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拉致被害者関連情報―田口八重子さん注意:可能な限り修正しますが、後でガセだったと判明する可能性のある情報も含まれてしまっていることをご了承ください。1.拉致後の足取り 斜線は北朝鮮の発表 1978.6.29 高田馬場のベビーホテルに長女(3歳)・耕一郎さん(1歳)を残して失踪 ↓ 1978.? 清津港から入国(『忘れられない女』元山海水浴場編)or南浦から入国(地村富貴恵証言) ↓ 1978~79 牡丹峰招待所で地村富貴恵さんと生活「工作員になっても脱出したい」 1979~1986 蓮池夫妻・地村夫妻・横田めぐみさんと一緒に“チュンリョン里”(忠龍里)に集められて日本語教育 大韓航空機爆破事件以降、日本人化教育は中止し翻訳などにかわったという 1980 松木薫さん、石岡亨さんと思われる男性2人が「だまされた・・・」と呟くのを目撃し、その事を地村富貴恵さんに喋る? 同じころ、大聖山の食堂で40代日本人男性とお見合い、気に入らない→原さんか?84 原さんと結婚→専業主婦 ↓ 1981.7~1983.3 金賢姫(工作員名金玉花)の日本人化教育を担当 81~84 横田めぐみさんと同居 ↓ 1983.3~腰の治療、ひとりで生活 ↓ 1984頃~86夏 自ら希望し横田めぐみさん+金淑姫と同居生活 ↓ 1985.4 酔った運転手からセクハラを受ける→運転手が思想批判を受ける 同じころ、地村富貴恵さんに「金賢姫から工作員になって脱出は不可能と言われ、諦めた」と語る ↓ 1986 日本人は全員“チュンリョン里”(忠龍里)を離れることを命じられ平壌に→移動後日本人化教育続行 ↓ 1986.7.20 地村夫妻・蓮池夫妻と別れる 1986~1991.10 ポンファ政治軍事大学で講師として活動 ↓ 1986.7.30 交通事故で死亡 ↓ 1986.10 地村富貴恵さん、運転手から「デパートで見た」 運転手八重子さんから「義挙者(ウィゴジャ=韓国人拉致被害者)と結婚している」と聞く 1987.11.29 大韓航空機爆破事件 1988 金賢姫会見「李恩恵から日本語を教わった」 ↓ 1991 安明進、複数の教官から「金賢姫の教育係は別に処罰されずにいる」と聞く =金賢姫が赦免を受け手記を出版するという時期まで確実に生きていた ↓ 1996 周辺への身分露出、アルコール中毒、頻繁な脱出の試みなど平壌市順安地区文化部所属招待所で外出禁止・隔離生活(『金賢姫からの手紙』の中で08年に西岡力氏が得た情報)2.北朝鮮側の発表a 第一次小泉訪朝 2002年9月17日 「1986年7月30日死亡」これまで報道被害や世間の目、2人の子供への影響を考えて沈黙していた家族が沈黙を破るb 日本政府調査団に対して提示した情報 2002年9月~10月1日(注)なお、李恩恵事件につき、北朝鮮側は、調査の結果、李恩恵なる日本人女性はいない旨発言。 1. 朝鮮名:コ・ヘオク 女 2.1955年8月10日生 当時23~24歳 3.本籍:埼玉県川口市 4.出生地:埼玉県 5.住所:東京都豊島区 6.日本在住時の職業:飲食店勤務 7.入国経緯:工作員が身分盗用に利用する対象者を物色中、1978年6月29日宮崎県宮崎市青島海岸で本人が共和国に3日程度なら観光がてら行きたいという意向を示したことから、特殊工作員が身分を偽装するのに利用するため連れてきた。辛光洙は関係がない。 8.入国後:1978年6月から1984年10月まで招待所で朝鮮語の習得、現実研究および現実体験をした。1984年10月19日、原敕晁さんと結婚。1986年まで家庭生活。 9.死亡経緯:夫の死亡(1986年7月19日)後、精神的衝撃を受けていたが、数日して安定して帰宅する途中、1986年7月30日、ファンヘ(黄海)北道リンサン(麟山)郡のマシク嶺峠で乗用車とトラックの衝突事故で死亡。この事故で、同人及び運転手を含む3名が乗用車で死亡、トラックの2人は重傷を負った。 10.遺骸:ファンヘ(黄海)北道リンサン(麟山)郡に墓があったが、1995年7月の豪雨でサンウォルリ(上月里)の貯水池ダムの堤防が壊れ、墓が流された。 11.遺品:なし 12.原敕晁さんと結婚するも、子供なし。原さんもリンサン(麟山)郡で病気で死亡。 13.事故での死亡者と生存者に関する書類が存在するが、今後、法的仕組みが出来た時点で証言と文書を提供することができる。 c 第三回日朝実務者協議 2004年11月・北朝鮮側からの説明 ▽入国経緯 身分盗用に利用する相手を物色していた工作員が「青島海岸まで行こう」と田口さんを誘引した上で、1978年6月29日、青島海岸から田口さんを連れてきて、海州から入境した。拉致の実行犯であるリ・チョルスは、92年夏死亡した。 ▽生活経緯 78年6月から7月までの間、地方の招待所で休息。78年7月から79年11月までの間、平壌市内の招待所で生活。79年12月から84年10月までの間、平壌市郊外および地方の招待所で日本語教育に従事、84年11月から86年7月までの間、麟山郡の招待所で家庭生活。特に、81年から84年までの間は、横田めぐみさんと一緒に生活していた。夫の原敕晁さんが平壌の病院に入院してからは、田口さんも平壌郊外の招待所に移り、原さんを見舞った。そこで他の日本人と一緒にいた可能性もあると思う。原さんと結婚後の84年11月から86年7月まで麟山の招待所で一緒に生活していた。 ▽結婚 84年10月19日に原さんと結婚。初めは、年の差が離れているためちゅうちょしていたが、何回か会ううちに結婚に同意。これは、調査委員会の人間が特殊機関内に入って、関係者から話を聞いた。 ▽死亡経緯 夫の死亡後、精神的な慰労のため元山に行って休息をとった後の帰宅途中、86年7月30日、馬息嶺で軍部隊の車と衝突して死亡。 ▽事故処理 軍が事故後被害者を引き上げ、元山周辺の郡病院へと搬送した。軍から連絡を受けた当該機関は、元山基地に指示を出し、ひつぎを移送する準備をさせた後、遺体の引き渡しを受けた上で葬儀を行い、夫の墓地がある麟山に合葬した。 ▽遺体 95年8月18日、豪雨により麟山郡上月里の貯水池ダムが決壊したため、流出した。遺品は死亡当時に焼却された。 ▽田口さんの朝鮮名 田口さんは北朝鮮に入国して以来、コ・ヘオクとの朝鮮名で通しており、他の朝鮮名はなかった。 ・証人からの聴取等 ▽695病院の元医師および麟山郡招待所の接待員から、当時の生活状況に関する情報の聴取を行った。 ▽馬息嶺交通事故につき、道路管理人から事故状況について聴取。 ▽物証 馬息嶺交通事故資料 ・これに対する反論 北朝鮮側の発表では、原敕晁さんが1986年7月19日に病死。田口八重子さんがそのわずか11日後に交通事故死となっている。他でも言えることだが、北朝鮮の発表では、帰国した蓮池さんご夫妻、地村さんご夫妻、曽我さんご夫妻以外は、すべて夫婦共に死亡しているという点である。 86年に死亡とあるが、元工作員安明進氏は、89年、金正日政治軍事大学の複数の教官から「金賢姫を教えた日本人教官は処罰されていない」と聞いている。 2002年10月の北朝鮮側の説明では、「工作員が身分盗用に利用する対象者を物色中、1978年6月29日宮崎県宮崎市青島海岸で本人が共和国に3日程度なら観光がてら行きたいという意向を示したことから、特殊工作員が身分を偽装するのに利用するため連れてきた。辛光洙は関係がない。」としていた。当時、田口さんが一人で青島海岸に行く理由など全くなく、あまりに不自然。今回は、工作員が宮崎まで誘引したと変更してきた。後に結婚したとされる原敕晁さんは1980年、辛光洙等によって宮崎県青島海岸から拉致されている。 ★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2004.11.25-2)http //www.sukuukai.jp/houkoku/log/200411/20041125-2.htm 北朝鮮による拉致被害者の地村富貴恵さん(47)が拉致直後、「死亡」と伝えられた田口八重子さん=失跡当時(22)=と北朝鮮の招待所で一緒に生活していたことが三十日、分かった。 関係者によると、地村さんは一九七八年七月に拉致された直後から約九カ月間、同年六月に拉致された田口さんとともに同じ招待所で生活し、朝鮮語などを学んだ。地村さんは田口さんを「八重ちゃん」と呼び、田口さんも日本に残した家族の話を打ち明けるなど、親しい仲になったという。地村さんは田口さんの朝鮮名「コ・ヘオク」は知っていたが、大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫元工作員の教育係とされる「李恩恵」の名は知らなかったらしい。田口さんの消息について地村さんは「優秀な人だった。今はどこにいるか分からない」と話しているという。 http //news.kyodo.co.jp/kyodonews/2003/niccho/news/0530-402.html田口八重子さんの印象明かす 会見の地村富貴恵さん 朝日 03年10月14日 北朝鮮による拉致被害者で、福井県小浜市の地村富貴恵さん(48)は14日の記者会見で、北朝鮮で会った拉致被害者の田口八重子さん(不明当時22)と横田めぐみさん(同13)の印象を初めて詳しく語った。富貴恵さんは、拉致から2カ月後の78年9月から、保志さんと結婚する直前の79年11月まで、田口さんと招待所で一緒に生活していたという。招待所の指導員は、同時期に田口さんの朝鮮名を「高恵玉(コ・ヘオク)」、富貴恵さんの朝鮮名を「李英玉(リ・ヨンオク)」とつけたという。富貴恵さんは田口さんの印象について、「おない年だったので気があって、楽しく生活することができた。背が高くて、外見は大人っぽく見えたが、寂しがり屋で甘えん坊だったような気がする」と話した。大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫元死刑囚に日本語教育をし、田口さんと同一人物とされる「李恩恵(リ・ウネ)」の名に関しては、「私はそれは知らなかった」と述べた。横田めぐみさんについては、「86年に初めて会った。物静かでおとなしい感じの人で、自分から進んで話しかけてくるタイプでなかった」とし、「(田口さんと横田さんの)ほかに会った日本人はいません」と述べた。 http //www.asahi.com/national/update/1014/025.html 田口さん宮崎・青島で船に 拉致の状況を兄が公表 産経 04年1月18日 拉致被害者の田口八重子さん=失跡当時(22)=の兄で、家族会副代表の飯塚繁雄さん(65)が17日、埼玉県川口市で講演し、田口さんが拉致され、船に乗せられた場所について「宮崎県の青島」と初めて話した。 飯塚さんは「(拉致現場は)これまで新潟県佐渡島と宮崎の青島の2つの説があった」とした上で「(田口さんは)青島から船に乗せられ、北朝鮮の南浦に連れて行かれた。その後、袋をかぶせられたという話を関係者から聞いた」と述べた。 講演は「救う会埼玉」主催の支援集会で、市民ら約100人が参加した。 http //www.sankei.co.jp/news/040117/0117sha079.htm総連関与なしに拉致はできない 北の補助工作員が初めて証言田口さん事件と接点? 産経 04年2月16日 李工作員と支援の大物商工人を結ぶ北のスパイ。警察幹部がそう断言する男がいる。田口八重子さん=当時(二二)=拉致に関与した北朝鮮の李京雨(リギョンウ)工作員らを国内で支援していた補助工作員とみて、警視庁公安部が十数年前、内偵捜査を進めていた人物だ。その男が初めて取材に応じ、 「拉致は総連(在日本朝鮮人総連合会)の人間の関与なしにはできない」と、ようやく重い口を開いた。自民党の故金丸信氏は平成二年の訪朝前、総連中央本部を家宅捜索する方針を固めていた公安部の内偵事件を「圧力」でつぶしたとされる。その事件のコードネームは「零余子 (ムカゴ)」と呼ばれた。オニユリなどの葉の付け根にできる球状の芽のことで、捜査対象がこの男だった。容疑は外国人登録の申請内容に虚偽があったとする外国人登録法違反などだが、公安部の狙いは別にあった。公安部は昭和五十四年以降、工作員支援網の中心人物として総連系商社を経営していた大物商工人をマーク、その人脈解明を「やまぶき作業」と命名して続けていた。「男と李工作員に面識があるとの情報が寄せられた。自宅には不審なアンテナもあった。大物商工人とも親しく、李工作員と大物商工人を結ぶ人物として一躍クローズアップされた」と、公安部OBは振り返る。 http //www.sankei.co.jp/news/morning/16na1001.htm 金賢姫元工作員に手紙 田口八重子さんの長男 共同 04年2月23日 北朝鮮による拉致被害者、田口八重子さん=失跡当時(22)=の長男の飯塚耕一郎さん(27)が23日、外務省を訪れ、大韓航空機爆破事件にかかわった金賢姫元工作員=韓国在住=あての手紙を斎木昭隆審議官に託した。 同席した田口さんの兄で拉致被害者家族会副代表の飯塚繁雄さん(65)によると、斎木審議官は「韓国の日本大使館を通じ渡したい」と答えたという。 田口さんは1978年に拉致され、北朝鮮で金賢姫元工作員の教育係をしたとされる。耕一郎さんは「母のことを教えてほしい」と手紙に書き、金元工作員との面会を求めている。 繁雄さんの子供として育てられた耕一郎さんは23日午後、東京都内で初めて記者会見する。 http //news.goo.ne.jp/news/kyodo/shakai/20040223/20040223a4680.html「金賢姫元工作員と面会を」田口さんの長男が外務省に手紙託す 産経 04年2月23日 北朝鮮に拉致され死亡したと伝えられた田口八重子さん=拉致当時(二二)=の長男、飯塚耕一郎さん(二七)が二十三日、外務省を訪れ、田口さんについての情報提供を求めるため、昭和六十二年に大韓航空機を爆破した金賢姫・元北朝鮮工作員へあてた手紙を職員に託した。耕一郎さんが拉致被害者の家族として公の場に出るのは初めて。 田口さんは昭和五十三年六月ごろ、高田馬場のベビーホテルに耕一郎さんら二人の子供を預けたまま拉致された。金元工作員に日本語などを教えていた「李恩恵」という女性が田口さんだったとされる。 平成十四年九月に小泉純一郎首相が訪朝した際、北朝鮮側は「宮崎市の海岸で田口さんが『北朝鮮へ観光に行きたい』と言うので連れてきた。昭和六十一年七月、交通事故で死亡した」と回答した。 田口さんの兄で拉致被害者の家族会副代表、飯塚繁雄さん(六五)に育てられた耕一郎さんは、繁雄さんが最前線に立って活動する姿を見て、一緒に活動することを決意。同省の斎木昭隆審議官に手紙を託した際、「今までずっとできなかった金元工作員との面会を果たし、母を捜したい」と求めた。 http //www.sankei.co.jp/news/evening/e24nat003.htm 「母よ元気で」「金元死刑囚も犠牲者」田口さん長男会見 朝日 04年2月23日 78年に北朝鮮に拉致され、金賢姫(キム・ヒョンヒ)・元死刑囚の日本語教育係「李恩恵(リ・ウネ)」だったとされる田口八重子さん(不明当時22)の長男飯塚耕一郎さん(27)が、23日午後、東京都内で記者会見を開いた。耕一郎さんはこれまで、公の場に出たことはなかった。1歳の時に姿を消した母親への思いや、6年前、田口さんの長兄で育ての父親の飯塚繁雄さん(65)から母親について打ち明けられた時のことなどを語った。 「田口八重子の長男です」。耕一郎さんは、報道陣のライトを浴びながら、ゆっくり言葉を選ぶように話し始めた。 「今回(の記者会見)は勇気のいることでしたが、解決のきざしが見えないこの問題に、私なりに何かできないかと考えました」 母親について「一片でも思い出をつかみたい」と思い、この日、金賢姫元死刑囚あての手紙を外務省に託した。「(李恩恵が)母と同一人物かどうか、お会いして確認したい」と書いたという。母への思いを問われると、「元気でいて下さい。心が詰まって、それ以上は何も言えない」と答えた。 北朝鮮に対しては「悲しい国だと思う」。田口さんは死亡したと北朝鮮は発表したが、「確度のないものと信じている」とした。金元死刑囚については「怒りや憎しみは持っていない。彼女も利用された犠牲者だ」と述べた。 繁雄さんに母親のことを打ち明けられたのは21歳の時。「何不自由なく幸せに育てられてきたので、衝撃はあったが、少しずつ事実を受け入れなければならないと思った」。同時に耕一郎さんは、事件をどう解決するべきかを考えるようになったという。だが、自分に大きな動きができるわけでもない。「もどかしい気持ちだった」と振り返った。 真実を「告白」された後、繁雄さんへの気持ちが変わったかどうかとの質問も出た。この時、耕一郎さんは語気を強めて言った。「先ほどから申し上げている通り、飯塚繁雄は私のおやじです」 ◇ 北朝鮮が02年に日本政府に明かした情報によれば、田口八重子さんは78年6月、宮崎県から北朝鮮に連れ去られた、とされる。北朝鮮での名前は「コ・ヘオク」。86年7月、交通事故で死亡したという。 バグダッド発ソウル行き大韓航空858便(乗員・乗客115人)が爆破されたのは87年11月。実行犯の金賢姫・元死刑囚は、「李恩恵(リ・ウネ)」という女性から日本語を習ったと手記に書いている。 しかし、北朝鮮は、田口さんが金元死刑囚に日本語を教えたことなど、大韓機事件とのつながりは否定している。 http //www.asahi.com/national/update/0223/044.html 左から兄さんの飯塚繁雄さんとご子息飯塚耕一郎さん。拉致被害者:田口八重子さんの長男が初めて公の場に 毎日 04年2月23日 北朝鮮による拉致被害者の田口八重子さん(行方不明時22歳)の長男、飯塚耕一郎さん(27)が23日、東京都内のホテルで記者会見し、「元気でいてください。今後はあなたの奪還にまい進していく」と早期救出を訴えた。1歳の時に、田口さんが拉致されて以来、公の場に出るのは初めて。会見前に外務省を訪れ、母が「李恩恵(リウネ)」として日本語教育係をしたとされる大韓航空機爆破事件の実行犯の金賢姫(キムヒョンヒ)元死刑囚に情報提供を求める手紙を託した。 田口さんは都内の飲食店員だった78年6月、託児所に耕一郎さんと2歳の長女を預けたまま行方不明に。耕一郎さんは伯父の飯塚繁雄さん(65)夫婦に引き取られた。 田口さんが、北朝鮮に拉致されたと判明したのは、失跡から13年たった91年5月。金元死刑囚の供述などからだった。7年後、耕一郎さんが21歳になった夏に飯塚さんから母の存在を告げられた。「お前は、お父さんの一番下の、妹の子なんだ」。埼玉県上尾市の自宅近くのすし屋でそう切り出した飯塚さんは、会見で「既に成人し、大人としての人格を認めて安心して話した」と語った。 「何不自由なく育った幸せな家族」と思いこんでいた耕一郎さんには大きな衝撃だった。「でも時間をかけて受け入れなければ。その時まで隠し続けてくれた家族には、感謝しよう」。そう思った。 耕一郎さんは、被害者5人の家族の帰国で幕引きにされたくないと活動を続けている父の背中を見てきた。今回、沈黙を破った理由を「(拉致問題で)私なりに何かできないかと考えた。解決への第一歩になると信じたい」と述べた。 耕一郎さんは情報通信関連の会社員で、海外出張など多忙な生活を送るが、今後は家族会に入会し活動するつもりだ。 http //www.mainichi.co.jp/news/flash/shakai/20040224k0000m040069001c.html 田口八重子さん27年前の笑顔 産経 04年4月8日 子供と一緒の写真見つかる 北朝鮮に拉致された田口八重子さん=当時(二二)=の二十七年前に撮影された写真がこのほど見つかり、長男、耕一郎さん(二七)の手に渡った。母親の記憶がない耕一郎さんは「幸せな家族だったと分かってよかった。早く母を日本に連れて帰り、笑顔を取り戻してあげたい」と話している。 耕一郎さんを引き取って育てた田口さんの兄、飯塚繁雄さん(六五)によると、子供と一緒の田口さんの写真が見つかったのは初めて。 保管していたのは、埼玉県川口市のアパートで田口さん一家と親しかった主婦、奈良好子さん(五九)。今年二月に初めて記者会見した耕一郎さんが「母の思い出を一片でも欲しい」と訴えるのをテレビで見て連絡した。 「若いお母さんだったけど、けなげに子育てをしていた。笑顔が印象的で料理上手でした」 撮影は昭和五十二年八月。自宅でくつろぐ田口さん母子三人と奈良さんの子供たちが写っている。その後、夫と別れた田口さんは東京都豊島区の飲食店で働き始め、五十三年六月に一歳だった耕一郎さんと二歳の姉を託児所に残して拉致された。 色あせた写真の中に初めて見た、母の笑顔。「失われた時間はもう取り戻せない。幸せだった家庭がなぜ突然なくなり、二十年以上も放っておかれたのか」。耕一郎さんは憤りを新たにするとともに、いつか飛行機のタラップを下りてくる母を迎える日が来るのを固く信じている。 http //www.sankei.co.jp/databox/n_korea/nkorea_53_1.htm この写真提供したおばさん、当時と変わってないな~ 飯塚耕一郎さんの金元死刑囚への手紙は拒まれ 北海道新聞 04年5月30日 田口八重子さんが拉致された時、長男は1歳 金元死刑囚への手紙は拒まれ… 飯塚さん 拉致被害者家族会副代表の飯塚繁雄さん(65)=埼玉県上尾市=は日朝首脳会談以降、落胆を深めている。妹の田口八重子さん=失跡当時(22)=は大韓航空機爆破事件の金賢姫(キムヒョンヒ)元死刑囚の日本語教育係李恩恵(リウネ)とされ、その長男で飯塚さんの養子耕一郎さん(27)は二月、元死刑囚に面会を求める手紙を出した。しかし最近、受け取り拒否が伝えられた。首相再訪朝でも田口さんの新情報は皆無。飯塚さんが家族の苦悩を語った。 「思い出一つ持てずに母を奪われた。写真が一枚あるだけ。しかられたことも、抱っこされたことも、声を聞いたこともない」 飯塚さんは一歳で母親を拉致された耕一郎さんの生い立ちを思いやる。 田口さんは一九七八年、東京都内のベビーホテルに耕一郎さんと長女を残して失跡した。北朝鮮は前回の首相訪朝時「死亡した」と発表した。 耕一郎さんが外務省に託し、金元死刑囚に面会を求める手紙を出したのは「母の思い出を一片でもほしい。記憶にない母親の像を少しでもつくりたいという悲壮な思いからだった」(飯塚さん)。しかし、外務省から最近「本人は手紙を受け取らない意向」との説明を受けた。理由の説明は一切ないという。 金元死刑囚は現在、韓国政府の厳重な警備の下、外部との接触を断っている。飯塚さんは「息子も『簡単にはいかない』と覚悟を決めたようだが、丹念に思いを込めた手紙だったので、相当な落胆ぶりだった」と語る。 一方で、飯塚さんは「受け取らないのは本人の意思ではないと思う。(元死刑囚の)著書から読み取れるのは『いろいろと話してあげたい』という思いだ。しかし、当局が許さないのではないか」と推測する。 今回の首相再訪朝でも「死亡・不明」とされた十人について新たな情報はもたらされず、また期待を裏切られた。飯塚さんは「息子は再訪朝の結果に『この怒りをどこにぶつければいいのか』とやり切れない様子だ」と言う。 飯塚さんは「あきらめるわけにはいかない。息子と二人で被害者救出のため、担える役割はすべて担っていきたい」と決意を語った。 http //www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3? d=20040527 j=0071 k=200405277009 田口八重子さん、マレーシア経由で拉致か 読売 04年5月21日 拉致被害者で、北朝鮮側が「死亡」としている田口八重子さん(当時22歳)が失跡した当日、貿易代表団の一員として来日していた北朝鮮の特殊機関の幹部が突然、予定を早め、マレーシアに出国していたことが、警察当局の調べで新たに分かった。 田口さんはだまされて、この幹部に国外に連れ出された疑いが濃厚で、警察当局は渡航経路の確認を急ぐ一方、今後の日朝交渉で、こうした疑いを提示し、真相解明を迫る方針だ。 1987年11月の大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚の教育係「李恩恵(リ・ウンヘ)」だったとされる田口さんは、東京・池袋の飲食店に勤めていた78年6月30日、2人の子どもをベビーホテルに預けたまま姿を消した。 北朝鮮当局は一昨年9月、日本政府の調査団に、「宮崎市の青島海岸から船で連れ出した」などと説明したが、その後の警察当局の捜査で、田口さんが宮崎に向かった形跡や、当時、九州南岸に不審船が接近していたとの情報は確認できず、この説明を裏付けることはできなかった。 このため警察当局は、当時の全国の空港や港の出入国記録を洗い直す必要があると判断。その過程で、田口さんが失跡した数日前から、北朝鮮の在マレーシア大使館の2等書記官が貿易代表団の一員として来日しており、この書記官が田口さんの失跡当日、当初の予定を切り上げ、成田空港からマレーシアの首都クアラルンプールに出国していたことが判明した。 また、田口さんが失跡の数日前、店の常連だった在日朝鮮人の男から、「いい仕事がある。3日で帰れる」と誘われていた、という新証言も得られた。 警察当局は、「李恩恵=田口さん」と断定した91年5月当時から、この常連客が、「宮本明」と名乗る在日朝鮮人の工作員と同一人物ではないか、とみていた。 さらに、米韓両当局からの情報で、在マレーシア大使館の2等書記官を身分として、極東地域の工作活動の責任者をしていた北朝鮮特殊機関の幹部が、「宮本」工作員とマレーシアで接触していたこともつかんでいた。警察幹部は、「その幹部が、田口さんが失跡したその日にマレーシアに戻ったという新事実が判明したことで、ようやく点と点が1本の線につながった」と指摘する。 警察当局では、「宮本」工作員にだまされた田口さんは、偽造パスポートを渡されたうえで、この特殊機関の幹部とともにマレーシアに渡り、その後、北朝鮮に連れ出された疑いがあるとみて、当時の航空便の記録や、北朝鮮に入ったルートの確認を進めている。 http //www.yomiuri.co.jp/main/news/20040521i104.htm 田口さん入国経緯は虚偽? 地村さん証言と食い違い 産経 04年9月17日 拉致被害者北朝鮮調査 北京で先月十一、十二日に行われた日朝実務者協議で北朝鮮側が伝えた拉致被害者の入国経路の調査結果の中で、田口八重子さん=拉致当時(二二)=の入国場所が、帰国した拉致被害者の証言と食い違っていることが十六日、分かった。二年前の日朝首脳会談で北朝鮮側が「死亡」や不明などとした十人の安否不明の拉致被害者について、金正日総書記は今年五月、「あらためて調査をやり直す」と約束したが、再調査でも信用できない説明をしていたことになる。 北朝鮮側は北京での実務者協議で、田口さんの入国場所を、北朝鮮南西部の「海(ヘ)州(ジユ)」と伝えてきた。ところが、拉致直後から田口さんと同じ招待所で暮らしていた福井県小浜市の地村富貴恵さん(四九)は帰国後、田口さんの兄、飯塚繁雄さん(六六)に「八重子さんは南浦(ナンポ)港に連れてこられたと聞いた」と証言した。 二年前の日朝首脳会談で、北朝鮮側は、日本政府が認める拉致被害者十五人のうち十人について「死亡」、「承知していない」と伝えてきたが、科学的根拠が一切なかったため、日本政府は再調査を要求。今年五月の二度目の首脳会談で金正日総書記はあらためて調査し直すことを約束した。 これを受けた先月の実務者協議で、北朝鮮側は「調査は継続中」とし、拉致被害者らの入国経緯・場所のみを伝えたが、その説明にも信用できない内容が含まれていたことが表面化した形だ。飯塚さんは「北朝鮮がうそをついている一つの証拠」と反発している。(09/16) http //www.sankei.co.jp/databox/n_korea/nkorea_13_1.htm 田口八重子さんと横田めぐみさんの同居時期の説明で食い違い 04年11月21日 拉致被 害者・田口八重子さんが横田めぐみさんと一緒に暮らしていた時期について、日朝実務者協議での北朝鮮側の説明が蓮池薫さんらの証言と異なることがわかった。 北朝鮮側は「81年から84年まで」としているが、日朝関係者によると、蓮池薫さんらは「84年から86年まで」と証言している。北朝鮮側が説明した時期は、大韓航空機爆破事件の金賢姫元死刑囚に対し、「李恩恵」という女性が日本語を教えていたとされる時期と一部重なっている。 家族会では、北朝鮮側が田口さんと「李恩恵」が同一人物であることを否定するために、時期を変えた可能性もあるとみている。 一方、拉致被害者・曽我ひとみさんの夫で、禁固30日の判決を受け、収監中のジェンキンスさんについて、刑期が短縮され、今月末には釈放される可能性が極めて高いことがわかった。 http //headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn/20041120/20041120-00000021-nnn-soci.html 田口さんが金賢姫に日本語指導 地村さん証言 毎日 04年12月9日 北朝鮮側はこれまで、大韓航空機事件への関与だけでなく、田口さんは朝鮮名で「高恵玉(コヘオク)」と言い、「李恩恵」とは無関係、と主張している。 関係者によると、富貴恵さんは子供が帰国した今年5月以降、田口さんの兄飯塚繁雄さん(66)や政府関係者に対して証言している。富貴恵さんが78年7月に拉致された直後から招待所で一時同居していた田口さんから聞いた「オッカという工作員に日本語を教えている」との内容だ。 富貴恵さんは「オッカ」という発音しか知らないとされる。これに対して、87年11月に起きた大韓航空機爆破事件の実行役の金元死刑囚は、韓国側の調べで、工作員として指導員から教育を受け始めた時に、今後は「金玉花(キムオッカ)」との偽名を使うよう指示された。金元死刑囚は「金玉花」の名前で、旅券を作成したことも分かっている。 また、金元死刑囚に対して、日本語を教えたとされる「李恩恵」を名乗る日本人女性は、日本側の警察当局の調べで、金元死刑囚の供述などから田口さんであることが判明している。 大韓航空機事件への関与を否定している北朝鮮側は、先月の日朝実務者協議でも、田口さんが横田めぐみさん(行方不明時13歳)と81年から84年まで一緒に生活していたと説明。金元死刑囚が「李恩恵」と同居して教育を受けたとされる期間と重なることから、家族会などは、横田さんの履歴を捏造(ねつぞう)して李恩恵を否定したと批判している。 http //www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20041209k0000e040085000c.html target= _blank →拉致被害者によりやはり李恩恵=田口八重子さんであると。