約 640,928 件
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/362.html
陸奥国 会津郡 滝沢組 滝沢村 八幡宮 大日本地誌大系第31巻 14コマ目 祭神 応神天皇尊霊 八幡神 創設 寛治元年(1087年)~? 寛治中年(1087年~1094年)陸奥守源義家朝臣勅を奉て清原武衡討伐の時(*1)、逆賊を平げなば部内数所八幡の社を営むべしと丹祈(たんき)の旨あり。因って凱旋の日処処(ところどころ)に社を創立せらる。当社もその1つ。義家従卒(じゅうそつ)並みに役夫を発し人ことに一箕の土の運しめ丘陵を築き社屋をその上に造営あり。故にこの地を一箕山と名く(府下滝沢町妙法寺縁起には「正和三年(1314年)当寺開山日什が父石塚某という者この山を築く」と伝える。されど舊事雑考には山の蟠根巨宏常人の作るべきにあらず義家朝臣の築かれしなるべしという)。 また嘗(かつ)て社前に数十囲の杉樹2株あり。義家朝臣の植し木という。文禄中(1593年~1596年)蒲生氏郷これを伐らしむるに、根株の中より箭(せん)1雙出て見るもの奇異とせり。 寛永中(1624年~1645年)破壊に及びしを加藤嘉明その臣杉山某をいう者に命じて修せしむ。 宝暦6年(1756年)12月本社炎上す。 同8年(1758年)有司に命じて造営せしむ。 毎年3月19日花合あり。9月19日の祭禮に流鏑馬あり。 この日府より神馬を供ふ。 鳥居 2基。 1基は府下より牛墓村に通る白川街道の北側にあり。二の鳥居なり。石にて造る。両柱の間1丈2尺。高3間余。 ここより北に向て本社に行く小路を縄手通といい4町10間あり。 1基は二の鳥居の北3町10間余にあり。一の鳥居なり。枙立作にて両柱の間9尺。 二王門 一の鳥居の北50間にあり。3間に2間。 門前に馬場あり。東西80間余。 9月19日ここ流鏑馬あり。 石階 二王門の北30間にあり。 北に向けて登ること21級。 制札 石階の下、東の方にあり。 神馬厩 石階の下、西の方に制札に対してあり。 3間に2間。 舞殿 石階の上にあり。 5間に2間。 本社 6尺四面、南向。 神體(しんたい)、長2尺2寸6分。木像、甲冑を被り弓箭(きゅうせん)を挟む。 東西と北に玉垣を繞らす。 幣殿 2間1尺に1間4尺。 拝殿 5間に2間。 観音堂 本社の西にあり。 会津三十三所順禮の一なり。 燈明石 神馬厩の南にあり。 高1尺余・周5尺計、上面平かなり。時として石上い火光ありて供燈の如し。 寶物 鰐口 1口。 径り8寸。表に『陸奥會津布引山毘盧舎那殿鰐口五之内國士大平葦名修理大夫盛氏寄進』裏に『羽黒三山兩峯司宿老一箕山瀧澤寺 永禄九丙寅七月大吉祥日』と彫付あり(永禄9年:1566年)。 別当 泉明院 本山派の修験なり。弘治の頃(1555年~1558年)宥考という者より、現在の大淳まで11世なりという。 Google Map八幡神社仁王門 八幡神社 旧滝沢観音堂 Wikipedia源義家
https://w.atwiki.jp/terachaosrowa/pages/3416.html
「この『神の眼』と『サイコドライブ』の理論を使えば、世界征服など容易すい!」 「Youにそんなtoyはdon't need!!」 マイクは義弟の死を無念を晴らすために、 ここでクライシス皇帝を蘇生させていた。 【三日目・17時00分/新惑星・雛見沢村】 【クライシス皇帝@仮面ライダーBLACKRX】 【状態】健康 【装備】神の眼@テイルズオブデスティニー 【道具】おーいお茶×99 その他不明 【思考】基本:実は全てクライシス帝国の仕業だったのさ! 1:光太郎を倒す 2:それも私だ ※制限で一時間に一度、お茶を飲まないと死にます。 【マイク@不明】 【状態】健康 【装備】シャドーオーディンのデッキ@テラカオスバトルロワイアル 【道具】ハーレー@現実 その他不明 【思考】 基本―1:世界を制覇し、怪魔界50億の民をこの星へ移住させる(主催者は倒す) 基本―2:南光太郎を倒す 1:ショッカーと新生鷹の爪団が滅んでてクソワロタ!! ※クライシス帝国の幹部らしいです。 ※シャドーオーディンはシャドームーンの全能力と仮面ライダーオーディンの全能力が使えます。
