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索引 赤堀又次郎 浅井恵倫 足代弘訓 アストン 安達常正 荒木田守訓 荒木田盛徴 新井白石 有坂秀世 有賀長伯 青木鷺水 安然 安藤正次 五十嵐篤好 池田蘆洲 伊澤修二 石川倉次 石川雅望 石黒魯平 石田千穎 石塚龍麿 石山脩平 石井重穂 伊勢貞丈 一條兼良 市岡猛彦 伊藤慎吾 井上毅 井上哲次郎 岩淵悦太郎 飯尾永祥 飯尾宗祇 今泉忠義 今井似閑 イムブリー 牛尾養庵 宇田川文海 氏家剛大夫 上田秋成 上田万年 海北若冲 海野幸典 梅園春男 大石千引 大國隆正 大島正健 太田全斎 大田豊年 大塚高信 大槻盤里 大槻文彦 大伴廣公 大西雅雄 大矢透 カール・グレン 垣内松三 香川景樹 春日政治 荷田春満 加藤景範 加藤弘之 楫取魚彦 金澤庄三郎 金井保三 貝原益軒 貝原好古 鏑木尚平 亀田次郎 賀茂季鷹 賀茂真淵 狩谷■(木へんに夜)斎 簡野道明 木枝増一 菊澤季生 行阿 藤原定家 清原貞雄 清原宣賢 金田一京助 草鹿砥宣隆 日下部重太郎 草野清民 黒川春村 黒川真頼 黒澤翁満 黒田太久馬 契沖 顕昭 越谷吾山 小林淳男 小林歌城 小林英夫 小林好日 権田直助 佐久間鼎 佐佐木信綱 雀部信頬 佐々井祐清 アーネスト・サトウ 佐藤誠實 佐藤鶴吉 佐藤仁之助 佐伯功介 佐伯梅友 三條西實隆 シーボルト 重松信弘 篠崎東海 清水濱臣 下河辺長流 上覚 浄厳 白井廣蔭 神保格 新村出 菅原是善 菅原為長 鈴木朖 成俊 関根正直 関政方 関靖 仙覚 宗祇 宗仲 ソシュール 高木市之助 高田竹山 高橋残夢 高松義雄 田口鼎軒 橘正一 橘守部 田中延香 田中秀穂 田中義廉 谷川士清 谷眞潮 チェンバレン 鶴峯戊申 寺島良安 東條義門 東條操 富樫廣蔭 栂井道敏 時枝誠記 戸澤正令 殿村常久 伴部安崇 土井忠生 中金正衡 中島廣足 永田直行 永田吉太郎 中根淑 長野主膳 長野義言 中野柳圃 那珂通世 中村尚輔 生川正香 芳賀矢一 橋本進吉 波多野完治 服部四郎 服部正義 服部高保 服部武喬 林道春 久松潜一 平田篤胤 平山輝男 平井金三 平井重民 平井伴一 廣橋兼胤 福井久蔵 富士谷成章 藤林普山 藤原敦隆 藤原清輔 藤原公任 藤原仲実 藤原範兼 藤原道長 藤原基俊 藤村作 藤井乙男 藤井貞幹 藤岡勝二 ホイットネー 保科孝一 細川幽斎 細江逸記 ホフマン ボラー 堀季雄 堀秀成 眞下三郎 松浦道輔 松下大三郎 松平圓次郎 松永貞徳 松村任三 松本亦太郎 松井簡治 松岡静雄 松尾拾 前田太郎 前田利保 前波仲尾 富士谷御杖 満田新造 水谷居秀 三矢重松 皆川淇園 源順 源親行 壬生忠岑 宮田和一郎 村田春海 村田了阿 村林孫太郎 明覚 物集高見 物集高世 元良勇次郎 本居清造 本居宣長 本居春庭 森有礼 森正俊 森末義彰 安田喜代門 保田光則 安原貞室 安井洋 矢田部良吉 柳川春三 柳田國男 矢野玄道 矢野文雄 山口麻太郎 山口高端 山田孝雄 山田常典 山田直温 山田正紀 山田美妙 山本格安 山本道守 由阿 湯澤幸吉郎 横山辰次 横山英 吉川忠行 吉川彦富 吉澤義則 吉田澄夫 吉野奥守 吉野義雄 吉岡郷甫 ロドリゲス 渡邊弘人 猪狩幸之助 井上圓了 遠藤嘉基 岡倉由三郎 岡澤鉦次郎 岡田正美 岡田正澄 岡田希雄 小川正 岡部東平 岡本千万太郎 岡本保孝 岡井慎吾 荻生徂徠 小倉進平 小澤蘆庵 小幡重一 小山田興清 (T.K)
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オープニングクイズ ゲスト:つるの剛士 Q.特技は何でしょう? ヒント①:頭を使う ヒント②:室内で行う ヒント③:相手がある ヒント④:「アタック25」のパネルよりマス目が多いものを使う 正解:将棋 熟語問題 これから御覧頂くパズルはある熟語になります。何でしょう? 正解:睡眠 アナグラム これから御覧頂く文字を並べ替えると、ある「映画」の題名になります。何でしょう? トロと鶏なの とろととりなの □□り□と□ろ 正解:となりのトトロ ランキング問題 今週は「たけのこの都道府県別収穫量」ベスト5です。第4位はどこでしょう? 1. 福岡 13,225t 2. 鹿児島 10,791t 3. 熊本 2,952t 4. [?] 2,121t 5. 石川 1,208t ヒント:神社仏閣が多く全国から修学旅行生が訪れる 正解:京都 映画問題 『三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船』、アレクサンドル・デュマ 原作のこの映画で、悪女・ミレディを演じているこの女優は誰でしょう? 正解:ミラ・ジョヴォヴィッチ 読み上げ問題 2014FIFAワールドカップ・アジア最終予選で、日本が対戦するチームの1つ・ イラク代表チームを指揮する、元・日本代表監督は誰でしょう? 正解:ジーコ ユネスコの世界自然遺産に指定されている、オーストラリア北東部に広がる 世界最大のサンゴ礁を何というでしょう? 正解:グレート・バリア・リーフ 気象庁の予報用語で「朝」といえば、 午前6時頃から午前何時頃までを指すでしょう? 正解:午前9時頃 最近はカレーやコロッケにまでその技術を生かした商品が広がっている、 凍らせたものを真空状態に置き水分を一気に気化させる真空凍結乾燥技術を 英語で何というでしょう? 正解:フリーズドライ 江戸時代、ともに学者として活躍した新井白石と杉田玄白、 先に生まれたのはどちらでしょう? 正解:新井白石 犯罪や不正取引などで得た収益を、例えば銀行の口座から口座へ 移すなどしてあたかも正当な資金であるかのように見せかけることを、 「洗う」という意味の英語を用いて「マネー何」というでしょう? 正解:マネーロンダリング 現地時間の4月16日、ボストンマラソンが開催されますが ボストンはアメリカの何という州にあるでしょう? 正解:マサチューセッツ州 木の実の妖精の3兄弟の絆を描いた絵本『たねぽっくる~パパと ママにはないしょのおはなし~』で絵本作家としてデビューした、 バラエティーでも活躍している俳優は誰でしょう? 正解:沢村一樹 慣用句で実際よりも大きく立派に見せたり水増ししたりすることを、 「何を履かせる」というでしょう? 正解:下駄 模様の付いたカラフルなデザインのものも登場しラッピングなどでも人気の、 元はペンキのはみ出しを防ぐためのテープを「隠す」という意味の英語から 何テープというでしょう? 正解:マスキングテープ いわゆる「虹の七色」の赤と紫、波長の長いのはどちらでしょう? 正解:赤 音楽問題 まずはこちらをお聴きください。 ♪(放さない)もう止まらない Kiss Kiss Kiss… 現在全国ツアー真っ最中のこのアイドルグループの名前は何でしょう? 正解:Kis-My-Ft2 ※曲名は『SHE!HER!HER!』 隠し絵問題 観光スポットとして有名なある「モニュメント」が隠されています。何でしょう? 正解:マーライオン 読み上げ問題 今年の夏、東京ディズニーシーに映画『トイ・ストーリー』シリーズを 題材とした新しいアトラクションがオープンしますが、 その映画に登場する木製のカウボーイ人形の名前は何でしょう? 正解:ウッディ 1497年、リスボンを出港し喜望峰を回り、翌年カリカットに到達し インド航路を開拓した、このポルトガルの航海者は誰でしょう? 正解:バスコ=ダ=ガマ 『古事記』に登場する神話の1つに『因幡の白兎』がありますが、 因幡は現在の何県でしょう? 正解:鳥取県 2014年に行われる第22回オリンピック冬季競技大会の開催都市はどこでしょう? 正解:ソチ アタックチャンス 日本がアメリカへソメイヨシノを贈ったお返しとして大正時代に 日本に入ってきた、この季節から白やピンク色の花を咲かせる アメリカヤマボウシとも呼ばれる花は何でしょう? 正解:ハナミズキ 日本の43ある県の名前を常用漢字で書いた時、画数の合計が一番多いのは 28画です。その28画の県とは「鹿児島」ともう1つはどこでしょう? 正解:新潟 8世紀初頭からグラナダ開城までのおよそ800年間続いた イベリア半島におけるキリスト教徒による国土回復戦争を、 「再征服」を意味するスペイン語で何というでしょう? 正解:レコンキスタ おかもとまり・高田紗千子とともに「ものまね3姉妹」とも いわれるタレントで、得意のモノマネレパートリーに 吉高由里子・綾瀬はるか・ローラなどがあるのは誰でしょう? 正解:福田彩乃 国際体操連盟の器械器具規定によると、体操競技の女子の種目で使われる 平均台の長さは次の3つのうち何mでしょう?4m・5m・6m 正解:5m 国連難民高等弁務官事務所の親善大使を務めるアメリカの女優で、 ブラッド・ピットのパートナーといえば誰でしょう? 正解:アンジェリーナ・ジョリー 面積を求める問題です。直角三角形で一番長い辺の長さが10cm、 一番短い辺の長さが6cmの時、面積は何c㎡でしょう? 正解:24c㎡ アンデルセンの童話『裸の王様』と『マッチ売りの少女』、 先に書かれたのはどちらでしょう? 正解:裸の王様 太陽系の惑星の中で衛星を持たないのは水星と何でしょう? 正解:金星 アメリカ・イギリス・フランス、この3つの国の国旗に 共通して使われている3色をすべてお答えください。 正解:赤色・白色・青色 慣用句で役に立つものや優れた才能を持っていながらそれを 活用できずにいることを、「何の持ち腐れ」というでしょう? 正解:宝の持ち腐れ エイリアンの侵略部隊と世界連合艦隊の壮絶な戦いを描いた 映画『バトルシップ』で、日本の自衛艦の艦長・ナガタを 演じている日本人俳優は誰でしょう? 正解:浅野忠信 次に挙げるイタリア・ルネサンス期の三大芸術家のうち 一番早く生まれたのは誰でしょう? 「ラファエロ」「レオナルド・ダ・ヴィンチ」「ミケランジェロ」 正解:レオナルド・ダ・ヴィンチ 映像クイズ ある「人物」 登山 旭川・明治生まれ 京都大学 新聞 『天平の甍』『氷壁』『しろばんば』『わが母の記』 映画 山歩きが好きだった[?]は北海道旭川市の生まれ、 京都帝国大学を卒業して毎日新聞社に入社しました。 その後作家の道を歩み話題の作品を次々と発表、自伝的小説 『わが母の記』がこのほど映画化され今改めて注目を集めています。 正解:井上靖 視聴者限定クイズ 靴を食べるシーンが有名なチャップリンの作品は何でしょう? ①街の灯 ②ライムライト ③黄金狂時代 正解:③黄金狂時代
