 ストーカー気質で常に待ち伏せ監視余裕 海を見ると失恋が癒されるらしい またNHK交響楽団を聞いても癒されるらしい 2009年10月は男6人で黒部ダムへ旅行… 愛用のハンドソープはママレモン 2010年元旦、実は二股されてた事が発覚 mixiに登録しようとするもネット音痴で出来ずじまい 全体的に可哀想な人 2010年突如消息不明になる 2011年年賀状を出したら寒中見舞いが返ってきた! 一応は生きているらしい…が、近状気になるお ☆スヌーピー 郷土愛の強い29歳 一応20代だが中身はおじいちゃん テスト放送からのお付き合い スヌーピーとスタバをこよなく愛する男 博識すぎでいつも驚かされる 考え方が厳しい(本人曰く俺はあまあまだ!らしいが…) 特にセントレアには凄い厳しい 合コン50回余裕です B型だと思ってたら最近AB型な事が判明 必殺技はオニャノコに膝枕 2011年も健在 ☆可愛い氏 神奈川県在住の40代 ブログのコメントは常に「かわいいですね」 博識でフォローしてくれる 基本的謎な人物… 只今病気で半年療養中←心配 実は過去にテリ子を煽ったりしてた ―消息不明 ☆鮫山たん 東京と在住(?)の40代 一応初期からの聞き手さん やさしかったりきつかったりワケワカメ 基本言いたい事を残して去ってく 2009年11月から生存不明 ☆(σ・∀・)σ 又の名を四つん這いでアナール責めされ隊さん (略して恥垢さん) 岡山県在住の29歳 家の事を「墓場」と称し常に仕事場にいる 勿論仕事中は…ry コカ飲料をこよなく愛す浮気者 メンヘラに定評ある優しい人 地域密接な暮らしでお祭りに参加 このwikiを教えた途端に改変する仕事人っぷり ―2011年テリ子の誤解から気まずい雰囲気に ☆はいぱーてりりんまんさん 岡山県在住の29歳 数々の掲示板をつぶしてきたksk職人 どんなにネタがなくても 一人でスレを消化できる程の力を持つ 彼の誤爆と誤字には右に出る者はいないという… メンヘラに定評のある介護士目指したニート戦士 はいぱーてりりんまんさんの名言集 「いやあ、あんなメンヘラのBL好き女なんかまじで好きになるわけがwwwwwwwww」 「あーやっぱりどう聞いても通話廚のメンヘラ女より○○たんはかわいいなぁ・・・w」 「それだけはwwwwwそれだけはやめてくだしあwwwwwww」 ↑最近は名言集を黒歴史として心の奥にしまっておきたいらしい ―2011年テリ子の誤解から気まずい雰囲気に ☆(*´Д`*)さん ハンコを押すのが仕事の29歳(?) 郷ひろみばりのイケメンボイスの持ち主 ボンカレー理論と出前寿司の狭間で戦うイケメン棋士だが、 基本未成年にしか興味がないロリ(ry 常にCoolで周りを惚れさせるのが得意 将棋をやる理系だんすぃ ―2011年テリ子の誤解から気まずい雰囲気に ☆ヲタ蔵さん 来年50歳の年長さん! ロマモーのヲタ芸を一緒に配信した仲 普段はドラム演奏配信をしているDJさん 関西弁でノリがいい面白い人 部下に好かれてて誕生日にケーキ貰えるほどな上司 独りよがりラジオではしばしばテリ子にいらつくらしいw 2010年後半より一応mixiにてマイミク中だがスカイプで見かけない… 消された??? ☆121 神奈川県在住オカルトラジオ好きな29歳 本人曰く100㌔近いピザらしい キザったらしい言葉を得意とする ネトゲで出会い厨をする時もあり 多趣味で色々なカルチャーに通う 最近だとアロマテラピー 時々テリ子に毒吐かれてムカつくのか姿が現れない場合も ゲーム配信しているらしい ☆ikinari 子持ち美大卒30歳? フランスにロンバケしてた時に独りよがりラジオに出会う 大人になりきれない永遠の10代 美大卒だからか時々理解出来ない事を言う 趣味はミニチュアガンダムを改造して間接を動かせる様にする事 ↑これはまじで凄いw 最近iphoneを買った 相変わらずテンション高いです 楽観主義者 ☆アミーゴ 三重県在住の30歳 幸薄でネガティブで2重人格な人 初期から独りよがりラジオを聞いてる だがコンタクト追加するのに、半年以上心の準備要した。 ラジオ放送の度テリ子に抗議の声をあげる 家電好きだけど良く壊れる←テリコにコンタクトを送ってから壊れだす。 別に恋人いなくても平気らしい チャットしててもいつの間にか返信くれない… 本当にあった怖い話→アミーゴおなぬー中に通話してしまいましたwww その節はごめんなしあです^q^ 寝ようと思った時に限ってテリ子から通話がくる 何だかんだで未だに仲良くしてくれてる人 いつもお世話になっておりますw ☆ゆとり 突如現れた大阪在住の30代 絵文字が大好き 「ぱねーっす」を乱用 常にテリ子をいらつかせる言動を得意とする スティッカムBANの黒歴史を持っているらしい 本気を冗談だと思える幸せ脳な人 何を言われてもへこたれないしマイペース pixivをやっている しかも超アナログなので色鉛筆仕様 まじで消えて欲しい人No1ヤッタネ☆ ☆謎のいつも2getさん IPから推定するに東京在住 独りよがりラジオ掲示板でほぼ2getをしている ボリューム調整のさじ加減は任せろな人 時々辛口コメントをする 誰だか分からないけど一応コンタクトはしてるらしい?! まじで謎な人物 2010年元旦そうそうテリ子によって傷つけられ身を隠そうとする ↑逃がしませんョ!!! 2011年早々テリ子に因縁つけられキレられる だが未だに2げtしてくれている本当に謎な人 ☆生き別れさん ラジオ内で必ず「俺に似ているテリ子さん」と発言する人 4月~のお付き合い だが未だコンタクトを追加してくれない 鞄の中身ネタは最近晒した 次のネタは「コンタクト追加」に関することらしい 2重人格なのか優しい時と厳しい時が… なので自己申告ない限りコメント特定不明 いいから早くコンタクトしろしw ―消息不明 ☆バーカ氏 高知県在住の40代 テスト放送からのお付き合い わき毛の生えてる女をこよなく愛す とにかく変態プレイが得意 普段はモチ屋?で働いているらしい??? 言葉はキツイがなんだかんだで優しい 最近はめっきり姿を現わさなくて寂しいです 2010年ツイッターにて生存確認 今は所在を大阪に移して活動中らしい ☆乙太郎さん 東京在住の35歳 独りよがりラジオで凸待ちした時の初凸者 本人も認める自己中心的な俺様人間 自分以外どうでもいいのですぐ人の言った事を忘れる 夜のお仕事している夜型人間 素敵ボイスの持ち主 7股をしたやんちゃな過去がある非道者 IP確認で嘘発覚後に逆ギレでブロックされました^q^ ☆高橋由伸 千葉在住の21歳 占いを本気で信じるへたれ ホモ疑惑があるED 元ひきこもりで元ピザらしい しょっぱなから共通大好きDJさん話題で盛り上る どれだけ好きかを4時間も競い合う 八方美人のO型 小学生の頃に女にウケル話し方をマスターする 以後「否定しない・同意する・オウム返しをする」を徹底させる 母は細木数子似 今現在絶賛片思い中で悶々 スカイプにて生存確認はしているが近状は不明 ☆M蕁さん 新潟在住の30代 IDを常に取り替えている いつの間にか消されてたり・・・ 一応今の所IDは消されていない記録更新中w JC・JKに手を出したらピカ一 最近買った家電『バイブ』という名言を残す 攻めキャラなので基本テリ子と合わない ☆ないんだな、それが。さん(仮名) 栃木在住の年齢不詳(テリ子より年上らしい) ツンデレの妹がいるらしい PCは居間にあるが気にせずネットを楽しんでいる 自分の歌録音したい衝動にいつも駆られてる だがマイク認識しない罠 専ブラ使ってない事を馬鹿にされて気にしている まじで友達いないらしい 『お ば さ ん 声 に 決 ま っ て る』 この発言は許さない、絶対にだ。 ☆割れる卵さん 東京在住の28歳 ↑多分こんなこと書くと怒られるくらいプライバシー重視派 異様に個人情報流出を恐れている ねとらじ歴4年を誇る自称プロリスナー おじさんに癒されるらしい BGMにねとらじを流して寂しさを紛らわす iPod touch購入後は車内でもry 好きなDJが引退していっちゃってて寂しいらしい すぐ影響されちゃってスイーツ食べたりタバコ吸ったり 最近はかわりんぼに興味がわいてきたとの情報も 酒は365日風邪ひいてようが休肝しない宣言 ☆こうさん 東京在住の22歳 2010年の元旦に間違って通話をかけドジを踏む 消息不明の半年後ツイッターに新星のごとく現れる 医大生の宇宙関連大好きっ子 もの凄く知的なので良く僻まれるw 合う合わない人間を事業仕訳 テリ子とお揃いの机を使用 閑散とした部屋に住居 お前は俺か?現象がよくおこる ry← 姉認定頂きました^q^あうあうあー *** ここに掲載してない方で「え、私とも仲いいのに載ってない・・酷い・・・」って方 テリ子までご連絡くだしあ><ごめんなさいね
https://w.atwiki.jp/h_session/pages/7406.html
NIGHT WIZARD The 2nd Edition Character Sheet TXT Ver1.2 使用レギュレーション: システム:NW2nd PL名:ボロック キャラクター名:四凰 静真(しほう しずま) プレイヤー名:ボロック 種族:人間 ワークス: 年齢/性別:19歳/男 髪の色:茶 瞳の色:黒 肌の色:黄 身長/体重:182㎝/ ウィザードクラス:勇者 -Lv8 魔導+4 命中+3 :龍使い -Lv2 スタイルクラス:アタッカー -Lv11 命中+11 属性:〈火〉/〈天〉総合レベル:Lv21 CF修正値:3 プラーナ 内包値:16 解放力:9 経験点: 基本能力値 ベース 成長値 現在値 基本能力値 ベース 成長値 現在値 【筋力】 12 -- -- 【知力】 5 -- -- 【器用】 8 -- -- 【信仰】 7 -- -- 【敏捷】 8 -- -- 【知覚】 12 -- -- 【精神】 13 -- -- 【幸運】 9 -- -- 戦闘値 ベース クラス修正 特殊 総合 未装備 装備 最終戦闘値 【命中】(器用+知覚)÷2 = 10 5/14 -- -- 29 -- 【命中】 29 【回避】(敏捷+知覚)÷2 = 9 1/ 2 -- ―― 14 5 【回避】 19 【攻撃】(筋力+器用)÷2 = 10 2/ 4 25 -- 41 7 【攻撃】 48 【防御】(筋力+信仰)÷2 = 9 1/ 2 -- -- 15 9 【防御】 24 【魔導】(精神+幸運)÷2 = 11 6/ -- -- 17 3 【魔導】 20 【抵抗】(敏捷+幸運)÷2 = 8 1/ -- -- 9 2 【抵抗】 11 【魔攻】(知力+精神)÷2 = 9 2/ ―― -- 11 -- 【魔攻】 11 【魔防】(知力+信仰)÷2 = 6 1/ -- ―― 7 5 【魔防】 12 【耐久力】 = 72 4/ 5 -- -- 81 -- 【耐久力】81 【魔法力】 = 39 3/ 2 8 -- 52 -10 【魔法力】42 【行動値】(筋力+敏捷+知力+信仰)÷3= 10 1/ 2 ―― 21 34 -3 【行動値】31 【移動力】 ベース 特殊能力 未装備 装備 最終値 (未装備状態【行動値】)÷10+1 = 4 -- 4 -- 4Sq ■ライフパス 出自:普通の家庭 特徴:あなたの行うHPの自然回復の際の【治癒力】に+3 生活:リビングレジェンド 特徴:名声 コネクション/関係 三崎 理夢/弟子? 仇打ちに燃える少女。自ら破滅に身を投じようとするのを防ぐために鍛える事にしたのだが…? 闘気全開(15)・技巧の極み(45+25)・人類最後の希望(34)・気功(18)・天運(10)・無双の一撃(32)・紋章II(60) ■特殊能力 名称 :SL: タイミング : 判定値 :難易度: 対象 : 射程 : 代償 :効果 汎用 : : : : : : : : 《月衣》 :-: 常時 :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :所持品を隠せる。マイナーアクションで飛行できる。(代償:1D6MP) 《月匣》 :-: 常時 :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :月匣を展開できる。 ■アタッカー 《物理攻撃力UP》 :-: 常時 :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :【攻撃】+25 《闘気全開》 :5: セット :自動成功: なし : 自身 : なし : 2M :R間、【攻撃】ジャッジ+15 《技巧の極み》 :3: 常時 :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :【攻撃】ジャッジにプラーナ1使用毎に+5 《技巧の極みII》 :5: 常時 :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :【攻撃】ジャッジにプラーナを使用すると+25 《テクニカルエイム》 :-: 常時 :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :単体を対象にした攻撃の【命中】達成値+7 ■勇者 《覚醒》 :5: 常時 :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :プラーナ解放+5 《ヒーロー》 :3: 常時 :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :プラーナ内包+4 《天運》 :1: オート :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :ダイスがC時にジャッジを+10する。1シナリオ1回 《ヒーロー参上》 :-: オート : 精神 : 対抗 : 自身 : なし : なし :登場判定に成功した際、自身以外は行動できずに喋れる 《紋章》 :3: オート :自動成功: なし : 範囲選択3: なし : なし :同意した対象からプラーナを3点まで受け取れる。ジャッジに+受け取ったプラーナ*2 《紋章II》 :-: 常時 :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :紋章の効果を+【受け取ったプラーナ*5】に変更 《闘気瞬間操作》 :1: オート :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :総合ボーナス割り振り変更 《最後の力》 :-: マイナー :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :プラーナを6点回復。1シナリオ1回 《人類最後の希望》 :1: オート :自動成功: なし : 自身 : なし : 1P :天運、輝く絆、光の刃と併用。達成値に解放力×2+内包値(34)。シナリオ1回 《ブレイブハート》 :1: オート :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :行動値以外の戦闘値ジャッジ達成値に+解放値(9)。HP3点。 《不幸中の幸い》 :-: オート :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :ファンブルの際にプラーナ1回復。戦闘中のみ ■龍使い 《竜爪》 :-: 常時 :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :素手の【攻撃】+7 《気功》 :2: オート :自動成功: なし : 自身 : なし : 2M :P1点につきジャッジ+2.1シナリオ2回 《雷竜》 :-: メジャー : 命中 : 対抗 : 単体 : 武器 : 3M :【防御】ジャッジ-10 ■汎用 《闘気の才》 :5: 常時 :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :プラーナ内包+5 《闘気の才2》 :2: 常時 :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :闘気の才の上限+2 《訓練精神》 :6: 常時 :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :精神+4 《伝家の宝刀》 :5: 常時 :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :呪錬服 《伝家の術式》 :2: 常時 :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :アサルトプロミネンス 《魔法力UP》 :2: 常時 :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :魔法力+ 《急成長:攻撃》 :-: 常時 :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :【攻撃】に割り振られる総合ボーナスは1点につき2点上昇する 《スタイルアデプト》 :-: 常時 :自動成功: なし : 自身 : なし : なし :《物理攻撃力UP》の効果を「CL*2+3」にする ■EXスキル 《一子相伝》 :1: オート :自動成功: なし : 自身 : なし : 1P :ダメージに+内包*2する。ただしマイナーかメジャーで龍使いスキルを使用する事。1シナリオ1回 ■魔法 魔法記憶容量[【知力】+総合レベル]:19/22 名称 :LV:種別: タイミング : 判定値 :難易度: 対象 : 射程 : 代償 :効果 リフレクトブースター :3:付与: オート :自動成功: ― : 自身 : ― : 3M :行動+7 アタックブースター :4:付与: オート :自動成功: ― : 自身 : ― : 4M :【攻撃】+7 ノック :1:付与: メジャー : 魔導 : ― : 扉 : 0 : 2M3C :扉の鍵を開ける ロック :1:付与: メジャー : 魔導 : ― : 扉 : 0 : 2M3C :扉の鍵を閉める キュア :1:治癒: メジャー : 魔導 : 15 : 単体 : 1 : 3M :BS一つ解除 ヴァニシング :3:付与: オート :自動成功: ― : 単体 : 1 : 5M2C :【防御】【魔防】+10 ポータル :3:汎用: メジャー :自動成功: ― : 範囲選択1: 0 : 6M :予め記した魔法陣に転移可能 ■武装/魔装 重量上限[【筋力】+総合レベル]: 魔法装備可能レベル合計[【知力】+総合レベル]: 名称 :種別:部位:重量/LV:命中:回避:攻撃:防御:魔導:抵抗:魔攻:魔防:耐久力:魔法力:行動:移動: 射程 :備考 ネイルロッド : 棍:両手: 4/ : : 2:15: 2: : : : : : : : : 1 :中華棍相当 呪錬服 :防具:衣服: 1/ : : 3: : 7: 4: 2: : 5: : : : : : アサルトプロミネンス :魔装:攻火: / 6: : : : :-1: :10: : :-10:-3: : 2 : 合計 : : : / : : 3:15: 9: 3: 2:10: 5: :-10:-3: : : 武装/魔装 ■所持品 月衣収納上限[【筋力】×2+GL]: 名称 :重量:効果 0-Phone : : MUGEN-KUN : : 幸福の宝石 : : MPP+8 : : 94万 ■設定 第八世界出身のウィザードで格闘術及び棒術を持ち居る青年 あっけらかんとした楽観主義を持ちながらも現実も見れる部分はあるのだが 基本的には諦めたらそこで終わりという思考の元その拳を振るう 第八世界から事故でこのテラに落ちて来たのだが落ちた場所がガイナベルクだったのだ そこで追われていたエルダーを助けた事からその国の実情を知りそれ以降エルダーを助ける異界人として ガイナベルクで結構暴れた。やはり生身というアドバンテージは大きいのか結構な数のエルダーを亡命させ ガイナベルク内では“龍の雷”と言われていた そんな中でエスフィリスとランブレイが同盟を組んだのを機に保護していた多数のエルダーと共にランブレイへと向かい AAAやランブレイに協力する事になった。 本人曰く「どうせ戦うなら理想主義の方がやり甲斐があんだろ?」との事 成長記録 GL1:勇者 :覚醒3 ブレイブハート ヒーロー1 GL2:勇者 :覚醒4 天運1 GL3:勇者 :ヒーロー参上 紋章1 GL4:勇者 :紋章3 GL5:勇者 :紋章II 闘気瞬間操作1 GL6:勇者 :最後の力 人類最後の希望 GL7:龍使い:竜爪 気功1 GL8:龍使い:気功2 雷竜 GL9:AT :闘気全開2 GL10:AT :闘気全開4 GL11:AT :闘気全開5 技巧の極み1 GL12:AT :無双の一撃1 技巧の極み2 GL13:AT :技巧の極みII2 GL14:AT :技巧の極みII4 GL15:AT :技巧の極みII5 技巧の極み3 GL16:AT :テクニカルエイム2 GL17:AT :テクニカルエイム4 GL18:AT :テクニカルエイム5 ペネトレイション1 GL19:AT :マルチプルブレイク1 無双の一撃2 GL20:勇者 :ヒーロー3 GL21:勇者 :覚醒5 不幸中の幸い 経験点割り振り 伝家の宝刀5:25点 資金160万: 8点 闘気の才5 :25点 闘気の才II2:10点 伝家の術式2:10点 訓練精神6 :30点 解放力3→4:12点 勇者→龍 :10点 魔法力UP2:10点 一子相伝1 :10点 急成長 : 5点 訓練知覚5 :25点 スタイルアデプト:5点 合計 :185使用
https://w.atwiki.jp/gamification-wiki/pages/20.html
ゲームダイナミクスとは 直訳でゲーム動力学。数多くあるゲームメカニクスをダイナミクスに分類したもの。ソーシャルゲームアナリストの岡村健右(おかむらけんすけ)氏がネット記事上にて紹介している。 岡村健右氏は、47つのゲームメカニクスを下記のようなダイナミクスに分類している。[1] ボーナス・ダイナミクス(時間、回数) アチーブメント・ダイナミクス(達成、進捗) アクション・ダイナミクス(ユーザ行動) コンペティション・ダイナミクス(競争) コミュニティ・ダイナミクス(共同作業) 47のゲームメカニクス 以下では「SCVNGR's Secret Game Mechanics Playdeck」を日本語へ翻訳(意訳)したものなどを基にそれぞれの項目を独自に定義づけて記載していく。 Achievement 達成:目標を達成した際に貰える物理的な表現。つまり報酬のこと。 (例:バッジ、レベル、ポイント、報酬) Appointment Dynamic アポイントメント・ダイナミクス:あるものを得る、あるいは効果を得るために、所定の時間、場所にログインしなければならない仕組みのこと。 (例:タイムセール) Avoidance 回避:目標を達成したことで報酬を与えるのではなく、損失を無くすことで、ユーザーの行動を誘導する仕組みのこと。 (例:○回以上参加しないと×を失う。失わないようにユーザを行動させる) Behavioral Contrast 行動対比:動作の変更予測に基づいて大幅に変更される動作方法の理論的定義のこと。(?) Behavioral Momentum 行動のはずみ?推進力?:やっていることをやり続ける傾向のこと。 Blissful Productivity 至福の生産性:ゲームをプレイする際、リラックスするよりも一所懸命頑張ることで幸せを感じるという考え。 Cascading Information Theory 情報カスケード理論:情報は、ゲームの物語の間に各地点に、プレイヤーが理解できる最少レベルに分けて提供されるべきであるという説。 Chain Schedules 鎖スケジュール?:一連の偶発的事象と報酬とを結びつける習慣・スケジュールのこと? 例:竜の洞窟に入るために、ゲーム上に表示された龍を30分ごとに10頭殺す Communal Discovery 共同的発見,コミュニティ協力:コミュニティ全体および仲間同士で謎・問題・課題を解決するために一緒に行動すること。 例:DARPAのバルーンチャレンジ Companion Gaming コンパニオンゲーム?複数のプラットフォームにまたがって遊ぶことができるゲームのこと。 例:iPhoneやFacebook、Xbox上で再生されるゲーム Contingency 不測の事態:プレイヤーは報酬スケジュールの3つの部分を克服する必要があるという仕組み。 Countdown カウントダウン:一定の限られた時間しか与えられない仕掛けのこと。 Cross Situational Leader-boards 状況的リーダーボードの横断:ランク付けの仕組みが、ゲームシナリオ間で複数印加されたときに発生する。 Disincentives 阻害要因:ペナルティを設けることで、プレイヤーの行動を誘導すること。 Endless Games 終わりのないゴール:明示的な終わりがないゲーム。 RPGではなく、コンテンツが追加されていくカジュアルゲーム(カード、パズル、スポーツ…)が当てはまる。 Envy 羨望:他のプレイヤーが持っているものを持ちたいという欲求 Epic Meaning 壮大な意味(勇敢な意味?):プレイヤーは、偉大なこと、畏敬の念を起こさせること、自分よりも大きなことを達成するために取り組んでいると感じると、プレイヤーが意欲的(動機付けされる)になること。 Extinction 絶滅、消滅、消失:報酬の提供停止を示す言葉。プレイヤーは、報酬が得られない、あるいは期待以下であると不満を持ち、怒りに繋がる。 Fixed Interval Reward Schedules 固定間隔の報酬スケジュール:報酬が一定期間後に得られる仕組みのこと。 例:24時ちょうどに補充アイテムがもらえる Fixed Ratio Reward Schedule 固定比率の報酬スケジュール:プレイヤーがアクションを一定回数以上すると報酬が得られる仕組みのこと。 例:5つの場所を訪れるとバッジが貰える Free Lunch フリーランチ:プレイヤーが無料でも他者のために行動したいと思う原動力。 例:グルーポン Fun Once, Fun Always 一度の楽しみ、常に楽しみ?:楽しいアクションは、常時繰り返されるようにするという考え。 Interval Reward Schedules インターバルな報酬スケジュール:一定期間後に報酬が提供される仕組み(可変と固定がある) 例:N分待機し、家賃を集める Lottery くじ:当選者は偶然に決定されるという仕組み。高いレベルの期待を作るが、公平性がしばしば疑わしい。 当選者は無限に楽しむが、敗者は素早くゲームを破棄してしまうことが一般的。 Loyalty 忠誠心:部分的に所有権を有するという気持ちを導く実体へのポジティブで持続的な繋がりを感じるというコンセプト。(?) 多くの場合、視覚的な表現で補強される。 Meta Game メタゲーム:別のゲーム内に階層的に存在しているゲームのこと。 Micro Leader-board マイクロリーダーボード:微整定?マイクロセットに含まれる、個人のすべてのランキング。 Modifiers 修飾子:アイテムを使用することで、他の行動に影響を与えること。 Moral Hazard of Game Play ゲームプレイのモラルハザード:ゲーム内の操作は、やりがいのある人々によって、アクションすることによる実際の道徳値を削除して、代用のゲームベースの報酬と交換されないというリスク。(?)行動を取るには余りにも多くのインセンティブを提供することにより、実際に実行されるアクションを楽しむことのインセンティブが失われるというリスク。 Ownership 所有:ゲームへの忠誠心を生み出す強力な仕組みのこと。 Pride プライド:達成したことによる所有と、所有したことによる喜びの気持ち。 Privacy プライバシー:特定の情報が公に公開されるため、プライベートな情報ではないという考え方。 例:あるアプリを使って体重を測定する。測定された体重がTeitterへ自動ツイートされる Progression Dynamic 動的進行、進行度:成功がタスクの達成度ごとに細分化されて表示する仕組みのこと。 例:パラディンレベル1からパラディンレベル60にレベルアップを示すバー Ratio Reward Schedules 比率的な報酬スケジュール:いくつかのアクションをした後に報酬が提供される仕組みのこと。 Real-time v. Delayed Mechanics リアルタイムと遅延メカニクス:リアルタイム情報は、遅延による阻害がなされない。(つまり、リアルタイムで情報が提供されるということ) 遅延情報は、一定時間の経過後に解除されるという仕組み。 例:リアルタイムのスコアが瞬時反応(満足感や意欲喪失)を引き起こす。 Reinforcer 強化因子:予想されるアクションが、報酬スケジュールの3つの部分パラダイムで行われる場合に与えられる報酬。 Response 反応・応答:報酬スケジュールの3つの部分パラダイムにおけるプレイヤーからの期待アクション。 Reward Schedules 報酬スケジュール:報酬が与えれれる期間と方法に関する仕組みのこと。偶然性・反応・強化因子の三つの要素から成り立つ。 Rolling Physical Goods 有形グッズのころがし: Shell Game シェルゲーム:プレイヤーがあたかも自分で選択したように表現されるゲームは、実際、演算子が望む結果に導かれている…という考え。 Social Fabric of Games ゲームの社会構造:他者と一緒にゲームをプレイした後に、お互い仲が良い人々は、より高いレベルの信頼と壮大な意欲を持っているという考え。 Status ステータス:プレイヤーのランクやレベルのこと。ステータスを見ることで、プレーヤーは、より高いレベルやステータスに到達しようと動機づけられる。 Urgent Optimism 楽観主義:極度の自己動機付けのこと。成功への合理的な期待があるという信念を持ち、障害を克服しようとすぐに取り組もうとする願望。 Variable Interval Reward Schedules 可変間隔の報酬スケジュール:一定期間の後に報酬を提供する仕組みのこと。 Variable Ratio Reward Schedule 可変比率の報酬スケジュール:アクションの一定量ではなく、未知量の後に報酬を提供される仕組みのこと。 Viral Game Mechanics バイラル(ウィルス)ゲームメカニクス:複数のプレイヤーがプレイする必要がある仕組みのこと Virtual Items 仮想アイテム:デジタル的な景品、報酬、ゲーム進行中に発見、獲得した物のこと。 関連項目 ゲーミフィケーション ゲームデザイン ゲームメカニクス 参考文献 [1]【実践ゲーミフィケーション】今すぐ使えるゲームダイナミクス(ボーナス編)(外部サイト) 脚注 外部リンク SCVNGR's Secret Game Mechanics Playdeck Gamification Wiki 日本語 ゲーミフィケーションに関わるいくつかの要素|linker journal|linker
https://w.atwiki.jp/bc5656/pages/2035.html
レザンさんが入室しました レザン レザスぺ+αカスタム!チョコソース増し増しです!(バァン! レザン (来店。着席。注文到着) … レザン … レザン …… レザン なんで来たんですかね?(自問自答 レザン (時は例の黒騎士戦より数日後。 雨が降ったり止んだりする昼下がり レザン (カウンター席に腰掛け、一時のティーブレイク…と言うにはやや浮かない顔である レザン …… ぃゃー…(慣れた店内、この席に座ると否応無しに思い出す レザン ……マジでなんで来たんですかね? テラさんが入室しました テラ (カランコロンと レザン (ぼやっと天井を仰ぎ見てると―… 鈴の音 テラ 、出る時は止んでたのになー……(ぼやきながらフードを下ろす。通り雨に降られたのか、肩の布地も黒く濡れている レザン うわ!テラ! テラ っ、レザンさん!? うわって何ですか!?(ギョっとして レザン ハッ!確かにうわって何だですね!? 失敬!不意打ちで見知った顔を見たもので! レザン まあまこのレザン言う事もやる事も全てがペラッペラなので!?お気になさらず!? テラ ……、(眉をひそめるが、安堵気味のため息をつくと テラ 隣、良いですか?(軟く笑って レザン …、(ひきつり気味の笑顔を少し緩めて) …えぇ、勿論。 テラ (席に付きつつレザスペ注文 テラ ……(早速届くそれを一口 レザン (流石お目が高い!などと軽口言って テラ 凄い甘いんですけど何ですかね。また口恋しくなるっていうか。 レザン …ちょっと久しぶりです? まあ私も通い詰めてた訳じゃ無いですけど。 レザン ははは!テラもハマったようですね?(にっこー テラ (笑って返して テラ 黒騎士、決着付けてくれたんですね。 テラ 俺が言うのも変かもしれないけど…ありがとうございました。 テラ 俺も参加はしたかったんですが……足止め食らってて…… テラ いや、言い訳だな……(自嘲のため息 レザン 、… (明らかに、返しに迷う沈黙があるが レザン いやま、私何もしてませんけどね!(はっはっは、と テラ ……。 テラ 何かありました?(視線は合わせずレザスペで濁しながら レザン えっ …… レザン …、ぇ〜、いえまあ…(同じく、カップに視線移して レザン 言葉の通りですよ。私はその場に居合わせましたが、ガチで何もしてません。 レザン 映像でも見れば解る事ですが。なので礼を受け取るには躊躇いがありますね!(ははは、と空笑いで テラ …最初から上の空って感じだったけど。その事を気にして? レザン …そんな表に出てます?(ぅゎぁ、と レザン 実はこう見えて嘘がヘタでしてね…(冗談めかしてるがマジである テラ 俺も察し良いほうじゃないけど、今日は何か、元気無いな、って。 テラ レザンさん、いつも明るいでしょ。だからかな(違和感に気付いたのは、と レザン …そうですかぁ。(はぁ、と レザン …まあ、察する通り…って事になるんでしょうか。(どっか観念したように テラ ……。 レザン …う〜ん、何をどう言ったモノだかですが、(話す気はあるようだ、が テラ 戦闘を見守ってた、って言えばレザンさんらしいですけど……何か別の理由が? レザン …例えばテラの知り合い…私とかでもいいですが。 レザン その人が敵の手に落ち、身の安全を脅かされていたとしましょう。 レザン …テラなら奮起しますよね。 というか、きっと、凡その人は。 テラ ……、それは、まぁ。 テラ そうですね……そうする、と思います。 その為に此処に来てるようなものだし…(うん、と少し考えて レザン ですよねぇ〜〜……(はぁぁぁ、とテーブルに沈んで レザン …まあ、私はそうではないんですよ。 …そうじゃないから此処に来てる、とも言えるんですが…(ものすごい言いづらそうに テラ ………? レザン ………マジコイツ何言ってんだって思うと思います。というか思ってください。(前置きまでした レザン ものすごくマシな言い方をすると、 レザン ……シリアスに耐えきれない体質、みたいな…… テラ …………… テラ …………??(凄い眉潜めてる…! レザン ですよね!!!(むしろ安心しましたよ!てノリ レザン …よーするに私、「黒騎士」の本来の持ち主と知り合いでして。 レザン 敵に捕われた彼女が目の前に現れて…、 テラ …… レザン 「それで動けなくなった」んですよ。 レザン ……いやもうこれ、真面目な話ガチのクズというかひたすら罵られても何も言えないんですけどね??(後ろめたさで口数が増える テラ ……。(少し考えて、言葉1つ1つ選ぶように テラ どうして、「動けなくなった」んですか…? レザン ……、(こちらも言葉を選ぶ 己の実情が、あんまりにもあんまりだからだ レザン …「あぁ、コレって重い戦いなんだ」と、思ってしまったから…だと思います テラ 重い戦い…… レザン 何かを守らないと、とか。敗北すればどうなる…とか。 レザン そうやって何か抱えるモノが出来ると、 レザン 全部投げ出して逃げたくなるんですよ。(ぁーぁ、と真顔で前向いて テラ …… レザン (力が及ばなかったとか、臆病風に吹かれたなら、どれだけマシだったか テラ 失敗したくないから。 負けたくないから、ですか? レザン …どうなんでしょう(力無く笑み レザン …負けず嫌いでは無いと思うんですが。逆に勝ち負けに無頓着過ぎたか… レザン …兎角、その気質がモロに出てしまった訳です。 テラ ……以前、王子様、って言ってたよね。 レザン …ぇぇ、言いましたね。 テラ 此処に来たのは、その重圧から逃げるため? テラ ……それとも、何かを為すためですか? レザン ……… レザン ……どちらもです。 ま、八割方前者ですけどね。(はは、と レザン やれ✕✕✕年来の凶兆だとか、国の衛りだとか… レザン 急にそんな事言われましてもね! …と。(開き直った言い方で テラ …… レザン (博愛主義。平和主義。楽観主義。それは「平和な街の王子」でいる内は結構な事だったろう。 レザン ……私に『鎧』を授けた人々も、 レザン 私が此処までポンコツだとは思って無かったでしょうね。 テラ ……… テラ 俺も、よく悩みます。 レザン …。 テラ 失敗したらマズいな、とか、万が一、とか。 テラ 多分、誰だってそうです。 笑顔で崖から跳んだりする人なんて居ませんよ。 テラ ……稀に、跳ぶのが好きな人も居るだろうけど…… レザン …確かに。(少し笑って テラ 覚悟や自信なんて、全然無いけど、それでも俺は、想いに応えたくて――…… レザン …… テラ ……まるでがむしゃらですけど。でも、それでも、ってやつです(グラス握って見つめて テラ 俺、こないだまで普通に学生でしたし、王子って全然どんなものか判らないし テラ 多分、見えてる風景は違うんです。(だから、言えることなんて、何もない。そんな人生経験豊富でも無い。 レザン …… テラ …………でも。 テラ ( ――「怖くは、ないんですか?」 テラ そこに、助けを求めている人がいる。 テラ ( ――「ああ? あたしだって人間さ。 いや、亜人だけど…… ま。そりゃさ、怖いよ。当たり前に」 テラ 困ってる、国の人達がいる。 テラ ( ――「なら、どうして……」 テラ ……自分に何か出来るかもしれない、何も出来ないかもしれないけど レザン ……… テラ ( ――「どうしてって……逃げて手札が増えるなら逃げるよ? けど、あいにくあたしの人生の手札はこれきりって判りきってるし」 テラ ( ――「クソな上司から離れたって次の部署に合わねぇ奴もいるだろうし、今日やらなきゃいつかはやらなきゃならないし」 テラ ( ――「逃げたってその先に楽園も平和も無いしな。どうせ。」 テラ ……なんとか、したい。助けたい、守りたい。 テラ レザンさんも、そうなんでしょう? テラ ( ――「それにさ。」 テラ 本当は期待に応えたくて、助けたくて、その、黒騎士の人も助けたくて レザン ……… テラ ( ――「戦わねぇと、『負け犬』にすらなれないしな」 テラ ( ――「『負ける』のはイヤだが、負けることすら出来ないのはもっと嫌だ。」 テラ ( ――「あたしはここにいるって、この空に痕を残したいんだよ。」 テラ ( ――「だから、”効いた”ろ? その腹の傷――」 (に、と悪びれて―― テラ でも、うまく出来なくて、足掻いて、うまく行かなくて テラ だから今、苦しんでる……そうなんじゃないんですか? レザン ……どう、なんでしょうね。 レザン 今の私は、足掻く事すら出来てはいませんから。 レザン ……ですが、そうですね。 テラ …、この”危険な喫茶”に来てるじゃないですか(ふう、とやわらかく レザン 悩み迷いながらも、テラは剣を取れる人です。 …そういう人には、憧れます。 テラ …… レザン …だからこそ、何かを為したい残りの二割で、この「危険な喫茶」に来てるのかもしれませんね。 テラ そんな……俺なんて……でも テラ もし、俺で力になれることがあれば、協力します。 レザン …… いやぁ、本当に、人が良いと言いますか… レザン …呆れられるか、軽蔑されるかだと思ってましたよ。 正直。 レザン 結構ひどいぶっちゃけ話でしたし。 テラ ……戦いに参加できなかった、って事なら俺も一緒ですし テラ 今、目の前で誰かが襲われてたらレザンさんにも協力をお願いすると思うけど…… レザン ……そう、ですか。(ふむ、と テラ 大きな被害も出なかったんですし、まずはそこを喜びたいです……っていうと楽観的過ぎるかな。 レザン まっ、そこはそうですね? テラ (ん、と笑って テラ じゃあ丁度おやつ時、っていうと子供っぽいですけど、何か食べましょうか レザン ですね。(ぱ、と切り替えて笑って レザン 奢りますよ。辛気臭い話を聞いてもらった御礼です。 テラ 、ホントに? 何か悪い気もするけど……それじゃあ、前から気になってたこのサンガル魔王城ハニトーってのを――……(pad見つつやいやいと レザン 全然オッケーですとも! レザン あぁ、それ一斤まるごと使ってる奴ですよね?ソースの種類が選べるようですが――……(覗き込みやいやい テラ (小雨が窓に張り付く昼下がり テラ (甘いシロップの香りが喫茶を包んだ……! テラさんが退室しました レザンさんが退室しました
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/143.html
