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1 代理 sage 2007/04/15(日) 09 45 49 ID Pj2Smi8z0 書き込めなくなった?らしいので立てました 2 代理 sage 2007/04/15(日) 09 47 37 ID Pj2Smi8z0 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [] 投稿日:2006/11/14(火) 13 26 14 ID cwVjzMAO0 中国の長い歴史の中で登場した数多くの武将たちの中から、特筆に値するであろう名将百名を選ぼうというスレです。 要は作家の田中某氏の著作「中国武将列伝」と同じ企画ですが、田中某氏の評価に従う必要はなく、各人それぞれの 評価によって、百選に入れるべき武将を推挙して下さい。 ・推挙する武将については、その理由を述べること。 ・対象となる武将は、近世以前の武将とし、近代以降の軍人は含めない。 ・対象となる武将は、特定の時代に偏らないように配慮する。 以上の三点に留意して、中国名将百選を決めましょう。 前々々スレ 【みんなで】 中国名将百選 【決めよう】 http //hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1163478374/ 前々スレ 【中々】 中国名将百選 其ノ弐 【決まらんね】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1167560946/ 前スレ 【確定は】 中国名将百選 其ノ参 【誰だ!?】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1170812626/ 3 代理 sage 2007/04/15(日) 09 48 47 ID Pj2Smi8z0 時代区分 春秋戦国(紀元前771年~紀元前221年 550年間) 統一秦~前漢(紀元前221年~紀元前8年 213年間) 新・後漢(紀元前8年~紀元220年 228年間) 三国~両晋(220年~439年 219年間) 南北朝(439年~589年 150年間) 隋・唐(589年~907年 318年間) 五代~北宋・遼(907年~1127年 220年間) 南宋・金~元(1127年~1368年 241年間) 明(1368年~1644年 276年間) 清(1636年~1912年 276年間) 4 代理 sage 2007/04/15(日) 09 49 41 ID Pj2Smi8z0 これまでのまとめ、はどうなってるか分からないので誰かお願いします。 以上。 5 ○ sage 2007/04/15(日) 09 59 03 ID D0oU8gsK0 代理の方 乙です 現在の状況 南宋・金~元 【確定組】 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共](孟sル)、 【候補】 成吉思汗(チンギスハーン)、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範 張俊、呉?、呉リン、劉キ[金奇] 、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義 徒単合喜、宗翰(ネメガ)、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ) 劉整、脱脱(トクト)、呂文煥 、完顔陳和尚、郭侃、李庭芝 bヨ雷(トゥルイ) 速不台(スブタイ)、木華黎(ムカリ) 前スレより >850 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/14(土) 07 12 11 ID 9iDv5RQB0 「誰某が名将としてどの程度か」と問うならば、 全ての手柄を斟酌してその手腕を量るべきだろう。 一部だけ切り抜いて量ることなど不可能だし意味がない。 そもそも漢人でも戦歴をぶつ切りにされるというのはおかしな話である。 蒙古帝国が中国ではない、というのは判る。 だが彼を選外とするのは「漢人が中国人ではない」と言ってることと同じだ。これはおかしい。 民族の一個人として見れば、その手柄の立てた場所とか相手を区別して云々する必要はない。 それに1127年の靖康の変で宋は南北支那の統一王朝としての面目を完全に失っている。 燕雲十六州を支配したのみの遼を北朝と呼ぶことは難しいかもしれないが、 中原を完全に支配した金はそう呼んで差し支えないだろう。 支那史のお約束通りに考えるならば、 その金は1234年に蒙古の攻撃で滅んでいるので、北朝としての天命は蒙古勢力に移行したのだ。 以後の西征は紛れもなく北半分の統一王朝の遠征であるので除外する必要はない。 その論理は無茶だと言うならば、五胡の蛮兵や、統一した隋以前の北朝の指揮官、唐の外国人の客将は全て除いて頂きたい。 6 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/15(日) 10 39 32 ID RJ3LHnlu0 1スレ立て乙です スレの流れをぶった切ってまで前スレ 777やら前スレ 788の定義を固めてもらっらんだから、 まずはそれを遵守して運用すべきじゃないですか?不満や不都合があるなら明確な改訂案を出すべきであって、 特定の将に対して抜け道探すような手法はせっかく決めた定義が無意味なものになってしまいます。 前スレ 838 郭侃は最終的に元にいたんだよね? 名将か否か判断するのに○○時はのぞくなんておかしい。途中どこにいようが関係ない、 趙亡命時の楽毅だけをみて燕時代を無視するのと同じだろ 全体を見て判断しないといけないと思う 名将の評価と言う意味ではその意見は正しいでしょうけど、 ここは「中国の」名将を選ぶスレなので評価する上で仕えた政権や活躍の場所の吟味は重要です。 燕時代の楽毅の活躍を、楽毅が最後に趙にいたんだから趙将の業績だというのはおかしくないですか? 前スレ 850 北半分の領土的抑えただけで、南朝への遠征放っておいて 西への遠征するような政権は中国政権とはいえないという見方もあるでしょう。 初期は首都すらない完全な遊牧民国家だし、オゴデイ~モンケまでは カラコルムに首都おいたとはいえ現モンゴル共和国で、 中華人民共和国内の内モンゴル自治区ですらないわけで、 中国政権とはみなせず、先行政権扱いが妥当と思いますが。 五胡の蛮兵や、統一した隋以前の北朝の指揮官 それらの政権は基本的に中国の領土獲得を主眼に行動しているので モンゴルとは性質が異なります。単に拡張期のモンゴルが特殊なだけだけど。 唐の外国人の客将 元朝より前のモンゴルと唐では国家思想も国家の形式も全く異なり、 唐は完全な中華統一帝国であるので、客将であっても中国の将からの 除外比較対象に上げること自体間違ってると思いますよ。 だが彼を選外とするのは「漢人が中国人ではない」と言ってることと同じだ。これはおかしい。 民族の一個人として見れば、その手柄の立てた場所とか相手を区別して云々する必要はない。 その論理が正しいなら、異民族の名将は中国じゃなくて本来の民族の将だっていうのが正しいことになるんでは? 「既に確定に上がっている名将のうち、五胡やら突厥その他異民族出身の将は それぞれの民族の将だから選外にすべき」っていう意見が出てきたらどう反論しますか? 7 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/15(日) 10 45 04 ID RJ3LHnlu0 前スレで決まった定義を再掲 前スレ 777 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/07(土) 22 00 07 ID G49b2+p90 そんでもって以前選定者の一人に選ばれたわけですが、 505と 761の折衷というだけでは具体的な形が見えないのでここに概論を書きます。 ・基本は正史ベース。二次資料から引いてくる場合は典拠を明らかにする。 (資治通鑑より、とか出典・十国春秋、とか) ・異民族武将に関しては守勢(中国からの侵略に対する防衛戦)で高名な武将であっても除外、 中国の領土を犯し、十分な土地を掠取する(あるいは侵略のための橋頭堡を作る)か、 当時の中華国家の人々に恐怖意識を植え付けるほどの活躍をしたものを資格保持者とする。 ただし本人が中国からの強い独立意識を持っている場合はこれに該当しても選外とする。 ・征服王朝の先行政権における武将の場合、中国本土に攻め入って領土を攻め取るか橋頭堡を作り、 そのうえでのちに来る征服王朝の樹立に貢献した武将を資格ありとする。 ・・・こんなんで。 俺の頭ではこれ以上波風立たせずに全員を納得させる案は立てられんです。 ◆RQdk7scN8sさんや○さんがもっと洗練された定義案を出してくれるのを希望。 前スレ 788 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/09(月) 00 22 27 ID 7CdWDV6X0 777を全時代に適応できる汎用定義にすることについてアップデート。 ・中国統一政権下における外征で活躍した武将もカウントする。 唐の李靖の突厥討伐、清の策稜らのジュンガル討伐を認める、ということで。 まだまだ完全な定義足りえないのは承知ですが、そこは諸兄に任せます。 本音を言うと他の人が完璧な定義を持ち出してくれると助かるんやけど、怠慢はよくないわな。 8 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/15(日) 10 54 35 ID k9NPg/DdO 1 乙&㌧ 一応スレ立てチャレンジしてみたが俺には無理だったので 仕方ないのでに 1の方に代わりに立ててもらった 長文の所為で要領一杯になっちゃったんだから 心当たりがある奴が次スレぐらい立てろよと言いたい!! 9 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/15(日) 11 00 35 ID u6nOquCr0 1 乙華麗 10 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/15(日) 11 24 56 ID NIBuulv0O 原則的に 民族、出自に関わらず、中国本土での戦いに参加した者を対象とする。 国内平定後は、戦地が国内から国外に移るのは自然の理であり、 当然その場合は、その戦いも対象となる。 11 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/15(日) 11 35 22 ID NIBuulv0O ただし、その人物、及び政権、王朝、国家が、中国の領土、 政治や経済、文化の継承をする意志がない場合、その対象より外れる。 12 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/15(日) 11 36 30 ID RJ3LHnlu0 ここまでのまとめ 春秋戦国 其ノ弐 623 【確定】 楽毅、楚の荘王(熊侶)、白起、李牧、王翦、呉起、廉頗、孫武、樗里疾 【候補】 士会、魏無忌(信陵君)、趙の武霊王 統一秦~前漢 其ノ弐 831 【確定】 韓信、項羽、霍去病、衛青、趙充国、陳湯、周亜父、章邯、灌嬰(暫定) 【候補】 劉邦、曹参、彭越、鄭吉 新・後漢 其ノ参 171 【確定】 劉秀、馮異、樊崇、耿弇(エン)、呉漢、班超、段熲(ケイ)、馬賢、曹操 【候補・議論中】 岑彭、周瑜 三国~両晋 其ノ参 169 【確定】 鄧艾、石勒、祖逖、王猛、劉曜、慕容垂、慕容恪、桓温、拓跋珪 【候補】 陶侃、石虎、謝艾、謝玄、冉閔 南北朝 其ノ参 278、284 【確定】 劉裕、檀道済、韋叡、陳慶之、拓跋燾(トウ)、蘭欽、斛律光、高洋、韋叔裕、段韶 隋・唐 其ノ参 468、475 【確定】 楊素、李世民、李靖 、李勣、裴行倹、薛仁貴、郭子儀、李光弼、李克用、史思明 【候補・議論中】 李晟 or 李愬(郭子儀 or 李光弼との入替) 五代~北宋・遼 其ノ参 786 【確定】 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊師厚、狄青、李存審、狆(チュウ)師道、楊延昭、李継遷、耶律徳光 13 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/15(日) 11 39 42 ID RJ3LHnlu0 ごめんなさい、スレ番参照でミスがありました。 新・後漢 其ノ参 71です。 14 ○ sage 2007/04/15(日) 12 18 21 ID D0oU8gsK0 自分は西征での郭侃の功績を認めるべきでは無いと言うつもりはありません。 遠征での功績はもちろん考慮すべきだと思います。 自分が主張しているのはその範囲なんです。 モンゴル帝国の領土拡大は世界史から見ても類を見ませんよね? 当時の全世界の大半を征服したのは確かに凄いことです。 確かモンゴルを除く歴代王朝の遠征は東アジア圏(ベトナムを含む) に於いて行われていますよね? (西域は入れないのかいと言うツッコミはご勘弁を 西域の事を忘れてました…) だからあえて東アジア圏に限定してはどうでしょうか? と言うのが自分の主張なんです。 (個人的には中近東での活躍を含めるのは違和感がありますので) しかし諸兄がそんな枠に縛られずどの地域での功績を認めるべきだと 仰るなら自分はそれにしたがいます。 15 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/15(日) 12 42 55 ID wwoVJMbhO モンゴルを先行政権と認めるか否かで決めるべきかな、と 認めるのであれば違和感どうのと言って個人的感情でその範囲に制限かけるのはおかしい 16 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/15(日) 12 50 21 ID RJ3LHnlu0 15 先行政権止まりなら、 7に従えば遠征の業績は除外になるんでは? 元以前のモンゴルを中国統一政権として認めるか否かではないかと。 17 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/15(日) 13 18 35 ID hQ7KfBf60 孫?、花木蘭、李廣、岳飛、鄭成功、戚継光、李陵、高仙芝 18 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/15(日) 13 36 21 ID NIBuulv0O 前スレの850の主張って、 甲子園で活躍し、直接大リーガーになってタイトル穫りまくるも、 その後、日本プロ野球に移籍したときは、タイトルは穫れなかった選手にたいし、 大リーグでの活躍、成績をもって、日本プロ野球の10大名選手の中に入れろっていうようなもんだろ? 良識ある人ならば参考までにとどめ、話を先に進めると思うが。 19 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/15(日) 17 48 59 ID /WpUledx0 ええと… 出遅れました、すみません。 1の人および呼びかけてくれた人、ごくろうさまです。 容量制限あったの初めて知りました。 長文あったら早めにスレ立てなければならないことがよくわかりました。 以後、他所でも気をつけよう。 20 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/15(日) 19 25 24 ID y8lnZW510 6 〇、政略 一、戦略 ↑はこのスレでは不要だが、真の名将たる者、自ら事を処し、自ら計を決めるべきだろうが、 このスレで問われるのは↓の五つだろう。 二、戦術 三、戦功 四、出身民族 五、所属勢力 六、三を立てた戦域 俺は二、三の条件を満たしたならば、 四、五はどちらか一つしか満たしてなくても入選を認め、 あまり意味のない六は除けと言っている。 18 野球の場合、大リーグ>日本プロ野球は明らかだが、近代以前の阿州、欧州、西亜、南亜、北亜、東亜は基本的に並列。 良識以前に比喩としておかしいことが自分で判らんのだろうか? 少なくとも貴方は良識を知る者ではないな。 21 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/15(日) 20 48 16 ID RJ3LHnlu0 20 四、出身民族 五、所属勢力 なんで 7の定義が設定されたか、そこにいたるまでどれだけ議論が費やされたか理解してますか? 四、五が、万人が認めるように定義できるなら、その基準でも問題ないのですけど。 あなたの頭の中では明確な定義があるのかもしれないですが、 五胡や五代、遼や金や元や清あたりのカオスな状況を整理できる定義なんでしょうか? もしそうなら、ぜひ定義案として提示してください。 あとNIBuulv0Oさんの代わりにコメントしますけど、 なにか論旨を誤解してませんか?それとも意図的にすり替えてます? 大リーグ>日本プロ野球のレベル差なんて、 18の論旨には全く関係ないです。 大リーグ=日本プロ野球と考えて読み直してください。その上で反論してください。 22 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/15(日) 21 11 17 ID adogH1CA0 俺も長文で書けなくなるとか知らんかったです。すいません。 1さん、 8さん、他迷惑をかけた諸兄、申し訳ない。 でも俺スレ立て技術ないんよ・・・。 とりあえず今度からは訳文を出来る限り削る方向で行こうと思うんでお許しください。 23 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/15(日) 21 12 00 ID y8lnZW510 選手(名将)のみを語るべきで、リーグ(戦域)はどうでもいい、境界線上の闖入者を決められる訳がなかろう。 また、 18の定義でも「日本人の野球選手」としては十分名手と言える。 俺は「日本リーグの選手」としてどうかなんて言ってない。 意図的に論旨を摩り替えているのはNIBuulv0O氏だろ。 このスレで語られる「中国名将」は複合的なものだし、比喩としては全く不適当。 24 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/15(日) 21 25 03 ID RJ3LHnlu0 23 だから「中国人」とは何かを定義できるのかといってるんですがね。 西晋崩壊以降、いろんな民族の流入・混血が進んで中国人・漢民族の定義は困難だから、 スレの当初から一貫して所属政権でもって定義する方向で進めてきているわけですよ。 民族的な定義付けを主張するならば、まずは中国人とは何か?を明確に定義できる案を提示してください。 それがいいもので多少の修正で採用できそうなら、皆の意見を反映した上で採用されるでしょうし、 穴がありすぎるようなら議論するだけ時間の無駄なので却下になるでしょう。 25 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/15(日) 21 34 58 ID NIBuulv0O 20 俺だした喩えで、その選手が外れる可能性があるぐらいは、分かるよな? 同じ選手が、同じ競技をしてても外れるように、 郭侃の功績が限定されのはしょうがない。 まず、過去スレぐらい嫁。で、その中には名将といえども外れた人物はいる。 何故か?そのぐらいは考えろよ。 郭侃を入れたら対象になる武将が、際限なく増えてしまう。 その中には中華風の国号を名乗り、中国本土まで攻め入ったような人物までいる。 だが一般的には、その人物を中国人だとは思わない。 そんなのまで認めたら、中国じゃなくて、アジア史だ。 完璧に板違いになる。だから皆が知恵出し合って定義を決めてきた。 それを自分のワガママで変えろと言うのであれば、良識がある人間とは思えない。 26 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/15(日) 21 49 03 ID k9NPg/DdO 22 許すも何も俺は別に長文に対して怒ってる訳じゃないぞw >でも俺スレ立て技術ないんよ・・・。 俺の場合は技術じゃなくトライしたけどハード的問題でスレ立て失敗したのさ・・・orz スレ立てるのって環境さえ整ってれば簡単らしいけどな それと郭侃の参加した遠征は中国統一政権下における外征では無いのだから 功績としてはノーカウントにするのがが妥当だろうな それと 18での例えは結構的を得てると思うけど… あとねy8lnZW510氏がどう思うかは自由だが 良識を知る者ではないなとか言わない方がいいと思うぞ 逆にそんな風にカキコされたら憤慨しませんか? 現にNIBuulv0O氏は憤慨してますよ NIBuulv0O氏そう興奮せずモチツケ 27 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/15(日) 22 17 48 ID NIBuulv0O ID y8lnZW510に素直に聞きたい。 郭侃は中国本土で全く功績がないとでも思ってるのか? 個人的に俺は、宋弼よりも郭侃の方が、このスレてきにふさわしいと思ってる。 宋弼は負けすぎてる。東西から攻めるなどの技量は評価できるが、 それならば郭侃の西での活躍をもって、その意見に答えたい。 こんな感じの議論をするのが、このスレの流れ。 都合よく定義を変えるのは、ルール違反だ。 26 俺は 850の意見が無茶苦茶すぎるから言ったまで。 自分の推す人物が入らないなら、やり直せと言うのなら、 せめて郭侃と同じように、統一以前の中国外の活躍をもって確定した人物を 具体的に取り上げ、その人物がいるから入るor外せ と言うのなら分かるよ。じゃなけりゃ誘拐犯が人質とって金を要求するのと変わらない。 850を正式に取り下げるなら、こちらも謝罪はする。 28 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/15(日) 22 43 27 ID k9NPg/DdO 27 うんNIBuulv0O氏の主張は最もだと思うよ でもねあの人は自分の考えが絶対だと思い込んでる様に見えるよな ここではみんなで決めた定義に沿って議論してるはずなのにね… それと多分、あちらの方は人には侮辱的なこと言う割りには 自分が逆の立場になったらブチギレるであろうタイプの人間だから あえてNIBuulv0O氏にモチツケと振ったのさ おK? 29 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/15(日) 23 01 28 ID y8lnZW510 野球の場合、その区別は容易い。 一、大リーグ 二、日本プロ野球 だが、文化圏は容易に区切ることは出来ないし、↓のように無理に分けるしかない。 一、東亜 二、東亜~北亜 三、北亜 やはりNIBuulv0Oの比喩は無茶苦茶過ぎる不適切なものだ。 まあそれはどうでもいい。 30 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/15(日) 23 07 44 ID RJ3LHnlu0 ・・・なんかもう相手するだけ時間の無駄なような気がしてきた。 31 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/15(日) 23 25 37 ID k9NPg/DdO 29 >まあそれはどうでもいい。 じゃあわざわざ刺激するようなレスよこすなよと言いたい… NIBuulv0O氏、RJ3LHnlu0氏 あの方の相手するのもうやめようぜ 32 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/15(日) 23 36 47 ID bJsmtWF40 今更でなんなんだけど、「中国」の定義ってどうなってるの? 33 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/15(日) 23 56 53 ID wwoVJMbhO 18 の例えは的外れだと俺も思う 34 RJ3LHnlu0 sage 2007/04/16(月) 00 02 17 ID RJ3LHnlu0 31 >まあそれはどうでもいい。 は、その後の反論なり、定義案なり考えてるのかと少しだけ期待したけど、 1時間近くたっても投下ないのでまともに議論する気ないのが確定ですね。 相手しないに同意します。NG登録したいくらいです・・・。 32 そこに踏み込むとスレの趣旨から外れるのと、結論出せないということで、 これが「中国」というみんなで合意した明確な定義っていうのは決まってないと思いますよ。 35 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/16(月) 00 05 43 ID TUPTWbh/0 この時代専門でないのに口を挟むのもなんだけど 現在の確定が宋3人に金1人 普通、防衛より攻め込む方がエネルギー要るもんでしょ 元贔屓の人にがむばってもらいたい バヤンとか確定主張しなくていいの? 36 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/16(月) 00 07 43 ID 3oHnWORa0 間違った方向と雖も、半年間で培われた旧法に対して、新法を一時間で出せと言うのは無理な要求だなあ。 37 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/16(月) 00 18 28 ID 6MwUiMrMO 33 俺が言いたいのは、 850で同じ人物が、 ある期間が入り、ある期間が外れるなんてあり得ないと言うから、 仮に「日本のプロ野球での10大名選手を決める」なんてスレがあって、 その選手がNPBでの実績が乏しいなら、大リーグでの活躍は外れる。 同じ競技でも、所属と場所により外さなくてはいけないこともあると言いたいだけ。 それでも的外れと思うなら、ここはそういうスレだからあきらめてもらうしかない。 28 おk 言い過ぎた。スミマセン。 じゃ、改めて郭侃を推挙。確かに西方での活躍が華々しが、 対金戦役に従事しているので、全くの無縁な人物ではない。 フビライのもとに使えた後のことは、その置かれた状況を考慮して欲しい。 一時的とはいえ、敵対してる人物の配下にいて、 多大な功績を残してる武将に対しては、与えるだけの活躍の場がなかっただけ。 郭侃が確定入りすることはあっても、候補から落ちることはないと思うので、 さほど必死になれず。 まだ席は空いてるし、伯顔が相手ならば、中国本土のみの活躍限定なら分が悪いが、 それ以外の人物であれば、十分に太刀打ちできると思う。 38 RJ3LHnlu0 sage 2007/04/16(月) 00 22 19 ID 27vtNhal0 36 別に定義案がすぐに出てくる必要はないけど、時間が必要ならその旨書き込めば済む話。 また彼の発言からすれば、彼なりの定義が彼の中で決まってないとおかしいので、概案くらい出せるはず。 それに直前の反論に対してろくに反論せず、自分の言いたいことと捨て台詞だけ残して去っていくようでは・・・ 35 前スレ817・818あたりで確定に推す意見があり、その後反対意見もないので伯顔は確定でいいんでないですかね。 39 RJ3LHnlu0 sage 2007/04/16(月) 01 13 05 ID 27vtNhal0 37 対金戦のトゥルイ、スブタイや、南宋戦のアジュ、張弘範あたりを超える東方の功績があるんでしょうか。 不勉強なので、できれば功績の詳細をご教示いただきたいです。そのうち◆oOLAqFKRB.さんが推薦文投下してくれるかな? あとスレ違いの話題かもしれませんがフラグの西征だと、バイバルスに負けるまでは無敗だったキトブカがまず思い浮かぶのですが、 郭侃がキトブカあたりと同格の将だったのか、フラグ・キトブカあたりの統率下での一武将だったのか、とかも興味あります。 ペルシャ側の集史には郭侃の記述がないらしいですが、逆に元史だとキトブカの業績がなかったりするんでしょうか? 40 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/16(月) 01 24 40 ID 3oHnWORa0 32 中国が何かは知らないが、 支那大陸が支那海~崑崙山脈~戈壁沙漠の自然境界線の輪に囲まれた場所とは定義可能だろう。 その中心地が中原と呼ばれ、正統王朝なり統一王朝としての求心力はそこを支配することで生まれる。 問題は外への玄関口にあたる河西、関東、雲南~越南の、 三つの回廊地帯(と非漢文化の後背地)に割拠した西夏、遼、高句麗、渤海、朝鮮諸王朝、南詔、大理、越南諸王朝などの独立志向の地方政権を如何に捉えるかということだと思う。 また、支那の内側にも、長城という人為境界線に、 黄河、秦淮線、長江の三つの自然境界線が、合計四つ横たわっている。 北からの国防は上記の四つを防御コンプレックスとして行われた。 実際には南朝が反攻することは稀で、呑み込まれることがほとんどである。 その奇跡を成し遂げた君臣が存在する。 太祖開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊德成功高皇帝朱元璋とその忠実なる下僕徐達である。 41 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/16(月) 07 11 44 ID hUp+9G4SO 37 そうなの?俺はあんまり詳しくないから偉そうなこと言えないけど 郭侃って西征での功績はすげぇ~ものがあるのはわかるけど 百人・千人長時代と遠征後の南宋攻めでの功績ってどうなんだろう? というのがあるね 俺も◆oOLAqFKRB.氏が推薦文を投下してくれるのを期待したい!! 35 これ又詳しくないから偉そうなこと言えないけど バヤンの南宋攻めでの活躍ぶりは確定入りに十分過ぎるほどのものがあると思うな で例の人はもう嫌なら無理に参加してもらわなくてもいいんじゃない? 42 ○ sage 2007/04/16(月) 17 47 54 ID 9IoQbNQZ0 自分は別に元贔屓じゃないけど一応投下。 伯顔(バヤン)の功績 対宋戦にて総司令官に任命される。 その際、鄂州、常州、無錫、湖州などの都市を陥落させる。 南宋の都、臨安府を落とし、宋の恭帝ら皇族を捕縛。 南宋の武将、趙文義、范興を討ち取る。 南宋の宰相、賈似道を撃破。 伯顔(バヤン)の活躍振りはこんな感じです。 ・・・十傑入り決定でいいのではないでしようか? あと南宋、平定後のモンゴル高原に置ける反乱鎮圧は功績に入れるでしょうか?。 諸兄の意見を伺いたいです。 なお異論を唱える方は持論なり理由なりを是非、書き込みしてほしいですね。 そうじゃないと今回な結果になっちゃいますよ・・・ 43 ○ sage 2007/04/16(月) 18 17 08 ID 9IoQbNQZ0 42の追記 自分はバヤンのモンゴル高原に置ける反乱鎮圧は功績に含めないが妥当かと。 7で示されてる定義に適合しないと思いますし。 44 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/16(月) 20 33 34 ID areLor/Y0 次は明代か。 朱元璋を「名将」扱いするかどうかで一悶着ありそうだが 自分としては入れてもいいと思う。 何といっても江南から北伐して成功して中国統一に成功しているのが大きい。 45 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/16(月) 21 28 18 ID hUp+9G4SO 44 まあそう慌てるな まだ南宋・金・元の審議中だ それに郭侃、バヤンの件についても話合ってる最中なんだし それに明の審議中に次は清か〇〇の扱いはどうなるんだろうみたいな 横槍入れられたら嫌だろ? 自分の得意な時代が待ちどうしい気持ちは分かるが 俺も以前に先走ったことして注意されたことがあるんだ だからもう少し我慢してくれよ 46 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/16(月) 21 53 23 ID areLor/Y0 45 悪かった。反省します。 しかし元代で現代中国の領域内での活躍に限定するのは難しいな。 郭侃は言わずもがなだしバヤンも対ハイドゥ戦の功績もあるし。 取り敢えず史天沢を推薦しておく。 漢人世侯で終始中国内で戦った武将。 47 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/16(月) 22 00 26 ID Io2Ki5sF0 期待されてよーなので郭侃、落とします。ただし西域抜きで。 郭侃(あざなは仲和) 丞相史天沢に見出されその家で教養を学ぶ。知勇兼備し二十歳のとき百戸長 となった。金の伯撒が衛州を侵すとここを守り、大勝して敵軍4万を潰走させ る。金主を襲い閼伯台を破った。速不台の節度下に入り汴を攻め、金の元帥・ 崔立を降す。のち再び史天沢の節度下に戻り、太康に屯する。功績により千戸 長とされた。 フラグ汗の遠征に従軍。この時期の蒙古は先行政権と考えるのでこの期間の 活躍は無視。とりあえず無敵無敗で「東天の将軍、神人なり」と現地の人々に 畏れられた。 フビライ即位後中国に戻る。国号を定めること、都城を修築すること、尚書 省、御史台の設置、学校その他の創建、そして宋伐戦の方略などを上奏する。 宋伐戦の方略はやはり荊州、襄陽地方の攻略を要とするもの。 中統二年、江漢大都督府理問官となる。翌年、益都の李壇と徐州総管李杲哥 の叛乱平定に出陣、李杲哥を殺す。南宋の夏貴が辺境を脅かすとこれを攻め破 り軍民1万余を奪う。夏貴が3万の軍勢を率いて再度辺境を騒がすとこれを迎 撃、1千余を斬り殺し、戦艦2百艘を奪った。 至元五年、呉乞児と道士・胡王の乱を平定、七年、改めて白馬に駐留して僧 侶・臧羅漢、彰徳の趙当驢の叛乱を鎮める。功績により万戸長。阿朮の襄陽攻 めに従軍、襄陽・樊城が落ちた後、長江を渡って江南を平らげた。寧海州の知 州とされる。在任1年にして没した。 ・・・中国本土でも結構活躍多いですな。宗弼とどっち取るかって言ったら こっちやろーというぐらいには活躍しとります。 48 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/16(月) 22 18 33 ID hUp+9G4SO 46 ありが㌧ よかったーareLor/Y0氏が物分かりのいい御仁で 47 ◆oOLAqFKRB.氏 ありが㌧郭侃は6MwUiMrMO氏が言う様にこれで十傑入りの地位は不動たろうね 49 ○ sage 2007/04/16(月) 23 05 12 ID 9IoQbNQZ0 47 ◆oOLAqFKRB.さん 乙です郭侃の件がようやく解決されましたね。 今度はバヤンのモンゴル平原での反乱鎮圧の件についての 諸兄のご意見お待ちしています。 あと自分はですね忠孝軍を率いてモンゴル軍を散々に打ち負かした完顔陳和尚を推します。 最終的にbヨ雷(トゥルイ)に破れてはいますが対モンゴル戦での 数々活躍振りは評価に値すると思います。 これがまた自分好みの武将なんですわw 50 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/16(月) 23 45 35 ID Io2Ki5sF0 伯顔の陰に隠れとるけど将才は伯顔以上と目されるこの人。 阿朮(アジュ) 兀良合台の子、速不台の孫にあたる。物静かで知勇謀略に長け、勇敢にして 果断、気は万人に蓋す。 フビライ即位後中統三年、李壇の乱を平定して功績を立てる。同年九月、 征南都元帥を拝命、汴で士卒を練兵する。至元元年八月、両淮を略して多大な 戦果を挙げ、南宋政権を恐怖に陥れる。 翌年八月、襄陽の兵を検閲、南郡から攻め入って僊人、鉄城などの塞を抜き、 俘虜五万を獲て軍を返す。南宋軍が襄陽・樊城で連携して元軍を挟撃する気配 を見せると再度南下してこれを阻む。安陽灘から長江を渡り、精騎五千を もって牛心嶺に布陣、南宋軍と交戦して斬首数万を数える。五年、漢水に塞を 築き、襄陽に張り付いて持久戦の構えを見せた。 翌年七月、宋将夏貴、范文虎らの襄陽救援軍を大破、斬首および漢水に溺死 したもの五千余を数え、戦艦百艘を鹵獲する。ここで水軍を練兵し、南征に 備えたのち襄陽を囲む。范文虎が戦艦百艘をもって百丈山に出陣するも、阿朮は 一撃でこれを破った。 九年三月、樊城の外壁を破り、これに迫る。張順(もと孟珙麾下の民兵武将) および張貴が船百艘で襄陽に救援物資を届ける任につくも、阿朮はこれを 察知して張順を殺す。阿朮と元帥・劉整は兵を分かって張貴を捜索、これを 擒らえ、余衆をことごとく殺した。補給路をことごとく扼し、援軍を遮断して 同年十二月、襄陽と主将・呂文煥がついに陥ちる。翌年淮東に出兵、揚州を 攻め、伏兵を持って南宋軍を破り王都統を擒らえる。 十一年正月、参政阿里海牙とともに宋伐戦出陣を請い、兵十万を率い丞相 伯顔、参政阿里海牙とともに南征する。 同年秋九月、南宋軍と交戦、阿朮はみずから槊をふるって勇戦、向かうところ 敵なしの勢いで南宋軍を破り、兵五百を斬る。趙・范統制を擒らえ、さらに 進軍して沙洋、新城を抜く。復州を攻め、守将翟貴を降した。同年、南宋の主将 夏貴と交戦、力戦のすえこれを破る。夏貴は阿朮が長江を渡ったのを知って 大いに驚き、麾下三百とともに戦艦に乗って退却した。南宋軍が退却したのち、 阿朮は陽羅堡を攻め抜き、軍事物資を鹵獲した。伯顔の慎重論に対して攻めの 姿勢を貫き、船三千を燃やし漢陽、顎州を降す。 十二年正月、黄州、蘄州、江州を降す。水軍を率いて安慶を落とし、范文虎 を降す。そのまま池州まで進み、南宋の賈似道と蕪湖で交戦、これを大破、 さらに2月、丁家州で南宋軍と激突、回回砲にものを言わせて孫虎臣、夏貴、 賈似道をことごとく破る。宋朝の主力が揚州に移ると阿朮は兵を分かって揚州 を囲み、揚州を攻めつつ、みずからは真州の珠金砂で南宋軍を破り、斬首二千級 を数える。揚州に合流、南宋の都統・姜才が二万の兵を率いて突出してくると 一事撤退、兵を建て直して再び姜才と交戦、副将張林を擒らえ敵軍一万八千を 覆滅した。 同年七月、南宋の張世傑、孫虎臣の水軍と交戦しこれを破る。戦艦七百を鹵獲した。 十月、中書左丞相となる。伯顔とともに臨安を落とし、伯顔が宋朝を降伏させたのち も残党討伐に奔走した。 十三年六月、揚州の李庭芝、姜才を伐つ。 阿朮は士兵に対して温厚であったが同時に厳格であり、部下が無辜の民を 傷つけるのを厳しく禁止した。田中某氏の小説(海嘯)とは大分イメージ違う。 生涯戦績。両淮を平定し、汴、臨安を陥とし、二十数州を降し、六十七県を 支配した。23年、昔刺木の叛乱を平定に北伐し、翌年凱旋。のち征西にも 参加したが、まもなく病没した。享年54歳。河南王を追贈された。 51 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/17(火) 01 12 41 ID ywN+Wd4k0 老婆心ながら現在までの確定および候補確認。 【確定組】 宗沢、岳飛、完顔宗望、孟珙、郭侃、伯顔 【第一候補(推薦文あり)】 拖雷(トゥルイ)、速不台(スブタイ)、阿朮(アジュ)、張弘範、阿里海牙(アリハイヤ) 【第二候補(推薦文なし)】 韓世忠、呉玠・呉璘、劉錡、完顔宗弼、完顔陳和尚、劉整、呂文煥、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ) ・・・さっぱりさせるとこんな感じやろか。 他にも候補おったけど、彼らには多分票が入らんと思って篩い落としました。 明日もあるし、今日はこれで落ちます。では。 52 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/17(火) 01 13 16 ID JKkEsWSdO 49 は?何も解決してねぇよ。結局西征抜きで確定とかいってるじゃないか。よく読め。 これからの時代、または一巡して残った枠決めるときに同じようなことで揉めるぞ。 何も分かってないのにしきんな、馬鹿。 53 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 01 17 31 ID f8DCfPly0 「あの方」乙。 新法を立てる実力も人間性もない分際の馬鹿がこのスレに来るな。 54 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 01 38 30 ID JKkEsWSdO プロ野球とかメジャーとか検討違いな例えしてた人ですかw? 55 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 02 18 28 ID f8DCfPly0 見当違いだろ日本語も出来ないのか?この馬鹿。 ルールに従えない非常識なワガママ野郎は消えろ。 56 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 02 30 47 ID JKkEsWSdO 携帯とパソコンを使った俺の自作自演でしたw すいませんw 57 ○ sage 2007/04/17(火) 03 13 45 ID ysRVHac90 52 郭侃の中国国内での功績を示してくれたので不明瞭な部分が解消されたので 解決したと言ったまでで誰も仕切ってませんが… 何も分かってないの貴方ですよ それに西征時期の蒙古は先行政権と考えるのでこの期間の活躍は無視 自分はこれに同意しますね。 7の>中国統一政権下における外征で活躍した武将もカウントする。 に該当しないでしょう? 西征時にはまだ中国国内を平定してません。 馬鹿とか自作自演とか楽しいですか? wとか付けて誤魔化してますが笑えません(ry 58 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 03 24 55 ID q4p++dZp0 万度帰とかは実績云々以前に資格がないのかな? 59 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 04 15 55 ID rIqTBJ8G0 もうメンドイから明に行きたい 60 ○ sage 2007/04/17(火) 04 17 07 ID ysRVHac90 まあ自分は仕切るつもりなど更々ないですが 58さんへ一言。 万度帰が 7で示されてる定義に適合する人物なら資格はあると思いますよ。 推薦文なり紹介文なり挙げてみればいかが? 61 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 07 57 34 ID wcWH7fA2O 58 万度帰は今話合ってる時代の武将かと思ったら五胡の武将かよ はっきり言うがこの武将の場合は資格はない 59 上の方でも言ったが今は南宋・金・元の審議中だ もし明の審議中に同じ事言われたら気分良くないだろ? 気持ちは分かるが暫らく我慢してくれよ 自作自演とか関係無い時代の武将の話とかいい加減ウザイ!! 62 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 12 07 50 ID Te6DeNrjO そういうのマルっと含めてマンドクセから明にいって空気変えちまおう 63 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 12 46 14 ID /mg0Xi7n0 61 ここで議論しようとかじゃなくて、例えばこいつには資格がないのかという程度の話。 万度帰は北魏太武帝が華北統一後に西域に派遣した将軍。タクラマカンを転戦して功績を挙げた人物。 64 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 13 37 22 ID OgsQlBe80 テムジンとスブタイはリデル・ハートが(1920年頃の著書で)ベタ褒めしたせいで、マンシュタインやグーデリアン、ロンメル等々がスブタイ信者になっちまったくらい。 (何故かドイツの軍人が多いw) 著書では、「今次大戦(=第一次世界大戦)で初めて登場した戦車や航空機こそが、将来の戦争でこれらが蒙古騎兵の直系子孫である事を証明するだろう」と断じている。 (間接的ながら、後の電撃戦などに影響を与えている。 しかし、これを実現したのはアメリカ合衆国の軍隊だったりするわけだが。) 両者共に時代を超えた「世界史の名将」だとは思うんだけれど、「中国史」という枠には収まらないような気はする。 65 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 13 55 30 ID hRLHwESxO ◆oOLAqFKRB.氏 郭侃の中華地域での戦績が優れているのはよくわかります しかし、アジュとの軍功の差が確定と有力候補ほど離れているかは疑問ですがどうでしょうか? (あとチンギスは……中華地域限定でも同意得られそうにないですよね、やっぱり) 66 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 14 10 24 ID wcWH7fA2O 63 スマンちょっと乱暴に言いすぎたね うーん西域はアウトじゃないかな? タクラマカン砂漠はウイグル自地区だろ?だからこっちはセーフだとしたら 万度帰はギリギリ資格が有るのかな? アホな俺には判断付けかねるよ… 67 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 15 41 00 ID hRLHwESxO いや中国史での西域って、およそウイグル自治区の辺りでは? 68 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 18 36 46 ID wcWH7fA2O 67 調べたら楼蘭(ゼン善)亀茲国(クチャ)、焉耆国(カラシャール)は現在の中国領新疆ウイグル自治区 となってた となると 7の定義にある 中国の領土を犯し、十分な土地を掠取する(あるいは侵略のための橋頭堡を作る)か、 当時の中華国家の人々に恐怖意識を植え付けるほどの活躍をしたものを資格保持者とする。 に適合するなら万度帰は資格有りということになるね 69 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 18 48 51 ID wcWH7fA2O 連投でスマン 7で示されてる定義に番号を振って再掲載 ①基本は正史ベース。二次資料から引いてくる場合は典拠を明らかにする。 (資治通鑑より、とか出典・十国春秋、とか) ②異民族武将に関しては守勢(中国からの侵略に対する防衛戦)で高名な武将であっても除外、 中国の領土を犯し、十分な土地を掠取する(あるいは侵略のための橋頭堡を作る)か、 当時の中華国家の人々に恐怖意識を植え付けるほどの活躍をしたものを資格保持者とする。 ただし本人が中国からの強い独立意識を持っている場合はこれに該当しても選外とする。 ③征服王朝の先行政権における武将の場合、中国本土に攻め入って領土を攻め取るか橋頭堡を作り、 そのうえでのちに来る征服王朝の樹立に貢献した武将を資格ありとする。 ④中国統一政権下における外征で活躍した武将もカウントする。 唐の李靖の突厥討伐、清の策稜らのジュンガル討伐を認める プラス 10より 原則的に ④民族、出自に関わらず、中国本土での戦いに参加した者を対象とする。 ⑤国内平定後は、戦地が国内から国外に移るのは自然の理であり、 当然その場合は、その戦いも対象となる。 一応、こんな感じで番号振ってみたどうだうか? 70 ○ sage 2007/04/17(火) 19 28 26 ID ysRVHac90 65 ◆oOLAqFKRB.さんに援護射撃 確か、郭侃の西征以外の功績が不明瞭だった為、確定入りが決定的ではなかったですよね? (西征の功績をどうするかも揉めてましたが) で郭侃の中華地域での戦績が示された為、 郭侃の中華地域での功績なら十分、確定入りにしてもいいのでは? とみたいな意見が数名より挙がってますよね? このスレの今までの流れからすると まず十傑入りに相応しいであろう人物が浮上してきます。 そしてその人物を確定でいいのでは?と言うレスが挙がって来ます そしてその人物を推す複数のレスが決定の大きな要因となっていると思います。で十傑入りに反対の声がほとんど無い場合 今まではそれで十傑入りが決定してる様に思いますが… だから郭侃とアジュとの軍功の差が大差にしても 取り敢えず郭侃を先に確定入りさせたのではないでしようか? アジュも郭侃に劣らない功績があるのですから 何れは確定入りされると思いますよ。 ◆oOLAqFKRB.さんは皆さんの意見を参考に 郭侃を先に確定入りさせたのではないでしようか? 自分はそう思いますよ。 ◆oOLAqFKRB.さんは以前に「俺が一人で勝手に決める訳にはいかんよな」 みたいな発言なされてますし。 まあ◆oOLAqFKRB.さん本人の意見を聞くのが一番なのですが… 71 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/17(火) 20 15 08 ID o8BwlyJn0 70 ○さん、援護射撃感謝。 実際アジュ>郭侃(西域除く)だとは思うんだわ。 でもアジュを入れろって声はほとんどなかったし、 郭侃は定義論含む話題の主役で10選入りを確定視する声が多かったので、 とりあえず暫定的に確定、ということで確定に入れました。 俺個人としてはアジュは多民族軍を見事に統御してのけた伯顔に統率力では劣るも、 戦闘力、破壊力なら上、と評価しとるんですよ。実のところ。 だから郭侃の確定は蒙古の漢人武将代表という抽象的な意味合いです。 南宋末、元初の名将たちは並べてみるとそうそう差がつくものでもないと思うし。 72 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/17(火) 21 25 53 ID f8DCfPly0 つ ttp //mixi.jp/ 73 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 21 30 29 ID GydVicnn0 金、西夏を滅ぼしたチンギスハーンも十分要件を満たしてるな。改めて推薦させてもらおう。 阿骨打はこの時代でいいのかな? 一巡したら漢代の冒頓、老上、軍臣の各単于も推薦することにするとしよう 74 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 21 34 09 ID GydVicnn0 あー阿骨打よりも呉乞買の方がいいかもこっちにしようかな 75 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 21 35 38 ID hRLHwESxO 73 いや金も西夏もチンギス生前には滅びてないでしょ そりゃ大打撃は与えてるけど 76 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 21 43 20 ID GydVicnn0 75 ほんとだ。まあ両国とも虫の息に追い込んでるんだからよしとしようよw 十二分に要件を満たしてるんだしさ 77 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 21 57 16 ID wcWH7fA2O ID GydVicnn0氏 ああだこうだこうだ言わずに推薦文あげりゃあいいじゃんw ん?冒頓単于とかに資格があるの? 69に示されてる定義の② ただし本人が中国からの強い独立意識を持っている場合はこれに該当しても選外とする。 に該当しそうだが・・・ 78 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 22 05 48 ID rIqTBJ8G0 独立意識を持ってない他国の将って居るのか? 79 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 22 34 48 ID wcWH7fA2O 78 少なくとも冒頓単于は中国からの強い独立意識を持ってよな それに確か冒頓単于は中華の領土を支配しようとは考えてなかったのでは? でアナタの言ってる様な事言い始めたら切りがないと思うが・・・ まさか例の人じゃないよね? 80 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 22 36 29 ID GydVicnn0 77 チンギスくらい有名ならいちいち推薦文あげなくてもいいだろうさ。ウィキ、それが嫌ならぐぐればいくらでも出るでしょ。 阿骨打、呉乞買書こうかとも思ったけど粘没喝の名前があがってるんだよね。 実際動いた人間の方がこのスレ向きだろうし。名前挙げた人に推薦文は任せる。 78 同意。 モンゴルの武将が入るなら匈奴の武将も入っていいと思ったから。この2つの国の違いって相手国の政治力、外交力の 優劣でしょ。土下座外交してでも攻め込ませなかった漢、不味い外交で相手を怒らせ攻め込まれた金、宋。 政治力は名将か否か判断する材料にはならないと思う。 81 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/17(火) 22 56 15 ID Fl1wk6yX0 76さん チンギスは確かに金、西夏に大打撃を与えたけれど、金も西夏もチンギスが 引き上げるとたちまち国力・兵力を盛り返し旧来の版図を取り戻しとーから、 彼は選外だと思います(十分な国土を切り取る、あるいは橋頭堡を作るに 該当せんから)。金なんかトゥルイとの戦役でおよそ40万かそれ以上の兵力 を動員しとるし、当時はまだ余力満々だったと見るべきかと。それにチンギス が中国経営にあまり熱心でなかったことも重要。むしろ金の支配からの独立を 目指した風が感じられる。ムカリに中国経略の全権を与えたとはいえ、河北が 取れれば御の字ぐらいにしか思ってなかったのでは? 69案、十分な国土を掠取する~以下略は十分な国土を掠取し、それを多年に わたって支配した、に手直ししたほうがいいかな? 82 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 23 02 28 ID rIqTBJ8G0 79 言いがかり付けるなっていいたいの? 杜撰な条件定義を立てておいて、指摘されたら逆ギレってコト? 83 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 23 02 51 ID wcWH7fA2O 80 >ああだこうだこうだ言わずに推薦文あげりゃあいいじゃんw と言ったのはチンギスの事じゃなく阿骨打か呉乞買か迷ってたから言ったんをだよ それに粘没喝の推薦文よかったら書いてみてよ 俺も書いた事あるから分かるんだけど 特定の人ばかりが推薦文挙げるの結構しんどいと思うよ で冒頓単于とか推薦したいなら俺はこれ以上、異は唱えないておくよ 84 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 23 08 18 ID uUTXiMcy0 80 そういう手抜きはこのスレでは認められないんじゃないかと。推薦したい場合はちゃんと業績あげてください。 特にチンギスの場合、中国以外の業績は省く必要があるし、拡張期のモンゴル軍は常勝すぎて 71の最後に言われてるみたいに、有力な名将の業績は凄すぎて比較が難しいでしょうし・・・ あとその後に元という統一王朝建てたモンゴルと、まともに侵入すらできなかった匈奴では、 このスレ的に扱いが全く異なります。 7か 69の定義を熟読お願いします。 85 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 23 16 47 ID wcWH7fA2O 82 なんですかアナタは言いがかり付けてたんですか? 異を唱えるのは別に反対しませんが例の人の様に 言うだけで何も持論を述べないのは如何なものかと・・・ で杜撰な条件定義と思うなら修正案をだせばいいじゃん 俺が言ってることそんなにおかしいか? 第一、俺は逆ギレなどしてませんが 86 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/17(火) 23 24 06 ID uUTXiMcy0 80 あと、阿骨打は遼攻略までで、宋にまともに攻め入るまではいってないので対象外っぽいですね。 現状、遼が中国統一政権扱いではないですし、戦域も燕京の周辺までにとどまってたと思いますので。 呉乞買の場合は、業績のほとんどが宗望や宗弼のものなような気がするですが、不勉強で詳細がわからんです・・・。 87 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 00 24 15 ID hiwhGuyY0 >ただし本人が中国からの強い独立意識を持っている場合はこれに該当しても選外とする。 この一文、日本語として変なこと極まりないですが 逆説的に言えば、該当するのは 本人が中国外の武将でありながら、中国に対して強い帰属意識をもってる武将 ということになります。 とっとと中華政権に降伏でもして中国の武将になって戦えばいいんじゃないですか?ソイツ。そんなに中国人になりたいなら 88 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 00 38 33 ID 2qfHyaIq0 87 そこの解釈はそのときの中華政権から独立するという意味ではなく、 伝統的な中国文化に傾くかどうかかと思ってた。 モンゴルでいうと遊牧民的な志向だったモンケと中国的な志向だったフビライの差みたいな。 89 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 00 42 52 ID hiwhGuyY0 それはモンケとフビライの相対的な違いでしかないと思うんですが どちらもモンゴルとして中国的な文化とは相容れてない部分で自立してる訳で フビライは中国的なことに理解は示してるけど、それを中国というのは違うでしょう 90 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 00 52 21 ID v3udnKAUO 86ちと頭固すぎないか?遼は駄目で宋は良しって。燕京周辺まで行けば十分じゃない? 91 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 01 02 20 ID 2qfHyaIq0 89 いや、だから中国的な文化や支配体制に対して理解を示すか、否かが大きな違いなわけで。 モンケとか、匈奴あたりや契丹時代の遼あたりは中国的な志向が明らかにない。 元を王朝名に採用したり、中国式の政権作りを取り入れたフビライとは違います。 あと、できれば 87の意図を明確に示してほしいのですが。 その文は削除するべきだと言いたいのでしょうか。 92 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 01 10 01 ID 2qfHyaIq0 90 連投失礼 遼は結局異民族王朝扱いになって中原深くまで攻め入った太宗のみの入選に留まってる以上、 金の遼への侵攻は異民族同士のぶつかり合いで中国への侵攻にあたらないという解釈です。 遼が中国扱いに昇格するのなら、守勢の活躍という理由で選外になった耶律休哥や耶律斜軫あたりも入選すべきでは? 93 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 01 12 57 ID hiwhGuyY0 ちょっと待て ちょっと中国式を取り入れたぐらいで中国扱いなの? 94 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 01 18 29 ID 2qfHyaIq0 93 中国式を取り入れるか否かは大きな差ですけど・・・ どこまで中国に同化したら許容するかを定義できる、もっといい案があったら教えてください。 95 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 01 27 47 ID v3udnKAUO 92 それならばモンゴル対金も異民族同士の争いと言うことで除外と言うことになりますわな スブタイが候補に入っておりますが外れますか 96 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 01 29 07 ID UhreilvE0 近代以前の話をしてるんだから、「民族」てのはやめたほうがいいんじゃない? 97 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 01 40 40 ID hiwhGuyY0 87の意図 日本語変だから直せ(別にコレに限った話じゃないけど、最近はあんまり整理されてない文章が多すぎる) 中国式を頑なに取り入れないってのは、よほどの排他的民族主義であって 普通、人間社会・文明っていうのは他にいいところがあったら取り入れて進んでいくモノですが 家に畳が無いから日本人じゃないとか言わないですし、今使ってるパソコンはWinであれMacであれ日本のメーカーではないでしょう 逆に、アメリカ人がソニー製品使ってるから、その人は広義で日本人なのですか? 中国式を取り入れた国に属したアジュらは自分のこと中国人だと思って馬乗って兵隊を指揮してたのですか? それを取り入れるか取り入れないかが大きな差で、明確な分け方になるのでしょうか? 98 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 01 49 23 ID UhreilvE0 97 中国ってのは文明の名前であって、中国式を取り入れるってのはその文明システムを受け入れるってことでしょ windowsやらソニーとは全く次元の異なる話だよ 例えば、日本がキリスト教を受け入れて、「神の名の下に」正義をふるったり 裁判のときなんか聖書に手を置いて宣誓したりとかすれば(個々人の信仰は別の話) それはキリスト教文明を受容して、国家をその形に変えたって事になる。 中国式を取り入れるってのはそういうことでしょう。 中国式を思いつくままに列挙してみれば 洛陽あたりを中心とした華夷観 皇帝を頂点とした官僚機構 年号の設置 儒教システム 他には何があるだろうか、こういったものを受容しているかどうかが問題だと思うんだけど… 99 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 01 52 30 ID 2qfHyaIq0 95 金は北宋滅ぼしてて完全統一まで行ってないけど、 北部を制して統一政権に準じた扱いになってるという認識です。 この場合、金を滅ぼしたモンゴルとの違いは難しいのですけど、 郭侃の征西の扱いについての議論の中で、モンゴルは南宋をあくまで征服対象のひとつ、 という扱いだったので先行政権扱いが妥当、という解釈になってたように思います。(違ったらすいません) 自分としては、もし金が先行政権扱いになるのであれば、モンゴルの南宋攻め以外の功績は除外すべきかと思います。 その場合、ムカリ・トゥルイ・スブタイあたりは対象外になりますかね。 100 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 01 53 57 ID cQ7DeTg90 胡服騎射の実行者とその追従者である武霊王と李牧ほかは除外されるべきだと思うが。 こいつらは全部、中国的な文化からの離脱者だろ。 あと楚呉越もアウトとすべし。 南越や西夏、遼のような周辺国と同じ扱いでいいだろ。 101 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 02 12 16 ID hiwhGuyY0 98 例で前半上げてるのは文明なのに、後半の例がシステムなのですが…… それは使えるもの、理に適ったものは使うという次元ですので、究極のところ、ソニーの話とそう代わり在りません あくまでモンゴルがシナを統治するのに便利だったから採用したというレベルでしょう 儒教システムなんて取り入れたなんて言えるもんじゃないですし。あることを許したに近いでしょう 途中で裁判の例が出てますが、ここは名将という個人を上げるスレなので、 むしろ国(裁判形式)よりはその武将個人(個人の信仰は別といった部分で)の背景・精神に寄る選考が正しいと思うんですがね(個人的には) 草原で育った、中国外で育った人間が、別段中国に生活を根ざした訳でもないのに、中国で戦ったから中国の武将なんですか?という話で 逆に唐なんかの外人武将は唐という国の中で生活して、その価値観の中で武将になったからそれは中国武将でしょうし まぁ別に選定条件なんて、もうウンザリしてきたんでどうでもいいんですけどね、ぶっちゃけ(休哥もモンゴル将も入れちゃえば?) ただどうも粗が目立つ文だったので、定義文。そういう突っ込みや疑問が持つような文章にするのが一番よくないですよ もっと言葉選んでくれないと。 (後ついでに、武将の紹介するときに、2レスも3レスも使うのも正直、国語力を疑いますね そのまんま本の写しを打ってるとしか思えない。文章の要約ぐらいは出来て当たり前だと思うんですがね 4096文字60行も使えるんだから) 102 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 02 12 19 ID 2qfHyaIq0 97 87の意図 日本語変だから直せ その文の意図がちゃんと理解できないから表現を見直してくれ、という解釈であってますかね? 自分の認識は既に述べたけど、正確なところは◆oOLAqFKRB.さんに確認した方がよいかもしれません。 (振ってしまってすみません) (別にコレに限った話じゃないけど、最近はあんまり整理されてない文章が多すぎる) 残念ながら、ご自身の 87も、意図する結論部分がきちんと記述されてなくて、 何が言いたいのかをきちんと伝達できてないと思いますよ・・・。 後半部分については、「中国とはなにか」を明確に定義する術がなく、 そこを突き詰めて議論してもどれだけかかるかわからず、全員が満足するもを作ることもできないので、 紆余曲折の末に、このスレでの便宜的なルールとして 69が決定された、という回答にならざるをえません。 (もしもっといい案がでてくればそちらに切り替えるのはありだとは思いますが) 103 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 02 16 31 ID Zjm71ruBO ID hiwhGuyY0氏に是非聞きたいし、質問したい >日本語変だから直せ それならアナタを含めみんなが納得いく様な代案を出すなり、もしくはその項目を削除するべきだと主張すれはいいのでは? 時間をくれと意志表示なされるなら待ちますよ だって杜撰な条件定義なんでしょ? もちろんそれなりの修正案なりこう改善すべきだと言う考えが御有りなんですよね? 出来ればアホな俺にでも理解可能な最善案を提示してほしいですね 104 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 02 17 33 ID 2gPLeexKO 91 イェケ・モンゴル・ウルスがダイオン・イェケ・モンゴル・ウルスに変わったのがそんなに大きいかな? それに中華地域を中華式のやり方で治めようとするのは、ある程度はオゴタイの頃に始まってない? 意外とショボいとか言われてるものの、耶律楚材の立場はどうなるの 105 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 02 19 51 ID 2qfHyaIq0 101 五胡十六国や五代十国、遼、金、元、清あたりの入り混じった状況の人物を、 明確に分類できるのであればその方針の採用もよいと思います。 自分としては現状の政権ベースの定義案と比較して、あなたのおっしゃる 人物ベースの定義案の方が複雑になるのと、より揉める原因になるように懸念しますが。 時間が掛かってもよいので、皆が満足できそうな定義案を出していただきたく。 106 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/18(水) 02 22 01 ID EnVX91ag0 http //page7.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g55753565 107 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 02 22 02 ID Zjm71ruBO 103の日本語がおかしいので訂正 × ID hiwhGuyY0氏に是非聞きたいし、質問したい 〇 ID hiwhGuyY0氏に是非聞きたいし、答えてほしい 108 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 02 27 49 ID 2qfHyaIq0 104 中国式の王朝名を使うこと、というのがこのスレ発足当初に固まった定義案の要件のひとつなのです。 オゴタイの頃にある程度中国的な文書行政が始まってるので、線引きをどこにするかは確かに難しいと思います。 国号の点と、首都がカラコルム、ていうのがネックになるんではないかと。 フビライ時代も上都と大都の併用ではあるんですけども・・・。 109 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 02 34 55 ID cQ7DeTg90 108 フビライ時代は、夏は遊牧国家、冬は中国国家でおk。 それ以前はそれこそ先行王朝として扱う形式でいいだろ。 あと、それとは別にその先行王朝に仕えた金の漢人をどう扱うかだ。 南北朝期の選考に準じればいいかと思う。 110 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 02 45 16 ID v3udnKAUO 定義に漢人であること、漢人でない場合は漢人相手に戦って勝つこと ってのを追加したほうがいいな 111 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 03 03 33 ID 2qfHyaIq0 101 (後ついでに、武将の紹介するときに、2レスも3レスも使うのも正直、国語力を疑いますね そのまんま本の写しを打ってるとしか思えない。文章の要約ぐらいは出来て当たり前だと思うんですがね 4096文字60行も使えるんだから) 推薦文投下してくれる方は、史料の漢文訳すだけで相当な労力を使ってるんだから、 そのくらい我慢してください。長文読むのがめんどくさいなら読みとばせばよいだけです。 このスレには推薦文を楽しみにしてる人も多くいるってことを理解してください・・・。 112 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 04 01 37 ID cQ7DeTg90 もともと黄河流域だけが漢人(の原型)の縄張りだった。 長江流域が漢化されたのは秦漢~六朝の長い時間をかけてのことで、 秦漢初期は、北部の勢力から送り込まれた諸侯王や太守を中心とする漢人植民地が巨大な蛮地の中に点々と存在した程度のものだったと思われる。 皮肉なことに五胡の南下によって、黄河流域という本拠地を失ってから長江流域の漢人化は促進された。 <黄河流域> 上:強い異民族 下:弱い漢人、弱い異民族 <長江流域> 上:強い漢人 下:弱い漢人、弱い異民族 そして上記のように、南北で玉突きのように強者が弱者を支配し混血し新しい漢人が二種類発生するという図式が出来上がる。 北部の場合では強い異民族も漢人と混血すると弱くなり、北からやってくる強い異民族に自分が征服される。 南部の場合は同化を拒んだ弱い異民族はさらに東南アジアに逃げ込む、と。 概して見ると、暴力に対する抵抗力は、南に遷るたびに、そして文化の恩恵に浴するたびに弱くなっていく傾向がある。 蒙古族は文化のうち便利なものを取り入れ、同化には興味を示さなかったし、漢人に参政権を与えることも例外的だった。 満州族は一度目は漢化し、二度目は辮髪や満州服などで自らに同化することを強制してから、参政権を与えた。 結論をいうと強い漢人(=士大夫)足り得るか、ということが彼らにとっての中国人の証明だと思われる。 その意味で宋は(最強ではなくとも)最高の中国だったし、王朝による定義制度は正しいと言わざるを得ない。 だが、南遷以後の六朝や南宋のみを、北朝が再統一するまでの間だけ中国とするのはいささか寂しい。 だから、五胡北朝と女真蒙古の支配した時期の北部中国は別の定義で適応する必要があるだろう。 漢人の王でなくとも、漢人の役人を起用さえすれば中国の王にはなれるのだから。 あと余談だが、金、元、明、清は国号としては中国式とは言えないだろう。 113 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 12 05 15 ID fsUSOkQL0 101 文明を可視的に特徴付けているのはシステムでしょ あなたの例で言えば唐を中国たらしめているものは何?ってこと。 非漢族王朝の唐がどうして中国王朝なのか、それは中国文明のシステムを導入しているからじゃないかな? そうすることで被支配層の漢人の支持も集められるわけで。 それと、唐ってのは漢土からその外部まで広くに跨っていたから、草原育ちの将軍もいくらでもいたよ 114 ○ sage 2007/04/18(水) 19 59 45 ID SvSYsgGj0 もし 109-110で述べられてる提案で定義に関する諸問題が解決されるなら、 取り敢えず条項として起して頂けませんかね? >あと余談だが、金、元、明、清は国号としては中国式とは言えないだろう。 金については知らないのですが 元の国号の由来は蒙古は封じられた国が無いから四書五経から採ったんですよね? 確か宋までの王朝は始祖が封じられた土地の名前を元号に採用してたはずですよね? モンゴルは最初、蒙古と名乗っていたのですが中原国家からすると 二文字の国号は夷狄の国の元号と馬鹿にされたので 苦肉の策(?)で四書五経から採った言葉を元号を採用。 その流れを明、清も受け継いでたはず。 では金、元、明、清の国号は中国式で無ければ何式になるのですか? ・・・こちらも余談ですが 明治、大正、昭和、平成も書経から文字を抜粋して年号に採用してます。 115 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 20 05 40 ID OdKWoxd40 114 なんか途中から国号と元号がごっちゃになってない? 116 ○ sage 2007/04/18(水) 20 11 33 ID SvSYsgGj0 115 すいません元号になってる部分も国号の打間違えです 117 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 20 48 25 ID HPxBBrN20 81 前にも書いたけど、チンギスは燕雲十六州に相当する地域は確保しているけど それでは不十分ということなんだろうか? 118 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/18(水) 21 07 22 ID 9hNRKR7Q0 87さん >ただし本人が中国からの強い独立意識を持っている場合はこれに該当しても選外とする。 これ日本語としておかしいか? ID 2qfHyaIq0さんは 88以降普通に意味を理解して話を進めてくれとーし、 ID wcWH7fA2Oさんも 77においてちゃんとわかった上で定義に触れる、触れないの話題を展開してる。 むしろ貴方の文章のほうが俺にはおかしく思えるし、上記の一文に関しては単純に貴方の読解力の問題じゃなかろーか? やからこの一文は別段、書き改める必要ないと思う。 ・・・別に喧嘩売ってるわけじゃないよ。 ただ、直せってんならどーゆう書き方をすればいいか、提示していただきたいだけ。俺はそこらへんわからんのよ。 あと、長文に関して。 2レス3レスにまたがるのもしょーがない人おるんよ。一レスあたり所詮原稿用紙12枚分やろ? 列伝の長い人やったら30ページとかあるし、どー削っても訳文が2レスぐらいかかる人おるって。確かにほとんど正史の 丸写しやけど、だいぶ自己流に書き換えとーけん直接正史の直訳って訳でもないし、そこにそうツッコまれても困る。 まぁ、何処何処で勝って何処何処で負けた。戦績は○○。って書くのは簡単やけど、それじゃあ情緒がないやろ。 ただし、訳文がところどころ変なのは認めます。力量不足ってやつです。すんません。 99さん 金は先行政権か統一王朝か、ということなら、統一政権でいいと思いますよ。 南北朝時代で言えば北朝を完全統一しとるわけやし、 岳飛獄殺後の和平締結以後は南宋から朝貢を受けて南宋より金のほうが中国の実質的支配者やったことは間違いないし。 金の先行政権は金主が阿骨打やった時期、あるいは遼滅亡以前でいいかと。 その統一政権・金を打ち倒して次に来る時代を切り開いたトゥルイ、スブタイ、ムカリあたりは、やっぱり資格保持者やと思う。 117さん 不勉強ですんません。 燕雲に伍す領土を取りそれを放棄することなく確保したなら、チンギス本人にも資格はあると思います。 当時の金朝の人々に恐怖心を植え付けたという点では申し分ないし。 ただ、チンギス自身が本心から中華の土地が欲しいと思っていたかどうかが問題でしょうか。 領土の確保もそれまで自分たちを押さえつけて下に見ていた金朝に対する反抗であって征服欲と無縁であったなら、 資格保持者というには少々無理があるかも。でもまぁ、とりあえず推薦文なり紹介文なり落として諸兄に諮るのが一番かと。 で、完顔陳和尚の紹介文、落としていい? 119 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 21 22 54 ID 2gPLeexKO 114 そもそも、それまでのモンゴルは国号使ってなかったんじゃなかったっけ? 名無しに近い大蒙古国が、国号が決まって大元大蒙古国になったはずでは 120 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/18(水) 21 23 01 ID urBhmHXx0 開封落とせなかった岳飛が確定で燕京落としたチンギスは駄目ですか 漢族マンセースレなわけだ。いわゆる異民族は漢族の武将の力量測るものさしでしかないって事か 121 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 21 27 20 ID HNr4X7gv0 チンギスのことは自分には分からないので脇に置いておくとして、 岳飛を推す人に岳飛の戦績を書いてもらいたい どうもぴんと来ない 関羽みたいに知名度が先行しすぎている気がしなくもない 122 ○ sage 2007/04/18(水) 21 31 37 ID SvSYsgGj0 87 >ただし本人が中国からの強い独立意識を持っている場合はこれに該当しても選外とする。 この項目が入っているのは西夏の李元昊みたいな人物がいるからじゃないのかな? こう言う一文を入れなきゃ自分みたいに李元昊を推薦した時の様な事態を 回避する為の措置と思いますが… 118 本来なら自分が完顔陳和尚の推薦文を挙げるのが筋なの様な気がしますが 代わりにお願いしようかな お願いしても おK? 123 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/18(水) 21 34 04 ID 9hNRKR7Q0 完顔陳和尚(本名は彝、あざなは良佐) 豊州の人。二十歳を過ぎた頃母もろとも北に攫われる。蒙古の大元帥 は彼の驍勇を愛し、帳下に置いて護衛官とした。母が豊州に帰りたいと いうので従兄の完顔斜烈と秘かに計る。その後一年、大元帥の目を盗んで 監視の兵を殺し、馬を奪って母、斜烈とともに豊州に帰還した。馬が潰れ ると母を荷車に載せ、黄河を渡って金に帰投。宣宗より厚く嘉される。 陳和尚は文人王渥と交友を深めて甚だ資質があり、《孝経》、《小学》、 《論語》、《春秋佐氏伝》などを読んで略儀に通じた。軍中で事がないとき には牛の毛を筆にして詩文を書き、寒苦の士について賦したという。 正大二年、斜烈が罷免されると入れ替えで総領となり、方城に屯する。 旧斜烈麾下の兵たちは陳和尚を従兄同様、兄事した。このころ斜烈が病に かかる。軍中の李大和と方城の鎮将・葛宜翁が喧嘩を起こし、陳和尚に訴えた。 陳和尚は大和に理ありとして宜翁を杖打ちの刑に処したが、宜翁は生来凶悍で 杖刑にかけられたことを恥辱とし鬱々として死んだ。死に臨んで妻に必ず 陳和尚に復讐を果たせと言い残しており、彼女は陳和尚が私怨をもって夫を 殺したとして御史台・尚書省・近侍官に向けて訴訟を起こした。ために陳和尚は 獄に繋がれることとなる。獄中に書を持ち込んで閲読し、18ヶ月が過ぎた。 遡って正大三年、斜烈の病が好転、総帥として西(多分蒙古)に攻め込む ことを命ぜられたが、陳和尚が冤罪で獄に繋がれていることについて哀宗に 上奏、まもなく斜烈は病死するも、従兄の上奏により四年、陳和尚は許され、獄を出た。 哀宗は冤罪であったことを陳和尚に詫び、名将・斜烈の弟(従弟)として名将 たることを期待すると述べた。陳和尚は感涙して拝礼し、左右みな感動の涙を 流した。紫微軍都統となり、翌年“忠孝軍”を創建した。 正大五年、蒙古軍が大昌原に侵入すると平章・完顔合達の先鋒として出陣、 四百人を率いて八千の蒙古軍と交戦、三軍の士を鼓舞し、巧みな用兵手腕を もって蒙古を撃滅した。二十年ぶりの快勝に金国は欣喜雀躍、陳和尚は勲功 一等とされ、定遠大将軍の位を授かる。この一戦で完顔陳和尚の名は一躍 天下に轟いた。 忠孝軍の士卒は皆ウイグル人、羌族、渾族の亡命者でこれを統率するのは 困難を極め、陳和尚を置いて彼らを御撫することは不可能といわれた。攻め落とした すべての州県において秋毫も犯させることなく、治軍は厳正。戦うたびに 先鋒を務めて真っ先に敵陣を陥とし、その速さは風雨のごとし。諸軍の将帥 たちはいつしか陳和尚と忠孝軍を自軍の要と頼るようになった。正大七年、 衛州で捷ち、翌年倒回谷で勝つ。禦侮中郎将とされた。 正大九年正月、三峰山で蒙古のトゥルイ(実戦指揮官はスブタイ)に敗北、 鈞州に逃れる。城が陥ち、市街戦に突入すると非難して隠れる。騒乱が静まると トゥルイの前に出頭、「我こそは忠孝軍総帥・完顔陳和尚。大昌原の勝者は 我なり、衛州の勝者もまた我なり、倒回谷の勝者もまた我なり。人の我を国家を 負う将と謂い、乱軍の中に死すを望まず。今日死するは明白なれど、天下に必ず 我を知るものあり」と言って刑死を望んだ。トゥルイは陳和尚の将才を惜しんで 蒙古に仕えよと言ったが、陳和尚は腕を折られ足を折られても屈さず、口の中を 剣でえぐられて死んだ。享年41歳、金朝は鎮南郡節度使を追贈し、石碑を建てて その忠義と将才を称えた。 124 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/18(水) 21 39 47 ID FHMP1W2rO チンギス・ハンは無しにしませんか? 日本語を解するモンゴル人(某力士等)が、このスレを見て、 モンゴルの英雄を中国の英雄扱いされてたら、あまり良い気分しないと思うんです。 阿倍仲麻呂を中国の英雄と紹介されてたら、少なくとも私は違和感を感じます。 後年のモンゴル人に対する影響力を考えたら、外すのが妥当だと思うのです。 125 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 21 41 04 ID v3udnKAUO 長文乙。でも前半部分はいらんだろ。 126 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/18(水) 21 46 49 ID 9hNRKR7Q0 前半部いらんかな? 陳和尚の人格や教養を語るエピソードとして欠かせんと思ったんやけど。 127 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 21 52 34 ID 2gPLeexKO 124 征服王朝なんだからモンゴルが強い証じゃないの? 128 ○ sage 2007/04/18(水) 21 56 31 ID SvSYsgGj0 119 あくまで自分の知ってる範囲での話なのでこれが正しいとは断言できませんが モンゴルは最初、日本などへ書状を送り付けた際には蒙古と名乗っており、 「二文字の国号とは所詮は夷狄の国だな」 みたいな侮りを受け相手にされなかった為、 四書五経(書経?)から 言葉を選び出して元を国号にしたと読んだ記憶があるんですよ。 129 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 21 56 38 ID v3udnKAUO 名将である理由に人格、教養が条件に入るならいるだろうな。 でもそうじゃないだろ 130 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 21 57 46 ID H5dC65zb0 126 人格や教養は選考理由には関係ない。 関係あるのは武勲の量と質のみ。 131 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 22 23 25 ID Zjm71ruBO 129- 130 まあプラスαぐらいに考えとけばいいんじゃないか? やいのやいの言うほどの事でもあるまい 124 チンギスハーンを無しにする理由がモンゴル人があまり良い気分しないからなら 中国名将百選も止めとくか? 日本語を解する中国人(某ITの社長等)がこのスレを見て 東夷の蛮民ごときに中国の英雄、名将を勝手に討論されてる様子を見たら それこそ憤慨ものだと思うが… チンギスハーンを入れる入れないは定義に当てはめて判断すべき 阿倍仲麻呂は本人が嫌でも中国の臣下にされちゃっんだから仕方ない 個人の違和感とは別問題 132 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/18(水) 22 29 52 ID T9FrouWD0 岳飛は関羽などとは全然違う。それこそイメージの先行。 岳飛。 宣和年間に募兵によって参じる。 百人単位の部隊で賊(反乱軍?)を次々と撃ち破る。 宗澤のもとに配属され、その武勇を絶賛される。 ただ勇猛なだけでなく、その兵法、運用の妙を讃えられた。 宗澤が死んでから、各地の反乱を討滅に奔走。 汜水関において金将を討ち、その軍を大破。 精鋭300を伏せては金軍を夜襲し、潰走させる。 王善ら賊軍、合して50万には、わずか800で撃破した。 極めつけは金の南下によって、高宗が逃げ回っている最中 金軍の後方にあって、その軍と6戦戦い皆勝ち、多くの将帥を捕らえた。 金軍が常州に再度やってきたときも4戦皆勝ち、清水亭での戦いでは 敵の屍が15里にわたったという。 南宋が杭州を確保でき、政府として機能できた戦功の第一は岳飛。 これは張俊が奏上している。 華南の賊軍討伐に奔走したあと、襄漢を平らげ完顔宗弼の南下に伴い くだんの朱仙鎮の戦いで完顔宗弼を撃破し、開封に追い返した。 朱仙鎮は開封から目と鼻の先だった。 結局開封奪回は、岳飛をおそれた金の謀略(と予想)と秦檜の横槍で実行できず。 あとは知ってのとおり。 この人は掛け値なしの名将。とくに民衆には慕われ、食料など進んで提供されている。 本紀なみに長い記録なので、本当のところはこれの5倍くらいはあります。 133 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 23 23 09 ID HNr4X7gv0 岳飛については黙っておきます 漢族以外の武将を全員外してほしい こんな漢族マンセースレで添え物にされて哀れ、次からはスレタイに「漢族限定」の文字を入れてくださいね 134 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/18(水) 23 29 49 ID T9FrouWD0 133 中国史関連の書物をふつうに読んでいたら、そんなセリフは出てこないと思うが… 漢族ってなんですかね。 マンセーしているような人もいないと思うのだけど。 ちなみに自分は、民族の異種はあまり興味ないですね。 五代ではテュルクマンセーでしたがw 135 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 23 31 31 ID qDwJCv350 モンゴルに対して「中国」と関するのに違和感を感じているのがいるだけで、 漢人マンセーなんて誰もしてないだろ。非漢人の将軍がどれだけ入ってるかみてみろよ。 それと、煽り口調だとたとえ正しいことを言っていても誰も聞かんぞ 136 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 23 57 48 ID 2gPLeexKO 135 まあ今までも非漢民族の武将も入れてきたからね だからこそモンゴルだけ特別扱いするのも変なんじゃない? 137 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/18(水) 23 58 57 ID ItMU0bN40 国号について。 大元大蒙古国が漢語での正式名称。 大元とか元しか言わないのは支那の学者先生方の史観に漬かり過ぎだ。 中国王朝としての「元」も「大元」も本来は存在しない。 元に取っての中国は最も重要な直轄植民地でしかない。 宋までは旗揚げの場所や封土がそのまま全国政権の王朝名に適応された。 金より後は「大○」の二字で一つの国号であって、慣例に反する。 従:大元 主:大蒙古国 と、あくまで大蒙古国がメインパートなのである。 これだけで全然中国的中国式とは言えないだろう。 経書から引いたのはあくまで道具として利用しただけで本質的に漢化した訳でも漢族志向に寄り添った訳でもない。 大元大蒙古国とは、元来の中国王朝とは一線を画する超世界帝国の国号なのである。 明は中国部分しか引き継げなかったが、支配制度は蒙古のシステムを継承していた。 宋ではなく、大元大蒙古国をより明確に意識していた証拠だろう。 1636年に北元から超世界帝国の帝位を継承したのであって、 中国王朝としての帝位の正統性は明朝滅亡のどさくさに紛れて誤魔化した感が大きい。 138 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/19(木) 00 13 16 ID QZMqize90 (修正) 清は1636年に北元から超世界帝国の帝位を継承したのであって、 中国王朝としての帝位の正統性は明朝滅亡のどさくさに紛れて誤魔化した感が大きい。 <近世的中国> 満蒙:大北部 支那:大南部 <支那> 中原:小北部 江南:小南部 139 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/19(木) 04 30 09 ID GM3M5UIHO そろそろ明に行こうぜ 140 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/19(木) 07 42 13 ID QZMqize90 N16_11086.lzh に今までの過去スレをうpした。 パスは「過去スレ」 見れない人は参考にどうぞ。 141 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/19(木) 11 29 23 ID sOI9heFPO 133 ID HNr4X7gv0は自分がこよなく愛する関羽を貶されたから 逆ギレしてアホな事ほざいてる風にしか見えない 漢族(?)マンセーなんて奴なんかこのスレに居ないし、異民族武将を添え物なんかにしてねーよ 両方共評価してんじゃん 俺は鮮卑慕容部・拓跋部スキーだしw テュルク萌え~ で俺はアジュと完顔陳和尚に各一票入れとく 142 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/19(木) 15 16 12 ID 1XOclV5U0 118 >ただ、チンギス自身が本心から中華の土地が欲しいと思っていたかどうかが問題でしょうか。 領土の確保もそれまで自分たちを押さえつけて下に見ていた金朝に対する反抗であって征服欲と無縁であったなら、 資格保持者というには少々無理があるかも。 これって名将か否かを語る上で必要ですか? 本当に必要な条件であるならば金はこのスレにおいては除外対象になりませんか? 金は中華の土地を欲していなかった。結果的に北宋部分を支配下に置きましたが。 金の建国は遼に対する反抗であって建国初期においてはその遼に対抗する手段として宋と手を 結びました。そのときの金は燕雲十六州など中華の土地を欲していなかったこと。 そればかりか独力で十六州を奪回できなかった宋の肩代わりをし、その土地を宋に返還していますよね。 その後紆余曲折あって金は宋に進攻して中華北部を領土にしますが直接統治せず楚、斉と傀儡国家を 立てて統治させ自分たちは北方に戻っています。 結局、金は中国からの強い独立意識持った、と言うより自分たちと中国は別物と考えていた国であり 大筋では匈奴等と同様に扱うべき 征服王朝の先行政権であるのも首都を燕京に遷し南征を起こした海陵王の時代からで統一王朝であった時期は無い。 言葉は変ですが先行政権の先行政権の武将である宗望、宗弼、宗翰、 先行政権同士、考え方によっては先行政権と異民族の戦い。である、モンゴルVS金で活躍した武将、陳和尚、スブタイ、 トゥルイ、ムカリもこのスレでは選考外になるのではと言うのが私の考えです。 長文失礼しました。 143 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/19(木) 16 35 21 ID GM3M5UIHO どうでもいい話だが完顔陳和尚って最初お坊さんかと思ってた。 武将とわかった今でも脳内想像図は騎兵率いる将軍でなく花和尚魯智深みたいな豪勇な僧侶が浮かんでくる 144 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/19(木) 18 17 54 ID LLMUQ9lF0 142 そんなに必死にならなくても・・・ チンギス・ハーンを候補入りさせたいなら推薦文を書き込みしたら いいだけじゃないの? 145 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/19(木) 19 45 54 ID I9w1Tlat0 143 あるあるww 146 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/19(木) 20 06 20 ID dXElhxkd0 てっきり俺も坊さんだと思ってた 147 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/19(木) 20 13 32 ID AsiDAywz0 >ただ、チンギス自身が本心から中華の土地が欲しいと思っていたかどうかが問題でしょうか。 領土の確保もそれまで自分たちを押さえつけて下に見ていた金朝に対する反抗であって征服欲と無縁であったなら、 資格保持者というには少々無理があるかも。 はい、確かに言いました。実際名将の条件とは直接リンクしてないですね。 でもここで 7、 69の定義がものを言ってくるわけです。 異民族武将に関しては守勢(中国からの侵略に対する防衛戦)で高名な武将であっても除外、 中国の領土を犯し、十分な土地を掠取する(あるいは侵略のための橋頭堡を作る)か、 当時の中華国家の人々に恐怖意識を植え付けるほどの活躍をしたものを資格保持者とする。 ただし本人が中国からの強い独立意識を持っている場合はこれに該当しても選外とする。 先日も問題になった最後の一行ですね。 この一行があるがゆえに、チンギスがただの反発心と独立心から金を攻めたのであればここで選外と言うわけです。 西夏の李元吴が名将でありながら中華からの独立を目指したために落選したのはご存知でしょう? あと、金は傀儡政権を立ててはいますが明らかに漢化しています。 アクダ時代はいざしらず、北宋との決別、対決姿勢に移行して以来は明らかに支配欲、征服欲をもって侵攻しています。 傀儡政権は漢人のほうが中国支配に向いているという適正の問題で立てただけのようなものですし、これが打破されると 自ら南進して河北を支配下に置いたわけですから。自ら北朝の主をもって任じ、和平後は南宋から多大な朝貢を受け 中国文明を取り入れ、中華の正統たることを主張したことから征服王朝と呼ぶに問題はないかと思います。 で、蒙古に話を戻しますがオゴタイ以降は蒙古が本気で中国本土を狙っているのは明らかですから、 となればこれは統一政権・金と征服王朝の先行政権・蒙古の戦いということになり、 この時期に戦った金の完顔陳和尚や蒙古のトゥルイ、スブタイらは資格保持者で問題なし、というのが俺の持論です。 まぁ俺が定めた定義案なんぞが完全なものなわけじゃないし、違うと思うなら手直ししてください。 実際俺なんかの定義に影響される必要はなく、貴方の胸にある“これが正しい定義だ”というのに照らし合わせて 諸兄に諮るのがいいと思います。 誰が資格保持者たりえるか、なんてことは俺が決めることじゃないし、 誰を推すにしてもまず推薦文、あるいは紹介文を挙げて諸兄と議論を交わすのが最善だと思いますよ。 148 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/19(木) 21 07 35 ID nU9GlXRu0 ・異民族武将に関しては守勢(中国からの侵略に対する防衛戦)で高名な武将であっても除外、 中国の領土を犯し、十分な土地を掠取する(あるいは侵略のための橋頭堡を作る)か、 当時の中華国家の人々に恐怖意識を植え付けるほどの活躍をしたものを資格保持者とする。 