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東日本大震災原発まとめ 目次 目次2012年09月2012年09月30日 / 18 00 2012年09月29日 / 18 00 2012年09月28日 / 18 00 2012年09月27日 / 18 00 2012年09月26日 / 18 00 2012年09月25日 / 18 00 2012年09月24日 / 18 00 2012年09月23日 / 18 00 2012年09月22日 / 18 00 2012年09月21日 / 18 00 2012年09月20日 / 18 00 2012年09月19日 / 18 00 2012年09月18日 / 18 00 2012年09月17日 / 18 00 2012年09月16日 / 18 00 2012年09月15日 / 18 00 2012年09月14日 / 18 00 2012年09月13日 / 18 00 2012年09月12日 / 18 00 2012年09月10日 / 18 00 2012年09月09日 / 18 00 2012年09月08日 / 18 00 2012年09月07日 / 18 00 2012年09月06日 / 18 00 2012年09月05日 / 18 00 2012年09月04日 / 18 00 2012年09月03日 / 18 00 2012年09月02日 / 18 00 2012年09月01日 / 18 00 お約束 ▲▼ 2012年09月 2012年09月30日 18 00 特にないのでお休みでござるよ 2012年09月29日 18 00 最初はそんな美人でもないなと思っても、見続けるとわりと美人に見えるのはなんででござるかな? まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月29日 18 00 (・ω・)スイスが脱原発に向けた電力政策を発表(08 35 NHK) もんじゅでナトリウム検出器にトラブル(09/29 毎日) 原発再稼働について、規制委員会が許可し地元の了解があれば稼働容認。政府は判断関与せず-経産相(09/28 読売) 大間原発は年内にも建設再開へ(09/28 FNN) ▲▼ 2012年09月28日 18 00 またくっそ暑いでござるなぁ。台風がくるのできをつけるのでござるよ まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月28日 18 00 (・ω・)大間原発は年内に工事再開の方針決定(17 29 NHK) 1号機格納容器内の映像を公開。思ったよりキレイ。温度計設置へ(09/28 東京) 茨城県の最終処分場候補地の交渉は難航か(09/27 NHK) スウェーデンの原発が安全システム障害で自動停止(09/27 irib) 浜岡投票条例は極めて成立困難に(09/28 中日) ▲▼ 2012年09月27日 18 00 自転車の左通行化でござるが、左折後すぐ先の反対車線側にお店があり、交通量が多いとき、どうやっていけばいいのでござるか? まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月27日 18 00 (・ω・)IAEAが30年後の原子力発電量を再度下方修正へ。主な建設は中国、韓国などのアジア(12 27 ロイター) 燃料プールに落下した鉄骨は燃料や燃料ラックに接触していないとみられることが判明(09/27 河北新聞) 国内最大発電能力の移動電源車を福島第二、柏崎刈羽へ納入。非常用電源として(09/26 朝日) ▲▼ 2012年09月26日 18 00 よし拙者も来年の総裁選に出馬するでござる まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月26日 18 00 (・ω・)3号機燃料プールの底に水素爆発時に落ちたとみられる鉄骨を複数みつかる(04 32 NHK) 3号機燃料プールの放射性物質に目立った変化はなし(04 32 NHK) ▲▼ 2012年09月25日 18 00 サンマ売り場の前で、大根とかぼすをセットで売っているでござる。なかなかやるでござるな まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月21日 18 00 (・ω・)3号機燃料プール内をカメラで調査。鉄骨はプールの底にあり燃料には損傷みられず(01 44 日経) 浜岡原発4号機の吸水系配管に溶接の不具合が見つかる。焼く10cmのひび割れ(09/25 毎日) ▲▼ 2012年09月24日 18 00 ぬるぽ まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月24日 18 00 (・ω・)福島第一での鉄骨落下は切断の振動が原因。燃料損傷の可能性ひ低い(13 16 福井新聞) 自動停止したスリーマイル島原発が運転を再開(09/23 読売) ▲▼ 2012年09月23日 18 00 知らず知らずのうちにまとめを更新してしまうクセが付いてしまったでござるよ? まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月21日 18 00 (・ω・)事故後の福島県内の渓流でセシウムはほとんど検出されず(09/23 毎日) ▲▼ 2012年09月22日 18 00 暑さ寒さも彼岸まで。本日はお彼岸でござる。なぜおはぎをお供えするのでござるかな? まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月22日 18 00 (・ω・)福島県上羽鳥で水素爆発前に毎時1590μSvを観測。爆発前から放射能漏れ?(09 57 福島民放) 470kgの鉄骨が3号機建屋内の使用済み燃料プールに落下。プール内の線量に変化なく大きな損傷はない様子(17 38 読売) ▲▼ 2012年09月21日 18 00 最近、スズメバチの被害が物凄いようでござるので、気をつけるのでござるよ? まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月21日 18 00 (・ω・)スリーマイル原発で冷却水ポンプが突然停止し、原子炉が自動停止。大きな爆音とともに上記が外部へ放出(12 02 読売) スリーマイル原発の緊急停止が放出された蒸気にはごく微量の放射性物質が含まれる可能性も、危険性はなし(12 02 産経biz) 原発の新増設される可能性を認める-経産相(12 05 読売) 原発の利用に関して安心と考える専門家が24%減少(09 22 読売) 志賀原発地下の亀裂調査の様子を報道陣に公開(09/21 読売) ▲▼ 2012年09月20日 18 00 今日歩いていたらシチューの香りがしてきたでござる。もうそういうのを食べる季節なのでござるね まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月20日 18 00 (・ω・)米原子力発電運転協会が報告書(07 00 日経)http //www.nikkei.com/article/DGXNZO46247170Y2A910C1000000/ 泊原発の冬までの再稼働困難。規制委が初会合(09/20 読売) 原発ゼロ支持:朝日、毎日、東京 ゼロに批判的:日経、読売、産経(09/20 isMedia)http //wedge.ismedia.jp/articles/-/2226 福島県内の除染済み牧草地682カ所のうち44カ所で許容値を超えていることがわかる(09/20 毎日) 来月13日に天皇、皇后陛下が福島の除染を視察へ(09/20 毎日) 規制委が原発の廃炉について40年を厳格に適用する方針(09/19 日経) 原発の発電割合は福島第一の事故の影響で、2050年時点では現在の半分に減る可能性をIAEAが予測(09/19 日経) ▲▼ 2012年09月19日 18 00 まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月18日 18 00 (・ω・)新エネ戦略の閣議決定を見送り(16 26 YTV) 原発ゼロ新戦略はあいまいな閣議決定。骨抜きに恐れ(15 23 朝日) 経産相は着工前の原発を認めない方針(00 13 福井新聞) 静岡県知事が原発住民投票の条例案を県議会に提案(12 52 朝日) 原発ゼロの説明に不満、プルトニウムの扱いにも注視-IAEA(07 46 時事) 安全神話に安住、ダブルチェック形骸化、保安院と安全委が反省(01 00 産経) 汚染された牧草や稲わらなどの処分のため福島に焼却炉を建設へ(01 02 NHK) 原発ゼロは見切り発車。米や仏からも批判殺到。矛盾吹き出し後退へ(09/19 日経) 大飯原発の油倉庫内の火災報知器が作動も誤作動か(09/19 毎日) ▲▼ 2012年09月18日 18 00 まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月18日 18 00 (・ω・)経済3団体首脳は政府に原発ゼロ撤回を要望(16 02 朝日) 着工済みの原発の建設継続を容認(14 30 NHK) 美浜1、2号機、敦賀1号機は廃炉へ-官房長方針(09/18 読売) 原子力安全委員会が最後の会合。反省点多々ある(09/18 東京新聞) 深度7の現実。予想を超える振動。伊方原発は耐えられるか(09/18 毎日)http //mainichi.jp/area/kochi/news/20120918ddlk39040374000c.html 海な流れたり降り注いだ放射性物質が福島から東に3200kmの太平洋まで達する(09/18 共同) 建設中の原発は新増設とはみなさず(09/16 朝日) ▲▼ 2012年09月17日 18 00 ほほほ まもなく200を切って、拙者も更新しなくて済むようになりそうでござるな まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月17日 18 00 (・ω・)韓国月城原発1号機が変圧器故障でタービンと発電機が停止(08 56 中央日報) 再生エネ導入コスト導入など欧州では縮原発に揺らぐ欧州(01 14 日経) 宮古島自然エネ3割達成。脱原発は離島にヒント。蓄電池で出力安定化(09/17 毎日) ▲▼ 2012年09月16日 18 00 超大型台風だそうでござるね。沖縄の人は大丈夫でござるかな?これも温暖化が原因だそうでござるね まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月16日 18 00 (・ω・)再生エネルギーに参入ラッシュ。主力は太陽光と風力(16 05 時事) 経産相は大間原発の建設を進めることを認める考えを表明(09/15 日経) 福島第一の淡水化装置から二度にわたり水漏れ。少なくともも250リットル(09/15 共同) 原発ゼロも早くも迷走。経産相は建設継続を表明(09/16 東京新聞) ▲▼ 2012年09月15日 18 00 もう9月の中頃だというのに、33度とか信じられないでござるな まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月15日 18 00 (・ω・)福島第一の淡水化装置で汚染水漏れ(16 23 WSJ) フランスで最も古い原発が2016年にも閉鎖へ(08 09 NHK) 日本の原発ゼロをドイツが支援。再生エネ導入などで日本を支援用意がある-ドイツ政府報道官(08 09 NHK) 新エネルギー戦略で川内原発3号機の増設は困難に(00 28 西日本新聞) 浜岡原発4号機の配管に固定器具が取り付けられていない不具合を発見(09/15 毎日) 新エネ戦略で上関原発は事実上の中止へ(09/15 中国新聞) ▲▼ 2012年09月14日 18 00 しかし地球もかなりの異常気象でござるな。このまま温暖化したらしねるでござるよ まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月14日 18 00 (・ω・)政府は2030年に原発ゼロとする新しいエネルギー政策を決定(17 44 朝日) 福島第一の冷却水注水量は一時回復するも、再び水量が低下。原因わからず(13 44 NHK) ベルギーの原発で原子炉容器からヒビと見られる異常が見つかる。先日とは別の原発(09/13 産経biz) ▲▼ 2012年09月13日 18 00 なんか物凄く鍋料理が食べたいでござる。寄せ鍋、ちゃんこ鍋、水炊き、もつ鍋、しゃぶしゃぶ・・・・うふふふふふ まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月13日 18 00 (・ω・)原発安全基準を世界一厳しい規制にしたい-新規制委員長(12 45 日経) 関電、九電で家庭向け電気料金の値上げ検討。10%で調整。燃料費増大で(09/13 東京新聞) 4号機圧力容器の蓋を撤去。燃料棒撤去のための作業スペース確保のため(09/13 毎日) 北関東、東北など10都県でストロンチウムによる土壌汚染はなし。ほとんど過去の核実験のもの(09/12 朝日) ▲▼ 2012年09月12日 18 00 まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月12日 18 00 (・ω・)原発事故直後の写真600枚を公開(17 16 朝日) 政府がまとめるエネルギー戦略の原案では、2030年代に原発0、もんじゅ廃炉へ(15 06 読売) 敦賀原発直下の破砕帯が副断層なら廃炉の可能性も(11 00 福井新聞) 日本学術会議は使用済み燃料について総量規制を設定し、処分方法を先送りし、数百年暫定保管する案を公表(00 54 日経) 島根原発3号機が完成も稼働の見通したたず(09/12 読売) 柏崎刈羽5号機で制御棒が過剰に抜ける動作不良。他9本にも異常につながる不良を発見(09/12 毎日) ▲▼ 2012年09月10日 18 00 駅弁なんかは冷たくても美味しいでござるよね。むしろ冷たいほうが美味しかったりするでござるが不思議でござる まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月10日 18 00 (・ω・)案外簡単に夏が乗り切れる。需要だけでいえばやりくりすれば原発がなくとも停電しない(09/10 WSJ) 2号機格納容器内の空気を放出する配管に穴。放射性物質を減らす装置の手前でテープで補修(09/09 時事) ▲▼ 2012年09月09日 18 00 朝や夕なんかは、そろそろ外のほうが寒くなってきたでござるね。もう秋でござるねぇ まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月09日 18 00 (・ω・)東電が専門家による第三者委員会を立ち上げ安全対策の見直しへ(12 25 FNN) 福島第一1号機の格納容器内の核反応で発生する希ガス濃度が時折上昇。爆発や最臨界はない。原因究明へ(21 56 日経) ▲▼ 2012年09月08日 18 00 もう大きくなっているので区別がつかないでござるが、やっぱり親ガモがいなくなったようでござるよ まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月08日 18 00 (・ω・)志賀原発周辺の断層が連動しても耐震安全性評価はかわらない-保安院(09/08 読売) 大飯原発の再稼働なくとも3%を超える余裕があったと関電が認める(09/08 東京新聞) 福島第一の汚染水タンクを22万トンから70万トンに増設へ。汚染水は増えいたちごっこの可能性も(09/07 日経) ▲▼ 2012年09月07日 18 00 思わずNEX-5NDを購入してしまったでござる。次はマクロレンズが欲しいでござるな。まずは鴨でも撮影するでござるかな まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月07日 18 00 (・ω・)福島第一の注水量が低下した問題はタンクにゴミが詰まった可能性。配管交換時に割れたプラスティックが原因か(09 10 TBS) 海水が流入した浜岡5号機の原子炉内にさびを確認(01 50 日経) 民主党は2030年代に原発ゼロを目標とする方針(00 30 毎日) 国が再処理政策から撤退したのなら、送られてきた燃料棒はすべて原発に送り返す意見書を村議会が決議(17 59 NHK) 文部省が高速増殖炉の開発凍結。予算を維持費のみ請求へ(17 20 時事) ▲▼ 2012年09月06日 18 00 やっぱり親ガモがいなくなってしまったようでござるな。子供も育ったのでお別れなのでござるかな まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月06日 18 00 (・ω・)警戒区域内の犬、猫を一斉保護へ。これまでに犬428匹、ネコ322匹(16 40 徳島新聞) 警戒区域内に残された文化財の搬出を実施。土器、石器、古文書等。線量は問題なし(12 06 福島放送) 福島第一原発事故時のテレビ会議映像を1ヶ月分公開へ(14 52 産経biz) 大飯原発3号機で原子炉建屋の吸排気ファンの制御板不具合で警報が作動(11 33 北海道新聞) 浜岡原発での海水流入問題で、中電の原因推定、再発防止策は妥当-保安院(12 16 朝日) 南海トラフ地震で津波は浜岡原発に設置される防波堤より1m高く、第二の福島になる可能性も(07 00 週間ポスト) 仏最古の原発で化学反応が起き数人が負傷。蒸気が漏れ出し二名負傷し火災警報が作動か(01 41 NewsWeek) 東電トラブル隠しで福井知事は敦賀原発の増設に慎重(00 00 福井新聞) ▲▼ 2012年09月05日 18 00 もう、あれからずっと親ガモがいなくなってしまったでござる。小ガモもかなり大きくなってるでござるので、もうお別れなのでござるかな(´・ω・`)ショボーン まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月05日 18 00 (・ω・)ドイツは脱原発で石炭へ回帰。排出権の価格も下がり不利益減る(05 00 産経biz) 美浜原発ともんじゅで破砕帯の調査をすることに(17 56 NHK) 使用済み核燃料の再処理事業は、原発に使用済み燃料がたまり稼働できなくにるのを防ぐためだった(15 17 東京新聞) 青森県が燃料サイクル政策撤回で海外から変改される高レベル放射性廃棄物の搬入拒否を検討(08 57 読売) 浜岡原発4号機の発電用タービン2基に損傷を示す異常波形。ひび割れの恐れも(09/05 毎日) ▲▼ 2012年09月04日 18 00 暑いより寒いほうがいいでござるよ。暑いのはどうにもならないでござるが、寒ければ着れば済むでござるしね まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月04日 18 00 (・ω・)原発ゼロで高熱費が現在の2倍になる可能性を試算-政府(14 46 NHK) 福島第一の作業員の4割が線量計を着けずに作業(07 00 朝日) 日本は重要な安全機能を維持する備えが無かったのは明白。ベント遅れ水素爆発許した-米原発運転協会(00 13 日経) 使用済み燃料の処分先も決まらないばかりか、保管する場所もないことがわかる(09/04 東京) 泊、高浜、川内原発の耐性調査は大筋で妥当-保安院(09/03 日経) 浜岡4号機の非常用発電機から潤滑油漏れ(09/04 毎日) 避難指示を解除した区域では2年後に帰還可能な環境を整備することを明記へ-復興庁(09/04 東京) ▲▼ 2012年09月03日 18 00 2日連続で鴨が1匹いないでござる。親がいなくなったでござるのかな。巣立ちではなく親が姿を消すものなのでござろうか まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月03日 18 00 (・ω・)特集ワイド 大飯原発 必要だったのかなぁ、再稼働 火力発電止め、余裕調整 そんな本末転倒さえも…(09/03 毎日) 原子炉注水用の水に焦げ茶色の不純物。水中のさびやプランクトンが配管を詰まらせている可能性(12 05 時事) 福井県が津波予測の見直し。高浜原発で敷地浸水の恐れ(11 49 朝日) イラン初の原発が最大出力に。イラン濃縮活動拡大に対して欧米諸国が注視(09/02 日経) ▲▼ 2012年09月02日 18 00 新しいミラーレスが欲しくてたまらないでござるよ。価格と高感度でNEX-C3、サイズでE-PM1と迷っているでござる まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月02日 18 00 (・ω・)原子炉建屋に流れ込む地下水を井戸でくみ上げる地下水バイパス工事が始まる。事前にくみ出し海へ放水(14 43 産経) 福島第一の冷却水注水量は低下傾向。配管洗浄しても安定せず(13 30 産経) 今夏の電力需給は電力を融通しあえば原発再稼働必要なかった-共同調べ(09/01 共同) 東海第二原発は15mの津波に耐えられるとストレステストの評価(09/01 毎日) ▲▼ 2012年09月01日 18 00 安かったからといって、毎回バスマジックリンを買ってくるでござるので、棚に10個ぐらいあるでござるよ。もういらないでござる まとめのまとめwiki http //www47.atwiki.jp/matowiki/pages/28.html 各原子力発電所の状態のまとめ 2012年09月01日 18 00 (・ω・)北朝鮮が建設する軽水炉にドーム設置、冷却システムも備えられる(11 44 挑戦日報) 原子炉への注水は不安定な状態が続く。原因わからず。弁にゴミなどがつまる?(01 10 NHK) 志賀原発1号機直下の断層は確実に活断層-東洋大教授(08/31 福井新聞) 浜岡原発の防波堤は津波想定より1m足りず。もし津波が来れば敷地内浸水は避けられず(09/01 朝日) 浜岡原発で作業員の手洗いやシャワー200リットルが漏れる。放射能は検出されず(09/01 毎日) 印旛沼流域、川底の泥から4600ベクレル(09/01 毎日) ▲▼ お約束 正確に記述するよう努めていますが内容についての責任は負いかねます。 ▲▼ 2012年10月18日 (木) 18時39分30秒 trackback
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http //okinawasen.web5.jp/html/kousai/2008_06_saiban_igi.html 大江・岩波沖縄戦裁判勝利の意義 大阪歴史教育者協議会委員長 大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会事務局長 小 牧 薫 大江・岩波沖縄戦裁判勝利の意義1.「沖縄戦裁判」第一審勝利判決 2.沖縄戦強制集団死(「集団自決」)はなぜおこったのか 3.「沖縄戦」教科書検定の背景とねらい 4.政府・文科省の対応 5.沖縄戦をどうとらえるか 6.最後に 1.「沖縄戦裁判」第一審勝利判決 2008年3月28日、大阪地裁民事第9部の深見裁判長は、家永三郎『太平洋戦争』、大江健三郎『沖縄ノート』の記述は真実相当性があるとして、原告の訴えをすべて退けた。それだけでなく、「日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では集団自決が発生しなかったことなどの事実を踏まえると,集団自決については日本軍が深く関わったものと認められ,それぞれの島では原告梅澤及び赤松大尉を頂点とする上意下達の組織であったことからすると,それぞれの島における集団自決に原告梅澤及び赤松大尉が関与したことは十分に推認できる」とまで判示した。 《資料(1) 判決要旨》 沖縄ノートは,座間味島及び渡嘉敷島の守備隊長をそれぞれ原告梅澤及び赤松大尉であると明示していないが,引用された文献,新聞報道等でその同定は可能であり,本件各書籍の各記載は,原告梅澤及び赤松大尉が残忍な集団自決を命じた者であるとしているから,原告梅澤及び赤松大尉の社会的評価を低下させる。 「太平洋戦争」は,太平洋戦争を評価,研究する歴史研究書であり,沖縄ノートは,日本人とは何かを見つめ,戦後民主主義を問い直した書籍であって,原告梅澤及び赤松大尉に関する本件各記述を掲載した本件各書籍は公共の利害に関する事実に係わり,もっぱら公益を図る目的で出版されたものと認められる。 原告らは,梅澤命令及び赤松命令説は集団自決について援護法の適用を受けるためのねつ造であると主張するが,複数の誤記があると認められるものの,戦時下の住民の動き,非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として資料価値を有する「鉄の暴風」,米軍の「慶良間列島作戦報告書」が援護法の適用が意識される以前から存在しており,ねつ造に関する主張には疑問があり,原告らの主張に沿う照屋昇雄の発言はその経歴等に照らし,また宮村幸延の「証言」と題する書面も同人が戦時中在村していなかったことや作成経緯に照らして採用できず,「母の遺したもの」によってもねつ造を認めることはできない。 座間味島及び渡嘉敷島ではいずれも集団自決に手榴弾が利用されたが,多くの体験者が日本軍の兵士から米軍に捕まりそうになった際の自決用に手榴弾が交付されたと語っていること,沖縄に配備された第三二軍が防諜に意を用いており,渡嘉敷島では防衛隊員が身重の妻等の安否を気遣い数回部隊を離れたために敵に通謀するおそれがあるとして処刑されたほか,米軍に庇護された二少年,投降勧告に来た伊江島の男女6名が同様に処刑されたこと,米軍の「慶良間列島作戦報告書」の記載も日本軍が住民が捕虜になり日本軍の情報が漏れることを懸念したことを窺わせること,第一,三戦隊の装備からして手榴弾は極めて貴重な武器であり,慶良間列島が沖縄本島などと連絡が遮断され,食糧や武器の補給が困難であったこと,沖縄で集団自決が発生したすべての場所に日本軍が駐屯しており,日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では集団自決が発生しなかったことなどの事実を踏まえると,集団自決については日本軍が深く関わったものと認められ,それぞれの島では原告梅澤及び赤松大尉を頂点とする上意下達の組織であったことからすると,それぞれの島における集団自決に原告梅澤及び赤松大尉が関与したことは十分に推認できるけれども,自決命令の伝達経路等が判然としないため,本件各書籍に記載されたとおりの自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない。原告梅澤及び赤松大尉が集団自決に関与したものと推認できることに加え,平成17年度までの教科書検定の対応,集団自決に関する学説の状況,判示した諸文献の存在とそれらに対する信用性についての認定及び判断,家永三郎及び被告大江の取材状況等を踏まえると,原告梅澤及び赤松大尉が本件各書籍記載の内容の自決命令を発したことを直ちに真実であると断定できないとしても,その事実については合理的資料若しくは根拠があると評価できるから,本件各書籍の各発行時において,家永三郎及び被告らが本件各記述が真実であると信じるについても相当の理由があったものと認めるのが相当であり,それは本訴口頭弁論終結時においても径庭はない。したがって,被告らによる原告梅澤及び赤松大尉に対する名誉毀損は成立せず,それを前提とする損害賠償はもとより本件各書籍の差し止め請求も理由がない。 沖縄ノートには赤松大尉に対するかなり強い表現が用いられているが,沖縄ノートの主題等に照らして,被告大江が赤松大尉に対する個人攻撃をしたなど意見ないし論評の域を逸脱したものとは認められない。 2.沖縄戦強制集団死(「集団自決」)はなぜおこったのか 皇民化政策と愛国心教育 「戦陣訓」(生きて虜囚の辱めを受けず)の徹底 日本軍の駐留-「軍官民共生共死体制」、「合囲地境」の状況 手榴弾の配布、米軍の攻撃、艦砲射撃、上陸後の戦闘 日本軍の命令・強制・誘導・指示による強制集団死(資料(2)産業組合の壕〈宮平春子さんの証言〉 (3)金城重明さんの証言) 強制集団死(「集団自決」)のおこらなかった島々 → 宮城島の例 資料(2) 体験者の証言 産業組合の壕(5) (沖縄タイムス9月1日朝刊から編集) 「国の命令であの世に」壕内に大人たちの号泣 響く 兵事主任の宮里盛秀の家族は25日の夜、軍命を受け、マチャンの浜から集落奥の内川山の壕へと戻った。父親、盛永が専務だった農業会の壕(通称・産業組合の壕)近くに、連絡がとりやすいように作った壕に、親族約30人で入った。 夜10時ごろだったか。どこかへ行っていた盛秀が戻り、壕奥にいた父・盛永と話すのを、盛秀の妹、宮平春子(80)が聞いた。盛秀は思い詰めた様子だった。「明日か、あさってに上陸は間違いない。軍から自決しなさいと言われている。国の命令に従って、あの世に一緒に行きましょう」壕内部でも照明弾で空が明るくなり、島中の山が燃えている様子が分かる。米軍上陸が目前なのは明らかだった。 盛秀の言葉に対して盛永は黙りこんでいた。「軍からだったらしょうがない」。しばらくし、納得し難いように答えた。 当時33歳の盛秀には長男英樹=当時(7)、長女郁子(6)、二女美枝子(3)、11カ月の三女ヒロ子、四人の子がおりかわいがっていた。子どもたちをそばに引き寄せた。「今までずっと育ててきたのにね、この手にかけて玉砕するのか。生まれてこなければよかったね。許してね。手をかけることは、とても苦しいことではあるが、お父さんもついているから、一緒だから、怖がらないでね」。盛秀はついに、ぼろぼろと泣きだした。「こんなに大きくなったのに。育ててきたのに。自分の手で子どもを亡くすということは…」。震えながら、きつく子どもたちを抱きしめた。年長の英樹は意味も分からず、大きな瞳でまばたきするばかりだった。 厳格な長兄の盛秀が、なりふり構わず家族の面前で泣き崩れている。軍の指示を住民に伝える兵事主任という役割と、子どもたちへの愛情の間で、板挟みになって慟哭する兄。兄のつらさが春子には痛いほど分かった。壕内には、盛秀の号泣と春子やほかの大人たちの泣き声が響き続けた。 時は迫り、壕では死への準備が始まった。子どもたちに晴れ着が着せられた。田んぼの水で米を炊き、おにぎりを最期の食事にした。作りたての温かく真っ白なおにぎり。子どもたちは小さな手でおいしそうに平らげた。死のための食事は、大人は食べることができなかった。「食べられるだけ、食べさせなさい」。何も知らない子どもたちだけが、無心にほお張った。 (編集委員・謝花直美) 資料(3) 体験者・金城重明さんの証言(2007年6月8日付「沖縄タイムス」) (1)北山(にしやま)への集結命令について 昭和20年3月27日に、日本軍から、住民は北山に集結せよ、との命令が伝えられた。日本軍の陣地近くに集結せよという命令であり、いよいよ最期の時が来たのかと感じた。 27日の夜、大雨の中、阿波連から北山まで夜通し歩いた。28日の夜明け前ころ北山に到着した。そこには何百人もの住民が集まっていた。 (2)軍の自決命令について 北山に移動させられた住民は、村長の近くに集められ、軍から自決命令が出たようだという話が伝わり、村長は「天皇陛下万歳」を唱え、軍の自決命令を住民に伝達した。 母親たちは、嗚咽(おえつ)しながら、死について子どもに語り聞かせており、死を目前にしながら、髪を整え、死の身支度をしていた婦人たちの様子が忘れられない。 「天皇陛下万歳」とは玉砕するときの掛け声で、村長が独断で自決命令を出すことはあり得ず、それは軍から自決命令が出たということだ。 この裁判に提出された、吉川勇助氏の陳述書を読んだ。村長が「天皇陛下万歳」を唱える前に、軍の陣地から伝令の防衛隊員が来て、村長の耳元で何かを伝えたとのことたが、軍の命令が伝えられて、村長が号令をかけたことが分かった。 (3)手榴弾(しゅりゅうだん)の事前配布について 米軍上陸1週間くらい前に兵器軍曹が役場に青年団や職員を集め、手榴弾を1人2個ずつ渡し「1個は敵に投げ、もう1個で死になさい」と訓示していた。このことは、兵事主任であった富山真順氏から、家永裁判で証言する時に、直接聞いている。「集団自決」の当日にも、「集団自決」の場所で、防衛隊長が手榴弾を住民に配っている。 (4)「集団自決」の状況について 村長が「天皇陛下万歳」を唱えた後、住民は手榴弾を爆発させて「集団自決」が行われた。手榴弾は不発の物が多く手榴弾による死傷者は多くなく、これが悲惨な殺し合いの原因となった。肉親同士、愛する者たち、家族親せき同士が、こん棒や石で頭をたたいたり、ひもで首を絞め、かまや剃刀(かみそり)で頸(けい)動脈や手首を切るなど、あらゆる方法で命を絶った。手榴弾によるよりも、より残酷で確実な方法で、夫が妻を、親が愛する子どもを、兄弟が姉妹を手にかけ、自分で死ぬことができない幼い者、老人から命を絶っていった。 (5)「集団自決」後の状況について 兄と私が、どちらが先に死ぬかという話をしていたところへ、15、16歳の青年が駆け込んできて、日本軍と斬り込みに行くというので、たとえ殺されても斬り込もうと、悲壮に満ちた決意をした。斬り込みに行く途中で、日本軍の兵隊に出会った。住民は軍と運命を共にし、玉砕したと思っていたので、なぜ住民だけがひどい目に遭わなければならないのか、軍に裏切られたと感じた。その後、生き残った住民と一緒に避難生活を送った。渡嘉敷島では、「集団自決」で生き残り、米軍の治療を受けた少年2人が、捕虜になることを許さない日本軍に殺された。 (6)「集団自決」が起こった理由について 米軍上陸の1週間くらい前に、軍から住民に重要な武器である手榴弾が配られた。これは、軍があらかじめ、いざとなったら住民を自決させるという重要な決定をし、自決を命じていたということであり、住民全体に対する自決命令の第1段階だった。3月27日に、住民を北山の軍陣地の近くに集結するように命令したのも、軍であり、住民は、逃げ場のない島で、日本軍の命令で軍の近くに強制的に集められた。住民は、軍の圧力、強制により、玉砕しなけれはならないよう追い込まれ、軍の自決命令を侍っていた。そして、軍の自決命令が出たという話が伝わり、村長は「天皇陛下万歳」を唱え、軍の自決命令を住民に伝えた。住民は、軍の命令によって自決したのであり、その責任者は赤松隊長である。赤松隊長が指揮する軍の命令なしに「集団自決」は起こり得なかった。 これまで、慶良間諸島の「集団自決」を体験した多くの証言者が、この残酷な歴史的事件に軍命や軍の強制があったことを証言してきているにもかかわらず、2008年度から使用される高校の歴史教科書において、「集団自決」に軍の強制があったとする記述を削除するようにとの検定意見が付されたが、これは文科省の教科書行政に対する暴挙と言うほかなく、歴史教育の本質をゆがめることであり、戦後、戦争の歴史の暗い、あるいは残酷な部分を隠ぺいしたり、ぼかしてきた文部省・文科省の教育的、政治的責任は大きいと言わざるをえない。 3.「沖縄戦」教科書検定の背景とねらい 文科省は、2006年度の高校日本史教科書の検定において、沖縄戦「集団自決」に関わる日本軍の命令、強制を認めず、書き直させた。その行政処分に対する沖縄県民の対応が、冒頭の昨年9月29日に開かれた11万人集会、「教科書検定意見撤回、記述回復を求める沖縄県民大会」である(資料(4) 教科書検定による記述の書き換え、(5)県民大会での高校生の発言)。 ※ 文科省による検定のねらいは? 自由主義史観研究会・「つくる会」の三点セット(南京・慰安婦・沖縄)の削除 「つくる会」・右翼・右翼政治家・文科省の一部による合作 政治的圧力による教科書書きかえ → すでに、中学・高校でもっとも多く使われている教科書では、「集団自決」も「住民殺害」も記述がない → 彼らのねらいは、すべての教科書から日本軍による「住民殺害」を削除すること 「軍隊は住民を守らない」の教訓を抹消し、軍隊にすすんで協力する国民づくりのために 資料(4) 東京書籍『日本史A 現代からの歴史』 申請図書の記述 (06年4月) 沖縄県民の犠牲者は、戦争終結前後の餓死やマラリアなどによる死者を加えると、15万人をこえた(1)。そのなかには、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や集団で「自決」を強いられたものもあった。 (1)沖縄戦による住民の死者は、当時の沖縄の人口の4分の1におよんだ。 〈カコミ資料〉沖縄渡嘉敷島「集団自決」 (『戦争の真実を授業に』より) およそ一千名の住民は一か所に集結させられました。死を目前にしながら、母親たちは、子どもたちに迫っている悲劇的な死について、泣きながらさとすように語り聞かせるのでした。もちろん幼い子どもたちには、ともに死を遂げることの意味がわかるはずもありません。わたしたち兄弟も、男性として家族に対する責任意識があったと思います。自分たちを産んでくれた母親に最初に手をかけたとき、私は悲痛のあまり号泣しました。ひもや石を使ったと思います。愛するがゆえに妹と弟の命も絶っていきました。 見本本の記述 (07年3月) 沖縄県民の犠牲者は、戦争終結前後の餓死やマラリアなどによる死者を加えると、15万人をこえた(1)。そのなかには、「集団自決」に追いやられたり、日本軍によってスパイ容疑で虐殺された一般住民もあった。(脚注・囲み資料はそのまま) 訂正申請で認められた記述 (07年12月) 沖縄県民の犠牲者は、戦争終結前後の餓死やマラリアなどによる死者を加えると、15万人をこえた(1)。そのなかには、日本軍によって「集団自決」(2)においこまれたり(3)、スパイ容疑で虐殺された一般住民もあった。 【側注】(1) 沖縄戦による住民の死者は、当時の沖縄の人口の4分の1におよんだ。 (2) これを「強制集団死」とよぶことがある。 (3) 敵の捕虜になるよりも死を選ぶことを説く日本軍の方針が、一般の住民に対しても教育・指導されていた。 〈カコミ資料〉沖縄渡嘉敷島「集団自決」 (『戦争の真実を授業に』より) ・・・・・日本軍はすでに三月二十日ごろには、三十名ほどの村の青年団員と役場の職員に手榴弾を二こずつ手渡し、「敵の捕虜になる危険性が生じたときには、一こは敵に投げ込みあと一こで自決しなさい」と申し渡したのです。・・・・・よいよ二十八日の運命の日がやってきました。 およそ一千名の住民は一か所に集結させられました。死を目前にしながら、母親たちは、子どもたちに迫っている悲劇的な死について、泣きながらさとすように語り聞かせるのでした。もちろん幼い子どもたちには、ともに死を遂げることの意味がわかるはずもありません。 私たち兄弟も、男性として家族に対する責任意識があったと思います。自分たちを産んでくれた母親に最初に手をかけたとき、私は悲痛のあまり号泣しました。ひもや石を使ったと思います。愛するがゆえに妹と弟の命も絶っていきました. 【追加】 また、国内でも、2007年の教科書検定の結果、沖縄戦の「集団自決」に日本軍の強制があった記述が消えたことが問題になった(4)。 【側注】 (4)沖縄県では、県議会・全市町村議会で検定意見の撤回を求める意見書が決議され、どう年9月には大規模な県民大会が開催された。 ↑本文・側注で、丸つき数字は(数字)に置き換えました(JIS外のため) 資料(5) 9.29沖縄県民大会での高校生の発言 津嘉山拡大(こうだい)くん 「沖縄戦での集団自決に日本軍の強制があったという記述は、沖縄戦の実態について誤解する恐れがある表現である」 ある日の朝、私の目に飛び込んできたこの新聞記事。 私は“誤解”という検定意見書の言葉に目を奪われました。この記述を無くそうとしている人たちは、沖縄戦を体験したおじいやおばあ達が嘘をついていると言いたいのでしょうか。それとも思い違いだったと言いたいのでしょうか。 私たちは戦争を知りません。ですが、一緒に住むおじいおばあ達の話を聞いたり、戦跡を巡ったりして沖縄戦について学んできました。おじいおばあ達は重い口を開き、苦しい過去を教えてくれました。死体の山を越え、誰が敵で誰が味方はわからなくなる恐ろしさ、大事な人を目の前で失う悲しさ、そして悲惨な集団自決があったことを。 なぜ沖縄戦で自ら命を絶ったり、肉親同士が命を奪い合うという残酷なことが起こったのでしょうか。住民は事前に「敵に捕まるくらいなら死を選べ」「米軍の捕虜になれば男は戦車でひき殺され、女は乱暴され殺される」という教育や指示を受けていたと言います。さらに手榴弾が配布されました。極限状態に置かれた住民達はどう感じたでしょうか。 手榴弾を配った日本軍は明らかに自決を強制していると思います。 私たちが住んでいる読谷村には、集団自決が起こった「チビチリガマ」があります。ガマの中は、窒息死のために火をつけた布団の煙が充満し、死を求める住民が毒の入った注射器の前に列をなしました。母がわが子に手をかけたり、互いを刃物で刺しあい80人以上もの尊い命が奪われました。その中には年寄りから5歳にもならない子どもまでもがいました。」 照屋奈津実さん 集団自決や教科書検定のことは私たち高校生の話題にも上がります。「教科書から集団自決の真相が消されるなんて考えられない」「たくさんの犠牲者が実際に出てるのにどうしてそんなことをするんだろう」私たちは集団自決に軍の関与があったということは、明らかな事実だと考えています。なぜ、戦後60年以上をすぎた今になって、記述内容を変える必要があるのでしょうか。実際にガマの中にいた人たちや、肉親を失った人たちの証言を、否定できるのでしょうか。 私は将来高校で日本史を教える教師になりたいと思い勉強しています。このまま検定意見が通れば、私が歴史を教える立場になったとき、教科書の記述通り事実ではないことを教えなければ行けません。分厚い教科書のたった一文、たった一言かもしれませんが、その中には失われた多くの尊い命があります。二度と戦争は繰り返してはいけないという沖縄県民の強いも思いがあるのです。教科書から集団自決の本当の記述がなくなれば、次は日本軍による住民虐殺の記述まで消されてしまう心配があります。 嘘を真実と言わないでください。私たちは真実を学びたい。そして、次の世代の子ども達に真実を伝えたいのです。」 津嘉山くん 「教科書から軍の関与を消さないでください。あの醜い戦争を美化しないでください。」 二人 「たとえ醜くても真実を知りたい、学びたい、そして伝えたい。」 4.政府・文科省の対応 政府・文科省は、教科書検定には、政治介入できないとして検定意見撤回を拒否(もともとが「政治介入」なのに) → 検定の最終権限は文科大臣にある 首相・文科相が「沖縄県民の気持ちは重く受けとめる」(教科書会社による訂正申請には応じる)としたが、訂正申請で責任を出版社・執筆者に押しつけ 訂正申請でも、密室検定で、調査官による強要があり、「命令」「強制」は復活せず 5.沖縄戦をどうとらえるか (誤)1945年4月1日にはじまった。日本での唯一の地上戦。本土決戦の捨て石作戦。集団自決は殉国死。沖縄戦終結は6月23日。日本兵のなかには住民を守ろうとした者もいた。 (正) 1945年3月26日の座間味島上陸ではじまった。全住民をまきこんだ日本での最大の地上戦。「国体護持」のための捨て石。強制集団死であり住民殺害。沖縄戦終結は9月7日。軍隊は住民(国民)を守らなかった。 6.最後に 裁判で明らかになった新証拠、資料をもとに教科書検定意見を撤回させ、記述を回復させる 大阪高等裁判所に、直ちに控訴棄却を言い渡し、第一審判決を維持するよう要請する 沖縄戦の真実を明らかにし、沖縄の心をすべての人のものに 詳しくは、支援連絡会のHPをご覧ください http //okinawasen.web5.jp/ 沖縄集団自決訴訟第2審
https://w.atwiki.jp/saikyomousou/pages/21.html
「20/08/16」の時点でのランキング中位 全ての壁画をひとまず作り終えたので、今後の壁「変更・追加」に備え、 この時点でのランキングを保存します .>究極モト ><魔王>(深遠の剣) >メタメタ神 >メタメタさん =妖怪ぼっちっち=戦闘空間変えたマン .>オールクリーチャーアルティメット>絶対勝者の男 >ネオ・デビルゴクウ .>地雷 >グレブザケード >レーザーラモンHG >永久停止 .>メトロ >あじゃぱーメン >ホリえもん >村雨荘 .>病原体X >真・閻魔あい >先手キラー >アイス・デスⅢ世>ドッペルゲンガーS (反射の壁) .>実験君>May Loute の主人公 >スプーしょうこお姉さんバージョン(カラー) >又吉イエス >クマ男 .>金将軍様 >ジ・インフィニティ >ずっと俺のターン!>強い >超速ハニワ >ゲルズゲー .>Sry >ラギュ・オ・ラギュラ =オレ =くたびれかけた男>THE GOD OF GOKU >引越しババア FINAL FORM .>無限連次多元宇宙常時全能>みるきぃ>山田>創造神=葬世神 .>全階層全宇宙全次元全知全能≧魚(ぎょ)=TIS>流壺の魔人 (全階層全宇宙全次元全知全能の壁) .>衛宮士郎と愉快な仲間達>英霊・上条当麻=水野ハルヲ .>「世界」の意思=一連次多元宇宙常時全能>オメテオトル (一連次多元宇宙常時全能の壁) .>ウロボロス >大きな成人男性>ネコ・カオス .>俺(チンポプラ)>チャールズ=ダーウィン >ちんことおっぱい >マグマ星人 .>イエス >ゴメン >ムハンマド =メガアント .>ハーム神 >ベニッツ神 >ねここねこ >ヤストラナガン >光坂萌 .>クルス=アーフェンブルグ>ロージャ .>ジャッド=ノリステイン =ハルカッカー=モッコス (全階層破壊の壁) .>巨大な成人男性 >全階層全宇宙全次元 >THE GOD OF TASHIRO .>ムネーオ破壊神 >ハルマゲドン・SYOUKOU >蟹withインフィニティテニスラケット .>メカゆのっち >シャカ >NO.37564>多世界多階層ハニワ .>多階層ハニワ >k-64 >あけましておめでとう2011 =西ドイツ在住 (ベルリンの壁) .> 東ドイツ在住 >パーマパイオニア >安田盤次郎(色違い) >魔王なのはさん .>安田 盤次郎 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https://w.atwiki.jp/2ch_killer7/pages/35.html
ハーマン・スミスとハーマン・デルタヘッドはどう区別すればいい? ゲーム中にメインで登場するハーマン・スミスは実体なのか? 副読本キャラクター紹介の「病棟」の意味は? ハーマン・スミスに関する概略 ※このテキストは当まとめサイト編集者が独自に記述したものです ■=ゲーム本編の情報 ■=Hand in killer7 ■=攻略本 ■=海外版攻略本 ■=その他オフィシャル設定 スミス同盟(killer7)総元帥。 多層人格の主人格とされているが、実際は主人格はガルシアンで、ハーマンが下位人格らしい。 特殊能力は「死者の実体力」。 過去コバーン小学校の学長で、その後(合衆国の措置で小学校に移送された)犯罪遺伝子を持つ少年エミール・パークライナーの専任教師となり、エミールを完璧な殺人者として育て上げた。 ホテル・ユニオンの事件の後、屋上で瀕死のエミールを保護し多層人格の一員とした(後のガルシアン・スミス)。 クン・ランと同様に超越的な存在で、死亡しても何度となく蘇る。 クン・ ランとは敵であり盟友。物語の象徴的な意味では、クン(テロ)に対して「国家」を象徴する。 本名ハーマン・デルタヘッド。1750年生まれ。1770年前後に殺しの世界に身を投じ、1774年には初仕事でディミトリを殺害、「神殺し」の異名で呼ばれる。 翌年ハーマン・スミスを名乗りディミトリを多層人格とする「第一次スミス同盟」を結成するが、1778年にはハーマンのもう1つの人格「ハーマン・デルタヘッド」が分離。ハーマンは殺し屋を廃業。デルタヘッドは1780年にはコバーン小学校を設立(初代学長)。長年続く大統領選の陰謀を用意したらしい。 1820年、デルタヘッドは学校でクン・ランとチェスで対戦中、何者かに殺害される。その後1955年に復活。 同1955年にはホテル・ユニオンでダン・スミスら「八雲会(八雲密議会)」が皆殺しにされ、主催を勤めていたハーマン・スミスも小学校の金庫で死体となって発見される。 1957年に第二次スミス同盟を結成(ゲーム本編中のkiller7)。 2000年、ダン・スミスに殺害されて車椅子の仮死状態になる。 2010年~2011年にかけてクン・ランと対決。最終的にスミス同盟解散に至る。 2115年、上海でクン・ランと対決。戦いを続行する。 ハーマン・スミスとハーマン・デルタヘッドはどう区別すればいい? 575(part3):ゲーム好き名無しさん:2005/08/07(日) 02 20 49 ID ??? チェス部屋のハーマン=デルタヘッド ホテルの最上階の2人=ハーマン・スミスとディミトリ ハーマン部屋のハーマン=再生のため一時的に切り離され外部に構築された人格 サマンサ・シットボーン=外部に構築された人格。現在のサマンサ サマンサ・スミス=戦闘人格として活動していた頃のサマンサ ということでとりあえずはいいかな? 764(part3):ゲーム好き名無しさん:2005/08/11(木) 23 38 24 ID ??? 759 いいんでないの。 殺されて金庫入りした校長ってハーマンだと思ってたけど、その前に死んでるのな(1820年) まぁ信じちゃいけない年表らしいが。 231(part4):ゲーム好き名無しさん:2005/08/30(火) 14 05 22 ID ??? ハーマンは若いのと老いてるのといるが どうやって2人になれたんだ?年表に描写が無いからわからん 233(part4):ゲーム好き名無しさん:2005/08/30(火) 15 01 22 ID ??? 231 第一次スミス同盟のときにハーマン・スミスと ハーマン・デルタヘッドが分離してるよね デルタヘッドはその後クンと同時期に死亡し復活していることから チェス部屋にいた老ハーマンであると思う ハーマン・スミスのほうはというとディミトリが一緒にいたこと、 さらには自ら「ハーマン・スミス」と名乗っていることから ユニオンホテルにいた若ハーマンではないかなと ただこれだと学長兼八雲会主宰の"ハーマンに似た男"が余ってしまう… 234(part4):ゲーム好き名無しさん:2005/08/30(火) 17 18 23 ID ??? それは違うだろ。 235(part4):ゲーム好き名無しさん:2005/08/30(火) 17 22 31 ID ??? 234 根拠は? 240(part4):ゲーム好き名無しさん:2005/08/30(火) 18 12 56 ID ??? 231です つまりハーマン・デルタヘッド、ハーマン・スミス分離 ↓ ハーマン・デルタヘッド→エミールに殺しの指示出してたハーマン 最後はあの部屋でクンと一緒に蜂の巣でバイバイ。 ハーマン・スミス→八雲会主催者で金庫の中の死体のハーマン 鬼教師って書いてあったから=エミールの担任・学長に任命された男。 ・・・と解釈しときました 学長はきっとハーマンのスミスでしょう 獅子で倒れてたのはハーマン・スミス? 383(part4):ゲーム好き名無しさん:2005/09/13(火) 21 45 17 ID ??? 年表から抜粋 ハーマン・デルタヘッド誕生 ↓ 三つ目(ディミトリ)と遭遇 ↓ ハーマン・スミスを名乗る ↓ スミス歴史から姿を消す デルタヘッド分離 ↓ デルタヘッド、コバーン小学校設立 ↓ デルタヘッド、クンランと共に殺される(70歳、姿は老人?) ↓ スミス、三つ目(エミール)と遭遇、保護 ↓ ここでデルタヘッド、クンラン復活(ここが意味不明なんだが) 以下妄想 55年の事件で金庫に入っていた首班は、どのハーマンでもない、まったくの他人ということになる(この時に存在しているのは、ハーマン・スミスだけだから)。 でその後、92年頃に何故か「エミール・パークライナー」は学校に通っていて、元学長が付いている(これはハーマン{デルタの方が可能性は上か?}の可能性がある)って事か? で、エミールにハルバートが殺されている? ダンの時みたいに、人格エミールを分離させて送り込んでいた、というのが一番しっくりくるか? 目的は不明だが(ハルバートみたいな学校の秘密をかぎ回る人間を殺すため?)。 390(part4):ゲーム好き名無しさん:2005/09/14(水) 14 19 49 ID ??? 383 金庫のハーマンは老ハーマンじゃないの? だって若ハーマンが保護したって言ってたもん 439(part4):ゲーム好き名無しさん:2005/09/17(土) 23 53 40 ID I/0rI7mJ てか時系列で考えれば金庫の主宰=老ハーマンって考えは無くなるっての。 430 クリアしたんだね?おめでとう。謎を解くヒントをプレゼントするよ。 「1750年 ワイプポート州・ニューサウサンプトン。デルタヘッド家の長男としてハーマン・デルタヘッド誕生。」 さあ悩め。 編注:勝手ながら、このレスの連続改行を端折らせていただきました。10行もあるんだもん……。 443(part4):ゲーム好き名無しさん:2005/09/18(日) 07 25 56 ID ??? ハーマンは複数いたんじゃなかったっけ?あらら? 444(part4):ゲーム好き名無しさん:2005/09/18(日) 10 12 06 ID ??? ハーマンは時空を超えた存在なのでもはや老いてるか若いかというのは関係ないのでは? それとも老いてる方と若い方で考えが微妙に違って葛藤があったりする訳かな 所でサマンサは笑顔の回のハーマン部屋で死んでたっぽかったけど あれはハーマンに取り込まれたという事? で、ハーマンが覚醒した時にメイド服で付き添っていたのは実は取り込まれた 未来のサマンサとか? その辺りHikに載ってたのかな? 445(part4):ゲーム好き名無しさん:2005/09/18(日) 13 04 39 ID ??? 444 でもハーマンって分離したって年表に・・・ サマンサは笑顔の最初であの調子だから完全逝ってるでしょ じゃないとあの執事の雇った意味が無いべ イワザルは失踪って言ってたけどウチは少なくとも死んだとみなした 前もそんな感じの似たような話題が出たよ 第2次スミス同盟の解体とハートランド覚醒の予兆ってやつだと認識 686(part4):ゲーム好き名無しさん:2005/10/28(金) 22 28 49 ID ??? 第2次スミス同盟のハーマンは、スミスかデルタかと言われたらデルタだろうな 402(part5):ゲーム好き名無しさん:2006/06/16(金) 02 54 26 ID ??? ハーマン・デルタヘッドはコバーン小学校を作った。「合衆国」の初代大統領でもある。文部省が国家のトップに立つシステムのキッカケはコイツ。 編注:副読本には「表面的な政権は史実通りとなっている」とありますので、初代大統領という表現はどうかと……。 563(part5):ゲーム好き名無しさん:2006/07/24(月) 12 50 30 ID ??? ハーマンは三人いた まさにデルタヘッド 編注:ギリシャ文字で「デルタ」は「Δ」と書き、その形状から転じてデルタ (delta) は三角形のものを指すようになりました。 255(part6):ゲーム好き名無しさん:2007/02/04(日) 22 00 14 ID LtbPRGBj 死んだエミールを回収したのはハーマン・スミスでデルタヘッドの方じゃないよね? 小学校の校長だったのはデルタヘッド? 256(part6):ゲーム好き名無しさん:2007/02/04(日) 22 16 54 ID VCV/2q5S 255 年表にこれ以上なくハッキリ書いてあるが、 そう。 314(part6):ゲーム好き名無しさん:2007/02/23(金) 21 15 30 ID gWcryF9p それなりに分かった気になっていた俺だが、改めて年表をしげしげ眺めてみると 実は何も分かってない気がしてきた。特にデルタヘッド≠スミスとディミトリ関係。 編注:かなり長文なので一部だけ引用します。全文は年表の項を参照ください。 ・若き日のハーマン・デルタヘッド、殺し屋デビュー。 ・デルタヘッド、ホテルユニオンで3つ目の「神」ディミトリを殺害して多層人格に吸収。 後のハーマン・スミス(改名)と第一次スミス同盟である。 あとこの時にクン・ランにも会って(ディミトリとの仲もクンの手引き?)意気投合。 ・ハーマン・スミスに人格分離が起きて、ディミトリを拒絶した人格ハーマン・デルタヘッドが分離。 ディミトリを含む方のハーマン・スミスは隠居。 ・デルタヘッドはコバーン小学校を建てたりしつつも、クンとチェス中に殺害さる。←誰の仕業? 時空の歪みを超えてガルシアン(エミール)がやったということなのか。 それともディミトリを含む方のハーマン・スミスの仕業か・・・武器がマシンガンだし。 ・いきなりだが、3つ目のディミトリ消失。しかし同時に3つ目のエミール誕生(つまりは転生?) ディミトリが消えたので第一次スミス同盟は解散。というかハーマン1人おいてきぼりかよ。 ・コバーン小学校で英才教育を受けたエミール、国家のイヌ的殺し屋として大活躍。 ホテルユニオン6人殺しを実行。ついでに屋上でなんとなく自殺してみたり。←なぜ? 心底謎。 ひとりぼっちのハーマン・スミスはエミールの後をつけてスミス6人を1人ずつ吸収していったりする。 セコい、セコすぎるぞハーマン! ついでにエミールも吸収(神々しかったから。あと死にかけてたし)。 あとチェス中に死んでたハーマン・デルタヘッドとクン・ランも復活した。←なぜこのタイミング? でもデルタヘッドはまたすぐに殺されて金庫の中に入れられた (´;ω;`)かわいそうです。 ↑殺ったのはやっぱりエミール? 金庫の前でガルシアンの三ツ目が開きかけてたし。 317(part6):ゲーム好き名無しさん:2007/02/25(日) 08 57 51 ID QH27ONDD 314 あとチェス中に死んでたハーマン・デルタヘッドとクン・ランも復活した。←なぜこのタイミング? でもデルタヘッドはまたすぐに殺されて金庫の中に入れられた (´;ω;`)かわいそうです。 ああ、言われてみれば確かに金庫で死んでたのはデルタヘッドの方じゃないとおかしいわな。 年表に明記されてないけど、第二次スミス同盟が結成されている前後の状況から考えて。 身も蓋もない言い方をしちゃうと、ハーマンが金庫で死んでいたと明言しちゃった事と 第二次スミス同盟が同時期に結成されている事の整合性をとるために、かなり後付けに 近い形で導入された設定がデルタヘッドなんだと俺は思う(思うに、ゲーム製作中の須田の 構想ではエミールに死体の再生能力があるという設定で、死んだハーマンをエミールが 吸収するという筋立てで書いていたんじゃないかと)。 だからデルタヘッドが金庫で死ぬためには、復活する時期はどうしてもホテルユニオン事件の 以前~同時じゃないといけなかったし、以前だと立ち位置がハーマン・スミスとかぶっちゃうんで 他の設定に与える被害が少ないこの時期になったと考えられる。 489(part6):ゲーム好き名無しさん:2007/05/14(月) 23 03 51 ID OJcYKicg0 ふと思ったんだが、コバーンの金庫に入ってたハーマンの死体は、 エミールを吸収しようとしてしくじったハーマンの抜け殻じゃね? ホテルユニオン事件(55年)から第二次スミス同盟結成(57年)まで二年の間があるのは、 ガルシアンと云う人格形成の帳尻合わせだったり…とか思ってみる。 491(part6):ゲーム好き名無しさん:2007/05/15(火) 12 11 35 ID WT4L2T/A0 489 ん? けどそれだと金庫に死体を入れたのは誰になるんだ? 「抜け殻」ってことは中からエミールが実体として出てきたって解釈でいい? あ、中から出てきたのはエミール兼ハーマン・デルタヘッドという見方もできるのか。 人の解釈を解釈するのは難しいな。混乱してきたわ。 492(part6):ゲーム好き名無しさん:2007/05/15(火) 12 31 51 ID WT4L2T/A0 混乱ついでにまとめサイトにあった過去の議論の流れを自分なりにまとめると (間違ってたら指摘してほしい)、 ・エミールがホテルユニオンで6人殺し実行 ・その直後にハーマン・スミスがホテルユニオンで6人を吸収 ・最後にホテル屋上でハーマン・スミスがエミールを吸収(失敗) この順序はわりと確定っぽい流れ。 金庫にハーマンが入っていた謎は、 ・ホテルで6人殺しが起きている前後に、デルタヘッドとクン復活。 ・その後エミールがデルタヘッドを殺して金庫に入れる。 という説が支持されていた。 エミールのデルタヘッド殺しは完全に年表にない推測なんだけど、 状況証拠的に「年表でデルタヘッドが復活したまま以後登場しないのはなぜか」 「誰がハーマンを殺して金庫に入れたのか」 「金庫の前でガルシアンの額から血が流れたのはなぜか」 「金庫でハーマンが死んでいるなら、どうして第二次スミス同盟を結成できたのか」 を同時に説明できているのが支持された理由なのかな。 自分はこの説に頷きつつ、年表の順序から言ってハーマンがエミール吸収に 失敗して乗っ取られた後、ディミトリ(三つ目)を否定する存在であるデルタヘッドを 主人格のエミールが殺しに向かったんだと解釈した。 そしてハーマン・スミスの分身であるデルタヘッドを殺した結果、 エミールの中のハーマン・スミスにも変化が起きて エミール内のパワーバランスが崩れガルシアンという人格が生まれた…… とまで考えるのは先走り過ぎか。 ゲーム中にメインで登場するハーマン・スミスは実体なのか? 575(part3):ゲーム好き名無しさん:2005/08/07(日) 02 20 49 ID ??? チェス部屋のハーマン=デルタヘッド ホテルの最上階の2人=ハーマン・スミスとディミトリ ハーマン部屋のハーマン=再生のため一時的に切り離され外部に構築された人格 サマンサ・シットボーン=外部に構築された人格。現在のサマンサ サマンサ・スミス=戦闘人格として活動していた頃のサマンサ ということでとりあえずはいいかな? 733(part3):ゲーム好き名無しさん:2005/08/11(木) 13 41 12 ID ??? 今日やってて思ったんだがハーマンって強い強い言うけど部下必須だよな ヘヴンスマイルが群れできたら車椅子とライフルじゃ対処不可 734(part3):ゲーム好き名無しさん:2005/08/11(木) 13 52 35 ID ??? そりゃ要介護だもんしゃあねえべ 735(part3):ゲーム好き名無しさん:2005/08/11(木) 13 54 15 ID ??? 車椅子と対戦車ライフルなのはガルシアンの人格としてのハーマンだべ 50(part4):ゲーム好き名無しさん:2005/08/21(日) 19 06 18 ID ??? 44 主人格のエミールにハーマン・スミスまたはハーマン・デルタヘッドが "ハーマン・スミス"という人格と能力を与えた、というのはどうだろう 53(part4):ゲーム好き名無しさん:2005/08/21(日) 21 32 24 ID ??? 50 服読本の年表でディミトリがいた第一次スミス同盟の 血清の地点でハーマン・デルタヘッドはアンダーネームを スミスに変えてるからハーマン・スミスが与えたってことになるね ディミトリはもうハーマンに関わった地点でもう人格に取り込まれてたけど エミールはホテルで瀕死の状態を保護したから別?と・・・考えた 54(part4):ゲーム好き名無しさん:2005/08/21(日) 21 39 52 ID ??? 海外版の攻略本だか何だかを買ってみた。 こっちのがQ Aが充実してたので微妙な気分…。キハンモンの事とか色々書いてた。 53 エミールを保護ってのは、文字通りの意味なのかな。 ガルシアンのページの「過去、ハーマンによって”殺された”」ってのが 気になるんだが。 57(part4):ゲーム好き名無しさん:2005/08/21(日) 22 44 57 ID ??? 55 わざわざダブルクォーテーションで強調しているから ストレートな意味で殺されたんじゃないのかも エミール(ハートランド)復活と同時に第二次スミス同盟が解散していること、 ヤングハーマンがエミールについて能力は高いが制御不能であると評価していることから 第二次スミス同盟の本体とするために制御不能であるエミールという"人格を殺した"のかもしれない 人格スミスの能力を与えたのは第一次スミス同盟であるハーマン・スミス、 クンとの戦いの度に復活しスミス同盟を結成するよう仕向けているのは ハーマン・デルタヘッドってことかな? 314(part6):ゲーム好き名無しさん:2007/02/23(金) 21 15 30 ID gWcryF9p それなりに分かった気になっていた俺だが、改めて年表をしげしげ眺めてみると 実は何も分かってない気がしてきた。特にデルタヘッド≠スミスとディミトリ関係。 編注:かなり長文なので一部だけ引用します。全文は年表の項を参照ください。 ・やっと同盟全員が復活したと思ったら、いきなりダンがキレだしてハーマンをドーン! ハーマン・スミス、仮死状態に。 ・「天使」の章。クン・ランが現われたので、ハーマンがいないと話にならんと思った ガルシアン(エミール)がハーマンを仮復活させとく。そこには車椅子で元気に ロケット砲で戦うハーマンの姿が! ダン「もうハーマンを撃ったりしないよ」 あとエミールは普段はハーマン仮死状態でいいや別にとも思っている。 500(part6):ゲーム好き名無しさん:2008/02/25(月) 11 45 04 ID D3KiMvUu0 もう5週以上はプレイしてるんだけど未だに謎が多い・・・。 結局ハーマンは何種類存在するんだ・・・orz ボケ老人のハーマン ガルシアンの人格としてのハーマン チェス部屋のハーマン でいいのか・・・? GCのコントローラー使いすぎでスティックの入力範囲がおかしくなって分岐点の所で選択出来なくて積むwww 新しいの買わないとっ 502(part6):ゲーム好き名無しさん:2008/02/25(月) 20 58 03 ID 4vLu5wdP0 500 ガルシアンの家の中のハーマン部屋が色々な意味でありえない空間 →その中にいる人物や起きている事象は誰かの内的世界 →「誰かの」ってか話の流れ上9割方「ガルシアン(エミール)の」。 なので、ボケ老人のハーマンもガルシアンの人格としてのハーマンも同一かと。 言い換えれば、ガル(エミ)にいいように使われてるボケハーマン/多層人格ハーマンと、 自我を持っているチェス部屋ハーマン/ホテルハーマンの2種類、のはず。 もっとも、自我がある方だってエミールに制御されていない一断面というだけで 厳密にはボケ老人ハーマンと同一人物と言っていいわけではあるが。 デルタヘッドはたぶんゲーム中には出てきてないのでカウントしてない。 504(part6):ゲーム好き名無しさん:2008/02/27(水) 00 38 05 ID fQ35gmePO ボケハーマンと悪女サマンサはぶっちゃけガルシアン(エミール)が主人格の一人と気付かれないようにするために作り出されたダミーだと思う 実際はハーマンは覚醒後、サマンサはメイド姿がデフォなんじゃないかと あと落日プレイしてて不思議に思ったこと。 落日前編が終わったあとすぐにガルシアンの家に移行するけど、そこのハーマン部屋になぜかメイドサマンサとボケ状態のハーマンがいた。 ハーマンが覚醒するとサマンサもメイドさんになるんだよね?この組み合わせって変なんじゃ… いや、単に前編プレイし終わったプレイヤーがセーブできるように、っていうゲームの都合なのはわかってるんだけど…わざわざボケハーマン配置しなくても、いつもどおりイワザル置いとけばいいわけだしさ 505(part6):ゲーム好き名無しさん:2008/02/28(木) 07 24 18 ID yV045oQ/0 ボケハーマンがダミーだとしたら、ハーマン>ガルシアンと信じ込んでる ガルシアンにあんな光景を見せつけたら、かえってガルシアンも 真の関係(エミール>ハーマン)に気付いちゃうんじゃね? ボケハーマンのいる世界ではガルシアン>サマンサ>ハーマンなんだから。 それともプレイヤーの気をそらすレッドヘリングという意味かな? あのボケハーマンは、ガルシアンが深層心理でだけ真実を理解しているが デフォでは自覚していないので、夢の中のようなガルシアン家でだけ 真実の関係が象徴的に現れる、と考えるのが自然じゃないだろうか。 あと落日に限らず、前後編の章の後編はみんなボケハーマンとメイドサマンサの組み合わせだね。 ハーマンが消失しているはずの笑顔後編にまでいる。 ゲームの都合をおいとけば、これもハーマン部屋がガルシアンの深層心理世界で、 ガルシアンが信じ込んでいる虚構が綻んでいるという例のひとつだと思える。 副読本キャラクター紹介の「病棟」の意味は? 435(part5):ゲーム好き名無しさん:2006/06/25(日) 11 43 46 ID ??? 思うんだけど獅子に出てくるハーマンってエミールの人格の一つになる直前の過去のハーマンなんじゃね? 副読本の獅子のハーマンの説明にも「過去」やら「吸収」、「古い仕事」って言葉が書かれてるし いや俺の勝手な妄想なんだけどね・・・ そういや「病棟」って単語も書いてあったけどどういう意味だ? ハーマンが手術服の様な服を着ていたが
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登録日:2020/07/17 Fri 15 06 14 更新日:2023/09/03 Sun 08 01 57NEW! 所要時間:約 16 分で読めます ▽タグ一覧 インテリ エリート 九大 九州大学 九州芸術工科大学 京大 京都大学 京都府 仙台市 函館市 北大 北海道 北海道大学 医学部 名古屋大学 名古屋市 名大 名門 国立大学 外国語学部 大学 大学項目 大阪外国語大学 大阪大学 大阪府 宮城県 工学部 帝国大学 帝大 愛知県 教育学部 文学部 文系 旧帝国大学 旧帝大 札幌 札幌市 札幌農学校 東京大学 東京都 東北大 東北大学 東大 歯学部 水産学部 法学部 獣医学部 理学部 理系 福岡市 福岡県 経済学部 芸術工学部 薬学部 農学部 阪大 難関 旧帝国大学(きゅうていこくだいがく)とは、かつて帝国大学だった名門国立総合大学のグループ群である。通称旧帝大(きゅうていだい)。 概要 そもそも帝国大学(ていこくだいがく)とは、明治時代に帝国大学令という法律に基づいて設立された、国立の総合大学のことである。略して帝大(ていだい)。 日本本土(内地)に7校(東京、京都、東北、九州、北海道、大阪、名古屋)設置された他、海外の植民地にも2校(京城、台北)が設置され、合計9校の帝国大学が存在していた。 通常、旧帝大とはこのうち内地の7校を指す。旧帝大は戦後に入ってから使われている用語である。 最初の帝国大学は現在の東京大学の前身であり、1877年(明治10年)に設立され、名前もそのまま帝国大学だった。のちに京都帝国大学(のちの京都大学)が設立されたため、最初の帝国大学は東京帝国大学に改称された。 現在旧帝大と呼ばれているのは東京大学(東大)、京都大学(京大)、東北大学、九州大学(九大)、北海道大学(北大)、大阪大学(阪大)、名古屋大学(名大)の7校である。東北大学以外には大学の略称が存在する。 旧帝大7校すべてに共通して存在している学部は、理系は理学部、工学部、医学部、文系は法学部、文学部、経済学部である。 歯学部は東大、京大、名大には存在しない。薬学部は名大には無い。阪大には農学部と教育学部が無い。 また、例えば九大には芸術工学部や共創学部が、北大には獣医学部や水産学部が、阪大には外国語学部があるなど、個性の強い学部を有する旧帝大も存在する。(ただし九大芸工、阪大外語は別の国立大学を合併して新しく設置されたものであるため、旧帝大として扱わない場合もある。) 基本的に東大以外の旧帝大は理系が優勢と言われている。(東大は官僚養成機関であるため文系も別格。) また、北大、阪大、名大に文系学部が設置されたのは戦後に入ってからである。そのため、帝国大学時代には文系学部が存在しなかったのである。 旧帝大の教育学部は教員養成を目的としておらず(教科によっては教員免許を取れる場合もあるが)、基本的には教育学という学問を研究する場所という位置付けであるため、小学校(初等教育)の教員免許は取れないため注意が必要。 (旧帝大がある都道府県では教員養成機関が別に置かれている。東京学芸大学、京都教育大学、宮城教育大学、福岡教育大学、北海道教育大学、大阪教育大学、愛知教育大学) 東大、京大、阪大以外の旧帝大4校は地方旧帝大(地帝)と呼ばれることがある。 場合によっては阪大を含めた5校を地帝とする場合や、名大を除いた3校(東北、九大、北大)のみを地帝とすることもある。 基本的に旧帝大は各地方に1校のみ存在する形となっているが、近畿(関西)地方のみ例外で2校存在する。 北陸地方、中国地方、四国、沖縄には旧帝大が存在しない。 (一応念のため書いておくと、これらの地方にも戦前にも大学自体は存在していて、帝国大学への昇格も検討されてはいたが、白紙になってしまった。) 現在では一橋大学や東京工業大学(東工大)、東京外国語大学、秋田県立国際教養大学などの国立単科大学(*1)や、筑波大学や神戸大学と言った国立総合大学で、一部の旧帝大より入学試験の難易度(偏差値)が高いところも一部存在する。 だが旧帝大は国からの補助金を単科大学や駅弁大学より多く貰っており、学長の給料も単科大学や駅弁大学より高く、そして世界大学ランキング(研究力の高い大学のランキング)では旧帝大7校全てが上位に名前を連ねているなど、現在も旧帝大の地位は揺らいでおらず、日本の名門国立大学のブランドグループ群であると言えるであろう。 2014年(平成26年)に文部科学省が制定したスーパーグローバル大学(スパグロ)という制度では、旧帝大は7校全てがトップ型指定校となっている。旧帝大以外では、東京工業大学、東京医科歯科大学、筑波大学、広島大学、私立の慶應義塾大学と早稲田大学がトップ型指定校となっている。 また、2022年(令和4年)現在は北大を除く旧帝大6校が指定国立大学法人といって、一般の国立大学法人より格上げされている。 指定国立大学法人は東大、京大、東北大、名大、阪大、九大の旧帝大6校と、旧帝大以外では一橋、東工大、筑波、東京医科歯科の4校が指定されている。 北大も法人の格上げを申請してはいたが、条件を全て満たしているわけではないため見送られてしまっている…。 各旧帝大の詳細 東京大学、京都大学、東北大学については独立項目が存在するため、そちらを参照してほしい。 ここでは他の旧帝大についての詳細を述べる。 九州大学 九州地方代表。4番目の帝国大学。 略称は九大(きゅうだい)。 文系4学部(文学部、教育学部、法学部、経済学部)、理系4学部(理学部、工学部、芸術工学部、農学部)、医療3学部(医学部、歯学部、薬学部)、文理融合の共創学部の計12学部を有する。 元々は京大の分校だったのだが、のちに4番目の帝国大学として独立している。ただし帝国大学の医科大学としては3番目の設置である。そのため九大医学部は名門と名高い。 九州地方の受験生からの人気が高いが、旧帝大が存在しない中国地方や四国からの進学者も少なくない。 旧帝大の中では北大に次いで比較的入りやすい大学と言われている。 だが勿論、医学部は別格で、東大の理科一類より難しいとも言われている。 かつては医学部の入試では理科3科目(物理、化学、生物)が課せられており、また、医学部としては珍しく面接がなかった。 今は他の医学部と同じ理科2科目に変更されており、面接も復活している。 福岡県内をはじめ、九州地方に複数のキャンパスを有する。 伊都キャンパス 現在の九大の中心となるキャンパス。福岡市の西の端のほうにある。 教養課程と文系全学部、理系の一部の学部(医療系と芸術工学部を除く)がここを使用する。 