■1.はじめに 当サイトでは自由で寛容な価値多元的社会を支える憲法論の基礎となる法概念論として、H. L. A. ハートの法=社会的ルール説を幾つかのページで紹介している。 ※「法=社会的ルール説」は20世紀初頭に英米圏で発展した分析哲学の成果を受けて、1961年にイギリスの法理学者H. L. A. ハートによって提唱され、現在では英米圏の法理論の圧倒的なパラダイムとなっている法の捉え方である。(以下のモデル図参照。また阪本昌成『憲法理論Ⅰ』第二章 国制と法の理論も参照) 当ページは、この①ハートの法概念論(ルール論)と密接に関連しつつ、同じく自由主義社会を支える基礎理論を提供している②ハイエク(自生的秩序論)、③J. L. オースティン(言語行為論)、さらに④ウィトゲンシュタイン(言語ゲーム論)といった各々の理論の相互的な関連性を鋭く分析した落合仁司氏(同志社大学教授)の論説を紹介し、現代保守主義の社会理論について考察を深めることを目的とする。 関連ページ法と権利の本質 <目次> ■1.はじめに ■2.落合仁司『保守主義の社会理論-ハイエク・ハート・オースティン』紹介と抜粋▼まえがき ▼第一章 世紀末の新しい保守主義◆1.世紀末の《近代》 ◆2.自生的秩序・ルール・言語行為 ▼第二章 合理と個体◆1.産業主義と合理主義 ◆2.実証主義と記述主義 ◆3.民主主義と個体主義 ◆4.主権主義と表出主義 ▼第三章 暗黙の言及◆1.暗黙的秩序 - ハイエク - ◆2.外的視点 - ハート - ◆3.発語的行為 - オースティン - ▼第四章 規範の文脈◆1.規範的秩序 - ハイエク - ◆2.内的視点 - ハート - ◆3.発語内の力 - オースティン - ▼第五章 慣行と遂行◆1.慣習あるいは《遂行的なるもの》 ◆2.新しい保守主義 ◆3.保守主義とは何でないか ▼第六章 解釈学的社会学としての保守主義◆1.解釈学的社会学へ ◆2.自己関係性の構造 ◆3.基礎付けの不可能 ◆4.《選択肢》の不在 ◆5.再び伝統とは何か ▼原注 ■3.まとめ ■4.ご意見、情報提供 ■2.落合仁司『保守主義の社会理論-ハイエク・ハート・オースティン』紹介と抜粋 『保守主義の社会理論―ハイエク・ハート・オースティン 』(落合 仁司:著) ①F.A.ハイエクの自生的秩序論、②H.L.A.ハートの法概念論(法=社会的ルール説)、③J.L.オースティンの言語行為論という20世紀哲学の諸潮流の内的関連性を、④ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論と絡めながら解説し、社会哲学の観点から「20世紀以降の保守主義の社会哲学」を論じた名著。書中に多々登場する哲学・思想用語を一つ一つ辞書等でチェックしていく根気さえあれば、論旨明快で読みやすいはず。 ▼まえがき ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... 本書は、現代における保守主義についての、社会哲学的な論述である。 従って、現代の保守主義を対象とした、政治学を始めとする社会科学的な分析とは、差し当たり、関係ない。 本書は、現代の保守主義を、経済哲学や法哲学さらには言語哲学を含む、社会哲学の地平において解釈する試みなのである。 しかし、20世紀末の現代において、何故に、保守主義を、しかも、社会科学ならぬ社会哲学の地平において、取り上げねばならぬのか。 今世紀末は、人間の《或るもの》からの離脱不能性と、人間による《或るもの》の操作不能性とを、倦むことなく語り続けて来た保守の精神からは、恐らく最も遠い処に漂い着いた時代である。 すなわち、今世紀末は、人間の《総てのもの》からの個体的な解放と、人間による《総てのもの》の合理的な制御とを、飽くことなく欲し続けて来た啓蒙の精神が、人類の最も誇るべき価値であるかの如き高みに昇り詰めた時代なのである。 そのような啓蒙主義への、最大の敵対者であった筈の保守主義を、今、何故に、しかも、社会哲学などという非科学的な地平において、取り上げねばならぬのか。 言い換えれば、あたかも啓蒙の進歩主義によって完全に領導されているかに見える、近代社会の唯中にあって、伝統の持続とその解釈などという営為が、果たして、いかなる意味を持ち、また、いかにして可能であるのか。 保守主義の社会哲学、すなわち、伝統の持続とその解釈という営為を引き受けるに当たって、これらの問いを避けて通る訳にはいかない。 しかし、これらの問いに答えることは、外ならぬ本論の課題である。 ▼第一章 世紀末の新しい保守主義 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.世紀末の《近代》 我々の時代は、機械と快楽の時代に見える。 産業技術と消費大衆の支配の時代である。 なるほど、この二世紀の間に、産業技術は、蒸気機関と鉄道輸送から電気機器と自動車交通へ、さらには情報処理機器とデータ通信へと大きく移行し、消費大衆は、ブルジョワジーとプロレタリアートから豊かな中間大衆へ、さらには新しい快楽的個人へと激しく変遷してきている。 しかし、技術的な合理主義と大衆的な個人主義の一貫した進展という意味において、この二世紀は、むしろ連続した平面の上にある。 すなわち、我々の時代は、フランス革命と、産業革命さらにはそれに引き続く民主革命とによって解き放たれた、合理主義と個体主義、あるいは産業主義と民主主義という、加速度運動の相の下に捉えられるのである。 言い換えれば、我々の時代は、19世紀と20世紀の200年間を通じて、あらゆる世界を席巻してきた、産業化と民主化という激浪の波頭に位置しているのである。 ここでは、この産業主義と民主主義の二世紀を、《近代》と呼ぶことにしたい。 従って、我々の時代は、20世紀末の《近代》と言うことになる。 この産業主義と民主主義、あるいは合理主義と個体主義の《近代》を称揚する思想は枚挙に暇がない。 近代自然法論や社会契約論、さらには啓蒙思想は言うに及ばず、19世紀以降に限っても、功利主義やマルクス主義、さらにはそれに引き続く、実証主義的な社会科学(たとえば分析法学、新古典派及びケインズ派経済学、機能主義社会学など)やマルクス主義的な社会科学、といった社会思想が、産業化(合理化)と民主化(固体化)の双方あるいはいずれか一方を、積極的に推進すべく、その言論を展開している。 産業主義(合理主義)あるいは民主主義(個体主義)を称揚する、これらの社会思想こそ、このニ世紀を通じて、進歩主義と呼び習わされて来た思想に外ならない。 《近代》の進歩主義は、功利主義とマルクス主義とに端を発する、《近代》社会科学によって担われて来たと言っても、決して言い過ぎではないのである。 《近代》の進歩主義は、言うまでもなく、極めて多様な傾向を孕んでいる。 そこには、自由主義的な傾向も存在すれば、社会主義的な傾向も存在する。 しかし、いずれの傾向も、その力点の置き方に多少の違いはあるとしても、合理主義と個体主義を信奉することにおいて、いささかも選ぶ処はない。 《近代》進歩主義は、人間とその社会を、理性によって目的合理的に制御し得るし、また、そうすべきである、と考える合理主義と、人間とその社会を、個体的な欲求充足に還元し得るし、また、そうすべきである、と考える個体主義とを、その共通の前提としているのである。 進歩主義は、このニ世紀に亘って、社会の合理的な管理と人間の個体的な解放という二つのスローガンを、倦むこと無く主張し続けてきた。 このニ世紀に亘って進行した、産業化あるいは管理化と、民主化あるいは大衆化という二重革命は、このような進歩主義を、その思想的な前提とし、また帰結ともしているのである。 しかし、このような産業化と民主化の進行、あるいは進歩主義の哲学に対する懐疑もまた跡を絶たない。 合理主義と個体主義の哲学に対する懐疑は、《近代》思想史のいわば裏面を形成している。 たとえば、20世紀を代表する、ウィトゲンシュタインや日常言語学派、あるいは現象学や解釈学、さらには構造主義やポスト構造主義の哲学は、多かれ少なかれ、合理主義と個体主義に対する懐疑を、その発条(バネ)として展開されている。 しかし、合理主義と個体主義に対する懐疑の歴史において、決して逸することの許されないのは、フランス革命の産み落とした合理主義と個体主義の狂気に対して、敢然と立ち向かったバーク以来の保守主義の伝統である。 保守主義は、産業化と民主化の進行とともに、怒涛の如く進撃してきた進歩主義の哲学に抗して、200年このかた、《近代》への懐疑の哲学を守り続けてきた。 合理主義と個体主義に対する懐疑の伝統は、取りも直さず、《近代》保守主義の伝統に外ならないのである。 この意味において、ウィトゲンシュタインや日常言語学派の哲学といった20世紀思想もまた、《近代》保守主義の伝統の現代的な表現である、と言って言えなくもない。 本書もまた、このような《近代》保守主義の伝統に棹さして、20世紀末における、その今日的な表現を模索する試みに外ならないのである。 《近代》の保守主義は、人間とその社会を、理性によって意識的に制御する可能性を疑う。 人間の行為は、合理的には言及し得ない偏見や暗黙知を前提として始めて可能になるのであって、意識的には制御し尽くせないからである。 また、保守主義は、人間とその社会を、個体の意図に還元する可能性を疑う。 人間の行為は、個体には帰属し得ない権威やルールに依存して始めて可能になるのであって、その意図に還元し尽くせないからである。 このように合理主義と個体主義を懐疑する立脚点こそ、伝統あるいは慣習と呼ばれるものに外ならない。 すなわち、伝統あるいは慣習とは、行為の持続的な遂行の結果として生成される秩序であるにも拘わらず、行為の意識的な対象としては制御不能であり(偏見あるいは暗黙知)、かつ、行為の主観的な意図には還元不能である(権威あるいはルール)何ものかである。 言い換えれば、伝統あるいは慣習とは、人間の行為によって生成される秩序であって、自らの存在を理由付けるいかなる根拠も持ち得ない(偏見あるいは暗黙知)にも拘わらず、自らは行為の当否を判定する根拠となり得る(権威あるいはルール)というものなのである。 保守主義は、このような伝統あるいは慣習こそが、人間とその社会の存在を辛くも可能にするのである、と主張する。 保守主義から見れば、合理主義は、人間とその社会の制御不能性を閉脚した、理性の専制支配に外ならず、また、個体主義は、人間とその社会の還元不能性を無視した、個体のアナーキーに外ならない。 《近代》保守主義は、このように合理主義と個体主義とを懐疑することによって、《近代》進歩主義の蛇蝎の如く忌み嫌う、伝統や偏見や権威やへの信仰を擁護するのである。 本書は、このような保守主義の、20世紀における新たな相貌を彫塑してみたい。 元来、保守主義は、その時代における進歩主義の様々な意匠に応じて、幾度となく変貌を繰り返しながら、進歩への疑いを懐き続けて来た。 保守主義の歴史は、進歩への懐疑という動機による、変奏曲の歴史なのである。 従って、我々の時代の保守主義もまた、進歩主義の新機軸に応じて、新たな衣装を纏いつつ立ち現われている筈である。 本書は、そのような20世紀末の新しい保守主義の容貌を、明瞭に写し撮ってみたいのである。 何故ならば、保守主義を論ずることは、産業化と民主化の行き着く処まで行き着いてしまったかに見えるこの時代、技術的な管理と快楽的な大衆ばかりが跳梁跋扈するこの時代を懐疑する、最も確かな立脚点となり得るからである。 さらにまた、保守主義を論ずることは、合理主義と個体主義とによって塗り固められた、《近代》社会科学の城壁に、蟻の一穴を穿つ社会哲学の、最も確かな橋頭堡となり得るからである。 ◆2.自生的秩序・ルール・言語行為 我々の時代の保守主義を論ずることは、しかし、かなり逆説的な課題である。 バークが《近代》保守主義の生誕を高らかに宣言した時代には、その背景に、土地と議会を支配したジェントルマン達の貴族主義が、確固として存在していた。 保守主義は、ブルジョワ的産業主義と大衆的民主主義に反対する、ジェントルマンのイデオロギー足り得たのである。 しかし、ニ世紀に亘る、産業化と民主化の津波のような進撃が、あらゆる種類の貴族主義を粉砕し尽くし、技術と大衆が完全に勝利を収めた、我々の時代の保守主義には、いかなる階層的な基盤も期待し得ない。 我々の時代の保守主義は、支配階層のイデオロギーといったものではあり得ないのである。 我々の時代を支配しているのは、むしろ技術と大衆なのであって、それらを称揚する思想は、進歩主義でこそあれ、保守主義などでは全くあり得ない。 我々の時代の支配的なイデオロギーは、支配的であるがゆえに保守的であるという訳には、必ずしもいかないのである。 しかし、支配的であるものを擁護することが、必ずしも保守的であるとは限らないという状況は、かなり逆説的であると言う外はない。 このような状況において、保守主義は、いかに立ち現われるのであろうか。 我々の時代の保守主義を論ずるためには、この問いを避けて通る訳にはいかない。 これが、保守主義を20世紀末の今日において論ずることの引き起こす、差し当たりの困難である。 保守主義を論ずることは、しかし、より根本的な困難を孕んでいる。 保守主義を論ずることは、取りも直さず、自然発生的に形成される伝統や、合理的には言及し得ない偏見や、個体的には帰属し得ない権威やを論ずることに外ならないが、これらの伝統や偏見や権威やは、むしろ言葉によっては語り得ず、ただ行為において示される類いのものなのである。 すなわち、保守主義を論ずることは、語り得ぬものを語らねばならぬという困難を抱え込むことに等しいのである。 しかし、この困難は、保守主義が、合理主義と個体主義を否定することにおいて始めて成立したという、その出生の秘密の内に、既に孕まれたアポリア(※注釈:aporia 論理的正解を見出し辛い難問)である。 すなわち、保守主義は、客観的には言及し得ず、主観的には帰属し得ない、主客いずれでもあり得ない、言い換えれば、「~ではない」としか語り得ないものとして、この世に産み落とされたのである。 従って、保守主義を論ずることは、極めて逆説的な作業となる。 すなわち、保守主義は、進歩主義の称揚する諸価値を否定する作業の積み重ねの彼方に、いわば描き残された空白として、立ち現われて来るのである。 この意味において、保守主義の擁護する伝統は、《空の玉座》である。 すなわち、一切の存在は玉座を指し示しているにも拘わらず、そこに鎮座すべき王は永遠に不在なのである。 現代の保守主義を論ずることに纏わる、これらの困難を切り抜けるために、本書は、20世紀における、必ずしも保守主義者とは自認していない、合理主義と個体主義の批判者達の言説を取り上げてみたい。 何故ならば、現代の保守主義は、支配的なイデオロギーを喧伝している、自称保守主義者達の言説によく現れているとは考え難いからであり、また、現代の保守主義と言えども、合理主義と個体主義とを否定する言説の隙間にしか、決して立ち現われ得ないからである。 本書は、このような現代における啓蒙の批判者として、F・A・ハイエク、H・L・A・ハート、J・L・オースティンの三者を取り上げることにする。 言うまでもなく、現代における合理主義と個体主義の批判は、この三者のような、ウィトゲンシュタインに近い筋や日常言語学派からのそれのみならず、現象学や解釈学からのそれ、あるいは、構造主義やポスト構造主義からのそれといった、様々な潮流によって担われている。 20世紀思想の主だった潮流は、押しなべて合理主義と個体主義の批判に従事していると言っても、決して過言ではないのである。 それらの諸潮流の中から、主としてイギリス(あるいは英米圏)をその活躍の舞台とした、ハイエク・ハート・オースティンの三者を選択する理由は外でもない。 このニ世紀の間、《近代》進歩主義に抗して、最も激しく戦い抜いてきた、イギリス保守主義の伝統に、ささやかな敬意を表したいからである。 イギリスは、産業革命と民主革命の祖国であるとともに、《近代》保守主義のいつかは還るべき《イェルサレム》なのである。 1 フリードリヒ・A・ハイエクは、1899年、オーストリア・ハンガリー帝国爛熟期のウィーンに生まれた。ルードウィヒ・ウィトゲンシュタインが母親の又従姉妹に当たる家系の出自である。ウィーン大学で法学、政治学、オーストリア学派の経済学を学ぶとともに、1927年よりオーストリア景気変動研究所の所長を勤めた。しかし、オーストリアの政治状況下では教授職を得難く、英米圏に渡り、1931年よりロンドン大学、1950年よりシカゴ大学に奉職する。その後、1962年に西ドイツのフライブルグ大学に戻った後、1967年に退職した。1974年にはノーベル経済学賞を受賞している。主著『法・立法・自由』の出版は、第一巻「規則と秩序」が1973年、第二巻「社会的正義の幻想」が1976年、第三巻「自由人達の政治秩序」が1979年である。ハイエクは、社会の全体を合理的に管理し得るとする技術的合理主義あるいは産業主義と、その政治経済的表現であるあらゆるタイプの社会主義(コミューン主義、民主社会主義、ケインズ主義、国家社会主義、福祉主義、行政国家など)を、理性の思い上がりであるとして根底的に論駁するとともに、大衆の意志に絶対の主権を授与する無制限な民主主義こそが、隷従への隧道(※注釈:すいどう、①墓場へと降りていく道、②トンネル)であるとして厳しく批判する。ハイエクは、この技術的合理主義と大衆的民主主義への反駁の立脚点として、行為の累積的な結果として生成されるにも拘わらず、行為の意識的な対象としては制御され得ず、また、行為の主観的な意図にも還元され得ない(行為の)秩序としての、自生的秩序(spontaneous order)の概念を提出する。この自生的秩序という概念こそが、保守主義を論ずるに当たって、是非とも参照されねばならないキー・コンセプトなのである。 2 ハーバート・L・A・ハートは、1907年、イギリスに生まれた。オックスフォード大学卒業後、弁護士を経て、1954年より母校に戻り、1968年に退職した。主著『法の概念』の出版は1961年である。言うまでもなくハートは、英米圏の法哲学を代表する社会哲学者であるとともに、オックスフォード日常言語学派の最も重要なメンバーの一人である。ハートは、法を含むルールを、最高、無制限の主権者の命令あるいは意志に帰属させる、個体主義的な社会論の不可能性を緻密に論証する。ハートにとって、(内的視点から見た)ルールとは、個体の行為の妥当性を判定する理由となるものであって、個体の意志にはついに帰属させ得ない存在なのである。しかし、ハートは、ルールについての個体主義的あるいは主観主義的な理解を拒絶するからと言って、当為判断の理由たるルールについての客観主義的あるいは自然主義的な理解に与する訳ではいささかもない。ハートにとって、(外的視点から見た)ルールとは、あくまでルールに従っているという慣習的な行為の中にのみ見出されるものであって、いまここに遂行されているという事実以外の、いかなる客観的あるいは絶対的な根拠も持ち得ない存在なのである。すなわち、ハートにとって、ルールとは、自らはあらゆる行為の妥当性を判定する理由となるにも拘わらず、自らの妥当性を根拠付けるいかなる理由も持ち得ずに、ただ慣習的に従われている存在に外ならないのである。このようなハートのルール論が、保守主義の論ずべき点について、極めて大きな示唆を与えることは明らかであろう。このようなルール論の形成に当たって、日常言語学派の哲学、わけてもジョン・L・オースティンとの交流が、決定的な役割を果たしたことは言うまでもない。 3 ジョン・L・オースティンは、1911年、イギリスに生まれた。オックスフォード大学卒業後、1933年より母校に奉職し、1960年に没した。主著『いかにして言語とともに行為するか』(※注釈:『How to Do Things with Words』)は、1962年の出版である。言うまでもなくオースティンは、20世紀後半のイギリス哲学を代表する日常言語学派の第一人者である。オースティンは、言語は何等かの事実を記述するものであり、言葉の意味はその記述対象である、従って、事実によってその真偽を検証し得ない言明は無意味であるとする、実証主義(※この文脈では論理実証主義 logical positivism の「意味の検証可能性テーゼ/原理 verifiability principle」 を指すものと思われる)あるいは記述主義の呪縛から言語を解放する。オースティンによれば、言語は、命令や判定や約束やの発話に見られるように、それ自体が社会的な行為の遂行なのであって、事実の記述に帰着し得るものではなく、その真偽を検証し得なくとも有意義なのである。しかし、オースティンは、言語は客観的な事実の記述ではなく行為の遂行であると主張することによって、あらゆる発話は発話する個体の主観的な意図や情緒や欲求やの表出である(※注釈:情緒主義 emotivism)と主張したい訳ではない。オースティンによれば、発話の社会的な行為としての効力は、その発話の適切性を判定する慣習的なルールに依存するのであって、発話する個体の主観的な意図には帰属し尽くせないのである。このようなオースティンの言語行為(speech act)論は、保守主義を論ずることの複雑な様相を照らし出す。保守主義を問うには、人間にとって最大の伝統あるいは慣習である言語への問いを、その射程に入れねばならないのである。 彼ら三者は、無視し得ない差異を留保しつつも、合理主義あるいは実証主義と、個体主義あるいは主権主義とに対する懐疑を共有している。 すなわち、彼らは、その力点の置き方にかなりの相違を認めるとしても、世界に対する、合理的な制御あるいは言及の可能性を疑い、また、社会の、個体的な意志への還元あるいは帰属の可能性を疑っているのである。 さらに、彼らが、そのような懐疑の立脚点として提出する、自生的秩序、ルール、言語行為の諸概念もまた、ある幾つかの特徴を共有している。 すなわち、これらの諸概念は、行為の結果として慣習的に生成されるにも拘わらず、(制御や言及やといった)行為の対象とはなり得ない暗黙的な事態であり、かつ行為を妥当させる規範的な根拠となる、といった諸特徴のいずれかを、必ず指し示しているのである。 このような自生的秩序・ルール・言語行為の諸概念が、ウィトゲンシュタインの言語ゲームの概念と、言わば家族的に類似していることは、注目されてよい。 言語ゲームは、人間の行為の遂行は総て言語ゲームの遂行とならざるを得ないという意味において、行為を拘束する(規範的な)事態であり、また、自らの総体を対象とした(その正当化をも含む)いかなる言及をも許さないという意味において、暗黙的な事態である。 すなわち、言語ゲームとは、自らにあらゆる行為を従属させるとともに、自らは如何なる根拠をも保持し得ない、いわば慣習的な事態なのである。 このような言語ゲームの概念は、自生的秩序・ルール・言語行為の諸概念と、そのかなりの特徴を共有している。 保守主義を論ずるに当たって、言語ゲーム論は、極めて魅力的な題材を提供しているのである。 しかし、本書は、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論を、明示的には取り扱わない。 一つには、ウィトゲンシュタインのテクストを解釈する作業が、解釈の可能性それ自体をも含めて、かなりの錯綜した課題と見受けられるからであり、二つには、言語ゲーム論と、わけてもハートのルール論との相互関係をめぐる、極めて鮮やかな分析が、近年、橋爪大三郎によって為されているからである(※原注1:橋爪大三郎『言語ゲームと社会理論-ウィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン-』勁草書房 1985)。 従って、本書に現れる言語ゲーム論は、ハイエク・ハート・オースティンのテクストの解釈に投影された、その射影に過ぎない。 しかし読者は、本書に落とされた、ウィトゲンシュタインの長い影を、やはり鮮やかに見いだす筈である。 何故ならば、ウィトゲンシュタインこそが、20世紀思想の諸結果と、保守主義の伝統とを結び付ける、あの《失われた環》(※注釈:missing link)に外ならないと想われるからである。 以上のような、ハイエクの自生的秩序論、ハートのルール論、オースティンの言語行為論、さらには、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論が、現代における保守主義の在処(ありか)を発見する、最も有力な手掛かりとなることは明らかであろう。 保守主義の変わらぬ拠り処は、遂行的に生成される伝統であり、合理的には言及し得ぬ偏見であり、個体的には帰属し得ぬ権威であった。 自生的秩序やルールや言語行為やさらに言語ゲームといった、20世紀思想の指し示すものは、遂行的に生成される慣習的な事態であり、合理的には言及し得ぬ暗黙的な事態であり、個体的には帰属し得ぬ規範的な事態である。 従って、保守主義とこれら20世紀思想の間には、ほとんど完全な同型対応が存在していることになる。 あるいは、これら20世紀思想は、むしろ保守主義の現代における新たな表現であると言ってもよい。 すなわち、保守主義は、これら20世紀思想に身を託して、この20世紀末の現代に立ち現われた、と言って言えないことはないのである。 しかし、これらの議論の当否は、本論に委ねることにしよう。 ▼第二章 合理と個体 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.産業主義と合理主義 産業主義と民主主義を懐疑することなど、しかし、この20世紀末の現代において、果たして可能なのだろうか。 我々の日々の生は、産業化と民主化の奔流の中で、ただ木の葉のように翻弄されているに過ぎないのではないか。 我々は誰しも、もちろん私自身をも含めて、何程かは、効率的な経済人であり、また、快楽的な大衆人なのである。 このような我々の日常を懐疑することは、つまるところ、我々の日常の一切を否定し去ることになるのではないか。 しかし、およそ保守主義を論じようとする姿勢の内に、我々の日常の一切を否定し去ろうとする態度の含まれよう筈もない。 いやしくも保守主義と呼びうる思想には、いまここに生きられている現実への肯定が、何程かは含まれている筈である。 従って、現代における保守主義もまた、この産業主義と民主主義に魅入られた20世紀末の現実の唯中に、肯定すべき某(なにがし)かの価値を見い出していることになる。 あるいは、そのように肯定されるべき現実こそが、産業主義と民主主義に対する懐疑の疑い得ぬ立脚点なのである、と言い換えてもよい。 保守主義とは、いまここに生きられる世界に定位して、この世界の合理的な制御や個体的な還元やの、むしろ幻影であることを暴き出す営為に外ならないのである。 それでは、産業主義と民主主義の幻影は、何故に疑い得ぬ現実の姿を取って、立ち現れ得るのであろうか。 言うまでもなく、産業主義とは、絶えざる技術革新を起爆力とする、人間と社会の不断の再組織の運動である。 この運動によって追求されているのは、自然や社会や人間自身に対する制御能力の拡大、生産力の増強、効率の上昇、合理化といった、目的達成のために利用可能な手段の拡大と、その有効適切な選択の推進である。 この手段的な可能性の拡大と、その効率的な利用を追求する態度こそ、合理主義と呼ばれるに相応しい。 マックス・ウェーバーの言う目的合理性であり、タルコット・パーソンズの言う能動的手段主義である。 すなわち、産業革命によって解き放たれたこの産業主義という運動は、合理主義をその中核的な価値としているのである。 もっとも、合理主義という言葉は、効率的な手段の追求という意味に限定されている訳ではない。 元来、合理主義とは、人間理性の尊重、あるいは理性による支配の貫徹の謂であって、その理性をどのように捉えるかによって、様々な意味に分散し得る。 理性を、目的に対して効果的な手段を選択する能力として捉えるならば、いまここで述べた合理主義の意味が出て来よう。 この意味における合理主義を、他と区別する場合には、手段的あるいは機能的合理主義と呼ぶことが多い。 この手段的合理主義と、いわゆる近代合理主義との関係は、いささか微妙である。 なるほど、手段的合理主義は、主体がその目的い適合するように客体を制御する能力を良しとするのであるから、主体と客体の分離を前提するという意味においては、近代合理主義と軌を一にしている。 しかし、手段的合理主義は、必ずしも論理整合的に推論する能力としての理性のみによって、効率的な手段を選択し得るとは考えないのであって、近代経験主義と対立する意味における近代合理主義とは、一線を画しているのである。 この意味においては、手段的合理主義は、むしろ近代経験主義の後裔をもって自認している、各種の実証主義に近しい。 主観とは分離された客観的な事実によって、その真偽を検証し得る命題のみが有意味であるとする実証主義(※注釈:論理実証主義 logocal positivism)は、選択した手段のもたらす結果についての実証的な知識こそが、効果的な手段の選択には不可欠であると考える手段的合理主義の、認識論的な前提となっているのである。 あるいは、むしろ検証可能性の拡大こそが人間の進歩であると考える実証主義は、制御可能性の拡大こそが人間の進歩であると考える手段的合理主義の、最も典型的な現れであるとも言えよう。 行為論における手段的合理主義と、認識論における実証主義とは、言わば同型的に対応しているのである。 ハイエクが批判するのは、このような手段的合理主義である。 ハイエクの用語系では、手段的合理主義は、構成的合理主義(constructivist rationalism)と呼ばれる(※注釈:ハイエク著『法と立法と自由』では「設計主義的合理主義」と翻訳されているが、こちらの方が良訳である)。 構成的合理主義とは、およそ人間の行為と社会は、何等かの目的の達成のために、意識的に組織され管理され計画され操作され制御され構成されており、また、そうされるべきだとする考え方である。 すなわち、人間の行為と社会は、それを対象として捉える人間の理性によって、意識的に構成し得るし、また、すべきだと言うのである。 ハイエクによれば、この構成的合理主義の淵源は、デカルトの合理主義に遡り得る。 デカルトによる思考する主体と思考される客体の分離は、構成的合理主義の必要条件を準備するものであり、また、明証的な前提から論理的に演繹された知識のみが、疑い得ぬ確実な知識であるとするデカルトの合理主義的確証主義は、意識的に計画され構成された行為のみが、目的達成にとって有効な行為であるとする構成的合理主義と、その精神の態度を共有するものである。 すなわち、明晰で意識的な理性によって根拠付けられたもののみを信仰するという態度において、構成的合理主義は、デカルト的合理主義の紛れもない後裔なのである。 しかし、そうであるからといって、この構成的合理主義が、実証主義と対立する訳ではいささかもない。 実証主義とは、客観的な事実によって検証可能な知識のみが、疑い得ぬ確実な知識であるとする経験主義的確証主義なのであって、明晰な理性によっても疑い得ぬ絶対確実な知識を希求する確証主義という意味においては、デカルト的合理主義と選ぶ処はないのである。 従って、構成的合理主義とは、意識的な理性によっては確証され得ない一切のものを懐疑する、過激な懐疑主義の運動なのであるともいえよう。 このような構成的合理主義から見れば、伝統や慣習といった、必ずしも意識的に設計された訳ではない社会制度は、合理的な根拠のない偏見や因習として侮辱される。 伝統や慣習の軛(くびき)から解き放たれて、社会を合理的に再編成していく能力こそ、人間の理性には相応しいと言うのである。 ハイエクは、何等かの具体的な目的を達成すべく意識的に設計された社会秩序を、組織(organization)あるいはタクシス(taxis)と呼ぶ。 すなわち、組織とは、あらゆる行為を、達成されるべき目的によって評価し、配列する社会である。 ハイエクによれば、社会主義はもとより、ケインズ的なマクロ経済政策や規制などのミクロ経済政策といった、市場経済への政府介入もまた、たとえば経済的福祉という目的を達成するために、社会を一つの組織に再編成しようとする試みに外ならない。 すなわち、福祉主義をも含むあらゆるタイプの社会主義(コミューン主義、民主社会主義、ケインズ主義、国家社会主義、福祉国家、行政国家など)は、社会の総ての行為を、組織の目的に対する貢献によって評価し、配列しようとする試みなのである。 構成的合理主義、あるいは様々なタイプの社会主義は、社会を制御するための政策や手段をも含む総ての社会的行為を、それが社会にもたらすであろう帰結の、達成すべき目的に照らした優劣によって評価するのであるから、行為をその帰結によって評価するという意味における帰結主義(※注釈:consequentialism 結果主義。倫理学 ethics において、ある行為の価値は結果の良し悪しによって定まるとする学説)を含意している。 因みに、福祉主義あるいは功利主義は、典型的な帰結主義である。 この帰結主義が成功し得るためには、様々な行為のもたらす社会的な帰結の予測し得ることが不可欠である。 社会の制御を目指す政策や手段を含む様々な行為が、如何なる帰結を社会にもたらすかを予測し得て始めて、その合目的的な評価も可能になるのである。 従って、帰結主義、さらには構成的合理主義が、社会を合目的的に組織し得るか否かは、社会現象の予測可能性に懸かっていることになる。 言うまでもなく、意識的な理性に全幅の信頼を置く構成的合理主義は、社会現象の具体的な予測も原理的には可能であると、誇らしげに主張するのである。 この社会現象についての予測能力こそ、実証主義を標榜する社会科学の求めて止まぬものである。 実証主義的な社会科学は、社会を合理的に組織するための前提として役に立つ、社会予測を提供することを、その最終的な目的としているのである。 このような社会科学が標榜する実証主義とは、科学的な命題は、明証的な前提から論理的に演繹し得る命題か、あるいは、客観的な事実によって検証可能な命題のいずれかのみであるとする知識論である。 すなわち、社会をめぐる知識に対しても、真なる知識は、明晰な理性によっても疑い得ない絶対確実な根拠に基づいて判定されねばならぬとする、確証主義を要請しているのである。 ハイエクは、社会をめぐる知識に対する、このような実証主義あるいは確証主義の要請を、科学主義(scientism)と呼ぶ。 ハイエクによれば、経済学を始めとして、あらゆる近代社会科学は、この科学主義によって色濃く染め上げられている。 しかし、社会についての実証(確証)的な知識は、果たして可能なのであろうか。 あるいは、社会を、科学(主義)的な認識の対象となり得る、客観的な事実として把握することは、そもそも適切なのであろうか。 すなわち、社会制御の不可欠な前提である社会予測は、原理的に可能な行為なのであろうか。 ◆2.実証主義と記述主義 ここで、社会哲学においてしばしば混乱を引き起こす、認識論上の実証主義といわゆる法実証主義との関連について触れておきたい。 認識論上の実証主義とは、言うまでもなく、これまで述べてきた実証主義のことである。 これに対して、法実証主義(legal positivism)とは、最広義には、自然法(natural law)に対立する実定法(positive law)のみが法であるとする立場を意味する。 この最広義の意味における法実証主義は、自然法論の対抗思想という以上の意味を持たないので、むしろ、自然法論に対立させて、実定法論と呼ぶべきである。 この実定法論と呼ぶべき法実証主義は、自然法あるいは実定法の様々な解釈に依存して、極めて多義的であり得る。 その内には、ハートの擁護する法実証主義も、また、ハイエクの批判する法実証主義も含まれる。 次節以降に述べるように、ハートの擁護する法実証主義はより広義の、また、ハイエクの批判する法実証主義はより狭義のそれである。 このハイエクの批判するより狭義の法実証主義こそが、認識論上の実証主義と密接に関連しているのである。 詳しい議論は次節に譲るが、ハイエクの批判する法実証主義は、あらゆる法は人間が意図的に設定したものであるとする立場のことであり、さらには、それと関連したいわゆる価値相対主義のことである。 前者の立場は、言うまでもなく、構成的合理主義の法領域における現れであり、従って、認識論上の実証主義とは、意識的な理性の支配を貫徹させるという意味において、その精神の態度を共有している。 また、後者の価値相対主義は、事実と価値の峻別をさしあたり前提とすれば、認識論上の実証主義の、価値論における論理的な帰結となっている。 ハイエクの批判する法実証主義は、まさに法的な実証主義と呼ばれるに相応しいのである。 しかし、ハートの擁護する法実証主義は、必ずしも認識論上の実証主義と関連している訳ではない。 ハートの擁護する法実証主義は、むしろ実定法論と呼ばれるに相応しいのである。 ハートの擁護する法実証主義は、法が、人々の行為の当否を判定する法的な理由として有効でるか否か、あるいは、法が、現行の法体系の下で法としての効力を持つか否かという問題と、法が、道徳や慣習やさらには自然法やといった、実定法以外の当為規範から見て正しいものであるか否かという問題とを峻別する立場である。 すなわち、法が(その法体系の究極の承認のルールによる承認によって)法として妥当することと、それが道徳的に不正でないこととは、まったく別の問題だと言うのである。 この立場は、法の妥当性を、実定法体系の内部問題として捉えるという意味において、典型的な実定法論となっている。 しかし、ハートの言う実定法体系は、後に述べるように、実は慣習の一種である究極の承認のルールを含む、様々なルールの体系のことであって、制定法や判例法やあるいは慣習法やといった、普通にイメージされる実定法を、遥かに超えたものなのである。 このように拡張された実定法論は、認識論上の実証主義(あるいは確証主義)とは、関連がないと言うよりも、むしろ対立するものである。 何故ならば、後に詳しく議論するように、究極の承認のルールは、意識的な理性によっては語り得ぬ、ただ行為において示されるのみ(従って確証不能)のルールをも含んでいるからである。 ハートは、法の妥当性とその道徳的な価値を峻別するからといって、法の正邪についての道徳的な批判を認めない訳では些(いささ)かもない。 むしろ、そのような批判を明晰に行うためにこそ、法と道徳を峻別するのである。 言うまでもなく、自然法論は、法の妥当性をその道徳的な価値によって判断する。 すなわち、道徳的に不正な法は法ではないと言うのである。 従って、道徳的に不正な法には、それが法ではないから従わないということになる。 これに対して、ハートは、道徳的に不正な法も法である、しかし、それに従うか否かは(法的ではなく)道徳的な選択の問題である、と主張する。 ハートにとって、問われるべきは、不正な行為は為すべからずという一つの道徳的要請と、妥当な法には従うべしというもう一つの道徳的要請との間の選択である。 ハートによれば、自然法論は、このような道徳的選択の問題を、法の妥当性という問題にすり替えることによって、議論を混乱させていることになる。 自然法論の誤りは、以上に尽きるものではない。 自然法論は、法の妥当性を判断する根拠となる道徳的な価値規範を、自然法と呼ぶ。 この自然法は、自然法則と同様に、意識的な理性によって発見され得る客観的な存在であると見做されている。 しかし、客観的な存在事実から当為規範を発見し得るとする目論見は、事実命題「~である」から当為命題「~すべし」は演繹し得ないとするいわゆる方法二元論によって、容易に挫折させられる。 いわゆる自然主義的誤謬である(※注釈:naturalistic fallacy 非倫理的な[事実的]前提から倫理的結論を導くことができるとする誤謬。G. E. ムーアの仮説)。 ハートの批判する自然法論は、およそこのようなものである。 しかし、ハートは、法理論における重要な対立が、自然法論と実定法論との対立に限られると主張したい訳ではない。 むしろハートは、法理論における主要な対立を、実定法論の内部にあると見ている。 ハートは、広義の法実証主義の一部に、誤れる法理論が存在すると見ているのである。 このハートの批判する法理論は、次節以降に述べるように、ハイエクの批判する狭義の法実証主義と極めて近い。 ハートも、そしてまたハイエクも、自然法論ではなく、狭義の法実証主義でもない、第三の法理論を探求しているのである。 それはさておき、(認識論上の)実証主義は、極めて素朴なレベルでかなりの信頼を得ているようである。 たとえば、実証主義は、経験に学ぶ謙虚な態度であって、極めて当然のことだといった具合である。 実証主義が、経験に学ぶ謙虚な態度であるどころか、生きられる経験を閑却した理性の傲慢以外の何ものでもないことは、次章において詳しく展開するが、しかし、実証主義が、一見、当然のことに思えてくる事情については、少しく検討するに値しよう。 確かに、実証主義は、手段的合理主義の認識論における現れである。 認識もまた人間の行為の一つなのであるから、意識的な理性によって操作可能な行為のみが有効な行為であるとする手段的合理主義が、意識的な理性によって確証可能な認識のみが有効な認識であるとする実証主義を含意することは見やすい。 しかし、実証主義への素朴な信頼は、それが手段的合理主義の現れであることのみによる訳ではない。 そこには、認識に、わけても言語による認識に固有の事情が介在する。 我々は、言語を、何等かの事実を記述するものであると素朴に考えている。 あるいは、言葉の意味は、その言葉が指示する対象的な事実にあると考えている。 従って、ある言葉が意味を持つためには、その言葉が何等かの事実(ある事態が存在しないという事実も含む)と対応していなければならぬと考えていることになる。 さらに、ある言葉が真実であるか否かを判定するためには、その言葉と対応する事実が存在するか否かを確かめればよいと考えていることも多い。 このような言語に対する考え方を、オースティンは、記述主義と呼ぶ。 この記述主義こそが、実証主義への素朴な信頼を支える言語観なのである。 オースティンによれば、記述主義(descriptivism)とは、あらゆる言明は何等かの事実の記述であるかあるいは無意味であり、かつ、有意味な言明は真か偽のいずれかであるとする立場である。 言うまでもなく、この立場は、真偽の検証可能な言明のみが有意味であるとする、実証主義とほとんど同じ立場である。 あるいは、むしろ各種の実証主義に共通する言明観を抽象したものが記述主義であると言ってもよい。 オースティンは、次章で見るように、この記述主義の言語観を、まず、徹底的に解体するのである。 オースティンは、また、記述主義の批判と並行して、記述主義的な言語観が何処からよって来るのかについても検討している。 この記述主義の由来についての検討は、素朴な実証主義の蔓延を、よく説明するように思われる。 オースティンによれば、我々が「言葉を発する」あるいは「何かを言う」ということは、以下の三つの行為を同時に遂行することに外ならない。 一つは、ある一定の音声を発する行為(音声行為)であり、 二つは、ある一定の語彙に属し、ある一定の文法に適った、ある一定の音声すなわち語を発する行為(用語行為)であり、 三つは、ある程度明確な意味(sense)と指示対象(reference)とを伴って語あるいはその連鎖としての文を発する行為(意味行為)である。 オースティンは、この三つの行為を同時に遂行する「何かを言う」という行為を、発語行為(locutionary act)と呼ぶ。 しかし、ここでは、さしあたり意味行為のみが問題になるので、音声行為及び用語行為を捨象して、発語行為の意味を、意味内容のみを指示対象とするように限定して用いることにする。 すなわち、発語行為という語によって、意味行為という語を指示するのである。 このような発語行為という概念によって言及されているのは、我々が「何かを言う」行為は、取りも直さず、何かを指示する行為に外ならないという事態である。 すなわち、発語することは、何等かの事態を指示することなのである。 このような指示機能は、我々の言語に、紛れもなく存在している。 たとえば、ウィトゲンシュタインのように、言葉の意味は他の意味との関係の内でしか決定し得ず、言葉によって指示される事態は、言葉に先立って存在するのではなく、言葉の意味と同時に分節されると考えたとしても、言葉が、何等かの事態(言葉とは独立の客観的な事実である必要はいささかもない)を指示するということは認められる。 オースティンによれば、この紛れもなく存在する言葉の指示機能すなわち発語行為の位相のみにおいて、言語を巡るあらゆる問題を取り扱おうとする所に、記述主義が生じるのである。 すなわち、あらゆる発話は何等かの事態を指示するか、さもなくば無意味である、記述主義風に言い換えれば、あらゆる発話は何等かの事実を記述するか、さもなくば無意味である、ここまでは必ずしも誤りではない。 しかし、ここから、従って、発話を巡るあらゆる問題は、事態の指示あるいは事実の記述のみを巡る問題である、と結論する処に、記述主義が始まる 記述主義は、発話を巡るあらゆる問題を、発語行為の位相に還元し尽くそうとするのである。 しかし、オースティンによれば、発話という行為は、発語行為に還元し尽くされるものではない。 後に詳しく述べるように、発話行為は、「何かを言う」ことすなわち何等かの事態を指示することである発語行為の遂行であるのみならず、「何かを言う」ことが慣習的な文脈の下で何等かの社会的な効力を持つ(発語それ自体とは別の)行為でもある発語内行為(illocutionary act)の遂行でもあり、さらに、「何かを言う」ことを手段あるいは原因として何等かの目的あるいは結果を達成する行為でもある発語媒介行為(perlocutionary act)の遂行でもある。 発話行為は、以上の三つの行為を同時に遂行しているのである。 従って、オースティンによれば、発話行為を発語行為あるいは事実の記述に還元する試みは、発話行為が慣習的(発語内的)あるいは意図的(発語媒介的)な行為の遂行でもあるという事態を、全く等閑視することになる。 言い換えれば、あらゆる発話を事実の記述に還元する記述主義の成否は、発話を巡る諸問題が、発話に伴う、しかし発話それ自体とは区別される行為の遂行に、どこまで拘わっているかに依存することになる。 果たして、発話は、その社会的な文脈や話者の意図とは独立に、その意味あるいは指示機能のみによって、どこまで理解し得るのであろうか。 ◆3.民主主義と個体主義 手段的合理主義は、与えられた目的を最大限に達成すべく社会を組織する。 すなわち、社会のあらゆる行為を、与えられた目的に対する手段としての有効性によって評価する。 しかし、達成されるべき目的そのものは、いかにして与えられるのであろうか。 そもそも、手段的合理主義とは、手段としてのある行為が帰結する社会状態についての知識と、様々な社会状態を評価する規準としての目的とを前提して、目的に照らして最も高く評価される社会状態をもたらす手段を選択するという立場である。 さらに、行為の社会的な帰結についての知識の拡大それ自体を目的とする立場も、(そのような知識はいかなる目的にとっても手段になり得るとすれば)、手段的合理主義に含まれる。 しかし、最終的に達成されるべき社会状態を決定する目的そのものは、手段的合理主義にとって、その外部から与えられざるを得ないのである。 何故なら、手段的合理主義によれば、手段とその帰結についての知識は、実証主義的な手続きによってその真偽を確証し得る客観的な知識である。 これに対し、目的による社会の評価は、価値判断あるいは当為判断「~すべし」なのであって、客観的な知識としての事実判断「~である」とは峻別される。 従って、万人によって受け容れられる確証可能な知識は、事実判断と演繹論理のみであるとする実証(確証)主義と、事実判断から当為判断は演繹し得ないとする方法二元論とを認めるとすれば、当為としての目的は、万人によって受け容れられ得る客観的(確証可能)な知識ではありえないことになる。 言うまでもなく、手段的合理主義は、実証主義(と方法二元論)をその認識論的(あるいは価値論的)な前提としているのであるから、達成すべき目的は、万人によって受容され得る客観的な知識ではあり得ない。 すなわち、手段的合理主義は、意識的な理性によって確証し得ない一切のものを拒絶するがゆえに、その達成すべき目的を、自らの内部からは原理的に導き出し得ないのである。 それでは、達成されるべき目的は、いかにして与えられるのであろうか。 手段的合理主義によれば、およそ行為の目的は、主観的あるいは個体に相対的なものである。 何故なら、手段的合理主義が前提している主客二元論に基けば、およそ客観的でないものは主観的であらざるを得ないからである。 このような立場は、ほとんどの場合、行為の目的を、個体の意志や情緒や欲求やに帰着させる。 言い換えれば、このような立場は、行為を、個体の意志や情緒や欲求やの表出であると捉えるのである。 