ただし本人が中国からの強い独立意識を持っている場合はこれに該当しても選外とする。 ↓ ・異民族による(中華外の)他国家の武将においては、対中華国家に対する自国の防衛戦の功績は除外する。 対して中国領を侵食し、土地を掠取する、またはそれに準ずる者は資格を有する。 これにおける異民族国家とは中国式の国家システムに好意・理解を示し、採用・継承しつつも、 民族としての独立性を失っていない、謂わば疑似中国国家である。(李継遷時代の西夏などの国粋主義時代の排中国国家は該当しない) 異民族武将にすると、中国国家に属した異民族武将の意にもなるので、訂正 高名、恐怖意識などの個人により定義が曖昧な言葉を削除 独立意識云々~は補足要項なので、()扱い 文章公正はこれでいいですかね 105 人物ベースの定義案が複雑で揉めるコトは判ってるから、(個人的には)と付けたんですが 113 唐がいつのまに非漢民族王朝になったんでしょうか?漢民族の血は入ってると思いますけど 祖先を辿れば~、母方や妻が~、唐の服装には~、っていうので唐は漢民族じゃない!っていうのが流行ってるのは判りますが 育ち云々の話は中国の倫理基準や社会システムの中で、本人がその価値観を持つという話なので 別に草原がどうとかいう話ではありません 149 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/19(木) 21 46 47 ID sOI9heFPO 148 文章公正 乙 結局、定義に異論を唱えてた奴は何の返答も寄越さなかったな 時間が掛かるなら一言言って頂きたいと念を押しておいたのに… 結局は持論も改正案もなくああだこうだ言うだけで他人任せとは… で上の方でもカキコされてますが自分が推したい武将がいるなら(チンギス?) まずは推薦文か戦績をカキコすればいいと思う、入選か落選はそれからの話なんだし あとにわかは 140の過去スレうPをよく読んでからお越しください 150 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/19(木) 22 03 45 ID LALhZm4W0 148 唐は建国したときから非漢族王朝でしょ。非漢民族と非中華を同一視しないことを求めたい。 南北朝時代から隋唐にかけて特徴的であったのは、非漢民族が中華帝国を形成したことにある。 例えば、杉山正明などは唐をタクバツ国家と位置づけているほど。 151 ○ sage 2007/04/19(木) 22 39 41 ID 3o9x59by0 142 自分としては 金が楚、斉と傀儡国家を立てて、統治させ自分たちは北方に戻っていたとしても それは金が中華北部を支配する手段の一つに過ぎないと思います。 だから金は統一政権として扱ってもいいと思いますが。 例えば南北朝の東魏、西魏には共に皇帝は存在していましたが、(孝静帝と文帝) 東魏は高歓が西魏は宇文泰が実際は影から支配してた訳なんです。 状況的には結構似てると思います。 それに高歓も宇文泰も支配しようする意欲がが無かったとは言えないでしょ? 実際に傀儡国家である東魏と西魏は高洋と宇文覚にそれぞれ併合されてます。 それと 142さんがチンギスを候補入りに相応しいと思うなら推薦文なり紹介文を挙げればいいんじゃないのかな? 152 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/19(木) 23 10 39 ID Ps/lvsnO0 148 粗の目立つ文章を改定していただいてありがとうございます。 自分の文章に責任持てと言われても、 自分視点からだとどう書き換えたものかわからんのですよね。多謝。 どーでもいいけど、丁寧語って疲れるわ。別段喋りよるわけでもないのに。 153 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/19(木) 23 35 55 ID QZMqize90 149 新定義は 140を読んでから検討するよ。 その為にモリタポを購入して過去スレをうpした。 そっちもぐだぐだ言うのを止めてくれや。 古参のみが貴族化したスレなど不要。 入選の議論は開かれるべきだし、定義の検討は常に怠ってはならない。 154 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/20(金) 00 01 48 ID K+KiW1xh0 152 うあぁ、今気付いた。 “改定”じゃなくて“改訂”やが。俺はこーいうミスがやたらと多い。 155 105 sage 2007/04/20(金) 00 12 54 ID PCS1zf5Q0 148 文章修正乙です。 人物ベースの定義案が複雑で揉めるコトは判ってるから、(個人的には)と付けたんですが そこを理解してもらえてるのであれば、了解です。 ただ文章の正確さを求めるあなたならば、できればその旨をはっきり書いてもらいたかったです。 あくまで人物ベースの定義に固執しているかのように受け取ってしまってました。 153 定義の検討が大事なのは同意ですが、ここは中国武将とは何か、 を議論するのが主旨のスレではないのも事実。 定義論が主になってしまうようでは本末転倒です。 せっかく元まできててあと少しで一回りなので、ひとまずは現状の定義で清まで行くべきと思いますが。 その後、最終確定できてない部分や、確定組の見直しなど2週目のサイクルに入るはずなので、 その前に根本的に定義見直し議論の場を設けるということではいかがです? 異論のある人はそこまで定義案の推敲時間にしてもらうってことで。 156 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/20(金) 04 42 10 ID ijKItsuG0 「意見の相違を受け入れるよりも、意見の相違を抑圧してしまう方が悪い結果を招く」 157 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/20(金) 06 53 10 ID fZmu5ZmIO 153 過去スレをうpされた方ですか乙です >そっちもぐだぐだ言うのを止めてくれや。 >古参のみが貴族化したスレなど不要。 別にぐだぐだ言うつもりはないが文句言うばかりでは愚痴りたくもなるでじょ?それに古参のみが貴族化などしてませんが 入選の議論は開かれるべきだど思うよ、でも定義に関しては取り敢えず新法でいってみませんか? 不都合のある箇所は修正すればいいだけの話で異論があるなら代案なり、 修正案を出してくださいと言ってただけ 過去スレがうpされたからもう大丈夫だけど 以前は今までの流れが分からなかったら正直に聞けばいいだけなのに それを怠っている様な方が見受けられた感は否めなかった 俺は他スレで前スレが確認出来ない状態の場合は正直に教えて頂きたいと聞きますよ 普通は大体教えてくれる方がいますし、今まで流れが分からなければ聞けばいいじゃんと普通に思うけど またぐだぐだ言ってスマン 156 みんなは意見の相違を受け入れ様としているし、意見の相違を抑圧なんてしてるか? 捻た風に捕らえるのは良くないと思うが… 過去スレもうpされたんし、定義の不都合な部分も改正された ぶっちゃけそろそろ前に進みたいのだが… 158 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/20(金) 07 12 00 ID AgQwTp+z0 じゃあ現行は旧法でいこう。 それ以前にココテムルは元じゃないのか? 彼の死とともに中原の失陥が確定された気がする。 確かに活躍したのは明初だけど、北元からのお客さん扱いも変な気がするが。 159 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/20(金) 08 50 05 ID fZmu5ZmIO 158 >じゃあ現行は旧法でいこう。 ゴメン言ってる意味がよくわからないんだけど… アナタの言う旧法って隋唐まで適用された定義? それとも文章改訂前の新法の定義のこと? どっち? それによりいろいろと話が変わってくるんだけど 160 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/20(金) 08 52 47 ID YmFEuclP0 ここで北宋の旧法派と新法派の争いが 161 名無しさん@お腹いっぱい。 age 2007/04/20(金) 13 25 23 ID 5vXvfyR80 張俊 群盗出身の南宋の名将。劉光世、韓世忠らがそうだったように皇帝即位前の 高宗に合流。建炎3年の金の侵攻ではその部隊の規模から積極的に 迎撃に出ることはなかった(但し他の将軍も似たようなもん)。 明受の乱を鎮圧する時は武官で中心的な役割を果たした。 その後宗弼の鋭鋒が陝西方面に向いている紹興1~4年の間に 各地の反乱勢力を鎮圧し軍勢を拡大。岳飛とともに李成、馬進を討伐。 宣撫使として国境地帯に駐屯し紹興4年9月からの金斉連合軍を 劉・韓両将と共に撃破。紹興6年に30万を号する金斉連合軍の南下に 際しても岳飛の軍や三衙軍(皇帝親衛隊みたいなもん)と共に 最も活躍した。 朝廷が劉光世の軍閥統制に失敗してからは東部防衛の最高責任者となる。 その時点で張俊の軍は最大の兵員を擁していた。 紹興10年からの金の侵攻に対しても善戦した。 しかし岳飛とは年を経るごとに不仲になっていき、秦檜の兵権回収に 協力したこともあり、その功績にも関らず不当に低い評価が定着してしまった。 他軍閥との連携も多く、南宋軍の中心的な役割を担っていた彼の戦略的立場は 岳飛小説などではすっかり岳飛のものになっている。 162 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/20(金) 13 43 34 ID SQuzy2fv0 沖縄県の方へ(命に関わる注意事項です) 沖縄県での選挙ですが、どうか民主党だけは避けてください。県民の生命に関わる可能性があります。 民主党の最大の公約は一国二制度(※)ですが、一度「一国二制度 沖縄 三千万」で検索をお願いします。 この際、民主党のHPで調べても良いです。以下の注釈↓と矛盾することは書いてないはずですから… ※一国二制度 簡単に言えば沖縄を中国と日本の共有物にし、そこに3000万人の中国人を入植させます。 (つまり沖縄人口の 96% を中国人にして、実質、沖縄を中国人の居住地とします。) さらに「自主」の名の下、沖縄で有事が起きても自衛隊は干渉できません。 3000万人の中国人が、少数派となった130万人の日本人に何をしても、です。 そして反日教育を受けた中国人の反日感情の強さは、ほとんどの日本人の理解を超えるものです。 今回の選挙で民主党が勝った場合、「自主」「発展」を連呼しつつ段階的に進めていくことになります。 自主と言っても、自主を認めるのが「住人の96%が中国人となった」後だということに気をつけてください。 発展と言っても、新沖縄の少数派となった「少数民族日本人」の発展ではないことに気をつけてください。 163 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/20(金) 15 40 15 ID uwmbANC30 チンギスの推薦文書こうにも、漢文が読めないから参考文献が元朝秘史だけ (読めもしない中文の元史とにらめっこしたが殆ど意味がわからない) で元朝秘史だけだとこうなる チンギス・カン (前略) 1211年、金国へ遠征。撫州、狐峠、宣徳府を抜く。 居庸関に到るまで敵軍を殺す。中都を包囲する。 1214年、潼関でイレ、カダという将を破る。 (後略) 対金戦の記述少ないなぁ(なんか食い違ってるところもある) 一応前スレ834にもチンギスの対金戦の概略は書いてあったが、 まっとうなのはちゃんとした人じゃないと無理か…… ただの歴史好きの理系学生の俺には手に余りすぎる 164 ○ sage 2007/04/20(金) 18 33 36 ID DTTgDqfg0 161 163 乙です 元朝秘史はフィクションの部分が多いですからね、記述が食い違ってるのは かなりいい加減な書物な為ではないでしょうか? 元史なんかも急造品みたいですし。 まあ自分もただの歴史好きの馬鹿なだけですし、大して漢文なんか読めません… このスレには五代を得意とする神と南宋・モンゴルを得意とする神が存在しますけどね。 以上寝言でしたw 165 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/20(金) 18 56 35 ID UvqYF3jkO 寝言は寝てから言え 仲良しさんには気持悪いぐらいヨイショするわ、そうでない人の意見にはすぐ熱くなって喧嘩腰になるわで ○は本気でうざい 166 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/20(金) 19 45 38 ID byUutMaK0 過去スレはどこで見れるのかな? 140の意味がよくわかんない 167 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/20(金) 19 51 09 ID fZmu5ZmIO 俺もw 偉そうに言ってはみたもののどこのアップローダーか分からんかった・・・ 153氏お願い教えて 168 ◆RQdk7scN8s 2007/04/20(金) 20 03 48 ID VVhTjdec0 岳飛を誉めそやしているのは張浚という人なんだが 「岳侯,忠孝人也,兵有深機」 「岳侯神算也。」 とか、ベタ褒めなんすけど… この人について詳しく聞かせてくれる人はいないだろうか?(抗金名将のひとり?) 盗賊あがりの張俊も、最初は名コンビって感じだったけど 岳飛が最年少でもっとも戦功があって、しかも和平を巡っての意見の対立で、決裂したんでしょうかねぇ。 より権力をもった秦檜側についた張俊が残った、という感じ。 169 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/20(金) 20 13 50 ID VVhTjdec0 166 ロダはここです。 ttp //www6.axfc.net/uploader/16/ 今度から自分で探してみてね。 170 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/20(金) 20 44 38 ID byUutMaK0 169 どうもありがとう。 171 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/20(金) 21 20 53 ID fZmu5ZmIO 169 ㌧ でも携帯だからうPされてる内容が見れないorz 172 ○ sage 2007/04/20(金) 22 44 41 ID DTTgDqfg0 張俊は南宋の高宗の時代にに活躍した武将。字は伯英。 元匪賊で朝廷に帰順後、抗金戦にて活躍し、戦功を立て 岳飛、韓世忠共に抗金の三大将軍に数えられている。苗伝・劉正彦が乱を起こすと、韓世忠・呂頤浩らとともに鎮圧。 建炎元年、御営司統制官となり、三年には明州城を守り、金兵の来攻を阻止し、高橋にて勝利する。 その後、完顔宗弼が大軍を率い南下してくると、城を放棄逃走。 紹興初年、江淮招討使に任命される。 各地にて叛乱を鎮圧し、叛将李成を討つ。 紹興五年、淮西を宣撫し、斉の劉猊を打ち負かす。 十年には、部将の王徳を北上させ、亳州に勝利するも、高宗・秦檜の意を迎えて軍を引き帰させ、寿春に駐屯する 紹興十一年、劉?・楊沂中と合流して、淮西を援護し、柘皐で金軍を破った。 同年には和議に賛同し、軍権を返上し、枢密使に任ぜられる。 晩年には清河郡王に封ぜられ、太師に上っている。 高宗に寵愛され、死後に循王に追封される。 優れた戦術家だったものの利に敏い処があり、将兵の略奪を禁止しなかったり、 劉?を排斥や後に秦檜と結託し岳飛を讒言して逮捕の要因を作った。 別に馴れ合っては無いが投下してみた。 173 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/20(金) 22 54 23 ID VVhTjdec0 172 いや、それは張「俊」であって、自分が知りたいのは 張「浚」、あざなは徳遠という人なんです。 読みが一緒だから紛らわしいったらない。 174 名無しさん@お腹いっぱい。 age 2007/04/20(金) 23 13 56 ID 5vXvfyR80 168 その人は主戦派官僚として有名だが同時に初めての軍閥統制も行っている。 明受の乱に際して張俊が武官の中心的な役割を果たしたのに対し 文官の中心人物として鎮圧に貢献した。 明受の乱の後、陝西に派遣され富平で大敗北を喫するも戦時体制の整備などで 活躍した。 陝西で軍事政治を監督した後東部の国境地帯を指導することになった。 彼の指導のもと韓世忠や張俊、楊沂中は勇戦して金斉連合軍を撃破するが 当時最大軍閥であった劉光世が積極行動に出ず北進は遅々として進まなかった。 そのため劉光世を罷免したが後釜にすえられた人物が副将と対立し 殺害され、その軍団の大部分が斉に投降するという一大不祥事に発展。 この責任をとる形で解任されてしまう。 劉光世を罷免した政策は陝西で勇将の曲端を解任した政策を踏襲した ものであった。しかし当時の宋軍は大きく 前護軍(韓世忠の軍) 中護軍(張俊の軍) 右護軍(呉カイの軍) 左護軍(劉光世の軍) 後護軍(岳飛の軍) 三衙軍(楊沂中の皇帝親衛隊) 前護副軍(兵員が少なかった前護軍の補佐ということになる。詳細不明) で構成されていたが右護軍のみが旧北宋正規軍の流れを汲むもので 、そこで成功した政策が同じように他に通用するものでなかった事が 彼の軍閥統制が失敗した最大の要因である。 なお呉カイや劉金奇を抜擢したのもこの人。 175 ○ sage 2007/04/20(金) 23 30 23 ID DTTgDqfg0 173 失礼w 上で説明されてますがさっき間違えたので再投下。 張浚は張俊と同時期活躍した人物 政和年間に進士に及第し、 宋が抗州へと遷都後に国内の叛乱鎮定に転戦し、後に知枢密院事まで出世したが講和派らに排斥された。 劉?・楊沂中と共に淮西を援護、柘皐で金軍を破っていたりする。 176 名無しさん@お腹いっぱい。 age 2007/04/20(金) 23 47 43 ID 5vXvfyR80 あと劉キ(金奇)についてだがマイナス要因がある。 順昌府での戦勝以外はあまりパッとしないのに加え、順昌府の戦いで も知府の陳規が >4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/10(火) 22 02 26 ID 6820HRkf0 >南宋初期の陳規 >もとは安陸の県令だったが文武諸官が逃走する中で住民に請われて残り >徳安府の行政と軍事を所轄するようになる。 >その地をおびやかす勢力から9度の防衛戦を戦いことごとく >耐えぬき守りぬいた。優れた政治家として、優れた防衛の将として >その才能を評価され最後の戦いでは順昌府の知府として劉錡と共に >防衛にあたる。 >劉錡なくしてあの大勝利はなかったであろうが、かといって劉錡がいなくとも >宗弼が順昌府を落せたかどうかはあやしい。 >講和が成立した後も文官であった事から順調な人生をあゆむ。 >単に清廉潔白な官僚と記憶されることが多い。 というように隠れた名将であること。つまり単独の見せ場に乏しい 177 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/21(土) 03 19 41 ID oowaX0dDO 韓世忠はたった八千で金の完顔宗弼率いる十万の大軍を 退路に潜んで追撃し打ち破ったりしてるけど なんか数々の戦功が梁紅玉夫人とセット扱いされてるような希ガス ここでの評価としては張俊>韓世忠? 178 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/21(土) 07 10 50 ID dt26H9NUO 守備に回って領土を守り抜いた人物と、外部に打って出て 勢力拡大した人物とでは、後者の方が評価され易いため、 抗金の武将の中には不利な面がある。 これを言っちゃおしまいだが、たかがお遊びのスレで、 確定したから偉く、落ちたらダメなんてないんだから、 無理してねじ込む必要もあるまい。 179 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/21(土) 09 40 16 ID 1Noo2fNN0 174 感謝。唐の王忠嗣のような人か。 この時期は俯瞰しきれていないので、助かります。 175 サンクス。お手数かけました。 検索してもコレといったのがなくて。 178 それはそうだけど、やっぱり確定になると後々の印象には残る だから必死になってしまう。 しかし個人的に今は、候補に挙がるような未だ知らぬ人物の紹介こそ このスレの本質と思ってしまっている。 もっとしゃべって… 180 名無しさん@お腹いっぱい。 age 2007/04/21(土) 10 41 55 ID +BVsWw6t0 177 韓世忠の軍は兵員が他より少なかったから大局的な評価だとどうしても 張俊>韓世忠 ということになる。韓世忠は他軍閥と協調姿勢を見せることが多かったが 本人の性格もあっただろうが軍の規模もその理由だったであろう。 自分としては抗金の名将に 岳飛:英雄 韓世忠:武人 呉カイ:軍人 張俊:政治家 というイメージがある セット扱いで思いだしたが呉カイも随分呉リンとセット扱いされているが、 南宋建国期の抗金戦争中は呉リンは副将格にすぎず、現に呉カイの死後 その軍は同じく副将であった楊政や郭浩と呉リンがそれぞれ継承し 宣撫使に胡世将を迎える形で処理されている。 181 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/21(土) 12 59 36 ID u/tGwffr0 宋滅亡以後の将の名が挙がってないからいろいろネットで調べてみたが これぞってのがいない。というか資料が少ないorz漢文は読めないし どうだろうって思うのがカイシャン(海山)なんだが詳しい人いればご教授を 自分でわかったのは 長年元に叛き続けたハイドゥをカラコルム、タミールの戦いで連破。ハイドゥは傷を負って死亡 その後ハイドゥ派の分裂に乗じて、アルタイ山脈を越えメリク・テムルを降す 即位後の政治能力にはかなり?が付くが武将としてはかなりのものだと思ったので 182 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/21(土) 13 28 41 ID oowaX0dDO ・・・まさかこんなに波紋を呼ぶとはorz 178 岳飛、張俊の推薦文が挙がってるからって 別に俺は韓世忠をねじ込みたいとかじゃなくて純粋にセット扱いされてるが 可愛そうだなと思っただけで… つーかこのスレじゃそうゆう人物不利でしょ? だから張俊>韓世忠になるのかな?と単純に思っただけ 韓擒虎と賀若弼も下手すりゃセット扱いされてたし… 180 ㌧ いい勉強になりました 183 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/21(土) 15 54 29 ID pB9TdzsFO ウィキペディアを見てたんだが、書いてあることが事実ならチャガンテムルは有力な候補になると思う。 養子のココテムルは次の時代になるだろうか? 184 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/21(土) 17 01 42 ID OMN1tw6R0 韓世忠(あざなは良臣) 延安の人。雄偉な体躯と雷のごとき眼光を持つ。若くして勇猛なこと絶人、馬を御するの技に長けた。 貧農の家に生まれたが家業を継がず、酒を飲んでばかりいた。 18歳のとき募集に応じて兵となる。強弓を引き騎射に優れ、勇は三軍に冠絶した。 靖康の変後、康王(高宗)を済州まで護送。 金軍が大暴れして手が付けられない状況下で韓世忠は西王台に割拠、力戦して金軍の勢いを削いだ。 翌日、数万の大軍を率いて再戦に打って出た金軍をわずか一千の寡兵で迎撃、敵中に突撃して力戦し、金軍を破る。 元節、長江の海戦でウジュと大戦の約束を交わす。 双方十回の戦いを経て勝負はつかず。韓世忠は利なしと見て退却しようとするウジュの退路を断ち、 黄天蕩で48日間、優位に戦を進める。ウジュは和睦を持ち出したが韓世忠は 「それなら徽宗、欽宗陛下を返せ」 とにべもなし。数日後、風が止まったのを見て取ったウジュは外輪船の強みを生かして的中突破、 それを阻もうとする韓世忠麾下、孫世詢と厳允が金軍の放った火矢のために死んだ。韓世忠は軍を収容し、楚州鎮江に戻った。 このときのウジュと韓世忠の兵力差、10万対8千。 同年建安の范汝為の反乱を平定、 捷報を聞いた高宗は「古の名将といえどなにをもって加(くら)べるか」と狂喜した。 さらに同年、各地の反乱平定に奔走、投降したものを自軍に取り込み、兵士18万を得た。 建康に帰還後兵士を再編成、驍勇絶倫の士をもって編成された“背嵬軍”を創立する。 紹興四年、劉豫と金軍が合同で南宋を犯した。韓世忠は詔書を下賜され自分が頼られていることに感涙、 鎮江から長江を渡り、解元らを派遣してまず金軍に一撃を食らわす。自らは後方に高い柵を立て退路を断ち、決死の決意を明らかにする。 五箇所に陣を敷き二十ヵ所に伏兵を設けて会戦に挑んだ。伏兵により金の別将撻孛也および将兵二百余人を擒らえ、 背嵬軍を率いて金軍を潰滅させる。そのうえで解元ら先遣隊の救援に赴き、大いに戦い大いに勝って女真族千余を擒らえた。 淮水に沿って追撃に移り、四分五裂した金軍を斬り捨て、淮水に落とし、使者無算という大戦果をあげた。 高宗より“中興の武功第一”と称えられる。 紹興六年十月、淮河を渡って金将・訛里也と激戦。しかし淮東を劉猊に扼されたため前進を阻まれた。 軍を移して山陽に駐留、三頭の豪傑たちに渡りをつけ、共同して金・偽斉の軍を駆逐する策を立てる。 今を逃せば北伐の機会はない、と朝廷に念押ししたが、和平派・秦檜の命令で鎮江に戻ることとなる。 和平に利のないことを十条の上奏文にして奉じたが、握りつぶされた。 一応の和議が結ばれて間もない紹興十年、金は盟約を破棄して南進を再開、ウジュが麾下の将軍たちを引き連れ三路から侵入して三京を奪う。 淮陽を囲んでいた韓世忠のもとに金の援軍が訪れるも、韓世忠は加口鎮でこれを迎撃、打ち負かす。 部下を派遣して潭城でも捷ち、千秋湖でも勝った。さらに淮陽城を抜く。英国公に封ぜられた。 紹興十一年、濠州危急の報せを受け援軍として出陣、しかし出立から五日目には城が落ち、韓世忠が到達したのはその三日後。楊沂中が南に逃げた後だった。 韓世忠は淮河の岸で金軍と戦って勝ち、部下を遣わして金軍の動向を調べる。 赤龍洲に寨を築いていると知ると全軍回頭して金軍を攻めた。金軍は渦口から淮北を渡り去り、以後二度と淮河近辺を侵すことをしなくなった。 韓世忠は楚州にあること十余年、兵はわずか三万でしかないにもかかわらず、金人に畏れられた。 同年四月、枢密使とされて軍権を剥奪されて引退、その後湖のほとりに東屋を建て、自ら清涼居士と號し悠々自適の人生を送った。それから十年で没。 死後皇室より朝服、貂蝉の冠、水銀を下賜され、皇陵に倍葬された。 185 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/21(土) 18 10 21 ID EmteMphF0 すいませんどなたか呉カイと呉リンについて詳しく教えて頂けませんか? 186 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/21(土) 20 18 49 ID r0BhOqjs0 呉玠だけですが。 呉玠(王+介。字は晋卿) 若くして物静かで節度があり、兵法を知り騎射をよくした。読書を好み、熟読するのではなく大略を掴むのを善しとした。 家柄により未冠の年で軍属となり、しばしば西夏の軍と戦って戦功を上げた。方臘の乱平定にも活躍している。 建炎二年、黄河を越えてやってきた金軍に対して都統制曲端の先鋒として出陣、青渓嶺の戦いで金軍に逆撃を喰わせ、 三十里にわたって追撃した。金軍が伸安府を攻めると曲端に従って現地に急行、華州攻めを任されてその命を果たした。 建炎三年冬、大賊・史斌が漢中攻めを企むと、曲端の命令を受けてこれを伐った。宣撫処置使・張浚の覚えめでたく、 その場で統制の位を授かる。四年春、金の元帥・婁宿と撒里喝が長躯入関すると、彭原でこれを迎え撃つ。 呉玠は見事撒里喝を打ち破り、撒里喝は恐懼し泣いて退却した。そこでついたあだ名が「泣き虫(啼哭)郎君」。 盛り返して再戦を挑んだ金軍の前に、今度は呉玠が敗北する。曲端は涇原までの撤退を命じたが呉玠は聞かず、 曲端の節度下を離れる。曲端は呉玠の官籍を削ろうとしたが張浚は呉玠の才能を惜しみ、罷免の訴えを取り下げた。 その後戦火に巻き込まれた被災者たちを助けてしばらくをしのぐ。 建炎四年九月、金軍との一大決戦に参加するも敗北。しかし残存兵を集めて和尚原まで下がり、金軍を隘路に誘い込んで 上から岩を落とす。馬が使えなくなった金軍は周章狼狽して呉玠の前に大敗。さらに営寨を黄牛に移して仕切りなおすが、 台風と雹に出会った金軍はほうほうの体で逃げ去った。 巴蜀の地は朝廷から遠く、人々の志も固まらず、そんな土地であるから呉玠・呉璘兄弟が金に投降することを恐れた大臣が 現れた。呉玠は諸将とともに血盟して忠義の証とした。士卒はみな感涙し、呉玠に用いられることを願った。 張浚はこれを壮とし、呉玠を陝西諸路都統制に任命した。同年十月、ウジュが十万の兵を擁して和尚原に攻め入る。 呉玠は隘路に伏兵を敷き、崖の上に弓・強弩の扱いに長けた士卒を選抜して設置する。金軍は伏兵にかかって大いに乱れ、 上から飛んでくる矢に次々倒されて統制を失い、そこに呉玠の本隊が縦横に突撃してくるとなったらもはやなすすべなく敗走するしかなかった。 紹興二年、撒里喝が上津攻めると、呉玠は河池から三百里の距離を走って現地入り。敵の指揮官に呉玠がいると聞いて、撒里喝は顔色を失った。 饒風嶺で交戦、山頂に布陣する南宋軍は重い鎧を身につけてゆっくり上ってくる金兵を次々倒し、呉玠は弓を乱射しながら巨石を落とす。 死体の山が出来たが金軍は退く様子を見せない。呉玠は決死隊五千を募り、彼らにそれぞれ銀一千両を支給し、祖渓の小道に入から饒風嶺の 後背に入り、高みに乗じて敵を殲滅するよう命じた。この策が成功し、これをもって金軍は完全に潰滅、潰走した。 紹興四年二月、仙人関で金軍を翻弄、矢を雨のごとく降らす新兵器(正式名称が分からん。知っとる人がおったら教えて)を使って屍の山を 築く。金軍も負けじと震天雷を寨に投げ込む。翌日、呉玠は先鋒に王喜、王武を起用、精鋭を与え金の営寨に突撃させる。 速攻戦術に驚いた金軍は浮き足立ち、そこに呉玠率いる本隊が突撃、韓常が弓兵隊を仕切って矢を射掛ける。金軍は恐れおののき我先に退却、 南宋軍の勝利であり、呉玠はこのときも南宋の土地を一片たりと掠取させることがなかった。 十年以上にわたる戦場生活の中で民生にも意を用い、百姓を傷つけ、苦しめぬよう細心の注意を払い、しばしば問題ごとの裁決も行った。 屯田を興し、毎年十万国の収益をあげてそれを軍費に当てた。同年、仙人関で病死。享年四十七才。明集を賑恤するに熱心な人物であったが、 それでも余財が銀30万両ほどあったという。晩年は酒と女に溺れ、才覚も落ちぶれたという。 187 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/21(土) 22 08 34 ID +BVsWw6t0 186 >矢を雨のごとく降らす新兵器(正式名称が分からん。知っとる人がおったら教えて) wikiのリンクから宋史を読むところをさがして読み (ttp //www.hoolulu.com/zh/25shi/20songshi/t-index.htm) その他いろいろ自分が持っている本などを参考に考えたのですが、 それは列伝第125の「璘以駐隊矢迭射,矢下如雨」 が該当部分だと思いました(違ってたらごめんなさい)。 多分その部分は呉リンが考案したジョウ陣という陣形で、 最前列に長槍、第2列に強弓、第3列に強弩、第4列に神臂弓という強化版の 強弩を持つ兵士を配列させ4→3→2・・・という風に間断なく攻撃を 加えて攻撃する戦術だと思われます。 (参考文献「武器と防具 中国編」新紀元社刊) この他にも陝西方面軍は 「玠急遣統領田晟以長刀大斧左右擊」(列伝125)というように 金の重装騎兵部隊に対抗する長刀や大斧(重量が5~25kg相当) を先駆けて配備しており、それが他の軍閥に大いに参考になったことは 想像に難くないです。但しこの戦術は迎撃に力を発揮したものの追撃には 不得手であり、その場で大勝利しても追加効果はあまり期待できないものでした。 この頃の南宋の将軍は戦術面でも創意工夫を凝らしており 韓世忠は神臂弓を改良した克敵弓を考案し、 陳規(列伝136に伝)は史上初めて火槍(先端に簡単な火炎放射機能をつけた槍) を使用したそうです。 (いずれも前出・新紀元社の「武器と防具 中国編を参照」) 188 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/21(土) 22 32 44 ID gg3zCXI50 チンギス・カン 1211年2月に南下し定薛を野狐嶺で破り帰還。秋に再度南下しジュチ、チャガタイ オゴタイの三人に山西北部を襲わせ、自らは貛児嘴で紇石烈胡沙虎、完顔兀奴の軍三十万を 破り、これを聞いて退却した後続の完顔胡沙を会河で捕捉し殲滅した。この後守備隊 が逃走した居庸関を通過し中都に迫るが、城内の金軍の奮戦にあい撤退。冬に金の牧場を襲い 馬群を奪った。この年の冬は内蒙古に駐留した。 1212年春、宣徳府を占領し徳興府に進むが敗北し退却。トゥルイが徳興府を奪取して 帰った後、金軍がまた奪還する。秋に西京を囲み、来援した奥屯襄を密谷口に誘い込み反撃 して破る。奥屯襄は僅かに身一つで逃れた。再三西京を攻めるも落ちず、チンギスが矢にあたった ため囲みを解いて撤退。 1213年秋、徳興府を抜き懐来に至り、完顔綱、術虎高琪の兵十万を破り、死体が地を覆うこと 四十里(20キロ?)。居庸関に進むも金の精鋭が死守しているため抜けず。密かに迂回して紫荊関 を急襲し五回嶺で金軍を破る。軍を三つに分け、三皇子が右翼となり太行山脈に沿って河北を南下し 黄河に至る諸郡を抜き、反転して山西を襲う。弟カサル等を左翼として河北北部、遼西を攻略。 チンギスはトゥルイと共にみずから中軍を率いて河北東部から山東北部の諸郡を取って還る。この年 黄河以北で金の手に残ったのは中都を含む十一城のみだった。帰還した三軍は中都近郊に集結して 金の朝廷を威圧する。 1214年の三月に和議が成立してモンゴル軍は北に去ったが、五月になって金が開封に遷都したため 軍を送って中都を包囲し翌年五月に陥落。 1216年にチンギスはモンゴルに帰還。 チンギスの伐金は史料ごとにかなり記述が食い違うので、つじつま合わせるのがえらく難儀でした。 これで正しいか正直自信ありません。 1213年の侵攻の際には黄河以北のほぼ全てを奪取していますが、上で書かれているとおり 土地に興味のないモンゴル人は北に引き上げるときにほとんど放棄しています。チンギスが西に出かける 前に確保していたのはほぼ燕雲十六州に相当する地域だけだと思います。 189 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/21(土) 22 50 56 ID pB9TdzsFO チャガン・テムル ttp //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%A0%E3%83%AB 上でも書いたがウィキペディアなんで鵜呑みにするのもあれだが まあまるきり嘘ってわけでもないだろう。 あとは正史持ってる人なりこの時代に詳しい人に添削してもらうことにして、とりあえず推薦ね。 190 ○ sage 2007/04/21(土) 22 54 57 ID mzyLXI/v0 187 それは連弩を改良したものでは? もしくは床子弩、床弩と呼ばれる、 西洋のカタパルトに相当するものがあるとwikiには載っています。 連弩は中国では戦国時代から使われ始め、南宋期に最も使用されましたが、 元代に入ると火薬を利用した砲や火器などが導入され、 戦場から姿を消していった様です。 また明代には10発の矢を連射できる諸葛弩と言われるものが存在した様ですよ。 191 ○ sage 2007/04/21(土) 23 48 49 ID mzyLXI/v0 察罕帖木兒(チャガンテムル) 字は廷瑞。 代々河南に定住するナイマン出身のウイグル人で、 至正十二年に紅巾軍に対して自衛軍を結成。 李思斉とともに羅山の紅巾軍を打ち破り、朝廷に帰順して華北を確保した。 その功により汝寧府達魯花赤に任ぜられた。 また河北河南で幾度となく紅巾軍を撃破し、功により河北行枢密院事へと累進。 十七年には陝西に援軍として馳せ参じ、鳳翔で紅巾軍を撃破、関中を平定する。 十八年に軍を率いて京師に入りし、兵を晋南・太行の隘地に分屯させた。 陝西行省右丞・陝西行台侍御史・同知河南行枢密院事となる。 十九年、梁の大宋紅巾軍を攻め、開封を陥落させて紅巾軍の統一を崩壊させた後、 軍を返してボロテムルと山西・河北で争った。 二十一年、山東の紅巾軍の内紛に乗じて、兵を五路に分けて進撃し、 田豊・王士誠らを降す。 二十二年、山東を転戦し益都包囲中の最中、田豊・王士誠に刺殺される。 192 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/22(日) 00 08 21 ID e0LQrcakO さんくす。で、どーよ?確定かどうかはこれからだとして候補入りは間違いないと思うが。 このまま行くと抗金の将と金将で半分以上行きそうだからな。 それはもったいない 193 ○ sage 2007/04/22(日) 00 53 34 ID DgLVGMEW0 192 いいんじゃないでしょうか察罕帖木兒(チャガンテムル) 自分は大して詳しくないので偉そうな事、言えませんが 元と言えばバヤン、トゥルイ、アジュとかに目が行きがちですが この武将は掘出し物って感じですかね? よくぞ見いだしてくれましたねってところじゃないでしょうか。 ◆oOLAqFKRB.さんにはモンゴル武将をもっと紹介して貰いたいです。 194 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/22(日) 00 56 23 ID dgvngNYl0 187、ジョウ陣に 190、床子弩か。知らん事あったら教えてもらえるのが ここのいいところやわな。多謝。 192 抗金名将と金将の隙間をかいくぐって、俺は蒙古からトゥルイ、元からアジュ の二人を推しときます。トゥルイから統帥権を受け継いで最終的に金軍を蔡州 に追い詰めたスブタイもいいんやけど、三人推薦は多すぎやろーから上記二人で。 ところでいま空き枠いくつあるんやっけ? 暫定の郭侃外して5枠? そんだけ空けば入るべき人が残るやろ。抗金名将について知りたかった人も 推したいから知りたい、ってより知識として知りたいって感じやったし、 宗沢、岳飛に張俊、韓世忠、呉玠が伍するってわけでもなかろう。 新候補として挙がるのはチャガンテムルぐらいやと思う。 ・・・ところで俺の紹介文、やっぱあれでも長いかな? 訳文を削りに削り、文のニュアンスから可能な限り短い文章になるよう 注意しとーつもりなんやけど、どうしても1レスギリギリの文量になる。 まぁ、2レス3レスにまたがらんように気をつけとーから 許して欲しいところなんやけど、それでも長文やから、気を悪くする人おるよなぁ。 以上、駄文失礼。 195 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/22(日) 01 19 17 ID dgvngNYl0 連投。 193の○さんへ。 モンゴル武将をもっと、ということやけども、 俺も南宋滅亡後の元将はほとんど知らんのですよ。 頭ん中でこの時代は南宋成立~その滅亡、までで区切られとーから。 史天沢とか董文炳とか耶律阿海あたりなら挙げられるけど、 新鮮味はないしみんな知っとる有名人やから今更やしね。 それに史書を翻訳→自分の文章に→冗長な部分を削って落とすって作業は疲れるんよ。結構。 196 ○ sage 2007/04/22(日) 07 44 21 ID DgLVGMEW0 194 >三人推薦は多すぎやろーから上記二人で。 あれだけモンゴル武将に拘った訳ですから三人推すべし。 長文については昔、指摘しましたがこれ以上は縮めるの無理みたいだし、 情緒を大事にしてると言ってたので文句は自分は言いません。 推薦文を楽しみにしてる人がいるはず、煽りはスルー汁べし。 195 南宋が得意と1スレ目で公言なさってたから、 勝手にモンゴル武将はオールおKと脳内変換済みでした。 それに推薦文挙げる作業はしんどい気持ちは良く分かります。 無茶振りしてスマン・・・ あと個人的には張弘範、阿里海牙(アリハイヤ)、 完顔陳和尚、bヨ雷(トゥルイ)、察罕帖木兒(チャガンテムル)を推します。 特に完顔陳和尚はbヨ雷(トゥルイ)に負けてますが モンゴル軍相手に暴れ回った活躍振りは称賛に値するはず。 197 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/22(日) 09 01 30 ID +mtSmey6O 179 張浚は王忠嗣とは違う。張浚は文官。 その方針や施政は誤りもあり、現実と現状を無視して金に攻め入らせたりしてるが、 王忠嗣は無用な戦を止めるように進言してる。 彼が見いだした武将が唐朝を救い、中興を果たす役割を担ったように 自身の武勲、実績はもとより、その言行にいたるまで、名将の名にふさわしいものだった。 大袈裟な話、南宋の主戦派だからと「張浚は宋沢みたい人」と 言ってるのと同じぐらいムチャクチャ。 181 元から武宗まで入ると、元朝の短い期間から、成立期、中期、末期まで すべてフォローされることになる。 即位の過程から、オゴタイ汗国と元は抗争を重ねており、 フビライ、バヤン死後の混乱に乗じようと、オゴタイ汗国のハイドゥが 国力をあげて攻めてくると、ハイシャン(後の武宗)が 完膚なきまでに打撃を与え、これを撃退。 成宗死後の相続争いで、叔父のアナンダに勝ち、敗死させて自ら帝位についた。 在位わずかに4年の享年31。あたら有為の才能をもちながら、酒と女に溺れて身を崩したと言われる。 198 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/22(日) 11 16 31 ID 0Oqgf0RBO 187 ttp //w3.shinkigensha.co.jp/book_naiyo/4-88317-211-2p.html ↑ここにそれらしき武器が記載されてるよ(知ってたらスマン) そのサイトにも書かれてるけど諸葛亮が元戎なる新兵器(それは連射可能だったみたいだよ)を三国時代に 兵力を補う為に考案したと昔、なんかの本で読んだ記憶が… 199 ○ sage 2007/04/22(日) 19 10 41 ID DgLVGMEW0 史天沢、董文炳、耶律阿海以外にどんな武将がいるかちょっと調べてみたので、 参考程度に投下。 バルジュナ湖の十九功臣の一人で 対ケレイト戦でや金遠征では忽察虎破り、征西の際にムカリの副将となり 劉黒馬・史天沢らを率いて金と戦った、 元の契丹人武将で耶律阿海の弟である耶律禿花。 遼が滅亡後も華北に留まり金に抵抗し、 後にチンギス=ハーンに降り、ムカリの下で遼東攻略の手柄を立て、 ムカリの華北攻撃に参戦中し攻城戦の際に砲石に当たって命を落とした、 武略に秀でてた石抹也先。 モンゴル降伏後、義兵の清楽軍を率いムカリの許で各地を転戦、金の武仙を降伏させるが、 南宋と内通していた武仙に殺ろされた、元の重臣史天沢の兄である史天倪。 モンケの南宋遠征に従軍して戦功を立てた耶律楚材の子である耶律鋳。 変わりどころなら回回砲(投石機)製造に従事し、 アリハイヤの伐宋戦に従軍し樊城・襄陽を陥落させ、潭州・静江などの城を破った、 ペルシア人のアラー・ウッディーン(阿老瓦丁) うーんモンゴル人はやっぱり有名どころがほとんど挙がってるからいませんでした。 200 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/23(月) 22 16 17 ID unT4+AwWO そろそろまとめに入って次の時代に行こうや 201 ○ sage 2007/04/23(月) 22 44 43 ID Dnk/XawD0 186の >矢を雨のごとく降らす新兵器について 自分もさらに詳しく調べてみたところ床子弩、床弩の種類に 神臂床子連城弩、双飛弩、三弓弩と言うのがあるみたいです。 この三つのどれかではないでしょうか? ↓ ttp //www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3816/heikijiten/isiyumi/sinheki.htm ttp //www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3816/heikijiten/isiyumi/souhi.htm ttp //www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3816/heikijiten/isiyumi/sankyuu2.htm ちなみに 187さんが言ってる神臂弓がこれ ↓ ttp //www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3816/heikijiten/isiyumi/sinhekido.htm 198さんが言ってる元戎がこれ ↓ ttp //www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3816/heikijiten/isiyumi/rendo.htm あと劉整の推薦文を挙げたいのだが準備が整ってないんですorz 202 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/24(火) 06 30 07 ID +6t4NV5xO 劉整 金の乱を避けて南宋に亡命。孟王共のもとで驍将となる。 愈興に嵌められ粛清されそうになり、モンゴルに亡命。 アジュと共に南宋を攻め、呂文煥を降伏させる。 その後も転戦するが長江を渡ることはなく没した。 こんな感じ。こんだけ端折ると、かえってイメージわかないか… 203 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/24(火) 11 43 02 ID oZsdvqxL0 百度百科によると、孟珙の生年は1195年になってるね。 http //baike.baidu.com/view/67145.htm 204 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/24(火) 19 17 34 ID Tt5Y20ix0 現行確定人数 春秋戦国(紀元前771年~紀元前221年 550年間)> 9 統一秦~前漢(紀元前221年~紀元前8年 213年間)> 9 新・後漢(紀元前8年~紀元220年 228年間) >9 三国~両晋(220年~439年 219年間) >9 南北朝(439年~589年 150年間) >10 隋・唐(589年~907年 318年間) >10 五代~北宋・遼(907年~1127年 220年間) >10 南宋・金~元(1127年~1368年 241年間) > 明(1368年~1644年 276年間) > 清(1636年~1912年 276年間) > 205 ○ sage 2007/04/24(火) 22 18 04 ID SCTYiMXU0 劉整 字は武仲。騎射を得意とした。 金での戦乱を避けて南宋に亡命する。 孟[王共]の下で驍将となり、潼川安撫使・知瀘州軍州事に累進。 金が南下すると趙方の部下として出陣し奮戦する。 しかし、司令官の呂文徳らとそりが合わず、 また兪興に貶められて粛清されそうになったため、モンゴルに投降。 府行省兼安撫使に任ぜられた。 兪興を攻め破り、南京路宣撫使となる。 至元四年、アジュと共に軍を率いて襄陽攻略戦に参加し功績を立てる。 十年には樊城を陥落させ、襄陽の呂文煥を降伏させた。 功により行淮西枢密院事となる。 十二年、兵を率いて淮南に出撃したが渡江を果たせず、行中書左丞の地位のまま亡くなった。 202さんがこんだけ端折ると、かえってイメージわかないか… と仰ってるのでもう少し詳しく劉整について挙げてみました。 個人的にはアジュ、トゥルイ、張弘範、完顔陳和尚が確定でいいのではと思います。 うーんアリハイヤ、チャガンテムルも捨てがたいですね。正直迷っています。 206 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/24(火) 22 39 58 ID u5e5Rgbm0 205 完顔陳和尚は実績不足じゃね? いくつかの局地戦で勝っただけだし、結局大勢を覆せなかったわけだし。 207 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/24(火) 23 59 09 ID KLstqQiRO 抗金将たちもじゃね? 208 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/25(水) 05 17 54 ID PG1Ac2DX0 このスレの定義なら局地戦の手腕だけでも入選には十分です。 スブタイとモンゴル軍団相手に、十分の一の戦力で勝ち星を挙げるなんて千年に一度の奇功ではないでしょうか? また、金は南宋以下の国力にもかかわらず、蒙古に隣接し、頼むべき天険もありません。 単純な戦力でも蒙古とは比較になりませんし、南宋を背後に抱えていては注意を二分せざるを得ません。 この亡国必死の状況で大局的な結果を要求するのは無理が有り過ぎます。 私ならさっさと蒙古に降伏するか、南宋に亡命するでしょう。 強敵相手に男を見せ、圧倒的な大勢力の進撃速度を己の将器を以って遅らせたこと。 それだけで十分に入選の資格は有ると弁護します。 209 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/25(水) 13 37 30 ID Sj95AF4rO 周瑜、謝玄、韋叡、抗金名将達、ココテムル以下なのは間違いないな 210 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/25(水) 15 52 23 ID 2rYlZ1grO 209 韋叡、ココテムルはともかく、周瑜、謝玄よりは下でじゃないだろ。 あと抗金名将は上下の差があるけどな。 それと同じ時代枠以外の武将と比較するのはナンセンスじゃねえの? 211 ○ sage 2007/04/25(水) 22 25 38 ID RZMxFa300 完顔陳和尚はたった400の軍勢で蒙古屈指の名将スブタイ率いる8000を打ち破ってる点や 河南・陝西にてモンゴル軍を相手に暴れ回り快勝を重ねていたり、 最終的にトゥルイに負けるまで蒙古の金侵略を食い止めていますし、 完顔陳和尚の功績はかなりのものではないかと思いますが。 212 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/26(木) 12 38 53 ID FDDc5HdM0 210 同時代枠といえど百年の開きがあったり、 さらには勃興期の将と滅亡時の将を比較したりと現状は既にナンセンスなわけで 他時代ともある程度はバランス取らないといけないと思う 完顔陳和尚は候補止まり。 400で8000を撃破したっていっても、謝玄はヒ水の戦いに勝ってもランクインせず 正史か演義か忘れたけど張遼は800で10万しばいた その存在は奮戦したけど駄目でしたって言う亡国の悲哀を彩る武将って感じで 南宋の張世傑、演義における蜀漢の姜維と同程度ではないかと 他に人いなきゃ入れてもいいと思うけどね 213 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/26(木) 12 57 37 ID 0nVwOOWp0 完顔陳和尚に関しては、相手の質も評価に影響してるんじゃないの 当時最強のモンゴルの、その中でも最強クラスのスブタイを20分の1の兵力で撃退とかそういうの 214 210 sage 2007/04/26(木) 18 14 53 ID dalfdSpPO 212 そもそも同じ時代枠の中で無理矢理に優劣を付けようというのがこのスレの趣旨な訳でそこは理解してもらわないと。 今まで同じ時代枠の中で争って来たんだから 他の時代の武将と比べるのは俺はナンセンスだって言ったんだよ。 状況の似てるあの時代の武将が落ちてるんだからこいつも落とせというのはちょっと違うと思うし。 合肥の戦いで張遼は李典か楽進と呉の十万の軍勢を相手に戦っているとは云え一部を突き崩した程度だろ? 謝玄のヒ水の戦いでは前秦側のミスに助けられた部分が大きい。 呉軍も前秦軍も戦意が高揚してなかった訳だし、 陳和尚の方が条件がはるかに不利じゃないかな? 陳和尚は四狗の一人であるスブタイと当時、世界最強であったモンゴル軍を打ち破った実力を評価しているんだし。 それに南宋の張世傑はともかく、蜀漢の姜維の戦績はいまひとつだよね? 同じ次元として扱うのはどうなんだろう・・・ 陳和尚が十傑入りに相応しくないと思うなら 代わりの相応しいであろう武将を挙げてみてよ。 その方が議論しやすいと思うけどね。 215 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/26(木) 19 17 52 ID 3NXwludm0 張世傑がともかくで姜維が今ひとつの差は何だろう? 似たようなもんこの上ないと思うんだが 216 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/26(木) 19 47 37 ID gE/bzXdUO 400対8000がクローズアップされすぎで一発屋感が今だ拭いきれてない。 確かに凄いが率いた兵400ってのも少なすぎるわ。 過小過大スレや能力値スレとかで趙雲の統率が下げられるのと似てるかな。 他で勝ったと言っても規模や相手が推薦文からじゃわからんし。 確定にしたい人はもう少し頑張ってプッシュしなさいな。 217 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/26(木) 19 58 03 ID dalfdSpPO 215 スマン張世傑を韓世忠と素で勘違いしてた 216 だから陳和尚が確定に相応しくないと思うなら代わりの相応しいであろう武将を挙げてみなさいよ。 218 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/26(木) 20 10 28 ID gE/bzXdUO 代わり代わりってうるさい。反対してる奴の説得も出来ない癖に。 候補に残ってる奴は大概陳和尚より上だろうよ。 国も救えないような将軍はこのスレにはいらん。 219 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/26(木) 21 27 35 ID FDDc5HdM0 少数で多数撃破ってのも 184見る限り韓世忠もやってるな 抗金名将からは多すぎるっていうのなら元中期からカイシャンかな 敵国の侵攻を防いだ点は完顔陳和尚より上だろうし 彼が負けてたら元がなくなるか南元ができてそうw フビライの高麗侵攻は元成立以前だからアウト? 隋が失敗して唐も苦労した半島進出に成功してるってのは かなりのプラスになりそうだけども後方総指揮じゃだめかな 誰が前線指揮だったんだろうか 知ってる人いる? 220 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/26(木) 22 07 37 ID nih0KNwA0 功績なら南宋戦で活躍したアジュだな。 残り一枠はアジュでいいんじゃない? 221 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/26(木) 22 22 41 ID nih0KNwA0 ごめんアジュじゃなく対金戦で活躍したスブタイを残り一枠に推すよ。 222 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/27(金) 06 27 45 ID jj9y3WUVO 張弘範は詰み状態の南宋を滅ぼしただけじゃないか? ならカイシャンは、フビライのウルス=元朝を外敵から守り、 アルタイ山脈方面まで外征し、共に戦果を残してる。 張弘範よりカイシャンを推す。 223 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 06 56 06 ID 7hiTYa3o0 一発が凄すぎるから完顔陳和尚を推したんだが。 全盛期ホラズムさえも瞬殺されるのに、 瞬殺を秒殺くらいにまで遅らせた陳和尚を「国も守れんヤツ」扱いは酷い。 蒙古帝国をも過小評価しているように思うが。 近代以前では史上最強の戦争集団なのに。 224 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 11 00 43 ID xIm6SS1DO 瞬殺を秒殺ってそりゃ五十歩百歩 モンゴル軍はたしかに強かったかもしれんがエジプトのバイバルス 大越のチャンフンダオ、日本、ジャワと勝ってるところもあるし 中国の対モンゴルの名将は孟[王共]でいい 陳和尚ごときを孟[王共]と同列に扱うってw それとモンゴルを過小に扱ってないからな どんなに注意しても小石につまづくこともあるしね 225 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 11 35 58 ID 7hiTYa3o0 孟珙でも金においては完顔陳和尚以上の仕事は出来ないだろ。 南宋、金、元>>>>>女真、蒙古 このスレ的には↑の順に決めるべきだ。 病んで滅亡寸前の国と史上稀に見る拡張期の国の将を並べるのはおかしい。 226 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 12 25 27 ID GhBSHs0b0 騎兵戦でモンゴル(しかもスブタイ)に勝った意義はあると思う 少なくとも元寇と同日の談じゃないわな 227 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 13 11 04 ID lMFDcjyr0 224 陳和尚の勝利が局地的であるのは確かだが、兵力はたったの四百なんだから そこも考慮しないと。あれ以上を望むのは酷だろう。 222 カイシャンの外征はカイドゥの死後王国の乗っ取りを図るドゥアと連携して 劣勢なオロスを叩いたものだし、アルタイ方面を占領したのは周辺を支配する アリク・ブケ一族が寝返った後だから軍事的にはそれほどでもないのでは。 同時代ではトップかもしれないけど。 228 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 13 16 56 ID xIm6SS1DO モンゴル騎兵に騎兵戦で挑むところが陳和尚の限界 陳和尚推薦派はどう凄いかもっと必死になって説明しろやw 229 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 14 05 22 ID sV6gj+dw0 228 ああっ説得やら説明しろばっかりうるさい×3(お前の真似だw) 反論されたら逆ギレする品の無いゲス野郎はこのスレにはいらん。 それに小石につまづく様じゃスブタイも大したことない武将ってことになるな。 当時、世界最強のモンゴル軍を相手にまぐれや運だけで連戦連勝できるほど敵は甘くはない。 それに戦闘の内容を考慮して話をしているんだ。 陳和尚の稼ぎ出した五十歩は評価に値すると思うがな。 230 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 14 20 19 ID EPTGVBZ5O ただここの採点はかなり軍事業績の配点が大きいから、陳和尚が目立たなくなりそうなのは事実では? 何分同時期に世界征服者達が居るんで、守勢(それも守りきれなかった)の採点が辛くつけられるのもわかる 231 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 14 58 28 ID 7hiTYa3o0 姜維は洮水の戦いなどで大勝してはいるが、このスレでは選外だろう。 張世傑も関羽の同類だろうなあ。 悪くはないが敗死エピソードで得をし過ぎ。 232 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 18 17 57 ID UD6TKJZG0 227 カイシャンの将としての功績の幹は攻め寄せてきたハイドゥを撃破したことで その後の外征は枝葉じゃないかな 相手の隙に乗じるのは軍事的にも当然のことでそれをもって評価を低く するのはおかしい話だと思う 233 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 18 32 44 ID xIm6SS1DO 229 逆ギレ何てしてませんが?してるのはお前だろw 陳和尚の擁護も出来ずゲス野郎とか誹謗することしか出来ない人はこのスレに来ないで下さいねw あと、小石につまづいたからってスブタイがたいしたことのない武将だなんてことにはならんよ 常勝無敗が名将の条件ではないからな スブタイと陳和尚をセットで語らないでね 234 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 19 23 01 ID 7hiTYa3o0 いや、スブタイが凄いのが前提で、その凄いスブタイに勝ち、モンゴルの征服を遅らせたのが、陳和尚がこのスレで限定的に入選される理由だろ。 スブタイやツルイ、ジンギスカンが入るなら態々推薦しないって。 ただ彼らはローカルルールで弾かれる。 同じ要領で元将より金将を優先して入れるべきだと言ってる。 蒙古を退けたバイバルス、ハルジー、孟珙、陳興道といった世界百選級の名将にも、 当時の陳和尚と同じ状況で彼以上の活躍が出来るとは思えん。 完顔陳和尚とジャラールの類は世界百選は無理でも、 それぞれの地元の百選で入れないのはマズイだろう。 235 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 19 33 47 ID EPTGVBZ5O 234 あれ?結局ローカルルールで弾かれることになったのか? 逆に攻勢期の金・モンゴルや抗金組に比べると、数の関係でどうしても選に入れられないって感じだが 236 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 19 53 07 ID 7hiTYa3o0 世界百選、東洋百選、蒙古百選で確定でいいだろ。 その連中を中国百選に入れる場合蒙古百選との兼任となるが、 そこまでして入れるのは無理があるような… 237 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 19 59 52 ID EPTGVBZ5O 236 モンゴルの中華統治を黒歴史にするなよ 仮にも二十四史に記されている支配者だぞ それにモンゴルが駄目ならこの時代南宋と金だけになるじゃないか 238 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 22 41 51 ID sV6gj+dw0 ID 7hiTYa3o0さん 陳和尚を擁護してくれるのは有り難いのだが、 陳和尚の話とスブタイやトゥルイ、ジンギスカンが十傑入りするしないかは話が別だよ。 支持されればスブタイ、ジンギスカンだって入る訳で その二名は現時点ではあまり支持されてないのは否めません。 実際にアジュ、トゥルイは落とせと言う声は挙がってないし。 まあバランスを考慮している部分もあるとは思うけどね。 219 高麗の洪茶丘が文永の役では元軍の副司令官を 弘安の役にも東路軍の司令官を務めたそうだよ。 高麗の金方慶なる武将も 日本遠征にも参戦したらしい。 239 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 22 53 38 ID sV6gj+dw0 268の追記 文永の役での総司令官は忻都なる人物だそうです。 240 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 22 56 28 ID EPTGVBZ5O 238 いやスブタイが定義上駄目ならトゥルイも駄目だし、トゥルイが有りならスブタイも有りでは? トゥルイが死ぬのはスブタイが死ぬ前だし 241 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 23 19 12 ID /PoI3eH+0 240 多分主な活躍の舞台の差ではないかと推察 242 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 23 23 02 ID RcPINS3k0 金は統一政権扱いで落ち着いたはずだから、定義上、 トゥルイやスブタイの対金戦の功績はOKでしょ。 ローカルルールで弾かれてはいないはず。 もし金が統一政権扱いでなくなってトゥルイ・スブタイが外れるるなら、 遼の休哥と同様、守勢での活躍の陳和尚も資格なしになる。 243 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/27(金) 23 31 45 ID /PoI3eH+0 今頃こんなこと言い出してなんなんだけど、「統一政権」ってどう定義されてたっけ 244 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 00 03 26 ID LNk8M4MQO 241 両者ともトゥルイが戦うようになってから死ぬまでに投入された戦線は似たようなものだと思うんだけどね ただどうしてもスブタイのイメージはヨーロッパ遠征なんかの西方が強くて トゥルイのイメージは三峯山の戦いなんかの東方のものが強くなるんだろうな 245 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 00 54 51 ID WFihsJm00 232 カイシャンらの元軍は優勢にも関わらずカイドゥを撃退するにとどまっている のでやや評価が低くなるように思う。カイドゥは勝ったけど帰る途中に病気で 死んだ、っていう歴史書もあったりする。 あと、敵の隙に乗じるのはもちろん当然だけど、内紛中の敵を攻略するのはより容易 なわけで、その分評価が低くなるのは仕方ない。 なんかけなしてばっかりだが上にも書いたとおり同時代でカイシャンがトップである ことは確か。ただバヤンや孟珙と並べるほどではない、と思うのだが。 246 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/28(土) 01 33 11 ID 8ygMLR39O 245 カイドゥがフビライ、バヤンの死に乗じて総力あげて攻勢に出てきたのを 過小評価し過ぎるのはどうだろ? 結果論として、カイシャンが撃退して元は存続したが、 死に物狂いの相手が多大な損害を与える可能性もあった。 元が国力を弱め、滅亡を早めるのをとどめたのは、 ひとえにカイシャンの功績だと思うが。 >カイドゥは勝ったけど帰る途中に病気で死んだ、っていう歴史書もあったりする。 その時の傷が元の病死では?少なくとも宮崎市定博士の見解はそうなんだが。 > あと、敵の隙に乗じるのはもちろん当然だけど、内紛中の敵を攻略するのはより容易 > なわけで、その分評価が低くなるのは仕方ない。 カイシャンは戦略家タイプの武将だから、勝つべく方策を練り、時と場所を選ぶ。 これをすべてラッキーとされて評価を落とされるなら、 名将の定義とはいったい何なのかを教えて欲しい。 247 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 06 49 17 ID 9HSuCpNr0 246 >カイシャンは戦略家タイプの武将だから このスレでは戦略家タイプのは評価が低いよ。戦術重視だし。 >名将の定義とはいったい何なのかを教えて欲しい。 このスレの定義では中国の領土を犯し、十分な土地を掠取する(あるいは侵略のための橋頭堡を作る)か、 当時の中華国家の人々に恐怖意識を植え付けるほどの活躍をした。 中国統一政権下における外征で活躍した。 というのが名将の条件じゃないかな? それと守勢はあまり高く評価されてないのが現状。 だから陳和尚の件で議論しているし。 248 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/28(土) 08 15 54 ID 8ygMLR39O 247 カイシャンは十分に条件を満たしてるだろ!?それでも外すなら理由が聞きたい。 勝つべくして勝ち、しかも功績がある人物に対して、あとは何が必要なんだ? 時代が課した命題の内、統治の面ではともかく、軍事面であれば十二分に果たしてるんだが。 国難を救い、国境を安定させた。バヤンが同じ状況で、これ以上の成果を残せたとも思えない。 出来るだけ多くの兵力を集めるのは兵法の基本。 己の長きをもって、相手の短きを打つのが基本のはず。 時期を待ち、機が熟したら一気に攻め勝つのが悪いのか? 兵が多くて悪いのであれば、王朝の創業期、全盛期の殆どの武将が評価を落とし、 亡国に身を起き守勢にまわり、防ぎ続けた武将こそ、確定されるべきだろ? つまり、過去に戻って選考し直すということで、宜しいか? 基準がブレすぎ。自分が気に入らない武将を落とすために、その都度、その都度 都合の良いように基準を変えてたら、作業が進まないよ。 ガキじゃないんだから割り切ろうや。 カイシャンを外したいなら、外すで良いから基準を明確にしてくれ。 で、大軍を指揮して勝ったらダメなのか? 寡兵で大軍を破らないと評価されないのか? ハッキリしてくれ。 249 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 09 26 47 ID fQFp1IyW0 俺はカイシャン等の元将を入れるなら陳和尚は落としていいと思います。 守り切れなかったのは事実だし。 だが、それだとローカルルールに抵触しないでしょうか? 後々面倒になることは必至です。 あと中国に脅威を与えたなら阿片戦争のジョージ・エリオットも時代的に入選の資格があるでしょう。 当時の英国は近代化してるけど太平天国の乱以前ですし。 蒙古帝国も大英帝国も基本的に同類の外夷。 ただ陸軍国と海軍国の性質の差が、両者の支那利権へのアプローチを変えたに過ぎないと思います。 元代は支那の全てが一時的に外人に植民地化されたと考えた方が良いのではないでしょうろうか? 日本人の我々が中国人に都合の良い歴史観を盲信する必要はないと思います。 250 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 09 39 28 ID RdoS1hu2O あんまり馬鹿なこと言ってないで過去スレ最初から見直してこい
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701 転載 sage 2007/04/01(日) 22 34 28 ID inohJBGt0 ↑の見解はなりきり(太陽板)の「蔡京 ◆GtkPmKwSp2」氏のもの。 実に面白い。 一応、このスレの住人にも紹介しときたい。 702 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 23 01 51 ID IbwTPFXu0 狆師道 子供の頃は張戴(知らんけど、多分学者)に学び、試法(科挙)に及第、 熙州の官に推され同谷知県を兼任する。同谷県では田産訴訟が二年にわたって 未判決のままであり、狆師道もこれをおしつけられて難儀したらしい。 文官時代にもいろいろあるが、とりあえずはしょる。なんか蔡京やら童貫 やらに気に入られず不遇だった模様。でも皇帝からは気に入られた。それがまた 奸臣たちには気に入らんかった様子で、西安州の知事とされる(実質的な左遷)。 西夏が定辺を侵し、仏口城を築城すると狆師道は兵を率いて仏口城を破壊。 兵士たちが喉の渇きを訴えると山の西麓を指し、「水はここにある」といって 井戸を掘らせ、潤沢な水脈を確保した。またいらんこと昇進するが割愛。各路 の兵士たちを督して席葦平に築城、敵が到来すると葫蘆河に退き、川辺に布陣、 戦況を見守る。夜中、偏将の曲充を小道から横嶺に出し、大声で援軍到来を 叫ばせる。敵が驚いて背後を見ると楊可世が後方から敵軍を襲い、さらに姚平仲 が精兵を率いて進撃する。狆師道軍は算を乱した敵を大敗させ、斬首50級を 挙げ、牛、馬、駱駝などの家畜たち数万を獲る。敵の酋長はわずかな供を連れて 逃げ去ったが、自分の城に還ったところで死んだ。 また陝西、河東七路の兵を率いて臧底城を攻め、十日でこれを降せと命ぜられた。 城に近付くと頑強な抵抗を受け、敵の士気の高さが知れる。対するに官軍は怠惰で 将校の中には勝手に休息するものもいる始末。狆師道はそういう輩を斬り捨て、 軍門にさらして「今日この城を抜けなければこうなるぞ」と言って綱紀粛正。 士卒は恐怖にせきたてられてわれ先に城に登り、瞬く間に城を落とした。 八日目のことだった。皇帝に報告するとまたも昇進。割愛。 都統制、保静軍節度使となった童貫は、燕回復の謀を立てる。狆師道以下の 諸将はいかにも嫌がり、狆師道が代表して「それは盗人のやることだ」と反駁、 しかし童貫はそれを黙殺して白溝まで出陣、遼軍に察知されて宋軍は多大な 損害を蒙る。狆師道が自ら身を挺して兵士たちを収容したおかげで大敗には いたらずに済んだ。 遼からの使者が女真族挟撃をもちかける。童貫が返答する前に狆師道が 「そう言うやり方は義にもとります」と諌めたのだが童貫はこれをまた無視、 狆師道の官位を落とし、代わりに劉延慶を起用した。劉延慶は盧溝で大敗、 帝は「やっぱり狆師道じゃのう」とか言ったが実権を蔡京、童貫に握られて いるのでなにも出来なかった。ちなみに貶められた狆師道の官職は憲州刺史、 環州知事、保静軍節度使で、案外高位なままだったりする。文官だからか。 金軍が南下すると朝廷は大慌てで狆師道を呼び、たっぷり官職を授けてから 金と戦ってくれと懇願、狆師道は姚平仲とその麾下7000騎を率いて出陣、洛陽 にいたり、京城に向かうオリブに対峙する。朝廷に「敵の勢い盛ん、今しばらく 汜水に駐屯するのが万全の計かと」と呼びかけつつ、部下たちには「我らは寡兵 といえどもだからといって遅疑し進まぬことのないように。事情がばれれば一気に やられるのだ。鼓を撃って前進し、きゃつめらに我らの虚実を見抜かせないよう にするのが重要なのだ。京城の人、我らを見れば自然と意気振るう。なんぞ 敵人を憂慮することがあろう!!」とアジる。彼は行く先々でビラをまき、 种少保危急と知った人々が集まって100万の大軍となる。汴京に至り汴水の南に 兵を進め、敵の陣営に兵力を直撃させると、金軍は大いに恐れ、戦わずして 北に還った。 当時狆師道といえば“种老”と呼ばれるほどの有名人となり、欽宗皇帝もよく その意見を聞くようになった。欽宗曰く、「今ウチの国ってヤバくない?」 狆師道「女真族なんぞ兵法を知らんイノシシばかりでござる。孤軍他国を侵略 するほどのことは出来申さん」と頼りがいのある返事。欽宗「講和したんよ」 狆師道「軍旅のことは私めにお任せを。しかし講和はまずかったですな」という ほのぼのトーク。ちなみにこの間も狆師道はまたまた出世したんやが、それより 副官の姚平仲が都統制に出世したのが大きい。 703 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 23 02 45 ID ERvMR/+10 700 転載にレスするのもなんだけど 軍隊の精鋭化 後周の世宗柴栄が、禁軍の改変を大々的に行ったことは有名なことでした。 当時、中原の王朝というのは、後唐から後周に至るまで、同一勢力からの派生ということで 皇帝直属の親軍たる、近衛がほとんど入れ替えられることがなかった。 しかも、後唐荘宗李存勗の親軍というのは、かの楊師厚が編成した銀槍隊であり、 銀槍隊は、楊師厚という節度使の牙軍(節度使に密接に関係した兵)であったので 傭兵的性格を色濃く持っていた。 それは、給金をしぶると不満を抱き、厚遇すればつけあがるという、とんでもないものだった。 しかしその武力に頼らなければ、いくさにも勝てないし、皇帝権力の維持も難しい時代だった。 後唐明宗が、侍衛親軍を創設して、一旦分散はしたものの 後晋、後漢と、侍衛親軍に属する将兵に、大きな異動はなく 良く言えば古強者、悪く言えば老弱兵が多数在籍していた。 後周太祖郭威はそれを慮って、新たに殿前軍を創設するも、改変する前に死去。 後周世宗柴栄は、即位直後の「高平の戦い」において、この不安定な殿前軍と老兵およびつけあがりの侍衛軍を 率いて戦わねばならなかった。 侍衛親軍の馬軍と歩軍の指揮使(大将)が、北漢の猛将張元徽の攻撃にビビり、敵前逃亡を図ったため 後周軍右翼は潰走。 柴栄は中軍本隊の先頭に踊り出て自ら敵兵を切り伏せることで士気を保持させ 張永徳、趙匡胤に命じて、敵の中央突破を成功させた。 北漢には野戦で勝利したものの、太原攻めには失敗し(自身の判断ミスで)、大敗してしまったが それを置いても、敵前逃亡した将兵に腹立ちと改変の必要性を痛感した。 侍衛親軍に属する老兵はすべて解雇され、新たに募った壮丁をもって補充し 殿前軍には趙匡胤に特別審査を行わせ、武芸に秀でた者を登用していった。 これによって、禁衛軍の総兵力は減少したものの、近代無比と言われる後周禁軍が誕生した。 と、何が言いたいかというと、柴栄の言葉にある 「およそ軍隊というものは、数が多ければよいというわけではなく、その質こそ肝要。今、農家百人で一人の兵を養うありさまだ」 ということで、北宋もいつの間にか、そういった根幹を忘れて、軍隊を肥大化させてしまったのだろうか。 ま、建国期と統一状態が何年か続いたときとでは、比較にはできないけどね。 これはチラ裏だけど、一応、柴栄確定の根拠の一つとしてトリビアにでもしてもらえれば幸いです。 704 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 23 03 34 ID IbwTPFXu0 狆師道の2 ときに狆師道、病を得て、皇帝から拝謁の礼をとる必要なしと赦される。堅物の 狆師道は腰が曲がらんなら膝をついて拝謁しようとしたが、欽宗は笑ってそれも 必要なしと説く。この時期すべての門が閉ざされ、市に新しい野菜が入ることもなし。 狆師道は皇帝に請うて西と南の両門だけを開くよう頼んだ。 金に馬忠という偏将があり、彼の前軍隊が遮ったという罪で6人ほど斬る殺人嗜好者だった。 これに恐れをなした士卒たちが南に流れ、狆師道に附く。彼らは自分勝手な規範を作り再び金と 宋との境界線を越えようとしたので、狆師道は金を支払って彼らを郷里に帰した。黄河を扼守す るために彼らを使おうと言う意見も出たが、狆師道はそれを黙殺した。 种氏、姚氏はともに山西の大族姚平仲の父姚古は熙河軍に入援した。姚平仲は 功名を独占するわけには行かないと父を帰したが、この頃になると士卒が速戦 に向かず命令系統が途中で途絶えるなどの不都合が出るほどの増加傾向にあった。 李綱はそれについての議上で、城下の兵が命令を聞くようになるまで姚平仲の 節度下に置けば宜しいと述べた。欽宗は毎日人を派遣して狆師道に作戦を諮問し、 狆師道は弟の狆師中と兵を分かっての分撃作戦が可能であると上奏。8日後、 金の軍営に襲撃をかけた狆師中はみごとに敗北した。敗戦後、李邦彦に軍権の 3割を奪われたが、狆師道は紛争の種になるとしてなにもいわなかった。 金軍が退いたのち、御史中丞の許翰が狆師道の軍権を解くよう欽宗に上奏した。 理由としては「狆公は老年であり、これ以上の任に堪えられるとは思えない。 陛下は彼を信任しすぎている」とのこと。実際は狆師道と欽宗が太いパイプで 繋がっているのが気に入らないだけなわけだが。狆師道が黙っていると許翰は 嵩にかかって、「国家危急のときに書生なんぞにまかせられぬ」とか言った。 狆師道の反論「彼は少なく我は多く、分担して結営すれば要地を守ることは たやすい。彼の糧道を截ち持久戦に持ち込めば、必ず勝てるのです」許翰は 狆師道に心酔し、狆師道は老年と言えど往年の智謀衰えず、なお用うべきと 上奏したほどの変わり身を見せる。狆師道、太尉に。 金兵再来に際し、狆師道は各地の軍を召集、大敵を捕退すべく出陣するも、 まもなく狆師中が戦死、姚古が敗北し、朝廷は震撼、狆師道に軍を還すよう 要請する。太原が陥とされ、とりもどすべく彼は進軍を決意する。金軍が一挙 攻め寄せてくることを警戒しつつ各個撃破、欽宗より下賜された鉾を振りかざし、 長安までを回復する。大臣たちの怯えるさまに仕方なく京師に軍を還す。京師に たどりついたところで逝去。76歳であった。欽宗は彼を喪い大いに慟哭したと言う。 京城の守りは喪われ、皇帝の胸に穴が開く。「狆師道の謀を用いず、どうやって たたかえというのか!!」そしてその後、靖康の難が起こり徽宗、欽層は北に連れ 去られる。狆師道は建炎年間、少保を追贈され、忠憲と謚された。 チュウの字が変換できなかったので狆の字で代用。すんません。 705 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 23 28 54 ID ERvMR/+10 チュウの字が変換できなかったので狆の字で代用 サブでみたら「・」になってる。 メインでは楽勝で見えているのに。 チュウは簡体字にもあって、それは「種」に対応しているんですけど、これでは漢字が違いますよねぇ。 となると、洺州(めいしゅう・シ名州)もだめか? 706 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 23 50 08 ID IbwTPFXu0 そーなんです。変換できんのですよ。ところどころ“・”になっとるし。 それはさておき、 狆師道も挙げたし、ここいらで五代~北宋の最終選考に移りたいのですがよろしいか? 【確定組】 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青、(李存審)、(耶律徳光) 【候補】 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉鄩、康延孝、 任圜、李神福、臺濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊 耶律休哥、狆師道、劉昌祚、李継遷、賈嵓、潘美、楊延昭、顧全武 楊師厚、史建瑭、王景、康壊貞、劉鄩 【候補落ち】 朱温(朱晃)、郭威、曹彬 過去最大の候補数。なんといっても魔の定義論含め300レス近くこの時代で 続いたけんね。あと、十国からは顧全武と劉仁贍の二人ぐらいでいいかもと 思うが、いかがか? 707 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 23 52 57 ID IbwTPFXu0 あ、楊師厚と劉鄩、すでに挙がっとったね。重複してしまった。すんません。 708 ○ sage 2007/04/01(日) 23 58 04 ID Yep9d0/00 702 704 ◆oOLAqFKRBさん 乙です >奸臣たちには気に入らんかった様子で、西安州の知事とされる(実質的な左遷)。 まあ北宋って左遷とか日常茶飯事なんですよね。 新法派・旧法派なんて互いに足の引っ張り合いしてたぐらいですし、 名前はちょっと思いだせないんですがw 最終的に海南島に左遷された後、朝廷に復帰した人物とかいるぐらいですし… またまた何時もの寝言言ってみましたw 締切もう一日待ってもらってもいいてすか? 郭崇韜の推薦文を挙げたいのですが今日はもう寝たいです。 ダメなら諦めますが… 709 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/02(月) 00 09 58 ID 3SOpQK0D0 勿論OK。つーか俺が決めることじゃないし。 みんなで納得して決めんと、 後々(俺はこいつを挙げるつもりやったぁぁ!! ならば俺はこいつをー!!)みたいな確執が怖いしね。 710 ○ sage 2007/04/02(月) 22 13 03 ID BY7tkA820 郭崇韜(?-926年) 代州雁門の人。字は安時。己を郭子儀の後裔だと自称した。 李克用、李存勗(荘宗)父子に仕えて中門使に至る。 李存勗が皇帝となり後唐を建国した際には、兵部尚書・枢密使とされ重用される。 後梁を滅ぼすと、論功第一に挙げられ、侍中・成徳軍節度使となる。 郭崇韜の位は人臣を極め、権勢を奪われるのを恐れて魏国夫人劉氏を皇后に立てるよう密奏し、 また「時務利害二十五条」を説いて、宦官を排斥。 後唐建国から三年後の同光三年(925)に なかなか飛躍の機会が得られなかった宦官勢力に、絶好のチャンスが到来。 (おいおいw) この年に王衍が割拠する前蜀政権の併合を企図した荘宗は、 太子の魏王李継岌を名目上の総大将として、 実際の指揮を郭崇韜に執らせ遠征軍を派遣。 この前蜀攻めで郭崇韜は東北面行営都招討使を勤めた。 前蜀は後継者争いのために国力が低下、遠征軍は一戦しただけで王衍を降伏させることに成功。 前蜀攻めは領土拡大と同時に 後唐は荘宗が浪費家だったこともあって財政面が苦しく、 豊な四川地方を併合し、財政の回復をさせる第二の目的を含んでいた。 王衍の降伏後に荘宗は、成都からの戦利品を心待ちにしていたが、王衍降伏後の戦後処理に 手間取った郭崇韜は遅々として戦利品を送ることができなかった。 荘宗は期待を裏切られたと苛立ちを見せ始めた。 この事態をチャンスとばかりに宦官勢力は行動を開始。 (全く宦官って奴は悪知恵だけは働くよな) 李継岌にも猜疑を受け、同時に恨みを持っていた宦官達に誣告された。 それを信じた荘宗は激怒し宦官の馬彦珪を蜀に遣わして郭崇韜・廷晦の父子を成都で処刑させた。 (ひでぇ完全に冤罪じゃん) 郭崇韜は政戦両略と王佐の才ありといわれ、郭子儀の再来と評され、 郭崇韜は李克用・李存勗(荘宗)の二代に仕え、後唐建国時に 「第一の功臣」と評されるほどの功績を挙げた彼を推薦。 東はオルドスから西は敦煌まで領土を拡大、 宋軍に勝利し、賀蘭山で遼に勝って、宋・遼・西夏の鼎立の形勢をつくった、 西夏の李元昊も推薦します。 これで自分は推薦打ち止めです。 昨日は流れ止めてごめんなさい。 711 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/03(火) 03 12 00 ID P41V3Neb0 お、郭崇韜ですか。 ○さん乙です。 さて、けちでもつけるかw(いや、冗談です) 軍政官としての力量になんの疑問もない人ですが、急速な領土拡大(河東から華北政権へと) となる過程ということもあるでしょうが、結構蓄財に余念がなかったような面があります。 後唐は荘宗が浪費家 これ、建国以前にも郭崇韜は李存勗を諫めているんですよね。 李存勗としても煙たいところでもあったのだろうか。あまりに軽々に宦官の言を信じたのは 芸能にうつつを抜かしてしまった李存勗の、統治者としての決定的な資質不足でしょう。 いくさでは神がかった強さを発揮するのに、人心掌握や統治では為すところが無い。 なんか項羽を連想させます。 郭崇韜が少しでも金銭を蓄えようとした故事では任圜との確執もあげることができます。 任圜は最初、潞州(上党)の李嗣昭(李克用の仮子)の幕僚だったのですが 胡柳陂の時には李嗣昭隊の一部を率いて果敢に戦ったため、李存勗から「仁者の勇」と絶賛されます。 ただし、根っからの官僚で、荒事は苦手なタイプでした。 鎮州(常山真定)で、張文礼が乱を起こし、討伐に赴いた李嗣昭が戦死すると、その残存兵を見事に統率してのけ また、張文礼の子、張処球をして説得し、降伏にまでこぎつけることに成功していました。 もっとも、そのときは油断した鎮州軍を、李存審が強襲したので、張処球は戦死しましたが。 戦後、鎮州の節度使として郭崇韜が赴任すると、任圜は真定尹としてその幕下に入り この二人の黄金コンビの統治によって、鎮州の傷は癒えていくのでした。 任圜は意外に人を見る目がなく、これは、と思った人物を推官したのですが、 その男が任圜の目の届かないところで、公金横領に耽っていました。 その男は、そのことが発覚するのを恐れ、溜め込んだ私財を郭崇韜に包み隠さず報告しましたが 郭崇韜はそれを受け取って、不問にふしています。 それを知った任圜は、鎮州の行軍司馬職を辞し、工部尚書のみに専念することになります。 やや、郭崇韜との友誼に溝ができた形で。 さて、ここから本題。 前蜀討伐戦の折、郭崇韜は実質上の指揮権を与えられ遠征軍を統率しました。 任圜も、魏王付きの参軍として従軍しました。 そのとき、郭崇韜軍の先鋒を担ったのが、候補にも挙がっている康延孝。 康延孝はもとは後梁の将です。段凝という後梁の将帥の指揮下にいたわけですが、 それを脱して李存勗のもとに降ったのでした。武勇に優れていますので、李存勗は喜び 彼に姓名を与え、李紹琛(りしょうちん)と名乗らせました。 その李紹琛が、李厳という将とともに1万を率い、鳳州、固鎮、興州を陥とし、 前蜀の三招討使、王宗勲、王宗儼、王宗昱ら3万の迎撃軍を三泉の戦いで大破した。 さらに利州を陥とし、督戦に出向いていた蜀帝王衍を遁走させ 蜀軍は撤退するにあたり、民家や義倉を焼き、綿江の橋をも切って落とし、舟も沈めて李紹琛軍の 足止めを図ったが、李紹琛は李厳と相談し 「我らは敵地にあって、速戦しなければならず、橋の修理を待っていては敵に態勢を整える余裕を与える」 と言って、河を強行突破した。そのとき渡河できたもの千人、溺死したもの千人だったと言います。 鹿頭関から漢州を制圧した李紹琛は、ここで蜀の重臣王宗弼から降伏の申し出を受けました。 李厳はこの遠征軍の企画者の一人なので、その処理を行い、ここに前蜀は平らぎました。 李紹琛の功、最も大である、と史書に明記されていますが、 この人、郭崇韜や朱友謙らが冤罪で殺されたことに動揺し(誣告による粛清が相次いだ)、 西川節度使を自称して叛旗を翻します。 その李紹琛を、漢州の戦いで、あっさり撃ち破ったのが、魏王付きの参軍だった任圜。 彼は董璋に弱兵を率いさせ、李紹琛の突出を誘い、自ら精鋭を率いて、その側背を横撃しました。 李紹琛は任圜をただの文官と侮っていましたが、足をすくわれました。 漢州城に逃げ込んだ李紹琛は任圜の火攻めにどうしようもなくなって、ふたたび出陣しましたが 今度は正面から戦って破れ捕らえられました。 一体、誰が一番強いのかわからない状態ですが、前蜀戦かように入り乱れておりました。 712 ○ sage 2007/04/03(火) 05 27 49 ID hLnQoVG30 次スレです 三国志二十四大英雄 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1175545567/ 713 ○ sage 2007/04/03(火) 06 49 14 ID L/JUw1yu0 712はガチで偽物 ちなみに三戦版にも同じ様なスレたってるけどな… 714 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 16 24 01 ID zAFfeCHo0 【みんなで】 選抜 三国志二十四大英雄 【決めよう】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1175545567/ こうしろ 715 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 16 43 23 ID 3AtpUj+u0 ttp //www.geocities.jp/kaysak864/n-mayuan.htm 馬援評伝。 これ面白い。 特に興味深い考察を引用しとく。 >もしも馬援がアスペルガー症候群とするなら、 >光武帝と高祖の比較の言葉も意味が違ってくる。 >そもそも馬援は光武帝と意気投合すること甚だしく、その評価もべた褒めである。 >それをさらに劉邦が上と評するのは極めて不自然であり、隗囂もその言葉についていけなかった。 >これも自閉症者の持つ言語特性と考えることで謎が氷解する。 >自閉症者の言語の特徴は含意を理解できず、言葉のそのままの意味に用いるということである。 >馬援の言葉「不如也。高帝無可無不可;今上好吏事,動如節度,又不喜飲酒。」をその言葉そのままに理解すると >「比べられません。高祖は特別な能力はありませんから。今の皇帝は事務処理にも長け、行動にも節度があり、お酒を好みません」となる。 >劉邦は事務が嫌いで、行動に節度がなく、お酒好きだったから、この3つは光武帝が上回る点をさらにだめ押しで追加したのである。馬援は、高祖劉邦はただの凡人であって、 >光武帝と比較するのも馬鹿馬鹿しいと言いたかったのかもしれない。 716 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 17 07 42 ID EZmiygYlO 715 スレ違い乙 717 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 19 08 57 ID rtGwnu5o0 714 ここじゃなくあっちのスレに陳情しろよwww 718 ◆RQdk7scN8s 2007/04/03(火) 19 58 38 ID P41V3Neb0 前に李晟に相当するのは、五代では誰? という質問があって、自分は良く知りもしないくせに、テキトーに寇彦卿、とか言ったけど これは完全な誤りでした。 似ているのは、お互いに皇帝の腹心であり、親軍の将として信頼されたところだけ。 戦場での洗練さは、李晟のほうが非常に上でした。 つうことで、「五代群雄」スレに怪しい訳とともに紹介しておきましたので、興味ある方は御覧ください。 あと、添削もできれば… 713 なんでいきなりニセモノが現れたんでしょうね? 719 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 20 40 12 ID EZmiygYlO 718 ◆RQdk7scN8sさんご親切に有難うごさいます。 以前に李晟について質問した者です 「五代群雄」スレの方に見に行ってきます 本当に有難うごさいました 720 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/03(火) 21 12 11 ID RlL9Cbtn0 いきなり風邪ひいて昨日からダウンしてた俺ですが、 起きたついでに唐末~宋にかける漢族と異民族間の考察をば開陳します。 中国の歴史においては唐代にいたるまで、漢民族と北方民族の関係は比較的 単純な方式にしたがっていた。まず好戦的な北方民族がはじめは略奪、やがては 制服の意図で中国に対する侵入を繰り返す。もしも中国の社会が健全な組織を 持っているなら、中国は容易にこの侵入を撃退することができる。なぜならば 北方民族が恃みとするのは当時の戦闘に最も大きな威力を発揮する騎馬戦術 であり、遊牧民族はその出自ゆえ生来騎射に優れているので優れた軍人的 素質を持つ。それでもって中国に攻撃を仕掛けるわけだが、漢族と北方民族の 戦力を総体的に比較した場合、数において漢族が圧倒的優勢に立つ。さらには 富力の差だが、これはさらに開きが大きい。だからもし長期戦ということに なれば、北方民族のほうが疲弊して軍を還すということになる。漢代、中国が 匈奴にさんざん苦しまされながらも最終的には反撃し是を屈服させたのはこの 良い例といえる。 しかし、唐末五代~元までの時期にかかるとこの事情が変わってくる。 唐末頃から北方民族と中国との関係は非常に複雑なものとなり、一筋縄では いかなくなってきた。第一には北方遊牧民族の知力が発達したことにある。 彼らは以前よりも中国文化をよく理解し、その長所と短所を同時に見抜く力 を持つようになった。その長所を知ることは彼らに中国人民を利用しようと いう気持ちを起こさせ、その短所を知ることは彼らに中国文化をむやみに崇拝 したり憧憬したりする態度を棄て、中国文化にないかれら自信のうちにある 美点を保存しようと言う希望を起こさせるにいたる。これは中国に対する 異民族の民族的自覚であり、いわゆる国粋保存的な政策が底から生まれる。 その結果、遊牧民族の国家の性質に柔軟性が加わり、従来のように強いばかり で同時にもろいのと違い、弾力を持った耐久性のある国家が現れてきた。 遼およびそれ以後の西夏、金、元などの国はいずれもこの例に当てはまる。 つぎに中国人のほうでも、異民族国家に対する分析が進んでくる。中国人も やはり異民族の弱点を見抜き、それは経済的に微弱であることだと結論した。 そこで以降の対異民族政策には多かれ少なかれ、経済が武器として用いられる。 ときにはそれが濫用されてかえってみずからの首を絞めることになることも あるが、全体的に見て政策の進歩であることは間違いない。 ・・・概ね宮崎市定氏の論に拠りました。まぁこの程度はこのスレ的には常識 で、いちいち言うまでもないとは思うんやけどまぁ、それ以前の匈奴やら柔然に 比べて遼、西夏や金、元が一線を画す存在であるという事を提起したかったわけ です。つーか寝起きの独り言なんでスルーしてください。 で、五代~北宋の空き枠三名には、 五代から劉仁瞻、西夏から李継遷、北宋の劉昌祚を推します。 