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日清戦争 ―― 東アジア近代史の転換点 ―― 藤村 道生 岩波新書 http //www.iwanami.co.jp/.BOOKS/41/8/4131270.html 日清戦争は,日本を「圧迫された国」から「圧迫する国」へ転換させた.その意味で,日本近代史上画期的な戦争であった.アジアの民族同士が戦い,全アジアを近代帝国主義の分割競争にひらき,日本の民衆自身が帝国主義化した自国の政府のくびきにつながれる契機となった「痛歎すべき戦争」の全貌を,東アジア史の中で総合的に解明する. 7-2 台湾占領と抗日武装闘争 台湾の歴史・日台関係史
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Template Battlebox? 日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた主に李氏朝鮮をめぐる日本と清朝中国の戦争。日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。中国語では中日甲午戦争と呼ぶ。英語ではFirst Sino-Japanese War(第一次中日戦争)と呼ぶ。 日本の戦費総額は2億テール(日本円で3億円)、死者1.3万人。この戦争期間は10ヶ月であった。 経緯 開戦まで 征韓論 日本は明治政府成立直後から、朝鮮半島に対し経済進出を含む深い関心を抱いており、その成立直後から朝鮮との国交渉を始めていた。当時、朝鮮は鎖国状態で、国王高宗の父である大院君が政治の実権を握っていたが、対外政策では欧米諸国の侵入に激しく反対し、開国した日本も洋賊であるとして、国交樹立に反対し、交渉が進まなかった。 こうした状況下の1873年、明治政府はその打開策として朝鮮への派兵を計画し、まずは西郷隆盛を中心とする使節を派遣するという征韓論を閣議決定した。しかし、帰国した岩倉使節団の岩倉具視・大久保利通らがそれに反対し、決定が取り消された。これを明治六年政変(征韓論政変)という。 しかし征韓論に反対した大久保らも、朝鮮半島での武力行使の方針自体には反対ではなかった。 江華島事件 大久保らが実権を握っていた日本は1875年に江華島事件を起こして圧力をかけ、1876年に不平等条約である日朝修好条規(江華条約)を締結し、朝鮮を開国させた。朝鮮は当時清の冊封国であったが、この条約では冊封を近代的な意味での属国・保護国とは見做さなかったため、朝鮮は独立国として扱われた。 独立党と事大党の対立 江華島事件後の朝鮮では、急進的欧米化を進めようとする親日的な開化派(独立党)と、漸進的改革を進めようとする親清的な守旧派(事大党)との対立が激しくなっていった。それとともに、開化派を支援する日本と守旧派を支援する清との対立も表面化してきた。 壬午事変 1882年7月23日に壬午事変が起こり、清と日本の軍隊が朝鮮の首都である漢城に駐留することになった。日本の朝鮮駐留軍より清の駐留軍の方が勢力が強く、それを背景に守旧派が勢力を拡大していった。巻き返しを図った開化派は、日本の協力を背景に1884年にクーデターを起こし、一時政権を掌握した(甲申事変)。しかし、清の駐留軍が鎮圧に乗り出したため、日本軍は退却、クーデターは失敗した。 1885年に日本と清とは天津条約を締結、両国は軍を撤退させ、今後朝鮮に出兵する際にはお互いに事前通告することがさだめられた。 長崎事件 1886年8月1日に長崎事件が起こった。清国海軍の北洋艦隊のうち定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻の軍艦が長崎港に日本政府の許可なく上陸。長崎市内で暴動を起こし、警官隊と激しく衝突、双方に死傷者を出す騒ぎとなった。この事件によって日本国民の対清感情は著しく悪化した。 甲午農民戦争 1894年5月に朝鮮で、東学教団構成員の全琫準を指導者として民生改善と日・欧の侵出阻止を求める農民反乱である甲午農民戦争(東学党の乱)が起きた。朝鮮政府はこれを鎮圧するため、清に派兵を要求した。このとき、天津条約に従って日本側に派兵することを通知した。 日本は、その時政府と議会との激しい対立により政治的に行き詰まっていたが、対外的に強硬にでて事態打開をはかろうとした。加えて、清によるこれ以上の勢力拡大を恐れていたため、朝鮮政府からの派兵要請を受けていないにもかかわらず、壬午事変の結果締結された済物浦条約を根拠として公使館と在留邦人の保護のために1万人規模の大軍の出兵を決定した。事態の悪化にあわてた朝鮮政府は農民の要求をほぼ全面的に受け入れ、6月10日に停戦したTemplate 要出典?。 日清戦争開戦 甲午農民戦争の停戦後、朝鮮政府は日清両軍の撤兵を要請したが、どちらも受け入れなかった。それどころか、日本は朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府や清がこれを拒否すると、7月23日に王宮を占拠して、親日政府を組織させた。清がこれに対して抗議して、対立が激化した。 日本は開戦に備えてイギリスの支持を得ようと条約改正の交渉を行い、7月16日に調印に成功した(日英通商航海条約)。この直後から日本政府は開戦に向けての作戦行動を開始し、7月25日豊島沖の海戦で、日清戦争が始まった。なお、宣戦布告は8月1日である。 なお、日本政府の強引な開戦工作に対して、明治天皇は「これは朕の戦争に非ず。大臣の戦争なり」との怒りを発していた。 宣戦 thumb|200px|right|[[伊東祐亨]] 日本政府が、国民に伝えた宣戦の理由(清国ニ対スル宣戦ノ詔勅)の要旨は次のようなものである。 「そもそも、朝鮮は日本と日朝修好条規を締結して開国した独立の一国である。それにもかかわらず、清国は朝鮮を属邦と称して、内政干渉し、朝鮮を救うとの名目で出兵した。日本は済物浦条約に基づき、出兵して変に備えさせて、朝鮮での争いを永久になくし、東洋全局の平和を維持しようと思い、清国に協同して事に従おうと提案したが、清国は様々な言い訳をしてこれを拒否した。日本は朝鮮の独立を保つため朝鮮に改革を勧めて朝鮮もこれを肯諾した。しかし、清国はそれを妨害し、朝鮮に大軍を送り、また朝鮮沖で日本の軍艦を攻撃した(豊島沖海戦)。