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唐書巻二百一十五上 列伝第一百四十上 突厥上 夷狄の中国の外患となることは長い期間に及んだ。前時代については史家の類がよく述べてきたことである。唐が興ると、蛮夷はさらに盛衰があり、かつて中国と匹敵するものは四つ、突厥・吐蕃・回鶻・雲南がそうである。まさにその時に群臣の献議は朝廷にあふれ、あるものは裁可され、あるものは捨て置かれ、明確に見るべきものがある。 劉貺がおもうに、厳尤は弁じたが詳細ではなく、班固は詳細ではあるが意を尽くしていない。そのいたるところを示せば、周は上策を得て、秦は中策を得て、漢は無策であった。何をもってそう述べたのか?服飾が整わない塞外の地では、声教はおよばず、それが叛いたときに対策を実施しなければ軍を出動させることになり、それが降ったときに対策を実施しなければ備えをとくことになり、厳しき防御を守り、要害に急ぎ集まれば、それが寇したところでできることはなく、臣下とすることはできないのである。「この中国をいつくしみ、四方を安んぜよ」というのは周の道であり、そのため周は上策を得たのである。 易に「王侯は要害を設けてその国の防御を固める」とある。長城を築き、砦を修築するのは、要害を設ける所以である。趙簡子は長城を築いて胡に備え、燕・秦もまた長城を築いて防備を中外に限り、ますます城塞に理した。城全して国が滅ぶと、人に責任をとらせたのだ。後に魏が長城を築くと、知識人は一人に一歩を治め、方千里に三十万人を労役させたが、十日としないうちに終わった。そのため秦は中策を得たというのだ。 漢は宗室の娘を匈奴に嫁がせた。また高祖は魯元公主を嫁がせようとしたができず、趙王の謀叛のために沙汰やみとなり、これをよく匈奴の叛をやませたというが、そうではない。また冒頓は手づからその親を殺し、外祖父の部族と融和せずに勢力を争った。どうしてこんなことに惑わされるというのだろうか?そうならば和親を知ったところとて長い平和などないのである。謀略でこれをなして天下に初めて平和が定まったのであり、歳月を延ばしたところとて禍となるのみである。武帝の時、中国は平和となり、胡の寇略はますます稀となり、疎遠となって途絶した。まさにさらに中華を費やし、兵を連ねること年を重ねた。そのため厳尤が下策としたのである。しかしながら漢も昭帝・宣帝の時代となり、武士は練兵し、斥候は精明となり、匈奴は痕をおさめて遠くに移ったが、なおも平和時の誤った政策を踏襲して、政府の倉庫を傾けて西北に給付すること、年に二億七十万にも及んだ。皇室の淑女は穹廬(テント)に嫁ぎ、夫は宮殿のわきの殿舎におり、沙漠にくだり、子女に方物を貢物するのが、臣僕の職掌となったのである。詩に「敢へて来享せざることなし、敢へて来王せざることなし」といい、「荒服は来王」といい、「来」と称して「往」とは言わないのである。公には盟約に及び、諱を書かなかった。いかんせん天子の尊をもって、匈奴と約して兄弟となすのである。帝女の号は、胡母とならんで夫人となり、母をすすめて子に報いるという、その汚俗に従うのだろうか?中国は蛮夷と異なるのは、父子男女の別があるからなのだ。美しき姿は、節が壊れて別物になっても、はずかしめが甚しいからなのだ。漢の君臣はこれを恥とはしなかった。魏・晋の羌狄は塞垣に居住し、給付は昔をこえた。百人の酋は千口の長となり、金印紫綬を賜い、王侯の俸禄をむさぼった。牧馬の童は乗羊の隸となり、毛皮をもたらして利をもとめる者は道にごったがえし、鋤鍬の利は養蚕を生むところとなり、数万里の国外に散財した。胡夷は年々驕り、中華は日に日にしわ寄せが来て、まさにその強きにあたらんとすれば、人力をつくして征伐した。それが服するに及んでは、これを養うことを初めのようであった。病めば則ち養いを受け、強ければ則ち内を攻め、中国は羌胡を服役させるために千年の時を費やした。悲しまざることがあろうか!誠によくその夷に与えた財を移して兵士に賞としてあたえれば、則ち民は富むだろう。その夷に与えた封爵を移して守臣に褒賞すれば、則ち将は良くなるだろう。富利を我に帰せば、危亡は彼に移るだろう。娘を夷に嫁がせる辱めもなくなり、伝送の労も無くなるだろう。これを破棄して為さないのは、だから漢は無策というのである。 厳尤はいった「古に上策なく、ために臣妾とすることができないのだ。本当にこれをよくしたが、用いなかったのみであった。秦は無策というのは、狄をはらって亡国となったのである。秦が亡んだのは、狄をはらったからではないのである。漢は下策を得て、胡を討伐して人は病んだが。人は既に病んでいたのである。また役人はこれを奉ったが、無策であった。」だから厳尤は弁じたが詳細ではない、というのである。 班固はいう「義を慕って貢物を献上するときは、礼譲をもってこれに接す」。なぜならば、礼譲は君子の交を以てし、禽獣・夷狄が接する所以ではないからである。しなやかで美しい外散、則えびすの心生である。えびすの心生は、侵盗の原因である。聖人は飲食・声楽をこれとともにせず、来朝すれば門の外に座し、舌は人体の委ねでこれを食べれば、よい香りや美味を知らしめないのである。漢習の習俗は外敵を玩び、その喜びは燕妃・趙妃といった色欲を喜び、太官の地位に甘んじて、服するに彩絹・薄絹の美服の豪華なものを、これを供すればさらなる増加を求め、これを絶せばすなわち怨をまねいた。これは飢えたヤマイヌ・狼に良肉をやるようなもので、食いつき噛みつかせるのをほしいままにさせたのだ。華人の歩卒は険阻に利し、虜人の騎兵は平地に利し、堅守して付け入る隙を与えなければ、逃げる賊などを追い、来襲したならば険を塞いで進ませないのであり、退去しようとしたならば険を閉じて帰らせないようにするのである。衝くには長戟をつかい、臨んでは強弩を用い、勝利を求めるのではないのである。例えば虫やトカゲに、何の礼譲をもって接するのであろうか?だから班固は詳細ではあるが意を尽くしていない、というのは、このことをいうのである。杜佑はいう、 秦はわずかに関中の地を以て六強国を滅ぼし、今万方の財をつくし、上は京師に奉り、外は犬戎の強勢があった。城を陥すこと数百、内は兵革があったが未だ休まらず、三紀(18年)(で滅亡)となった。どうして異術を行ったというのだろうか。古今の時代が違うというのだろうか? 周の制は、百歩を畝とし、、畝百を一人に給付した。商鞅は秦を補佐すると、地の利を尽くしていないから、さらに二百四十歩を畝とし、百畝を一人に給付した。また秦の地は広く人は少ないが、晋の地は狭いのに人がおびただしかった。三晋の人を誘致して耕させ、田宅を優遇した。また子孫におよんでは、秦の人をして外敵にあたらせ、農業・戦士でなければ官吏となることができなかった。大率百人は五十人を農業に従事させ、五十人は戦闘の訓練をさせた。そのため富国強兵となった。その後仕官の道は増え、職業の種類の広がりは日に豊かになり、今は大率百人で、わずか十人を農業に従事させ、他は違う技を習わせた。また秦・漢は鄭渠の漑田四万頃、白渠の漑田は四千五百頃であったが、永徽年間(650-655)、鄭渠・白渠の両渠は浸水して一万頃を超えることはなく、大暦年間(766-779)初頭、減じて六千畝となり、畝はわずかに一斛、毎年たったの四・五百万斛程度であり、地の利は消耗して、労働力は逃散し、富国強兵しようとしてもできなかった。漢の時、長安の北七百里はすなわち匈奴の地であった。侵掠はいまだかつてひと時も休まることはなかった。匈奴の人口は漢の一つの大郡程度でしかなかった。チョウ錯は防御の備えを請い、そのため北辺は平安となった。今、潼関の西、隴山の東、鄜坊の南、終南の北、十余州の地はすでに数十万家。吐蕃は資源が少なく、食少なく工芸も拙く、中国に及ばないこと遠く甚しかった。まことによく両渠の豊かさに復し、農夫を誘致して耕作させ、要害を選んで城塞を修繕し、屯田して力を蓄え、河・隴を回復すれば、どうしてただ自ら守るのみということがあるだろうか。 杜佑の孫の杜牧に至っては次のようにいう、 天下が平穏無事な時、大臣は栄逸を偸み、戦士は離落し、兵甲はにぶらせ弱くなり、車馬は損耗し、天下は雑然として群盗が多発する。すなわち急遽戦えば、これを「宿敗の師(常敗の軍)」という。これは訓練不足の過ちであり、敗因の一である。百人が戈を背負って県官に食を仰ぎ、水増しして千人の名簿をもって、大将はせせこましくもその余りを儲けとし、敵兵が強いのをこれ幸いとして、戦う者は常に少なく、ただ飯喰らいが常に多い。城塞を建設しても未だ乾かず、公の備蓄食料はすでに空っぽ、これは実態がないのを責めないの過ちであり、敗因の二である。戦は小さな勝利で大げさにその戦功をいいたて、感状をいただくのに奔走して、あるいは一日は再賜、一月は封を重ね、凱旋して未だ歌わないのに、書品だけはすでに崇く、封爵は極まり、田や宮殿は広く、金絹はあふれ、子孫は官位を得る。外地で戦死して彼らのために勤めた者は承知するというのだろうか?これは賞が厚すぎるの過ちで、敗因の三である。多く兵士を失い、都に逃げ帰って、身を跳躍させて来て、国を刺して去り、肉刑をかいまみて、悪い顔色はよくなり、一年も満たずしてすでに壇墀の上に立つ。これは刑罰が軽いの過ちで、敗因の四である。大将・将兵は、指揮が専一ではなく、あるときは偃月陣、あるときは魚麗陣となり、三軍の万夫はあちこちさまよい、陣の乱れの間を敵騎はこれに乗ずるのである。これは専任ではなりの過ちで、敗因の五である。元和年間(806-820)兵団数十万が蔡に誅殺され、天下は損耗し、四年後によく奪還したが、思うに五敗は去ったわけではなかった。長慶年間(821-824)初頭、盗人の子・孫がことごとく来て命を走り、しばらくもしないうちに燕・趙が反乱し、軍を率いる将軍を起用したが、五敗がますますひどく、威を反乱兵に加えることができなかった。 二杜(杜佑・杜牧)の論はこのようであった。 広徳・建中年間(763-783)、吐蕃は再度馬に岷江の水を飲ませ、常に南詔を先鋒とした。二尋にもおよぶ戟をあやつり、戦っては進み、蜀兵は刃折れ矢じりを呑むまで戦ったが、一人として斃すことができなかった。敵兵は日々深く侵攻したが、疫病で死ぬものが日に日に多くなり、留まることができず、たやすく撤退した。蜀人は語って、「西戎はなお貴ぶべきだ。南蛮はわが方に残るべきである」と言った。韋皋は青谿道を開通して群蛮と和し、蜀に入貢させ、子弟を選抜して書や算を成都に留学させ、学業が成ってから去らせたが、同時に山川の要害を周知させることになった。文宗の時、大挙して成都に侵入し、越巂より以北の八百里は、民衆も家畜もいなくなり、また敗卒・貧民によって略奪・殺害されたが、官は禁止することができなかった。これより群蛮は常に蜀を攻掠しようとする心があり、蜀の民は幾度とない征討に苦められ、また非常な幸運がないかと願うことになった。毎年兵隊を徴発され、山川の険しきを前もって習うことなく、ゆっくり歩いてわずか一舎(三十里)でも、すでに苦痛のため汗が流れ。将軍となる者らは酷薄で、給された帛を自らの懐に入れ、粟は砂のようなのを三粒給付するだけで、そのため辺境の士卒は恨みを抱き、巴・蜀の地は危機に瀕した。孫樵は「よろしく厳道・沈黎・越巂の三州に詔して、要害をわたり、兵卒を募兵して守らせるべきである。また兵籍は州に置き、すなわち易役とし、兵卒は辺境に出して山川の険を習わせ、それぞれの地に分けて駐屯させ、春は耕し夏は養蚕して衣食にあて、秋冬には守りを厳として敵の侵攻を待つ。毎年廉吏を派遣して兵卒の有無を視察させるならば、則ち官は賄賂に動くことなく、官吏は横領することがなくなるだろう」といった。その備禦の策を施行すべきものは、篇に著した。 すべて突厥・吐蕃・迴鶻の盛衰を以て先後とし、東夷・西域を次とした。当時の軍事上の優先順位によったものである。最後に南蛮としたのは、唐代に記録された資料が失われたからである。 突厥の阿史那氏は、そもそもは、昔の匈奴の北方の一氏族(原語は部)であり、金山 (アルタイ山)の南に居て蠕県(茹苑、柔然)の支配を受けたが、子孫は繁栄し、吐門のときになってきわめて強大となった。そしてかれは可汗の称号をとったが、単于のようなものであり、妻を可敦といった。その地は、三方は海に近く、南は大きな砂漠(ゴビ)に接している。その部(所領)を別にして軍隊を持ち指揮する者を設といい、子弟を特勒といっ た。臣の重要なのは、葉護、屈律啜、阿波、俟利発 、吐屯、俟斤、閻洪達、頡利発、達于などで、ぜんぶで二十八等級あり、みなその官位は世襲であって、定員はない。衛士を附離という。可汗は、都斤山に支配の根拠地を置き、本営の入口には金の狼頭をつけた大旗を樹 て、つねに東に向かって席を占めている。 隋の大業年間(605-616)の乱のとき、始可汗の咄吉がついで立った。中国人が多くかれを頼って亡命した。契丹、室韋、吐谷渾、高昌などもみな服属した。竇建徳・薛挙・劉武周・梁師都・李軌・王世充らは蜂起し、情勢をうかがっていたが、いずれも臣としてつかえ、敬意をはらった。兵力はまさに百万、戎狄の強盛とであったことは、かつてなかったほどである。 高祖が太原で起ちあがると、府司馬の劉文静をつかわし、行って訪ねさせ、お互いに和約を結んだ。始畢は、その特勒の康稍利に、馬二千頭を献上するとともに、兵五百でもって合流させた。帝が都を平定すると、そのようなことから、功労を自負して、その使者は来るたびにわがまま勝手をすることが多かった。 武徳元年(618)、骨咄禄特勒が来朝した。皇帝は、太極殿で宴を催し、九部楽を奏し、玉座のところまで昇らせた。この年、始華の本営の帳幕が自然にこわれたが、皇帝が内史令の蕭瑀に訊ねると、蕭瑀は、「魏の文帝が許に行ったとき、城門が理由もなくこわれ、その文帝が崩したということがあるが、それと同じようなことかもしれぬ」と答えた。二年(619)、始畢はみずから将となって兵をひきい、黄河を渡って夏州に来て賊の梁師都と合した。さらに、劉武周を兵五百騎で授け、句注山に侵入し、太原に侵入しようとしたところで、たまたま病死した。帝は、そのために長楽門でその死を発表し、群臣に詔して宿舎に行って使節を弔問させ、さらに使者をその本国に派遣して、織物三万段を弔慰品として贈った。子の什鉢苾は幼少すぎて可汗位をつぐことができなかったので、泥歩設として東方に居り、弟の俟利弗設が即位した。これが処羅可汗である。 処羅可汗はまた隋の義成公主を妻とし、使者を派遣して報告してきた。一方でまた王世充に連絡をとろうとしたので、潞州総管李襲誉は襲撃してその使者を斬り、牛羊一万余を手に入れ た。処羅は、隋の皇后と斉王暕の子の正道とを竇建徳のところから迎え、正道を立てて隋王とし、隋のあとをついだ。隋人の亡命したものはみな従い、隋の暦を用い、百官を置き、定城を居城としたが、人口は一万もあった。 秦王(唐太宗)が劉武周間を討つと、処羅は、弟の歩利設の二千騎をもって并州で合流させた。三日間滞在して、城中の婦人、女子を多数拉致したが、総管の李仲文はそれを制することができなかった。処羅は倶倹特勒を助勢として駐屯させた。明年、処羅は并州を取って正道をそこに置こうと謀ったが、占ってみると不吉と出たので、側近の者が中止をすすめた。処羅は、「わが亡き父が国を失ったときには、隋のおかげで存続することができた。今になってそのことを忘れるのはよろしくない。たとえトが不吉と出ても、神が知らないということはないはずだ。自分で決を下そう」と言った。おりから天から血が雨となって降ること三日に及び、国中の犬が夜になると群がり吠えたが、その姿は見えなかった。そして処羅はついに病気になり、公主が五種の薬石を与えたが、にわかに疽が出て死んだのである。公主はその子の奥射設がいやしく弱々しかったので立てず、またその弟の咄苾をつがせた。これが頡利可汗である。 はじめは莫賀咄設で、五原に本営を置いていた。薛挙が平涼郡を陥落させると、手を結んだ。皇帝はこれを心配し、光禄卿の宇文歆を派遣して、頡利に賄賂して、薛挙との交わりを絶たせた。隋の五原の太守張長遜はその領内の五城をもって突厥に服属していたが、宇文歆はなおまた頡利を説得して、五原の地を返させようとした。みな聞き入れられ、しかも頡利はその兵を出し、張長遜の配下の人びとぜんぶとともに、秦王の軍に合流した。太子の李建成が、豊州を廃し同時に楡中 (オルドス)を突厥に割譲することを提議した。そこで処羅の子の郁射設は、配下の一万帳とともに黄河の南に入り占住し、霊州を境界とした。 頡利もまた義成公主を妻とし、始畢の子の什鉢苾を突利可汗とし東方に居らせた。義成公主は楊諧の女である。その弟の楊善経もまた突厥に亡命していたが、王世充の使者の王文素とともに頡利に対して、「かつて、啓民可汗の兄弟が国を争ったとき、隋のおかげで可汗位を回復し、子孫も国を保つことができた。いまの天子は隋の文帝の後継者ではない。このさい、当然楊正道を立て、その厚徳に報いるべきだ」と言い、頡利はそのとおりだとしたので、年が入寇してきた。そして父や兄の遺産により、兵は精鋭、馬も多く、おごりたかぶる気持ちは多くの国に比べるものがないほどで、中国をとるにたらぬ対手として、書状の言葉も非道無礼、待ち受け求めることのみ多いありさまだった。皇帝は、まさに天下経路の途上にあったので、へりくだって多くはすておき、贈り物は数えきれぬほどしていたが、それでも満足せず、際限なく要求してきたのである。 四年(621)、頡利は一万騎をひきい、君璋といっしょに、雁門を攻めたが、定襄王の李大恩が撃ってしりぞけた。頡利は、わが使者の漢陽公の李瓌、太常卿の鄭元璹、左驍衛大将軍の長孫順徳をとらえていた。皇帝もまた突厥の使者をとらえて、対抗した。そこで頡利は代州に入寇し、行軍管の永安王孝基を破り、黄河の東に侵略し、原州を犯し、延州の塞を破った。諸将は、戦いをかさねたが、俘囚を手に入れることはできなかった。 その翌年になって長孫順徳らを解放し、同時に和を請うてきた。魚膠を礼物とし、「両国の友好を固くするためである」などとの好辞を弄していて、皇帝はまだ心を動かされることはなかったが、その使者の特勒熱寒らを釈放し、金を多く与えて、帰国させたのである。李大恩が、「突厥は食糧がなくなっている。馬邑を攻略すべきだ」と上言した。詔して、李大恩といっしょに殿中少監の独孤晟に征討させた。独孤晟は約束におくれ、李大恩は進むことができず、新城に駐屯していた。頡利はみずから数万をひきいて劉黒闥と軍を合わせて包囲し、李大恩は戦死して兵士の死者数千人を出した。忻州に進撃して、李高遷に破られたが、劉黒闥は突厥の一万の兵をもって太行山の東方をさわがし、定州で暴逆をふるった。頡利はまだ気がすまず、十五万騎をひきいて雁門に侵入し、并州を包囲し汾州・潞州を掠奪し、男女五千人をとらえ、さらに数千騎を分けて原州・霊州の間を掠奪してまわった。ここにおいて、太子の李建成は兵をひきいて豳州道に出陣し秦王も兵をひきいて蒲州道に出て敵を攻撃し、李子和は軍をひきいて雲中に行き可汗の後方を襲い、段徳操は夏州に出てその帰路を狙った。并州総管の襄邑王李神符は汾水の東で戦って敵の首五百を斬り馬二千を奪い、汾州刺史の蕭顗は五千の捕虜を献上した。敵は大震関を陥落させ、弘州で兵にかってに掠奪させたが、弘州総管の宇文歆、霊州の楊師道はこれを防ぎ、馬とらくだ数千を捕えた。頡利は、秦王がまさにやって来ると聞き、引きあげて境界から出たのであり、わが軍も引きあげた。 さらにその翌年、突厥は劉黒闥・苑君璋らと、定・匡・原・朔などの諸州に小規模に入寇し、屯将との間にそれぞれ勝敗があった。皇帝は太子の李建成をふたたび北辺に駐屯させ、秦王を并州に駐屯させて、突厥に対する防衛体制をとらせたが、長く続いたものの廃止された。突厥はとつぜんまた代州の一屯営を破り、さらに進んで渭・豳の二州を攻撃し、馬邑品を占領したが、長くは保有せず、あらためて講和を求めて、馬邑は返還された。 七年(624)、原・朔の二州を攻撃し、代州の地に侵入したが、勝つことができなかった。さらに苑君璋と合して隴州と陰槃城を攻め、別軍は并州の地を攻撃した。秦王と斉王の李元吉とは、豳州道に駐屯して敵に備えた。君璋と突厥とは、原、朔、忻、并などの地方に出入しては強奪などして騒がせていたが、わが諸将もしばし ばそれを駆逐した。その八月、頡利と突利の兵が総動員されて原州から軍陣を連れて南下してきた。かれらのあらわれた所では震えあがって恐れた。秦王と斉王とがその防禦に当たった。 その前に関中方面は、長雨で濁流が溢れ、糧食運搬道がとだえていたが、軍が豳州に駐屯すると、可汗の万騎は怒濤のように襲来し、五竜坂に陣とって、数百騎をもって挑戦してきた。わが軍士は色を失ってしまった。秦王は百騎をひきいてかけ出し、敵陣に乗りこんで大声をあげてこう言った。「わが国は突厥にそむいたことがないのに、なにゆえにわが領域深く侵入するのか。自分は秦王だ。だから、とくにここまで来て、自分で可汗と事を決しようとするのだ。もしあくまで戦いを望むなら、わが方はただの百騎でよい。いたずらに殺傷の数を多くするのは、なんの益もないであろう」と。頡利は笑って答えなかった。また騎士を馳せて、突利に語って言った。「なんじは、かつてわれと危急のときにはお互いに救いあうことを誓ったはずだ。いま神聖なる誓約を無にするのか。ひとつ勝負を決しようではないか」と。突利もまた答えなかった。王はまさに河を渡って進もうとした。頡利は兵が少ないのを見、また突利と語るところを聞き、ひそかにねたんだ。そして使者を派遣してきて、「王よ、なにも心配することはない。自分は、もちろん戦うつもりはなく、ただ王と相談しようと思うだけだ」と言った。そして兵をひいて退いた。間者を突利のところへ放った。そこで心をわが方に帰し、戦おうとしなくなった。頡利もまた強いて戦うことをせず、ために突利と夾畢特勒の思摩を派遣して講和を願った。皇帝はそれを許した。そして突利自身は、ついに王にたより、兄弟となったのである。皇帝が思摩を引見するとき、御座のところまで昇らせようとしたが、頓首して固辞した。皇帝が、「われが汝にまみゆるのは、頡利にまみゆるのも同じだ」と言ったので、ようやく命に従った。 突厥はすでに毎年国境方面を盗掠していたので、ある者が皇帝に説いて、「突厥がしばしば国内深く侵略してくるのは、財貨の収めてある倉庫や子供、女の所在を狙ってである。もし長安を抛棄すれば、かれらの意図もやむだろう」と言った。皇帝は、中書侍郎の宇文士及に南山をこえて樊か鄧に行くことを検討させ、都をそこに移そうとした。諸臣は多く遷都に賛成したが、秦王だけは、「夷狄は古来中国の患となってきたが、周も漢もそのため遷都したということはなかった。願わくば、ここに数年の時を借していただきたい。そうすれば、可汗を捕えてみせるであろう」と言った。そこで皇帝は遷都を中止した。頡利はすでに講和もしたし、おりから大雨が降り弓矢がみなゆるんでしまったので、ここにいたってついに解囲して引きあげていった。皇帝は諸臣を集めて辺防の策を諮問した。将作大匠の于筠は、五原、霊武の地で、水軍を黄河に置いて侵入をくいとめることを申しでた。中書侍郎の温彦博は、魏が対匈奴のためにつくった長い濠が現在も使用できると言った。皇帝は、桑顕和に国境地帯の大道にほりを作らせ、江南の船大工をよびよせ大勢の兵士を動員していくさ船を整備した。頡利は使者をつかわしてきて、北楼関まで行って、通商せんことを願った。皇帝は拒むことができなかった。皇帝は、はじめ天下を併合すると、十二軍を廃止して、武力によらぬ政治を目ざしてきたが、いまや突厥に対する心配が大きくなったので、またそれを置き、兵卒を訓練し軍馬も集めた。 八年(625)、頡利は霊州と朔州を攻め、代州都督の藺謩と新城で戦った。藺謩が敗戦した。そこで、張瑾の軍が石嶺に駐屯し、李高遷が大谷に駐屯し、秦王は蒲州道に駐屯することにした、当初、皇帝は突厥を敵国の礼であつかったが、 ここに及んで怒り、「以前には、わが方は、天下が未だ平定しないので、かれを厚遇し、辺境の整備もゆるめた。それが今とつぜん約束を破ったのである。朕はこれを撃滅しようと思う。一時のがれのこと をすべきではない」と言い、役人に命じて送るのを書としていたのを、詔または勅とさせた。張瑾はまだ駐屯するところまで来なかったのに、すでに石嶺をこえて并州を囲み、霊州を攻め、さらに転進して潞州・沁州をさわがせた。李靖は軍をひきいて潞州道に出、行軍管の任瓌は太行山に駐屯した。張瑾は大谷に戦って敗れた。中書郎の温彦博は賊にとらえられ、鄆州都督の張徳政はそのとき死んだ。最後に広武を攻め、任城王の李道宗のために撃破された。欲谷設は綏州で掠奪し、講和を申しててひきあげたが、并州の数県を破り、蘭、鄯、彭の各州で諸営に侵入した。かれらはときどき戦勝したが、制圧することはできなかった。とつぜん、原州に侵入したが、折威将軍の楊屯はそれを撃ち、また兵を出して大谷に駐屯させた。 九年(626)、原州、霊州を攻め、さらに涼州を包囲し、進んで涇州、原州に侵入した。李靖がそれと霊州で戦ったが、敵は退却して西会州を侵略し、烏城を囲み、隴州、渭州の間をさまよった。平道将軍の柴紹がそれを秦州で破り、一人の特勒、三人の大将ならびに千人の首を斬った。かれらはたいてい、調子がよければどこまでも深入りし、負けいくさとなると講和を願って恥じないのである。 その七月、頡利はみずから十万騎をひきい、武功を襲撃した。京師には戒厳令がしかれた。高陵を攻めた。尉徳敬徳がそれと涇腸で戦い、烏没啜を捕え、千余級の首を斬った。頡利は、かれの参謀の執失思力を派遣して入朝させ、こちらの情勢を探らせたが、かれは誇らしげに、「二可汗の軍百万がいま来ている」と言った。太宗はつぎのように言った。「自分は可汗とかつて対面して和約を結んだのに、お前の方でそれに背いた。また、われわれが正義の軍をおこした当初、お前の方の父子みずから従軍したので、われは無数の財宝を与えた。なぜみだりに軍をひきいては、わが都近くの地にまで侵入し、自分の強を誇示するのか。こうなれば、お前をまず殺すしかない」。執失思力は、おそれ助命を願った。蕭瑀と封徳彝とが、かれを礼遇して放免する方がよいと諫言したが、皇帝は許さず、かれを門下省に拘禁した。そして 侍中の高士廉、中書令の房玄齢、将軍の周範らと六騎でもって馳け出し、玄武門を出て、渭水のほとりに行き、可汗と河を隔てて語り、その約束に負いたことを責めた。多くのおもだったものたちは、皇帝を見てみな驚き、馬を下りて拝した。そこにたちまちわが大軍がやって来た。旗や鎧はきらきら輝き、部隊は静粛で厳然としていたので、かれらは大いに驚いた。皇帝と頡利とはたづなをひかえ、軍隊には退いて陣どるように指図したのである。 蕭瑀は、皇帝が敵を軽んじすぎていると考え、馬をひきとめて諫めたが、皇帝はつぎのように言った。「自分は十分考えていることだ。お前の知るところではない。そもそも突厥がその国内をからにして入寇してきたのは、わが国家がまだ新しく、国内に困難があり、軍を起こすことができぬと思ってのことだ。わが方がもし都城内に閉じこもれば、かれらはかならずわが国内で大掠奪を働くだろう。だから自分は一人でとび出し、なにも恐れていないことを示し、一方、軍容をととのえて、必要ならいつでも戦うことを知らしめたのだ。意表外のところを衝いて、わが方がそのそもそもの計略をはばめば、かれの方はもはやわが地に入ってきているのだから、恐れても引き返すこともできない。だから、一戦を交えればかならず勝つし、和約を結べば強固なものとなろう。賊の命を制するのは、このような行動にあるのだ」。この日、頡利ははたして和を請い、それを許した。翌日、白馬を殺して、頡利と便橋のほとりで盟約を結んだ。突厥がひきあげていったとき、蕭瑀がこう言った。「頡利がやって来たとき、多くの将軍が戦うことを願った。しかし、陛下はそれを許されなかった。今や敵はみずから退いたわけだが、いったいこれには、どういうはかりごとがあったのでしょうか」。皇帝はつぎのように言った。「実際は、数は多いが秩序がない。君臣それぞれ狙っているのは、ただ利だけだ。可汗だけは川の西に居るのに、おもだった連中はみな自分の方に拝謁にやってくる。かれらを酔わせて捕縛することなど、きわめてたやすいことだ。また、自分は長孫無忌と李靖に命じて幽州に軍隊をかくして待ち伏せさせてある。もし大軍がすぐ敵の後を追い、前面にまた迎え討つものあれば、それを攻めとることは手のひらをひっくり返すようにたやすいことだ。しかし自分は新しく即位したものだ。国をかためるためには、安静が肝要である。ひとたびかれらと戦えば、死傷者もかならず多く出よう。たとえかれらが負けたとしても、亡びてしまうわけではない。かえってこちらを警戒し、わが国を敵視するようにでもなれば、十分対抗できるだろうか。いま戦いをやめて、玉・帛をやってきげんをとっておけば、かれらはきっとおごりたかぶるであろう。そうなれば、まさに衰亡がはじまるのである。取ろうと思えば、まず十分に与えねばならぬ」。蕭瑀は再拝して、「臣ら愚かものの及ぶところではありません」と言った。そこで、殿中監の豆盧寛と将軍の趙綽とに命じて、突厥を護送させた。頡利は馬三千頭と羊一万匹とを献上してきたが、皇帝は受け取らず、詔して捕虜をこちらに返させた。 貞観元年(627)、薛延陀・回紇・抜野古らの諸部がみな頡利に叛いた。突利に討伐させたが、その軍は敗れ、突利は身体一つで逃げ帰ってきた。頡利は怒り、かれを監禁したので、突利はそれから怨みをいだくようになった。この年、大雪が降り、羊馬は多く凍死し、人間も飢餓に陥った。わが軍がその困難に乗じて 出撃しはせぬかと心配し、軍を朔州地方に引き入れ、巻狩りをすると言いふらした。朝廷での会議に集まったものは、その背を責めて討伐すべしと言ったが、皇帝はつぎのように言った。「身分賎しい人間でも、信義がなくてはならぬ。いわんや、一国としてはなおさらである。 自分はそれと盟約を結んでいるのだ。それなのに、その災禍を利用してそれを攻略するなど、どうしてできようか。それがわが方に対して不法なことをしたときには、討伐しよう。」 明くる年(628)、突利は、頡利に攻められたからと、救援を求めてきた。皇帝は、「朕は頡利と盟約を結んでいるし、また突利とも兄弟となる約束をしたので救わぬわけにはいかぬが、どうしたものか」と言った。兵部尚書の杜如晦は、「あのものたちには信義がない。 こちらが翌約どおりにしても、あちらは常にそれにそむく。いま乱れているときにそれを攻めるのは、亡ぶべきものは侮るという道理である」と言った。そこで、将軍の周範に話して、太原にとりでを作り、このことの全般を処理させたが、頡利もまた、軍をひきいて辺境を狙っていた。ある者が、むかしの長城を築きなおし、兵を出して境界を守ることを願ったが、はつぎのように言った。「突厥では、この盛夏に霜がふったし、五日間太陽は同じ時刻に昇り、三日間月は同じ明るさで、野一面に大気は赤色となった。彼が災いをみても正しい道を行なおうとしないのは、天をかしこみ畏れないものである。むやみと移り動いても多く死んだのは、地を用いないものである。その風俗では死者を焼いたのに、いまはみな埋葬し墓をつくっているのは、父祖の命にそむくものであり鬼神をあなどるものである。突利と仲良くしないで内輪で攻めあっているのは、近親のものと相和していないことである。この四つのことがある以上は、まさに亡びるにちがいなかろう。当然、公らのために、それを征服しよう。要塞を築くことなどあろうか。」 突厥の風俗はもともと質素なものであったが、頡利は中国人の趙徳言を得てから、その才能を高くかい、すべてをまかせきりにしたので、だんだんと国政を左右するようになっていた。 また胡人たちにも国政をまかせ、本族の者を遠ざけて用いなかったので、軍を動員して毎年のように中国辺境に侵入するとなると、下のものはその因苦にたえきれなくなっていた。胡人は性質が貪欲であり、無定見で信用ならぬことがしばしばで、その指図するところはいつも変わっていた。年々大飢饉が続いてもきびしく重く、諸部族はだんだんと二心を抱きはじめたのである。 その翌年(629)、属部の薛延陀が自分で可汗と称し、使者を派遣して来た。兵部尚書の李靖に詔して、突厥を馬邑で攻撃させた。頡利は逃げ去り、九人の俟斤が配下たちとともに降服した。抜野古(バイルク)・僕骨(ボクトゥ)・同羅(トンラ)の諸部や、霫・奚の族長たちもみな来朝してきた。そこで詔して、并州都督の李世勣には通漠道、李靖には定襄道、左武衛大将軍の柴紹には金河道、霊州大都督で任城王の李道宗には大同道、幽州都督の衛孝節には恒安道、営州都督の薛万淑には暢武道に出動させ、ぜんぶで六総管が十余万の軍をひきいて、みな李靖の指揮を受けて、討伐に向かった。李道宗は霊州で戦って、人や家畜一万ほどを捕えた。突利と郁射設・蔭奈特勒らがみな領民をひきいてやって来た。勝ちいくさが日夜報ぜられて来た。皇帝は、集まった臣下たちにつぎのように言ったのである。 「さきに国がはじめて生まれたときは、父帝は、国民のために、突厥の下についていた。臣服したふりをしていたのである。朕はいつも心を痛め思い悩みながら、いつかはこの恥を天下より一掃せんと考えていた。いま、天の導きにより、各将軍の向かうところみな勝利を収めている。朕はいまやようやく事を成し遂げるのであろうか」 貞観四年(630)正月、李靖は軍を進めて悪嶺定の方に駐屯し、頡利に夜襲をかけた。頡利は驚き、本営を磧口まで逃げた。大首領の康蘇蜜らが、隋の蕭皇后と楊正道を連れてきた。中国人で以前ひそかに皇后と文通したものがあると言うものがあって、中書舎人の陽文瓘がとり調べ罰するよう願った。皇帝は「天下がまだ統一されていないときに、人があるいは隋のことを思うのは当然である。いまは寝がえりするものも、もういない。罰する必要などはない。とり調べることもない」と答えた。頡利は窮して鉄山に逃げ籠もったが、兵力はなお数万あった。執失思力を派遣して、うわべは哀れそうに罪をわび、服属することを乞うた。皇帝は、鴻臚卿の唐倹、将軍の安修仁らに命じて、特使として派遣してそれを安撫させた。唐倹がかれらのところに居る以上、かれらはかならずや安心しているだろうと察知した李靖は、そこでそれを襲撃し、民衆をみな捕えてしまった。頡利は千里馬を手に入れ、ひとりで沙鉢羅設のところへ逃げのびた。行軍副総管の張宝相が頡利をとりこにし、沙鉢羅設の蘇尼失は、その配下のものたちとともに降服してきた。突厥の国もついに亡びた。定襄・恒安の地もとり返し、ゴビ砂漠まで境域はひろがったのである。 頡利が都に到着すると、皇祖のおたまやにいけどりにしたことが報告された。皇帝は順天楼に臨御され、儀仗隊を配置し、一般民衆に見物させた。役人が可汗を引き立ててくると、皇帝は つぎのように言った。「汝の罪は五つある。汝の父のとき、国が破れ隋に頼って安んずることができた。一本の鏃の力だけの助けもせず、先祖のおたまやにいけにえを供えないようにした。これがその一である。わが国と隣国でいながら信義を守らず辺境をさわがせた。その二である。兵力に頼って戦うことを止めず、配下の諸部落は怨恨をいだくにいたった。その三である。中国人をおびやかし、いため、作物を荒らしてしまった。その四である。縁組みを許したのに、ひきのばして逃げかくれした。その五である。朕が汝を殺しても、十分の理由がある。渭水のほとりでの盟約はいまだ忘れていない。だから、あくまでも責めるということはしない」。そこで、その家族郎党をみな返してやり、太僕寺に宿をとらせて食料を支給した。 思結俟斤が、四万の民衆とともに投降してきた。可汗の弟の欲谷設は高昌に逃げたが、それからまた投降してきた。伊吾の町の主長はもと突厥に服属していたものだが、配下の七城全部をもって献上してきたので、その土地を西伊州とした。皇帝は詔して、「突厥はむかし流行病におそわれ、長城の南には骸骨が丘をなしている。役人は神酒と供物をそなえて 祭りをして埋葬せよ」と命じた。さらに詔して、隋朝時代の動乱で多くの中国人が突厥の手中に入っていたのを、使者を派遣し、黄金絹織物で男女八万人を買い戻し、平民とした。 頡利は家屋内で暮らそうとせず、平常は宮城内に天幕を張って暮らしていた。いつまでもふさぎこんでいて、はっきりせず、家族と悲歌をうたっては、いっしょに泣いていた。顔つきも、げっそりとやつれてしまった。皇帝はそれを見て憐れに思い、虢州が山を負っていて鹿の類が多く、狩猟の楽しみも多いだろうと考えて、刺史にしようとした。しかし辞退して赴任しようとしなかったので、右衛大将軍に任命して、りっぱな土地と邸宅を賜わった。皇帝 はこう言った。「むかし啓民可汗が国を亡ぼしたが、隋の文帝は食糧、衣料を惜しむことなく、人びとを励まして、もり立てて、存立させた。始畢のときになるといくらか強くなり、軍隊でもって煬帝を雁門で包囲した。いま頡利が破れ亡びたのも、かれらが徳にそむき義を忘れ、必然の結果でなかろうか」。頡利の子の畳羅支はひじょうに善良な性質だった。突厥人たちが都で宿舎を与えられると、多くの婦人たちはいろいろなものを供給され、畳羅支も貰ったが、その母はさいごにやって来たので貰えなかった。そのため畳羅支は肉も食べようとしなかった。皇帝はその話を聞いて感心し、「生まれながらにして仁、孝の徳をそなえているものは、中国の人も異国の人も区別はない」と言い、かれに手厚く物を賜い、母親にも肉を供給した。 八年(634)、頡利は死んだ。帰義王の号を贈り、荒という謚を賜わった。その国の人たちに命じて、それを葬るのに、その礼式に従って火葬させ、濁水の東に墓をつくらせた。その家来の、胡禄達官の吐谷渾邪という者は、頡利の母の婆施の勝臣(婚前からのつきそい)であった。頡利が生まれると吐谷渾邪のところにあずけられていたのであって、このとき悲しみのあまり自殺したのである。皇帝は珍しいことだとして、中郎将の号を贈 り、命じて頡利の墓の側に葬らせ、中書侍郎の岑文本に詔して、その事を頡利と渾邪の墓碑に刻ませた。間もなくすぐ、蘇尼失も殉死した。蘇尼失は啓民可汗の弟である。始畢は沙鉢羅設にしたが、配下は五万帳、その本営は霊州の西北にあった。風貌は雄々しく勇敢で、下のものに対してはめぐみ深く、多くの人が信服していた。頡利の政治が乱れても、かれのところだけは反逆することがなかった。頡利が唐に降ったとき、頡利は小可汗にしていたが、頡利が敗れてしまったので、配下のものぜんぶをつれてやって来て、ゴビ以南の地にはついに人影もなくなったのである。北寧州都督、右衛大将軍に任ぜられ、懐徳王に封ぜられたといわれている。 頡利がほろぶと、その支配下にあったものは、薛廷陀のところへ行ったり西城に入ったりしたものものもあったが、なお唐へ降ったものも十余万あった。皇帝は命じて、その処置に対すれ適策を討議させた。みなが言ったのは、「突厥は永年中国をさわがせていたが、いま天がそれを亡ぼしたのであって、義を慕いすすんで帰服したのではない。降伏したものや捕虜にしたものをみな戸籍に入れ、兗州・豫州の無人の地に住まわせ、耕作、織物などを習わせてほしい。この百万人の虜たちも斉の人にしてしまうことができるので、それは中国の人口をふやし、砂漠の北の土地を無人にすることになる」ということだった。中書令の温彦博は、つぎのような提案をした。「漢の建武帝の時に、降伏した匈奴人を五原の辺境地帯に置き、その部落はそのままにして防衛の任に当たらせたようにする。その固有の風習を変えずに安撫するのであって、無人の地に人が住み、しかも疑惑の意図もないところを示すことになる。もし兗州や豫州にまで入れると、かれらの本性 にもそぐわず、包容し育てる道ではない」。秘書監の魏徴は、このように提案した。「突厥は、代々中国の敵となっていた。いまやって来て降伏した。ただちに滅ぼしてしまうのでないならば、黄河の北へ追い返すべきである。かれらは鳥獣のように粗野な心を持つもので、われらと同類ではない。弱いときには下手にでるが、強くなればすぐ叛くというのが、その天性である。秦や漢のとき、精鋭なる軍隊と勇猛なる将軍でもって黄河の南の地方を占領して郡や県としたのは、中国に近づけさせたくなかったからである。陛下が突厥を黄河の南の地に居らせようとされるのは、どういうことか。そして降伏してきたものは十万を数える。数年もたてば、増えて二倍になるだろう。しかも、都にも近い。これは治しにくい胸と腹の病というべきである」。温彦博は言う。「そうではない。天子は、四方の夷にとっては、天地万物を養うように、上から覆いあるいは下から載せるかのようにして安全ならしめるものである。いま突厥は破滅し、残ったものが帰服してきたのに、それに憐れみを加えずに放っておくことは、天が覆い地が載せるようにという道義にもとり、四方の夷に手をさしのばさぬと見なされよう。私は思う。かれらを黄河の南の地に居らせることは、死ぬものを生かし亡ぶものを存在させることになり、かれらは代々その徳を忘れないはずで、そむくことがどうしてあろうか」。魏徴は言う。「魏のとき、胡人の部落が近くの郡のあちこちにあった。晋呉を平定すると、郭欽と江統が晋の武帝にそれを追い出すことを勧めた。しかし武帝はその策をとらず、劉淵・石勒の乱がおこって、ついに中国を倒した。陛下があくまでも突厥を引 きいれて黄河の南に居らせようとされることは、いわゆる虎を飼うことによって自分から災難をのこすということと同じようなものである」。温彦博は言う。「聖人の道は通ぜぬところはない。それで、教えるときに差別はないともいわれる。かれらの傷つきいためつけられながら生き残ったものが、窮してわが方に帰服してきたのである。われわれは、それを助け保護して、内地に入れ、礼法を教え、農耕を身につけさせ、また酋長たちの中から良いものを選んで宮廷の宿直番にもつければよい。なにを心配することがあろうか。光武帝は南匈奴の単于を五原に置いたが、けっしてそむきはしなかったではないか」。中書侍郎の顔師古、給事中の杜楚客、礼部侍郎の李百楽らはみな皇帝に勧めて、「黄河北方の地方に居らせ、おもだった者を立ててそれぞれの部落をまとめさせ、土地の大小があっても主従関係を結ば せぬのがいちばん良い。そうすれば国は小さく、権力は分散し、もう中国に敵対することはできない。長い手綱で遠くから馬をあしらうというやり方である」とした。しかし皇帝は、温彦博の言うところを尊重し、けっきょく朔方(北方)の情況を調べ考えて、幽州から霊州の間に、順州・祐州・化州・長州の四州を設置して都督府とした。頡利のむかしの領土は分割して、左は定襄都督、右は雲中都督を置いて、二都督府で統治させた。おもだった酋長たち五百人を将軍や郎将にし、朝廷への伺候を許されたものも百人ちかくあり、長安に入って戸籍登録されたものは数千戸あった。そこで突利可汗を順州都督とし、配下のものをひきつれて、その所領に行かせることにした。 突利は、はじめ泥歩設だった。隋の淮南公主がやってきたとき、彼女を妻とした。頡利が即位すると、すぐ下の弟を延陀設として延陀部を支配させ、歩利設に霫部を支配させ、統特勒に胡部を支配させ、斛特勒に斛薛部を支配させ、突利可汗には契丹・靺鞨の両部を支配させた。かれの本営は、その南の方角に幽州のあるところに置かれた。東部の民衆がぜんぶかれの管轄下となったが、突利は無法に搾取したので、配下のものはついて行こうとしなかった。そこで、薛延陀・奚・霫などがみな唐に内属した。頡利はそれらを突利に攻めさせたが、また大敗して、配下のものたちも騒ぎみだれてかれから離れていく始末だった。頡利はついにかれを召しとり笞うち、長い間ゆるさなかった。突利はかつて、すすんで太宗と手を結んでいた。そののち頡利が衰えると、しばしば突利から軍隊を出させようとしたが、かれはそれに従おうとしなかったので、それより攻めあうようになったのである。突利が入朝を願ったとき、皇帝は近侍の臣たちにつぎのように言った。「昔から、国を治めるのに、自分が苦労しながらもひとのことを心配するようなら、その国は長くつづくが、人を使って自分に仕えさせようとすれば、その国はかならず亡びる。いま突厥が衰え乱れたのも、その可汗が主君としてなっていなかったからである。