当然といえば当然だが、これでミスっていたらまた大谷や鳥越に叩かれていたんだろうな 田口八重子さんの救出要求へ NHK 05年1月24日 これは田口さんの兄の飯塚繁雄さんらが、地村富貴恵さんから直接聞いたものです。それによりますと、田口さんは昭和53年6月に拉致されたあと、ピョンヤン市内で一緒に暮らしていた富貴恵さんに「工作員になってでも海外に出ていき日本大使館に駆け込もうと思っている」と打ち明けたということです。その後昭和60年ごろ、田口さんは再会した富貴恵さんに「オッカ」と名乗る女性工作員に日本語を教えていたと話したうえで「その女性工作員に『私も工作員になれるだろうか』と尋ねると絶対に無理だと言われ脱出を断念した」と話したということです。オッカという名前は、大韓航空機爆破事件の実行犯、キム・ヒョンヒ元死刑囚が自分の著作の中で、北朝鮮で偽名として使っていたことを明らかにしています。これについて飯塚繁雄さんは「日本に帰りたい一心で必死に脱出しようともがいていた姿を思うと不びんでならない。一刻も早く助け出したい」と話しています。 拉致事件を巡っては25日、拉致被害者の家族会が外務省を訪れて早急な経済制裁などを訴える予定で、田口さんの家族も田口さんの早期救出を改めて強く求めることにしています。 http //www3.nhk.or.jp/news/2005/01/24/d20050124000139.html子供がいるから帰して、田口さん訴えも 日刊スポーツ 05年1月25日 北朝鮮による拉致被害者田口八重子さん(失跡当時22)が拉致された直後、「生まれたばかりの子供がいるから日本に帰してほしいと訴えたが聞き入れてくれなかった」と地村富貴恵さん(49)に話していたことが25日、分かった。田口さんの兄飯塚繁雄さん(66)が明らかにした。 田口さんは1978年6月に拉致される1年ほど前に、長男の飯塚耕一郎さん(27)を出産している。 繁雄さんが昨年6月、地村さんから聞いた話によると、田口さんは「生まれたばかりの子供がいる」と北朝鮮の担当者に自分の妊娠線まで見せて涙ながらに訴えたことを、拉致直後同じ招待所で暮らしていた地村さんに話したという。 また田口さんは、北朝鮮が制作した映画で親子が登場したり、離れ離れになる場面を見るたびに泣いていたという。 繁雄さんは「この話を聞いて耕一郎もいたたまれない気持ちだだったろう。生まれたばかりの息子と引き裂かれた妹の気持ちを思うとやるせない」と話した。(共同) http //www.nikkansports.com/ns/general/f-so-tp0-050125-0026.html 拉致被害者は 工作員村 にいた 05年9月15日 NHKクローズアップ現代 1979(昭和54)―八重子さん、蓮池夫妻・地村夫妻・横田めぐみさんと一緒に“チュンリョン里”(忠龍里)に集められて日本語教育 1981~83―金賢姫(工作員名金玉花)に日本人化教育 1984~85―八重子さん&めぐみさん、金淑姫に日本語教育。めぐみさんの教え子には後の夫キム・チョルジュンも 1986(昭和61)―“チュンリョン里”(忠龍里)を離れる命令で平壌に、敵工地へ 1987(昭和62)―大韓航空機爆破事件(11月)以降、日本人化教育は中止→翻訳などhttp //www3.nhk.or.jp/news/2005/09/16/d20050915000182.html http //www3.nhk.or.jp/news/2005/09/16/d20050916000027.html http //www3.nhk.or.jp/news/2005/09/16/d20050916000194.html シン元工作員と田口さんに接点浮上 TBS NEWS i 06年1月20日 北朝鮮による拉致事件で新事実です。地村さん夫婦を拉致した疑いが出ている北朝鮮のシン・ガンス元工作員と田口八重子さん拉致事件との間に接点が浮上しました。シン元工作員の配下の男が、田口さんが勤めていた飲食店にたびたび出入りしていたことが警察当局の調べで新たにわかりました。 シンガンス元工作員をめぐっては、地村保さんが「シン元工作員に拉致された」などと証言。また、曽我ひとみさんも「横田めぐみさんを拉致したのはシン元工作員だった」などと証言し注目が集まっていますが、警察当局の調べで、シン元工作員と田口八重子さん拉致事件との間にも接点があったことが新たにわかりました。 それによりますと、田口さんは東京の飲食店で働いていましたが、シン元工作員とつながりを持つ在日韓国朝鮮人の男(70)がこの店にたびたび出入りしていたということです。 この男は、シン元工作員の指示を受け、韓国で米韓軍事演習「チームスピリット」の訓練計画書を入手するなど、工作活動を行っていました。 田口さん拉致事件では「宮本明」を名乗る工作員が関与していた疑いのあることがわかっていますが、警察当局はシン元工作員と田口さん拉致事件との関連についても慎重に調べを進めています。(20日16 55) http //news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3207534.html 田口さん拉致にも関与か 辛、チェ両容疑者の協力者が接触 産経 06年2月26日 北朝鮮による地村保志(ちむら・やすし)さん夫妻拉致事件で逮捕状が出た元工作員、辛光洙(シン・グァンス)容疑者(76)の協力者だった在日朝鮮人の男が、拉致被害者、田口八重子(たぐち・やえこ)さん=失跡当時(22)=が勤めていた東京・池袋の飲食店に客として出入りしていたことが25日、警察当局の調べで分かった。 蓮池薫(はすいけ・かおる)さん夫妻拉致事件で逮捕状が出た工作員チェ・スンチョル容疑者の協力者も同店に通っていたことが既に判明。警察当局は田口さん拉致にも両容疑者が何らかの形で関与した可能性があるとみて、拉致実行犯のネットワーク解明を進める。 調べでは、在日朝鮮人の男は辛容疑者の指示で米韓軍事演習「チームスピリット」の訓練計画書を韓国で入手したとされる北朝鮮の補助工作員。田口さんが失跡した1978年6月以前に、客として飲食店に行っており、警察当局は田口さんとも面識があったとみている。 この男は、韓国の裁判所が「辛容疑者は北朝鮮で『密封収容』されていた」と認定した時期に当たる79年に東京都内で同容疑者と会っており、警察当局が辛容疑者はこの時期も日本に出入りし、78年には地村さん夫妻の拉致を実行したと断定する根拠の一つになった。 一方、チェ容疑者の協力者は「宮本明(みやもと・あきら)」の日本名と「李京雨(り・きょうう)」の朝鮮名を持つ男で、辛容疑者の協力者とほぼ同時期に、田口さんの店に頻繁に出入り。田口さんに「いい仕事があるよ」などと話し掛けていたことが分かっている。 85年に警視庁が摘発した「西新井事件」でチェ容疑者が借りたアパートの保証人になるなど、同容疑者の活動に協力。87年の大韓航空機爆破事件では自殺した工作員の男が使っていた偽造旅券の入手にも関与したとされる。(共同) http //www.sankei.co.jp/news/060225/sha045.htm よど号グループ:拉致の2人 田口さんと同地区にいた 毎日 07年2月12日 よど号事件グループによって欧州から拉致された疑いの強い松木薫さん(当時26歳)と石岡亨さん(同22歳)が、国内で拉致された田口八重子さん(同22歳)と一時、平壌郊外の同じ地区の招待所にいたとみられることが分かった。拉致被害者の地村富貴恵さん(51)が、田口さんから聞いた話として関係者に証言した。2人は「『別荘がある』と誘われた」と語っていたという。「日本革命が目的」とされるよど号拉致被害者が他の被害者と同様の処遇を受けていた可能性が高まった。 富貴恵さんの証言によると、田口さんは平壌郊外の地区の招待所に80年ごろ住んでおり、近くの招待所に日本人男性2人がいたと話した。2人が「北朝鮮はいい所と聞いてきたが大したことなかった」と話していることも聞いたという。 メンバーの元妻の八尾恵・元スナック店主の証言では、グループが有本恵子さん(同23歳)を「市場調査のアルバイト」とだまして拉致したことが判明している。新たな証言は、松木さんらも同様の手口だったことを裏付けるものだ。 グループによって拉致された3人については、目的の違いから他の被害者と待遇などに差があるとの見方があり、これまでに判明している接点は、曽我ひとみさんとジェンキンスさんが百貨店などで、石岡さんや有本さんらしき2人を見た、とする証言だけだった。 富貴恵さんの証言では、富貴恵さんは、拉致された直後の78年9月から招待所で田口さんと同居していたが、79年11月に地村保志さんと結婚して別れた。その後、別地区の招待所に夫妻でいたが、84年秋ごろ近くの招待所に移ってきた田口さんから話を聞いた。富貴恵さんは「帰国して松木さんらに間違いないと思った」と話しているという。 松木さんと石岡さんは、80年5月ごろスペインで失跡。88年9月に石岡さんが、松木さんや有本さんと北朝鮮にいることを実家に手紙で伝えた。失跡直前にバルセロナで石岡さんとメンバーの妻2人が一緒にいる写真の存在も判明。八尾元店主は「彼女たちが日本人男性2人を獲得したと聞いた」と証言している。 よど号事件 70年3月31日、過激派の赤軍派メンバー9人が、羽田発福岡行きの日航機「よど号」を乗っ取った国内初のハイジャック事件。韓国・金浦空港で乗客を解放した後、4月3日に北朝鮮入りした。その後女性(妻)らが合流したが、01年以降妻子らは順次帰国。死亡や逮捕で、北朝鮮に残るメンバーは4人で、グループでは8人。83年の有本恵子さん拉致事件でメンバーの安部(現姓・魚本)公博容疑者が国際手配されている。 http //www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070212k0000m040126000c.html 又聞きかよ~。地村富貴恵さんが何を持って断定したのかは不明だが、よど号ルートの方々は目立つ存在なのだろうか? キム元死刑囚 拉致問題を語る NHK 09年1月15日 大韓航空機爆破事件の実行犯、キム・ヒョンヒ(金賢姫)元死刑囚がNHKの電話インタビューに応じ、自分の教育係をさせられていた拉致被害者、田口八重子さんについて「生きていると確信しているし、力になれるのなら家族に会いたい」と述べ、拉致問題解決への思いを明かしました。キム元死刑囚は12年前に結婚したあと、公の場に姿を見せておらず、報道機関のインタビューに応じたのはそれ以来だということです。 北朝鮮の工作員だったキム・ヒョンヒ元死刑囚は、1987年に起きた大韓航空機爆破事件の実行犯として韓国当局に逮捕され、死刑が確定しました。その後、特赦で刑の執行を免れ、本の執筆や講演活動を行ってきましたが、12年前に結婚したあと公の場に姿を現さなくなりました。キム元死刑囚は、電話インタビューに対し「韓国では過去5年間、大韓航空機爆破事件の真相がねじ曲げられ、わたしやわたしに日本語を教えていた八重子さんの存在を否定するような報道がありました。わたしが生きていることを示すことが、八重子さんが北朝鮮にいることを証明し、拉致問題の解決につながると思った」とインタビューに応じた理由を話しました。そして、北朝鮮で自分の日本語教育係をさせられていた拉致被害者の田口八重子さんについて「2年ぐらいいっしょに生活して、彼女から日本について習いました。彼女とは国籍を離れてほんとうの姉妹みたいに暮らしましたが、彼女は子どもたちに会いたいと言って涙を流していました」と話しました。また、5年前に初めて公の場に出て救出活動を始めた八重子さんの長男の飯塚耕一郎さんについて「ニュースで見ました。親子というのは隠すことができず、目がそっくりです。あんなに大きくりっぱに育っているのを見て涙が出るほど感激しました。会って、お母さんのことを話してあげたい」と話しました。そのうえで、7年前の日朝首脳会談で、北朝鮮が八重子さんをはじめ一部の拉致被害者が死亡したと説明したことについて語りました。キム元死刑囚は「北朝鮮の機密を知っている日本人拉致被害者を帰国させると、北朝鮮の工作機関や工作員に関する情報が外部に漏れるおそれがあるので『被害者は死亡した』と説明していると考えられる」と指摘し「八重子さんたちが今も生きていると確信しているし、拉致問題解決の力になれるのなら、八重子さんの家族に会って『希望を持ちなさい』と呼びかけたい」と述べました。 http //www3.nhk.or.jp/news/t10013573771000.html# 田口八重子さん、韓国人と結婚か…帰国拉致被害者が伝える 読売 09年2月12日 日本人拉致被害者の田口八重子さんについて、2002年10月に北朝鮮から帰国した拉致被害者5人のうちの1人が日本政府に対し、田口さんが北朝鮮で韓国人とみられる男性と結婚したとの情報を伝えていたことが、政府関係者の話でわかった。 政府関係者によると、帰国した拉致被害者の1人は、北朝鮮側が田口さんが死亡したと説明している1986年7月の数か月後、平壌市の「楽園商店」で買い物をしている間、自分の運転手が田口さんと会ったと証言した。この時、運転手は田口さんと面識があったため話しかけたところ、田口さんから「私は義挙者(ウィゴジャ)と結婚している」という話を聞いたという。義挙者とは、北朝鮮の工作機関内で当時、韓国人拉致被害者などのことを意味している言葉だった。ただ、結婚相手がどんな人か、田口さんはそれ以上は話さなかったという。 別の拉致被害者も、田口さんについて「敵工部と呼ばれる機関にいた」との情報を聞いたと証言。敵工部は対韓国工作などを行っていた朝鮮人民軍傘下の部署で、韓国人拉致被害者も所属していたという。 北朝鮮側は日本政府に対し、田口さんは日本人拉致被害者の原敕晁(ただあき)さんと84年10月に結婚し、原さんが病死後の86年7月、旅行中に交通事故で死亡したと説明していた。しかし、帰国した拉致被害者は「同じ招待所にいたが、原さんと結婚はしていなかった」と証言しているほか、北朝鮮が示した交通事故記録にも不自然な点があることから、政府は北朝鮮に再調査を要求している。 http //www.yomiuri.co.jp/national/news/20090212-OYT1T00107.htm 拉致2女性、北で結婚か 『田口さんは韓国人と』 『松本さんは日本人と』 東京新聞 09年2月12日 【ソウル=築山英司】日本政府が北朝鮮による拉致被害者と認定している日本人女性二人が、北朝鮮で結婚したとみられることが十一日、分かった。日本政府関係者が明らかにした情報で、同政府関係者は認定拉致被害者十七人のうち、少なくともこの二人は北朝鮮で生存している可能性が高いとみている。 日本政府関係者によると、一九七八年に拉致された田口八重子さん=当時(22)=と七七年に鳥取県米子市から拉致された松本京子さん=同(29)。田口さんは韓国人男性と、松本さんは別の日本人男性と結婚したとの情報があるという。 田口さんは、大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫(キムヒョンヒ)元工作員(47)への日本語などの工作員教育を担当。八四年に、すでに帰国した拉致被害者、地村富貴恵さんの住んでいた平壌近郊の忠龍里(チュンリョンリ)に移った。八六年以降は別の軍の拠点に移ったが、地村さんの証言から田口さんは韓国人と結婚したという。 韓国の拉致被害者団体「拉北者家族会」の崔成竜(チェソンヨン)代表によると、北朝鮮関係者から二〇〇六年初め、拉致され韓国人男性と結婚した横田めぐみさんとは別の日本人女性が、拉致された韓国人男性と一緒に住んでいると聞いたという。 北朝鮮側は、田口さんは拉致被害者の原敕晁さんと結婚し、一九八六年に交通事故で死亡したと主張していた。また、松本さんは少なくとも二〇〇二年まで、北朝鮮の軍関連の貿易会社に在籍していたとみられる。 ◆田口さん家族と金元工作員 韓国『遠からず面会』 【ソウル=福田要】中曽根弘文外相は十一日、韓国の柳明桓(ユミョンファン)外交通商相とソウルで会談し、国際舞台での協力関係を強化することを確認した。柳外通相は会談後の記者会見で、一九八七年の大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫(キムヒョンヒ)元工作員(47)と拉致被害者の田口八重子さんの家族の面会が「遠からず実現すると承知している」と述べた。 金元工作員は今年一月、韓国メディアを通じて自分に日本語を教えた田口さんの家族との面会を希望。日韓両政府が調整に乗り出したが、韓国側が近い時期の実現に向け協力する姿勢を公式に明らかにしたのは初めて。 http //www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2009021202000076.html いつの間にか「生存している可能性が高い」という表記が・・・。この旦那は金英男さんと近しいのかも知れん 帰国の拉致被害者証言 田口さん「めぐみさんの面倒みたい」 産経 09年3月10日 ■工作員と3人 2年間?同居 拉致被害者、横田めぐみさん=拉致当時(13)=が北朝鮮の女工作員と同居しながら日本語教育に従事させられていたところに、田口八重子さん=同(22)=が「めぐみさんの面倒をみたい」と希望して合流し、一時3人で暮らしていたことが9日、帰国した拉致被害者が政府関係者にした証言で明らかになった。 時期は、田口さんが大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫(キム・ヒョンヒ)元工作員(47)に日本人化教育をした後の昭和59年前後。めぐみさんと田口さんが同居していたことは既に判明しているが、その一部は女工作員との同居だったことになる。帰国被害者によれば、めぐみさんと田口さんは59年前後から61年夏ごろまで同居。このうち60年ごろまでは女工作員も一緒だったことが新たに判明した。女工作員は金賢姫元工作員の同僚の「金淑姫(キム・スクヒ)」。銃や爆弾などの取り扱いも訓練した女スパイだった。田口さんが自ら北朝鮮当局に「めぐみさんの面倒をみたい」と切り出したことは、それ以前にめぐみさんと面識があったか、同居したことを示唆している。当初は「田口さん-『金賢姫』」と、「めぐみさん-『金淑姫』」の2通りの組み合わせで工作員教育をさせられていた疑いが強まった。金賢姫元工作員は最近になって、「めぐみさんと『淑姫』が写った写真を見た」と証言している。 田口さんは3人で同居するまで、「(金賢姫元工作員との生活を終えた後)しばらく1人で生活した」と話していたことも新たに分かった。北朝鮮側は、田口さんは「61年7月30日に交通事故で死亡した」としているが、帰国被害者は「62年に運転手から、外貨商店で田口さんと会い、人民武力省のナンバーの車に乗っていたのを見たと聞かされた」とも話している。 http //sankei.jp.msn.com/world/korea/090310/kor0903100134002-n1.htm 「九州で工作員に引き渡された」と田口さん、帰国被害者証言 産経 09年3月11日 拉致被害者の田口八重子さん=拉致当時(22)=が拉致された経緯について、「知り合いの男性に九州に連れて行かれた。工作員に引き渡され、(工作船で)北朝鮮に連れてこられた」と、別の日本人被害者に話していたことが10日、分かった。 田口さんからこの話を聞いた被害者が帰国後、政府関係者に証言していた。田口さんの拉致ルートについては未解明のままだが、政府や警察当局は拉致された状況の解明につながる情報として重視、慎重に分析を進めている。 政府関係者によると、田口さんから拉致された状況について告白されたのは平壌の牡丹峰招待所で一時期、共同生活していた被害者。田口さんらは工作機関の指導員から「(日本人同士は)互いに本名や生年月日、北朝鮮に来た経緯などは話すな」と厳命されていたため、共同生活を始めた当初は個人的なことは話さなかったが、次第にうち解け、拉致された経緯についても言及したという。帰国被害者の証言によれば、田口さんを九州に連れて行った男は「リムジンのような外車に乗っていた知り合い」と話していたという。田口さんは拉致された当時、東京・池袋の飲食店に勤務していた。 これまでの警視庁公安部などの調べでは、田口さんの拉致には、蓮池薫さん(51)、祐木子さん(52)夫妻を拉致したとして国際手配されている北朝鮮工作員、チェ・スンチョル容疑者(年齢不詳)の国内補助工作員とみられる在日朝鮮人の男(既に死亡)が関与していた疑いが強いことが判明している。警察当局は、九州まで田口さんを連れて行った男が、補助工作員と同一人物かどうかも含め捜査している。九州からは、昭和55年に大阪の中華料理店員の原敕晁(ただあき)さん=(同43)=が青島海岸から工作船で拉致された。北朝鮮側は田口さんについても「宮崎県の青島海岸から連れてきた」と説明している。 田口さんは帰国被害者に工作船で北朝鮮に連れてこられた直後の状況についても告白。「出迎え役のおばさんに『(日本に)子供がいるのになんで(北朝鮮に)連れてきたの。早く日本に帰して』と激しく訴えると、おばさんは『何でこの子(田口さん)を連れてきたのか』と工作員に言っていたようだった」とも話したという。 http //sankei.jp.msn.com/world/korea/090311/kor0903110141000-n1.htm 田口八重子さん生存情報、被害者団体代表が伝える 読売新聞10年7月22日 【ソウル=前田泰広】北朝鮮に拉致された韓国人被害者の家族らでつくる「拉北者家族の会」の崔成龍(チェソンヨン)代表は22日、「信頼できる北朝鮮の情報源」から、日本人被害者の田口八重子さんが現在、平壌の万景台(マンギョンデ)区域にある集合住宅で生活しているとの情報を聞いたと明らかにした。 田口さんは韓国人被害者の男性と結婚したとも聞いたという。 崔代表は「情報源」について、脱北者ではなく、平壌で働き、海外にも行き来する関係者だとしており、日本政府関係者にも、こうした情報を伝えたという。 崔代表は2004年、横田めぐみさんが韓国人被害者と結婚しているとの情報を入手し、日韓両政府が2006年、事実と確認したことがある。 北朝鮮は田口さんについて、日本人被害者の原敕晁(ただあき)さんと結婚後、1986年7月に死亡したと説明している。 (2010年7月22日10時59分 読売新聞) http //www.yomiuri.co.jp/feature/20080118-931444/news/20100722-OYT1T00379.htm キム元工作員「田口さんピョンヤンに」 TBS 10年7月31日 7月に日本を訪問したキム・ヒョンヒ元工作員が拉致被害者・田口八重子さんの家族と面会した際、「田口さんはピョンヤンにいる」と伝えていたことがわかりました。 「『八重子は今どこにいるんですかね?』と聞いたら、『平壌(ピョンヤン)にいますよ』という感じで小さな声で言ってくれました」(田口八重子さんの兄・本間勝さん) これは東京都内で行われたキム元工作員との面会についての報告会で拉致被害者・田口八重子さんの兄本間勝さんが明らかにしたものです。長野県軽井沢町で面会した田口さんの家族に対し、キム元工作員は「田口さんはピョンヤンにいますよ」と話したということで、キム元工作員の口から田口さんの具体的な消息について語られたことが明らかになったのは初めてです。 田口さんをめぐっては7月22日に中井洽拉致問題担当大臣が6~7年前までピョンヤンで生存していたという情報を得ていることを明らかにしています。(31日22 11)「キム元工作員「田口さんピョンヤンに」」 News i - TBSの動画ニュースサイト 田口八重子さん、昨秋まで平壌で生存の情報 読売 11年1月19日 北朝鮮による拉致被害者の田口八重子さん(55)が昨年秋に平壌で生存していたとの情報を、 政府が昨年末、韓国で拉致問題に取り組む関係者から入手していたことが19日、わかった。 警察庁で情報の分析を進めている。 政府の拉致問題担当者が昨年12月、韓国を訪問。関係者は、田口さんが平壌市万景台(マン ギョンデ)区域にある集合住宅に居住し、昨年の秋頃に韓国人の拉致被害者の男性2人と一緒に いる姿が目撃された、との情報を提供したという。田口さんに関しては、昨年8月、衆院拉致 問題特別委員会で中井洽・拉致問題担当相(当時)が「2003年まで元気で平壌に住んでいた との情報がある」と発言していた。http //www.yomiuri.co.jp/national/news/20110119-OYT1T00958.htm?from=y10
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合計: - 今日: - 昨日: - 小泉訪朝の解剖 小泉訪朝とはなんだったのか?その詳細なシナリオを書き上げた脚本家の解説本が、 平成21年1月、日本経済新聞社より、"外交の力"として上梓された。 著者は元外務省外務審議官"田中均"氏である。 以下、その"外交の力"を私(FreeJapan0)なりに解剖してみた。 ①田中均氏の外交理念 田中均氏の外交理念の考え方は、"先例踏襲型"といえる。 それは、彼の外務省でのオックスフォード大学への留学からうかがえる。 田中均氏は外務省に入るとオックスフォード大学に留学し、英国に日本外交のモデルを求めた。 ※以下引用、序章 外交官を志す・英国モデルを死ぬ気で学ぶ、12頁、6行目より・・・ ・・・、私は日本外交がモデルにすべき国、あるいは外交の目指すべき考え方は、決して米国や、 米国流の考え方ではないだろうと思っていたのである。 それは決してアンチ米国ということではない。ただ、外交戦略を練り、政策を構築していく上で、 軍事力にせよ、経済力にせよ、巨大な力を前提として組み立てるのは、日本には合わない。 力頼みではなく、一味違った存在感、歴史的に培われた知恵のある国としての国際社会で重きをなす という外交をしている英国流の物の考え方とか、発想をモデルとして学びたいという意識が強かった。 ・・・とあり、田中均氏はこの留学から得た考え方を、島国外交としての地政的・国際政治的共通性のある 英国流外交の踏襲を彼自身の外交理念にすえたようだ。 これは、彼が中心となって作られた"日朝平壌宣言"の草稿のコンセプトに、 日韓国交正常化交渉時の「請求権の相互放棄」を据えたことからも、厳しい見方をすれば"先例踏襲型"とみえる。 ※上記参照、第三章 朝鮮半島の難題に風穴を・大きな絵、108頁、15行目より・・・ ただ、日韓国交正常化は、反共同盟国としての火急な課題としての背景があり、 戦後の時間経過と、その間の日本をも巻き込む可能性のあった北朝鮮の南進侵攻による朝鮮戦争、 核・長距離ミサイル開発、拉致問題、オマケとしての偽札、麻薬などを含めた、日本や国際社会に対する 各種反国際社会行為を加味して考えれば、いささか譲りすぎに思えるということを私(FreeJapan0)は指摘しておく。 ②田中均氏の外交戦略 田中均氏の外交戦略の根本的な考え方は、"権力活用型"といえる。 これは、彼のインドネシア・ジャカルタでの外交官としての原体験にかいまみえる。 1974年1月、田中角栄首相のインドネシア訪問に、インドネシア国内では反日暴動が発生し、 その対応に当たった田中均氏の恐怖の中での原体験としての教訓は、 ※以下引用、第一章 外交官としての原体験・ジャカルタは燃えた、22頁、4行目より・・・ しかしながら、その後の外交官生活を支えたのは、その恐怖心ではなかった。局長が吐いた 「けしからん」という言葉なのである。「けしからん」と人々が思うような事態を作ってはいけない、 外交はこのような事態を未然に防ぐ力なのだ、そのためには受け身で国際関係が展開していくのを 待つのではなく、能動的に国際関係を作る努力をするべきなのだ、という意識を強く持ったのである。 首相が動く時は、やはり国家と国家の関係が動く時でもある。・・・ ・・・とあり、そして、田中均氏はこの原体験によって、自らの脚本と演出で、 小泉劇場の一幕を飾ったのである。 ※この田中均氏の"第一章 外交官としての原体験・ジャカルタは燃えた"に関しては、 違った角度からの批判分析があることも、蛇足として紹介しておく。 田中 均 氏のいう「なりふり構わぬ日本企業進出」 というのがそれだが、 反日暴動のスタンダードのような不自然な発生の仕方から、何らかの意図的な動員がみえるとのこの小説は、 昨今の中国にも共通する、反日デモの原点であったのかもしれない。 平成21年4月5日 FreeJapan0
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担当相兼務の山岡氏「拉致軽視としか…」被害者家族は悲嘆http //sankei.jp.msn.com/affairs/news/110903/crm11090300440000-n1.htm 「野田佳彦首相の拉致問題への考え方が出ている。拉致問題軽視としか言えない」。消費者相と国家公安委員長と兼務で山岡賢次氏が拉致問題担当相に就任したことに、増元るみ子さん=拉致当時(24)=の弟で拉致被害者の家族会事務局長の照明さん(55)は、失望感をあらわにした。 山岡氏は、超党派の国会議員でつくる拉致議連にも所属せず、拉致問題に関しては全くといっていいほど活動実績がない。拉致被害者家族らは「拉致問題での発言を聞いたことがない」と声をそろえる。 山岡氏は2日、官邸で記者団に「家族会とは、今まで直接、お話はしていないが、お気持ちは心得ているつもり。全力で対応していきたい」と語った。 しかし、家族会などが平成21年の総選挙前に行った拉致問題への取り組みを問う議員アンケートでは、回答すらなかっただけに家族らの不安はぬぐえない。 菅直人前首相ら民主党議員側による拉致事件容疑者の長男が所属する政治団体側への巨額献金の発覚に続き、菅前首相は辞任直前に家族らが反対する朝鮮学校無償化の審理再開を指示するなど、家族らの民主党政権への不信は募る一方だ。 菅直人前首相ら民主党議員側による拉致事件容疑者の長男が所属する政治団体側への巨額献金の発覚に続き、菅前首相は辞任直前に家族らが反対する朝鮮学校無償化の審理再開を指示するなど、家族らの民主党政権への不信は募る一方だ。 その中で、家族らは政策の継続性を訴え、中野寛成前担当相の留任を求めたが、その声も無視され、民主党政権の2年間で5人目の拉致問題担当相の就任となった。 野田首相は2日の会見で頻繁に担当相が替わることを問われ、「拉致問題を含め、その継続性で信頼を取り戻すことがこの内閣の最初の課題だ」と述べた。 しかし、山岡氏は2日の会見で野田首相からの拉致に関する指示が6項目中の5番目だったことを明かしており、拉致問題軽視の姿勢が浮かぶ。 消費者相などとの兼務に対する家族の懸念も大きい。田口八重子さん=同(22)=の兄で家族会代表の飯塚繁雄さん(73)は、「これまで兼務になると、拉致問題がおろそかにされてきた。また一から出直さなきゃいけないと思うとつらい」と力なく語った。 横田めぐみさん=同(13)=の母、早紀江さん(75)はこう嘆く。「こんなことの繰り返し。いつまでこんな状態が続くのか、言葉にもなりません」 野田は韓国のみならず、北朝鮮の工作員であることも露呈した。反平和主義、全世界に対するテロを支持し、推進する凶悪な極左テロリストであり。まさに人類の敵、悪の枢軸である。 特にこの山岡賢次は外国人参戦権に積極的であり、北朝鮮、朝鮮総連の資金源であるパチンコのパチンコチェーンストア協会政治分野アドバイザーという北朝鮮と結託した反日、極左テロリストである。 そもそも、山岡は本名ではない。元は金子といい、その後も藤岡など日本人ではありえない名前の変更を繰り返しており、在日朝鮮人疑惑もある、本来ならば日本にいてはいけない人間かもしれない存在なのである。 このように、直接的に反日活動を行い、北朝鮮に結託する人間を拉致問題担当相、そして国家公安委員長にしようというのは、日本の治安を壊滅させ、北朝鮮のテロを容認、推進し、日本を破滅に導こうとする野田の反平和的にして反日、反社会的なテロリズム推進主義者であることの表れである。