日本が朝鮮の治安の責任を負い、独立国とさせた朝鮮の地位と天津条約とを否定し、日本の権利・利益を損傷し、そして東洋の平和を保障させない清国の計画は明白である。清国は平和を犠牲にして非望を遂げようとするものである。事が既にここに至れば、日本は宣戦せざるを得なくなった。戦争を早期に終結して平和を回復させたいと思う。」 戦争の経過 7月25日の豊島沖海戦の後、陸上でも7月29日成歓で日本軍は清国軍を破った。9月14日からの平壌の陸戦、9月17日の黄海海戦で日本軍が勝利し、その後朝鮮半島をほぼ制圧した。10月に入り、日本軍の第1軍が朝鮮と清との国境である鴨緑江を渡り、第2軍も遼東半島に上陸を開始した。11月には日本軍が遼東半島の旅順・大連を占領した。1895年2月、清の北洋艦隊の基地である威海衛を日本軍が攻略し、3月には遼東半島を制圧、日本軍は台湾占領に向かった。 講和条約 開戦直後からイギリスは講和斡旋へ動き、清も1895年1月に講和使節を日本に派遣した。しかし、日本は遼東半島の完全占領を目指していたため、この講和条件を受け入れなかった。1895年3月下旬からアメリカの仲介で、日本側が伊藤博文と陸奥宗光、清国側が李鴻章を全権に下関で講和会議が開かれた。3月24日に李鴻章が日本人暴漢に狙撃される事件が起こり、このため3月30日に停戦に合意した。4月17日 日清講和条約が調印され、5月8日に清の芝罘で批准書の交換を行った。 条約の主な内容は次の通り 清は朝鮮が独立国であることを認める。 清は遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲渡する。 清は賠償金2億両(テール:約3億円)を金で支払う。 このほかにもイギリスが清に要求して、まだ実現していなかった工場を建てる特権が含まれており、イギリスの立場を日本が代弁していた様子がある。 三国干渉とその後 当時ロシアは満州(中国東北部)への進出を狙っていたため、遼東半島が日本領になることに激しく反発した。このため、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを要求した(三国干渉)。日本政府には、列強三か国に対抗する力は無かったため、これを受け入れ、その代償として清から2億両を金で得た。以後、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た賠償金で八幡製鉄所を建てるなど国力充実をはかった。 戦争後、欧米列強各国は清の弱体化を見て取り、中国分割に乗り出した。ロシアは旅順と大連、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島と威海衛を租借した。 台湾では、日本を快く思わない清朝の役人が、日本の統治を妨害するため、台湾人達を先導して台湾民主国を建国、日本軍と乙未戦争を戦ったが日本軍の優秀な装備と圧倒的兵力の前に敗北した。最終的に清朝の役人は資金を持ち逃げし、日本は台湾を併合し統治を開始した。 年表 1894年 5月 朝鮮政府、甲午農民戦争(東学党の乱)の鎮圧を清朝に依頼 5月31日 内閣弾劾上奏決議案が衆議院で可決され、伊藤内閣が倒閣の危機に直面 6月2日 在韓邦人保護を名目として日本軍の朝鮮派兵を決定。衆議院を解散。 6月5日 大本営を開設し、朝鮮への派兵を開始 7月16日 日英条約改正(日英通商航海条約)が実現 7月20日 朝鮮政府に対して清軍の撤兵を要求する最後通牒を発令 7月23日 旅順西海岸の制海のため連合艦隊が佐世保を出港。 7月23日 日本軍が漢城(ソウル)に入城し、朝鮮王宮を勢力下に置く。 7月25日 豊島沖海戦(高陞号事件) 8月1日 日本・清国が互いに宣戦布告 8月26日 日本は朝鮮に圧力を掛け親日政権を樹立、共同で清国に対処する方針を採らせる。 9月15日 明治天皇が戦争指揮のため広島に移ったことに伴い大本営も移動(広島大本営)。 1895年 3月 遼東半島全域を制圧 4月17日 講和条約締結(下関条約) 4月23日 三国干渉により遼東半島を返還 戦闘 豊島沖海戦 7月25日、豊島沖で日本海軍第1遊撃隊(司令官坪井航三少将、「吉野」「浪速」「秋津洲」)は、清国軍艦「済遠」「広乙」と遭遇し、戦闘が始まった。優勢な日本海軍の応戦の前に「済遠」は逃亡を図る。 日本海軍の「吉野」「浪速」も、直ちに「済遠」を追撃する。その途上、清国軍艦「操江」及び汽船「高陞号」(英国商船旗を掲揚)と遭遇した。「高陞号」は、戦争準備行動として仁川に清国兵約1100名を輸送中であった。第1遊撃隊司令官の命により「浪速」艦長の東郷平八郎大佐は「高陞号」に停船を命じて臨検を行い、清国兵が停戦命令に従わないため、「高陞号」を撃沈する(高陞号事件)。この時、英国人船員ら3人を救助し、約50人の清国兵を捕虜とした。 豊島沖海戦による、日本側の死傷者及び艦船の損害は皆無であった。他方、清国側には、「済遠」が大破し、「操江」は「秋津洲」に鹵獲され、「広乙」も破壊された。 なお、「高陞号」を撃沈したことによって、一時英国の世論が沸騰するが、英国が日本寄りの姿勢だった事もあり、イギリスの国際法の権威、ウェストレーキおよびホルランド博士によって国際法に則った処置であることがタイムズ紙をとおして伝わると、英国の世論も沈静化する。 成歓作戦・牙山作戦 6月9日に清国軍が牙城に上陸する。7月23日時点で4165名に達する。7月25日に朝鮮政府から大鳥圭介公使に対して、牙山の清国軍撃退が要請される。7月26日に第9歩兵旅団(旅団長大島義昌少将)にその旨が伝達される。7月29日に日本軍は牙城に篭る清国兵を攻撃する。午前2時に、清国兵の襲撃により松崎直臣陸軍歩兵大尉ほかが戦死する(日本側初の戦死者)。午前7時に日本第9旅団は成歓の敵陣地を制圧する。 両作戦の日本側の死傷者は82名なの対して、清国兵は500名以上の死傷者を出し、武器等を放棄して平壌まで逃亡する。 なお安城渡の戦闘で第21連隊の木口小平二等卒は死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話が残る。 平壌作戦 8月に清国軍は平壌に1万2千名の兵員を集中させる。9月15日に日本軍が攻撃を開始する。攻略に当たっていた日本軍の歩兵第18連隊長佐藤正大佐は銃弾を受け左足切断の重傷を負う。