個体の意志や欲求やは、言うまでもなく個体に相対的、主観的なものであって、もとより普遍的、絶対的、客観的なものではあり得ない。 このような個体の意志から、少なくとも複数の個体によって構成される社会の全体が達成すべき目的が、果たして導出し得るであろうか。 この問題は、近代合理主義に特有の問題である。 あるいは、近代合理主義と主客二元論という卵を同じくする一卵性双生児である、近代個体主義に特有の問題であると言ってもよい。 すなわち、目的や価値や当為やは、客観的、普遍的、絶対的なものでは全くあり得ず、主観的、個体的、相対的なものに外ならない(価値相対主義)。 さらに、目的志向的な行為や価値判断や当為言明やは、個体の意志や情緒や欲求やの表出として捉えられる(表出主義)。 従って、社会全体の目的や価値や当為やは、個体の意志や情緒や欲求やに還元し得るし、また、されねばならぬ(個体主義)。 以上の条件を総て充たすような社会全体の目的を導出せよ。 これが問題である。 この問いに対する、近代特有の答えが、近代民主主義なのである。 民主主義とは、言うまでもなく、多数者すなわち大衆の支配のことである。 民主主義にあっては、個体の意志の集計において多数を占めた者が、究極的には無制限の権力を掌握する。 最高、無制限の権力を主権(sovereignty)と呼ぶことにすれば、民主主義とは、個体の意志の集計にこそ主権が存すると見る立場に外ならない。 従って、民主主義においては、社会全体の達成すべき目的は、もしそれがあるとするならば、個体の意志の集計に還元されねばならないのである。 何故なら、社会のあらゆる行為をその達成への貢献によって評価し得る目的とは、その社会における主権者(sovereign)の意志であると言ってもほとんど言い過ぎではないからである。 言い換えれば、民主主義とは、個体の意志の集計によって、社会全体の目的を選択する、社会的選択の装置なのである。 ハイエクが批判するのは、多数者の意志に主権を付与する、このような無制限の民主主義である。 元来、近代の立憲主義は、権力の制限を目的としていた筈である。 なるほど、近代憲法は、人権の保障と権力の分立とを規定することによって、権力の制限を目指してはいる。 しかし、近代立憲主義は、憲法をも含めたあらゆる法を制定し得る究極的な権力としての(いわゆる憲法制定権力をも含めた)主権の制限という問題に対して、確定した解答をほとんど持ち合わせていない。 そもそも、最高、無制限の権力としての主権の制限を云々すること自体が自己矛盾なのである。 ハイエクによれば、このような自己矛盾が生じて来るのは、あらゆる法は人間によって意図的に制定し得るし、また、すべきであると考えることによる。 すなわち、あらゆる法に立法者が存在すると考えるならば、その立法者自身が従う法にも立法者が存在する筈である。 従って、ある立法者が従う法の立法者をその立法者より上位の立法者と呼ぶことにすれば、より上位の立法者の存在しない立法者、言い換えれば、究極(最上位)の立法者は、いかなる法にも従わないことになる。 何故なら、究極の立法者の従う法が存在するならば、その法の立法者も存在することになり、より上位の立法者の不在という究極の立法者の定義に矛盾するからである。 言い換えれば、あらゆる法が人間によって意図的に制定されると考えるならば、究極的な法制定主体の(立法)権力を法によって制限することは、論理的に不可能となるのである。 従って、究極的な立法者は、無制限であらざるを得ない。 すなわち、最高(究極)かつ無制限の(立法)権力としての主権の存在は、あらゆる法は人間によって意図的に制定されるとする立場の、必然的な帰結なのである。 従って、たとえ憲法といえども、いずれかの主体によって意図的に制定されたとする限り、(究極的な立法者としての)主権者を制限することなど不可能なのである。 近代立憲主義は、あらゆる法に制定主体が存在すると考える限り、主権者の権力の制限に、原理的に失敗するのである。 このような主権者すなわち究極的かつ無制限な立法者の存在を必然的に帰結する、あらゆる法は人間によって意図的に設定されるとする立場は、言うまでもなく、構成的合理主義のコロラリー(※注釈:corollary 必然的に推論される帰結)となっている。 すなわち、法もまた、社会一般と同じように、理性によって意図的に制御されるべきだ、あるいは、社会全体の目的を達成する手段として有効に設定されるべきだ、という訳である。 さらに、究極的に法を設定するのは主権者なのであるから、このような法の捉え方は、法とは主権者の目的あるいは意志の表出に外ならないと主張していることになる。 言い換えれば、このような立場は、法とは主権者の命令であると主張しているのである。 確かに、命令は当為言明の一種であると言い得るので、当為言明としての法を命令として捉えることは一見尤(もっと)もらしい。 しかし、法を命令わけても主権者の命令と見ることに、何の不都合も生じ得ないのであろうか。 次節で詳しく述べるように、ハートもまた、この問いとほとんど同じ問いを問うのである。 ところで、民主主義においては、主権者とは、言うまでもなく、多数者大衆である。 すなわち、民主主義における主権は、大衆の意志の集計に存するのである。 従って、国民主権を標榜する民主主義においては、国民大衆の(究極的な)権力は原理的に無制限である。 言い換えれば、民主主義とは、大衆が無制限の権力を掌握した社会なのである。 究極かつ無制限の権力としての主権概念そのものは、確かに、構成的合理主義の論理的帰結である。 しかし、大衆の意志に主権を付与する民主主義的な主権概念は、必ずしも合理主義のみから帰結する訳ではない。 民主主義の前提には、近代合理主義の精神的な双生児である近代個体主義が準備されている筈である。 ハイエクによれば、無制限な民主主義の前提には、価値相対主義が準備されていることになる。 ハイエクは、あらゆる法は人間によって意図的に設定されるとする考え方を、法実証主義と呼ぶ。 すなわち、ハイエクは、構成的合理主義の法への適用を、法実証主義と呼ぶのである。 このような法実証主義によって、ハイエクは、ベンサムやオースティン(本書で取り上げるJ・L・オースティンではなく、19世紀のイギリスの法理学者で、ベンサムの友人のJ・オースティン)、あるいはケルゼンの法実証主義を指示している。 このハイエクの言う法実証主義、わけてもケルゼンの法実証主義こそが、価値相対主義を明らかに含意しているのである。 このような法実証主義が前提している、認識論上の実証主義、あるいはより広く確証主義の立場に立てば、法命題を含むあらゆる当為命題は、万人によって一致して受け容れられ得る、確実に証明された命題ではあり得ない。 当為言明は、意識的な理性によっては、その正当性を確証し得ないのである。 このように客観的、普遍妥当的ではあり得ない当為言明は、つまるところ、個体の意志や情緒や欲求やの表出なのであって、主観的、相対的であらざるを得ない。 従って、法あるいは当為をめぐる問題は、客観的、普遍的な理性の問題であると言うよりも、むしろ主観的、個体的な意志の問題であると言うことになる。 しかし、法といい当為といい、ある社会を構成する総ての個体の行為を拘束する規範の問題である。 個体的な意志の問題として法や当為やを取り扱う視点から、いかにして社会的な規範の問題としての法や当為やを捉えるか。 ここに、価値相対主義を民主主義に結び付ける契機が存在するのである。 民主主義とは、社会を構成する諸個体の意志を集計することによって、社会全体の意志を形成する社会的装置である。 従って、法や当為の言明を、民主主義的に形成された社会全体の意志の表出であると考えるならば、価値相対主義は、社会規範としての法や当為の問題をも一貫して取り扱えることになる。 すなわち、社会規範としての法や当為を、その時点における多数者の意志に相対的なものとして捉えるのである。 言い換えれば、価値相対主義は、民主主義と結び付くことによって、あらゆる法や社会的当為は、(究極的には)多数者大衆の意志に還元されると主張するのである。 もっとも、価値相対主義は、必ずしも常に民主主義と結び付く訳ではない。 価値相対主義とは、価値あるいは当為の問題は、客観的、普遍的な認識あるいは理性の問題ではなく、主観的、個体的な実践あるいは意志の問題であるという主張以上のものではない。 従って、価値相対主義は、個体的な意志から、いかにして社会的な規範あるいは社会全体の意志が形成されるかという問題に対して、その幾通りもの解答と両立し得るのである。 しかし、価値相対主義は、万人が一致して受け容れ得る理性的な論証のみによっては、社会規範あるいは社会全体の意志が形成されることは、決して有り得ないと考えるのであるから、理性的な論証以外の方法によって社会全体の意志を形成する解答としか両立し得ないことは言うまでもない。 そもそも、個体の意志や情緒や欲求やは、さらには、個体の価値や利益や目的やは、一致するどころか、一般的には共存さえしていない。 従って、このように対立する価値や利益や目的やが犠牲にされざるを得ないことになる。 理性的な論証によるこの問題(社会全体の意志を形成する問題)の解決は不可能だというのであるから、そこでは、何等かの実力による解決が要請されることになろう。 まさに、民主主義とは、この問題を、人間の頭数の多寡という実力によって解決しようとする試みなのである。 もちろん、票数以外にも様々な実力があり得る。 その究極的な形態は、いうまでもなく、赤裸々な暴力に外ならない。 いずれにせよ、価値相対主義は、社会全体の意志を形成するという問題に対して、何等かの実力による決着という解答を帰結せざるを得ないのである。 言うまでもなく、民主主義は、そのような解答の有力な一つとして位置付けられる。 すなわち、民主主義とは、多数者大衆の実力によって、社会全体の意志や利益や目的を決定Sる、パワー・ポリティックスに外ならないのである。 このような、何等かの実力による社会的意志決定を帰結する、価値相対主義と、究極かつ無制限の主権を帰結する、あらゆる法は意図的に設定されるとする考え方が、互いに結び付けられることによって始めて、多数者大衆は無制限の権力を掌握するのである。 何故なら、価値相対主義の下では、究極の社会的意志決定者である主権者とは、自らの実力によって社会全体の意志を決定し得る者に外ならないからである。 まさに、カール・シュミットの言うように、主権者とは、(実力行使をも辞さない)非常事態において、全体的な決断を下し得る者なのである。 それが、多数者大衆自身であるか、あるいは大衆の歓呼によって迎えられたその指導者であるかは、問題ではない。 構成的合理主義の法への適用と、その一卵性双生児である価値相対主義との結合が、大衆に無制限の権力を委ねるという事態を帰結することに、いささかの変りも無いからである。 ハイエクは、構成的合理主義の法への適用とともに価値相対主義をも含意する言葉として、法実証主義を用いることがある。 このように用いられた法実証主義が、大衆を主権者の高みに昇らせる、充分な前提となっていることは言うまでもない。 ハイエクが、根底的に批判するのは、まさに、このような意味における法実証主義なのである。 しかし、ハイエクは、このような法実証主義を批判するからといって、必ずしも自然法論に与する訳ではない。 ハイエクは、ハートによる自然法論の批判に、ほとんど全く同意している。 この意味においては、ハイエクもまた、ハートの言う実定法論者なのである。 ハイエクは、さらに、法実証主義と自然法論という二分法それ自体が、そもそも誤りなのであると主張する。 ハイエクは、(次節に述べるように、ハートもまた)法実証主義でも自然法論でもない、第三の法理論を指向しているのである。 ◆4.主権主義と表出主義 人間によって意図される対象としての客観的なものと、意図する人間主体の在りかとしての主観的なものとを峻別する、いわゆる方法二元論は、近代合理主義と同時に、近代個体主義をも産み落とした。 すなわち、主客二元論は、近代合理主義、わけても、あらゆる知識はそれに対応する客観的なものに根拠付けられねばならぬとする客観主義と、近代個体主義、わけても、あらゆる行為はそれを意図する主観的なものに帰属されねばならぬとする主観主義という、一卵性双生児の母なのである。 認識論上の実証主義がこのような客観主義の、また、ハイエクの言う法実証主義がこのような主観主義のコロラリー(※注釈:必然的帰結)であることは言うまでもない。 ハートの批判する法の主権理論もまた、このような主観主義のコロラリーなのである。 ハートの批判する法理論は、法とは、主権者によって発せられた威嚇を背景とする命令であるとする立場である。 縮めて言えば、法とは、主権者の強制命令であるとする立場、あるいは、法の主権者命令説である。 ここで言う主権者が、最高かつ無制限の立法権力を有する者であることは言うまでもない。 このハートの批判する法の主権者命令説は、あらゆる法体系には、それを設定する最高、無制限の主権者が存在すると考える主権理論と、あらゆる法は、その逸脱に対する制裁の威嚇によって強制された命令であると考える命令理論との、大きく二つの部分に分けられる。 この法の主権理論こそが、近代個体主義あるいは主観主義の論理的帰結なのである。 あらゆる法は、主体によって意図的に設定されるとする立場から、最高かつ無制限の主権の存在が論理的に帰結することは、既に前節において見た通りである。 この、あらゆる法は、主体によって意図的に設定されるとする立場は、あらゆる行為は、それを意図する主体あるいは主観の存在を含意しているとする主観主義(主体主義)の、法における現れであると見ることが出来る。 何故なら、法もまた、人間の(必ずしも意図的とは限らない)行為の帰結であることに変わりは無いからである。 従って、最高かつ無制限の主権の存在は、このような主観主義の論理的な帰結であるとも考え得るのである。 すなわち、ハイエクの批判する法実証主義も、ハートの批判する法の主権理論も、このような主観主義の論理的な帰結となっているのである。 ハートは、法の主権理論に対して、様々な角度から疑問を提出する。 法とは、最高かつ無制限の立法権力を有する主権者によって、意図的に設定されたものであるとしよう。 このとき、主権者を主権者たらしめる根拠は、もはや法ではあり得ない。 何故なら、主権者が法によって主権者たり得るとするならば、その法を設定した主権者が存在することになり、主権の最高性と矛盾するからである。 あるいは、そもそも法を根拠とする主権は、主権の法的無制限性に矛盾すると言ってもよい。 いずれにせよ、主権者は、法以外の根拠によって主権者たり得るのである。 従って、憲法などの法によって立法権力を付与される立法府のような主体が、主権者たり得ることはあり得ない。 それでは、主権者とは一体誰であるのか。 それは、立法府を選挙する国民であるのか。 あるいは、何が法であるかを最終的に判定し得る司法府であるのか。 あるいは、大衆の歓呼によって推戴された大統領であるのか。 しかし、司法府はもとより、選挙民もまた、憲法によって授権された機関なのであって、主権者たり得よう筈もない。 なるほど、(憲法上の機関としての選挙民とは区別される)国民大衆あるいはその指導者は、主権者たり得るかも知れないが、このとき、大衆に主権を付与する根拠は一体何なのか。 言うまでもなく、主権理論は、ここで、自然法論(あるいは自然権論)を持ち出す訳にはいかない。 主権理論によれば、自然法もまた法である限り、いずれかの主権者によって設定された筈のものだからである。 それでは、大衆を主権者に推戴し得るのは、一体いかなる根拠によるのか。 主権理論の内部においては、そのような根拠は遂に示し得ない。 主権理論は、この、誰が主権者たり得るのかという問題を、常に開かれた疑問として留め置かざるを得ないのである。 主権者は、いかなる法によっても制限され得ないのであるから、当然、自己自身の設定した法によっても制限され得ない。 主権者は、自己自身を法的には制限し得ないのである。 従って、たとえば、主権者が、過去において制定した立法手続を、未来において遵守しなかったとしても、それは法的な責務に対する違反とはなり得ないし、また、主権者が、過去において締結した条約を、未来において履行しなかったとしても、それも法的な責務に対する違反とはなり得ない。 主権者が、過去において設定した法を、未来において無視したとしても、それは主権者の意志が変更された、つまりは気が変わったということに過ぎない。 主権者の意志の変更が、立法の名宛人や条約の相手方との約束に、たとえ違背することになったとしても、それは決して法的な責務に対する違反とはなり得ないのである。 すなわち、主権理論によれば、主権者の行為に対して、法を根拠として責務を問う可能性は、決して存在し得ないのである。 主権理論をめぐるこれらの問題、すなわち、主権者を主権者たらしめる法的な根拠は存在し得ないという問題、あるいは、主権者は自己自身を法的には制限し得ないという問題は、主権者という存在が、法体系の内部においては、遂に根拠を持ち得ないということを指し示している。 むしろ、主権者とは、法体系の外部から、法体系それ自体を根拠づけるものとして与えられて来たのである。 従って、主権者が、法体系の内部にその根拠を持ち得ないのはむしろ当然である。 主権者とは、法体系の外部にあって、法体系そのものを根拠づける、たとえば政治的な存在なのである。 しかし、法体系の根拠を問うに際して、このような主権者の存在は、果たして必然なのであろうか。 言い換えれば、法の根拠には、それを意図的に設定する主体が、不可避的に要請されるのであろうか。 言うまでもなく、このような主体の要請は、あらゆる行為には、これを意図する主観が不可避的に要請されるとする主観主義の必然的な帰結である。 ハートは、法の根拠を問うに際して、このような主観主義の要請が、全く不要であることを明らかにする。 法の主権理論は、法現象の最も中核的な部分を把握することに失敗すると言うのである。 しかし、ハートの法理論は積極的な展開は、以下の諸章の課題である。 ハートは、また、法とは威嚇を背景とした命令である、すなわち、法とは強制的命令であるとする法の命令理論を徹底的に批判している。 ハートによれば、法は、 第一に、その制定者自身にも適用されるという点において、 第二に、責務のみではなく権能をも付与するという点において、 第三に、慣習法のように意図的な立法にはよらないものが存在するという点において、 強制的命令と同一視する訳にはいかない。 さらに、ハートは、これらの問題点を踏まえて修正された命令理論をも一蹴する。 すなわち、第三の問題点を修正した、黙示の命令という考え方、第二の問題点を修正した、あらゆる法は公機関に向けられた命令であるとする立場、第一の問題点を修正した、公的資格において命令する立法者と私的資格において命令されるそれとを区別する試みの、一切を否定し去るのである。 しかし、ハートの命令理論批判それ自体は、本書の主題と必ずしも密接に関連する訳ではないので、主権理論批判に必要な限りにおいて触れることに留めたい。 ハートの批判する法の主権理論、あるいはハイエクの批判する法実証主義を帰結する主観主義は、あらゆる知識はそれに対応する客観的なものによって根拠付けられねばならぬとする客観主義の、一卵性の兄弟/姉妹であった。 オースティンの批判する言語の記述主義が、この意味における客観主義のコロラリーであることは言うまでもない。 オースティンもまた、ハイエクやハートと同じように、客観主義と切り結んだ刀で、主観主義とも渡り合っている。 この客観主義と主観主義という、近代のロムルスとレムスとの闘いにおいては、二正面作戦以外の如何なる戦力もあり得ないのである。 オースティンの批判する記述主義は、言葉とは何等かの事実を記述するものであり、その真偽はそれが記述する事実の存否によって検証し得るとする考え方であった。 オースティンによれば、このような記述主義の淵源には、何等かの事態を指示する(言及する、記述する)という言葉の機能、すなわち言葉の指示機能のみに、言葉の持つあらゆる機能を還元しようとする態度が存在していた。 あるいは、オースティンの用語系に即して言い換えれば、記述主義とは、発話という行為を、指示行為(意味行為)という意味における発語行為に還元し尽くそうとする態度なのであった。 このような記述主義が、言葉についての客観主義であることは明らかであろう。 すなわち、言葉は、客観的な事実を記述することによって始めて意味を持つという訳である。 これに対して、オースティンの批判する、言葉についての主観主義とは、言葉とは(発話主体の)主観的な意図や情緒や欲求やの表出であると考える、言語の表出主義(expressivism)に外ならない。 言うまでもなく、言語には、発話主体に係わる何等かの事情(必ずしも主観的な心理とは限らない)を表現するという機能が、紛れもなく存在している。 従って、ある発話を了解するに当たって、その発話に表現されている発話主体の主観的な意図を無視してよい訳では些かもない。 しかし、あらゆる発話を、発話主体の主観的な意図に還元して理解するとなると、問題はまた別である。 表出主義とは、あらゆる発話を、発話主体の主観的な意図の表出に還元し尽くそうとする、言い換えれば、言葉の持つあらゆる機能を、その表現機能に還元し尽くそうとする態度に外ならないのである。 このような表出主義が、発話という行為には、それを意図する主観が必ず存在せねばならないと考える点において、言葉についての主観主義であることは明らかであろう。 オースティンは、記述主義とともに、このような表出主義をも根底的に批判するのである。 オースティンの用語系に即して言い換えれば、表出行為とは、発話という行為を、発話を手段として何ごとかを達成する行為である、発語媒介行為に還元し尽くそうとする態度に外ならない。 もっとも、オースティンの言う発語媒介行為は、必ずしも発話主体によって意図された行為のみに限られる訳ではない。 オースティンの言う発語媒介行為は、それが意図されたものであるか否かにかかわらず、発語の帰結として何等かの効果を達成する行為なのである。 もちろん、オースティンにおいても、何等かの帰結あるいは目的を達成すべく意図された発語媒介行為が重要であることは言うまでもない。 しかし、オースティンは、意図されざる帰結をもたらす発語媒介行為をも、その射程に捉えているのである。 それでは、発語によって何等かの帰結を達成する(発語それ自身とは区別された)行為は、総て、発語媒介行為となるのであろうか。 発語が何等かの社会的な効力を持つ(発語それ自身とは区別された)行為である発語内行為と、発語媒介行為は一体どこが違うのであろうか。 オースティンによれば、発語によって何等かの効果を達成する発語媒介行為と、発語が何等かの効力を獲得する発語内行為とは、発語のもたらす効果が、慣習的(conventional)なものであるか否かによって区別されるのである。 すなわち、発語媒介行為において達成される効果は、発語に後続することが、必ずしも慣習的には期待され得ないのに対して、発語内行為において獲得される効力は、発語に随伴することが、慣習的な規則によって支持されているのである。 言い換えれば、発語媒介行為の効果は、慣習以外の何ものか(たとえば威嚇や強制や)によって達成されるのに対して、発語内行為の効力は、それを有効適切なものとする慣習の存在を俟ってはじめて獲得されるのである。 オースティンの言う慣習(convention)は、もちろん、本書の問う慣習と密接に関連するものであるが、後に述べるように、むしろ、ハートの言うルールに極めて近い概念である。 従って、オースティンの言う発語媒介行為とは、発語によって何等かの帰結を達成する行為の内で、いかなる慣習にも依存せず、またルールにも従わない類いのものを指し示していることになる。 このような発語媒介行為は、確かに、発話行為によって意図された行為である場合が最も重要なのではあるが、しかし、意図されない行為をも明らかに含むものである。 従って、あらゆる発話を発語媒介行為に還元しようとする態度と、あらゆる発話を(発話主体の)主観的な意図の表出に帰着しようとする表出主義とは、必ずしも正確に一致する訳ではない。 発語媒介行為一元論は、表出主義をも包含する、より広い概念なのである。 このような発語媒介行為一元論を批判することによって、オースティンは、表出主義をもその批判の射程に収めていると言うことも出来よう。 しかし、慣習あるいはルールに依存も服従もしない行為(発語媒介行為)の内で、その主観的な意図のみによって了解し得る行為(表出行為)を除いたものが、差し当たり緊要であるとも思われないので、以下の行論においては、誤解の怖れの生じない限り、発語媒介行為一元論と表出主義とを互換的に用いることにしたい。(このことについては、後に再び述べる機会があると思われる。) すなわち、発語媒介行為一元論の批判は、取りも直さず表出主義の批判に外ならないのである。 以上に見てきたように、産業主義と民主主義、あるいは、合理主義と個体主義は、我々の近代社会において、極めて当然のこととして受け容れられている。 しかし、以上に見てきたことが示しているのは、我々が当然のこととして受け容れている合理主義と個体主義には、ある特徴的な前提が共有されているということである。 その前提とは、およそ人間とその社会は、目的志向的(intentional)な理性の客体であるか或いは主体であるとするものの見方である。 このようなものの見方に立って、人間とその社会を、目的志向的な理性の客体と捉える処に、手段的合理主義や実証主義あるいは確証主義、さらには記述主義といった、一連の客体主義あるいは客観主義(objectivism)が生じるのであり、また、人間とその社会を、目的志向的な理性の客体と捉える処に、個体主義や主権主義あるいは価値相対主義、さらには表出主義といった、一連の主体主義あるいは主観主義(subjectivism)が生じるのである。 このようなものの見方それ自体を、(近代)合理主義と呼ぶことも、かなり一般的ではあるが、合理主義は広狭様々な意味に用いられるので、ここでは、このようなものの見方を、志向主義(intentionalism)と呼ぶことにしたい。 いかにも熟さない命名であるが、本書の立場である慣習主義(conventionalism)との対比を意識してのことである。 従って、産業主義と民主主義の近代は、志向主義をその哲学的な前提としていることになる。 産業主義と民主主義は、志向主義という双面神の二つの顔である客観主義と主観主義の、もう一つの《ペルソナ》なのである。 ▼第三章 暗黙の言及 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.暗黙的秩序 - ハイエク - 人間とその社会を、理性によって意図的に制御し得る対象であると考える、構成的合理主義や、また、人間とその社会についての知識を、客観的な事実によって確証し得る言明であると考える、実証主義やは、我々の社会のほとんど自明な前提となっている。 しかし、果たして社会は、意図的に制御し得る対象であり得るのか。 あるいは、社会についての知識は、客観的に確証し得る言明であり得るのか。 ハイエクの問いは、ここから始まる。 ハイエクによれば、社会は、目的を達成すべく意図的に構成された秩序、すなわち彼の言う組織には留まり得ない。 社会には、意識的な目的を持たず、また、意図的に設計された訳でもない秩序が、必ず存在しているのである。 言い換えれば、社会には、差し当たり何に役立つのか(当の本人達にも)分からない、自然発生的(spontaneous)に生成された秩序が、常に存在しているのである。 ハイエクは、このような秩序を、自生的秩序(spontaneous order)あるいはコスモス(cosmos)と呼ぶ。 ハイエクによれば、自生的秩序は、通常の個体の行為はもとより、組織それ自体の行為をも含んだ秩序として、社会全域を覆っている。 すなわち、構成的合理主義の、社会全域を一個の組織によって覆い尽くし得るとする考え方に対して、ハイエクは、社会とは、一個の組織によってはついに覆い尽くせない、(組織をその要素として含み得る)自生的秩序に外ならないと主張するのである。 自生的秩序は、自然発生的に生成された秩序である。 しかし、言うまでもなく、自生的秩序は、人間の行為から独立した、自然と同様の、客観的な事実ではあり得ない。 すなわち、自生的秩序とは、行為の持続的な遂行が、(意図せざる)結果として秩序を生成しているという事態に外ならないのである。 しかし、自生的秩序が、行為の遂行的な結果に外ならないからと言って、必ずしも、それが、行為の主観的な意図に還元され得る訳ではない。 自生的秩序は、それを結果する行為の主観的な意図を超越し、それに先行するのみならず、行為を規範的に拘束しさえするのである。 しかし、自生的秩序のこの側面については、次章で詳しく検討したい。 この章では、自生的秩序の、行為の持続的な遂行の(意図せざる)結果として生成されるという特徴から導かれる、もう一つの側面のみに、議論を限定したい。 自生的秩序のこの側面こそ、構成的合理主義さらには実証主義との闘いに際して、最も有力な橋頭堡となり得るからである。 行為の持続的な遂行の(意図せざる)結果として生成される秩序を、手短に、遂行的(performative)な秩序と呼ぶことにしょう。 すなわち、自生的秩序は、遂行的な秩序として特徴付けられるのである。 遂行的な秩序としての自生的秩序には、たとえば、市場、貨幣、法、権威、社交、言語、技能、偏見、儀礼、流行、慣習、伝統などといった社会秩序が含まれる。 これらの社会秩序は、それぞれの領域における人々の行為の持続的な遂行が、結果的に、それらの行為の従うべき何等かのルールを生成し、従ってルールに従う行為の集合としての秩序を生成するという意味において、明らかに遂行的な秩序となっている。 さらに、これらの社会秩序は、それぞれの領域において秩序を形成するルールに、人々が従うべき理由あるいは根拠が、人々がそれらのルールに従うという行為を持続的に遂行していること以外には、(究極的には)存在し得ないという意味においても、紛れもなく遂行的である。 言い換えれば、こられの社会秩序は、(それらの秩序を形成する)ルールに従う行為の持続的な遂行によって、ルール(あるいはそれが形成する秩序)それ自体が繰り返し生成されているという事態のみを、ルール(あるいはそれが形成する秩序)の存立する究極的な根拠としているという意味において、まさに遂行的な秩序と呼ぶべきなのである。 すなわち、自生的秩序とは、行為の持続的な遂行の結果として生成されるのみならず、行為の持続的な遂行をその究極の根拠として存立する社会秩序なのである。 このような遂行的秩序としての自生的秩序が、いわゆる自然と同じ意味における客観的実在性、あるいは、理性によっては疑い得ない絶対的確実性を持ち得ないことは言うまでもない。 自生的秩序は、そのような秩序を生成する行為が繰り返し遂行されているという事態以外の何ものであもないのであって、遂行されている行為が変化すればそれに伴って変化する、行為の遂行に相対的なものである。 すなわち、自生的秩序は、歴史的あるいは地域的な行為の遂行に相対的な秩序なのである。 (このことから、必ずしも価値相対主義が帰結される訳ではないことは、次章に詳しく述べるが、さらに、このことから、いわゆる文化相対主義が帰結される訳ではないことも、次章以降に述べる機会があると思われる。) 従って、このような自生的秩序に、自然法則と同じ意味における、客観的、普遍的な法則を見い出そうとする試みの、挫折せざるを得ないことは、もはや旧聞に属そう。 ところで、遂行的秩序においては、行為の遂行によって生成される秩序が、いかなるものであるかについて、行為者自身が意識している必要は些かもない。 自生的秩序は、行為遂行の意図せざる結果として生成されるのであって、行為主体は、そのような結果について意識し得る筈もないのである。 さらに、自生的秩序においては、行為の遂行において事実上従われているルールが、いかなるものであるかについても、行為者自身が意識している必要は些かもない。 自生的秩序を形成するルールは、その遂行において実践的、経験的に従われているのであって、行為主体が意識的、合理的に従っている訳ではないのである。 言い換えれば、自生的秩序のルールは、言葉(あるいは意識的な理性)によっては語り得ぬ、行為において示し得るのみの、暗黙的(tacit)な事態なのである。 たとえば、典型的な自生的秩序である言語について見るならば、我々は、言語のルールについてほとんど意識せず、またその総てを語り得ないとしても、正しいルールに従った発話を遂行し得るのであり、ましてや、我々の遂行する個々の発話が、言語総体にいかなる結果をもたらすかなどということは、通常全く意識しておらず、またし得るものでもない。 このことは、その他の典型的な自生的秩序である技能や慣習においても、全く同様である。 技能とは、言葉によっては遂に説明し得ず、実践的(遂行的)にのみ従い得る、従って、実践的(遂行的)にのみ学び得るルールに外ならないし、慣習とは、まさに暗黙的、遂行的な事態そのものであって、それを繰り返し生成する行為が、そもそも如何なる意図の下に為されたものであったかが忘却されることによって、益々その安定を強めるといった代物である。 すなわち、行為の遂行によって繰り返し生成される、遂行的な秩序とは、取りも直さず、言葉(あるいは意識的な理性)によってはその全体をついに把握し得ない、暗黙的な秩序に外ならないのである。 従って、我々は、言語によっては分節し得ないが、行為においては遂行し得るルールを知っていることになる。 この意味において、我々は、語り得る以上のことを知っているのである。 この語り得ぬ、ただ示されるのみの、暗黙的あるいは遂行的な知識は、意識的あるいは理性的な認識のみによっては獲得し得ない。 何故なら、意識的、理性的な認識といえども、人間の行為には違いないのであるから、何等かの自生的秩序(あるいはそのルール)を繰り返し生成している筈である。 このことは、意識的、理性的な認識も、他の行為と同様に、自生的秩序のルールに遂行的に従っていることを意味する。 すなわち、意識的、理性的な認識もまた、自生的秩序(あるいはそのルール)に規範的に拘束されているのである。(この点については、次章で改めて述べる。) 従って、ある特定の自生的秩序とそのルールが、意識的、理性的な認識によってたとえ分節され得たとしても、当の意識的、理性的な認識それ自身の従うルールは、分節され得ないままにただ遂行されるものとして残ることになる。 すなわち、自生的秩序とそのルールを、意識的、理性的に認識し尽くそうとする試みは、いかなる認識といえども、自分自身が遂行的に従っているルールを(自分自身によっては)ついに分節し得ないという事情によって、挫折せざるを得ないのである。 言い換えれば、ある特定の自生的秩序とそのルールならいざ知らず、総ての自生的秩序とそのルールを、意識的な理性によって分節し尽くすことは原理的に不可能なのである。 このような訳で、自生的秩序とそのルールは、(究極的には)語り得ぬ、ただ示されるのみの事態であらざるを得ない。 遂行的な秩序は、暗黙的な秩序であらざるを得ないのである。 ハイエクは、このような自生的秩序として、社会を捉える。 自生的秩序としての社会が、構成的合理主義やあるいは実証主義やの対象となり得ないことは、容易に理解し得よう。 自生的秩序としての社会は、理性によって意図的に制御し得る対象ともなり得ないし、また、それについての言明を客観的に確証し得る対象ともなり得ないのである。 何故なら、自生的秩序とは、語り得ぬ、暗黙的な秩序なのであって、それ(その全体)を意図的に制御するための情報を、制御主体が獲得することは、原理的に不可能だからであり、ましてや、それ(その全体)についての言明を、客観的に確証することなど、ほとんど形容矛盾だからである。 あるいは、意図的、合理的な制御もまた、人間の行為には違いないのであって、何等かのルールに遂行的に従っている筈なのであるから、意識的、理性的な認識の場合と全く同様に、自生的秩序(あるいはそのルール)の全体を、意図的、合理的に制御し尽くすことは、原理的に不可能なのである。 自生的秩序としての社会は、遂行的あるいは暗黙的な秩序であるがゆえに、構成的合理主義やあるいは実証主義やといった客観主義の対象には、決してなり得ないのである。 このようなハイエクの自生的秩序論が、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論に極めて接近していることは、注目に値する。 ウィトゲンシュタインの言う言語ゲームは、ここで言う遂行的あるいは暗黙的な事態と、ほとんど過不足なく重なり合っている。 すなわち、言語ゲームは、そのようなゲームが遂行されているという事態以外のいかなる根拠も持ち得ず、また、その全体を対象にして言及する可能性を原理的に拒否しているのである。 さらに、言語ゲームは、人間のあらゆる行為は、何等かの言語ゲームの遂行とならざるを得ないという特徴を、自生的秩序と分け持っている。 すなわち、自生的秩序もまた、人間のあらゆる行為は、何等かの(自生的秩序を形成する)ルールの遂行とならざるを得ないという特徴を持っているのである。 自生的秩序のこの特徴は、その規範的(normative)な側面と呼ばれる。(この側面の検討は次章の課題である。) この意味において、言語ゲームは、また、規範的な事態とも重なり合っているのである。 このように、ハイエクの自生的秩序論と、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論は、家族的類似と言い得る程度にも親しい関係にある。 ハイエクとウィトゲンシュタインは、その思想圏における最も中心的な領域を、ほとんど同じくしているのである。 しかし、ハイエクとウィトゲンシュタインの思想圏は、必ずしも完全に重なり合っている訳ではない。 彼らの思想圏は、その周辺的な領域において、かなりのずれを見せている。 わけても、このずれは、ハイエクの、進化への傾斜において著しい。 ハイエクによれば、自生的秩序としての社会を形成するルールは、変化する環境への適応や、他のルールの形成する(自生的秩序としての)社会との競合やを通じて、淘汰され選択される。 すなわち、ルールは、それが形成する(自生的秩序としての)社会に、勝利と繁栄をもたらすか否かによって、淘汰され選択されるのである。 ハイエクは、このような淘汰と選択を経て、ルールとそれが形成する(自生的秩序としての)社会が、進化し発展すると主張する。 ルールを遺伝子に置き換え、(自生的秩序としての)社会をそれによって形成される生命体に置き換えれば、この主張は、生命進化論とほとんど異ならない。 ハイエクの社会進化論とは、およそこのようなものである。 しかし、社会進化論を主張するからといって、ハイエクは、社会を意図的に進化させ得ると考えている訳では些かもない。 あるルールに従うことが、その社会にいかなる帰結をもたらすかは、自生的秩序としての社会においては原理的に不可知である。 すなわち、あるルールが、社会にとって何の役に立つかは、事前には知り得ないのである。 従って、あるルールに従うことが、社会に成功をもたらすか否かは、そのルールを暗黙的に遂行した結果として始めて知られ得ることになる。 言い換えれば、ルールは、それに従う社会が成功することによってはじめて、その進化論的な優位を証明し得るのであって、進化論的な優位が予知されることによって、それに従う社会が成功する訳ではないのである。 それゆえに、あるルールの採否を、それが社会にもたらす得失の予測に基づいて決定するといった、(たとえばルール功利主義のような)意図的な社会進化の試みは、不可避的に失敗するのである。 もっとも、ハイエクは、ある特定のルールを意図的に改良する可能性までも否定する訳ではない。 ある特定のルールに限るのであれば、それを対象として意識的に言及したり、意図的に改良したりすることは、もちろん可能である。 むしろ、何が従うべきルールであるのかをめぐって紛争が生じた場合など、遂行的に従われているルールを意識的に分節し、その不確定な部分を確定すべく、新しいルールを意図的に設定すべきでさえある。 しかし、このような分節や設定やが可能なのは、あくまで、ある特定のルールについてのみであって、決して、ルールの全体についてではあり得ない。 ルールを分節し設定する行為もまた、何等かのルールに従っているのであって、分節あるいは設定行為自体の従うルールを、当の行為者自身が分節しあるいは設定することは不可能だからである。 (あるいは、そのようなルールの分節/設定は、また別のルールに従っているのであって、いずれにせよ、すべてのルールを分節/設定し尽くすことは不可能なのである。) 言い換えれば、ある特定のルールを意識的に分節し意図的に設定する行為は、その他の総てのルールを暗黙的、遂行的に前提して始めて可能になるのである。 すなわち、ルールのあらゆる改良は、遂行的に従われているルールの全体を、無批判的に受け容れることによって始めて可能になるのである。 さらに、ルールの改良は、それが(自生的秩序としての)社会にいかなる帰結をもたらすかを予測しつつ為されるものでは、決してあり得ない。 そんなことが不可能であることは、既に述べた通りである。 ここで言うルールの改良とは、何が従うべきルールであるかを巡って紛争が生じた場合に、そのような紛争を解決すべく、ルールの不確定な部分を確定するということ以上のものではない。 このようなルールの境界確定において考慮されるのは、それが社会全体にもたらすであろう便益の予測ではなく、たとえばそれが現行のルールの総体と整合するか否かといった原理である。 すなわち、ルールの改良において考慮されるのは、その社会的な帰結ではあり得ず、その内在的な整合なのである。 なるほど、その社会的な効果に配慮しつつ、ルールを改定することもあるには違いない。 しかし、そのルールがいかなる意図によって設定されたかということと、果たしてそれがいかなる自生的秩序を形成するのかということは、(自生的秩序は意図的には構成し得ないのであるから)実は全く無関係なのであって、むしろ、その設定の意図が忘却されることによって始めて、ルールは安定した自生的秩序を形成し得るとも言い得るのである。 従って、ルールの改良は、遂行的に前提されているルールの総体との、内在的な整合性のみを考慮しつつ、言わば(社会的な)結果を顧みずに為されざるを得ないのである。 これが、ハイエクの言う、ルールの意図的な改良における整合性(coherency)の原理に外ならない。 ◆2.外的視点 - ハート - 人間の行為の集合に秩序(order)が存在するということは、そこに何等かの規則性(regularity)、構造(structure)、型(pattern)といったものが見い出されることに外ならない。 同様に、人間の行為の集合がルールに従っているということも、差し当たり、そこに何等かの規則性が見い出されることを意味している。 すなわち、行為の集合にルールが存在するということは、差し当たり、行為が整然と規則正しく(regularly)遂行されていることに外ならないのである。 ハートの言うルールもまた、差し当たり、行為が規則性を持って遂行されている事態として捉え得る。 ハートによれば、ある人間の集団がルールに従っているという事態は、その集団の外部に立って観察するならば、そこでは行為が規則性を持って遂行されているという事態として見えて来る筈である。 言い換えれば、あるルールが存在するということは、そのルールには従っていない外部の視点から見るならば、そこで遂行されている行為に、何等かの規則性が観察されるということ以外の何ものでもないのである。 このように、ルールの存在を、そこにおける行為の規則性として観察する、外部からの観察者の視点を、ハートは、外的視点(external point of view)と呼んでいる。 すなわち、外的視点とは、観察の対象となるルールには従わない、あるいは、そのルールの形成する社会的秩序には内属しない、いわば異邦人の視点なのである。 このような異邦人の視点(外的視点)から見た、ルールの、行為における規則性の存在として観察される側面を、ハートは、ルールの外的側面(external aspect)と呼ぶ。 従って、ルールが、単なる行為の観察可能な規則性に見えることがあるとすれば、それは、外的視点に立って、その外的側面のみを見ている場合なのである。 あるルールの形成する秩序に内属しない外的視点、あるいは、そのような外的視点から観察される、ルールの外的側面という概念を立てるからには、ルールの形成する秩序に内属する内的視点、あるいは、そのような内的視点から把握される、ルールの内的側面という概念もまた反射的に立てられよう。 ハートは、あるルールに従っている人々の視点、すなわち、そのルールを根拠あるいは理由として、自らの行為の当否を判定している人々の視点を、そのルールについての内的視点(internal point of view)と呼んでいる。 この内的視点から見るならば、ルールは、単に行為の規則性を持った遂行として観察されるのではなく、自らの行為の妥当性を理由付ける(根拠付ける)規範として把握されることになる。 