突利はごく身近な人間であったのに、どうしようもなくなってやって来た。夷狄どもが弱ければ、辺境地帯も安心である。しかし、その亡ぶのを見ると、自分としても心配せざるをえない。自分にも不十分なことがあり、災難なしにすましうるかと思うからである」。そして、突利がやって来ると、かれを丁重にもてなし、食事を中止してそれを賜わった。右衛大将軍に任じ、北平郡王に封じ、七百戸の食邑を与えていた。都督とすることになって、太宗は、つぎのように言った。「汝の祖父の啓民が破れ亡んだとき、隋はそれを回復させたのに、その徳をかえりみず、それ に報いることもせず、汝の父の始畢はかえって隋の敵となった。汝はいま窮してわが方に投降してきた。自分が汝を立てて可汗としないのは、前の失敗を考えるからである。自分は、中国が平安であるように、また汝の一族も亡びないでいてほしいと思うので、汝を都督にするのである。お互いに侵掠しあうことなく、永らくわが北方の一藩でいるように」。突利は、頭を下げてぬかずきながら、命ずるところに耳をかたむけていた。そののち入朝してきたとき、并州道まで来て、死んでしまった。二十九歳であった。皇帝はかれのために葬式を行ない、また岑文本に命じて墓に銘文を書かせた。子の賀邏鶻が後をついだ。 皇帝が九成宮に行幸されたとき、突利の弟の結社率は郎将として宿直番に当たっていたが、ひそかに同族人と連絡をとり、反乱をおこして無理やりに賀邏鶻を連れて北方に帰ることを企てた。そしてその一党に、「晋王(のちの高宗)が丁夜(午前二時、第四直時)に先ばらいの兵士たちがついて外出すると聞いている。その隙をついて進めば、皇帝の居所に侵入できよう」と言った。この夜は大風が吹き真暗となったので、晋王は外出しなかった。結社率ははかりごとがもれるのを恐れ、すぐ中央の陣営に矢を射かけ、騒ぎたてて人を殺した。番兵たちは力を合わせてそれを撃退したので、かれらは逃げ、厩番を殺し、馬を盗んで、渭水を渡ろうとした。見まわり兵が捕えて斬った。賀邏鶻の罪はゆるし、秦嶺の外に追放した。このようなことがあって、多くの家臣たちも、あらためて、突厥を中国に居住させることはよろしくないと言うようになった。皇帝もまたそれを心配していたので、阿史那思摩を立てて乙弥泥孰俟利苾可汗とし、李の姓を賜い、その本営を黄河の北に置かせ、すべての人たちをそのむかしの土地に帰らせることにした。 思摩は頡利の一族である。父は咄六設である。かつて啓民が隋に逃げたとき、砂漠以北の諸部族は思摩を可汗に立てたが、啓民が国に服すると、可汗を称することをやめた。性格は開放的でかしこく、占いをよくした。始果・処羅の両可汗とも、かれをかわいがったが、その 顔つきが胡人(イラン系)に似ていたので、阿史那族ではないのではないかと疑った。そのため、ただ夾畢特勒であって、設にはなれなかったのである。武徳年間のはじめ(618頃)、たびたび使者としてやってきた。高祖はその誠実さに感心して、和順郡王に封じた。諸部族の多くが中国に通じるようになっても、思摩だけは残って、頡利といっしょに捕われた。 太宗は忠義なことであるとして、右武候大将軍、化州都督に任じ、もと頡利の配下にあった諸部を統治させ、黄河南方の地に居らせ、さらにのち移して懐化郡王に封じたのである。ここでまさに移住しようとするときになって、かれらは内心で薛延陀を恐れ、境界から出ようとはしなかった。皇帝は、司農卿の郭嗣本に命じて、勅使として薛延陀に書状を届けさせた。それにはつぎのようにあった。「中国は、礼と義をおもんずる国であるので、いたずらにその国を滅ぼすことはない。頡利は無法で残忍だったから、討伐し捕えたので、けっしてその土地や人民を取ろうとしたのではない。それゆえ降伏した部民を黄河の南方に住まわせたので、そこの茂った草やすばらしい泉は、牧畜に役だち、人口も日々ふえている。いままた、思摩を可汗として、その昔の領域に帰らせようと思う。薛延陀が可干位の命を受けたのは前のことであり、突厥よりは上である。砂漠以北はすべて薛延陀が支配し、その南は突厥がそれを有する。おのおの境を守って、お互いに犯すことがあってはならぬ。もしこのとりきめに負くようなことがあれば、自分は自身で軍をひきい、その罪あるものを討伐しよう」。思摩はいよいよ出発することになった。皇帝はそのために酒宴を催し、思摩を前によびよせて言った。「一本一草も、植えてそれが成長し茂るのを見るのは楽しみである。ましてや自分にとって、汝の部人を養い、汝の馬、羊を育て、昔のようにしたのは、なおさらのことである。汝の父母の墓は黄河の北にある。いま汝は昔の治所を復活させるのである。酒宴を催し、また門出を慰めよう」と。思摩は泣き、酒盃を捧げ、万年の長寿を祈り、そして言った。「わが国が滅亡したあげくにも、陛下は、わが身を故郷になおあらしめたもうた。願わくば、わが子孫は、いつまでも唐につかえて、厚いおめぐみに報いますように」と。趙郡王の李孝恭、鴻臚卿の劉善因は、思摩の部落まで行った。そこでは壇場を黄河のほとりに築き、うやうやしく可汗任命の書を授け、またそれにつづみと大旗とを賜わった。なお帝は詔して、左屯衛将軍の阿史那忠を左賢王とし、左武衛将軍の阿史那泥孰を右賢王にして、その大臣とさせた。 薛延陀は、突厥が北に向かったのを聞くと、その領民が逃亡し、砂漠を越えることを心配し、兵をととのえて待っていた。警告のため唐の使者が行くと、つぎのようなことわりを言った。「天子が侵略しあってはならぬと言われた以上、その言葉にはつつしんで従う。しかし、突厥はすぐ裏切る。かれらが滅亡する以前、中国人を麻を断つように殺した。陛下はかれらを破ったが、思うに、かれらの一族、領民はみな奴婢とし、唐国民のつぐないとすべきだったのに、かえって子供を養うような扱いをした。そのあげく結社率がそむいた。このように、信用できぬことはきわめ て明瞭で、今のような扱いをしていてはのちに乱があるだろう。陛下のために徹底的にかれらを責め討たせてほしい」。貞観十五年(641)、思摩は、十余万の人びと、兵力四万、馬九万頭をひきいて、はじめ黄河を渡り、昔の定襄城に本営を置いた。その土地は、南は大河、北は白道川で、広範に牧畜ができ、竜荒(北方の民)の地ではもっとも豊かなところで、突厥人たちは争ってそれを利用しようとしていたところである。思摩は使者をつかわしてお礼を言 い、「陛下のおめぐみによって突厥を支配する者となったが、代々お国の番犬となって、天子の北門を守護したい。もし薛延陀が侵略してくれば、長城の内側まで入って、その線で守らせてほしい」と言った。帝は命じてそれを許した。 三年たって、思摩はその配下のものをつなぎとめておくことができなくなり、多くのものがそむきはじめた。思摩はそれを恥じ、入朝し、志願して宿直番に入った。あらためて右武衛将軍を拝命した。遼東遠征(高句麗討伐)に従軍し、流れ矢にあたった。帝はかれのために傷口の血を吸ったが、そのいつくしみの厚いことは、このようであった。遠征から帰り、都で死んだ。兵部尚書・夏州都督の号を追贈し、昭陵(太宗が生前自分のために築造した陵墓)に陪葬し、墳土をきずいて出身地の白道山をかたどり、その功労を碑にきざんで化州に立てさせた。 右賢王の阿史那泥孰は、蘇尼失の子である。はじめわが国に帰服したとき、皇室の女を妻せ、忠という名を賜わった。思摩に従って国外に出たものの、中国を思慕し、唐の使者に会うと涙を流し皇帝の側近として仕えたいと願った。帝はそれを許可した。 思摩がもう国を保持できなくなり、 残っていた人びともつぎつぎに南下して黄河を渡り、勝州、夏州の間に散らばって居住していた。帝が遼の地(高句麗)を征討しようとしたとき、「突厥が黄河以南に居り、都にも近いから、東征しないでほしい」という者がいた。帝はこう言った。「君主たるものは、疑ってはならぬ。殷の湯王や周の武王が桀王や紂王の民を教化したとき、善導されないものはなかった。隋が正道を失ったときには、天下みなそれにそむいた。なにも夷狄だけがそむくのではない。朕は突厥の滅亡をあわれみ、黄河以南に入れ、助け元気づけた。そのため かれらは近くの薛延陀のところに行こうとせず、むしろ遠くのわが方にやって来た。それほどこちらの方に心を深く寄せているのである。朕は五十年の策を立てている。中国は突厥にわずらわされることはなくなるであろう」。思摩の領民が南下してしまったので、車鼻可汗がその土地をとってしまった。 車鼻もやはり阿史那の一族で、突利領内の者だった。名は斛勃で、代々小可汗であった。頡利が敗れると、諸部は共同してかれを君長にしようとした。そのとき薛延陀の長が可汗を称したの で、車鼻もすすんでそれに帰服した。その人となりは沈着果敢で、知恵もあり、人びとは心服していた。薛延陀はにくみおそれ、おどしたので、車鼻は領民をひきいて逃げ、薛延陀の数千騎が追跡したが勝つことができず、車鼻たちは金山(アルタイ山)の北方にもぐりこんでしまった。その土地は三方が断崖になっており、ただ一方だけが車や騎馬が通りうるところで、土地はゆたかで平らで広い。そこを占拠したのである。兵力は三万、みずから乙注車鼻可汗と号した。長安よりは一万里である。西は葛邏禄、北は結骨のだったが、それらをみな支配した。ときどきは出ては薛延陀の人間や家畜を掠奪していた。薛延陀はそののち衰え、車鼻の勢力はますますさかんとなった。 貞観二十一年(647)、 子の沙鉢羅特勒をつかわして来朝し、産物を献上し、また自分自身も入朝したいと願った。帝は、雲麾将軍の安調遮・右屯衛郎将の韓華を派遣し、迎えに行かせた。かれらが到着してみると、車鼻はのけぞりかえっていて、入朝の意志などない。韓華が、葛邏禄と手を結んでおどしせまることを考えたが、車鼻の方でそれを知ってしまい、韓華は車鼻の子の陟苾特勒と争いたたかって死に、安調遮は殺された。帝は怒り、右驍衛郎将高偘を派遣し、回紇・僕骨の兵を動員して攻撃させた。その大酋長の歌邏禄泥孰闕俟利発や処木昆莫賀咄俟斤らが、あいついで降してきた。高偘の軍は阿山で攻撃を加えたが、車鼻の民は戦おうとせず、かれは愛妾をつれ、数百騎を従えて逃走した。高偘は追跡し、金山まで行って捕らえ、都に送った。高宗は車鼻を責め、こう言った。「頡利が敗れたときお前は助けなかった。縁者をかまわぬものである。薛延陀が破れたとき、お前は逃げてしまった。忠ならざるものである。したがって、罪はまさに死に価する。しかし朕の見るところ、先帝は捕虜とした酋長をみなゆるしている。いまお前の死も免じよう」。そして縛をといてやった。帝は先祖の前で捕虜を責め、さらに、太宗の昭陵の前にも連れて行った。左武衛将軍に任じ、長安に家も与えたが、その領民は鬱督軍山に居らせ、狼山都督府を設置して統治した。それ以前、車鼻の子の羯漫陀は、泣きながらかれを諌め、唐国に帰服しようと言ったが、聞き入れられなかった。そこで子の菴鑠を入朝させ、そのあと自分も来降してきた。帝はかれを左屯衛将軍に任じ、新黎州を設置して領民を統治させた。ここにおいて、突厥はすべて辺境守護の臣下となったのである。はじめて単于都護府を置いて狼山・ 雲中・桑乾の三都督に蘇農などの二十四州を統治し、瀚海都護府に、金微・新黎など七都督に仙蕚・賀蘭など八州を統治させ、おもだった者を選んで都督または刺史とした。麟徳初年(664)、それまでの燕然都護府を瀚海都護府と改称して、回紇を統治させ、もとの瀚海 都護府をむかしの雲中城に移して、雲中都護府とした。砂漠以北の異民族の州は、みな瀚海都護府に属し、以南のものは雲中都護府に属した。雲中は義成公主の居たところである。頡利のほろんだあと、李靖が、突厥の弱りはてたものたち数百帳(家族)をそこに移住させ、阿史徳をその長としていた。かれらもようやくさかんとなったので、李靖は意見を上申し、諸王のうち誰かをもって可汗とし、現地に行かずに統治することを願った。帝は、「いまの可汗はむかしの単于である」と言って、雲中都護府を単于大都護府と改め、殷王の李旭輪(のちの睿宗)を単于都護とした。帝が泰山で封禅の儀を行なったとき、 都督の葛邏禄叱利ら三十余人が随行して泰山の麓まで行ったが、儀式が終わると、帝は命じて名を封禅記念碑にきざみこんだという。 およそ三十年間、北方で戦いのしらせはなかった。 調露初年(679)になって、単于都護府管内で、大酋の阿史徳温傅と奉職との二部が反乱をおこし、阿史那泥孰匐を立てて可汗とした。二十四州の酋長がみな、それに呼応してそむいた。そこで、鴻臚卿で単于大都護府長史の蕭嗣業、左領軍衛将軍の苑大智、それに右千牛衛将軍の李景嘉らに討伐させた。しかし優勢をよいことにして備えを怠っており、たまたま雨から雪まで降って、兵士は寒さにこごえ、逆に敵に襲われて大敗し、一万余人が殺された。苑大智らは、残兵を集め、進んでは戦い、戦っては進みして、なんとか逃れたのである。このため蕭嗣業は桂州に流罪となり、その他の者も連座して免官となった。あらためて礼部尚書の裴行倹を定襄道行軍大総管とし、太僕少卿の李思文、営州都督の周道務、西軍の程務挺、東軍の李文暕をひきいて、全軍およそ三十万で反逆者を捕え討たせることにした。帝はさらに命じて、右金吾将軍の曹懐舜を井陘に、右武衛将軍の崔献に絳州の竜門に駐屯させた。明くる年 (680)、裴行倹は黒山で戦い、大いに敵を破った。阿史那泥孰匐をその配下の者が斬り、かれの首を持ってきて降伏した。奉職を捕え帰還した。残った連中は狼山にとじこもった。はじめかれらがそむく前、鶏が鳴きながら群をなして飛び、国境内に入ってきた。土地役人が、「世間でいう突厥雀だ。南に飛んできたから、突厥がやってくるにちがいない」と言っていた。春になって北に帰って行ったが、そのときは、みな途中の霊州、夏州の間で落ち、しかも多くは首がなかった。はたして泥孰匐はせん滅されたのである。狼山の残党が雲州を掠奪したが、都督の竇懐哲と、右領軍中郎将の程務挺とがそれを追いはらった。 永隆の年(680)、温傅部はまた頡利の一族の子の阿史那伏念を夏州から迎え、黄河をいそぎ渡ってきたかれを立てて可汗とした。諸部もそれに応じ従った。そしてその翌年(681)には原州・慶州に侵略してきた。帝はふたたび裴行倹を大総管に任命し、右武衛将軍の曹懐舜と幽州都督の李文暕とに補佐させた。敵のまわし者が、「伏念と温傅とは黒沙に居るがひじょうに食糧が欠乏している。軽装備の騎兵だけで攻めとることができる」とだましたところ、曹懐舜だけは信用し、軍の装備を軽くさせ、急行して黒沙まで行った。しかし敵に会わず、薛延陀の残衆を発見して降服させただけだった。ひきかえして長城まで来たところで温傳の軍と出あい、戦って双方同じくらいの戦死者を出した。裴行倹の軍隊は、代州の陘嶺の入口で、とりでを築いて守って いたが、まわし者を敵の方へ送りこんだ。そのため伏念と温傅とは反目しあうようになったので、そこで軍を出して伏念を攻撃し、それを破った。伏念は逃走したが、曹懐舜と遭遇し、一日中両軍は移動しながら合戦をくりかえし、最後に曹懐舜は伏念に破られ、軍を捨てて雲中に逃げた。兵士たちは敵の乗ずるところとなり、無数の死者が出たが、みな故郷を思って首を南にむけてたおれていたという。曹懐舜はいけにえを殺して伏念と誓約を結び、それで死を免れたのである。伏念はさらに北方に行き、荷物や妻子は金牙山にとめておいて、軽装備の騎兵だけで曹懐舜を襲撃しようとした。ちょうど裴行倹の派遣したある隊長がその荷物を襲いとったので、伏念はひきあげようとしたが帰るところがなくなり、北方に逃げ細沙に拠った。 裴行倹は単于都護府の駐屯兵を出し追跡させた。伏念は、唐軍がそれほど遠くまで来ることはできぬと思い、備えをしていなかったので、唐軍が行くと驚き恐れ、戦いを交えることができなかった。そしてけっきょく使者を間道づたいに裴行倹のところまで派遣し、温傅をつかまえて降伏してきたのである。裴行俊はそれを捕虜として都に送った。長安の東市で斬刑に処せられた。 永淳元年(682)、骨咄禄がまたそむいた。骨咄は頡利の親類である。雲中都督の舎利元英配下の一首領だった。代々吐含をついでいた。伏念が敗れると、骨咄禄は散亡したものをよせ集めて総材山を拠点とし、黒沙の城も占有した。五千余人おり、九姓の家畜や馬を盗みとり、だんだんと強大になっていった。そこでみずから立って可汗となり、弟の黙を殺に、吐悉匐を葉護とした。そのころ、単于都護府管下で、唐に降付した突厥家族部落を監理している阿史徳元珍なる者がいて、単于府の長史の王本立のところにある罪で拘禁されていた。骨咄禄が侵略してくると、元珍はかれを説得して諸部をかえさせ、罪ほろぼしとしたいと願ったので、王本立はそれを許した。ところがかれはむこうへ行くとすぐ骨咄禄に降り、その謀議に加わったのであり、骨咄禄はさいごには、かれを阿波達干とし、全軍兵をその指揮下に入れた。それから突厥は単于都護府の北辺を侵略し、ついに并州を攻め、嵐州の刺史の王徳林を殺した。一部はさらに定州を掠奪したが、北平郡刺史の霍王の李元軌がそれを撃退した。つぎには媯州を攻め、都護を包囲して司馬の張行師を殺し、蔚州を攻めては、刺史の李思倹を殺し、豊州都督の崔知弁を捕えた。帝は命じて、右武衛将軍の程務挺を単于道安撫大使として、辺境防備にあたらせた。 嗣聖・垂拱(684-688) 年間に突厥は連続して朔州・代州などに侵略し、役人などを連れさったりした。左玉鈴衛中郎将の淳于処平が陽曲道総管となり、賊を総材山に攻撃しようとして忻州まで来たところで、賊と出会い、力のかぎり戦ったが失敗し、死者五千人を出した。あらためて則天武后は天官尚書の韋待価を燕然道大総管とし、討伐させた。その翌年(687)、また昌平に侵入してきた。右鷹揚衛大将軍の黒歯常之がそれを撃退したが、こんどは朔州地方に やって来た。黒歯常之はそれと黄花堆で戦って、敵が敗れて逃げるのを四十里ほど追った が、砂漠を越えて遁走してしまった。右監門衛中郎将の爨宝璧も敵を追跡しようとした。賊がすぐ破滅すると考え、うまくやって手がらを立てたいと思った。そこで志願者をつのって境外二千里までを偵察させ、賊の無防備のときをねらおうとした。ところがいまや賊の居ると ころに到達するというところで、そのことを兵士たちに漏らしたところ、賊にも伝わり、賊は陣容をととのえて出撃することができ、みな死力をつくして戦ったが大敗した。宝璧は逃げ帰ったが、全軍が敵の手に落ちたのである。則天武后は怒って、宝璧を処刑し、骨咄禄を改めて不卒禄とよぶことにした。そのご間もなく、元珍は突騎施を攻撃中に戦死した。天授年代のはじめ(690)、骨咄禄は死んだが、その子は幼くて即位できなかった。 黙啜がみずから立って可汗となった。位をうばってから数年して、はじめて霊州を攻め、多くの住民を殺し掠奪した。則天武后は、薛懐義を朔方道行軍大管とし、内史の李昭徳を行軍長史に、鳳閣鸞台平章事の蘇味道を司馬として、朔方道管の契苾明・鴈門道総管の王孝傑・威化道総管の李多祚・豊安道総管の陳令英・瀚海道総管の田揚名らを指揮させ、ぜんぶで十八将軍の軍が国境を出て、中国人、外国人の歩兵、騎兵がいっしょになって討伐に向かった が、賊に出会わず、ひきあげた。間もなく、王孝傑を朔方道行軍総管に任命し、辺境を整備させた。契丹の李尽忠らがそむいたとき、黙啜は、賊を討伐してお役に立ちたい、と願ってきたので、詔してそれを許した。左衛大将軍の官を授け、帰国公に封じ、左豹韜衛将軍の閻知徴を先方まで行かせ、国書を与えてかれを遷善可汗とした。そこで黙啜は軍をひきいて契丹を攻撃したが、たまたま李尽忠は死に、突厥軍は松漠の部落を襲撃し、李万栄の妻子や荷物類をみな手に入れた。契丹のおもだった連中はつぶれてしまった。武后はその功をほめたたえ、ふたたび閻知微に命じて、勅使として行き、黙啜に特進の称号を与え、頡跌利施大単于立功報国可汗とすることにした。その任命がまだ行なわれないうちに、にわかに霊州・勝州に攻めこみ、殺人、略奪などしたいほうだいのことをしたが、駐屯軍のため破られた。そこでまた使者を派遣してことわりを言い、武后の子となることを願い、また、娘があるので諸王の誰かに娶せたいとも言った。さらに河曲六州の降戸の返還を求めたが、その前に、突厥の内属したものを豊・勝・霊・夏・朔・代など六州の間に分散居住させており、それを河曲六州の降人とよんでいたのである。黙啜はまた種粟十万石、農器具三千点、鉄数万斤もほしがった。しかし武后は許さず、宰相の李嶠もまた、よろしくないと言った。黙啜はうらみ、なまいきな言葉づかいをして、わが使節の司賓卿の田帰道を拘束してしまった。そこで、納言の姚璹らが申してて要求したものを黙啜に与えるよう願った。その結果、栗、農具、降人数千家族が黙啜のものになり、それいらい、突厥は強くなってしまったのである。 武后は詔して、淮陽王の武延秀に黙啜の女をむかえて妃とするようにさせ、命じて、閻知微に春官尚書の官を兼ねさせ、司卿の楊鸞荘とを勅使として武延秀を護送させた。かれらが到着すると黙啜は、つぎのようなわけのわからぬことを言った。「自分は、娘を唐の天子の子に嫁がせようと思っていた。いま来ているのは、武后の家の子ではないか。また自分たちは代々唐に帰付しているのに、いま聞くところでは、唐家の子孫としては二人だけしか居ないとか。自分は、その者たちを唐皇帝に立てねばならぬ」と。そして武延秀らを拘禁しておいて、閻知微をかってに可汗とよび、黙啜自身、十万騎を指揮し、静難、平狄、清夷などの軍を攻撃した。静難軍使の慕容玄崱は兵五千とともに降伏した。賊はさらに侵入して媯州・檀州を包囲した。武后は詔して、司属卿の武重規を天兵中道大総管、右武威衛将軍の沙吒忠義を天兵西道総管、幽州都督の張仁亶を天兵東道総管にして、兵およそ三十万で攻撃させ、右羽林大将軍の閻敬容と李多祚とを天兵西道後軍総管とし、その兵はまた十五万だった。黙啜は蔚州の飛狐県を破り、さらに進んで定州をふみにじり、刺史の孫彦高を殺し、家を焼きはらって、村々は空っぽになってしまった。 武后は怒り、詔を下して、「黙啜を斬る者あれば王とする」と懸賞をかけ、また斬啜とよぶことにした。賊は趙州を包囲し、長史の唐波若がそれに通じたため、入りこんで刺史の高叡を殺した。さらに進んで相州を攻めた。武后は詔して、沙吒忠義を河北道前軍総管 に、李多祚を後軍総管に、将軍の嵎夷公の富福信を奇兵総管として、敵を攻撃させた。そのとき中宗が房陵郡より帰還して皇太子となり、行軍大元帥を拝命した。納言の狄仁傑を副元帥とし、文昌右丞の宋玄爽を長史に、左粛政台御史中丞の霍献可を司馬に、右粛政台御史中丞の吉頊を監軍使に、将軍の扶余文宣ら六人を子総管とした。まだ出陣しないうちに黙啜はそれを聞き、趙州・定州を占領し、とらえた男女八、九万人をことごとく穴埋めにして、五回道からひきあげて行った。途中経過するところの人間、家畜、財宝、子女はすべて掠奪していった。諸将軍はみな遠くから見ているだけで、あえて戦おうとはしなかった。ただ狄仁傑だけが、軍をひきいて追跡したが、追いつくことができなかった。 黙啜は勝利をよいことにして、中国を軽んじ、いい気になっていた。兵力はだいたい頡利のときと同じで、土地は東西南北一万里、北方諸族はみなその命に従った。また弟の咄を立てて左察とし、骨咄禄の子の黙矩を右察とし、いずれも兵二万を指揮させた。子の匐倶は小可汗として位は両察の上とし、処木昆ら十姓(西突厥)の兵四万を支配下に置き、拓西可汗とよばせた。突厥は連年、辺境地帯を侵略したので、警備兵は休むひまもなかった。そこで武后は魏元忠を検校并州長史に選任して天兵軍大総管とし、婁師徳を副総管として、陣地をととのえ敵を待ち受けさせた。のちあらためて魏元忠を霊武道行軍総管にうつして、敵に備えさせた。 黙啜は隴右道の牧馬一万頭を奪って行き、すぐまた辺境地帯を侵略した。詔して、安北大都護の相王(のち睿宗)を天兵道大元帥とし、并州長史の武攸宜、夏州都督の薛訥をひきい、魏元忠とともに賊を攻めさせようとしたが、軍がまだ出発せぬうちに黙啜は去った。その翌年、塩州・夏州を侵略し羊馬十万を奪い、石嶺関を攻め、ついに并州を包囲した。雍州長史の薛季昶を持節山東防禦大使として、滄・瀛・幽・易・恒・定・媯・檀・平など九州の軍を指揮させ、州都督の張仁亶に、諸州や清夷軍、障塞軍の兵を統率して薛季昶と挾撃体制をとらせた。また相王を安北道行軍元帥として諸将を統監させたが、相王は動こうとせず、行かなかった。敵は代州・忻州に侵入し、掠奪、殺人をした。 長安三年(703)、黙啜は莫賀達干を使者として派遣し、娘を皇太子の子に娶せたいと願ってきた。武后は、平恩郡王の李重俊と義興郡王の李重明とを、盛装して宮廷内で立たせ使者に会わせた。黙啜はまた大首領の移力貪汗をつかわして、馬千頭を献上し、縁組みを許されたことに謝意を表した。武后はその使節を手厚くもてなした。中宗があらためて即位すると黙啜は鳴沙に攻め入って来た。そのとき、霊武軍大総管の沙吒忠義が戦ったが、勝つことができず、一万に近い死者を出した。賊はついに原州・会州に侵入し、多数の牧馬を奪い取った。帝は詔を下して、突厥との縁組みは中止し、黙啜を斬る者あれば一国の王とし、諸衛大将軍の官を与えるという懸賞をかけた。黙啜がわが使節、鴻臚卿の臧思言を殺した。帝は、左衛大将軍の張仁亶に命じて、朔方道大総管にし、辺境に駐屯させた。その翌年、はじめて黄河の外に、東、中、西の三受降城を築き、突厥の侵入路をふさいだ。そののちかなり経って、唐休璟が、かわって駐屯した。睿宗があたらしく即位すると、黙啜はまた縁組みを願ってきた。詔して、朱王の李成器(睿宗の長子)の娘を、金山公主として嫁がせることにした。しかしたまたま、左羽林大将軍の孫佺らが奚と冷陞山で戦い、奚の捕虜となり、黙啜に進呈されたが、黙啜はかれを殺してしまった。そこであらためて、刑部尚書の郭元振をもって唐休璟と交替させた。 玄宗が即位し、突厥との縁組みは中止となった。黙啜はそこで、その子の楊我支特勒をつかわして宿直番に入れ、つよく縁組みを求めたので、蜀王の娘の南和県主を楊我支特勒に妻せ、可汗には書状を送って慰撫した。明くる年(714)、その子の移涅可汗に、同俄特勒、火抜頡利発の石阿失畢をひきい、精鋭な騎馬軍でもって北庭を攻めさせた。北庭都護の郭虔瓘はそれを防撃し、同俄特勒を市城の前で斬った。敵はばらばらになって逃げた。火抜頡利発は帰ろうとせず、その妻子を連れてわが国に逃げて来た。かれを左武衛大将軍・燕山郡王とし、その妻には金山公主の称号を与え、いろいろの物を十二分に賜わった。長安にいた楊我支特勒が死に、詔して、帝室一族の三親等以上のものには、かれの家を弔問させた。このとき、突厥はふたたび、書面をもって縁組みを求めてきたが、帝は返事をしなかった。 はじめ景雲年間(710-711)に、黙啜は、西方で娑葛を亡ぼし、東方ではついに契丹や奚も服属させた。そしてその支配下のものに対し、なさけ容赦もない扱いをしていた。すでに年も老い、いよいよ愚行暴行をはたらくようになり、配下の諸部落はうらみそむくようになっていたのである。十姓(西突厥)の左翼の五咄陸の啜(チュル)たち、 右翼の五弩失畢の俟斤(イルキン)たちが、みな降付を願ってきた(715)。葛邏禄、胡禄、鼠尼施の三族に、大漢都督の特進の称号を持つ朱斯、陰山都督の謀落匐難、玄池都督の蹋実力胡鼻らが、領民をひきいて内付してきた。帝は詔を下して、これらの部民を金山方面に居らせた。そして、右羽林軍大将軍の薛訥を涼州鎮軍大総管とし、赤水軍、建康軍、河源軍を指揮して涼州に駐屯させ、都督の楊執一に補佐させ、右衛大将軍の郭虔瓘を朔州鎮軍大総管として、和戎軍、大武軍に并州の北の 諸軍を指揮して并州に駐屯し、長史の王晙に補佐させた。それで新しく降付したものを安撫し、掠奪暴行を監視させたのである。黙啜はしばしば葛邏禄などを攻撃したが、帝は命じて、その方面の都護や総管らに、相互に連絡をとりながら応援させた。そのためかれらの勢力もだんだんと弱まっていった。その婿の高麗の莫離支の高文簡、𨁂跌(エティズ)都督の思太、吐谷渾の大酋の慕容道奴、郁射施の大酋の鶻屈頡斤・苾悉頡力、高麗大酋の高拱毅らとともに、合計一万余帳ものものが、あいついで辺境にやってきた。詔して、それらを黄河以南の地にいれ、高文簡を左衛大将軍・遼西郡王に任じ、𨁂跌思太を特進、右衛大将軍兼𨁂跌都督・楼煩郡公にし、慕容道奴を武衛将軍兼刺史・雲中郡公に、鶻屈頡斤を左驍衛将軍兼刺史・陰山郡公に、苾悉頡力を左武衛将軍兼刺史・雁門郡公に、高拱毅を左領軍衛将軍兼刺史・平城郡公にした。将軍はみな員外置(定員外)でそれぞれ相応の賜わり物があった。 黙啜は、かれにそむいた九姓を討伐し、砂漠の北で戦ったが、九姓はつぶれさり、人も家畜もみな死んだ。思結部など生き残ったものが来降してきた。帝はみなに官を与えた。そこで薛訥を朔方道行軍大総管にし、太僕卿の呂延祚と霊州刺史の杜賓客とに補佐させて、辺境警備にあたらせた。詔して、金山、大漠、陰山、玄池の諸都督らに、共同して黙啜を攻めることを考えさせたが、褒美の規準を示し、物も与えていいきかせておいた。黙啜はまた九姓の抜野古(バイルク)を討ち、独楽河で戦った。抜野古は大敗したので、黙啜は気楽にひきあげていて、警戒していなかった。かれが大きな林のなかを通ったとき、抜野古の敗残兵がとつぜんとび出し、黙啜を襲って斬ってしまった。そして、蕃地に入っていた使節の郝霊佺といっしょに、黙啜の首を都まで持って来た。 骨咄禄の子の闕特勒は、むかしの領民を集め、黙啜の子の小可汗やその他一族をほとんどみな殺し、自分の兄の黙棘 連を可汗に立てた。これが毘伽可汗である。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百一十四 列伝第一百三十九 『新唐書』巻二百一十五上 列伝第一百四十上 巻二百一十五下 列伝第一百四十下
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唐書巻一百二 列伝第二十七 岑文本 羲 長倩 格輔元 虞世南 李百薬 安期 褚亮 劉孝孫 李玄道 李守素 姚思廉 珽 令狐徳棻 峘 鄧世隆 顧胤 李延寿 岑文本字景仁、鄧州棘陽人。祖善方、後梁吏部尚書、更家江陵。父之象、仕隋為邯鄲令、坐為人訟、不得申。文本年十四、詣司隸理冤、辨對哀暢無所詘、衆屬目、命作蓮華賦、文成、合臺嗟賞、遂得直。 性沈敏、有姿儀、善文辭、多所貫綜。郡挙秀才、不應。蕭銑僭號、召為中書侍郎、主文記。河間王孝恭平荊州、其下欲掠奪、文本説孝恭曰:「自隋無道、四海救死、延頸以望真主。蕭氏君臣決策歸命者、意欲去危就安。大王誠縱兵剽係、恐江・嶺以南、向化心沮、狼顧驚。不如厚撫荊州、勸未附、陳天子厚恵、誰非王人?」孝恭善之、遽下令止侵略、署文本別駕。從撃輔公祏、典檄符。進署行臺考功郎中。 貞観元年、除秘書郎、兼直中書省。太宗既藉田、又元日朝群臣、文本奏藉田・三元頌二篇、文致華贍。李靖復薦于帝、擢中書舎人。時顔師古為侍郎、自武徳以來、詔誥或大事皆所草定。及得文本、號善職、而敏速過之。或策令叢遽、敕吏六七人泚筆待、分口占授、成無遺意。師古以譴罷、温彦博為請帝曰:「師古練時事、長於文誥、人少逮者、幸得復用。」帝曰:「朕自挙一人、公毋憂。」乃授文本侍郎、專典機要。封江陵県子。是時、魏王泰有寵、侈第舎、冠諸王。文本上疏、勸崇節儉、陳嫡庶分、宜有抑損。帝善之、賜帛三百段。 踰年為令、從伐遼東、事一委倚、至糧漕最目・甲兵凡要・料配差序、籌不廢手、由是神用頓耗、容止不常。帝憂曰:「文本今與我同行、恐不與同返矣!」至幽州暴病、帝臨視流涕。卒、年五十一、是夕、帝聞夜嚴、曰:「文本死、所不忍聞。」命罷之。贈侍中・広州都督、謚曰憲、陪葬昭陵。 始、文本貴、常自以興孤生、居處卑、室無茵褥幃帟。事母以孝顯、撫弟姪篤恩義。生平故人。雖羇賤必鈞礼。帝毎稱其忠謹、「吾親之信之」。晋王為皇太子、大臣多兼宮官、帝欲文本兼攝、辭曰:「臣守一職、猶懼其盈、不願希恩東宮、請一心以事陛下。」帝乃止、但詔五日一参東宮。毎進見、太子答拜、始為中書令、有憂色、母問之、答曰:「非勳非舊、責重位高、所以憂也。」有來慶者、輒曰:「今日受弔不受賀。」或勸其營産業、文本歎曰:「吾漢南一布衣、徒歩入関、所望不過秘書郎・県令耳。今無汗馬勞、以文墨位宰相、奉稍已重、尚何殖産業邪?」故口未嘗言家事。 既任職久、賚錫豐饒、皆令弟文昭主之。文昭任校書郎、多交輕薄、帝不悅、謂文本曰:「卿弟多過、朕将出之。」文本曰:「臣少孤、母所鍾念者弟也、不欲離左右。今若外出、母必憂、無此弟、是無老母也!」泣下嗚咽。帝愍其意、召文昭讓敕、卒無過。 孫羲。從子長倩。 羲字伯華、第進士、累遷太常博士。坐伯父長倩貶郴州司法参軍。遷金壇令。時弟仲翔為長洲令、仲休為溧水令、皆有治績。宰相宗楚客語本道巡察御史:「毋遺江東三岑。」乃薦羲為汜水令。武后令宰相挙為員外郎者、韋嗣立薦羲、且言惟長倩為累、久不進。后曰:「羲誠材、何諉之拘?」即拜天官員外郎。於是、坐親廢者皆得援而進矣。俄為中書舎人。中宗時、武三思用事、敬暉欲上表削諸武封王者、衆畏三思、不敢為草、獨羲為之、詞誼勁切、由是下遷秘書少監。進吏部侍郎。時崔湜・鄭愔及大理少卿李元恭分掌選、皆以賄聞、獨羲勁廉、為時議嘉仰。帝崩、詔擢右散騎常侍・同中書門下三品。睿宗立、罷為陝州刺史、再遷戸部尚書。景雲初、復召同三品、進侍中、封南陽郡公。初、節愍太子之難、冉祖雍誣帝及太平公主連謀、賴羲與蕭至忠保護得免、羲監脩中宗実録、自著其事。帝見之、賞歎、賜物三百段・良馬一匹、下詔褒美。 時羲兄献為国子司業、仲翔陝州刺史、仲休商州刺史、兄弟子姪在清要者数十人。羲歎曰:「物極則反、可以懼矣!」然不能抑退。坐豫太平公主謀誅、籍其家。 長倩、少孤、為文本鞠愛。永淳中、累官至兵部侍郎・同中書門下平章事。垂拱初、自夏官尚書遷内史、知夏官事。俄拜文昌右相、封鄧国公。武后擅位、喜符瑞事、群臣爭言之。長倩懼、間亦開陳、請改皇嗣為武氏、且為周家儲貳。后順許、賜実封戸五百、加特進・輔国大将軍。鳳閣舎人張嘉福・洛州民王慶之建請以武承嗣為皇太子、長倩謂皇嗣在東宮、不宜更立、與格輔元不署、奏請切責嘉福等。和州浮屠上大雲經、著革命事、后喜、始詔天下立大雲寺。長倩爭不可、繇是與諸武忤、罷為武威道行軍大總管、征吐蕃。未至、詔還、下獄。來俊臣脅誣長倩與輔元・歐陽通数十族謀反、斬于市、五子同賜死、發暴先墓。睿宗立、追復官爵、備礼改葬。 輔元者、汴州浚儀人。父處仁、仕隋為剡丞。與同郡王孝逸・繁師元・靖君亮・鄭祖咸・鄭師善・李行簡・盧協皆有名、號「陳留八俊」。輔元擢明經、累遷殿中侍御史、歴御史中丞・同鳳閣鸞臺平章事。既持承嗣不可、遂及誅。 子遵、亦挙明經第、為太常寺太祝、亡命匿中牟十餘年。神龍初、訴父冤、擢累賛善大夫。 輔元兄希元、洛州司法参軍、同章懷太子注范曄後漢書者。 虞世南、越州餘姚人。出繼叔陳中書侍郎寄之後、故字伯施。性沈靜寡欲、與兄世基同受学于呉顧野王餘十年、精思不懈、至累旬不盥櫛。文章婉縟、慕僕射徐陵、陵白以類己、由是有名。陳天嘉中、父荔卒、世南毀不勝喪。文帝高荔行、知二子皆博学、遣使至其家護視、召為建安王法曹参軍。時寄陷於陳宝應、世南雖服除、仍衣布飯蔬。寄還、乃釋布噉肉。至徳初、除西陽王友。陳滅、與世基入隋。世基辭章清勁過世南、而贍博不及也、倶名重當時、故議者方晋二陸。煬帝為晋王、與秦王俊交辟之。大業中、累至秘書郎。煬帝雖愛其才、然疾峭正、弗甚用、為七品十年不徙。世基佞敏得君、日貴盛、妻妾被服擬王者、而世南躬貧約、一不改。宇文化及已弑帝、間殺世基、而世南抱持號訴請代、不能得、自是哀毀骨立。從至聊城、為竇建徳所獲、署黄門侍郎。秦王滅建徳、引為府参軍、轉記室、遷太子中舎人。王踐祚、拜員外散騎侍郎・弘文館学士。時世南已衰老、屢乞骸骨、不聽、遷太子右庶子、固辭、改秘書監、封永興県子。 世南貌儒謹、外若不勝衣、而中抗烈、論議持正。太宗嘗曰:「朕與世南商略古今、有一言失、未嘗不悵恨、其懇誠乃如此!」 貞観八年、進封県公。會隴右山崩、大蛇屢見、山東及江・淮大水、帝憂之、以問世南、對曰:「春秋時、梁山崩、晋侯召伯宗問焉。伯宗曰:『国主山川、故山崩川竭、君為之不挙、降服、乘縵、徹樂、出次、祝幣以礼焉。』梁山、晋所主也、晋侯從之、故得無害。漢文帝元年、斉・楚地二十九山同日崩、水大出、詔郡国無來貢、施恵天下、遠近洽穆、亦不為災。後漢靈帝時、青蛇見御坐。晋恵帝時、大蛇長三百歩、見斉地、經市入廟。蛇宜在草野、而入市、此所以為怪耳。今蛇見山澤、適其所居。又山東淫雨、江淮大水、恐有冤獄枉繋、宜省録纍囚、庶幾或當天意。」帝然之、於是遣使賑飢民、申挺獄訟、多所原赦。 後星孛虚・危、歴氐、餘百日、帝訪群臣。世南曰:「昔斉景公時、彗見、公問晏嬰、嬰曰:『公穿池沼畏不深、起臺榭畏不高、行刑罰畏不重、是以天見彗為戒耳。』景公懼而脩徳、後十六日而滅。臣願陛下勿以功高而自矜、勿以太平久而自驕、慎終于初、彗雖見、猶未足憂」。帝曰:「誠然、吾良無景公之過、但年十八挙義兵、二十四平天下、未三十即大位、自謂三王以來、撥乱之主莫吾若、故負而矜之、輕天下士。上天見變、其為是乎?秦始皇除六国、隋煬帝有四海之富、卒以驕敗、吾何得不戒邪?」 高祖崩、詔山陵一準漢長陵故事、厚送終礼、於是程役峻暴、人力告弊。世南諫曰: 古帝王所以薄葬者、非不欲崇大光顯以栄其親、然高墳厚隴、宝具珍物、適所以累之也。聖人深思遠慮、安於菲薄、為長久計。昔漢成帝造延・昌二陵、劉向上書曰:「孝文居霸陵、悽愴悲懷、顧謂群臣曰:『嗟乎!以北山石為、用紵絮斮陳漆其間、豈可動哉?』張釋之曰:『使其中有可欲、雖錮南山猶有隙。使無可欲、雖無石、又何戚焉?』夫死者無終極、而国家有廢興。孝文寤焉、遂以薄葬。」 又漢法、人君在位、三分天下貢賦之一以入山陵。武帝歴年長久、比葬、方中不復容物。霍光暗於大體、奢侈過度、其後赤眉入長安、破茂陵取物、猶不能盡。無故聚斂、為盜之用、甚無謂也。 魏文帝為寿陵、作終制曰:「堯葬寿陵、因山為體、無封樹・寢殿・園邑、棺槨足以藏骨、衣衾足以朽肉。吾營此不食之地、欲使易代之後不知其處。無藏金銀銅鐵、一以瓦器。喪乱以來、漢氏諸陵無不發者、至乃燒取玉匣金縷、骸骨並盡、乃不重痛哉!若違詔妄有變改、吾為戮屍地下、死而重死、不忠不孝、使魂而有知、将不福汝。以為永制、藏之宗廟。」魏文此制、可謂達於事矣。 陛下之徳、堯・舜所不逮、而俯與秦・漢君同為奢泰、此臣所以尤戚也。今為丘隴如此、其中雖不藏珍宝、後世豈及信乎?臣愚以為霸陵因山不起墳、自然高顯。今所卜地勢即平、宜依周制為三仞之墳、明器一不得用金銀銅鐵、事訖刻石陵左、以明示大小高下之式、一藏宗廟、為子孫万世法、豈不美乎! 書奏、未報。又上疏曰:「漢家即位之初、便營陵墓、近者十餘歳、遠者五十年。今以数月之程、課数十年之事、其於人力不亦勞矣。漢家大郡、戸至五十万、今人衆不逮往時、而功役一之、此臣所以致疑也。」時議者頗言宜奉遺詔、於是稍稍裁抑。 帝嘗作宮體詩、使賡和。世南曰:「聖作誠工、然體非雅正。上之所好、下必有甚者、臣恐此詩一伝、天下風靡。不敢奉詔。」帝曰:「朕試卿耳!」賜帛五十匹。帝数出畋獵、世南以為言、皆蒙嘉納。嘗命寫列女伝於屏風、於時無本、世南暗疏之、無一字謬。帝毎稱其五絶:一曰徳行、二曰忠直、三曰博学、四曰文詞、五曰書翰。世南始学書於浮屠智永、究其法、為世秘愛。 十二年、致仕、授銀青光禄大夫、弘文館学士如故、禄賜防閤視京官職事者、卒、年八十一、詔陪葬昭陵、贈礼部尚書、謚曰文懿。帝手詔魏王泰曰:「世南於我猶一體、拾遺補闕、無日忘之、蓋當代名臣、人倫準的。今其云亡、石渠・東観中無復人矣!」後帝為詩一篇、述古興亡、既而歎曰:「鍾子期死、伯牙不復鼓琴。朕此詩将何所示邪?」敕起居郎褚遂良即其靈坐焚之。後数歳、夢進讜言若平生、翌日、下制厚卹其家。 子昶、終工部侍郎。 李百薬字重規、定州安平人。隋内史令徳林子也。幼多病、祖母趙以「百薬」名之。七歳能屬文、父友陸乂等共讀徐陵文、有「刈琅邪之稻」之語、嘆不得其事。百薬進曰:「春秋『鄅子藉稻』、杜預謂在琅邪。」客大驚、號奇童。引蔭補三衛長。乃性疏侻、喜劇飲。開皇初、授太子通事舎人、兼学士。被讒、輒謝病去。十九年、召見仁寿宮、襲父爵安平公。僕射楊素・吏部尚書牛弘愛其才、署礼部員外郎。奉詔定五礼・律令・陰陽書。 初以疾去舎人也、煬帝在揚州、召不赴、銜之。及即位、奪爵、為桂州司馬。官廢、還郷里。大業九年、戍會稽、管崇乱、城守有功、帝顧其名謂虞世基曰:「是子故在、宜斥醜處。」 乃授建安郡丞。至烏程、江都難作、沈法興・李子通・杜伏威更相滅、百薬轉側寇乱中、数被偽署、危得不死。會高祖遣使招伏威、百薬勸朝京師、既至歴陽、中悔、欲殺之、飲以石灰酒、因大利、瀕死、既而宿病皆愈。伏威詒書輔公祏使殺之、為王雄誕保護得免。公祏反、授吏部侍郎。或謂帝:「百薬與同反。」帝大怒。及平、得伏威所與公祏書、乃解、猶貶涇州司戸。 太宗至涇州。召與語、悅之。貞観元年、拜中書舎人、封安平県男。明年、除礼部侍郎。時議裂土與子弟功臣、百薬上封建論、理據詳切、帝納其言而止。四年、授太子右庶子。太子数戲媟無度、乃作賛道賦以諷。它日、帝曰:「朕見卿賦、述古儲貳事、勸勵甚詳、向任卿、固所望耳!」賜綵三百段。遷散騎常侍、進左庶子・宗正卿、爵為子。久之、固乞致仕。帝嘗與偕賦帝京篇、歎其工、手詔曰:「卿何身老而才之壯、齒宿而意之新乎?」卒、年八十四、謚曰康。 百薬、名臣子、才行世顯、為天下推重。侍父母喪還郷、徒跣数千里。服雖除、容貌者累年。好薦後進、得俸禄與親黨共之。翰藻沈鬱、詩尤其所長、樵廝皆能諷之。所撰斉史行於時。 子安期。 安期、亦七歳屬文。父貶桂州、遇盜、将加以刃、安期跪泣請代、盜哀釋之。貞観初、為符璽郎。累除主客員外郎。高宗即位、遷中書舎人・司列少常伯、数豫決国事。帝屢責侍臣以不能進賢、衆不敢對。安期進曰:「邑十室且有忠信、天下至広、不為無賢。比見公卿有所薦進、皆劾為朋黨、滯抑者未申、而主薦者已訾、所以人人爭噤默以避囂謗。若陛下忘其親讎、曠然受之、惟才是用、塞讒毀路、其誰敢不竭忠以聞上乎?」帝納之。尋検校東臺侍郎・同東西臺三品、出為荊州大都督府長史。卒、謚曰烈。 自徳林至安期、三世掌制誥、孫羲仲又為中書舎人。 褚亮字希明、杭州錢塘人。曾祖湮、父玠、皆有名梁・陳間。亮少警敏、博見圖史、一經目輒誌于心。年十八、詣陳僕射徐陵、陵與語、異之。後主召見、使賦詩、江總諸詞人在席、皆服其工。累遷為尚書殿中侍郎。入隋、為東宮学士、遷太常博士。煬帝議改宗廟之制、亮請依古七廟、而太祖・高祖各一殿、法周文・武二祧、與始祖而三、餘則分室而祭、始祖二祧、不從迭毀。未及行、坐與楊玄感善、煬帝矜己嫉才、因是亦貶西海司戸。時博士潘徽貶威定主簿、亮與倶至隴山。徽死、為斂瘞、人皆義之。 後為薛挙黄門侍郎。挙滅、秦王謂曰:「寡人受命而來、嘉於得賢。公久事無道君、得無勞乎?」亮頓首曰:「挙不知天命、抗王師、今十万衆兵加其頸、大王釋不誅、豈獨亮蒙更生邪?」王悅、賜乘馬・帛二百段、即授王府文学。高祖獵、親格虎、亮懇愊致諫、帝礼納其言。王毎征伐、亮在軍中、嘗預秘謀、有裨輔之益。貞観中累遷散騎常侍、封陽翟県侯、老于家。 太宗征遼、子遂良從、詔亮曰:「疇日師旅、卿未嘗不在中、今朕薄伐、君已老。俛仰歳月、且三十載、眷言及此、我勞如何!今以遂良行、想君不惜一子於朕耳。善居加食。」亮頓首謝。及寢疾、帝遣醫・中使候問踵相逮。卒、年八十八、贈太常卿、陪葬昭陵、謚曰康。遂良自有伝。 初、武徳四年、太宗為天策上将軍、寇乱稍平、乃郷儒、宮城西作文学館、收聘賢才、於是下教、以大行臺司勳郎中杜如晦・記室考功郎中房玄齢及于志寧・軍諮祭酒蘇世長・天策府記室薛收・文学褚亮姚思廉・太学博士陸徳明孔穎達・主簿李玄道・天策倉曹参軍事李守素・王府記室参軍事虞世南・参軍事蔡允恭顔相時・著作郎攝記室許敬宗薛元敬・太学助教蓋文達・軍諮典簽蘇勗、並以本官為学士。七年、收卒、復召東虞州録事参軍劉孝孫補之。凡分三番遞宿于閤下、悉給珍膳。毎暇日、訪以政事、討論墳籍、榷略前載、無常礼之間。命閻立本圖象、使亮為之賛、題名字爵里、號「十八学士」、藏之書府、以章礼賢之重。方是時、在選中者、天下所慕向、謂之「登瀛洲」。 劉孝孫者、荊州人。祖貞、周石臺太守。孝孫少知名。大業末、為王世充弟王辯行臺郎中。辯降、衆引去、獨孝孫攀援號慟、送于郊。貞観六年、遷著作佐郎・呉王友。歴諮議参軍。遷太子洗馬、未拜、卒。 李玄道者、本隴西人。世居鄭州。仕隋為斉王府屬。李密據洛口、署記室。密敗、為王世充所執、衆懼不能寐、獨玄道曰:「死生有命、憂能了乎?」