同日午後4時40分に清国軍は白旗を掲げて翌日の開城を約した。ところが、清国軍は、約を違えて逃亡を図る。同日夜に日本軍が入城する。 黄海海戦 詳細は黄海海戦 (日清戦争)参照。 黄海上で遭遇した日清艦隊は、9月17日12時50分に「定遠」から攻撃が開始される。日本側は連合艦隊司令長官伊東祐亨中将率いる旗艦「松島」以下8隻と第一遊撃隊司令長官坪井航三少将率いる旗艦「吉野」以下4隻であるのに対して、清国艦隊は丁汝昌提督率いる「定遠」「鎮遠」等14隻と水雷艇4隻であった。日本艦隊は、清国「超勇」「致遠」「経遠」等5隻を撃沈し、6隻を大中破「揚威」「広甲」を擱座させる。日本側は4隻の大中破を出し、旗艦「松島」の戦死者の中には勇敢なる水兵と謳われた三浦虎次郎三等水兵もいる。 この海戦で日本側が勝利したことによって、清国艦隊は威海衛に閉じこもることとなり、日本海軍は黄海・朝鮮の制海権を確保した。 鴨緑江作戦 10月25日払暁に、山県有朋率いる第1軍主力は渡河作戦を開始した。日本軍の猛勢に恐れをなした清国軍は我先にと逃走を図り、日本軍は九連城を無血で制圧する。この作戦成功により、日本軍は初めて清国領土を占領する。 旅順攻略戦 10月24日に大山巌大将率いる第2軍が金州に上陸する。11月6日に金州城を占領する。11月21日に、日本軍1万5千は清国1万3千弱に対して攻撃をする。清国軍の士気は極めて低く、堅固な旅順要塞は僅か1日で陥落することとなる。 日本側の損害は戦死40名、戦傷241名、行方不明7名に対して、清国は4500名の戦死、捕虜600名を出して敗退する。 攻略そのものは問題なかったが、その後の占領において大きな問題が発生した。『タイムズ』(1894年11月28日付)や『ニューヨーク・ワールド』(同年12月12日付)により、「旅順陥落の翌日から四日間、非戦闘員・婦女・幼児などを日本軍が虐殺した」と報じられたのである。虐殺された人数については諸説あるが、実際に従軍し直接見聞した有賀長雄は清国民間人の巻き添えが有ったことを示唆している。現在、この事件は旅順虐殺事件(英名:the Port Arthur Massacre)として知られている。 この事件は外交的に大きな影響をもたらした。当時はアメリカと不平等条約改正を交渉中の最中であり、この事件により一時アメリカ上院には条約改正は時期尚早という声が大きくなり、重要な外交懸案が危殆に瀕した。陸奥宗光はこのため『ニューヨーク・ワールド』に弁明せざるを得なくなる事態に陥ることとなった。 山東作戦・威海衛作戦 1月20日に日本陸軍は栄城湾に上陸する。行軍中に歩兵第11旅団長大寺安純少将が戦死する。2月2日に威海衛を占領する。 2月5日午前3時20分に威海衛港内に侵入した日本水雷部隊は清国の「定遠」を大破、「来遠」「威遠」等3隻を撃沈した。2月9日に「靖遠」を撃沈、「定遠」は自沈する。2月12日に丁汝昌提督は将兵の助命を日本側に懇願して自決をする。伊東司令長官は、鹵獲艦船の中から商船康済号を外し、丁汝昌提督の亡骸を最大の礼遇を以て扱い、丁汝昌提督の最期の希望を聞き届け、清国兵を助命する。このことは、通常例を見ない厚遇であった。このエピソードは海軍軍人の手本として全世界に伝わり、現在でもフェアプレイ精神の例として日露戦争の上村彦之丞提督とともに、各国海軍の教本に掲載されていると云う。 日本軍の損害 脚気 玄米を主食としていた海軍では脚気による死者はほとんどいなかったが、陸軍の兵士の主食は白米であったため罹患者・約4万人、病死者・数千人だった。陸軍の戦死者は数百人(資料により人数は異なる)であり、脚気による病死のほうが多かった。当時、脚気の原因が解明されておらず、陸軍軍医制度を確立した石黒忠悳や陸軍軍医総監であった森林太郎が脚気の原因は細菌であるという伝染病説に固執していたことなどによる。 日清戦争当時は補給路が確立されておらず、兵站が滞ることがしばしばであった。平壌の戦いでは野津師団長以下が本国では乞食でさえ食わないという黒粟や玄米などで飢えをしのぐ場面が度々であった。 凍傷 当時の日本陸軍は、まだしっかりした冬季装備と厳寒地における正しい防寒方法を持っておらず、結果として冬季の戦闘で多くの将兵が凍傷にかかり、相当な戦力低下を招いた。日清戦争後、この教訓を基にして防寒具研究と冬季訓練が行われるようになった。そうしたさなかに発生したのが八甲田雪中行軍遭難事件である。 日本軍の兵站 村田銃による小銃規格の統一 欧米の軍事的脅威を感じた日清両国は欧米からの武器輸入を進めていた。だが、各軍(日本の場合は旧藩)がそれぞれの基準によってバラバラに輸入を行ったために、さまざまな国籍・形式のものが混在してしまい、弾薬の補給やメンテナンス面でも支障をきたしていた。 明治13年(1880年)、日本陸軍の村田経芳が日本で最初の国産小銃の開発に成功する。陸軍はこれを村田銃と命名して全軍の小銃の切り替えを進めた。その後、同銃は改良を進めながら全軍に支給されていった。日清戦争当時、村田銃の最新型が全軍に行き渡っていたわけではなかったが、弾薬や主要部品に関しては新旧の村田銃の間での互換性が成り立っていたため、弾薬などの大量生産が行われて効率的な補給が可能となった。 一方、依然として小銃の混在状態が続いていた清国陸軍では、部品の補給などに手間取ってしまうなどの混乱が生じてしまい、日本軍の攻勢を食い止めるだけの火力を揃える事が出来なかったのである。 その他 海外では日清戦争の事を第一次中日戦争と呼んでいるが、実際には日本軍と中国軍が戦ったのは歴史的に見れば3度目である。一度目は白村江の戦い、二度目は文禄・慶長の役である(元寇は通常モンゴル帝国扱い)。 日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦は、順に1894年、1904年、1914年と、下一桁が4 の年に始まっており、また十年毎の戦争のためか死の三十年という語呂合わせもある。 参考文献 陸奥宗光 中塚明 校注 『蹇蹇録』日清戦争外交秘録 新訂ワイド版岩波文庫255 岩波書店 ISBN 4-00-007255-2 陸軍省 編 『日清戦争統計集』 海路書院 ISBN 4-902796-32-5 檜山幸夫 編著 『近代日本の形成と日清戦争』戦争の社会史 雄山閣出版 ISBN 4639017359 井上晴樹『旅順虐殺事件』筑摩書房、1995、ISBN 4480857222 斎藤聖二『日清戦争の軍事戦略』芙蓉書房出版、2003、ISBN 4-8295-0336-X〈2003〉 外部リンク 清国ニ対スル宣戦ノ詔勅 戦史 日清戦争 日清戦争 1894–1895(北海道大学スラブ研究センター) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年6月1日 (日) 03 22。