このように規範として把握されるルールの側面こそが、ルールの内的側面(internal aspect)に外ならない。 しかし、ルールについての内的視点、あるいは、ルールの内的側面の検討は、次章の課題である。 本章では、ルールについての外的視点、あるいは、ルールの外的側面の検討に、議論を限定したい。 ルールわけても法的なルールについての客観主義的理論を論駁するに際しては、ルールについての外的視点に立つことが、最も効果的であると思われるからである。 ところで、あるルールについて、その外的視点に立つことは、そのルールを自らの従うべき規範とは見なさずに、そのルールの形成する秩序の外側に身を置いて、そのルールを観察する、言わば異邦人の立場を取ることである。 この異邦人の視点からは、ルールは、繰り返し観察される行為の規則性、あるいは単なる習慣と見なされるに過ぎない。 しかし、このような視点に立つことによって、あるルールに従っている人々の行為を、かなりの蓋然性を持って予測することが可能になる。 すなわち、行為における規則性の認識は、たとえば、ある条件の下では、いかなる行為が遂行され易いか、さらには、ある行為の遂行は、どの程度の(敵対的な)反作用を被るかといった予測を、かなりの精度において可能にするのである。 ここに、ルールわけても法的ルールについての客観主義的な理論の可能性を見い出す向きも、あるいはあるかも知れない。 しかし、ある特定のルールに対して外的視点を取る観察者は、如何なるルールにも内属しないという訳ではない。 観察もまた一つの行為である以上、如何なるルールについての内的視点も取らない、すなわち、あらゆるルールに対して外的視点を取る観察者など、決して存在し得ないのである。 従って、何等かの予測が可能になるのは、ある特定のルールに従う行為(とその行為に帰責可能な範囲の帰結)についてのみであって、任意のルールに従う総ての行為(さらにはその社会全体に対する帰結)についてでは、全くあり得ないのである。 そのうえ、ルール一般とは区別される、法的ルールにおいては、人々の行為の当否を判定する根拠となるルール(一次ルール)に対して、意識的に外的視点を取ることによって、そのルールを変更したり、解釈したり、あるいは(ルールそれ自体の妥当性を)承認したりする行為が本質的に重要となる。 しかし、それらの行為もまた、何等かのルール(二次ルール)に遂行的に従っているのであって、自らの従っているルールについては、内的視点以外取り得ようもないのである。 いずれにせよ、あるルールに対して外的視点に立ついかなる者も、何等かのルールに従った内的視点に立たざるを得ないのである。 ハートは、人々の行為の当否を判定する理由となるルールそれ自体を対象として、それに変更を加えたり、それに基づいて裁定を下したり、さらには、それがルールとして妥当することに承認を与えたりする行為と、そのような行為自身の従うルールの存在が、法あるいは法体系の概念を定式化するに当たって、不可欠の要件であると考えている。 すなわち、ハートは、通常の行為の従うルールを一次ルール(primary rule)と呼び、一次ルールを対象とする変更や裁定や承認やの行為の従うルールを二次ルール(secondary rule)と呼んで、法(体系)とは、一次ルールと二次ルールとの結合であると定式化する。 法わけても一次ルールは、変更や裁定や承認やという意図的な行為の対象になることを、その本質としているという訳である。 しかし、法体系を構成する二次ルールは、(変更や裁定や承認やという)意図的な行為の対象とは、ついになり得ない。 このことを、二次ルールの内でも際立って重要な位置を占めている、承認という行為の従うルール、すなわち、ハートの言う、承認のルール(rule of recognition)について見てみよう。 あるルールを承認するとは、そのルールが人々によって従われるべきであると判定する、言い換えれば、そのルールがルールとして妥当(valid)であると評価することに外ならない。 従って、承認のルールは、何が妥当な(一次)ルールであるかを評価する規準を与えることになる。 すなわち、(一次)ルールは、承認のルールの与える規準を充たすことによって始めて、ルールとして妥当し得るのである。 言い換えれば、承認のルールは、(一次)ルールを妥当させる根拠となっているのである。 それでは、承認のルールそれ自体は、如何なる根拠によって、妥当し得るのであろうか。 容易に確かめられるように、この問いに答えることは、どこかで断念されざるを得ない。 すなわち、あるルールの妥当性を、他のルールの与える規準によって評価しようとする試みは、どこかで断念されない限り、無限後退に陥るのである。 ハートは、その妥当性を根拠付け得る如何なるルールも存在しない、従って、その妥当性を全く評価し得ない承認のルールを、究極の(ultimate)承認のルールと呼ぶ。 すなわち、究極の承認のルールとは、それ自体の妥当性を承認する根拠は決して持ち得ないが、その法体系に属する如何なるルールの妥当性をも承認する(究極的な)根拠となり得るルールなのである。 言い換えれば、究極の承認のルールは、承認という意図的な行為の対象とは、ついになり得ないルールなのである。 それでは、このような究極の承認のルールは、何故に、その他のルールを妥当させる根拠となり得るのであろうか。 究極の承認のルールは、自らを妥当させる如何なる根拠も持ち得ないという意味において、まさしく無根拠である。 このように自らは無根拠な究極の承認のルールが、如何にして、他のルールを妥当させる根拠となり得るのであろうか。 究極の承認のルールといえども、ルールである以上、その外的側面を持っている筈である。 すなわち、究極の承認のルールもまた、その外的視点(承認の視点ではなく、単なる観察の視点)から見るならば、繰り返し遂行される行為の規則性、あるいは慣習(practice)以外の何ものでもないのである。 言い換えれば、究極の承認のルールは、その法体系に属するルールの妥当性を承認する行為において、繰り返し示される規則性、あるいは習慣的に遂行される慣習として捉え得る側面を持っているのである。 この、究極の承認のルールの、慣習(practice)としての側面、すなわち遂行的(performative)な事態としての側面こそが、その(法体系に属する)他のルールを妥当させる根拠としての側面、すなわち規範的(normative)な事態としての側面と、表裏一体をなしているのである。 あらゆる法体系には、それに属するルールが、ルールとして妥当するか否かを決定し得る、承認(recognition)という行為が必ず存在している。 自らに属する一切のルールの当否を決定し得て始めて、一個の法体系と呼び得るという訳である。 この承認という行為が、繰り返し遂行されることの内に、何がルールとして妥当し得るかを決定する規準、すなわち承認のルールが示されるのである。 言い換えれば、承認という行為は、その持続的な遂行を通じて、何等かのルールを、自らの従うべきルールとして、受容していることを示すのである。 このことは、究極の承認のルールが、その外的視点から見るならば、承認という行為の持続的な遂行に外ならないにもかかわらず、承認という行為を遂行する側、すなわちその内的視点から見るならば、他のルールを妥当させる根拠として、自らが従うべき規範でもあり得る事態を指し示している。 すなわち、究極の承認のルールは、承認という行為の持続的な遂行であると同時に、その同じ事態が、他のルールの妥当性を根拠付け得る、(承認という行為の当否を判定し得る)規範ともなっているのである。 従って、究極の承認のルールが、その法体系に属する他の総てのルールの妥当性を根拠付け得るのは、それが、承認という行為の持続的な遂行の内に、繰り返し示されているからに外ならないことになる。 言い換えれば、究極の承認のルールが、他のルールの当否を決定し得る規範たるにおいては、それに従う行為が持続的に遂行されていること以外の、いかなる根拠もあり得ないのである。 究極の承認のルールは、その内的視点から見れば、他のルールを妥当させる根拠となる規範であるが、その外的視点から見れば、承認という行為の持続的な遂行であるという二つの側面を持つ、一個の事態に外ならない。 究極の承認のルールは、その持続的な遂行において始めて、他のルールの妥当根拠たり得るのである。 これに対して、承認のルールを含む二次ルールと対比される、一次ルールは、それが(通常の)行為の当否を判定する根拠となるに当たって、その持続的な遂行を必ずしも前提とされる訳ではない。 一次ルールが、行為の当否を判定する根拠たり得る、言い換えれば、ルールとして妥当し得るのは、それが、持続的に遂行されているからではなく、承認という行為によって意識的に承認されているからなのである。 すなわち、一次ルールは、たとえ、かつて一度も遂行されたことが無いとしても、承認されている限り、行為の自らに従うべきことを正当化し得るのである。 しかし、このように、承認という意図的な行為によって正当化し得るルールは、一次ルールと二次ルールの結合としての法体系における、一次ルール以外にはあり得ない。 一般のルールは、その妥当性を、如何なる(意図的な)行為によっても、根拠付け得ないのである。 この意味において、一般のルールは、究極の承認のルールとその位相を同じくしている。 あるいは、むしろ究極の承認のルールこそが、法体系に属するルールの内で(究極的であるがゆえに)唯一その外部に開かれているという意味において、一般のルールと同相なのである。 一般のルールと、究極の承認のルールとの違いは、前者が、(一般の)行為の当否を判定する根拠となっているのに対して、後者が、(一次)ルールの当否を判定する根拠となっているという点のみにある。 いずれのルールも、その持続的な遂行によって始めて、当否判定の根拠たり得るという点においては、いささかの違いもないのである。 従って、究極の承認のルールについて、これまでに述べてきた議論は、一般のあらゆるルールについても、ほとんどそのままの形で成立し得ることになる。 すなわち、法体系として構成される以前の法的ルールはもとより、社交や言語や技能や儀礼や流行や道徳や慣習や伝統やといった、あらゆるルールに対して、究極の承認のルールをめぐるハートの理論は、適切な議論となり得るのである。 加えて、ハートは、究極の承認のルールが、従ってまた(二次ルールの対象としての一次ルールを含まない)一般のルールも、語り得ぬ、ただ示されるのみの事態であることを強調している。 すなわち、ハートは、究極の承認のルール、さらには一般のルールが、慣習(practice)という遂行的な事態であるとともに、言明し得ぬ暗黙的な事態でもあると主張するのである。 究極の承認のルールは、承認という行為の習慣的な遂行を通じて、経験的(遂行的)に従われているのであって、対象として言及されることによって、意識的に従われている訳ではない。 すなわち、究極の承認のルールには、それを客観的な対象として言及し、その上で、それを従うべきルールとして意識的に受容する、いかなる手続きも存在し得ないのである。 これは、究極の承認のルールが究極的であることの、ほとんど自明な帰結である。(因みに、究極の承認のルールは、承認という意図的な行為の対象とは、ついになり得ないのであった。) 従って、究極の承認のルールは、遂行的に従われていることによって、暗黙的に受け容れられているのである。 言い換えれば、究極の承認のルールは、遂行的な事態であるがゆえに、暗黙的な事態ともなっているのである。 このような遂行的かつ暗黙的な事態としての究極の承認のルールが、いずれかの主体による意図的な制御の対象となり得ないことは、言うまでもなかろう。 究極の承認のルールを、意図的に設定したり変更したり廃棄したりする試みは、不可避的に失敗するのである。 (もっとも、究極の承認のルールといえども、部分的には、意図的な制御の対象となり得る場合のあることを、ハートは指摘している。これは、ハイエクの言う、整合性の原理が適用される場合と、ほとんど同じである。しかし、この場合についての検討は、次章に委ねたい。) 従って、究極の承認のルールは、それが遂行的に示されている行為の変化に伴って、変化することになる。 すなわち、究極の承認のルールは、行為の習慣的な遂行の(意図せざる)結果として、生成し、また消滅するのである。 ところで、究極の承認のルールについて、その外的視点に立つ観察者が、それを対象として言及することは、もちろん可能である。 もし、このことが不可能であるならば、そもそも、社会哲学など存立し得る筈もない。 しかし、そうであるからと言って、究極の承認のルールが暗黙的であることに、些かの変りもない。 差し当たり、外的視点に立つ観察者といえども何等かのルールに従わざるを得ないという問題は措くとしても、究極の承認のルールは暗黙的なのである。 何故ならば、観測者が、究極の承認のルールを、いかに正確に分節し得たとしても、観察者の分節という行為によっては、究極の承認のルールの従われるべきことは、少しも正当化され得ないからである。 すなわち、観察者の行為は、あくまで観察に過ぎないのであって、その対象となるルールの妥当性を根拠付け得る(承認の)行為とは、決してなり得ない。 従って、そのルールが観察者によって如何に正確に言明され得たとしても、自らがそのルールに従うべき根拠は、少しも対象として意識され得ないのである。 言い換えれば、あるルールに遂行的に従っている行為者にとっては、観察者がそのルールを分節し得るか否かに拘わらず、そのルールを暗黙的に受け容れさるを得ないのである。 それゆえに、その外的視点にたつ観察者が、たとえ、何等かのルールを対象として分節し得たとしても、その内的視点に立つ行為者にとっては、そのルールに従うことは、依然として暗黙的な事態なのである。 ◆3.発語的行為 - オースティン - 言葉は、つまるところ、何等かの事実を記述している。 あるいは、言葉の意味は、それが記述する対象である、さらには、言葉は、それが記述する事実の存否によって、その真偽を確定しうる、あるいは、言葉は、その真偽の確定し得る場合にのみ、有意味である、といった記述主義の言語観を、オースティンは批判する。 オースティンの用語系によれば、記述主義とは、差し当たり、言葉を発すること、すなわち発言(発話)の総ては、事実を記述し、真偽を確定し得る、事実確認的(constattive)発言に還元されるか、さもなくば、ナンセンスに帰着するという主張に外ならない。 しかし、あらゆる発言を、事実確認的発言に還元し尽くすことは、果たして可能なのだろうか。 たとえば、何等かの権能に基づいて指図する場合の指図や、あるいは、何等かの判定理由を明らかにして審判する場合の審判の発言や、さらには、何等かの行為の履歴を約束する場合の約束の発言やは、事実を記述している訳でもないし、また、その真偽が問題となっている訳でもない。 しかし、これらの発言が、社会生活において、極めて重要な種類の発言であることは論を俟たない。 財産権や人格権の行使や、契約や、あるいは、それらを巡る裁判やは、社会生活の根幹を成している。 記述主義は、このような指図や審判や約束やの発言を、その焦点から外してしまっているのである。 (もちろん、記述主義が、これらの発言に、何の位置付けも与えていない訳ではない。前章で述べたように、記述主義から見れば、これらの発言は、主観的な意図の表出に外ならないことになる。しかし、この点についての検討は、次章の課題である。) 指図や審判や約束やの発言は、その発言を遂行することそれ自体が、指図や審判や約束やといった、社会的行為そのものを遂行することになる種類の発言である。 たとえば、「~を約束します」と発言することは、取りも直さず、約束という社会的行為を遂行することに外ならない。 すなわち、これらの発言においては、言うことが、行うこととなっているのである。 このように、発言することが、(発言という行為とは区別される)社会的行為を遂行することになる種類の発言を、オースティンは、差し当たり、行為遂行的(performative)発言と呼ぶ。 事実確認的発言に焦点を合わせている記述主義は、この行為遂行的発言を捕捉し得ないのである。 行為遂行的発言は、もとより、事実を記述している訳ではなく、従って、その真偽も確定し得ない。 行為遂行的発言は、真偽いずれでもないのである。 しかし、行為遂行的発言であれば、いかなるものでも、社会的行為として効力を発揮するという訳でもない。 たとえば、指図する権限のない者による指図や、判定理由を示し得ない審判は無効であり、約束された行為が履行されない約束は不実である。 すなわち、行為遂行的発言は、何等かの条件を充たすことによって始めて、社会的行為としての効力を獲得するのである。 オースティンは、この、行為遂行的発言を社会的行為として発効させる条件を、行為遂行的発言の適切性(felicity)の条件あるいはルールと呼んでいる。 従って、行為遂行的発言は、それを発効させるルールを根拠として、適切あるいは不適切のいずれかに判定されるのである。 しかし、いかなる行為遂行的発言が適切であるかを決定するルールの検討は、次章に委ねられる。 ここでは、事実確認的発言と対比される意味での行為遂行的発言の検討に議論を限定したい。 行為遂行的発言の概念こそが、記述主義の批判に対して、最も有力な手掛かりを与え得るからである。 この行為遂行的発言の概念と、言語行為(speech act)の一般理論との関係は、オースティン本人においても、かなり微妙である。 もちろん、行為遂行的発言の発見なしには、言語行為の一般理論が構想され得なかったであろうことは言うまでもない。 しかし、言語行為の一般理論が構成されるに及んで、行為遂行的発言の概念が後景に退けられたこともまた明らかである。 行為遂行的発言と言語行為とは、果たして、如何なる関係に置かれているのであろうか。 前章で述べたように、オースティンによれば、言葉を発すること、すなわち発言(発話、発語)することは、以下の三種の行為を同時に遂行することに外ならない。 言い換えれば、言うことは、以下の三種の位相において、行うことなのである。 その第一は、発語という行為それ自体が、何等かの事態を意味する、すなわち何等かの事態を指示する行為に外ならないという発語行為(簡単のために、ここでは、音声行為および用語行為を捨象して、発語行為を意味行為あるいは指示行為に限定している)の位相であり、 第二は、発語することが、何等かの社会的な効力を持つ(発語それ自身とは区別される)行為を遂行することになるという発語内行為の位相であり、 第三は、発語することを手段として、発語主体の意図する、何等かの結果を達成することが目指されるという発語媒介行為(ここでは、発語主体の意図せざる結果を捨象している)の位相である。 オースティンは、以上の三種の行為を総称して、言語行為と呼んでいる。 すなわち、言語を発話することは、以上の三種の位相において、行為を遂行することなのである。 行為遂行的発言と発語内行為、さらには、事実確認的発言と発語行為が密接に関連していることは一見して明らかであろう。 しかし、両者は同じものではあり得ない。 何故なら、行為遂行的発言と事実確認的発言との区別は、ある一つの発言をいずれかのカテゴリーに分類するための区別であるのに対して、発語内行為と発語行為との区別は、ある一つの発言を幾つかの(行為の)位相に分解するための区別だからである。 すなわち、ある一つの発言が、行為遂行的発言あるいは事実確認的発言のいずれに分類されたとしても、その発言には、発語内行為および発語行為(さらには発語媒介行為)の位相が常に存在し得るのである。 従って、行為遂行的発言も、発語行為の位相を持つという意味において、何等かの事実を指し示していることになるし、また、事実確認的発言も発語内行為の位相を持つという意味において、何等かの行為を遂行していることになる。 このような、行為遂行的発言あるいは事実確認的発言と発語内行為あるいは発語行為との関係を、つぶさに検討することによって、記述主義を乗り越える言語行為論の射程が、詳(つまび)らかにされるのである。 ところで、何等かの社会的効果を帰結する点においては共通している、発語内行為と発語媒介行為との相違は、前章で述べたように、発語内行為の効力が、そのような効力を発生させる根拠となる、何等かの慣習によって支えられているのに対して、発語媒介行為の結果は、そのような慣習に支えられなくとも達成され得るという点にある。 言い換えれば、発語内行為は、慣習に従う限りにおいて、その社会的な効力を発揮し得る言語行為の位相であるのに対して、発語媒介行為は、慣習に従うか否かに拘わらず、その(発語主体の意図する)社会的な結果を達成し得る言語行為の位相なのである。 ここに言う慣習が、すでに述べた、行為遂行的発言にちての適切性のルールと同じものであることは、確認されねばならない。 すなわち、発語内行為の効力の存否を判定する根拠は、(行為遂行的発言についての)適切性のルールなのである。 従って、発語媒介行為は、発語行為のように、それが指示する事実に基づいて、その真偽を判定し得る訳ではなく、また、発語内行為のようにそれが従うルールに基づいて、その当否(適切・不適切)を判定し得る訳でもない、言語行為の第三の位相ということになる。(実は、発語媒介行為は、それが達成しようとする発語主体の意図に基づいて、その成否を判定し得るのであるが、この点についてはここでは触れない。) しかし、発語内行為の当否を判定し、また、発語内行為と発語媒介行為とを区別する、慣習あるいは適切性のルールについての検討は、次章の課題である。 ここでは、発語内行為と行為遂行的発言との関連、および、発語内行為と発語行為との区別に議論を限定したい。 それでは、行為遂行的発言あるいは事実確認的発言と発語内行為および発語行為とは、いかなる関係に置かれているのであろうか。 まず、事実確認的発言は、言うまでもなく、事実を記述し、その真偽を、それが記述する事実の存否に基づいて判定し得る種類の発言なのであるから、紛れもなく、発語行為の位相を保有している。 このような事実確認的発言は、果たして、発語内行為の位相をも保有しているのであろうか。 たとえば、「現在のフランス国王は禿である。」という発言を考えてみよう。 この発言は、典型的な記述命題であって、明らかに事実確認的発言である。 しかし、現在のフランスに国王など存在しないのであるから、その国王が禿であるか否か、言い換えれば、この発言の真偽を、事実に基づいて判定することは不可能である。 それでは、この発言は、無意味であろうか。 否である。 この発言の指示する対象は(それが事実として存在しているか否かに拘わらず)明瞭である。 この発言が奇異な感じを与えるのは、それが無意味だからではなく、むしろ、事実として存在していない対象についての記述命題が、発言として不適切だからである。 すなわち、記述命題という事実確認的発言は、それが術定する対象(ここでは現在のフランス国王)が、事実として存在し得るという条件を充たすことによって始めて、有効あるいは適切な発言として遂行されるのである。 これは、たとえば指図という行為遂行的発言が、指図する権能が存在するという条件を充たすことによって始めて、社会的な効力を有する適切な発言として遂行されるという場合に類似している。 言い換えれば、事実確認的発言と言えども、その真偽が問題とされる以前に、事実確認あるいは記述という社会的行為を遂行する発言として、有効/適切であるか否かが問題とされるのである。 従って、事実確認的発言においても、行為遂行的発言と同様に、その発言が、社会的な効力を持つか否か、あるいは、適切であるか否かが問われる位相が存在することになる。 すなわち、事実確認的発言にも、発語内行為の位相が、確かに存在するのである。 また、「現在のフランス国王は禿である。」という発言は、「禿でないならば現在のフランス国王ではない。」という発言を論理的に帰結する。 従って、ひとたび前者の発言を遂行したならば、後者の発言を拒否することは、論理のルールに違反することになる。 これは、ある行為の履行を約束する発言を遂行したならば、その行為を履行しないことは、約束のルールに違反することになる場合に類似している。 すなわち、いずれの場合においても、ある発言の遂行が、何等かの行為の遂行を義務付け、その行為の遂行を拒否した場合、何等かのルール違反に問われるのである。 言い換えれば、約束と言う行為遂行的発言が、その目的あるいは帰結としての行為の履行されなかった場合に、不誠実あるいは不適切(ルール違反)になるのと同様に、記述という事実確認的発言もまた、その(論理的な)帰結としての行為の履行されなかった場合、不適切(ルール違反)になるのである。 従って、ここでもまた、事実確認的発言は、その真偽を問われる以前に、社会的行為を遂行する発言として、適切であるか否かを問われることになる。 すなわち、事実確認的発言には、発語内行為の位相が、確かに存在しているのである。 続いて、行為遂行的発言を取り上げよう。 行為遂行的発言に、発語内行為の位相が存在していることは、言うまでもなかろう。 それでは、行為遂行的発言に、果たして、発語行為の位相は存在するのであろうか。 たとえば、判決という行為遂行的発言を考えてみよう。 判決という発言は、言うまでもなく、ある行為の当否を、潜在的には明示し得る判定理由に基づいて判定するという社会的行為の遂行である。 通常の場合、この判決理由は、あるカテゴリーに属する行為の当否を規定している一般ルールと、問題となっている行為がそのカテゴリーに属するか否かについての判断から構成されている。 すなわち、当該行為は、ある一般的なルールの違反に該当する故に、妥当ではないと判決するといった具合である。 このとき、問題となっている行為が、一般的なルールに違反するカテゴリーの行為に該当するか否かについての判断は、記述命題の真偽についての判断と極めて類似している。 いずれの判断も、それが指示する事実に基づいて、その分類が決定されるからである。 因みに、前者の判断は、後者の判断と同じく、事前判断と呼ばれることも多い。 従って、判決という行為遂行的発言は、その社会的な効力を根拠付ける判定理由の核心において、事実確認的発言あるいは発語行為を常に前提せざるを得ないのである。 また、判決という行為遂行的発言は、たとえば、「甲は乙に損害賠償を支払うべし。」といった当為命題であることが多い。 このような当為命題は、「甲は乙に損害賠償を支払う。」という記述的あるいは指示的(phrastic)と、「~すべし」という指図的あるいは承認的部分(neustic)とに分解することが常に可能である。 ここで言う記述的あるいは指示的部分が、発語行為の位相を持っていることは明らかであろう。 すなわち、当為命題という行為遂行的発言は、その記述的あるいは指示的部分が常に存在するが故に、発語行為の位相を必ず内包しているのである。 行為遂行的発言における発語行為の位相の存在についてのこのような説明は、オースティン本人のそれと言うよりも、むしろ、ヘアあるいはサールによるものである。 他の点はいざ知らず、この点に関しては、ヘアあるいはサールの議論は、オースティンの言語行為論の理解にとって、極めて有効な視座を提供していると思われる。 行為遂行的発言を、記述的あるいは指示的部分という発語行為の意味を指定する核心部分と、指図的あるいは承認的部分という発語内行為の効力を指定する境界部分に分解して理解することは、ある一つの言語行為には、常に三種類の(行為の)位相が存在していると考える、言語行為論の着眼を、より明晰な分析枠組みに高めるものである。 記述主義は、このような分析枠組みの獲得によって、ようやく乗り越えられることになるのである。 これまで述べてきたように、事実確認的発言もあるいは行為遂行的発言も、発語内行為および発語行為の位相を同時に保有していることが明らかになった。 従って、事実確認的発言と行為遂行的発言との区別は、実は相対的なものであって、むしろ、両者は、発語行為の位相をその核心部分に持ち、各々に種類の異なる発語内行為の位相をその境界部分に持つ、一連の言語行為の二つの種類であると考えられるのである。 言い換えれば、事実確認的発言は、記述(言明解説)という発語内行為を遂行する言語行為なのであり、行為遂行的発言は、指図(権能行使)や判決(判定宣告)や約束(行為拘束)やという発語内行為を遂行する言語行為なのであって、また、いずれも、何等かの事態を指示する部分として発語行為を内包する言語行為なのである。 このような言語行為論の視点から見れば、記述行為は、言語行為という多元的な現実を、その記述的あるいは指示的な部分のみに一元化して把握しようとする、対象指示一元論あるいは意味行為一元論であることが明らかになる。 記述主義は、言語行為の唯一つの位相しか捉えていないのである。 しかし、我々の言語の現実の在り方である言語行為は、対象指示に還元し尽くされる筈もない。 如何なる対象指示と言えども、発語内行為の種類が指定されることによって始めて、言語行為、すなわち、発話として社会的に発効するのである。 従って、記述の発話と言えども、それが社会的な効力を有する適切な発話であるためには、何等かのルールに従っていなければならないことになる。 しかし、言語行為の従うルールについての検討は、次章の課題である。 ▼第四章 規範の文脈 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.規範的秩序 - ハイエク - あらゆるルール、わけても法的ルールは、主権者と呼ばれる主体によって、意図的に設定されたものである、あるいは、あらゆる法は、主権者の意志の表出である、と考える法の主権者意志説は、主権者の権力の無制限を帰結した。 多数者としての大衆が主権者の高みにある今日においては、これは、多数者大衆に無制限の権力を委ねることに等しい。 しかし、総ての(法的)ルールを主権者が意図的に設定することなど、果たして可能なのであろうか。 あるいは、如何なる(法的)ルールによっても制限され得ない主体など、果たして存在し得るのであろうか。 ハイエクは、この問いに対して、如何なる行為、あるいは、如何なる主体と言えども、何等かの先験的なルールあるいは形式に従うことによって、始めて行為あるいは主体足り得るという議論を以て答える。 すなわち、ハイエクは、あらゆる行為(主体)は、カントの言う先験的カテゴリーに類似した、先験的なルール(あるいは形式)を前提することによって、始めて存在し得ると言うのである。 ハイエクによれば、あらゆる行為は、あるカテゴリーに属する行為の当否を決定する一般的なルールが、無数に重ねあわされることによって、特定されたものである。 言い換えれば、ある特定の行為は、ある一般的なクラスに属する行為の是非を判定する抽象的なルールが、幾層にも積み重ねられることによって、構成(constitute)されるのである。 従って、ハイエクの言う抽象的なルールは、具体的な行為に常に先行し、行為を行為足らしめるという意味において、それを構成するものである。 すなわち、ハイエクの言う抽象的なルールは、カントの意味において、まさに先験的なのである。 この意味において、ハイエクは、紛れもないカント主義者であると言えよう。 ハイエクは、ある特定の具体的な行為が、一般的、抽象的なルールの重ね合わせによって構成されるとする彼の主張を、抽象的なるものの優位性(primacy of the abstract)と呼んでいる。 抽象的なるものは、具体的なるものから、主体的な行為によって、作成されたものではなく、むしろ、主体的な行為をも含む具体的なるものこそが、抽象的なるものによって、そのものとして構成されると言うのである。 言わば、ハイエクは、あらゆる行為を、何等かの抽象的なルール群によって構成された、社会的なゲームの具体的な遂行であると考えているのである。 従って、あらゆる行為は、社会的なゲームを構成する先験的なルールを前提として始めて存在することになる。 しかし、ハイエクは、具体的な行為に対する抽象的なルールの先験性を主張するからと言って、必ずしもカントの議論の総てを引き受ける訳ではない。 ハイエクにとって、先験的なルールは、決して絶対的なものではあり得ない。 前章で見たように、ハイエクの言うルールは、行為の持続的な遂行を通じて生成され、また、経験的に遂行されていること以外には、それに従うべきいかなる根拠も持ち得ない、相対的なものである。 すなわち、ハイエクの言うルールは、行為の歴史的あるいは地域的な遂行に相対的である、遂行的な秩序なのである。 ここで、行為の持続的な遂行にのみ根拠を持つルールが、何故、行為を先験的に構成し得るかという疑問が、当然、生じて来ると思われる。 行為によって生成されるルールが、何故、行為を構成し得るのか、まことに当然な疑問である。 しかし、この問いに答えることは、本節の後半まで、しばらく預けて置くことにしよう。 ここでは、行為を構成する先験的なルールの存在が、法の主権者意志説に現れている主体主義あるいは個体主義に対して、いかなる含意を持ち得るかを、まず検討してみたい。 さて、ルールの、行為の当否を判定して、行為の秩序を構成するという側面を、その規範的(normative)な側面と呼ぶことにする。 すなわち、ルールは、暗黙的な側面とともに規範的な側面を持つ秩序なのである。 ところで、ルールが存在すると言うことは、行為に何等かの秩序が存在すると言うことに外ならないのであるから、ルールの存在と、ルールに行為が従うことによって形成される自生的秩序の存在とは、実は、同じ一つの事態に外ならないと言い得る。 自生的秩序は、ルールの構成する社会的なゲームであると見なし得るので、これは、あるルールの構成するゲームの記述と、あるゲームを構成するルールの記述とが、同等である、と言うに等しい。 従って、ルールが、規範的な側面を持つということは、取りも直さず、自生的秩序もまた、規範的な側面を持つということに外ならないことになる。 すなわち、自生的秩序もまた、暗黙的であるとともに規範的でもある秩序なのである。 言い換えれば、自生的秩序は、行為の内に黙示され、行為の意識的な対象とななり得ない秩序であるとともに、行為の外に前提され、行為を規範的に拘束する秩序なのである。 このような、ルールと、それに行為が従うことによって形成される自生的秩序とに、規範的な側面が存在することの主張は、たとえば法の主権者意志説に対して、いかなる含意を持っているのであろうか。 あらゆる行為には、その行為を行為として発効させる、先験的なルールが前提されるのであるとすれば、主権者による法の制定という行為もまた例外ではあり得ない。 すなわち、主権者による法の制定もまた、(主権者自身の制定に因らない)何等かのルールに従っている筈である。 この意味においては、主権者と言えども、なるほど無制限ではあり得ない。 しかし、この意味において主権者を拘束するルールは、たとえば、法は言語によって記述されねばならず、法の制定は言語のルールに従わねばならない、といった極めて抽象的なレベルのルールを含むものである。 従って、この意味におけるルールに、何の限定も加えないとするならば、なるほど、主権者は何等かのルールによって制限されてはいるが、法的には全く無制限である、ということにもなりかねない。 たとえば、日本語で立法しさえすれば、いかなる法でも立法し得るといった具合である。 すなわち、主権者を制限するルールが、実質的な意義を持ち得るのは、あくまで、それが法的なレベルにおけるルールである場合なのである。 それでは、主権者の立法に先行し、主権者の立法を制限する、法的なルールとは、いかなるルールであるのか。 それは、主権者が意図的に設定する(法的)ルールを、(法的)ルールとして妥当させる理由あるいは根拠となるルールである。 すなわち、主権者の法を制定する際に従うべき手続きや、主権者の制定する法の充たすべき一般的な内容といった、法が法として発効するための要件を規定する(法的)ルールによって、主権者は制限されるのである。 このようなルールは、言語によって記述された憲法をもちろん含み得るが、決して、それに留まるものではあり得ない。 何故なら、このようなルールは、書かれた憲法のように、主権者によって意識的に制定されたものではありえないからである。 すなわち、法の主権者意志説が主権者の無制限を帰結することの対偶を取れば明らかなように、主権者を制限し得るルールは、主権者によって設定されたものではついにあり得ないのである。 主権者を制限し得る法的ルールは、主権者の意図的に設定したものではないとすれば、主権者の遂行的に従っているそれ以外にはあり得ない。 すなわち、主権者の、その行為において、慣習的に遂行しているルールこそが主権者を制限し得るのである。 言い換えれば、主権者の行為は、自らの遂行的に従う、慣習的なルールを根拠にして始めて、主権者の行為として法的に発効し得るのである。 従って、この場合、主権者の遂行的に従うルールが、その行為を規範的(あるいは先験的)に構成するルールに転化していることになる。 しかし、このような、遂行的なルールの規範的なルールへの転化の問題は、本節の最後で取り上げることにする。 ここでは、主権者の行為を法的に発効させる根拠となるルールによって、主権者が法的に制限されるという事態が、あらゆる法的なルールは主権者によって意図的に設定されたものであるとする、法の主権者意志説を、真っ向から覆すものであることを確認しておきたい。 すなわち、主権者の行為を(法的に)構成するルールの存在は、主権者の無制限を帰結する法の主権者意志説とは、決して両立し得ないのである。 言い換えれば、法の主権者意志説に現れた主体主義あるいは個体主義は、主体あるいは個体それ自体を構成するルールの存在によって、その理論的な貫徹を、阻止されざるを得ないのである。 このような、主権者の行為を制するルールを、ハイエクは、(法的)ルールが(法的)ルールとして妥当するために充たすべき一般的な条件についての、世間一般の意見(opinion)と呼んでいる。 言い換えれば、主権者は、世間一般の意見によって制限されるのである。 ハイエクの言う、世間一般の意見は、世間一般の意志(will)とは明確に区別される、かなり独特な概念である。 すなわち、世間一般の意志が、たとえばルールの可否をめぐる投票などによって、意識的に表出されるのに対して、世間一般の意見は、主権者の設定したルールがルールとして実際に従われるか否かによって、遂行的にのみ示されるのである。 従って、主権者の制定する法は、世間一般の意見によって拒否されない限りにおいて、法足り得ることになる。 今日においては、多数者大衆が主権者なのであるから、世間一般の意志と主権者の意志は一致していると考えてよい。 この場合、世間一般の意志によって設定されたルールと言えども、世間一般の意見によって拒否されるのであれば、ルールとしては発効し得ないことになる。 すなわち、世間一般の意見は、世間一般の意志をも制限し得るのである。 この意味において、ハイエクのいう世間一般の意見は、アナール学派の言う集合的心性(mentalite)に、かなり近しい概念である。 何故ならば、いずれも、行為を規範的に限定し得るとともに、自らは遂行的にのみ存在し得る、集合的な精神の秩序に外ならないからである。 それでは、本節の前半で残して措いた問題を取り上げることにしよう。 すなわち、行為の持続的な遂行の意図せざる結果として生成されるルールが、何故に、行為を先験的に構成する規範たり得るのか、という問題である。 あるいは、この問題を、自らに従う行為の持続的に遂行されていること以外には、いかなる根拠をも持ち得ないルールが、何故に、行為の社会的に発効し得るか否かを決定する根拠たり得るのか、と言い換えてもよい。 すなわち、この問いは、行為の発効し得るか否かを決定する根拠それ自身が、行為の結果として生成されるということに、果たして何の矛盾も生じ得ないのか、という疑いから発せられているのである。 このような疑いには、充分な根拠がある。 何故ならば、もし行為の発効し得るか否かを決定する根拠が、行為自らによって与えられるとするならば、行為の有効/無効を決定するのは行為自らである、という事態が生じ得るからである。 たとえば、「私の決定(行為)は無効である」と私は決定(行為)する、といった事態が生じ得るのである。 このような事態は、明らかにパラドックスを孕んでいる。 すなわち、もし、「私の決定は無効である」という私の決定が有効であるとするならば、私の決定は無効であることになり、逆に、「私の決定は無効である」という私の決定が無効であるとするならば、私の決定は有効であることになる。 従って、このような事態においては、私の決定の発効し得るか否かを決定することは、論理的に不可能となるのである。 このパラドックスは、いわゆる自己言及(self-reference)のパラドックスと同型のパラドックスとなっている。 すなわち、自己の決定の発効し得るか否かは、自己自身によっては決定不能であるという事態は、自己言及による意味の決定不能性と同型の構造を持っているのである。 従って、行為の有効/無効は、行為自らによっては決定し得ないのであるから、行為の発効し得るか否かを決定する根拠が、行為自らによって与えられるような状況においては、行為の社会的な効力など、全く決定不能であるように考えられる。 すなわち、行為の社会的な発効の条件を規定するルールが、行為の持続的な遂行の結果として生成されるという状況においては、行為の社会的に発効し得るか否かは、ついに決定し得ないように思われるのである。 しかし、このような帰結が導かれるように見えるのは、実は、行為の発効し得るか否かを決定するルールを、行為自らによって意図的に設定(決定)し得ると考えているからに外ならない。 すなわち、行為の発効条件を規定するルールを、決定や制御や言及やといった行為の意識的な対象となり得ると考えるが故に、行為の発効し得るか否かを、行為自らが決定するという事態が生じているように見えるのである。 言い換えれば、ルールが行為の意識的な対象として(意図的に)設定されるという事態であると見なすが故に、行為の有効/無効を行為自らが決定しているように見えるのである。 従って、行為の有効/無効を決定するルールが、行為の結果として生成されるにも拘わらず、行為によって意図的には設定(決定)し得ない事態であると考えるならば、この問題(自己言及の非決定性)は、ひとまず解消することになる。 すなわち、行為の社会的な効力を決定するルールが、行為の持続的な遂行の結果であるにも拘わらず、行為の意識的な対象とはなり得ないという意味において暗黙的であるならば、行為の発効し得るか否かは、ひとまず決定可能となるのである。 言い換えれば、ルールが、行為の有効/無効を、とりあえず決定し得るとするならば、それは、ルールが、暗黙的であるからに外ならないのである。 以上の議論から、遂行的に生成されるルールが、にも拘わらず、行為を規範的に拘束し得るとするならば、それは、ルールの暗黙的である場合に限られることが明らかになった。 言い換えれば、行為が、自らを行為として発効させるために、何等かのルールに依存せねばならぬとするならば、そのようなルールは、暗黙的たらざるを得ないのである。 ここで注意すべきは、この、行為が自らを発効させるために、何等かのルールに依存せねばならぬ、という(次々節で行為の文脈依存性と呼ばれることになる)命題は、ここでは単に仮定されているだけなのであって、何の論証も為されている訳ではないということである。 すなわち、ここでは、行為が自らの発効をルールに依存していることが、とりあえず仮定されるならば、そのようなルールは暗黙的であることが帰結される、という議論をしているのである。 従って、行為は自らの発効をルールに依存しているのか否かという問いが、また改めて問われねばならない。 しかし、この問いを問うことは、次節以下に委ねたい。 ここでさらに注意すべきは、行為の発効を根拠付けるルールが、たとえ暗黙的であったとしても、いわゆる自己言及の非決定性が、完全に解消する訳ではないということである。 なるほど、行為の有効/無効を決定するルールが、行為自らの言及(決定)対象とはなり得ないとすることによって、行為の発効し得るか否かは、確かに決定可能となった。 しかし、そのことによって、ルールそれ自体は、自らの有効性あるいは妥当性を決定し得る、いかなる根拠をも与えられるわけではない。 何故ならば、ルールそれ自体の妥当性を、(行為ではなく)ルールに根拠を置いて決定することは、明らかに自己言及のパラドックスを引き起こすからである。 従って、ルールそれ自体の妥当し得るか否かは、依然として決定不能なのである。 言い換えれば、行為の有効/無効を決定するルールが暗黙的であるとすることによって、行為についての(自己言及の)非決定性は、確かに解消されたのであるが、それは、(自己言及の)非決定性を、ルールについてのそれに、ただ先送りしたに過ぎないのである。 あるいは、ルールが暗黙的であるということは、取りも直さず、ルールそれ自体の妥当性が決定不能であるということに外ならない、と言い換えてもよい。 すなわち、ルールの暗黙性とはその自己言及性に外ならないのである。 