六本松、箱崎の両キャンパスの統合移転先として2005年(平成17年)より使用開始。従来まで箱崎に置かれていた大学本部も2014年(平成26年)にこちらに移転し、そして2018年(平成30年)に六本松、箱崎のほぼ全ての機能の移転が完了した。 広大なキャンパスが自慢だが、福岡市の中心部である天神や山陽新幹線の博多駅からはかなり離れており、お世辞にも立地が良いとは言い難い。 一応最寄り駅はJR筑肥線の九大学研都市駅なのだが、駅からは約5kmほど離れており、徒歩で通学するのは非常に困難である。一般的にはバス通学が推奨される。 馬出キャンパス まいだしと読む。別名、病院地区。 医療系3学部が使用するキャンパス。九大病院もここにある。 比較的博多に近く立地が良い。福岡県庁や福岡県警察本部も近くにある。 最寄り駅は地下鉄箱崎線の馬出九大病院前駅またはJR鹿児島本線の吉塚駅。 大橋キャンパス 旧・九州芸術工科大学。2003年(平成15年)に合併し、九大芸術工学部となった。 ここでは伊都キャンパスの学園祭とは別に、独自の学園祭が行われている。 最寄り駅は西鉄天神大牟田線の大橋駅。 筑紫キャンパス 福岡県の春日市と大野城市に跨るキャンパス。 学部教育は行われていないが、理工系の大学院が使用する。 教育の場というより研究の場である。 別府キャンパス 温泉地として有名な大分県別府市にある。 学部教育は行われておらず、九大の別府病院がある。温泉地で有名なため、温泉療法について研究されているらしい。 六本松キャンパス かつて教養課程で使われていたキャンパス。現在は売却されている。 福岡市の中心部に近くて便利だった。NHK福岡放送局や福岡高等裁判所も近くにあった。 最寄り駅は地下鉄七隈線の六本松駅。 箱崎キャンパス かつてほとんどの学部(医療系と芸術工学部を除く)で使用されていたキャンパス。2013年(平成25年)までは大学本部もここにあった。 現在ではここを使用する学部、大学院は存在しないが、博物館などは現在も残されている。 最寄り駅は地下鉄箱崎線の箱崎九大前駅またはJR鹿児島本線の箱崎駅。 北海道大学 北海道代表。5番目の帝国大学。 現在の略称は北大(ほくだい)。 ただし、旧文部省が国立大学を「◯大」の略称を付ける際は、3番目の帝国大学である東北大学を北大に決定し、北海道大学は海大と略していた。 東北帝国大学の分校が北海道帝国大学として独立したため、世間一般では東北大学の弟分と見做されることが多い。 しかし、北海道には札幌農学校(さっぽろのうがっこう)というのが元々あったため、教育機関としての歴史はむしろ北大のほうが古い。それどころか、実は札幌農学校は東京帝大よりも古い、日本で最初の近代的な教育機関だったりする。 というのも札幌農学校がのちに後からできた東北帝大に編入され、東北帝大の分校となったからである。 札幌農学校はアメリカ人のウィリアム・スミス・クラーク博士が初代教頭を務めたことで有名。 著名な札幌農学校卒業生として、思想家の新渡戸稲造がいる。 文系4学部(文学部、経済学部、法学部、教育学部)と理系8学部(医学部、歯学部、薬学部、工学部、理学部、農学部、獣医学部、水産学部)の計12学部を有する。 第一次産業(農業、畜産業、水産業など)が強い北海道だけあって、看板学部の農学部、獣医学部、水産学部は名門と名高い。 また、獣医学部と水産学部は旧帝大では唯一のものである。(一応、獣医学科は東大にも存在するが、農学部の中に組み込まれている。ちなみに独立した獣医学部を有する大学はほとんどなく、ほとんどは農学部や畜産学部などの一つの学科扱いである。) 北大は旧帝大の中では最も入りやすいと言われることが多い。3大都市圏から遠いからである。しかしやはり旧帝大ブランドは魅力があるため、それなりには全国から受験生が集まってくる。難関であることには変わらない。 北大文系の入学試験では、旧帝大では珍しく、二次試験で数学を回避し、地理、世界史、日本史のいずれかを選択することが可能となっている。ただしセンター試験では他の旧帝大と同様に数学2科目が必須なので注意。 (基本的に旧帝大の入試では文系でも二次試験が数学が必須である。北大文系以外では、二次試験で数学を回避できるのは阪大の外国語学部くらいである。) また、北大入試では比較的センター試験の配点比率が高くなっている。(他の旧帝大では二次試験重視であり、センターの比率は低いのが普通。) 医学部や獣医学部は他の大学同様、超が付くほどの難関であり、東大の理科一類や理科二類にも匹敵する。また、北大獣医は東大理科二類を除けば、日本国内で最難関かつ最高峰の獣医学科として名高い。 北大では通常の学部別の入試の他、総合入試というものがある。 総合入試は学部ごとに募集するのではなく、東大のように文系、理系の2分野に分けて一括募集する方式である。また、総合入試に合格して入学してきた学生は、1年生のうちは全員共通の総合教育部(東大の教養学部に似ている)に所属し、教養課程の成績によって2年生以降に進級する学部が決定する。これは東大の進級振り分け制度(進振り)に似ている。 意外かもしれないが、文系として入学してきた者が2年生以降で理系の学部に進級すること(理転)、あるいは逆パターン(文転)も可能である(これは東大も同じ)。ただし枠は少ない。 通常の学部別入試もあるが、こちらで入学した場合でも1年生のうちは総合教育部に所属する。ただし2年生以降の学部は既に内定している。 ちなみに希望する学部に行くために、総合教育部で敢えて進級せずに留年を選ぶ学生も少なからずいるらしい。 大学本部およびほとんどの学部は札幌市の札幌キャンパス(エルムの杜)に集約されている。 札幌キャンパスはJR札幌駅から至近距離であり、とても立地が良い。 ただし水産学部のみ、3年生から函館市の函館キャンパスに移動になる(総合教育部および2年生までは他学部と同じ札幌キャンパスを使用する)。 フィクションでは漫画『動物のお医者さん』や映画『探偵はBARにいる』の舞台になったことで知られる。 2022年(令和4年)現在では旧帝大の中で唯一、指定国立大学法人への昇格が見送られている大学になってしまっている…。 大阪大学 6番目の帝国大学。略称は阪大(はんだい)。 関西では京大に次ぐ2番手校という位置付け。首都圏で言えば東工大や一橋のポジション。 最も学生数が多い国立大学である。 大阪帝国大学以前に、緒方洪庵が開いた適塾という江戸時代の私塾を起源としているとされ、その関係で医学部が看板学部となっている。また、旧制大阪工業大学も併合した関係で理工系も強い。 ちなみに漫画家で医師の手塚治虫も阪大医学部のOBである。 昔は大阪市の中之島キャンパスを中心とし、大阪府内に複数のキャンパスが点在するタコ足大学だったが、現在は郊外の豊中キャンパスと吹田キャンパスに移転している。 旧帝大で唯一、農学部がない。 吹田キャンパス 現在の大学本部が置かれているキャンパス。人間科学部、工学部、医学部、歯学部、薬学部もここにある。 阪大には教育学部がないので人間科学部がその代わりとなっている。 また、歯学部は西日本では最高峰と名高い。(京大に歯学部がないため。ちなみに東大にも歯学部がないため、日本最高峰の歯学部は東京医科歯科大学歯学部。) 豊中キャンパス 文学部、法学部、経済学部、理学部、基礎工学部がある。 基礎工学部は理学と工学が融合したような学部。 箕面キャンパス 旧・大阪外国語大学。2007年(平成19年)に合併し阪大外国語学部となった。 外国語学部を有する国立大学はここと東京外大だけ。 名古屋大学 東海地方代表。略称は名大(めいだい、なだい)。 最後にできた帝国大学である。 世間一般では東北大学のライバルとして有名である。どちらも理工系の評価が高いことで有名。 東北大学が東北地方だけでなく北関東や新潟長野からも学生を集めているのに対し、名大は学生のほとんどが東海地方出身というローカル色の強い大学となっている。 ただし入試難易度(偏差値)は3大都市圏に位置し東海道新幹線が通っている名大のほうが若干高くなっている。 文系4学部(文学部、経済学部、法学部、教育学部)と理系5学部(医学部、工学部、理学部、農学部、情報学部)を有する。 変わった学部として情報学部がある。 また、旧帝大で唯一、薬学部がない。(代わりに名古屋市立大学に薬学部が置かれている。) TOYOTAのお膝元であり地場産業が強い土地であるため、他の地方旧帝大に比べて民間企業への就職に有利と言われることも多い。反面、公務員志望者は少ない。 愛知県内に複数のキャンパスを有する。 東山キャンパス 名古屋市千種区にある。医学部以外の全学部が使用するキャンパス。大学本部もここに置かれている。 最寄り駅は地下鉄名城線の名古屋大学駅。 鶴舞キャンパス 名古屋市昭和区にある。医学部医学科が使用する。 国立大学の名古屋工業大学が隣接しており、近くには鶴舞公園もある。 大幸キャンパス 名古屋市東区にある。医学部の保健学科(看護学専攻など)が使用する。 近くにはナゴヤドームがある。 豊川キャンパス ここだけ名古屋市内ではなく豊川市にある。 宇宙地球環境研究所がある。学部教育には使われていない。 各旧帝大の看板学部 各旧帝大の看板学部はこんな感じである。 東京大学 → 医学部(理科三類)、法学部(文科一類) 東大医学部は種痘所(天然痘の予防接種を行う場所)を起源としており、また、理科三類は日本の大学入試において最難関の難易度を誇ることで有名。東大の中でも別格と言われる。 東大法学部は日本国内最強のエリート養成機関であり、官僚(国家公務員総合職)を目指す者が非常に多い。 京都大学 → 医学部、薬学部、理学部 京大医学部は東大理科三類に次いで2番目に入試難易度(偏差値)が高い。また、近年はiPS細胞など再生医療の分野の研究で注目されている。 京大理学部は数多くのノーベル賞受賞者を輩出しており、研究機関としては東大理科一類を凌ぐ実績を誇る。 東北大学 → 医学部、工学部、法学部 東北大学は工学系、特に材料工学の分野で強い。有名なところではテレビ電波を受信するアンテナ(八木・宇田アンテナ)やフラッシュメモリ、半導体関連、金属合金関連を研究/発明したのもここ。 また、官僚になる者も東大に次いで多く、法学部もそこそこ強い。 九州大学 → 医学部、工学部 九大は元々は京大医学部の分校であり、独立した際も日本で3番目の医科大学と言われてきた。 また、工学部も強い。 北海道大学 → 医学部、獣医学部、農学部、水産学部 第一次産業に強い北海道だけあって農学系統は超名門。 特に獣医学部は東大農学部獣医学専攻(理科二類)と並んで権威が高い。 大阪大学 → 医学部、歯学部、工学部 阪大医学部は江戸時代の私塾「適塾」を起源とする。 阪大歯学部は西日本で最高峰の歯学部と名高い。(ちなみに東日本の最高峰の歯学部は東京医科歯科大学歯学部。) 工学部も強く、「西の東工大」の異名を持つ。 名古屋大学 → 医学部、理学部 名大理学部は京大理学部に次いでノーベル賞受賞者が多い。 追記、修正は旧帝大または東工大、一橋、東京外大、神戸のうちのどれか1校に受かった人にお願いします。 △メニュー 項目変更 -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 名大だけキャンパス情報が無いがこれは編集途中?それとも意図的? -- 名無しさん (2020-07-17 15 26 39) ハムテルや二階堂ってめちゃくちゃ頭良かったのか… -- 名無しさん (2020-07-17 19 52 05) 旧帝大の序列はこんなイメージ。東大>京大>阪大>東北大≒名大>九大>北大。ただし北大は農学系統はかなり強い。 -- 名無しさん (2020-07-17 20 50 10) ↑2 どころか菱沼さんも清原もめちゃくちゃ頭いいぞ -- 名無しさん (2020-07-17 21 22 06) 六本松キャンパスでセンター試験受けたなつかしみ。七隈線開通直後だったか直前だったか。跡地はえらくオシャレな?建物が建ってたな。 -- 名無しさん (2020-07-17 22 05 29) ↑3 文系・理系や学部でだいぶ違うけどね。例えば東大・京大は理系は五分(理学部系は寧ろ京大の方に分がある)だが文系は東大が完全に優勢 -- 名無しさん (2020-07-17 22 57 20) 九工大は違うんだ?一応国立なのに? -- 名無しさん (2020-07-18 03 53 15) ↑九州工業大学は単科大学。旧帝大は総合大学。 -- 名無しさん (2020-07-18 09 21 37) 広島大学は旧帝大じゃないんだよな…。仙台、福岡、札幌には旧帝大があるのに… -- 名無しさん (2020-07-18 17 38 45) 北大の教養は1年までです。1年の成績で2年以降の学部決定ですね -- 名無しさん (2020-07-18 17 46 41) 手塚治虫は阪大医専であり医学部卒ではない -- 名無し (2020-07-19 03 52 47) 北陸代表、金沢大学にも帝大昇格の話はあったらしい。白紙になったけど。 -- 名無しさん (2020-07-19 09 33 21) 「北大は旧帝大の中では最も入りやすい」と書いてあるけど、総合入試を導入してからは言うほど簡単でもなくなったし、今は東北大や九大との差は大きくない。 -- 名無しさん (2020-07-20 20 01 17) 北大、九大は上位層は東大レベルの人も普通にいる。というのも優秀だけど地元志向の強い受験生が東大を狙わないで敢えて地元の帝大に行くというケースがあるから。北大、九大と同じくらいの難易度の筑波や千葉などは上位は切られてる(近くに東大や一橋、東工大などがあるから)。 -- 名無しさん (2020-07-22 10 28 13) 北大は総合力では旧帝大最下位と言われても仕方ないのかもしれないが、農学部は東大に次ぐ(京大を凌ぐ)名門。実はこういう大学って珍しいんやで。俺なら北大農学部と京大農学部どちらか選べと言われたら北大にするね。 -- 名無しさん (2020-07-26 18 28 46) 他の大学がどうかまでは知らんけど、九大生の大半は「ウチは旧帝最底辺」 -- 名無しさん (2020-07-27 20 17 08) 阪大外語はセンター試験で数学2科目必須だから、数学が苦手だと東京外大より難しい(東京外大はセンター数学は1科目のみ)。あと北大文系と阪大外語は旧帝大では珍しく二次で数学を回避して地歴での代用が可能(北大は地理、世界史、日本史から1つ選択。阪大外語は世界史のみ。)。他の旧帝大は文系でも二次試験で数学が必須。 -- 名無しさん (2020-07-28 10 42 32) 北大獣医は下手な国公立医学部より難しいんだよな…。 -- 名無しさん (2020-07-29 20 05 27) 理系は素晴らしいけど、文系は東大以外の地方帝大(京大含む)は(悪いとは言わんが)正直微妙。首都圏出身者ならわざわざ地帝文系を目指す人は少ない。文系なら一橋、東京外大、慶應、早稲田あたりに行ったほうが得。実は地帝文系の評価は横浜国立、千葉、上智、MARCHあたりとあまり変わらない。 -- 名無しさん (2020-08-01 11 22 52) 実は地方帝大ギリギリ合格レベルだと早慶はほとんど受からない。ボーダーラインは東大以外の帝大より早慶のほうが高い。京大合格者でも早慶併願成功率は6割、東大合格者でも8割。ただこれは旧帝大志望者は5教科7科目を勉強しているから早慶の対策が遅れがちだからであり、最初から私立型(文系は3教科3科目、理系は3教科4科目)に絞って勉強すれば早慶の勉強量は地方帝大より少ない。 -- 名無しさん (2020-08-05 13 13 13) 名大が一番地味だと思う。偏差値が比較的低い北大は農学系統(獣医、水産含む)は東大に次ぐ名門だし、特に北大獣医に至っては東大の獣医をも凌ぐ最高峰の獣医学部。九大も旧帝大で唯一の芸術工学部があるし。 -- 名無しさん (2020-08-07 17 09 53) マジレスすると東大以外は(京大含め)すべて地方帝大。京大も北大も九大も大差ない。 -- 名無しさん (2020-08-07 23 08 45) 理系に関して言えば早慶理工が専願と仮定しても確実に早慶理工の方が阪大理系より難しいな 早慶理工偏差値65(4科目) 阪大理系偏差値60~62.5(4科目)+セ 早慶理工が専願と仮定しても理系の場合差は分量の少ないセンター国社だけ センター国社なんて学校の授業受けてれば無勉でも国語は半分、倫理政経なら6~7割とれる どう考えても主要4科目を偏差値65まで上げる方がきつい -- 名無しさん (2020-08-16 02 22 01) ↑逆に文系で早慶専願なら東大・京大はおろか地方帝大よりも勉強量は少なくなる。早慶文系は数学を回避して英国社で受験できるし(一応、社会の代わりに数学で受けることもできるけど、そもそも文系で私立専願の人は数学受験は少数派)。文系で私立専願ならたとえ早慶でも勉強量はせいぜい金岡千広より少し多いくらいだろう。 -- 名無しさん (2020-08-16 14 08 04) 個人的には、早慶文系は過大評価、逆に地帝の文系と早慶理工は過小評価だと思う。 -- 名無しさん (2020-08-16 14 22 19) 名大理学部も国語(現代文だけ)あったと思うけど -- 名無しさん (2020-08-16 19 25 32) 早慶大との難易度論争はこの記事の趣旨に沿わず編集合戦やコメント欄での論争の火種となるため削除しました。大学間での難易度を語るのは他所でしてください。 -- 名無しさん (2020-08-16 20 15 27) 九大は広大には受かるけど少しランクが低く感じる、しかし阪大では受かるか微妙という広島高校生も行く。 -- 名無しさん (2020-08-24 16 46 28) 東海圏の進学高はとりあえず東大か名大目指す -- 名無しさん (2020-08-24 17 05 33) 東北大は東北地方出身者よりもむしろ北関東出身者が目立つ。北関東(特に栃木、茨城)出身の受験生だと、東大が無理なら東北大を目指す。なんなら埼玉の県立浦和高校も、東北大の志願者は多い。 -- 名無しさん (2020-08-24 17 15 44) 文系だと東京阪以外の地方帝大よりも神戸大学のほうが偏差値が高かったりする。神戸大学は一橋大学と同じ旧商大のカテゴリだから経済学部はかなり強い。理系も研究力はともかく、偏差値的には北大九大と変わらない。 -- 名無しさん (2020-09-02 19 37 45) 神戸文系は駿台で阪大>名大≧神戸東北≧北九、河合だと阪大>名大=神戸≧東北だから先入観抜きだと地帝大と変わらないぞ。逆に理系は海事以外神戸≧北大≧九大とイメージよりかなり高い。研究はともかく難易度は九大より明確に上になる。 -- 名無しさん (2020-09-04 16 20 06) 神戸大学医学部は北大医学部より難しいと思う。 -- 名無しさん (2020-09-04 18 02 47) 栃木の受験生は東大無理なら東北大を目指す。東北大も無理なら地元の宇都宮大学(宇大)を目指す。 -- 名無しさん (2020-10-03 16 01 59) 東北大学は東北地方出身者より、むしろ関東出身者に人気があるイメージ。特に栃木県、埼玉県からなら東北新幹線で行ける! -- 名無しさん (2021-05-25 18 52 32) 旧帝大と言っても東大京大とその他5校ではだいぶ差があるし、東大と京大の差もだいぶ大きい。とはいえ、どの大学も世間一般的には十分優秀な部類だと思う。 -- 名無しさん (2021-06-14 16 08 08) 旧帝大(+筑波)の学長(総長)の給料は他の国立大学よりも高く設定されているらしい(警察庁長官と同格)。ちなみに東大・京大の総長は最高裁判所長官と同格。 -- 名無しさん (2023-09-03 08 01 57) 名前 コメント
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大江・岩波沖縄戦裁判報告と日本史教科書訂正申請の経緯報告 2007/11/18 http //www.news.janjan.jp/living/0711/0711155669/1.php (宮内秀忠) 大江・岩波沖縄戦裁判報告と日本史教科書訂正申請の経緯報告 2007/11/18本人尋問 (「――」以下は筆者の注、感想)原告[梅澤証言] 原告[赤松証言] 被告[大江証言] 日本史教科書執筆者からの訂正までの経緯報告 7日に出された声明沖縄戦検定にかかわる訂正申請提出にあたっての声明 筆者はどう思っているのか 大江・岩波沖縄戦名誉毀損裁判の本人尋問(9日)の報告会と、日本史教科書執筆者による訂正申請の経過報告・決意表明が14日、東京の岩波セミナールームでありました。大江・岩波裁判の報告には、「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会」事務局長の小牧薫さんが、わざわざ大阪から駆けつけてくれました。 11月9日の本人尋問は、原告の元座間味島戦隊長の梅澤裕さんと元渡嘉敷島戦隊長の赤松嘉次さん(故人)の弟・赤松秀一さん、それに、被告のノーベル文学賞作家の大江健三郎さんの3人に対して行なわれた。 この裁判では何を争っているのか。家永三郎・東京教育大学名誉教授(故人)と大江氏は梅澤氏の名誉を毀損しているか、赤松氏への「敬愛追慕の情」を侵害しているか、が争点となっている。名誉毀損は、被告大江・岩波側に立証責任(内容を検証し、名誉を毀損していないことを証明する責任)があり、敬愛追慕の情の侵害は、原告赤松側に立証責任(敬愛追慕の情が侵害されていることを証明する責任)がある。 家永三郎著「太平洋戦争」の記述では、梅澤が命令し、「集団自決」によって多数の死者が出たとなっているが、大江著「沖縄ノート」では、赤松・梅澤の名前は書かれていず、日本軍の命令による「集団自決」で多数の死者が出た、となっている。また原告を「罪人・悪人・極悪人」などと書いてはいない。 本人尋問 (「――」以下は筆者の注、感想) 原告[梅澤証言] 1.手榴弾は軍の重要な武器であり、隊長である自分の命令・許可なしに住民に渡ることはない。手榴弾が宮城初枝さんに渡されたことは認めたが、他の人々に渡されたことについては、「そんなはずはない」「知らない」と答えた。 2.自分は「自決するな」と言ったのであり、自分には全く責任はない。自決を命じたのは「行政の上司」「那覇あたりの指令」だとした。――自決命令を出したのは、村の有力者(座間味では助役・兵事主任・防衛隊長。渡嘉敷では村長)としたのを変更したことになる。 3.1980年12月に宮城晴美さんに出した手紙を示され、「あなたのものか」という問いに「はい」と答え、「集団自決は状況のいかんにかかわらず、軍の影響下にあり、まったく遺憾である」と書いて、「軍の責任をまったく認めていないわけではない」と書いていることは認めた。 4.「集団自決」のことは、1958年春ごろ、「週刊朝日」と「サンデー毎日」の報道で知った。――指揮官でありながら座間味島で起こったことを当時知らなかったのだ。 5.「沖縄ノートを読んだのはいつか」と聴かれて、「去年」と答え、「念のために読んでおこうと思って」、「沖縄ノートには、あなたが自決命令を出したという記述はあるか」との問いに、「ありません」と答えた。――裁判が起こされたのは一昨年のことなのに、本を読んだのは去年だという。では名誉毀損されているという心象形成に至ったのはいつか、矛盾している。 6.原告代理人が「訴訟を起こすまでにずいぶん時間がかかったが、その理由は」と聞いたのに対し、「資力がなかったから」と言い、「非常に悔しい思いで生きてきた」と言いながら、これまで岩波書店や大江氏に抗議した事もないことを認めた。 原告[赤松証言] 1.「集団自決」について、兄(故・赤松嘉次氏)本人から直接聞いていない。兄がどう思っていたのか「知らない」と答えている。 2.「兄本人が裁判を起こしたいとか、修正を求めたとか、聞いたことがあるか」という質問には、「なかったでしょう。私は知らない」と答え、また「本人が旧軍人として反省にはやぶさかでないという手記を書いたことを知っているか」と問われ、「知っていた」と答えた。 3.「山本明さん(兄と旧陸軍士官学校同期、元自衛隊幹部)に裁判をするように勧められたのか」という質問には、「そういうことになります」と答えた。慌てた原告側弁護人が「裁判を起こそうとしたのはあなたか、山本さんか」と再質問し、「私の気持ちです」と修正した。 4.『沖縄ノート』は読んだが、「難しいですね。兄のところだけ飛ばして読んだ」と答える始末だった。 (次のページに続く) http //www.news.janjan.jp/living/0711/0711155669/2.php 被告[大江証言] 1.『沖縄ノート』の執筆動機は、第1は沖縄と日本の歴史の関係、第2は戦後の沖縄、日本国憲法下の日本とアメリカ軍の支配下の沖縄について、第3は1970年に渡嘉敷島の元守備隊長が島を訪れることを新聞で知ったこと。そこに第1と第2の歪みがあり、日本人としてアジアと世界の中でどうあるべきかを、自分の問題として書いた。 2.参考にしたのは、『鉄の暴風』『沖縄戦記』などと牧港篤三氏やその他の人からの聞き取り。 3.『鉄の暴風』には、『隊長命令』とあったが、私は『日本軍の命令』と書いた。それは、隊長個人の性格・資質・選択ではなく、日本軍-第32軍-守備隊の縦の構造によるものと考えたから。 4.「集団自決」には、日本軍の強制、第32軍の強制と「軍官民共生共死」の方針、守備隊の存在と活動があった。私たちの世代は常識として「戦陣訓」を知っており、「捕虜になれば男は戦車でひき殺され、女は暴行され殺される」と常々聞かされていた。 5.手榴弾がどうして住民に渡されたのか疑問に思っている。手榴弾の配布が、「日本軍による」の大きな根拠であり、「強制」だと考える。新たな証言で、「軍によって強制された」との確信を持った。 6.文中の「罪」とは軍命による集団自決のことであり、「あまりに大きな巨魁」とは、亡くなった人を「死者」と書くのは無礼だと思い、罪の結果の塊という意味で使った。「罪人、悪人、極悪人」とも書いていない。曾野綾子氏の明らかな誤読である。――「沖縄ノート」に書いていないことは、読めば誰でもわかるはず。文筆家の曾野さんは読解力がないのか、故意なのか。なぜ書いてもいない言葉を使ったのか。故意だとしたら、それこそ名誉毀損だ。 7.アイヒマンについて書いたのは、日本の青年には罪責感がない、隊長も罪責感を拭いたいとも思っていない。ドイツと日本の違いを考え、沖縄の人々の立場から、日本軍-第32軍-守備隊長を裁くべきだと考えたから。 8.『沖縄ノート』の訂正の必要を認めない。『集団自決』が美しい・清らかなものであり、愛国心に殉じたと言い募ることは、人間をおとしめることだ。 以上が本人尋問での本人証言の概略で、被告側を支援している筆者としては、被告側のきっぱりとした主張に、原告側の矛盾点などが次々に明らかになったと思う。この裁判は、12月の最終弁論で結審し、来年3月までには判決が出される見通しだ。 (次のページに続く) http //www.news.janjan.jp/living/0711/0711155669/3.php 日本史教科書執筆者からの訂正までの経緯報告 日本史教科書執筆者の坂本昇さんから報告と、決意表明がありました。 1.経過と検定の実態 2007年3月末の高校教科書検定合格に際して、私が参画している日本史教科書にも「集団自決」について検定意見が付され、修正を余儀なくされていた。 実は、1994年検定に向けた教科書執筆では、第3次家永訴訟で争点の一つとなった「日本軍による沖縄住民殺害を記すなら、集団自決についても記述せよ」という文部省の主張を意識していた。住民殺害と「集団自決」を共に記した上で、「集団自決」の本質に迫るべく、金城重明先生の体験談をコラム風の資料として掲載させていただいた(出典は、「渡嘉敷島の集団自決」1988年、あゆみ出版)。 1994、97、2002年の検定ではすんなり通っていたにもかかわらずである。過去3回の検定では「……日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や、集団で『自決』を強いられたものもあった」という記述には検定意見が付けられていなかった。 2.検定調査官の説明概略 最近集団自決に際して、軍の正式な命令はなかったという風にほぼ固まりつつあるように考えている。最新の成果といっていい林博史先生(調査官が、「はやしひろし」といったので、初め「はやしひろふみ」さんとは別の人かと思ったそうだ)の『沖縄戦と民衆』を見ても、軍の命令があったというような記述はない。それを踏まえたうえで、「集団で『自決』を強いられたものだ」、何らかの命令もしくはそれに準じた強制力のあるものが軍からあったという、このあたりを誤解されたら困るということで意見を付けさせて頂いた。 検定意見は、引用されている資料と両方につけたが、「両方を必ず直せ」「両方に手を入れろ」と言っているわけではない。引用されている渡嘉敷島の『集団自決』のその元となっているものがいい加減な活動ではないということは、私どもも把握している。その資料を引くことがいかんとか、内容そのものがけしからんといっているのでは全くない。ただ、本文の記述と引用された囲みの資料というのは、相乗効果があるものだと思われるので、両方を読み合わせた上で、なお誤解のないようにしていただければということで、必ず両方を直せと言っているわけではない。――回りくどくてよく分からない。結局直せということか。 執筆者側は、「強いられた」という箇所について「公的強制力」を持ったように誤解されるという趣旨であるのかという確認をしただけで、時間的制約もあり、次の意見箇所に進んだ。 執筆者側の対策会議では、日本軍がいなかったところでは集団自決は起こっていないという提起もしたが、修正に応じなければならないだろうということで、記述の前後を入れ替え、「日本軍が」という主語を後半に回して「『集団自決』においこまれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民もあった」と修正することにした。しかし、内心忸怩たる思いがあったという。 帰宅して林博史さんの『沖縄戦と民衆』(2001年、大月書店)の記述を確認した。渡嘉敷島では「赤松隊長から自決せよという形の命令は出されていないと考えられる(p.161)座間味島の記述でも「軍からの明示の自決命令はなかった」との記述はあった。ただし、その直後に、「島民に日本兵から『明日は上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。いざとなったらこれで死になさい』などといって手榴弾が配られている。」と記されている。 著書全体を通読すれば「いずれも日本軍の強制と誘導が大きな役割を果たしており(p.173)」「日本軍の存在が決定的な役割を果たしているといっていいであろう」という結論なのであった。忸怩たる思いは、無念さに変わっていったという。 12月末に歴史教育者協議会委員長の石山さんと情報交換したが、修正せざるを得ないという感想を持った。私たちの教科書には金城先生の証言資料が無傷で残ったという慰めはあったが、筆を折ったことには違いない。 (林博史・関東学院大教授は、9月27日に東京で開かれた「検定意見撤回9.29沖縄県民大会支援・プレ集会」で、「自分の研究が検定調査官に恣意的に利用された」と怒っていた。また軍命令がなかった地域、軍隊のいなかった地域では集団自決が起こらなかったことを資料を示して説明している。) 次に検定の狙い、訂正申請に至るまでの執筆者懇談会での意見交換の様子、一連の勢力は金太郎飴(軍隊は国民を守らない、戦争の実態を教えたくない、教えさせたくない勢力)だという話が展開された。書き換えに反対している勢力はすべて同じ人たちだ。 これまでNHKなどの番組の取材にも応じ、沖縄県議会決議にも励まされ、執筆者懇談会を立ち上げ、検定意見撤回に向けての取り組みも精力的に行なってきた。訂正申請のための準備にも入った。検定意見撤回沖縄県民集会にも参加して感動した。当初曖昧だった執筆者集団として執筆者懇談会の方向性も、このまま次回検定まで待てない、何かやろうということが確認されている。 「検定意見とその経過自体を教科書に記述することが、執筆者集団としての責務である」という意見が励みになっている。個人の責任でマスコミの共同取材に応じ、10月27日に訂正申請の検討内容について報告した。昨年12月以降、今日までの心労はピークに達している。検定意見を付された5社と付されなかった1社が訂正申請している。訂正が通ることも大切なのだが、最終的には、検定意見の撤回を勝ち取りたい――と語っていた。 歴史教育者協議会委員長の石山さんから現況報告とこれまでの取り組み、これからの取り組み、展望について説明があった。時間の制約もあり、会場からの意見や質問も数人だけで終わった。 7日に出された声明 沖縄戦検定問題:教科書執筆者懇談会の声明 沖縄戦検定にかかわる訂正申請提出にあたっての声明 1.私たちは、社会科教科書執筆者として、沖縄戦に関する今回の不法な検定によって歪められた教科書記述を回復する方法について模索してきた。そのなかで去る9月25日に歴史学・歴史教育関係者17人の呼びかけによって開かれた社会科教科書執筆者懇談会において、一つの方法として、困難ではあるが訂正申請を提出する方向で各社それぞれに努力することを申し合わせた。その結果、今回の検定意見の対象になったすべての教科書で訂正申請に向けての準備が進むことになった。 ところがその後、沖縄県民大会で示された意思を受け、政府は訂正申請が出されれば対応する旨をにわかに表明するにいたった。しかしながら検定意見の撤回はあくまでも拒否する姿勢であることから、訂正申請受理によって、問題の本質的・根本的解決をうやむやにしたまま政治的決着をはかるのではないかとの疑念が沖縄県民はじめ関係者のなかに生まれることになった。私たちはこのようなあいまいな決着に与することは本意ではないので、しばらく状況の推移を見守りつつ訂正申請を保留し熟慮してきたところである。 しかし11月を迎えようとするなかで、以下の4に述べる理由によって、訂正申請を行うことに決した。その結果、おおむね11月1日から5日の間に、すべての教科書の訂正申請が文科省に提出されることになった。提出された訂正申請の内容は、少なくとも検定前の記述の回復を実現しようとするものであり、さらに若干の改善を含むものもあることをこの間の執筆者懇談会における協議で確認している。本年4月以降にさらに明らかになった「集団自決」をめぐる歴史事実や沖縄戦検定問題の経緯をふまえ、執筆者の学問的・教育的良心にもとづいて行われたこれらの訂正申請を、文科省は当然受け入れるべきである。 訂正申請の提出がほぼ完了するにあたり、このことについての私たちの真意をいっそう明らかにするため、ここに声明を発表する。 2.今回の検定意見が担当の教科書調査官によって執筆者と教科書会社に口頭で説明されたとき、林博史氏の著書『沖縄戦と民衆』の記述が根拠にあげられた。たしかに林氏の著書には、慶良間諸島の事例について、軍からの明示の自決命令はなかったと書いた箇所がある。しかし林氏の著書全体の趣旨は、さまざまな形での軍からの強制がなければ「集団自決」は起こりえなかったと、「自決」が起こらなかった地域との対比のなかで結論づけている。教科書調査官は初歩的かつ明白な誤読をしており、検定審議会委員もそれを追認した。このような初歩的な誤読に基づく検定意見が、文科省のいうように、学問的立場から公正に審議した結論だなどとは言えない。 林氏の著書はすでに2001年に刊行されたものである。なぜそれが突然今回の検定で持ち出されたのか。今回、軍による強制を削除する結論が先にあって、それに合わせて急遽この数年前の著書を持ち出したのではないかとの疑いが消せない。 文科省は、執筆者・教科書会社への説明では言わなかった別の根拠を、記者への説明で明らかにした。執筆者への説明と記者への説明が異なるということ自体、きわめて不正常であるが、その別の根拠が、座間味島駐屯の梅沢元戦隊長らが大江健三郎氏らを名誉毀損で訴えた裁判での梅沢氏自身の陳述書である。係争中の裁判の一方の側の主張を検定意見の根拠にしたものであり、係争中の裁判での一方の側の主張を教科書に記述してはならないと言ってきた文科省自身のこれまでの言明とも明らかに反するものである。しかもそれすら検定審議会はなんらの疑問を呈することなく、そのまま通してしまった。なぜこのようなことが起こったのか、強い疑問をもたざるを得ない。この点も文科省によってなんら説明されていない。 以上から明らかなように、そもそも今回の検定意見自体が、内容的にも、手続き的にもきわめて不正常なものである。このようなきわめて不正常な検定意見はただちに撤回されるべきである。同時にこのような検定意見が付された経過と原因、およびそれに対する責任を明らかにすべきであり、そのためにも今回の沖縄戦に関する検定意見は撤回するしかないと考える。 3.訂正申請にもとづく記述の回復・訂正も、本来検定意見撤回という前提のもとに行われるべきものである。検定意見が撤回されないもとで、訂正申請に対して何を基準にその内容を審査するのかを、文科省はまったく明らかにしていない。このような不明朗な審査を行うべきではない。その意味で、訂正申請のみによって問題が正しく解決されるとは到底考えられない。よって私たちは、問題の根本的解決のために検定意見の撤回をあくまでも求める立場に変わりはない。 4.けれども一方で、来年4月に高校生に教科書が手渡される前になんとしても記述の回復・改善を実現したいという思いを私たちは強く持っている。いまだ検定意見が撤回されないため、記述の回復・改善のための条件が十分に整っているとはいえないが、今後の検定意見撤回に向けた動きのなかで、文字通りの記述の回復・改善の実現をさらに追求していくことを前提にしつつ、来年4月の教科書の供給に間に合わせることを考え、記述の回復・改善のための一つの方法として、この時点での訂正申請の提出に踏み切った。 5.3でも述べたように、検定意見が撤回されないもとでは、今後、訂正申請に対しても恣意的な修正要求が文科省・検定審議会から出される可能性がある。ここでも文科省・検定審議会が沖縄県民や各研究者などから示された具体的歴史事実、とくに最近続々とあらわれている新しい証言などにどれだけ真摯に対応するのかが問われることになる。 このような状況のもとで、私たちは訂正申請の内容およびその後の経過について、できるかぎり公開することにより、市民の監視と健全なる批判のもとで訂正申請が処理されることを期したい。そのさい文科省の不当な対応があればただちに批判の声をあげてくださることをすべての人々にお願いしたい。また、執筆者としても、市民の皆さまの適切な批判・助言を仰ぎつつ、今後のさまざまな動きに対応していきたいと考えている。 訂正申請の内容とその処理の過程が公開されることは、これだけの大きな社会問題となった沖縄戦検定についての市民の知る権利を保障するためにも重要である。 6.さらに、今回の検定問題を通じて明らかになった、次のような検定制度の改善すべき点についても検討し取り組んでいく所存である。 1)教科書調査官、検定審議会委員の人選を透明化、公正化すること 2)検定審議会の審議を公開すること 3)検定意見に対する不服申し立てについては、実際に機能する制度にすること 4)検定基準に沖縄条項を設け、それに対応して検定審議会委員に沖縄近現代史の専門家を任命すること 5)教科書調査官制度について、その権限の縮小ないしは廃止を検討すること 6)検定審議会を文科省から独立した機関とするよう検討すること 2007年11月7日 社会科教科書執筆者懇談会 呼びかけ人 荒井信一、石山久男、宇佐美ミサ子、大日方純夫、木畑洋一、木村茂光、高嶋伸欣、田港朝昭、中野 聡、西川正雄、浜林正夫、広川禎秀、服藤早苗、峰岸純夫、宮地正人、山口剛史、米田佐代子 連絡責任者 石山久男 170-0005 豊島区南大塚2-13-8 歴史教育者協議会内 電話 080-3023-6880、03-3947-5701 沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会 (平和教育をすすめる会) 事務局長:山口剛史(やまぐちたけし) 連絡先 住所:〒902-0061 那覇市古島1-14-6教育福祉会館内 電話 098-887-1661、FAX 098-885-3542 筆者はどう思っているのか 私は、子供たちに負の歴史もきちんと教えられ、地球の平和が、人類が殺し合いをやめる世界が実現されるまで、努力は惜しまない。 沖縄戦の実態については、沖縄県議会決議、41市町村全議会決議や証言者がたくさん出ていることもあり、辺野古のことや米軍基地という今現在のことも含めて、私自身に沖縄と、日本と、日本の平和と、世界の平和とどう向き合うのかを突き付けられていると考えています。 (宮内秀忠)