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※(音声編集)は、編集により直前と全く同じ音声が挿入されている箇所。ひでの悪態かスタッフの声を隠すためと思われる。 ブッチッチッチ…ブッチッチッチ… ひで「あ~今日も学校楽しかったな~。早く帰って宿題しなきゃハッ」 (道路を渡った後、虐待おじさんに膝蹴りをされる) ひで「イッテ…」 (ダウンするひで、そのままおじさん宅へ) チャカポコチャカポコ… (虐待おじさんがひでを運搬する) 虐おじ「オラァ…ハァ…ハァ…」 (クッソ汚い涅槃顔のアップ) ひで「(ベッドの上で目を覚まして)あれぇ?」 虐おじ「君、名前なんて言うんだ?」 ひで「ぼくひで(黙秘で、朴 秀)」 虐おじ「ひでか。喉乾いただろう、こっち来て、飲み物でも飲みなさい」 (居間へ移動) ~~前戯編~~ (ひでの喚声が度々重複するので便宜上一部省略) (ネクタイを外しながら徐々にひでに近づく虐待おじさん) キィー ひで「ン!イャンクック!ゲホッゲホッ!」 虐おじ「おじさんはねぇ、スーハースー君みたいな可愛いねぇ、スー子の悶絶する顔が大好きなんだよ!」 虐おじ「ヘヘッ、おっぶぅ~!」 虐おじ「えぇ?どうなんだよオラ、良い顔してるよオイ、ゥオオッー!」 ひで「おじさんやめちくり~(挑発)」 虐おじ「えぇ!?えぇ…ぅおお、え?(セリフ忘れ)」 虐おじ「神々しいわよねオルァ、オォ!」 虐おじ「こんなんで止める訳ねぇだろおいオラ、こっち来いやオイ!」 ひで「あぁ……」 虐おじ「オォ↑ッ!?」 (ベッドへ移動) 虐おじ「ほら、おじさんの言うこと聞いてくれるかい?死んじゃうよオラオラ」 ひで「裕子と菊代(言う事聞くよ)…!」 (ここでチャカポコのBGM終了) 虐おじ「聞く?ウルキオラ?」 ひで「……ライダー助けて!!」 虐おじ「ブルァァ!ざけんじゃねーよオォイ!!誰が大声出していいっつったオイオルルァ!!え!?」 虐おじ「本気で怒らしちゃったねぇ、俺のことね?」 虐おじ「おじさんのこと本気で怒らしちゃったね!」 ひで「あぁぁぁぁ…」 虐おじ「え?どうなんだよホラ。ホラ、え?(親指でひでの鼻の穴を上に向ける)」 虐おじ「興奮さしてくれるねぇ?好きだよそういう顔」 虐おじ「ん、ンンゥゥゥ!(不幸せなキス)」 ひで「あはん止めてぇェェェ!!!」 虐おじ「止めてじゃないんだよ…(怒りの震え声)」 虐おじ「言うこと聞くって言ったよなさっき?なあ?言うこと聞くって言ったよな!(不幸せなキス)」 ひで「アァァ!!止めてヤダ!」 虐おじ「言うこと聞くっつったよなさっき?」 ひで「うああ!止めてや…やだぁ!や~!」 虐おじ「ン///…チュパチュパ…」 ひで「あ゛~!×N」 ひで「や゛め゛て゛!×N」 虐おじ「ォイ!(ひでにビンタ)」 虐おじ「お?どうだ?」 虐おじ「オイ!オイ!…オラァ!!(AI二回行動)」 虐おじ「おい!」 ひで「痛って、やめ……」 虐おじ「聞かねえのかオイオラァ!」 虐おじ「オラォラァ!!エェ↑!オルァ!!オォ↑!?」 虐おじ「言うこと聞けねぇみてェだな、おじさんの言うこと聞けねぇみてェだなぁおい!」 ひで「ヤメテー」 虐おじ「こっち来いよ、おうオラァ」 ドドンバン!(床上に投げ飛ばされるひで) 虐おじ「えぇ?(弱)」 ひで「止めて!」 虐おじ「バンザイしてみろバンザイ。ウォォ、オイ(体操服を吹っ飛ばす)」 虐おじ「エボラ…、ほら(脱がせたズボンを地面に叩きつける)」 ひで「ァハ、…ァハ…」 ~~竹刀編~~ 虐おじ「ほら四つん這いになれやおい、なれやおいオラァ」 バン!!(一拍)バンバンバンバン!!(一拍)カッ!! 虐おじ「(言うこと)聞くって言ったよな?」 ひで「ハイ…」 虐おじ「YO…YO…(立弱K)」 (ひでが蹴り返す) ひで「アァ痛ッたい!ッタァーイ…」 虐おじ「オラ」 虐おじ「どうなんだよお前YO、言うこと聞くっつったよなぁ俺に向かってなぁ?」 虐おじ「お前言うこと聞くっつったよなぁ?」 ひで「ハイ…」 虐おじ「とりあえずお前こっち向いてみろよ。向いてみろっつってんだよ、ホラ。チクチクチアケロクチ、ホラ」 ベシベシベシベシベシベシベシベシベシベシベシベシベシ! ひで「ウァァ…ア(フェードアウト)」 虐おじ「ホラ立ってみろよ」 ひで「ハァー(クソデカため息)」 虐おじ「立ってみろよ。ほら」 ひで「アァ…」 虐おじ「気を付けしてろ。立ってろよ…。ちゃんと立てよ?気を付けしてみろ」 (嫌々従うひで) 虐おじ「聞けよオラァ!」 ひで「(最敬礼)」 虐おじ「おい!…YO!」 ひで「イ゛タ゛イ゛イ゛タ゛イ゛…グスン…」 虐おじ「言うこと聞くっつったよなおい!ほら立てよ、ほら立てよオイ、なぁ?」 ひで「逢いたい…(届かぬ想い)」 虐おじ「ほら立てっつってんだよオラァ」 虐おじ「お前ここでアレ、ホラ、ケツ出してみろオラ、突き出してみろそんでよぉ」 虐おじ「お仕置きである。(K-TNYMD)」 虐おじ「聞くって言ったのに聞かねぇだろお前なぁ、Vodafone?」 ひで「Ammo…」 虐おじ「なぁ、聞くっつったのに聞かねぇよなぁ!?」 虐おじ「どういうことなんだよこれ?なぁ」 虐おじ「最初から聞かねぇってんなら分かるけどよ、なぁ」 ひで「あー痛い」 虐おじ「聞くって言ったのに聞かねぇってお前おかしいだろそれよォ!コラァ!?」 ひで「イッタイ!!」 虐おじ「違うかぁオイ?コラ」 ひで「嫌、やだ…モー…」 (ひで竹刀を掴む) 虐おじ「ホラ…五回…沙蚕…(力負けおじさん)」 ひで「あ~もうヤダ…ネモーゥ痛…」 虐おじ「あー?ホラどうしたんだよ…聞かねぇのか?」 虐おじ「五回」 ひで「ねー嫌…」 虐おじ「ウィッシューー!…」 ひで「イ゛ったい!アーォ…」 虐おじ「kち来いよ…ホr…」 ひで「イッタi…あ゛ーはぁ゛ーんモ゛ー…」 虐おじ「え?」 ひで「イッッったい!!」 虐おじ「痛いじゃねぇよお前!」 (全裸にされるひで) 虐おじ「 ア ア゛イ ッ ! ! 」 虐おじ「ほら…ほら…」 ひで「あ~もう…痛い…」 虐おじ「立てよ。ケツ向けろよオイオラァ、こっちケツ向けろよ。え?」 虐おじ「向けろっつってんだルルォおい!」 ひで「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛もうイッタい!」 (ひで竹刀から逃げる) 虐おじ「ほらどうしたんだ?え?」 ひで「い・た・い・の・に…この人おかしい(小声)」 虐おじ「オォイ!」 ひで「あぁ…」 虐おじ「オォイ!」(音声編集) ひで「あぁ…」(音声編集) ひで「あ゛ぁーもう…」 虐おじ「え?オラァ」 ひで「DESIRE!!!(NKMRAKN)」 虐おじ「ケツ出さねぇから痛ェんだろうがオイ!!」 虐おじ「なぁ?ケツ出してみろほら」 ひで「ねーもうイ↑ッ↓タ→イ↑!」 虐おじ「あと四カット三回。二回しか終わってない(メタ発言)」 ひで「ね~痛いもう…」 虐おじ「二回しか終わってない」 ひで「コカインだよぉも~~~…」 虐おじ「腕、腕出すと痛いよ?骨当たると痛いよ?」 ひで「ねぇ痛、フザケン…(小声)」 虐おじ「イチ!ニ!」 ひで「ワァーイッタい!うわ!アッー!」 虐おじ「ほら骨出すと痛いよ?」 ひで「ネーモ…」 虐おじ「肘アタック(当たると)痛いよもっと!ホラ」 ひで「あ゛~~↓痛い」 虐おじ「悪い子はお仕置きだど~(SGC-)」 ひで「あーもうイタインダヨォー…」 虐おじ「えぇ!?」 ひで「イャ、イー!」 虐おじ「ホラァ」 (ダウン連おじさん) ひで「痛いー!もう痛いよ!ねぇヤ↑ダ!イ゛タ゛ァ゛イ゛も゛ぉ゛!!!」 (力負けおじさん) 虐おじ「取れよホラ、は?おい!ホラ、どしたんだよおいオラ、え?オラ」 (玉音放送を拝聴するひで) ~~水責め編~~ 虐おじ「顔上げてみろよ。上げろっつってんだろ」 虐おじ「泣けば許されると思ってんのか?」 虐おじ「お前、おじさんに嘘ついたんだぞ?なぁ。なぁオイ」 虐おじ「ホラ、仰向けになってみろ、な?」 虐おじ「今度は優しくヤってやるから」 虐おじ「優しく、可愛がってやるよ…な?」 (泣き笑うひで) (水分補給) ひで「ゲフゲフッ!ッカッ!ゲホゲホ!やだ…」 ひで「ナ゛ッ゛!止めて!」 (滴定おじさん) ひで「ゲホゲホ!」 虐おじ「おい、かかっただろ顔に!なぁ?」 虐おじ「まぁいいや…さっきのぉ(水分補給)とぉ…ン…(滴定)これ、どっちが美味い?」 ひで「…」 虐おじ「どっちが美味い」 ひで「ゲフッ…」 虐おじ「訊いてんだよ…」 虐おじ「訊いてんだよ小僧!」 (毒霧) ひで「グワ゛ー゛!!」 虐おじ「訊いてんだよ!なぁ!オラ」 (毒霧) 虐おじ「どうなんだよ、なぁ?YO」 虐おじ「ローランだ?おい」 虐おじ「ローランだよ?どっちが美味いのか?」 虐おじ「WA、忘れたか?どっちが美味いって訊いてんだよオラァ、おい!」 ひで「やめ…」 虐おじ「コラァ!」 ひで「やーだー」 虐おじ「何が嫌なんだよ…、何が嫌なんだよ、え?おい」 (ビンタ失敗、転がるボトルキャップくん) 虐おじ「何が嫌なんだよほら?」 ひで「うー…やだ止めて」 虐おじ「何が嫌なの?何を止めればいい?何が嫌なの?」 ひで「やだもぉ痛いの…」 虐おじ「痛いの止める?そっか、分かったじゃあ痛いの止めてやるよ、チッ、な?」 虐おじ「ホラ口開けてみろよ、ン、痛いの止めるからよ」 虐おじ「hお前、美味しいの…飲ませてやるからな」 ひで「やだぁ」 (原爆投下) 虐おじ「どうだ?どうなんだよ(素足でひでの顔を踏む)」 虐おじ「オメェよぉ、靴下汚れっからな~、ほら(両足でひでの顔を踏む)」 ひで「わぁ~はぁ~ヤダ~~ヤダ止めてもぉ!!」 虐おじ「どうでちゅか~?(豹変)」 ひで「あ^~~もう止めて~」 虐おじ「ん?止めてじゃないよ、ホラ」 (毒霧) ひで「ウガ!もういや…」 虐おじ「m…、m…、顔向けてみぃやオイオラァ、な?YO…コラ…起き上がってみろ、NA?」 虐おじ「いい面になったなぁ?ほら」 (不幸せなキス) ひで「ン゛ン゛ン゛ン゛ン゛~~!(ドンドンドン)」 虐おじ「いい面しやがってオラァ…///」 (不幸せなキス) ひで「ハァ…ハァ…ハァ…ハァ…ハァ…スゥ…ハァ…ハァ…」 ~~鞭編~~ (ペットボトルを蹴倒す) 虐おじ「次これ。これ…これね?」 虐おじ「OK?」 ひで「ヤダ…」 虐おじ「OK牧場?(激寒)」 ひで「ヤダ」 虐おじ「おお~いッッ!!!!」 ひで「アッーー!!いってぇ…(素)」 (フェードアウト) ひで「あー痛ったい痛い痛゛い゛!!!!!!」 ひで「ネイッタイ、チョットモウイッタイナモウ…」 虐おじ「ほら」 ひで「ね~もう痛ッいよも゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛!!!」 虐おじ「そっち行くんだったらやる、やろうやろうやろうなこれ!(高速ウェポンチェンジ)これな!やるねコレ!!」 ひで「イッ!!!(マジギレ)」 虐おじ「じゃあこっち来いよ(フェードアウト)」 ひで「ね~痛゛い゛痛゛い゛痛゛い゛!痛い…(カメラのある方向へ逃げるひで)」 虐おじ「ほら、そっち、そっち行ったらやる、やるぞお前?」 ひで「ネーモウ…」 虐おじ「やるぞそっち行ったら?」 虐おじ「じゃあこれ(竹刀を出す)」 ひで「モーヤダーモー…」 ひで「ウァッーいったい!!」 ひで「あ゛あ゛あ゛あ゛ あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」 虐おじ「真ん中来いよ!」 ひで「もうイッタイ!」 虐おじ「え!?真ん中来いよおi(フェードアウト)」 虐おじ「ウェーイ!!ウェーイ!!」 ひで「あー痛゛い゛!!あ゛あ゛ーちょっ…あ゛あ゛あ゛あ゛ あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」(音声編集) ひで「ああ痛゛ッ゛た゛い゛もう!!…ッハ…」 ひで「ねーもーイタインダヨォモォ…」 虐おじ「掴むな…汚れるんだよスーツが(倒置法)」 ひで「ねぇ…あーもう痛い…」 虐おじ「え?ホラ」 ひで「イタイ…イタイ…」 虐おじ「バカにしてんじゃないぞ?」 虐おじ「はい一!二!三!四!五!六!七!七離せよオーイ!!」 ひで「ライモーン…」 虐おじ「オーイオラァ!」 ひで「痛いんだよ!モ、ね~もうやだもー!」 虐おじ「そういうことやるから終わらなーい!(メタ発言)」 ひで「ねイタいーもう!!!イッタいよもう!」 ひで「ね理解った理解った理解ったよもう!!!」 虐おじ「こっち来いよ…こっち来いよ…」(音声編集) ひで「ねーホモ…ねーホモ…」(音声編集) ひで「痛いんだよおおおおおおおおおおおお!!!!も゛お゛お゛お゛お゛お゛!!!(マジギレ)」 虐おじ「鞭痛いのは分かってんだよおいオラァ!!!!」 虐おじ「YO!!!!」 (怯むひで) ひで「痛い↑痛い→痛い↓」 虐おじ「1,2…」 虐おじ「掴んだら×2(かけるに)な!掴んだら×2!」 ひで「ヤハァ!やーだ!」 ひで「イタイイタイィー…愛でたい…(震え声)」 虐おじ「イチts~…、ニ~…」 ひで「あ^^~~!あーイタいイタい、イイタイ!」 虐おじ「サン!」 ひで「イィィィィ…」 虐おじ「ヨン!」 ひで「イッタい!!」 虐おじ「GO!」 ひで「あー!」 虐おじ「こっち来いよ!!」 ひで「痛ったいっスよもお~…イッタイ…(ドタバタドタバタ)」 虐おじ「真ん中来いy…(フェードアウト)」 ひで「いDIEDIEDIEDIEDIE!!!!!」 ひで「あ゛あ゛あ゛あ゛痛゛い゛↑!あー!エハ!」 ひで「出会いたい!!(出会い厨)」 ひで「アァ…アーボ…」 ひで「あ゛あ゛あ゛!レモン止めてぇ(アンチYNZKNS)ねーもうホント痛い!」 ~~乳首責め・蝋燭編~~ (布団に包まって咽び泣くひで) ひで「ね、やーだ…」 (布団を剝がす) 虐おじ「ほら。顔向けろ」 ひで「ヤダ…」 虐おじ「顔向けろよホラ」 ひで「ヤダ!」 虐おじ「嫌なのか?言うこと聞かないんだな?(鞭をちらつかせるおじさん)」 ひで「ねー分かったそれヤダ!分かった…」 虐おじ「言うこと聞かないんだな?」 ひで「ワカッタワカッタ…」 虐おじ「これ…」 ひで「ヤダ…」 虐おじ「じゃあ…ホラ、布団(を剝がす)」 虐おじ「座れ?」 虐おじ『──────枕に生を、背もたれに死を』(宝具詠唱) 虐おじ「座れ」 虐おじ「もっとほら、乳首見せろ、な?乳首見してみろほら」 虐おじ「ほら、これ」 ひで「ヤダ…」 虐おじ「さっきのよりマシだろ?な?ホラ」 ひで「ン…ィタイィタイ…」 キュ…(乳首クリップ装着) 虐おじ「あ^~」 ひで「イテテ」 ひで「アー…イrイ…ぬh…」 虐おじ「もう一個…ね、もう一個。ここ着けるから」 虐おじ「これ、鰻重」 (二の腕で乳首を防御するひで) 虐おじ「ほら(腕をどけるしぐさ)」 ひで「ヤダ…」 (鞭を出され、ひで露骨に嫌がる) ひで「ワカッt…」 虐おじ「どっちがいい?」 虐おじ「じゃあ辛抱しろよ~ちょっと…オラ」 ひで「うぅ…あ^~…」 虐おじ「似合ってるな、な?お似合いだな」 虐おじ「なんだよその反抗的な目は?なぁ…」 ひで「やだy…」 虐おじ「反抗的な目はなんだ?」 虐おじ「言うこと聞く気がないのか?」 ひで「キクユウコトキクカラヤダ…(矛盾)」 虐おじ「じゃあそこ来いよほら。ここに、こっち来てみろ、じゃあ。な?」 虐おじ「今聞くって言ったよな?今。聞く、って言ったよな?」 虐おじ「よし…そこ、ここ(床)に寝てみろ」 ひで「アアイ…」 虐おじ「仰向けになって…」 ひで「モウイタィ…」 虐おじ「ほら(鞭を見せる)早く寝ろよ!」 ひで「イヌァイ…」 (蠟燭を準備) 虐おじ「これ何か分かる?何だか分かる、これ?何だか分かるこれ?」 虐おじ「蝋燭」 (着火) ひで「ねー嫌、ヤ、ヤダ!ん…」 (バタバタ) 虐おじ「ちょっ…(小声)」 ひで「アァっ…、アア!(バタバタ)」 ひで「ヌア!アツゥイ!!!」 ひで「アー…アツゥイ…、あー…あー…ねえアツいヤダ!」 虐おじ「ロウが少し垂れただけだロウ(激寒)」 ひで「エア!アツゥイ!!!ア゛ア゛ツイアツい!あ^~!」 ひで「アツイ!アッツイアッィアッィ!ア↑ーツイ!ア↑ーツイ!あ^~!アッツイアツイ…」 ひで「t…ィーアッツイ…ベン・ハーが熱いよぉ…」 ひで「アツイアツイ!ねーちょっアッツいねんそれ!(関西弁)アーツイ!」 ひで「あーついねー!あああついYOー!!アツツ…あ^~」 虐おじ「ほら、顔にかかるぞ?なあ」 ひで「あ^~~!アッツイ!アツイ!ちょ…アツゥイ!アツイ…」 (蝋燭増量) ひで「ねーやだアツイィ~!」 ひで「アツイ!…あ~!あ~!ア゛!ツ゛!ヒ゛!あああ!!!」 ひで「っワ…ウーウー…」 ひで「熱いユ~!!!(適温)」 ひで「あ~!…ア゛!ツ゛!イ゛!アツイ!!あ↑あ→あ↓ハァハァ…アッツァツァ…アッツ…」 (鞭を出す) ひで「ヤダヤダ…あ゛ーー!!(ドタバタ)」 虐おじ「動いたら叩くぞ」 ひで「ヤダ…ウーウー…あ゛あ゛あ゛あ゛つ゛い゛い゛い゛!」 虐おじ「動いたら叩くぞ!」 ひで「ひゃだぁぁ~~…う~、あああ~、アツゥイ…」 (うつぶせにされるひで) ひで「アッハァあ゛つ゛↑い゛い゛い゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛(ビブラート)」 ひで「あ゛あ゛あ゛あ゛つ゛い゛、あ゛あ゛あ゛あ゛も゛う゛や゛だ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」 ひで「あ゛あ゛つ゛い゛い゛い゛い゛い゛(ドタドタドタドタ…)」 ひで「あ゛あ゛は゛は゛www」 (TNK蝋責め) ひで「ヤダ!ねーヒャダヒャダ!!アアツイ!!あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」 ひで「う゛!!うー!ハァッ!ヤダ!あ゛あ゛っ゛は゛!う゛!あ゛あ゛アツゥイ!」 虐おじ「真っ赤にしてやるよ今これから(共産主義革命)」 ひで「あ゛ー!う゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛アツゥイ!ああ!ネモーヤダ…」 虐おじ「真っ赤っ赤にしてやるよ」 ひで「あ…、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!う゛う゛!」 虐おじ「ほら動くと、動くと当たらないだろ?」 ひで「ヒエェーーーーーーーー!!!」 虐おじ「動くと当たらないだろぉ!?」 虐おじ「脚ホラ、掴んでホラ、ケツ見してみろ、ケツの…、もっと、クッっとホラ…」 虐おじ「あ、いいよ?聞かないんだったら…(鞭)」 ひで「ヤァキクキクキクキク…」(まんぐり返し) 虐おじ「自分でホラ、ちゃんと押さえて」 ひで「ねーヤダヤダ!!ヤダ!!!ねヤダそれイ→タ↑イ→イ↑タ↓イ→イ↑タ→イ↓」 ひで「やだああああああああああああああああああああああああああ!!!!」 ひで「うう!!うわあああ!!!あああああああ!!!イタイ…」 ひで「ゲホ…イヤヤダキク…Get it!」 虐おじ「ホラ…、5,4,3,…」(まんぐり返し) ひで「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!ぐわああああああああああああ!!」 ひで「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っつ゛う゛う゛う゛う゛う゛!!あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛は゛痛い!!」 ひで「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!はあ゛あ゛あ゛!あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!ハ!あ゛!あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!はあ゛!」 ひで「ヤダッキッヤダッユウコトキクネッチョ、ユ゛ウ゛コ゛ト゛キ゛ク゛カ゛ラ゛ヤ゛メ゛テ゛!!!(高速詠唱)」 虐おじ「聞くっつって聞かないだルルォさっきからァ!?言うこと聞かないだろぉ!?」 ひで「ヤダ、ネー、ヤ・メ・テ・ヨ、ニャカッタ!!」 ひで「…わあああああはぁ…」 虐おじ「5,4,3,2,…」(まんぐり返し) ひで「ううううう!…」 ひで「ア゛!!(スタッカート)」 ひで「ゲフゲフ…イ゛ヤ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!」 ひで「ア゛ア゛痛゛い゛!!あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛hあ゛あ゛あ゛あ゛」 ひで「あ゛あ゛あ゛あ゛も゛う゛!!(ドンドンドン)あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」 ひで「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛も゛う゛や゛だ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!」 ひで「や゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ん゛も゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛!!!!!」 ひで「ヘアッハ…やっ…ハッーーハッハッハッハッハwww…」 虐おじ「起立」 ひで「あ^~もう…ハァ…ハァ…ハァ…」 (疲れたアピールをするひで) 虐おじ「気を付け。俺に見してみろ」 ブゥゥゥゥゥーーーン… 虐おじ「ほら、ちゃんと顔上げて」 ひで「ハァイ…ウッゥ…」 虐おじ「一回転してみろ」 ブゥゥゥゥゥーーーン… 虐おじ「ちゃんと回らないなら(鞭)」 ひで「ヤ!ヤダヤダ…」 ひで「ねやだやめて叩かないで!叩かないでよ!」 虐おじ「やれよじゃあ!!!」 キン!(謎の金属音、通称ヤメチクリウム合金) ひで「ゲフッ…」 虐おじ「一周、しろよ」 ひで「アイ…アイ…」 虐おじ「もう一周しろよ」 ひで「アイ…」 虐おじ「ゆっくり回れよ?見えないだろ」 ひで「ハァ…ハァ…ハァ…」 虐おじ「あぁ^~良い色に染まったなぁ…」 ~~ご奉仕編~~ 虐おじ「おぅ、おじさんを気持ちよくさせることができたらなぁ、とっておきのご褒美…やるよ」 ひで「ほんとぉ?(狂気)」 虐おじ「おう、本当だよ。お前と違って嘘つかないからな、おじさんは(皮肉)」 虐おじ「(ペシ)よし…」 虐おじ「その代わり気持ちよくできなかったら…どうなるか分かるな?な?」 ひで「ハイ…」 虐おじ「じゃあお前脱がせろよ、ズボン」 虐おじ「ハァー(クソデカため息)、チッ」 虐おじ「汚れたこれ(ズボン)も、後でどうにかしてもらうからな」 (ひで、しゃぶり始める) 虐おじ「オラァ…足先からやれよ、こっから。舐め上げてこいよ」 平野「(ブツブツブツ)」 虐おじ「ちゃんとやれよ?」 (股間まで来たところで再びしゃぶり出す) 虐おじ「…バカヤロお前、右もやれよ右も」 (TNKを遠ざけられ、右足先からやり直し) 虐おじ「舐め上げてこいよ」 (舐め終え、フェラ再開) 虐おじ「ンー…アァ…(恍惚)」 虐おじ「じゃあ上も舐めてみろほら、乳首も舐めてみろほら?ん?」 虐おじ「…チョット待って、ボタン外してみろ」 (おじさんは上から、ひでは下からシャツのボタンを外していく) 虐おじ「ほら、ちゃんと咥えろよほら」 虐おじ「チンタラチンタラ舐めて…激しくオラ、やれよオラ。おぅ」 ギュイ!…ギュイ!…ギュイ!… ひで「ゲホッ…ゲホッ…」 虐おじ「ゴホゴホじゃねえよオラ、え?」 ギュイ!…ギュイ!… ひで「ゴホッ」 虐おじ「ほらどうしたほら、オラァ…(イラマ)」 ひで「ゲホゲホ…ンン…アァ…」 虐おじ「気持ちよくねえんだよオラ…」 虐おじ「おじさんなんて言った?」 ひで「気持ちよくしろって…」 虐おじ「気持ちよくできましたか?」 ひで「ハァ…出来ませんでした…」 虐おじ「でしょ?…」 虐おじ「じゃあオラオラ来いよオラァ!!!!(豹変)」 (ドタバタドタバタ) ~~便所掃除編~~ 虐おじ「オラァ…チッ!…」 ひで「止め!止めて!ヤダヤダ!ウッ!ウッ!」 虐おじ「ほら顔つけろこの周り」 虐おじ「ホラァー!(水洗)」 ひで「あああ!!ウッ!ウッ!嫌!」 虐おじ「オラ、つけろオラ!」 虐おじ「えーオラ、どうなんだよオイオラ!え?」 ひで「止めて!」 虐おじ「オラつけろよホラ、オラ」 虐おじ「ほらお前騒がないでじっとしてろよ、なぁオイ」 ひで「あー、あー!あー止めて^~!!あー、あー、あー…」 虐おじ「顔上げろ、顔」 虐おじ「お前ちょっと周り舐めてみろオラ、掃除。オラ便所掃除しろお前。なぁ」 ひで「ハァ…ハァ…」 虐おじ「悪い子は便所掃除だよお前」 ひで「ヤダ!」 虐おじ「ほら、まわ、まわ…」 ひで「ヤダ」 虐おじ「汚えからよお前、一週間ぐらい今日洗ってねえから。洗えよおい、なぁ」 虐おじ「やれよ早くおいオラァ!周り、ホラ、周り舐めろおいホラ」 ひで「あ^~」 虐おじ「ホラ、どうなんだホラ、え?」 虐おじ「逆も然りほら、周り、しっかり、便所掃除しろしっかりホラ」 ひで「イヤ、ウーン」 虐おじ「お前便所掃除なんかやったことないだろお前!なぁ」 虐おじ「ちゃんとキレイにしろよオイ」 虐おじ「ほら、ここもほら!真ん中の方もやれよホラ」 ひで「ブホー」 虐おじ「ホラ中もやれ那珂も(水洗)」 ひで「ああああ!ウウ冷たい!」 虐おじ「ほら、え?」 ひで「あーははー…ヤダ…」 虐おじ「どうなんだよホラ」 ひで「アッー…アッー!アッー!アッー!ウッー!」 虐おじ「掃除しろちゃんとホラ!」 ひで「や^~!」 虐おじ「周りやれよ」(音声編集によりセリフが途切れている?) 虐おじ「えぇ?おいゴラァ、顔上げろ」 虐おじ「お前こん中にケツ突っ込め、な?おい」 虐おじ「やれよほら!早くやるんだよォ!」 ひで「アーイtt…」 虐おじ「ほら、ケツ…突っ込めよ」 ひで「アー、イタイ…」 虐おじ「ケツ突っ込めっつてんだよなぁ、分かる?『突っ込め!』」 ひで「ウー☆」 虐おじ「突っ込めって言ってんの!ね!?突っ込めって言ってんだよ!!!(特攻隊)」 ひで「も、入んない…」 虐おじ「入んねぇのか?(落胆)」 虐おじ「お前アレ…口答えするんだな?」 虐おじ「まぁいいやお前…、今日から…、便器だな(就職内定)」 虐おじ「…ホラ、何だ今の反抗的な目はァ~~!」 (ションベンをかけられるひで) ひで「ん…んあー…」 虐おじ「あ^~~~!オラ、オラw」 虐おじ「なんだこの手!なんだこの手ぇは!?(驚愕)」 虐おじ「ウォラ、送辞」 ひで「んあー!」 虐おじ「舐めろ」 ひで「オー、オー、オー、オー、ンー!ん…ンー…ンー…」 虐おじ「きったねぇおめぇ」 ~~お風呂編~~ 虐おじ「え、入れよオラ、ホラ」 虐おじ「水。張っといたからお前の為に」 ひで「ハイ」 虐おじ「ホラ、入れ。モタモタしてんじゃねーよ」 ひで「アーツメタイ、ヌァ、あぁ^~」 虐おじ「あーホラ、『あぁ^~』じゃなくてホラww」 (水風呂にひでを押し込む) ひで「アーツメタイ…アーツメタイ!!アー!アー!アー!ア!アー!ウー!ウ!ファ…、止めて!ハァ…ハァハァハァ…あぁ^~ツッ!う~わーもう!ア↑ー!」 ひで「…ア!ウ!」 虐おじ「あた、頭もホラ」 ひで「アー!アッアッアッアッアッアッハッハッあーもう…」 虐おじ「よしー。こっち向いてみ?こっち向いて?ホラこっち向け?」 (オードリーWKBYS) ひで「うわぁ!ハァ!ハァ!ハァ!ハァ!あーもう…」 ひで「おbgrrrr…あー、ペプシ…」 虐おじ「ペプシじゃねえ!ほら頭洗ってやるよ(親切)」 ひで「bgrrr…苦しっ…(ぜかまし)(だらしねぇ(レ))」 虐おじ「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!」 ひで「brrrgg!!」 虐おじ「オラァ!!」 ひで「ああ逃れられない!(カルマ)ねーヤダ…ああ…」 虐おじ「ホラァ!」 ひで「ハァ!ウ!ウ!ウ!ウ!ウ!…プ、…ブワァァァァア!ヤダ…」 虐おじ「ほら頭洗ってやるよ」(音声編集によりセリフが途切れている?) 虐おじ「汚いだろォ!」 ひで「ヤー↑!ヤー↑!ウゥ~!ウァー!ハァハァ…ウ!ハァハァハァ…」 (ひでの頭を水風呂に沈めようとするおじさん) ひで「わかったわかったダイエー!」 ひで「ダイナマイッ!!」 虐おじ「ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ゥ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!」 ひで「あああヤバイ!」 虐おじ「ア゛ア゛ア゛ーーーー!!」 ひで「ヤダホントに…」 虐おじ「ウ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!」 ひで「hm…」 (結局力負けして沈められず。一瞬の静寂) ひで「ブワァァァアア!!アァ!」 虐おじ「じゃあ束子で洗ってやるからな、えぇ?ほら」 ひで「ハァハァハァハァハァ…」 虐おじ「気持ちよかっただろ?」 虐おじ「束子、ほら」 ひで「アー☆ウー☆ハァ☆ウー☆ウゥ↓☆…ハァ」 虐おじ「(蝋)落としてやるからな。ほら」 ひで「ハァ…ハァ…ハァ…ア゛ア゛、ハァ…ハァ…アァ…ハァ…ウ゛ウ゛!ウ゛ー!、イテ…ウ゛ー!」 虐おじ「ついてんじゃねーかここに(太もも)」 ひで「ウー!ウー!ハァ…ハァ…ハァ…」 虐おじ「いっぱいついてるよ、ホラ?後ろ向け後ろ」 ひで「ウ゛ー!ウ゛ー!ウ゛ー!ン゛ン゛!ウワァ!アッー!ウワァ!ウー↑!