721 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 22 06 27 ID mpJSp2SR0 論に拠ったというより、ところどころ端折ったり言い換えただけでほぼそのまんまと言ってもいいよね 722 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 22 52 49 ID 05omaE1q0 独り言ならスレに書き込むなと小一時間 723 ○ sage 2007/04/03(火) 22 56 46 ID L/JUw1yu0 711 718 ◆RQdk7scN8sさん 乙&㌧です。 偽物についてなんですが多分このスレで自分がやたら 五代と三国志の比喩論を述べていたからではないかと推測しています。 711に李厳なんて名前あったら反応しちゃうしw 朝スレ見てたら自分の書いた憶えのないレスが載ってたのにはビックリしましたよw で思わず憤慨しちゃいましたwww あとですね郭崇韜と任圜についてちょっと 自分なりに意見を述べてみようと構想中です。 (◆RQdk7scN8sさんのレスと被る箇所が多々あるかと思いますが) 720 ◆oOLAqFKRBさん風邪の具合は大丈夫ですか? 無理しないで寝ててくださいよ!! 一日も早い復帰、心よりお待ちしてます。 さて自分は西夏なら李継遷より孫の李元昊を推します。 五代なら楊師厚を北宋からは楊延昭(楊六郎)か潘美を推します。 724 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/04(水) 01 40 12 ID 6Y9RtpAAO 723 李元昊を推すなら推すでかまわないですが、 何をもって中国の武将とするか理由を明記してくれませんか? 李元昊が入るならば、大越(現ベトナム)の李常傑、元代の陳興道、 明代からはオイラートのエセンを推す人が出てきたとき、反論できません。 どうじに耶律休哥など国号から遼を外し、契丹のみにしてる時代の人物を推すひとは、 何をもって中国の名将であるとするか書き込むか、時代を戻して、 過去の中華風の国号をしてない北方民族も、選考の対象にするのか意思表示して下さい。 私は遼を選考から外したい人を強引に納得させ、スレを進めた人物です。 最後まで遼をはずそうとした人が、言い放った言葉を思い出して下さい。 私は、遼が中華王朝か否か?の論争はスレ違いだと思いますが その人物が中国の名将か否か?はスレ違いじゃないと思ってます。そうですよね? 誠に申し訳ないですが、お手数をかけますが、理由を書いてもらえませんか? 725 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/04(水) 01 47 03 ID 0uxFM+xa0 李元昊 当人がもし生きてこのスレ見たら血吐いて死にそうだよなw 726 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/04(水) 05 14 00 ID YB6QMW6K0 喉が痛くて眠れやせん。今日は朝一で病院行こう。 さて、 724さんの言う「中国の名将か否か」ですが、 「守勢(中華からの侵略に対する防衛)ではなく積極的に 中国本土に攻め入り、多大な武勲を挙げて自国の版図を広げた(あるいは橋頭堡を作った)」 でどーでしょ? 陳興道は赫々たる戦果を上げたがその戦いは元朝の侵略に対する防衛戦やったし、 エセンは明領内に攻め入って大勝したものの結局中国本土にオイラートの領土を広げてない。 よって上二名は「中国の武将」ではないということで。 李常傑は・・・すんません、よく知らんわ。 で、俺の推す李継遷はというと夏州から宋軍を撤退させてその版図を奪い、 さらに霊州を取り、宋軍15万を全滅させるという十分な戦功も立てとるから、 中国の名将で(最後流れ矢に当たって死んだのが間抜けやが)いいのではないかなぁと思うがどうか。 そんで○さんの推す元昊はどーやろ? ウイグルを攻めて甘州を取ったけど、 これは中国本土の土地にカウントされん気がする。でも宋仁宗の時代に陝西地方で37万の精兵を率い、 当時弱体化していた禁軍100万を蹴散らしたけんが武勲は十分。けど韓琦・范仲淹に阻まれて中国の土地は奪えずじまい。 しかも経済封鎖された挙句和睦して、その条件に「西夏は宋に対して臣下の例をとる」ことで調印しとるしなぁ。 敦煌やら西北方面への領土は広げたけど、中国の武将ではないか? つーかそもそもこの人、西夏が漢化するのを嫌っとったし。 ま、俺の意見に納得できん諸兄もおるやろーし、 ここは合議制の場なんやから大勢が両者とも資格なし、となればそれに文句は言いません。 727 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/04(水) 13 40 32 ID X6a7+FA80 「中国」の中身は長い期間の混血によって変化している。 当然、その範囲も時代によって変化していると考えた方が良さそうだ。 だからこの際、支那≠中国と考えるべきだ。 「文化に漬けられた弱い南人=漢族」で「支那の王朝だから正統な中国」の論理は見飽きた、聞き飽きた。 天命も領土も保ち得ない文弱王朝は元々正統ではないし、そもそも正統の王朝なんてものは最初から存在しない。 正統云々は時の為政者たちの都合次第。 士大夫どもがその宣伝を鵜呑みしてたただけ。 忠義の対象が一つしかなければ、そうせざるを得ない。 極東の島国の俺たちにその論理を盲従する必要性は全く無い。 狂的な漢人イデオロギーを妄信してた宋にしたって沙陀色が濃いし。 728 ◆RQdk7scN8s 2007/04/04(水) 20 57 47 ID PeGUb0ID0 723 ちょっと関係ない雑談なんですけど ○さんは、五代史に関して、どんな資料を参考にしてますか? それは岩城さんにも聞きたいのですが。 自分は基本、《五代史》、《五代史記》、《五代史書彙編》(十国春秋もこの中)、五代絡みの概説書(むろん日本書籍) あと、『五代群雄傳』くらいなんですが。 関連論文も読みたいところですが、そういう機会はなさそうです。 729 ○ sage 2007/04/04(水) 22 45 35 ID rYwHrifH0 728 企業秘密ですw(もちろん冗談ですが) ◆RQdk7scN8sさんの様に五代史、五代史記など読める環境、読解力があればいいのですが なかなかそうもいかないのが現状です… 参考資料としては資治通鑑の注釈本、陳舜臣氏の中国の歴史などですかね。 まあ覚束ない知識ながら語らせて貰ってます。 (ちなみに漢文は大して読めませんし…) あと海南島にまで左遷された人物は蘇軾でした。 訂正 海南島から帰って来た時は朝廷には復帰できず常州で死去してました。 730 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/04(水) 22 51 35 ID LTCrPQz60 728 ◆RQdk7scN8sさんへ。 俺は新旧《五代氏》と《十国春秋》のみ。 あとは《続通志》の一部に五代の人物列伝が載ってるのと、 概説書として宮崎市定教授の「五代・宋」ぐらいですか。 あ、《史治通鑑》と《通鑑紀事本末》もその都度時代を敷衍してみるには便利ですね。 偉そうに紹介文挙げたりしてる割に 実は五代は苦手というか、そんな詳しくなかったりします。 資料は喉から手が出るほど欲しいのに、どんな伝手で手に入れるかわからんという。 一応近所に官籍専門輸入書店があることはあるんやけど、ここの品揃えがあんまりよくないのですよ。 731 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/04(水) 22 54 22 ID LTCrPQz60 730 変換ミス。官籍→漢籍で。 732 ○ sage 2007/04/04(水) 23 24 45 ID rYwHrifH0 724 何をもって中国の武将とするかについては 取り敢えず自分 21で示されてる定義に添って推薦しているつもりです。 あと 726で述べられてる>「守勢(中華からの侵略に対する防衛)ではなく積極的に 中国本土に攻め入り、多大な武勲を挙げて自国の版図を広げた(あるいは橋頭堡を作った)」 自分もこの意見に近いですね。 それに西夏も一応認めることで話が進んでますよね? なのに西夏から一人も推薦挙がらなかったら後からただ入れろ入れれと言ってたたけかよと!! と苦情が出るかもしれないし、そう言うのも考慮してます。 李元昊は西夏の建国に前後して三川口・好水川・定川砦において北宋軍に勝利してますし 資格については問題無いと思っています。 西夏(夏)についてですが 李徳明の跡を継ぎ、検校太師・侍中・定難軍節度使となり、西平王に封ぜられた。 西夏と呼ばれてますがこれは北宋が勝手にそう呼んでるだけで本来は夏。 李元昊は現在の寧夏回族自治区銀川の興慶府を首都と定めてる。 唐始に拓跋赤辞は唐に降り、李姓を下賜され、族人を引き連れれ 慶州(現在の寧夏回族自治区内)に移住し平西公に封じられた。 唐末に発生した黄巣の乱ではその子孫である拓跋思恭が反乱平定に大きな功績を残し、 それ以降、夏国公として当地の有力な藩鎮勢力としての地位を確立した。 国の成立を見る限り西夏は中華の国として扱ってもいいのではというのが持論です。 もちろん遼・金・元も同様です。 陳興道は陳朝(大越) モンゴル軍の自国への三度に渡る侵攻を全て撃退 李常傑は北宋軍の攻撃が始まる前に10万の大軍をもって中国領土内へ進攻し勝利したんですよね?。 それに大越(李朝)の李常傑はベトナム救国英雄と呼ばれる人物の一人ですよね? さすがに大越(ベトナム)の武将は選外とするべきでしょう。 オイラートのエセンですがモンゴル帝国崩壊後、オイラートはケレイト、ナイマン、バルグトなどを含む部族連合集団に変容し、 後にモンゴル高原のほとんどすべての部族を制するに至ったんですよね?。 いくら元(北元)と称していても部族連合集団であり国家としての様相を呈してないので 選考基準から外れるのではないでしょうか? 以上が自分の持論です。 諸兄が李継遷・李元昊は中華の武将ではないと反対するなら自分は従います。 733 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/04(水) 23 34 51 ID 1tmtmtZF0 李元昊の夏は諸部族連合でなかったと? 諸部族連合だから国家じゃないというのなら遼や元の組織だって変わりはありませんよ? 734 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/05(木) 00 41 40 ID 0wO0KLdZO 732 西夏を入れるのと、その人物を中国の武将であると見なすのとは違いますよ。 だから、李元昊の名が出てもスルーされていたと感じていましたが。 ヴェトナムは唐代まで、戦乱期の一時的な時代以外は、中国の支配化にあったんですよ。 阿倍仲麻呂が派遣された話とか有名ですよね? この時代、ようやく独立を果たしたにもかかわらず、 朝廷から贈られたのは「安南都護」でした。 李常傑の活躍で、安南国になるんです。彼ら自身は越と称してるんですけどね。 自治権は認めても、領土的には中国本土であると考えられてます。 だから後の中華王朝が度々、征伐に来るのです。 李元昊のように独自の文字を制定したわけでもなく、 独自の文字もなく、制度は中国と変わらなかった安南の 李常傑を外すのは矛盾があると思うのです。 李元昊自身も、中国の武将だと思ってないはずです。 外すのが無難かと。 735 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 00 46 30 ID CWGq96lM0 733 726の定義を提起した博多の岩城ですが、○さんに援護射撃。 西夏も遼・金・オイラートなども諸部族連合によって成立する国家という 点では同根だと思う。ただ、李継遷時代の西夏は自ら夏州・雲州を奪って 陝西地方に橋頭堡を作ったということで中国の王朝でありそこに所属した 武将は中国の将と愚考する次第(元昊はむしろ中華文明からの脱却を 目指したから中国武将とは言いがたいところがある)。で、オイラートは 諸族連合国家ということでは西夏と同じであるものの、南下して中国の 土地に領土を獲得したわけでないので中国の国家ではないと。翻って遼は あらかじめ燕雲16州という橋頭堡を持ち、それを保持するために南下して 北宋に攻勢を仕掛けたこともあるので中国、というか半中原国家という感じ。 金は最初から南進してきて中国の土地を版図に加えたから問題なく中国の国家 だろうし、元というかその前身たる蒙古はチンギス即位後、ムカリあたりが 金に攻めよせて各地を獲り、転戦して橋頭堡を築いたのでこれも中国でいいかと。 これに関して 733さんおよび諸兄の意見を聞きたいと思いますが。 736 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 01 01 23 ID L2DsHe8+0 735 そうですね逆に質問します。 仮の話ですが、琉球が日本に侵攻して九州を占領した過去があったとしたら、その 時に琉球王朝は日本の一部となりますか?その武将は日本の武将と呼びますか? さらに進んで中国・四国地方くらいは征服したが、王は那覇を離れず日本の占領地 へは代官を派遣するくらいの支配で。 現実の例だったら(たとえとしては無理があり適当でないと承知の上ですが)、英仏 百年戦争でパリを含むフランスの半分以上の領土を支配したイングランドはフランスと なるんですかね?エドワード黒太子はフランスの武将になるんですかね? 737 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 01 31 58 ID CWGq96lM0 736 九州を占領した過去があったら その場合九州の武将たちは琉球の将となるでしょう(好むと好まざると、また 支配の緩急に関わらず)。王が那覇を離れなくても一度支配した土地に派遣 した代官、将軍たちはやはり琉球王朝の臣下となるのでは? また、百年戦争 でフランスの広大な版図を手に入れたエドワード黒大使はやはりイングランド の皇子であると思います。日本の大半を琉球王が支配した場合、やはり彼が 琉球王であるまと同じで。一番顕著な例は蒙古であろうと思いますから蒙古を 引き合いに出しますが、チンギスがムカリを中国路の王として派遣し、自らは 中国に目もくれず西方経略に本腰を入れたとして、ムカリが切り取った金の 国土はやはり蒙古の版図・橋頭堡としていいと思うのですが。 質問の意図を間違って捕らえていたらすいません。なにぶん阿呆なので。 738 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 01 49 34 ID CWGq96lM0 追記。 そして完全に敵国を併呑したところで、あらたな国家を創建する問題が でてくるのだと思います。空想の話ですがエドワード皇子がフランスを 完全支配下に置いたら古い国名からイングランド領ガリアとされたかも しれませんし、蒙古はある程度の領土拡大を果たしてからモンゴルの正統、 元と各ウルスがそれぞれ創建されたわけですから。 739 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 02 55 39 ID sh07ZMUM0 李克用と李存勗は親子で名将なんですね かっこいい! 740 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 03 08 02 ID H9XH0T7U0 >黒太子の英仏完全併合 その場合、プランタジネット家領仏蘭西で首都は巴里だと思う。 支那だって劉家領支那=漢で李家領支那=唐で愛新覚羅家領支那=清だった。 741 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 11 58 07 ID 16153irr0 740さんへ 首都が遷ったにしても広大な土地を占有したにしても、根本にある国家 精神は変わらんでしょ。仮にイングランドがフランスを制圧したとして 「こっちのほうが土地広いから、今日からウチもフランスを名乗ろう」 とはならんわけで、言ってみれば居心地のいい仮住まいを手に入れた程度。 仮のさらに仮の話になってしまいますがプロイセンとかに英国領フランス の土地が全部奪われたとしても、本当の拠点はあくまでイギリス本土 だからフランス駐留軍と国家上層部さえイングランドに帰還させれば 国家的にさほどのダメージを負う事はないでしょう。翻って中国に 当て嵌めると金だって支那の北半分を獲りながらあくまで金という国家 のままだったわけだし(現地の文化に耽溺した、というのはあるけども)、 蒙古にボロ負けして支那本土の拠点を失っても、下層階級は本来の故地 である満州の方に逃れたから、すっかり支那文化にかぶれた上層部以外は たいした問題なく、女真族そのものは部族をまとめる巨大な統率者を 失った以外、さほど巨大なダメージを被ったわけではなかった(もとの 遊牧騎馬民族に戻っただけ)と思います。実際、数百年の雌伏ののち 新たな統率者が出て、清(最初は後金か)として復活することができた わけだし。 ・・・なんでこの時間にお前がおるんやとか突っ込まれそうやけど、 風邪が悪化して自宅謹慎を命ぜられとるんですわ。やから暇なのです。 742 ○ sage 2007/04/05(木) 14 05 02 ID 0H4+iB4c0 ◆oOLAqFKRBさん 乙&援護射撃㌧です アンタなんでこの時間に居るんや、暇でも安静にしとかんかい と一応突っ込んどきますわw さて李常傑を中国の武将として認めるにしても 726の定義に当てはめた場合、李常傑はどうなんだろう? 李常傑は北宋の進軍をいち早く察知し、逆に北宋領土へ進軍し北宋軍を撃破したんですよね? これは先取防衛の為ではないでしょうか? 諸兄の意見をお聞かせねがえませんか? あと李元昊を外すことに異論はありません。 743 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 17 23 24 ID VjMOowo3O あんまり深く考えないでさ。歴代中国、若しくそれらと実際矛を交えた国の武将と言うことでもいいんじゃね? せっかく選んだ武将が○○に負けたのに名将かよ。プwとか思われるの嫌だし 744 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 18 15 27 ID dy96S1BTO 743 そんなのでよかったら定義とかあれこれ話合ったりした意味ねーな 745 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 18 20 21 ID Qs7ILgkC0 738 百年戦争はイングランド王がフランスの王位継承権を主張したわけだし アキテーヌに領地を持ってたフランスの諸侯だったんだから イングランド領ガリアはないよ 746 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 19 39 34 ID H9XH0T7U0 0:フランス王 1:ノルマンディー公 2:イングランド王 3:アキテーヌ公⇒3´:ガスコーニュ公 4:アンジュー伯 5:ブルターニュ公 6:ウェールズ公 7:スコットランド王 8:アイルランド卿 所領と爵位を0~8と定義する。 ノルマン朝初代:ウィリアム1世(1、2) ノルマン朝二代:ロベール2世(1)vsウィリアム2世(2) ノルマン朝三代:ヘンリー1世(1、2) ノルマン朝四代:女帝モード&ジョフロワ4世(1、4)vsスティーブン(2) プランタジネット朝初代:ヘンリー2世(1、2、3、4、5、8) プランタジネット朝二代:リチャード1世(1、2、3、4、5) プランタジネット朝三代:ジョン(1、2、3、4)vsアーサー(5) プランタジネット朝四代:ヘンリー3世(2、3´、8) プランタジネット朝五代:エドワード1世(2、3´、6、7、8) プランタジネット朝六代:エドワード2世(2、3´、6、8) プランタジネット朝七代:エドワード3世(2、3、3´、6、8ほか)&エドワード黒太子(3、3´、6) プランタジネット朝八代:リチャード2世(2、6、8ほか) ランカスター朝初代:ヘンリー4世(2、6、8ほか) ランカスター朝二代:ヘンリー5世(2、6、8ほか) ランカスター朝三代:ヘンリー6世(0!、2、6、8ほか) 初期のプランタジネットはフランスのルーアンが事実上の首都。ほぼフランス人。 カペー朝に対するプランタジネット朝は後漢末の魏みたいなもの。 カペー家の殻を突き破れなかったのがおかしいくらいだ。 フィリップ2世、シャルル5世&デュゲクラン、シャルル7世&ジャンヌダルクのどれか一つがいなければ、 英仏統一王朝が誕生してた可能性が高い。 特にフィリップ2世はおかしい。なんだコイツ。 …まあスレ違いだが、たまにはいいだろ。 747 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 19 50 31 ID GljYhMi60 745さん うあぁ、西洋史の知識がろくにないことを露呈してしまった。 でもまぁ、“フランスの王権を手に入れたとしても実際重視されるのはあく まで英国”“フランスの肥沃な農場地帯と貴族文化、ヨーロッパ本土への 橋頭堡としての価値は魅力的だが、いざとなったらシッポ切りするのに 問題なし”という部分が言いたかったわけでして。そこが金や元における 中国本土とかぶるかな、と。 ろくな知識もなしにとくとくと偉そうなことを書き込んだこと、謝罪します。 748 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 20 12 59 ID L2DsHe8+0 やっぱり百年戦争のたとえではずれてしまいますね、すいません。 ちなみに私個人の考えだと 金や元は中国王朝とは言いがたい(特に元)が、中国の征服王朝にはなった。 遼や西夏は中国王朝でもなく、征服王朝にもなれなかった。 749 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 20 20 33 ID H9XH0T7U0 747 項羽を例に当てはめてみます。 ”秦を手に入れたとしても実際重視したのはあくまで楚” ”関中の肥沃な田地と行き届いた法治支配、政敵の劉邦を四川に押し込めておく拠点としての価値は魅力的だが、他人にくれてやって問題なし” …やはり生活文化が違うので金や元のケースとは違うでしょう。 この場合、対仏政策が破滅に直結するでしょうから。 750 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 20 28 32 ID dy96S1BTO 746 カペー朝に対するプランタジネット朝は後漢末の魏みたいなもの。 カペー家の殻を突き破れなかったのがおかしいくらいだ。 またまたスレ違いな話だがカペー家かどこかの家宰に曹操みたいな奴いなかったっけ? 734 いくら自治権は認めても、領土的には中国本土であると考えられていても やはり大越の李常傑を中国の武将とするのは無理があるんじゃない? 751 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 21 01 17 ID H9XH0T7U0 メロビング朝フランク王国の宮宰カールマルテルだと思う。 トゥールポワチエ間の戦でイスラム軍を虐殺し、カロリング朝フランク王国の基礎を築いた男だろう。 >越南 実態は中原勢力の植民地。風俗も違ったし。朝鮮みたいなもんだと解釈した方がいい。 752 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/05(木) 21 44 37 ID 0wO0KLdZO 750 李常傑はあくまで喩えです。李元昊は入るとしながら、李常傑は入らないというのは 間違っているという例として出しただけです。 今の時代に生きてるから、安南=ヴェトナムだから他国と思うだけで、 中国の歴史から見たら、間違いなく中国本土であるにもかかわらず、 その人物を中国の武将じゃないというのであれば、 当然、その概念はそれ以外の人物にも適用されるんですよね ?中国固有の領土であろうと、なかろうと、外れる場合はあるんですよね? 私が問いたいのは、何をもって中国の名将であるとするか?なのです。 つまり、その条件に当てはまらない場合は、たとえ中華王朝の漢人武将であろうとも、 中国の名将とは認められない――そんな条件なんです。 726がそれだと言うのであれば、それはそれで構いませんが、 それだと選定作業をやり直す必要がありませんか? 753 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 22 14 48 ID dy96S1BTO 751 トンクス そうかカールマルテルだったか 750 それならシンプルに李元昊は外す、李常傑も入らないでいいじゃん たとえ中国の歴史から見たら、間違いなく中国本土であっても 実際ヴェトナムの人々は俺たちの国は中国だと思っていたかな? 俺は違うと思うぞ インドの人々は俺たちの国はイギリスと思ってたかな? 名将の定義は取り敢えず 21にあるのでいいんじゃないかと思うけど プラス遼・金・元は含めるそれでダメなのか? でそりゃあ違うだとという人物は今回の李元昊のように指摘する そんなんじゃダメなのか? 俺はそれ以上思いつかないよ・・・ 754 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 22 15 41 ID 0zYnzRwq0 752 私が問いたいのは、何をもって中国の名将であるとするか?なのです。 つまり、その条件に当てはまらない場合は、たとえ中華王朝の漢人武将であろうとも、 中国の名将とは認められない――そんな条件なんです。 なんらかの定義はできるでしょう。 しかし万人が異論ない定義が可能だと思ってるわけですか? そもそも、自分自身の案を提示もせずにそういうないものねだりをするのは、 無駄にかき回して議論の収束を妨げてるだけにしかならないですよ。 既に出てる案にそういうものがなく、あくまで賛同できるものがないというのであれば、 ぜひともあなたの理想とするところに近い定義を提案してください。 自分は正史ベースの 505を推します。 中国武将が何たるかなんて定義は、中国とは何かと同様で、 万人に納得できるものを作ることは不可能だと考えるので、 既に評価の確立した正史に習うのが妥当ということで。 あとこのまま収束しないようなら、少人数で定義決定する方式にしたほうがよいと思います。 それに納得できない人は、反論するに値する定義の対案を出さない限りは反論を認めない。 で、少人数を誰にするか、というところは、このスレに多数の名将を紹介して貢献度が高いと思われる、 ◆oOLAqFKRB.さん、◆RQdk7scN8sさん、○さんだったら不満もすくないんじゃないかな・・・と思ったり。 どうですかね? 755 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 22 20 28 ID dy96S1BTO 753 すまん遼・金・元に西夏を含めるの忘れてた 756 ○ sage 2007/04/05(木) 22 57 36 ID 0H4+iB4c0 754 自分はですね正史ベースの 505はいいんじゃないかなと思いますよ。 でこれに西夏(夏)も含め あとは推薦した人物に対し諸兄が納得してくれれば良し、 今回、自分が推薦した李元昊の時みたいに そいつは「ちゃうやん、あかん、あかんてそいつは認められへんで」みたいに指摘してくれたらいいかなと思いますけど こんな感じでとうでしょうか? なんか 754さんに博識な御両人と一緒に指名されてますが 本当に自分なんかでいいんですか? 757 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 23 15 07 ID HcEYfMrF0 754さん 俺が選定員に推戴されたらムカリ、トゥルイらのモンゴル武将や ヌルハチ、アハタイら後金武将(つまり元、清の建国を担った人々)を 「正史にあるけん」の一言で平然と組み入れてしまうんで、反発派は かなりの数に登るかと。それでいいなら選定員の一翼を担うのも 問題なしですが、「モンゴルは違うだろ」「清は入関後だ」って言う人は 今のうちに俺を潰しといたほうがいいかと。 758 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 23 31 45 ID HcEYfMrF0 757に追記 俺としては 505案に自分で出した 726を併せて折衷すると言う 方向で行きたいと思います。これに反対の人は俺の選定員入りを 阻んでくれると後腐れなくてむしろさっぱりします。 ところで◆RQdk7scN8sさんが沈黙を守ってますね。迷ってるんだろーか。 759 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 23 47 20 ID H9XH0T7U0 「正史に記載されてれば入選資格有り」 このスタンスでいいだろ。 それで夷狄に椅子を奪われる程度の指揮官が名将なものか。 760 あの~ 2007/04/06(金) 00 12 36 ID Bbv/dSjkO 754 実は私が 505なんですけど。。 トリップつけないと不味いですか? 過大解釈案 この際、正史にのる戦役は全て対象として、 その戦いに参加した人物が名将であるか否かを議論する。 ただし、その人物が非中華王朝に属してる、もしくは異民族出身者の場合、 その人物が中国の名将であると、推薦者が立証する。 例えば、耶律徳光を推薦した場合、国号は中華風の遼も名乗っており、 少なくとも本人は、中国に対する憧憬と、 中国を支配下に置く意思があったと推測されるから――など。 この推薦文だと、国号が契丹だけの時代の耶律休哥は外れますね。 あと、遼を外すと主張してる人は、遼将を外すならば、誰を入れたいのですか? ただ単に揚げ足取りしたいわけでは、ないですよね? 李元昊の代わりに李継遷を推薦します。 李元昊にくらべ、民族独立色が薄いから。 耶律休哥のかわりに、耶律徳光。理由は先に書いたので、かつあいします。 小説から、李元昊、耶律休哥に興味を持ち、資料を調べたうえで、 この人物を好きになりこそしれ、嫌いになれないだけに、 選考の対象外にするのは、非常に心苦しい気持ちでいっぱいです。 761 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/06(金) 00 40 53 ID 8gXNJR8p0 760さん 同じく李継遷を推す同志と勝手に呼ばせていただきますが、 むしろ元昊のほうが英雄的気概にあふれとるんですよね。 前に書き込みましたが 中華から独立して敦煌以西に自分たちの国家を作ろうとする企画力とか、 弱体化してたとはいえ陝西で禁軍100万を37万の精兵で撃破した用兵とか。 中国からの独立を望んだために中国武将ではない、という一事がなければ 間違いなく俺も継遷よりこちらを推しただろうだけに、元昊は本当に惜しい人物だと思います。 彼を推していた○さんも諦めをつけるのは断腸の思いだったでしょう。 762 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/06(金) 04 36 59 ID iwgs9pHW0 中国の影響力が強すぎたのが全部悪い 763 ○ sage 2007/04/06(金) 06 51 44 ID 4zOHtfGs0 761 >李元昊を諦めたのは断腸の思いだったでしょう。 確かに李元昊を諦めたのは断腸のでした… では自分も◆oOLAqFKRBさん、あの~さんと同じく、 李元昊の祖父である李継遷を推したいと思います。 実際、李元昊を推した時に李継遷と李元昊のどちらにしようかかなり迷いました。 しかし諸兄の賛同を得られなかったのでそれは仕方ないかなと思っております。 (節操ねーなとか言われせうだが…) 764 ○ sage 2007/04/06(金) 13 50 04 ID 4zOHtfGs0 760 あの~さん(勝手に呼んでますがいいのかな?) >小説から、李元昊、耶律休哥に興味を持ち、資料を調べたうえで、 >この人物を好きになり とカキコなされてますが その李元昊、耶律休哥に興味を持つきっかけとなった小説の題名をお教え願えませんか? ちなみに自分は陳舜臣氏の小説十八史略にて李継遷・李元昊を 楊家将にて耶律休哥に興味を持ちました。 誠に厚かましいお願いですがよろしくお願いします。 765 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/06(金) 18 57 30 ID 0u9nFGkN0 ああ、なんかヤボ用で時間費やしている間に、すっかり話題が。 自分は遼を外そうと考えましたが、基本は正史にならうという意見ではありました。 遼を外す理由は古来からある中華政権の支配がおよぶ範囲 制度によって及ぼしていた範囲というものがあるじゃないですか。 温度差(サーモグラフィ)みたいなもので考えるとわかりやすいかな? (京師あたりは色が濃くて、地方になれば薄くなる) そういうところに対する、領土的な影響力というものが、遼(契丹)は薄い、というあたりを論拠としています。 まぁ、政治的な影響力は大きいのだから、別に入れることに頑強に反対はしません。 入れれば、太宗と休哥は確定するのかな? で、李継遷ですが たしかにコヤツが西ではねっ返ったおかげで、宋は遠征し敗れ あまつさえ遼に援助までとりつけて引き入れ、究極的には岐溝関の敗北を招かせたようなもんですので 結構なやり手ではあります。 宗主国から独立を獲得する契機となった、というあたり後漢の周瑜に似ている節はありますが そのあたりはどうでしょう。 と言っても、自分、拓跋思恭はわかりますが、この代になるとほとんどわかりません(をい)。 そうですね、「草原王朝特別枠」とかいって、別に設けてみるとか、そういうのはなしでしょうか。 766 ○ sage 2007/04/06(金) 21 43 35 ID 4zOHtfGs0 765 李継遷に似てるのは李元昊ではないでしょうか? どうでしょうか? 二人共、始めは宋に従ってましたが 後に反旗を翻し幾度となく武力衝突を繰り返したり、遼にも対抗したりしてますし、 吐蕃(チベット)を討ってたりしますよね、 それに李継遷は霊州を陥れて、西平府と改称、国都とし 片や李元昊は河西回廊を占拠し、興慶府に都を置いてます。 ちなみに史書には李元昊が ―英雄の生は当に王覇なるべきのみ。錦綺、何をか為さん。― と興奮した際、李徳明に向って言ったとされています。 (民族独立に対する意気込みなんでしょうね) 767 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/07(土) 12 51 23 ID 8Dz7hZN3O 764 井上靖の敦煌です。 そこから、この時代の異民族国家に興味をもち、図書館で調べはじめて、 耶律休哥の名を知りました。 小説としてはやはり楊家将で、この小説により歴史書の中の人物が、 血の通った人間になった感じです。 768 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/07(土) 13 00 06 ID pG/HJowa0 このスレにいる人が楊家将読んでてちょっと嬉しいw 769 ○ sage 2007/04/07(土) 14 46 04 ID I3JbP16L0 767さんご丁寧に有難うございます。 >血の通った人間になった感じです。 全くもって同感です。 自分もですね楊家将を読んだ時、耶律休哥及び楊業に非常に人間味を感じました。 768さんもナカマー あと 760の 過大解釈案とその中で推薦文の例題として挙げられている事についてなのですが >ただし、その人物が非中華王朝に属してる、もしくは異民族出身者の場合、 >その人物が中国の名将であると、推薦者が立証する。 >少なくとも本人は、中国に対する憧憬と、中国を支配下に置く意思があったと推測されるから――など。これですと中国を支配下に置く意思があったの部分はいいのですが 中国に対する憧憬のないであろうモンゴル武将や清初期の女真族の武将が 外されてしまう様な気がしますけどいかがですかね? それならその人物が非中華王朝に属してる、もしくは異民族出身者の場合は 王朝樹立の際の戦闘及び樹立以降に功績のある武将は認める しかし明らかに中華の武将として認められるのを本人が明確に表している人物は不可 (ヌル八チとかどうなんだろうか…) 建国後遼は契丹に国号を変更してる時期も認める。 こんな感じでいかがでしょう? おかしな部分があれば手直しして頂ければうれしいです。 770 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/07(土) 15 31 08 ID isOCtAs70 乾隆帝以後は完璧にチャイニズムに毒されてるよ。 順治、康煕、雍正の三代の遺産を食い潰す毒虫ぶりに秦始皇、漢武帝、隋煬帝、唐玄宗の風を見る。 トップの方向性が入選で云々されるなら、 乾隆帝以後の清は確実に歴代中国王朝のエピゴーネンと言えるだろう。 771 ○ sage 2007/04/07(土) 16 03 34 ID I3JbP16L0 770 あのさー乾隆帝以後は完璧にチャイニズムに毒されてるのはわかってるよ。 中華思想に触れて感化されない奴なんて略いないだろう また傍にいる漢人が染め上げようとするし。 それに定義を決めるのって当然、一筋縄じゃいかないのわかってるよね? だからわざわざ手直ししてくれませんか?と付け加えているんだし、 文句言うだけなら誰でもできるじゃないのか!! じゃあどうすればいいか貴方の意見をぜひ聞きたいね。 772 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/07(土) 16 12 05 ID PaG7IIxw0 ちなみに自分も『楊家将』は読んでます。 記述の少ない楊業を、よくもあそこまで書けたものですよ。 耶律休哥も楊業に会っては、分厚い壁にぶち当たった感じで書いているのは特によかった。 って、小説の話はこのへんで。 遼(契丹)を入れるとして、じゃあ誰が確定になりますかね。 太宗・耶律徳光は、自ら親征して一気に澶州にまで南下しており そこではじめてまともな後晋軍と対峙した。 一応、青州の楊光遠との挟撃という態勢であったが、名将たる高行周(高懐徳の父)が粘り 耶律徳光の南下を容易には許さなかった。 (高行周が出撃すると、耶律徳光は軍を退かせ精騎で中央を狙うと、晋帝石重貴がそれを迎え撃つ… など) 驚いた耶律徳光は、 「楊光遠は晋の兵は半ばが餓死したといっていたが、このように勢い盛んではどうしようもない」 と言って、一旦本国に引き上げた。 悲惨なのは楊光遠で、契丹との挟撃をもくろんでいたのに、それが崩れ取り残される形になった。 契丹は撃退できたものの、主戦論を唱えていた景延広は為すところが無く、かえって醜態だったので 地方に転出され、替わって桑維翰を呼び戻し、中書令兼枢密使として国難に対処させた。 枢密使・桑維翰のもと、河東の劉知遠、恒州(常山)の杜重威、宋州節度使兼禁軍大将となった高行周、 滑州の皇甫遇、徐州の趙在礼、孟州の符彦卿、河中の安審琦など、15節度使を 対契丹用に編成し、その南下に備えた。 桑維翰の軍略、決裁はいささかも遅滞することなく端から流れるようだったので、諸将は心服したという。 桑維翰の軍略のもと、兗州の李守貞が叛将たる楊光遠を討ち、これを敗死させることに成功した。 その年末に、ふたたび耶律徳光は南下し、恒州に本拠を置き、邯鄲まで陣を進めた。 桑維翰はすぐさま、皇甫遇や安審琦らを向かわせたので、戦線は一時膠着した。 皇甫遇が契丹軍の包囲を受け、少数で粘っているのを、張従恩等は「もう手遅れ」としたが 安審琦は「皇甫太師にもしものことがあれば、何のかんばせあって天子にまみえようか」 といって、麾下の兵だけで突撃したので、耶律徳光は晋軍が総攻撃に移ったと勘違いして 即座に恒州まで逃げ出したという。 膠着した戦線を打開するのに、皇帝石重貴は親征を決意し、開封を出発した。 勢いを盛り返した晋軍は、定州より進み、恒州を降し、ついには耶律徳光をちからづくで追い返した。 耶律徳光は幽州まで逃げ帰ると、敗戦に猛り狂い、各将たちを鞭で打ったという。 しかし桑維翰はあくまで講和論者であり、この後すぐに講和を具申するも、耶律徳光の返書に 怒りのこもった文章が見受けられたので、一時見合わせることにした。 戦勝で気が緩んだか、石重貴は桑維翰の諫言や進言を受け付けなくなった。 当時朝廷には、馮玉という奸臣がおり、皇帝の外戚だったが、桑維翰の影響下にあって発言力は低かった。 皇帝が桑維翰を疎んじていることを敏感に察し、李守貞を巻き込んで誣告した。 桑維翰は執政職を追われ、朝廷に出ることはなくなった。 馮玉らは実権を手にすると、燕雲への攻勢を実行したが、それは耶律徳光の自在の駆け引きに翻弄され 攻撃軍を担った杜重威や張彦澤といった有力者が、契丹に寝返るにおよび 契丹の大攻勢の末、開封は陥落した。 寝返った張彦澤は、耶律徳光が桑維翰を憎んでいると勘違いし、許可無く殺してしまったが 耶律徳光は「なぜ殺した」と、その遺族を手厚く遇したという。 耶律徳光の話をしていたはずなのに、また途中から違うのが出てきたな… まぁ、耶律徳光と契丹に拮抗する軍略の持ち主、桑維翰と、それさえいなければ破竹の進撃を誇った耶律徳光 ということで、判断してみてください。 ちなみに、このときの後晋領は石敬瑭の末年から石重貴が契丹に北へ連れ去られる直前くらいまで すさまじくひどい天災に見舞われており、国力は最悪だったということを付け足しておきます。 773 ○ sage 2007/04/07(土) 17 24 35 ID I3JbP16L0 772 耶律徳光(太宗)は石敬塘の後晋建国を助け 後に後晋が遼に背くと、南征するものの、 高行周・桑維翰らの活躍で一時は敗走しましたが最終的には 後晋を滅ぼし、華北一帯を占領してますよね。 たとえ後晋が最悪の状況にあったのを加味しても 耶律徳光の功績は凄いと言わざるえないのかな? (確かに途中で誰のこと推してるのか分からなくなってましたねw) 774 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/07(土) 20 01 14 ID PaG7IIxw0 【確定組】 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青 【候補】 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉鄩、康延孝、 任圜、李神福、臺濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊 耶律休哥、狆師道、劉昌祚、李継遷、賈嵓、潘美、楊延昭、 史建?、王景、康壊貞、 【候補落ち】 朱温(朱晃)、郭威、曹彬 【確定有力候補】 李存審、顧全武、劉仁贍、耶律徳光、李継遷、劉昌祚、楊延昭、耶律休哥 かなりカオスになってますので、この辺でそろそろ決めたいと思います。 (いい加減、南宋以降の話も聞きたいし) 顧全武はいわゆる地方政権の名将であって、地域が極限定されているので10選に入れるにはためらう部分が大きい。 劉仁贍は10選確定の柴栄や趙匡胤相手に不敗というのが大きいが、いかんせんそれだけ。 耶律徳光は中原制覇を短期間で為した。維持できなかったのは政治力の問題とするならば確定間違いない ただし、遼のことなので、予備枠とする。 耶律休哥も確定予備枠みたいな感じとする。 楊延昭は武勲において、並ぶものなしと思える。 劉昌祚…狆師道のほうがよくはないですか? 自分が考える10選 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青、李存審、狆師道、楊延昭、李継遷 (契丹枠として)耶律徳光、耶律休哥 こんなところか。 775 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/07(土) 21 39 14 ID isOCtAs70 >○ 771が俺を貶める為か、自らを誇る為のものか判らぬ。 だが、そんなことはどうでもいい。 君子はそのどちらもしないのだから。 二十五史だけでなく四書五経も読んでから来い。 俺を罵倒したことが許せないのではなく、その人柄を自ら損なったことがただ悲しい。 議論を壟断したいのならブログでも開けばよい。 776 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/07(土) 21 42 29 ID neOBtDwl0 ○はスルーするに限る 777 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/07(土) 22 00 07 ID G49b2+p90 774 ◆RQdk7scN8sさんへ。劉昌祚より確かに狆師道のほうが適任と思います。 ただ北宋中期の武将が少なかったので一応名を挙げました。 耶律徳光と耶律休哥は燕雲以南の地を掠取していない守勢の人、休哥より 短期ながら中原を席巻した創業の人、徳光が10選入りの栄誉を受けるべきかと。 (耶律休哥は民衆から契丹最高の名将、と言われとるわけですがここは心を鬼にして) そんでもって以前選定者の一人に選ばれたわけですが、 505と 761の折衷というだけでは具体的な形が見えないのでここに概論を書きます。 ・基本は正史ベース。二次資料から引いてくる場合は典拠を明らかにする。 (資治通鑑より、とか出典・十国春秋、とか) ・異民族武将に関しては守勢(中国からの侵略に対する防衛戦)で高名な武将であっても除外、 中国の領土を犯し、十分な土地を掠取する(あるいは侵略のための橋頭堡を作る)か、 当時の中華国家の人々に恐怖意識を植え付けるほどの活躍をしたものを資格保持者とする。 ただし本人が中国からの強い独立意識を持っている場合はこれに該当しても選外とする。 ・征服王朝の先行政権における武将の場合、中国本土に攻め入って領土を攻め取るか橋頭堡を作り、 そのうえでのちに来る征服王朝の樹立に貢献した武将を資格ありとする。 ・・・こんなんで。 俺の頭ではこれ以上波風立たせずに全員を納得させる案は立てられんです。 ◆RQdk7scN8sさんや○さんがもっと洗練された定義案を出してくれるのを希望。 778 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/08(日) 00 45 57 ID z/gk5cja0 2時間ばかり休憩を挟んだから、そろそろ南宋に入っとるかと思ったけど。 進んどらんね。南宋に移行するんは明日からになるんかいな? さておき、誰も間に入らんので、柄にもなく俺が仲裁に入らせていただきます。 775さん、 776さん。 人の一度の過失をそう責めんめーや。俺も前スレで場を荒らしてしまった 経験ありやけど、再度やり直させてもらった事やし。寛容を求めます。 ○さんも落ち着いてカッカした自分を見つめ直そう? 一度自論を否定されたくらいで怒らんで、それこそ丸い心を保ちましょうや。 779 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/08(日) 00 57 04 ID 4I+oH72ZO 先の話だけど郭侃、伯顔、拡廓帖木児の扱いでまた揉めるんだろうな 780 770 sage 2007/04/08(日) 01 52 22 ID /v/LzJsE0 <紀元前> 11世紀:牧野の戦(周武王)、三監の乱(周公旦) 10世紀: 09世紀: 08世紀:犬戎の乱 07世紀:葵丘の盟(桓公 管仲)、泓水の戦(楚成王)、城濮の戦(晋文公 先軫) 06世紀:邲の戦(楚荘王)、鞍の戦(郤克)、鄢陵の戦(晋厲公 苗賁皇)、呉楚戦争(闔閭 伍子胥) 05世紀:呉越戦争(勾践 范蠡)、晋陽の戦(趙襄子) 04世紀:桂陵の戦(田忌 孫臏)、馬陵の戦(田忌 孫臏) 03世紀:燕斉戦争(楽毅、田単)、長平の戦(白起)、抗秦名将(信陵君、李牧、項燕)、陳勝呉広の乱(章邯)、楚漢戦争(項羽、韓信) 02世紀:白登山の戦(冒頓単于)、呉楚七国の乱(周亜夫)、石に立つ矢桃李言わざれども下自ずから蹊を成す(李広)、対匈奴戦争(衛青、霍去病)、百聞は一見に如かず(趙充国)、 01世紀: <紀元後> 01世紀:赤眉の乱(樊崇)、緑林の乱(光武帝)、大樹将軍(馮異)、矍鑠たる翁(馬援)、虎穴に入らずんば虎子を得ず(班超) 02世紀:鮮卑大人(檀石槐)、黄巾の乱(皇甫嵩) 03世紀:官渡の戦(曹操)、鳳や鳳や(鄧艾)、破竹の勢い(杜預) 04世紀:(王猛、慕容垂)、淝水の戦(謝玄) 05世紀:最初の可汗(社崙) 06世紀:六鎮の乱(爾朱栄) 07世紀:薩水の戦(乙支文徳)、玄武門の変(唐太宗)、(李靖)、高句麗遠征(李勣) 08世紀:タラス河畔の戦(高仙芝)、安史の乱(郭子儀) 09世紀:黄巣の乱(李克用)、五代名将(李存勗) 10世紀:南唐遠征(柴栄)、陳橋の変(趙匡胤)、千載不決の議(趙匡義) 11世紀:澶淵の盟(遼聖宗) 12世紀:方臘の乱(童貫)、靖康の変(呉乞買)、抗金名将(岳飛 、韓世忠) 13世紀:世界征服(チンギスハーン、ツルイ、スブタイ、ムカリ、モンケ、ウリャンハタイ、バヤン、郭侃)、抗元名将(完顔陳和尚、孟珙、呂文煥)、崖山の戦(張世傑) 14世紀:紅巾の乱、鄱陽湖の戦(洪武帝)、北伐(徐達、ココテムル) 15世紀:靖難の変(永楽帝)、大航海(鄭和)、土木の変(エセン、于謙) 16世紀:庚戌の変(アルタン)、万暦の三征 17世紀:サルフの戦(ヌルハチ)、寧遠の戦(袁崇煥)、李自成の乱(呉三桂)、三藩の乱(康熙帝) 18世紀:十全武功(乾隆帝) 19世紀:阿片戦争(林則徐、関天倍)、太平天国の乱(曽国藩、李鴻章) 11世紀~19世紀に区切って百の天下分け目の決戦(政変含む)を揚げ、 そこから百選を決めようと思ったが戦例を集めるのに飽きた。 「中国(史の)名将」なら二十五史に載ってればおkということで宜しかろう。 「中国(人の)名将」なら先秦以前のは明らかな夷狄以外はゆるく、 漢族成立後は拓跋、慕容、耶律、完顔、愛新覚羅等の連中を一人残らず排除すれば良い。 778 俺は○氏の論の何を 770で否定し、攻撃し、批判したのでしょうか? 「(彼にとって)判りきったことを俺が言ったのが、 彼を無知であるかのように扱うことと同じであり、 それが彼の矜持を傷付けた」と言われても謝る気はありません。理不尽だ。 また俺に対する彼の謝罪をも求めておりません。そもそも争いになるのがおかしい。 彼自身が自分自身に謝ればこの件はそれで終りとして頂きたい。 781 ◆RQdk7scN8s 2007/04/08(日) 02 25 24 ID BRC5l4KI0 なんか行き違いがあったようだけど、原因は 771のレスですかね。 ○氏は落ち着いてくださいね。 カッカしている理由はいまひとつ忖度できませんが、語気を強めることもないと思いますよ。 前に自分をなだめてくれたのに、らしくないですね。 また異民族枠の議論だから、 770氏もまとめる方向の対案を示せばベターでしたね。 とりあえず、自分が契丹特殊枠入れときましたので、異論ある人はそれを外せば良いし、 また候補からこれは、と思う将を格上げすればよろしかろう。 草原王朝については、各々モチベーションも違うだろうから、よりよい妥協点を探すしかないのでしょう。 できれば、これからも論拠と対案は併せて提示いただけると助かると思います。 特に反対が無ければ、この線で南宋へと突入したいと思います。 五代に長々とつき合わせて申し訳なかったことです。 782 ○ sage 2007/04/08(日) 04 32 23 ID m5io4n1t0 770さん、◆oOLAqFKRBさん、◆RQdk7scN8sさんお手間取らせて申し訳ない。 別に自論を否定されたとは思っていませんよ。 自分は皆でいろいろと前向きに思案すればいいかなと思っていますし。(念のため) 770さんが>彼自身が自分自身に謝ればこの件はそれで終りとして頂きたい。 と仰ってる様に自分はかなり冷静さを欠いていたのはあるかも… 770さん不愉快な思いをさせまして申し訳なかったです。 出来れば最初のレスに 770さんが 定義に対する自論を提示して頂ければ有り難かった部分はあります。 (しつこいとか怒らないでくださいね) 781 五代に長々と~ いやー自分は五代に大した知識の無い方なので◆RQdk7scN8sさんのレスはいい勉強になりました。 雑談もかなり入れちゃいましたけどねw 783 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/08(日) 05 07 40 ID F0HzLaWF0 最近見始めたんだけど、晋の厲公とかも入ってるんだなあ 784 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/08(日) 18 55 59 ID FOH6MPFEO 777 一応、確認しておきたいのですが、 505案であれば、 金末期の金将の戦いは入りますが、元の外征は外れます。 しかし、この案ならば、異民族の金将による自国内の戦いは入らない。 されども元の漢人武将であれば、一般的な感覚からすると中国領土外での 活躍であっても評価する――と解釈して宜しいんですか? このスレでは基本的に、防衛戦よりも領土拡大を高く評価するので、 守勢云々は外しても変わらないと思います。 元という王朝がなければ征服王朝も含め、中国統一後の領土拡大に貢献した人物は、 戦場が中国本土外であっても、評価に入れるにすれば、 民族に拘る必要がない基準になるのですが…。 785 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/08(日) 19 59 41 ID iqf5zjHk0 784さん 伝わりにくい書き方ですんません。 俺の意図としては中国領土外での活躍は除外、です。 つまり中国本土に攻め入ったトゥルイは入り、バトゥなどは西域で大暴れしてるけどもアウト、という感覚で。 あと郭侃などの両方に戦功がまたがっている人物も、基本的に中国本土での戦果のみ、ということで。 俺は民族の枷は可能なら無視したい派ですが、戦場が中国以外におかれる場合は除外と言う姿勢で書いてます。 ただ、俺なぞの案にとらわれる必要はないですよ。 784さんがこうだと思ったらその武将を推挙して、それについて皆で論ずればいいと思います。 786 ◆RQdk7scN8s 2007/04/08(日) 21 51 00 ID BRC5l4KI0 あらためて読み返していて気がついたので 自分の考える五代~北宋枠の10選を訂正します。 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊師厚、狄青、李存審、狆師道、楊延昭、李継遷 (契丹枠として)耶律徳光 楊業は息子の方がどちらかというとすごい感じ… というか、記録が少なすぎてわかりづらい。 不確定なところがあるので、申し訳ないが息子に譲ってもらうとして かわりに、楊師厚を入れました。 (忘れていたなんて、とても口に出して言えない…ガクブル) 787 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/08(日) 22 30 43 ID FOH6MPFEO 785 スミマセン、頭の中では次の時代に移っており、そちらに意識が行ってました。 この時代の10選は私個人としては、 786で異存がないです。 漢や唐、宋に明であれば、中国本土外の地域であってもカウントし、 中国本土征服後の清朝であっても、中国本土外の戦い、 (他国との戦い)が外されるのは、可哀想だと思うんです。 元朝の問題がうまく処理されたら、 777案をもって このスレの中国の武将の定義になると思ったまでです。 私としては、少しの修正、補足で、すべての時代で通用する、 定義となりえると感じたので、あえて意見させてもらいました。 788 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/09(月) 00 22 27 ID 7CdWDV6X0 787さん 777を全時代に適応できる汎用定義にすることについてアップデート。 ・中国統一政権下における外征で活躍した武将もカウントする。 唐の李靖の突厥討伐、清の策稜らのジュンガル討伐を認める、ということで。 まだまだ完全な定義足りえないのは承知ですが、そこは諸兄に任せます。 本音を言うと他の人が完璧な定義を持ち出してくれると助かるんやけど、怠慢はよくないわな。 786◆RQdk7scN8sさん、 五代・北宋の10選は異議なしです。 次はいよいよ南宋時代、いろいろと各自の自論がぶつかりそうですな。特にモンゴルがらみで。 789 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/09(月) 00 51 34 ID rTbI/Ux70 <審査条件> 〇、其の人物が名将である。 一、其の人物が中国人である。 二、其の事跡が中国史である。 三、其の場所が中国領である。 <優先順位> 一:審査条件を全てクリア。 二:審査条件を二つクリア。 三:審査条件を一つクリア。 例えば、甲と乙が候補に残り、どちらか一つを決めるとする。 其の場合、審査条件の〇の比較で甲>乙だったとしても、 優先順位のクリアで甲<乙の場合は乙を入選とする。 これで如何だろうか? 790 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/09(月) 19 47 09 ID TnVZNl3/0 楊延昭は名将というには実績が少ないような気がする。 潘美を入れたほうがいいように思う。 791 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/10(火) 21 40 26 ID UAtebvBkO 流れ止まっちゃってるな 792 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 08 25 09 ID 3jvERdIMO どの武将も一長一短で悪く言えば小粒だから 時代もマイナーで語れる人が少ないんだよ 793 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 09 29 51 ID qimM40B0O 792 でも◆oOLAqFKRB.氏の超得意分野だろ南宋とモンゴル武将 794 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 18 50 21 ID FXlcrX3a0 これで 岳飛、韓世忠、孟珙、完顔陳和尚、張弘範、郭侃 成吉思汗、木合黎、速不台、伯顔、拡廓帖木児 この中から一人落として終わりだろ。 795 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/11(水) 20 35 25 ID +N39LNeU0 韓世忠はこの中ではちょっと見劣りするんじゃなかろうか 796 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/11(水) 21 04 37 ID 6rx9YgF50 793 まあなんですか。超、というか最も得意とする時代やね。 で、俺的10選を挙げさせていただくと 宗沢 岳飛 完顔宗望(オリブ) 完顔宗弼(ウジュ) 拖雷(トゥルイ) 速不台(スブタイ)もしくは木華黎(ムカリ) 孟珙 伯顔(バヤン) 阿朮(アジュ)もしくは兀良合台(ウリャンハタイ) こんな感じで。ココテムルは徐達のライバルやし、明朝頭に送るべきと するとだいたいの10人が決まると思うわけやが、どーでしょ。あと韓世忠 入れるんやったらむしろ劉錡を入れたい。正史でウジュの拐子馬を破った のは多分この人一人か・・・あと岳飛も野戦で勝っとるかな。 797 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 21 11 15 ID qimM40B0O 俺は南宋とモンゴル武将が超得意分野な ◆oOLAqFKRB.氏の推薦文とか読みたいし、南宋・金・元のいろいろな話とかも聞いてみたい 折角、定義について話し合ったんだし、みんなで議論しようよ 798 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/11(水) 21 18 26 ID 6rx9YgF50 拖雷(トゥルイ) チンギスの第四子、オゴタイの同母弟。チンギスの後継者と目されたが その座を兄・オゴタイに譲った。燕京に盗賊が出るという話を聴きみずから 取り締まりに出馬、賊十六人を斬り捨てる。 巳丑年(って何時?)の夏八月、オゴタイが京城に帰ると即位式を行う。 翌年秋、オゴタイの金朝征伐にトゥルイも兵を率いて従軍、天城堡を破り 蒲城県を抜き、金の完顔合達が西に赴いている隙を突いて黄河を渡り、 鳳翔を撃つ。引き返してきた合達に攻め立てられ不利となるがここで トゥルイが兄を助けて奮戦、合達を斥ける。翌年春、洛陽を落とし 河中の諸城を抜いた。 オゴタイは官山に還ると文武百官、諸侯王を集め、彼らに向かって言った。 「人は言う、国家の損害は実に寇敵によってもたらされると。今、金はいまだ 倒れず。我らの敵なり。諸君、寧ろ謀はないか?」対するにトゥルイが 投降した金人の献策を紹介して強く推した。オゴタイは大いに喜び、 諸王大臣たちを呼び寄せて「(金伐は)かつて父が志し有りながら果たせなかった。 今トゥルイが能くこれを言う、これぞ真に賽因(大いに好ましいこと)なり!!」 オゴタイは即断即決、大軍を発した。 オゴタイは碗子城から南下し、黄河を渡り、洛陽を向けて進発。 斡陳那顔(アッチンナヤン?)率いる左軍を淮南経由で進発させ、 トゥルイの右軍は鳳翔から渭水を超えて宝雞経由で出陣させる。トゥルイは 小潼関を抜き、宋との国境線を通って漢水の下に出た。計画によれば翌年二月、 金の王帥が汴京に遷るはずだった。トゥルイは南宋に部下を派遣して 金朝を挟撃しようと求めたのだが、なにを血迷ったか宋の上層部は使者を 殺してしまう。激怒したトゥルイは「やつらは以前苟夢玉が結んだ同盟関係を どう思っているのか!? 自ら喰らい(多分領土のこと。確証ないが)自ら叛くとは!!」 キレたトゥルイは兵を分かって南宋の諸城堡を攻め下し、長躯漢中まで攻め入って四川を襲い、 閬州を陥とし、南部を打ち据えてようやく軍を還した。そして金の王帥を 房州で補足、武当山で追いついて先鋒部隊三千で金兵十万の中に突撃、 均州まで奔らせる。どれほど激しい戦いぶりだったかは漢水が騎兵の死体で 埋め尽くされたという記述から類推できるかと。トゥルイは部下に千人を つけてオゴタイのもとに派遣、報告し、オゴタイは金の王帥を取り逃したことを 責めたが、部下がいないところでトゥルイを慰労、迅速に京師・官山に引き上げた。 799 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/11(水) 21 20 00 ID 6rx9YgF50 トゥルイ続き 漢水にとどまったトゥルイは金の大将・合達と鄧州で交戦、金軍の伏兵二十万を 見抜き隘路に拠して敵を待つ。このときトゥルイの兵は四万だったが、 間諜の報告によると金軍も二十万全員が兵士というわけではなく、かなりの 数の輜重部隊が存在することを知って強気の攻めに出る。十二月、禹山で 金軍と交戦、わざと逃げて見せて北に引き寄せる策を使うがこれは失敗。 それならと今度は火計を仕掛け、これが大当たり。合達らは鄧州に奔走し、 トゥルイは三日間の猛攻でこれを撃滅。北に追い立てて部下に三千騎を 与えて追撃させるも、翌朝の霧で視界を遮られた蒙古軍は金軍の奇襲を 受け、珍しい敗戦を経験する。トゥルイは敗戦の部下(札刺)を罷免して 野里知給歹(読めん)に替えた。まもなく金軍を破る。 壬辰(やからそれじゃ分からんのよ)春、トゥルイは陝西・四川・河南の 難路を強行突破して着実に版図を広げる。北に還りつつあるトゥルイに一矢を 報いようと金の合達は歩・騎兵合わせて十五万の大軍で追撃に出た(二十万で三千に負けたくせに)。 このときトゥルイの軍は1万3千。総軍馬から下りて塹壕を掘り、金軍の攻勢を しのぎにしのいで持久戦に持ち込んだ。日暮れ、軍中に「敵の休息したところを撃つ。 夜、鼓を騒がしく鳴らすのがこれだ」と命令。時にオゴタイが黄河を渡り、親王クオンブカら 万騎をつれてやってきた。空に大寒波到来、大雪も降り、金人は凍えて動けず、 顔色も青ざめて到底戦うどころの話ではなくなる。そこを好機と見たトゥルイ(およびオゴタイの援軍)が 襲撃をかけ、曰く「機を失うべからず。やつらは城内に逃げ込んだ。未だ囲むは易からず。 大敵を前に、況や敢えて父君のごとくあれ!!」奮撃して三峰山を抜き、大いに金軍を破る。 さらに十里に渡って追撃し、流血が道を染めざるは無し。金の精鋭はここにおいて尽く失われた。 予衆を狩って雎州まで走り、伏兵が立っても逆に是を潰滅させる。 鈞州に逃げた合達に従うは数百騎。蒲阿は汴に逃走し望京橋に至ったが、蒙古に擒らわれる。まもなくオゴタイが到着、 戦地にとどまって視察し、トゥルイに「はたして汝でなかったなら、この大勝利はなかったであろう」と賞賛した。 諸侯王がオゴタイに進言して曰く「誠に聖愉(?)です。しかるにトゥルイの功、社稷に著しいかと」 それはオゴタイとトゥルイの後継者争い(争ってないけど)でトゥルイを支持したものの言だった。 トゥルイは従容として曰く、「臣に何の功がありましょうや。この天の威、皇帝の福なり」その言には 聞いたものすべてを佩腹させるものがあった。トゥルイはオゴタイに従い、鈞州を抜き、宿敵合達を 殺し移刺蒲阿、完顔陳和尚をも屠る。更に許州を攻め、これも抜く。 オゴタイの先鋒として河南諸郡平定に奔走し、四月、半渡から真定に入り、 中都を過ぎて北口に出る。夏の官山に還った。 五月、オゴタイが身体に変調をきたし、六月、いよいよ病篤くなる。 トゥルイは天地の神々に祈りを捧げ、代われるものならオゴタイと自分の身を代えよと叫んだ。 怪しげなシャーマンを呼びつけて病気治癒の祭祀を執り行わせたりとかなり 必死で兄を心配する。数日が経過してオゴタイがやや回復すると、トゥルイは一緒に北に還り、 阿刺合的思の地にいたる。そこでトゥルイのほうが病魔にやられ、逝去。 本当にオゴタイの代わりに死んだ。享年四十余歳。英武皇帝と諡号を贈られた。廟号は睿宗。 チンギス時代の武功、オゴタイ時代の河北計略における活躍などから人望頗る厚く、 それゆえ以後蒙古の嫡流はトゥルイ家から選出されることとなった。 800 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 22 45 06 ID oZd1YRNi0 速不台の華々しい戦績は西方遠征ってイメージがあったんで、 777の定義からすると資格なしかと思ってた・・・対金戦でもけっこう功績があるのかな? ◆oOLAqFKRB.さんの推薦文が楽しみですね。 801 ○ sage 2007/04/11(水) 22 46 03 ID t4yNDFjl0 ◆oOLAqFKRBさん 乙です すいません劉?の?の部分は本来、何となっているのですか? 自分のボロPCでは劉 になっちゃってるもので・・・orz それと韓世忠はなんか嫁さんとセット扱いされてる様な気がしますが… 自分はですね張弘範を推します。あと阿里海牙(アリハイヤ)の評価はどんな感じですか? >最も得意とする時代やね。 いやいや自分の中のイメージでは十分、超が付きますよ。 前々スレから得意な時代と言ってましたし。 あとですね 788で >中国統一政権下における外征で活躍した武将もカウントする。 >唐の李靖の突厥討伐、清の策稜らのジュンガル討伐を認める、ということで。と仰ってますが 郭侃はフラグの西方遠征に従い、ペルシア、バクダード、アッバース朝のカリフを降伏させ、 シリアへ侵入して十字軍と戦った功績も審議の範疇に入れるのでしょうか? 中国統一政権下における外征は東アジア(ベトナムを含む)に限定するにしてはどうかなと個人的には思っています。 諸兄、◆oOLAqFKRBさんいかがでしょうか? 802 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 22 55 10 ID oZd1YRNi0 801 脇からですいません。劉キ[金奇]になってます。 803 ○ sage 2007/04/11(水) 23 04 49 ID t4yNDFjl0 802 なるほど劉キ[金奇]ですか。 802さんご親切にありがとうごさいました。 804 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 23 42 42 ID soE3kzWL0 貼っておきます 南宋・金~元 【確定組】 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、 拡廓帖木児(ココテムル)、 【候補】 李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 、 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範、范仲淹、チュウ師道 張俊、呉?、呉リン、劉錡、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義 徒単合喜、宗翰(ネメガ)、耶律斜軫、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ) 劉整、張弘範、脱脱(トクト)、呂文煥 796 自分もココムテルは、この次の時代のリストに並べる人物だと思う 時代で区分してるしね 805 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 23 50 29 ID Bvy9586Q0 李庭芝、候補にも入れなかったっけ?別にいいけど 806 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 23 51 02 ID 3jvERdIMO 郭侃は元の武将でしょ。だったらOKでない? 10選入り確定ですな 807 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/11(水) 23 55 30 ID R5Kxdx8b0 速不台 通称スブタイ・バアトル。兄貴・フルコンとともにやたら勇猛、頑強で騎射 を善くした。少年時代、強盗を槍で刺し殺しその一族郎党を遁走させたという 逸話を持つ。 兄貴が将となったので人質の意味でチンギスの傍仕えとなる。壬申(?)年、 金伐戦に参加。恒州攻めで真っ先に城壁を登り、城を落とす。まもなく投降者 滅吉里を部下に加え、蟾河の戦いで一戦にして二将を擒らえる。さらに欽察部 と玉峪で戦いこれを破る。 イスラム討伐から還るとまた欽察討伐を上奏、許される。太和嶺のどてっ原 に工兵を動員して穴を開けさせ、欽察部の予想を超える場所から突撃をかける。 縦横に奮戦するスブタイ軍の前に欽察の軍は潰滅、遁走した。現地の余衆を ことごとく降し、これらの土地を占領下に置き、阿里吉河で斡羅思部の大、小 密赤思老と戦い、一撃のもとに彼らを投降させる。阿速部を獲って帰還。 征西前に東伐戦に参加、撒里畏吾特勤、赤閔ら諸部を倒し、徳順、鎮戎、 蘭州、会州、洮州、河州を抜いて母馬五千を獲て朝廷に献ずる。チンギス 逝去のため第二次征西は一事見合せとなった。 オゴタイが即位すると公主を娶わせられ、皇室の一員に連なる。潼関攻撃 に従軍、利なく、オゴタイが怒った時、勝敗は兵家の常、功を立てて埋め合 わせすればよろしい、とトゥルイに救われた。トゥルイの節度下に入り河南 経営を任される。牛頭関で金将・完顔合達の軍数十万とはちあわせるも、軍 を三峰山に集合させて持久戦の構えを見せる。おりからの大雪と大寒波に乗 じて猛攻をかけ、敵のほとんどを殺しつくすという大戦果をあげる。つーか ここはトゥルイ伝に同じ、でいいんやが。これにより金の対北方戦はまったく 振るわなくなる。翌年夏、トゥルイが官山に帰還するとスブタイが統帥権を 譲渡され、黄河北方に逃れる金主を黄龍岡に追撃、撃破して首級万余を挙げる。 最終的に金軍を蔡州に追い詰め、汴を降し、后妃および珍宝の数々を手に入れ オゴタイに献上、1234年の蔡州の戦いを見届けてのち、バトゥの副将として 征西に出る。これ以降はヨーロッパ戦線での戦いやから必要ないかと。 808 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/12(木) 00 19 59 ID KgSsk+G50 801 すんません。確かにヨーロッパ遠征組のことを忘れとりました。 征西はモンゴルの仕事やから無視していいか、とか思っとったら郭侃おったし。 788 の定義やと確かにヨーロッパでの戦功も込みになりますわな。 そーすっと郭侃が確定確実に昇格、郭侃を落としたいわけとは違うけど、 やっぱりヨーロッパは違和感あるしなぁ。 ○さんの言うとおり東アジア圏に収めとくほうが無難か。 そこらへん、諸兄の意見はどんな感じなんやろ。 809 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 00 51 14 ID gfCpSYNA0 1曹操=後漢末 2李克用=唐末 3拡廓帖木児=元末or北元≠明初 4呉三桂=明末or清初 810 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 00 59 00 ID HyfEY1CkO 東アジア圏に収めるとか枠を決めてしまう方が違和感ある。 強すぎてヨーロッパまで届いちゃったってだけで基本的には歴代王朝が行ってきた外征と同じように考えていいのでは。 811 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 01 09 11 ID PdOk3TRp0 というか、南宋滅ぼす前、フビライによる元朝の成立前のモンゴル帝国は 世界帝国ではあっても中国統一政権という枠には当てはまらないんでは? 元朝以前のモンゴルは 777でいうところの「征服王朝の先行政権」にあたると思われるので、 ・征服王朝の先行政権における武将の場合、中国本土に攻め入って領土を攻め取るか橋頭堡を作り、 そのうえでのちに来る征服王朝の樹立に貢献した武将を資格ありとする。 に適合する、金もしくは南宋攻略での功績に限って評価すべきでは? あと拡廓帖木児について、徐達の遠征を撃退したのって既に北方に逃亡した後ですし、 777の ・異民族武将に関しては守勢(中国からの侵略に対する防衛戦)で高名な武将であっても除外 にあたって候補外になるんではないのでしょうか?詳しい業績まではわかってないんで見当外れかもしれませんが・・・ 812 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 01 36 49 ID gfCpSYNA0 周 BC1046~BC256 ↓ ● 秦 BC256~BC206 ↓ ● 楚 BC206~BC202 ↓ ● 漢 BC202~8 ↓ ○ 新 8~23 ↓ ● 漢 25~220 ↓ ○ 魏 220~265 ↓ ○ 晋 265~420 ↓ ○ 宋 420~479 ↓ ○ 斉 479~502 ↓ ○ 梁 502~557 ↓ ○ 陳 558~589 ↓ ● 隋 589~618 ○禅譲による交代 ●放伐による交代 813 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 01 38 08 ID gfCpSYNA0 隋 589~618 ↓ ○ 唐 618~907 ↓ ○ 梁 907~923 ↓ ○ 唐 923~936 ↓ ○ 晋 936~946 ↓ ○ 漢 947~950 ↓ ○ 周 951~960 ↓ ○ 宋 960~1279 ↓ ● 元 1279~1368 ↓ ● 明 1368~1644 ↓ ● 清 1644~1912 ○禅譲による交代 ●放伐による交代 814 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 08 40 10 ID DNpsFED/O 811 それでもモンゴルは東西両方で活躍してる奴多いしなぁ 815 ○ sage 2007/04/12(木) 09 27 23 ID 9MPvgVfh0 【確定組】 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、郭侃 【候補】 李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範 張俊、呉?、呉リン、劉キ[金奇] 、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義 徒単合喜、宗翰(ネメガ)、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ) 劉整、脱脱(トクト)、呂文煥、 孟sル、完顔陳和尚、 bヨ雷(トゥルイ) 速不台(スブタイ)、木華黎(ムカリ) もし候補から抜けてる人物がいる場合は補修お願いします 814 取り敢えずは推薦文挙げて貰ってからアレコレ議論してみては? 816 ○ sage 2007/04/12(木) 09 30 56 ID 9MPvgVfh0 連投ですいません 五代~北宋・遼 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊師厚、狄青、李存審、狆師道、楊延昭、李継遷 (契丹枠として)耶律徳光 楊延昭より潘美を入れたほうがいいように思うと言う意見もありますが 取り敢えず以上の十名を確定でということで宜しいですか? 817 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 10 44 17 ID 6PWL2b6B0 バヤンは確定に入っていいと思うんだけどなあ。 818 ○ sage 2007/04/12(木) 14 35 33 ID 9MPvgVfh0 すいません自分が 801で 中国統一政権下における外征は東アジア(ベトナムを含む)に限定するにしてはどうかな? と提案しましたがまだ結論が出ていないのに 815で勝手に 郭侃を確定入りにしちゃってますがよかったのかな? 817さんの仰る様に伯顔(バヤン)は確定入りでいいと思います。 819 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 17 04 33 ID LWmQ/ydr0 郭侃はオゴタイ時代に百戸長として対金戦争に従事しているし 晩年でもフビライの下で南宋戦に従事しているので 中国の名将扱いにしてもいいと思う。 中近東での戦果は別モノとして考えればいいし。 820 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 17 51 13 ID DNpsFED/O 815 あまり詳しい訳じゃないからなんとも言えないけど、チンギスが居ないのは何故? 彼の頃のモンゴルも 777の「征服王朝の先行政権」として良いんだよね チンギスの中華方面の戦績だと他のモンゴル武将に見劣りするから? 819 郭侃は「征服王朝の先行政権」の「漢人武将」だから、 西方の戦績が考慮されて確定にいたのだと思ったんだが、無しにするの? 821 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 20 53 48 ID agTVIqMpO 820 せめて 784-785、 788を読んでもらえませんか? その上での話なら、それはそれで話し合いをしますが… 822 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/12(木) 21 19 22 ID 40NYG0oU0 確定枠の人やけど、孟〔王共〕の紹介文落としていいかいな。 今更いらんなら控えるけども、好きなんでどーせなら開陳したいなーと。 823 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 21 24 02 ID oljSW7kuO ぜひお願いしやす!! あとチンギスハーンは候補入り可能なの? 824 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/12(木) 21 34 08 ID 40NYG0oU0 そんじゃ孟珙の1 曽祖父・孟安、祖父・孟林は岳家軍の将帥として功績を挙げ、父・孟宗政は 制置使・趙方麾下の有力な将帥という武門の家に育つ。若くして優れた才覚 を見せ、團山の戦いで父とはぐれたとき、それを見つけるや単騎金軍の重囲 に突撃、これを破って父を救った。翌日の敵の動きを予測して父に献策、これ を見事的中させて金軍を破るという戦術眼も備える。制置使趙方に謁見し、 一見して只者で無いと直感した趙方より異例の抜擢を受けた。 父が唐・鄧・蔡三州の壮士二万を募って編成した“忠順軍”を受け継ぐ。6年、 金の武仙と5回にわたって交戦、ことごとく捷ち、将校452名、兵士33万余 を俘虜とし、44万の民衆を解放した。功績により顎州江陵府副都統制となる。 端平元年、元軍と連携しての蔡州の役にあたって、元の総帥タチャルのもとに 兵糧2万石を届け、意気投合してタチャルと義兄弟の契りを交わした。忠順軍 を率いて戦役に参加、元の漢人諸侯・張柔が流れ矢に当たって落馬しそうになると 二度に渡ってこれを救った。金軍が老人や稚児を殺して絞った油で放つ“人油砲” を使うと道士を派遣してこれを諭し、人油砲の使用をやめさせた(やめるんかい)。 端平元年正月、蔡州の役で金を滅ぼす。金主・完顔守緒は自ら火をつけて自殺 したので、遺骨をタチャルと分かち、帰国した。功により建康府都統制兼権侍衛馬行事職司。 制置使趙方(この時期は趙葵か?)により襄陽兼鎮北軍の都統制に任命される。 鎮北軍で壮士を募り、兵士一万五千人を獲て隟北、樊城、新野、唐、鄧に配備する。 まもなく枢密院より武器を授かる。 翌年、皇帝に謁見。「卿は名将の子、忠勤に励み国に礼を尽くし、蔡州に金を 滅ぼす。功績昭著なり」との褒め殺しに「これは宗廟社稷の威霊、陛下の聖徳と 三軍の将士の労によるところ。臣はなにほどのこともしておりません。臣、 陛下に願わくは民衆に寛容であり、人材を蓄え、機会を待たれますよう。臣は 所詮武辺の士、戦を望み和議を望まず」と答え、厚い賞与を下賜される。 端平三年、元軍が薪州を攻めると呂文徳とともに現地に急行、囲みを解く。 さらに逆撃して襄陽を攻めるも、江陵の形勢が危急を告げたのでそちらに向かい、 元の寨24個を一夜のうちに覆滅して大勝する。嘉熙元年、顎州諸軍都統制となる。 825 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/12(木) 21 36 35 ID 40NYG0oU0 元の大将テモチエ(?)が漢陽から、大将クオンブカが淮甸から南宋領に侵入、 現地の将士は逃亡し、投降し、あるいは敗北する。孟〔王共〕が現地に到着する と民衆は「わが父きたれり」と喜んだ。孟〔王共〕は楼上に帷幕を構え、防衛戦の 指揮をとり、失われた諸州を取り戻した。将士は毎月の苦戦に苦しみ、病人、 けが人が後を断たず。孟〔王共〕は彼らに医師を遣わし、その厚遇に将士は感涙した。 嘉熙二年春、枢密副都承旨、京西湖北路安撫制置使を授かる。郢州、荊門軍を回復し、 十二月、冢頭、樊城、郎神山を攻撃、ことごとく捷つ。翌年正月信陽軍、樊城、 襄陽を回復し、枢密都承旨、制置使となる。光化軍、息州、蔡州を降す。降ったものの 中から百余人を選抜、忠衛軍を創建する。 襄陽がどれだけ重要な地であるかを説明、兵士十万の常駐を請うも認められず。 とりあえず先鋒軍を置く。元のタハイが80万の大軍を擁して蜀土に攻め入ると、 孟〔王共〕は塞を増設し戦艦を分布して防衛ラインを築き上げる。結果元軍は 侵攻できずに撤退、翌年、子爵に封ぜられた。防衛ラインを三層に分けてそれぞれ の州郡に千~一万の精兵を置くことを上奏するも、やはり認められず。王堅、 劉整らを派遣して元の造船所に焼き討ちをかけ、船材と食糧を焼く。淮以下五県から 精兵を359人を募り、“寧武軍”と名付ける。 その後江陵にあって各地の防衛ラインに増援を送ったりいろいろと活躍するも、 孟〔王共〕自身が具体的に戦争の描写があるのはここまで。あとは元軍が攻めて きても孟〔王共〕が守りに出ると向こうから逃げ去るのでほとんど交戦してない。 とにかく上奏するはしから潰されて、武勲の割に相当不遇やった人。死後忠襄と 謚され、吉国公を追贈された。廟号は威愛。 ・・・だいぶ省略、割愛しました。 特に後半の先頭描写がない部分はガリッと削ったけどまあ、いいでしょ。 で、 チンギスは入らんと思う。 「先行政権の武将で、かつ中国本土の領土を切り取るか橋頭堡を作る」 かしてないと資格なしやから。 領土を一時的に取っても引き上げるとまた中国側に取り戻される、を繰り返しよった チンギス時代の蒙古は資格なしっちゅーことになるかなと。 826 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/12(木) 21 40 05 ID 40NYG0oU0 825 変換ミス。先頭描写ってなんや、俺。 戦闘描写です、すんません。 827 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 21 43 29 ID agTVIqMpO 基本的には自分自身が、その人物が中国の武将であると確信し、 名将であると考えるのであれば、推薦するべきだと思います。 鉄木真が中国の名将であると考えるのであれば、推薦文を書き込んで下さい。 その意見が通る、通らないは別問題ですから。 828 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 21 57 32 ID gfCpSYNA0 冒頓単于 拓跋珪 社崙可汗 木杆可汗 耶律阿保機 完顔阿骨打 鉄木真 努爾哈赤 全部outで。 あと、三衒の決めた定義が気に入らないなら終わるまで待つことだな。 829 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 22 12 51 ID DNpsFED/O 821 失敬 となると、 788の定義で郭侃の西方の戦績は考慮外という事になるのですかね 彼が参加した西方遠征はモンゴルの中華統一(≒南宋滅亡)以前のことだし 830 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 22 35 49 ID oljSW7kuO 824-825 ◆oOLAqFKRB氏ありが㌧ やっぱチンギスハーンは資格無しですか 831 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 22 48 57 ID 6PWL2b6B0 チンギスはあんまし中国支配に熱心じゃなかった感じだしなあ。 ムカリならともかく。 832 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 23 02 33 ID agTVIqMpO 830 ですから、鉄木真が中国の名将であると考えるなら、推薦文を書き込んで下さい。 モンゴル統一の為の戦いは入らない、中国本土内の戦闘なら入るも、 その地域を複数年支配し続けてる(短期間ではなく、次の代まで支配する) その条件をクリアしていれば、説得力がますと思いますよ。 833 ○ sage 2007/04/12(木) 23 04 34 ID 9MPvgVfh0 820 テムジン時代のタタル、ケレイト、ナイマン、メルキトの諸部族を破り、 モンゴル高原全体を支配や 金、ホラズム・シャー朝を征服やジャラールッディーンを撃破など 功績はすごいのですが、定義に適合しないと思いましたので候補に入れませんでした。 孟[王共]= 孟sルなんだあまり詳しくないのですいません… 834 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23 10 35 ID uB3PX48c0 チンギス・カン 第一次対金戦 内蒙古で金軍を破る 第二次 黄河以北の全域を蹂躙。免れたのは中都を含む十一の 都市のみ。講和成立後、内蒙古に撤退。 第三次 軍を派遣し中都を攻略。 西へ出かける前にかつての燕雲十六州に相当する地域は確保しているから 「中国本土を切り取り橋頭堡を築いた」ことにはなると思うが。 835 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23 11 47 ID oljSW7kuO 832 ??? 俺はチンギスハーンを推薦するつもりも中国の名将として 扱うつもりも端からないんだけど… なんか勘違いしてない? 836 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23 13 29 ID CZs6aAA10 こら 他人が考えて書いたことを自分が考えたように書くもんじゃない 前にも何度かあったね みっともない 837 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23 14 40 ID CZs6aAA10 836は 833 838 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23 18 18 ID JPGjroiF0 821 郭侃は最終的に元にいたんだよね? 名将か否か判断するのに○○時はのぞくなんておかしい。途中どこにいようが関係ない、 趙亡命時の楽毅だけをみて燕時代を無視するのと同じだろ 全体を見て判断しないといけないと思う 839 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23 24 08 ID DNpsFED/O 833 まあ、あの定義だとチンギスもありにはなるはずでは、と思っただけでして 確かに完全に遊牧民だし西征で有名だけど、統一王朝の先行政権を開いて中華地域で戦っているのは事実なんで 840 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 23 29 26 ID agTVIqMpO 835 ならばスレ違いですね。ここは中国の名将を選ぶスレなんですから。 841 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/13(金) 20 38 52 ID eTh9VGg00 人がおらんよーなので、人寄せの意味も含めて紹介文落とします。 張弘範(字は仲疇。○さんが推すゆった名将やね) 張柔の第9子。よく馬槊を使い、かつ詩文の才にも長けた。二十歳のとき、 兄が順天路をはなれることになると代行を任され、民吏の諸問題をたちどころ に採決して人々を感服させる。蒙古の軍がやってきて暴力を振るうと弘範は 杖刑をもって彼らを痛めつけた。順天路に彼がいる間、蒙古と言えども非道な 真似はできなかった。 中統三年、行軍総管とされる。合必赤親王が済南の李壇討伐に向かうと副将 として従軍、弘範が城の西に野営地を置くと、李壇が兵を発した。諸将が色めき 立つ中弘範は一人冷静で、「我、険地に営す。壇すなわち我に弱を見せ、必ず 奇兵をもって襲い来る。我の謂わざれども悟るものなり」として準備を進める。 弘範の策を知らずに攻め寄せた李壇の軍はあるものは壕に埋まり、あるものは 伏兵にやられて全滅した。弘範の勝報を聞き、張柔は「真にわが子なり」と喜んだ。 至元元年、兄が出世したことで順天路の守りを任されることとなった。翌年、 洪水で家は流され、到底租税が納められる状態ではない。しかしそれを言って 聞くような朝廷の文人どもでもない。弘範は直接京師に赴き、フビライに面と 向かって説教。フビライも話の分かる人で、「それを問うなかれ」と謝罪した。 至元六年、南宋の襄陽(せっかく孟珙が必死こいて取り戻した要地)を囲む。 万山に回回砲を据え付け、試し撃ちをしようとした瞬間、南宋軍が攻め寄せた。 部下たちは弘範を置いて城に逃げ込む体たらく。「敵を前にしてあえて退くと いうものには死を!!」との叫びに偏将・李庭が飛び出し、他の将がそれに続く。 弘範は二百騎を長く布陣させ、「我の鼓を聞く、すなわち進め。鼓なかりせば 動く勿れ」南宋軍が突出してくるが、弘範の軍は動かず、南宋軍は再び進んだ かと思えば退却した。南宋軍の士気が低下していることを見抜いた弘範は鼓を 鳴らし、弘範の軍千人が一斉に襄陽を襲う。南宋軍は奔潰した。 面倒なので、こっからアジア歴史事典の丸写し。 南宋討伐に参加し、各地に転戦したが、とくに張世傑の水軍を焦山に破り、 戦艦80艘を奪った功が大きい。毫州万戸に任ぜられ、抜都(英雄)の名を 下賜される。南宋の首都、杭州臨安府陥落ののち軍を還すが、翌1278年、張 世傑、陸秀夫らが衛王を立てて皇帝とし、元朝に反抗したので討伐軍の総帥 となり、水陸二万の軍を率いて南進し、まず文天祥を擒らえ、つづいて張世 傑らの水軍を崖山に破った。こうして輝かしい武功を立てて79年凱旋した が、まもなく病没した。謚は献武。 842 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/13(金) 21 44 40 ID PpLGyfJ60 孟[王共]は全時代の十人でも入るなあ 843 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/13(金) 21 48 39 ID GvRJnFDj0 842 入るでしょうねぇ。 彼に皇帝たるの地位があれば、かなり強固な国家体制を作れたことでしょう。 前線の一司令官は戦略的な視野や構想力より、戦術的な手腕が必要だけど 孟珙はその両方を兼ね備えた稀有な人物といえるから。 844 ○ sage 2007/04/13(金) 23 26 01 ID yKT0Xcnd0 ◆oOLAqFKRBさん 乙です 843 ◆RQdk7scN8sさん古巣での活躍ぶり(?)拝見してますよ。 (もし別人ならごめんなさい) 張弘範は、阿朮(アジュ)、伯顔(バヤン)の元で華々しい活躍を見せ、 更に南宋を滅亡に追いやったのは彼の力に因るものが大きいかと思います。 あと阿里海牙(アリハイヤ)なんかも自分は推したいですね。 845 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/13(金) 23 31 58 ID +sNzR0sV0 この時代区分は、全世界全時代の十人に入るようなのがうろついてますよね 846 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/14(土) 00 47 00 ID VTU7cCbT0 842さん、◆RQdk7scN8sさん、 孟珙を高く評価してくれて中国史で一番孟珙が好きな俺としては 嬉しい限りです。本当に、彼が構想しある程度までは完成させた防衛 ライン(完成しなかったのは朝廷の援助を受けられなかったから)が 機能している間は、孟珙死後までモンゴル、元朝も南宋に手を出せん かったわけやし、完全に自由な権限さえ与えられれば南宋長久の策が 実現したかも知れんのですよ。長期戦になったとしたら攻めあぐねる 元朝と対等以上の講和が結べたかも知れんし、後任が軍事の分からん 賈似道のバカでなかったら、と心から思うところです。ちなみに俺の中 で中華史上名将ベスト3は孟珙、李靖、韓信の三人で、奥ゆかしい性格 と優れた教養から孟珙を一位に押し上げたいところ。まぁ俺の中での ランクづけやからそうではない、という意見の諸兄も多々おるやろーけど。 ○さん アリハイヤですか。 彼もアジュの副将格でいろいろ活躍してますね。アジュが襄陽・樊城の 要地を陥として一旦帰還した後も南征を続け、東西58州(56州?) を切り取ったつわもの。しかも性格は温厚で戦場でも無闇な殺戮を戒め、 占領した土地の人々をいたわって租税を軽くして人々から賛美された 広義での名将。張弘範もやけど○さんは人民をいたわる名将が好きなん かなーと個人的に思ったりしますが、どーなんでしょか。 847 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/14(土) 02 44 23 ID h02UpDZjO で、郭侃は確定でいいのかね? 848 ○ sage 2007/04/14(土) 03 22 05 ID YWuWyns60 846 ◆oOLAqFKRBさん レス㌧あんた領土切り取り杉やろ、なんて思っていますアリハイヤ。 845さんのご指摘通り凄いのがゴロゴロし杉なんですけどねw 自分の名将ベスト3は韓信、孫武、岳飛というところですかね。 韓信は頭の中が普通じゃないし、孫武はマルチ杉、岳飛は戦上手なだけでなく忠義の塊ってとこに魅力を感じます。 それに孟sルもかなりのやり手で狄青みたいに上司さえに恵まれていれば 良かったのにそこら辺が悔やまれてならないっていうのが自分の印象です。 >人民をいたわる名将が好きなんかなーと個人的に思ったり~ はいそうです。 自分の場合は基本的に農民など下層出身で尚且つ義理人情に厚いか忠義の人で、 そのくせ戦争には滅法強い(奇策を得意としたり、読書家なら尚良い)という人物が好みのタイプですね。 岳飛、狄青、薛仁貴とか、あと楽毅、徐達なんかも好きです。 849 ○ sage 2007/04/14(土) 03 29 36 ID YWuWyns60 847 諸兄が郭侃の西征での功績を含めるべきというなら確定でいいと思います。 850 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/14(土) 07 12 11 ID 9iDv5RQB0 「誰某が名将としてどの程度か」と問うならば、 全ての手柄を斟酌してその手腕を量るべきだろう。 一部だけ切り抜いて量ることなど不可能だし意味がない。 そもそも漢人でも戦歴をぶつ切りにされるというのはおかしな話である。 蒙古帝国が中国ではない、というのは判る。 だが彼を選外とするのは「漢人が中国人ではない」と言ってることと同じだ。これはおかしい。 民族の一個人として見れば、その手柄の立てた場所とか相手を区別して云々する必要はない。 それに1127年の靖康の変で宋は南北支那の統一王朝としての面目を完全に失っている。 燕雲十六州を支配したのみの遼を北朝と呼ぶことは難しいかもしれないが、 中原を完全に支配した金はそう呼んで差し支えないだろう。 支那史のお約束通りに考えるならば、 その金は1234年に蒙古の攻撃で滅んでいるので、北朝としての天命は蒙古勢力に移行したのだ。 以後の西征は紛れもなく北半分の統一王朝の遠征であるので除外する必要はない。 その論理は無茶だと言うならば、五胡の蛮兵や、統一した隋以前の北朝の指揮官、唐の外国人の客将は全て除いて頂きたい。
