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関連教団 出版社名 所在地 主な刊行物 沿革 メモ サイト 出典 生長の家 株式会社日本教文社 107-8674 東京都港区赤坂9-6-44 [http //www.kyobunsha.jp/] サイト 阿含宗 株式会社平河出版社 108-0073 東京都港区三田3-4-8 1971年(昭和46)12月22日創立 [http //www.hirakawa-shuppan.co.jp/] サイト 創価学会 株式会社潮出版社 102-8110 東京都千代田区一番町6 一番町SQUARE 月刊『潮』、月刊『パンプキン』など 1960年(昭和35)7月2日創業 [http //www.usio.co.jp/] サイト 創価学会 聖教新聞社 160-8070 東京都新宿区信濃町18 『聖教新聞』など 1951年(昭和26)4月20日、『聖教新聞』発刊 [http //www.seikyoonline.jp/] サイト 創価学会 株式会社第三文明社 160-0022 東京都新宿区新宿1-23-5 月刊『第三文明』、月刊『灯台』 1960年(昭和35)11月27日創業 [http //www.daisanbunmei.co.jp/] サイト 創価学会 株式会社鳳書院 101-0061 東京都千代田区三崎町2-8-12 1962年(昭和37)3月28日設立 [https //www.otorisyoin.com/] サイト 天理教 天理教道友社 632-0016 奈良県天理市川原城町778 『天理時報』、『みちのとも』、『すきっと』など [http //doyusha.jp/] サイト 立正佼成会 株式会社佼成出版社 166-8535 東京都杉並区和田2-7-1 『やくしん』、『Dharma World(ダーマワールド)』 1966年(昭和41)8月29日、会社設立 自教団関係だけではなく、宗派を問わず仏教関連の書籍発行が多い。 [http //www.kosei-shuppan.co.jp/] サイト (仏教) 有限会社大法輪閣 150-0011 東京都渋谷区東2-5-36大泉ビル2F 『大法輪』 1922年(大正11)、石原俊明が株式会社国際情報社を設立 [http //www.daihorin-kaku.com/] サイト (仏教) 大蔵出版株式会社 150-0011 東京都渋谷区東2-5-36大泉ビル 1932年(昭和7)6月20日、創立。 1923年(大正12)、『大正新脩大蔵経』出版のため、高楠順次郎が設立。 [http //daizoshuppan.azurewebsites.net/] サイト (仏教) 有限会社仏教出版 177-0033 東京都東京都練馬区高野台5-37-18 [http //bukkyou.r-cms.jp/] サイト (仏教・神道ほか) 株式会社国書刊行会 174-0056 東京都板橋区志村1-13-15 『新纂大日本続蔵経』など 1971年(昭和46)設立 [http //www.kokusho.co.jp/] サイト 真宗大谷派 株式会社法藏館 600-8153 京都府京都市下京区廿人講町 1850年(嘉永3)開業 [http //www.hozokan.co.jp/] サイト (仏教) 株式会社サンガ 984-0803 宮城県仙台市若林区新弓ノ町56 しまかげビル507 『サンガジャパン』 1998年(平成10)7月22日設立 [http //www.samgha.co.jp/] サイト (仏教) 株式会社方丈堂出版 601-1422 京都府京都市伏見区日野不動講町38-25 [http //www.hojodo.com/] サイト 浄土真宗 株式会社樹心社 186-0003 東京都国立市富士見台1-7-1-5-403 1980年(昭和55)設立 [http //jushinsha.com/] サイト (仏教) 株式会社平楽寺書店 604-8184 京都府京都市中京区東洞院三条上ル 慶長年間創業 [http //www.heirakuji.co.jp/] サイト 浄土真宗本願寺派 本願寺出版社 600-8501 京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル 『本願寺新報』、『大乗』 [https //hongwanji-shuppan.com/] サイト (仏教) 有限会社すねいる教材研究社 600-8319 京都府京都市下京区若宮通七条上る竹屋町681-2 1953年(昭和28)設立 [http //www.snail.co.jp/] サイト 浄土真宗 株式会社自照社出版 604-8164 京都府京都市中京区六角通烏丸西入ル骨屋町143 G Gビル401 [http //www.jishosya.co.jp/] サイト (仏教) 東方出版株式会社 543-0062 大阪府大阪市天王寺区逢阪2-3-2 リンクハウス天王寺ビル602 1978年(昭和53)6月1日創立 [http //www.tohoshuppan.co.jp/] サイト カトリック聖パウロ修道会 サンパウロ宣教推進部 160-0004 東京都新宿区四谷1-13 カタオカビル3F 『家庭の友』 [http //www.sanpaolo.or.jp/] サイト 宗教法人カトリックコンベンツアル聖フランシスコ修道会 聖母の騎士社 850-0012 長崎県長崎市本河内2-2-1 『聖母の騎士』 [http //www.seibonokishi-sha.or.jp/] サイト 宗教法人スウェーデン同盟キリスト教団 いのちのことば社 164-0001 東京都中野区中野2-1-5 『新改訳聖書』、月刊『いのちのことば』、週刊『クリスチャン新聞』 [http //www.wlpm.or.jp/] サイト (プロテスタント) 株式会社教文館 104-0061 東京都中央区銀座4-5-1 1885年(明治18)創業 [http //www.kyobunkwan.co.jp/] サイト
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三戦板2スレ 563 名前: 557 投稿日: 02/07/20 20 33 さきほど1571年のシナリオで足利義昭幕府再興計画を推進してきましたが やっぱりだめでした。 信長包囲網というなんともいえない同盟の盟主ということもあって 周りは見方でマターリできるとのん気にやってたんですが 南方は茶器爆死マニアの兄さんに睨まれっぱなし。 東では侍大将時代の脂の乗った権六兄さんが精兵240の軍勢で我が二条城まで少しの距離だし。 とりあえず波多野さんと同盟することにしまして使者を送ったんです、ええ。 「異存がないわけではないけどまぁOKよん」ってことで なんとか西の背後は大丈夫みたいな雰囲気です。 で、盟主としてずっぷり同盟者の恩恵に浸ろうと考えた矢先 侵攻してきました織田の信長さんご一行・・。 南方の茶器ボンバー兄さんと激しい死闘を繰り広げてるじゃないっすか。 ひぇぇぇぇ!! それに引き換え我が陣営のなんと雅なこと、もう戦国の雰囲気皆無な連中です。 とりあえず一番合戦経験のありそうな和田の旦那を送って 出世稼ぎでもしてこい!ってな具合で派遣しました。三好さん側です。 茶器ボンバー兄さんは、もうなんというか権謀術数を駆使して 本丸に取り付いた軍勢を釘付けです、メロメロで大混乱です。 そこに軍事介入した我らが三好・足利連合。 なんとか美味しいところをキャッチして、しかも 足利陣営一個お城GETしちゃったりなんかして浮かれ気分で凱旋です。 ただ人材不足の我が陣営が領土経営なんか出来るわけなく 一年もしないうちに織田の信長兄貴の猛攻を受けることになりました。 足利義昭、御簾を掻い潜って出陣のときが来ました! 566 名前: 557 投稿日: 02/07/20 20 44 足利義昭兄さんの手勢は100、でも戦闘30の温厚な御仁ですが。 池田の知ちゃんを引き連れて暴れ狂う訳ですが 歴戦の名将を引き連れた織田の先鋒部隊すら突破出来ず壊乱状態です。 そこで山の頂上で見物していた細川様を投入。 応援に駆けつけてくれた信長包囲網の参加者でもある一色サン(兵100)に 命からがら助けられて、高槻城を死守しました。 二条城は難なく敵の手に陥落していたので 事実上都落ち~幕府完全失墜です・・。 嘆きながらも高槻城に帰還し、織田さんに解放された古参武将三名ほどと共に 捲土重来を誓い合ったのです。 高槻城周辺は本願寺のジジさまが堅固に守ってくれていて なんとも助かる情勢でした。 これになんとか命を繋ぎ、織田兄さんの猛攻を何処吹く風と乗り切りました。 その間、智謀と政治力だけは文句なしの征夷大将軍義昭ちゃんは 洲本のお城まで進撃している毛利さんの家臣団に目をつけます。 