ウハァハァハァ」 虐おじ「動くんじゃないよ、前向け前!(ダブルバインド)」 ひで「ハァハァ、ウワアアア!!ウウ…うわああ!あああああいt…ゥウーわああhああああwww!」 ひで「うわああああ!ああああ!うわ!ヘアッハ!あああ↑あああああ(ラックに頭をぶつける)イデッ!ああっは…」 虐おじ「暴れると痛いぞ~(アドリブ)」 ひで「うううわああああ!うううう!えあああああ!うううううハァハァ…、ヘァヘァ!」 虐おじ「ついてンだろ腹に!」 ひで「ング!ン゛ン゛ン゛!あああ!」 虐おじ「腹についてるだろ!」 ひで「ングアア!ヘアッハ!ンアアア!…ア゛ア゛!ヘフうううう!ヘフへフヘフ…」 虐おじ「ほらほら、手どけろ手!」 ひで「ウ゛ワ゛!う↑ぅ↑!(円谷プロ作品特有のやられモーション)痛ッァい!」 ひで「いっt…」 虐おじ「ホラ!」 虐おじ「ポコチンの方も、ほら、ほら(露骨に手加減)」 ひで「う…う゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!デュフ、いt、いt、うわああは、ヘフへフへフへフ…」 虐おじ「オルルァどうした(KRDTKY)」 ひで「う゛う゛う゛う゛う゛!うーいt…ハァハァハァハァ…あ^~イタイイタイイタイ↑痛い痛゛い゛!痛い!あぁ!?」 虐おじ「あぁほら、良かったな、ほら」 虐おじ「自分から入っていくのか…(困惑)」 ひで「あ~、あっスイマセン(素)」 ひで「gbrrrrr… ブワァァァァアァァ!ハァハァハァ…」 虐おじ「良かったな、ホラ、お疲れー^^(浸かれー)」 ひで「ウゥ!ふぅわ!ふぅわああああーーー!ヘフふわあああああ!うわああああヘフふわあああああ!ハァ…ハァ…」 虐おじ「20秒ね?」 (シャワー開始) ひで「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!う゛!あ゛!あ゛!ゲフゲフ…あ゛!ゲフあ゛!ゲフあ゛!あ゛!あ゛!ドゥフ…」 虐おじ「…3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13」 ひで「ヘゥ゛!ヘゥ゛!ヘゥ゛!ヘゥ゛!ヘゥ゛!ヘゥ゛!ヘゥ゛!ヘゥ゛!ヘゥ゛!ヘゥ゛!お!お!お!」 ひで「溺れる!溺れる!!」 虐おじ「14,15,16,17,18,19…」 ひで「ウワァ!ハ!ハ!ハ!ハ!ハ!アァ↑!アァ↑!アァ↑!…」 ひで「ハァ…ハァ…ハァ…ハァ…ハァ…ハァ…ハァ…ハァ…ハァ…」 ひで「アーボ…(二匹目)」 ひで「ハァ…ハァ…ハァ…ハァ…ハァ…ハァ…ハァ…ハァ…ハァ…」 ~~肛虐編~~ (まんぐり返しで柱に縛られているひで) ひで「何すんの?」 虐おじ「挿れてやるからよ…」 (ひでのケツ穴にローションを垂らす) ひで「あっ…///…ん…ん、あー」 虐おじ「どうだ?」 ひで「イタイー」 虐おじ「痛い?」 ひで「ウー、あー…あー…あ…」 虐おじ「これな?(アナルビーズを見せる)」 ひで「そんなの…入んないよぅ…」 虐おじ「ん?(聞き取り困難)入るだろ?」 ひで「ハインナイ…」 田舎少年「うわああああああああああああああああああああ!」 虐おじ「“上”が騒がしくなってきたな…」 田舎少年「うわああああああああああああああああああああ!」 ひで「う、あーーあーあーー…」 虐おじ「あ↑ぁ↓゜…」 ひで「アーーーーうわぁーーー!」 ひで「ナァ^~~!」 虐おじ「ほっ」 田舎少年「うわああああああああああああああああああああ!」 ひで「ねぇちょっと痛い!ねぇニコは要んない!(エグゼイドアンチ)」 虐おじ「えぇ…?(困惑)入んねぇのか?」 ひで「ぬん…」 田舎少年「うわああああああああああああああああああああ!」 虐おじ「頑張ってみようか?」 ひで「やー無理…ねぇニコ…nコ入んない…エンリコ・ハインナイ!」 ひで「あー!うー!あー!ああああああ…あああああーーーーァァァァ…うううーーー…(ここでアナルビーズが引き抜かれる)うああ!ハァ、ハァ、ハァ…ハァ」 ひで「ねぇもう…(ディルド登場)…あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」 ひで「あーツモッ、うースムージー、うー☆、うー☆、あ゛あ゛!であああ」 ひで「ああ!うう ケホ…ヌフ…ああ!…ああ!…あー↓…うー↓…ドゥー↓」 虐おじ「ほらどうした、ほら力抜け?力抜けほら、ホラホラホラ」 (マスターソード) ひで「うー↓、あぁ^~~グルジア~~!」 虐おじ「挿入ったぞ?」 ひで「あ~!うー↓、あー!ああ↑あ!オォ…オォォォ!」 ひで「あー!ライララライ!痛い…ッグ、あーちょっと…」 虐おじ「自分でやってみろ」 ひで「痛いにょ(DGK)」 虐おじ「自分で挿し入れ…」 ひで「アー痛゛ぃ゛の゛!!(半ギレ)ネーヌイテェもう!ねぇ痛い、本当痛いんだってぇ…ねーもう!」 虐おじ「自分らしい自分を…(自分で出し入れしてみろ)」 ひで「うっ!…ヌッ!うああ!うう、ううhあああ…」 (ひでの凄まじい形相のクローズアップ。通称ヤメチク・リー) ひで「あー…ハァ…ハァ…あ^~~~~~~!あ^~~~~~!」 虐おじ「え?痛いんだろ!?」 ひで「グリザイア~~~!!」 ひで「あーーー、ぐあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛、ぬっふーん、へあっはあ゛あ゛あ゛ん゛も゛お゛お゛お゛お゛!」 田舎少年「うわああああああああああああああああああああ!」」 ひで「んあ、ねううううううん!あー…うあー…」 (ディルドをひり出すひで) ひで「クソォ!(悪態)」 ひで「あー!あー!うあー!ハァ…ハァ…ハァ…」 ひで「ああ^~もうおしっこ出ちゃいそぉ!(池沼)」 虐おじ「出していいぞ」 ひで「そんなことしたらパパに怒られちゃうだろ!(父子家庭)」 虐おじ「怒られねーよ。なんてったってお前は便器だからな(ぼくビデ)」 虐おじ「ほら、出してみろよ」 虐おじ「ほら、出していいぞほら。ほら」 ひで「ヌ…ヌ…ヌア…うーあ」 虐おじ「キッタネェー、流石便器だなお前」 ひで「う…うーあ…ヌア…ヌア…うっ…ヌア…ヌッ!…ハァハァ…」 虐おじ「これ(酒瓶)何すると思う?これから」 ひで「やだ…」 虐おじ「何すると思う?これから」 虐おじ「ブチ込むんだよ」 ひで「ヤダ(食い気味)」 虐おじ「ん?何が嫌なんだ?」 ひで「ヤダ!」 虐おじ「何が嫌なのか言ってみろよ…こんなんじゃ足りないってか?」 ひで「yだ、ヤダヤダ!」 (酒瓶挿入) 虐おじ「えぇ…ほら」 ひで「う…ヌッ!」 虐おじ「ほら…ええおいほら?」 ひで「あっ…///…うー↑…あっ…///…うー↑…あっ…///…あああ//…あk//…あ、あー!、あー!、あー!あー!あー!ううやだああ~!」 虐おじ「オルァ…(グリグリ)」 ひで「あー!あ!あー!あー…あー…あー!」 虐おじ「ちょっとずつ入ってきてるよ…ほら」 ひで「あー…あー…あー!あー↓あー…」 虐おじ「えぇ…(ペシペシペシペシ)」 ~~大スカ編~~ 虐おじ「お前、うんこ出たな?うんこ塗ってやるよじゃあ(狂気)」 ひで「やだ!やだ!ねぇ小生やだ!やだ↑やだ↑↑や~~↑↑↑ハフハフ…」 ひで「ねーホントムリムリムリムリ、ねぇ、やー、ふー、うー、ああーッ!!」 ひで「ぎゅっ!うゎー!すた丼…」 ひで「ゲホッ…ゲホッ…う~わ゛~~!ゲホッ、オエ…オエ、ゲッホゲッホ!!!」 ひで「ア゛、ヴォエ!!うわあ~、や゛~!!ねーやだぁーやだ!」 ひで「ネプッ!嫌~~~!う~~h~~…うー!うー!うー、ゲホ…ゲホォェ…」 ひで「ヴヴヴヴォォォォエ!!!!」 虐おじ「えぇ…(ドン引き)」 ひで「ネームリムリ!うー☆うー☆…やだ~~~ううううう~~~~!嫌~!」 虐おじ「くっせぇなオメェ…」 ひで「あ~~~~~!」 虐おじ「ナンダオマエ!クッソォ…(ひでを消臭)」 ひで「う…う…ヴォエ!ヴォエ!ゲホゲホゲホ!…ヴォエ!ヴォェ…ヴォ…ヴォ…ヴォエエエ!!!」 ~~ホモの抜きどころ~~ 虐おじ「し~~~、おぅ…おぉ…」 ひで「イテテッテ」 虐おじ「おう今まで頑張ったからご褒美あげるよ」 虐おじ「な?ほら、手ついてみろもっと下に、言うこと聞けよ?ほら」 ひで「ハイ」 虐おじ「もっと下についてみろ、手」 (後背位で犯されるひで) ひで「これが、ご褒美なの?なんか犯されてるよぉ…?あぁ///…」 (ベッドで深山のような体位になる) 虐おじ「脚脚ほら、持てよ脚…」 虐おじ「ちゃんと締めろよほら、もっとほら」 (頭を何度も上げ下げするひで) 虐おじ「ほら、えぇ?自分でシゴいてみろよ…」 虐おじ「ほら…どうなんだよホラ、え?」 ひで「あー苦し」 虐おじ「死ねよ(直球)」 ひで「クルシッ」 ひで「あーイく(棒読み)」 ひで「あーイく(2カメ)」 虐おじ「あー出てるよなんか、お前先イったんだろォ…(ねっとり)」 虐おじ「オォ…×N」 (ひでに顔射する虐待おじさん) 虐おじ「スーハースーハー」 (精子をひでの顔中に擦り付ける) ひで「ンンンンンンンンンンン…」 ~~終幕~~ 虐おじ「こっち来い…」 ひで「うん、ナ…」 (窓際に連れて行かれるひで) 窓「ガラガラガラガラガラガラガラガラ…」 窓「ピシッ!!!」 (自分から締め出されるひで) ひで「ねぇ助けて、ね、TAS…助けて入れて!(ガンガンガンガンガン…)」 窓「ピシッ!!!」 ひで「ねぇ寒い入れてよぉ…入れてってばぁ…n(ガンガンガンガンガン…)」 (即死カーテン君) 虐おじ「はぁぁ…」 窓「ガンガン…」
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「どぅですかー、男さん?」 「ああ、似合ってると思うよ.....うん」 壁に貼りまくられたアニメの特定のキャラクターポスター。 うん、これは俺が声優を当てさせてもらったキャラクターだ。 最終話の収録も終わって、俺はここに拉致られていたんだ。 この可愛らしい女子高校生に。 さっき目を覚ましてからずっとコスプレ自慢されてる気がする。 はぁ、ここは日本だよな? ーーーー1 「貴方、まさか男さんdeathか!?」 「ああ、うん。そうだよ」 最終話の収録は三時間にも及んだ。正直とても疲れた。 その帰り道に後ろから声を掛けられ、質問に答えると、 「んっもっふ!」 いきなり下顎に星砕きと彫られた木刀でどつかれた。 三半規管が麻痺したとか、脳が揺れる前に俺は気絶して。 気付いたらココに連れて来られてた訳だ。 世紀末にもほどがあるな、ペリー。 「男さん」 「はい?」 「呼んでみてください!」 「は?」 「call my name!私の名前を呼んでみて下さい!」 は?さっきからなんなんだ?この子?名前なんか知らないぞ。 「あ、名前まだ教えてなかったね!私、パトリシア・マーティン、皆からはパティって呼ばれてるNE!」 自己紹介しちゃったよ、この人。 「えっと、パティ.....さん?」 パティは嬉しそうに悶えながら、俺に抱きつく。 .....結構胸大きいな。 「うん!声優の時の声もgoodだったけど、やっぱり地声もいいNE!男!」 「はぁ。どうも、ありがとうございます」 いきなり過ぎて頭が痛いな。顎もなんか腫れてるし。 「パティさん」 「ん?どうしたか?男?」 「これ解いてよ、顎も痛いし」 「oh-!sorryでもそれは出来ないね」 「なんで?」 「これから、私が男の面倒をみるからだYO!」 なん...だと..? ーーーー2 「あの、それは困るんですけど.....」 「お願いします、前からずっとファンだったです!」 そんな顔で言われても.....。 「あ、事務所にはcallしときましたから、ダイジョウブね!」 「え!ええ!?」 「二週間も休みくれるなんてイイ事務所ね!」 それは俺の春休みだ..... 「さて、食わねば戦も何とやら、さっそくファーストブレイクNE!」 以外にもパティさんが作る飯は美味かった。 朝食はバタートースト、昼食は作りオムライス。晩飯はビーフシチューとサラダ。 それにパティさんは家事も全部そつなくこなす、以外にしっかりした娘だった。 俺が監禁されて三日目、俺はそろそろ縄を解くために説得を開始した。 「パティさん、学校は行かなくて平気なの?」 「もーまんたいNE、男!あと一週間は一緒にいられるね!」 タオルを畳みながらパティさんは嬉しそうに笑う。 なんか言いづらいな。 「男!」 「うわっ!」 タオルを畳み終えたパティさんがいきなり抱きついてくる。 「うー、男の匂いだー!」 「ごめんなさい、臭いでしょ?」 「そろそろ、お風呂にも入らないとNE!」 「は?」 ーーーー3 背中をスクール水着を着た外国人が洗ってくれてる。 正直、My sunが半立ちです。 「湯加減はいかがですかー」 「それはお風呂に入ってから言うんですよww」 「realy!?本当ですか!?」 「はい」 「うーん、さすがジャパンは奥が不快ね」 「そのイントネーションおかしいです”不快”じゃなくて”深い”ですよww」 「oh-、私としたことが、やっちゃたね」 パティは頭をコツンと叩くと、今度は俺のフロントを洗う。 嗚呼、スク水を考えた偉大な奴ちょっと来い。褒めてやるから。 「OH-男、元気だね!ダイジョウブじっとしててー」 パティはそう言ってウィンクすると俺の股間にしゃがみ込んで俺の息子を食らう。 つまり【検閲により削除】されている。 「お、おい!パティさん!?」 パティさんの上目遣い+ウィンクにもう息子はバキバキ。 「ちょっ、もう!」 「んふ、おーとこ」 逝く寸前に口から離される。 「ピンポンパンポーン!」 「なに!?」 「今日、四月十日は何の日でしょう?」 「は?」 そのまま、いきなり後ろに倒される。 パティさんは上に跨り、笑っていた。 「時間切れですー!」 パティさんは一気に腰を下した。 一番奥まで入ると同時に思い切り射精してしまった。 「アンサーは、私の危険日でしたー」 パティさんの中に納まりきらなかった精液が流れ出てくる。 「まだまだ、一週間絞りに絞ってあげますよー、男」 そう言うとパティさんは慣れない様子で腰を振り始めた。 「ダイジョウブですよ、男さん。ご飯の中にバイアグラをINしときましたから今夜はずっと二人でschool days出来ますよ!」 チクショウ、こうなったら言う言葉はたった一言しかない。 nice boat.
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拉致被害者関連情報―横田めぐみさん 注意:可能な限り修正しますが、後でガセだったと判明する可能性のある情報も含まれてしまっていることをご了承ください。1.拉致後の足取り 1977.11.15夕 バドミントン部の部活動を終え、帰宅途中に拉致 ↓ 1978.8~1979.11 曽我ひとみさんと同一招待所に暮らす. 平壌の招待所に曽我ひとみさんと同居。辛光洙から朝鮮語や歴史、物理や数学などを習う(曽我証言) cf 新潟では「めぐみさんは北朝鮮にいる」というウワサが流れる ↓1979~1986 蓮池薫・祐木子夫妻、地村保志・富貴恵夫妻、田口八重子さんと忠龍里(チョンリョンリ)で日本語教官 1982~83 18歳ごろ朝鮮語をマスターしても帰れないことがわかり精神を病む 工作員カン・ヨンイルの教育係に cf 新潟では「めぐみさんは北朝鮮から帰って入院している」というデマが流れる ↓ 1983末か84~86夏 田口八重子さんと同居 ~85? 工作員金淑姫(キム・スクヒ)の教育係 ↓ 1986.08.13 移り住んできた工作員の教え子キム・チョルジュン=英男と結婚 ↓1987 工作員金賢姫、妊娠中のめぐみさんに会う会ったのは84年 ↓ 1987.09.13 娘キム・ヘギョンさん出産 1988~1991 金正日政治軍事大学の日本語教官 ↓ 1990年代 日本にかえりたいとしきりに訴える(蓮池証言;日本人同士だとわかっていたことに注意) 1993春 夫、子供を連れて家を出て別居 (蓮池証言) ↓ 1994 逃亡(二度目) ↓ 1994.03 精神病院に監禁措置(引越手伝い:蓮池証言)↓1995~1997 金正日、高英姫の次男 正雲(当時14歳)の家庭教師 ↓ 1996~99 平壌の招待所で10名程度の集団で暮らす(南光植証言) ↓2002.6 カナダサミット後、10名程度の拉致した日本人を急遽ある場所からある場所へ移動させた2.北朝鮮側の発表まとめa 2002年9月17日 小泉訪朝時のもの ・1993年3月13日に死亡 ・キム・チョルジュンという夫、キム・ヘギョンという娘がいる ・ラケットの写真、めぐみさんの写真 <北朝鮮から提示された写真 1 >「横田めぐみさんの20歳頃の写真」と称するものb 2002年9月 日本政府調査団に対してのもの1. 朝鮮名:リュ・ミョンスク 2. 1964年10月5日生、当時13歳 3.本籍:東京都品川区 4.住所:新潟県新潟市 当時中学生 5.入国経緯:1977年11月15日、新潟市内で工作員が学校から帰宅途中の本人に会った。工作員は身辺の露出の危険性を感じ、露出を防ぐために同女を拉致した。特殊機関は、所属に関係なく軍事化されており、命令を実行した者は責任を問わないことになっているが、本件の実行犯は命令なく恣意的に行動した者であり、職務停止処分を受けている。 6.入国後の生活:1977年11月から1986年7月まで、招待所で朝鮮語、現実研究および現実体験をした。1986年8月13日結婚。 7.死亡の経緯:1993年3月13日、平壌市スンホ(勝湖)区域49予防院で精神病で死亡。 8.遺骸:墓のあったところは病院を通じて探している。 9.遺品:愛用のバドミントンのラケットと写真 10.家族:夫:キム・チョルジュ 41歳 会社員 娘:キム・ヘギョン 1987年9月13日生、 中学生 住所:万景台区域タンサン(堂上)洞 11.1988年頃から1991年にかけて金日成政治軍事大学において目撃証言があるとの話は事実無根であって虚偽の情報である。 12.18歳頃から精神的に不安定であったということについても根拠はない。結婚後、娘を産むまで精神的な所見はなかった。 (なお、入国直後、招待所で曽我ひとみさんと一緒に生活していた事実がある。) (注) 夫については、「政府関係者とは会う必要はないと思うが、両親が来た際には会えると思う」旨発言している旨代表団に説明があり、30日夕刻、同人からの書簡が代表団に手交された。c. キム・ヘギョンさんインタビュー 2002年10月25日 フジテレビ・朝日新聞・毎日新聞により10月25日に、北朝鮮が指定した条件で行われた、キム・ヘギョンさんのインタビュー。 全文はこちら→http //www34.atwiki.jp/kaikocyu19012001/pages/44.html ━━お母さんが病院で亡くなった時の記憶はありますか? 母が亡くなったのは6、7歳のときで幼くてあまり記憶はありません。お母さんが入院したとき、病気だということは知っていました。何度か面会に行くと喜んでくれました。 ━━手紙よりも来て会ってほしいと思います。お母さんが亡くなってから、おじいさん、おばあさんが生きているとは夢にも思いませんでした。9月17日に日本の方々からおじいさん、おばあさんが日本で暮らしていると聞いて、近いうちに会えると興奮しました。とてもうれしかったです。2回目もそうでした。おじいさん、おばあさんが来るって。3回目も4回目もそうでした。(でも)まだ来ることなく、同じ質問ばかりされて。きょうも来てくれると思っていたのに。おじいさん、おばあさん、本当に会いたいです。おじいさん、おばあさんがいるのが初めて分かり、顔も分からないのにどうしてこちらから行けるでしょうか。こちらに来てほしいと思います。 ━━日本に行けないのは新しいお母さんがいるためですか? 新しいお母さんが来てくれたのはありがたいこと。でもそれよりもなぜおじいさん、おばあさんが来てくれないのか分かりません。わたしには日本に来いと言っているのに。 質問の内容を決めたのは(やはりとういか)朝日サイドによる d.日朝実務者協議 2004年 北朝鮮側は02年9月に訪朝した政府調査団に対し、めぐみさんは「入院した後自殺した」と述べた。しかし死亡時期をめぐって説明が転々としたうえ、04年11月に第三回日朝実務者協議のため訪朝した政府代表団に対し、死亡確認書などの書類についても捏造したことを認めた。このとき、夫のキム・チョルジュンと名乗る男性が「横田めぐみさんの遺骨」とされる骨を日本側に渡したが、日本政府は鑑定の結果「別人のDNAが検出された」として別人と断定。北朝鮮側はこれに反論し、遺骨の返還を求めている。・物証―日本での生徒証1枚、自筆のメモ(略歴や家族関係)1枚、写真3枚、カルテの綴りの写し190頁、「遺骨」 ・死亡時期を訂正―93年3月死亡→94年4月13日に死亡 1.入国経緯:1977年11月15日夕方、任務を遂行し帰ろうとしていた工作員がめぐみさんと遭遇し、やむなく連れてきた。拉致は計画的ではなく、突発的な行為であった。入国地点は清津(チョンジン)。実行犯の工作員は、命令なく連れてきたことから職務停止処分を受け、その後復帰したが、2000年11月に脳出血で死亡した。 2.入国後の生活:1977年11月から1981年春までは精神的安定のため平壌の招待所で生活し、朝鮮語学習等を行った。1981年春から1986年8月までの間は、平壌郊外の招待所(平壌市順安区域の大腸里にある招待所。名前は特になく、今その招待所は使っていない。)で日本語教育に従事した。1981年から84年までの間は、田口八重子さんと一緒に生活していた。1993年4月29日から6月3日の間、8月3日からも695病院で入院治療を行った。93年9月21日までは695病院で治療を受けた。めぐみさんの精神状態を積極的に治療するため、94年3月、平壌市勝湖(スンホ)区域の49号予防院に入院させた。なお、前日まで義州の精神病院に入院させることも検討されたが、少し様子を見ようということでこの49号予防院に入院させた。 3.死亡の経緯:1994年3月10日から49号予防院に入院した後、4月13日午前10時頃、予防院を散歩中、近くの松の木で首をつって自殺した。担当の医師が一緒に散歩していたが、急用で医師は事務室に呼ばれ、目を離したところ、外ががやがやしていたので確認したところ、松の木で首をつって自殺していた。ひもは事前に衣類を裂いて作ったひもを用意していた。 4.患者死亡台帳への記載:患者死亡台帳における、めぐみさんの名前の記載は、今回の再調査により、後で書き込んだものであることが判明した。2002年8月頃、当該機関関係者が来て、台帳を求めたが、49号予防院には彼女の死亡を確認できる具体的日時を覚えている人がおらず、当該機関関係者が正確でない日時に基づき、死亡台帳を作成し、名前を書いておいたため、番号が重なった。 5.証人からの聴取等 ・入院していたとされる平壌49号予防院に出向き、担当医師と面談を行うとともに、病棟内、集合墓地区域等を視察した後、入院台帳を閲覧した。また、横田めぐみさんが生活していたとされる太陽洞招待所跡を実地踏査した。 ・夫とされるキム・チヨルジユン氏及び695病院の元医師から、当時の状況等に関する情報の聴取を行った ・物証=日本での生徒証1枚、自筆のメモ1枚、写真3枚遺骨―日本政府は別人のものと判断したが、科学警察研究所では判定不能。めぐみさんとは別人2人分のDNAが検出される。しかし、鑑定した先生がその後栄転したため「ネイチャー」から疑問が出た 写真―外務省によると画像合成の痕跡を示すものは認められていない<北朝鮮から提示された写真 2 > まさにご家族が探し求めていた、拉致された直後のものとされる写真 独身時代の写真その1。安明進によると金正日政治軍事大学のキャンパス内らしい。まあ、「20歳頃」に近い。いずれにせよその2よりかは明らかに年齢を重ねているように見える。 宮塚利雄助教授:北では一般人がマイカーをもっていることはなく、車は党や組織の所属。ましてやベンツに乗れる人は限られている。写真の車がベンツならめぐみさんが党幹部や軍幹部の監視下にあり、そのもとで送り迎えされていたことを示すのではないか 独身時代の写真その2 14~19歳ということもありえるのだがおいおい、どうみても「20歳頃の写真」より若いじゃねーかよ!e.金英男氏、家族と再会 06年6月29日 DNA鑑定で横田めぐみさんの娘キム・ヘギョンさんの父親である可能性が高いと判明した金英南(キム・ヨンナム)さんは78年、友人と海水浴にいった韓国南部の島で行方不明になった。97年、情報機関の国家安全企画部(現・国家情報院)は、スパイ容疑で逮捕した北朝鮮工作員の供述から英南さんが北朝鮮に拉致されていたことが判明したと発表。数年前に同様の情報を知らされてはいたが、改めて生存の可能性が浮上した。77~78年、英南さんを含め3件、5人の高校生が連れ去られた。6月29日、北朝鮮・金剛山で、金英男さんが母の崔桂月さん、姉の金英子さんと28年ぶりに再開し、会見した。金英男さんは、拉致ではなく北朝鮮に「救出された」、「めぐみさんは死亡した」などと発言した。 北朝鮮で韓国や日本のメディアを相手に会見に臨んだが、発言内容は北朝鮮の主張を繰り返すだけだった。 ・幼い時に事故に遭い、脳にひどい損傷を負った。頭痛が多く治らなかった ・妻として、母として家庭生活を送れない精神疾患に至り、専門病院で治療したがうまくいかず、94年4月13日に死亡した ・何度も自殺を図っていた ・ご両親にお会いする機会があれば、めぐみの生活に関してより具体的なお話を申し上げる<北朝鮮から提示された写真 3 > 金英男氏が提供した合成くささを漂わせる写真 ヘギョンさん(左)とめぐみさん。左上はちと修正。やはり「20歳頃の写真」よりは若いように見える。しかし、男達が嬉しそうに話す理由がわかるな~3.証言等まとめ いつの時点でどんな話が出ていたか。 情報が入り次第追加修正し続けますが、不完全かつ不正確なものなので過度にあてにしないように97年~小泉訪朝以前 1 1994年末に韓国に亡命した工作員(氏名不詳)からの伝聞情報 95年 2 安明進が指導員から聞いた情報 3 金賢姫が招待所の世話係のおばさんから聞いた情報 www34.atwiki.jp/kaikocyu19012001/pages/37.html 4 日本国際交流機構代表団団長、本多一夫の証言 『フラッシュ』 00年3月28日号 警察庁が97年末作成した『日本人拉致疑惑に関する動向表』と題した内部資料があり、橋本政権の”密使”として97年2月18日から22日まで北朝鮮を訪問した「日本国際交流機構代表団」が、平壌で案内員に受けたとされる説明を記載していた。その中の2月18日の欄には「北朝鮮側の案内人から、『横田めぐみはあのアパート付近に住んでいる』と説明を受けた」と記されている。5 南光植の証言 まとめ 00年6月 この人物は96年から99年、主席府財政経理部高麗貿易部に勤めていて、その事務室はビルの高い階にあり、隣にある鞍山招待所を見ることが出来た。招待所には、小さな子供とともに、5~6人の日本人女性が生活しており、その中に奥土祐木子さんと、横田めぐみさんがいた。2人は顔写真で確認。奥土さんと横田めぐみさんは、北朝鮮で生まれた日本人の子供達の教育を行っていたらしい。奥土さんは、専業主婦とされているが、実際は仕事をしていた模様。韓国情報極局も人工衛星からの衛星写真で確認。衛星写真からは、車のナンバーまで見えるという。 招待所にいる日本人は、全員が拉致されてきた人たちです。総勢10名で男性は一名だけ、あとは全員女性。年齢は40代半ばが中心です。食べ物も日用品もすべて日本と同じ物を配給していて、タオル、石鹸、シャンプーから薬に至るまで完全に日本製です。金正日政治軍事大学を卒業した工作員候補生のうち、優秀な者は平壌郊外にある労働党対外調査部第130連絡所という工作員養成所に派遣される。そこに秘密アジトがあって、安山招待所の日本人たちが日本語を教えている。工作員と日本人は30坪ぐらいの狭い空間で一緒に模擬生活し、日本語だけでなく日本人特有の動作や生活習慣、地理、環境などについて完璧に叩き込まれる。一人の工作員につき3~6カ月間の訓練を施し、完璧な゛日本人゛になりすますように育て上げる。 週刊文春02年10月31号6 朝鮮日報 李ギョンガン記者 拉致日本人8名ピョンヤンで集団管理 01年8月24日 拉致日本人8人が平壌市ピョンチョン地域鞍山招待所に収容されている。管理は労働 党組織指導部幹部5課が担当。10歳内外で拉致された女性いる。目撃証言と写真資 料で確認。外務省は2000年ソウルでこの情報を入手。 7 在日韓国大使館国情院派遣公使の発言 02年7月10日 同日昼、韓国・国家情報院幹部が救う会役員に「カナダで行われたサミットで小泉 総理が拉致に言及、特にカナダの総理とプーチンロシア大統領との会談で熱心に語るのを知り、北朝鮮は拉致問題をそこまで国際的に大きくするのかと非常に驚き、その 後急遽10人程度の拉致日本人をある場所からある場所に移動させたという確実な情報がある。しかし、これまでどこの招待所にいてどこの招待所に移されたかは確認が とれていないので調査中だ」と伝えた。 そのあと「新潟の行方不明になった横田めぐみさん、あの少女も生きていますよ。 私の推測の部分もありますが、生きていると思います。間違いないと思います」と語っ た。 なお、同役員が19日と20日に電話で発言の確認を求めたが、本人は電話に出ず、 20日部下が拉致問題が国際的大問題になっているのでいまは反響を考え何もお話し できないと回答するが、では発言は嘘なのかと食い下がったところ「嘘は言いません」 と言明。 5,6,7、は、9,17以前に耳にしたことがないのだが・・・・ 2002年9月17日 小泉訪朝以降 北朝鮮から「死亡」と発表される8 西村真悟議員が「3年前、北朝鮮政府の者に、横田めぐみさんの写真と引き換えに1億円要求された」と暴露 02年11月29日 1999年、「1億円と引き替えに横田めぐみさんの写真を渡す」とのオファーが北朝鮮から北京経由で西村東京事務所にもたらされた。取引場所は北京。事務所から同志を北京に派遣して、先方と接触する。先方は、正真正銘の北朝鮮政府役人と判明した。こういうことを言ってきたのでこの時点で横田めぐみさんは生きていると確信した。 http //www.sankei.co.jp/news/021129/1129sha127.htm9 「めぐみさんは総書記の息子の日本語教師」元工作員証言 朝日 03年3月27日 北朝鮮から韓国に亡命した元工作員の安明進(アン・ミョンジン)氏(34)は27日、東京で記者会見し、拉致被害者の横田めぐみさん(失跡当時13)について「金正日総書記の息子の日本語教師をしていた」などと話した。人づてに聞いた話だとし、具体的なことには触れなかった。 安氏は伝聞情報と断った上で「金正日(総書記)は、息子が日本語を習いたいと言ったため、拉致した日本人から横田さんを指名し、家庭教師をさせた。自分の母親に似ていたから選んだのではないか」と語った。 