約 3,184 件
https://w.atwiki.jp/jap0/pages/76.html
《全体像の把握》 ★全体像の把握(理解の基準点) ①室町時代+戦国時代 ②安土桃山(信長と秀吉の時代) 織田信長→豊臣秀吉へと変化 ③江戸(1603~1867、徳川家が中心) 大切なことは3つ。このように整理すると、成績が上がりやすい。 ・戦国時代はヨーロッパが来てから劇的に変わったこと。 ・安土桃山はヨーロッパとのさまざまな交流の影響を受けていたこと。 →ヨーロッパを軸に整理すること+ヨーロッパの内容を理解することが大切になる。 ・信長の政策と秀吉の政策の共通点と相違点 +α秀吉の政策がどのように引き継がれていくのか。 《ヨーロッパと日本の関わり》 ☆どのようなヨーロッパの国々と関わったのか 16世紀:ポルトガル・スペイン 17世紀:イギリス・オランダ 19世紀:ロシア ☆覚えておくべき年表(これを見たうえで、詳細事項を思い出してほしい) 年表 1543 (①ポルトガル人)が(②鉄砲)を(③種子島(※))伝える 1549 イエズス会の宣教師の(④ザビエル)が来日した。 →(⑤キリスト教)を伝来して、(⑥南蛮貿易)を始める。 ※(⑤)の信者のことをバテレン、キリシタンなどと呼ばれる。 ☆ヨーロッパとのかかわりでの重要なポイント ①武士の戦闘スタイルが変わるようになったこと。 →戦国時代を短期的に終わらせることが出来た。 例、薬(毒薬)や鉄砲、火薬など ②産業構造が変容したこと。 →最初は貿易に頼っていた。しかし、自国で生産するようになった。 例、生糸(絹織物)や鉄砲、火薬など ③南蛮貿易でのメリットとデメリット。 メリット:生活水準が向上・変化した→安土桃山時代では貿易は続けていた 例、薬・ガラス製品など デメリット:「神の前にみな平等」という思想による支配者への反発 →秀吉の時代になると、キリスト教の布教を禁止した(バテレン追放令) ☆詳細事項 ①鉄砲伝来 発端 ◎中国船に乗ったポルトガル商人が種子島に偶然流れ着いた。 →鉄砲を珍しがっていたのか、種子島を支配していた人(領主)が鉄砲を二丁(※1)購入した。 (当時日本に鉄砲はなく、刀や馬で戦争していたため、珍しかった)。 →その一丁は、自分の一族が保管し、もう一丁は室町幕府(※2)に献上した。 (※1)鉄砲の単位を聞くのもよいかもしれません。 (※2)室町幕府の場所は聞いたほうが良いかもしれません。 ☆鉄砲をもたらした目的と影響 概要 ①歴史的背景と戦闘スタイルの変化 1支配の中心が室町幕府であること。 Butみんな言うことを聞かなかった→全国各地で全国統一のために戦争した。 例、織田信長、今川義元、武田勝頼など(軽く聞き流してもらう) その戦いぶりは、馬と刀を使って戦っていた(近距離戦)。 ↓ 2鉄砲とは、中遠距離戦用に活用した。 近距離戦には、遠距離戦用の武器が有効に働く。 3戦争に勝つために、鉄砲を大量生産するようになった。 そのためには、軍事力と経済力を必要とした。 ※なぜ鉄砲が大量生産された背景を答えなさいという問題で出題される。 ②大量生産(産業) Q1場所はどこか A1関西地域 → 国友(滋賀県)、堺(大阪府) →その後全国に普及した。 (※)関西地域は、幕府の場所から覚えやすい。大まかに覚えて、細かく覚える。 Q2誰が作ったのか。また、なぜその人が適任なのか A2刀鍛冶職人 理由:鉄砲を作るには、鉄を加工する技術が必要。 ①加工する技術を持つ必要がある。 ②高温で燃やすために、石炭や水が必要になる(産業革命の伏線)。 ③原産量である鉄などを鉱山から大量に再出した。 ④産業を作るための経済力が必要 →商業を発展させて、お金儲けをさせる政策を実施。 (注)Q2は、①鉄砲の様子を資料から読み取らせる②なぜ刀鍛冶職人だったのかが 出題されやすい。 Q3当時の鉄砲を効果的に使う方法は何か A3①当時の鉄砲は、火薬を詰め込んで発射させる必要があります。 →火薬を爆発させるために、植物と一緒に燃やす必要があった。 その植物が木綿だった。 ②当時の鉄砲は、1分間に4発しか打てなかった(※)。 (※)長篠の戦いの資料を見せながら説明を加える。 鉄砲隊を作る→柵に並ぶ→鉄砲を発射したら、一番後ろに並ぶ→弾を詰める こうすることで、デメリットを解消することが出来た。 Q4、他にも鉄砲の入手方法はなかったのか A4、南蛮貿易で鉄砲と火薬を大量購入することも出来た。つまり、ヨーロッパと上手に付き合うことが出来るのかがかなり大切になってくる。 Q5、鉄砲を使って、勢力を拡大させることが出来た戦国大名は誰なのか Q5、織田信長。要因は2つ ①商業を反映させる政策を実施していた。 →鉄砲を独占した政策などを実施。 ②南蛮貿易によって、鉄砲や火薬を大量購入した。 ③文化史的意義 その後、鉄砲対策や鉄砲が活躍できるように、頑丈な城を平面に作るようになった。その具体例が安土城(安土城など)。これは、安土城の資料を見せておくとよいだろう。 ②宣教師とキリスト教 ①日本に宣教師が来た背景とは何か 宗教改革によって、信頼を失ったキリスト教徒(厳密にはローマ=カトリック)は、アジアを通じて布教活動を行った。布教活動を通じて、正しいキリスト教を伝えて、キリスト教を用いて支配しようとした。具体的には以下の通りである。 1キリスト教徒に改宗、日本人の味方を増やす(勢力増大)。 →勢力を増やして植民地化 2キリスト教を通じて味方を強化した。 キリスト教の教えには、①神の前にみな平等である(身分の高い人間に身分の低い人間は遠慮をしなくなる)②教えに従った場合、死後に永遠の魂(※)が手に入る(死ぬことにメリットを感じるため、死を恐れない)。 (※)人間には、肉体と精神があるとされた(古代史から変わらない)。死んだら、魂が肉体から離れる。そして、二度とその魂は肉体に宿らない。その理由はキリストが、それを許さないから。しかし、キリスト教の教えに(牧師や教会、聖書に)従った場合、キリストがその魂は肉体に宿ることを許すため、キリスト教の教えに従えば、「救われる」。 ②フランシスコ=ザビエルの来日(※1) 1549年にフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸し、幕府の将軍に会った。 →将軍側にとって、ポルトガル人やスペイン人は日本人ではないので、不信感を抱いていた。 (見知らぬ人に警戒するのと同じ)。そのことから、「幕府から見て南からやって来た野蛮人」という意味で、南蛮人と呼ばれた。 ③キリスト教を日本人に伝える方法。 1印象をよくした 宣教師たちに不信感を抱いている日本人に対して、印象をよくするために、以下のような政策を実施した。 →宣教師は、①病院や学校、孤児院などを作って民衆に役立てた。 ②南蛮貿易を通じて、戦国大名に貢献した。 →戦国大名や民衆からの信頼度が上がった。 例①キリスト教の信者(キリシタン)やキリシタン大名になるものが現れた。 