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上自西漢-太祖高皇帝-一八五 十八史略卷之二〓大風之歌ら歌うて曰く、大風起分雲飛揚。威加海內兮歸故〓。安得猛士はいちうしふかたう分守四方。と。沛中の子弟をして、之を習歌せしめ、沛を以て湯もいふ沐の邑となす。せききてうてうわうによいりよこううと始め、戚姫寵あり。趙王如意を生む。呂后、疏んぜらる。太子、じんじやくじやうおのれはい仁弱なり。上、如意が己に類するを以て、太子を廢して、之を立てぐんしんあらそみなうあたりよこうむと欲す。群臣、之を爭へども、皆得る能はず。呂后、人をして、ちやうりやうきやうえうわくけいこうぜつ張良を彊要して、畫計せしむ。良曰く、是れ口舌を以て爭ひ難きいたとうゑんこうきなり。忖ふに、上の致す能はざる所の者四人、曰く、東園公、綺里かくわうこうかくりせんせいまんぶことさらのが季、夏黃公、角里先生。上の士を嫚侮するを以て、故に、山中に逃かんたかれ匿れ、義として、漢の臣とならず。上、この四人を高しとす。今しよつくことばひくあんしやかたよろ太子をして、書を爲り、詞を卑うし、安車、固く請はしむれば、宜きたかくときしたがにふてうしく來るべし。至らば、以て客となし、時に從へて入朝し、上をしじよて之を見せしむれば則ち一助なりと。呂后、人をして、太子の書をまねうかついよい奉じて、之を招かしむ。四人至る。帝、布を擊つて還り、愈よ太子かのちちしゆたいしヒまいを易へむと欲す。後に置酒するや、太子侍す。良の招く所の四人のものしたがしゆびこうはくい7わんはなはるじやうあやし者從ふ。年皆八十餘、鬚眉皓白、衣冠甚だ偉なり。上、怪んで之をすゝこたおってせいめいいおどろ問ふ。四人前んで對へ各姓名を言ふ。上、大に驚いて曰く、吾、すうさいひとうよこしたが公を求むる數歲、公、我を避逃す。今、何に自つて、吾が兒に從つあそへいかかろよのゝして遊ぶや。四人曰く、陛下、士を輕んじ、善く罵る。臣等、義としにづかじんかうきようけいて、辱しめられず。今、太子の仁孝恭敬にして、士を愛し、天下、西漢-太祖高皇帝-一八七 十八史略卷之二天頸を延べて太子の爲に死を願はざる者なきを聞き、故に臣等來るのみ。上曰く、公を煩はさむ、幸に卒に調護せよと。四人出づ。上、戚夫人を召し、之を指示して曰く、我之を易へむと欲するも彼の四人の者、之を輔く。羽翼旣に成る、動かし難しと。蕭何、長安地陋く、上林中に空地の棄てられしもの多きを以て、評具護膚、明明人民をして、入つて田するを得せしめむを請ふ。上、大に怒つて、何上海市药物学院を廷尉に下して之を械繫す。數日にして之を赦す。く布を擊ちし時、)上流矢に中り、病甚し。呂后問ふ。陛下百歲の後蕭相國死せば誰か之に代るべき。曰く、曹參。其次は。べあ創曰く、いる下しりめたと王陵。然れども、少しく戇なり、陳平以て之を助くべし。平智餘あるも獨り任じ難し。周勃重厚にして文少し、大尉たらしむべし。14劉氏を安んずる者は、必ず勃ならむと。復た其次を問ふ。上曰く、其後は、亦た乃の知る所に非ざるなりと。上崩ず。長陵に葬る。漢王たりしこと四年、帝たりしこと八年、凡そ十二年。太子盈立つ、之を孝惠皇帝となす。評女呂人の歷朝一【孝惠皇帝】名は盈、母は呂太后。卽位の元年、ゐ呂后、趙王如意を者な·唯鴆殺し、戚夫人の手足を斷ち、眼を去り耳を燻べ、痞藥を飮ましめ、だ色手机取る〓中に居らしむ。命づけて人〓といひ、べき帝を召して之を觀せしむ。帝、驚いて大に哭し、因つて病み、歲餘起つ能はず。二年、蕭何卒す。齊相曹參、舍人をして、趣に裝を爲さしめ、西漢-太祖高皇帝-孝惠皇帝-一八九 十八史略卷之二一九〇吾、入つて相たらむといふ。使者果して參を召し、何に代つて相國となす。一に何の約束に遵ふ。百姓、之を歌うて曰く、蕭何爲相。較若畫一。曹參代之。守而勿失。載其〓淨。民以寧一と。五年。曹参卒す。六年。王陵、右丞相となり、陳平、左丞相となる。張良卒す。周勃、大尉となる。帝、在位七年にして崩ず。子なし、呂后、他人の子を取り、以て太子となし、是に至つて、卽位す。太后、朝に臨んで、制を稱す。元年。太后、諸呂を立てて王となさむことを議す。王陵曰く、高帝、白馬を刑して、盟つて曰く、劉氏に非ずして王たらば、天下之〓を擊てと。平、勃以て可となす。陵相を罷む。遂に呂氏を王とす。四年。太后、少帝を廢して、之を幽殺し、恆山王義を立てて帝となし、名を弘と改む。亦た佗人の子を名づけて、惠帝の子となせしものなり八年、太后崩ず。諸呂、亂を爲さむと欲す。時に、呂祿、北軍に將たり、呂產、南軍に將たり。大尉勃、兵を主る能はず。平、勃酈寄をして祿に說き、印を解き、兵を以て勃に授けしむ。勃、軍門右祖左祖し入り、令して曰く、呂氏の爲にする者は右袒せよ、劉氏の爲にす西漢-孝惠皇帝-九九 十八史略卷之二一九二る者は左袒せよと。軍中、皆、左袒す。朱虛侯劉章を召して、卒千こと〓餘人を與へ呂產を擊つて之を殺し、分部して悉く諸呂を捕へ少長となく、皆、之を斬る。諸大臣、代王恆を迎へ立つ王、西郷して讓るもの三たび、南〓して讓るもの再び、遂に位に卽く。子弘等を殺し、天下に赦す。之を太宗孝文皇帝となす。【孝文皇帝】名は恆、母は薄氏。龍.胸に據るを夢み、遂に帝を生む。尊んで皇太后となす。元年。陳平、左丞相たり、周勃、右丞相たり。時に千里の馬を獻ずる者あり、帝曰く、鸞旗前に在り、屬車後に評言天干干し千嵐んでくの帝在り。吉行には日に五十里、師行には日に三十里。朕千里の馬に名 にりにか、乘りて、獨り先づ、安くにか之かんと。是に於て、其馬を還し、道のれ之づ言眞か安に君是か先里の費を與ふ。而して、詔を下して曰く、朕、獻を受けざるなり。其れ、四方をして來り獻ずるなからしめよと。評帝、益す國家の事に明習す。朝して、右丞相勃に問うて曰く、と平文と周り示の格式陳B3 bo第十七天下一歲の決獄幾何ぞと。勃知らずと謝す。又問ふ、一歳の錢穀を所唆す3人生出入幾何ぞと。勃、又知らずと謝す。惶愧して汗出でて背を沾す。上、左丞相平に問ふ。平曰く、主者あり。若し決獄を問へば、廷尉を責めよ。錢穀を問へば、治粟内史を責めよ。上曰く、君の主る所のものは何事ぞ。平謝して曰く、陛下、臣を宰相に待たしむ。宰相西漢-孝文皇帝-一九三 十八史略卷之二一番は、上、天子を佐け、陰陽を理め、四時を順にし、下、萬物の宜し、きを遂げ、外、四夷を鎭撫し、内、百姓を親附し、卿大夫をして、大各其職を得しむと。童、善と稱す。勃大に慙ぢ、病を謝して免ず。;)い河南の守吳公、治平、天下第一たり。召して廷尉となす。吳公、賈誼洛陽の人賈誼を薦む。年二十餘。一歲中超遷して大中大夫となる。陳平卒す。二年。天下に今年の田租の半を賜ふ。三年。張釋之、廷尉となる上中渭橋を行く。一人あり、橋下に走る。乘輿の馬驚く。捕へて廷尉に屬す。釋之、奏す。蹕を犯すは、罰金に當すと。上怒る。釋之曰く、法、此の如し。更に之を重言の延張平價多様下くすれば、是れ、法、民に信ならず。廷尉は、天下の平なり。一たび傾かば、天下法を用ゆる、皆之が爲に輕重せむ。民安んぞ手足を措く所あらむやと。上、良や久しうして曰く、廷尉の當、是なりと。其後、人、高廟の玉環を盗む者あり。得たり。廷尉に下して、治せしむ。釋之、奏す、棄市に當すと。上、大に怒つて曰く、人、先帝に·の器を盜む、吾之を族に致さむと欲す。然るを、廷尉、法を以て、之を奏す。吾が宗廟に共奉する所以の意に非ざるなり。釋之曰く、宗廟の器を盜んで、之を族せば、假りに、愚民長陵一抔の土を取らば、何を以て、其れに法を加へむやと。帝、之を許す。六年。淮南の属王長謀反す。廢徒せられて死す。民、之を歌ふ者西漢-孝文皇帝-一九五 十八史略卷之二〓あり。曰く、一尺布尙可縫一斗粟尙可春。兄弟二人不相容。と。帝、聞いて、之を病み、後、其四子を封じて候となす。匈奴の冒頓死す。是より先、上、議して、賈誼を以て、公卿に位せむとす。大臣、多く之を短る。上、以て長沙王の大傅となし、梁王の大傅に徒る。せ、買誼上疏上疏して曰く、方今の事勢、爲に痛哭すべきもの一、爲に流涕すべきもの二、爲に長太息すべきもの六と。十年。帝の舅薄昭、漢の使者を殺す。童、誅するに忍びず。公卿群臣をして、往いて之を哭せしむ。昭.自殺す。十二年。民に今年の田租の半を賜ふ。ほ十三年。大倉の令淳于意。罪あり、刑に當す。少女緹榮上書して曰く、死者は復た生くべからず、刑者は復た屬ぐべからず。願はくは、沒入して官婢となり、以て父の刑を贖はむと。上其意を憐み、詔して、肉刑を除く。び此の歲、田の租稅を免ず。方士用ゐら十六年。方士新垣平、上大夫となる。ぞ後元年。平、詐を以て誅に伏す。六年。匈奴、上郡雲中に寇す。將軍周亞夫に詔して細柳に屯せしむ。劉禮は霸上に次し、徐厲は棘門に次し、以て胡に備ふ上、自ら軍を勞して、霸上及び棘門の軍に至る。直に馳せ入る。大將以下、西漢-孝文皇帝一九七 十八史略卷之二天は騎して。送迎す。旣にして、細柳に之く。入るを得ず。先驅曰く、評國家大臣天子、軍門に至らむとす。都尉曰く、軍中には、將軍の令を聞く、武人の典型天子の詔を聞かずと。上、乃ち使を使し、節を持し、將軍亞夫に詔し、乃ち言を傳へて、門を開かしむ。門士、車騎に請うて曰く、將軍約すらく、軍中驅馳するを得ずと。上、乃ち轡を按じて徐行し、營に至り、禮を成して去る。群臣、皆、驚く。上曰く、嗟乎、是れ眞の將軍なり。さきの霸上棘門の軍は、兒戯のみと。七年。帝崩ず。在位二十三年。宮室苑囿、車騎服御、增益する所なし。嘗て、露臺を作らむと欲し、匠を召して、之を計らしむ。直百金上曰く、中人十家の產なり、何ぞ臺を以て爲さむと。身に弋評君なり漢祚孝文は仁綿を衣、ご幸する所の愼夫人、衣、地を曳かず、朴を示して、天下のす文大せ四を克べの本る百し德蓋も年〓先となる。吳王、朝せず、賜ふに凡杖を以てす。張武、賂の金錢をの其とにし歸孝受く。更に賞賜を加へ、以て其心を愧ぢしむ。專ら德を以て民を化す。當時の公卿大夫、風流篤厚にして、人の過を言ふを恥ぢ、上下俗を成す。之を以て海內安寧、家給し、人足り、後世及ぶなし。霸陵に葬る。太子卽位す、之を孝景皇帝となす。【孝景皇帝】名は啓。卽位の元年、丞相申屠嘉、奏す。功は、高皇帝より大なるはなし、宜しく、帝者太祖の廟となすべし。德は、孝文皇帝より盛なるはなし、宜しく、帝者太宗の廟となすべしと。制して曰く、可と。西漢-孝文皇帝-孝景皇帝一九九 十八史略卷之二二〇〇p.帝、太子たりし時、量錯、家令たり。幸を得たり。太子の家、號して智囊といふ。帝卽位するや、錯、內史となり、數ば閒を請うて事を言ひ、輒ち聽かる。寵.九卿を傾け、法令、更定する所多し。初め、孝文の時、吳王溥の太子、入つて見え、皇太子に侍して飮評產品酒今をするを得たり。博して道を爭ひ、不恭なり。皇太子、博局を引いて時にはい軌を一にす之を提殺す。澳、疾と稱して朝せず。錯數ば吳の過、削るべきを言ふ。文帝、忍びず、帝位に卽くに及び、錯曰く、吳王、天下の亡부人を誘ひ、亂を作さむことを謀る。今、之を削るも亦た反し、削らわざはひせうざるも亦た反せむ。之を削れば、反すること亟。にして、禍小ならむ。削らざれば、反すること遲くして禍大ならむと。上、公卿列侯宗室をして、雜議せしむ。敢て難ずるなし。量錯、又言ふ、楚趙罪あり、一郡を削らむ。膠西姦あり、六郡を削らむと。吳の會稽豫章七國叛すを削るに及び書至る。吳王、遂に反す。膠西、膠東、菑川、濟南、楚、趙、皆、先に吳の約あり。是に至つて、同じく反す。齊王、先に諾して、後に悔ゆ。初め、文帝旦に崩ぜむとするや、太子を戒めて曰く、若し緩急あらば、周亞天、眞に將に任ずべしと。七國の反するに及び、亞夫を大尉に拜し、三十六將軍に將として、往いて吳楚を擊たしむ。量錯、え素より袁盎と善からず。盎言ふ、獨り、錯を斬つて諸侯の故地を復〓するあれば、兵、刄に血ぬることなくして罷むべしと。錯是に於西漢-孝景皇帝-二〇一 十八史略卷之二二〇二て、東市に腰斬せられ、父母妻子同產少長となく、皆棄市せらる。周亞父、大に吳楚を破り、諸反、皆平らぐ。亞父、後に相となり、是れ鞅評上の意に忤ひ、罷む。上曰く、第周いうもに父終し軍功し全か一亞條侯に封ぜらる。諫を以て、inて惜を而ずり哉せ鞅として、少主の臣に非ずと、卒に人に誣告せられ、獄に下り、血を嘔いて死す。漢興つてより、繁苛を掃除し、民と休息す。孝文、加ふるに、恭俗を儉を以てす。帝の業を遵ぐに至り、五六十載の間、風を移し、易ふ。黎民醇厚、國家無事。人給し、家足る。都鄙の廩庾皆滿ち、府庫は貲財を餘す。京師の錢、鉅萬を累ね、貫朽ちて、校すべから〓あひよす。太倉の粟陳陳相因り、充溢して、外に露積し、紅腐勝げて食ふべからず。吏たる者は、子孫を長じ、官に居る者は、以て姓號となひと〓〓じはす。故に倉氏、庫氏あり、人人自愛して、法を犯すを重かる。而〓も、罔疏にして民富み、或は驕溢に至り、兼〓の徒〓曲を武斷し、宗室有土公卿以下、奢侈度なし。物盛にして衰ふるは、素より、其變なり。帝崩ず、在位十七年。中元、後元あり。太子立つ、之を世宗孝武皇帝となす。【孝武皇帝】名は徹。卽位の元年、始めて、改元して建元といふ。年號の始年に號あるは、是に始まる。評董仲舒の賢良方正直言極諫の士を擧げて、親ら之を策問す。廣川の董仲明治三十七年料金免除の舒對して曰く、事は强勉に在るのみ。强勉して學問すれば、聞見博漢-孝景皇帝-孝武皇帝二〇三 十八史略卷之二二〇四くして、智益す明かに、强勉して道を行へば、德日に起つて大に功ありと。又曰く、人君は心を正し、以て朝廷を正し、朝廷を正し、以て百官を正し、百官を正し、以て萬民を正し、萬民を正し、以て四方を正し、四方正しくして、遠近正に一ならざるなく、而かも、邪氣の其間に奸するなし。之を以て、陰陽調ひ、風雨時あり、群生和し、萬民殖し、諸福の物之を致すべく、祥畢く至らざるなし、而して、王道畢る。陛下、行高くして恩厚く、知明かにして意美、民を愛して士を好む。然り而して、〓化立たず、萬民正しからず。例へば、琴瑟調はざる甚しき者は、必ず解いて之を更張し、乃ち鼓すべきなり。政を爲して行はれざること、甚しき者は、必ず變じて之を更化し、乃ち理むべきなり。漢天下を得てより以來、常に治を欲す。而して、今に至つて善く治すべからざるものは、當に更化すべくして、而かも更化せざればなりと。又曰く、士を養ふは、太學より大なるはなし。太學は賢士の關る所なり、〓化の本原なり。願はくは、太學を興し、明師を置き、以て天下の士を食はむと。又曰く、郡守縣令は、民の師帥、承流して、宣化せしむる所なり。宜しく、列侯郡守をして、各、其吏民の賢なる者を擇んで、歲毎に各三人を貢せしむべしと。又曰く、春秋は一統を大にするもの、天地の常經、古今の通誼なり。今、師毎に道を異にし、人每に論を異にす。臣愚、以爲へらく、諸の六藝の科、孔子の術に非ざるもの西漢-孝武皇帝-二〇五 十八史略卷之二二〇六は、皆其道を絕ち、然る後に、統紀一にすべく、法度明かにすべく、而して、民、從ふ所を知らむと。上、其對を善とし、以て江都の相となす。上使者を使し、安車蒲輪、束帛加壁を奉じて、魯の申公を迎へ正しむ。旣に至るや、治亂の事を問ふ公、年八十餘、對へて曰く、申公進言治を爲すは、多言に在らず、力行如何を顧みるのみと。三年闘越東〓を擊つ使を遣し、兵を發して、之を救ひ、其衆を江淮の間に徒す。だ帝、始めて微行をなし、上林苑を起す。五年五經博士を置くびん三つ六年。聞越、南越を擊つ。王恢等を遣して、之を擊たしむ。げんくわうぐわんねん元光元年始めて、郡國に令して、孝廉各一人を擧ぐ。上方士李少君十二年。方士李少君、上に見ゆ善く巧發奇中をなす。言ふ、竈を祠れば、物を致し、丹砂化して黄金となすべく、蓬萊の仙者、見るべし、之を見て以て封禪すれば、死せずと。上、之を信じ、始めて、;親ら竈を祠り、方士を遣し、海に入つて、蓬萊、安期生の屬を求めしむ。海上、燕齊、迂怪の士多く更る來つて神事を言ふ上大行王恢の議を用ゐ、恢等を遣し、兵に將として、馬邑の旁谷中に匿れ、聶壹をして匈奴を誘うて、塞に入れて之を擊たしむ。き單于、覺つて去る。是より、和親を絕ち、當路の塞を攻む。西漢-孝武皇帝-二〇七 十八史略卷之二二〇八唐蒙、上書して、南夷に通ぜむことを請ふ。蒙を中郞將に拜し、千人に將として、夜郞に入る。夜郞侯、約を聽く。以て犍爲郡となす。又、司馬相如を拜して中郞將となし、西夷に通ず。印筰、冉馳に郡縣を置く。西は沫若水に至り、南は特牁に至つて、微となす。吏民の、當世の務に明かに、先聖の術を習ふものを徴し、縣次とに續食して、計と偕にせしむ。菑川の公孫弘、對策して曰く、人生、上に和德あれば、百姓下に和合す。故に、心和すれば氣和し、氣和すれば形 和し、形 和すれば聲和し、聲和すれば天地の和應ずと策奏す。擢んでて第一となし、金馬門に待詔せしむ。齊人轅固、年九十餘、亦た賢良を以て徵さる。弘、目を仄てて之に事ふ。曲學阿世固曰く、公孫子、正學を務めよと。以て曲學以て世に阿るなきを云ふなり。六年。始めて、商車を算す。匈奴、上谷に寇す。將軍衞靑等を遣し、擊つて、之を卻く。元朔元年主父偃、上書して、匈奴を伐つを諫む。嚴安、亦た上書す。及び徐樂、亦た上書して云ふ、陛下、何を威してか成らざらぞむ、何を征してか服せざらむと。書奏す。上召し見て曰く、公等皆安くに在りしか、何ぞ相見るの晩きやと。皆、郞中に拜す。此の秋匈奴入寇し、二年、又入寇す。衞靑等を遣して、之を擊ち、遂西漢-孝武皇帝-二〇九 十八史略卷之二二一〇に河南の地を取り、朔方郡を置く。五年。公孫弘、丞相となり、平津候に封ぜらる。上、方に功業を興す。弘、是に於て、東閣を開いて、以て賢人を延く。匈奴、朔方に寇す。衞靑を遣し、六將軍を率ゐて之を擊たしむ。還る。靑を以て大將軍となす。匈奴、代に入る。六年。春、衞靑等六將軍を遣して、匈奴を擊たしむ。夏、再び遣るはくばうこうちやうけん元狩元年博望候張騫を遣して、西域に使し、滇國に通ず。二年。霍去病を以て、驃騎將軍となし、擊つて、匈奴を敗り、焉支祁連山を過ぎて還る。匈奴の渾邪王降る。五屬國を置いて、以て其衆を處らしむ。三年匈奴、右北平、定襄に入る。四年衞靑、霍去病を遣して、匈奴を擊たしむ。去病、狼居胥山を封じて還る元鼎二年方士文成將軍李少翁、詐を以て誅せらる。西域、始めて通ず。酒泉、武威の郡を置く五年。將軍路博德等を遣して、南越を擊たしむ。方士五利將軍欒大、詐を以て誅せらる。六年。西羌を討つて、之を平らぐ。西漢-孝武皇帝-二一一 十八史略卷之二二一二南越平らぐ、九郡を置く。E元封元年帝、長城を出でて、單于臺に上り、使を遣して、單于に〓げしめて曰く、南越王の頭、旣に漢の北關の下に懸れり。今、單于能く戰はば、天子自ら將として、邊に待たむと。帝、縦氏に如き、中嶽に登り、遂に東、海上を巡り、泰山に封じか、肅然に禪し、復た東北して、碣石に至つて還る。えきしうぐん一滇王降る、益州郡を置く。三年樓蘭を擊つて、其王を虜にし、車師を擊つて、之を敗る。朝鮮降る。樂浪、臨屯、玄菟、眞番の郡を置く。匈奴、邊に寇す。兵を遣して、朔方に屯す。五年。南、江漢を巡り、泰山に至り、封を增す。六年。昆明を擊つ太初元年帝、泰山に如く。十一月甲子朔旦、冬至、太初層をり正月を以て歲首となす。李廣利を遣して、大宛を伐つ。克たず。趙破奴を遣して、匈奴を擊たしむ。三年。匈奴大に入つて、塞外の城障を破る。大に兵を發し、李廣利に從つて、宛を伐たしむ。宛、降る。善馬數十匹を得たり。四年。匈奴の單于、使を使して來り獻ず。西漢-孝武皇帝-二一三 十八史略卷之二二一四蘇武天漢元年中郎將蘇武を遣はし匈奴に使せしむ。單于、之を降さむと欲し、大窖の中に置き、絕えて飮食せしめず、武、雪と旃毛とを齧んで、〓せて之を咽み、數日死せず、匈奴以て神となす。武を北海上、無人の處に徒し、抵を牧はしめ、曰く、抵乳せば、乃ち歸るを得せしめむと。二年李廣利を遣して、匈奴を擊たしむ。別將李陵、敗れて虜に降る上法制を以て下を御し、好んで、酷吏を尊用す。東方、盜賊、÷滋、起る。使者を遣し、繡衣を衣、斧を持して、督捕せしめ、二千石以下を斬るを得せしむ。四年。李廣利、匈奴を擊つて利あらず。太始三年帝、東瑯琊を巡り、海に浮んで還る四年。東巡して、明堂を祀り、封禪を修す。征和二年巫蠱の事作る。帝、甘泉に如き、江充を以て使者となし、巫蠱の獄を治めしむ。太子の宮を掘つて云ふ、木人を得ること尤も多しと。太子據、懼れ、客をして、佯つて使者たらしめ、充を母衞皇后に白し、收捕して、之を斬り、中厩の車を發し、射士を載せ、武庫の兵を出し、長樂宮の衞卒を發す。上、甘泉より來り、詔して、三輔の兵を發す。丞相劉屈釐、是に將たり。太子も亦制を矯めて兵を發し、丞相の軍に逢ひ、兵、合戰すること五日、死西漢-孝武皇帝-二一五 十八史略卷之二二二六くわうごうじさつたいしにこじけいする者數萬。皇后自殺す。太子亡げて、湖に至つて、自經して死かうべうしんらうでんせんしうはくとうをうす。後に、高廟の寢郞田千秋といふ者あり。上書して言ふ白頭翁しんをしろうむちうあり、臣に〓へて云ふ、子、父の兵を弄す、當に答つべしと。上、さとしんれい悟つて曰く、是れ、高廟の神靈、我に告ぐるなり、太子の罪なきをきらいばうしだいかなし望思之臺知ると。歸來望思の臺を廟に作る。天下、聞いて、之を悲む。けうどごげんしゆせんあだりくわうり三年。匈奴、五原、酒泉に寇す。李廣利を遣して、之を擊つ。廣くだ利匈奴に降る。はうししんじんこう四年。方士の神人を候する者を罷む。でんせんしうしやうふみんこうりんだいとんでんや輪臺之詔田千秋を以て相となし、富民侯に封ず。輪臺の屯田を議するを罷みことのりきわうくわいのめ詔を下して、深く旣往の悔を陳ぶ。こうげん二年2じやうさくきうみゆきやまひあつくわくくわうだいしばだいしやう孝た絕武を後九上、五柞宮に幸す。病篤し、霍光を以て、大司馬大將櫛皇どた亦且む其英大略主ゝのぐんゐせうたすかい軍となし、遺詔を受けて、太子を輔けしむ。上、在位五十四年、改風帝もり歷つる版沐に世 朝大の圖憐し放經のてのれ冠るく廣げんけんげんげんさくげんしゆげんてい元するもの十有一。曰く、建元、元光、元朔、元狩、元鼎、元封、ゆうざいたいりやくぶんけいほう太初、天漢、太始、征和、後元。上、雄材大略、文景豐富の後を受きうきよくかうていへいじやううれひのこせいじやうこうけ、武事を窮極す。嘗て謂ふ、高帝、平城の憂を遺す、齊の襄公訓鍊あだえしばしけうどせいかん九世の讐を復するが如くならむを思ふと。數ば匈奴を征し、漢の兵を世ず情恣故·ずりのて察て縱端漢せ下自せい3のがばくなんわうていうひら勢を盡す。匈奴、遠く遁れ、幕南に王庭なし。地を斥き、郡縣を立け運却じゆかうじやうせいゐきせいなんいてうせん啓衰て、受降城を置く西域に通じ、西南夷に通じ、東朝鮮を擊ち、えつきづうぐんりよとしごと內は土木どことじやうふん南粤を伐ち、軍旅歲毎に起る。を事とし、上苑を築いて南しよくはくれうだいしようろどうばん山に屬し、柏梁臺を建て、承露銅盤を作る、高さ二十丈、大さ七西漢-孝武皇帝-二一七 十八史略卷之二二一八ゐぜんにんしやうはうしこうそんけいろうきよ圍、上に仙人掌あり。方士公孫卿、神仙は樓居を好むと言ひしを以ひれんけいくわんつうてんけいだいしゆざんけんしやうきうて、蜚廉桂館、通天莖臺を作り、首山の宮を作り、建章宮を作るほうかくこけんたいえきちぜんだいほうらいはう千門萬戶。東は鳳閣、西は虎圈、北は太液池。中に漸臺、蓬萊、方ぎよくだうしんめいだい丈?えいしうれうへきもんめいくわうきう瀛洲、壺梁あり。南は玉堂、壁門、神明臺を立つ。明光宮を作しびきはしばしじゆんかうししたつとほうぜんしうこくる皆、修靡を極む數ば巡幸して、祠祀を崇び封禪を修す。國ないきふしやくきふうろくひへいはくきんつくさうこうやうこうきん內給せず、武功の爵級を賣り、鹿皮幣白金を造る。桑弘羊、孔僅のときんゆへいじゆんはふつくおこたすえんくわんおしう徒、均輸平準法を作り、利を興し、以て費を佐く。鹽官を置き、舟しやさんびんせんせうぜんたうおこりんだい車を算し、緡錢を造る。天下、蕭然たり。末年、盜起る輪臺の一せうなかかんはとしんじようしやう詔微つせば、漢幾んど秦たるを免れず。用ゆる所の丞相惟だでんふんもつばじやうけいぢよ蚜に謂つてり田蚡のみ、稍や專らにす。上、嘗て、曰く、卿吏を除っする、盡くるや未だしや、吾も亦た吏を除せむと欲すと。後は皆位みこうそんこうちうに充つるのみ。公孫弘の後、國家多事、丞相、しきりに、誅を以てこうそんがていきうあ、死す。公孫賀、相に拜せられ、涕泣して、肯て拜せざるに至る、亦こくりちやうたうてううとしうぎしようわうおんじよとた罪を以て死す。酷吏、張湯、趙禹、杜周、義縱、王溫舒の徒、皆けいはふしゆんようたうら嘗て刑法を峻用す。然れども、湯等、罪あれば亦た貸さざるなり。ぼくしきげいくわんぞくきふあんげん汲點嚴を以其閒、ト式兒寬の屬、亦た長者を以て用ゐらる。汲黯、獨り嚴をて憚らるはゞかせつかんしゆせいじやう以て憚らる。切諌して內に留まるを得ず、東海の守となり、〓淨をかふないぐわけい好み、閤內に臥して出でず、然かも、郡中大に治まる。入つて九卿ぶんがくあんとなる。上、方に文學を招く。嘗て曰く、吾、云々せむと欲す。黯いはたよくじんぎほどこいかんたうぐう曰く、陛下、内、多欲にして、外、仁義を施す、奈何ぞ唐虞の治に西漢-孝武皇帝-二一九 十八史略卷之二〓三〇效はむと欲するかと。上、怒つて朝を罷む。曰く、甚しい哉、汲黯の態なるやと。他日、又曰く、古しへ社稷の臣あり。黯之に近しと。淮南王安、反を謀る。曰く、漢廷の大臣、獨り、汲黯、直諫を好む、節を守り、義に死せむ。丞相弘の如きは、之を說くこと、蒙を發くが如きのみと。黯嘗て、淮陽の守に拜せらる。曰く、臣病む、郡事に任ずる能はず。願はくは郞中となり、禁闔に出入し、過 を補ひ、遺ちたるを拾はむ。上曰く、君、淮陽を薄しとするか。吾、今、君を召す。おもふに、淮陽の吏民、相得ず、惟だ君の重きを得て、臥して之を治めよと。淮陽に至り、十歲、竟に卒す。黯甚だ上に重んぜらる大將軍衞靑、貴と雖も、上、或は厠に踞して之を見る。黯の如きは冠せざれば見ざるなり。上、天下材智の士、吾俊異の者を招選して、之を寵用す。莊助、朱買臣、丘、壽王、司馬ばいくわうしうぐんら相如、東方朔、枚皐、終軍等、左右に在り。相如、特に詞賦を以て幸を得たり。朔皐は、持論を根とせず、該諧を好む。上、俳優を以てま、之を畜ふ。朔嘗て、上の前の侏儒に語る。以爲へらく、上之を殺さむと欲すと。侏儒、泣いて命を請ふ。上、朔に問ふ。朔曰く、侏儒飽いて死なむと欲す、臣朔饑ゑて死なむと欲すと。伏日に肉を賜ふこと晏し。朔先づ肉を斫つて持して歸る。上、召して問ひ、自ら責めしむ。朔曰く、賜を受くるに詔を待たず、何ぞ無禮なるや。劍を拔いて、肉を斫る、何ぞ壯なるや。之を斫つて多からず、何ぞ西漢-孝武皇帝- 十八史略卷之二さいくんおくじんれん朔、亦廉なるや。歸つて細君に遣る、何ぞ仁なるやと。然れども、ちよくかんりせうくんしんせんた時に直諫して補益する所あり。李少君より以來、神仙を求めて已ぶんせいちうりいた上まず、文成誅せられて、五利至る。五利、文成を以て言となす。はかんくら曰く、文成、馬肝を食うて死するのみと、五利、又誅せらるるに及こうそんけいらもつとちやうしんまつねんすなはさとてんかび、公孫卿等、尤も聽信せらる末年、帝、乃ち悟つて曰く、天下せついくふあえうはうやや病評天下豈仙豈に仙人あらむや、盡く妖妄のみ、食を節し、藥を服せば、人あらんやかんおこけいていけうしよえのぞ少かるべきのみと。漢興つて、惠帝、旣に挾書の禁を除き、文帝、いうがくひろじゆがくつひと〓〓さかん旣に遊學の路を廣むと雖も、然れども、儒學、終に未だ盡く盛なとうちうじよこうそんこうしゆんじうげいらず。帝の世に至つて、董仲舒、公孫弘、皆、春秋を以て進み、兒けいじゆつりかざまたこうあんこくらくわん六寛.亦た經術を以て吏事を飾る。後、又孔安國等、出づるあり。けいへうしやうじつていはじしばしずゐしやう經を表章すること、はくりんしゆがんしはうはうてい實に帝より始まる。がくしやうつく數ば瑞祥を得たり。かうべう白麟、芝房、すぶんしやう朱鴈、寶鼎、皆、樂章を爲り、之を郊廟に薦む文章も、亦だいぶじゆた帝の世に至つて始めて盛なり。ほうれうはふむ人以て三代の風ありとなす。かうせうくわうてい帝、壽七十にして崩ず。茂陵に葬る。太子立つ、之を孝昭皇帝となす。ふつれううよく六じんてうしはら【孝昭皇帝】名は弗陵、母は釣弋夫人趙氏、うま娠んで十四月にして生ぶていなげうぼもん武帝、さうだいる。たち其門に命づけて、堯母門といふ。年七歲、體壯大にぐんしん多知なり。武帝、たくわくくわうして、ちうこうたいじにん之を立てむと欲す。群臣を察するに、唯だ霍光忠厚くわうもんしうこうせいわう霍光、忠厚、大事に任ずべし。お黃門をして、周公、成王を負う評武帝鈎弋てうゑがくわうたまて、諸侯に朝せしむるを畫いて、こうよくふじんけん以て光に賜はしむ。鈎七夫人を譴理賜夫たら人に辯死非一をせきたまいにこくかみだゆゑん死を賜うて曰く、しゆせう責し、はゝさう古しへ、國家の亂るる所以、主少、母壯に西漢-孝武皇帝-孝昭皇帝-二二三 二二四十八史略卷之二遂に卽驕淫自ら恣にするに由るなりと。明年、武帝崩ず。人之あ然情をるれして、ずはに之でに殺がど非す故も反を謀る。赦して治位す。燕王旦、長にして立つを得ざるを以て、せず。黨與誅に伏す。野始元六年、蘇武、匈奴より還る。武、初め、北海の上に徒り、ら李陵、武臥起、漢の節を持す。鼠を掘り、草實を去へて、之を食ふ。に謂つて曰く、人生は朝露の如し、何ぞ自ら苦むこと此の如きと。亦た屢ば武に降を陵、衞律と與に匈奴に降つて、皆、富貴。律も、す、匈奴、詭つて、武、勸む。終に肯んぜず。漢の使者、匈奴に至る。旣に死したりといふ。漢使、之を知り、言ふ、天子、上林中に射て匈奴、膓を得たり、足に帛書あり、云ふ、武、大澤の中に在りと。か.隱す能はず、乃ち武をして還らしむ。武、匈奴に留まること十九年、しゆはつこと〓〓初め强壯を以て出で、還るに及びて、須髮盡く白し。拜して典屬ミ國となす。左將軍上官桀の子安、電光の婿たり。女を生む。立ちて皇后となる。桀と安と、自ら后の祖父たるを以て、乃ち光が外祖を以て朝事を專制するに若はず。桀と光と權を爭ふ。時に鄂國蓋長公主、愛する所の丁外人の爲に封侯を求め、許されず、光を怨む。燕王旦、自ら帝の兄を以て、常に怨望す。御史大夫桑弘羊、子弟の爲、に官を求めしが得ず、亦た怨望す。是に於て、皆、旦と謀を通じ、詐つて、人をして、旦の爲に上書せしむ。言ふ。光出でて郞羽林を西漢ー孝昭皇帝ー二三五 十八史略卷之二三六都肆し、道上に蹕と稱し、擅 に莫府の校尉を調益し、權を專にして、自ら恣にす。疑ふらくは、非常あらむと。光の出沐の日を候うて之を奏し、桀中より其事を下し、弘羊、當に大臣と共に執つあ、て光を退かしめんと欲す。書奏す。帝、肯て下さず。明旦、光評明治三十七年四月二日發行霍名光之を聞き、畫室中に止まつて入らず。上問ふ、大將軍、安くに在然燕王、其罪を告ぐるを以て、敢て入らずと。詔し成むふぞらのれる桀曰く、の得完何あ帝て、大將軍を召す。光入り、冠を免いで、頓首して謝す。上曰く、將軍、廣明に之いて、郞を都するは、屬のみ。校尉を調して以來、以王未だ十日なる能はず。燕王、何を以て之を知るを得む。且つ將軍、正式見る公とかつ所に以如非を爲せば、尉校を須ゐずと。この時、元鳳元年、帝、年十四。尙し)昭帝年僅か書、左右、皆驚く。而して、上書せし者、果して亡ぐ。之を捕ふる十ばく父若のをに克な皇し明鑑しら帝在あ別てにる邪四上に白す、忠こと甚だ急桀等懼れ、小事なり、遂ぐるに足らずと。しの位りす去、聽かず。後に、桀の黨、光を譖する者あり。上、輙ち怒つて曰せた祚め如乃く大將軍は忠臣、先帝の屬する所、以て朕の身を輔く、敢て毀るく漢りり中し興必主者あれば、之を坐せむと。是より、敢て復た言ふなし。桀等、謀り長公主をして、置酒して、光を請はしめ、兵を伏せて、之を格殺し、因つて、帝を廢して旦を立てむと欲す。安、又謀つて、旦を誘うて至らしめて、之を誅し、帝を廢して、桀を立てむとす。會ま、其謀を知る者あり、以聞す。桀.安、弘羊等を捕へ宗族を〓せミて、盡く之を誅す。蓋主旦と皆自殺す。西漢-孝昭皇帝-二二七 十八史略卷之二元四年、傅介子、西域に使し、樓蘭主を誘うて、之を刺殺し、傳を馳せて、闕に詣る。其匈奴の爲に反閒するを以てなり。元平元年帝、二十一にして崩ず。在位十四年。元を改むる三。曰く、始元、元鳳、元平。電光、政を爲し、民と休息し、天下無事。昌邑王賀は、哀王博の子、武帝の孫なり。光、賀を迎へて、入つて位に卽かしめ、皇后を尊んで皇太后となす。賀、淫戯度なし。光、奏して、之を廢し、武帝の會孫を迎立す、之を中宗孝宣皇帝となす。【孝宣皇帝】初名は病己。後改めて詢と名づく。武帝の曾孫なり。初め、戾太子據、史良娣を納れて、史皇孫進を生み、進病己を生む。數月にして、巫蠱の事に遭ひ、皆、獄に繫がる。氣を望む者言こと〓〓ふ長安獄中に天子の氣ありと武帝、使を遣し、盡く獄中の人を殺さしむ。丙吉、時に獄を治す。拒んで納れず。曰く、佗人の無辜も尙ほ不可なり。況んや、皇曾孫をやと。使者還つて報ず。武帝曰く、天なりと。長ずるに及びて、高材にして學を好み、亦た游俠を得失を知る。喜び、具さに間里の姦邪、吏治の昭帝の元鳳中、泰山に大石あり、自ら起立す。上林に僵樹あり、復た起つ。蠶其葉を食うて曰く、公孫病己、立たむと。賀の廢せらるるに及び、病己年十八。光等奏す、病己、躬、節儉慈仁にして、人を愛す、以て孝昭の後を嗣ぐべしと。迎へ入れて位に卽かしむ。旣に立つて六年、霍光西漢-孝宣皇帝-二二九 十八史略卷之二二三〇卒す。始めて政を親らす。評酸更地節三年路溫舒、上書して言ふ、秦に十失あり。其一、尙ほ存を蹂躙す人 /治獄の吏、inミの弊古る今易す。是なり。俗語に曰く、地を畫して獄となすも、入ららず恐ベミき哉ざらむを議し、木に刻して吏となすも、對せざらむを期すと。是れ悲痛の辭なり。願はくは、法制を省いて、刑罪を寛にせよ、則ち太ハ平興すべしと。上、爲に廷尉平を置き獄刑號して平となす。膠東の相王成、勞來怠らず。治に異績あり。爵、關內侯を賜ふ。魏相、丞相となり、丙吉、御史太夫となる。;四年。霍氏、謀反し、誅に伏す。其族を夷し、告ぐる者、皆、列侯に封ぜらる。初め、霍氏奢縱なり。茂陵の人徐福上疏して言ふ、宜しく、時を以て、抑制して、亡に至らしむる無かれと。書三たび 評ふ直る徐 明る所福しのの上說曲疏上る、聽かず。是に至り、人徐生の爲に上書して曰く、客、主味突す人に過るあり。其竈の直突にして、傍に積薪あるを見、主人に謂ふ、更めて、曲突となし、速に其新を徒せと。主人、應ぜず。俄に失火まあり。〓里共に之を救ひ、幸にして、息むを得たり。牛を殺し、酒を置いて、其〓人に謝す。人主人に謂つて曰く、さきに客の言を聽かしめば、牛酒を費さず、終に火患なからむと。今、功を論じて賞するに、曲突にして薪を徒せとする者には恩澤なく、頭を焦し額をさ爛す者を上客となすかと。上乃ち、福に帛を賜ひ、以て郞となす。帝の初めて立つて、高廟に謁するや、霍光、驂乘す。上、之を嚴西漢-孝宣皇帝-二三一 十八史略卷之二三憚して、芒刺の背に在るが如し。後に張安世、光に代つて驂乘するや、上、從容肆體、甚だ安近す。故に俗に傳ふ、霍氏の禍は驂乘に萌すと。たいしゆ〓〓いふ北海の太守朱邑、治行第一を以て、入つて、大司農となる。渤海の太守襲遂、入つて、水衡都尉となる。是より先、渤海歲饑ゑ、盜評の說用意周龔遂治邊起る。遂を選んで、太守となす。召し見て問ふ、何を以て、盜を治到といふ可むと。遂、對へて曰く、海濱遐遠、聖化に活はず。其民飢寒、然も吏恤まず。陛下の赤子をして、兵を潰池の中に盜弄せしむるのみ今、臣をして之に勝たしめむと欲するか將た之を安んぜしむるか。上曰く、賢良を選用す。素より、之を安んぜむと欲す。遂曰く、亂民を治むるは、亂繩を治むるが如し。急にすべからざるなり。願はくは、臣を拘するに文法を以てする勿れ、便宜を得て事に從はむと。上、許す。傳に乘じて、渤海の界に至るや、郡兵を發して迎ふ。遂、皆遣し還し、書を移して、捕を罷め、諸の田器を持する者を良民となし、兵を持する者を盜となす。遂、單車にして府に至る。盜聞いて、卽時に解散す。民、刀劍を持する者あれば、劍を賣つて牛を買ひ、刀を賣つて犢を買はしむ。曰く、何すれぞ。牛を帶び犢を佩ぶるやと。勞來巡行す。郡中、皆、蓄積あり。獄訟止息す。是に至り、召されて入る。評宣帝の時け、てう良吏輩出す元康元年京兆の尹趙廣漢を殺す。初め、廣漢、頴川の太守とな西漢-孝宣皇帝-二三三 十八史略卷之二三四廣漢は其一る。潁川の俗、豪傑相朋黨す。廣漢、飾項筩を爲り、吏民の投書人なりを受け、相告評せしむ。姦黨散落し、盜賊發するを得ず。之に由り、入つて、京兆の尹となる。尤も善く鉤距を爲し以て其情を得。さ閭里銖兩の奸も皆知る。姦を發し、伏を摘する。神の如し。京兆、政、〓し。長老傳ふ。漢興つてより、京兆を治むる者、能く及ぶなしと。是に至つて、人、上書して言ふ、廣漢、私怨を以て、人を論殺すと。廷尉に下す。吏民、闕を守つて、號泣する者數萬人。竟に坐して要斬せらる。廣漢、廉明にして、豪强を威制し、小民職を得たり。百姓追思して之を歌ふ。す尹翁歸を以て、右扶風となす。翁歸、初め、東海の太守となり、法過ぎて、廷尉于定國に辭す。定國、邑子を託せむと欲す。語ることあ、終日竟に敢て見せしめず。曰く、是れ賢將なり。汝、事に任へざるなり又子すに私を以てすべからずと。治郡の高第を以て、遂に入つて治す。常に三輔の最となる。評魏相名言二年。上匈奴の衰弱に因り、兵を出して、其右地を擊ち、復た義兵、應兵、忿兵、貪兵驕兵の別、西域を擾さざらしめむと欲す。魏相、諫めて曰く、亂を救ひ暴をすな三り思誅する、之を義兵といふ。兵義なるものは王たり。敵己に加へ、已むを得ずして起つもの、之を應兵といふ兵應ずるものは勝つ。小故を爭ひ恨み、憤怒に忍びざるもの、之を忿兵といふ。兵忿るものは敗る。人の土地貨寶を利するもの、之を貪兵といふ兵貪るも西漢-孝宣皇帝-二三五 十八史略卷之二二三六たのしゆうほこるしのは破る。國家の大を恃み、人民の衆を矜つて、威を敵に見めさむけうへいへいおごつつけうどんんと欲するもの、之を驕兵といふ。兵驕るものは滅す。匈奴、未だ邊きやうをかだしんぐ境を犯せしことあらず。今、兵を興して其地に入らむと欲す。臣愚にして此兵、何の名たるを知らざるなり。今年、計るに、子弟、父ぜうへんさ兄を殺し、妻、夫を殺せし者、二百二十二人。是れ小變に非ず。左いううれすなはせんかいいかりゑんい右憂へず、乃ち兵を發して、纎芥の忿を遠夷に報いむと欲す。殆んこうしいはゆるそんうれひせんゆせうしやうど孔子の所謂、吾恐る、季孫の憂は、顳史に在らずして、蕭牆の內じやうしやうに在るものなりと。上相の言に從ふ。がいたいしたいふそくわう兄の子太子少傅疏受と共に、たいしせうふそじゆじやうそ三年。太子太傅疏廣、上疏して、骸こつゆるかしこうけいこじん÷だうまうとうもん祖道宴骨を乞ふ。之を許し、黄金を加賜し、公卿故人、祖道を設け、東門ぐわいきようちやうくるますうひやくりやうだうろみけん外に供張す。送る者、車數百兩道路觀る者、皆曰く、賢なるきようぐぞくじんこきうひんかく哉、二大夫と。旣に蹄るや、日に金を賣つて共具し、族人故舊賓客をあひともごらくさんげふ請うて、相與に娛樂し、子孫の爲に產業を立てず。曰く、賢にして財そのこゝろざしそんそのあやまちまか多ければ、其志を損し、愚にして財多ければ、其過を益す。且つそとみしゆううらみそのあやまちま夫れ、富は衆の怨なり。吾、其過を益して怨を生ずるを欲せずと。しんしやくぐわんねんせんれいしよきやうそむじやうこうしやうぐんてうじうこく神爵元年先零、諸美と與に畔く。上後將軍趙充國に問はしたれこたらうしんむ、誰か將たるべき者ぞと充國、年七十餘、對へて曰く、老臣にまきやうりよはかまさいくにん踰ゆるなしと。復た問ふ、將軍、羌虜を度ること如何。當に幾人をはるかはかきんじやう用ゆべき。充國曰く、兵は遙に度り難し。願はくは、金城に至り趙充國屯田はうりやくたてまついたとんでんそうたてまつ三計圖して、方略を上らむと。乃ち金城に詣り、屯田の奏を上る。西漢-孝宣皇帝-二三七 十八史略卷之二二三八いと願はくは、騎兵を罷め、歩兵萬餘を留め、分つて要害の處に屯し、田せむと。條して兵を出さず、留まつて便宜十二事。奏、上る毎に、輒ち公卿に下して議せしむ。初めは其計を是とする者什に三、中ごろは什に五、最後には什に八。魏相、其計に任じ、必ず用ゆべ、しといふ。上、之に從ふ。二年。史隸校尉蓋寛饒、封事を上る。上、以て怨謗となし、吏に下す。寬饒、自到す。三年。丞相魏相、薨ず。故事に、上書する者、皆、二封を爲り、其一に署して副といふ尙書を領する者、先づ副封を發き、言ふ所善からざれば、屏去して奏せず霍光の薨ぜしより、相卽ち白二して、副封を去り、以て雍蔽を防ぐ、相となるに及びて、好んで、漢の故事及び便宜章奏するところを觀、數漢興つてより以來、便宜の行事、及び賢臣、賈誼、晁錯、董仲舒等の言ふ所を條し、請うて之を施行す。掾史に敕して、事を郡國に案ぜしむ。及び休〓ほして、家より還つて府に至れば、輒ち四方の異聞を白し、或は逆賊風雨の災異にして、郡、上らざるあれば、相、輒ち之を奏言す。わ御史大夫丙吉と共に、心を同じうして、政を輔く。上、皆之を重くわんだい評魏相丙吉んず。是に至つて、吉、代つて丞相となる。吉、寛大を尙び、禮讓漢代の名相はあ、を好む。嘗て、出で、群鬭死傷に逢ふも問はず。牛の喘ぐに逢うて、牛を逐ふこと幾里なるかを問はしむ。或ひと、吉の問を失するを西漢-孝宣皇帝-二三九 十八史略卷之二二四〇譏る吉曰く、民の鬭ふは、京兆の當に禁ずべき所なり。宰相は、細事を親らせず。當に問ふべき所に非ざるなり。春に方つて、未だあ、熱すべからず。恐らくは、牛、暑きが故に喘ぐならむ。是れ時氣節を失するなり。三公は、陰陽を調ふ職として、當に憂ふべしと。人、以て大體を知るとなす。五鳳元年左馮翊韓延壽を殺す。延壽、吏となり、古しへの〓化を好む。潁川の太守より入つて、馮翊となる。民に昆弟相訟ふるあ〓〓り、延壽、閤を閉ぢて、過を思ふ。訟ふる者、各 悔い復た爭はず。郡中翕然として、相敕厲す。恩信周偏にして、復た詞訟あるなし。吏民、其至誠を推して、欺給するに忍びず。是に至つて、事に坐して、棄市せらる。百姓、流涕せざるなし。評吏道の極意黃霸の言大三年。丙吉、薨ず。黃霸丞相となる霸、嘗て、頴川の太守となり、吏民、神明欺くべからずと稱す。〓化を力め誅罰を後にす。長史許丞、老いて、聾を病む。督郵白して、之を遂はむと欲す。霸曰く、許丞は廉吏、老いたりと雖も、尙ほ能く拜起す、重聽するも 何ぞ傷まむ。數ば長吏を易ふれば、故を送り、新を迎ふるの費、及び姦吏因緣して簿書を絕ち、財物を盜み公私の費耗、甚だ多からむ。易ふる所の新吏、又未だ必ずしも賢ならず。或は其故に如かず、徒に相益して、亂を爲さんのみ。凡そ治道は、其太甚しき者を去るのみと。霸外寬內明を以て、吏民の心を得たり。治、天下第西漢-孝宣皇帝-一四、 十八史略卷之二三評地方長官一となす。是に至りて、吉に代る。霸の材、治民に長ず。相たるに大阪市立大学中学校及びて、功名、郡を治むる時より損す。處に般才人な考のなとミず四年。大史農耿壽昌、白す。邊郡をして、皆、倉を築かしめ、穀"大盛大賤しければ、價を增して耀し、穀貴ければ、價を減じて糶し、以て常平倉民を利せむと。名づけて常平倉といふ。前の光祿勳楊憚を殺す憚廉潔にして私なし。人、上書して、憚妖惡の言を爲すと告ぐ。免じて庶人となす。憚、家居し、產を治めて、自ら娯む。其友、孫會宗、之を戒む。憚、報じて曰く、過大にして行虧く。當に農夫となつて、以て世を沒すべし。田家作苦、歲時伏臘、羊を烹、羔を無し、斗酒自ら勞す。酒後に耳熱し、天を仰ぎ、缶を拊つて鳴鳴と呼ぶ。其詩に曰く、田 彼南山。蕪穢不治。種一頃豆。落而爲 其。人生行樂耳。須富貴何時。と淫荒度なきも、其不可を知らずと。人、上書して〓ぐ、憚、驕奢にして悔いずと。廷尉に下して案ず。會宗に與へし所の書を得たり。帝、見て之を惡む。大逆無道を以て要斬す。評甘露元年公卿奏す、京兆尹張敞は、憚の黨友なり。宜しく、位ざ亦惜完以ひ人ど兆張る止むふて易のもな敵所むべし終し怨其りはかをき得り是を職然名得もずをを買司れ京なに處らしむべからずと。上、敞の材を惜んで、其奏を寢む。敞、掾、をき得り是を職絮舜をして案驗する所あらしむ。舜、私に歸つて曰く、五日の京兆のみ、安んぞ能く復た事を案ぜむやと。敞舜の語を聞き、卽ち收めて、獄に繋ぎ、竟に、それを死に致す。後、舜の家に〓げらる。西漢-孝宣皇帝-三 十八史略卷之二一四、敞上書し、闕下より亡命すること歲餘。京師枹鼓、數ば警む。上、敞の能を思ひ、復た之を召し用ゆ。黃霸、卒す。于定國、丞相となる。定國の父于公、初め獄吏となる。東海に孝婦あり。寡居して嫁せず以て其姑を養ふ。姑年老い、婦の嫁を妨ぐるを以て、自經して死す。姑の女、婦迫つて其母を死させしむと告ぐ。婦辯ずる能はず。自ら誣伏す。于公、之を爭へども得る能はず。孝婦死す。東海枯旱すること三年後の太守來る。ミ公其故を言ふ。太守、孝婦の家を祭る。遂に雨降る。于公、獄を5治めて、陰德あり。門間を高大にし、駟馬の車を容るべからしむ。曰く、吾が後世、必ず興る者あらむと。子定國、地節元年を以て、廷尉となる。朝廷、是を稱して曰く、張釋之、廷尉となつて、天下評ら民鏡をて寃民なし。于定國、廷尉となつて、民自ら寃とせずと。是に至り御自ら獄るせんの味噌らし史大夫より霸に代る。匈奴亂る。五單于立つを爭ふ。呼韓邪單于、上書す、願はくは、た塞を欵いて、藩臣と稱せむと甘露三年、來朝す。詔して、客禮を以て之を待ち、諸侯王の上に位せしむ。国;只上、戎狄の賓服せしを以て、肱股の美を思ひ、乃ち其人を麒麟閣に圖畫す。惟だ霍光のみは名いはず、大司馬大將軍博陸候姓霍氏といふ。其次は、張安世、韓增、趙充國、魏 相、丙吉、杜延年、劉德、梁丘賀、蕭望之、蘇武、凡て十一人。皆、功德あつて、名を西漢-孝宣皇帝-二四五 十八史略卷之二二四六たうせい當世に知らる。かいげんほんしちせつげんかうしんしやくほう評宣帝中宗帝、在位、改元するもの七、曰く本始、地節、元康、神爵、五鳳、名に背かれうはふむりよえんおこずのかんろくわうりう、ほうと甘露、黄龍、凡そ二十五年崩ず。杜陵に葬る。帝、閭閻より起り、かんなんれいせいちすうきしうみつひんしきび民事の艱難を知り、属精治を爲す樞機周密にして、品式備具すしししゆしやうすなはそのでんり刺史守相を拜するに、輒ち親ら見問す。常に曰く、民の、其田里にたんそくしうこんニミルゑんうつたへをさ安んじ歎息愁恨の聲なき所以のものは、政平かに、訟理まればなりやうおた千石かと。り我と此を共にする者は、其れ惟だ良二以爲へらく、評二千宣考石帝と論のす大良しばしへんえきたみやすちべにし參太守は吏民の本、すなは數ば變易すれば、ヒしよべんれい民安からず。ちつ故に、きん二千石、たまこうけい治理の效あれば、輒ち重書を以て勉勵し、秩を增し、金を賜ふ公卿かもろへうえらかんせいりやうり缺くれば、諸の表する所を選び、次を以て用ゆ漢世の良吏、是にさかんしんしやうひつぱつめいじつそうかく於て盛なりとなす。信賞必罰、名實を綜核し、政事文學法理の士、みそののうくはそのしよくかなそのげふやすけうど咸な其能を精しくし、吏、其職に稱ひ、民、其業に安んず。匈奴のすゐらんさうちばうおそんかたるほくいのぜんう衰亂に遭値し、亡を推し、存を固くし、威を北夷に信ぶ。單于、義したけいしゆはんこうそそうひかこうえいたちうを慕ひ、稽首して藩と稱す。功、祖宗に光り、業、後裔に垂る中こうかうそうしうせんひとかう興德を高宗、周宣に伴しうすといぶべし。太子、位に卽く。之を孝げんくわうてい元皇帝となす。せきじうじんじゆせん評漢祚衰ふ元帝文弱【孝元皇帝】名は奭。初め太子たりし時、柔仁にして儒を好む。宣ていぶんばふけいはふたゞ帝の用ゆる所、多く文法の吏にして、刑法を以て下を繩すを見。嘗えんしようよういへいかけい七..はなはふかよろて燕する時、從容として謂ふ、陛下刑を持すること太だ深し。宜しじゆせいなかんかおのづかせいどく儒生を用ゆべしと。宣帝、色を作して曰く、漢家自ら制度あり。本西漢-孝宣皇帝-孝元皇帝-三四 十八史略卷之二受評時と併家と霸、とをすに法宣い知蓋在覇帝ふるしり王漢王の道を以て之を雜ゆ。奈何ぞ、純ら德〓に任して、周政をのに法用用ゐむや。且つ、俗儒は、時宜に達せず。好んで、古しへを是とし、し言務な務を今を非とし、人をして、名實に眩して、守る所を知らざらしむ。何ぞ委任するに足らむやと。乃ち歎じて白く、我が家を亂る者は太子なりと。宣帝、少にして、太子の母家許氏に依る。許后、霍氏の毒を以て死す。故に、太子を廢するに忍びず。是に至りて位に卽く初元元年皇后王氏を立つ二年。蕭望之、周堪及び宗正、劉更生を獄に下し、皆免じて庶人と評政ら内容ら内茶とな專なす。時に、史高外屬を以て、尙書の事を領し、望之、堪、之に漠さ中帝言れ適宜すの豫副たり。二人は、帝の師傅。數ば治亂を言ひ、正事を陳す。更生を給事中に選し、侍中金敞と竝に左右に拾遺たり。四人、心を同じうして謀議す。史高は、位に充つるのみ。之に由つて望之と隙あり。中書令弘恭、僕射石顯、宣帝の時より、久しく樞機を典る。帝の位に卽くに及びて、多疾なり。顯の中人にして外黨なきを以て、遂に宦官事を用ふるの始委するに政事を以てし、事、大小となく、顯に因つて白決す。貴幸朝を傾け、百僚、皆、顯に敬事す。顯巧慧にして、事に習ひ、能く 深く人主の微指を得。内、深賊にして、詭辯を持し、以て人を中傷し、高と表裏す。望之等、外戚、許、史の放縱なるを患ひ、又恭顯の權を專らにするを疾んで建白す、以爲へらく、中書は政の本、國家の樞機、宜しく通明公正を以て之を處すべし。武帝、後庭に遊宴す、西漢-孝元皇帝-二四九 十八史略卷之二二五〇くわん〓〓故に宦者を用ゆ、古制に非ざるなり。宜しく、中書の宦官を罷め、古しへの刑人を近づけざるの義に應ずべしと。上從ふ能はず。恭顯、奏す。望之、堪、更生、朋黨相稱譽し、數ば大臣を譖詐し、親戚を毀離し、以て專ら權勢を擅にして、不忠を爲さむと欲し、上を誣ひて不道なり。請ふ、謁者をして、召して、廷尉に致さしめミむと。時に、上始めて位に卽き、召して、廷尉に致すとは、獄に送ることなるを省せず、其奏を可とす。後に。上、堪更生を召テす。曰く、獄に榮けりら。上、大に驚いて曰く、惟だ廷尉の問ふのみに非ざるかと。出でて、事を視せしむ。恭顯、高をして上に說かしめ竟に罷免す。後、上、復た堪、更生を徵して中郎となし、且つ望之を以て相となさむと欲す。恭、顯許、史、皆目を側つ。望之が素より高節にして、詘辱せられざるを知り建白す。望之、過を悔いた罪に服せず。深く怨望を懷き、自ら以へらく、師傅に託して、終に坐せられず、頗る望之を獄に屈せしめ、其快快の心を塞ぐに非ざれば、聖朝以て恩厚を施すなからむと。上曰く、太傅、素より剛あ、安んぞ、肯て吏に就かむ。顯等曰く、人命は至重、望之の坐する所は語言の薄過なり。必ず憂ふる所なしと。謁者をして、望之を召さしめ、因つて、急に執金吾の軍騎を發し、馳せて、其第を圍む。望之、鴆を飮んで自殺す石〓顯え弘恭、死す。中書令となる。西漢-孝元皇帝-二五一 十八史略卷之二111.けうどしつしぜんうかうきよ五年。匈奴の郅支單于、漢の使者を殺して、西、康居に走る。えいくわうぐわんねんけうどかんやぜんうてい永光元年匈奴の呼韓邪單于、北より庭に歸す。けんせうぐんたいしゆけいばうばうえきせうえんじゆ建昭二年。魏郡の太守京房を殺す。房、易を焦延壽に學ぶ。延壽けいせいらう嘗て曰く、我が道を得て、以て身を亡ぼす者は、京生ならむと。郞さいいけんえんけんこといとなり、屢ば災異を言うて驗あり嘗て、宴見して事を言ひ、意せきけんさそういだめミ石顯を指す。顯、奏して、之を出し、尋いで、徵して、獄に下してきし棄市す。我ちいけんゐけんひゞさかんちうしよぼくやらうれうせうふごろくじうそうたういう評帝家傾く內官橫暴顯威權日に盛なり。中書僕射牢梁、少府五鹿充宗と結んで黨友もろ〓〓ふてうゐとなる諸の附倚する者、寵位を得たり。民、之を歌うて曰く、牢邪石邪。五鹿客邪。印何纍纍。綬若若邪。と。せいゐきふくかうゐちんたうせいつはかんえんじゆ三年。西域の副校尉陳湯、とコしつしぜんうかうきよしふげき制を矯つて兵を發し、都護甘延壽と共くび郅支單于を康居に襲撃して、つたに、かうがいか之を斬る。四年春、首を傳へて、京に至る藁街に懸くること十日。きやうねいぐわんねんこかんやぜんうらいてうねがかんせい王嫡字昭君竟寧元年呼韓邪單于、來朝す。願はくは、漢に婿たらむと。こうきうわうしやうあざなせうくんたま後宮の王嬌、字は昭君を以て之に賜ふ。かいげんしよげんえいくわうけんせう帝在位十六年。きやうねい改元するもの四。初元、永光、建昭、竟寧帝じゆじゆつよろこるげんせいきやうかうしやういへどしやうげふ儒術を喜び、てい韋玄成、匡衡を得て相となすと雖も、相業なし。帝、いたづらいだんかんげふおとろかうせいくわうてい徒に優遊不斷、漢業衰ふ太子位に卽く。之を孝成皇帝となす。がうかふくわん【孝成皇帝】名は驚けいしよ母は王氏。帝を甲觀に生む。少にして、經書しゆがくかうえんらくげんていときを好み、其後、酒樂を幸して燕樂すほと元帝の時、太子となつて、幾西漢-孝元皇帝-孝成皇帝-二五三 十八史略卷之二二五四はいしたんせいほていきふかんしんど廢せられむとす。史丹、靑蒲に伏して、涕泣して諫止す。是にくらゐくわうたいごうげんきうわうほう至つて、位に卽く。王氏を尊んで、皇太后となし、元舅、王鳳を以評る治禍武王人氏す政之にをはせうしよりやう因專すにて大司馬大將軍となし、けんしぐわんねんせきけん尙書の事を領せしむ。めん建始元年。石顯、罪を以て免じ歸る道にして死す。きうわうすうあんせいこうたんしやうりつこんほうじしやくくわん舅王崇を封じて、安成侯となし、譚商立根逢、時に爵關だいこうくわうむよもふさ内侯を賜ふ。黄霧四に塞がる。ハンねんしよきう河平二年悉く諸舅を封じて、列侯となす。やうさくねんわうほうわういんわうたん陽朔三年。王鳳、卒す。王音、大司馬となり、王譚、城門の兵をりやう領す。こうかねんわうたんわうしやうじやうもんりやう鴻嘉四年。王譚、卒す。王商、城門の兵を領す。えいしぐわんねんたいこうまうしんと王莽こう永始元年太后の弟の子莽を封じて、新都侯となす。くわうごうてうしひえんぢよていがふとくせふよ皇后趙氏を立つ。名は飛燕、女弟合德を婕好となす。わういんわうしやう二年。王音、卒す。王商、大司馬となるもとなんしやうゐばいふくはうこんくんめいをかしゆゐ故の南昌の尉梅福、上書して曰く、うばぐわいせき方今、へいか君命犯されて、そのかたちさつ主威奪はれ、外戚の權、そのかげ日に益す以て盛なり。けんしいらいにつしよくぢしん陛下、しゆんじう其形を察せず、願は其景を察せよ。すゐさいくはひすういんさかん建始以來、やうび日食地震、きんてつため春秋に三倍し、と水災ともに比數するなし。けいたてまつ陰盛にはう陽微に、金鐵爲に飛ぶ。是れ何の景ぞやと。書、上れども、報ぜず。わうしやうわうこん四年。王商、卒す。王根、大司馬となる。評腐儒張禹あんしやうこうちやううしごとていぎあづか漢の事を誤安昌侯張禹、帝の師傅を以て、大政ある每に必ず定議に與る。西漢-孝成皇帝-〓 十八史略卷之二〓朱雲時に吏民多く上書して言ふ、災異は王氏專政の致す所なりと。上の所謂尙方エリーノ斬馬の劍をるに禹の第に至り、左右を辟け、親ら以て禹に示す。禹自ら、年老い、(おつけつ者な子孫の弱きを見、王氏に怨まれむことを恐れ、上に謂つて曰く、春秋の日食地震は、或は諸侯相殺し、夷秋中國を侵せしが爲ならむ。災變の意、深遠にして見がたし。故に、聖人、命を言ふこと罕に、怪神を語らず。性と天道とは、子貢の屬より聞くを得ず。何ぞ況んや淺見鄙儒の言ふ所をや。新學小生、道を亂し、人を誤る、宜しく信用なかるべしと。上、雅に禹を信愛す。之に由つて王氏を疑はず故の槐里の令朱雲、上書して見るを求め、願はくは、尙方斬ほ馬の劍を以て、侫臣一人の頭を斷て以て其餘を厲まさむと。上問ふ。誰ぞや。對へて曰く、安昌侯張禹と。上、大に怒つて曰く、小臣、下に居り、師傅を廷辱す。罪、死すとも赦さずと。御史雲を率ゐて下らむとす。雲、殿檻を攀ぢ檻折る。雲、呼んで曰く、臣、T、龍逢。比干に從つて遊ぶを得ば、足れり。未だ聖朝如何を知らざるのさしやうぐんしんけいきたみと。左將軍辛慶忌、頭を叩き、血を流して之を爭ふ上の意、乃ち解く檻を治むべきに及びて、上曰く、易ふる勿れ。因つて、之を輯めて、以て直臣を旌せと。綏和元年王根、病んで免ず。王莽、大司馬となる。二年帶、崩ず。在位二十六年。改元するもの七。曰く、建始河平陽朔、鴻嘉、永始、元延、綏和帝威儀あり、朝に臨んで西漢-孝成皇帝-毫 十八史略卷之二〓神の如し。然れども、酒色に荒み、政、外家に在り。張禹、薛宣、翟方進、相となり、漢業愈よ衰ふ。太子、位に卽く。之を孝哀皇帝となす。【孝哀皇帝】名は欣、定陶恭王康の子、元帝の孫なり。祖母は傅氏。母は丁氏。成帝、子なし。故に立てて太子となす。是に至つて、卽位す。丁傅、事を用ゆ。大司馬莽を罷めて第に就かしむ。建平元年夏賀良の言を用ゆ。漢歷、中頃衰ふ當に天命を更め受くべく、宜しく、急に元を改め號を易ふべしと。乃ち太初と改元し、陳聖劉太平皇帝と更め號す。尋いで、改元更號の事を罷め、夏賀良等を誅ず。帝、董賢を幸す。元壽元年賢を以て大司馬となす。二年、帝崩ず。賢自殺す。帝、在位七年。改元するもの二。曰く建平、元壽。太皇太后、王ちうざんわう莽を以て大司馬となし、尙書の事を領せしむ。中山王を迎へて、位に卽かしむ。之を孝平皇帝となす。【孝平皇帝】名は箕子。後、名を布と更む。中山孝王興の子、元帝の孫なり。哀帝崩じ、立つて嗣となる。太皇太后、朝に臨み、大司馬莽、政を乗る。百官、己を總べて、以て聽く。元始元年、莽を安漢公と爲す。四年。莽の女を聘して皇后となし、安漢公に號宰衡を加へ、諸侯西漢-孝哀皇帝-孝平皇帝ー堯 十八史略卷之二총う王の上に位す。たいしこうくわうせいあいいらいわざはひ五年。太師孔光、卒す。成哀以來、光等、三公となり、漢の禍をやうせいてんねいふうまうしよう養成し、證侫風を成し、上書して莽を顔する者四十八萬人に至る。しやく莽に九錫を加ふらふじつせうしゆたてまつどくお臘日、莽、椒酒を帝に上り、毒を置く、帝、崩ず、在位六年改げんしげんそんえいめ元するもの一、曰く、元始。太皇太后、詔して、宣帝の玄孫嬰を徵じゆしキうせつゐして、皇太子となし、號して、孺子嬰といふ莽、攝に居て、祚をふさんかくわうていせつくわうてい踐み、贊して假皇帝といひ、民臣は、之を攝皇帝といふ。きよせつぐわんねんりうそう【孺子嬰】嗣たるの初、之を王莽の居攝元年となす。劉崇、兵を起まうがして、莽を討つ。克たずして死す。たいしゆてきぎもとじようしやうはうしん二年。東郡の太守翟義、故の丞相方進の子なり。兵を起して、莽を討つ。克たずして死す。recordentまうしんてんししん王莽集位明治三十七莽、眞天子の位に卽き、國を新と號す。漢の太皇太后あらたしんしつぶんぽたかくわうたいごうわうまうわうまんを更め號して、新室文母太皇太后といふ王莽は、王曼の子なり。1)評孝元皇后の兄弟八人。獨り、曼、公に自早く死して侯たらず。くん莽、幼にし周詩しやうぐんしび言日)王莽て孤なり。群兄弟、皆將軍たり。五侯の子時の修靡に乘じて恭謙下士上はせかしよくいついうあひたかせつきようけんきんしん時、若使當輿馬聲色を以て佚游相高ぶる。莽、節を折つて、恭儉をなし、勤身無形電話はくがとひさじゆせいえいしゆんしよふつかつぶさ新鮮鐵道博學被服、儒生の如く、外は英俊に交り、内は諸父に事へ曲に誰知れいいしんとこうしやくゐますまたつとせつさういよいけんきよよりう禮意あり。新都侯に封ぜらる。爵位益す尊く、節操愈よ謙虛譽隆からそのしよふかたむかんせいあいていほうへいていげいりつ治、其諸父を傾け、遂に漢政を得たり。哀帝崩じて平帝を迎立し、西漢-攝子嬰-六 十八史略卷之二云五年にして、帝を弑し、位を攝する三年。竟に位を簒し、國を新と號す。始建國元年孺子嬰を廢して、定安公となす。二年漢の太皇太后王氏崩ず。だp天鳳四年。〓州、盜起る新市の人王匡之が帥たり。馬武、王綠林の賊常·成丹、往いて之に從ひ、綠林山中に藏る。五年。莽の大夫揚雄、死す。雄字は子雲、成帝の世、賦を奏するを以て、郞となり、黄門に給事たり。三世、官を徒さず。莽の簒するに及び、耆老久次を以て、轉じて、大夫となる。嘗て、太玄、x法言を作る。卒章に莽の功德を稱して、伊周に比し、又劇秦美新の文を作り以て莽を頌す。劉棻、嘗て、雄に從つて奇字を學ぶ。藁事に坐して、誅せらる辭雄に連及す。時に、雄、書を天祿閣上に校す。使者、來つて、之を收めむと欲す。雄、閣上より投下す。莽詔して、問ふなからしむ。是に至つて死す。瑯邪の樊崇、東海の〓子都等の兵起る。地皇三年崇の兵、自ら赤眉と號す。綠林の兵、分れて、下江、新市の兵となる。〓州、平林の兵起るび弟秀劉續劉秀漢の宗室、劉續及共に春陵に起る。新市、平林の兵、皆之に附く。明年、諸將共に、劉玄を立てて、皇帝となす。玄は春陵西漢-焉子嬰-云 十八史略卷之二云の戴侯買の後、續秀と高祖を同じうす。時に平林の軍中に在り、更始將軍と號す諸將、其懦弱を貪つて、之を立つ南面して立ち、群臣を朝せしむるに、手を以て席を刮し、羞愧して汗を流し、言ふ能はず大赦して、更始と改元し、宛に都す。更始元年劉秀、大に莽の兵を昆陽に破る。隗囂成紀の隗囂の兵起る。公孫述公孫述、兵を成都に起す。更始、將を遣して、武關を破る。析人鄧曄、兵を起して、長安にrn迎へ入る。衆兵莽を誅し、首を傳へて更始に詣る。莽、未だ簒せざる時、官名、及び十二州の界を更定し、罷置改易し、天下多事なな3り錯刀契刀大錢等の貨を更造す。旣に、位を簒するや、劉の字、卯金刀なるを以て、剛卯金刀の利を禁じ、錯月、契刀、五銖錢等を罷む。天下の田を更名して、王田といひ、買賣するを得ず。男口八に盈たずして、田一井に過ぐれば、餘田を分つて、九族、〓里に予ふ故に田なき者、田を受く。五均、司市、錢府の官を立て、民を)ノして、各業とする所を以つて、貢となさしめ、寶貨を更作し、金銀龜貝、錢布、五物、六名、二十八品あり。百姓潰亂寶貨行はれず。乃ち小錢大錢を行ふ。數ば更變して、信ならず盜鑄し、及び私に五銖錢を挾む者は、罪に抵る。是に於て、農商業を失ひ、食貨共に廢し、民、市道に涕泣するに至る。後、又、貨布貨泉を改西漢-孺子嬰-二六五 十八史略卷之二二六六む。一度、錢を易ふる每に、民、又、大に鑄錢法を陷犯し、檻車鎖頸傳へて長安に詣るもの、十萬を以て數ふ。死什に六七。制度を改易し、政令煩多、四方囂然として謳吟し、漢を思ふこと久し。歲旱して蝗あり。人相食み、遠近兵起る。莽五石の銅を以て、威斗を鑄、北斗の狀の如くし、以て衆兵を厭勝せむと欲し、出入に、人をして之を負うて行かしむ。漢兵の宮に入るに及び、猶ほ席を旋いらし、斗柄に隨つて坐して曰く、天、德を予に生ず。漢兵、其れ予を如何と。首を漸臺に斬る。軍人、其身を分ち、節解して、之を變す。簒より亡に至るまで、改元するもの三。曰く、始建國天鳳地皇、凡そ十五年。莽、首を傳へて、宛に至る。更始宛より都を洛陽に遷す。父老、司隸校尉の官屬を見、或は涕を垂れて曰く、圖らざりき。今日、復た漢官の威儀を見むとはと。更始元年。都を長安に遷す。赤眉、長安を攻む。明年、赤眉入る。更始、出奔す。旣にして、赤眉に降り、爲に殺さる。立つてより亡ぶるに至るまで凡そ三年。前數月、大司馬秀、旣に河北に卽位す。之を世祖光武皇帝となす。西漢-孺子嬰-二六七 譯新十八史略卷之三西紀自二五至二二〇東漢【世祖光武皇帝】名は秀、字は文 叔、長沙の定王發の後なり。景帝、發を生み、發、春陵の節侯買を生む。侯たること再三世、封を徙し、南陽の白水〓を以て春陵となし、宗族、往いて家す買の少子外、外、囘を生み、囘、南頓の令欽を生み、欽.秀を南頓に生む嘉禾一莖九穂の瑞あり、故に名づく。是より先、望氣の者あり、春陵を望んで曰く、氣佳なる哉、鬱鬱葱葱然たりと。王莽、貨を改東漢-世祖光武皇帝-二六九 十八史略卷之三三·三はくすゐしん〓〓めて、貨泉といふ。人其字を以て、白水眞人といふ。秀、竟に白評高帝は隆水より起り、隆準にして日角あり、尙書を受けて、大義に通ず。嘗準龍顏光武は隆準日て、蔡少公を過ぐ、少公、圖識を學ぶ言ふ、劉秀、當に天子たる相角ある兩り似者貌頗たべしと。或ひと曰く、國師公劉秀か秀、戯れて曰く、何に由つて、る處Bi僕に非ざるを知らむやと。新市、平林の兵起るに及び南陽騒動す。宛人李通、秀を迎へて、兵を起す。秀の兄續、字は伯升、慷慨大節〓あり常に憤憤として、社稷を復せむと欲す。平居、家人の生業を事とせず。身を傾け、產を破り、天下の雄俊に交結す。是に於て、親客を分遣して、諸縣の兵を發せしめ、續自ら春陵の子弟を發す。皆恐懼して亡げ匿る。曰く、伯升、我を殺すと。秀が絳衣大冠するを見るに及んで、驚いて曰く、謹厚なる者も亦た復た之を爲すと。乃ち自ら安んず。賓客を部署し、諸帥を招說す。新市、平林、下江の兵、皆、來り會す。兵、統一するところなく、劉氏を立てて、人望に從はむと欲す。下江の將王常、續を立てむと欲す。新市、平林の將帥、其威明を憚つて、遂に更始を立て、續を以て大司徒と秀を將軍となす。なし、秀、昆陽、定陵、〓を徇へて、皆、之を下莽、す。王邑、王尋を遣し、大に兵を發して、山東を平げしむ。長巨無霸を以て壘となし、人虎豹犀象の屬を驅り、以て兵勢を助け、百餘萬と號す。旌旗、千里絕えず。諸將、兵の盛なるを見て、皆、走つて昆陽に入り、散じ去らむと欲す。秀、郵定陵に至り盡東漢-世祖光武皇帝-モ 十八史略卷之三三しよえいぜんほうじんいく諸營の兵を發し、自ら步騎千餘に將として前鋒となる。尋、邑こしざんしゆすうきふ兵數千を遣して合戰せしむ。秀、之を奔らしむ。斬首數十級。諸將おそいさ曰く、劉將軍、平生、小敵を見るも怯る。今大敵を見て勇む。甚だ敵敵評大てれ秀勇勇大小謂見怯劉あやししりぞしよぶり所ををなむ怪むべきなりと。尋、邑の兵、却く諸部、共に之に乘じ、かんししきりすしに勝つて遂に前む。一、百に當らざるなし。秀、敢死の者三千人とくづ其中堅を衝く、尋、邑の陣、亂る。漢兵、銳に乘じて、之を崩し、こさうちうぐわいいきほひ遂に尋を昆陽に殺す。城中の守者、まう亦た鼓譟して出で、つひ中外勢をあひふさ合し、呼聲、天地を動かす。莽の兵、大に潰え、走る者相踐み、伏あめふしひやくよだいらいふううをくぐわと虎戸百餘里。みなこせん大雷風雨に遇ひ、しせんできし屋瓦飛び、雨下ること注ぐが如し。くわんちうしんきよう豹皆股戰す。滍川に溺死する者數萬關中、之を聞いて震恐す。きやうおうぼくしゆ海內の豪傑響應し、皆、莽の牧守を殺し、自ら將軍と稱し、漢のじゆんげつえんけいてい年號を用ゐ、旬月にして天下に遍し。續の兄弟、威名日に盛なりかうししうiiたちんせき更始、續を殺す。てい秀敢て喪に服せず、飮食言笑す。惟だ枕席に涕きかうしはぶしんこう泣する處あるのみ。更始慙ぢ、秀を大將軍に拜し、武信侯に封ずいくばくだいしは未だとな幾ならずして、秀を以て大司馬の事を行はしめ、河北を徇へ莽の苛政を除くまうしむ。とううさく鄧禹過ぐる所、南陽の鄧禹、策を杖いて秀を追げふほうはいもつぱ牛仔干頭ひ鄴に及ぶ。秀曰く、我、封拜を專らにするを得たり。生、遠く來ういはねがたる、寧ろ、仕へむと欲するか禹曰く、願はざるなり。但だ願はくめいこうゐうそのせきすんいたは明公の威德、四海に加はり、再、其尺寸を效すを得て、功名をちくはくたかうしじやうさいたいげふた竹帛に垂れむのみ。更始は常才、帝王は大業、任ふる所に非ず。明東漢-世祖光武皇帝-二七三 十八史略卷之三二七四公、英雄を延攬し、務めて民心を悅ばすに如くはなし。高祖の業を立て、萬民の命を救はば、天下は定むるに足らざるなりと。秀、大に悅び、禹をして、常に中に宿止せしめ、共に計議を定む。邯鄲の詐つて成帝の子子與と稱し、ト者王郞ト者王郞、邯鄲に入つて、帝と稱し、幽冀を徇下し、州郡響應す。秀、北、薊を徇ふ。上谷の太守耿況の子弇、馳せて盧奴に至つで上謁す。秀曰く、是れ我が北道の主人なりと。薊城反して、王郞に應ず。秀趣に城を出で、晨夜、南に馳て、馮異せ、蕪畫亭に至る。馮異、豆粥を上る饒陽に至つて食に乏し。下曲陽に至り、王郞の兵、後に在りと聞き、滹沱河に至る。候吏還白す、つて河水流漸す、船なければ濟るべからずと。秀王霸をして之を視せしむ。霸、衆を驚かさむことを恐れ、還つて、卽ち詭つすて曰く、氷堅くして渡るべしと。遂に前んで河に至る。氷、亦た合す。卽ち渡る。未だ畢らず、數騎にして氷解く。南宮に至り、大風雨に遇ひ、道傍の空舍に入る。馮異、薪を抱き、鄧禹、火を蒸く。秀、竈に對して衣を燎る異、復た麥飯を進む。下博城の西に至り、惶惑して、之く所を知らず。白衣の老人あり、指して曰く、努力せよ。信都は長安の爲に城守す、此を去ること八十里と。秀、卽ち馳せて、之に赴く。時に、郡縣皆旣に王郞に降る。獨り信都の太守任光、和戎の太守邳形肯んぜず。光、出でて、秀の至るを聞き、大に喜ぶ形も、亦た來り會す。旁縣を發し、精兵を得、檄を移し東漢-世祖光武皇帝-二七五 十八史略卷之三〓〓て、王郞を討つ。郡縣亦た響應す。秀、兵を引いて、廣阿を拔く。上興地の圖を披き、鄧禹に指示して曰く、天下の郡縣、斯くの如し。今、始めて其一を得たり。子、前に定むるに足らずと言ひしは何ぞや。禹曰く、方今、海內殺亂、人、明君を思ふこと、猶ほ赤子の慈母を慕ふが如し。古しへの興るものは、德の厚薄に在つて、大小に評鄧馬銘る國は在在謂漁陽の兵を以て、右すをと不者所在らざるなりと。耿弇、上谷、行く郡縣を定め、宇文明な者家蓋大德りのにし小厚座存志也薄秀に廣阿に會し、進んで、部鄲を拔いて、王郞を斬る。吏民の郞と交るの書數千章を得たり。秀諸將を會して、之を燒いて曰く、反側子をして自ら安んぜしむと。秀、吏卒を部分するや、皆言ぶ、けんたい大樹將軍願はくは、大樹將軍に屬せむと。馮異を謂ふなり。人と爲り、謙退にして伐らず。諸將、功を論ずる毎に、異、常に樹下に屏く、故に此號あり。更始、使を遣して、秀を立てて蕭王となし、兵を罷めしむ耿弇、王に說き、辭するに河北未だ平がざるを以てして、徵に就かざらしむ。王、銅馬諸賊を擊ち、悉く破つて之を降す。諸將、未だ降者を信ぜず。降者、亦た自ら安んぜず王、敕して、各營にる、歸つて、兵を勒せしめ、自ら輕騎に乘じて、諸部を案行す。降者、相語つて曰く、蕭王、赤心を推して、人の腹中に置く。安んぞ、死評輕す諸光る部武はをのた騎悉く以て諸將に分配し、行に術も雄謂案を效さざるを得むやと。南、河内を徇ふ。ふ所心英收攬赤眉、西、長安を攻む。王、將軍鄧禹等の兵をして關に入らしむ。なてり人す民にし術衆、寇恂を薦め、文武備具して、民を牧し衆を御するの才ありとい東漢-世祖光武皇帝-三七 十八史略卷之三天| -英のみふ。河內を守らしむ。王、自ら兵を引いて、燕趙を徇へ尤來、大的〓。 〓〓。 大正術た槍等の諸賊を擊つて、盡く之を破る。王、還つて、中山に至る。諸らず將、尊號を上る。許さず。南平棘に至つて固く請ふ。又許さず。耿純曰く、士大夫、親戚を捐て、土壤を棄てて、大王に矢石の間に從ふは、素より龍鱗を攀ぢ、風翼に附いて其志す所を成さむと欲するのみ。今、時を留めて、衆に逆ふ、恐らくは、望絕え、計窮まらば去歸の思あらむ。大衆一度散ずれば、復た合すべきこと難しと。馮異、亦た言ふ、宜しく衆議に從ふべしと。會ま、儒生强華、關中より赤伏符を奉じて來る。曰く、劉秀、兵を發して、不道を捕ふ。四夷雲集龍、野に鬭ふ。四七の際、火を主となすと。群臣、因つて復た請ふ。乃ち皇帝の位に部南に卽き、建武と改元す。선이赤眉の樊崇等宗室劉盆子を立てて帝となす。時に軍中に在りて、羊を牧するを主り、被髮徒跣、敝衣〓汗、衆の拜するを見れば、恐畏して、啼かむと欲す。賊長安に入る。更始、走る。帝、詔を下し、封じて淮陽王となす。宛人卓茂、嘗て、密の令となる。〓化大に行はれ、道遺ちたるを拾はず。卽位、上、先づ茂を訪求し、以て太傅となして褒德侯に封ず車駕、洛陽に入る。遂に之に都す。東漢-世祖光武皇帝-二七九 十八史略卷之三二八〇關中、未だ定まらず。鄧禹、衆を引いて西す。百萬と號す。至る處、車を停め、節を駐め、百姓を勞來す。垂髫戴白、車下に滿つ。名、關西に震ふ枸邑に至る。久しく、兵を進めず。赤眉、大に掠めて出づ。再、乃ち長安に入る。赤眉、復た入る。再.戰つて利あからずして走る。徵されて京師に還る。馮異をして、關に入らしむ。功無きを慚ぢ、再、異を要して、共に赤眉を攻めて、大に囘溪に戰つて敗績す。散卒を收めて、壁を堅うす。既にして、大に赤眉を崤底に破る。重書、異を勞して曰く、初め、翅を囘溪に垂るると雖も上可謂失之東終に能く翼を瀧池に奮ふ、之を東隅に失して、之を桑楡に收むとい隅、收之桑る、楡ふべしと。赤眉の餘衆、東宜陽に向ふ。上軍を勒して、之を待つ。樊崇、劉盆子、丞相徐宣等を以て、肉袒して降る。上、軍馬を陳し、盆子の君臣をして、之を觀しめ、謂つて曰く、降を悔ゆる;無きを得むや。眞叩頭して曰く、虎口を去つて慈母に歸す誠歡かう··鐵中之錚錚庸中之佼佼誠喜、限なし。上曰く、卿は、謂ゆる鐵中の錚錚、庸中の佼佼たるものなりと。各、田宅を賜ふ。唯陽の人、劉永を斬つて降る。劉永、更始の時に在つて、立つて梁王となる。更始亡ぶるや、永、帝と稱す。是に至つて敗る5M漁陽の太守彭寵の奴、寵を斬つて以て降る。初め、上、王郎を討つ時、寵.突騎を發し、粮を轉じて絕たず、自ら其功を負んで、意評遼東の家望甚だ高く、滿つる能はず。幽州の牧朱浮、書を與へて曰く、遼東東漢-世祖光武皇帝-元 十八史略卷之三二八二ゐのこきさけんに豕あり、子を生む、白頭なり。將に之を獻ぜむとす。道にして、たちを 失に謂覺せず、所ぐんしみなしろしえつれうとうし野して着て師 192しを大群豕に遇ふ、皆白し。子の功を以て、朝廷に謁せば、遼東の豕ならふ者てうめうたがむと。上、寵を徴す。寵自ら疑ひ、遂に反す。是に至つて敗る。りうえいたせいわうちやうほくだとうらいたいしゆ劉永立てし所の齊王張歩降る。上、初め、步を以て東萊太守となしやうぐんかうかんしばしす。旣にして、永の命を受けて、齊に王たり。將軍耿弇、屢ば戰つしゆくあせいなんりんして大に之を破る。祝阿、齊南、臨舊を拔く。車駕、臨舊に至つて、ねぎらなんやうたいさく軍を勞ふ。弇に謂つて曰く、將軍、前に南陽に在り大策を建つ。お(あがたつひ嘗て以爲へらく、落落合ひ難しと。志在るものは、事、竟に成るなせいちことんりと。歩、敗る齊地悉く平らぐしやうぐんごかんらうかいせいわうとうけんおよはんしやうほうら將軍吳漢等、擊つて、劉永立つる所の海西王董憲及び叛將龐萠等こうわいさんとうたくわいがうこうそんじゆつを斬る。江淮山東、悉く平らぐ。時に惟だ隗囂、公孫述、未だ平がまさず。上、苦を兵間に積む。諸將に謂つて曰く、しばらく、當に此兩どぐわいお子を度外に置くべきのみと。へういちやうあんにふてう馮異、長安より入朝す。上、公卿に謂つて曰く、是れ我が兵を起しゆぼけいぎよくみことのりせし時の主簿なり、吾が爲に荊棘を披いて、關中を定むと。詔しいらうさうそつぶるていとうしゆくこだかばくはんこういて、異を勞して曰く、倉卒、蕪〓亭の豆粥、濾沱河の麥飯、厚意、はう久しく報ぜずと。けんぶねんくわいがう建武八年。上、自ら將として、隗囂を征す。えいせんか、しつきんごかうじゆん寇恂潁川、盜起る。上、還つて、執金吾寇恂に謂つて曰く、頴川は京はくきんま師に迫近す。獨り卿、能く之を平げむのみ。九卿より復た出づる東漢-世祖光武皇帝-二八三 十八史略卷之三二八四さこと〓〓可ならむかと。恂上に勸めて、親征せしむ。賊悉く降る。恂竟に郡に拜せず。百姓道を遮つて曰く、願はくは、寇君を借ること一年ならむと。乃ち恂を留めて、鎭撫せしむ。大軍戰はずして還る。建武九年。隗囂、死す。囂、更始の初年、兵を起してより、建武評應述援隗とか再最描心る亂の冪公復孫馬興をのけ答間往の初めに至るまで、天水に據り、自ら西州上將軍と號す。後、嘗台灣獨家居委て、馬援を遣して、成都に往いて、公孫述を觀せしむ。援述と舊あり、當に手を握つて歡、平生の如くなるべしと謂へり。時に、述、すざ三る讀のみし所飽旣に帝と稱する四年。援旣に至る。盛に陸衞を陳して、以て援を延く。援、其屬に謂つて曰く、天下雌雄未だ定まらず公孫、哺を吐いて國士を迎へず、反つて、邊幅を修飾す、偶人の形の如し。是れと何ぞ久しく天下の士を稽むるに足らむやと。因つて辭して歸る。囂井底の蛙に謂つて曰く、子陽は井底の蛙のみ然も、妄りに自ら尊大にす。如かず、意を東方に專らにせむにはと。置、乃ち援をして、書を洛陽に奉ぜしむ初め到るや、良や久しうして引き入る。上、殿庶の下より岸情して迎へ、笑て曰く、卿二帝の間に敖遊す。今、卿を見るに、人をして、大に慚ぢしむ。援頓首して曰く、當今但だ、君、臣を擇ぶのみに非ず、臣、亦た君を擇ぶ臣、公孫述と同縣、少にして相善し。臣、前に蜀に至る。述陛戟して後に臣を進む。臣今、遠く來る。陛下、何ぞ刺客姦人に非ざるを知つて、然も簡易なること、是の如き。帝笑つて曰く、卿は刺客に非ずおもふに說客東漢-世祖光武皇帝-二八五 十八史略卷之三云云ならむのみ。援曰く、天下反覆、名字を盜む者、勝げて數ふべからず。今、陛下を見るに、恢廓大度、符を高祖に同じうす。乃ち帝王自ら眞あるを知るなりと。援歸る。書東方の事を問ふ。援曰く上、才明勇略、人の敵に非ざるなり。且つ心を開き、誠を見はして、隱伏する所なく、闇達にして大節多く、略ば高祖と同じく、評祖と馬可祖の味と高經學博覽にして、政事文辯、前世比なし。囂曰く、卿高帝に如何不可もなし。と謂ふか。援曰く、如かざるなり高帝は可もなく、と名を人しをる上手圓の上多者のみ知今上、吏事を好み、動くこと法度の如くし、又飮酒を喜ばずと。囂懌ばずして曰く、卿の言の如くなれば、反つて、復た勝れるかと。子をして入つて侍せしむ。未だ幾ならずして反す。復た、嘗て班彪に問ふに、戰國從橫の事を以てす。彪、王命論を作つて之を諷す。囂聽かず。馬援、行在に詣る。上、復た游說せしめ、仍つて、自ら囂に書を賜ふ。費、竟に公孫述に臣たり。述囂を立てて、朔寧王となす。上、囂を征す。馬援、上の前に在り、米を聚めて山谷と上なし、形勢を指畫し、軍の從る所の徑道を開示す。上曰く、虜吾が目中に在りと。遂に軍を進む。囂西城に走り、餓を病み恚憤こと〓〓して卒す。子純、降る。隴右悉く平らぐふも十二年。公孫述、亡ぶ。述は、茂陵の人、更始の時より、蜀に據つて、帝と稱し、國を成と號す。上、旣に隴右を平らぐ。曰く、人隴を得て蜀を望むは自ら足らざるに苦む。旣に隴を得て復た蜀を望むと。大司馬吳漢東漢-世祖光武皇帝-二八七 十八史略卷之三六八等をして、兵に將として、征南大將軍零彭に會して蜀を伐たしむ彭、〓門に在つて、戰艦を裝ふ。漢、之を罷めむと欲す。彭可かず上·彭に報じて曰く、大司馬、步騎を用ゆるに習うて、水戰をおせん!曉らず、〓門の事、一に惟だ征南公を重しとなすのみと。彭の戰船並に進み、向ふ所前なし。述盜をして、彭を刺さしむ。吳漢、繼いで進み、成都に至つて、撃つて、述を殺す。蜀地、悉く平らぐ。凉州の牧竇融河西、武威、張掖、酒泉、燉煌、金城、五郡の太守を以て入朝す。融建武の初より、河西に據り後、使をして、書を奉ぜしむ。上、以て牧と爲し、重書を賜うて曰く、議者、必ず任囂が尉化に〓へて七郡を制するの計あらむと。書至る河西、皆驚き、以爲へらく、天子、明、萬里の外を見ると。上、隗囂を征するや融、五郡の兵を率ゐて、大軍と會す。蜀、平らぐ。詔を奉じて朝に歸す冀州の牧に拜せらる。大将軍の印を賜坦む。に十八年代王盧芳、匈奴に死す。芳は安定の人。詐つて、武帝の曾孫劉文伯と稱す。建武の初より、安定に據る。匈奴、之を迎へ、立てて漢帝となす。數は邊郡の寇患をなす。後、來り降り、代に王たり。復た反して、匈奴に奔り、病を以て死す。二十二年匈奴、和親を求む。上使を遣して、之を許す。呼韓邪單于、成帝の時に死せしより、其後、累世、貴、漢に仕ふ。平帝の時、王莽、條を匈奴に頒つて中國に二名なしと謂ひ、單于に諷し東漢-世祖光武皇帝-二八九 十八史略卷之三二九〇て名を改めしむ。莽、漢を簒し、漢の賜ひし所の單子の重を易へて章といふ。單于、怨恨して、數ば邊に寇す。建武以來、匈奴、盧芳を助けて漢に寇す。後、又、數ば烏桓、鮮卑と兵を連ねて入寇す。是に至つて、始めて、和を請ふ。西域、都護を請ふ、許さず。遂に匈奴に附く。是より先、莎車王けんぜん〓〓賢都善王安、皆使を遣して奉獻す。賢の使、再び至る。上賢に都護の印綬を賜ふ邊郡の守、上言す、假すに、大權を以てすべからずと。詔して、收め還し、更めて大將軍の印を賜ふ。賢、恨む。猶は詐つて大都護と稱す。諸國悉く賢に服屬す。質、驕橫。西域を兼併せむと欲す。諸國懼る。凡そ十八國、子を遣して入侍せしめ願はくば、漢の都護を得むといふ。上厚く賜うて、其侍子を還さしむ。是に至つて、復た請ふ。上、復た之を却く二十四年匈奴、南邊の八部、日逐王比を立てて南單子となす。た漢塞を欵いて內附す。是に於て、分れて、南北匈奴となる。二二五五。貊人鮮卑、烏桓並に入朝す。3)二十六年南單于の庭を立て、使匈奴中郞將を置き、以て之を領せしめ、南單于を徒して、西河の美稷に居らしむ。二十七年。北匈奴、亦た使を遣して和親を求む。明年、又請ふ、之を許す。評高祖立國精神、王中元二年。上、崩ず。上兵を起せし時、年二十八、卽位の年三東漢-世祖光武皇帝-二九一 十八史略卷之三二九二上がにに紀ど,5,る進すのをとてを本代と治柔は而霸道な國道主し道を以し光混と十一。第五倫、詔書を讀む毎に、歎じて曰く、是れ聖主なり、一見てて武ゆして決せむと手書、方國に賜ふに、一札十行、細書文を成す。政體を明愼し、權綱を總攬し、時を量り、力を度る。大ゝるるれしは東しのに時本擧として過事なし。嘗て、南陽に幸し、置酒して宗室を會す。諸母相與に語つて曰通 有 べ べ た た 文 亦 法 と 館 )く,文叔、平日、人と欵曲せず、惟だ直だ柔なるのみ乃ち能く此の如しと。上、之を聞いて笑つて曰く、吾、天下を理むる、亦た柔道を以て之を行はむと欲すと。上、兵間に在つて、久しく武事を厭ふ。蜀、平らいで後、警急に非ざれば、未だ嘗て軍旅を言はず。)の恪北匈奴、衰困す。减宮、馬武、上書して、攻めて之を滅さむことを柔能じ 333に勝ち)つ能請ひ、劍を鳴らし、掌を抵つて、志を伊吾の北に馳す。よ書を報くぬさうじ、告ぐるに黄石公の包桑記を以てす。曰く、柔、能く剛に勝ち弱能く强に勝つと。之より、諸將、敢て兵を言ふなし。玉門關を閉ぢて、西域を謝絕し、功臣を保全し、復た任ずるに兵事を以てせ列侯を以て第に就かしむ。す。皆、吏事を以て三公を責め、亦た功臣を以て吏事に任ぜず。諸將、皆、功名を以て自ら終る。祭遵先つて死す。上、之を念うて己まず、來歙、要求、鋒鏑に死す。之をさ郞むこと甚だ厚し。吳漢、賈復、帝の世に終る。漢、軍に在つて、評當世世祖戰、或は利あらざるも、意氣自若たり。上、歎じて曰く、吳公、差も敵の所謂やてき一國內的や人意を强うす、隱として一敵國の如しと。師を出す毎に朝に詔機人間のでのを受けて、夕に道に就く。卒するに及び、上、臨んで言はむと欲す東漢-世祖光武皇帝-二九三 十八史略卷之三二九四る所を問ふ。漢曰く、臣愚、願はくは、陛下、愼んで赦すことなかざをらむのみと。復は、兵を起せし時より督たり。上曰く、賈督、千里を折衝するの威ありと。嘗て、戰つて傷を被る。上、驚いて曰く、吾、嘗て、其敵を輕んずるを戒む。果して然り。吾が名將を失ふ。聞く、其婦孕むるありと。子を生まむか、我が女之に嫁せしめむ。女を生まむか、我が子、之を娶らむと。其群臣を撫する、毎に此の如し。惟だ馬援死するの日、恩意頗る終へず援、嘗て曰く、大丈上夫當に馬革を以て屍を裏むべし。安んぞ、能く兒女の手に死なむやと。交趾反す。援伏波將軍を以て、之を討平す。武陵蠻反す。援、又行くを請ふ帝、其老ひたるを愍む。援甲を被り、馬に上上り、鞍に據つて顧眄し、以て用ゆべきを示す。上、笑つて曰く、矍鑠たる哉此翁やと。卽ち之を遣る。之より先、上の婿梁松、嘗て、援を候して牀下に拜す。援自ら父の友なるを以て答へず。松不ひ平なり。援、交趾に在り、嘗て、書を遣つて、其兄の子を戒めて曰く吾、汝曹、人の過を聞くこと、父母の名を聞くが如くならむことを欲す。耳には聞くべく口には言ふべからず。好んで人の長短を議論し、政法を是非する、子孫に此行在るを願はざるなり。龍伯高は、敦厚周愼、謙約節儉、吾、之を愛し、之を重んず。願はくは、汝曹、之に效へ。杜季良は、豪俠にして義を好み、人の憂を憂ひ人の樂を樂み、父の喪に客を致すや、數郡 畢く至る、吾、之東漢-世祖光武皇帝-二九五 十八史略卷之三二九六を愛し、之を重んず。汝曹の之に效ふを願はざるなり。伯高に效う鵠を刻して成らざるて得ざるも猶ほ謹敕の士とならむ、謂ゆる、大竹成線 電車 大阪すつらをにるして成てざ畫類も季良に效うて得ざれば、陷つて天下の輕狗れいす尙も、尙ほ鶩に類するなり。ら反つて狗に類するなりにばて類反成薄子とならむ。謂ゆる、虎を畫いて成らず、保を告し、と季良は杜保。保の仇人、上書して、援の書を以て證となす。保、坐して、官を免ず。松、保と遊ぶに坐して、幾んど罪を得むとし、愈よ援を恨む。是に至つて、援の軍、壺頭に至つて利あらず、軍中に卒す。松、構へて、之を陷れ、新息侯の印綬を收む。援、前に交趾に在つて、常に薏苡を餌す。身を輕くして瘴氣に勝つを以てなり。軍還る時、之を一車に載す。後に之を追讚する者あり、以爲へらく、明珠文犀なりと。上、益す怒る。朱勃、上書して、其寃を訟ふるを得て、乃ち稍や解く。上贓罪に於て貸す所なし。大司徒歐陽歙、嘗て、贓を犯す。歙の受くる所の尙書の弟子千餘人、闕を守つて求哀す。竟に免れず、獄に死す。用ゆる所の群臣、宋弘等の如き、皆、重厚正直。上の姉、湖陽公主、嘗て寡居す。意、弘に在り。弘、入つて見ゆ。主屏後に坐す。上曰く諺富んでは交を易へ、に言ふ、貴くしては妻を易ふと。人情か弘曰貧賤の交は忘るべ貧賤の交は忘るべからず、糟糠の妻は堂より下さずと。上、主ず、ず登精のを顧みて曰く、事諧はずと。主、蒼頭、人を殺して主の家に匿る下妻るあり。吏、得ること能はず。洛陽の令董宣、主の出行を候ふ。奴東漢-世祖光武皇帝-二九七 十八史略卷之三〓驂乘す。叱して、車より下して之を格殺す。主、入つて訴ふ。上大に怒り、宣を召して、之を捶殺せむと欲す。宣曰く、奴の人を殺すを縱さば、何を以て天下を治めむ。臣、捶を須たず。請ふ、自殺たせむと。卽ち頭を以て楹を叩き、血を流して面に被る。上小黃門をして、頭を叩へて、主に謝せしむ。宣兩手、地に據つて、終に肯んぜず。上、敕す、强項令出でよと。錢三十萬を賜ふ。當時州牧郡守縣州牧郡守縣令、皆、良吏たり郭仮、潁川に守たり。帝城に近し、令皆良吏上、之を勞して曰く、河、九里を潤す。京師福を蒙ると。杜詩、南陽に守たり、郡人之が爲に語して曰く、前に召父在り、後に杜母在りと。張堪漁陽に守たり。人之が爲に語して曰く、桑に附枝なく麥穗兩岐、樂支るべからずと。劉昆、江陵に令となる。火あ評劉の一叩頭して之に向へば、風を反して火を滅す。に條之個民 、のり。後に、弘農に守た語〓を然み」今り虎、北、河を渡る。上、問ふ、何の德政を行うて是に至る。昆の旨の座右進む曰く、偶然のみ。上曰く、長者の言なりと。命じて之を策に書せしむ。尤も高節を重んず。處士周黨を召す。至る。屈せず、伏して謁四重五十五せず、或ひと奏して、之を詆る。上曰く、古しへより、明王聖主は、西武士山必ず不賓の士ありと。帛を賜うて之を罷む。處士嚴光、上と共に、嘗て游學す。物色して、之を齊國に得たり。羊裘を披いて澤中に釣る。徵されて至る。亦た屈せず。上、光と臥す。足を以て、帝の腹に加ふ。明日、太史奏す、客星、御座を犯すこと甚だ急なりと。上東漢-世祖光武皇帝-二九九 十八史略卷之三三〇〇曰く、朕、故人嚴子陵と共に臥するのみと。諫議大夫に拜せらる。肯て受けず。去つて畊釣し、富春山中に隱れて終る。漢世、〓節の士多きこと、之より始まる。天下、未だ平ならざるに方つて、上既に文治に志あり。首として、大學を起し、古典を稽式し、禮樂を修明す。晩歲、明堂、靈臺、辟雍を起つ燦然たる文物述ぶべし。毎旦、朝を視、日昃いて、乃ち罷む。公卿郞將を引いて經理を講論し、夜分に乃ち寐ぬ。皇太子、聞に乘じて諫めて曰く、陛下禹湯の明あるも、黃老養性の道を失ふ。上曰く、我自ら此を樂む、疲るとなさざるなりと。在位三十三年、身、太平を致す。改元するもの二、曰く、建武、中元。書、六十二。太子立つ。之を顯宗孝明皇帝となす。【孝明皇帝】初名は陽、母は陰氏、光武、微なりし時、嘗て曰く、仕宦すれば、當に執金吾となるべし。妻を娶らば、當に陰麗華を得べしと。後、竟に之を得たり。陽を生む。幼にして、穎悟。光武、州郡に詔して、墾田戶口を檢覈す。諸郡、各、人を遣して、事を奏す。陳留の吏牘を見るに、上に書あり。之を視るに云ふ穎川弘農は、問ふべし、河南、南陽は、問ふべからずと。光武、吏に由を詰る。惟だ街上に於て、之を得たりと言ふのみ。光武、怒る。陽年十二、幄後に在り。曰く、吏、郡敕を受け、墾田を以て、相方べむと欲するのみ。河南は帝城、近臣多し。南陽は帝〓、近親多し。東漢-孝明皇帝-三〇一 十八史略卷之三三〇二せいじゆんなじ田宅、制に踰ゆ、準となすべからずと。以て、吏を詰る。吏首じざくわくくわうごうはいいんきじんめて服す。光武、大に之を奇とす。郭皇后、廢せられ、陰貴人、さう立つて后となる。陽を皇太子となし莊と改名す。是に至て卽位す。へきようのぞやうらうれいきう永平二年。辟雍に臨んで、養老の禮を行ふ。李躬を以て三老となくわんえいらうかうたんし、桓榮を五更となし、三老は東面し、五更は南面す。上、親ら袒せいさしやうとしやくいんして、牲を割き、醬を執つて饋し、爵を執つて醋す。禮畢つて、榮のぼくわんたい及び弟子を引いて、堂に升らしむ。諸儒、經を執つて問難す。冠帶しんめぐくわんちやうおくまんけい縉紳の人、橋門を圓りて觀聽する者、億萬計。うんだいおう三年。中興の功臣二十八將を南宮の雲臺に圖畫し、二十八宿に應とうはせいごかんわうれうかさちんしゆんかうかんず。鄧禹を首となし、次は馬成、吳漢、王梁、賈復、陳俊、耿弇、ともかうじゆんふしゆんしんはうけんじんへういわうは杜茂、しゆいうじんくわうさいじゆん寇恂、傅俊、岑彭、堅鐔、馮異、王霸、朱祐、任光祭遵ちうけいたんばんしうがいえんひ李忠、からてうきりうしよくかうじゆん景丹、ざうきうはぶ萬修、盖延、形邳、銚期、劉植、耿純減宮、馬武、はえん劉隆。あづ惟だ、馬援のみは、皇后の父たるを以て與からず。とうへいわうさう十一年。東平王蒼、へうきしやうぐん來朝す。蒼、上の卽位の初より、驃騎將軍と1なり、五年にして、國に歸る。是に至つて、入朝す。上、問ふ、家をきういはに處つて、何を以て樂となす。蒼曰く、善を爲すこと最も樂しと。ませいゐきとぼきかうゐ十七年。かうへい復た西域都護、けうど戊己校尉を置く。初め、耿秉、匈奴を伐たむことを請ふ。ひ謂ふ、う宜しく、武帝が西域に通じて匈奴の右臂を斷ちしが如くなるべしと。とうこ上、之に從ひ、乗と竇固とを以て都尉とりやうしうたむろかははんてうなし、凉州に屯す。固、假司馬班超を西域に使せしむ。超、部善に東漢-孝明皇帝-三〇三 十八史略卷之三三〇四至る。王、之を禮すること、甚だ備はれり。匈奴の使來るや、頓かか虎穴に入らに、疎僻なり。超、吏士三十六人を會して曰く、虎穴に入らざればざれば虎子を得ず虎子を得ずと。虜營に走つて、其使及び從士三十餘級を斬る。都善の一國、震怖す。超告ぐるに、威德を以てし、復た虜と通ずるなからしむ。超、復た于寅に使す。其王、亦た虜使を斬つて、以て降る。是に於て、諸國、皆、子をして入侍せしめ、西域復た通ず。是に至つて、竇固等、車師を擊つて還り、陳睦を以て都護となし、及び耿恭を以て戊校尉となし。關龕を己校尉となし、分つて西域に屯せしむ。十八年。北匈奴、戊校尉耿恭を攻む、初め、上卽位の明年、南單于比死す。弟莫立つ。上、使をして、重緩を授けしむ。北匈奴、邊に寇す。南單于、擊つて、之を卻く。漢、北匈奴と交使す。南單干、怨んで、畔かむと欲し、密に人をして與に交通せしむ。漢度遼將軍を五京に置いて、以て之を防ぐ。旣にして、漢北匈奴を擊つ北匈奴、亦た邊に寇す。是に至つて、恭を金蒲城に攻む。恭、毒藥を以て、矢に傅け、匈奴に語つて曰く、漢家の箭は神なり、中事る者は異ありと。虜創を視れば、皆沸く。大に驚く。恭、暴風雨に乘じて、之を擊つ。殺傷甚だ衆し。匈奴、震怖して曰く、漢兵は神なり、眞に畏るべしと。乃ち解いて去る。上崩ず。在位十八年。改元するもの一曰く永平。壽四十八。上東漢-孝明皇帝-三〇五 十八史略卷之三三〇六評孝明偏察性偏察、好んで耳目を以て、隱發して、明となす。公卿大臣、數ば小慧隱發以爲す名て得たりと君に詆毀せられ、近臣尙書以下提曳せらるるに至る。嘗て、郞藥崧を怒あらずり、杖を以て、之を撞く。崧、走つて、床下に入る。上、怒ること天子穆穆諸甚しく、疾く言つて曰く、郞出でよ、郞出でよ。崧曰く、天子穆穆侯皇皇たり、諸侯皇皇たり、未だ人君自ら立つて郞を撞くを聞かずと。乃ち之を赦す。上、建武の制度を遵奉して更變するなし。后妃の家、侯に封ぜられ、政に預るを得ず。館陶公主、子の爲に郞を求む。上曰く、郞官は、上、列宿に應じ、出でては百里に宰たり苟くも其人に非ざれば、民、其 殃を受けむと。許さず當時、吏、其人を得て、民、其業を樂み、遠近畏服し、戶口滋殖す。太子立つ、是を肅宗孝章皇帝となす。【孝章皇帝】名は恒、母は賈氏。馬皇后、之を養ひ、立つてい太子となる。是に至つて卽位す。西域、都護を攻沒す北匈奴、己校尉を圍み、又、耿恭を圍む。詔して、兵を遣り都護及び戊己校の尉官を罷む。惟だ、班超上疏して、兵を請ひ、遂に西域を平げむと欲す。上、功の成るべきを知つて、之に從ふ。北匈奴の五十八部、來り降る。時に、北匈奴、衰耗し、黨衆離畔す。南部、其前を攻め、丁零、其後に寇し、鮮卑、其左を擊ち、西域其右を攻め、復た自立する能はず。乃ち、遠く引いて去る。鮮東漢-孝章皇帝-三〇七 十八史略卷之三三〇八卑、北單于を斬る。故に、部衆、來り降る者あり。上崩ず。在位十三年。改元するもの三、曰く建初、元和、章和壽三十一。上、明帝察察の後を繼で、人の苛切を厭ふを知り、事寛厚に從ひ、之に交ゆるに禮樂を以てす。嘗て、貢擧法を議す。韋彪、議して曰く、國、賢を簡ぶを以て務となす。賢は、孝行を以て忠臣氏求む首となす。忠臣を求むるは、必ず孝子の門に於てすと。上、之を然認證ず孝子の門に於りとす。廬江の毛義、行義を以て稱せらる。張奉之を候す。府檄孝て子すき毛義適ま至り、義を以て安陽の令に守たらしむ。義、檄を捧げて入り、喜顏色に動く奉、心に之を賤む。後に、義の母死するや、徵辟皆、至らず。奉、乃ち歎じて曰く、往日の喜は、親の爲に届す評元孝前漢は四孝るなりと。上、詔を下して、之を褒寵す。州郡、人を得たり。廉范十明漢太年孝は平の蜀郡に在るが如き、禁を弛めて、以て民に便す。民、之を歌うて章光あ武七孝東約曰く、廉叔度、來何暮、不禁火、民安作、昔無襦、今五袴、と。漢の祚太以長平あしり所玆に當時、皆以て、徭を平かにし、賦を簡にす。忠恕の長者、政を爲し、上の世を終るまで、民、其慶に賴る。太子立つ、是を孝和皇帝となす。【孝和皇帝】名は肇、母は梁氏、竇太后之を子とし、年十歲にして卽位す。竇后、朝に臨み、竇憲、外戚を以て侍中たり、事を用ゆ。罪あり、出でて北匈奴を擊つて、以て自ら贖はむことを求む。后石にしし之に從ひ、大に匈奴を破り、燕然山に登り功を勒して東漢-孝章皇帝-孝和皇帝ー三〇九 十八史略卷之三三一〇還る。入つて、大將軍となる。四年、父子兄弟、並に卿校となり、朝廷に充滿す。逆謀あり。上、之を知り、遂に宦者鄭衆と議を定め、兵を勒し、憲の印綬を收め、迫つて自殺せしむ。衆を以て、大宦官權を用ゆるの始長秋となし、常に與に政を議す。宦官、權を用ゆる之より始まる是より先、漢兵、北單于を擊つ。走つて死す。漢其弟を立つ。後に叛す。追うて斬つて、之を滅す。鮮卑徙つて、北匈奴の地に據る。之より、漸く盛なり。評將の典型班超は武班超を徵して、京師に還らしむ。卒す。超、書生より起り、筆を投じて、萬里外に封侯たるの志あり。相者あり謂つて曰く、生、燕頷虎頭、飛んで肉を食ふ、萬里侯の相なりと。假司馬より、西域に入り、章帝の時、西域の將兵の長史となる。上、超を以て西域の都護となす。諸國を平定す。西域に在ること三十年。功を以て、定遠侯に封ぜらる。是に至つて、年老いたるを以て、歸るを乞ひ、願はくは、生きて玉門關に入らむといふ。上之を許す任尙、代つて都護となる。〓を請ふ。超曰く、君、性嚴急なり。水〓けれ「評言東起こ)け訓ば、大魚なし。宜しく、蕩佚簡易なるべしと。尙、私に人に謂つて水れば大魚な-宜しく曰く、我班君、當に奇策あるべしと。今、言ふ所は平平たるのみ蕩迭簡易な)と尙、後、果して、邊和を失ふ。超の言の如し。後人味ふべ上在位十八年、崩ず。改元するもの二、曰く、永元、元興。太子立つ是を孝殤皇帝となす。東漢-孝和皇帝- 孝殤皇帝ー三二 十八史略卷之三三一二【孝殤皇帝】名は隆、生れて百餘日にして卽位す。延平と改元す。在位八閱月にして崩ず。時に、皇太后鄧氏、朝に臨み、郵隱と共に策を定め、嗣を立つ、是を孝安皇帝となす。【孝安皇帝】名は祐、〓河王慶の子、章帝の孫なり。未だ冠せず、迎へられて位に卽く。鄧后、尙ほ朝に臨む。鄧隱、大將軍となる。時に、邊軍多事。鄧隱、凉州を棄てて力を北邊に併さむと欲す。郞中虞調、以て不可となす。曰く、關西將を出し、關東相を出す。烈士武夫、多く凉州より出づと。衆皆、調の議に從ふ。隨謝を惡んで、之を陷れむと欲す。朝歌の賊、長吏を攻め殺して、州郡制する能はざるに會し、詡を以て、朝歌の長となす。故舊之を弔ふ(電話本局二四〇九)翻曰く、盤根錯節に遇はざれば、以て利器を別つなしと。官に至る順番地下ば傷け、其後の為に及び、壯士を募る。攻劫するものを上となし、人を偸盜するもの之に次ぐ。百餘人を收め得て、賊中に入らしめ、誘うて、劫掠せしめ、兵を伏せて、數百人を殺す。又、ひそかに、貧人の能く縫ふ者を遣して、賊衣を傭作せしめ、絲線を以て其裾を縫ひ、市里に出づる者あれば、卽ち之を禽にす。賊駭き散ず。縣境、皆平らぐ。太后、謝が將帥の略あるを知り、以て武都の太守となす。叛羌數千、謝を遮る。認.停まつて進まず。兵を請ひ、到るを須つて、乃ち發せむと宣言す。美、之を聞いて、旁縣に分鈔す。認、其散ずるに因つて、道を進む。軍士をして、各、兩竈を作らしめ、日東漢-孝殤皇帝-孝安皇帝-三一三 十八史略卷之三三一四に之を增倍す。或ひと曰く、孫牘は竈を減ず。然るに、君之を增す。兵法に、日に行くこと三十里に過ぎず。然るに、今、日に二百里ならむとするは何ぞや。翻曰く、虜の衆は多く、吾が兵は少し徐に行けば、及ばれ易く、速に進めば、彼測らず。虜吾が竈の日に增すを見れば、郡兵來り迎へしと謂はむ衆多くして、行くこと速評なれば、必ず我を追ふに憚らむ。孫臏は、弱を示す、吾、今强を示示孫るる論用す示虞し廣べこにに兵し謝ては成きとああ法ては成〓は成强功運功をしああ法てはす、勢同じからざるなりと。旣に到る。郡兵三千にして美は萬餘。赤亭を攻圍すること數十日。調、命ず、强弩を發する勿れ、ひそからりり知ざ理に小弩を發せよと羌、力弱くして到る能はずと謂ひ、兵を并せてをな急に攻む。是に於て、二十の强弩をして、共に一人を射らしむ。發すれば、中らざるなし。美、大に驚く。認、因つて、城を出でて奮擊す。明日、悉く其兵を陳し、東郭門より出でて、北郭門に入らしめ、衣服を貿易して、囘轉すること數周美、其數を知らず相さ恐動す。認、ひそかに淺水に於て、伏を設け、其走路を候ふ。美、果して大に奔る。因つて、掩擊して、大に之を破る。賊之に由つて敗散す。太后、崩ず。鄧隱、罷められて自殺す。汝南の太守王襲、才を好み、士を愛す。袁聞を以て功曹となし、黃憲陳蕃等を引進す。憲の父は牛醫、憲、年十四。潁川の荀淑く逆旅に遇ひ、竦然之を異として曰く、子は吾の師表なりと。聞を見東漢-孝安皇帝-三一五 十八史略卷之三三一六て曰く、子の國に顏子あり。聞曰く、吾が叔度を見たるかと。戴良才高し。憲を見て歸る毎に、惘然自失するが若し。其母曰く、汝、復た牛醫の兒より來るかと。陳蕃等、相謂つて曰く、時月の間も、太原の廓泰黄生を見ざれば、鄙吝の萌、復た心に存すと。太原の郭泰、闘を過ぐるに宿せず。憲に從つて、日を累ぬ。曰く、奉高の器は、之を沈5hわ?濫に譬ふ。〓しと雖も、挹み易し。叔度は、汪汪として、千頃の波のむねに、之を〓ませども〓まず、之を撓せども濁らず、量るべからざるなりと。憲初め孝廉に擧げられ又公府に辟さる。人、其仕を勸む。しばらく、京師に至つて卽ち還り、年四十八にして終る。太尉楊震自殺す太尉楊震、自殺す。震は關西の人、時人之を稱して曰く、關西の孔子は楊伯起と。生徒に〓授す。堂下に三〓を得たり。都講以爲へらく、三公の象ありと。