あらら忠誠心が低いじゃないですか・・。 この後猛烈な人心誘惑作戦が展開されたことはもう想像がつくと思います。 世間の情勢は本願寺と武田による挟撃により織田が風前の灯火までに落ちていました。 島勝猛・羽柴秀吉・その他戦闘150平均の地方で頑張ったのねちゃん達をGETしたのです。 568 名前: 557 投稿日: 02/07/20 20 49 んでまーなんとかイイ感じに国力も増大し一時の二カ国支配とまではいかないにしても 人口も5000強と、いいんじゃないの的な発展を遂げたのはいいのですが さて困った!版図の拡大が不可能。 本願寺・三好・武田に囲まれた我が領土からは、どこへも進発出来ない。 講義と披露の連綿とした構成で5年ほど経過してしまいました(笑) その間、世間は大きくうねりを見せ五つの勢力で我が足利幕府を支えてくれることになってました。 まだまだ幕府は健在です! だって何気に同盟交渉だけは多かったですもん♪ 569 名前: 557 投稿日: 02/07/20 20 54 そんなこんなで太平楽に興じて戦国のご時世ということを忘れかけていたころ やりました、もういつのまにか滅亡していた元織田家のルーキー信長さんが 近所で独立したんです。 こりゃしめたでー!と少しだけ乱暴な都言葉を駆使しつつ いつのまにか生え抜きの精鋭部隊となっていた足利軍を進発させました。 戦場につくやいなや、本願寺・武田・上杉と旧信長包囲網賛同者さん各位が勢ぞろいで なんか同窓会みたいな気分でした。 城をGETするのは、部下の秀吉くんがしっかりとこなしてくれたので安心でした。 んな訳で版図がついに拡大しました。 やったー。 のほほんと喜んだ後、再び合戦できない時代が続くのでありました。 570 名前: 557 投稿日: 02/07/20 21 02 あれよあれよと時代は進み、なんか嫁さんほしいなぁと思ってる矢先に 来たんです、縁談。 あるもんですね、望みが叶うってこと。 驚きましたよ、正直ね。 ええ。 で、さっそく結婚ですよバッチリ。 式典はやっぱ西洋風がいいかなと思ったのですが本願寺の兄さんがあまりにも素敵な笑顔で 仏前式という聞いたことの無い様式を薦めてきたので なんか怖くなってOKしましたよ、いつもお世話(武将引き抜き)になってますし。 「新婚初夜は法隆寺近くの民間の宿でした、しっぽりと。」 話がそれましたね、いやマジこんなことくらいしか話題がない時間が過ぎていってるんです。 もっと苛烈なお館様を求めてるのではないかしらと隠居も考えましたよ。 でも一門衆がいないんですもん、無理な話です。 晴れ晴れし討ち死にして世代交代ってのもあるのかもしれませんが、無いんです敵が・・ そんなわけでカミサンに希望を託して「高槻城」大名一人暮らしを開始させたわけです。 はやく姫武将ちゃんできないかなぁ。 そんなこんなで月日は流れ、城下の発展具合もとっくの昔にぶっちぎりMAX発展です。 安穏とした日々が続いている中、日本は本願寺と上杉・北条の三勢力となっていました。 東海道付近で苛烈な熱戦が毎季展開していますが高槻城では毎晩褥に狂う将軍さまがおわしましたとさ。 572 名前: 557 投稿日: 02/07/20 21 16 そうこうしているうちに、どうやら世間は本願寺の天下獲りで行くようですよ。 友好は100ですし安心はしてましたが、ほとんどの城を手中に収めた昨今 やはり来るんでしょうね、決戦が。 じゃ、この最後の項くらいは雰囲気のある文調でいきましょうか♪ 1595年、群雄割拠に今まさに幕が下ろされようとしていた。 石山本願寺を拠点とする中世日本の大教団、一向衆を引き連れて 南北渡る日ノ本に、天下第一の御旗を掲げんとせしめたる。 我が陣容は総勢700の軍勢。 室町の尊氏御世より幾多の御霊を数えること15代、足利中納言義昭は 御所より伏見平野を下ること数十里、高槻台地にそびえる山城に身をやつしていた。 麾下には将星たちが平伏し、足利幕府の再興に燃える若き獅子たちが躍動を隠せないでいた。 帝を奉る山城は室町御所よりこの地への征功を引き受けた名将後藤又兵衛は 天地から攻めよせる巨大な軍勢を感じていた。 「中納言様、本願寺より書状にて睦を解く事の由たったいま届きまして候」 「かようなことは知れておじゃったわ。弓矢にて返答致そうではないか。」 「中納言さま、御大のご出馬とあらば全軍の士気も総じて高まりまする」 「重畳。」 さっそうと軍装を整えた全軍は、本願寺勢を迎え撃つため出撃した。 573 名前: 557 投稿日: 02/07/20 21 30 いち早く大坂へ向けて進発。 群雄のひしめく時代は終わりを告げ、本願寺勢は大群を一挙に投入する近代的野戦法を習得していた。 足利側は、そのような時代の変遷を物語では知ることもあったが 之から起こる会戦は、いわば足利幕府最後の聖戦であり全軍は散りゆく美しさのみに酔っていた。 義昭の軍勢のほとんどの将兵は兜に香を炊き込め時代とともに滅び行くことに誇りと歓喜を憶えていたように見える。 よって陣容も先鋒は道案内程度でしかなく、本願寺勢のような先鋒兵力集中型とは大きく違っていた。 義昭は全軍で石山平野を占拠。 地の利を生かした神速の進軍には、さすがの後藤又兵衛も信服した。 北方からは島津、西海からは旧長曾我部を中心とした南海連合軍 東海道からは伊達・最上・北条を中心とした煙硝の途絶えて間もない地域からの参戦となっていた。 本願寺本体の参戦は確認できず、恐らく盟友に対し弓引くことを躊躇したのではないかと 後世の歴史家達は推測したがったが、実際には分散した一門衆の兵力を統合しきれなかったのではないかと 考えるのが自然ではないだろうか。 とにかく1000を数える大軍勢が旧来の権威であった征夷大将軍の御旗に 中世という時代の終焉を掲げ踊りかかったのである。 574 名前: 557 投稿日: 02/07/20 21 45 会戦は軍勢同士の遭遇によって先端を開いた。 あまりにも変哲のない合戦模様にどこか足利の侍としての自尊心が残影していたのではないか。 総力戦となれば、兵数の圧倒は必然で 寡兵をもたらしめるのであれば、奇襲はかならず実施されるはずではあったが 旧幕軍の整然とした行軍は補足した敵兵への苛烈な突撃のみによって展開した。 火力を中心とした新戦術もこの時点では当然の手段であったし 南蛮砲、フランキー砲を併用することも有効策として周知であった。 が、義昭さえもそれを手にせず 駿馬を駆使した大規模な騎馬編成による電撃戦を展開した。 膨大な種子島の銃砲の中へ突入していく騎馬武者たちは 当然の如く屍を野に晒すこととなったが 中には軍神の如く敵陣を二段三段と逼迫せしめ、敵将を刈取る勇者もあった。 義昭も他と変わらず名刀鬼切を手に敵陣まっただなかに居た。 隣陣は後藤小納言又兵衛であった。 「又兵衛、麿はもうあかんようだのう。」 「潮でござりますれば」 「しお?」 「麿は海を見たことがないのじゃ、琵琶の湖のようだと聞くえ」 「左様でございます。ただ潮がございますれば」 「満ちてはやがてひいてゆくのじゃな」 「御意に」 「名門の誉高き足利も潮になりたいものよ。」 又兵衛は目を細め、戦闘が終局していくのを全身で感じていた。 575 名前: 557 投稿日: 02/07/20 21 59 半刻もせぬ内に、義昭の軍は瓦解した。 主将中納言の討ち死であった。 合戦経歴、数度のみ。 激号の行き交う戦場で討ち果てた将軍に全軍は沈むことなく むしろ「我も続け」といわんばかりの勢いであった。 順次討ち果てていく軍勢の中に又兵衛はその凄まじき戦闘能力により生存していた。 見渡せば旗本を残すのみといった凄惨な状態であることに気づき声を発した。 「皆の衆、この辺が潮でござる。退くものは今が最後となり申した」 又兵衛は一息に続けた。 「中納言様の後光を追いかけ参る侍は我に続け!」 前面に展開していた島津の兵は後に様々な書記に記している。 「あの又兵衛こそ、日ノ本一の弓取りよ」 一条となった又兵衛の部隊(もはや数十人の集団ではあるが)は速度を増し 島津の本陣まで迫る勢いが一時あったものの、集中砲火を中心とした近代戦術の中に消えていった。 足利幕府の完全な消滅と、侍たちの武名を過去の遺産としらしめて この一方的な会戦は終了した。 高槻城は本願寺に接収され、再び地方拠点を統括するにしかない機能的な要害へと戻った。 捕縛された武将は、引く手数多で本願寺陣営に歓待され、そして武名と共に老いていった。 おわり♪ 576 名前: 557 投稿日: 02/07/20 22 03 長々とすみませんでした。 一発書きだったので、文脈に奇怪な点もあったと思いますが 何卒許してください。 又兵衛に固執したのは、最近司馬遼太郎の「城塞」を読んだ影響でした。 天翔記は短時間で楽しめる丁度良いSLGなので これからもみなさんと共に楽しんでいければなと思います。 