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無事に家に届きました。 勝間和代さんの 「人生戦略手帳」 です。 いい加減で、めんどくさがりな悪悪ですが、 高い金額払ったら嫌でも使うやろ と思い、 どうしようかと最後まで迷いながら、 思い切って 「ポチッ」 とクリックしました。 おかげで、苦行スイッチがしっかり入りました。 特に、勝間さん大好き!というわけでは無いですが、 手帳に対して、 \12,285 も払ったことないので、 記念に写真を撮ってみました。 今後、購入を検討している人の人柱になりました ので、 気になる人は参考にしてください。 すでに到着待ちの人は、 今は見ないほうが楽しみが増えます。 1.前面 夢水力-090723_1953~001.jpg 2.背面 夢水力-090723_1954~001.jpg 3.側面 1 夢水力-090723_1957~001.jpg 4.側面 2 夢水力-090723_1959~001.jpg 5.上面 夢水力-090724_0346~001.jpg 6.開封 夢水力-090723_2006~001.jpg 7.人生戦略手帳の表です。 裏も同様で、黒一色シンプルなデザインです。 夢水力-090723_2009~001.jpg 8.開くとこんな感じです。 左側は、 左に大きなポケット1つ 左下にKazuyo Katsumatoと印字されています。 右側は、 右に大きなポケット1つ 名刺入れサイズのポケットが3つ ペンホルダー付き 夢水力-090723_2011~001.jpg 9.全く見えないですが、 手帳と同じデザインで、Kazuyo Katsumaと印字されてます。 2009年版リフィルです。 夢水力-090723_2009~002.jpg 10.これも全く見えないですが、 手帳と同じデザインで、アルファベットで勝間和代と印字されてます。 2010年版リフィルです。 夢水力-090723_2009~003.jpg 以上が、人生戦略手帳のスターターパックです。 手帳経験0の人間が、 ¥ 2,940の勝間手帳 を買うだけで、 明屋で、小一時間も悩んでたのに、 さらにハイテクな、 システム手帳 にまで手を出すとは、 我ながら苦行したもんです。 この手帳の真の価値は、 毎月980円のサポートメールにあると思います。 手帳1年生には非常にありがたいです。 手帳に書かれていますが、 手帳単体では効果が半減だそうです。 当たり前と言えば当たり前ですが、 この手帳は、 勝間さんに合わせてオーダーメイドされてる手帳です。 当然、勝間さんが1番使いやすいものでしょう。 今月、AERAから出版された 「まねる力」 AERA MOOK 勝間和代「まねる力」/勝間 和代 ¥880 Amazon.co.jp にも書かれているとおり、 自分が勝間さんの真似をして手帳が活かされるんだと思います。 手帳活用術を学ぶなら、 今回のように、勝間さんの使い方を真似た方が、 最短で最大の効果があると思います。 これを購入する前に、 以前の勉強会で、つっちーさんに見せてもらった、 「フランクリンプランナー」 をチェックしました。 デイリー・スターター・キット(ポケットサイズ) ¥10,290 フランクリン・プランナー そして、 「人生は手帳で変わる」 を読みました。 人生は手帳で変わる―第4世代手帳フランクリン・プランナーを使いこなす/フランクリンコヴィージャパン ¥1,575 Amazon.co.jp この本は、 フランクリンプランナーについて詳しく書かれています。 本書でも書かれていますが、 フランクリンプランナーとは行動を管理する手帳です。 この手帳のフランクリンと名前には、 「時は金なり」 で有名な、ベンジャミン・フランクリンの名前を使っているそうです。 田舎に住んでるので、 フランクリンプランナー置いている文房具店まで、 車で片道1時間 なので、 これを読んで予備知識を頭に叩き込んで、 フランクリンプランナーと小一時間睨めっこしました。 結論から言うと、 自分は、まだこれを活かせるレベルじゃないな と思い、 今回は、見送りました。 このクラスの手帳になると、 活かせない手帳は、 唯のメモ手帳に成り下がってしまう可能性が大です。 それなら、 人生戦略手帳は、 \12,285 1年のサポートメール代込みの値段(月980円×12=年11760円) なので、 電卓打ちながら、 初心者の自分には人生戦略手帳の方が、 費用対効果が高いかな と思って、こっちを相棒にしました。 フランクリンプランナーも良いとは思いますが、 自分にはまだまだ難しそうです。
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- 新規と保守での設計の違い 世の中のソフトウエア開発の知識は、新規開発に偏っています。 そのために、保守開発をしているのにもかかわらず、新規開発のプロセスを踏もうとし、罪悪感を感じながら設計書を書いていることが多いと感じます。 新規開発における設計書は、あるモジュール/機能に着目して、すべてかかれていなければなりません。 けれども保守では、多くの場合修正がモジュール/機能全体には及ばないため、それほどの文書を書けるような工数は用意されません。 現時点での仕様が整っていればまだそれを修正すればよいのですが、保守は修正がわずかであることが多いので、文書改訂をおろそかにしてしまい、母体文書が管理されていない状態です。 よって、修正する部分についてのみの文書を書くことになります。 これは、新規開発での文書の目的「将来の保守に用いる」ということを考えたとき、調べにくいのは明らかです。 実際にソフトウエアを修正するとき、今までの修正理由を調べようとする作業が開発者にとっては大きな負担になります。 悪いことには、古くからいる開発者にはそれがわかってしまうため、過去の修正理由調査に時間がかかる理由は「経験不足」の一言で片付けられます。 こういった雰囲気が、文書化よりも暗黙知を重視する開発現場を作り上げ、古くからいる開発者は抜けられなくなっていきます。 とはいえ、それでは人員のローテーションは出来ませんから、上は文書を残せと言います。 これらから、何の役にも立たない、作るのに時間がかかるだけの文書がストックされていきます。 心あるひとなら、この作業に罪悪感や無駄を感じずに入られないでしょう。 戻る コメント 名前 コメント