取つて、以て進めて曰く、先生、之より升らむと。後、嘗て、郡守となる。屬邑の令、金を懷にして、之に遣天知る者あり。曰く、暮夜知る者なし。天知る、とぞ我知震曰く、子知る子ター何る地地知る、知る)我知る、る、何ぞ知るなしといはむと。令、慚ぢて退く三公とない知はるんなるに及びて、時に宦者及び上の乳母王聖事を用ゐ、皆、請託あり。震、從はず。又數ば近習を以て言となし、共に之を構へ、策して、印綬を收む。遂に死す。葬るの日、名士皆來り會す。大鳥あり、高さ丈餘、墓前に至つて俯仰し、流涕して去る。上、少にして聰明と號す。旣に位に卽いて、失政多し。在位十九東漢-孝安皇帝-三一七 十八史略卷之三三一八年にして崩ず。改元するもの五、曰く、永初、元初、永寧、建光、延光。太子、前に近習に譜せられ、坐して廢して濟陰王となる。閣皇后、朝に臨み、閻顯と共に、章帝の孫北〓侯懿を迎へて位を嗣がしむ。宦者孫程等、顯を誅し、闇后を遷して、濟陰王を迎立す、之を孝順皇帝となす。【孝順皇帝】名は保、孫程等の立つる所となる。宦官、功を以て侯に封ぜられし者十九人。尙書令左雄、奏して、郡國に令して孝廉を擧げしめ、年四十以上を限る。諸生、章句に通じ、文吏賤奏を能くすれば、乃ち選に應6 iずるを得。其茂材異等ある、顏淵、子奇の若きは、年齒に拘らざらしむ。雄公直精明にして、能く眞僞を審覈し、志を決して、之を行ふ。少年を擧げて至る者あり。雄之を詰つて曰く、顏囘は、一を聞いて十を知る。孝廉は一を聞いて幾を知るかと。之を頃くして、中外、謬擧に坐して黜免せらるる者、十餘人。惟だ、汝南の陳蕃、潁川の李膺、下邳の陳球等三十餘人、郞中に拜せらるるを得たり皇后の父梁商を以て大將軍となす。商、死す、其子冀を以て大將軍となし、不疑を河南の尹となし、使者八人を遣して、州郡を分行豺狼道に當安せしむ。張綱、獨り、其車輪を洛陽の都亭に埋めて曰く、豺狼、道問んはぞ·銀座社んに當る。安んぞ狐狸を問はむと。冀と不疑とが君を無みするの心を東漢-孝順皇帝-三一九 十八史略卷之三100効奏すること十五事。上、綱の言直なるを知れども用ゆる能はず、冀、之を中傷せむと欲す。廣陵の賊張嬰、揚徐の間を寇亂すること十餘年。乃ち、綱を以て、廣陵の太守となす。綱單車にして、徑に嬰の壘門に至り、請うて、與に相見て、之を譬曉す。嬰等、萬餘人降る。綱、壘に入つて宴し、散遣して、之く所に任かす。南州、ぶ晏然たり。郡に在つて卒す。嬰等、之が爲に服を制し、喪を行ふ。良吏蘇章時に二千石、長吏、政を能くする者あり。冀州の刺史蘇章、故人、〓河太守となるあり。章、部を行り、爲に酒を設けて、甚だ歡ぶ。守、喜んで曰く、人、皆、一天あり。我獨り二天ありと。章曰く、今日、蘇孺文、故人と飮する者は、私恩なり。明日、冀州刺史として、事を案ずるは、公法なりと。遂に、其姦贓の罪を擧正す。上在位二十年。崩ず。改元するもの五、曰く永建、陽嘉、永和、漢安、建康太子立つ、之を孝冲皇帝となす。【孝冲皇帝】名は炳、年二歲にして卽位す。三閱月にして崩ず。改元するもの一、曰く承嘉梁太后、渤海孝王の子を迎へ立つ、是を孝質皇帝となす。【孝質皇帝】名は繼、章帝の曾孫なり。年八歲にして卽位す。少にして、聰慧なり。嘗て、朝會に因つて、梁冀を目して曰く、是れ跋跋扈將軍扈將軍なりと。冀深く之を惡み、左右をして、餅中に於て毒を進めしむ。遂に崩ず。在位一年。改元するもの一、曰く、本初。冀東漢-孝順皇帝-孝冲皇帝-孝質皇帝-三 十八史略卷之三三二二蠡吾侯を迎立す、之を孝桓皇帝となす。【孝桓皇帝】名は志、章帝の曾孫なり。年十五にして卽位す。梁冀定策の功を以て、封を益す。又、其子弟を封じて皆侯とす。李固、杜喬、〓河王蒜を立てむと欲す。是に至つて、蒜、貶せられて候となり、自殺す。固、喬、獄に下つて死す。前の朗陵侯の相穎川の荀淑、少くして博學、高行あり。李固李膺等之を師宗とす。朗陵に相たるや、治、神君と稱す。子八人、時人、稱して八龍となす。其六を爽といふ、字は慈明。人言ふ。荀氏の八龍、慈明、無雙なりと。縣令、其里を命づけて陽里といふ爽、嘗て、李膺に謁し、因つて、之が爲に御す。旣に還つて、喜んで曰く、今日、乃ち李君に御するを得たりと。同郡の陳寔、淑と名を齊しうす。嘗て、淑に詣る。長子紀、字は元方、車を御し、次子諶、字は季方、驂乘し、孫群、字は長 文、尙ほ幼、車中に抱淑の家に至るや、八龍更迭して、左右に侍し、淑の孫或、字は文若、尙ほ幼、膝上に抱置す。太史奏す、德星見はる、五百里内、賢人の聚まるあらむと、寔嘗て、大丘の長となり、德を修めて〓淨なり吏民是を追思す。紀諶の子、其父の優劣を其祖に問ふ。寔難爲兄難曰く、元方は兄たり難し、季方は弟たり難しと。爲弟評一崔寔の政詔して、獨行の士を擧ぐ。涿郡の崔寔、公車に至り、對策せず以て殘を練かんとするして、退いて政論を著す。略に曰く、聖人は、能く世と推移す。俗東漢-孝桓皇帝-三二三 三二四十八史略卷之三んおけつじようやくらんしんしよざは、苦んで變を知らず、以爲へらく、結繩の約は、亂秦の〓を治をる治刑もめ以はををにと疾梁以しすを肉をててる治し大とる以は平罰のんてけいばつううまひへいじやうむべく、于羽の舞は平城の圍を解くべしと。夫れ、刑罰は亂を治むとくけうれうにくざんやくせき殘を除くむるの藥石なり、德〓は平を興すの梁肉なり。德〓を以て、味るの供藥求ふのな養石は、是れ梁肉を以て疾を治むるなり。刑罰を以て、平を治むるは、にすもておんたいおほぎよべ所りすきようやう是れ藥石を以て供養するなり。そのくつわ數世より以來、ぼとはし政くわうろけんけい恩貸多く、まさ馭は3そのたづな方に勤其轡を委て、馬は其衝を駘ぎ、けん四牡橫に犇り、あ皇路險傾すくわらんなせつそうけんしう節奏を拑し、軸を韃し、以て之を救はむとす、豈に和鸞を鳴らし、いうしいとま右趾をを〓むるに暇あらむや。むかし、文帝、肉刑を除くと雖も、きしうたわうしたう文帝、斬るに當するを棄市し、答るる者は、往往死に至る。是れ、ちうちやうとうげん其嚴を以て平を致す、寛を以つ平を致すに非ざるなりと。仲長統、つううつ書を見て曰く、凡そ、人主たらん者、宜しく、一通を寫して、之をざそくお座側に置くべしと。しゆぼくしうししいんと朱穆、冀州の刺史となる。令長、風を望み、印を解いて去る者數いたとんをそうがいくわんじやきさうぎよくかふ十人到るに及びて、貪汚を奏効す。宦者父を歸葬するに、玉匣もちあんけんそのくわんひらを用ゆる者あり。穆案驗し、其棺を剖いて、之を出す。上、聞いめていゐいただいがくせいりうたうらて、大に怒り、穆を徵して、廷尉に詣らしむ。大學生劉陶等、數千うつたちうくわんこくへいせつぢ人上書して、穆を訟ふ、謂ふ、中官、國柄を竊持し、手に玉爵をにぎてんけんさかうぜんかへりつく握り、口に天憲を街む。穆、獨り、亢然として顧みず、心を竭し、いだぼく憂を懷いて、上の爲に深く計る。臣、願はくは穆の罪に代らむと。またじやうそりよう上之を赦す。陶、又上疏して、穆及び李膺を以て、王室を輔けむ東漢-孝桓皇帝-三二五 十八史略卷之三三二六ことを乞ふ。書、奏すれども、省せず。梁冀、凶恣日に積む。外戚を以て、事を用ゆるもの二十年。威內外に行はれ、天子、手を拱するのみ。上、宦者單超等と謀り、兵を勤して、冀の印綬を收む。冀自殺す。梁氏、少長となく、皆棄市せらる。超等五人、皆、侯たり。冀の誅せられしより、天下、異政を想望す。黃瑀、首として大尉となる。陳蕃、處士徐穉、姜肱等を薦む。穉字は孺子、豫章の人。陳蕃守たりし時、特に一榻を設けて、穉を待ち、去れば之を縣く。稱、対諸公の辟に應ぜず。然れども、其死を聞けば、輙ち笈を負うて、赴ついて弔ひ、豫め一雞を炙り、酒を以て綿に漬し、暴乾して、之を裏み、家隧の外に至り、水を以て綿に漬し、白茆、飯を藉き、雞を以て前に置き、祭り畢れば、謁を留め、喪主を見ずして行く。肱は彭城の人、二弟、仲海、季江と倶に孝友なり。常に被を共にす。嘗て主盜に遇ふ。兄弟死を爭ふ。盜兩つながら之を釋す。稱肱徵さる。皆、至らず。黃瑀、卒す。四方の名士、葬に會する者七千人。穉、至る。爵を進めて哀哭し、生芻を墓前に置いて去る。諸名士曰く是れ必ず南州の高士徐孺子ならむと。陳留の茆容をして、之を追はしめ、國事を問ふ。答へず。太原の郭泰曰く、孺子、國事を答評當世其愚及ぶべへず。是れ其愚及ぶべからざるなりと。泰初め、洛陽に游ぶ。李者保して在贋與に友たり。膺、嘗て、郷里に歸る。送車數千兩贋、惟り泰東漢-孝桓皇帝-三二七 十八史略卷之三三八と舟を同じうして濟る。衆賓、之を望む者神仙の如しといふ容、年四十餘、野に畊す。雨に遇うて、樹下に避く。衆皆、箕踞す5す容、獨り、危坐して、愈よ恭し。泰見て之を異とし、遂に、勸め鉅鹿の孟敏て學ばしむ。鉅鹿の孟〓、甑を荷うて地に墜す。顧みずして去る。泰、見て之を問ふ、曰く、甑。旣に破る、之を視るも、何の益あらさ、上むと。泰亦た勸めて學ばしむ。自餘、泰の奬進に因つて、名を成す者、甚だ衆し。泰、有道に擧げらる。就かず。曰く、吾、夜は乾天の廢する所。支ふべか象を觀、晝は人事を察す、らざるなりと陳留の仇香、名は覽、年四十にして、蒲亭の長となる民に陳元といふ者あり、母元の不孝を告ぐ。香、親ら其家に至り、爲に人倫れいわうくわんを陳ぶるや、感悟して、卒に孝子となる。孝城の令王奐香を署して主籍となす。謂つて曰く、陳元、罰せずして、之を化す、鷹鶴の志を少くなきを得むや。香曰く、以爲へらく、鷹鶴は鸞鳳に若かずと奐曰く、根棘は鸞風の種む所に非ず、百里は大實の路に非ずと。乃ち、香に資して太學に入らしむ。常に自ら守る。泰房に就て、之を見るや、起つて床下に拜して曰く、君は泰の師なりと。徵辟に應ぜずして卒す。黃瑀より以來、三公、楊秉、劉寵の如き、皆人望あり。寵、嘗て會稽に守たり。郡大に治まる。徵さる。五六の老叟あり。山谷の間より出で、人每に百錢を賣して曰く、明府車を下つて以來、狗東漢-孝桓皇帝-三二九 十八史略卷之三三三〇夜吠えず、民、吏を見ず。今、當に棄て去らるべしと聞く。故に自何ぞ能く公の言に及ばむや、ら扶けて奉送す。寵曰く、吾が政、父老を勤苦すと。人每に、一大錢を選んで、之を受く。後、入つて、司空となる。秉、朝に立つて正直。河南の尹となる。時に嘗て宦官に忤ふを以て罪を得たり。後、大尉となつて、以て卒す。陳蕃、秉に繼いで大尉となる。數ば李膺を言ひ、以て司隷校尉となす。宦官之を畏れ、皆、鞠躬、氣を屏け、敢て宮省を出でず。時に、朝廷、綱紀頽弛す。麿獨り、風裁を持し、聲名を以て自ら尙ぶ。士、其登龍門容接を被る者あれば、名づけて、登龍門といふ劉寛を以て、尙書令となす。寛.嘗て三郡に歷典し、仁恕多し。吏民、過あれば、蒲鞭を以て之を罰す。初め、上、候たりし時、學を甘陵の周福に受く。位に卽くに及びて、擢でて、尙書となす。時に、同郡の房植、名あり。〓人、謠うて曰く、天下の規矩は房伯武、師に因つて印を獲たるは周仲進と二家の賓客、互に相譏揣して、隙を成す。之に由つて、甘陵に南北黨人の議部あり。黨人の議、是に始まる。汝南の太守宗資、范滂を以て功曹となし、南陽の太守成増、岑旺を以て功曹となし、皆、善を褒して惡を疾むこと讐の如し。違を糾す。滂、尤も剛勁、二郡、謠うて曰く汝南の太守は范孟博、南陽の宗資、畫諾を主る。南陽の太守は岑公孝。弘農の成増は但だ坐嘯すと。太學の諸生三萬餘人、郭泰東漢-孝桓皇帝-풀 十八史略卷之三三三二)賈彪、之が冠となり、陳蕃、李膺と更る相推重す。學中、語つて曰 天下の摸階は李元禮、强禦を畏れざるは陳仲擧と。是に於て、中外風を承け、競うて、臧否を以て相尙ぶ。會ま、成増、太原の守くわん〓〓劉項と與に、赦後に於て、宦官の黨を案殺す。徵して獄に下し、將に棄市せられむとす。山陽の守翟超張儉を以て、督郵となす。宦官の制を踰えたる家宅を破る。東海の相黃浮、亦た宦官の家屬、法を犯せる者を收めて、之を殺す。宦官、寃を訴ふ。皆、罪を得たり。蕃、屢ば之を爭ふ。上、聽かず。宦官、人をして上書せしめ、李膺が太學の遊ををひ、與に部黨をなし、朝廷を誹訓し、風俗を疑亂するを告ぐ。上、震怒し、郡國に下して、黨人を逮捕す。案、ら、三府を經。蕃、郤けて肯て署せず。上、愈よ怒り、膺等を北寺の獄に下す。辭杜密、陳寔、范滂等、二百餘人に連る。使者、追捕四出、蕃又極諫す。上、策して、之を免ず朝廷震慄、敢て復た黨人の爲に言ふ者なし。賈彪曰く、吾、西行せずむば、大難解けずと。乃ち洛陽に入り、皇后の父竇武に說き、上疏して、之を解く。膺等の獄辭、又多く宦官の子弟を引く。宦官、乃ち懼れ、上に白して、黨人二百餘人を赦して、貨、田里に歸らしめ、名を三府に書して、終身禁錮す。上、在位二十一年、改元するもの七、曰く建和、和平、元嘉、永興、永壽、延熹、永康。崩ず。竇皇后、解瀆亭侯を迎立す。之を孝靈皇帝となす。東漢-孝桓皇帝-三三三 十八史略卷之三三三評【孝靈皇帝】名は宏、章帝の玄孫なり。年十二にして卽位す。竇太る亡位冲帝所をすに以東以早是し後漢なめれて皆はりた衰卽幼和一一冲に后、朝に臨む。竇武、大將軍となり、陳蕃、太傅となる。天下の名賢を徴し、李膺、杜密等、皆、朝に列し、天下太平を想望す。蕃、ミ武、與に議し、宦官、國柄を操弄して、海內を濁亂するを以て、奏して、曹節、主甫等を誅せむとす。謀、泄る。宦者、夜、所親を召さし、血を〓つて、共に盟ひ、帝を請うて、前殿に御せしめ、詔板を作り、王甫を黄門令に拜し、其黨をして、節を持して、武等を收めしめ、誣ゆるに、大逆を以てし、先づ陳蕃を執へて之を殺す。武自殺す。首を都亭に梟す。太后を南宮に遷す。李膺、初め、廢錮すと雖も、士大夫、皆、其道を高しとして、朝廷を汚穢とし、更る相標榜して、稱號を爲り、竇武、陳蕃、劉淑を以て三君となす、言ふは、一世の宗とする所なり。李膺、荀昱、杜密、王暢、劉祐、魏朗.趙典、朱寓を八俊となす。言ふは人英なり。郭泰、范滂、尹勳、巴肅、宗慈、夏馥、蔡衍、羊陟を八顧となす、言ふは、能く德行を以て人を引くなり。張儉、翟超、岑晊、菀康、劉表、陳翔、孔昱1檀敷を八及となす、言ふは、能く人を導いて追宗せらるるなり。度尙、張邈、王孝、劉儒、胡母班、秦周、蕃嚮、王章を八厨となす、言ふは、能く利を以て人を救ふなり。陳蕃、竇武が事を用ゆるに及び、復た膺等を擧拔す。陳竇死し、膺等、復た廢鋼す。曹節、有司に諷して、諸の鈎黨を奏せしむ。膺.詔獄に詣つて考死す。滂、捕東漢-孝靈皇帝- IIIII 十八史略卷之三三三六にに就くや、母、與に訣れて曰く、汝、今李杜と名を齊しうするを得たり、死すとも、何ぞ憾みむと。滂、跪いて〓を受け、再拜して辭し、其子に謂つて曰く、汝をして、惡を爲さしめむとすれば、惡は爲すべからず。汝をして、善を爲さしめむとすれば、我、惡を爲さずと。聞く者、之が爲に流涕す。黨人死する者百人、其死徒廢鋼せ註て然と保は郭難し殄は世れい身所泰を邦濟もべ名明如人の云をた瘁ずをどふの謂のられし者、又六七百人。郭泰私に痛んで曰く、詩に云ふ、哲に亡ぶる。邦國殄瘁すと。漢室滅せむ。但だ、未だ鳥を瞻るに、爰に以し手止まる。誰の屋に子てするかを知らざるのみと。泰好んで、減否すふ能げんかくろん國の坐視と雖も、然も、危言覈論を爲さず、故に濁世に處して、禍 及ばず。ず批免諸儒に詔して、五經の文字を正さしむ。蔡邕に命じて古文、篆、(隸の三體を爲り、之を書して、石に刻し、太學門外に立つ。上、文學を好み、諸生の文武を能くする者を引き、並に鴻都門下に待制せしめ、太學を置立す。諸生、皆、斗管の小人なり、君子、之を恥づ。評買ふ番長18.7中人其を西邸を開いて、官を賣る。各、賈あり。崔烈、五百萬を以て、司銅が肉飯 200云々さんの徒を得たり。其子に問ふに、外議如何を以てす。子曰く、人、其銅さが肉臭を嫌ふのみと。張角鉅鹿の張角、妖術を以て〓授し、太平道と號し、符水、病を療す。弟子を遣して、四方に遊ばしめ、轉た相証誘す。十餘年間、徒衆數十萬。三十六方を置く、大方は萬餘、小方は六七千、各、渠帥を立東漢-孝靈皇帝-三三七 十八史略卷之三三三八黃巾て、一時與に起り、皆、黃巾を著け、所在燔劫す。旬月の間、天下曹操響應す。皇甫嵩等をして、黃巾を討たしむ。〓、沛國の曹操と軍を合せて、賊を破る。操の父嵩。宦者曹騰の養子となる。或は云ふ、じ夏侯氏の子なりと。操少にして機警、權數あり。任使放蕩にして、行業を治めず。汝南の許劭、從兄靖と共に、高名あり。共に〓月且評黨人物を覈論す。毎月、輙ち其題品を更む。故に汝南の俗月旦評あり。操往いて、劭に問うて曰く、我は如何なる人ぞと。劭、答評獨立派能人よす。之を劫す。乃ち曰く、子は治世の能臣、亂世の姦雄なりと。にい世世ふののし雄臣と亂べ姦操喜んで去る。是に至つて、賊を討つを以て起る。皇甫嵩、張角を討つ。角死す。嵩其弟と戰ひ、破つて之を斬る。上崩ず、在位二十二年。改元するもの四、曰く、建寧、熹平、光和中平。子辨立つ何太后、朝に臨む。后の兄大將軍何進、尙書くわん〓〓の事を錄す。袁紹、進に勸めて宦官を誅せしむ。太后、未だ肯んぜず。紹等、畫策し、四方の猛將を召し、兵を引いて、京に向はし董卓め、太后を脅し、遂に將軍董卓の兵を召す。卓、未だ至らず。進ん)室官に殺さる。紹兵を勤して、諸宦官を捕へ少長となく、皆之を殺す。凡そ二千餘人。鬚なくして、誤つて、死する者あり。卓、至る。亂の由を問ふ。辨年十四、語.了すべからず。陳留王、答へて、遺すなし。卓、廢立を欲す。紹、可かず。卓、怒る。紹出奔す。卓、遂に辨を廢す。陳留王立つ之を孝獻皇帝となす。東漢-孝靈皇帝-三元 十八史略卷之三三時○【孝獻皇帝】名は協、九歳にして董卓に立てらる。關東の州郡、兵を起して、卓を討ち、袁紹を推して、盟主となす。卓、洛陽の宮廟う)孫堅を燒いて、都を長安に遷す。長沙の太守、富春の孫堅、兵を起して、卓を討ち、南陽に至る。衆數萬。袁術と兵を合す。術、紹と同祖、皆、故の大尉袁安の玄孫なり。袁氏、四世五公、富貴、佗の公族に異なり。紹、壯健にして、威容あり。士を愛す。士輻輳す。術、亦た俠氣あり。是に至つて、皆起る。堅擊つて、卓の兵を敗荊州をる。術堅をして、圖らしむ。劉表の將黃祖の步兵に射られて死す。呂布司徒王允等、密に謀つて、卓を誅せむとす。中郞將呂布、膂力人흔に過ぐ。卓、之を信愛す。嘗て、少しく卓の意を失ふ。卓、手づから戟を布に擲つ布、避けて、免るるを得たり。允、布に結んで、內應を爲さしめ、卓の入朝するとき、勇士を北抜門に伏せて、之を刺す。卓、車より墮ち、大に呂布を呼ぶ。布曰く、詔あり、賊臣を誅すと。聲に應じて、矛を持して卓を刺し、趣に之を斬る。是よりきん〓〓き先、卓、塲を郿に築き、穀を積んで、三十年の儲をなし、金銀綺錦上奇玩、積んで丘山の如し。自ら云ふ、事成らば、天下に據らむ。成以て老いむと。らざれば、此を守つて是に至つて、屍を市に暴す。吏、"卓、素より肥えたり。大性を作つて、臍中に置いて之を燒く。光、曙に達するもの數日。卓の黨、兵を擧げて、闕を犯し、王允を東漢-孝獻皇帝-〓 十八史略卷之三三四二殺す。呂布去る。ちうざんせいわうしよう劉備涿郡の劉備、字は玄德。其先は、景帝より出づ。中山靖王勝の後關羽なり。大志あり、語言少く、喜怒色に形はれず。河東の關羽、涿郡張飛の張飛、備と相善し。備の起るや、二人、之に從ふ。孫策、孫權孫堅の子策、弟權と富春に留まり、舒に遷る。堅死する時、策年十七、往いて袁術に見え、其父の餘兵を得たり。策十餘歳の時、周瑜旣に交結して、名を知らる。舒人周瑜、策と同年、亦た英達夙成是に至つて、策に從つて起る。策東江を渡つて、轉鬪するや向ふ所、敢て其鋒に當る者なし。百姓、孫郞の至るを聞いて、皆魂魄を失ふ。至る所、一も犯す所なし、民、皆大に悅ぶ。初め、曹操、卓を討つ時より、榮陽に戰ひ、還つて河內を領し、尋いで、東郡の太守を領し、東武陽を治す。既にして、衰州に入つて、之に據り、自ら刺史を領し、使を遣して上書す。以て衰州の牧となす。上、洛陽に還る。操入朝し、上を許に遷す。操擊つて、呂布を殺す。初め、布、關中より袁術に出奔す。旣にして、又、操に攻められ、走つて劉備に歸し、旣にして、又、備はを襲うて、下邳に據る。備走つて、操に歸す。操備をして、沛に屯せしむ。布、陳登をして、操に見えしめ、徐州の牧たらむことを求む。得ず。登、還つて、布に謂つて曰く、登、曹公に見えて言ふ、將軍を養ふは、虎を養ふが如く、當に其肉に飽かしむべし、飽東漢-孝獻皇帝-三四三 十八史略卷之三三四四かざれば、人を噬まむと。公曰く、然らず、譬へば、鷹を養ふが如く饑うれば人に附き、飽けば屬り去らむと。布、復た備を攻む。備、走つて、復た操に歸す。操、布を擊つて、下邳に至る。布、屢ば戰つて皆敗れ、困迫して降る。操之を縛して曰く、虎を縛するは、急ならざるを得ずと。卒に之を縊殺す。備操に從つて、許に還る。袁術、初め、南陽に據る。旣にして、壽春に據る。識言に、漢に代るものは塗に當つて高しといへるを以て、自ら名字之に應ずといひ、遂に帝と稱す。淫侈甚し。旣にして、資實空虛、自立する能はす。袁紹に奔らむと欲す。操劉備をして、之を邀へしむ。術、走り還り、血を歐いて死す。孫策、旣に江東を定め、許を襲はむと欲す。未だ發せず。もと殺す所の吳郡の守許貢の奴、其出獵に因つて、伏して、之を射る。創評べる互孫兄江東の衆しとに氏甚し弟權を呼んで、代つて其衆を領せしめて曰く、相ふ識弟いじを擧げて、機を兩陣の間に決し、天下と衡を爭ふは、卿我に如かず。賢に任じ、能を使ひ、各其心を盡し、以て江東を保つは、我、卿に如かずと。卒す。年二十六。袁紹、冀州に據り、精兵十萬、騎一萬を簡んで、許を攻めむと欲す。沮授、諫めて曰く、曹操、天子を奉じ、以て天下に令す。今、兵を擧げて、南に向はば、義に於て違はむ。ひそかに、公の爲に、東漢-孝獻皇帝-三四五 十八史略卷之三三四六之を懼ると。紹、聽かず。操紹と官渡に相拒ぎ、襲うて、紹の輜重を破る。紹の軍、大に潰え、慚憤血を歐いて死す。車騎將軍董承密詔を受くと稱し、劉備と共に曹操を誅せむと大下の英雄す。操一日、從容として、備に謂つて曰く、今、天下の英雄、惟使君と操とみだ使君と操とのみと。備方に食し、七筋を失ふ。雷震に値ひ、詭つて曰く、聖人云ふ、迅雷風烈、必ず變ずと。まことに、以あるなりと。備旣に遺されて、袁術を邀ふ。因つて、徐州に之き、兵を起して、操を討つ。操之を擊つ。備先づ冀州に走り、兵を領して汝南に至り、汝南より〓州に奔り、劉表に歸す。嘗て、表の坐に於て、起つて〓に至り、慨然として、涕を流す。表、怪んで之を問iふ備曰く、當時、身、鞍を離れず、髀肉、皆消ゆ。今、復た騎せ髀裡肉生ずず、髀裏肉生ず。日月流るるが如く、老、將に至らむとして、功業諸葛亮建たず、之を以て悲しむのみと。瑯琊の諸葛亮襄陽の隆中に寓居し、毎に自ら管仲、樂毅に比す。備、士を司馬徽に問ふ。徽曰く伏龍鳳雛時務を識るは、俊傑に在り。此間、伏龍、鳳雛あり、諸葛孔明、龐士元なりと。徐庶、亦た備に謂つて曰く、諸葛孔明は臥龍なりと。き備、三度往いて、乃ち亮を見るを得たり。策を問ふ。亮曰く、操te百萬の衆を擁し、天子を挾み諸侯に令す、是れ誠に與に鋒を爭ふべからず。孫權、江東に據有し、國險にして民附く、與に援となすべくして圖るべからず。〓州は武を用ゆるの國、益州は險塞、沃野千東漢-孝獻皇帝-三四七 十八史略卷之三憂里、天府の土なり。若し〓益を跨有し、其巖阻を保てば、天下變ある時、〓州の軍は宛洛に向ひ、益州の衆は秦川に出でん。孰れか、上簞食壺漿、以て將軍を迎へざらむや。備曰く、善しと。亮と情好日る孤はの如のに密なり。曰く、孤の孔明あるは、猶ほ魚の水あるが如きなりと。あるが士元、名は統、龐德公の從子なり。德公、素より重名あり。亮其家に至る每に、獨り、床下に拜す。曹操、劉表を擊つ。表、卒す。子琮、〓州を擧げて操に降る。劉備.江陵に走る。操之を追ふ。備夏口に走る。操軍を江陵に進め、遂に東に下る。亮備に謂つて曰く、請ふ、救を孫將軍に求めむと。亮權を見て之に說く權大に悅ぶ。操權に書を遺つて曰く、今、水軍八十萬の衆を治す。將軍と吳に會獵せむと。權、以て群下に示す。色を失はざるなし。張昭、之を迎へむを請ふ。魯魯肅肅以て不可となし、權に勸めて周瑜を召さしむ。瑜至る。曰く、請ふ、數萬の精兵を得て、進んで夏口に往き、保して、將軍の爲に之を破らむと。權、刀を拔き、前の奏案を斬つて曰く、諸將吏、敢て操を迎へよといふ者は、此案に同じからむと。遂に瑜を以て、三と萬人を督せしめ、備と力を併せて操を逆へ進んで、赤壁に遇ふ。評定天赤ま下壁り三のし分戰まは瑜の部將黃蓋曰く、操の軍、方に進む、船艦首尾相接す。燒いて走所古古沈く詩あ戟日人らすべきなりと。乃ち蒙衝鬪艦十艘を取つて、燥荻枯紫を載せ、油折そ沙鐵半銷を其中に灌ぎ、帷幔に裏み、上に旌旗を建て、豫め走舸を備へて、東漢-孝獻皇帝-三四九 十八史略卷之三三五〇用雜誌其尾に繋ぎ、先づ書を以て操に遣り、詐つて降らむと欲すとなす。自郞東焼 肉 大 190前雀與朝銅不春周深鎖時に東南風急なり。蓋、十艘を以て、最も前に著け、中江に帆を擧牧)依二然喬杜形 村げ、餘船次を以て倶に進む。操の軍、皆、指して、蓋降るといふ。10月)此萬一浪明巳場片三郞江無長壁扼山荊前襄南故去ること二里餘。同時に火を發す。火烈しくして風猛、船往くこと東魏烏日河國秋去地鵲えん〓〓箭の如く、北船を焚き盡し、烟焔天に漲る。人馬溺燒して死するも人有大に壞陳今山分千の甚だ衆し。瑜等、輕銳を率ゐ、〓鼓して大に進む。北軍、)經百る。操走り還る。後に屢ば兵を權に加ふれども、志を得ず。操跡邊人歎息して曰く、子を生まば、孫仲謀の如くなるべし。前の劉景升の(趙翼)圓貳人三當國學 (電話軍)兒子は、豚犬のみと。薄皮終劉備、〓州、江南の諸郡を徇ふ。周瑜、權に上疏して曰く、備〓賊池上梟雄の姿あり、而して、關羽、張飛あり、熊虎の將なり。此三人を龍水竟得夜烏不紛漁流雲蛟秋江·自聚めて、疆場に在らしむれば、恐らくは、蛟龍、雲雨を得て、終に猶猶聲蕭我照渺客來〓聞鵠共紛燈池中の物に非ざるなり。宜しく、備を徒して吳に置くべしと。權寒吹靜從はず。瑜、方に北方を圖らむと議す。會ま病んで卒す。魯肅、代袁枚)さ、つて其衆を領す。肅、權に勸め、〓州を以て、劉備に借さしむ。呂あ下らの家賃た蒙に吳權之に從ふ。權の將呂蒙、初め學ばず。權蒙に勸めて、書を讀ましむ魯肅、後、蒙と論議す。大に驚いて曰く、卿は復た吳下の 阿蒙に非ず。蒙曰く、士別れて三日なれば、卽ち當に目を刮つて待つべしと。寵統劉備、初め、龐統を用ゐて、耒陽の令となす。治まらず。魯肅、東漢-孝獻皇帝-三五一 十八史略卷之三三五二備に書を遣つて曰く、士元は百里の才に非ず、治中別駕たらしむれば、乃ち驥足を展ぶるを得べきのみと。備之を用ゆ。益州を取るを勸む。備關羽を留めて、〓州を守らしめ、兵を引いて流を泝り、巴より蜀に入り、劉璋を襲ひ、成都に入る。備既に益州を得たり。孫權、人をして、備に從つて、〓州を求めしむ。備肯て還さず。旣にして、〓州を分つ。備蜀より漢中を取り、自立して、漢中王となる。漢中の將關羽、江陵より出でて、樊城を攻む。許より以南、徃徃司馬懿はるかに羽に應じ、威、華夏に震ふ。曹操、許都を徒して、以て其鋒を避けむと議するに至る。司馬懿曰く、備と權と、外親しくして內疎なり。關羽志を得る、權必ず願はざるなり。人をして、權に勸めて、其後を躡ましめ、江南を割いて、以て權に封ずるを許さしむべしと。操之に從ふ。時に、魯肅、既に死し、呂蒙、之に代樊をり、亦た權に勸めて、羽を圖る。操の師、救ひ、權の將陸遜、大又羽の後を襲ふ。羽、狼狽して走り還る。權の軍、羽を獲て、之を斬り、遂に〓州を定む。初め、曹操、兗州の牧より、入つて丞相となり、冀州の牧を領,し、魏公に封ぜらる。銅雀臺を鄴に作る。旣にして、爵を進めて王子丕を以て、となり、天子の車服を用ゐ、出入に警蹕す。王太子となす。操、卒す。丕、立つ。自ら丞相冀州の牧となる。魏の群臣、言東漢-孝獻皇帝-三五三 十八史略卷之三三五四ふ、魏當に漢に代るべしと。조、遂に帝に迫つて位を禪らしめ、評難波の2帝を以て、山陽公となす。帝、在位改元するもの三、曰く、初平、其ぶる在根相帝り本文明に興平、建安。元年より二十五年に至るまで、皆、曹操政を爲すの時以而鉄レート纖ぎ宦官進なり。共に三十一年。位を禪つて、又十四年にして卒す。漢は、高出權臣橫暴快餐で祖、元年、王となり、五年、帝となりしより、是に至つて、二十四最大誘因減たの世、四百二十六年。西紀自二二〇漢至二六五附魏吳二僭國按ずるに、曾氏云ふ。天下一統に非ざるものは、もと各自一·國に編集すべし。又初學の讀者、其時代の先後に迷はむことを恐る。今、但だ、一國の源流相接するものを以て、提頭となし、同時の國を其間に附すと。然れども、曾氏は、陳壽の舊に仍り、た魏を以て帝と稱して、漢吳を附す。刻旣に朱子綱目の義例に遵つて、少微通鑑を改正す。今、復た此書を正し、漢を以て、統を接すといふ。【昭烈皇帝】諱は備、字は玄德、漢の景帝の子、中山靖王勝の後。大志あり、言語少く、喜怒形はれず。身の丈七尺五寸、手を垂るれば、膝を下り、顧みて自ら其耳を見る。蜀中、傳へて言ふ、曹丕簒立し、帝、旣に害に遭ふと。是に於て、三國-漢-昭烈皇帝-三五五 十八史略卷之三三五六ぐ漢中王、喪を發し、服を制し、諡して孝愍皇帝といふ。夏四月、帝、位に武擔の南に卽き、大赦し、章武と改元す。諸葛亮を以て丞相となし、許靖を司徒となす。宗廟を立て、高皇帝以下を袷祭す。夫人吳氏を立てて皇后となし、子禪を皇太子と爲す。魏王、名は丕、姓は曹氏、沛國譙の人なり。父操、魏王たり。丕位を嗣ぐ。始めて、九品、人を官にするの法を立て、州郡、皆、九品の中正を置き、人物を區別し其高下を第す。조、旣に漢を簒し、自立して帝となり、操を追尊して太祖武皇帝となし黃初と改元す。帝、關羽の歿せしを恥ぢ、自ら將として孫權を伐つ。權和を求むれども許さず。權使を魏に遣す。魏權を封じて、吳王となす。かっ、魏王、吳使趙咨に問うて曰く、吳王、頗る學を知れりや。咨曰く、評趙に春て謂如眞し所ん外我が出て使吳王、賢に任じ、能を使ひ、志、經略に存し、餘閒あつて書史を博者辱也しはあ···覽すと雖も、書生の尋章摘句に效はず。魏王曰く、呉、魏を難かるじか咨曰く、帶甲百萬江漢を池となす、何の難ることか之あらむ。曰く、吳、大夫の如き者幾人。咨曰く、聰明特達の者、八九十人。臣の比の如きは、車に載せ、斗にて量るも、勝げて算ふべからずと。帝、巫峡より夷陵に至るまで、數十屯を立て、吳軍と相拒ぐこと累月、吳の將陸遜、其四十餘營を連破す、帝、夜、遁る。三國-漢-昭烈皇帝-三五七 十八史略卷之三〓魏王、吳の侍子を責む。至らず。怒つて之を伐つ。吳王、黃武と改元し、江に臨んで拒守す。三年。夏四月、帝崩ず。在位三年、改元するもの一、曰く章武。證して、昭烈皇帝といふ太子禪、卽位し、亮を封じて武〓侯となす。太子、旣に立つ、是を後皇帝となす。【後皇帝】名は禪、字は公嗣、昭烈皇帝の子なり。年十七にして卽評情義昭烈客廳中遺詔位し、建興と改元す。丞相諸葛亮、遺詔を受けて政を輔く。昭烈、人製作品川終に臨んで、亮に謂つて曰く、君の才、曹丕に十倍す。必ず能く國家を安んじ、終に大事を定めむ。嗣子、輔くべくむば之を輔けよ。若し其れ不可なれば、君、自ら取るべし。亮.涕泣して曰く、臣、い敢て股肱の力を竭し、忠貞の節を效し、其れに繼ぐに死を以てせざらむやと。亮、乃ち官職を約し、法制を修め、〓を下して曰く、夫れ參署は、衆思を集め、忠益を廣むるなり。若し小嫌を遠ざけ、相さ違覆するを難からば、曠しくして闕損せむと。亮、乃ち鄧芝を遣し吳に使して好を修めしむ。芝、吳王に見えて曰く、蜀に重險の固あり、吳に三江の阻あり、共に屑齒をなさば、進んでは、天下を兼〓鼎足の計すべく、退いては、鼎足して立つべしと。吳、遂に魏に絕つて、專ら漢と和す。魏主、舟師を以て吳を擊つ。吳、艦を江に列ね、江水盛長す。魏主臨望して、歎じて曰く、我、武夫千群ありと雖も、施す所なきな三國-漢-後皇帝-三五九 十八史略卷之三三六〇りと。是に於て、師を還す。南夷、漢に畔く。丞相亮、徃いて、之を平らぐ。孟獲といふ者あり、素より、夷漢の服する所たり。亮、生き乍ら、獲を致し、營七縱七禽陣を觀しめ、縱して更に戰はしむ。七縱七禽、猶は獲を遣る。獲去らずして曰く、公は天威なり、南人復た反せずと。魏主、又舟師を以て吳に臨み、波濤の淘湧するを見て、歎じて曰く、暖房、まことに、天、南北を限る所以なりと。魏主丕、殂す。僭位七年改元するもの一、曰く黃初。證して文皇帝といふ子叡立つ。是を明帝となす。叡の母、誅せらる。조、嘗て叡と共に出でて獵し、子母の鹿を見、既に其母を射、叡をして其子を射らしむ。叡、泣いて曰く、陛下、旣に、其母を殺す、臣、其子を殺すに忍びずと。조、惻然たり。是に及びて、嗣となつて卽位す。處士管寧、字は幼安。東漢の末より、地を遼東に避くること三十七年。魏之を徵す。乃ち海に浮んで、西に歸る。官に拜すれども受けず。漢の丞相亮、諸軍を率ゐて、北、魏を伐つ。發するに臨んで、前出師表上疏して曰く、今、天下三分、益州疲弊せり。是れ危急存亡の秋なり宜しく、聖聽を開張して、忠諫の路を塞ぐべからず。宮中府中は、倶に一體たり。陟罰、减否、宜しく異同あるべからず。若し、三國-漢-後皇帝- 1/21 十八史略卷之三三六二姦を作し、科を犯し、及び忠善の者あれば、宜しく、有司に付し、其刑賞を論じて、以て平明の治を昭にすべし。賢臣を親しみ、小人を遠ざくるは、是れ先漢の興隆せし所以なり。小人を親しみ、賢臣を遠ざくるは、是れ後漢の傾頽せし所以なり。臣、もと布衣、南陽に躬耕し、性命を亂世に苟全し、·聞達を諸侯に求めず。先帝、臣の卑鄙を以てせず、猥りに自ら枉屈して、臣を草廬の中に三顧し、臣に諮ふに當世の事を以てす。之に由つて感激し、先帝に許すに、驅馳を以てす。先帝、臣の謹愼を知り、崩ずるに臨み、寄するに大事を以てせり命を受けてより以來夙夜に憂懼し、付託の效あらず、以て先帝の明を傷けむことを恐る。故に、五月、濾を渡り、深く不毛に入る。今、南方、旣に定まり、兵用既に足る。當に三軍を奬率し評上海市建材工程有限公司出て、北、中原を定め、漢室を興復して、舊都に還すべし。是れ、臣が孔明先帝に報じて、陛下に忠なる所以の職分なりと。遂に漢中に屯す。初め、國民大學明年、大軍を率ゐて、祁山を攻む。戎陣整齊、號令明肅魏昭烈旣に崩じ、數歲寂然として聞く無きを以て、略ぼ備ふる所なし。猝に亮の出づるを聞き、朝野恐懼す。是に於て、天水、安定等の郡、皆、亮に應じ、關 中響震す。魏主、長安に如き、張部をして、之を拒がしむ。亮、馬駸をして、諸軍を督せしめ、街亭に戰ふ。嚴亮の節度に違ふ。部大いに之を破る。亮、乃ち漢中に還後出師表る。旣にして、復た漢帝に言つて曰く、漢と賊とは兩立せず、王業三國-漢-後皇帝-三六三 十八史略卷之三三六四偏安せず。臣、鞠躬、力を盡し、死して後に已まむ。成敗利鈍に至つては、臣の能く逆め観る所に非ざるなりと。兵を引いて、散關より出で、陳倉を圍みしが克たず。吳王孫權、自ら武昌に皇帝と稱し、父堅を追尊して武烈皇帝となし、兄策を長沙桓王となす。既にして、都を建業に遷す。蜀漢の丞相亮、又、魏を伐つて祁山を圍む。魏司馬懿をして、あ、諸軍を督して、亮を拒がしむ。懿、肯て戰はず、賈翻曰く、公、蜀を畏るること虎の如し、天下の笑を如何と。懿乃ち張郃をして亮に向はしむ。亮、逆へ戰ふ。魏兵、大に敗る。亮、糧盡くるを以て軍を退く。郃之を追ひ、亮と戰ひ、伏弩に中つて死す。亮還つさて農を勸め、武を講じ、木牛流馬を作り、邸閣を治め、民を息ひ、士を休め、三年にして後に、之を用ゆ。衆十萬を悉くして、又斜谷ニ口より魏を伐ち、進んで、渭南に軍す。魏の大將軍司馬懿、兵を引いて拒守す。亮前に、數ば出でしが、皆、運糧繼がず、己が志を伸びざらしめしを以て、乃ち兵を分ちて屯田し、耕者は渭濱居民の間に雜り、然も百姓安堵し、軍に私なし。亮數ば懿に戰を挑む。巾幗婦人の懿、出でず。乃ち遺るに巾幗、婦人の服を以てす。亮の使者、懿の服を〓る軍に至る。懿其寢食及び事の煩簡を問うて、戎事に及ばず。使者曰く、諸葛公、夙に興き、夜に寢ね、罪二十以上は、皆親ら覽る。瞰食する所は、數升に至らずと。懿人に〓げて曰く、食少く事煩三國-漢-三國漢-三六五 十八史略卷之三三六六孔明秋風五し、其れ能く久しからむやと。亮、病篤し。大星あり、赤くして芒丈忠孔原千亮、長史楊儀、評最而臣明卒す。雄先出あもしのはあり、亮の營中に墜つ。未だ幾ならずして、師り悲て典を生死滿長未日壯其型古奔〓軍を整へて還る。百姓、て、懿に〓ぐ。懿之を追ふ。姜維、死詩かへ儀をして、旗を反し、鼓を鳴らし、將に懿に向はむとするが若くせ走けせ襟使捷く英身淚死しむ。懿敢て逼らず。百姓之が爲に諺して曰く、死せる諸葛、生せらるるす仲諸葛達ける仲達を走らすと。懿笑つて曰く、吾、能く生を料るも、死を料る能はずと。亮、嘗て兵法を推演して、八陣の圖を作る。是に至つて、懿其營壘を案行し、歎じて曰く、天下の奇材なりと。亮政を爲すに私なし。馬騣、素より亮に知らる。敗軍に及びて、流涕ひして之を斬り、然も其後を郞む。李平廖立、皆、亮に廢せらる。亮の喪を聞くに及びて、皆、歎息流涕し、卒に病を發して死するに至る。史に稱す、亮、誠心を開き、公道を布き、刑法峻と雖も、然も、怨む者なし。眞に治を識るの良材なりと。然れども、其材、國を治むるに長じて、將略は所長に非ずといふは非なり。初め、丞ヘ相亮、嘗て、帝に表して曰く、臣、成都に桑八百株、薄田十五頃あり、子弟の衣食、自ら餘あり、別に生を治めて以て尺寸を長ぜず。評忠武公眞に純忠眞武臣死するの日、內に餘帛あり、外に贏財あり。以て陛下に負むかしめずと。是に至つて卒するや、其言の如し。忠武と諡す。국魏主、性、土功を好む。之より先、旣に許昌宮を治す。後、又洛陽宮を作り、長安の鐘篇、彙駝、銅人、承露盤を洛陽に徒す。盤三國-漢-後皇帝-三六七 十八史略卷之三奏折れ、聲數十里に聞こゆ。銅人、重くして、致すべからず。乃ち、大に銅を發して、銅人二を鑄て、司馬門外に列坐せしめ、號して、翁仲といひ、土山を芳林園に起し、雅木善草を植る、禽獸を捕へて、其中に致す。諫むる者、皆、納れず。魏主、疾あり。司馬懿を召して、入朝せしめ、曹爽を以て大將軍となす。魏主叡、殂す。在位十四年。改元するもの三、曰く太和、靑龍、景初。子芳立つ之を、廢帝邵陵の属公となす。芳、八歲にして、位に卽く。司馬懿、曹爽、遺詔を受けて、政を輔く。懿太赤傅となる。漢は、丞相亮既に亡せしより、蔣琬政を爲す。楊敏、琬を毀つて曰く、事を作すこと憤憤たり、前人に及ばずと。或ひと敏を推評蔣治せむを請ふ。琬曰く、吾、實に前人に如かず、すらがれ學いにて琬もざ前却ぶふ如自淡のる人てべ所から然推すべきなしと。り示劣れ是にと人しら前とか琬卒す。費褘、董允、政を爲し、公亮にして、忠を盡す。允、卒す。なをに彼し大ず姜維、費禕と並に政を爲す。魏の曹爽、驕奢にして度なし。司馬懿、之を殺す。懿魏の丞相となる。九錫を加ふれども、受けず。爽の黨夏侯霸、蜀に奔る。姜維、之に問うて曰く、懿政を得たり、復た征伐の志ありや否や。霸曰く、彼家門を營立す、未だ外事に遑らず。鍾士季といふ者あり、少と雖も、若し朝政を管すれば、吳蜀の憂なりと。魏の司馬懿卒す。其子師を以て撫軍大將軍となし、尙書の事を錄三國-漢-後皇帝-三六九 十八史略卷之三三七〇せしむ。吳王、殂す。證して、大皇帝といふ。子亮立つ。漢の費禕、汎愛にして疑はず。降人之を刺し殺す。姜維、事を用ゐ、數ば兵を出して魏を攻む。魏の李豐、數ば魏主に召さる。司馬師、其己を議するを知つて、之を殺す。魏主、不平なり。左右、師を誅するを勸む。魏主、敢て發せず。師魏主を廢す。僭位十六年、改元するもの二、曰く、正始嘉平。師高貴郷公を迎立す、之を廢帝となす。名は髦、文帝の孫、明帝の姪、年十四にして卽位す。楊州の都督母丘儉、刺吏文欽、兵を起して、司馬師を討つ。師擊つて之を敗る。師卒す。弟昭、大將となり、尙書の事を錄す。既にして、大都督となり、黃鉞を假る。揚州の都督諸葛誕、兵を起して、昭を討つ。昭、之を攻め殺す。昭、相國となり、晉公に封ぜらる。九錫を加ふれども、受けず。吳主亮、政を親らす。數ば中書に出でて、大帝の時の舊事を視る嘗て、生梅を食うて、蜜を索む。蜜中に鼠矢あり。藏吏を召して問うて曰く、黃門、爾より蜜を求めたるか。吏曰く、さきに求むぐれども、敢て與へずと。黃門、服せず。鼠矢を破らしむ。矢、中燥く、因つて、大に笑つて曰く、若し、矢、先より蜜中に在らば、中外共に濕はむ。今、外濕うて內燥く、必ず黃門の所爲ならむと。之三國-漢-後皇帝-三七一 十八史略卷之三三七二を詰れば、果して服す。左右驚慄す。大將軍孫綝、其難問する所多きを以て、疾と稱して朝せず。兵を以て、宮を圍み、亮を廢して會稽王となし、瑯琊王休を迎へ立つ。休、立つ。絲を以て、丞相となす。継又新君に無禮なり、遂に誅せらる。魏主髦、威權日に去るを見て、其怒に勝へず。曰く司馬昭の心、路人も知司馬昭の心路人も知る所なりと。殿中の宿衞、蒼頭、官僮を率ゐ、鼓譟して出せい、所なりでて昭を誅せむと欲す。昭の黨、賈充、入つて魏主と戰ふ成濟、戈を抽いて、魏主を刺して、車下に殞つ。追廢して、庶人となす。僭位七年。改元するもの二、曰く、正元、甘露。司馬昭、常道〓公璜を迎へ立つ、之を魏の元皇帝と爲す。常道〓公元皇帝、初名は璜、燕王宇の子、操の孫なり。年十五にして位に卽く。奐と改名す。姜維屢ば魏を伐つ漢の姜維、屢ば魏を伐つ。司馬昭、之を患ひ、鄧支、鍾會を遣鄧艾鍾會ミし、兵に將として、入つて寇せしむ。會は、斜谷、駱谷、子午谷より、漢中に趨き、艾は、狄道より、甘松、沓中に趨き、以て姜維を綴す。維會既に漢中に入りしと聞き、兵を引いて、沓中より還る。艾、追躡して、大に戰ふ。維、敗走し、還つて、劍閣を守り、以て會を拒ぐ。艾、進んで、陰平に至り、無人の地を行くこと七百里、山を鑿つて道を通じ、橋閣を造作す。山高く谷深し。艾、氈を以て、自ら裏み、推轉して下る。將士、皆、木を攀ぢ、崖に緣り、魚貫して進む。江油に至る。書を以て、漢將諸葛瞻を誘ふ。瞻其國-漢-後皇帝-三七三 十八史略卷之三三七四使を斬り、陣を綿竹に列して、以て待つ。敗績す。漢の將軍諸葛瞻評諸葛氏後之に死す。瞻の子尙曰く、父子、國の重恩を荷ふ、早く黃皓を斬らありといふべしず、國を敗り、民を殄せしむ。用つて生くるも、何をか爲さむと。馬に策ち、陳を冒して死す。評後主は凡漢人、魏兵の卒に至るを意はずして、城守を爲さず。乃ち使を遣庸懦弱國を失ふ故あるし、璽綬を奉じて、艾に詣つて降る。皇子北地王諶、怒つて曰く、かな若し、理窮まり、力屈して、禍敗將に及ばむとすれば、便ち父子君臣城を枕にして一戰し、同じく社稷に死し、以て先帝に見えて可なテるべきなり。奈何ぞ降らむやと。帝聽かず。護、昭烈の廟に哭し、先づ妻子を殺し、然る後に自殺す。艾、成都に至る。帝、出でて降る。魏封じて、安樂公となす。帝、在位四十一年、改元するもの四、曰く、建興、延熙、景耀、炎興右、高帝の元年乙未より、後帝禪の炎興癸未に至るまで、凡そ二十六帝、通じて、四百六十九年にして漢亡ぶ。吳主休殂す。證して、景皇帝といふ。兄の子鳥程侯皓立つ。魏の司馬昭、之より先、旣に九錫を受く。旣にして、爵を進めて晉王となる。昭、卒す。子炎、嗣ぐ。魏主奐、僭位六年、改元するもの二、曰く、景元、咸熙。炎、魏主に迫つて、位を禪らしめ、封じて、陳留王となす。後、卒す。晉人、之を證して元といふ。魏は、曹丕より是に至るまで、凡そ五世四十六年にして亡ぶ。三國-漢-後皇帝-三七五 十八史略卷之三云漢亡びてより後、又、。甲申を歷、正統を闕くこと一年。西紀自二六西晉五至三一六だ【西晉世祖武皇帝】姓は司馬、名は炎。河內の人、昭の子、懿の孫なり。昭、晉王となり、議して、世子を立つ。議者、炎の髪立つて地に委し、手垂るれば膝を過ぎ、人臣の相に非ざるを以て、遂に立つ。旣にして、嗣いで王となり、帝位に卽くや、懿を追尊して宣皇帝となし、師を景皇帝となし、昭を文皇帝となし、大いに宗室を封そ、羊祐ず。晉、吳を滅するの志あり、羊祐を以て〓州の事を都督せしむ。陸抗吳、陸抗を以て、諸軍を都督せしむ。祐、抗と境を對し、使命常にP通ず。抗祐に酒を遺る。祐、之を飮んで疑はず。抗疾む。祐、之に成藥を與ふ。抗卽ち之を服して曰く、豈に人を鴆する羊叔子あらむやと。祐務めて、德政を修め、以て吳人を懷け、兵を交ふる毎に、日を刻して、方に戰ひ、掩襲せず、抗亦た、其邊戌に〓げて、各、分界を保するのみ、細利を求むるなからしむ。時に、吳主皓、德政を修めずして、兼井せむと欲し、術士をして、天下を取青蓋管 に;たべ洛し陽じつるるを筮せしむ。對へて曰く、庚子の歲、靑蓋、當に洛陽に入るべしすと蓋し、璧を衝むを謂ふ。然れども、皓、悟らず。諸將の謀を用ゐて數ば晉の邊を侵盜す。抗諫むれども聽かず。抗卒す。祐吳を伐つを請ふ。議者、多くは同せず。祐歎じて曰く、天下、意西晉-世祖武皇帝-三七七 十八史略卷之三三七八の如くならざる事、十常に七八と。惟だ杜預、張華其計を賛す。祐病む。入朝して、面陳せむことを求む。晉帝、祐をして、臥しながら諸將を護せしめむと欲す。祐曰く、吳を取るは、臣の行を必せず。但だ吳を平らぐるの後、當に聖慮を勞すべきのみと。祐、卒上す。杜預を以て鎭南大將軍となし、〓州の軍事を督せしむ。吳主皓淫虐、日に甚し。預表して、速に之を征せむことを請ふ表、至(る。張華適ま帝と基す。秤を推し、手を歛めて其決を賛す。帝、山濤之を許す。山濤、人に〓げて曰く、聖人に非ざるよりは、外、寧ければ、必ず内憂あり。吳を釋して、外懼となす、豈に算に非ざらむやと。時に、濤、吏部尙書たり。濤むかし、魏晉の間に在り、嵇 康、阮籍、籍の兄の子咸、向秀、王戎、劉伶と相友たり。竹林の七竹林七賢賢と號し、皆老莊虛無の學を崇尙し、禮法を輕蔑し、縱酒昏酣、世事を遺落す。士大夫、皆、之を慕效し、之を放達といふ。惟だ、濤は仍ほ意を世事に留め、是に至つて、選を典り、人物を頸拔し、(各、題目を爲つて、之を奏す。時人、之を稱して、山公の啓事となす上晉大擧して、吳を伐つ。杜預、江陵より出で、王澹、巴蜀を下る。吳人、江磧要害の處に於て、並に鐵鎻を以て、江を橫つて、之を截り、又、鐵錐を作り、長さ丈餘、暗に江中に置き、丹艦を逆拒す。濟大筏を作り、水に善き者をして、筏を以て先づ行かしめ、西晉-世祖武皇帝-三七九 十八史略卷之三三八〇錐に遇へば、輒ち筏を著けて去る。又、大炬を作り、灌ぐに麻油を以てし、鎻に遇へば之を燒く。須史に融液して斷絕す。是に於て船い礙る所なし、遂に先づ上流諸郡に克つ。預人を遣し、奇兵を率ゐて、夜、渡らしむ。吳將、懼れて曰く、北來諸軍、乃ち之を飛渡するなりと。預兵を分つて、濬と合し、武昌を攻めて、之を降す。預謂ふ、兵威、旣に振ふ、たとへば、破竹の如し、數節の後は、刄を迎へて解け、復た手を著くる所なきなりと。遂に群師に方略を指授し、徑に建業に詣る。濬の戎卒八萬、舟を方ぶること百里、帆を擧げて、直に建業を指し、鼓譟して、石頭城に入る。吳主皓、面縛し、輿襯して降る。歸命侯に封じ、遂に庚子入洛の識に符す。大帝より、是に至るまで四世、帝と稱するもの、凡そ五十二年にして亡ぶ。先に、孫策、江東を定めてより以來、通じて八十餘年。晉魏に代つて十有六年、太康元年に至つて、吳を滅し、又十年にして、帝崩ず。帝、初めて、卽位するや、嘗て、雉頭裘を太極殿前に焚き、以て儉を示す。旣にして修縱、後宮數千、常に羊車に乘こる。宮人、竹葉を門に挿み、鹽を酒いで、以て之を待ち、羊車の至とる所、卽ち留まつて酣宴す。群臣と語るに、未だ嘗て經國の遠謀あこと〓らず。吳、旣に平らいでより、天下無事なりと謂ひ、盡く州郡の武備を去る。山濤、獨り、之を憂ふ。漢魏以來、羌胡鮮卑の降る者、多く塞內諸郡に處る。郭欽、嘗て上疏して謂ふ、宜しく、吳を平ら西晉-世祖武皇帝-気 十八史略卷之三三八二評天詐漸く内郡の雜胡を邊地に徒し、四夷出入の防を以曹亦りて操に司下術ぐるの威を及ぼし、を をせんわうくわうふ、取馬氏峻にして、先王荒服の制を明かにすべしと。帝、聽かず、卒に天下傚ふりも祖而之薄帝としの患となる。帝在位、改元するもの三、曰く、泰始、咸寧、太康。稱てす炎よる世德固太子立つ、之を孝惠皇帝となす。し所安全の山集結稷る所なせりざ【孝惠皇帝】名は衷。太子たりし時、妃賈氏を納る。充の女なり。權詐多し。衞瓘、嘗て武帝に侍し、陽つて醉うて、前に跪き、手を以て床を撫して曰く、此座、惜むべしと。武帝悟り、尙書か〓しの疑事を密封し、太子をして、之を決せしむ。賈氏大に懼れ、外人を倩ひ、草を具して代つて對へ、太子をして自ら寫さしむ。武帝悅び、廢せられざるを得たり。是に至つて卽位す。賈氏、皇后となつて、政に預る。皇太后楊氏は、乃ち帝の母楊后の從妹なり。父駿、太傅たり、賈氏、駿を殺して、太后を廢し、太宰汝南王亮を殺し、太保衞瓘を殺し、楚王緯を殺し、衆望を以て張華裴頒、王戎を用ゐて機要を管せしむ。華、忠を帝室に盡す。后、凶險なりと雖も、猶ほ敬重するを知る。領と心を同じうして、政を輔く。數年の間、暗主上に在りと雖も、然も、朝野安靜なり。戎は、時と浮沈して、匡救する所なく、性、復た貪吝。田園、天下に遍く牙籌を執つて晝夜會計す。家に好李あり、人の其種を得むことを恐れ、常に其核に鑽す。凡そ賞拔する所、專ら虛名を事とす。阮咸の子瞻、嘗て、戎に見ゆ。戎曰く、聖人は名〓を貴び、老莊は自然を明かにす、其西晉-孝惠皇帝-三八三 十八史略卷之三三八四旨異同あるか。瞻曰く、將た同じきなからむやと。戎、咨嗟稍や久し、遂に之を辟す。時に三語掾と號す。此時、王衍、樂廣、皆〓評其正直著機種ときん談を善くす。衍、神情明秀。少時、山濤、之を見て曰く、何物の老嫗か、寧馨兒を生む。然れども、天下の蒼生を誤る者は、未だ必ず寧馨兒しも此人に非ずむばあらざるなりと。衍の弟澄及び阮咸、咸の從子修、胡母輔之、謝〓、畢卓等、皆、任放を以て達となし、醉裸、以て非となさず。比舍の郞の釀、熟す。卓、夜、甕間に至つて盜飮し、守者に縛せらる。旦に之を視れば、畢吏部なり。樂廣、聞いて笑つて曰く、名〓の中、自ら樂地あり、何ぞ必ずしも、乃ち爾らむと。初め、魏の時、何晏等、論を立て、以へらく、天地萬物、無をに評を毒す〓談社會以て本となすと。衍等、之を愛重す。裴顧、崇有論を著せども、救ふ能はず。太子適は賈后の生む所に非ず。后、廢して之を殺す。征西大將軍八王の亂趙王倫、詔を矯つて、兵を勒して宮に入り、后を廢して之を殺し、張華、裴顧を殺す。倫、相國となる。淮南王允、兵を率ゐて、倫を討つ。克たずして死す。倫、衞尉石崇を殺す。崇、愛妾綠珠あり。倫の嬖人孫秀、之を求むれども與へず。秀、崇を誣ひ、允を奉じて亂を爲すといひ、之を收む。崇曰く、奴輩、吾が財を利するのみ。收むる者曰く、財の禍たるを知れば、何ぞ早く之を散せざると。遂に殺さる。倫自ら九錫を加へ、帝に逼つて位を讓らしむ。黨與、西晉-孝惠皇帝-三八五 十八史略卷之三三八六皆、卿相となり、奴卒も亦た爵位を加ふ。朝會する每に、貂蟬貂足らず狗尾續く座に盈つ。時人語して曰く、貂足らず狗尾續ぐと。齊王間、許昌を鎭し、成都王頴、鄴を鎭し、河間王顒、關中を鎭す。各、兵を擧げて、倫を討つ。倫、誅に伏す。岡、政を輔く。驕奢にして、政を擅にす。〓長沙王又をして、之を殺さしむ。頴亦た功を恃んで驕奢。旣にして、〓と兵を擧げて反す。父、帝を奉じて、頴と戰ふ頴の將陸機、戰敗れて收めらる。歎じて曰く、華帝の鶴唳、復た聞くべけむやと。弟雲と共に、皆頴に殺さる。機雲は、皆、陸抗の子なり。頴兵を進めて、京師に入り、丞相となる。旣にして、鄴に還る。〓頴を表して、皇太弟となす。東海王越、帝命を奉じてに侍中〓絡頴を征す。頴、兵を遣して、蕩陰に拒戰す。乘興、敗績す。侍中嵇紹身を以て帝を衞つて殺され、血、帝衣に濺ぐ。頴帝を迎へて鄴に入る。左右、帝衣を浣はむと欲す。帝曰く、稀侍中の血、浣ふ勿れと。頴帝を奉じて、洛に歸る。願の將張方、洛に在り。帝を長安に遷す。〓太弟頴を廢し、更めて豫章王熾を立てて太弟となす。東海王越、兵を發して、西、長安に入り、帝を奉じて、洛に還る。越を以て、政を輔けしむ。成都王頴、先に洛陽に據る。旣にして、長安に走り、又、武關より新野に走り、遂に、北、河を濟り、故の將士を收む。頓丘の太守の執ふる所となる。時に、范陽王虓、鄴に據る。頴を城に送る。未だ幾な西晉-孝惠皇帝-三八七 十八史略卷之三三八八らずして殺さる。帝、麵を食ひ、毒に中つて崩ず。或は曰く、東海王越、之を鴆す評主昏國亂るなりと。帝、昏愚。天下大に饑ゆるや、帝曰く、何ぞ肉麋を食はざると。華林園に蛙鳴を聞く。帝曰く、かの鳴く者は、官の爲にするか私の爲にするか。左右、之に戯れて曰く、官地に在る者は官の爲にし、私地に在る者は私の爲にすと。賈氏の政を專らにするに方つて、時人、將に亂れむとするを知る。索靖、洛陽宮門の銅駝を必ず汝が荊指して、歎じて曰く、必ず、汝が〓棘の中に在るを見むのみと、趙棘の中に在るを見ん王倫の亂後、諸王、迭に相殘滅し、天下大に亂る。劉淵劉淵、左國城に興る。淵は、故の南匈奴の後なり。匈奴は、漢魏より以來、中國に臣たり。其先世、自ら漢の甥なるを以て、漢姓を冐す父豹、左部の帥たり、淵を產む。幼にして雋異。博く經史を習ふ。嘗て曰く、吾、隨陸が武なくして高帝に遇へども封侯の業を建つる能はず、終灌が文なくして文帝に過へども座序の〓を興す能はざるを恥づ、豈に惜からずやと。是に於て武事を兼學す。姿貌魁偉。初め、侍子となつて、洛に在り。豹、死す。武帝、淵を以て、代つて、五部の帥となし、旣にして、北部都尉となる。五部の豪傑多く之に歸す。帝の世に及びて、以て五部の大都督となす。成都王穎、表して、左賢王となす。嘗て、兵に將として、鄴に在らしむ。劉聰淵の子聰、亦た驍勇人に絕え、博く經史に渉る。善く文を屬し、弓西晉-孝惠皇帝-三八九 十八史略卷之三〓三百斤を彎く。淵の從祖宣曰く、漢亡びてより以來、我が單于、徒に虛號あつて、復た尺土なし。自餘の王侯、降つて、編戶に同じ。今、吾が衆、衰へたりと雖も、猶ほ二萬あり、奈何ぞ、手を歛めてご役を受け、奄として百年を過ごさむや。司馬氏、骨肉相殘ひ、四海ざ鼎沸。左賢王、英武世に超ゆ、呼韓邪の業を復する、是れ其時なりと。乃ち相與に謀つて、之を推す。淵、頴に說き、歸つて、五部を帥ゐて來り助けむことを請ふ。旣に、左國城に至るや、宣等、推して、大單于となす。二旬の間、衆五萬、離石に都す。胡晉の之に歸する者、愈よ衆し。乃ち國號を建てて漢といひ、漢王と稱す。淵劉曜族子曜あり。生まれて、眉白く、目に赤光あり。幼にして聰慧、膽量あり。亦た好んで書を讀み、文を屬し、射は能く鐵七寸を洞す。是に至つて淵の將となる。ミ巴西の氏李特、初め、流民を以て蜀に入る。旬月、衆二萬、廣漢つ折に據り、進んで成都を攻め、刺史羅尙の敗る所となる。其首を斬らる。弟流、代つて其衆を領し、勢、復た盛なり。流死す。弟雄代り、攻めて羅尙を走らして、成都に入る。是に至つて、成都王と稱す。鮮卑の慕容廆、武帝の時より、旣に寇を爲す。旣にして降る。以て鮮卑の都督となす。魔皝を生む。遼東より徒つて、徒河に居り、又た大棘城に徒る。帝の世に及んで、慕容部、愈よ盛なり。西晉-孝惠皇帝-元 十八史略卷之三三九二鮮卑の索頭拓跋氏、之より先、質子、晉に在るものあり。武帝、遣歸す。旣にして、拓跋力微、又、其子をして入貢せしむ。力微、死して、子悉祿官、立つ。帝の世に及びて、索頭、國を分つて三部となし、一は上谷の北に居り、祿官自ら之を統べ、一は代郡參合陂の北に居り、兄の子猗色をして之を統べしめ、一は定襄の盛樂故城に居る、猗也の弟 〓虛虛をして之を統べしむ。晉人の附く者稍や衆し、猗缶、漠を度つて北巡し、西、諸國を略す。降附するもの、三に十餘國。拓跋氏の盛なる、是に始まる。夷狄、華を亂るの禍、皆、藁を漢魏晉の間に萠し、帝の世に至つて、中國の大亂に乘じて、始よbめて四に起る。帝在位十七年、改元するもの五、曰く元康、永康、太安、永興、光熙。太弟立つ、之を孝懷皇帝となす。【孝懷皇帝】名は熾。惠帝の十五年に當り、武帝の子二十五人、兄弟相屠るの餘、存する者三人のみ。熾は其一なり。素より學を好む。故に立つて太弟となり、是に至つて卽位す。成都王李雄、帝と稱し、國を成と號す。石勒漢主劉淵、帝と稱し、徒つて平陽に都す。其子聰及び石勒等を遣ろ、して、晉の内郡を攻めしめ、以て洛陽に至る。勒は、武郷の羯人なり。之より先、嘗て、洛陽に至り、上東門に倚つて長嘯す。王衍、其異あるを識る、後、寇を爲し、旣にして漢に從ふ。西晉-孝惠皇帝-孝懷皇帝-三九三 十八史略卷之三三九四漢主淵卒す。子和立つ。聰弑して、之に代る。太傅東海王越、兵を遣して、入つて宿衞し、仍つて使を遣し、羽檄を以て、天下の兵を徵して、入つて援けしむ。越自ら兵を帥ゐて、石勒を討ち、軍に卒す。勒の兵、越の軍を敗り、太尉王衍等を執ふ。衍、自ら言ふ、少より宦情なく、世事に預らずと。勒曰く吾、天下を行ること多し、未だ此輩の人を見ず、尙ほ存すべきbか或ひと曰く、彼は皆、晉の王公、終に吾が用を爲さず。勒曰く、然りと雖も、必ず、加ふるに、鋒刄を以てすべからずと、夜、人をして、墻を排して、之を殺さしむ。漢主聰、呼延晏を遣し、兵に將として、洛陽を攻めしむ。劉曜、王彌、石勒、皆會す。遂に洛陽を陷れ、帝を執へて、平陽に送る。尋いで殺さる。帝在位六年、改元するもの一、曰く、永嘉。秦王、長安に立つ、之を孝愍皇帝となす。I【孝愍皇帝】名は業、吳王晏の子、武帝の孫なり。秦王に封ぜらる。洛陽、旣に陷るや、荀藩、王を奉じて、許昌に趨る。時に年十二。旣にして、索絲、迎へて、雍州に入る。刺史賈疋等、奉じて、皇太子となし、行臺を建つ。盜疋を殺す。麴允、雍州を領す。懷帝の凶問至る、王長安に卽位す。石勒、石虎を遣して、鄴を攻め、陷れて之に據る。西晉-孝懷皇帝-孝愍皇帝ー三九五 十八史略卷之三三九六大衣服務管理評西漢、屢ば長安に寇す。麴允、索絲、屢ば之を敗る。未だ幾ならず帝の王の)して、漢兵、しきりに諸郡を陷れて長安に逼り、先づ外城を陷る。胡十麴允、索絲、退いて小城を守り、內外斷絕、城中饑ゆること甚し。我收不能とな帝、出でて降る。漢將劉曜、平陽に送る。聰群臣を享し、帝に命じ、靑衣を著けて、酒を行ひ、爵を洗はしめ、又、蓋を執らしむ。後、害に遇ふ。帝、在位四年、改元するもの一、曰く、建興。西晉は、武帝より、是に至るまで、凡そ四世、五十二年。瑯琊王、建業に立つ、之を中宗元皇帝となす。評譯十八史略卷之四正西紀自三一六至四二〇東晉【中宗元皇帝】名は睿、瑯琊王仙の孫なり宣帝懿、仙を生み、仙觀を生む。或は曰く、睿の母、實は瑯琊の小吏牛金と通じて、睿を生むと。觀に嗣いで王となる。惠懷に於いては、再從兄弟たり。懷帝の時、睿、安東將軍となり、揚州軍事に都督たり建業に鎭す王導睿、王導を以て謀主となし、事每に咨ふ。睿、名論素より輕し。呉人初め附かず導勸めて、諸名勝を用ひしむ。顧榮、賀循、紀瞻東督-中宗元學帝-三九七 十八史略卷之四灵等、掾屬となり、新舊を撫綏す。江東心を歸す。後、又、庾亮、卡壺等百餘人を得たり、之を百六掾といふ桓彜亂を避け、江を過ぎ周顗て、睿の微弱なるを見て、之を憂ふ旣にして導を見、退いて周顫に謂つて曰く、江左に管夷吾あり、吾憂なしと。諸名士、新亭に遊宴するや、顫中坐にして歎じて曰く、風景殊ならず、目を擧ぐれば、江河の異ありと。因つて、相視て、涕を流す。導曰く、當に力を王室に戮せ、共に神州を復すべし、何ぞ楚囚と作つて、對泣す祖逖るに至らむやと。愍帝睿を以て、左丞相となす。洛陽の祖逖、少よ劉琨り大志あり。嘗て、劉現と同じく寢ぬ。中夜、鷄聲を聞き、現を蹴つて、起して曰く、是れ惡聲に非ざるなりと。因つて起つて舞ふ。是に及びて、南に渡り、兵を睿に請ふ。賓、素より北伐の志なし、逃を以て豫州の刺史となし、兵千人を與へ鎧仗を給せず。逃江を渡り、中流にして、楫を擊つて誓つて曰く、祖逖、中原を〓むる能はずして、復た濟らば、此江の如きあらむと。愍帝、又、睿を以て、丞相となし、中外の諸軍事を都督せしむ。長安、陷る。睿師を出して露次し、檄を移して北征す。實は、行かず。群臣、勸めて晉王の位に卽かしめ、明年、遂に皇帝の位に卽く。太尉劉現、死す。初め、琨祖逖と名を齊しうす。琨人に謂つ著先鞭て曰く、常に恐らくは、祖生が、吾に先つて鞭を著けむことをと。懷愍の時、〓州刺史となる。琨軍を出す。長史、叛いて、石勒に東晉-中宗元皇帝-三九九 十八史略卷之四四〇〇降る。幽州の刺史段匹彈、時に薊城に在り、人をして、現を邀へしむ。琨衆を率ゐて、薊に奔り、匹彈と血を歌つて同盟し、晉室を翼戴す。薊を襲ひ取らむと欲する者あり。書を遺つて、現に請うて內應を爲さむとす。書、邏騎に獲らる。然も、張實は知らざるなり竟に匹彈に縊らる。漢主劉聰、卒す。子粲、立つ。其臣、〓準、弑して、之に代る。石勒、準を討つ。劉曜、自立し、勒を封じて、趙公となす。曜、疑ふ勤自ら趙王と稱す。曜、亦た號を改めて趙となす。勒を後趙となす。略陽臨渭の氏會蒲洪、驍勇にして、權略あり。群氏畏れて、之に服す。劉聰、嘗て、拜して將軍となす。受けず。懷帝の世に在つて、自ら略陽公と稱す。是に至つて、趙主曜に降る。上晉の豫州の刺史祖逖、卒す、初め、逖譙城を取り、進んで、雍丘に屯す。後趙の鎭戍、逖に歸する者、甚だ多し。逖將士と甘苦すハを同じうし、勸めて、農桑を課し、新附を撫納す。帝、戴淵を以てと、將軍となし、來つて、諸軍事を督せしむ。巡、己〓棘を剪つて、河南の地を收む、而るに、淵、雍容として、一旦來つて之を統ぶるあう〓を以て、意.甚だ快快たり。又、王敦が朝廷と隙を構へて、將に內難あらむとするを聞き、大功の遂げざるを知り、感激して、病を發して卒す。豫州の士女、父母を喪ふが如し。東晉-中宗元皇帝-四〇一 十八史略卷之四四〇二鮮卑の慕容廆、之より先、嘗て使を晉に遣して、帝命を受けて、平州刺史となる。是に至つて、以て平州の牧、遼東公となす。初め、拓跋祿官死す。猗盧、三部を總攝す。劉現、猗盧と結んで兄弟となる。懷帝の時、表して、大單于となし、代公に封ぜられ、部落を帥ゐて、雲中より雁門に入る。琨與ふる」に、陛北の地を以てす。之に由つて、益す盛なり。嘗て、現の援となつて、大に劉曜の兵を晉陽に破る。猗盧、成樂に城いて、北都となし、平城を南都となす。愍帝、猗盧の爵を進めて王となし、官職を置き、代、常山の二郡を食ましむ。猗盧、少子を愛し、立てゝ嗣となさむと欲して其長子六修を出し、六修をして其弟を拜せしむ、從はずして去る。大に怒つて、之を討つ。兵、敗れて、弑に遇ふ。猗也の子普根、六修を討滅して自立す。尋いで卒す。國人猗虚が弟の子欝律を立つ是に至つて、猗色の妻、欝律を殺して、其子賀偏を立つ。欝律の子什翼犍、襁褓に在り、母、之を袴下に匿して殺されざるを得たり反王教反す晉の〓州の刺史王敦、す。初め、帝の江東に鎭するや、敦從弟導と共に、心を同じうして翼戴し、心を推して之に任じ、敦は征討を總べ、導は機政を專にして、群從子弟顯要に布列す。時人、語して曰く、王と馬と、共に天下を共にすと。敦先に揚州の刺史諸軍を都督し、を領し、征討進んで、鎭東大將軍都督江揚〓湘交廣六州諸軍事江州刺史となり、尋いで〓州を領し、功を恃んで驕恣東晉-中宗元皇帝-四〇三 十八史略卷之四四〇四なり。帝、畏れて之を惡む。乃ち劉隗、刁協を引いて腹心となし、漸く王氏の權を抑損す。導も亦た漸く疎外せらる。敦の參軍錢鳳等敦の異志あ凶狡なり。るを知つて、陰に爲に畫策す。是に至つて、敦遂に兵を武昌に擧げ、劉隗、刁協を誅するを以て名となす。隗、協、帝に勸めて、盡く王氏を誅せむとす。帝許さず。導宗評族を率ゐて、毎旦、臺に至つて罪を待つ。周顫、將に入らむとす能德は王周ず導額し勝人知のむ手間る陰じの得手導、是を呼んで曰く、伯仁、百口を以て、卿を累はさむと。顫顧のた百所みず、入つて帝に見え、導の忠誠を言ひ、申救甚だ至る。帝、其言を納る。顫、醉うて出づ導又呼ぶ。顫與に言はず、左右を顧みて曰く、今年諸賊奴を殺し、金印、斗の如く大なるを取つて、肘後に懸けむと。旣にして、出で、又表を上つて、導の罪なきを明惣かにす。導、知らずして、之を恨む。帝、召して導を見る。導、稽山のだ首して曰く、亂臣賊子、何の代か之なからむ。意はざりき、今、近く臣の族に出でむとはと。帝、跣して其手を執つて曰く、茂弘、方上やに卿に寄するに百里の命を以てすと。以て前鋒大都督となす。敦石頭城に至つて、之に據る。曰く、吾、復た盛德の事を爲すを得ずか、と協、隗等、道を分つて、出でて戰ひ、大に敗れて還る。帝、百官をして、石頭に詣つて敦を見せしむ。敦、周顫を殺す。導、救は吾と七ヘこやまたは由も殺ず。後、中書の故事を料檢し、顎の表を見、之を執つて流涕して日て死すく吾、伯仁を殺さずと雖も、伯仁、我に由つて死す。幽冥の間、東晉-中宗元皇帝-四〇五 十八史略卷之四四〇六この良友に負くと。敦、朝せずして去り、武昌に還る。帝、憂憤して疾を成して崩ず。在位六年。改元するもの三、曰く建武、大興、永昌太子立つ、之を肅宗明皇帝となす。【肅宗明皇帝】名は紹、幼にして聰慧、嘗て、使者あり、長安より長安近きか日近きか來る。元帝、紹に問うて曰く、長安、近きか、日近きか。紹曰く、長安近し。但だ人の長安より來るを聞く、人の日邊より來るを聞かずと。元帝、其對を奇とす。一日、群臣と語つて、之に及ぶ。復た以て紹に問ふ紹曰く、日近し。元帝愕然として曰く、何ぞ間者の言に異なるか紹曰く、頭を擧ぐれば日を見る、長安を見ずと元帝、益す之を奇とす。長ずるに及びて仁孝、文辭を喜び武藝を善くす。賢を好み、士を禮し、規諫を受く。庾亮、溫嶠等と布衣の交をなす。敦石頭に在り、其勇略あるを以て、誣ゆるに不孝を以てして、之を廢せむと欲す。嶠等の衆論に賴つて、其謀を沮む。是に至つて位に卽く。敦、位を簒せむことを謀り、屯を姑熟に移し、自ら揚州の牧を領す。王導を以て司徒となし、大都督を加へ諸軍を督して敦を討つ。復た反し、敦、兵を發して病む。郭璞をして、之を筮せしむ。璞曰く明公事を起せば、禍必ず久しからず。敦大に怒つて曰く、加拿大利害けぞ)卿の壽幾何ぞ。璞曰く、命、今日の日中に盡きむと。敦之を斬る。日、命今日と中に盡きむ帝、自ら出でて、敦の軍を覘ふ。敦、書日、其營を環るを夢む。東晉-肅宗明皇帝-四〇七 十八史略卷之四四〇八驚悟して曰く、黃鬚鮮卑の兒來るかと。帝の母は鮮卑の出なり。亟に、人をして、之を追はしむ、及ばず。帝、諸軍を帥ゐて、出でてつ南皇堂に屯し、夜、壯士を募つて、水を渡り、敦の兄王含の軍を掩うて大に之を破る。敦含の敗を聞いて曰く、我が兄は老婢のみ、門戶衰へ世事去ると。因つて、勢を作し、起つて自ら行かむと欲す。困乏して、復た臥す。尋いで卒す。敦の黨、悉く平らぐ。敦のau評王丼屍を發いて之を斬る。有司、王氏の兄弟を罪せむことを奏す詔を と事人親大を義滅す間して曰く、司徒導、大義を以て親を滅す、將に十世まで之を宥さむ最難のたと欲すと。悉く問ふ所なし陶侃陶侃を以て剃湘等の州の諸軍事を都督せしむ。侃少にして、孤貧なり。孝廉范達、之を過ぐ。侃の母湛氏、髪を截つて、賣つて酒食を爲る。達、侃を薦め、遂に名を知らる。初め、〓州都督劉弘に用ゐられ、義陽の叛蠻張昌を討ち、又江東の叛將陳敏を討ち破り又湘州の劇賊杜發を擊ち破る。江夏の太守より〓州の刺史とな之を疾んり、王敦、で、廣州刺史に左遷す。侃州に在つて、朝に百甓を齋外に運び、暮に齋内に運ぶ。人其故を問ふ。答へて曰く吾、方に力を中原に致さむとす、故に勞を習ふのみと。是に至つて復た〓州に鎭す。士女相慶す。侃性聰敏恭勤嘗て曰く、大禹は聖人なり、乃ち寸陰を惜む。衆人は當に分陰を惜むべしと。諸參佐こと〓〓の酒器、蒲博の具を取つて、悉く江に投じて曰く、樗蒲は牧猪奴の東營-肅宗明皇帝-四〇九 十八史略卷之四四一〇戯のみと。嘗て、船を造るや、竹頭木屑を籍して、之を掌らしむ。後、正會に雪霽れて地濕ふや、木屑を以て地に布く。後、征蜀六の師あるに及び、侃の竹頭を得て、釘を作つて船を裝す。其綜理微密なること、之に類す。帝崩ず、在位三年。改元するもの一、曰く太寧。太子立つ、之を顯宗成皇帝といふ。【顯宗成皇帝】名は衍、母は庾氏、五歲にして卽位す。司徒導、帝の舅中書令庾亮と共に政を輔く、太后、朝に臨む歷陽の內史蘇峻、反す。峻さきに臨淮に守たり。王敦、再び闕を犯せし時に、入衞して功あり。威望漸く著はる。歷陽に在るに及びて、卒銳に、器精なり。志、朝廷を輕んじて、亡命を招納す。庾亮石頭城を修め、以て之に備へ建請して、峻を徴して大司農となす。峻、兵を擧げて、姑孰を陷る。尙書令卡壺、軍を督して、峻と力戰して死す。二子之に隨ひ、亦た敵に赴いて死す。母、其屍性能力を示す。を撫して曰く、父は忠臣たり、子は孝子たり、何ぞ恨まむやと。庾獨立大學亮出奔す。峻の兵、闕を犯す。陶侃、溫嶠、入つて、峻を討つて之を斬る。後趙主石勒、大に趙兵を破り、趙主劉曜を獲たり。曜勒と、しきりに攻戰し、互に勝負あり。曜、後趙の金塘城を攻む。勤、自ら1/將として、之を救ひ、大に洛陽に戰ふ。趙兵、大に潰ゆ。曜、醉う東晉-顯宗成皇帝-四一一 十八史略卷之四四三る)、て、馬より墮ち、勒に獲られ、歸つて之を殺す。前趙亡ぶ溫嶠音の驃騎將軍溫嶠、卒す。嶠、始め、劉現に遣はされて、江東に使す。母、欲せず。嶠、裾を絕つて去る。旣に至つて、復た北に歸るを得ず、終身以て恨となす。嶠.心を晉室に盡し、敦峻の平らぐ皆嶠の力なり。後趙の石勒、天王と稱し、尋いで、帝と稱す。嘗て、大に群臣を問うて曰く、朕は古しへの何の王に方ぶべきか評或ひと曰る人 大阪石物な見胡人中人傑には饗するや、る?く漢高よりも過ぎたり。勤笑つて曰く、人、豈に自ら知らざらき月り多味其所且むや卿の言、太だ過ぎたり。若し高帝に遇はば、當に北面して之に事ふべく、韓、彭と肩を比べむのみ。若し光武に遇はば、中原に並驅すべく、未だ鹿の誰の手に死するを知らず。大丈夫、事を行ふ、5.當に〓碼落落、日月の皎然たるが如くなるべく、終に曹孟德、司馬仲達が人の孤兒、寡婦を欺いて、狐媚以て天下を取るに效はざるなりと。勤學ばずと雖も、好んで、人に書を讀ましめて之を聽き、時に其意を以て得失を論ず、聞く者悅服す。嘗て、漢書を讀むを聽き、鄙食其が勸めて、六國の後を立つるに至り、驚いて曰く、この大法當に失すべし。何を以て、遂に天下を得たると。張良の諫めしを聞くに及びて、乃ち曰く、賴に此あるのみと。後、使を遣して好を晉に修む。晉、其幣を焚く。勤卒す。子、弘立つ。自音の大尉陶侃卒す。'保八州に都督たり。威名赫然。或は謂ふ。東晉-顯宗成皇帝-四一三
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移転完了てす -- (名無しさん) 2014-03-31 01 53 14 信長は忠勝より強いんだね -- (名無しさん) 2014-03-31 10 32 41 逆に本多忠勝の武勇は結構イメージ先行しているような・・・・・ 大軍に単騎で突っ込んでる逸話はあるけどそれは謙信や信長もやってるし 信憑性はかなりアレだが武功夜話だと加藤清正と一騎打ちしてあわや敗れるところを 秀吉に助けてもらったというのもある。首級を取った記録も見当たらない。 まあ能力値は最終的に個人の差配になるから一桁数値を是正する気にはならんけど -- (名無しさん) 2014-03-31 11 32 41 わろえない -- (p) 2014-04-02 01 00 38 今の日本の悪しき風潮だよな。英雄英傑を評価せず、チョイ役や脇役を過剰に持ち上げる 光武帝ほどじゃなくてもいいが、少しは正当な評価が広がってほしいもんだ。 真田や宗茂の評価を見ると特にそう思えてならんね -- (名無しさん) 2014-04-06 00 03 49 てめえ個人のイカレた評価なんぞ知ったことか。 少しは過去のテメエの評価に対するドン引きコメントの数々を よくよく吟味して出直してきやがれ。 -- (名無しさん) 2014-04-06 00 15 30 具体的な根拠もなく、逸話の知らない人間のドン引きねぇ・・・・ 「一騎打ちで呂布が劉備三兄弟に互角以上に戦ったとかありえないw」 「長坂で張飛が大喝で敵を退けたとか嘘だろw」って言ってるようなもんなんだけど その辺理解してるのかなそういう人は -- (名無しさん) 2014-04-06 00 27 11 編集合戦になるのを防ぐため、 万人が少しでも納得しやすい能力値を心がけ、 多少の前後はあっても大きく逸脱しないこと。 最初の作成者にはある程度の敬意を払うこと。 編集を行う場合はまずコメントをして意見を聞くこと。 暗黙のルールです。 あなたには全てが欠けている。 あなたもまずはみんなに聞いてみるべきでしたね。 「信長の武力を99にしたいけどどう思う」とね。 賛同者は何年待っても一人も現れなかったでしょうけど。 -- (作成例をよく読むように) 2014-04-06 02 09 33 万人が納得するっていうけど、最初の作成者は高武力高能力だったのに 勝手に他の編集者が一存で能力下げまくっていたから、変更しただけにすぎないんだけど だから俺はそれを戻しているだけで、文句を言う人間がまず下げる根拠を明示すべき。 ちなみに俺がこれをやっているのは信長以外の武将もそうなので、別に贔屓の引き倒しでやっているわけではない。 逆に聞くが、ここにいる人間は呂布や項羽の武力が70だったらおかしいと思わないのかね? 信長の例でいえば、彼より武勇伝が多い日本人なんて、それこそ素戔嗚や日本武尊くらいしかいないのだが 何を根拠に武力が70台なのか、これは秀吉の能力にも同じことが言えるけど -- (名無しさん) 2014-04-06 10 26 32 そもそも、編集合戦を防ぐというが、俺はわざわざそうならないように 他の人物も調べて参考値を載せて、ちゃんと更新の体を成してやっているのだが 他の人間はなんだね?ただ能力値にケチをつけて、自分の好き嫌いで人物を評価しているだけじゃないのか? 一例を挙げれば、このページで明智光秀、織田信雄、織田信孝を作ったのは俺だが ご丁寧に勝手に能力値を変更している。しかもなんら根拠は明示せずに。 編集合戦を防ぎたいのなら、下げている人間がその根拠を言うべき 俺は作った全ての人物に、逸話や根拠を組み立てて作成している。 -- (名無しさん) 2014-04-06 10 34 44 私が知る限り一番初期の信長の能力値は、 96 70 97 91 99だ。これの根拠は作成者が太閤立志伝Ⅴの織田信長を そのまま反映したもので、このサイトが発足して後最も長く存在して いたものだ。近年になって多少の前後はしたものの信長の武力が90を 超えたことは一度もなかった。それはこのゲームをプレイする人間にとって 最も親しみやすい信長の野望などコーエーが設定した能力値の範囲を超過することがなかったからだ。 それが最近になってから信長含む三傑の能力値が突然インフレを起こした。 まったく同時期に日本の新武将全体に何者かのテコ入れが入った。 例えば源義経の武力も99にされている。 戦国時代以外の新武将はほぼ私が作成したものだが、 それを根拠も示さずに変更しているのはあなただろう? その件についてなんかコメントありましたっけ? 突然の如く、私も逸話や根拠(通説によるイメージ、大陸との若干な補正、ゲームバランス) 能力値を反映させているのだが、自分は他人の意志などまったく顧みもしないで 好き勝手やってる癖に他人には自分の意志を尊重してほしいとは、まったく都合のいい話だ。 その上、編集合戦が起きる原因は他者が勝手に編集することだと言うか。 発売直後から存在し、作成者を尊重して誰も編集の手を入れなかった日本武尊や厩戸皇子 まで身勝手に変更しておきながらよく言う。 -- (作成例をよく読むように) 2014-04-06 14 58 08 能力値のインフレを全部俺のせいにされても困る 日本武尊の数値が両方100にしたのは俺だが、これは 若干30歳で日本の西征、東征を行い、最期は神と戦うその生涯を考慮したもの 神話の人物だし項羽や呂布も神とは戦っていないので、上限の100まであげたにすぎない。 源義経の99も一の谷の戦いが史実では壮絶な兵力差をひっくり返したことが由来であり これは正史だと壮絶な活躍をして演義でその活躍が抑えられた張遼と同じ。 少なくとも「俺」は、能力を是正する際に必ずその元となった逸話を併記している。 戦国時代以外の新武将はほぼ私が作成したものだが 嘘はやめた方がいい。俺は別に戦国だけが好きなわけじゃないから あらゆる時代の人物を作っているが徳川慶喜や足利義満などは自分が作っている。 他人が作った人物まで起源主張して変更するなというのは如何にも浅ましくなかろうか? -- (名無しさん) 2014-04-06 15 31 37 ぶっちゃけこのページいらなくね? 信長の野望か太閤立志伝から持ってくりゃいいし -- (名無しさん) 2014-04-06 17 19 08 以前からそう言う話だったし、意義なし。 -- (名無しさん) 2014-04-06 17 30 28 信長の野望からそのまま持ってくるとなると 全てのページが対象になるからお流れになったんだよ。 日本武尊や源平、足利北条に新撰組や維新勢 消える人間が多すぎるから取りやめになった。 -- (名無しさん) 2014-04-06 17 50 50 いやいや いらないってのはまるごと必要ないってことだから 持ってくるってのは自分で新武将作るときって意味じゃないかな? -- (名無しさん) 2014-04-06 19 25 47 全ての人物がいらないというなら、それこそみんなの新武将の項目自体いらないだろう。 時間は滅茶苦茶かかるがWikiで全て調べて自分で能力付ければいい。 でも、そうなるとここで議論するより「みんなの新武将」全体で議論すべきだろうね。 -- (名無しさん) 2014-04-06 19 43 51 この近世の(信長・秀吉・家康の)三傑(と一部)以外はまあ盛ってるが納得できる許容範囲 やっぱり有名どころは高くしたいのかね・・・ 三人とも武力-20でいいと思います -- (名無しさん) 2014-04-07 13 11 30 武力が随分過小評価されやすいな まあここいらで根拠を示しておこう 三国志の武力根拠となる「一騎打ち」だけど 戦国武将でこれをやって敵を破った人間はわずか4人しかいない。(調べた限りでは) 山中幸盛、吉川元春、立花宗茂、そして織田信長。 とくに信長は貴重な総大将討ち取りをやっている。 ちなみに武芸者として知られる本多忠勝ですら一騎打ちで敵を破ったことはなく 真柄直隆相手に数合討ちあって引き分けている(この後真柄は匂坂三兄弟or青木一重に討たれる) 武功夜話はどこまで信用していいかわからんが、加藤清正は忠勝を討ち取る寸前までいってるのでもっと上げてもいいかもしれない というか前々から思っていたんだが三国志で武力70~60台って陸遜レベルだろう 陸遜が最前線に出て味方を鼓舞して敵と切り結んでいたか? -- (名無しさん) 2014-04-07 13 42 52 日本には剣豪属性がありますから 一騎打ち補正が設定できないので単純に武力値でバランスをとるしかないと思うのですが・・・ -- (名無しさん) 2014-04-07 13 58 58 剣豪だからってそのまま武力に反映するのもどうかと 例えば足利義輝のように、死の間際に敵兵を斬りまくったとかなら 武力に反映されやすいと思いますが、そうでないならそこまで反映する必要があるのでしょうか? 彼らは剣術に優れていたというだけで、戦場での武勇とはまた別問題ではないでしょうか? 例えるならそうですね、黄忠や夏侯淵は弓術に優れていたとありますけど、別に彼らが武力1位というわけではない感じでしょうか -- (名無しさん) 2014-04-07 14 40 34 まあ演義の設定ですけど -- (名無しさん) 2014-04-07 14 41 51 個人的な武力として(三傑)この値は疑問符が付くが・部隊もしくは軍団の殲滅力と考えるとまぁ納得できなくもない しかしあくまで武力の根拠を「一騎打ち」と前提としているから 剣豪属性(塚原卜伝・上泉信綱とか太閤立志伝で剣豪札を所持してる)方々よりは(武力は)劣ると思われる だから信長なり秀吉なり家康なりの武力を一騎打ち基準にするか殲滅力基準にするかを話し合えばいいと思う もしくは「一騎打ち補正あり」と書くようにするか -- (名無しさん) 2014-04-07 17 49 55 剣豪組はアイテム所持で補えるんじゃないかな? 自分はアイテム作ってそれ持たせたりしてる。 適正は全てCにすればそこまで武力高くても強くはならないよ。 -- (名無しさん) 2014-04-07 18 46 33 典韋さんみたいなイメージかな?槍に関してはみんなAぐらいありそうだけど… -- (名無しさん) 2014-04-07 20 15 44 インフレインフレと言われているが、 本家中国史も結構盛られているところあるから、 別にいいんじゃないかな -- (名無しさん) 2014-04-08 02 18 04 松尾芭蕉どっちかてと詩想じゃないの? -- (名無しさん) 2014-04-09 19 07 33 ↑追加しました 運搬は消したけど必要なら追加お願いします -- (名無しさん) 2014-04-09 19 40 03 2014-04-09 19 40 03さんありがとうございます 芭蕉というか俳句は詩のイメージがあったので -- (名無しさん) 2014-04-10 05 25 59 長谷川秀一の兵科適性を変更しましたが これは変更ではなく誤植訂正(変更前の適正は団忠正と全く同じ)であり 編集合戦を誘発するものではありません -- (名無しさん) 2014-04-12 01 58 01 のでご了承ください -- (名無しさん) 2014-04-12 01 58 50 史料、軍記、講談。全てを統合したら化け物数値になってもおかしくないね。特に秀吉は。 -- (名無しさん) 2014-04-19 06 23 09 ここにはないけど上杉謙信とかも凄そう -- (名無しさん) 2014-04-19 06 29 02 あと、が抜けてた -- (名無しさん) 2014-04-19 06 29 26 ちょっとしたことですが、なぜお濃の方は斉藤なのにおねの方は豊臣なのでしょう?おねの方は浅野では? -- (名無しさん) 2014-04-19 07 28 35 おねの方は秀吉と一緒に朝廷から「豊臣」の氏を貰ったからでしょうか? あとは・・・有名だから?浅野、木下でもいいんじゃないですかね -- (名無しさん) 2014-04-19 07 39 29 ↑なるほどそういうことですか。有難うございます。 -- (名無しさん) 2014-04-28 11 13 57 能力値変更による編集合戦誘発危機のため、記事を差し戻し 追加武将や候補特技は全てそのまま追加しております -- (みんなの新武将コメント欄をよく見るように) 2014-04-30 04 15 54 話題に上がりやすい3人の最新作「信長の野望・創造」での能力値 (統率・武勇・知略・政治) 織田信長 99 87 94 100 豊臣秀吉 94 78 97 99 徳川家康 99 86 90 94 -- (参考になれば) 2014-04-30 05 18 56 むしろ創造まで比較的行われてた信長の野望過大過小武将談義も参考にしてほしいところだ個人的には 徹底した史料逸話考証はあそこが群を抜いていた。過大評価の武将の理由づけに引用されまくった結果 「秀吉の前では全ての武将が過大」と言う名言も生まれている。 三国志も似たような談義あったな昔は -- (名無しさん) 2014-04-30 07 47 46 あらためて見ると信長の性能がヤバイね。 能力値こそ3人の天下人の中で一番低いが、 無駄がない配分で加えて候補特技が鬼。 三国志・戦国時代の英雄は逸話多いから、 特技の候補になってくるものも多いだろうしね。 諸葛亮も鬼門、神算、能吏どれもあいそうだし -- (名無しさん) 2014-05-02 20 11 34 まあ個人の作成例だし、多少はね -- (名無しさん) 2014-05-03 23 29 25 登録する側としては特技は多ければ多い方が嬉しい。 自分的に特技一つだと差別化考えにくいと思ってる。 あくまで個人的感想だけど、一つがいいなら選べばいいし 大は小を兼ねるってやつですな -- (名無しさん) 2014-05-03 23 45 16 アイテム持たせるとき 蘭奢待≒玉璽としてますが茶器類は書物類でしょうか玉璽or銅雀類でしょうか・・・? -- (名無しさん) 2014-05-08 15 10 59 茶器はたくさんあるし書物類でしょうね -- (名無しさん) 2014-05-09 11 00 35 やっぱりそう思われますかご意見ありがとうございます2014-05-08 15 10 59書いたもの -- (名無しさん) 2014-05-09 22 21 09 豊臣秀吉は、兵糧攻めによる攻城戦を得意としていたということで、兵器Sにしてます。後は特に不安はありません。 -- (名無しさん) 2014-05-14 23 07 41 LR違反が行われていたため、以前の記事に差し戻しました 編集合戦を誘発するので、能力値の変更は禁止されています -- (みんなの新武将注意点をよく読むように) 2014-05-28 00 52 51 理由がある場合はコメント欄などで説明を -- (みんなの新武将注意点をよく読むように) 2014-05-28 00 57 00 天下人三人の能力値がギャグかと思ったぐらい高いな 特に武力がおかしい、信長武力99とか人を切ったことがないという説もある秀吉が88とか意味不明 -- (名無しさん) 2014-07-25 13 03 49 コメントを読んでいただけると解ると思いますが 武力の設定基準は「部隊を率いたときの殲滅力」を基準としています -- (名無しさん) 2014-07-25 13 09 50 虎狩りの逸話がある孫権 部隊長として多くの戦いで前線を担った劉備 自らの武勇に関しても逸話が多い曹操など 三国志の英雄ですら武力の逸話が多いのに 戦国の英雄は武力の逸話がないと思うのもおかしな話よ 桶狭間で先陣切った家康、数多くの要所の戦いを担った秀吉 自ら先陣をきって敵を倒し続けた信長。どれも申し分ない -- (名無しさん) 2014-07-25 13 17 52 後漢の名皇帝である光武帝も滅茶苦茶強かったらしいですし、 概して動乱期の君主は強さを舐められすぎている感はありますね・・・・・。 劉邦みたいな、人徳で人を惹きつける君主は特例中の特例ですし。 -- (名無しさん) 2014-07-25 13 32 27 別のページに間違って打ってしまったでここでもう一度書かせてもらうと信長は馬場信春の兵千に対して一万で挑んで負けたり寡兵の浅井に押されまくったりしているし秀吉個人では人を殺したことがない説もあるし指揮官としては寡兵の鬼吉川に戦いを挑めず友軍を見捨てている あの能力では生涯無敗でもなければおかしい数値だが三英雄は常勝不敗というほど戦術家としては安定しているとは言えないよ なのに本物の常勝将軍の白起や韓信と比べて統率武力合計が互角以上はねえ あくまで三国志11のサイトである以上は日本トップクラスの傑物である3英雄は三国志トップクラスの傑物である曹操あたりと比較して能力を調整すべきだと思うけど圧倒的に総合値で引き離してはいくらなんでも個人の贔屓が過ぎるよう写るよ まあ曹操や信長は個人的には80台はあってもいいとは思うけど個人のイメージが大多数にそぐわない能力をつけてそれを説得できていないのに押し通すのはマナーとしてどうかと -- (名無しさん) 2014-07-25 15 07 55 三方ヶ原でボコボコにされた家康はともかく 信長と秀吉ってほぼ常勝無敗に近い戦績でしょ 味方について日の浅い友軍を見捨てたとか逆に損害を防いだ戦略眼を 褒められる逸話だし、例示された戦いも全て防衛戦で、守りきれている以上辛勝の類。 はっきり言うけど徐栄や張繍や孫権に負けた曹操じゃ比較にならんよ -- (名無しさん) 2014-07-25 15 29 43 最終的には個人の裁量なのよねぇ 史実重視か、イメージ重視か -- (名無しさん) 2014-07-25 16 38 33 ↑↑ 秀吉の戦略判断は正しいと思ったし褒めるべきなのは同意だよ、ただこのサイトの能力を持つ秀吉なら吉川をあっさりねじふせて友軍を救っただろうなという話、兵力差があっても大勝を収めるほどの自信と戦術能力差が無いと思ったから避けたのではないの? 秀吉は野戦の殲滅力という点では自軍よりはるかに多い兵力を相手に戦術的または政略的に勝利した戦いは自分の知る限りでは無いし、それに比べるとは信長と家康はなんどかある 大軍を飢えさせたことがない分大軍の運用は3英雄一だと思うけど戦術では寡兵の家康に戦術面で敗北しているし唐入りは失敗しているしで白起に匹敵する軍事能力はちょっとねえ 所で家康を下げている所を見ると関西方面の人?なら納得だわ -- (名無しさん) 2014-07-25 17 25 43 いや地方で能力の上げ下げはないだろう三傑は全員(関東・関西に関係のない)、東海・甲信越地方出身なのに… それに一騎打ちも三国志・戦国の両方とも数が少ないのだから 「武力≒一騎打ちの強さのみを基準」は前提として誤ってないか? -- (名無しさん) 2014-07-25 17 57 28 秀吉は10倍の浅井軍を破った箕浦合戦があるし 家康の三方ヶ原に相当する戦いはない そもそも上月城は尼子が撤退命令違反しただけ 唐入りはそもそも秀吉指揮じゃない -- (名無しさん) 2014-07-25 18 32 47 ↑↑いや地方によって武将を贔屓や偏見でさげる輩は絶対いる、あのNHKドラマ天地人の家康はどうしようもないほど小物で子悪党だったが脚本家は家康の人気が下がって満足的な発言あったが生まれはやはりというか大阪だった 以前ある掲示板で3英雄で最強は秀吉じゃーと大暴れした人の話をまるで聞かない秀吉信者は副アカがばれてアカウント停止になったんだけどそいつも関西出だと言ってた 正直言うと野望シリーズでいつも三英雄能力値最下位の秀吉を総合値一位にしている所をみると秀吉を持ち上げたいが為に信長の武力を不自然にあげたのでは?と勘繰ってしまうんだな 関西人っていつも歴史論になると秀吉を持ち上げようとするからなー -- (名無しさん) 2014-07-26 00 18 39 さすがに関西人を貶める発言は控えていただきたい 一部を全体の総意のように述べるのも 地域で能力に格差を持たせているのだ という発言もここでは場違いだろう? そもそも関西人が編集したかどうかも確かでないのに憶測でその地域の人々を貶めてはいけない -- (名無しさん) 2014-07-26 05 01 24 ついでに義理と野望も能力値に表記をしてください -- (名無しさん) 2014-07-26 05 43 13 呆れた話だな。 よそはよそ、ここはここだし よそのサイトで気に入らない人間がいたから暴れるとか問題外。 そんなつまらん理由で能力値にケチをつける人間がいるから 能力値変更NGになったんじゃないのか? つうか、総合能力値を細かく見ると 秀吉は晩年に魅力が41も下がるし、 信長が維持、家康が晩成と安定感のある成長スタイルに 対して秀吉は普通だし、兵科適正が一番優れているのは信長 ちゃんと核となる天下人を時代のナンバーワンになるように 信長秀吉家康をうまーく調整されていると思うけどな -- (名無しさん) 2014-07-26 06 53 58 ↑×2 義理・野望表完成させておきました -- (名無しさん) 2014-07-26 08 03 38 ありがとうございます ただ信長は裏切ったことはないそうなので義理4にしていただけないでしょうか? 2014-07-26 05 43 13 -- (名無しさん) 2014-07-26 08 20 04 ↑ 斯波とか北畠とか。あと織田信光の暗殺も信長の仕業だという話もありますよ 4だとちょっと高いかなと。 -- (名無しさん) 2014-07-26 08 43 33 でもよく考えたらあれ説止まりでしたっけ・・・ 曖昧なので4にしておきますね -- (名無しさん) 2014-07-26 08 47 21 ありがとうございます 2014-07-26 05 43 13 -- (名無しさん) 2014-07-26 10 54 41 「関西人っていつも歴史論になると秀吉を持ち上げようとするからな」 世の三国志マニアが中国籍になった瞬間である -- (名無しさん) 2014-07-27 17 53 54 ちょっといいですか? 滝川一益と織田信雄の水軍適正が低い気がします。 この2人は伊勢という水軍・海賊に近い場所に領地がありますし、実際に水軍で戦功もあげています。特に滝川は鉄甲船の製造者でもあるんですが -- (名無しさん) 2014-07-28 10 06 24 ↑ 確認の上、訂正しておきました -- (名無しさん) 2014-07-28 10 14 52 迅速な対応ありがとうございます。 -- (名無しさん) 2014-07-28 10 16 56 いくら何でも、黒田官兵衛より知力の高い近衛前久はおかしいだろう。 -- (名無しさん) 2014-07-29 10 20 57 朝廷黒幕説取ってるんじゃないの? -- (名無しさん) 2014-07-29 11 33 49 天下人3人武力高すぎじゃないか… -- (名無しさん) 2014-08-07 03 33 40 わざとやってんのか? もうその議論はとっくに終わった -- (名無しさん) 2014-08-07 06 35 12 まあまあ 一時史料たる書状に信長公記、天正記、当代記、三河物語の一代記、 他にも信長記、太閤記、徳川実記などなど 三人に関する史料はたくさんありますから どこがどうおかしいか、ちゃんと言ってくれるでしょう。 -- (名無しさん) 2014-08-07 07 41 15 注意点 基本的に、新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 新武将の能力値や適性の 決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物 であり、 その正誤も、各人それぞれ異なります。 当然、 万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。 (能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。) 可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には 各プレイヤーの裁量次第 であることをお忘れなきようお願い致します。 理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。 (過去に何度も編集合戦が起きています。) どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、 お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する ことをおススメします。 抜粋 -- (名無しさん) 2014-08-07 08 04 14 私見を言えば、信長の武勇伝は馬超に近い 敵を果敢に討ち果たし、敵大将たる曹操、今川義元を追い詰めた 武名一つで劉璋、朝倉と勢力一つ崩壊させたのも被る。 逆に知略はちょっと低いような・・・・・でも誤差範囲か -- (名無しさん) 2014-08-07 14 20 50 この講談とかなんとかいったい何なの? めっちゃ滑稽なんですけどwww 努力の方向性がおかしいwww そもそも講談読んだ認識も個人の裁量だし、 やってることが不毛すぎるしwww -- (名無しさん) 2014-08-10 01 08 50 能力値下げろ下げろ言って荒らす人間がいるからな -- (名無しさん) 2014-08-10 09 35 28 まあいいや、半兵衛以外は不毛だし消しておくか -- (名無しさん) 2014-08-10 09 56 23 というわけで作成者自らの手で消しました。 半兵衛の場合は境遇も展開も何から何まで全部変わるので残しました ご迷惑おかけしました -- (名無しさん) 2014-08-10 10 05 46 「本多正信」頼みます。 家康との相互親愛が望ましい 「深謀or百出」(久秀の評と三河武士の評をポジティブに解釈) あと知力と政治は出奔前と後(本能寺で帰参)と考え「開眼か晩成・長」でお願いします -- (名無しさん) 2014-08-12 13 03 12 ↑ 作成しておきました。 -- (名無しさん) 2014-08-12 16 08 00 ありがとうございます 2014-08-12 13 03 12です -- (名無しさん) 2014-08-12 18 23 17 つーかマイナーな武将多すぎないか・・・坂井政尚とかいて毛利北条武田がいないとか・・・自分で勝手に作ったしいいけどさ。これだけ言いたかった -- (名無しさん) 2014-08-19 06 15 36 http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2731.html 毛利や武田はこっちやで -- (名無しさん) 2014-08-19 07 56 20 残念だけどここ、能力変更禁止なのよね -- (注意点をよく読むように) 2014-08-19 08 04 08 荒れる原因になる編集合戦は勘弁 -- (名無しさん) 2014-08-19 11 33 28 前田利家のところに※で一つ追加を 「一説に稲生の戦いので隻眼になったとも言われている」 と作成時に逸話を生かしたりする人もいると思うで、お願いいたします -- (名無しさん) 2014-08-19 16 42 22 ↑ 反映しました -- (名無しさん) 2014-08-19 18 14 17 感謝いたします。2014-08-19 16 42 22です -- (名無しさん) 2014-08-19 18 45 42 ↑6 まじだったありがとう。戦国武将の能力・特技について語り合う場所ってどっかあるの? -- (名無しさん) 2014-08-19 23 14 34 ↑ 能力議論は荒れるのでなくなった 特技ならまだいけるんじゃないか? -- (名無しさん) 2014-08-20 04 55 55 本日作成した織田秀信の一部の能力値が、コピペ元である織田信行の能力のままになってしまってました 能力変更ではなく誤記訂正です、申し訳ありません。 -- (作成者) 2014-09-01 17 38 15 親愛・嫌悪関係についてですが 本多忠勝と榊原康政は本多正信を嫌悪でお願いします。 また本多正信と徳川家康は「相互親愛」関係がよろしいと思います反映を お願いいたします -- (名無しさん) 2014-09-02 11 40 50 ↑ 主な人間関係の項目で対応させました -- (名無しさん) 2014-09-02 12 10 18 対応、感謝いたします 2014-09-02 11 40 50です -- (名無しさん) 2014-09-02 13 03 48 織田厨くっさ -- (名無しさん) 2014-10-12 07 21 10 久々に聞いたそのフレーズ どこぞの実名漏れの人かな? -- (名無しさん) 2014-10-12 07 25 49 本家信長の野望の能力が気に入らないからって三國志にまで出張ってくんなや 本家にすらいないマイナー武将知ってる自慢かよ -- (長谷川亮太) 2014-10-12 11 46 29 この項目は随分前からあったけどな。 こういうのって本当にゲームやってない奴が言うんだな -- (名無しさん) 2014-10-12 20 57 34 あと実名漏れの方はそっちの人じゃないから 勝手に人の名前使ってやるなよ -- (名無しさん) 2014-10-12 20 58 23 作った俺が言うのもなんだが流石に菅屋斎藤クラスを無名扱いするのはちょっとな。三国志の馬良、賀斉、董昭クラスの認知度はあるよ。 -- (名無しさん) 2014-10-12 21 32 29 三国志じゃだぁ~れも作らねぇような日本の戦国武将作って気持ちよくなってる自慰猿がまぁ~たなんか盛ってるぜ。ああ気持ち悪、気持ち悪。 そもそも三国志11の武力は一騎討ちの強さに設定されてるのに、ここの武力は違うとかそのおかしなご当地ルールはどっから来たんだよ。そんなもんがまかり通るなら陳慶之なんか魔神になってるわ。 -- (名無しさん) 2014-10-13 09 12 25 http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1598.html#id_eaa35867 「三国志11の武力は一騎討ちの強さに設定されてる」って随分またザル理論の荒らし君だな。 それはあくまで参考の一つにすぎない。大体三国志でも演義含めて一騎打ちしたことない武将のほうが多いじゃないかw 曹操や劉備は一騎打ちしてないから武力は0なのかね荒らし君w -- (名無しさん) 2014-10-13 09 34 01 基本的に、新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 新武将の能力値や適性の 決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物 であり、 その正誤も、各人それぞれ異なります。 