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目次 1.神々の諸相 2.高級霊の本質 3.低級霊への考え方 4.地獄の存在 5.神と悪魔 6.理想的人間 1.神々の諸相 天照です。今日は、神々、高級霊、低級霊、こうしたことについてお話をして参りたいと思います。 日本では、古来より、八百万(やおよろず)の神々といって、たくさんの神がおられると言われています。これは、神近き人びと、あるいは、高級霊と言われる人びとに対する国民の長い間の尊敬の念が、そのようにさせたのだとも言えましょう。 神々と称されている方々も、その姿が、あまりにも人間的であることからわかりますように、かつては、地上で肉体を持って生きたことのあった方々です。彼らの多くは、地上にあったときに、その偉大な霊能力ゆえに、神と称されていた方々です。そうした名が後のちに語り伝えられて、現在では、高天原(たかまがはら)に数々の神がいらっしゃるということになっています。 この、古事記等で有名な高天原でありますが、これが現にあるか否かということが、みなさんの多くの方々の疑問に思われることだと思いますが、高天原と言われる霊域は、現にあるのです。それは、主として、この日本という国の、立体的な話をするならば、上空にある霊域ということになりましょうが、そこに数々の神が集まっておられるのです。 その情景を話すとするならば、やはり荘厳な金色(こんじき)に光る大地があり、そうして、そのなかに、ひときわ高い山があります。その山は七色に光りながら、その頂上がどこまでつながっているかがわかりません。 こうして、その山を中心にして、様々な色の美しい雲が棚引(たなび)いています。この山のことを、高天原中心山(たかまがはらちゅうしんざん)と申します。その高さは、地上的なる感覚で言うならば、一万メートルをも越えているような高さではないかと思います。そのぐらいの高い山であります。 そうして、その麓(ふもと)には、古代の衣装をした神々が数多く住んでおられます。この麓にあたる部分が、あなた方がよく知っている言葉では、菩薩界と言われる世界であろうかと思います。日本の神域、霊域においても、数々の諸菩薩がおられるわけであって、ここでも、数百、あるいは、数千に近い方々が一緒に住んでおられます。そのなかには、もちろん、近、現代の日本に出られた神々もおられるために、非常に変わった身なりをしている方もおられますが、大多数の方は、やはり、古代の神々のような姿をして、住んでおられます。 その多くの方々は、その高天原に、たとえて言うならば、出雲大社であるとか、伊勢神宮であるとか、そうした神社、社(やしろ)というようなものを造ってそこを中心に生活しているのです。そして、彼らの大多数の人の仕事というものは、やはり、どのようにして人びとを指導するか、また、日本という国をどのようにして今後よい方向に指導していくか、こうしたことを日々話し合い、考え合っているのです。 この高天原にいる神々の内で、その半分以上の方々は、現に地上に在る人びとを指導しています。各人が何人か受け持ちをしていて、地上に生きている、その神の使命を帯びた方々を、何らかのかたちで指導しています。それは、宗教家であったり、学者であったり、財界人であったり、あるいは、政治家であったりすることもあり、その職種は多様に分かれておりますが、地上にある人びとを導いて、この日本の国を、素晴らしいものとして造っていくためにやっているのです。 また、高天原のなかには、地上にある外務省、外務局にあたるような仕事もあってこの日本の国に、異国の神々が教えを説かんとして来られる時に、その許可を与えたり、その影響度の範囲を決めたりする仕事をしている方々も、現におられます。 こうした高天原に、多くの神々が住みたもうておられますが、たとえば私は、どういうところに住んでいるかというと、たいたての場合、この高天原中心山の八合目ぐらいのところに大きな神殿を造って住んでいるのです。そうしてたいていの場合は、この山からは降りてまいりませんが、月に一度は山を下って麓に降り立ち、この高天原の諸神相集う席上で、お話をしているのです。こういう意味において、現在でも私は、日本神道系のなかの主催神のひとりとして活躍をしているのです。 また、私は、高天原中心山の八合目に住んでいると言いましたが、この頂上に住んでおられると言われている方が、天之御中主之神です。この方が、高天原中心山の頂上に住んでおられると言われているのです。 そのお姿は、真(まこと)に神々(こうごう)しく、また年の頃は、七十歳ぐらいにも見えますが、白いあご髭(ひげ)、てかてかと赤銅色(しゃくどういろ)に光るお顔、そうして、体から発散する黄金色のオーラ、その白い衣装のまばゆいこと、こうした高齢とは思えぬほどの精力に満ち、気力に満ちた方、そうして、力強い言霊を発する方、この方が、天之御中主之神と言われる方です。 この方も、どこにお住まいかは多くの方は存じ上げませんが、しかし、時折、神々を指導し、また、地上への直接の指導もされているようです。 これが、私たちが住んでいる高天原の本当の姿であります。 2.高級霊の本質 さて、神々とも呼ばれる彼ら高級霊の本質は、一体どこにあるのか、その点について、説明をしていきたいと思うのです。 彼らは生まれつきの神であるのか、あるいは、神となった方々であるのか、それについて話をしてみたいと思うのです。これに関しては、二つの考え方があり、神は最初から神であり、高級霊は最初から高級霊であるという考え方もありますし、あるいは、転生輪廻(てんしょうりんね)の過程において、高級霊へと生長していったとする考え方もあるでしょう。 実際、高天原に住んでおられる諸神霊の出生(しゅっしょう)、その神となられた謂(いわ)れを考えてみますに、結局彼らは、やはり、その八割ぐらいの方は、当初より、高級霊として、存在していた方のように思います。日本の国が造られるに際して、神々と称する方が集め寄せられたことは事実であり、彼らを中心勢力として、この日本の国を造っていったという事実はあります。この意味において、神は最初から神であると言えましょう。 しかし、残りの二割ほどの人は、最初から神ではなかった方々もおられます。それは、この日本という国で、さまざまな時代に降りていって大いなる仕事をしているうちに、神と並び称されるような偉大な心性、心というものを持つに至った方々がおられるからです。彼らは、まだ新参(しんざん)の者であるゆえに大変恐縮をしておりますが、ただ、その仕事が大いなる評価を得たということに対しては、大変な自信を持っています。 神々の世界では、やはり、魂の古さということが、ひとつの指標になります。同じく高天原に住んでいたとしても、太古より住んでいる方とそうでない方とでは、やはり、その神としての格に違いがあります。この意味で、新しく神となられた方であっても、まだ、その人が高天原の住人として日が浅いことがその容貌にも出ています。 それは、どことなく人間くささが漂っているということであります。地上に在っては、人間くさいということは、ひとつの喜ばれるべき特質とも言われているでしょうが、この高天原においては、人間くささがあるということは、大変恥ずかしいこととされています。いち早く人間的属性を捨て去った者こそが、本当の神と称されるようになってくるのです。 心のなかに人間的なる属性が残っている方は、常にそのことに劣等感をいだいていることが多く、他の神々と接するに際しても、どうにかして、その人間くささを見破られないように、他の人に気づかれないようにと、心を遣(つか)っているようです。 地上においては、成功という名のもとにさまざまなことに手を伸ばし、社会的な地位や名声や金銭で自ら得意満面となっていた者たちは、この世界に来れば、そうしたことをどれだけ思わなかったか、思わなかったように見せたいという気持ちで、いっぱいになっていくのです。地上に在った時に、人びとに羨(うらやま)しがられたような職業に就いていた人が、どれほどそのことを隠そうとしているかということを、みなさんはご存知でしょうか。 たとえば、政治家であっても、総理大臣となったような人のなかにも高級霊はおりますが、地上にいた時に、神の僕(しもべ)として生ききらずに、自分が日本でいちばん偉いというような思いで生きてきた人は、こちらに還ってから、その心境を隠すことで大変苦労しています。どうにかして、その古着を捨てたいと思っているのだけれども、如何(いかん)せん、地上時代のそのなごりが、拭(ぬぐ)い去れないで苦しんでいることが多いのです。 歴代の政治家のなかで、この菩薩界という所、高天原の神々に近い席を許された方として、まず、明治の時代においては、伊藤博文(いとうひろふみ)という方もいます。あるいは、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)という方もいます。これ以外にも、大正期になりましょうか、原敬(はらたかし)という名前で言われている元首相も来ています。 昭和期になっては、高橋是清(たかはしこれきよ)、近衛文麿(このえふみまろ)らも、地上を去って後は、こちらでは、そうした神々と同じ待遇を受けております。 3.低級霊への考え方 低級霊への考え方というのは、非常に難しいものがあります。その言葉自体のなかに、彼らに対する軽蔑の念がこもっているからです。 ここに二つの、二律背反する価値が存在します。ひとつは、人間はすべて神の子であり、神の分け御霊であるという考え方です。今ひとつの考え方は、しかし、人間にはやはり、魂の高下があるという考え方です。確かに本質的に見るならば、すべての魂は神より分かれて来たものであって、その神より分かれてきたという点において、一点の疑問もさしはさむ余地はないのです。 しかし、神より分かれてきた者であっても、その人生行路をどのように渡っていくかということに関して、自由性というものが与えられているのです。 たとえば、子供に対して母親が、真っ白の体操服、トレーニングウェアというものを与えたとしても、子供は、それで野球をし、相撲をし、体操をしているうちに、やがて泥んことなっていく でしょう。泥んことなった体操着は、それ自体がもともと汚れていたかといえば、そうではない。もともとは、純白のものであったと言えましょう。 この意味において、私は、彼らが現在、悪という姿、低級霊という姿になっているということは、もともと真っ白な服を与えられているにもかかわらず、それが、汚れた状態にあるということだと思います。如何に優れた子供であっても如何に素晴らしい子供であっても、泥んこで汚れた姿でもって家のなかに入れ、食事をさせ、そして居間で自由にさせ、布団のなかに入れる母親はいないでしょう。そうした子供を見たならば、まず、その服を着替えさせることを勧めます。また、手や足を洗うことを勧めるはずです。そうでなければ、いくら食事がしたいと言っても、その願いはかなえられませんし、いくら布団のなかでぐっすり眠りたいと言っても、その願いもかなえられないこととなるでしょう。 このように低級霊というものはやはり本質ではない。本質ではなくて、現れ方であるというふうに、理解することが大事であろうと思います。やはり、心がいろんなことによって汚れていたり、曇っていたりすることが、低級霊の本質であって、それは、彼らが本来、そのように創られているということではない。素晴らしいものであっても、それをどのように使うかということが、各人の責任において任されているということが、その本質にあるわけです。 真っ白な体操着を与えられたからといって、それをまったく汚さないように、いつもいなければいけないかと言えば、そうではありません。そうであれば、スポーツというものはできません。ただ、汚れた服であるならば、それを取り替え、洗濯するということが大事だということです。ここに、禊ぎ祓いの考え方が出てくるわけです。地上というものは、そうした泥や汚れの付きやすい世界であるために、これを常々よく洗濯し、美しいものとしていく必要があるのです。そうしたことをしないと、本当に素晴らしい本来の色、これを取り戻すことができないのです。 したがって、私は、地上のみなさまに申し上げたいのですが、本来、悪人はいないということ。本来、低級霊もいないということ。本来、根本から間違っている方はいないということ。これを信じていただきたい。たとえどのように、その姿が悪人として現れているとしても、本当にその方が悪人として生まれついているわけではないということです。 それは、すべての人のなかには、優しい気持ちというものがあるからです。どのように悪人として世を渡っている方であっても、そのなかに、一片の優しさは必ず潜んでいるものです。 その優しさがあるということが、すなわち、その方が神の子であるという事実を示していると思うのです。神の子であるという事実は、こうして明らかとなっていくのです。 4.地獄の存在 地獄はについて語られた書物は、数多いと思います。また、日本においても、昔より、地獄絵巻であるとか、地獄図であるとかいうものが示されて、そこには大変な厳しい環境かあるといわれています。西洋においても地獄についての話は種か尽きないようです。先進国のみならず、後進国においても、地獄についての考え方かどこの国にもあります。 さて、しかし、現代の日本人で、地獄を信じている人は数少ないと思います。「そんなことをしたら地獄に堕(お)ちるぞ」と言われたとしても、それはほんの笑い話としてしか受けとめられないのが事実です。しかし、現に地獄と称されるものはあります。それは、本当に物理的なる姿として、たとえば血の池であるとか、針の山であるとか、そうした、ところがあるわけではないのですが、心の世界として、心の風景として、そうしたものがあるということです。 それは、みなさんのうちの多くの方々は、悪夢というものを見られた経験があると思うのです。悪夢のなかでみなさんは、恐ろしい姿をした動物であるとか、人間であるとかに襲いかかられたり、命を取られそうになった経験があるでしょう。その恐怖の思いがあるでしょう。実は、地獄の世界というものは、そうした悪夢の世界とまったく同じ世界だと言ってもいいでしょう。 夢のなかでは、さまぎまな奇想天外なことが続々と起きますが、実際の霊の世界においても、こうした夢で見るのと同じく、奇想天外なことか数多く起きてきます。それは一見、無秩序に見えたり、脈絡(みゃくらく)がないように見えますが、その通りいろんなものが目の前に現れ、いろんな経験をさせられるようになる。気がつけば一転して、まったく違った場所に出ている。こうしたことが、よくあるようになってきます。 この夢の世界、悪夢の世界というのは、大多数の人は、実はその魂が睡眠中に肉体を抜け出して、地獄の世界をさまよっていることが多いのです。そうして、あの世の世界というものを、いち早く勉強させよっとしているのです。そうした魂の経験をしているのです。 それゆえ、地獄とは何かかわからないとすればヽ悪夢の世界だと思えばよいのです。 こうした夢現(ゆめうつつ)の世界が、死後に続いているのです。 実際それはその通りであって、地獄にいる大多数の人たちは、生前、神を信じず、また霊を信じず、死後の世界のことを信じていなかった方々です。彼らは地上を去っても、自らが一体何をしているのか、どういう生命(いのち)を生きているのかということに関して、信頼できないでいるのです。自己認識かできないでいるのです。白分か一体どのようになっているのかということが、わからないでいます。それゆえ、悪夢のなかを漂(ただよ)っているのとまったく同じ状況となっていきます。 そうした方が、やがて自分の姿をつかみ、自分が地獄にいるということをわかるまでに、かなりの時間を要するようになります。早い人ならば、もちろん、数日ぐらいでわかっていきますが、遅い人であれば、三年経っても、五年経っても、十年経ってもわからないでいます。ただ、地上時間で言って、五十年、百年と経っていった時に、どうやらその悪夢の世界が、白分の住んでいる世界であるということだけは、はっきりと実感することができるようになっていきます。 ただ、彼らの大多数は、それが地獄のように見えたとしても、自分はたまたまこうした世界にいるだけであって、なんとかしてここから脱出しようと思うのです。間違って、自分はこういう世界に紛れ込んだのだけれども、何とかして、この世界から逃れ出したいというふうに考えているのです。 けれども残念なことに、地上で生きていた時に、なぜ自分が地獄におちるというようなことになるかということを、知らないままに生きていたのです。何が善で、何が悪かということを知らないで生きていた。地獄などは、ほんの笑い話、昔話として一笑に付していた。ところが、それが現実に現れてきた時に、自分はすがるべきものが何もないということを知るのです。 この意味において、地上にいた時に、何らかの宗教に属していたということは、ひとつの救いになることはあります。それは、そうした宗教に属していたということによって、その魂のなかに一条の救いの道が用意されているからです。すなから、自分の信じていた教えを、ひたすらに思い出すということによって、「反省」という方法か与えられたり、あるいは、「祈り」という方法が与えられたりするからです。そうすることによって、その宗教を指導をしていた高級霊たちが、その方を導こうとして、努力し始めるということが言えるのです。 私はこの意味において、地上に生きていた時に、なんらかの宗教心を持って生きるということが、とてもとても大切であるように思います。そうした気持を持って生きるということが、結局は死後の世界においても、ひとつの救いとなっていると思うのです。 思考の材料、考える材料を持たずに生きてきた人ほど哀(あわ)れな存在はありません。彼らは藁(わら)にもすがるつもりで、周りの人に救いを求めようとするのですが、そこに、知った人が推もいないのです。この意味において、生きている時に、魂の教師役、先生役を持っているということは、とてもとても大事なことであろうと思います。 もちろん、何が正しい教えであるか、何が本当の宗教であるかという考えに関しては、多様なものの見方ができるわけであり、そうして、きまざまな教えの違いが、同時代の混乱を生んでいることは事実でしょう。ただ、二千年もの歴史をもっていて、今なお、多くの人を引きつけている教えは、やはりそれだけの内容があり、それだけの指導霊たちがいるということは、事実であろうと思います。 何が本物であるかということがわからないのであるならば、歴史的に名のある教えにつけばよいと思います。それは仏教であっても、キリスト教であっても、神道であってもよいと思います。また、そうした古い教えでもの足リなぃ方は、新しい教えのなかで、非常に自分の納得のいく教えがあったならば、それについていくことも大事であろうと思います。 また、現在、私たち高天原の高級諸霊が、このようなかたちで、地上にいるみなさまに続々と教えを伝えておりますから、こうした教えを生きているうちに学んでいただくことによって、あの世に旅立たれた後に、迷わずにもといた世界に還って来れるということがあると思います。 いずれにしても、地獄の存在は、魂の真実に関して、無知なる人びとが数多いということに起因していると思います。もっともっと多くの人たちは、魂の真実に目覚めてゆかねばなりません。そうしなければ、本当の意味での地獄からの脱出ということは決してできないわけです。 5.神と悪魔 6.理想的人間 神と言われる言葉にも多義性があり、宇宙の根本神の心はなかなか計り難いものがありますが、三千年の歴史のなかで、神とも称されきた私の立場から言うならば、神の愛する人間像には三つの姿があると言えるのではないかと思います。 第一の姿は、「秩序と調和を大切にする人間」です。 秩序を大事にする考えは、結局、調和を生んでいきます。秩序と調和という、この大いなる原理、これを大切にして、そして社会全体の美しい姿を描き出していくこと。これが大事です。秩序を破るということは、それ自体がひとつの不調和であり、地獄図であります。秩序を大切にしていく。そして、調和を大事にしていく。人びととの間の和を大事にしていく。協調を大事にしていく。ここが重要ではないかと思います。 この意味で、現代に蔓延している自我我欲を主張する生き方、我欲、我流の生き方に対して、私は、厳しい警告をしておきたいと思います。それが、地獄を生んでいる原因であるということに、気付かねばなりません。 秩序と調和ということを大切にして、自然の姿、あるべき姿に持っていくということ、これが大事です。上役は部下を指導し、部下は上役に仕え、師は弟子を指導し、弟子は師に仕える。こうした本来あるべき姿に立ち戻ることが、とてもとても大事であると私は思います。 神の愛する人間像の第二として、私は、「愛の実践」ということをあげておきたいと思います。 愛の実践とは、すなわち、多くの人びとに美しい人生を生きて頂きたいと思う心、願う心です。多くの人びとに、真実の人生を生きてもらいたいと願う心、それを助けようと願う心です。多くの人たちが本当に幸せになるために、何らかの努力を惜しまないという心、それが愛の実践です。 あなたは今日一日、どれだけ多くの人を喜ばしたでしょうか。多くの人びとを幸せにするような努力をしたでしょうか。私は、それが大切であると申しているのです。 多くの人びとを愛するということ。これが何にもまして重要なことです。自らに与えられた一日という時間を無駄にすることなく、愛の実践に生きることです。自分として、どのような生活をすることが多くの人びとへの愛となるか、これを深く深く考えて頂きたいと、私は思います。 神の愛する人間像の第三として、私は、「無限に発展していく人間」ということをあげたいと思います。 神はやはり、最大の愛そのものでありますから、自らの下にある人びとに、みな、繁栄していただきたい、良くなっていただきたいと願っているのです。 さすれば、理想的な人間とは、常に向上発展を目指していく人間であり、自らの過ちを改めるにやぶさかでない人間であります。自らがたとえ間違ったとしても、すぐさまそれを改め、より素晴らしい人間として生長していけるように、常に努力、精進を怠(おこた)らない人、それこそが、神の愛する姿であろうと思います。 また、神の神たるゆえんは、高級霊の高級霊たるゆえんは、やはり、自らも向上していこうとする気持ちを持っているということが言えると思います。自らも、より高度な人生観を磨き、より大いなる認識力を得、より大いなる指導力を築かんとしている。それが、多くの人びとの姿であります。この理想的な人間像、これを、やはり追求していくことが大事なのではないだろうか。私はそのように思います。 神の愛する人間とは、結局、神近くなっていくために大切な条件を守るということでありましょう。 もう一度繰り返すとするならば、まず、「秩序と調和」ということを大事にすること。秩序と調和なくしての社会の平和、ユートピアということはないということ。さらに、個人の義務として、責務として、「愛の実践」があるということ。愛を述べ伝えるという必要があるということ。他の人びとを良くしょうという思いがあること。 そして第三に、「発展」という考え、「繁栄」という考え、自らも伸びていき、自らも天高くなっていこうとする気持ち、そして、また、大いなる役割を与えられたならば、その役割を実践し、実行し、巨大な巨大な光となって世の中を導いていこうとする気持ち、これが大事です。 神の愛する人間像には、本当の地獄霊も悪魔もありません。そうした者は、神の愛する人間像を知らない人たちの生き方なのです。 どうか、この三つの観点、秩序と調和を目指し、愛を実践し、自らも発展していこうという、この三つの観点を忘れずに、大いなる人格を築いて生きていっていただきたいと思います。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/446.html
目次 1.悟りの奥行き 2.観自在力への三次元的な歯止め 3.悟りの道標 4.何のために三次元世界で悟りを求めるのか 5.悟りの武者修行 6.人類の叡智に対する敬意 7.宗数的対立を超えて、今 8.新しい時代の新しい悟りの方法――真説・八正道 9.「正見・正語」の深まりのある人 10.「ピンの発見」と「正見」 11.自分のピン・他人のピン 12.阿羅漢の心 13.阿羅漢・不退転そして如心 14.如心と観自在力 15.ネガ・フイルムによる三次元世界の未来予知 16.霊速度とのギャップ 17.神通力 18.如来界の如心(一即多、多即一) 19.如来界の悟りとは 20.「宇宙即我」の悟りへ向かう霊的進化 21.釈迦の悟りについて 22.神理学習の時代へ向けて 23.九次元の悟りの三つの条件 24.超能力信仰と読心力 25.九次元霊を順番に出す意味 13.阿羅漢・不退転そして如心 さて、次に如心という段階について話をいたします。このあたりから少し難しくなります。阿羅漢のことについてよく聞いておられる方は、だいたい感じとしてつかめているかと思いますが、如心あたりから、少しわかりにくい感じになってくると思います。 一九八七年の五月の研修において、阿羅漢の少し上にある段階、具体的にいいますと、不退転という段階があるというお話をしたことがあります。阿羅漢の段階では前述のように、まだ心が揺れて逆戻りすることがあるのですが、不退転の段階に入ると、もう逆戻りしなくなります。多少の波風が立っても、もう戻らないという強い部分があります。これが菩薩への第一歩です。 そして、この如心というのは不退転の奥にある境地で、さらに進化した世界です。この如心にも、実はいろいろな段階があり、バラエティーがあるのです。『観自在力』のほうには、如心を如来の悟りとして主に私は話をしてみたのでありますが、実にさまざまな段階があるのです。これは、みなさん全体が阿羅漢のレベルぐらいにならなければ、この如心のバラエティーや段階などを言っても通じないと思います。ですから、みなさんが阿羅漢に到達して、もう菩薩も近いなということになれば、如心の第一段階、第二段階、第三段階というように説明していくとひじょうに勉強になるのでありますが、今の段階では、説明してもあまり意味がないと思います。 ですから大まかに言って、菩薩界の第一段階の如心の感じと、如来界での如心という話をしてゆきたいと思っています。ここではまず、阿羅漢と如心との違いを語ってまいりましょう。 ①阿羅漢とは 阿羅漢は、まだ守護霊と交流可能な境地にすぎないということが言われています。したがって阿羅漢へはだれでもいけるということで、ここまでは多くの人びとの共通の目標になっています。自分の守護霊と同通するというのは、本来、自分の到達しうる可能性があるところです。 ここまではもともと可能性があるのですから、ようするに上へあがっていく過程であると考えなくてもよいのです。自分の庭に埋もれているものを掘り出すと考えてもよいのです。そこに宝の箱、あるいは金塊が埋まっていて、浅さ深さはいろいろあるのでしょうが、もともと自分で埋めこんできたところなので、掘ればカチンと当たって出てくるという段階だということです。ですからこれはみなさんにも十分可能性があるということです。しかし、この上は少し難しくなってまいります。 ②不退転への心のそなえ たとえば、真の宗教指導者のもとで、それまで阿羅漢の境地に達した弟子がたくさん育ったとします。けれども、その指導者が死去したときに、そのようなお弟子さんたちであっても勝手なことを言い出して教団がバラバラになったりすることがあるわけです。どこかの団体のことを言っているのではないかと思う人もいらっしゃいますので、あまり深読みされると困るのでありますが、いわゆる特定のところを言うつもりで書いているわけではありません。 さらに『太陽の法』にも書かれておりますように、「ある一つの修行方法を通して、ある程度悟った者が迷いはじめるのは、それ以外の教え、ほかの修行方法に対する心のそなえができていないからなのです。」ということがあるのです。ですから阿羅漢に達するまでの導き方においては、わりに一つのことを教えて連れてくるということも可能なのです。ひじょうに知識的には狭い範囲で修行を与えても、それなりに修行をつんできますと阿羅漢まで来ることは可能なのです。 ですから、禅の修行などでもそうです。神理知識的には大したことを教わっているとは、とうてい思えないのでありますが、とにかく禅寺に何年か行って、心を調和して澄んだ心になるところまでうまく行けば、阿羅漢にまでは来れるのです。それ以上はないのですが、これぐらいまでは可能性があるのです。禅以外の世界でもこれは十分ありえます。 そうしてみますと、その一つの方法論にはとらわれているわけでありますが、先生が亡くなった場合に、その先生の教えの領域外のものがもし出てきたときに、いったいどうすればいいのかさっぱりわからなくなります。価値判断ができないのです。マザー・テレサの話もいたしましたけれども、マザー・テレサに、通訳を通してもいいのでありますが、もし彼女に私たちの話を聞かせたとしても、それが理解できるかと言えば、たぶんわからないと思います。彼女自身はもちろん阿羅漢の悟りではなく、さらに高い菩薩の悟りをじゅうぶん得ていますが、それでもわかるかと言えばやはりわからない部分もそうとうあると思います。 それは幅の狭さの部分です。ですから彼女の弟子ならばさらに何をいわんやで、わからないのです。キリスト教系の人は特にそのようなことがあるようです。ほかの考え方や教えについての寛容さがないのと、理解する材料がそもそも与えられていないということがあります。 それは考えの量が少ないということも原因の一つとしてあるのです。イエス様が三年間説いたけれども、その教えの量が聖書のなかのあの程度になっています。聖書のなかには、いろいろな種類の福音書がありますが、イエスを囲む背景的な描写が多く、一冊に盛られているイエスの説かれた純粋な神理の内容はどのくらいかというと、当然ながら本書の一冊分もないかもしれません。 ですから、そこに書かれている以外のことを読み取るということはひじょうに難しいのです。先生が生きていれば、いろいろなことを聞けば明確な答えが返ってくるのでわかりますし、判断ができるのですが、先生がいなくなればわからなくなるのです。そのようなことがあります。いろいろな教えをはかる心の物差しがじゅうぶんにできていないということです。 ③教えの体系化の意義 この点はひじょうによく考えています。はじめたばかりの団体ではありますが、私が死んだあとのことまでもう考えてやっているわけで、死んだあとでそのようにならないようにすでにじゅうぶん考えています。そのためには、教えというものを明確に体系化して、それぞれについての見解をはっきりしておく必要があるということです。 それと、学習方法、指導方法というのを確立しておかなければならないのです。勉強のしかたと指導の方法、これを確立しておけば、あとが混乱しないのです。ここの確立を怠ると、あとで組織がガタガタになってしまいます。それはどこでもいっしょです。一人のスーパーマンだけの意見についていって、いざ、そのスーパーマンがいなくなったときは、あたかも船頭がいなくなった舟のように転覆してしまうのです。 私にはもう最初からそれがはっきりわかっているので、教えのレベルの差、段階として、初級・中級・上級というように分けたり、あるいはもう少し細分化してこれをはっきりどの次元の法、教えであるかということや、そしてそのなかにはどのようなバラエティーがあるのか、ということを明確にしようとしています。また、その学習の方法と教え方をどうするのか、このあたりをかっちりと固めていくつもりでおります。あと何千年はもたないかもしれませんが、二千年くらいはもたせるつもりで考えています。 阿羅漢についての考え方は各種小冊子にもよく出ているので参考にしていただければ幸いです。 14.如心と観自在力 如心について『太陽の法』では、「如心とは、自らの守護霊以上の霊格をもつ高級神霊界の指導を受けられる段階、すなわち、指導霊と霊的交流ができる段階です。この指導霊とは、七次元菩薩以上の高級霊たちであります。」と、このように一応は定義しています。しかし、これは一つの考え方で、もちろんこれ以外に如心についての考え方はたくさんあります。 この如心とは、どういうことかといいますと、心というもの、それは人間の心もあるし、自分の心、他人の心、高級霊の心、神の心もありますが、そのような心というものの全体について、手に取るようにわかってくることを如心というのです。