いずれにせよ、自己言及の非決定性は、行為についてのそれからルールについてのそれへと、そのレベルを変更しただけであって、パラドックスそのものは、少しも解消していない。 自己言及性は、(次々節に述べる文脈依存性と共に)人間とその社会にとって、ついに逃れ得ない、言わば運命的な特質なのである。 ◆2.内的視点 - ハート - ルールが存在するということは、取りも直さず、行為に何等かの秩序あるいは規則性が見い出されるということに外ならなかった。 前章で述べたように、ハートは、この、行為に何等かの規則性を見い出す視点を、ルールに対する外的視点と呼んだのであった。 また、ハートは、ルールの、行為に規則性が存在する事態として捉えられる側面を、その外的側面と呼んだのであった。 しかし、ハートによれば、ルールがルールとして存在し得るためには、行為に規則性が見い出される以外に、ルールが行為の当否を判定する根拠あるいは理由として、(行為主体に)受け容れられておらねばならないのである。 言い換えれば、ハートの言うルールは、その外的側面が観察される以外に、行為の妥当性を評価する規準となる、その内的側面が確認されて始めて、ルールとして存在し得るのである。 ルールは、そのルールには従わない、言い換えれば、そのルールの構成する社会的なゲームには内属しない外的視点によって、行為に規則性が存在する事実として観察されるその外的側面と、そのルールに従う、言い換えれば、そのルールの構成する社会的なゲームに内属する内的視点によって、行為の妥当性を判定する当為として受容されるその内的側面と言う、二つの側面が合わさって始めてルールと呼び得る。 すなわち、ハートによるルールの概念は、ルールの事実として従われていることが観察されることのみならず、ルールの当為として従われるべきことが受容されていることをも、その構成要件とするのである。 この、事実としてのルール、すなわち、ルールの外的側面と、当為としてのルール、すなわち、ルールの内的側面とは、いずれか一方から他方が導き出されるといった関係にはなく、ルールという一つの事態を、外的/内的という二つの視点から見ることによって現れた、その二つの側面なのである。 従って、その外的視点から見るならば、ルールは、それが従われているという単なる事実に過ぎず、従うべき当為では些かもあり得ないのに対して、その内的視点から見るならば、それは、自らの従うべき当為なのであって、それが事実として従われているか否かは、規範逸脱の事実認定においてのみ問題とされるのである。 いずれにせよ、ルールが、行為の当否を判定する根拠あるいは理由となり得るのは、その内的視点から見た場合なのである。 ところで、行為の妥当性を判定する根拠となる内的側面を持つ、ルールそれ自体の妥当性は、いかなる根拠によって正当化されるのであろうか。 法的ルールの場合、前章で述べたように、あらゆる法体系には、それに属する総てのルールの妥当性を根拠付け得る承認のルールが、常に存在しているというのが、この問いに対するハートの答えであった。 すなわち、法体系を構成する(一次)ルールは、承認の(二次)ルールによって、その妥当性を理由付け得るのである。 しかし、ルールの妥当性の、このような正当化の方法は、無限後退に陥らない限り、どこかで断念されざるを得ない。 言い換えれば、無限後退を避けるためには、他のあらゆるルールを正当化し得るが、自らは如何なるルールによっても正当化され得ない承認のルールが、どこかで要請されざるを得ないのである。 前章で述べたように、ハートは、このような承認のルールを、究極の承認のルールと呼んだのであった。 すなわち、究極の承認のルールは、そのルールの妥当性を根拠付け得る如何なるルールも存在し得ないという意味において、究極的なのである。 究極の承認のルール、あるいは、法体系には属さない一般のルールは、その妥当性を判定し得る如何なる根拠も持ち得ない。 言い換えれば、このようなルールは、それ自体を対象として規範的に評価し得る、如何なる内的視点をも持ち得ないのである。 従って、このようなルールそれ自体を対象とし得るのは、それが遂行的に存在しているという事態を認識し得る、その外的視点以外にはあり得ない。 すなわち、このようなルールは、(それ自体を対象として見れば)ただ事実として遂行されているという事態以外ではあり得ないのである。 しかし、このようなルールの規範性と遂行性との関係については、前章に詳しく検討したので、ここでは触れない。 むしろ、本節では、ルールわけても究極の承認のルールに従う内的視点の存在が、ハートの批判する法の主権者意志説に対して、果たして如何なる含意を持ち得るのかを問題としたい。 あらゆる法は、主権者の意図的に設定したものである、さらに、その論理的な帰結として、そのような主権者は、法的に無制限な主体である、これが法の主権者意志説であった。 これに対して、究極の承認のルールは、あらゆる法に、それが法として妥当するための根拠を与えるルールである。 従って、たとえば、主権者の制定した法は妥当するといったルールもまた、究極の承認のルールであり得る。 因みに、ある法が主権者によって制定されたものであるか否かを、その法の妥当性を判定する究極的な規準とする法体系は、近代国家においてはむしろ通例である。 しかし、この場合、主権者は決して無制限ではあり得ない。 このような法体系においては、主権者は、主権者の設定する法は有効であるという、究極の承認のルールを根拠として始めて、自らの設定する法の妥当性を理由付け得るのであり、さらに、そもそも自らの主権者たり得た根拠それ自体も、主権者たるの要件を規定する、究極の承認のルールを待って始めて与えられるのである。 言い換えれば、主権者は、自らの行為の法的な効力のみならず、自らの存在それ自体をも、究極の承認のルールによって与えられているのである。 すなわち、究極の承認のルールの存在する法体系においては、主権者はついに無制限ではあり得ず、究極の承認のルールに従う、その内的視点を取らざるを得ないのである。 あるいは、このことを、主権者によって制定された法が、法として妥当し得るか否かは、究極の承認のルールに依存する、と言い換えてもよい。 すなわち、主権者による法の制定という行為が、行為として(法的に)発効し得るか否かは、究極の承認のルールという文脈に依存しているのである。 この命題は次節に述べる(発語内)行為の文脈依存(context-dependence)性という命題と、全く同型の構造を持っている。 たとえば、主権者の「私は~を法とする」という発話が、法を制定する行為として発効し得る(~を法として妥当せしめる)ためには、立法の権限が主権者にあらかじめ与えられていることや、立法の発話が適切な手続きに従って為されていることなどといった、様々な条件が充たされておらねばならない。 次節では、このような条件を、(発話内)行為の文脈と呼ぶことにするが、究極の承認のルールとは、まさに、この意味における(法の妥当性の承認という)行為の文脈に外ならないのである。 すなわち、主権者による法の制定という行為が、行為として(法的な)行為として発効し得るか否かは、究極の承認のルールという文脈に依存している、という事態は、発話という行為が、(社会的な)行為として発効し得るか否かは、その文脈に依存している、という事態(発語内行為の文脈依存性)の、法領域における現れとして捉え得るのである (発語内)行為は、その主観的な意図とは独立に、何等かの文脈が与えられて始めて、自らの社会的な効力を確定し得る。(この命題については次節で詳しく検討する。) 同様に、主権者による法の制定は、その主観的な意図とは独立に、究極の承認のルールが与えられて始めて、自らの法的な効力を確定し得る。 すなわち、主権者の行為の(法的な)効力は、その主観的な意志ではなく、その社会的な文脈に規定され、あるいは、制限されているのである。 従って、究極の承認のルールの存在は、あらゆる法を主権者の意図的に設定したものであると考える、法の主権者意志説を、真っ向から否定することになる。 何故ならば、究極の承認のルールの存在は、法の主権者意志説の論理的帰結である、主権者の法的無制限という事態と、全く両立し得ないからである。 すなわち、法の主権者意志説に従えば、第一章で見たように、主権者の法的無制限を帰結せざるを得ないのであるが、究極の承認のルールの存在する法体系においては、主権者は法的に無制限ではあり得ないのであって、その必要条件を否定される法の主権者意志説は、棄却されざるを得ないのである。 言い換えれば、主権者の行為が、究極の承認のルールに依存せざるを得ないとするならば、法を主権者の意志の表出としてのみ捉えることは、もはや不可能となるのである。 また、法の主権者意志説においては、あらゆる法は、究極的には主権者によって意図的に設定されたと考えるのであるから、法が、法として妥当し得る根拠もまた、それが、究極的には主権者によって意図的に設定されたという事実以外にはあり得ない。 すなわち、法の主権者意志説は、法の究極的な制定目的が主権者の意志にあると主張するのみならず、法の究極的な妥当根拠もまた主権者の意志にあると主張するのである。 このような主権者は、いかなる法によっても決して制限され得ず、従って、如何なる法体系の内部においても、その(主権者たる)根拠を持ち得ない存在である。 言い換えれば、このような主権者は、あらゆる法体系の外部にある、いわば超法規的あるいは政治的な存在なのである。 従って、法の主権者意志説は、法の究極的な妥当根拠を、法によっては制限も根拠も与えられ得ない、超法規的あるいは政治的な存在である主権者の意志に、委ねざるを得ないことになる。 これに対して、究極の承認のルールは、言うまでもなく、法の究極的な妥当根拠となる、法的なルールである。 従って、究極の承認のルールが存在しさえすれば、法を究極的に妥当させる、法的に無制限な主権者の存在など、些かも必要とされないことになる。 言い換えれば、たとえ法の主権者意志説を取らないとしても、究極の承認のルールさえ存在するならば、法体系の理解にとって、些かの支障もないのである。 従って、法の主権者意志説は、究極の承認のルールの存在と両立し得ないばかりではなく、それが全くの誤りであるか否かはいざ知らず、究極の承認のルールが存在しさえするならば、少なくとも不必要な議論なのである。 しかし、究極の承認のルールそれ自体は、いかなる法的な根拠も持ち得ない、いわば法体系の外部に開かれているルールであった。 このような究極の承認のルールの存在と、法的な根拠を持ち得ない、言わば超法規的な主権者の存在とは、一体どこが違うというのであろうか。 そもそも、法の妥当し得るか否かを究極的に確定するためには、法によってはついに根拠付け得ない存在が、不可避的に要請されるのではなかったのか。 この問いに答えるためには、主権者の行為は究極の承認のルールに依存している、という命題の成立していることが、まず確認されねばならない。 すなわち、主権者の行為は、その当否を、究極の承認のルールによって始めて決定され得る、という事態である。 それでは、その逆である、究極の承認のルールは、その妥当根拠を、主権者の行為によって始めて付与され得る、という事態は、果たして成立し得るのであろうか。 この問いに対して、もし、究極の承認のルールにその妥当根拠を与え得る主権者の行為があるとするならば、その主権者の行為に妥当根拠を与える究極の承認のルールが存在することになり、究極の承認のルールの究極性に矛盾する、といった答えを与えることも、確かに適切である。 しかし、ここでは、この問題を、別の角度から検討してみたい。 すなわち、この問題を、たとえば、「私(主権者)の制定する法は妥当しない」という法(究極の承認のルール)を私(主権者)は制定する、といった自己言及の問題として捉えるのである。 このように問題を捉えてみるならば、究極の承認のルールが、主権者の、(たとえば法の制定という)行為によってその妥当根拠を与えられる、という主張は、まさに、前節に述べた、自己言及の非決定性を帰結することが明らかとなろう。 従って、前節の議論を援用すれば、究極の承認のルールは、主権者の行為の意図的な対象とはなり得ないという意味において、暗黙的であることが結論されるのである。 すなわち、究極の承認のルールは、主権者の意図的な行為によっては、その妥当根拠をついに与え得ない、根拠付け不能な事態なのである。 しかし、(承認という)行為の持続的な遂行においてのみ存在し得る、遂行的な事態としての究極の承認のルールが、行為の意図的な対象とはなり得ないという意味において、暗黙的な事態でもあることは、既に前章において詳しく見た処である。 むしろ、本章において見るべきは、遂行的な事態としての究極の承認のルールが、(承認という)行為の法的に発効し得るか否かを決定するという意味において、まさに、規範的な事態でもあることなのである。 すなわち、究極の承認のルールは、行為の社会的(法的)な効力を、その主観的な意図とは独立に決定する、まさしく慣習的な文脈に外ならないのである。 ところで、究極の承認のルールは、人々の行為の当否を判定する根拠となる(一次)ルールそれ自体の、妥当性を判定する根拠となる(二次)ルールであった。 従って、ある行為の当否判定において、その根拠となるルールをめぐる紛争の生じた場合に、究極の承認のルールは、いかなるルールが従われるべきかを決定することのよって、その紛争を常に解決し得ることになる。 たとえば、ある行為の当否について、現行のルールがいかようにも解釈し得る場合、究極の承認のルールは、ある一つの解釈をルールとして妥当させる根拠を与え得るのである。 すなわち、現行のルールに、行為の当否について、何等かの不確定な部分が存在する場合、究極の承認のルールは、その部分を確定することによって、事実上新たなルールを設定する根拠を与え得るのである。 ハートは、ルールがこのように不確定な部分を常に有していることを、ルールの開かれた構造(open texture of rule)と呼んでいる。 従って、究極の承認のルールは、(一次)ルールの開かれた構造を、常に閉じ得る装置であるとも言い得ることになる。 しかし、究極の承認のルールもルールである以上、ルールの開かれた構造の例外ではあり得ない筈である。 すなわち、究極の承認のルールもまた、何等かの不確定な部分を常に有しているのである。 そこでは、究極の承認のルールの不確定な部分は、如何にして確定されるのであろうか。 たとえば、そのような確定が、いずれかの主体によって意図的に遂行されるとしてみよう。 この場合、究極の承認のルールの不確定な部分を確定する行為は、究極の承認のルールの(部分的な)不在という場面において、それを意図的に設定する行為となってはいないか。 言い換えれば、そのような行為の主体は、究極の承認のルールによっては制限され得ない、無制限な主権者と呼び得る存在ではないか。 すなわち、究極の承認のルールの開かれた構造を閉じるためには、つまりところ無制限な主権者の存在が要請されるのではあいか。 究極の承認のルールの開かれた構造は、このような一連の疑問を当然に生み出すのである。 しかし、究極の承認のルールが、たとえ開かれた構造を持っているとしても、そのことから直ちに、究極の承認のルールそれ自体を設定する、無制限な主権者が要請されるとは限らない。 究極の承認のルールが不確定なのは、あくまでその一部分なのであって、残りの大部分においては、何が妥当なルールであるかの規準は、差し当たり充分に確定しているのである。 ハートは、ルールの不確定な部分を、その不確定な半影部分(penumbra of uncertainty)と呼び、また、ルールの確定している部分を、その確定した核心部分(core of certainty)と呼んでいる。 究極の承認のルールにも、このような半影部分と核心部分の両方が備わっているのである。 従って、究極の承認のルールの不確定な半影部分を確定する行為は、残りの確定した核心部分を不問の前提にしていると考えてよい。 すなわち、そのような行為は、その対象とはならない部分の究極の承認のルールに従っている、という意味において、決して無制限ではあり得ないのである。 言い換えれば、究極の承認のルールの開かれた構造を閉じる行為は、あくまで究極の承認のルールの一部分のみを対象とするのであって、その全体を対象とすることは決してあり得ず、従って、究極の承認のルールに、たとえ開かれた構造が存在したとしても、それを閉じるために、無制限な主権者が要請される必要は、必ずしもない訳である。 しかし、それにしても、究極の承認のルールの不確定な半影部分を確定する行為は、極めて微妙な行為である。 それは、自らの従うルールの一部分を、自らの対象として言及する行為に外ならない。 このような行為が、自らの従うルールの全体に対してはついに不可能であることは、前章において、ルールの暗黙性として詳しく検討した処である。 すなわち、自らの従うルールの全体を、自らが意図的に変更することは不可能なのである。 しかし、ここで述べられたことは、たとえ自らの従うルールであっても、その一部分であるならば、自らの意図的に変更することが必ずしも不可能ではない、ということである。 ルールの一部分に変更が要請される場合とは、新たに生じた問題に対して、現行のルールが確定した解答を与えられない場合なのであるから、ルールの一部分が変更可能であることは、新たな状況に対するルールの適応のためには、むしろ必要でさえある。 しかし、自らの従うルールを、たとえ部分的であったとしても、自らが意図的に変更する行為は、依然として、かなり微妙な行為であることに変わりはない。 このような行為は、果たして、如何なる根拠あるいは規準によって、新たなルールを生成し得るのか、あるいは、このような行為の意図と、結果として生成されるルールとの間には、(行為の意図が達成されることは全くあり得ないが)果たして、如何なる関係があるのか、といった様々な疑問がすぐにでも涌いてくる。 これらの問題は、実のところ、前章で述べた、ハイエクの言う整合性の原理の問題と、全く同型の構造を持っている。 すなわち、これらの問題に対する回答こそが、まさに、ハイエクの言う整合性の原理に外ならないのである。 ◆3.発語内の力 - オースティン - 言葉を発する、すなわち発話するという行為は、既に見たように、それ自身とは区別される社会的な行為の遂行でもある。 すなわち、発話行為(言語行為)は、発語行為の遂行であるとともに、発語内行為の遂行でもある。 しかし、あらゆる発話行為が、常に社会的な行為としての効力を持つ訳ではない。 発話行為が、何等かの発語内行為の有効適切な遂行であり得るためには、ある慣習的なルールを充たさねばならないのである。 それでは、発話行為を、社会的な行為として発効させる慣習的なルールとは、いかなるルールであるのか。 また、そのようなルールには、いかなる分類があり得るのか。 ところで、ある発話行為が、そのようなルールから見て、たとえ不適切であったとしても、それが何等かの社会的な結果を発生させ得ることまで否定される訳ではない。 すなわち、発話行為は、慣習的なルールに従っているか否かに拘わらず、自らを原因とする何等かの社会的な結果を発生させ得るのである。 このような発話行為の社会的な結果と、その社会的な効力とは、果たして、如何なる関係にあるのか。 言い換えれば、発話によって社会的な結果を達成する発語媒介行為と、発話が社会的な効力を獲得する発語内行為とは、どのように区別され得るのか。 これら一連の問いが、本節で問われる問いに外ならない。 これらの問いに答えることが、取りも直さず、言語における主観主義としての表出主義に対する、決定的な論駁を準備するのである。 オースティンによれば、発話行為が、それ自身とは区別される何等かの社会的な行為として発効する条件は、大きく三つに分類される。 その第一は、ある発話が、何等かの社会的な効力を持つ行為の遂行であるために充たすべき、慣習的な手続きあるいはルールが存在していることである。 たとえば、「~せよ」という発話が、従うべき命令として社会的な効力を持ち得るのは、そこに何等かの手続きに根拠付けられた命令権限が存在し、そのような命令権限を持つ者によって、その発話が遂行される場合に限られる、といった具合である。 従って、「~せよ」という発話が、命令権限の存在しない領域において、あるいは、命令権限のない者によって、遂行されたとしたならば、そのような発話は、命令としての社会的な効力を持ち得ない。 すなわち、何等かの手続きあるいはルールがその背景に存在しない発話行為は、それ自身とは区別される社会的な行為としては無効あるいは不適切なのである。 その第二は、発話を社会的な効力を持つ行為の遂行とするための手続きが、正しくかつ完全に従われることである。 たとえ、発話を社会的な行為として発効させる手続きが、疑いもなく存在していたとしても、それが正しくかつ完全に従わないような発話は、(それ自身とは区別される)社会的な行為としては無効あるいは不適切なのである。 そもそも、ルールが存在するということは、それに従っているか否かによって、行為の当否あるいは適切/不適切が判定され得るということなのであるから、ルールの従われていることを要請する、この第二の条件は、(第一の条件が成り立っているならば)当然と言えばあまりに当然な条件である。 しかし、この条件を敢えて独立させた背景には、司法的な判断に代表される判定宣告型の発語内行為(後述する)が、主としてこの条件の成否に拘わる社会的な行為であることへの配慮があったと思われる。 その第三は、発話がある手続きを充たすことによって社会的な効力を獲得したとき、何等かの後続する行為が義務付けられる場合、そのような行為が引き続き遂行されることである。 たとえば、「私は~を約束します」という発話が、約束を巡って存在するルールに正しくかつ完全に従うことによって、約束という社会的な行為として発効するとき、そこには、約束した行為を引き続いて遂行する責務が生じることになる。 もし、このように義務付けられた後続行為が遂行されないとするならば、「私は~を約束します」という発話は、約束という社会的な行為の遂行としては不適切である。 もちろん、このような発話は、約束という社会的な行為を発効させはする。 すなわち、このような発話は、前期の二つの条件を充たすことによって社会的な行為としての約束を成立させはする。 従って、このような発話は、社会的な行為として無効である訳ではない。 しかし、義務付けられた後続行為が遂行されないとするならば、約束という社会的な行為は、確かに成立してはいるが、完了していない、あるいは履行されてはいない。 このように未完了あるいは不履行となる約束を成立させる発話は、無効ではないが、不適切あるいは義務違反なのである。 すなわち、義務付けられた後続行為の遂行されないような行為を発効させる発話は、社会的な行為の遂行としては不適切なのである。 さらに、オースティンは、この第三の条件に、後続行為の遂行が、発話主体によって、主観的に意図されていることをも含めている。 たとえば、約束の発話が為される場合、約束の履行が発話主体によって主観的に意図されていることが、その発話が社会的な行為として適切であるための必要条件になる、と言うのである。 しかし、後続行為が事実として遂行されることと、それが主観的に意図されることとの間には、厳密に区別されるべき、重大な相違が存在する。 すなわち、行為の事実的な遂行は、たとえば外的視点から観察可能であるが、行為の主観的な意図は、行為と独立には観察不能であるという相違である。 行為の主観的な意図は、観察される行為の原因として、その背後に仮設される存在なのである。 このような発話主体の意図は、発話が社会的な行為の適切な遂行であるための条件に対して、果たして、どこまで相関的なのであろうか。 むしろ、発話主体の意図の如何に拘わらず、後続行為が事実として遂行されるのであれば、発話は社会的な行為の適切な遂行となるのではないか。 これらの問題は、発話の慣習的なルールに基づく効力と、その主観的に意図された結果との区別と密接に関係している。 従って、これらの問題は、発語内行為と発語媒介行為との区別を検討する過程において、始めてその解答を見い出し得ると思われる。 そのために、発語内行為の社会的な効力が、慣習的なルールに依存しているという事態を、また別の角度から検討してみよう。 たとえば、「私は陳謝します」という発語を伴う(後に態度表明型と分類される)発語内行為を考えてみる。 「私は陳謝します」という発語が、陳謝という社会的な行為として発効するためには、前述の三条件に分類される、様々な条件が充たされていなければならない。 ととえば、第一の条件に分類される、私の行為が(陳謝の)相手に何等かの不利益を与えたという事実の存在、また、その不利益が私の行為によっては回避し得ない不可抗力によるものではないこと、さらに、相手に不利益を与えたとしてもなお私の行為を正当化し得る理由のないこと、といった様々な条件が充たされて始めて、「私は陳謝します」という発語は、陳謝という社会的な行為として発効するのである。 これらの条件のどれか一つ、あるいはその幾つかが充たされていない場合、「私は陳謝します」という発語は、社会的な行為としては、無効あるいは不適切となる。 たとえば、相手に何の不利益も与えていないのに、「私は陳謝します」と繰り返すことは、滑稽な錯誤でなければ、不幸な病気である。 言い換えれば、「私は陳謝します」という発語が、社会的な効力を有するためには、発語をめぐる、発語自身とは独立な状況の、既述のような条件を充たしていることが、必要不可欠なのである。 すなわち、発語内行為の社会的な効力は、それに伴う発語行為の遂行される状況あるいは文脈に、決定的に依存しているのである。 従って、発語内行為は、それをめぐる状況あるいは文脈を参照することなしには、その効力を全く確定し得ないことになる。 この事態を、発語内行為の文脈依存性と呼ぶことにしよう。 発語内行為は、自らの内属する文脈が与えられて始めて、その効力を決定し得るのである。 すなわち、発語内行為の社会的な効力が、慣習的なルールに依存しているというオースティンの指摘は、取りも直さず、発語内行為は文脈依存的であるという事態の発見に外ならないのである。 ここで留意すべきは、発語内行為が、社会的に発効するための条件には、当の行為の主観的な意図は、必ずしも含まれていないということである。 たとえば、「私は陳謝します」という発語が、社会的な行為として発効するためには、陳謝の主観的な意図は、必ずしも前提されないといった具合である。 すなわち、「私は陳謝します」という発語が、既述のような条件を充たす状況あるいは文脈において遂行されているのであれば、たとえ陳謝の主観的な意図が全く存在しないとしても、陳謝という社会的な行為は成立し得るのである。 あるいは、「私は陳謝します」という発語が、たとえば、私の行為によって相手が如何なる不利益も被っていない状況において、遂行されているとするならば、それが陳謝の主観的な意図に満ち溢れているものであったとしても、陳謝という社会的な行為は決して発効し得ないのである。 すなわち、発語内行為の効力は、それに伴う発語行為が遂行される文脈にのみ依存しているのであって、その主観的な意図からは全く独立しているのである。 陳謝のような、個体の主観的な情緒の表出であると普通は考えられている発話が、その主観的な情緒とは独立に、その社会的な文脈にのみ依存して、自らの効力を確定し得るという事態は、一見、意外に見えよう。 しかし、文脈依存的な発語内行為と、言わば意図あるいは情緒表出的な発語媒介行為とが、共に何等かの社会的な効果を発生させるにも拘わらず、互いに区別されねばならないのは、まさに、このような事態が見い出されるからに外ならないのである。 発語内行為と発語行為との関係については、前章に詳しく検討した。 そこで明らかになったことは、陳述の発話といった事実確認的発話にも、前述の三条件を充たしているか否かによって、その適切性を判定し得る発語内行為の位相が存在すること、また、命令や判定や約束やの発話といった行為遂行的発話と言えども、何等かの事態を指示するという意味において、発語行為の位相が存在することであった。 すなわち、発語内行為と発語行為は、同時に一つの発話の内に存在し得る、発話行為(言語行為)の二つの位相なのである。 この意味においては、発語媒介行為もまた、発語内行為や発語行為やと同様の、発話行為の一つの位相に外ならない。 あらゆる発話は、慣習的に根拠付けられた効力を発揮する行為(発語内行為)の遂行であり、かつ、客観的に対象化された事態を指示する行為(発語行為)の遂行である、と同時に、主観的に意図された結果を達成する行為(発語媒介行為)の遂行でもあり得るのである。 それでは、発語内行為と発語媒介行為とは、如何にして区別されるのであろうか。 両者が、何等かの社会的な効果を発生させる行為である、という点においては共通するにも拘わらず、前者が慣習的なルールによって根拠付けられる行為であるのに対して、後者はそうではない、という点において区別されるということは既に述べた。 オースティン自身は、両者の区別について、実はこれ以上立ち入った検討を加えてはいない。 しかし、このままでは、社会的な効果を発生させる発話行為の内で、慣習的なルールによって根拠付けられる部分以外の総ての残余が、発語媒介行為であるということになる。 これでは、ある発話が、その意図の如何に拘わらず、言わば偶然に何等かの社会的な結果をもたらす場合でも、それは発語媒介行為の概念に包摂されることになり、概念として広きに失すると思われる。 むしろ、発語媒介行為は、発話主体によって主観的に意図された何等かの社会的な結果を、効果的に達成する手段として遂行される発話行為を指示する概念として、より限定的に使用されるべきであると思われる。 すなわち、発語内行為と発語媒介行為とを区別するメルクマールは、前者の社会的な効力を発効させる根拠が、慣習的なルールであるのに対して、後者の社会的な結果を発生させる原因は、(発話主体の)主観的な意図であるという点に求められると考えるのである。 言い換えれば、発語内行為の純粋型が、その慣習的な適切性の問われる、行為の遂行(行為遂行的発話)であり、発語行為の純粋型が、その客観的な真理性の問われる、事態の記述(事実確認的発話)であるのに対して、発語媒介行為の純粋型は、その主観的な誠実性の問われる意図の表出(言わば意図あるいは情緒表出的発話か)であると分類してみるのである。 このように考えてみるならば、あらゆる発話を、発語主体の主観的な意図や情緒や目的やの表出に帰着し尽くし得るとする、言語の表出主義が、如何なる限界をもつ主張であるかが明らかとなる。 すなわち、表出主義は、発話行為の総てを、発語媒介行為の位相に還元し尽くし得るとする主張なのである。 しかし、これまで述べてきたこおから明らかなように、発話行為は、発語行為と発語媒介行為の位相の直和には、ついに分割され得ない。 発話行為には、発語内行為の位相が、紛れもなく存在するのである。 すなわち、記述主義という、いわば言語の物理主義的な理解も、また、表出主義という、いわば言語の心理主義的な理解も、慣習的なルールに従った社会的な行為の遂行としての言語の位相を、ついに捉え切れないのである。 言い換えれば、客観的な事実でもなく、あるいは、主観的な情緒でもなく、ただ、社会的な文脈にのみ依存して、その当否を決定される言語行為の位相の、確かに存在し得ることが、捉え切られねばならないのである。 このように、発語行為とも発語媒介行為とも区別される発語内行為は、それ自身幾つかの類型に区分し得る。 言い換えれば、発話行為の発揮し得る慣習的な効力は、幾つかの種類に分割し得る。 オースティンは、この発話行為の発揮し得る慣習的な効力を、発語内の力(illocutionary forces)と呼び、その分類を、発語内の力の分類と呼んでいる。 以下に見るように、発語内の力の分類は、本節の前半に述べた、発語内行為の適切性の条件の分類と、密接に関係しているとともに、一つの発話行為が、同時に三つの位相を持つという事態とも、深く拘わっているのである。 それでは、発話行為を、それが発揮する発語内の力の類型に対応させて、言い換えれば、それが遂行する発語内行為の類型に対応させて、以下に分類してみよう。 第一の類型は、権限行使型(exercitives)である。 これは、何等かの権能を行使する発話であり、たとえば、命令や許可の発話に代表される。 この類型が、発語内行為が適切であるための第一の条件である、(権能を付与する)ルールの存在という条件を、その発語内の力の根拠とすることは明らかであろう。 第二の類型は、行為拘束型(commissives)である。 これは、何等かの後続行為を義務付けられる発話であり、たとえば、約束や支持の発話に代表される。 この類型が、発語内行為が適切であるための第三の条件である、(義務付けられた)後続行為の遂行という条件を、その発語内の力の根拠とすることは言うまでもなかろう。 第三の類型は、判定宣告型(verdictives)である。 これは、事実的な証拠や規範的な理由といった根拠に基づいて、何等かの判断を述べる発話であり、たとえば、判定や評価の発話に代表される。 この類型は、証拠や理由の開示といった論理的な手続きの充足を、その判断の根拠とするという意味において、発語内行為が適切であるための第二の条件である、手続きの充足という条件を、その発語内の力の根拠としていると考えられる。 第四の類型は、言明解説型(expositives)である。 これは、陳述や記述の発話に代表される類型であるが、オースティン自身の定義は極めて曖昧である むしろ、この類型は、事実確認的発話に差し当たり分類される発話における、発語内行為としての位相を抽出したものである、と考えた方がよいのではないか。 すなわち、この類型は、事実確認的発話の慣習的な適切性が問われる場面を切り取ったものである、と考えられるのである。 第五の類型は、態度表明型(behabitives)である。 これは、発話主体の主観的な態度や情緒を表出する発話であり、たとえば、陳謝や祝福の発話に代表される。 しかし、この類型は、あくまで発話の持つ発話内の力の分類なのであるから、事実確認的発話や行為遂行的発話と同一平面上において対比される、情緒(あるいは意図)表出的発話それ自体ではあり得ない。 むしろ、この類型は、(発語媒介行為の純粋型である)情緒表出的発話に差し当たり分類される発話における、発語内行為としての位相を抽出したものである、と考えるべきではないか。 すなわち、この類型は、情緒表出的発話の慣習的な適切性が問われる場面を切り取ったものである、と考えられるのである。 ▼第五章 慣行と遂行 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.慣習あるいは《遂行的なるもの》 近代産業を推進する中心的な価値態度としての産業主義や手段主義、あるいは、近代科学を招来した価値態度とされている実証主義や記述主義といった、一連の合理主義とも言うべき世界の捉え方と、近代民主政治あるいは近代主権国家を支持する価値態度としての民主主義や主権主義、さらには、近代的自我あるいは「内面的意識」を析出する価値態度としての情緒主義や表出主義といった、一連の個体主義とも言うべき世界の捉え方とを、同時に懐疑し得る立脚点として、我々は、自生的秩序やルール、あるいは言語行為といった、遂行的に生成される社会秩序の概念を定礎してきた。 本節では、この《遂行的なるもの》とも言うべき概念の持つポテンシャルを、改めて評価してみたい。 すなわち、《遂行的なるもの》が、合理主義や個体主義を含めた概念のシステムの中で、如何なる位置価を持ち得るかを、正確に測定してみたいのである。 まず、合理主義によれば、世界は、ここでは差し当たり人間とその社会は、理性による意識的な制御あるいは言及の対象として捉えられる。 すなわち、世界は、合理的に制御可能あるいは言及可能な客体として把握されるのである。 何等かの目的を達成するために、世界を効率的に制御せんとする産業主義や手段主義、あるいは、総ての発話の真偽を、それが言及する対象の存否によって決定し得るとする実証主義や記述主義が、この意味における合理主義を、その共通の前提としていることは言うまでもない。 しかし、世界を、わけても人間とその社会を、合理的な制御あるいは言及の対象として捉え得るとする態度は、飽くまで一つの価値態度に過ぎないのであって、世界と我々との関係が、この態度のみによって覆い尽くされる筈のないことは、容易に理解されよう。 もちろん、このような態度によって捉え得る世界が、全く存在しないと言う訳ではない。 ただ、そのような世界が、世界の総てである筈はないと言っているのである。 この合理主義によって捉えられる世界を、世界の一つの捉えられ方であることに留意して、ここでは、《世界Ⅰ》と呼ぶことにしよう。 すなわち、《世界Ⅰ》とは、合理的に制御可能あるいは言及可能な対象として捉えられる世界の謂である。 次に、個体主義によれば、世界は、わけても人間の行為とそれによって形成される社会は、行為を遂行する個体の主観的な意図や情緒や目的やに、還元あるいは帰属され尽くし得る事態として捉えられる。 すなわち、人間の行為とそれによって形成される社会は、その個体的な意図や情緒や目的やに還元可能あるいは帰属可能な事態として把握されるのである。 この意味における個体主義が、社会の全体的な意志決定は、その社会を構成する諸個人の合意あるいは主権者の意志に還元され得るし、また、されるべきだと考える、民主主義あるいは主権主義の前提となっていることは言うまでもない。 さらに、このような個体主義は、人間の行為を、その主観的な意図に帰属させて理解する、言い換えれば、人間の行為を、その内面的な意識の表出として解釈する、情緒主義あるいは表出主義の前提をなす世界の捉え方でもある。 すなわち、個体主義は、人間の行為を帰属させ得る場所として、それを遂行する個体の内面に、「自我」と呼ばれる何ものかを仮設し、そのような「自我」の表現として、人間の行為を解釈するのである。 しかし、世界を、あるいは少なくとも人間とその社会を、個体に内蔵された意図や情緒や目的やに、還元あるいは帰属させて捉え得るとする態度によっては、たとえ世界を人間とその社会に限定してみたとしても、世界と我々の関係の、ついに覆い尽くされる筈のないことも、また、少し考えれば明らかであろう。 個体主義も、また、世界の一つの捉え方に過ぎないのである。 この個体主義の態度によって捉えられる世界を、ここでは、《世界Ⅱ》と呼ぶことにしよう、すなわち、《世界Ⅱ》とは、個体的な意識に還元可能あるいは帰属可能な事態として捉えられる世界の謂である。 この合理主義と個体主義とは、人間の行為を、何ものかを目指す志向的な事態であると見なす志向主義の産み落とした、一卵性双生児であると考えられる。 何故ならば、志向主義は、人間の行為を、志向的な事態であると捉えることによって、人間の行為に拘わる世界を、志向のベクトルの吸い込み口である、志向される対象(客体)と、志向のベクトルの涌き出し口である、志向する意識(主体)とに、二分して把握するからである。 すなわち、志向主義は、世界を、合理的な制御あるいは言及という志向的な行為の対象と、その志向的な行為が還元あるいは帰属される個体的な意識とに、二元的に分割するのである。 言い換えれば、志向主義は、世界を、《世界Ⅰ》と《世界Ⅱ》とによって、完全に分割し尽くし得ると主張するのである。 志向主義のもたらす、このような主客二元論こそ、近代の産業主義や科学主義、あるいは民主主義や自我主義に通底する、《近代的なるもの》それ自体に外ならないのである。 従って、志向主義として特徴付けられる、このような《近代的なるもの》から見るならば、世界は、客観的(あるいは合理的に制御可能)な《世界Ⅰ》であるか、さもなくば、主観的(あるいは個体的に還元可能)な《世界Ⅱ》であるかのいずれかであり、また、そのいずれかしかあり得ないことになる。 しかし、世界は、本当に主客いずれかでしかあり得ないのか。 あるいは、行為は、全くの志向的な事態であり得るのか。 この問いに答えるためには、世界を、わけても人間とその社会を、遂行的な事態として捉える視点が、改めて導入されねばならない。 《遂行的なるもの》とは、行為遂行の累積的な帰結として生成される秩序の謂である。 すなわち、《遂行的なるもの》とは、行為自らの生成する秩序なのである。 人間とその社会を、この意味における《遂行的なるもの》として把握する態度は、《近代的なるもの》あるいは志向主義による人間と社会の捉え方を懐疑する、最も確かな立脚点となり得る。 すなわち、《遂行的なるもの》として捉えられる人間と社会は、合理的に制御可能(あるいは客観的)な《世界Ⅰ》でもあり得ず、かつ、個体的に還元可能(あるいは主観的)な《世界Ⅱ》でもあり得ない、世界の第三の可能性を示しているのである。 このような《遂行的なるもの》が、いかなる意味において、制御可能ではあり得ず、また、還元可能でもあり得ないかについては、続いて述べる。 ここでは、客観的でもなく、主観的でもない、遂行的な事態として捉えられる世界を、《世界Ⅲ》と呼ぶことにしよう。 人間の行為を、志向的な事態として把握する態度によっては、ついに捉え得ない人間と社会の在り方こそ、この《世界Ⅲ》という在り方に外ならない。 すなわち、《近代的なるもの》と真っ向から対立する人間と社会の在り方こそ、この《世界Ⅲ》に外ならないのである。 それでは、《世界Ⅲ》すなわち《遂行的なるもの》としての人間と社会は、何故に、合理的に制御可能な事態とも、さらには、個体的に還元可能な事態ともなり得ないのか。 あるいは、人間の行為は、如何なる意味において、志向的な事態ではあり得ないのか。 これらの問いが答えられねばならない。 《遂行的なるもの》は、個体の意図や情緒や目的やに還元あるいは帰属され得ず、むしろ、個体の行為が行為として発効するための根拠となるという意味において、規範的な事態である。 すなわち、《遂行的なるもの》は、行為自らによって生成される秩序であるにも拘わらず、その主観的な意図には、ついに還元不能あるいは帰属不能な事態なのである。 何故ならば、《遂行的なるもの》を生成する行為それ自体の、行為として発効し得るか否かは、その主観的な意図とは全く独立に、その社会的な文脈にのみ依存して決定されるからである。 すなわち、行為の文脈依存的であることとは、取りも直さず、行為の発効し得るか否かが、自らの生成する《遂行的なるもの》を根拠として決定されることに外ならない。 しかし、《遂行的なるもの》の還元不能性を帰結する、行為の文脈依存性という命題において、行為の依存する文脈それ自体が《遂行的なるもの》であるとするならば、そこには、何等かの循環論あるいは論理的なパラドックスをが発生するのではないか。 しかし、この問題の検討は、後段に委ねることにして、差し当たり、行為の依存する文脈それ自体は、行為と独立に与えられていると仮定して置くことにしたい。 行為は、何故に、その主観的な意図に還元あるいは帰属され得ない、文脈依存的な事態であるのか。 たとえば、陳謝という行為のように、主観的な意図の表出以外の何ものでもないと見なされる行為ですら、陳謝の行為として発効しうるためには、その主観的な意図とは全く独立な、幾つかの条件 - 自己の行為によって他者に損害が生じたという事実の存在、他者に損害を与えたとしてもなお自己の行為を正当化し得る理由(たとえば正当防衛など)の不在等々 - を充たさねばならない。 自分が相手に何の危害も加えていない場合や、相手の暴力を避けるため相手に触れた場合やに、陳謝の言葉を発する行為は、たとえ、それが陳謝の主観的な意図に充ち溢れたものであったとしても、滑稽な錯誤の行為であるか、さもなくば、卑屈な追従の行為である、と見なされるのが落ちなのであって、真摯な陳謝の行為としては、決して発効し得ないのである。 あるいは、むしろ、陳謝の主観的な意図そのものでさえ、陳謝という行為が、ある文脈の下で発効することによって始めて、その文脈に応じた内容を持つものとして確定されるといった、文脈依存的な事態なのであると言ってもよい。 すなわち、行為を遂行する個体の内面的な意識は、行為の遂行される文脈が与えられて始めて、その内容を決定し得るのである。 従って、行為は、その主観的な意図に帰属させて解釈し得る筈もなく、その社会的な文脈に依存させて始めて、その効力(あるいは「意味」)の何たるかを決定し得るのである。 ゆえに、行為とそれによって生成される秩序は、個体的に還元可能ではあり得ない。 すなわち、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅱ》ではあり得ないのである。 それでは、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅰ》であり得るのか。 《遂行的なるもの》は、合理的に制御あるいは言及し得る対象とは、ついになり得ないという意味において、暗黙的な事態である。 すなわち、《遂行的なるもの》は、行為自らによって生成される秩序であるにも拘わらず、その意識的な対象としては、制御不能あるいは言及不能な事態なのである。 何故ならば、《遂行的なるもの》とは、何等かの文脈あるいはルールに依存して、自らの発効し得る否かを決定される、行為の秩序に外ならないのであるから、その全体を対象として制御あるいは言及する行為は、自らの依存しているルールそれ自体をも、その対象として制御あるいは言及せざるを得ないことになる。 