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基礎データ ブランド名 日清食品 会社名 日清食品株式会社 電話番号 メール 企業分類 食品 現在の問合せ結果 × 現在のコメント 遺憾。広告出稿については吟味、6/27以降広告なし→8/30広告再開 最終更新日 2009/03/09 特記事項 日清オイリオグループ、日清製粉、日清医療食品とは無関係。 基礎データ特記事項 日清食品2008年6月27日の毎日朝刊に広告あり 7/2 ◎(遺憾。広告出稿については吟味) 7/2 (諸状況をみて判断) 7/14 (押し紙について) 8/1 ◎(6/27以降広告なし) 2008年8月30日の毎日朝刊に広告あり 2008年10月25日の毎日朝刊に広告あり 2008年10月30日の毎日朝刊に広告あり 2008年11月18日の毎日朝刊に広告あり 2009年2月17日(3月1日号)のサンデー毎日に広告あり 特に新聞に広告を出している企業は毎日新聞にとって泣き所となるようです 問合せ 問合せ先一覧 / 毎日新聞に広告を出していた企業(日付別) / 毎日jpに広告を出していた企業 / 電話問合せのコツ 結果別一覧 ◎◎-◎-○ / △ / ×(記号、数字、ローマ字) / ×(ひらがな) / ×(カタカナ・ア行~ナ行) / ×(カタカナ・ハ行~ワ行) / ×(漢字・あ行~か行) / ×(漢字・さ行~た行) / ×(漢字・な行~は行) / ×(漢字・ま行~わ行) 分野別一覧 製造業 / 製造業その他 / 小売、卸売 / サービス業、娯楽 / 医療、医薬 / 建設、不動産 / 金融、運輸、IT、その他 / マスコミ、出版 行政等一覧 行政、各種団体等 / 教育機関等 / 政治家、著名人 毎日新聞系列 【その1】 【その2】 【その3】 【その4】 【その5】 【その6】 【その7】 【その8】 【その9】 問合せ報告 毎日新聞関係の凸結果を淡々と張り続けるスレ7 ※「電凸」とは「電話問合せ」のインターネットスラング(俗語)です。(詳細は用語集) 対応評価の大まかな目安 ◎◎ 広告打ち切り・今後広告を出さない・今後広告を出す予定はない ◎ 良対応・厳重な抗議 ○ 普通、中立対応・対応検討中、今後注視 △ 保留・問合せの返答結果待ち(3日以内に回答なければ×) × 悪対応・無回答・処分は十分毎日の姿勢を容認・広告続行 このテンプレを編集 日清食品 2008年6月27日の毎日朝刊に広告あり 7/2 ◎(遺憾。広告出稿については吟味) 「日本の母は息子の性処理係」毎日新聞が捏造記事38 http //human7.2ch.net/test/read.cgi/ms/1214949858/875 875 名前:可愛い奥様[] 投稿日:2008/07/02(水) 11 57 30 ID Ye8lAfld0 日清食品に電凸(先日電凸したことへの折り返しの電話回答) 担当者、宣伝部の中年男性。 本日、毎日新聞社を呼んで事情聴取を行い、その際弊社としての意見も申し入れた。 この件に関する謝罪と事件の経緯を毎日から聞いた。 社としては毎日に遺憾の意を伝え、広告出稿については今後吟味していくと申し入れた。 また、再発防止策を出すようにも伝えたとのこと。 その再発防止策や今後の状況を見て広告出稿については判断していく。 私は、毎日の謝罪がきちんと行われているようには思われず、特に英語版の謝罪は 謝罪ということよりも「訴える」ということに焦点が当てられているように思う、と意見を 伝え、終了。 7/2 (諸状況をみて判断) 「日本の母は息子の性処理係」毎日新聞が捏造記事40 http //human7.2ch.net/test/read.cgi/ms/1214977646/666 666 名前:可愛い奥様[sage] 投稿日:2008/07/02(水) 17 13 36 ID ty2h4TaU0 転載禁止とのことなので要約。 ・毎日新聞より謝罪及び経緯の説明を受けた。 ・遺憾の意を伝えるのと同時に、再発防止策を講じて貰うよう依頼した。 ・今後については諸状況をみて判断する所存。 ***************************************** 日清食品株式会社 広報部 ●●●● 7/14 (押し紙について) 568 名前: 日清食品様より回答(押し紙に関して) [sage] 投稿日: 2008/07/14(月) 21 06 48 ** **様 拝復 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。 平素は弊社商品をご愛顧頂きまして誠に有り難うございます。 この度は「押し紙」に関するお問い合わせを頂戴し、重ねてお礼 申し上げます。 ご返答が大変遅くなりまして申し訳ございません。 お問い合わせの件につきまして、毎日新聞に限らず、「押し紙」 の割合は伝えられておりません。 また、弊社では段単価で取引をしておりますため、「押し紙」分は 差し引かれておりません。 これからも日清食品はよりよい商品作りに努めて参りますので 今後とも弊社商品をご愛顧賜りますとともに、「日清食品ホーム ページ」をご愛読賜りますようお願い申し上げます。 8/1 ◎(6/27以降広告なし) 2008年8月30日の毎日朝刊に広告あり 2008年10月25日の毎日朝刊に広告あり 2008年10月30日の毎日朝刊に広告あり 2008年11月18日の毎日朝刊に広告あり 2009年2月17日(3月1日号)のサンデー毎日に広告あり 検索 2008年10月25日の毎日朝刊 広告一覧 2008年10月30日の毎日朝刊 広告一覧 2008年11月18日の毎日朝刊 広告一覧 2008年6月27日の毎日朝刊 広告一覧 2008年8月30日の毎日朝刊 広告一覧 2009年12月の毎日jpに広告を出していた企業 2009年2月17日(3月1日号)のサンデー毎日 広告一覧 2010年2月22日(3月02日号)のエコノミスト 広告一覧 2010年8月21日の毎日朝刊 広告一覧 2011年12月20日(1月01日号・1月08日号)のサンデー毎日新春合併号 広告一覧 2011年1月25日(2月06日号)のサンデー毎日 広告一覧 2012年1月07日の毎日朝刊 広告一覧 2012年6月26日(7月08日号)のサンデー毎日増大号 広告一覧 問合せ結果分野別一覧 日清オイリオグループ