寢甚安。及見世充、辭色不撓、釋縛、為著作佐郎。東都平、為秦王府主簿。貞観初、累遷給事中、姑臧県男。出為幽州長史、佐都督王君廓、專持府事。君廓不法、毎以義裁糾之。嘗遺玄道婢、乃良家子為所掠、遣去不納、由是始隙。君廓入朝、玄道寓書房玄齢、玄齢本甥也。君廓發其書、不識草字、疑以謀己、遂反。坐是流巂州。未幾、擢常州刺史、風績清簡、下詔褒美、賜繒帛。久之、致仕、加銀青光禄大夫、以禄歸第、卒。 李守素者、趙州人。王世充平、召署天策府倉曹参軍、通氏姓学、世號「肉譜」。虞世南與論人物、始言江左・山東、尚相酬對。至北地、則笑而不答、歎曰:「肉譜定可畏。」許敬宗曰:「倉曹此名、豈雅目邪?宜有以更之。」世南曰:「昔任彦昇通經、時稱『五經笥』、今以倉曹為『人物志』、可乎?」時渭州刺史李淹亦明譜学、守素所論、惟淹能抗之。 姚思廉、本名簡、以字行、陳吏部尚書察之子。陳亡、察自呉興遷京兆、遂為万年人。思廉少受漢書於察、盡伝其業。寡嗜欲、惟一於学、未嘗問家人生貲。 仕陳會稽王主簿。入隋、為漢王府参軍事、以父喪免。服除、補河間郡司法書佐。初、察在陳、嘗脩梁・陳二史、未就、死、以屬思廉、故思廉表父遺言、有詔聽續。煬帝又詔與起居舎人崔祖濬脩區宇圖志。遷代王侍讀。高祖定京師、府僚皆奔亡、獨思廉侍王、兵将升殿、思廉厲聲曰:「唐公起義、本安王室、若等不宜無礼於王。」衆眙、布列階下。帝義之、聽扶王至順陽閤、泣辭去。観者歎曰:「仁者有勇、謂此人乎!」俄授秦王府文学。王討徐圓朗、嘗語隋事、慨然歎曰:「姚思廉蒙素刃以明大節、古所難者。」時思廉在洛陽、遣使遺物三百段、致書曰:「景想節義、故有是贈。」 王為皇太子、遷洗馬。即位、改著作郎・弘文館学士。詔與魏徴共撰梁・陳書、思廉采謝炅・顧野王等諸家言、推究綜括、為梁・陳二家史、以卒父業。賜雜綵五百段、加通直散騎常侍。以藩邸恩、凡政事得失、許密以聞、思廉亦展盡無所諱。帝幸九成宮、思廉以為「離宮游幸是秦皇・漢武事、非堯・舜・禹・湯所為」。帝諭曰:「朕嘗苦氣疾、熱即頓劇、豈為游賞者乎?」賜帛五十匹、拜散騎常侍・豐城県男。卒、贈太常卿、謚曰康、陪葬昭陵。 孫。 賛曰:隋煬帝失徳、高祖總豪英、興北方、鼓行入関、挙京師、轟若震霆。思廉以諸生侍孱王、奮然陳大義、挫虓虎而奪之氣、勇夫悍心、褫駭自卻、不敢加無礼於其君。誠使有国家者挙不失義、天下其何以抗之哉?宜太宗之尊表云。 字令璋、少孤、撫昆媦友愛。力学、才辯掞邁。永徽中、挙明經第、補太子宮門郎。以論撰勞、進秘書郎。稍遷中書舎人、封呉興県男。武后時、擢夏官侍郎。坐從弟敬節叛、貶桂州長史。后方以符瑞自神、取山川草樹名有「武」字者、以為上應国姓、裒類以聞。后大悅、拜検校天官侍郎、擢文昌左丞・同鳳閣鸞臺平章事。永徽後、左右史唯對仗承旨、仗下謀議不得聞。以帝王謨訓不可闕紀、請仗下所言軍国政要、責宰相自撰、號時政記、以授史官。從之。時政有記自始。坐事、降司賓少卿。延載初、拜納言、有司以族犯法、不可為侍臣者、曰:「王敦犯順、導典樞機。嵇康被戮、紹以忠死。是能為累乎?」后曰:「此朕意、卿無恤浮言。」 證聖初、加秋官尚書。明堂火、后欲避正殿、應天變。奏:「此人火、非天災也。昔宣榭火、周世延。建章焚、漢業昌。且彌勒成佛、七宝臺須臾散壞。聖人之道、隨物示化、況明堂布政之宮、非宗廟、不宜避正殿、貶常礼。」左拾遺劉承慶曰:「明堂所以宗祀、為天所焚、當側身思過、振除前犯。」挾前語以傾后意。后乃更御端門、大酺、燕群臣、與相娯樂、遂造天樞著己功徳、命為使、董督之。功費浩広、見金不足、乃斂天下農器并鑄。以功賜爵一級。后封嵩山、詔總知儀注、為封禪副使。更造明堂、又以使護作、加銀青光禄大夫。大食使者献師子、曰:「是獸非肉不食、自碎葉至都、所費広矣。陛下鷹犬且不蓄、而厚資養猛獸哉!」有詔大食停献。時九鼎成、后欲用黄金塗之。奏:「鼎者、神器、貴質朴、不待外飾。臣観其上先有五采雜昈、豈待塗金為符曜耶?」后乃止。 契丹李盡忠盜塞、副梁王武三思為楡関道安撫使。坐累、下遷益州長史。始、蜀吏貪暴、擿發之、無所容貸。后聞、降璽詔慰勞、因謂左右曰:「為二千石清其身者易、使吏盡清者難、唯為兼之。」新都丞朱待辟坐贓應死、待辟所厚浮屠理中謀殺、據劍南。有密告后者、詔窮按。深探其獄、跡疑似皆捕逮、株黨牽聯数千人。獄具、后遣洛州長史宋玄爽・御史中丞霍献可覆視、無所翻、坐沒入五十餘族、知反流徙者什八以上、道路冤譟。監察御史袁恕己劾奏獄不平、有詔勿治。召拜地官・冬官二尚書。久之、致仕。卒、年七十四、遺令薄葬。贈越州都督、謚曰成。 弟珽。 珽、篤学有立志、擢明經。歴六州刺史、政皆有績、数被褒賜、累封宣城郡公。遷太子詹事、兼左庶子。時節愍太子稍失道、珽凡四上書諫。 其一曰:「臣聞賈誼稱『選天下端士、使與太子居處出入、故太子見正事、聞正言、行正道、左右前後皆正人也。夫習與正人居、不能無正。習與不正人居、不能無不正。教得而左右正、則太子正。太子正、天下定矣。』伏見内置作坊、諸工伎得入宮闈之内・禁衛之所、或言語内出、或事状外通、小人無知、因為詐偽、有點盛徳。臣望悉出宮内造作付所司。」 其二曰:「漢文帝身弋綈、足革舄。斉高帝闌檻用銅者、皆易以鐵。經侯帶玉具劍・環佩以過魏太子、太子不視。經侯曰:『魏国亦有宝乎?』太子曰『主信臣忠、魏之宝也。』經侯委劍佩去、杜門不出。夫聖賢以簡素為貴、皇王以菲薄為徳、惟殿下留心恭儉、損省玩好、以訓天下。」 其三曰:「前世東宮門閤、往來皆有簿籍。殿下時有所須、唯門司宣令、姦偽乘之、因縁增損。近呂昇之乃代署宣敕、賴殿下糾發其姦。以後墨令及覆事、並請内印畫署、冀免詐繆。」 其四曰:「聖人不專其徳、賢智必有所師。今司經無学士、供奉無侍讀。宜視膳時奏請其人、俾奉講勸。夫經所以立行修身、史所以諳識成敗、斯急務也。」太子雖稱善、不能用其言。及敗、索宮中、得珽諫書、中宗嘉歎。時宮臣皆得罪、獨珽擢右散騎常侍、遷秘書監。睿宗立、拜戸部尚書。所歴定州刺史・尚書官、皆與相繼云。卒、年七十四。 始、曾祖察嘗撰漢書訓纂、而後之注漢書者、多竊取其義為己説、珽著紹訓以發明舊義云。 令狐徳棻、宜州華原人。父熙、隋鴻臚卿。其先乃燉煌右姓。徳棻博貫文史。大業末、為薬城長、屬乱、不就官。淮安王神通據太平宮起兵、立總管府、署徳棻府記室。高祖入関、引直大丞相府記室。武徳初、為起居舎人、遷秘書丞。帝嘗問:「丈夫冠、婦人髻、比高大、何邪?」徳棻對曰:「冠髻在首、君之象也。晋之将亡、君弱臣彊、故江左士女、衣小而裳大。宋武帝受命、君徳尊嚴、衣裳隨亦變改。此近事驗也。」帝然之。 方是時、大乱後、經籍亡散、秘書湮缺、徳棻始請帝重購求天下遺書、置吏補録。不数年、圖典略備。又建言:「近代無正史、梁・陳・斉文籍猶可據、至周・隋事多脱捐。今耳目尚相及、史有所馮。一易世、事皆汨暗、無所掇拾。陛下受禪于隋、隋承周、二祖功業多在周、今不論次、各為一王史、則先烈世庸不光明、後無伝焉。」帝謂然。於是詔中書令蕭瑀・給事中王敬業・著作郎殷聞礼主魏、中書令封徳彝・舎人顔師古主隋、大理卿崔善為・中書舎人孔紹安・太子洗馬蕭徳言主梁、太子詹事裴矩・吏部郎中祖孝孫・秘書丞魏徴主斉、秘書監竇璡・給事中歐陽詢・文学姚思廉主陳、侍中陳叔達・太史令庾儉及徳棻主周。整振論譔、多歴年不能就、罷之。 貞観三年、復詔撰定。議者以魏有魏收・魏澹二家、書為已詳、惟五家史當立。徳棻更與秘書郎岑文本・殿中侍御史崔仁師次周史、中書舎人李百薬次斉史、著作郎姚思廉次梁・陳二史、秘書監魏徴次隋史、左僕射房玄齢總監。脩撰之原、自徳棻發之、書成、賜絹四百匹。遷礼部侍郎、兼修国史。累進爵彭城県子。轉太子右庶子。太子承乾廢、坐除名為民。召拜雅州刺史、又坐事免。會修晋家史、房玄齢奏起之。預柬凡十有八人、徳棻為先進、故類例多所諏定。除秘書少監。 永徽初、復為礼部侍郎・弘文館学士、監修国史、遷太常卿。高宗嘗召宰相及弘文学士坐中華殿、問:「何脩而王?若而霸?又當孰先?」徳棻曰:「王任徳、霸任刑。夏・殷・周純用徳而王、秦專刑而霸、至漢雜用之、魏・晋以降、王霸兩失。若用之、王為先、而莫難焉。」帝曰:「今茲何為而要?」對曰:「古者為政、清心簡事為本。今天下無虞、年穀豐衍、惟薄賦斂・省征役為要。」又問禹・湯・桀・紂所以興亡、對曰:「伝稱:『禹・湯罪己、其興也勃焉。桀・紂罪人、其亡也忽焉。』然二主惑嬖色、戮諫者、造炮烙之刑、此所以亡也。」帝悅、厚賜以答其言。遷国子祭酒・崇賢館学士、爵為公。以金紫光禄大夫致仕。卒、年八十四、謚曰憲。 時又有鄧世隆・顧胤・李延寿・李仁実皆以史学稱當世。 鄧世隆者、相州人。隋大業末、王世充兄子太戍河陽、引為賓客。秦王攻洛陽、遣書諭太、世隆報書夸慢。洛陽平、亡命、變姓名、號隱玄先生、棲白鹿山。貞観初、召授国子主簿、與崔仁師・慕容善行・劉顗・庾安礼・敬播倶為修史学士。世隆内負罪、居不聊。太宗遣房玄齢諭曰:「爾為太作書、各忠其主耳。我為天子、尚甘心疋夫邪?毋有後疑!」改著作佐郎、歴衛尉丞。初、帝以武功定天下、晚始嚮学、多屬文賦詩、天格贍麗、意悟沖邁。十三年、世隆上疏、請加集録、帝謙不許。終著作郎。 顧胤、蘇州呉人。父覽、仕隋秘書学士。胤、永徽中累遷起居郎、兼脩国史、以撰太宗実録勞、加朝散大夫・弘文館学士。論次国史、加朝請大夫、封餘杭県男。終司文郎中。 子琮、武后時為天官侍郎・同鳳閣鸞臺平章事。卒、后曰:「琮不幸、令雖不挙哀、然朕以股肱、特廢視事一日。」 李延寿者、世居相州。貞観中、累補太子典膳丞・崇賢館学士。以脩撰勞、轉御史臺主簿、兼直国史。初、延寿父大師、多識前世舊事、常以宋・斉・梁・陳・斉・周・隋天下参隔、南方謂北為「索虜」、北方指南為「島夷」。其史於本国詳、佗国略、往往訾美失伝、思所以改正、擬春秋編年、刊究南北事、未成而歿。 延寿既数與論譔、所見益広、乃追終先志。本魏登国元年、盡隋義寧二年、作本紀十二・列伝八十八、謂之北史。本宋永初元年、盡陳禎明三年、作本紀十・列伝七十、謂之南史。凡八代、合二書百八十篇、上之。其書頗有條理、刪落釀辭、過本書遠甚。時人見年少位下、不甚稱其書。遷符璽郎、兼脩国史、卒。 嘗撰太宗政典、調露中、高宗観之、咨美直筆、賜其家帛五十段、藏副秘閣、仍別録以賜皇太子云。 李仁実、魏州頓丘人。官至左史。著格論・通暦等書、行于時。 峘、徳棻五世孫。天宝末、及進士第。遇禄山乱、去隱南山豹林谷。楊綰微時、数從之游、而峘博学有口辯。綰為礼部侍郎、脩国史、薦峘、自華原尉拜右拾遺、兼史職。累遷起居舎人。撰玄宗実録、屬起居注亡散、峘裒掇詔策、備一朝之遺。自開元・天宝間名臣事多漏略、拙于取棄、不稱良史。大暦中、以刑部員外郎判南曹。遷司封郎中、知制誥、兼史館脩撰。徳宗立、詔元陵制度務極優厚、當竭帑藏奉用度。峘諫曰:「臣伏讀漢劉向論山陵之誡、良史咨欷。何者?聖賢勤儉、不作無益。昔舜葬蒼梧、弗變其肆。禹葬會稽、不改其列。周武葬畢陌、無丘處。漢文葬霸陵、不起山墳、禹非不忠、啓非不順、周公非不悌、景帝非不孝、其奉君親、皆以儉觳為無窮計。宋文公厚葬、春秋書華元為不臣。桓魋為石槨、夫子以為不如速朽。由是観之、有徳者葬薄、無徳者葬厚、章章可見。陛下仁孝切於聖心、然尊親之義貴合于礼。先帝遺詔、送終之制、一用儉約、不得以金銀縁飾。陛下奉先志、無違物、若務優厚、是咈顧命、盭經誼、臣竊懼之。今赦令甫下、諸條未出、望速詔有司從遺制便。」詔答曰:「朕頃議山陵、荒哀迷謬、以違先旨。卿引據典礼、非唯中朕之失、亦使朕不遺君親于患。敢不聞義而從、奉以終始?雖古遺直、何以加焉!」 峘在吏部、因尚書劉晏力。時楊炎為侍郎、故峘内徳晏、至分闕、以善闕奉晏、惡闕與炎、炎心不平。建中初、峘為礼部侍郎、炎執政、不為憾。炎出故宰相杜鴻漸門下、其子封求弘文生、以託峘、峘謝使者曰:「得公手署、峘得以識。」炎不疑、署送之。峘即日奏言:「宰相迫臣以私、從之負陛下、不從則害臣。」帝以詰炎、炎具道所以然。帝怒曰:「此姦人、無可奈何!」欲殺之、炎苦救解、乃貶衡州別駕。遷刺史。李泌執政、召拜太子右庶子、復為脩撰。 性愎且介、人人與為怨。孔述睿同脩史、峘忿細故、数侵之、述睿長者、無所校。貞元五年、坐守衡州冒前刺史戸口為己最、竇参素惡之、貶吉州別駕、稍遷刺史。斉映為江西観察使、按部及州。峘輕映後出先至宰相、今雖屬刺史、自挾所以過映者、至迎謁、頗怏怏。以語其妻、妻曰:「君自視何如人、以白頭走小生前。君不以此見映、雖黜死、我無憾。」映至、峘入謁、從容歩進、不首屬戎器、映以為恨。去至府、擿峘挙奏前刺史過失無状、不宜按部、貶衢州別駕。刺史田敦、峘門生也、與峘昧生平、至是迎拜、分俸半以賙給之。在衢十年、順宗立、以秘書少監召、未至、卒。 初、受詔撰代宗実録、未就、會貶、詔聽在外成書。元和中、其子太僕丞丕献之。以勞贈工部尚書。 賛曰:文本才猷、世南鯁諤、百薬之持論、亮・思廉之邃雅、徳棻之辭章、皆治世華采、而淟汨於隋、光明於唐、何哉?蓋天下未嘗無賢、以不用亡。不必多賢、以見用興。夫典章圖史、有国者尤急、所以考存亡成敗、陳諸前而為之戒。方天下初定、徳棻首發其議、而後唐之文物粲然、誠知治之本歟!
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唐書巻二百一十六上 列伝第一百四十一上 吐蕃上 吐蕃はもと西羌の系統であり、およそ百五十種あって、黄河・湟水・長江・岷江の間に散らばって住んでいた。その種族には発羌・唐旄などがあるけれど、まだ中国とは交通しておらず、折支水の西にいた。先祖は鶻提勃悉野(オデプゥギェル)といい、強力で智慧があり、だんだん諸羌族を併合してその地に拠った。蕃と発とは音が近いので、その子孫は吐蕃というのである。そして姓は勃率野(プゥギェル)である。ある人はつぎのように言う。「南涼の禿髪利鹿孤の系統に二人の子があり、樊尼と傉檀といった。傉檀が後をついだが、西秦の乞仏熾盤のために滅ぼされた。樊尼は残党をひきつれて、北涼の沮渠蒙遜に臣となり、臨松(甘粛省張掖県の東南)の太守となった。蒙遜が滅んで、樊尼は兵をひきつれて西の方黄河を渡り、積石山を越えてついに多くの羌族を手なずけ支配するようになった」と。 その民族の習慣では、勢力のあるものを賛といい、男を普というので、君長を賛普(ツェンポ)といい、賛普の妻は末蒙という。その官吏には大相があり、論茝(ロンツェ)いい、副将は論茝扈莽(ロンツェゴマン)といって、おのおの一人である。また大論・小論とも号する。都護は一人で悉遍掣逋(チェンチェポ)という。また内大相があり、曩論掣逋(ナンロンチェポ)といい、また論莽熱ともいう。その副相を曩論掣逋(ナンロンチェポ)といい、その小相を曩論覓零逋(ナンロンリンポ)、その小相を曩論充(ナンロンチュン)といい、おのおの一人である。また整事大相があり、喩寒波掣逋(ユルゲンパチェポ)といい、副整事は喩寒覓零逋(ユルゲンリンポ)、小整事は喩寒波充(ユルゲンパチュン)という。これらはみな国事を担当し、総称して尚論掣逋突瞿(シャンロンチェポグウ)という。 その土地は京師(長安)の西八千里にあたり、鄯善からは五百里である。強力な兵士は数十万で、国には雷電、風まじりの雹、積雪が多く、盛夏でも中国の春のようである。山谷はいつも地が凍結し、寒さは厳しく、その気に当てられるとたちまち息切れがして苦しいが、身体を害というほどではない。その賛普は跋布川のほとりにいるが、その川はまた邏娑(ラサ)川ともいう。城郭や住宅はあるが、これにはあえて住まず、毛織のテントを並べてそれに居住する。これを大払廬(プル)と称するが、数百人を容れることができ、そのまもりは厳重で、本陣はひじょうにせまい。部の人たちは小さな払廬に住まう。長生きするものが多く、百余歳になるものがいる。衣服はだいたい毛皮である。赤土を顔に塗ったのを綺麗だとする。婦人は弁髪してまといつけている。その器は木をまげてに皮を張り、あるいは毛織物をもって大皿を作る。麦粉を蒸し固めて腕を作り、羹や酪を満たして、器もろともこれを食う。また手で酒などを受けて飲む。その官吏の章は瑟瑟(宝珠)が最上で、金がこれにつぐ。金塗銀がそのつぎで、銀がこれにつぎ、最下は銅までいって終わる。大小の差があり、臂の前に付けて貴賤の区別をつける。家屋は屋根がみな平らで、高さが数丈にいたるものがある。その穀物には小麦・裸麦・蕎麦・治豆があり、獣類にはヤク・優秀な馬・犬・羊・豚がある。天鼠の皮は裘(かわごろも)とすることができる。独峯駝があるが、これは日に千里を走るという。その宝物は金・銀・錫・銅である。人が死んで葬うときには塚を作り、これを塗りこめる。 その行政には文字を用いず、縄を結び、木に刻みをいれて約束をする。その刑罰は、たとい小罪であってもかならず目を抉り、あるいは足きり・鼻そぎを行なう。また皮で鞭を作って笞うつ。感情のままに喜び怒り、定まった考えというものをもたない。その牢獄は、地を掘って深さ数丈あり、中に二、三年囚えてはじめて出す。その重要な客を迎えてするときには、かならずヤクを駆りたてて客にみずからこれを射させてのち、これを食料として贈る。その風俗としては、死者の魂をおもんじ、巫をすぐれたものとしている。山羊や羊に仕えて大神とし、仏教を喜び、呪詛に習熟している。国の政事はかならず僧侶が相談にあずかり、参加を待って決定する。多くの人々は弓刀を身につけて飲酒するが、乱れることは許されない。婦人は政治に関係することはない。元気のよいのを尊び、弱々しいのを賎しむ。母は子に礼し、子は父に対して傲慢である。出入りするには若いものを前にし、老人は後につづく。戦死することをおもんじ、代々戦死した家をもってすぐれた家柄とする。戦闘に敗けただらしのないものは、狐の尾を首にかけその恥を示し、かれは人中に並ぶことができなくなる。礼をするのには、かならず手を地面につけて犬の鳴くまねをし、二度身をまげて終わる。父母の喪に服するときは、髪を断り、顔をくろずみで塗り、黒い衣を着る。そして埋葬がすめば忌み明けとなる。 その兵を挙げるときは、七寸の金の箭をもってしるしとする。百里ごとに一駅あり、急に兵を動員するときは、駅の人は胸に銀鶻を付加し、それがはなはだ急なときには鶻の数を多くする。敵の侵入を知らせるには狼烽をあげる。その牧畜のやり方は、水や草を逐うてゆき、定まった場所には居つかない。その鎧は精で、これを着て身をつつみ、両眼のところだけ穴があけてある。したがって強力な弓や鋭い刃でも深傷を負わせることはできない。その兵法は厳格で、軍隊には輸送の食糧はなく、ぶんどり品を資材に使う。戦闘には、かならず前隊がぜんぶ死んでから後隊が進撃する。その四季は麦の熟する時をもって年のはじめとする。その遊びごとは棊・六博で、その音楽は螺貝を吹いたり、鼓をたたいたりすることである。その君は、臣下五、六人と友人になり、共命と称し、君が死ねばみな自殺して殉う。身につけたもの、玩弄物・乗馬はみないっしょに埋める。大きな冢を作り、冢の上に多くの木を植えて祭の場所とする。賛普は、その臣下と年に一回小盟をし、羊・犬猿を犠牲に献げる。三年に一回大盟をし、夜、いろいろの壇に供物をおき、人・馬・牛・驢を犠牲に献げる。だいたい犠牲はかならず足を折り腸を裂いて前に並べ、巫をして神に告げさせて、「盟にそむくものあればこの犠牲のようになるであろう」と言う。 さて、そののち君長が出て瘕悉董摩(ギェルトンマ)といい、佗土度(ラトド)を生んだ。佗土生は掲利失若(チニヤ)を生み、掲利生は勃弄若(ロニエン)を生み、勃弄生は詎素若(タグウニヤ)を生み、詎素生は論賛索(ロンツェン)を生み、論賛生は棄宗弄賛(チソンツェン)を生んだが、またの名を棄蘇農(チソン)、とも、また弗夜氏(プゥギェル)とも号した。その人がらは、意気盛んで才能あり、雄健で、つねに野馬や牛を駆り、走ってこれを刺殺するのを楽しみにしていた。西域の諸国はともにこれに臣として仕えた。 貞観八年(635)、吐蕃ははじめて使者を遣わして来朝した。天子は行人の馮徳遐をやって書を与え、いたわった。弄讃は、突厥・吐谷渾がともに唐の公主と婚姻していることを聞き、そこで使いをよこし、物をもたらして婚を求めたのである。しかし帝は許可を与えなかった。使者は、還って賛普にでたらめを言った。「天子は私を厚く待遇し、ほとんど公主を戴きかけたのですが、ちょうど吐谷渾王が入朝したところで、ついに不許可になりました。おそらく反間の策動を行なったからでありましょう」と。弄讃は怒り、羊同をひきつれてともに吐谷渾を攻撃した。吐谷渾は抵抗することができず、青海の北側の方に逃れ、吐蕃はその財産、家畜をぜんぶ取った。また党項・白蘭羌を攻めてこれを破り、兵二十万を統率して松州(四川省松藩県)に入寇した。そして使者に命じて金の鎧を献上させ、かつ公主を迎えたいと言った。また側近に言った。「公主が来なければ、わしは、よりいっそう深く侵入しよう」。都督の韓威は軽装して出城し敵をうかがったが、かえって破られてしまった。唐に服属している羌族は大いに乱れ、みな背いて敵側に応じた。そこで吏部尚書の侯君集を行軍大認管とし、達弥道に出動させ、右領軍大将軍の執失思力を白蘭道に、右武衛大将軍の牛進達を闊水道(四川省松藩県付近)に、右領軍将軍の劉蘭を洮河道に出動させ、ともに行軍管として歩兵騎兵五万をひきつれて討伐に赴かせた。牛進達は、松州からでて夜その屯営をみなごろしにし、首千級を斬った。 吐蕃でははじめ東方に侵入したときは、年々戦がつづいてその動員を解除できなかった。その大臣は帰国することを願ったが聴きいれられず、自殺するものが八人も出た。そこで弄讃ははじめて前途に不安をいだいて退却した。そして使者をよこして謝罪し、熱心に婚姻を願った。天子はようやくこれを許した。弄讃は大論の薛禄東賛(ガルトンツェン)をよこし、黄金五千両を献上し、他にもこれに適当する贈り物をつけ結納とした。 貞観十五年(641)、天子は弄讃に一族の女文成公主を妻した。江夏王李道宗に詔を下し、節を持して護送させ、館を河源王の国に建てさせた。弄讃は兵をひきいて栢海に屯して親迎の礼を行なった。そして李道宗に会い、ひじょうにうやうやしく婿としての礼をとった。また中国の服飾の美しいのを見て、小さくなって恥じいっていた。帰国して、その先祖にいまだ皇帝の女と結婚したものがないのを思い、公主のために一城を築いて後世に誇示しようと考えた。そして宮殿を建ててこれに公主を住まわせた。公主は国人が顔に赤土を塗るのをいやがったので、弄讃は命令を下して国中にこのことをするのを禁止した。またみずから毛織の衣服を脱いで白絹・薄絹を着、中国風にした。そして諸豪族の子弟をよこして国学に入学させ、『詩経』『書経』を習わせた。また、儒者で往復文書を司るものを派遣されんことを願った。 帝が遼東を征伐して帰ったとき、弄識は禄東賛を使いによこし、書を上った。「陛下は四方を平定され、日月の照らすところはみな臣としてこれを治めておられます。高麗は遠方にあるのを恃んで礼に従わず、天子はみずから司令官となって遼河を渡り敵の城を降し、陣を陥れられ、前に定めた期日に凱旋されました。鷹が空を飛ぶのが早いといっても、この速さには及びません。いったいは鵝のようなものであります。臣は謹んで黄金を練って鵝を作りこれを献上いたします」と。その金鵝の高さは七尺で、中に酒三斛を満たしうるものであった。貞観二十二年(648)、右衛率府長史の王玄策は西域に使となってゆき、中天竺のものに掠奪された。弄讃は精兵を出して王玄策に従わせ、これを打ち破り、捕虜を献上してきた。 高宗が即位し弄識を駙馬都尉西海郡王に抜擢した。弄識は書を長孫无忌に送って言った。「天子があらたに即位せられましたが、臣下に不忠なものがあれば、兵を指揮して唐国に赴き、ともにこれを討伐いたしましょう」と。それといっしょに金・琲を十五種献上し、それを昭陵にお供えした。それで賓王に進封せられ、厚く贈り物を賜わった。また蚕種や酒造りの人、碾磑などを作る工人を送られんことを願ったが、詔を下して許可された。 永徽の初め(650)に弄讃は死んだので、使者をやって弔わせた。あとは子がなく、その孫が立ったが、幼年で政治はとれなかったから禄東賛が宰相となった。 顕慶三年(658)に金の盆と金頗羅などを献上し、また婚姻を願った。まもなく吐谷渾が唐に内付したので、禄東賛は怨み怒り、精鋭の軍をひきつれてこれを攻撃した。そして吐谷渾の大臣素和貴は吐蕃に逃走し、その長所短所を教えたので、その国を破ることができた。慕容諾曷鉢は弘化公主と残った部落をひきつれて涼州(甘粛省武城県)に走った。天子は涼州都督の鄭仁泰に詔を下し、青海道行軍大招管とし将軍の独孤卿雲らをひきつれて涼州・鄯州(西寧)の地方に屯させた。また左武候大将軍の蘇定方を安集大使とし、諸将の指揮をさせて、その乱をしずめさせた。そこへ吐蕃の使者論仲琮(ロンチュンサン)が入朝して、吐谷渾の罪を書いて奏上した。帝は使者を吐蕃にやりその行為を責めた。そこで吐蕃から使者が来て吐谷渾と仲なおりをすることを願い、赤水の地で馬を牧することを求めた。しかし朝廷ではこれを許さなかった。 ちょうどそのころ禄東賛が死んだ。東賛は、文字のことはしらなかったが、天性毅く、軍隊を把握してよく統率し、吐蕃はこれに信頼してついに強国となったのである。はじめ入朝したとき応待がりっぱであったので、太宗は抜擢して右衛大将軍に任じ、琅邪公主の外孫を妻せようとした。禄東賛はみずから言った。「臣はすでに妻を娶っておりますので、あえて詔に従うことはいたしません。かつ賛普はまだ公主にお目にかかっていないのですから、陪臣の私は、はっきりご辞退申し上げます」と。天子はその言をすぐれたものだと考えたが、恩をもって懐柔しようとし、その辞退を許さなかった。禄東賛には子があり、欽陵(チンリン)・賛婆(ツェンワ)・悉多于(タダウ)・勃論(ロン)といった。禄東賛が死んでこの兄弟たちはみな国政を担当した。これより年々辺境に侵入し、諸羌族ならびに羈縻の十二州をみな破り支配した。 総章年間(668-669)、朝廷では会議の結果、吐谷渾を涼州の旁の南山に徙すことにした。帝は吐蕃の入寇を鎮めようとし、宰相の姜恪・閻立本、将軍の契苾何力たちと議して、まず吐蕃を討とうとした。閻立本は言った。「民は飢えていますから、まだ軍隊を動かすことはできません」と。契苾何力は言った。「吐蕃は西の果てに小さく存在しております。臣が恐れるのは、軍隊が引きますと獣のようにかくれひそみ、山に伏しかくれ、捕え討っても、なにも得るところがないことです。春になればまた吐谷渾を侵すでありましょうが、臣はこのさい救援しないことをお願いいたします。わが方の力が弱っているのを疑わせ、これを驕りたかぶらせて、いっきょに滅ぼすべきであります」と。姜恪が言った。「そうではありません。吐谷渾はただいま衰弱しており、吐蕃は勝利に気負うております。衰弱した精神で強力な軍隊を拒ぐのです。戦えば、ぜったい対抗できるはずがありません。いま救わなければ吐谷渾は滅びるでしょう。臣は、天子の軍隊が速やかにこれを助けて、吐谷渾をうまく存続させ、あとでおもむろに処置を考えるのがよいと思います」と。論議は決せず、また吐谷渾を徙すこともできなかった。 咸亨元年(670)は入寇して羈縻の十八州に損害を与えた。于闐(コータン)を従え、亀茲撥換(クチャバルカン)城を占領し、ここに安西四鎮はみな存在を失った。そこで右威衛大将軍の薛仁貴を羅裟道行軍大総管とし、左衛員外大将軍の阿史那道真と左衛将軍の郭待封とを副にし、吐蕃の討伐に向かわせ、同時に吐谷渾が国へ帰るのを守護させた。軍隊はおよそ十余万で、大非川にいたったが、吐蕃の欽陵がこれを防ぎ、天子の軍隊は敗戦した。ついに吐蕃は吐谷渾を滅ぼしてその土地をぜんぶ保有した。そこで朝廷では司戎太常伯・同東西台三品の姜恪を涼州道行軍大総管とし討伐に向かわせた。ところがちょうどそのとき姜恪が死んだので、軍隊を還した。 吐蕃は大臣の仲琮を入朝させた。仲琮は若いときに大学に遊学して、よく文字を知っていた。帝は召し出して問うた。「賛普とその先祖は、どちらが賢明であるか」と。答えて言った。「勇敢で果断、すみやかに事を処置するのは、いまの賛普は、ご先祖には及びません。しかし、ねっしんに国政をとり、けっして人民を欺くようなことをされないのが現賛普でいられます。かつ吐蕃は寒冷な曝された野に住み、生産物はわずかで、鳥海の北では真夏でも雪が積もり、暑いときはそまつな毛織を、冬には裘を着て、水や草を求めて遊牧しております。寒冷のころは城郭に住み、テントを張ります。道具は中国の万分の一にも当たりません。ただ上下力を一にし、事を論議するときは、下から意見をのべ、多くの人が利益とするところに従って実行します。これが長い間を経てなお勢い盛んなわけでありましょう」と。帝は言った。「吐谷渾は、吐蕃ともとは舅甥の間がらの国である。素和貴はその君主に背き、吐蕃はこれを用いて吐谷渾の地を奪いとった。薛仁貴たちは出動して吐谷渾王慕容氏を安定させようとしたが、また吐蕃はこれをまちかまえて攻撃し、そしてわが涼州へ入寇したのは、いかなるわけであるか」と。仲琮は頭を下げて言った。「臣は命を奉じて朝貢にまいりましたが、他にはなにも聞いておりません」と。帝はその答をよしとしたが、しかし仲琮は政治に直接あたる臣ではないというので、その礼遇を薄くした。 上元二年(675)、吐蕃は大臣の論吐渾弥をよこして和平を願わせ、かつ吐谷渾と好しみを修めることを求めた。しかし帝は許さなかった。翌年(673)、鄯(青海省西寧市)・廓(青海省貴徳県東)・河(甘粛省臨夏県)・芳(甘粛省臨県南)四州を攻撃し、官吏および馬牛を万をもって数えるほど殺し、あるいは略奪した。そこで周王顕(後の中宗)に詔を下して洮州道行軍元帥とし、工部尚書の劉審礼ら十二の総管をひきつれさせ、相王輪(後の睿宗)を涼州道行軍元帥とし、左衛大将軍の契苾何力、鴻臚卿の蕭嗣業らの軍をひきつれさせ、これを討伐させた。ところが二王は行くことができないでいるうちに、吐蕃は進んで畳州(甘粛省臨潭県南)を攻め、密恭・丹嶺の二県を破った。また扶州(甘粛省文県西北百六十里)を攻撃して守将の乃高選を破った。いっぽう尚書左僕射の劉仁軌は洮河鎮守使となったが、長い間これと戦って戦功はなかった。 そこへ吐蕃が西突厥と連合して安西を攻撃した。そこでまた中書令の李敬玄に命じて洮河道行軍大総管・西河鎮撫大使・鄯州都督として劉仁軌に代らせた。詔を下して勇士を募集し、籍役痕負のものにも制限をつけず採用し、帝はみずから軍の出発に臨席激励した。また益州長史の李孝逸・巂州都督(西康西昌)の拓王奉に勅を下し、剣南・山南の兵を増発して、まず竜支(青海省西寧県東南八十里)に戦い、吐蕃は敗戦した。いっぽう、李敬玄は劉審礼をひきいて吐蕃を青海のほとりに攻撃したが、劉審礼は戦死した。李敬玄は承風嶺に兵をしたが、険しくて思うように行動できず、吐蕃は天子の軍を圧迫した。都左領軍将軍の黒歯常之は、五百人の決死隊をつれて、夜その陣営に斬りこんだ。蛮族は驚いてみずから互いに踏みにじりあい、死ぬものがひじょうに多かった。そして退却し、李敬玄はやっと脱れることができた。 帝はもともと温和で、遠い将来の策などをもたなかったので、諸将がしばしば敗れるのを見、ひろく近臣にはかって、防禦の方法を求めた。帝は言った。「朕はいまだ鎧を着たり、行軍したりしたことはない。さきに高麗・百済を滅ぼすとき、毎年軍隊を動かし、中国は騒然となった。朕は、今にいたるまでこのことを恨んでいる。いま吐蕃は国内に侵入してきている。どのようにわれわれの謀をなすべきであろうか」と。中書舎人の劉禕之たちは、詳しく答えた。「まず、おのおのの家が潤い、人手がたりるようになるのを待ってから討伐すべきであります」。ある人は言った。「敵はわるがしこいですから、講和するべきではありません。ある人は言った。「屯田をして厳重に守るのが、つごうよいと思います」と。ただ中書侍郎の薛元超は言った。「敵を自由にして問題を起こさせ、作戦を充分にしてこれを討伐するにしくはありません」と。帝は、黄門侍郎の来恒をかえりみて言った。「李勣が死んでからは、りっぱな将軍はいなくなってしまった」。来恒はただちに言った。「さきに洮河の軍隊は、敵を制圧するに充分な力あるものでありました。ただ諸将が命令を聞かないので勝利することがなかったのです」と。帝はぜんぜん悟らず、そこで論議するのをやめてしまった。 儀鳳四年(679)、賛普は死に、子の器弩悉弄(チドウソン)が立ち、欽陵はまた国政を思いのままにした。吐蕃では大臣をよこして不幸を唐に告げたので、帝は使いをやって会葬させた。 翌年、賛婆と素和貴は兵三万をひきいて河源を攻め、良非川に屯した。李敬玄は湟川に戦って敗戦した。左武衛将軍の黒歯常之は、精鋭の騎兵三千をもって、夜その陣営を攻撃し、賛婆は懼れて退却した。ついに黒歯常之を抜擢して河源(西寧市西百二十里)経略大使とし、烽火台と巡邏を厳重にし、屯田を開いた。それで蛮族の作戦はすこし停頓した。 はじめ剣南の茂州(四川省茂県)の西を経営しようとし、安戎城を築き、その辺境に迫った。突如として生羌に導かれて蛮族はこれを取ってみずから守り、それによって西江河の諸蛮族を併合し、羊同・党項の諸羌をみな臣下とした。その土地は東は松・茂・巂の諸州と接し、南は婆羅門(インド)にいたり、西は安西四鎮を取り、北は突厥まで及んで、その広さは万里に余るものであり、漢魏いらい西戎諸族の比べもののないところであった。 永隆元年(680)、文成公主が死んだので、使者をやって弔わせた。またわが方の陳行焉の遺骸を帰してよこした。さきに陳行焉は吐蕃に使いにゆき、そのとき論欽陵は自分を拝させようとし、武器をもってせまった。しかしかれは屈しなかったので、十年間吐蕃に止められたままであった。ここに遺骸が帰ったのでかれに陛州刺史が贈られた。賛婆はまた良非川に入寇したか、黒歯常之は攻撃してこれを退けた。武后の時には、吐蕃は他の蛮族たちと同様に入朝し、賀詞をのべた。永昌元年(689)、文昌石相の韋待価に詔を下して安息道大総管とし、安西大都護の閻温古をこれに副として吐蕃を討たせた。軍は止まって動かないので責任を問い、将軍たちを死刑や流刑に処した。翌年(690)、また文昌右相の岑長倩に詔を下して、武威道行軍大総管として吐蕃を討った。途のなかばまで行軍して中止した。 また翌年(691)、吐蕃の大首領の曷蘇は貴川部と党項の種族三十万をひきつれて降服した。武后は右玉鈴衛将軍の張玄遇を安撫使とし、兵二万をひきいてこれを迎え、大度水に屯した。吐蕃は曷蘇をとらえて去った。他の首領の昝插がまた羌蛮八千をつれてみずからやって来て降服した。張玄遇はただちにその部をもって葉州を置き、昝插を刺史にした。そして石碑を大度山に建て、その戦功をきざみこんだ。 この年、また右鷹揚将軍の王孝傑に詔を下して武威道行軍総管とし、西州(高昌)都督の唐休璟と左武衛大将軍の阿史那忠節をひきいて吐蕃を討たせた。そして大いにその衆を破り、ふたたび安西四鎮を奪取した。さらに安西都護府を亀茲に置き、軍隊をもってこれを鎮守した。あるものが論議して、四鎮を廃止して保有しないことをねがった。右史の崔融は献議して言った。「夷狄が中国の悩みとなってから久しいものがあります。これは三皇五帝も臣下としなかったものであります。漢は百万の衆をもって攻めて、かえって平城に苦しめられました。その後武帝はひじょうな憤りをかれらに向け、四夷に復讐して心中満足いたしました。張騫がはじめて西城に交通を開いてから河西四郡を並べ両関(玉門関・陽関)を置いて匈奴の右腕を断ち切りました。それより漸次、黄河・湟水を渡り、令居(西寧市東北)に城を築いて南の羌族と匈奴の連絡を絶ったのであります。ここに、鄣・候・亭・燧は長城より数千里も出たところに設けられ、そのためには朝廷の財政を傾け、兵馬をみな動員し、行人や使者は年々月々絶えることなく、財政は窮迫してついに皮の貨幣を用いるまでになりました。緡法を算したり、舟や車に税をかけたり、酒造りを専売にしたりするのも、どうして長期計画を考えないで、そのようにするものでしょうか。匈奴はここに孤立して、とくに遠くまで逃走し、漢はついに西城に道を開いて、使者もおいて監督するようになりました。後漢の光武帝が漢室を中興してから、みなふたたび内属しましたが、延光時代(122-125)になるまでに、交わりは三たび絶たれ三たび通じるというぐあいになりました。わが太宗文皇帝が漢の旧領土を支配されるようになり、南山にそうてパミールにいたり、府や鎮をずたずたにし、戦火は互いに見え、それゆえ吐蕃もあえて侮ることはありませんでした。高宗のとき、官吏たちは成績悪く、安西四鎮を棄てて、これを保有することができず、吐蕃はついに焉耆(カラシャール)の西に勢力を張り、兵鼓を盛んに打って東方で作戦し、西城を駆けめぐり、高昌(トルファン)を越え、車師(ヤルホト)を経て、常楽州を掠奪し、莫賀延磧の交通を絶って燉煌に臨むようになりました。いま王孝傑はいっきょに四鎮を取り、先帝のもとの領土にかえしました。もしまたこれを棄てるならば、それはみずから成功したものを打ちこわし、完遂された方略を破るものであります。いったい、四鎮が守備がなければ、蛮族の軍はかならず西域に臨み、西域が動揺すれば、南方の羌族を動かし、南方の羌族が東西に連合すれば、河西はかならず危険になります。かつ莫賀延磧はひろびろとして二千里にわたり、水や草はなく、もし南辺が蛮族(吐蕃)に直接すれば、唐兵はこれを渡ることができません。そしてかれらがさらに北方に向かえば、伊西北廷、安西方面の諸蛮族はみな亡びます」と。この論議は中止された。 さて吐蕃の首領の勃論賛(ロンツェン)は、突厥の偽可汗の阿史那俀子と南の方に侵略し、王孝傑と冷泉に戦って敗走し、砕葉鎮守使の韓思忠は泥熟没斯城を破った。 証聖元年(695)、論欽陵と賛婆は臨を攻撃した。王孝傑は粛辺道大総管として素羅江山に戦った。蛮族は敗れて退却したが、また涼州を攻め都督を殺した。そして使者をよこし、講和を願い、安西四鎮の守備をやめることを約束し、西突厥十姓の土地を分割することを求めた。武后は通泉尉の郭元振に詔して使者にゆかせたが、かれは途中で飲陵に出会った。郭元振は言った。「昔、禄東賛は朝廷に仕え、親交を誓ってきわまりなく誠実であったのに、いまはかってにみずから親交を絶って、年々辺境を乱している。父は朝廷に通じ、その子は朝廷と絶つのは、親に孝と言えようか。父は朝廷に仕え、子は朝廷に背くのは、国に忠と言えようか」と。欽陵は言った。「まことに、そのとおりである。天子が和平を許され、二国の防備をやめることができ、西突厥四鎮におのおの君長を立てさせ、その国にみずから守るようにさせたらどうであろう」と。郭元振は言った。「唐が、西突厥と四鎮をもって西方の土地をいたわっているのは、列国への大道となっているからであって、他意はないのである。かつこれらの諸部は吐蕃とちがって、かなり昔から唐の領域に編入せられている」と。欽陵は言った。「使者は、わが方が諸部を犯して唐の辺境に不安を起こすと考えていられるのか。わが方がもし土地や財賦を貪ろうとするならば、かの青海や湟川の地方が近くに存在するのである。いま、それを捨てて争わないのは、何故か。突厥の諸部は、砂漠がひろびろと存在し、中国からはひじょうに遠い。どうして土地を万里のかなたに争うことをしよう。かつ唐は四方の蛮族をみな併せて、これを臣下としている。海の外の地のはてといえども滅ぼされないものはない。吐蕃だけがたまたま残っているのは、ただ兄弟の関係によって心をこまかにくばって、互いに存在を認めあっているからである。西突厥の五咄陸は、安西都護府に近く、吐蕃からは遠い。俟斤はわが方と砂漠一つを隔てるだけである。騎兵がひと走りすれば十日を越えないでここに到達するので、これを憂えるのである。烏海や黄河の地帯は、源が閉ざされ、奥は阻まれており、病毒がひどい。唐はけっして入りこむことはできない。入りこめば、この自然条件があるから劣悪な兵士やよわよわしい将軍でも吐蕃の患をなしやすい。それゆえ、わが方はこれを獲得することを欲しているので、それによって諸部をうかがおうとしているのではない。甘州・涼州は積石道から二千里も隔たり、その広いところで数百里にならず、狭いところはわずか百里である。わが方がもし張掖(甘粛省張掖県)・玉門関(甘粛省敦煌県西方)に出たならば、貴国に春は耕作させず、秋は収穫させず、五、六年たたずにその西方領域を斬り落とすことができよう。それをいま棄てて為さないのであるから、わが方を恐れることは何もない。青海の戦闘には、黄仁素が和平を約束したため、辺境の守備隊は警戒していなかった。崔知弁は俟斤方面を経て、わが方の牛・羊を万をもって数えるほど掠奪した。このゆえにこの要求をなすのである」と。それから使者をよこして、ねっしんにねがった。郭元振は固く許可すべきでないことを言い、武后はこれに従った。 欽陵は国政を思いのままにし、長い間いつも中央にいて、政事を支配していた。その弟たちはみな方面軍を管轄しており、賛婆は東部国境にほとんど三十年の間かかりきりであり、辺境の患をなした。兄弟はみな才略があり、沈雄で、衆人はこれを恐れていた。賛普の器弩悉弄(チドゥソン)はすでに成人し、みずから国政をとろうとして、漸次不満に堪えきれなくなった。そこで大臣の論巌たちと、欽陵たちを退けることを図った。欽陵はちょうど兵をひきいて外にでており、賛普は猟をするといって、兵を指揮して、その親しいものたち二千余人を捕え、これを殺した。そして使者を出し、欽陵と賛婆を召還した。欽陵は命令をきかないので、賛普はみずからこれを討伐したが、まだ戦わないうちに欽陵の軍は崩壊した。そこでかれは自殺し、側近の殉死するものは百余人あった。賛婆は部下と兄の子莽布支(マンポジェ)たちをつれてに塞に来、好しみを通じた。朝廷では羽林飛騎をやって歓迎し、賛婆を抜擢して特進・軸国大将軍・帰徳郡王にし、莽布支は左羽林大将軍・安国公にし、みな鉄券を賜い、はなはだ厚く礼遇し慰労した。賛婆は部下の兵を領有し、河源の地方を守り、死んだときには安西大都護を贈られた。 また左粛政台・御史大夫の魏元忠をやって隴右諸軍大総管とし、隴右諸軍大使の唐休璟をひきつれて討伐に出した。ちょうどそのとき、蛮族は涼州を攻撃したので、唐休璟はこれを討って、首二千級を斬った。そこで論弥薩が来朝し講和を請うた。いっぽう音はみずから万騎をひきいて悉州(四川省松県西南)を攻めたが、都督の陳大慈は四たび戦って、みな勝利を収めた。明くる年(703)、そこで吐蕃は馬や黄金を献上して婚姻を求めてきた。ところが蛮族の南方の諸部族がこのころみな叛いたので、賛普はみずから討伐に赴き、軍中で死んだ。 そして諸子が争い立ったが、国人は棄隷蹜賛(チデツクツェン)を立てて賛普とした。年は七歳であった。使者が来て喪を告げ、かつ会盟することを求めた。また大臣の悉董熱(トンシェル)をよこしてねっしんに婚姻を結ぶことを求めたが、まだ返事は与えなかった。ちょうどそのとき、監察御史の李知古は、姚州蛮を討伐してこの蛮が吐蕃の道案内するのを牽制することを建議した。そこで詔を下して剣南の徴募兵を出してこれを攻撃した。蛮の首領は吐蕃に通じ、李知古を殺し、その屍体をもって天を祭り、蜀漢に進攻した。朝廷では遊武監軍・右台御史の唐九徴に詔を下して姚巂道討撃使とし、兵をひきいてこれを撃たせた。吐蕃は鉄の縄橋を漾水・濞水にかけ、西洱蛮に通じ城を築いてこれを守った。唐九徴は鉄の縄橋を破壊し、城中を誅滅し、鉄柱を滇池に立てて、その功業を刻みこんだ。 中宗の景竜二年(708)、その求婚の使者を還した。あるものが言った。「かれは公主を迎えに来、かつ中国の言葉をよく習い覚えました。帰すべきではないと思います」と。帝は、中国は誠意をもって夷狄と結ぶべきであるとして、その願いは許さなかった。翌年(709)、吐蕃はさらに使いをよこして貢ぎ物を納めた。祖母の可敦はまた宗俄をよこして婚姻をねがった。帝は雍王李守礼の女を金城公主として、これに妻すことにした。吐蕃は、尚賛吐(シャンツェント)・名悉臘(ニェレブ)たちを、公主を迎えるためによこした。帝は公主が幼いのを思い、錦や細をおのおの数万賜い、諸種の芸能人、もろもろの工人たちをみなつけてやり、亀茲楽の楽団を与えた。そして左衛大将軍の楊矩に詔を下し、節を持して送らせた。帝はそのために始平に行幸し、幕を張って宴を開いた。群臣と吐蕃の使者をよんで会場で宴し、帝は悲しみすすり泣いた。そして始平県に大赦を行ない、死罪に決せられたものをみな許し、人民の賦役は一年間免除した。県名を改めて金城とし、郷は鳳池とし、里は愴別とした。 