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一 原告の主張の要旨 原告は、本件検定処分ないし検定意 見について適用違憲の主張が認められないとしても、本件検定処分ないし検定意見が裁量権を逸脱、濫用したものとして違 法であるとし、その理由として次のとおり主張する。 1 教科書検定処分は、国民(教科書著作者や児童・生徒)の学問の自由、教育の自由、学習の自 由及び表現の自由を制限する処分であるから、その裁量の範囲 は厳格に限定されたものと解しなければならない。また、戦後教育改革は、戦前における教育の国家統制への反省から、中央集権的な教育行政機構を解体して、 その地方分権化を図り、機構の地方自治を実現するとともに、戦前における教育行政による権力的支配から教育を解放し、教育の自由性を確立したが、教科書検 定制度は、この改革の一環として、戦前ないし戦時中の教科書国定制度を改めるものとして発足したものであって、その趣旨は、民間の創意工夫を尊重し、個性 のある多様多彩な教科書の登場に道を開こうとするものであったといえる。更に、検定基準は、多義的で包括的であるが、それだけに、幅広い解釈が可能であ り、そこに教科書著作者の広い創意工夫の余地があるのであって、そのもとで多様な教科書記述が許容されるべきである。 2 以上のように、教科書 検定処分が国民の権利・自由にかかわる処分であること、教科書検定制度の沿革、趣旨・目的は、検定基準の内容に照らせば、文部大 臣は、教科書検定権限の行使に当たり、教科書著作者の自主性を尊重する立場に立つべきであり、また、修正意見については、これにより教科書著作者に対し修 正意見のとおり原稿記述を修正することを余儀なくし、あるいは検定不合格の理由とされているものである以上、比例原則の見地からみて、文部大臣は、教科書 の記述が、教科書著作者の創意工夫や専門的判断に基づき、学問上、教育上相応の根拠を有するときは、非拘束的な指導助言としての改善意見を付することは別 として、原則として修正意見を付することは控えるべきであり、修正意見を付し得るのは、検定基準の各条項に照らし、教育的配慮の見地から、あえて当該記述 の修正を求めるに足りるだけの格別の強い根拠がある場合に限られるものと解しなければならない。 二 当裁判所の総論的判断 1 教科書検 定の法的性格 教科書検定の法的性格については、これが文部大臣の検定権限の行使についての裁量の有無及びその範囲についての判断にかかわるもの と して当事者間に争い があるので、裁量権濫用についての検討に先立ち、まず、この点を判断する。 教科書は、さきに第二、一で判示したとおり、 学校 教育に用いられる主たる教材であって、心身ともに未発達の児童・生徒が使用するものであるとともに、そ の使用が義務付けられていること、これに伴い、児童・生徒の心身の発達段階に応じた適切な内容の選択及び組織配列が求められ、その内容において一定の水 準、正確性、中立・公正が確保される必要があることなどの点で、一般の図書とは異なる特殊な性質を有する図書であるから、国民は、憲法上出版の自由を保障 されることから直ちに教科書をも出版する自由を有しているということはできないのである。もとより、右のような一般の図書とは異なる特殊な性質を有する教 科書の制度を採用するか否かは、立法政策の問題であるが、現行の教育関係法令はかかる制度を採用しており、このことが憲法又は教育基本法の各規定に違反す るものでないことはさきに第四に判示したとおりである。したがって、検定の申請をもって、国民の有する教科書出版の権利の禁止の解除を求めるものであると する許可行為説は、採用し得ない。 また、教科書検定は、事柄の性質上、また、本件検定当時の検定基準の内容からみても、行政機関が客観的基準に 照らして一義的にその適否を判断するもので あるということはできず、確認行為説もまた採り得ない。 そして、既に第二において認定した教科書検 定 の手続及びその運営からみると、教科書検定は、文部大臣が新規に著作された図書又は既に発行ずみの特定の図 書に対し、その著作者又は発行者の申請に基づき、高等学校等の学校において教科書として採択を受け使用され得る法律上の資格を設定するか否かを審査決定す る行政処分であり、検定合格処分により、右の法律上の資格が設定されるものであるから、その法的性格は、特許行為の一種と解すべきである。もっとも、教科 書検定の法的性格が右のとおり解されるからといって、教科書の出版が国の固有の権利であって、検定合格処分はこれを検定申請者に対し分与するものであると するものではないことはいうまでもないし、教科書検定の法的性格から直ちに文部大臣の検定権限の行使についての裁量の有無及びその範囲についての結論が一 義的に導かれるものでないことに留意すべきである。 2 学校教育法二一条一項が文部大臣に対し教科書検定の権限を付与したものと解すべきである ことは、さきに第二、二において判示したとおりであるが、特に 文部大臣による検定権限の行使がいかなる程度に法令上覊束されるかを定めた明文の規定は存しない。 検定の対象は、教科書の記述内容等であって、日 々進歩する学界の状況を把握した上で当該記述の学問上の適切性、児童・生徒の心身の発達段階や学習の適時 性を考慮した上での当該記述の教育上の適切性、教育内容の一定水準が確保されているとともに過不足ない記述となっているかとの観点からの当該教科書の適切 性等相互に関連する幾多の考慮事項を含み、その判断は高度の学問的ないし教育的専門性・技術性を持つものであること、その検定基準自体が前述のとおり抽象 的、概括的にならざるを得ないので、検定権限について客観的に適正かつ公正な行使をするために、判断の基礎となるべき学界の状況、適切な教育的配慮の在り 方等関連諸事項について広く研究すべきものであり、その方策として文部大臣は、教育職員、学識経験者等から成る教科用図書検定調査審議会に諮問して検定処 分の判断を行うこととされているものの、この判断については、事柄の性質上、ある程度の見解の相違を来すことも免れないものであることを考慮し、かつ、教 科書検定の前記法的性格に徴すると、文部大臣が教科書検定に当たって付する検定意見ないし合否(条件付処分を含む。)の処分については、文部大臣に右のよ うな理由に対応する裁量権があることを認めざるを得ないのである。 ところで、教育基本法は、前記第一、三2のとおり、憲法において教育の在り方 の基本を定めることに代えて、我が国の教育及び教育制度全体を通ずる基本理 念と基本原理を宣明することを目的として制定されたものであって、一般に教育関係法令は、当該法令に別段の定めがない限り、できる限り教育基本法の規定及 び同法の趣旨、目的に沿うように解釈・運用されるべきものと解されることに照らせば、文部大臣の検定権限もまた、同法及び右権限を定めた学校教育法の目 的、趣旨に合致するように行使されなければならないのである。そして、教科書検定関係法令として、学校教育法八八条、一〇六条の委任に基づき制定された教 科書図書検定規則及び教科用図書検定基準、更に検定基準の実質的内容を構成している学習指導要領、実施細則、内規等が定められているところ、これらの関係 法令も、前述のとおり、教育基本法及び学校教育法の目的、趣旨に沿うものと認められるのであるから、結局、文部大臣の検定権限の行使は、その裁量に属する とはいえ、右の教科書検定関係法令の各規定の趣旨に則ってなされなければならないことはいうまでもない。したがって、右権限の行使が右の趣旨に合する合理 的範囲にとどまるものである限り、当不当の問題を生ずることはあっても国家賠償法上違法の問題が生ずる余地はないが、右権限の行使が、裁量権の範囲を超え 又はその濫用があったときには、同法上違法となるというべきである。もっとも、法が処分を行政庁の裁量に任せる趣旨、目的、範囲は、各種の処分によって一 様ではなく、これに応じて違法とされる場合もそれぞれ異なるから、各処分ごとにこれを検討すべきところ、これを文部大臣の検定権限行使の判断についてみる に、教科書検定が文部大臣の裁量に委ねられる前示の趣旨、目的にかんがみると、文部大臣の検定処分における判断が、その判断の基礎とされた学界の状況等に 誤認があることなどにより事実の基礎を欠く場合、学界の一般的状況や原稿記述の有する根拠など当然考慮すべき事項を考慮せず、考慮すべきでない事項を考慮 していること若しくは当該記述の検定基準違反の程度についての文部大臣の評価が明らかに合理性に欠くことなどにより、当該検定処分が社会通念上著しく妥当 性を欠く場合、検定権限の行使が検定制度の目的と関係のない目的や動機に基づくものであるときなど裁量の認められた趣旨・目的に違反した場合又は検定権限 が恣意的に平等原則に違反して行使された場合は、裁量権の範囲を超え又はその濫用があったものとして、当該検定処分は、違法となるものと解するのが相当で ある。 そして、裁判所は、文部大臣の検定処分が違法か否かを審理、判断するに当たって、文部大臣の立場に立って、いかなる検定処分とすべきで あったかを判断し、 その結果と当該検定処分とを比較してこれを論ずべきものではなく、文部大臣の裁量権の行使に基づく検定処分が前示の意味において裁量権の範囲を超え又はそ の濫用があったと認められるか否かによってこれを審理、判断すべきものである。このことは、文部大臣が個別に付した検定意見についても同様であって、この 場合、文部大臣が付した検定意見に対しては、それらが教科書検定関係法令の趣旨に即し、教科書の内容における一定水準の確保、正確性及び中立・公正の保持 並びに教育的配慮の観点に基づいて示されたものであって、学界の状況や教育的配慮に照らし文部大臣の検定意見に合理的な根拠があると認められる限り、原則 として、裁量権の範囲の踰越ないし濫用による違法があったものとすることはできないというべきである。 もとより、文部大臣は、検定処分当時の学 界の状況の客観的認識に基づき、原稿記述の有する学問的根拠ないし教育的配慮も考慮した上で、これを修正すべき か等につき検定意見を付すべきものであるから、裁判所が、検定意見の合理的根拠の有無を判断するに当たっても、検定意見の根拠のみを切り離して検討するの では足らず、これを原稿記述の根拠との相対的関係において検討して、その合理性を判断しなければならないと解すべきである。したがって、検定意見と原稿記 述とがそれぞれ相応の根拠を有する場合には、文部大臣が原稿記述に対し検定意見を付したことが、学界の状況、それぞれの学問的根拠、教育的配慮の合理性等 に照らして、社会通念上著しく不当であると認められる場合に初めて、裁量権の濫用による違法があるというべきである。もっとも、教育内容に対する国家的介 入は、できるだけ抑制的であることが要請されること、教育基本法一〇条の規定は、教育の自主性尊重の見地から、これに対する不当な支配となることのないよ うにすべき旨の限定を付しており、国家の介入が許容される目的のために必要かつ相当と認められる範囲に限られることは、さきに第四、一に判示したとおりで あり、また、教科書検定が教科書著作者の表現の自由及び学問の自由にかかわるものであること、更に、何をもって中立・公正とみるかを客観的に判定すること が困難な場合があり、中立・公正の名のものに検定機関の価値観が検定意見に入り込む危険があることを考えると、文部大臣は、検定権限の行使について慎重で あるべきであり、前記のように原稿記述も相応の根拠を有する場合に検定意見を付することには、その妥当性に批判の余地があるといえよう。しかしながら、か かる検定意見も、あくまで教科書内容の一定水準の維持、中立・公正の確保ないし教育的配慮を目的とし、教科書検定関係法令の各規定に従い、さきに述べた裁 量審査の基準に反しない限りにおいては認められるというほかないのであり、また、教科書は、教育の主たる教材であるとはいえ、検定意見の付された原稿記述 に係る歴史的事実ないし見解を教育現場から完全に排除するという効果まで持つものではないこと等を配慮すると、法的見地からは、右のような場合に検定意見 を付することをもって、教育に対する不当な支配に当たり、あるいは教育に対する権力的介入として必要かつ相当な範囲を超えるものとすることはできない。 ま た、本件各検定処分について文部大臣により付された検定意見には、修正意見及び改善意見の二種があること並びに改善意見の内容については、前記第二、 五認定のとおりであって、修正意見が教科書記述に対して権力的介入を行うものであるのに対し、改善意見は指導助言にとどまるものであり、裁判所が文部大臣 の付した各検定意見につき、裁量権行使の当否を判定するに当たっても、右に述べた修正意見と改善意見の実質に即した判断をすべきであって、各検定意見の根 拠に必要とされる合理性にもおのずから軽重の違いがあるというべきである。但し、改善意見であっても、内閲本審査において教科書調査官がそれに従った修正 を執拗に要求し、ことさらに検定審査手続を遅延させるなどの方法により改善意見の域を超えて修正を強制するに至ったものとみるべき場合には、修正意見に準 じてこれを判断すべきである。 三 昭和五五年度検定における裁量権濫用の違法 1 親鸞及び「日本の侵略」に関する記述について (一) 〈証拠〉によると、1 三省堂の申請に係る本件教科用図書原稿本(甲第一号証。以下、第三項において「本件原稿」という。)の「法然・親鸞らは朝廷 から弾圧をうけたが、親鸞はこれにたいし、堂々と抗議の言を発して屈しなかった。」との本文の記述に対し、文部大臣は、右記述では、親鸞が弾圧を受けた時 点で抗議声明をするなど何らかの抗議行動をしたかのように読み取れるが、親鸞がそのような行動をしたというのはどういう学説に基づいて記述されているか分 からない。仮に親鸞が教行信証のなかで朝廷を批判した行為をとらえて、「堂々と抗議の言を発して屈しなかった」と記述しているとすれば、教行信証の記述 は、後になって親鸞が当時のことを追憶したものであるから、生徒に誤解を与えないよう表現を再検討されたいとして、検定基準(社会科に関するものをいう。 以下同じ。)に照らし、必要条件である第1[教科用図書の内容とその扱い]3(選択・扱い)「(1)本文、問題資料などの選択及び扱いには、学習指導を進 める上に支障を生ずるおそれのあるところなどの不適切なところはないこと。」に欠けるとして改善意見を付したこと、2 本件原稿の「中国では、西安事件を きっかけとして、国民政府と共産党の抗日統一戦線が成立し、日本の侵略に対抗して中国の主権を回復しようとする態度が強硬にあらわれてきた。」との本文の 記述に対し、文部大臣は、「侵略」という用語は罪悪というはっきりした評価を含む用語であるから、自国の教科書で自国の行為の表現として使用する点は教育 的見地から再考されたい、また、本件原稿の他の箇所においては、「列強の中国進出」、「ヨーロッパ列強の中国領土進出」とあり、「日本の中国への武力進 出」という表現も二例あるから、「日本の侵略」という記述についても、他の二例のように「武力進出」などと、より客観的な言葉で表記・表現を統一してはど うかとして、検定基準に照らし、必要条件である第1[教科用図書の内容の記述]2(表記・表現)「(3)漢字、仮名遣い、送り仮名、ローマ字つづり、用 語、記号などの表記は適切であり、これらに不統一はないこと。」に欠けるとして改善意見を付したことが認められる。 (二)ところが、原告は、文 部大臣から右各改善意見が付されたにもかかわらず、これに従った修正に応じなかったことは、さきに第三、一1で判示したとおり であって、右(一)1親鸞及び2「日本の侵略」についての各記述に関しては、原告に損害が発生していると認めることができないことは、後に第七、二におい て説示するとおりである。 したがって、右各記述に関しては、その余の点について判断するまでもなく、原告の請求は理由がないことが明らかである から、文部大臣の検定権限行使の裁 量権濫用の違法については判断の限りでない。 2 草莽隊に対する記述について (一)〈証拠〉による と、三省堂の申請に係る本件原稿の「朝廷の軍は年貢半減などの方針を示して人民の支持を求め、人民のなかからも草莽隊といわれる義勇 軍が徳川征討に進んで参加したが、のちに朝廷方は草莽隊の相楽総三らを『偽官軍』として死刑に処し、年貢半減を実行しなかった。」との本文の記述に対し、 文部大臣は、本件原稿記述は、「朝廷の軍」を主語として、これに何らの限定も付していないので、朝廷の軍が全国的に年貢半減を実施する方針を示したにもか かわらず、その方針を実行しなかったように読めるが、草莽隊の一つであって相楽らに率いられた赤報隊については、基礎史料である「赤報記」の史料批判さえ 行われておらず、基礎的事実の確定は今後の考察に待つという段階にあって、朝廷が相楽総三に対し年貢半減についての勅諚を与えたにもかかわらず、これを実 行しなかったとは断定できず、その他、朝廷の軍が全国的に地域や時間の限定なしに年貢半減の方針を示したという史料はどこにもなく、今日明確に言えること は、征討軍の先鋒隊と称して従軍した相楽総三の率いる赤報隊が旧幕府領については当年年貢を半減する旨の高札を掲げたというにとどまるのであり、したがっ て、朝廷の軍が朝廷の政策方針として年貢半減を実施する方針を全国的に示したのに実行しなかったと断定するような原稿記述は、不正確であり、検定基準に照 らし、必要発件である第1[教科用図書の内容の記述]1(正確性)「(1)本文、資料、さし絵、注、地図、図、表などに誤りや不正確なところはないこ と。」に欠けるものして修正意見を付したことが認められる。 (二)〈証拠〉を総合すると、次の事実を認めることができる。 (1)朝廷が相 楽総三に対し年貢半減の勅諚を与えたか否かの点を含め年貢半減の方針が朝廷の軍によって採用されたか否か、年貢半減(令)布告の状況等に関 する基礎史料として次のようなものがある。 「赤報記」(甲第二一九号証)には、「右両度建白依之於太政官坊城大納言殿ヨリ御渡之勅諚書」「但今度 不図干戈ニ至候義ニ付テハ万民塗炭之苦モ不少依之 是迄幕領之分総テ当年租税半減被仰付候昨年未納之分モ可為同様来巳年以後之処ハ御取調之上御沙汰可被為在候義ニ候間右之旨分明ニ可申付事」あり、信州大学 教授高木俊輔は、これについて史料批判を加え、明治八年以前にはすでにまとめられていたものであること、その内容は詳細であるとともに維新の政局の全体的 動きと対応していること、太政官において筆写の過程で校訂を加えられていること等から極めて信用度の高いものと判断している。昭和五五年度検定に至るま で、赤報記の信用度・正確性について疑問を提起する見解は学界に現れていない。 また、「復古記」(太政官編纂・東京帝国大学蔵版、内外書籍株式 会社発行)は、明治政府の正式な出版物として太政官の編纂になるもので、明治元年の戊辰 戦争に関する基礎的史料であり、史料の内容の豊かさと正確性において比類のないものとされているが、その「巻一九」(昭和五年、甲第二二三号証)の「明治 元年正月一二日」には、次のような綱文(史料から読み取れる事実を要約した文章)がある。「○滋野井公壽、綾小路俊実ノ使者、相良武振書ヲ上リ、官軍ノ徽 章ヲ賜ヒ、且東征先鋒ノ命ヲ奉センコトヲ請ヒ、又旧幕府領地ノ租税ヲ減センコトヲ建議ス、乃チ公壽、俊實ニ命シテ、東海道鎮撫使ノ約束ヲ受ケ、又旧幕府領 地今年租税ノ半ヲ免セシム。」また、この綱文の後には、「赤報記」「大原重實蹟書」によるものとして年貢半減令について次の一文が引用されている。「但、 今度、不図干戈ニ至リ候儀ニ付テハ、万民塗炭之苦モ不少、依之、是迄幕領之分、総テ当年租税半減被仰付候、昨年未納之分モ可為同様、来巳年以後之処ハ、御 取調之上御沙汰可被為在候儀ニ候間、右之旨分明可申聞事。」。 更に、「維持史料綱要」(維新史料編纂事務局編、昭和一三年)は、維新史関係の事 件内容とその内容を示す重要史料名を知る上に極めて便利で研究者必携の 書といわれるものであるが、その「巻八」(甲第二三四号証の二)の「明治元年正月一二日条」には、相楽総三の年貢半減の建白について次のような綱文があ る。「待従滋野井公壽及前待従綾小路俊實ノ使者相楽總三、書ヲ上リ、赤報隊ニ官軍ノ徽章ヲ賜ヒ、東征先鋒ノ命ヲ拝センコトヲ請ヒ、又旧幕領地ノ租税ヲ減 ジ、民心ヲ収メンコトヲ建議ス。乃チ、公壽・俊實ニ命ジテ東海道鎮撫総督ノ指導ヲ受ケ、又旧幕領本年租税ノ半ヲ免ゼシム。大原重實履歴赤報隊小寺玉晁戊辰 雑記 史談会速記録」。 右の綱文には、相楽総三の建議の相手方や年貢半減令を発令した機関の記載がないことは、被告主張のとおりであるが、他 方、「維新史料綱要巻一」(甲第二 二四号証の一)の「例言」には、「天皇ノ御言動ヲ記スルニハ、例ヘバ出御・行幸等ノ敬語ヲ用ヒテ、其文ノ主格トシテ天皇ヲ称スルヲ避ク。朝廷ノ行事・令達 ヲ叙スル場合ニモ、同ジク朝廷ノ文字ヲ表ハサズシテ、直ニ其事ヲ記セリ。又朝廷ニ上ル稟請ノ類ヲ叙スル場合ニ於テモ、亦其文ノ目的格トシテ特ニ朝廷ノ文字 ヲ表ハスコトナシ。但、朝廷ト幕府トヲ併記スル必要アル場合ニハ、此例ニ拠ラズ。」とあり、これによれば、先に挙げた綱文において、相楽總三が「旧幕領ノ 租税ヲ減」ずる「コトヲ建議」した相手方は朝廷であり、「旧幕領本年租税ノ半ヲ免ゼシ」めたものも朝廷であったと解すべきことになるとされている(このこ とは時野谷滋教科書調査官も、その証言において認めるところである。)。 なお、右認定のとおり、「復古記」「維新史料綱要」いずれも、明治維新 についての基礎的史料であると同時に、「赤報記」等の史料に対する史料批判を加え た上で読み取れる事実についての編者らの認識を綱文として明らかにしたものであって、一般に容易に参照し得るものであるから、これらはいずれも昭和五五年 度検定当時の学界の状況を構成するものとみて妨げないものと解される。 (2)高木教授は、前掲「赤報記」等の史料による研究に基づき、「明治維 新章莽運動史」 (勁草書房、昭和四九年、甲第二一六号証、乙第八八号証)を著したが、前記(1)の点に関し、概略次のとおりの見解が明らかにし て いる。 1 相楽総三は、慶応四年(明治元年)正月、綾小路俊実と滋野井公寿の二卿の使者として赤報隊を正式に官軍の一部に認めて欲しい旨の嘆 願を した。これに対 し、同月一一日に朝廷の太政官議定・参与局から、「義徒」を集めて「皇軍之威光」を輝かすよう励まれたい旨の達書が下された。これは、二卿宛に「義徒」つ まり相楽ら草莽を集めた赤報隊を官軍先鋒隊として肯認したことになる。更に、相楽総三は、同一二日、議定・参与局あてに、官軍東征には民心を幕府から切り 離す必要がある。そのため、「幕領之分ハ、暫時之間、賦税ヲ軽ク致シ候ハゝ、天威之難有ニ帰嚮シ奉リ」目的を達成できるだろう、とする建白をした。これに 対して太政官から、「是迄幕領之分、総テ当年租税半減被仰付候、昨年未納之分モ為可同様」との沙汰が下された。ここに年貢半減が朝廷の政策として採用され たということができる。これを受けて相楽総三らの赤報隊は、「年貢半減」の布告をしながら進軍していくことになった。ところが、一月下旬には、赤報隊の悪 評を理由として隊に帰洛命令が出たが、赤報隊一番隊である相楽隊だけは官軍東征の成功のためには碓氷峠の占拠が絶対に不可欠であると判断し、あえて東山道 へ進軍を続け,二月一四日には碓氷峠の占拠を果たした。その後、総督府は、二月一〇日付で信州諸藩宛に、相楽隊を「偽官軍」として取り押えるよう命じ、相 楽を含む幹部八人は、三月三日に下諏訪において処刑された。 2 年貢半減令の布告者は、赤報隊にとどまるものでなく、「復古記」とよばれ、一月 一四日には山陽道三藩宛に太政官の名で本年度年貢半減が布告されている し、一月二七日には北陸道でも若狭・越前諸藩宛に北陸道鎮撫総督から布告されている。そのほかの年貢半減令の例としては、「年貢半減令」関係史料表(甲第 二二〇号証)記載のとおり、全部で一六例を数えることができる。半減の対象も、旧幕府領のみにとどまるものではなく、「復古記」によれば、山陽道三藩に出 された年貢半減令では幕府領とともに「其他賊徒之所領等」とあり、朝廷に刃向かう藩すなわち朝敵藩の領知分にも半減令を実施せよとされており、また、当年 の年貢のみにとどまるものではなく、「赤報記」、「復古記」によれば、赤報隊及び山陽道三藩に対するものには「昨年未納之分モ可為同様、来巳年以後之処 ハ、御取調之上御沙汰可被為在候」とあり、昨年未納の分についても年貢半減を実施することとされていた。 また、「復古記」によれば、一月一四 日の山陽道三藩宛の年貢半減の布告にもかかわらず、一月二七日の朝廷の三道鎮撫使及び関西諸藩に対する命令では年貢 半減については触れておらず、疑問に思った岡山藩の伺いに対して「御取消相成候旨御口達有之」として年貢半減令が取消になったことが明らかにされ、また、 一月二七日の若狭・越前諸藩宛の年貢半減令にもかかわらず、三月五日の北陸道総督府の加賀・越前・越後諸藩への達書では年貢半減について触れていない。右 のとおり正式な取消の形をとらずに年貢半減令の取消がなされていった。 もっとも、前掲「明治維新草莽運動史」には、具体的には、山陽道三審宛の 年貢半減令布告の例が挙げられているにとどまる。 (3)高木教授の見解以外の学界の状況をみると、以下のとおりである(なお著者の肩書中には、 以 前のものも含む。)。 北大教授田中彰は、「日本の歴史24明治維新」(小学館、昭和五一年、甲第二一八号証、乙第九〇号証)において、赤報隊 につ いては「作家長谷川伸著『相 楽総三とその同志』 (昭和一八年刊)が有名だが、最近では新進の維新史研究者高木俊輔著『維新史の再発掘』 (昭 和四五年刊)、同『明治維新新草莽運動史』(昭和四九年刊)が、たんねんな名簿づくりや志士群象の追跡によって、これをうかびあがらせている。」とし て高木説に高い評価を与えるとともに、「一月一二日、相楽らは年貢半減の建白を新政府首脳に提出、これをいれて新政府は、この日ただちに旧幕領への年貢半 減令(前年の未納分も同様)を発した。そして、赤報隊には東海道鎮撫使の指揮をうけることを命じたのである。(中略)だが、こられの隊の背後には、謀略の 黒い影がせまっていた。謀略とは何か。相楽らに『偽官軍』のレッテルをはることである。というのも、新政府は一月下旬、年貢半減令を取消していたのだ。財 政的にゆるされるはずもないこの半減令を、諸藩からの伺いに対し口頭で取消していたのである。これでは、相楽らがそれを知るよしもない。彼らが半減令で民 心をひきつけてすすめばすすむほど、相楽隊は総督府の統制にしたがわない『強盗無頼之党』で、不当に武器をたくわえた『偽官軍』だとされたのである。新政 府にとっては、年貢半減令をふりかざす彼らが、『世直し』の潮流をいちだんとはげしく、それとむすびつくかもしれない、という危惧があったからだ。」とし ている(なお、既に同人著「体系・日本歴史5明治国家」(日本評論社、昭和四二年、甲第二二九号証)にも、簡潔ながら相楽総三と赤報隊の顛末につき同趣旨 の記述がある。)。 名城大学教授原口清は、「戊辰戦争」(塙書房、昭和三八年、甲第二二六号証、乙第八九号証)において、「政府は、旧幕領の年 貢半減(戊辰半減、昨年未納 分も同様)を赤報隊に申し渡した。」「年貢半減令は、一月一二日に布告されているが、同一四日、政府が長門・安芸・備前三藩に山陽道三諸藩の向背を問わ せ、旧幕領の調査を命じたときには、まだ年貢半減をうたっていた(『復古記』〈第一冊〉五五七頁)。ところが同月二七日、三道鎮撫使および関西諸藩に命 じ、旧幕領の土地台帳を提出させたときには、年貢半減については一言もふれていない。これに対する諸藩からの伺に対しては、口頭で、年貢半減令は取消しに なった旨を答えている(章政家記〈同上〉七四六頁)。つまり正月下旬から年貢半減令は取消しになったのだが、取消しの公然たる布告はなかったのである。北 陸道総督の、正月二七日の若狭・越前諸藩宛達書の中には、年貢半減令が含まれているが、これは連絡不便のため、取消しがまだ達しなかったせいであろう。と いうのも、三月五日に、同総督府の加賀・越中・越後諸藩に対する達書は、年貢半減令はとりのぞかれているからである。しかし、奥羽・北陸地方で戦況が困難 をきわめると、政府軍は年貢半減の布達をしばしば行なっている。たとえば、六月に北陸道副総督四条隆平は在越の会津・桑名領の年貢半減を布達し、平潟口で も八月に田租の全免あるいは半減令を下し、越後口でも八月に全免令をだしている。」としている。また、原口教授は、「日本近代国家の形成」(岩波書店、昭 和四三年、甲第二二七号証)においても、「草莽隊は、総督府の指揮下に従順に行動したものは僅少の酬いを得たが、独自性が強くて積極的に活動し、年貢半減 令のように新政府が当初にはかかげ、のちには否定したものを依然として宣伝するなど、新政府・総督府の方針と対立したものは、多くの無実の罪状をつくりあ げられ弾圧された。」としている。 また、横浜市立大学教授遠山茂樹は、「国民の歴史19明治維新」(文英堂、昭和四四年、甲第二八号証)におい て、「王政復古成立当初の京都政府が、『旧 弊御一洗』『百事御一新』『万民の塗炭の苦を救わん』と布告し、軍隊進撃の沿道に、年来の苛政に苦んでいるものは遠慮なく本陣に訴え出よと令し、幕府領の 年貢半減を通達したことは、民心をひきつける上で、大きな効果をあげることとなった。(中略)京都政府は、軍事上から一月十二日年貢半減を命じたが、この 月の下旬には早くも財政難から半減をとりけさなければならなかった。(中略)京都政府は一揆の味方ではないという方針をあきらかにする必要があった。それ なのに勝手に年貢半減を布告し、困窮者には救助すると約束してまわる赤報隊の存在は迷惑であった。そこで、『偽官軍』の名で、抹消してしまったのであっ た。」としている。 更に、「幕末維新人名事典」(奈良本辰也監修、学藝書林、昭和五三年、乙第九二号証)の「相楽総三」の項(師岡担当部分)に おいては、「同日、租税軽減 を建白、容れられて幕府領の租税半減をゆるされ、通過の村村で実施。」とされている。 そして、本件検定当時までに 高 木教授らの前記見解を否定する学説が文献等に発表されたことはなかった。 (4)これに対し、昭和音楽大学教授勝部真長は、次のような見解を もって いる。 慶応四年正月ころの朝廷は流動的であって、はたして赤報隊が官軍として承認されたといえるか、また、朝廷が年貢半減令を正式な政策 として採 用したといえ るか疑問である。なるほど、「赤報記」は、赤報隊のことを知るには第一の文献であるが、著者が不明で原本も失われていること、太政官に於ては「坊城太納 言」より「勅諚書」を受けたとする部分があるものの、当時坊城大納言という人物は存在しないこと、「史談速記録第七八輯」(編集・史談会、明治三二年、乙 第一五〇号証)では、油川信近の談話として「議定・参与」より「御達書」を受けたとされており、赤報記の記述とは差異があることなどから、「赤報記」によ り直ちに勅諚があったといえるか疑問である。むしろ、年貢半減は、朝廷の全国的な政策ではなく、当時太政官参与であった西郷隆盛の個人的な軍略であったと 考えられる。また、相楽総三は、伊牟田尚平と益満休之助とともに薩摩藩の計略であった関東撹乱の実行者であったが、相楽総三が処刑されたのは、関東撹乱の 証拠隠滅をもくろんだ西郷隆盛の謀略によるものであって、年貢半減の取消に起因するものであるとはいえない。 しかしながら、同証人は、右見解 を、これまで発表したことはなく(したがって、学界での評価又は批判を受けたこともなく)、これをもって昭和五五年度検 定当時の学界の状況を構成する一見解とみることはできない。したがって、同証人の見解をもって、検定意見を基礎付けるものとはなし得ないといわざるを得な い。 (5)以上によれば、昭和五五年検定当時の学界の状況としては、朝廷が、相楽総三の建白を容れて年貢半減をその政策として採用し、相楽総三 らにその布告を 許しながら、後にこれを取消して相楽総三らを死刑に処したとする高木教授の説と同趣旨の見解を述べ、あるいはこれを支持するもの(右取消の理由はともかく として)があるのみで、高木説に反対しあるいはその根拠となる史料を批判する見解は現れていないことが認めらる。また、年貢半減令が出された事例が幾つか 報告され、かつその事例がかなり広い範囲に及んでいるということが学界の認識であったことは、被告においても認めるところである。 (三)右に認 定した事実に照らせば、基礎史料である「赤報記」の史料批判さえ行われておらず、基礎的事実の確定は今後の考察に待つという段階にあり、今日 明確に言えることは征東軍の先鋒隊と称して従軍した相楽総三の率いる赤報隊が旧幕府領については当年年貢を半減する旨の高札を掲げたというにとどまる、と いう検定理由は、いまだ学界に現れていない教科書調査官の個人的見解に根拠を有するにとどまり、昭和五五年度検定当時の学界においては右検定理由に沿う見 解は存しなかったというほかない。そして、本件検定意見は、原稿記述が検定基準に照らし正碓性に欠けるとする修正意見であり、修正意見に従った修正が加え られた結果、内閲本審査合格後の記述は、「徳川氏追討の軍には、人民のなかから草莽隊といわれる義勇軍も参加した。その一つである相楽総三らのひきいる赤 報隊は旧幕府領の当年の年貢半減などの方針を高札に掲げて人民の支持を求めたが、朝廷方は進軍途中の相楽らを『偽官軍』として死刑に処した。年貢半減は、 実行されず……」となったのであるが(内閲本審査合格後の記述については当事者間に争いがい。)、この記述では、赤報隊が官軍先鋒隊として認められたもの で、年貢半減の高札が朝廷の勅諚に基づくものであるとする昭和五五年度検定当時の学界の一般的な見解にかえって沿わない結果となっているといわざるを得な い。 右のとおり、本件検定理由が学界に現れていない教科書調査官の個人的見解に基づくにとどまり、検定当時の学界ではこれに沿う見解は表明され ていなかった こと、本件検定意見が修正意見であること、検定意見に付してこれに沿った修正を強制したことによりかえって検定当時の学界の一般的見解に反する記述をもた らすと結果となったことを合せ考えるときは、本件検定意見に合理的根拠があったとすることはできず、文部大臣が、検定基準の前記正確性(1)の観点から修 正意見を付したことは、学界の状況の誤認により事実の基礎を欠いたか又は学界の一般的状況や原稿記述の有する根拠など当然考慮すべき事項を考慮しなかった ものであって、社会通念上著しく妥当性を欠き、裁量権の範囲を超え又はこれを濫用したものといわざるをえないのである。 なるほど、検定理由が、 原稿記述に「朝廷の軍は年貢半減を示して……年貢半減を実行しなかった。」とあることから、朝廷が軍の全国的に年貢半減を実施す る方針を示したにもかかわらず、その方針を実行しなかったように読めるとする点については、かかる読み方自体があり得ないではないし、「維新史料綱要」の 綱文では「旧幕領本年租税ノ半ヲ免ゼシム。」とされている(「復古記」もこれと同旨)ことから、この範囲では検定意見にそれなりの根拠があったといえない ではないが、検定意見はこれにとどまるものではなく、赤報隊が官軍先鋒隊として認められ、年貢半減の高札が朝廷の勅諚に基づくものであるとする学界の一般 的見解に基づく記述部分に対してもこれを不正確とし、その修正を強制するものであり、この点に合理的根拠があるとはし得ない以上、文部大臣が検定意見を付 したことが裁量権の範囲を超えたものであるとの結論を左右するものではない。 