https://w.atwiki.jp/touhouzinroubanasi/pages/24.html
ロード中の小噺にもある通り、紙とペンがあれば何の問題もない村 ◇ノーマル(Stage 1~Stage 5) 最新のものを除いて占い結果、霊媒結果が見られなくなる(人はわかる) ◇ハード(Stage 6~Stage 10) 最新のものを除いて、占い、霊媒の対象者が見られなくなる(結果はわかる) ◇ルナティック(Stage 11~Stage 15) 最新のものを除いて、占い、霊媒、護衛の対象者&結果が全て嘘。 占い師の黒判定が出たらすぐに処刑したり、狐が残ってそうな場合のみ黒判定の人物や、まだ占われていない人を把握すると良い。 あとは初日から占い師にCOさせずに後半になってからCOさせると、覚える内容がかなり減って楽、ただし前半占い師が襲撃されないように、共鳴者や霊媒師をCOさせて囮にするなど工夫が必要
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/498.html
陸奥国 大沼郡 永井野組 松沢(まつさは)村 大日本地誌大系第33巻 32コマ目 この村に松澤寺あり。因て村の名とす。 府城の西南に当り行程3里18町。 家数17軒、東西1町25間・南北50間。 西南は山に倚り東北は田圃(たんぼ)なり。 東7町22間余上戸原村の界に至る。その村まで14町50間余。 西1里24町計高田組軽井沢村の山に界ふ。 南3町18間荻窪村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り7町30間。 北4町1間余赤留村の界に至る。その村は寅(東北東)に当り12町50間余。 また 申(西南西)の方28町蛇食村の界に至る。その村まで1里7町。 小名 南松沢(みなみまつさは) 本村の南1町30間にあり。 家数14軒、東西2町・南北25間。 三方山繞(めぐ)り北に菜圃(さいほ)あり。 山川 前澤(まへさわ) 南松沢の南にあり。 村西山中の諸渓往々流を合し、巳(南南東)の方へ流るること2町30間荻窪村の界に入る。 神社 熊野宮 祭神 熊野宮? 鎮座 不明 村より申(西南西)の方1町30間にあり。 鳥居拝殿あり。八木沢村横山佐仲これを司る。 山神社 祭神 山神? 鎮座 不明 村より申(西南西)の方4町30間にあり。 鳥居あり。村民の持なり。 白山神社 祭神 白山神? 相殿 稲荷神 勧請 不明 村西1町40間余山麓にあり。 松澤寺司なり。 寺院 松澤寺 村西1町40間余山麓にあり。 山號を寶珠山といい、越後国村上耕雲寺の末山曹洞宗なり。 永亨中(1429年~1441年)肅芳という僧創建し、第2世大應・第3世三室が時までは松本圖書・同實輔(この人の名詳ならず。舊事雑考には伊豆實輔といい圖書が父とし、またこの父子当寺を建立せしという)父子100貫文の寺領を寄付し、第4世盛庵が時天正18年(1590年)伊達政宗3貫文の地を寄付せしという。 客殿 8間に6間、南向き。 本尊釈迦。 寶物 古文書 1通。その文如左。 松澤寺々領うち門前八人の手作 三貫文の所さきわけ山屋敷差 添付置候永代不可有相違者也 仍證文如件 天正十八年庚寅四月十四日 政宗(印) 松澤寺 松本圖書父子画像 1幅。 左は父圖書像なり『徳巖源裕居士』としるし、右は子實輔像なり『活正照殺居士』としるす。中央に当寺開基とあり。縁起に載る所と異なり。舊事雑考これに因れり。 寛文の頃(1661年~1673年)までは父子の塔当寺にありしよし縁起に見ゆ。今の石塔は法名年月等誤あり。後人の伝合せしものなり。 墳墓 五輪1基 村南2町にあり。 高3尺6寸『大永二年六月十七日』と彫付けあり(大永2年:1522年)。外に文字あれども剥落して読べからず。 塔村名主治右衛門が先祖佐藤筑後某という者の墓なりという。 Google Map松沢地区 南松沢地区 松澤熊野神社 大山神袛 松澤寺
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/545.html