公主は、吐蕃にいたって、みずから城を築いて居住した。朝廷では、楊矩を鄯州都督に任じた。吐蕃は表面はおだやかであったが、内心は怒りを蔵していたので、厚く楊矩に賄賂を贈って、河西九曲の地を金城公主の化粧料として与えられるよう願った。楊矩は表文を奉って許可を得、その地を吐蕃に与えた。九曲は水草ともに良質で、牧畜に適当したところであり、唐にも近接している。これより吐蕃はますます発展して中国に入寇しやすくなったのである。 玄宗の開元二年(714)に吐蕃の大臣坌達延(ポンタギェル)は宰相に書を上って、盟約の文を作り、国境を河源に定めることをねがい、左散騎常侍の解琬が盟約に出席することを乞うた。帝は宰相の姚崇たちに返事を出させ、解琬に命じて神竜の時の誓約書を持ってゆかせた。吐蕃もまた尚欽蔵(シャンチサン)と御史の名悉臘(ニェレブ)をよこして盟約の文を献上させたが、いまだ決定するまでにはいたらなかった。そのとき坌達延の将兵十万は、臨洮(甘粛省臨洮県西南)に入寇し、蘭州・渭州(甘粛省隴西県東南五里)に攻め入って監牧の馬を掠奪した。楊矩は疑獄が起こるのを恐れて自殺した。詔が下されて、薛訥は隴右防禦使となり、王晙らと力を井せて敵を迎え撃った。帝は吐蕃の背信行為を怒って、みずから軍を率いてこれを討とうとした。ちょうど王晙たちは、武階で戦って、一万七千の首を斬り、馬・羊は二十万の大量を鹵獲した。また長子で豊安軍使の王海賓と戦ったが、王海賓は戦死した。しかしこの勢いに乗じ王晙の軍は進撃したので、蛮族は大敗し、その衆は互いに衝突しあって逃げ去ることができず、ともに枕を並べて討ち死にした。洮水はこのために流れがとまったほどである。帝はそこで親征を取り止め、紫微舎人の倪若水に詔を下して軍の実情や戦闘の功績を直接調査させ、同時に戦死した将士たちを弔わせた。また州県に勅を下して、吐蕃の抛棄した死体を埋葬させた。 このとき宰相が建言した。「吐蕃はもとは黄河をもって国境としておりました。金城公主の関係で黄河に橋をかけ、城を築いて独山・九曲の二軍を置きましたが、そこは積石からは二百里の距離であります。いますでに盟約に背いたのでありますから、橋はとりこわし、また、まえまえからの盟約どおり、黄河の線を守ることにするのをお願いします」と。詔が下って許可された。左驍衛郎将の尉遅瓌は、吐蕃に使者となってゆき、金城公主を慰めた。しかし吐蕃が少々国境を犯すのは、毎年のことであった。ことに郭知運と王君㚟は、つぎつぎと隴右・河西の節度使となり、専心敵を防ぐことになった。吐蕃は、宗俄因子を洮水にやって、戦死した将士を弔い、また講和をねがった。しかしみずからの強勢なのをよいことにして、天子と対等であることを求め、その述べるところは傲慢であった。使者は臨洮まで来たが、天子は詔を下して国内に入れなかった。金城公主は書を奉って、和親するのを許されるよう願い、かつ賛普の方では、君臣ともに天子と盟約に署名することを欲していることを述べてきた。吐蕃はまた使者を出して書を上って言った。「孝和皇帝(中宗)は、かつて盟約を許されました。そのとき唐の宰相の盧欽望・魏元忠・李嶠・紀処訥らおよそ二十二人と吐蕃の君臣は、ともに誓約いたしました。孝和皇帝がなくなられ、太上皇が位を嗣がれても、親善はもとのようにつづけられました。しかし唐の宰相で誓約に署名したものは、みな亡くなりました。したがっていまの宰相は前の誓約には関係ないのですから、ここにふたたび盟約していただきたいと思います。ちかごろ論乞力(ロンチリグ)たちと前後して七人ほど使いに出しましたが、まだ許可を与えられておりません。それに張玄表・李知古の将兵は甥(わたし)の国を侵掠しました。ゆえにわたしの方でも盟約にそむいて戦ったのであります。いま舅上(ちちうえ)は、従来のよくない関係を棄てて平和な状態に復帰することを許されました。甥はすでに堅く決心しております。しかし盟をかさねて行なわないため、まだ信をおくことができないでおります。あたらしい盟約の締結を待ち望むしだいであります。甥は、みずから国の政事を統べ、下のものには牽制されないで、人民たちを長く安穏にしようと思っております。舅上は和平のことを考えておられても、気持がそれに集中されていないならば、たとい言葉のうえでそれを言っても、なんの利益がありましょう」と。 またつぎのように述べた。「上は乞力徐(チカウ)が軍を集結したことを責められましたが、これはちょうど新旧の軍隊を交替させたのでありまして、集結したのではありません。昔は、国境は白水より向こうはみな放置された土地でありました。ところがちかごろ、郭知運将軍は兵をして城塞を築いております。それで甥の方でもまた城塞を築いたのであります。それでたとい二国が講和して使者を送り迎えするようになっても、もしそれが通じない時には、国境を守備するのにとどめましょう。また突厥の骨咄禄と親しいのを疑っておられますが、吐蕃と唐とは旧く親善の使者を交換し、互いに舅・甥と呼びあっておりました。それでその関係が初めのとおりになれば、突厥とはともに交わらないでありましょう」と。よって、貴重な瓶と杯を献上した。帝は、「昔、すでに和親して、盟約の成文が存在している。さきの盟約を調べるがよい」と言って、ふたたび盟約するのを許可しなかった。そしてその使者を待遇して送りかえし、かつ賛普にたくさん贈り物を賜わった。吐蕃はこれより年々朝貢して来、国境を犯すことがなくなった。 開元十年(722)に吐蕃は小勃律国を攻撃した。その国の王没謹忙は手紙を北廷節度使の張孝嵩に送って言った。「勃律は唐の西の門であります。これが失われれば、西方の諸国はみな吐蕃の手に落ちます。都護はよく考えて処置していただきたい」と。張孝暠は願いを許して、疏勒副使の張思礼に歩騎四千の兵を率いさせ、昼夜通しで走って没謹忙の兵と吐蕃を挟撃した。吐蕃の死者は数万にのぼり、味方は鎧・武器・馬・羊をたくさん鹵獲し、九城のもとの土地を回復した。さきに勃律の王は、来朝したときは帝に父として事え、帰国しては綏遠軍をおいて吐蕃を拒いでいた。それに、不断に吐蕃と戦っていたが、吐蕃はいつも言った。「わが方は、なんじの国を占領するのを利益としているのではない。わが方は、ただなんじの国に道を借りて、安西四鎮を攻めようとするだけである」と。このころ吐蕃との関係で出兵するということは、数年の間なかった。 そこで隴右節度使の王君㚟は、敵地に深く入って損害を償うことを願い、開元十二年(724)に吐蕃を破ってその捕虜を献上した。のち二年して(726)、悉諾邏(タグラ)の兵が大斗抜谷に入り、ついに甘州(甘粛省張掖県)の火郷聚を攻撃した。王君㚟は軍を整備し、その鋭鋒を避けて出戦しなかった。ちょうど大雪が降り、吐蕃の軍は凍傷にかかり死ぬものが続出したので、かれらは積石軍を越えてその西道によって退却した。王君㚟はあらかじめ間諜をやって、国境を出、原野を焼きはらわせたので、草はみななくなってしまった。それで悉諾邏は大非川に屯したが、馬を牧するところがなく、その大半が死んだ。王君㚟は秦州(甘粛省天水県)都督の張景順をひきい、装備をかんたんにし、苦しい道を通って青海の西方に出た。ちょうど湖面は氷結したので、軍隊はこれによって渡った。そのとき蛮族はすでに大非山を越え、輜重と落伍者を湖岸に留めていた。王君㚟は兵をやってこれらをとりこにして帰ってきた。そのころ、中書令の張説は、吐蕃が国境に出入することはすでに数十年で、勝敗はだいたい同じであり、甘・涼(甘粛省武威県)・河(甘粛省臨夏県)・鄯の諸州の人民は徴発を負担してはなはだ苦しんでいるから、講和を許されるよう願った。しかし帝は王君㚟を寵愛していたから、張説の言は聴かなかった。 まもなく悉諾邏恭禄(タグラコンロェ)と燭竜莽布支(ツォグロマンポジェ)は侵入して瓜州(甘粛省敦煌県の東二百八十里)を陥れ、その城を破壊し、刺史の田元献と王君㚟の父を執えた。そしてついに玉門軍(甘粛省酒泉県の西二百里)を攻撃し、常楽(甘粛省安西県の西)を囲んだが、これは抜くことができず、退いて安西(クチャ)に入寇した。副都護の趙頤貞はこれを撃って退けたが、ちょうどそのとき王君㚟は回紇に殺されて作戦は不成功に終わった。帝はそこで蕭嵩を河西節度使とし、左金吾将軍の張守珪を瓜州刺史とし、城塞を再建した。蕭嵩は反間の工作者をやって悉諾邏恭禄を殺させた。明くる年(728)、吐蕃の大将の悉末朗(ラン)は瓜州を攻撃したが、張守珪はこれを撃退した。鄯州都督の張志亮はまた青海の西に戦い、大莫門城を破り、橐它橋を焼き払った。隴右節度使の杜賓客は、強力な四千で賊を射て、これを祁連城下(甘粛省張掖県西北百九十里)に破り、副将一人を斬り、五千の首を挙げ、敵は敗戦して哭きながら山に逃げかえった。またあくる(729)、張守珪は、伊(ハミ)・沙(甘粛省敦煌県)などの州の兵をひきつれて蛮族の大同軍(甘粛省敦煌県西南)を破った。また信安王李禕は隴西に出撃して石堡城を抜き、ここに振武軍を置いて、捕虜を太廟に献上した。帝は書を将軍の裴旻に賜わって言った。「わざと戦功を隠して賞を与えないことがあった場合には、兵士みずからそのことを述べよ。そのようなことをした将校官吏はみな斬れ。戦いの際に猶予して動かないものは、隊ぜんたいを軍律のとおりに処断せよ。敵の王を捕えたものには、大将軍を授けるであろう」と。ここに将士の気勢は、ますますあがった。 吐蕃の令の曩骨が書を国境の関所に出して言った。「論莽熱(ロンマルシェル)と論泣熱(ロンチシェル)は、みな万人に将たるものであります。賛普の命によって都督・刺史に挨拶をいたします。二国にはもと舅・甥の親交がありました。さきごろ、弥不弄羌・党項が抗争をはじめ、そのため二国は親しみを失い、こちら方からも通ぜず、唐の方もまた通じなくなりました。都督は、なにとぞ腹心の役人を曩骨とともにこちらへよこして、盟約のことを商議させていただきたい」と。曩骨というのは、中国の千牛官(宮中宿衛官)のようなものである。そこで忠王(後の粛宗)の諸王友の皇甫惟明は、「和平を約束するのがつごうがよい」と上奏した。帝は言った。「さきに書を上ったが、内容は傲慢無礼であった。朕はかならずこれを滅ぼすつもりであるから、和平を議することはしないでもらいたい」と。皇甫惟明は言った。「そのころは、賛普は幼かったのですから、これはかならず、辺境の軍人で功績を立てたいと思うものがその書を作って陛下を激怒させたのです。それに、二国が憎しみあうと、かならず戦争が起こり、戦争が起これば、裏では財物を盗んだり、功績の程度を詐ったりして、陛下の過分な賞を望み、もって満足しております。いま河西・隴右の地方は、蓄えがなくなり、力も尽きてております。陛下が、幸いにして、金城公主に詔を下し、賛普からの盟約を許し国境の悩みを緩めてくだされば、それは民を安らかにするすぐれた方策でございます」と。帝はその上言を採用し、皇甫惟明と中人の張元方に勅を下して挨拶に往かせ、書を公主に賜わった。皇甫惟明は賛普に会い、天子の考えを述べたところ、賛普はひじょうに喜んで、貞観いらいの手紙や詔勅をみな出してきて皇甫惟明に見せ、たくさんの献上品を贈って来た。 また使者の名悉臘(ニェレブ)を唐の使者に同伴して入朝させ、表を奉って言った。「甥(わたくし)は先帝舅上の有力な親戚であります。さきに張玄表・李知古のために闘いを交え、ついに大きな戦争となりました。しかし甥は文成・金城公主の関係からして、どうして礼を失することがありましょう。あのときはとくに幼少であったため辺境の軍人の讒言にまどわされたのであります。もし明確な理解をいただけるのでしたら、死しても満足いたします。このたびは千年万年あえてさきに盟約に背くようなことはいたしません」と。かつこれとともにめずらしい宝物を献上した。使者が到着すると、帝は前殿に出御し、羽林杖を列べて使者を内に引き入れた。名悉臘はだいたい中国の語文がわかるので、宴会になると帝はともに談話し、かれをひじょうに厚く礼遇して、紫服・金帯・魚袋を賜わった。悉臘は、服は受け取ったが、魚袋は辞退して言った。「わが国が正しくなかったのですから、このようなものをいただくわけにはまいりません」と。帝は御史大夫の崔琳をやって、吐蕃に返礼させた。 吐蕃はまた馬を赤嶺で交換し、甘松嶺(四川省松潘県西北三百里)で互市することを願った。宰相の裴光庭は言った。「甘松嶺は中国内の険要の地である。赤嶺を許した方がよい」と。そこで赤嶺を境界とすることを許し、大きな碑を立ててそれを表わし、その面に盟約を書くことにした。また五経を賜わることを願ってきたので、秘書に勅を下して写させて与えた。それとともに工部尚書の李暠をやって挨拶させ、万をもって数えるほどの賜わり物を与えた。吐蕃は使いをよこして感謝し、かつ言った。「唐・吐蕃はみな大国であります。いま和平を約束して長い将来の計をなすわけでありますが、辺境の官吏でいかがわしい考えのものが出るのを恐れます。そこで使いの者をよこして互いによく勅令を暁らせ、明瞭にくわしくわからせるようお願いします」と。帝はそこでまた金吾将軍の李佺に赤嶺で碑を立てるのを監督させ、詔を下して張守珪と将軍の李行禕、吐蕃の使者の莽布支(マンポジェ)とに、剣南・河西の州県に分かれて行って諭させた。「こんにちより、二国は和親して、互いに侵略してはならない」と。そこで悉諾勃海を使者として貢ぎ物を納めさせ、それとともに絹と器物をあまねく政治の衝にあたるものに贈った。明くる(730)、吐蕃は宝器数百個を献上した。その意匠や作り方が変わっていたので、詔を下して提象門に置いて多くの臣下に展示した。 そのご吐蕃は西方勃律国を攻撃し、勃律は唐に急を告げてきた。帝は諭して戦争をやめさせようとしたが、吐蕃は聴かず、ついにその国を破った。そのとき、崔希逸は河西節度使となり涼州に鎮した。さきには、国境方面はみな壁を立てて守捉がおかれていたが、崔希逸は蛮族の守備の将軍を乞力徐(チスゥ)に言った。「両国は和親を約束したが、守備をやめないのはいかがなものであろうか。みな守備をやめて、人民に便利なようにすることに願いたい」と。乞力徐は言った。「あなたは誠実な人であるから、ぐあい悪いということはない。しかしおそらく朝廷は、まったく信用するということはないであろう。もしこちらの守備のないところを襲撃すれば、われわれは後悔するであろう」と。崔希逸は固く願ったので、すなわち承認し、いっしょに白犬を犠牲に用いて盟約をした。そのご防備の障壁をぜんぶ取り払ったので、蛮族の家畜は原野一面に拡がるようになった。 明くる年(731)、崔希逸の書記の孫誨が政事を奏上したが、かってに、「蛮族は備えをしておりませんから、取るべきでありましょう」と述べた。帝はこの言を採用して、詔を下してかれを内豎の趙恵琮といっしょにやって状勢を調べさせた。この小人たちは、天子の寵愛を得ようと思い、涼州に行ってから、いっしょに詔勅をかってに曲げ、崔希逸にその詔を与え軍を出して吐蕃を青海のほとりに撃破させた。斬首・鹵獲などはひじょうに多く、乞力徐は逃れ、吐蕃は怒って入朝しなくなった。 開元二十六年(738)、吐蕃は河西に大規模に侵入した。崔希逸はこれを拒いで破り、鄯州都督の杜希望は新城を抜いて威戎軍と名を改めた。崔希逸は、信頼をなくしたのを反省し、遺憾に思って心が晴れない状態であった。召し返されて河南尹に任ぜられたが、まもなく、趙恵琮といっしょに犬が祟りをするのをみて、不安になって死んだ。孫誨もまた他の罪で誅殺せられた。 それより蕭炅を河西節度使とし、留後の杜希望は隴右節度使、留後の王昱は剣南節度使として、方面を分けて経略させた。赤嶺の碑はこのとき砕かれた。杜希望は鄯州の兵を出して、蛮族のかけた黄河の橋を奪取し、河岸に塩泉城を築いて鎮西軍と名づけ、吐蕃の兵三万を破った。王昱は剣南の軍をつれて安戎城(四川省茂県西南の塞外)に攻め入り、二つの小さな要塞を築いた。そしてその左右の兵は蓬婆嶺に駐して、剣南の食糧を運んで軍に送った。吐蕃は精鋭を挙げて救援に来、王昱は大敗して、小要塞はみな敵方の手に陥ち、数万の兵士が死んだ。王昱は、貪欲で将軍の器ではないので、敗戦したのである。かれはのち高要(広東省高要県)に左遷されて死んだ。明くる年(739)、吐蕃は白草・安人などの軍を攻撃した。そこで臨洮朔方の軍に詔を下して方面を分けて救援せしめた。蛮族は臨洮道を絶ったが、白水軍使の高柬于は防戦し、蛮族は退却した。王昱は将をやって追跡させたが、雲が軍隊の上に出、白兎が舞うという瑞祥があり、大いに吐蕃を破った。王昱の敗戦したのちは、張宥を代りとして剣南に節度させ、章仇兼瓊を益州(四川省成都市)司馬とした。張宥は文官で軍事のことは知らなかったので、その方面のことは章仇兼瓊に任せた。章仇兼瓊はそこで宮廷に入って自分の計画を奏上することができた。天子はその議を真実であるとして、章仇兼瓊を抜擢し、張宥に代って剣南を節度させた。章仇兼瓊は間諜をやって吐蕃の安戎城の頭目を誘い、内応させて官軍をひき入れ、ことごとく蛮族の守備兵を殺した。そして監察御史の許遠にこの城を守備させた。吐蕃は安戎城を囲み、水道を絶ったが、ちょうど石が裂け、泉が湧き出したので、驚愕して退却した。またかれらは維州(四川省理蕃県東南の故威州の北三十里)を攻撃したが、目的を達成しなかった。帝は詔を下して安戎城を改めて平戎城となしたといわれている。 この年(739)、金城公主がなくなった。明くる年(740)、そのために喪を発した。吐蕃の使者が来朝し、和平を願ったが帝は許さなかった。そこで蛮族は四十万の衆をみな出して承風堡を攻撃し、河源軍(青海省西寧市西南)にいたり、西方長寧橋・安仁軍の渾崖烽に侵入した。騎兵の将の臧希液は精鋭の士五千を率いてこれを破った。吐蕃はまた廓州を襲撃し、ある県を破って官吏や人民を殺した。また振武軍の石堡城を攻撃したが、守備の将の蓋嘉運はこれを守ることができなかった。 天宝元年(742)、隴右節度使の皇甫惟明は蛮族を大嶺軍に破り、青海のほとりに戦って莽布支を破って、三万の首を斬った。明くる年(743)、敵の洪済城(青海省西寧市西南)を破り、石堡に戦ったが勝たず、副将の諸葛謝はこの戦闘で戦死した。また明くる年(744)、皇甫惟明は夷狄を破って、捕虜を首都に献上した。帝は哥舒翰を隴右に節度させた。哥舒翰は石堡を攻陥し、これを神武軍と名を改め、またその大臣の兀論様郭を捕虜とした。 天宝十載(751)、安西節度使の高仙芝は大酋長を捕虜にして献上した。このとき吐蕃は、蛮(南詔)の閣羅鳳と軍を連合して瀘南を攻撃した。剣南節度使の楊国忠は、そのころ悪がしこいことではこのうえない人物であった。みずから「蛮の衆六万を雲南に破り、洪州など三城を抜いた」と言い、捕虜を献上した。哥舒翰は洪済・大莫門などの諸城を破り、九曲の故の地を回復し、郡県なみの内容のあるものにした。天宝十二載(753)、そこで神策軍を臨洮の西に置き、澆河郡を積石の西に置き、宛秀軍を置いて河曲の地を充実させた。 のち二年(755)、蘇毘(ソチ)の子悉諾邏(タグラ)が降服してきたので、懐義王に封じ、姓を李と賜わった。蘇毘は強力な部族である。この年、賛普の乞黎蘇籠臘賛(チソンデツェン)が死に、子の挲悉籠臘賛(サソンデツェン)がつぎ、使者をよこして親好を求めて来た。そこで、詔を下して京兆少尹の崔光遠に、節を持し、冊文をもって弔いに行かせた。かれが帰って来たときには、安禄山が乱を起こし、哥舒翰は河西・隴右の兵をみな動員して、東の方潼関を守っていた。そして諸将はおのおの鎮守するところの兵をひきいて国難の平定に赴いた。これをはじめて行営と称したのである。しかしこのため辺境の防備は空になったので、吐蕃はその隙に乗じて掠奪暴行ができるようになった。 至徳のはじめ(756)、吐蕃は巂州(四川省西昌県)・威武(四川省茂県西北)などの諸城を取り、侵入して石堡城に駐屯した。その翌年(757)、使者をよこして賊(安禄山など)を討伐し、かつ親交を修めることを願った。粛宗は給事中の南巨川をやって返礼にゆかせた。ところがその年のうちに廓・覇(四川省松潘県西南二百五十里)・岷(甘粛省岷県)などの諸州と河源・莫門などの軍を占領した。そして使者はしばしば来て和平を願った。帝はその偽りなのをよく知っていたが、しばらくの間、できるだけ災いをゆるくしようと思い、宰相の郭子儀・蕭華・裴遵慶らに詔を下して吐蕃と盟約させた。 宝応元年(762)、吐蕃は臨洮を陥れ、秦・成(甘粛省成県)・渭などの州を取った。明くる年(763)、散輪常侍の李之芳と太子左庶子の崔倫を挨拶に行かせた。吐蕃はこれを押えて送らず、いっぽう西山の合水城を破った。明くる年(764)には、吐蕃は大震関(甘粛省清水県東五十里)に侵入し、蘭・河・鄯・洮などの州を取った。ここにおいて、隴右の地はぜんぶ失われた。それから進んで涇州(甘粛省涇川県)を囲んでこれに入城し、刺史の高暉を降服させた。また邠州(陝西省が県)を破り、奉天(陝西省乾県西)に侵入した。副元帥の郭子儀はこれを防いだが、吐蕃は吐谷渾・党項の兵二十万をひきいて、東の方武功(陝西省武功県)を占領した。渭北行営の将の呂日将は、盩厔(陝西省盩厔県)の西に戦って、これを破った。また終南に戦ったが、呂日将は敗走した。代宗は陝州(河南省陝県)に行幸し、郭子儀は商州(陝西省商県)に退却した。高暉は蛮族を長安に導き入れ、広武王李承宏を立てて皇帝とし、改元し、かってに大赦を行ない、官吏を任命した。都の上層階級の人々は、みな南の荊・襄の地方に逃れ去り、あるいは山谷に逃げ込んだ。そこで乱兵は互いに戦闘をしたり、掠奪したりして、交通は途絶してしまった。光禄卿の殷仲卿は、千人を率いて藍田(陝西省藍田県)に防壁を作り、二百騎を選んで滻水を渡河させた。ある人が夷狄を欺いて、「郭子儀公の軍隊が、いま来ようとしている」と言ったので、吐蕃は大いに動揺した。ちょうど、少将の王甫は無頼の少年たちと太鼓を打って御苑のなかで喊声を挙げたので、夷狄は驚いて、夜退却し、郭子儀は長安に入った。高暉は東方に逃げて潼関にいたったが、そこの守備の将の李日越はこれを殺した。吐蕃は首都に留まること十五日で逃げ、天子は都に還ったのである。 吐蕃は退却して鳳翔(陝西省鳳翔県)を囲んだが、節度使の孫志直はこれを防ぎ守った。そこへ鎮西節度使の馬璘は千騎をひきいて戦い、これを退けた。吐蕃は原(甘粛省鎮原県西二里)・会(甘粛省靖遠県)・成・渭などの州の間に屯し、腰を落ち着けて動かなかった。この年、吐蕃は南の方では松・維(四川省理番県東南の故威州北三十里)・保などの州と雲山の新城に侵入した。明くる年(765)、吐蕃は使者の李之芳たちを帰してよこした。剣南の厳武は吐蕃南鄙の兵七万を破り、当狗城(故の威州の西)を抜いた。ちょうどそのころ僕固懐恩が反乱を起こし、霊武(寧夏省寧夏県南)からその将范志誠・任敷をやって、吐蕃・吐谷渾の兵と連合して邠州(甘粛省寧夏県南)を攻撃した。白孝徳・郭晞は城塞を守りとおしたため、敵の軍は奉天の西へ侵入した。郭子儀は奉天に入ったが、軍を抑えて戦闘しなかった。郭晞は精鋭の兵に夜その軍営を攻撃させ、首数千を斬り、五百を奪い、四人の将軍を捕虜にした。そこでは退却した。このとき厳武は塩州を抜き、また西山に戦ってその衆八万を捕虜にした。蛮族は涼州を囲み、河西節度使の楊志烈は守備することができず、逃れて甘州を保持し、涼州は失われてしまった。 永泰元年(765)、吐蕃は和平を願って来た。宰相の元載・杜鴻漸に詔を下して、蛮族の使者と盟約をさせた。僕固懐恩は、思うようにゆかないので、蛮族を導き、回紇・党項・羌渾・奴刺と辺境を犯した。吐蕃の大酋長の尚結息賛摩(シャンギェルシグツェンマ)・尚悉東賛(シャントンツェン)らの衆二十万は、醴泉(陝西省醴泉県)・奉天・邠州にいたった。将の白孝徳は抵抗することができず、任敷は兵をひきいて鳳翔・盩厔をとった。そこで首都は戒厳令下におかれ、朔方兵馬使の渾日進・孫守亮は奉天に屯した。詔を下して、郭子儀に河中(蒲州)の軍をひいて涇陽陽 (陝西省涇陽県)に駐屯させ、李忠臣を東渭橋に、李光進を雲陽(陝西省涇陽県北)に、馬璘・郝廷玉を便橋に、駱奉先・李日越を盩厔に、李抱玉を鳳翔に、周智光を同州(陝西省大茘県)に、杜冕を坊州(陝西省黄陵県)に屯せしめた。そして天子はみずから六軍をひきいて御苑に屯した。吐蕃は奉天に迫ってきた。渾日進は、ひとりでこれに馳せ向かい、兵士二百がこれについて進み、 左右の敵を槍で刺し、弓で射、弓は弦を引くたびにみな当たって斃れた。蛮族は大いに驚愕して退避した。渾日進は蛮族の一将校を捉えて飛び出し、全軍これを見て声をあげた。味方の兵士は引き上げたが、身に一矢も当たっているものはなかった。翌日、蛮族は城にせまった。渾日進は機械仕掛けの大石や強力な弩を発したために、敵兵は多く死んだ。およそ三日して、蛮族は軍を収めて防壁に入った。渾日進は蛮族の実情を詳しく知って、その夜敵の軍営に斬り込み、千余の首を斬り、五百人を捕虜にした。また馬嵬(陝西省興平県の南)で、およそ七日間戦って一万の賊を破り、首五千を斬り、馬・駱駝・幟・武器などひじょうに多くを鹵獲した。帝はみずから軍をひきいて賊を討伐しようと思い、詔を下して盛んに馬を捜させた。またはじめて首都に義勇兵を置いたので、都の人々はひじょうに動揺して、城壁に穴をあけて、十人のうち八人までは逃亡してしまった。中人に詔を下して首都の城門を閉じさせたが、なお止めることはできなかった。吐蕃の遊撃兵四百は武功(陝西省武功県)を占領し、鎮西節度使の馬璘は強力な兵士五十人にこれを攻撃させた。そして敵を殲滅したので、唐側の士気はますますあがった。蛮族は軍営を九ソウ山の北に移し、醴泉を掠奪した。醴泉の住民の数万のものが家屋を焼きはらわれ、田畑はみな赤肌にされてしまった。周智光は蛮族と澄城(陝西省澄城県)に戦ってこれを破り、吐蕃は邠北にいたり、また回紇と連合して還ってきて奉天を攻撃し、馬嵬にやって来た。任敷は兵五千で白水を掠奪し、同州に打撃を与え、それから中渭橋と鄠(陝西省鄂県)に城塞を築いて軍を駐屯した。 ちょうどそのとき僕固懐恩が死んで、蛮族には作戦するのに中心人物がいなくなった。ついに回紇と指導権を争い、回紇は怒って郭子儀のところにゆき、吐蕃を討ってみずから忠誠をいたすことを願った。郭子儀はこれを許し、白元光とともに軍を合わせて吐蕃を霊台(陝西省長安県西四十里)の西に攻撃し、大いにこれを破り、僕固名臣を降服させた。そこで帝は軍をひき上げた。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百一十五下 列伝第一百四十下 『新唐書』巻二百一十六上 列伝第一百四十一上 巻二百一十六下 列伝第一百四十一下
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ニコニコ上のシミュレーションシリーズでよく使われる用語の辞典です。 基本的に、特定作品の登場人物・専門用語などはその作品の解説を利用することをオススメ。 各作品の参考用リンク先(需要のありそうなものがあれば随時追加推奨) 三國志シリーズ - Wikipedia 信長の野望シリーズ - Wikipedia 太閤立志伝シリーズ - Wikipedia 蒼き狼と白き牝鹿シリーズ - Wikipedia (チンギスハーン) 東方wiki 用語解説 ア行 ア イ ウ エ オ ハ行 ハ ヒ フ ヘ ホ カ行 カ1カ2 キ1キ2 ク ケ コ1コ2 マ行 マ ミ ム メ モ サ行 サ シ1シ2 ス セ ソ ヤ行 タ行 タ チ ツ テ ト ラ行 ナ行 ナ ニ ネ ノ ワ行 成(セイ) 西国方陣(セイコクホウジン/サイゴクホウジン) 正史(セイシ) 精神力バグ(セイシンリョクバグ) 正統派(セイトウハ) 性癖(セイヘキ) セイムスメル 西洋建築(セイヨウケンチク) 井闌(セイラン) 世界の新着動画(セカイノシンチャクドウガ) 関(セキ) 舌戦(ゼッセン) 説明文(セツメイブン) 戦艦(センカン) 戦艦空母(センカンクウボ) 戦国史(センゴクシ) 戦国時代(センゴクジダイ) 戦国時代板(センゴクジダイイタ) 戦国ちょっといい話・悪い話(センゴクチョットイイハナシ・ワルイハナシ) 戦国のガラハド(センゴクノガラハド) 戦国のトップブリーダー(センゴクノトップブリーダー) 戦国のファンタジスタ(センゴクノファンタジスタ) 戦極姫(センゴクヒメ) 戦国ブックガイド(センゴクブックガイド) 戦国変態記(センゴクヘンタイキ) 全顧の礼(ゼンコノレイ) 戦死(センシ) 禅譲(ゼンジョウ) せんせー(センセー) 先生(センセイ) 戦隊(センタイ) 鮮卑(センピ) 成(セイ) [部分編集] 「三国志」に登場する国家の一つ。197年建国、首都は寿春。 ご存じ偽帝袁術陛下の治める国。 諸侯の支持を得られず、また重税を課すなど悪政を敷いたため離反を招いた。 199年6月、袁術の死とともに滅亡したと考えられる。 油断すると、魏・呉・蜀・成、と三国の中に自然に混じっている。 オチ担当ネタ国家としての輝かしい地位に揺るぎはない。大成帝国万歳! ★国号問題 実は、正史本文には袁術の立てた国家の国号・元号は記されていない。 歴史的事実としては、国号に関しては「仲」が正しい、とする説が今日は有力である。 ※「仲家」あるいは「仲氏」と記す文献もある。 「漢王朝」の意味で「漢家」と記すこともあるので、国号としては「仲」でいいのだろう。 「成」あるいは「成家」が国号と誤解されたのは、『後漢書集解』(『後漢書』の注釈書の一つ)に 「仲氏は劉氏の漢家や公孫述の成家のように(国号である)」という一文を取り違えたらしい。 ※公孫述は新末後漢初の群雄の一人。蜀の地に割拠し、成都で即位して皇帝を称した人物。 そんなこんなで、いつしか「袁術の国号は成、元号は仲家」という誤解が定着しており、 各種創作物ではむしろ「成」のほうが主流であるほど。 正史と演義の設定の違いのようなもの、と思えばよいかもしれない。 上へ 西国方陣 (セイコクホウジン/サイゴクホウジン) [部分編集] ★「信長の野望・革新PK」における 南蛮技術 のひとつ イスパニアから友好度250でもたらされる。 スペイン方陣(Spanish square)と呼ばれたテルシオ(Tercio)のことと思われる。 ※とすると、「西国」は「西(西洋)の国」の意味ではなく、「西伯牙(スペイン)国」の略となる。 テルシオは長槍兵の密集陣に銃兵を組み合わせたもので、16世紀~17世紀頃にスペインの軍事的覇権を支えた。 ※ちなみにこのニコニコ歴史ゲーとは直接の関わりがないが、 セガのアーケードカードゲーム、「戦国大戦」では丹羽長秀の計略として 「イスパニア方陣」が登録されている 上へ 正史(セイシ) [部分編集] 中国においては、歴代王朝が編纂・公認した(前の王朝の)歴史書のこと。 ここに載せられたことが一応公認された「史実」になるわけだが、正史自体が一種の政治的な文書なわけで、 「前王朝の最後を悪し様に描いて、滅ぼした自王朝を正当化している」など、記述を疑えばきりがない。 ★三国志界隈では、 歴史書の三国志 を指す 後漢末から三国時代にかけての人々とできごとを紀伝体で記した歴史書。 エンターテイメントである 演義 とはいろいろ異なる点が多い。 西晋による三国統一から約10年後、290年頃に完成した歴史書で、魏書30巻、蜀書15巻、呉書20巻からなる。 編者は陳寿。はじめは陳寿の個人的編纂物であったが、のちに正史として公認された。 陳寿の師匠であった譙周の伝には、亡くなる前に陳寿が師匠を訪問した際の思い出話が載っている。 このため、「本文に編者本人が登場」という他の正史には見られない特徴がある。 晋に帝位を譲った魏を正統王朝として描いているのだが、陳寿はもともと蜀の人(蜀滅亡時31歳)ということもあり、 蜀に関する記述には思い入れも見え隠れしているという指摘もある。 陳寿の「三国志」は信頼性の疑わしい資料を徹底的に排除して、記述も極めて簡略に描かれている。 そのため、南北朝時代の裴松之は、時の皇帝(宋の文帝)に命じられて本文の三倍にもなる「注」を編集した(通称「裴注」)。 歴史書「三国志」完成以後の出来事が補われたり、事実関係が補われたりしているほか、 さまざまな異説を紹介したりしている(「信用できない史料」と断りながら紹介しているものもある)。 ちなみに、邪馬台国のことが載っている通称「魏志倭人伝」(魏書の東夷伝倭人の条)も、歴史書「三国志」の一部。 上へ 精神力バグ(セイシンリョクバグ) [部分編集] 「101匹劉璋(+200%)」うp主である「 ゆっくり市長 」氏のあだ名。 「101匹劉璋(+200%)」が「101匹阿斗ちゃん」のパロディとして始まったのがそもそものきっかけである。 「101匹阿斗ちゃん」では、「チート」の上を行くとんでもなく優秀な武将を「バグ」と呼んでいた。 (阿斗基準でなにかの間違いとしか思えないことから) 「101匹劉璋(+200%)」は、「「兵1」10000部隊出撃」というとんでもない目標を掲げた作品であり、 出撃指示の回数はとんでもないことになった。 その精神力のとてつもない強さを、「101匹阿斗ちゃん」うp主のネ禁氏が「バグ」に譬え、 「精神力バグ」と呼んだのがこの呼び名の始まり。であるから、ある意味で尊称である。 上へ 正統派(セイトウハ) [部分編集] そのジャンルの「あるべき路線」を歩むもの。 下記の1.を指すことが多いが、文脈によっても意味するところが異なる。 また、何をもって「正統派」とするかは、人によって考え方が違う。 1.「歴史戦略ゲームのプレイ動画」を期待する人の「正統派」 登録武将を使わず、紙芝居を挟まず、淡々とプレイする「 硬派 ・ 純粋プレイ動画 」を、こう呼ぶ傾向にある。 2.「歴史を改変するIFの物語」を期待する人の「正統派」 武将たちの史実のエピソードに沿った「まじめ・シリアスなシナリオ」を持つ作品を、こう呼ぶ傾向にある。 3.「キャラ競演の異世界ファンタジー」を重視する人の「正統派」 既存/登録武将を キャラブレイク させず、史実エピソードや原作設定に沿った作品を、こう呼ぶ傾向にある。 ★「正統派プレイ動画」を掲げる炎帝蝗君伝のこと 作者がそう言うんだから、正統派に違いない。「正統派☆プレイ動画」「正統派(ry」とも呼ばれる。 同作者による反袁紹包囲網も始まるが一部の視聴者の暴走により打ち切られた。 上へ 性癖 (セイヘキ) [部分編集] 人間の心理や行動にあらわれる志向。 「潔癖」「収集癖」「虚言癖」「衒学癖」など。 ★俗用として「性的な趣味志向」 「性癖」が「性的な趣味志向」に限定されて使われることがあるが、これは本来の意味とは異なっている (「性格」「性質」といった言葉があるように、「性」がついても「性的」なものには限られない。 とはいえ、性的な趣味嗜好も本来の意味の「性癖」の一部ではある)。 どうしたわけか歴戦界隈の動画には、かわった性癖の持ち主の武将やうp主が多いようだ。 関連用語―――― ドM ・ ドS 男色 ロリコン 上へ セイムスメル [部分編集] 訳せば「同じ匂い」だが、要するに「 ダメ君主・ダメ武将 」のこと。 歴戦界隈では、「軍師黄皓の憂鬱」で、 ジョン欠地王 が劉禅に初めて会った際の心の声 「俺とセイムスメルがする!」が由来となっている。 この場面は「 諸王の戦い 」で氏真がジョンに対して発した 「この男…… まろと同じ匂いがするのう」というセリフが大元になっている。 「英雄は英雄を知る」をどこか間違えた方向でさせたもので、「ティンと来た」(お隣)のダメ版。 ダメ武将たちでゲームをスタートする作品の導入では、よく使われる。 上へ 西洋建築(セイヨウケンチク) [部分編集] ★「信長の野望・革新PK」における 南蛮技術 のひとつ オランダから友好度200でもたらされる。建築・改築・修復の期間が短縮される効果がある。 西洋建築によってなぜ水田づくりが早くなるのか、なんてことを気にしてはいけない。 ★いくつかのプレイ動画における紙芝居パートの背景グラフィック なぜ日本にノイシュバンシュタイン城が建っていて、武将たちが当たり前のように生活しているんだ。 どうやらいくつかの戦国時代では、西洋風の城を建てるのが流行したらしい。 地震大国・日本では、総石造りの建物は倒壊の危険性が極めて高いのだが…… 出典は、ダメ君主の野望。 上へ 井闌(セイラン) [部分編集] 三国時代に使われた攻城兵器の一つ。 井桁状に組み上げられた移動式の櫓で、城壁上の敵より高い位置から射撃ができる。 ★三國志Ⅸでの井闌 (1)攻城陣形の一つ。施設の守備兵士に対して強力な間接攻撃を行う。弩系の兵法の発生率が上がる。 編成には兵法「井闌」を習得している武将が必要。 守兵への攻撃力は極めて高い半面、防御力と機動力が低いため、野戦陣形全般に弱い。 CPUが特に好んで指定する陣形でもあり、文官単騎で出撃させることも多々ある。 攻城時に便利すぎるため、縛りの一環として、「自軍は井闌の使用禁止」とする動画もある。 また、CPUの文官単騎を見越して、井闌自体の能力(特に移動力)を改造する場合もある。 (2)武将が習得する攻城系兵法の一つ。 上へ 世界の新着動画(セカイノシンチャクドウガ) [部分編集] 2009年11月、ニコニコ動画⑨から始まったシステム。通称「セカチャク」。 ニコニコ大百科『世界の新着動画』 参照。 生放送で「カテゴリごとに、新着からランダムで動画を流す」のであるが、コメントも動画側に反映される。 一発ネタ・瞬発力のある動画や「見ればわかる」作品に向いたシステムではあるが、 続き物が多く「内輪」の世界観の上に成り立っていることの多い「歴史戦略ゲー」界隈とは相性が悪い。 それほど多いとはいえないニコニコ歴戦ゲー界隈の視聴者数を上回る「一見さん」たちによって ネガティブなコメントが大量に投下された場合、作者によっては精神的な負荷が大きいだろう。 まあ、これによって新しい視聴者が来ることもあるのだが… 批判的な立場からは「世界の爆撃動画」「世界の荒らし動画」「世界の公開処刑」とも揶揄される。 ニコニコ歴戦ゲー界隈で最初の「被災者」になったのは たぬたぬ幻想奇52話 。 「世界の新着動画」で紹介されないためには 「ゲーム」「東方」等のカテゴリタグを入れない。 SmileVIdeoの動画情報登録ページで「生放送での引用」という設定を「許可しない」にする。 といった対策が挙げられる。また、視聴者側では 「コメント(に関する設定)」から「「世界の新着動画」のコメントを表示しない」にチェックを入れる。 という対策をとることができる。 上へ 関(セキ) [部分編集] 三国志シリーズにおける防衛施設の一種。撤去できない常設施設であり、山間部など隘路に築かれている事が多い。 ★三國志Ⅸ 三國志Ⅸでは屈指の硬さを誇り、統率の高い武将が大将になれば守りの要になる。 ただでさえ硬いのに、左右に櫓や城塞を建設すると、難攻不落の要塞と化す。 とはいえ、統率が低い武将が大将になってしまうとかなり脆くなるので注意。 ★三國志11 三國志11では 棺おけ の1つといわれるほどに弱体化している。 上へ 舌戦(ゼッセン) [部分編集] 三國志シリーズにおける「文官の一騎討ち」。 ニコ動ではMAD素材になってる「孔明大車輪」のようなものと考えればよい。 三國志Ⅹから導入され、最新作11にも存在する。ただしルールは全く異なる。 ★三國志11 三國志11の舌戦チュートリアル( 動画 ) 上へ 説明文(セツメイブン) [部分編集] 動画タイトルの下にあるスペース。動画内容を説明したり、前後の動画やリストへの誘導があったり、 うp主からの連絡事項(次回掲載予定や休止情報など)が書かれたりする。 作者によっては、ネタ用スペースにすることもある。 「作者コメ」「主コメ」「投稿者コメ」、あるいは「上コメ」などと呼ぶ人もいるが、 「 投稿者コメント 」には別の用法もあるので、注意が必要である。 上へ 戦艦(センカン) [部分編集] ★かつて存在した軍艦の類別 艦砲を用いた戦闘において、最強の能力(最強の主砲と装甲)を備えた戦闘艦のこと。 19世紀後半~20世紀初頭にかけて全盛を極め、その攻防性能と経済価値から一国の軍事力・経済力・工業力の象徴とされたが、 ミサイルの出現と航空機の進化によって、艦砲を用いた戦闘そのものが非効率的となったため、第二次世界大戦後にほぼ消滅した。 最近、報道機関のニュースなどでは、水上戦闘艦(つまり空母と潜水艦以外の軍艦)全てを指してこう呼ぶこともあるが、 これは戦国武将を誰彼構わず「将軍」と呼ぶようなもので、非常に頭の悪い使い方なので注意。 ★涼宮ハルヒの憂鬱の登場キャラ、長門有希のこと ニート三国志で見せた水上戦闘での活躍から。元ネタは、旧日本海軍の戦艦長門。 関連項目: 弩級戦艦 上へ 戦艦空母(センカンクウボ) [部分編集] (本来の意味の)架空戦記、それもトンデモ系の作品で見掛けられる超兵器。 戦艦と空母のいいところを全部取りし、並み居る従来型艦艇をバッタバッタとなぎ倒す。 たまに敵側にも同様の戦艦空母が登場し、怪獣大決戦状態となることもある。 ★提督の決断2の場合 新型艦として戦艦や空母を開発すると、たまに出来上がる謎の存在。 技術力の上がったゲーム後半では、新型艦のステータスに割り振れるポイントが多いため、 開発対象の艦種に必要な性能を限界まで上昇させても、ポイントが余る場合がある。 この余剰ポイントを、まだ上昇余地のある適当な性能に割り振っていくと、 数十機の搭載能力を持つ戦艦や戦艦並みの対艦攻撃力を持つ空母が出来上がることになる。 これらは一見すると、戦艦と空母の長所を併せ持った万能の超兵器にも思えるが、 実際のところゲームのシステム上、 「戦艦に搭載できる飛行機は水上偵察機のみ」 「空母の対水上射程は全艦種中最低」 という制限が存在するため、本来の艦種に対応していない性能には殆ど意味がない。 もちろん、必要な性能は限界まで上げてあるわけだから、強力なことには違いないし、 不要な性能が高いからといって、何も困ることは無いのだが……何にせよ、勿体無い話ではある。 上へ 戦国史 (センゴクシ) [部分編集] 往年の 天下統一 をモデルとして、個人が開発した戦略シミュレーションゲーム。 フリーウェア版とシェアウェア版とがある。 附属のエディタによって、自分でシナリオを作れるのが特徴であり、 マイナーな地域・時代に焦点を当てたもの、マイナーな武将まで網羅しようとしたもの、オリジナルなものなど、 様々なユーザーシナリオがネット上で配布されている。 外交戦略重視、演出・キャラクター性軽視といった「天下統一」と同様のコンセプトをとっているため、 動画の原作にするには、あまり向いていない。 それでも、紙芝居つきのキャラ差し替え動画、普通にプレイ動画、観戦動画など、いくつかが上げられている。 関連タグ: 【戦国史】 ニコニコ大百科: 『戦国史』 動画一覧: 戦国史 上へ 戦国時代 (センゴクジダイ) [部分編集] 1.日本における中世末期の内乱時代(15世紀末~16世紀後半) 現代日本で単に「戦国時代」と言うと、ふつうこっち。「信長の野望」「太閤立志伝」などが舞台とする時代である。 かつては応仁の乱(1467年)をはじまりとみなすことが多かったが、近年の歴史学では「室町幕府の権力機能」を重視し (応仁の乱後もしばらくは幕府の権力・権威自体は残っていたため)、 管領細川政元が将軍足利義材(義稙)を追放した「明応の政変」(1493年)を始期とみなす考えが主流となっている。 「戦国時代の終わり」の時期の説明としては、 信長による将軍義昭の追放(1573年、室町幕府の滅亡と安土桃山時代のはじまり)、 秀吉による小田原攻め・奥州仕置(1590年、惣無事令を全国に実効普及させる)など、諸説ある。 つまり、最古のシナリオが1555年スタートの「信長の野望・革新」は、 「戦国時代の後半」以降しか扱っていないことになる。 ※ある日(ある年)を境に「戦国時代になった」「戦国時代でなくなった」というのも変な話であるが、 歴史学的な「時代区分論」というのは、「どうすればひとまとまりの時代として説明しやすいか」という議論である。 