例②天正遣欧使節(1582年)をヨーロッパに派遣して、キリスト教の洗礼を受けた。 ※洗礼とは、ある思想の洗脳を受けること 例③自分の領土を教会に献上した。 →豊臣秀吉はこれに危機感を覚えて、バテレン追放令を出した。 2戦国時代を短期的に終わらせることが出来た。 宣教師にとって、邪魔なものは戦国大名だった。なぜなら、戦国大名は武力的に強いから。植民地政策を行う邪魔者だったから。 →その邪魔者を蹴散らすために、ある戦国武将(※2)に力を貸して他の勢力を駆逐させた。 具体的には、鉄砲を献上して戦力を増大させる 毒薬をある戦国大名に献上して、戦国大名の部下をスパイにした。 ある戦国大名の敵陣の大将に飲ませた。 →勢力を削減させた状態を狙って植民地化政策へ。 (※1)ビジュアルでの解説が一番か (※2)織田信長が有名。 ③南蛮貿易 ①何を貿易したのか 鉄砲・火薬・生糸(※)・西洋画の手法 南蛮人 日本 金・銀 ②南蛮貿易は良かったのか(記述問題では頻出) 南蛮貿易は武士にとっても、民衆にとってもよかった。そのため、秀吉はバテレン追放令でキリスト教の布教を禁止したかったが、南蛮貿易は禁止しなかった。しかし、江戸幕府は、キリスト教が脅威だと気が付いて、ヨーロッパとの交易を禁止した。 ③貿易品によってもたらされたものは何か A鉄砲・火薬(解説済み)…しいて上げるならば、ルネサンスの三大発明 B生糸 1生糸は何産だったのか 生糸は中国産だった。ではなぜ、中国産の生糸を手に入れるために、南蛮貿易を行ったのか。 清 ポルトガル 日本 当時、清は海禁政策(一定の国とは貿易をしない政策)を行っていた。その理由は、清は朝貢貿易を行った結果、財政面で不利になったから。しかし、日本は貿易を行いたい。そこで、当時清と貿易を行っていたポルトガルを介して、日本は清と貿易を行っていた。 こうした貿易によって、生糸を獲得した日本は、生糸を用いて製品(絹織物)を作り出すようになった。 2南蛮貿易の実態はどうだったのか 逆のことを言えば、清の製品を手に入れるには、ポルトガルとの貿易をしなければならない事態に陥った。 →ポルトガルは清の製品を輸出するのに、大量の銀を日本に支払わせようとした。 (1000円くらいのものを、10000円くらいで販売した感じ) そこで、日本が取った策は、①清の製品の価格を固定した(1000円でしか貿易しないと決めた) ②清の製品を国産化した(生糸の国産化)。 特に、江戸時代になると、金と銀のそこが尽きる。そこで、②に移行していく。ちなみに、鎖国した背景は、②が出来ているかも確認して鎖国を実行したらしい(江戸幕府は貿易を制限して生糸が手に入らないリスクがあるのかどうかも検討して行ったらしい)。 C銀 1日本は銀をどのように手に入れたのか 南蛮貿易を行うために、戦国大名は金山や銀山から大量に掘り起こした。秀吉は、貿易のもうけが欲しかったため、以下の政策を実行した。 ・戦国大名をやっつけるついでに、鉱山を独占した(金や銀が手に入れば、南蛮貿易が活発化)。 →関ケ原の戦いで家康が勝利した後、秀吉が独占した金山や銀山を独占した。 (他にも秀吉の財産や政策を引き継ぐことにもなる)。 2日本は銀をどのように活用したのか 1絵の具に活用した(後述する) 2貨幣を鋳造するための材料として用いた(金貨と銀貨) 3海外による影響 1アジア →銀が大量に流出するようになり、アジアでは、銀を用いる貿易が主流になった。 2ヨーロッパ →銀が大量に流出された→銀貨を多くの人たちが持つようになった。 ⇨銀の価格が高騰するようになった(※)。 (※)物価の説明が必要になる(ルネサンス期のところで解説すべき)。 物価とは価格ではなく、「買いやすさ」である(お金をみんなが持っているかどうか) ④文化的影響 絵画の歴史が変わった(※) ・遠近法の使用。 ・絵画が派手になった。カラフルなのは、金山・銀山から産出した金や銀を使った。 (※)ザビエルの肖像画や狩野永徳が描いた絵画を見るとよく分かる。 《信長・秀吉の政策》 ◎信長の戦い方 ☆ポイント ①信長は、武力で宗教勢力や武士の勢力を拡大し続けていた(下剋上)。 ②南蛮貿易の力を借りてのし上がってきた。 ③戦いは、誰と誰が戦ったのかと戦いの名前と西暦は一緒に覚えること。 地図を効果的に使用してもよいですね。 ☆年表 1560 今川義元を破る(桶狭間の戦い)(①) 1573 15代将軍義昭を室町から追放する(室町幕府が滅亡)(②) 1575 鉄砲を効果的に活用して武田勝頼を破る(長篠の戦い)(③) 1580 石山本願寺を焼き討ちして、仏教勢力を駆逐した(石山戦争)(④) 1582 部下の羽柴秀吉に毛利元就をやっつけるように命じる(⑤) 明智光秀に本能寺で暗殺される(本能寺の変)(⑥) ⇨毛利元就をやっつけた秀吉は、京都に戻って毛利元就をやっつける! ☆詳細解説 ①楽市楽座 ①意味(記述で出題される) 関所を撤廃して、商業を自由に活発化させる政策のこと。 ②用語の意味 1関所とは何か 起源は律令国家。関所の目的は、民衆が他の地域に移動したときに、どのように移動したのかを把握するため。室町時代になると、交通が活発になることを背景に、幕府は関所に通るたびにお金を取るようになった。その結果、他の地域で商人は商売をしなくなった(他の地域に行くたびにお金を取られてしまうから)。 塾で関所を説明するならば、『「教室に入っただけでお金が取られる」仕組みがあったら、君たちは塾で自習がしたい?』と聞いてあげるとよいと思います。 これを公民経済とつなげると、以下のようなことが言える。 ①お金を払いたくない(大宝律令の租税制度で説明可能) ②これを外国範囲に拡張すると、自由貿易と保護貿易の話につながる。 1関税の概念が関所と同じだから(保護貿易)。 2自由にお金儲けをさせることで行動選択肢が拡張させることにもつながるため、 貿易は制限しないほうが良い(自由貿易)。経済系の法律の問題点でもある。 ③お金を使い続けるとみんなが幸せになる。 1ある商人は商売をした結果、ある商人はお金をゲットする。 ⇨そのお金で、商品などを買う。 ⇨その商品を売った人が儲かる⇨その商品を売った人がまた他の商品を買う。 …みんなが幸せになる。 2商売が繁盛すると、その儲けたお金を使ってよりよい工夫を施す。 例、人を多く雇わせる、機械を導入させるなど ⇨たくさんの製品を作って、安い製品を作る⇨みんなが買う⇨儲かる(繰り返す) 《秀吉の学習ポイント》 将軍になる条件…①源氏の血を引いていること ②天皇から認められること。 そこで、義昭に秀吉は義昭の養子になってくれと頼んだ。しかし、義昭はこれを拒否。 そこで、秀吉は朝廷に豊臣姓をもらった(豊臣姓)。 朝廷の権威を借りて、秀吉は全国統一を行う。 ■信長と秀吉 信長=武力で戦う (例)南蛮貿易を奨励/一部の勢力をやっつけただけで、天下統一できず 秀吉=朝廷の権威を借りて武力で戦う (朝廷から「豊臣」姓を授かって貴族化した) (例)南蛮貿易を黙認/朝廷の力の借りて天下統一