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オープニングクイズ ある「もの」をお当ていただきます。 大宝律令で「租税」として徴収 街の声「見た目は黒い」 語源:ヌラ(ヌルヌルした状態) 街の声「パリッとしている」 都道府県別出荷量 1.佐賀 2.兵庫 3.福岡 主な養殖実施国 日本、韓国 アサクサ[?]、スサビ[?] 正解:ノリ(海苔) 読み上げ問題 明治16年3月23日、書道家や陶芸家などさまざまな肩書きを持ち 「星岡茶寮」(ほしがおかさりょう)を設立するなど、 美食家としても知られる人物が生まれています。誰でしょう? 正解:北大路魯山人(きたおおじろさんじん/きたおおじろざんじん) 太陽系の八つの惑星の中で、最も大きいものは木星。 では、最も小さいものは、何でしょう? 正解:水星 春の季語となっている鳥で、 漢字で「雲」に「雀」と書くものは、何でしょう? 正解:ひばり どんなに温厚な人でも、無礼なことを何度もされれば、 最後には怒ることを表すことわざを、 「何の顔も三度」と言うでしょう? 正解:仏 アナグラム これからご覧いただく文字を仮名にして並べ替えると、 あるコンビの名前になります。誰でしょう? 毛皮かな けがわかな □か□□□ 正解:中川家(なかがわけ) 駅弁クイズ 今からご覧いただく駅弁は、 どこの都道府県のものでしょう? いなり寿し 川之江駅 汽車辨當 松山駅 四国お遍路さん弁当 川之江駅 瀬戸内しまなみ海道ちらし寿司 今治駅 マドンナ辨當 松山駅 坊っちゃん辨當 松山駅 正解:愛媛県 漢字の問題 さて何でしょう? 次のヒントからある漢字一文字をお答えください。 衛 街 術 離れ 別れ 乱れ 無線 無人 無駄 が弾む が痛む が沈む ↓ 衛 街 術 離れ 別れ 乱れ 無線 無人 無駄 が弾む が痛む が沈む 正解:話 音楽の問題 今から3曲続けてお聞きいただきます。 そのタイトルに共通する言葉は何でしょう? ♪ああ あなたに 恋心ぬすまれて・・・ ♪Ah 女の子は見つめ合うだけで・・・ ♪勇気と愛が世界を救う・・・ ↓ 1曲目「シルエット・ロマンス」 大橋純子 2曲目「ロマンス、イラネ」 AKB48 3曲目「ロマンスの神様」 広瀬香美 正解:ロマンス 読み上げ問題 浦沢直樹の人気マンガ「20世紀少年」が 映画化されることになりましたが、 主人公のケンヂ役を演じる俳優は誰でしょう? 正解:唐沢寿明(からさわとしあき) 最近はファッションとしても流行している、 クライミングのときに使う、すべり止めの炭酸マグネシウムを入れる 携帯型の小さなバッグを、何と言うでしょう? 正解:チョークバッグ 1585年、九州のキリシタン大名・大友宗麟(おおともそうりん)らが派遣した少年使節が、 ローマ法王に謁見しました。その使節のことを、当時の年号から 「何遣欧使節」と言うでしょう? 正解:天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ) 「ちっぽけな勇気」や「もう君がいない」などのヒット曲がある、 ファンキー加藤・モン吉・DJケミカルの3人による 人気ヒップホップユニットの名前は何でしょう? 正解:FUNKY MONKEY BABYS ヴィクトル・ユゴーの著書「レ・ミゼラブル」で、 主人公のジャン・バルジャンを執拗に追う 警察官の名前は何でしょう 正解:ジャベール アルゼンチンとブラジルの国境を流れる川にある、 世界三大瀑布の一つと言われている滝の名前は何でしょう? 正解:イグアスの滝(イグアス滝) 仲間に加わるときにはつっこみ、 待ち遠しいときには長くし、 お金のやりくりがつかなくなるときには回らなくなる、 体の一部はどこでしょう? 正解:首 ギリシャ語で「石」を意味する言葉を語源とする、 比重が0.53と、金属の中で最も軽いものは何でしょう? 正解:リチウム 北京オリンピックの出場を決めた、 サッカー女子日本代表は、「なでしこJAPAN」。 では、ホッケー女子日本代表の愛称は、「何JAPAN」でしょう? 正解:さくらJAPAN 次の3人のうち、江戸時代将軍の相談役でもある 側用人(そばようにん)の役職についていないのは誰でしょう? 「柳沢吉保」「新井白石」「田沼意次」 正解:新井白石(あらいはくせき) 国連の旗、「国連旗」に描かれている地図の中心は、 「北極」「南極」のどちらでしょう? 正解:北極 今年発表された第50回グラミー賞で、最優秀レコード賞を含む 5部門を受賞した、イギリスの女性シンガーは誰でしょう? 正解:エイミー・ワインハウス 今年が初演からちょうど200年にあたる、 ベートーベンの交響曲第5番は、 日本では何と呼ばれているでしょう? 正解:運命 料理の若竹煮の材料、「竹」はタケノコ、 では「若」は何のことでしょう? 正解:ワカメ アメリカの州で、アルファベットのO(オー)で始まる州は3つあります。 「オハイオ州」「オレゴン州」ともう一つは何と言う州でしょう? 正解:オクラホマ州 今年が生誕100年にあたる、「鐘の鳴る丘」や 「君の名は」などの作品を残した劇作家は誰でしょう? 正解:菊田一夫(きくたかずお) 「オウサマペンギン」と「コウテイペンギン」、 体の大きいのはどちらでしょう? 正解:コウテイペンギン 佐賀県にある、弥生時代の国内最大規模の 環濠集落のある遺跡は、何遺跡でしょう? 正解:吉野ヶ里遺跡 世界一小さな独立国、バチカンから一歩国外に出ると、 そこは何と言う都市でしょう? 正解:ローマ アタックチャンス 「朧月夜」「春がきた」「春の小川」、 この三つの春の唱歌を作詞したのは、誰でしょう? 正解:高野辰之(たかのたつゆき) 1875年に完成したパリのオペラ座は、 バスティーユにある新オペラ座と区別するため、 設計者の名前から、何と呼ばれているでしょう? 正解:オペラ・ガルニエ 国連の専門機関で、世界保健機関は「WHO」、 では世界気象機関はアルファベット3文字で何と言うでしょう? 正解:WMO 映画ドラえもん「のび太と緑の巨人伝」の主題歌、 「手をつなごう」を歌う女性歌手は誰でしょう? 正解:絢香(あやか) 小林薫の主演で映画化された「歓喜の歌」は、 ある落語家の新作落語が原作です。 その落語家とは誰でしょう? 正解:立川志の輔(たてかわしのすけ) 四国にある「室戸岬」と「足摺岬」。 南にあるのはどちらでしょう? 正解:足摺岬 「立法」「司法」「行政」の三権のうち 日本の内閣に属するのは、どれでしょう? 正解:行政 「賢者の贈り物」や「最後の一葉」などの短編小説で知られる、 アメリカの作家は誰でしょう? 正解:オー・ヘンリー 映像クイズ ある「都市」 鰻の蒲焼 雛人形 赤い門 Jリーグの映像(赤のユニフォームと白のユニフォーム) スタジアム 鉄道博物館 浦和のうなぎが名物の[?]は、岩槻の人形が伝統工芸品で、 武蔵一宮氷川神社があります。2つのJリーグチームの本拠地である この町のランドマークは埼玉スタジアム。 また、昨年は鉄道博物館がオープンするなど、話題に事欠かない都市です。 正解:さいたま市