まさに読んで字のごとく、心の如しと書いてありますが、そのようにいろいろな心というものの働きがわかってくる段階のことを如心と言うわけです。自分の心もそうであるし、人の心、それから高級霊の心、神の心、だいたい心というものがどういうものかということが、スーッとわかってくる感じになれば如心に達したと言えるわけです。 この、わかってくるという段階に差があるのは当然でありますが、小さな心だけではなく、全般的な心というものの感じがわかってくるのです。それはちょうどレーダーのように、ずっとはりめぐらせて心とは何かがわかってくる感じです。このような段階が如心の最初の段階なのです。そうなるためには、やはりある程度は菩薩クラスの指導霊たちの影響が出てこないと、なかなかそう簡単には実現しないということです。 阿羅漢の上ぐらいにある如心の説明としては、魔が寄りつけなくなるとか、心がいつも謙虚で高ぶることなく、他人に対する奉仕に生きていますと、このようなことがあげられます。いわゆる菩薩の自覚の部分の如心についていうと、このようになります。 それと如心のもう一つの面も、『太陽の法』では「観自在に近づいてくると居ながらにして、何百キロも離れている人のことが手にとるようにわかるということです。たとえば、ある人の名前を見ただけで、たとえ地球の裏側にいる人であったとしても、その人の現在の心境、悩み、憑依霊、前世、前々世、前々々世、未来世までが一瞬にしてわかるようになります。」と説明されておりますように、このあたりは観自在にだいぶ近づいてきています。如心の段階のなかには、広い意味での観自在が入っているのです。 この関係をどのように感じ取るかということなのでありますが、わかりやすく図示いたしますと、五、六、七、八、九、十次元という段階があります。観自在能力というのは六次元あたりから基点を発して、上へゆくほどだんだん大きくなってまいります。如心というのは、どうかといいますと、図のような範囲で存在しているという感じなのです。観自在能力というのは究極の神に向かって発達していく能力のことをいうので、上へいくほどどんどんと広がってゆくわけです。 この如心がなぜこのあたりの段階にあるかといいますと、やはりこれは多少人間的感覚をさして言っていることは事実なのです。多少なりに、心がわかるという感じであるからなのです。ですから、だいたい七、八次元のこのぐらいの領域にレーダーのように器としての如心という段階が存在します。 観自在能力というのは(狭義の観自在能力というものはこのあたりのことで話をします)、霊的能力のなかで上のはるかなる高次元から縦長にズーッと入っています。如心というのは、主としてだいたいこの七、八次元領域のことを言います。すなわちこのあたりの霊域がいちばん人間の心とは何かというのを考える部分なのです。この七次元の菩薩界、八次元の如来界、このあたりが心とはなにかということを深く考えるところなのです。「正しき心の探究」と言っておりますが、このあたりが心についてのほんとうの中心領域といますか、勉強の中核なのです。 観自在のほうは、心とは何かということではなくて、もう少し多方面にわたった能力的なものを言うのです。このあたりに質的な違いがあります。講師補セミナーくらいになりますと詳しい話もできますので、早く講師補になっていただきたいと思います。 これが第一段階の如心の話です。観自在の話のなかで、次の段階の如心の話をしてみたいと思います。『太陽の法』では「如心というは、霊道をひらいた菩薩の心境だといってもいいでしょう。あるいは、如心とは、如来界の人の悟りだともいえます。」と、こう書いてあります。ここでは、多少矛盾するような言い方をしておりますが、これは最初の段階の如心が、霊道を開いた菩薩の心境をさしていっています。 次の如来界の人の悟りというのは、この如心という言葉が如来の心というような、そのような意味での如心になってまいります。ちょっと違ってくるのです。 15.ネガ・フイルムによる三次元世界の未来予知 さて、この如心、観自在力の話でありますが、これは地上界で悟りを開いた方のことばかりではなくて、あの世においてももちろんそのようなことはあります。 そしてあの世の霊なら何もかもわかるかといいますと、そうではなくて、そのわかる範囲や程度においてはそうとうの差があります。ですから、この点を注意しないと、地上にいる人は混乱をすることになるということです。 その典型的な例として、予知の話があります。一九八九年の四月に『ノストラダムスの新予言』のセミナーを開催いたしましたが、そのときにも予知のことについては、ご説明いたしました。ここでは、未来には確定的事件と流動的事件があるということが大切なところです。すなわち、決定済みのことと、このままいけばこうなるであろうという予測的な段階があるということです。 この流動的事件に関しては、地上人の努力、守護・指導霊の努力で変更が可能な部分であり、この点については天上界の霊の予言もはずれることがあります。 私もいろいろな守護霊と話をしていて、予言のことを考えるときに、だいたい明らかになってきたといいますか、彼らが感じていることと、地上の人間が感じることのイメージの違いというのがわかってきました。この天上界の霊が思っている予知、あるいは未来のビジョンというものは、地上世界にあるものでたとえるならば、写真のネガ・フィルムのようなものなのです。 したがって、あの世の世界から見ていて「あ、こうなる。」というような明日の地上界のビジョンというものが、白黒テレビや白黒写真のネガのように見えるわけです。ところが実際、地上に出てくるときには、これがカラー写真に変わってくるのです。このあたりのところに違いが出てくる原因があるのです。 ですから、彼らにしてみれば、だいたいこのようになるだろうということは印象としてわかるのですが、この写真が具体的に現像されてみるとどうなるかというところで多少違うことがあるのです。このフィルムのネガの一コマ、これを見て「ああ、このようなものだろう。」と思って言ってくるのです。ところがこれを実際に焼いてみますと、いろいろと変わってくるのです。色もカラフルになってきます。これは具体性を帯びてくることを意味しますし、それで、印象の差もずいぶんと大きくなったりします。 このように、いろいろと違いがあるので、彼らに未来のことを聞いたときには、このネガのような感じでビジョンが見えているという推測がつくわけです。ところがこのビジョンであっても、さらに気をつけなければならないことは、時間の座標軸のなかにもズレがあるということです。十年後のことが、彼らにはほんとうにすぐ近くに起きるように感じていることもあるのです。ネガの段階で見てしまうがために、三次元的展開になったときにどのような段階をへて具体性を帯びてくるのかというところが、ひじょうにわかりにくいのです。 はじめてから二年半くらいになります。この間、私も人間的にいろいろと努力して行なったこともありますし、指導霊たちのアドバイスを受けて行なったこともあります。指導霊たちのアドバイスを受けていて、結果はそのとおりにならないことがいくつもありました。それでもおもしろいことに、そのときは予言どおりにならなくても何か月かしますと、別なかたちで必ず実現してくるのです。それは結果的には前よりよかったことのほうが多いのです。最初にこうなればいいと思っていたイメージよりよくなって出てくることのほうが多いのです。 けっきょく、やはりネガの段階での判断であるから、このように出てくるであろうということは予想することができるのではありますが、実際に液を通して、いろいろと焼いてみますと、多少違ってくることがあるということです。いろいろなものが入ってくるという感じなのです。ですから二、三か月のズレはよくあるのです。 16.霊速度とのギャップ 予言とその結果のズレは、霊の個性によってもずいぶんと違います。かえってその霊人の観自在力が強くなりすぎていますと、はずれることもあるのです。あまりにも先のことまでありありと手近に見えてくるものですから、こんなことがまだできないのか、という感じ方であるのです。彼らにしてみればもう、すぐにでも起きるように思うことであっても、それは三次元的には十年かかるなどということがあるのです。 私もだいたい霊の本質がよくわかってきたのでありますが、けっきょく霊的になればなるほど、すぐ答えが出てくるという感じが強くなるのです。霊として純化されてゆき、意識が高くなってきて、肉体意識を離れてほんとうに霊的になってきますと、思ったことがすぐパツと出てこないと間に合わなくなるのです。認識の速度がものすごく早くなり、実現の速度がものすごく早いのです。それゆえに地上の人は混乱するのです。ここに大きな違いがあります。 現在、地上に生きていても、このような混乱はあります。会社でも「一週間もかかってまだできていないのか。一時間でなぜできない。」などと仕事について言うことはいくらでもあるわけで、霊になるともっと激しくなるのです。たった、一秒ぐらいでできてくるのです。 これは本をつくっていると私もよくわかります。いろいろな本をつくっておりますが、守護霊たちは、ほんとうに一冊の本の内容を考えつくのに二、三秒しかかかりません。題名をつけると、高級霊は、一冊の構想がすぐ二、三秒でできてしまうのです。 ところが地上の人間の場合は、作家などでも、構想を練るために旅行をして、ゆかたを着て、落ち着いてから「ウーン」と考えてもなかなか名案が出なくて、いよいよ編集者が来て「先生、もう締切です。もう待てません。だめです!」などと詰め寄られて、「そこを何とか待て!」といい返したりすると、「もう許しません。」なんて脅されてやっと一枚書いたりしていますが、霊界の先生方であれば「こんなのはどうでしょうか。」と題をポンと出します。「いいな」と言えば、もうパッとはじまって、それで、もう本になるのです。 私たちが、たとえば原稿用紙三百枚を書きつらねたならば、ものすごい労働になりますが、彼らであれば想念のかたまりのようなもの、あるいはパッと湧いたイメージをグッとひとつかみでつかむという感じです。そのイメージが実は三次元的に展開されてきて、このような本になるのです。ですから『太陽の法』のイメージというのも、太陽がチラッと輝いたにすぎないくらいで、すぐにパッと本になったという感じなのです。まさしくそうした感じです。 高級霊たちと話していて、霊言集や本をつくるときに、理論書でも一分以上かかることはありません。考えるのも、もう数秒です。それでやることを決めますと、たちまち章立てを書いてくださいます。章と節がありますけれども、すべて一気です。ですからその思考速度になかなかついていけないのです。手で書いていればとうてい追いつきませんし、しゃべってさえも追いつかないのです。一冊の本をしゃべるのに何時間もかかりますが、彼らの思考速度からいきますと、それは数秒のことなのです。それはちょうど、彼らの思想がマイクロフィルムのようにアッというまに完成されて、全体を見てでき上がっているなと感じるのと同じです。しかし、それを三次元的に展開するとなりますと、しゃべる速度でも何時間もかかってしまいます。とてもついてはいけません。それほど霊速度というのは速いのです。 ですから、このような霊人たちにあまり相談してみても、かえっていろいろなことが当たらなくなるのは当然のことなのです。たとえて言えば彼らは、新幹線のように走っていますから、隣の家に新幹線で行こうとすれば、大変なことになるわけです。ブレーキをパッと踏んでも、もう先に行ってしまっている。このような感じなのです。ですから隣の家へは歩いて行くのがいちばんよいのです。その意味では、ほんとうに狐や狸のほうがよく当たるということもあるかもしれません。 この速度というものをひじょうに感じています。そして、私もこの肉体の不自由さを感じています。まさしくそうしたことなのです。高次元の霊が純粋化してきて、ほんとうに霊そのものになればなるほどそうです。まだ地上に近いところの霊は、ゆっくりしているものもおりますが、高次元にいけばいくほどそうなのです。 したがって、彼らはおそらく地上の人の何万倍も仕事ができると思います。パッと思っただけで本一冊分の想念が出てくるのですから、このような能力は地上の人間と比較になるはずもないのです。このようなタイプの人と仕事をしていれば、かなうはずもないのです。 ですから、そのような霊人の予言はほどほどに聞かなければいけない部分もあるわけです。高級霊によっては、「会員がなぜまだ十万人にならないのか。」などと言ってこられることがあります。「もうなってもいいのではないか、二年もたったのだから。」と言われるわけです。私としては、「そんなに簡単になれますか。」と返事をせざるをえないのです。今ごろ、そんな数になっていれば、事務局長などは目を回し、忙しさのあまりに過労で倒れて病院にかつぎ込まれてしまいかねません。二年で十万人にもなれば、会の基礎づくりも、展望も何もできるはずはないのです。地上の人間はそれだけ遅いのですが、あの世の霊からいわせればそういうことなのです。「もう二年もたっているのに、何をやっておるんだ。」という感じですから、ひじょうにその感覚にずれがあります。ようするに時間が違うのです。そのようなことが言えます。 時間の違いがグーッと高速度になってきて、一秒が○・○○○○○一秒ぐらいまで縮まってくればどうなるかといいますと、それが次の一即多、多即一という概念といっしょになってくるのです。時間が縮まってきたときには、私たちの目には同時にいろいろなことができるように見えるのです。 もし千分の一秒、一万分の一秒くらいの間にいろいろなことをできる人が出てくればどうでしょうか。人がまぶたを開けるか開けないかのうちにいろいろな仕事が終わっているということになります。一人で何千人分、何万人分の仕事ができるはずです。普通の人間は止まっているのと同じに見えるわけです。普通の人間が指を動かそうかどうかと考えているうちに、もう講義が終わっているというような、そのような感じになってきます。そういうことなのです。 ですから、地上的にわかるようにいえば、一即多、多即一のところもそのように理解されてもけっこうだということなのです。このような違いがあるのです。 17.神通力 ①狭義の観自在力 この一即多に入る前に、もう少し観自在についてお話しいたしますと、狭義の観自在力、あるいは、代表的な観自在力の部分はどこかといえば、梵天界のところがいちおう代表的な部分になっています。大きな意味での観自在はもちろんもっと幅広い領域からあるのですが、代表的なものはこのあたりです。 なぜかといいますと、梵天のあたりにこの六大神通力がいちおうのかたちでそろってくるのです。だいたいこのあたりがわかってくるのです。ここについては、『漏尽通力』のなかでも説明はされてあると思います。 まず、天眼(てんげん・てんがん)という霊視能力です。それから天耳(てんじ・てんに)、霊たちの声を聞く能力です。霊言能力もこれに入れてもよいでしょう。他心(たしん)、いわゆる読心能力のことを言います。宿命(すくめい・しゅくめい)、想念帯を読み取ったりして、その人の過去・現在・未来を見通す能力です。これもレベルによってそうとう差がありますし、はずれることもやはりあるように思います。 ②過去世と方便 はずれると言うのでは問題があるかもしれないので、方便と考えたほうがよいかもしれません。釈迦もこの宿命通力にひじょうにたけていました。そして過去世物語をそうとう語っています。これは仏教の物語で、読まれた方もけっこういらっしゃると思いますが、ではそれがほんとうにすべて当たっているかどうかということを考えてみますと、はっきりいって当たっていないのです。 釈迦自身も自分は過去七回生まれ変わって過去七仏といわれていると語っております。そしてその前世物語を話していて、そのときは自分はベナレスに生まれてどうこうだったというように説いているのですが、すべてインドのなかでの話なのです。認識がインドを出ることがないからこのようになるのです。もちろんその当時に、自分はアトランティスに生まれ、ムー大陸に生まれたなどと説いても、わかる人はだれもいませんし、自分もわからなかったのかもしれません。ですから全部インドのなかでの話になっています。 これははたして釈迦が真実を知らなかったのか、あるいは、知っていてそういったのかどうか、このあたりはミソの部分で言えませんが、事実として見ればこれは当たっていないのです。そういうことがいえます。 それからジャータカ物語などでも、動物がたくさん登場してまいります。釈迦の過去世をずっとたどっていくと、鹿になったり、うさぎになったりするのです。それが自分の過去世であったという話も出てくるのです。しかし、このようなことが当たっているはずもありません。これは人を教化するためにそのような話をして、動物をだいじにしなけれぱいけないということを、人間にはそういう立場になる可能性があるという話で諭(さと)しているのです。鹿の王様であったときの話など、いろいろと語っています。これには多少の方便もあったと思います。 ③過去世と指導霊 このように、過去世を見通すといってもそうした問題はありますし、特に指導霊がこのあたりは、ある意味で適当なことを言うことがありうるということです。指導霊の認識と、地上の人間の認識とのあいだに、ものすごいズレがあるためなのです。向こうがわかっていても、こちらの人間はもうだいたい自分の生活圏でものごとを考えておりますから、地上側ではこのように考えているから、強くこうあるべきだと思っているようなことがあるとしますと、「まあどちらでもいいことは、難しいことを説明するよりも、そのように答えておこう。」ということがありうるのです。そのようなことがあったと、高橋信次先生がよく言われています。それでずいぶんやられたといっていました。たとえば、自分の車を運転していたのはチュンダカではないかといいますと、「そうだ。」などということがよくあったと言われていますが、そうしたことがいろいろとあるようです。当たっている場合もありますし、そうでない場合もあるわけです。 やはり地上の人間というものは見る範囲が狭いですから、どうしてもその範囲のなかで引き当てをしようとするわけなのです。ところが自分が過去に知っている人の名前の範囲を越えて全然知らない人と引き当てられても何をしていたかさっぱりわからないので困るであろうからということで、その人が知っている名前を言ってくることはあります。 ですからこのあたりはそれほど重視していないと見てもよいのでしょう。指導霊団たちも、過去世があるということがある程度わかればそれで役は終わっていると言っています。実際、そうであろうとも、また違ったものだとしても、それを証明する手立ては何もありませんから、その程度にしか重きを置いていないこともあるようです。ただ、これは指導霊が大ざっぱな指導霊の場合です。 神経の細やかな指導霊の場合は、そうではありません。前者の例としては、具体的な名前を出すと問題があると思いますが、赤色光線の指導霊などが指導しているとそういうこともあったということを聞いています。あまり深く追及するのはよしたほうがいいでしょう。身体が大きくなると、人間はだいたい鷹揚(おうよう)になってきます。 ④幽体離脱型の霊視 神足(しんそく)というのは幽体離脱、テレポーテイションだということです。これもいろいろなかたちがあります。ですから霊視能力なども発達してゆき、霊視能力とこの観自在能力、あるいは如心であれば、離れている人のことが千里眼のようにわかってくるという感じも、実は幽体離脱と多少関係があるようです。それは、けっきょくまるごと魂が出ないにしても、魂の一部分がアンテナのように抜けていくのです。そのようにしてわかることがよくあります。 今はもう個人相談はしておりませんが、最初の一年目のうちはしていました。ところが私は具体的に人と会って相談したりしますと一時間も二時間も時間が取られてしまうため、相談者に相談内容を紙に書いてもらって対応させていただいていたのです。読者のなかにも何人か相談された方もいらっしゃるかもしれませんが、名前と相談事項を紙に書いて送っていただいて、直接本人には会わないでもそれを見ると、いろいろなことがわかるのです。 九州のある方でありましたが、ものすごく体の具合が悪いと訴えてこられたことがありました。それで見てみますと、この人に憑いているものがわかってきたのであります。その姿を写生して、このようなものが憑いているよと教えてさしあげたのですが、やはりそのとおりであったそうです。九州のほうで、ある教団の幹部になっていて、たしかに、私が書いたようなものに憑かれているのです。先方も自覚症状があってか、わかりましたと言っていましたが、すぐにいなくなりますよと返事をさしあげたところ、いなくなったとの報告を受けたことがありました。そのようにかなりのところまではわかるのです。 どうして九州にいる人のことが見えるかといいますと、やはりこの神足に少し近いのです。単なる霊視というよりも、むしろ幽体離脱型の霊視に近いと思います。一部分が、かたつむりの角のように、相手のところにシューッと伸びていく感じでわかってくるのです。そのような感じがします。肉体を離れると、おそらくそれがもっとはっきりとしてくると思います。 ⑤漏尽 漏尽(ろうじん)というのは、『漏尽通力』という本もすでに出しておりますが、「己の欲するところに従いて、矩(のり)をこえず」と喝破(かっぱ)した孔子の境地で、高度な神霊能力を持ちながら、通常人とまったく変わらない生活をする能力です。「山にかくれたる小聖の境地ではなく、街に住む大聖の境地です。』と説明することもできます。この漏尽は、やはり霊道を開くと、この意味がよくわかってまいりますが、開かなければなかなかわからないようです。霊道を開きますと、この漏尽通力がどれほど偉大なものであり、貴重なものであるかということがよくわかります。 霊道が開いた当初はやはり霊のほうに翻弄(ほんろう)されるようにだんだんなってまいります。これをしっかりとフィルターにかけて判断し、三次元についている自分のこの足を失わないようにするには、やはりそうとう魂的な足腰が強くないと難しいのです。この意味がわかってくる方もいると思います。 以上が狭義の代表的な観自在力で、だいたい梵天ぐらいからこのような感じになってくるということです。ですから、霊といっても四次元・五次元の霊ぐらいであっては、ほんとうは全部はわからないのです。たとえば五次元ぐらいにいるご先祖を呼んで、「私の将来どうなるのでしょうか。」などと聞いても、ほんとうはボヤーッとしかわからないのです。特にそうしたことに興味があって研究している霊であれば知っている場合もあるけれども、霊だから何を聞いてもわかるかといいますと、それほどわからないというのが実状です。やはりそこにも、わかるわからないの差がそうとうあるのです。関心を持っている人でありますとわかることもあるけれども、全然わからないことも多いのです。このあたりがやはり違いなのです。 18.如来界の如心(一即多、多即一) ①複眼的霊能力 それから一即多、多即一、これも高い意味での如心であるといってもいいでしょう。『観自在力』のほうではこうした如心のことを、複眼的霊能力という説明でしていると思います。この前提の梵天界の観自在力というのは、ある程度このように人間的な感じでいろいろなものが見えるという感じでありますが、この高いほうの如心であります。如来界の如心になってきますと、目があっちもこっちもあるかのような感じになってくるということです。 ですから、みなさん方の目は二つしかありませんが、この目がたとえばたくさんあって部屋中に散らばって存在していたとすればどうかというと、自分自身のいろいろな角度の姿が見えるわけです。そういうことなのです。そして目が天井・壁・床に散らばっていて、テレビのカメラのように映していてたくさん姿が映っているのです。このいろいろな画像を見ながら全体のことを感じ取るような能力、これが如来界の如心の感じとなっているのです。まさしくこの感じで、感覚器官が複数ある感じになってきます。ですから一人でも一人ではないような感じがします。 これは受け取る情報でありますが、逆にアクション、活動のほうを見ても、これもまた複数に動きはじめるのです。ひじょうに多様な展開をはじめます。これを地上的にいうならば、前節で述べたような感じです。千分の一秒で仕事を片づけてしまえば、どうなるかということです。一時間かかることを千分の一秒ですませ、無限に縮めていけばどうなるのでしょうか。この動きはもう見えないぐらいの動きです。いわゆる千手観音のように、手が千本あるくらいの感じになってまいります。 したがって、この如来界の如心、ここでは一即多、多即一という言葉で語っておりますが、これはけっきょく、どういうことかと申しますと、数の概念がだいぶ変わってくるということです。これは別な言い方をしますと、自己イメージというのがはっきりと変革することを意味しています。みなさんが自分は一人であると思っているイメージが、一人ではなくていけるという感じです。 みなさんは手が二本しかありませんから、手としては二本の手で感じるものしか感じませんが、もし自分がタコやイカであったらどうかと考えてみてください。タコの足は八本で、イカは十本あります。八本か十本かの手足があると考えてみていただきたいのです。そしてそれぞれがいろいろなものを感じている。目もそのようにたくさんある感じです。このようにして自分が生きている人間という意識で生活すれば、どのような感じがするでしょうか。後ろにも目があるという感じで、足は上にも下にも左右にも自由自在という感じで天井を歩くこともできるでしょう。そのような感じになってくるのです。 ②拡大・分化する如来の意識作用 このようになってきますと、人間としてのまとまりの部分がけっきょくなくなってくるのです。なぜそのようになってくるかといいますと、これは意識の数だけ、あるいは作用の数だけ分化するからなのです。思っただけの数に分かれてくるのでありますから、まことに不思議です。意識体として、もう少し具体的にかたちをつけて説明すれば、私がたとえばパッと見て天井のライトが面白いなと思ったとしますと、思った瞬間にどうなるかといえば、私の胴体がキューッとくびれてくるわけです。そして見る間に細くなって、餅のようにパッと切れます。そして頭の上からシューッと足が生えてきて、天井をペタペタッと歩いて、また、そうかと思えば玄関に行きたいと意識しますと、スーッとそちらへ今度は分かれていく感じです。また、ふと駅前に行ってみたいと思えば、いきなり分身が駅前に出てきて通りを歩いている。 あるいは晩ごはんを食べずに夢中になっているうちにおなかがすいたので、あの食堂にしようかなどと思っていますと、そこにスッと分身が現われて食べているという感じになるわけです。このようなことは、人間としているときはできませんが、このかたちになってきますと、もう自由自在になってくるということです。このような感じでありますが、わかっていただければ幸いです。 一つの参考としてはカントの霊訓(『ソクラテスの霊言』所収)のなかで彼が言っておりますが、そのようなことが自己認識として、はたしてみなさんはできるかどうかということです。思いついた数だけの自分が、ようするに分光していって仕事ができるのです。このようにして統一できる自己意識がもしあれば大したものです。これができるようになれば如来の世界なのです。それをどういうように自己の分光を出しながら仕事をするか。この総合仕事率です。いろいろなことをあちこちでやっているのを、中央でキュッとくくってトータルでまとめて管理する能力です。けっきょくはこのあたりが如来の恪になってくるのです。 ③梵天如来の自己認識 低い段階の如来、いわゆる梵天の上段階で、梵天如来(ぼんてんにょらい)の場合はどうかといいますと、まだこのあたりの意識のバラツキがありまして、まだじゅうぶんに収拾がついていないということがいえます。いろいろなことができるのはわかるのだけれども、まだ経験の段階にあって、いろいろな経験を積むことが中心になっているのです。「不思議だな、ここで乳を搾るカントあり、あそこでコーヒーを飲むカントあり、そういうことができるのだな、不思議だな。」というような感じです。フッと思うと自分が二人になっている、オヤッと思うともっと増えていて、ほかの仕事をこなしている。そのように活動しているのが、この梵天如来の段階なのです。