「前後の時代と区別されるこの時代の特徴を示す、もっとも重要な指標は何か」には当然諸説があり、 時々の議論によって主流の見解(多くの研究者が「なるほどね」と納得する見解)も変わることがあるのである。 歴史学的な定義とは別に、一般的なイメージとしての「戦国時代」は、全体的に時代が少し後ろにずれており、 だいたい信玄・謙信が活躍していたような時代(15世紀中頃)から関ヶ原の合戦(1600年)や大坂夏の陣(1615年)までが ひとくくりの「戦国時代」として認識されているようだ。 「戦国初期」には隠れファンもいるのだがマイナー。 蒼天録PK には、1495年開始など、戦国初期を扱ったシナリオもある。 毛利元就(1497年生まれ)は、信玄(1521年生まれ)・謙信(1530年生まれ)・信長(1534年生まれ)より約一世代上の人物。 朝倉宗滴(1477年生まれ)は、元就よりさらに一世代ほど上になる。 2.中国における古代の内乱時代(紀元前5世紀~紀元前221年) 『戦国策』という書物が書かれたことから、「戦国時代」と名づけられた。 春秋時代を承ける時代で、大国・晋の解体をそのはじまりとすることが多く、秦による中華統一がなされるまでを指す。 呉起・孫臏(ソンピン)などの兵法家、商鞅・蘇秦・張儀などの政治家・思想家、楽毅・田単・白起などの将軍が活躍した。 陳舜臣さんとか宮城谷昌光さんとかの優れた小説も多いのだけれど、三国志に比べるといまひとつマイナーである。 戦国時代の人物は、三国志には「いにしえ武将」として登場することがあるほか、 登録武将として登場するプレイ動画(例:春秋戦国三国志)もある。 上へ 戦国時代板(センゴクジダイイタ) [部分編集] 2chの板の一つ。2006年に 三戦板 から分離して出来た。 戦国時代関連の話題を扱う。 マイナーな地域の国人領主たちの動向についてかなりまじめな(学術的な)会話をしているスレもあるが、 基本的には「趣味」のカテゴリーにある板なので、 「女の子な安東愛季と共に苦難を乗り越えていくスレ」などのAAスレ、ネタスレ、 「IDに出た数字だけ知行を溜めて百万石スレ」のような雑談的なスレから、 自分のひいきの大名・武将を盛り立てて嫌いな大名・武将を蹴落とす合戦場状態のスレまでさまざま。 「泳いで参った!」ネタの元になった「泳げよ宇喜多秀家」スレ、 「 戦国ちょっといい話・悪い話 」スレなどはこの板出自。 上へ 戦国ちょっといい話・悪い話(センゴクチョットイイハナシ・ワルイハナシ) [部分編集] 2ch 戦国時代板 のスレの一つ。通称「いい悪いスレ」。 戦国武将に関する実にさまざまな逸話を紹介しており、ニコ歴戦ゲをはじめネット上における話題のネタ元ともなっている。 「逸話」がテーマなため「史実」としては微妙なのもある(たいてい出典は書かれない)ので、そこのところは多少注意が必要。 「 DQN四天王 」「 鮭様 」「悪い方の家久」など、このスレで発生した用語( 用語集 )は多く、 中には、ニコ動歴戦ゲ界隈でも通用しているもの・重複するものもある(おそらく閲覧者層が重なるため)。 ただ、ほかの「外部ネタ」とも共通するが、必ずしも通用するとも歓迎されるとも限らないので、 そのネタを振れるかどうかは空気を見極める必要がある。 外部リンク: 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ 上へ 戦国のガラハド(センゴクノガラハド) [部分編集] ⇒ ガラハド 参照。 あるいは手っ取り早く 小笠原貞慶 をどうぞ。 上へ 戦国のトップブリーダー(センゴクノトップブリーダー) [部分編集] ⇒ トップブリーダー 参照。 あるいは手っ取り早く 太田資正 をどうぞ。 上へ 戦国のファンタジスタ(センゴクノファンタジスタ) [部分編集] ⇒ ファンタジスタ 参照。 あるいは手っ取り早く 今川氏真 をどうぞ。 関連タグ: 【戦国のファンタジスタ】 上へ 戦極姫 (センゴクヒメ) [部分編集] げーせん18(システムソフト・アルファーのアダルトブランド)が制作した戦国武将女体化エロゲ。 天下統一ADVANCE のシステムを用いた戦国シミュレーションゲームでもある。 正式名称は「戦極姫 -戦乱の世に焔立つ-」。 後に一部絵師変更・シナリオ追加を行い、PS2・PSPに移植された。(移植版タイトルは「戦極姫 -戦乱に舞う乙女達-」) 最近の「天下統一」とシステムソフト・アルファーの評判(悪評?)、 グラフィックの不統一感(絵師が違うからしょうがない)などから、一種のキワモノとしても話題になった。 あれこれのバグなどから「クソゲー・オブ・ザ・イヤー」をにぎわせた。 しかし、キャラクターは好評のようで、とくに立花道雪・武田信玄・上杉謙信(いずれも女体化)などは人気があるらしい。 いくつかの動画では、本作のキャラクターが登録武将として登場する。 上へ 戦国ブックガイド(センゴクブックガイド) [部分編集] 戦国時代が舞台の小説・漫画紹介のこと。 ニコニコ大百科: 『戦国ブックガイド』 関連タグ: 【戦国ブックガイド】 上へ 戦国変態記(センゴクヘンタイキ) [部分編集] 戦国時代を舞台にした、 変態記 に匹敵するようなキャラブレイク動画に対する、畏怖を込めた通称。 変態だらけの戦国動画に思い当たるものは多いが、とくに視聴者に【戦国変態記】のタグを進呈された ダメ君主の野望を指すとされることが多い。 また、人によっては、【変態記II】タグを付けられたことがある蓮子とメリーの戦国旅日記をこう呼ぶ。 ちなみにチルノがゆくは、【変態記Ⅴ】との通称があるため、【戦国変態記】と呼ばれることは無い。 関連項目: 変態記 関連タグ: 【戦国変態記】 上へ 全顧の礼(ゼンコノレイ) [部分編集] 配下武将(時には君主も)全員を投入し、「下手な鉄砲~」的に欲しい人材を登用(盗用)すること。 登用に失敗してもこちらに対する好感度は上がってくれる ので、登用しやすくなる。 元ネタはもちろん「三顧の礼」。 変形として、「三十顧の礼」「62顧の礼」「101顧の礼」などもある。 その「何度も武将が仕官してくれと頼み込む」無礼さから、人によっては、「全顧の無礼」と呼ぶ。 基本的に、助言の確実性が低い場合に取られることが多い方法であるため、軍師が優秀であればあるほど、必要性は薄まる。 登用の対象が自勢力を一度裏切ったことのある武将の場合、登用に関する関連数値が非常に低くなっているため、登用に応じにくい。 そのような時に、この全顧の礼の出番となる。 上へ 戦死(センシ) [部分編集] 司令官などが戦闘で死亡すること。 信長の野望などでは、「 討死 」という言い方をするため、 「戦死」が登場するのは、三国志や西洋を舞台にしたものや、近代の戦争を扱ったゲームが多い。 ★Hearts of Iron2における戦死 敵との戦闘時に、一定の確率で司令官の戦死が発生する。 確率はそれほど高くなく、普通は1プレイで1人か2人が戦死するかどうかである。 ただし、どのような戦闘でも戦死発生の可能性があるため、時には圧倒的有利な状況でも戦死してしまうことがある。 イベントで司令官が死亡したり退役した場合でも戦死と表示されていたり、 戦死したはずの人が閣僚や研究機関員として生き残っていたりするのは、気にしてはいけない。 上へ 禅譲(ゼンジョウ) [部分編集] 皇帝が「我が親族ではもはや天下は治められない」として、徳のある別の人物に帝位を譲ること。 実際はクーデターである事がほとんど。 歴史上で最初の例は前漢から新への禅譲だが、上記の理由で行わせるパターンを初めてやったのは曹丕である。 なお、日本で行われたことは無い。 多くの作品でも、皇帝を名乗る際には手続き上「禅譲」という形になる事が多い。「簒奪」が可能な作品もあるが、それをやると信望やら名声やら家臣の忠誠心が大きく下がる。 上へ せんせー(センセー) [部分編集] 魏国が東方勢にもっこもこ初出の賈詡、郭嘉両名の事。 味方だとこの上なく有難く、敵に廻すと厄介この上ない。 上へ 先生(センセイ) [部分編集] ★味方として、この上なく有難い武将の敬称 敵に廻すと厄介この上ない。「せんせー」も参照。 時代劇に登場する用心棒に「先生、お願いしやす」と頼むようなイメージ。 ★技能開発のために必要な高適正武将 能力値自体はそれほど優秀でないこともある。 弓Sの「吉田先生」(吉田重政)など。 ★ある種の揶揄的表現 てんてー も参照。 上へ 戦隊 (センタイ) [部分編集] ★スーパー戦隊になぞらえた5人組の武将たち 武将を5人そろえると、色を割り当てて結成させたくなるもの。 三国志には五虎将など数人の名将を集めたチームがあるので、ぜひ実現させたいところ。 ネタとしては、 亡国戦隊ラストエンペラーズ がある。 戦国時代の北条家には 北条五色備 が実在し、 北条綱成が「 キレンジャー 」と呼ばれるゆえんとなっている。 戦国時代には、5人セットよりは4人セット(四天王)の方が多いような気がするが、 竜造寺四天王 が変則的に5人組である。 中華武将祭りでは、その特性上、複数の同名武将によるチームを拝める。 例としては、曹操5人で編成された「奸雄戦隊SOSOファイブ」など。 ★「提督の決断」に登場する軍事用語としての「戦隊」 作戦単位の一つ。同一の機能を持つ艦艇が、数隻~十数隻程度まとまったもの。 複数の「戦隊」が集まることで、「艦隊」となる。 ……のだが、ゲーム上の単位として「戦隊」が登場することは、滅多にない。 上へ 鮮卑 (センピ) [部分編集] 中国北方の遊牧民族の一つ。三国志にも異民族として登場する。 テュルク系ともモンゴル系とも言われるこの民族は長らく匈奴に従っていたが、やがて諸部族の中には自立性を強めるようになった。2世紀半ば(黄巾の乱より少し前)、一代の英雄・檀石槐が登場する。勇猛果敢さと政治の公平さとで鮮卑の民の信望を集めた檀石槐は、大人(部族長)に推戴される。檀石槐は惜しくも早世し、子や孫の代は求心力も衰えてしまう。 ここに登場するのが梟雄・軻比能である。あるときは漢民族の王朝と手を結び、あるときは同属と争った末に、北方に「帝国」を構え、曹操・曹丕・曹叡の三代に渡って向背を繰り返し、時に諸葛孔明と結んで魏を脅かした。戦闘では決して屈しなかった軻比能は、魏の放った刺客に殺されるのである。 三国を統一した晋が内部から崩壊を始め、八王の乱が勃発すると、鮮卑の民は傭兵として中国本土に移住するようになった。慕容部・宇文部・拓跋部などの諸部族に分かれていた彼らは混乱の中で自らの国を立て、五胡十六国時代の主役となるのである。そしてその姿は、華北を統一し、すぐれた仏教文化を花開かせた北魏で頂点に達する。 しかし「中華文明」を取り込んだ鮮卑は、やがて漢民族の中に同化していった。 上へ 用語解説 ア行 ア イ ウ エ オ ハ行 ハ ヒ フ ヘ ホ カ行 カ1カ2 キ1キ2 ク ケ コ1コ2 マ行 マ ミ ム メ モ サ行 サ シ1シ2 ス セ ソ ヤ行 タ行 タ チ ツ テ ト ラ行 ナ行 ナ ニ ネ ノ ワ行 馬鹿カルテットの項、レティは確かに本気じゃないと書かれているが、求聞史紀では人間に対する危険度がルーミアやリグルと同じだったり(人間友好度、低 危険度、中)文花帖(書籍)で文に駄目だし喰らっていたり、文花帖 (ゲーム)でチルノと同じLVで出てきたりで、決して強キャラ設定はされていない -- 名無しさん (2008-02-24 20 05 43) 指摘多謝です。考えてみると元ネタ寄りの記述になっていたので、必要最小限に整理しました。 -- 名無しさん (2008-02-25 22 53 10) 異民族が力を合わせます第18話で武力差約5倍の一騎打ちでの勝利を確認 -- 名無しさん (2008-03-23 08 37 18) 魔王(なのは)も強いがその嫁も強い。 -- 名無しさん (2008-04-19 20 25 48) 孔明の罠は横山さんのとこだったっけ? -- 名無しさん (2008-06-16 20 06 41) フラグ回収に定評あるのは東方騎行録だろう -- 名無しさん (2008-06-22 22 39 43) 孔明はその二人だけを異様に強調されて人を見る目がないと言われるが、蜀の内政官をたくさん見いだしているのでこの評価は酷すぎると思う。 -- 名無しさん (2008-06-23 12 03 58) 馬鹿息子の例、本当にどうしようもなかったのは信雄ぐらいだろうに。劉禅以外もフォローしてやれよ。 -- 名無しさん (2008-06-27 18 05 00) ブートキャンプの項目、三国志9では異民族相手に行われることもあるので「直接の攻略とは関わらない敵/施設に攻撃を仕掛けて熟練度を上げること」くらいの意味に差し替えたほうがいいのでは。ex 烏丸ブートキャンプ、土塁ブートキャンプ -- 名無しさん (2008-07-05 15 20 52) 「馬鹿息子の項、プレイ動画用語解説という側面で大幅整理しました。ご了承ください。 -- 名無しさん (2008-07-13 02 30 32) (中途送信失礼)「馬鹿息子」の項、プレイ動画用語解説という側面からほぼ全面的に書き改めました。執筆者の方、ご了承ください。「馬鹿息子」とされた個々の武将の弁護をしだすとキリがありませんので、総論として後世のイメージによって不当な評価がおこなわれている可能性もあることを示すに留めました。 -- 名無しさん (2008-07-13 02 38 53) むむむの元ネタは吉川英治の三国志(横山漫画の原作)が初出だよ -- 名無しさん (2008-09-26 04 01 57) ご助言ありがとうございます。補足してみました。 -- 名無しさん (2008-09-26 11 12 19) スペルカードシステム、~ルール、~ブレイクは完全に東方専門用語だから削った方が良いと思う。 -- 名無しさん (2008-10-15 05 21 34) 概ね削りました。~ルールは、東方キャラがいつも不真面目な理由を知って欲しかったので一部削ってちょっと追記して残しました。 -- 名無しさん (2008-11-04 02 59 02) イベコンの項、「イベントコンバーター」と「神ツール」は別物なので当該部分を削りました。 -- 名無しさん (2008-10-26 01 58 46) 妖怪ババア自重w -- 名無しさん (2009-01-02 20 53 45) 誰だ!ソフトバンクなんて入れたのは!? -- 名無しさん (2009-01-26 13 23 59) 変態記並びに予備軍が大量に発生中! -- 名無しさん (2009-06-17 18 04 04) 容量限界につき、用語解説「シ」 part2 を新規作成。「シールド」~「人類筆頭」の項目を part2 に移動。さらに、移動した項目にリンクがあるページを修正 -- 名無しさん (2009-09-29 11 24 30) ※「シ」のページへのコメント インフレの項のインフレ動画にひなやぼ追加 -- 名無しさん (2010-05-23 07 41 25) 容量一杯なので「シ」にならって分割。includeとどっちがいいんだろう -- 名無しさん (2010-11-23 20 56 02) ※「カ」のページへのコメント ここにいるぞ!について吉川版では「ここにいるのを知らぬか」になっていたけど、一応ここからつながってるといえるのかな? -- 名無しさん (2010-01-25 00 17 28) フラグの語源を修正しました。flagmentなのは「デフラグ」などですね。 -- 名無しさん (2011-05-08 13 44 41) 恋姫真名の五十音順を修正しました。 -- 名無しさん (2011-09-16 09 11 19) 醤油と醤油外交で意味が全然違うのにフイタwww -- 名無しさん (2012-01-09 11 09 01) 用語解説各ページへのコメントを一か所にまとめ、includeで表示するようにしました。 -- 名無しさん (2012-04-19 16 07 05) 今号のイブニングのしばちゅうさんで阿会喃が「システム」言ってたぞw -- 名無しさん (2012-10-09 09 10 43) 名前 コメント
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唐書巻七十八 列伝第三 宗室 江夏王道宗 広寧県公道興 永安王孝基 涵 淮陽王道玄 漢 長平王叔良 郇国公孝協 彭国公思訓 新興郡王晋 長楽王幼良 襄武王琛 河間王孝恭 晦 漢陽王 廬江王瑗 淮安王神通 膠東王道彦 梁郡公孝逸 国貞 暠 説 斉物 復 襄邑王神符 従晦 隴西公博 渤海王奉慈 戡 太祖に八子があった。いちばん上が李延伯、次が李真、次が世祖皇帝、次が李璋、次が李繪、次が李禕、次が李蔚、次が李亮といった。 南陽公李延伯は、早く薨去し、跡継ぎがなかった。高祖の武徳年間、六王とともに同じく追封された。 譙王李真は、太祖に従って戦没し、跡継ぎがなかった。 畢王李璋は、北周に仕えて梁州刺史となり、趙王宇文祐とともに隋の文帝の殺害を計画したが、失敗して、死んだ。二子を生み、李韶といい、李孝基といった。李韶は隋代に死に、武徳のときに東平王に追封され、子の李道宗を生んだ。 江夏郡王李道宗は、字を承範といった。高祖が即位すると、左千牛備身・略陽郡公を授与された。裴寂與劉武周戰度索原、寂敗、賊逼河東、道宗年十七、従秦王討賊。王登玉壁城以望、謂道宗曰:「賊怙衆欲戰、爾計謂何?」對曰:「武周席勝、剡然鋒未可當、正宜以計摧之。且烏合之衆憚持久、若堅壁以頓其鋭、須食盡氣老、可不戰禽也。」王曰:「而意與我合。」既而賊糧匱、夜引去、追戰滅之。 出為霊州総管。時梁師都弟洛仁連突厥兵数万傅于壘、道宗閉城守、伺隙出戰、破之。高祖謂裴寂曰:「昔魏任城王彰有卻敵功、道宗似之。」因封任城王。 始、突厥郁射設入居五原、道宗逐出之、震耀威武、斥地贏千里。貞観元年、召拜鴻臚卿、遷大理。太宗方經略突厥、復授霊州都督。三年、為大同道行軍総管、助李靖破虜、親執頡利可汗、賜封六百戸、還為刑部尚書。吐谷渾寇邊、靖出崑丘道、詔與侯君集為靖副。賊聞兵且至、走嶂山数千里。諸将欲止、独道宗請窮追、靖曰:「善。」君集未従。道宗以單師進、去大軍十日、及之。吐谷渾拒険殊死闘、道宗陰引千騎超山乘其後、賊驚、遂大潰。徙封江夏、授鄂州刺史。久之、坐貪贓、帝聞、怒曰:「朕提四海之富、士馬若林、如使轍跡環天下、游観不度、采絶域之玩・海表之珍、顧不得邪?特以勞民自楽、不為也。人心無芸、當以誼制之。今道宗已王、稟賜多而貪不止、顧不鄙哉!」乃免官、削封戸、以王就第。明年、召為茂州都督、未行、拜晋州刺史。遷礼部尚書。 侯君集破高昌還、頗怨望。道宗嘗従容奏言:「君集智小言大、且為戎首。」帝問所以知必反者、對曰:「見其忌而矜功、恥為房・李下、官尚書、常鬱鬱不平。」帝曰:「君集誠有功、材無不堪、朕寧惜爵位邪?弟未及耳。不宜輕億度、使自猜危。」既而君集反、帝笑曰:「如公素揣。」 帝将討高麗、先遣営州都督張倹輕騎度遼規形勢、倹畏、不敢深入。道宗請以百騎往、帝許之、約其還、曰:「臣請二十日行、留十日覽観山川、得還見天子。」因馬束兵、旁南山入賊地、相易険、度営陣便處。将還、會高麗兵斷其路、更走間道、謁帝如期。帝曰:「賁・育之勇何以過!」賜金五十斤、絹千匹。 乃詔與李勣為前鋒、済遼、拔蓋牟城。會賊救至、道宗與総管張君乂領騎裁四千、虜十倍、皆欲浚溝保険須帝至、道宗曰:「賊遽來、其兵必疲、我一鼓摧之、固矣。昔耿弇不以賊遺君父、吾為前軍、當清道迎乘輿、尚何待?」勣善之。選壮騎数十、突進賊営、左右出入、勣合撃、大破之。帝至、咨美、賜奴婢四十口。乃築拒闉、攻安市城、闉毀傅城、道宗失部分、反為賊據。帝斬其果毅傅伏愛、道宗跣行請罪、帝曰:「漢武帝殺王恢、不如秦穆公赦孟明。」遂置不問。在陣傷足、帝親加砭治、賜御膳。還、以疾辭劇就閑、改太常卿。 高宗永徽初、房遺愛以反誅、長孫无忌・褚遂良與道宗有宿怨、誣與遺愛善、流象州、道病薨、年五十四。无忌等得罪、詔復爵邑。道宗晩好學、接士大夫、不倨于貴。国初宗室、唯道宗・孝恭為最賢。子景恆、封盧国公、相州刺史。 道宗弟道興、武徳初、爵広寧郡王、以属疏降封県公。貞観九年、為交州都督、以南方瘴厲、恐不得年、頗忽忽憂悵、卒于官、贈交州都督。 永安壮王李孝基は、武徳初得王、歴陝州総管・鴻臚卿、以罪奪官。 二年、劉武周寇太原、夏人呂崇茂以県応賊。詔孝基為行軍総管攻之、工部尚書独孤懐恩・内史侍郎唐倹・陝州総管于筠隸焉。筠請急攻城、絶外援、且當有變。時懐恩挾異計、紿説孝基曰:「夏城堅、攻之引日、宋金剛在近、内拒外彊、一敗塗地。不如頓兵待秦王破賊、則夏自孤、此謂不戰而屈人也。」孝基謂然。會尉遲敬徳至、與崇茂夾官師、遂大敗。孝基及筠等皆執於賊、謀亡歸、為賊所害。高祖為發哀、優賜其家。晋陽平、購尸不獲、招魂以葬、贈左衛大将軍及謚。 無子、以兄子道立嗣、封高平王、後降封県公、終陳州刺史。曾孫涵。 李涵は、簡素忠謹、為宗室俊。累授賛善大夫。郭子儀表為關内鹽池判官。肅宗至平涼、未知所従。朔方留後杜鴻漸等條士馬倉廥、使涵奉牋馳謁肅宗。涵既見、敷奏明辯、肅宗悅、除左司員外郎、再遷宗正少卿。 宝応初、河朔平、涵方母喪、奪哀持節宣慰、所至州県、非公事未嘗言、蔬飯水飲、席地以瞑。使還、固請終制、代宗見其毀、許之。服除、擢給事中、遷兵部侍郎。 朱希彩殺李懐仙、復宣慰河北、還為浙西観察使。居五歳、入朝、拜御史大夫・京畿観察使。徳宗嗣位、以涵和易無所繩舉、除太子少傅・山陵副使。以父諱徙光祿卿。未幾、遷左散騎常侍、以尚書右僕射致仕、累封襄武県公、卒、贈太子太保。 子鰅、貞元初為饒州別駕。妾高以善歌入宮、鰅因御醫許泳通書、坐誅。 雍王李繪は隋の夏州総管となった。子の李贄は、追爵河南王、生道玄。 淮陽壮王李道玄は、性謹厚、習技撃、然進止都雅。武徳初、例王。年十五、従秦王撃宋金剛於介州、先登、王壮之、賞予良厚。討王世充、戰多。竇建徳屯虎牢、王輕騎致賊、遣道玄伏以待、賊至、走之。転戰汜水、登南、貫賊陣出其背、復引還、賊皆靡、所發命中。王喜、以副騎給之。毎赴敵、飛矢著身如蝟、氣益厲。東都平、為洛州総管。府廢、更授刺史。俄為山東道行軍総管討劉黒闥、以多見褒。 黒闥再乱、道玄率史万宝戰下博、越濘馳、約万宝継進、万宝素少之、不肯前、曰:「吾被詔、以王兒子名大将、而軍進退実在我。今其輕闘、若大軍竭馳、必陷濘、莫如以王啗賊、我結陣待之、雖不利王、而利国也。」道玄遂戰歿、年十九。万宝為賊所乘、舉軍潰、身独免。太宗追悼曰:「自兵興、兒常従我、毎見我深入輒克、故慕之。惜其少、遠圖不究、哀哉!」因流涕。贈左驍衛大将軍及謚。 無子、以弟道明嗣王、遷左驍衛大将軍。貞観十四年、與武衛将軍慕容宝節送弘化公主於吐谷渾、坐漏言主非帝女、奪王、終鄆州刺史。六世孫漢。 李漢は、字を南紀といい、少事韓愈、通古學、属辭雄蔚、為人剛、略類愈。愈愛重、以子妻之。擢進士第、遷累左拾遺。 敬宗侈宮室、舶賈獻沈香亭材、帝受之、漢諫曰:「以沈香為亭、何異瑤台瓊室乎?」是時、王政謬僻、漢言切、多所救補。坐婞訐出佐興元幕府。 文宗立、召為屯田員外郎・史館修撰。論次憲宗実録、書宰相李吉甫事不假借、子徳裕惡之。會李宗閔當国、擢知制誥、稍進御史中丞、吏部侍郎。初、徳裕貶袁州、漢助為排擠、後徳裕復輔政、漢坐宗閔黨出為汾州刺史、宗閔再逐、改州司馬。詔有司不二十年不得用。然不数歳、徙絳州長史、遂不復振。大中時、召拜宗正少卿、卒。 始、漢為中丞、表孔温業為御史、及漢晩見召、温業已為中丞、毎燕集、人以為榮。 郇王李禕は、隋の上儀同三司となった。子の李叔良・李徳良・李幼良を生んだ。 長平肅王李叔良は、武徳初年、王に列せられ、鎮涇州、捍薛仁杲。仁杲内史令翟長孫以衆降。於是大饑、米斗千錢、叔良不恤士、損糧以漁利、下皆怨。仁杲知之、陽言食盡、去、遣高人詭降。叔良遣驃騎劉感受之、未至城、三烽發、仁杲兵自南原譟而還、大戰百里細川、感為賊執。叔良懼、悉出金勞軍、委事於長孫、乃克安。 久之、突厥入寇、詔叔良率五将軍撃之、中流矢、道薨。贈左翊衛大将軍・霊州総管。 子の李孝協が跡を継いだ。 李孝協は、始め范陽王となり、俄降為郇国公・魏州刺史。麟徳中、坐贓抵死、司宗卿隴西王博等為言於高宗求貸、帝不許、遂自殺。 弟孝斌為原州都督府長史。生子思訓、為江都令。武后多殺宗室、思訓棄官去。中宗復位、以耆舊擢宗正卿、封隴西郡公、歴益州都督府長史。開元初、進彭国公、加戸満四百、進右武衛大将軍。卒、贈秦州都督、陪葬橋陵。思訓善畫、世所謂「李将軍山水」者。弟思誨、為揚州参軍事。子林甫、自有伝。 新興郡王李徳良は、少以疾不任職。薨、贈涼州都督。 孫晋、先天中、為雍州長史、治有名、襲王。坐豫太平公主謀被誅、改氏「厲」。晋就刑、僚吏奔解、唯司功参軍李撝従王如它日、晋死、哭其尸盡哀。姚元崇歎曰:「欒・向儔邪!」擢為尚書郎。 長楽郡王李幼良は、資暴急、高祖数曉勒、不悛。有盜其馬者、輒殺之。帝怒曰:「盜信有罪、王而專殺可乎?」詔礼部尚書李綱召宗室即朝堂杖之百、乃釋。出為涼州都督、嘯不逞為左右、市里苦之。 太宗立、或告王陰養士、交境外。詔中書令宇文士及往代、并按状。士及繩之急、左右恐、欲劫王由間道趨長安自明、不即北奔突厥。士及露劾、帝復遣侍御史孫伏伽鞫視、無異辭、遂賜死。六世孫回、別伝。 蔡烈王李蔚は北周の朔州総管となり、子の李安・李哲を生んだ。 西平懐王李安は、隋に仕えて右領軍大将軍となり、趙公に封ぜられた。武徳のとき、王に列せられた。子の李琛・李孝恭・李瑊・李を生んだ。 襄武郡王李琛は、字を仲宝といった。木訥少文。隋義寧初、封襄武郡公、與太常卿鄭元持女伎聘突厥始畢可汗、約和親。始畢礼之、贈遺蕃渥、遣骨吐祿特勒隨琛入獻、授刑部侍郎。武徳初、始王、歴利・蒲・絳三州総管。宋金剛陷澮州、稽胡多叛、詔琛鎮隰州、政寬簡、為夷夏愛便。薨、子倹襲王、例降為公。 河間元王李孝恭は、少沈敏、有識量。 高祖已定京師、詔拜山南招尉大使、徇巴蜀、下三十餘州。進撃朱粲、破之、俘其衆、諸将曰:「粲徒食人、摯賊也、請阬之。」孝恭曰:「不然、今列城皆吾寇、若獲之則殺、後渠有降者乎?」悉縱之。繇是騰檄所至輒下。 明年、拜信州総管、承制得拜假。當是時、蕭銑據江陵、孝恭数進策圖銑、帝嘉納。進王趙郡、以信州為夔州。乃大治舟艦、肄水戰。會李靖使江南、孝恭倚其謀、遂圖江陵、盡召巴蜀首領子弟收用之、外示引擢而内実質也。俄進荊湘道総管、統水陸十二軍發夷陵、破銑二鎮、縱戰艦放江中。諸将曰:「得舟當済吾用、棄之反資賊、奈何?」孝恭曰:「銑之境南際嶺、左薄洞庭、地険士衆、若城未拔而援至、我且有内外憂、舟雖多、何所用之?今銑瀕江鎮戍、見艫舠蔽江下、必謂銑已敗、不即進兵、覘候往返、以引救期、則吾既拔江陵矣。」已而救兵到巴陵、見船、疑不進。銑内外阻絶、遂降。帝悅、遷荊州大総管、詔圖破銑状以進。 孝恭治荊、為置屯田、立銅冶、百姓利之。遷襄州道行台左僕射。時嶺表未平、乃分遣使者、綏輯安慰、其款附者四十有九州、朝廷號令暢南海矣。 未幾、輔公祏反、寇寿陽、詔孝恭為行軍元帥討之。引兵趨九江、李靖・李勣・黄君漢・張鎮州・盧祖尚皆稟節度。将發、大饗士、杯水變為血、坐皆失色、孝恭自如、徐曰:「禍福無基、唯所召爾!顧我不負於物、無重諸君憂。公祏禍惡貫盈、今仗威霊以問罪、杯中血、乃賊臣授首之祥乎!」盡飲罷、衆心為安。公祏将馮惠亮等拒嶮邀戰、孝恭堅壁不出、遣奇兵絶饟道、賊饑、夜薄営、孝恭臥不動。明日、使羸兵扣賊壘挑之、祖尚選精騎陣以待。俄而兵卻、賊追北且囂、遇祖尚軍、薄戰、遂大敗。惠亮退保梁山、孝恭乘勝破其別鎮、賊赴水死者数千計。公祏窮、棄丹楊走、騎窮追、生禽之、江南平。璽書褒美、賜甲第一區・女楽二部・奴婢七百口・宝玩不貲。進授東南道行台左僕射。行台廢、更為揚州大都督。 孝恭再破巨賊、北自淮、東包江、度嶺而南、盡統之。欲以威重夸遠俗、乃築第石頭城、 、陳廬徼自衛。或誣其反、召還、頗為憲司鐫詰、既無状、赦為宗正卿。賜実封千二百戸。歴涼州都督・晋州刺史。貞観初、為礼部尚書、改王河間。 性奢豪、後房歌舞伎百餘、然寬恕退讓、無矜伐色、太宗用是親重之、宗室莫比也。嘗謂人曰:「吾所居頗壮麗、非吾心也。當別営一區、令粗足充事而已。吾歿後、子也才、易以守;不才、不為他人所利。」十四年、中飲暴薨、年五十。帝哭之慟、贈司空・揚州都督及謚、陪葬獻陵。 始、隋亡、盜賊天下、皆太宗身自討定、謀臣驍帥並隸麾下、無特将專勳者、惟孝恭独有方面功以自見云。子崇義・晦。 崇義嗣王、降封譙国公、歴蒲・同二州刺史・益州都督府長史、有威名。終宗正卿。 晦、乾封中為営州都督、以治状聞、璽書勞賜。遷右金吾将軍、檢校雍州長史、摧擿姦伏無留隱、吏下畏之。高宗将幸洛、詔晦居守、謂曰:「關中事一以属公、然法令牽制、不可以成政、法令外苟可以利人者行之、毋須以聞。」故晦治有異績。武后時、遷秋官尚書。卒、贈幽州都督。初、晦第起観閣、下臨肆區、其人候晦曰:「庶人不及以礼、然室家之私、不願外窺、今将辭公。」晦驚、遽毀徹之。子榮、奉呉王恪祀。 済北郡王李瑊は、武徳年間、尚書左丞となり、王に列せられた。始州刺史に終わった。 漢陽郡王李は、始め郡公となり、王に進んだ。高祖使持幣遺突厥頡利可汗言和親事。頡利始見、倨甚。開説、示以厚幣、乃大喜、改容加礼、因遣使隨入獻名馬。後復聘、頡利謂其下曰:「前來、悔不少屈之、當使拜我。」伺知之、既見頡利、即長揖。頡利怒、留不遣。意象自若、不為屈。虜知不可劫、卒以礼遣。 遷左武候将軍、代孝恭為荊州都督、政務清靜。嶺外酋豪数相攻、遣使諭威徳、皆如約、不敢乱。後例為公。長史馮長命者、嘗為御史大夫、素貴、事多專決、怒、杖之、坐免。起為宜州刺史・散騎常侍、薨。 済南郡王李哲は、隋の柱国・備身将軍となり、王に追封された。 子に李瑗があった。 廬江郡王李瑗は、字を徳圭といった。武徳のとき、王に列せられ、累遷山南東道行台右僕射。與河間王孝恭合討蕭銑、無功。更為幽州都督。瑗素懦、朝廷恐不任職、乃以右領軍将軍王君廓輔行。君廓、故盜也、其勇絶人、瑗倚之、許結婚、寄心腹。 時隱太子有陰謀、厚結瑗。太子死、太宗令通事舍人崔敦礼召瑗、瑗懼有變。君廓内険賊、欲以計陷瑗而取己功、即謂瑗曰:「事變未可知、大王国懿親、受命守邊、擁兵十万、而従一使者召乎?且趙郡王前已属吏、今太子・斉王又復爾、大王勢能自保邪?」因泣。瑗信之、曰:「以命累公。」乃囚敦礼、勒兵、召北燕州刺史王詵與計事。兵曹参軍王利渉説瑗曰:「王今無詔擅發兵、則反矣。當須權結衆心。若諸刺史召之不至、将何以全?」瑗曰:「奈何?」對曰:「山東豪傑嘗為竇建徳所用、今失職與編戸夷、此其思乱、若旱之望雨。王能發使、使悉復舊職、隨在所募兵、有不従、得輒誅之、則河北之地可呼吸而有。然後遣王詵外連突厥、繇太原南趨蒲・絳、大王整駕西入關、兩軍合勢、不旬月天下定矣。」瑗従之、以内外兵悉付君廓。利渉以君廓多翻覆、請以兵属詵、瑗猶豫、君廓密知之、馳斬詵首、徇于軍曰:「李瑗與王詵反、錮敕使、擅追兵、今詵已斬、独瑗在、無能為也。諸君従之且族滅、助我者富貴可得!」衆曰:「願討賊。」乃出敦礼于獄。瑗聞之、率左右数百被甲出。君廓呼曰:「瑗誖乱、諸君皆詿誤、若何従之以取夷戮?」衆反走。瑗罵君廓曰:「小人賣我、行自及!」即禽瑗縊之、伝首京師、廢為庶人、絶属籍。 鄭孝王李亮は、隋に仕えて海州刺史となり、王に追封された。子の李神通・李神符を生んだ。 淮安靖王李神通は、少輕俠。隋大業末在長安。會高祖兵興、吏逮捕、亡命入鄠南山、與豪英史万宝・裴勣・柳崇礼等舉兵応太原、約司竹賊帥何潘仁連和、進與平陽公主兵合、徇鄠下之。自署關中道行軍総管、以万宝為副、勣為長史、崇礼為司馬、令狐徳棻為記室。従平京師、為宗正卿、典兵宿衛。王永康郡、俄徙淮安。 武徳初、拜山東安撫大使、黄門侍郎崔幹副之、進撃宇文化及于魏。化及敗走聊城、神通追北、賊糧盡願降、神通不肯受、幹請納之、神通曰:「師久暴露、今賊食盡、克不旦暮、正當破之、以玉帛酬戰力。若降、吾何所藉手?」幹曰:「竇建徳危至、而化及未平、我転側兩賊間、勢必危、王又貪其玉帛、敗不日。」神通怒、囚幹軍中。 會士及自済北餽軍、化及復振。神通進兵薄其壘、貝州刺史趙君徳先登扳堞、神通忌其功、止軍不進。君徳怒、詬而還、城復堅。神通遣兵走魏州取攻具、為莘人所乘、引。後二日、建徳拔聊城、勢遂張、山東州県靡然歸之。神通麾下多亡、乃退保黎陽、依李世勣、俄為建徳所虜。後與同安公主自賊歸。及建徳滅、復授河北行台左僕射。従平劉黒闥、遷左武衛大将軍。薨、贈司空。 神通十一子、得王者七人、道彦・孝・孝同・孝慈・孝友・孝節・孝義、後皆降王。孝逸爵公。孝鋭不得封、有子斉物顯。 膠東郡王李道彦は、幼孝謹。初、神通避吏于鄠、被疾山谷間、累旬食盡、道彦羸服丐人間、或採野実以進;神通未食、不敢先、即有所分、辭以飽、乃藏以待。高祖初、封義興郡公、例得王。貞観初、為相州都督、徙岷州、以父喪解。荷土就墳、躬蒔松柏、偃廬柴毀、雖親友不復識。太宗嗟歎、敕侍中王珪臨諭。 服除、復拜岷州都督。間遣入党項諭国威霊、區落降。従李靖撃吐谷渾、詔道彦為赤水道総管。帝厚以利啖党項、使為郷導、其酋拓拔赤辭詣靖自言:「隋撃吐谷渾、我資其軍、而隋無信、反見仇剽。今将軍若無它、我願資糧、将復如隋乎?」諸将與歃血遣之。道彦至闊水、見無備、因掠其牛羊、諸羌怨、即引兵障野狐峽、道彦不得進、為赤辭所乘、軍大敗、死者数万、退保松州。詔減死、謫戍邊。久之、召為媯州都督。卒、贈礼部尚書。 初、武徳五年同封者、孝為高密王、孝同淄川王、孝慈広平王、孝友河間王、孝節清河王、孝義膠西王。於是唐始興、務広支蕃鎮天下、故従昆弟子自勝衣以上、皆爵郡王。太宗即位、舉属籍問大臣曰:「盡王宗子於天下、可乎?」封徳彝曰:「漢所封、惟帝子若親昆弟;其属遠、非大功不王。如周郇滕・漢賈沢尚不得茆土、所以別親疏也。先朝一切封之、爵命崇而力役多、以天下為私奉、非所以示至公。」帝曰:「朕君天下以安百姓、不容勞百姓以養己之親。」於是疏属王者皆降為公、唯嘗有功者不降。故道彦等並降封公。 孝逸、少好學、頗属文。始封梁郡公。高宗時、四遷益州大都督府長史。武后擅国、入為左衛将軍、親遇之。 徐敬業稱兵、以孝逸為左玉鈐衛大将軍・揚州行軍大総管、帥師南討。至淮、而敬業已攻潤州、遣弟敬猷壁淮陰、偽将韋超據都梁山以拒孝逸、超衆憑険完屯。孝逸會諸将議曰:「賊今負山、攻則士無所用力、騎不得騁、寇救死、傷夷必衆。不如偏旅綴之、全軍趨揚州、勢不数日可破。」支度使薛克構曰:「超雖據険、然兵少、若置小敵不撃、無以示威;披衆以守、則戰有闕。捨之則後憂、不如撃之。若克超、淮陰自震、淮陰破、楚諸県開門候官軍矣。由是以趨江都、逆首可取。」孝逸従之、登山急撃超、殺数百人、薄暝解、超夜走。進撃敬猷淮陰、破之。敬業回軍下阿溪、孝逸引兵直度、敬業大敗、遂拔揚州。以功進鎮軍大将軍、徙封呉国公、威名稜然。 武承嗣等忌之、以讒下遷施州刺史。又使人騰惡語聞上、武后信之、以嘗有功、貸死、流儋州、薨。景雲初、贈金州大都督。 李孝同の曾孫の李国貞。 李国貞の父の李広業は、剣州長史となった。国貞剛鯁、有吏才。乾元中、由長安令遷河南尹。史思明寇東都、李光弼壁河陽、国貞率官吏西走陝、数月、召為京兆尹。 上元初、拜劍南節度使、召為殿中監、以戸部尚書持節朔方・鎮西・北庭・興平・陳鄭節度行営兵馬及河中節度都統處置使、治于絳。尋加晋・絳・慈・隰・沁等州観察處置使。既至、糧乏、而所儲陳腐、民貧不忍遽斂、上書以聞。而軍中讙謗、突将王振乘衆怨紿曰:「具畚鍤以待役事。」衆皆怒、夜燒牙門。左右奔告、請避之、国貞曰:「吾被命為将、其可棄城乎?」固請、乃逃獄中。振引衆劫取之、置食其前曰:「食是而役其力、可乎?」国貞曰:「與爾等方討賊、何事役為?正縁儲食腐倹、已請諸朝、吾何所負?」衆服其言、且引去。振曰:「都統不死、吾曹殆矣!」遂害之、并殺其二子及三大将。 有詔以郭子儀代之。国貞清白善用法、世稱辦吏、然峻於操下、故其衆思得子儀、而振因肆其惡。及子儀至、振自謂且見徳、子儀怒曰:「汝臨賊境而害主将、賊若乘虚、是無絳矣、又欲為功乎?」即斬以徇。詔贈国貞揚州大都督。 子錡、自有伝。 李孝節の曾孫の李暠は、少孤、事母孝。始為枝江丞、荊州長史張柬之曰:「帝宗千里駒、吾得其人!」累擢衛尉少卿。居母喪、柴瘠、訖除、家人未嘗見言笑。與兄昇・弟暈相友。 開元初、為汝州刺史、政嚴簡、有治稱。昆弟繇東都候之、輒羸服往、州人無知者、其清慎舉如此。四遷至黄門侍郎、檢校太原以北諸軍節度使。太原俗為浮屠法者、死不葬、以尸棄郊飼鳥獸、號其地曰「黄阬」。有狗数百頭、習食胔、頗為人患、吏不敢禁。暠至、遣捕狗殺之、申厲禁條、約不再犯、遂革其風。二十一年、以工部尚書持節使吐蕃、既還、金城公主請明疆埸、表石赤嶺上、盟遂堅定。還、以奉使有指、再遷吏部。 暠、美風儀、以莊重稱、當時有宰相望。累為太子少傅・武都県伯。卒、贈益州大都督。 暈至太僕少卿。暈子進亦知名、好従當世賢士游、賙人之急、累擢給事中。至徳初、従広平王東征、以工部侍郎署雍王元帥府行軍司馬、為回紇鞭之幾死。遷兵部。卒、贈礼部尚書。 李孝節の四世の孫の李説は、字を巌甫といった。父遇及、天宝時為御史中丞・東畿採訪使。説以蔭補率府兵曹参軍。馬燧節度太原、辟署少尹、遷汾州刺史。李自良代燧、復奏為少尹。大将張瑤得士心、嘗請告未許、而自良卒、説與監軍王定遠祕其喪、前給瑤告、以毛朝陽代之、然後告喪。詔以通王為節度大使、授説行軍司馬・節度留後。 定遠自以有勞於説、頗橫恣、請別賜印、監軍有印自定遠始。於是擅補吏、易置諸将。彭令茵者、以久勞不服、定遠怒、殺之、埋馬矢中、其家請尸、不許、舉軍怨。説上其事、徳宗以奉天扈従功、恕死免官。詔未至、定遠謀刺説、説走而免。定遠召諸将、出笥中詔書紿曰:「詔以李景略知留後、召説還。公等皆有除。」諸将欲拜、大将馬良輔呼曰:「妄言也、不可受!」定遠懼、走乾陽樓、召麾下皆不至、自投下死。説盡斬同謀者、乃安。擢説檢校礼部尚書・節度使。累封隴西県男。 説精于職、築天成軍、邊備積完。晩被疾、不能事、軍幾乱。卒、贈尚書右僕射。 李斉物は、字を道用といった。天宝初、擢累陝州刺史。開砥柱、通漕路、發重石、下得古鉄戟若鏵然、銘曰「平陸」。上之、詔因以名県。遷河南尹、坐與李適之善、貶竟陵太守、還、遷京兆尹、太子太傅、兼宗正卿。卒、贈太子太師。性苛察少恩、喜發人私、然絜廉自喜、吏無敢欺者。忿陝尉裴冕、械而折愧之、及冕當国、除斉物太子賓客、世善冕能損怨云。 子を李復といった。 李復は、字を初陽といい、蔭官により仕え、累為江陵司録参軍。衛伯玉才之、表江陵令。遷少尹、歴饒・蘇二州刺史。李希烈叛、荊南節度使張伯儀数為賊窘、朝廷以復在江陵得士心、即母喪奪為少尹、充行軍司馬、佐伯儀。會伯儀罷、改容州刺史、兼本管招討使。先是、西原乱、吏獲反者沒為奴婢、長役之。復至、使訪親戚、一皆原縱。在容三年、人以賴安。転嶺南節度使、時安南經略使高正平・張応継卒、其佐李元度・胡懐義等因阻兵脅州県、肆為姦贓。復至、誘懐義杖死、流元度、南裔肅然。教民作陶瓦、鐫諭蛮獠、收瓊州、置都督府、以綏定其人。召拜宗正卿。歴華州刺史。貞元十年鄭滑節度使李融卒、軍乱、以復檢校兵部尚書代融節度。復下令墾営田以稟其軍、而賦不及民、衆悅。加檢校尚書右僕射。卒、年五十九、贈司空、謚曰昭。復更方鎮、所在稱治、然頗嗜財、為世所譏。 従父若水、為左金吾大将軍、兼通事舍人、容貌偉、在朝三十年、多識舊儀、毎宣勞揖賛、進止閑華、有可観者。 襄邑恭王李神符は、字を神符といい、少孤、事兄謹。高祖兵興、神符留長安、為衛文昇所囚。京師平、封安吉郡公。帝受禪、例王。遷并州総管。 頡利可汗盜邊、神符與戰汾東、斬級五百、獲馬二千。又戰沙河、獲乙利達官、得可汗所乘馬及鎧。召為太府卿。遷揚州大都督、自丹楊度江、治隋江都故郡、揚人利之。然少威嚴、不為下所畏。累擢宗正卿、以足不良改光祿大夫、歸第、月給羊酒。太宗就第尉問、又令乘小輿入紫微殿、三衛挾輿以升。遷開府儀同三司。永徽二年薨、年七十三、贈司空・荊州都督、陪葬獻陵。 子七人、並爵郡王、例降公。惟徳懋・文暕知名。徳懋、官少府監・臨川郡公。五世孫従晦。文暕、幽州都督・魏国公。垂拱中、坐累貶藤州別駕、誅。子挺・捷、捷襲封。挺曾孫程、捷曾孫石、別伝。 従晦祖模、仕至徳中為猗氏令。史思明陷洛陽、賊帥掠諸県、模率衆拒平之。稍遷黔中観察使。終太子賓客、贈太子太保、謚曰敬。 従晦宝暦初及進士第、擢累太常博士。甘露之禍、御史中丞李孝本被誅、従晦以族昆弟貶朗州司戸参軍。改澶王府諮議、分司東都。忌者重發前坐、下遷亳州司馬。久乃転吏部郎中、兼侍御史、知雜事。出為常州刺史、鎮海軍節度使。李琢表其政、賜金紫。歴京兆尹・工部侍郎・山南西道節度使。又以最就進銀青光祿大夫。卒、年六十三、贈吏部尚書。 従晦姿質偉岸、所至以風力聞。少與崔龜従・李景讓・裴休善。奨目後進、名知人、楊收方布衣、進謁、従晦一見如雅識、即待以公輔、後果宰相。 世祖に四子があった。いちばん上が李澄、次が李湛、次が李洪、次が高祖神堯皇帝といった。 梁王李澄は、早く薨去し、跡継ぎがなかった。武徳初、二王とともに同じく追封された。 蜀王李湛は、子の李博・李奉慈を生んだ。 隴西恭王李博は、武徳初年、李奉慈とともに王に列せられた。高宗のとき、擢累礼部尚書、特進。驕侈不循法度、伎妾数百、曳羅紈、甘粱肉、放於聲楽以自娛。其弟奉慈亦荒縱、皆為帝所鄙。嘗曰:「吾仇人有善且用之、況親戚乎?王等昵小人、專為不軌、先王墳典不聞學、何以為善哉?」各賜市書絹二百疋、以愧切之、然不自克也。薨、贈開府儀同三司・荊州都督。 渤海敬王李奉慈は、顕慶のとき、原州都督となり、薨去した。 七世の孫は李戡。 李戡は、字を定臣といい、幼くして孤児となった。年十歳所即好學、大寒、掇薪自炙。夜無然膏、默念所記。年三十、明六經、舉進士、就礼部試、吏唱名乃入、戡恥之。明日、徑返江東、隱陽羨里。陽羨民有闘爭不決、不之官而詣戡以辨。凡論著数百篇。常惡元和有元・白詩、多纖豔不逞、而世競重之。乃集詩人之類夫古者、斷為唐詩、以譏正其失云。平盧節度使王彦威表為巡官、府遷、還洛陽、卒。 賛曰:景・元子孫、當草昧之初、乘運而奮、方高祖攘除四方、所以宣力、皆顯顯為世豪英。至河間之功、江夏之略、可謂宗室標的者也。 始、唐興、疏属畢王、至太宗、稍稍降封。時天下已定、帝與名臣蕭瑀等喟然講封建事、欲與三代比隆、而魏徴・李百藥皆謂不然。徴意以唐承大乱、民人彫喪、始復生業、遽起而瓜分之、故有五不可之説。百藥稱帝王自有命、暦祚之短長不縁封建。又舉春秋二百四十二年之禍、亟於哀・平・桓・霊、而詆曹元首・陸士衡之言以為繆悠。而顏師古独議建諸侯、當少其力、與州県雜治、以相維持。然天子由是罷不復議。 至名儒劉秩目武氏之禍、則建論以為設爵無土、署官不職、非古之道、故權移外家、宗廟絶而更存。存之之理、在取順而難逆;絶之之原、在單弱而無所憚。至謂郡県可以小寧、不可以久安。大抵與曹・陸相上下。而杜佑・柳宗元深探其本、據古驗今、而反復焉。 佑之言曰:「夫為人置君、欲其蕃息則在郡県、然而主胙常促;為君置人、不病其寡則在建国、然而主胙常永。故曰、建国利一宗、列郡利百姓。且立法未有不敝者、聖人在度其患之長短而為之。建国之制、初若磐石、然敝則鼎峙力爭、陵遲而後已、故為患也長。列郡之制、始天下一軌、敝則世崩倶潰、然而戡定者易為功、故其為患也短。」又謂:「三王以來、未見郡県之利、非不為也、後世諸儒因泥古彊為之説、非也。」 宗元曰:「封建非聖人意、然而歴堯・舜・三王莫能去之、非不欲去之、勢不可也。秦破六国、列都會、置守宰、據天下之圖、攝制四海、此其得也。二世而亡、有由矣。暴威刑、竭人力、天下相合、劫令殺守、圜視而並起、時則有叛民、無叛吏。漢矯秦枉、剖海内、立宗子功臣、数十年間奔命扶傷不給、時則有叛国、無叛郡。唐興、制州県、而桀黠時起、失不在州而在於兵、時則有叛将、無叛州。」以為「矯而革之、垂二百年、不在諸侯明矣」。又言:「湯之興、諸侯歸者三千、資以勝夏;武王之興、會者八百、資以滅商。徇之為安、故仍以為俗、是湯・武之不得已也。不得已、非公之大也、私其力於己也。秦革之者、其為制、公之大者也;其情、私也。然而公天下之端自秦始」云。 観諸儒之言、誠然。然建侯置守、如質文遞救、亦不可一責也。救土崩之難、莫如建諸侯;削尾大之勢、莫如置守宰。唐有鎮帥、古諸侯比也。故王者視所救為之、勿及於敝則善矣。若乃百藥推天命・佑言郡県利百姓而主胙促、乃臆論也。 前巻 『新唐書』 次巻 巻七十七 列伝第二 『新唐書』巻七十八 列伝第三 巻七十九 列伝第四