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★Point ①甲午農民戦争 @朝鮮 ↓ ②日清戦争 ↓ ③下関条約(結果:日本の勝利!) (1)認めさせたもの:朝鮮の独立 (2)もらった領土:台湾、遼東半島、澎湖諸島 (3)賠償金:2億両(3億円) ↓ ④三国干渉:遼東半島を清に返せ!byロシア・フランス・ドイツ ↓ ⑤中国分割 ★詳説 ①「日本の勝利」は強調して指導しましょう! 日清戦争で日本が清に勝利したことで、 日本は、清や朝鮮に対して優位に立つ(差別意識を持つ)ようになりました。 これが、1910年の「韓国併合」や1915年の「二十一ヶ条の要求」につながります。 ロシアが朝鮮半島を求めた理由も説明したほうがよいかも。 ②下関条約の賠償金について 下関条約でもらった額は、当初は3億1000万でした。加えて領土がもらえました。 三国干渉により、ロシアは遼東半島を占領しました。 このとき、日本は清に訴えました。「遼東半島をとられた。その代わり、お金をちょうだい。」 それは賠償として土地を獲得したのにもかかわらず土地(遼東半島)がとられた(実質もらえない)から、 もらえなかった分を償えという理屈から来ています。 そこでもらえた額が日本円に換算すると5000万だったというわけです。 最終的に、もらえた額が3億6000万というわけです。 →教科書だと「清から還付金が獲得され、合計3億6000万円に到達した」と表現されます。
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日清食品 ここでは、日清食品の字幕放送対応CMを一覧表示しています。 あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行 あ行 か行 カップヌードル シーフードヌードル「サザエさんと海ラップ篇」 さ行 外でカレーメシ た行 どん兵衛「サザエがどんぎつね篇」 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行
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日清オイリオグループ 本店:東京都中央区新川一丁目23番1号 【商号履歴】 日清オイリオグループ株式会社(2002年10月~) 日清製油株式会社(1918年7月~2002年10月) 日清豆粕製造株式会社(1907年3月7日~1918年7月) 【株式上場履歴】 <東証1部>1949年6月10日~ <大証1部>1955年9月10日~ 【筆頭株主】 三菱商事株式会社 【連結子会社等】 (連結子会社) 攝津製油㈱ 大阪府大阪市福島区 53.8% 日清商事㈱ 東京都中央区 48.3% 日清物流㈱ 神奈川県横浜市磯子区 100.0% ㈱NSP 神奈川県横浜市西区 70.9% ㈱マーケティングフォースジャパン 東京都中央区 100.0% 日清プラントエンジニアリング㈱ 神奈川県横浜市磯子区 100.0% ㈱ゴルフジョイ 神奈川県横浜市神奈川区 100.0% 日清サイエンス㈱ 神奈川県横浜市神奈川区 100.0% 日清マリンテック㈱ 神奈川県横浜市神奈川区 100.0% 大連日清製油有限公司 中国遼寧省 78.0% 上海日清油脂有限公司 中国上海市 96.0% SOUTHERN NISSHIN BIO-TECH SDN.BHD マレーシア・ジョホール州 63.5% 日清奥利友(中国)投資有限公司 中国上海市 100.0% INTERCONTINENTAL SPECIALTY FATS SDN.BHD マレーシア・セランゴール州 78.7% 日清ファイナンス㈱ 東京都中央区 98.5% ヤマキウ運輸㈱ 東京都品川区 86.0% 陽興エンジニアリング㈱ 岡山県倉敷市 100.0% もぎ豆腐店㈱ 埼玉県本庄市 69.7% (持分法適用関連会社) ㈱ピエトロ 福岡県福岡市中央区 20.0% 和弘食品㈱ 北海道小樽市 19.3% ㈱テンコーポレーション 東京都台東区 15.0% 幸商事㈱ 東京都中央区 17.1% ㈱日清商会 栃木県宇都宮市 40.0% ニッコー運輸㈱ 岡山県倉敷市 28.0% 統清股份有限公司 台湾台南縣 44.0% 張家港統清食品有限公司 中国江蘇省 30.0% 【合併履歴】 2004年7月 日 日清オイリオ株式会社 2004年7月 日 リノール油脂株式会社 2004年7月 日 ニッコー製油株式会社 1949年4月 日 北海製油株式会社 1918年7月 日 松下豆粕製造所 【沿革】 明治40年3月 日清豆粕製造株式会社の名称で創立し、東京市に本社、大連に支店および工場を開設。大豆油および大豆粕の製造加工並びに貿易を行う。 大正7年7月 社名を「日清製油株式会社」に改め横浜市所在の松下豆粕製造所を合併。従来の大豆単一作業から各種植物油脂および油粕等を多角的に製造加工する総合植物油脂工場に発展。 昭和20年5月 戦災により横浜工場を焼失。終戦により大連工場その他の在外資産を喪失。その後、那須疎開工場、山梨醸造工場により操業を継続。 昭和22年8月 日清商事株式会社設立。 昭和22年10月 リノール油脂株式会社設立 昭和24年1月 横浜工場を再建し、操業を開始。 昭和24年4月 北海製油株式会社を合併、当社小樽工場となる。 昭和24年6月 東京証券取引所市場第一部に上場。 昭和28年8月 神戸工場操業開始。小樽工場を廃止、小樽出張所となる。 昭和29年6月 大阪支店を開設。 昭和30年9月 大阪証券取引所市場第一部に上場。 昭和32年6月 名古屋出張所を開設。同44年5月営業所、同52年9月支店となる。 昭和33年11月 小樽出張所を廃止して札幌出張所を開設。同44年5月営業所、同48年12月支店となる。 昭和34年1月 攝津製油株式会社の経営に参画。 昭和34年4月 研究所を開設。 昭和34年12月 福岡出張所を開設。