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人物(日本) あ 青木興勝あおき おきかつ 青木熊吉あおき くまきち 青木昆陽あおき こんよう 青木正児あおき まさる 明仁あきひと 秋山蓮三あきやま れんぞう 芥川比呂志あくたがわ ひろし 芥川也寸志あくたがわ やすし 芥川龍之介あくたがわ りゅうのすけ 浅田彰あさだ あきら 阿部公房あべ こうぼう 安倍晴明あべのせいめい 安倍康成あべ やすなり 安部喜任あべ よしとう 新井白石あらい はくせき 荒俣宏あらまた ひろし 有馬道子ありま みちこ い 飯島魁いいじま いさお 飯塚啓いいづか あきら 池田岩治いけだ いわじ 池田隼人いけだ はやと 石井悌いしい てい 伊勢貞丈いせ さだたけ 一条兼良いちじょう かねら 伊藤圭介いとう けいすけ 伊藤篤太郎いとう とくたろう 稲垣足穂いながき たるほ 稲生若水いのう じゃくすい 井上ひさしいのうえ ひさし 井原西鶴いはら さいかく 岩川友太郎いわかわ ともたろう 岩崎常正いわさき つねまさ 磐瀬太郎いわせ たろう 伊藤野枝いとう のえ う 上田光敬うえだ 上野益三うえの ますぞう 植村諦うえむら たい 内田清之助うちだ せいのすけ 内田亨うちだ とおる 楳図かずおうめず かずお 梅村甚太郎うめむらじんたろう え 江戸川乱歩えどがわ らんぽ 江口渙えぐち きよし お 大島義夫おおしま よしお 大杉栄おおすぎ さかえ 丘浅次郎おか あさじろう 岡本潤おかもと じゅん か 金子務かねこ つとむ 金子洋文かねこ ようぶん 金森誠也かなもり しげなり 鎌田東二かまた とうじ 川島忠之助かわしま ちゅうのすけ き 紀田順一郎きだ じゅんいちろう 木村太郎きむら たろう 菊池寛きくち かん く 久留幸子くる さちこ 倉石五郎くらいし ごろう 黒澤明くろさわ あきら 黒島伝治くろしま でんじ 黒柳徹子くろやなぎ てつこ け こ 小泉武夫こいずみ たけお 後醍醐天皇ごだいごてんのう 小松和彦こまつ かずひこ 五味康祐ごみ やすすけ 小林多喜二こばやし たきじ さ し 澁澤龍彦しぶさわ たつひこ 聖武天皇しょうむてんのう 昭和天皇しょうわてんのう 下中弥三郎しもなか やさぶろう す 須田一政すだ いっせい せ そ た 高橋克彦たかはし かつひこ 高山宏たかやま ひろし 田中正仁 田中優子たなか ゆうこ 谷恒生たに こうせい 種村季弘たねむら すえひろ 高見順たかみ じゅん 橘小夢たちばな さゆめ 竹原春泉たけはら しゅんせん ち つ 壺井繁治つぼい しげじ て 手塚治虫てづか おさむ と 徳川家康とくがわ いえやす 豊臣秀吉とよとみ ひでよし な 中沢新一なかざわ しんいち 長田順行ながたじゅんこう 中野重治なかの しげはる 中西伊之助なかにし いのすけ に 仁坂吉伸にさか よしのぶ ぬ ね の は 葉山嘉樹はやま よしき ひ 平林たい子ひらばやし たいこ ふ 古館喜代治 へ ほ ま 前田河広一郎まえたごう ひろいちろう 松沢哲郎まつざわ てつろう 丸尾末広まるお すえひろ み 三島由紀夫みしま ゆきお 水木しげるみずき しげる 南方熊楠みなかた くまぐす 宮本正男みやもと まさお む 武者小路実篤むしゃのこうじ さねあつ 村山修一むらやま しゅういち め も や 安井仁やすい ひとし 山本周五郎やまもと しゅうごろう 山田清三郎やまだ せいざぶろう 山田維史やまだ ただみ 柳田國男やなぎた くにお ゆ よ 吉田初三郎よしだ はつさぶろう ら り る れ ろ わ
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索引にあるもの 秋永一枝 秋葉安太郎 浅野信 浅見徹 アストン 姉小路基綱 新井白石 荒川惣兵衛 有賀長伯 有坂秀世 安藤正次 飯豊毅一 池上禎造 池田亀鑑 石川雅望 石垣鎌二 石坂正蔵 石塚龍麿 石田穣二 石綿敏雄 一条兼良 井手至 稲垣正幸 井上円了 井上哲次郎 井之口有一 今泉忠義 斎部広成 入江祝衛 岩井良雄 岩淵悦太郎 上田秋成 上田万年 上村幸雄 内尾久美 楳垣実 卜部懐賢 江湖山恒明 潁原退蔵 遠藤嘉基 大石初太郎 大岩正仲 大久保愛 大久保忠利 大久保初男 大島一郎 大島正健 太田全斎 大槻文彦 大塚高信 大坪併治 大友信一 大友家持 大野晋 太安万侶 大藤時彦 大矢透 岡倉由三郎 岡沢鉦次郎 岡村和江 奥津敬一郎 奥村三雄 落合直文 沢瀉久孝 折口信夫 貝原益軒 鏡味明克 賀古明 春日和男 春日政治 荷田春満 加藤美樹 加藤信昭 加藤弘之 楫取魚彦 金井保三 金沢庄三郎 金田弘 嘉納治五郎 上坂信男 亀井孝 亀田次郎 賀茂真淵 鹿持雅澄 川瀬一馬 北恭昭 北村季吟 北山谿太 菊沢季生 木之下正雄 木下正俊 木村正辞 木村鷹太郎 義門 行阿 金田一京助 金田一春彦 空海 草鹿砥宣隆 日下部重太郎 草野清民 国田百合子 久野暲 黒田太久馬 黒沢翁満 グロータス 桑田明 契沖 慶野正次 顕昭 康遇聖 江実 河野六郎 小久保崇明 越谷吾山 小島俊夫 小島憲之 小島好治 小西甚一 此島正年 小林滋子 小林英夫 小林芳規 小林好日 小松英雄 コリャド 近藤真琴 権田直助 斉藤義七郎 佐伯梅友 境田四朗 阪倉篤義 佐久間鼎 桜井茂治 桜井光昭 佐々木信綱 雀部信頰 佐伯昭広 佐藤喜大治 佐藤茂 佐藤鶴吉 三遊亭円朝 重松信弘 柴田武 島田勇雄 島袋盛敏 清水浜臣 寿岳章子 順徳院 昌住 成俊 白石大二 白鳥庫吉 神保格 新村出 菅原為長 杉崎一雄 杉本つとむ 鈴木朖 鈴木一雄 鈴木一彦 鈴木暢幸 鈴木博 鈴木真喜男 関根俊雄 仙覚 宗祇 高楠順次郎 高橋五郎 田口卯吉 竹岡正夫 武田祐吉 建部綾足 橘忠兼 橘成員 橘守部 橘豊 田中義廉 田中館愛橘 田辺正男 谷川士清 玉上琢弥 ダラス チャンブレン 長慶天皇 塚原鉄雄 築島裕 辻村敏樹 津之地直一 鶴田常吉 鶴峯戊申 寺川喜四男 東条操 土井忠生 富樫広蔭 栂井道敏 時枝誠記 徳川宗賢 徳田政信 外山映次 中井和子 中田祝夫 中根淑 中村通夫 中本正智 永野賢 永山勇 苗代兼郁 南部義籌 西周 西尾光雄 西尾実 西宮一民 二条良基 根来司 野林正路 野村精一 橋本四郎 橋本進吉 長谷川二葉亭 服部四郎 服部武喬 馬場辰猪 浜田敦 林大 林巨樹 林圀雄 林史郎 伴信友 樋口慶千代 久松潜一 日野資純 平井金三 平井昌夫 平田篤胤 平山輝男 福井久蔵 福沢諭吉 福島邦道 福田良輔 福永静哉 藤井乙男 藤岡勝二 富士谷成章 藤原清輔 藤原定家 藤原為長 藤原仲実 藤原範兼 藤原教長 藤原与一 古田東朔 ヘボン 北条忠雄 星健之介 保科孝一 細川幽斎 ホフマン 堀秀成 堀井令以知 前島密 前田勇 前田富祺 正宗敦夫 真下三郎 増淵恒吉 馬瀬良雄 松井簡治 松尾捨 松尾捨治郎 松下大三郎 松村明 松村任三 馬渕和夫 三尾砂 三木幸信 三矢重松 南不二男 源順 源親行 峯岸明 三宅雪嶺 三宅武郎 三宅米吉 宮地幸一 宮地裕 明覚 村上直次郎 村田孝次 村田春海 木食上人応其 物集高見 望月郁子 本居宣長 本居春庭 森岡健二 森重敏 森山隆 文雄 安田喜代門 安田徳太郎 安原貞室 矢田部公望 柳田国男 矢野文雄 山内育男 山口博 山崎久之 山崎良幸 山田忠雄 山田俊雄 山田美妙 山田正紀 山田孝雄 山本正秀 湯沢幸吉郎 与謝野寛 吉岡郷甫 吉沢典男 吉沢義則 吉田金彦 吉田澄夫 ロドリゲス 若林玵蔵 渡辺実 (N.A.)
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■ 源義経=成吉思汗説を思想性の高みから検証する(4/4) 「心に青雲(2012.8.2)」より 成吉思汗は1227年に亡くなるのだが、臨終の際に「われこの大命をうけたれば、死すとも今は恨みなし。ただ、故山に帰りたし」と言ったそうだ。 成吉思汗が義経だとすれば、「恨み」とはおそらくは兄・頼朝の仕打ちであったろうし、「故山」とは幼少時に育った鞍馬山や、京都、鎌倉、衣川などの故郷、あるいは妻子や愛人・静などの日本の像であったろう。 成吉思汗がモンゴル人だとすれば、彼はほぼ故郷に帰って死んでいる。故郷にいながら「ああ故郷に帰りたかったなあ」とは言わない。だから成吉思汗にとっての故郷はモンゴルでなかったことは確かなのだ。 ーーーーーーーーーーーー ■ 源義経=成吉思汗説を思想性の高みから検証する(3/4) 「心に青雲(2012.8.1)」より ここで近代における義経伝説の決定版を著した小谷部全一郎の『成吉思汗ハ義経也』の目次から、興味深いものをピックアップしてみよう。これは中杉弘著『成吉思汗=源義経だったこれだけの理由』に紹介されていたものから選んだ。 ーーーーーーーーーーーー ■ 源義経=成吉思汗説を思想性の高みから検証する(2/4) 「心に青雲(2012.7.31)」より 義経は平泉に居る間に、そうした藤原氏の経済政策や安東水軍の活動を十分に知り得る立場にあった。そこで狭い日本から脱出して、金の産地を支配しに行く戦略を思い描いたとしても不思議ではないのである。 金を抑えれば、義経主従が大軍団を組織することが可能となる。その軍事力をもって日本列島に再上陸して頼朝勢を駆逐する計画を建てるであろう。 ーーーーーーーーーーーー ■ 源義経=成吉思汗説を思想性の高みから検証する(1/4) 「心に青雲(2012.7.30)」より 義経と成吉思汗の生誕時期・年齢は完全に重なり合う。端的には義経が日本から消息を絶った数年後に忽然と成吉思汗がモンゴルの平原に出現している事実には、偶然ではとうてい説明できない関連性があることを、いずれの書物も説いている。 彼らだけではない。江戸時代には、徳川光圀、シーボルト、新井白石、国学者・森長見らが、義経はジンギスカンに変身したことを説いている。 森長見は、清国の百科全書「古今図書集成」のなかの、歴代清皇帝が記したものの中に、乾隆帝(1711~1799)という清の最盛期の皇帝が書き綴った驚くべき一行があったと記している。 それは「私(清王家、つまり愛新覚羅)の姓は源といい、義経という人の末裔である。源義経の出自は清和源氏(清和天皇)であり、それゆえに国号が清となった」というのである。 ちなみに、そもそも「元(げん)」という国号は「源(げん)」から来ているという説もある…。 .