ちなみに、〈証拠〉によれば、昭和六一年度検定においては、前記 「新日本史」の本件原稿記述と同じ箇所につき、「徳川氏追討の軍には、人民のなかから草 莽隊といわれる義勇軍も参加した。その一つである相楽総三らのひきいる赤報隊は旧幕府領の当年の年貢半減などの方針を高札をかかげて人民の支持を求めた。 朝廷方は、赤報隊の措置を許したほかにも、長門・安芸・備前3藩にも同じ方針を示した。しかし、いずれも取り消され、進軍途中の相楽らは『偽官軍』として 処刑された。」との改訂申請に係る記述が合格本として採用されていることが認められるところ、右記述は、相楽の率いる赤報隊が、旧幕府領については当年年 貢を半減する旨の高札を掲げたということを表すにとどまらず、赤報隊が少なくとも右措置につき朝廷方から許可を得ていたことを前提にしているものとみるほ かなく、文部大臣は、時点が異なるとはいえ、同じ問題について本件検定意見を後に重要な点で変更したものというべきであろう。 3 南京事件に関 する記述について (一)〈証拠〉によると、本件原稿の脚注「南京占領直後、日本軍は多数の中国軍を殺害した。南京大虐殺アトロシティーとよばれ る。」との記述に対し、文部 大臣は、右記述は南京事件が南京占領直後に軍の命令により日本軍が組織的に行った殺害行為であるかのように読み取れるが、南京事件についての研究の現状か らみて、「南京占領直後」という発生時期の点及び「軍の命令により日本軍が組織的に行った」という態様の点において、いずれもこのように断定することはで きないので、検定基準に照らし、必要条件である第1 [教科用図書の内容の記述]1(正確性)「(1)本文、資料、さし絵、注、地図、図、表など に誤りや不正確なところはないこと。」及び「(3)一面的な見 解だけを十分な配慮なく取り上げていたり、未確定な時事的事象について断定的に記述していたりするところはないこと。」に欠けるとして修正意見を付したこ とが認められる。 原告は、時野谷滋教科書調査官が理由告知の際に告知した理由においては、本件原稿記述が軍の命令によって行われたものであると 読み取れるということは問 題とされていなかったにもかかわらず、本件訴訟において、被告は検定理由の主張を変更したものであると主張する。なるほど、前掲第一二号証によれば、時野 谷滋教科書調査官が理由告知の際には軍の命令によって行われたものであると読み取れることとを指摘していないことが認められるが、証人時谷滋の証言及び弁 論の全趣旨によれば、「軍の命令によって行われたと読み取れる」という主張は、「日本軍が組織的に行ったものと読み取れる」という趣旨をふえんしたもので あることが認められるから、被告が検定理由についての主張を変更したものとはいうことはできない。 なお、検定意見が、南京事件そのものの存在を 否定する趣旨ではないことは、教科書調査官が理由告知の際に「南京占領の混乱の中で多数の中国軍民が犠牲に なった」ことは事実であることを認めていることから明らかである。 (二)〈証拠〉を総合すると、次の事実を認めることができる。 (1)一 橋大学教授藤原彰は、その研究に基づき、南京大虐殺は軍上層部の命令による日本軍の組織的犯行であり、混乱の中で起きたものではないとの見解を有 しているが、その見解の詳細と根拠は、以下のとおりである。 1 南京大虐殺は日本軍の組織的犯行であることについて 昭和五五年度検定当時 においても、極東国際軍事裁判の記録、後に(3)に挙げる洞富雄の著作及び洞富雄編「日中戦争史資料」、防衛庁防衛研修所戦史室編 「戦史叢書(支那事変陸軍作戦)」、当事者の体験記などから、南京大虐殺が日本軍の組織的行為であったということができる。 日中戦争開始直後の昭 和一二年八月五日、陸軍次官は、支那駐屯軍参謀長宛に陸支密一九八号「交戦法規ノ適用ニ関スル件」を通牒し、「現下ノ情勢ニ於テ帝 国ハ対支全面戦争ヲ為シアラザルヲ以テ『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約』ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラ ズ」とし、国際法に拘泥することなく行動せよといい、さらに「日支全面戦ヲ相手側ニ先ンジテ決心セリト見ラルル如キ言動(例ヘバ戦利品、俘虜等ノ名称ノ使 用)」などは避けるよう指示しているのであるが、国際法に拘泥せず、さらに俘虜の名称を使うなということは、捕虜を作るな、捕虜は処分せよという通牒とし て理解されたであろう。また、極東国際軍事裁判の法廷で武藤章は、「中国ノ戦争ハ公ニ『事変』トシテ知ラレテヰマスノデ、中国人ノ捕ヘラレタ者ハ俘虜トシ テ取扱ハナイトイフ事ガ決定サレマシタ」と証言している(「極東国際軍事裁判速記録」第四四号・昭和二一年八月八日証言)。このように軍中央部の方針は 「捕虜にはしない」と理解された。 佐々木到一少将の指揮する第一六師団歩兵第三〇旅団は、「旅団は本一四日南京北部城内及城外を徹底的に掃蕩せ んとす」とし、更に「各隊は師団の指示ある 迄俘虜を受付くるを許さず」(歩兵第三八聯隊の「昭和一二年一二月一四日南京城内戦闘詳報第一二号」)とする旅団命令を出している。それにもかかわらずこ の戦闘詳報第一二号の付表には、「俘虜(将校七〇、下士官兵七一三〇)」とあり、多くの捕虜を抱え込んだ事実を示している。また、同じ、佐々木旅団長指揮 下の歩兵第三三聯隊の「南京付近戦闘詳報」では、「自昭和一二年一二月一〇日至昭和一二年一二月一四日歩兵第三三聯隊鹵獲表」に「俘虜将校一四、准士官下 士官兵三〇八二」と記し、「俘虜は処断す」と記している。また「敵の遺棄死体(概数)」の項では、「一二月一〇日二二〇、一一日三七〇、一二日七四〇、一 三日五五〇〇、以上四日計六八三〇」とし、「備考、一二月一三日の分は処決せし敗残兵を含む」とある。これらの記述は旅団命令として捕虜を受け付けず、捕 虜が出た場合は「処断」すなわち集団虐殺したことを示している。 右のとおり、捕虜の集団虐殺は、捕虜を捕虜として扱わないという軍中央部の指示 や、捕虜を作るなという軍の命令によって行われたものであって、軍の正規 の命令系統の下で組織的に行われたものである。 次に、南京攻略は、日 本 軍による典型的な包囲殲滅戦であり、戦闘の帰趨は日本軍の完全な勝利に決定していたにもかかわらず、日本軍は、現場で投降を勧告 することもほとんどないままに、無力の敗残兵も追撃し、その大多数を殺害した。これは、戦闘行動の名に値しない一方的で非人道的な殺戮であった。同時に、 敗走する中国軍将兵とともに多数の中国人難民も日本軍の掃射の対象となった。また、南京占領時に「便衣兵」として連行され殺害された中国将校は、戦闘意識 を完全に消失し、武器と軍服を捨てて便衣を身につけて難民区に潜伏した者であるから、便衣兵狩りも正規の戦闘行為とはいえない。更に、日本軍による便衣兵 の認定は、極めて主観的なもので、多数の一般市民が「便衣兵」と誤認され処刑された。右の敗残兵殲滅及び「便衣兵」狩りは、南京城内掃蕩という任務として 軍の基本的組織も維持したまま行われたのである。 そのほか、南京城内に突入した日本軍が、各所で不必要な放火、大規模な略奪、強姦を繰り返した ばかりでなく、確たる理由もなく一般市民を虐殺しているこ とは、「ニューヨーク・タイムズ」紙南京特派員F・テイルマン・ダーディンの報道(甲第二四三号証)、エドガー・スノー著「アジアの戦争」、極東国際軍事 裁判の記録等から明らかである。もっとも、日本軍が組織的に一般市民を殺害せよとの命令を出したわけではないが、市民に対する殺害が起こったのは、敗残兵 狩りないし徴発という軍隊の単位としての行動中のことであり、軍幹部はこれを取締ることなく放置していたのであるから、日本軍の組織的行為であると考えて 差し支えない。 2 南京大虐殺が混乱の中の出来事ではないことについて 日本軍が南京を占領した昭和一二年一二月一三日には、中国軍の組 織的抵抗は、基本的には終わっていた。したがって、占領が混乱の中で行われることはな く、同月一七日の入城式も何の混乱もなく実施できた。それにもかかわらず、捕虜の虐殺、「便衣兵狩り」などの蛮行は、昭和一三年一月末まで続けられてい る。この事実は、南京での蛮行が「混乱の中」で起きたものではないことを示している。 以上のほか、藤原教授は、「証言による南京戦史(最終 回)」(「偕行)昭和六〇年三月号所収、甲第二五一号証)、「南京攻略戦『中国第十六師団長日 記』」(「増刊歴史と人物」所収、中央公論社、昭和五九年、甲第二三七号証)を日本軍の組織的犯行と判断される根拠として挙げるが、これらはいずれも、本 件検定以後に出版されたものであるから、昭和五五年度検定当時の学界の状況を構成するものとして考慮し得ない。 (2)これに対し、戦史研究家児 島襄は、昭和五五年度検定当時の南京事件に関する研究状況からみて、南京占領下の軍政として中国の軍人と民間人を殺害する という方針が確立し、これに基づいて軍の命令による殺害が組織的に行われたと断定することはできなかったと判断している。その見解の詳細と根拠は、以下の とおりである。 南京事件に直接関係する史料は非常に少なく、戦闘に関するもの以外としては、国民党の首都地方法院首席検察官陳光廣の報告書、南 京安全区国際委員会の記 録が中心であり、日本側のものとしては、戦闘詳報、戦陣日誌がある。 戦闘詳報の中には、「午後二時零分、聯隊長ヨリ左 ノ 命令ヲ受ク。左記 イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ。其ノ方法ハ十数名ヲ捕虜シ逐次銃殺シテハ 如何。」というものが残されているが、この戦闘詳報の部隊名は不明であり、記述の中にある旅団名もわからない。したがって、命令自体が、旅団の独断命令で あるのか、それとも、上級の師団、軍、方面軍からの下令であったのかも、判然としない。もっとも、第一三師団第一〇三旅団長山田少将が、師団司令部及び上 海派遣軍司令部に問い合わせて、「始末せよ」との指示を受けていることからすると、前記戦闘詳報が伝える捕虜刺殺の旅団命令も、更に上級司令部からの下令 であり、また、広範囲に下達されたものとみられる。しかし、実際に、その命令が確実に実行され組織的に行われたかについては、疑問があるし、具体的な命令 の内容が「殺せ」ということだったのか、それとも「処分せよ」という命令(「処分」には「釈放」も含む。)を「殺せ」と解釈して実行したのかは、資料が不 足していて不明である。 また、陳光廣の前記報告書は、被虐殺者総数を三九万一七八五人としているが、他方、南京安全区国際委員会の前記報告が記 録する日本軍の暴状は、ほとんど が強姦と略奪に関するものであり、昭一二年一二月一二日から同月一八日までの間に、委員会が耳にした日本軍によって殺された中国人の数は僅かであったとさ れ、陳光廣の報告書に適合するような記録は、南京安全区国際委員会の報告の中には見出することができない。 中支那方面軍司令官松井石根大将は、 昭和一二年一二月九日、南京攻略の下令につけ加えて友軍相撃、外国権益の損壊、掠奪、放火又は失火などの不祥事の発 生を防止するよう厳重な注意をしており、また、後に日本将兵の不祥事を聞知し泣いて将兵を叱責するとともに、遺憾の意を表明したのであり、捕虜殺害の命令 は右の注意等と矛盾するものであって、中支那方面軍司令官の命令があったとは考えられない。また、第十軍司令官柳川平助中将も、同年一一月一七日、婦女暴 行、金品強奪の犯行は,皇軍の威武をけがすものであるとして、「隷下将兵克ク自省自戒シ、軍紀厳正益々士気ヲ振起シ、各々其ノ任務ニ邁進スベシ」との訓示 を下達していることからも、同様に考えられる。 以上のとおり、昭和五五年度検定当時において、南京事件の正確な実態を客観的資料で明らかにする ことは困難であって、捕虜を虐殺するという方針が日本軍 において確定し、組織的に行われたと断定することはできなかった。 また、南京攻略に 至 る戦闘は、中国側の軍民合わせた強い戦意と抵抗に遭い、日本軍にとって苦戦の連続であり、当時の日本軍各部隊は、いずれも敵愾心と恐 怖心にをこわばらせれていた。他方、中国軍側は、南京を放棄して更に奥地で戦いを続けるが、南京でもできるだけ抵抗を続けることとする方針を採っており、 蒋介石に続き首都衛戊司令官唐生智が昭和一二年一二月一二日に首都放棄命令を発して南京から脱出すると、南京市内は無政府状態となり、中国軍は指揮命令系 統を失い、あるものは「便衣」に着替えたり、またあるものは武器を捨てて脱出しようとしたが、このような敗残兵や避難民の流出入に伴う騒乱状態などによっ て極度の混乱状態に陥った。このような混乱状態の中で、掃蕩戦の段階などで、一部の日本兵が民間人を殺害したことは事実であるが、昭和五五年度検定当時、 その実態が正確に把握されていたとはいい難く、日本軍が組織として民間人に襲い掛かったと断定する史料は存在しなかった。 更に、敗残兵による抵 抗が続いていたために、南京城内の安全確保のため、掃蕩戦も長期に及び徹底的に行わなければならなかったが、敗残兵及び便衣兵は、 投降兵と区別すべきで、決して無抵抗であったものではなく、むしろ戦意旺盛であったと記録されており、したがって、敗残兵及び便衣兵に対し全くの無抵抗の 状況で一方的に殺害行為が行われたものではない。 (3)昭和五五年度検定までの学界の状況についてみると、藤原教授は、極東国際軍事裁判におい て事件の全貌がはじめて明らかにされ、エドガー・スノー著 「アジアの戦争」、歴史学研究会「太平洋戦争史(昭和二九年)、洞富雄著「近代戦史の謎(昭和四二年)、家永三郎著「太平洋戦争」(岩波書店、昭和四三 年、甲第二四五号証の一)などの著作が南京事件に触れていたところ、本多勝一著「中国の旅」(朝日新聞社、昭和四七年、甲第二三一号証)、洞富雄著「南京 事件」(昭和四七年、後記「決定版南京大虐殺」に収載)、洞富雄編「日中戦争史料8南京事件1」「日中戦争史資料9 南京事件2」(河出書房新社、昭和四 八年)、洞富雄著「まぼろし化工作批判・南京大虐殺」(昭和五一年、後記「決定版南京大虐殺」に収載)などの著作により南京事件の研究が大きく進んだとし ている。他方、洞、本多らの研究に対し、否定的な見解を示すものとしては、鈴木明著「『南京大虐殺』のまぼろし」(文芸春秋社、昭和四八年)、山本七平著 「私の中の日本軍」(文芸春秋社、昭和五〇年)があった。 なお、藤原教授は、昭和五七年以降南京大虐殺に関する研究が急速に進んだとして、洞富 雄著「決定版南京大虐殺」(徳間書店、昭和五七年、甲第二四四号 証)、本多勝一著「南京への道」(「朝日ジャーナル」所収、昭和五九年、甲第二三二号証)、藤原彰著「南京大虐殺」(岩波書店、昭和六〇年、甲第二五〇号 証)、吉田裕著「天皇の軍隊と南京事件」(青木書店、昭和六一年、甲第二四六号証)、洞富雄著「南京大虐殺の証明」(朝日新聞社、昭和六一年、甲第二四七 号証)、秦郁彦著「南京事件ー『虐殺』の構造」(中央公論社、昭和六一年、甲第二四八号証)、洞富雄著ほか「南京事件を考える」(大月書店、昭和六二年、 甲第二四九号証)を挙げるが、これらはいずれも昭和五五年以降に出版されたものであるから、本件検定当時の学界を構成するものとしては考慮し得ないこと は、さきに(1)に判示したとおりである(但し、昭和五五年度検定当時に発表されていた論稿を収載した部分を除く。)。 (三)本件原稿記述が、 「日本軍は首都南京その他の主要都市や主要鉄道沿線などを占領し〔4〕、中国全土に戦線をひろげたが、」という記述の脚注〔4〕と して付されたものであることにかんがみれば、本件原稿記述が、南京占領直後に日本軍が組織的に中国軍民を殺害したように読める、との検定理由にも合理的根 拠があるといわざるを得ない。 他方、昭和五五年度検定当時の学界の状況をみると、前記(二)認定の事実にかんがみれば、当時、日本軍が軍の命令 によって組織的に中国軍捕虜や民間人を 虐殺したものであるとする見解も既に有力に主張されており、これに沿う史料も現われきていたということができ、右事実に照らせば、原告の本件記述には相当 の理由があるというべきである。したがって、このように相当の根拠をもってなされている原稿記述に対し。修正意見を付することについては、その妥当性につ いて批判の余地のあるところであろう。しかしながら、当時、中国軍民を殺害したことが、日本軍の組織的犯行であると断定することには慎重な見解も少なから ずあったこと(これら両説の優劣については、当裁判所のよく判断し得るところではない。)、文部大臣の検定意見も、日本兵によって残虐行為が行われたこと を否定するものではなく、それが日本軍の命令によって行われた組織的行為であった点について昭和五五年当時にあらわれた史料に基づいてはこのように断定す ることができないとする趣旨であったことにかんがみれば、文部大臣が検定基準の前記正確性(1)及び(3)の観点から修正意見を付したことをもって直ちに 合理的根拠を欠き社会通念上著しく不当なものであったとすることはできない。 (四)ところで、原告は、本件原稿記述は、昭和五一年の申請に係る 改訂検定(以下「昭和五一年度検定」という。)の際に問題とされることなく合格したもの であり、更に、昭和五八年度の改訂検定の際には「日本軍は……殺害し……」という同様の記述は、そのまま合格しているのであるから、本件検定意見は、一貫 性を欠く恣意的なものであり、検定権限を濫用するもので違法である旨主張する。 〈証拠〉によると、昭和五五年度検定(新規検定)における本件原 稿記述は、昭和五一年度検定(改訂検定)の際に新たに書き加えられた記述であるが、同検定 においては改善意見も付されることなく原稿記述がそのまま合格したにもかかわらず、昭和五五年度検定においては、さきに(一)に認定したとおりの理由によ る修正意見が付されたこと、昭和五八年度検定は、昭和五五年度検定の合格本の記述、すなわち、「日本軍は、中国軍のはげしい抗戦を撃破しつつ激昂裏に南京 を占領し、多数の中国軍民を殺害した。」との記述を、「日本軍の南京占領のさい、多数の中国軍民を殺害し、日本軍将兵のなかには中国婦人をはずかしめたり するものが少なくなかった。」との記述に書き換えようとしてした改訂申請についてのものであるが、昭和五八年度検定(改訂検定)においては、後記四 2(一)のとおり、右原稿本の記述のうち、「日本軍将兵の……少なくなかった」の箇所についてのみ修正意見が付され、「日本軍は、……殺害し」の記述には 何らの検定意見も付されず、結局、「日本軍は南京占領のさい、多数の中国軍民を殺害し、日本軍将兵のなかには暴行や略奪などをおこなうものが少なくなかっ た。」との記述が合格本として採用されたこと、右の三回の検定は、いずれも同一の教科書調査官の担当であったことが認められ、日本軍による中国軍民殺害の 記述につき、右各検定は、その対応において首尾一貫していないと受け取られる面のあることは否定できない。 しかしながら、本件原稿記述について の昭和五五年度検定は、右の他の二度の検定がいずれも改訂検定であるのに対し、新学習指導要領の施行を前提としたい わゆる新規検定であって、従来の教科書記述を根本的かつ全面的に見直したものに対してされたもので、より慎重にされるべき性質のものであり、したがって、 さきに第二、五2において判示したとおり、その審査の方法も、いわゆる白表紙本によって行われるもので、審査の公正が担保される仕組になっており、改訂検 定の場合と異なること、現に昭和五五年度検定の際には、昭和五一年度検定のときに比し、本件原稿記述に係る問題についての調査も一層進展していたこと、さ きに(三)において判示したとおり、本件修正意見は、その理由自体に合理性があること、昭和五八年度検定の原稿記述(その合格本の記述も同じ。)において は、日本軍による中国軍民の殺害は南京占領の「さい、」されたものであるとされているのに対して、本件原稿記述においては、それは南京占領「直後」にされ たものとなっていほか、前者においては、日本軍による中国軍民殺害の事実とともにそれ以外の事実の記載があるのに対して、後者においては、右殺害の事実の みが記載されていて、本件原稿記述は全体として、右殺害についての日本軍による組織行為的性格がより強調して印象付けられる体裁になっており、両者は必ず しも同一の記述とはいえないこと、さきに第一、三2(三)において判示したとおり、昭和五八年度検定に先立つ昭和五七年に、社会科の検定基準の必要条件と して、「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること。」との基準が新たに追加され、検 定制度を取り巻く事情に変化がみられたこと、昭和五八年度検定においては、前記第一、三2(三)のような事情の下で昭和五五年度検定の場合のように例えば 「混乱の中で」との語句の挿入を求めることが中国軍民の殺害を正当化するような誤解を生ずる虞もあったため、そのような意見を付することは止めたことの各 事実が認められ、これらの点を総合勘案すると、文部大臣が、昭和五一年度及び昭和五八年度の各検定の場合には検定意見を付さなかったにもかかわらず、本件 検定においては、右二度の検定の場合と同一かほぼ同一内容の本件原稿記述に対して修正意見を付したとしても、これをもって、直ちに、一貫性に欠ける恣意的 な行政行為として、裁量の範囲を超え又はこれを濫用した違法なものと断ずることはできない。 四 昭和五八年度検定における裁量権濫用の違法 1 朝鮮人民の反日抵抗に関する記述について (一)〈証拠〉によると、昭和五五年度検定済教科書の「一八九四(明治二七)年、朝鮮に東学党の乱が お こると両国は出兵したが、乱鎮定後の内政をめぐって 両国の関係はさらに悪化し、同年八月ついに日清戦争がはじまった。その翌年にわたる戦いで、日本軍の勝利がつづいた。」という記述を、「一八九四(明治二 七)年、ついに日清戦争がはじまった。その翌年にわたる戦いで、日本軍の勝利がつづいたため、戦場となった朝鮮では人民の反日抵抗がたびたびおこってい る。」と書き換えようとする改訂検定申請に対し、文部大臣は、右記述のうち、「朝鮮では人民の反日抵抗がたびたびおこっている。」という箇所は何を指して いるのか明らかでない、もし、「反日抵抗」がいわゆる東学の乱の再挙について述べたものではないとするならば、著者のいう「反日抵抗」がたびたび起こった ということは、高度な学術的研究の成果に基づくものであるとしても、まだ学界に紹介されていない一説といわざるを得ないので、高校教師にとっても理解困難 であり、授業に利用し得る事柄ではないし、もし、右の「反日抵抗」が東学の乱の再挙について述べたものであるとするならば、いわゆる東学の乱の初発を記述 しないで再挙のみを記述するのは生徒に混乱を与える結果となるというものであり、検定基準に照らし、必要条件である第1〔教科書図書の内容とその扱い〕 3(選択・扱い)の「(1)本文、問題、資料などの選択及び扱いには、学習指導を進める上に支障を生ずるおそれのあるところなどの不適切なところはないこ と。」に欠けるとして修正意見を付したことは認められる。 なお、原告は、本件検定意見は、日清戦争の侵略戦争としての側面を教科書に反映させた くないとの意図から出たものであり、修正意見に従った修正を加えた ことにより、朝鮮人民が反日抵抗に立ち上がったという歴史的事実が歪められたと主張するが、検定意見が、朝鮮人民の反日抵抗の事実を否定する趣旨ではな く、また、朝鮮人民の反日抵抗についての記述の削除を求めるものではないことは、前掲甲第一七号証から明らかに認められ、右主張は失当である。 (二) 〈証拠〉を総合すると、次の事実を認めることができる。 (1)奈良女子大学教授中塚明は、その研究に基づき、「日清戦争の研究」(青木書店、昭 和 四三年、甲第一八五号証、乙第五五号証)を著したが、その中で、 「朝鮮人民は、このように日本軍にたいする非協力という消極的な抵抗を試みただけではない。さらに武器をとって積極的に日本軍に反抗した。甲午農民戦争の 秋の蜂起がそれである。……東学の指導者たちのあいだには、暴力を拒否し、武装蜂起に反対する者もあって、農民軍の再挙を妨げたが、しかし農民のあいだの 反日の気運はおさえられるものではなかった。一八九四年の秋にはいると、公然たる抗日武装闘争が各地にひろまり、伝統的に農民反乱の激化地帯であった慶 尚・全羅・忠清の三南地方はもとより、京畿・江原・黄海・平安の各道でも、日本軍があいついで朝鮮農民に襲撃されるという事態がおこった。そして日本軍は その鎮圧のため軍事行動を余儀なくさせられるようになった。「全★準を指揮者とする農民軍の主力は、公州を攻撃したが、日本軍のはげしい反撃にあって敗北 し、農民軍は混乱して各地に分散してしまった。しかし、もともとこの甲午農民戦争の秋の蜂起は、東学の教門によって統一的に指導されていたというよりも、 地域別に各地の指導者にひきいられておこったものであった。」「この甲午農民戦争の秋の蜂起(九月起包といわれる)は、明らかにこの年の春の農民蜂起をふ くめての、従来のそれとは性質を異にしていた。この年の春の蜂起は李朝末期の紊乱と封建的支配者の苛酷な搾取にたいする反乱であったのにたいし、この秋の 再蜂起は、明らかに日本の軍事的な侵略に反対することが主な動機となっていた。」とし、また、「万有百科大事典6」(小学館、昭和四九年、甲第一八八号 証)の「日清戦争」及び「東学党の乱」の項においても同旨を述べ、甲午農民戦争の秋の蜂起(第二次農民戦争)においては、従来東学党の乱の再挙と呼ばれて きた全★準の指導による蜂起以外に各地で起こされた農民らの反日抵抗が重要であったこと、甲午農民戦争の春の蜂起と秋の蜂起とではその性格を異にし、春の 蜂起が主に朝鮮の封建支配階級に向けられたものであったのに対し、秋の蜂起は、日本の侵略にする朝鮮人民の民族解放闘争という性格を有していたことを明ら かにした。 また、中塚教授は、朝鮮人民の反日抵抗を教科書に記述する教育的意義について、日清戦争を日本の近代化という側面からだけ教えるので はなく、それが一方 で朝鮮に対する侵略戦争であったことを教えることが必要であり、日清戦争をこのような歴史的位置付けのもとに考察しようとすれば、日本への従属の深まりに 対して朝鮮人民の動向がどうであったかを生徒に考えさせることが近隣諸国に対する国際的な理解を進める上でも重要であるとしている。 (2)中塚 教授の見解に対する学界の状況 前掲「日清戦争の研究」は、「日本史研究」第九九号(日本史研究会、昭和四三年、甲第一九四号証)において京都大 学 人文学研究所助手(現京都府立大学助 教授)井口和起から、「史林」第五一巻第四号(史学研究会、昭和四三年、甲第一九六号証)において現花園大学教授姜在彦からそれぞれ高い評価を受けてお り、朝鮮史研究会編「新朝鮮史入門」(龍渓書舎、昭和五六年、甲第一九三号証)、中村道雄外編「世界史のための文献案内」(山川出版社、昭和五七年、甲第 一九四号証)、「日本の歴史26 日清・日露付録『月報26』」(小学館、昭和五一年、甲第二〇一号証)においても、日清戦争に関する基本的文献の一つと して掲げられている。 また、上智大学教授藤村道生は、「日清戦争」(岩波書店、昭和四八年、甲第一九〇号証、乙第五七号証)において、姜教授 は、「甲午農民戦争」(岩波書 店、岩波講座「世界歴史22」所収、昭和四四年、甲第一八七号証)において、日清戦争及び甲午農民戦争の性格について、中塚教授と同様の見解を明らかにし ている。 更に、都留文科大学講師(現熊本商科大学教授)朴宗根は、その後、日清戦争中の朝鮮人民の動向を詳細に研究し、「日清戦争と朝鮮」(青 木書店、昭和五七 年一二月、甲第一八六号証、乙第六九号証)を著したが、同書において、日清戦争開始後の朝鮮人民の反日抵抗を大別して、第二次農民戦争以前の散発的な抵抗 運動ないしは義兵運動、第二次農民戦争、第二次農民戦争後の反日抵抗のそれぞれに分け、第二次農民戦争(甲午農民戦争の秋の蜂起)以外にも多様な反日抵抗 が存在したことを明らかにしている。右の「日清戦争と朝鮮」は、「日本史研究」第二五一号(日本史研究会、昭和五八年七月、甲第一九七号証)に中塚教授か ら高い評価を受けている(なお、同書は、その後、「専修人文論集」第三二号(専修大学学会、昭和五九年、甲第一九八号証)において専修大学教授矢澤康祐か ら、「歴史評論」第四一〇号(昭和五九年、甲第一九九号証)において趙景達からそれぞれ高い評価を受けたが、いずれも本件検定後のものであるから、考慮し 得ない。)。もっとも、朴教授自身、右「日清戦争と朝鮮」において「この九四、九五年の反日蜂起のなかで、従来は全★準らの第二次農民戦争を高く評価する あまりに、京釜、京義路と、江原道、普州、左水営地方の蜂起がなおざりにされてきたきらいがある(史料的制約にもよるが)。全★準らの闘争を高く評価する ことについて異論はないが、私は、それ以外の広範な地域における多様な形態で展開された蜂起を見なおす必要があると考えている。」と述べ、第二次農民戦争 (甲午農民戦争の秋の蜂起)が反日抵抗の中心であることを指摘するとともに、その以外の反日抵抗については昭和五七年頃の学界においても研究が十分でな かったことを指摘している。 ところで、甲午農民戦争は、東学教徒ではない貧民たちがむしろ主力となっており、単なる宗教的な反乱ではなく、反封 建的・反侵略的民族的性格を持つもの であるから、「東学党の乱」という呼称自体適切ではないし、また、全★準を指導者とする蜂起を東学党の乱と呼ぶとしても、甲午農民戦争の秋の蜂起(第二次 農民戦争)には、従来東学党の乱の再挙と呼ばれた全★準の指導者とする蜂起以外に各地での農民らの反日抵抗があったこと、これらを含めて東学党の乱の再挙 と総称するときは、これを単なる宗教戦争と誤解させ、日本の侵略に対する朝鮮人民の民族解放闘争という秋の蜂起の性格を見失わせる可能性もあることから、 「東学党の乱」の再挙と「甲午農民戦争」の秋の蜂起(第二次農民戦争)とは区別すべきであるというのが中塚教授の見解である。しかしながら、昭和五八年度 検定当時において、「甲午農民戦争」と「東学党の乱」を厳密に区別する見解が一般的であったということはできず、両者を区別せずに「東学党の乱」と表記さ れることも少なくなかった。すなわち、中塚教授自身、前掲「万有百科大事典6」において、「甲午農民戦争(東学党の乱)」と記述し、この点につき、「いき なり甲午農民戦争と書いても一般の読者が分らないということを慮ってこういう表記をした」と証言しているし、従来、日本では一般的に「東学党の乱」という 呼称が用いられてきたとしている。また、姜教授も、前掲「甲午農民戦争」おいて「従来日本では、この農民戦争を『東学の乱』または『東学匪乱』と呼びなら わされてきており、今もおおくの場合それが踏襲されてきている。」としている。藤村教授も、「日本外交史辞典」(外務省外交史料館、昭和五四年、乙第六一 号証)の「日清戦争」の項において、「民間宗教の一派東学は、地域的に分散した農民の不満を結合し、九四年春、朝鮮南部を中心に大規模な反乱を起こした (東学党の乱または甲午農民戦争)。」として両者を必ずしも区別しない記述をしている。更に、原告も、昭和五五年度検定申請の教科用図書原稿本においては 「東学党の乱」について記載し、これと区別された農民戦争について記載をしていない。 (3)元皇学館大学教授坂本夏男は、その証言において、東 学党の乱の初発と再挙との間には、清国及び日本の兵を退去させることを前提に全州和約が締結さ れ、また、農繁期に入って農民軍が帰郷したため、両者の間に三、四か月の空白があるが、東学党の乱の再挙は、初発において東学の組織を利用して農民軍が組 織化されていたことが重要な要因となっており、再挙も初発と同様に東学道徒である全★準に指導された農民軍が主力となった点に変わりはなく、再挙は初発な くして全く別個に起こったものではないので、両者は蜂起の対象を異にするものの、その性格は一貫性を有すると考えられるとしている。したがって、教科書の 記述として、東学党の乱の初発は、日清戦争の契機となった事件でもあり、再挙を記述するならば初発を記述せざるを得ないとしている (4)山辺健 太郎著「日韓併合小史」(岩波書店、昭和四一年、乙第五六号証)、松下芳男著「近代の戦争1日清戦争」(人物往来社、昭和四一年、乙第六六号 証)、梶村秀樹著「甲午農民戦争と『甲午改革』」(勁草書房、渡部学編「朝鮮近代史」所収、昭和四三年、乙第六七号証)、姜在彦著「甲午農民戦争」(岩波 書店、岩波講座「世界歴史22」所収、昭和四四年、乙第六八号証)、藤村道生著「日清戦争」(岩波書店、昭和四八年、乙第五七号証)、宇野俊一著「日本の 歴史26日清・日露」(小学館、昭和五一年、乙第五九号証)の記述をみると、いずれも甲午農民戦争又は東学党の乱の初発と再挙について書かれており、再挙 についてのみ記述されているものはない。また、隈谷三喜男著「日本の歴史22大日本帝国の試煉」(中央公論社、昭和四一年、乙第五八号証)には初発の記述 はあるが再挙の記述はない。 なお、本件検定のあった昭和五八年度及びその前年度の検定で合格した高校日本史教科書は、一五冊であるが、その中で 初発に触れずに再挙のみについて記述 する教科書はなく、初発と再挙を取り上げた一冊(三省堂「高校日本史改訂版」ー乙第六三号証)及び本件教科書を除き、その余の教科書は、甲午農民戦争又は 東学党の乱の初発のみについて記述している。 (三)そこで、本件検定意見が合理的根拠を有するものといえるか否かについて検討する。 な るほど、さきに(二)(1)及び(2)において認定した中塚教授の見解及びこれに対する学界の状況(特に朴教授の著作)を前提とすれば、本件原稿記述 が、東学党の乱の再挙を含むいわゆる甲午農民戦争の秋の蜂起(第二次農民戦争)のみならず、その前後に起きた組織的・散発的なあらゆる形態での朝鮮人民に よる日本軍に対する総ての抵抗を指すものであることが理解できるといえよう。しかしながら、右の記述の前後に文脈のみから考えると、高校生にとって右記述 における「反日抵抗」が何を指し示すものか客観的に明らかでないとする検定理由にも根拠がないということはできない。 また、中塚教授の説くよう に、とりわけ甲午農民戦争の秋の蜂起が主に朝鮮の封建支配階級に向けられていたのに対し、秋の蜂起が日本の侵略に反対する民族 解放闘争の性格を著しく強めていたという史実にかんがみ、日本の朝鮮に対する従属化政策を実現しようとした日清戦争の歴史的位置付けをより正確に理解させ ようとする教育的配慮に照らせば、朝鮮の内政問題であり、単なる宗教戦争にすぎないとの誤解を生み易い「東学党の乱」の記述を削り、その代わりに中塚教授 らの最新の研究に基づき日清戦争中に侵略してきた日本軍に対して朝鮮人民が各地で抵抗した事実を端的に記述した本件原稿記述にはそれ相当の学問的根拠と教 育的配慮があるというべきである。したがって、このように相当の根拠をもってなされている本件原稿記述に対し修正意見を付することについてはその妥当性に ついて批判の余地のあるところであろう。 しかしながら,他方、本件原稿記述にいう「反日抵抗」も、東学党の乱の再挙を含む甲午農民戦争の秋の蜂 起(第二次農民戦争)を中心とするものであるこ と、それ以外の反日抵抗については昭和五八年度検定当時の学界でも研究が十分でなかったこと(朴教授の前記論文も、発表直後でいまだその評価が定っていた とはいい難い。)、甲午農民戦争と東学党の乱を峻別する考えが学界において完全に一般化してきたとまではいえず、「甲午農民戦争」を「東学党の乱」と表記 するものも相当あったことに照らすと、本件原稿記述の「人民の反日抵抗」を「東学党の乱」の再挙を指すものと理解することが合理的根拠を欠くとすることは できず、また、さきに(二)(4)において認定したとおり、本件検定のあった昭和五八年度及びその前年度の検定で合格した高校日本史教科書にあっては、そ の大多数が、甲午農民戦争あるいは東学党の乱の初発のみについて記述していること、一般概説書でも同様であることに、さきに(二)(3)において認定した 坂本教授の見解を合わせ考えれば、本件原稿記述について東学党の乱の初発を記述しないで再挙のみを記述することは、生徒にとって日清戦争を巡る日本と朝鮮 の基本的情勢や戦争の歴史的経過についての理解を困難にするだけでなく誤解を生じさせる虞があって、教科書の記述としては不適切である、として検定理由が 合理的根拠を欠くということはできず、したがって、文部大臣が検定基準の前記(選択・扱い)の観点から修正意見を付したことをもって、社会通念上著しく妥 当性を欠くものとすることはできない。 2 日本軍の残虐行為に関する記述について (一)〈証拠〉によると、昭和五五年度検定済教科書 の「日本軍は、中国軍のはげしい抗戦を撃破しつつ激昂裏に南京を占領し、多数の中国軍民を殺害した。」 との脚注の記述を、「日本軍は南京占領のさい、多数の中国軍民を殺害し、日本軍将兵のなかには中国婦人をはずかしめたりするものが少なくなかった。」と書 き換えようとする改訂検定申請及び同教科書の他の箇所の脚注に「このために、日本軍はいたるところで住民を殺害したり、村落を焼きはらったり、婦人をはず かしめるものなど、中国人の生命・貞操・財産などにはかりしれないほど多大の損害をあたえた。」という記述を挿入しようとする改訂検定申請に対し、文部大 臣は、「中国婦人をはじかしめたりするものが少なくなかった」あるいは「婦人をはずかしめるもの」という記述については、このような事実があったことは認 められるけれども、このような出来事は人類の歴史上、どの時代のどの戦場にも起ったことであり、原告もその著書「大平洋戦争」において「古代以来の世界的 共通慣行例から日本軍もまたもれるものではなかった。」とする認識をもっているようであるから、特に日本軍の場合だけこれを取上げるのは選択と扱いの上で 問願があり、本件原稿記述は、検定基準に照らし、必要条件である第1〔教科用図書の内容とその扱い〕3(選択・扱い)の「(2)学習指導を進める上に必要 なさし絵、写真、注、地図、図、表などが選ばれており、これらに不適切なものはないこと。」及び「(4)全体の扱いは調和がとれており、特定の事項を特別 に強調し過ぎているところはないこと。」