同44年5月営業所、同52年9月支店となる。 昭和35年4月 仙台出張所を開設。同44年5月営業所、同52年9月支店となる。 昭和38年11月 横浜根岸湾埋立地において横浜磯子工場操業開始。横浜工場を横浜神奈川工場と改称。 昭和44年5月 リノール油脂株式会社の経営に参画。 昭和44年5月 横浜営業所を開設。同63年1月支店となる。 昭和44年6月 広島出張所を開設。同52年9月営業所、同59年2月支店となる。 昭和44年9月 株式会社マーケティングフォースジャパン設立(当時 日清サラダ油株式会社 平成11年4月より現社名)。 昭和45年4月 高崎出張所を開設。同59年2月高崎出張所を廃止して関東信越支店を開設。 昭和48年9月 横浜神奈川工場を廃止。 昭和50年11月 ニッシンサービス株式会社設立。 昭和54年4月 日清プラントエンジニアリング株式会社設立。 昭和55年8月 ニッコー製油株式会社設立および経営に参画。 昭和58年3月 食品営業本部を設置。東京支店を開設。 昭和58年8月 日清ファイナンス株式会社設立。 昭和59年7月 株式会社ゴルフジョイ設立。 昭和59年12月 日清サイエンス株式会社設立(当時 日清ファインケミカル株式会社 平成7年4月社名変更)。 昭和61年10月 小林製薬工業株式会社(昭和22年9月設立:現アイロム製薬㈱)と資本・業務提携。 昭和63年4月 日清サイロ株式会社設立。 昭和63年9月 日本と中国の合弁企業として大連日清製油有限公司に関わる契約を調印。 平成2年6月 日清マリンテック株式会社設立。 平成2年9月 大連日清製油有限公司の工場操業開始。 平成3年4月 本社社屋新築工事竣工。 平成4年7月 日清サイロ株式会社とニッシンサービス株式会社を合併して社名を日清物流株式会社に変更。 平成5年3月 横浜支店を神静支店と改称。 平成6年11月 SOUTHERN NISSHIN BIO-TECH SDN.BHD 設立。 平成6年11月 株式会社NSP(当時 日本ソフトウェアプランニング株式会社 昭和53年7月設立 平成7年8月社名変更)の経営に参画。 平成7年3月 日清コスモフーズ株式会社設立。 平成7年10月 研究所を横須賀市へ移転。横浜神奈川事業所を開設。 平成7年10月 和弘食品株式会社(昭和39年3月設立)と業務提携。 平成8年3月 東京支店と神静支店を統合し、東京支店となる。 平成10年1月 堺事業場の工場操業開始。 平成10年3月 国際的な品質規格である「ISO9001」の認証を取得。 平成11年3月 神戸工場を廃止。 平成11年4月 堺事業場の第二期工事が完了し、本格稼働を開始する。 平成12年9月 国際的な環境マネジメントシステムである「ISO14001」の認証を取得。 平成13年10月 日清商事株式会社が久保株式会社と合併。 平成14年4月 リノール油脂株式会社およびニッコー製油株式会社それぞれとの間で両社を完全子会社とする株式交換を実施。 平成14年10月 分社型の新設分割を行い、当社の営業の全部を承継させる日清オイリオ株式会社を設立。当社は、純粋持ち株会社となり、会社名を「日清製油株式会社」から「日清オイリオグループ株式会社」に変更。 平成15年10月 日清奥利友(中国)投資有限公司設立。 平成16年7月 日清オイリオ株式会社、リノール油脂株式会社およびニッコー製油株式会社を吸収合併。 平成17年3月 大連北良地区における大連日清製油有限公司の第2工場が建設を完了し、本格稼動を開始する。 平成17年11月 INTERCONTINENTAL SPECIALTY FATS SDN.BHDの株式を取得し経営に参画。 平成18年2月 もぎ豆腐店株式会社の株式を取得し経営に参画。 平成19年3月 創立100周年。 平成19年9月 株式会社ピエトロ(昭和60年7月設立)と業務提携。
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日清戦争(甲午中日戰爭) アセリア暦1894年から1894年の間に日本と清の間で起こった戦争。 江華島事件後の朝鮮では,急進的欧米化を進めようとする親日的な独立党と,漸進的改革を進めようとする親清的な事大党との対立が激しくなっていった。それとともに,独立党を支援する日本と事大党を支援する清との対立も表面化してきた。 1894年5月に朝鮮で,東学教団構成員の全琫準を指導者として民生改善と日・欧の侵出阻止を求める農民反乱である甲午農民戦争が起きた。5月31日には全州が陥落し,朝鮮政府はこれを鎮圧するため,清に派兵を要求した。日本は清によるこれ以上の勢力拡大を恐れて1万人規模の大軍を出兵した。事態の悪化にあわてた朝鮮政府は農民軍の要求をほぼ全面的に受け入れ,6月10日に停戦。農民軍は全州から撤退した。 甲午農民戦争の停戦後,朝鮮政府は日清両軍の撤兵を要請したが,どちらも受け入れなかった。それどころか,日本は朝鮮の内政改革を求め,朝鮮政府や清がこれを拒否すると,7月23日に王宮を占拠して,親日政府を組織させた。清がこれに対して抗議して,対立が激化した。 7月25日豊島沖の海戦で,日清戦争が始まった。なお,宣戦布告は8月1日である。 7月25日の豊島沖海戦の後,陸上でも7月29日成歓で日本軍は清国軍を破った。9月14日からの平壌の陸戦,9月17日の黄海海戦で日本軍が勝利し,その後朝鮮半島をほぼ制圧した。10月に入り,日本軍の第1軍が朝鮮と清との国境である鴨緑江を渡り,第2軍も遼東半島に上陸を開始した。11月には日本軍が遼東半島の旅順・大連を占領した。1895年2月,清の北洋艦隊の基地である威海衛を日本軍が攻略し,3月には遼東半島を制圧,日本軍は台湾占領に向かった。 開戦直後からイギリスは講和斡旋へ動き,清も1895年1月に講和使節を日本に派遣した。しかし,日本は遼東半島の完全占領を目指していたため,この講和条件を受け入れなかった。1895年3月下旬からアメリカの仲介で,日本側が伊藤博文と陸奥宗光,清国側が李鴻章を全権に下関で講和会議が開かれた。3月24日に李鴻章が日本人暴漢に狙撃される事件が起こり,このため3月30日に停戦に合意した。4月17日 日清講和条約が調印され,5月8日に清の芝罘で批准書の交換を行った。 