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カレーの色付けの香辛料のターメリックで衣服に染みが付いてしまった場合、どうすると色素が分解されるでしょうか? →天日干し 頭が3つ、腕が6本あることで有名な阿修羅(あしゅら)像がある寺はどこ? →興福寺 ケンタッキーフライドチキンの「カーネル・サンダース像」がしているネクタイはどれ? →リボンタイ カナダの首都はどこ? →オタワ 韓国料理「ビビンパ」の「パ」はご飯、では「ビビン」の意味はどれ? →混ぜる 天気予報で「晴れ」とは全天をおおう雲の量が20%から何%までの時? →80% 衛星テレビ局「アルジャジーラ」は、どこの国の放送局? →カタール 次のうち、イヌ科の動物はどれ? →タヌキ タヌキは何科の動物でしょう? →イヌ科 日本で始めて開通した有料高速道路 →名神高速道路 ヒマワリ →弁 世界最古の地下鉄は? →ロンドン地下鉄 童話「一寸法師」で、打出の小槌を使って主人公を大きくしたのは誰? →お姫様 ローマ神話の主神で雷神 →ジュピター 2004年に発行された新一万円札で、偽造防止用のホログラムに描かれている花はどれ? →サクラ ブレーメンの音楽隊に出てくる動物は、ロバ、ネコ、ニワトリとあと一匹はなんでしょう? →イヌ 江戸時代に「自然真営道」を著して,万人みずから耕作して生活する自然の世を理想とし,武士が農民から収奪する社会や身分制度を批判した人は誰でしょう? →安藤昌益 江戸時代に「古事記伝」を著し,国学を大成した人は誰でしょう →本居宜長 江戸時代の傑作「見返り美人図」の作者は誰でしょう? →菱川師宣 江戸時代の飢饉でさつまいもの研究を進め食物とすることを推奨した人物は? →青木昆陽 江戸時代、7歳で失明したのにもかかわらず、和学講談所を設立し、古今の歴史書をテーマ別に分類した「群書類従」を著した人物は? →塙保己一(はなわほきいち) 江戸時代、6代、7代将軍のとき、新井白石とともに将軍を補佐した側用人は? →間部詮房 江戸時代に数人でグループを作らせ共同責任を負わせる仕組みをなんという? →五人組 江戸時代、現在の「正」の字のかわりに、数の集計の際に使われた漢字はどれ? →玉 人類が月面で行った唯一のスポーツはどれ? →ゴルフ このページは問題数が上限に達しているため、新問の追加は最新ページへお願いします。
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次の元号のうち江戸時代に使われたものを全て選びなさい ○;慶安(1648~1652)万延(1860~1861)文久(1861~1864) ×;天暦(947~957) 次のうち江戸時代の出来事を全て選びなさい ○;慶安の変(1651)蛮社の獄(1839)安政の大獄(1858)禁門の変(1864)寺田屋事件(1862、1866) ×;応天門の変(886)霜月騒動(1285)西南戦争(1877) 次のうち幕末に組織された彰義隊の隊員を全て選びなさい ○;天野八郎 本多敏三郎 渋沢成一郎 ×;谷三十郎 藤堂平助 武田観柳斎 鈴木三樹三郎 次の幕末の人物のうち長州藩出身の人物を全て選びなさい ○;久坂玄瑞 玉木文之進 大村益次郎 三浦梧楼 白石正一郎 ×;平野国臣(福岡藩)橋本左内(福井藩) 次の幕末の志士のうち土佐藩出身の人物を全て選びなさい ○;板垣退助 吉田東洋 武市瑞山 坂本龍馬 岩崎弥太郎 後藤象二郎 岡田以蔵 ×;佐久間象山(松代藩)伊藤博文(長州藩)西郷隆盛(薩摩藩)横井小楠(熊本藩) 次の幕末の志士のうち薩摩藩出身の人物を全て選びなさい ○;桐野利秋 小松帯刀 調所広郷 有村次左衛門 奈良原喜左衛門 田中新兵衛 ×;高杉晋作(長州藩)安島帯刀(水戸藩) 次のうち、東京の増上寺に葬られた徳川将軍を全て選びなさい ○;徳川家継 徳川家慶 ×;徳川綱吉 徳川家康 次のうち、東京の寛永寺に葬られた徳川将軍を全て選びなさい ○;徳川綱吉 徳川吉宗 徳川家綱 徳川家斉 徳川家定 ×;徳川家茂(増上寺)徳川家康(日光東照宮)徳川家宣(増上寺) 次のうち幕末の江戸に道場を開き三剣士とうたわれた剣豪を全て選びなさい ○;桃井春蔵 齋藤弥九郎 千葉周作 ×;山岡鉄舟 藤田東湖 次のうち近松門左衛門が原作を書いた歌舞伎作品を全て選びなさい ○;『曽根崎心中』『国性爺合戦』『冥土の飛脚』『女殺油地獄』 ×;『勧進帳』『義経千本桜』『三人吉三』 次のうち、江戸時代に大坂で活躍した商人を全て選びなさい ○;鴻池善右衛門 淀屋辰五郎 ×;奈良屋茂左衛門(江戸)三井高利(江戸) 次のうち「知恵伊豆」と呼ばれた江戸時代の老中・松平信綱が関わった出来事を全て選びなさい ○;「明暦の大火」後の江戸復興 ×;「享保の大飢饉」後の復興、「大塩平八郎の乱」の鎮圧、方広寺の鐘銘問題 次のうち幼名が「竹千代」だった江戸幕府の将軍を全て選びなさい ○;徳川家光 徳川家綱 徳川家康 ×;徳川綱吉 次のうち江戸時代に「寛永の三筆」と謳われた人物を全て選びなさい ○;近衛信尹 本阿弥光悦 ×;司馬江漢 浦上玉堂 次のうち江戸時代に幕府や諸藩が重視し「四木」と呼ばれた商品作物を全て選びなさい ○;漆 桑 楮 茶 ×;紅花 藍 綿 麻 次のうち江戸時代に「縁切寺」と呼ばれた尼寺を全て選びなさい ○;満徳寺 東慶寺 ×;寛永寺 増上寺 護国寺 豪徳寺 次のうち享保の改革でとられた政策を全て選びなさい ○;目安箱の設置 ×;七分金積立 株仲間の解散 囲米の制 次のうち、江戸時代に南町奉行を務めた人物を全て選びなさい ○;鳥居耀蔵 ×;水野忠邦 新井白石 堀田正俊 次のうち寛政の改革でとられた政策を全て選びなさい ○;七分金積立 ×;人返しの法 目安箱の設置 上米制
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+御蔭参り 御蔭参り 「おかげでさ するりとさ 抜けたとさ」 「おかげでさ するりとさ 抜けたとさ」 単調なリズムに合わせて、同じように菅笠をかぶり、小脇に茣蓙を、腰に柄杓を差した一団が通り過ぎる。子供たちも草履を引きずりながら、それに続いて声を張り上げて「おかげでさ」と唱和する。 野良着姿の百姓や、着飾った娘方、仕事場から抜け出してきた職人、老人を乗せた駕籠や女子供を乗せた馬も通り過ぎる。 彼らは日常から解放された空気の中で互いに親しげに言葉を交わし、道中では報謝といって、食事や日常品、寝床を提供して無銭旅行の支えとなった。 1705年、京都の丁稚長八が貯めた給金を握りしめ、主家の子守の赤子を背にして伊勢へお参りした事は、霊験あらたかな話に脚色されて洛中洛外、諸国に伝え広がって多くの人の心をとらえた。閏4月には京の人々が伊勢へ流れ始めて日に10万人、これが収まると今度は、大阪から日に23万人が伊勢へ押しかけた。 こうして5月29日まで続いた伊勢参宮の群衆は、わずか50日あまりで362万人に上ったという。 この後にもほぼ60年周期で1705年、1771年、1830年に大規模な御蔭参りがあった。 当時の町人百姓は、他所で一泊でも過ごすならば5人組、名主、組頭に届け出ねばならなかったし、その他日々の細かな行動にも制限がかけられていた。 しかしその一方で、施行についての法令や、刑罰の規定が存在せず、役人の心情その時次第であった。だから民衆は、その曖昧な政治の元で安全に暮らすため、ひたすら自戒して自らの生活の幅を縮めながら、肩身の狭い思いをして生きていた。 ところが、江戸時代も中期に入りると、民衆の生活程度も向上し文化的な欲求も高まってきて、自戒ばかりの生活も耐えがたいものになってくる。欲求が高まる一方で、「生類憐みの令」など、封建君主の気まぐれによる抑圧があり、民衆のエネルギーが発散される機会は中々なかった。 ここに来ての御蔭参りなのである。 「おかげでさ するりとさ ぬけたとさ」 と大群衆の一員となって唱和し、宗教的なエクスタシーに身をあずける。 1705年の前にも大規模な御蔭参りが1615年、1650年にあったが、1705年以降において一段と大規模になったのは、この民衆の生活程度の向上があったと思われる。 「翁草」筆者神沢杜口は1771年の御蔭参りで費やされた旅費の総額を銀3万3500貫と計算している。米換算で68万石、これだけの大金が民衆の中に蓄えられていたのである。 また、道中では先に書いた「報謝」として大町人達が金品の施行をしていた。 京室町三井が銭1000貫と米五百石、大阪の鴻池は一人100文ずつ配る、といったように、京・大阪をはじめとして大津・堺・松坂などで相当額の施しがされた。 彼ら町人商人が出てくるようになったのは、廻船問屋など、海の力が大きかった。日本中を1枚に結んで、商品流通の海路が四通八達するにつれ、それらを司る商人たちの金の力は大きくなっていった。 17世紀半ばには幕政も厳しくなり、諸藩借銀している一方で、大商人らを筆頭に町人の金の力は、幕藩が制御できないほどに実力を伸ばしてきていたのである。 (hanaze) +六代将軍家宣 六代将軍家宣 前に好学の犬公方綱吉、後に米将軍吉宗が控えた6代将軍家宣は、何かぱっとしない印象を受けるかもしれない。が、彼ほど失政の少なく、民政に注意を払っていた将軍はまれである。君主というのは平凡で、気まぐれの少ないほうが民衆も苦しまずに済むものである。 家宣は、綱吉の兄甲府徳川家の綱重を父とし、自らも甲府藩主として藩政を執っていた。