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目次 1.女性の幸せ 2.魅力的な女性 3.女性のこの世での役割 4.最善を尽くす人生 5.この世の愉しみ 6.人生の勝利の時 7.人生の真昼に 8.生命終わる時 9.極楽往生と念仏 10.地上の記憶 1.女性の幸せ(1986年7月20日の霊訓) さて、本日は「女性の幸せ」という題でお話したいと思います。小桜も、神界に来てからすでに四、五百年はたったでしょうか。どうやら生きていたときの、女性としてのたしなみも忘れはじめ、厳しい修行の結果、やや男性的なものの考え方が身についてきたようです。 そこでもう一度心を新たにして、女性の幸せについて考えてみたいと思います。 みなさまご存じのように、宗数的な方面では、どうしても女性は主役になりません。どちらかというと、歴史のなかでは、悟りの妨げであったり、神理伝道の邪魔物であったりしたようです。そして、歴代の宗教家の考えでは特に釈迦仏教の考え方では、女性というものは物質的なことに心魅かれやすく、また業(ごう)が深いために、女人成仏はほとん ど例外的なことのように考えられていたようです。 確かに、実在界に還ってきても、女性の霊で太陽界や(九次元)如来界(八次元)の方はほぼ皆無です。わずかに、如来界と同一視されているような女神様が二、三名おられるだけのようです。女性で菩薩界の方(七次元)もいらっしゃいますが、菩薩界人口の一割にも満たないといわれています。こうしてみると、女性というものは悟りにほど遠く、「女性の幸せ」とは、やはりこの世的な生き方にしかないものではないかと思われるむきも多かろうと思います。 確かに、毎日鏡台に向かい、アイシャドウを塗り、パタパタお化粧をして、ネックレスをぶら下げ、鼻の穴をふくらませて、「私きれいかしら」といっている現代女性の多くは、世の男性方から「お美しいですね」というお世辞の二言をかちとることを最大の幸せとしているのではないでしょうか。やはり女性はどうしても、女性として生まれついてよりこの方、「幸せ」の感じ方が、他人の判断、他人の意見によって左右されることが多いようです。 その根本の理由は、女性はやはり弱いからだと思います。女性は他人の評価を松葉杖にしないと生きていけない方が多いのです。言葉を換えれば、「自分一人で切り拓く幸せ」「主観的物差しによる幸せ」がなかなか納得されにくいのだと思います。 しかし小桜は、女性にもこの世だけに通じる幸せではなくて、あの世にも通じる幸せの物差しを持っていただきたいと思います。 そして、小桜の考えるあの世でも通用する女性の幸せとは、次の五ヵ条ではなかろうかと思うのです。 一、心の清らかさが、女性にとっての、最大の幸せです。 二、他人に十分に奉仕できた人生であることが、女性にとっての二番目の幸せです。 三、慎しみ深く生きたことが、女性にとっての三番目の幸せです。 四、できるだけ広く穏やかな心を築きえたことが、女性の四番目の幸せです。 五、明るく、肯定的に生きられることが、五番目の幸せです。 以上、五ヵ条をあげましたが、世の女性のみなさんは、この五ヵ条を紙に書いて目につくところに貼(は)って、毎朝読み上げてほしいものです。一、心の清らかさ……自分の心は濁っていないか、さわやかであるか。二、他人への奉仕……自分の愛する人、縁のある人びとへ尽くしているか。三、慎しみ深さ……自分は自己顕示欲のかたまりになっていないか、女性の慎ましさという美徳を忘れていないか。四、広く穏やかな心……自分は狭いものの見方をしていないか、何かにこだわっていないか、自分は感情の起伏が激しくはないか。五、明るく、肯定的に……自分はじめじめした考えをしていないか、愚痴ったりしていないか。前向きに物事を考えているか。 この五つのことがかなえられた状態こそ、女性にとって最高に幸せな人生であろうし、そしてその幸せは、三次元のみではなく、四次元以降のあの世にも続く幸せなのです。 ここで小桜が、本人の心がけによって感じうる幸せ、自分一人で切り拓く幸せをあげたことにご注意ください。「女性の幸せとは」という問いに対して、平凡な女性の多くは、「いい男性に巡(めぐ)り合うこと」とか、「よい子供に恵まれること」とか、「経済的に安定していること」とか、「美人だと思われること」など、他人の物差しで幸せを計ってしまうのです。どうか心の幸せこそが、ほんとうの幸せであることをお忘れなく。 2.魅力的な女性(1986年7月21日の霊訓) 昨日に引き続き、今日も女性について話したいと思います。今日は主として、「魅力的な女性」ということで考えてみたいと思います。 本題に入る前に断っておかねばならないことが一つあります。それは、「魅力的な女性」という題名自体が、「女性は魅力的でなければならない」という命題を含んでいるからです。では、なぜ女性は魅力的でなければならないのでしょうか。なぜ女性は、魅力的でありたいと願うのでしょうか。そして魅力的であるということは、ほんとうにすばらしいことなのでしょうか。 やはりこの問題を考えるためには、神様がなぜ、男性と女性をこの地上にお出しになったかということに遡(さかのぼ)って、考えてみなければならないようです。 神様がこの地上に女性をお出しになったとき、神様はやはり補助者としての役割を女性に期待しておられたようです。そして男性には、神様が創られた世界の歴史のなかで主人公となる使命をお与えになったようです。 そして、男性のためのよき補助者になるために、神様は女性に二つの注文をつけたようです。その一つが「献身的であれ」ということですし、他の一つが、「魅力的であれ」ということだったようです。 一番目の「献身的であれ」という注文は、男性の補助者としての役割を十分に果たしてもらうためです。二番目の「魅力的であれ」という注文は、経済的になかなか自立しえない女性の弱い立場に同情されて、女性が男性の庇護(ひご)を十分に受けられるようにとの親心から発された注文だったようです。 さて、以上のようなことを前提にして、現代のあなた方の時代で「魅力的な女性」について考えてみます。 現代女性の間の意識では、どうやら、「魅力的な女性」というのは、大体二つのタイプに分かれるようです。その一つが、異性である男性にチヤホヤされるような人目を引く女性です。いま一つが、仕事の面で、同性の目も、異性の目も引きつけるような才能の持主です。どちらにも共通するのは、昨日私がお話したように、他人の目を規準にして、魅力的かどうかが分かれるところのようです。 そして特に現代の傾向をよくよく見てみると「魅力的な女性」という定義からは、主婦族がはずれてしまうようです。主婦というのは釣り上げられた魚みたいで活(いき)がよくないということなのでしょうか。その結果、現代では「魅力的な女性」とは、男性にチヤホヤされながらも、結婚せず人もうらやむようなキャリアウーマンになったり、独自の才能で経済的に自立している女性のことをいうようです。 しかし小桜の目から見ると、こうした女性の大部分は、話し相手もなく孤独で、寂しい人生を送っているようです。そしてその孤独を慰めるためにも、精一杯羽振りのよいところを見せて、結婚前の同性の心を揺さぶっているようです。「ただの主婦になるなんて人生もう終わりよ。」「できるだけやりがいのある人生を生きなきゃ。」「女だって才能を生かせば、男以上のことがやれるのよ。」……云々こういった声で、適齢期の女性たちを迷わしているのが、世にいう「魅力的な女性」の大部分です。 ここで私は、古くからある問題、女性の社会進出ということに触れなければならないようです。現代ではどうやら、女性の魂の歴史のなかで、革命が進んでいるようです、というのも、世の中が変わり、社会が進歩しても、男性の魂はますます豊富な経験を積んで魂が向上するのに、女性の魂は、主婦業ばかりやっていたのではいっこうに進歩しないから、魂の進化を求める女性たちが、社会進出を望みはじめたからです。しかし、その結果は、かなり惨たんたるもので、反乱を起こしている女性の魂――つまり、本来女性に予定されている役割の殼を脱ぎ捨てようとしている魂のうち、もといた霊層より向上しているのは二割程度で、大半の方々は、もといた霊層より低い所か、地獄界に行っているようです。 私は世の女性たちに申し上げたいのですが、あなた方は、地上界に残した実績によって評価されるのではないのですよ。やはり、いかに愛深い人生を生きたかによって神様には評価されるのですよ。自分の勝手な生き方を押し通すことによって、「愛」の少ない女性になってはいませんか。仕事は二の次です。やはり根本は心です。いくら女性で総理大臣になっても、高収入のファッション・デザイナーになっても、愛のない、砂漠のような人生を歩んだ女性は、やはり地獄で苦しむことになるのです。 「魅力的な女性とは何か」、この問いに対し、小桜は自信をもって、いまお答えすることができます。「愛に溢(あふ)れた女性である。」と。 野に咲く草花でさえ、道を急ぐ人びとの心に「やすらぎ」という名の愛を与えているではありませんか。 ましてや人間として、女性として、この世に生を受けた身であるならば野に咲く草花以上に、世の人びとに愛を与える義務があるはずです。 女性の方々は、ともすれば、愛されることは当然だ、愛されることは権利なんだと考えがちなんですが、それは違っています。女性といわず人間は、愛される権利ではなく、愛する義務を負っているのです。 ですから、自己実現として、「魅力的な女性になること」を願うのはすばらしいことですが、その目的が、「より多くの人びとに愛されるため」であるなら落第で、「より多くの人びとに愛を与えるため」なら及第です。愛に満ち溢れた女性こそ、ほんとうにすばらしい、魅力的な女性であることを小桜は再度繰り返します。美しくなることや、職業を持つことや、世間の注目を集めることが、決して魅力的なことではないのです。 無尽蔵の愛の泉を心の奥に持つ女性こそ、真に神様の花嫁といわれるような聖女であり、女性の幸せの極致ともいえるのです。 3.女性のこの世での役割(1986年7月22日の霊訓) さて今日は、「女性のこの世での役割」について話しましょう。前の二回のお話のなかでも、女性のこの世での役割についてはかなり触れたつもりです。ですが今回はあえて、この地上に居る心ある女性のために、ほんとうの役割、生き方を話してみたいと思います。 女性のこの世の役割とは何かを知るためには、女性の特長について考えてみる必要があります。女性は、体力的にも知力的にも、一般には男性に劣るようです。理性の面でもやや劣ることも否定できません。女性の男性に勝(まさ)る点といえば、感性の面、直感力、美意識、奉仕的性格、潤滑油的な面、辛抱強さ、ねばり強さ、現実的配慮、金銭感覚、同情心、優しさ、といった諸点だと思います。反面からいえば、神様は、男性だけの社会だとギスギスしたものになりやすいため、女性をこの世に派遣したともいえます。 神様の大切に思っておられる徳目のうちで、男性の魂が、真、善、正義を体現しているとするならば、女性の魂は、愛、美、優しさを体現しているといえます。もちろん、自分に欠けている面を補うべきだという考えには賛成を惜しみませんが、やはり、神様が長所を与えてくださっている以上、その長所をどこまでも伸ばしてゆくのが考えの筋だと思います。 どうやら小桜の基本的な考え方がおわかりになってきたようですわね。やはり私は、女性のこの世での役割も、心の問題を主として考えてゆきたいと思っているのです。 つまり、小桜の考えでは、女性はこの世で次の三つの徳目を最大限に発揮すべきであるという役割を担っているのです。 一、女性は、神様がこの世を潤すために派遣された〈愛の使者〉であり、一人ひとりが、〈愛の泉〉として、この干からびた地上を旅ゆく人びとを潤(うるお)さなければならない。 二、女性は、神様がこの世を装飾するために派遣された〈美の使者〉であり、この地上を少しでも、美しい環境に変えてゆくための〈美の体現者〉とならねばならない。 三、女性は、神様が、この地上を旅ゆく人びとの魂を憩わせるために派遣された〈優しき天使〉であり、人びとの心の傷を癒す〈看護婦〉でなければならない。 以上に簡単に述べましたように、私は女性というものは、どのような環境、地位、職業にあろうとも、〈愛の泉〉であり、〈美の使者〉であり、〈優しき天使〉である必要があると思います。 ここまでお読みになってもうお気づきかとは思いますが、愛と美と優しさは、この地上を天国、ユートピアとするための、ソフトな面での役割だということなのです。 これに対し、男性の方々が、地上をユートピアにするために、神理を広め、悪と闘い、神の国の地ならし、建築というハードな役割を担っているのです。 結論めいていえば、結局女性のこの世での役割も、ユートピア建設の一端を担うことであり、そのために女性らしさ、女性にとってもっともっと武器になるものを手にとって、戦うということなのです。 〈愛〉と〈美〉と〈優しさ〉の天使、それが女性の天職としての役割なのです。 4.最善を尽くす人生(1986年7月23日の霊訓) 今日は、「最善を尽くす人生」ということに関してお話ししたいと思います。 あなた方はよく「人生の時間というものは金貨のようなものだ。その金貨をみすみすドブに捨てるような馬鹿げたことをしている。」とか、「人生の時間というものは、公衆電話の硬貨のようなもので、一分ごとに落ちてゆく。」とかいう比喩で、人生における時間の大切さを教えられています。 確かに人間の人生とはすべて時間の連続体であり、その連続のしかたをみて、ある人の場合は幸福な人生、また別の人の場合は、不幸な人生とかいう結論づけがなされているようです。そして、私たちの人生は、一日一日の連続体ですから、結局一日一日を最高に生きることこそが、人生の幸福への近道といえそうです。 これをキリスト者たちは、「一日一生」という言葉でよく表わしますが、この意味は、今日が自分の人生の最後の一日だと思って全力を尽くしなさいということなのです。 一年先、五年先、十年先の計画を立てよといわれても、人間の人生は不可視であり、なかなか見通しを立てることはできません。けれどもどんな愚かな人間であっても、その日一日ぐらいの予定は立てることができます。 こういうふうに考えていくならば、一日のサイクル、〈計画―実行―反省〉の二十四時間の連続体がその人の人生のすべてなのです。 毎日、毎日の生活のなかに〈計画―実行―反省〉を持ち込むことは、それほど難しいことではありませんが、それを維持してゆくことはかなり難しいこと、いわば非凡なことです。 けれどもよく考えてみてください。なぜ「一日一生」の具体化のために〈計画―実行―反省〉ということをするのかを。結局のところこれは、生活の質を高めるための努力なのです。毎日毎日の生活の質を着実に高めていく、そういったことを努力している人と、そうでない人との間には、埋めがたい溝ができるでしょう。そしてこの溝の幅こそが、その人がいかに傑出した人であるかを示す指標なのです。 より質の高い人生、より非凡な人生への試みこそ、最善を尽くす人生だといえましょう。 5.この世の愉しみ(1986年7月24日の霊訓) さて、今日は、「この世の愉(たの)しみ」ということについてお話ししたいと思います。私たち、すでに何百年も前に他界した霊たちの話を聞いていると、この世というのは、とかくつらい修行の世界で、一歩踏みはずすと、奈落(ならく)の底の地獄に堕(お)ちてしまうような錯覚におちいってしまいます。 けれども神様は、決して人間を監獄に入れるようなつもりでこの地上に送り出されたわけではありません。神様は人間をこの地上に送り出すにあたって、「しっかりと魂の修行をしてくるんだよ。そして地上にもいいところがあったなら、地上の醍醐味(だいごみ)は満喫してきなさい。」そう言っておられるのです。 霊界のことを、実相の世界であり、永遠の世界であることを強調するあまり、この世をまったく不浄で、監獄のようで、少しでも早く離れるにこしたことはないような言い方をする人もおりますが、そういう考え方は、あまりにも狭いものの観(み)方だと思います。やはりこの三次元には三次元のよいところがあるのであって、そのよさを見出してゆくことも、学習の一つだと思います。 ほら、修学旅行というのがあるでしょう。あれです。旅行としての楽しみはもちろんあるのですが、先生がいるし、規則がうるさいので、なかなか個人個人の思うままにはいかない、あの修学旅行に似ています。修学旅行の目的は何かと問われたら、「広く見聞を広め、学生としての規則正しい集団生活を学ぶため」などと公称はされるでしょうが、その実、旅は旅としての愉しみはあるのです。自由行動時間というのがあって、まったく他の人にはないような貴重な体験をしたり、夜、消灯になってから、悪戯話(わるさばなし)に花を咲かせたり、枕投げを始めたりで、とても愉しい時間もあります。 こういう時間を、まったく学生の本分からはずれるものだと目をつりあげるような学生がいたら、ちょっと堅物(かたぶつ)すぎるのではないでしょうか。堅物といえば、そうだそうだと頷(うなず)くあなた方ですが、それは決してほかの人のことをいっているのではありません。光の天使であるあなた方は特に気をつけなければならないことなのです。「天使が地上に降りると悪になる」という西欧の諺(ことわざ)があるそうです。 天使といわれる方々はともすれば、天上界の意識そのものでこの地上の生活をしようとします。すると、あまりにも厳格で、あまりにも、清い生き方をし、しかもそれを他の人びとに押しつけようとするため、地上では「悪」となる場合があるのです。 ある人は金銭感覚が異常に潔癖で、お金を悪だと思っている。ある人は、男女交際に異常に潔癖で、むしろ、異性の存在を悪と見てしまう。その結果、その人を親にもつ息子や娘は、結婚適齢期になっても異常にストイックで、独身のまま生涯を送ってしまう。ある人は、地位欲や名誉欲を異常に嫌い、「下座(げざ)の生活」を〈是(よ)し〉とするあまり、他人にも便所掃除や草むしりを強要する。 キリスト教などもいい例で、ある偉い人が、「自分は罪の子だ」と懺悔(ざんげ)しはじめると、他の下々(しもじも)の人も、「罪の子」だと思わないと許してくれなくなる。ある人は自分が反省で悟ったら、他人にも反省を強要する。ある人は自分が座禅で精神的迷いをふっ切れたと思うと、他の人にも座禅以外では救われないと強要する。どの人もどの人も、あまりにもピューリタンであるために、この世的には存在悪になってしまう例です。確かに天使の性質のなかには清らかな点、ピューリタン的要素があるところは私も認めるし、それも大切だと自分自身説きました。 けれども、今日私がいいたいのは、旅に目的があるからといって目的を強要するのも結構ですが、目的ばかりにとらわれて、途中の景色を愉しむのを忘れてはいけませんよ、同じ車中に同乗した人びととの会話を愉しむことを忘れてはいけませんよ、ということなのです。もちろん光の天使の使命は、あてどない旅をしている人びとに、人生の目的と使命を教えてあげることですが、かといってご自分がその旅を愉しむことを忘れるほど、窮屈な片肘を張った生き方をしてはいけませんよ、ということなのです。 言葉を換えていうならば、人生にはゆとりと余裕も必要ですよ、先を急ぐあまり、この世の花を見落としては損ですよ、そういうことを私はいいたいのです。 あなた方は、今後神理伝道のために全力を尽くすのでしょうが、私はあなた方の人生は、あなた方の人生として、光り輝いているものであることを祈っています。 転生輪廻はあるとしても、同一時代、同一環境に生まれることは二度とありません。神とともに、他人とともに、そして、自分自身とともに歩むようなすばらしい人生であってほしいと思います。 6.人生の勝利の時(1986年7月25日の霊訓) さて今夜は、「人生の勝利の時」ということでお話をしたいと思います。 人間が七十年、八十年の人生を生きてゆく時、さまざまな浮き沈みがあります。私にしても、わずか数十年の人生のうちで嬉しい時、悲しい時、いろいろありました。けれど今にして思えば、嬉しい時も悲しい時も、私の人生という名の機(はた)を織るための、それぞれ縦糸と横糸だったのだなと思い至るのです。 私はいま、あなた方からみれば、はるかかなたの六次元神界の最上段階から、この三次元の人間のさまざまな人生模様を眺めています。私の目からみていると、地上の人間は、なんと無知で、なんと盲目で、なんと怖いもの知らずで、なんと衝動的な生き方をしていることでしょう。街の盛り場を、何か面白いことでもないかとアロハシャツを着て歩いているチンピラ風の青年。「恋のアバンチュール」という言葉を頭に思い浮かべながら、「この夏は信州へ行ってみようかしら」と新しく買った赤いハイヒールのかかとを気にしているOL。また上役に叱られて、赤提灯をくぐっている若手社員。首に包帯を巻いて「何かよく効く神霊治療家でもいないかしら」と、新宿の紀伊国屋書店で、高橋信次さんの本やあなた方の「天照大神の霊言」をパラパラとめくっている中年の女性。 どの人もどの人も道ゆく人びとは、人生の真実を知らず、人生の何たるかを知らず、人間がどこから来てどこへ去ってゆくのかも知らない。ほんとうにどういったことが、価値ある仕事で、ほんとうにどういった書物が、価値ある書物かも知らない。道ゆく人びとは、一陣の秋風でも吹けば、カサカサと音を立ててころがってゆく枯葉のような存在にも見えます。 人びとよ、あなた方の一人ひとりをはるかかなたから見おろしている私たちの存在に気づいてください。神様は決して、あなた方を孤独な迷い子にはしていないのですよ。あなた方の一人ひとりが迷わぬように、幸せな方向へと進んでゆくようにと、祈っている私たちがいるのですよ。神様はあなた方が迷わぬようにと、あなた方一人ひとりに、守護霊を付けておられるのですよ。不幸の時に、悲しみの時に、人生の苦難の時に、なぜあなた方は、自分の守護霊に助けを求めないのですか。なぜあなた方の守護霊に悩みを打ち明けないのですか。あなた方が、川で溺(おぼ)れそうになっている時に、あなた方の守護霊は必ず、川岸に駆け寄って、「さあ、この手につかまりなさい」と手を伸ばしているのです。その守護霊の差しのべた手を川のなかからしっかりとつかみなさい。水のなかでもがいてばかりいないで、しっかりと手を伸ばして守護霊の手を握り返しなさい。その神の愛に満ちた暖かい手を、あなたの凍(こご)えた手でしっかりと握りなさい。いくらあなたの守護霊や、私たち高級霊が、あなたを助けようとして何人もが手を差しのべても、あなたご自身がその救いの手をはねのけてしまっては、どうしようもないのですよ。 地上の迷える人びとよ、よく聞きなさい。神様は決して、私たち守護・指導霊に、地上にいるあなた方が、善人だから救え、悪人だから救うななどとは言っていないのです。よいですか、間違ってはいけませんよ、神様はすべての人を分け隔てなくお救いになろうとしておられるのです。どんな悪人だって、喜んで救おうとしておられるのです。 地上で、頭だけで宗教を学んだ自力論者は、「神様は、自分の心と行ないをよく反省して悪いところを取り除いた善人を救って、悪人は救ってはくださらない。救ってほしかったら、十分悪かった思いや行為を反省して善い人にならなければ……」そう思いがちです。でもこれは違っています。神様は万人を平等に救おうとしています。神様は私たちに、善人であれ、悪人であれ救えと命じておられるのです。 もちろん、川で溺れている人が救われるためには、私たちの差しのべた手を握り返すことが必要です。これだけが必要とされている自力なのです。私たちが救いの手を差しのべているのに、頑強に、私たちの助けを拒否して、水の中に沈んでゆく人たちもいるのです。私たちは涙を流して溺れていった人たちのために悲しんでいます。私たちの涙をわかっていただけますでしょうか。あなた方は、とめどもなく流している私たちの涙の味がわかっているでしょうか。私たちは難しいことは言いません。どうか苦難のときには、神をふり返ってほしい。私たち守護・指導霊の存在に気づいてほしい。私たちが差しのべている救いの手に気づいてほしい。私たちの救いの手をどうかはねつけないでほしい。私たちを信じてほしい。私たちを頼りにしてほしい。私たちがあなた方に要求する自力は、ただ私たちの手を握り返すことです。 私たちは、水泳の達人を助けようとしているのではないのです。水泳の達人は、私たちが助けなくとも、自分で岸にはい上がります。そういった優れた人は自分で神の道を切り拓(ひら)けばよいのです。ただ私たちが日夜心を傷めているのは、溺れかかっているあなた方迷える人びとなのです。どうかあなた方の心を私たちに向けてほしい。この小桜の小さな本だとて、あなた方を救うために地上の川に流した小さな浮き舟です。どうかこの小さな浮き舟の縁(へり)につかまってほしい。どうかこの小桜の小さな物語で、一人でも多くの地上の溺れかかった人びとを救いたい。 私の手を握り返してください。それは、簡単なことです。一年間にわたって、綴ってきた、この小桜姫の話に耳を傾けてほしいのです。語られた内容を信じていただきたいのです。たったそれだけのことなのです。地上の人びとよ、私の小さな手をどうかしっかりと握り返してください。そのときが、あなたの人生の勝利の時なのですから。そのときが、あなたに神の栄光があらわれるときなのですから。どうか小桜の手をしっかり握り、敗北の人生から勝利の人生へと力強い一歩を歩みはじめてください。 7.人生の真昼に(1986年7月26日の霊訓) さて、この物語もどうやら終わりが近づいて来たようです。あなたは今までの私の話を読んでどう思われたことでしょう。たとえその中身は大したものでなくとも、何かを伝えようとする小桜の熱意さえ伝われば、ほんとうに嬉しく思います。 では、今日は「人生の真昼(まひる)に」と題して、お話ししたいと思います。 夏の暑い日ざかりのなかを歩いてくると、汗が吹き出る思いがします。夏の昼下がり、ご婦人が日傘をさして、濃い影を落としながら、静かな田舎の砂利道を歩いていると、ふと涼風がどこからともなく吹いてきて、ホッと救われたような気持ちになることがあります。――人生の真昼に――人びとは濃い影を落としながら、濃い影が地面に映っているということだけを自分がこの世に存在するのだという証拠だと思って、心に言いきかせます。ただこの地上に影を落とすだけの存在――影を落としているということだけが実在のしるし――大部分の人間は、こうして人生の真昼を生きてゆくのです。 しかし、地上に住むあなた方にお知らせしたいのです。人生の真昼に、あなた方の真の存在を告げ知らすものは、地面に映った影だけではありませんよ。あなた方が流す汗の一つ一つがダイヤモンドのように結晶となって、世の人びとの宝となるような生き方ができるはずですよ。 大部分の方々は、光の指導霊たちのように、仏法をこの地上で説くことを一生の仕事とすることはできないでしよう。たいていの方々は、この地上にだけ意味があって、私たちの世界から見たら何の意味もない単純再生産の仕事に携わっています。農業も漁業も鉱業も、加工業も、流通業も、私たちの霊の世界では、――思っただけですべてのものが現象化する私たちの実在界では――必要のない仕事です。ましてや現代の企業のなかでのペーパー・ワークなどは、地上の世界から見れば高級な仕事なのですが、私たちの世界から見れば、無益な仕事に見えます。何枚も何枚もいろんな書類を作って、いろんな表を作って、それに上役の印鑑をとりつけるだけの仕事――こういった仕事にやる気満々で立ち向かえる地上人がいるとしたならば、その人はある意味で、生きがいを見出すことにかけては天才でありましょう。 小桜たちのように、霊的な存在となった人間からみれば、この世のほとんどの仕事は、いわば虚業です。本当に霊的に意味のある仕事とは、この乾いた地上という名の血管に、神の血を送り込むことです。人びとに、神の御心にかなった生き方を教えることです。書類づくりがうまいかどうかではなくて、書類づくりをして、生計を立てている人びとの心に、愛を流し込んでゆくことです。 真の生き方とは何か――それを常づね心に問いながら数十年の人生を生きている人と、何も考えずに生きている人と、その開きは、私たちの目からみれば歴然としたものがあります。精神的に生きることが、現代人にとっては、ひとつの教養の領域のように思われていますが、ほんとうは、精神的に生きるということは「全て」なのです。 私たちが、実在界において「霊的」に生き、物質界において「物質的」に生きることは、だれにでもできる当然のことであって、決して誉(ほ)められることでも何でもありません。物質界において、「霊的」に「精神的」に生きられてこそ、はじめて、現代の向上があるのです。はじめて、魂の修行の意味があるのです。 私は最初に言ったはずです。この地上の、人生の真昼のときを生きて、ただ地面に影を落とすだけの存在では何にもなりません。それはただ、物質界で物質的に生きたというのと同義です。 この物質界の人生の真昼を懸命に生きて、その流す汗の玉を、水と塩の固りとはせず、珠玉の宝石のようなすばらしい輝きと、煌(きら)めきとすることです。生きている証(あかし)を、精神の高揚を、高らかに謳(うた)いあげることです。神のラッパとして、神理の言葉を人びとに伝えていくことです。 あなた方の行く手は、そうたやすい道のりではありません。他の道ゆく人びとの足もとをも照らすような、そうした意味のある人生を生きていただきたいと思います。 8.生命(いのち)終わる時(1986年7月27日の霊訓) 今日は「生命終わる時」ということでお話ししたいと思います。 生・老・病・死という言葉があります。肉体を持った人間は、生きてゆく苦しみ、老いてゆく苦しみ、病にかかる苦しみ、死ぬ苦しみ、こうした四つの苦しみを十字架のごとく背負ってゆかねばなりません。 このなかでも、死ぬ苦しみというのが、人間にとってはいちばんの恐怖でありましょう。 「自分が死ぬってどういうこと?」たいていの人は、この問いに答えられません。自分が死ぬってどういうことだろう。他人が死ぬのは何度か見てきたことがある。自分が死ぬというのは経験がない。それは痛いものなのだろうか。つらいものなのだろうか。苦しいものなのだろうか。それとも哀しいものなのだろうか。つらく哀しいものだと人はいう。でもほんとうは甘美なのかもしれない。読者のみなさまは、いったい死に対してどのような感じ方をされるのでしょうか。 生命(いのち)終わる時――それはだれにも平等に与えられるときです。「人間は死の下に平等である」と喝破した西欧の哲学者もいます。人間――死すべきもの――その死に態はさまざまです。 いま、地上を見渡していると、若い人びとが不思議な死に方をしています。受験、いじめ、失恋、さまざまな動機で、前途ある人びとが次々に若い生命を断ってゆきます。小桜はふと考えてみるのです。彼らの死生観っていったいどんなものなのかと。彼らのご両親や、先生方や友人たちの死生観はどのようなものなのかと。 「死」についての正しい考え方は、いまでは学校でも、家庭でも教えてくれません。幼ない魂たちは、人間は死ねば何もかも終わりなんだという考えにとりつかれたり、死ねばとてもすばらしい世界が待っているのだと思い込んだり、あのうす気味の悪い幽霊の世界が死後の世界なんだと思ったりしています。だれもほんとうのことを教えてくれません。 一生においていちばん大切な生死のことを、だれも教えてはくれないのです。もし、人間は死ねば終わりなんだと学校で先生が教えているとしたら、生徒たちは、授業料の返還を求める権利があります。なぜなら、嘘を教えてお金をとるなんてもってのほかだからです。 地上のみなさんは、神様が昔人間をお創りになったという話は一笑に付して、人間はアメーバーから進化してきて猿になって、猿が類人猿になって、その後、紀元前百万年ぐらい前に、原人という人間の祖先が出来たという話をお信じになっているようです。 この話は、ダーウィンの進化論に代表されているようです。しかしみなさん、ダーウィンはその後どうしていると思いますか。もちろん地上を去った後です。 彼は今、地獄のなかでも最も深い無間地獄(むけんじごく)というところで呻吟(しんぎん)しているのです。彼自身は善人です。何も悪いことを生きていたときにしていません。けれども彼は今、地獄の最深部にいます。天国、地獄の分かれ目は、善い、悪いだけではないのです。正しいか、正しくないかも分かれ目なのです。特にこの基準は、思想家や宗教家に適用されます。いかに虫一匹殺さない人生を生きたとしても、人びとにまちがった信仰や信念を植えつけた場合、その影響が大きければ大きいほど、その責任は免れがたいのです。 ダーウィン自身は、善良な学者であったとしても、彼の進化論が世の人びとを迷わせた虚説であった以上――だって猿は人間になりません――は、恥ずかしくて霊天上界に上がることができないのです。天上界に上がると、いろんな人から、「君か、人間はアメーバーから進化したなんて嘘を教えたから、この世の人びとは、神様だとか、霊界を信じなくなったじゃないか。」と批判されるので、地獄の奥深いジメジメした洞窟の中で、小さくなって身を隠しているのです。 人間は神様が創ったものです。そして人生修行の目的で永遠の転生輪廻を繰り返しています。そしてこの地上世界を仏国土にするという使命を持っています。こういった約束のもとに、人間は、両親の縁により、神にこの世の生命を授けられたのです。ですから自殺行為は、神様との約束違反ですから許されません。徹底的に自分の間違いを反省するまで、地獄で苦しむことになります。 このように、人間の人生というものは、神様からの授りものなのですから、大切にして、「生命終わる時」まで精一杯生きなければならないのです。 やがて、地上のみなさまも知るでしょう。この地上を去るとき、肉体生命を終えるときこそ、あなた方の新たな生命の霊的生命の始まりであることを。 一つの終わりは、一つの始まりであることを悟ってください。