すなわち、《遂行的なるもの》を対象として制御あるいは言及せんとする行為は、自らを妥当させる根拠としてのルールそれ自体を、その対象とせざるを得ないという意味において、まさに自己組織(制御)あるいは自己言及の行為に外ならないのである。 従って、《遂行的なるもの》に対する制御あるいは言及は、いわゆる自己組織あるいは自己言及のパラドックスに陥らざるを得ない。 すなわち、《遂行的なるもの》は、それを対象として意識的に制御あるいは言及せんとするならば、制御の効率や言及の真偽をも含む、あらゆる行為の当否を、全く決定し得なくなるという意味において、制御不能あるいは言及不能とならざるを得ないのである。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、それに対する制御あるいは言及が、自己組織あるいは自己言及とならざるを得ないがゆえに、暗黙的となるのである。 行為の当否を決定するルールに対する制御あるいは言及の行為、すなわち、自己組織あるいは自己言及の行為は、何故に、行為の当否を決定不能に、従って、それが生成する秩序を制御不能に陥れるのであろうか。 たとえば、「私の決定は妥当しない」と私は決定する、といった典型的な自己言及(決定)の場合を考えてみる。 この場合、私の決定は妥当すると仮定すれば、私の決定は妥当しないことが帰結され、逆に、私の決定は妥当しないと仮定すれば、私の決定は妥当することが帰結される。 すなわち、この場合、私の決定の妥当するか否かは、決定不能い陥っているのである。 一般に、自己組織、自己言及、あるいは自己回帰といった循環的な事態は、この種の論理的なパラドックスに陥らざるを得ない。 すなわち、自らの妥当し得るか否かを決定する根拠それ自体への制御あるいは言及である。 自己組織あるいは自己言及の試みは、自らの妥当し得るか否かの決定不能を帰結することによって、挫折せざるを得ないのである。 従って、制御や言及やをも含む行為の秩序である《遂行的なるもの》は、合理的に制御可能とも言及可能ともなり得ない。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅰ》では、決してあり得ないのである。 これまでの考察から明らかなように、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅰ》でも、あるいは、《世界Ⅱ》でもあり得ない。 《遂行的なるもの》は、《遂行的なるもの》によってはついに捉え得ない、世界の第三の可能性としての《世界Ⅲ》なのである。 すなわち、《遂行的なるもの》は、行為遂行の累積的な帰結として、行為自らによって生成される秩序であるにも拘わらず、その主観的な意図にも還元され得ず、また、その意識的な対象としても制御され得ない、規範的かつ暗黙的な事態なのである。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、その構成要素たる行為の文脈依存的であるがゆえに、また、それを対象とする行為の自己言及的であるがゆえに、個体的に還元不能かつ合理的に制御不能となるのである。 行為は、何等かの文脈あるいはルールに従うことによって始めて、行為として発効し得る。 言い換えれば、行為は、自らを妥当させる根拠として、何等かの文脈あるいはルールを前提せざるを得ない(文脈依存性)。 この意味において、行為は、文脈やルールやといった秩序から、ついに逃れ得ないのである。 すなわち、行為にとっては、従うべきいかなる文脈やルールやをも見い出し得ない、秩序の全き「外部」など、決して存在し得ないのである。 しかし、行為に、その妥当根拠を与える、文脈あるいはルールそれ自体には、いかなる妥当根拠も在り得ない。 ルールの妥当し得るか否かを決定する根拠を、ルールそれ自体に委ねたとしても、あるいは、ルールを根拠として、自らの妥当し得るか否かの決定される、行為に委ねたとしても、ルールの妥当し得るか否かは、ついに決定し得ないからである(自己言及性)。 すなわち、ルールは、自らの発効し得るか否かを、その「内部」においては、ついに決定し得ない秩序なのである。 しかし、そのような秩序は、《遂行的なるもの》としてしか在り得ない。 すなわち、そのようなルールは、行為遂行の累積的な帰結としてしか在り得ないのである(行為累積性)。 従って、ルールは、行為の結果として生成されるにも拘わらず、行為によっては設定され得ない秩序であることが明らかになる。 言い換えれば、ルールは、行為によって意識的には語り得ず、ただ、行為において遂行的に示される秩序なのである。 《遂行的なるもの》は、行為の当否を決定する根拠であるとともに、自らは如何なる根拠も持ち得ず、行為の意図的な設定にもよらない、行為の累積的な帰結として生成される秩序である。 このような《遂行的なるもの》は、日常言語において、慣習(convention or practice)と呼ばれる事態と、ほとんど過不足なく重なり合っている。 すなわち、慣習とは、規範的、暗黙的かつ累積的な事態に外ならないのである。 あるいは、慣習とは、個体的に還元不能であり、合理的に制御不能でもある、世界の第三の可能性であると言ってもよい。 従って、個体的な主観としての《世界Ⅱ》や、合理的な客観としての《世界Ⅰ》やに対して、《世界Ⅲ》は、慣習的な遂行として捉えられることになる。 個体主義と合理主義とを共に懐疑し得る、《遂行的なるもの》の視点は、いわば慣習主義とでも呼ぶべき視点なのである。 この慣習という概念こそ、ハイエクの自生的秩序、ハートのルール論、さらにはオースティンの言語行為論を通底する、キー・コンセプトに外ならない。 すなわち、自生的秩序論においては、その自己言及性(制御不能性)が、また、ルール論においては、その外的視点から見た自己言及性(無根拠性)とその内的視点から見た文脈依存性(従根拠性)の双方が、さらに、言語行為論においては、その文脈依存性(還元不能性)が強調されつつも、慣習という概念の三つの構成要素である、文脈依存性、自己言及性、行為累積性の総てが、いずれの議論においても等しく登場している。 自生的秩序もルールも言語行為も、文脈依存性、自己言及性、行為累積性のトリニティを、その不可欠の構成要素としているのである。 市場も貨幣も法も権力も社交も言語も技能も儀礼も流行も、およそ社会あるいは文化と呼び得る総ての事態は、人間という事態をも含めて、《遂行的なるもの》として捉えられる。 すなわち、社会も文化もさらには人間それ自体も、慣習という事態に外ならないのである。 この発見は、あまりに当然と思われるかも知れないが、その含意は、極めて重大である。 しかし、その検討は、次節に委ねたい。 ◆2.新しい保守主義 保守主義とは、近代啓蒙の批判に外ならない。 近代自然法思想を含めた啓蒙の哲学は、社会と人間の、合理的に制御し得ること、あるいは、個体的に還元し得ることを主張して止まない。 啓蒙の哲学は、社会と人間の合理化と個体化(rationalization and individualization)を称揚する、近代進歩主義の原型なのである。 このような啓蒙の哲学が、その淵源をどこまで遡り得るかについては、様々な議論があり得よう。 しかし、ここでは、それが、17・18世紀の200年を通じて形作られて来た、ある精神の型に過ぎないことを確認しておけば、差し当たり充分である。 むしろ、ここで問題にしたいのは、その啓蒙の精神が、フランス革命、さらには産業革命と民主革命の進行に伴って、我々の文明の最も誇るべき価値であるかのように、この世界に拡散して来たという事態である。 合理化と個体化を称揚する精神は、産業化と民主化の激流に翻弄された19世紀はもとより、20世紀末の今日においても、なお我々の文明の中心に位置するかのように見受けられる。 「情報化」という名の新たな産業化と、「差異化」という名の新たな民主化は、我々の時代を画する進歩の旗印として持てはやされている。 啓蒙の精神は、社会の合理的な管理と人間の個体的な解放というスローガンを高く掲げた、近代進歩主義の運動を、このニ世紀に亘って導いて来たのである。 もちろん、このニ世紀に亘る進歩主義の運動が、極めて多様な傾向を孕んでいることは言うまでもない。 そこには、いわゆる啓蒙主義によって導かれた、自然人権と国家集権を求めるフランス革命の運動もあれば、功利主義によって導かれた、自由化あるいは社会化を目指す漸進の運動もあり、さらには、マルクス主義によって導かれた、人間解放と社会管理のための革命運動もある。 しかし、これらの運動は、社会と人間の、産業化あるいは合理化と、民主化あるいは個体化を、意図的にあるいは結果的に推進したという点において、ほとんど選ぶ処はない。 いわゆる啓蒙主義はもとより、功利主義も、さらにはマルクス主義もまた、近代啓蒙の嫡出子なのである。 保守主義は、このような近代啓蒙の一貫した批判者である。 言うまでもなく、近代保守主義は、フランス革命のもたらした、社会の、理性による専制支配と、原子的個人への平準化の危機に抗して、「自由で秩序ある社会」を擁護すべく、エドモンド・バークによって創唱されたものである。 もちろん、保守主義的な態度が、バーク以前に存在しなかった訳ではない。 未知の変化に抗して、既知の安定を擁護しようとする態度は、むしろ人類と共に古いとも考えられ得るし、啓蒙の精神が形を成して来た、17・18世紀においても、それに対抗する態度は常に存在していたのである。 通俗的に言われるよりも遥かに深く、キリスト教を始めとする中世的あるいは近世的な伝統の内に生きていた、17・18世紀においては、むしろ啓蒙の精神こそが、西欧一千年の伝統から逸脱した、その対抗思想に過ぎなかったとも言えよう。 従って、17・18世紀においては、保守主義の、敢えて名乗りを挙げる必要は、必ずしもなかったのである。 何故ならば、保守主義とは、進歩主義の侵攻が、無視し得ぬまでに拡大して始めて、それを迎撃すべく、自らの重い腰を上げる性質のものだからである。 しかし、フランス革命を境として、進歩主義の侵攻は、もはや何人によっても無視し得ぬ段階に立ち至った。 フランス革命以降、産業主義と民主主義の進行に従って、進歩主義は、貴族制度や大土地所有やキリスト教やといった、あらゆる中世的(あるいは近世的)な伝統に次々と攻撃を加え、「自由で秩序ある社会」を決定的な危機に陥れたのである。 バークの闘った闘いは、このような進歩主義との闘いの緒戦を成すものであった。 フランス革命の啓蒙主義と闘ったバークを皮切りに、進歩主義のもたらす、合理的な専制と個体的なアノミーに抗する闘いは、このニ世紀に亘って、陸続と闘い継がれて来た。 近代保守主義とは、合理化と個体化という革命運動に抗する、不断の闘いそれ自体なのである。 言い換えれば、保守主義とは、啓蒙の精神の産み落とした、合理主義と個体主義の狂気に抗して、何等かの伝統に係留された、「正気の社会」を擁護する、終わりなき闘いの中にしかあり得ないのである。 それでは、保守主義は、何故に合理主義と個体主義を拒絶するのであろうか。 あるいは、また、保守主義は、如何にして啓蒙の精神を否定するのであろうか。 さらに、保守主義は、そのような拒絶や否定を通じて、何故に伝統を擁護することに至るのであろうか。 あるいは、そもそも、保守主義にとって、その擁護すべき伝統とは何であるのか。 これらの問いに答えることが、取りも直さず、前節までの議論と保守主義とを結び付ける、《失われた環》を見い出すことに外ならないのである。 保守主義は、社会と人間の、理性によって制御し得ることを否定する。 社会と人間が存続していくためには、理性によっては認識し得ないが、行為においては服従し得る、何等かの暗黙的な知識が不可欠なのであって、社会と人間の全体を、理性によって制御することなど、自分の乗っている木枝の根元を、自分で切る類いの所業に等しいからである。 言い換えれば、人間の行為は、理性の行使をも含めて、語り得ずただ従い得るのみの知識を前提として、始めて可能となるのであって、その暗黙的な前提をも含めた、自らの総体を制御することなど、全く不可能なのである。 人間の行為の不可欠な前提である、このような暗黙的知識は、理性的な行為の対象とならないがゆえに、その正当性を合理的には根拠付け得ない。 すなわち、このような暗黙的知識は、正当化し得ない無根拠な知識であるという意味において、まさしく偏見(prejudice)に過ぎないのである。 従って、人間の行為は、自らは何の根拠も持ち得ない偏見を前提として、始めて可能であることになる。 保守主義は、人間の生きていくために、暗黙的で無根拠な偏見に従うことの不可避であることを、強く主張するのである。 このような保守主義から見るならば、合理主義とは、合理的に制御し得ないものを制御せんとする、言わば暴力的な試みなのである。 そのような試みを、敢えて実行しようとするならば、制御の主体は、社会に対して、自らの意志を盲目的に強制する以外の、いかなる手段も持ち得ないことになる フランス革命やロシア革命、さらにはナチス・ドイツの経験が明らかにしたように、合理主義の行き着く先は、効率的な暴力を背景とする、野蛮な専制支配の外ではあり得ないのである。 保守主義は、社会と人間の、個人へと還元し得ることを否定する。 人間の行為は、それを取り巻く社会的、文化的な状況が与えられて、始めてその意味を決定し得るのであって、人間の行為の意味を、個人の内面的な意識へと還元することなど、言葉の意味を、他の言葉の意味との対比関係から切り離して、単独に決定する類いの所業に等しいからである。 言い換えれば、人間の行為は、他者の行為との関係をも含む、全体的な状況の中に位置付けられて、始めて成立し得るのであって、その全体的な状況が、個人の行為に還元し尽くされることなど、決してあり得ないのである。 人間の行為の成立/不成立を決定する。このような全体的状況は、行為の成否を決定する根拠となる、あるいは、行為の成立を正当化する理由となる、という意味において、規範的と言い得るものである。 すなわち、このような全体的状況は、行為を根拠付け、行為を正当化し得る、という意味において、まさしく権威(authority)と呼ぶべき事態なのである。 従って、人間の行為は、その根拠として服従すべき権威を前提として、始めて成立することになる。 保守主義は、人間の生きていくために、全体的で規範的な権威に従うことの不可避であることを、強く主張するのである。 このような保守主義から見るならば、個体主義とは、自らの拠って立つ不可避の基盤を見失った、個体の自己過信の外ではない。 個体主義とは、個体的に還元し得ないものを還元せんとする、いわば?神的な営みなのである。 そのような営みを、敢えて遂行しようとするならば、個人は、他者の、従って自己の行為の何であるかを全く了解し得ない、アノミーの深淵に立ちすくむことになるだけではない。 19世紀には絶望とともに予感され、20世紀には希望とともに実現された、高度大衆社会の実現が明らかにしたように、個体主義の精神がもたあすものは、無神論の深淵ではなく、神でも何でも手軽に信じて気軽に忘れる、多幸症の浅薄というアノミーに外ならないのである。 このように合理主義と個体主義を拒絶する、保守主義の橋頭堡としての偏見と権威が、理性によって意図的に設定されたものでも、個人によって意識的に合意されたものでもあり得ないことは言うまでもない。 偏見と権威は、行為の持続的な遂行の累積的な帰結として、自然発生的に生成されるものなのである。 すなわち、偏見と権威は、合理的な設定によらず、個体的な合意によらず、ただ遂行的にのみ生成される、まさに伝統(tradition)と呼ばれるべき事態なのである。 偏見とは、いかなる合理的な根拠も持ち得ない、俗なる伝統に外ならず、権威とは、あらゆる個体の根拠として従うべき、聖なる伝統に外ならない。 伝統とは、自らの如何なる根拠も持ち得ずに、他の一切の根拠として従われるべき、俗にして聖となる歴史の堆積なのである。 言い換えれば、伝統とは、歴史の試練に辛くも耐えて、偏見と権威の内に記憶される、生きられた経験に外ならないのである。 従って、偏見と権威に支えられて始めて成立し得る、人間とその社会は、このような伝統に従うことを、その不可避の条件とすることになる。 保守主義は、人間と社会の生きていくことが、つまるところ、伝統に回帰する以外にはあり得ないことを、強く主張するのである。 近代啓蒙の精神は、このような伝統や偏見や権威やを、蛇蝎の如く忌み嫌う。 因習や俗信や抑圧やから、人間を救済し、理性と自我との赴くままに、世界を革新すること、これが啓蒙の企てなのである。 しかし、保守主義から見るならば、このような啓蒙の企てこそが、合理主義的な抑圧と個体主義的な俗信とをもたらす当のものに外ならない。 近代啓蒙の精神は、不断に進歩することを、まさに因習となすことによって、専制的な抑圧とアノミックな俗信とを、常に帰結せざるを得ないのである。 保守主義のこのような回帰する伝統とは、合理的に制御し得る客観的なものではあり得ず、また、個体的に還元し得る主観的なものでもあり得ない、遂行的に生成される、言わば第三のものであった。 すなわち、伝統とは、客観的な自然でもあり得ず、主観的な意識でもあり得ない、第三の領域なのである。 このような第三の領域は、日常言語において、社会、文化、あるいは制度と呼ばれる領域に外ならない。 保守主義は、伝統に回帰することによって、客観的な自然法に根拠付けられる訳でもなく、主観的な社会契約に還元される訳でもない、社会という領域を再発見したのである。 言い換えれば、保守主義は、啓蒙思想による、理性と個人の発見に幻惑されて、一度は忘却の淵に立たされた、社会という現象を、再び見い出したのである。 社会の発見は、17・18世紀思想における理性と個人の発見に鋭く対比される、19・20世紀思想の鮮やかな特徴をなしている。 もちろん、合理主義と個体主義の哲学は、20世紀末の今日においてもなお有力なのではあるが、18世紀と19世紀の境に起こった転換以来、社会の、合理主義と個体主義によっては、ついに捉え得ない、という了解もまた、我々の共有財産となっているのである。 この意味において、保守主義は、社会についての哲学を、近代において始めて可能とした思想であると言えよう。 保守主義の歴史とは、取りも直さず、近代社会哲学の歴史に外ならないのである。 保守主義は、偏見と権威と伝統とを擁護することによって、合理的な客観としての自然でもなく、個体的な主観としての意識でもない、慣習的な遂行としての社会を、近代において始めて発見した。 すなわち、保守主義は、社会を、自らは如何なる合理的な根拠も保持せずに、自らにあらゆる個体的な行為を従属させる、遂行的な秩序として捉えることによって、近代社会哲学を創始したのである。 保守主義のこのように発見した社会が、前節に述べた《遂行的なるもの》と、ほとんど過不足なく重なり合っていることは明らかであろう。 《遂行的なるもの》とは、あらゆる行為がその成立/不成立を依存せざるを得ない文脈であり、また、いかなる根拠付けも自己に回帰する言及となるがゆえに不能である、遂行的な秩序のことであった。 すなわち、《遂行的なるもの》とは、個体的に帰属し得ず、合理的に言及し得ない、慣習的な秩序のことである。 従って、保守主義の発見した社会は、《遂行的なるもの》と、極めて正確に一致していることになる。 すなわち、保守主義は、偏見と権威と伝統とを擁護することによって、取りも直さず、《遂行的なるもの》を発見していたのである。 あるいは、むしろ、ハイエクの自生的秩序、ハートのルール、オースティンの言語行為、さらにはウィトゲンシュタインの言語ゲームを通底する、《遂行的なるもの》こそが、保守主義のニ世紀に亘って護り続けて来た伝統の、現代における再発見なのであるとも言い得よう。 20世紀哲学の到達した地点は、保守主義の歴史の新たな一ページなのである。 すなわち、ハイエク、ハート、オースティン、さらにはウィトゲンシュタインの到達した哲学は、20世紀末における新しい保守主義に外ならないのである。 もちろん、ハイエクもハートもオースティンも、さらにはウィトゲンシュタインも、自らを保守主義者と名乗っている訳では些かもない。 従って、現代における新しい保守主義を考察するためには、彼らの哲学よりも、むしろ、現代における正統的な保守主義者、たとえばマイケル・オークショットなどの哲学を検討すべきではないのか、という指摘も尤もである。 わけてもオークショットの社会哲学は、イギリス保守主義の掉尾を飾るものとして、是非とも検討されねばならない。 しかし、現代においては、保守主義者を名乗る人々の哲学が、必ずしも保守主義の哲学であるとは限らない。 啓蒙の哲学が、あたかも正統思想であるかのように流布されている現代においては、保守主義を騙って啓蒙を喧伝する輩が、跡を絶たないのである。 保守主義とは、まず何よりも啓蒙の批判に外ならない。 従って、現代における新しい保守主義の探求とは、取りも直さず、現代における反啓蒙の哲学の検討であらねばならぬのである。 ハイエク、ハート、オースティン、さらにはウィトゲンシュタインが、このような現代における反啓蒙の急先鋒であることは紛れもない。 本書は、経済哲学、法哲学、言語哲学を含む社会哲学の、20世紀における大立者達の言説の内に、現代における反啓蒙の、従ってまた、現代における新しい保守主義の可能性を探って見たのである。 20世紀末の保守主義は、自生的秩序やルールや言語行為や、さらには言語ゲームの哲学の内に、その新たな表現様式を見い出しているのである。 このような20世紀末の新しい保守主義が、ニ世紀に亘る保守主義の歴史に、何か付け加えたものがあるとするならば、それは、啓蒙の運動が不可能であることの、新しい表現様式である。 新しい保守主義は、社会と人間が、自らの要素である行為の文脈依存的であるがゆえに、個体的に還元され得ず、また、自らを対象とする行為の自己言及的となるがゆえに、合理的に制御され得ないことを主張する。 すなわち、新しい保守主義は、社会と人間の個体化と合理化という、啓蒙の運動の不可能であることを、言語行為論あるいは言語ゲーム論に準拠して主張するのである。 保守主義は、その誕生以来、時代の進歩主義に対応する、様々な表現様式に身を託して、合理化と個体化の不可能であることを主張し続けて来た。 新しい保守主義の準拠する、言語行為論あるいは言語ゲーム論もまた、20世紀末の進歩主義に対応する、そのような表現様式に外ならないのである。 いずれにせよ、保守主義によれば、社会と人間の合理化と個体化は、原理的に不可能である。 社会と人間に対する、進歩主義の貫徹は、所詮出来ない相談なのである。 そのような進歩主義を、敢えて貫徹しようとするならば、社会と人間は、暴力的な専制と涜神的なアノミーとへの分解によって、破壊し尽くされざるを得ない。 進歩主義は、その建設への意志とは裏腹に、社会と人間を、ついに崩壊へと導かざるを得ないのである。 まさしく、滅びへの道は、善意によって敷き詰められている。 従って、進歩主義と保守主義の対立は、社会と人間の生き方についての、可能な二つの道の対立などでは全くない。 進歩主義の道は、社会と人間の死滅に至る、不可能な道なのであって、社会と人間の辛くも生存し得る、唯一の可能な道は、保守主義の道なのである。 すなわち、進歩主義と保守主義の対立は、社会と人間の存続し得るか否かを賭けた、全く抜き差しならぬ対立なのである。 この命題は、もとより、一般の社会と人間についても成立し得ると思われるが、ここでは、その近代の社会と人間についての成立が確認されねばならない。 すなわち、近代の社会と人間は、あたかも近代の正統思想であるかのように見なされている、進歩主義のみによっては、自らの存続すらをも保証し得ないのである。 言い換えれば、近代の社会と人間が、数世紀に亘って辛くも存続しているとするならば、それは、金ぢあの社会と人間が、己の意識するとしないとに拘わらず、保守主義を、事実として生きてしまっているからに外ならない。 近代の社会と人間は、あたかも反近代の異端思想であるかのように見なされている、保守主義を生きることによって始めて、自らの存続を辛くも保ち得るのである。 これは、何の逆説でもない。 社会と人間は、まさにそのようなものとして、生きられているのである。 ◆3.保守主義とは何でないか 前節までで、差し当たり本書の議論は尽くされている。 しかし、保守主義というテーマは、いかにも誤解され易いテーマであって、有り得べき誤解に対して、あらかじめ何等かの釈明を試みて措くことは、あながち無益ではなく、むしろ必要ですらある。 もし、そうであるならば、前節までの行論の中で、当然予想される誤解について、逐一予防線を張って措けばよさそうなものであるが、そうもいかない。 何故ならば、保守主義という言葉は、本論で問題としている議論領域を遥かに越えた、極めて多様なイメージを伴って用いられているのであって、保守主義を巡る誤解もまた、その多様なイメージに因って来るものだからである。 従って、保守主義を巡る誤解についての釈明は、本論の議論水準とは一段異なった、より広い土俵において為されねばならない。 本節では、本論に述べられた意味における保守主義が、自らの呼び醒ます多様なイメージの中にあって、一体何でないのか、すなわち、保守主義とは何でないかを論じることによって、保守主義を巡る幾つかの誤解に対するささやかな釈明を試みて措きたい。 保守主義、わけても新しい保守主義と言えば、いわゆる新自由主義(Neo-Liberalism)のことかと思う向きも、あるいは少なくないかも知れない。 たとえば巷間ハイエクは、新自由主義の泰斗ということにされている。 保守主義と自由主義との関係については、おそらく最も誤解の生じ易い論点であるに相違ないので、是非とも釈明して措かねばならない。 また、保守主義は、近代の産業主義と民主主義、あるいは合理主義と個体主義を根底的に批判する、反啓蒙の思想に外ならない。 それでは、保守主義は、たとえば環境社会主義(Eco-Socialism)に代表されるような、いわゆる反近代の思想なのであろうか。 保守主義と反近代主義との関係については、近代文明における保守主義さらには進歩主義の位置付けを迫る論点であり、是非とも釈明して措かねばならない。 さらにまた、保守主義は、何よりも社会・文化の伝統を擁護せんとする態度である。 従って、保守主義は、たとえば日本の社会・文化に固有な伝統をどのように捉えるか、といった問題を避けて通る訳にはいかない。 保守主義といわゆる日本主義(Japanism)との関係については、保守主義の近代文明における位置付けとも複雑に絡まった論点であり、是非とも釈明して措かねばならない。 本節では、以上の三つの論点について、極簡単に触れることにする。 いずれの論点も、かなり大きなテーマであることもさりながら、本節の狙いは、飽くまで本論に述べられた保守主義を巡る、有り得べき誤解を防いで措くことに限られるからである。 この20世紀末の現代において、保守主義と言えば、自由主義、わけても新自由主義を思い浮かべることは、むしろ当然である。 19世紀の最後の四半分に端を発して1970年代に至る、ほぼ一世紀の長きに亘って、進歩主義の旗印は、福祉社会主義あるいは民主社会主義さらにはケインズ主義を含む、最も広い意味での社会主義によって担われてきた。 20世紀は、経済的成長や社会的平等といった福祉(welfare)を目的として、経済社会を合理的に管理せんとする運動が、言わば最高潮に達したという意味において、まさに社会主義の世紀だったのである。 このような社会主義の進攻に直面した保守主義が、社会主義の対抗思想としての側面を持つ自由主義と、ほとんど分離不可能なまでに接近して見えたということは、あまりに当然である。 保守主義は、19世紀を通じて真剣を交えてきた当の相手である自由主義と、社会主義なる新たな敵を前にして、公然と手を結んだかに見えたのである。 ましてや、さいもの社会主義もようやく陰りを見せ、小さな政府や自由な市場を求める新自由主義の運動が、かなりの勝利を収めたかに見える、20世紀の最後の四半分において、保守主義が、社会主義による積年の抑圧から解放された喜びを、自由主義と共に分かち合っているように見えたとしても、また、極めて当然である。 社会主義との、ほぼ百年に及んだ戦いもひとまず終わり、勝利の美酒を同盟軍と共に酌み交わすひととき、といった具合である。 しかし、保守主義と自由主義との、このような同盟関係は、うたかたの夢に過ぎない。 何故ならば、自由主義とは、19世紀を通じて、保守主義と死闘を繰り広げて来た、進歩主義の尖兵に外ならないのであり、20世紀に入って、進歩主義の旗手たるの地位を、社会主義に追い落とされたと言えども、その啓蒙の嫡出子としての本質には、些かの変りもないからである。 蓋し、自然権としての個人の自由は、人間的自然としての理性による支配とともに、啓蒙の精神の求めて止まぬ処であった。 自由主義の、進歩主義としての性格は、言わば骨絡みなのである。 従って、20世紀における、保守主義と自由主義との接近は、社会主義の凋落が決定的となった今日においては、むしろ両者間の距離にこそ注目すべきなのである。 それでは、保守主義と自由主義わけても新自由主義は、いかなる点において重なり合い、また、いかなる点において袂を分かつのか、このことが問われねばならない。 ここで注意して措かねばならないことは、自由主義と呼ばれる社会思想の中には、必ずしも社会主義と対立せず、むしろ広い意味での社会主義に含まれると言った方が良さそうなものがある、ということである。 たとえば、個人の自由を(形式的にではなく)実質的に保障するためには、個人の自由に任せて措くだけでは全く足りず、国家が、社会に対して(消極的にではなく)積極的に介入し、これを合理的に管理せねばならない、とする類いの自由主義(※注釈:いわゆるリベラリズム=マイルドな社会主義)である。 このような自由主義は、なるほど自由主義を名乗ってはいるが、社会全体に対する合理的な管理を要請するという点において、むしろ広義の社会主義と呼ぶべき主張である。 因みに、このような自由主義は、バーリーンの言う積極的自由を称揚する態度であり、19世紀末には、新自由主義(※注釈:T.H.グリーンらのnew liberalism であり、neo-liberalism とは違うことに注意)と呼ばれた立場である。(世紀末には新自由主義が流行るようだ。) ここでは、このような自由主義を、社会主義に含めて考えることにし、自由主義としては言及しないことにしたい。 自由主義とは、差し当たり、他者による強制のない状態としての自由、すなわち、バーリーンの言う消極的自由を擁護する態度である。 従って、自由主義は、国家が社会全体を合理的に管理せんとする態度と両立しない。 何故ならば、社会全体を合理的に管理することは、たとえば社会全体の福祉といった目的を効率的に達成すべく、社会に内蔵する資源を動員し行為を配列することに外ならないのであって、それは、個人が、自らの資源と行為を自由に処分することと、真っ向から対立せざるを得ないからである。 言い換えれば、社会全体の合理的な管理は、国家による個人に対する何等かの強制、すなわち、国家による個人の自由の制限を、不可避的に含意しているのである。 もっとも、自由主義は、国家による個人に対する強制の総てを否定する訳ではない。 たとえば、個人の行為が、他者の自由を侵害して為される場合、国家が、その行為の差し止めや、他者に与えた損害の賠償などを、個人に強制することは、自由主義と言えども全く否定しない。 むしろ、自由主義とは、個人の自由を他者による侵害から保護することにこそ、国家の役割があるとする主張とさえ言い得る。 しかし、国家が、個人の(消極的)自由を、その侵害から保護することと、個人の(積極的)自由を、たとえば無知や貧困や失業やといった、その障害から解放するために、社会全体を合理的に管理することとは、全く異なる事態なのであって、自由主義は、前者の国家のみを肯定し、後者の国家を厳しく否定するのである。 従って、自由主義は、社会全体の秩序を、(他者の自由を侵害しない限りにおける)諸個人の自由な行為に委ねることになる。 すなわち、自由主義は、社会全体の秩序を、国家が合理的に設定するものではなく、諸個人の自由な行為の累積的な帰結として自然発生的に生成されるものである、と捉えるのである。 因みに、ハイエクの言う自由主義とは、まさにこの意味における自由主義に外ならない。 ハイエクは、社会を合理的に設定された組織として捉える、最広義の社会主義に抗して、社会を自然発生的に生成された自生的秩序として捉える、このような自由主義を擁護するのである。 この意味における自由主義が、保守主義とほとんど過不足なく重なり合っていることは明らかであろう。 すなわち、この意味における自由主義は、社会を合理的に管理せんとする進歩主義に対抗する、保守主義の一局面そのものなのである。 しかし、そうであるからと言って、自由主義のあらゆる局面が、保守主義と一致する訳では必ずしもない。 自由主義には、社会を、個人の意図や情緒や欲求やに還元し得るし、また、すべきであるとする傾きが、避け難く存在している。 たとえば、社会のルールとしての法を、自然権を保有する自由な諸個人の合意に還元する、社会契約論や、さらには、社会のルールとしての法を、何ものにも制限され得ない自由な主権者の意志に帰着する、主権論といった、近代啓蒙の個体主義は、いわゆる自由民主主義として、今日なお、自由主義の内にその命脈を保っている。 自由主義は、なるほど、近代啓蒙の合理主義に対して、保守主義とその批判を共有しているのであるが、しかし、近代啓蒙の個体主義に対しては、必ずしも一線を画してはいないのである。 この意味において、自由主義は、依然として、進歩主義の一翼を担っている。 因みに、急進的な自由主義が、何ものにも制限され得ない国民主権を標榜する、無制限の民主主義に変転する例は枚挙に暇がない。 個人が自らの行為を自由に選択し得るとするならば、自らの属する社会の制度もまた、自らの自由な同意に基づいて選択されるべきだ、という訳である。 保守主義が批判するのは、まさに、このような無制限の民主主義に外ならない。 なるほど、保守主義にとっても、個人の行為は自由に選択され得るものであり得るが、しかし、社会の制度全体は、個人の行為を可能にする前提となりこそすれ、個人の合意によって自由に選択され得るものでは決してあり得ない。 従って、保守主義は、このような無制限の民主主義を帰結する、いわば社会契約論的な自由主義とは、全く両立し得ないのである。 因みに、ハイエクは、このような無制限の民主主義を峻拒している。 すなわち、ハイエクもまた、保守主義と同様に、社会契約論的な意味における自由主義とは、ついに両立し得ないのである。 従って、保守主義は、社会を諸個人の自由な行為の累積によって生成される秩序として捉える、言わば自然発生論的あるいは慣習論的な自由主義とは、ほとんど過不足なく重なり合うが、社会を諸個人の自由な意志の一致によって設定される秩序として捉える、社会契約論的あるいは自然権論的な自由主義とは、全く両立し得ない。 また、保守主義が、社会を諸個人の欲求の自由な実現のために(国家が)制御すべき対象として捉える、いわゆる功利主義的な自由主義(ここでは社会主義に含めた)と、鋭く対立していることは言うまでもない。 言い換えれば、保守主義は、自由主義のヒューム的(慣習論的)な伝統には極めて親しいが、そのロック的(自然権論的)な伝統、さらには、そのベンサム的(功利主義的)な伝統には全く疎遠なのである。 現代における自由主義の復興は、そのベンサム的な伝統を排除することにおいては、なるほど意見の一致を見ているが、そのヒューム的な伝統あるいはロック的な伝統のいずれを継承するかについては、必ずしも意見の一致は見られない。 ハイエクのようにヒューム的な伝統に棹さす者もいれば、ノージックのようにロック的な伝統の嫡流たらんとする者もある。 いずれにせよ保守主義は、自由主義あるいは新自由主義のあらゆる潮流と手を結び得る訳ではない。 保守主義は、自由主義のただ一つの潮流とのみ与し得るのである。 あるいは、そのような自由主義は、自由主義の一つの潮流であると言うよりも、むしろ保守主義そのものであると言うべきなのかも知れない。 蓋し、自由主義のヒューム的さらにはバーク的な伝統こそが、保守主義の本流を形成してきた当のものに外ならないとも言い得るからである。 保守主義は、近代の産業主義と民主主義、あるいは、啓蒙の合理主義と個体主義を懐疑する、反啓蒙の思想である。 それでは、保守主義は、近代文明を否定しまた超克せんとする、反近代の思想であるのか。 ここに、保守主義を巡る、最大の陥穽が潜んでいる。 本書で明らかにしたかったことは、啓蒙の合理主義と個体主義とが、あたかも、その最も誇るべき価値であるかのように見なされている近代社会と言えども、社会という事態である限り、啓蒙の合理主義と個体主義とによってはついに捉え得ない、第三の性質を俟って始めて存立し得るということである。 すなわち、近代文明もまた、一個の文明である限り、啓蒙の精神の最も忌み嫌う、何等かの伝統に係留されて始めて存続し得るのである。 従って、反啓蒙の思想は、必ずしも反近代の思想ではあり得ない。 むしろ、反啓蒙の思想は、近代という社会の存立の秘密に接近し得る、ほとんど唯一の思想なのである。 この反啓蒙の思想と反近代の思想とを取り違えた処に、保守主義を巡る、幾多の悲喜劇が生じたのであった。 なるほど、保守主義を貫く反啓蒙の精神は、時として、近代文明そのものを拒絶しているかのようにも見受けられる。 たとえば、バークが、フランス革命を否定するに当たって、あたかも、中世への復帰を唱導しているかのように見える処がない訳ではない。 あるいは、日本において、伝統への回帰が語られる時、あたかも、古代の復古が号令されているかのように見えることもないとは言えない。 しかし、真正の保守主義は、いまここに生きられている社会をこそ、その存立の秘密の顕わとなる深みにおいて肯定せんとする営みなのであって、いまここに生きられている社会を、少なくともその最深部において否定し去ることなど決してあり得ないのである。 いまここに生きられている社会とは、差し当たり、近代社会の外ではあり得ない。 あうなわち、保守主義は、反啓蒙の精神を採ることによって、いまここに生きられている、近代という社会を、その存立の深みにおいて肯定せんとしているのである。 しかし、そうであるからと言って、近代を肯定することは、古代や中世を否定することでは些かもない。 真正の保守主義は、近代の社会を存立させている秘密と、古代や中世の社会を存立させていた秘密とが、それほど違ったものではあり得ないことを、重々承知しているからである。 社会を存立させる秘密の顕わとなる、その最深部においては、時代の如何に拘わらず、常なるもの、すなわち、伝統が、生きられているのである。 啓蒙の精神とは、古代や中世やさらには近代において生きられている伝統の一切を否定して、人間の理性と個人の自由の下に、全く新しい社会、すなわち、彼らの言う近代社会を建設せんとする試みに外ならない。 保守主義は、啓蒙の精神を懐疑することによって、古代や中世の伝統を生きられたそのままに肯定する一方で、それが、近代社会の存立をその最深部において支えている伝統と、それほど遠いものではなく、むしろ、密かに連なりさえしていることを承認するのである。 すなわち、保守主義は、生きられている伝統を擁護することによって、啓蒙の進歩主義ばかりが如何にも目立つ近代文明を、その最深部において肯定しているのである。 従って、保守主義は、反近代主義ではあり得ない。 保守主義は、たとえばマルクス主義や国家社会主義のように、近代の超克を志している訳でもないし、たとえばロマン主義や環境社会主義のように、前近代の桃源郷を夢見ている訳でもない。 マルクス主義や国家社会主義は、反近代を標榜しているにも拘わらず、実は最も急進的な合理主義を帰結するという意味において、まさしく啓蒙の嫡出子と呼ばれるに相応しいし、ロマン主義や環境社会主義は、なるほど反啓蒙の思想ではあるが、近代文明の唯中に、帰るべき常なるものを見出し得なかったという意味において、ついに反近代の思想でしかあり得ない。 マルクス主義や国家社会主義は言うまでもなく、ロマン主義や環境社会主義もまた、ついに保守主義ではあり得ないのである。 さらに、わけても環境社会主義は、たとえばエコロジーや反原発といった、その反近代の運動において、極めて急進的な個体主義の様相を呈することが、少なくないのであって、むしろ、啓蒙の自然権論を体現していると言っても、ほとんど言い過ぎにはならないのである。 総じて、マルクス主義や国家社会主義、さらには環境社会主義をも含む、比較的狭い意味における社会主義は、最も急進的な啓蒙主義以外の何ものでもない。 保守主義は、このような反近代の仮面を被った啓蒙主義とは、決して両立し得ないのである。 保守主義は、人間とその社会が、何等かの伝統に係留されて始めて存立し得ることを強調する。 しかし、社会やあるいは文化の伝統とは、(本書に述べられた《遂行的なるもの》であるがゆえに)その具体的な様相に一歩でも踏み込もうとするならば、それが遂行されている地域や歴史に相対的なものとして示されざるを得ない。 すなわち、具体的に生きられている伝統は、たとえば、イギリスの伝統であり、日本の伝統であり、あるいは、東京の伝統であり、京都の伝統であり、はたまた、西ヨーロッパの伝統であり、東アジアの伝統なのである。 従って、保守主義が伝統を擁護すると言った場合、その擁護すべき伝統は、具体的には、何等かの地域や歴史に固有な伝統であらざるを得ないことになる。 言い換えれば、保守主義は、具体的には、地域あるいは歴史に固有な保守主義としてしかあり得ないのである。 従って、たとえば日本において保守主義を語ることは、取りも直さず、日本において生きられている伝統を擁護する、日本に固有な保守主義を語ることに外ならない。 それでは、そのような保守主義は、自文化中心主義、ナショナリズム、あるいは日本主義と、どこが違うのであろうか。 日本の保守主義など、皇国主義と大同小異ではないのか。 このような疑問が当然に生じて来ると思われる。 さらに、このような疑問は、日本に特徴的なもう一つの事情によって、いよいよ深まらざるを得ない。 なるほど保守主義は反啓蒙の思想であった。 しかし、そもそも啓蒙思想とは、西欧近代において誕生した、西欧近代に固有の思想に外ならない。(もっとも、啓蒙思想が西欧に固有な思想であるか否かは、なお検討すべき課題である。) 西欧近代は、その色鮮やかな表層のみに目を奪われるならば、あたかも、啓蒙思想一色によって塗り潰されているかのように見受けられる。 言い換えれば、保守主義は、反啓蒙の立場を採ることによって、反西欧の態度を帰結するのではないか。(保守主義が、反近代の態度を帰結し得ないことは既に述べた。) すなわち、保守主義は、その西欧における機能はいざ知らず、日本を含む非西欧においては、啓蒙という名の西欧文化中心主義あるいは西欧文化帝国主義に対抗する、反西欧の思想として機能しているのではないか。 このような推測のしばしば行われていることも、無下には否定し得ない。 もし、このような推測が、当を獲たものであるとするならば、日本の保守主義は、反西欧主義という意味において、ますます日本主義に接近するのではないか。 なるほど、日本主義は、近代の合理主義と個体主義との対極にあるとされる、日本の伝統に立脚した、反啓蒙の思想であることには間違いない。 しからば、日本の保守主義は、反啓蒙の伝統文化の咲き誇る東亜の盟主として、啓蒙の革新文明に堕落したあ西欧に宣戦すべきなのであろうか。 しかし、ここで想い起こすべきは、保守主義が、反近代の思想ではついにあり得ないということである。 すなわち、保守主義が、伝統を擁護すると言った場合、そこで語られている伝統は、いまここで生きられている近代社会の存立を、その深層において支えている伝統に外ならないのである。 従って、日本の保守主義が、日本の伝統を擁護すると言った場合、そこで語られている伝統は、いまここに生きられている日本近代の存立を、その深層において支えている伝統の外ではありえない。 言い換えれば、日本の保守主義は、近代文明の日本における顕現を、その深層において、肯定しているのである。 現代の日本において生きられている社会が、紛れもなく近代社会である以上、日本の保守主義は、日本の近代社会に、肯定すべき何ものかを見出さざるを得ない。 保守主義とは、そういったものなのである。 従って、日本の保守主義は、日本の伝統を、それが反近代であるから擁護するということでは些かもない。 むしろ、それが日本近代の存立に不可欠であるからこそ擁護するのである。 この間の事情は、西欧においても全く変わりはない。 たとえば、イギリスの保守主義は、イギリスの伝統を、それがイギリス近代の存立に不可欠であるからこそ擁護するのである。 このように言えば、イギリスの伝統と日本の伝統とは全く違う、といったお馴染みの議論がすぐにでも思い浮かばれよう。 もとより、イギリスの伝統と日本の伝統とが同じである筈もない。 しかし、近代文明における反啓蒙の橋頭堡という意味においては、彼我の伝統は、いわば機能的に等価なのである。 