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1小時搜到 絕峰的牧神1 - 名無しさん 2011-12-13 08 20 54 3天 混亂的柵欄1 - 名無しさん 2011-12-13 14 27 22 未開發的放牧地1 .... 第二階段好猶豫...XD - 名無しさん 2011-12-14 02 34 21 8小時搜索到 (BOSS) 絶峰的牧神3 - 名無しさん 2011-12-15 13 00 26 0分鐘收到 妖魔的模型庭院3 - 名無しさん 2011-12-15 17 59 38 上述更新完成 - zero1906 2011-12-21 23 33 27 3分中搜到財寶1 - 名無しさん 2011-12-23 01 13 24 3分-被描繪的綠陣3 - 名無しさん 2011-12-23 21 58 00 3分-混亂的柵欄1 - 名無しさん 2011-12-23 22 09 30 3分-混亂的柵欄2 - 名無しさん 2011-12-24 04 52 16 3分-羊群的儀式場3 - 名無しさん 2011-12-24 04 52 40 3分-羊群的儀式場2 - 名無しさん 2011-12-24 21 37 16 3分-未開發的放牧地1 - 名無しさん 2011-12-24 21 37 49 3分-斷絕的祠堂3 - 名無しさん 2011-12-25 15 43 32 3分-牧神的絶峰3 - 名無しさん 2011-12-25 16 46 11 3分-妖魔的模型庭院2 - 名無しさん 2011-12-26 03 04 32 1小時-未開發的放牧地1 - 名無しさん 2011-12-27 00 37 53 1小時-牧神的絶峰2 - 名無しさん 2011-12-28 12 12 38 3分-混亂的柵欄3 - 名無しさん 2011-12-28 20 50 50 上述更新完畢 - 天野光 2011-12-29 15 22 04 2小時-牧神的絶峰3 - 名無しさん 2011-12-31 20 54 18 最下面 絶峰的牧神3的BOSS 應該打錯怪物名稱了@@" - 路人一號 2011-12-31 23 26 44 1小時-隱密洞穴的財寶1 - 名無しさん 2012-01-02 03 43 51 不好意思,剛剛打錯了...是30分-隱密洞穴的財寶1 - 名無しさん 2012-01-02 03 45 38 1小時-峰頂的寄生植物2 - 名無しさん 2012-01-02 04 12 32 16小時 - 妖魔的模型庭院3 出了5次....準沒錯 - chle 2012-01-04 02 19 16 上述更新完畢 - 天野光 2012-01-05 15 46 13 2小時 妖魔的模型庭院3 - 名無しさん 2012-01-08 15 41 16 2小時-被描繪的綠陣2 - 彪彪 2012-01-14 11 31 41 4小時~絕峰的牧神2 - ~JuyaNs~ 2012-01-15 01 13 56 上述更新完畢 - 天野光 2012-01-16 00 13 57 4小時-絕峰的牧神1 - 名無しさん 2012-01-23 21 51 34 上述更新完畢 - 天野光 2012-01-26 16 05 44 聽說牧神有槍4@@? 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- 名無しさん 2012-05-02 17 54 55 鐵幣圖打了很多張+1 - 名無しさん 2012-05-03 14 03 01 一直都搜一天,幾乎都是斷絕的祠堂,想要幣的話要改搜16小時?? - 名無しさん 2012-05-03 14 35 52 16hr真的很多財寶1...boss搜了3天搜到了 - 名無しさん 2012-05-03 17 50 44 在這裡拿到了5x~6x枚鐵幣不知道要幹嘛用= = - 名無しさん 2012-05-04 00 37 18 1小時搜到被描繪的綠陣2 - 名無しさん 2012-05-04 02 01 51 拿到劍4~ - 名無しさん 2012-05-04 20 37 21 峰頂的寄生植物1蒐多久比較多阿? - 名無しさん 2012-05-06 01 13 41 4個16小時 劍4圖有3張 - 名無しさん 2012-05-06 10 37 55 為什麼大家都說這裡是窮神的絕峰?好像也沒有很窮啊 - 名無しさん 2012-05-06 16 02 43 開0分通常就會刷到錢阿(以我來說 - 名無しさん 2012-05-06 18 31 21 8小時一直是峰頂的寄生植物系列........ - 名無しさん 2012-05-07 10 22 40 5個16h有3個是祠堂系列...... - 名無しさん 2012-05-07 14 27 17 一直很想拿鐵幣,但是.........搜不到XDDDD - 名無しさん 2012-05-07 18 05 06 耶 8h拿到劍4 ~ - 名無しさん 2012-05-08 14 37 40 我一直拿不到劍四 另外我想說的是這地圖不會很窮阿XD - 名無しさん 2012-05-09 08 17 05 沒boss阿....QAQ - 名無しさん 2012-05-11 20 04 10 進度都快滿了 劍四就是搜不到 為什麼啊QQ - 名無しさん 2012-05-13 16 42 38 咦。我在這裡拿到三個劍四耶XD - 名無しさん 2012-05-14 18 43 41 打了18個16h 完全沒看到寶石地圖 - 名無しさん 2012-05-15 13 23 35 想要寶圖建議16H~1D - 名無しさん 2012-05-15 16 43 41 絕峰的牧神3 我4小時搜到了................... - 名無しさん 2012-05-15 21 41 31 這地圖好囧- - 明明就都蒐3天結果模型庭院1跑出來兩次了...... - 名無しさん 2012-05-16 01 25 10 16h搜到模型庭園1真的很無奈 沒g也沒exp - 名無しさん 2012-05-17 16 22 17 我只搜三天 也只搜到寶藏1和斷絕祠堂...好窮QQ反而都是沒用的東西 - 名無しさん 2012-05-17 21 16 06 妹次搜1天到目前為止一堆寶藏1,我鐵幣都快破百了= = - 名無しさん 2012-05-18 00 01 59 請問有人可以提供多的BOSS圖嗎?條件可以再談(地圖OR沙包) - VEE 2012-05-18 13 42 43 一天 絶峰的牧神2 - 名無しさん 2012-05-18 18 54 45 8小時絶峰的牧神2 - 名無しさん 2012-05-19 13 22 04 16h 終於搜到紅鼠.... - 名無しさん 2012-05-19 13 52 06 3天絶峰的牧神1 8小時絶峰的牧神2 一個給自己一個給朋友(掩臉 - 名無しさん 2012-05-19 22 54 40 提供一張絕峰的牧神1 意者請留言 - 熊熊到來 2012-05-23 23 02 32 BOSS好難抽 - 名無しさん 2012-06-04 18 46 29 交易文已刪除,請玩家儘量避免在WIKI貼交易文,把留言區留給提供資訊的玩家謝謝(詳見首頁公告) ........2個禮拜....BOSS找不到QQ - 名無しさん 2012-06-10 11 20 31 找不到+1 朋友都快追上我了 - 名無しさん 2012-06-12 13 02 39 3 days - 名無しさん 2012-06-15 01 22 54 2小時 絕峰的牧神2 - 名無しさん 2012-06-15 14 10 32 0分 絕峰的牧神2 我傻眼 就這樣 - 名無しさん 2012-06-21 22 23 16 如果你剛到了那裹但你朋友給了你boss任你可以直接就這樣通地圖嗎 -_-?(前提是剛到, 進度是0/45) - 路人 2012-07-04 16 05 53 不行 - 名無しさん 2012-07-04 21 57 33 兩小時 絶峰的牧神3 - 名無しさん 2012-07-08 01 59 40 上述更新完畢 - Amanohikaru 2012-07-08 03 54 38 請問一下,大概要搜多久會比較容易搜到BOSS ? - 名無しさん 2012-07-08 15 12 13 16小時超棒! - 名無しさん 2012-07-08 17 19 04 16小時真的棒QAQ終於搜到了!! - 名無しさん 2012-07-10 21 44 45 ....3天 BOSS關1*2 絕峰頂的寄生植物3*1 妖魔的模型庭園1*1.........(淚 - 名無しさん 2012-07-16 16 14 17 16小時,boss1*2,boss2*1 - 名無しさん 2012-07-19 10 39 10 斷絕的祠堂2 在打古魯的時候就這樣卡住了TAT - 名無しさん 2012-07-27 11 52 14 全部解完後 第一場4小時就搜到BOSS*2了 - 名無しさん 2012-07-29 13 12 54 淦wwwwww同時授到三個絶峰的牧神2wwwww - RI 2012-08-09 21 34 34 3天 牧神的絶峰2 - 名無しさん 2012-08-20 19 11 11 果然是窮神的絕峰 沒什麼好東西= = - 名無しさん 2012-08-20 22 18 45 樓上讚 這裡真的超窮 - 名無しさん 2012-08-22 21 19 46 16小時 混亂的柵欄2 - 名無しさん 2012-08-24 12 41 31 3天 2X隱密洞穴的財寶2 1X混亂的柵欄3 - 名無しさん 2012-08-28 22 59 59 這裡唯一的好處(劍4拿不完)後悔當初花Gem買TAT - 名無しさん 2012-08-29 15 17 58 BOSS有夠難搜啊.... - 名無しさん 2012-09-02 13 41 22 這裡好貧瘠....看來該是用掉討魔的時候了.. - 名無しさん 2012-09-08 20 14 23 16~1天搜滿地圖 拿了四張劍4~~ - 名無しさん 2012-09-11 18 21 52 不要再給我八星寶圖了 我要BOSS啊!!!!! - 名無しさん 2012-09-13 17 49 40 回報小編~~妖魔的模型庭院2((0分中可以搜索到 - 名無しさん 2012-09-19 20 57 42 3天 牧神的絕峰2(一星)... 我要BOSS啊!!!! - 名無しさん 2012-09-21 01 25 04 貧瘠+1不論是事件卡或M卡都好少 - 名無しさん 2012-09-22 01 45 26 我到覺得這裡M2氾濫(? - 名無しさん 2012-09-23 11 46 20 要M2可以回頭顱墓啊,這邊唯一的好處真的是劍四... - 名無しさん 2012-09-26 12 22 56 突然發現羊群1第一個名字ww團康玩太多? - 名無しさん 2012-09-26 15 39 47 也不是說缺M2可以來這裡, 但真的咬著牙走完會覺得綠碎莫名比黃藍多了好多....... - wu0 fu/6 2012-09-30 08 59 55 絕峰的牧神...乍看之下以為自己又搜到 牧神的絕峰.. - 名無しさん 2012-10-06 13 22 04 樓上+1,差點手滑把BOSS刪了XD - 名無しさん 2012-10-07 10 15 08 都開一天了還出不去啊啊(ノД`) BOSS好難蒐... - 名無しさん 2012-10-13 01 49 14 雖然大家都說這裡很窮......但是我八小時甚至0分搜老是出現M3圖,反而16小時搜雷恩死也不出虛無之地給我啊...... - 名無しさん 2012-10-13 21 40 48 沒有想像中的窮 - 名無しさん 2012-10-17 04 51 24 4小時搜到boss3…………這什麼巫術… - 名無しさん 2012-10-23 22 27 49 好窮的地圖!!(┘=皿=)┘ ┴──┴ - 名無しさん 2012-10-23 22 35 47 我搜了兩次三天才搜到BOSS.....orz - 名無しさん 2012-10-24 15 21 47 搜了8次三天都沒有BOSS,這次搜2個小時竟然搜到了!(搥地) - 名無しさん 2012-10-28 22 35 03 这图哪会穷,简直是M2的天地啊!10个任务有9个是M2任务@.@ - 名無しさん 2012-11-03 00 42 29 財寶1 拿鐵壁好 還是沙漏? - 名無しさん 2012-11-04 19 40 10 沙漏是好物 4个2小时+沙漏=Boss2 - 名無しさん 2012-11-05 11 08 55 回樓上上 今天也蒐到財寶一 我是拿三鐵幣 - 名無しさん 2012-11-05 20 18 25 每天搜到财宝二,我要财宝三啊!!!急着升R2玛格啊〜.〜 - 名無しさん 2012-11-06 17 09 14 隱密洞穴的財寶2 第二階變成+10ap藥水囉 請版主更正ㄛ - 小碧 2012-11-06 21 38 26 楼上,有吗?我刚才也是拿到急救品耶〜.〜 - 名無しさん 2012-11-07 14 31 35 我不要在拿斷絕的祠堂了啦,在这张图呆了两个星期,没有搜过任何一个M3,怎样搜才搜到M3! - 名無しさん 2012-11-08 19 45 04 樓上要搜請去展影... - 名無しさん 2012-11-08 22 21 12 要搜多久的才會拿到財寶3(機率大)?? - 名無しさん 2012-11-09 06 56 18 楼上x2,因为目前在这里,可是不想回去蹲斩影,好想快点前进下一个地图 - 名無しさん 2012-11-09 11 53 05 隱密洞穴的財寶1 是铜币 铜币 铁币 啊OWO - maku 2012-11-11 21 46 33 搜16小時經常搜到M3紅鼠 - 名無しさん 2012-11-15 11 12 21 財寶一沒變 中間一直都是三鐵幣 = = - 我 2012-11-15 18 47 49 財富一變100 鐵幣 鐵幣了ㄟ - 名無しさん 2012-11-20 23 16 48 財寶1的中間還是鐵幣鐵幣鐵幣(剛探完) - 名無しさん 2012-11-23 18 40 22 待一個星期了 感覺搜8H沒什麼好東西-.- 16H點下去吧 - 名無しさん 2012-11-26 10 43 43 財寶1是 鐵.鐵.鐵.. - 名無しさん 2012-11-27 18 55 22 這群羊有夠窮的!!! - 名無しさん 2012-12-02 02 12 46 同感 - 名無しさん 2012-12-02 12 50 25 搜1天比較好出寶圖嗎? - 名無しさん 2012-12-06 23 46 45 雖然不是絕對,但這窮神絕峰搜一天算是最佳 - 名無しさん 2012-12-10 12 07 32 16小時 財寶3連發! - 名無しさん 2012-12-10 16 08 24 我要boss啊!给我财宝1X3做么 - 名無しさん 2012-12-12 14 36 30 銅牆鐵壁 - 名無しさん 2012-12-12 21 42 08 搜一天...依舊貧窮 - 名無しさん 2012-12-14 18 22 37 為何這裡如此貧瘠(眼神死 - 名無しさん 2012-12-14 20 05 56 這地圖 不管搜到什麼我都高興不起來... 只求快點推過這邊 - 名無しさん 2012-12-15 14 26 33 只有劍4跟銀幣能吃=.= - 名無しさん 2012-12-22 16 15 42 這甚麼鳥地方... - 名無しさん 2012-12-23 22 42 18 搜了16小時/1天 盡是一堆爛東西..... 斷絕的祠堂 峰頂的寄生植物ˊ_ ˋ好破爛 - 檸檬香 2012-12-31 12 33 12 正所謂鳥不生蛋狗不拉屎。 - 名無しさん 2013-01-01 09 04 02 搜1天,隱密洞穴的財寶2.3...好窮的財寶? - 名無しさん 2013-01-01 21 55 22 好不容易搜到BOSS可以脫離窮神…結果在打的時候按到廣告…。・゚・(ノД`*)・゚・。 - 名無しさん 2013-01-04 20 07 19 可以按檢舉/聯絡此應用程式回報給官方請求再補發一個任務喔~要說明時間然後再等個一兩天就行了O_ - 名無しさん 2013-01-05 14 38 39 只想要劍4...結果還真的被我搜到了......目前拚達成度中 - 名無しさん 2013-01-12 03 43 31 有人能推多久搜到BOSS嘛=_="? 撐了2個禮拜終於推滿進度 可是搜不到BOSS... - 名無しさん 2013-01-12 21 43 06 進度30,幾乎蒐1天,劍4有4張,也容易搜到財寶衝進度。 - 優 2013-01-16 17 10 05 牧神的窮峰... - 名無しさん 2013-01-17 00 51 12 拿了不少劍4,只用十分鐘就搜到絕峰的牧神1,超爽的~~ - 名無しさん 2013-01-18 00 57 26 我是16小時搜到BOSS的 - 名無しさん 2013-01-18 12 56 30 固定搜16個小時,幾乎天天都搜到隱密洞穴的財寶... - 名無しさん 2013-01-30 08 41 27 不愧是"絕峰" 有夠窮的.. - 名無しさん 2013-01-31 00 59 38 這裡的任務濫炸了= = - 名無しさん 2013-02-01 12 52 35 是我人品好嗎?進度才破到27就拿到快10個寶圖....這不科學... - 名無しさん 2013-02-02 11 48 25 樓上+1我也狂中= = - 名無しさん 2013-02-07 18 11 57 我才進度5已拿到3個寶圖!! - 名無しさん 2013-02-08 22 09 36 峰頂的寄生植物1 最後一個不是劍4 - 名無しさん 2013-02-10 15 01 43 第一次就拿到劍四wwww - 碧空 2013-02-13 12 03 42 回樓樓上 我打到的是劍4唷 - 名無しさん 2013-02-13 15 25 23 進度1搜到10星寶圖.. - 名無しさん 2013-02-16 18 02 35 終於脫離這個窮圖了! 往花海邁進 說實在話這邊劍4真的少得可以 過完整張圖只拿到2張... - 名無しさん 2013-02-20 23 11 52 人狼...?是否有打錯? - 名無しさん 2013-02-22 00 01 23 我走完全圖沒拿到半張劍四... - 名無しさん 2013-02-22 20 57 44 我倒是拿到了很多4張劍四←搜不到BOSS卡在這張圖的人 - 名無しさん 2013-02-23 21 36 23 我才進度1已拿到2個寶圖欸 - 名無しさん 2013-02-23 23 55 10 剛剛搜到才猛然發現有劍四(汗 - 沒注意看的人 2013-03-02 22 36 30 0分搜索 寶藏圖1 - 名無しさん 2013-03-05 19 34 34 進度1十星寶圖+1~~~ - 名無しさん 2013-03-05 23 40 39 奇怪這地方也太貧瘠了=A=......希望能趕快進入瑪瑙採掘場 - 名無しさん 2013-03-07 08 09 45 貧瘠阿~我在這裡搜到6個銀幣了... - 名無しさん 2013-03-08 19 39 21 還沒完成進度 已經拿了3張劍4=_= 再搜到就丟去給我弟... - 名無しさん 2013-03-09 10 22 30 我怎麼搜也搜不到隱密洞穴的財寶3......QAQ - 名無しさん 2013-03-10 13 26 45 放16小時總是搜到"斷絕的祠堂"系列任務......= = - 名無しさん 2013-03-10 13 28 03 我聽別人說這地方很窮,但其實還好啊,都有些小錢跟M1M2可以拿 - 名無しさん 2013-03-12 19 46 56 咳... 好不容易的BOSS圖剛按挑戰就斷線.............. - 名無しさん 2013-03-20 19 13 27 好窮ㄚㄚQQ 好想回展影打怪拿碎片...又想前進新大陸...超~難抉擇QQ - 名無しさん 2013-03-22 23 36 08 這地方好窮!!!比上個圖還要爛,至少要塞裡還有特多血薄的劍可以打 - 名無しさん 2013-03-23 16 44 20 雖說寶圖好出但我一點也不缺銅鐵幣呀!! - 名無しさん 2013-03-23 16 46 08 成功脫出了,前往花海囉 - 名無しさん 2013-03-28 21 22 51 3分搜到妖魔的模型庭院3~ - 名無しさん 2013-04-05 08 10 41 0分搜到BOSS 3 - 名無しさん 2013-04-07 02 58 46 沒R2 R3角色這地區會打得很痛苦...... - AER 2013-04-07 12 30 21 比起空空的尖塔這裡還算好啦...怪也不算難打 - 名無しさん 2013-04-08 21 49 27 好窮的地圖,待到有點不耐煩 - 名無しさん 2013-04-09 17 54 54 10分財寶2 - 名無しさん 2013-04-10 02 13 52 今天上學前因為掉線沒了boss任 ..回來後一個也找不到 - 名無しさん 2013-04-10 21 42 59 嘛,這張圖能走一步算一步囉‥ - 名無しさん 2013-04-11 00 59 12 好無聊的地圖.. - 名無しさん 2013-04-13 15 19 27 好窮的地圖+1 - 名無しさん 2013-04-19 21 00 31 這地圖有點逼我買討魔= = - 名無しさん 2013-04-19 21 26 09 忍耐點吧,之後窮龍寶物庫會更.. - 名無しさん 2013-04-19 21 29 35 無聊地圖+1好吃AP - 名無しさん 2013-04-19 23 31 24 所以我都搜16小,隔天看都會有一兩個寶圖^^開心~ - 同上 2013-04-19 23 32 12 窮神雖窮,但寶圖頗肥 - 名無しさん 2013-04-20 11 40 10 卡了兩個多月(已達BOSS出現程度,但中間有參與活動) 終於蒐到王圖 - 名無しさん 2013-05-04 00 16 34 搜六個任務有三個是寶1... - 名無しさん 2013-05-09 18 20 08 一開始狂搜到寶圖,後來就都搜不到了 - 名無しさん 2013-05-16 23 22 13 為啥我每次搜10個有9個是斷絕的祠堂之類的啊= = - 名無しさん 2013-05-18 09 45 09 我也是,雖然是EXP還不錯但我已經123打到膩了..... - 名無しさん 2013-05-19 16 38 55 m2天堂~ - 名無しさん 2013-05-23 18 41 01 終於通關了(淚目 - 名無しさん 2013-06-12 10 03 30 祠堂爆多的~ - 名無しさん 2013-06-12 15 22 40 三十分搜到寶圖3!!! - 名無しさん 2013-06-16 05 09 05 要蒐多久比較容易出現boss 想趕快到下一張 下一張好像頗肥的 - 名無しさん 2013-06-22 18 22 19 請問大家boss都搜多久搜到的? " - 名無しさん 2013-06-25 17 59 12 搜了24hr24hr16hr8hr 出來的是BOSS1寶圖1BOSS1BOSS1 - 名無しさん 2013-06-26 20 15 09 個人缺m3.......... - 名無しさん 2013-07-02 17 23 16 呵呵呵 數也數不清的寶箱阿QDQ給我怪阿((艸 - 名無しさん 2013-07-02 21 42 04 請問目前在這關的人都是幾等的啊? - 名無しさん 2013-07-02 22 28 20 I'm 66 - 名無しさん 2013-07-04 11 20 15 我61(揮 - 名無しさん 2013-07-05 15 02 47 69 - 名無しさん 2013-07-05 23 05 11 69+1 - 名無しさん 2013-07-06 10 52 41 83ww - 名無しさん 2013-07-07 10 40 43 83 - 名無しさん 2013-07-07 10 55 46 53(通通只打寶藏圖,2週就突破 - 名無しさん 2013-07-09 00 32 10 62 - 名無しさん 2013-07-09 03 58 55 49進來生50了還沒爬上去w - 名無しさん 2013-07-09 21 23 50 我55WW - 名無しさん 2013-07-10 00 25 54 我55 - 名無しさん 2013-07-10 00 27 56 我55WW - 名無しさん 2013-07-10 00 28 31 劍四是哪張圖會掉? - 名無しさん 2013-07-10 14 13 03 64,快離開了w - 名無しさん 2013-07-11 05 13 30 0分搜的到妖魔的模型庭院2 - 名無しさん 2013-07-12 15 12 31 一堆寶圖一 - 名無しさん 2013-07-14 23 02 27 搜16小時一堆EXP,財寶1 - 名無しさん 2013-07-16 15 13 05 62等 等蒐王-/- - 名無しさん 2013-07-16 20 15 40 搜0分也有 絶峰的牧神3 - 名無しさん 2013-07-17 14 22 21 搜0分也有 絶峰的牧神3 - ㄏㄏ 2013-07-17 14 22 55 67等 剛到... - 名無しさん 2013-07-27 16 31 41 16小時 未開發的放牧地2 - 名無しさん 2013-07-28 12 12 55 羊群的儀式場2 30分 - 名無しさん 2013-07-28 21 12 30 16小時 混亂的柵欄2 - 名無しさん 2013-07-29 15 43 40 64等 剛到 - 名無しさん 2013-08-02 21 57 40 59 剛到="= - 名無しさん 2013-08-05 15 33 49 59 剛到="= - 名無しさん 2013-08-05 15 35 39 65等 放置play - 名無しさん 2013-08-05 16 47 06 boss阿~你在哪我怎麼都找不到你TAT - 名無しさん 2013-08-05 20 49 27 樓上可以試著搜一天 一天東西都不差也有機會中寶圖 吃了快4分之一進度寶圖+中BOSS2 - 名無しさん 2013-08-07 20 38 31 55 剛到~ - 名無しさん 2013-08-10 10 11 16 地圖等級也可以升很快 加油ㄏㄏ - 名無しさん 2013-08-14 14 19 10 27剛到~討魔op - 名無しさん 2013-08-15 19 03 32 1小時財寶3。 8小時牧神的絶峰1(尛 - 名無しさん 2013-08-15 21 41 03 2HR 絶峰的牧神1 - 名無しさん 2013-08-16 17 58 56 62剛到...... - 名無しさん 2013-08-18 18 20 14 78才到......樓上都好快?!! - 名無しさん 2013-08-18 20 46 28 4HR絶峰的牧神1 - 名無しさん 2013-08-21 22 09 53 27!?我72才剛到= = - 名無しさん 2013-08-24 10 55 29 為什麼會有(招來死亡的觸手)這種任務阿? - 名無しさん 2013-08-24 17 24 35 樓上 那是活動任務喔 - 名無しさん 2013-08-24 17 29 59 用討魔到最後AP會不夠阿ˊˇˋ AP14連3場都搜不到XD - 名無しさん 2013-08-24 21 52 17 71剛到 - 名無しさん 2013-09-04 13 49 50 61的我要走了 - 名無しさん 2013-09-09 19 04 54 52等的我倍感壓力 AP!!!! - 名無しさん 2013-09-10 12 06 24 請問一下要搜M3 幾個小時機率比較高呢ˊˇˋ? 個人都習慣搜16小時這樣ˊˇˋ - 名無しさん 2013-09-10 22 03 17 16小時+1 - 名無しさん 2013-09-15 16 27 02 在這裡呆了3個月.....存了一堆銅幣,但是我想換地圖了啊....QQ - 名無しさん 2013-10-09 15 17 55 請問BOSS要搜多久比較好? - 名無しさん 2013-10-11 12 25 01 16小時搜到BOSS2兩次 - 名無しさん 2013-10-13 20 06 00 71剛到+1 - 名無しさん 2013-10-26 20 40 54 56到....AP不夠啊QQ - 名無しさん 2013-10-29 21 07 22 51到......現在的AP數量感覺很微妙..... - 名無しさん 2013-10-30 21 39 55 58到 現在跟夜影互刷 - 名無しさん 2013-11-01 13 02 37 目前59,待了約2個月,這兩個月來都蒐16hr每天點開遊戲都有一~二個寶圖 - 名無しさん 2013-11-23 19 35 11 71等到 我有點擔心我的未來-.-+ - 名無しさん 2013-12-11 00 00 17 其實這裡沒我想像中窮阿.... - 名無しさん 2013-12-13 23 21 51 55等到...跟斬影互刷。好多銅幣... - 名無しさん 2013-12-14 02 25 22 我搜到 斷絕的祠堂4 這是? - 名無しさん 2013-12-19 20 52 37 斷絕的祠堂5? - 名無しさん 2013-12-19 22 07 58 這裡會掉落馬庫斯 - 名無しさん 2013-12-20 05 25 31 感覺好像有bug 他任務寫m3結果打完噴馬庫斯 - 名無しさん 2013-12-20 05 30 51 可是任務忘記了qq 只記得第一關狼 第二關分左右 - 名無しさん 2013-12-20 05 31 26 左是m2山羊 右是m1怪(沒打不知道) 都沒獎勵(箱子 最後一關是馬庫斯 - 名無しさん 2013-12-20 05 32 41 8HR 斷絕的祠堂4 會掉馬庫斯 - 名無しさん 2013-12-20 07 03 21 0分搜到斷絕的祠堂5 - 名無しさん 2013-12-20 09 59 10 斷絕的祠堂6...? - 名無しさん 2013-12-20 16 20 33 斷絕的祠堂4 (16小時) :M1狂狼 →(左)M2黑山羊→L3馬庫斯 - 名無しさん 2013-12-20 17 55 29 斷絕的祠堂6(6星) M2白疆兔(50G)→M1狂狼(30G)→左 M3兇兔(100G)右 雪莉(綠箱 白色石楠1) - 名無しさん 2013-12-20 18 16 08 8HR 斷絕的祠堂5 M2狼GEM M2獸人GEM 左-M1獸人GEM;右-判決2 ttp //ppt.cc/%7EGkb - Dsn 2013-12-20 19 31 51 8HR 斷絕的祠堂5 M2狼GEM M2獸人GEM 左-M1獸人GEM;右-判決2 ttp //ppt.cc/%7EGkb - Dsn 2013-12-20 19 32 20 8HR 斷絕的祠堂5 ttp //ppt.cc/%7EGkb - Dsn 2013-12-20 19 33 02 多發抱歉有請刪除多餘詞 感謝。 - Dsn 2013-12-20 19 33 52 判決2給的道具是AP3水 ttp //ppt.cc/bYZT 以上感謝更新。 - Dsn 2013-12-20 19 42 10 8HR 斷絕的祠堂5 掉精靈之藥 - 名無しさん 2013-12-21 00 49 24 10分鐘斷絕的祠堂6 掉精靈之藥 - 名無しさん 2013-12-21 08 46 10 10分鐘斷絕的祠堂6 掉精靈之藥 - 名無しさん 2013-12-21 08 46 11 8HR 斷絕的祠堂4 M1獸人 左M2山羊 右M1山羊 老馬L3 ttp //ppt.cc/MHKa - Dsn 2013-12-21 11 06 25 0分 斷絕的祠堂4 老馬 - 名無しさん 2013-12-21 11 50 38 16HR斷絕的祠堂6 - 名無しさん 2013-12-21 14 10 07 0分 斷絕的祠堂6 - 名無しさん 2013-12-21 14 57 25 16H 斷絕的祠堂6 右邊最後一格為雪莉L1 掉白花1 - 名無しさん 2013-12-22 01 01 03 10分鐘斷絕的祠堂5 - 名無しさん 2013-12-23 00 08 06 斷絕的祠堂5:M2神狼↑50Gem→M2犬人↑50Gem→(GOAL)右:Lv2布列依斯↑藍箱(精靈之藥) - 名無しさん 2013-12-23 00 12 14 斷絕的祠堂4 最後一格掉老馬 - 名無しさん 2013-12-24 22 47 02 16小時 斷絕的祠堂4 - 名無しさん 2013-12-25 00 37 31 斷絕的祠堂5(補充):M2神狼↑50Gem→M2犬人↑50Gem→(GOAL)右:Lv2布列依斯↑藍箱(精靈之藥)左:M1狼人↑30Gem - 名無しさん 2013-12-25 02 55 39 8小時 斷絕的祠堂6 - 名無しさん 2014-01-05 12 22 07 1天 斷絕的祠堂4 右邊二階是M1巴風特 此任務☆7 - 名無しさん 2014-01-06 01 18 50 1天 3天 斷絕的祠堂4 - dora 2014-01-10 11 12 34 1HR 斷絕的祠堂4 - 名無しさん 2014-01-10 12 50 43 1HR 斷絕的祠堂4 - 名無しさん 2014-01-10 12 51 03 以上情報更新完成 - 名無しさん 2014-01-11 05 06 48 斷絕的祠堂6 是☆5任務而已喔! - 名無しさん 2014-01-14 09 07 14 帶著愛犬旅行的少女居然是雪莉 ==? - 名無しさん 2014-02-05 20 16 17 不然你覺得是誰ww帕茉嗎?((希爾夫的話應該是狼吧 - 名無しさん 2014-02-05 20 22 40 在這待三天就打羊打到快瘋了QAQ 誰來救救我 - 名無しさん 2014-02-16 20 39 16 樓上, 古斯剛好是牧羊人呢, 帶他打吧!! - 名無しさん 2014-03-06 15 02 03 唔哇啊啊啊啊啊啊 - 名無しさん 2014-03-07 01 23 49 BOSS死都不出來啊啊啊啊啊啊卡了快兩個星期了QQ - 名無しさん 2014-03-07 01 24 19 到底要蒐多久的才搜得到BOSS啊... - 名無しさん 2014-04-02 21 41 25 搜個16小時吧0.0 - 名無しさん 2014-04-12 16 17 24 搜個16小時吧0.0 - 名無しさん 2014-04-12 16 17 40 牧神的絶峰的boss圖叫 絶峰的牧神 太好笑了阿!! 哈哈哈哈哈 - 名無しさん 2014-05-07 04 54 51 搜了一小時和四小時,希望能搜到牧神3打到卡片畢業。 - 名無しさん 2014-05-11 16 42 39 0分撿到老馬。。 - 名無しさん 2014-05-14 18 11 24 0分撿到老馬。。 - 名無しさん 2014-05-14 18 11 25 0分開到老馬+1...... 舊非課金角終於都到齊了T___T - 名無しさん 2014-05-26 14 25 23 3分搜到絕峰的牧神2... - 名無しさん 2014-05-28 22 49 14 樓上...3分BOSS就到你家報到................................真好QAQ - 名無しさん 2014-06-12 19 29 59 16小時搜到隱密洞穴的財寶1 - 名無しさん 2014-07-05 20 09 16 16小時搜到隱密洞穴的財寶1 - 名無しさん 2014-07-05 20 09 27 16小時搜到隱密洞穴的財寶2 - 名無しさん 2014-07-05 20 09 36 16小時開到老馬 - 名無しさん 2014-07-05 20 11 10 16小時搜到隱密洞穴的財寶3 - 名無しさん 2014-07-07 20 10 38 16小時搜到隱密洞穴的財寶3 - 名無しさん 2014-07-07 20 10 40 指南針 BOSS3(欸 - 名無しさん 2014-07-09 16 53 33 這圖...好窮= = - 名無しさん 2014-07-31 18 18 40 8小時搜到寶圖3 - 名無しさん 2014-09-30 19 26 51 8小時搜到寶圖3 - 名無しさん 2014-09-30 19 26 51 如果沒走地圖就直接打朋友寄來的boss圖的話 會怎樣? 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資治通鑑巻第二百二十四 唐紀四十二十九 代宗睿文孝武皇帝中之上 永泰元年(乙巳、七六五年) 閏十月,乙巳,郭子儀入朝。子儀以靈武初復,百姓雕弊,戎落未安,請以朔方軍糧使三原路嗣恭鎮之;河西節度使楊志烈既死,請遣使巡撫河西及置涼、甘、肅、瓜、沙等州長史。上皆從之。 丁未,百官請納職田充軍糧;許之。 戊申,以戸部侍郎路嗣恭為朔方節度使。嗣公披荊棘,立軍府,威令大行。 己酉,郭子儀還河中。 初,劍南節度使嚴武奏將軍崔旰為利州刺史;時蜀中新亂,山賊塞路,旰討平之。及武再鎮劍南,賂山南西道節度使張獻誠以求旰,獻誠使旰移疾自解,詣武。武以為漢州刺史,使將兵撃吐蕃於西山,連拔其數城,攘地數百里,武作七寶輿迎旰入成都以寵之。 武薨,行軍司馬杜濟知軍府事。都知兵馬使郭英幹,英乂之弟也,與都虞候郭嘉琳共請英乂為節度使;旰時為西山都知兵馬使,與所部共請大將王崇俊為節度使,會朝廷已除英乂,英乂由是銜之,至成都數日,即誣崇俊以罪而誅之。召旰還成都,旰辭以備吐蕃,未可歸,英乂愈怒,絕其饋餉以困之。旰轉徙入深山,英乂自將兵攻之,聲言助旰拒守。會大雪,山谷深數尺,士馬凍死者甚衆,旰出兵撃之,英乂大敗,收餘兵,才及千人而還。 英乂為政,嚴暴驕奢,不恤士卒,衆心離怨。玄宗之離蜀也,以所居行宮為道士觀,仍鑄金為真容。英乂愛其竹樹茂美,奏為軍營,因徙去真容,自居之。旰宣言英乂反,不然,何以徙真容自居其處!於是帥所部五千餘人襲成都。辛亥,戰於城西,英乂大敗。旰遂入成都,屠英乂家。英乂單騎奔簡州。普州刺史韓澄殺英乂,送首於旰。邛州牙將柏茂琳、瀘州牙將楊子琳、劍州牙將李昌夔各舉兵討旰,蜀中大亂。旰,衛州人也。 華原令顧繇上言,元載子伯和等招權受賄,十二月,戊戌,繇坐流錦州。 自安、史之亂,國子監室堂頹壞,軍士多借居之。祭酒蕭昕上言:「學校不可遂廢。」 代宗睿文孝武皇帝中之上大暦元年(丙午,公元七六六年) 春,正月,乙酉,敕復補國子學生。 丙戌,以戸部尚書劉晏為都畿、河南、淮南、江南、湖南、荊南、山南東道轉運、常平、鑄錢、鹽鐵等使,侍郎第五琦為京畿、關內、河東、劍南、山南西道轉運等使,分理天下財賦。 周智光至華州,益驕橫,召之,不至,上命杜冕從張獻誠於山南以避之;智光遣兵於商山邀之,不獲。智光自知罪重,乃聚亡命、無賴子弟,衆至數萬,縱其剽掠以悅其心,擅留關中所漕米二萬斛,籓鎮貢獻,往往殺其使者而奪之。 二月,丁亥朔,釋奠於國子監。命宰相帥常參官、魚朝恩帥六軍諸將往聽講,子弟皆服朱紫為諸生。朝恩既貴顯,乃學講經為文,僅能執筆辨章句,遽自謂才兼文武,人莫敢與之抗。 辛卯,命有司修國子監。 元載專權,恐奏事者攻訐其私,乃請:「百官凡論事,皆先白長官,長官白宰相,然後奏聞。」仍以上旨諭百官曰:「比日諸司奏事煩多,所言多讒毀,故委長官、宰相先定其可否。」 刑部尚書顏真卿上疏,以為:「郎官、御史,陛下之耳目。今使論事者先白宰相,是自掩其耳目也。陛下患群臣之為讒,何不察其言之虚實!若所言果虚宜誅之,果實宜賞之。不務為此,而使天下謂陛下厭聽覽之煩,托此為辭以塞諫爭之路,臣竊為陛下惜之。太宗著《門司式》云:『其無門籍人,有急奏者,皆令門司與仗家引奏,無得關礙。』所以防壅蔽也。天寶以後,李林甫為相,深疾言者,道路以目。上意不下逮,下情不上達,蒙蔽喑嗚,卒成幸蜀之禍。陵夷至於今日,其所從來者漸矣。夫人主大開不諱之路,群臣猶莫敢盡言,況令宰相大臣裁而抑之,則陛下所聞見者不過三數人耳。天下之士從此鉗口結舌,陛下見無復言者,以為天下無事可論,是林甫復起於今日也!昔林甫雖擅權,群臣有不咨宰相輒奏事者,則托以它事陰中傷之,猶不敢明令百司奏事皆先白宰相也。陛下倘不早寤,漸成孤立,後雖悔之,亦無及矣!」載聞而恨之,奏真卿誹謗;乙未,貶峽州別駕。 己亥,命大理少卿楊濟修好於吐蕃。 壬子,以杜鴻漸為山南西道‧劍南東‧西川副元帥、劍南西川節度使,以平蜀亂。 以四鎮、北庭行營節度使馬璘兼邠寧節度使。璘以段秀實為三使都虞候。卒有能引弓重二百四十斤者,犯盜當死,璘欲生之,秀實曰:「將有愛憎而法不一,雖韓、彭不能為理。」璘善其議,竟殺之。璘處事或不中理,秀實力爭之。璘有時怒甚,左右戰慄,秀實曰:「秀實罪若可殺,何以怒為!無罪殺人,恐涉非道。」璘拂衣起,秀實徐歩而出;良久,璘置酒召秀實謝之。自是軍州事皆咨秀實而後行。璘由是在邠寧,聲稱殊美。 癸丑,以山南西道節度使張獻誠兼劍南東川節度使,邛州刺史柏茂琳為邛南防禦使;以崔旰為茂州刺史,充西山防禦使。三月,癸未,獻誠與旰戰於梓州,獻誠軍敗,僅以身免,旌節皆為旰所奪。 夏,五月,河西節度使楊休明徙鎮沙州。 秋,八月,國子監成;丁亥,釋奠。魚朝恩執《易》升高座,講「鼎覆餗」以譏宰相。王縉怒,元載怡然。朝恩謂人曰:「怒者常情,笑者不可測也。」 杜鴻漸至蜀境,聞張獻誠敗而懼,使人先達意於崔旰,許以萬全。旰卑辭重賂以迎之,鴻漸喜;進至成都,見旰,但接以温恭,無一言責其干紀,日與將佐高會,州府事悉以委旰。又數薦之於朝,因請以節度讓旰,以柏茂琳、楊子琳、李昌夔各為本州刺史。上不得已從之。壬寅,以旰為成都尹、西川節度行軍司馬。 甲辰,以魚朝恩行內侍監、判國子監事。中書舍人京兆常袞上言:「成均之任,當用名儒,不宜以宦者領之。」丁未,命宰相以下送朝恩上。京兆尹黎幹自南山引澗水穿漕渠入長安,功竟不成。 冬,十月,乙未,上生日,諸道節度使獻金帛、器服、珍玩、駿馬為壽,共值緡錢二十四萬。常袞上言,以為:「節度使非能男耕女織,必取之於人。斂怨求媚,不可長也。請卻之。」上不聽。 京兆尹第五琦什一稅法,民苦其重,多流亡。十一月,甲子,日南至,赦,改元,悉停什一稅法。 十二月,癸卯,周智光殺陝州監軍張志斌。智光素與陝州刺史皇甫温不協,志斌入奏事,智光館之,志斌責其部下不肅,智光怒曰:「僕固懷恩不反,正由汝輩激之。我亦不反,今日為汝反矣!」叱下斬之,臠食其肉。朝士舉選人,畏智光之暴,多自同州竊過,智光遣將將兵邀之於路,死者甚衆。戊申,詔加智光檢校左僕射,遣中使余元仙持告身授之。智光慢罵曰:「智光有大功於天下國家,不與平章事而與僕射!且同、華地狹,不足展材,若益以陝、虢、商、鄜、坊五州,庶猶可耳。」因歴數大臣過失,且曰:「此去長安百八十里,智光夜眠不敢舒足,恐踏破長安城,至於挾天子令諸侯,惟周智光能之。」元仙股慄。郭子儀屢請討智光,上不許。 郭子儀以河中軍食常乏,乃自耕百畝,將校以是為差,於是士卒皆不勸而耕。是歳,河中野無曠土,軍有餘糧。 以隴右行軍司馬陳少游為桂管觀察使。少游,博州人也,為吏強敏而好賄,善結權貴,以是得進。既得桂州,惡其道遠多瘴癘;宦官董秀掌樞密,少游請歳獻五萬緡,又納賄於元載子仲武。內外引薦,數日,改宣歙觀察使。 代宗睿文孝武皇帝中之上大暦二年(丁未,公元七六七年) 春,正月,丁巳,密詔郭子儀討周智光。子儀命大將渾瑊、李懷光軍於渭上;智光麾下聞之,皆有離心。己未,智光大將李漢惠自同州帥所部降於子儀。壬戌,貶智光澧州刺史。甲子,華州牙將姚懷、李延俊殺智光,以其首來獻。淮西節度使李忠臣入朝,以收華州為名,帥所部兵大掠,自潼關至赤水二百里間,財畜殆盡,官吏有衣紙或數日不食者。己巳,置潼關鎮兵二千人。 壬申,分劍南置東川觀察使,鎮遂州。 二月,丙戌,郭子儀入朝。上命元載、王縉、魚朝恩等互置酒於其第,一會之費至十萬緡。上禮重子儀。