https://w.atwiki.jp/kwskp4/pages/340.html
神話 平将門(たいらのまさかど)。 平安中期に実在した東国の英雄。 「新皇」と称して朝廷に反乱を起こすが、藤原秀郷らに討たれる。 京で晒された首は江戸まで飛来し、そこで御霊神になったと伝えられる。 現在は国王神社や神田明神などの神社にて奉られているが、中でも東京千代田区―皇居の片隅にひっそりと存在する将門塚が特に有名。 しかし、現在地にある首塚は関東大震災の折に移転したものであり、それ以前に首塚があった場所は、国税庁敷地内だったという。 朝廷・貴族による権勢が強大だった平安期に東国の豪族を率いて乱を起こしたという史実から、「武士」の起源を彼に求める説もある。 非公式 荒俣宏の小説「帝都物語」シリーズにおいて採り上げられたことをひとつの契機として、『祟り神』にして『東京の守護神』という激しい二面性を伴った神霊として数多くの創作作品にその名を知らしめている。 「東京」を舞台とした破壊と創造の円環の物語である「真・女神転生」シリーズもまた、その影響下において生まれた作品と言える。 メガテンシリーズの制作に当たり、スタッフは将門公の首塚を始めとした霊験あらたかな地を参拝するのが恒例行事になっている。 それだけ実際の悪魔の名や姿を用いるため祟りを受ける事を恐れているのだろう。 実際に「デジタル・デビル物語 女神転生II」の開発時には、増子司氏がチーマーに襲われて負傷して金を奪われるなどの事件が頻発していたのだから…(この事はサウンドトラックのライナーノートにも書かれており、当時その事件は新聞にも掲載された) デジタル・デビル物語 女神転生II 魔界と現実世界とを繋ぐ境目である「王城」に鎮座。 主人公が魔界各地の魔王を打倒した後に訪れると、自身の兜を授けてくれる。 真・女神転生 東京の中心部、皇居跡地に鎮座。毘沙門天を筆頭とした四天王と共に東京を守護している。 なお、東京一帯が水没した後は皇居に侵入可能となるが、属性がNEUTRALかつ四天王を全員倒した上に仲魔にしていないと、お目通しは叶わない。 真・女神転生II 大規模な地殻変動によってTOKYOミレニアムの地下に存在するようになった東京において、天使らヘブライ神族によって封ぜられた大和神族復活の魁となる存在として描かれる。 東京を長年に渡り守護してきた霊力を恐れたヘブライ神族によって五体をバラバラに引き裂かれ、四散した彼の身体は東京各地に封じられた国津神の手によって守られている。 ただし魂はヒルコの元に行かないと戻して貰えない。 彼の魂も取り戻すと封印の岩戸を開けてくれ、そのときに「マサカドの刀」を託される。これはNEUTRALルートにおいてケテル城の扉を開けるために必要で、使用後には「ヒヒイロカネ」になるが、旧赤坂のドワーフの鍛冶屋に渡し月齢が10周した後に訪れると武器として使う事ができるようになる。 真・女神転生if… 主人公を男性かつパワータイプにした時の専用ガーディアンとして登場。 残念ながら最強ガーディアンではないが、バランスの取れた能力が魅力。 デビルサマナー ソウルハッカーズ 物語に直接関与することはないが、造魔との合体によってのみ生まれる「英雄」の別種「猛将」の最上級悪魔として登場。 ステータスを強化する御魂合体を駆使することで、唯一体、全てのステータスが最大値に到達する。 また、主人公の装備品に「将門シリーズ」(ラストダンジョンで2種、隠しダンジョンで2種の合計4種)も存在し、全部装備すると全パラメータに補正が付くが装備条件が厳しいことでも知られる。 特に「将門の具足」は「衝撃吸収・電撃に弱い」と「大天使のブラ(電撃吸収・衝撃に弱い)」と組み合わせろと言わんばかり(両者を組み合わせると電撃・衝撃吸収の耐性となる)の耐性を持つため、重宝されるとか。 真・女神転生III NOCTURNE マニアクス 東京受胎に呑み込まれた東京の辺境にある「坂東宮」に鎮座している。 謁見を果たした際、既に受胎によって力を失った身、と語るものの、主人公に「万能属性以外の攻撃を無効化」するマガタマ「マサカドゥス」を授けてくれる。 ただし、謁見を果たすには「ごっつい力でびるどあっぷ」された毘沙門天ら四天王を打ち倒さねばならない。 デビルサマナー葛葉ライドウ対アバドン王 二周目以降限定で、ライドウの性格(過去作でいうところの属性)が「切れ者」の場合に限り発生する別件依頼において登場する。 依頼を受けると、「まつろわぬ神」を封じる地・修験地獄の第九九九層にて戦うことになる。 本作における隠しボス的存在。 依頼主が「相馬小次郎」であったりと、パロディが効いている。 能力 初期Lv 69 マハンマオン(初期) 五月雨斬り(初期) 刹那五月雨撃(71) ハマ成功率UP(73) 武道の心得(74) 不屈の闘志(76) 物理・火炎無効 電撃・闇弱点
https://w.atwiki.jp/bakutechbakugan/
秘密結社八咫烏とは古代氏族の賀茂氏の一部が日本における神道、陰陽道、宮中祭祀を裏で仕切っているとされる実在する秘密結社。正式名称は八咫烏陰陽道。 概要 八咫烏の代表者とされるエノクナギによると八咫烏は賀茂氏の祖とされる吉備真備が天平十六年十一月(西暦744年)に藤原氏の朝堂独占に対抗するために聖武天皇の密勅により丹波国で結成したのが始まりという。 八咫烏は天平時代から幕末にかけて主に迦波羅(かばら)と呼ばれる秘術を核とした神道、陰陽道、宮中祭祀を執り行い、京都御所における食事や掃除、湯浴みに至るまで天皇や内廷皇族の日常的な事柄を一手に引き受けていたとされる。 その他、天皇の身に危険が及ぶ自体が起こった場合、聖護院に連れて行き自体が収束せずに更に危険が拡大すれば聖護院からあらかじめ決められた極秘の道に従って神社や寺等を点々として、最終的に天皇を奈良吉野に逃がす役割を担っていた。この間に滞在する神社と寺の主はすべて八咫烏の構成委員またはその血族者で固められていたという。 八咫烏は下鴨神社境内にある糺の森河合神社を仮本宗と位置づけており、組織内では八咫烏神、賀茂建角身命、秦伊呂具、役小角、 聖武天皇 八咫烏開祖の吉備真備を祭神として奉っている。また八咫烏は大烏と呼ばれる3人の実質的指導者がいるとされ、三位一体で金鵄という称号で呼ばれ、俗称で裏天皇ともいわれているとされる。 近代の八咫烏 八咫烏は江戸後期、徳川家定の時代から幕府や朝廷が次第に陰陽道や八咫烏の祭祀儀礼に頼らなくなっていったことから、八咫烏の影響力は退潮傾向にあった。幕末に孝明天皇父子が暗殺され、替え玉として長州藩出身の大室寅之祐が明治天皇としてすり替えられて即位したことで、宮中祭祀と天皇・内廷皇族の葬式の分野を除いて朝廷や皇室における八咫烏の影響力は殆ど失われたとされる。 