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人生逆転ゲーム ◆eodXldT6W6 B-6 ギャンブル船内の一番高級なスウィートルームで盛大にイビキをかいて眠る男が居た…! その名は利根川幸雄… 彼はかつて帝愛のナンバー2であった男である…。 帝愛時代の彼は常に勝負に勝ち続ける事だけに生きてきた…! そう。カイジに敗れ…!バトルロワイアルに拉致される日までは…。 敗北してしまった彼はもはやゴミ…! 皇帝から奴隷への都落ち…! まさに人生転落ゲーム…! そして利根川の意識も序所に覚醒する…。 無気力。 もはや利根川はやる気を失っていた。 死んだような魚の目をし、以前の強大な覇気も失っていた…! 利根川は欝状態になってしまったのだ…! 「死にたい…」 利根川は呟く…! もはや自分の人生は詰み…!もう逆転など不可能…! そんな思いが利根川を駆け巡る…! 利根川はデイパックからワインを取り出し一気に飲む…! デイパックの中に支給品が入っている袋が出てきた。 利根川はめんどくさそうに支給品の中身を確認する…! 出てきた物は「奇抜なデザインのカメラ付きラジコンヘリ」である…。 利根川は気だるそうに説明書を読む…! ( 「Draganflyer X6」は動物の撮影や工事現場、 メディアや公共機関など、さまざまな用途で利用されているようです。 本体の重さは1キログラムと思ったよりずいぶんと軽い。 この「Draganflyer X6」にはMicro Analogカメラが搭載されており、 通常画質の映像であれば本機だけでも撮影ができるようです。 またオプションでデジカメやビデオカメラの取り付け金具が購入可能で、 手持ちのハイビジョンカメラなどを取り付けることによって、 ハイビジョンムービーや高画質写真を撮影することもできるとのこと。 GPSも搭載しており、見失っても見つけることができるようです。 専用のリアルタイム ワイヤレスビデオシステムがあります。 空中で撮影された様子がメガネを通してみることができます。 行動範囲は半径2キロです。「エリア2マス分の距離」 注:このラジコンは禁止エリアに入ると自爆します。) 利根川はやる事も無く暇なのでラジコンヘリで遊ぶ事にした…。 利根川はギャンブル船の最上階のデッキに登りラジコンヘリを飛ばす…! 北東方面にラジコンヘリを飛ばす…! しばらくヘリを飛ばしていると悪の組織が利用するアジトみたいな建物が見えた…。 利根川はアジトの周りを偵察するが中に入る窓や隙間が無い為断念する。 利根川はしばらくラジコンヘリで遊ぶ…! 「フフフ…」 利根川は海沿いをヘリで走らせた後回収する。 少し気分転換出来たお陰で気分も多少良くなってきたようだ…! ワインを飲んだお陰でアルコールが回り気も強くなってきた…! 「もう…!どうにでもなれだ…!一度死んだ身…! これから何が起きようがそれを受け入れるのみ…!」 「脱出出来るかわからんが…!動かなければ確実に死…! 生存確率が僅かでもあるのなら…!それが地獄に垂れた蜘蛛の糸を上るような低い確率でも乗ってやる…!」 利根川の覇気が次第に蘇ってくる…! アルコールの力による一時的な奮起かもしれない…! この男にその後待ち受ける運命や如何に…! 【B-6/ギャンブル船 デッキ/一日目/深夜】 【利根川幸雄@逆境無頼カイジ Ultimate Survivor】 [状態]:健康 悪酔い [服装]:スーツ [装備]:Draganflyer X6 [道具]:基本支給品一式、シャトー・シュヴァル・ブラン 1947 (1500ml)@現実×30本 :特上寿司@現実×63人前 Draganflyer X6@現実 予備バッテリー残り×5本 [思考] 基本:ゲームからの脱出 1:一度死を覚悟した事によって脱出の可能性に賭ける! 支給品解説 【Draganflyer X6】 アメリカの某メーカーが作った業務用ヘリです。 3本のアームに6つの回転翼を付け、11個のセンサー(GPSを含む)を備えております。 1本のバッテリーで約30分稼動します。 残りバッテリーは3分の1です(約10分飛ばせます) 定価「16万ペリカ(160万円)」 時系列順で読む Back 十人十職 Next Overlooking View 投下順で読む Back 機動戦士ホンダム00~ツインドライヴ~ Next Overlooking View 020 Vince McMahon 利根川幸雄 079 大逆転物語 -THE MIRACLE OF THE ZONE- (2)
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わきがの臭いがきついからといって、嫌われることがあります。 そのような友人とは仲良くする必要もないでしょう。 しかし、初対面の人にいきなり臭いと思われたくないものですし、そうすべきだと言えます。 わきがの手術をしなくても、臭いを抑える方法はたくさんあります。 いろいろな方法を試してみて、自分にぴったりの方法をみつけていくべきです。 合う人と合わない人は、商品によって結構しっかり分かれますからね。 汗の臭いを防ぐデオドラントスプレーもクオリティがアップしており、毎朝簡単に臭いを消すための行動を起こせるようになっているのです。 嫌われることを考えるのではなく、次に出会う人と仲良くなれることを考えるようにしましょう。 そして、わきがであることを指摘してこない女性を見て、自分ならしっかりと声をかけられるようにしたいと考えればよいのです。 わきがは辛いことですが、治す方法がないわけでもありませんし、人の辛い気持ちが分かる用になるとも言えます。 スキンケア化粧品を販売しているところは色々あります。昔からあるのは百貨店の化粧品コーナーや化粧品専門店での対面販売です。 もっとも対面販売で良いのは、販売員のアドバイスを聞きながら選べることです。 スキンケア用品を決めるのに不可欠なカウンセリングを受けることも可能です。 スキンケア用品の使い方を細かく教えてもらいながら、スキンケアを直接その場でしてもらえる場合もあるようです。 新商品の発売は毎月のようなさまざまな化粧品メーカーからされているようです。 新しいスキンケア化粧品の情報を、販売員がいるお店であれば逃すこととなく知ることができるでしょう。 肌トラブルやメイクの悩みごとなども聞いてもらえます。化粧品販売のプロがいることが、専門店や百貨店でスキンケア用品を購入する際の魅力です。 対面販売の場合のマイナス面は、販売員に熱心に勧められて、自分が購入するつもりだったものの他にも買ってしまうことがあることです。 ひと通りスキンケア用品を揃えようとするとかなりの値段になってしまいますし、なかなか断れない性格の人は販売員と話すのが嫌だと思う人もいるのではないでしょうか。 楽しいのはその場で肌診断などをしてもらいながらスキンケア用品をあれこれ見ることかもしれません。 自分に必要のないものははっきりと断るつもりで、専門店などで直接購入する場合には出向いたほうが良いかもしれません。 わきがもスキンケアでケアすることは可能です。 例えば、化粧水タイプのデオドラント剤であれば、お肌の乾燥を防ぐと同時に臭いも抑えてくれます。 参考:わきがチェックする人の不安を解消するジェル!【ネット通販限定】