に欠けるものとして、修正意見を付したことが認められる。 (二)〈証拠〉を総合すると、次の事実を認め ることができる。 (1)一橋大学教授藤原彰は、一五年戦争期とりわけ南京事件を含む日中戦争期の日本軍は、日清・日露戦争期の日本軍と比較して も、また、当時の他国の軍隊 と比較しても、強姦の常態化という点で、きわだった特徴を有していたとし、その史料として、「支那事変地ヨリ帰還ノ軍隊・軍人ノ状況」(河出書房新社、洞 富雄編「日中戦争史資料8 南京事件1」所載、甲第二五二号証)、稲葉正夫編「岡村寧次大将資料(上)」(原書房、昭和四五年、甲第二五三号証)を挙げ、 また、日本軍に特有の従軍慰安婦の存在自体が、一五年戦争期の日本軍にとりわけ多くの強姦事件が発生したことを間接的に示しているとする。 そし て、愛知大学教授江口圭一も同旨の見解を有している。 また、原告は、軍が積極的にも消極的にも日本兵に強姦を許容して士気を鼓舞したとし、その 史 料として、「小川平吉関係文書1」みすず書房、昭和四八年、 甲第二六〇号証)、「極東国際軍事裁判判決」(河出書房新社、洞富雄編「日中戦争史資料8南京事件1」所載、甲第二六一号証)、松本重治著「上海時代 (下)」(中央公論社、昭和五〇年、甲第三九〇号証)、「地のさざめごと旧制静岡高等学校戦没者遺稿集」(講談社、昭和四三年、甲第三九一号証)、田村泰 次郎著「蝗」(新潮社、昭和四〇年、甲第三九二号証の一)を挙げている。 なお、藤原教授は、秦郁彦著「南京事件」(中央公論社、昭和六一年、甲 第二四八号証) に、「略奪、強姦を餌に兵を進撃させた往年の蒙古軍を思わせるが、見方によっては、昭和の日本軍は一段と悪質だった。建前では、 強 姦が発覚すると処罰され ることになっていたので、証拠滅失のため、ついでに殺害、放火してしまう例が多かったからである。」とあることを根拠の一つとして挙げるが、同書は、発行 時期に照らし、昭和五八年度の学界を構成するものとしては考慮し得ない。 更に、藤原教授は、日本軍の強姦行為について教科書に記述することの教 育的意義として次の二点を挙げている。第一に、日本軍による強姦行為は、中国戦線 における日本の戦争犯罪の重要な一環をなしていたばかりでなく、現在に至るまで中国側に深い傷痕を残しているという深刻な現実に対する配慮の問題であると する。第二に、強姦問題は、日本の中国に対する侵略戦争であったという一五年戦争の本質や日本軍の性格・体質を理解する上で重要な素材を提供しているとす る。すなわち、一五年戦争が大義名分を持たず、明確な目的を欠くものであったため、駆り出された兵士には自暴自棄的な雰囲気がひろがり、強姦等の非人間的 な蛮行を生み出す土壌があったのであり、また、日本軍は、兵士の自発性を徹底的に封殺する抑圧的管理制度をとり、兵士に対し非人間的処遇を行っていたこと から兵士たちには軍隊に対する不満がうっ積したが、軍幹部は日本兵による中国民衆に対する強姦等の非行を黙認することによって軍隊内の秩序の維持を図ろう としたのであるとしている。 (2)他方、原告は、「太平洋戦争」(岩波書店、昭和四三年、甲第二四五号証の一)において、南京事件についての記 述に関し、日本兵の残虐行為の責任が軍 幹部にあることを述べる文脈中で、「軍の平素からのあり方が戦時かような残虐性を発揮する必然性を内在させていたこと、たとい形式的な『上官の制止』が あったとしても、軍隊において兵卒の『反抗力を麻痺させる手段として、性に関する政策に寛大であったり、なんらかの機会に過度の性的燥宴を許したりする』 古代以来の世界的共通慣行例から日本軍もまたもれるものでなかったのは『慰安所』公設の事実に徴し明白であること等から考え、南京その他作戦地での残虐行 為(特に性関係の)について最大の責任が軍幹部にあるのを否定するわけにいかない。」と述べており、「反抗力を麻痺させる手段として、性に関する政策に寛 大であったり、なんらかの機会に過度の性的燥宴を許したりする」のが広く世界に見られる軍隊固有の本性であるとしている。また、藤原教授も、その意見書 (甲第二三八号証)において、一般社会から隔離された閉鎖的な集団である軍隊の成員が、特に戦地において強姦等の非行に走る傾向があるのは、一般論として は否定することができないとしている。 更に、児島襄は、その証言において、戦争という特異な状況の下での婦人凌辱の事例の実態に関して 正確に把握し得る資料は、ほとんど存在せず、その正確な 実態というものは把握できず、したがって、他の戦争の事例と比較して日中戦争における強姦が特に多かったと断定的に論ずることは非常に難しいと考えざるを 得ないとする。前掲「支那事変地ヨリ帰還ノ軍隊・軍人ノ状況」においては、いくつかの強姦の事例が挙げられているものの、他方「一般ニ士気旺盛ニシテ、軍 紀・風紀ハ概ネ厳粛ニ保持セラレアル」とも記されている。 (三)そこで、検定意見が合理的根拠を持つものであるかどうか否かについて検討する。 南 京事件を含む一五年戦争の中で日本兵による中国婦人の強姦ないし凌辱の事例があったことは、被告においても認めるところであるし、さきに(二)(1) において認定したとおり、一五年戦争期の日本軍の強姦行為がきわだった特徴を有していたとし、日本軍の強姦行為について教科書に記述することに相当な教育 的意義があるとする見解が有力に主張されていることにかんがみれば、住民殺害、村落への放火、強姦と併記する原稿記述に対し、文部大臣がその中で特に強姦 のみの削除を求める修正意見を付したことについて、これを積極的に肯認し得る事由を見出すことは困難といわざるを得ない。しかしながら、他方、前記(二) (2)において判示したとおり、一五年戦争期の日本軍の強姦行為をもってきわだって特徴的とすることに慎重な見解もあること(双方の見解の優劣は、当裁判 所のよく判断し得るところではない。)及びその他前記(二)(2)摘示の点にかんがみれば、日本軍の強姦行為を記述することが特定の事項を特別に強調する ことになるという趣旨の検定意見が合理的根拠を欠くものであるとは断じ得ず、文部大臣が検定基準の前記(選択・扱い)の観点から修正意見を付したことを もって、社会通念上著しく不当であったとまではいうことはできない。 3 七三一部隊に関する記述について (一)〈証拠〉によると、昭和 五五年度検定合格済教科書の脚注に「またハルビン郊外に七三一部隊と称する細菌戦部隊を設け、数千人の中国人を主とする外国 人を捕らえて生体実験を加えて殺すような残虐な作業をソ連の開戦にいたるまで数年にわたってつづけた。」との記述を挿入しようとする改訂検定申請に対し、 文部大臣は、いわゆる七三一部隊については、学界の現状は史料収集の段階であって、専門的学術研究が発表されるまでに至っていないので、これを教科書に取 り上げることは時機尚早であるとして、検定基準に照らし、必要条件である第1〔教科用図書の内容とその扱い〕3(選択・扱い)の「(2)学習指導を進める 上に必要なさし絵、写真、注、地図、図、表などが選ばれており、これらに不適切なものはないこと。」に欠けるとして、修正意見を付したことが認められる。 な お、検定意見が、右七三一部隊の存在や日本軍による生体実験の事実を否定する趣旨ではなく、七三一部隊に関する事実を教科書に記述する教育的意義を否 定する趣旨でもないことは、前掲甲第一七号証、証人時野谷滋の証言によって認められる。 (二)〈証拠〉によると、次の事実が認められる。 (1) 昭和五八年度検定当時までに公刊された七三一部隊に関する文献、資料は、愛知大学教授江口圭一の挙げるところによれば、従前公刊されたものの復刻版 二点及び改訂版を含め三六点の多きに及んでいる。中でも昭和五六年から昭和五八年にかけて作家森村誠一が発表した「悪魔の飽食」全三巻(一巻及び二巻は光 文社ー後に角川書店、三巻は角川書店、甲第二五六ないし第二五八号証、乙第一〇八、第一〇九、第一一一号証)は、1旧七三一部隊員の証言、2旧七三一部隊 幹部に対する尋問調書を含むアメリカ軍の資料、3ハバロフスク軍事裁判記録、4旧七三一部隊幹部による医学学術論文、5中国における取材などを総合的に検 討して七三一部隊の実態を詳細に描いたもので、大きな反響を呼び、特にこれ以後七三一部隊は世人の注目を集めるに至った。その他、七三一部隊については、 新聞、テレビ等でも数多く報道されている。 また、七三一部隊の存在につき、昭和五八年度検定当時発表されていた学術書としては、原告著「太平洋 戦争」(岩波書店、昭和四三年、甲第二四五号証の 一)、長崎大学助教授(現教授)常石敬一著「消えた細菌戦部隊ー関東軍第七三一部隊ー」(海鳴社、昭和五六年、甲第二七三号証)、右常石敬一助教授及び ジャーナリストの朝野富三の共著「細菌戦部隊と自決した二人の医学者」(新潮社、昭和五七年、甲第二五五号証資料一の二)があり、外国での文献としては、 ジョン・パウエルの「歴史の隠された一章」と題する論文(「悪魔の飽食ノート」収載、甲第二五五号証資料一の三)がある。右の「消えた細菌戦部隊」は、ハ バロフスク軍事裁判記録を基本とし、日本の医学、軍医学関係文献その他を探索して、七三一部隊の全体像を描いたもので、江口教授によると、同書は、七三一 部隊において生体解剖がなされていたことを自然科学史研究者の立場から論証した点に特色があるとされる。 江口教授は、現代史については、専門的 研究者は限られており、専門的研究者以外の作家、ジャーナリスト又は一般人によって現代史研究・叙述の優れた作品 が数多く生み出されていること、現代史上の諸事件・史実については、その細部に至るまでの全容が完全に解明されているというケースは例外であること、実際 に教科書では必ずしも学問的に究明されていない事件でも記述されていることから、専門的学術研究が発表されていないとしても、教科書に七三一部隊を記述す ることはなんら差し支えないというべきところ、七三一部隊についての本件原稿記述の内容は、前掲「太平洋戦争」で既に確認されており、昭和五八年度検定当 時の学界では、右のような文献ないし資料、特に前掲の「悪魔の飽食」及び「消えた細菌戦部隊」によって更に具体的に解明されていたとする。森村も、「悪魔 の飽食ノート」(晩聲社、昭和五七年、甲第二六四号証、乙第一一〇号証)において、「ハルピン市南方二〇キロの荒野の一角に本拠を定めた七三一本部には多 数のマルタがハルピン憲兵隊本部や同特務機関によって絶えず供給され、二日に三体のハイペースで細菌実験、毒ガス実験の生体材料となって殺された。実験の 中には、冷水を浴びせた身体を零下三五度を超す極寒の大気に晒す『凍傷実験』や、ペストの生菌を注射し、発病から死に至るまで克明に記録する実験等があ」 り(「マルタ」とは、生体実験の対象とされた捕虜を指している。)、このことは既刊の刊行物によって判明していたとし、同様の見解を明らかにしている。 (2) 他方、拓殖大学教授秦郁彦は、七三一部隊に関する前記著作及びその資・史料とされた文献について次のとおりの見解を有している。 1 資料的価値 が 高いと思われる旧日本軍自体における公式の資料は、終戦時に滅失されたといわれており、いまだに発見されていない。 2 前掲「悪魔の飽食」及 び 「消えた細菌戦部隊」の基礎資料とされた「細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書 類」(外国語図書出版所、昭和二五年、乙第一一八号証ー甲第二六七号証はその復刻版)には、ハバロフスクにおいて行われた七三一部隊関係者の軍事裁判の尋 問調書、起訴理由書、公判記録、判決文などが収録されているが、この書物は、非公開裁判の記録の一部とされるものであるうえ、これには、通常この種のもの に付されている奥付・序文がないため、訳者、日本での出版社、発行年など書物の来歴を窺うことができず、また、モスクワで印刷されたものがどうして当時ア メリカの占領下にあった日本で発行されたのかなどの点で史料としての疑問が多く、原本に当たり検証することもできない同書を学術的に利用するには慎重な検 討が必要である(なお、右公判書類については、森村も、前掲「悪魔の飽食ノート」において、「ハバロフスク軍事裁判記録はあくまで勝者が敗者を裁いたド キュメントであり、さらに供述証言に応じた元隊員たちの複雑なおもわくもからんで、七三一の本質をうかがわせるものではあっても同部隊の正確な全容を示す ものではない。」としている。)。 3 前掲「悪魔の飽食」の基礎資料の一つとされている旧七三一部隊幹部に対する尋問をまとめたアメリカ軍によ る調査記録は、その史料価値は高いと考えられ るものの、当時占領下という状況で米軍が尋問した結果であるから、その任意性、信ぴょう性、供述された範囲(生体実験等重要部分を欠く。)等に疑問があ り、慎重に扱うことが必要であるところ、これらは、昭和五六、七年ころに初めてアメリカ合衆国で研究者が一般に利用できるような状態に立ち至ったのであ り、昭和五八年度検定以前には、我が国では、同記録のごく一部分が紹介されていたにすぎず、いまだ十分な史料批判が行われていたということはできない。 4 前掲「悪魔の飽食」における旧七三一部隊員の証言に基づく部分は、内容が主に医学にかかわる問題であるのに、元隊員の中でも医師でない下級隊員(その ほとんどが匿名)の証言がほとんどで、医師が中心となる上級隊員の証言が全く欠けている点、文書的裏付けに欠ける点(なお、生体解剖の現場写真は偽写真で あった。)等で、信頼性に問題があって、無条件にこれを利用することは危険である。また、他に、関係者の証言を収録した文献、資料が多数あるものの、いず れも下級隊員の手記であったり、あるいはジャーナリストが伝文や風評をまとめたりしたものであって、史料の信用性を十分検討した学術的研究書として発表し たものではない。 そして、歴史叙述については、史料を厳密に考証した上、必ずその裏付けを採って行われることが要請されるところ、前掲「太平洋 戦争」は、前掲ハバロフス ク軍事裁判記録を基本とし、他には史料として問題のある非学術的雑誌記事に基づいて叙述したにとどまるし、常石助教授の著作も、学術的研究書に付されるの が通例である注が付されていないという点で形式が不十分であり、当該記述がいかなる文献資料に基づいたものであるかを第三者において照合可能なものとなっ ていないうえ、重要な箇所に全くの推測に基づく所があるなど問題があるので、結局、昭和五八年度検定当時には、右要請に応えた専門的学術研究が発表される に至っていなかった、といわざるをえず、いわゆるフエル・レポート(石井部隊長らが生体実験を行ったことを認めたといわれるアメリカ軍史料)が発見されて いない昭和五八年度検定当時においては、七三一部隊に関する研究はいまだ不十分であって、教科書に記述し得るほど、学術的研究としてはまとまっていなかっ たというべきである。 なお、森村も、前掲「悪魔の飽食ノート」において、前掲「悪魔の飽食」出版までは、七三一部隊関係の本もあったが、信頼す べきものは二点しかない旨述 べ、また、「七三一のシステムや個々の実験の具体的内容と種類、およびその担当責任者名、実験諸設備、細菌工場の実態、さらにマルタ供給のルートとその収 監設備、実験の犠牲者が『三〇〇〇人以上』とされる根拠等については、これまでどのような文献資料も明らかにしていなかった。」とし、「七三一の全体像は 先人の諸労作にもかかわらず、依然として曖昧糊たる霧のかなたに烟っていた」と記している。 (三)そこで、本件検定意見が合理的根拠を有するも のといえるか否かについて検討する。 右に認定したとおり、昭和五八年度検定当時、史料として問題がなくはなかったにせよ、いわゆる七三一部隊に 関 しては既に数多くの文献・資料が公刊されて いたこと、中でも前掲「悪魔の飽食」、「消えた細菌戦部隊」を高く評価し、昭和五八年度検定当時の日本近・現代史の学界においては、七三一部隊に関し本件 原稿記述に表現された程度の事実はすでに十分確認されていたとする見解があること等に照らせば、本件原稿記述程度の七三一部隊に関する記述についてその削 除を求める修正意見を付すことが果たして当を得たものといえるかは、問題とする余地のあるところであろう。しかしながら、他方、当時の学界においては、七 三一部隊に関する学術的研究はいまだ不十分であったとして高等学校の教科書においてこの点についての事実を記述することに慎重であるべきものとする見解も あること(これら双方の学問的見解の優劣については、当裁判所の判断し得るところではない。)にかんがみれば、七三一部隊を教科書に取り上げることは時機 尚早であるとする検定理由が合理的根拠を欠くということはできず、文部大臣が検定基準の前記(選択・扱い)の観点から修正意見を付したことをもって、社会 通念上著しく妥当性を欠くものと断ずることはできない。 4 沖縄戦に関する記述について (一)〈証拠〉によると、昭和五五年度検定済教 科書の「沖縄県は地上戦の戦場となり、約一六万もの多数の県民老若男女が戦火のなかで非業の死に追いやられ た。」との脚注の記述を「沖縄県は地上戦の戦場となり、約一六万もの多数の県民老若男女が戦火の中で非業の死をとげたが、その中には日本軍のために殺され た人も少なくなかった。」との記述に書き換えようとする改訂検定申請に対し、文部大臣は、沖縄戦における沖縄県民の犠牲については、沖縄戦の記述の一環と して、県民が犠牲になったことの全貌が客観的に理解できるようにするため、最も多くの犠牲者を生じさせた「集団自決」のことを書き加える必要があり、右申 請に係る本件原稿記述は、検定基準に照らし、必要条件である[教科用図書の内容とその扱い]3(選択・扱い)の「(2)学習指導を進める上に必要なさし 絵、写真、注、地図、図、表などが選ばれており、これらに不適切なものはないこと。」及び「(4)全体の扱いは調和がとれており、特定の事項を特別に強調 し過ぎているところはないこと。」に欠けるとして、修正意見を付したことが認められる。 (二)〈証拠〉を総合すると、沖縄戦に関する昭和五八年 度検定当時の学界の状況について、次の事実を認めることができる。 (1)沖縄戦の特徴について 沖縄戦は、住民を全面的に巻き込んだ戦闘 で あって、軍人の犠牲を上回る多大の住民犠牲を出したこと、また、住民犠牲の中でも、日本軍によって殺害された 人が少なくなかったこと、更に、各地で住民の集団自決が発生したことが、沖縄戦の大きな特徴であるとされている。この点について、沖縄戦の体験者であり広 報学専攻の琉球大学教授大田昌秀は、「総史沖縄戦」(岩波書店、昭和五七年、甲第二八七号証、乙第一二三号証)において、「守備軍は、住民の守護神たりえ なかったのみではない。直接間接に軍との共死を強要し、あまっさえ数百人(一〇〇〇人を越すともいわれる)にのぼる住民にスパイの汚名を着せて殺害までし た。」とし、沖縄戦における日本軍による住民殺害は、軍隊が一般民衆を守るものではないという教訓を生み出す事実であるとしている。「沖縄★史」第8巻各 論編7(琉球政府、昭和四六年、乙第一三八号証)も、沖縄戦通史第三章「戦場下の沖縄県民」の中で第七節として「スパイ嫌疑と残虐」という項目を立てて、 各地における日本軍の住民に対するスパイ嫌疑と惨殺の事例を記述しているほか、歴史学研究会編「太平洋戦争史5」(青木書店、昭和四八年、乙第一三九号 証)も、「沖縄県民の悲劇は敵軍である米軍の残虐行為にとどまらず、『友軍』である日本軍の残虐行為にも苦しめられたことにある。」として、これを裏付け ている。 また、大田教授は、集団自決について、前掲「総史沖縄戦」の中で、「沖縄戦のいま一つの特徴は、各地で住民の〈集団自決〉が発生したこ とである。」「慶 良間列島中の渡嘉敷、座間味、慶留間の島々で地元住民が集団自決を決行したことである。しかも、自決の方法は〈むごい〉というよりない、文字どおり、目を 覆わしめるものがあった。老いた夫妻や親子、兄弟が草刈り鎌や鍬、あるいは手榴弾などでお互いに殺しあったり、みんなで手を取り合って〈猫いらず〉をあお るなどして一せいに死んでしまったからである。守備隊長が『命令した』とか『いや、命令はしていない』といったぐあいに、集団自決の全容については、今も 真相は不明のままである。だが、多数の住民が集団自決をした事実は、否定しようもない。」「狭小な島嶼における戦闘は、遅かれ早かれ,避けようもなく住民 に物心両面で甚大な犠牲を強いる結果となることは十分予測できる。その意味では、慶良間列島の戦闘は、その後につづく沖縄戦における軍・民〈玉砕〉の態様 をあらゆる面で象徴的に示したものといえる。」と述べて、この点を明らかにしている。 (2)日本軍による住民加害について 沖縄戦の一大 特徴とみられる住民殺害を含む日本軍による多数の住民加害が発生した原因については、日本軍の地元住民に対する過度の不信感にあるとされて おり、このことは、昭和二〇年四月九日に発せられ、同年五月五日に長勇参謀長名で公布された「爾今軍人軍属ヲ問ハス標準語以外ノ使用ヲ禁ズ。沖縄語ヲ以テ 談話シアル者ハ間謀トミナシ処分ス」との沖縄守備軍司令部の命令や「島嶼作戦においては、原住民に気を許してはならぬ。原住民は敵が上陸してきたとき敵を 誘導し、スパイ行為をするからである」との日本軍部隊の訓令などからも窺われるとおり、日本軍が沖縄県民をスパイ視していた事実によっても明らかであると されている。 日本軍による住民加害の事実を、国作成に係る公的文献を中心にみると、次のとおりである。 1 日本軍による住民虐殺 「沖 縄作戦講話録」(陸上自衛隊幹部学校、昭和三六年、甲第三一一号証、乙第一三七号証、以下「講話録」という。)所掲の厚生省調査では、死没者として 「友軍よりの射殺」の事実が、「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」(陸上自衛隊幹部学校、昭和三五年、甲第三三二号証、以下「史実資料」 という。)では、戦闘協力者として「正当な理由なく、友軍敗残兵に殺害されたもの」のあることがそれぞれ挙げられている。 元大本営船舶参謀で あった厚生省引揚援護局勤務の事務官馬淵新治は、講話録において、「軍側特に下級幹部において、戦勢の不利に赴くに従い、各地で住民 のスパイ嫌疑による斬殺が各所に散見され、戦後の今も語りつがれている」、「友軍による殺害は既述したスパイ嫌疑によるものゝ外、首里戦線崩壊後島尻地区 に於て住民が避難中の自然壕に侵入して来た四散部隊が、泣き叫ぶ幼児が敵に発見される動機となるとしてこれを殺害し、或いはその母親が強要されて我が子を 扼殺した事例があります。特に敵が全く上陸しなかった久米島(沖縄本島を距る約五〇浬の海上にある。)に於て海軍守備隊長が軍に非協力であり、且つスパイ の嫌疑があるとして住民を殺害したことは今も虐殺行為の典型として語り続けられている」と述べ、また、史実資料において、「敵上陸以後、所謂『スパイ』嫌 疑で処刑された住民についての例は十指に余る事例を聞いているが、目下調査したところによると、在来から沖縄に居住していた住民で軍の活動範囲内で敵に通 じたものは皆無と断じて差支えないと思う。」として、日本軍の手による住民虐殺の事実を明らかにしている。 2 壕追出し 講話録では「壕 提供」、史実資料では「自巳の壕を追い出されて、敵の艦砲、空襲によって死没したもの」がそれぞれ挙げられている。 馬淵は、講話録において、 「こ れらの犠牲者は御承知の首里主陳地帯の崩壊に伴い、第2線陣地につくため、既に逃げ道のない住民が居住する自然壕を取上 げ、米軍の砲爆撃下に住民を追い出したことに基因するものが相当あるのであります。」とし、史実資料において、「心ない将兵の一部が勝手に住民の壕に立ち 入り、必要もないのに軍の作戦遂行上の至上命令である、立退かないものは非国民、通敵者として厳罰に処する等の言辞を敢えてして、住民を威嚇強制のうえ壕 からの立退きを命じて巳の身の安全を図った」、「戦斗が不利となり、島尻地区に軍の主力が後退するに至るや、非戦斗員である住民安住の壕を軍の必要に基い て、強制収用して、壕外に放逐し、無辜の老幼婦女子を死地に投じて多数の犠牲者を生ぜしめている。」として、日本兵による住民の壕からの追出しの事実を明 らかにしている。 3 食糧強奪 史実資料によると、馬淵は、日本軍将兵のうちには、「ただでさえ貧弱極まりない住民の個人の非常用糧食を 徴発と称して掠奪するもの」のあったことを挙 げ、食糧強奪の事実のあったことを明らかにしている。 4 自決の強要 史実資料には、「友 軍 より自決を強要されたもの」が挙げられている。また、前掲「太平洋戦争史5」においては、渡嘉敷村及び座間味村における集団自決は 守備隊隊長の命令によるものとし、右の集団自決による犠牲者数合計六八三人を「日本軍の手によって殺害された沖縄県民の数」の中に算入している。前掲「沖 縄★史」第8巻各論編7も、「第七節スパイ嫌疑と残虐」の中で、渡嘉敷島、座間味島及び阿嘉島の集団自決の例を挙げ、守備隊隊長の命令によって住民が集団 的に、自決し、あるいは自決を強要されたとしている(なお、隊長命令の存否については後記(4)参照。)。 以上のとおり、日本軍による犠牲者と して挙げられるものの中には、日本軍により直接殺害された者と、間接的に日本軍によって死を強制されたものなどがあ る。しかし、間接的に死を強制されたものを、日本軍により直接射殺又は斬殺されたものと犠牲の態様において異なるとして、日本軍による犠牲者ではないと区 別することはできないとする見解も存する。 なお、証人一冨襄は、沖縄戦は軍・県・民が一体となり一致協力して遂行したものであり、日本軍が住民 を殺害したとは信じ難く、仮に、軍人による殺害が あったとしても極めて特異な事象であって、日本軍自体が行ったものとは評価し得ない旨、日本軍が住民を壕から追い出し、あるいはこれに自決を強要したとす る確実な資料はなく、仮に、これがあったとしても、日本軍のために殺されたと表現するのは当たらない旨供述するが、同証人の証言全体の趣旨に照らせば、右 供述部分は、日本軍の行動を擁護する立場から同人の推測ないし個人的信念を述べたものというほかなく、沖縄戦に関する学界の客観的状況を証言するものとは 認められないから、右供述部分は採用の限りでない。 (3)「集団自決」について 大田教授は、さきに述べたとおり、前掲「総史沖縄戦」に おいて、沖縄戦の一つの特徴として、住民の「集団自決」の発生を挙げ、また、「沖縄ー戦争と平 和」(日本社会党、昭和五七年、甲第二九一号証)、「沖縄戦とは何か」(久米書房、昭和六〇年、甲第二九〇号証)、「慰霊の塔」(那覇出版社、昭和六〇 年、甲第三〇六号証)、「これが沖縄戦だ」(琉球新報社、昭和五二年、甲第三一〇号証)の各著述においても、「集団自決」の事実を大きく取り上げている。 更に、原告も、当審の主張において、「集団自決」が、それ自体県民の犠牲の痛ましい例として、日本軍による住民殺害と並ぶ沖縄戦の特徴であるといえるとし ているところである。 「集団自決」の原因については、集団的狂気、極端な皇民化教育、日本軍の存在とその誘導、守備隊の隊長命令、鬼畜米英への 恐怖心、軍の住民に対する防謀対 策、沖縄の共同体の在り方など様々な要因が指摘されている。そして、「集団自決」の実態については、住民は、生き残れる展望のない絶望的な情況下で、様々 な要因から「集団自決」に追い込まれたもので、これを戦闘員の煩累を絶つための崇高な犠牲的精神によるものとして美化するのは当たらないとするのが一般的 であり、したがって、教科書に単に「集団自決」と記述するときは、住民が他の要因等とは関係なしに本来自発的に自らの意思で自殺したものとの誤解を招く虞 があり、不適切であると指摘されている。 (4)犠牲となった住民の数について 沖縄戦においては、一家全滅の例が多く、また戦争中に戸籍 の多くが焼失したこともあって、住民の犠牲者数を明らかにする客観的資料は存在せず、住民の犠 牲の全貌を明らかにすることは困難であるといわれているが、各資料にみられる犠牲者数ないしはその内訳等は次のとおりである。 沖縄県援護課の資料 によると、沖縄県民の死没者総数は、約九万四〇〇〇人とされているが、この数字は、沖縄戦直前の昭和一九年一二月の沖縄群島の人口 (宮古八重山を除く。)四九万一九一二人から昭和二一年一月の沖縄群島の人口三一万五七七五人、県外疎開者約六万二〇〇〇人及び沖縄出身軍人軍属死没者二 万八二二八人を差し引いて、沖縄群島の県民死没者推定数として八万五九〇九人を算出し、これに宮古八重山の死没者及び調査もれとして見込んだ右数の一割に 当たる八五〇九人を加えた九万四四九九人という数字から得たものである。 前掲の講話録所掲の厚生省調査によると、遺家族援護法の戦闘協力者とし て昭和二五年三月末までに申告された陸軍関係死没者四万八五〇九人のうち一四才未 満の死没者一万一四八三人についてこれを死亡原因別に区分して、「友軍よりの射殺」一四人、「自決」三一三人、この他、「壕提供」一万〇一〇一人、「食糧 提供」七六人等となるとされている。さきに述べたとおり、馬淵は、かかる数字を前提に、右の「壕提供」には、日本軍が「既に逃げ道のない住民が居住する自 然壕を取上げ、米軍の砲爆撃下に住民を追い出したことに基因するものが相当ある」としている。 前掲「沖縄★史」第8巻各論編7に挙げられている 事例を合算すると、住民殺害が八〇人余、「集団自決」が六一三人と推計される。また、「観光コースでな い沖縄」(高文研、昭和五八年、乙第一四〇号証)所掲の一覧表によると、日本軍による住民殺害は約一七八人、「集団自決」は喜屋武半島では数百人、その他 の地域では約六六三人と推計される。更に、「平和への証言ー沖縄県立平和祈念資料館ガイドブック」(沖縄県生活福祉部援護課、昭和五八年、乙第一四一号 証)所掲の一覧表によると、日本軍による住民殺害(壕追出しや自決強要を含む)は少なくとも一一〇人、「集団自決」は五一〇人余と推計される。もっとも、 同表では、「南部一帯では、スパイ容疑処刑、壕追出し、自決強要、食糧略奪、幼児虐殺など日本軍による住民犠牲が頻発しているが現在なおその正確な数は確 定されていない。」とされている。 大田教授は、一般図書、沖縄県の各市町村史(誌)、防衛庁戦史室所蔵資料等の文献に基づき、沖縄戦の死者のう ち、日本軍によって直接に殺害された住民は 少なくとも二九八人、「集団自決」による者(個別の自決を含む)は少なくとも八二四人でそのうち守備軍将兵による自決命令によるものとされているもの(渡 嘉敷島、座間味島の例)は四八三人、日本軍による壕追出しによって死亡した者は少なくとも二九一人、日本軍によって殺害された朝鮮人は少なくとも一一一 人、守備隊兵士によって強制的に移住させられたためにマラリアによって死亡した住民は少なくとも四三五〇人であるとしている(なお、大田教授は、自決命令 があったとされている「集団自決」の中に渡嘉敷島の例を挙げているが、本件検定当時の学界においては、自決命令の存在を否定ないし疑問視する見解もあり、 必ずしも学界が自決命令の存在を肯定する見解で固まっていたということはできない。)。もっとも、日本軍によって直接殺害された住民の数は、実数では一〇 〇〇人を超えるという見解もあり、大田教授自身、八〇〇人は超えると考えられるとしている。 (三)右に認定した昭和五八年度検定当時の学界の状 況等にかんがみると、沖縄戦における日本軍による住民の犠牲者の中には、日本軍によって直接殺害された 者のほか、日本軍によって自決を強要された者、日本軍によって壕を追い出され、あるいは食糧を強奪されたため死亡するに至った者があるとするのが、概ね学 界における一般的理解であるということができる。もっとも、「日本軍のために殺された人」との本件原稿記述は、文言上、これら様々な態様の住民犠牲のすべ てを指すと理解することは困難であって、単に「日本軍のために殺された人」というときは、日本軍によって直接殺害された人のみを指すものと理解するのが通 常であるというべきである。そうすると、右本件原稿記述は、日本軍による住民犠牲の中の住民射殺ないし斬殺の事実を記述したことになるが、かかる事実が一 般的に沖縄戦の一大特徴とされる点である以上、右原稿記述について、これを特定の事項を特別に強調し過ぎたものであるとした検定意見が、当を得たもので あったかについては、批判の余地があるところといえよう。また、検定意見は、「集団自決」による犠牲者が最も数が多いとするのであるが、住民の犠牲の全貌 についての客観的な資料は存在せず、昭和五八年度検定以降現在も住民の犠牲についての調査がいまだに進行中の段階にあること、スパイ嫌疑で殺害された住民 の数は一〇〇〇人近くにのぼるとする見解もあること、日本軍による住民犠牲には、直接射殺又は斬殺された人のほか、壕追出し、食糧強奪、自決の強要などに より死亡した人も含まれるとされていることに照らせば、このように断定することには問題があろう。 しかしながら、その後、その要因や実態につい て徐々に明らかにされるに至ったものの、本件検定当時においては、「集団自決」も沖縄戦の大きな特徴の一つ であるとされていたこと、検定意見もあくまでかかる「集団自決」の事実の記述を求めるにすぎず、沖縄戦の一大特徴とされる日本軍による住民殺害の事実を否 定するものではなく、また、これについての記述の削除を求めるものではないことにかんがみれば、「集団自決」は様々な要因から発生したものであってこれを 犠牲的精神によるものとして美化することがないようにその記述や教育には配慮を要するとしても、文部大臣が、「集団自決」について記述することを求めて、 検定基準の前記(選択・扱い)の観点から修正意見を付したことをもって、いまだ合理的根拠を欠き著しく不当なものとまですることはできない。 五 五七年度正誤訂正申請について 文部大臣が昭和五七年度に三省堂の行った正誤訂正申請の受理を拒否したと認めることができないことは、さきに第 三、二に判示したとおりであり、文部大臣 が右申請の受理を拒否したことを前提とする原告の請求は、その余について判断するまでもなく理由がないことが明らかである。 なるほど、文部省初等 中等教育局検定課の検定調査第一係長岸継明が、正誤訂正申請書を持参した三省堂従業員に対し、南京大虐殺に関する申請部分は正誤訂 正の要件を充たさないので、右部分の申請の再考を示唆し、これを受けて三省堂従業員が右申請書を持ち帰ったことは、さきに第三、二2において判示したとお りであるが、岸の右示唆が社会通念上相当な範囲を超えたものであって申請の受理の拒否に至ったとみるべき事情があったと認めるに足りる証拠はない。また、 さきに第一、三2(三)において認定したとおり、文部大臣は、昭和五七年一一月二四日、昭和五六年度に検定を終えた高等学校の歴史教科書については、正誤 訂正の手続によって修正しない旨の談話を発表しており、正誤訂正申請があっても正誤訂正を承認しない趣旨を明らかにしていたということができる。しかしな がら、他方、前掲乙第四六号証によると、昭和五七年八月六日の衆議院文教委員会で、文部省初等中等教育局長が、「正誤訂正の申請があれば受け付けないとい うことを申し上げたわけではございません。」と答弁していることが認められ、この事実に照らせば、文部大臣が、正誤訂正申請があった場合に、申請を受理し ないことまでも明らかにしていたということはできず、他に右原認定を覆すに足りる証拠はない。更に、前掲甲第一三二ないし第一三五号証によると、三省堂以 外に幾つかの教科書発行者が正誤訂正を申請したのに対し、いずれも文部大臣がその申請を受理するに至っていないことが認められるが、これをもって、本件に おいて文部大臣が申請の受理を拒否したものということはできない。以上のほか、本件においては、本件記録によって窺われる諸事情を勘案しても、文部大臣が 三省堂の行った正誤訂正申請の受理を拒否したと認めるに足りる事情は見出すことはできない。 したがって、三省堂の行った正誤訂正申請がこれまで の正誤訂正制度の運用に照らし正誤訂正の要件に該当するか否か又は文部大臣の検定権限行使における裁 量権濫用の違法については、その判断の限りではない。 第七 損害賠償義務1 昭和五五年度検定における草莽隊に関する記述箇所に対する文部大臣の 検定権限の行使が当該権限を濫用又は逸脱したものであって違法 であることは、すでに前記第六、三2に判示したとおりである。 〈証拠〉による と、 右の違法な検定権限の行使によって、原告は、心ならずも原稿記述の修正を余儀なくされ、これにより受忍限度を超える精神的苦痛を受けた ことが認められるところ、右精神的苦痛は、諸般の事情にかんがみ、金一〇万円をもって慰藉するのが相当というべきである。 二 原告は、昭和五五年 度検定における親鸞及び日本の侵略に関する各記述箇所につき、文部大臣の改善意見に基づき教科書調査官から執拗な修正要求を受けて その記述の変更を迫られたことにより、また、二度にわたり法的根拠のない拒否理由書を提出させられたことにより、多大な精神的損害を受けた旨主張する。 し かしながら、仮に、文部大臣の右各改善意見が違法であったとしても、そもそも改善意見は、修正意見とは異なり、修正を行うか否かを著作者ないし発行者 の最終的判断に委ねるものであるところ、原告は、「改善意見は検定に関する法令規則によれば、修正しなくても検定手続きを完成する上になんらさしつかえな いはずです。改善意見の理解にくいちがいがあったとすれば、そのかぎりでは著者として再検討を加えますが、学問的・教育的配慮の当否にわたるものにあって は、結局は見解の相違というほかなく、そのような論争に応ずる法律上の義務は存しないはずです」との拒否理由書を提出して、文部大臣の右各改善意見に従っ た修正を行わなかったことは、前示第三、一2に判示したとおりであって、本件全証拠によっても,右各改善意見又はこれらに基づく教科書調査官の説得によ り、原告が受忍限度を超える精神的苦痛を受けるに至ったとみるべき事情はなんら認めることができない。また、原告の意を受けて、三省堂が二度にわたり右各 改善意見に対して、拒否理由書を提出したことは、当事者間に争いがなく、原告本人尋問の結果中には、教科書調査官が原告に対して右書面の提出を強制した旨 の原告の主張に沿った供述部分がみられるが、右供述部分は、にわかに採用することができず、他に原告の右主張事実を認めるに足りる証拠はない。かえって、 文部大臣が聴聞の一環として検定申請者に対し、改善意見に従った修正の拒否理由を記載した書面の提出の機会を与えることは、かかる書面の提出の強制など特 段の事情の認められない限り、適正手続の趣旨に沿うもので相当というべきである。 したがって、原告の主張は採用することができず、他に昭和五五 年度検定における親鸞及び日本の侵略に関する各記述箇所に対する検定意見により原告が損害 を受けたと認めるに足りる証拠はない。 三 教科書 検 定は、被告国の機関である文部大臣がその権限に基づきこれを実施するものであるが、文部大臣及びその職務上の補助者である教科書調査官らは、 昭和五五年度検定における草莽隊に関する記述箇所についての前記違法な検定権限の行使について、それぞれ関与したものであり、かつ、本件各証拠によれば同 人らはその点について少なくとも過失があったものと認められ、原告は、これにより右損害を被ったものであるから、被告国は、その公務員である同人らによる 前記損害を賠償すべき義務がある。 第八 結論 以上説示のとおりであって、原告の本訴請求のうち、文部大臣らの前記の違法な検定権限の行 使による損害賠償金一〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌 日である昭和五九年二月一一日から支払ずみに至るまで民事法定利率五分の割合による遅延損害金の支払を求める部分は、理由があるから認容し、その余は失当 として棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文を適用し、仮執行の宣言については、相当でないからこれを付さないこととし、主文のとおり判 決する。 (裁判長裁判官 加藤和夫 裁判官 西謙二 裁判官 鹿子木康)