常謂之大臣而不名。 郭曖嘗與昇平公主爭言,曖曰:「汝倚乃父為天子邪?我父薄天子不為!」公主恚,奔車奏之。上曰:「此非汝所知。彼誠如是,使彼欲為天子,天下豈汝家所有邪?」慰諭令歸。子儀聞之,囚曖,入待罪。上曰:「鄙諺有之:『不癡不聾,不作家翁。』兒女子閨房之言,何足聽也!」子儀歸,杖曖數十。 夏,四月,庚子,命宰相、魚朝恩與吐蕃盟於興唐寺。 杜鴻漸請入朝奏事,以崔旰知西川留後。六月,甲戌,鴻漸來自成都,廣為貢獻,因盛陳利害,薦旰才堪寄任;上亦務姑息,乃留鴻漸復知政事。秋,七月,丙寅,以旰為西川節度使,杜濟為東川節度使。旰復斂以賂權貴,元載擢旰弟寬至御史中丞,寬兄審至給事中。 丁卯,魚朝恩奏以先所賜莊為章敬寺,以資章敬太后冥福,於是窮壯極麗,盡都市之材不足用,奏毀曲江及華清宮館以給之,費逾萬億。衛州進士高郢上書,略曰:「先太后聖德,不必以一寺增輝;國家永圖,元寧以百姓為本。舍人就寺,何福之為!」又曰:「無寺猶可,無人其可乎!」又曰:「陛下當卑宮室,以夏禹為法。而崇塔廟,踵梁武之風乎?」又上書,略曰:「古之明王積善以致福,不費財以求福;修德以消禍,不勞人以禳禍。今興造急促,晝夜不息,力不逮者隨以榜笞,愁痛之聲盈於道路,以此望福,臣恐不然。」又曰:「陛下回正道於內心,求微助於外物,徇左右之過計,傷皇王之大猷,臣竊為陛下惜之!」皆寢不報。 始,上好祠祀,未甚重佛。元載、王縉、杜鴻漸為相,三人皆好佛;縉尤甚,不食葷血,與鴻漸造寺無窮。上嘗問以:「佛言報應,果為有無?」載等奏以:「國家運祚靈長,非宿植福業,何以致之!福業已定,雖時有小災,終不能為害,所以安、史悖逆方熾而皆有子禍;僕固懷恩稱兵內侮,出門病死;回紇、吐蕃大舉深入,不戰而退:此皆非人力所及,豈得言無報應也!」上由是深信之,常於禁中飯僧百餘人;有寇至則令僧講《仁王經》以禳之,寇去則厚加賞賜。胡僧不空,官至卿監,爵為國公,出入禁闥,勢移權貴,京畿良田美利多歸僧寺。敕天下無得棰曳僧尼。造金閣寺於五台山,鑄銅塗金為瓦,所費巨億,縉給中書符牒,令五台僧數十人散之四方,求利以營之。載等毎侍上從容,多談佛事,由是中外臣民承流相化,皆廢人事而奉佛,政刑日紊矣。 八月,庚辰,鳳翔等道節度使、左僕射、平章事李抱玉入朝,固讓僕射,言情確至,上許之;癸丑,又讓鳳翔節度使,不許。 丁酉,杜鴻漸飯千僧,以使蜀無恙故也。 九月,吐蕃衆數萬圍靈州,游騎至潘原、宜祿;郭子儀自河中帥甲士三萬鎮涇陽,京師戒嚴。甲子,子儀移鎮奉天。 山獠陷桂州,逐剌史李良。冬,十月,戊寅,朔方節度使路嗣恭破吐蕃於靈州城下,斬首二千餘級;吐蕃引去。 十二月,庚辰,盜發郭子儀父塚,捕之,不獲。人以為魚朝恩素惡子儀,疑其使之。子儀自奉天入朝,朝廷憂其為變;子儀見上,上語及之,子儀流涕曰:「臣久將兵,不能禁暴,軍士多發人塚,今日及此,乃天譴,非人事也。」朝廷乃安。 是歳,復以鎮西為安西。 新羅王憲英卒,子乾運立。 代宗睿文孝武皇帝中之上大暦三年(戊申,公元七六八年) 春,正月,乙丑,上幸章敬寺,度僧尼千人。 贈建寧王倓為齊王。 二月,癸巳,商州兵馬使劉洽殺防禦使殷仲卿,尋討平之。 甲午,郭子儀禁無故軍中走馬。南陽夫人乳母之子犯禁,都虞候杖殺之。諸子泣訴子儀,且言都虞候之橫,子儀叱遣之。明日,以事語僚佐而歎息曰:「子儀諸子,皆奴材也。不賞父之都虞候而惜母之乳母子,非奴材而何!」 庚子,以後宮獨孤氏為貴妃。 三月,乙巳朔,日有食之。 夏,四月,戊寅,山南西道節度使張獻誠,以疾舉從父弟右羽林將軍獻恭自代,上許之。 壬寅,西川節度使崔旰入朝。 初,上遣中使征李泌於衡山,既至,復賜金紫,為之作書院於蓬萊殿側,上時衣汗衫、躡屨過之,自給、捨以上及方鎮除拜、軍國大事,皆與之議。又使魚朝恩於白花屯為泌作外院,使與親舊相見。 上欲以泌為門下侍郎、同平章事,泌固辭。上曰:「機務之煩,不得晨夕相見,誠不若且居密近,何必署敕然後為宰相邪!」後因端午,王、公、妃、主各獻服玩,上謂泌曰:「先生何獨無所獻?」對曰:「臣居禁中,自巾至履皆陛下所賜,所餘獨一身耳,何以為獻!」上曰:「朕所求正在此耳。」泌曰:「臣身非陛下有,誰則有之?」上曰:「先帝欲以宰相屈卿而不能得,自今既獻其身,當惟朕所為,不為卿有矣。」泌曰:「陛下欲使臣何為?」上曰:「朕欲卿食酒肉,有室家,受祿位,為俗人。」泌泣曰:「臣絕粒二十餘年,陛下何必使臣隳其志乎!」上曰:「泣復何益!卿在九重之中,欲何之?」乃命中使為泌葬二親,又為泌娶盧氏女為妻,資費皆出縣官。賜第於光福坊,令泌數日宿第中,數日宿蓬萊院。 上與泌語及齊王倓,欲厚加褒贈,泌請用岐、薛故事贈太子,上泣曰:「吾弟首建靈武之議,成中興之業,岐、薛豈有此功乎!竭誠忠孝,乃為讒人所害。向使尚存,朕必以為太弟。今當崇以帝號,成吾夙志。」乙卯制,追謚倓曰承天皇帝;庚申,葬順陵。 崔旰之入朝也,以弟寬為留後,瀘州刺史楊子琳帥精騎數千乘虚突入成都;朝廷聞之,加旰檢校工商尚書,賜名寧,遣還鎮。 11.六月,壬辰,幽州兵馬使朱希彩、經略副使昌平朱泚、泚弟滔共殺節度使李懷仙,希彩自稱留後。閏月,成德軍節度使李寶臣遣將將兵討希彩,為希彩所敗,朝廷不得已宥之。庚申,以王縉領盧龍節度使;丁卯,以希彩知幽州留後。 11.六月壬辰、幽州兵馬使の朱希彩、経略副使昌平の朱泚、朱泚の弟の朱滔が共同で節度使の李懐仙を殺し、朱希彩は自らを留後と称した。閏月、成徳軍節度使の李宝臣が将軍を派遣し兵隊を率いて朱希彩を討伐し、朱希彩は敗北し、朝廷はやむを得ずこれを許した。庚申、王縉に盧龍節度使を領させた。丁卯、朱希彩を幽州留後を司らせた。 12.崔寬與楊子琳戰,數不利,秋,七月,崔寧妾任氏出家財數十萬,募兵得數千人,帥以撃子琳,破之;子琳走。 12.崔寬は楊子琳と戦い、しばしば不利であった。秋七月、崔寧の妾の任氏が家財を数十万出して、兵を募って数千人を得て、率いて楊子琳を討ち、これを破り、楊子琳は敗走した。 13.乙亥,王縉如幽州,朱希彩盛兵嚴備以逆之。縉晏然而行,希彩迎謁甚恭。縉度終不可制,勞軍,旬餘日而還。 13.乙亥、王縉は幽州に行き、朱希彩は兵力を結集して備えを厳重にしこれに背いた。王縉はゆったりと行ったから、朱希彩は出迎えて拝謁し非常に恭しかった。王縉ははかって終に制しがたいものであるとし、軍を労い、十日あまりして帰還した。 回紇可敦卒,庚辰,以右散騎常侍蕭昕為弔祭使。回紇庭詰昕曰:「我於唐有大功,唐奈何失信,市我馬,不時歸其直?」昕曰:「回紇之功,唐已報之矣。僕固懷恩之叛,回紇助之,與吐蕃連兵入寇,逼我郊畿。及懷恩死,吐蕃走,然後回紇懼而請和,我唐不忘前功,加惠而縱之。不然,匹馬不歸矣。乃回紇負約,豈唐失信邪!」回紇慚,厚禮而歸之。 丙戌,內出盂蘭盆賜章敬寺。設七廟神座,書尊號於幡上,百官迎謁於光順門。自是歳以為常。 八月,壬戌,吐蕃十萬衆寇靈武。丁卯,吐蕃尚贊摩二萬衆寇邠州,京師戒嚴;邠寧節度使馬璘撃破之。 庚午,河東節度使、同平章事辛雲京薨,以王縉領河東節度使,餘如故。 九月,壬申,命郭子儀將兵五萬屯奉天以備吐蕃。 丁丑,濟王環薨。 壬午,朔方騎將白元光撃吐蕃,破之。壬辰,元光又破吐蕃二萬衆於靈武。鳳翔節度使李抱玉使右軍都將臨洮李晟將兵五千撃吐蕃,晟曰:「以力則五千不足用;以謀則太多。」乃將千人兼行出大震關;至臨洮,屠吐蕃定秦堡,焚其積聚,虜堡帥慕容谷種而還。吐蕃聞之,釋靈州之圍而去。戊戌,京師解嚴。 穎州刺史李岵以事忤滑亳節度使令狐彰,彰使節度判官姚奭按行穎州,因代岵領州事,且曰:「岵不受代,即殺之。」岵知之,因激怒將士,使殺奭,與奭同死者百餘人。岵走依河南節度使田神功於汴州。冬,十月,乙巳,彰表言其状,岵亦上表自理。上命給事中賀若察往按之。 丁卯,郭子儀自奉天入朝。 28.十一月,丁亥,以幽州留後朱希彩為節度使。 28.十一月丁亥、幽州留後の朱希彩を節度使とした。 郭子儀還河中。元載以吐蕃連歳入寇,馬璘以四鎮兵屯邠寧,力不能拒,而郭子儀以朔方重兵鎮河中,深居腹中無事之地,乃與子儀及諸將議,徙璘鎮涇州,而使子儀以朔方兵鎮邠州,曰:「若以邊土荒殘,軍事不給,則以內地租稅及運金帛以助之。」諸將皆以為然。十二月,己酉,徙馬璘為涇原節度使,以邠、寧、慶三州隸朔方。璘先往城涇州,以都虞候段秀實知邠州留後。 初,四鎮、北庭兵遠赴中原之難,久羈旅,數遷徙,四鎮歴汴、虢、鳳翔,北庭歴懷、絳、鄜然後至邠,頗積勞弊。及徙涇州,衆皆怨誹。刀斧兵馬使王童之謀作亂,期以辛酉旦警嚴而發。前夕,有告之者;秀實陽召掌漏者,怒之,以其失節,令毎更來白,輒延之數刻,遂四更而曙,童之不果發。秀實欲討之而亂跡未露,恐軍中疑其冤。告者又雲,「今夕欲焚馬坊草,因救火謀作亂。中夕,火果發起,秀實命軍中行者皆止,坐者勿起,各整部伍,嚴守要害。童之白請救火,不許。及旦,捕童之及其黨八人,皆斬之。下令曰:「後徙者族,流言者刑!」遂徙於涇。 癸亥,西川破吐蕃萬餘衆。 平盧行軍司馬許杲將卒三千人駐濠州不去,有窺淮南意,淮南節度使崔圓令副使元城張萬福攝濠州刺史;杲聞,即提卒去,止當塗。是歳,上召萬福,以為和州刺史、行營防禦使,討杲。萬福至州,杲懼,移軍上元,又北至楚州大掠,淮南節度使韋元甫命萬福追討之;未至淮陰,杲為其將康自勸所逐。自勸擁兵繼掠,循淮而東,萬福倍道追而殺之,免者什二三。元甫將厚賞將士,萬福曰:「官健常虚費衣糧,無所事。今方立小功,不足過賞,請用三分之一。」 代宗睿文孝武皇帝中之上大暦四年(己酉,公元七六九年) 春,正月,丙子,郭子儀入朝,魚朝恩邀之遊章敬寺。元載恐其相結,密使子儀軍吏告子儀曰:「朝恩謀不利於公。」子儀不聽。吏亦告諸將,將士請衷甲以從者三百人。子儀曰:「我,國之大臣,彼無天子之命,安敢害我!若受命而來,汝曹欲何為!」乃從家僮數人而往。朝恩迎之,驚其從者之約。子儀以所聞告,且曰:「恐煩公經營耳。」朝恩撫膺捧手流涕曰:「非公長者,能無疑乎!」壬午,流李岵於夷州。 乙酉,郭子儀還河中。 辛卯,賜李岵死。 二月,壬寅,以京兆之好畤、鳳翔之麟游、普潤隸神策軍,從魚朝恩之請也。 楊子琳既敗還瀘州,招聚亡命,得數千人,沿江東下,聲言入朝;涪州守捉使王守仙伏兵黄草峽,子琳悉擒之,撃守仙於忠州,守仙僅以身免。子琳遂殺夔州別駕張忠,據其城。荊南節度使衛伯玉欲結以為援,以夔州許之,為之請於朝。陽曲人劉昌裔說子琳遣使詣闕請罪,子琳從之。乙巳,以子琳為峽州團練使。 初,僕固懷恩死,上憐其有功,置其女宮中,養以為女。回紇請以為可敦,夏,五月,辛卯,冊為崇徽公主,嫁回紇可汗。壬辰,遣兵部侍郎李涵送之,涵奏祠部郎中虞鄉董晉為判官。六月,丁酉,公主辭行,至回紇牙帳。回紇來言曰:「唐約我為市,馬既入,而歸我賄不足,我於使人乎取之。」涵懼,不敢對,視晉,晉曰:「吾非無馬而與爾為市,為爾賜不既多乎!爾之馬歳至,吾數皮而歸資。邊吏請致詰也,天子念爾有勞,故下詔禁侵犯。諸戎畏我大國之爾與也,莫敢校焉。爾之父子寧而畜馬蕃者,非我誰使之!」於是其衆皆環晉拜。既又相帥南面序拜,皆舉兩手曰:「不敢有意大國。」 戊申,王縉表讓副元帥、都統、行營使,許之。 辛酉,郭子儀自河中遷於邠州,其精兵皆自隨,餘兵使裨將將之,分守河中、靈州。軍士久家河中,頗不樂徙,往往自邠逃歸;行軍司馬嚴郢領留府,悉捕得,誅其渠帥,衆心乃定。 秋,九月,吐蕃寇靈州;丁丑,朔方留後常謙光撃破之。 河東兵馬使王無縱、張奉璋等恃功驕蹇,以王縉書生,易之,多違約束。縉受詔發兵詣鹽州防秋,遣無縱、奉璋將歩騎三千赴之。奉璋逗留不進,無縱托他事擅入太原城;縉悉擒斬之,並其黨七人,諸將悍戻者殆盡,軍府始安。 冬,十月,常謙光奏吐蕃寇鳴沙,首尾四十里。郭子儀遣兵馬使渾瑊將銳兵五千救靈州,子儀自將進至慶州,聞吐蕃退,乃還。 黄門侍郎、同平章事杜鴻漸以疾辭位,壬申,許之;乙亥,薨。鴻漸病甚,令僧削髮,遺令為塔以葬。 丙子,以左僕射裴冕同平章事。初,元載為新平尉,冕嘗薦之,故載舉以為相,亦利其老病易制。受命之際,蹈舞仆地,載趨而扶之,代為謝詞。十二月,戊戌,冕薨。 代宗睿文孝武皇帝中之上大暦五年(庚戌,公元七七零年) 春,正月,己巳,羌奠白對蓬等各帥部落內屬。 觀軍容宣慰處置使、左監門衛大將軍兼神策軍使、內侍監魚朝恩,專典禁兵,寵任無比,上常與議軍國事,勢傾朝野。朝恩好於廣座恣談時政,陵侮宰相,元載雖強辯,亦拱默不敢應。 神策都虞候劉希暹,都知兵馬使王駕鶴,皆有寵於朝恩;希暹說朝恩於北軍置獄,使坊市惡少年羅告富室,誣以罪惡,捕系地牢,訊掠取服,籍沒其家資入軍,並分賞告捕者;地在禁密,人莫敢言。朝恩毎奏事,以必允為期;朝廷政事有不豫者,輒怒曰:「天下事有不由我者邪!」上聞之,由是不懌。 朝恩養子令徽尚幼,為內給使,衣綠,與同列忿爭,歸告朝恩。朝恩明日見上曰:「臣子官卑,為儕輩所陵,乞賜之紫衣。」上未應,有司已執紫衣於前,令徽服之,拜謝。上強笑曰:「兒服紫,大宜稱。」心愈不平。 元載測知上指,乘間奏朝恩專恣不軌,請除之。上亦知天下共怨怒,遂令載為方略。朝恩毎入殿,常使射生將周皓將百人自衛,又使其黨陝州節度使皇甫温握兵於外以為援;載皆以重賂結之,故朝恩陰謀密語,上一一聞之,而朝恩不之覺也。 辛卯,載為上謀,徙李抱玉為山南西道節度使,以温為鳳翔節度使,外重其權,實內温以自助也。載又請割郿、虢、寶雞、鄠、盩厔隸抱玉,興平、武功、天興、扶風隸神策軍,朝恩喜於得地,殊不以載為虞,驕橫如故。 壬辰,加河南尹張延賞為東京留守;罷河南等道副元帥,以其兵屬留守。延賞,嘉貞之子也。 二月,戊戌,李抱玉徙鎮盩厔,軍士憤怒,大掠鳳翔坊市,數日乃定。 劉希暹頗覺上意異,以告魚朝恩,朝恩始疑懼。然上毎見之,恩禮益隆,朝恩亦以此自安。皇甫温至京師,元載留之未遣,因與温及周皓密謀誅朝恩。既定計,載白上。上曰:「善圖之,勿反受禍!」 三月,癸酉,寒食,上置酒宴貴近於禁中,載守中書省。宴罷,朝恩將還營,上留之議事,因責其異圖。朝恩自辯,語頗悖慢,皓與左右擒而縊殺之,外無知者。上下詔,罷朝恩觀軍容等使,內侍監如故。詐云「朝恩受詔乃自縊」,以屍還其家,賜錢六百萬以葬。 丁丑,加劉希暹、王駕鶴御史中丞,以慰安北軍之心。丙戌,赦京畿系囚,命盡釋朝恩黨與,且曰:「北軍將士,皆聯爪牙,並宜仍舊。朕今親御禁旅,勿有憂懼。」 己丑,罷度支使及關內等道轉運、常平、鹽鐵使,其度支事委宰相領之。敕皇甫温還鎮於陝。 元載既誅魚朝恩,上寵任益厚,載遂志氣驕溢;毎衆中大言,自謂有文武才略,古今莫及,弄權舞智,政以賄成,僭侈無度。吏部侍郎楊綰,典選平允,性介直,不附載。嶺南節度使徐浩,貪而佞,傾南方珍貨以賂載。辛卯,載以綰為國子祭酒,引浩代之。浩,越州人也。載有丈人自宣州來,從載求官,載度其人不足任事,但贈河北一書而遣之。丈人不悅,行至幽州,私發書視之,書無一言,惟署名而已。丈人大怒,不得已試謁院僚,判官聞有載書,大驚,立白節度使,遣大校以箱受書,館之上捨,留宴數日,辭去,贈絹千匹。其威權動人如此。 夏,四月,庚子,湖南兵馬使臧玠殺觀察使崔灌;澧州刺史楊子琳起兵討之,取賂而還。 涇原節度使馬璘屢訴本鎮荒殘,無以贍軍,上諷李抱玉以鄭、穎二州讓之;乙巳,以璘兼鄭穎節度使。 庚申,王縉自太原入朝。 癸未,以左羽林大將軍辛京杲為湖南觀察使。 荊南節度使衛伯玉遭母喪,六月,戊戌,以殿中監王昂代之。伯玉諷大將楊鉥等拒昂留己;甲寅,詔起復伯玉鎮荊南如故。 秋,七月,京畿饑,米斗千錢。 劉希暹內常自疑,有不遜語,王駕鶴以聞。九月,辛未,賜希暹死。 吐蕃寇永壽。 冬,十一月,郭子儀入朝。 上悉知元載所為,以其任政日久,欲全始終,因獨見,深戒之;載猶不悛,上由是稍惡之。 載以李泌有寵於上,忌之,言:「泌常與親故宴於北軍,與魚朝恩親善,宜知其謀。」上曰:「北軍,泌之故吏也,故朕使之就見親故。朝恩之誅,泌亦預謀,卿勿以為疑。」載與其黨攻之不已;會江西觀察使魏少游求參佐,上謂泌曰:「元載不容卿,朕今匿卿於魏少游所,俟朕決意除載,當有信報卿,可束裝來。」乃以泌為江西判官,且屬少游使善待之。 代宗睿文孝武皇帝中之上大暦六年(辛亥,公元七七一年) 春,二月,壬寅,河西、隴右、山南西道副元帥兼澤潞、山南西道節度使李抱玉上言:「凡所掌之兵,當自訓練。今自河、隴達於扶、文,綿亙二千餘里,撫御至難。若吐蕃兩道俱下,臣保固汧、隴則不救梁岷,進兵扶、文則寇逼關輔,首尾不贍,進退無從。願更擇能臣,委以山南,使臣得專備隴坻。」詔許之。 郭子儀還邠州。 嶺南蠻酋梁崇牽自稱平南十道大都統,據容州,與西原蠻張侯、夏永等連兵攻陷城邑,前容管經略使元結等皆寄治籐梧。經略使王翃至籐州,以私財募兵,不數月,斬賊帥歐陽珪,馳詣廣州,見節度使李勉,請兵以復容州,勉以為難,翃曰:「大夫如未暇出兵,但乞移牒諸州,揚言出千兵為援,冀藉聲勢,亦可成功。」勉從之。翃乃與義州刺史陳仁璀、籐州刺史李曉庭等結盟討賊。翃募得三千餘人,破賊數萬衆;攻容州,拔之,擒梁崇牽,前後大小百餘戰,盡復容州故地。分命諸將襲西原蠻,復鬱林等諸州。 先是,番禺賊帥馮崇道,桂州叛將朱濟時,皆據險為亂,陷十餘州,官軍討之,連年不克;李勉遣其將李觀與翃並力攻討,悉斬之,三月,五嶺皆平。 河北旱,米斗千錢。 夏,四月,己未,澧州刺史楊子琳入朝,上優接之,賜名猷。 庚申,以典內董秀為內常侍。 吐蕃請和;庚辰,遣兼御史大夫吳損使於吐蕃。 成都司録李少良上書言元載奸贓陰事,上置少良於客省。少良以上語告友人韋頌,殿中侍御史陸珽以告載,載奏之。上怒,下少良、頌、珽御史台獄。御史奏少良、頌、珽凶險比周,離間君臣,五月,戊申,赦付京兆,皆杖死。 秋,七月,丙午,元載奏,凡別敕除文、武六品以下官,乞令吏部、兵部無得檢勘,從之。時載所奏擬多不遵法度,恐為有司所駁故也。 八月,丁卯,淮西節度使李忠臣將兵二千屯奉天防秋。 上益厭元載所為,思得士大夫之不阿附者為腹心,漸收載權。丙子,內出制書,以沂西觀察使李棲筠為御史大夫,宰相不知,載由是稍絀。 九月,吐蕃下青石嶺,軍於那城;郭子儀使人諭之,明日,引退。 是歳,以尚書右丞韓滉為戸部侍郎、判度支。自兵興以來,所在賦斂無度,倉庫出入無法,國用虚耗。滉為人廉勤,精於簿領,作賦斂出入之法,御下嚴急,吏不敢欺;亦值連歳豐穰,邊境無寇,自是倉庫蓄積始充。滉,休之子也。 代宗睿文孝武皇帝中之上大暦七年(壬子、七七二年) 1.春,正月,甲辰,回紇使者擅出鴻臚寺,掠人子女;所司禁之,毆撃所司,以三百騎犯金光、朱雀門。是早,宮門皆閉,上遣中使劉清潭諭之,乃止。 1.春正月甲辰、回紇の使者は勝手に鴻臚寺を出て人の子女を拐い、所司がこれを禁ずると、所司を殴打し、三百騎で金光門・朱雀門に侵入した。この火早朝、宮門はすべて閉ざし、お上は中使の劉清潭を派遣して説諭させた。そこでこのことは止んだ。 三月,郭子儀入朝;丙午,還邠州。 2.三月、郭子儀が入朝した。丙午、邠州に帰った。 3.夏,四月,吐蕃五千騎至靈州,尋退。 3.夏四月、吐蕃の五千騎が霊州に到ったが、ついで退却した。 4.五月,乙未,赦天下。 4.五月乙未、天下に大赦した。 5.秋,七月,癸巳,回紇又擅出鴻臚寺,逐長安令邵説至含光門街,奪其馬、説乘他馬而去,弗敢爭。 5.秋七月癸巳、回紇がまた勝手に鴻臚寺から出て、長安令の邵説を追って、含光門街に到り、その馬を奪った。邵説は他の馬に乗って去り、敢えて争わなかった。 6.盧龍節度使朱希彩既得位,悖慢朝廷,殘虐將卒;孔目官李懷瑗因衆怒,伺間殺之。衆未知所從;經略副使朱泚營於城北,其弟滔將牙內兵,潛使百餘人於衆中大言曰:「節度使非朱副使不可;」衆皆從之。泚遂權知留後,遣使言状。冬,十月,辛未,以泚為檢校左常侍、幽州、盧龍節度使。 6.盧龍節度使の朱希彩はすでに節度使の位を得て,朝廷に背きもとり、将卒に対して残虐であった。孔目官の李懐瑗は軍が怒っているため、隙を伺って殺した。軍は誰に従っていいのかわからず、経略副使の朱泚は城北に入営し、その弟の朱滔は牙軍内の兵を率いて、密かに百人あまりに軍内で、「節度使は朱副使でないとだめだ」と大言させて、軍は皆これに従った。朱泚は遂に仮に留後を司り、使者を派遣して言上した。冬十月辛未、朱泚を検校左常侍をし、幽州盧龍節度使とした。 7.十二月,辛未,置永平軍於滑州。 7.十二月辛未、永平軍に滑州を設置した。 代宗睿文孝武皇帝中之上大暦八年(癸丑、七七三年) 春,正月,昭義節度使、相州刺史薛嵩薨。子平,年十二,將士脅以為帥,平偽許之;既而讓其叔父崿,夜奉父喪,逃歸鄉里。壬午,制以崿知留後。 二月,壬申,永平節度使令狐彰薨。彰承滑、亳離亂之後,治軍勸農,府廩充實。時籓鎮率皆跋扈,獨彰貢賦未嘗闕;歳遣兵三千詣京西防秋,自繼糧食,道路供饋皆不受,所過秋毫不犯。疾亟,召掌書記高陽齊映,與謀後事,映勸彰請代人,遣子歸私第;彰從之,遺表稱:「昔魚朝恩破史朝義,欲掠滑州,臣不聽,由是有隙。及朝恩誅,值臣寢疾,以是未得入朝,生死愧負。臣今必不起,倉庫畜牧,先已封籍,軍中將士,州縣官吏,按堵待命。伏見吏部尚書劉晏、工部尚書李勉可委大事,願速以代臣。臣男建等,今勒歸東都私第。」彰薨,將士欲立建,建誓死不從,舉家西歸。三月,丙子,以李勉為永平節度使。 吏部侍郎徐浩、薛邕,皆元載、王縉之黨;浩妾弟侯莫陳怤為美原尉,浩屬京兆尹杜濟虚以知驛奏優,又屬邕擬長安尉。怤參台,御史大夫李棲筠劾奏其状,敕禮部侍郎萬年於邵等按之。邵奏邕罪在敕前,應原除,上怒。夏,五月,乙酉,貶浩明州別駕,邕歙州刺史;丙戌,貶濟杭州刺史,邵桂州長史,朝廷稍肅。 辛卯,鄭王邈薨,贈昭靖太子。 回紇自乾元以來,歳求和市,毎一馬易四十縑,動至數萬匹,馬皆駑瘠無用;朝廷苦之,所市多不能盡其數,回紇待遣、繼至者常不絕於鴻臚。至是,上欲悅其意,命盡市之。秋,七月,辛丑,回紇辭歸,載賜遣及馬價,共用車千餘乘。 6.八月,己未,吐蕃六萬騎寇靈武,踐秋稼而去。 6.八月己未、吐蕃の六万騎が霊武に侵入し、秋の実りを踏んで去った。 7.辛未,幽州節度使朱泚遣弟滔將五千精騎詣涇州防秋。自安祿山反,幽州兵未嘗為用,滔至,上大喜,勞賜甚厚。 7.辛未、幽州節度使の朱泚が弟の朱滔を派遣し、五千の精鋭騎兵を率いて涇州に到って防備した。安禄山が叛いて以来、幽州の兵いまだかつて用いたことがなく、朱滔が来るとお上は大いに喜び、労い賜物が非常に厚かった。 8.壬申,回紇復遣使者赤心以馬萬匹來求互市。 8.壬申、回紇がまた使者赤心を派遣し馬一万匹で来て互市を求めた。 9.九月,壬午,循州刺史哥舒晃殺嶺南節度史呂崇賁,據嶺南反。 9.九月壬午、循州刺史の哥舒晃が嶺南節度史の呂崇賁を殺し、嶺南によって叛いた。 癸未,晉州男子郇模,以麻辮發,持竹筐葦席,哭於東市。人問其故,對曰:「願獻三十字,一字為一事;若言無所取,請以席裹屍,貯筐中,棄於野。」京兆以聞。上召見,賜新衣,館於客省。其言「團」者,請罷諸州團練使也;「監」者,請罷諸道監軍使也。 魏博節度使田承嗣為安、史父子立祠堂,謂之四聖,且求為相;上令內侍孫知古因奉使諷令毀之。冬,十月,甲辰,加承嗣同平章事以褒之。 靈州破吐蕃萬餘衆。吐蕃衆十萬寇涇、邠,郭子儀遣朔方兵馬使渾瑊將歩騎五千拒之。庚申,戰於宜祿。瑊登黄萯原望虜,命據險布拒馬以備其馳突。宿將史抗、温儒雅等意輕瑊,不用其命;瑊召使撃虜,則已醉矣;見拒馬,曰:「野戰,烏用此為!」命撤之。叱騎兵沖虜陣,不能入而返;虜躡而乘之,官軍大敗,士卒死者什七八,居民為吐蕃所掠千餘人。 甲子,馬璘與吐蕃戰於鹽倉,又敗。璘為虜所隔,逮暮未還,涇原兵馬使焦令諶等與敗卒爭門而入。或勸行軍司馬段秀實乘城拒守,秀實曰:「大帥未知所在,當前撃虜,豈得苟自全乎!」召令諶等讓之曰:「軍法,失大將,麾下皆死。諸君忘其死邪!」令諶等惶懼拜請命。秀實乃發城中兵未戰者悉出,陳於東原,且收散兵,為將力戰状。吐蕃畏之,稍卻。既夜,璘乃得還。 郭子儀召諸將謀曰:「敗軍之罪在我,不在諸將。然朔方兵精聞天下,今為虜敗,何策可以雪恥?」莫對。渾瑊曰:「敗軍之將,不當復預議。然願一言今日之事,惟理瑊罪,不則再見任。」子儀赦其罪,使將兵趣朝那。虜既破官軍,欲掠汧、隴。鹽州刺史李國臣曰:「虜乘勝必犯郊畿,我掎其後,虜必返顧。」乃引兵趣秦原,鳴鼓而西。虜聞之,至百城,返,渾瑊邀之於隘,盡復得其所掠。馬璘亦出精兵襲虜輜重於潘原,殺數千人,虜遂遁去。 己丑,以江西觀察使路嗣恭兼嶺南節度使,討哥舒晃。 初,元載嘗為西州刺史,知河西、隴右山川形勢。是時,吐蕃數為寇,載言於上曰:「四鎮、北庭既至涇州,無險要可守。隴山高峻,南連泰嶺,北抵大河。今國家西境盡潘原,而吐蕃戍摧沙堡,原州居其中間,當隴山之口,其西皆監牧故地,草肥水美,平涼在其東,獨耕一縣,可給軍食,故壘尚存,吐蕃棄而不居。毎歳盛夏,吐蕃畜牧青海,去塞甚遠,若乘間築之,二旬可畢。移京西軍戍原州,移郭子儀軍戍涇州,為之根本,分兵守石門、木峽,漸開隴右,進達安西,據吐蕃腹心,則朝廷可高枕矣。」併圖地形獻之,密遣人出隴山商度功用。會汴宋節度使田神功入朝,上問之,對曰:「行軍料敵,宿將所難,陛下奈何用一書生語,欲舉國從之乎!」載尋得罪,事遂寢。 有司以回紇赤心馬多,請市千匹。郭子儀以為如此,逆其意太甚,自請輸一歳俸為國市之。上不許。十一月,戊子,命市六千匹。
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唐書巻一 本紀第一 高祖 高祖神堯大聖大光孝皇帝は、諱を淵、字を叔徳といい、姓は李氏で、隴西郡成紀の人である。その七世の祖の李暠は、晋末にあたって、秦州・涼州に拠って自ら王となり、涼の武昭王となった。李暠は李歆を生んだ。李歆は沮渠蒙遜のために滅ぼされた。李歆は李重耳を生んだ。李重耳は北魏の弘農太守となった。李重耳は李熙を生んだ。李熙は金門鎮将となって、武川に戍したため、家をここにとどめた。李熙は李天賜を生んだ。李天賜は幢主となった。李天賜は李虎を生んだ。李虎は、西魏のときに大野氏の姓を賜り、官は太尉にいたって、李弼ら八人とともに北周の建国を助けて西魏に代わるのに功績があり、みな柱国となって、「八柱国家」と号した。北周の閔帝が西魏から禅譲を受けたとき、李虎はすでに亡くなっており、その功績を追録して、唐国公に封じ、謚を襄といった。襄公は李昞を生んだ。李昞は唐公の位を襲封し、北周の安州総管・柱国大将軍となり、亡くなると、謚を仁といった。 仁公は高祖を長安で生んだ。高祖の体には三つの乳があり、性格は寛仁で、唐公の位を襲封した。隋の文帝(楊堅)の独孤皇后は、高祖の叔母であり、このために文帝と高祖はたがいに親愛しあった。文帝が北周の宰相となると、高祖は姓を李氏に復し、千牛備身となり、隋につかえて譙隴二州刺史となった。大業年間に、岐州刺史・滎陽樓煩二郡太守を歴任し、召されて殿内少監・衛尉少卿となった。煬帝が遼東(高句麗)を攻撃すると、高祖に懐遠鎮で食糧の運搬を監督させた。楊玄感が反乱を計画し、その兄弟たちで高句麗遠征に従軍した者たちがみな逃げかえると、高祖は真っ先に察知して上聞し、煬帝はにわかに軍を分けて、高祖を弘化留守として楊玄感を防がせ、詔により関右の諸郡の兵はみな高祖の節度を受けた。 このとき、隋の政治は荒廃し、天下は大いに乱れ、煬帝は妬みのために多くの大臣を殺戮した。嘗以事召高祖、高祖遇疾、不時謁。高祖有甥王氏在後宮、煬帝問之、王氏對以疾、煬帝曰:「可得死否?」高祖はこれを聞くとますますおそれて、酒におぼれて賄賂を取り態度をくらました。 十一年(615)、山西河東慰撫大使に任ぜられ、龍門の賊の母端兒を攻撃し、弓を七十発射てみな命中させ、賊が敗れ去ると、その死体を集めて京観を築き、その死体からことごとく矢を回収した。また絳州の賊の柴保昌を攻撃し、その衆数万人を降した。突厥が塞内を侵犯すると、高祖と馬邑太守の王仁恭がこれを撃ったが、隋兵は少なく、敵わなかった。高祖は精騎二千を選抜して遊軍とし、居處飯食隨水草如突厥、而射獵馳騁示以閒暇、別選善射者伏為奇兵。虜見高祖、疑不敢戰、高祖が乗じてこれを撃つと、突厥は敗走した。 十三年(617)、太原留守に任ぜられ、高陽の歴山飛と賊の甄翟兒を西河で攻撃し、これを破った。このとき、煬帝は江都で南遊し、天下には盗賊が蜂起した。高祖の子の李世民は隋の滅亡の必然を察知し、ひそかに豪傑と結び、亡命者を招きいれ、晋陽令の劉文静とともに大事を挙げることを計画した。計已決、而高祖未之知、欲以情告、懼不見聽。高祖は太原に留守し、晋陽宮監を領し、而所善客裴寂為副監、世民陰與寂謀、寂因選晋陽宮人私侍高祖。高祖過寂飲酒、酒酣從容、寂具以大事告之、高祖大驚。寂曰:「正為宮人奉公、事發當誅、為此爾。」世民因亦入白其事、高祖初陽不許、欲執世民送官、已而許之、曰:「吾愛汝、豈忍告汝邪?」然未有以發。而所在盜賊益多、突厥數犯邊、高祖兵出無功、煬帝遣使者執高祖詣江都、高祖大懼。世民曰:「事急矣、可舉事!」已而煬帝復馳使者赦止高祖、其事遂已。 このとき、劉武周が馬邑に起ち、林士弘が豫章に起ち、劉元進が晋安に起ち、みな皇帝を称した。朱粲が南陽に起ち、楚帝を号した。李子通が海陵に起ち、楚王を号した。邵江海が岐州に拠り、新平王を号した。薛挙が金城に起ち、西秦霸王を号した。郭子和が楡林に起ち、永楽王を号した。竇建徳が河間に起ち、長楽王を号した。王須抜が恒州・定州に起ち、漫天王を号した。汪華が新安に起ち、杜伏威が淮南に起ち、みな呉王を号した。李密が鞏に起ち、魏公を号した。王徳仁が鄴に起ち、太公を号した。左才相が斉郡に起ち、博山公を号した。羅芸が幽州に拠り、左難当が涇州に拠り、馮盎が高州・羅州に拠り、みな総管を号した。梁師都が朔方に拠り、大丞相を号した。孟海公が曹州に拠り、録事を号した。周文挙が淮陽に拠り、柳葉軍を号した。高開道が北平に拠り、張長愻が五原に拠り、周洮が上洛に拠り、楊士林が山南に拠り、徐円朗が兗州に拠り、楊仲達が豫州に拠り、張善相が伊州・汝州に拠り、王要漢が汴州に拠り、時徳叡が尉氏に拠り、李義満が平陵に拠り、綦公順が青・萊に拠り、淳于難が文登に拠り、徐師順が任城に拠り、蒋弘度が東海に拠り、王薄が斉郡に拠り、蒋善合が鄆州に拠り、田留安が章丘に拠り、張青特が済北に拠り、臧君相が海州に拠り、殷恭邃が舒州に拠り、周法明が永安に拠り、苗海潮が永嘉に拠り、梅知巌が宣城に拠り、鄧文進が広州に拠り、俚酋の楊世略が循州・潮州に拠り、冉安昌が巴東に拠り、甯長真が鬱林に拠って、号を別にする盗賊たちがしばしば山沢にたむろし集まった。而劉武周攻汾陽宮、高祖乃集将吏告曰:「今吾為留守、而賊據離宮、縱賊不誅、罪當死。然出兵必待報、今江都隔遠、後期奈何?」将吏皆曰:「国家之利可專者、公也。」高祖曰:「善。」乃募兵、旬日間得衆一万。副留守虎賁郎将王威・虎牙郎将高君雅見兵大集、疑有變、謀因禱雨晋祠以図高祖。高祖覺之、乃陰為備。 五月甲子、高祖及威・君雅視事、開陽府司馬劉政会告威・君雅反、即坐上執之。丙寅、突厥犯邊、高祖令軍中曰:「人告威・君雅召突厥、今其果然。」遂殺之以起兵。遣劉文静使突厥、約連和。 六月己卯、諸郡に檄文を伝え、義兵を称し、大将軍府を開いて、三軍を置いた。子の李建成を隴西公・左領軍大都督として、左軍を従わせた。李世民を燉煌公・右領軍大都督として、右軍を従わせた。李元吉を姑臧公として、中軍を従わせた。裴寂を長史とし、劉文静を司馬とし、石艾県長の殷開山を掾とし、劉政会を属とし、長孫順徳・王長諧・劉弘基・竇琮を統軍とした。倉庫を開いて窮乏するものにふるまった。 七月壬子、高祖杖白旗、誓衆於野、有兵三万、李元吉を太原留守とした。癸丑、發太原。甲寅、遣将張綸徇下離石・龍泉・文城三郡。丙辰、次霊石、營於賈胡堡。隋の虎牙郎将の宋老生が邑にあって、義師をはばんだ。丙寅、隋の鷹揚府司馬の李軌が武威に起ち、大涼王を号した。 八月辛巳、宋老生を霍邑で破った。丙戌、臨汾郡を下した。辛卯、絳郡で勝利した。癸巳、次龍門、突厥來來逆。 九月戊午、高祖は太尉を領し、加置僚佐。以少牢祀河、乃濟。甲子、次長春宮。丙寅、隴西公李建成と劉文静が永豊倉に駐屯し、潼関を守った。燉煌公李世民は渭北から三輔をめぐり、従父弟の李神通が鄠で起兵し、柴氏の妻は、高祖の女であり、また司竹で起兵して、みな李世民と合流した。郿の賊の丘師利と李仲文、盩厔の賊の何潘仁と向善思、宜君の賊の劉炅らはみな来降し、因略定鄠・杜。壬申、高祖次馮翊。乙亥、燉煌公李世民は阿城に駐屯し、隴西公李建成は新豊から霸上に趨った。丙子、高祖自下邽以西、所經隋行宮・苑、悉罷之、出宮女還其家。 十月辛巳、次長楽宮、有衆二十万。隋の留守の衛文昇らが代王楊侑を奉じて京城を守っていたので、高祖が使者を遣してこれを諭したが、返事がなかった。そこで城を包囲し、「隋の七廟および宗室に危害を加えた者がいれば、罪は三族におよぶ」と命令を下していった。丙申、隋の羅山令の蕭銑が自ら梁公を号した。 十一月丙辰、京城で勝利した。主符郎の宋公弼に命じて地図と帳簿を保護させた。法十二条を約し、殺人・強盗・背軍・叛乱にあたる者を死罪とした。癸亥、はるかな隋帝を尊んで太上皇とし、代王を立てて皇帝とした。大赦をおこない、義寧と改元した。甲子、高祖は京師に入り、朝堂にいたって、望闕而拜。隋帝は高祖に仮黄鉞・使持節・大都督内外諸軍事・大丞相・録尚書事を授け、唐王に進封した。武徳殿を丞相府として、下への指導を令といい、虔化門で政事をみた。 十二月癸未、隋の恭帝が唐の襄公(李虎)に追贈して景王とし、仁公(李昞)を元王とした。夫人の竇氏を唐国妃として、謚を穆といった。李建成を唐国世子とした。李世民を唐国内史として、秦国公に移封した。李元吉を斉国公とした。丞相府に長史・司録以下の官を置いた。趙郡公の李孝恭に山南を巡回させることとした。甲辰、雲陽令の詹俊に巴・蜀を巡回させることとした。 二年(618)正月丁未、隋帝が詔して、唐王が宮殿にのぼるときに帯剣する特権、入朝するときに小走りしない特権、拝謁するとき名乗らない特権を認め、前後羽葆・鼓吹を加えた。戊午、周洮が降った。戊辰、世子李建成を左元帥とし、秦国公李世民を右元帥として、東都の地を巡回させることとした。 二月己卯、太常卿の鄭元が樊・鄧を平定し、使者の馬元規が荊・襄を巡回することとした。 三月己酉、斉国公李元吉が太原道行軍元帥となった。乙卯、李世民が趙国公に徙封された。丙辰、隋の右屯衛将軍の宇文化及が太上皇を江都で弑し、秦王楊浩を立てて皇帝とした。呉興郡守の沈法興が丹陽に拠り、江南道総管を自称した。楽安の人の盧祖尚が光州に拠り、刺史を自称した。戊辰、隋帝が唐王の位を相国に進め、百揆を総べさせ、九錫を備え、唐国は丞相などの官を置き、四廟を立てた。 四月己卯、張長愻が降った。辛巳、停竹使符、班銀菟符。 五月乙巳、隋帝命唐王冕十有二旒、建天子旌旗、出警入蹕。甲寅、王徳仁が降った。戊午、隋帝が位をゆずり、以刑部尚書蕭造・司農少卿裴之隱奉皇帝璽紱於唐王、三讓乃受。 武徳元年(618)五月甲子、太極殿で皇帝の位についた。蕭造に命じて太尉を兼ねさせ、告于南郊、大赦をおこない、改元した。百官・庶人に爵一級を賜り、義師所過給復三年、其餘給復一年。郡を改めて州とし、太守を刺史とした。庚午、太白(金星)が昼に見えた。隋の東都留守の元文都と左武衛大将軍の王世充が越王楊侗を立てて皇帝とした。 六月甲戌、趙国公李世民が尚書令となり、裴寂が尚書右僕射・知政事となり、劉文静が納言となり、隋の民部尚書の蕭瑀・丞相府司録参軍の竇威が内史令となった。丙子、太白(金星)が昼に見えた。己卯、皇高祖を追謚して宣簡公といった。皇曾祖を懿王といった。皇祖を景皇帝といい、廟号を太祖とし、祖母の梁氏を景烈皇后といった。皇父を元皇帝といい、廟号を世祖とし、母の独孤氏を元貞皇后といった。妃の竇氏を穆皇后といった。庚辰、世子の李建成を立てて皇太子とし、李世民を封じて秦王とし、李元吉を斉王とした。癸未、薛挙が涇州を寇すると、秦王李世民を西討元帥とし、劉文静を司馬とした。太僕卿の宇文明達に山東を招慰させた。乙酉、隋帝を奉じて酅国公とし、詔曰:「近世時運遷革、前代親族、莫不夷絶。曆數有歸、實惟天命。興亡之效、豈伊人力。前隋蔡王智積等子孫、皆選用之。」癸巳、禁言符瑞者。辛丑、竇威が薨去した。黄門侍郎の陳叔達が判納言となり、将作大匠の竇抗が納言を兼ねた。 七月壬子、劉文静と薛挙が涇州で戦い、劉文静が敗れた。乙卯、郭子和が降った。庚申、隋の離宮を廃した。 八月壬申、劉文静を除名した。戊寅、約功臣恕死罪。辛巳、薛挙が亡くなった。壬午、李軌が降った。甲申、巖州刺史の王徳仁が招慰使の宇文明達を殺してそむいた。己丑、秦王李世民が西討元帥となり、薛仁杲を討った。庚子、隋の太常卿の高熲に上柱国・郯国公を、上柱国の賀若弼に国公を、司隸大夫の薛道衡に上開府・臨河県公を、刑部尚書の宇文に上開府・平昌県公を、左翊衛将軍の董純に柱国・狄道公を、右驍衛将軍の李金才に上柱国・申国公を、左光禄大夫の李敏に柱国・観国公を追贈した。諸遭隋枉殺而子孫被流者、皆還之。 九月乙巳、慮囚。始めて軍府を置いた。癸丑、銀菟符を改めて銅魚符とした。甲寅、秦州総管の竇軌が薛仁杲と戦い、敗れた。辛未、宇文化及が秦王楊浩を殺し、皇帝を自称した。 十月壬申朔、日食があった。己卯、李密が降った。壬午、朱粲が鄧州を陥落させ、刺史の呂子臧がここに死んだ。乙酉、邵江海が降った。己亥、盜が商州刺史の泉彦宗を殺した。辛丑、大閲。この月、竇抗が宰相を退いた。 十一月、竇建徳が王須抜を幽州で破り、王須抜は突厥に亡命した。乙巳、涼王の李軌がそむいた。戊申、禁獻侏儒短節・小馬庳牛・異獸奇禽者。己酉、秦王李世民が薛仁杲を破り、これを捕らえた。癸丑、行軍総管の趙慈景が蒲州を攻め、隋の刺史の堯君素が抵抗して戦い、趙慈景を捕らえた。癸亥、秦王李世民が捕らえた薛仁杲を献上した。 十二月壬申、李世民が太尉となった。丙子、蒲州の人が堯君素を殺し、その将の王行本を立てた。辛巳、鄭元が朱粲と商州で戦い、これを破った。乙酉、周氏陂にいった。丁亥、周氏陂から到着した。庚子、光禄卿の李密がそむき、処刑された。 この年、高開道が漁陽を陥落させ、燕王を号した。 二年(619)正月甲子、陳叔達が納言を兼ねた。「今から正月・五月・九月は死刑を行わず、屠殺を禁ずる」と詔した。丙寅、張善相が降った。己巳、楊士林が降った。 二月乙酉、初めて租・庸・調の法を定めた。令文武官終喪。丙戌、州置宗師一人。甲午、赦并・浩・介・石四州賈胡堡以北繋囚。閏月、竇建徳が邢州を陥落させ、総管の陳君賓を捕らえた。辛丑、竇建徳が宇文化及を聊城で殺した。朱粲が降った。壬寅、皇太子および秦王李世民と裴寂が畿県を巡視した。乙巳、御史大夫の段確が朱粲を菊潭でねぎらった。庚戌、微行、察風俗。乙卯、以穀貴、禁関内屠酤。左屯衛将軍の何潘仁が山賊の張子恵と司竹で戦い、ここに死んだ。丁巳、慮囚。庚申、驍騎将軍の趙欽と王娑羅が山賊と盩厔で戦い、ここに死んだ。丁卯、王世充が殷州を陥落させ、陟州刺史の李育徳がここに死んだ。 三月甲戌、王薄が降った。庚辰、蒋弘度・徐師順が降った。丁亥、竇建徳が趙州を陥落させた。丁酉、李義満が降った。 四月、綦公順が降った。庚子、并州総管・斉王の李元吉と劉武周が楡次で戦い、李元吉は敗れた。辛丑、朱粲が段確を殺してそむいた。乙巳、王世充が越王楊侗を廃し、皇帝を自称した。癸亥、伊州を陥落させ、総管の張善相を捕らえた。 五月庚辰、涼州の将の安修仁が李軌を捕らえて降った。癸未、曲赦涼・甘・瓜・鄯・肅・會・蘭・河・廓九州。 六月、王世充が越王楊侗を殺した。戊戌、周公と孔子の廟を国子監に立てた。庚子、竇建徳が滄州を陥落させた。丁未、劉武周が介州を陥落させた。癸亥、裴寂が晋州道行軍総管となった。離石胡の劉季真が叛き、石州を陥落させたので、刺史の王倹がここに死んだ。 七月壬申、徐円朗が降った。 八月丁酉、酅国公が薨去した。甲子、竇建徳が洺州を陥落させ、総管の袁子幹を捕らえた。 九月辛未、戸部尚書の劉文静を殺した。李子通が皇帝を自称した。沈法興が梁王を自称した。丁丑、杜伏威が降った。裴寂と劉武周が介州で戦い、裴寂が敗れ、右武衛大将軍の姜宝誼がここに死んだ。庚辰、竇建徳が相州を陥落させ、総管の呂がここに死んだ。辛巳、劉武周が并州を陥落させた。庚寅、太白(金星)が昼に見えた。竇建徳が趙州を陥落させ、総管の張志昂を捕らえた。乙未、京師で地震があった。梁師都が延州を寇し、鄜州刺史の梁礼がここに死んだ。 十月己亥、羅芸が降った。乙卯、華陰にいき、赦募士背軍者。壬戌、劉武周が晋州を寇すると、永安王李孝基および工部尚書の独孤懐恩・陜州総管の于筠・内史侍郎の唐倹がこれを討った。甲子、華山を祠った。この月、夏県の人の呂崇茂がそむいた。秦王李世民が劉武周を討った。 十一月丙子、竇建徳が黎州を陥落させ、淮安王李神通と総管の李世勣を捕らえた。 十二月丙申、華山で狩猟した。永安王李孝基が劉武周と下邽で戦い、敗れた。壬子、大風で木が抜けた。 三年(620)正月己巳、渭浜で狩猟した。戊寅、王行本が降った。辛巳、蒲州にいった。癸巳、蒲州から到着した。 二月丁酉、京師西南地有聲。庚子、如華陰。甲寅、独孤懐恩が反乱を計画し、処刑された。辛酉、検校隰州総管の劉師善が反乱を計画し、処刑された。 三月庚午、納言を改めて侍中とし、内史令を中書令とした。甲戌、中書侍郎の封徳彝が中書令を兼ねた。乙酉、劉季真が降った。 四月丙申、華山を祠った。壬寅、華陰から到着した。癸卯、関内の諸州で屠殺を禁じた。甲寅、秦王李世民が宋金剛と雀鼠谷で戦い、これを破った。辛酉、王世充が鄧州を陥落させ、総管の雷四郎がここに死んだ。壬戌、秦王李世民が劉武周と洺州で戦い、これを破り、劉武周は突厥に亡命した。并州に勝利した。 五月壬午、秦王李世民が夏県を屠った。 六月丙申、晋・隰・潞・并の四州で赦した。癸卯、詔隋帝及其宗室柩在江都者、為營窆、置陵廟、以故宮人守之。丙午、慮囚。子の李元景を封じて趙王とし、李元昌を魯王とし、李元亨を酆王とした。己酉、宮女五百人を出して、東征した将士のうち功績ある者に賜った。甲寅、顕州長史の田瓚が行台尚書令の楊士林を殺し、叛いて王世充についた。乙卯、瘞州縣暴骨。 七月壬戌、秦王李世民が王世充を討った。甲戌、皇太子が蒲州に駐屯し、突厥に備えた。丙戌、梁師都が突厥・稽胡を導いて辺境を寇したので、行軍総管の段徳操がこれを破った。 八月庚子、慮囚。甲辰、時徳叡が降った。 九月癸酉、田瓚が降った。己丑、給復陜・鼎・熊・穀四州二年。 十月戊申、高開道が降った。己酉、楊仲達が降った。己未、隕石が東都に落ちた。 十二月己酉、瓜州刺史の賀抜行威がそむいた。 四年(621)正月辛巳、皇太子が稽胡を討った。 二月、竇建徳が曹州を陥し、孟海公を捕らえた。己丑、車騎将軍の董阿興が隴州でそむき、処刑された。乙巳、太常少卿の李仲文が反乱を計画し、処刑された。丙午、慮囚。丁巳、赦代州総管府石嶺之北。 三月、宜都郡王李泰を進封して衛王とした。庚申、慮囚。乙酉、竇建徳が管州を陥落させ、刺史の郭志安がここに死んだ。 四月壬寅、斉王李元吉が王世充と東都で戦い、敗れ、行軍総管の盧君諤がここに死んだ。戊申、突厥が并州を寇し、漢陽郡王李・太常卿の鄭元・左驍騎衛大将軍の長孫順徳を捕らえた。甲寅、子の李元方を封じて周王とし、李元礼を鄭王とし、李元嘉を宋王とし、李元則を荊王とし、李元茂を越王とした。丁巳、左武衛将軍の王君廓が張青特を破り、これを捕らえた。 五月壬戌、秦王李世民が竇建徳を虎牢で破り、これを捕らえた。乙丑、山東で竇建徳に欺かれ惑わされた者を赦した。戊辰、王世充が降った。庚午、周法明が降った。 六月庚寅、河南で王世充に欺かれ惑わされた者を赦した。戊戌、蒋善合が降った。庚子、営州の人の石世則がその総管の晋文衍を捕らえて、叛いて靺鞨についた。乙卯、臧君相が降った。 七月甲子、秦王李世民が捕らえた王世充を献上した。丙寅、竇建徳が処刑された。丁卯、大赦をおこない、給復天下一年、陜・鼎・函・虢・虞・芮・豳七州二年。甲戌、劉黒闥が貝州でそむいた。辛巳、戴州刺史の孟噉鬼がそむき、処刑された。 八月丙戌朔、日食があった。丁亥、皇太子が北境を安撫した。丁酉、劉黒闥が鄃県を陥落させ、魏州刺史の権威と貝州刺史の戴元祥がここに死んだ。癸卯、突厥が代州を寇し、行軍総管の王孝基を捕らえた。丁未、劉黒闥が歴亭を陥落させ、屯衛将軍の王行敏がここに死んだ。辛亥、深州の人の崔元遜がその刺史の裴晞を殺し、叛いて劉黒闥についた。兗州総管の徐円朗がそむいた。 九月、盧祖尚が降った。乙卯、淳于難が降った。甲子、汪華が降った。 この秋、夔州総管・趙郡王李孝恭が十二総管の兵を率いて蕭銑を討った。 十月己丑、秦王李世民が天策上将となり、司徒を領した。斉王李元吉が司空となった。庚寅、劉黒闥が瀛州を陥落させ、刺史の盧士叡を捕らえ、また観州を陥落させた。癸卯、毛州の人の董燈明がその刺史の趙元愷を殺した。