続く明治時代では八咫烏とは縁が無い土肥薩長出身者が主導する明治藩閥政府が神仏判然令や神社合祀令、天社禁止令、修験禁止令等の形で直接間接の弾圧を行ったことで、大日本帝国憲法が公布される頃には解体寸前まで追い込まれるほど衰退の危機に瀕した。 しかしその後も八咫烏は存続し、岡山県総社市上原や高知県香美市で上原大夫やいざなぎ流と呼ばれる陰陽師村を築いたり、頭山満や内田良平などの人物を代理人として反体制的な政治活動をさせることで勢力拡大を図ったとされる。 戦後の八咫烏 戦後、GHQ占領軍の神道指令や境内地の接収、国家主義団体とみなされた結社の解散などの社会政策や神社本庁創設による神社界の締め付けが原因で八咫烏の財力や影響力は戦前よりもまして大きく削がれ零細化したとされる。現在八咫烏は天皇・内定皇族の葬儀を担う八瀬童子の大半、皇室の際し実務を担う内定職員の一部、上賀茂神社、下賀茂神社の非公式神職や民族派団体幹部の一部にメンバーがいたとされる。 特に21世紀になってから八咫烏は存続を図るために、スターシードと呼ばれる独自に「神童」とみなした青少年を少人数スカウトして神道学を基本として特殊な教育を受けさせており、任意で次世代のメンバーに登用しているとされ、その中から2011年10月に八咫烏の代表者(但し指導者ではない)に補命されたエノクナギが「sound.jp/yatakarasu/」のURLで未完成の八咫烏の公式サイトを開設している。 外部リンク アセンションプロダクション アセンションプロダクション-プロフィール アセンションプロダクション-声優出演情報 中村春香FaceBook アセンションプロダクション-muzie アセンションプロダクション-OKMUSIC アセンションプロダクション-インディーズバンド試聴サイトAudioLeaf おもしろフラッシュの館 八咫烏陰陽道公式サイト 愛国公党 ツイッター ASCENSIONPRODUCTION(kuronashiraichi)onTwitter 野沢あや(mitsukunimito)onTwitter 中村春香(nakamura_haruka)onTwitter 廣重綾(hiroshigeaya)onTwitter 藤井裕之(fujiikin)onTwitter ENOCHNAGI(enochnagi)onTwitter 出典 予言・預言対談飛鳥昭雄×五島勉(学研パブリッシング) 若き代表者が語る八咫烏とカッパーラ 陰謀・秘密結社対談飛鳥昭雄×ベンジャミン・フルフォード(学研パブリッシング) 八咫烏と闇の世界権力の真実 八咫烏(ヤタガラス)の「超」日本史皇后を輩出し続けた一族「賀茂氏と三輪氏」で全ての謎が解ける(ヒカルランド) 明治政府は「八咫烏の系譜」封印を画策した ユダヤと天皇家の極秘情報と闇の権力中丸薫飛鳥昭雄(文芸社) 神道の裏に潜む八咫烏 神国日本VS.ワンワールド支配者 飛鳥昭雄ベンジャミン・フルフォード菅沼光弘(ヒカルランド)正統は南朝にあり 公安情報から読み解くユダヤと天皇家の極秘情報飛鳥昭雄北芝健(文芸社) 復活を目指す八咫烏 月刊ムー2012年2月号(学研) 肉を喰らう神々と魑魅魍魎がうごめく“日本神話”真実の姿 月刊ムー 2012年3月号(学研) コラム八咫烏代表者・林裕之への衝撃インタビュー 月刊ムー2012年6月号(学研) 日本神話の秘密とは 月刊ムー 2012年7月号(学研) コラム八咫烏の実像を語る
https://w.atwiki.jp/910moe/pages/168.html
野 『野』(や)という言葉には「官職につかないこと、民間」という意味があります。 対義語は『朝』(ちょう)。朝廷の『朝』です。 『朝』と『野』は、光と影のような存在です。 『朝』があるからこそ『野』という言葉が意味を持ちます。 反対に『野』が存在せず『朝』のみがあったとしたら その『朝』の存在はとてつもなく無意味なものとなるでしょう。 多くの場合、『朝』は大変に支配欲が旺盛です。 そのため常に『野』を支配したいと思っています。 『野』はただ自分に奉仕するために存在すればいい とすら考えているかもしれません。 『野』は『朝』にどれだけ虐げられても、最後まで『朝』に寄り添おうとします。 たとえ重税を課せられても、理不尽な法令がしかれても 文句を言いつつ結局は『朝』に従ってしまいます。 それは罰則に対する恐怖ゆえではありますが 自分には『朝』になり変わる実力がないのだと諦めているのかもしれません。 またあるいは、己を支配せんとする『朝』の輝かしく力強いことを 誇らしく思っていた時代もあったかもしれません。 けれどきっといつか、『野』の裡につもりつもった不満が爆発するときが来るでしょう。 『野』は死力を尽くして『朝』に反抗し、己も大きな傷を負いながら ついには『朝』を滅ぼすでしょう。 しかし『朝』なしには存在できぬのが『野』。 かつての『朝』と入れ替わるように、『野』の中から新しい『朝』が生まれます。 一旦生まれ出てしまえば、『野』と『朝』はやはり別個の存在。 新しい『朝』はやがて以前の『朝』と同じく暴虐を尽くすようになります。 『野』はそれに耐えつつ、かつて己が滅ぼした『朝』を 今となっては懐かしく思い起こすのです。
https://w.atwiki.jp/noqa/pages/16.html
コニフ、及びその中心的な位置を占める国家、エニラレフィネ、モグニフィネの歴史の簡易的な年表です 西暦0年前後 日本を除く陸地が何らかの理由で消滅。水没したけではなく、水位は変わらない。 100年前後 三民への分化が進む。 350年付近 12の有力氏族(十二氏族)の台頭。 ~400年 金属(青銅)の利用が始まる。 452年 ハヴラメ族の長、モシワニ・アヘリクがエナルフ族、ケフヘデ族、エフナヘ族を併合し、エニラレフィネ(国)を建設。 初代国長(王)となる。 556年 巨大な津波が日本海側、東シナ海川沿岸部を襲う。 ティナメシニイフェナキが襲来し、上記沿岸部を中心に疫病が流行する。 559年 皇太子ムヘシニタエキ、ティナメシニイフェナキを撃退。 モガク族、ラヴナ族を併合。 また、宝剣「ワテキツニエンズィ」を得る。 576年 二代目の国長(神話上の話。実際は6代目)となったムヘシニタエキ、ケファルカフィネをエニラレフィネに併合。 鉄を含む金属の流通量が一気に増加する。 この頃から、アルヘニクのエニラレフィネ、及び朝廷内での影響力が強化され始める。 611年 三代目の国長、ハシャウェニタエキがシカラケフィネへ親征。 しかし、エニラレフィネ軍は敗退。ハシャウェニタエキは戦死する。 弟のアルケワフニタエキが四代目王として即位。 622年 四代目国長、アルケワフニタエキによる軍制改革。 軍戸制度を整備し、弩を採用・制式化した。 651年 五代目国長、ナネミニタエキがシカラケフィネへ親征。 シカラケフィネと軍勢を破り、シカラケフィネをエニラレフィネに併合する。 652年 大嵐と疫病が全土を襲う。 