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目次 1.もう一人の自分に気づく 2.使命の自覚 3.悟りとは「これが私だ。」と言いきれること 4.悟りの道程 5.自らを捨てるということ 6.執着を捨てる想念のトレーニング 7.偽物の自分との対決 8.心に執着なく、日々湯上がりの気分で生きる 9.心の原点回帰 10.中道からの発展 11.自己チェックと中道 12.「反省、感謝、与える愛」の循環 13.愛の行為と真心 14.人生に光彩を放つ瞬間 15.時間の大切さを徹底的に知る方法 16.夢は時間と空間を拡大する 17.勇気の原点 18.努力するという名の幸福 19.新しき世紀へ向かって 1.もう一人の自分に気づく 悟りの話をいろいろとしてまいりましたが、いちばんだいじなことは、まず目を開くということです。世の中にはあまりにも、目の開けていない方が多すぎるのです。その目を開くことによって、まず第一歩がはじまると言ってよいと思います。 では、目を開くということは、いったいどのようなことでしょうか。それは、もう一人の自分に気がつくということであります。すなわち私たちは、どうしてもこの目で見える肉体がイコール自分であると思っているのですが、実際はそうではなく、この肉体舟を支配しているもう一人の自分がいるということに気づくことが、まず出発点であるということなのです。これに気がつかずに一生を終わってしまう方が、いったいどれほどいるかと思うと私は残念でなりません。 幸いに気づくことができた人のなかにも、もっと早い時点で、もう一人の自分に気づいていたならば、その人の人生はおそらく変わっていたということもあるでしょう。みなさん方のなかにも神理に出会われてからと、出会う前とでは考え方がガラリと変わってしまったという人は数多くいらっしゃることと思います。私自身もまったく変わってしまった一人です。 もう一人の自分を知るということは、けっきょく、新たな視点を得るということと同じです。自分自身をみつめ、自分の人生を考える意味で新たな視点を得るということです。その新たな視点とは何かといえば、それを言い換えれば「霊的人生観」ということだと思うのです。 この「霊的人生観」の観点から自分をみつめたときに、まったく違った自己像というものが浮かんでくるのです。それまでみなさんは、少なくても肉体の我という視点で、ご自分をみつめて、あくせくしたり、悩んだり、苦しんだりされていたと思いますが、霊的自分、もう一人の自分と出会ったときに、その世界観はおそらく違ったものになるであろうと思います。 2.使命の自覚 私自身、前にも語りましたように、霊的世界があることを気持ちの上では一〇〇パーセント、実感としても九九パーセント信じていたわけであります。しかし、実際にそのような世界が、厳然としてあるということを知ったときには、やはり、これは容易なことではないという感じを受けました。 笑い話かなにかのようにいわれていた地獄や悪霊や悪魔という存在が、これはやはり現実のものであり、自分とかけ離れたところにあるものではないということです。そして、この地上に生きているみなさんが、もしかすれば、今後かれらのような運命をたどるかもしれないということに気づいたときに、私は、これは大変なことになったと思いました。 この事実を知っている自分はどうしなければならないのか。だれもが、この地上の人生だけを通ごせればよいと思っているけれども、その行く先がどのようになっているのか、それを知った人間として、自分がどうしなければならないのかを考えたときに、ひじょうに重い使命感を感じたのを覚えています。 それはちょうど、列車事故が起こりそうなことに気づいてそれを避けようとしている人のたとえにも似ているであろうと思います。少し先に行ったところで落石事故があって、線路の上に大きな石が落ちている、あるいは、レールがはずれている。このような危機を発見したときに、そばには赤旗もなければ、何もない。しかし向こうからやって来る列車をなんとか止めないと、これは大惨事になる。このような状況で、必死に手を振っている人の姿にひじょうに似ているように思います。 ところが、大部分のみなさんは、この列車の乗客のごとく、客車のなかではまったく安心しきっているわけなのです。そして談笑し、新聞を読んだり本を読んだりして過ごしているのです。目的地に間違いなく着くものだと信じています。ところが、その少し先に落石があって、線路がふさがれている。このときにどうやってそれを教えるのか。そして、そのことを知っている者が、自分以外にだれもいないとすれば、はたしてどうするのであろうか。大変な状況です。まさしくこのような感じにも似ているといえましょう。 もし、人生の早い時点でこの霊的人生観というものを持っており、そしてそれに基づいていかに人生を見、生きてゆけばよいのかということを悟っていたとするならば、大部分の方は将来ぶつかるであろう事故から身を守ることができ、大惨事といったような未来図はなくてすむのです。しかし、あにはからんや安閑としているうちにそのような道をたどっていくことになるわけです。そして、この事実に気がついたときに、じっとしていられないのは私だけではなく、おそらく読者のみなさんもそうであろうと思います。冗談や、あるいは創作でこのようなものを書いているわけではありません。これは真実、そうであるから、そうだと私は書いているにすぎないのです。 3.悟りとは「これが私だ。」と言いきれること さてそこで、そのようにもう一人の自分に気づくこと、そこから、やがて悟りというものが近づいてくるわけです。私は、ほんとうの自分に出会うということを、『太陽の法』で次のように説明しております。 「自分で自分の心を探究しないで、いったいだれがこの真実を教えてくれるというのでしょうか。あなた自身が、あなたの真実の姿を語れずして、いったいだれがそれを語ってくれるのでしょうか。