陸奥国 大沼郡 滝谷組 牧沢(まきさは)村 大日本地誌大系第33巻 54コマ目 府城の西に当り行程6里。 家数11軒、東西2町・南北1町、散居す。 東は山に傍ひ三方田圃(たんぼ)なり。 東1町15間・南7町、共に鳥屋村の界に至る。その村は辰(東南東)に当り14町余。 西3町大谷組五畳敷村の界に至る。その村まで12町余。 北12町17間中村の界に至る。その村は寅(東北東)に当り14町。 端村 猿倉(さるくら) 本村の西1町10間余にあり。 家数9軒、東西1町・南北40間。 散居す。 東は東川に傍ひ西南は山を負い北は田圃(たんぼ)なり。 山川 猿倉嶽(さるくらがたけ) 村南20町にあり。 岩石壁立し東川に臨めり。 嶮絶にして人跡通せず。 鷲巣を営むことありという。 南野方は遅越渡村に属す。 菖蒲沢峠(しやうふさはとうげ) 村より寅(東北東)の方2町にあり。 中村に往く路なり。 屈曲して登ること5町。 東川 村西50間にあり。 鳥屋村の境内より来り、北に流るること10町五畳敷村の界に入る。広7間。 沼 村西5町10間余にあり。 周6町30間。 関梁 橋2 一は村西50間にあり。長11間、土橋なり。東川に架す。端村猿倉の通路なり。 一は村西2町にあり。隣村の通路東川に架す。長9間丸木橋なり。 神社 伊夜彦神社 祭神 伊夜彦神? 鎮座 不明 村北1町にあり。 鳥居拝殿あり。名入村二瓶大和が司なり。 春日神社 祭神 春日神? 鎮座 不明 端村猿倉の西30間山足にあり。 鳥居拝殿あり。村民の持なり。 寺院 猿沢寺 村北にあり。 山號を峯圓山という。 永井野組松沢村松沢寺の末山なり。 開基詳ならず。 應永の頃(1394年~1428年)は太子守宗の僧住せりという。 寛文元年(1661年)天寧村より堯呑という僧来り住し、これより曹洞宗となる。 本尊地蔵客殿に安ず。 Google Map牧沢 猿倉が嶽 伊夜比古神社 春日神社 猿沢寺
https://w.atwiki.jp/tgl_adventurers/pages/98.html
私が 依頼人の 村長 です ID そんなものは無い 名前 名も無き村長 出身家 代々続いて来た村長の家系 年齢 それなりに高齢 性別 どちらも存在 出身地 近場の村 前職 村長 理由 そもそも冒険者になっていない 現在の状態 増え続ける冒険者を減らすべく、日々、危険な依頼を斡旋している ■イメージ画像? 村長討伐依頼 vs村長 ■村長に物申す! 氏ね! -- (゚д゚) (2008-03-17 22 02 06) 焼けろ! -- 名無しさん (2008-03-17 22 03 16) 汚い言葉で罵倒するのはいけませんよ。しかし村長は犠牲となった冒険者に死んで詫びてください! -- 名無しさん (2008-03-17 22 40 13) そうそう、余りにも汚い言葉はよろしくありませんね。 ここはせめて「いつかプチ殺しますわよ!」に留めておくべきでしょう。 -- 名無しさん (2008-03-17 22 46 56) タグの人型の怪物噴いたじゃねえかwwwwww -- 名無しさん (2008-03-17 23 10 52) ところで村長さん、報酬の件についてちょっとご相談が… いや、たまには純度の低い偽造金貨じゃなくてですね、装備品の現物支給なんていかがかと思いまして… -- 匿名冒険者 (2008-03-17 23 19 51) 依頼人が商人とか村民であることも多いですが うさんくさい依頼はなぜか村長ばっかなんですよね… -- 名無しさん (2008-03-18 02 13 36) この怪物め!! -- 名無しさん (2008-03-18 02 24 37) 真のラスボス -- 名無しさん (2008-03-18 15 37 57) かえせっ!私の娘を返してッ! -- 名無しさん (2008-03-18 15 38 33) 貴様のような奴がいるから!俺たちの冒険はここでおわってしまった!! -- 名無しさん (2008-03-18 19 02 53) 勢いでやった。後で反省します。