よかったら変なとこや、ここは良かった(糧になりますので)ってところを 教えていただけましたら光栄です・・。 それでは失礼しました。 615 名前: 557 投稿日: 02/07/23 17 35 足利義輝 室町幕府繁盛記 1560年、初秋。 京の町は賑わっていた。 義輝の重商政策を発してからというもの 山城では通行税を撤廃し堺-美濃の中継都市的な色合いを明確に打ち出し 幾多の荷駄が行き交うようになった。 この年、伏見近辺で農作物の収穫量も上々で さらに都の勢いを増す結果となっていた。 近隣の大名は、以前にも増して領土的野心を露にしていた。 仇敵今川を桶狭間により撃破した織田家は版図の拡大に努め 今や美濃をも併呑し、現在さらに上洛を虎視眈々と目論んでいた。 越前では本願寺一向宗徒の暗躍がさらに激化し、 その勢力は越前から摂津まで、丁度袈裟を着たように伸びている。 西方では一時の隆盛を失ったものの未だに三好一族が精力的な軍事行動を展開している。 616 名前: 557 投稿日: 02/07/23 17 43 義輝はまず幕府の失墜した権威を取り戻さんと 大長征を計画していた。 近畿一体の守護の復権のため、流人化した旧来の守護大名を徴募していた。 そして新たに軍団を再編し、大兵力一個集中型の新戦術を発案し採用している。 土着的だった侍衆を、義輝の号令のもと指揮系統を一本化し それを義輝自信が率いるといった豪胆なものであった。 しかし永らく合戦など自力では行っていなかった将軍家では 大将はもちろんのこと、中規模部隊を指揮する侍大将にさえ枯渇する状態であった。 軍容の強化・商業の発展。 この二大政策に大きな推進力を得た足利十四代将軍家は1560年を多忙の中に暮れる。 618 名前: 557 投稿日: 02/07/23 17 55 1561年初頭、織田・三好は動いた。 三好は南紀への版図拡大を企図し本願寺家を討伐に向かい、織田は北陸を目指し進発。 足利は波多野・一色氏と軍事同盟を締結、北国への備えとした。 義輝は人材を得た。 美濃斎藤家の没落により流浪していた稲葉一鉄・竹中半兵衛両氏であった。 足利家の歓待ぶりは余りあるほどであったと伝えられている。 将軍家譜代の細川に比肩するほどの知略をもって知られる竹中半兵衛は さっそく重商政策において甚大な働きをもたらした。 また義輝が統括する軍団に稲葉一徹の武名が加わったことで 陣容は厚く強固なものにかわりつつある。 1561年、晩冬に織田家羽柴・柴田の両軍は競い合うように北国越前に到達した。 本願寺・朝倉氏は織田家の快進撃に後手後手を取り、大きくその勢力を減退させた。 三好家の畿内統一は難渋していた。 本願寺の新兵器鉄砲を中心とした火力に、名だたる将は撃破され もはや亡国の一途をたどるかのようであった。 619 名前: 557 投稿日: 02/07/23 18 04 山城の国は周知のように広大な盆地である。 その限られた平野の中で、いま商業政策が大きな花を咲かせようとしている。 潤沢な資金源を得た足利家は、その黄金を背景に大長征を展開する準備が整ったと言ってもいい。 1562年初夏、織田軍は東海道から北国への越前まで 日ノ本に翼を広げた雁の如く横たわっていた。 山城と織田家が隣接したことにより、義輝の構想は他所に 両家の抗争が自然的に開始された。 圧倒的な物量で展開する織田家、充実した家臣団。 もはや足利将軍家は風前の灯火かのように見えた。 立ち込める戦乱の気配を察したのか、室町御所は 公家衆たちはなりを潜め、町では具足・米の価格が急騰した。 620 名前: 557 投稿日: 02/07/23 18 14 その頃、摂津では三好が大敗を喫し本願寺は大きく躍進することになる。 呼応したかのように越後の龍・上杉謙信は武田一門を大騎馬軍団により殲滅、 中原への大きな足がかりを作った。 そして将軍家に上杉家からの軍使が到来する。 「足利家との不戦協定を結びたし」 上杉家の家風が軍使にも浸透しているかのような堂々とした申し次であった。 義輝は軍使を慇懃に労い、ここに足利・上杉同盟が確立した。 畿内の勢力はほぼ三等分されたと言っていい。 西に本願寺、中央は足利将軍家、そして北と東に渡り近世勃興した織田家。 義輝と謙信の交流は日々盛んになり、織田家の後背を牽制するには十分であった。 来るべき決戦の日は刻一刻と近づいていた。 623 名前: 557 投稿日: 02/07/23 18 27 山城の国、肥沃な伏見平野は物流と人物往来の要衝となっている。 義輝はこの地を来るべき大会戦の予定戦場として想定していた。 東海道の終着を伸ばし、伏見まで引き入れ街道を整備。 大軍の進退を容易にせんと試みている。 見渡す限りの京の都での防戦は不利であることは過去の歴史が教えている。 織田家は伊勢を越えて山城に進入するだろう、さればこの山の多い盆地を利用し 大軍を隘路に誘い込み疲労の極まったところを強襲し壊滅に追いやるとい構想である。 竹中半兵衛は兵法の天才と名高く、義輝は半兵衛を重んじている。 家臣団の不和が生ずる間もなく、義輝の重商政策の成功により一丸となっていた。 1565年盛夏、武田信玄討死。 上杉家は大きく関東に躍進する。 北条家は防戦一方で、天下の名城小田原城を頼みに焦土戦術を展開している。 風雲急を告げる。 それぞれの家中で、これから起こり得るかつてない規模の戦闘行為の趨勢に さまざまな憶測が飛び交い、狂喜し恐怖していた。 足利幕府は、その樹立以来の正念場と大きな盛り上がりを見せている。 畿内は灰色の戦雲に包まれやがて来るその時を静かに見守っていた。 624 名前: 557 投稿日: 02/07/23 18 43 1566年、動静は躍動の色を見せた。 上杉家は旧武田領を巡りついに織田家との戦闘状態に突入。 時を置かず義輝は本願寺に密使を派遣する。 西方の憂いを取り除き、織田家を挟撃しようとの半兵衛の献策であった。 「承知」 本願寺にとっても毛利・長宗我部・大友の一大勢力の台頭により 畿内にのみ固執してはいられない状態に陥っていたのである。 南紀鈴木家は強固たる軍団を保持し、その軍団により北方を恫喝し続けている。 義輝は大いに喜び、尊氏以来といっても過言ではない大軍略に興奮した。 稲葉・竹中・義輝の一軍は颯爽と進発した。 上杉謙信は織田家精鋭を意に介さず軍勢の速度は増す一方であった。 一時的に伸びきった勢力は次第に厚みのある軍陣を整え 近隣大名は謙信を軍神と畏敬し戦端を開こうとはしなかった。 北条家は関東の西方面を失い、いまは里見・佐竹氏との攻防に忙殺されている。 まさに時得たりと、有史以来初とも言える壮大な足利・上杉両軍による大挟撃戦が始まろうとしていた。 625 名前: 557 投稿日: 02/07/23 19 09 上杉家は既に越後南端に謙信を中心とする騎馬軍団を展開させている。 足利家との会合点は近江の観音寺城近辺となるだろう、半兵衛は目算している。 義輝は瀬田を越え、大津に軍勢を置く林・佐久間勢と対峙した。 足利総勢は19,500を数え、上杉謙信に習い騎馬を中心とした機動部隊であった。 迎える林・佐久間勢は近隣の諸侯を寄せて24,000である。 戦場での兵数把握は、戦火の前に置いては恐怖も加味し大幅に誤算する。 それに両軍は実数よりも多めの兵数を呼称し合うので 各将たちには、想像以上の大軍決戦のように感じるものだった。 琵琶湖を傍目に眺めての対陣は雅さを否応にも感じさせた。 前哨部隊は本隊より大きく進軍し、自然両軍は衝突し戦端は開かれた。 多数の斥候が両軍変わらず放たれ、次第に合戦規模が現実的な規模に形成されていった。 義輝は初戦において兵数の損害を最小限に食い止めるため 半兵衛を本陣に呼んだ。 「あれの容易は周到か」 端的な応答が繰り返された後、半兵衛は一旦後退した。 林・佐久間勢は幾多の戦乱を駆け抜けてきただけあり その戦闘指揮に関して目を見張るものがあった。 佐久間などは陣頭に立ち兵を叱咤し、その怒号は敵味方を越えて震撼させた。 足利家先鋒、稲葉一徹も美濃における激戦をかいくぐった名将だけに 織田の精鋭をもろともせず、佐久間同様に兵をたくみに操った。 野戦は先鋒によってその帰趨を分ける。 両軍は体得したその事実を秘め、狂騒し敵へ踊りかかる。 佐久間は後詰の部隊に気を大きくし 猛攻という猛攻に次いで足利家へ執拗な打撃を浴びせてくる。 それに対し稲葉一徹は後方部隊に槍衾をもってしのぎ 敵陣の伸びきった要所を一瞬にして見出し、騎馬部隊を神速で突入させ大いに奮戦した。 しばらく一進一退が続き、五分五分の槍合わせとなった。 先鋒の奮戦に義輝は床几から幾度も立ち上がり 近習に幾度となく洩らしたと言う。 「槍を持て!我が旗を進めよ!征夷大将軍の名を辱めるではないぞ」 650 名前: 557 投稿日: 02/07/24 14 53 戦闘は続いていた。 各軍の先鋒は初戦から混戦している。 