大日本國大清國間ノ講和条約 大日本國皇帝陛下及大清國皇帝陛下ハ兩國及其ノ臣民ニ平和ノ幸福ヲ囘復シ且將來紛議ノ端ヲ除クコトヲ欲シ媾和條約ヲ訂結スル爲メニ大日本國皇帝陛下ハ内閣總理大臣從二位勳一等伯爵伊藤博文外務大臣從二位勳一等子爵陸奧宗光ヲ大清國皇帝陛下ハ太子太傅文華殿大學士北洋大臣直隸總督一等肅毅伯李鴻章二品頂戴前出使大臣李經方ヲ各其ノ全權大臣ニ任命セリ因テ各全權大臣ハ互ニ其ノ委任状ヲ示シ其ノ良好妥當ナルヲ認メ以テ左ノ諸條款ヲ協議決定セリ 第一條 清國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ清國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ 第二條 清國ハ左記ノ土地ノ主權竝ニ該地方ニ在ル城壘兵器製造所及官有物ヲ永遠日本國ニ割與ス 一 臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼 二 澎湖列島即英國「グリーンウィチ」東經百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度ノ間ニ在ル諸島嶼 二項 清國ハ左記ノ土地ヲ日本國ニ租借シ該地方ニ在ル城壘兵器製造所及官有物ヲ日本國ニ割與ス 一 左ノ經界内ニ在ル奉天省南部ノ地 鴨緑江口ヨリ該江ヲ溯リ安平河口ニ至リ該河口ヨリ鳳凰城海城營口ニ亘リ遼河口ニ至ル折線以南ノ地併セテ前記ノ各城市ヲ包含ス而シテ遼河ヲ以テ界トスル處ハ該河ノ中央ヲ以テ經界トスルコトト知ルヘシ 遼東灣東岸及黄海北岸ニ在テ奉天省ニ屬スル諸島嶼 第三條 前條ニ掲載シ附屬地圖ニ示ス所ノ經界線ハ本約批准交換後直チニ日清兩國ヨリ各二名以上ノ境界共同劃定委員ヲ任命シ實地ニ就テ確定スル所アルヘキモノトス而シテ若本約ニ掲記スル所ノ境界ニシテ地形上又ハ施政上ノ點ニ付完全ナラサルニ於テハ該境界劃定委員ハ之ヲ更正スルコトニ任スヘシ 二項 該境界劃定委員ハ成ルヘク速ニ其ノ任務ニ從事シ其ノ任命後一箇年以内ニ之ヲ終了スヘシ但シ該境界劃定委員ニ於テ更定スル所アルニ當リテ其ノ更定シタル所ニ對シ日清兩國政府ニ於テ可認スル迄ハ本約ニ掲記スル所ノ經界線ヲ維持スヘシ 第四條 清國ハ軍費賠償金トシテ庫平銀貳億兩ヲ日本國ニ支拂フヘキコトヲ約ス金額ハ都合八囘ニ分チ初囘及次囘ニハ毎囘五千萬兩ヲ支拂フヘシ而シテ初囘ノ拂込ハ本約批准交換後六箇月以内ニ次囘ノ拂込ハ本約批准交換後十二箇月以内ニ於テスヘシ殘リノ金額ハ六箇年賦ニ分チ其ノ第一次ハ本約批准交換後二箇年以内ニ其ノ第二次ハ本約批准交換後三箇年以内ニ其ノ第三次ハ本約批准交換後四箇年以内ニ其ノ第四次ハ本約批准交換後五箇年以内ニ其ノ第五次ハ本約批准交換後六箇年以内ニ其ノ第六次ハ本約批准交換後七箇年以内ニ支拂フヘシ又初囘拂込ノ期日ヨリ以後未タ拂込ヲ了ラサル額ニ對シテハ毎年百分ノ五ノ利子ヲ支拂フヘキモノトス 二項 但シ清國ハ何時タリトモ該賠償金ノ全額或ハ其ノ幾分ヲ前以テ一時ニ支拂フコトヲ得ヘシ如シ本約批准交換後三箇年以内ニ該賠償金ノ總額ヲ皆濟スルトキハ總テ利子ヲ免除スヘシ若夫迄ニ二箇年半若ハ更ニ短期ノ利子ヲ拂込ミタルモノアルトキハ之ヲ元金ニ編入スヘシ 第五條 日本國ヘ割與セラレタル地方ノ住民ニシテ右割與セラレタル地方ノ外ニ住居セムト欲スル者ハ自由ニ其ノ所有不動産ヲ賣却シテ退去スルコトヲ得ヘシ其ノ爲メ本約批准交換ノ日ヨリ二箇年間ヲ猶豫スヘシ但シ右年限ノ滿チタルトキハ未タ該地方ヲ去ラサル住民ヲ日本國ノ都合ニヨリ日本國臣民ト視爲スコトアルヘシ 二項 日清兩國政府ハ本約批准交換後直チニ各一名以上ノ委員ヲ臺灣省ヘ派遣シ該省ノ受渡ヲ爲スヘシ而シテ本約批准交換後二箇月以内ニ右受渡ヲ完了スヘシ 第六條 日清兩國間ノ一切ノ條約ハ交戰ノ爲メ消滅シタレハ清國ハ本約批准交換ノ後速ニ全權委員ヲ任命シ日本國全權委員ト通商航海條約及陸路交通貿易ニ關スル約定ヲ締結スヘキコトヲ約ス而シテ現ニ清國ト歐洲各國トノ間ニ存在スル諸條約章程ヲ以テ該日清兩國間諸條約ノ基礎ト爲スヘシ又本約批准交換ノ日ヨリ該諸條約ノ實施ニ至ル迄ハ清國ハ日本國政府官吏商業航海陸路交通貿易工業船舶及臣民ニ對シ總テ最惠國待遇ヲ與フヘシ 三項 清國ハ右ノ外左ノ讓與ヲ爲シ而シテ該讓與ハ本約調印ノ日ヨリ六箇月ノ後有效ノモノトス 第一 清國ニ於テ現ニ各外國ニ向テ開キ居ル所ノ各市港ノ外ニ日本國臣民ノ商業住居工業及製造業ノ爲メニ左ノ市港ヲ開クヘシ但シ現ニ清國ノ開市場開港場ニ行ハルル所ト同一ノ條件ニ於テ同一ノ特典及便益ヲ享有スヘキモノトス 一 湖北省荊州府沙市 二 四川省重慶府 三 江蘇省蘇州府 四 浙江省杭州府 日本國政府ハ以上列記スル所ノ市港中何レノ處ニモ領事官ヲ置クノ權利アルモノトス 第二 旅客及貨物運送ノ爲メ日本國汽舩ノ航路ヲ左記ノ場所ニ迄擴張スヘシ 一 楊子江上流湖北省宜昌ヨリ四川省重慶ニ至ル 二 上海ヨリ呉淞江及運河ニ入リ蘇州杭州ニ至ル 日清兩國ニ於テ新章程ヲ妥定スル迄ハ前記航路ニ關シ適用シ得ヘキ限ハ外國船舶清國内地水路航行ニ關スル現行章程ヲ施行スヘシ 第三 日本國臣民カ清國内地ニ於テ貨品及生産物ヲ購買シ又ハ其ノ輸入シタル商品ヲ清國内地ヘ運送スルニハ右購買品又ハ運送品ヲ倉入スル爲メ何等ノ税金取立金ヲモ納ムルコトナク一時倉庫ヲ借入ルルノ權利ヲ有スヘシ 第四 日本國臣民ハ清國各開市場開港場ニ於テ自由ニ各種ノ製造業ニ從事スルコトヲ得ヘク又所定ノ輸入税ヲ拂フノミニテ自由ニ各種ノ器械類ヲ清國ヘ輸入スルコトヲ得ヘシ 清國ニ於ケル日本臣民ノ製造ニ係ル一切ノ貨品ハ各種ノ内國運送税内地税賦課金取立金ニ關シ又清國内地ニ於ケル倉入上ノ便益ニ關シ日本國臣民カ清國ヘ輸入シタル商品ト同一ノ取扱ヲ受ケ且同一ノ特典免除ヲ享有スヘキモノトス 四項 此等ノ讓與ニ關シ更ニ章程ヲ規定スルコトヲ要スル場合ニハ之ヲ本條ニ規定スル所ノ通商航海條約中ニ具載スヘキモノトス 第七條 現ニ清國版圖内ニ在ル日本國軍隊ノ撤囘ハ本約批准交換後三箇月内ニ於テスヘシ但シ次條ニ載スル所ノ規定ニ從フヘキモノトス 第八條 清國ハ本約ノ規定ヲ誠實ニ施行スヘキ擔保トシテ日本國軍隊ノ一時山東省威海衞ヲ占領スルコトヲ承諾ス而シテ本約ニ規定シタル軍費賠償金ノ初囘次囘ノ拂込ヲ了リ通商航海條約ノ批准交換ヲ了リタル時ニ當リテ清國政府ニテ右賠償金ノ殘額ノ元利ニ對シ充分適當ナル取極ヲ立テ清國海關税ヲ以テ抵當ト爲スコトヲ承諾スルニ於テハ日本國ハ其ノ軍隊ヲ前記ノ場所ヨリ撤囘スヘシ若又之ニ關シ充分適當ナル取極立タサル場合ニハ該賠償金ノ最終囘ノ拂込ヲ了リタル時ニ非サレハ撤囘セサルヘシ尤通商航海條約ノ批准交換ヲ了リタル後ニ非サレハ軍隊ノ撤囘ヲ行ハサルモノト承知スヘシ 