『悟り』とはほんとうの自分自身に出会うことです。ほんとうの自分の真実なる心を自分自身で語れることです。これが『私だ。』と言いきれることなのです。」これは、私なりの悟りを語ってみたものです。もちろん、悟りの定義にはいろいろあるでしょう。いろいろなアプローチ、切りロがあり、いろいろな説明ができるのは言うまでもありません。いろいろな説明ができますが、それなりに悟りというものをつかんでしまう必要があるのです。それをわかりやすく言ってみたものです。悟りとは、ほんとうの自分自身に出会うこと。そしてほんとうの自分自身の真実なる心を自分自身で語れること。つまり、「これが私だ。」と言いきれることである、と定義したわけなのです。 禅のなかでも、「悟り」とはなにか、ということは大きな問題であるのでしょうが、基本的に禅宗などで求められている悟りというものも実はこういったことであろうと私は思います。「これが私だ。これがほんとうの私だ。」と言いきれること。このあたりと禅宗などで言っている悟りとは、ほぼ同義であると言っても過言ではないでしょう。もちろん、それがすべてではありません。しかし、出発点なのであります。 みなさん自身、自分をふり返ってこれがほんとうの自分だと語れますか。ほかの人に対して、私はこういう人間です、これがほんとうの私です、真実の私の姿ですということを語れますか。すなわち、言葉を換えるとするならば、神の子としての自分を見出すことができたか、自分の内なる仏性をつかむことができたかどうか、ということなのです。これがだいじなわけです。 4.悟りの道程 また、悟りの道程としては、「自らを知るとは、自らが神の子であることを知ることです。神の御心(みこころ)を知るということなのです。そして、目をひらくとは自らの霊性に気づき、四次元以降の実在界の存在に対して心をひらくということなのです。」(『太陽の法』)と説明しています。したがって真実、目を開きたいならば、まず自らの心の探究をすることから始めるべきであり、神の国への手がかりは、そこにあるということなのです。 自らが神の子であることにまず気づくこと。では気づくためにはどうするか。それは、まず自らの霊性に気づくこと、霊的存在であることに気づくこと。そして、四次元以降の実在界の存在に対して心を開くことです。自らの内に宿る霊的なるものを知り、さらに四次元以降の世界の探究に進むわけです。ここへ進まなければなりません。 私たちが、いろいろなかたちで勉強しているものもやはり、このような手順を踏んでいるわけです。各人の心、この正しき心を探究していって、そして心の探究からやがて、目は四次元以降の世界に開かれていく、真実の世界への旅立ちとなっていくのです。ほんとうの世界を知りたいという思いです。そして、その思いは、おのずからそれを成就し、達成することを要請するものです。 5.自らを捨てるということ ここで私は、「自らを知るためには、自らを捨てることです。」と提唱してみたいと思います。この「捨てる」ということは、いったい何かということですが、本物の自分を知るためには、偽物の自分を捨てなければならないということです。つまり、偽物の自分に気づくことが、偽物の自分を捨てる第一歩となります。 後生だいじに、これが自分であると、あるいはこれがいちばん大切なものであると思って握っているもの、これは各人各様にあるのです。これこそが自分であり、これが失われたならば、自分は大変なことになってしまう、と思っているものが実はたくさんあるのです。 ところが、それはたいていの場合、その人の人間性にとって、ほんとうは本質的でないことが、往々にしてあるのです。たとえば会社の社長さんであれば、その人にとっては社長であることがすなわち自分であり、これを捨てては自分の自己実現の場はない、自分にはもうこれしかないと思っていて、その地位を握りしめているけれども、ほんとうはそれを取り去ったときに、その人自身が出てくるということがあるのです。残念ながら人生はそうしたものなのです。それを握っているうちには、なかなか出てこないのです。捨てたときにはじめて現われてくるのです。これは、地位だけでなく金銭に対する考え方でもそうです。また、成功に対する考え方においてもそうです。 私自身もこの道に入るときは、いっさいを捨ててしまったのです。もうどうなってもよい、ということで自分を捨てたわけでありますが、その結果やはり、捨てれば逆に与えられるということを経験いたしました。不思議なことです。仲間を捨てれば仲間が与えられるのです。 「いままでの人間関係も、もう全部捨てよう。この道に入るために邪魔になるならすべてを捨て、清算する、今までのつきあいもいらない、お金もいらない、もう何もいらない。それでもかまわない。ただ、もうやるしかない。」ということでいっさいを捨て去ったときに、その結果、逆に仲間は増えてきたわけです。 ご存じのように、いま駆けつけてくださる人がどんどん増えてきて、ますます発展しています。不思議なくらいです。なぜこのようになるのか、私もよくわかりませんが、どんどん発展していきます。他の会社と違って資本金ゼロではじまって、儲けようという気などもさっぱり起きなかったのですが、どんどん人が増えてきて、ますます事業が大きくなり、客観的に成功していくのですから、まことに不思議です。特にそのようにしなければならないとは思っていないけれどもそうなるのです。捨てれば与えられるというのはほんとうのことなのです。また、人間関係においてもそうです。捨てたら与えられるのです。 6.執着を捨てる想念のトレーニング お金などでも、儲けよう儲けようと思っている人がいると思いますが、あまり思っているとかえって儲からないということもあるのです。それはなぜかといいますと、執着の強い人は、まわりの人からみていると、いかにも金儲けをしようと必死にやっているな、という感じが漂ってきてだんだんいやになってくるのです。そして、その人の商売に協力したくなくなってくるということがあります。 なにか知らないけれども、この人から買うよりは、よそで買ったほうがいいとか、この人に売るよりは、安くてもいいからよそに売ってやろうとか、そのような感じにだんだんなってくるのです。こういった波動というものは微妙に出てくるのです。別に、ルンペンになることを勧めているわけではありませんが、どこかで一度思いきって捨ててみるという気侍ちも必要であると思います。少なくとも精神的に捨ててみるのはだいじなことです。 