均衡した兵力と指揮官の作戦遂行能力に、 膠着状態に陥ったと言っても過言ではなかった。 義輝は焦っていた。 近隣の緒城で沈黙を守る敵勢力に対して このまま消耗戦を展開すれば苦戦は必至であり さらに今次会戦が終了した後の守兵数にも影響する。 戦場は深い霧に包まれ、 あたかも各軍勢の将兵の思惑が滲み出したような要諦を成していた。 651 名前: 557 投稿日: 02/07/24 14 54 義輝の不安が晴れるにはそう時間はかからなかった。 後続の鉄砲部隊が来着したのだ。 当時本願寺・島津をはじめ各大名で鉄砲という新兵器が投入され始めていたが その高価な飛び道具をして戦術を成した部将は未だ存在しなかった。 足利義輝がその名を後世に残らしめる新戦術を展開させるのはまさにこの会戦であった。 潤沢な資金源を活かし、整備された近江-伏見-摂津・堺の商業ルートは 足利家に金銀以上の利益をもたらしていたのである。 652 名前: 557 投稿日: 02/07/24 14 55 義輝は種子島と呼ばれた新兵器を大量に揃え、鉄砲足軽という専属の部隊を展開させた。 敵地における地理的困難が彼らの来着を遅らせる結果となったが 初戦に勢いづいた敵勢力を誘引するには最良の結果となっていた。 五割の戦力となった稲葉一徹を一度後退させ、義輝直属の旗本10,000旗が最前線に突入を開始した。 地形は隘路になっており、義輝はその両側の高地に大兵力を配置した。 後詰であった和田鉄砲隊5,500と、同じく鉄砲編成の竹中4,000が隘路を塞ぐように展開した。 鶴翼に構成された足利軍の士気は、この会戦に家運が賭けられていることを 雑兵までもが体感していたため、一糸乱れず連動している。 653 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/07/24 14 55 将軍家の格式は高い。 京において、後世にも語り継がれて行くことになる諸作法を形式化させた足利家は 諸事において美しさを明確に打ち出そうとしている。 それは軍陣においても同様に、戦場への軍装というものは華麗極まりなかった。 古式の礼法にのっとり家中のものすべてが着飾り、中には化粧をする侍もいた。 義輝はこの戦乱の時代において、旧守護大名が追放され・淘汰された要因のひとつが これにあるのではないかと考えていた。 伝統のみを良しとし、新興のものを排除する。 それは非効率の存続であり、進化する時勢を否認することであった。 654 名前: 557 投稿日: 02/07/24 14 56 義輝は択一を迫られていた。 新たに参入してくる近代的な思想「下克上」を持った侍を眺め 物事の進退について合理性の導入について考えるようになっていたのだ。 遥か源平の御世からの名家である島津においては その風土がそうさせるのか極めて合理的であった。 貴族政治を執行する足利家にとって、滅亡は断じて起こってはならないことで 義輝は決断していたのだった。 655 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/07/24 14 56 新戦術の導入、荘園の縮小、寺社衆の統制、貨幣経済の奨励。 薄らかな思いつきであったにしても側近である細川・竹中の天才は その構想をいとも簡単に行政化したのであった。 その結果としての新兵器鉄砲の大量導入である。 その新生足利家の象徴が形となり、いま大軍を率いて 実際に義輝とともにその勇ましい陣容を展開させていた。 硝煙は燻る匂いをあげ、射撃を開始させた。 656 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/07/24 15 05 一斉射撃三連は大音声をあげ、濃霧をも払拭していった。 霧が晴れゆくにつれて、地面に臥した敵兵の姿が露になっていった。 義輝はその凄惨な状況に戦慄した。 味方の陣営の騎馬たちも、雷撃のような響きに震撼したが 戦場に長けた各隊長の指揮のもと混乱を生じることは無かった。 寸刻の後、隘路に伸びきった敵将佐久間の率いる軍勢に向け突撃を繰り返した。 佐久間自身ですら一瞬の出来事に何がおこったのかわからず、部隊は哀れにもおびえきってしまった。 退くにも退けず、両脇から襲い来る騎馬武者を支えることも出来ず混乱は広まった。 「我が部隊、惨めにも壊乱す」 敗走する佐久間が力なく発した言葉は、未だに続く鉄砲の射撃音にかき消された。 657 名前: 557 投稿日: 02/07/24 15 14 佐久間は後詰の部隊へと合流のせんと行軍(敗走)中に捕縛された。 後詰の林部隊は周辺城の部隊と共に進軍する。 前線での佐久間の全滅、未だに信じがたい表情で速度はむしろ増している。 「重畳至極」 義輝の兵への言葉は、この一つ目の勝利に絶対的な信頼を得た。 義輝の本体はさらに新戦場へと行軍を開始した。 本陣が囮とも言える作戦に、義輝の側近は苦渋の顔を未だに拭えないでいるが 義輝当人は、既に戦塵を浴び一個の大将としての風格を纏い始めた。 かつて或る剣豪に剣術を指南させ、剣豪将軍と呼ばわれた姿は さらに翼を広げ、いまやその才は一介の剣豪を飛躍し総大将として君臨している。 隘路を抜け平野に出た。 眼前には林を主将とする織田家精鋭が到着しつつあった。 659 名前: 557 投稿日: 02/07/24 15 35 両軍の本隊が終結しようとしている。 畿内の併呑を意図する足利家ほぼ全軍と、上洛を本懐とする織田家の衝突は ここに現実のものとなっている。 両軍の兵数の均衡が破れた今、林は戦闘前の驕りは無くなっていた。 織田家譜代の林は敗北による家中での立場と、そして何より信長による叱責を もっとも恐怖し、その絶対的な恐怖に牽引され突撃を開始した。 直後、一騎の母衣武者が義輝のもとに駆け込んだ。 「合戦のおり、諸事の礼式御免仕る。拙者我が君主上杉謙信の名代にて参上す。」 母衣武者は一息に続けた。 「有史稀無き会戦にて候。かねてよりの盟約により上杉謙信推参、今より挟撃を試みん。」 義輝は本営の陣幕に囲った御簾を斬鉄刀一刀のもと切り捨て 「大儀である。上杉勢の助力なくして日ノ本に和の一字なし。」 「両家の繁栄をこの一戦に託すべし。」 母衣武者と義輝は数度言葉を交わし、そして母衣武者は颯爽と帰参していった。 「何と頼もしげな弓取りよ、敵は目前ぞ。遅れを取るな、かかれ!」 凄惨な地上の光景と反し、琵琶は深蒼の水面をたゆませ涼やかな風に波立っていた。
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☆このページでは、霧雨の野望における下間頼照について詳細に解説しています。 史実での下間頼照について詳しく知りたい方はwikipediaなどの下間頼照を調べてください 下間頼照(しもまらいしょう)(永正3年(1516年?- ) 本願寺門徒。 ☆出生・家族構成 ☆官位・役職 ☆参加合戦 革新能力 統率74 武勇60 知略67 政治53 義理54 足軽B 騎馬D 弓D 鉄砲A 計略C 兵器C 水軍C 築城D 内政C うp主解説 下間一門。越前一向一揆を指揮。この人も民の評判悪いクソ坊主で、織田家の 本格的な攻勢が始まると、なんと一向門徒に捕縛されてしまった。 鉄砲適性Aで統率も70台。戦闘要員としては有能な部類。本願寺勢はザコでも 鉄砲をはじめとする適性が割と優秀なのが特徴だ。 緑の人解説 下間傍系で越前担当。越前派遣後に朝倉景鏡を討取るが重税等で地元民や 同宗別派と連携に失敗、織田軍に殲滅さる。 東方風武将解説 「差を甘く見る程度の能力」
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武将名 つちばしもりしげ 魔王打倒の覚悟 SR土橋守重 紀伊の豪族。雑賀衆の一人。石山合戦では4人の子とともに本願寺に籠城して戦い、信長軍を苦しめた。石山本願寺降伏後、雑賀衆のあいだで信長恭順派の雑賀孫市と敵対派の守重は対立。孫市に謀殺された。「悪いな、孫市。 俺は意地を貫くぜ……!」 出身地 紀伊国(和歌山県) コスト 2.5 兵種 鉄砲隊 能力 武力8 統率7 特技 伏兵 狙撃 計略 一射一殺 範囲内の最も近い敵に射撃によるダメージを与え、移動速度を下げる。ダメージはお互いの武力で上下する。 必要士気5 Illustration オンダカツキ 宴武将として追加された2枚目の土橋守重。 本願寺には珍しい高コスト伏兵持ちでスペックもまずまず、というか雑賀基準ではかなりの高スペック。 計略は敵一体対象の武力依存ダメージ計略で、さらに移動速度を低下させる。 範囲は自身から前方に延びる長方形。縦はカード3枚分強、横はカード1.2枚分ほど。 威力は素の武力で確殺は武力2。武力8には約4割強のダメージ。 速度低下時間は同統率に3.8c。統率依存は0.4c。(Ver.2.12A) 計算式:3.8c±0.4c×(統率差の平方根の絶対値) 速度低下値は不明。(毘天の化身中の上杉謙信が突撃不可なので0.3倍程度?) その速度低下効果は凄まじく速度上昇家宝や計略では毘天の化身であろうと放生月毛だろうと射撃の回避が困難になる。 移動速度低下により射撃をフルヒットし易くなるので、計略で与えるダメージ以上のダメージを見込める。 雑賀の鉄砲隊は狙撃を持っているので、一射一殺使用から複数部隊による赤ロック射撃は絶大な威力を誇る。 鉄砲隊が苦手とする騎馬の対策、キーカード撃破に使っていこう。