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目次 1.不幸な人生観に満足せず、永遠の生命をつかめ 2.人生をこの世限りとみるなら、無常の風が吹きすさぶ 3.あの世は「現にあるからある」と言っているのだ 4.旅の途中でみずからが旅人であることを忘れ去った人間 5.師を失うとすぐ山を下りはじめたかつての弟子たち 6.真実の道は険しい 7.ジイドの『狭き門』のアリサとジェローム 8.天国の門は二人ではいるには狭すぎるのか 9.招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない 10.執着というこの世的なお荷物を持っている人は、生命(いのち)に至る「狭き門」をくぐれない 11.ヤシの実のワナにつかまった猿のたとえ 12.力を尽くして永遠の生命の世界へはいれ 1.不幸な人生観に満足せず、永遠の生命をつかめ 第一章「新創世記」、第二章「甦る仏教」、とこうきまして、第三章で「永遠の生命」ということに関して今日はお話を続けていきたいと思います。 永遠の生命というのは、これは宗教をやる人にとって本当いちばん根本的なテーマなんですね。 この永遠の生命をつかむかつかまないかということがね、宗教家としての自覚の強さ、あるいは弱さにも関係するのです。 まあ生きている人たち地上にいる人たちはね、私たちの目から見てみると非常に不幸な人生観でもって生きておるわけなんですね。 みなさんどうしてね、そう自分を不幸にするような人生観を持ちたがるのでしょうね。私はそれが不思議でしょうがないんです。 どうして自分の人生は一回きりで、六十年、七十年で終わってしまうと思っちゃうんでしょうかね。 まあ六十年、七十年あればいいけれども、高橋信次なんかは四十八年で終わりました。 四十八年で本当に線香花火のように、パーツと燃えて尽きてしまうだけで、人生が終わってしまうなら、なんのために高橋信次があれだけ努力したか、この意味がないですね。 私は『心の発見』三部作、現証篇、科学篇、神理篇、この三つを書きました。もともと『縁生の舟』という題で出した本ですけれどもね、それから『心の原点』『原説・般若心経』『愛は憎しみを越えて』『人間・釈迦』四部作、『心の指針』『心の対話』まあこういう本をいっぱい書きましたね。 あれだけ私が夜も寝ないで原稿用紙を埋めるために一生懸命万年筆を走らせて書いて、そして全国津々浦々の人々の前で、汗を流して講習してそして現象をして見せて、講演会で入場料を一円も取らずに、あれだけやってきて、やがて四十八歳でバッタリいってね、それで高橋信次という個性があっさりと消えてしまうなら、私はなんのためにいったいやってきたのか。その意味がないじゃないですか。 みなさんそういう人生観で満足できますか。私は、高橋信次という人間はね、有限で、四十八年生きて、それで終わったら、もう焼場で焼かれてそれで人間灰になって終わってしまって、それで満足かというと、それで満足じゃないんですよ、満足じゃないからこうやってでてきて、こうやってしゃべっておるんです。 2.人生をこの世限りとみるなら、無常の風が吹きすさぶ みなさんそんなつまらない人生観をどうして信じるのですか。 だれに教わったのですか。学校の先生ですか。友だちですか。ご両親ですか。 人生がわずか数十年で、本当に終わってしまうものなら、なんのためにみなさん小学校に上がって、一生懸命勉強していい中学校行って、一生懸命勉強していい高校入って、また勉強に勉強を重ねて、四当五落とかいって、四時間睡眠なら合格、五時間なら落第というような厳しい受験勉強の間、一年も二年もやって、そしていい大学に入って、そしてまた企業に就職して、そして定年がきて、会社クビになって、あと子供たちに馬鹿にされながら、余生を送ってね。そのうちポンコツの人となって、恍惚(こうこつ)の人になってホイホイになっちやって死んじゃうと。これで土になっちゃってもう終わりなんだと。 肉体が滅びたときにすなわちその人の人生が終わるのだということであったら、何のために一生生きてきたのでしょうか。何十年も人生汗水たらして生きてきたんですか。何のためですか。 それはその日その日がひもじいからですか。 ひもじいから三度のご飯を食べないと、ようするに体がもたない。三度のご飯食べるためには、お金がなければいけない。お金を稼ぐためには働かなければいけない。働くためには就職しなければいけない。就職するためには学校出なければいけない。学校出るためには勉強しなければいけない。 それでみなさん小学校から、ズーッと勉強しているんでしょうね。ただ三食食べるということのためでしょうかね。どうでしょうか。 それとも、きれいな嫁さんもらうためでしょうかね。 そのきれいな嫁さんも、やがて年とって三十になったら目尻にいっぱいしわが増えて、エドガー・ケイシーの霊言でしわのとりかた聞いたって、エドガー・ケイシーだって困っちゃうんですよ。 三十になれば烏(からす)の足跡でね。目尻にしわがよるんですよ。これは自然の摂理なんでエドガー・ケイシーがいくらがんばったってこれは治りゃしないのです。ほんとう言うとね。こんなもの。 四十になればあなたね、もうおばさんですよ。どうがんばったって、どんな映画女優だって、いいかっこしたって、お化粧とったらもうおばさんなんですよ。無理なんです。 五十過ぎたらもう白髪が出るんです、どんなにしたって。 六十過ぎたら腰曲がってたまるものかなんてね、ヨガの体操一生懸命やったって曲がるものは曲がってくるんです。どうしようもないんです。 女性だって頭のはげるんだっておるんです。毛が抜けてくるのがね。みなさんもそういうふうに生物学的にごく自然になる。まあ生物学的にそうなるんですよ。 七十過ぎて赤ちゃんみたいになるような人はおらんのです。あんなポチャポチャしないでみんなしわくちゃになっていくのです。これは逃れられないのです。 これでもって本当に「是(よ)し」と思いますか、ということですね。 あなた方はそんな不幸な人生観を受け入れて、それで本当に満足しているんですか、ということです。 本当に七十歳で自分が死んで、そしてあとは灰になって焼かれてね、灰になって空中に二酸化炭素で散らばってしまって、それで本当にあなたは満足ですかと。そんな人生って本当に正しいと思いますか。 何のために努力したんですか。何のために教えてきたんですか。こういうことをもう一度ね、よくよく考えてほしいんです。決して自分が本当に幸せになるような人生観を持ってないはずなのですね。 3.あの世は「現にあるからある」と言っているのだ どうせそれこそ七十年で死ぬならね、あなた、もう生きている間もう好き勝手しないと損ですよ。 毎日、毎日、ドンチャン騒ぎしてね、ハイ、焼かれるってことになって焼き場に行って「ああ焼かれた。ああこれですっきりした。もうさっぱり私はこれでなくなった。」ってね。 生命がなくなったと思ったらね、「あらっ」と思ったら焼き場の屋根の上あたりをフラフラ飛んでいて、「あら、どうしたんだ。俺死んだと思ったらまだ生きてるなんておかしいなあ。」と思ってそのあと迷って子孫のところへ出てきて、幽霊がでたって恐がられるのがオチなんですよ。 こんなもんなんです。そんな淋しい人生観を持っている人というのは。 ところが、なぜかこれをみんな信じている。学校の先生や、インテリたちは、みんなこれが当然だと思っている。 文部省だってそうですね。霊とか魂ってのはもう古代の信仰になっちゃってね、現代はダーウィンの進化論以来そんな馬鹿な話する人いなくなった、なんて言っています。平気で言っています。 そんなまちがいを堂々とね、国の機関が教えて本当いいんでしょうかね。 事実はひとつなんです。ふたつないんです。片方が正しければ、片方が間違っておるんです。もうはっきりしているんです。 あの世の霊がこうやって話している以上、あの世があるんです。霊があるんです。人間は永遠の生命を生きておるんです。もうこれははっきりしておるんです。これはもう解釈の分かれようがないんです。思想上の問題じゃないんです。 「ある、ない」というのは、思想として認められる認められないの論争の問題じゃないんです。「現にあるからある」と言っておるんです。どうしようもないんです。 あるもんはあるんですから。そういうふうにできておるんです。それを認めないで嘲笑(あざわら)う、これが大多数の人々です。 おかしいと思いませんか。地上の大部分の人たちがそういうふうな病気にかかっておるわけです。みんな、頭がおかしくなっているのですね。いねば記憶喪失になっておるわけです。 4.旅の途中でみずからが旅人であることを忘れ去った人間 たとえて言うとね、人間というのはみんな旅をしておるのですね。いろんなところを旅して、旅から旅へとね、股旅(またたび)のなんとかでね。清水の次郎長さんじゃありませんけれども、旅をやっとるわけです。これがおもしろいんですね。 ある山あいの村にはいると、何かそこが非常に居心地(いごこち)がよくてね、食物が豊富でね。お金がザクザクでね。娘はきれい。そういう村にはいってドンチャン騒ぎしているうちにね、みなさん旅していたことを忘れちゃうんですね。 そしてそこにいるときれいさっぱり記憶を忘れちゃって、もうこんないいとこないっていうんで、もう昔からそこにいるような気になって、ここ以外に世界がないぐらいの気持ちでおるのです。 本当は旅してきたんですよ、いろんなところをね。それで途中の宿場町に泊まっておるだけなのだけれども、あんまりその宿場町がキラキラ、キラキラ、ネオンがキララするもんだから、居心地がよくて旅人であることを忘れてしまったんです。自分はね。 いつしか通行手形も忘れちゃって、いい気になっとるんです。 で、その村では独自に自治をやっとるわけですね。そうすると村長さんがいてね、「村の者よ、よく聞け。」と。 「この村は全世界の中心であり、この山の向こうはもう崖になっとって宇宙の果てだ。」とね。 「ここ以外世界はないんだ。」とね。 「これがすべての地上である。すべての国だ。みなさんはこのようなすばらしい国にいることを誇りと思わねばいかん。この国から一歩でも出たらいかん。この村から一歩も出ちゃあいかん。それはもう地の果てであり、この世の終わりなんだ。この村だけが完結したすばらしい世界なんだ。このなかでみなさん精一杯いい人生を生きましょう。」こういってやっとるわけですね。 そしてその村の教育委員がでて来てね。「ああ、その通りです。みなさん、霊魂なんてありゃしないんです。人間というのは一回限りで、この村でドンチャンやって死ねばそれで終わりなんだから、もうできるだけね、ここは温泉町でもあるし、芸者をあげて朝から晩まで酒を飲みましょう。」と。「これが一番いいんですよ。」とね。 「学校の先生に給料払うためにだけ、子供を学校に通わしましょう。」ってね。 「どうせ死んだらもう終わりなんだからね、まあ生きている間、ほっとくともう暴走族か、なんかやって悪いことをするから、とにかく受験勉強さしてね、縛りつけとくと悪いことはせんだろう。」と、まあそういう話をしとるわけです。 こんな狭い世界観で、こんな有限の人生観で、満足しておるのですよ。 あわれというしかありません。あわれです。 そして現代のインテリと言われる人たちはほとんど、これを信じておるんです。 この迷妄(めいもう)を醒(さ)ますためにいろんな光の指導霊たちが出て、いろんな人にいろんな教えをしとるのだけど、どうしてもそれをすぐ忘れちゃうんですね。信じられない。 5.師を失うとすぐ山を下りはじめたかつての弟子たち 高橋信次は、昭和五十一年六月、東北講演から帰ってきて、力尽きて二週間ぐらいしてポックリいきました。 そうすると、私がポックリいくと、それまで教えを受けてた人たちはどうなんでしょうかね。 私が講演会で永遠の生命の話をして、そして人間には転生があるんだ、過去世があるんだと。過去世があって過去幾転生してきて、それで現在があるという以上、未来世があるんだということを力をこめて私は何十回、何百回と話をして、そして現象をして見せてきました。 そして聴衆はみんな信じてたかのように見えて、先生がポックリいったらもうそれでまた信じられなくなる。こんな人たちなんですね。 目に見せるときには、現象を目に見せるときには信じるけれども、すぐそれを忘れてしまう。これが人間の愚かさであります。 こういうことを気づかすためにね、過去イエスだとか、ブッダとか、モーゼとか、いろんな偉い人がいっぱい出てきて教えてきたんだけれども、その人たちが地上を去るとまた忘れちゃう。こういうふうになるんですね。 どうしても低きに流れていくんです。どうしてもエベレスト山みたいな高い所に登ることがいやだから、川の流れにのって低いほうへ低いほうヘタラタラ、タラタラ流れていくんですね。らくちんだからです。 エペレストの山に登るのはたいへんだから、高橋信次がでてきて「こら、みなのもの、荷物をひとつにまとめなさい。ピッケル持ったか。サンダルじゃだめだぞ。山登りだから山靴はけよ。山高帽もいるぞ。弁当つめたか。缶詰持っても缶切り忘れちゃいかんぞ。雪のなかで迷ったときにチョコレート食べとったら一週間ぐらい生きのびて助かった人がおるから、チョコレートのひとつやふたつはポケットにいれておけよ。」ってね。 「ロッテのチョコレートだけじゃなくて他にもチョコレートいいのあるぞ。」と。まあそういう話をしています。 そしてみんな私のあとに続いて山を登っとったんだけれども、高橋信次が四十八合目あたりで、ちょっと谷底へ落ちたら、コロッと落ちたらね、「あらもう先生いなくなった。」ってね。「先生いなくなったら山登りの本当の意味がないんじゃないか。」なんてね。 「やめた、やめた、やめた。」といってね。 みんなリュック捨てちゃってね、「やめた、やめた、やめた、この山登りなんて馬鹿馬鹿しい。」なんてね。 「登りはつらいけど、下りは楽だぜ。」って、みんな楽なかっこうしちやって、トントントントン山を下り始めました。 そうすると、「あいつも下るなら俺も下る。」なんてね。 「馬鹿馬鹿しい、頂上なんて誰も行ったことがないし、わかりゃしないんだよ。」って、「山に頂上があるとは聞いているけれど誰も行ったことがないし、頂上へ行ったってまた下らにゃいかんのだから、どうせ下るのなら登る必要がないや。」なんてね。そういうことで下り始めました。 そして仲間のなかの何人かがね、そういう楽なことをして山道下り始めると、登っていた人たちは、やっぱり気になってきますね。 山道登るのはつらいけど下るのは楽そうだし、下のほうに行ったらなにか楽しそうなところがいっぱいあるみたいだから。富士山のてっぺんてネオン街ないしね。温泉もないしね。芸者もいないし、刺身もなきゃ、なにもないと。鳥の唐揚げもありません。 これじゃやっぱりつまらんからね、ふもとにおりていきゃぁ、あなたお店もいっぱいあって、富士五湖のあたりなんかネオンキラキラして、もうほんとうに生命(いのち)の養生(ようじょう)ができます。だから先頭集団が下り始めると、みんなついて行きますね。これがかつての私の弟子たちです。 現在あわれにもね、先生がもう四十八合目でちょっと沢のほうに落ちたかと思ったら、もう山登りやめちゃって、みんな下り始めた。「こんな危険なことやめよう、やめよう。やめよう、危い。みんな下へ下ろう。これ以上登ると雷が落ちるかもわからんしね。雹(ひょう)が降ってくるかもわがらん。もう下ろう下ろう。」ってね。 指導者がいなくなるとイチコロです。それでみんな我先にと下り始めましたね。こんなもんなのですよ。 6.真実の道は険しい あれだけ私が山の上の大切さ、すばらしさ、その挑戦することのりっぱさを教えてもね、やっぱり低きに流れる。ま、これが人間の性(さが)なんです。 どうか私の言葉を聞いて感ずる人たち、多いはずです。よく考えてほしいですね。やさしいところばかりに本当の道はないんですよ。 真実の道っていうのはけっこう険(けわ)しいんです。険しくとも一歩、一歩登っていかなくてけならんのです。それが修行なのですよ。 イエス様も言ったはずですね。「滅びに至る門は広く、その道よりはいる者多し。されど生命に至る門は挟く、その門よりはいる者少なし」と言っていますね。 7.ジイドの『狭き門』のアリサとジェローム 読んだことありますか、有名なフランスの、あっフランスだったかドイツだったか忘れちゃったけど、どっちかだ。ジイドっていう、アンドレ・ジイドという作家がいて、『狭き門』というのを書いていますね。 『狭き門』のなかでジェロームという主人公がいて一生懸命、刻苦勉励(こっくべんれい)して、徳高い人聞になろうとしておるのですよ。 アリサという二つ年上のいとこがおって、これにジェロームが聖女にあこがれるようにあこがれておるわけですね。 「彼女はいま、私の愛を受け入れてくれない。私の愛を受け入れてくれないのはなぜかというと、彼女はやっぱり私の悟りが低いのを見抜いておるのだ。私は彼女にふさわしいものになるように自分の魂を高めたときにきっと彼女は受け入れてくれて結婚してくれるのではないか。」なんてジェロームが美しい誤解をします。 そうして一生懸命アリサにね、手紙を送ったり自分が最近勉強したことや最近読んだ本のことを一生懸命書いて送りますね。 こんな本読んだ、あんな本読んだと一生懸命送ります。そして感想を書きます。 そしたらアリサはアリサで、背伸びし始めまして、ジェロームがそんな難しい本を一生懸命学校で学んどるなら、私も読まにゃちょっと話ができんから、恋人同士の話ができんので、町の本屋で買いあさって、ちょっと本がないみたいだってちょっと注文したりしますね。 まあ昔、高橋信次の霊言シリーズが出てすぐに版元品切れで、印刷するのに二週間かかって、読者が怒ったりしたことが一部あったようですが、そういうふうにあんまり評判のよい本というのはすぐなくなりますから、アリサが買おうとしても注文しなければいけない。 注文しても印刷屋は輪転機を回すのに時間がかかって製本しなければいかんので、「しばらくお待ちください。」で二週間待っているうちにジェロームからまた次の手紙がきます。 今度はこんなに難しい本を読んだ、そして哲学的発見をした、なんてきますね。アリサは困ります。「しまった。前の注文の本がまだ来ていないのに次の本を読まれた。こりゃいかん。」また探しに行かねばならないとね。 そうしてどうも手紙を読んでいるうちにジェロームという人は、自分をどうやら理想化して、聖母マリアか、あるいはもっと、もっとりっぱな女性だと思い始めているんだと。 ジェロームと会うとこの幻想を打ち砕いてしまうんじゃないかと。女性というのは自分に自信がなくなります。 そしてジェロームがアリサに「会いたい、会いたい。」というと、向こうは「いやいまちょっと困ります。もう少しあなたの勉強が終わるまで私は待っています。」なんていって、いったん体(てい)よく逃げます。 そうすると馬鹿なジェロームはますます頭に血がのぼってきて、「そんなこと言わないでアリサちゃん、会ってください。僕はあなたにふさわしい魂になるためにこれだけ努力したのですから、この僕をどうか受け入れてほしい。」ってね、一生懸命書きます。 そしてもう思い余ったジェロームちゃんは、もう求婚をどんどんしますね。「結婚して、結婚して。」アリサは困ります。 「もうちょっと待ってください。もうちょっとあなたが一人前になられて、働き始められて、りっぱになられたとき、私もあなたにふさわしい妻になれるように修行します。」どうのこうのといいます。 8.天国の門は二人ではいるには狭すぎるのか ジェロームはまだ許されない、それではしかたがない、もっともっと僕は人生修行をしなければいけないと一生懸命やります。 ところが実在の世界から愛のキューピットが見ておると、ジェロームがあまり一生懸命やるのでね、アリサはついていけなくなってね、で自分と会うとね、女性はよくあるんだけれどもね、馬鹿だと思われるのが女性は一番辛いのです。うなずいている人がどっかにいるけれども、それが一番辛いのですよ。女性というのは心のなかで、やっぱり理想的な男性ね、なんというんですか、白馬の騎士が現われて自分を救ってくださる、こういうことを願っておるのだけれども、じっさいに白馬の騎士がきたときにあまりりっぱすぎて、クラクラきちゃうとこわくなってやっぱり逃げちゃうんですね。 やっぱり茂みに隠れちゃうんです。これが女性なんですね。あこがれる気持ちと不安感とのこの両方を持っている生物なのです。女性というのはね。 だからジェロームちゃんがあんまり勉強しすぎて、「いやカントの『純粋理性批判』によれば、かくかくしかじかであって、いやヘーゲルはかく語りき。そしてヘーゲルを乗り越えた高橋信次はかく語りき。」なんてやっていると、もう彼女のほうはついていけなくなるのです。 で、男性のほうがいっくら高橋信次の本がりっぱで難しい、すばらしいと言ったって女性が読んだらチンプンカンプンですね。 GLAでもインテリ向きには『心の原点』を薦めたりするようですけれども、近所の主婦に『心の原点』あげたって読んだって全然分らない。 「なにいっているかわからない。空理空論をぶちまけて高橋信次ってなにいっているの。こんなのわかるわけないでしょ。あの世のしくみとかね、なんだかんだといったり四次元だの何次元だのといったり、酸素が『C02』になってどうのこうのなんて生命科学のことをいったって、さっぱりわからない。」こういうことで世の女性はついてゆけんわけです。 そういうことで、まあジェロームが一生懸余徳の修行をしていくんだけど、アリサがそれについていけない。そうこうするうちに、ますますジェロームががんばっちゃってね、一生懸命修行するわけです。そしていつしかアリサが年老いていくわけですね。 再度ジェロームが結婚申し込んできたときにアリサは「もう私は年をとり過ぎました。」ってね。 「妻となるには年をとり過ぎました。女性とはいえないような体になってしまいました。いまさらあなたに抱かれてもあなたをガッカリさせます。」 女性というのは男性をガッカリさせるのが一番辛いのです。 結局、若いときには容(い)れられず、年をとって自分に勉強ができた、修行ができたと思えば、こんどは女性のほうがもう、年とっちゃってばあちゃんになっちゃったから恥ずかしくて「いまさらあなたの花嫁なんかなれません。」てね。 「いまさら教会でウェディングなどやれません。」で、結局はダメです。そしてアリサは淋しく死んでいきます。 そして死後、ジェロームはアリサの日記というものを読まされます。そうすると本当はね、アリサっていうのはジェロームに力強く奪いとって欲しかったんですね。 「いやよ、いやよ、は好きのうち。」女性の「いやよ」は好きのうちです。「いやよ、いやよ」二回言ったぐらいで男は逃げちゃいけないのです。 「いやよ、いやよ」十回ぐらい言うまでがんばってね、男性が強引に腕力でもって結婚せねばいかんのです。 だからほんとうはアリサというのは、ジェロームが無理やり押しいってくるのを待っとったんですね。紫式部の世界ですね。もう夜な夜な押しいってくるのを待っとったわけです。 それをジェロームが遠慮して垣根の向こうからのぞいたりしているものだから、いつまでたってもダメなのです。 アリサとしちゃあ、「二つ年上で、私はいとこだし。ジェロームにはもっと素敵な人がいるんじゃないかしら。」と。 「どうやら私の年下の妹なんかが」ね、まあ妹は年下ときまっていますけれども、「ジェロームを好きみたいだし、妹と一緒になり、結婚してくれればいいのに。」と思ってみたり、いろんなことを考えます。そういう葛藤があります。 まあこういうふうなことでジイドが『狭き門』という本のなかで非常に理想化しちゃってね、天国にはいる門というのは非常に挟くて、ふたりが手をつないで通るまではいかないのだと。 それだけの広さがない。ひとりが通れるのがやっとでふたりは通れないと。ふたりで手をつないで通ろうとすると、とうとう通れないと。こういうことを一生懸命いってますね。 まあこれは恋愛の大家から見りゃあね、こんなのはジェロームというのは馬鹿の典型であって、こんなのあなた女心知らんのですよね。 もう両親が留守しているときに無理やり二階に押し上って、結婚をせまればいいわけですよ。 それにもかかわらずね、そんなことを言って「徳を磨いて」なんていっているから実際は結婚できなかったんです。ジェロームは馬鹿な男の典型なんですね。 だけど、まあジイドってかたは知ってか知らずか、まあそういうことを理想的な純愛物語に仕立てあげて、天国の世界にはいるというのはね、これほど難しいのだと。ふたりでは手をつないではいれない。ひとりでしかはいれないんだと、こういうふうに書いてあります。 それを狭き門といってね、聖書のなかからとっているわけです、言葉を。 9.招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない 「滅びに至る門は広く、その道よりはいる者多し。されど、生命に至る門は狭く、その門よりはいる者少なし」といってね、ジェロームはひとりで門をくぐったつもりでおるんでしょうけれども。 けれどもね、この物語は、いま、冗談半分に言ったけれども、まあある意味では、普遍の世界の話を書いておるのですね。 ジイドという人がどうもね、ホモっ気があって最後は、どうも女性のほうではなく男性のほうを好きになったんじゃないかという説もあったりしてね。男性として不十分だったんじゃないかというような学者もおるようですけれども、そういうことはどうでもいいのであって、この物語のなかにいわゆる、「生命に至る門が挟い」という話があります。このことはある意味では当たっているのですね。 イエス様も宴(うたげ)にね、「神様の宴会に招かれる者は多いけれども、選ばれる者は少なし」と、いうようなことをいっています。事実ですね。 だから招かれる者、つまり高橋信次のたとえばこういう霊言集、霊示集が出てね、新聞に広告してます。本屋に積み上がっています。これは千円札一枚出しゃね、買えるんです。だから招かれているんです、みなさん。 千円札一枚ポケットから出して買えば、あなた永遠の神理がわかるのです。招かれとるんですけれども、選ばれる人は少なしでね、高橋信次の本を手に取って読む人は少ないのです。 こういうことでね、千円札一枚をなんに使うかというとね、まあろくなことに使いやしないのです。ちょっとパチンコやりゃあ、あなた千円札一枚なんか三分です。ものの三分で自動式パチンコなら消えちゃいますね。 喫茶店にはいったら、もうちょっと軽食たべてコーヒー飲んだら千円です。彼女とデート千円でできません。千円でデートしようとしたら、どっかのホテルのロビーで待ち合わせしてね、喫茶店で、コーヒー一杯飲んで帰るしかありません。これ以外できないです。映画見るには千五百円いるのです、最低。 こういう世界で招かれる人は多いけど、選ばれる人は少ないのです。こういうことでね、水遠の生命ということは、事実としてこの人間に本当は与えられておるのですね。 本当に永遠の生命を生きておるのだけれども、生きておるにもかかわらず、忘れておるのですね。すなわちこのことが、さっきいう「狭き門」の話なのですね。 10.執着というこの世的なお荷物を持っている人は、生命(いのち)に至る「狭き門」をくぐれない 本当はみんな、生命に至る門をくぐることができるんだけれど、この世的な荷物をいっぱいつくっちゃって、くぐれないのですね。「狭き門」のたとえってここからきているのです。 イエス様のいう金持ちが天国にはいれないって話といっしょでね。金持ちがはいれんわけではないんですよ。高橋信次が金儲けしたからといって天国にちゃんと来ていますから。 そうじゃないんですけれども、ようするにね、金持ちってなにかというと、象徴的にいえばリヤカーいっぱいにこの世的な荷物を積んでる人です。 どっか巨人軍の選手が十億円の豪邸を買ったり、あるいは貯金通帳がいっぱいあったりね。株券、有価証券、いっぱい持ってたり、山七つも持っていたりね、あるいは妾(めかけ)さんを五人も持ってたり、子供が十人いたりね。まあいろいろありますわね。 会社を五つも六つも持っておるとか。この世的にいっぱい持っておると。それをリヤカーに積んでくぐろうとすると、もう門が狭くてね、ひっかかって通らないのですよ。 ところがね、かわいそうな人間というのは、どうしてもその荷物を捨てることができないのです。荷物を捨てれば、体ひとつなら通れるのだけれども、荷物を捨てることができない。 それでしょうがないからまたリヤカー引いてね、大八車引いてあなたスゴスゴと坂をくだっていくんですよ。これがたいていの人間なんです。 このお荷物というのは実は執着なんですね。執着さえ断てば人間は生命に至る門をくぐれるのです。ところがそのお荷物、執着を断てないがためにくぐれないのですね。本当は簡単なんです。ところがそれができんのです。 11.ヤシの実のワナにつかまった猿のたとえ 昔こういうテレビ放送があったようですね。猿をつかまえるとする。南の国で猿をつかまえる方法というのがあってね。簡単なんだってね、猿つかまえるのは。 猿はかしこいらしいけど、猿知恵っていってね。ヤシの木かなんかにヒモをゆわえてくくっておいてね、その先に、ヒモの先にヤシの実、空っぽのヤシの実くくっておくんだって。そしてそのヤシの実をくり抜いて、手がはいるぐらいの穴をあけておくんだって。 このなかにね、お米だとかいれておくと、そうすると猿はその穴のなかに手をつっこむんだな。つっこむんだけれども、そのお米をしっかりにぎっちやってね、離さんわけだ。 そして人間がそれをつかまえにいくとどうするかっちゆうと、にぎったままでね、「キィー、キィー、キィ、キィ」言ってね、あばれまくっておるわけですよ。 離せば逃げられるんですよ。手を離せばはいったのだから抜けるんだけど、なかでにぎりこぶし作ってるんですね、ヤシの実のなかで。それであなたね、鎖につながれたとおもってね、ヒイヒイ言ってね、怒ってね、かけ回ったりして結局つかまっちゃうのですね。馬鹿なんですよ。 だけどこれが猿だからみなさん笑ってるだけでね、人間も一緒なんですよ。結局これなんです。 ヤシの実のなかにつっこんじゃって、なかの金銀財宝をにぎっちゃってるのです。で、手を離せば生命は救われるのだけれども、ダイヤモンドがあると思って、指輪があると思ってつかんどるもんだから、手が抜けないでつかまっちゃうんですね。まあ同じたとえです。こういうもんです。 12.力を尽くして永遠の生命の世界へはいれ ですから、みなさんね、逆に永遠の生命というのを得るためには、この世的なものを捨てなければいかんのですよ。 温泉で芸者をあげることはほどほどにして、自分は永遠の旅人であるということを思い出さにゃいかんのです。 温泉で芸者あげてね、もう、旅を満喫(まんきつ)しておると、自分が永遠の旅人であることを忘れてしまうんです。そういうことなんです。 あわれなヤシの実でつかまっちゃった猿のことを思い出しなさい。自分もそうじゃないかということをね。 この世的なものをつかんで、一番大事なものを捨てているんじゃないか。永遠の生命を捨てているのじゃないか。これをどうか忘れないで思い出してほしいんですね。 まあ今日は永遠の生命ということで、比喩(ひゆ)を使っていろんな話をしましたけれども、これが事実なんですよ。で一番大事なもんですよ。 みなさんね、馬鹿な猿みたいにならんで、この世的なものをつかむのやめてね、執着を断って、本当の神の生命、永遠の生命の世界へはいっていこうじゃありませんか。 この世的な執着を断ったからこそ高橋信次はいまあの世で成仏して、こうしてみなさんにメッセージ送れるのですよ。 私みたいにやっぱりあの世にきて霊言集ぐらい出しましょうよ、みなさん。どうですかね。 それが悟るっていうことじゃないですか。私はそう思いますよ。 ま、おもしろい話ばっかりしましたけれども、冗談はほどほどにしてね。ちゃんと悟ってくださいよ。これが私の願いです。