実際に貯金通帳をゴミ箱に捨てる必要もありませんし、家を捨てる必要もありませんが、精神的に自分が後生だいじに思っているもの、これを取り去ればどうなるかというところを、一度真剣に考えてみる必要があるのです。これは一つの賭と言えるかもしれませんが、意外に精神的に楽になるかもしれません。自分が、これだけは、とつかんでいるものが、意外に自分を苦しめている元凶であるのかもしれません。そういうことが、大いにありうるものなのです。 それはまことに不思議な感じなのです。会社の新入社員であれば、自分はこんな小さな会社のなかで一生通ごすなんてとんでもないこと、ほんの自己実現の足がかりの舞台ぐらいでしかない、と思っているわけです。そしていずれは世界を股にかけて大きな仕事を、などと普通思っているのですが、入って何年かたっていくうちに、給料の百円か二百円の差が気にかかってくるのです。 またボーナスともなれば同期と比べて十円、二十円の差が気にかかってくるというように、だんだん小さな自分になっていきます。いつかしらず、そういうようになっていくのです。そして、そこから逃れがたい自分というものを発見していくのです。 それをいっぺん全部とりはらってみれば、意外に大きな自分が出てくるのです。小さなもののなかに、ほんとうは押しこめているのです。アラジンの魔法のランプのように出てくれば巨人となるのだけれども、ランプのなかに入ってしまって、普段は小さくなっているのです。ほんとうはもっと大きなものであるはずが、小さくなっています。その自分を小さくしているもの、この偽物の自分を捨てるということを考えてみる必要があるのです。 いま自己実現のブームということもありますが、これとは逆に、「これこそが自分のすべてだ。」と思っているものをいったん捨ててみればどうなるか、この想念のトレーニングをやっていただきたいのです。 たとえば、主婦の方であれば、子供が自分の生きがいという方がたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。実際に、子供を捨てたりすれば問題はありますが、子供という生きがいを取られても、はたして、生きていくに足る自分であるのか、生きるに足る人生であるのか、こう考えたときに、はたと気づくことがあると思うのです。 この子こそは、この子だけはと思って、目のなかに入れても痛くないような感じを抱いている人もいるけれども、これを取ったときにどうなるのか。このこととは、いったんどこかで対決しなくてはいけないことなのです。 もし、真に捨てることに成功したならばそのときにはじめて自分というものがどれほど重いという感じで日々を生きていたのかがわかります。実際、肩やからだが重いのです。それはいろいろな精神的な執着を持っているからなのです。確かにこれは精神的なものから来ているのですけれども、ほんとうに重たいのです。 ですから、これを取り去ったときにどうなるかといえば、ほんとうに体が軽くなるわけです。その感じをたぶん得られると思います。人の心にはいつかしら、これがあって当然だというような執着がミノ虫の殼のようにたくさんついているのです。冬は寒いからこのようなミノ虫の殼のようなものがないと生きていけないと思って、葉っぱをまわりにいっぱいつけているのです。そして、これこそが自分であると一生懸命に思っている姿なのです。 7.偽物の自分との対決 ①他人から愛を奪い取る自分 それでは、この自分を小さくする偽物の自分というものを、いくつかあげてみましょう。まず「他人から愛を奪い取る自分」というものがあります。これにあたる人はかなり多いのではないでしょうか。よく考えてみてください。このようなことは、教えられなくては意外にわからないのです。 「他人から愛を奪い取る自分」、これを偽物の自分といわれて、びっくりされないでしょうか。これこそが人生の目的だと思っていたのではないでしょうか。これがために生きていたのだと思ってはいませんか。一般の人はこのようなことをいわれると、びっくりするのが普通です。「他人から愛を奪い取る自分」、これを偽物と言われればいったい本物はどこにいるのだろうかと心配してしまいます。 より多くの愛を奪い取れる自分、これが欲しくていい学校も行くし、いい会社にも行くし、いい奥さんももらいたいし、いい子供も欲しいし、いろいろありますが、けっきょく、愛を奪いたいから、もっと愛が欲しいからこのようになっているのだと思うのです。 しかし、ここで待てよと思ってみると、意外な発見があるのです。それは私たちが生きている真の世界の発見であります。私たちは実際どのような世界に生きているのだろうかというと、第3章の「すずめと太郎」の話の章(『太陽のメッセージ』、『太陽の法』第3章)で説明いたしましたが、実は与えられっぱなしの世界のなかで私たちは生きているのです。 考えてみれば私たちは実にいろいろなものを与えられています。まことに不思議な感を覚えるかもしれませんが、すべて与えられているのです。よくよく考えてみれば、いちばん大切なものは、すでにただで与えられているのです。 ただで与えられないものは、それは人間がせかせかとしてつくったものであり、売り買いしているものなのです。ところがいちばん本質的な部分、水とか、空気とか、太陽の熱とか、このようなものは全部ただなのです。これは不思議です。与えられているのです。そうしたものがあればこそ、動・植物も存在し、人間も基本的には生きていけるようになっているのです。そんなに贅沢(ぜいたく)さえ言わなければ、ほんとうは死にはしないのです。 ところが人間は、そういうなかで自分たちでいろいろな価値観を築き、文化をつくって枠をはめ、そのなかでルールをきめて、こうでなければ生きていけないというものをたくさんこしらえてきているのです。もう一度これを原点に戻してみる必要があるのではないでしょうか。 このような与えきり、すべて与えられている世界にいながら、いったい何を欲しがっているのでしょうか。それでもまだ、もっともっと欲しいと言っているのが人間なのです。お金持ちであっても、まだまだお金が欲しいと言っているのです。感覚が麻卑(まひ)してくるのでしょうか。そしてますます自分の肩書きや地位がついてくると、だんだんと、もらうことのほうが当然だと思いがちになってきて、次第しだいにそれが、まったく当然のことと思うようになってくるのです。 昔から、地位・名誉をいけないものの代表のように、言いましたが、これは地位・名誉そのものが悪いわけではなくて、高いところに登ってしまうと与えられているということがわからなくなるということが、その理由となっているわけです。