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上位目録一覧 侍 侍上位目録 目録名 入手可能国 ドロップNPC 兵法之書・弐 斎藤家 斎藤長龍 浅井家 宮部継潤 藤堂高虎 徳川家 伊賀者手練れ 足利家 荒木村重 山岡景隆 柳沢元政 伊賀忍 果心居士 本願寺 本願寺客将 侍之匠・九 上杉家 本庄氏揚北衆 徳川家 井伊の赤備え 浅井家 延暦寺僧 延暦寺僧兵 甲賀手練れ 日吉巫女 足利家 京本草学者 ドロップ情報募集 名前 コメント 過去の遺物 武芸書・六 川越、一乗谷、京都 〃 改 キノコハウス 福島正成 古河公方屋敷 古河公方古参 甲斐一族の屋敷 甲斐氏家臣 陣形 岡崎、松本、前橋 〃 改 越中 悪徳薬商、越中行商人 六角一族の屋敷 後藤賢豊 比叡山叢雲堂 妖土竜 武芸書六改 武田家 甲斐国人衆,秋山信友 織田家 傭兵部隊、菅屋長頼 徳川家 青山忠門,阿部正勝 上杉家 山本寺定長、大石綱元,竹俣慶綱、上杉管領衆 北条家 伊勢貞運、石巻康敬 浅井家 新庄直頼、小川祐忠、磯野員昌、藤堂高虎、磯野突撃隊、殿原衆 朝倉家 溝江長逸 斎藤家 飯沼長継、妻木広忠、野々村三十郎、斎藤利三、坂井政尚、斎藤道三 足利家 朽木元綱 雑賀衆 鈴木一族 陣形改 織田家 堀秀政 武田家 甲州流軍学者,武田槍隊 浅井家 雨森弥兵衛 斎藤家 斎藤義龍 上杉家 村上義清
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いざ、上洛のときでござるの巻 お知らせ 『 その4 改訂版 』 大幅に改訂させて頂きました。 2010/02/12 Fri 前回のあらすじ 那古屋城を居城とし、全国制覇へ起ちあがる 天下の風雲児 織田 信長 足利家の企てる信長包囲網に苦戦しつつも、着実に上洛への歩を進める信長。 その信長の前に立ち塞がらんと、東軍の武将 上杉、朝倉、そして奥羽の伊達 政宗が、秀吉が領内の若狭で西軍と激突する! 奇しくもその動きを予見したコロ助の働きで、西軍総大将、信長包囲網の最後の砦 本願寺 顕如を降す信長だが、すべてを焼き尽くす劫火の勢いはなお止まぬ。 そして若狭では、今まさに独眼竜 政宗が精鋭が、盟友秀吉の墨俣を食らわんとするが、織田家が参謀コロ助の策で事なきを得、ここに至り戦乱の炎は治まっていく。 今ここに 織田 信長 上洛への道は拓けた! #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repNobunaga01.jpg)<コロ助よ、お主、南蛮渡来のロボトとな。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repPacal01.jpg)<殿には、ご存知でござったと・・・。 コロ助は、木手奇天烈斎千利休が蘭の国より手に入れ、秀吉が自らの代わりにと信長へ献上した品だった。 その動力燃料は利休の造りし、「茶」である。 静寂の乱世 AD1430 西方の主軍となる本願寺家が織田家の軍門に降り、若狭で対峙していた東西軍勢の一大合戦は終息へと向かう。 時を同じくして各地の争いは膠着状態に至り、秀吉征伐へ兵を挙げた伊達家もまた岐路についたため、戦乱の中 一時の平穏が訪れる。#ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (320x240)#ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repPacal01.jpg)<殿、現在の勢力図でございまする。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repNobunaga01.jpg)<ほぉ。毛利殿まで仏の教えを捨てたか。 斜陽の仏教勢を尻目に、宇喜多家が儒教を創始し、西へと勢力を広げていた。 その勢力は近畿を越え、東方の神道勢と激しく対立するに至る。 AD1440 甲斐 信玄の要求 信玄が光学を要求してきたが受諾する。 今川家を属国にして以来、目立つ行動はないのだが、この信玄、まさに「風林火山」を地で行く! 疾如風のように現れ、徐如林に戦なく領地を広げ、侵掠如火を駆使し今川を治め、不動如山がごとく徳川討伐へも動かず。 素晴らしい(笑 AD1460 瀬戸合戦 終結 この年、永らく膠着状態に陥っていた瀬戸の戦が終結した。 四国の虎 長宗我部には、瀬戸の海を越え宇喜多家を討つことは難しかったようだ。 AD1480 タージマハル 建立 我が織田家に初の黄金時代が到来した。#ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repPacal03.jpg)<殿。 内政が黄金期を迎えたでござる。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repNobunaga01.jpg)<うむ、これはめでたい。 上洛の前に祭りじゃの。 AD1490 秀吉からの要請 この年、秀吉がナショナリズム大名領国制を要求してくるが、もちろん受諾する。 浜松の先にいる人夫が北条家の騎馬隊を見つけるが、何事もなく通り過ぎる。 秀吉 懐柔へ AD1500 秀吉を我が織田家の臣下とすべく、コロ助が策略を起こす。#ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (320x240)#ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repNobunaga01.jpg)<コロ助。 秀吉の方は、どんな按配じゃ。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repPacal01.jpg)<仕掛けは済みましたので、上洛を前に試みましょうぞ。 まず織田家で道教を国教に制定し、秀吉を仏教から道教へと改宗させ、その後京へ上洛するという筋書きであった。 足利家への宣戦布告で関係悪化を防ぐ狙いもあるのだが、秀吉とより一層の関係を築くことへ繋がる。 もちろん聞き入れぬ時は、力ずくで従わせることとなるが。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repPacal01.jpg)<殿。 秀吉殿が道教へ改宗しましたぞ。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repNobunaga01.jpg)<うむ。 コロ助よ、見事じゃ。 秀吉へ紙の技術を呈し、三好家へは金銭で道教へと改宗させることができた。 徳川家も改宗可能なのだが、いかんせん国交を断絶したままでは何ともできない。 神道 上杉家、武田家、伊達家、朝倉家、北条家、今川家、長宗我部家 仏教 足利家、本願寺家、島津家、大友家 儒教 宇喜多家、毛利家、龍造寺家 道教 織田家、豊臣家、三好家 ユダヤ教 徳川家 ここで我が織田家初の国教は、自らが創始した道教となる。 いざ 上洛へ AD1510 この年、我が織田家は足利家へ宣戦布告し、京の二条城を目指す。#ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (320x240)#ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repPacal01.jpg)<殿。 上洛への準備は、すべて整いましたでござる。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repNobunaga01.jpg)<時は、この信長がために流れておるな。 AD1510 稲盛城 畿内の織田家の不意を衝き、足立家の攻城隊が稲盛城下へと単独で侵入してきた。 撃破 攻城隊1 損失 人夫1 毛利家 討伐軍の怪 丹後へ放った上忍が、毛利家の朝倉討伐隊を発見する。#ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (320x240)#ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repPacal01.jpg)<殿。 