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目次 1.欲望と欲望を超えるもの 2.幸福の基礎 3.幸福の段階論 4.幸福と悟り 5.生死を超える道 (1988年2月8日の霊示) 1.欲望と欲望を超えるもの みなさん、高橋信次です。こんにちは。久しぶりですね。えー、前々回は『天国と地獄』やりましたね。そういうことで天国と地獄について言ったけど、人間の心は地獄のほうに惹(ひ)かれていくからね。すぐスルスルスルッと地獄の方へ行って、真っ黒けになって悩みつくりますね。それで悲しんでる人いるから、ちょっと今度は『幸福論』いこうかなあと思ってね。どうやったらみんな幸福になるか、考えてみよう。一緒に考えてみようね。 特に、高橋信次の『天国と地獄』を読んで、愛のところでつまずいた人が結構いるから、僕もフォローしとかねばならんと思ってね、今回はちょっとね。あれですよ。懺悔(ざんげ)をするんですよ。あるいは補習(ほしゅう)ですね。補習授業をしとかねばいかん。こう思いますね。 えー愛で、男女の愛でね、男性は「結婚してシマッタ!と思う」なんて言うもんだから、独身女性から「がっかりした。まあ私たちってそんなに存在悪なのかしら。結婚するということはそんなに悲しいことなのかしら。男性を苦しめるかしら。男性にそんな一生借金負わすような私たちなのかしら。ああ、私たちは生きていることが間違いなんではないか」こんな人もおるようですから、なんかね、そういう人たちが多少はいい気分になるような話を好んでしとこうと思ってるんです。 でもねえ、中年の男性なんて『天国と地獄』読んじゃって、「いやー、この通りですね。高橋信次先生、さすがお見通しですね。いや、そうなんですよ。結婚がすべての間違いの出発だったんですよ。あれさえなければ、カアちゃんさえいなきゃ、子供さえいなきゃ。僕だけかと思ったら、先生も一緒で安心しました。これで僕も九次元に還(かえ)れますね」なんてね。こんなこと言っておる人もいるかもしれませんね。 だから、人間はね、結局自分に何ていうかね、引き寄せて物事を考えちゃうから、自分と同じような境遇(きょうぐう)の人がいたらね、嬉しい。自分と反対の人がいたら何となく羨(うらや)ましい。こうなりますね。 まあ、だから物事はいろいろあるんですが、前回は「地獄論」とか、「悪霊論」とかね、愛による苦しみとか、ちょっと話したから、これじゃかわいそうだから、高橋信次が光明思想を知らないように思われたらしゃくにさわるからね、多少本刊では、まあ、楽しいこと、いいことも言っとこかなと思うけど、やっぱり僕も天(あま)の邪鬼(じゃく)の性格が出てきて、どっかでおどしちゃうかもしれない。みんなをね、おどすかもしれない。だから覚悟して最後まで読むんですよ、ね。 さて第一節でね、「欲望と欲望を超えるもの」と、こういう題つけたね。 「ああ高橋さん、また始まったな。いよいよ執着と欲望の話だな。どれもそれで聞き飽(あ)きたよ。もう生前から聞いているから、もういいわ。お前の『欲望論』聞かんぞー」なんて、思う人もいるでしょう。だけどねー、欲望ちゅう言葉は悪いけど、物事は考えようでね。やっぱりね、「こうなりたい、こうして欲しい、ああして欲しい」、ね、こう思う気持ちね。これもやはり、ひとつの根源的なものであることは事実ですね。またこれがね、いろんな人間の向上心になったり、あるいは何というかなー、世界の進化に繋(つな)がったりね、なっていることは事実だ。 女性は、やっぱり美しくなりたいと思うわね。これを欲と片づけてもいいよ。 「欲望であって執着だ。お化粧したい、どうらん塗(ぬ)りたい、マニキュア塗りたいなんてとんでもない。そんな化け物の道を歩んではいけない。女性は素肌(すはだ)で勝負しなさい」まあ、こういう言い方もあるけども、「いや幻覚でもいいじゃないか、美しく見えたら男性は誤解して、楽しい気分を味わっとるんなら、それでいいじゃねえか」。まあ、こういう考えもあるね。 だから、男性にとって聞いてみりゃね、「どうだ、女性が美しくなるのと、ならないのとどっちがいいか」、「あったり前ですよ高橋先生、美しいのに決まってるじゃないですか」ね。「もうお金出してもいいから、税金もっと払ってもいいから、美しくなってほしいや。特に、うちのカアちゃんなんかゴロゴロしちゃって、化粧もしないで、デブデブ太っちゃってもう、ガキの相手ばかりしてます」ってね。「結婚した時はねー、若くて、美しくて、スマートだと思ったけれども、もう今なんかあなた、腹まわり一メートルニ十センチもありますよ」ね。「胸なんかもうホッテントットですよ」ったらね、まあ、こんなこと言ったらホッテントットが怒ってくるけどね。 「もう国際化時代になんちゅうことを言うか。侮辱(ぶじょく)した!」ちゅうてね、言うけども、まあほら、美しくあって欲しいという願い。これが男性にはあるねー。 そうすると女性が美しくなりたいという欲望は、必ずしも悪とは言えないね、いいこともある。ただそれに執(とら)われると、もちろん間違いもある、ね。執着になっちゃう。これがある。 たとえば、後でもちょっと話をしようと思ってるけど、男性の性欲ちゅうものもあるねー。じゃこれは悪か。お釈迦様は悪のように言った、ね。イエス様もちょっとそんなことを言った。高橋信次は口をつぐんだ。あっはははー、これは冗談だけれども、僕はまあ、情欲のことも、ちょっと、サラッと書いてますけども、生前。サラッとでもないかな。多少、深入りしたようにも読めるように、サラッと書いてありますが、これだって必ずしも悪とは言えない。 これなきゃあね、あなたみんなね、沢庵(たくあん)食べている坊さんみたいな人ばっかりだったら世の中どうなると思ってる。地獄ですよ。人類は滅亡ですよ。一九九九年の恐怖の月がくる前に、人類、滅亡しますよ、性欲なくなったら。簡単ですよ。ねえ、年寄りになっちゃって、みんな死んじゃいますよ。完全に死にますよ。 だから人類一掃しようと思ったら、もう性欲なくしゃあいいよ。性欲なくして、もう何十年か、五十年も経ちゃあ人類いなくなっちゃうよ、簡単に。 もう爺さん、婆さんになってね、それで社会福祉できないからね。若い者が働かんから、福祉年金はおりてこんからね。爺さん、婆さんみんな働けなくなって、腰曲がって死んじゃうんですね。飢え死にしますね。それで終わりです。若者が働いておるから、みんな年金貰(もら)ってやれるんでしょう、社会福祉で。若い者が働いて、年寄りが貰ってだな。それが若い者がゼロになっちゃって、年寄りばかりの世界になってくる。 「爺さんや、畑仕事はできるかね」「婆さんや、魚も釣れんわのー」とかね、いろいろやって、あなたね、全然ダメですね。結局、苦しいですね。 だから簡単ですよ。「いやらしい性欲」ちゅうけど、これなかったら、ハルマゲドンの大悲劇かなんか知らんがね、最終日、人類の終末、もっと早く来ちゃうんですよ。簡単です。平和に殺せますね。これがあるからいいんですよ。 だからみなさんね、「欲望だ、欲望だ」って一律に考えちゃいけないよ。物事には、やはりすべてのものの中に向上心があるんですよ、ね。そういうふうに思わなければいけないですよ。何でもかんでも決めつけて、「これは絶対的な悪」なんて思っちゃいけない。この世には、「絶対的な悪」というものはないんですね。やはりいいものもある。だから、その捉(とら)え方と、その使い方によって、世の中いろいろ変わるんですね。 金銭欲だって、そりゃあ執着になりますよ。そんな「お金儲けだ」「金だ、金だ」って言ったらね、執着になるし、人間おかしくなることもある。 ただ、お金を儲けるということだってね、ひとつの価値の換算(かんさん)基準、ね、価値、自分の労働ね、労働というものを、お金で計っている。そう思えばね、生き甲斐(がい)にもなるわね。一生懸命働いて、ボーナスも増えるわね。ボーナス増えて、それが悪いかっちゅうと、そんなことない。一生懸命働いてボーナス減って、怠けたらボーナス増えてくる。大変な世界になりますね。それも一つの方便は方便。便法は便法ですけど、働いたらお金になって還ってくる。なんか嬉しいような、悦(よろこ)びになる。だから、この欲望も必ずしも悪かと言えば、悪じゃない。 ただ、そういう執(とら)われになっちゃうといけないね。「お金がすべてだ」「人生はお金だ」「お金以外に友はない」「私の友達はお金だけだ」「私の友達は福沢諭吉だけ」なんてね。福沢諭吉の思想を友とするのはいいけども、お金一万円札ばっかり友にしてたんじゃ、おかしいこともあるね。お金のためなら、エンヤコラでなんでもする。友情のためなら働かない。こんなんじゃ間違いですね。ただ、そのお金が欲しいという欲望の中にもね、やはり、全体を幸せにするための要素はある。 みなさん喜んでくださいよ。本刊では、そういういい話ばかりですからね。幸福になる話をしているんだから、喜んで読んでくださいよ。そして次刊でまた、ストーンと落としますからね。みんなを欲望の底に、奈落(ならく)の底に落とすつもりですけど、まあ、本刊はそういう楽しい話ですから、喜んで読んでください。 と言いつつ、まだ欲望を超えるものまで言っていないね。欲望ばかり話してて、「欲望と欲望を超えるもの」というのが、この本節の題名ですから、超えるもの言わなきゃいけないね。超えるもんて何だろうか。 結局ね、欲望を超えるものは何かというと、欲望も、その使い方によっては、人類の向上、個人の向上、それから神に近づいていくための原動力となるということだな。だから、神に近づいていきたいという欲望だって、欲望は欲望だよな。でも、聖なる欲望であることは事実。こういうふうに欲望の中でも、やはりいいものもある。いい方向性はあると。これを完全に否定してはいいものじゃないっていうことだな。そういうことですよ。 まあ、長生きしたいって欲望もある。これがあまり執着になっちゃうと、「死にたくない、死にたくない」ちゅうことで苦しみをつくるけど、長生きしたいと思うから、だから体、大切にするしね。運動はするし、バランスよい食事をとるし。それから、お医者さんが一生懸命、医学の研究するだろう。まあ、そういうこともある。 だから、欲望というものをね、あまりその名前だけで判断してはいけない。やっぱり、その中身もみなきゃいけないんですよ。それが、この話です。 2.幸福の基礎 さて、「欲望と欲望を超えるもの」って話したけれども、ここではね、「幸福の基礎」について話をしたいんですよ。 みなさん、いろんな幸福感があるでしょうね。幸福感あると思うけれども、幸福の基礎って何かというとね、結局、その人にとって幸福であるということは、その人が現時点で、自分がこうしたい、あれが欲しい、これが欲しい、あるいは、こうなりたいという気持がね、ある程度充足された時に、人間はやはり幸福を感じるんですね。 幸福の基礎は、やはり充足感です。一種の充足感であることは事実です。 だから、赤ん坊にとっては、お腹が空(す)いたときに、ミルクを飲みたい、これが幸福の基礎ですね。この充足感ですね。この時に哺乳瓶(びん)を取り上げてね、いくら天下国家を論じたって、赤ん坊は泣き止まないですよ。絶対泣き止まないですよ。そういうことですね。 あるいは、まあ、そうですね、世の中の役に立つ仕事をしたいと思う人にとっては、役に立っているという実感ね、この充足感。充足感がやはり幸福の基礎でしょうね。 あるいは、三食、ちゃんと食べられるということが、幸福の基礎かもしれない。今、戦後四十数年経って、平和な時代が続いていますが、ほんの半世紀前には、第二次世界大戦があって、日本でも食べるために、みんな苦しんだ。 で、闇物資の買い出しね。こういうことでなんとかして、家族の飢えを凌(しの)ごうとね、みんな努力した。裁判官で、家族には闇米食べさせたけれど、自分は闇米食べるのを拒否して、死んじゃった人もいます。そんな裁判官もいました、戦前にね。まあ、そうした時代です。 そうした時代にとっては、一椀(いちわん)のお粥(かゆ)が食べられる、おじやが食べられる。あるいは、水団(すいとん)が食べられる。これが幸福感の基礎であることもある。幸福の基礎ですね。 そういう時代もね、確かに一般にとっては不幸かもしれないけれども、そうした幸福の水準を教える時期もあっていいんだなあ、魂にとっては。 あの水団。ねー、あれがどれほどおいしかったか。あるいはもっといくと、芋(いも)の蔓(つる)だな。まあ、芋の蔓食べた人もおるでしょうが、芋の蔓食べるだけでも、あなたねー、大変なことでございますよ。芋の蔓食べて生き延びたとかね、あります。あるいは、薩摩(さつま)芋のシッポ食べて生き延びたとかね。いくらでもあるんですよ。こうした人にとってはね、お腹いっぱいになるだけでも幸福ですね。 まあ、このように幸福の基礎はいろいろですが、その時点に立った、その人の充足感ですね、結局は。これかもしれない。 だから五十年前の日本人にね、「戦後、日本は五十年後、ものすごく繁栄するから、お前たちは、水団(すいとん)、薄い水団だけれども、これで我慢しろ」と言ったって、なかなか納得しないね。「それよりとにかく、お腹をいっぱいにしてくれ」ということであったでしょう。 まあ、こういうふうに幸福の基礎には、ある程度の充足感があるということは、みんな認めなきゃいけないね。この充足感がないと、やはりなんというかね、うーん、まあ、満足できない。満足できないとどうなるかっていうと、不満になる。不満になるとどうなるかっていうと、愚痴(ぐち)が出る、妬(ねた)みが出る、嫉妬(しっと)が出る。こうして心が地獄になっていくわけですね。 だから、やはりね、精神的なことももちろん大事だけれども、まあ、議論の前提としてね、幸福の基礎には一定の、やはり充足感があるということね。これは認めた方がいいよ。だから、自分が今、何を欲しているかということはね、人間、考えた方がいい。ね、何を欲しているのか。何を欲していて、それが自分の可能になる内容か、そうでないのか。 可能になる内容とすれば、それを得るために努力することが正当かどうか、ね。正当だと思ったら、やっぱり努力することですね。それはいいことですよ。 『汝、何を食い、何を飲まんと思い煩(わずら)うことなかれ』なんて言われて、その気になっちゃって、月末、おカアちゃんに渡す金が無くてね、酒場で飲んできて、グイグイグイグイ酒飲んで、ウイスキー飲んじゃって、おカアちゃんに、全然月給入れない。で、月末になって、「あなた、もう二十日よ、給料は?」「あっ、全部飲んじゃったよ」「何よ、あなた! 私と子供二人どうするの!」「イエス様も言っとる。『何を食り何を食らい、何を飲まんと思い煩うことなかれ。明日は明日の風が吹く』とイエス様が言っとるじゃないか。お前、馬鹿な奴だな」「あっらぁー、あなた、何言ってるのよ。そう言って私が飲み食うは放って、自分は一生懸命ウイスキー飲んでるじゃないの」「言われてみりゃそうだな。確かに俺の方が飲んじゃった」なんてね、家内が飲むのだけ許さなかったとかね。食べるのだけ許さなかったとかね。「俺はウイスキー飲んでりゃ、御飯なんかいらねえから、ウイスキーだけでよかったけど、そういやー、カアちゃんと子供は、御飯食べなきゃ生きていけねえわー」なんて思い出したりしてね。そういうこともあります。 だからまあ、人間、物質だけじゃありませんが、ある程度、この世の中での一定の充足感を得るということは、知らねばいけません。「衣食足って礼節を知る」ということね。まあ、これも大事な考えですよ。これ忘れちゃいけませんね。ま、これが幸福の基礎。 すなわち、幸福の基礎とは、その人が、現時点において求めるものを満たすこと。充足感である。まあ、こういうことですね。 3.幸福の段階論 さて、愛の発展段階説だとか、知の発展段階説だとか、なんか発展段階が大好きみたいだから、まあ私も、高橋信次も、なんか段階論、説かないかん。 「幸福に発展段階があるか」「幸福の段階論」、なんて考えていますが、まあ、いっぱい古米から、心理学者たちもいろいろ言っているようだな。あるいは、ギリシアの哲学者以来、幸福論はもういっぱいあるからね。 たとえば、人間の根源的な幸福としてね、やっぱり生理的欲求とかね、あるいは何て言いますかね、安全の欲求とかね、こんなのがある人もいるね。身の危険、生命の危険を感じとったら、もうとにかく食事も喉(のど)通らない。こういう安全の欲求というのがあるというような人もいますねえ。とにかく、毎日が安全で生きていられる。命が狙(ねら)われていると思ったら、もう喉も通らないね、飲み物も。まあ、そういうふうな人もいます。これが一番下にあるっていう人もいます。 あるいは、生理的欲求ね。飲んで、。食べて、そして寝て、そしてまあ、いいことしたい時にはして、こういう生理的欲求が一番下の方にある。こういうふうに言う人もいるでしょう。 あとそれ以外に、たとえば、もうちょっと高次なものとして成功欲があるとかね。名誉欲があるとか、こういう人もいます。 まあ、いろんなそういう欲求の段階があって、それに応じた幸福の段階があると、こういうふうに言う人もいますね。 まあ、これだから一概に、どうのこうのということは言えないんですけどね。一概にどうのこうのというふうな言い方はできないんですが、そうだね、僕の考えではね、やっぱり、幸福の基礎として充足感があるとするならば、幸福の段階で、やはり一番下の部分、基底の部分にはね、人間として生きる最小限度の、やはり欲求があるだろうと思うね。それはあるだろう。 それはね、やっぱり、地上に生きている以上、生命を全(まっと)うしたいという欲求ね、生命を全うできるということによる幸福感ね。これはあるんじゃないかな。うーん、この辺がやっぱり一番下位レベルとしてあるんじゃないかな。 なにせ、頭の上にね、あなた、天井からね、槍でもいいし、青龍刀(せいりゅうとう)でもいいけど、髪の毛かなんかで、青龍刀かなんか天井から吊して、その下で一日中仕事してごらんなさいよ。できたもんじゃないよ。もう、刀が落ちてくる前に、気が狂って死にますよ。人間ね。 そういうことあるから、安全欲求と生理的欲求を合わせた、その根本的な生命、生命を全うしたいという考えね。そして、生命を全うすることによって得られる幸福感。まあ、そうしたものが僕はあるように思います。これは割に根源的なもんでしょう。これを否定できないね。 だから、人間の幸福感も、やはり幸福に向かって努力していくものというふうに捉(とら)えたら、この根源の欲求は、やはり全うされるべく努力した方がいいと思うね。 すなわち、土管(どかん)の中で寝ているよりは、家の中に住んどる方がいい。ねー、そうでしょう。そういうこったな。家の中に住んどる方がいい。寝るところがあること。塒(ねぐら)があることね。イエス様はなかったかもしらんけど、塒があること。「鳥には塒があるけれど、イエス・キリストにはマンションがない」、ね。かわいそうだっちゅうような考えもあるけど、まあ、塒(ねぐら)ぐらいあった方がいいなあ。それから食べる物があるということだね。大事だね。食べる物があること。それから夜、寝られることね。 まあ、こういうことがやっぱり最低限で、この部分で自分の欲求度がどの程度か考えてね、それに近づいていけるように努力することは、人間として幸福を求める以上ね、僕は当然だと思います。 ま、この次にもうちょっと高い段階があるねえ。たとえば、もうちょっと精神的になってきて、仕事なんか、そうだな。どういう仕事するかっちゅうようなことね。自分に向いた仕事をしてみたいとかね。こういう欲求があるね。あるいは学生さんなんかだったら、勉強だろうなあ。勉強したいっていうような欲求があるねえ、勉強とか、仕事とかいう。まあ、ちょっと高次だね。寝たいとか、食べたいとかいうよりは、ちょっと上だろうね。 そして、これに応じた幸福感があるね。すなわち、何らかの価値観を享受(きょうじゅ)している段階だね。価値観。要するに仕事をしている。これがどれだけ社会に有用であるか。自分が役立っているか。こういうことを知ることによって幸福を感じる。あるいは、勉強をするということによって、いろんな知識を得る。そして、いろんな人の考えを知る。また、それの応用を知る。世界がわかってくる。こうしたことによる、何といいますかね、幸福感、あるでしょうね。こういうふうに単純に片付けるとするならば、多少、次元の高い段階でね、そういう何といいますか、価値ですね。多少なりとも精神的な価値に関する幸福というのがあると思います。 それからもうちょっと上にいくとどうなるかっていうと、これは霊的幸福感という分があるでしょうね。この勉強や仕事による幸福ですね。これをもうちょっと、何というかな、押し上げた、突き詰めたやり方ですね。これがあります。 まあ、だから霊的幸福感というのはね、この世が物質じゃない、肉体じゃないということを知った時にね、自分が精神的に、あるいは魂的にね、幸福かどうか。あるいは、これを言葉を換えて言うとするならば、昔的に言うならば、御浄土に行けるかどうかね。 御浄土に行けるかどうか。あるいは、地獄に堕ちんかどうかね。成仏できるかどうか。こういう幸福感もあるね。まあ、少し程度が高いかもしれないね。この世で仕事して嬉しいとか、勉強できて嬉しいっていうよりも、そういう永遠の生命という立場に立ってね、霊的幸福感を得られるかどうかね。多少、高等だと言えるでしょう、こういう幸福感を持っている人はね。 こういうふうに何て言いますかね、生命を全うしたいという幸福感。それから次に、勉強や仕事などのような価値ですね。精神的な価値による幸福。それから三番目に、霊的幸福。まあ、こういうものがある。 後はね、この上があるか、ないかということだけれども、ないとは言えんね。すなわち、これが神我一如(しんがいちにょ)の幸福感だろうなあ。神と自分とが一体という幸福感だね。これは光の天使の幸福感ですよ。これは高級ですね。 だから霊的幸福感あたりは、まだ、いわゆる霊性に目覚めた人間の幸福感で、一番目、二番目の幸福感は、まだ霊性に目覚めていなくてもいいけれども、三番目からは霊性に目覚めた人の幸福感。四番目の、この神我一如、神と我とがひとつであるという幸福感は、これは光の天使の幸福感です。この幸福感は非常に高い幸福感であって、そうそうみんな味わえないですね。 神様のために生きておる。また、自分が神様と同一だという、本質がひとつだという感じがする。そして、自分のために生きるんじゃなくて、神のために生きておる。神の何ていうかね、一部として生きている、ね。こういう感じだな。 これが本当に頭だけじゃなくてね、知識だけじゃなくて、本心からね、心の底から、魂の底から神我一如、神と自分とが一緒。こういう幸福感を味わえる人がいたら、これはもう、たいしたもんですね。まあ、私に近いと言ったら語弊(ごへい)があるから、高級霊に近いと言っておこう。ねえ、そう言えるでしょう。この世で生きていて、自分の幸福感が神様の幸福感と一緒っていう人がいたら、たいしたもんですよ。だからまあ、一緒っていうことはないけれども、どれだけそれに近いかっていうことだな。 だから、最初の生命を全うしたいというような幸福、そういう幸福感は、そこまでまだいっていないし、二番目の仕事や勉強等、社会的有用なことね、価値に換えられる幸福感でも、まだそこまではいっていない。 「地獄に堕ちたくない。できれば天国にいきたい」っていう、自分の成仏をまだ願っておる霊的幸福感の段階。 それからその上には、神と自分とが一体。神の悦びを自分の悦びとし、神の悲しみを自分の悲しみとするという気持ね。偽善者(ぎぜんしゃ)じゃなく、偽(いつわ)りなく、本心からそう思う気持ね。これが次の段階ですね。神が自分を祝福してくれる。自分も神を祝福している。自分は神と結婚したようなもんである。ま、こういうふうな気持ですね。こういう気持は大事ですよ。 こういうふうに、幸福の段階がやはりある。おおまかに言って段階がある。こういうふうに思っていいでしょう。
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目次 1.百事如意、無限供給を説く「生長の家」 2.富と執着 3.貨幣は価値中立的であり、その使途が問題 4.時間の限界が法の限界となることを知れ 5.貧しきギッシングと富めるスコットの例 6.無限供給とはホースで水を汲み出すがごとし 7.必要な時期に、必要な方法で、必要な結果が与えられる 8.守護、指導霊への全託が大事 9.結婚成就の秘訣 10.無限供給とユートピアの原理 (1987年7月25日の霊示) 1.百事如意、無限供給を説く「生長の家」 谷口雅春です。いよいよ私の霊言集の第二集の8章、「無限供給の原理」というところまでこぎつけたわけであります。まあ、そこで、本書を締めくくるにあたって、この「生長の家」の初期の頃から一貫してあった「無限供給の原理」について、初学者にもわかるように、その真理の骨格をお話ししておきたいと思うわけであります。 初期の「生長の家」の運動においては、主に二つの大きな奇跡が起きてきた。第一の奇跡というのは、すなわち、書物を読んで病気が治る人が続出した。そういう奇跡であった。まあ、これは、まだ読者の皆さんも、記憶に新しいところでありましょう。 第二の奇跡というのは、この「無限供給」、あるいは、「百事如意(ひゃくじにょい)」という言葉で表わされるがごとく、思うがままの人生の展開ということが、それぞれの読者の、あるいは、会員の身の上に起きてきたことであったというわけです。 自己実現の問題に関しては、また、折りがあれば、別途詳しい話を私はしたいと思っておるが、本章においては、とりあえず、この「無限供給」ということに関して、焦点を絞って話をしていきたいと、このように思います。 この「無限供給の原理」というのは、誤解をされたことも数多くあります。この言葉じりをとらえて、谷口雅春は金もうけばかりやっておるとか、人間の欲をそそって迷わしておるだとか、このようにマスコミとか、他の宗教家から陰口を言われたこともあった。これも事実です。 まあ、確かに「無限供給」というような響きのいい言葉であるから、これは悪用される可能性も非常に強いわけであって、一部の良識ある人から、そうしたおそれに関して警告がなされたのも、これは故(ゆえ)なきことでもなかろうと思う。まあ、そうした良心的なる警告の面が半分と、残りの半分は、やはりやっかみもあったであろう。私はこのように感じるわけであります。 宗教家というのは、残念ながら自己実現が下手な連中が非常に多いわけです。たとえば、神社の修復作業をしたいとか、仏閣の増築をしたいと思っても、その増築資金が出なくて、四苦八苦して政財界をまわって断られたりして、苦労しておる神主や坊主たちがあとを絶たないわけです。 ですから、そういう貧乏性の身についた宗教家からみれば、「百事如意」「無限供給」を説く「生長の家」というのは、まさしく摩訶不思議(まかふしぎ)な存在でありましょう。そんなバカなことがあるわけがない。神仏に仕える身というのは、もっともっとこの世的なるものを滅却して、執着を取る道を説くのが信仰への道であるにもかかわらず、この執着を増幅させて、思うものが何でも手に入るというような理論を説く「生長の家」とは、これはまた何と神意に反した、仏意に反した教えであろうか、と。まあ、そういうことでも、ずいぶん言われた。 2.富と執着 ただ、彼らの言うことも、根拠がないわけではありません。原始釈迦仏教においても、乞食坊主たちの、何と言うかな、布施を求めながらの遊行(ゆぎょう)というか、伝道というのが多かったし、キリスト教においても、イエス様も貧しかったことも事実です。そして、富の神に仕うることと、それと真実の神に仕うることと、この両方は両立しない。まあ、こういうふうに言われておった。ま、こうぃうことがあったであろう。 そこで、この点について、さらに考えていかねばならんと思うのだが、まあ、いわゆる金銭とか、財産、あるいは、その他のこの世的なる有用なるものということだな。こうしたものに関心を持ったり、手に入れたりすることを一概に執着と言ってしまう人もいるであろう。 ただ、イエスの時代、釈迦の時代と現代とでは、かなり様相を異にしていることは事実であります。つまり、法というのは、やはり時代の要請というものを見誤ってはならんのです。今、新宿へ行けば、副都心には、五十階建ての超高層ビルが建ち並んでおる。また、本屋といっても、何十万冊、あるいは、百万冊もの本を持っておるような、大きな書店が出ておるような、そうした世の中であります。 こうした時代に、かつての僧侶たちがそうしたように、写経ということを通して、写経をして、その巻物を売って、米や味噌を千に入れてくるという生活が、そのまま現代に通用するかと言えば、私は、そうではないと思う。 そうしたものを、つまり、この世的なる超近代ビルとか便利な交通網とか、百貨店とか、こうしたものをすべて執着の権化として一蹴し去るならば、人間に待っておるのは原始生活のみであって、何のために現代という時代において魂修行をしておるのか、この意味がわからないことになる。やはり現代のなかにおいては、現代的なる道の模索というのがあってよいのではないか、と。まあ、私はそのように思うわけであります。 3.貨幣は価値中立的であり、その使途が問題 さて、金銭というものに関しても、私は、ひとつの見解を述べておきたいと思う。すなわち、金銭というものを、魔物であるとか、悪の所産であるとかいうふうに、考える必要は、決してないということであります。 こういう貨幣とかいうようなもの自体は、これは価値中立的なものなんです。善とか、悪とかいうものではないんですね。それ自体は、無色透明であって、善でも悪でもない、中立的なものです。要は、この貨幣を取り扱う人たちの心がどうであるか。その点が問題なわけですね。 まあ、これはね、言ってみれば、現代では、真理を述べ伝えようとする宗教団体であっても、自分たちだけで集合、集会ができるための講習会場、こういうものを持ちたいと考える。これが欲であるかと言うと、必ずしもそうではないと私は思うのであります。 現在見ておると、講演会場だの、セミナー会場などを探すのに大変苦労をしておるようであるが、やはり、こうした制約があって、他人の意向を気にしなければ独自の活動ができんというのも、これも非常に悲しいものであります。自分たちがやりたいときに、やりたいだけの規模で集会ができるということ、これも非常に大事なことですね。 そうしてみると、たとえば、千人なら千人が入る会場を手に入れるためには、資金がいる。現代においてはね。ま、無料で提供してくれる人がいれば、それに越したことはないが、必ずしもそういうわけにもいかんであろう。 では、そうした資金自体が、悪いかと言うと、そうではない。その資金が、いくらかかったかは知らん。まあ、いくらでもよいが、五億なら五億かかったとしようか、十億でもよいであろう。十億かかったとしよう。たとえば、その十億で、毎年毎年、四十年、五十年間にわたって、多くの人びとが法を学ぶことができ、講義を聴くことができ、どこに気兼ねすることもなく、真理の学習ができるような場が得れたとするならば、その十億というお金は、これは活きてくるわけだ。十億というのが、もっともっと価値を持ってきて、その何十倍にもなってくるわけですね、値打ちというものが。 今、十億というお金ならば、これは日本のあちこちにダブついておるわけですね。ダブついておって、何と言いますかね、まあ、空(むな)しい利益と言うかね、そうしたものの追求のために、十億ぐらいのお金が右から左に飛んでおる。証券会社だ、あるいは、商社だとか、まあ、そんなところでは、為替の投機とか言って、十億どころか、何十億、何百億の金が右から左に動いておる。そして、利ザヤを稼ぐ。そういった商売が、現在において、非常にはやっておるようですね。しかし、こうしたことで使う金と、たとえば、真理の伝道のために使う十億とでは、同じ十億であっても、十億の活き方が違ってくる。まあ、こういうことがあるわけですね。 また、一万円なら一万円でもいい。この一万円でも、値打ちが違うことがある。たとえば、パチンコでもうけてきた一万円を施設に寄付するのと、あるいは、貧しいながら長年働いてきた老夫婦が、少しでも世の中の役に立てと思って一万円を寄付するのとでは、残念ながら、その一万円についた値打ちというのが違ってくる。まあ、こういうことがあります。 ですから、お金自体は、とくに善でも悪でもない。これは、前提なのです。そこにとらわれすぎると、つまり、その善悪にとらわれすぎると、そこにまた苦しみが現われます。宗教家であるから一円も金をとってはならんとかいうことに固執すると、これが、また苦しみになってくる。 つまりね、たとえば、講演会をやっても、全国伝道をやっても、一円も金をとらんということにこだわっていると、今度は、これで執着をつくって、無理をする。その金をかせぐために、自分で事業をせねばならんようになる。ある宗教家で、そういう宗教家がおりました。自分で自営で商売をして、利益を出して、その金を投入して、真理伝道に使う、と。まあ、こうぃうことをやった立派な宗教家がおる。 それはそれでもちろんよいのだけれども、ただ、その方の場合、金銭というものに対する罪悪感というものがやはり根本にあったのではないか。そういう感じが、私にはするわけですね。 本当に、神のために奉仕しなければならないのならば、必要なものは与えられて当然なわけですね。ところが、自分で稼いだ金以外を使ってはならんというふうにあまりにも考えるのは、それはまた、何と言うかね、大きな天意と、神意とを、あまり認めていないという自力論の粋のなかに入ってしまうのではないか。まあ、そういうようにも感じるわけですね。 4.時間の限界が法の限界となることを知れ しかし、これに関しては、私もそういう経験があってね。昔、乃木坂にある「生長の家」の道場で、幹部講習をやっておった頃のことだから、まあ、何十年も前のことだが、幹部になる人たちということで、彼らに無料で講習会をやっておった。ところが、一向に実効が上がらんのだな。無料でやると、お客意識になって、「聞いてやるから、いい話をしてみろ」と、こういうふうになってくる。お客様意識になってくる。 そして、こちらも宗教家だから、真理の伝道のために人を養成するのに金をとってはならんなどと心を縛っておると、「取ってはいかん、取ってはいかん」と思うから、無料でやる。では、無料でやってどうだったかと言うと、足を投げ出して、あぐらをかいて、「じゃあ、言ってみろ、どんないい話ができるか言ってみろ」と、幹部諸氏がお客さん意識になってしまう。まあ、こういうふうなことがあるわけですね。 結果として見たらどうかと言うと、性根(しょうね)に入らんわけです。学ばない。ろくでもない幹部ができるわけだな、こういうただ食いをさせると。本当に勉強をしようと考えるなら、身銭を切って学ぶぐらいの姿勢はいるわけですね。そうでなければ嘘だ。 と言っても、一回の講習を受けるのに、何十万、何百万もかかるとすれば、これはもちろん取りすぎであってね。そういうことは、現実的にもおかしいとは思うが、まあ、妥当な値段というのはあるであろう。私はそう感じる。 したがって、いちばんいけないのは、何でもいいが、固定観念でもって、自分たちの手足をがんじがらめにしてしまうことだね。そうする必要はないのではないか。まあ、そういうことなわけだな。先ほど述べたすぐれた宗教家にしても、費用は絶対自分で稼がねばならんというようなことで、自分の手足を縛っておったのでは、時間というものができない。自分の自由な時間というものが、どうしてもできない。 そうすると、その時間の限界が、結局、法の限界となるわけです。書物を書く時間がない。それを人びとに教える時間がない。そして、その時間がないことのツケはどこにいくかと言うと、そのツケは、自分の肉体にいく。つまり、肉体を酷使することになるわけですね。そして、過労で倒れる。まあ、こういうふうになるわけだな。 こうしたときに、やはり人様の金はいただくもんではないとか、金銭を集めるのは罪悪だというふうに決めつけずに、もっとおおらかな考えを待てばいいと私は思うんです。すなわち、一億なら一億の金が、五億にも、十億にも、あるいは、それ以上の心の富になるような方向で、そのお金を活かしていけばいいのであります。もちろん、それによって、自分の懐(ふところ)を肥やすという方向にいってしまったら、これは間違いなわけですね。私はそう思う。 たとえば、作家にしてもそうだな。作家が、貧乏長屋で暮らしておって、それでいい小説が書けるかと言うと、ま、必ずしもそうではない。