また「特定失踪(しっそう)者問題調査会」が公表した失踪者のうち、70年失跡の松本賢一さん(不明当時34、福岡県出身)について、「韓国の街並みを地下に再現し、工作員を教育する北朝鮮の施設で92~93年にかけ3回、よく似た男性を見た」と語った。 安氏は拉致被害者の救出をめざす議員連盟の総会で来日、講演などをしている。 (03/27 23 51) http //www.asahi.com/special/abductees/TKY200303270287.html →有名な家庭教師情報。その後救う会も確認をとりますた 「横田さん95年に生存」 亡命幹部証言 産経 04年5月20日 北朝鮮による拉致被害者、横田めぐみさん=当時(一三)=について、被害者や家族を支援する「救う会」が「一九九五年当時、金正日総書記の息子の家庭教師をしていた」とする情報を独自に入手していたことが十九日、分かった。北朝鮮は「めぐみさんは九三年に死亡した」としているが、父親の横田滋さん(七一)ら家族は生存を確信。めぐみさんの救出が最優先としてこの日、めぐみさんの娘のキム・ヘギョンさん(一六)の訪日に反対する文書を政府に提出した。 めぐみさんが家庭教師をしていたとの証言は、北朝鮮を脱出した金総書記の元側近幹部が、韓国当局筋に明らかにしたもの。この情報を元北朝鮮工作員の安明進氏(三五)が入手して昨年、週刊誌上で公表した。 救う会ではこの証言の真偽を確認するため、発言者を特定して直接、証言を得る調査を進めていたが、最近になって韓国当局筋から、安氏がもたらしたこの情報と同一内容の情報を入手。「安氏の証言の信憑(しんぴょう)性は高い」と判断したという。 情報を韓国当局に明かしたのは金総書記と家族の身の回りの世話を統括する「金正日書記室」の副部長クラスの元幹部。北朝鮮を脱出し、現在韓国に住んでいるという。 西岡力・救う会副会長によると、元幹部は韓国当局に「めぐみさんは、九五年ごろの二年間、金総書記の妻、高英姫の二人の息子のうちどちらか一人の日本語の家庭教師をしていた。金総書記は複数の日本人の写真の中から自分の母親に似ているといってめぐみさんを選び、息子にあてがった」と証言したという。 めぐみさんの安否について、北朝鮮は「一九九三年三月十三日、平壌市勝湖区域四九予防院で自殺」と伝え、工作員養成機関「金正日政治軍事大学」で「八八年から九一年にかけてめぐみさんを目撃した」とする安氏の証言を「事実無根」としていた。めぐみさんは北朝鮮で結婚、娘のヘギョンさんがいる。ヘギョンさんの訪日が取りざたされていることにつき、家族は「めぐみ自身の救出が先決。具体的情報に基づき生存確認した。訪日論議に賛成しない」との文書を政府に提出した。 http //www.sankei.co.jp/databox/n_korea/nkorea_13_1.htm 10 めぐみさん:蓮池さん「94年に見た」政府追及へ 毎日 04年8月11日 新潟市で北朝鮮に拉致された横田めぐみさん(失跡時13歳)について、帰国した拉致被害者の蓮池薫さん(46)が外務省に対し「1994年まで平壌でめぐみさんの姿を見ていた」と証言していたことが11日、明らかになった。北朝鮮は「めぐみさんは93年3月13日に自殺した」と日本側に説明したが、「自殺」の時期以降少なくとも1年近くは生存していたことになる。日本政府は安否不明拉致被害者に関する北朝鮮の回答内容が虚偽であることを示す重大な証言と判断、11日からの実務者協議で北朝鮮に真相解明を迫る方針だ。 北朝鮮は02年9月17日の日朝首脳会談で、日本人拉致被害者のうち、蓮池さんら5人は生存しているものの、めぐみさんら8人については「死亡した」と回答。その後に訪朝した政府の調査団に対して「めぐみさんは93年3月13日に平壌市の病院で自殺した。遺骨を探している」と伝えた。めぐみさんは中学1年当時の77年11月に新潟市内で北朝鮮工作員に拉致され、86年に北朝鮮の会社員と結婚し、娘がいた。 ところが、02年10月に帰国を果たした蓮池さんは、外務省の聴取に対し「94年のある段階までめぐみさんの姿を目撃している。93年に死亡したという北朝鮮の説明は間違いだ」と証言した。蓮池さんと妻の祐木子さん(48)は平壌でめぐみさんの家の近くで暮らしており、めぐみさんと86年9月に北朝鮮の招待所で会ったことや、横田さん一家と90年代前半まで家族ぐるみで交流したことなども分かっている。 安否不明の拉致被害者10人に関する北朝鮮の回答をめぐっては、同国の鄭泰和(チョンテファ)・日朝交渉担当大使らが昨年12月、北京で平沢勝栄衆院議員らと会談した際、「難しい時期の調査活動だったので、でたらめな部分はあった」と不備を認める発言をしている。 政府は、蓮池さんの話が「10人は死亡または不明」と回答してきた北朝鮮側の説明の矛盾を突く重要な直接証言になると判断しており、めぐみさん以外の被害者の安否情報についても個別にただしていく方針だ。 http //www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20040811k0000e040096000c.html反証材料に取っておくはずだったのを毎日が漏らし、それによって93年死亡から94年死亡に変更になった(『めぐみ手帳』)11 横田めぐみさん2度脱走 蓮池薫さんら証言 スポニチ 04年11月28日 拉致被害者横田めぐみさん=失跡当時(13)=の消息について27日、新証言が明らかになった。蓮池薫さん(47)がめぐみさんの父滋さん(72)と母早紀江さん(68)に対し、めぐみさんが日本に帰るために、脱走を試み、その後、精神病院に強制入院させられた事実を伝えていたという。 横田夫妻によると、蓮池さんはめぐみさんが脱走しようとした時期や方法には言及しなかった。だが、「めぐみさんは日本に帰りたがっていた」と話したという。 蓮池さんや地村保志さん(49)は今年5月の日朝首脳会談後、めぐみさんら安否不明の拉致被害者について、家族に直接会い、情報提供する意向を明らかにしていた。 また、別の関係者も「めぐみさんは2度、脱走を試みた」とも証言している。 横田滋さんは、27日放送のテレビ番組の中で「死亡していないという事実を示し、日本政府に拉致問題解決に向けて経済制裁を含めた強い対応をとってもらうためにあえて証言の存在を公表した」などと語った。 http //www.sponichi.co.jp/society/kiji/2004/11/28/04.html12 めぐみさんも日本語指導 朝日 04年12月11日 地村富貴恵さん「証言 帰国した拉致被害者の地村富貴恵さん(49)が横田めぐみさん(拉致当時13)について「北朝鮮で『スクヒ』という女性に日本語を教えていた」と証言していたことを関係者が11日、明らかにした。地村さんは今年夏ごろに関係者に明かしたという。 地村さんは、田口八重子さん(同22)についても兄の飯塚繁雄さん(66)に「『オッカ』という工作員に日本語を教えていた」と証言したという。大韓航空機爆破事件の実行犯とされる金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚が使っていたとされる偽名の金玉花(キム・オックァ)とほぼ一致する。 金元死刑囚は著書「いま、女として」で、「金淑姫(キム・スクヒ)」と名乗る1歳年下の女性とペアを組んで工作員教育を受けたと証言。2人が86年にマカオに語学実習に渡航した際、金淑姫は「高橋慶子」名義の偽造旅券を使っていたという。 拉致被害者の支援団体「救う会」は「地村さんの証言は、拉致被害者が工作員に日本語を教えていたことを補強する内容だ」と注目している。 11月の日朝実務者協議で北朝鮮側は「田口さんと横田さんは81~84年に同じ招待所で生活した」と説明している。地村保志さん(49)や蓮池薫さん(47)らも「田口さんと横田さんは一時期同じ招待所に住んでいた。自分たちも同じ地区にいた」などと関係者に証言しているという。ただしその時期は「84~86年ごろ」とも言っているという。田口さんや横田さんが日本語を教えた経験について地村富貴恵さんが聞いたのも、そのころだったとみられる。 (12/11 15 37) http //www.asahi.com/special/abductees/TKY200412110231.html13 横田めぐみさん 「私は空き地に隠れていた人間に拉致された」 ヤフーニュース NNN 04年12月23日 拉致被害者・横田めぐみさんが北朝鮮に拉致された経緯について、めぐみさんが「私は空き地に隠れていた人間に拉致された」と拉致被害者・曽我ひとみさんに話していたことが明らかになった。めぐみさんが拉致された経緯については、これまでに「たまたま拉致されたのでヘなく、待ち伏せされた」と、めぐみさん本人から曽我さんが聞いていたことがわかっているが、関係者の話から今回新たに「私は、空き地に隠れていた人間に拉致された」と、場所についても詳細に曽我さんに話していたことが明らかになった。めぐみさんが拉致されたとみられる現場周辺には77年当時、3か所の空き地があった。めぐみさんの父・滋さんは「角に曲がった所の空き地は人目につかず、身を隠すことが可能だったと思う」と話している。 北朝鮮はこれまで「工作員がめぐみさんと遭遇し、やむなく連れてきた。拉致は計画的ではなく、突発的だった」と説明しており、今回の曽我さんの証言は一層矛盾を強めるものとなる。 http //headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn/20041223/20041223-00000011-nnn-soci.html14 「日本に帰りたい」横田めぐみさん、盛んに訴える 読売 04年12月13日 北朝鮮による拉致被害者で、安否不明の横田めぐみさんと田口八重子さんの拉致後の様子について、帰国した蓮池薫さん(47)や地村富貴恵さん(49)らが、「横田さんと田口さんは1984年から86年まで同居していた」「90年代に入り、横田さんは『日本に帰りたい』と盛んに周囲に訴えていた」などと証言していることが、13日わかった。 関係者によると、こうした証言は直接、横田さんの父、滋さん(72)と母、早紀江さん(68)、田口さんの兄の飯塚繁雄さん(66)に伝えられたという。 富貴恵さんの証言によると、独身だった横田さんと田口さんは、84年から86年まで平壌市郊外の同じ招待所で同居。田口さんは同年7月、他の招待所に移されたとみられる。この時期、富貴恵さんは夫の保志さん(49)とともに、横田さんらと同じ地区の招待所で生活していた。 また、蓮池さんの証言などでは、横田さんは同年8月、元夫とされるキム・チョルジュン氏と結婚し、翌年、ヘギョンさん(17)を出産した。 蓮池さんと祐木子さん(48)夫妻は、横田さんが結婚したころから94年ごろまで、同じ地区の招待所で暮らしており、夫妻は、「めぐみさんは、90年代に入ると、『日本に帰りたい』と漏らすようになった。招待所を無断で離れ、歩き出したところで連れ戻されたことがあった」などと証言しているという。 http //www.yomiuri.co.jp/national/news/20041213i204.htm15 めぐみさんの「夫」40代で身長170センチ中肉中背 ANNニュース 04年12月2日 先月の日朝実務者協議で、北朝鮮側が、めぐみさんの「夫」として紹介した男性は、40代で身長170センチあまり、髪は薄く、サングラスをかけた人物だったことが分かりました。 政府関係者などによると、横田めぐみさんの「夫」とされるキム・チョルジュン氏は、電気が消えた薄暗い部屋の中で、サングラスをかけて現れました。チョルジュン氏は自ら名前を名乗った後、日本側が指摘した、いくつかの疑問点について答えました。そして、「納得できない」として、日本側がさらに追及すると、「信用しないなら、それでもいい」と話したということです。チョルジュン氏は40代で、身長170センチあまり、中肉中背でスーツにネクタイを締めていました。また、額が広く、髪は薄めで、左側から1対9程度に分けていましたが、サングラスのせいで目つきは分かりにくかったということです。 日本政府は今後、蓮池薫さんら実際にチョルジュン氏と面識のある人に確認するなどして、男性が本当にめぐみさんの「夫」であったかなどについて調べる方針です。 http //www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/index4.html?now=2004120212462116 蓮池さん夫妻「ヘギョンさん一時預かる」 05年1月6日 tbs news i 拉致被害者の 蓮池薫さん夫妻が、横田めぐみさんの娘、キム・ヘギョンさんについて「ヘギョンさんが幼稚園の頃、めぐみさんが 一時、入院したため、ヘギョンさんを預かっていた」と証言していることが わかりました。 横田めぐみさんは 86年8月に結婚し、翌87年9月にキム・ヘギョンさん(17)を 産みました。この頃からめぐみさんは、蓮池薫さん夫妻と同じ招待所に住んでいましたが、蓮池薫さん夫妻は「ヘギョンさんが幼稚園の頃、めぐみさんが体調を崩して入院し、 その際、ヘギョンさんを自分たちが 一時預かって育てていた」と証言していることが 新たにわかりました。時期は特定されていませんが、「ヘギョンさんが幼稚園の頃」が5歳か6歳頃とすると、92年ないし93年頃とみられます。 蓮池さん夫妻は「親代わりに長期間預かった ということではなく、 お互いの家を子供たちも よく行き来し、一緒に食事をしていた」と話しているということです。 http //news.tbs.co.jp/part_news/part_news1106197.html 17 米国DIA情報 高英姫と横田めぐみさんが親しかった.日刊ゲンダイ 05年01月24日18 曽我ひとみさんの足のけがを気遣った横田めぐみさん 05年2月19日 tbs news i 曽我 ひとみさん、足のけがを横田 めぐみさんが気遣ってくれたことを横田夫妻に明かす 拉致被害者の曽我 ひとみさんが、拉致されたときに負った足の傷を北朝鮮で同じ招待所にいた横田 めぐみさんが気遣ったことについて、横田さんの両親に明かしていたことがわかった。 曽我 ひとみさんは1978年、母のミヨシさんと新潟・佐渡市で工作員によって拉致されたが、その際、足にけがをしたという。 曽我さんが、北朝鮮で横田 めぐみさんと同じ招待所に連れて行かれた際、めぐみさんはけがに気がつき、「その足のけがはどうしたの?」と、声をかけたという。 曽我さんは2月、横田 滋さん、早紀江さん夫妻に、電話で当時のやりとりを明かしたうえで、「そんな心配をしてくれたのはめぐみちゃんが初めてでうれしかった」と伝えたという。 http //news.tbs.co.jp/part_news/part_news1106197.html19めぐみさんに新たな疑問 NHKニュース 05年3月27日 横田めぐみさんをめぐっては、去年11月、北朝鮮からめぐみさんのものだとして提供された遺骨が、DNA鑑定の結果、別人だとわかっていますが、北朝鮮側は、遺骨はいったん埋葬された遺体を、夫が掘り返して火葬にし、つぼに入れて保管していたもので、めぐみさんのものだと主張しています。ところが関係者によりますと、帰国した蓮池薫さん夫妻が、「めぐみさん夫婦は、途中で仲が悪くなり、北朝鮮がめぐみさんが死亡したとしている時期の1年前から別居していた」と話していることが、新たにわかりました。また北朝鮮が、キム・チョルジュンとしている夫の名前についても、「キム・チョルジュンというのは偽名で、実際の名前はキム・ヨンスだ」と話しているということです。このため家族らは遺骨をめぐる北朝鮮の説明は、科学的な鑑定に加え、帰国した被害者の話とも食い違っており、説明がねつ造であることが改めて裏付けられたとしています。 家族らは、4月、大規模な集会を開いてめぐみさんら被害者の早期救出とともに、北朝鮮に対する経済制裁を訴えることにしています。 http //www3.nhk.or.jp/news/2005/03/27/d20050327000100.html 20 「めぐみは北で2つの名前」横田さんが講演 読売 05年3月31日 拉致被害者家族連絡会代表の横田滋さん(72)夫妻は30日、東京・内幸町の日本記者クラブで講演し、長女のめぐみさんについて、「北朝鮮で2つの名前を使っていたようだ」と明かした。 滋さんは、北朝鮮側が昨年11月に日本政府に提出しためぐみさんのカルテの中に、すでに明らかにされている「リュ・ミョンスク」のほかに、「リュ・オクシ」という名前があったと語った。 また、帰国した拉致被害者の蓮池薫さん(47)夫妻が、めぐみさんが93年ごろから夫と別居していたと証言したことについて、滋さんは「昨年8月に2人から聞いたが、なぜ不仲になったのかは分からない」と話した。 http //www.yomiuri.co.jp/main/news/20050330i214.htm 21 めぐみさん入院で蓮池さん証言 北の説明と別病院 産経 05年4月16日 拉致被害者の横田めぐみさん=拉致当時(13)=が入院したとされる病院名について、帰国した拉致被害者の蓮池薫さん(47)、祐木子さん(49)夫妻が、北朝鮮の説明と異なる証言をめぐみさんの家族に伝えていたことが十四日、分かった。めぐみさんの弟、拓也さん(36)が明らかにした。 昨年十一月の日朝実務者協議で北朝鮮側は、めぐみさんについて「一九九四年三月十日から四十九号予防院(平壌市)に入院した」と説明。だが、蓮池さん夫妻はめぐみさんを病院に送り届けた運転手から「(入院先は)義州の三十九号病院で、病室にテレビがあり看護婦一人が付き添う特別待遇」などと病室の様子も聞いていたという。 拓也さんは「病室の具体的な様子まで出ているので蓮池さんの証言の信憑(しんぴょう)性は高い」と話した。 http //www.sankei.co.jp/databox/n_korea/nkorea_13_1.htm22 めぐみさんに望郷の思い NHKニュース 05年4月22日 拉致被害者の家族は24日、大規模な集会を開きますが、被害者の1人、横田めぐみさんが北朝鮮の家で故郷に思いをはせて、2人の弟の名前を書いたり、母親からもらったつめ切りを大切に保管していたりしたことが、蓮池薫さん夫妻の話でわかりました。めぐみさんの弟ら被害者の家族は、改めて問題の早期解決を訴えることにしています。 関係者によりますと、蓮池薫さん夫妻は、横田めぐみさんとピョンヤン市郊外の同じ地区で生活していたころ、めぐみさんの家で「拓也・哲也」と、めぐみさんの双子の弟の名前が書いてあるのを何度か見かけたと話しているということです。さらに、めぐみさんは、北朝鮮で楽器を習うように勧められた際にバイオリンを選んだということですが、その理由について、蓮池さん夫妻に「弟の拓也が習っていたから」と話していたということです。また、めぐみさんは拉致された中学生当時に使っていた「101匹ワンちゃん」の弁当箱と母親の早紀江さんからもらった赤いつめ切りを大切に持ち続けていたということです。これについて、めぐみさんの弟の拓也さんは、「故郷に思いをはせながら私たち弟の名前を書いていた姿を思うと、胸が張りさけそうになります。何としてでも助け出したい」と話しています。 拉致被害者の家族らは24日、東京の日比谷公会堂で集会を開いて、被害者の早期救出を訴えることにしています。 http //www3.nhk.or.jp/news/2005/04/22/k20050422000012.html23 週刊ポスト めぐみさん、金正日の息子 正雲(ジョンウン)の日本語教師 05年4月15日24 「招待所」は7戸、平壌郊外に 新証言 読売 05年5月8日 拉致被害者の蓮池薫さん(47)・祐木子さん(49)、地村保志さん(49)・富貴恵さん(49)の両夫妻が、1980年代半ばまで暮らした平壌郊外の集落に、同じような立場の人が暮らす「招待所」が少なくとも7戸あったことが7日、関係者の証言で分かった。 両夫妻は、安否不明の増元るみ子さんの消息などについても、北朝鮮側の説明とは異なる証言をしていることが判明。警察当局は、両夫妻が見聞きしたことを詳しく検証すれば、新事実が浮上する可能性が高いとみて捜査を進めている。問題の集落は、平壌南部郊外の「忠龍里(チョンリョンリ)」。周囲は鉄条網と塀で囲われ、歩哨が出入りを見張る中、「招待所」と呼ばれる一軒家が少なくとも7戸建ち、監視下に置かれた人たちが世帯単位で暮らしていたとされる。 両夫妻が帰国後、関係者に語った証言によると、この7戸は、1号舎~7号舎と名付けられ、80年には、結婚したばかりの蓮池さん夫妻(78年7月に拉致)が1号舎に、地村さん夫妻(同)が7号舎に入居した。4年後の84年秋になると、別の集落で一緒に生活していた田口八重子さん(78年6月に拉致)と横田めぐみさん(77年11月に拉致)が3号舎で暮らし始め、翌年には、蓮池さん夫妻は6号舎に、地村さん夫妻は4号舎に転居するよう命じられた。その直後、近くの5号舎に「工作員」だという北朝鮮の男性が入居してきた。エリートとされる工作員が招待所で暮らすのは異例で、めぐみさんは北朝鮮当局に指示され、この男性に日本語を教えることになった。86年春に田口さんが病気で入院すると、男性はめぐみさんの3号舎に移って、2人は間もなく結婚した。86年7月になると、蓮池、地村両夫妻は平壌北部郊外の「大陽里(テヤンリ)」という集落への移動を命じられ、12月には、めぐみさんと夫もこの集落に転居したが、田口さんのその後の消息は分かっていない。さらに関係者によると、蓮池祐木子さんは当時、身の回りの世話をしていた北朝鮮の女性から、市川修一さんとともに拉致された増元るみ子さん(78年8月に拉致)とみられる人物について、「あなたの知っている日本人女性が出産したらしい」と消息を聞いたという。これは、「増元さんは81年8月に死亡し、子どももいなかった」とする北朝鮮側の説明と大きく矛盾している。 めぐみさんと結婚した男性の名前についても、両夫妻は、本人から「キム・ヨンス」と聞いており、北朝鮮が、めぐみさんの夫の名として説明した「キム・チョルジュン」とは異なっていた。 蓮池、地村両夫妻が、忠龍里の1号舎と7号舎で暮らし始めた時、残りの招待所に誰がいたのか、そこから転居した後、誰が移ってきたのかなどについては今のところ不明だが、家族連絡会の中からは、「ほかにも、北朝鮮が認めていない拉致被害者がいたのではないか」との指摘が上がっている。めぐみさんの弟、拓也さん(36)は「北朝鮮の主張を覆す重大な事実が依然として埋もれている可能性があり、真実究明には、今後も両夫妻の協力が欠かせない」と話している。 http //www.yomiuri.co.jp/main/news/20050508i201.htm25 横田めぐみさん、招待所の3号舎に TBS NEws i 05年5月9日 横田滋さん夫妻らが福岡県北九州市内で講演し、「蓮池さん夫妻から、めぐみが北朝鮮で招待所のある集落の3号舎に住んでいたと聞いた」などと述べました。「横田めぐみちゃんがかわいそう、増元るみ子さんがかわいそう、気の毒ですねという単純な問題ではない。日本の国家が問われている」(横田早紀江さん) 横田滋さん、早紀江さん夫妻らは8日、JR小倉駅前で街頭演説を行い、拉致被害者の一日も早い救出を訴えました。また、横田滋さんは「蓮池薫さん夫妻らから『めぐみがピョンヤン郊外の忠龍里(チョンリョンリ)で田口八重子さんと一緒に招待所の3号舎に住み、その後、太陽里(テヤンリ)の招待所に引っ越した』と聞いた」と述べました。 しかし、滋さんは「なぜそんなに引っ越しを繰り返すのか。北朝鮮側は『めぐみが頻繁に入退院を繰り返した』とのカルテも出してきたが、どの程度信用していい話かわからない」と述べました。 http //news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye1187429.html 26 辛光洙がめぐみさんと曽我さんの教育係 曽我さん証言 産経 05年7月13日 ≪拉致実行犯が直接指導≫ 拉致被害者の曽我ひとみさん(46)と横田めぐみさん=失跡当時(13)=が北朝鮮の同じ招待所で生活していた際、原敕晁さん=同(43)=を拉致した主犯とされる元北朝鮮工作員、辛光洙(シン・ガンス)容疑者(76)=旅券法違反容疑などで国際手配=が2人の朝鮮語などの教育係を務めていたことが13日、関係者の話で分かった。 めぐみさんは1977年11月、新潟市内で拉致された。曽我さんは78年8月に新潟県・佐渡島から拉致され、直後の約2年間をめぐみさんと同じ平壌市内の招待所で暮らしたとされる。関係者によると、2人はこの間に辛容疑者から教育を受けたという。帰国後、辛容疑者の映像を報道で見た曽我さんが証言したとされる。 辛容疑者は85年に韓国でスパイ容疑で逮捕され、死刑判決を受けたが、その後恩赦で釈放され北朝鮮に送還された。警察庁は2002年9月、80年に失跡した原さんの旅券や運転免許証を不正に取得、出入国を繰り返したとして旅券法違反容疑などで辛容疑者を国際手配した。 日朝交渉の席などで、北朝鮮は「原さんは辛(容疑者)との利害関係一致により自発的に(北朝鮮に)来た」と主張。辛容疑者の日本への身柄引き渡しを拒否している。(共同) http //www.sankei.co.jp/news/050713/sha103.htm 辛光洙だが、早く日本に身柄を引き渡してもらえよ・・・共同通信 06年01月5日 曽我さんは辛容疑者から直接、めぐみさんを拉致したことを聞いたと証言。毎日 05年12月31日 地村さん夫妻は78年7月、福井県小浜市の展望台で4人組の男に拉致された。地村さんは「実行グループを指揮していたのは、辛元工作員だった」と話しているという。 TBS news i 06年1月21日 シン元工作員の配下の男が、田口さんが勤めていた飲食店にたびたび出入りしていたことが警察当局の調べで新たにわかりました。27 めぐみさん「家の近くで男に捕まった」曽我さんに語る 読売 05年9月16日 1977年11月に北朝鮮に拉致された横田めぐみさんが、翌78年に曽我ひとみさん(46)と初めて会った日の夜、「家の近くの曲がり角で男の人に捕まえられた」「すぐそばの空き地に連れて行かれた」と拉致の瞬間を語っていたことが15日、分かった。 めぐみさんは、新潟市内の自宅近くの丁字路で足取りが途絶えてから、目撃証言がなく、拉致の状況は全く分かっていなかった。その一端が明らかになるのは初めてで、警察当局は、周辺の空き地に引きずり込まれ、船で連れ去られた疑いが強いとみている。 曽我さんは、19歳だった78年8月12日、新潟・佐渡で母親のミヨシさん(当時46歳)とともに拉致され、数日後、平壌郊外の「招待所」と呼ばれる施設で、9か月前に拉致されていためぐみさん(当時13歳)と引きあわされ、共同生活を始めた。 関係者によると、2人は対面初日、招待所が用意したジュースや食事を取るうちに、うち解けた会話ができる仲になった。拉致が話題になったのは、その夜、めぐみさんが、足を引きずっていた曽我さんに、「どうしたの」と問いかけたことがきっかけ。曽我さんは、その言葉の優しさに、自分が拉致されたことを打ち明けると、めぐみさんは「私もバドミントン部の練習の帰りに、家の近くの曲がり角で男の人に捕まえられた」「すぐそばの空き地に連れて行かれた」と語り始めた。 この時、めぐみさんは実行犯の人数などには触れなかったが、2人は「本当に怖かったね」「すごく恐ろしかった」とささやき合って眠りについたという。 http //www.yomiuri.co.jp/national/news/20050916i101.htm 28 拉致被害者は 工作員村 にいた NHKクローズアップ現代 05年9月15日 めぐみさんのようす 1978(昭和53)―めぐみさん、曽我ひとみさんと共に北朝鮮の工作員から高いレベルの教育を受ける。 1979(昭和54)―めぐみさん、蓮池夫妻・地村夫妻・田口八重子さんと一緒に“チュンリョン里”(忠龍里)に集められて日本語教育 1984~85―めぐみさん&田口さん、金淑姫に日本語教育。めぐみさんの教え子には後の夫キム・チョルジュンも 1986(昭和61)―日本人は全員“チュンリョン里”(忠龍里)を離れることを命じられ平壌に→移動後日本人化教育続行 1987(昭和62)―大韓航空機爆破事件(11月)以降、日本人化教育は中止→翻訳など曽我ひとみさんの手紙 ・めぐみさんと初めて会ったのは1978年8月18日。車に乗り二階建ての家に行った。家に入るとニッコリと笑って私を迎えてくれた。 ・朝鮮語の勉強も始まり、チュチェ思想の勉強、朝鮮の歴史の勉強、その他数学と科学。めぐみさんは頭が良くてすぐに覚えてしまう。蓮池薫さんの話 ・私たちはめぐみさんと一緒の地区にいた。それは平壌から車で1時間ほどの“チュンハ郡チュンノンリ”という場所。 ・人里放れた山間の地区の谷間に私たち日本人拉致被害者が暮らす招待所が作られていた。 ・私達(蓮池・地村夫妻・めぐみさん・田口さん)は工作員に日本語を教える任務を命じられていた。一日数時間にも及んだ。 ・日本人同士が会うことは禁じられていた。地村さんとは山の裏で時間を決めて密会。 ・めぐみさんが教えた工作員の名前は“キム・チョルジュ”。後にめぐみさんと結婚した。 http //www3.nhk.or.jp/news/2005/09/16/d20050915000182.html http //www3.nhk.or.jp/news/2005/09/16/d20050916000027.html http //www3.nhk.or.jp/news/2005/09/16/d20050916000194.html ところで、曽我ひとみさんと共に生活して1ヵ月後、紙に鉛筆で(曽我さんの)手の形を描いてくれたことを話していたのを知ったのだが、しばらく「なぜに手なのだろうか」と思っていた。そういえば・・・・・・中学の時、美術の授業で鉛筆で手を描くのをやったな~。1年のしかも1学期29 ジェンキンス氏「めぐみさん」で新証言 TBS NEwSi 05年9月29日 曽我ひとみさんの夫、チャールズ・ジェンキンスさんが北朝鮮での横田めぐみさんについて初めて証言した内容が明らかになりました。そこからは、今まで全く知られていなかっためぐみさんの北朝鮮での姿が浮かび上がります。 「ひとみが私の元へ引っ越すと決まったとき、それまで一緒に暮らしていた横田めぐみさんは餞別としてバドミントン用のバッグをひとみにあげた。ラケットを入れるには小さく、めぐみさんが運動着を入れていたものだった」(ジェンキンスさんの著書『告白』より)このジェンキンスさんの証言は、来週出版される著書、『告白』(10月7日発売角川書店)の中で明らかになったものです。