彼は年齢からして綱吉の次の将軍になるはずであったが、綱吉が自信の執政に自信を持ち、儒教の年功序列に反して、家宣ではなく自らの息子徳松を西の丸に入れるなど、将軍への道を阻害されている。しかし徳松が夭折し、その後も綱吉自らの子ができなかった。結局20年の遠回りをして家宣が将軍世継ぎとして確定した。 この間、別段心を乱すことなくじっと耐え、甲府の儒臣新井白石を師として授業を聞き、勉学に怠ることもなかった。この白石の授業は将軍になってからも日々休むことなく聞いていたという。その年月は19年にも及ぶ。 将軍になった家宣は猿楽師の弟子から取りたてられて側近になった間部詮房や、新井白石を両腕に政治を執った。 綱吉の治世に苦しんでいた民衆も家宣には期待をかけていたようであり、これに応えるようにして、先ず家宣は、先代綱吉が何よりも気にかけて大事にしていた「生類憐みの令」を撤廃した。家宣の断固たる態度に先代の側近柳沢吉保もその堂々たる態度に返す言葉もなかったという。柳沢は先代の命を守るのは不可能と判断し、鮮やかに政治の舞台から身を引いたという。 また新井白石と共に力を注いだのは幕府財政の立て直しであった。 財政については勘定奉行荻原重秀一人に任されており、これまで幕府財政が苦しくなると彼が改鋳を行い貨幣の質を落とし、出た利益で生きながらえる、という体制を正すことであった。白石は改鋳をせずに「入るを計って、出るを制する」事で財政も立て直せる、と幾度も家宣に進言したが、江戸の火災・関東の地震の復興費用、家宣の邸宅建築等、多額の臨時出費に対応できないので、結局貨幣改鋳に踏み切らねばならなかった。 ただし、これまで多額の賄賂などで勘定奉行に居座り続けていた荻原は、白石の度々の進言によって、職を追われた。 白石と共によく働いたのは間部詮房だった。彼は家にも帰らず事務を見るなど、非常に仕事熱心であって、学の足らないところは白石に求めるなど、補完し合う関係であった。 前将軍綱吉が好んだ学問と能楽、そこから身を立てた儒臣新井白石と猿楽師の弟子間部詮房の2人が、綱吉の政治の修正を行ったというのも、歴史の皮肉と言えよう。 (hanaze) +新井白石 新井白石 家宣の頭脳として働いたのがこの新井白石である。 上総久留里城の土屋利直に仕えた豪胆の武人新井正斉を父に、また素姓は知れぬものの、教養ある女性だった母を持つ白石は、幼い頃から父に耐える事を学び、母の影響に書物に関心を持ち、また城主利直からの覚えもよく、その母正覚院にも気に入られて中々に幸福な環境に身を置いていた。 8歳から字を習い、只管に耐えて毎日4000字の稽古をして、また撃剣にも汗を流していた白石17歳の時、中江藤樹の「翁問答」に影響されて本格的に学問を始めた。 学ぶべき師も周りにはいなかったが、四書五経を読んでいたが、父がお家騒動に巻き込まれ牢人になって一家は暗い日を迎える。それでも屈せずに学問にはげみ、大老堀田正俊に仕えるを経て、35歳で木下順庵の門下となった。 当時官学の総本山として林羅山の林家が君臨していた。中には白石の才能を惜しんで順庵の門下から去るよう勧めたものもあったが、報いるべき父も主君もなくした以上、師に報いずして立派な人間とはいえようか、と答えてあくまでも順庵の門下として学び、また官学に実力で競争しようという気迫に満ちていた。 37歳の時、甲府藩主徳川綱豊、のちの家宣に儒臣として仕官する道が開けた。 甲府は先に林家に儒臣として人を出すよう依頼していたが、林家としては将軍綱吉に冷遇されている甲府家に関わって、難しい問題に絡みたくなかったのが本音のようである。 甲府は私学で学ぶ白石に格安の給与を提示してきた。順庵も之が今後の門弟の就職に影響するといけない、と反対していたが、甲府の僅かばかりの譲歩があって白石も之に応じて仕官する運びとなった。 この頃、これまでの、武功の譜代の世襲制による臣下ではなく、一代限りの儒臣が広く用いられるようになった。 これまで戦国期~江戸前期の頃は、道徳と法が一致した関係であった。例えば、「文武弓馬の事、専らたしなむべきこと」という規範そのものが法令として存在している事である。 しかし、「商業=悪」と道徳の面では言いながらも、実際には商売が国家に欠かせないものとなってくると、道徳と法(現実)が乖離してくるのである。 法が支配者の意思を超えて、動かざるものとして存在すべき事が望まれるようになったのである。現実の秩序を維持する事を最高善として目的に掲げ、現実の習慣に基づいた、常識的な判断について、新しい法の立場からする説明が、施政者に必要とされ、それが儒臣に求められたのである。政治が儒学的立場、あるいは学問によって権威付けられる必要に応じて登場してきたのである。 さて、綱豊(家宣)が将軍継嗣に決まって西の丸に入るというとき、白石は駆けつけて自分の考えを家宣に述べ伝えている。この20日後、白石も将軍世継の侍講に任命された。 家宣が将軍になると、白石の活躍が始まる。家宣と共に先代の政治を修正しようという意志があった。そこで衝突する事になったのが綱吉の意のままに意見していた林大学頭信篤である。 白石は綱吉の棺を納める石槨の銘文についてや、武家諸法度の新令公布の時に信篤を言い負かし、大きくは朝鮮来聘使から商人の妻の夫を殺した父を訴えた、という事件にまで信篤との争いは及んでいる。 しかし、ひとたび家宣が亡くなると、白石の礼式・故実に基づく煩わしいやり方に幾分の反感をもった老中にそっぽを向かれ、以降は信篤の意見が採用されるようになる。この後も徐々に幕臣の信頼を失ってゆき、吉宗の代に至って政治上の地位を失った。 とはいえ白石は林家の権威主義的な学問に、正面切って戦った。このことによって、朱子学以外の学問分野の研究が活発になり、新しい学問の発達に大きな貢献をしたといえる。 (hanaze) +白石の外交 白石の外交 将軍の代替わりごとに朝鮮より来る来聘使の待遇についても白石は改革を行う。朝鮮よりの使者を日本は文化的先進者として珍重していた。一方でこれをどのように受け入れるかについて、白石は改革を行って形式に則ることとしたのである。白石は公家の邸宅にて有職故実を学ぶなどし、その結果、朝鮮からの使者の待遇は簡素化されることになる。 また天皇家に宮家を新たに創設し、分家を多く持つ徳川家同様、血筋の断絶を防いでいる。政治についても理想に則った公平さを徹底した。 しかし、荻原重秀を追って行った貨幣改革についてはその不案内から失敗している。 長崎貿易についても彼は手を入れ、長崎新令を発布して海外への金銀流出を防いでいる。 このころ、イタリア人宣教師・シドッチが日本に来航して逮捕されている。白石はキリスト教について学んだ上でこれを尋問し、西洋の学問に触れることとなった。そうして、西洋の学問の先進性に着目したことは、やがて吉宗による洋書禁制を緩めることにつながっていく。 (Spheniscidae) +絵島疑獄 絵島疑獄 大奥は幕政に大きな力を握っており、これの縁故によって力を持った者は多数数えられる。また、商人たちは大奥の女性へ盛んに賄賂を贈り、大奥付きの商人になろうと懸命になった。大奥は男子禁制であって、女性ばかりが多くの階級に分かれて暮らしていた。彼女たちは、将軍に伴って外出する他、寺社への代参や宿下り(帰省)を除いて大奥から出ることはならない。そして殆どが30代までの妙齢の女性であった。 6代将軍家継は、将軍就任時まだ4歳であり、母親の月光院の下で養育されることになる。間部詮房ら側近たちは、しばしば月光院の下へ訪れて政治を行うが、それは有らぬ噂の原因ともなった。また、5代将軍家宣の正妻であった天英院側の反発も買うようになる。 そのような状況の中で、月光院付きの女中である絵島・宮路が芝居見物の挙句に遅れ、門限ギリギリに大奥へ帰りついた。これは忽ち問題として取り上げられると、みるみる間に騒動は拡大した。結果、絵島の流刑を初めとして、縁者の切腹や芝居役者の入牢など、多くの人間が処罰される大事件と発展する。 これについて白石は何も残していないが、これは白石は間部――月光院側に属する人間であったことを間接的に示している。 この問題は次代の将軍に絡む問題だったと言える。幼い将軍夭折した場合の継嗣として、月光院や間部は尾張の継友を考えていたのに対し、天英院や間部に不満のある譜代諸侯は紀州の吉宗を考えていたのである。この対立関係の中で、天英院側によってこの疑獄が起こされたということもできるだろう。 この後、絵島は高遠へと流罪になり、後に釈放されるも高遠でその生涯を閉じることとなる。 (Spheniscidae) +文昭院殿の御遺命 文昭院殿の御遺命 吉宗が生まれたのは綱吉による生類憐みの令発布の前年であった。母の身分は決して高くなく、また四男であるということもあって、身分はそれほど高くなかった。元来より体格は丈夫であり、また質素な生活を好んだ。彼は幸いにして綱吉の目にとまり、越前丹生3万石に封じられ、大名となる。 しかしこれから間もなく、兄が次々と亡くなり、吉宗は紀州藩主を襲う。彼は紀州へ入国すると、経済の健全化や風俗の改良をしきりに行い窮乏した藩の立て直しを図った。 家継が亡くなると、文昭院殿――家宣の御遺命を称して吉宗が将軍に推薦され、就任することになる。しかし、実際には家宣はむしろ尾張を頼ろうと考えていたようである。しかし、尾張藩では当主・吉通が変死し、続いて息子の五郎太も夭折し、その過程で藩内での抗争が巻きおこる。