第九條 本約批准交換ノ上ハ直チニ其ノ時現ニ有ル所ノ俘虜ヲ還附スヘシ而シテ清國ハ日本國ヨリ斯ク還附セラレタル所ノ俘虜ヲ虐待若ハ處刑セサルヘキコトヲ約ス 二項 日本國臣民ニシテ軍事上ノ間諜若ハ犯罪者ト認メラレタルモノハ清國ニ於テ直チニ解放スヘキコトヲ約シ清國ハ又交戰中日本國軍隊ト種種ノ關係ヲ有シタル清國臣民ニ對シ如何ナル處刑ヲモ爲サス又之ヲ爲サシメサルコトヲ約ス 第十條 本約批准交換ノ日ヨリ攻戰ヲ止息スヘシ 第十一條 本約ハ大日本國皇帝陛下及大清國皇帝陛下ニ於テ批准セラルヘク而シテ右批准ハ芝罘ニ於テ明治二十八年五月八日即光緒二十一年四月十四日ニ交換セラルヘシ 右證據トシテ兩帝國全權大臣ハ茲ニ記名調印スルモノナリ 明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日下ノ關ニ於テ二通ヲ作ル 大日本帝國全權辨理大臣 内閣總理大臣從二位勳一等伯爵 伊藤博文 印 大日本帝國全權辨理大臣 外務大臣 從二位勳一等子爵 陸奧宗光 印 大清帝國欽差頭等全權大臣太子太傅文華殿大學士北洋大臣直隸總督一等肅毅伯 李鴻章 印 大清帝國欽差全權大臣 二品頂戴前出使大臣 李經方 印
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日清食品 カップヌードルチーズ&ガーリックコンソメ カレー南蛮うどん 日清中華 坦々麺
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基礎データ ブランド名 日清オイリオ 会社名 日清オイリオグループ株式会社 電話番号 Fax番号 メール 企業分類 食品 現在の問合せ結果 × 現在のコメント 2009/05/28メール返信なし→2009/07/13メールの返事を電話で催促。返信待ち→メール返信なし 最終更新日 2009/09/08 特記事項 日清食品、日清製粉、日清医療食品とは無関係。 基礎データ特記事項 日清オイリオグループ2008年12月02日(臨時増刊号)のエコノミストに広告あり 他、広告あり 2009/05/26 ×(メール返信なし) 2009/07/13 評価保留(メールの返事を電話で催促。返信待ち) 2009/09/03 ×(メール返信なし) 関連ページ 特に新聞に広告を出している企業は毎日新聞にとって泣き所となるようです 問合せ 問合せ先一覧 / 毎日新聞に広告を出していた企業(日付別) / 毎日jpに広告を出していた企業 / 電話問合せのコツ 結果別一覧 ◎◎-◎-○ / △ / ×(記号、数字、ローマ字) / ×(ひらがな) / ×(カタカナ・ア行~ナ行) / ×(カタカナ・ハ行~ワ行) / ×(漢字・あ行~か行) / ×(漢字・さ行~た行) / ×(漢字・な行~は行) / ×(漢字・ま行~わ行) 分野別一覧 製造業 / 製造業その他 / 小売、卸売 / サービス業、娯楽 / 医療、医薬 / 建設、不動産 / 金融、運輸、IT、その他 / マスコミ、出版 行政等一覧 行政、各種団体等 / 教育機関等 / 政治家、著名人 毎日新聞系列 【その1】 【その2】 【その3】 【その4】 【その5】 【その6】 【その7】 【その8】 【その9】 問合せ報告 毎日新聞関係の凸結果を淡々と張り続けるスレ7 ※「電凸」とは「電話問合せ」のインターネットスラング(俗語)です。(詳細は用語集) 対応評価の大まかな目安 ◎◎ 広告打ち切り・今後広告を出さない・今後広告を出す予定はない ◎ 良対応・厳重な抗議 ○ 普通、中立対応・対応検討中、今後注視 △ 保留・問合せの返答結果待ち(3日以内に回答なければ×) × 悪対応・無回答・処分は十分毎日の姿勢を容認・広告続行 このテンプレを編集 日清オイリオグループ 2008年12月02日(臨時増刊号)のエコノミストに広告あり 他、 広告あり 2009/05/26 ×(メール返信なし) 「日本の母は息子の性処理係」毎日新聞が捏造記事163 http //hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1241265294/812 812 名前:可愛い奥様[] 投稿日:2009/05/26(火) 19 41 15 ID STB7ZZlP0 転載します --------- 285 名前:松崎名無しげる[sage] 投稿日:09/05/26 19 39 31 ID ywrP5lJO メールのお返事ですv 日清オイリオグループ(株)(ttp //www.nisshin-oillio.com/)→メール返信無し (企業分類 食品) 2009/07/13 評価保留(メールの返事を電話で催促。返信待ち) 「日本の母は息子の性処理係」毎日新聞が捏造記事166 http //hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1247101656/173 173 名前:可愛い奥様[] 投稿日:2009/07/13(月) 11 34 05 ID vYxxUccpP 320 名前:松崎名無しげる :09/07/13 11 32 40 ID gl2JKyJB 日清オイリオグループ株式会社にメールの返事を催促する電話をしました。 返信くださるそうです。 2009/09/03 ×(メール返信なし) 「日本の母は息子の性処理係」毎日新聞が捏造記事168 http //hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1251396225/193 193 名前:可愛い奥様[sage] 投稿日:2009/09/03(木) 22 43 48 ID JYUumf7/0 16 名前:松崎名無しげる[sage] 投稿日:09/09/03 21 36 30 ID XbFmDuVa メールのお返事ですv 日清オイリオグループ株式会社→メール返信なし 関連ページ 検索 2009年10月17日の毎日朝刊 広告一覧 2009年5月19日の毎日朝刊 広告一覧 2009年7月07日の毎日朝刊 広告一覧 2010年9月30日の毎日朝刊 広告一覧 2012年3月26日の毎日朝刊 広告一覧 2012年3月28日の毎日朝刊 広告一覧 問合せ結果分野別一覧 問合せ結果別一覧 ×対応の企業(漢字で始まる企業名・な行~は行) 日清食品