すなわち、近代文明における啓蒙の精神は、近代文明の圏内においては、ほとんど同一であり、その意味において、普遍的である。 さらに、近代文明が、啓蒙の精神のみによっては存立し得ず、反啓蒙の伝統を俟って始めて存立し得るという事態もまた、普遍的である。 しかし、近代文明の存立に不可欠な反啓蒙の伝統が、具体的に何であるかとなると、これは、近代文明の圏内においても、様々であり得る。 すなわち、近代文明という、いわば地球大の文明の存立に不可欠な伝統は、近代文明の圏内にある様々な文化に固有な伝統以外ではあり得ないのである。 言い換えれば、近代文明とは、それを担う様々な文化に固有な伝統を前提として、始めて可能であるような文明なのである。 従って、近代文明において、啓蒙の進歩主義は、なるほど普遍的であり得るが、反啓蒙の保守主義は、反啓蒙という一点を除いては、決して普遍的ではあり得ない。 近代の保守主義は、反啓蒙という機能においては等価であるが、それを担う実体としては異文化である、固有の伝統のいずれかに係留されざるを得ないのである。 これは、社会あるいは文化の伝統が、本書に述べた《遂行的なるもの》であることの、ほとんど必然的な帰結である。 このような立論は、近代文明と西欧文化との間に如何なる差異も認めない向きにとっては、なかなか理解し難いものであろう。 しかし、近代文明とは、ほとんど全地球を覆う、優れて普遍的な文明なのであって、西欧文化や日本文化をも含む、極めて多様な文化あるいは社会によって担われている、と考えることはそれほど無理なことであろうか。 古代や中世の歴史においては、単一の普遍な文明が、多数の固有な文化あるいは社会によって担われている例は、枚挙に暇がない。 中国文明、インド文明、イスラム文明、ギリシア・ローマ文明など、総て、そのような文明の例である。 そもそも、文明と呼び得る程にも普遍的であり得るためには、その内部に少なくとも複数の分化あるいは社会を包含していることが、ほとんど必須の条件であると言ってもよい。 近代文明もまた、そのような文明の一つなのである。 従って、西欧の社会も、日本の社会も、それが近代文明を担っている社会の一つであるという点においては、些かの相違もない。 しかし、それらの社会が、近代の社会として存立するに当たって、具体的に如何なる伝統を不可欠なものとしているかについては、それぞれに固有の事情が介在しているのである。 たとえば、イギリスの近代社会の存立に当たって、間柄主義の伝統の不可欠である筈もなく、あるいは、日本の近代社会の存立に当たって、アングリカニズムの伝統の不可欠である筈はない。 いずれにせよ、近代の保守主義は、普遍的な近代文明の存立にとって不可欠な伝統を、個別的な地域文化に固有な具体性の中に見出していかねばならないのである。 このような保守主義が、単純な自文化中心主義やナショナリズム、あるいは反西欧主義や日本主義に、そう易々と陥り得ないことは明らかであろう。 保守主義は、いまここに生きられている社会が、近代文明の下にある社会であることを、よく承知している。 さらに、保守主義は、自らの社会に固有な伝統を擁護することが、近代文明の下にある総ての社会にとって、不可避の要請であることも、また、よく承知している。 従って、保守主義は、自らの固有な文化が、近代文明の下にある総ての社会において、生きられるべき普遍の伝統となり得るなどとは夢にも想わない。 ましてや、保守主義は、自らの固有な文化が、近代文明それ自体と対抗せざるを得なくなるとは、全く考えもしない。 保守主義は、自文化中心主義やナショナリズム、さらには反西欧主義や日本主義では、ついにあり得ないのである。 しかし、そうは言っても、近代文明と、それを担っている地域文化、わけても西欧文化との判別は、かなり複雑な課題である。 どこまでが近代文明の普遍的な特徴であり、どこまでが西欧文化の個別的な特徴であるかは、極めて識別の困難な課題なのである。 従って、西欧の保守主義はいざ知らず、日本の保守主義は、近代文明の唯中に極めて分離し難く纏わり付いている西欧に固有な伝統と、自らに固有な伝統との葛藤を引き受けねばならない。 近代文明の下における、地域文化相互間の葛藤は、依然として開かれた問いなのである。 しかし、近代文明が、地域的な固有文化を超えた、全地球的な普遍文明であり得るとするならば、この問題は、必ずや解決されるに相違ない。 そのとき、保守主義の擁護すべきは、地球文明の存立にとって決して逸することの許されない、全地球的に生きられる言わば普遍の伝統であるのかも知れない。 そのときに在っても保守主義は、地球文明のキー・ストーンとして、なお生きられねばならないのである。 ▼第六章 解釈学的社会学としての保守主義 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.解釈学的社会学へ 本書のこれまでの諸章は、オースティンの言語行為論やウィトゲンシュタインの言語ゲーム論と、保守主義の社会哲学との関連を述べている。 主としてイギリスの20世紀哲学と保守主義との関連を述べて来たのである。 尤も、オースティンとハートは、確かにオックスフォードの人であるが、ウィトゲンシュタインとハイエクは、言うまでもなくウィーンの人である。 しかし、今世紀初頭のウィーン哲学は、必ずしもドイツ哲学の本流とは言い得ず、むしろイギリスにおいて活躍する人々の方が多かったと言っても過言ではない。 ウィーンの哲学は、ドイツにおけるイギリス哲学なのである。 いずれにせよ、本書のこれまでの諸章は、イギリス哲学に焦点を絞って来たのである。 ところが、これまでの論述において、20世紀イギリス哲学の行き着いた地平を辿って行く内に、それが、20世紀ドイツ哲学わけても解釈学的哲学の行き着いた地平と、極めて類似していることに幾度となく気付かされざるを得なかった。 村上泰亮の言葉を借りれば、「後期のウィトゲンシュタインは、ほとんど現象学への - 言わば裏側からの - 復帰を果たしているように映るのである」。 従って、20世紀イギリス哲学の帰結に、保守主義の社会哲学を読み込む本書としては、20世紀ドイツ哲学わけても解釈学的哲学と、それがもたらす社会哲学上の帰結に目を向けない訳にはいかない。 本書は、解釈学的社会学の方へと、呼ばれざるを得ないのである。 しかし、19・20世紀におけるドイツの社会哲学を取り上げるには、いささかの勇気が必要とされる。 それは、私自身が、これまで主としてイギリスの社会哲学を読み継いで来たという、研究経歴上の問題のためだけではない。 19・20世紀ドイツの社会哲学が輝かしいものであればある程、何故にドイツは、今世紀の二つの大戦において、あのように凄惨な敗北を喫さねばならなかったのか、という問いが否応なく覆い被さって来るからである。 もとより、ある言語による社会哲学に、その言語圏に属する国家社会の歴史的運命への、直接の責任が有り得よう筈もない。 しかし、ある社会における思想の在り様が、その社会の歴史的な運命に全く無関係であることもまた有り得ない。 ドイツの社会哲学は、ドイツの運命的な敗北に、何等かの関係を持っている筈なのである。 それでは、近代ドイツ思想と近代ドイツ社会の運命は、如何ように交錯するのであろうか。 この問いを問い切るためにこそ、些かの勇気が必要とされるのである。 何故ならば、この問いに対する答え方によっては、いわゆる戦後的な「常識」に、真っ正面から対立せざるを得なくなる場合も、充分に想像し得るからである。 このような勇気は、決定的な敗北ということをついぞ知らない、近代イギリスの社会哲学を取り上げるに当たっては、必ずしも必要とはされない。 しかし、たとえば近代日本の社会哲学を取り上げようとするならば、是が非でも必要とされるものである。 蓋し、近代日本社会もまた、過ぐる大戦において歴史的な敗北を喫したのであり、そのことと、近代日本思想との関係もまた、避けては通れない問いだからである。 いずれにせよ、近代ドイツの社会哲学あるいは近代日本の社会哲学を取り上げんとする試みは、少なくとも私には、些かの勇気を必要とする試みであるように思えてならないのである。 従って、以下の試みは、ささやかな覚悟を秘めてのことである。 20世紀末の時点に立って、ドイツの哲学を概観するならば、そこには、大きく三つの潮流の存在していることが見て取れる。 一つは、現象学あるいは解釈学に代表される潮流であり、二つは、フランクフルト学派あるいは批判理論に代表される潮流であり、三つは、分析哲学あるいは批判的合理主義に代表される潮流である。 これらの三潮流は、それぞれに社会哲学上の帰結を含意している。 すなわち、第一の潮流は、解釈学的社会学を、第二の潮流は、批判社会学を、第三の潮流は、機能主義社会学を含意しているのである。 これら三潮流を、その相互連関に留意しつつ、大胆に要約するならば、まず、第二の批判理論とは、たとえば人間の解放といった普遍妥当的とされる根拠に基づいて、社会の総体を批判しさらには変革し得るとする哲学であって、マルクスとフロイトの継承線上に位置することを、自他共に認める立場である。 次に、第三の批判的合理主義あるいは機能主義とは、人間の知識に普遍妥当的な根拠付けなど可能ではなく、知識とは、自らを妥当させる根拠(たとえば反証可能性基準)それ自体の選択をも含めた、自由な決断に外ならないとする哲学であって、三潮流の中で唯一、現代的な科学の方法論であり得ることを自負している立場である。 これらに対して、第一の解釈学とは、人間とその社会あるいは文化の解釈は、たとえば社会の伝統といった自らを妥当させる根拠をも、自らの対象とせざるを得ないのであるから、自らの普遍妥当性を根拠付け得る筈もなく、しかし、自らの妥当根拠を自由に選択し得る訳でもないとする哲学であって、19世紀以来のテクストあるいはコンテクスト解釈学の伝統に棹さす立場である。 言い換えれば、 批判理論とは、価値と認識についての普遍主義あるいは客観主義の視点に立つ、実践の哲学であり、 批判的合理主義とは、価値と認識についての相対主義あるいは主観主義の視点に立つ、科学の哲学であるのに対して、 解釈学とは、客観主義あるいは主観主義のいずれでもない言わば第三の視点に立つ、伝統の哲学なのである。 このような大胆な要約を示されれば即座に、幾つもの疑問が涌き上がって来て当然である。 たとえば、解釈学のいう伝統と、現象学の言う《生活世界》とは、果たして如何なる関係にあるのか、また、実践哲学の復権が言われる中で、批判理論は、果たして如何なる位置を占めるのか、さらに、批判的合理主義の言う仮説選択と、機能主義の言う《システム》選択とは、果たして異なった概念であるのか、等々の疑問である。 しかし、本論においては、これらの疑問にこれ以上立ち入ることはしない。 これらの疑問を詳細に検討するためには、遥かに充分な準備が必要とされるからである。 むしろ、本論においては、人間とその社会あるいは文化を解釈するという、解釈学的な問題の構造を解析することによって、何故に、批判理論と機能主義(批判的合理主義)が社会理論として不可能となり、解釈学的な社会理論のみが可能となるのかを検討してみたい。 さらに本論においては、そのような解釈学的社会学が、何故に保守主義であらねばならぬのかも検討してみたい。 これらの検討を通じて、伝統へ回帰することが、社会を解釈することの、逃れ得ぬ条件であり、かつ、避けられぬ帰結であることが、明らかになると思われる。 ◆2.自己関係性の構造 人間や社会や文化を解釈するという行為は、一体、いかなる特徴を持った行為であるのか。 この問いを問う前に、まず、社会という事態を如何に把握すべきかについて、多少なりとも議論して措く必要がある。 社会とは、差し当たり、人間の行為の集合である。 しかし、このような行為空間に、何等かの構造、形式あるいは秩序が導入されて始めて、社会は、社会として発見され得る。 すなわち、社会とは、何等かの構造、形式あるいは秩序の存在する行為空間なのである。 ここに言う、行為空間に何等かの構造、形式あるいは秩序が存在するとは、ある行為空間に内属する行為が、何等かの根拠に基づいて、その妥当であるか否か、あるいは、その有効であるか否かを、ほとんどあらゆる場合に決定され得る、という事態に外ならない。 言い換えれば、構造、形式あるいは秩序の存在する行為空間とは、自らに内属する殆どあらゆる行為の、妥当であるか否か、あるいは、有効であるか否かを、常に決定し得る行為空間なのである。 ここでは、この意味において、構造、形式あるいは秩序の存在する行為空間を、秩序付けられた行為空間と呼び、そのように行為空間を秩序付ける、すなわち、行為の妥当性あるいは有効性を決定する根拠となるものを、行為のノルム(規範)、ルール(規則)あるいはコンテクスト(文脈)と呼ぶことにしたい。 すなわち、行為は、何等かの規範、規則あるいは文脈に依することによって始めて、自らの妥当し得るか否かを決定し得るのであり、また、行為空間は、何等かの規範、規則あるいは文脈が導入されて始めて、秩序付けられるのである。 従って、社会とは、何等かの文脈によって秩序付けられた、行為空間に外ならないことになる。 言い換えれば、社会とは、何等かの文脈に依存することによって始めて、自らの妥当しうるか否かを決定し得る、行為の集合に外ならないのである。 このような社会という事態を解釈する行為は、一体、如何なる特徴を持つのであろうか。 行為という事態を、一篇のテクストに譬えることが許されるならば、ある文脈に依存することによって始めて、自らの当否を決定し得る場合、すなわち社会を解釈する行為は、あるコンテクストに依拠することによって始めて、自らの意味を決定し得るテクストの集合を解釈する行為に外ならない。 言い換えれば、社会の解釈とは、あるコンテクストを共に織り成している、テクストの束を解する行為に外ならないのである。 さらに言えば、この解釈する行為それ自身もまた、一篇のテクストに外ならず、何等かのコンテクストに依拠することによって初めて、自らの意味を決定し得る。 すなわち、解釈する行為それ自身もまた、行為である以上、何等かの文脈に依存することによって初めて、自らの妥当し得るか否かを決定し得るのである。 従って、社会を解釈する行為は、自らの対象とする社会、すなわち秩序付けられた行為空間とは差し当たり区別される、何等かの秩序付けられた行為空間に内属することになる。 すなわち、社会を解釈する行為は、それ自身もまた行為であるがゆえに、言わばメタ社会とでも呼ぶべき社会に内属せざるを得ないのである。 この解釈行為の内属する(メタ)社会と、解釈行為の対象とする(対象)社会とが、同一ではないとするならば、社会を解釈するに当たって特徴的な問題は生じ得ない。 言い換えれば、解釈行為の依存する文脈と、対象社会を秩序付ける文脈とが、異なるものであるとするならば、次節以降に述べるような問題は生じ得ないのである。 しかし、社会を解釈するという課題は、対象社会とメタ社会との峻別を、ついに許さない。 対象社会を秩序付ける文脈と、メタ社会を秩序付ける文脈とは、究極的には一致せざるを得ないのである。 何故ならば、秩序付けられた解釈行為の空間としてのメタ社会もまた、社会である以上、当然に解釈行為の対象となり得るのであって、社会の全体を解釈せんとする行為は、自らの内属する社会をも、自らの対象とせざるを得ないからである。 すなわち、社会の全体を解釈せんとするならば、対象社会は、メタ社会それ自体をも包含せざるを得ないのである。 従って、メタ社会を秩序付ける文脈、すなわち解釈行為の依存する文脈は、対象社会を秩序付ける文脈の一部分とならざるを得ない。 言い換えれば、社会全体を解釈せんとする行為は、自らの妥当し得るか否かを決定する根拠それ自体をも、自らの対象とせざるを得ないのである。 このように、解釈行為の対象となっている社会に内属する行為の妥当根拠が、同時に、解釈行為それ自身の妥当根拠でもある事態を、ブプナーに従って、自己関係的な事態、あるいは、自己関係性と呼ぶことにしよう。 すなわち、社会全体を対象とする解釈行為は、自らの根拠を自らの対象とせざるを得ないという意味において、自己関係性の構造を余儀なくされるのである。 もっとも、解釈の行為が、必ずしも社会の全体を対象とする必然はない。 従って、社会の部分を対象としている限り、解釈の行為が、自己関係性の構造を引き受けなくとも済む場合もあり得よう。 しかし、解釈の行為が、自らの内属する社会、すなわち秩序付けられた解釈空間それ自体を対象とする場合には、依然として、自己関係性の構造を避け得ない。 そのような場合とは、解釈の行為とその妥当根拠とを反省的に解釈する場合、言い換えれば、解釈学的な行為の遂行される場合である。 すなわち、解釈学的行為は、その対象である解釈行為の妥当根拠と、それ自身の妥当根拠が厳密に一致するという意味において、まさに自己関係性の構造を遂行しているのである。 従って、自己関係性の構造が問題とされるのは、社会全体を対象とする解釈行為の場合と、解釈行為それ自体を対象とする解釈行為、すなわち解釈学的行為の場合とに限られることになる。 このような自己関係性の構造、すなわち自らの妥当根拠を自らの解釈対象とする構造こそ、解釈学的循環と呼ばれる構造に外ならない。 言い換えれば、自らのコンテクストを自らのテクストとする処に、解釈学的循環が生じるのである。 解釈学的循環は、解釈学の全歴史を通底する根本構造である。 解釈学の主要なメッセージは、押し並べて、この解釈学的循環から帰結されると言っても過言ではない。 本論の以下の諸節もまた、この解釈学的循環あるいは自己関係性の諸帰結を検討することに費やされる。 そこでは、自己関係性の帰結として、批判理論と機能主義あるいは批判的合理主義の不可能であることが、明らかにされると共に、解釈学的循環の帰結として、保守主義あるいは伝統再生の不可避であることが、示される筈である。 ◆3.基礎付けの不可能 自己関係性を引き受ける解釈行為、すなわち、社会全体を対象とする解釈行為、あるいは、自己自身の妥当根拠を対象とする解釈行為は、自らの妥当し得るか否かを、如何にして決定し得るのであろうか。 言い換えれば、自らの妥当根拠を対象とする解釈行為は、自らの妥当性を、如何にして根拠付け得るのであろうか。 たとえば、自らの妥当根拠に対する解釈を遂行して、そこには「自らの妥当根拠に対する解釈は妥当でない」という準則が含まれている、と解釈する場合を考えてみよう。 この場合、自らの妥当根拠に対する解釈が妥当であるとするならば、その解釈の妥当でないことが帰結され、逆に、自らの妥当根拠に対する解釈が妥当でないとするならば、その解釈の妥当であることが帰結される。 従って、この場合、自らの妥当根拠に対する解釈の妥当であるか否かは、全く決定し得ないことになる。 すなわち、自らの妥当根拠を対象とする解釈行為は、自らの妥当性を、全く根拠付け得ないのである。 このような決定不能性あるいは根拠付けの不可能は、自らの当否を自らが決定する構造、言い換えれば、自らを根拠として自らを正当化する構造の存在する処では、何処にでも生じ得るパラドックスである。 従って、自己関係性の構造の存在が、自らの妥当根拠に対する解釈の決定不能あるいは根拠付けの不可能を帰結するのは、このような自己決定あるいは自己正当化のパラドックスの、一つの例であるとも言い得るのである。 いずれにせよ、社会の全体を対象とする解釈の行為、あるいは、自らの妥当根拠を対象とする解釈の行為は、自らの妥当性の決定不能あるいは根拠付けの不可能に陥らさるを得ない。 言い換えれば、社会の全体を対象とする解釈の行為、あるいは、自らの妥当根拠を対象とする解釈の行為は、そもそも、合理的な行為としては成立し得ないのである。 社会の全体あるいは自らの妥当根拠を対象とする解釈の行為が、自らの当否を決定し得る、如何なる根拠をも持ち得ないという事態は、批判理論の遂行せんとしている、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする批判の行為が、必ずしも可能ではあり得ないことを示唆している。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする批判は、自らの妥当根拠それ自体をも批判の対象とせざるを得ず、そのような批判は、自らの妥当し得るか否かを、ついに決定し得ないのである。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする批判には、自らを妥当させる究極的な根拠など、決して存在し得ないのである。 従って、批判理論は、ついに可能ではあり得ない。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会に対する、疑い得ぬ確実な根拠に基づいた、普遍妥当的な批判など、全く不可能なのである。 このことは、同時に、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする、合理的な言及や制御や変革やの、不可能であることも含意している。 何故ならば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする、言及や制御や変革やの行為は、批判の行為と同様に、自らの妥当根拠を自らの行為対象とせざるを得ず、自らの妥当性を、全く根拠付け得ないからである。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする、言及や制御や変革やの行為は、合理的な行為としては決して成立し得ないのである。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会は、合理的な言及や制御や変革やといった行為の対象とは、ついになり得ないのである。 従って、社会の全体あるいは当該行為の内属する社会は、言及/制御/変革不能という意味において、まさに暗黙的となるのである。 社会の全体あるいは制御行為の内属する社会が、制御不能であるということは、取りも直さず、社会の全体を秩序付けている文脈、あるいは、制御行為の依存している文脈もまた、制御不能であるということに外ならない。 すなわち、社会全体を秩序付ける文脈、あるいは、制御行為の依存する文脈は、暗黙的なのである。 従って、社会全体を秩序付ける文脈は、意図的に設定される事態ではあり得ない。 そのような文脈は、行為の意図にはよらず、行為の結果として、自生的に生成される事態なのである。 また、制御の行為は、自らの意識的には制御し得ない文脈に依存して初めて、自らの行為を可能にし得ることになる。 この制御行為の依存する文脈もまた、制御行為の遂行の累積的な帰結として、自生的に生成される事態なのである。 すなわち、社会全体を秩序付ける文脈、あるいは、制御行為の依存する文脈は、暗黙的なのである。社会全体を秩序付ける文脈、あるいは、制御行為の依存する文脈は、暗黙的であるがゆえに、ただ遂行的となるのである。 言い換えれば、そのような文脈は、意識的に語り得ないがゆえに、ただ遂行的に示されるのみなのである。 ◆4.《選択肢》の不在 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、自らの当否を決定し得る、如何なる根拠をも持ち得ない。 自らの内属する社会を解釈する行為には、究極的な妥当根拠など、決して存在し得ないのである。 それでは、自らの内属する社会を解釈する行為に、言わば暫定的な妥当根拠を付与する試みは可能であろうか。 なるほど、自らの内属する社会への解釈に、究極的な妥当根拠など存在し得ない。 しかし、そのような解釈に、暫定的な妥当根拠を付与することによって、そのような解釈の、差し当たり妥当し得るか否かを決定することは可能ではないか。 ただし、ここに言う妥当根拠の暫定的であるとは取りも直さず、自らの内属する社会への解釈の、妥当し得るか否かを決定する根拠それ自体には、その妥当であるか否かを決定し得る、いかなる根拠も存在し得ない、ということに外ならない。 すなわち、暫定的な妥当根拠とは、解釈行為自らの内属する社会の解釈に、その妥当根拠を与えつつ、それ自体は、いかなる妥当根拠をも持ち得ない事態なのである。 言い換えれば、暫定的な妥当根拠は、自らの妥当根拠それ自体への遡行を、言わば中断することによって、解釈行為自らの内属する社会の解釈に、その妥当根拠を付与するのである。 自らの内属する社会への解釈は、このように、自らの妥当根拠を暫定的に付与されることによって、差し当たり、自らの妥当し得るか否かを決定し得るかも知れない。 従って、そのような解釈は、差し当たり、自らの妥当性を根拠付け得る、いわゆる科学的な言明として遂行され得るかも知れない。 しかし、そのような科学的言明の妥当性を根拠付けている、その妥当根拠は、あくまでも暫定的なものであって、自らの妥当性を根拠付ける、いかなる妥当根拠も存在し得ない。 科学的言明とは、さらなる根拠への遡行を中断することによって初めて可能となる、暫定的に根拠付けられた解釈の行為なのである。 それでは、自らの内属する社会への解釈を暫定的に根拠付ける、妥当根拠それ自体は、どのようにして与えられるのであろうか。 もとより、そのような妥当根拠それ自体には、いかなる妥当根拠も存在し得ないのであるから、そのような妥当根拠を、何等かの根拠に基づいて選択することは不可能である。 従って、そのような妥当根拠は、もし選択することが可能であるとするならば、いかなる根拠にも囚われない、いわば自由な決断によって選択されざるを得ない。 すなわち、暫定的な妥当根拠は、その選択可能を前提とするならば、解釈主体の自由な決断によって与えられるのである。 この意味において、科学的な言明とは、究極的には自由な決断に依存している行為に外ならない。 普遍的な妥当根拠の果てる処、自由な決断あるのみ、という訳である。 しかし、暫定的な妥当根拠を選択する、解釈主体の自由な決断が可能であるためには、そもそも、暫定的な妥当根拠それ自体を選択することが可能であらねばならない。 すなわち、妥当根拠が選択可能であるためには、妥当根拠についての、ある一つの選択に代替し得る、それ以外の選択肢が存在しておらねばならないのである。 ところが、社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為の、暫定的な妥当根拠には、いかなる選択肢も存在し得ないことが示され得る。 すなわち、妥当根拠が選択可能であるためには、妥当根拠についての、ある一つの選択に代替し得る、それ以外の選択肢が存在しておらねばならないのである。自己関係的な解釈行為は、たとえ暫定的なそれであったとしても、些かの選択可能性も持ち得ないのである。 何故ならば、自己関係的な解釈行為においては、自らの行為の妥当根拠と、自らの対象の妥当根拠とが一致せざるを得ない。 従って、社会の全体なり、あるいは、解釈行為自らの内属する社会なりを、解釈の対象とするならば、自らの対象としての社会全体を秩序付ける文脈(妥当根拠)、あるいは、自らの対象としての自らの内属する社会を秩序付ける文脈(妥当根拠)それ自体を、自らの行為の依存する文脈(妥当根拠)とせざるを得ないことになる。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする解釈の行為は、自らの行為の妥当根拠として、自らの対象の妥当根拠以外の、いかなる選択肢も持ち得ないのである。 言い換えれば、自らの内属する社会を解釈する行為の妥当根拠は、些かも選択可能ではあり得ないのである。 従って、自らの内属する社会に対する解釈の妥当根拠を、解釈。主体の自由な決断に委ねることは、全く不可能となる 何故ならば、そのような解釈の妥当根拠には、選択肢が全く不在であるために、解釈主体による自由な決断の余地は、些かも残されてはいないからである。 このことは、科学的言明の妥当根拠(たとえば反証可能性基準)を、自由な決断に委任する、批判的合理主義の、必ずしも可能ではあり得ないことを示している。 すなわち、科学的言明の妥当根拠を、如何なる根拠にも囚われない自由な決断に委ねることによって、そのような妥当根拠によって秩序付けられた、科学的言明のゲームを展開せんとする、批判的合理主義の試みは、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする言明の妥当根拠に、如何なる選択肢も存在し得ないという事態によって、挫折せざるを得ないのである。 言い換えれば、批判的合理主義の含意する、科学的言明の妥当根拠それ自体についての相対主義、いわゆるパラダイム相対主義は、社会の全体あるいは言明行為自らの内蔵する社会を対象とするパラダイムに、選択可能性の全く不在であるがゆえに、失敗せざるを得ないのである。 従って、批判的合理主義によるパラダイムの選択は、全く不可能となる。 このことは、機能主義による社会システムの選択が不可能であることと、ほとんど同型的に対応する事態であると思われる。 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為の妥当根拠が、解釈主体の自由な決断によっては選択され得ないという事態は、そのような解釈の行為が、自らの対象とする社会を秩序付けている文脈から、ついに自由ではあり得ないことを示している。 すなわち、そのような解釈の行為は、自らの対象とする文脈、従って、自らの依存する文脈から、ついに離脱し得ないのである。 言い換えれば、解釈行為という(メタ)テクストは、自らのテクストでありかつ自らも織り込まれているコンテクストから、決して離脱し得ないのである。 そのようなコンテクストは、解釈の行為(メタ・テクスト)に先立って遂行されている、言わば先行的な解釈(テクスト)の累積であるとも言えよう。 従って、解釈の行為は、先行的な解釈に拘束されて初めて可能であることになる。 すなわち、解釈の行為とは、言わば先行解釈の地平に投げ出されて在る行為に外ならないのである。 ◆5.再び伝統とは何か 社会の伝統あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、自らの妥当し得るか否かを究極的には決定し得ず、また、自らの妥当性を根拠付ける文脈を暫定的にすら選択し得ない。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、自らの対象とする社会を秩序付ける文脈を、究極的には操作し得ず、しかも、そのような文脈から、暫定的にすら離脱し得ないのである。 すなわち、解釈の行為が、自らの対象とし、従って、自らの依存する文脈は、究極的には操作不能であり、暫定的にも離脱不能である、何ものかなのである。 このような解釈行為の文脈こそ、伝統と呼ばれるものに外ならない。 すなわち、伝統とは、操作不能という意味において拘束的であり、解釈行為の遂行において従われる外はない事態なのである。 言い換えれば、伝統とは、解釈行為の語り得ず、ただ示し得る事態であると共に、解釈行為の逃れ得ず、ただ従うべき事態なのである。 従って、解釈の行為とは、このような伝統に従いつつ、このような伝統を示す、すなわち、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為に外ならないことになる。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を秩序付ける文脈、すなわち、伝統を解釈する行為とは、伝統から離脱するのではなく、伝統に依拠しつつ、伝統を操作するのではなく、伝統を再生する行為に外ならないのである。 このように、伝統に依拠しつつ、伝統を再生する行為の遂行を、保守主義と呼ばずして、一体、何を保守疑義と呼び得るのか。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為の遂行は、保守主義以外の何ものでもないのである。 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、伝統を普遍的に批判し得る根拠を持ち得ないが故に、伝統を生成し、また、伝統を自由に選択し得る選択肢を持ち得ないがゆえに、伝統に依存する行為であらざるを得ない。 すなわち、唯一可能な社会理論として、批判理論や機能主義と決別する解釈学的社会学の遂行は、取りも直さず、保守主義の外ではあり得ない。 解釈学的社会学の保守主義たる所以である。 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為である、という命題は、解釈学的社会学の根本命題である。 本論は、この根本命題の含意を、簡単にスケッチしたに留まる。 論じ残された問題は数多い。 たとえば、ある歴史的な社会を解釈の対象に据えた場合、その歴史的な社会を秩序付けている文脈と、解釈の行為の内在する社会を秩序付けている文脈とは、必ずしも常には一致しない。 従って、そこには、解釈の対象とする(対象)社会の文脈と、解釈の内蔵する(メタ)社会の文脈とが一致する、いわゆる自己関係性の構造は、必ずしも見い出されない。 しかし、そもそも、解釈の行為は、対象社会の文脈とメタ社会の文脈との間に、何等かの一致を前提することによって、初めて可能になるとも考えられるし、あるいは、それらの間に、何等かの一致を帰結することによって、初めて実現し得るとも考えられる。 すなわち、解釈の行為は、自己関係性の構造を、その前提とも帰結ともしているのではないか、と考えられるのである。 この場合、解釈を遂行する過程において、対象社会の文脈とメタ社会の文脈とは、どのように離反し、あるいは、どのように一致していくのか、このことが問われねばならない。 この問いは、解釈の遂行課程において、自己関係性の構造が、どのように生成されて来るのかを問うことに外ならない。 ガーダマーの言う、地平融合の問題である。 しかし、本論は、この問いに答えない。 解釈学的社会学の理論的彫塑は、今後の課題である。 解釈学的社会学が、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為に外ならないとするあらば、日本における解釈学的社会学は、日本の伝統を生成する行為を閉却する訳にはいかない。 もっとも、日本の伝統というと、即座に、古代以来の天皇制や、中世以来のイエ社会やを思い浮かべ、中国文明やあるいは近代文明の影響を受けていない、言わばナショナリスティックな伝統を考える向きがしばしば見受けられるが、ここに言う伝統は、必ずしもそのようなものではあり得ない。 日本において解釈学的社会学を遂行する場合、私の差し当たり対象としたい伝統は、17世紀ないし19世紀以降の近世あるいは近代日本の伝統である。 すなわち、近代文明の一翼を担う地域文化としての日本の伝統を対象としたいのである。 この間の事情は、ドイツにおいて解釈学的社会学の遂行される場合と大した違いはない。 ドイツの解釈学もまた、17世紀ないし19世紀以降の近代ドイツの哲学的な伝統を、差し当たり継承しているのである。 いずれにせよ、日本における解釈学的社会学を遂行するに当たって、差し当たり対象としたいのは、近世あるいは近代日本における哲学的な伝統である。 そのような伝統を解釈することによって、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為の一端を担ってみたいのである。 このこともまた、今後の課題に外ならない。 ▼原注 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... 第一章 世紀末の新しい保守主義 (省略) 第二章 合理と個体 (省略) 第三章 暗黙の言及 (*6) Polanyi, Michael ("Personal Knowledge"1958 長尾史郎訳 『個人的知識』1985) ハイエクは、ポランニーから多くの影響を受けている。 たとえば、自生的秩序の概念は、ポランニーから譲り受けたものである。 確かに、ハイエクは、ポランニーの暗黙知の概念を、言葉としては用いていないが、内容的には同様の考え方に立っている。 (*7) 橋爪大三郎 (『言語ゲームと社会理論 -ヴィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン-』 1985) ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論から、ハイエクが直接の示唆を受けているか否かは定かでない。 従って、ここに言う家族的類似は、両者の理論が結果として類似しているという主張以上のものではない。 なお、ハイエクは、ウィトゲンシュタインの伝記を手掛けたことがあるそうである。 (他は省略) 第四章 規範の文脈 (*5) 土屋俊 (『心の科学は可能か』 1986) 自己言及性という概念の採用に当たっては、土屋(1986)に大きな示唆を受けた。 (*8) 土屋俊 (『心の科学は可能か』 1986) 文脈依存性という概念の採用に当たっては、土屋(1986)に大きな示唆を受けた。 (*18) 土屋俊 (「何種類の言語行為があるか -言語ゲームとしての言語行為-」 講座『思考の関数1 ゲームの臨界 -アゴーンとシステム-』 1983) 発語内行為の分類に関しては、土屋(1983)に示唆を受けた。 (他は省略) 第五章 慣習と遂行 (*1) Popper, Karl R. ("Objective Knowledge"1972 森博訳 『客観的知識 -進化論的アプローチ-』1974) 《世界Ⅰ》 《世界Ⅱ》 《世界Ⅲ》 の概念については、Popper に示唆を受けた。 (*2) これは、行為の累積的な帰結として生成される秩序が、何故に、行為の発効し得るか否かを決定する根拠すなわち、行為の依存する文脈となり得るのか、という問題である。 もし、行為の依存する文脈が、行為によって意図的に設定されるとするならば、そこには、自己言及あるいは自己回帰のパラドックスが生ずることになり、行為の発効し得るか否かは決定不能に陥らざるを得ない。 従って、行為の発効し得るか否かが決定可能である、すなわち、行為の依存する文脈が存在し得るとするならば、それは、たとえ行為の累積的な帰結として生成される秩序であったとしても、行為の意図的な設定にはよらないことが明らかになる。 言い換えれば、行為の依存する文脈は、もしそれが存在し得るとするならば、行為の累積的な帰結からは必ずしも独立していないにも拘わらず、行為の意図的な帰結からは全く独立しているのである。 (*3) 行為の発効し得るか否かを決定する根拠、言い換えれば、行為を根拠付けあるいは正当化する文脈に対する言及の総てが、自己言及あるいは自己回帰の行為となる訳では必ずしもない。 ある特定の行為秩序を正当化する文脈、すなわち、ある特定の社会ゲームを構成するルールに対する言及は、必ずしも自己に回帰する言及とはならず、ある特定の行為秩序あるいは社会ゲームを制御さらには設定する行為は常に可能である。 しかし、この場合、ある特定の文脈あるいはルールに言及する行為それ自身の依存する文脈あるいはルールは、差し当たり、言及の対象になっていない。 もちろん、ある特定の文脈に言及する行為を正当化する文脈それ自体に対する言及も、常に可能である。 しかも、そのような言及は無限に遡及し得る。 何故ならば、文脈あるいはルールの全体に言及する行為それ自身の依存する文脈あるいはルールに対する、新たな言及が、常に可能なのであるから、もとの言及は、文脈あるいはルールの全体を対象とする言及とは決してなり得ないのである。 このことは、文脈あるいはルールの全体に対する言及が、もし存在し得るとするならば、それは、自らを正当化する文脈あるいはルールそれ自体をも対象とする言及、すなわち、自己言及あるいは自己回帰の行為とならざるを得ず、そのような言及の発効し得るか否かを決定することは、すなわち、そのような言及の行為そのものが、原理的に不可能となるのである。 従って、ある特定の文脈によって正当化される行為秩序、あるいは、ある特定のルールによって構成される社会ゲームの制御さらには設定ならばいざ知らず、行為秩序あるいは社会ゲームの全体を対象とする制御さらには設定の行為は、原理的に不可能とならざるを得ない。 すなわち、行為秩序あるいは社会ゲームの全体に対する制御さらには設定は、自己回帰的な行為であらざるを得ないがゆえに、不可能となるのである。 (*4) 自生的秩序やルール、あるいは言語ゲームといった、《遂行的なるもの》は、行為の累積的な遂行としてのみ示されるという意味において、行為累積的である。 行為は、自らの文脈としての《遂行的なるもの》に、自らの発効し得るか否かを依存しているという意味において、文脈依存的である。 しかし、《遂行的なるもの》の全体を対象とする行為は、自らの依存する文脈をも対象とせざるを得ないという意味において、自己回帰的であり、自らの発効し得るか否かを決定し得ない。 すなわち、《遂行的なるもの》全体を対象とする行為は、自己回帰的であるがゆえに不可能なのである。 従って、行為の累積である《遂行的なるもの》に、行為が自らの発効し得るか否かを依存したとしても、《遂行的なるもの》の全体は行為の対象とはなり得ないのであるから、必ずしも矛盾は生じない。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、行為の累積的な帰結であるにも拘わらず、行為の意図的な対象とはなり得ないがゆえに、行為の規範的な文脈となり得るのである。 (*14) 累積的、規範的、暗黙的な事態としての《遂行的なるもの》と、社会との同一性は、本書に述べた社会哲学の最も基本的な命題である。 すなわち、社会は、《遂行的なるもの》と同様に、行為の累積的な遂行それ自体であるという意味において、累積的であり、また、行為の発効し得るか否かの依存する文脈であるという意味において、規範的であり、さらに、その全体を対象とする行為の自己に回帰するがゆえに不可能であるという意味において、暗黙的である。 保守主義は、累積的な伝統と、規範的な権威と、暗黙的な偏見との擁護し得ること、あるいは、擁護すべきことを見出すことによって、この意味における社会を、近代において初めて発見したのである。 保守主義のこのような捉え方は、保守主義を、言わば社会学として捉えることに外ならない。 言い換えれば、本書は、保守主義の伝統の中に、社会学の最良の部分を見出そうとする試みなのである。 なお、保守主義の社会学的な側面以外の諸相については、次節において簡単に検討したい。 (他は省略) 第六章 解釈学的社会学としての保守主義 (省略) ■3.まとめ (作成中) ■4.ご意見、情報提供 ↓これまでの全コメントを表示する場合はここをクリック +... 以下は最新コメント表示 名前 ラジオボタン(各コメントの前についている○)をクリックすることで、そのコメントにレスできます。 ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
https://w.atwiki.jp/prdj/pages/3468.html