落語のネタぐらいは仕入れることができるであろうが、やはり大作家ともなれば、それなりの住処(すみか)というかね、住処を持っておって、つまり、庭に池があったり、散歩ができるぐらいのところにいて、それなりの構想が浮かぶということもあるだろう。 そうすると、こうした邸宅に住むための資金というものは、決して人類にとってはマイナスではないわけですね。そうした大作家が、それだけの余裕ある生活を送ることによって、それだけのものを生み出すことができる。小説を生み出すことができる。それによって、人類の心をますます富ますことができる。こういうふうに考えると、そのお金は、決して執着でも何でもないわけです。悪いお金でもないわけだな。まあ、こういうことが言えると思います。 5.貧しきギッシングと富めるスコットの例 私も早稲田の英文で学んだ者であるから、まあ、こうした英文学者たちの例は、もちろん数多く知っておるわけです。有名な例としてはね、たとえば、ギッシングという、詩人というか文章家がおったんだけれども、このギッシングという人は、非常に貧しかった。夕刻になると、食事を食べるためにお金を使うか、それとも、一冊の本を買うために食事をやめるかという選択に追い込まれるような、そういう生活をしておったわけです。 そして、夕食のパンとベーコンをやめて、一冊の本を買ったということ、古本を買ったということを、得意げにエッセイに書いておるんだな。それはそれでいいんだが、彼の文章自体は、非常に美しいもので、人の心をうならせるものがあるけれども、ただ、どこかに罪悪惑というか、悲愴感というのが漂っていることは否(いな)めない。また、大全集を刊行するほどの仕事はできなかったことも事実です。 夕食を食べるか、本を一冊買うかの選択に迷って、屋根裏部屋に生活しておるようでは、やはり大全集を組むような作家にはなれんということだな。つまり、清貧に甘んじるということもいいが、それなりの環境ということは必要だということです。 まあ、これとは別な例というのもないわけではない。西洋のほうでは、ま、貴族階級のなかに、お金と時間というものに大変恵まれた人たちがいて、こうした人たちは、何と言うかね、大量の著作物を刊行することも可能であった。まあ、こういうことがあると思う。たとえて言えば、そうだねえ、まあ、いろんな例があるけれども、スコットという大作家がおったね、英国に。 スコットという大作家がおって、これは皆さんも、多少読んだことがあるかもしらんが、『アイバンフオー』であるとか、『ウィリアムテル』とか、あるいは、『英国史』を書いたり、まあ、いろんなものを続々と書いた大作家であります。彼などは、お城だな、お城を住処(すみか)にしておった。 お城のなかに大変な蔵書、こういうものを持っておって、次々と良質の名作というのを書いていった。まあ、こういうこともあるな。お城に住んでおって、乗馬を楽しんだりするような優雅な生活をしておったが、それなりのものを残した。ギッシグと比較してみると、ずいぶん違うところがある。まあ、こういうことがあると思うんだな。 今まで話したのは外国の例だが、そういうのは、日本にもあってね。しかし、文を書いて売りつなぐというようなことをしておると、そして、生きのびることばかりを考えておると、どうしても世間に迎合するような文章ばかりを書かねばならんようになるわけですね。 やはり、適当な資産があることによって、自分の良心に忠実な文章を書いていくことができる。まあ、こういうことがあると思うんだな。とくに思想的なものというのは、その良心的独立ということが非常に大事であって、あまり銭金に左右されてはならん部分というのがあるんです。 たとえば、スポンサーがついたとしても、そのスポンサーから援助を切られると、たちまち干上がってしまうような宗教家であると、それでもって、中味、法の中味がおかしくなってくる。また、借金をいっぱいこしらえると、その借金を取り戻すために、ツアーを組んで、心霊治療だ、病気治しだと言って、一件百万円ぐらいも取って、金もうけをせねばならんようになる。こういう哀れなことになる場合もある。 そういうことで、やはり、宗教家なり、こうした思想家というものは、その良心の独立を守るためにも、多少の恒産と言うかね、恒(つね)なる財産、これは必要だと思う。また、これから私の本を読む真理の使徒たち、まあ、宗教家、思想家が数多く出るであろうが、そういう彼らに言っておきたいことは、ひと昔前の、釈迦弟子のときのように、すべてを捨てて托鉢してでもという考えも大事だけれども、もう少し、自分の生活に安定を出しながら、真理を広めていける方法を考える必要がある、と。こういうことを、私は言いたいのであります。 やはり、内心にそういう不安定があると、どうしても本当にいい行動、これはできない。まあ、飯を食わねば戦(いくさ)もできんということだな。これはあるわけで、飯の部分というのは、非常に大事な面がある。すなわち、この世にはこの世の法則があり、この世なりのしきたりがあるからです。 そういうことで、無限供給の原理を採り入れた「生長の家」は非常に発展をしたが、物質は、執着と言うたところは、逆に全然発展をしない。こういうこともあるわけでね。要は、自分たちが繁栄し、発展していったときに、それを当然だと思わずに、それ以上のものを生み出していくことです。これが大事なわけだ。 と言っても、ただいたずらに大邸宅に住み、馬を乗り回し、本をいくら買ったところで、何らの知的な生産をしなければ、そうしたものは、何の意味もない。単なるもの集めにすぎない。しかし、それが、スコットのような大作家への道を歩んでゆくための一歩であるならば、それはまた正しいことになる。こういうことがあってね。 まあ、決して資産というものを馬鹿にしてはいかんのです。ただ、その資産以上のものを世に還元していくことだ。こうした考え方が大事なわけですね。入ってきたもの以上を、出していくように努力する。こうぃうふうにしていくわけです。これが考え方のポイントなわけなのです。 6.無限供給とはホースで水を汲み出すがごとし あなた方は現代の人たちであるから、昔のことは知らぬかもしらんが、たとえば、お風呂ひとつみたところで、昔は、今のようにスイッチをひねれば湯が出るようなものはなかった。昔は木の風呂であって、前の日に使った湯が、翌日になっても、まだぬるい感じで残っておるのだが、この風呂の湯を取り出すときにね、もちろん栓を抜いて湯を流すということもあったが、ホースを使って湯を抜く方法というのがあったんだな。これをご存知であろうか。 長さ五十センチか、一メートルぐらいのホースのなかに水を入れておく。そして、ホlスの片方は風呂桶のなかに浸け、もう片方を外側に出しておくと、風呂のなかの湯が外へ抜けるわけだ。これは、池の水を汲み出すときにもよく使う方法であってね。池の水を替えるときに、ま、池にはバスタブのように栓がないから、この池の水を出すときにどうするかと言うと、このホースを使ってね、一メートルぐらいのホースを使って、そのなかに水をつめて、片方を池に浸けて、片方を外に出しておくと、池の水が汲み出される。こういう原理があるな。 これは、ホースのなかに入っておる水が下のほうに、つまり、外側に落ちようとすると、ホースのなかの水は中断されて、真空になってしまう。しかし、真空になるわけにはいかんのであって、真空になりそうになると、水をまた吸い寄せる。こういうことで、間断なく池のなかの水をホースのなかに自動的に吸い込んで、その結果、水が他の外に出ていく、と。まあ、こういうふうになってくるわけだな。こういう原理がある。 すなわち、「無限供給の原理」というのは、まさしくこのとおりなわけです。ちょうど池の水をホースで汲み出すときと同じ方法なわけだな。モーターで汲み出すわけでもなければ、電気、電力を使って、タービンを回して汲み出すわけでもない。原理は簡単だ。ホース一本あればよい。そのなかに水をつめて、片方をなかほどより低くしておいて、手を放せば、池の水は、自動的に外に汲み出されるようになる。 無限供給とは、まさしくこのとおり、何の動力もいらない。そこにあるのは、ただ真空を嫌うという水の原理だな。これだけなわけだ。真空を嫌うがゆえに、水が水を呼んで、池のなかの水が外に出てゆく。 無限供給もこのとおりであって、まあ、いっさいの計らいごと、執着というものを断って、与えられるもの、それを素直に受ける。素直に受けたら、素直に出していく。つまり、これが感謝行ということだな。人間はいろんな機会に、いろんなものを、事物を与えられておる。引き寄せておる。そういうことがあると思うのであります。 たとえば、会社で言えば、昇進するというようなこともあるね。人より早く課長になる。部長になる。こういうことがある。まあ、こういうところで体裁を言って、それを断って、ヒラに甘んじておることはないんであってね。人より早く課長になったら、「ありがとうございます」とそのままに受ける。「はい」とそのままに受ける。そして、「はい」として受けたその素直な気持ちでもって、ヒラ社員のとき以上に、一所懸命会社のために貢献するわけです。働くわけです。 これは、すなわち、ホースのなかの水が外に汲み出されてくるのと一緒だな。汲み出されると、また入ってくる。出ていくと、また入ってくる。何の労力も使わず、何の原理も使わないで、こういうふうに循環しておる。これが、無限供給ということです。 このときに大事なのは、このホースと同じ原理で、入ってきたものをどんどん出していく。そうぃう気持ちでやっていく。これが大事なわけですね。 商売でも、同じです。不況になったときに困るというふうに考えて、好況時に利益を蓄えてばかりおるようなそういう会社とか、商店とかいうのは、不況になったときにいちばんに潰れるんです。不況がくるぞ、くるぞというので、好況のときに一所懸命利益を出して、それを抱え込んでおったりすると、こういうところは、人びとの不評を買って、不況のときに真っ先に潰れたりするようになる。 しかし、不況になったら、そのときはそのときで、神の恵みがあるはずなんです。好況のとき、自分のところが高収益が上がっておるなら、この高収益をできるだけ多くの人たちに活かしていこう、と。その気持ちでやっておった人たちには、不況になっても、あのときはお世話になったからと言って、今度は助けてくれる人がいくらでも出て来る。そうしたものなのですね。 とにかく、自分だけが利益を上げてため込んでおる人には、困ったときに助けがこない。逆に、人びとが繁栄をしておるときに、自分だけが繁栄をするのではなくて、その繁栄をさらに分け与えておったような人には、困ったときには、必ず助けがくる。こうしたもんなのです。 7.必要な時期に、必要な方法で、必要な結果が与えられる したがって、無限供給というのは、現在ただ今に、億万長者になる法とか、そういうことを言っておるのではないんです。現在ただ今に金が降ってきたり、すぐ偉くなったりすることをもって、無限供給とは言っておらんのだ。 まあ、身分不相応にも急に偉くなって、自己実現の願いどおり、すぐ偉くなったのはいいが、偉くなったと思うや今度は、仕事で失敗をしたり、あるいは、人の不評を買って降ろされたり、と。まあ、こういうことがよくあるわけだな。ま、そうであってはならん。一時的な成功というものを追い求めてはならんのです。無限供給とは、まさしくその名のとおり、連綿と続く供給、これを求めることが必要であってね、現在ただ今に、やたら溢れておることがいいわけではないんです。 第一、家のなかに金銀財宝が溢れておったのでは、身動きもできんであろう。必要なときに必要なものが与えられたら、それでよいのだ。まあ、これは、人体を流れる血液も同じだね。血液が大事だからと言って、血液が二倍にも、三倍にも増えたら、人間は脳の血管が破れて、死んでしまう。ですから、必要なときに、必要なだけの血液ができれば、それでよい。これを、無限供給と言うのです。 財物にしても、必要なときに、必要なものが集まってくる。人も必要なときに、必要な者が集まって来る。そして、そういう信頼感だな。神仏に対する信頼感、これを持つことが大事です。 したがって、「無限供給の原理」というのは、一夜にして億万長者になる法とか、すぐ社長になって、すぐクビになる法ではないのだ。そうではなくて、必要なときに、必要な時期に、必要な方法で、必要な結果が与えられる。これが無限供給だな。まあ、こういうことが大事なわけであります。 したがって、現在ただ今に、その人が与えられたものを他人に与えておくと、それだけホースの水が外に放出されたように、次のものが入ってくる。入って来たら、また与える。これでいいわけですね。 決して詰まらしてはならん。詰まらせる、それが、すなわち、執着ということになってくるわけですね。ま、だから、不況のときほど安く商品を売るようなところというのは、決して潰れることはないんです。不況になれば、高くして利益を出そうというようなところは、潰れていく。そういう傾向がある。まあ、そういうことがあると思うのであります。 何度も繰り返しますが、大事なことは、常に人に与える気持ちを持って生きておれば、必要なものは必ず与えられるということです。で、それに対しては、それを拒むでなく、それにこだわるでなく、「ありがとうございます」と素直に受ける。それをまた、世のために還元していく。こういうふうに円環だな。グルグルと回していく。これが、愛は円環であるということの理由ですね。 愛というものは、ちょうど、まあ、円環になっとるわけだ。ひと昔以上も前のことだが、フラフープというのか、腰のまわりに輪っかをつけて、クルクルと子供たちが回して遊ぶ、ああいう遊びがあったであろう。まあ、あれと同じでね。円環とは、要するに、何人かでその円環を持っておれば、フラフープを持っておれば、それを三十センチ回せば、また三十センチ回ってくる。こういうふうに、クルクルと回っておるんですね。ま、これを忘れてはならんわけです。 宗教家も、まさしくそうでね。多くの人たちから感謝を受ければ、その感謝をまた、大いなる救世の力、エネルギーとして、世の中に還していく。まあ、こうしたことが大事なわけですね。ですから、これを学んでゆかねばならん。私はそういうふうに思うわけであります。 8.守護、指導霊への全託が大事 ま、これはね、法則という面から私は説いてきたわけですが、これは、ひとつには、本人の守護霊とか、一段と霊格の高い指導霊の力でもあるんですね。すなわち、本人の心のなかに何のひっかかりもなく、ただ世の中のためにつくしていこうという気持ちを持っておると、守護霊や指導霊が助けてくれるということであります。 この世の中においては、人の協力があって実現しないというようなことは、ほとんどないわけだな。つまり、本人の心が澄んでおって、守護霊の素直な導きを受けれるようになっておれば、その守護霊が、本人に必要な人を探して来て、その人の守護霊と話をし合って、協力者を出して来る。こういうことによって、ことが進んでいくわけです。 ところが、心が曇っておれば、守護霊もなかなか導きようがなくて、そういうことがうまくいかん。まあ、こういうことです。ですから、実在界の原理から見れば、守護、指導霊の働きを受ける、そういう働きを受けやすい状態に置いておけということだな。 心のなかが、欲望で渦巻いておるときに、そのまま助けたら、守護霊や指導霊も、ますます点数が落ちていくであろう。そういうことで、本人の心の向きというのが非常に大切なわけです。つまり、自分だけのために、そういう無限供給を願っておると、決していいことはない。まあ、そういうことが言えるであろう。私は、そう思うわけですね。 そしてね、無限供給で大事なことはね、先ほどから述べておるが、必要なときに、必要な方法でね、必要なだけ与えられる。この三つなんです。必要なときに、必要な方法で、必要なだけ与えられる。この時期、方法、まあ、量だな、この三つ、これを全託するということです。つまり、すべてお任せするということね。こういうことが、私は大事であろうと思います。これをね、たとえば、何月何日までにお米一升持って来いとか、明日の午後までにウィスキー一本が手に入るようにとか祈っておると、まあ、こういうのは、おかしな祈りになるわけです。 本当の「無限供給の原理」が身についてくると、私などもよくあったが、それこそ、冗談ではないが、饅頭(まんじゅう)一個食べたいと思えば、饅頭を誰かが持って来る。そろそろ懐がさみしくなったと思うと、献金がある。関西のほうで講演したいなとフッと思うと、翌日に関西のほうから講演に来てくれないかという依頼がくる。海外の著書で何か光明思想に関したものがないかと思っておると、ふと駅前で入った古本屋に、その本が入っておる。まあ、こういうふうなことがあってね。決してね、計らい心でやるもんじゃあないんです。 それとね、必要なものは、人の手を通じて実現することが多いということだな。あまり、自分が、自分がとやっておっては、もがき苦しむことになるから、そうしたときの全託、自己実現における全託ということも、忘れないことです。 守護霊や指導霊がついておるんだから、必要があれば、彼らが他人の守護霊や指導霊と話をして、そうしたこと、たとえば、事業なら事業の打開策というのを練っておるんだから、決して心配することはないんです。だから、大まかなことは任す。そして、それ以外の自分のできる範囲で、日々努力すること、これがいちばん大事です。こういうふうに、希望しておることの実現のときのために、必要なことというものを考えて、日々努力しておること、これが大事ですね。 そして、実現する方法、時期、それから、どれだけ実現するかというような量はね、これは、ま、任しておくことだな。これが大事で、本当に実相世界のことを知ると、そうしたことは何ら心配がなくなる。まあ、あんまり自分の心で限定をして、苦しまんことです。 9.結婚成就の秘訣 とくに大事なのは、時期の問題です。自己実現の法がずいぶんはやってはおるが、時期の問題で苦しみをつくることが多いようです。自己実現の方法っていうのは、もちろん、現実にあるんだけれども、これを勝手に、自分で何月何日までにとか、誕生日までにこうしたいだとかいうふうにやると、これがあせりになり、苦しみになり、周りから見てても、非常に苦しいようなあがきとなってくる。しかし、必要であれば、必要なときには絶対に与えられるのだから、それを信ずることです。 これは、結婚などにも、同じことが言える。あまり結婚、結婚ということで、たとえば、女性であれば、二十五歳と勝手に枠を仕切ってしまって、二十五歳までにはせねばならんということで、見合いばかり毎日、毎日しておっても、そうしたことでは、かえって、結婚はできんのです。 もし、縁のある人がおるならば、必ず神がお導き下さる、と。ま、そういうふうに思って、一生懸命自分のやるべきことをやっておれば、必要なときには、必要な人が現われてくるもんです。必要な人がもし現われないとしたら、その人には、さらにもっと大切な仕事があるという場合もある。 だから、二十代の後半になった女性があせっておるのを私はよく見ておるが、まあ、あまりあせってもいかんな。心を執着に焦がしては、いかん。と言って、あまりボサッとしておってもいかんのだが、まあ、必要であれば必要な人が現われたときに、結婚してもいいなというぐらいの気持ちでおればいい。あんまり結婚、結婚と追いつめられていくと、自分が苦しくなってきて、そういうふうな必死の形相が顔に表われてくると、見合いをしても失敗をする。 まあ、男性というのはそうしたもんだ。池でゆったりと泳いでおる鯉を見るとすくいたくなるけれども、向こうから向かってくる鯉を見ると、これは鮫(さめ)か、あるいは、鱶(ふか)かと思って、あわてて逃げてしまう。こういうことがある。まあ、こうしたもんでね。つまり、ゆったりとした気持ちで泳いでおれば、鯉をすくってくれる人がおるのです。 ですから、あんまり岡に飛び上がってまでとってもらおうとはせんことだな。こういうことで、あまり自分を追いつめないこと。自分で勝手に二十五までとか、三十までにとか、あまり考えすぎないことだな。自力で相手を見つけようなどと思うと、それが執着になる。だから、よくない。しかし、必要なときに、必要な方法で、つまり、他人の手を介してそういうことが実現されると、こういうふうに思っておれば、執着ができなくて、毎日、毎日をさらさらした気持ちで過ごすことができるんです。まあ、何と言うか、行雲流水だな。行雲流水の気持ちというのはこういうことを言うんです。 だから、無限供給でいちばん大事なことは、さらさらと春の小川のように流れていく無限供給こそが本物であって、執着の虜(とりこ)になってはいかんということだな。 ただ今、何々が食べたい、何々が欲しい、と。こういうことをやると、これが、その執着がそこに栓をしてしまうことになる。実相世界というのは、非常に富んでおるのです。神様は、何でも持っておる。あの世の大国主命がハンコをつけば、お金ぐらい、いくらでも降ってくるんです。日本中にお金はどこでもよどんでおる。そのよどみを解消すれば、お金は回ってくる。そういうもんですね。 伴侶にしてもそうだ。結婚したい男性、女性は、世の中にはわんさとおる。しかし、自力で走り回っていたのでは、なかなかそのひとりが見つからん。ところが、縁結びの神がその気になれば、その人をめあわせるぐらいは、簡単なことなんです。 10.無限供給とユートピアの原理 まあ、そういうことでね、この「無限供給の原理」の本質は、執着を持たず、さらさらと流れていくことです。そして、入ってきたものは、それ以上に世間、社会に対して還元していこうと思うこと。こういうことだな。これが、その人が繁栄、発展する道であり、それと同時に、社会全体がさらに高度に発展、繁栄していく道ではないだろうか。また、それがユートピアというのができていく道ではないだろうかね。 ですから、まあ、あなた方も、与えられたものは、素直に受けなさい。必要なときに、必要なものは、与えられるであろう。ですから、それを素直に受ける。ただし、与えられたとき、それをためてしまわないで、どんどんと、また与えていくことです。社会に還元していかなくてはいけない。そうすれば、また歯車が回って、次なる大きな使命というものが開けてくるであろう。まあ、私は、それを信じております。 これでもって、今回の私の講義は終了となるが、これで、私の霊言としては二冊目であろう。 今後、世の人びとから、どうしても谷口雅春の講義を続いて聞きたいとの声が高まれば、第三集を出さないでもない。しかし、「生長の家」の幹部諸君が狭い心を起こして、初代総裁の教えにあったその寛容の心を忘れて、狭い心でもって、こうした谷口雅春の霊言集が立て続けに出たのでは商売にさしつかえるというようなことを言うようであるならば、私は、そうした後継団体に涙流すとともに、あの世で、沈黙せざるを得ない。 けれども、全人類を救うという大きな目標から言えば、谷口雅春の霊言は、三集、四集と出していくのが、世の救いになるのではないかと、私は思っております。ま、そういう希望を持っておるので、世間の良識ある人びとのご判断を仰ぎたいと思う。以上でもって、今回の話は終りといたします。
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目次 1.光の砦を築け 2.法の原点に戻れ 3.なによりも法につけ 4.ユダとなるよりパウロとなれ 5.人のため神のために 6.あの罪を二度と犯すな 1.光の砦を築け ミカエルです。またこうして、みなさまに霊示を送れることをたいへんうれしく思います。さて本日は、この第三巻の終わりも近づいてまいりましたが、光の大軍ということについての話をしておきたいと思います。 私はすでに何度も何度もお話をしましたように、魔軍掃討の指揮官をしております。しかし逆説的なこととして、私が立たんとする時に私の動きを封じんとして動く魔の軍団もあります。こうしたものに対して、今私は光の大軍を率いて、そして地上のユートピア化のために全力を尽くしたいと思うのであります。 この光の大軍はいったいどのようなものであるかということですが、今私の傘下には約五千名の光の大軍が控(ひか)えております。平常時にはさまざまな立場で、持ち場で、みずからの仕事をしていた光の天使たちが、いざ危急存亡(ききゅうそんぼう)の時には我が傘下(さんか)に集まりて、そうして大いなる大軍となりて地上の者たちを救い、そして魔界の者たちを蹴散らすという活動をするに至っているのです。 今私は、地上のあらゆる悪を一掃するために天上界で檄(げき)を飛ばし、天上界の光の天使たちを我が傘下に集めんとしております。 特に『大天使ミカエルの降臨』の第1集が出てよりこのかた、地上にある、この私の意図を阻もうとする勢力、ここに魔軍が今集結せんとしているので、私もこれをこの機会に何とかして光の勢力で砦(とりで)を築き、そしてあらゆる魔から地上の正法の在り方を、正法の人びとを護りたいと念願するものであります。 特に私は、ミカエルの名が魔軍たちの錦の御旗の代わりに使われたということを、ひじょうに遺憾(いかん)に思っておりますし、この十年間私自身がそのことのために頭を一方では悩まし、他方では力を蓄えてまいりました。我が名を騙(かた)りて人びとを惑わそうとしている人びとに対して、私は今断固たる態度で臨みたい、そう思うのです。 具体的には、今、高橋信次亡き後の団体を率いているGLAという、この諸君。彼らには今、ルシフェル以下魔界の者たちが取り入って、そして何とかしてこの光の勢力を、すなわち幸福の科学らの光の勢力を弱めようとして画策(かくさく)しているのであります。このことは私の霊的な眼にははっきりしています。はっきりとこの地獄の軍団たちが彼らの幹部の心のなかに入って、そうして多くの人びとを混乱させようとしているのです。 こうしたことは決して許されてよいことではないのです。もはや私はこれ以上見過ごすことができないでいるのです。たとえかつて我が守護せし団体であったとしても、かつてわが師であり主でもあった高橋信次が起こした団体であったとしても、今こうして神の行く手を阻(はば)み、その勢力を邪魔し、そして妨害(ぼうがい)せんとする動き、自分たちのプライドと自我のために、欲得のためにそうしたことをせんとする時、私は涙を流しつつ剣を抜き放たざるをえないのです。 このようなことは私自身の口から言うことは、大変たいへん悲しいことでありますが、今そうした魔軍に蹂躙(じゅうりん)されている団体はいかんともしがたい。こう言わざるをえないのであります。 2.法の原点に戻れ 私自身、反省してふり返ってみるならば、自分がもっともっと彼らを護ってやれなかったのかという悔いは残りますが、いかんせんこの地上界というものは一つの法則の下にあります。それは地上の人間にも心の王国というものがあり、自由意志というものが与えられているということであります。この自由意志は光を思い、神を思えば神の世界に通じるが、地獄を思い、悪を思えば地獄界に通じるという法則です。そしてこのイニシアチブは地上の人間に任されているのです。 地上の人間が今地下の世界に心を通じ、そしてそれをよしと思っている時に、天使軍団であってもこれをどうすることもできないのです。彼らに近い世界にいるということ、地獄の世界にいるということ、これをどうすることもできないのであります。 私は、かつて正法の団体であった所が今魔軍の砦と化し、そして彼らの支配下にあるということに涙するとともに、しかしこれ以上こうした悪の勢力を増強させてはならないと、強く強く思うのです。 GLAの幹部の諸君に言う。君たちのなかにも光の天使はいたであろうし、現にほんとうはいるのだ。しかし君たちが今そのように心を迷わし、魔軍に制圧されている理由は、君たちが自己顕示欲と闘争欲のままに生き、そして自分らは偉いということに思い上がってきたせいなのだ。 こうした一つの罪、大きな罪から逃れて、そして本来の心に立ち返るためには、謙虚な心を取り戻すことだ。自分たちはもともと偉い人間だという考えを捨て、そして謙虚な心に戻ることだ、謙虚な心にたち返って、そしてもう一度ゼロからのスタートをしようとすることだ。もう一度真実の法の原点に戻ろうとすることだ。 高橋信次は説いたではないか。ハ正道ということを説いたではないか。反省ということを説いたではないか。ならばなぜ、あなた方は反省しようとしないのか。自分たちが決めつけ、そして思い込んでいることを当然として人に押しつけ、これにそぐわない者たちはまったく異端視し、排撃するというような態度は、これがほんとうに神理の団体の在り方かどうかをよくよく考えてみなさい。 そうではないけずだ。原点に戻りなさい。教えの原点に戻りなさい。人間は生まれによって偉いということが決まっているのではないのだ。その思いと行ないの積み重ねによって偉いということが決められてゆくのだ。あなた方も過去世がどうであったとしても、もし、たとい過去光の天使であったとしても、今世において魔軍に支配され、そして権力闘争のなかにあった時に、決して光の世界には還れないということを知リなさい。 私の言葉にいたずらに反発するのではなくて、謙虚に私の言葉を受け止めなさい。あなた方もかつてミカエルの声を聴いたことがあるはずです。そうであるならばわが声を正しく受け止めなさい。もう一度プライドを捨ててゼロから人間としてやリ直しなさい。人間としてやり直すことです。そしてみずからが悟っていないのに、人を導くことができないということを知ることです。これがだいじです。 今のあなた方の力よりも、あなた方を蹂躙(じゅうりん)しようとしている魔軍の力のほうが強いのです。あなた方の力では彼らを跳ね返し、彼らを看破(かんぱ)し、彼らを統御することができないのです。そうであるならば、あなた方も光の勢力として本来の使命にたどりつくためには、もう一度謙虚にみずからをふり返ることです。みずからをより返って、そしてまちがった部分は神にお詫(わ)びをすることです。それができなければ、もう取り返しがつかない所に来ているということを知らねばなりません。 光に対する反発や反抗は、一時的にその結果がすぐには出ないかもしれませんが、永い目においてかならずやその反作用がみずからの身を覆うことになるのです。やがて自分たちがやっていることがほんとうに光の行為であるかどうかは、その反作用を見ていけばわかるようになるのです。 そうしたことをしたくないのです。あなた方もかつて私の弟子として生きていた時があったのです。実在界において、地上界において、そうしたこともあったのです。ならばわが声をよく聴きなさい。もう一度初心に帰りなさい。もう一度原点に帰りなさい。高橋信次の教えは決して人の上に立って人に対して威張り、自慢する心を起こせということではなかったはずです。みずからの心をふり返り、つねにさび落としをせよという教えではなかったか。それをよくよく考えてほしいのです。 3.なによりも法につけ 私は大変たいへん悲しいのです。ミカエルという立場でひじょうに苦しいのです。当初私自身がGLAを、そして高橋佳子を指導したように言われておりながら、今違った形でこうした批判をみずからがしなければならないということを、どれほど私自身が残念に思い、くやしくも思っているか、あなた方にはわかるだろうか。 しかし私の言っていることが本当にわかるのはあなた方のはずだ。なぜならば、もはやGLAという団体にミカエルの指導はないであろう。それはあなた方がいちばんよく知っているはずだ。もはや私の声を聴くことも、私の姿を見ることもできないはずだ。また主宰者をしている高橋佳子にも、私はもういっさい通信は送っていないはずだ。 もちろんミカエルのみならず、高橋信次も同様だ。まったく指導はしていない。死後五年後に高橋信次が高橋佳子と一体となったなどという、まったくのでっちあげで多くの会員を惑わすということをもうこれ以上してはならない。そんなバカなことをすることはやめなさい。あなた方はひじょうにまちがったことをしているのだ。今もう一度心を改めて、真実の法を学ぼうとしなさい。真実の法に学ぶことです。 「人につかず、組織につかず、法につけ」と言うではないか。まず法につきなさい。あなた方も神理に触れた時に、どれほどこの教えがすばらしいか、かつて感動したことがあったであろう。その感動をいったいどこに置き忘れてきたのか。法に接した時の感動を忘れて、そして感動の涙を流したことを忘れて、みずからの地位や立場、名誉のために、いつまで根城を張って、そして魔軍の協力をしているのか。 もはやめざめよ。あなた方が救われる道は、まず自分がもう一度己の心をふリ返り、謙虚になることです。そうして会員一人ひとりに対して、ほんとうに自分たちがまちがった指導をしたと思うならば、そのことを素直に告白することです。