「バドミントンの時に着るトレーナー、上下の体操服、あれがちょっとワインカラーのようなえんじ色のを持っていたんですけれども、(蓮池祐木子さんが)『北朝鮮で見た』と、『めぐみさんあれ持ってましたよ』って」(横田早紀江さん)めぐみさんとともに消えた身の回りの品物のうち、横田早紀江さんが最も気にしていたのが、めぐみさんが中学のバドミントン部時代、体操着を入れていた赤いスポーツバッグでした。「赤いバッグ持ってたでしょ、あの子がね。スポーツバッグを持っていったでしょ。だからいつも海を見てても(赤いブイが浮いていると)ひょっとしてあれがスポーツバッグではと、じって見ていたんですよ」(横田早紀江さん)「側面に17という白い数字が縫いつけてあり、内側にはマジックで『横田めぐみ』と漢字と平仮名で書いてあった。ある時、ひとみと私は名前を洗い落とそうとした。見つかるのをひとみが嫌がったからだ。そこで、継ぎをあてて、樹脂で接着し、隠した」(ジェンキンスさんの証言)北朝鮮では買い物袋のビニールが薄くて破れやすく、ジェンキンスさんは砂糖や卵を買ったとき、このバッグに入れて持ち帰りました。去年、北朝鮮を出るときまで、自宅で大切に保管していたということです。 「ひとみは私の家に越して以来、めぐみさんと連絡を取る機会がなくなった。わずかに接触できたのは、私の記憶ではたった2回。1回目は83年か84年のある日の晩、外貨専用のデパートで買い物をしていた時だ。ひとみがめぐみさんと住んでいたころ、2人でよく買い物をした店で、親しくしていた店員がいた」(ジェンキンスさんの証言)2人が会えなくなって数年、めぐみさんは、もし当局に知られれば身に危険が及ぶことを承知でひとみさんに宛てた手紙を書き、この店員に託したのです。 「ひとみは店員から折りたたんだ手紙を渡された。ひとみは死ぬほどびっくりして緊張したという。帰宅してやっとひとみは手紙を読んだ。差出人の署名もなく、いきなり(朝鮮語で)『カナラ』、朝鮮語の『あいうえお』で始まり、『朝鮮語の勉強は進んでいますか?』と書いてあった。ひとみにはすぐ横田めぐみさんからだと分かった。危険を少しでも避けるために、差出人がわからないようにし、元気にしていることだけをひとみに伝えたのだろう」(著書『告白』より)2回目は85年か86年、これが2人の最後の出会いとなりました。「ピョンヤンの別のデパートで買い物をしていると、めぐみさんが入ってきた。めぐみさんとひとみを2人きりにしてやりたい、2人にとってこれがどれほど貴重な機会か、私にはわかった」(著書『告白』より) わずか10分間の立ち話。それ以降、めぐみさんの情報を耳にすることはなかったと言います。北朝鮮で、めぐみさんを思い、1人部屋で泣いていたひとみさんの姿を見て、自らもめぐみさんの無事を祈ったジェンキンスさん。新たな証言は、めぐみさんが厳しい環境の中、懸命に生きる姿を浮き彫りにしています。 http //news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3127353.html 30 スクープ!めぐみさんの 夫 も韓国人の拉致被害者 テレビ朝日ANN 05年11月3日 拉致被害者・横田めぐみさんの夫とされるキム・チョルジュン氏も拉致された韓国人であると、複数の関係者が話していることが明らかになりました。 キム・チョルジュン氏は、去年11月の日朝実務者協議の際に姿を見せ、当時の日本政府代表団と面会しています。日朝関係者はANNの取材に対して、「北朝鮮高官から『キム・チョルジュン氏が韓国人である』と聞かされた」としています。また、別の家族会関係者によると、キム・チョルジュン氏は韓国から拉致された被害者で、名前についても偽名だということです。キム・チョルジュン氏は日本政府代表団との面談の際に、「工作員である」という理由で、写真など身元確認につながるものの提供を一切、拒否しています。 横田滋さん「どこの国の人であっても、めぐみが強制的にかもしれないが、一緒に生活した人で、今でもキム・ヘギョンさんを育ててくれているので、感謝しないといけない」 北朝鮮による韓国人の拉致被害者については、500人近くに上るとみられています。しかし、キム・チョルジュン氏の顔写真や実名が明らかになっていないため、被害者のなかに該当者がいるかどうかは確認されていません。 http //www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/index4.html?now=20051103163415 31 「めぐみさんの夫は韓国人拉致被害者」…韓国家族会 読売 05年11月7日 【ソウル=中村勇一郎】韓国の拉致被害者の家族らでつくる「拉北者家族の会」の崔成竜(チェ・ソンヨン)代表は7日、読売新聞の取材に応じ、横田めぐみさんの夫とされるキム・チョルジュン氏について、「北朝鮮高官から韓国人拉致被害者だと聞いた」と明らかにした。 崔代表は昨年9月、北朝鮮で死亡した韓国人拉致被害者の遺骨を受け取るため、中国・延吉に行った際、秘密裏に北朝鮮高官と面談。高官は、めぐみさんの夫は韓国人拉致被害者だとし、「めぐみさんが北朝鮮で、1977~78年に北朝鮮に拉致された韓国人拉致被害者5人と一緒に教育を受けていた」とも話したという。高官は「キム・チョルジュン」という名前は偽名だとしたが、本名については明らかにしなかったという。 韓国政府が現在、北朝鮮による拉致被害者と正式に認定しているのは486人。崔代表は韓国政府に拉致被害者の救済を要請する一方、自らも中国に渡って脱北支援活動を行っており、これまでに4人の韓国人拉致被害者を中国経由で韓国に連れ戻している。 http //www.yomiuri.co.jp/main/news/20051107i204.htm32めぐみさん拉致も辛容疑者 曽我ひとみさん証言 共同 06年1月5日 北朝鮮による拉致被害者の曽我ひとみさん(46)が、横田めぐみさん=失跡当時(13)=を拉致した実行犯として、別の拉致事件に関連して国際手配中の元工作員辛光洙(シングァンス)容疑者(76)の名前を挙げていることが5日、関係者の話で分かった。 新潟県警など警察当局も同様の情報を把握しており、国外移送目的略取容疑で捜査する方針。 辛容疑者は地村保志さん(50)、富貴恵さん(50)夫妻の拉致事件でも、警察当局が実行犯として国外移送目的略取容疑で逮捕状を請求、国際手配する方向で捜査を進めている。 めぐみさんは中学1年だった1977年11月、バドミントン部の活動を終えて下校途中に、新潟市内で北朝鮮に拉致された。めぐみさんと曽我さんは拉致された直後、平壌の招待所で一緒に生活し、辛容疑者が2人の教育係だったことが既に分かっている。 関係者によると、曽我さんは辛容疑者から直接、めぐみさんを拉致したことを聞いたと証言したという。 →早紀江さん:すでに05年11月末に曽我さんから聞いたが「出さないで欲しいと頼まれていた。ひとみさんは政府や警察には話していたと思う。外交のカードとして取っているのだろうと思ってた。辛が北朝鮮に帰されるかもしれない時は、韓国大使館や政府にお願いにいった。もう長い時間がたっているのに、国がどうしてはっきりした態度をとれないのか。(1月6日記者会見) 33 横田めぐみさん「夫」は拉致韓国人 DNA鑑定で判明 朝日 06年4月11日 北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの夫とされる人物が韓国人の拉致被害者である可能性が指摘されていた問題で、日本政府は11日、めぐみさんの娘、キム・ヘギョンさんと韓国の拉致被害者である金英南(キム・ヨンナム)氏が父子関係にある可能性が高いとするDNA鑑定の結果をまとめた。政府は今後、北朝鮮側にこうした結果を伝え、改めて被害者の帰国や真相の究明などを求める方針だ。 日本政府は2月、韓国側の協力を得て77~78年に北朝鮮に拉致されたとみられる男性5人の家族から血液、毛髪などを採取。キム・ヘギョンさんのDNA情報と符合するか、二つの大学に鑑定を依頼していた。この結果、両大学の鑑定結果は金英南氏の可能性が高いことで一致したという。この鑑定結果を受け、政府関係者は、来日中の北朝鮮の金桂寛(キム・ゲグァン)外務次官らと改めて日朝協議を行う可能性がある、と指摘した。政府は北朝鮮側に直接鑑定結果を説明し、拉致問題での厳しい国内世論を伝えることで、北朝鮮側の前向きな対応を促したい考えだ。めぐみさんの夫とされる人物については、「キム・チョルジュン」と名乗る男性が04年11月に日朝実務者協議のため平壌を訪れた日本政府の代表団メンバーと面会。めぐみさんの遺骨とされるものを代表団に提供したが、日本側の鑑定で遺骨は別人のものだったとの結果が出た。この男性と金英南氏が同一人物であるかどうかの確認も、できていない。 http //www.asahi.com/national/update/0411/TKY200604110219.html この旦那金英男氏だが 西日本新聞 06年4月11日 韓国の拉致被害者家族らでつくる「拉北者家族会」の崔成龍(チェソンヨン)代表は14日、北朝鮮に拉致された横田めぐみさん=当時(13)=の夫である可能性が高い韓国人の金英男(キムヨンナム)さん=同(16)=と家族が、ここ数カ月にわたり平壌近郊で自宅軟禁されていると明らかにした。また、同家族会とともに拉致被害者救出運動に取り組む韓国の団体「被拉・脱北人権連帯」の都希侖(トヒユン)事務総長は同日、西日本新聞の電話取材に対し「金さんは現在、娘のキム・ヘギョンさん、めぐみさんの死後に再婚した女性、その女性との間にいる息子らと暮らしている」と証言した。34 横田めぐみさんの娘 名前は「キム・ウンギョン」 テレビ朝日 ANN 06年5月16日 拉致被害者・横田めぐみさんの娘、キム・ヘギョンさんは、実際には「キム・ウンギョン」という名前で呼ばれていたことが分かりました。 めぐみさんの娘をめぐっては、DNA鑑定で親子関係が確認されていますが、名前については「キム・ヘギョン」と公表されていました。しかし、拉致被害者の家族らの証言で、実際の生活では「キム・ウンギョン」という本名とみられる名前で呼ばれていたことが新たに分かりました。横田滋さん:「当然、北朝鮮からの指示で、そういうこと(偽名の使用)になっていると思う。子供まで利用して、『めぐみが死亡した』と言わされている。2代にわたって被害者なわけですから」 めぐみさんの娘は、2002年に公表されたビデオで、「父親にキム・ヘギョンと名づけられた」と自ら説明していました。(ANN) http //www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/soci_news14.html?now=2006051624545635めぐみさん死亡に矛盾 『手首切ったと 北朝鮮は説明』 東京新聞 07年11月11日 横田めぐみさん=失跡当時(13)=が北朝鮮に拉致されてから十五日で三十年となる。これを前に、拉致被害者曽我ひとみさん(48)の夫チャールズ・ジェンキンスさん(67)が新潟県佐渡市内でインタビューに応じ、めぐみさんについて、北朝鮮では手首を切ったと聞かされていたことを明らかにした。 北朝鮮はこれまで日本側に対し、「めぐみさんは首をつって自殺した」と説明している。説明に矛盾があることから、ジェンキンスさんは「(めぐみさんらが)死んでいるとは思わない」と話している。インタビューでジェンキンスさんは、北朝鮮が生存を否定している拉致被害者について「北朝鮮はうそをつき、信用できない」と指摘。めぐみさんについて「手首を切ったと北朝鮮では聞かされていた」と明かした。 ジェンキンスさんは「斎木さん(拉致問題の日本政府調査団団長だった斎木昭隆米国特命全権公使)は、首つり自殺したと説明を受けたという。この違いは何なんだ」とし、「北朝鮮が死んでいるとする日本人は死んでいるとは思わない」と強調した。 めぐみさんは中学一年だった七七年十一月十五日、新潟市で下校途中に拉致された。北朝鮮側は、八六年にキム・チョルジュン氏(韓国から拉致された金英男氏)と結婚し、八七年に娘キム・ウンギョン(ヘギョン)さんが生まれたが、うつ病で入院中に病院近くの松の木で首をつって自殺した、と説明している。 しかし、北朝鮮側は当初「九三年三月」としていた死亡時期を、後に「九四年四月」と訂正。また北朝鮮側がめぐみさんのものとして提出した遺骨も、日本側の鑑定で別人のものと判明している。 http //www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2007111102063530.html36 ロシア外交当局者の証言 週刊現代 08年1月19日号 横田めぐみさんは、ほぼ確実に生きています。われわれは2001年に続いてこのほど2度目の本格的な日本人拉致被害者の実態調査を北朝鮮国内で行い、その結果、横田めぐみさんの存命率を85%と結論付けたのです 横田さんは01年以降、平壌から地方に移住させられたが、自宅ではDVDを見たり、小説を読み、一人で元気に暮らしているという。しかし、ロシア外務省高官がこの種の情報を日本のメディアに話すとは思えず、「ロシアの情報屋が提供した信頼度の低い情報」(公安関係者)との見方が多い。だと37 横田めぐみさん:「94年6月後も生存」 地村さん新証言 毎日新聞 08年5月26日 拉致被害者の横田めぐみさん(当時13歳)について、帰国した被害者の地村富貴恵さん(52)が日本の当局に、「94年6月に自分たちの隣に引っ越してきた」と証言していることが分かった。新証言は、「94年4月に死亡」とする北朝鮮の説明と矛盾する内容。「拉致問題は解決済み」としてきた北朝鮮側説明を覆すものでもあり、拉致問題の今後の行方にも大きな影響を与えそうだ。 昨年末、当局に証言した。それによると、めぐみさんは94年6月、保志さん(52)と富貴恵さん夫妻が住む招待所の隣に1人で引っ越してきた。数カ月そこに暮らしていたが、その後の行方は分からないという。 http //mainichi.jp/select/today/news/20080526k0000m040118000c.html 38 「めぐみさん招待所に」 空白の1年間 北元工作員新証言 産経 08年7月3日 【ソウル=久保田るり子】韓国在住の元北朝鮮工作員、カン・ヨンイル氏(44)=仮名=が2日までに、1977年に北朝鮮に拉致された横田めぐみさん=拉致当時(13)=に関する新証言を、産経新聞に詳細に語った。それによると、82年から約1年間、カン氏がいた平壌市内の工作員専用の招待所にめぐみさんが暮らしていた。その後、カン氏は86年に工作員専門病院でめぐみさんと再会した。82~83年のめぐみさんの所在はナゾだったことから、“空白”の期間を埋める証言として注目される。カン氏は「約10人の日本人拉致(被害)者を目撃した」とも明らかにした。 元工作員によるめぐみさんに関する証言は、公になっているものでは97年の安明進氏(作戦部所属)に次ぐものだ。カン氏は朝鮮労働党の対外連絡部の元工作員で、90年代前半に第三国で逮捕され韓国に移送された。対外連絡部の工作要員に選抜されたカン氏は82年から約1年間、平壌市内にある連絡部所属の招待所と呼ばれる隔離施設で教育を受けていた。この間、同じ施設内に若い日本人女性が北朝鮮の女性と住んでおり、朝の運動時などによく見かけた。カン氏は約10年後に韓国入りしたのちに、この女性がめぐみさんだと分かったという。施設にいた当時、監視の目を避け会話をした際、めぐみさんは「自分は日本人」と名乗り、「3年ぐらいで日本に帰る」と話した。明るい表情で、日本製のトレーニングウエアを着ていたという。めぐみさんは拉致されたあと「朝鮮語を習得すればお母さんのところに帰してやると言われていた」(日本の関係者)との情報もある。めぐみさんと再会したのは86年夏。平壌市内の「915連絡所」と呼ばれる工作員専門病院で会ったという。めぐみさんから「カン先生」と声をかけられ、立ち話をした。黒っぽいスーツ姿のめぐみさんは、このときも北朝鮮の女性と2人連れで、「婦人科の検査を受けにきた」と話した。以前に比べめぐみさんは朝鮮語が格段にうまくなり、「花が咲いたようにきれいになっていた」と、カン氏は当時を振り返る。めぐみさんは「三石(サムソク)区域の招待所にいる」と近況を話し、連れの女性とベンツで立ち去ったという。また、カン氏は80年代半ばに、工作員養成機関である「金星政治軍事大学」(現在の金正日政治軍事大学)で日本人4人を目撃し、工作員招待所がある龍城地区では5人を見たとも証言した。 日本人拉致被害者の情報をもっているとみられる北朝鮮の元工作員は現在、韓国内に十数人いるとされる。しかし、安明進氏を除き元工作員は、自身の安全や、北朝鮮に残してきた家族に影響が及ぶことなどを懸念し、対外的な証言はしていない。 カン氏は横田めぐみさんの生死について「自殺することは考えられない。韓国や日本なら自殺しても何もないが、北朝鮮で自殺は金日成、金正日親子への反逆で、家族や親戚(しんせき)まで罰せられる。めぐみは最高の待遇、最高の教育を受けていた。そういう者を北朝鮮は簡単に殺さない。具体的な証拠はないが、めぐみは生きていると思う」と述べている。 カン氏は日本政府への情報提供に前向きだ。今後、写真照合など日本側の要請に応じる用意があるとしており、日朝間の拉致被害者の再調査に有益な情報となりうる。 ◇ 【対外連絡部】作戦部、対外情報調査部、統一戦線部と並ぶ北朝鮮労働党傘下の諜報(ちようほう)・非合法活動機関のひとつ。韓国や日本に工作員を送り込み、韓国内に地下党をつくるなど対南工作を担当。韓国内の主要人物の暗殺、政治、経済、社会、軍事の情報収集、流言飛語の流布などが任務。 http //sankei.jp.msn.com/world/korea/080703/kor0807030130000-n1.htm工作員教育? 空白の1年「最高級の待遇」 めぐみさん拉致で新証言 http //sankei.jp.msn.com/world/korea/080703/kor0807030137003-n1.htm女工作員と同居か 北の説明、再びほころび めぐみさん拉致で新証言http //sankei.jp.msn.com/world/korea/080703/kor0807030136002-n1.htm39めぐみさん「おとなしく病弱」=日本人10人超がスパイ教育-金賢姫元工作員 時事通信 09年1月17日 【ソウル17日時事】1987年に起きた大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫元北朝鮮工作員が、17日発売の韓国誌・月刊朝鮮2月号のインタビューで、北朝鮮に拉致された横田めぐみさんについて「おとなしくて病弱」との話を聞いていたと明らかにした。また、元工作員は80年代前半に北朝鮮の工作員教育にかかわっていた日本人拉致被害者が「10人以上はいる」との見方を示した。 元工作員は横田さんに会ったことはないが、一緒に工作員教育を受けていた金淑姫という女性が横田さんから日本語を習っていた。拉致被害者の地村富貴恵さんも同様の証言をしたことがある。 元工作員は横田さんについて「幼い時に拉致され、性格がおとなしく、拉致された韓国人男性と結婚し娘を産んだ」「よく病気になり入院していた」などと聞いたことがあり、横田さんと金淑姫が一緒に写った写真を見たこともあるという。 http //headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090117-00000106-jij-int40 帰国の拉致被害者証言 田口さん「めぐみさんの面倒みたい」 ヤフーニュース 09年3月10日 ■工作員と3人 2年間?同居 拉致被害者、横田めぐみさん=拉致当時(13)=が北朝鮮の女工作員と同居しながら日本語教育に従事させられていたところに、田口八重子さん=同(22)=が「めぐみさんの面倒をみたい」と希望して合流し、一時3人で暮らしていたことが9日、帰国した拉致被害者が政府関係者にした証言で明らかになった。 時期は、田口さんが大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫(キム・ヒョンヒ)元工作員(47)に日本人化教育をした後の昭和59年前後。めぐみさんと田口さんが同居していたことは既に判明しているが、その一部は女工作員との同居だったことになる。帰国被害者によれば、めぐみさんと田口さんは59年前後から61年夏ごろまで同居。このうち60年ごろまでは女工作員も一緒だったことが新たに判明した。女工作員は金賢姫元工作員の同僚の「金淑姫(キム・スクヒ)」。銃や爆弾などの取り扱いも訓練した女スパイだった。田口さんが自ら北朝鮮当局に「めぐみさんの面倒をみたい」と切り出したことは、それ以前にめぐみさんと面識があったか、同居したことを示唆している。当初は「田口さん-『金賢姫』」と、「めぐみさん-『金淑姫』」の2通りの組み合わせで工作員教育をさせられていた疑いが強まった。金賢姫元工作員は最近になって、「めぐみさんと『淑姫』が写った写真を見た」と証言している。 田口さんは3人で同居するまで、「(金賢姫元工作員との生活を終えた後)しばらく1人で生活した」と話していたことも新たに分かった。北朝鮮側は、田口さんは「61年7月30日に交通事故で死亡した」としているが、帰国被害者は「62年に運転手から、外貨商店で田口さんと会い、人民武力省のナンバーの車に乗っていたのを見たと聞かされた」とも話している。 http //headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090310-00000093-san-soci41 金賢姫元死刑囚の新証言が明らかに TBS NEWSi 09年4月30日 大韓航空機事件の実行犯、キム・ヒョンヒ(金賢姫)元死刑囚が、拉致被害者の横田めぐみさんとピョンヤンで「何回も会い話もしたことがある」と証言していたことが、JNNの取材で明らかになりました。 キム元死刑囚に対する事情聴取は4月28日、韓国の情報機関の立ち会いのもと、日本の外務省、警視庁公安部、内閣調査室の関係者により、午後3時半から2時間以上にわたって行われました。キム元死刑囚は横田めぐみさんについて、これまで「ポラロイドの写真でしか見たことがない」としていましたが、「81年4月から83年3月にかけて、工作員として日本語や日本の習慣に関しての訓練を受けていた時、ピョンヤン市内の招待所で同僚のキム・スクヒ工作員の教育係だった横田めぐみさんと何回も会い、よく話をしていた。めぐみさんとは同僚の紹介で親しくなった」と証言していたことが明らかになりました。立ち会った関係者は、キム元死刑囚について「事情聴取に終始協力的だった。あんなによくしゃべるとは驚いた」と語っています。そして、めぐみさんについて「物静かな人に見えた。北朝鮮は『死亡した』と主張しているが、生きている可能性が高いと思う」と話したといいます。また、キム元死刑囚は拉致事件解決のために出来るだけ早く日本に行きたいとの希望を伝えたといいます。 対北朝鮮融和政策の見直しを進める保守イ・ミョンバク政権は、日本人拉致事件に理解を示していることもあり、今回の事情聴取が実現したといえます。拉致事件に対して日韓が共同歩調をとることで、今後、北朝鮮からの激しい反発が予想されます。(30日21 10) http //news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4121095.html →話す準備は出来ていると08年に言っていたのはこれのことですか? 42 妊娠のめぐみさんと会った=金元工作員が新証言―「韓国料理作ってくれた」とも10年7月18日時事通信 拉致被害者の横田めぐみさん=失跡当時(13)=について、金賢姫元北朝鮮工作員が「会った時に(妊娠で)おなかが大きかった」などと証言していたことが17日、関係者の話で分かった。金元工作員が「(北朝鮮で)めぐみさんと会った」と証言したことは既に判明しているが、当時の具体的な様子が明らかになるのは初めて。 金元工作員は20日以降、政府の要請で初めて来日。めぐみさんの父滋さん(77)と母早紀江さん(74)らと面会する予定で、新しい情報が明らかになることが期待されている。 関係者によると、金元工作員はめぐみさんと会った際の状況について「おなかが大きかった」「写真よりも顔がやせていた」などと証言した。めぐみさんは1987年9月に娘のキム・へギョンさん(22)を出産したとされており、この少し前に会った時の話とみられる。 金元工作員はこのほか、「めぐみさんに韓国料理を作ってもらった」などの思い出も話しているという。 http //headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100718-00000005-jij-soci この後、横田夫妻に対してこの記事の内容について否定したという。
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登録日:2017/04/12 (水曜日) 19 12 47 更新日:2024/06/22 Sat 15 03 55NEW! 所要時間:約 9 分で読めます ▽タグ一覧 onちゃん ドッキリ ネタバレ 十勝二十番勝負 大泉洋 安田顕 抜き打ち 拉致 水曜どうでしょう 職権濫用 鈴井貴之 香港大観光旅行 騙し 私もちと何が何だか 何だよおまえらおい?!何してんだよおまえらおい?! 大泉洋拉致事件とは、かつて北海道テレビ放送(HTB)制作の番組『水曜どうでしょう』にて、『桜前線捕獲大作戦』(1998年5月放送)後行われた、恐ろしい事件のことである。本項目では他にも同番組で行われた「拉致事件」についても触れる。 ●登場人物 大泉洋 この番組のレギュラーで、芸能事務所「CREATIVE OFFICE CUE」所属の俳優・バラエティタレント。そしてこの事件におけるメインターゲット。 まず大前提としてこの番組のロケ内容は常に彼抜きで考案され、彼が事前に旅の行き先を教えられるケースは殆どない。つまり毎度ミステリーツアーをさせられているような感じ。 その主な導入パターンは、 1:ロケ当日まで行き先を知らず、集合地点または空港付近で始めて企画概要を説明される。(『カントリーサインの旅』、2007年以降の新作等)このケースでは少なくとも「最大拘束日数」だけは事前に知っている。 2:別なロケを進めていたら、「ついでに旅しよう」と言われ過酷な旅に連れていかれる。(『サイコロ1』・『サイコロ3前編』(3との複合型)、『アメリカ合衆国横断』等) 3:偽企画のロケと騙され連れていかれ、途中で真の目的を明かされる。(『サイコロ2』・『サイコロ4』、『原付西日本制覇』等) 4:別企画の罰ゲームとして連行される(『四国八十八か所』シリーズ・『ユーコン川160キロ』) に分かれるが、この中でも2・3のパターンは明らかな騙しであり、その行為を例えていったある一言が、この事件の引き金を引いてしまった。 藤村忠寿・嬉野雅道 この番組のディレクターで、「どうでしょう班」の一員。この事件の首謀者その1。 「拉致事件」において、藤村Dはナレーション・指揮などで後方支援、嬉野Dは地味にカメラを回していた。 鈴井貴之 この番組のレギュラー兼企画担当で、この事件の首謀者その2にして最大の貢献者。 「CREATIVE OFFICE CUE」の社長(1998年当時。現在は会長)であり、大泉ら所属タレントのスケジュールを自在に操作できる立場の人間でもある。(*1) 後の著書『ダメダメ人間』では「責任者(たる自分)が共に旅をしていたからこんな非常識な番組が出来た」と回想していた彼が、その権力を存分に発揮すると…。 安田顕 大泉洋と共に演劇ユニット「TEAM NACS」と「CREATIVE OFFICE CUE」に所属し、かつて鈴井の主宰する劇団「OOPARTS」(1998年に解散)にも所属していた俳優。そしてこの事件最大の犠牲者。 ちなみにこの番組には未DVD・再放送となった1997年放送のコントドラマ『雅楽戦隊ホワイトストーンズR』(*2)にて既に登場しており、ホワイトストーンズも制作していた藤村Dとは既に面識があった。 1998年当時はまだ舞台でしか「変態」・「裸族」キャラは認知されておらず、またテレビ出演も殆ど無かったせいか眼鏡(*3)に短髪と地味な容姿だった(ラジオでは饒舌だったが)。 onちゃん 1997年12月に誕生したHTBのマスコット。本番組では98年初頭放送の『第1回どうでしょうカルトクイズ大会』(未DVD化)に初登場していた。 一見「拉致」等という不穏な話題に関係なさそうなキャラだが、この事件が思わぬ形で彼の知名度を上げることになる。 北海学園大学アメフト部 大泉・安田の母校(鈴井も通っていたが中退している)が抱えるアメフトのラガーたちであり、この事件の実行犯。 DVD版での副音声によれば、HTBスタッフの中に彼らと縁のある人がいたため依頼できたそうな。 ※以下、内容のネタバレを含むので注意。 ●大泉洋拉致事件 この番組において、いつも無茶ぶりの様な形で旅に巻き込まれていた大泉洋。 中でも『サイコロ3後編』・『韓国食い道楽サイコロの旅』(1997年放送)や『サイコロ4』(1998年1月放送)での「騙し(別な場所に行くと言って大泉を連れ出し、旅に出てから本命の場所に連行する)」に対しては怒り「誘拐」・「拉致」だと言い放った。 しかしその言葉に妙なヒントを得てしまった制作陣は、 だったら油断し切っている日常の中で本当に拉致してやる と本気を出してしまい、何と「大泉拉致計画」を考案、実行に移すことを決意した。 日時は1998年5月15日、場所はラジオ局「AIR-G'」(エフエム北海道)、舞台は1998年4月にスタートした大泉と安田顕がパーソナリティを務めるラジオの生放送番組『GOLGO』(19時~20時の一時間番組)。 作戦開始のキーワード暗号文は「アメフトには気をつけろ キックオフがせまってる」。 そんな恐ろしい計画が立案されているとも知らず、大泉・安田はラジオの準備を進めていた。 そして、運命の時間が訪れた…。 楽しくラジオを進め(*4)、番組終了に差し掛かった19時51分頃、AIR-G'14階にあるスタジオにビデオカメラを手に持った鈴井が登場(*5)、 2人に「アメフトには気をつけろ キックオフがせまってる」なる謎のファックスを手渡した。 よく考えたら上司がスタジオに現れビデオ撮影している時点でおかしい気もするが、本番中だったせいか意味不明な文章を不審がりながらも読みあげた大泉。その台詞がラジオに流れた直後… 北海学園大学アメフト部の面々が登場、容赦なく二人を拘束した。 突然の凶事に抵抗するも虚しく大泉・安田は局の外へとエレベーター経由で連行され、外に停まるワゴン車へ…。 一方ラジオで様子を聞いていた藤村Dは拉致の様子に大爆笑し、スタジオに残った鈴井はラジオのリスナーに対して、「水曜どうでしょうロケのため、あの2人連行いたしました」とお詫び(?)の説明を放送していた。 