タイランツ・グラスプ・プレイヤーズ・ガイド Tyrant’s Grasp Player’s Guide 囁きの暴君は地下の牢獄で扇動し、“囁きの道宗”の手下を使ってその魔力を誇示し、再びゴラリオン全土を脅かそうと躍起になっていた。思いのままに使える致命的で新しい魔法――世界規模の破壊を引き起こせるほどのこれは、前代未聞の力を持つ――を持つ彼が自由を取り戻すのはほぼ不可避であり、ラストウォールの監視の目からさえ逃れられるほどに速やかであるように見える。最も英雄になるはずもない存在――“囁きの道宗”の最新の犠牲者が、アヴィスタンの唯一の希望となるかもしれない! 集合 COMING TOGETHER タイランツ・グラスプ・アドヴェンチャー・パスの最初の冒険では、全てのPCがラストウォールの南西端にある小さな町、「ロスラーズ・コファー」からはじめることになっている。輝ける十字軍の英雄、エルヴィン・ロスラーにちなんで名付けられたこの街は、ベルクゼンのオークと辺境を共有しながらも800年以上存続し続けており、季節に従って近くを行き交ういくつかの部族と、平和的な交易を行っている。ラストウォールは、地域の境の確立を手助けしておりヴィジルで使用される亜麻の多くを栽培しているこの町を、小さな騎士団の駐屯地を配置し続けるだけの重要性を持っているものと考えている。この町の存在は挑戦的であるが、ロスラーズ・コファーが何百年にも亘りほぼ問題もなく存続してきたのはオークの暴力的な捻れ爪族が穏健派の他部族をこの地域から追い出し、辺境の農場を襲撃し始めるまでの話だった。こうした攻撃は最終的に捻れ爪族がar4707年にロスラーズ・コファーそのものを襲撃し、歴史的な建造物を燃やし、人口の1/4以上を虐殺し、残りの住人を散り散りにする程に過激化した。生存者のおよそ半数が季節が変わってから再建のために戻ってきたが、レッド・リーヴァーと呼ばれる縄張りを持つクリーチャーが、町から1マイル離れたサーレンレイの寺院に移ってきたのを発見したため、その教会を新たに設立された町そのものの中に移転せざるを得なくなってしまった。 ラストウォールはロスラーズ・コファーの再建に伴い、国境地帯の巡回に騎士を追加で配置した。これらの戦士たちは、捻れ爪族による新たな襲撃を何回も押し返し、捻れ爪族は最終的にその内なる不満をベルクゼンへと向けることとなった。しかし騎士の努力を持ってしても、レッド・リーヴァーをその新しい棲処から追い出すことはできなかった。それは近くの農場を略奪し、旅人を襲い続け、地元の住人はかつて教会が管理していた土地や果樹園、その他のものをただ避けるようになり、そうでなければ生活環境へと持ち去った。昨年、名高いパスファインダー協会のエージェントが寺院を調査するために到着し、大規模な戦いの末、ついにこの獣を退治した! このサーレンレイの教会はこのモンスターのいた10年の間に受けた損害を簡単に調査しただけで、今も町から活動を続けている。しかし、この突然の騒動をきっかけに、町の若者たちは冒険者やパスファインダーを夢見るようになっていった。 サーレンレイの寺院に加えて、ロスラーズ・コファーは街の墓地にある大きな墳墓、「ロスラーの墓」でも知られている。ここには、輝ける十字軍の英雄たちの遺骨が保管されている。アイオメデイとゴルムの信者が巡礼に訪れることもあり、この町は新しく来たものが硬貨を支払うことで、宿泊施設を提供してくれる。トゥロンデル川の周辺に位置するおかげで、この町は十字軍、使者、巡礼者、ラストウォールとニアマサスの間を行き交う商人などが往来する。 プレイヤー・キャラクターは、ロスラーズ・コファーの頑固な住人であるかもしれないし、国境を守るためにラストウォールから派遣された民兵かもしれないし、退去したサーレンレイ教会の関係者かもしれないし、地下墓地を訪れる巡礼者かもしれないし、上司が去った後に寺院を調査するパスファインダーかもしれないし、行商人かもしれないし、ヴィジルの役人かもしれない。少なくともキャラクターのうち1人は地元民――生まれてこの方ずっと住人か、捻れ爪以後の復興の一環としてこの地域に定住した者か――であることが望ましい。ロスラーズ・コファーやラストウォールの出身でないPCは、少なくとも囁きの暴君や囁きの道宗の遺産に強い関心を持ち、これらの凶悪な勢力が世界に与える被害を最小限に抑えたいと思っているに違いない。 本書では、世界の闇の勢力に対抗する砦だと自称するラストウォールで期待されることをプレイヤーに知ってもらうために、ラストウォールの簡単な案内を掲載している。ラストウォールと輝ける十字軍に関連する追加情報は、Pathfinder Campaign Setting Inner Sea World GuideとPathfinder Campaign Setting Cities of Golarionに掲載されている。 テーマ:サバイバル・ホラー Theme Survival Horror タイランツ・グラスプの全体的な主題はサバイバル・ホラーだ。プレイヤー・キャラクターは、特に最初の数回の冒険では、限られた資源の中で絶望的な状況に置かれていることに気付くことがよくある。タイランツ・グラスプのイベントが展開していく中で、恐ろしい悲劇が起こることが運命づけられている。状況によっては、プレイヤー・キャラクターは予想以上に早くロスラーズ・コファーから離れなければならなくなるだろう。そのため、ラストウォールやその先を旅する準備ができているキャラクターが、このアドヴェンチャー・パスには適している。 キャラクターのコツ CHARACTER TIPS タイランツ・グラスプの全体的なコンセプトは、囁きの道宗の復活とその新兵器である大量破壊兵器であり、様々なキャラクターの琴線に触れるものであろうが、君はどのようにしてたった1つの構想を選ぶだろうか、そして何がこのキャンペーンの課題や雰囲気に最も適しているだろうか? この筋書きの大半の焦点にも拘らず、挑戦の多くは個人的にして直接的だ――囁きの道宗やタル=バフォンの他の手下たちが、私的に直接PCを脅かしており、彼らの陰謀を暴いて阻止する中で、PCは勇気と頑丈な盾以外には自らを守るものが何もない状態で古代の廃墟や荒廃した場所、秘密の拠点に入り込むことになるだろう。PCは軍隊や社会秩序ではなく、自分自身や仲間の冒険者達を頼りとしなければならない。君の想像力と、過去10年間のパスファインダーRPG製品の中で示されてきた、様々な選択肢に精通しているかどうかによって、より多くの可能性が存在する。タイランツ・グラスプ・アドヴェンチャー・パスのキャラクターについての議論が必要なら、paizo.comのフォーラムにアクセスし、キャンペーンをプレイしている他の人達に質問をし、経験を共有しよう。 属性 Alignment その属性が善であれ、悪であれ、純粋に自己中心的なものであれ、ほぼすべての人がタル=バフォンと使者の軍団の支配下ではかなりの自由と安全を失うことになる。そのため、キャラクターが囁きの暴君と囁きの道宗を阻止しなければならないということに同意できる限り、タイランツ・グラスプでは必ずしも道徳や思想に縛られることはない。ラストウォールはパラディンに支配された国家であり、秩序にして善とその周辺の秩序にして中立と中立にして善が最もありふれた属性だ。市民は可能な限り教育や地域社会、国家のために公益に向かって行動し、専門知識や防備、資産が必要なとき、必要な場所に与えられるインフラによる強力な支援から利益を得ている。ラストウォールの悪人でさえも名誉を重んじる傾向があり、混沌の側面よりは秩序にして悪に傾倒している。混沌属性のキャラクターは特に嫌われているわけではないが、この境の国の秩序ある社会で居場所を見つけるのは難しい。なんとか存在するものはロスラーズ・コファーや牙森の材木駐留地のような国境の集落に流れ着き、最終的には多くのものが南下してニアマサスに移住してしまう。悪のキャラクターを作成する前に、通常通り、GMに相談すること。この選択肢は、全てのグループに適切なものではない。 アーキタイプとクラスの選択肢 Archetypes and Class Options タイランツ・グラスプ・アドヴェンチャー・パスの大部分は、断固たる悪と戦い、圧倒的な破壊に直面しながらも生き残ることを目的としている。多くの冒険では、すでに恐ろしいことが起きているという困難な状況が提示されていて、PCは生存者を慰めたり、犠牲者を癒やしたりと、その余波の中で自分たちにできることをしなければならない。全てのキャラクター・クラスがこのアドヴェンチャー・パスに適しているが、ある程度安定したインフラに依存しているキャラクター、特に都市部に特化したクラスやアーキタイプのキャラクターは、自分の技術を十分に活用するのが難しいかもしれない。また、このアドヴェンチャー・パスはかなりの移動を必要とするため、効率的な案内や道中での移動、高速移動ができる能力を持ったキャラクターは、その技術の実用的な応用を見つけることができるだろう。 ラストウォールにはパラディンが多く存在することを考えると、クレリックやウォープリーストと同様にパラディンも当然の選択肢となり得るが、そのようなキャラクターのプレイヤーは、このアドヴェンチャー・パスの中の重要な拡大する活動の多くにはこの世界の改善の為にまだマシな悪と共に活動することが要求されるがため、開かれた心で行動すべきである。パラディンの行動規範でさえ、仲間の闇の行いを抑制できる限りに於いて秩序にして善のキャラクターがより大きな善の為に悪の相棒と肩を並べて行動することを認めている事は指摘しておく価値はある。 タイランツ・グラスプに適した他のクラスには、ファイター、レンジャー、ローグ、ウィザードが挙げられる。近くにある牙森の住人であるドルイドもこの地域の特徴ではあるが、ドルイドのプレイヤーは、このキャンペーンの間に訪れる荒涼とした風景には限界を感じるかもしれない。アンデッドの敵が多いため、バード(そして心術や幻術に専門家したウィザード)はその攻撃的な魔法や歌の目標が少ないことに気付くかもしれない。しかし仲間を恐怖からより耐えやすくする能力は高く評価されるだろう。ガンスリンガーやその他の非常に特殊な装備を必要とするクラスは、特に最初の数回の冒険では、買い物をする場所を見つけるのに苦労するかもしれない。アイオメデイの修道院が国の中にいくつか存在し、武術や肉体完成を高めて悟りを開く事を奨励しているが、彼らはティエン・シア様式ではなくアヴィスタン様式の武術に注力している。基本クラスの中でも、キャヴァリアーとインクィジターはラストウォールで最も代表的なクラスだが、サモナーやウィッチも、その能力が破壊や支配に向かわない限り、平穏な生活を送ることができる。ブローラー、ハンター、インヴェスティゲーター、スレイヤーもこの国の英雄に含まれており、初代の輝ける十字軍のあとには、未だに続いている霊を扱うスピリチュアリストやミーディアムもいる。混沌によったクラス――特にバーバリアンやスカルド――は聞かれないというわけではないが、ラストウォールの際立って名誉を重んじる文化の中で強い存在感があるというわけではない。 有用なアーキタイプは以下の通り。 戦闘斥候のレンジャーUC 信仰の英雄のウォープリーストACG 弩兵のファイターAPG 十字軍戦士のクレリックUC 大胆な英雄のキャヴァリアーACG 遂行者のスレイヤーACG 神聖司令官のウォープリーストACG 信仰の守り手のパラディンAPG 天空の騎士のパラディンUC 模範のブローラーACG 悪魔祓いのインクィジターUM 墓守のスレイヤーACG 垣根の魔女のウィッチUM Knight of Arnisantのキャヴァリアー(Pathfinder Player Companion Armor Master’s Handbook) 武道家のモンクUC ファランクス兵のファイターAPG 憑かれしオラクルUM 再臨の英雄のミーディアムOA 斥候のローグAPG 盾の匠のブローラーACG 銀の歌い手のバードOA 遊撃兵のレンジャーAPG スキルニールのメイガスUC 悪霊からの守り手のシャーマンACG 降霊者のインヴェスティゲーターACG 旗手のキャヴァリアーUC 罠使いのレンジャーUM 不死者懲罰官のパラディンAPG 魔女狩り師のインクィジターUC これらの選択肢に加え、Pathfinder RPG Occult Adventuresで導入されたシュラウド騎士団は、アンデッドの脅威を追い返そうとすることを好む。 血脈、神秘、守護者 Bloodlines, Mysteries, and Patrons ほとんどのソーサラーやブラッドレイジャーはタイランツ・グラスプ・アドヴェンチャー・パスに適しているが、不浄なる次元界から与えられた血脈を持つなら、疑わしい目で見られることが多いだろう。ラストウォールのパラディン達は親の罪を子供が負う必要はないと理性的に理解している。そのため、そのようなキャラクターであっても法を守る限り、その生活に関して恐れることはなにもない。しかし、あからさまに不浄な出自や魔法に関する出自は、やはり警戒されて精査されることになる。このキャンペーンに特に適しているのは運命の子、植物APG、天上の者、忌まわしき者UM、秘術、不死の者である。このアドヴェンチャー・パスのテーマに強いつながりがあるオラクルの神秘やシャーマンの霊は戦、生命、天界、骨である。タイランツ・グラスプ・アドヴェンチャー・パスに適した守護者は祖霊UM、死UM、耐久、治癒UM、光UM、前兆UM、霊UM、力、復讐UM、判断である。 これらの選択肢は指針に過ぎない。プレイヤーはこれらの選択肢からしか選択できない、などと義務を感じる必要はない。ほとんどの血脈、神秘、霊、守護者は、囁きの道宗に対する戦いに自分の居場所を見出すことができるだろう。 使い魔と動物の相棒 Familiar and Animal Companions その特異な性質から、最初の冒険では、プレイヤー・キャラクターは従者、動物の相棒、乗騎、使い魔などから分離される。冒険のある期間の間クラス特徴を失うことは困難を伴うものだろうが、それは一時的なものであり、PCは2つ目の冒険の開始時に仲間を取り戻せるようになる。プレイヤーがこの一時的な制限を受け入れることができれば、ラストウォールには以下の使い魔が存在し、使い魔として理想的な選択をすることができる:アウル、ウィーゼル、キャット、ゴートB3、スカンクB3、squirrel(Animal Archive)、トード、ハウス・センチピードUM、バット、ピッグB3、フォックスB3、ヘッジホッグUM、ホーク、ラクーンB3、ラット、rabbit(Pathfinder Player Companion Animal Archive)、レイヴン。《上級使い魔》を探しているキャラクターであれば、テーマに合い、タイランツ・グラスプに最も適切なものを以下から見つけられるだろう:アービター・イネヴァタブルB2、カーバンクルB3、カッシシアン・エンジェルB2、シルヴァンシー・アガシオンB2、スードゥドラゴン、ノソイ・サイコポンプB4、ハービンジャー・アルコンB3。 以下の動物はラストウォールのどこでも見られるもので、キャラクターの既にいる動物の相棒が死亡した場合にもすぐに交換できるため、相棒や乗騎に適している。アックス・ビークB3、ウルフ、オーロックス、サイラシンB3、スモール・キャット(マウンテン・ライオンもしくはリンクス)、ジャイアント・ヴァルチャーB3、ジャイアント・ウィーゼルB4、ジャイアント・レイヴンB6、 スタッグ B4、ダイア・ラット、ディグモールB5、ドッグ、バード(イーグル、ファルコン、ホーク)、バジャー、ベア、ボア、ホース、ラムB2。 得意な敵と得意な地形 Favored Enemies and Favored Terrains タイランツ・グラスプ・アドヴェンチャー・パスでプレイヤーが直面するであろう敵の大部分は、囁きの暴君の軍隊の大部分を占めるアンデッドである。また、PCはタル=バフォンに仕える、生きている敵とも多く出会うことになるだろう。そこにはエルフと人間が挙げられる。その他のよくある脅威には、異形、植物、そして新しい人型生物の副種別(モルティック)がある。このキャンペーンは多様な地形を包含するが、死者とその秘密が埋もれている地下のダンジョンが最も舞台となる。その他にありふれた景色としては、都市や森林がある。また、ウースタラヴやラストウォールのなだらかな丘陵地や険しい山で過ごす時間もある。 出自 Origins キャンペーンの始まりは、10年前のオークの襲撃から着実に復興しつつある国境の町を舞台にしている。そのため、ほとんどのプレイヤー・キャラクターはもしロスラーズ・コファーの出身ではないとしても、ラストウォールの出身者である可能性が高い。彼らは聖職者、技術者、農民、癒し手、石工、街の見張り、織工などの職業に就いている。地元の産業は主に亜麻の生産、牧羊、復興、亜麻と羊毛での敷布、亜麻仁油とラノリンの販売などが中心となる。ここ数年、ベルクゼンとの国境が静かになっているにも拘らず、ヴィジルはロスラーズ・コファーに小さな防衛軍を派遣している。ロスラーズ・コファーはニアマサスとウースタラヴとの商業を引き寄せ、時折ヴァリシア人の商隊やラズミールの難民も訪れる。復興のための努力は多くの仕事を求めている人を惹きつけ、地元政府が避難民に保証と支援を提供しているのを見て、その寛大さを利用しようと決めた日和見主義者もいる。 言語 Languages 輝ける十字軍の軍勢の大部分は、元々タルドールによって提供されていた。そのため、タルドールで一般的な言語がこの地域の言語となっている。戦争と復興の両方に多くのクラゴダンのドワーフが貢献しており、人間の間でもドワーフ語もかなりありふれた言語である。同様に、ラストウォールはウースタラヴに近いことから、農耕民の多くは少なくとも多少はヴァリシア語を話し、特に呪いや保護の言葉をつぶやくために使用している。タル=バフォンの支配以前の古い遺跡では、ハリト語とオーク語が今でも見られるが、囁く暴君の支配下ではネクリル語が選ばれており、これは囁きの道宗における共通語となっている。また、アイオメデイの教会では、重要な伝文や祈りが天上語で行われることが多い。 上級クラス Prestige Classes 上級クラスを目指すことに興味のあるキャラクターには多くの選択肢がある。特に、アイオメデイやゴルムといった神々への信仰と献身を強調したものが適切である。以下の指針は、タイランツ・グラスプ・アドヴェンチャー・パスに最も適したテーマを備えている。 ストールワート・ディフェンダーAPG バトル・ヘラルドAPG ホライズン・ウォーカーAPG Evangelist(Pathfinder Campaign Setting Inner Sea Gods) Exalted(Inner Sea Gods) Knight of Ozem(Pathfinder Campaign Setting Paths of Prestige) Prophet of Kalistrade(Paths of Prestige) Sentinel(Inner Sea Gods) 種族 Races ラストウォールの人口には人間が圧倒的に多いものの、輝ける十字軍は内海地域から守備兵を連れてきたため、アヴィスタンのほぼすべての民族がこの地域の住民に含まれている。ラストウォールの人口の大半にはタルドール人の血が流れているが、タルドール人、シェリアックス人、ヴァリシア人、ケーリド人、ガルーンド人の血も受け継いでおり、タルドールから独立して以降はケレッシュ人やティエン人との交易が盛んとなったため、これらの血筋も一般的になってきた。 ドワーフやハーフリングは、特に軍人の間ではよく見かける存在だ。ノームやエルフの来訪は――主に牙森からになるが――聞かれないわけではないが、ラストウォールで最も多い人間以外の種族はハーフオークだ。この国のハーフオークの多くは国境の町の人間と遊牧民のオーク部族との間での何世代にも渡る緊張感はあるが平和的な接触の結実であるか、もしくは暗黒時代以来マインドスピン山脈に沿って居住してきた、時折人間あるいはオークをその地域の住民として迎え入れているハーフオークの自給自足の村々の結実でさえある。これらの多様な起源にも拘らず、人間の間でのオークに対する否定的な認識のために、ほとんどのハーフオークは最低でも何らかの烙印を負っているものと見られる。 珍しい種族であるが、アアシマールとダンピールはラストウォールを本拠地としており、どちらも不信感を持って扱われている――ダンピールはその不死とのつながりのために、アアシマールはその異世界の起源のために。チェンジリング、ダスクウォーカー、スキンウォーカー――その多くはウースタラヴからの移住者だ――もまた少数見られるが、一般には変わった旅人以上の存在として注目を受けるほどではない。 宗教 Religion 信仰はラストウォールの文化の礎となっている。この国のルーツは圧倒的な悪に対する宗教的な聖戦であるため、国民のほぼ全員が、日常的に一つ以上の神に敬意を表す。輝ける十字軍の74年間、そして復興期に至るまでの長い間、神々の光を呼び起こすことができるか、あるいは信仰によって勇気と忍耐力を見出すことができるかどうかが生存の鍵を握ってきた。ラストウォールの実態は神権国家ではないが、どの監視伯も一つ以上のどこかの教会と強い結びつきを持っている。 十字軍の神であり、アラズニとエイローデンの弟子でもあるアイオメデイは、ラストウォールで最も有名な神格であり、それに続くのが戦争の神ゴルムである。いずれもラストウォールの十字軍とベルクゼンのオークの仇敵の両方に人気がある。ほとんどの兵士は両方を崇拝している。アイオメデイが特に好まれており、政府の分派を除けばアイオメデイの教会が全てだ。ラストウォールでよく見られるその他の神格には、初期の十字軍が広めたタルドールの神々(アバダル、カイデン・カイリーエン、シェリン、ノルゴーバー)が挙げられる。サーレンレイ信徒はさほど一般的ではないが、輝ける十字軍の特に衛生兵の間では強力な基盤となっていた。デズナはヴァリシア人の入植者の間で重要視されており、住民の中では一般的な信仰である。多くのドワーフはトローグをはじめとするドワーフのパンテオンに敬意を表している。 多くの至高天の王の小さな教団もあり、特に復讐の天使ラガシエル(最も暴力的なパラディンの多くが従っている)やアンドレッタ(その保護を求める集落や、癒やしや平和を求める退役軍人に広まっている)が受け入れられている。 技能と特技 Skills and Feats タイランツ・グラスプのパーティは多能な技能から多くの恩恵を受けることができる。様々な〈知識〉技能は、パズルを説いたり、脅威を特定したりする上で価値あるものとなるだろう。〈知識:宗教〉と〈知識:歴史〉は最も有用であり、〈知識:次元界〉、〈知識:神秘学〉、〈知識:ダンジョン探検〉、〈知識:地理〉は全て独自の活用方法がある。冒険では、〈軽業〉、〈騎乗〉、〈登攀〉といった肉体技能を使用することができる。〈知覚〉はほとんどの冒険者に役に立つもので、〈隠密〉、〈呪文学〉、〈生存〉、〈装置無力化〉などの冒険の定番技能は全て輝く瞬間がある。 タイランツ・グラスプ・アドヴェンチャー・パスでは、様々な敵との戦闘が想定されている。そのため、戦闘技能ツリーから多くの利益を得ることができるだろう。アンデッドが一般的な要素なので、《強打》や《薙ぎ払い》のような回復力のある相手を素早く切り裂ける特技や、頑健セーヴや意志セーヴを増強する特技が役に立つだろう。《呪文越境化》(APG)の呪文修正特技は、呪文の使い手がより効果的に非実体のアンデッドと戦えるようにしてくれる。また、クレリックやパラディンがエネルギー放出能力を強化する特技も同様に役に立つだろう。 特徴 Traits 以下に示すキャンペーン特徴に加えて、Advanced Player’s Guideに掲載されるいくつかの特徴は、信仰心の強いラストウォールの住民の間でよく見られ、適切なものだ:〔生まれながらの印〕、〔回復力〕、〔神の戦士〕、〔神聖なる導管〕、〔寺院の子〕、〔戦闘熟練者〕、〔対応者〕、〔退役軍人〕、〔不屈の信仰〕、〔亡者殺し〕、〔勇敢〕、〔鎧の熟練者〕。 キャンペーン特徴 CAMPAIGN TRAITS タイランツ・グラスプ・アドヴェンチャー・パスは、プレイヤーをラストウォールからウースタラヴに向かわせ、さらに遠くの寄港地まで至らせる。キャンペーンは国境の町ロスラーズ・コファーから始まる。背景に拘らず、全てのキャラクターはアヴィスタンを征服しようとする不死者と悪の台頭を阻止することに利害関係を持っていなければならない。 プレイヤー・キャラクターはそれぞれ、キャラクター作成時に修得可能な特徴2つのうち、1つを以下のキャンペーン特徴から選択しなければならない。 〔職人〕/The Artisan:求めるものを正しく得るのに重要なのは精密さだ。君は家や花瓶から道路や帝国に至るまで、あらゆる物を作り上げるのに細心の注意を払っている。君の細部へのこだわりは、その仕事が会計士、建築家、技術者、薬草商であるかに拘らず、10年前にオークの襲撃からロスラーズ・コファーを復興する際に不可欠であることが証明されている。君の細部へのこだわりは、〈鑑定〉と〈治療〉判定に+1の特徴ボーナスを与え、これらの技能のいずれか1つはクラス技能となる。1日1回、君は通常なら1回の標準アクションの発動時間を持つ呪文を1全ラウンドかけて発動することができる。そうするなら、その呪文の有効術者レベルを1増加させる。この能力は、発動時間が1回の標準アクションでない呪文には影響を与えない。 〔法をもたらすもの〕/The Lawbringer:辺境は危険と無秩序の土地であり、人々がこれらに勇敢に立ち向かうことは歓迎されている。しかし、そのような危険を望まない人々に対しても痛みをもたらすことがあまりにも多い。君は街の警備兵やヴィジルの支援を受けた兵士の分遣隊として仕えているかもしれないし、他の人が耐えられないときに耐える、ただの心配性の農民かもしれない。その目的は、運命の残酷な気まぐれに対する防波堤として、それを必要とする人のために立ち上がることだ。君は[恐怖]に対するセーヴィング・スローに+2の特徴ボーナスを得る。君が勇気のオーラのクラス特徴を持つ場合、そのオーラによるボーナスは1増加する。君の勇気は感動的なほどだ。君が気絶したり殺されたりした場合、30フィート以内にいる味方は君の守備に奮い立たされて、即座に君のレベル+【魅力】修正値に等しい一時的HPを獲得する。この一時的HPは1分間持続する。 〔楽観主義者〕/The Optimist:物事が良くなっているという君の言葉を人々は鵜呑みにする必要はない。10年以上前のオークの占領からの街の復興は完全に終わっており、町の外にあるサーレンレイ神殿のモンスターはついに倒された。君のどうしようもない楽観主義は、ロスラーズ・コファーの住人の多くが直面している厳しい生活から逃げているように見えるが、君はその前向きな態度が共同体を活性化させていると信じている。君は[精神作用]効果に対するセーヴィング・スローに+1の特徴ボーナスを得る。加えて、君の楽観主義は伝染する。1日に【魅力】修正値(最低1)に等しい回数まで、即行アクションとして、君はこのボーナスを10フィート以内にいる仲間1人に与えることができる。このボーナスは1分間持続する。 〔異邦人〕/The Outsider:君には居場所がないが、今のところはこの辺境で十分快適に過ごしている。都会の生活を楽しむには不謹慎すぎるのか、ラストウォールの仲間意識がありふれた文化に染まるには利己的すぎるのか、あるいはその両方かもしれない。君はあまり注目されずに移動するのに慣れており、〈隠密〉と〈生存〉の判定に+1の特徴ボーナスを得る。これらの技能のいずれか1つはクラス技能となる。君は援護アクションから半分の利益(+1)しか得られないが、君は最初に正しく仕事にすることに慣れているので、他のキャラクターに援護アクションを行う際、与えるボーナスを1だけ増やすことができる。 〔悲観主義者〕/The Pessimist:君は最悪の事態を予想しており、失望したことは殆どない。君の厳しい見通しは、捻れ爪族によってロスラーズ・コファーが破壊されたことや、近くのサーレンレイの寺院から信者が追放されたこと、あるいは個人的な不幸が原因かもしれない。君はその見方のために、ラストウォールの人の中でも目立つ存在だ。最悪の結果が起きると常に信じている君は、意志セーヴィング・スローに+1の特徴ボーナスを得る。1日1回、フリー・アクションとして、君は30フィート以内にいる味方1人に、失敗したばかりのセーヴィング・スローを再ロールさせることができる。 〔奪還者〕/The Reclaimer:君は12年前のロスラーズ・コファーの破壊で大切なものを失った。家、遺産、おそらく家族さえも失ったが、魂は痛みから逃げるのではなく、痛みから癒やされるべきだ、という理由で戻ってきた。自分の人生を立て直し、その傷が他人の足を引っ張ることがなくなるよう、君は政治家、慈善活動者、癒し手、兵士として奉仕したり、守ったりしようとしている。しかし同じように失われたものが、君を無慈悲な怒りで満たしている。君の目は警戒心が強く、〈知覚〉判定に+1の特徴ボーナスを得る。加えて、君は直前のラウンド中に味方にHPダメージを与えた相手に対して、攻撃ロールとダメージ・ロールに+1の特徴ボーナスを得る。 〔詮索好き〕/The Snoop:君はロスラーズ・コファーにいる全ての人のことを多少知っている。それは君の職業によるものかもしれない。何にせよ、君は他人のことを思い出し、心を読む才能を持っている。君は〈知識:地域〉と〈知識:歴史〉の判定に+1の特徴ボーナスを得、これらはいずれもクラス技能となる。1日1回、少なくとも24時間前から知っているクリーチャーに対して〈真意看破〉もしくは〈はったり〉判定を行う際、君は1回再ロールしてより良い結果を選択できる。 〔御言葉〕/The Word:国中に信仰が溢れかえっている中では、自分のメッセージがかき消されてしまうのではないかと心配になることがある。しかしそれでもなお重要なことだ。ロスラーズ・コファーの住民はかつて慰めと慈しみを必要としていたが、君の努力のおかげでその魂を十分に癒すことができたため、君の仕事は不要になったのではないか、と君は心配している。君は長時間労働に慣れており、頑健セーヴィング・スローに+1の特徴ボーナスを得る。君の信仰心は活力に満ちており、1日1回、君はキャラクター・レベルの半分(最低1)に等しいパラディンとして、癒しの手を使用できる。君が別のクラスから癒しの手の能力を得た場合、君は1日追加で1回、癒しの手を使用できるようになる。 ラストウォール概説 LASTWALL AT A GLANCE ラストウォールはなだらかな草原、未開の森、古代の戦いの痕跡が残る土地だ。かつてはオークの砦とケーリド人の都市国家があり、タルドールの補給基地が点在していたが、AR3200年以降は囁きの暴君の支配下に置かれるようになった。オークとケーリド人の多くは圧政を受け奴隷にされた。反乱で不幸にも倒れたものは、骨が粉微塵に砕けるまで無心に奉仕するはめになった。タル=バフォンの軍勢は都市全体や記念碑を破壊し、今やダンジョンや一時的な墓といった景色が点在する埋もれた基盤だけを残した。500年後にタルドールが囁きの暴君に対抗して人員を動員したときには、何世代にも亘る闇と労苦が風景を荒廃させ、絶望的な状態になっていた。戦争はこの地に新たな傷を残した。囁きの暴君を称えるために建てられた砦や都市は敷石まで取り壊され、魔法使いの王に対抗する新たな要塞の建材として使用された。大規模な戦いは、風景に粉々になった骨と曲がった鋼鉄を飽和させ、多くの土地は未だ悪臭を放ち、作物を育てることもできないでいる。1000年が経過した今もなお、恐ろしい魔法と霊が多くの古代の戦場に取り付いている。 その恐怖にも拘らず、ラストウォールの一部は人間の手で守られており、美しく豊かな土地だ。エンカーサン湖の近くにあるため降水量が多く、夏は涼しいが冬は雪が多く厳しい。生育期が十分に長く、様々な作物を育てることができる。北部の牙森と飢餓山脈の麓の丘陵地帯によって、ラストウォールは事実上2つに分かれている。ラストウォール東部は遥かに都市化が進み開墾されており、広大な農場や牧場が牛や有名な馬を、そして交易都市ヴェルミス――古のウースタラヴ港にしてこの国の最大都市――を支えている。ラストウォール西部は手つかずの状態で、敵の多い状況に――この国の首都ヴィジルは半ばこの未開の地にあるというのは皮肉な話だが――あり、ベルクゼンのオークからの、時折死霊術のエネルギーの復活からの、そして大部分が現代の人の手の触れられていない未踏の広大な土地と森からの、襲撃を頻繁に受けている。ロスラーズ・コファー――ラストウォール西部の最南端の町――は、ほぼトゥロンデル川の恵みだけで存在しており、100マイル北にある要塞との間には、良く警備されている石造りの道と僅かな狩猟小屋以外には近代的な建築物はほとんど存在しない。このように孤立しているにも拘らず、ロスラーズ・コファーの人々は自分たちがラストウォールの住人だと思っており、国のためにできることをする。 ラストウォールの人々は心が強く、忠実な軍隊の伝統を持ち、地域社会を重視し、率直で勤勉な傾向がある。彼らが生き残るためには、地域社会の一人ひとりが自分のできる限りの仕事をするのだと信頼していることが重要で、全ての住民はすべての仕事に全力を尽くさなければ次のオークの襲撃や厳しい冬に自分の地域社会が埋没する可能性があるのだと理解している。2つの敵対的な存在に挟まれている住民は、週に何度も寺院の礼拝に参加するほどの深い信仰心を持っている。すべてのことがそうであるように、実用性を第一に捉え、やるべき仕事がある場合は礼拝を後回しにする。ほとんどの住民は春に植樹を行い、夏には武具を用いた訓練を行い、秋には最初に厳しい凍結が訪れる前に収穫を行う。長く寒い冬は休息のときであり、オークが冬の中で軍事行動を行うことはまずない。気温は氷点下で地面は固くなり、休むことなき死体もさまようことが難しい。祭事や結婚は冬の間に行われることが多いものの、その大部分は小規模な地元のイベントだ。冬の間、ラストウォールの道は熟練した旅行者にとっても苦痛になるものだからである。
https://w.atwiki.jp/syukensya1990/pages/63.html
社会主義政党。企業、農協・漁協等の国営化による徹底した社会主義を訴えている。しかし、ソ連などの社会主義国崩壊後は社会福祉制度改革や構造改革の反対などを訴え、社会主義への訴えは減っている。しかし、こうした動きは地方組織の反感を買っており03年には一部党員が社会主義経済党を結成して離脱した。 概要 代表者 細田 銀三郎(委員長) 副代表者 本村 登紀子 (書記局長) 成立年月日 1948年8月25日 本部所在地 〒000-0000 新都府水田区5丁目9-5 社会主義労働組合連合会本部ビル12階 衆議院議員数 0人 参議院議員数 1人 党員・党友数 約15万人 政治的思想・立場 社会主義 機関紙 社会革新労働者同盟新聞 シンボル
https://w.atwiki.jp/c-millefeuille/pages/258.html
1 第2次大戦のとき日本を包囲したABCD包囲網とはアメリカ、イギリス、中国とどこでしょう? オランダ2 ABC消火器が対応する3種類の火災は、普通火災、油火災と何でしょう? 電気火災3 破壊力の大きさや人道的な問題をもつABC兵器とは核兵器、生物兵器と何でしょう? 化学兵器4 南米のABCパワーズと呼ばれる国はアルゼンチン、ブラジルとどこでしょう? チリ5 自動車のABCのペダルとはアクセル、ブレーキと何でしょう? クラッチ6 a,b,cを並べ替えてできる単語のうちジーニアス英和辞典の載っていて略語や固有名詞でないのは何でしょう? cab7 英語の口をあらわすmouthの複数形はmouthesですが、ねずみをあらわすmouseの複数形は何でしょう? mice8 音楽のキーやコードなどを表すとき長調はmajorですが、短調は何でしょう? minor9 砂糖を加え濃縮した練乳をコンデンスミルクというのに対し、砂糖を加えずに濃縮した練乳のことを何というでしょう? エバミルク10 英語で同義語をシノニムといいますが、対義語を何というでしょう? アントニム11 自由主義を英語でリベラリズムといいますが、共産主義を英語で何というでしょう? コミュニズム12 社会主義を英語でソーシャリズムといいますが、資本主義を英語で何というでしょう? キャピタリズム13 臓器提供者をドナーといいますが、臓器を受け取る人を何というでしょう? レシピエント【ドニー】14 雪のクリスマスをホワイトクリスマスといいますが、雪のないクリスマスを英語で何というでしょう? グリーンクリスマス15 大学の学位で博士は「Doctor」、修士は「Master」といいますが、学士を何というでしょう? Bachelor【バッチェラー】16 大学や高校などの1年生のことを英語でfreshmanといいますが、2年生を何というでしょう? sophomore【ソフモアー】17 キリスト教の施設で、教会は英語でチャーチですが、礼拝堂は何というでしょう? チャペル18 英語で数学はマスマティクスですが、算術は何というでしょう? アリスメティックス19 英語で動詞はヴァーブといいますが、形容詞を何というでしょう? アドジェクティブ20 英語で冷笑主義をシニシズムといいますが、虚無主義を何というでしょう? ニヒリズム21 戦闘機の緊急発進、いり卵、交差点から連想される単語は何でしょう? スクランブル22 「中に何も入っていない」という意味である、オムレツやヨーグルトの頭につく言葉は何でしょう? プレーン23 英語で、眉毛はアイブローですが、まつげは何というでしょう? アイラッシュ24 海に住む「蛸(たこ)」は英語でオクトパスですが、空に上がる「凧」は英語で何というでしょう? カイト【kite】25 百分率はパーセントですが、千分率は何というでしょう? パーミル26 英語で「島」はアイランドですが、「半島」は何というでしょう? ペニンシュラ27 陸ガメを英語で「トータス」といいますが、海ガメを英語で何というでしょう? タートル28 飛行機や電車で、窓側の席をウィンドウシートといいますが、通路側の席を何というでしょう? アイルシート29 英語ですみれはバイオレットですが、三色すみれは何というでしょう? パンジー30 英語で「明後日」は「day after tomorrow」ですが、「おととい」は何でしょう? day before yesterday31 英語で片面を焼いた目玉焼きをサニーサイドアップといいますが、両面焼いたものを何というでしょう? ターンオーバー32 雌牛・乳牛をcow、去勢牡牛をoxといいますが、去勢していない牡牛を何というでしょう? bull33 元素の水銀と彗星に共通する英語の呼び名は何でしょう? mercury【マーキュリー】34 英語で「pull-up」といえば懸垂のことですが、「push-up」といえばどんな運動でしょう? 腕立て伏せ35 英語でdragonflyといえばトンボですが、fireflyといえば何でしょう? 蛍36 英語で建物の1階をグラウンドフロアというのはイギリスとアメリカのどちらでしょう? イギリス37 打楽器を英語でパーカッション、鍵盤楽器をキーボードといいますが、弦楽器を何というでしょう? ストリングス38 フリーマーケットというときの「フリー」は何という虫を表す単語でしょう? 蚤(のみ)39 英語でチョップスティックスといえば箸のことですが、トゥースピックは何のことでしょう? つまようじ40 英語でアップルは林檎のことですが、アプリコットとはどんな果物のことでしょう? 杏子(あんず)41 英語でタッチ・ミー・ノットといえばホウセンカですが、フォゲット・ミー・ノットといえば何でしょう? ワスレナグサ42 英語で楽観主義者をオプティミストといいますが、日和見主義者を何というでしょう? オポチュニスト43 英語でEvery Tom, Dick and Harry.といえば、日本では動物と家庭用品を使って何というでしょう? 猫も杓子も44 英語でIt is no use crying over spilt milk.といえば日本で言うどんなことわざでしょう? 覆水盆に帰らず45 次元を表す「3D」といったときの「D」はなんという単語の略でしょう? ディメンション46 チョコレートパフェ、フルーツパフェといったときの「パフェ」はなんという単語の略でしょう? パーフェクト47 鉄道・道路などの社会資本のことを指すインフラとはなんと言う単語の略でしょう? インフラストラクチャー48 展示会、展覧会を表す「エキスポ」とはなんという単語の略でしょう? エキスポジション49 英語表記で所有格や省略を表すときにアルファベットの右上につけられる記号( )を何というでしょう? アポストロヒフィ50 アルファベット3文字で「etc.」と略される、「など」「その他・・・」を表すラテン語は何でしょう? エトセトラ51 「コネ」を使うといった「コネ」はなんという単語の略でしょう? コネクション52 現地報告を意味する「ルポ」は何というフランス語の略でしょう? ルポタージュ53 野球の「ゴロ」とはどんな英語が訛ったものでしょう? グラウンダー54 オーディオ機器の「アンプ」を略さずにいうと何でしょう? アンプリファイア55 職場の上司が、具体的な仕事を通じて部下を育てていく研修方法をアルファベット3文字で何というでしょう? OJT56 企業の最高経営責任者をCEOといいますが、これは何という単語の頭文字達でしょう? チーフ・エグゼキャティブ・オフィサー57 TOEICはTest of English for International Communicatonの略ですが、TOEFLは何の略でしょう? Test of English as a Foreign Langage58 F-1では「ポールポジション」、音楽用語では「非常に弱く」、英文法では「過去分詞」を表すアルファベット2文字は何でしょう? PP59 病原体を表すウイルスと、それを駆除するワクチンを英語で書いたとき、共に頭文字は何でしょう? V60 英語で釣りを表すフィッシングの頭文字はFですが、犯罪のフィッシング詐欺の頭文字となる文字は何でしょう? P61 Average、avenue、audio-visual、adult videoに共通するアルファベット2文字の略語は何でしょう? AV62 虫歯の進行を表すときに使われる「C」は何というドイツ語の頭文字でしょう? カリエス63 手紙などの最後に「追伸」の意味で書かれる「P.S.」とはどんな英語を略したものでしょう? ポストスクリプト64 紫外線を表すUVとはなんと言う言葉の略でしょう? ウルトラバイオレット65 IP電話といったときの「IP」とは何という単語の略でしょう? インターネットプロトコル66 ビデオ予約に使うGコードの「G」は何という言葉の頭文字でしょう? ジェムスター67 演出に用いられる音楽の「BGM」とはなんという単語の略でしょう? バックグラウンドミュージック68 日本のエレベーターで使われる記号で屋上を示す「R」がルーフの略ですが、地下を表す「B」は何の略でしょう? ベースメント69 モータースポーツの「F-1」のFは「Formura」の略ですが、市場調査の「F-1世代」のFは何の略でしょう? Female70 スカイパーフェクトTVなどに代表される「CS放送」のCSとは何の略でしょう? コミュニケーションズ・サテライト71 アマチュア無線の交信で通信可能範囲内のすべての無心曲を呼び出すときなどに使われる「CQ」とは何の略でしょう? Call to Quarters72 宣伝活動を表す「PR」とは何という言葉の略でしょう? パブリック・リレーションズ73 英語ではペドメーターという、山佐時計が商標登録をしている歩いた歩数を数える機械は何でしょう? 万歩計74 英語でshotgun marriageとえば、どんな結婚のことでしょう? 授かり婚75 英語でTag of warという、運動会での定番競技は何でしょう? 綱引76 英語ではmorning sicknessという、妊娠初期に起こる吐き気などの症状を何というでしょう? つわり77 ファーストフード店などで、買った商品を持ち帰ることをテイクアウトといいますが、店内で食べることを和製英語で何というでしょう? イートイン78 パスポートは日本語で旅券といいますが、ビザは日本語で何というでしょう? 査証79 フィルムの端につけ、巻き取りやすくする花や、切手を切り離しやすくするパンチ穴のことを英語で何というでしょう? パーフォレーション80 英語のアルファベットは26文字ですが、ギリシャのアルファベットは全部で何文字でしょう? 24字81 ギリシャ文字でα、β、γに続く4文字目は何でしょう? δ【デルタ】82 「希望する人」という意味がある、ザメンホフが提唱した人口の国際語は何でしょう? エスペラント語83 ザメンホフはどこの国の眼科医でしょう? ポーランド84 新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、旧約聖書は何語で書かれているでしょう? ヘブライ語85 フランス語で「赤」はルージュ、「白」はブランですが、「黒」は何というでしょう? ノワール86 イクラ、カンパ、コンビナートといったらもともと何語でしょう? ロシア語87 ゼミナール、デマゴギー、アルバイトはもともと何語でしょう? ドイツ語88 カルタ、チャルメラ、カステラ、コンペイトウ、バッテラといえばすべて何語でしょう? ポルトガル語89 動物や植物につけられる世界共通の学名は通常何語でつけられるでしょう? ラテン語90 カナダの公用語は英語と何語でしょう? フランス語91 南米で、ブラジルの公用語はポルトガル語ですが、アルゼンチンの公用語は何でしょう? スペイン語92 スイスの人口の0.5%が使う、ドイツ語、フランス語、イタリア語に次ぐ同国の公用語は何でしょう? ロマンシュ語93 「各自に課せられた仕事の量」という意味がある、会社で営業成績の目標などを表すのに使われるロシア語は何でしょう? ノルマ94 地球上で人間が居住できない地域をドイツ語でアネクメーネというのに対し、居住地域を何というでしょう? エクメーネ95 日本語では「身分階層制」と訳される、身分や階級などのピラミッド状の上下関係をドイツ語で何というでしょう? ヒエラルキー96 「ジャンボ」とは何語の「こんにちは」でしょう? スワヒリ語97 ドイツ語ではワイナハテン、フランス語でノエルといったら英語で何のことでしょう? クリスマス98 スペイン語でグラシアス、イタリア語でグラッチェ、フランス語でメルシーといえば日本語でどんな挨拶でしょう? ありがとう99 スペイン語とイタリア語で数字の「1」を表す単語は何でしょう? ウノ100 漢字で「手紙」と書くと、中国語では何のことでしょう? トイレットペーパー
https://w.atwiki.jp/syukensya1990/pages/153.html
03年に社会主義の訴えが減った社会主義労働党への不満から一部の地方議員や党員が離党して結成された政党。旧ソ連のような社会主義経済の導入を訴えている。結成時には共産新党の一部の地方議員が同党に参加したが、組織が不十分で所属議員への支援が不十分なものとなり地方議員の落選が相次ぎ所属していた地方議員の多くが他の政党に移籍している。議員の離党・落選によって党員の退会も相次ぎ寄付金や献金による収入が激減し06年には結成時に借り入れた2億円の借金の返済ができずに本部ビル(2階)の売却に追い込まれた。