ナネミニタエキの娘、エフェレニムナクミが自らの身を捧げ、疫病の流行を沈静化させる。 653年 ナネミニタエキは国内を整備し、九州から関東平野より西を領土とする国家、モグニフィネ(第一期大国)が誕生する。 ナネミニタエキは初代大長を名乗る。 統一神話の時代が終わる。 654年 大暦元年 708年~722年 モグニフィネ内に点在するナシニクに対する政策の転換。 定住を迫るが、ナシニクは総じて拒否。 モグニフィネ軍と数多の小規模な戦いを繰り広げるも、敗退し、関東平野にまで追いやられる。 300年近く、大規模な戦争の無い時代が続く。 文化的に大いに発展する。 1004年 低い税率と高度な自治権により、各地の領主(貴族)は経済的・軍事的に強大化した。 それに対抗するべく、朝廷は賢人府を設立する。 直接親政ではなくなる。 1107~1111年 農耕技術の発展により、今までは農耕に向いていないとされた関東平野でも十分に農業が行えるようになった。 関東平野からナシニクを追い出すべく、モグニフィネは出兵。 「免税」、「関東平野より北側をナシニクの不可侵領土として承認」することを条件に講和、ナシニクは関東平野から追い出される。 1112年 関東平野に入植開始。 1338年~1443年 十代戦争 シカラケフィネの旧貴族が団結し、反乱を起こす。 モグニフィネからの独立を宣言し、モグニフィネと戦争状態へ。 モグニフィネ側が一応勝利。 シカラケフィネは直轄領となる。 1534年 十代戦争時から上昇し続ける税率に対し、関東平野における新興貴族達が大長に税率の引き下げと領内自治権を要求。 大長側はそれを承認。 1536年 アルヘニク系商人達の要請により、大長は関東平野における領主の領内自治権承認を取り下げる。 新興貴族達はそれに抵抗し、交戦状態へ。 商人の支援を受けた大国軍は圧勝し、反抗した貴族達の一門は取り潰される。 第二期大国へ 1897年 実宇都宮において、モグニフィネ=ナシニク間での市場が開かれる。 王府より認可を受けた商人は、ナシニク諸部族連合の許可の下、ナシニク領への立ち入り、経済活動を行うことが可能に。 2228年 アルヘニク系商人の「搾取」に対し反感を持った一部のナシニクが、ナシニク領内にいるアルヘニクを襲撃。 王府は、保護のために出兵し、諸部族連合は不可侵規定に違反するとし、それを非難。 大国軍と戦闘状態へ。 132代目大長、負傷する。 2241年 皇太子サフラ、村山賢人と出会う。 2243年 サフラ、村山賢人、ティナメシニイフェナキを封印。 2246年 サフラ、133代大長として即位。村山賢人、顧問としての位を得る。 2267年 ナシニク諸部族連合軍が関東平野へ侵入。 大国軍が迎撃に出るも、大長サフラが戦死。 同年、サフラの長子、ファリムが134代大長として即位。 2228年 ファリム、ナシニクに対する報復戦を展開。 2230年 ファリム、暗殺される。 顧問の村山賢人、自害。 2419年 シカラケフィネ、関東平野貴族連合が同盟を結び、モグニフィネに侵攻。 2423年 同盟軍、モグニフィネの首都を占領。 モグニフィネ滅亡、解体される。 2424年 全ての魔術が使用不可になる。 2426年 例年より大規模な嵐。 飢饉と疫病が襲う。 2429年 最後の一人が死亡。 コニフ、滅亡する。
https://w.atwiki.jp/sinobigami01/pages/24.html
隠忍の血統(おにのけっとう) 古代日本において、鬼や土蜘蛛などと呼ばれた者の末裔たち。吸血鬼や人狼のような人外の存在も多く、「荒夜(ないと・ごーんと」とも呼ばれる。時の権力者たちから虐げられてきた歴史を持ち、国家権力に強い憎悪を抱いている。 得意分野:妖術 仇敵:比良坂機関 流儀:シノビガミ復活に関する情報を入手する 隠忍の血統下位流派 ●土蜘蛛 条件:≪鳥獣術≫の特技を修得している。 流儀:現政府に痛手を与える。 仇敵:比良坂機関、魔王流 朝廷に恭順しなかったため、多くの家系が滅ぼされた、先住民族の末裔。女系社会で、その血を引く者は、いずれも長い手足と天性の蟲使いの才能を持っています。 ●血社(しぇしゃー) 条件:≪死霊術≫か≪異形化≫、もしくは≪水術≫を修得している。 流儀:才能ある人物を見つけ仲間にする。 仇敵:常夜、鞍馬神流 吸血鬼となった秦の始皇帝を始祖と崇める、吸血鬼だけの秘密結社です。始皇帝は眠りについているものの、アジア最大規模の血族集団となっています。 ●凶尾(まがつび) 条件:≪異形化≫の特技を修得している。 流儀:気高く生きる。 仇敵:比良坂機関、鞍馬神流 年を経て人に化ける力を入手した獣たちです。また、そうした獣の血を引いているために、獣へと姿を変えることができる獣人たちも含まれます。 ●長耳(ながみみ) 条件:≪遊芸≫か≪言霊術≫の特技を修得している。 流儀:故郷である異界へ帰還する。 仇敵:比良坂機関 「取り替え子」と呼ばれる、人間の赤子と取り替えられた妖魔、妖精たちの集団です。特に強い魔力を持つ者たちが爵位を名乗り、疑似的な宮廷社会を形成しています。
https://w.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/757.html
[部分編集] その時 幻想郷が動いた 使用ゲーム 信長の野望・革新 PK シナリオ・担当勢力 改造シナリオ(672年) 大友皇子 シナリオの設定 上級 プレイ動画形態 紙芝居中心 プレイ上の縛り 下記参照 登録武将 東方 史実武将の扱い - 投稿時期 2009年8月23日~9月21日(完結) 投稿者名 tamura 関連タグ 【その時幻想郷が動いた】 リスト 信長の野望関連 ニコ証 - 備考 - ものがたり 東方キャラを「革新」に登録した動画だが、舞台は改造によって年代設定を「壬申の乱」当時に置き換えた日本。 輝夜、妹紅など、東方キャラとも因縁のあるこの時代、 紫(本作では飛鳥時代生まれの設定)を中心に物語は進んでいく。 東方キャラの設定・史実についてはうp主の独自解釈あり。 目的と勝敗条件 プレイヤー勢力は近江朝廷(大友皇子)陣営だが、本作の目的は「全国統一」ではなく、 「大海人陣営にいる5人の東国豪族頭領から、東国に散った秘法の情報を手に入れること」。 5人は美濃・尾張・三河・信濃・甲斐各国の頭領である(悲しいけど固有名なし)。 ゲーム上の勝敗条件は以下の通り。 敗北条件 大津京を陥とされる 勝利条件 5人の豪族頭領を捕虜にする 野戦で部隊を3回以上壊滅させる(兵力0にする) 武将のいる拠点を陥落させる いろいろ 顔グラは戦国武将をいろんな人に当てはめて使っている。 古代の有名人の配役が変だったり、戦国の有名人がモブだったり(壬申の乱のほうの史料の問題) いろいろとギャップもあって楽しい。 古代なのでもちろん「鉄砲」なんてものは存在しない。 このため「鉄砲」は「弾幕」に置き換えられている……あれ? コメント欄 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/781.html