実際、大名仕事をやっている人などをみると、自分がどれだけ与えられているか、感謝が足らないかということが、わからなくなっているケースが多いのです。それで、よく地位や名誉が否定されることになるわけです。 しかし、高い地位についている方が悟っていれば、それだけ大きな影響力があるわけでありますから、ほんとうはそれ自体は悪いことではないのです。ところが、だいたい人は高く登れば登るほど、与えられていればいるほど、不思議なことに、もっともっと奪いたくなり、そこに「足ることを知らない心」が生まれてくるのです。しかも、本人はそれが地獄的な心であることにすら気づかずに自らの人生を終わっていくのです。ここに悲劇が生まれるのです。 ②神を信じない自分 偽物の自分としての二番目には、「神を信じない自分」というものがあります。もっとも憐れむべきなのは神を信じず、神が創られた世界を信じていない人たちです。そして人間とは男女の性的結合の結果、偶然に生まれて、一人一人がばらばらの個人として生きているのだと思っている人たちなのです。ここに最も憐れむべき偽物の自分があるのです。「証明のできない神など信じられない。信じろというならば、証拠を出せ。」という人はもうすでに神を裁いていて、神を裁けるほど自分が偉いと思い上がっているのです。 人間は地球の誕生以前からいらっしゃる神の存在を証明することはできません。できるとするならばそれは、やはり二つの思い上がりにすぎないのです。悠久の昔からある神の存在、この地球の歴史そのものでも四五億年以上もあるのです。私たちの人生はわずか七、八十年です。この一億倍に近い時間のなかを、この地球は生きていて、そのなかでいろいろな生命を育んできているのです。この地球を四五億年間生かしてきた神の御心が、私たちに、はたしてわかるのか、と考えたときに、これをわかると断定するのは、かなり傲慢な考えであると言えるでしょう。 ですから、人間というものは次第に地位が上がって、そして自分が得意になってくると、自分が認めたくないもの、自分が納得のいかないもの、証明できないもの、このようなものは値打ちがない、意味がないと思いがちなのです。偉い人ほどそうなっていきます。私が見ていると、偽物の自分というものが仮面のようになっていて、それがガチガチにくっついていてもう取れないのです。自分の立場、たとえば大臣だから、博士だから、あるいは会社の社長、重役だからという仮面を通してしか判断できなくなってしまい、自分はこういう考えをする、判断するということを変えることができないようになってくるのです。これは、ひじょうに恐ろしいことなのです。 ③精進しない自分 偽物の自分の三番目は、「精進をしない自分」です。これはほとんどの方が思いあたるのではないでしょうか。これを、さらに細かく分けるとすれば、第一は怠け心がある自分。第二に神理を学ぼうとしない自分。第三は他人を公平にみない自分。第四に素直でない自分。このようなものがあげられます。ここまで言われて、あたっていないという人はめずらしいのではないでしょうか。 怠け心、これはだれにでも、みなあります。私にも、まったくないとは言えないので、あるものはあると言わざるをえません。ですから、これは出ざるをえないものなので、そのつど点検をするしかないわけです。怠け心が出て、いけないと思えばそこで頑張ることです。時どき自分に対して意識的に引き締めをしないとだめです。そうしないと、いつの間にかだらだらとした人生になっていきます。 生活にいろいろな刺激と張り合いがなくなってきて、惰性で生きてゆくようになってしまうので、このようなときには、もう一回締め直しが必要です。その締め直しとは何かといいますと、やはり自分なりに目標をつくってみることです。あまり、先の長いことではなくてもよいのですから、少なくとも、三か月、六か月、一年くらい先の目標を一回立ててみることです。自分の生活が惰性になってきて、怠けてきたなと思ったときに、それなりの目標を立ててみること、これが大切です。 私もこの、人間が怠ける習慣があることを自己観察によって、よく知っているので、なるべくみなさんにはいろいろな目標を設けていただけるようにしているのです。それでいろいろな課題を与えたり、目標を与えたりしているわけです。人間は甘いもので、そうしていないとどうしても怠けていくのです。 二番目は「神理を学ぼうとしない自分」、これも同じような意味がありますが、学ぶというだけであっても、全然違うことを学んでいる人はたくさんいるからなのです。私はそれを見るにつけ、ひじょうに気の毒になることが多いのです。知識の世界においても、第一巻のほうでも少し触れましたが、学者の論文などを見ていますと、方法論だけに終始しているものが多いのです。たいへん残念です。いろいろな資料から断片を引っ張ってきて、注を付けることに生きがいを感じている人もいるのです。注をつけて、何とかいう本の何ページの何行目にはこう書いてある、ということの正確さを一生懸命に競っているのです。いかに人が見ていないような資料を引っ張ってくるかということに生きがいを感じているのです。そしてそれが知的なことだと思っているのです。 このようなことを霊的に見れば、ほんとうは全然価値がないのです。それどころか、もしかすると人間の魂を、もっともっと狭めているのかもわかりません。ものごとをいつも顕微鏡で見ているような、そんな頭になってしまって、その枠をはずせないのです。ほんとうのものがわからなくなっているのです。まことに残念であります。 真の創造の意味 また、将来、機会があれば創造に関する本、あるいは創造法であるとか、独創法というような本を書いてみたいと思っているのですが、これなども、現在ひじょうに有名な方々が書かれたものを見ていても、創造というのは、やはり異質なものの組み合わせであるとか、断片の組み合わせをすればよいであるとかということが多いのです。 彼らは地上的に、いろいろとあるものを組み合せて、そのブレンドのしかたで、創造性が出てくるのだということを言っています。三次元的な創造性では、確かにそのようなこともあるかもしれません。しかしながら、それは創造性というよりも、むしろ、仕事のしかた、仕事術ということであって、そこではそういうことはあるかもしれません。ところが、真の創造とは何かを知ってしまったならば、このようなものは、ほんとうはおかしくて読めないのです。 エジソンには申しわけないけれども、真の創造というのは九九パーセントのイスピレーション(霊感)と一パーセントのパースピレーション(汗)であるといったように、まったく逆のところがあるのです。組み合わせではないのです。 