毛利勢が越前へ進軍、丹波を過ぎたとの報でござる。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repNobunaga01.jpg)<むぅ。 なぜこの時期に。 開戦から長く膠着状態が続いていたが、この動きは何かが起こる予兆なのか!? 討伐の戦力としても、一乗谷城を攻め落とすには及ばぬであろう。 AD1530 丹後 各地で小競り合いが続くが、足利家には鉄砲隊が出てきたようだ。 撃破 鉄砲隊1 損失 上忍1、人夫1 丹後を偵察中の上忍(5)が、鉄砲隊(9)を倒したことに驚く。 一方、信長領の人夫が次々と倒されていく。(汗 AD1540 二条城の兵力 上忍から足利家の戦力情報が届き、既に二条城にも鉄砲隊が配置されていた。 二条城 精鋭攻城隊1、攻城隊3、長弓隊3、足利弓隊3、下忍1 徳川家 最大の危機 AD1550 西軍との戦が治まり暫く平穏が続いていたが、東方の武将達と異教の徳川家との対立の溝は深まっていたようだ。 信長の上洛(足利家への宣戦)に合わせるように、この年から東方の武将達が次々とが徳川家へと侵攻していくことになる。 独眼竜の好機 越前から岐路につき甲斐を抜ける政宗の軍勢だったが。#ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (320x240)#ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repPacal01.jpg)<殿。 伊達家が徳川家へ宣戦布告したとの報でござる。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repNobunaga01.jpg)<なっ。 さすがは政宗じゃ、只では転ばぬの。 北条家の韮山城攻めへと徳川勢が出兵したのを見計らい、伊達勢が徳川家の吉田城を包囲する。 虚を衝かれた徳川家に、なす術なしか。 毛利家と朝倉家 和平 墨俣城へと辿り着いた毛利勢だが、ここで朝倉家と和平を結ぶ。 当初、遠征軍の兵力が足りぬと思われたが・・・ AD1570 徳川家 討伐へ ここで上杉家と朝倉家が徳川家へ宣戦布告した。 朝倉家の停戦はこの布石だったようだが、二国同時宣戦とは。#ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (320x240) この朝倉家の動きを察知して、勝機を見出した毛利家が討伐隊を向けたようだった。 諜報恐るべし(汗 AD1580 上杉家の 坂東参戦 要求 上杉家から坂東は徳川家討伐へ、我が織田家へ参戦要請が来た。#ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repPacal04.jpg)<とっととととっ殿ー。 いっちちち、一大事でござる。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repNobunaga01.jpg)<参ったのぉ。 上杉家との関係を保ちつつ、家康を救う策を考えてみぃ。 ここで上杉の参戦要求を受諾し、徳川家討伐へ。 東方の北条家、伊達家、上杉家、朝倉家 4名の武将と対峙する徳川家を救うには奇策しかあるまい。 上洛の準備も整い内政を強める織田家だったが、徳川家 救援 討伐がため、ここで一斉に強兵を興す 二条城 攻め AD1580 一方京では、いよいよ信長上洛の時が迫る。 信長勢は大手を攻城隊で衝き、主軍は淀川を迂回し北へ、本願寺勢は西、三好勢は南と、二条城を取り囲む。#ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (320x240) 足利勢 精鋭攻城隊2、攻城隊2、鉄砲隊2、長弓隊4、足利弓隊5、下忍1 織田勢 攻城隊15、傾奇者1、黒母衣衆10、野武士3、補給隊2 三好勢 攻城隊2、野武士2、足軽刀1、足軽槍1、長弓隊1 本願寺勢 攻城隊2、侍3、弓騎馬3、軽騎馬1、強弓隊1 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repPacal01.jpg)<殿、二条城に孔が開きましたぞ。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repNobunaga01.jpg)<本願寺勢、三好勢、前へ。 突撃じゃぁ! 本願寺勢、三好勢の先兵が必死の攻撃を仕掛ける。 AD1590 二条城陥落 先兵となり突撃した本願寺勢と三好勢、そして豪の者 利益の活躍により、ここに二条城陥落。#ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (320x240)#ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repPacal01.jpg)<殿。 足利 義昭から降伏との伝令が。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repNobunaga01.jpg)<ならぬ。 足利家が領地はすべて没収し、戦の褒賞とす! なお、没収した足利家の領地は、没落著しい本願寺家、三好家への報酬とし、秀吉が家臣となった暁には、小浜 山城の城を宛がうこととす! 将軍家復興を企てる義昭を生かす事は、信長への禍根を残すことになるため、足利家の血筋を絶つことに。 損害 0 撃破 精鋭攻城隊2、攻城隊1、鉄砲隊2、長弓隊4、足利弓隊4、下忍1 二条城には、ピラミッド、空中庭園、ノートルダム大聖堂、マウソロス霊廟が建立済み。 これに加え、アカデミー設立、大科学者2名が定住していたが、宗教の創始は無い。 室町幕府 滅亡#ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repNobunaga0507.jpg) ここに 天下の風雲児 織田 信長 は上洛を果たし、 禍根となる足利家を滅亡へ追いやり戦国時代を治めた! これで 信長編 は完結となりますが、ここから先は皆さんの想像で進めてください。 『 日本マップ 』 本レポで使用した武将を配置済みの初期マップです。 ※マップに調整(河川と資源追加)を施しましたが、若干違うだけです。 技術 初期技術 車輪・漁業・石器 古代時代 農業>採掘>青銅器>神秘>畜産>石工術>狩猟>弓術>筆記>美学。 古典時代 多神教>文学>法律>官吏>戦術>哲学>通貨 交換技術 陶器・鉄器・帆走・錬金・瞑想・聖職・数学・建築学・君主政治 ※アルファベットを入手したことで新たに取得したテクノロジー。 中世時代 紙>ナショナリズム 交換技術 一神教・暦・封建制 降伏提供 騎乗 ※降伏条件で提供されたテクノロジー。 ルネサンス前期 羅針盤>機械>光学>軍事戦略 降伏提供 神学 ルネサンス後期 ギルド>工学>銀行制度>教育>自由主義>憲法>火薬>経済学>活版印刷 交換技術 南蛮貿易、音楽、演劇 あとがき 「尾張の大うつけ 風雲児 織田 信長 編」 は、今回をもって完結となります。 目標である全国制覇を達成すべきか悩みましたが、大長編になりそうなので、ここで一旦終わらせることにしました。 できるだけ史実で起こった事件を織り交ぜるようにプレイし、物語レポを執筆しましたが 史実とCiv星での足利家の立場の違いを比べると分りますが、やはり史実の通りというは無理かな。 ですが、AIが起こす戦争や事件は実に良いタイミングで、展開的に面白く書けたかなと思います。 なんだかレポっていうよりは、短編 小説風になってしまいましたが、皆さんどうでしたか? 題材が戦国時代ということもあり、私は1ターン>執筆>時代考証・比較>1ターンと繰り返していたのですが、他の人はプレイが終わった後にレポ執筆してるのかなぁ・・・ まぁどっちにしても大変なのでしょうね。。。やってみて分りました(笑 さいごに 最後まで読んで頂いた皆さん、ありがとうございました。 そして、戦国時代MOD 作成者様、ありがとうございました。 ※可能でしたら、戦国時代MODフォーラム作ってください! 初レポとはいえ、何度も訂正を入れてしまい反省ばかりです。 次回作の構想を練っていますので、ご期待ください! と云いたいところですが、とりあえず普通にCivを遊びたいと思っています。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (プレイレポ/MOD/尾張の大うつけ!/repPacal03.jpg)<では、またどこかで、会うなり! コメント 本編で完結です! おつでした。 全国制覇編もぼちぼちやっていただければ幸い。 -- 日本語マップをありがたく使わせていただきますね.レポ主ありがとう! -- ~全国版~をお待ち申し上げております。 -- ありがとう。春頃に続編を執筆できように頑張ります! コメント消える(汗 -- 作者 楽しませてもらいました。おつでしたー! -- 名前