宮家(みやけ)とは、日本の皇室で代々皇族の身分の保持を許された一家のことである。 宮(みや)とは、元々、天皇並びに皇族の邸の事を指し、転じて住んでいる皇族のことを指すに至った。この「宮」という呼称を世襲することから「宮家」という言葉が起こった。ただし、法的な根拠を持つものではない。現在の法令上の取り扱いでは「○○宮」の称号はあくまでも宮家の当主個人の称号とされている。 現在の宮家 秋篠宮(当主:文仁親王) 常陸宮(当主:正仁親王) 三笠宮(当主:崇仁親王) 桂宮(当主:宜仁親王) 高円宮(当主格:憲仁親王妃久子) 三笠宮の長男である寬仁親王も独立の生計を営んでいるが、三笠宮家の継承が予定されているため、独自の宮号は持っていない。 概略 鎌倉時代以降、親王宣下の制度により、本来その資格のない2世王以下の皇族が天皇・上皇の養子縁組・猶子となって親王の称号を世襲する例が散見されるようになり、これを後世「世襲親王家」と呼んでいる。現在の「宮家」の源流である。たとえば、鎌倉時代中期に順徳天皇の皇子忠成王が岩倉宮、善統親王が四辻宮を名乗り、子孫に宮号が伝わっている。 本格的な世襲親王家の嚆矢とされるのが、室町時代に成立した亀山天皇の皇子恒明親王を始祖とする常盤井宮と、後二条天皇の皇子邦良親王を始祖とする木寺宮である。両親王とも、皇位を継承する可能性があったが、当時の持明院統と大覚寺統の両統迭立の情勢に翻弄され、実際には皇位に就く事がなかった。これらの親王には所領があり、子孫に代々経済的基盤として伝領された。 常盤井宮、木寺宮両家は、室町時代の後期頃には断絶したと考えられるが、この2つの宮家に次いで創設され、以後、戦後の皇籍離脱まで約550年間の長きに渡って続いたのが伏見宮である。 さらに、室町時代には、旧南朝の末裔である小倉宮、玉川宮のような例も見られる。いずれにしても、皇位継承争いに敗れた皇族が、皇位を確保した本家に政治的に対抗するかたちで分家を創立する、というパターンは共通する。そのときどきの天皇にとっては、むしろ不本意な事態として、世襲親王家は発足したのである。 しかし、安土桃山時代以降は、朝廷の極度の衰退により、世襲親王家の創設は朝廷外部からの経済的支援がなければ不可能になり、朝廷にとってむしろ歓迎すべき事態へと変わってゆく。統一政権の成立とともに、桂宮、有栖川宮、閑院宮の3家が相次いで創設され、伏見宮とあわせて、この4つの世襲親王家を「四親王家」と呼ぶ。 四親王家 伏見宮は、北朝第3代崇光天皇の第一皇子、栄仁親王(よしひとしんのう)が始祖である。第3代貞成親王(さだふさしんのう)の王子彦仁王が称光天皇の崩御後、正長元年(1428年)に後花園天皇となって皇位を継承した。 桂宮家は、正親町天皇の第1皇子誠仁親王の第6王子智仁親王(としひとしんのう)によって創設された。智仁親王は、豊臣秀吉の猶子であったが、天正17年(1589年)に秀吉に実子鶴松が生まれたために縁組が解消された。秀吉の奏請により、智仁親王に所領が与えられ「八条宮」の宮号を賜ったのが始まりである。以後、常盤井宮、京極宮、桂宮と改称し、明治14年(1881年)の第12代当主淑子内親王薨去まで存続した。 有栖川宮家は、寛永2年(1625年)後陽成天皇の第7皇子好仁親王(よしひとしんのう)によって創設された。初めは高松宮と称した。好仁親王には後嗣が無く、後水尾天皇の第6皇子で親王の甥に当たる良仁親王(ながひとしんのう)が第2代を継承し、花町宮または、桃園宮と称した。ところが、承応3年(1654年)兄の後光明天皇が没したため、良仁親王は後西天皇として皇位を継承した。宮家は後西天皇の第2皇子幸仁親王が継承し有栖川宮と改称された。 閑院宮家は、皇統の断絶を危惧した新井白石の建言で創設された。東山天皇の第6皇子直仁親王(なおひとしんのう)が、幕府から1000石の所領を献上され、享保3年(1718年)祖父の霊元法皇から「閑院宮」の宮号を賜った。新井白石の危惧は現実のものとなり、第2代典仁親王の王子・祐宮は皇嗣を儲けないまま22歳の若さで崩御した後桃園天皇の跡を継ぎ、安永8年(1779年)光格天皇となった。 以上、宮家から入って皇統を継いだ天皇は3例ある。 明治以降 幕末から明治時代にかけては新しい宮家が続々と新設され、それまで出家していた皇族が還俗して天皇の藩屏としての役割を担う事になった。 まず、文久3年(1863年)に中川宮(のちに賀陽宮を経て久邇宮に改称)、元治元年(1864年)に山階宮、以後明治3年(1870年)までに梨本宮、聖護院宮、北白川宮、華頂宮、東伏見宮(明治15年に小松宮に改称)の各宮家が設立された。 明治22年(1889年)、旧皇室典範の制定によって永世皇族制が定められた。これにより、皇族の家格は廃止される。 旧皇室典範の制定後、明治33年(1900年)には賀陽宮、明治36年(1903年)には東伏見宮、明治39年(1906年)には竹田宮、朝香宮、東久邇宮の3宮家が設立された。 その後、大正天皇の3皇子のうち、大正2年(1913年)に宣仁親王が断絶した有栖川宮の祭祀を継承するために高松宮の宮号を賜り宮家を創立した。また、大正11年(1922年)に雍仁親王が秩父宮を、昭和10年(1935年)に崇仁親王が三笠宮の宮号を賜り宮家を創設した。 旧皇室典範は当初は永世皇族主義を本則として採用する一方、明治40年(1907年)に公布された皇室典範増補は、王が勅旨または情願により華族に列せられるべきことを定めていた。さらに大正9年(1920年)には「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定され、この準則が制定されてから旧皇室典範が廃止されるまで宮号を有しない又は継承しない王のうち、12人が華族に列せられている。第二次世界大戦後には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令に基づいて、皇室財産の国有化、皇族の財産に関する特権の停止などが決定され、敗戦後の窮乏した国家財政では従前の規模の皇室を維持できなくなったことから、秩父宮、高松宮、三笠宮の三直宮家を除く11宮家51人が皇族の身分を離れることとなった。現在の皇室典範は昭和22年(1947年)5月3日に施行され(日本国憲法施行と同日)、同年10月14日に11宮家の皇籍離脱となった。これは形式的には、強制ではなく、皇族たち自身が皇族の身分を離れることを請願し、皇室会議の議決により皇籍を離れるものとされた。 現在かかえている問題 秋篠宮家に平成18年(2006年)に悠仁親王が誕生したが、それ以外の宮家については、昭和29年(1954年)の高円宮憲仁親王以来、宮家を継承する、あるいは新たに宮家を創設することができる男性皇族は誕生していない。現在の皇室典範では第9条で「天皇及び皇族は、養子をすることができない。」とされており、第12条で「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。」とされている。 現状のままではいずれの宮家も近い将来に断絶してしまうことになり、皇位の補間としての宮家の立場から、宮家の存続をめぐり様々な意見がある。例えば、内親王・女王による宮家の継承および創設を認める、既存の宮家の後継者としていわゆる旧皇族の男系子孫から養子(第1内親王・女王の婿等)を迎える、旧皇族を復籍するなどさまざまな意見はあるが、結論は出ていない。 関連項目 宮家一覧 皇室の系図一覧 親王宣下 世襲親王家 直宮家 皇位継承問題 (平成) 旧皇族 外部リンク 『日本の親王・諸王』 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月9日 (火) 21 16。