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水の江瀧子 https //w.wiki/88PU 左川 ちか(さがわ ちか、1911年〈明治44年〉2月14日 - 1936年〈昭和11年〉1月7日)は、昭和時代初期の日本の詩人。https //w.wiki/88Pd 本名は川崎愛。名の「愛」は「ちか」と読むが、「あい」とも呼ばれていた。 生涯 北海道余市郡余市町大字黒川村に生まれる。4歳までは歩行も困難なほど虚弱であった。父親はいなかったが、異父兄の昇が終生の支えとなる。1923年3月に余市町立大川尋常小学校を卒業。親族の反対を押し切るかたちで庁立小樽高等女学校(現・小樽桜陽高校)に入学し、4年後に同校補習科師範部に進学し、小学校の教員免許を取得する。1928年8月から、先に上京していた兄・昇の自宅に同居を始め、兄の友人として小樽時代から知っていた伊藤整や百田宗治などの作家、詩人たちとの交流が広がる。1931年から雑誌に発表される詩や訳詩が注目を集め新進気鋭の詩人として期待されるが、1935年4月から腹痛を訴えるようになり、10月に入院し胃ガンの末期症状と診断される。12月に自ら希望して退院し、翌年に世田谷の自宅で死去。享年24。 作品 左川ちかの詩人としての出発点は、東京で流行していた新しい詩の型を知ることから始まる。北園克衛・江間章子・春山行夫・阪本越郎などと同じ雑誌に投稿していたので、詩の叙情を否定するモダニズムの詩人と分類される。彼女の詩は最初から「女性」「生活」をうたうことを拒んでいる。しかしそれとは別に「死」「衰え」「病」を思わせるメタファーを用いるのが特徴である。 詩の他に、ジェイムズ・ジョイス「室内楽」をはじめとして、オルダス・ハクスリー、モルナール・フェレンツ、シャーウッド・アンダーソン、ヴァージニア・ウルフなどの翻訳が残されている。 ⚫︎左川ちか 黒衣の明星 https //www.h-bungaku.or.jp/exhibition/index.html 会期:2023年11月18日(土)~2024年1月21日(日) 北海道余市町生まれの詩人・左川ちか(さがわ・ちか、1911~1936年)は本別町で幼少期を過ごし、小樽の高等女学校を卒業後、昭和初期に10代で上京。 兄の友人で同郷の伊藤整らとともに、新しい詩の形を求めて翻訳や詩作を始めました。故郷の風景を詩想へと昇華しながら、J.ジョイスやV.ウルフなどの翻訳も時代に先駆けて行い、 優れた言語感覚と独自の美学によって当時のモダニズム詩壇の最前線に立ちます。 しかし道半ば、24歳で病没しました。近年、再評価の機運が高まる左川ちかの短くも鮮烈な生涯とその詩の世界を、北海道の風土と文芸、モダニズム詩壇の興隆、翻訳の時代、現代における再生といった視点で探ります。 観覧料一般500(400)円、高大生250(200)円、中学生以下・65歳以上無料 ⚫︎大野 百合子(おおの ゆりこ、1908年〈明治41年〉4月24日[1][2] - 1938年〈昭和13年〉9月26日[3])は、日本の詩人。才能に恵まれながらも早世した女流詩人とされる[4]。 https //w.wiki/88QX 経歴 1908年(明治41年)4月24日、北海道余市町で誕生した[1][5]。1917年(大正6年)に小樽区に転居[2]。小樽高等女学校(後の北海道小樽桜陽高等学校)に入学したが、病気により中退[1][4]。上京して洋裁を学び[2][6]、1926年(大正15年)に小樽洋服裁縫女学院を設立した[1][7]。1932年(昭和7年)の解院までに、約200人の卒業生を送り出した[2][8]。 20歳代から、詩作に本格的に取り組み[4][8]、文学雑誌『新短歌時代』『詩歌建築』などに詩を投稿した[1]。詩人の宮崎丈二に認められたことで[1][7]、宮崎に師事し[9]、1931年(昭和6年)[2]、同人誌『河』に参加した[1]。当時の同人の1人は百合子を「不意に窓から吹き込んできたような微風」と表現した[6]。1933年(昭和8年)までに、61編の詩を発表した[1][7]。『婦人公論』1932年(昭和7年)正月号の付録「全国代表婦人」では、職業婦人の1人として名が挙げられた[2][8]。 1935年(昭和10年)に結婚して満州に渡った後[3][4]、結核により[9]、1938年(昭和13年)9月に30歳で早世した[3]。 評価 大野百合子の詩風は、高村光太郎や宇野浩二といった作家たちからも絶賛を受けた[1][7]。「真面目で豊かに満ちた感性」とも評価された[1]。宮崎丈二は、百合子の死去の翌年に発行された遺稿集『雪はただ白く降りて』の序文において、その詩を、孔子の言葉を引用して「全く思ひ邪(よこしま)なしと云ふ感じがする」と述べた[10][11]。 平成期には、北海道小樽市の市立小樽文学館で「絵と書で描く小樽・詩の世界コンクール全応募作品展」が2006年(平成18年)に開催され、小樽界隈ゆかりの作家の詩からイメージした絵や書を子供たちから募集したところ、百合子の詩に最も多くの絵が寄せられた。このことで、「平明でやさしい百合子の詩が、思っていたよりずっと力強いことに気がついた」との声もあった[11]。 同時期に詩人として活動した左川ちかは、北海道余市町で誕生、小樽高等女学校出身、早世と大野との共通点が多く、二人が並べて紹介されることも多い[6][9]。 百田 宗治(ももた そうじ、1893年1月25日 - 1955年12月12日)は大正・昭和期の詩人、児童文学者、作詞家。本名は百田宗次。少年時代の号は楓花。現在の大阪府大阪市西区新町出身[1]。童謡『どこかで春が』(草川信作曲)の作詞で知られる。https //w.wiki/88Pg 来歴 高等小学校卒業後、フランス語を独学する[1]。1911年ごろより詩を書き始め、1915年に個人雑誌『表現』を発行。翌1916年に詩集『一人と全体』を発表[1]。詩の傾向としてはホイットマンやロマン・ロランの影響を受けた人道主義的・民主主義的傾向で、1918年に創刊された『民衆』を契機として、富田砕花や白鳥省吾とともに民衆詩派の一員として数えられるようになる[1]。 新潮社が創刊した「日本詩人」の編集にあたり、1926年に発刊した『椎の木』では三好達治、丸山薫、伊藤整、春山行夫、阪本越郎など若手詩人を起用し、一時代を築いた[1]。その頃から、モダニズムを取り入れた俳句系の詩風へ変化[1]。1932年ごろより児童詩・作文教育に携わるようになり、波多野完治、滑川道夫、巽聖歌ら作文教育の指導者を育てた[1]。戦中期には報道部員として大陸に渡った。東京大空襲で家を焼かれ、戦後間もない時期は3年ほど北海道に転住。1953年からは千葉県に住み、終の棲家とした。墓所は、千葉県南房総市(旧・安房郡富山町)高崎[1]。 伊藤 整(いとう せい、1905年(明治38年)1月16日 - 1969年(昭和44年)11月15日)は、日本の小説家、詩人、文芸評論家、翻訳家。本名:伊藤整(いとう ひとし)。https //w.wiki/4Rkn 抒情派詩人として出発したが、その後詩作を離れて小説・評論に重心を移し、ジェイムズ・ジョイスらの影響を受けて「新心理主義」を提言。戦後は旺盛な著作活動に加え、ベストセラーや裁判の影響もあり、もっとも著名な評論家の一人となった。私小説的文学の理論化をめざすとともに自身も創作を行い、評論では『小説の方法』「近代日本人の発想の諸形式」「近代日本における『愛』の虚偽」『日本文壇史』などがあり、『氾濫』『変容』『発掘』は、夏目漱石の衣鉢を継ぐ近代小説三部作である。 社団法人日本文藝家協会理事、東京工業大学教授、社団法人日本ペンクラブ副会長、財団法人日本近代文学館理事長などを歴任した。日本芸術院会員。位階は正五位。勲等は勲三等。 生涯 詩人としての出発 北海道松前郡炭焼沢村(現松前町)で小学校教員の父伊藤昌整と母タマ(旧姓鳴海)の間に、姉1人と弟妹10人の12人兄弟の長男として生まれた。父は広島県高田郡粟谷村(現三次市)出身で、教導団出身の陸軍少尉だったが、日清戦争出征後、海軍の水路部測量員(灯台看守兵)に志願して北海道に渡った[1]。まもなく辞職して白神尋常高等小学校の教員となり、整が生まれた年に父は日露戦争出征で203高地で重傷を受けて帰国し、旭川の官舎に移る。1909年に父は塩谷村(現小樽市)村役場書記となり、塩谷村へ移る。 旧制小樽中学(北海道小樽潮陵高等学校の前身)を経て小樽高等商業学校(小樽商科大学の前身)に学ぶ。中学3年生の時に、2年先輩の鈴木重道(北見恂吉)の影響で詩に関心を持ち[2]、級友と同人誌『踏絵』を発行。小樽高商在学中の上級生に小林多喜二や高濱年尾がおり、一緒にフランス語劇に出演したこともある。卒業後、旧制小樽市立中学の英語教師に就任。1923年に友人川崎昇(左川ちかの兄)と同人誌『青空』発行。1926年に百田宗治主宰の『椎の木』に手紙を出して同人となり、自費出版した抒情詩詩集『雪明りの路』で百田宗治、三好達治に高く評価された。小樽で教員を続けながら、1928年に河原直一郎、川崎昇と同人誌『信天翁』刊行。宿直室に泊まり込んで下宿代を浮かせたり、夜間学校の教師の副職をするなどして、1300円の貯金を蓄え、2年後に教師を退職し上京し、北川冬彦、仲町貞子らと同居。 小説と評論 1927年旧制東京商科大学(一橋大学の前身)本科入学。内藤濯教授のゼミナールに所属し、フランス文学を学ぶ。また北川冬彦の紹介で入った下宿屋にいた梶井基次郎、三好達治、瀬沼茂樹らと知り合い親交を結び、瀬沼茂樹の主催していた『一橋文芸』に短編小説を寄稿し[3]、瀬沼とはその後も生涯にわたって親交を結んだ[4]。また河原、川崎と批評誌『文芸レビュー』刊行、処女小説「飛躍の型」を同誌に発表、続いて「鸚鵡」「パルナス座」「繭」などを発表。1930年には小説「送還」「感情細胞の断面」を川端康成に推奨された他、評論「文学領域の移動」「ジェイムス・ジョイスのメトオド『意識の流れ』に就いて」などを『文芸レビュー』『詩・現実』『新科学的』各誌に発表。また小川貞子と結婚、『科学画報』に掲載した小説「潜在意識の注意」で初めて原稿料を手にし、ジョイス『ユリシーズ』の翻訳を永松定、辻野久憲と『詩・現実』に連載[5]。 1931年に20世紀文学の翻訳に力点を置いた『新文学研究』を編集し金星堂から発行、東京商科大を退学し、『文芸レビュー』『風車』の同人と『新作家』を創刊。1932年に処女評論集『新心理主義文学』で、ジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフらの影響による「新心理主義」を提言し、川端康成や横光利一など当時の文壇にも影響を与え、自身も実験作『生物祭』『イカルス失墜』などを執筆し、一連の作品は文芸評論で批判にも晒されたが、吉本隆明は現代文学体の代表作として横光利一「機械」と並ぶものと評している[6]。 高浜 年尾(たかはま としお、1900年12月16日 - 1979年10月26日)は、俳人[1]。ホトトギス代表[1]。俳人高浜虚子の実子。「年尾」の名は正岡子規の命名による。https //w.wiki/88Pm 経歴・人物 東京市神田区猿楽町に虚子・いと夫妻の長男として生まれる。開成中学校から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に進む。小樽高商時代は同期に小林多喜二、1期下に伊藤整がおり、全員でフランス語劇に出演したこともある。卒業後、旭シルクに入社する。のち転勤により兵庫県芦屋に転居する。句作は父虚子の手ほどきを受けて中学時代から始めていたが、この時期に一時中断、1938年に『俳諧』を発行し連句をはじめる。「俳諧」は俳句、連句、俳文、俳詩、俳論などのほか俳句の英・仏・独訳を載せるなど意欲的な俳誌であった。 1939年、旭シルクを退社し以後俳句に専念、関西の俳壇の中心として活躍する。1944年、戦時下の物資不足のため『俳諧』を『ホトトギス』に合併させる。1951年『ホトトギス』雑詠選者。1959年、朝日俳壇および愛媛俳壇選者。同年虚子より『ホトトギス』主宰を継承する。1979年10月26日死去、78歳。死後『ホトトギス』主宰は次女の稲畑汀子に引き継がれた。句集に『年尾句集』ほかに『俳諧手引』などの著書がある。 趣味は文学運動[1]。宗教は仏教[1]。住所は兵庫県芦屋市月若町[1][2][3]。 小林 多喜二 https //w.wiki/4mYx 小林 多喜二(こばやし たきじ、1903年(明治36年)12月1日[注釈 1] - 1933年(昭和8年)2月20日)は、日本のプロレタリア文学の代表的な小説家、共産主義者、社会主義者、政治運動家。日本プロレタリア作家同盟書記長。日本共産党党員。 4歳のとき、一家で北海道の小樽に移住、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に学ぶ。小樽で銀行に勤めてから、葉山嘉樹、ゴーリキーなどの作品を通じてプロレタリア作家の自覚を持ち、小樽の労働運動にも関わり始めた。 1928年、共産党関係者大検挙(三・一五事件)の小樽を題材にした『一九二八年三月十五日』をプロレタリア文学の機関誌「戦旗」に載せ、翌年には『蟹工船』を発表して評価を得た。また、大農場の小作人と小樽の労働者の共同闘争を描いた『不在地主』(1929年)が原因で銀行を解雇された。その後は投獄と保釈をくりかえし、1931年、非合法の共産党に正式に入党。しかし1933年、警察に逮捕・虐殺された。 生涯 多喜二は、秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市川口)[1]に小作農家の[注釈 2] 次男として生まれた。当時北海道・小樽で苦難の末に事業に成功した伯父が自分の失敗によって傾いた実家の始末を負わせていた弟夫婦(多喜二の両親)への恩返しとして「小樽の学校に通わせたい」と言う提案により長男を移住させていたが間もなく病死した。多喜二が4歳の時に伯父の計らいによって一家全員で小樽・若竹町の伯父の別宅に移住する。 生活は豊かではなかったが、伯父の工場に住み込みで働く代わりに学資を受け小樽商業学校から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)へ進学。在学中から創作に親しみ、絵画[注釈 3] や文芸誌への投稿[注釈 4] や、校友会誌の編集委員となって自らも作品を発表するなど、文学活動に積極的に取り組んだ。小樽高商の下級生に伊藤整がおり、また同校教授であった大熊信行の教えを受ける。 この前後から、自家の窮迫した境遇や、当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動への参加を始めている。実家からほどない小樽築港には幾つもタコ部屋が設けられ、労働者の酷使される姿は幼少期より多喜二の身近に在った[2]。 1924年に小樽高商を卒業し[1][3]、北海道拓殖銀行(拓銀)に入行して同行小樽支店に勤務し、そのころ5歳年下の恋人田口タキ[注釈 5]に出会う。タキは父親が残した多額の借金により13歳の頃より酌婦として飲み屋に売られていた。多喜二は友人からの借金でタキを身請けし、結婚ではなく家族という形で実家に引き取った。多喜二の家族も暖かく迎えたが、タキは身分の差に悩み7ヵ月後に家出をする[6]。1928年の総選挙のときに、北海道1区から立候補した山本懸蔵の選挙運動を手伝い、羊蹄山麓の村に応援演説に行く。この経験がのちの作品『東倶知安行』に生かされている。同年に起きた三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を『戦旗』に発表。作品中の特別高等警察(特高警察)による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に拷問死させられる引き金となったともいわれる。 1929年、拓銀に在職しながら、郷利基のペンネームで『海上生活者新聞』の文芸欄を担当する記者になる。1929年1月5日発行の第一号には「船員は何を読まなければならないか」を二号には「葉山嘉樹海に生くる人々の紹介」三号には『寄らば切るぞ!』を掲載した。[7][8]海上生活者新聞はこの三号をもって廃刊。 1929年5月に『蟹工船』を『戦旗』に発表し、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集め、同年7月には土方与志らの新築地劇団(築地小劇場より分裂)によって『北緯五十度以北』という題で帝国劇場にて上演された[9]。同時に特別高等警察から要注意人物としてマークされ始めた。 大熊 信行(おおくま のぶゆき、1893年2月18日 - 1977年6月20日)は、経済学者・文芸評論家・歌人。https //w.wiki/88Pv 富山大学教授、神奈川大学教授、創価大学教授などを歴任。福田徳三門下。 経歴 山形県米沢市元籠町生まれ。旧制米沢興譲館中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)を経て1916年東京高等商業学校(現一橋大学)卒。中学時代、浜田広介や上泉秀信と同人誌を作っていた。 1916年日清製粉入社。米沢商業学校で教鞭をとった後、1919年東京高等商業学校専攻部進学、1921年同卒。1941年経済学博士(東京商科大学)。論文の題は「経済理論における配分原理の所在並に適用に関する基礎的研究」[1]。 1921年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)講師、1922年同教授、1923年病気で同校を退職。南湖院で闘病する。1927年高岡高等商業学校(現富山大学経済学部)教授、1929年から1931年まで文部省在外研究員として、イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国に留学。戦時期は「政治経済学」の構築を唱道、1942年高岡高商を退職し海軍省大臣官房調査課嘱託、1943年大日本言論報国会理事。 小樽高等商業学校で小林多喜二、伊藤整、高岡高等商業学校で篠原三代平、西川義朗などを教えた。 1946年山形県地方労働委員会初代会長。1947年公職追放を受ける。1948年、米沢に教育思想研究会を創立主催し旺盛な研究執筆活動を行う。公職追放解除後は論壇で活動の傍ら、1952年神奈川大学教授、1953年富山大学経済学部長、1965年神奈川大第二経済学部長、1971年創価大学教授を歴任した。1975年に請われて竹岸食肉専門学校校長に就任するが、1977年劇症肝炎のため米沢市で死去。 没後2年の1979年に、大熊の人と思想・文学・学問上の業績をさまざまな角度から検討・研究・整理し、大熊が問題意識をいだいていたさまざまな領域について討論の場を設けるために大熊信行研究会が発足した[2]。1993年6月には生誕百年記念講演会が東京と山形で開催され、東京では板垣與一が主催者代表挨拶をし篠原三代平「大熊経済学の印象」、鶴見俊輔「国家の二重性と家の二重性」の講演が行われた[3]。山形では鶴見俊輔が姉の鶴見和子に替わり「大熊信行にとっての文学」と題する講演を行った[4]。大熊信行研究会は論創社内に事務局を置き2015年6月まで年に1回、東京で研究会・偲ぶ会を開いていた。 業績 経済学者としては、資源配分論として、ミクロ経済学の研究を、先駆的に行うなどした[5]。 歌人としては、旧制中学時代に石川啄木の影響で作歌を始め、土岐哀果の「生活と芸術」や反アララギの砦となった「日光」に短歌を発表。1927年に「香円(まるめら)」を創刊して主宰となり、「まるめら調」と呼ばれるようになる口語自由律短歌を世に送り出した。歌人としての活動は高く評価されていたが、出版された歌集は没後刊行の全歌集『母の手』のみである。 土岐 善麿(とき ぜんまろ、1885年(明治18年)6月8日 - 1980年(昭和55年)4月15日)は、日本の歌人・国語学者。歌人として土岐 哀果(とき あいか)の号も使用した。https //w.wiki/88Q7 哀果の号を用いたが、1918年以降は本名の善麿。独創的なローマ字三行書きの短歌集『NAKIWARAI』(1910年)で注目される。日常の哀歓をうたった生活歌が多い。ほかに『黄昏に』(1912年)など。 戦前 東京府東京市浅草区浅草松清町(現在の東京都台東区西浅草一丁目)の真宗大谷派の寺院、等光寺の二男として生まれる。等光寺は美濃国の守護大名土岐頼芸の遺児・大圓が創建した寺と伝えられる[1]。父・善静は柳営連歌最後の宗匠で、学僧として知られた。 東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)では同級生に石坂泰三、三宅正太郎、一級下に谷崎潤一郎がいた。中学在学中より学友会雑誌に文章、短歌、俳句の投稿を始める。 1905年(明治38年)、金子薫園の「白菊会」に入会し、田波御白、吉植庄亮、平井晩村らと知り合う。早稲田大学英文科に進み、島村抱月に師事。学外では馬場孤蝶に学び、外国文学に親しむ。窪田空穂の第一歌集『まひる野』に感銘を受け、同級の若山牧水と共に作歌に励んだ。北原白秋も同級である。牧水との交流は特に深く、ともに回覧雑誌「北斗」を作ったり(他の会員には佐藤緑葉、安成貞雄らがいた)、父の納骨の際に京都へ同行したりした。 早稲田大学卒業後、読売新聞社会部記者となった1910年(明治43年)、第一歌集『NAKIWARAI』を「哀果」の号で出版。この歌集はローマ字綴りの一首三行書きという異色のものであり、これを契機にローマ字運動に参加する。『NAKIWARAI』はヘボン式を採用したが、すぐに日本式ローマ字に転向し、田中舘愛橘、芳賀矢一、田丸卓郎指導のもとに「ローマ字世界」の編集に当たる。その後も読売に勤務しながら歌作を続けた。翌1911年には第二歌集『黄昏に』を刊行。 1911年(大正元年)に大杉栄、荒畑寒村らと「近代思想」の執筆者に加わり、大杉と知り合う。そこから社会主義的傾向を持つようになる。 1913年(大正2年)、読売新聞特派員として満州、朝鮮を視察。レフ・トルストイの短編集『隠遁』を翻訳する。石川啄木とともに刊行を計画して果たせなかった『樹木と果実』の後継として雑誌『生活と藝術』を創刊し、啄木の遺稿などを多く発表するが、1915年(大正4年)の2月号が発禁処分を受ける。「生活と藝術」の連載「歌壇警語」にて、半年にわたり斎藤茂吉と論争を展開する。 読売新聞社会部長の任にあった1917年(大正6年)、東京奠都50年の記念博覧会協賛事業として東京〜京都間のリレー競走「東海道駅伝徒歩競走」を企画し、大成功を収めた。これが今日の「駅伝」の起こりとなっている。しかしこの企画が予算オーバーだったために責任を取らされ、翌1918年(大正7年)に読売を退社、朝日新聞に転じる。 1919年(大正8年)、哀果の号を廃し、本名の善麿を名乗り始める。1923年(大正12年)、東京朝日新聞学芸部長に就任。1924年(大正13年)、白秋や前田夕暮、釈迢空らとともに雑誌「日光」の創刊に参加する。 1928年(昭和3年)に日本エスペラント学会の理事に選ばれ、また国語国字問題についての著書を出版。1934年(昭和9年)には日本放送協会の放送用語並発音改善調査委員となるなど、昭和初期には歌人としてよりも、国語の専門家として広く知られていた。
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軽子沢中学の教師たち鬼塚校長 徳島教頭 福岡ユウコ 松本ケイコ(第十九夜『書割の現世』) 野村先生(第二十一夜『六尺降臨』) 鈴木マサムネ(第二十一夜『六尺降臨』、第百二十夜) 鈴木ヒデヨシ(第二十一夜『六尺降臨』) 青木マサヤ(第二十三夜『寄る辺無き者の罠』、第百十八夜) 山口ミチオ(第百十八夜) 小林先生(第四夜『天体観測 』、第六十四夜『混沌の地』) 岩倉ヒョウゴ(第百十五夜~) 熊本サチエ(第六十四夜『混沌の地』) 天堂ツカサ(第百二十八夜) 軽子沢中学の生徒たち村野マユミ(第四夜『天体観測』、第六十四夜『混沌の地』、第六十五夜『真偽』) 岩井ジュンコ(第二十七夜『百物語の真実』) 五十嵐ヒトミ(第五十七夜『陰の宴』、第百二十四夜) 女子テニス部(第五十七夜『陰の宴』) 尾藤ケンサク(第六十五夜『真偽』、第六十八夜『真白』) 石川レイカ(第六十八夜『真白』) HHH団(第七十二夜『独歩』) 真鍋ミヨコ(第八十一夜『衆合地獄』) 男子バスケットボール部主将(九十夜『思い出ボール』) 男子バスケットボール部員(第九十夜『思い出ボール』) 一条マイ(第九十二夜『文車妖妃』) 宇都宮ケンジ(第百三夜) 高知ヒデト(第百三夜) 斉藤アンナ(第百三夜、第百四十四夜) 宮崎ユリ(第百三夜、第百四十四夜) 藤谷ユミ(第百七夜) 若山ユイ(第百十四夜) 近藤ユウキ(第百二十四夜) 山梨レイ(第百二十七夜) 本木タツヤ(第百二十七夜) 富山ハジメ(第百三十一夜、第百三十八夜) 広島コイ(第百三十六夜) 杉浦シュンスケ(第百三十八夜) 『枡や』関連店長 店長の妻(第百十七夜) マキさん(第三十七夜『悔悟の神酒』、第五十二夜『切符』) ブンちゃん(第五十二夜『切符』) 新聞屋(第五十二夜『切符』) テッちゃん(第五十二夜『切符』、七十七夜『隻腕』) 『片腕の男』(七十七夜『隻腕』) アルバイトの女の子(第百三十五夜) 『黒ずくめの男』関連福島トオル(第一夜『七不思議』、第五夜『ホームレスの花嫁』) 清水コウタロウ(第一夜『七不思議』、第五夜『ホームレスの花嫁』、第十六夜『猩血帝母(せいけつていも)』) 福島ユミコ(第五夜『ホームレスの花嫁』) 『黒ずくめの男』(第四夜『天体観測』、第五夜『ホームレスの花嫁』、第十四夜『玄と黒』) 滝乃城跡公園のホームレス(第五夜『ホームレスの花嫁』、第十四夜『玄と黒』、第六十五夜『冥い部屋』) 『呪いのビデオ』関連高村ヒロシ(第六夜『静かなる助走』) 宮前サトル(第六夜『静かなる助走』) 甲本ケンイチ(第六夜『静かなる助走』) 高村タカシ(第六夜『静かなる助走』) 『呪いのビデオ』(第六夜『静かなる助走』) 『呪いの携帯』関連青森アイ(第七夜『覗く携帯』) 『勃起したペニスのストラップのついた携帯電話』(第七夜『覗く携帯』) 軽子沢中学の教師たち 鬼塚校長 鬼塚ケンシロウ。58歳。未婚。童貞。その髪型から『バーコード』と呼ばれ一念発起、横髪だけを残すが、今度は『カトちゃん』『波平』と呼ばれる。屋上で昼食を取り、昼休みの校庭を眺めつつ満腹の腹をさすっている所を生徒に目撃、オナニーをしているものと勘違いされ、様々な怪情報が学校を駆け巡ることになる。それにより軽子沢中学は混乱に陥り、学級委員会は校長が釈明する他解決策はなしと判断、風紀委員に校長を説得するよう依頼。それを受けついに全校集会において『オナニーはもうしない』と表明させられる。しかし相手がいればオナニーではないと判断し、デリヘル嬢を呼ぶが、やって来たのは宇宙人だった。その際『チェンジチェンジ』と叫んだことから、現在のあだ名は『チェンジマン』である。十二畳のワンルームマンションに住み、3000万の貯金がある。成金趣味だがスーツはニセブランド品で、時計もロレックス風のノーブランド。(第七十二夜『独歩』)風紀委員会別室校内調査部、通称『内調』を従えており、ユウジロウの素性についても調査済み。(第七十六夜『真理』)駅前でチンピラ風の若者4人に恐喝されかかっていたが、何故かその4人は死んでいた。何が起こったか詳細は不明。(第七十九夜『賢しらな羊』)文部科学省との役人との会談後、彼らを殺害し自らも自殺。(第九十八夜『夢みたものは』)文部省と警視庁の一部勢力による合同の『素晴らしき子供たち計画』で選抜された特命教師の一人。教師からあがってきた情報だけでは校内での出来事を把握できないと、生徒と直接の情報網を作り上げるため悪魔の力を借りた。契約は死後、悪魔に肉体を明け渡すこと。よって自殺後悪魔化。大殺戮を敢行する。(第九十九夜『死んだ男の残したものは』)しかしどういうわけか『軽子沢警備隊』に事前に悪魔化は阻止される。歴史が変わったのか悪魔との関係はなく、また『4人殺し』は弟のケンゴロウの仕業で、既に逮捕済み。(第百一夜)また、生徒らから散々馬鹿にされていた為に異動願いを出していたが、『軽子沢警備隊』の突入を不祥事と見なされ却下。失意の中自殺サイトで自殺仲間を募るが、すっぽかされる。そして同じく参加者だった的場リュウジの母と出会いラブホテルへ入っている。パソコンは不得意。また3000万の貯金とは別に、株券などで合計で7000万程の資産があるようだ。(第百二夜)リュウジの母との関係は発展し的場家にも出入りするほどになった。(第百四夜)熱海の高級温泉旅館に二人きりででかけてもいる。(第百八夜)的場家からの電話に割り当てられた着信メロディは『男はつらいよ』また、再度自殺をしようというしつこいメールを受け、新聞委員会、軽子沢調査隊に救われたため、的場リュウジ、志賀マサト、霧原トオル、雪野カエデ、サヨリには少なくとも的場ケイコとの関係を知られていると思われる。(第百九夜)12月半ば、ケイコと結婚。(第百十九夜)既に職場の教師達へは連絡済み。結婚式も近々行われる予定。(第百三十七夜)『毒入り御神酒事件』に関与。ギリギリで助かっている。(第百四十四夜)正月早々、妻ケイコとの結婚式の準備に追われている。わがままで頑固な一面も。(第百四十九夜) 徳島教頭 名は剛三。52歳。座右の銘は『質実剛健』存在の薄い教頭だが、軽子沢中学に赴任する以前は熱血教師だった。同期のうだつのあがらない大人しい教師に熱血指導を勧めたものの、逆効果になってしまい、その教師は生徒から逆にいじめられ自殺。それ以来反省し、喪に服す代わりに熱い血を冷ますことで霊を慰めている。しかし呪われた存在であることに代わりはなく、細かい不幸が続いている。妻と子供にも逃げられている。若い頃は勉学に励み、教育に熱心に取り組んでいた為運転免許を持たず、自転車通勤。バツイチ。(第六十六夜『冥い部屋』)教員、生徒含めて最も早く登校。その日の仕事を確認しゆっくりと茶を飲むのが日課。志賀マサトに犯された後、鈴木マサムネにも犯され何かに目覚める。(第百二十夜)その後、北方公園南東のトイレに潜伏。『犯して犯して』と懇願しているものが『犯してぇ』と聞こえたらしく、死んだ強姦魔の霊が出ると噂になった。(第百二十三夜)その後更生したのかどうなのか、落ち着いた模様で、ネコマタ、もんじろーを拾い飼い主となる。彼女を美人だとは認めているが性対象にしようとは思っていないらしい。添い寝の際もあくまでネコとして扱っている。無駄なことが嫌いで、食生活も質素。合気道有段者であり健康体である。趣味は散歩と盆栽。(第百四十二夜) 福岡ユウコ 二年D組の担任。初登場時24歳だったが誕生日が9月末の為、現在は25歳。(第五十五夜『彼岸峠』)美人でキツそうな顔をしているが笑うと愛嬌があり、性格も穏やか、立ち居振る舞いも上品で女子にも人気があるが、本人はほとんどオヤジギャル状態。美人、デキる女と扱われることを嫌う。クルマで通勤しているが週に何度かはジャージ姿で走って通勤している。ダイエット中らしい。授業中のみメガネを使用。実家は資産家。10万円近い家賃と10万円の仕送りをもらっていて、セキュリティのしっかりした高級マンション住む。しかし部屋はそんなに片付いているわけではない。処女。祖母の霊に守られている。(第三十三夜『優しき守護霊』)しかし、林間学校中ユウジロウに犯されかかった。(第十二夜『落武者の森』)また高校時代は関東一円に名を轟かせた暴走族『愚麗死威(グレイシー)』の初代総長、『紅暴走天女(クレナイボウソウテンニョ)』だった。愛車はホンダドリームCB400FOUR。未だ現役で乗れるらしい。(第五十五夜『彼岸峠』)『枡や』での愛称は『ユウちゃん』またもともとその名がユウジロウのあだ名だった為、『二代目』、『二代目先生』と呼ばれることも。国語教師で読書家。『◆xDdCPf7i9g』を所有している可能性がある。ただそれが作中の出来事なのか現実なのか不明。(第九十七夜『遁走曲(フーガ)』)ケンシロウ悪魔化後、1年D組の生徒らと冷静沈着に逃げていたが、天井から突如現れたケンシロウと対峙。生徒を逃がすも乳房を食いちぎられ死亡。(第九十九夜『死んだ男の残したものは』)しかし『◆xDdCPf7i9g』により未来の大殺戮を事前に知り、愚麗死威時の姿で『預言者ダマクルス』と名乗り、『軽子沢警備隊』を結成。大殺戮を阻止した。その際はブルーのアウディに乗っていた。(第百一夜)寺島進系の強面が好み。ただし面食いではない。そろそろ彼氏が欲しいらしい。『枡や』常連だが、飲みにいっているわけではなく定食屋として利用している。酒はそれほど強くない。食べれば食べる分だけ太ってしまう体質ながら大食。プロポーションはいいがだいぶ気を使っているらしい。(第百三十五夜)結婚していない同世代同士、山形アカネと意気投合している。(第百三十七夜)ある縁で、『愚麗死威』総長時代、小学二年生当時の木下サエと出会い彼女に多大な影響を与えた。木下サエはそのことをよく覚えていて毎年年賀状を寄こすが、一度もクラスを担当したことのない木下サエから何故年賀状が届くのか本人は疑問に思っている。(第百四十八夜) 松本ケイコ(第十九夜『書割の現世』) 学校の校医。七不思議の五、未来新聞の首謀者。学校の端においやられ、退屈した彼女は、『未来新聞の噂』という形で生徒たちを呼び込んでいた。熟年の域に達した熟女で、太めのペンギンのようなスタイル。顔は極めて温厚。 野村先生(第二十一夜『六尺降臨』) 開校当時からいる古株の教師。ショートピースを吸う。無口だが悩み事を相談すれば親身になって話を聞いてくれる。 鈴木マサムネ(第二十一夜『六尺降臨』、第百二十夜) 六十三歳で死んだ元用務員、鈴木ヒデヨシの双子の兄。変質者に犯された女子の霊が二階女子トイレに出るとの噂を流しやってきた男子生徒や教員を犯す亡霊。ユウジロウも犯された。(第二十一夜『六尺降臨』)また偶然やってきた教頭も犯す。(第百二十夜) 鈴木ヒデヨシ(第二十一夜『六尺降臨』) 中学校の現用務員。 青木マサヤ(第二十三夜『寄る辺無き者の罠』、第百十八夜) 若手教師。愛想がよく人望が厚い。生徒の恋愛相談などにも真剣に取り組む。竜神湖でのカーセックスの件をユウジロウに教え暗視装置まで貸す。(第二十三夜『寄る辺無き者の罠』)担当は歴史。関口ナミという小池栄子似の彼女がいる。(第百十八夜) 山口ミチオ(第百十八夜) 化学担当。通称『サドミチオ』サドは佐渡ではなく、サディストであることに由来するが語感がいい為そちらを本名だと思っている生徒もいる。基本的に生徒を叱ることなど滅多にないおとなしい教師で、生徒ら騒がしくしていても、淡々と授業を進める。しかしいざテストとなると、生徒らが私語をするなどして聞いていなかった部分を的確に出題にしてくる。また、『これはテストにでるかもしれないからよく聞いておくように』と言った部分に関しては、テストに出ない。だがそう思い油断していると、今度は口約通りテストに出してくる。テストは基本的に穴埋めの記号問題だが、記憶を混乱させるような選択肢を多数用意するなどテストに関しては非常に冷酷。 小林先生(第四夜『天体観測 』、第六十四夜『混沌の地』) 天文部顧問だがやる気がない。 岩倉ヒョウゴ(第百十五夜~) 地理を担当。34歳。東大理工学部卒。身長3メートル超、体重300キロの巨体。『喰うぞ』『俺の名前を言ってみろ』『愛媛のみかんは世界一』などが口癖で格闘技にも興味があるようだ。的場リュウジをデコピン一発で昏倒される怪力の持ち主だが、小食。(第百十五夜)しかし実は父である彫刻家、ケンゾウが『生ける土』で作り上げたゴーレムであり、本人は勉強もでき運動神経もよく、大学卒業後、ロケット技師を目指すが交通事故により死んでいる。戸籍上はそのままになっているが基本的に別人である。元々は美男であったが、風呂に入れられ溶けてしまった為、現在の形は妻トモミの製作によるもの。あちらこちらを足したり削ったりしているうちに巨大になってしまった。その後やはり巨大すぎると判断され、体長40センチのくま型になった。主である妻、トモミのいうことは何でも聞くため人格も一定ではない。初出勤の日、『生徒にナメられないようにしっかりね』とトモミに言われた為極端に凶暴化し、後日『生徒に優しく丁寧に分かりやすい授業を』と訂正されている。