ほんとうにすばらしいアイディアというものは、実在界にものすごくあふれているのです。もういくらでもそこから引っ張っていってほしいというように、実在界はアイディアの宝庫なのです。そして、現にアイディアを与えたいと思っている人が、いくらでもいるのです。これを受け取ることをしないで、何を一生懸命に資料を集めているのでしょうか。そういう感じがします。ほんとうの創造とは、そうした実在界にあふれているアイディアをどのように引っ張ってくるかということなのです。 そのための方法はどうしたらよいのかというと、これは霊道を開けとは言いませんが、実は天上界にアンテナを向けて波長が合えば、実際上、引いてこれるのです。私などは、ぽーっとしていると、インスピレーションがどんどん降りてきて、アイディアもどんどん湧き出てきて、現実的には対応できなくなるほどなのです。それにすべて対応していると仕事がいっぱい増えてくるので、なるべくインスピレーションを受けないように、一生懸命に努力して囲いをつくっているくらいなのです。実際につぎからつぎへと新しいアイディアが降りてくると、かえって仕事ができなくなるので、降りてこないようにバリヤーを張っています。 神理に目覚めて、努力して、心が澄んできますと、インスピレーションはどんどん降りてきます。それは嘘のように降りてきます。ですから、これは仕事の世界でも同じことなのです。みなさん方も仕事の世界で、いろいろと悩むことはたくさんあると思いますが、そのようなときには、自分の心を正して、瞑想をしても、瞑想しなくても同じことでありますが、この守護霊や指導霊のインスピレーションを受けられるようになってきますと、すばらしいヒントや、まったく思いがけない新しい仕事上のアイディアが、いくらでも出てくるようになります。 それは、現在の時代の考え方としてはせいぜいこのようなものだとみな思っているけれども、過去の文明の時代においては、違った社会制度があり、違った会社のような組織があり、いろいろなやり方を工夫していたわけです。このときの知恵を引っ張ってくることができるようになれば、アイディアに限りがなくなってきます。この世的な工夫だけではすまなくて、いろいろなところに出てきます。 ですから、おそらく、こういうことが可能になってくれば、人の頭脳の力というものはものすごく増えていくことになります。生きている人間のIQは、計っても、せいぜい高くて二〇〇くらいでありますが、これがたとえば、実在界の天才の頭脳を五人分引っ張ってくるだけで、IQ二〇〇〇くらいの値打ちになってきます。あるいはそれ以上になります。 このように、実在界にあふれているアイディアを引っ張ってくるということ、これがだいじです。そうしますと、商売をしていても、事業をおこなっていても、つぎつぎと信じられないほど、いろいろなアイディアが出てきます。私はこのようなことをみなさんに、ぜひ知ってほしいと思います。 三番目に「他人を公平に見ない自分」。公平に見るということは、ひじょうに難しいことです。どうしても、自分というものが入ります。 また、四番目に、「素直でない自分」です。これも、うなずかれる方は多いと思います。人間はどうしても素直ではないのです。なぜ素直でないかといいますと、何十年も生きてきて、自分はこういうやり方でなければ生きてゆけないという、自分なりの癖ができているのです。このような人は、それなりの生き方をしますし、その生き方を人に押しつけるか、あるいは、その生き方を通して人を見ます。 素直になるという気持ち、これは常に自分を引き戻してみる努力をしていないと、なかなかなれないのです。社会に出てから、素直に生きる、などということを教えられたことがあるでしょうか、もう忘れ去って久しいのではないでしょうか。子供のときには、素直になりなさいと言われたことがあったとしても、大人になってからは、もう、一度も言われたことがない人が多いのではないかと思います。これを忘れているのです。そして、その素直さを忘れた心が、物事を正しく見えなくしているのです。 ですから、また反省法でもとりあげてみたいと思いますが、正見の一つの要素も、この素直さなのです。心が素直でない人は、正しく見るということはできないからです。素直でないということは必ず歪んだレンズで、歪んだ像を見ているのと同じです。それでも、自分は物事を正しく見ていると言う方もいるかもしれませんが、「貴方は素直な方ですか」と聞いてみたとき、「いや、やはりいろいろとひねくれた考えをするようです。」という答えであるなら、残念ながら、おそらくその人の目に映っている像もどこか歪んでいるはずです。素直でないと、百パーセントありのままの映像は映りません。 ④執着だらけの自分 四番目は、「執着だらけの自分」というものをあげることができます。これも難しいことです。執着というのは、霊的に見れば、まるでトリモチのように見えます。執着のある人を見ていますと、その人の頭の上であるとか、肩の上や、手のなかであるとか、何かトリモチがついた棒きれを、いつもくっつけているような感じがするのです。 その人が動いていく、いろいろなところでくっつけているのです。それは、たとえばハエ取り紙と同じといってもよいのですが、そのようなものをぶらさげていれば、いろいろなところでゴミをくっつけていくのは当然のことなのです。しかし、実際上、心というものは、そのようなものなのです。ハエ取り紙のように、いろいろなところで、いろいろな事件にあうたびに、ペタペタといっぱいくっつけてゆくのです。そして、それが落ちていないのです。それを霊的な目から見れば、いろいろな人の言葉とか、事件とか、悩みとか、そのような想念が、毛玉のようにたくさんくっついているのがはっきりとわかります。 水晶玉のようなものもありますが、だいたいは毛糸の玉のようにいっぱい毛が出ているのです。そしていろいろな物がこれについているというのが実際であろうかと思います。ですから、トリモチのようにいろいろな物がつきやすいのが自分の心であるから、いま自分には何がついているのかという観点をぜひとも持ってほしいのです。 自分の心にいま何がついているか、今日一日で絶対何かつけているのは間違いないのです。何が今日ついたのか、一日の間に起きた出来事や、思ったことが原因で何かついているものがあるはずなのです。これをふり返ってみることです。何がついたかを考えて、それが適切なものかどうかを考えてみるのです。そして、それがそうでないものであると気づいたときには、やはりこれを取っていく作業が必要になってくるわけです。 ではなぜ執着を捨てなければいけないかと申しますと、別の言い方をすれば、人生は無常なものであり一日一生の思いで生きなければ、執着だらけのままでいつ何どき死に見舞われるかもしれない。ですからけっきょく、いつ死んでも、未練を残さないであの世に旅立てるような自分にしておきなさい、ということなのです。まだまだ先があると思ってあとでまとめて清算しようと思っても、そのときは意外に早く来ることがありますよ、ということなのです。 天国ではこのような執着を持っていては生きられないのです。ですからこのような事実を知って、いつも毎日毎日決算を終わっておきなさいということです。決算を終わっておきなさいということは、帳簿尻をちゃんと合わせておきなさい、今日一日の商売をみてどうなったかをガッチリと合わせておきなさいということなのです。あとで、まとめてやろうとはしないことです。