この結果、将軍継嗣は紀州吉宗がよいとされるようになっていたのである。 吉宗の将軍就任を家宣の遺言と称したのは、天英院である。そしてこれに対立する白石は、家宣が元来尾張を推していたこともあって、吉宗に対して大きな反感を持っていた。しかし、絵島疑獄による月光院派の衰退や、譜代諸侯の烈しい反発の中で、間部や白石は次第に力を落としていた。その結果が、吉宗の就任だったといえるだろう。 吉宗は将軍に就任するや、先代の否定から政策実行を行っていく。つまり、白石の政策は大きく否定されることになった。また倹約を奨励して自ら率先して行い、華美に走る諸侯を注意している。 武事の奨励も行っており、自らもしきりに鷹狩を行うほか、撃剣の見物や剣豪の取り立ても行っている。 風俗の取り締まりも行っており、大きく引締めが行われた。書籍や絵曹子の検閲が行われる他、博打の取り締まり、遊女街の打ち壊しなどが行われている。 (Spheniscidae) +享保の改革 享保の改革 吉宗の改革は、白石による改革の否定によって始まる。結果、朝鮮外交の変化や武家諸法度の改定は全て覆された。しかし完全に否定されたわけでもなく、清・オランダとの貿易統制である長崎新令については継続された。 結局、吉宗の改革は吉宗が先頭に立った点で目立ったとはいえ、大きい変化があったわけではない。時代の流れは顕然として存在しており、その上にのって行われる政治もまた結局似たような形態を取らざるを得なかった。その一方で、吉宗の政治は新鮮さを感じさせるものであったことは違いはない。目安箱の設置や上米の制などはその代表と言える。 そんな吉宗の最大の改革が、定免制である。これによって年貢率を一定とし収入の安定化を図ったのである。また永代売買禁止令を発布して自立農の独立を促進し、新田の開発を積極的に行わせた。 吉宗がもっとも重要視してたのは、米価である。この時期米価は下落の傾向をしめし、その結果人々は困窮していくことになる。これに対して吉宗は買い上げなどで米価のつり上げを図った。ところが、翌年には飢饉に伴って米価は騰貴した。今度は蔵米の開放などによって米価下落を図らねばならなかったのである。 その翌年以降、再び豊作が続くと米価は再び下落。吉宗は米価公定を図るが、これも失敗した。結局、米の相場を操りえなかったのである。 朱子学の考え方の上では、商業とは賤しい物であった。農業こそが天に従う労働であり商業は不道徳であるとかんがえたのだ。それゆえ、商業は常に抑えられるものであったが、商業発展に及んで商業の統制が必要となると、徂徠学のような新しい学問が取り入れられ、その中で体系化されてゆく。 また、この時代から実学が勃興していく。漢訳の洋書の輸入が解禁され、事実に即した研究が促進されたのである。その一方で吉宗はやはり朱子学を重んじており、その点では徂徠よりも室鳩巣を重用している。 このようなことから吉宗は後にも理想の将軍として描かれるのである。家臣にも分け隔てせず接し、実学を奨励した吉宗は名君であるといえる。 (Spheniscidae) +吉宗の反対派 吉宗の反対派 将軍継嗣争いの結果、吉宗に敗れた尾張藩も彼に膝を屈することになる。しかし時の当主・継友は吉宗に対抗するだけの力はなく、尾張藩は上米を課せられながら倹約令を厳しくすることで乗り切ってゆく。 しかし継友が死ぬと、様相が変わってきた。後を継いだのは異母弟の宗春であった。彼は表を切って幕政を批判している。しかしそれを述べた著作『温知政要』は立派なものであり、これだけのものを記せる点で既に彼の逸材ぶりを示していた。 彼は家を継ぐや、倹約令を解いて祭礼などの制限も除いていった。結果、元々生産力の大きい尾張藩は忽ちにぎやかに発展し、名古屋は大都市として躍り出ることになる。これに吉宗は反感を示すも、尾張藩はその介入をもはねのけている。 しかし吉宗の改革への反動政策をとっていた宗春は、突如として失脚させられることとなる。吉宗は改革を邪魔する者には容赦することがなかった。 これは質地制限令の例を見てもわかる。これは百姓の騒擾を招く結果となったが、これを幕府は完全に弾圧し、法令を撤回した。 (Spheniscidae) +大岡越前守忠相 大岡越前守忠相 この吉宗の時代はまさに、幕府の統治体制の整備が完了した時代といえ、同時に欠け初めの時代であるとも言える。 吉宗の人事は、役職についている間のみ加増される足高の制によって積極的に有能な人材が登用された。例えば、天領石見銀山領の代官に登用された井戸平左衛門は、さつま芋の栽培を積極的に奨励し、飢饉に備えた。彼自身は飢饉において無断で代官所から米を放出し、その責任を引き受けることになる。 また大岡忠相は、中級の旗本に生まれながら、間部詮房に認められて徐々に出世を遂げる。彼は吉宗就任直後には若いながらも町奉行として任用される。 彼については様々な逸話はあるものの、史実として確認される物は少ない。しかし名裁判官として著名であったことは違いないだろう。彼は連座制の廃止や拷問の抑制を積極的に行い、また民政への深い知識を持っていたのである。 この時代、火事は相変わらず続発していた。それゆえ、対策として火除地とよばれる空き地をあちこちに置いた。また火事の拡大防止のため、庶民の逃亡が防止されたが、これは被害の拡大を齎してしまった。また火事の多発による不満を、被差別民たる非人を犯人として処刑することで解消している。 また火消がこのころ江戸の町で火事のたびに活躍していた。しかしこれは旗本の定火消と大名の大名火消からなり、広大な江戸の町を守るには足りなかった。ゆえに、大岡忠相は町人による町火消を設立し、防火体制の充実を図った。 (Spheniscidae) +天災と飢饉 天災と飢饉 吉宗の享保の改革によって、表向き幕府財政は幾分立て直したかのように見えた。 しかしこの頃から、全国的に大幅な人口減が目立つようになる。殊に農村では向上する生活水準に対して収支は常に赤字であり、食べていくことができないのである。 諸藩は公務の為に赤字財政である。多額の借銀をし、領内の特産物を過剰に搾取する。一時しのぎの為に行った搾取は、特産物を生産する土地、あるいは人民を痛めつけて立ち直れなくし、恒久の利益を失うことになるのである。当然年貢率も上げ、7公3民にまで引き上げられている。 厳しい年貢の取り立てによって傷ついた百姓は、もはやこの国の多々ある天災に抵抗することが出来ない。台風水害、蝗害、地震、冷害などの天候不順。 特に東北は天候不順が多かった。今でも「やませ」などが猛威をふるう年もある。当時も稲の品種改良等盛んに行われていたものの、激しい寒気を克服できなかった。一度稲がやられてしまうと、その年に数万人と餓死して、さらに翌年以降の労働力が失われていく。対して荒れ地になった田畑は多くの手入れを必要とする。残っている人間も既に農業を十分にこなせるほどに体力が残っていない。 この封建制度は「貴穀賤金」、農業生産を第一として考えている。しかしその担い手たる農村が崩壊を始めていたのである。 筆者は幼少期の一時期に瀬戸内海の島にて過ごしていたとの事だが、一緒に遊んでもらっていた農家の子供達に教えられて、様々な野草や木の実の類を口にしたそうだ。飢饉に喘いでいた島のご先祖の知恵が、子供らの遊びの中に隠されていたように思う、と述べている。 天災の後の飢饉とは、この筆者の経験通り、木の葉草の根で命を繋がねばならぬ深刻なものであったのである。 幕藩の供出する食物を御救小屋に求め、或いは筆者が幼少期に口にした様な雑草の類を山野に求め、一族を養う為に娘を売ったのである。 (hanaze) +諸藩の経済と商業資本 諸藩の経済と商業資本 江戸幕府には暴君もおらず、権力を傘に勝手振る舞いをする臣下もいない。お上の指導のもと倹約にも努めている。だというのに諸藩は数百、数千貫という単位で、収入の3分の1、或いは半分以上にも及ぶ赤字が、毎年発生するのである。やはり参勤交代の時、江戸、或いは道中で費やされる莫大な費用の影響が大きい。しかし封建支配体制の要である参勤交代は、幕府としても、諸藩大名としても、制度の廃止を求める訳にはいかないのである。 諸藩は財政の不足を補う為に様々手を打った。 先ず、土地の特産品を専売にする。しかし、借銀返済の穴埋めとばかり考え、一時期に強力な支配を行うので特産品を製造する人民は逃散してしまう。こうして育成せねばならなかった産業を衰えさせ、有力な財源を涸らしてしまう。 百姓から搾取するにも、前章で述べたような7公3民などが既に行われており、もはやこれ以上の搾取は望めない。 すると、支出を抑えるしかない。武士の俸禄を差し引くのである。 例えば長州藩65万石では、これを借り上げと称して行っていた。尤も借り上げとは言っても返済の義務などない。 最初は二分減と言って2割を借り上げていたが、後々半知といい、半分を借り上げるようになった。俸禄を削られると、武士が自らの石高にあった体面を維持するのは難しく、城下町から自らの領地へ引っ込んで、百姓仕事をするようになる者も少なくない 最後は商人から借銀するしかない。しかし、借銀つもりつもって、もはや収入を上回る程の借銀となる。返済できない利息は元本に繰り入れられ、複利計算で増えていく。 すると諸藩は踏み倒しにかかる。例えば借銀している商人に俸禄を与える。商人は喜んでこれを受ける。すると藩は、おまえは家来なのだから、家来の物は主君の物であるといって踏み倒す。 こうして大名貸しをした故に破産した大商人は多い。