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放置 合戦が終わるまで何もいじらず待つこと。言うまでもないが何もいじらなくてもほぼ勝てるレベルの戦力を持っていることがこれをする上での第一条件。毎回合戦にが終わるまで待つ分良兵が出るまで時間がかかるが、殆ど何もしなくても良いのが利点。 退却法 一般的にzorスペースキーで視野を広げ、目的の兵を探す。それと思われる兵がいれば続行、いなければ退却する(兵に触れればステータスも確認できる)。これをしている間はずっと戦じゃんの画面と睨めっこすることになり、さらになかなか目的の兵がでないと疲労困憊することになる。しかし目的の兵を出すのにかかる時間が短縮できる。 鉄砲 勝てるなら雑賀(Lv6)で探そう。稲富(Lv4)国友(Lv3)は砲撃の出現率こそ変わらないものの体力が全体的に低い。雑賀に勝てないなら稲富国友で砲撃を雇うなどの多少の火力強化をすれば勝てる筈だ。突撃してくる兵はいないので、すべての兵を突撃させるとよい。雑賀でおよそ10~15回に1体ほどの割合で砲撃は出現する。 なお退却法もできないことはないのだが砲撃を見極めるのは難しく放置でやるのが基本。 忍者 どこの要所も高体力忍者の割合は変わらないと思われる。藤林(lv2)が最も多くの忍者がでるため、理論上高体力兵の出現率は一番高いのだが、防御の低い忍者は耐久力に劣るという検証結果が出ており、低防御兵が多い藤林で探すべきかは?マークがつく。よって百地(lv5)服部(lv4)あたりで探すのがベターと思われる。良忍者はなかなか出ない為要所を変えて気分転換をはかるのも1つの手である。結界高技量が欲しい場合は風魔(Lv6)で探すのがベターであろう。 良い忍者を見極めることは簡単なので、退却法で探す人が多い。退却法をする場合、自陣に鉄砲、自操作兵と適当な兵数体を残し、残りの兵は最前線中央(相手の忍者に当たらない箇所)に配置し忍者以外の兵が突撃してくるのをなるべく防ごう。そうすれば良忍者の見極めも容易。兵の上に表示される体力ケージをみながら耐久のある忍者がいれば自操作で触れて体力を確認。雇用に見合う可能性のある体力であれば続行するとよい。退却法にくらべると忍者の場合かなり時間がかかるが、放置でやることも可能。それに加え、自操作を業火などにして火遁持ちを調べるのもあり 武将 通信を一切しない間は、上杉(Lv6)毛利(Lv5)で探してもよいが、待機持ち必須の通信を少しでも意識するならやはり裏戦で探そう(裏戦は待機を標準装備なのに対し、その他の要所で待機を持った武将は少ない)。裏戦攻略の頁も参照しながら裏戦に勝てる軍をつくり、探す。釣り戦法or攻防分離でやれば退却法もできる(4秒間隔で号令していればA級、5秒間隔でB級、6秒間隔でC級。連発武将は時々2回連続で号令をする)。退却法を使えば1日でA連×4にすることも可能。ただほかに良兵がいてもスルーせざるを得ない。 治癒軍師(業火) 本願寺(Lv6)で探すのが主流。中には本多(Lv4)産の治癒もみられる。基本的にどこの要所でも出現率自体は変わらないと思われる。ステ、1回当たりに出る軍師の数を吟味すると本願寺で探すのがベター。気分転換に本多などにいくのも手であろう。Lv2はステが低く、松永(Lv5)真田(Lv5)は出る軍師が少ないためお勧めしない。Lv3もLv2に比べればマシなもののステには多少難があると思われそこで探す必要はない。視野を広げ、自操作ONLYで突撃し、十字架を発動する軍師がいないか見る(業火の場合大きな炎を放っている軍師が居るか見る)。もしそれらしき兵がいれば続行。治癒は何回やっても出ない場合が殆どで半分運の要素があるだが続ければ出る可能性はないとはいえない。 なお、本願寺は突撃してくる兵はいないため全軍突撃。本多等ほかの要所は突撃してくる兵も少しいるが要所自体が弱いため普通にやれば大丈夫。 虚報 本願寺(Lv6)か裏戦で探す。その他の要所はステが低くお勧めしない。退却法なら本願寺の場合、同様に自操作ONLYで突撃し、紫の特殊攻撃を繰り出している兵がいないか見る。こちらは治癒や業火に比べれば大分出やすい。 欲しい技種が絞られる場合は別として本願寺では治癒軍師、虚報さがしは並行してやるとよいだろう。しかし治癒軍師が本気で欲しい場合は虚報と並行するとテンポが悪いので虚報はスルーすることも多い。裏戦で退却法をするにしても武将、虚報探しは並行してやるとよい。 弓兵 平地(Lv7)で探すとよい。Lv6Lv5でもいけないことはないがステの面で劣る。基本的に焙烙を見分けることはできないので放置。 足軽 弓兵と同様。槍術を見分けることは可能なので視野を広げれば退却法も可能だがその場合良焙烙がいてもサヨナラなのに加え、さほど時間短縮にはならないためあまりやる意味はない。
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ストーリー攻略/織田信長編/第8章 浅井と朝倉 軍団編成あり(知行18) 目標 京の町の支配 5城以上支配 金ヶ崎城の支配 相手国 朝倉家 浅井家 本願寺 三好家 ヒント 金ヶ崎城を取ると浅井の裏切り、京に三好三人衆が出現するのでそこにコマを待機させない。 上記のイベント以降、切札の使用が可能。 ランクSを取るには浅井・朝倉を滅亡させないと無理? クリア報酬 戦乱モード コメント 三好家を撃破し{京の町の支配}と{5城以上支配}を満たした状態で 金ヶ崎城を取れば《京の町》に三好三人衆は出現せずに勝利となる。 この場合には切札はこの章では使用できないため特技を重視した編成にすると良い。 浅井・朝倉と戦わなくて済む分だけ難易度は下がる。 浅井以外を全て滅ぼしてSでました、三好・本願寺と滅ぼしてから朝倉を攻め金ヶ崎城を最後に落とすと楽です。 -- 名無しさん (2008-08-19 23 25 53) 名前 コメント
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陸奥国 若松 郭外 南(みなみ)町 大日本地誌大系第30巻 172コマ目 中町、花畑通、晒屋町、十五軒町、河原新丁、中横丁、常慶寺町、十軒丁、西横町、堅町、湯川端通、二十軒町、年貢町、若葉丁 ※国立公文書館デジタルアーカイブ『新編会津風土記21』より 外郭の南にあり故(ゆえ)に名く。 蒲生氏の時置く処といい伝えれども詳ならず。若くは此時町割を改増せしにや。 通数条あり。 中(なか)町 南町口の郭門を出て南の方屈曲して大橋の詰に至る。 長1町14間・幅4間余、家数33軒。 大橋(おほはし) この町の南端黒川に架す。 長10間・幅3間。勾欄(こうらん)(*1)あり。 この橋を経て中横町に通す。 →大橋(Google Map) 花畑(はなばたけ)通 中町の中頃より西に折れて花畑大通に通す。 長59間余・幅2間余、家数9軒。 寺院 長楽寺 この通の南頬にあり。 浄土真宗大町融通寺の末寺なり。山號を鷲鷹山といい天正中(1573年~1593年)萬機という僧開基す。 本尊弥陀客殿に安ず。 観音堂 境内にあり 弁天堂 同上 晒屋(さらしや)町 中町の南端より西に折れ黒川の北岸に傍て花畑組町河原通に行く通なり。 長1町20間余・幅1間余、家数15軒。 この地昔布を多く晒せし所故(ゆえ)名けりという。 十五軒(じうごけん)町 中町の北端より東に折れ外隍に傍て熊野口の前に行く通なり。 長1町46間余・幅2間、家数22軒。 足軽同心の居なり。 河原新(かはらしん)丁 小田町河原新丁の末に続き黒川の北に傍て西の方大橋の詰に至る。 長3町40間余・幅3間、家数21軒。 中頃に僅の裏通あり。東西の端よりこの丁に出つ。その形鎹(かすがい)に似る故(ゆえ)俗に鎹丁(かすがひちょう)という。 (南町分の地雑れり) 長福寺趾 この丁の北頬にあり。 加藤氏の時彼家の菩提所にて西本願寺の末山浄土真宗なり。 加藤左間助嘉明寛永8年(1631年)9月12日江戸に於いて卒し、火葬して骨を高野山に送て塔を建て後この寺にて送葬の式を営み、龕蓋等飯寺河原(本郡南青木組飯寺村の西をいう)に送り彼地にて荼毗(だび)す(舊事雑考には材木町の西住吉河原とあり)。棺は六万龕(*2)にて天蓋燈籠等はみな綿繍(きんしゅう)を以て飾り、石塚観音堂の前より飯寺河原にて道の両傍に青竹の埒(らち)を結び、また長柄を左右に建て連子(れんじ)その間に白布を敷詰にして通行せしという。 後加藤家石州(*3)吉長へ所替の時供すべきよし明成強て命ずと雖(いえど)もその勢微々なるに因て行肯せず。