当然、 万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。 (能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。) 可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には 各プレイヤーの裁量次第 であることをお忘れなきようお願い致します。 理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。 (過去に何度も編集合戦が起きています。) どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、 お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する ことをおススメします。 もう一度言いますが新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。 ここはあなただけのページではありません。 -- (名無しさん) 2014-10-13 09 47 03 基本的に、新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 -- (名無しさん) 2014-10-13 09 47 33 新武将の能力値や適性の 決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物 であり、 その正誤も、各人それぞれ異なります。 -- (名無しさん) 2014-10-13 09 47 55 当然、 万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。 (能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。) 可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には 各プレイヤーの裁量次第 であることをお忘れなきようお願い致します。 -- (名無しさん) 2014-10-13 09 48 31 可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には 各プレイヤーの裁量次第 であることをお忘れなきようお願い致します。 -- (名無しさん) 2014-10-13 09 49 00 理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。 (過去に何度も編集合戦が起きています。) どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、 お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する ことをおススメします。 -- (名無しさん) 2014-10-13 09 49 38 もう一度言いますが新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 -- (名無しさん) 2014-10-13 09 50 04 能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。 -- (名無しさん) 2014-10-13 09 50 34 ここはあなただけのページではありません。 -- (名無しさん) 2014-10-13 09 50 55 以上、ローカルルールを転記 -- (名無しさん) 2014-10-13 09 51 14 知ってる、知ってる 君が編集しまくってここが荒れて、信長は忠勝より一騎討ちが強いんですかーとか数多くの人に突っ込まれてた時期に、いきなり誰さんがもとあったルール編集してそんなの設定してたよね。随分、誰かさんに都合がいいルールが出来上がったなーって思ったもん。 それにしても折角の三連休なのに今日も君はここにいるの? 俺、今からゴルフなんで、君とは付き合ってられないけど、君はこの板だけが友達だから寂しくないよね。それじゃ。 -- (名無しさん) 2014-10-13 10 13 23 煽る前にせめてニュースか外の様子くらい見ろよなあ・・・・ -- (名無しさん) 2014-10-13 10 31 50 くっそわろたw こいつ俺が今のルールに反対している事も知らないんだなw そしてゴルフに行くからwwwwうんうん 今日は良いゴルフ日和だと思うよw 日本全国大雨で台風19号まで来てるから、実に打ちっぱなし日和だねw -- (名無しさん) 2014-10-13 10 39 24 煽りあいはNG -- (名無しさん) 2014-10-13 11 22 13 基本的に、新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 -- (名無しさん) 2014-10-13 13 57 20 新武将の能力値や適性の 決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物 であり、 その正誤も、各人それぞれ異なります。 -- (名無しさん) 2014-10-13 13 57 50 当然、 万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。 -- (名無しさん) 2014-10-13 13 58 23 (能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。) 可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には 各プレイヤーの裁量次第 であることをお忘れなきようお願い致します。 -- (名無しさん) 2014-10-13 13 59 07 理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。 (過去に何度も編集合戦が起きています。) どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、 お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する ことをおススメします。 -- (名無しさん) 2014-10-13 13 59 43 新武将の能力値や適性の 決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物 であり、 その正誤も、各人それぞれ異なります。 当然、 万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。 (能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。) 可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には 各プレイヤーの裁量次第 であることをお忘れなきようお願い致します。 理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。 (過去に何度も編集合戦が起きています。) どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、 お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する ことをおススメします。 もう一度言いますが新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。 ここはあなただけのページではありません。 -- (名無しさん) 2014-10-13 14 06 27 以上、みんなの新武将注意点をよく読むように -- (名無しさん) 2014-10-13 14 07 23 あと、煽りあいはNG -- (名無しさん) 2014-10-13 14 07 46 以下、正常進行 -- (名無しさん) 2014-10-13 14 08 09 そういえばこの注意点って誰が作ったんだ? 話聞いてる限り例の人ではないようだが。 -- (名無しさん) 2014-10-23 05 11 50 つうか、まず俺にこのルールを作る「メリット」がない。(多分例の人ってのはまた例によって俺だろうから言っておく) これは、少し考えればわかると思うけど、当時は編集合戦が半ば「黙認」されていた。 唐や後漢のように、有名どころだと問題視されていたようだが、ちょっとそれがズレてしまうと完全放置。 マイナーな時代、マイナーな国だと、武将データの削除すらお咎め無しという状況で、実際日本の維新三傑とか、朝鮮の人物あたりは1回削除されてる。 で、話を戻すと、俺はこういう状況に対して、正直さしてなんとも思ってなかった。 「消されたら、また載せればいい」「変えられたら、また変えればいい」というのが、当時の俺の考え方だし、 消されて、何も行動を起こさないということは、逆に作った人もそれ自体に嫌な気持ちを持っていなかったのだろう、と言うのが俺の考え。 そして、当時はルールなんて気休めだったから、俺と同じような考えを持っていた奴は山ほどいただろう。 だから俺自身は「こんなルールいらないんじゃないか」ってずっと思ってるし、 実際見たところいらないって考えてる人もいるようだ。ただ、それと同じ、あるいはそれ以上に 「こういうルールが必要だ」と思ったり、議論の類をうんざりだと思ってる人が多いってことだろうよ。 -- (名無しさん) 2014-10-23 05 49 04 そうか。 まああった方がいいかもな -- (名無しさん) 2014-10-23 06 15 28 竹中半兵衛の性格は豪胆の方が似合うような気がするのは 私だけでしょうか? -- (名無しさん) 2014-11-01 15 19 01 ルールもなにも、一般常識で判断してくれればいいだけなんだよな。自分だけのサイトじゃないんだから勝手に編集だのはダメに決まってるのになぁ。 -- (名無しさん) 2014-11-01 18 51 24 ↑ まあ、暗黙の了解はあくまで「暗黙」ですからね・・・「俺はそんなの思ってないから」って考える余地を残す、という点では、ルールを厳にしておくのは悪く無いと思う ↑↑ 追加で入れておきました -- (名無しさん) 2014-11-01 18 57 09 ↑ ありがとうございます -- (名無しさん) 2014-11-02 05 51 31 あの、更新されてるのは解っているのですが、数が多すぎてどこが変化してるのかわからないです 何とか小分けして頂けないでしょうか? -- (名無しさん) 2014-12-26 01 19 18 数に関しては問題ないと思うけど、勢力ごとの区分がないのがわかりづらくなる感じかな。 ただ若干ややこしくなるんだよね織田豊臣徳川は。 -- (名無しさん) 2014-12-26 01 30 59 例えば豊臣秀長は「豊臣」ってつくけど「織田家臣」に分類されるし 石川数正は「徳川」家臣だけど、後々「豊臣」家臣になったりもする 池田輝政に至っては「織田」「豊臣」「徳川」全部に仕えてるし、 織田豊臣徳川がひっくるめられてるのはこういう理由だと思う。 世代や年代で括るほうがいいのかな・・・? -- (名無しさん) 2014-12-26 01 37 28 光秀がパネェ… -- (名無しさん) 2015-01-13 01 22 46 また能力変えてるアホがいるのか これ同じ奴っぽいな信孝の変え方見てると -- (名無しさん) 2015-01-13 08 00 40 ↑ 並み居る英傑が能力上昇されてる中で秀吉が下げられまくっているところを見ると、 このコメント欄の上の方にある「秀吉を持ち上げるのは関西人だけ。関西人は歴史観がなっていない。天地人の作者もそうだった。 俺の大好きな家康様を小悪党に書きやがってくぁwせdrftgyふじこlp」って言ってる奴じゃないか? ぶっちゃけ天地人の秀吉って歴代最悪とは言わないまでも(栄えある歴代最悪はシエの秀吉) 主人公の兼続にやり込められて謝罪したり、ヘコヘコして陰気なだけの歴代でもかなり酷い扱いの秀吉なんだよな。 役者的にも家康は松方弘樹なのに秀吉は笹野高史で、失礼だけど役者としての格もどう見ても家康が上だし(なぜか利家や輝元も大御所役者がやってるが) あのドラマを見て「秀吉は持ち上げられまくっている」って言い出すって何か別のものを見間違えてるとしか思えんな。 -- (名無しさん) 2015-01-13 08 27 07 誰がやってるかはどうでもいいけどこの期に及んで編集合戦誘発とか、どうせローカルルールない頃には好き勝手に能力値変更して問題起こしても屁とも思ってないような連中であるのが容易に想像つくから、編集合戦廃絶のためにも復元安定だな -- (名無しさん) 2015-01-13 09 18 51 明智光秀は論客もアリだとおもう。 室町幕府や朝廷との折衝役もしていたし。 -- (名無しさん) 2015-01-14 04 13 24 ↑ 入れておきました -- (名無しさん) 2015-01-14 07 52 00 初めてココに来たけど信長や家康らの能力…爆笑。 統率や武力や知力が三国志の世界で90台もあり覇王特技もないない爆笑。 信長と謙信好きの俺だがこれは酷い、こ成した奴、幼稚低脳。 三国志の世界に登場となる場合は信長の武力は80以下が妥当。 統率も曹燥や孫策を上回らないだろう。 三国志と信長の野望は別だから三国志の世界では三国志に合わせた能力にしなければだし三国志は一騎打ちが存在するから尚更に信長の武力は三国志の猛将豪傑らより高い値になる事はない。 こういう馬鹿げた能力は個人のPKで作ってくれ。 色々な方が見る上の作成の場合は三国志基準で考えてもらいたい。 逆に信長の野望に三国志の人物が登場する場合は同じく信長の野望の世界に合わせた武力ではなく戦闘力になる。 そもそも日本の戦国時代の作成は必要無いし。 -- (名無しさん) 2015-01-18 16 31 24 ↑まぁガンバレ、人生こんなトゲのあること書きさえしなければ良いことあるよ。 鈴木孫一なのですが特技に「射手」を兵器適正Sでお願いいたします。 -- (名無しさん) 2015-01-18 17 59 23 張繍に敗北し孫権に負けて劉備に漢中ぶんどられた曹操や 所詮王朗や劉繇ごときしか倒せなかった孫策を統率高いと言われてもなw その基準なら秀吉や家康の統率は100越えちゃうだろ^^; -- (名無しさん) 2015-01-19 01 18 59 定期的に荒らそうとする奴がいるけど やっぱこのページを消したい君なのか? -- (名無しさん) 2015-01-19 01 32 22 ↑後漢の光武帝や唐の李世民と一緒で、有名な人は色んな人間が知ってるから、多分それで色々言いたくなるんだろう。 昔は編集合戦になってたけど、編集禁止がルール設定されてしまった。だからコメント欄で爆発させて帰るんだろうね。 とりあえず荒れそうな気配も漂ってるし、コメント欄また流しておきます。 ↑↑↑ 追加しておきます。 -- (名無しさん) 2015-01-19 01 45 51 注意点をよく読みましょう -- (名無しさん) 2015-01-19 01 46 34 注意点をよく読みましょう -- (名無しさん) 2015-01-19 01 46 57 注意点をよく読みましょう -- (名無しさん) 2015-01-19 01 47 25 注意点をよく読みましょう -- (名無しさん) 2015-01-19 01 47 51 注意点をよく読みましょう -- (名無しさん) 2015-01-19 01 48 15 注意点をよく読みましょう -- (名無しさん) 2015-01-19 01 48 38 注意点をよく読みましょう -- (名無しさん) 2015-01-19 01 49 10 注意点をよく読みましょう -- (名無しさん) 2015-01-19 01 49 28 注意点をよく読みましょう -- (名無しさん) 2015-01-19 01 49 45 以下、通常進行で -- (名無しさん) 2015-01-19 01 50 10 おつです しかしどこのページも最近あまりいい流れになりませんな もう冬休み終わったはずなんだけども -- (名無しさん) 2015-01-19 01 59 14 「信長の野望があるから戦国時代はいらない」ってたまに聞くけど、あの作品って「信長の一代記」みたいな扱いだから当てはまらないと思うんだが。愛好者ならわかると思うけど、つい最近まで清洲会議以降のシナリオすらなく、関ヶ原合戦がレアシナリオ扱いされていたゲームだぜ? -- (名無しさん) 2015-01-19 02 25 28 まあPC版とPS版じゃ一概には言えないけどな -- (名無しさん) 2015-01-19 02 34 10 2015-01-19 01 45 51さん追加ありがとうございます。 -- (名無しさん) 2015-01-19 07 27 19 ↑↑↑特技とかあるし不必要にはならんでしょ。 ページ制限があるわけでもないし。 -- (名無しさん) 2015-01-26 03 36 19 実際に登録しない人からすればいらないのは当然だ。 肯定意見より否定意見の方が強くなるのは世の常 -- (名無しさん) 2015-01-27 06 29 32 コメント欄みたら荒れまくってるから菅沼君が来てたのかと思った -- (名無しさん) 2015-01-28 10 05 09 ↑ 彼がいたらこんなところではすまないだろうwww 信長や秀吉の能力はオール50未満、信玄の能力をオール100にするくらいはやるんじゃないか? -- (名無しさん) 2015-01-29 01 04 39 現編集前ってなんだこれ? 必要もないのに能力値いくつもいらないよ -- (名無しさん) 2015-02-03 04 21 34 最初はマスクデータとか三国志のデータかと思ったけど、そうでもなさそうですね。作成理由もわからないので、違う部分だけ反映して残しておき、後は全て削除しておきます。 -- (名無しさん) 2015-02-03 04 46 40 三傑だけなのを見ると荒らしともとられかねない。現行の武将に変更なり追加なりを加えるのなら書き込んで提案してからにしてほしい -- (名無しさん) 2015-02-03 19 08 20 コメントがないところを見るとただの荒らしか?とりあえず復元しておく。 荒らしじゃないならコメント欄で何か言えるはずだよな -- (名無しさん) 2015-02-03 19 15 41 後漢のページでも能力値に文句言ってる奴がいたけど、同一人物なのかな。 -- (名無しさん) 2015-02-03 19 57 15 ↑2 修正、感謝いたします -- (名無しさん) 2015-02-03 20 03 20 そもそも武力なんて公式でも 馬超 (武力97)● ○ 閻行 (武力84)だったり、 実際に戦ったことない武将同士(例えば関興と華雄など)に数字の優劣がついてたりしてかなりいい加減だからな。 一騎打ち補正を考えると 呂布 、 関羽 、 張飛 、 馬超 、 趙雲 、 許褚 、 黄忠 あたりは 公式としても別格で扱いたいのだろうが(実際一騎打ち補正こみで武力100overになる)、 それ以外は完全イメージ論で概算はともかく、正確な数値を決めるのもかなり不毛なところはある。 要するに公式ですらそんな扱いの数字を厳格にするのは不毛ということだな。 -- (名無しさん) 2015-02-06 08 08 52 ↑ そういえば後漢の光武帝も最後まで揉めたのは武力だったね。 -- (名無しさん) 2015-02-06 16 31 21 やっぱりただの荒らしか 懲りない奴だね~wwww -- (名無しさん) 2015-02-10 09 49 34 ん?なんで列伝まで差し戻されているんだ? 織田高長の母親が身分の低い出身であることは確かだが 放浪したのはそれが原因じゃなくて西軍についた兄貴の秀雄が改易されたからのはずだが? -- (名無しさん) 2015-02-15 04 52 41 信長の槍適正、秀吉・家康の兵器適正はSにすべきでは? 信長は精鋭馬廻りに長い槍を持たせて精強にしたという逸話ありますし、 秀吉や家康は最新兵器を細かく導入して天下統一に導いていますし。 考慮お願いします。 -- (名無しさん) 2015-02-19 00 35 35 ↑反映させておきました -- (名無しさん) 2015-02-19 01 27 51 ありがとうございます。 -- (名無しさん) 2015-02-19 10 19 23 ↑×6 というか、コーエー三国志の意図を汲んでやれば、全体的にインフレ傾向になるんだよ。コーエー三国志の武力ナンバーワンは大体呂布だけど、呂布の武勇伝は「三国志演義」というフィクション、講談出典がほとんど(正史でも強かったが)。だが「呂布の武勇伝はほとんど講談だから能力下げろ」という人はほとんどいない。フィクションであるはずの劉備三義兄弟と一騎打ちで、苦もなく三義兄弟をあしらうのが呂布だ、とコーエー三国志では根付いている。「その事柄は史実かフィクションか?」というよりも、逸話があればとにかく評価に結びつけるのがコーエー三国志基準。これが基なんだから、そらインフレするよ。 -- (名無しさん) 2015-02-26 11 37 35 多すぎてどこが変化したのかわからない… -- (名無しさん) 2015-03-03 06 10 00 ↑ 編集履歴でちゃちゃっと見れるぜ。 青字が追加、赤字が削除部分になりまっす -- (名無しさん) 2015-03-04 04 39 38 みんなの新武将で一番多いのは多分 後漢末~三国 の126人かな。ここ越えるようだと分割した方がいいかもしれないね -- (名無しさん) 2015-03-04 05 02 56 2015-03-04 04 39 38さん確認できました ありがとうございます -- (名無しさん) 2015-03-05 02 15 36 微妙に弄くられてるな…解りにくいところも -- (名無しさん) 2015-03-26 13 03 07 信長・秀吉・家康の列伝だけど、制限の250字以内に収まるよう修正するべきでは? あと、現編集前って何? 元の数値を併記しておけば、武将の能力値を編集してもよいということ? -- (名無しさん) 2015-03-26 17 36 01 むしろこうすることで「元の数値を併記しておけば、武将の能力値を編集してもよい」と謂う既成事実を作ろうとしているような気がするが… 考えすぎだろうか -- (名無しさん) 2015-03-26 21 35 04 どうしても「ぼくのかんがえたのうりょくち」をゴリ押ししたいんだろうねぇこの手のタイプは もうゴリ押しできるタイミングは終わってるのにww とりあえず注意事項作った人はGJ、俺も協力するわ -- (名無しさん) 2015-03-27 03 35 13 2015-03-26 21 35 04 氏 いやあそれは揉めるようになるのが目に見えてるっすから無理でしょうなあ。 今必死にゴリ押ししている奴の能力値が認められたとすると、 次は俺も俺もと書き出す人が出てきて、有名人物には5個10個と能力値がつくことになる。 んで後は「この能力はアテにならない」だの「これが一番正しい」だのまた以前の荒れ具合に逆戻りw -- (名無しさん) 2015-03-27 03 38 47 御手数ですが相性を提案したいのですが 織田信長を曹操と同じ25あたり(改革者?の曹操準拠)で豊臣秀吉・徳川家康が25~50くらいの間(曹勢力準拠)で寺社・将軍(義昭など)勢力が75~100(劉備~袁紹)ぐらいでどうでしょうか? 豊臣・徳川は寺社勢力(本願寺)に対して柔軟(二虎競食とも言いますが)な対応をしていますし相性が近くてもいいのかもしれません。 松永久秀など(梟雄勢)は110~0~15あたりで 相性を設定すれば、嫌悪・親愛関係だけでは表せない微妙な感じも出せると思うのですが… 何とか設定をお願いできないでしょうか…(三英雄+顕如だけでも良いので…) -- (名無しさん) 2015-03-27 23 07 16 若年ver.や晩年ver.の能力値って本当に必要なのかな? 本家のゲームでは、晩年に耄碌した孫権も能力値は一つだけだし、 そもそも経年による能力値の変化は成長期というシステムで表現されているんだから、 新武将作成例もそれに合わせた方がよいと思うけど -- (名無しさん) 2015-03-28 01 00 57 晩年などで分けるパターンがついたのは 朱元璋 が最初じゃなかったかな? 呉の 孫権 も晩年で設定された能力があるし 一応みんなの新武将では一部成長システムで反映できない能力変化も書いてあるってところじゃないかな? 実際プレイする上では無理に反映する必要もないわけだしね。 -- (名無しさん) 2015-03-28 02 17 52 http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1793.html -- (名無しさん) 2015-03-31 04 46 02 ゲーム中では使用不可能なデータをいつまでも載せておくのはどうかと思ったので、 勝手ながら織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の列伝を制限の250字以内に添削しました。 文章の大意が変わらないよう、注意して添削したつもりですが、もし添削後の文章に不満がある場合は、 遠慮なく制限の250字以内で書き換えてください。 -- (名無しさん) 2015-05-07 12 58 02 250字以上の登録武将が他にもいたので 一旦、列伝を全て元に戻し、新武将TOPページに注釈を付け加える形と致しました http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/126.html -- (名無しさん) 2015-05-08 08 30 16 つーか後漢勢力もそうだけど、ここの三英傑も普通に能力高過ぎなんだよな。どう考えてもおかしい、全能力5くらい下げれば妥当な感じだわ。 信長の武力とかも自分で敵の大将を討ち取ったことが強調されてるが、実際はあくまで数百人規模の小競り合いの話だしな。賊徒ですら数万の中国とは訳が違う。 -- (名無しさん) 2015-05-19 02 03 12 一応言っておくと三国時代の中国は日本の戦国時代より総人口少ないぞ。 賊徒で数万というのも信長と戦った伊勢長島の豪族門徒連中が2万から3万いたと言われてる。 この時代日本の兵力が潤沢だったのは常識だぞ? なんせ兵農分離さえまともにされてなかったら一般庶民でも武具や武器を持って戦争に出た時代だからね -- (名無しさん) 2015-05-19 02 33 26 ↑↑ 後漢とここを一緒にしてはいかんだろ 後漢が問題視されてるのは ・対抗勢力である新、群雄連中に比べ、後漢の武将連中が著しく強いこと ・モンゴル、唐といった世界屈指の王朝より強い陣容を兼ね備えていること ・光武帝をはじめ、君主家臣ともにインフレを起こし、他の時代を圧倒していること この3点が主な要因なわけだが、ここの場合は ・織田、豊臣、徳川の対抗勢力がいずれも強力(武田、上杉、北条、毛利、三好、島津など) ・天下を取った英雄や、地方を制圧した大名の能力は高いが、家臣は総じて抑えめ。 ・日本の他の時代の武将と比べても、一方的に勝っているわけではない。 となるから、後漢と同一視することはできないと思うのだが。 -- (名無しさん) 2015-05-19 02 59 08 ↑3 自分で作成する際に能力値を自由に設定すれば良いと思います 一応 「基本的に、新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 新武将の能力値や適性の 決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物 であり、 その正誤も、各人それぞれ異なります。 当然、 万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。 」 御留意下さい。 -- (名無しさん) 2015-05-19 22 38 53 ↑3それは普通に知ってる、オレが言ってるのは製作者らしき人が凄い主張してる 敵大将を手ずから討ち取ったっていう部分に関しての兵力なんだが。 実際中国志で史書に残ってる戦いで数百程度の小競り合いとか殆どねーし それと同列扱いして信長の武力スゲーってのはおかしいだろ。 ↑2後漢も問題だが、ここの三英傑も十分以上に問題だろ。それこそ世界帝国でもなんでもねーのに 他のページの君主と比べて明らかに能力値が違うしな。項羽より統武の合計値が高い信長とか、知政が 合計199の秀吉と家康とか、インフレ以外の何だってんだ?世界史に残るような作戦をしたことも無きゃ 世界史に残るような政策を立てたわけでもねーし。 -- (名無しさん) 2015-05-23 23 26 21 一応 「基本的に、新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 新武将の能力値や適性の 決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物 であり、 その正誤も、各人それぞれ異なります。 当然、 万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。 」 コピペ -- (名無しさん) 2015-05-24 00 20 20 例え糞みたいな能力値でもこれで固定された以上どうしようもない 諦めろ -- (名無しさん) 2015-05-24 02 10 54 むしろ世界史の知名度基準なら信長秀吉家康はむしろ残ってる方じゃん 家康の江戸幕府250年の礎は唐と並んで高く評価されてるし 秀吉は平民階層から日本の王(≠天皇家)になった偉業は世界でも認知度が高い 信長は銃火器の大量運用や桶狭間合戦が後世日本でも模倣に扱われてたし中国でも為政者英傑と同一視されてるやん。 ていうか「他のページの君主とくらべて明らかに能力が違う」の「他のページの君主」って誰だ? 後漢の光武帝、前燕の慕容恪、唐の李世民、ヨーロッパのカエサル、ナポレオン、バヤジット、中東のティムール 日本でも天武天皇あたりは三傑に匹敵する能力を持っているし、三傑だけがグチグチ言われる理由が俺にはわからんな。 これでまさかとは思うが世界史で知名度0の武将出して「こいつらより高いムキー」とか言うのはやめてくれよ? -- (名無しさん) 2015-05-24 09 56 25 ↑×4 『兵力比(2倍、3倍など)』ならまだしも、「兵力数」で統率決まるとかそっちの方がおかしい。冷静に考えてくれ。それなら歴戦の英傑より今の内閣総理大臣や大統領の方が統率高くなる。 -- (名無しさん) 2015-05-24 10 56 45 日本勢だけだけど現時点の「みんなの新武将」能力95まで書き出してみた(複数ある武将は高い方で判断、初期値) ・統率 100 日本武尊 *99 豊臣秀吉 *98 織田信長 *97 源義経 *96 徳川家康 大村益次郎 大山巌 石原莞爾 *95 大海人皇子 足利義満 武田信玄 上杉謙信 島津家久 ・武力 100 日本武尊 源義仲 関太郎吉 *99 織田信長 源義経 *98 平教経 上杉謙信 真田幸村 松林永吉 *97 源為朝 島津義弘 *96 戸次道雪 *95 山県昌景 大石種次 ・知力 100 一休宗純 豊臣秀吉 関孝和 *99 毛利元就 徳川家康 竹中半兵衛 平賀源内 *98 足利義満 武田信玄 *97 北条義時 松平信綱 陸奥宗光 *96 藤原不比等 黒田官兵衛 *95 大海人皇子 北条実時 近衛前久 大村益次郎 岩倉具視 ・政治 100 徳川家康 *99 藤原道長 足利義満 豊臣秀吉 *98 厩戸王 北条氏康 徳川秀忠 *97 藤原不比等 伊藤博文 陸奥宗光 *96 大海人皇子 源頼朝 織田信長 丹羽長秀 松平信綱 上杉鷹山 大久保利通 *95 該当者なし (*94で北条義時、石田三成、高橋是清らがいる。) ・95以上の能力保有数(1つを除く) 4つ 該当者なし 3つ 大海人皇子 足利義満 織田信長 豊臣秀吉 徳川家康 2つ 日本武尊 藤原不比等 源義経 武田信玄 上杉謙信 松平信綱 大村益次郎 陸奥宗光 -- (名無しさん) 2015-05-24 13 24 01 一応 「基本的に、新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 新武将の能力値や適性の 決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物 であり、 その正誤も、各人それぞれ異なります。 当然、 万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。 」 -- (名無しさん) 2015-05-24 21 06 52 豊臣秀吉ですが太閤検地を反映して「徴収」を追加できないでしょうか -- (名無しさん) 2015-08-21 21 08 39 秀吉含め、一部武将に史実反映して追加しておきました。 -- (名無しさん) 2015-08-22 05 08 53 2015-08-21 21 08 39です ありがとうございました -- (名無しさん) 2015-08-22 21 01 45 ↑×11 随分前の投稿に返信するのもなんだが、戦国時代の日本って当時の世界の純粋軍事力で見れば相当強い方じゃないか? 100年近くにわたって常時戦争して、民衆まで参加していたほどの練度があり、 侵略をちらつかせていたスペインやポルトガルが手を出せず、逆に宣教師が日本の状況を本国に逐一送って警戒しているくらいだ。 朝鮮、明との戦いも失敗には終わったが、あれも兵糧の問題と秀吉の死による影響が大だし、 流石に文化圏や戦い方、時代も違うので正確な差を比較することは難しいが、あの時代はむしろ日本は数ある強国の1つだったと思う。 -- (名無しさん) 2015-09-29 05 25 07 ↑ 自分は 2015-05-23 23 26 21 のコメントを書いた者ではないけど、 当時の世界の純粋軍事力で見れば相当強い方じゃないか? 純軍事的に見ると、日本は火器のバリエーションが少ないこと、特に大型の火砲がほとんど存在しない点が気になる。 ウルバンの巨砲を擁していたオスマン帝国や、大砲に将軍号を与えるほど大型火器を重視していた明と比べると、 火器の装備に偏りがあるように思う。 主力火器である火縄銃も、当時のヨーロッパのそれに比べると小型で、扱いやすさという点では有利だけど、 有効射程距離はヨーロッパのそれの三分の二とされているから、射撃戦になると不利だろう。 また、海軍力という点では、明らかにヨーロッパに劣る。 日本の安宅船の大砲が三門から五門に対し、スペインやイングランドのガレオン船の大砲は三十門から五十門。 防御に優れた鉄甲船でも、この火力の差は覆せないだろう。 100年近くにわたって常時戦争して、 当時の地球に平和な国なんて存在しない。 イタリアではスペイン・神聖ローマとフランスが、イングランドやローマ教皇やオスマン帝国まで巻き込んで六十年も戦争していたし、 ネーデルラントではスペインからの独立戦争が八十年も続いた。 北欧ではデンマークとスウェーデンが角逐を繰り返し、東欧ではロシアのイヴァン雷帝がポーランドやスウェーデンと衝突し、 地中海ではヴェネツィア共和国とオスマン帝国が制海権を争い、大西洋ではスペインの海洋覇権にイングランドが戦いを挑み、 フランスではカトリックとプロテスタントが四十年も内戦を起こし、明では華中と華南の沿岸部が後期倭寇との戦いで鉄火場と化していた。 要するに、戦争経験という点では、どこの国の軍隊も相当な経験を積んでいた。常時戦争していたことは強みにはならないと思う。 侵略をちらつかせていたスペインやポルトガルが手を出せず、 ヨーロッパでの戦争で財政が傾きかけていた当時のスペインに、日本に遠征するだけの余力が残されていたとは思えない。 ポルトガルはポルトガルで、十六世紀半ばの時点で既に植民地の拡張が国力の限界を超えていたから、日本への侵攻は無理だと思う。 朝鮮、明との戦いも失敗には終わったが、あれも兵糧の問題と秀吉の死による影響が大だし、 戦争のプロは兵站を語り、戦争の素人は戦略を語る。軍事力を論じる上で、兵站を軽視するのはどうかと思う。 -- (名無しさん) 2015-09-29 18 49 44 ↑の続き あの時代はむしろ日本は数ある強国の1つだったと思う。 色々と反論したけど、何だかんだで当時の日本が強国の一つであることは確かだと思う。 少なくとも、マヤやインカの軍隊よりは遥かに強いし、戦場を日本列島に限定すれば、ヨーロッパの軍隊にも負けないだろう。 ただ、性質が尖りすぎているから、海外の戦場で戦うとなると、強みを活かせない相手や場面が多いと思う。 -- (名無しさん) 2015-09-29 18 52 10 大体納得できるが兵糧問題は正直どこもついて回る問題だからなんとも 特に雪原地の焦土作戦は現代の軍隊すら苦戦しかねん 当時の朝鮮は寒冷地で不毛地帯、これに当てはまる。 まあ日本は総じて防衛戦向きだろうな。 ただなんだかんだ、技術力がモノを言うから、 大帝国相手でも時代が違えばそりゃ勝てる。 -- (名無しさん) 2015-09-30 18 33 56 ↑ 防衛戦向きというより、日本向きという方が正しいと思う。 当時の日本は世界有数の農業大国だから、日本の感覚で海外へ攻め込むと、どこを攻めても兵糧不足に陥る。 それを防ぐには現地の食糧生産力に合わせて兵力を絞るしかないけど、 今度は銃の性能の遅れ・砲兵の不在・騎兵の槍の短さ等の弱点を兵数でカバー出来なくなる。 その結果、戦国時代の日本軍は、日本で戦えば最強クラスだけど、 海を渡ると朝鮮も取れない(勿論、明の援軍がなければ取れていたとは思う)、という地域密着型の軍隊になる。 -- (名無しさん) 2015-10-01 19 08 53 ナポレオンがロシアで壊滅したのと同じ理由。ただし日本の方がまだ軽微 と解釈も可能 -- (名無しさん) 2015-10-06 15 42 35 そりゃロシアと朝鮮じゃ焦土作戦の規模が違うからな 自国民を何百万人も死なせたロシアの焦土作戦を、朝鮮と一緒には出来んわ -- (名無しさん) 2015-10-07 00 13 17 朝鮮の場合は焦土作戦というよりもともと不毛地帯だった感が強い 焦土するまでもなく補給的な意味で利用価値のあるものがほとんどなかった。 焦土作戦は基本的に、実行側に益があり、される側に益を与えないようにするためのものだが 唐入りの際の場合は、朝鮮側も食糧難に苦しんで前半の頃は反乱が多発していた。明も莫大な負担があったことを考えると 単純に厭戦気運が蔓延したのが原因の気もするなあ。秀吉が計画していたその後の遠征が、秀吉の死であっさり覆ったあたり -- (名無しさん) 2015-10-07 01 45 25 鉄板・銅板の安宅船を反映させるためにそれに関連した人物に「藤甲」などの特技を追加してみました。実際の「藤甲」は陸上でも機能してしまうので、使うかどうかはおこのみでお願いします。 -- (名無しさん) 2015-10-16 20 54 21 ↑焙烙や火矢に強いはずが弱くなるから逆のような気が -- (名無しさん) 2015-10-23 16 43 39 火神とのセットで火矢を防げれば完璧だったね・・・ そこらへんは改造で補えるのかな? -- (名無しさん) 2015-10-24 03 38 44 http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2736.html 朝廷・本願寺などをこちらに移しました。コメント欄を反映して 織田・豊臣・徳川の繋がりはそのままにしてあります -- (名無しさん) 2016-02-15 01 27 20 柴田勝家の槍戟適正低くないですかね? なぜCやBなのかよくわからないです 瓶割り柴田の逸話は考慮されてますか? -- (名無しさん) 2016-03-11 15 41 40 変更しておきました -- (名無しさん) 2016-03-11 16 18 37 ありがとうございます -- (名無しさん) 2016-03-11 16 43 17 もう増えすぎて変更点が認識しにくいので何かしら有効な分類をした方が良いかと思われます -- (名無しさん) 2016-04-02 18 08 44 これ以上有効な分類分けは難しいので今のところ他のページでバランス取ってます 例えば「元武田家臣でのちに徳川家臣になった人物」などのようなケースはできる限り ここに入らず武田家臣としてカウントする、などですね ここの項目は一応これ以上増えないようにしております http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2731.html http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2736.html -- (名無しさん) 2016-04-03 03 35 14 史実で装備していた武器がある場合は推奨武器として明記してはいかがでしょうか? 「蜻蛉切(本多忠勝)」「瓶通し(酒井忠次)」「片鎌鑓(加藤清正)」「人間無骨(森長可)」 「日ノ本号(多すぎるので略)」 キリがないかもですが…… -- (名無しさん) 2016-04-03 18 02 19 どうしても多くなってしまうのでそこら辺は各自で調べてもらう方がいいと思います。 全部の武器を載せると最悪1人が複数持つ展開もありますし、この辺はあくまで参考でしょう。 -- (名無しさん) 2016-04-03 22 02 35 加藤清正は近年の研究だと、石田三成と同様の典型的な吏僚で、大将としてのデビューは朝鮮出兵だったらしい。 -- (名無しさん) 2016-08-07 11 53 13 堀秀政や福富秀勝のような側近馬廻りってとこだろう -- (名無しさん) 2016-08-08 11 48 34 一応 自然死=病死 不自然死=切腹・刑死・討死 での登録を推奨 ただし一部の「戦傷が元の病死」などは個人の判断で 相性も個人の判断でいいと思われるが基準として「賊(専横者など)=1」「名族(袁氏だがこの場合足利か?)=100」が考えられる 今回の場合、松永久秀などを基準の1と考えるといいかもしれない -- (名無しさん) 2016-09-23 12 31 09 個人的なイメージとして1は織田信長だと思うんだけどなあ 001:織田信長 015:斎藤道三 030:徳川家康 045:毛利元就 065:今川義元 075:武田信玄 095:本願寺顕如 100:足利義昭 110:朝倉義景 125:上杉謙信 130:浅井長政 140:明智光秀 145:豊臣秀吉 -- (名無しさん) 2016-09-23 23 35 10 まあ最終的には各人のお好きに -- (名無しさん) 2016-09-23 23 44 33 凄く亀コメントになるんだけど、上でいにしえ武将との比較を挙げている方がいるが いにしえ武将は三国志11と最新作(三国志13)で結構変わっていることに注意してほしい 例をあげれば岳飛は三国志11だと統95武91知78だが 三国志13では統99武91知86と計10の能力値が上昇している ちなみに項籍(項羽)は三国志11だと統94武100だが13では統率が98まで上がった。 本編でも曹操が統率上がっているなど強化もあるので あまり三国志11のみに捉われた能力観は避けた方がいい まあ最終的には個人個人で決めるものだけども -- (名無しさん) 2016-11-04 02 29 15 雑な考察だが爵位・官位の設定について 日本の官位制と中華における官位(爵位)制は別物だが一応は準拠できるので、あくまで考察における推奨ということで 日本 ○○守(一国に関する統治権を有する) 中華 州牧 従五位~五位相当は州牧にしておき六位程度は州刺史とするとバランスがとれるか? 官位名が近しい大将軍と○近衛大将が同等としこれを基準として考えるならば 中納言などの従三位は近衛大将と同等であるため同じく大将軍と出来る(大司馬としてもいいと思われる) 今回の三国志では爵位として「丞相」が存在しないので従二位以上の内・右・左の大臣は公位に当てはめることができる 日本の最高位は天皇でありこれは皇帝と同じとできるので史実では明正天皇(徳川家出身)のみであり三英傑でも王位が限界であると思われる。(秀吉=日本国王(外交責任者)) つまり 三英傑(君主)の官位を爵位で表すと最高位はそれぞれ 信長(右大臣)=公 秀吉(関白)=王 家康(征夷大将軍)=王 と表せる これを変遷でまとめると 織田信長 尾張守(州牧)→弾正少忠(?)→弾正大弼(羽林~五官)→参議(大将軍?)→右近衛大将(大将軍or大司馬)→内大臣(公)→右大臣(公)→隠居 羽柴秀吉 筑前守(州牧)→左近衛衛少将(州牧?)→権大納言(大将軍)→内大臣(公)→太政大臣(王?) 徳川家康 三河守(州牧)→右近衛権少将→左近衛権中将(五官?)→参議(大将軍)→左近衛大将(大将軍or大司馬)→内大臣(公)→征夷大将軍(王?) とすることができる 部下の官位について基準となるのは織田軍となる、これは主な武将が四方に散らばっているために設定しやすいためである 以下の通り信長(公)の場合 柴田勝家(北陸司令官)=鎮北将軍 羽柴秀吉(中国司令官)=鎮西将軍 滝川一益(関東司令官)=鎮東将軍 丹羽長秀(四国司令官(補佐)=鎮南将軍 明智光秀(徳川家康の饗応役を行った)=太常・太僕・尚書令・大鴻臚 あたりか が妥当と思われる(親族衆を除くばあい) なお、あくまで個人が勝手に記したものなので基準とするかどうかは個人の裁量でお願いします -- (名無しさん) 2016-12-28 18 56 11 日本 ○○守(一国に関する統治権を有する) 中華 州牧 職能や雅称から考えると、国司や守護は太守(爵位なし)、もしくは州刺史が妥当ではないかな? 州牧に相当する官位は、正確には朝廷の官位ではなく室町幕府の役職になるけど、関東管領や九州探題だと思う。 官位名が近しい大将軍と○近衛大将が同等とし 大将軍は軍の総司令官で、政治の実権を握ることもしばしばあったから、武家政権の最高指導者である征夷大将軍に相当すると思う。 今回の三国志では爵位として「丞相」が存在しないので従二位以上の内・右・左の大臣は公位に当てはめることができる 日本では太政大臣、左大臣、右大臣(または左大臣、右大臣、内大臣)を三公と呼んでいたそうだから、 これを後漢の三公(爵位の場合は大司馬)に当て嵌めた方が自然だと思う。 -- (名無しさん) 2016-12-29 23 59 38 2016-12-28 18 56 11です。 日本の公卿を出すと官位上ややこしくなりますが、日本の大将軍の場合は皇族や三位以上の公卿が便宜上呼称される場合なども含まれるので、便宜上で同官位の三位を叙任された方々をあてはめました。書かなかったことで混乱させてしまい申し訳ない 三公はおっしゃられる通り左大臣・右大臣・内大臣です、 しかし日本においては帝、天皇が皇帝の立ち位置であり、臣下の三英傑が至れる地位の最高が王であると謂う基準でこの考察を成り立たせました。 その結果として実際の官位とのズレが生じることとなりました。その点に関してはもう少しうまい解釈があったのではと思います。 あくまで個人の独断と考察で成り立っていますので個人の裁量で変更して頂いても大丈夫です。ご指摘ありがとうございました。 州牧と州刺史に関しては直轄で支配している国(この場合、尾張)がその支配者の支配地域であると認められた織田信長のケースなどの場合は 同等の官位であったとしても意味合いは異なります。たとえば筑前守の秀吉と三河守の家康では 同等の官位でも正当な支配者と官位名だけとでは意味合いが異なり官位の中で差が出てくることとなります。これに準拠するならば秀吉は州刺史となり 家康は州牧となりさらにややこしいことになるので一律に ○○守=州牧 としました さらに下位の六位を名乗った大名もおりこれらに配慮する形で設定しました。 これも個人の判断なので個々人で変更改良されても問題ありません -- (名無しさん) 2016-12-31 00 56 50 王=天下人と捉えるなら、信長秀吉家康は全員◯王でいいと思う。 他にも日本では平清盛、源頼朝、足利義満などが信長と同等の官位を得ている 彼らは全員天下人と捉えられており、これは信長も同様である。 (逆に、畿内の覇者である三好長慶は明確に『天下人ではない』扱いで、官位も筑前守が最高。相模守が最高だった執権北条氏と同ランクである。) -- (名無しさん) 2016-12-31 01 36 18 王=天下人と捉えるなら、信長秀吉家康は全員◯王でいいと思う。 他にも日本では平清盛、源頼朝、足利義満などが信長と同等の官位を得ている 彼らは全員天下人と捉えられており、これは信長も同様である。 (逆に、畿内の覇者である三好長慶は明確に『天下人ではない』扱いで、官位も筑前守が最高。相模守が最高だった執権北条氏と同ランクである。) しかるにこれらを考慮すると 従二位以上~ (王) 太政大臣、関白、左大臣、右大臣など 従三位以上~ (公) 内大臣、権大納言、権中納言など 従四位以上~ (将軍) 検非違使別当、蔵人頭など 従五位以上~ (州牧) 国司、鎮守府将軍など 日本史の人物に照らし合わせるとこうなる 従二位以上~ (王) 藤原道長 平清盛 源頼朝 足利義満 織田信長 豊臣秀吉 徳川家康 従三位以上~ (公) 前田利家 上杉景勝 毛利輝元 宇喜多秀家 小早川隆景 足利義昭 織田信雄 織田秀信 徳川家康(秀吉家臣時) 伊達政宗(家康家臣時) いわゆる武家清華家など 従四位以上~ (将軍) 北条義時 北条政村 細川頼之 斯波義将 今川氏親 細川政元 三好長慶 松永久秀 従五位以上~ (州牧) 北条氏康 上杉謙信 長宗我部元親 宇喜多直家 真田昌幸 本多忠勝 柴田勝家 明智光秀 -- (名無しさん) 2016-12-31 01 36 42 ↑~↑3 あくまでも個人の考えだけど、 日本においては帝、天皇が皇帝の立ち位置であり、臣下の三英傑が至れる地位の最高が王であると謂う基準でこの考察を成り立たせました。 王=天下人と捉えるなら、信長秀吉家康は全員◯王でいいと思う。 自分は三英傑が至れる最高の地位は公か大司馬だと思う。 まず第一に、後漢で王の地位を与えられたのは、基本的に皇室出身の諸侯と外国の君主だけなので、 外交責任者や天下人を王に設定するのは三国志の「王」の観念に合わない。 第二に、大司馬の上に設定されている公という地位は、本来は殷王朝と周王朝の子孫にだけ与えられる称号で、 それ以外の人間で公の称号を与えられたのは、前漢後漢を通じて王莽と曹操の二人しかいない。 つまり、公以上の地位になるということは、帝位簒奪や帝位自称の前段階であり、「臣下」の域を越えているのではないかと思われる。 逆に言えば、特別な家系の人間であれば、臣下の域を越えることなく公の称号を得られるので、 藤原氏だけがなれる関白と、源氏だけがなれる征夷大将軍は、公に相当すると解釈できるかも知れない。 以上の二点から、日本人武将で王に設定すべきは、一部の親王と歴代琉球国王、あとは平将門と阿弖流爲くらいで、 織田信長は大司馬、豊臣秀吉と徳川家康は公に設定するのが妥当ではないかと思う。 さらに下位の六位を名乗った大名もおりこれらに配慮する形で設定しました。 太守という地位は、後漢の官僚制度では上から三番目のランクに入れられているけど、ゲーム中では爵位なしとされている。 上から三番目でさえ爵位なしなのだから、国司より下の官位は爵位なしでよい気がする。 あくまで個人の独断と考察で成り立っていますので個人の裁量で変更して頂いても大丈夫です。 最後は個々人の判断に任されるべきとは自分も思うけど、↑5で「推奨」という言葉が使われていたので、 それなら異論があることを伝えた方がよいかなと思い、僭越ながら意見を述べさせてもらいました。 -- (↑4) 2016-12-31 19 23 38 いやでも平将門が家康秀吉より上かと言われたら微妙じゃないか? 平将門が領有していた勢力は贔屓目に見ても関東一円くらいで これは三英傑誰と比較しても非常に劣る。これで将門が朝廷の有力者であるというなら まだしも、勝手に新皇自称しているだけにすぎないし、国の体制から外れたものを王というなら 九戸政実や榎本武揚すら王になってしまうのでは? >>公以上の地位になるということは、帝位簒奪や帝位自称の前段階であり、「臣下」の域を越えている そう考えるなら、尚更織田信長は王に該当するのではないかな? 日本で天皇を滅ぼそうとしたという説があるのは、足利義満と織田信長の2人だけ。 それぞれの論調にも一定の理があり、史観的にもふさわしいと思う 逆に豊臣秀吉や徳川家康は公でもいいと思うが・・・ -- (名無しさん) 2016-12-31 22 33 24 ↑ あくまでもこれは一個人の考えであるということを、改めて強調した上でコメントさせてもらうけど、 平将門が家康秀吉より上かと言われたら微妙じゃないか? この場合の「上」は単に偉いという意味ではなく、「天皇の地位を脅かす」という意味が含まれるので、 あくまでも個人の感覚になるけど、平将門が秀吉たちより「上」でも違和感は無い。 これで将門が朝廷の有力者であるというなら まだしも、勝手に新皇自称しているだけにすぎないし、 劉備や孫権も勝手に皇帝を自称しているけど、 ゲーム中では皇帝に設定されているので、勝手に自称しているだけでも特に問題は無いと思う。 国の体制から外れたものを王というなら 九戸政実や榎本武揚すら王になってしまうのでは? 九戸政実や榎本武揚は、王や皇帝に類する称号を自称したわけではないから、彼らは王にはならない。 そう考えるなら、尚更織田信長は王に該当するのではないかな? 日本で天皇を滅ぼそうとしたという説があるのは、足利義満と織田信長の2人だけ。 右大臣は特別な家系の人間しかなれない地位ではないし、足利義満は征夷大将軍になれる家系に生まれていた。 義満と信長が裏で何を企んでいたにせよ、表向きの地位は既存の秩序から逸脱してはいないから、王莽や曹操と一緒には出来ないと思う。 -- (↑2) 2017-01-01 11 18 15 王莽はともかく曹操ってそれこそ「表向きの地位は既存の秩序から逸脱してはいない」存在じゃないん? 曹操がやったこと考慮したら足利義満や織田信長と大差あるとは思えんが・・・ 両方とも天皇を一存で譲位させようと考えていた説もあるし、尚更曹操と差があるとは思えないが。 あと、榎本武揚は一応蝦夷共和国の総裁についている。独立国家ではないが、平将門と同等のことはやっているよ -- (名無しさん) 2017-01-02 00 28 38 ↑ 君はそんなに義満や信長を不忠者にしたいのかw という冗談はさておき、 王莽はともかく曹操ってそれこそ「表向きの地位は既存の秩序から逸脱してはいない」存在じゃないん? ↑4で書いたように、後漢では公という称号は殷王朝と周王朝の子孫にしか与えられない。 しかし、曹操は公になる資格が無いにも関わらず、自らの権勢を背景に公の位を得た。 これは明らかに既存の秩序から逸脱しており、事実、曹操の腹心の荀彧は曹操が公になることに強く反対している。 あと、榎本武揚は一応蝦夷共和国の総裁についている。独立国家ではないが、平将門と同等のことはやっているよ 総裁という名称は、幕末では江戸幕府の役職名に使われていた。 蝦夷共和国の指導者層が旧幕臣で構成されていたことを考えると、江戸幕府的な意味で総裁という名称を使用していた可能性が高いと思う。 -- (↑2) 2017-01-03 13 59 51 不忠かどうかってのは議論のわかれるところだけど そういう説がある以上無視はできないと思うのよね。 荒唐無稽な説ならまだしも、一応の根拠があるし、史学者の中でも見解はわれている まあ、あくまで個人的な感想としてね。 -- (名無しさん) 2017-01-03 23 42 32 過去作の三国志では公は名誉職みたいな立ち位置になっていましたね、そう考えるとまた考え方が変わってくるかもしれませんが -- (名無しさん) 2017-01-04 18 43 32 ↑2 もしかして、こちらの主張を誤解してない? 自分は「特別な家系の人間以外が公や王になるのは、臣下の一線を越えている」とは書いたけど、 「帝位簒奪を企んだ人間は公や王に設定すべき」とは書いていない。 自分が「特別な家系の人間以外が公や王になるのは~」と書いたのは、 あくまでも「どういう基準で日本の官位をゲーム中の爵位に当て嵌めるか」という問題に対する個人的な解答の一部で、 「官位や称号を基にしてゲーム中の爵位を決める」ということを前提に答えを導き出している。 だから、↑5で触れたように、義満と信長が裏で何を企んでいたとしても、それ自体は爵位の設定に影響しない。 -- (↑3) 2017-01-04 19 20 35 何の提案もなしに成長素質が変更されてるのは一寸いかんよ、事後承諾でもいいから「○○に追加しました」と書いておく方がいい -- (名無しさん) 2017-03-01 07 10 05 素質に関してはまだルール決まってなかったなそういえば 一応「削除」に関しては適正や特技とかでも問答無用でアウトだけど 候補を追加するのは現状特に問題がない状況 (能力値のマスクデータそのものに関しては編集合戦が過去に起きたのでアウトだが) -- (名無しさん) 2017-03-02 22 46 11 織田信長は建勲神社の主祭神なので「神将」も特技候補に追加をお願いいたします -- (名無しさん) 2017-04-22 14 09 59 ……信長ってあんなかんじだったけか? -- (名無しさん) 2017-04-23 07 07 37 とりあえず神将を追加しておきました。ついでに能力値も戻しておきました 複数能力値の扱いを見たところ、暫定的な措置と言うのが注意点にありました https //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2712.html#id_83ba7f76 ので、以下の処置を行います ・ 若年Verで登録されていた能力値を、親愛、特技の差分のみ能力値の方に反映し、削除 ・ コメント欄に一度提起し、その旨を補足へと告知 ※若年(19歳以前)Ver. |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|音声|口調|素質|義理|野望| |88|93|82|86|80|疾走・強奪・駆逐|S|A|S|S|S|B|1534|1582|平手政秀、など|剛胆or冷静|冷静or剛胆|豪放or剛胆|維持・長or開眼|4/5|5/5| 暫定的に許可されていたもう1つの能力値です -- (名無しさん) 2017-04-24 00 23 51 https //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2719.html 人数調整のため、御三家の3人(義直、頼宣、頼房)を江戸時代に移転しました -- (名無しさん) 2017-05-14 23 47 24 徳川秀忠→豊臣寧々は親愛じゃないのか 豊臣家の人質になったときに丁重に扱われたのを恩義に感じて、 将軍になった後も近くに行くことがあれば毎回訪ねてるし、加増も行ってるし -- (名無しさん) 2017-07-30 12 58 31 加筆しておきました。ついでに秀康にも親愛関係をつけました -- (名無しさん) 2017-08-01 05 24 49 https //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2719.html 人数調整のため、一部の武将をそのままこちらに移転しました。 具体的には当項目で扱っていた時代のうち「大坂の陣」に絡む武将 (秀頼など)は江戸時代の項目に移しています。 説明文はそのままにしてあります。 -- (名無しさん) 2017-08-01 06 17 35 堺屋太一は朱元璋は 信長、秀吉、家康を足したような遥かにスケールの大きい英雄だと 言ったというが、このサイトの能力値では三傑の誰にも及ばないという 一種のギャグだな。 -- (名無しさん) 2018-02-03 01 26 43 初期に作られた武将は「三國志に登場する武将の能力を越えてはいけない」という謎ルールがあった 朱元璋はその名残り。日本でも平清盛とかやたら低かった。三英傑も特に秀吉は 凄く低かったんだが、創造発売してから能力上がってる。 恐らくだが設定当時の烈風伝、嵐世記の秀吉が低かったのでその流れが今の世相に合わなくなったのが原因。 ちなみに最新作大志での豊臣秀吉は織田信長、武田信玄に次ぐ総合3位。 -- (名無しさん) 2018-02-03 11 49 44 失敬、群雄集結にしか登場しない北条早雲が厳密には1位 ただし、ここしか登場しない上Ifシナリオ -- (名無しさん) 2018-02-03 11 51 15 三国志シリーズに登場する日本武将は大体ノブヤボより 弱体化しているし、その名残じゃね。 チンギスハーンシリーズなんかその傾向がさらに顕著だし、 最初に能力値を設定したのは訓練されたコーエー民だったんだろうさ。 まあ国土にして日本の25倍の面積を有する中国大陸の英雄と、 小さな日本の英雄のスケールが同一に評価できないというのはよくわかる。 -- (名無しさん) 2018-02-04 18 04 50 国土より問題は人口だよ。いくら領土が広くても人口が少なければ国力として大したものじゃない。 それに、日本の英雄は中華に比べてショボいから矮小化すべきという理屈では 中華を文字通り統一した朱元璋が低く見積もられている理由を説明できないだろう。 華北の統一しかできなかった曹操(公式)より、中華統一の朱元璋の方が低いというのは誰が見てもおかしい 司馬炎のような、周りが勝手にやってくれたおかげで統一君主の名誉に預かれたわけでもない。 訓練されたコーエー民ではなく、ただ三国志が偏執的に好きだっただけだろう。 -- (名無しさん) 2018-02-06 14 35 47 朱元璋の場合は、コーエー民やら偏執やらがどうこうという話ではなく、統一後の大粛清が能力査定に響いている気がする。 粛清や弾圧をした人は、現代の民主的な価値観の下では低く評価されがちだし、 特に朱元璋の粛清は、靖難の変での建文帝の敗因の一つに挙げられることもあるからね。 個人的には、朱元璋に粛清された功臣が生きて建文帝の下にいたとしても、 秀吉死後の豊臣政権で武功派と吏僚派が対立したように、方孝孺らと対立したと思うけどね。 -- (名無しさん) 2018-02-06 21 34 53 朱元璋自身、信長秀吉家康を足したと言えば聞こえはいいが、 悪い部分も全て足してるようなところもあるからな 100段階で能力をつける難しさではあるだろうな。 -- (名無しさん) 2018-02-07 16 58 08 逸話などを参考に信長と秀吉だけですが話術札候補を追加いたしました その他の武将に追加など出来ましたらよろしくお願いいたします -- (名無しさん) 2020-02-12 10 50 24 最近いきなり後漢のページに妙な変更や追加が行われると思ったら、このアホみたいな三英傑を作成したのと同一人物とはな。 -- (名無しさん) 2021-05-19 02 38 16 随分劉秀の統率100武力98知力100政治97魅力100に拘ってるようだけど、ここは随分前から能力値変更禁止だよ -- (名無しさん) 2021-05-19 02 41 18 ちなみに三国志11時代から劉秀の能力値ってずーっと荒れっぱなしなんだけど、本人降臨じゃないよね?w -- (名無しさん) 2021-05-19 02 43 58 自分が先に98、92、90、100、100に変更しておいて、よく平気でそんなことを言えるね。 -- (名無しさん) 2021-05-19 02 46 31 それじゃあもとに戻せばいいじゃない。元の数値はいくつだったの? まさか495なんて数字はついてないよねw -- (名無しさん) 2021-05-19 02 47 29 https //wikiwiki.jp/shinbusyou/%E5%BE%8C%E6%BC%A2# と思ったけど思い出したら荒らしがわいた時にログ取ったんだった -- (名無しさん) 2021-05-19 02 48 56 ほい、戻したぞ -- (名無しさん) 2021-05-19 02 51 26 自分が最初にルール違反をしておいて自治厨気取りとかサイコパスかな? -- (名無しさん) 2021-05-19 02 54 40 https //wikiwiki.jp/shinbusyou/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%BB%E8%BF%91%E4%B8%96#l09a40e4 ここのデータは昔からこのままだ いつ変わったかは知らん つかデータと違う数字出して他のページも更新しておいてよく言えたもんだ 三国志14の劉秀もクソ高い数字出てたがあれもおまえか?w -- (名無しさん) 2021-05-19 02 56 17 いや、後漢のページについて言ってるんだが。 -- (名無しさん) 2021-05-19 03 00 52 知らんよ。俺は最初に見たときに495に変わってたから元の数値であろう数字に変えただけ それが元の数字じゃなくて弄られた数字だって言われたからログ引っこ抜いて元の数字に変えた、それだけ。 ここの三英傑の数値も三国志14で見直されて基本は信長の野望などのゲームの数字引っ張ってくるようになったから 変えてもいいんだけど、変えたら変えたでまた面倒だからな。劉秀の三国志14のページも信長の野望のデータ持っていったら なぜかすぐにそれより高い能力値に変えられていたからな、なぜか -- (名無しさん) 2021-05-19 03 04 16 まあ14の方はいろんな能力値を併記する方針になったから今更とやかく言う気はないが -- (名無しさん) 2021-05-19 03 06 48 https //w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1173.html 他の武将もじみーに変わっていたのでログにより差し戻し https //wikiwiki.jp/shinbusyou/%E5%BE%8C%E6%BC%A2 このログは2019年7月から一切動いていないデータ -- (名無しさん) 2021-05-19 03 52 14
https://w.atwiki.jp/internetkyogakusys/pages/429.html
十八史略卷之六資ゆるどてん(おそいじつおほいすに足れり、必ずしも許すに土田を以てせざれ、恐らくは、異日大ちうごくうれひけいたう)に中國の患をなさむと。敬塘、聽かず。表、至る。契丹主、大に喜きたうへいしんやうきつたんび、騎五萬を將ゐて來り、唐兵と音陽に戰つて大に之を敗る。契丹しゆけいたうしんがう)えいほこたく主敬塘を立てて帝となし、國を晉と號す。幽薊、濵、莫涿、だんじゆんしんじゆぶうんおうくわんさくうつさ檀、順新嫣儒.武、雲、應寰朔蔚十六州を割いて、あたきつたんろしう之に與ふ。契丹、晉主を以て南下し、又、唐兵を破つて、潞州に至かしやうかうじやうとる。契丹、北に還る。晉主、引いて南す。唐の將校、皆、狀を飛ばたうしゆ(して以て迎ふ。唐主、殂す。晉主、入つて、洛に都す。旣にして、べん汴に還る。ぢよちかうごしゆふじやうくわうちよ吳の徐知誥、帝と稱し、吳主薄を奉じて、讓皇となす。初め、徐をんちかうしようしうはんふじやうしふしや溫、知誥に命じて、昇州を治めしむ。繁富を致し、城市府舎、甚だうつくわうれうごせい盛なり。溫、自ら徒つて、之に居る。知誥、廣陵に入つて、吳政をたすをんちうしよれい輔く溫、卒す。知誥、中書令を以て、昇に鎭して、其子を留めてたすきんれうじやうだいげんすゐせいわう政を輔けしむ。金陵城を廣くす。吳、知誥に大元帥を加へ齊王にしゆれいゆづりぢよしう封じ、殊禮を加ふ。是に至つて、吳の禪を受く。知誥は、もと徐州しのちたうがうつ李氏の子なり。自ら唐の後といひ、國を唐と號し、尋いで、姓李をざべんなんたう南唐復し、名を弄と改む。之を南唐となす。きつたんたいれうがう大遼(西紀契丹、國を改めて大遼と號す。九三七)びんわうざそのしゆちやうしじりふ閩の王議、其主昶を弑して自立す。ごえつわうせんげんくわんしゆつこうさ吳越王錢元瓘卒す。子弘佐嗣ぐ。五代-晉六四九 十八史略卷之六六五〇南漢王劉襲、又名を襲と更む。尋いで、殂す。子玢、立つ。晉主在位、七歲ならずして殂す。改元するもの一、曰く天福。齊王立つ、之を出帝となす。【出帝】名は重貴、高祖の兄の子なり。高祖、終に臨んで、幼子重璿に命じ、宰相馬道を拜せしめ、其輔立を欲す。景延廣の議に以へらく、國家多難、宜しく長君を立つべしと。遂に重貴を立つ。延廣事を用ゆ。南唐主李昇、殂す。子環、立つ。聞王の弟王延政、建州に據つて、殷帝と稱す。南漢主劉玢の弟弘熙、玢を弑して自立し、名を最と改む。聞の朱文進、其主王曦を弑して自立す。殷主延政、兵を遣して、之を討つ。閩人、文進を殺して、首を殷に傳ふ。殷國號を更めて聞といふ。唐人、攻めて建州を拔く。延政、出でて降る。闘亡ぶ。唐、福州を攻む。克たず。後、吳越、兵を遣して、之を取らしむ。初め、晉の高祖、契丹に事へて、甚だ謹む。少主、位に卽くに至つて、景延廣、議を主どり、哀を告ぐるに復た臣と稱せず。契丹、大に怒る。延廣、又、其囘圖使を囚へ旣にして、歸らしめ、大言して曰く、歸つて、而の主に語れ。先帝は北朝に立てらる、故に臣れと稱して表を奉る。今上は、乃ち中國の立つる所、隣となつて、孫と稱すれば足らむ。翁怒らば來り戰へ孫に十萬、磨劍を橫へて相五代-晉六五一 十八史略卷之六六五二待つありと。桑維翰、屢ば遜辭以て契丹に謝せむを請ふ。毎に延廣に沮まる。是に於て、契丹、入寇して、河を渡る。晉主、自ら將とし、及び李守貞等を遣し、道を分つて、之を擊つ。契丹、敗走す。契丹、再び相州に至つて、引いて還る。晉主、又自ら將として、之を追ふ。契丹、兵を旋して南下す。晉人、之を擊つ。契丹、又敗走す。晉主、旣に再び勝ち、契丹は畏るるに足らずと意ふ。契丹主、大擧して入寇す。晉將杜伏威、降る。契丹、兵を遣して汁に入り、晉主を執へて、以て其國に歸る。在位五年、改元するもの一、曰く開運晉は、高祖より、是に至るまで再世、一十二年にして亡ぶ契丹主、大梁に入る。胡騎四出して剽掠す之を打草穀といふ丁壯は鋒刄に斃れ、老弱は溝壑に委し、東西兩幾より、鄭滑曹濮に及ぶまで、數百里の間、財帛殆んど盡く。契丹主、判三司劉昫に謂つて曰く、契丹の兵、優賜あるべしと。遂に都城士民の錢帛を括し、使者數十名を遣して、諸州に括し、皆迫るに嚴誅を以てす。人 生を聊んぜず。括し至るや、初めより、頒給なく、皆輦して歸らむと欲す。中外怨憤、皆之を逐はむを思ひ、所在盜起る。契丹主曰く、我、中國治め難きこと、かくの如くなるを知らずと。汴に居ること三月にして還る。晉の劉知遠、先つこと一月、位に晉陽に卽く。漢五代-音-漢六五三 十八史略卷之六六五四りうしちゑんしやだしんそけいたう【漢高祖皇帝】姓は劉氏、初名は知遠、沙陀の人なり。晉祖敬塘に、しんそかとうろわうつかへいかん之兵間に事へて、功、最も多し。晉祖、河東に在るや、唐の潞王、うつうんめいこうを移して、鄲を鎭せしむ。知遠曰く、明公、久しく兵に將として、けいしやうしばせいきやう士卒の心を得たり。今、形勝の地に據つて、士馬精强なり。若し兵あけきつたていげふないかんしせいしよ一部八を稱げ、檄を傳ふれば、帝業成るべし。奈何ぞ、一紙の制書を以てにあんて投自制ぜら書こうとうたうしやう虎口に自ら虎口に投ぜむやと。遂に命を拒む。唐,將を遣して之を攻む。んやかほろぼじえい克たず。晉祖、兵を擧げ、唐を滅して洛陽に入る。知遠、時に侍衞はぐんとしきしかんへいえいじくわん馬軍都指揮使たり。漢兵を分つて營に入れ、契丹の兵を寺に館す。そじやうちうしゆくぜん晉祖、城中肅然たり。後、晉祖、知遠を以て河東に鎭せしむ。殂るゆ茶たすしんじんこれかくす。遺命して、知遠を以て、入つて政を輔けしむ。晉人之を匿す。てにふこう知遠、之に由つて、朝廷を怨む。契丹、しきりに入寇す。晉、知遠かうえいととうたいを以て行營都統となすと雖も、知遠、行かず。契丹、晉を滅して大れうたいげん梁に入る。知遠、帝を晉陽に稱す。契丹去る。乃ち太原を發して、べんかんがうかうあらた洛に入り、遂に汴に入り、國を漢と號し、後、名を暠と更む。きつたんしゆやりつとくくわうさつこりんさしほみ契丹主耶律德光、歸つて、殺胡林に至り死す。腹を剖き、鹽を實のていはここつよく帝把兀欲たして、載せて去る。人、之を帝把といふ。子兀欲、立つ。宗之契とを丹な遼主そわうばはんきくわうすの世楚王馬希範、卒す。子希廣、立つ。ごえつわうせんこうさこうさうこうしゆく吳越王錢弘佐、卒す。弘倧、立つ。其下、之を廢して、弘俶を立つかんしゆそけんいうこしうわうたいんてい漢主殂す。在位一年、元を乾祐と改む。子周王立つ、之を隱帝と五代-漢六五五 十八史略卷之六六五六なす。【隱帝】名は承祐、年十八にして、位に卽く。之より先、漢祖、弟崇を以て、太原に尹とし、留守河東節度使となす。崇、郭威と隙あり。是に至つて、威、樞密使侍中となつて勇士を選募し、亡命を招納し、甲政を執る。崇、自全の計をなし、朝廷の詔令、兵を繕し、府庫を實たし、財賦を上供するを罷め、多くは稟承せず〓南の高從誨、卒す。子寶融、軍府に知たり。河中の李守貞、反す。郭威、諸軍を督し、討つて、之に克つ。守貞、自殺す。漢、郭威を以て、鄴都の留守となす。楚王馬希廣の兄希萼、希廣を殺して自立す。漢王、卽位より以來、同平章事楊邪、機政を總べ、樞密使郭威征伐を主り、侍衞指揮使史弘肇、宿衞を典り、三司使王章、財賦えを掌る。邪頗る公忠、弘肇、京師を察し、道、遺ちたるを拾はず。章は、遣利を招拾して、供饋乏しからず、國家相安し。弘肇、嘗て謂ふ、天下須らく長槍大劍を用ゆべし。安んぞ毛錐子を用ゐむ立ニや。章曰く、若し毛錐なくむば、財賦何に由つて取辨せむと。章、にじ文人を輕んず。嘗て曰く、この輩、算を握るも、縱橫を知らず、何둘ぞ用に益あらむと。漢主の左右嬖倖、寝く事を用ゐ、親戚政を干五代-漢六五七 十八史略卷之六甕す、邪等、毎に之を裁抑す。漢主、益す壯、大臣に制せらるるを厭ふ。楊邪、嘗て事を前に議す。曰く、陛下、惟だ聲を禁ぜよ。臣等左右因つて之を譜の在るありと。漢主、積んで平らかなる能はず、す。乾祐二年。邪弘肇、章を殺し、密詔を遣して、郭威を鄴に殺ささむと欲す。將佐、威に勸め、入朝して自ら訴へしむ。威、大軍をふ引いて至る。漢主、兵を遣して、之を拒ぐ。或は降り、或は戰はずし白して、て還り、漢主、亂兵の爲に弑せらる。威太后に武寧節度賛を迎へしむ。未だ至らず。契丹の入寇を聞き、威を遣し、兵に將として、之を擊たしむ。威、澶州に至る。將士、大に課ぎ、黄旗を裂むいて、以て威の體に被らしめ、共に之を扶抱して、萬歲を呼び、地に震ふ。威を擁して南行し、遂に漢に代る。漢二世四年にして亡ぶ。周【周太祖皇帝】姓は郭氏、名は威、太原の人なり。唐の莊宗、宮人六ら〓柴氏あり。其家に歸つて、姻を擇ぶ。一日、門に窺ひ、疾走して過ぐる者あるを見る。柴氏、大に驚いて、何人ぞと問ふ。告ぐるもの曰く、從馬軍使郭雀兒なりと。柴氏、之に嫁せむと欲す。父母、肯んぜずして曰く、汝は帝の左右の人、當に節度使に嫁すべし。奈何ぞ、此人に嫁せむやと。柴氏、堅く他人に嫁せず、竟に威に歸す。五代-周六五九 十八史略卷之六六六〇漢祖、河東に鎭するや、威、孔目官となる。契丹、汴に在り、威 漢祖に勸めて兵を擧げしめ、遂に帝業を爲す。漢の隱帝の時、威.專ら征伐を主る。隱帝、之を殺さむと欲す。克たず。威、兵を擁し立て、汴に入り、旣にして、出でて契丹を禦ぐ。軍士、擁して、汴にか、)た還る時に已に賛を徐州に迎ふ乃ち漢の太后の令を以て賛を廢して湘陰公となし、威を監國となし、尋いで位に卽き、自ら周の號叔の後なりと謂ひ、國を周と號す。贇は崇の子なり。崇、初め、隱帝が害に遇ふを聞き、兵を起して、南に向はむと欲す。贇を迎立するを聞くに及び、すなはち曰く、吾が兒、帝とならば、吾、復た何をか有求めむやと。賛、廢せられて死す。崇、乃ち帝を晉陽に稱す。つえだ所は並、汾、忻、代嵐、憲隆、蔚、沁、遼麟石、十二州の地なり。其臣に謂つて曰く、顧るに、我は是れ何の天子、汝等は是れ何の節度使かと。之を北漢となす。子承鈞を遣して、周を伐つ。きつたん克たず。使を遣して、師を契丹に乞ふ。契丹、北漢主を策名し、名を旻と更む。契丹の述軋兀欲を弑して自立す。述律、討つて述軋を殺して之に代る。楚は、希廣、希萼より以來、相攻奪して、寧歲なし。其下、又、希萼を廢して、希崇を立つ。南唐、邊鎬を遣して楚を擊たしむ。希崇、降る。南唐、馬氏の族を金陵に遷す。楚亡ぶ。五代-周〓. 十八史略卷之六六六二故の楚將劉言、朗州より潭を攻む。邊鎬走る。言、湖南を取り、命を周に請ふ。周、言を以て朗を鎭せしめ、王達に潭を鎭せしむ。げん·達、襲うて、言を朗に殺し、周行逢を以て朗を守らしむ。達、潭にか、還る。後、又、行逢を以て潭を鎭せしめ、達、自ら朗に居る。周主、在位三年にして殂す。改元するもの一、曰く廣順晉王、立つ、之を世宗皇帝となす。【世宗皇帝】名は榮、本姓は柴氏、周祖の妻の兄柴守禮の子なり。周祖、子なし、故に之を養ふ。周初、節鎭を領す。旣にして、開封に尹たり。晉王に封ぜらる。周主、終に臨んで、晉王に命じて、政を聽かしめ、尋いで、位に卽く。北漢主、周主の殂するを聞き、大に喜び、兵を契丹に請ふ。契丹、將楊衰を遣して、萬騎に將たらしめ、北漢主、自ら三萬人に將として來る。周主、自ら將として、之;を禦がむと欲す。群臣、皆、諫む。主曰く、崇、大喪を幸なりとし、朕の年少を輕んず、是れ必ず自ら來らむ。朕、往かざるべからず。吾が兵力の强を以て崇を破る、山の卵を壓するが如きのみと。馮道、力めて爭ふ。惟だ王溥勸めて行かしむ。北漢主、高平に軍す。周の前鋒、之を擊つ。北漢の兵、郤く。キ、其遁去を慮り、諸軍を趣して、亟に進む。後軍、未だ至らず、衆心、危懼す。而して、主の志氣、益す銳、合戰未だ幾ならず、周の右軍の將樊愛能、何徵、先づ遁れ、右軍潰ゆ。步軍千餘、甲を解いて降る。主、軍勢の五代-周六六三 十八史略卷之六六六四趙匡胤危きを見、自ら親兵を引いて矢石を犯して督戰す。督衞の將趙匡胤曰く、主、危きこと此の如し。吾が屬、何ぞ死を致さざるを得むと又、禁兵の將張永德に謂つて曰く、賊氣驕れり、破るべきなり。公、兵を引いて高きに乘じ、西に出でて、左翼となれ。我、右國家の安危翼となつて、以て之を擊たむ。國家の安危、この一擧に在りと。永此一擧に在德、之に從ひ、各二千人に將として、進み戰ふ。匡胤、身、士卒に先んじ、馳せて其鋒を犯す。士卒死戰、一、百に當らざるなく、北〇%漢の兵、大に敗る。楊衰、敢て救はず。北漢主、晝夜北走、わづかに晉陽に入るを得たり。周主、焚愛能、何徽、及び所部軍使以上七十餘人を收め、之を責めて曰く、汝輩、戰ふ能はざるに非ず、正にらは、とる〓朕を以て奇貨となして、劉崇に賣與せむと欲するのみと、悉く之を〓斬る。之より、驕將惰卒、初めて、懼るる所を知り、姑息の政を行;はず。張永德、盛に趙匡胤の智勇を稱し、權に殿前都虞候たり。周¥.主、侍臣に謂つて曰く、兵は精を務めて、多きを務めず、農夫百、評世用渡民ずを未めては宗養だず多精のを此血何能士夫を務 周言未だ戰士一を養ふ能はず。奈何ぞ、民の膏血を浚うて、この無用のき金政養無をぞは一百務め兵農きを3,物を養はむやと、乃ち命じて、大に諸軍を簡せしめ、又諸道に詔戰して、天下の壯士を募り、咸な闕に詣らしめ、匡胤に命じて、其尤物て膏奈ふりと志んのうのなる者を選ばしめて、殿前諸班となし、其騎步諸軍は、各、將帥に命じて、之を選ばしむ。之に由つて、士卒精强、向ふ所、克捷す。な鑑にはすすべ者周、北漢を攻む。汾、遼憲、嵐石、沁忻の州、皆、周に入五代-周六六五 十八史略卷之六大阪る。周主、晉陽を攻む。克たず。軍を引いて還る。北漢主劉旻、殂す。子鈞、立つ。か、周、蜀を伐ち、秦、階、成、鳳の州を取る。周、南唐を伐つ。唐、兵を遣し、壽州に拒いで敗る。周主、自ら將として、大に唐兵を正陽に敗る。唐將皇甫暉、姚鳳、〓流關を保つ。主、趙匡胤に命じ、道を倍して、之を襲はしめ、暉、鳳を擒にし、滁州に克つ。周師、楊泰光、舒、斬の州を取る。唐兵、周師を拒いで、復た泰州を取り、楊州を攻む。周主、匡胤に命じて六合に屯せしむ。唐兵、來り攻むるや、奮擊して、大に之を破る。將士、力を致さざる者あれば、匡胤、陽つて、督戰をなし、劍を以て、其皮笠を斫り、明日、遍ねく其笠を閱し、劍跡ある者數十人、部兵敢て死を盡?皆、之を斬る。之に由つて、さざるなし。周主、大か、と梁に還り、兵を留めて、壽州を圍む。唐兵、江北諸州を復す。周の守將、皆棄てて去る。兵を併せて、壽州を攻む。周主、復た自ら將として、壽に如く。唐人、城を以て降る。周主、大梁に還る。旣にして、復た自ら將として、濠泗を攻む。皆、降る。進んで楚州を攻황。兵を遣して、楊泰を取る。周主、楚州に克ち、還つて、楊州にと〓〓至る。唐主、使を遣して、盡く江北の地を獻ず。周主、乃ち還る。唐主、名を景と更め、帝號を去り、周の正朔を奉ず。朗州の王達、潘叔嗣の爲に殺さる。將吏、潭州の周行逢を迎へて五代-周奏若者 十八史略卷之六六六八かうはうたんらうあはたも朗に入らしむ。行逢、潭、朗を併せて、之を有つ。なんかんしゆりうせいこちやう南漢主劉晟、殂す。子銀、立つ。しうしゆしやうきつたんえいまいけい周主、自ら將として、契丹を伐ち、瀛莫、易の州を取る。京をはなくわんなんこと〓〓たひいうしうおもむ離るること四十一一日にして、關南悉く平らぐ。議して、幽州に趨ゆうしうえきしんくわん不豫に會して止む。よくわいぐわけうくわんかむとす。瓦橋關を以て雄州となし、益津關をはし)じゆかわうくわん霸州となし、成を置いて還る。往還六十日。てうきやうかんでんぜんとしわいなん趙匡胤、之より先、殿前都指揮使となり、從つて、淮南を攻む。したがきつたんてんぜんとてんけん又、從つて契丹を征す。是に至つて、殿前都點檢となるしうしゆかいげんけんとく周主、在位六年にして殂す。改元するもの一、曰く顯德。周主、はんたうくわいしゆかうへいかう藩に在つて韜晦す。位に卽くに及びて、首として、高平の寇あり。そのえいぶがうれいげんめひとあんで人、初めて其英武に服す。號令嚴明、人敢て犯すなし。城を攻め、てきしせきさ;ほかたちうごおう敵に對するや、矢石左右に落つれども、略ぼ容を動かさず、機に應きくけついへうせいじかんあばさじ、策を決する、人の意表に出づ。又、政事に勤め、姦を發き、伏評りる宗の鮮奶稀周な見世てきそうさつかんかじゆしやを摘し、聰察、神の如し。閒暇には、儒者を召して史を讀ましめ、たいぎしやうかくせいしちくちんぐわんよろこび業す惜ちらに早ず帝世か故哉大義を商権す。性絲竹珍玩の物を好まず、常に言ふ。朕、必ず喜完よしやういかりけいぶんぶさんようかくそののうに因つて人を賞し、怒に因つて人を刑せずと。文武參用、各其能をそのめいおそそのけいなつてき盡くす。人、其明を畏れて、其惠に懷く。故に能く敵を破り、地をひろところまとうかゑんきんあいぼれうわうたきよう廣め、向ふ所前なし。登遐の日、遠近哀慕す。子梁王立つ、之を恭てい帝となす。そうくん【恭帝】名は宗訓、七歲にして位に卽く。五代-周義 十八史略卷之六六七〇てうきやうかんとくせつどしていげんちんきつたん趙匡胤を以て歸德節度使となし。明年春、定言に鎭せしむ。契丹にふかうきよういんしやうふせちんけうえき入寇す。匡胤をして兵に將として、之を禦がしむ。陳橋驛に至るぐんしようか、さくりつしうしゆざいゐそうゆつしうや、軍士擁し還つて策立す。周主在位半年、遂に宋に禪る。周は、太祖より、是に至るまで、三世、二姓、十年にして亡ぶ。宋てうしなきやういんそのせんたくじんあひつた西紀九六〇【宋太祖皇帝】姓は趙氏、名は匡胤、其先は涿人なり。相傳へて、ちゝこういんらくやうきんえいしやうかうきやういんかんけいてうくわうかん匡胤を漢の京兆廣漢の後となす。父弘殷、洛陽の禁衞將校となる。せきくわうしつえいちういかうかふはたいちう人、之を甲馬營中に生む。赤光室に滿つ、營中異香あること一月、かうがいじしんぶんえつしたがまな香孩兒の營といふ。少にして、辛文悅に從つて學ぶ。文悅、嘗て駕むかゆめきやういんしうせいそうぐんせいつかさどを邀ふるを夢む、乃ち匡胤なり。周の世宗の時、軍政を掌る。凡そそのおんゐさしばしせいばつしたがたいこうせいそう六年。士卒、其恩威に服す。數ば征伐に從つて大功を立つ。世宗、にちぶんしよけふちうぼくしよてんけんな一日文書篋中に於て、一木書を得たり。曰く點檢、天子と作ると、ちやうえいとくてんけんうつかきやういん時に、張永德、點檢たり。世宗、乃ち之を遷して、易ふるに、匡胤せいそうそきやうそうそくるめ、しゆくえいりやうを以てす。世宗殂す。恭宗卽位の明年、命じて、宿衞を領せしめ、きつたんふせしゆわかくにあやふちうぐわいはじすゐたいぎ契丹を禦ぐ。時に、主少く、國危く、中外始めて推戴の議あり。大ぐんかうべうくんじつかまじつこくくわうあひうごか軍、旣に出づ。軍校苗訓、日下に復た一日あつて、黑光相盪すをゆびさてんめいちんけうえきじぐんししゆうぎ見て、指して曰く、之れ天命なりと。夕に陳橋驛に次す。軍士聚議てんけんほくせいくわんし、先づ點檢を立てて天子となし、然る後に、北征せむといひ、環カンあしたてんけんすゐぐわれいめいあして、旦を待つ。點檢、醉臥して知らざるなり。黎明、軍士甲を宋-太祖皇帝-六七一 十八史略卷之六六七二た撮し、兵を執り、直に寢門を叩いて曰く、諸將主なし、願はくは、大尉を策して、天子となさむと。點檢、驚起し、衣を披けば、相與に扶け出で、被らすに黃袍を以てし、羅拜して、萬歲を呼び、擁して、馬に上ぼせて南行す。之を拒めども可かず。乃ち轡を攬つて、諸將に誓ひ、仁和門より入る、秋毫も犯す所なし。恭帝、遂に位を禪る。領する所の節鎭、宋州の歸德軍なるを以て、故に國號を宋といふ。卽位の初、陰に群情を察せむと欲し、頗る微行をなす。或ひかろ〓〓と輕しく出づる勿れと諫む。上曰く、帝王の興る、自ら天命あり。周の世宗、諸將の方面大耳の者を見れば、皆、之を殺す。我終日しは·側に侍するも、害する能はざるなりと。微行、愈よ數す。曰く天命ある者は、自ら之を爲すに任かす、汝を禁ぜざるなりと。中外警服す。昭義節度使李筠は、故の周の宿將なり。澤に反す。上、石守信に命じて、之を討たしめ、尋いで親征す。筠、自ら焚死す。澤潞、平らぐ。淮南の節度使李重進は、周祖の甥なり。亦た反す。上、石守信に命じて、之を討たしめ、尋いで親征す。重進、自ら焚死す。淮南、平らぐ。〓南の高寶融、卒す。弟寶勗、之に代る。南唐泉州の留從效、藩と稱す。宋-太祖皇帝-六七三 十八史略卷之六六七四建隆二年南唐主李景、都を南昌に遷し、其子從嘉を以て、建康を守らしむ。從嘉立つ、名を煜と更む。趙普上、旣に筠、重進を誅し、樞密直學士趙普を召して問うて曰く、吾、天下の兵を息め、國家長久の計を爲さむとす、其道如何、普にてい、曰く、唐季以來、帝王數ば易はるは、節鎭太だ重く、君弱く、臣强きに坐するのみ。今、稍く其權を奪ふに若くはなし。其錢穀を制し其精兵を收むれば、天下自ら安からむと。又言ふ、殿前帥石守信等皆、統御の才に非ず、宜しく、他職を授くべしと。上悟る。守信等を召し、宴酣なる時、左右を屏けて謂つて、曰く、我、爾曹の力に非ずむば、是に至らず。然れども、終夕未だ嘗て枕を安くせざるなり。この位に居る者は、誰か之を爲すを欲せざらむ。守信等、頓首して曰く、陛下何すれぞ此言を出す。天命旣に定まる、誰か敢て異心あらむや。上曰く、汝曹異心なしと雖も、麾下の人の富貴を欲〓に切る點てれの砲ば身をするを如何。一旦、黃袍を以て、汝の身に加ふれば、爲すを欲せずと雖も、それ得べけむや。皆頓首して泣いて曰く、臣等、愚、是に爲すけも欲やんずつ きずしずとんそせ及ばず、惟だ陛下哀矜して、生くべきの途を指示せよ。上曰く、人生白駒の隙を過ぐるが如し。富貴を好むと爲す所のものは、多く金錢を積んで、厚く自ら娛樂し、子孫をして貧乏なからしめむと欲するに過ぎざるのみ。汝曹、何ぞ兵權を釋いて去り、出でて、大藩じ七よを守り、便好の田宅を擇んで、子孫の計を爲さざる。多く歌童舞女宋-太祖皇帝-六七五 十八史略卷之六大丈を置き、日に酒を飮んで、相安んずる、亦た善からずや。皆、拜謝して曰く、陛下臣等を念ふこと、是に至る。謂ゆる死を生かし骨に肉づくるなりと。明日、皆、疾と稱して、罷めむを請ふ。趙普は、薊人なり。上に滁州に遇ひ、用ゐて節度掌書記となす。上、卽位の後、專ら與に謀議し、之に倚信す。女眞、馬を貢す。囘體于鬪、來貢す。留從效、建隆三年。泉州の卒す。衙將陳洪進、張漢思を推して、軍務を領せしむ。定難節度使、周の西平王李彜興、馬を貢す。ヘ武平、武安の鎭帥周行逢卒す。子保權、軍府を領す。衡州の太守)張文表、亂を作し、兵を起して、潭州に據る。保權、表して救を宋に請ふ。〓南の高寶勗、卒す。兄の子繼冲、之に代る。高麗、來貢す。けんとくぐわんねん乾德元年慕容延到等に命じ、周保權に會して、張文表を討たしむ。師江陵より出づ。高繼冲、出でて降り、〓南平らぐ。延到、二湖南に至る。文表、さきに已に敗死す。保權、宋師の〓南に下るを、〓聞いて、懼れて拒守す。師進んで、之を討ち、保權を獲、湖南、平らぐ。宋-太祖皇帝六七七 十八史略卷之六発二年。宰相、范質、王溥、魏仁浦、乞うて罷む。質等は、周朝の舊相なり。唐より以來、宰相は、惟だ大政事を面奏するのみ。餘の號令刑賞除拜は、但だ熟狀を入る。質等、前朝の大臣を以て、稍こと〓〓や形跡を存し、事每に割子を具へて進呈し、退いて得る所の聖旨を批し、同列、皆、字を書して、以て之を志す。奏御の多きこと、是cに始まる。質等、旣に罷む。趙普を以て、同平章事とす。けんとぐ王全斌に命じて、蜀を伐たしむ。乾德三年、蜀相 李昊、蜀主孟す、昶に勸めて、出でて降らしむ。前蜀王氏の亡ぶるや、降表、亦た昊よ草する李家世々降表をの草する所、蜀人、夜、其門に書して曰く、世、降表を修する李家と。初め、上、宰相に命じて、前代未だ有らざる年號を擇ばしめ、以て今の元に改む。是に及びて、蜀鑑を得たり。乃ち乾德四年鑄の字あり。之を怪んで、學士竇儀を召して問ふ。曰く、むかし、僞蜀王衍に此號ありと。上歎じて曰く、宰相は、須らく、讀書の人を用ゆべしと。五年、五星奎に聚まる。之より先、周の顯德中、竇儼、楊徽之、盧多遜、同じく諫官となる。儼推歩を善くす。嘗て曰く、丁卯の歲、五星、奎に聚まり、之より、天下太平ならむ。二拾遺、之を見む、儼は預らざるなりと。是に至つて、果して然り。(Amagdala)夏州の李彝輿、;卒す。千五百八軍務を領す。宋-太祖皇帝-大元 十八史略卷之六六八〇し開寶元年北漢王劉鈞、殂す。養子繼恩、立つ。郭無爲、之を弑して、其同母弟繼元を立つ、皆、異姓の子なり。良擅に刑雷德驤大理寺に判たり。官屬、堂吏と宰相に附會し、f名を增減す。德驤、憤惋し、直に講武殿に詣つて、之を奏す、併せて言ふ、趙普、强ひて人の第宅を市ひ、財賄を聚歛すと。上、怒つ鼎鐺尙ほ耳て叱して曰く、鼎鐺、尙ほ耳あり。汝、趙普は、吾が社稷の臣たるを聞かざるかと。柱斧を引いて、其二齒を擊折し、命じて、曳き出さしめて、之を黜く。二年。曹彬等に命じて、北漢を伐たしめ、尋いで、親征し、太原を攻む。城久しく下らず。兵を百草池に頓す。暑雨に中つて、軍中疾疫す。詔して、師を班へす。び。上、位に卽いてより、或は微行して、功臣の家に幸し、測るべからず。趙普、退朝する毎に敢て衣冠を脫せず。一夕、大に雪ふる。た普、意へらく、上、復た出でずと。之を久しうして、門を叩く聲を聞く、異甚し。亟に出づれば、上、雪中に立つ。普、惶恐して、迎へ拜す。普の堂に卽き、重〓を設けて地坐し、炭を熾にし、肉を燒く。普の妻、酒を行ふ。上、嫂を以て、之を呼ぶ。普、從容として、問うて曰く、夜、久しく寒甚し。陛下何を以て出づる。上日晋く睡れども著く能はず、一榻の外、皆、他人の家なり。故に、來つて卿を見る。普曰く、陛下、天下を少とするか。南征北伐、是宋-太祖皇帝-交 十八史略卷之六六八二ねせいさんむかじやういはたいげんれ其時なり。願はくは、成算の向ふ所を聞かむ。上曰く、吾、太原もくぜんを取らむと欲す、普、默然、やや久しうして曰く、臣の知る所に非たいげんせいほくヘんあたきよへんくわん評太趙ざるなり。太原は西北二邊に當る。一擧して下らしむれば、邊患說に備え之湯 5一二大地 200よくられて富西所にら獨れて當西あたしばらとじもつしよこくさくへい以て諸國を削平するを俟たし大大むりば下る北我獨り、之に當らむ。何ぞ姑く留めて、云之邊ら一だんぐわんこくしはのがざる。かの彈丸黑子の地、將た何の逃るる所ぞ。上笑つて曰く、吾まさしかしばらけいこゝろしけいこが意、正に爾り、姑く卿を試みるのみと。是に於て、師を〓湖に用に陸べ上つせいせんほくかんてふしやほくかんしゆきんゐ、繼いで、西川を取る。嘗て、北漢の謀者に因つて、北漢主鈞にしうしよゝあだうべくつ語つて曰く、君が家、周氏と、世仇なり、宜なり、屈せざるや。われなんぢかんくるしきん今、我爾と間あるなし。何の爲にかこの一方の人を困むと。鈞、てうしやふくめいとうとちへいかうじふいちあた謀者を遣して、復命して曰く河東の土地兵甲、中國の什の一に當는まもけだかんしけつしいおそるに足らず。區區として、此を守るは、蓋し漢氏の血食せざるを懼かなしきんよをはるればなりと。上、其言を哀んで、鈞の世を終るまで、大軍を以てほくばつけいげん北伐せず。繼元の立つに及びて、始めて兵を用ゆ。としきつたんそのしゆじゆつりつぼくそうがうそのをちこつよくこめいこの歲、契丹、其主述律を弑す。穆宗と號す。其伯父兀欲の子明きげいりふけんあらた記を迎立す、名を賢と更む。はんびめいなんかんくわうしうかりうちやう三年。潘美に命じて、南漢を伐つ。四年、廣州に克つ。劉銀、降なんかんる。南漢、亡ぶ。かうしていれんないふせいかいせつど六年。交趾の丁璉、上表して內附を求む。詔して、以て靜海節度しあんなんと使安南都護となす。てうふしやうかじやうせつどしちんきくわだん評趙普は所趙普、相を罷めて、河陽三城節度使を領す。普、沈毅果斷、天下宋-太祖皇帝-六八三 十八史略卷之六六日謂宋の社稷を以て、己の任となす、嘗て、某人を除して某官となさむと欲す。の臣なり上、用ゐず。明日、又、之を奏す。上、怒つて、其奏を裂く。普、か、さ、徐に拾うて以て歸り、補綴して以て進む。上、悟つて、乃ち之を可とす。又、功を立てて、當に官を遷すべき者あり。上、素より、其き人を嫌うて與へず。普、力め請うて、下さむを謂ふ。曰く、朕、固;く與へざれば奈何。普曰く、刑賞は天下の刑賞、安んぞ、私の喜怒を以て、之を專らにするを得むと。上、聽かずして起つ。普、之に隨ふ。上、宮に入る。普、宮門に立つて去らず。上、之を可とす。普、常に大甕を闇後に設け、表疏の意可とせざる者は、其中に投じ雷德驤の子、て、之を焚く。其多く謗を得る者は、此を以てなり。又、之を許く。上、始めて、普を疑ふ。之より先、參知政事を置いさて、以て普に副すと雖も、制を宣せず、押班せず、知印せず、政事堂に升らず。是に至つて、始めて、二參政に詔して、政事堂に昇つて、同じく政を議し、更に知印押班、普と齊しからしむ。未だ幾ならずして、普、遂に罷む。薛居正、呂餘慶等其後、繼いで、相となる。七年。曹彬に命じて、江南を伐たしむ。上、屢ば使を遣し、江南國主李煜5に諭して、入朝せしむ。至らず。乃ち、彬及び播美等を以て、之を討たしめ、戒むるに、切に生民を暴略するなく、務めて、威信を廣くし、自ら歸順せしめて、須らく急に擊つべからざるを以宋-太祖皇帝-六八五 十八史略卷之六交六かうけんひんさづふくしやうしてし、匣劍を取つて、彬に授けて曰く、副將より下、命を用ゐざるいかいうぜんびんしよく者は之を斬れと。美以下、皆、色を失ふ。王全斌、蜀を平らげて、じやうつねうらひんせいじんこうせんにん多く人を殺せしより、上毎に之を恨む。彬性仁厚、故に專任すこうなんはんじやくすゐしんしあだいじやうしよ之より先、江南の焚若水、進士に擧げられて、第せず。上書して事さいせきこうじやうなはくわうけうを言ふ。報ぜず。乃ち魚を釆石江上に釣り、繩を以て、江の廣狹をはかけつさくちんいなんたい度り、闕に詣つて、策を陳ず。上、其言を用ゐ。〓南に令して、大かんつくれうしわたせきすんたが艦を造つて、浮梁となし、以て師を濟す。是に至つて、尺寸を差へずさうひんきんれうかこぢよげんにふてう八年、曹彬、金陵を圍むこと急なり。李煜、徐鉉を遣して、入朝ゆるげん5かせしめ、兵を緩うせむことを求む。鉉、言ふ。爆小を以て大に事つかそのせつすうひやくかさなんぢふる、子の父に事ふるが如しと。其說、數百を累ぬ。上曰く、爾りやうかかテ父子といふ、兩家となして可ならむやと。鉉、對ふる能はず。尋いまそうこうなんつみきますまはげで、復た至り、奏して言ふ、江南、罪なしと。辭氣益す属し。上、けんあんたげんもちこうなんま怒つて、劍を按じて曰く、多言を須ゐず、江南亦た何の罪あらむ。ぐわたふかたはらあたにんかんすゐげんくわう臥榻に佗容人のれの側ん肝豈惟だ天下は一家、臥榻の側、豈に佗人の鼾睡を容れむやと。鉉、惶きようしりぞきんれうかこみいきほひや睡をいよいきうしゆく恐して退く。金陵、圍を受けて、春より冬に徂き勢愈よ窮蹙ひんんだいくす。彬、終に之を降さむと欲し、しきりに、人をして、煜に告げしぼうじつよろところなめて曰く、某日、城必ず破れむ、宜しく早く之が所を爲すべしと、ひんやまひしようしよしやうひんやまひ一日、彬、疾と稱す。諸將、來り問ふ。彬曰く、彬の疾は、藥の能しんせいみだりく癒やす所に非ず。諸公、若し共に信誓をなして、城を破るに、妄宋-太祖皇帝-六八七 十八史略卷之六炎に一人を殺さざれば、彬の病、癒えむと。諸將、皆、許諾し、香を焚いて約誓す。翌日、城陷る。煜出でて降る。南唐亡ぶ。捷書至る。上、泣いて曰く、宇縣の分割、民、其禍を受く。城を攻むるかの際、必ず橫に鋒鏑に罹る者あらむ。哀むべきなりと。彬還る。舟中、惟だ圖籍衣衾のみ、閤門より、其榜子を通じて曰く、敕を江南に受け、事を幹して囘ると。其伐らざること、かくの如し。評九年、吳越王錢俶、來朝す。辭して歸るや、上、賜ふに黃袱を以胤人度人此を君所示た趙する匡封緘甚だのてす。固し。曰く、途中にして、宜しく密に觀るべしと。と之を啓くに及べば、皆、群臣俶を留めむを乞ふの章疏なり。俶、感懼す。上、西京に如き、宣祖の安陵に謁す。夏四月、郊す。都民の垂白なる者相謂つて曰く、我輩、少より離亂を經たり、圖らざりき、今日復た太平天子の儀衞を觀むとはと。泣下るものあり。と上、留まつて洛陽に都せむと欲す。群臣咸な諫む。上曰く、吾長安に都せむとす。晉王、叩頭して曰く、德に在つて險に在らず。上曰く、吾が將に西遷せむとするものは、山河の勝に據つて、冗兵を去らむと欲す。晉王の言、まことに善し。今、しばらく之に從はむ。百年を出でずして、天下の民力殫きむと。乃ち大梁に還る。上崩ず、在位十七年。改元するもの三、曰く建隆、乾德、開寶。宋-太祖皇帝-六八九 十八史略卷之六六九〇評壽五十。上、仁孝、豁達にして大度あり。陳橋の變、衆心に迫ら豁趙い賢朝度達匡りし仁て孝ふ英をあに胤大る京師に入るに泊びて、市、肆を易へず。嘗て、一日朝を罷め、し主じ廿通とて四の便殿に坐して樂まざるもの、之を久しくす。左右、其故を問ふ。上曰く、爾天子と爲る。容易なりと謂へるか。適ま快に乘じて、事を指揮して誤る。故に樂まざるのみと。嘗て、近臣を紫雲樓下に宴し、因つて、民事に論及し、宰相に謂つて曰く、愚下の民、菽麥を分たずと雖も、藩侯爲に撫養せず、務めて、苛虐を行ふは、朕、斷じて之を容さずと。