orz -- 管理人 (2008-03-18 20 44 45) 画像クソワロタww -- 名無しさん (2008-03-18 20 54 25) 画像バロスwwww -- 名無しさん (2008-03-18 23 06 04) 村民も村長とグルかよwww -- 名無しさん (2008-03-18 23 40 34) 村ぐるみの犯行www -- 名無しさん (2008-03-19 00 41 25) 焼かれろっ・・・・・・・・!地獄で・・・・・・・! -- 匿名博徒 (2008-03-19 01 44 08) 死んだっていいじゃない 冒険者だもの -- 村長 (2008-03-19 03 04 13) ・・・末代まで祟ってやる -- 41878 (2008-03-19 15 08 38) ……うちの娘を返してください…… -- 中の人73743 (2008-03-19 15 38 14) よくもうちの息子と娘を… -- 名無し (2008-03-19 16 18 50) この村長の村は怨念渦巻いていますね! -- 名無しさん (2008-03-20 01 16 11) 後の杉沢村である。 -- 名無しさん (2008-03-20 04 12 13) 報酬安っwwwww -- 名無しさん (2008-03-20 13 49 32) 人型の怪物依頼で、村長を狩れるのはいつですk -- 名無しさん (2008-03-20 16 09 33) 跪いて足の親指と親指の間を舐めろ -- 村長 (2008-03-25 23 20 50) 人狼を送りこめっ! -- 名無しさん (2008-04-01 11 09 21) 貴様・・・許してはおかんぞ! -- チョイ悪戦隊総指令部 (2008-04-05 19 38 02) 依頼内容ワロタwそして勝てない冒険者になんとなく萌えたww -- 名無しさん (2008-04-24 11 58 53) いずれ虐げれてきた者達の中から英雄が現れ、貴方を打倒するでしょう。 ・・・それまで私はこの憎しみを忘れない! -- 76569 (2008-04-29 22 45 02) 正確には村民だったけど…代表として呪ってやる! -- 92526 (2008-04-29 23 00 40) 名前 コメント ■このキャラクターのタグ
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/189.html
陸奥国 会津郡 古町組 白沢(しらさは)村 大日本地誌大系第31巻 122コマ目 府城の西南に当り行程19里18町。 家数31軒、東西35町・南北4町32間。 東南北に山廻り西は檜枝岐川に近し。 東3里計古町村の山に界ふ。 西2町宮沢村に界ひ檜枝岐川を限りとす。その村まで6町。 南1里熨斗戸組穴原村の山に界ふ。 北6町14間古町村の界に至る。その村まで18町20間。 また 申(西南西)の方5町32間浜野村の界に至る。その村まで7町30間余。 亥(北北西)の方10町小塩村に界ひ檜枝岐川を限りとす。その村まで18町。 山川 柳林 村西50間檜枝岐川の岸にあり。 長4町余。水害の防に植という。 更に他木なく柳の古木のみにて春色もっとも愛すべし。 檜枝岐川 村西2町にあり。 浜野村の境内より来り、北に流るること14町余、古町村の界に入る。 粟種沢(あたねさわ) 村南5町10間にあり。 源は境内の山中より出づ、北に流るること2里計、檜枝岐川に入る。 広3間。 神社 伊勢宮 祭神 伊勢宮? 鎮座 不明 村東40間にあり。 鳥居あり。木賊村星安藝が司なり。 熊野宮 祭神 熊野宮? 相殿 伊勢宮 稲荷神 山神 天神 建立 不明 村東30間にあり。 鳥居あり。星安藝これを司る。 稲荷神社 祭神 稲荷神? 鎮座 不明 村南30間にあり。 鳥居あり。古町組法導院これを司る。 寺院 毘沙門堂 村東30間にあり。 草創の年代知らず。 村民の持なり。 Google Map宇奈太理神社 お堂 追記 宇奈太理神社(うなだりじんじゃ)ですが、2022年03月07日に古町の廣瀬神社と合併し解散したとの事です。
https://w.atwiki.jp/fa-astral/pages/1626.html