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とりあえず、未完成なので、ブックマークのみ Ubuntu12.04にPT2導入 Ubuntu 12.04LTS(Daily Build)+recpt1(http版)導入 (PT2) PT3のLinuxドライバがすでに完成の領域
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◆ZFT/mmE33. 氏 話数 タイトル 登場人物 103 未完成の自画像 ラルク、イカルゴ、まん丸、ムックル 登場させたキャラ 1回 ラルク、イカルゴ、まん丸、ムックル 名前 コメント
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【TOP】【←prev】【HuCARD】【next→】 遊々人生 タイトル 遊々人生 機種 PCエンジン 型番 HC63008 ジャンル テーブルゲーム(ボードゲーム) 発売元 ハドソン 発売日 1988-4-22 価格 4500円(税別) 人生ゲーム 関連 Console Game PCE 遊々人生 FC RPG 人生ゲーム SFC SUPER 人生ゲーム SUPER 人生ゲーム 2 SUPER 人生ゲーム 3 SS DX 人生ゲーム DX 人生ゲーム II N64 人生ゲーム 64 DC 人生ゲーム for Dreamcast PS DX 人生ゲーム DX 人生ゲーム II さくま式 人生ゲーム クイズだらけの人生ゲーム DX 人生ゲーム III お仕事式 人生ゲーム めざせ職業王 DX 人生ゲーム IV 第2回 ! クイズだらけの人生ゲーム DX 人生ゲーム V GC SPECIAL 人生ゲーム PS2 EX 人生ゲーム EX 人生ゲーム II Wii 人生ゲーム Wii 人生ゲーム Wii EX 人生ゲーム ハッピーファミリー 人生ゲーム ハッピーファミリー ご当地ネタ増量仕上げ Handheld Game GB 人生ゲーム伝説 人生ゲーム 人生ゲーム 友達たくさんつくろうよ ! DX 人生ゲーム GBA 人生ゲーム アドバンス 駿河屋で購入 PCエンジン 遊遊人生
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ツァイガルニク効果(ツァイガルニクこうか、Zeigarnik effect)とは、人は達成できなかった事柄や中断している事柄のほうを、達成できた事柄よりもよく覚えているという現象。 ドイツのゲシュタルト心理学者クルト・レヴィンの「人は欲求によって目標指向的に行動するとき 緊張感 が生じ持続するが、目標が達成されると緊張感は解消する」という考えに基づき、リトアニア出身で旧ソビエト連邦の心理学者ブルーマ・ツァイガルニク(1901年11月9日 - 1988年2月24日)が「目標が達成されない行為に関する未完了課題についての記憶は、完了課題についての記憶に比べて想起されやすい」との事実を実験的に示した。以上がツァイガルニク効果。 さらに、ツァイガルニクらには、未完成の図形と完成した図形についての記憶研究もある。知覚の実験にあっては、未完成図形の方が完成図形に比べて記憶の度合いが悪い。 自分自身の行為を記憶する過程と、視覚像を記憶する過程とは、相異なる法則性に従っている。
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編集 弘農王妃唐氏、または唐姫は、後漢後期の人物。帝位を廃された弘農王劉弁の妻。董卓の命によって李儒が夫に自殺を強いた際に同席し、別れの歌を交わした。後に賈詡のはからいで献帝に保護され、弘農王妃の位を拜した。 情報 唐姫 姓氏 唐 諱 (不詳) 字 (不詳) 本貫地 潁川郡 父 唐瑁 位 弘農王劉弁妻 弘農王妃 事跡 初平元年(190年)、董卓の乱を討つために山東に義兵が起きると、董卓は弘農王国の郎中令李儒に命じて弘農王劉弁に酖(ちんどく)を進めさせた。李儒は「この薬を服せば、悪を避けることができます」と言ったが、王は「我に疾(病)は無い。これが我を殺さんと欲するだけだ」。と飲むのを承知しなかった。李儒は強いてこれを飲ませ、劉弁は已を得ず、妻の唐姫や宮人と飲讌(酒席)を開いて別れを告げた。酒が回ると、王は悲歌して曰く、 「天道は易きも、我は何ぞ艱しきか 万乗を棄て、退き蕃を守る 逆臣見え迫り、命は延びず 逝くはまさに汝を去って 幽玄に適(ゆ)かんとす」 因って唐姫(弘農王妃唐氏)を起ち舞わせ、姫は袖を抗(挙)げて歌い曰く、 「皇天は崩れ后土は穨(くず)れ 身は帝となるも命は夭摧す 死生は路異ってこれより乖(たが)う いかにすればよろしいか、我が煢独(孤独)にして心中の哀きを」 因って涙が零れて嗚咽した。座す者は皆歔欷(すすり泣き)した。王は姫に告げて、 「卿は王者の妃である。勢い、また吏民の妻とは為らぬ。自愛せよ。これより長の辞(わかれ)だ!」 薬を飲んで死んだ。 王が薨去すると、姫は潁川郡の郷里に帰った。父の会稽太守唐瑁が新たに嫁がせようと思ったが、姫は誓って許さなかった。 しかし、李傕が長安を攻略すると、兵を遣わして関東を寇掠し、唐姫も囚えられた。李傕は姫を妻にしようと思ったが、姫は固く言うことを聴かず、あくまで自分からは名乗らなかった。尚書の賈詡がこれを知り、状況を献帝に報告した。 帝は聞いて感傷に浸り、詔を下して姫を迎えて帝室の園中に置き、侍中に節を持たせて(持節)使わし、姫を拜して正式に弘農王妃とした。 年表 所属項目(タグ) 人物 後漢 人物 後漢末 位 王妃 出身 潁川郡 関連項目・人物 「弘農王妃唐氏」をタグに含むページは1つもありません。 編集 -