開寶の初、京城及び大内を修め、營繕し畢る。上、寢殿に坐し、諸門を洞開せしむ。皆、端直軒豁壅蔽あるなし。因つて左右に謂つて曰く、是れ、我が心の如し、少しく邪曲あれば、人、皆、之を見むと。蜀を平らぐるの後、嘗て、其兵百餘を擇んで、川班殿直となしき郊禮して賞を行ふに、御馬直扈從を以て、特に給を增す。川班登聞鼓を擊ち、例を援いて陳べ乞ふ、上、怒つて曰く、朕の與ふる所は、卽ち恩澤たり、豈に例あらむやと其妄訴する者四十餘人を斬こと〓〓り、餘は悉く諸軍に配隷し、遂に其直を廢す。內臣、後唐に事ふるに逮ぶ者あり。上、問ふ、莊宗英武、天下を定め、國を享くること久しからざるは、何ぞやと。其人、其故を言ふ上、髀を撫して、嘆じて曰く、二十年、河を夾んで戰爭し、天宋-太祖皇帝-発 十八史略卷之六充下を取り得るも、軍法を用ゐて約束する能はず、まことに、兒戯たり朕、今士卒を撫養して、爵賞を客まず、苟くも、吾が法を犯せば、惟だ劔あるのみと。五代以來、藩鎭强盛、上、漸を以て之を削り、諸節鎭を罷めて、專ら儒臣を用ゐ、郡國を分理し、以て節鎭の橫を革む。又、諸州の通判を置き、以て刺史の權を分たしむ。之より諸侯勢輕くして禍難作らず、專ら民力を愛養するを務む。貢獻を罷め郤け、羨餘をす、進むるを禁ず。常に澣濯の衣を衣、寢殿は、靑布、葦簾を緣す。晩節、讀書を好む。嘗て、歎じて曰く、堯舜の世、四凶、投竄に止まる、何ぞ近代法網の密なるやと。諸國を削平するに必ず之を招き、至らずして後に、兵を用ゐ、其旣に降るに及びて、皆戮を加へず、禮して、之を存し、其世を終らしむ。嘗て、武成王の廟に幸し、從祀を觀るに白起あり、指して曰く、起、巳降を殺す、不武なりと。命じて之を去らしむ。評明治三十七年太祖周周の恭帝、鄭王に封ぜられ、後、房州に遷る。上、辛文悅の長者に當服装なるを以て、き前當 日房州の守たらしむ。恭帝上に先つこと二年、始めてすり例な其か、卒す。上哀を發して、朝を輟むること十日、還つて葬ること、禮の如くす。上、初め、京に入る時、周の韓通、節に死す。追贈、優厚なり。宋-太祖皇帝-六九三 十八史略卷之六六九四王彥昇命を棄てて、殺を專らにす。終身、節鉞を授けず。受禪の際倉卒、未だ恭帝の禪制あらず。學士陶穀、之を懷中より出す。上、之を薄しとす。穀久しく翰林に在つて頗る怨望す。上曰く、哥ゑ學士の草制は、樣に依つて葫蘆を畫くのみ、何の勞か之あは學樣十七を依草畫つ制くTalらむと。卒に之を政府に登さず。よっき內外の官、時望ある者姓名を籍記し、以て不次の選用を待つ。職に稱ふ者は、多く久任して遷らず。銓選法を定め、擧主連坐の法を嚴にし、贓吏の法を嚴にし、極刑に眞く者あり。五代藩鎭、苛征重歛の弊に懲りて、商征を寛うし、麴鹽酒の禁を寛うし、倉吏多く民租を入るる者は、或は棄市す。五代、多く武人を以て牧守となし、日ニ意に率つて刑を用ゆ。上、之に懲り、ことさらに入る者は、必ず罪たに抵る。大辟詳覆法を定め、折杖法を定め、新刑統を頒ち、差役法を定め、版籍、戶帖、戶鈔を作る。長吏、民田を度つて實ならざるV者あれば、或は之を杖流す。諸州、旱蝗あれば、饑を賑はし、租を§かう、獨き、惟だ及ばざるを恐る。德行孝悌を擧げ、制科を親策す。擧人進士の榜を放つ。覆試法を嚴にし、殿に御して進士を親試し、書判拔萃を試み、數ば國子監に幸し、天下に詔して遺書を求む。始めて和峴定むる所の雅樂を用ゆ。始めて、劉溫叟上つる所の開寶通禮二百卷を行ふ。宰執に命じて、日々時政を記し、史館に送つて、日曆を撰せしむ。制度典章、彬彬として條理あり。太弟晉王立つ、之を宋-太祖皇帝-六九五 十八史略卷之六六九六太宗皇帝となす。西紀九七六【太宗皇帝】初名は匡又、太祖の長弟なり。太祖の京城に入るや、1九九七匡又、首として諸將に號令し、士卒を戰めむことを請ひ、仍つて、自ら馬前に於て標掠を戒む。太祖、禪を受くるや、乃ち光義と改名し、開平に尹とし、同平章事たり。晉王に封ぜらる。建隆二年昭評博多明治君太あ后憲杜太后、崩ずるに臨み、太祖に謂つて曰く、汝、天下を得る所以〓るは長久ののものを知れりや。太祖曰く、皆、祖考と太后との餘慶なり。太后リ大途理り由とあす笑つて曰く、然らず、正に柴氏幼兒をして天下に主たらしめしに由るのみ。汝萬歲の後、當に位を管王に傳へ晉王は秦王に傳へ秦王は以て德昭に傳ふべし。國に長君あるは、社稷の福なり。太祖曰とく謹んで〓を受くと。太后、趙普を呼んで曰く、趙書記、共に吾が言を記せよ、違ふべからずと。因つて普に命じて、榻前に於て、?臣普記す誓書を爲らしむ。普、紙尾に署して曰く、臣普記すと。之を金匱に藏す。太祖、友愛篤く至る。晉王、嘗て疾に寝ねて灼支す。太祖亦た自ら灸し、以て其痛を分つ。嘗て曰く、晉王は龍行虎步、且つ生まるる時、異あり、佗日必ず太平の天子とならむ。福德は吾が能く及ぶ所に非ざるなりと。太祖、蜀に幸す。布衣張齊賢あり、十策を獻ず、召し問うて食を賜ふ。且つ陷ひ、且つ對ふ。太祖、其某策を善しとす。齊賢、固く餘策皆善なるを稱す。太祖、怒つて斥け、便ち出づ。旣に還つて、音王に語つて曰く、吾、西都に幸して、宋-太宗皇帝-六九七 十八史略卷之六六九八の張齊賢を得たり。吾、之を用ゆるを欲せず。佗日、留めて、汝に與へて、宰相と作さむと。蓋し、傳位の定まれる久し。太祖、不豫13けいおんなり。后、王繼恩をして、皇子德芳を召さしむ。繼恩、徑に晉王を召す。王、宮中に至り、左右を散遺し、言ふ所、皆、聞くを得ず。¥但、遙に見る、燭影の下、王、席を離るるの狀あるを。既にして、上、柱斧を引いて地を戮し、こう)大聲して曰く、好く之を爲せと。遂に崩ず。后、晉王を見て愕然として曰く、吾が母子の命、皆官家に託す。王曰く、共に富貴を保し、憂なきなりと。王、位に卽き、名を昊と更む。秦王廷美、開封に尹たり。改めて齊王に封ぜられ、德昭、武功郡王に封ぜらる。使を遣し、州縣を分行して、官吏を廉察し、其優劣を第せしめ、罷軟にして任に勝へず、惰慢にして事を親らせざるものは、官を免にす。贓吏の配せられし者は、赦に遇ふも敍せず。大理評事陳舜封。事を奏するや、口捷に、擧止、倡優に類す。問ふ誰が氏の子ぞと。對ふるに、父、伶官たるを以てす。上曰く、汝は眞に雜類なり、豈に〓望に任ずるを得むやと。改めて、殿直を授く。陳洪進、來朝して、漳泉二州を獻ず。吳越王錢俶、來朝して、遂に其地を獻ず。潘美に命じて、北漢を伐たしめ、尋いで、親征して太原を圍む。宋-太宗皇帝-六九九 十八史略卷之六七〇〇りうけいげん劉繼元、出でて降る。北漢、亡ぶ。詔して契丹を征す。易州、涿州、來り降る。上、幽州を攻む。旬を踰えて下らず、遂に師を班す。郡王德昭、從つて幽州を征す。軍中、夜、驚いて、上の在る所を知らず。德昭を立てむことを謀る者あり。上聞いて悅ばず。歸るに及びて、北征利あらざるを以て、北漢を平らぐるの賞を行はず。德昭、之を言ふ。上、大に怒つて曰く汝が自ら之を爲すを待つて、賞するも未だ晩からざるなりと。え德昭、退いて自刎す。後二年、岐王德芳、卒す。太祖の二子、相繼いで死せしより、齊王廷美、自ら安んぜず。佗日土、傳國の意を以て、趙普に訪ふ。普曰く、太祖、既に誤る。陛下、豈に再び誤るべけむやと。是に於て、普、復た入つて相たり。廷美、遂に罪を得て、涪陵縣公に降す。普、復た知開封府李符をして、其怨望を〓げしむ。南房州に還し、尋いで、之を殺す。普、李符が言を漏らさむことを恐れ、弭、德超、曹彬を譜するの故に因つて、符、德超を薦めしを以て、符を春州に貶して卒す。种放、終南山に隱れ、草を結んで廬となし。講習を以て務となす。後進、多く之に從つて學ぶ。上聞いて、之を召す。辭するに、母の老いたるを以てす。上、其節を高しとして、厚く錢帛を賜うて之を旌はす。呂蒙正、參政となる。朝士あり、之を指して曰く、この子も亦た宋-太宗皇帝-七〇一 七〇二十八史略卷之六どうれつなじさんせいまうせいいつは蒙蒙正、佯つて聞かず。同列、其姓名を詰らむと欲す。加上有名參政かと。評姓し正を一名しうしんわすとじ終身忘れず、知る正、之を止めて曰く、若し一たび名姓を知らば、り如知終かる身しななきに如かざるなりと。ざるきくわざんちんたんがうきいせんぜたま華山の陳摶を召し、號を希夷先生と賜ふ。つひやところおくまんでんしやくかいほうじた費す所億萬田錫、奏して曰く、開寶寺の塔、成る。前後八年、あぶらぬちきんへきけいくわうしゆうお膏を塗り、血衆以爲へらく、金碧焚煌たりと。臣、以爲へらく、ぬいかを覺ると。上、怒らず。こけいゐんおとうとけいせいやりくわうえい之より先、西夏の李光叡、らいてう卒す。子繼筠、けん嗣ぐ。そのおとうとけいせん又卒す。そむ弟繼ほう其弟繼遷、叛き去捧、嗣ぐ。繼捧、來朝して、四州の地を獻ず。しばしへんふこうり、數ば邊に入寇す。きつたんしょいそうりうちよた緒十なち律契丹主明記、四宗卽耶はり遼隆はゝせうしの聖殂す。景宗と號す。子隆〓立つ、年十二。母蕭氏、そのこくせいもつは在位九年其國政を專らにす。(無料)九り遼一自さうひんらめいきつたんう上、曹彬等に命じ、道を分つて、ひんかう八二三一)至のくわんたいはいみことのりかつ契丹を伐たしむ。きつたん彬の兵、岐溝名君な關に大敗す。詔れんねんにふこうのちぢよしんきつたんして、そのてうこう師を班さしむ。みち契丹、之より連年入寇す。後、ゆる女眞、ぢよしん契丹、其朝貢の路を隔つるを以て、きつたん之を擊たむを請ふ。許さず。女眞、遂に契丹に臣たり。りけいほうせいめいてうはうちうせつど李繼捧に姓名を趙保忠と賜ひ、たまさづ上、しめいかぎんすゐいうせい節度使を授け、命じて、夏、くわんけいせんはか銀けいせん綏、くだてうはうきつ宥、靜、五州を管し、まへん繼遷を圖らしむ。かうり繼遷、降る。姓名を趙保吉と賜ふ。けいりうはうちうい保吉、はうきつ復た邊に寇す。きうと李繼隆に命じて、之を討たしむ。保忠言ふ。旣に保吉と仇を解く、乞ふ、兵を罷めむと。上、宋-太宗皇帝-七〇三 十八史略卷之六七〇四怒つて、繼隆に命じて、先づ兵を移して、之を討せしむ。繼隆、夏州に入り、保忠を闕下に檻送す。保吉、尋いで、亦た降を請ふ。然も、復た叛く。繼隆に命じて、之を討せしむ。こと〓〓蜀、旣に平らぎしより後、府庫の物、悉く載せて内府に歸る。土た、狹く、民稠く、有司賦外の科なきにあらず。王小波、起つて盜をなす。小波、死す。李順、之に繼ぎ、成都を攻め陷れ、蜀王と僭號す。上、王繼恩に命じて、討つて、之を擒にせしむ。蜀、平らぐ。交趾の丁連卒す。大校黎桓、其宗族を囚へて、其國を專らにす。上、初め命じて、之を討たしむ。功なし。旣にして、桓、奉貢す。竟に桓を以て、交趾郡王となす。時に、霖潦、寇準班を越度に過ぐ。上曰く、朕、刑獄に於ける、心を盡す。えて言ふ安んぞ積陰の譴を得たると。寇準、班を越えて、對へて言ふ。某州の局吏、官錢を侵すこと若干、法に於て小過となす。陛下、之を殺す。王淮は、參政王汚の弟なり。錢數百萬を盜む、法に於て大怒となす。陛下、汚の故を以て、{務めて、相容れて蔽ふ。かくの如くして、刑獄に心を盡すといふ。之を如何にして、積陰の譴なからむやと。上、卽日、淮を誅し、汚を罷む。俄にして、霖、止む。上、崩ず。在位二十二年。改元するもの五、曰く太平興國、曰く雍熙、端拱、淳化、至道。15壽五十九。薛居正、沈淪、趙普、宋琪、李昉、呂蒙正、張齊賢、呂端等、相繼いで、相となる。普は、凡そ宋-太宗皇帝-七〇五 十八史略卷之六七〇六趙普の言行再び入つて再び罷めらる。尋いで薨ず。普、初め、吏道を以て聞こさゆ學術寡し。太祖、嘗て勸むるに經書を以てす。普、遂に手に評論鮮奶茶奶茶奶茶語に卷を釋かず。朝に大議ある毎に、卽ち戶を闔ぢて自ら一筐を開き、し參大·一書を取つて、之を閱す。卒するに及びて、家人、其筐を視れば、論語なり。嘗て、上に謂つて曰く、臣に論語一部あり、半部を以て太祖を佐けて天下を定め、半部を以て陛下を佐けて太平を致すと。呂蒙正蒙正、晩に出づ。嘗て、普と並び相たり。普、甚だ之を推す。蒙正、嘗て、冊子を夾袋中に置いて、四方人材の姓名を疏し、以て選張齊賢用を待つ。初め太祖、嘗て、張齊賢を以て、上に屬す。齊賢、進士に擧げらるるに至つて、上、之を上第に置かむと欲す。然も、有司、其名を第して、下に在り。と乃ち、詔して、一種、特に通判を與へ卒に大に用ゐらるるに至る。呂端糊塗す呂端、相となる。人、謂ふ、呂相、事を作して糊塗すと。上之を知つて曰く、端、小事は糊塗すれども、大事は糊塗せずと、上位に卽いて以來、小人を以て相となす者は、盧多遜一人のみ。太子立つ、之を眞宗皇帝となす。【眞宗皇帝】初名は元侃、襄王に封ぜらる。擧人楊礪といふ者あり、嘗で、夢に一大殿に至る。殿上に坐する者あり、あ之に語つて曰我は汝の主に非ず、く來和天尊は汝の主なりと。指示して、之に謁せしむ。礪後に進士第一なり。入つて、襄王府の記室たり。旣謁すれば、に、夢中見る所の如し。太宗、嘗て、相者をして、襄王宋-太宗皇帝-眞宗皇帝-七〇七 十八史略卷之六七〇八下六大きに詣らしむ。門に及んで、返つて曰く、王門は斷役も、皆將相たbo王、知るべしと。立つて、太子となる。是に至つて位に卽く、1;名を恆と更む。咸平二年、契丹、入寇す。上、親征す。大名府に至つて還る。三年。益州の卒王均反し、大蜀と僭號す。雷有終を以て州に知とし、討つて、之を擒にす。益州、平らぐ。亟に之范廷召、契丹を討ち、援を高陽關の都部署康保育に求む。力戰して之に死に赴く。廷召、ひそかに遁る。保裔、爲に圍まれ、す。靈州を李繼遷、先朝賜ふ所の姓名を奪はれ、邊に寇して已まず、攻め陷る。西凉六合の會長潘羅支、乞うて王師に會して、之を討つ。繼遷、西凉府を攻め陷る。潘羅支、要して、之を擊つ。繼遷、流矢に中り、靈州の境に於て死す。其子德明、降を請ふ。復た姓趙を賜ひ、後、封じて、西平王となす。楊嗣、楊延朗、智勇にして、善く戰ふ。團練使を加へらる。虜之を憚り、目して、楊六郞といふ。景德元年契丹主、其母蕭氏と大擧して入寇す。中外震駭す。參政陳堯叟は蜀人、蜀に幸せむことを請ふ。王欽若は江南の人、江南に幸せむことを請ふ。上、以て宰相寇準に問ふ。準、問ふ、誰か此策を畫する。上曰く、卿暫らく、其可否を斷ぜよ。問ふ勿れ。宋-眞宗皇帝-七〇九 十八史略卷之六七一〇準曰く、臣、策を獻ずるの臣を得て、斬つて以て鼓に釁り、然る後に北伐せむと欲するのみと。遂に親征の議を定む。上、蹕を韋城に澶州に至り、三面駐む。尋いで、衞南に至る。契丹、兵を擁して、弩に中つてを園合す。李繼隆等、出でて、之を禦ぐ。契丹の撻覽、す死し、大に挫けて退却し、敢て動かず。て寇準、力めて上に勸めて、猶豫の間瓊衞士河を渡らしむ。殿前帥高瓊、亦た力めて賛す。を麾いて、輦を進めて曰く、陛下、若し河を過ぎざれば、百姓考君が輩、此妣を喪ふが如しと。梁適、之を呵す。瓊怒つて曰く、遂評言痛烈骨を高瓊の一時、尙ほ人の失禮を責む、何ぞ一詩を賦して虜を退けざるやと。刺す黃旗幟に上を擁して、以て渡り、旣に澶州に至り、北城に登つて、を張る。諸軍、皆、萬歲と呼ぶ。聲數十里に聞こゆ。契丹、氣、評奪はる。ににを提の充ら利宋條必實れに帝と逸姑衰ずた的和力惑好しのをるてら件須が國誘和之より先、王繼忠といふ者虜に陷り、嘗て、和好の利を言亡遂る前好のせの故に大擧すと雖も、3.0.亦た使を遣し、繼忠の書を以て來らしむ。曹利用に命じて、上、之を報ず。利是に至つて、用、契丹の使者韓べも事至以悟せいそうと杞と共に來り、息世宗取る所の關南の故地を請ふ。上曰く、地.必ずふる大得べからず。寧ろ、金帛を與へて、いす以て和せむと。準の意、亦た與ふるを欲せず、且つ畫策して、以て進めて曰く、此の如くなれば、百年の無事を保つべし。然らざれば、數十歲の後、戎、復た心を生ぜむと。準蓋し之を擊つて、隻輪をして返らざらしめむと欲す。上曰く、數十歲の後、當に能く之を禦ぐ者あるべし。吾、生靈重ね宋-眞宗皇帝-七二一 十八史略卷之六七一二りようくるししのそのわゆるて困むに忍びず、しばらく、其和を聽せと。遂に再び利用をして往さいろきんはくすうやかしむ。利用、歲賂金帛の數を請ふ。上曰く、必ず已むを得ざれちよくじゆんば、百萬と雖も、亦た可なりと。準召して、之に語つて曰く、敕このすう旨ありと雖も、三十萬に過ぐるを得ず、じゆん若し此數を過ぐれば、つひけんまんぎん來つまんじゆんなか銀十萬て準を見る勿れ、準汝を斬らむと。利用、卒に絹二十萬、こもごせいやくなんてうけいほくてうを以て、和議を定め、南朝を兄となし、北朝を弟となし、交も誓約し、各、兵を解いて歸る。じゆんけいしはつてうしめいしよしうち準初め、でんらう京師を發するや、ち朝士に命じて、いまし出でて諸州に知たらひやくしやうみなしめ、皆、殿廊に於て、敕を受けしむ。之を戒めて曰く、百姓は皆ニみなざいみだじやうべきうしな兵、府庫は皆財なり。汝に浪りに戰ふを責めず、但だ一城一壁を失まぐんねこきんじやくしんせい當に軍法を以て事に從ふべしと。にくは、欽若が親征の議を沮むを恐そのちきんじやくてんゆうぐんれ、其智あり、きつたん且つ福あるを以て、きんじやく欽若を出して、つか天雄軍に知たら契丹、さくさいしむ。しうきやうじゆ城下に至る。欽若、せんえん門を閉ぢ、かへ手を束ねて策なく、じゆん齋を修し、きはあつ經を誦するのみ。上、澶淵より還り、うらてう準を待つこと、しりぞじやう極めて厚し。欽若、じゆん歸つて深く準を恨む。嘗て朝より退くや、上、準をもくさうきんじやくすへいかじゆんけいそのしやしよく目送す。欽若、進んで曰く、陛下、準を敬す、其社稷に功あるが爲じやうかちかひしゆんじうせうこくはかしうぜん城下の盟は、春秋の小國も、恥づる所なりと。上、愁然たり。きんじやくつねせんえんえきじゆん欽若、ちう且相となる寇準罷め王毎に曰く、や澶淵の役、うすつ準、陛下を以て孤注となすと。わうたんどうへいしやうじ上、準を待つこと。寢や薄し。尋いで、相を罷む。王旦を以て、同平章事たんわうこたいそかつこあんとす。旦は、王祐の子なり。太祖、嘗て、祐を遣して、事を按ぜし宋-眞宗皇帝-七一三 七一四十八史略卷之六か、 太祖の意に徇む。謂ふ、祐還らば、王溥の官職を與へむと。祐、はず、竟に大に用ゐられず。祐曰く、祐、做らずとも、兒子二郞、〓必ず三公となる必ず做らむと。三槐を庭に植ゑて曰く、吾が後世、者あらむと。是に至つて、旦、果して、相となる。深沈にして德望くあり、能く大事を斷ず。上、心深く之に屬す。趙德明、嘗て民の饑ゑたるを以て、表を上つて粮を乞ふ。群臣、皆、之を責めむことを請ふ。旦曰く、臣、德明に詔して云はしめんと欲す。塞上の儲粮は與ふべからず、己に京師に於て百萬を積む、自ら衆をして來り取らさいは、上、しむべしと。德明、再拜して詔を受けて曰く、朝廷人ありと。既に欽若の言を入れて、屢ば欽若に問ふ、何を以て恥を刷はむと。欽若、上の兵を用ゆるを厭ふを知り、謬つて曰く、幽薊を取れば可なりと。上、其次を思はしむ。乃ち請ふ、封禪し、以て四海を鎭伏夷狄に誇示せむと。し、又言ふ、封禪は當に天瑞を得べし、前代、人力を以て之を爲すあり、河圖、洛書、果して此あらむや。聖人神道を以て〓を設くるのみと。是に於て、太中祥符より以來、屢ば天書あつて降る。東、泰山に封じ、西、后土を汾陰に祀る。又、趙氏の祖九天司命天尊あつて降る。天下に天慶觀を立て、聖祖殿を置聖祖の名玄朗を諱み、き、玉〓昭應宮を作る。旦、其事を止むる能はず。上、在位二十六年。元年、呂端罷めてより後、張齊賢、李流、呂宋-眞宗皇帝-七一五 十八史略卷之六七六蒙正、向敏中、畢士安、寇準王旦、相繼いで、相となる。惟だ旦は位に居ること十一年。李沆の相たりし時に當つて、旦、始めて參李沈と王旦論語中政たり。沆論語を讀むを喜ぶ。嘗て曰く、宰相となつて、の「用を節して人を愛し、民を使ふに時を以てす」といふ兩句の如き、なほ行ふ能はず。聖人の言、終身之を誦するも可なりと。流評人主日に四方の水旱盜賊を取つて、之を奏す、旦謂ふ、細事、上聽をふすむ情賊し李べ名べを社て流水旱下盜を會の煩すに足らずと。流曰く、人主少年、當に人間の疾苦を知らしむし言し知ととら意を聲色犬馬に留めざれば、べし。然らざれば血氣方に剛なるや、是れ參政他見るに及ばず、土木甲兵禱祀の事作らむ。吾老いたり、封禪祠祀士木、日の憂なりと。太中祥符に至つて、並び興る。旦乃李文靖は眞に聖人なりと。ち歎じて曰く、大禮ある每に、旦、輒ち首相を以て天書を奉じて行く、常に悒悒として樂まず、13去らむと欲すれば、上、之を遇する厚し、位に薨ずるに及びて、遺令すらく、髪を削り、緇を披き、以て歛せよと。議者謂ふ、具、君を得たりしも、正を以て自ら終る能はずと。或は之を馮道に比すといふ。張詠嘗て言ふ、吾が榜中、人を得る、最も多し。謹重にして德望あ李文靖に如くはなく、るは、深沈才德、天下を鎭服するは、王公に如くはなく、面折廷爭して素より風釆あるは、寇公に如くはなく。方面の寄に當つては、詠敢て辭せずと。旦の世に當つて、王欽若旣に相たり。欽若、罷む、寇準、再び入つて相たり。參政丁謂、準宋-眞宗皇帝-七一七 七一八十八史略卷之六くわいしよく謂に事へて、甚だ謹む、嘗て、會食するや、羹準の鬚を汚す。起つて之を拂ふ準笑つて曰く、參政は國の大臣なり、乃ち官長李迪、相丁謂、罷む。の爲に鬚を拂ふかと。謂.甚だ愧恨す。準評ん謂拂爲人者に官な豈鬚長ら丁をの上一ふめ時に、となる。準、遠く貶せらる。迪罷む。謂.獨り相たり。中宮に白謂.旣に病あり、昏眩す。準が罷貶せらるるが如き、皆、在位改元するして之を行ひ、上、知らず。尋いで崩ず。年五十五、太子立もの五、曰く咸平、景德、曰く太中祥符、曰く天禧、顯興。つ、之を仁宗皇帝となす。之を子とす。【仁宗皇帝】名は禎、母は李氏。章獻明肅劉皇后、晝夜啼いて止眞宗、皇子を得ること、旣に晩し。初め生まるるや、ご、まず、道人あり、言ふ、能く兒啼を止めむと。召し入る。乃ち曰叫ぶ莫かれ、 叫ぶ莫かれ、何ぞ當初の笑ふ莫きに似かむと。啼卽ち止む。くこと、蓋し謂ふ、眞宗、嘗て上帝に顬つて嗣を祈る。群仙に問ふ、誰か當に往くべき者ぞと。皆、應ぜず。獨り、赤脚大仙一笑す。遂に、命じて、降つて、眞宗の子とならしむ。宮中に在つて、赤脚を好む、其驗なり。昇王より、太子となり、年十三にして、位に卽く。劉太后、簾を垂れて、同じく政を聽く。丁謂、事さんせいわうそうを用ゐ、寇準を讒して、雷州司戶となす。參政王曾、密に奏す。謂.禍心を包藏し、眞宗の山陵、擅に皇堂を絕地に移すと。遂に謂を罷め、貶して、崖州司戶に至る。謂.初め、學士に命じて、準宋-仁宗皇帝-七一九 十八史略卷之六七二〇謂が讒の責詞を草し、春秋無將漢法不道を用ゐしめて證事となす。以る寇ての準べも己た己らのをす謂評を貶はで謂せら詞貶丁責詞せらるるに及び、學士乃ち其語を用ゆ、人、是を快とす。準を逐ふの出所と自にるれる責返もに 詞當に眼中で謂せ時に方つて、京師語つて曰く、天下の寧を得むと欲せば、もにの丁を拔くべく、天下の好を得むと欲せば、寇老を召すに如くはなきのといへふるかしと。然れども、準竟に北に還るに及ばずして卒す。王會、相となり、王欽若、再び相たり。欽若、卒す。張知白、相たり。知白、卒す。張士遜、相たり士遜、罷む。呂夷簡、相たり。惟だ王曾、天聖の初より、相位に居り、是に至るまで七年にして罷む。曾、初め進士に擧げられ、靑州の發解、禮部の延試、皆、第一なり。人曰く狀元三場、喫著し盡きずと。曾曰く、曾、平生の志、溫飽に在らずと。眞宗の末、色を正しうして朝に立つ。朝廷、賴つて以て評重きを爲す。相と作るの日、進退する所の士、知る者あるなし。或採用王べを亦てもり得す曾る人のをひと、其故を問ふ。曾曰く、恩、己に歸せむと欲せば、ずざるれ用れ事法べき怨は誰をしららあすを然て當らしめむと。か知弊偏之交趾の黎桓景德中に卒す。子龍廷、其兄龍鉞を殺して自立し、る來貢す。名を全忠と賜ふ。太中祥符の間、全忠卒す、子幼なり。弟立つを爭ふ。大校李公蘊、遂に之を殺して自立す。是に至つて公蘊、卒す。子德政、立つ。來つて、喪を告ぐ、封じて交趾郡王となす。契丹主隆〓殂す。聖宗と號す。子宗眞立つ。宋-仁宗皇帝-七二一 七二二十八史略卷之六せいかてうとくめい げんかう西夏の趙德明、卒す。王士大學立つ。はゝりしもくもくおつもりうたいこう上の母李氏、默默とし劉太后、上を以て己の子となす。而して、一)おそをかついせんてうひんぎよ人、亦た后を畏て、先朝嬪御の中に處り、未だ嘗て自ら異とせず。しんびすさいしやうりよやまひあらたあえ宰相呂れて、敢て言はず。病革まる、れい乃ち位を宸妃に進めて薨ず。そなほうむたよろ他かんたいこうそう曰く、い以て葬るべし。夷簡、太后に奏す、宜しく、禮を備へて、しんひしゆつきたじついかんかつと一年を踰え日夷簡、嘗て說き來らずと道ふ勿れと。宸妃卒して、しようせいみづかたいこうほうせい之よりて、太后崩ず。制を稱する十一年。上、始めて政を親らす。いかんてきしやうりよいかんちやうしそんたらかしやう李迪、相たり。而先、呂夷簡、張士遜、並に相たり。夷簡、罷む。かんまはつめいししゆ復た相たそん夷簡、して、士遜、首相たり、發明する所なくして罷む。まけんいかんてきやわうそう夷簡のり迪罷む。王會、復た相たり。然も、權夷簡に在り。はじくわくくわうごう初めて罷むるや郭后の言を以てす。こう皇復た入るに及びて后せうびじんてうあらそげきくわくこうはいだいかん尙美人と寵を爭ふの隙あり遂に郭后を廢す。夷簡、力あり。臺諫こうだうほはんちうえんちうえんてうかへたいせい孔道輔、范中淹、爭ふ。得ずして出づ。仲淹、朝に還つて、待制とかいほうふちいよいきふしばしじせいなり、いかんぞのしよく開封府に知たり。うつた事を言ふこと、ぜうしうち愈よ急、數ば時政を議す。くわんかくよせいゐんしゆ夷簡其職を越ゆるを訴ふ。罷めて饒州に知たり。館閣余靖、尹洙、んんおうやうしうかんぐわんかうじやくとつ之を爭ふ。坐して貶せらる。いさ皆、歐陽修諫官高若訥の諫めざるにんげんしうちじやくとつそのしよを責む、そう謂ふ、人間羞恥の事あるを知らずと。若訥、其書を奏す、さいじやう四賢一不肖の詩を作る。けんせうけんちうえんしゆ之詩四賢一不肖亦た貶せらる。せいしう蔡襄、ふせうさわうそう四賢は、たい仲淹、洙かん靖、修を指し、い本日は、若訥を指すなり。王曾、對に因つて、夷簡ろいしりぞそうならびが賂を納れて恩を示すを斥く。やわうずゐちん夷簡、曾並に罷めらる。王隨、陳朱-仁宗皇帝-七二三 十八史略卷之六七二四ちやうしそんしやうとくけんめいげうさかは章得堯佐、之に代る。建明する所なきを以て、罷めらる。張士遜、しやう象てうげんかう之に代る。ぎんすゐいうれいえんくわいしやうかんりやうこしやしゆく趙元昊、夏、銀綏、宥、雲、鹽、會勝甘、凉瓜、沙肅こうしうがらんざんかためたいかくわうしうきよいう大夏皇州の地を據有し、せんがうせいへん興州に居り、さうぜん賀蘭山を阻して、はんようせいかけいえい固となし、げんかうえんで、元昊が將に延帝と僭號す。西邊、騷然たり。范雍、西夏を經營す。しうおそと1、州を攻めむとするを聞き、懼るること甚しく、門を閉ぢて救はず。ちうくわんくわうとくわそうりうへい兵を以て其家劉平、かこ戰ふ。そのぞく中官をさ黃德和、平、賊に降ると誣奏す。ひついくわんけいたす富弼を圍み、其族を收めむを議す。やぶのゝし富弼言ふ、平、とくわ環慶より來り援く、しのがかんしんすく人を誣ひて免れむ姦臣救はず、こひねが故に敗れ、賊を罵つて死す、えうざんはんよう德和、ときぐんおこたことを冀ふと。坐して腰斬せらる。范雍、罷む。時に軍興つて多養老場なら政事府豈に事、じ張士遜、ちやうしそん補ふ所なし。おぎな諫官韓琦、かんくわんかんき上疏して曰く、じやうそ政事府は、せいじ豈やうびやうばうんやしそんちかんに養病坊ならむやと。りよいましやうかんきはんちうえん是に於て、へんすゐ士遜致仕す。呂夷簡、復た相た韓琦、かえんしうり范仲淹を用ゐて、邊帥となす。うかじんあひいましえんしう仲淹、嘗て、兼ねて延州せうはんらうしに知たり。けうちうおのづか夏人、相戒めて曰く、かうへい延州を以て意となす勿れ、たいはんらうしあざむ小范老子、胸中 自ら數萬の甲兵あり、大范老子の欺くべきに比せざるなへんじんこれぐんちうかんせいぞくこれしんりと。邊人之が爲に語して曰く、たんさむぐんちうはん軍中一韓あり、西賊之を聞いて心膽寒し。きやうはかう軍中一范あり、たくま西賊之を聞いて膽を驚破すと。昊の大に逞けだちうえんきよたしうするを得ざるは、上蓋し、埼.仲淹の力を宣ぶること、居多なるに藉る。きつだんてうていせいかたうじようへんしせきしんさ契丹、朝廷、西夏の撓あるに乘じて泛使を遣して、石晉割く所、宗-仁宗皇帝-七二五 十八史略卷之六七二六周の世宗取る所の關南の地を求めしむ。知制詰富弼、接伴す。時に夷簡、事に任ず。人、敢て抗するなし。弼、數ば之を侵す。夷簡、事に因つて、弼を罪せむと欲し、弼を以て、報使とす、弼至る。徃返論難、力めて、其地を割くを拒む。使、還る。再び遣る。而し5て國書、ことさらに異同をなし、夷簡、以て弼を陷れむと欲す。弼疑うて啓き觀る。乃ち復た囘奏し、夷簡を面責し、書を易へて徃き、歲賂銀絹各十萬を增し、和議を定めて還る。呂夷簡、罷めむことを求む。上遂に天下の弊事を更めむと欲し、諫官の員を增し、王素、歐陽修、余靖、蔡襄に命じて、諫院の職に供せしめ、韓琦、范仲淹を以て、樞密副使となし、夏竦を召して、ミ樞密使となす。諫官、論じて竦を罷め、杜衍を以て、之に代ふ。國子直講石介、喜んで曰く、是れ盛德の事なりと。乃ち慶曆盛德の詩ニを作る曰へるあり、衆賢の進むは、茆の斯に拔くが如く、大姦のニ去るは、距の斯に脫するが如しと。大姦は、竦を指すなり。仲淹、琦.適ま陝西より來る。道中、詩を得たり。仲淹、股を拊つて琦に上謂つて曰く、此怪鬼輩の爲に事を壞ると。竦、因つて、其黨と論をう(造し、衍等を目して黨人となす。歐陽修、乃ち朋黨論を作つて、之歐陽修朋黨論を上るを上る。略に曰く、小人は朋なし、惟だ君子は之あり。小人利を同じうする時、しばらく朋を爲すものは僞なり。其利を見るに及びては、先を爭ひ、或は利盡きて情疎、反つて、相賊害す。君子、身を宋-仁宗皇帝-七二七 十八史略卷之六三八をさあひえき23修むれば、道を同じうして相益し、國に事ふれば、心を同じうしてたまさしうし共に濟ふ、終如一の如し。是れ君子の朋なり。君たる者は、但だ當ぎしんはうに小人の僞朋を退けて、君子の眞朋を進むべし、乃ち天下治まらむとちうえんさんせいうつひつすうふくぬき仲淹、參政に遷り、富弼、樞副となる、上既に仲淹等を擢んで、しんけんてんしやうかくひらせうたいさ進見する毎に、太平を以て之を責め、天章閣を開いて召對し、坐をたまひつさつきふみなくわうきやうしりぞれつさう賜ひ、筆札を給す。仲淹等、皆惶恐す。退いて、十事を列奏す。ちゆつちよくあきらげうかうおさ一に曰く、黜陟を明かにせよ。二に曰く、僥倖を抑へよ。三に曰こうきよくわんちやうえらこうようく貢擧を精しくせよ。四に曰く、官長を擇べ五に曰く、公用ひとのうさうあつぶびをさを均しくせよ。六に曰く、農桑を厚うせよ。七に曰く、武備を修めえうえきおんしんおよぼよ。八に曰く、徭役を減ぜよ。九に曰く、恩信を覃せよ。十に曰くめいれいおもじやうまきしんかうたぶび命令を重くせよと。上方に信向して、悉く其說を用ゆ。惟だ武備、いささいしやうもつかしやうとく府兵を復せむと欲するの一說は、宰相以て不可となす。時に、章得しやうあんしゆどうへいしやうじいくばくちうえんせんせいかとう象晏殊、並に同平章事たり。未だ幾ならず、仲淹、陝西、河東をせんぶひつかせんぶしようらばうちうえんらてう宣撫し、富弼、河北を宣撫す。竦等、謗を造す。故に、仲淹等、朝やすおうやうしうあんしゆとえんに安んぜず、歐陽修、亦た出でて河北に使す。晏殊、罷む。杜衍、つとげうかうさいないかうごとおほむしんかく同平章事たり。衍、務めて僥倖を裁す。內降ある每に、率ね寢格しせうしよっすなはかんて行はず、詔書を積むこと十數、輒ち上の前に納る。上、嘗て、諫ぐわんえんないかうふうくわんきうちう官に語つて曰く、外人、術が内降を封還するを知るか。朕、宮中につねふうくわん在つて毎に〓ぐべからざるを以て止むもの、封還する所よりも多き宋-仁宗皇帝-七二九 十八史略卷之六七三〇なりと。會ま、衍の婿蘇舜欽、進奏院に監とし、故紙を鬻ぐの公錢か、を用ゐ、神を祀り、客を會す。御史中丞王拱辰、素より衍等の爲ミす所を便とせず、因つて其事を攻む。獄に置いて罪を得る者數人。(一網打去し拱辰、喜んで曰く、吾、一網打去し盡せりと。行、相たること七十盡す日にして罷む。賈昌朝、平章事兼樞密使たり。韓琦、樞副を罷めて揚州の事に知たり章得象、罷む。陳執中、平章事たり。昌朝、罷む。夏竦、代つて、樞密使となる。貝州の卒王則反す。文彥博、河北を宣撫す。討つて之を平らぐ。趙元昊、慶曆の初、嘗て、范仲淹に因つて和を請ひ、反覆數歲、竟に款を納れて、復た臣と稱す。策命して、夏國王となし、曩霄と名づけ、歲に銀絹茶絲二十五萬五千を賜ふ、遂に復た邊に寇せず。卒す。子諒祚、立つ。陳執中、建明する所なきを以て罷む。夏竦、罷む。宋庠、之に代る。尋いで、同平章事たり。未だ幾ならずして罷む。張貴妃兄堯佐、一日、四使に除せらる。監察御史裏行唐介、之を論ず。聽かず。遂に効奏す、文彥博、さきに蜀に守たり。燈籠錦を以て貴妃に獻じて、執政を得たり、故に堯佐に黨すと。上、怒つて介を遠貶す。彥博、亦た罷むるを求む。龐籍、平章事たり。ニ廣源州の儂智高、廣州に寇し、連歲、諸州を陷る。邕より廣西に宋-仁宗皇帝-当 十八史略卷之六七三二至るまで、皆、其害を被る。樞副狄靑に命じて、討つて、之を平らぐ還つて、樞密使となる。龐籍、罷む。陳執中、梁適、平章事たり。適罷む。劉流、之に代る。執中、罷む。文彥博、富弼、並に同平章事たり。士大夫、人を得るを相慶す。上曰く、人情、斯くの如し。豈に夢トに賢らずやと。上、嘗てくわん〓〓王素に問ふ、孰れか相と爲すべきと。素曰く、惟だ宦官宮妾、姓名を知らざる者、其選に充つべし。上、慨然として曰く、斯くの如くなれば、富弼のみと。契丹主宗眞、殂す。興宗と號す。子洪基、立つ。交趾の李德政、卒す。子日遵、立つ。劉流、罷む。文彥博、罷む。韓琦、平章事たり。富弼、罷む。王安石王安石、知制誥たり。安石、官を遷る每に、遜避して已まず。知制誥に至つて、復た官を辭せず。ら安石、嘗て花を賞し魚を釣るの宴{に侍し、誤つて釣餌を食ふ。既に悟るも、之を食ひ旣す。上、其不情にして非を遂ぐるを以て、之を惡む。安石、重名あり。キ、爭つて之に向ふ。惟だ、蘇洵、見ず、辨姦論を著し、亦た以爲へらく、人情に近からず、必ず大姦慝ならむと。き、割司馬光進三司馬光、諫院に知たり。三箚を進む。一に君德を論ず、三あり、曰く仁、曰く明、曰く武。二に臣を御するを論ず、曰く官に任ず、宋-仁宗皇帝-七三三 十八史略卷之六書曰く賞を信にす、曰く罰を必す。三に軍を揀ぶを論ず。又、五規を進む、曰く業を保す、曰く時を惜む、曰く謀を遠くす、曰く微をこ謹む、曰く、實を務むと。い策して、科人を制す。蘇軾、蘇轍を得たり。曾公亮、平章事たり。上在位四十二年、改元するもの九、天聖、明道は垂簾の政なり。お·のれ景祐以來は、政己より出づ。寶元、康定の間は西鄙多事。慶曆更めて化し、君子朝に滿つ。皇祐、至和、嘉祐に至つて、天下承平〓無事恭儉の德、人を愛し、物を恤むの心、卽位より升退に至るまで、終始一日の如し。遺制下る時、深山窮谷と雖も、奔走せざるな大く悲號して止む能はず。壽五十四。皇子立つ、之を英宗皇帝となす。【英宗皇帝】初名は宗實、濮の安懿王允讓の子、太宗の會孫なり。仁宗、立てて皇子となし、名を曙と賜ふ。仁宗崩ず、固く避くること數囘にして後に、位に卽く。憂疑を以て、疾を致す。慈聖光獻曹太后、權に政を聽く。上の擧措、或は常度を改め、宦者を遇する、尤も恩少し。左右、多く悅ばず、乃ち共に讒開をなす。兩宮遂に隙な宰相韓琦、を成す。參政歐陽修等の調護するに賴つて、上、旣に康ふ復して政を親らす。太后、簾を撤す。琦、一日、空頭の救を出す。修、旣に僉す、趙槩、未だ僉せず。修曰く、惟だ之に書せよ。韓公宋-英宗皇帝-臺 十八史略卷之六美必ず說あらむと。琦、政事堂に坐し、內侍任守忠を召して、庭下に立たしめて曰く、汝の罪、死に當すと。責めて、〓州に安置す。蓋し、兩宮を交鬭するの人なり。又、太濮王を崇奉する典禮を議す。執政、皇考と稱せむと欲す。后の詔を以て、上をして親と稱せしむ。司馬光、范鎭、呂誨范以て不鎭は輸林を純仁、呂大防、呂公著、交も論じて、可となす。議、竟に罷め、誨純仁、大防は言職を解き、公著は侍講を罷む。決せず。契丹、大遼と改號す。上、崩ず。在位四年。改元するもの一、曰く治平。年三十八。皇太子立つ、之を神宗皇帝となす。【神宗皇帝】名は項、母は宣仁聖烈皇后高氏、曹太后の甥なり。幼ごにして、英宗と同じく后の所に鞠はる。後に英宗の配となつて、項を生む。潁王より太子となり、尋いで、位に卽く濮議あつてより以來、言者、歐陽修を攻めて已まず、遂に罷む。韓琦亦た罷む。王安石、翰林學士となり入對す。首に術を擇ぶを以て言となし、言、必ず堯舜を稱す。富弼、同平章事たり。王安石、參政たり。安石、旣に政を執る。士太夫、素より、其名を重んず。以爲へらく、太平立どころに致す宋-英宗皇帝-神宗皇帝-七三七 十八史略卷之六七三八べしと。呂誨時に御史中丞たり、將に對せむとす。學士侍讀司馬光亦た將に經筵に詣らむとし、相遇うて並び行く。光密 に問新參ふ、今日言ふ所は何事ぞ。曰く、袖中の彈文は乃ち新參なり。光、愕然として曰く、衆人を得るを喜ぶ、奈何ぞ之を論ずるや、誨曰く君實亦た此言をなすか、安石、偏見を執り、人の己に佞するを喜ぶ、天下必ず其弊を受けむと。光、退いて、之を思へども、其說を得ず。縉紳の間其疏を傳ふる者あり、往往其太だ過ぎたるを疑大姦似忠大ふ。誨言ふ、大姦は忠に似たり、大詐は信に似たり、安石、外詐似信朴野を示し、中、巧詐を藏し、驕蹇、上を慢り、陰賊、物を害す、チと其十事を疏す。上、再び手詔を降して、誨を諭す。誨、之を論じて己まず。遂に誨を罷む。安石、建議して、始めて、三司の條例5正式です。司を置き、議して新法を行ふ。言ふ周、泉府の官を置いて、天下ですねぇいの財を變通す。後世、惟桑弘羊、劉晏、粗ぼ此意に合す。今、當中心力に呂惠卿りよけい〓〓に泉府の法を修め、以て利權を收むべしと。安石多く呂惠卿と謀る人、安石を號して孔子となし、惠卿を顏子となす。之より先、評示支は政をる否氣りの來る國權ざ當地南知說もをの治平中、邵雍客と天津橋上に散歩し、杜鵑の聲を聞いて、愁然樂な實年すば人らはば人らか、まず。客其故を問ふりも今す那四紛得亦の所史千亂れ雍曰く、洛陽、もと杜鵑なし。今、始めてす至る天下、將に治まらむとすれば地氣北よりして南し、將に亂れむとすれば、南よりして北す。今、南方地氣至る。禽鳥飛類は南蔣人介な石氣の先を得たるものなり。二年ならずして、上、南士を用ゐて相と宋-神宗皇帝-臺 十八史略卷之六七四〇なし、多く南人を引いて、專ら更變を務め、天下、之より多事なら靑苗法むと。是に至つて、雍の言、果して驗ありといふ安石、靑苗法を評香蕉雞腿行はむと欲す。以爲へらく、周官の國服爲息の法なりと。蘇轍曰く刀の集合は、純米比のする金を以て民に貸せば、吏、"緣つて姦をなし、錢、民の手に入れば、良民と雖も、妄に用ゆるを免れず。其錢を納るるに及びては、富民と雖も、違限を免れず。鞭筆必ず用ゆれば、州縣、煩に勝へざらむはと參政唐介、新法を爭論す。勝たず。疽背に發して卒す。時人生老病死苦生老病死苦の喩あり。安石を謂うて生となし、曾公亮を老となし、か、介は死し、富弼は議論合はず、病と稱す、參政趙抃、安石を如何ともするなく、惟だ苦苦と稱するのみ。安石、抃を折いて曰く、君が輩、書を讀まざるに坐するのみ。抃曰く、皐夔稷契、何の書をか讀むべきと。安石、亦た對ふる能はず。使を遣して、農田水利を察せしむ。義倉を罷む。に·均輸の法均輸の法を行ふ。·せんがい臺諫劉琦、錢顫、新法を議するを以て貶せらる。諫院范純仁、檢詳文字蘇轍、新法を議するを以て罷めらる。靑苗の法を行ふ、常平官を置く富弼罷む。陳升之、同平章事たり。升之、初め、安石に附く。旣に相として、頗る異同をなす。宋-神宗皇帝-七四一 十八史略卷之六1211,よはいしよろあらかじきふちうけんくわばい預買の法預買の法を行ふ。諸路をして豫め錢を給して紬絹を和買せしむ。てうべんやひかうな趙抃罷む。抃日に爲す所の事、夜は必ず香を焚いて天に〓ぐ。きよじんしんしまいえふそかふふくわい擧人を親試す。始めて策を用ゆ。葉祖治、新法に附會するを以てぬき擢んでて第一となす。いうぜいげんそんかくぎよしりかうていかう右正言孫覺、御史裏行程顥、新法を議するを以て罷む。ちうじようりよこうちよりかうちやうせん中丞呂公著、裏行張哉、新法を議するを以て罷む。だいりんていしとうけうかうちせいかうそうびんきうそしようてい定の詞頭を繳李定、裏行となる。知制誥宋敏求、蘇頌、李大臨、するを以て罷む。しやけいをんぎよしちざつ謝景溫、御史知雜となる。ちよくしくわんそでばんげんたてまつていしきたい直史館蘇轍、嘗て、萬言の書を上り、及び廷試策に對するに擬し、さからけいをん新法を議して、安石に作ふを以て、景溫に効せられて去る。とうわんりよさひやくしやうせいべうめんえき鄧縮、上書して言ふ、陛下、伊呂の佐を得たり、百姓、靑苗免役とうかぶしよおよしようらうしよけんぜい等の法を歌舞すと。又、安石に書及び頒を與ふ。中書檢正を置き.わんきやうじんせふばわんいは評縮を以て之を爲さしむ。な豈し之す笑笑ら第とを好屁罵す爲官にはるすは從佗〓人、皆、笑罵す。縮曰く笑罵は佗の笑罵ベ我かのまかかうくわんに從す。好官は、我、之を爲すべしとそうこうりようみ者の曾公亮、罷む。やせいくわさいりうたうちやうくわいこうぶんちうつとしんはふそし制科の人を策す。劉陶、張繪、孔文仲、力めて新法を詆る。皆、報じて罷む。はんちんしばしそしよくこうぶんちうす范鎭、數ば新法を議し、及び、嘗て蘇軾、孔文仲を薦めしを以て宋-神宗皇帝-雪 十八史略卷之六七四四罷めらる。乞うて致仕す。陳升之、罷む。韓絳、王安石、同平章事たり。保甲の法保甲の法を立つ。曾布、中書檢正となる。科擧の法を更め、詩賦明經の諸科を罷め、經義論を以て進士を策試す。司馬光、さきに學士より、樞副に除せらる。力辭して拜せず。數た、三不足の說ば、新法の害を言ふ。上、安石に喩して曰く、三不足の說を聞くや否や。曰く、聞かず。上曰く外人云ふ、朝廷以爲へらく、天變畏るるに足らず。人言恤ふるに足らず、祖宗の法守るに足らずと。昨さ、6)學士院、館職の策問を進む、專ら、この三事を指すと。策問は、光(の爲る所なり。光、屢ば外を請ひ、永興を得たり、許州に移る。上臣の不才、言すらく、最も群臣の下に出づ、先見は呂誨に如かず、公直は范純仁、程顥に如かず、敢言は蘇軾、孔文仲に如かず、勇決せいけいりうしゆぎよしは范鎭に如かずと。屢ば、西京留守御史臺に判たらむことを請ふ。ひ是に至つて、請を得。後、四たび任ぜられて、嵩山崇福宮に提擧たり。歐陽修、さきに靑州に知たり。擅に靑苗錢を給散するを止むるを以て、徒つて、蔡州に知たり。是に至つて、乞うて致仕す。か、富弼、さきに毫州に知たり。靑苗の法を格するに坐して、徒つて宋-神宗皇帝-小麺屋 十八史略卷之六七四六ぢよしうち汝州に知たり。ちうじやうやうくわいかうりうし中丞楊繪、裏行劉摯、新法を議するを以て罷めらる。さえきほえき募役の法差役を罷む。募役の法を行ふ。だいがくしや15-大學三舍の大學三舍の法を立つ。法しえき市易の法市易の法を行ふ。はうば保馬の法保馬の法を行ふ。はふでんきんぜいわか方田均稅の方田均稅の法を頒つ。法かろわうせうけいりやくあんぶとうしせう熙河路を置き、王韶を以て經略安撫等の使となす。之より先、韶へいじゆうさいたてまつせいかたひきはかくわう平戎の策を上る。謂ふ、西夏を平らげむと欲せば、當に河湟を復すらんぜんかんらうせいぐんとばんかく古渭ゐべし。今、の西、熙河蘭部、皆、漢の隴西等の郡なり。吐蕃唃へいいうじんいう厮囉の一族、この間に國す。宜しく、之を併有して、以て夏人の右たあんせきぼうかえき臂を絕つべしと。安石、以て奇謀となし、始めて熙河の役を開く。せうてうびんでうたうせいとういんこう上韶河洮、岷疊、宕等の州に克ち、又、靑唐咽喉の地に據る。へんこうますまとほざかえきへい邊堠益す斥り、役兵の死亡甚だ多し。ちうしよけんせいしやうじゆんこほくさつはうなんぼくこうばんしんしう中書檢正章惇、湖北に察訪す。始めて、議して、南北江蠻辰州けいせいなんぼくこうきんしうしきんやうかせつしやうを經制す。南北江は、乃ち古しへの錦州の地、施點牂牁に接す。章じゆんそちじゆんいばいざんばんえうせうゆ惇に命じて、措置せしむ。惇言ふ、梅山の蠻搖を招諭し、令して、こ·はぶなみなくわんげいそのじつさつりつしこうおほ戶を省くを作せば、皆歡迎せむと。其實は殺截し、浮屍江を蔽ふ。ししよしうらいけいぎきよくあんせきていきよりよけいけいおよあん詩、書周禮、三經義局を置く。安石、提擧たり、呂惠卿及び安せきこはうらけんたう石の子雪等、檢討たり。宋-神宗皇帝-市営 十八史略卷之六夷かとうほくせんせいりうみんきねいねん流熙寧七年、天、久しく雨ふらず。河の東北、きみんもつと陝西の流民、かんあんじやうもんてい皆、れて京城に入る。づ而して、じやうしよ京城の外、饑民尤も多し。なんせいほくばつ監安上門鄭しやうせうゑが勝捷の15.南征北伐、皆俠、畫いて圖となし、上書して曰く、陛下、てんかいうくさいしあひほづきたたてまついきほひ天下憂苦、妻子相保勢を以て、せんい圖を作して來り上る。くわう〓きふじやう一人として、なけんこんとん獻ずる者せず、遷移困頓、遑遑給せざるの狀を以て、圖を爲して、なんだあんじやうもんひなし。安上門、日を逐うて見る所、百一に及ばず、亦た涕を流すかんちよくげんいは直言をべし。況んや、千萬里の外をやと。時に、旱を以ての故に、とがじやううたがあんげんしや安求む。言者、皆、新法を咎む。上疑うて、之を罷めむと欲す。かんかうきちこうねいふはいせきよろこ安石、韓経を薦め石、悅ばず。去るを求む。しやう知江寧府に拜せらる。りよけいけいさんせいかうがうおのれ絳を號して、己に代つて、相となし、呂惠卿を參政となす。時に、はふしやもんけいけいはふぜんしんけいけいけんぎめんえきしゆつせんて傳法沙門となし、ひと惠卿を護法善神となす。ほしよ惠卿、しゆじつ建議す、免役出手實の法錢すでいきほひ均しからざるは、ま簿書の不善に出づと。手實の法を行ふ。惠卿あらかじそのみち旣に勢を得、ししよ安石の復た入るを恐れて、遂に逆め其途を閉ぢ、安石なかおよの私書を出すに、上をして知らしむる勿れ、の語あり。凡そ、以てあんせきがいそのちもちしばしかう安石を害すべき者、さからかんじよう其智を用ゐざる所なし。はくましやう又、數ば絳と忤ふ絳、あんせき間に乘じて、やふたゝ上に白し、復た安石を相とす。じきんれう安石、罷めて一年ならず、か再び入る。命を聞いて辭せず、かうけいけいあひつ金陵より、七日にして、闕下に至る。後數月、絳惠卿と相繼いで罷む。こは戶馬の法を行ふ。はんしやうしうかんきこうきてんしちうこう判相州韓琦、だんちへいあひだ薨ず。琦、天資忠厚、能く大事を斷ず。治平の閒宋-神宗皇帝-七四九 七五〇十八史略卷之六せいじしふけんてんことうちやうとせいちやうしゆしやう文學は西廳に首相となり、政事は集賢に問ひ、ろうるけつ典故は東廳に問ひ、しやうしうにんせいべう問ひ、大事は自ら之を決す。出てで相州に判たり。初め、靑苗の不評給じる之 法法り靑をち行朝と靑韓所爲す臣散命す議す苗琦してやを而をよしたがさんきふはんしんたいまさてうてい藩臣の體、當便を言ふ。朝廷、從はず。卽ち命じて散給して曰く、之卽强も非きやうぐんをはぎよせい强行に是の如くなるべしと。〓郡に在ること、八年にして終る。御製のりやうてうこめいていさくげんくんのひ碑に曰く、兩朝顧命定策元勳之碑と。ざ人をての示藩のり得常體されうししばしかんしんかとう遼使、屢るなし韓纖に命じ、河東に如いて、とうヘン地を割かしむ。じゆうるゐぞうしう之より先、ほしやば至つて言ふ、うつおうさく河東は邊に沿うて成壘を增修し、しうかいしんにふきてつ舗舎を起して、かかいしの國の蔚應朔の州界に侵入す、乞ふ毀撤を行ひ、別に界至を立てむてうていかうらいまねかたせいざん;けだれうじん西山に楡柳を植と蓋し、遼人、朝廷の高麗を招き、熙河を建て、かほくじやうちきづとさくゐんはじきふたうしんやうはうかう弓刀の新樣をゑる、保甲を創め、河北の城地を築き、都作院を創め、かいほくえん降し、ち界北の三十七將を置くを見て、かいあらそ燕を復するの意あるを疑ひ、おううたが故に地界を爭ふを以て名となし、あんせきだん朝廷の應ずる所以を觀る。安石、しばら之を斷じて曰く、將に之を取らむと欲すれば必ず姑く之を與ふと。あたとうざいちうしな東西地を失ふこと七百里。あんせきふたゝしやうしばししや及をての安はうし郵安石再び相たること二年こす濟會法つ者じ十家は王業前り合經社新立ぶ通二大石屢ば病を謝す。子雪死す、去るを求む四と法朝し制つとますまいと尤も力む。こうねいふること、上、益す、はん其爲す所を厭ひ、出して江寧府に判之所しにまあんせきたらしめ、遂に復た用ゐられず。せんわうるな安石の事を用ゐしより、立ちるまな終わただんもつばくわんしやうせいふきやう口に先王政亦を談じて、こゝろざしそのよくな專ら管商ゆえんの政を行ひ、お上の富强の志あるを知つて、其欲を濟す所以を思ふ。きさせうじんくんし謂へらく、まも法を立つるには、當に小人を用そのこのりゐて後に、君子を以て之を守らしむべしと。さと業其是理なきを悟らざる宋-神宗皇帝-書 十八史略卷之六七五二てんかさうぜんくにいまかつへんびことしやういたづら天下騒然として、國未だ嘗て富まず。邊鄙事を生じ、徒に多馬ず雅行且最多としてをばてして權氏·と精見なり。れ德司せり專く德數人然い妙れしと精13はいつよせいひちいすゑちうがくするしうく喪敗して、國未だ嘗て强からず。西鄙は、治平の末、仲諤、綏州かじんおこはうふく以さのれ耐あ斷して權其を取りしより、夏人、卽ち兵を興して、報復せむと欲すかわうりやうそしゆつこいじやうたにふかうあんせきわうせうきか夏王諒祚卒す。子秉常立つ。大に入寇す。安石、王韶、熙河を取所壓公之忍弊獨さくいたづらうらみせいはんかまきしやうらしばしかうくわんるの策を用ゆと雖も、徒に怨を西蕃に構へて、鬼章等屢ば寇患これせいかせいをなすを致し、初めより、此を以て、西夏を制する能はず。用ゆるるに溫ちんきまたきんりた望りうい所の沈起、劉舞、又景を南方に生ず。なかうしりじつじゆんけんとくいあひつけいしう交趾の李日遵、卒す。子乾德、立つ。起舞、相繼いで、桂州に知どていあつはうかうかいひんしうしすゐたり。土丁を集めて、保甲となし、海濱に於て、舟師を集めて、水せんしうけんかうじんぼうえききんしたいきよにふかう戰を〓へ、州縣、交人と貿易するを禁止す。交人、大擧して入寇し、いうしうかニさんれんおとしいせいげんちうごくせいべうじよえき邑州を圍み、欽廉を陷る。聲言すらく、中國、靑苗助役の法を作くるしあひすくあんせきてうせつつて、以て民を困む、兵を出して、相救はむと。安石、怒り、趙高へいくわあんせき等を遣して、之を討たしむ。官軍死する者。十に六。兵禍、安石のいたごじうわうけいあんせきしやう去るに訖るまで、未だ已まず。吳充、王珪、安石に繼いで相となる。드しばしひべんあんせき充、さきに政府に在り、數ば政事の非便を言ふ。既にして、安石にさいかくとうじゆんほら代る。蔡確、鄧潤甫等、共に之を攻むるも、去らしむる能はず。げんほうぐわんねんちしうそしよくくわうしうあんちちうじようりてい蘇東坡黃州元豐元年知湖州蘇軾を黄州に安置す。之より先、、中丞李定言に安置せらしよくねいくんぷゑんばうじよだんしよく軾じるふ熙寧より以來、君父を怨謗すと。舒亶も亦た言ふ、軾時じせんほんはつたすか事を議す。陛下、錢本を發して以て貧民を業くれば、曰く羸ち得じどうごいんよねんきやうはんじやうちうめいはふもつぐんりたり兒童語音の好き、一年强半は城中に在りと。明法以て群吏を宋-神宗皇帝-七五三 十八史略卷之六七五四どくしよまんくわんりつよきみげうしゆんいた課試すれば、曰く、讀書萬卷律を讀まず、君を堯舜に致す、終じゆつすゐりおことうかいめいしゆに術なしと。水利を興せば、曰く、東海もし明主の意を知らば、さうでんんんえんきんつゝしあ斥鹵をして桑田に變ぜしむべしと。鹽禁を謹めば、曰く、豈に是れせうあちわすかいじらいつきしよくそのた詔を聞いて味を忘るるを解せむや、通來三月食に鹽なしと其他きばうしゆしよく物に觸れ、事に卽いて、譏謗を以て、主となさざるなしと。乃ち軾おぎよしミつなていちやうさうすゐちわうさいを追うて、御史の獄に繋ぎ、定と張操とに命じて推治せしむ。王珪ふしんいくわいしあきうせんきよく言ふ、軾不臣の意ありと軾の檜の詩を擧ぐ。根は九泉に到つて曲しよせけんたちつりうひりうてんぎよ處なし、世間惟だ蟄龍の知るありと。陛下、飛龍天に御す。然るにしよくかれちかちつりうふしん軾彼は之を地下の蟄龍に求む、不臣に非ずして何ぞ。上曰く、彼くわいえいちんあづかつみ自ら檜を詠ず、何ぞ朕の事に預らむと。上、もと軾を罪するに意なごじう-わうあんれいごくなし。吳充、王安禮、皆、上に勸めて、之を容るさしむ。獄成つて、このめいおとうとてつしよくざへんしあんざ是命あり。弟轍、亦た軾を救ふに坐して貶せらる。軾の詩案に坐ちゆつはつちやうはうへいしばくわういかじつして、黜罰せらるる者、張方平司馬光以下、二十二人。上實にあはれぢよしううつまさいかくちやうさうら軾を憐む。尋いで、汝州に移し、復た用ゐむとす。蔡確、張璪等のはじ爲に沮まる。ごじうや吳充、罷む。月を踰えて卒す。げんほうぐわんねんくわんめいたじへいしやうじあらた元豐元年大に官名を正し、元豊五年、官制成る。平章事を改めいうぼくやわうけいさいかくさんちせいじもんかて、左右僕射となし、王珪、蔡確を以て之となし、參知政事を門下ちうしよじらうしやうじゆんちやうさうせうしよさいうじよう中書侍郞となし、ほそう章惇、張璪を之となし、尙書左右丞を置き、蒲宗3)わうあんれいとうりやうちうしよむね孟王安禮を之となす。三省を以て、百議を統領し、中書、旨を取宋-神宗皇帝-七五五 十八史略卷之六〓もんかふくそうせうしよしかうしやうさい三旨宰相り、門下、覆奏し、尙書、施行す。珪相となる。人、之を三旨宰しやうたせいし相といふ。凡そ、事、惟だ聖旨を取るといひ、聖旨を得れば聖旨をりやうしりぞしよそう領すといひ、退いて之を書すれば聖旨を奏すといふのみ。上、之をいとかくいれいぶ厭ふ。確珪に謂つて曰く、上、久しく靈武を取らむと欲す、公、せめにんしやうゐたもけよろこ能く責に任ずれば、相位保つべきなりと。珪、喜んで、其言の如くないじけんかテうれいしうせし、內侍李憲に命じ、道を分つて、夏國を伐ち、靈州を攻むれどもかしそつしとうすいけんさいきよ克たず。士卒死し、及び凍餒する者、十に五六。憲再擧の議を上ぢよきまたしようらくしんじやうきづかじんたいきよる。徐禧、又承樂の新城を築くを議す。夏人、大擧して城を攻む。きらはんかんぐわんおよしよぐんそう城陷る。禧等、蕃漢官及び諸軍、死する者萬三千。上、奏を聞いどうこくて働哭す。富强遺表をふひつる)たてまつちうかんとぜつてんゆひしん富弼すこうり上る遺表を上る。言ふ、忠諫杜絕、諧諛日に進み、興利の臣、うらみをさまたいせいじおほいうれ國の爲に怨を歛むのぞせいねん又言ふ西事大に憂ふべし、望むらくは聖念をこひつこうほGriftいてきれうしいた留めよと。ごと弼早く公輔の望あり、名、夷狄に聞こゆ。遼使至る毎そのしゆつしよあんびちうぎいよいあつ必ず其出處安否を問ふ。かきよきしばらくに、てうてい忠義の性老いて彌よ篤くこう家居一紀、斯須も朝廷を忘れず。是に至つて薨ずさいしやうたいじやうじんさいたんほそうまういは宰相同じく對す。上、人材なきの歎あり。蒲宗孟曰く、人材、なかばしばくわうじやせつやぶみ半は司馬光の邪說に壞らると。そうまう上、語らず宗孟を視ること、之ばくわう評に久しうして曰く、とてし通司い千文鑑馬ふ載献の光べ不と著資蒲宗孟は乃ち司馬光を取らざるかと。宗孟、尋し滅し盖治しちつうかんなはじのいで罷む。司馬光の資治通鑑成る。そくゐかつぎよせい上、卽位の初、旣に嘗て御製じよげんほうねんしよたてまつくわんせいの序あり元豐七年に至つて、書始めて上る。初め、官制將に未-神宗皇帝-七五七 十八史略卷之六美ナ行はれむとす。上、新舊人を取つて、兩つながら、之を用ゐむと欲す。曰く、御史大夫は司馬光に非ざれば不可なり蔡確曰く、國是흔二方に定まる。願はくは、少しく之を遲てと。旣にして上疾あり。又曰く、來春、儲を建つれば、當に司馬光、呂公著を以て師保となすべしと。公著は、夷簡の子なり。上、在位十八年。改元するもの二、曰く、熙寧、元豐。精を勵まし。治を求め、日昃、食に暇あらず。平生、〓遊を御せず、宮室を治めず、惟れ勤、惟れ儉、將に以て大に爲すあらむとするなり。奈何せん、熙寧以來安石に誤られ、元豐以後、事を用ゆる者、終始、皆、安石の黨、竟に天下の患となる。北狄の倔强を憤つて、慨然として、幽燕を恢復するの志あり、先づ靈夏を取り、西羌を滅し、乃ち北伐を圖らむと欲す。安南律を失ふに及びて、喟然として、赤子罪なくして死するを歎じ、永樂の敗益す用兵の難を知り、初めて、征伐を念ふを息め、卒に一事意の如くなるなし。崩ず。年三十八。皇太子立つ、之を哲宗皇帝となす。宋-神宗皇帝-七五九 評譯十八史略卷之七宋えんあんぐんわうしんそうたいぜん【哲宗皇帝】名は煦、初め、延安郡王たり神宗大漸、立つて太子さいかくしやじんけいじよかうこうくわいむかとなる。之より先、蔡確舍人邢恕を遣して、高公繪を邀へ太后はくちうえうきかけんわうに白せしめむと欲す。言ふ、延安は沖幼、岐嘉、皆賢王なりと。こうくわいおそわざわひすみやか公繪、懼れて曰く、公、吾が家に禍せむと欲するが亟に去れと。じよくわしんはうぞうかいいたいこうわうけいへうりえんあん恕禍心を包藏し、反つて謂ふ、太后、王珪と表裏し、延安を捨てー)おのれおよしやうじゆんさいかくよて、子顎を立てむと欲し、己及び章惇、蔡確に賴つて變なきを得宋-哲宗皇帝-夫 十八史略卷之七基たりと。且つ其說を士大夫の間に播く。神宗、崩じて、太子位に卽太皇太后新く始めて十歲。太皇太后、同じく政を聽く。熙寧中、太后、旣法を廢止すに嘗て流涕して、神宗の爲に言ふ、安石の變法便ならずと。既に、簾を垂れて、天下厭苦すること日久しきを知り、首として、東京の戶馬を罷め、京の東西路の保馬を罷め、京の東西の物貨場を罷め、bo諸州鎭寨市易の抵當を罷め、汁河堤岸司の地課、放市易、常平免役の息錢を罷め、在京免行錢を罷め、提擧、保甲、錢粮、巡〓等の官を罷め、方田等を罷む。皆、中より出で、大臣は與らず。王珪卒す。蔡確、韓鎭、左右僕射となり、章惇、樞密院に知た50司馬光、門下侍郞たり。光、洛に居ること十五年、兒童走卒も皆司馬君實を知る。神宗升遐、闕に赴いて入つて臨むや、衞士望見し、手を以て額に加へて曰く、司馬相公なりと。爭つて、馬首を擁して呼んで曰く、公、洛に歸る勿れ。留まつて天子に相として、百姓を活かせと。所在數千人、之を聚觀す。光、懼れて洛に歸る。旣にして、召されて執政となる。か、程子卒す河南の程顎、この歳を以つて卒す。顯字は伯淳弟 頭、字は周惇頤字茂叔正叔兄弟、皆濂溪の周惇頤に從つて學を受く。惇頤、字は茂叔、博學力行、道を聞くこと早く、事に遇うて剛果、古人の風あり。政(みがを爲すこと嚴恕、務めて理を盡し、名節を以て自ら礪く。雅より高趣あり、聰前の草を除かず、曰く、自家の意思と一般なりと。黃庭宋-哲宗皇帝-七六三 十八史略卷之七大君けんそのじんびんけうちうしやらくくわうふうせいげつたいきよく光風霽月堅、稱す、其人品、甚だ高く、胸中洒落、光風霽月の如しと。太極つうしよかつちう圖、通書あり、世に行はる。顎頤初め之に從ふ。首として、仲じがんしたのしたづ尼、顏子、樂む所は、何事なるかを尋ねしむ。學成る。各、斯文をおのれにんかうめいいじやういやし以て己の任となす。題、嘗て言ふ、一命以上、苟くも心を物を愛すなねいちうしんはふあるに存すれば、人に於て、必ず濟す所あらむと、熙寧中、新法合はすゐたくさざるを以て、國を去る。神宗、嘗て人才を推擇せしむ。薦むる所、へうしゆくちやうさいおとうといしゆぶんげんはく數十人、表叔張載と弟頤とを以て首となす。其死するや、文彥博しうろんそのはかへめいだうせんせいおとうとい衆論を採り、其墓に表して明道先生といひ、而して、弟頤、之がじよ(しうこうぼつせいじんまうしし序を爲つて曰く、周公沒して、聖人の道、行はれず。孟子死して、つたひやくせいぜんちがくつた聖人の學傳はらず。道行はれざれば、百世善治なく、學傳はらさいしんじゆざれば、千載眞儒なし。善治なくとも、士、尙ほ、かの善治の道を明ひとしゆくのちしんじゆかにして之を人に淑し、以て之を後に傳ふるを得。眞儒なければ、てんかばうばうえんじんよくほしひまゝてんりめつ天下貿貿焉として之く所なく、人欲肆にして天理滅せむ先生、のちうでんから、ゐけいいたんべんじやせつ千四百年の後に生まれ、不傳の學を遺經に得、異端を辨じ、邪說をまけだまうし息め、聖人の道をして、復た世に明かならしむ。蓋し、孟子の後よみちり一人のみと。頤、嘗て、人に語る。吾の道を知らむと欲せば、こじよみかちやうさいあざなしこう張載字子厚の序を觀て可なりと。張載、字は子厚。初め、學ばざる所なし。のちていこと〓〓すかうとうめいせいめい後、二程の言を聞いて、乃ち盡く其學を棄てて講ず。東銘、西銘、せいまうりくつわうきよせんせいきよう正蒙、理窟等の書あり、世に行はる。人、之を橫渠先生といふ。共邵雍號康節じやうせうようげうふかなんていようもてあそ先生城の邵雍、字は堯夫、河南に居り、二程と友たり。雍の學心を玩宋-哲宗皇帝-七六五 十八史略卷之七奏ぶこと高明にして、天地の變化、陰陽の消長を觀、以て萬物の變に達し、物數に精しく、推して中らざるなし。顎嘗て、考試院に在り其數を以て之を推し、出でて雍に謂つて曰く、堯夫の數は、只で雍、其聰明を歎ず。雍、數學を以て二程にだ是れ加一倍の法なりと。傳へむと欲す。二程、受けず。邢恕、受けむと欲す。雍、許さずして曰く、徒に姦雄を長ずと。雍に皇極經世書十二卷、擊壞集歌あり。世に傳ふ。人、之を康節先生といふ富弼、司馬光等、皆深く之を敬重す。宋は、歐陽修、古文を以て天下に唱へしより文章大に變ずと雖も、然も、儒者義理の學は、周程出づるに至つて、然る後に明かなり。雍、惇頤、載皆、神宗の世に歿す。是に至つて、顎、又歿し、惟だ頤のみあり。學者之を宗とし、伊川先生といふ。元祐元年、蔡確、罷む、確章惇、邢恕と相交結す。恕、往來、語言を傳送し、自ら定策の功ありといふ。言官王覿惇確及び韓縝張璪の朋邪を極言し、劉摯、朱光庭蘇轍、數十疏を累ねて、論効す。確先づ黜けらる。司馬光を以て、左僕射となす。時に、王安石、旣に病む。其弟邸吏の狀を以て之に示す。安石曰く、司馬十二、相となると。悵然之を久しうす。議者、或は謂ふ、三年、父の道を改むるなし。新法、しばらく稍や、其甚しき者を損じて足らむと。光、慨然、之を爭つて曰く、先帝の法、善きものは、百世と雖も變ずべからず、安石、·惠卿等の建つる所の如き、天下の宋-哲宗皇帝-七六七 十八史略卷之七奏1害を爲し、先帝の本意に非ざるものは、當に焚を救ひ、溺を拯ふが如くなるべく、猶ほ及ばざるを恐る、況んや、太皇太后、母を以て子を改む、子、父を改むに非ざるをやと。衆議乃ち定まる。或ひと、光に謂つて曰く、章惇、呂惠卿の輩、他日、父子の議を以て、上に聞するあらば、朋黨の禍作らむと。光、起立拱手し、属聲して曰く.天、若し宋に祚すれば、必ず此事なからむと。安石、朝廷、其法を變ずるを聞く毎に、夷然として以て意となさず。助役を罷め、는差役を復するを聞くに及びて、愕然失聲して曰く、亦た罷めて此に至れるかと。良や久しうして曰く、この法、終に罷むべからず。安石、先帝と之を議する二年にして、乃ち行ふ、曲盡せざるなしと。章惇、韓鎭、罷む。王安石卒す王安石、卒す。安石、金陵に在つて、常に福建子と獨語す。惠卿を恨んでなり。惠卿、安石に叛く。唯だ章惇のみは、終始叛かず。安石、又常に曰く、新法の行はるるや、始終以て行ふべしとなす者始終以て不可となす者は曾子宣なり。は司馬君實なりと。呂公著、右僕射たり。文彥博、軍國重事たり程頤、崇政殿說書たり。蘇軾、翰林學士たり。呂惠卿鄧縮等を竄貶す。司馬光薨ず司馬光、相となつて八閱月にして薨ず太皇太后、之を哭して働す。上亦た感涕して己まず。太師溫國公を贈り、文正と證す。光、位に在るや、遼人、夏人の使來る時、必ず光の起居を問ふ。而宋-哲宗皇帝-奏 十八史略卷之七118して、遼人、其邊吏に敕して曰く、中國、司馬を相とす、切に事を生じて邊隙を開く勿れと。卒するに及びて、京師の民、市を罷め、其像を畫し、印して之を鬻ぎ、畫工富を致す者あり、葬るに及びて四方來會する者、之を哭して、其親戚を哭するが如し。光、嘗て、評支司る文公く玲其望に那馬ゝ正を眞職人家見四溫に玉となる千公は晁無各に語つて曰く、吾、人に過ぎたるなし、惟だ平生爲す所、未の年德稀りだ嘗て人に對して言ふべからざるものあらざるのみと。劉安世、光爲り溫の國如に一言以て終身之を行ふべきものを問ふ。光曰く、それ誠かと。安諸勝れにと贈ら世、其從つて入る所を問ふ。曰く、妄語せざるより入ると。諡足、勇に夫はる蘇軾程頤、同じく經筵に在り、軾諧謔を喜ぶ、而して、頤は邪智正たず嘲侮す。禮法を以て自ら持す。軾毎に之を光の薨ずるや、百官、頤かしている方に慶禮あり、事畢つて、往いて弔はむと欲す。可かずして曰を安徽義今たして能王通古克、く子、この日に於て哭すれば歌はず。或は曰く、歌へば哭せずとを安いはず。軾曰く、是れ枉死市の叔孫通、この禮を制するなりと。溫公な得るざなし宜頤、怒る。二人、遂に隙を成す。門人朱光庭賈易、言官たり、力めて軾を攻む。傅堯兪、王巖叟、呂陶等、相繼いで論列す。堯兪、巖叟は光庭を右け、陶は軾を右く。この時、元豐の大臣、散地に退さき、皆、怨を衡んで、骨に入り、陰に間隙を伺ふ。諸賢悟らず方に自ら黨を分つて相攻む。洛黨、川黨、朔黨あり。洛黨は、頤を以て領袖となし、光庭、易、羽翼たり。川黨は、軾を以て領袖となし、陶等羽翼たり。朔黨は、劉摯、王巖叟、劉安世を以て領袖と宋-哲宗皇帝-七 十八史略卷之七基おほいくばく5やまめなして、羽翼尤も衆し。未だ幾ならずして、頤罷めて復た召されしよくず。之を久しうして、軾亦た罷め、後、再び入り、三たび入り、ひさ皆、久しからずして出づ。りよこうちよしくうどうへいしやうぐんこくじりよたいばうはんじゆんじんさいうぼくや呂公著、司空同平章軍國事となり、呂大防、范純仁、左右僕射たじゆんじんちうえんっり純仁は、仲淹の子なり。公著、尋いで薨ず。ちかんやうぐんごしよこうさいかくあんしうてきかちうしや知漢陽軍吳處厚、言ふ。蔡確、安州に謫せらるるの日、夏中、車がいていのぼだいかんきせんかくしん蓋亭に登るの詩を作つて、臺諫を議訓すと。確を論じて已まず。新しうあんちりよたいばうりうしはんじゆんじんわうそんらおよろ州に安置す。呂大防、劉摯、范純仁、王存等以爲へらく、宜してれいすしちみちけいきよく嶺を過ぎて、死地に置かしむべからずと。純仁曰く、この路〓棘いかんわがさうまさまぬかおそ八十年、奈何ぞ之を開かむ。吾曹、政に免れざるを恐るるのみと。あらそだいかんかうしやうかくたう之を爭へども、得ず。臺諫、交章して、純仁の確に黨するを攻む。りうしうRTげんほう純仁、遂に罷む。劉摯、右僕射となる。大防、摯、元豐の黨人を引きうゑんてうていてつらつといて、以て舊怨を平らげむと欲す。之を調停といふ。蘇轍等、力め其不可を陳す。そのちんしやそしよううぼくやじゆんじんて、摯、罷む。蘇頌、右僕射たり。頌罷む。純仁、又、之に代る。ざんいうねんぐわつせんじんせいれつたいくわうたいごうほうのぞたい元祐八年九月宣仁聖烈太皇太后崩ず。崩ずるに臨み、上に對したいばうじゆんじんらいらうしんぼつごかならくわんかてうぎて、大防、純仁等に謂つて曰く、老身歿後、必ず官家を調戯する者よろきこうらしりぞあらむ。宜しく、之を聽くなかるべし。公等、亦た宜しく早く退くくわんかさいうべし。官家をして、別に一番の人を用ゐしめよと。左右を呼んで問しやはんたまこうらおの〓〓さふ、嘗て、社飯を賜ひ、出すや否やと。因つて曰く、公等各去つて宋-哲宗皇帝-書 十八史略卷之七七七四ししやはんきつめうねんしやはんらうしんしりやうこうまつりごと一匙の社飯を喫し、明年社飯の時、老身を思量せよと。后、政をてんかしようぢよちうげうしゆんぐわいかひしくん聽くこと九年、天下稱して女中の堯舜となし、外家に比せず。嗣君ようさうとし13を擁佐するの故を以て、二子一女、皆、疎んぜらる至公を以て、ぎよけんじやことんてうあつせいこうせいけい天下を御し、當世の賢者、畢く朝に集まる。君子の盛、後世、慶れきげんいうへいしやうしんそういときうそく曆、元祐を以て並稱す。神宗、兵を厭ふの後を承けて民と休息す。せいばんきしやうへんしやうきんけんゆるちうぞのぶぞく西蕃の鬼章、邊將の爲に擒獻せらる。釋して誅せず、以て其部屬をかミそのしゆへいじやうしゆつけんじゆんたせいみだしゆえうしばし招く。夏國、其主乗常卒し、乾順立つてより、政亂れ、主幼、屢へんかうはんしんきやうしんこれそのくんみんつみば邊に寇して、藩臣の禮を失ふ、皆、强臣之を爲し、其君民罪あるしだたうばつしのしよろに非ざるを以て、師を興して討伐するに忍びず、諸路に詔し、兵をげんそな嚴にして、自ら備ふるのみ。みづかにらうやうゐしゆりよたいぼうそむ上、始めて政を親らす。侍郞揚畏、首として、呂大防に叛き、自あとげんいうほうにふたいしやうじゆんら謂ふ。迹は元祐と雖も、心は熙豊に在りと。入對して、章惇を召章惇復活せうせいたいばうじゆんうぼくやさむことを乞ふ。明年、紹聖と改元す。大防、罷む惇右僕射たじゆんじんちんくわんあじゆんり。純仁、罷む。惇の來るや、道にして陳瓘に遇ふ惇素より、ことせいむ其名を聞く、獨り、共に載らむことを請ひ、訪ふに世務を以てす。くわんいはたとへへんちやう瓘曰く、請ふ、乘る所の舟を以て喩となさむ。偏重なれば、其れ行そのへんじゆんもくぜんるべけむや。或は左し或は右す。其偏は一なりと、惇默然たり。ひさしばくわうかんじやまさんくわん良や久しうして曰く、司馬光の姦邪、當に先づ辨すべき所なり。瓘いはしやうこうあやましうせいたひらうつ曰く、相公、誤れり。是れ猶ほ舟勢を平かにせむと欲して、左を移はたまさのぞみうしなし以て右に置くなり。果して然ちば將に天下の望を失はむとすと。宋-哲宗皇帝-七七五 十八史略卷之七美じゆんぜんことくきほうさげんいうち惇旣に至る。漸を以て、盡く熙豐の法を復し、元祐の人の罪を治きよじつしばくわうりよこうちよわうがんさうてうせんかんゐそんこはんする、虛日なし。司馬光、呂公著、王巖叟、趙瞻、韓維、孫固、范びやくろくそうゆしはかうらみなつひへんう)うば百祿、胡宗愈、司馬康等、旣に死する者は、皆追貶して贈を奪ひ、りよたいばうりうしそてつれうたうはんじゆんじんりうほうせいかんゐわうてきかんせん呂大防、劉摯、蘇轍、梁燾、范純仁、劉奉世、韓維、王覿、韓川、そんしやうりよたうはんじゆんれいてうくんしやくはちく りんはんじゆんすゐこうぶちうわうきん孫升、呂陶、范純禮、趙君錫、馬默、顧臨、范純粹、孔武仲、王欽しんりよきてつりよきじゆんえうめんごあんしわうひんちやうらいてうほしくわうてい臣、呂希哲、呂希純、姚動、吳安詩、王份、張耒晁補之、黄庭けんかえきていいしんくわんしゆくわうていそんかくてうせつしじゆんそ堅、賈易、程頤、秦觀、朱光庭、孫覺、趙高、李之純、李固、蘇しよくはんそうりうあんせいていけふらへんざんぶんげんはくひさ軾范祖禹、劉安世、鄭俠等、皆しきりに貶竄せらる。文彥博、久ちしたいしたいほせつえつくわうごうまうししく致仕す、降して、太子太保となし、節鉞を罷む。皇后孟氏は、せんへいちうぐうはいしやう太皇太后の選聘する所なり。中宮に居ること五年にして廢す。章じゆんさいべんつひはたいこうかうしにいひしゆし惇蔡卞、太皇太后を追廢せむことを請ふ。太后向氏、太妃朱氏のいきさとじゆんべんかたしかう泣いて諫むるに賴つて、上、悟る。惇〓、堅く施行を請ふ。上、けいらちんえいそうべうていそのそう怒つて曰く、卿等、朕が英宗の廟庭に入るを欲せざるかと。其奏をなげう地に抵つ。けんひりうしうぜいげんすうかうさくれいつひていめい賢妃劉氏を立てて后となす。右正言鄒浩、册禮を追停し、別に名ぞくえらかうのぞろくていしんしう族を選ばむことを乞ふ。詔して、浩は名を除き、勒停して新州に覊くわんみちそのともでんくわくすわかれのぞなみだくわく管す。浩、道に、其友田畫を過ぎ、·別に臨んで涕を出す。晝色をたゞいんもくかんしつ正しうして曰く、君をして、隱默して京師に宦たらしむるも、寒疾ああぜひとれいかいほかに遇うて、汗せざれば、五日に死せむ。豈に獨り嶺海の外のみ、能みづかはじまきく人を死せしめむや。願はくは、自ら沮む勿れ。士の當に爲すべき宋-哲宗皇帝-毛 十八史略卷之七夫所のもの、未だ此に止まらざるなりと。元符三年、上崩ず。在位十五年、改元するもの三。壽二十五。皇弟立つ。之を徽宗皇帝となす。【徽宗皇帝】名は佶、神宗の第十一子なり。初め端王に封ぜらる。哲宗、崩ず。欽聖憲肅皇太后向氏、宰執を召して、嗣を立てむことを議す。后、端王を立てむと欲す。章惇曰く、端王は浪子のみと。曾布、身長し。望み見れば、端王、旣に簾下に在り。叱して曰く章惇、太后の處分を聽けと。王、簾を出づ。惇、惶恐して措を失す。王、位に卽く、太后に請うて、權に同じく軍國の事を處分せしむ。范純仁等、二十餘人、並に收敍せらる。襲夫陳瓘、鄒浩、臺諫となる。韓忠彥、右僕射となる。琦の子なり。文彥博、司馬光等、三十三人の官を追復す。太后、簾を垂れて。半年にして、政を還す。章惇罷む。尋いで、竄せらる。韓忠彥、曾布、左右僕射たり。邢恕を貶す。蔡京、蔡下を貶す。下は、安石の婿なり。之より先、臺諫陳瓘任伯雨等、下を攻めて、其執政を罷む。京翰林承旨となる。瓘其日を視て瞬せざるを見て謂ふ、この人、必ず大に貴からむ、然れ宋-徵宗皇帝-七八九 十八史略卷之七さんそのくせいしんあへたいやうかうども、其區區たる精神を以て、敢て太陽に抗す他日志を得ば、必うれひくわんい人を射ば先ず天下の患をなさむと。瓘、人に語つて曰く、人を射ば先づ馬を射づ馬を射よぞくとりこわうとりこれんそせよ、賊を擒にせば先づ王を擒にせよと。連疏して之を攻むること、はなはつとけいぎよしちんじしやうらべん甚だ力む。京罷む。尋いで、又、御史陳次升等の言を以て、下とへん共に貶す。じやういもつほきほうせうじゆつそうふすこ上の意、專ら熙豐の政を紹述せむと欲す。而して、曾布は、微しほうげんいうりやうそんけんちうせいこくほく.熙豐、元祐を兩存するの意あり。故に建中靖國の初、嘗て、略しやうじゆんさいべんへんむねむかせいぼ章惇、蔡下の爲せし所を變ず。旣にして、布、上の旨を迎ふ。正じん·はくうこうこうばうちんくわんらてういせうじんおの〓たう人任伯雨、江公望、陳瓘等、朝に容れられず、小人各黨ありと雖かうてつしゆつにふいかうも、更迭出入、意向は同じく安石を祖とするのみ。れうしゆこうきそだうそうがうえんきてんそ殂す。道宗と號す。一〇年在遼主弘基、打女〇五西任遼紀四の至自十道一六宗孫延禧、立つ。天祚と號す。ぢよしんあだたちよしんほんみやうしゆりしんしゆくしんゐしゆぼつかい四一女眞の阿骨打立つ。女眞は、本名朱里眞、肅愼の遺種にして渤海べつぞくどしんかんいはいうろう立眞つの阿骨げんぎの別族なり。いは或は曰く、こつきつたう本姓は拏、にこくすゐまつかつ辰韓の後、三國に謂ゆる把婁元魏に謂ゆる勿吉、唐に謂ゆる黑水靺鞨なるもの、其地なりと。七ぶらくあひすたいちうしやうふた十二の部落あり。もと相統べず、太中祥符より以後、絕えて中國とせいぢよしんそのるゐなしげそのしうがんはん通ぜず。生女眞といふ者あり、其類猶ほ繁し。其曾を巖版といふ。まいやうかたいしゆうやうくわつ孫あり、楊哥太師といふ。遂に諸部に雄たり。或は曰く、楊割の先しらぎくわんがんしちよしんめあは新羅の人、完顏氏。女眞、之に妻はすに女を以てし、子二人を生らいつたやうくわつあくだむ。長を胡來といひ、三人に傳へて、楊割に至る。阿骨打は、其子ちんきたいしなりと。人と爲り、沈毅にして、大志あり。宋-徴宗皇帝-大 十八史略卷之七七八二建中靖國、一年にして、崇寧と改む。韓忠彥、罷む。再び司馬光等の官を追奪し、元祐の黨人を籍す。蔡京相とな曾布、罷む。蔡京、相となり。蔡下、政を執る。再び元祐の人をり太師とな貶竄し、姦黨の碑を立つ。京、崇寧に僕射となつてより、大觀、政 和重和を歷て、太師となる。嘗て、暫く罷められしも、輒ち復た入り、罷めらるるの日と雖も、實に國命を執る。其間、趙挺之、張商英相となり、嘗て、京と異なり。然れども位に在ること、各數月に過ぎず、或は一年にして罷む。何執中、鄭居中、劉正夫、余深の如きは、相位に在ること、或は久しく、或は淺く、居中、亦た京とけ異にして常に相排し、正夫亦た小異なりと雖も、然れども、京の權う寵に於て、損ずるなきなり。京の子攸の婦、宮禁に出入し、攸、遂に大に用ゐられ、父子權勢自ら相軋るに至る。上、攸を寵して、京の子弟親戚を尊び、滿朝、皆、其父子の黨なり。京、邪說を倡ふ、す以爲へらく、豐享豫大の運に當ると、專ら奢侈を以て、上に勸め、土木の功を窮極し、京城を廣め、大内を修め、盛に內苑を廣め、九鼎を鑄、鼎成るや、九州の水土を以て鼎中に納る。北方の寶鼎を奉安するに及びて、忽ち、水外に漏る。大最樂を作る。玉〓神霄宮き帝〓主道君皇を作り、道士林靈素を崇信し、上を策して〓主道君皇帝となし、延福宮を作り、保和殿を作り、萬歲山を作り、朱働を以て、花石綱を領せしむ。奇花異木怪石珍禽奇獸、遠く致さざるなく、民間の一花宋-徹宗皇帝-七八三 十八史略卷之七七八四めうすなはくわすうびんつひやせき一木の妙、輒ち上供せしめ、一花、數千緡を費し、一日、數萬緡をさんりんかうしんびろくぐんなこんがくかいめい費すものもあり。二十年間、山林高深、麋鹿群を成す。良嶽と改名そんきよやてんしゆしせいれんまいさいとうじとうす。又、村居野店酒肆靑帑を其聞に作り、毎歲冬至の後、卽ち燈をはなほしひまゝいんはくまげんせう放ち、縱に飮博せしめ、之を先づ元宵を賞すといふ。せいぼうしばしあらうふるけつくわいいたがひおほむ時に、星芒屢ば見はれ、地震ひ、河決し、怪異迭に出で、率ね以けいらふそうかんろくだしやううんあらひかくそらおほ·て常となす。京等誣奏す。甘露降り、祥雲現はれ、飛鶴空を蔽ひ、しくわしさうこんがくしよしうれんりさうくわふ評蔡京三臘竹に紫花を生じ、芝草良嶽に產し、及び諸州連理の木、明治三六五一起證據書籍、てが條せ稱し月月きよしやくやくぼたんらうげつらいさやゐ渠芍藥牡丹ありと。臘月の雷、三月の雪を指して、皆、瑞と稱し指趙る表瑞へうがて表賀するに至る。味噌?汁ないじどうくわんれうしせいしせいもつぱおうほうつと內侍童貫、梁師成、事を用ゆ。師成、專ら應奉を務め、以て上の한いえんくんしやくるさうち山トどうくわんヘん風吹め屋のと二し心を蠱し、勢焔熏灼し、威福を中に竊む。童貫、專ら邊を開くを務と般さいけいふあひへうりいふべしめ、事を外に生ず。皆蔡京父子と相表裏す。ぢよしんあだちようくわぐわんねんぼじゆっ女良の打帝と上野原因子女眞の阿骨打、重和元年戊戌を以て、帝と稱す。初め、遼の天同家誌けいしやうせんらんきんしよくとしごとめいようかいとうせいぢよしんもとす祚刑賞僭濫、禽色に荒み、歲毎に、名鷹海東靑を女眞に索む。女そのりんとうほくせんとうこのとりえけんその眞、其隣東北の五國と戰鬪し、乃ち能く此禽を獲て、以て獻じ、其ぜうたあそむこんどうこうとうねいこうしうおとしいれう擾に勝へず。阿骨打、遂に叛き、混同江東の寧江州を陷る。遼將ちうけいじやうけいちやうしゆんせいれうろを遣し、之を討つ。敗る。中京、上京、長春西遼、四路の兵をならびらいりうかろふかたいはい起して、並に進む。獨り漆流河の一路、深く入つて大敗し、三路、しりぞぢよしんこと〓〓れうとうかいとりこじゆくちよしんてつききすまおほ皆、退く。女眞、悉く遼の東海を虜にす。熟女眞の鐵騎益す衆し。てんそしんせいまかちじようぼつかいれうやう天祚、親征して、復た大に敗る。女眞、勝に乘じて、渤海、遼陽、宋-徽宗皇帝-七八五 十八史略卷之七七八六五十四州を〓せ、又遼西に度つて、五州を降す。阿骨打、遂に號を建てて旻と改名し、國を大金と號す。明年、遼の上京を破る。高麗、來つて、醫を求む。上、二醫を遣して、行かしむ。還つて奏す、實は醫を求むるに非ず、乃ち、彼中國將に女眞と契丹を圖らむとするを知り、謂ふ、苟くも、契丹を存すれば、猶ほ中國の爲に邊を捍ぐに足らむ、女眞は狼虎、交るべからず、宜しく、早く之が備をなすべしと。上、之を聞いて樂まず。上、嘗て都市酒肆妓館に微行す。正字曹輔、上言し、彬州に編管せらる。ぶ童貫、崇寧の間より、王韶の子と兵を領して、湟州を復し、責に邊事を措置するに任ず。旣にして、部州、廓州を復す。貫、遂に節を建てて宣撫となり、旣に志を西邊に得るや、遂に謂ふ、北邊も亦た圖るべしと。政和の初、乃ち自ら請うて、使を奉じて、遼國を覘ふ燕人馬植といふ者あり、燕を滅すの策を陳ず。貫挾んで以えて歸り、姓名を趙良嗣と改む。燕を復するの議、遂に起る。政和の末、漢人海に浮んで來るあり、具に女眞、遼を攻むる事を言ふ。重和の春、乃ち蔡京、童貫の議を用ゐて、馬政を遣し、海道より阿骨打の居る所、阿芝川、淶流河に至らしめ、與に、共に、遼を攻めむことを議す。阿骨打、遂に使を遣して來らしむ。宣和の初、京に至る京、貫に詔して、夾攻燕を取るの意を以てし、軍校呼慶を差し宋-徴宗皇帝-七八七 十八史略卷之七奏かいだうとしわうほしやうて、其使を送らしめ、海道より國に歸る。この歲、王黼相となり、つとれうさんけい力めて遼を攻むるの策を賛す。まきんし及び呼慶、復た金使と共に來る。時りやうしつかはゆやくきんに、阿骨打上京に在り。遂に良嗣を遣して往かしめ、約すらく金くれうちうけほんてうえんけいさいへいれう國は遼の中京を取り、本朝は燕京を取らむ。歲幣は遼に與ふるの數りやうしいはえんけいたいあはの如くせむと。良嗣曰く、燕京一帶は、西京を併せて是れなりと。きんしゆさつりやうしちよしん金主、へいちしようりん亦た之を許し、ほあむし札を以て良嗣に付し、なんへいはくかうけふこう期するに、女眞の兵は平地松林より古北に趣き、南兵は白溝より夾攻するを以てす。良嗣はせいましくわうこくしよちひしくげん歸る。馬政、復た子擴と共に、國書を持し、往いて、彼此の兵、關すていいくばくきんしを過ぐるを得ざるを訂す。ま未だ幾ならずして、金使、復た來る。きたこくしよそのつかひ又國書を以て、わいなん就いて、其使に付して國に歸らしむ。時に、淮南まさせうあんっ山東の宋江あひったうおこそうこう招安に就く京西、河北、江南、相繼いで、盜起る。山東の宋江、方に招安に就ぼくかうはうらふせつぐんおとしいちうとためふるどうくわんく睦寇方臘、しきりに、浙軍を陷れ、中都爲に震ふ童貫、始めはうらふたひほくじて、方臘を平らげて、北事作る。きんじんれうわたおもむせおとしい金人、師を悉くして、遼を渡り、中京に趨いて之を攻め陷る。中もとけいこくしようていくわんそうおの〓〓京は、故の奚國なり。遂に兵を引いて、松亭關に至り、宋と各くわんとじ關を過ぎざるの約あるを以て止まり、兵を引いて、其西よりして過れうしゆすでさきんぜんぼうまさ遼主、さきに已に引いて避く。或は言ふ、金の前鋒、將に至られうしゆしんきやうすみやかうんちうはしけふざんいむとすと。遼主、震驚して、亟に雲中に奔り、夾山に入る。時に、えんわうじゆんえんせうかんさいいう燕王淳、燕を守る。蕭韓、淳を立てて主となす。宋の童貫、蔡攸、ひきはくかうはんそんせうかんむか師を帥ゐて、東路は白溝に至り、西路は范村に至る。蕭韓、迎へ戰宋-徽宗皇帝-九九 十八史略卷之七七九〇甚だ力む。つて、宋師、敗れて退く。耶律淳、死す。宋師、再擧す。遼の涿州の將 郭藥師、常勝軍を領して、來り降る。宋兵五十萬、進んで、盧溝河に駐まる蕭韓、之を拒ぐ。藥師、間道より燕を襲ふ。幹、還り救うて死闘し、藥師、屢ば敗れ、わづかに身をくわん以て、免れて、遁れ還り盧溝の師、遂に潰ゆ。貫攸、功なくして、罪を獲むことを懼る。時に金主、奉聖州に在り、乃ち客を遣ほはして金主に之を圖るを禱む。金主、三道に分つて兵を進め、遂に居庸關に入る。燕金に降る。金使、來つて言ふ、燕京は、金兵を以て攻下す。其地は宋に與へ、租稅は、當に以て金に輸すべしと。宋使趙良嗣、往いて之を議し、歲幣を許すこと、契丹の如くし、奮數の外、更に百萬を以て租稅に代へて、併せて雲中の地を求む。金リい人わづかに燕京、涿、易、檀、順景、薊の六州を以て、來り歸す。貫攸、燕に入る。燕の金帛子女職官民戶は、金人席卷して東す。得る所は、空城のみ。貫、攸歸り、王安中を以て燕山府に知たらしめ、詹度、郭藥師、同知たり。ちよ!星あり、月の如く、徐徐として南行して落つ。光人物を照し、月と異なるなし。神保觀を修す。其神、都人、素より之を畏る。傾城の男女、土を負うて以て獻じ、名づけて、獻土といふ。又、鬼使を飾作し、土を納るるを催す者あり。上、亦た微服して、之を觀る。後數日、旨あ宋-徽宗皇帝-·究 十八史略卷之七七九二きんつて禁ず。り、しかとうせんせいちふるでんもんえうどうらんしう京師、河東、ぼつにふ陝西、地震ふ。さんかばくべう宮中の殿門搖動して、且つ聲あり。蘭州の草木、きんこくじやうくわくきうしつ沒入し、山下の麥苗、きつたんきうれい乃ち山上に在り。けつさいざん金國、城郭宮室なし、しやうがくとうけいげききく契丹の舊禮を用ゐ、結綵山に如いて倡樂しゆうがくをなし、擊鞠の戯、ぢよすうにん鬭雞、かぐみ中國と同じ。でんぼ但だ衆樂の後に於て、舞女數人を飾り、るゐ兩手に鏡を持たしめ、みなばつしや電母に類す。其國茫然、皆、麦まさたいをくすうけんえい舍して以て居る。是に至つて、ことんななら方に大屋數千間を營して、盡く中國の爲す所に做ふ。災異疊見すりやうけいかせつみちさいいでふけんとじやうせいくわ兩京河浙の路、はらまたほうらくろう災異疊見す。しゆほしゆし都城に靑菓を賣る男子あり、孕んで子を生む。そのつまとし又豐樂樓の酒保朱氏あり、たちましぜん其妻年五十、忽ち髭髯を生ず、えんどぢよにうし長さ六七寸、宛として一男子なり。詔して、度して女道士となす。かほくさんとうたうおこれんさいきやうくわうゆひさいきふ河北、山東、盜起る連歲凶荒、民、楡皮を食ふ、野菜給せず、あひくらきみんならびちやうせんしゆう相食ふに至る。饑民並に起つて、盜をなす。張仙といふ者あり、衆まんちやうてきかうたくざんしゆうまんじよまんものあ十萬、張迪の衆五萬、高托山の衆三十萬、自餘二三萬の者、勝げてはか計るべからず。きんしゆたいそたいせいぶげんくわうていおとうと阿骨打殂す金主、帝と稱す。六月にして殂す。太祖大聖武元皇帝と號す。弟ごきつばいせいかいめいえんざんちえきしうきんはくわん吳乞買、立つ。晟と改名す。燕山の地、易州の西北は乃ち金坡關、しやうへいきよようくわんじゆんしうこほくくわんけいしうしよう昌平の西は乃ち居庸關、順州の北は乃ち古北關、景州の北は乃ち松ていくわんゆくわんきんじんらいろ亭關、平州の東は乃ち險關、險關の東は乃ち金人の來路なり。凡そすうくわんばんかんかぎえんきやうたもこの數關は、天、蕃漢を限る。之を得れば、燕境保つべし。然れど宋-徽宗皇帝-六三 十八史略卷之七古いいも、關內の地、平、樂營の三州は、後唐、契丹阿保機に陷れられしより、營、灤を以て平に隷して、平州路となす。燕を得て、平州くわんないを得ざれば、關內の地、蕃漢雜處して、燕保ち難しとなす。遼の張穀、平州を守る。金、旣に人を遣して穀を招く。穀曰く、契丹、凡そ八路、今特だ平州存するのみ、敢て異志あらむやと。旣にして平州を以て南附す。朱、遽に之を納る。趙良嗣、力めて爭ふ、以爲必ず金兵を招かむと。へらく、金人、謀して知る。卽ち平州を襲う之を破る。て、宋の詔札を得たり。之より曲を歸し、檄を累ね、穀を取らむとす。己むを得ずして、王安中に命じて、之を縊つて、其首を國送す。未だ幾ならずして、金の太子斡離不、旣に平州路よこり 將に燕に入らむとす。宋、方に且つ人を遣し、密に天祚を誘うて來り降らしめ、童貫を以て兩河燕山路を宣撫せしめ、將に天祚を迎へむとす。金人、方に退く。天祚、陰夾山に入らむとするも得べからず。是に至つて、衆を領して南に出づ、遂に金人に敗られて、は評(雜誌時に擒に就く。契丹は、阿保機より天祚に至るまで、九世にして亡ぶ。に二立口腔炎時に宣和七年乙巳の歲なり。この冬、金の斡離不、粘罕、道を分つて南す。斡離不、燕山を陷る。郭藥師之に降る。金兵、長驅して進む。郭藥師、爲に前驅す。童貫、太原より逃れ歸る。粘罕、太原を圍む。太原の帥張孝純、1歎じて曰く、平時、童太師、多少の威重を作す、乃ち畏怯すること宋-徹宗皇帝-七九五 十八史略卷之七奏さえんなんめんぼく此の如し。身、大臣となつて、難に死する能はず、何の面目あつてかうじゆんくわん天下の士を見むと。さくねそんよくきた孝純み冀景を以て關を守らしむ。きんじんちやうかうじゆんいは知朔寧府孫翊來り救ふ。兵、二千に滿たず、金人と城下に戰ふ。張孝純曰く、賊あ、くわんさつちうつく旣に近きに在り、敢て門を開かず。觀察、忠を盡して國に報ずよくいはうらむまべし。翊曰く、但だ恨らくは兵少きのみと。乃ち復た引いて戰ふ。はじてきよく金人大に阻む。あ、くだ再び兵を益す。わうほカ、敵する能はず。翊、死す。一騎の肯て降るなし。時に、王黼、先つこと一年、旣に罷めらる。而しはくじちうりはうげんならびしやうきんへいきた李邦彥、じ白時中、ちうて、並に相たり。皆、鄙夫なり。金兵來る。時中たしゆつほん。きくたないぜん惟だ出奔の策を建つるのみ。上、內禪す。在位二十六年。改元するけんちうせいこくすうねいたいくわんせいくわちようくわせんくわもの六、曰く建中靖國、曰く崇寧、大觀、政和、重和宣和太子きんそうくわうてい立つ、之を欽宗皇帝となす。くわんとうきうしつとくさいけいどうくわんはいみ【欽宗皇帝】名は桓、東宮に在つて失德なし。蔡京、童貫の輩、咸はじかどうえうな之を憚り、動搖せむと欲するも、不可なり。是に至つて、位に卽がくせいちんとうらけつじやうしよさいけいどうくわんわうほれうしく大學生陳東等、闕に伏して上書し、蔡京、童貫、王黼、梁師せいげんしゆめんぜん成、李彥、朱動の六賊を誅して、以て天下に謝せむを乞ふ。彥は、こんくわつひやくしやうはたううらみかほくけいろ民田を根括するを以て、百姓を破蕩し、怨を河北、京の東、西三路むすめんわせきかうしよざいさうどううらみに結ぶものなり。動は、花石綱を以て、所在騒動して、怨を東南にせ、かうぐわんねんしゆほめんげんざん結ぶものなり。靖康元年、首として、鶴動彥を竄し、尋いで、皆、之を殺す。ぎよたふのぼざみことのりわうべうニ狐あり、御榻に升つて坐す。詔して、狐王廟を毀たしむ。宋-欽宗皇帝-老君 十八史略卷之七奏上皇應天府に奔る。李綱李綱を以て行營使となし、城守の策を定めしむ。元祐の黨籍を除き、范仲淹、司馬光等に官を追贈す。老麵線自由、罷む。張邦昌、相となる春正月、健康、京師に抵る。之より先、朝廷、李鄴を遣して、げ和を求む。斡離不、鄴を携へて、以て京城を攻む。克たず。乃ち王汭を遣し、鄴と偕に來らしむ。邦彥等、皆和を主とす。惟だ綱は、戰はむと欲す。上、邦彥の計を是とし、鄭望之を遣して、出でて使せしむ。未だ至らずして、王〓に遇ひ、與に倶に入つて見ゆ。又李稅を遣して、出でて使せしむ。稅、又金使と偕に來る。金人、犒師の金五百萬兩、銀五千萬兩、牛馬萬頭、表段百萬匹、中山、河間、原太三鎭の地二十餘郡を割くを求め、且つ宰相親王を質となさむと欲す。張邦昌をして、康王に副として、其營に如かしむ。金國の太子、康王と同じく射る。連發三矢、皆、筈に中る。金人謂ふ、是れ將家の子、親王に非ずと。歸らしめて、更めて、肅王を請うて質となす。种師道等、諸路の勤王の兵至る。師道、奏す、京城は、 周囘八十里、城の高さ數十丈、粟、數年を支ふ。宜しく、城內と寨を割して拒守し、困を俟つて之れ擊つべしと。綱亦た奏す、金、)5孤軍を以て、深く入る、虎の檻に投ずるが如く、共に、一旦の力を角すべからず、縱ち歸らしめて、之を擊たば、必勝の計ならむと。宋-欽宗皇帝-七九九 十八史略卷之七八〇〇評る和國之上、之を然りとす。而して、李邦彥、吳敏等、專ら和を主とす。議誤しる巳を定|魔ま汝るがの議時論論一ならず。虜をして、汝が議論定まるの時を待てば、我、旣に河むのに待議河てら渡我あをばを渡るの譏あらしむるを致す。未だ幾ならずして、統制官姚平仲、宵に金營を攻む。克たず。上、大に恐懼し、行營を廢し、李綱を罷闕に伏しめ、以て金人に謝す。大學生陳東、及び都人數萬、て、復えた綱を用ゐむことを乞ふ。旨を得て、右丞に復し、守禦使に充つ。衆乃ち散ず。金使、復た來る。乃ち三鎭を割くの詔書を以て、使を遣して、持して往かしむ。時に在京の金を括して、わづかに二十餘萬兩、銀四百餘萬兩を得たり。藏蓄、旣に空し。金人、京城を圍むこと、凡そ三十三日、地を割くの詔を得、金幣數足るを俟たずカ。して退く。种師道、河に臨んで、之を要擊せむことを請ふ。綱、亦た以爲へらく、彼の兵六萬にして、我が勤王の師は二十餘萬、其半ば渡るを縱るして、之を擊たば、必ず勝たむと。邦彥等、從はず。惟だ三鎭に詔して、尙ほ堅守して割かざらしむ。京師、圍を受くる時、梁師成、旣に誅せらる。是に至つて、蔡京死す蔡京竄所にを儋州に竄す。x潭に至つて死す。年八十。蔡攸萬安軍に竄せらる。尋いで、詔あり、所在に卽いて之を斬る。童貫、亦た遠竄せられ、追うて、南雄に斬らる。李邦彥、罷む。張邦昌、吳敏、並に相たり。邦昌、罷む。徐處七、相たり。處仁、敏、罷む。唐恪、相たり。恪、罷む。何桌、相宋-欽宗皇帝-八〇一 十八史略卷之七八〇二たり。上皇、京師に歸る。數月にして、金兵復た至る。斡離不、東路より眞定を陷れ、長驅して先づ京師に抵る。粘罕、西路より、隆德、太原府、汾澤州、平定軍、平陽府、河南府、河陽府、鄭州、懷州を陷れ、京師に抵る。張叔夜等、兵を統べて、闕に赴く。唐恪、耿南仲、專ら和議を主とす。曰く、今、百姓困匱、數十萬を城下に養へば、何を以て、之に給せむと。乃ち各道の兵を止めて動くを得るなからしむ。京師は、十一月、圍を受けしより、凡そ四十日卒郭京といふ者あり、言ふ、能く六甲の法を用ゐて、粘罕、斡離不をこと〓〓生擒せむと。盡く守禦の人をして、城を下らしめ、獨り、城樓の上に坐し、親兵數百を以て、自ら衞る。俄頃にして、金人鼓譟して進む。京、衆を給いて曰く、須らく自ら城を下つて法を作すべしと。い因つて、餘兵を引いて、南に遁る。虜兵、城に登る者、わづかに四人衆皆、披靡して大に潰ゆ。上、城の陷るを聞き、慟哭して曰く、朕、种師道の言を用ゐず、以て是に至ると。時に、師道、前一月に卒す。護駕の人、猶ほ萬餘あり、馬、亦た數千。張叔夜、連戰四日、其貴將一人を斬り、駕を護し、圍を突いて出でむと欲す。評不動熱敷設國議優遂に柔上、和議に惑うて定らず。士卒號哭して散ず。虜使劉晏、上に請うには、て城を出でしむ。都民、爭ひ入り、變して之を食ふ。何桌、都民を率ゐて、巷戰せむと欲す。聞く者、爭ひ奮ふ。金人、之に因つ宋-欽宗皇帝-八〇三 十八史略卷之七八〇四て、兵を歛めて下らず。惟だ地を割き金幣を責め和議するを以て辭ら、となし、以て戰守の計を誤らしむ。侍郞耿南仲、力めて、和を議するを主とす。上、以て然りとなし、遂に其計に墮つ。二元帥、上皇と相見むことを請ふ。上曰く、上皇、驚憂して、既に病む。朕當に自ら往くべしと。遂に靑城に如いて、之を見、二宿して返る。明年春、復た上に請うて、郊に出でしめ、續いて、逼つて、上皇を出さしむ。張叔夜、諫めて曰く、今上一たび出でて歸らず、陛下、再び往くべからず。臣、當に精兵を率勵し、駕を護して、以て出づ芝んべし。たとひ、虜騎追ひ至るも、臣決して、死戰せむ。或は僥倖すべし。若し、天、祚せざれば、封疆に死せむ。猶ほ、生きながら夷狄に陷らざらむかと。上皇、藥を飮まむと欲す。范瓊に奪はる。上皇に逼つて、宮を出でしむ。皇后太子、親王、帝姫、皇族前後三千餘人、悉く軍前に赴く。城中の子女金帛寶玩車服器用圖書百物、括索して、公私上下、共に空し。然る後に、金主の詔書を宣して(童食るのは北二異姓を選立し、遂に前太宰張 邦昌を册して、楚帝となし、宋の二に歸帝を以て、北歸す。金人、汴に在ること、凡そ七閱月にして去る。初め、至る時、張叔夜、嘗て力戰す。餘は、皆、和を主とし、以て1)吳〓、莫儔、王時雍、徐秉哲、范瓊等に至るまで、往來して、上皇i以下を逼逐して、郊に出でしめ、議して、異姓を擧ぐ。上の靑城に在るに方つて、逼つて御服を易へしむ。時に、惟だ李若水、抱持し宋-欽宗皇帝-八〇五 十八史略卷之七八〇六評て大呼奮罵す。金人、して麻刀を以て、其頤を裂き、景人を人亡國其舌を斬つて、然眼むる後に、之を梟す。相謂つて曰く、大遼破れし時、義に死する者十數。今、南朝、惟だ李侍郞一人のみと。然れども、一時憤死する者甚だ衆し。金人、知らざるなり。吳革、衆に結んで、二帝を劫還せむと欲す。范瓊に誘殺せらる。何桌、孫傳、張叔夜、秦檜、司馬朴、皆爭論して、趙氏を存立せむを乞ふ。金人、之を驅つて、上に生活〆地in從つて、北行せしむ。叔夜、粟を食はず、惟だ湯を飮み、界河を過竹篙灣產業ぎて死す。桌、燕に至り、亦た食はずして死す。京城危急の時に當とつて、四方勤王の師、至る者、皆詔して、止まつて進まざらしめ和議を妨げむことを恐る。金人の退くに訖るまで、未だ嘗て兵を交へず。上、在位二年ならずして國破る。改元して、靖康といふ。弟康王、南京に立つ、之を高宗皇帝となす。南宋【高宗皇帝】名は構、徽宗の第九子なり。母は韋氏。徽宗、吳越の武肅錢王、室に入るを夢み、旣にして構を生む。康王に封ぜらる靖康の初、嘗て出でて、斡離不の軍に使す。この冬、斡離不、再び10 來るや、詔を奉じて、再び出でて使す。耿南仲、偕に行きて、相州に至る。民、道を遮つて、往くことなきを請ひ、守臣宗澤、之を止む。相州の守、蠟書を以て言ふ、金人騎を遣して、康王の所在を宋-欽宗皇帝-南宋-高宗皇帝-八〇七 十八史略卷之七八〇八か物色すと。乃ち相州に囘り、南仲と共に榜を揭げて、兵を召して勤さ王す。詔あり、康王を以て大元帥となし、汪伯彥、宗澤を副となし兵を領して、入つて衞らしむ。王伯彥の議に從ひ北門を出でて、河を渡つて、大名に至る京師陷るを聞く。澤兵を進めて、京城に向はむを請ふ。伯彥、王に請ふ、兵を東平に移して、身を安地に措かむと。南仲、亦た以て然りとなす。遂に東に去る。知河間府黃さ、潜善、亦た兵を領して至り、進んで濟州に屯して探報す、二帝北行し、張邦昌、金に立てられ、國を楚と號すと。この日風霾、日に薄暈あり、百官慘怛、邦昌亦た憂色あり、惟だ王時雍、范瓊等、欣然得るあるが如し。邦昌、位に在ること三十三日。御史馬紳書でを邦昌に貽り、請ふ、速に行いて、正を改め、服を易へて歸省せよと遂に元祐孟太后を迎へて政を聽かしむ。太后、康王を迎立す。詔して、中外に〓ぐ、曰ふあり、漢家の厄十世、光武の中興に宜しく獻公の子九人、惟だ重耳尙ほ在りと。使を遣し、表を奉じ、及び孟后の詔を以て來る。邦昌、繼いで至り、地に伏し、慟哭して死を請ふ。使臣、河北より竄げ來り、道君の手札を進む。曰く、便ち眞に卽いて、來つて、父母を救ふべしと。王、働哭して拜受し、遂に應天府に趨いて、位に卽き、元を建炎と改む。和を主とし國を誤るを以て、耿南仲を罷竄し、李綱を召して相となし、宗澤を以て開ほ封に知として留守となす。綱至る、邊防軍政、略ぼ〓あり。而し南宋-高宗皇帝-八〇九 千八史略卷之七八一〇伯彥て、潜善、復た和を主とし、亟に祈請使を遣す。綱相たること、數十日にして罷め、潜善、伯彥、相となり、首として、上書の人、陳東、歐陽徹を殺し、策を決して、東南に幸し、復た兩河を經制するの意なし。この冬、車駕、遂に揚州に至る。金人、三道に岐れて、南に來る。二年春、金人、汴に至り、宗澤に敗らる。澤き群盜を招撫し、四方の義士を募り、百餘萬を合し、糧半歲を支ふ。表疏、數十を連ね、上に請うて、汁に還らしむ。潜善、其成功を忌〇四、〇一〇、に評南の復んで、中より之を沮む。憂憤、疽背に發して沒す。終に臨んで、3.4(4)き折なすり惜一語の家事に及ぶなく、惟だ河を過ぎむと連呼するもの三たび、都人之が爲に號働し、聞く者、皆、相弔うて、涕を出す。三年春。金人將に揚州に至らむとす。上、報を得て亟に出づ。二相方に堂に會食す。吏呼んで曰く、駕行くと。乃ち戎服して南走張浚す。揚州を囘望すれば、烟焔、既に天に漲る。呂頤浩、張浚、上に〓瓜州に追及し、小舟を得て、以て渡り、鎭江に至り、遂に杭州に如く潜善、伯彥を罷め、朱勝非を以て相となす。御營の將、苗傅、劉正彥、亂を作し、上に請うて、位を皇子專に禪らしむ、未だ三歲ならず。孟太后、政を聽く、呂頤浩、張浚、師を帥ゐて、勤王す。張俊韓世忠、前軍たり、張俊、之を冀く。劉光世、遊擊して殿となる勝非、二免に說いて、亟に反正せしめ、孟居を尊んで、隆祐皇太后となす。勝非、罷む。呂頤浩、相となる。二兒、走る。世忠、之を南宋-高宗皇帝-全 十八史略卷之七八一二え追ひ、皆誅に伏す。上、建康に如く。俊を以て、川陝宣撫處置使となす。隆祐太后南昌に如く。元朮が粘牢に請うて、將に江浙を犯さむとするが故なり。杜充、右僕射となり、建康を守る。上、杭州に如く杭を昇せて臨安府となす。臨安より浙東に如く。金人、兩道にき、分れ、一軍は、〓黄より江を渡る。劉光世江州に在り、以爲らく斬黄の小盜なりと、王德を遣して、之を興國軍に拒がしめ、始めて、金人たるを知る。金入、大冶より洪撫、建昌臨江、吉州に趨き、隆祐太后を追ひて及ばず。遂に袁潭、〓南、澧州を陷れ、乃ち石首より北に渡つて去る。