そして人の心をつなぎ止めようとしないことです。それがたいじだと私は思います。 4.ユダとなるよりパウロとなれ 私はこうしたことを、こうした書物のなかで話すことはたいへん悲しいです。できればこうしたことは避けて通りたかったし、私自身沈黙してきましたが、今この時期になってまだこの問題が解決していないということは、これは私自身の責任でもあるのです。今このことをどうしても明らかにしておきたいのです。 こうした名指しの批判のような言葉が活字となって後世に残ることはたいへん悲しいことです。私自身ひじょうに悲しいことだと思っております。しかしながら、これも歴史的な事件であり、今歴史のなかに我われがあるということを知らねばならないということです。 私はあなた方に言っておきたいのです。ユダとなるな。決してユダとなるな。わずかな金のために主を裏切り、そして軍勢を向けたユダのように決してなってはならない。あなた方の主とも仰ぐ人が今出ている時に、それを攻撃するような団体になってはならない。 イエスに刃を向けたのはいったいだれであったか。それはかつてのモーゼの教えを受けた人たちではなかったか。律法学者たちではなかったか。旧約の教えを受けた人たちではなかったか。それが新たな救世主を迎えた時にそれを迫害したことは、まだ人類の記憶には新しいであろう。 そうした今新約の時代がまた訪れようとしているのだ。新たな教えが、福音が説かれようとしているのだ。この時に愚かな行為をして、そして歴史に汚名を残すな。歴史に汚名を残してはならない。みずからの名を残すのであるならばバウロのごとく偉大な改心をして光のために生きよ。それがほんとうの道だ。 あのキリストの伝道の弟子パウロも、当初はキリスト人たちを迫害していたではないか。イエスを批判していたではないか。しかし天上界の光に接して改心したと言われているではないか。そして異境の地に神理を伝えたと言われているではないか。 汝ら、ユダとなるよりもパウロとなれ。ユダとなってそして後世に汚名を残すよりもパウロとなれ。パウロとなり、偉大な改心をなして伝道のために生きよ。さすればあなた方の過去の生き方は、決してだれからも裁かれることはないであろう。私たちも天上界から温かい目で見よう。後世の人びともあなた方を裁くことはないであろう。 今自分たちがやっている仕事、この歴史的意味というものを考えなさい。感じなさい。それがだいじです。特に私は、そうした光の人たちがこうした魔軍に敗れて道をそれ、そして地獄に引きずり込まれていくということは、どうしても我慢ができないのです。まだ生きているならば間に合うはずです。今なら間に合うはずです。 闘争心や権力心、名誉心、こんなものは捨てなさい。すべて捨てなさい。すべて捨てて神の心に任せなさい。帰依しなさい。神の心のままに生きることです。つまらない、そうしたプライドは捨てなさい。自分自身を見、自分自身の生き方を見、そうした時に自分が神を裁くほどの心境にないことぐらいはわかるはずです。 5.人のため神のために 私をはじめ他の高級諸霊たちも、もう五十数冊にわたる書物を地上に霊言という形で送ってきました。私たちの真意がどこにあるかは、それらを読めばわかるはすです。これらをすべてもう一度よく読んでみなさい。そうして悟りなさい。悟りということがだいじである。私はそう思います。 高橋信次という偉大な神霊が、今あなた方の姿によってどれほど悲しみ苦しんでいるかを知りなさい。もう一度ゼロに戻してやリ直してほしいというのが、師・高橋信次の現在の願いであるのです。その願いを伝えるために私がミカエルの立場で、あえてこういう話をしているのです。 高橋信次は霊示をすでに十集以上送ったはずです。十集以上地上に送ってきました。それでまだあなた方は気づかないのか。まだこの真実の教えがわからないのか。まだこの神の心がわからないのか。 わからないならばミカエルが言おう。これでもまだわからないのか。私の本もこれで三冊目です。まだわからないのか。そんなことであって何ゆえに神理を説くことができるか。みずからをふり返ることができず、みずからが反省することができない人間は、人に法を説くことはできないということを知リなさい。それがだいじです。 ミカエルは決して高橋信次を自分より下に置いたり、そして威張ったり、人を威嚇(いかく)したり、こんなことはさせた覚えはありません。 あなた方はミカエルの指導と思っていたものが、いつかしら魔軍の指導に変わっていたということを忘れているのです。そのすり変わりがわからないのであれば、それは悲しむべきことです。その原因は自分自身の心のなかにある己心の魔です。魔がそれを呼び寄せているということを知りなさい。自分自身の心のなかにある魔、これを反省しなさい。 こうした魔が現われた理由はいったいどこにあるか、あなた方はわかるか。それはみずからのなかに霊能信仰に傾倒し、そして霊的能力があるということが普通の人間よりはるかに偉大な人間なのだと思い上がった、そこのまちがいにあるのです。霊的能力だけで人間は悟ったとは言えない。偉いとは言えないのだ。霊能力をふり回さず、裸の生地としての人間性で自分というものを計ってみなさい。それだけの人徳があるかどうかを計ってみなさい。 信仰というものは神に対してなされるものであって、特定の人間に対してなされるものではない。それを私はあなた方に言っておく。まちがったミカエル信仰、このミカエル信仰も、天上界のミカエルではなく、地上にいるという、その生き神信仰になってしまった。こうした信仰にしてしまったその罪はひじょうに重いということを、私はあなた方に言っておく。 あなた方の最大のまちがいは高橋住子をミカエルの本体だと言い、そして高橋住子信仰をミカエル信仰のごとくしたこと、これが最大の誤りです。生きている人間は生き神様になってはならない。信仰というのは神に対してなされるべきことです。それは人間に対してなしてはならない。人間に対して誓ってはいけない。人間に対してそうした絶対の帰依(きえ)をしてはいけないのです。帰依は神に対してしなければならない。 地上に降りた人はあくまでも光の使者であり、預言者であるということ。神の言葉を預かる人であるという立場に甘んじなければいけないのです。決して生き神信仰だけはしてはならないのです。これをやリ始めた時に魔が忍び込んできたのです。そうした歴史的な事実を今、あなた方は知りなさい。 私はこうした歴史的経緯(けいい)をふまえて、もはや決断の時が来ている、そう思うのです。まちがった教えは地上から姿を消すべき時が来ているのです。そんなことのために、意地のために、名誉のために、もうこれ以上法を曲げることはやめなさい。高橋信次の法をこれほどまでに曲げてしまったという責任は、もう取り返しがつかない所まで来ているのです。 曲げるくらいなら何もしないほうがよいのです。むしろ高橋信次の教えをそのままに伝えることです。新しい法を説こうなどとせず、そんなまちがった方向に人をひっぱっていくことをせず、真実の教えをそのままに継承していくことかだいじであったのです。 今、もはや取り返しのつかない所まで来ているとも言えましょう。けれどもパウロの例がある。パウロの例があるではないか。私はここに期待を寄せたい。このチャンスに賭けたい。パウロのごとく改心せよ。回心をせよ。そして残りの人生を、ほんとうの意味での神理の伝道のために生きよ。 みずから禍(わざわ)いを招くことなく神のために生きよ。自分のためにではなく、神のために生きよ。自分のためではなく他人のために生きよ。そこにほんとうの信仰者の道があるのではないか。 つまらないプライドは捨てなさい。プライドのために法を説いてはならない。法を説く者は謙虚でつねにみずからふり返らねばならない。みずからがまちがったと思ったら、即座に修正をしていくこと。まちがいは即座に認めて正しい教えを取り入れ、それを実践すること。これが真実の道ではないだろうか。私はそう思う。 GLAの幹部諸君たちよ。あなた方も光の子であるならば、今ただちにめざめなさい。もうこれ以上罪を重ねてはならない。法を説く人に対して、真実の法を説く人に対して、罵詈讒謗(ばりざんぼう)、攻撃、または中傷-こうしたことをもうこれ以上くり返してはならない。あなた方はこれ以上の罪を作ってはならない。 高橋信次の名を辱(はずかし)めてはならない。また私ミカエルの名を使い、これ以上私の名を汚さないでいただきたい。聖霊を汚(けが)す罪は赦されないということを、あなた方も聖書を読んで学んでいるはずだ。聖霊を汚すな。聖霊を騙(かた)るな。真実の教えを真実のままに生きることがだいじです。 もしあなた方が、もう霊的に迷ってしまい、わからなくなっているならば原点に返りなさい。生前に高橋信次が説いた教えの原点に返りなさい。その教えを忠実にたどっていきなさい。死後の教えではなく生前の教えをたどってゆきなさい。それがたいじなことではないだろうか。 あなた方も数多くの霊言集を読んできて感じられたであろう。過去偉大な方であっても、名の残っている方であっても、みずからの生前の誤りについて触れ、それを修正しようと努力しておられるではないか。その謙虚さがわかるか。 如来、菩薩と言われた方がたが、自分の生前のまちがいについてはっきりと反省をされ、そしてその考え方を修正しておられるではないか。その謙虚さを学べ。ましてやあなた方は肉体を持った地上の人間ではないか。地上の人間であるならば、なにゆえにそれまでに権威を持って、自分たちを変えようとしないのか。それはまちがいです。心を確かに持って、そして日々みずからの足元を確かめていく努力、それをしなければなりません。 6.あの罪を二度と犯すな 私は今ミカエルの使命として、もはやこれ以上魔軍たちの争乱を許すことはできないのです。またこれはGLAだけではない。その流れをくんだ他の弟子たちの団体、これも同じだ。あなた方もおたがいに魔に撹乱(かくらん)されながら他人を混乱におとしいれ、攻撃しているという実態、これを知リなさい。 人に八正道を説き、反省を説いたところで、自分自身がまったく反省ができていないのに、どうしてそういう立場が成り立ちえるのか。すべては過去世が偉大な人間であったという、そうした盲信によって成り立っているのではないか。過去自分が七大大使であったとか、あるいは他の偉大な人間であった ― こういうことを吹聴して人びとを寄せ、そして自己満足に耽(ふけ)っているのではないか。 その考えをまず捨てなさい。それを捨てて、もう一度原点に立って、人間として自分がやらねばならないことがいったい何であるか、これを探り当てなさい。 教えの原点に返りなさい。教祖然として勢力争いをするのを、もうこれ以上私は地上でやってほしくないのです。もうそういう考えはこれを機会にやめていただきたい。 この私の言葉の意味がわからないのならば、このミカエルの霊言二冊にわたって、私が説いてきたことの意味がなくなります。なにゆえこういうことが起きるのかを、あなた方は知リなさい。 かつて法を学び、高橋信次の霊的現象を見てきたならば、これもまったく同じものであることがわかるでしょう。 自分たちだけが悦に入り、そして他のすばらしいものを認めない心は、これは残念ながら卑怯(ひきょう)な心なのです。こうした心を持っていてはいけない。よいものはよい、すばらしいものはすばらしいと素直に認める心。これがだいじなのです。 自分は主体的に生きていると思いながら、あにはからんや、霊的には地獄の魔王の支配下になり、その手先と成り果てているという現状を決して忘れてはならない。そんな姿に満足してはならない。私はそう思います。 今こそあなた方は決断する時、法につくべき時です。そうした救世の時が来ているのです。今人類の危機が迫っています。人類の危機がそこまで来ているのです。こうした危機に救世の運動がなくてどうするか。勢力争いばかりにみずからの力を費やし、みずからの頭脳を費やして、そしてほんとうに人びとを導く気があるのか。 真に人びとを指導し、導く気のない人間は去りなさい。この法の世界から去りなさい。私の眼の見えない所から去りなさい。そして人びとを導こうとすることをやめなさい。そんなことをしてはならない。 今こそ情熱を燃え立たして、そして多くの人びとに真実の神の教えを説くべき時が来たのです。そしてその教えとは、私たちが法を伝えている、この幸福の科学の教えであるのです。これは天上界の総力を、総勢力を結集してやっていることなのです。 天上界が総力を結集してやっていること、これについていきなさい。この流れについて行かなければいけない。そうでなければ、あなた方は今世地上に出た意味がない。たとえ一年であろうとも半年であるうとも、この神理を味わい、神理を信じて、そして地上界を去って行きなさい。その時期が来ている。 かつて高橋信次の教えを受けた者たちも、今集まってきなさい。今一堂に集まってきなさい。わが声のする方に集まってきなさい。あなた方が今行動を起こさねば、なにゆえにあなた方の師が、かつてこれほどまで努力したか、それほどまでに努力したか、その意味がなくなるではないか。 高橋信次の教えを受けて、それを信じたことがある者であるならば、今集結しなさい。集まりなさい。そして大きな救世の母体を創ってゆかねばならない、母集団を創ってゆかねばならない。 人びとよ。このわが声の真実を知れ。このわが叫びの真実を知れ。このわが思いの切なるを知れ。私はあなた方を真実の道へ連れて行きたいのだ。私の声を信じなさい。そしてこの声のする方に従い来たりなさい。イエスもまた我が傍(かたわら)にいて、我を指導してくれています。私にもっとがんばれと言ってくれています。 私は今イエスの声を伝えます。あなた方にイエスの声を伝えます。イエスはあなた方に「もう二度と同じようなことをしてはならない。同じような罪を犯してはならない。」と言っておられるのです。二千年前のあの罪を二度と犯してはならないと言っているのです。 救世主が出た時に、それを迫害するということ、これは人類にとっては最低最悪です。そうした大きな罪なのです。最大の罪なのです。主が降りた時に、この主を護り、主とともに生き、主とともに行動をし、主を盛り立てるという、そういう仕事に生きなければならないのです。そうでなければ、その時代に生きたということ自体がまちがいになってしまいます。 二千年前の愚をくリ返してはならない。断じてくり返してはならない。それを私は強く強く申し述べて、この章を終えたいと思います。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/456.html
目次 1.霊能力を持つものの悩みとその実態 2.真珠をつくるアコヤ貝の苦しみ 3.天上界ではできない修行が地上にある 4.神と、守護、指導霊はあなたの心の中に共存している 5.転生前の記憶の消去について 6.この日蓮と差しで話ができるという事実 7.サタンへの対応について 8.地獄界には地獄界のルールがある 9.神は人間に真の自由を与えられている 10.神を信じるということが勇気と行動の原動力となる 11.光の指導霊はプロのランナーである 12.日常生活の知恵について 13.劣等感をどう克服したらよいか 14.浅い悟りで霊道を開き苦しむものへのアドバイス 15.箴言 15.箴言 動天驚地の革命的事実 日蓮 あなた方自身、このような霊的な現象ということにかなり慣れてきたために、日常的なことのようなかたちで、今、私と話をし、それに受け答えをし、そして記録し、これを普通のことのように思っているけれど、これを世間一般の常識から考えてみなさい。「日蓮」という人間が出てきて、あなたと対話するということは、一体どのような意味を持っているかということです。これは革命的なことどころではないのであります。動天驚地の事実です。信じられないような事実であります。 これを普通のこととして受け入れられるだけの、修養なり、素養なりがあなたがたにあるからであります。だから日常生活が営まれるのであります。 これが通常の人間であるなら大変なことであります。精神病院に行くか、或いは、もう教祖様になっております。これを通常の出来ごととして捉え得るだけのあなた方は過去世においてそれだけ修行を重ねているということです。
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目次 1.価値観変革のための指導者 2.地獄観について 3.天国も地獄もあなた自身の心の中にある 4.神は、地獄霊救出のために永遠の時間と機会を与えられている 5.鮭のように自分の生れ故郷の川(神の国)を忘れず帰ってきて欲しい 6.地獄霊は病人、地獄界は神が用意された病院である 7.地上での光の天使は医師の役割 8.人はこの世で例題に学び、答えのない応用問題を解かねばならぬ 9.天上界にもリーダーは居る。ただしそれは「村長(むらおさ)」というかたちで 10.健康な人間には真の健康の有難さが分らない 11.悠々たる大河の大らかさに学べ (1968年7月、GLA主宰、高橋信次師が、始めて雪道を開いた時に現われた、初期の師の守護霊フワン・シン・フワイ・シンフォーといわれる方の本名は、天台智顗大師であります。) (一九八二年八月五日の霊示) 1.価値観変革のための指導者 ―― はじめに中国語で語りかけてくる ―― 富山 あなは様は、どなたでしょうか ――。 ―― なお、中国語が続けられる ―― 智顗 私は、フワン・シン・フワイ・シンフォーです。 富山 以前に中国でお生れになった方ですか。 智顗 そうです。 富山 あなたの心性といいますか、そのお心がイエス様に近いといいますか、似ていると言われているお方ですか ――。 智顗 そうです ――。わたくしは、イエス・キリストと、あなた方が呼んでいるひとの魂の兄弟です。 富山 その魂の兄弟ということは、面白いというか、ひじょうに興味あることですが……。 智顗 わかりにくい概念だと思います。しかし、現に魂の兄弟というものはあるのです。わたくしたちは、はっきりと、その魂の兄弟について認識しておりますが、霊であっても、通常の霊達は、それほど分っていないのです。 富山 その仕組ですが、物理的な原理と関係していると言われていますが ――。 智顗 あなた方の世界の認識では、ひじょうに関係あります。 富山 そこに言わば、神の宇宙創造的な秘密が含まれているといってよろしいのですね。 智顗 その通りです。 富山 高橋信次先生がお説きになったあれでもまだ……。 智顗 じゅうぶんではありませんが、一応そういうような仕組は明らかにされました。 富山 高橋先生をご指導されたのは、あなただったのですね。 智顗 私も出てきてはおりました。 富山 仏教関係でご指導されたのはあなただけではないのですか。 智顗 高橋信次さんも誰の意見か判らなくなっていたような面も相当あったように思います。 富山 では先ずお伺いしたいのですが、高橋先生のお説では、地球上に人類が発生したのではなく、人類は他の惑星から円盤に乗って地球に来たというのですが、その点については間違いないことでしょうか。 智顗 これは、ひじょうに重要な問題であります。わたくしは、ある見解のもとに、いまあなたのその質問に対しては、答えを留保したいと思います。 富山 はい、わかりました。ところで現代は、地球の人類にとって、ひじょうに重要な時期であるということについては、間違いないですね。 智顗 それは間違いないです。 富山 その重要さの意味ということですが、過去三億年来、一番重要な時期という訳でしょうか。 智顗 そんなことはありません。 富山 こういう時に類する危機は何回もあったわけですね。 智顗 あります。 富山 エルランティ様という方は、三億年間に一度も出ては来られなかったのですか。 智顗 わたくしはよく存じません ――。 富山 実在される方でありますね。 智顗 はい。 富山 現在、天上界でのテーマとしては、仏教とか、キリスト教とか、イスラム教とかいう思想の流れを一つのもとに帰すという意図なんですか、これは、高橋先生の説かれた方向に……。 智顗 そうです。 富山 かなりの部分を切り捨てることになるのですが、そういう意味においての統一でしょうか。 智顗 どういう意味ですか。 富山 まあ今までの仏教、キリスト教、の中にはいろんなことがありますが、高橋先生の方向とは必ずしも一致しない面がかなりありますが、これらを含めた……。 智顗 もし一致するのであれば、出てくる必要ありません。一致しなくなったため、出てくる必要があったのです。 富山 これはどうなんですか、一つの宗教という方向での統一ではなく、一種の価値観、世界観的な面での統一がなされたらよいと思うのですが、必ずしも宗教的な意味、形でなくても……。 智顗 別に高橋さんも、自分で宗教を創るつもりはありませんでした。 富山 それがまあ今日、誤解というか、誤解されつつあるような状況にありますね。 智顗 そうですか……。 2.地獄観について 富山 あなたは、もと僧侶をしておられましたか。 智顗 そうです。 富山 では、仏教のことについてお伺いしてもよろしいか。 智顗 どうぞ、ある程度のことは分っております。 富山 まず一つ伺いたいのは、地獄についてでありますが。 智顗 はい ――。 富山 仏教の世界観と、キリスト教の世界観とでは、地獄についての概念が違うのですが ――、根本的な違いということについて。 智顗 先ずあなたのお考えを陳べて説明して下さい。どう違うというふうにあなたは考えておられるのか、あなたのお考えを説明してみて下さい。 富山 まず、閻魔大王というか、地獄の番卒長というか、そういう人が居ますが、それに対し仏教的というか、全インド的な考え方によれば、派遣されてそこへ行っている光の指導霊だというふうに考えられていますが。 智顗 それが仏数的な考え方だというのですね ――。 富山 はい。 智顗 それで……。 富山 キリスト教では明らかに、敵対というか対立しているといった概念がでてくるのですが。 智顗 キリスト教に閻魔大王が出てくるのですか……。 富山 いいえ、あのルシファーが出てくるんですが。 智顗 ルシファーが閻魔大王と同じ人だというのですか? 富山 まあ位置的には一応そういうことになると思うんですが、責任者ということになりますれば……。 智顗 それなれば、仏教の方の概念が未熟なのです。仏教の概念は、地獄のサタンの頭と、或は地獄に墜ちて行く霊を裁く役割にある人の役人と、これと混同しているのです。 富山 そうですか。それと東洋では、仏教系の僧侶がつぎつぎと、多く出てこられたのですが、例えば仏陀以降の人々と、仏教の流れについてお釈迦様は関与しておられるのでしょうか。 智顗 しております。 富山 そうすると、その後の仏教の動きについては……。 智顗 知っております。 富山 知っておられますね。それが意図された方向と違った方向へ行っているのでしょうか。 智顗 違います。 富山 かなり違った方向へでしょうか。 智顗 違います ――。時代というものがあります。時代の流れがあります。あるいは先人の意向を受継ぐということもあります。次第次第に変えられてきております。肉を持つ前はそれぞれ正しい考えを持って生れてくるつもりでも、生れてきた時代、その時代に合った学問、経験、そのようなものが違ってくるわけであります。例えば私が生れた中国においては、もはや釈迦が説いた教え、そのまま適用はできなかったわけであります。わかりますでしょう。 富山 つかぬことをお伺いしますが、あなた様は、どういう派の僧侶であったのでしょうか。 智顗 派とは? 富山 派と言うか、何宗というか……。 智顗 天台関係であります。 富山 天台関係の方ですか。 智顗 そのとおりです。 富山 と、言いますと智顗様以降に出られた方ですね。 智顗 ――。(注、この章では本名の智顗を名のっていなかった。) 富山 次にお伺いしたいことは、地獄界といいますか、この地獄界の存在意味というものについてお伺いしたいのですが、これは当初には予定されていなかったのでしょうか。 智顗 誰がですか。 富山 つまり地球霊団としては、地獄界が出来ることは……。 智顗 私のような下の者には分りません。神の御意(みこころ)は深く、遠く、高いものであります。神の御意がどの辺にあるのか、わたくしのようなものには解し兼ねるところがあります。しかし現に、地獄というものがあるということ、これは厳然たる事実であります。 私たちの課題は、この与えられた教材を、どのように活用するかということにかかっているのであって、なぜ、このような教材が与えられたかという根本の理由は判らないのです。 富山 ではあなた方のような高い霊域に居られる方々は、居ながらにして地獄の様子というものが分るのでしょうか。 智顗 わかります。 富山 どのような状況になっているかということは、わざわざ行かなくともお分りになりますか。 智顗 わかります。 富山 彼らの考え方というか、心の状態ということについては……。 智顗 わかります。 富山 それについては、しかし、積極的に関与することは許されていないわけですね。つまりその地獄界に居る者は、その堕ちて行ったもの自身の問題として……。 3.天国も地獄もあなた自身の心の中にある 智顗 例えばあなたはそういう地獄というような世界を切り離して考えていますが、いま、あなたの心の中には、天国も地獄もあるのです。そのあなたの心の、地獄だけをどうやって消滅させるのか言えますか、天国も地獄もあなたの心の中にあるのです。そのあなたの心の地獄の部分だけをどうやって切って捨てることができるというのですか、できないのです。天国にも地獄にもどちらにも動いています。天国地獄は、空間的なものではないのです。あなたの心の中、その中にも広大無辺な天国も地獄もあるのです。この地獄だけをどうやって、私たちの力で抹消するのですか。分りますか。わたくしが言っていることが判りますか。――あなたの心だけで全宇宙、全宇宙の天上界、地獄界、全てが入っているのです。わかりますか ――。どうして地獄が出来るのか、それはあなたが地獄を造り出しているからなのです。どうして天上界があるか、あなたが天上界を造り出しているのです。私がもし地獄界を抹殺するならば、あなた自体を抹殺して、天国も地獄も無くしてしまわなければいけなくなってしまいます。それはできないことなのです。 富山 それは……。 智顗 別のものではないのです。一つのものなのです。一つのものの陽の当っている部分と、陰の部分なのです。わかりますでしょう、太陽の光が燦々と輝いても、光の当る部分と当らない部分、あらゆる物体にはあるのです。 富山 それでひとつお伺いしたいのですが。如来仏のこころというものなんですけれども、仏のこころというものにおいては、いわゆる天国的な部分と、地獄的な部分とがどんなふうな状況で同居しているのでしょうか。 智顗 同居とはどういう意味でしょうか ――。 富山 当然その地獄も含まれているのですね心の中に……。 智顗 地獄を思えば地獄ができるはずです。思わなければないわけです。 富山 ただ、その実在界というのは、今いる状態の心からその心の変化がないのでしょうか。例えば地上界だと、天国か、地獄的ないろんな心を出しますけれども、ある固定的な、固定されたような範囲をもった心の状態に止まって居られるのでしょうか。たとえばあなた様のような方だと……。 智顗 固定的とはどういうことでしょうか。 富山 固定的というか、ある一定のレベルの心、例えば失礼ですが、地獄界の心を出すということは。 智顗 わたくしたちの心は、愛と慈悲に満ち溢れております。愛と慈悲の塊です。そうでなければ、私たちは私たちで居ることができないのです。 富山 私たちは、神の子であるという自覚を持ちつつも、こんないろんな心の状態を、地上界で出すということは、肉体と結びつけられているということが一つの条件になっているわけでしょうか。 智顗 というよりも、この地上界が、天上界、地獄界の、二つの力の場の丁度影響され合う中間地点にあろということであって、両方からの影響を受けていることであり、だからあなたの心の中も、両方からの力が働いて来ているわけでありますし、あなたの心の状態によっては、どちらの方により強く引っ張られるか、違ってくるわけです。 富山 そうしますと、高橋先生の本では、地獄界とは、四次元の幽界の一部として設定しているのですけれども? 智顗 空間ではないのです。人間の数だけの天国と地獄があると思えばいいのです。 あなたが死んであの世に帰っても、あなたが判る天国も地獄も、あなたの天国と地獄に過ぎないということなのです。あなたじゃない人の天国と地獄は、またあなたの天国と地獄と違うのです。分りますでしょうか。 富山 と、いうことは、人はその人の心を通してしかその世界を理解することはできないということなのでしょうか。 智顗 その世界もそうなのです。判りますでしょうか、ひじょうにむつかしい概念なのです。今あなた方の物質世界においてはひじょうに解りにくい概念なのです。すべて、例えば蜂の巣のようなものです。入口があります。つきつめていくと最後には、頂点は一つなのですが、それぞれの蜂の巣の中でみんな、これが天国へ通じる天国の世界、そういうふうに、自分の都合の中だけで考えているわけです。だから、天上界へあなたが帰られたとしても、あなたは、私たちが経験している天国地獄の図と、同じものをあなたが観るかどうかは、これは分らないのです。全く異う世界かも知れないのです。あなたが観る世界は ――。 富山 すくなくとも、あなたと何時もご一緒にお仕事をしておられる方々が観る世界は同じなのでしょうか ――。 智顗 そうです、私たちの仲間たちは同じ世界を観ております。しかし私の眼から観える天国、地獄の様相と、他の者が観る天国、地獄の様相は、恐らく異っているでしょう。様相が異っているということは、そのような世界が違う世界に見えるということなのです。 富山 それぞれの心のフィルターが……。 智顗 違うのです。例えば映画館があります。画面に映りますね、そのようなのではなくて、例えば立体映画としてですね、空中に映画が映し出されるとします。観客はいろんな席に座っております。それぞれの席によって見え方が違ってくるわけですね、実際は一つなんですけれど、座っている位置によっていろんな風にみえるわけです。いつも人間の背中しか見えない人も居るんです。横面しか見えない人も居るんです。前ばかり見える人もいるんです。ですから私たちにしてもすべてを見通していると言い切るだけの自信というものはないのですが、しかしその立体映画の全体像の輪郭を、かなり解っているという自信はあるわけです。 富山 そうすると、その四次元以上の世界は、多様性というか、つまり観る者の心によって変ってくるということなのでしょうか。 智顗 そうです。みんな同じものを観ているのではないのです。あなたの観る天国地獄は、広大無辺な世界でありますが、それはあなたの天国、地獄なのです。 富山 例えば、この同じ地上界でも、幸せな人にとっては天国に思え、苦しんでいる人にとっては地獄に思えるということなんですね。しかしそこにもまた座席、つまり質といいますか、価値基準の格差が自ずからあるというわけなんですね……。 智顗 そうです。同じことがもっと明確になってくるわけです。 富山 例えば、地上界では、地上を天国と思う人がいても、地獄と思う人がいても、客観的な世界としては一つの世界としてあるわけですが、実在界ではその客観的な世界に当る部分が変わるわけですね。 智顗 そうです。 富山 するといま地獄という世界は、地獄界に居る人たちの心がつくり出している世界ですね。 智顗 だからあなたがいまの立場で地獄というものを見ているのであって、例えば実際に地獄界に棲んでいる人、或は地獄界に近い所に住んでいる人が見た世界は違うものなのです。彼らにとっては、それなりに生き易い場所なのです。わかりますでしょう。普通の世界なのです彼らにとっては。地獄に棲んでいる人びとにとってみたら、地獄は普通の世界なのです。あなたがこういう世界に住んでいるように、彼らにとっては、普通の日常生活を行っているのです。 私たち天上界の眼からみれば、地獄とは闘争と殺戮、悲しみと苦しみに充ちた世界であり、このような世界は何んとかして無くしたいと思います。しかし彼らにとっては、それは普通の世界であり、日常の世界なわけなのです。分りますでしょう。何故地獄が存在しているかという意味、それを分ってほしいのです。そこに棲んでいる人達は、それで普遥だと思っているのです。それがあたりまえの世界、日常の世界なのです。わかりますか。 例えば、K町というこの町に住んでいるような人が居ます。彼らはこれを当然のこと、あたりまえのこと、日常の生活とみております。