それでも藩という大きな客が生む利益は大きなうまみであった。 年代が下ってくると、諸藩は江戸・上方の大商人だけでなく、地方の城下町に出現し始めた豪商から借銀するようにもなる。そして地方の豪商は、藩に貢献したとて徐々にその地位を上げていき、藩から俸禄を受ける、或いは武士や上方の商人と同じ待遇を与えられるようになった。 諸藩は大都市の商業資本や、新たに現れた藩内の豪商から力を借りて生きながらえていたのである。 また他方で支配者は、国産の奨励を始めた。特産品をして金銭を工面し、また農村にも商品作物が広まっていった。国家の礎たる米穀生産から、商品経済へと移行せざるを得ない状況になっていたのである。 また地方に商品作物の生産という産業が発展するにつれ、マニュファクチュアが現れてくる。服部之総氏は、日本の江戸期において、マニュファクチュアの発生を経験したからこそ、明治期に入って他のアジア諸国のように欧米列強の植民地となることなく、欧米列強が歩んだように、マニュファクチュアから資本主義、機械制大工業へと発展することができたのではないか、と述べている。 (hanaze) +揺れる天下 揺れる天下 1744年、徳川吉宗は60歳になったが、いまだ政界から引退することはなかった。彼はこの年に至るまで米の相場と戦っていた。 しかし、次第にまわりから飽きられるようになり、62歳のとき、長男の家重に将軍職を譲った。 もっとも吉宗は完全に政治から離れたわけではなく、大御所となって家重を支援した。 家重は将軍となってから早い段階で、功臣の松平乗邑を罷免した。 彼は、政治を一新するという意味で、吉宗時代の責任をすべて背負わされたのだ。封建制度のもとでは、責任がこのように個人に集中することが多いからだと考えられる。 家重は、吉宗が死ぬまで彼に後見されていた。 しかし、吉宗が死亡すると、力を伸ばすのは大岡出雲守忠光という人物だった。 彼は、言語障害を持つ家重のことばを聞きわけることができたのだ。その功績で、彼は側用人にまで出世した。 彼は常に政治を謝らないように努めていたが、彼が側用人として活躍したため、後の幕政は側用人が権力を握ることになる。 吉宗から家重の時代にかけて、百姓たちの一揆はすさまじいものだった。 諸藩の財政はほぼ破綻し、参勤交代もままならない状況だったのだ。大名たちは年貢を高めたが、百姓たちは命を守るためこれに対抗した。 たとえば、久留米藩においては8万人近くの百姓が抵抗を起こした。 8歳以上の男女は、1人につき銀札6匆を納めなくてはならないという命令を藩が出したからだ。 この命令は人別出銀というが、この令はやがて廃止される。なお、一揆を起こした百姓の中には紅花や藍玉の専売禁止を願うものもいた。 専売が、百姓たちの経済を圧迫しているからだ。だからこそ、百姓たちが専売機関である庄屋に攻撃を仕掛けたのは、うなずけることだろう。 このような専売が問題になる世の中で、そもそも支配階級や宗教、学問の否定を行った思想家がいた。 働く農民たちしかいない平等な世界を理想とした、安藤昌益だ。 幕府はもちろん、仏教や儒教でさえ批判する彼の思想は、江戸時代中に世の中に出ることはなかった。 しかし、思想家の中ではかなり異端であったことが、後の世で判明した。 ちょうどこのころ、宝暦事件と明和事件が勃発した。 前者は竹内式部が朝廷で、後者は山県大弐と藤井右門が幕府で尊王攘夷論を唱えたのだ。 竹内式部は島流し、山県大弐と藤井右門は処刑された。 武家体制の根本を揺する彼らの思想に対して、幕府はいよいよ本気で対策をとらなくなってきたのだろう。 (ほたるゆき) +田沼登場 田沼登場 封建社会においては、米穀を重んじ、金銭を賤しめるという『貴穀賤金』の思想が基本とされていた。 しかしそれでは幕府は安定せず、やがて『貴金賤穀』という考えに移り変わっていた。 それでも幕府は前者の考えかたを変えようとせず、将軍の教育もそうだった。すなわち学べば学ぶほど、現実とかけ離れていくのだ。 当然古い考えを持つ武士たちの性格も通用せず、今の世をうまく渡るのは商人になりつつあった。 つまり、時代は商人のような官僚を要求していたのだ。 その官僚こそが、田沼意次だった。 彼は常に謙遜の態度を忘れず、大奥でも人気だった。そのためか、すぐに出世し、老中になる。 彼は早い段階で倹約の限度を見切り、貨幣の新鋳を試みた。新しい貨幣には、銀が多く使われた。 当時ヨーロッパでは銀の値段が下落しており、それを用いたのだ。 また、新鋳と同時に行われた政策として、産銅の独占がある。 田沼は平賀源内などの新しい知識に目をつけていたのだが、それはこのような開発技術に役立つと考えていたからだろう。 田沼はほかにも、専売政策をとり、株仲間に運上というものを課した。 これは、江戸の十組問屋、大坂の二十四組の問屋から冥加金を出させるものだ。 あらゆる生産・商業にこの専売と運上が組み込まれるようになると、携わるものの特権を認めなくてはならなくなる。 このため、田沼時代の幕府と町人(工業者や商人が多い)は、緊密な関係になりつつあった。 士農工商の最下位である町人たちが、実力を持ちはじめる。町人たちの手には、利益が次々と舞い込んでくる。 町人の実力が、田沼のもとで発揮された時代だった。 (ほたるゆき) +町人道徳と文化 町人道徳と文化 商人たちは、特権を用いて富を築いていた。 例として俸禄である米切手米やお金に交換する者である、札差がいる。 彼らは生活ぶりも気質も、まるで大名のようだったらしい。 彼ら札差は当然江戸だけにいるわけではない。彼らや商工業者が集まったからこそ、三都の繁栄、地方都市の発展は可能だったと言える。 時代の中心は、商工業者になりつつあった。 悲惨なのは武士で、彼らも商工業者のように生きなければ生活はできない状況下にあった。 この時期にはすでに、武士と町人の生きかたが逆転していた。安定しているのは武士ではなく、町人の生活だった。 町人層が進出するにつれて、彼らは独自の道徳を持つに至った。 まずは、自分たちは役に立たず、むしろ害であるという儒教の教えを払拭することからはじまった。 こうして、謙虚、勇気、礼儀、勤勉、正直、学問などが、あたらしい町人の道徳になる。 しかしまだ、精神的な支えとなる教えがない。その役割を果たすのが、石田梅岩の心学だった。 男女平等をも説くこの教えは、手島堵庵や、中沢道二によってさらに広められた。 この学問は、四民という枠を超え、町人を中堅的な階層に育て上げることが目的だったと考えられる。 心学が発展する中、1人の思想家が国学という学問を誕生させた。 これは「もののあはれ」を知る人間を理想とする本居宣長である。彼は、感情を表に出すことを肯定した。 それまでの理想では、感情を表に出すことに関しては否定的だったから、まったく逆だと言える。 つまり本居宣長は、儒教に対して否定的だった。 感情を表に出すことにより、相手の心を理解することを、この学問は目指していた。 『人の真心』において考え、『実の情』によって理解する、と彼は主張する。 儒教からの解放により、主情的な人間を作り出すという風潮の中で、このような学問が作りだされたのだと考えられる。 儒教からの解放により、国学が生まれたことは述べた。浮世絵もまた、そうであったと考えられる。 菱川師宣によって創始された浮世絵には、優姿の男女がよく描かれる。 人々が手に取って楽しむために、人間の美しさを強調し、このような描きかたになったのではないだろうか。 (ほたるゆき) +世界に開く眼 世界に開く眼 モスクワ帝国がシベリアの存在を認識したのは、足利義満のころである。以来、原住民の抵抗を排除しながらモスクワ帝国は東進を重ね、1700年初頭に至って漸くカムチャツカ半島まで到達することになった。 一方、蝦夷を管轄する松前藩は、既に財政の悪化から商業資本への依存度を強めており、原住民のアイヌの反抗をしばしば受けながらも蝦夷の統治を維持していた。彼らは漠然と、カムチャツカ半島からすぐ海峡を隔てたシムシュ島までを蝦夷の領域であると捉えていた。ところが、カムチャツカ半島から南下を開始したモスクワ帝国――ロシアは、次々と千島列島の島々へと進出し、一方で北海道に来航して日本との通商を求めるようになった。 この状況を政柄の保持者である田沼意次は、工藤平助の『赤蝦夷風説考』によって知る。この本では、ロシアとの官営貿易を推奨しており、意次もまたそれに近い考えを持っていたようである。 意次はまた、長崎貿易の輸出品である俵物を頻りに増産させ、そうして貿易を活性化することで大きな利益を挙げてもいる。このような重商主義的状況の中で、本多利明のような思想家も登場する。彼は日本の学者としては珍しく重商主義的な考え方を持ち、田沼時代の可能性と言うものを良く表していた。 このころ、平賀源内の活動も特筆される。彼は国益を増強するということを念頭に置きながら学問を行っており、その点で時代に適合していると言えた。彼は意次にも重用され、長崎で書籍の購入に従事している。 平賀源内自身は浪人であった。早くから鋭い才能と柔軟な思考力を持っていたが、身分制度の枠にははまらなかったのである。彼は西洋の科学をもとにして次々と新奇のものをつくった。中でもエレキテルは、当時ヨーロッパでも最新のものであり、大きな興行効果を齎した。一方でかれは鉱脈調査などにも従事し、一方で西洋画にも手を染め、浄瑠璃などの創作活動も行っている。しかし結局彼は、その癇癪故に不遇の最後を遂げる。 エレキテルとほぼ同時のころに、杉田玄白は『解体新書』を刊行した。