個)横浜吉村家酒井製麺、チー油(鶏脂)に特徴 家系図http //hamarepo.com/iekei_kakeizu/ 直系=杉田家(新杉田/千葉/駅前)・末廣家・厚木家・環二家(直系復帰へ・本/蒲田/川崎)杉田家系:濱野家(千葉五井) 自然消滅別経営=本牧家 9279ギフト独自流の壱六家由来、町田商店 未)MAD一蓮家、憲兵家、唐揚げ、クリスピーチキンアンドトマトなど 個)王道家王道家公式https //www.youtube.com/watch?v=rCZnRnuwSbI独立し吉村家から破門、自家製麺開発し独自路線で支持される 柏ロイドhttps //www.youtube.com/watch?v=VU-M8BTRxFg予備校https //www.youtube.com/watch?v=XCvfm69yY04 王道家系紫蔵・我道家 廃)六角家本牧家を神藤氏が離脱し立ち上げる 個)本牧家系寿々㐂家保土ヶ谷、人気店、関内西方に支店有 個)本牧家系千葉家、末広家 個)作田家 元一本氣 個)新中野武蔵家六角家から、たかさご家曙家経由 菅沼薫氏の独立、現在総大将三浦慶太さん、81店の独立店、酒井製麺 子の武道家、孫の輝道家とともによく名が挙がる ごはんおかわり自由の店舗が多い 個)武双家・教道家 個)武虎家綱島店・三浦家(京成金町)・谷瀬家(新橋) 未)濱虎家 個)吉祥寺武蔵家六角家由来か、藤崎氏は冴えないが多店舗世界展開先駆け 個)近藤家 近藤健一氏 個)林家木更津六角家系近藤家由来、現主環二修行との情報も RED中村動画https //youtu.be/iWktWd0em5s ブログhttps //gamp-ameblo-jp.cdn.ampproject.org/v/s/gamp.ameblo.jp/tricolore17/entry-12485898101.html?amp_js_v=a6 amp_gsa=1 https //note.com/yoshizo1103/n/nc2e7b6c37cc9 個)わいず 環七ラーメン戦争 蔵前家https //tadanoramenzukiblog.com/20211107yosimuraya/六角家姉妹店との記述も 助格家
https://w.atwiki.jp/anime_wiki/pages/3925.html
■おおきく振りかぶって 脚本 4 12 18 22 ■戦う司書 <The Book of Bantorra> 絵コンテ 13 21 25 ■11eyes 絵コンテ 12 ■マギ 絵コンテ 14 ■関連タイトル おおきく振りかぶって COMPLETE Blu-ray Disc BOX 完全生産限定版
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/16.html
陸奥国 会津郡 滝沢組 滝沢(たきさは)村 大日本地誌大系第31巻 12コマ目 村東の山中に白糸滝とて佳景(かけい)の瀑布あり。この村その下流にある故(ゆえ)滝沢村という。 旧3町計西にあり。文禄4年(1595年)今の地に移せしという。 府城の東北に当り行程26町余。 家数57軒、東西4町2間・南北1町27間。 白川街道を夾み南北両頬に住す。 東は山に倚り西は牛墓村にて続て1村の如く。 南北は田圃(たんぼ)なり。 村中に官より令ぜらるる掟条目の制札あり。 東13町54間金堀村の山界に至る。その村は寅(東北東)に当り17町50間余。 南4町30間本郡南青木組慶山村の界に至る。その村まで9町10間余。 北11町12間長原新田村の界に至る。その村まで17町30間。 また 戌(西北西)の方9町10間藤原村の界に至る。その村まで11町10間。 村中に1里塚あり。 端村 中島(なかしま) 本村の北3町40間余にあり。 家数4軒、東西25間・南北25間。 4方田圃(たんぼ)なり 北滝沢(きたたきさは) 中島の北1町にあり。 家数26軒、東西1町59間・南北1町34間。 4方田圃(たんぼ)にて、東西北は山に近し 小名 大杉新田(おほすぎしんでん) 北滝沢より辰(東南東)の方1里余、山奥にあり。 家数4軒、東西40間・南北40間、高山の中腹にあり。 昔この地にに大なる杉樹あり。因ってこの称ありとぞ。 金堀小屋 石盛(いしがもり) 本村より丑寅(北東)の方28町山中にあり。 