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/993.html
872 :名無しさん:2012/03/29(木) 21 03 01 夢幻会の「天保の改革」 ―――西暦1846年 少年にとってこれまでの幕府からは考えられない目の前の情景は目をみはるものがあった。 徳川だけではなく他藩の優秀な人材が港に集まっていた。それは長らく鎖国にあった日本がオランダの協力を得てはじめて送り出す西洋への留学生だった。 今、日本では開国に向けた準備が進められていた。留学生の件もその一環だった。 幕府は今すぐの開国では混乱をもたらす。ちゃんと準備をしてから開国をしたい。そのための行程表もあります。そういってオランダを説得して協力させていた。 「西洋の優れた文明を学んで日本の役に立ちたい。」 若さゆえの純粋さで言う少年の名は吉田寅次郎。11歳のときに藩主に講義をしたという逸話を持つほどの俊才を買われて留学生の名簿に名を連ねたのだ。 このような情景は徳川家慶、水野忠邦、鳥居耀蔵ら転生者の夢幻会による徳川幕府の開国を前提とした幕政改革「天保の改革」の成果である。 日本近海に出没する外国船、北方のロシアの脅威、オランダ国王の開国の親書などの要素があったがアジアの超大国・清が西洋に破れたというインパクトを利用して開国への流れを進めていた。 江戸城のある一画 「ようやく留学生を送り出せたがまたまだ先は長いな。」 男のいう通り課題は山積みだった。朝廷対策や開国反対派の対応、蝦夷開拓、国防の充実などやるべきことはいくらでもあった。 「まったくいくらお金があっても足りませんよ。」 幕府の財政を担当する勘定奉行はため息をついていった。 しかしながらどれもこれも必要なことばかりだ。財政をやりくりして何とかするしかなかった。 夢幻会の目指す徳川幕府の名誉ある退場と新政府の樹立までの道のりはいまだに険しかった。
https://w.atwiki.jp/chaossyugaku/pages/16.html
■創建~平安時代 古事記・日本書紀には第十一代垂仁天皇(紀元前69~70年ごろ?)の皇女によるとも書かれているが伝説にすぎない。 内宮:不明(伝 垂仁天皇26年) 外宮:不明(伝 雄略天皇22年) 正宮正殿の建築様式:唯一神明造 7世紀に持統天皇が式年遷宮を始め、天照大神という天皇の祖先を祀っていることから 平安時代を通しては皇室以外の参拝は禁止されていた。 ■伊勢神道の成立 鎌倉~南北朝時代、朝廷の力が衰微したことで、伊勢神宮の外宮内に祀られていた食物・穀物の女神豊受大神(トヨウケビメ)の方が 天照大神より偉いんだから、これからはトヨウケビメをメインで祀ろうという考え方を外宮の禰宜(神官)だった度会さんが 言い出し始める(伊勢神道のはじまり) この間も粛々と式年遷宮は続いていたが、戦国時代になると、流石に無理になり、式年遷宮は中断。 ■伊勢講の始まりとお伊勢参りブーム 16世紀~17世紀、完全に忘れ去られつつあり、財政難に苦しんでいた伊勢神宮だった、が 神官A「外宮に祀られてるトヨウケってさー、食物、穀物の女神だよね」 神官B「うんうん。」 神官A「これからはトヨウケを前面に押し出さない?」 神官B「なんで?うち皇室の祖先のアマテラスがメインじゃん」 神官A「いやいや。アマテラスがメインなままじゃもう稼げないよ。 アマテラスがメインだったら皇室しか参拝に来ないし、朝廷はお金ないだろ。 トヨウケが丁度穀物の女神だし、神仏習合でいうと稲荷大明神と同じだからさー多分ポテンシャルあると思うんだ。、 一気に農民のみなさんに来てもらうのよ。」 神官B「そりゃわかるけど農民はみんな金ないし、うちの神社結構辺鄙なところにあるからそう上手くいかないよ。」 神官A「いやいや、そこでまず伊勢神宮のファンを増やして、ファンの皆さんが積み立てしあう仕組みつくる。 最近神社ブーム(中世は現世に嫌気をさした人達の参拝がブームとなった)だし 街道整備されてきてるから(五街道の整備)昔より旅行しやすいし、なんだかんだで昔よりみんなお金持ってるから (後醍醐天皇から織田信長、秀吉に至る各大名・商人の重商主義政策が効を奏して貨幣経済が浸透した) 、農民たちもお金さえなんとかなればいけると思うんだ。」 神官B「そうだな。今のままだと少しずつ貧乏になるし、色々やってみた方が良いな」 そうして、お伊勢参りとして数百万人を動員することになる「伊勢講」の始まりです。 信者たちで伊勢神宮へ参るための積み立てグループ(=講)が各地で結成され、旅行も兼ねて伊勢参りに行きたいという運動が 起こります。お伊勢参り観光案内書が出たり、伊勢神宮に参ることは一種のステータスになっていたようだ。 最大で以下のような動員数を記録。 1705年4月~6月 330万~370万人 1771年4月~7月 200万人 1830年3月初~8月末 :427万6500人 (当時の日本の人口が約3000万人だった) すっかりアマテラスは過去の神…。やっぱりトヨウケという感じだった。 ■明治~現代へ 時は変わって明治維新。 M天皇「大政奉還してもらったはいいが、朕ってマイナーだよな?民衆は天皇のこと知らないみたいだし」 大臣A「そうですねー。なんとか知名度アップしていかないといけないんですが・・・」 大臣B「そういえば伊勢神宮ってあるじゃないですか」 M天皇「うちのご先祖様のアマテラスが祀られてるやつね。でも行ったことないからよく知らないんだけどねー。 で、それがどうしたの。突然。」 大臣B「ひらめきました。民衆に人気の伊勢神宮利用しない手はないっすよ。(ニヤリ)」 ということで、明治政府は天皇が伊勢神宮の天照大神の子孫であることを前面に押し出し、 伊勢神宮を最高位の神社として権威付けに利用しました。 民衆に大人気の伊勢神宮に祀られている天照大神の子孫こそ明治天皇であり 、天照の子孫であるから天皇は現人神であるとして祭政一致的体制が整備された。 