しかし、たとえば、ある外国の都会の人達がこれを見たなら、この世界って何という世界なのだろう、こういう世界は無くしたい、これは不幸だと思うかも知れません。また或は、アフリカ、インドの地において、いろんなことで苦しんでいる人道が居ります。あなたの側からみれば、生地獄であります。このような生地獄はなんで無くせないんだろうと思います。しかし彼らはそこに生れ、その地に育っているのです。それが彼らの世界なのです。 富山 お言葉を返すようですけれど、この地上界と、地獄界とは違うわけでしょう。 智顗 ―― はい ――。 富山 地上界の場合は、そういう貧しい地域に生れて苦しんでおります、精神的に。 智顗 あなたは苦しんでいませんか……。 富山 いいえ違います、地獄界に居る人は苦しみはないんでしょうか。 智顗 あります。天上界の人々も苦しみ哀しみはあります。 富山 そうすると、苦しみの種類が違うわけですね。 智顗 違います。だからさき程から私があなたに言いたいことは、例えば私たちの立場からみれば、地獄というものは、いいことは何もない、ひじょうに住みにくい、悲しみ苦しみ真暗な世界なわけです。しかし彼らにとってはそれが普通の世界だということです。ということは、彼らにとってそれが普通の世界だということは、その世界はその世界としての存在意義があるということなのです。現に、そうした人が生きているということなのです。 富山 そうすると地獄界を無くするという意味が、いまひとつ分りにくくなってくるのですけれども。 智顗 ―― はい ――。 富山 地上にユートピアを建設するに当っては、地獄を無くするということが目標ではないのでしょうか。 智顗 だから彼らは彼らで抵抗しているわけです。彼らは彼らの世界を守りたいと思っているのです。しかしながら私たちが、いま一つ正しいところ、―― まあ彼らと、私たちだけであれば、お互に対立したものとみえるかも知れません。しかしながら私たちは、神というものを知っております。神の意向がどこにあるか、ということを知っています。そこに私たちの使命があり、自覚があるわけです。神というものを信じるか信じないかによって最後の一線が変わるわけであります。もし、神というものが、地獄の側についているものならば、私たちのやっていることは間違っていることになってしまいます。 富山 つまり、あなた方の考えておられること、あなた方自身の神に包まれている心が、地獄に居る人違より広いわけですね。 智顗 私たちは、この世界が神によって創られたものであり、神のために日夜働いているということを自覚しております。 富山 神によって生かされているという自覚が強いわけですね。 智顗 そうです。だから私たちは、神の国により近い世界を、実現しようとしているわけです。しかし神についての認識は、彼らの頭達(かしら)は私達とは違ったものです。だから彼ら頭達の側にとってみれば、われわれの存在はひじょうに厭な存在であるわけです。 どちらもどちらであります。しかしながら神という絶対の存在を考えた時に、どちらの方が正しいか、ということが明らかになってきます。その使命の遂行を私たちはしようとしているわけです。 神というものがなければ、私たちはそのようなことをする必要もないでありましょう。それぞれの人間が、それぞれの世界で住んでおれば、それで済むわけですが、私たちは、神の意図の下に生きているわけであります。なぜ、そのような意図を持っておられるのか……、それは不思議であります。 富山 神の意図というか、神の心を切り離して、自分たちの心だけで生きようとしたところに、地獄界が成立した原囚があるわけですね。 智顗 そうです ――。 富山 そうすると、彼らは彼らなりに満足している状況で生活しているんですね。 智顗 満足しているかどうかは知りません。しかしこの世界以外に棲む世界を、彼らは分らないでおります。ですから私たちは、もっと他に世界があるんだということを彼らに知らせたいのです。 富山 つかぬことをお伺いしますが、あなた様は地獄界へ行くことができますか。 智顗 行けます。 富山 行かれたことがありますか。 智顗 あります。 富山 何か抵抗を受けることがあるんですか。 智顗 何の抵抗ですか ――。 富山 あなた方のような方が行かれると、地獄界の人たちは……。 智顗 大騒ぎです ――。彼らは私の姿を見ろことができないのです。私がなにものであるかわからないのです。大騒ぎです。 富山 つまり暗闇の中に急に光が出て来て、まぶしくてたまらない、何も見えないというような……。 智顗 そんな感じです、大事件です。 富山 それはいわゆる地獄界の大幹部、といいますか、上の方達……。 智顗 そういう考えは捨てなさい。あなたの考え方のそういう部分が病んでいる部分、そこです、そんな考え捨てなさい ――。 富山 ―― はい ――。 4.神は、地獄霊救出のために永遠の時間と機会を与えられている 富山 こういう世界構造を知らないで、亡くなった人がかなり多いと思いますが。 智顗 大部分です。 富山 大部分ですね。そういう方たちに対して、どうも割り切れないものがあるのですがね―、そのままにして置くということに対して……。 智顗 そのために神は、永遠の時を与えておられるのです。そのために神は、転生輪廻という機会を与えておられるのです。もし一回切りの人生であるならば、それを知らさないというのは罪であります。しかしながら神は永遠の時を待っておられます。永遠の転生輪廻をくり返させておられます。私たちは、その大きな慈悲、転生輪廻という慈悲の中に生きております。何度も何度も生れ変る機会を与えられております。そして小学校から中学校へ、高等学校へと、あなたが長い間、親から教育を受けたように、神もまた教育の機会を何度も与えておられるのです。 富山 そうしますと、こういう状況にあるということは、霊団としては、全休が一つの転生輪廻の過程にあるといってよいのでしょうか……。 智顗 あなたの言っていることの意味がよくわかりません。 富山 例えば、霊団全休としてのこういう状況にピリオドを打って、新しい状況に入るという……。 智顗 私は、あなたのいまのご質問にお答えするべき任にありません! 富山 はい ――。それではいま一つ、例えば元の守護霊の方や、魂の兄弟達は、自分の関係した霊が地獄へ陥ちた者については、常に気にかけているのですね。 智顗 ――。 富山 そうしたら、心が熟したら上へ引き上げる準備はできているのですね。 智顗 そのような言葉の使い方、余り私は好みません。 富山 引き上げるがいけなければ、変化させる。 智顗 好みません。わたくしたちは、わたくしたちの世界へ来て戴きたいと思っております。引き上げるとかいうような考え方は嫌いです。懐しい友達に帰ってきて欲しいという気持です。 富山 そうすると、救いたいなどという気持があった場合は、例えば親子、肉親、友人であった場合……。 智顗 あなたの救うなどという言葉は明らかに間違っております。私達はそういう気持じゃないのです。懐かしい人、親しい人、そういう人達と逢いたい、帰って来て欲しい、という気持、わかりますでしょう。これは郷愁に似たものです。故郷に帰って来て欲しいという念いです。天上界に引き上げるとか、そういうおもいじゃないのです。救済するとかいう思いじゃないのです。あなたの心のそこがいま病んでいるんです。よくよく間違わないでほしいのです。ここを間違うと、多くの宗教家達が間違った同じ道を歩むことになるのです。 富山 ―― はい分りました。それじゃ戦争ではなく、平和を求める気持ですね。
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目次 1.心の革命の始まり 2.新時代の序曲 3.変革につぐ変革を 4.真実の勇気を持て 5.光の革命 (1988年7月19日の霊示) 1.心の革命の始まり さて、いよいよ本書のクライマックスといいますか、最後のところにさしかかってきました。 本書の標題にもありますけど、心の革命だね、これはほんとうに革命なんですよ、みなさん。この革命なくしてね、人類は救われることはない。幸福になることもないんです。世の中が変わることもないんですね。 革命なんていうのは、別に暴力でね、人の頭をひっぱたくのが革命じゃないんですよ。政府倒すことが革命じゃないんですよ。そんなことはね、ある意味ではやさしいことですよ。ゲバ棒振るってね、学生運動やったりすることはそんなにむずかしくないんですよ。ワッショイ、ワッショイやることは別にむずかしくないです。 でもね、意外にむずかしいのがこの心の革命なんですよ。心のなかを変えること。これはむずかしいですよ。どうやって変えますか。ねえ、一人ひとりの心のなかなんかどうやって革命起こしますか。むずかしいですよ。ひとつのイデオロギーでね、マルクス主義を信じるとかね、天皇制を信じるとか、こんなことで人を集めて動くことはそうむずかしいことではないです。けれども、一人ひとりの心を革命するということは、これはたいへんむずかしいことです。 なぜならここは治外法権というのがあって、みんな立ち入ることができないようになっているんですね。まったく立ち入れないんです。心とはそういう聖域なんです。各人の心は聖域です。霊たちであっても自由自在には踏みこめないんですね。踏みこめる条件は霊道を開いているという前提ですね。霊道を開いていても完全には踏みこめません。なぜなら本人自身の意志というのがありますからね。 たとえば私もこういうふうに通信を送っていますが、これは通信を受けている〇〇さんが絶対受けたくないと思ったら、私は通信を送れないんですね。まあ出すことはできるけれども、それを伝えることはできません。本人が受ける気があれば受けられますが、受けたくなければはね返されますね。そのようにむずかしいんですね。 このようにね、人の心というのはものすごい自治権、自由権というのがあって、それを行使できるようになっているんですね。ここまで守られているんです。その意味ではたいへんありがたいことでもあるんですね。 さて私はね、まあいくつかの本を次々と出していますが、なんとか人びとの心に革命を起こしていきたい、その火つけ役をしたい、導火線に火をつけたいという、そうした気持ちでいっぱいです。もちろん、私よりりっぱなことを言う霊人はいくらでもいるでしょう。そうした方にはそうした方の役割があるでしょう。けれどね、私はできるだけ多くの人に教えたいっていうのが、私のほんとうの気持ちです。 まあだから、内容もおもしろおかしくねえ、赤川次郎顔負けの内容を出してるんですよ。それだけ多くの人に読まれたいという気持ちがあるからね。私はむずかしく言おうと思ったらいくらでも言えます。みなさんが読んでもわからんように言おうと思えばいくらでも言えます。そんな固く言おうと思えばいくらでもできます。チンプンカンプンのことを言おうと思えばこんなのかんたんです。けれども、あえてわかりやすく一人ひとりが読んでわかるように、小学生の学力でもわかるように言ってるんです。おじいちゃん、おばあちゃんでもわかるように言っています。 なぜかって言うとね、心の革命を起こすのは、そんな哲学的な議論じゃないからです。むずかしい学問やらなきゃわからんような、そんな理論で人の心なんて変わらんのです。八正道だって私はずいぶんわかりやすく話しましたが、八正道なんてこんなのひねくり回して哲学的に言ったって人間変わらんのです。人間が変わらんような理論は存在の意味ないんです。 私はマルキストじゃありません。マルクスもきらいです。けれどもマルクスのようなことを言いたい。「世の哲学者たちは世界をいろいろに解釈しただけである。しかし、今ほんとうにだいじなことは世界を解釈することではなくて、世界を変革することである。」マルクスはそういうことを言ったと思います。私も主義、主張は違いますが、同じ気持ちです。世界をいくら解釈したところで、そんなものはなんの意味もない。クソの役にも立たんと思っています。そんな世界を解釈することではなくて、世界をどう変革するかということが今だいじなことだと思うんですね。 そしてその変革の先はなにかというと、社会制度を変えるとかね、経済構造を変えるとか、そうしたことももちろんあるけれども、いちばんまっ先にやるのはこの心の革命です。これを始めんかぎりどうにもこうにもならんのです。その心の革命をやるにはむずかしい言葉は不要です。私が言っているように、ただ人間の心というもののしくみ、その作用、そのはたらきというものを教えて、どうすればユートピアができるのか、どうすれば地獄ができないのか、これをはっきりさせるということですね。これをしないかぎり、この革命を通さんかぎリユートピアということはないんです。 2.新時代の序曲 さて、新しい時代が今始まりかけています。そして、次第しだいに新時代の序曲というのが始まってきたように思います。その新時代の序曲として、みなさんが見ていて特徴的であることはいったいなんだと思いますか。 私はね、今続々と霊言といいますか、天上界の人びとが地上にメッセージを送っているわけですが、このメッセージの群れ、大群というものの意味をどう見るかということこれがだいじではないかと思いますね。 決して一枚のメッセージを送って、それを暗記して毎日拝めなんてことは私たちは言ってません。また、宗教だって、今の宗教法人が言うようなあんな掛け軸みたいのをぶら下げて拝めなんて、そんなことはどうでもいいことですね。私はね、そんな形式はどうでもよいと思っています。問題は中身です。メッセージが続々と出ています。なにゆえに、どのような意図でもって出ているのか、これを知ってほしいんです。まず、なぜ日本の地が選ばれたのか。そしてなにゆえにそういう天上界からのメッセージの大群というような方法が取られているのか。これを考えていただきたいのです。 それはひとつには、今の日本という国が世界の注目すべき国になっているということです。ある意味で最強の国のひとつになっています。軍事力は足りないかもしれないが、国力としては最強のひとつになってきていますね。そして国民はひじょうに高い教育を受けています。高い教育を受けて、そして高度な認識力、判断力があると言われています。こうしたところに大量のメッセージが天上界から届けられるということは、いったいなにを意味しているのでしょうか。それは、私は思うのですが、これこそが新しい時代のほんとうの学びである。学びの方向であるということだと思うんですね。 したがって、これからの新時代の序曲として、今奏でられているものはいったいなにかというと、神理を知らずして人ではないという感じですね、この感じがみなさんわかりましょうか。 実在界の霊たちが次々とメッセージを送っています。それが書物になってます。書物になって、メッセージを送ってから数か月で本になるというありがたい時代になっています。これが続々と本として出されるということはどういうことかというと、これを読まないでは現代人とはもはや言えない、常識人とは言えない、知識人とは言えないという、そういう時代を創りたいという意志があるということです。そして、さまざまなる高級霊の言葉を、その教えの内容を一人でも多くの人に学んでほしいということだと思います。 さすれば、私は今、世の中を変えていく方法としてなにがあるかというと、この今の日本という出版文化の栄えている国において、書物という形を取って神理の伝道を切りこんでいくということを、これをひとつのムーブメントとする必要があると思うんです。神理の書を読み、そしてそれによって学習し、学習した結果にもとづいて行動をしていくというこのプロセス、神理の探究・学習・伝道という、このプロセスを各人が持つということですね。そしてこれを新時氏の行動方針にしていく必要があると思うんです。 今、全国各地で塾が流行っています。受験勉強用の塾ですね、これが全国各地に流行ってますが、過当競争でやがて塾はつぶれていくでしょう。いろいろつぶれていくと思います。そんな必要はないからです。それはどのね、子供を縛って一日じゅう意味もない知識を詰めこむ塾、これがいっぱい流行ってもしょうがないんです。学校だって不要になってきつつある時です。そんなの不要なんです。必要がないんです。 これから必要なのは、心のことを教える塾なんです。これしかありません。人の心に革命を起こし、そして人びとに真実の生き方を教える塾が日本全国に流行らなければいけないんです。だから、塾の経営者でもう経営難が見えているところは、早目に神理の勉強して、これを教えられるような体制を組まなきゃいけませんよ。そうじゃないと倒産しちゃいますよ。 まあそうした冗談も言いながら話してますが、これからはね、ほんとうに日本各地で心の塾、これが流行ります。現代の松下村塾、あるいは現代の勝海舟塾でもいいけれども、そうしたものが日本国中で流行らなきゃいけません。こうした神理の書物をテキストとして、いろんなところで塾が流行って勉強する人たちが集まるという雰囲気を創っていく必要があります。 いろんな主要都市で、町で村で、神理の書を中心として学習会を盛り上げ、そして神理をそこで教える人たちが出てくる、こうしたムーブメントを創っていく必要があります。これがどうしてもあるのです。これをね、現代の学習塾のように、あるいはカルチャーセンターではありませんが、生涯学習のように、大いなるムーブメントとして盛り上げていく必要があるんです。こうした動きが新時代の序曲となっているのです。 3.変革につぐ変革を いま、そうした序曲が始まっていると言いましたが、私はね、高橋信次というような名前が有名になるかならんかというようなことはどうでもいいんです。けれども、できうるならば皮切り役をやりたいんです。私の情熱によって日本の各地にそうした神理のムーブメントを起こしたい、神理を学ぶというそうしたことに対するムーブメントを起こしたいと思うのです。 ひと昔前には、中国十億の民が、毛沢東語録という赤い表紙の本をパラパラさせながらみな歩いてました。まあ毛語録も結構ですけども、そんなものではなくて、こうした私の霊示集のようなものを持って歩くのがファッションになるような、そうした時代をどうしても創りたいんですよ。電車に乗りこんだら、あっちもこっちも高橋信次の霊示集を読んでいるような、そんな人がいっぱい目立つような時代、こういうふうにしたいんですよ。 だから、私は本書の読者に言いたい。あなた方はこうした霊物を読んでいることを恥ずかしがっちゃいけない。そんなことを恥ずかしがるということ自体が神理価値に反していることです。これを堂々と胸を張って教えてほしい。人に知らせてほしいと思う。霊がついているから恥ずかしいっていうんで、電車のなかで本にカバーかけて読んでいるようじゃダメです。そんな気の弱いことでどうするか。 したがってこの私の読者がもし高橋信次のファンであるというのなら、高橋信次の霊言ファンであるというならね、カバーなんかつけないで、高橋信次のこの『心の革命』でもなんでもいいけれども、つり皮にぶらさがってね、座っている人の目に見えるように大きく広げて読んでやってくれ。毎朝、毎朝、帰り、帰りね、みんな読んでくれ。職場でもその本が目につくようにピラーッとどこでも置いておいてくれ。そして一人でも多くの人に気がついてほしいんだ。 私は何回も言っているけど、こんなものは何万人ぐらいが読んだぐらいでは世の中は変わらんのです。世の中が変わるためには、最低、最低ですよ、百万人という単位は最低必要です。私の書物なら、それが百万、二百万、三百万は最低読まれたい。もっと読んでほしい、ほんとうは一千万人ぐらいに読まれたい。そのためには、こんなものをキワモノ扱いさせては断じてならんということです。神理の書をキワモノかなんかのように言わすことを断じてしてはならん。 もちろん組織があってそれなりの行動指針を出して動いているので、もちろんその流れに乗っていくということもだいじだけども、一人ひとりの読者という視点、君たち一人ひとりに私が呼びかけるとするならば、この高橋信次の本というのをこれをいろんなところで読んでください。見てください。見せてください。見られるところで読んでください。電車のなかで堂々と読んでください。学校に持っていってください。職場に持っていってください。知りあいの人にあげてください。 お中元でうなぎの蒲焼きを送ってきたら、お返しに高橋信次の霊言セットでも送ってください。お中元でもお歳暮でも結構です。お礼には送ってやってください。ねえ。入学のお祝いに『高橋信次の新復活』とかね、卒業のお祝いに『高橋信次の心の革命』でもなんでもいいんです。みんな勇気をもってね、変人だと思わないでやってくださいよ。そうしなければ広まりませんよ。そうじゃありませんか。 私は読んでほしいんですよ、みなさんに。そのために情熱的に言っているんですね。もちろん書店の人だって力を入れてやっていただきたいと思います。どんどんどんどん本出していきますから、力を入れてやってほしいと思いますが、みなさんね、これを読むということは義務ですよ。私はね、みなさんがいくら買ってくれたって、そんなお金一文もはいりません。一円の得にもなりません。地上で有名になったところでどうっていうことありません。言いたいのはこの中身が言いたいんです。「心の時代到来」ということ、これが言いたいんです。そのためには、各人の心を変革する、これ以外に手がないということを、私はただそれだけを言いたいんですね。 だから、もちろん一読者としてやれることには限界があるでしょう。けれどもこの本を読んだ人がね、この本を一人にでも二人にでも、三人にでも五人にでも、たとえば五人の人に広げてくれたらね、日本全体で合わせたらその五倍の人が知ることになりますね。それらの人がまたこれを広げてくれたらより多くの人が読んでくれます。私は宗教団体の会員の数が何人になるかなんていうことは関係ないんです。そんなことには興味も関心もありません。そうではありません。神理を読み、神理に接したことのある人が一人でも多く増えてほしいんです。接触面積を増やしてほしいんです。 だからまずね、心の革命と言うけれども、この私の本を読んだ人はもう「高橋信次党」に属したんです。マルキストじゃない、高橋信次キストです。キストというのはおかしいかもしれないが、高橋信次派に属したんです。みなさんはもう洗脳されたんです。ねえ、共産党みたいに赤になったんです。まっ赤になったんです。まっ赤かまっ青か知りませんが、ある程度の色が染まっているんですね。私の教えを受けた以上もうゾンビみたいなもんですね。高橋信次の魂が乗りうつったんです。読者のみなさんに乗リうつったんですね。乗りうつったらゾンビはゾンビで仲間を増やすんです。 いいですか。だから、この高橋信次の霊言読んだらもうとりつかれたと思ってください。悪霊でも善霊でいいけれども、もう君たちはとりつかれたんです。とりつかれてもう逃れることができないですね。バラ十字じゃないけども、なにかもう秘密結社にはいったようなもんだ。ねえ、だから君たちは仲間を増やす義務があるんです。ゾンビは自己増殖しなきゃ意味がないんです。どんどんどんどん広げていく必要があるんですよ。 だから、変革につぐ変革をと言っても、これはね、もっと具体的勇気をもって行動せよということですね。まず、家族のなかでこうした神理の勉強をやってください。みながわかるように、家族のなかで「なんだお前、変なことをやっておかしくなったんじゃないか」なんて言わせておかないでね、いいものはいい、これを認めさせる。そして知らせる。多くの人に広げてほしいんです。 これからもうカルピスセットは流行りません。霊言セットです。これをセットでもう友達に送る。会社の上役に送る。部下に送る。近所に送る。親戚に送る。カルピスさん、ごめんなさい。山本山の海苔屋さんごめんなさい。水ようかんやっている人ごめんなさい。申しわけございませんが、しかし人類が生き残るためには霊言セットでも送ってもらわんともうしょうがないんです。そういう時代が来ているんです。心の糧をね、心の缶詰を数多く、多くの人に読んでいただきたいんです。それは、神理を神理と思う人にほんとうの勇気を持っていただくこと、これ以外にないんです。これについてさらに話をします。 4.真実の勇気を持て 結局はここに来るんですね。霊的なものをなぜみながいやがるか、隠したがるか。どうですか。まあ学生さんも読者のなかにいるでしょう。若手のサラリーマンもいるでしょう。本棚に私たちの本を並べていて、家の人が来たり、友人が来たりして見られたら恥ずかしいという気持ちがありませんか。なるべく隠したいという気持ちがありませんか。その本だけ裏返しにカバーしてみたりしていませんか。どうですか。こんなことでね、こそこそしているようでは世の中は絶対に変わらないということです。 まず一人ひとりが不動の覚悟を持ち、そして自信を持ち、勇気を持って神理を広げていこうとしなさい。それはね、会員になれということを言っているのではない。そんなことは意味がないことだ。なってもならんでもいい、そんなことは個人の自由だ。そうではなくて、学んだこと、これを神の世界から出た言葉だと思っているなら、それを実践してみせることです。そして、その実践を通してより多くの人を導くことです。影響を与えることです。そうじゃありませんか。 また、ある種の人たちに言いたいけれども、特に先生なんかをやっている人、小学校、中学校、高校、大学、こうしたところで先生をやっているような人はね、どうか神理を知ってほしい。これは義務だと思ってください。神から与えられた義務です。学校の先生で、もう知識だけを教えたってダメです。これからは心を教えない教師なんかもうクビです。文部省が認めても私は認めない。 子供たちに教えるべきこと、子供たちに与えるべき鍛大の遺産は心の教えであるのです。みなさんは教科を教えているでしょう。学科を教えているでしょう。その合間にね、心の話をしてほしいんですよ。そして、教室でできないのなら自宅ででも結構、生徒たちと遊んでるときでも結構、折りに触れ機に触れ真実の話をしてほしいんです。心の偉大性を語ってほしいんです。人間とはどういう生命を持っているのか、その永遠の生命について語ってほしいんです。 そして、心というものはひじょうに汚れやすいものであるから、毎日毎日お洗濯をしなければいけないということを教えてほしいんです。反省ということかだいじだということを教えてほしいんです。だから特に教職という職業にある人たちは、このことを知ってほしいと思います。 また、宗教界にある人たちもそうです。仏教の人たち、神道の人たち、あるいはキリスト教会の人たち、みなさん方は特定の宗派に属しているから、それ以外のものを受け入れてはいかんと思いがちでしょう。けれどもね、神理は神理、真実は真実であります。仏教だって仏陀が死んで二千何百年、その間なにもせんと思いますか。なんの変革もないと思いますか。キリスト教だってそうです。イエス様が二千年間黙っていると思いますか。なんの心の改革もしないでいると思いますか。日本神道系だってそうですよ。三千年前の神様がなにもしないでゴロゴロ昼寝していると思いますか。この世界はね、日進月歩なんです。 神理は不変ですが、この不変の神理をどのようにアレンジしなおして人びとに広めるかということにおいて、その変革は日進月歩です。キリスト教も早く脱皮しないと、今のままではもう行きづまりますよ。もうそんな形式主義はいらないんです。教会で十字を切っていることによっては救われはしないんです。よいですか、単に「汝ら悔い改めよ」と言ってるだけでは済まないということを知りなさい。悔い改めのその方法は、神理知識というものを得て、その神理知識をテコとしてみずからの内をふり返るということです。そうではないですか。 だから専門家の方もね、どうかこわがらずに、先入観で判断しないで神理というものをとり入れて考えていただきたいのです。そして、真実の勇気をもって多くの人びとを導いてほしいと、そのように思います。 また、会社なんかで経営者をやっている人たちは、是が非でも神理を学んでいただく義務がある。君たちが、あなた方が神理を知っているということが、多くの人にどれだけ影響力を与えるかということ、それを知っていただきたい。平社員が神理を学ぶのもいいけれども、経営者がそれを学んでいるということがいったいどれだけの影響力があるかということを知ってほしいのです。世間的に影響力のある人ほど神理を知っていただきたいのです。そしてそれを実践してほしい、真実の勇気を奮い起こしてほしいと、そのように思います。 5.光の革命 さて、本書も最後までこぎつけました。喉(のど)をからしていろんなことを語ってきました。 私がね、本書で言いたかったことは一言です。「光の革命を起こそう。やろうじゃないか、みなさん」そういうことです。徹底的にやろうじゃありませんか。やらんでどうする。やらんでなにが変わる。世の中のなにが変わる。いったい世界がどうなるんだ。これだけの光があり、光の力があり、光の教えがあるんだから、広げようじゃないか。多くの人に知ってもらおうじゃないか。唯物主義国日本なんてこんなの世界の恥さらしです。そうじゃないですか。 みなさんはね、宗教なんて言って馬鹿にしちゃいけないよ。宗教というのは、「宇宙を示す」と書いてあるんですよ。宗教というのは宇宙の根本を教えることです。その成り立ちを教えることです。そのなかを流れているほんとうの法則を教えることです。 もうマスコミは、宗教を馬鹿にするのはもうやめていただきたい。もう新聞発行するのはやめてください。いろんな新聞社があるけれども、もうこんな霊の世界はインチキだ、迷信だと言ってるような新聞社はもうやめてください。もうそんなところの新聞取るのはもうみなやめてください。もうそんな新聞捨ててください。そんな週刊誌もう捨ててください。もうね、こんなもの私はもう見たくもない。こんな真実に反したことをいつまで言っておるのか。 霊の世界はあるからあると言ってるんだよ。ほんとうにあるんですよ。私が現にこうして言ってるんだから。あるんです。それを迷信だなんだと言ってるような人たちは、もうこういうのは地獄行きの特急列車に乗ってるんだよ。その特急列車に乗っているということを知らないで、それに他の人を乗せるようなことは、絶対にやめていただきたい。私はそう思います。自分が行くのはいいけれども、もう人を乗せるのだけはやめなさい。ひっぱるのはやめなさい。ほんとうの世界は現実にあるんです。それだけを言っておきたい。こうしてね、勇気をもって、光の革命を起こしていきたいと思います。 私は残念なんだけれどもね、できたらそれは高橋信次の霊言だって〇〇さん以外のとこからもいっぱい出してね、いろんなとこから出して世界じゅうに本をあふれさせて、アメリカ人にも出てヨーロッパ人にも出てね、インド人にも出ていろんなとこでやったなら世界も変わると思うけれども、いかんせん神の法則は法則として現にあるんです。他のところに出たくても出られないんです。私はね、GLAという団体のところで霊言したくても、私の霊言受けられる人が一人もいないんです。しょうがないんです。受けられると言うのなら出してみたらいいんです。絶対出せないんです。霊言集出せません。受けられる人いないからです。いないんです。だからほんとは私はつらいんです。いろんなところで出して言いたいけども言えない。ここ一点しか通せない。通せないから無理を言っています。 これほど次々と本を世に問うて、私はほんとうにみなさんに申しわけないと思ってます。こんなに無理を言って、ほんとに他の団体の主宰者がね、よその団体に来てこんな無理を言ってることを申しわけないと思ってます。そのような無理を言うことによって迷惑をずいぶんかけてることも知っています。ほんとに迷惑をかけてます。申しわけないと思っています。けれども、これしか私にとっては取る道がない、方法がないんです。 どうか私のそうした立場も考えて、私のこの一言一言が、一冊一冊がより多くの人たちのほんとうの心の糧となり、光の革命が地上に成就していくための力強いほんとうの力となるように祈っています。 読者のみなさんも、私が何度もくり返して言ったことをよくよく味わってください。言葉は美しくないかもしれません。日本語はへたかもしれません。外人よりへたかもわからない。けれども、私が言ってる言葉は真実の言葉です。この真実の言葉を聞いたなら、どうか変わってください。そして世の中を変えていってください。光の革命を成就しようじゃありませんか。 そのためにどうか力になってください。私の霊言が広がることを支持してください。助けてください。そして光の天使たちが、光の戦士たちが地上で活動していくことへ、どうか力強い支援を送ってやってください。それを祈っています。 ほんと、みんな頼んだよ。ほんとに頼むよ。それだけを言って、本書を終えたいと思います。