家居1軒渓流に傍で住す。 慶長8年(1603年)この地の山より金を採初め、年を累(かさ)ねて繁昌(はんじょう)し、諸国より人多く集まり小数1700軒に至れり。その後盛衰あれども寛文の頃(1661年~1673年)までは猶(なお)56軒男女200余人集まれりとぞ。 山川 飯盛山(いひもりやま) 村より辰巳の方にあり。 頂まで3町50間、松樹雑木茂れり。 西の麓に宗像の神社あり(宗像神社の条下に詳なり) 法眼山(ほうげんやま) 村より辰巳(南東)の方14町30間にあり。 頂まで20町余。 南は原組赤井村の山に連なる。 葦名盛隆の頃(1580年~1584年頃か?)糟尾宗頥という医師あり。先祖は野州の産にして松浦氏なしりが、糟尾村を領せるより糟尾を氏とせしとぞ。宗頥盛隆のために織田信長の方に使せしに旨に称て法眼に任ぜらる。仍(よっ)て盛隆もその労を賞しこの山を与へき。故にこの名あり。 松樹多し。 高山(たかやま)(大杉山) 村より辰巳(南東)の方1里にあり。 頂まで29町計。 東は赤井村の山に続く。 松樹雑木多し。 境内にこの山に並べる高山なし、因って名くという。 また、大杉山ともいう。 大塚山(おほつかやま) 端村北滝沢の西1町40間余にあり。 高48間、周10町。 離れ山にて田圃(たんぼ)の中にあり。 いつの頃にか大塚某(なにがし)という者住せる故名けりという。また、葦名の頃石塚某という者も住せしとぞ。 北の腰に馬場・的場等の字(あざ)残れり。また、昔南の中腹に蝦夷穴(えぞあな)とて9尺4方計の洞1つ、小き洞5つありしに漸々に崩れて貞享の頃(1684年~1688年)まで尚1つありしとぞ。今はそれも崩れて只跡のみあり。 一箕山(いつきやま) 村より戌亥(北西)の方6町30間田圃(たんぼ)の中にあり。 高10間、周6町50間。 頂に八幡宮の社あり(八幡宮の条下と照見るべし)。 小山(こやま) 北滝沢より寅(東北東)の方2町にあり。 頂まで20間計。 西南の方限界広く土地草木美なる故、肥後守正之この地を択で士民の葬地とす。 元禄中(1688年~1704年)肥後守正容、中峯に標石を建つ。高6尺に1尺3寸四面。 銘あり。その分如左 自是南至畠境貳十一間自是北至畠境貳十貳間自是東至瀧澤山境百七間自是西至小敷澤路百貳十五間 右小山葬地界限寛文四年甲辰九月晦日 先君中将源公始教士民禁火化仍所置之者也元禄四年辛未六月廿八日表之 ※原文も参照のこと 石盛山(いしがもりやま) 金堀小屋石盛の西にあり。 高13丈、周3町余。 巨石を積み累ぬるが如く形状螺髻に似たりとて螺髻山(かさつふりやま)ともいう(かさつふりは蝸牛の方言なり)。 西南の隅より小径をつたえて頂に至の外に攀?るべき路なし。 4面に対し並べる諸山は皆山勢(さんせい)陵夷(りょうい)にて松樹叢莽(そうもう)なれども、この山のみ巉巌(ざんがん)孤立して大樹なく草木稀に巌間(いわま)にあり。 近隣に並びなき奇観(きかん)なり。 麓はこれより北を経(へ)西に廻って数町の間は大抵平地の如くにて、漸々(ぜんぜん)に西へ卑し。南は山の尾引いて1町計隔り並べる山に続く。北は渓水の清流に臨み風景麗秀(れいしゅう)の勝境(しょうきょう)なり。 昔は夥(おびただ)(し)く良金を産し麓の渓流にも砂金ありしとぞ。因って200年来抗を穿ちし処峯(みね)房の如し。この山多く好金を出せしは蒲生秀行の時慶長8年(1603年)より8ヶ年を経て蒲生忠郷の時同15年(1610年)まで。貢(こう)ずる処288萬両に及ぶ。されども水ありて穿つに便り悪かりしを、松澤傅兵衛という者水を抜き坑を穿つ。金また多く出て同16年(1611年)より元和6年(1620年)まで10ヶ年の間72萬500両を出せり。前に通ずれば360萬500両。これ蒲生氏2代の内に得たる処の総額なり。加藤氏に及で前後の貢ずる処640萬8030両に至る。寛永20年(1643年)に肥後守正之封に就てより万治元年(1658年)まで16ヶ年の間に1萬6438両2分、吹金38貫481文目を貢ず。寛文4年(1664年)江戸より道喜という者来り、再び坑を穿ち同10年(1670年)まで7ヶ年の間に1萬4000両を貢ぜりという。 