成明深く憤(いきどお)りを含むという。後幾くも無して廃寺となれり。 建福寺趾 長福寺趾の地にあり。 延寶8年(1680年)本郡南青木組青木村に移れり。 寺院 文明寺 もと長福寺と建福寺とのありし地なり。 高遠山と號す。醍醐松橋無量壽院の末寺真言宗なり。もと信州(*4)上伊奈郡高遠荘にあり。 開基の年月詳ならざれども文明中(1469年~1487年)草創故(ゆえ)寺號これに因るという。山を高遠と號せしは荘名によれり。 天正の頃(1573年~1593年)堯存(或作行尊)という僧保科弾正忠正に随ひ籌策(ちゅうさく)(*5)の臣たり。その血戦汗馬の労あるに当て先鋒して常に堅きを陥れ戦功頗(すこぶ)る多し。後慶長中(1596年~1615年)肥後守正光に従て総州(*6)多胡に遷り、寛永13年(1636年)肥後守正之羽州(*7)最上に遷るに及で従て彼地に赴く。同20年(1643年)正之封をこの地に移せし時また従て移る。その頃は今の花畑の地にあり延寶中(1673年~1681年)今の地に移り世々当家の祈願所にて寺領100石を付す。 制札 門外にあり。 客殿 8間に6間、南向き。本尊不動。 庫裏 12間に4間。 観音堂 境内にあり。 千手観音を安ず。 相伝う。先に総州香取郡五郷内村に稲荷山樹林寺という寺あり。往古より安置するところ観音の金像一軀あり。この寺囘祿(かいろく)(*8)に罹り堂宇一時に灰燼(かいじん)となれり。近隣の人々あわてて余煙を冐(おか)し観音の像を覔(もと)めるに得ず、後彼の堂の蹟に夕顔一茎を生す。 爰(ここ)に一人の農夫あり。日ころ観音を信心せしがこの時霊夢の告ありて日々に彼の夕顔の処に至り灌培懈(おこた)る事なく、やがて実を結びしかば農夫釆て家に帰り割て見えればその内に観音の金像一軀あり。農夫不思議の事に思い人を集めてこれを見せしむるに、まさしく先に失う所の観音の像なり。ここにおいて人みな奇異の思いをなし、即ち樹林寺の故基に就いて茅茨を結び一宇を構えてその金像を安置せしかば人挙て信仰すること斜ならず。因て夕顔観音と称す。 肥後守正光深く観音を信じ新たにその像を写し鑄さしめ、堯存をしてこれを守らしめしという。 西龍寺 文明寺の東にあり。 浄土真宗京師東本願寺の末寺なり。元亀3年(1572年)了岩という沙門参州(*9)味崎村に一宇の小庵を営み西龍寺と號し住持すること幾くも無して弟子良圓に付属せり。その後鳥居彦右衛門尉元忠甲州(*10)に移封の時檀越の招に応じ甲州に行きまた総州に移る。また左京亮忠政の命により本州岩城に移住しまた羽州最上に移れり。寛永20年(1643年)この地に来り住せりという。 本尊弥陀客殿に安ず。 寶物 親鸞真影 1幅。裏に『慶長十乙巳年六月四日本證寺錄徒三州播豆郡吉良莊味崎鄕大谷本願寺釋敎如判願主良田』と記せり(慶長10年=1605年)。 七高僧真影 1幅。裏書に『元和三丁巳曆九月十三日(虫喰)石城郡平門西龍寺常什物也本願寺釋宣如判願主釋(虫喰)』とあり。 聖徳太子真影 1幅。裏書同上 文書 20通。本願寺より与る処なり。煩しければその要を撮て左に載す(※略) 中横(なかよこ)丁 大橋の詰より南の方弓丁の角に至る。 長1町1間余・幅3間余、家数18軒。 大橋 この町の北端に架す(中町の条下に詳なり)。 常慶寺(じやうけいじ)町 中横町の南に続き末は西に折れて馬橋に至る。 長1町14間・幅3間計、家数39軒。 醫徳山常慶寺ある故(ゆえ)町名とす。 南端を古川流る。石橋を架し東黒川南町分馬橋通に通す。 (南町分の地雑はれり) 別墅(べっしょ) この町の南端東頬にあり。 東南は東黒川南町分の田圃(たんぼ)なり。 寺院 常慶寺 この町の西頬にあり。 曹洞宗上野国白井雙林寺の末寺なり。山号を醫徳山という。 越後国常慶寺の住持慶岩という僧上杉景勝就封の後壇越(だんおつ)(*11)の好を慕いこの地に来り当寺を建立す。時に慶長4年(1599年)なり。後程なく囘祿(かいろく)に罹り悉(ことごと)く什宝を失う。 本尊釈迦客殿に安ず。 白山神社 境内にあり。 相殿一座:稲荷神。 旧家 三善藤四郎 その先藝州(*12)広島の産にて藤四郎長国といい初め宗左衛門と称す。幼にして父に後れ伯父播磨守輝宏に育はれ備前長義が流を酙(く)んで刀剣の工を学べり。子を藤四郎政長といい初めは理右衛門正長と称す。天文中(1532年~1555年)加藤嘉明に招かれ父と共に伊予国末山に至り寛永4年(1627年)従てこの地に来れり。政長が子を藤四郎長道と称す。銘に『陸奥大掾三善長道』と彫しはこれなり。これ等世の知る所にてその業頗(すこぶ)る秀たり。長道より今の藤四郎長道に至て6世相続し月俸を与て家人の列に次せしむ。 十軒(じつけん)町 常慶寺町より西に折れ南に廻りまた西に転じ西横町にです小路なり。 長33間、家数10軒。丁名もこれに因れり。 足軽同心の居宅なり。 西横(にしよこ)町 中横町の西に並びて北は黒川の岸より南は古川の邊に至る。 長1町47間・幅3間余、家数43軒。 堅(たつ)町 黒川の南にて東西の通なり。 東は年貢町より西は漆原堅町通まで。 長6町22間・幅4間余、家数144軒。 東の方に静松寺通、西の方に明栄寺前通とて2条の小路あり。共に南は組町に通し北は黒川の南岸に出つ。 神社 稲荷神社 祭神 稲荷神? 相殿 伊勢宮 地主神なり 八幡宮 勧請 不明 この町の北頬にあり。鳥居あり。 神職 弓田山城 家伝を按ずるに、その先を飯篠山城守直家といい刀槍の術に長せり。後伊賀守長威斎と改む。神道流の始祖なり。直家より6世七郎太夫盛枝という者千世より伝るところ伊勢八幡の神體(しんたい)を奉し廻国の序この地に来る。葦名盛詮神體を勧請し(今の相殿の神なりという)盛枝を神職とせり。後讃岐守盛貞という者故(ゆえ)有て弓田と称す。今の山城長郡は盛貞より7世の孫にて刀槍の秘訣及び伝書等家に伝う。 寺院 静松寺 静松寺通の西頬にあり。 臨済宗南青木組慶山村大龍寺の末寺なり。山號を長壽山という。 もと羽州最上郡にあり寛永20年(1643年)当寺の始祖西堂という僧壇越(だんおつ)の縁を慕いてこの地に来り今の同上を開けり。 本尊観音客殿に安ず。 観音堂 境内にあり。 明栄寺 明栄寺前通の西頬にあり。 浄土真宗京師東本願寺の末寺なり。 そのかみ鈍的という僧この地に庵を結で住せしが文禄3年(1594年)宗観という僧越後国より来りこの庵を修理しその後廃壊せしを寛永中(1624年~1645年)胸察という比丘再興せり。 本尊弥陀客殿に安ず。 福泉寺 この町の末南頬にあり。 浄土真宗西本願寺の末山なり。 慶長5年(1600年)法善という沙門草創せり。 本尊弥陀客殿に安ず。 林昌寺 この町の末北頬にあり。 栄長山と號す。常慶寺の末山曹洞宗なり。 慶長3年(1598年)安作という僧常慶寺の開山慶岩に従い越後国よりここに来り草庵を結んで住せり。これを当寺の祖とす。後松朔・尊説という2人の僧相続いて住す。 本尊釈迦客殿に安ず。 湯川端(ゆがはばた)通 堅町の北に並び黒川に傍て片頬に住す。 東は天神橋の詰より、西は西横町の端に至る。 長6町20間余・幅の広狭(こうきょう)齊しからず、家数20軒。 黒川を俗に湯川と称する故(ゆえ)この名あり。 (東黒川千石町分の地雑れり) 二十軒(にちつけん)町 湯川端通と堅町との間にあり。 東は年貢町より西は静松寺前通に至る。 長1町6間・幅2間余、家数20軒。町名これに因るという。 年貢(ねんぐ)町 天神橋の詰より南の奉田畝に通す。 長1町50間余・幅2間、家数31軒。 町の南端にて本郡南青木組北青木村に界ふ(南町分の地なり)。 天神橋 この町の北端黒川に架す。 長16間余・幅2間、勾欄(こうらん)あり。 天満宮の側なる故(ゆえ)この名あり。 この橋を踰(こ)えて河原新町に出つ。 神社 天満宮 祭神 深沢天神 勧請 建武2年(1335年)~ この町の北頬黒川に傍て一段高処にあり。 葦名直盛鎌倉より下向の時深沢天神を勧請しこの地に祭る。故に深沢天神と称す。当社の北なる黒川の邊をも深沢と唱ふ。 鳥居拝殿あり。 末社 山王神社 伊勢宮の南にあり 稲荷神社 山王社の南にあり 摩利支天神社 稲荷神社の南にあり 天王神社 摩利支天社の南にあり 別当 威徳院 境内にあり。 永命山と號す。郭内延壽寺の末寺天台宗なり。 当社勧請の時延壽寺の弟子英順という僧をして奉祭せしむ。これ当寺の元祖なり。その後数世を経て寛永12年(1635年)の頃灌英という僧住して荒廃を修理す。故にこれを中興とす。 本尊弥陀客殿に安ず。 →菅原神社(深沢天神)(Google Map) 若葉(わかば)丁 年貢町天満宮の南より東にゆく通なり。 長1町9間余・幅2間計、家数5軒。 南は南青木組の田圃(たんぼ)に連なる。東の方に植留屋敷と唱える樹木の圃あり。 (南町分の地雑れり)
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