これは『ターヘル・アナトミア』の翻訳である。江戸時代初期までの医学では解剖などがタブーであり、故に人体の中については非常に不確かな知識しかもたなかった。玄白は罪人の解剖を通して『ターヘル・アナトミア』の正確さを知り、故にこれをオランダ語から翻訳したのである。 このように田沼時代は、多様な才能が開花した時代であると言えた。 (Spheniscidae) +近代精神の萌芽 近代精神の萌芽 この時代の思想家として、三浦梅園を除くことはできない。彼は何事にも懐疑の態度で臨み、物事それ自身の動きから様々な法則を見出そうとした。彼は国東半島両子山麓で殆どの時間を過ごし、それゆえに情報の面で限界はあるにせよ、その思索の態度には特筆すべきものがあった。 一方、衰退してしまった土佐派・狩野派に代わってこの時代に評価される画壇として、文人画・写生画が挙げられる。写生画では円山応挙・伊藤若冲が挙げられ、中でも応挙は当時の画壇を席巻している。一方文人画では池大雅が挙げられる。池大雅は万能な人間であり、様々なことに才能を輝かせたが、中でも文人画には優れた物があり、それは本国・中国にも見られぬような世界を描き出した。 この時代は、必ずしも動きのある時代ではない。が、却ってこの穏やかな時代ははるかに様々な可能性を持っている。平穏な時代であり、人々は穏やかな一生を過ごしたが、その中には決して衰えぬ底力があり、だからこそこの後の激動の時代を完遂することができた。その点でこの時代は、興味深いのである。 (Spheniscidae)
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宮家(みやけ)とは、日本の皇室で代々皇族の身分の保持を許された一家のことである。 宮(みや)とは、元々、天皇並びに皇族の邸の事を指し、転じて住んでいる皇族のことを指すに至った。この「宮」という呼称を世襲することから「宮家」という言葉が起こった。ただし、法的な根拠を持つものではない。現在の法令上の取り扱いでは「○○宮」の称号はあくまでも宮家の当主個人の称号とされている。 現在の宮家 秋篠宮(当主:文仁親王) 常陸宮(当主:正仁親王) 三笠宮(当主:崇仁親王) 桂宮(当主:宜仁親王) 高円宮(当主格:憲仁親王妃久子) 三笠宮の長男である寬仁親王も独立の生計を営んでいるが、三笠宮家の継承が予定されているため、独自の宮号は持っていない。 概略 鎌倉時代以降、親王宣下の制度により、本来その資格のない2世王以下の皇族が天皇・上皇の養子縁組・猶子となって親王の称号を世襲する例が散見されるようになり、これを後世「世襲親王家」と呼んでいる。現在の「宮家」の源流である。たとえば、鎌倉時代中期に順徳天皇の皇子忠成王が岩倉宮、善統親王が四辻宮を名乗り、子孫に宮号が伝わっている。 本格的な世襲親王家の嚆矢とされるのが、室町時代に成立した亀山天皇の皇子恒明親王を始祖とする常盤井宮と、後二条天皇の皇子邦良親王を始祖とする木寺宮である。両親王とも、皇位を継承する可能性があったが、当時の持明院統と大覚寺統の両統迭立の情勢に翻弄され、実際には皇位に就く事がなかった。これらの親王には所領があり、子孫に代々経済的基盤として伝領された。 常盤井宮、木寺宮両家は、室町時代の後期頃には断絶したと考えられるが、この2つの宮家に次いで創設され、以後、戦後の皇籍離脱まで約550年間の長きに渡って続いたのが伏見宮である。 さらに、室町時代には、旧南朝の末裔である小倉宮、玉川宮のような例も見られる。いずれにしても、皇位継承争いに敗れた皇族が、皇位を確保した本家に政治的に対抗するかたちで分家を創立する、というパターンは共通する。そのときどきの天皇にとっては、むしろ不本意な事態として、世襲親王家は発足したのである。 しかし、安土桃山時代以降は、朝廷の極度の衰退により、世襲親王家の創設は朝廷外部からの経済的支援がなければ不可能になり、朝廷にとってむしろ歓迎すべき事態へと変わってゆく。統一政権の成立とともに、桂宮、有栖川宮、閑院宮の3家が相次いで創設され、伏見宮とあわせて、この4つの世襲親王家を「四親王家」と呼ぶ。 四親王家 伏見宮は、北朝第3代崇光天皇の第一皇子、栄仁親王(よしひとしんのう)が始祖である。第3代貞成親王(さだふさしんのう)の王子彦仁王が称光天皇の崩御後、正長元年(1428年)に後花園天皇となって皇位を継承した。 桂宮家は、正親町天皇の第1皇子誠仁親王の第6王子智仁親王(としひとしんのう)によって創設された。智仁親王は、豊臣秀吉の猶子であったが、天正17年(1589年)に秀吉に実子鶴松が生まれたために縁組が解消された。秀吉の奏請により、智仁親王に所領が与えられ「八条宮」の宮号を賜ったのが始まりである。以後、常盤井宮、京極宮、桂宮と改称し、明治14年(1881年)の第12代当主淑子内親王薨去まで存続した。 有栖川宮家は、寛永2年(1625年)後陽成天皇の第7皇子好仁親王(よしひとしんのう)によって創設された。初めは高松宮と称した。好仁親王には後嗣が無く、後水尾天皇の第6皇子で親王の甥に当たる良仁親王(ながひとしんのう)が第2代を継承し、花町宮または、桃園宮と称した。ところが、承応3年(1654年)兄の後光明天皇が没したため、良仁親王は後西天皇として皇位を継承した。宮家は後西天皇の第2皇子幸仁親王が継承し有栖川宮と改称された。 閑院宮家は、皇統の断絶を危惧した新井白石の建言で創設された。東山天皇の第6皇子直仁親王(なおひとしんのう)が、幕府から1000石の所領を献上され、享保3年(1718年)祖父の霊元法皇から「閑院宮」の宮号を賜った。新井白石の危惧は現実のものとなり、第2代典仁親王の王子・祐宮は皇嗣を儲けないまま22歳の若さで崩御した後桃園天皇の跡を継ぎ、安永8年(1779年)光格天皇となった。 以上、宮家から入って皇統を継いだ天皇は3例ある。 明治以降 幕末から明治時代にかけては新しい宮家が続々と新設され、それまで出家していた皇族が還俗して天皇の藩屏としての役割を担う事になった。 まず、文久3年(1863年)に中川宮(のちに賀陽宮を経て久邇宮に改称)、元治元年(1864年)に山階宮、以後明治3年(1870年)までに梨本宮、聖護院宮、北白川宮、華頂宮、東伏見宮(明治15年に小松宮に改称)の各宮家が設立された。 明治22年(1889年)、旧皇室典範の制定によって永世皇族制が定められた。これにより、皇族の家格は廃止される。 旧皇室典範の制定後、明治33年(1900年)には賀陽宮、明治36年(1903年)には東伏見宮、明治39年(1906年)には竹田宮、朝香宮、東久邇宮の3宮家が設立された。 その後、大正天皇の3皇子のうち、大正2年(1913年)に宣仁親王が断絶した有栖川宮の祭祀を継承するために高松宮の宮号を賜り宮家を創立した。また、大正11年(1922年)に雍仁親王が秩父宮を、昭和10年(1935年)に崇仁親王が三笠宮の宮号を賜り宮家を創設した。 旧皇室典範は当初は永世皇族主義を本則として採用する一方、明治40年(1907年)に公布された皇室典範増補は、王が勅旨または情願により華族に列せられるべきことを定めていた。さらに大正9年(1920年)には「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定され、この準則が制定されてから旧皇室典範が廃止されるまで宮号を有しない又は継承しない王のうち、12人が華族に列せられている。第二次世界大戦後には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令に基づいて、皇室財産の国有化、皇族の財産に関する特権の停止などが決定され、敗戦後の窮乏した国家財政では従前の規模の皇室を維持できなくなったことから、秩父宮、高松宮、三笠宮の三直宮家を除く11宮家51人が皇族の身分を離れることとなった。現在の皇室典範は昭和22年(1947年)5月3日に施行され(日本国憲法施行と同日)、同年10月14日に11宮家の皇籍離脱となった。これは形式的には、強制ではなく、皇族たち自身が皇族の身分を離れることを請願し、皇室会議の議決により皇籍を離れるものとされた。 現在かかえている問題 秋篠宮家に平成18年(2006年)に悠仁親王が誕生したが、それ以外の宮家については、昭和29年(1954年)の高円宮憲仁親王以来、宮家を継承する、あるいは新たに宮家を創設することができる男性皇族は誕生していない。現在の皇室典範では第9条で「天皇及び皇族は、養子をすることができない。」とされており、第12条で「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。」とされている。 現状のままではいずれの宮家も近い将来に断絶してしまうことになり、皇位の補間としての宮家の立場から、宮家の存続をめぐり様々な意見がある。例えば、内親王・女王による宮家の継承および創設を認める、既存の宮家の後継者としていわゆる旧皇族の男系子孫から養子(第1内親王・女王の婿等)を迎える、旧皇族を復籍するなどさまざまな意見はあるが、結論は出ていない。 関連項目 宮家一覧 皇室の系図一覧 親王宣下 世襲親王家 直宮家 皇位継承問題 (平成) 旧皇族 外部リンク 『日本の親王・諸王』 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月9日 (火) 21 16。