(第百十六夜)くま型になったが体長が40センチしかない為、抱き上げてもらわないと黒板に手が届かず、女子の間で奪い合いが起こった。何故かサヨリにはゴーレムだと見破られ、肉まんのような形にされ誘拐されかかる。(第百十六夜おまけ)異常なミカン好きで授業も愛媛のことばかり話す。お昼、福岡ユウコにみかんをむいてもらい食べる愛らしい彼の姿を見るため、昼休みは生徒でごった返す。いつの間にかゴマフアザラシ形になった。(第百二十三夜)『生ける土』はかなり大量にある自宅マンション寝室の押入れに保管されている。形作り魔術的な手順を踏むことで動くことができるが、あくまで最初に製造した一体のみが動くことができる。二体は作れない。その一体を完璧に二つに分けると機能停止。どちらか一方が少しでも大きければ小さい方は大きいほうの意思に従う。基本的には一体に戻ろうとする意思が強いらしい。妻のことは『トモミたん』と呼ぶ。声は自由に変えられるが声の大きさは体の大きさに比例する。マンガ同好会に動くフィギュアの材料として目をつけられ、『無限世紀おとめ組』のキャラクターフィギュアにされる。更に等身大にされ犯されかかったが危機一髪で助かった。(第百二十七夜)毛髪については、自分がこれは毛髪だと判断した部分が人間と同じさらさらとした毛髪に変わる。動物型なった際の毛も同様。またゴーレムという性質上睡眠をとらない。『無限世紀おとめ組』の望月ハトメになった際にはその美貌とアニメ人気から騒動となり、以来、生徒からアンケートを取り、順次姿を変えるように職員会議で決まった。意外とのりやすく、姿に合わせたキャラクターの演技をすることも。また勉強を妻トモミから教えてもらっている。(第百二十八夜)サヨリによく捕まる。(第百三十七夜)また的場リュウジからの依頼でグエン・ホアン・ロンなるスナイパーに化け、須藤アリサに撃たれたことも。(第百三十九夜)トモミにはとにかく優しく、トモミと話す際には話すペースをトモミにあわせて遅くしている。また主食はみかんであり、季節によって銘柄を指定。一日2個で満腹になる。中の白い筋は取らず中の皮も食べるのが流儀。(第百四十七夜) 熊本サチエ(第六十四夜『混沌の地』) 二年C組担任。教師生活三十年のベテランだが、その間、運良く大したトラブルもなかった為若干問題解決能力に劣る。 天堂ツカサ(第百二十八夜) 美術担当。白髪まじりの長髪。痩身。岩倉ヒョウゴの父ケンゾウの人間本来の美しさだけではなく、醜さをも彫刻で表現する姿勢に感銘を受け少なからず影響を受けたという。ヒョウゴの姿が毎日変わるという当たり前の疑問を最初に持った人物で、望月ハトメの完璧すぎるプロポーションは彼の父ケンゾウの意にそぐわないとどういうわけか武田信玄に改造した。その事件がきっかけで、ヒョウゴの姿は生徒のアンケートによって決定されるようになった。その改造担当者でもあり、志村けんにするなどした。普段は美術室の教員用の個室に閉じこもっている。(第百二十八夜)ショートホープ愛好者。 軽子沢中学の生徒たち 村野マユミ(第四夜『天体観測』、第六十四夜『混沌の地』、第六十五夜『真偽』) 2年C組生徒。『ゴーストさま』で、死んだ山形ユウジロウを呼び出した天文部唯一の生き残り。(第四夜『天体観測』)しかし事件後、警察やマスコミから犯人ではないかと疑われ、ストレスから不登校に。制服が着れなくなるほど太り何とか登校するが、死んだはずのユウジロウが復活していることに驚愕。混乱しユウジロウを刺してしまう。しかし的場リュウジの活躍により天文部の一件(真犯人は『黒ずくめの男』及びホームレス)においては被害者であり全くの無罪であることが証明され、更に警察の強引な取調べも明らかになった。ユウジロウは起訴取り消しを求め受諾。精神病院で治療を受けているが経過は順調。危うく冤罪事件の被害者になりかけた彼女を応援するホームページなども多数ある。ユウジロウを刺した件に関しても、過剰なストレスによるもので責任能力なしと見なされている。(第六十四夜『混沌の地』、第六十五夜『真偽』) 岩井ジュンコ(第二十七夜『百物語の真実』) 中学生徒。相当な屋敷に住んでいて大学生の姉がいる。 五十嵐ヒトミ(第五十七夜『陰の宴』、第百二十四夜) 3年生。元女子テニス部主将。バスケットボール部主将とつきあっている。二年生の時、岡崎リョウコとの権力闘争に勝利し主将となった。(第五十七夜『陰の宴』)両親から都立高校への進学を申し渡されているが全く勉強に身が入らず、ネット上で探り当てた『影』なる東京都教育委員の職員を名乗る人物から都立入試試験を肉体と引換えに受け取ろうとする。その後消息不明に。 女子テニス部(第五十七夜『陰の宴』) ろくに部活動もせず、金と男のことしか考えていない。全15名(アリサ含む)。400万円でユウジロウに買春されるが陰行流艶術『止め抑え』(『打止め』)により、快感を得られない身体にされてしまう。 尾藤ケンサク(第六十五夜『真偽』、第六十八夜『真白』) 2年C組生徒。村野マユミによるユウジロウ刺傷事件の際に真っ先に電算室を飛び出し職員室に駆け込んだサッカー部員。(第六十五夜『真偽』)美男子でモテる。矢口真里や山田花子、山口智子が好きらしく、好みのタイプがはっきりしない。告白されても大概は断っている。死んだ井上マユからもらったという人形を絶えず所持し、部屋にも壁一面にマユの写真を貼り付け、それを眺めて自慰にふける。マユとつきあっていたと本人は語っているが詳細は不明。(第六十八夜『真白』) 石川レイカ(第六十八夜『真白』) 2年C組生徒。村野マユミによるユウジロウ刺傷事件の際、真っ先に動いた尾藤ケンサクに惚れてしまう。告白するが玉砕。その語ケンサクの奇行を見て幻滅する。 HHH団(第七十二夜『独歩』) 鬼塚校長オナニー事件の際に結成された。HHHとは『変態ホモハゲ』の略。校長の変態行動(あくまで噂)に同調、共感した男子生徒ら数名が結成。別名『自殺志願校長親衛隊=JSK親衛隊』。屋上を不法占拠、陰部を丸出しにし、精液をばらまこうとしたが風紀委員の強行突入によって未遂に終わる。 真鍋ミヨコ(第八十一夜『衆合地獄』) 2年生。志賀マサトと同級。須藤アリサの陰謀で大学生との合コンに参加していたが、途中で帰り難を逃れた。 男子バスケットボール部主将(九十夜『思い出ボール』) 2年生。強面で口調も少々乱暴だが親切で優しい。また主将としても優秀である。シュウイチの取材を受け、『思い出ボール』について語った。ひょうきんな一面もある。 男子バスケットボール部員(第九十夜『思い出ボール』) 2年生。『思い出ボール』の取り扱いは、まず礼をしながら、『思い出○つ、お借りします』と宣言。そして宣言しただけの数のボールを自力でしかも取り終えるまで人に譲渡、床に置くなどせずに取り終えなければならないところを『4つお借りします』と宣言。3つまでは成功させるが4つめで取りこぼし、帰宅途中、バイクと激突。一命は取り留めたが3箇所を骨折する重傷を負った。 一条マイ(第九十二夜『文車妖妃』) 3年C組生徒。キーボードを使わずマウスのクリックのみでリンクをたどり、目的の情報を探す遊びをした際、『真の殺人魔とは、警察に容疑をかけられることも追われることもない(完璧に自殺に見せかけるか、遺体は完全に隠蔽し、殺人事件であることすら誰にも気付かせない)』というレポートを発見。隠しリンクで『ツギハオマエノバンダ』と宣告され、翌朝首吊り死体となって発見される。遺書はないが自殺と断定された。 宇都宮ケンジ(第百三夜) 2年生。文学部部長。『いのちみじかし…』という小説の登場人物になりきる遊びで『ケンジ』を担当。 高知ヒデト(第百三夜) 2年生。文学部。『いのちみじかし…』という小説の登場人物になりきる遊びで『マサシ』を担当。 斉藤アンナ(第百三夜、第百四十四夜) 2年生。文学部。『いのちみじかし…』という小説の登場人物になりきる遊びで主人公『マイコ』を担当。ところが本来ならば『ユキ』と和解するところをカッターナイフを所持して家を出た。目的詳細は不明。(第百二十七夜)『毒入り御神酒事件』に関与。助かる。(第百四十四夜) 宮崎ユリ(第百三夜、第百四十四夜) 2年生。文学部。『いのちみじかし…』という小説の登場人物になりきる遊びで『ユキ』を担当。(第百二十七夜)斉藤アンナによる殺害も考えられたが後に『毒入り御神酒事件』の関与していることから生存、無事が確認されている。更に斉藤アンナと同刻、同場所にいることから和解(?)したらしい。(第百四十四夜) 藤谷ユミ(第百七夜) 2年A組生徒。幼い頃から不治の病とされ、いつ死ぬか分からぬ日々を過ごし、奇跡的に14歳まで生きた。最後の希望として1年生の時同級生だった的場リュウジとの動物園デートを楽しむ。別れ際、楽に死にたい、リュウジのことは特に好きではなく、銃を持っているなど噂があったのでそれを利用しようとしただけと告げ、リュウジから毒薬を受け取る。直後死亡するが死因は不明。その際、リュウジのことが本当は好きだった、という手紙を残している。またリュウジの初恋の相手でもある。カバが好き。 若山ユイ(第百十四夜) 元テニス部員。須藤アリサ同様いじめられていた。テニス部に誘ったのはアリサで、彼女に恨みを持っているのか、一緒に自殺しようと誘うが断られ、彼女を非難し、殺そうとする。しかし須藤アリサの生きたいという強い意志により 彼女は消え、何故か彼女は同時刻、校舎屋上から飛び降りて死んだ。アリサを襲ったのは死の直前の生霊だと考えられる。 近藤ユウキ(第百二十四夜) 3年生。前バスケットボール部主将。五十嵐ヒトミとつきあっていた。会えば必ずセックスを求めそのセックスもかなり乱暴。短気でワンマンであったが選手としては優秀で、私立僅翔高校へスポーツ推薦入学が内定している。『内調』の『三』である。 山梨レイ(第百二十七夜) 2年生。マンガ同好会会長。童貞。同人誌作家でもある。岩倉ヒョウゴを捕獲、美少女フィギュアにする『ストーンエイジプロジェクト』や等身大のフィギュアを『生ける土』を使い作り出しレイプするという『リッジモントハイプロジェクト』などを発案。『毒入り御神酒事件』に関与。助かる。(第百四十四夜) 本木タツヤ(第百二十七夜) 2年生。マンガ同好会所属。通称イカデビル。ガレージキットモデラーとして活躍。表に出ることを嫌い、ネットオークションなどでフィギュアを売っている。割りと寡黙。そのモデルの完成度からそこそこの知名度がある。ニックネームの由来はその作業スピードの速さから手が10本ある、と噂されるため。『毒入り御神酒事件』に関与。助かる。(第百四十四夜) 富山ハジメ(第百三十一夜、第百三十八夜) 2年B組生徒。電算機同好会所属。姓は『トミヤマ』と読む。父がリストラにあい、母親のパート賃金が家庭の主な収入源という苦しい生活をしている。パソコン、ゲームマニア。トオルに依頼されパソコンを製作、修理してやったり、新作ゲームの情報を与える代わりにトオルがクリアしたゲームを貸りているが、事実上完全にもらっている。謎の裏ゲーム『Doors』をトオルに貸した。(第百三十一夜)特別仲のいい友人もおらず孤独で、インターネットに熱中しているが、そんな生活に疑問を感じており、変わりたいとも思っているようだ。山金町在住。(第百三十八夜) 広島コイ(第百三十六夜) 3年B組生徒。岡崎リョウコの友人。広島出身の上父親が大の広島カープファン。コイはそのことに由来し、その為ひどく名前を嫌っている。あだ名は『ヒロ』てきぱきとしていて、自分の思ったことはしっかりと主張し、言い争いになることもしばしばだが、その人柄からか嫌われているふうでもない。どうも彼氏がいるらしい。 杉浦シュンスケ(第百三十八夜) 1年生。電算機同好会所属。パソコンに詳しく、自作も手がける。MMORPGなどをしているようだが遊び程度。ただし存在しないスレッドをさも見えているのかのように楽しむなど多少おかしい部分もあるかもしれない。清水台在住。 『枡や』関連 店長 名は不明。『親父』と呼ばれる。元は赤坂の高級料亭の職人だった。来客の挨拶は『らっしぇい』返事は『へーい』勘定時は『ありがとうござーい』また、『~ですぜ』、『~でごぜぇやす』などと時代掛かった喋り方をする。福岡ユウコからは『お父さん』と呼ばれている。(七十七夜『隻腕』)赤坂の料亭に勤めていた頃、妻が出産、死産した。その際急な仕事で立ち会えなかったことを今でも後悔しているようだ。その後妻は床に伏し、料亭を辞め妻の面倒を見つつ仕事ができるよう『枡や』をはじめる。しかし妻に先立たれ、彼女の命日だけはアルバイトに店を任せて奥座敷にて一人酒を飲む。(第百十七夜)基本的に寡黙だが客によって対応を変え、暇な時には客とカウンター越しに話しこむこともある。意外な特技として稲川淳二の物真似がある。(第百三十五夜) 店長の妻(第百十七夜) 名は不明。店長との間に子を設けるが早産の上、死産だった。その後心労が祟り、寝込みがちになるも、一時『枡や』の仕事を手伝えるほどに回復。しかし十二月のある日、急逝する。 マキさん(第三十七夜『悔悟の神酒』、第五十二夜『切符』) 元枡や常連。美人。15年前に拉致され、輪姦された挙句、海に捨てられた。しかしその原因はレイプし、意識を失った為、どうしてよいか分からなくなった為にユウジロウが公園のベンチに放置したからだった。気風のいい姉御肌。 ブンちゃん(第五十二夜『切符』) 32歳。本名不詳。生活苦から自殺しようとしていた。最期を前にたまたま枡やを訪れ、マキさんの席に座ってしまう。マキさんの協力で仕事を得、新聞配達をしながら住み込みで働いている。名前は新聞配達員であることから後につけられた。マルボロ愛好者。 新聞屋(第五十二夜『切符』) ブンちゃんの働く新聞販売店の店主。 テッちゃん(第五十二夜『切符』、七十七夜『隻腕』) 群馬泰蔵。あだ名は鉄工所所長という肩書きから。そこそこ儲かっている。鉄工所が一度事務所荒らしに合い、犯人は崩れた鉄骨に右腕を取られ失うが逃走。以来、毎年事件のあった日には必ず従業員が右手の怪我を負うため晩秋の一日を定休日にしている。主に金曜日に鉄工所の従業員を連れ立って来店。気さくなスケベ親父。福岡ユウコからは『テツさん』と呼ばれる(第七十七夜『隻腕』) 『片腕の男』(七十七夜『隻腕』) 枡やにいた客。群馬泰蔵が事務所荒らし事件の話をしている時、隣にいた福岡ユウコの更に向こう隣にいた。右腕を失っているようだが、事務所荒らし事件との関連は不明。 アルバイトの女の子(第百三十五夜) 枡やにいる3人のアルバイトの内の1人。明るい性格で、オーダーを取る際など常連には何かしら一言声をかける。彼氏はいないらしい。 『黒ずくめの男』関連 福島トオル(第一夜『七不思議』、第五夜『ホームレスの花嫁』) 2年生。『黒ずくめの男』の正体。 清水コウタロウ(第一夜『七不思議』、第五夜『ホームレスの花嫁』、第十六夜『猩血帝母(せいけつていも)』) 3年生。ユウジロウに拉致された生徒。ユウジロウ自殺後、都立総合病院精神科に入院。退院後自殺に見せかけ母親に殺された。母子家庭だった。死後、霊となって山形家のドアに『呪』と刻み付けた。(第十六夜『猩血帝母(せいけつていも)』) 福島ユミコ(第五夜『ホームレスの花嫁』) 雑誌記者。ユウジロウの自殺事件を追ったが、福島トオル=『黒ずくめの男』と接触。死亡。 『黒ずくめの男』(第四夜『天体観測』、第五夜『ホームレスの花嫁』、第十四夜『玄と黒』) レイプ魔。レイプ後、滝乃城跡公園のホームレスに女性を渡し、ホームレスは女性を暴行後殺害。ペットの餌などにして処理していた。復活後のユウジロウと対決。しか し完敗。自らペニスを切り落とし失血死。『福島トオル~神に挑んだ男~ここに眠る』と遺書を遺す。 滝乃城跡公園のホームレス(第五夜『ホームレスの花嫁』、第十四夜『玄と黒』、第六十五夜『冥い部屋』) かつては公園内の清掃などをし、住民に気を使いながら生活していたが、新参の横暴なホームレスたちがやってきてからは一転、公園の治安を悪化させ、『黒ずくめの男』から犯した女の処理を請け負っていた。それは女を陵辱し、バラバラにした上で煮込み、ペットに食べさせるという凄惨なものだった。的場リュウジの取材によりそれらの事実が明るみに出、逮捕される。 『呪いのビデオ』関連 高村ヒロシ(第六夜『静かなる助走』) 刑事。『呪いのビデオ』を追う。助かる方法を突き止め、弟タカシを助けようとセックスに挑むも失敗。更に自分が助かろうとダッチワイフとセックスするが失敗。死亡。 宮前サトル(第六夜『静かなる助走』) 刑事。ビデオを見たが助かる。 甲本ケンイチ(第六夜『静かなる助走』) 刑事。ビデオを見て死亡。(第六夜『静かなる助走』)『地獄!天国!大反省会』のメインパーソナリティの一人を務めた。(第百二十二夜) 高村タカシ(第六夜『静かなる助走』) 高村ヒロシの弟。こっそりとビデオを見てしまう。兄に犯された挙句死亡。 『呪いのビデオ』(第六夜『静かなる助走』) 第一夜『七不思議』の様子を記録したビデオ。警察が押収。鑑賞した五人の刑事が同時に死亡。助かる方法は唯一、『セックスしながら見ること』 『呪いの携帯』関連 青森アイ(第七夜『覗く携帯』) 死亡した山形先生の代理として赴任してきた女教師。安アパートに住む。『勃起したペニスのストラップのついた携帯電話』を手にしてしまう。 『勃起したペニスのストラップのついた携帯電話』(第七夜『覗く携帯』) 山形先生の遺品。アドレスには『自宅』しかなく、メールもない。ただ福岡ユウコを隠し撮りした写真が大量に記録されている。
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<目次> ■はじめに ■ステップ1■国史を通して日本の保守思想のアウトラインを掴む ■ステップ2■保守思想を貶める捏造・歪曲を一掃する《1》歴史分野以上に酷い思想分野でのリベラル左翼の歪曲・捏造 《2》「天皇制ファシズム論」の嘘を見破る 《3》「保守」と「右翼」を区別し正しい認識を得る ■ステップ3■更に深く知るために《1》皇室に関する正しい知識を得る 《2》日本の保守思想の核心に触れる ■まとめ■日本の保守思想の再評価の動き ■はじめに 先日、最速!理論派保守☆養成プログラムを作成したところ 西洋思想ばかりで肝心の日本の思想がない(西洋カブレだ)というご批判や 逆に日本の保守思想もちゃんと知りたい|というご要望をいただきました。 実のところ、西洋思想は、所詮は外国の思想だという割り切りもあって、大胆に「これだ」という風に提示できる一種の気軽さがあったのですが、日本の保守思想については、私達の幾多の先達が大切に守り育て、私達に伝えられた価値観に関することであり、西洋思想のように躊躇なく論じるのは憚る気持ちが強くあります。 しかしながら、不要な誤解も受けたくなく、かつ、これを参考に知識を増やしていただける方が現れるのならば、という気持ちで、浅薄ながら日本の保守思想について、簡便なまとめページを作成しました。 願わくば、このサイトを訪問される有識者の方々、あるいは同学の士の方々からの有意義なコメントを通じて、このページがより適切かつ充実した内容にならんことを。 ■ステップ1■国史を通して日本の保守思想のアウトラインを掴む 名画にみる國史の歩み 小堀 桂一郎 (監修), 所 功 (編集)昭和8年(1933年)今上陛下ご生誕を記念して当代最高の日本画家達により10年の歳月をかけて製作された国史(日本の歴史)を辿る78点の名画集に、平成11年(1999年)今上陛下ご即位満10年の佳節を期して、小堀桂一郎・平泉隆房・新田均各氏を初めとする現代の一流史学者・研究家による解説を付した名品。amazonでページの一部を拝見できる。 物語日本史(上) (中) (下) 平泉澄(著) 講談社学術文庫『物語日本史』の序文(抜粋)(全文は「人権擁護法案マガジン・ブログ版」物語日本史(平泉澄)を読む 第1回 、 第2回 、 第3回 )(略)昭和二十七年四月、占領は解除せられ、日本は独立しました。長い間、口を封ぜられ、きびしく監視せられていた私も、ようやく追放解除になりました。一年たって昭和二十八年五月二日、先賢の八十年祭に福井へ参りましたところ、出て来たついでに成和中学校で講話を頼まれました。その中学校を私は知らず、中学生は私を知らず、知らぬ者と知らぬ者とが、予期せざる対面で、いわば遭遇戦でありました。講話は極めて短時間で、要旨は簡単明瞭でありました。「皆さん!皆さんはお気の毒に、長くアメリカの占領下に在って、事実を事実として教えられることが許されていなかった。今や占領は終わった。重要な史実は、正しくこれを知らねばならぬ。」と説き起して、二、三の重要なる歴史事実を説きました。その時の生徒の顔、感動に輝く瞳、それを私は永久に忘れないでしょう。生徒一千、瞳は二千、その二千の瞳は、私が壇上に在れば壇上の私に集中し、話し終って壇を下りれば壇下の私に集中しました。見るというようなものではなく、射るという感じでした。帰ろうとして外へ出た時、生徒は一斉に外へ出て私を取巻き、私がタクシーに乗れば、タクシーを取巻いて、タクシーの屋根の上へまで這い上って釆ました。彼らは黙って何一ついわず、何一つ乱暴はしない。ただ私を見つめ、私から離れまいとするようでした。ようやくにして別れて帰った私は、二、三日後、その生徒たちから、真情流露する手紙を、男の子からも、女の子からも、数通もらいました。私の一生を通じて、最も感動の深い講演でありました。成和中学の感動の忘れがたさに、それより十数年後の昭和四十五年、時事通信社より一貫せる日本歴史を書くよう求められた時、純真なる少年に呼び掛ける形を取りました。当時すでに七十六歳の私は、余命計り知るべからず、これを児孫への最後の贈り物、つまり遺書として書こうとし、したがって学者らしく事実を羅列して博学を誇るがごとき形式を好まず、ただ歴史の精粋を抜いて、誠実に父祖の辛苦と功業とを子孫に伝え、子孫もまたこの精神を継承して進むことを期待しつつ、しみじみと誠実に語ろうとして筆を執ったのでありました。(中略)願わくはこの小さき贈り物を満載せる帆船の行手、風穏やかにして波静かなれ。昭和五十三年十二月十日朝 白山寒林の中にて 平泉 澄----上中下3巻本。著者 故・平泉澄博士は、昭和5-6年(1930-31年)欧州に留学しマイネッケのドイツ歴史哲学とフランス革命の思想及びこれに反対するエドマンド・バークの保守思想等を研究、帰国後に抜擢されて秩父宮殿下(昭和天皇の弟君)の日本政治史の侍講を務め、更に昭和13-20年(1938-45年)に渡って東大国史学科にて国体学講座・日本思想史を教授した一代の碩学であり、終戦直後に辞官、その後GHQにより昭和27年(1952年)春まで公職追放され、追放解除後も、左翼マスコミやマルクス主義学者から「平泉史学=狂信的な皇国史観」として異常な誹謗中傷を受けながらも、戦後長くに渡って在野の国史家として保守陣営において重きを為した。この「物語日本史」は、晩年の平泉博士が、日本の未来を担う少年達のために精魂込めて書き記した名著「 少年日本史 」の文庫版である。 ※(参考) 千早鍛錬会パンフレット ↑「物語日本史」の事前読破を推薦していることに注目。 ■ステップ2■保守思想を貶める捏造・歪曲を一掃する 《1》歴史分野以上に酷い思想分野でのリベラル左翼の歪曲・捏造 ~丸山眞男の絶大な影響、「皇国史観」の歪曲 戦後日本の政治思想は、“戦後民主主義の代表”、“岩波文化人のエース”と称され、「国民主権を貫徹するために天皇制廃棄・共和制樹立を最大の政治目標とした」“日本を代表する政治学者・思想家”、 故・丸山眞男 の絶大な影響下にあり、今も丸山を絶賛する政治学者・思想家たちによって、ほぼ占拠されていることを最初に知っておこう。 丸山眞男の政治思想の中核は、明治以降~戦前・戦中の日本を「天皇制ファシズム」と捉え、昭和20年8月15日をもって、日本の国体は「国民主権」の民主主義国家に変更された、とする所謂「八月革命」論にあり、彼及び彼の信奉者は、この架空の「八月革命」を未来において実現すべく(つまり天皇の廃止による日本の共和国化を究極の目標として)戦後長くプロパガンダ活動を続けてきた。 「理論派保守」を目指す者は、この丸山眞男に代表されるリベラル左翼の思想的欺瞞を正しく見抜き、これを論破する理論的根拠を確立しなければいけない。 丸山眞男と平泉澄昭和期日本の政治主義 植村 和秀 (著) 柏書房 (2004/10)単行本この本は、最速!理論派保守☆養成プログラムでも「西洋の保守思想に留まらず、日本の保守思想の扉を開く貴重な一冊」として紹介したが、丸山眞男の政治思想の欺瞞を打ち破る理論武装のツールとしてやはり最重要である。なお著者 植村和秀氏は、「筆者には丸山眞男も平泉澄も、その支持者の多くのように、無条件に支持することはできない。 丸山には心情的には共感できるが、しかし論理的には納得できない。平泉に論理的には共感できるが、しかし心情的には納得できない。 それにもかかわらず、丸山と平泉の思想史的な意義の重さと、人間的な偉大さとは、素直に承認したい。」と総括しており、厳密な実証的研究を通じて丸山・平泉両者に代表される戦前から戦後にかけての日本の思想対立を対比している為に、返って一層本書の価値が高まっていると思われる。また植村氏が「丸山には心情的には共感できる」「平泉に・・・心情的には納得できない 」としていること自体は、その思想的感化を受けた年代を考慮すれば止むを得ないことである。 (参考)歴史問題の基礎知識 ↑「皇国史観」について正しい認識を得る上で重要 ※一部引用 「皇国史観」( 赤旗 )という用語は、「早くても昭和17(1942)年6月頃から、大体は昭和18(1943)年頃から文部省周辺の人々によって使われだしたもの」(昆野伸幸『近代日本の国体論』より引用)であり、戦前/戦中の史学者自身が使った用語ではない(戦後にマルクス主義史家が「レッテル」として普及させた用語である)。 そして、その内容としては、 1.国史学者・平泉澄博士に代表される「あくまで歴史の範囲で思考する」流れと、2.アジア主義者/国家改造運動家・大川周明に代表される「日本を盟主とするアジア解放を主張する」流れ( 昆野氏論文 ) の2つがあったが、戦後に史学界を占拠したマルクス主義史家は、皇室や日本国を貶めんがために、日本の伝統的な歴史観/国家観に根ざした1.と、大東亜共栄圏を包摂せんとする新しい思想を示した2.をワザと混用して「戦前/戦中の史学=皇国史観=軍国主義、アジア侵略、全体主義」という刷り込みを行った。 これに関して平泉澄博士門下の田中卓博士は、「 一概に皇国史観といってもそれは、・・・1.平泉史学による「皇国護持史観」と、2.戦争末期という時代に迎合して浅薄な国体賛美に努めた「皇国美化史観」と呼ばれるべきもの(の2つ)がある と述べ、平泉博士や自らの史観は、日本の伝統を正しく受け継ぐ「正統史観」であると述べている。 なお、ソ連が崩壊した1991年以降は、史学界(主流は、未だ隠れマルクス主義者と思われる)も、従来のように(彼らの言う)「皇国史観」に対して実証研究もせずレッテルだけ貼って一方的に批判することは許されなくなってきており、リンク先にある赤旗や長谷川氏・昆野氏のように戦前/戦中の資料を実際に読んで「実は皇国史観にも多様な内容があった」「実は皇国史観は1940年代に作られた用語だった」などと軌道修正を図っているが、そんな姑息な事をする位ならば、 1 彼らが戦後一貫して貶めようとしてきた1.平泉博士・田中博士らの史観(皇室や日本国を常に善いものと見る正統史観)は実は全体主義とも侵略思想とも無関係だった、 2 国家改造とアジア解放を唱えた2.は実はマルクス主義(具体的にはコミンテルン)の脅威への対抗イデオロギーとして生まれた(実際に、全体主義であり侵略思想であったのはマルクス主義の方だった)、と素直に認めればよいのである。 《2》「天皇制ファシズム論」の嘘を見破る ~明治維新の歪曲、「現人神」「国家神道」という幻想 「皇国史観」(上記)「現人神」「国家神道」といったキーワードで、戦後にマルクス主義歴史家・思想家によって不当に歪曲された諸概念の実際を知り、自虐史観から完全に脱却する。 「現人神」「国家神道」という幻想 新田 均 (著) amazonで一部ページを拝見できます。豊富な実証的研究により、「明治以降の日本は北朝鮮のような異常な絶対主義君主国家だった」という立花隆など左翼の大嘘を完全に打ち破る名著※amazonの内容紹介より一部引用「現人神」「国家神道」??これらの言葉から、現代の日本人はどんなイメージを連想するだろうか。おそらく、狂信的な「天皇崇拝思想」と、それを支えた「国教制度」といったとこだろう。そして、この「日本国民を狂信的な戦争へと導いた思想と制度」は「明治政府が日本の近代化のために考え出した」などとされている。だが著者は、「そのような認識は思い込みに基づく幻想にすぎない」と喝破する。それは最近の実証的歴史研究の成果に照らしても明らかなのだが、これが意外と世間では知られておらず、歴史の専門家でさえ、少し分野が違っただけで知らない者が大多数なのだという。世間で知られていないことがそれほど大きな意味を持たないなら、それでもかまわないのかもしれないが、この「幻想」はわが国の首相の靖国神社参拝問題や政教関係訴訟、さらには教科書問題や外交関係にまで影を落としている。“虚像”が誰によって、いかにして創られたかを検証する。「「現人神」「国家神道」とは、日本国民を狂信的な戦争へと導いた思想と制度である」との嘘八百の言説に異議あり! こういったイメージが幻想に過ぎないことを、実証的歴史研究の成果に照らして明かす。 (参考)右翼・左翼の歴史 ※一部引用 宗教系(仏教系)右翼の登場~右翼思想の過激化 (1) 井上日召(日蓮宗僧侶)と血盟団事件(1932) 群馬県出身の日蓮宗の僧侶。血盟団を組織し、国家革新(昭和維新)実現のため「一人一殺」を合言葉に1932年、井上準之助(前蔵相)・団琢磨(三井財閥重鎮)を暗殺。無期懲役となるが後に特赦を受けた。なお後の日本赤軍のリーダー重信房子の父親は血盟団員であり、井上日召は赤ん坊の重信を膝に抱いたことがあるといわれる。 (2) 田中智学(日蓮宗系新興教団)と「八紘一宇」論 田中は日蓮宗の在家信者組織として国柱会を組織し、日蓮主義と国家主義の統合を目指した。1903年には、日蓮を中心にして「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味の「八紘一宇」なる新語『日本書紀』巻第三神武天皇の条の「掩八紘而爲宇」の記述から造り、日本は世界を道義的に統一する使命がある、とする思想を唱えた。のちにこの言葉が人口に膾炙して大東亜戦争のスローガンにまでなった。 (3) 加藤玄智(浄土真宗在家信者)と天皇絶対神論・国家的神道論 加藤は新仏教同志会の創立者の一人であり、東京帝国大学で宗教学を教えた浄土真宗の信者であるが、同僚の外国人教授の天皇論に刺激を受けて、1912年に『我が国体思想の本義』を刊行し、古来からある天皇「神裔」論を超えて天皇「現人神」論を提唱して「日本に於いては臣民は天皇に絶対服従する」とする天皇絶対神論を主張した。1925年には更に「国家的神道(State Shinto)」なる新語を造り外国に日本人の信仰の在り方として積極的に紹介したために、欧米諸国に、この天皇絶対神論と国家神道論が日本の宗教の実態だと誤解され、後にGHQによる神道指令と天皇の所謂人間宣言を招き、今に至るまで戦前の宗教的制度についての広範な誤解を招いている。 http //d.hatena.ne.jp/jinkenvip/20070312/1173709974 《3》「保守」と「右翼」を区別し正しい認識を得る ~戦前・戦中(昭和10年代)の「右翼」は実は2種類あることを知る。 「革新右翼(アジア主義を志向し、国家改造を目指した国家社会主義者)」と「観念右翼(アジア問題への介入に慎重または無関心の伝統保守・日本主義者)」を区別する。 日本主義と東京大学―昭和期学生思想運動の系譜 井上 義和 (著) こちらも豊富な資料に基づく実証的研究により、戦後にマルクス主義者やリベラル左翼によって「右翼」と一括して糾弾され貶められてきた保守思想の実際を教えてくれる一冊。※革新右翼と観念右翼の理念型(一部内容を引用)1.革新右翼…国家改造/高度国防国家/解釈改憲/指導者原理/統制経済/親ソ・親独/世界史的な使命/陸軍統制派/革新官僚/無産政党/国家社会主義2.観念右翼…国体明徴/国民精神総動員/護憲(不磨の大典)/臣道実践/資本制擁護/反共・反独裁/日本史的な道統/陸軍皇道派/財界/既成政党(現状維持派)/自由主義者 (参考) 日本会議ホームページ ↑「観念右翼(伝統保守)」の代表として上記の本で紹介されている故・小田村寅二郎氏の弟・ 小田村四郎氏(元拓殖大学学長、日本李登輝友の会会長) が副会長を務めている、日本最大の保守系団体。チャンネル桜と共同で保守活動を行うことも多い。 なお日本会議の前身の一つである「日本を守る会」は、建国記念の日(旧紀元節)実現運動、元号法制化運動、教育正常化運動などに地道に取り組み成果を上げてきた。 このうち建国記念の日を旧紀元節(2月11日)とすることに理論的根拠を与えたのが、平泉澄博士の高弟である田中卓博士である。 ■ステップ3■更に深く知るために 《1》皇室に関する正しい知識を得る 宮中見聞録―昭和天皇にお仕えして 木下 道雄 (著) 皇太子時代から終戦前後、更に戦後にかけて昭和天皇に近侍し、侍従次官を勤めた木下道雄氏による著作。親しみやすく読みやすいだけでなく、皇統無私の伝統の背景や、昭和21年元旦の所謂「人間宣言」の実際の持つ意味まで解説してくれる好著。 《2》日本の保守思想の核心に触れる 先哲を仰ぐ 平泉 澄 (著) 大正15年(1926年)から昭和42年(1967年)までに発表された平泉博士の数多くの著作から15編を抜粋したアンソロジーであり、戦前・戦中・戦後を通じて、平泉博士の思想に全くといっていいほどブレがなく一貫していることに注意したい。昭和7年(1932年)のエドマンド・バーク批評、昭和29年(1954年)に吉田茂(首相)・岸信介(憲法調査会会長)に招聘されて首相官邸で行った「国体と憲法」講義(マッカーサー憲法の廃棄と明治憲法の復活を自由党議員に訴えた内容です)、更に吉田松陰・橋本景岳・真木和泉守・山崎闇斎・山鹿素行など日本史上の重要思想家についての論述を含み、平泉博士の解説を通じて日本の保守思想の最重要部分に触れることができる一冊。※ステップ1の物語日本史の内容を更に詳しく、本格的に説明している。 ■まとめ■日本の保守思想の再評価の動き 以上、日本の保守思想を論じる上は、その本命である平泉澄博士の所謂「皇国史観」(正しくは皇国護持史観)および、その国体論の再評価を避けることは出来ない(ここを避けているような解説は解説の用を成さない)。 マルクス主義者やリベラル左翼が長く主流を占める戦後日本の言論界・教育界においては、一代の碩学である平泉博士の業績は不当に貶められ、また無視されてきたが、ソ連崩壊を経て、西暦2000年代に入って漸く、東大閥の強い関東ではなく、京大閥が主流の関西で主に再評価の動きが顕在化してきた。 またそれと軌を一にして、平泉博士もその一翼を担った戦前・戦中の日本主義者(当時の用語で「観念右翼」と呼ばれた伝統保守)の再評価も始まっている。 上で紹介した植村和秀氏の『丸山眞男と平泉澄』、井上義和氏の『日本主義と東京大学』はその主要な成果である。 しかしながら、こうした再評価に対して、旧来のリベラル左翼やマルクス主義者の側からヒステリックで感情的な反発が噴出しており、日本思想の一般的な解説書は、近刊のものでも相変わらず「皇国史観=軍国主義」という刷り込みに終始しているものが見受けられるので注意したい(例えば 日本思想史ハンドブック(苅部直・片岡龍) ・・・苅部氏は丸山眞男の直弟子)。 ※参考:2009年5月に放映されたNHK特集JAPANデビュー第二回「天皇と憲法」 “神風特攻隊や一億玉砕を扇動した極悪非道な人物”として平泉澄博士を糾弾しているNHK※なお動画に大きく出てくる立花 隆(たちばな たかし、本名:橘 隆志 1940年5月28日 - )は、2002年秋に拉致事件が大きく報道されるまでは「戦前の日本は今の北朝鮮のような異常な国家だった」とする持論を盛んに展開していた代表的な左翼言論人であるが、実は戦前に右翼団体愛郷塾を率いて五・一五事件の襲撃犯となった橘孝三郎を父のいとこに持つ人物である。橘孝三郎は、一家一族のほとんどを率いて兄弟村農場を経営し、愛郷塾という集団農業を実践する社会主義的結社を創設、血盟団の井上日召と思想的に共鳴し、更に大川周明の影響を受けた海軍下士官と組んで、5.15事件では塾生7人を率いて東京の変電所を襲撃 した。→つまり今は左翼言論人の代表格の立花隆のルーツは、戦前の右翼過激派であることに注目。 (詳しくはNHKの正体・上級編へ) いずれにせよその抜群の学問的実績、そして戦前~戦後を通じて保守陣営に対して保持した影響力の大きさから考えて平泉博士の保守思想の一層の再評価は不可避であり、今後に注目したい。 ここでの再評価の進展が、日本の保守思想全体の再評価に直結するはずである。 (参考図書) 『昭和の思想』(植村和秀:著) ★評価2010年11月に出版された好著。戦前から戦後及ぶ昭和期日本の思想状況が、要点を絞って明瞭かつ簡潔にまとめられている。非常にお勧め。(以下amazonより引用)・内容説明昭和の思想を総体的に俯瞰する画期的論考。思想弾圧と戦争の暗さ。世界に挑戦する日本という明るさ。奇妙な時代=戦前昭和期を中心に、丸山眞男・平泉澄・西田幾多郎・簑田胸喜の思想から時代の本質を剔る・内容(「BOOK」データベースより)「戦前=戦後」だけでなく、昭和はつねに「二つの貌」を持っていた。皇国史観から安保・学生運動まで、相反する気分が対立しつつ同居する昭和の奇妙な精神風土の本質を、丸山眞男・平泉澄・西田幾多郎・蓑田胸喜らの思想を元に解読する。・目次第1章 日本思想は二つ以上ある第2章 思想史からの靖国神社問題―松平永芳・平泉澄第3章 思想史からの安保闘争・学生反乱―丸山眞男第4章 思想史からの終戦と昭和天皇―阿南惟幾・平泉澄第5章 思想史からの世界新秩序構想―西田幾多郎・京都学派6章 思想史からの言論迫害―蓑田胸喜第7章 二〇世紀思想史としての昭和思想史 【このページの続き】 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 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