2人が連行され叩き込まれたワゴン車には、笑い転げる藤村Dとカメラを持つ嬉野Dが乗車しており、平然とした態度で藤村Dは「大泉君、旅に出ようや」と声を掛け、 安田に対しても「成り行きなんで、一緒に行きましょうか」と告げた。 こんな無茶に茫然自失としていた安田は車から降りようとしたが、アメフト部によって車に押し戻された。そして鈴井が乗り込み、車がスタートした。 が、そこはこの番組で無茶ぶりに慣れていた大泉。連行によって肘を怪我し、初めこそ抵抗したり文句を絶叫したりするも時間がたつと、 「連行される途中で気づきだし、笑い声が聞こえた時点で分かった」といつもの調子を取り戻しむしろ感心するそぶりすら見せた。 だがいきなり巻き込まれた安田にとっては正に青天の霹靂とも入れる事態であり、「帰してよ…」「俺、面白い事喋れないよ…」等と呟くも、もはや成功に喜ぶ鈴井やスイッチを切り替えた大泉は聞く耳持たず、哀れ旅の道連れにされる羽目に…。(*6) 大泉が自宅と携帯電話で話す「母さん、俺拉致されたから!」なんて台詞の流れる中、「どうでしょう班」+安田顕は旅立ち、『十勝二十番勝負』の幕が開くのであった…。 現場の十勝につき、早く着きすぎたため一晩車の中で仮眠を取った後ロケがスタートすると、なぜか安田ではなく「HTBの親善大使」として安田さんonちゃんが初登場していたが。 だが、話はここで終わらなかった。 なお、この放送を聞いていた人の中にはさすがに本当の事件と思った人がいるらしく、番組に抗議の電話が入ったそうな。 ●鈴井貴之拉致計画 「大泉拉致事件」から一か月後の6月25日、藤村DがHTBにいた大泉へと、 「ミスター(鈴井)をおまえと全く同じ手段・舞台で拉致してみないか?、それも今日すぐ」(要約)と悪魔のささやきを投げかけた。 毎回毎回騙されっぱなしだった大泉は、最初疑うも「ネタ切れじゃね?」という危惧も込みで説得されるとその企画に賛成し、ノリノリで引き受けた…。 それこそが、鈴井とスタッフによる最悪の罠だと気づかずに。 そう、この企画の真の趣旨は、大泉洋を煽てて引っ掛ける事だったのである! なおこの回の前枠は鈴井による『世にも奇妙な物語』風の語りとなっており、視聴者には初めから『騙し』の企画である事が提示されていた。 ●鈴井貴之拉致事件に見せかけた大泉洋拉致事件 日時は1998年6月25日、場所はまたもや「AIR-G'」の14階スタジオ、舞台は鈴井がパーソナリティを務めるラジオの生放送番組『GO・I・S』。 大泉は「鈴井へのあだ討ち」における勝負衣装として「忠臣蔵」の大石内蔵助の衣装を手渡され、局の近くで連行の練習・前口上の練習を繰り返す。 そして傍らで観ていた藤村D達が「『何も知らずひとりで燃える男』、『自分の拉致を練習する男』(テロップより)」等と笑いを隠しているとも知らずに、「拉致には拉致を」と決意。 アメフト部を連れ局へと乗り込んだ。 「GO・I・S」の時間を見計らいながら進撃し、番組終了直後、鈴井とアシスタントの北川久仁子の前に大泉が推参。 テンパりながらも前口上をのべ、「行け―!」とアメフト部をけしかけた瞬間、 アメフト部によって自分が拘束され、鈴井・北川が大爆笑する中内蔵助姿で連行された。 エレベーターで多数のアメフト部に担がれた大石内蔵助コスという大恥を複数の人々に晒しながらワゴン車へと連れてこられた大泉は、藤村の「ごめんね、また騙しちゃった…」との詫びの言葉を聞き、 逆ドッキリに引っかかったことを知り抵抗するも、アメフト部によって車に押し戻された。 そして鈴井が車に搭乗した後、不貞腐れたままの大泉に止めとばかりに自分のパスポートが提示され、『香港大観光旅行』へと連行されるのであった…。 ここまでなら、「大泉さん気の毒すぎ!」という感想で終わっただろうが、拉致ネタはここで終わらなかった。 なお、さすがにまた生放送中に拉致を行うのは前回のように本当の事件と思われるからか今回は放送終了後で行われている。 今回協力したアメフト部員の結婚式にヒゲとうれしーも呼ばれたことが日記で明かされている。 ●onちゃんカレンダー 2つの拉致事件から時は流れ1999年9月30日(放送は2000年1・2月)、どうでしょう班はHTBにて、「写真家大泉」による『2000年onちゃんカレンダー』(*7)撮影会を開いていた。 鈴井とonちゃんにコスプレをさせ写真を撮り進めていき、朝一番で冷房が入っておらず熱気漂うスタジオにonちゃんの中に入っていた安田顕が疲労していく中、 大泉・藤村Dは「11月の撮影時」をめどにある恐ろしい計画を立案していた。 撮影も後半戦に入る中、視聴者に対して明かされたその内容は… 『安田さん拉致計画』というとんでもないものだった。 ●安田顕拉致事件 10月の撮影がひと段落した後、「いったん休もう」なんて名目でグロッキー状態の安田から着ぐるみを脱がせ、 「せっかくだから」と安田にハイビスカスの髪飾りをつけ、三つ編み体育着コスの鈴井とのツーショット写真を撮影(なぜかこの写真が製品版カレンダー10月分でのメインに)。 ついでにとばかり安田に腰蓑を身につけさせ、脇にヤシの木を設置、大泉は「気分はもうハワイアンですね」等と呟く。 そして安田に対し「もうハワイ行きましょ!」「ハワイ行きます!安田君を拉致してハワイに行きます!」と言い放った。 実はこの撮影の直後、どうでしょう班は『アメリカ 生き地獄体験ツアー』なるツアーでトークショーをするため、鈴井がラジオの収録を終えたらすぐ、 ハワイ経由でラスベガスへと向かい、翌日即帰国という強行スケジュールを控えており、 「過酷な旅における道連れが欲しい」とたっての願いから、安田が選ばれたのであった。 しかもご丁寧な事に安田のまだ使ってないパスポートも確保したうえで。 「大泉君に僕が騙されたの・・・?」 かくて安田は初海外が拉致 観光できる余裕殆どなしという目に逢いながら、onちゃん着ぐるみと共にアメリカへと連行され、何とかカレンダーの11月分をハワイ・12月分をラスベガスで撮影したのであった…。 …かつて拉致された時「俺の相方に何すんだよ!」と怒り、鈴井に仇討ちしようとしたとき「最近では安田をも拉致した罪は重い!」と宣告した大泉さんはどこに行ったんでしょうね。 ちなみにDVDでの特典映像では空港へ向かう途中、大泉が安田に「拉致の心得」を教えている様子が収録された。 安田曰く、「なんで気が付かないんだろうこのバカは」と思っていたそうだが、今回で周りのダマしの腕がプロだと認識を改めたようだ。 ●余談 ちなみにこの企画「拉致」という言葉が洒落にならない時勢になったため、『onちゃんカレンダー』以外の企画は再放送版『水曜どうでしょうclassic』では除外されている(DVDには収録)。しかし、それより後に再リマスタリングの形で制作された『水曜どうでしょうPremier』になると番組自体の知名度も飛躍的に上がった事もあってか再びラインナップに加えられるようになった。 最初の拉致事件の一週間前まで、大泉・安田はナックスの公演『再演DOOR~在り続けるためのプロセス』を行っており、本放送・リターンズ版では「先週(ラジオが)録音放送だった」とその事を示す発言が放送されていた。 「拉致」されて連れて行かれた後の企画「十勝二十番勝負」「香港大観光旅行」は、いずれも観光色の強い「ぬるい」企画である。 流石に拉致した上で過酷なロケをやらせるのは人道に反すると思ったのか、ミスター的に山場は取れたからもういいと判断したのかは不明である。 onちゃんはもともと一年限りのマスコットキャラであったが、認知度は低く、また、ヤスケンもラジオや舞台役者の仕事があったとはいえ、タレントとしては無名だった。 個別のページを見ていただければこの拉致事件が大きな転機となったことは容易にお分かりだろう。 加筆・修正お願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 「馬鹿みたいに膨らんでないでたまには動きつけろよバカ!」 -- 名無しさん (2017-04-12 22 09 45) 見せかけた拉致、は大泉のリアクションがふるってた記憶がある -- 名無しさん (2017-04-13 01 18 42) あれ、大泉さんが最初に拉致って言い出したのってサイコロ3後編の車中だったと思うが? -- 名無しさん (2017-04-13 10 36 04) 「まだ未使用なパスポート」の「まだ未使用な」の部分が言葉としてはおかしかったので勝手ながら修正させて頂きました。 -- 名無しさん (2017-04-13 11 42 37) 50m先からでも響き渡るヒゲの高笑い -- 名無しさん (2017-04-13 17 55 32) リアルタイムで見たかったなあ、これはw -- 名無しさん (2017-04-26 19 29 45) 十勝二十番勝負、途中から疲労困憊でgdgd極まってたが「ぬるい」企画なのか…? -- 名無しさん (2020-12-08 14 39 16) 「大泉君、旅に出ようや」「うるさいわ!」 -- 名無しさん (2021-04-01 02 00 03) 大泉さん体張ってんなあ… -- 名無しさん (2022-03-07 14 28 58) 十勝の導入で拉致した際に比喩じゃない本当の放送事故(15秒以上の無音状態)も引き起こしたらしいが、ラジオ番組スタッフは事前に知らされてたはずなのに対策取らなかったのかね? -- 名無しさん (2023-07-22 08 09 51) 大泉の拉致・ドッキリはそれ単体でも十分ドッキリとして成立してるんだけど、更に面白くしてるのは幹部の意図してないところでの大泉の自爆だよな。夏野菜のパイ生地は藤村が言ってたように、本来は「料理だと思った?残念開墾だよ!陶芸だよ!」だけで済むところを、勝手にパイ生地を用意してきたから被害が大きくなったわけだし。他にもヨーロッパリベンジのいっそラフな格好で→短パンで北極圏、東京ウォーカーのどうせ飛行機か新幹線で寝られる→徹夜明けで徒歩とか -- 名無しさん (2024-04-23 10 08 15) そんな大泉さん「鎌倉殿の13人」で上総広常(中の人は共演も多い佐藤浩市)謀殺してブーイング食らう迄に成長したのを見ると感慨深いものである。 -- 名無しさん (2024-06-22 15 03 55) 名前 コメント
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-八戸市自宅 6/7 14:00- 「真剣なお話があります」とイベリコにリビングへ呼び出され、正座をして待機をしている。ソファもあるのだが、何か怒られそうな雰囲気があったので床に直接座っているのである。 まだかな…… 扉を開ける音と共にイベリコとコウが入室した。 「あら、かしこまってどうしましたか?」 「説教されると思ってるんだよ。わかる」 手には分厚い封筒と何かのパンフレットが伺えるが 「お待ちしておりました」 三つ指をついて深く頭を下げる。 「とりあえずソファに座ってください?」 「いいの?」 「いいですよ」 怒った様子もなく優しい口調なので少し安心して腰を下ろす。しかし気は抜かず浅めに腰掛ける。 「コウ、椅子持ってきて」 「あい」 二人は私の対面に椅子を持ち出し腰を据えた。若干空気が硬い。 「さて、リルさん?」 「ごめんなさい」 「何を謝るのですか?」 「そんな気がして」 「別に怒ってもいませんし、そんな事をしていませんよ」 「じゃあ要件は?」 「学校に通ってもらいます」 「はい?」 ちょっと何言ってるかわからない。 「この学校に通ってください」 「はいいいいいいいいいい!!!?」 「そらそうだわな」 いつの間にかお茶を持ってきて飲むコウ 「今更がっこ行ってどうするの?私働けるよ?」 この間までコンビニでバイトだってできたのだから一般教養は問題ないと自負している。 「だってあなた最終学歴は?」 「あっと…その…幼年学校中退ですかね…」 「そこです。就職する時には履歴書にせめて高卒の学歴がなければ話になりません。この日本と北方という国では学歴を重視されますよ?」 「でもバイトは補助であってメインの収入はいつものお仕事で……」 「ここ数か月大きなお仕事ありましたか?」 「ないです」 「だから定職に就かねばなりません。そのためにもまず教育からです」 「でも、高校ってぽんっと入れるとこじゃないでしょ?義務教育だっけ?あれも私は未履修な訳だし」 「そこはご安心ください。裏口入g……推薦を使います」 「推薦?」 「国から一般高校への推薦状を頂きました。母国で履修済みにして留学生とか色々とごまかして入学します」 「でも高校って17歳ぐらいが通うとこじゃ……」 「そこは通信制高校なので大丈夫です」 「通信?情報系なの」 「説明しますと、通信制高校とは通信による教育を行う課程のことで、実際に通う必要はありません。定期的にレポートを提出するだけでOKです。家庭の事情で働きながら学ぶ人、学校に病気で通えない身体の人、あなたの様に高卒資格を大人になってから取りたい人が通うとこです」 「通信教育ってことはチ〇レンジとかユ〇キャンみたいな?」 「はい、しかし教科書を独学で学びレポートを解くのは困難なので教えてくれるサポート校と呼ばれる場所へ毎日足を運びます。学校が公式で運営する塾みたいなものですね」 「はい、この歳で制服着るのは恥ずかしいです」 「つくばで中学生の制服着てませんでした?」 「し、仕事だし……」 「指定制服は一応ありますが、服装自由です」 「へぇ?」 「個性を優先したりいろいろあるのです。でも」 「でも?」 「あなたのサイズの制服買っちゃいました!!テヘッ」 「はい?」 「買っちゃいました!!!」 「着ろよ。勿体ないからさ」 「えええええええ」 -八戸市 高等学校 12/22 15:00- 午後の授業も終わり、今日は帰るだけだがポニーテールが似合う同級生の佐藤 由香から声を掛けられる。由香は3人の友人を連れており、これから遊びにでもいく様子であった。 「リルちゃんこの後カラオケ行かない?」 「いいけど、あまり遅くなるとうちの人うるさいからなぁ」 イベリコから門限を19時と設定されており、それを超えるときつーいお説教が待っている。 「大丈夫だって、3時間だけ」 彼女の言葉を信じ 「わかった」 私はカバンに教科書を詰め込み、スマホで家主へとメッセを送った。するとショートカットで元気の申し子山本 祐子がスマホで写真を撮りながら 「それにしてもリルちゃんって制服似合うよね。やっぱ出身が違うから?あと視線こっちに頂戴」 「私はもう20歳超えてるし……そんな似合うとは思わないけど」 「「またまた」」 全員から否定をされた。 「やっぱヨーロッパ出身は違うよね」 「年を感じさせない」 「美人」 そんなに褒められると鼻が高くなってしまう。 「もう、そんな誉めても何も出ないし驕りもしないよ」 「本音だってー」 そう、私は今女子高生……JKをやっている。毎日学校へ通って退屈な授業を受けては放課後に遊びに行くのを繰り返す。心配だった友達も沢山でき、充実した毎日を送る。 入学当初から由香は私に話しかけてくれたフレンドリーな女の子だ。そしてその友人の裕子は異国少女が大好きで私をほぼ毎日写メっている。話しかける理由も「裕子がリルさんの写真撮りたいと言ってるけど」が始まりだった。 「毎日写真撮ってどうするのさー」 「えー?毎日眺めてるー」 「楽しいの?」 「すっごく楽しいよ!!今度リルちゃんのベストショットまとめたアルバム渡すね!!!!」 「あ、ありがとう」 裕子のまぶしい笑顔に圧倒される。 -八戸市 カラオケ店 12/22 18:00- 入店から何時間たっただろうか。腕時計に目をやると一時間で門限がきてしまう。 「時間が……」 「まだまだ歌えるぅぅぅぅぅ!!!」 マイクを離さない裕子はテンションが最高に上がっていた。 「ダメよ裕子」 由香が演奏停止のボタンを押し荷物をまとめる。ああ、助かる。 「みんなゲーセン寄っていかない?」 「いいねぇ、プリクラ撮ろうよ」 ちょっと待った 「じかんんんん」 「ちょっとだけ、みんなでプリクラだけでも」 「一昨日撮ったじゃん!!」 「何枚でもいいものだよ」 私は皆に腕を掴まれゲーセンへ連れていかれるのであった。 -八戸市市街地 12/22 19:00- 急いで帰路につく。遅くなってしまった。皆はまだ遊ぶらしいが門限とかどうなってるんだ?我が家は「高校生なんだから夜遊びは許しません!」とか言われてるのに。 ふとスマホを取り出し先ほど撮ったプリクラに目をやる。 学生生活が楽しいのは事実だ。イベリコに門限とか設けられなければ無限に遊んでしまいそうだ。 「悪くないな、学生ってもの」 ふと目の前を歩いていた老婆が倒れこむ。急いで駆け寄り救護する。 「大丈夫ですか!?」 「ああ、ちょっと足がね……」 「肩を貸しますので」 「大丈夫だよ、ああ、大丈夫」 「でも、うぐ!?」 突然口を何かで塞がれる。振りほどかないと 力が抜け、意識が……これはくすりか…… -八戸市 自宅 12/22 20:30- 「クーリスマスが今年もやってくるー♪」 猫柄のエプロンを身にまとい夕食の支度をしていた。クリスマスが近いからか時より歌いながら鍋をかき回す。スマホにはリルちゃんから「遅くなりまぁす」のメッセが通知されている。 「今日も遅くまで遊んでいるのかー。青春だなぁ」 私も高校の時は……遊んでいたっけ?いつも誰かさんを追いかけてた記憶しか 突然バタバタと家の中を走る音が聞こえる 「イベリコ、大変!!!!たいへん!!!」 コウがスマホ片手にリビングダイニングへ飛び込んできた。 「何を慌ててるの?」 「テレビつけて、はやく!!」 リモコンを手に取り電源を入れると臨時ニュースが流れていた。 『繰り返しお伝えします。先ほどネット上に「救国連絡会議」を名乗る組織が北方国籍の少女を誘拐したと動画を投稿しました。内容は次の通りです。 「我々、救国連絡会議は強い日本を取り戻すべく行動を起こした。北方独立行政府愚かにも我が国の領土を奪い、国の樹立を宣言した。その野蛮な行為は決して許さる事ではない!!手始めにこの北方国籍の娘は人質にする。 この少女を無事に返してほしくば次の項を北方政府が実行しろ! 1.北方独立行政府の解体、北海道の返還 2.身代金として指定の手順で5億円相当を払う事 以上が守られなければこの娘の命の保証はなく、そして貴様らの極秘にしている機密事項を全世界に公開する。我々のただちに北海道を返還せよ!!」 誘拐された少女は青森県八戸市の高等学校に通う学生とみられ、警察は身元の確認を急ぐとともに犯人の行方を追っています。繰り返し……』 映像には長い青髪に赤いリボン、高校の制服と見慣れた姿の少女が写っており、目隠しと猿ぐつわをかませられているが、間違いなくリルだった。 「なぜ、あの子が……?」 短時間で多くの情報を見せられ頭の中がグラグラする。足の力も抜け気づくと冷たい床に叩きつけられた。 「大きな音がしたよ!?なにがあったんだい!?」 スマホ越しから聞き覚えのある男性の声が聞こえる。 「イベリコ、大丈夫か!!返事して!!」 なぜ……誘拐?あの子をさらう事なんてできるのか?いやこの組織はなんだ。 「すまん佐久間、イベリコが倒れた少し待っててくれ。イベリコ?落ち着いて深呼吸して?ほら吸ってー、はいてー」 息を整える。コウがコップに水を入れてくれたので少し飲み精神を落ち着かせる。頭が動いてきた 「コウ、」 「わからない。ただの通り魔とは思えない」 「スマホかして、佐久間さんですよね?状況を説明してください」 「わかった。テレビ映像の通りだが、19時過ぎにリルちゃんが「救国連絡会議」を名乗る連中に拉致された。程なくして先ほどの動画をネット上に公開し、名指しで北方を非難している」 「要求に即効性がみられませんね」 「同感だ。金はともかく国の解体と領土返還とは数日でできることではない」 そして気になるのが 「なぜあの子が北方国籍だと知っていたのでしょう?」 「君らは慣れているかもしれないが、日本で彼女の容姿は目立つからね。目を引いたかもしれない。それより「あの彼女」をどうやって拉致したんだ?武装はなかったのか?」 「一般の学校に通うのに武装はいらないので素手になります。しかし体術も堪能なあの子を簡単に……」 「ここで考え込んでも何も起きない。政府は1秒でも早く君らを招いて対策会議を開きたいそうだ。専用ジェットを近くにある海自の八戸航空基地へ派遣するそうだから、2時間後に合流してくれ」 「情報と中継ぎに感謝します。コウこれ返す」 スマホをコウに投げ、煮えたぎった鍋の火をとめ、エプロンを脱ぎ捨てる。 「準備しましょう」 ピンポーン 「コウ、銃を」 このタイミングでの訪問者は例の集団の可能性もある。インターホン越しに確認をすると 「どちら様でしょうか?」 カメラ越しだが背広姿の男性数人と警察官が多数いる。 「警視庁です。身分証この通り、怪しまないでください」 「本当、ですね?信じますよ?」 「お気持ちはわかります。警視庁捜査一課と警備課です」 窓から確認するとパトカーも視認できるので本物だろう。玄関を開ける。 「夜分遅くに失礼します。リルさんのご家族の方ですね?」 「はい、確かに」 「我々はこの家とあなた方の警護・事件捜査の命を受けてまいりました」 「ご苦労様です。ただ、私たちはすぐに札幌に飛び立つので…」 「そちらも聞いております。飛行場まででお送りしますのでご安心下さい」 「感謝します。準備ができたら声を掛けます」 とりあえず玄関を閉める。機動隊らしき集団が家の周りに展開を始めた。 「武器はいるかね?」 コウはひとまず拳銃を下ろす。 「札幌でしたら不要でしょう。警護もありますし」 「了解」 -札幌市 北方独立行政府首相官邸 ヘリポート 12/22 23:00- 八戸から政府専用機のガルフストリームG650に乗り込むと1時間程度で札幌に到着し、ヘリに乗り換えた。 「ご苦労!」 佐久間さんが出迎えたのは意外だった。首相でも外交官でもなくスパイだからだ。 「なぜおまえが?」 コウよ、ヘリの風圧で髪の毛がボサボサになって怖いぞ 「都合がいいからってお願いされてさ」 「さいか」 「先は急ぎますので案内をお願いします。トリプルぐらいスパイやってる貴方なら知ってると思いますが、他国の動向は?」 「っはは、偏見ひどいなぁ。まず米国は非難声明を出しているものの、直接関与はしない構えだ。対してロシアは全面的に協力の姿勢ですぐにでもFSB(ロシア連邦保安庁)の職員と特殊部隊を派遣すると言っている」 「我が国は?」 「それはこれから考えるのさ」 佐久間さんは会議室を扉を開けた。 -首相官邸 代表執務室 12/22 23:10- 「失礼します」 会議室ほど広くはないが、この国の重鎮が集っている。首相兼代表はじめ、大臣閣僚級から警察・軍関係者まで揃っている。私の入室と同時に静まり返り視線が痛い。重い空気の中、近江代表が切り出した。 「お待ちしておりました。この度は……」 「私達なら大丈夫ですのでご安心ください。それより情報が少ないです」 「私共の情報機関が調べました。それでは対策会議を始めましょう」 「これより国民誘拐事件に関する臨時の会合を開始します」 国務長官が進行を務め、私の手元にも資料が届く。 「まず犯行集団「救国連絡会議」は日本の極右集団です。大日本帝国の復刻を思想に掲げており、公安マーク対象の過激派組織です。」 「右翼でも飛び切りの過激派ですか」 「やっばい集団に目をつけられたな……」 「活動拠点は不明、デモ等の運動も行いますが時代に合わせてSNSに動画を投稿などネットを使った活動の方が盛んです」 「アカウントから拠点の特定は?」 「目下調べさせていますが、個人情報なので時間がかかる上に登録住所が正しいかわかりません」 「拉致から動画投稿までの時間を考えると八戸周辺にも拠点があると考えています」 「犯行の手口は?あの子を拉致するとなると力づくではいきません」 「民間人じゃ無理だ。普通の自衛官でも無理だな。特殊部隊クラスでな……まさかな?」 「経験者がいると考えています」 「なるほどなぁ」 「今後国としてはどう動かれるのですか?」 「もちろん要求には譲歩せず、救出を試みます。我が国民を見捨てません」 「まず警察を中心に監禁場所を捜索中です。同時に諜報機関にも情報収集をお願いしています」 「佐久間さん、ロシアとしての対応は?」 なぜかこの場に座り、ロシア代表となるスパイとはこれいかに……彼はいつも以上に真面目な顔つきで資料を読み上げる。 「ロシアは全面的な協力を申し出ます。特殊部隊の投入も即応で可能です」 「部隊の運用は場所が日本となれば派遣は難しいですね。まず日本の警察に任せるか、協力を申し出て我が国が介入する程度です」 「ではFSBに情報を探らせましょう」 「感謝です」 すると側近が代表に駆け寄る。 「失礼します。代表宛てに、そのお電話が……」 「今は取り込み中だぞ、誰からだ?」 「それが……救国連絡会議を名乗っています。テレビ電話での交渉を望んでいます」 場がざわついた。 「モニターに出してくれ」 「聞こえているか?売国奴並びに裏切り者の諸君よ、私は救国連絡会議のリーダーだ。要求の件で話をしたい」 モニターに映ったのは全身黒の服装に覆面を被ったいかにも怪しい武装勢力の人物だった。 「聞こえている。北方独立行政府首相兼代表の近江だ。先に人質の無事を確認したい」 「ほら、この通り無事だ。だから交渉をしないか?」 映し出されるは椅子に縛られたリルの姿だ。薬でも打たれたのかグッタリした様子で抵抗を見せない。その瞳は涙をこぼしながらただカメラを見続けていた。なんと心苦しい映像か。 「交渉ですか」 「この娘と引き換えに我々救国連絡会議は北海道の返還を要求する!」 「すぐにできると思うのか?」 「できないと言うのであれば警告通り貴様らの秘密を世界にバラそう」 「秘密ですか?」 「この娘はただの学生じゃないんだろう?少年兵なんだろ?」 「なっ」 再び部屋がザワつく。 「しかも我が国の総理を撃った実行犯と国民が知ったらどう思うのだろうな」 そんな事をすれば政府としての信用がガタ落ちだろう。しかしあの件の依頼主は非公表であり北方政府もあくまで被害者なのだ。 「何のことだがわからない」 「とぼけるな!!札幌の平和式典で狙撃をしただろ!貴様らの指示で!!」 「実行犯は逃走中で判明していない」 「あくまで白を切るならこの事実を公表するまでだ。あと身代金も忘れるな」 「5億ともなるとすぐには用意ができない、それに持ち運びも大変だ」 「用意できるだろ?そこにいるイワンよぉ、セルゲイ・オルガコフさん。いるんだろ!?」 リーダーは息を荒げ、怒鳴りつける。もっともその名の人物は部屋の一番奥に座っており、静観を保っていたが 「ワシを呼んだかね?」 「やっぱりいるじゃねーか……情報通りだ。お前の愛娘を無事に返して欲しくば5億円用意しろ」 相当な情報盛れが確認できる。これは内通者探しも課題の一つだろうか。 「金は用意しよう。受け渡しは?現金となると相当な量だぞ」 「数人で渡せばよかろう。偽札等仕込んだと判明したらこの娘は殺す」 「いいだろう。金は必ず渡すからその子だけは無事にかえして欲しい」 全く表情を変えないオルガコフさんは淡々と交渉を進めている。 「国土の返還次第だがな。どうなんだ首相よ?」 「一晩で答えは出せない。時間をくれないか?」 「いいだろう。次の電話で金の受け渡し方法について説明する。それまでに国土返還の準備をしておけ」 電話はここで切られた。 「皆さん、この通りだ。時間を稼いだがあの子の命が危ない。各部署は全力を尽くしてくれ」 代表たちは再び国としてどうするか会議に入り、私たちはオルガコフさんに呼ばれた。 「イベリコくん、すまないね。巻き込んで」 自分の孫並みに愛でていた娘が誘拐され、あのような姿を見てもなお動じない。これがロシア裏社会のトップの風格か……。 「それはこちらのセリフです。私が学校へ行かせたばかりに…」 「その件は私から感謝を言いたい。報告では聞いていたがあの子が楽しそうに学校に通って友達と遊ぶのは夢のような光景だった。定期的に送られる友達との写真は本当にうれしくてな…」 「学歴のためと言いつつ、私も普通の女の子として生活してほしいと願っていました。そのためにオルガコフさんにも推薦状の斡旋していただいて」 「安いものだよ。しかし、その生活を奪い、壊す奴らは絶対に許されない」 だが彼も堪忍袋の緒が切れたのか杖を持つ手がフルフルと震える。 「同感です」 「佐久間君っ!!」 「はい、ここに」 「政府とは別にワシらで動くぞ」 「しかし先ほど申し上げた通り部隊は…」 「君とイベリコ君らで動くのだ。よろしいかな?」 「はっ、仰せのままに」 「よろしい、ではワシより個人的な依頼を命ずる。手段は問わぬからリルを無事に連れ帰れ、金も人員も弾薬もすべて負担しよう。あの虫けら以下の連中に鉄槌を下し、我らに手を出したことを後悔させてやれ!!」 「はいっ!!」 代表に軽く挨拶をして私たちは自宅へ戻ることにした。 -千歳上空 政府専用機 12/23 4:30- 「少し眠るといい。この先はもっと過酷な日々になる」 佐久間さんが私に声をかける。続けてコウも 「こいつの言う通りだ。1時間だけでも寝た方がいい」 「でも、心配で眠れるか……」 「なに、ホットミルクを準備するからゆっくり息をして目を閉じればいい」 「到着して起きなくても担いでいくよ」 「そうですか…」 温かいミルクを受け取りすぐに飲み干すと、毛布をかぶりすぐに眠りへ落ちていった。 -八戸市 自宅 12/23 9:00- 起きたのは寝坊と呼べる時間だった。日はすっかり上っており、窓からまぶしい日差しが差し込んでいた。何時間寝ていたか覚えてないが、飛行機の中で寝たはずなのになぜ私はパジャマ姿で自宅のベッドで寝ているのだろう。途中の記憶がないだけかもしれないが、とりあえず着替えてリビングへ出ることにした。 リビングからはコーヒーの良い香りが漂っており、誰かが朝食を作っているようだ。ひとまずパジャマを脱ぎ捨て、下着は昨日のままだったので白のレースショーツとブラへ交換し、白のワンピースに袖を通した。 「おはようございます」 「おはよう、よく眠れたかい?」 どこから持ち出したかわからない「fish」と書かれたシンプルなエプロンに身を包んだ男性がキッチンで料理に勤しんでいた。良い香りの原因は佐久間さんだったのか。 「おかげ様で……昨日飛行機からどうやって?」 「僕が自宅まで運び、コウ君が君の部屋へと入れたから安心してくれ」 ほっとした。部屋の中と私の裸を見られたかと思っていたからだ。 「ゆっくり眠れた様で僕も安心したよ。朝ごはんはパンでよかったかな?あとは簡単に目玉焼きとベーコンを焼いたぐらいだけど」 「なにから何までありがとうございます」 椅子に座ると朝食とコーヒーを出された。 ピンポーンと呼び鈴がなる。 「おはようございます、リルさんの同級生が面会を申し出ておりますが、如何なさいますか?」 今は警察の管理下にあるこの家は宅配便も来客もすべて警察を通さねばならない。 「同級生であればお会いしましょう」 「かしこまりました」 玄関を開けると制服姿の少女が二人不安そうに立っていた。 「あの、同級生の佐藤由香と言います!」「同じく山本裕子です」 「私はあの子の保護者?をしているイベリコです」 「お母さんではないんですよね…?