滝沢坂(たきさはさか) 村端より丑寅(東北)の方に登る白川街道なり。 麓より登ること16町、頂きを九折峙(くのおれじ)という。 金堀村に界ふ旧の往還は、この村より南20町余を隔て本郡南青木組院内村より背炙峠(せなかあぶりとうげ)(加藤嘉明、冬坂と改む)を踰(こ)えて原組原村に出しを、寛永4年(1627年)この道を改め闢(ひら)けり。されども秋雨の折は泥濘(でいねい)(*1)深くして駄馬通せず旅人往来に苦しめり。仍(よっ)て加藤嘉明の時寛永9年(1632年)より8万人の人夫を以って泥土を除き2尺余3尺計の石を敷しむ。同11年(1634年)に功成れり。これより今に至り人馬往来に患なし。 この坂より西に連なる支峯2あり。南を堂作山(たうがさくやま)(また堂柵に作る)という。北を柏木山(かしはきやま)という。里人この山より秣(まぐさ)をとる。 石 村北畠中にあり。土人名佛(ほとけ)と称ふれども佛像にもあらず。 高4尺計の野面石なり。瘧(おこり)を憂るものこれに祈れば験ありとて昔より崇敬す。 滝沢川(たきさはかわ) 源を赤井村の山中高清水(たかしみづ)という処に発し、山間を戌亥(北西)の方に流れ、諸渓を受け白糸滝に注ぎ、飯盛山の麓に至り、屈曲して北に流れ、村中を過ぎ、戌亥(北西)流る。 この村の境内を系経ること凡2里10町余、藤村村の界に入る。 広4間余。 雁打沢(がんうちさわ) 村より寅(東北東)の方31町にあり。 鴻雁(こうがん)昿平(こうへい)の里地より猪苗代湖に浴するに多くこの沢を過ぐ。 昔は風烈き日竹竿にて雁を打落し獲しという。 天正18年(1590年)豊臣家当国に下向の時、これを見んとて馬上10騎計にてこの村の畷道(なわてみち)(*2)を通り稲刈る農夫を傍近く召し、この所に案内せしめられしとぞ。 今は小綱を投じて鳧(かも)を取る。 白糸滝(しらいとがたき) 村東9町20間山中にあり。 高8丈余。 急流崖上より遥かに断岸に灑(そそ)(ぎ)て白糸を垂るが如し。故に名とせり。頗(すこぶ)る佳景(かけい)なり。 また、この奥10町計を隔て二滝(にのたき)三滝(さんのたき)とて2あり。 共に高3丈計。 土産 金 石盛山に産す。良金なり。出ること稀なり。 無名異同所に産す。 石膏 同所に産す。効能唐物に均し。 松蕈(まつたけ) 山中所々に産す。美味なり。 雚菌 同上 関梁 大橋(おほはし) 村中にあり。 長4間余・幅2間、勾欄あり。 滝沢川に架す。 水利 戸口堰(とのくちせき) 河沼郡代田組八田野村の方より来り金堀村・下居合村・長原新田村の境内を過ぎ、またこの村の境内に入り田地に灌ぎ牛墓村の方に注ぐ。 堤 端村・北滝沢の北3町50間にあり。 東西42間・南北34間。甗澤堤(こしきさはつつみ)という。 郷原村の田地に灌ぐ。 寛永6年(1629年)築く。 神社 八幡宮 村より戌(西北西)の方6町にあり。 →八幡宮(滝沢村) 宗像神社 村より辰巳(南東)の方飯盛山の西の麓にあり。 →宗像神社(滝沢村) 三島神社 祭神 大山祇命 鎮座 不明 村より辰巳(南東)の方2町50間にあり。 伝え言う。何の頃にか比丘尼2人金像の神體(しんたい)3軀を屓来り、里人に告て曰く「これ三島明神の尊像なり。よく正法を資護持し国家を鎮撫し給う神霊なり」とて、衆人を勧て社をこの地の山頂に剏建し神像を安ず。この時よりこの山を堂柵(どうがさく)と称せり。比丘尼は落城の後行く所を知らず。 後に石部某という者深く尊崇せり。されども山高く路嶮く参詣の便り悪しとて社を麓に移せりと。 承應中(1652年~1655年)に至ては社頭の廃壊極り只礎のみ残りしを里民再興せり。 別当 常楽院 本山派の修験なり。 明和4年(1767年)弁掌という者当社の別当となる。厳重祐堅が父なり。 寶物 笈 1荷。 弁慶が物なりという。 高2尺8寸。幅下にて2尺2寸、上にて1尺9寸5分。深1尺3寸。 前面は黒漆の堅地塗にて菱と草木をひら彫にし花は朱漆をもて彩る。心は魚子流金にて花と葉に銅の鑣を打て模様をうつす。極めて古雅なり。その図左に載す(※略)。 諏訪神社 祭神 諏訪神? 相殿 諏訪神 山神 4座 稲荷神 3座 伊勢宮 2座 天子神 若宮八幡 三宮 御嶽神 地神 権現 鎮座 不明 端村・北滝沢にあり。