一軍は、滌和より江東の馬家渡に向ひ、江をつうばんやうはうがいしたが濟つて、建康を陷る杜充及び守臣、皆、兀朮に降る。通判楊邦又從ははず、血を刺して裾に書して曰く、寧ろ趙氏の鬼となるも、他邦の臣とならずと。衆擁して、兀朮に見えしめ、誘諭累日輒ち叱罵し、卒に大に罵つて殺さる。兀朮、長驅して、杭州を陷る。上、去つて、旣に七日。兀朮、進んで、越州を陷る。四年春、明州を陷る。時に、上、旣に台州章安鎭に次す。金人、船を以て、昌國縣を犯し、追うて、上の舟を襲はむと欲す。提領海舟張公祐、大船を率いて、之を擊散す。乃ち退く。兵を囘して、秀、平江、常州を陷れ、鎭江に至る。韓世忠、之を邀へ海舟を以て與に戰ふこと數十合、俘獲多し。卒を金山龍王廟に伏せて、幾んど、兀朮を獲むとす。黄うや〓天蕩に相持す。兀朮、道を假らむことを求め、甚だ恭し。許さず。南宋-高宗皇帝-八一三 十八史略卷之七八一四建康より北歸せむと欲す。去るを得ず。或ひと〓へて、冶城西南隅の蘆場の地に於て、大渠を鑿たしめ、一夕にして成る。次早、舟を出して、建康に趨く。世忠、大に驚いて、之を尾擊す。一、、風なきに値うて、海舟動く能はず。兀朮、乃ち其舟を率ゐて、江を出でて北に去る。疾きこと、飛ぶが如く、火箭を以て海舟を射る、世忠、岳飛軍亂れて奔り還る。兀朮、乃ち北に遁るるを得たり。統制岳飛、邀へ擊つて、之を六合に敗る。初め、張浚、西行す。上、浚に命じ、三年にして後に、師を用ゐしむ。是に至つて、撻辣、兀朮、皆、淮東に在り。浚聞く、〓朮(3)躊躇するも、必ず再び東南を犯さむとすと。議して、師を出し、攻取して以て其勢を分たむとす。士大夫及び諸將、皆以て不可となす。浚、策を決し、檄を粘罕に移して、罪を問ひ、吳〓を遣して、長安に入らしむ。金人、遂に兀朮を調し、京西より星馳して、陝西に赴き、婁室と合す。浚、六路の兵を合して、富平に至る。婁室、兵を擁して、驟に至る。鐵騎、直に環慶路趙哲の軍を擊つ。佗路、援けず。哲、所部を離る。諸軍退く。金遂に勝に乘じて前む。浚、趙哲を斬る。諸路の兵、皆散じ去る。陝西大に震ふ。浚軍を興州に駐め、劉子羽を遣して、諸將の在る所を訪はしめ、各、所部を引p.いて、來會せしむ。人心粗ば安し。吳玠、走つて、大散關東の和尙た原を保つ。南宋-高宗皇帝-八一五 十八史略卷之七八一六上、海道より、囘つて越州に駐まる。呂頤浩、罷む。范宗尹、相秦檜二心となる。秦檜、南に歸つて、行在に赴く。檜、北に在り、撻辣に依つて任用せられ、撻辣の南侵するや、檜其軍に參謀たり。嘗て、爲に檄を草し、山東の州郡を下す。全家を挈へ小舟を浮べて、漣水軍に抵る。自ら逃れ歸るといふも、朝士多く之を疑ふ。檜言ふ、天下の無事を欲せば、須らく是れ、南は自ら南、北は自ら北たるべしと。上に乞うて、書を撻辣に致し、以て好を求めしむ。其言は、皆、撻辣の意なり。劉豫帝と稱この歲、劉豫、帝と稱す。豫は景州の人、建炎戊申に於て、濟南すの守を以て金に降り、之が用をなし、東平府に知たるを得、兼ねてほ上河南に節制たり。粘罕、金主に白し、邦昌の故事に循つて、豫を立てて、國を大齊と號し、後に都を汴に遷す。粘罕、旣に關中の地を得、悉く割いて以て豫に與ふ。紹興元年、張俊に命じて、江淮の盜李成を討たしむ。成、江淮上の六七州に據り、兵數萬を連ね、東南を席卷するの勢あり。尋いで江筠、臨江を陷る。後、其軍を擊つて、三郡を復す。成、遁れて齊に降る。こと〓〓ざ張浚、盡く陝西の地を失ひ、惟だ階、成、岷鳳洮の五郡、及び鳳翔府の和尙原、隴州の方山原を餘すのみ。浚退いて圓州を保す。統制曲端、威名あり。浚、さきに譜を用ゐて其兵柄を罷め、南宋-高宗皇帝-八一七 十八史略卷之七八一八ばんしうあんちたん上だへん萬州に安置す。西人、端に倚つて、重きをなす。貶せらるるに及びぐんじやうよろこきようしうミて、軍情悅ばず。是に至つて、又、恭州の獄に送つて之を殺す。みならやうこんせいじんますましゆんひ士大夫軍民、皆帳恨す。西人益す是を以て、浚を非とす。しよくごかいおとうとりんくわせうげん金人、兩道に分れて、蜀に向ふ。吳玠、弟璘と大に之を和尙原やぶえらせんくわつくわんりやうだうに敗り、又將を選んで、之を箭筈關に敗る。兩道、皆、入る能はず。はんそうゐんしんくわいしやうげんさい范宗尹、罷めらる。秦檜、昌言して曰く、我に二策あり、以て天しようどうつひいうしやうりよいかう下を聳動すべしと。遂に右相となり、呂頤浩、左相となる。こつじゆつしよだうおよちよしんふれうはうけいけんゐ兀朮、諸道及び女眞の兵を會して、浮梁を寶雞縣に造り、渭を渡かいりんつて、和尙原を攻む。玠璘三日、三十餘戰、大に之を破る。〓りうしまぬかとうえんざん朮、流矢に中り、わづかに身を以て免れ、始めて、河東より燕山に歸る。せうこうねんえつしうりんあんかへげんしやしんくわい紹興三年。上、越州より臨安に還る。言者、秦檜、專ら和議を主くわいふくゑんとそか、くわいしゆしようひとして、恢復の遠圖を沮止するを効す。檜罷む。朱勝非、右相となる。さんりかつほうしやうせいげん紹興三年。春金の撒離曷、鳳翔、長安より東に去ると聲言し、しやうおかんいんたゞちきんしやうおもむごかいきふ實は商於より漢陰に出で、直に金商に趣く。吳玠、急に兵を率ゐてげうふうれいやくかんたうめぐそのうしろかいにはか之を饒風嶺に扼す。金人、閒道より、遠つて其後に出づ。玠、遽にせんにんくわんかつこうげんおとしいちりうしうしりぞ仙人關に還る。金人、遂に進んで興元を陷る知府劉子羽、退いせんけんたんどくさんさんりかつしよくつかへごて、三泉縣、潭毒山を保つ。撒離曷、食盡く、乃ち引いて還る。吳南宋-高宗皇帝-八一九 十八史略卷之七八二〇璘粮なきを以て、塞を拔き、和尙原を棄つ。金人、之を得たり。か玠、其必ず深く入るを度り、乃ち兵を嚴にして、以て待つ兀朮果して、撒離曷と共に、來つて仙人關を犯す。玠璘、共に戰ふこのがでと七日、金人支ふる能はず、宵に遁る。玖、伏を設けて、其歸路を扼し、又之を敗る。この擧、金人、意を決して、蜀に入らむとす。卒に志を得ず。この歲、浚又、洮岷關外を失ひ、惟だ階成秦鳳を存するのみ。浚、召し還され、尋いで、劉子羽と共に、皆貶竄こと〓〓せらる。浚の是行、もと關陝より、中原を取らむと欲し、乃ち盡く關陜を喪うて歸り、賴に玠璘を得て蜀を保するのみ。13えい.齊李成を遣し、攻めて、鄧襄、隨郢唐州、信陽軍等を陷える。岳飛、隨郢を復す。成、襄陽を棄てて遁る。呂頤浩、朱勝非、相繼いで罷められ、趙鼎、右相となる。齊金兵を以て、道を分つて南侵す。上、詔して親征し、出でて平江に如く張浚を以て、樞密院に知たらしむ。之より先、浚、北方既に西顧の憂なく、必ず力を併せて東南を窺はむことを極言す。上、其言を思うて、遂に之を召す。浚、至り、請うて、岳飛を遣して、江を渡つて淮西に入らしめ、以て北兵の淮東に在る者を牽制せむとす之に從ふ。上、浚に命じて、師を江上に視しむ。將士、浚の來るを見て、勇氣皆倍す。時に、韓世忠、揚州に停まり、さきに已に大に金兵を大儀鎭に敗り、其將撻也を擒にし、解元、成閔、共南宋-高宗皇帝-〓〓 十八史略卷之七八二二しようしうたゝかせふきうよそんきじゆしゆんわうとくに承州に戰ひ、十三捷す。仇悆孫暉は之を壽春に敗り、王德は之をぢよしうがくひぎうくわうらろしうだつらつこつ滁州に敗り、岳飛は牛皐等を遣して、之を廬州に攻めしむ。撻辣元じゆつせいちうやくか朮世忠に扼せられて、江の渡るべからざるを知つて、引いて還る。せいりうりんりうげいしちようのが齊の劉麟、劉猊、輜重を棄てて遁れ去る。せうこうねんへいこうりんあんかへてうていちやうしゆんしやう紹興五年。上、平江より臨安に還る。趙鼎、張浚、左右の相たぐんはととくり。浚、兼ねて、諸所の軍馬を都督す。尋いで、復た浚に命じて、しゆんちんこうかんせいちう師を江上に視しむ。浚、鎭江に至り、韓世忠を召し、兵を擧げて、そしうたむろけんかうたいへいしう移つて楚州に屯せしむ。浚、建康に至り、張俊の軍を撫し、太平州りうくわうせいようやくふんがくひに至つて、劉光世の軍を撫す。踊躍して奮を思はざるなし。岳飛をかほくけいせいせうたうし以て、河北京西招討使となす。けんえんかうじゆつちうふれうひとしやうしやうていしう之より先、建炎庚戌中、武陵の人鍾相といふ者あり、鼎州に起せんそがうていれいたんしんがくきやうたうくり、僭して、楚と號す。鼎、澧潭、辰岳の境、皆、盜區なり。しやうやぶきんそのとやうえうどうてい上相敗れて擒に就く。其徒に揚工といふ者あり、洞庭に據り、遂にげきかうおそ劇寇をなす。官軍、陸より之を襲へば湖に入り、水より之を攻むれきしのぼがいひらいしゆんば岸に登る。曰く、能く我を害するあらば除だ是れ飛來のみと。浚じやうりうまえうふくしんがいまさ謂ふ、上流先づ去らざれば、ム、腹心の害をなし、將に以て國を立しゆんこなんがくひつるなからむとすと。請うて、自ら行く。浚、湖南に至り、岳飛のくわいきふそのすゐさいえうきうしゆくおもむ兵、至るに會し、急に其水寨を攻む、云窮蹙、水に赴いて死す。遂てんりやうわいしよしやうばうしうに平らぐ。浚、湖南より轉じて、兩淮に由り諸將を會し、防秋を議まみし、乃ち入つて見ゆ。南宋-高宗皇帝-八二三 十八史略卷之七八二四西紀一一三五金主晟、殂す。文烈と證す。初め、旻、晟と約す、兄終はれば弟立ち、然る後に、旻の子に復歸せむと。故に、最己の子宗盤を捨てて、旻の長孫易囉馬を立てて諳版字極烈となす。儲副の位なり曷囉馬、名は亶、是に至つて、遂に位に卽く。宗盤、旻の別子及び粘罕と、皆立つを爭うて得ず。粘罕、時に已に兵柄を失し、悟室と並に相たり。粘罕、食を絕ち、縱飮して死す。蒙國、金に叛く、蒙蒙國金に叛は、女眞の北に在り、唐に在つては、蒙兀部たり、亦た蒙骨斯と號す紹興六年、張浚、復た出でて、師を視る。上、臨安より平江に如せいじんく齊人、道を分つて入寇す。初め、劉豫、粘罕に因つて、立つを得、粘罕を奉ずるを知るのみ、他帥を蔑視す。是に及びて、兵を金に請ふ宗盤、之を沮み、豫が自ら行くを聽るし、然も、兀朮を遣し、兵を黎陽に提げて、以て釁を觀せしむ。劉光世、時に廬州に駐まる以爲へらく、守り難しと張俊、泗州に駐まり、亦た兵を益すを請ふ。衆情淘懼す。張浚、書を以て、俊及び光世を戒め進擊あつて退保なからしむ。趙鼎等、上に請うて、親書して、浚に付し、師を退けて南に還り、江を保たむと欲す。浚力爭す、以爲へらく、必勝を保すべし、一たび退けば大事去らむと。光世、旣に廬州を捨てて退く。浚卽ち星馳して、釆石に至り、人を遣して、其衆を喩さしめ、若し一人の江を渡るあらば、卽ち斬つて以て徇へむ南宋-高宗皇帝-八二五 十八史略卷之七会えといひ、仍つて光世を督し、復た廬州に還らしむ。光世、已むを得ず、乃ち兵を駐め、王德、酈瓊を遣し、三たび齊兵を霍丘、正陽及び前羊市に敗る。時に劉猊、淮東に至り、韓世忠の兵に阻まれてあす、敢て進まず、乃ち淮西より渡る。浚張俊の統制官楊沂中を遣して、濠州に至らしめ、俊と兵を合す。沂中、猊の前鋒を敗る。猊兵を引いて、劉麟に合肥に會して後に進まむと欲す。沂中共に藕塘ずに遇うて合戰す。猊大に敗る。麟猊の敗を聞き、風を望んで潰え去る。光世、勝に乘じて、追ひ襲うて、亦た捷つ。北方、大に恐評北悲敵虜宋し地とのむにな天終り子るて俘る。上曰く、敵に克つの功、皆、右相より出づと。趙鼎遂に罷む。し上皇、五年四月を以て殂し、七年に至つて、凶問、始めて至る。壽五十四。二帝、建炎の初より、燕山より中京に如く。古しへの奚國霤郡なり。燕山の北千里に在り。次年、又中京より韓州に移る。中京の東北千五百里に在り。後二年、又韓州より五國城に移る。金國都する所の東北千里に在り。上皇終る。 評爭ふ亡國の宿將功を岳飛、湖北京西宣撫使となる。時に淮東宣撫使韓世忠、江東宣撫兆也使張俊、皆、久しく、旣に功を立つ。而して、飛は列將を以て拔起soす。世忠、俊、不平なり。飛己を屈して、之に下る。二人皆、答けんげぎへず。飛が楊云を破るに及び、俊、益す之を忌む。是に於て、嫌隙日に深し。上、自ら平江に如き、建康に如く。飛因つて、駕に扈して、以て行き、入つて見え、疏して恢復を論ず。秦檜、時に樞密南宋-高宗皇帝-八二七 十八史略卷之七会副使たり、和議を主とし、飛の成功を忌んで、之を沮む。飛內艱てりうくわうせいを以て去る。上、力めて、之を起す。劉光世、言者、其師を退け、幾んど事を誤るを論ずるを以て、兵柄を罷む。張浚、王德を以て其를軍を統べしむ。德酈瓊と等夷にして相下らず、大に課いで、督府督府都를に詣つて、德を訴ふ。浚乃ち德を召して還らしめ、統制となし、而して、呂社を以て督府參謀となし、其軍を領せしむ。社簡倨にして、將士の情に通ぜず。瓊等の反側を聞き、密に之を罷めむを乞ふ。瓊叛き、社を執へ所部數萬を以て齊に降る。張浚、ま遂に言を以て罷む。浚の德と社とを用ゆる、岳飛、嘗て、其不可を言ふ、滲聽かず、故に破る。趙鼎、復た相たり。金人、劉豫の國を立つる能はざるを以て、之を廢す。齊、立つこと、八歲にして亡ぶ。紹興八年。上、建康より臨安に還る。秦檜復た相たり趙鼎罷む。詔して講和を議す。建炎より以來、歲として、使を遣して直に尊號を去り。其正朔を奉じ、藩臣に比するを願はざるなし。金人從はず。使者往くも、多く拘囚せらる。後、數ば南侵すれども、利あらず。江南の圖るべからざるを知り、然る後に、檜を遣して、閒を上爲さしむ。豫が廢せらるるに至つて、和議乃ち決す。金使張通古來評胡上銓(坦庵)疏措る編修官胡銓、上疏す。以爲へらく、陛下、一度膝を屈すれば、辭痛し懦む夫を記載と〓〓祖宗廟社の靈、盡く夷狄に汚され、祖宗の赤子は盡く左袵となり、南宋-高宗皇帝-八二九 十八史略卷之七八三〇てうていさいしつばいしんいじさいらうあいづく朝廷の宰執、皆、陪臣とならむ。異時豺狼厭くなき、安んぞ、我にくはぶれいりうよごと加ふるに無禮を以てする、劉豫の如くならざるを知らむ。夫れ三むちけんしふつぜん尺の童子は、無知なるも、犬豕を指して拜せしむれば、怫然としてだうてうてうあひひきけんしどうちはぢ怒らむ。堂々たる天朝、相率ゐて、犬豕を拜せば、嘗て童稚の羞なほうしわうりんほくしいうちこうなんせつゆからむや。奉使王倫、北使を誘致し、江南を招諭するを以て、名としんせふしつせいそんきんしんくわいふくわいなし、我を臣妾にせむと欲す。執政孫近、秦檜に附會す。臣、義とくわいらいたゞりんくわいきんかうべきして檜等と共に天を戴かず。乞ふ、倫檜近、三人の頭を斬り、かうがいかんせもんざいしおこ之を藁街に竿し、然る後に其使を覊し、無禮を責めて問罪の師を興おのづかばいさむ。三軍の士、戰はずして、氣、自ら倍せむ。然らざわば、臣、とうかいふいづくせうてうていをくわつ東海を蹈んで死するあらむのみ。寧んぞ、能く小朝廷に處つて活をしよたてまつへんざん求めむやと。書上る。しきりに貶竄せらる。せんせいかなんそうか、紹興九年。金人、先づ陝西、河南の地を以て、宋に歸す。朝廷、くわんれうしんえつちかかうべんけいりうしゆちよ官を遣し、陵寢に謁し、地界を交し、汁京留守を除す。せいかんじやうりせいほせいほるゐせいばんぞくとじゆんけんし靑澗城の李世輔、來り歸す。世輔の先は累世蕃族都巡檢使たり。せいつかつねあひなそう父子、嘗て、齊に仕ふと雖も、毎に相泣いて、宋に歸するを得ざるうらせいせいほどうしうらかんさんを恨む。齊、世輔を用ゐて、同州に知たらしむ。嘗て、閒を得て撒りかつせいきんてうきんへいはな離局を生擒して朝に歸せむと欲す。金兵、來り追ふ。之を縱つて、せいかはしみなりく西夏に奔らしむ。其父母及び二子一孫、皆戮せらる。是に至つて、かかせんせいそう兵を夏に乞ひ、以て復る。旣に出でて、陝西、旣に宋に還りしを知かひゐらうらいはけんちうり.乃ち夏兵を部して來る。上、慰勞して賜資を加へ、名を顯忠と南宋-高宗皇帝-八三一 十八史略卷之七八三二賜ふ。金國、謀反の者あり。事、宗盤等に連る。皆、坐して誅せらる。左副元帥撻辣は、實に楊割の長子なり、金主亶の大父行なり。粘罕の死せしより、宗戚大臣、皆懼る。撻辣、悟室と共に、尋いで亦た謀叛を以て、先後して誅せらる。金、宋と和するは、實に撻辣之を主とす。撻辣、既に死す。是に於て、右副元帥兀朮、左相たり。乃ち密に其主に奏するに。宋、未だ歲貢正朔誓表册命を議せず、然も、撻辣、擅に地を割くを許すを以てす。遂に盟を渝ふ。評秦檜の反紹興十年金兵四道に分れて、南侵す。劉錡、大に兀朮を順昌を開始ナッ人し理府に破る。檜急に上に啓して、錡を召し還さしむ。岳飛、大に之城に敗り、幾んど元朮を擒にせむとす。飛.朱仙鎭に至る。せる ふつふきを〓はをてを排切ず排商て切檜急に上に啓して、飛を召し還さしむ。韓世忠、金人を淮陽の珈む口に敗る。兀朮、汴に還り、兩河の軍と蕃部とを檢し、以て再擧を謀る。十一年。兀朮、廬州を陷れ、和州を侵す。劉錡、楊沂中、之を彙皐に敗る。檜又上に啓して、亟に師を班さしむ。沂中、瓜州渡より行在に返る。張俊、宣化より建康に歸る。劉錡、釆石より太平州に歸る。宣撫司を罷め、其兵を以て、御前に隷す。師を出す時に遇へば、臨時、旨を取る韓世忠、張俊を以て樞密使となし、岳飛、副使たり。飛世忠、尋いで罷む。兀朮、書を以て、檜に抵して曰南宋-高宗皇帝-八三三 十八史略卷之七合評第二爾朝夕和を以て請ふ、)のと行名南日詩滿試叙しも鑑言のは 然るに、岳飛方に河北の圖をなす、必ず發財)なデ飛を殺せば、乃ち可ならむと。張俊、又飛の罪を構成し、逮して獄難今頗すし、そ の きに赴かしむ。檜、奏して、飛及び張憲岳雲を誅して、和議遂に諧こと〓〓章太后及び黴宗の梓宮を宋に歸す。其所作ひ、金人惟だ盡く許す所の陝西河南の地を悔ゆるのみならず、なほ唐郵等の州を割いて金に入れしめ、淮の中流を盡して界となし、西、商秦の半を割き、和尙、眼雨歇)方山の原を棄てしむ。仰時に、宣撫使吳玠、卒して四年、胡世將、之·に代り、力めて和尙原等の地を以て棄つべからずとなす。兀朮、必了莫路土)少等雲和月ず之を欲す。遂に大散關を以て界となす。閑)年頭均空悲時に、金國、屢ば內叛あり、宗感大臣、切、靖康恥相繼いで誅夷せらる。且認定下さい臣つ、北に蒙兀あり。自ら大蒙と號し、帝と稱し、元と改む。連歲兵ヘ鹹皮發賣活長車蘭山何時を用ゆるも、卒に討つ能はずして之と和し。南侵又逞しうするを得)志飢缺壯餐胡虜肉す。而して、宋の猛將精兵、方に日に盛なり。恢復實に難からず。笑談渴拾待飲舊從匈)秦檜に沮まる。有志の士、扼腕して歎息す。奴血兀朮死せむとするや、收闕山頭河朝天曰く、南朝の軍勢、强きこと甚し、宜しく、益す和好を加へて、十數年を俟つべく、南軍衰老、然る後に、之を圖れと。張浚、趙鼎、皆、遠竄せられ、鼎、海外に卒す。當時、異議の人、貶竄殆んど盡き、復た敢て兵を言ふ者なし。金主亮立つ紹興十九年、金主亶、其下に弑せられ、共に丞相岐王亮を立つ、西紀一、一二九曼の孫なり。南宋-高宗皇帝-八三五 十八史略卷之七八三六紹興二十年。金主亮、上京一隅に僻在するを以て燕京に城づき、燕京析津府を徒つて之に居り、改めて大興府となし、中都と號し、中京會寧府を以て北京となし、汴京開封府を以て南京となし、而して、舊の遼陽府を東京となし、大同府を西京となすこと故の如く、蕃漢の地を分つて十四路となし、總管府を置く。評秦二十五年。秦檜、卒す。檜政を秉ること十八年、終に臨んでに如好泰 大阪 のににを至讀へりみ這邊猶ほ大獄を起し、己に異なる者を殺さむと欲す。張浚、李光、胡寅堪汚穢ず等五十三人。幸に檜病んで、旣に書する能はずして、免るるを得たり沈該、万俟高、湯思退、陳康伯、朱倬、相繼いで相となるM凶問至る。三十一年。欽宗の去年冬を以て、五國城に殂す、年六十。評金主亮の金主亮、汴京を修す。蓋し、南侵を經營すること幾年。嘗て、使静岡べあ絕壯詞山湖移有同里しりす大想第上兵別 )車津田五箇所の來るに因つて、密に畫工を藏し、臨安の山水城市宮室を圖繪して雄一立百提峰馬萬封)以て歸らしめ、詩を其上に題し、馬を立つ吳山の第一峯の句あり。ふ〓橫豪「吳西この秋、徒つて汴に居り、遂に盟を渝へて兵を擧ぐ。其母、諫む。いのを渾とる空之を殺して、以て衆を威す。兵百萬と號す。淮西の諸郡を陷る。江淮浙西制置使劉錡、王權を遣して、敵を迎ふ。權逗留す。旣にしか、て退き、還つて采石に奔る。報至る。中外大に震ひ、海に沈んで敵を避くるの議あり。陳康伯、可かず。葉義問に命じて師を視しむ。中書舍人虞允文、參謀軍事たり。金人、揚州を陷れて瓜州に趨く。南宋-高宗皇帝-八三七 十八史略卷之七〓劉錡、將を遣して、之を早角林に敗る。詔あり、錡をして、軍を還さしめ、專ら江上を防ぐ。金主、采石より渡らむと欲す。朝廷李顯忠を以て、權に代らしむ。然も、未だ至らず。金人の舟來る。虞允文、亟に水軍を督し、海鰍船を以て、迎へ擊つて死闘す。金人渡る能はず。時に、亮內變あるを聞き、又、舟師、海道より來る者は、旣に、李寶に焚かれ、然も、〓鄂の諸軍方に上流よりして下るを聞き、忿ること甚し。乃ち揚州に囘り、諸將を召して約す、三日必ず濟らむ、期を過ぐれば、盡く殺さむと。諸將遂に亮を弑す。亮の引いて南するに方つて、渤海の一軍、叛き去る。旣にして、葛王褒を遼陽に擁立し、亮の死を聞いて、遂に譙京に入り、亶を追諡して閔宗となし、亮を廢して海陵王となし、諡して煬といふ。褻は晟の孫なり。後に雍と改名す。之より先、數年、張浚、嘗て言ふ、金必ず盟を渝へむと。時相湯思退等、大に愕いて、以て狂となす。是に至つて、浚、起つて建康に判たり。上、臨安より建康に如く浚、迎へて謁す。衞士、其復た用ゐらるるを見て、手を以て額とに加ふ。三十二年。上、臨安に還る。金使來る。使を遣して、之に報ぜしな、め、復た和議を尋ぬ。夏、六月上、內禪し、退いて德壽宮に居る、在位三十六年。改元するもの二、曰く、建炎、紹興。皇太子立つ、之を孝宗皇帝となす。南宋-高宗皇帝-八三九 十八史略卷之七、송【孝宗皇帝】初名は伯琮、宗室追封は秀王諡は安僖、子偁の子、太祖七世の孫なり。母張氏、夢に、崔府君、一羊を擁して、來つて曰く之を以て識となせと。高宗の康王たるや、出でて使して、磁州に至る。磁人夢む、崔府君出でて迎ふと。張氏、この歲、丁未を以伯琮を秀州に生む。4て、嘉禾の瑞あり。小字は羊。高宗、太子專を喪ひ、命じて、太祖の後を選ばしむ。伯琮を得て、宮中に鞠ひ、名を瑗と賜ふ。偶ま、崔府君と同じ。音安郡王に封ぜらる。秦檜、其15英明を疾むも、害する能はざるなり。竟に立つて、皇子となり、名を瑋と賜ひ、楚王に封ぜらる。紹興の末、名を春と賜ふ。立てて、皇太子となし、尋いで、詔して位に卽かしむ。上皇を尊奉して、光堯壽聖皇帝といひ、皇后吳氏を壽聖太上皇后となす。史浩を以て右相となし、張浚、樞密使たり、師を淮に督し、遂にある北伐す。浩、其議に與らず、力め丐うて罷む。李顯忠、濠州より出でて、靈壁に趨いて、金兵を敗る。邵宏淵、泗州より出でて、虹縣n.を圍み、金將を降し、進んで宿州に克つ。金の副元帥紇石烈志寧、兵を率ゐて至る。顯忠、共に戰ひ、連日決せず。諜、報ず、金人大に河南の兵を興して、將に至り會せむとすと。宏淵、顯忠と相能くせず、然も、顯忠、又士を犒はず、士憤怨し、遂に潰えて歸る。金人、亦た解いて去る。上、恢復に銳意なるも、此役、利あらず、乃ち復た和を議す。陳康伯、罷む。湯思退、張浚、左右の相とな南宋-孝宗皇帝-〓 十八史略卷之七八四二としみいくばくる。浚、尙ほ都督を以て、師を視る。數月にして罷め、未だ幾なら張浚卒すしゆつしゆんゆるはくしゆかはしうしんわぎずして卒す。浚、國に許すの心、白首まで渝らず、終身、和議を主るめい中原を復し國ちうげんこくちさ評製作所にとせず、遺命して、其二子に付するに、耻を雪ぐ能はの風校舎のせんじんはかさう然れども局ずんぱ、先人の墓に祔葬するを得ずといふを以てす。量狭少たうしたいひそかりよあとげんしや湯思退、密に虜を召し和を議するの跡あり。言者、論じて罷む。ざんかうはくミ之を竄す、道に死す。康伯、復た相たり。和議成る。之より先、國上たいそうくんし書、大宋は大の字を去り、皇帝は皇の字を去り、書は君臣の禮を用さいはいとうきんしいたりつきよざゐ、再拜等の語あり。金使至れば、起立して金主の起居を問ひ、坐くだほうしおのづかはいしんくわんしふくを降つて書を受く。奉使の者は、自ら陪臣に同じく、館使の屬、そのらいしじやうそうくわうてい皆、其來使を拜す。是に至つて、始めて上を稱して宋皇帝となし、たしゆくてつさいこうさいへいかず止だ叔姪の國となし、歲貢を易へて歳幣となし、歳幣は十萬の數をげんちかいせうこうよれいわうつひ減じ、地界は紹興の時の如くす。然も、餘禮は、往々竟に盡く改むしうしんこれいきどほしばしかなんれうしんかたる能はず。上、終身之を憤る。この後、屢ば河南陵寢の地を還し、じゆしよきんじんつひけだふくしう受書の禮を改めむを請ふ。金人、卒に從はず。蓋し、上、復讐に志たすちんかうはくしゆつありと雖も、然も能く其志を輔くる者なし。陳康伯卒せしより後、きようくわつえふぐうきしやうふつちんしゆんけいぐいんぶんれうこくかそうくわいえふ共适葉〓、魏杞、蔣芾陳俊卿、虞允文、梁克家、曾懷、葉かうしかうてうゆうわうわいしうひつだいりうせいあひつしやう衡史浩、趙雄、王淮、周必大、留正、相繼いで相となる。惟だ、しゆんけいいんぶんならびけいえい俊卿、允文、並に相たるの時、北方を經營するの議あり。然も、俊持重して卒にぢちようそのきよたん卿允文と合はず。允文の爲す所、人、亦た其虛誕をつひかうひつ議し、竟に效あらず。浩の如きは、尤も兵を用ゆるを主とせず。必南宋-孝宗皇帝-八四三 十八史略卷之七八四四朱子大は、廟堂に從容として、善類、引進する所多し。朱熹、淳熙十五て、年を以て召さる必大、相たるの時なり。初め、程頤、徽宗の世に卒し、其徒楊時、欽宗、光堯の時に在つて、皆擢んでらる。趙鼎、頤を識るに及ばずと雖も、然も、其學を主張す。之を惡む者、楊時を以て還魂となし、鼎を尊魂となし、胡安國を强魂となす。其後、又、尹焞あり、召されて經筵に入る。焞は、蓋し頤が晩年の高弟な道學り。士大夫、理氏の學を名づけて道學といひ、時好の貴ぶ所、或は此名を冐して以て進み、時好同じからざれば、亦た多く此名を以て世に擠せらる。延平の李侗、學を楊時の門人羅從彥に受く。而しすて、熹又學を伺に受く。胡銓、嘗て、熹を光堯に薦む。熹、至らc.ず。顯道以來、屢ば召せども起たず、特旨、秩を奉祠に改め、召して館に入るれども就かず。後に、南康の守となる。浙東荒る。熹を提擧に除し、往いて之を救はしむ。闕を過ぐるや、嘗て一たび入つて事を奏す。是に至つて、召對して兵部郞に除す。侍郎林稟と合は朱熹封事をず卽ち奉祠して去るさ進む數月、復た召す。熹辭し、唯だ封事を進めて、天下の大本と今日の急務とを言ふ。大本は陛下の心に在り、急務は、太子を輔翼し、大臣を選任し、綱維を振擧し、風俗を變化民力を愛養し、し、軍政を修明す。六者是れなりと。熹の同志に廣bin漢の張栻といふ者あり、魏忠獻公浚の子なり。其學、之を胡宏に得張栻曰く-爲にする所たり。宏は安國の子なり。械の言に曰く、爲にする所あつて爲すも南宋-孝宗皇帝-八四五 十八史略卷之七〓のは利なり、爲にする所なくして爲すものは義なりと。學者、誦し믄た第は一あしすなすものだり、て名言となし、杖を稱して南軒先生といふ。呂祖謙といふ者あり、る所は義なりとて爲すもの公著の五世、希哲の四世の孫なり。亦た程氏の學を祖とす。學者呂東葉稱して東萊先生となす。皆、之に先つこと數年にして卒す。惟だ熹は、學問老いて彌よ篤く、學者、之を師宗し、稱して晦菴先生といふ、四方、其人を仰ぐこと泰山北斗の如し。南使、北に至れば、陸象山金人必ず朱先生安くに在るかを問ふ。同時に臨川の陸九淵、世に象山先生と號する者あり。熹と太極圖說を爭論し、且つ謂ふ、學に悟入ありと。熹が訓解に從事するを議つて、意見頗る異を立つといふ上、久しく子に與ふるの意あり。會ま、光堯皇帝、壽八十二に;して崩ず。乃ち詔して內禪す。上、德壽に奉ずる二十六年、孝養備に至る。旣に升遐して、哀慕尤も切、日に几筵に奉ずるを得ざるを以て、退いて、喪制を終らむと欲し、移つて重華宮に居る。在位二十八年。金の世宗雍、此歲を以て殂す。其嗣允恭、先つて卒す。雍在位二十孫環立つ雍賢明仁恕、號して、北方の小堯舜となす。故に金の九年西一紀自-六至大定三十年、宋の隆興、乾道、淳熙と相終始し、九南北、皆、休息を得、彼此乘ずべきの釁なく、上の志を齎して、大に爲すある能はざるもの、此を以てなり。太子立つ、之を光宗皇帝となす。【光宗皇帝】名は惇、年四十四、東宮より禪を受く。太上皇帝を尊南宋-孝宗皇帝-光宗皇帝-八四七 十八史略卷之七八四八んで、至尊壽皇聖帝となす。周必大、罷む。留正、葛邲、左右の相となる。改元して紹熙といふ。皇后李氏は、大將李道の女なり。悍にして妬、亟ば太子嘉王を立てて儲嗣となさむと欲し、內宴に因つさて、壽皇に請ふ。許さず。后不遜、壽皇怒語あり、后、之を街み、き)乃ち誣罔を造り、壽皇廢立の意ありといふ。上、驚恐して疑疾を得るを致す。後宮、暴死の者あるを聞くに及びて、上、震懼す。疾愈よ甚しく、復た重華宮を過ぎず、兩載に近くして、始めて、一たび至る。壽皇、彌よ懌ばず、上、亦た疾を視ること能はず、壽皇、重華に居て、五歲を踰え、壽六十八にして崩ず。上、喪を執る能はず、一日忽ち地に仆る。中外危懼す。太皇太后、嘉王を立つ、之を寧宗皇帝となす。【寧宗皇帝】名は擴、初め嘉王に封ぜらる。孝宗崩じ、光宗疾病趙汝愚なり知樞密院事趙汝愚、密に翼戴の議を建て、憲聖慈烈吳太皇太后、宗社を以て憂となすを知り、將に事を白せむとして、其人を難んず。知閣門事韓侂胄といふ者あり、鋳の會孫にして、太皇の女弟の子なり。因つて、入つて白す。太皇簾を垂れて、嘉王を引き、入つて位に卽かしめ、代つて高宗の喪を執らしむ。中外危疑する者、乃ち定まる。光宗、壽康宮に居り、後六年にして崩ず、壽五十四。上の嘉王たるや、黃裳、翊善たり、講說開導す。光宗、嘗て宣諭してす曰く、嘉王、學に進むは、皆、卿の力なり。裳曰く、若し德に進み南宋-寧宗皇帝-ニ元 十八史略卷之七八五〇業を修め古先哲王に追蹤せむと欲せば、須らく、天下第一の人を尋ねて、乃ち可なるべしと。誰となすを問ふや、朱熹を以て對ふ。彭龜年、繼いで、宮僚となり、講に因つて、毎に熹の說に及ぶ。上心を傾くること、旣に久し。烹光宗の時に在つて、漳州に守た り、後、潭州に守たり、湖南安撫となる上の登極に至つて、首として、召されて、待制兼侍講に除せらる。素、未だ至らず、旣に近習事を用ゐ御筆指揮して、皆漸あるを聞き、深く之を憂ふ留正部活鱼功あるを負んで、不罷む、汝愚、相となる。韓侂冑、自ら定策の次の賞を希ふ。汝愚、肯て驟に除せず、遂に怨む。汝愚、政を爲す、方に務めて、善類を引進し、僥倖を裁抑す、小人滋す悅ばず、相與に共に之を排す。朱熹、旣に至る。上疏して、侘冑に忤ふ、朝に在ること、四十六日にして罷む。言者、以爲へらく、熹、宮祠の命ありと遠近相弔ひ、天下の大老、之を去らば、誰か去るを欲せざらせいじんこと〓〓む、若し正人盡く去らば、何を以て國を爲めむと。汝愚、袖よりF內批を還して、且つ諫め、且つ拜すれども、聽かず。侘胄、併せにて、汝愚を逐はむと欲す。然も其名を難かる、或ひと、之に〓へて曰く、彼は宗姓、誣ふるに、社稷を危うするを以てせば、一網にして盡きむと。侘胄、之を然りとす。汝愚、相位に在ること、數月불にして罷め、しきりに貶竄せられ、藥を服して死す。侘冑、李沐、こ;何澹、劉德秀、胡紘、沈繼相等を用ゐて、鷹犬となし、善類を摶擊南宋-寧宗皇帝-八五一 十八史略卷之七八五二のこはうきねんりうくわうそしやうえいえふてきぢよぎちんいうかいごして遺すなく、彭龜年劉光祖、章穎、葉適、徐誼、沈有開、吳れふくわういうくわたとうじつふりやうろうやくていしよくりしやうやうかんりよそ獵黃由、黃度、鄧驅、陳傅良、樓鑰、鄭湜、李祥楊簡、呂祖けんそうないうちうこうこあんせいそんげんとくゑんせうちんぶわうきはんちうほ儉曾三聘、游仲鴻、項安世、孫元德、袁變、陳武、汪達、范仲黼、くわうかうせんたいじんらへんちくあたうじんせきき黃瀬、詹體仁等貶逐、勝げて紀すべからず。黨人の姓名を籍記ぎがくしゆきしゆし、目して僞學といひ、朱熹を以て首となし、籍に在る者數十人。さいげんていきるゐざだうしうへんくわんだいがくせいやうくわうちうら蔡元定、熹の累に坐して、道州に編管せられ、大學生楊宏中等六にんじやうしよたうじんりうせい人亦た上書して黨人を救ふに坐して編管せらる。留正、嘗て黨いんようちゆつざんゆたんれいけいしやしんほあひ人を引用するを以て、亦た黝竄せらる。俞端禮京鐘、謝深甫、相しやう繼いで、相となるしゆきけいげんかうしんおくたうきんげん慶元庚申を以て卒す。わい朱熹卒す朱熹、時に僞學の黨禁、嚴なりと雖も、會さうりよそたいぎがくこ葬する者、亦た數千人。呂祖泰、上書して、僞學を雪ぐを論じ、乞たくちうおよそのたうそしたんしノろんちんじきやうとひちきしうひつうて侘胄及び其黨蘇師旦、周筠を誅し、陳自强の徒を罷逐し、周必大を召用せうようまさはハせむを乞ひ、然らざれば、事、將に測られざらむとすといちうぐわいおほいおどろめんきんしうまふ書出づ。中外大に駭く。杖一百、面を刺さずして欽州に配せざたくかうき55らる。必大、亦た坐して、謫降せらる。熹沒して、年を踰えて、たうきんさみづかせうしよ黨禁稍や解く。諸人、或は官を復し、自ら便にす。然れども、消へんくわよふうごくくづ變化の餘、風俗、既に大に壞る。しやしんほちんじきやうたくちうたいしへいげんぐんわう謝深甫、罷む。陳自强、相となる。侂冑、太師平原郡王を以て、ぐんこくへいしやうけんかたむせいふくぎよじようよ軍國の事を平章し、權人主を傾け、威上下を制し、服御、乘輿土木、どきんえんおごしやおんしゆせいしやうに擬し、禁苑より修り、諛者、稱して、恩主聖相となすに至南宋-寧宗皇帝-八五三 十八史略卷之七八五四る。或は、詩九章を作り、每章、一の錫字を用ゆ。侘冑、亦た辭せず。罪惡を稔積し、事を生じ、邊を開くに至つて極まる。之より先蒙古部帝と蒙古部あり、北方に興る。金の世宗の時に在つて、既に强盛帝と稱す稱す。環の立つに至つて、蒙古の兵、來つて、便ち長驅す。金、始めて多事。侂胄、金、この釁あるを聞き、謂ふ、中原圖るべしと。と吳曦といふ者あり、前の蜀帥吳挺の子、璘の孫なり。吳氏、世、西せいしよく陲に職とし、威西蜀に行はる。其子孫を京に留む、蓋し、累朝遠慮曦、異志あること久し。蜀に歸らむと欲するも、得べからず。侘胄、歸らしむる數年、蓋し、西蜀をして兵を出さしめむと欲す。開禧二年、丙寅。金を伐つの詔を以て、四方諸路に〓げて、師を進む。曦、首として、關外四州を以て金に獻じ、封を求めて、蜀主となる。尋いで、卽ち、帝と稱す。李好義、楊巨源が安丙と密に謀るに賴つて、曦、僭號すること、月を踰えて誅せらる。を元の太祖成この歲、元の太祖、斡難河の源に卽位す。太祖、姓は奇渥溫氏、吉思OK〓紀位十番諱は鐵木眞、蒙古部の人なり。其先世、蒙古の部長たり。太祖の父リ一二。なに至つて也速該といひ、始めて、諸部落を併呑し、愈よ强大、後、追謚して烈祖神元皇帝といふ。初め、神元、塔塔兒部を征し、其部長鐵木眞を得たり。宣懿后月倫、適ま太祖を生む、手に凝血を握る、赤石の如し。神元、之を異とす。因つて、獲る所の鐵木眞を以て、之に名づく、武功を志るすなり。元年、大に諸王群臣を會し、南宋-寧宗皇帝-八五五 十八史略卷之七八五六九游の白旗を建てて位に卽く。群臣、共に尊號を上つて、成吉思汗といふ、時に金の章宗泰和六年なり。丁卯、開禧三年時に、北伐諸軍の向ふ所、潰散して、退かざるしよくかんけいじやうりやうわいしよぐんはなし。金人、大に兵を發し、しきりに蜀漢〓襄兩淮諸郡を陷る。東南、大に震ふ。亟に使を遣して、金に通謝せしむ。而して、侂胄、兵を弄するの意、猶は未だ已まず。中外之を患ひ、遂に兇を誅するの議あり。皇后楊氏、書史を知り、古今に通ず。當時、侍郞史彌遠、密策を建つ。而して、旨、中より出づる者、皆、后、實に之を爲す、一日、侘胄、入朝す。彌遠、殿帥夏震をして、兵を以て、之を塗に邀へしめ、擁して、玉津園に出で、之を推殺す。之より先、元の太祖西夏を征し、力吉里塞を拔いて還り、この秋に至つて、再び之を征す。と皮氏、嘉定元年。陳自强、竄死し、蘇師旦、斬に處し、周筠、決ほ配せらる。侘胄の首を凾して金に謝し、和議、復た成る。錢象祖、相となり史彌遠、累遷して、象祖と並び相たり。象祖、罷む。彌遠、獨り相たり。金の章宗環在位二十年にして殂す。子なし。世宗の別子允濟を立つ環に於て叔たり。己巳、嘉定二年。春、元の太祖、河西に入り、屢ば西夏の兵を破る。夏主李安全、女を納れて和を請ふ。南宋-寧宗皇帝-八五七 十八史略卷之七粂庚午、嘉定三年。金、元を討つを謀り、烏沙堡を築く。太祖、將を遣し、襲うて其衆を殺し、遂に地を略して東す。初め、太祖、歲へこ幣を金に貢す。金主、衞王允濟をして貢を靜州に受けしむ。太祖、允濟を見て禮を爲さず、允濟怒り、歸つて兵を請うて、之を攻めむと欲す。金主環の殂するに會し、允濟、位を嗣ぐ。詔あり、國に至り、傳言して拜すべしといふ。太祖、金使に問うて曰く、新君は誰とかなす。曰く、衞王なりと。太祖、遽に南に唾して曰く、我、謂ふ、中原の皇帝は、是れ天上の人と做すと。此等も亦た之を爲すか。何を以て拜するを爲さむと。卽ち馬に策つて去る。金使、還つて言ふ。允濟、益す怒り、太祖の再び入貢するを俟つて、之を害せむと欲す。太祖、之を知り、遂に金と絕つ。辛未、嘉定四年春、元の太祖南侵し、金兵を敗り、群牧監を襲ひ、其馬を驅つて還る。之より、連歲、金の州郡を攻取す。癸酉、嘉定六年。金主衞王允濟、在位五年、歲として兵を受けざきるはなく、幾んど、支ふる能はず、且つ將士の心を失ひ、大將に弑せらる。追廢して、東海郡侯となし、豐王洵を立つ、環の兄なり、之を宣宗となす。太祖、兵を三道に分つて、並び進んで燕南、山東、河北の五十餘郡を取る。甲戌、嘉定七年。元の太祖、蹕を燕北に駐む。金主、岐國公主及び童男女五百、馬三千と金帛とを、以獻して、和を乞ふ。許さるる南宋-寧宗皇帝-八五九 十八史略卷之七八六〇と雖も、燕に自立する能はざるを度り、五月、汴に遷り、丞相完た顏福興を留めて、太子守忠を輔けて、燕に居らしむ。太祖、兵を遣して、之を圍む。守忠、汴に走る。後、一年にして、燕京陷る。元兵、河東より河を渡つて南し、汁を距ること二十里にして去る。金人、之より、地勢益す蹙まり、山東、之に叛き、東は河を阻て、西は潼關を阻つるのみ。宋の川蜀淮漢を窺ひ、以て自ら廣めむと欲し、遂に盟を敗つて來侵す。宋、黄榜を以て、忠義の人を募り、進け、芝んで、京東路を討つ忠義李全、歲の戊寅を以て、衆を率ゐて來歸ぶす。全は、もと漣水縣の弓手、開禧乙丑の間に在つて、旣に、嘗て、募に應じて、其縣を焚く。木華黎丁丑、嘉定十年。元、木華黎を以て太師となし、國王に封じ、諸軍を率ゐて南征し、大名府、定、益、都溜、策等の州に克つ。戊寅、嘉定十一年。元の木華黎西京より河東に入り、太原、平た世界中陽及び忻、代、澤、溶等の州に克つ、この歲、西夏を伐つて、其王城を圍む。夏王李遵項、西京に走る。高麗王暾、元に降り、歲貢方物を請ふ。己卯、嘉定十二年。西域、元の使者を殺す。太祖、親征す。庚辰、嘉定十三年。元の木華黎、地を徇へて、眞定に至り、又河北諸郡を徇ふ。壬午、嘉定十五年。元の太子拖雷、西域の諸城に克ち、遂に太祖南宋-寧宗皇帝-八六一 十八史略卷之七八六二と會す。秋金主、復た使を遣して和を請ふ。太祖、時に囘鴨國に在り。之に謂つて曰く、我、さきに汝の主に令して、我に河朔の地を授け、汝の主をして、河南王となし、彼此兵を罷めむとす。汝のこと〓〓主、從はず。今、木華黎旣に盡く之を取る。乃ち始めて來り請ふやと。遂に許さず。癸未、嘉定十六年。春三月、元の太師魯國王木華黎卒す。五月、元、始めて、達魯花赤を置いて、郡縣を監治せしむ。金の章宗殉、在位十二年にして殂す。子守〓、立つ、之を哀宗yとなす。と甲申、嘉定十七年。元の太祖、東印度に至り、鐵門關に駐まる一獸あり、鹿形馬尾、綠色にして一角、能く人言を作す。侍衞の者耶律楚材に謂つて曰く、汝の主、宜しく早く還るべしと。太祖、以て耶律楚材に問ふ。曰く、この獸は、角端と名づけ、能く四方の語を言ふ生を好んで、殺を惡む。是れ、天、符を降し、以て陛下に〓ぐ。願はくは、天心を承けて、この數國の人命を宥せよと。太祖、卽日師を班す。歲の丁丑より以後、宋、金と戰ひ、迭に勝敗ありと雖も、然も三邊、歲として、其擾を被らざるなし。上、在位三十年、改元する者四謙恭仁儉、終始一の如し。然れども、慶元、嘉泰、開禧、凡そ十三年は侂冑の政、嘉定十七年は彌遠の政なり。壽五十七にして南宋-寧宗皇帝-八六三 十八史略卷之七八六四崩ず。彌遠、定策して嗣を立つ、之を理宗皇帝となす。【理宗皇帝】初名は與莒、宗室追封は榮王、證は文恭、希瓐の子、,太宗十世の孫なり。寧宗、子多けれども育せず、宗室の子を鞠ふ、名は詢、立てて太子となす。薨ず。初め、皇從弟沂の靖惠王柄、子なし。嘗て、宗室の子を以て、名を貴和と賜うて、之が後となす。太子詢を失ふに及び、遂に貴和を立てて皇子となし、名を竝と賜ひ濟國公に封ず。竑慧にして輕、嘗て史彌遠の權を專にするを5く美食の日異日容すべからずと謂ふ。彌遠、聞いて、之を惡む。故に陰に之が計をなす與莒、幼にして弄を好まず、群兒聚嬉、輒ち獨り高きに登り、坐して動かず。長上、見る者、指して以て群兒に語つて曰く、汝曹、この人に效はざるか、恰も一大王に相似たりと。群兒、毎に其下に羅拜す、遂に趙大王の號あり。彌遠、物色して之を得たり。嘗て、取つて、擧に應じ得たり。特旨、官に補す。竑上旣に寧宗の子となる、遂に與莒を以て沂王の後となし、名を貴誠とる)賜ひ、郡州防禦使に除せらる。寧宗大漸、乃ち中宮に白し、貴誠を以て皇子となし、昀と改名し、遺詔を宣べて、位に卽かしめ、竑を濟陽郡王に進め、出でて寧國府に判たらしむ。恭聖仁烈楊后、同じく政を聽く。事定まつて、然る後に、簾を撤す。乙酉、寶應元年時に、外議籍籍、亂を作し竑を立てむと謀る者李全、あり。事克たずして、皆死す。楚州に在り、制置許國と相失南宋-理宗皇帝-八六五 十八史略卷之七〓す。國を殺し、亦た問罪を以て辭となし、兵を擧げて南向し、揚州を圍み、幾んど陷る。丙戌、寶慶二年。元の太祖、西夏を伐つて、甘肅等の州を取り、遂に沙陀を踰えて、黄河九渡に至る。丁亥、寶慶三年。元、夏を滅し、夏主李睨を以て歸る。祖殂七月、元の太祖、六盤山に殂す。一す元二時の二に太殂するに臨んで、左右に謂つて七西紀曰く、金の精兵、潼關に在り、南は連山に據り、北は太河を限る。以て遽に破り難し。道を宋に假るに若くはなし。宋金は世讐、必ず能く我に許さむ。乃ち、兵を唐郵に下し、直に汴京を擣け汴、急なれば、必ず兵を潼關に徵さむ。然れども、數萬の衆を以て、千里赴き援くれば、人馬疲弊、至ると雖も戰ふ能はず、之を破ること必せりと。言訖つて殂す。在位二十二年。壽六十六。起輦谷に葬る。至元二年冬、追謚して、聖武皇帝といひ、廟を太祖と號す。太祖深沈にして大略あり、兵を用ゆること神の如し。故に能く國を滅すること四十。其動績甚だ衆し。史の紀載、備はらず、惜い哉。太祖旣に崩ず。皇子窩濶台、霍博の地に留まる。國事屬する所なし。皇子拖雷、國を監し、以て皇太子の至るを俟つて、之を立つ。越えて二年、皇太子、始めて立つ、之を太宗となす。己丑、紹定二年。元の太宗、名は窩濶台、太祖の第三子。母を光獻皇后弘吉刺氏といふ。是歲夏、喪に奔り、忽魯班雪不只の地に至南宋-理宗皇帝-八六七 十八史略卷之七癸る。皇弟拖雷、來り見え、大に諸王百官を會し、太祖の遺詔を以て位に卽かしむ。始めて、朝儀を立て、皇族尊屬、皆、班に就いて、以て拜す。元、始めて倉廩を置き、驛を立て、命を傳ふ。庚寅、紹定三年。元、兵を遣して、京兆を取る。七月、太宗、自ら將として金を伐つ。皇弟拖雷、姪蒙哥、師を率ゐて從ふ。辛卯、紹定四年。春、趙范、趙葵、大に李全を揚州城下に敗る。時に、上元燈を張るに屬し、全、平山堂に置酒高會す。城中謀して知り、夜、兵を遣して、其不意に出でて、之を劫す。全走つて濠た、に陷り、亂槍に斃さる。其餘は、奔走して逃げ去る。二月、元の太宗、鳳翔に克ち、洛陽、河中の諸城を攻めて、之を下す。五月、元、使を遣し、來つて、道を假る。宋、之を殺す。八月、元、始めて、中書省を立て、從官の名を改め、耶律楚材を以て、中書令となし、粘合重山、左丞相となり、鎭海、右丞相となる十二月、元の太宗、河中を取る。太弟拖雷、騎六萬を發し、兵を分つて、西、和州より興元に入り、金房より襄陽に道して唐郵に至り、金人と陽翟に鏖戰す。潼藍の戍、亦た潰え、西兵、畢く至り、汁を合圍す。壬辰、紹定五年。元の太宗、白坡より河を渡つて、鄭州に次し、南宋-理宗皇帝-八六九 十八史略卷之七八七〇釣州を攻めて、之に克ち、遂に商、號嵩汝等を取る。十四年、速不臺をして、金の汁京を圍ましむ。金主、其弟訛可をして、入とつて質たらしむ。太宗還り、速不臺を留めて、河南を守らしむ。八月、金兵、汁を救ふ。諸軍、共に戰つて、之を破る。九月、太弟拖雷、師に卒す。金主守緒、圍を突いて出で、歸德府に走る。元、再び王鐵を使とし、來つて、夾攻して金を伐つを議せしむ。京湖制置使史嵩之、以聞す。朝臣、皆、以爲へらく、復讎の擧、遂はなは、ぐべしと。趙范、喜ばずして曰く、宣和海上の盟、其初、甚だ堅し、以て禍を取るに及ぶ。鑑みざるべからずと。帝、從はず、嵩之に詔し、使に報じて、之を許す。嵩之、乃ち鄒伸之を遣して、報謝せしめ、且つ汁京を夾攻するを議す。元人、成功を俟つて、河南のか、地を以て宋に歸すを許す。룬癸己、紹定六年。金主、歸德に奔る。粮絕ゆ。乃ち蔡州に趨る。其將崔立、汴京を以て、元に降る。四月、元の速不臺、進んで靑城に至る。崔立、金の太后王氏、皇后徒單氏、〓王從恪等を以て、軍に至る。速不臺、北に送り還さしむ。元孔子五十世の孫元楷を以て、衍聖公に襲封し、孔子廟及び渾天儀を整修す。宋の丞相史彌遠、卒す。鄭〓之、相となり、史嵩之、京湖の制帥となつて、襄陽に在り。南北、蔡州を夾攻するの約あり。嵩之、南宋-理宗皇帝-仝 十八史略卷之七八七二孟洪を遣し、兵四萬人を以て、先づ至つて、其東南を圍ましむ、元び兵、其西北を圍む。甲午、端平元年正月、金主守〓、位を宗室の子承麟に傳ふ。宋の孟洪、蔡州に入る。元師、之に從ふ。守〓、自經して死す。其首を函して、宋に送り、承麟を得て、之を殺す。金は、完顏旻、帝と稱してより、是に至るまで、九世、一百一十七年にして亡ぶ。四西て十金亡七九りーぶ年世に一にし百時夏四月、金の俘を太廟に獻ず。會ま淮帥趙范、趙葵、金人の亡びな紀二三しに乘じて、恢復の計をなす。朝臣多く、以て未だ可ならずとなす。獨り、鄭〓之、力めて、其說を主とす。帝、乃ち范に命じ、移つて、黃州を司らしめ、日を熟して、兵を進む。范の參議官丘岳12曰く、方に興るの敵、新に盟つて退く。氣盛に鋒銳なり。、寧んぞ肯て得る所を捐てて、以て人に與へむや。我が師、若し往けば、彼必ず突至せむ。惟だ進退據を失ふのみならず、釁を開き、兵を致すは必ず此より始まらむ。且つ千里長驅、以て空城を爭ふ之を得れば、當に饋餉を勤むべく、後、必ず之を悔いむと、范聽かず。史嵩之、亦た言ふ〓襄方に爾く饑饉す、未だ師を興すべからずと。が故の〓湖制師趙方の子、杜杲、亦た出師の害を陳ず。范葵は、兵に習ひ、攻取に銳意に、山東の忠義を募るに、皆、響應す。伸之、未ん、だ囘らず、然も、宋師出づ。伸之等、幾んど燕に覊留せられ、詭辭して鐵と倶に來るを得たり。撒曰く、何すれぞ盟を敗るやと。之よ南宋-理宗皇帝-八七三 十八史略卷之七八七四り、淮漢の間、寧日なし。數日ならずして、汴人、城を以て、宋に附き、宋師、汴に入り、卽ち洛に趨く。元兵、洛を成る者、幾もなくして、しばらく避け去る。宋師、洛に入り、數日ならずして粮元の生兵の大に至らむとするを聞いて、絕ゆ。潰えて歸り、嵩之があ、和を主として、肯て粮を運せず、事を誤るを致すを咎む。乙未、端平二年。春、元和林に城づき、萬安宮を作る。諸王拔都太子貴由、姪蒙哥を遣して、西域を征し、太子闊端は蜀漢を侵太子曲出及び胡士虎は宋を侵し、し唐吉は高麗を征す。之を行ふ。p丙申、端平三年。元、交鈔を印造して、耶律楚材、請うて、燕京に於て編修所を立て、平陽に於て經籍所を立て、經史を編集し、儒生梁陟を召して、長官に充て、王萬慶、趙著を以て之にさ副とす。秋闊端、宋の關外の數州を取り、十月、成都に入り、秦鞏等四十餘州を取る。時に、和議旣に復た諧はず、蜀、遂に破陷し、〓襄淮甸、歲として攻哨を受けざるはなし。元、耶律楚材の言を以て、始めて、天下の賦稅を定め、上田は、毎畝に稅三升、中田は二升半、下田は二升、水田は一畝に五升、商稅は三十分の一五戶に絲一斤を出さしめ、以て諸王功臣湯沐の賜に供す。鹽は銀一兩每に四十斤、永く定額となす。朝臣、皆、甚だす輕しといふ。耶律楚材曰く、將來必ず利を以て進む者あらむ、乃南宋-理宗皇帝-八七五 十八史略卷之七〓ち、旣に重しとなすと。丁酉、嘉熙元年、經筵に詔して、朱熹の通鑑綱目を進講せしむ。八月、元、諸路の儒士を試む。選に中る者、本貫議事の官に除して、四千三十人を得たり。元兵、地を略して、黃州に至る。宋の孟洪之を敗る。嘉熙二年。戊戌、之より先、杜杲、元人の安豐の兵を却け、復た察罕八十萬の兵を盧州に敗る。後、儀眞の圍を解く。功を以て、權に刑部尙書たらしめ、復た敷文閣學士に進む。わ、呂文德呂文德、兩淮出戰の軍馬を總統し、淮西招撫使に進む。文德は安豐の人、魁梧勇悍、微時、薪を城中に鬻ぐ趙師葵、道傍に遺腰の長さ尺有咫なるを見て驚訝し、訪求して、之を得たり。之を麾下に留む後、邊功を以て、顯官に至る。元の塔思の軍北峽關に至る宋將汪統制、降る。之より先、曲しゆつて宋の孟洪出張柔等を率ゐ、郢州を攻めて之を拔く。是に至つ復た襄陽を取る。元の領中書行省楊惟中、太極書院を燕京に建て、趙復を延いて師となす。時に、〓溪周子の學、未だ河朔に至らず、惟中、師を蜀湖京漢に用ゐて、名士數十人を得、始めて、其道の粹なるを知り、乃ち伊洛の諸書を收集し、載せて、燕京に送る。師の還るに及びて、註六子は程遂に大極書院及び周子の祠を建て、二程張楊游朱の六子を以て配食南宋-理宗皇帝-八七七 十八史略卷之七八七八かさく子兄弟、せしむ。之に由つて、河朔、始めて道學を知る。載)楊時、最かうしたいしいうせいゐき游酢なり朱熹庚子、嘉熙四年。春元の太子貴由、西域の未だ下らざる諸部にちよくつぐな克つ。元、州郡に敕し、盜を失うて獲ざれば、官物を以て之を償はこくしよきよしよほんろしむ。國初、盜多し。令を下し、凡そ盜の去處を失すれば、本路のみんこばうめい民戶をして、代つて償はしむ。民、之を苦んで、多く亡命す。是にちようくわいこつかとし至つて、徵を罷む。又、官民、囘鶻の金銀を貸り、之を償ふ者、歲かはい羊羔利といふわう〓〓ち羊羔利の弊に加倍し、之を往々、家を破り、妻子を以て質となりつそざいこと〓すに至るも、終に償ふ能はず。耶律楚材、請うて、悉く官物を以てかへていよかたいとしひさ代へて還さしむ。凡そ七萬六千錠。仍つて令す、凡そ、假貸、歲久しほんあひひとしやちよしきも、惟だ子本相伴うして止むと。著して令となす。しんちうじゆんいうぐわうねんしうじゆんいぢよなんはくちやうさいびはく辛丑、淳祐元年。宋、詔して、周敦頤を汝南伯に、張載を郿伯ていかうかなんはくていいやうはくしゆきこくこうつひほうに、程顎を河南伯に、程頤を伊陽伯に、朱熹を徽國公に追封し、並べうていじうしわうあんせきじうししりぞえっに孔子の廟庭に從祀し、王安石の從祀を黜く。帝、孔子に謁し、遂のぞに大學に臨む。れふくわてつここらんき元の太宗殂十一月、元の太宗出でて獵し、銚鐵鐸胡蘭に殂す。年五十六。起すれんこくはうむつひしえいぶんくわうていべう輦谷に葬る。後、追謚して、英文皇帝といひ、廟を太宗と號す。太くわんこうりやうじんじよはかはかきよくわじ宗、寬弘の量、仁恕の心より、時を量り、物を度り、擧に過事なくわかいんふしよみんげふかうりよりやうもたらちいく華夏殷富、諸民業を樂み、行旅糧を齎さず、時に治平と稱す。くわうごうばしんしてうのぞせい元は、太宗殂してより後、皇后馬眞氏、朝に臨んで制を稱すること凡そ五年、君を立てず。南宋-理宗皇帝-発 十八史略卷之七八八〇甲辰淳祐四年。之より先、鄭〓之、相を罷め、喬行簡、李宗勉等、繼いで、政をなす、決斷する所なし。上、史嵩之の言を思ひ、督府より入らしめて、相となす。和を議せむと欲すと雖も、輒ち衆論に沮まる。嵩之、父彌遠の憂に丁る。訃を聞いて、數日にして、乃ち行く。詔して、起復して相となす。言者、目して權姦となし、力めて、之を攻む、遂に復た相たらず。范鍾、游侶、鄭〓之、射方叔吳潛、董槐、程元鳳、丁大全等、相繼いで、相となり、每歲、每歲防秋を以て常事と防秋を以て常事となす。す元の中書令耶律楚材、卒す。后嘗て儲嗣の事を以て、楚材に問ニふ、對へて曰く、是れ外臣の敢て知る所に非ず、自ら太宗遺詔の在るあり、守つて之を行はば、社稷の幸なりと。后、嘗て、御寶の空紙を以て、幸臣奧都刺合蠻に付し、自ら書塡して、之を行はしむ。楚材、天下は先帝の天下、評奏して曰く、朝廷自ら憲章あり。今、はる英文耶加備忠之を紊さむと欲す。臣敢て詔を奉ぜずと。事、遂に止む。復た旨あ眞一る貞國にり凡そ奧都刺合蠻の奏〓する所にして、令史之が爲に書せざる者の·せんていこと〓〓貫すは、其手を斷てと。楚材曰く、軍國の事、先帝悉く老臣に委す。皇后)にし祚をぜ元ふ稷る狄安きべの數仁んて令史、何ぞ與らむ。事、若し理に合はば、自ら當に奉行すべし。し臣等傑とい社若し行ふべからざれば、死、且つ避けず。況んや手を斷つをやと。后、其先朝の動舊なるを以て、曲げて、敬憚を加ふ楚材、天資英ま·邁負かに人表に出づ。案牘、前に滿つと雖も、酬答、其宜しきを南宋-理宗皇帝-스 十八史略卷之七仝失はず。色を正しうして、朝に立ち、勢の爲に屈せず。身を以て天下に徇ぜむと欲し、毎に國家の利病、生民の休戚を陳べて、辭色ミ懇切なり。太宗、嘗て曰く、汝、又、百姓の爲に哭せむと欲するかぎと。楚材、毎に言ふ、一利を興すは一害を除くに若かず、一事を生んは一若害を得を興除すずるは一事を減ずるに若かずと。平居、妄りに言笑せず、士人に接ずる一一生若をずするに及んで、溫恭の容、外に溢る。其德に感ぜざるなし。減ずるにかず元の便宜總帥汪世顯、卒す。世顯、兵を善くして、能く將たり。儒を重んじ、民を愛し、勤儉にして自ら持す、古名將の風あり。丙午、淳祐六年元の定宗、速蔑禿都に卽位す。定宗名は貴由、太宗の長子なり。母を六皇后といふ、乃ち馬眞氏。初め、太宗旨あり、皇孫失烈門を以て嗣となす。殂するに及んで后、朝に臨み、制を稱するもの五年、乃ち議して定宗を立つ。戊申、淳祐八年。元の定宗、戶位三年にして殂す。壽四十三。起輦谷に葬る。簡平皇帝と追諡す。元は、馬眞氏、朝に臨んでより以來、法制一ならず、內外心を離女主事を誤る。定宗、旣に殂し、皇后海迷失、子失烈門を抱き、簾を垂れて政後二年、を聽く。諸王大臣服せず。共に議して、太弟蒙哥を立つ。之を憲宗となす、卽位す。辛亥、淳祐十一年。元の憲宗、名は蒙哥、太祖の第四子拖雷の長子なり。之より先、諸大臣、届出の子失烈門を奉ぜむと欲す。久し南宋-理宗皇帝-八三 十八史略卷之七八八四こつらうかふたいおもうして、決せず。是に至つて、兀良哈歹、以へらく、太祖の諸孫、たけんそうけんしんくわつてうこつあらん惟だ憲宗のみ、謙愼、宜しく立つべしと。遂に大に濶帖兀阿蘭の地しつれつもんに會して、位に卽かしむ。失烈門、服せず。憲宗、因つて、諸王のいどうきびしゆばうしやちうい異同ある者を察して、並に之を覊靡し、主謀者を取つて、之を誅夷す。之に因つて、始めて定まる。よかいこうげんやぶ余玠、大に元人を興に敗る。たいていくびらいめいまうこかんちみんこそうち忽必烈元の憲宗、太弟忽必烈に命じて蒙古漢地民戶の事を總治せしめ、きんれんせんえうすうもん姚樞府を金蓮川に開く。之より先、姚樞、蘇門に陰居し、道を以て自らえんすういたそうめいふせいしゆつ任ず。太弟、之を召す。樞至る。太弟の聰明にして、オ、不世出、おのれむな己を虛しうして言を受け、將に大に爲すあらむとするを見て、乃ちそのへいじつまな(しよすう(たてまつはじめ其平日に學ぶ所を盡し、書數千言を爲つて、之を上る。首に二帝、がくなもとちじよちこくへいてんかたいけいる三王、學を爲すの本、治を爲すの序と治國平天下の大經を以て、彙るくしうしんりよくがくそんけんしんゐてんあいみんかうして八目となす。曰く修身、力學尊賢、親親畏天、愛民、好ぜんゑんねいじせいへいでうほんまつけんがいさいだい善,遠侫。次に、時政の弊に及び、條三十となし、本末兼該、細大の、たいていはなはうご遺さず。太弟太だ其才を奇とし、動けば必ず詢はる。してんたくてうへきかなんけいりやくし史天澤元、史天澤、趙壁を以て河南經略使となす。じんしていそうしつれつもんえふじやうことあら壬子、淳祐十二年。元の定宗の后及び失烈門の母、厭禮、事覺はほつだつせきれしを以て、死を賜ひ、失烈門及び其黨を沒脫赤の地に謫す。どうせいくわん六月、元の憲宗、中州の漢地を以て同姓を封ず。太弟、汴京、關ちうえらえうすういはかうつつね中に於て、自ら其一を擇ぶ。姚樞曰く、南京は、河徒つて常なく、南宋-理宗皇帝-八八五 十八史略卷之七公式つちうすみづあさしやろこれ土薄く、水淺く、潟鹵之に生ず。關中に若かず。其田、上の上、古てんふりくかいつひしへより、天府陸海と名づくと。太弟、遂に關中を請ふ。之に由つくわんちうかなんて、太弟、關中、河南の地を有す。きちうはういうぐわんねんしせんせいちしよかいよくわいしせんせん余玠卒す癸丑、寶祐元年四川の制置使余玠、卒す。余晦を以て、四川宣ゆし諭使となす。くびらいだいりこく元の忽必烈、大理國を平らぐ。かふいんよくわい世大正しこんふそう甲寅、寶祐二年。時に、余晦、四川に宣撫たり。私恨を以て誣奏りろあんぶわうゐちうだいりちんたいはうむねす、利路安撫王惟忠、ひそかに北境に通ずと。大理の陳大方、旨をたんせいゐちうまさしきいろへん承けて、之を鍛成す。惟忠、將に市に斬られむとするや、色變ぜず、たいはういうつたちぎやく大方に謂つて曰く、吾、死せば、天に訴へむと。旣に斬るや、血逆りうのぼいまいくばくたいはうにふてうくわうこつるちう流して上る。未だ幾ならずして、大方入朝し、恍惚として、惟忠とかんはうだいがしよくをさ還り、遂に卒す。之より先、朝廷、彭大雅を用ゐて蜀を理めしむ。ゐめいかさぢうけいじやうきづよかいしよくぐんへいくわう甚だ威名あり。重ねて重慶城を築く。余玠、蜀郡 平曠の地を遷しけんえうがふしうてうぎよざんるゐて、險要を分治す。合州に釣魚山を治むるの類の如し。蜀に在るこよよくわいとんべうと二十年。民、藉つて以て安し。余晦に至て、貪繆功なく、敗れてくわしうしゆりうゆうひしせんせいちこえいいんし要地を失ふ。和州の守劉雄飛を以て、四川制置となす。胡穎、淫祠ごとこぼだくわうとうけいりやく胡打鬼を見る每に、卽ち之を毀つ。人之を胡打鬼といふ。廣東に經略たくわうぶつじきよださいしり廣に佛寺あり、佛像中、巨蛇あり、時に出でて、人の祭祀を享すうびんえいぶつく。價、之に托し、疏を題して數千を得たり。頴至つて、佛をこぼだそのくわい毀ち、蛇を擊つ。其怪、遂に息む。南宋-理宗皇帝-公 十八史略卷之七父丙辰、寶祐四年。高麗王細差甫、雲南の曾長摩合羅嵯、及び素州諸國、元に朝す。元の憲宗、城市を建てて都會の所となさむと欲す。太弟、忽必烈劉乗忠言ふ、劉秉忠、天文地理の術に精しと。乃ち命じて、宅を相せしむ。秉忠、桓州の東、欒水の北の龍岡を以て、吉となす。乃ち秉忠かに命じて、之を營せしめ、名づけて、開平府といふ三年にして、功を畢る。心を元評丁巳、寶祐五年。元、囘體水精盆、珍珠傘を獻ず、銀三萬餘錠を却文帝に直すべし。憲宗曰く、方今、百姓疲弊、急なる所のものは錢の馬を相へ里似すの心ゐ。朕獨り此あるも、何ぞ用ゐむと。之を却く。仁十月、元の兀良哈歹、安南を伐つて、其城を屠る。君の志古今同軌といふ戊午、寶祐六年二月。安南王、國を長子光〓に傳へ、使を遣し、方物を以て元に獻ず。元、囘囘哈里發を討つて、之を平らぐ。九月、憲宗、親ら大軍を帥ゐて蜀に入り、苦竹隘を攻む。宋の守將楊立、張實、之に死す。ミこの時、元人、勢流に順つて東下せむと欲す。一軍は大理國斡服の南より來り、色桂の境を經、以て潭州に至り、一軍は江を渡つてか、鄂州を圍む。賈似道丁大全を罷め、吳潜を以て左相となし、軍中に卽いて、賈似道を拜して右相となす。趙葵は樞密策應使たり、杜庶は兩淮制置たり、南宋-理宗皇帝-八八九 十八史略卷之七八九〇夏貴は舟師を總領す。呂文德等、風に乘じて、戰つて勝つ。潜、向〓十士壁を以て、潭を守らしむ。適ま南來の二哥元帥、宋の候騎に遇うか〓て死す。潭の圍、先づ解く。高達等、鄂を守り、似道、漢陽に駐まつて、鄂の援となる。か、己未、開慶元年元の憲宗、合州を圍み、使を遣して、守將王堅を招諭せしむ。堅、使者を殺し、固守して、之を拒ぐ。元の憲宗殂す七月、元の憲宗、釣魚山に殂す、在位九年、壽五十二。後に追諡して、桓肅皇帝といふ。憲宗、剛明雄毅、沈斷寡言、宴飮を樂まず修靡を好まず、后妃と雖も、亦た制置に過ぎす。太宗の末年、群臣、權を擅にし、政多門より出づ。憲宗に至つて、凡そ詔旨必ず親ら起草し、更易すること數囘、然る後に、之を行ふ。群臣を御すること甚だ嚴、嘗て諭して曰く、汝輩、若し朕の奬諭を得れば、卽ち志氣驕逸して、災禍未だ隨つて至らざるものあらず。汝輩それ之を戒めよと。時に、太弟、進んで鄂州を攻む。宋の守將張堅守つて下らず、遂に之に死す。似道、漢陽より鄂に至り、師を督す。而して、太弟忽必烈、城を攻むること、益す急、城中、死傷する者、萬三千人に至る。似道、大に懼れ、密に宋京を遣して、元營に詣らしめ、臣と稱し、幣を納るるを請ふ。太弟、許さず。會ま、合州の守王堅、人を遣して、鄂に走らしめ、憲宗の訃を以て似道に聞す。似道、再び宋京を遣して南宋-理宗皇帝-八九一 十八史略卷之七八九二元營に往かしむ。太弟、亦た阿里不哥が尊號を襲がむと欲するを聞く郝經曰く、若し、彼果して遺詔と稱し、便ち位號を正し、詔を中原に下し、赦を江上に行はば、歸らむと欲するも得むや。願はか、くは大王、社稷を以て念となし、師を班して、和を議し、輜重を置き、輕騎を率ゐて歸り、直に天都に造り、二軍を遣し、大行の靈界を逆へ皇帝の璽を收め、使を遣して、旭烈、阿里不哥諸王を召し、和林に會葬し、官を諸路に差し、安輯して、王の長子眞金に命じて、燕都を鎭守し、示すに形勢を以てせば、大寶歸するあつて、社稷安からむと。太弟、之を然りとし、乃ち似道に之を許し、且つ歲幣の數を約し、遂に寨を拔いて去り、張傑、闇旺を留め、偏師を以て、湖南兀良哈歹の兵を候せしむ。元世祖卽位庚申、景定元年元の世祖、名は忽必烈、憲宗の同母弟なり。憲(西紀一二六〇)宗、旣に殂す。阿藍荅兒、渾都海等、世祖の弟阿里不を立てむを謀る。憲宗の后、之を聞き、使を遣し、馳せて鄂に至り、請うて速に還らしむ。三月、開平に至る。諸王大臣、同じく、勸進す。三讓して、乃ち位に卽く。元の元良哈歹、張傑に鄂州に會し、師を帥ゐて北に還る。宋の賈似道、夏貴に命じ、其後軍を新生磯に敗り、遂に其和を議し、臣と)稱し、幣を納るるの事を匿し、表を上つて言ふ、鄂の圍、始めて解け、江面肅〓、宗社危くして復た安し、實に萬世無疆の休なりと。南宋-理宗皇帝-八九三 十八史略卷之七八九四おもじだうさいざうはうびしやうらいはな帝、以へらく、似道、再造の功ありと。詔を下して褒美し、賞資甚あつだ厚し。あふかからこるむじやうきよくせんがう元の阿里不哥、和林の城曲に僭號す。ちうとうけんげん五月十九日、元、中統と建元す。ちうとうやうせうす中統交鈔を進む。元の世祖、自ら將として、阿里不哥を討つ。れんきけんせいぐんざうあらんたるおよこんとかい廉希憲元の廉希憲、大に西軍を姑臧に敗り、阿藍荅兒、及び渾都海を斬る。げんぼんそうはがふすはこくし元、梵僧八合思八を以て國師となす。ちかひたづか郝經元郝經を遣し、來つて盟を尋ねしめ、且つ前日和を請ふの議をちようかじだうてうかへそのかくれうえいちうふくくわへんせん徵す。賈似道、旣に朝に還り、其客廖營中をして福華編を撰して、がくこうしようしやう鄂功を稱唱せしむ。朝廷、其和を求めしことを知らざるなり。れんきげんよしみかう元の世祖、旣に立つ。廉希憲、使を遣し、以て兵を息め、好を講ほくきおんゐならびあらじ、軍に命じて北歸せしめ、恩威並に著はさしめむことを請ふ。世わうぶんとうかくけい祖、之を善しとす。然も、未だ其人を得ず。王文統、素より郝經のさいとくいけい才德を忌み、乃ち經を遣して行かしむ。或ひと、經に謂つて曰く、盍やまひけいいはかまこうわいゐれいんぞ疾を以て辭せざる。經曰く、南北難を構へてより、江淮の遺黎よふりやくさうげんやへいつらなくわむす弱き者は俘略せられ、壯なる者は原野に死し、兵連り禍結ぶこと、せいじやうしどうじんよしみつうつとび聖上一視同是れ亦た多し。聖上、一視同仁、兩國の好を通ぜむことを努む。微仁えんいやしやす軀を以て不測の淵をたい蹈むと雖も、苟くも、能く兵を强め、亂を靖ん南宋-理宗皇帝-八九五 十八史略卷之七八九六す、たじ、百萬の生靈を鋒鋼の下に活かさば、吾が學、用ありとなすと。陰に李壇に諷し、う遂に行く。王文統、宋を侵し、以て之を沮撓せしめ、手を假つて以て經を害せむと欲す。經、淮を踰ゆ。賈似道、姦謀の呈露するを懼れ、遂に李壇を以て辭となし、經を眞州の忠勇軍營に拘留し、驛吏防守、獄〓よりも嚴。介佐、或は堪ふる能はず。經之に語つて曰く、命を將つて此に至る、死生進退、其彼に在ること〓〓評いきを使なに聽かす。盡く其れ我に在り、豈に能くはしのし君里烈節を守つて屈せざるは、士て千にに不忠不義、以て中州の士大夫に耻かしめられむや。但だ、公等不幸め命ふる恥かもベ須らく死を忍び、以て待つべし。之を天命人事に揆るに、宋祚殆んど遠からずと。衆其言に感じて、皆自ら振勵す。帝、北使あるを聞き、宰執に謂つて曰く、北朝、使來らば、事體さいかる〓〓當に議すべしと。似道、奏す、和は彼の謀に出づ、豈に一切輕しく徇ふべけむや。若し、隣國に交るの道を以て來らば、當に入つて見えしむべしと。賈似道、闘臣を忌害す。兵退いて、費用を打算するの法を行ひ、此を以て之を汚さむと欲す。向士壁、趙葵、史巖之、杜庶等、皆、侵盜掩匿に坐し、官を罷めて償を徵す。而して、士壁、償ふ所、尤も多く、竟に安置されて死す。復た其妻妾を拘へ謝枋得て、之を徵す、尙ほ足る能はず。信州の謝枋得、趙葵の檄を以て、錢粟を給し、民兵を募つて守禦す。枋得曰く、以て趙宣撫を累すべからざるなりと。自ら萬緡を償ふ、餘は辨ずる能はず。乃ち似道に南宋-理宗皇帝-八九七 十八史略卷之七灸上書して云ふあり、千金を以て募つて木を徒し、信を市人に取らむとし、二卵を以て干城を棄つ。豈に隣國に聞かしむべけむやと。遂に餘を徵するを免ずるを得たり。呂文德、〓湖に制置として鄂州に知たり。辛酉、景定二年瀘州の守劉整、叛いて元に降る。之より先、遷(蹕の儀を止むる者は吳潛、守城の力を盡す者は向士壁、斷橋の功を奏する者は曹世雄、劉整。旣にして、似道、功を妬み、士壁、世雄を讚し、皆貶死す。整旣に禍を懼る。而して、蜀帥鄭興復、宿憾を以て、吏を遣して、瀘に至らしめ、軍前の錢粮を打算せしむ。適ま、北軍境を壓す、遂に叛き去る。元、軍中俘とする所の儒士に命じて、贖うて民となすを聽るす。七月、元、始めて、翰林國史院を立つ。諸路提擧學校官を立つ。元の諸將、西軍を敗る。阿里不哥、北に遁る。元、皇子眞金を封じて燕王となし、中書省事を領せしむ。さ壬戌景定三年呂文德、瀘州を復す。と、元の江淮大都督李壇、京東漣海を以て來歸す。詔して、壇を封じて、齊郡王となし、其父全の官爵を復す。元の宰臣王文統、壇と謀を通ずるに坐して誅に伏す。元の史天澤、李壇を濟南に圍む。壇、復た元に降る。元人、之を南宋-理宗皇帝-八九九 十八史略卷之七九〇〇誅す。元、董文炳を以て山東路經略使となす。元、十路宣慰司を立て、諸路轉運司を立つ。癸亥、景定四年二月。え元、王德素を以て使となし、劉公諒を副となし、書を致し、來つて、其都經を稽留するの故を詰る。三月、元、始めて太廟を建つ。五月、始めて、樞密院を立て、太子燕王眞金を以て中書令に守たらしめ、かいへいふ兼ねて、樞密院事を判す。開平府を以て上都となす。元、姚樞を以て中書左丞となす。樞曰 陛下、基業に於ては守成となし、治道に於ては創始となす。正に宜しく親族に睦まじくし、以て本を固くし、儲副を建て、以て祚を重くし、大臣を定めて、以て國に當らしめ、經筵を開いて、以て心を格し、邊備を修めて、以て虞を防ぎ、粮餉を蓄へて、以て歉をす待ち、學校を立てて、以て才を育し、農桑を勸めて以て生を厚くすべしと。世祖、之を納る。文德黑灰團呂文德、瀘州を復す。文德、黑灰〓と號す。劉整、元に獻言してと號す曰く、南人、惟だ黑灰團を恃む。然れども、利を以て誘ふべしと。乃ち、使を遣し、玉帶を文德に獻じ、権場を襄城外に置かむことを求む。文德、之を許す。使曰く、南人信なし、願はくは、土城を築いて、以て貨物を護せむと。文德、許さず。使者、復た至る。文一)德、朝に請うて、之を許し、権場を樊城外に開き、土城を麓門山南宋-理宗皇帝-九〇一 十八史略卷之七九〇二外に築き、互市を通じ、內に堡を築く。文德の弟呂文煥、欺かるるを知つて、再び制置に申す、吏に匿さる。元人、又、白鶴城に於て第二堡を築く。文煥、再び申す。文德、大に驚いて曰く、朝廷を誤る者は我なりと。卽ち請うて、自ら赴き援く、會ま病んで卒す。甲子、景定五年。七月、彗星、長さ十數丈、芒角天を燭す、四更より東より見はれ、高くして方に歛まる。月餘乃ち見えず、楊棟、上因つて指して蚩尤旗といひ、之に因つて、論に遇うて、國を去る。八月、元、燕京を以て、中都大興府となす。劉秉忠、都を燕に定めむことを請ふ。世祖、之に從ふ。元、至元と改元す。時に阿里不哥の兵、屢ば敗る。是に至つて、諸王玉龍、答失罕、速帶、音里吉合、及び其謀臣不魯花、脫忽思等と來歸す。詔す。諸王は、皆太祖の裔なりと。並に釋して問はず、其謀臣不魯花のみ誅に伏す。元、諸路行中書省を立つ。西紀一二六冬十月。上、崩ず。在位四十一年。改元するもの八、寶慶、紹定四は、彌遠十年の政、端平の初元には、善類朝に滿ち、眞德秀、魏了翁あつて、執政侍從人たり、以て慶曆、元祐に比す。嘉禧より以後淳祐に至るまでは、嵩之、數年の政あり。嵩之、旣に去り、淳祐より寶祐に至るまでは、正人、邪を指して邪となし、邪人、正を指して邪となし、互に消長をなす。而して狼狽すること、開慶丁大全の南宋-理皇宗帝-九〇三 十八史略卷之七九〇四政に如くはなし。景定と改元あるや、大全と吳潜と人品同じからずおの〓〓ざんと雖も、各竄を以て死し、似道、獨り相たり。遂に國政を執る。末年、寝や君臣相猜むの跡あり、未だ更變するに及ばずして崩ず、から、壽六十一上、臨御以來、終始、周程張氏及び朱張呂氏義理の學を1崇奬す、故に廟を理宗と號す。太子立つ、之を度宗皇帝となす。【度宗皇帝】初名は孟啓、福王與丙の子、理宗の猶子なり。理宗、rs子多けれども育せず、孟啓を宮中に鞠ひ、孜と改名し、又祺と改名し、立てて皇子となし、忠王に封ぜらる。旣にして、儲に建て、〓と改名す。歲の甲子、位に卽く。時は則ち、蒙古部、國を大元と號し、至元と紀元するの初なり。賈似道、政を專にして平章軍國重ざ事魏國公に進み、相を立てて、以て自ら副とす。臨安府の士人、葉李、蕭規等、上書して、似道が權を專にし民を害し國を誤るを譏る。似道怒り、他事を以て、罪して遠州に竄す。まちに馬延鸞、留夢炎に詔して、侍讀を兼ねしめ、表面に陳宗禮、范東叟、侍講を兼ね、何基、徐幾、宗政殿說書を兼ぬ。元、王盤を以て翰林學士承旨となす。伯顏乙丑、咸淳元年元、安童を以て右丞相となし、伯顏を左丞相となし、劉秉忠を以て太保となして、中書省事に參せしむ。丙寅、咸淳二年呂文煥、襄陽を守る。元人、互市を開いてより以來、城を築き、堡を置き、江心に萬人臺、撒星橋を起し、以て南南宋-度宗皇帝-九〇五 十八史略卷之七九〇六と兵の援を遏め、時に師を出して、襄樊城外を哨掠し、兵威漸く振ふ。似道、第を西湖の葛嶺に建てて、自ら娯む。五日に一たび湖船に乘じて入朝す。堂に赴いて事を治めず、吏、文書を抱いて、第に就いて呈署し、他相は紙尾に書するのみ、內外諸司の彈効薦辟擧削、關白關白するに非ざれば、敢て行はず、一時正人端士、斥罷殆んど盡く吏、爭つて、賂を納れ、以て美職を求め、帥聞監司郡守たるを評賈塞似道言圖る者、貢獻、勝げて計るべからず。趙滑輩、爭つて、寶玉を獻ず。路をぎ君貪風大に肆に、兵、外に喪へども、匿して以聞せず、民、下に怨主を早熟かきヒレし國を早かむむも、誅責無稽、敢て言ふ者なし。元、制國用使司を立て、阿合馬を以て使となし、世子南木合を封じて北平王となす。日本國王に書を賜ふ日本國王に書を賜ふ。始めて、官吏の俸及び職田を給す。元、太子忽哥赤を封じて雲南王となす。丁卯、咸淳三年。元、史天澤を以て左丞相となし、忽都答兒、耶5律鑄、降つて平章政事となり、伯顏は右丞に降り、廉希憲は左丞に降る。戊辰、咸淳四年。襄陽、圍を受く。文煥、急を告ぐ。高達、范文총虎をして、赴き援けしむ。道通ぜず。二將、亦た命を用ゐず。南宋-度宗皇帝-九〇七 十八史略卷之七九〇八さ三學の士人、上書して、諸道の兵を調し、力を併せて、襄を救はむを乞ふ。報ぜず。弓量を以て田畝を推排す。葉夢鼎、位を辭す。允さず。徑に去る。江萬里、馬廷鸞、相となる。しんせいまうこ元、御史臺及び諸道提刑按察司を立て、新製蒙古字を行ひ、僧八合思馬を更號して帝師となし、堡を鹿門山に築き、諸路蒙古字學を立つ。庚午、咸淳六年。江萬里、援兵を請うて襄を救ふ。議合せず。罷めて去る。上、一日、似道に問うて曰く、襄陽圍を受くる三年、奈何。對へて曰く、北兵、既に退く、陸下、何人の言を得たる。上曰く、適ま女嬪之を言ふありと。詰問し、誣ゆるに他事を以てして死を賜ふ。之より、敢て變事を以て言ふ者なし。、似道、權人主を傾け、諛者、動もすれば周公、成王を輔くるしんわうぐわいせきくわんぐわんきんじふを以て之に擬し、親王外戚宦官近習皆箝制せられて、敢て恣にせず、當世の望士も、亦た引用し、朝に登して儀羽となす。然も服心在らず、在外の監守郡司も、亦た廉介を參用し、其人に非ずして進むを得たる者は、各、蹊徑あり、最も吝賞誅貨を以て、將帥の心を失ふ。劉整、北に降り、策を獻じて、東南を取る。謂ふ、緩く南宋-度宗皇帝-九〇九 十八史略卷之七九一〇取れば、經營して蜀よりして下らむ、急なれば襄淮より直に進めと。時に、諸將、北に降り、國の虛實を知る者、相繼ぐ。似道、方ほに太平を粉飾するを以て事となし、略ぼ意を加へず。元の平章評政事廉希憲、罷む。世祖、嘗て帝師の戒を受けしむ。希皆び衡元史劉廉き言初天乗希も行の澤忠憲の傳名は及許憲、對へて曰く、臣、旣に孔子の戒を受く。世祖曰く、汝の孔子も臣其亦た戒ありや。對へて曰く、臣とならば當に忠なるべく、子となれ多ふば當に孝なるべし、是れなりと。方士あり、大丹を鍊らむを請ひ、中書に敕して、其需むる所を給す。希憲奏して曰く、前世人主、多く方士に誰惑せらる。堯舜壽を得るは靈を大丹に假らざるなりと。許衡世祖、之を善しとす。許衡を以て中書左丞となす。時に、阿合馬、權を專らにし、上を無し、國を蠧し、民を害し、嘗て其子を以て兵し 評順番多い柄を典らしめむと欲す。衡曰く、國家の事權は、兵民財の三者の權は兵民財み父、尙書省に位し、民を典り、財を典り、而して、又兵を典る、甚だ重し。世祖曰く、卿阿合馬の反を慮るか。衡、對へて曰く、是れ反道なり。古しへより、奸邪未だ此に由らざる者あらずと世祖、衡の語を以て、阿合馬に語る。阿合馬、之に由つて、衡を怨む。辛未、咸淳七年。元の劉秉忠、許衡、定むる所の朝儀を進む。司農司を立て、張文謙を以て司農卿となす。水軍七萬を〓へ、戰艦五十三を造り、環城を築き、以て襄陽に逼南宋-度宗皇帝-九一一 十八史略卷之七九一二る。許衡を以て集賢大學士國子祭酒となす。評十月、國を建てて、大元と號す。詔に曰く、誕に景命に膺り、四す深辭る大ベ遠雄の元と詔書藻文す;必ず美名あり。百王に紹いで、統を紀し朗渾々詞海を奄うて、以て尊に宅る、誦す、肇めて隆古に從ふ、獨り我が家のみに非ず。且つ、唐の言たる歩虞の言たるや樂なり、や蕩なり、堯、之を以て著稱す。舜之に因つて號となして馴致す。西、興つて湯造す、互に夏大と殷中とを以た。て名とす。世降つて以還、事殊に古しへに非ず。時に乘じて國を有つと雖も、義を以て制を稱せず。秦となし、漢となすもの蓋し初起の地名に從ひ、隋といひ、唐といふもの、又、始封の爵邑に卽く是れ皆百姓見聞の狃習に徇ひ、一時經制の權宜に要せらる。か〓するに至公を以てすれば少貶なきを得むや。我が太祖聖武皇帝、乾符を握つて、朔土より起り、神武を以て、帝圖に膺り、四に大聲を振ひ、大に土宇を恢にし、興圖の廣き、歷古無き所、頃ろ耆宿、廷に詣り、奏章伸請して謂ふ、旣に大業を成す、宜しく早く鴻名を定むべしと。古制に在つて、以て當れり。然れども、朕の心に於て何か有らむ。國號を建てて大元といふべし。蓋し、易經乾元の義にあ·た取る。是に大に治まり庶品に流形す。孰れか資始の功を名づけむ。上子一人寧を萬邦の爲に底さん。尤も仁を體するの要切なり。事、革に從ひ、道。天人に協ふ。於戯、義に稱うて名づく、素より、之南宋-度宗皇帝-九一三 十八史略卷之七九一四が溢美を爲すに非ず、孚に休し、惟れ永し。尙ほ艱に投ずるに負かあず、敷天と共に大號を隆にするを嘉す。咨、爾有衆、予の至懷を體せよと。太保劉秉忠の議に從ふなり。評壬申、咸淳八年。葉夢鼎、再び相たり。似道と意合はざるを以て年を一にく腸圍く善無呂る六去る。國家大學教育大學とにに年善而煥きな元而い古耐の戰し孤襄陽、陷る。之より先、理宗の初年、襄陽は制臣撫御を失するをし以て、王旻、亂を作して陷るを致す。謝方叔、相となり、李曾伯に將を遣して、北方も亦た苦爭せず。降もべ獨喩し、之を取らしむ。劉整の策おんまいで行はるるに及び、重兵、襄陽を圍む。呂文煥、城を守ること六年、な惜扞禦備さに至る。然も、似道、肯て調援せず、粮食未だ乏しからを事てる平もずと雖も、衣裝薪蒭、措辨する所なく、盧舍を轍して薪となし、關粉似のに亦想り援れしす太も情ばにざ救是に飾道急楮を緝めて衣となすに至る。援兵至らず、遂に城を以て降つて、元かしす掬すの致と擁情さして52人の用となる。にざ救な値一到しば賈似道、章を累ね、出でて督せむとし、陰に朝廷を諷して、之を老闆奶茶留めしめ、卒に行かず。重にらず元、尙書省を併せ、皇子忙哥剌を封じて安西王となす。文天祥直學士院文天祥、致仕す。初め、賈似道、疾と稱して致仕を乞ふおや、以て君を要すとなす。似道、張立志に諷し、効して之を罷む。な天祥、遂に錢若水の例を引いて、致仕を乞ふ。時に年三十七。癸酉、咸淳九年。平地に白毛を產す、銀線菜の如し。臨安、尤も南宋-度宗皇帝-九一五 十八史略卷之七九一六多し。元、樊城を侵す。守將張漢英及び都統制范天順、牛富、之に死す。評○○番地り元元の國子祭酒許衡罷むるを乞ふ。之を許す。衡家に居て勤儉、自治に强、公愛兼盡、嚴ならざるも整、閨門の内朝廷の若く然り。夫婦相待つこと、賓の如し。凡そ、喪葬一に古制に遵ひ、佛老を用ゐず、懷孟の閒之に化す。旁舎に僧德公といふ者あり、年百餘歲。嘗て其徒に謂つて曰く、老僧、苦行百年、亦た佛となる能はず、徒に不孝の人となり、祖宗を地下に見るを羞づ。但だ、願はくは、小僧輩、還俗以て汝が祖宗の嗣を壽せよと。之より復た弟子を度せず、蓋し之に化するなり。え甲戌、咸淳十年。賈似道、母の憂に丁る、隨つて起つて復す。陳宜中陳宜中、僉書樞密院たり。七月、上、崩ず。在位十年。咸淳と改元す。壽三十五。似道、皇子暴を立つ、年四歲、之を孝恭懿聖皇帝となす。「孝恭懿聖皇帝】名は黒、皇后全氏の出なり。太皇太后謝氏、朝に臨んで詔を稱す。德祐と改元す。兄建國公是を封じて吉王となす、弟永國公〓を信王となす。元の太保劉元の太保劉秉忠、卒す。秉忠、天下を以て己の任となし、知つて秉忠卒すさおの!言はざるなく、言つて聽かれざるなく、其人才を薦むる、各、器に稱ふ。開平に城き、燕都に城かしむるや、皆、秉忠、其地を相す。南宋-度宗皇帝-孝恭懿聖皇帝ー九一七 十八史略卷之七九一八是に至つて疾なくして、端坐して卒す。世祖、聞いて驚悼して、群臣に謂つて曰く、秉忠、朕に事ふる三十餘年、小心愼密、其陰陽術數の精は、唯だ朕のみ之を知ると。元、中書平章史天澤、中書左丞相伯顏に命じ、諸軍を帥ゐて南侵す。陛辭するや、世祖、之に諭して曰く、古しへの善く江南を取る者は、唯だ曹彬一人のみ。汝能くん、史天澤卒す不殺なれば、是れ吾が曹彬たりと。天澤、疾あつて還り、尋いで卒す。之より先、世祖、醫を遣して、馳せて視せしむ。天澤、附奏して曰く、臣、大限終あらむ、死は惜むに足らず。唯だ願はくは、天兵江を渡るとき、殺掠を以て戒となせと。言訖つて卒す。天澤、忠亮にして大節あり、將相に出入すること五十年に近く、四朝に柱石)として百辟に師表たり、社稷の臣といふべし。其富貴權勢を視るや、跡を歛めて退避し、將に之に漁されむとするものの若し。故に能く始を善くし、終を令くし、開國の元臣となる。元の伯顏丞相、大に兵を襄樊に會す。九月、降人劉整を以て騎兵を領して淮泗より出でしめ、呂文煥、舟師を領して襄陽より出でしめ、先を爭うて向導し、水陸並に進み、沙市の新城を攻む。都統邊居誼、所部三千人を帥ゐて、力戰して之に死す。策應使夏貴、力戰す。元兵、其不意に出づ。兵敗る。西南岸に沿ひ、火を縱つて、廬州に歸る。宣撫使朱機孫、重兵を提げ、戰はずして、江陵に歸る。鄂州、降る。南宋-孝恭懿聖皇帝-九一九 十八史略卷之七きつ天目山、崩る。天下に詔して、勤王せしむ。乙亥、德祐元年元の伯顏、阿里海牙を留め、兵四萬を以て、鄂を守らしめ、而して、阿朮と、大軍を率ゐて江を渡り、流に順つてず東に下る。時に沿江の諸將、呂氏の部曲多く、風を望んで降附す。江州降る、運使錢眞孫、自ら縊る。と似道、軍馬を都督し、遷延して出でず。兵、旣に建康に下ると聞き、始めて、諸軍を率ゐて、行在を發し、迂道して行き、數日、始にめて蕪湖に達し、將に安慶府に趨り、下流の師を牽制せむとす。未だ至らざること三日、安慶の帥范文虎は、呂氏の婿、旣に降り、將士復た固志なし。似道、官資を竭轉するを許す。諸軍詬つて曰く、た官資を要して甚を做さむ。巳未庚申の官資、何に在ると。似道答ふる能はず。鑼を鳴らす一聲、兵を珠金砂に退く。十三萬の衆、一時に潰散す、似道、奔つて、揚州に入る。江西提刑文天祥、兵を募つて勤王す。天祥は、吉州廬陵の人、丙辰進士の第に魁たり。殿帥韓震、劫して都を遷さむを謀る。陳宜中、計を以て之を誅す。趙〓發夫妻池州破る。通守趙〓發、將に死せむとす。其妻と訣る。妻曰く、忠死す卿能く忠臣たり、妾、顧みて忠臣の妻となる能はざらむやと。昂南宋-孝恭懿聖皇帝-九二一 十八史略卷之七九二二發、喜んで、衣冠を具し、共に倶に縊る。明日、伯顏、城に入つて之を憐み、衣棺を具へて葬る。·ア建康、破る。趙淮、之に死す。京師、戒嚴す。朝臣、踵を接して、宵に遁る。王爚、陳宜中等、似道が不忠不孝の罪を効す。宜中、もと賈の恩を受く。是に至つて亟に賣を効して以て自ら解く。評要用途無大阪府左衛門似道、貶に赴く。鄭虎臣、父の仇を以て、監押して漳州に至り、亡ぼし身亦第三十五年厠上に卽いて、其胸を拉して之を殺す。···あああああベ張世傑、兵を以て入衞す。元兵、境に在り。陳宜中等、惟だ賣の黨を攻擊するのみ、略ぼ備禦の策なし。司馬夢求、江陵の沙市鎭を監す。力戰して死す。諸帥を徵して、入衞せしむ。夏貴、省萬壽、黄萬石等、至らず。ぐわつかうしんさく六月庚申朔、日蝕晦冥、雞塒に棲み、咫尺人物を辨ぜず、巳さより午に至り、明、始めて復す。留夢炎、相たり。評文天祥器文天祥、民兵峒丁、二萬餘人に將として入衞す。夢炎と意相樂ま局狹少ず、尙書を以て、江浙制置に降し、吳門を守る。州郡、しきりに降る。元兵、臨安を距ること百里、獨松關、急張世傑を告ぐ。時に張世傑の軍五萬、諸路勤王の兵四十餘萬。天祥、世傑もと議す、兩軍堅く聞廣を守り、全城の王師血戰し、萬一捷を得ば、南宋-孝恭懿聖皇帝-九二三 十八史略卷之七九二四猶ほ爲すべきなりと。世傑、大に喜び、議して師を出す。宜中、王師を以て、務めて持重し、詔を降して、之を沮み、使を遣して、和を乞ふ。天祥等に詔して、兵を罷む。ご潭州、陷る。時に、一軍は湖南より潭州を圍む。守臣李帯、戰守屢ば捷つ。八九月を經て、城將に陷らむとし、闔門、之に死す。丙子、德祐二年。正月、秀王與睪、皇兄益王星、皇弟廣王〓等を奉じて海に航す。世傑、朝を去る。元兵、高亭山に駐まる。都城を去ること三十里。宜中、夜、遁る。文天祥、右丞相たり、辭して拜せず。賈餘慶、吳堅、相たり。天祥、出でて軍前に使す。辭氣慷慨、議論して屈せず。伯顏、之とを留む。賈餘慶三宮元兵、臨安に入る。賈餘慶等、三宮を奉じて以て降る。手詔してを奉じて元に降る諸路に諭して、內附せしむ。伯顏、宰執を遣し、先づ大都に赴かしむ。天祥、亦た舟に登つて北行し、鎭江に至り、間を得て逸し去る。三宮、北に遷る宮室、尉馬、宮人、內侍、太學生等數千人、皆南宋-孝恭懿聖皇帝-九二五 十八史略卷之七九二六遣中に在り。眞州を過ぐ。守苗再成、駕を奪はむとす。幾んど遂げむとして克たず。五月、宋帝、上都に至り、瀛國公に降封す。帝、在位二年、改元즐するもの一曰く德祐。益王、廣王、海道より溫州に至る。蘇劉義、陸秀夫、來り會し、陳宜中、張世傑、海舟を以て福州に至る。謝太后の手詔を宣し、二王を以て天下都副元帥となし諸路の忠義を召す。五月朔、陳宜中、陸秀夫、張世傑等、共に益王是を立てて帝となし、福州に卽位す。之を端宗皇帝となす。【端宗皇帝】名は是、孝恭懿聖皇帝の兄なり。位に卽いて、景炎と改元し、はるかに、帝に尊號を上つて孝恭驚聖皇帝となし、太皇太后を壽和聖福至仁太皇太后となし、皇太后を仁安皇太后となし、度宗の淑妃楊氏を皇太后となし、同じく政を聽く。廣王〓を封じて衞王となす。陳宜中、左丞相たり。張世傑、少保たり。5文天祥、至る。右丞相に除せらる。宜中、世傑と異意なるを以てあ、肯て拜せず。九月、天祥、督を南劍州に開き、兵を募つて數千を得、遂に郡武さ軍を復す。冬十月、天祥、師を帥ゐて、汀州に次す。興化軍の通判張日中等來り會す。時に、贛寇猖獗江聞廣の路を血にす。日中南宋-端宗皇帝-九二七 十八史略卷之七九二八おの?等、天祥が開督勤王するを聞き、遂に各兵を起して來り應ず。天ニ祥趙時賞、張日中、趙孟深を遣し、一軍を將ゐて〓に趨かしめ、以て寧都を取り、吳浚を遣し、一軍を將ゐて、雪都を取る。劉洙、じ.蕭明哲、陳子敬、皆、江西より兵を起して來り會す。鄒源、元人と寧都に戰つて敗績す。武崗〓授羅開禮、兵を起してえ文永豐縣を復す。亦た死す。天祥、爲に服を製して哭す。十一月、元の阿刺罕、董文炳、建寧府に入り、遂に福州を侵す。宜中、世傑、帝及び衞王、楊太后等を奉じて、海に航し、潮州より廣州に至り、富陽に趁き、謝女峽に遷る。丁丑、景炎二年阿刺罕、汀州に入る。文天祥、漳州に奔る。入衞を謀れども、道阻して通ぜず、江廣の間に往來し、戰つて勝負あり。吳浚、元に降り、因つて、漳に趁き、天祥に說いて降らしめむとす。天祥、責むるに大義を以てして、之を誅す。三月、文天祥、梅州を復す。四月、天祥、興國縣を復す。五月、張世傑、潮州を復す。天祥、梅州より江西に出で、遂に會昌縣を復す。趙時賞、張日中の兵と、皆、之に會す。元廉希憲卒す元の中書政事廉希憲、卒す。希憲、江陵に在り、遠近化に向ふ。南宋-端宗皇帝-九二九 十八史略卷之七九三〇疾あつて召し還るるに及びて、民、皆、涕を垂れて擁し送り、祠を建て、像を繪いて、以て之を祠る。世祖、歎じて曰く、復た大事え評伯顏の廉を決する廉希憲の如き者あるなし。伯顏、亦た曰く、廉公は宰相中當れの眞に希憲の眞宰相、男子中の眞男子と。世、以て名言となす。六月、天祥、元人を雪都に敗り、遂に興國縣に次す。秋七月、張ニ;日中、趙時賞等をして、師を帥ゐて、吉贛諸縣を復せしめ、遂に贛州を圍む。張世傑、師を囘し、潮州より泉州を圍む。克たず。帝の舟、潮州の淺灣に遷る。ニ)天祥元の李恆元の李恆、兵を遣し、贛を援けしめ、然も、自ら將として、を興國に襲ふ。天祥、恆の猝に至るを意はず、乃ち兵を引いて走り 鄒〓に永豐に卽く。鳳の兵、先づ潰ゆ。恆、天祥を窮追す。天祥、方石嶺に至る。恆、之に及ぶ。鞏信、拒ぎ戰ふ。箭.體に被つて死す。天祥、空院に至る。恆又之に及ぶ。張日中、奮つて力戰す。元兵、少しく卻く。恆鐵騎を麾いて、橫に之を擊たしむ。日上こと〓〓中身に十餘創を被り、猶ほ十餘騎を手刄して死す。兵、悉く潰ゆ。天祥の妻歐陽氏、男佛生、環生、及び二女、皆執へらる。趙時賞、肩興の後に坐す。元人、誰となすを問ふ。時賞曰く、我が姓は文と衆以て天祥となし、之を禽にす。天祥、之に由つて、身を挺するを得。其長子道生及び杜滸、鄒源と、騎に乘じて逸し去り、遂南宋-端宗皇帝-当三 十八史略卷之七九三二に循州に奔る。散兵、頗る集まる。乃ち寸南嶺に屯す。幕僚客將、植時賞奮罵皆、執へらる。時賞、隆興に至り、奮罵して屈せず。刑に臨み、劉して殺さる洙、頗る自ら辯ず。時賞、叱して曰く、死せむのみ、何ぞ必ずしも然らむと。是に於て、將佐幕屬、執へられて、皆死す。而して、天祥の妻子家屬、燕に送らる。二子、道に死す。廣州、陷る。十一月元の劉深、舟師を以て淺灣を襲ふ。張世傑、戰つて利あらず。帝舟を奉じて、秀山に走る。陳宜中、占城に之いて兵を求む、遂に復た還らず。十二月、帝、再び〓隩に還る。颶風作る。帝病あり。元の劉深、復た舟師を以て、來つて〓陳を襲ひ命如珪を執ふ。帝舟、謝女峡に遷る。戊寅、景炎三年。張世傑、師を遣して、雷山を討つ。克たず。三月、文天祥、兵を會して、麗江浦に次す。李恆、元の張弘範元、張弘範を以て、都元帥となし、之に副たり。師を率ゐて、聞廣に入る。帝舟、〓州に遷る。夏四月、帝、硼州に崩ず。陸秀夫、衞王を立てて帝となす。之を帝〓となす。【帝醫】端宗皇帝の弟なり。名は〓、位に卽いて祥興と改元す。皇太后楊氏同じく政を聽く。之より先、群臣多く散じ去らむと欲す。陸秀夫曰く、度宗皇帝の一子、尙ほ在り、將に焉にか之を置かむ。南宋-端宗皇帝-帝〓-九三三 十八史略卷之七九三四古人、せ、一旅一成を以て中興する者あり。今、百官有司、皆具はり、士卒數萬、天、若し未だ宋を絕やすを欲せざれば、是れ豈に國を爲すべからざらむやと。乃ち衆と共に帝を立つ、年八歲。適ま黄龍あり、海中に見ず。遂に祥興と改め、硼州を升せて翔龍縣となし、陸秀夫を以て左丞相となし、樞密使を兼ねしむ。時に、海濱に播越して、庶事疎略、時節朝會每に、獨り、秀夫、儼然として笏を正して立ち、治朝の如くす。或は行中に在つて、凄然として泣下り、朝衣いこと〓〓を以て淚を拭ふ、衣盡く濕ふ左右、悲働せざる者なし。首相に拜するに及び、張世傑と共に政を秉り、外は軍旅を籌り、內は工役を調す、すべて其手より出で、忽遽流離の中と雖も、尙ほ日に大學章句を書し、以て勸講す。六月、帝舟、新會の厓山に遷る。大星あり、南に流れて海中に墜つ。小星千餘、之に隨ふ。聲、雷の如く、數刻にして止む。な天祥、帝の卽位を聞き、上表して自ら江西に敗るるの罪を効し、入朝を乞ふ。許さずして、少保を加へ信國公に封ず。會ま、軍中大疫、士卒多く死す。天祥の子道生、復た亡し、家屬共に盡く。元、許衡を以て集賢大學士となし、太史院事を兼領せしむ。文天祥、潮陽に屯す。鄒溷、劉子俊、皆、師を集めて之に會し、遂に盜陳懿、劉興を潮に討つ。興は死し、懿は遁れ、張弘範の兵を南宋-帝昺-九三五 十八史略卷之七九三六き道いて、潮陽を濟す。天祥、カ、支へず、其麾下を帥ゐて、海豐に走る。張弘正、之を追ふ。天祥、方に五坡嶺に飯す。弘正の兵、突文天祥執へ至す。衆戰ふに及ばず、皆、頓首して草莽に伏す。天祥、執へら自動からる。腦子を呑んで死せず。鄒溷、劉子俊、自ら詭つて天祥となし、天祥を免ずべきを冀ふ。天祥を執へて至るに及びて、各眞僞を爭ふ、遂に子俊を烹る。而して、天祥を執へて、弘範に見えしらむ。左右之に命じて拜せしむ。天祥、屈せず。弘範、其縛を釋き、客禮を以て、之を見る。天祥、固く死を請ふ。弘範、許さず。或ひと弘範に謂つて曰く、敵人の相、測るべからざるなり、宜しく、之族を近づくべからず。弘範曰く、彼は忠義なり、他なきを保すと。こと〓〓か、屬の俘にせられし者を求めて、悉く之に還し、舟中に處いて、以て自ら從はしむ。端宗を厓山に葬る。元の阿里海牙、海南より還つて上都に師す。巳卯、祥興二年。正月、元の張弘範の兵、厓山に至る。張世傑、力戰して、之を禦ぐ。弘範、之を如何ともするなし。時に、世傑に甥韓あり、元師中に在り。弘範三たび、韓をして、宋師に至つて、世傑を招かしむ。世傑、從はずして曰く、吾、降れば、生きて且つ富貴なるを知る、但だ義は移すべからざるのみと。因つて、古忠臣{を歷數して以て之に答ふ。弘範、乃ち文天祥に命じ、書を爲つて、南宋-帝員-九三七 十八史略卷之七九三八評世傑を招かしむ。天祥曰く、吾、父母を扞ぐこと能はず、乃ち人にゝる信無のは謂にと眞臣末文ゝべ心は零値いに純隨天すは文忠一祥破周千年日月彼の所る公類名実〓へて、父母に叛かしめて可ならむやと。固く之に命ず。天祥、遂に過ぐる所の零丁洋の詩を書して、之に與ふ。其末に云ふあり、人ゝをて洋以丁生古しへより誰か死なからむ、丹心を留取して汗靑を照らすと。弘星戈營くるの詩山落一辛し事範笑つて、之を置く。弘範、復た人を遣して、崖山の士民に語ら河四經苦落起しめて曰く、汝の陳丞相、旣に去り、文丞相、旣に執へらる。汝、水瓶絮何をか爲さむと欲すと。士民、亦た叛く者なし。弘範、又舟師を以恐風零選打印 はて、海口に據る。宋師、樵汲の道絕ゆ。兵士、乾糧を茹ふこと、十嘆恐零丁人世餘日にして、大に渴す。乃ち下つて、海水を掬して、之を飮む。水自重車心無昭死旬の折取鹹く、飮めば乃ち嘔泄す。兵士、大に困む。世傑、蘇劉義、方興等汗靑を帥ゐて、旦夕大に戰ふ。元の李恆、廣州より師を以て會し攻む。弘範、恆に命じて、崖山の北面を守らしむ。二月戊寅朔、世傑の將陳寶、叛いて、元に降る。巳卯、都統制張達、夜、元師を襲ひ、敗れ還る。元人、進んで、世傑の舟に薄る。甲申、弘範、其軍を四分し、自ら一軍に將たり、相去ること里許。諸將に令して曰く、宋の舟、西、厓山に艤す、潮至れば必ず東に遁れむ、急に之を攻めて、去るを得せしむる勿れ。吾が樂作るを聞かば、乃ち戰へ令を違ふ者は斬らむと。先づ北面の一軍を麾き、早潮に乘じて戰ふ。世傑、之を敗る。李恆等、潮に順つて師を退く。午潮上る。元師、樂作る。宋師、以爲へらく、且く懈ると。備を設南宋-帝昺-九五九 十八史略卷之七九四〇けず。弘範、舟師を以て、其前を犯す。南師、之に繼ぐ。宋師、南北より敵を受け、兵士皆疲れて、復た戰ふ能はず俄に一舟の檣旗仆るるあり、諸舟の檣旗、皆仆る世傑、事の去るを知り、乃ち精Na兵を抽いて中軍に入る。諸軍、大に潰ゆ。元師、宋の中軍に薄る會ま日暮れて風雨、昏霧四塞、咫尺辨せず。世傑乃ち蘇劉義と維を評陸秀夫、帝舟に走る。帝舟大入低勝ちにて夫をし帝りざ見國溺同帝斷ち、十六舟を以て港を奪つて去る。じにして、且つ環結す、出走するを得ざるを度り、乃ち先づ其妻子をKELICAL FACTION COLLECTION店1)る忠に無ともあび狀後宮もに驅つて海に入らしめ、卽ち帝を負うて同じく溺る。帝、崩ず。る操忠人どの然れ諸臣、從死する者甚だ衆し、越えて七日、屍海上に浮ぶもの十餘のて側情純の至雜萬人。因つて、帝の屍及び詔書の寶を得たり。既にして、世傑、復さしつ丁氏八正をた厓山に還つて、兵を收め、楊太后に遇ひ、奉じて、以て趙氏の後しむを求めて、復た之を立てむと欲す。楊太后、始めて、帝の崩ぜしをニ聞き、膺を撫して、大働して曰く、我、死を艱關に忍んで此に至るものは、正に趙氏の一塊肉の爲のみ、今、望なしと。遂に海に赴いて死す。世傑、之を海濱に葬る。世傑、將に安南に趨かむとし、平章山下に至つて、颶風、大いに作る。舟人、岸に艤せむと欲す。世傑曰く、以て爲すなきなりと。香を焚き、天を仰いで呼んで曰く、評していますたべ自傑しのしりき滅香を焚我、趙氏の爲にすること、亦た已に至れり。一君亡びて、復た一君をすを立つ。今、又亡ぶ。我未だ死せざるものは、庶幾はくは、敵兵退る忠ふべ臣ベ鑑以かば、別に趙氏を立てて以て、祀を存せむとするのみ。今かくの若南宋-帝昺-〓 十八史略卷之七九四二豈に天意なるかc若し、天、我が復た趙の祀を存するを欲せざ宋亡ぶ西し、紀-二七溺九)れば、大風吾が舟を覆せと。舟、遂に覆り、世傑、る。宋、亡ぶ。元の張弘範等、置酒大會し、文天祥に謂つて曰評至且天地 30元厓山、旣に破る。〓り遇を範のるき文の而とす說く國亡ぶ、丞相の忠孝盡せり。能く心を改め、宋に事ふる者を以二五天祥汝然として涙とを渡しすて、今に事ふれば、宰相たるを失はざるなりと。世しれは祥りざさを出して曰く、國亡ぶるも救ふ能はず、人臣たる者、死するも餘罪)所臣以也鑑百る忠あり、況んや、敢て其死を逃れて其心を貳にせむやと。弘範、之をた義とす。燕京に送らしむ。道吉州を經、痛恨して食はず、八日尙デほ生く。十月、天祥、燕に至る。屈せず、獄に繫がれ、勵操愈よ堅宋の故臣、亦た嶺海より安南に走る者あり。安南は、其國王李乾子天祚、德紹興に卒してより子陽煥、立つ。陽煥、卒す。立つ。天祚、淳熙に卒す。子龍翰、立つ。龍輸、嘉定に卒す、子昊〓、立と;つ世、宋の正朔を奉ず。龍輸の時に當つて、聞人陳京といふ者あり、其國に入つて、政を得、國婿となる。京の子承、再世其國柄を);執る。昊〓の時に及びて、承、其國を奪ひ、子威晃に傳ふ。理宗、其貢を受けて、之を封ず。威晃、子日照に傳ふ。宋亡びて、乃ち名を日恒と改め、貢を元に奉ず。初め、邵雍、客と語つて、國祚に及ぶや、晉の出帝紀を取つて、之を示す。靖康に驗あり、德祐に至つ南宋-帝〓-九四三 十八史略卷之七九四四四廣の說一汴二杭三て益す驗あり。陳摶も、亦た、嘗て、一1、二杭、三聞、岡四廣の說あり。宋、果して聞廣に至つて盡く。太祖建隆より欽宗靖康に至るまで、一百六十七年。高宗建炎より祥興に至るまで、又一百五十三年。けんりうぐわんねんかうしん帝〓祥興乙卯に至るまで、凡右、宋の太祖建隆元年庚申より、そ三百二十年にして亡ぶ。評譯十八史略大尾結言カーライルのヒローウォーシップやフレンチレヴォリューシンを見ると、時代が英雄を作り而して英雄が時代を作るといふ樣な事が書かれて居る。支那人の書いたものにも一國一人を以て興り一人を以て亡ぶといふ樣な事がある其考へ方は東西古今其軌を一にすといふべく、英雄は皆な時代の產物であると同時に又英雄が時代を作り出す。元龜·天正の亂脈時代であつたればこそ、水呑百姓の小伜猿面冠者から一躍太閤殿下に出世した豐臣秀 吉が出て來たのであつて、其秀吉-成り上り者の秀吉が出たればこそ、絢爛たる桃山時代が出現したのであらう。奔放自在、天馬空を行く底の太閤の遣りツ放しの後ト始末をするの必要によりて、堅實無比の家康が現はれ、家康の出現によりて德川三百年の鎖國時代が生れ出たのであつて、幕政三百年の鎖國がなかつたならば、ペルリの來訪もなく、維新當時の群雄も出ては來なかつたかも知れぬ。ソレは皆ソウなる順序があつてソウなりつゝあるのであつて、這間の前後連絡、因緣成行を靜觀すれば、西洋人の經た所も東洋人の經た所も道理に於て變はる所はない。弱肉强食の結果が自由平等を喚び起し、自由平等の結果が共產無政府の傾向まで進めば、統制獨裁の風潮を復活して來る。而してソコにイツでも色々の英雄や先覺者や指導者の活躍が見られる。是れは古今東西の歷史の〓ゆる不動の哲理であつて、古人は此事を簡單に歷史は繰り返へすともいふて居る。然り歷史は繰り返へすに違ひないけれどもソノ繰り返へすのは道理であつて、いはゞ道理に二つはない-眞理は常に新しいといふ意味で、其實、實際としての事實は皆別々である故に同じく聖人といふても、時代を異にし、場合を異にするに從て各々聖人振りが異つて居り、同じく馬三 鹿とか阿呆とかいふても、各々ソノ馬鹿ブリ阿呆ブリが異つて居る堯も舜も禹も湯も文王も武王も周公も皆一樣に聖人といふけれども、堯の時には鼓腹擊壤の歌であり、舜の時には南風の詩であるのに、禹の時は一饋十起以て天下の民を勞し、湯に至りては素車白馬身を以て犧牲となして桑林の野に禱らねばならなくなつて居る。凡そ是等の變遷を抽象的に云へば、成程ソウかと點頭く程度のものに過ぎず、ソレを詳細に探究すれば正史から外史ソレからソレと所謂汗牛充棟、仲々際限がない。其兩者の中間を行く略史として、上下四千年の經過を〓觀し得るものとしては蓋し此十八史略以上のものはない。略史であり、史略であり、十八種の史書の抄略拔き書きであるといふので、漢學先生ガタは餘り十八史略を推賞せず、或は却て之を輕蔑するの風さへあるが、ソレは專門家のいふ事であつて、一般大衆としてはコレ程便利な重寳な讀物はない。日本で漢學の入門者に初歩第一の讀本として、十八史略を讀ませる事にしたのは何人か知らぬけれども、今よりして之れを評すれば非常な卓見家といふべきである。支那人は殊に此書を輕視する樣であるが、ソレは要するに淺薄であるといふ所からであらうが、四千有餘年五 以て結言として置くんで見て見られよ、中に於て政治に興味を持つ人達に讀ませようといふのである之を支那の人達に勸めようといふのではないが得らるゝかと考へて見るがよい昭和十二年三月廿七日夜年十一ノ點をヨク合點して成程と思はるゝならば、の史實をコレ丈けのものに縮寫するとして果してコレ以上のもの昭和十六年五月昭和十二年十一月三日再版昭和十二年四月昭和十二年四月月發行日讀了として繰り返して見たくなるから、所八六二必ず僕が遣つた樣に印發編日改訂版日發行日印刷東京市京橋區銀座西五丁目三番地刷行者者兼島田俊雄法律事務所W譯併し僕はソンな議論をして、導十八史略電話銀座(57)〇〇三五番渡東京市小石川區東古川町十番地島東京市京橋區銀座西五丁目三番地定 價譯年十モウ一度始めから讀邊田參一俊評日本人お互大衆の月者六郞雄識行印社會式株刷印外中日始め之をソ 301