とてもお若く……」 「美人だ……」 二人は驚いた様子で片方はスマホで写真を撮りたそうにしていた。 「同居人で私が代表ってだけで母とかではありません」 「そうなんですね。いつもリルちゃんから母の様な存在だと聞いていたものですから」 「あの子なんて説明を……」 「それより、リルちゃん……無事なんですか?」 これが本題でしょう。私も起きてからリラックスしていたが、つい色々な感情がこみ上げそうになる。 「とりあえず寒いから上がってください。佐久間さん、お茶を二人分お願いします」 「お、お邪魔します」 「お邪魔します……わぁ、広い」 二人をとりあえずリビングへ通すとお茶と茶菓子を用意した佐久間さんが出迎えた。 「いらっしゃい、と言っても僕は雇われ家政婦みたいなもんだから気にしないで。もっとも彼氏とかそんな身分でもない。」 「いけめんだ」「いい男だ。メアドください」 「二人ともこの人は召使いだから気にしなくていいですよ。ささ、座ってください」 二人はソファに腰かけ、お茶を手にする。 「いい香りの紅茶ですね……」 「ハーブティーだ。心が落ち着くよ」 お菓子を出しながら佐久間さんは微笑む。 「イケメンで家事ができる男がいるなんて羨ましい生活だ」 山本さんがすっかりほれ込んでしまっている。いけない。 「さて、リルちゃんですがお二人ともテレビは見ましたか?」 「はい」「ネットですが」 「あの通りです。私達もそれ以上の事は知りません。ただ、国や警察が頑張って捜索をしてくれています」 「そうなんですか……私達もあの映像見たときからすごく不安で、クラスのSNSでもみんな心配してて、もう会えないかもとか思って」 佐藤さんが少し泣いてしまう。 「私も映像観て一発でリルちゃんだってわかりました。写真をいつも撮ってたので……みんなが心配してます」 「今は時間がかかるかもしれないけど、きっとまた会えますよ?私が約束します」 そっと二人を抱き込んだ。少女たちは私以上に不安な一夜を過ごし、勇気を振り絞りここへ来たのだろう。ただ今は慰めることしかできない自分に少し腹が立った。 「あのこれ、リルちゃんの写真をまとめたアルバムです」 山本さんがカバンから一本のUSBメモリを取り出した。 「この子いつも写真撮っててその中から厳選したのを渡したいって」 「今見ても良いですか?」 「はい、ぜひ見てください」 リビングのテレビにUSBメモリを挿すと画面いっぱいにリルちゃんの写真が流れ出す。 友人と笑い合い、勉強で悩む顔までも写されていた。そして一番多く写っている笑顔はとてもまぶしく、一緒にいた何年も見たことがないものだった。 「素敵な写真ですね。全部山本さんが?」 「はい、リルちゃんが転入してから美しさに惚れ込んで、その写真ばっか撮っていました。それまで暇な日々だったんですが、今は毎日リルちゃん追いかけて写真撮るのが楽しくって」 「そう」 ふと自分の学生時代が脳内をよぎる。 「美人でスタイルも良くて、性格も良いし、語学は堪能なので学校の人気者で私たちの憧れの存在なんです!!……っ」 今度は山本さんが泣き出してしまった。 そうか、あの子はこの子たちの…… 「今は約束できないけどきっとまた会えるよ」 いつの間にかキッチンにいたコウが約束をした。 「僕も微力ながら手伝っているから約束しよう。必ずあの子を連れて帰るってね」 「私からも、絶対会えるって約束します。だから涙を拭いて?」 二人にハンカチを渡し、笑顔を見せた。 「素敵な写真ありがとう。きっとあの子も喜んで受け取るわ」 「素直じゃないから「じ、自分の写真とか見ないしいらないし」とかいうと思うけどな」 コウのモノマネが絶妙に上手い。 「今のリルちゃんにそっくりです」 佐藤さんが笑った。 「たしかに言いそうですね」 山本さんが頷いた。 テレビにはあの子の写真が流れ続けている。この笑顔を取り戻さないと。 二人は警察に送ってもらうことにした。あの子の友人なので誘拐の対象になる可能性があるからで、聞けば学校もしばらくは閉鎖して生徒を自宅にとどめる措置を取っているらしい。二人は自宅待機を無視してここに来たのだ。 「二人とも事件が解決するまでは自宅にいるんですよ?決して出歩かないように」 「わかりました」 「あ、あとこれ、返すものあったんでした」 手渡されたのは赤いリボンで、あの子がいつも髪留めに使っているものだった。 「以前、体育でケガしたときにすぐにこれを巻いてくれました。きれいに洗濯してお返ししようと思って」 あの子らしい行動に少し誇らしさを覚える。 「ありがとう、必ず渡すわ」 自宅を出るパトカーを三人で見送りリビングへ戻ると時間はお昼前だった。 「あんなかわいい女の子まで泣かせるとは」 「あの集団絶対に許せないね」 「オルガコフ様が知ったら核でも落とすとか言いかねない」 二人が私の代わりに後片付けをしながら話している。私はただテレビを見続けていた。 「イベリコ片付け終わったよ?」 「……えして、大切な家族を返して!!!」 そう叫ぶと私はリルちゃんの部屋へ走りこんだ。 今は誰もいない部屋、かつては物が何も置かれていないぐらい質素な部屋の時期もあったが、今では壁に友達とのプリクラや写真、机の上は教科書と勉強道具が置かれている。ベッドの上にはゲーセンのUFOキャッチャーで取ったと思わしきぬいぐるみの数々が置かれ、クローゼットもかわいい服でいっぱいだった。 銃とナイフを振り回すのを得意とした少女とはだれも思わない生活ぶりだ。だからこそ、この生活を奪い、かつての彼女に戻そうとする奴らを許せない。 サイドテールのヘアゴムを外し彼女の部屋にあった赤いリボンで髪を結び直した。そのリボンは彼女のトレードマークだ。そして決意する。 「絶対に取り戻してやる」
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小沢一郎氏 「拉致問題は北朝鮮に何を言っても解決しない。 カネをいっぱい持っていき、『何人かください』って言うしかないだろ」 2月上旬、都内で開かれた民主党議員と支持者による会合。 党代表、小沢一郎が発した言葉に会場は一瞬凍りついた。 「拉致問題は北朝鮮に何を言っても解決しない。 カネをいっぱい持っていき、『何人かください』って言うしかないだろ」 日本人の人権と日本の主権を蹂躙(じゆうりん)した北朝鮮の犯罪をカネで決着させる-。 あまりにもドライな小沢発言は、当然のごとく、箝口(かんこう)令が敷かれた。 外交・安全保障をめぐる小沢の「危うさ」が露呈し始めている。 2月24日、記者団に「米海軍第7艦隊で米国の極東の存在は十分だ」と語り、波紋を広げた。 「対等の日米同盟」を土台に、日本の防衛力増強を志向すると受け取れる発言の真意を、 側近は「安保論議を活性化させようとして投じた一石だ」と代弁する。 だが、党内にも「先を見据えない、浅はかな言葉だ」(幹部)との批判が出ている。 「民主党に国民は不安も抱いている」。 1月18日、民主党大会で国民新党代表、綿貫民輔はこう指摘した。 民主党が政権に王手をかけたいま、小沢が唐突に繰り出す持論は、野党の足並みも乱している。 http //sankei.jp.msn.com/politics/situation/090302/stt0903020008000-n1.htm 魚拓 http //s03.megalodon.jp/2009-0302-0026-58/sankei.jp.msn.com/politics/situation/090302/stt0903020008000-n1.htm 平成21年3月3日 にこん様2号記す
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当時の認識に沿って「疑惑」という表記にしております 肝心なところで「犯罪被害者」だということが理解できてなかったな~ 李恩恵さんはもともと田口八重子という名前で、北に行ったとき改名させられたんですけど、小さかった私は... 1988年2月、テレビでこの「李恩恵」の似顔絵を見て怖いなーと思いました。度々この似顔絵をテレビで見ますが、いつになっても慣れません。さて、1月15日、金賢姫が大韓航空機を爆破した経緯について語る時に、李恩恵(リ・ウネ)という女性から日本語を習ったと言ったようです。しかし、なぜに日本語を教える人物が「り・うね」なる名前なのか非常に理解に苦しみます。どうして、日本女性の名前ではないのでしょうか?よくニュースでやっている中国残留孤児なのかと思いました。また、頭の中では「過去に日本で意行方不明になっていた女性が、気がついたら何故か金賢姫に日本語を教えていた」という、一番重大な部分が抜け落ちた認識でした。 これほど重大な問題だと言うのに、我が小学校では何の説明もありません。親も話題にすらしません。少なくともこの時点では、一連の流れが、あまりに特撮やsF系・友情系アニメのようなので、信用しきれないというか、受け止めきれない部分がありました。これほどニュースでやっているのに、(今振り返れば)大人がこの事件に懐疑的なのは、「共産信仰」と呼ぶべきイデオロギーの問題でしたが、子供にとっては「ひょっとしたら『スタードッキリまる秘報告』なのではないだろうか?」という、大人とは別の懐疑的になる相応の理由がありました。 3年生になったある日の放課後、自転車で交番を通りががったとき、まさに「この人を知りませんか?」という、李恩恵のポスターが貼ってあったので、しばらくそれを見入っていました。この時、テレビでのニュースを初めて身近な「本当のこと」として受け止めるようになりました。しかし、このポスターを見ても協力しようもなく時が過ぎ、91年ごろ、再びこの問題がテレビで取り上げられて「どうも誰なのか特定できた・・・らしいが、でも誰さん?」という、結局どの辺にどのような事件性があったのかが全くわからないまま、しかも実名で報道されなかったこともあり、ほとんどわけがわからないまま、小泉訪朝まで突入してしまいました。 この女性を知りませんか! 昭和55年以前に行方不明となった ○ 年齢…現在27歳から36歳 ○ 身長 … 165センチ前後 ○ 顔の輪郭 … 四角形 ○ 髪の色 … 黒色 ○ まゆ毛 … 一直線 ○ 皮膚の色 … 浅黒い方 ○ 目 … 大きく、二重まぶた ○ 歯 … 白くきれい、虫歯なし、歯並び良い ○ メガネ … かけていない(視力悪くない) ○ 声 … 太くてハスキー ○ 足長 … 25センチ前後 110番か、最寄の警察署、 派出所等に連絡して下さい。 警察庁 これは手持ちの雑誌『別冊sapio「危険な隣国」丸ごと一冊北朝鮮(小泉訪朝後の改訂増補版)』に写っていたポスターをスキャンしようと思ったがだめだったので、代わりになるべく忠実に再現した「ポスターもどき」。オリジナルについて金賢姫元工作員は「95点のでき」という。 ↓ 金賢姫が「李恩恵である」と言った、拉致被害者田口八重子さんの写真 ↓ 金賢姫と生活していたころを再現するとこんな感じ 『忘れられない女』韓国版 2-李恩恵特定までの流れ 88.1.15 金賢姫会見=恩恵という教育係の存在→誰だ? ↓ 88.1下旬 増元るみ子さん、奥土(現蓮池)祐木子さん、浜本(現地村)富貴恵さんのうち誰か?→3人ともハズレ ↓ 88.2.7 日本の警察と面談、より詳細な情報&似顔絵→ポスター作成 ↓ 88.2中旬 沢田研二のファンで、招待所の犬に「ジュリー」と名づけていたことが報じられる ↓ 88.3.26 梶山答弁により、事実上の拉致認定6件9人(久米さん・原さん・アベック3組+李恩恵) ↓ 90.金賢姫、北海道冬季アジア競技大会の際『千歳空港』を聞く→そういえば「ちとせ」と書いて消したが本名か? 「ちとせ」は勤務先で使っていた名前だったことが判明 ↓ 91.5.14 金賢姫、日本の警察が持ってきた写真から田口八重子さんの写真を見て「李恩恵である」 ↓ 91.5.15 埼玉県警が田口八重子さんであると発表(報道は匿名) ↓ 91.5.20 第3回日朝国交正常化交渉、以降消息を聞こうとするも・・・ 3-日朝国交正常化交渉 ① 前段階の金丸訪朝 90年 田辺誠社会党代表団が89年3月30日に訪朝。この時、竹下登総理の「この地域の人々に対し、過去の関係についての深い反省と遺憾の意を表したい」とする見解を金日成が「評価」して、自民党訪朝団の受け入れを許可。これを受けて90年9月、金丸信副総裁&田辺の自民党・社会党代表団が訪朝。金丸氏は金塊をたくさんもらった。金丸氏は自民党の代表として国交正常化や統治時代の補償とともに、なぜか『南北朝鮮分断後45年間についての補償』という約束を自民党、社会党、朝鮮労働党の3党で交す。 1983年、北朝鮮兵士閔洪九の亡命事件に関連して北朝鮮にスパイとして拿捕され7年間服役していた「第十八富士山丸」の紅粉勇船長と栗浦好雄機関長の2名の釈放・帰国についても合意した。10月に小沢一郎氏と土井たか子氏が平壌に出迎えに行き、ようやく釈放。 以下はその際の「礼状」 自由民主党と日本社会党はこれまで多年にわたり、第十八富士山丸船員の釈放のための切なる要請を行ってきました。この要請を考慮した朝鮮労働党の勧告に従い、今般、朝鮮民主主義人民共和国政府は、共和国の法律を侵害した罪で一五年の労働教化の刑罰を受け服役中の第十八富士山丸の紅粉勇船長と乗浦好雄機関長を人道的見地から大赦令を実施し釈放のうえ日本に返すことにしました。自由民主党と日本社会党は人道主義的立場から第十八富士山丸船員に対して寛大な措置を取られた朝鮮労働党と朝鮮民主主義人民共和国政府に深い感謝の意を表します。自由民主党と日本社会党はこの際、両名が共和国の法律を二度と犯さないようにし、帰国後、両名の言動が日朝友好関係発展に支障を与えることのないよう、あらゆる努力を約束します。 結局李恩恵については全くなし。当然石岡さんの手紙(88年届く)も黙殺されていた。そればかりか、何の関係もない「南北朝鮮分断後45年間についての補償」の約束を交わし、釈放された2人は口封じになった。そのくせ金丸は金塊をもらい、『TVタックル』でのハマコーによると田辺(ピーが入る)は金丸から5000万もらったという、最低最悪な訪朝であった。ここで小沢一郎なわけである。民主党政権で拉致被害者の返還がなされると、このようになる可能性が高い。 ② 日朝国交正常化交渉 1~8回 この金丸訪朝を受けて91年~92年の計8回、国交樹立のために行われた。この交渉の3回目の直前、「李恩恵は田口八重子さんの可能性が非常に高い」との埼玉県警の発表があったので、それ以降、李恩恵の消息を間接的に確認したが、そうこうしているうちに交渉で取り上げようとしたら北朝鮮が退席される始末だった。こうした経緯があったために、99年に朝日新聞の独善的な「拉致問題は国交正常化の障害」なる論理が生まれたとも思われるが、実際は取り上げらてすらいなかったという。まあ、①の金丸訪朝の副産物だからうまくいくわけがなかったとも言えるが。 第1回会談(平壌、1991・1・30-31) 日本:「賠償」「補償」は応じない、「戦後45年の償い(*1)」の義務なし、核査察協定の受け入れを求める 北朝鮮:公式謝罪と「賠償」「補償」を求める 第2回会談(東京、1991・3・11-12) 日本:「北朝鮮の管轄権は南に及ばない」との確認を求め、日韓併合条約(*2)の合法・有効性を主張 北朝鮮:管轄権確認を拒否、日韓併合条約は武力によるもので不法・無効と主張 第3回会談(北京、1991・5・20-22) 日本:「一括解決」の要求、李恩恵(*3)消息調査 北朝鮮:正常化問題と経済・国際問題の切り離しを要求、李恩恵問題に反発し次回の日程を決めずに終了 第4回会談(北京、1991・8・30-9・2) 日本:李恩恵の調査を要求、「戦後の償い」を拒否 北朝鮮:李恩恵の調査を拒否、「戦後の償い」の義務ありと主張 第5回会談(北京、1991・11・18-20) 基本問題で突っ込んだ討議 日本:核問題で日本の安全への強い懸念を表明、核査察受け入れを求める 北朝鮮:日本人妻の消息について回答 第6回会談(北京、1992・1・30-2・1) 日本:李恩恵問題、核問題の対立 北朝鮮:従軍慰安婦問題について謝罪と補償の要求 第7回会談(北京、1992・5・13-15) 日本:核問題の解決なしに正常化は難しい 北朝鮮:核問題は米朝間で解決 第8回会談(北京、1992・11・5) 日本:李恩恵の調査を要求 北朝鮮:李恩恵の名前が出ると会談場から退席 4-韓国安企部 KAL858便爆破犯、金賢姫関連資料―金賢姫と日本警察官との面談事項」要旨 88年2月7日 朝日新聞 大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫が服毒自殺に失敗し、翌88年(昭和63年)に事件の概要を明らかにした。この際、日本から拉致された李恩恵から、日本人に扮するための教育を受けたと語った。そのため「李恩恵は誰なのか?」という話になり、すでに産経のスクープにより拉致だと見られていたアベック3組の女性、増元るみ子さん、02年に帰国した奥土(現蓮池)祐木子さん、浜本(現地村)富貴恵さんのうちの誰か、特に「恵」の字から富貴恵さんじゃないかとも言われたがどれも違った。2月7日、韓国安企部から詳細な情報+有名な似顔絵が発表され、捜索用のポスターが作成された。その結果91年(平成3年)5月15日、埼玉県警が田口八重子さんであると発表(報道は匿名)した。 李恩恵に関する部分のみ抜粋、これに有名な似顔絵がセットになっているようです 【身元状況】 名前=日本名不詳、朝鮮名=李恩恵(北朝鮮で金日成首領 主席 、金正日指導者同志 書記 の恩恵を多く受けていたという意味でつけられた仮名) 国籍=日本 出生地=東京、前住所=日本の東京地方 年齢=現在三十~三十一歳くらい(誕生日は7月5日)(81年、東北里招待所に収容された次の日の7月5日、「恩恵」の誕生日祝いがあったので、確実に記憶している) 職務=平壌東北里招待所日本語担当指導員 学校=高校卒業程度 家族=79年ごろ拉致された当時、3歳の息子と1歳の娘がいた▽親戚が多数東京にいた 【印象】 顔の形=四角形で広い方、頬は肉付きがいいほうではないが、四角形なので実際より大きく見える 額=普通の広さだが四角形にへこんでいる▽これを隠すため両方の髪をたらし、額の横を覆う まゆ=一文字型でまつげは普通 目=大きくて少し二重気味 鼻=特徴のない普通の鼻 口=普通の大きさで唇も別に厚くはなく、唇をグッととじてもえくぼは出来ない 印象特徴=顔全体の輪郭は整った方ではないが醜いようには見えず、目が西欧型で顔全体の中で最もきれい▽体全体に無駄毛が多く時々顔を剃っており、女性がどうして顔を剃るの、と聞くと、日本人や西洋人の女性は無駄毛が多く大部分がかみそりで剃るのだと語った 【体つき】 身長=165センチ 体重=56キロぐらい 皮膚の色=やや黒い方 髪の色=黒色((パーマをしているが後ろから見ると首から5~20センチほど長く伸ばしている 視力=いいほうでメガネは使わない▽外出時には度数のないサングラスをかける 手=すべすべして大きい方 足=25センチぐらい 胸部=乳房は下に垂れ、乳首は黒くて大きい 肩=普通の広さ 腹=出てない方 腰=細くない方 ヒップ=普通の娘さんより大きい方 声=大きい方で歌はうまくない 血液型=知らない 身体的特徴=傷、手術痕、種痘跡、ほくろはないが、腰に怪我をしたことがある▽後ろから見ると西洋人の女性に似る 【使用化粧品】 日本人なので、北朝鮮で外資の代わりに使う「兌換券」の供給を受け、外資専用店で化粧品を買って使用し、普通日本製の資生堂製品を使っている▽金賢姫は外国人でないので、外国製商品は買えない 【習慣及び態度】 ▽椅子に座る時は足を組んで座り、別れの挨拶の時には手を上げて振るくせがある。▽学生時代、テニスで腰を痛め、神経痛を患ったと言い、椅子に長時間座って入られなかった。81年7月に初めて会った時は、約一週間ほど「915病院」で通院治療を受けており、83年3月、日本語教育が終わってから入院すると言っていた。▽招待所の浴室で一緒に風呂に入ったことがあるが、日本式の風呂の入り方といっても、特別に習ったことはない。▽酒が入ると呆然と座り込み、連れてこられた自分の人生を悲しいながら「子供達に会いたい、日本に帰りたい」と言い、涙をよく見せた。▽酒の種類に詳しく、指導員と一緒に飲む時などは、グラスに酒を入れたり、つまみを取ってくれるなど、酒席での面倒見がよかった。▽歌は下手な方で、終わりまで歌えた曲はなかった 【北朝鮮にら致された経緯】 ▽高校を卒業した後、結婚したが離婚し、東京で息子(当時3歳)、娘(当時1歳)を育てていたが、海辺を散歩中のところをら致され、船で北に連れられてきた。▽日本には親戚が多数居住している。▽ら致当時、船酔いがひどく、何日間も食事が出来ず、こんすい状態が続いた。▽ら致後、牡丹峰(モランボン)招待所に収容されたが、、その時「子供達に会いたいと泣き」暴れるなど、環境に適応するのが大変だったという。▽酒に酔っていたとき、金正日(北朝鮮書記)の誕生日(2月16日)の晩餐会に、日本人女性として特別に招待されたことがあり、そこで自分達と同じようにら致されてきた日本人夫婦と会ったことがあると言ったが、この事実は他の人には絶対に漏らさないようにとクギを刺した。▽李恩恵(リ・ウネ)という名前は、金日成(主席)と金正日(書記)の恩恵をたくさんこうむって生きているという意味で、北朝鮮がつけてくれたものだと言い、日本名を尋ねると返事を避けながら「(南北が統一されれば)日本に帰る」と言っていた。▽招待所で一緒に入った時に見ると、乳房が下に垂れており、乳首が黒く大きいなど、処女でないことを確認できた。 【学習方法】 ▽招待所で「恩恵」と同居しながら「恩恵」が作成した講義録によって教育。▽すべて日常生活は日本語だけ使う。 ▽午前中は「恩恵」が作った講義内容を説明するといった教育を受け、午後は抗議録を受けた内容を暗誦し、講義内容のうち漢字や単語を暗誦。その他新聞、雑誌を読み、新しい単語を暗誦、日本語放送聴取 【教科書】 ▽日本の国語教科書(1―6年生用)▽日本の中学校の国語及び歴史、地理教科書▽『金日成革命の歴史』(日本語版) ▽NHK放送ニュースと解説番組聴取▽日本の新聞(読売、朝日、日本経済新聞など)▽日本の雑誌(週刊讀賣、週刊朝日、週刊ポストなど) 【映画】 劇映画=「雪国」、「東京の夜」▽記録映画=「沖縄軍事基地」、「米空軍基地」、「日本の都市風景」など▽企画物=「家族」、「望郷」、「座談会」、「訪問記」ニュースなど。 【歌】 「島に嫁に行く(瀬戸の花嫁?)」「上野夜行列車(津軽海峡冬景色?)」「君をたずねて」「男はつらいよ」のテーマなど。 【日本の礼儀、風習、環境教育】 日本人の食生活。客の接待と家庭内での生活礼儀。食事及び食べ物の種類。汽車、車の利用方法及び交通秩序。日本の伝統祝祭日。主婦の日常生活。日本社会の秩序や東京の環境。日本各地域の特性や居住環境など。 ジュリーの歌は何処に・・・・・・あんまり憶えられなかったか? 5-恩恵と賢姫の日課 場所=東北里3号招待所 期間=1981年7月4日~1983年3月 6:30~8:00 朝食及び 8:00~8:30 特普(金日成首領・金正日の特性)についての資料を読む 8:30~12:00 講義 12:00~15:00 昼食及び休息 15:00~17:00 復習 17:00~18:00 散歩及び自由運動 20:00~21:00 テレビをみる 21:00~22:00 課外復習及び日本のラジオ放送を聴く 23:00~ 入浴 24:00~ 就寝 なんか萌える響きだな~ 6-個人的検証 御家族が小泉訪朝まで沈黙せざるを得なかった理由として、残した子供達へ(当時10代)の影響や、拉致された被害者なのに、むしろ加害者扱いされたということがある。それは、つまり国民が北朝鮮に対して正しい共通認識を持てなかったために、91年の警察発表時点で「八重子を返せ」と名乗り出られない状況を作ってしいたということだ。本来なら拉致被害者の救出運動は91年のこの時点でなされなければならなかったのは言うまでもない。 当時小学生だったが、この時代を曲りなりに生きてきた者として、ご本人及びご家族の方に対して、非常に何とも申し訳ない気分である。だから、このような「空気」が形成された過程を漏れ自身も検証しなければならない。 その「空気」に関して、北朝鮮とその言い分を何でも信用する朝日新聞や旧社会党らいわゆる進歩的文化人の影響が多大にあるのだが、その波及効果として以下のような問題があった ① 北朝鮮の言い分「韓国の自作自演」を朝日新聞や旧社会党、進歩的文化人の支持→保守ダサイ、朝日カコイイ ② ①により政治・警察など公権力の過剰否定→一般人の警察に対する信用性低下→韓国安企部のイメージ低下 ③ ②により大韓航空機爆破事件自体が「胡散臭い・安企部の陰謀」などと言われる羽目になった ①~③については散々指摘されていることだが(これ、金日成存命中の話なんだな)、これらを踏まえて ↓ ④ 子供にとっては李恩恵の絵が「怖すぎた」 ということを指摘しなければならないだろう。これは以外と重要なことだと思う。大人ですら事実認識が歪んでいたのだから、怖い絵では「犯罪被害者」だということがなおさら分かりにくいではないか!そしてそれらすべてを踏まえたうえでさらに言わねばならないことだが、 ↓ ⑤ 子供にとっては李恩恵の絵が、まずいことに、あの「犯罪加害者」とかぶってしまった グリコ森永事件において、犯人との現金受け渡し現場にいたというキツネ目の男は犯罪加害者(側の人)です。やはり目撃した7人の刑事にとってはともかく、一般人の認識では「いるかいないのか分からない」存在でした。 1988年の時点で、北朝鮮による久米さん、原さんの拉致はすでに警察によって判明しており、その後李恩恵が田口さんだと調べたのも警察であった。にもかかわらず、この時代に「警察が調べたんだからこれは真面目に受け止めよう」などという姿勢がなぜ小学生だった漏れに芽生えなかったのだろうか。というよりそんな発表がきちんとみんなに分かるように報道されていたという記憶もないのだが。当時の漏れも、警察よりも社会党を信用していたということなのだろう。今から考えると本当に悲しいことだ。 結局、検証するとどうしても、「報道などで警察の話が出るときは、不祥事か捜査ミス→コメンテーターの警察批判→警察に対する信用が形成されなかった」という結論しか出ないのだ!漏れは登校前の朝7時か、ひとしきりファミコンをやった後の午後5時台のニュース番組をよく見ていた(なぜか趣味)からつくづくそう思うのだ。そこでやはり、グリコ・森永事件において、警察がなすすべもなく犯人を逮捕できなかった事による、ある種の「警察不信」が当時の大人に浸透してしまったことは無視できないだろう。 ⑥ 「大韓機事件の捜査結果 韓国発表の要旨」 88年1月16日の読売新聞に載っているのだが、「81年4月から83年3月までは、日本女子工作員と寝食をともにしながら、日本語と日本の風習云々」と書いてある。・・・・・・この後、熱心に報道を追っていれば実は拉致された人だというのが分かるのだが、これでは朝日新聞の言うことしか信用しない朝日信者でなくても早とちりな大人だと間違って「李恩恵=犯罪加害者」という図式をインプットしたままになってしまうのではないか?いずれにしてもひどい話である。当時の読売・朝日両新聞縮小版を読んでみたのだが、いきなり78年のアベック3組失踪と李恩恵が関連付けられているのだが、今と違って当時は大人でも事前知識がないわけで、こんな有様では大人であってもほとんど正しく理解できないかも知れないなと思った。 7-工作員「宮本明」について 「宮本」は1922年7月26日、日本植民地時代の韓国済州道生まれ。「李京雨」との朝鮮名も持つ。 西新井事件=「朴」と名乗る北朝鮮工作員が、北海道出身で1933年生まれの小住健蔵さん(61年ごろ失跡)に成り済ましていたのを警視庁が摘発。「朴」を旅券法違反容疑などで国際手配したが、「朴」が住んでいた東京・西新井のアパートの保証人が「宮本」で、「朴」は「宮本」が設立した貿易会社の専務を務めていた。 大韓機事件=金賢姫・元工作員が「蜂谷真由美」名義、金勝一・工作員が「蜂谷真一」名義の旅券を所持。これは「宮本」が83年に、本物の蜂谷真一さんを東南アジア旅行に連れ出した際にだまして旅券を受け取っており、その際に偽造したとみられる。→警察庁は91年、李恩恵を田口さんと断定。この捜査過程で警察当局は「宮本」が池袋のキャバレーを数回訪れて田口さんを指名していたことを突き止めた。 『読売新聞』(88年1月28日)によると、公安は、85年2月に宮本が足立区内の病院に膵臓がんで入院していたが、4月はじめに自ら退院。しかし、その後姿を見せなかったので「死亡したのでは?」と見なしていたようだ。その後『週刊新潮』09年4月9日号では、08年に実行犯の1人として「複数の工作員と共謀して田口さんを日本海側に誘い出し、工作船に乗せて拉致した」と見なして逮捕状を請求するまで捜査は進んだが、警察もやはり85年4月の退院直後に死亡を確認したという。 8-拉致被害者田口さんの家族と金賢姫元工作員面会 (2009年3月11日) 北朝鮮による拉致被害者の田口八重子さんの長男、飯塚耕一郎さんと、田口さんの兄で拉致被害者家族会代表の飯塚繁雄さんが2009年3月11日、韓国・釜山市内の国際会議場で、大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫元工作員と面会した。 ~感想~ ネット上では金賢姫の「韓国の母になる」「希望を持ちなさいよ!」発言や、耕一郎さんの腕を組む行為に対して色々叩かれているようで、確かに妙な感じがする(特に「抱いてもいいですか?」にはドキッとした)のだが、ただ拉致被害者も腕を組んだ写真があるし、まあ、向こうではああいう感じなのかも知れないな。 今回の面会は政治的パフォーマンスの面も強かったが、冷静に考えると、かつての安明進逮捕は嵌められたという意味なんですかね?それはともかく、金賢姫と会うことで飯塚さん親子の精神的な負担が和らぐのなら、ぜひこれからも何度も続けるべきだ。過去の経緯を考えれば、飯塚家は特に手厚い補償が必要だと感じる。場合によっては日本で金賢姫を匿ってでも続けるべきだろう。その費用は、例えば金丸訪朝時に下賜された金塊でも充てれば良いだろうに。この会見の映像を見て「漏れも歳を取ったなーもうそろそろ30だよ^^」と思い、そういう意味で感慨深いものがあった反面、やはり時間が経ってしまったということを強く感じてしまった。結局こういう感覚はリアルタイムで当時から現在までの流れに触れたことがないとわらないのだろう。 これは通過点に過ぎないのだけど、88年当時は「リ・ウネ、誰それ?いるの?(荒川区議、91年よりも後の妄言)」という状況からスタートしたのだから。それを思うと凄い進歩だな。 救う会ニュースも 金賢姫氏と語ったこと、分かったこと-連続集会報告(2009/04/15) 金賢姫氏と語ったこと、分かったこと2-連続集会報告(2009/04/15) 金賢姫氏が飯塚家族会代表に手紙(2009/05/06)