鳥居拝殿あり。 郭内諏訪神社神職佐久上総が司なり。 熊野宮 祭神 熊野神? 相殿 伊勢宮 2座 稲荷神 4座 月崇神 明神 権現 蛇神 2座 鎮座 不明 北滝沢の西2町50間、大塚山の頂にあり。 鳥居あり。郭内諏訪神社神職諏訪近江司なり。 寺院 妙国寺 村より戌(西北西)の方3町40間にあり。 山號を寶光山と称す。享保中(1716年~1736年)今の山號に改む。法華宗府下滝沢町妙法寺の末寺なり。 この地は妙法寺の開山日什が墓所なり。明徳3年(1392年)日什寂せし時、父母の遺跡なるによりここに葬り、弟子日仁この寺を草創して住し朝夕香花を供せしという。 日什塔 五輪なり。『日什大聖人明徳三壬申年二月二十八日』と彫付あり。 前に慶長中(1596年~1615年)建てる所の堂あり。即日什荼毘所の迹なりという。 棟札あり。左に載す(※略)。 成就院 村中にあり。 揚柳山と號す。 府下鳥居町亀福院の末寺真言宗なり。 旧村北にありしを慶長の始め(1596年~)見宥という僧住せし時この地に移せり。 本尊地蔵を客殿に安ず。 古跡 館跡2 一は村北3町20間にあり。葦名の頃石部治部大輔某という者住せりという(年代詳ならず)。 一は端村・北滝沢の村中にあり。東西30間・南北29間。葦名の頃、堂家某という者住めりという(年代詳ならず)。今は百姓家となり。土居の形存ぜり。 石部桜(いしべさくら) 館跡の北10間計、菜圃(さいほ)の中にあり。 石部治部大輔が庭中の桜樹故(ゆえ)この名残れりという。 樹根の周り3丈6尺。数株となりて四面に螺れり。高もまた3丈6尺枝葉の庇う処20間計。 寛文の風土記に枝葉扶疎(ふそ)四に敷くこと数歩と称すれば、その古木なることしるべし。今なお枝茂り花艶ばしく香風数十畝に満てり。春月には賞花の人多し。誠に500年外の物にして佳観(かかん)比なし。ここに至るもの懐古の情おこり、今詠鮮なからず。また謾(みだ)りに人の攀折せんことを厭て柵を繞(めぐ)らし禁止の札を側にたてり。 船石(ふないし) 滝沢坂の上、街道の西側にあり。 縦横丈余の巨石にて貌(かたち)船に似たり。府下鳥居町に鎮座ある伊舎須弥明神乗給ひし船の化する所なりといい伝う。 産清水(うぶしみず) 村より戌(西北西)の方6町余、畠中にあり。 周1間計、日什誕生の日この水を汲て洗沐す。因て名くという(日什が条下に詳なり) 壇 村より丑寅(北東)の方4町、菜圃(さいほ)の中にあり。 9つ並べり。共に高5尺・周3間計。九壇という。由来詳ならず。 釈門 日什 二位僧都と称す。 この村の住石塚某という者の子なり。 父母嗣子無ことを憂い八幡宮に祈誓して懐胎す。母産子の安穏を祈らんとて正和3年(1314年)4月28日に八幡宮に参詣せしに、社前にてその兒を産めり。その時清水忽(たちま)ち湧出てしかば、その水を汲で兒を洗ひしという。 その兒幼年にて父母に後れ7歳の時より出塵の志あり。後に薙髪して僧となり玄妙と称し、比叡山に登り天台の扇を究め兼て諸宗に通ず。満山の僧侶器重せざる者なし。 その後故郷に返し羽黒山東光寺に住し講筵を開く。遠方より来り学ぶ者常に500人に余れり。 68歳の時始て日蓮が開目抄如説修行抄を熟読し、法華に帰依し宗旨を易え名を日什と改めき。且日蓮が法末祖師の本意を失わんことを憂て、上京して勅許を得、別に一派を立て洛陽妙満寺・遠州玄妙寺・本郡妙法寺を開基し弟子日仁・日義・日妙に付属す。 明徳3年(1392年)2月28日妙法寺にて寂す。歳79歳。今の妙国寺の塔その墓所なり。 日什が弟子専ら弘通を務む。因て信仰する者多く、武・総2州の間に700箇寺を建立すという。 日什置文を3弟子(日仁・日義・日妙)に付す。名で三紙一通という。その文如左(※略) 八幡宮(滝沢村) 宗像神社(滝沢村) 滝沢峠 Google Map飯盛山 堂ヶ作山 滝沢不動滝(白糸の滝) 戸ノ口堰洞穴 三島神社 諏訪神社 熊野神社 日蓮宗滝沢妙國寺 石部桜(石部邸跡) 福島県会津若松市一箕町大字八幡滝沢 福島県会津若松市中島町 福島県会津若松市北滝沢 福島県会津若松市一箕町大字八幡石ケ森 福島県会津若松市一箕町大字金堀雁取沢(雁打沢?) 日什(wikipedia)