第二次大戦後も、神社の別格として最高の地位であることは続きます。 伊勢神宮はこのようにもっとも権威のある神社なり、式年遷宮は絶えることなく続き、 常に多くの参拝客で賑わう人気スポットとなっている。 簡単にいうと 起源 垂仁天皇(紀元前69年-70年)の皇女倭姫命が天照大御神を鎮座する地を求め旅をした。 倭姫命は倭国から丹波国、倭国、紀乃国、吉備国、倭国、大和国、伊賀国、淡海国、美濃国、尾張国、伊勢国の順に移動し、 伊勢国内を移動した後、現在の五十鈴川の畔に五十鈴宮と言う名で鎮座した。移動中に一時的に鎮座された場所は元伊勢と 呼ばれているが、記紀神話に従った伝説であって、考古学的資料に基づくものではない。 古代 皇室の氏神として、天皇、皇后、皇太子以外の奉幣は禁止された。 中世 朝廷の衰微に伴い皇室にとってのみの氏神から、日本全体の鎮守として武士たちから崇敬された。 神仏習合の教説において神道側の最高神とされた。また、外宮側の度会家行より伊勢神道(度会神道)が唱えられた。 戦乱の激化により神宮領は侵略され、経済的基盤を失った神宮は衰微して、式年遷宮は停止せざるを得なかった。 神宮の信者を獲得し、各地の講を組織させる御師が台頭し始める。 近世 お蔭参りが流行した。多くの民衆が短期間の間に神宮に押し寄せた。 近代 明治政府により国家神道の頂点の神社として位置付けられた。 第2次世界大戦以後は神社本庁により、全国神社の本宗と位置づけられた。 現在、内閣総理大臣が1月4日の仕事始めに参拝するのが慣例となっている。 本稿では今回訪れる内宮の祭神を取り上げる。 伊勢神宮内宮の祭神は天照大神である。大日孁貴神 (おおひるめのむちのかみ)とも呼ばれるほか、伊勢神宮では天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、あるいは皇大御神(すめおおみかみ)といわれている。「古事記」によると、黄泉の国からイザナギが帰ってきて、穢れを落としたときに生まれた三柱の神の一(他の二柱はツクヨミ、スサノオ) にして、高天原を治める神。太陽の神でもある。また、天皇家の祖先(皇祖)たる神の一つとされる。このように、天照大神への信仰はは日本民族(本稿では日本国に住む民族を便宜的にこう呼ぶ)にとっては祖神としての信仰と、世界中に存在する物と同様な太陽神信仰という二重の意味を持つ。 太陽神としての側面では天岩戸のエピソードは有名であり、このことによって起こったことは農作物の不作も含まれており、天照大神の豊穣の神としての側面がうかがえる。 一般には女性神といわれているが、それを推古天皇即位をスムーズに行うための蘇我一族による捏造とし、男性神であったとする説も存在する。たしかに高天原でスサノオを迎撃する時に武装するなど、男性的な一面も神話に記述されており、軍事を象徴する神という側面も持つ。。しかしながら、日本が農耕社会で女系社会であることや日本書紀においてスサノオから「姉」と呼ばれているなどの事項からすると女性神説の方が有力であるといえる。 日本書紀によると天照大神が現在の形になったのは698年(皇大神宮創建*1)のことで、これを機会に「天皇家の祖先神」としてのアマテラスが確立され、持統天皇をモデルとして自然神 から人格神へと変更された。この前までは「大日孁貴」(おおひるめのむち)などとよばれ、太陽神としての性格が強かった。 さて、内宮にて祭られる神は主祭神であるアマテラスのほかに、天の岩戸からアマテラスを引きずり出した天手力雄神(アメノタヂカラオ)と天孫降臨をおこなった神である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) の母神、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)がまつられている。天手力雄神は肉体的な力を象徴する神で、スポーツの守護神としても有名である。一方、栲幡千千姫命はアマテラスの息子の嫁で、 名前は機織や織物と関係するものである。 6世紀後半の壬申の乱に勝利した天武天皇とその妻・後の持統天皇に よって、朝廷(政権)とは相対的に独立した、新しい国家理念を 象徴する国土と国民の守護神として創立された。 伊勢神宮の前身となるものは遅くとも推古朝(592~628年?) には存在していたと考えられている。 壬申の乱を成功させた大きな要因は伊勢神宮によるもので、 壬申の乱が成功した暁には伊勢の神を天照大神としてあがめまつる事を 神に誓ったのである。この誓約によって天照大神が出現したとされている。 壬申の乱の後の674年、大来皇女を斎王として伊勢に派遣した事を もって伊勢神宮の創立とする意見が多いが、天武天皇の死後に起きた 大津皇子の変に関連して、大来皇女は斎王を解任されて都に戻ると いった内容の文章が「日本書紀」に書いてあり、その文には、 「伊勢神祠」と書かれており、もはや「神宮」では無くなっていた。 つまり伊勢神宮を日本の天の神としてまつる天武天皇の誓約も破棄 されてしまったのである。 そのために天武天皇の妻であった持統天皇がその意思をついで、698年 多気郡多気にあったとされる伊勢神宮を度会郡宇治に遷し、天照大神を 祀る唯一最高の神社として創立した。これが今の「伊勢神宮」であり、 これをもって伊勢神宮の創立とする考えもあるようだ。 伊勢神宮の門下町について おはらい町について 定義:内宮の宇治橋のたもとから五十鈴川に沿って続く約800mほどの参宮街道をいう。 歴史:江戸時代に建築され、妻入造の街並みができあがる。当時は「御師」(一般に「オシ」と読むが伊勢では「オンシ」と読む)と呼ばれる全国に伊勢信仰をひろめた人たちの家が立ち並びんでいた。彼らははるばる伊勢に来た参宮客をおはらい町の屋敷に泊め、神楽を奏し、おはらいをして参宮客に「お礼」を授けた。これが「おはらい町」の名前の由来である。時代が変わり、御師たちの家は次第に参宮客に憩いの場を提供するお店へと変わっていった。戦後、近代化が進み、電柱が立てられ、道も舗装された。しかし当時の街並みの保存を願う地元の人たちは、「赤福」の資金協力でついに平成元年、「伊勢市まちなみ保全条例」制定に成功した。のちに電柱は撤去され、道路は石畳にし、店頭は、銀行も魚屋の薬屋も外装を修理し、江戸時代のまちなみは復活したのである。 現在の様子:主に土産屋と伊勢名物のサザエ、大アサリ、伊勢うどん、てこね寿司、赤福餅 などを提供する飲食店が並ぶ。もちろん江戸時代の街並みである。 おかげ横丁について 定義:新橋の通りの終点付近にある広場をいう。 歴史:赤福誕生300周年にあたる平成5年7月にできた。 名前の由来:赤福が創業場所で300年やってこれたのは「お伊勢さん」のおかげであるこ とと、江戸時代後期から明治時代初期に伊勢参宮を「おかげ参り」と呼んでい たことから。 現在の様子:レトロな商品を売るお店や歴史館などがあり、レトロな雰囲気を味わえる。