乙巳、趙郡王李孝恭が蕭銑を荊州で破り、これを捕らえた。 閏月乙卯、稷州にいった。己未、旧墅に幸した。壬戌、好畤で狩猟した。乙丑、九で狩猟した。丁卯、仲山で狩猟した。戊辰、清水谷で狩猟し、そのまま三原に幸した。辛未、周氏陂にいった。壬申、周氏陂から到着した。 十一月甲申、有事于南郊。庚寅、李子通が降った。丙申、李子通が反乱を計画し、処刑された。壬寅、劉黒闥が定州を陥落させ、総管の李玄通がここに死んだ。庚戌、州の人の周文挙がその刺史の王孝矩を殺し、叛いて劉黒闥についた。 十二月乙卯、劉黒闥が冀州を陥落させ、総管の麴稜がここに死んだ。甲子、左武候将軍の李世勣が劉黒闥と宋州で戦い、敗れた。丁卯、秦王李世民・斉王李元吉が劉黒闥を討った。己巳、劉黒闥が邢州を陥落させた。庚午、魏州を陥落させ、総管の潘道毅がここに死んだ。辛未、莘州を陥落させた。壬申、李元嘉を徐王に移封した。 五年(622)正月乙酉、劉黒闥が相州を陥落させ、刺史の房晃がここに死んだ。丙戌、殷恭邃が降った。丁亥、済州別駕の劉伯通がその刺史の竇務本を捕らえて、叛いて徐円朗についた。庚寅、東塩州治中の王才芸がその刺史の田華を殺して、叛いて劉黒闥についた。丙申、相州の人がその刺史の独孤徹を殺して、その州をもって叛いて劉黒闥についた。己酉、楊世略・劉元進が降った。 二月、王要漢が降った。己巳、秦王李世民が邢州に勝利した。丁丑、劉黒闥が洺水を陥落させ、総管の羅士信がここに死んだ。戊寅、汴州総管の王要漢が徐円朗を州で破り、周文挙を捕らえた。 三月戊戌、譚州刺史の李義満が斉州都督王薄を殺した。丁未、秦王李世民が劉黒闥と洺水で戦い、これを破り、劉黒闥は突厥に亡命した。蔚州総管の高開道がそむき、易州を寇し、刺史の慕容孝幹がここに死んだ。 四月、梁州野蠶成繭。冉安昌が降った。己未、甯長真が降った。戊辰、釋流罪以下穫麥。壬申、代州総管の李大恩が突厥と戦い、ここに死んだ。戊寅、鄧文進が降った。 五月、田留安が降った。庚寅、瓜州の人の王幹が賀抜行威を殺して降った。乙巳、荊州にこの年の田租を賜った。 六月辛亥、劉黒闥と突厥が山東を寇した。車騎将軍の元韶が瓜州道行軍総管となり、突厥に備えた。癸丑、吐谷渾が洮・旭・疊の三州を寇し、岷州総管の李長卿がこれを破った。乙卯、淮安郡王李神通が徐円朗を討った。 七月甲申、弘義宮を作った。甲午、淮陽郡王李道玄が河北道行軍総管となり、劉黒闥を討った。貝州の人の董該が定州をもって叛いて劉黒闥についた。丙申、突厥が劉武周を白道で殺した。遷州の人の鄧士政がそむき、その刺史の李敬昂を捕らえた。丁酉、馮盎が降った。 八月辛亥、隋の煬帝を葬った。甲寅、吐谷渾が岷州を寇し、益州道行台左僕射の竇軌がこれを破った。乙卯、突厥が辺境を寇した。庚申、皇太子が豳州道を出て、秦王李世民が秦州道を出て、突厥をふせいだ。己巳、吐谷渾が洮州を陥落させた。并州総管・襄邑郡王李神符が突厥と汾東で戦い、これを破った。戊寅、突厥が大震関を陥落させた。 九月癸巳、霊州総管の楊師道が三観山で突厥を破った。丙申、洪州総管の宇文歆がまた崇岡で突厥を破った。壬寅、定州総管の雙士洛と驃騎将軍の魏道仁がまた恒山の南で突厥を破った。丙午、領軍将軍の安興貴がまた甘州で突厥を破った。劉黒闥が瀛州を陥落させ、刺史の馬匡武がここに死んだ。東塩州の人の馬君徳がその州をもって叛いて劉黒闥についた。 十月己酉、斉王李元吉が劉黒闥を討った。癸丑、貝州刺史の許善護が劉黒闥と鄃県で戦い、ここに死んだ。甲寅、観州刺史の劉君会が叛いて劉黒闥についた。乙丑、淮陽郡王李道玄が劉黒闥と下博で戦い、ここに死んだ。己巳、林士弘が降った。 十一月庚辰、劉黒闥が滄州を陥落させた。甲申、皇太子が劉黒闥を討った。丙申、宜州にいった。癸卯、富平北原で狩猟した。 十二月丙辰、万寿原で狩猟した。戊午、劉黒闥が恒州を陥落させ、刺史の王公政がここに死んだ。庚申、万寿原から到着した。壬申、皇太子が劉黒闥と魏州で戦い、これを破った。甲戌、また毛州で劉黒闥を破った。 六年(623)正月己卯、劉黒闥の将の葛徳威が劉黒闥を捕らえて降った。壬午、巂州の人の王摩娑がそむき、驃騎将軍の衛彦がこれを討った。庚寅、徐円朗が泗州を陥落させた。 二月、劉黒闥が処刑された。庚戌、温湯に幸した。壬子、驪山で狩猟した。甲寅、温湯より到着した。丙寅、行軍総管李世勣が徐円朗を破り、これを捕らえた。 三月、苗海潮・梅知巌・左難当が降った。乙巳、洪州総管の張善安がそむいた。 四月己酉、吐蕃が芳州を陥落させた。己未、故第を通義宮とし、元皇帝・元貞皇后を旧寝で祭った。京城で赦し、従官に帛を賜った。辛酉、張善安が孫州を陥落させ、総管の王戎を捕らえた。丁卯、南州刺史の龐孝泰がそむき、南越州を陥落させた。壬申、子の李元を封じて蜀王とし、李元慶を漢王とした。癸酉、裴寂が尚書左僕射となり、蕭瑀が右僕射となり、封徳彝が中書令となり、吏部尚書の趙恭仁が中書令を兼ね、涼州諸軍事を検校した。 五月庚寅、吐谷渾・党項が河州を寇し、刺史の盧士良がこれを破った。癸卯、高開道が奚をつれて幽州を寇し、長史の王説がこれを破った。 六月丁卯、突厥が朔州を寇し、総管の高満政がこれを破った。朔州で曲赦した。 七月丙子、沙州別駕の竇伏明がそむき、その総管の賀若懐廓を殺した。己亥、皇太子が北辺に駐屯し、秦王李世民が并州に駐屯し、突厥に備えた。 八月壬子、淮南道行台左僕射の輔公祏がそむいた。乙丑、趙郡王李孝恭がこれを討った。 九月壬辰、秦王李世民が江州道行軍元帥となった。丙申、渝州の人の張大智がそむいた。 十月丙午、広州都督の劉世讓を殺した。戊申、降死罪、流以下原之。己未、華陰にいった。張大智が降った。庚申、白鹿原で狩猟した。壬戌、右虞候率の杜士遠が高満政を殺し、朔州をもってそむいた。丁卯、突厥が和を請うた。 十一月壬午、張善安が黄州総管の周法明を襲って殺した。丁亥、華陰にいった。辛卯、沙苑で狩猟した。丁酉、伏龍原で狩猟した。 十二月壬寅朔、日食があった。癸卯、張善安が降った。庚戌、奉義監を龍躍宮とし、武功宅を慶善宮とした。甲寅、華陰から到着した。 七年(624)正月庚寅、鄒州の人の鄧同穎がその刺史の李士衡を殺した。 二月丁巳、釋奠于国學。己未、漁陽の部将の張金樹が高開道を殺して降った。 三月戊戌、趙郡王李孝恭が輔公祏を破り、これを捕らえた。己亥、李孝恭が越州都督の闞稜を殺した。 四月庚子、大赦をおこなった。班新律令。給復江州道二年・揚越一年。 五月丙戌、仁智宮を作った。 六月辛丑、仁智宮にいった。壬戌、慶州都督の楊文幹がそむいた。 七月己巳、突厥が朔州を寇し、総管の秦武通がこれを破った。癸酉、慶州の人が楊文幹を殺して降った。甲午、仁智宮から到着した。巂州で地震があり山が崩れ、遏江水。 閏月己未、秦王李世民・斉王李元吉が豳州に駐屯し、突厥に備えた。 八月己巳、吐谷渾が鄯州を寇し、驃騎将軍の彭武傑がここに死んだ。戊寅、突厥が綏州を寇し、刺史の劉大倶がこれを破った。壬辰、突厥が和を請うた。丁酉、裴寂が突厥に使いした。 十月丁卯、慶善宮にいった。辛未、鄠南で狩猟した。癸酉、終南山に幸した。丙子、謁樓觀老子祠。庚寅、囲川で狩猟した。 十二月丁卯、龍躍宮にいった。戊辰、高陵で狩猟した。庚午、高陵から到着した。太子詹事の裴矩が侍中を検校した。 八年(625)二月癸未、慮囚。 四月甲申、鄠にいき、甘谷で狩猟した。太和宮を作った。丙戌、鄠から到着した。 六月甲子、太和宮にいった。 七月丙午、太和宮から到着した。丁巳、秦王李世民が蒲州に駐屯し、突厥に備えた。 八月壬申、并州行軍総管張瑾が突厥と太谷で戦い、敗れ、鄆州都督の張徳政がここに死に、行軍長史の温彦博が捕らえられた。甲申、任城郡王李道宗が突厥と霊州で戦い、これを破った。丁亥、突厥が和を請うた。 十月辛巳、周氏陂にいき、北原で狩猟した。壬午、龍躍宮にいった。 十一月辛卯、宜州にいき、西原で狩猟した。裴矩が宰相を退いた。庚子、同官で武を講じた。天策府司馬の宇文士及が権検校侍中となった。辛丑、李元を徙封して呉王とし、李元慶を陳王とした。癸卯、秦王李世民が中書令となり、斉王李元吉が侍中となった。癸丑、華池北原で狩猟した。 十二月辛酉、華池から到着した。庚辰、鳴犢泉で狩猟した。辛巳、鳴犢泉から到着した。 九年(626)正月甲寅、裴寂を司空とした。 二月庚申、斉王李元吉を司徒とした。壬午、有星孛于胃・昴。丁亥、孛于卷舌。 三月庚寅、昆明池に幸し、水戦を演習した。壬辰、昆明池より到着した。丙午、周氏陂にいった。乙卯、周氏陂より到着した。丁巳、突厥が涼州を寇し、都督・長楽郡王の李幼良がこれを破った。 四月辛巳、浮屠(仏陀)・老子の法を廃した。 六月丁巳、太白經天。庚申、秦王李世民が皇太子李建成・斉王李元吉を殺した。大赦をおこなった。浮屠・老子の法を復した。癸亥、秦王李世民を立てて皇太子とし、聴政させた。賜為父後者襲勳・爵、赤牒官得為真、免民逋租宿賦。己卯、太白(金星)が昼に見えた。庚辰、幽州都督・廬江郡王の李瑗がそむき、処刑された。癸未、赦幽州管内為瑗所詿誤者。 七月辛卯、楊恭仁が宰相を退いた。太子右庶子の高士廉が侍中となり、左庶子房玄齢が中書令となり、蕭瑀が尚書左僕射となった。癸巳、宇文士及が中書令となり、封徳彝が尚書左僕射となった。辛亥、太白が昼に見えた。甲寅、太白が昼に見えた。 八月丙辰、突厥が和を請うた。丁巳、太白が昼に見えた。壬戌、吐谷渾が和を請うた。甲子、皇太子が皇帝位についた。 貞観三年(629)、太上皇が大安宮に移り住んだ。九年(635)五月、垂拱前殿で崩じた。年は七十一。謚を太武といい、廟号を高祖といった。上元元年(674)、謚を神堯皇帝と改めた。天宝八戴(749)、神堯大聖皇帝と謚した。十三載(754)、神堯大聖大光孝皇帝と増謚した。 賛曰:自古受命之君、非有徳不王。自夏后氏以來、始傳以世、而有賢有不肖、故其為世、數亦或短或長。論者乃謂周自后稷至於文・武、積功累仁、其來也遠、故其為世尤長。然考於世本、夏・商・周皆出於黄帝、夏自鯀以前、商自契至於成湯、其間寂寥無聞、與周之興異矣。而漢亦起於亭長叛亡之徒。及其興也、有天下皆數百年而後已。由是言之、天命豈易知哉!然考其終始治亂、顧其功徳有厚薄與其制度紀綱所以維持者如何、而其後世、或寖以隆昌、或遽以壞亂、或漸以陵遲、或能振而復起、或遂至於不可支持、雖各因其勢、然有徳則興、無徳則絶、豈非所謂天命者常不顯其符、而俾有国者兢兢以自勉耶?唐在周・隋之際、世雖貴矣、然烏有所謂積功累仁之漸、而高祖之興、亦何異因時而特起者歟?雖其有治有亂、或絶或微、然其有天下年幾三百、可謂盛哉!豈非人厭隋亂而蒙徳澤、繼以太宗之治、制度紀綱之法、後世有以憑藉扶持、而能永其天命歟? 前巻 『新唐書』 次巻 - 『新唐書』巻一 本紀第一 巻二 本紀第二
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唐書巻二百一十九 列伝第一百四十四 北狄 契丹 奚 室韋 黒水靺鞨 渤海 契丹はもと東胡種族で、その先祖は匈奴に破られて鮮卑山を保守した。魏の青竜年中(233-236) に部酋の比能がやや悪賢いため幽州刺史王雄に殺され、ついに部衆が微力になり、シラ・ムレンの南、黄竜(営州)の北に逃れひそんだ。北魏になって自ら契丹と号した。その地は長安の東北五千里あまりにあたり、東は高麗、西は奚、南は営州、北は靺鞨・室韋と接し、冷陘山をへだてて自ら固めていた。射猟し常居せず、君長の大賀氏は精兵四万を有し、八部にわかれて突厥に臣属し、俟斤(イルギン)の官に任じられた。おしなべて調発や攻戦を行なうには、諸部がみな集まって、射猟を行なうには各部が自由行動をとった。奚と仲がわるく、戦闘して不利になると、逃れて鮮卑山を保守した。その風俗は突厥とほぼ同じく、死んでも墓に葬らず、馬車に屍をのせて山に入り、樹上に置いた。子孫が死ぬと、その父母は朝夕哭くが、父母が死んでも哭かない。また服喪期間がない。 武徳年間(618-623)、その大酋の孫敖曹と靺鞨の長突地稽とともに遣使来朝した。しかも君長はときに辺境に小規模な入寇を企てた。のち二年、君長が使者を遣わし、名馬や良質の貂を献上した。貞観二年(628) 、摩会が来降した。突厥の頡利可汗は外夷と唐朝とが合するのを欲しないので、梁師都の身柄を唐に返還する代償に、契丹君長摩会の来降を唐が拒むよう要請した。太宗曰く、「契丹と突厥は同類ではない。いますでにわが朝に降ってきたのに、なお(身柄)をもとめることができようか。梁師都はもともと唐の民であるのに、わが州部を盗んだのを突厥は援助した。わが方ではかれを捕らえねばならぬ。情誼上、契丹 の摩会と梁師都とをとりかえることはできない」と。明くる年、摩会は再び入朝したので、鼓纛(君長 を象徴するとさしもの)を賜わった。以後常貢した。太宗が高麗征討するや、契丹のすべての酋長と奚の首領とを発して従軍させた。太宗が帰還の際、営州を通過するとき、その君長の窟哥および老人たちを召し、それぞれ分に応じて繒采(いろぎぬ)を賜い、窟哥を左武衛将軍とした。 大酋の辱紇主の曲拠また部衆をひきいて来帰したので、その部落を玄州とし、曲拠を刺史に拝し、玄州を営州都督府に属させた。いくばくもなく窟哥も部落をあげて内属したので、松漠都督府を置き、窟哥を使持節十州諸軍事松漠都督とし、無極男に封じ、国姓李氏を賜わった。(八部の)達稽部を峭落州、紇便部を弾汗州、独活部を無逢州、芬問部を羽陵州、突便部を日連州、芮奚部を徒河州、墜斤部を万丹州、伏部を匹黎・赤山二州となし、ともに松漠府に附させ、辱紇主を刺史とした。 窟哥が死ぬと奚と連合して唐朝に叛いた。行軍総管阿史徳枢賓らは、松漠都督の阿ト固を執えて東都(洛陽)に献じた。窟哥に二人の孫があり、枯莫離は左衛将軍・弾汗州刺史となり、帰順郡王に封じられた。尽忠は武衛大将軍・松漠都督となった。そして孫敖曹にも孫があって万栄といったが、万栄は帰誠州刺史となった。このとき営州都督の趙文翽が驕りむさぼり、しばしば部下を侵侮したので、李尽忠らはみな怨望した。孫万栄はもと侍子として入していたので、中国の形勢を知り、乱心をいだいて疑わず、尽忠と万栄とはともに兵を挙げて文翽を殺し営州を占拠して叛した。李尽忠は自ら無上可汗と号し、孫万栄を大将とし兵を従って四方を攻略させたところ、兵の向かう所たちまち下ったので、旬日にして兵数万に達したが、十万と妄言した。崇州を攻めて討撃副使許欽寂を執えた。 武后は怒り詔して、鷹揚将軍曹仁師、金吾大将軍張玄遇、右武威大将軍李多祚、司農少卿麻仁節ら二十八将をして討撃させ、梁王武三思を楡関道安撫大使、納言の姚疇をその副使とした。あらため万栄を万斬、尽忠を尽滅と号した。唐軍の諸将は西破石・黄谷に戦って敗績し、玄遇・仁節はみ捕虜となった。進んで平州を攻めたが克たず、敗戦の報告を聞くと武后は、右武衛大将軍建安王武攸宜を清辺道大総管として契丹を撃つべく奴隷のうち勇者を募り、そのものを官が主人から買い取って兵に仕立てて征討軍に加えた。孫万栄は馬に枚をふくませ、檀州を夜襲した。清辺道副総管の張九節は決死のもの数百を募り、肉薄して戦ったので、万栄は敗れて山に走った。にわかに尽忠が死ぬと、突厥黙啜可汗はその部衆を襲破した。孫万栄は散兵を収容して ふたたび勢力を振るい、別将の駱務整・何阿小をして冀州に侵入させ、刺史の陸宝積を殺し、民数千人を掠めた。 武后は尽忠の死を聞くと、更めて詔して夏官尚書王孝傑・羽林衛将軍蘇宏暉に兵十七万をひきいて契丹を攻撃させたが、官軍は東硤石に戦って敗れ、孝傑は戦死し、万栄は勝に乗じてついに幽州に居った。武攸宜は将を遣わして討たせたが、克つことができなかったので、右金吾衛大将軍河内郡王武懿宗を神兵道大総管、右粛政台御史大夫婁師徳を清辺道大総管、右武威衛大将軍沙吒忠義を清辺中道前軍総管と為し、兵二十万をもって賊を討たせた。万栄は鋭く勇をふるって南進し、高州(河北省) 河間の県を荒らし、はばかるところなく掠奪をほしいままにした。ここにおいて神兵道総管楊玄基は奚軍を率いてその背後をおそったので、契丹軍は大敗し、部将の何阿小を捕虜とし、別将李楷固・駱務整を降し、没収した兵器は積み上げるほどであった。万栄は軍をすてて敗走し、その残兵はふたたび合して奚と戦ったが、奚は四面から攻囲して大いに潰滅させた。万栄は東に走ったので、張九節は三たび伏兵をもってうかがった。万栄は力窮まり家奴と身軽に軽馬で潞河の東に走ったが、ひどく疲れて林の中に臥したところを家奴に首を斬られた。張九節はその首を洛陽に伝えたので、余衆は潰え、武攸宜は凱旋帰還した。武后は喜んで天下に赦し、神功と改元した。 契丹は自立することができず、ついに突厥に付属した。久視元年(700)詔して左玉鈐衛大将軍李楷固・右武威衛将軍駱務整に契丹を討たしめ、これを破った。この両人はみな捕虜であって勇将である。かつては辺を犯してしばしば官軍を苦しめたものであるが、こうして功をたてた。 開元二年(714) 李尽忠の従父弟の都督李失活は 黙啜可汗の政が衰えたので、部落をひきいて頡利発の伊健啜と来帰した。 玄宗はかれらに丹書鉄券を賜与した。のち二年、奚の長李大酺らとみな来朝したので、詔して復び松漠府を置き、失活を都督とし松漠郡王に封じ左金吾衛大将軍を授けた。そしてその府(松府)に静析軍を置き、失活を経略大使とし、所部の八部長はそれぞれ刺史に抜擢した。詔して将軍薛泰を押蕃落使とし、軍を督戦して鎮撫させた。玄宗は東平王李韶の外孫楊元嗣の女を永楽公主として失活に降嫁した。明くる年、失活が死んだので特進を贈り、遣使して弔祠させ、その弟の中郎将娑固に封冊および所領をつがせた。明くる年、娑固は公主と来朝し、宴・資を受けた。 可笑于なる者が静析軍副使であったが、かれは勇をたのんで衆に人望があった。娑固はかれを殺そうとしてまだ心が決しないうちに可突于が反して娑固を攻めたので、娑固は営州に奔った。営州都督許欽澹は州の武兵五百をもって、奚の長李大酺の兵とを連合して可突于を攻めたが勝たず、娑固・大酺はみな死んだ。欽澹はおそれて軍を移して楡関に入った。可突于は娑固の従父弟の鬱于を奉じて君長とし、遣使して謝罪した。そこで話して鬱于を松漠郡王に拝して可突于の罪を赦した。鬱于が来朝したので率更令を授け、宗室の慕容の女を燕郡公主として降嫁した。可突于もまた来朝したので、左羽林衛将軍に抜擢した。鬱于が死んで弟の吐于がいたが、可突于との仲が悪く、部下もうまく統べることができず、燕郡公主をつれて来奔したので、遼陽郡王に封じて宿衛に留めることとした。可突于は李尽忠の弟邵固を奉じ部を統べさせたので、王(松漠郡王)を襲ぐことを許した。玄宗が封禅(泰山で天を祀る) の礼を行なうや、邵固は諸藩の部長らとみな従行して行在所に詣でた。翌年、左羽林衛大将軍を拝し広化郡王に封じられ、宗室陳氏の女を東華公主として邵固に妻わせた。詔してその部の百余人にも官職を授けた。邵固はその子を侍子とした。 可突于もふたたび来朝したが、宰相(中書侍郎)の李元紘が礼遇しなかったので、不平の思いで去った。張説が曰く、「かれは獣心で、ただ利によって動くものであるが、契丹の国政を左右し部衆をひきつけている。もしかれを礼遇しなければ、来朝しないであろう」と。のち三年、可突于は邵固を殺して屈烈を立てて王とし、奚の部衆を脅やかしてともに突厥に降った。東華公主は平盧軍(営州城)に走った。詔して幽州長史・知范陽節度事趙含章にこれを撃たしめ、中書舎人裴寛と給事中の薛儼を遣わして壮士を募り、忠王浚(後の粛宗)を河北道行軍元帥、御史大夫の李朝隠と京兆尹裴伷先を副とし、程伯献・張文儼・宋之悌・李東蒙・趙万功・郭英傑ら八総管の兵 を率いて契丹を撃たせた。すでにまた忠王に河東道諸軍元帥を兼任させたが、王は行かなかったので、礼部尚書の信安郡王李禕を持節河北道軍副元帥とし、趙含章と塞を出て敵を捕え大いにこれを破った。可突于は逃走し、奚の部衆は投降したので、王(信安王)は二蕃(契丹・奚)の俘虜と首級を諸廟に報告した。 明くる年、可突于は辺に侵寇したので、幽州長史薛楚玉・副総管郭英傑・呉克勤・烏知義・羅守忠は万騎および奚をひきいてこれを撃ち都山の下に戦った。可突于は突厥兵をもって来攻したので、奚はおそれてどちらにもつかず、部衆は走って険に拠った。烏知義・羅守忠は敗れ、郭英傑と呉克勤とは戦死し、唐兵万人が殺された。玄宗は張守珪を幽州長史とし経略させた。守珪はすでに善将としてとどろき、可突于はおそれて、表では臣属せんことを願い、西北にはしって突厥にたよった。衙官の李過折は内心可突于に不平を懐いていたので、張守珪は客の王悔をしてひそかに可突于を迎え、兵をもって可突于を囲んだところ、過折はその夜可突于・屈烈およびその支党数十人を斬って降ったので、守珪は李過折に契丹部衆を統べさせ、可突于らの首級を函詰めにして洛陽に伝えた。李過折を北平郡王に拝し松漠都督とした。可突于らの残党が過折を撃殺してその一家を屠ったので、一子の刺乾は遼陽の安東に走り、左驍衛将軍に拝せられた。 開元二十五年(737)、張守珪は契丹を討伐して再びこれを破った。以後戦功があれば必ず廟に報告するよう詔があった。 天宝四載(745) 、契丹の大酋李懐秀が降ったので、松漠都督に任じて崇順王に封じ、宗室の女独孤氏を静楽公主として降嫁した。この歳公主を殺して叛き去ったので、范陽節度使の安禄山は討ってこれを破った。更めてその酋長の楷落を恭仁王に封じ、代って松漠都督とした。安禄山は玄宗の行幸にあたり、帝の意をむかえようとして、表を上り契丹の討伐を乞うた。幽州・雲中・平盧・河東の兵十余万人を発し、奚の部衆を郷導として大いにシラ・ムレンの南に戦ったが敗北し、死者数千人を出した。 これより安禄山は契丹と互いに侵掠して、かれが反乱を起こすまで解けなかった。 契丹は、玄宗の開元・天宝年間(713-754)には使者を朝献させることおよそ二十度。もとは范陽節度使を押奚・契丹使としたが、粛宗の至徳年間(756-758)以後は藩鎮が所領を勝手にして自分たちの平和維持のみに務め、防衛やものみを厳にして、辺事の生じないようますます謹んだ。契丹もまた入寇することがなく、毎歳数十人を選んで長安に朝会させ、つねに天子に召見されて物品を賜わり、官秩を与えられた。 部下数百人をひきいてきて、みな幽州の館に駐留した。至徳から宝応(756-763)まで再度朝献し、大暦年中(766-773)に十三回、貞元年間(785-804)に三回、元和年中 (806-820)に七回、大和・開成年間(827-840)に四回、遣使朝貢した。しかし天子はかれらが裏では回鶻に附隷するのをにくんで、契丹の酋長に官爵を復さなかった。会昌二年(742)、回鶻が破れて契丹酋長屈戍がはじめてふたたび内附したので、雲麾将軍・右武衛将軍を拝した。そこで幽州節度使の張仲武はかつて回鶻が契丹に与えた旧印にかえて、唐朝の新印を契丹に賜与し、この印を「奉国契丹之印」といった。 咸通年間(860-874)に、契丹王の習爾之は再度遺使して入した。その部落はようやく強くなり、習爾之の死後その族人の欽徳が嗣いだ。光啓時代(885-887) 天下に盗(群雄)が興り、北辺が多事となった。契丹は室韋・奚などの小部種をかすめてみな役服し、幽・薊に入寇した。劉仁恭は全軍をひいて星山をこえて討伐し、毎年のように塞下の牧草を焼いて、かれらが駐牧できないようにしたため牧馬が多く死亡した。そこで契丹盟約を乞い、良馬を献じて牧地を求めた。仁恭はその乞いを許したが、かれらはふたたび盟約にそむいて入寇した。劉守光(仁恭の子)は平州を守成していたが、契丹が万騎をもって入寇したので、守光はいつわって和睦し、天幕中で宴飲した。そのとき伏兵がおこって契丹の大将をとらえた。契丹部民は嘆いて馬五千匹を納めて大将の身柄を贖わんことを願ったが、守光は許さなかった。欽徳は莫大な賂を出してこれを求めたので、十年間辺境に近づかないことを条件に盟約した。 欽徳は、晩年その政治がおとろえた。契丹の慣習法として、八部大人(部長) はつねに三年ごとに代る。ときに耶律阿保機が部長の象徴である鼓旗を建てて新しく一部をつくり、三年経ても代ることを承知せず、自ら王と号して国を有したので大賀氏はついに亡んだ。 奚もまた東胡種である。匈奴に破られて烏丸山を保守した。漢の曹操はその帥蹋頓を斬ったが、かれらはその後裔であろう。元魏(北魏)のとき自ら庫真奚と号し鮮卑の故地に居た。長安の東北四千里にあたる。その地は東北は契丹に接し、西は突厥、南は白狼河、北は霫に接し、突厥と同俗である。水草を逐うて畜牧し、フェルトのテントを住居とし、車を環らして陣営とする。その君長は、つねに五百人の武装兵で本陣をまもる。余の部衆は山谷の間に散居する。賦税による収入がない。部民は射猟をもって生活の資とし、黒黍をつくり、収穫すると山下の穴蔵に貯える。木をきって臼とし、瓦鼎 (すやきの器)に濃い粥をつくり、寒水をまぜて食す。戦闘を喜ぶ。兵は五部あり、各部には一人の俟斤がいてこれを司どる。その国は、西は大洛泊(タール・ノール)にいたる。回紇の本牙を隔たること三千里、多く土護真水(老哈河)流域による。その馬は登攀に善く、その羊は黒色である。盛夏には必ず移動して冷陘山を保つ。山は媯州の西北にあたる。隋代に始めて庫真の二字を去ってただ奚とした。 唐の武徳年中(618-626)に高開道がその兵をひきいて再度幽州に入寇した。長史の王詵がこれを撃破した。太宗の貞観三年(629)に始めて来朝し、十七年間に四回来朝した。太宗が高麗征討するにあたって大酋の蘇支が従軍して戦功を立てた。数年ならずしてその酋長の可度者が内附した。太宗はそのために饒楽都督府を置き、可度者を使持節六州諸軍事・饒楽都督となし、楼煩県公に封じて李氏を賜わった。阿会部を弱水州、処和部を祁黎州、奥失部を洛壊州、度稽部 を太魯州、元俟俊部を渇野州とし、各酋長の主を刺史として饒府に隷属させた。東夷都護府を営州に復置し、兼ねて松漠・饒楽の地を統べさせ、東夷校尉を置いた。 高宗の顕慶年間(656-660)に可度者が死ぬと、奚がついに反した。五年に定襄都督阿史徳枢賓・左武候将軍延陀梯真・居延州都督李含珠を冷陘道行軍総管とし、明くる年、詔して尚書右丞崔余慶に節を持し定襄等の三都督を総護してこれを討伐させた。奚は懼れて降伏したので、その王の匹帝を斬った。万歳通天年間(696)に契丹が反くと、奚もまた叛した。奚は突厥ととも に相表裏(服従したり背いたり)したので、両蕃と号した。 延和元年(712)に、左羽林衛大将軍幽州都督孫佺・左驍衛将軍李楷洛・左威衛将軍周以悌に兵十二万をひきいさせて三軍とし、 奚を襲撃させ、冷陘山に次したところ、前鋒軍の李楷洛は奚の大酺と戦って不利に陥った。孫佺は懼れて軍をおさめ、大酺を詐わって曰く、「自分は詔を奉じてをするために来たのに、李楷洛が軍の節度にそむいて戦いをしかけたが、それは天子の御意志ではない。楷洛を誅戮して軍中に布告しよう」と。大酺がいうよう、「誠に自分を慰撫するためなら賜与の品があるでしょう」と。孫佺は軍中にあった繒帛・帯などを出して与えた。大酺はこれを謝し孫佺に軍を還すよう要請したので、全軍は戦線から脱退することができたが、兵士たちは先を争って隊伍を乱して退いた。大酺の兵は追い討ちをかけたので、ついに唐軍は大敗し、殺傷するもの数万、孫佺と周以悌はみな捕虜となって突厥の黙啜可汗のもとに送られて殺害された。唐朝は国家多事で、奚部を討つ余裕がなかった。 玄宗の開元二年(714) 、奥蘇悔落を遣使して降伏を乞うたので、饒楽郡王・左金吾衛大将軍・饒楽都督に封じ、詔して宗室出身の女、辛氏を固安公主として大酺の妻とした。明くる年入朝して婚姻を結んだので、始めて営州都督府を復し、右領軍将軍李済を天子の使節として大酺を護送させた。のちに契丹の可笑于と闘って戦死したので、弟の魯蘇が奚部を領し、王をついだ。詔して保塞軍経略大使を兼任させた。牙官塞黙掲が抜いたが、公主は酒宴にかこつけてこれを誘殺した。玄宗はその功を嘉し、公主に数万のものを賜与した。公主はその母とたがいに相論告し合い罪をえたので、更めて成安公主の女韋氏を東光公主として妻わした。のち三年、魯蘇を奉誠郡王・右羽林衛将軍に封じ、その部下の首領たちおよそ二百人を抜擢してみな郎将を授けた。 しばらくして契丹の可突于が反すと、奚の部衆を脅やかして突厥に降ったが、魯蘇はこれを制することができずにのがれ走り、公主は平盧に奔った。幽州長史趙含章は清夷軍を発してこれを討ち破ったので、一部の部衆は帰降した。明年、信安王禕は笑色の李詩・鎖高らの部落五千帳を降し、その地を帰義州とした。そこで王の李詩を左羽林軍大将軍・本州都督とし、帛十万を賜わって、その部を幽州の一隅に置いた。 李詩が死に、子の延寵が嗣ぐと、契丹とともにまた叛したが、幽州張守珪にせめられて延寵は降伏し、再び饒楽都督・懐信王を拝し、宗室出の女楊氏を宜芳公主として降嫁された。延寵は公主を殺して再び叛したので、詔して他の酋婆固を立てて昭信王・饒楽都督として奚部衆を定めさせた。安禄山が范陽節度使になると、辺功を詭りたびたび苦戦をしては盛んに戦功を飾り、俘虜を献じた。その君の李日越を誅し、俘虜の壮者をえらんで雲南の戍兵とした。玄宗の一代にはすべて八回入朝貢献し、至徳・大暦年間に十二回であった。 貞元四年(788)、室韋とともに振武を攻めた。のち七年、幽州節度使はその部衆六万をやぶった。徳宗のとき二回朝献した。元和元年(806)君長の梅落が入したので、検校司空・帰誠郡王を拝し、部酋の索氐を左威衛将軍・檀薊州遊兵馬使に、没辱孤を平州游弈兵馬使とし、みな国姓李氏を賜わった。しかしひそかに回鶻・室韋の兵士と連合して西城・振武を犯した。憲宗の世にすべて四回朝献した。 大和四年(830)ふたたび辺に盗したので、盧竜軍の李載義が破って大将以下二百余人を執え、その首帥の茹羯を捕縛して来献した。文宗は李載義の戦功を賞して、冠帯を賜い、右驍衛将軍を授けた。のち五年、大首領匿舎朗が来朝した。宣宗の大中元年(847) 、北部諸山の奚が悉く叛したので、盧竜の張仲武は有力部長を捕らえて帳落二十万を焼き払い、その刺史以下の面耳三百、羊牛七万、輜貯五百乗を取って京師に献じた。咸通九年(868) その王の突董蘇が大都督薩葛を遣わして入朝した。 その後は契丹が強くなり、奚は敢えて抗せず部衆を挙げて契丹に服属したが、契丹の政治は苛烈で、奚はこれを怨み、その酋去諸は別部をひきいて唐朝に内附し、媯州の北山によって、ついに東奚・西奚となった。 室韋は契丹の別種で、東胡の北辺にいた。けだし丁零(トルコ族)の苗である。その地は黄竜の北、傍峱越河畔にあたっており、京師の東北七千里にあたる。東は黒水靺鞨、西は突厥、南は契丹、北は海にのぞむ。その国には君長はなく、ただ大酋長はみな莫賀咄と号し、その部を管轄して突厥に附する。小部は千戸、大部は数千戸、川谷にそって散居し、水草を逐って生活す る。徴税はなく、狩猟はつねに衆をよび集めて行ない、おわるとみな散居する。互いに属することがない。ゆえに部人は猛悍で戦闘を喜んだが、ついに強国となることはできなかった。木を切って犂をつくり、人がそれを挽いて田を耕すので収穫は甚だすくない。その気候は寒くて夏は霧や雨、冬は霜や霰が多い。その風俗は、富人は五色の珠をもって顔に垂れる。結婚すれば男子がまず女子の家で役し、 三年たつと家産を分与され、妻とともに家産を車載して鼓舞して還る。夫が死ぬと妻は再婚しない。部ごとに大棚をつくり、死する者の屍はその上におく。喪期は三年である。土地には金・鉄がすくなく、多く高麗に資材を仰ぐ。武器には角弓・矢があり、人びとは弓射をよくする。つねに夏はむし暑い。西は貣勃山・次対山の二山を保守する。山には草木・鳥獣が多い。しかしブヨに苦しむので、巣居して避ける。酋長が死ぬとその子弟が継ぎ、子弟がいなければ部内の豪傑者を推し立てる。多くの人びとは牛車に乗り、蘧蒢(アンペラ)をもって部屋をつくる。水をわたるには薪を束ねて桴(いかだ)とし、あるいは皮(かわぶくろ)をもって舟をつくる。馬の下鞍はみな草で、手綱も草を編んでつくる。住居はあるいは皮で部屋をおおうか、あるいは木をまげて蘧蒢(アンペラ)でおおう。移動するときはそれらを車載して行く。その家畜は、羊はおらず、馬も少なく、牛はいても使わない。大豚がいて、人びとはこれを食す。その皮をして服や座ぶとんをつくる。その言語は靺鞨語である。 部落は、すべてで二十余にわかれ、嶺西部・山北部・黄頭部は強い部である。大如者部・小如者部・婆萵部・訥北部・駱丹部は、みな柳城(営州)の東北におり、近いものは三千、遠いものは六千里以上である。最西に烏素固部があり、回紇と接し、倶倫泊の西南にあたる。泊(湖)から東に塞没部がある。やや東に塞曷支部があり、最強の部である。啜河の南に居る。河はまた燕支河ともいう。さらに東して和解部・烏羅護部・那礼部・嶺西部がある。北にあるのを訥比支部という。北に大山あり、山のかなたのものを大室韋といい、室建河畔にいる。河は倶倫泊から発源し、めぐって東流する。河の南に蒙瓦部がある。その北は落坦部である。河は東流して那河(東松花江)・忽汗河(牡丹江)に合する。また東して黒水靺鞨部を貫流する。ゆえに靺鞨は河を跨いで南部と北部にわかれる。河は東して海(日本海)に注ぐ。峱越河は東南流してまた那河と合する。その北に東室韋がある。 けだし烏丸東南隅の余人である。 貞観五年(631)に、始めて来朝して良質の貂を貢した。のち再び入朝した。長寿二年(693)に叛したので、将軍李多祚が撃ってこれを平定した。景初年間(707) 再び朝献して突厥征討を援助しようと請うた。開元・天宝年間(713-756)にすべて十回朝献した。大暦年間(766-779)に十一回、貞元四年(788)、奚とともに振武軍に入寇した。節度使唐朝臣は、ちょうど勅使をねぎらっていたが、驚いて敗走した。室韋は勅使を捕らえて大いに殺掠して去った。翌年、使者が来謝した。大和年間(827-835)に三回朝献し、大中年間(847-860)中に一回来朝した。咸通年間(860-874)に大酋の怛烈とがみな遣使して長安に来た。しかし名の知れた夷でなかったので、後のことは史書より失伝した。 黒水靺鞨は粛慎の地に居り、これはまた挹婁ともいい、元魏では勿吉といった。長安の東北六千里のところに位置し、東は海に瀕し、西は突厥に属し、南は高麗、東は室韋と接し、数十部に分かれ、酋長がそれぞれ治めている。その中で顕著なものを粟末部というが、これは最も南に居て、太白山、また徒太山とも呼ばれる、にあたり高麗と接し、粟末水に沿って居住している。この河は太白山に源を発し、西北して它漏河(兆児河)に注ぐ。栗末部のやや東北を汨咄部といい、さらにその次を安居骨部といい、ますます東を払涅部という。安居骨の西北を黒水部といい、粟末の東を白山部という。各部の間隔は遠くて三、四百里、近くて二百里である。 白山はもと高麗に属していたが、唐の軍隊が平壌を取ると、その部衆は多く唐の治下に入った。汨咄・安居骨らは皆逃げ散じ、しだいに衰弱してわからなくなり、遺民は逃げて治下に入った。ただ黒水だけは完全で強く、十六の部落に分かれて南と北とに対立している。思うに、これは最も北方に居るものである。その人は勁健で、歩兵戦をよくし、常に他の部を恐れさせている。風俗は、編髪で、猪の牙を綴り雉の尾を挿して冠の飾りとし、おのずから他の諸部と異なっている。性質は残忍精悍で、射猟を善くし、心労がない。壮者を貴び老人をいやしむ。住居には家屋がなく、山川に沿って土地を掘り、その上に木の梁をわたして土を覆い、 家のようである。夏は穴から出て水や草を追い求め、冬は穴に入って暮らす。尿で顔を洗い、夷狄の中で最も不潔である。死者は埋めるが、棺桶がなく、生前乗っていた馬を殺して祭る。その酋長を大莫払瞞咄といい、代々継承して長となる。文字がないその矢は石鏃で、長さが二寸であり、恐らく桔矢石塔の遺法である。 家畜には豚が多く、牛羊がない。車・馬があり、田は耕し、車は歩いて推す。 粟麦があり、土地には貂鼠・白兎・白鷹が多い。塩泉があり、水気が蒸発して、塩が樹上で凝固する。 武徳五年(622) 酋長の阿固郎は始めて来朝し、太宗の貞観二年(628) 臣附し、常に貢献した。地を燕州とした。皇帝が高麗を伐つと、その北部は反し、高麗と合同した。高恵真らが部衆を率いて安市を助けたが、戦うごとに靺鞨は常に前方に居た。帝は安市を破り、恵真を執え、靺鞨の兵三千余を捕らえて、悉くこれを穴埋めにした。 開元十年(722) その酋長の倪属利が来朝すると、玄宗は直ぐ勃利州刺史に任じた。そこで安東都護薛泰は、黒水府を置き、部長を都督・刺史とすることを請うた。朝廷はそのため長史を置いてこれを監督し、府都督に李氏の姓を賜わり、献誠と名づけ、雲麾将軍の位をもって黒水経略使を兼任し、幽州都督に隷属させた。帝の末年まで十五回来朝し、大暦年間(766-779)に凡そ七回、貞元年間(785-805)に一回、元和年間(806-820)に二回来朝した。 初め黒水の西北に思慕部があり、さらに北に十日行くと郡利部があり、東北に十日行くと窟設部があった。これはまた屈設とも号した。それからやや東南に十日行くと莫曳皆部があった。また払涅・鉄利・虞婁・越喜などの部があった。その地は、南は渤海を踊り、北と東は海に際まり、西は室韋にあたる。南北の長さは二千里で、東西は千里である。払涅・鉄利・虞婁・越喜はときどき中国に通じたが、郡利・屈設・莫曳は自ら通ずることが出来なかった。いまその京師に来朝しているものを左に附記する。 払涅はまた大払涅とも称し、開元(713-741)、天宝(742-756)年間に八回来て、鯨睛(鯨の眼球の水晶体)・貂鼠・白兎の皮を献じた。 鉄利は開元年間(713-741)に六回、越喜は同年間に七回、貞元年間(785-805)に一回、虞婁は貞観(627-649)年間に二回、貞元年間(785-805)に一回来た。その後、渤海が盛んとなり靺鞨は皆これに付属したので、ふたたび会同して朝献しなかった。 渤海は、もとの粟末で、高麗に付属していた。姓は大氏である。高麗が滅亡すると、その民を引き連れて挹婁の東牟山を確保した。この地域は営州から東方二千里離れた所にあり、南北は泥河を境にし新羅と相対している。東は海で、西は契丹と境を接し、城郭を築いて守りを固めていた。高麗の亡命者は、しだいにこの地にやって来た。 万歳通天年間(696)に、契丹の李尽忠は営州都督の趙に反逆して彼を殺した。舎利の乞乞仲象は靺鞨の酋長の乞四比羽や高麗の遺民たちとともに東に移り、遼水(遼河)を渡って太白山(長白山)の東北を確保した。この地は奧婁河 (牡丹江)に遮られ、壁を築き、守りをしっかり固めていた。武后は乞四比羽を許国公に、乞乞仲象を震国公に、それぞれ封じることによってその罪を許そうとした。しかし、比羽はその命を拒否したため、武后は玉鈐衛大将軍の李楷固と中郎将の索仇にして比羽を殺させてしまった。この時、仲象は既に死んでおり、その子祚栄は残った者を引き連れて遁げ去った。楷固は祚栄の後を追って天門嶺を越えたが祚栄は高麗と靺鞨の兵をあげて楷固の軍隊に攻撃をかけたので、楷固は敗れて引き揚げていった。この時、契丹が突厥に付いたので、唐軍の道は断たれてしまい、討ち克つことができなかった。祚栄は比羽に従う民を組み入れた。その地が唐から遠く離れているのを幸いに、国を建て、祚栄はみずから震国王と名告り、また使者を遣わして突厥と国交を結んだ。震国の面積は五千里四方で、戸数は十余万、精兵は数万人、非常に書物を知っていた。扶餘・沃祖・弁韓・朝鮮海北のそれぞれの故地にあった諸国は、すべて震国の領土になった。中宗の代に、侍御史張行岌を使者として遣わされ、祚栄を招撫したところ、祚栄はその子に入侍させた。睿宗の先天年間(712)に使を遣わして祚栄を左驍衛大将軍・渤海郡王とし、その支配領域は忽汗州として、祚栄を忽汗州都督に任じた。この時以来、靺鞨の名称は使わず、渤海と称するようになった。 玄宗の開元七年(719)、祚栄が死ぬと、その国では私に高王の諡号を付けた。子の武藝が王位に就くと、彼はおおいに領土を開拓し、東北の諸夷は畏れて服従した。また独自に年号をつくり、はじめに仁安とした。帝(玄宗)は武藝を冊立し、王位とその所領を継承させた。それから間もなく、黒水靺陽の使者が入朝したので、帝はその地を黒水州と定め、長史を派遣して総督させた。武藝は部下を召集して謀議した。「黒水は、はじめわが領域を通過して唐と通交していた。また往時、突厥に吐屯の官を乞うた時もあったが、いずれの場合もまずわが国に報告してから事を運んでいた。しかるに今、唐の官僚になることを請い、それをわが国に告げようともしない。このことはまさに唐と謀って、両方から自分を攻めようとするものであろう。」と言った。そこで弟の門藝と舅の任雅相に命じて兵を徴発させ、黒水を攻撃させようとした。しかし門藝はかつて人質として唐の京師で滞留していたことがあったため、出兵することの利害を充分知っていたので、武藝を諌め、「黒水が唐の臣下にならんと願い出ている矢先に、わが国がこれを攻撃しようとする ことは、唐に背くことです。唐は大国であり、兵の数もわが国の万倍も備わっております。ここで唐朝の怨みを買うことは、すなわちわが身の滅亡を待つだけです。昔、高麗がその全盛時代に、兵士三十万をもって唐を相手に戦いました。はたして、この行為が雄強だと謂えたでしょうか。唐兵は、ひとたび戦いに臨んだだけで、かの地をことごとく一掃してしまったではありませんか。今、わが国の兵数は、その高麗の兵の三分の一にすぎません。王が私の諫言を聞きとどけないなら、よくない事態を招来しましょう」と言ったが、武藝はこれに従わず兵を唐の国境まで送った。その地で門藝は再び武藝に書を送り、出兵を固く読めた。ところが武藝はますます怒り、従兄の壱夏を代将としてその国境へ送り、門藝を召還して殺そうと企てた。この全てを知った門藝は、身に危険を感じたので、みずから唐に投降した。そこで玄宗は門藝に左驍衛将軍の官位を授けた。武藝は使者を派遣して、門藝の罪状の一部始終を報告させ、門藝を処刑したいと願い出た。ところが玄宗は門藝を安西に移すように、という詔を下しながら、武藝にうまく知らせた。「門藝は進退窮ってついに我が国に投降して来たのであるから、これを殺してしまうわけにはいかない。それに、今はすでに悪地に流してあるので、ここにはもう居ない。」という内容であった。そして武藝の使者を留めて帰そうとせず、その代りに鴻臚少卿李道邃と源復に命じて、この詔を武藝に知らせた。しかし武藝は、本当のところ大門藝が悪地に移されていないということを聞き知ったので、上書し、「陛下におかれましては、不当にも過をもって天下に示しておられます。」といい、必ず門藝を殺そうとした。帝は、道邃と復が国家の機密を漏言してしまったことに立腹し、二人を左遷してしまった。また、表面的には門藝を斥けるそぶりをし、そうして武藝に対しては偽りの報告をさせた。 十年後、武藝は、大将の張文休に命令を下し、海賊を率いて登州を攻撃させた。帝は、急拠門藝に命令を下し、幽州の兵をあげて武藝の軍を攻撃させた。太僕卿の金思蘭を新羅に帰し、新羅の兵を進めて渤海の南辺を撃たせた。たまたま大寒に見舞われ、雪がうず高く積もり、半数以上も兵士が凍死したため、なんらの成果もあげられずに引き返さざるをえなかった。武藝は、弟の門藝を討つため刺客を募って東都に侵入させ、路上で大門藝を狙い刺そうと謀ったが殺せなかった。河南府は、この刺客を捕えてすべて殺してしまった。 武藝が死ぬと、その国では私に武王と謚をした。その子欽茂が位に就くと、改元して大興とした。詔して欽茂に王位と所領とを継承させた。これにより欽茂は国内を大赦した。天宝年間 (742-756)の末頃、欽茂は首都を上京(竜泉府)に遷した。ここは旧国から三百里離れた所で、忽干河の東側にある。玄宗帝の時代に二十九回朝貢使を派遣した。宝応元年(762)、詔して渤海(を渤海)国に昇格させ、また欽茂を王に進めて、検校・太尉の位も授けた。大暦年間(766-779)には二十五回の朝貢使が派遣され、ある時は日本の舞女十一人が献じられた。貞元年間(785-804)に、都を上京の東南方の東京(竜原府)に遷した。欽茂が死ぬと、文王と諡された。その子宏臨は早死のため、族弟の元義が即位したが、一年で猜疑と怨念のため国人に殺され、宏臨の子華璵を推して王位につけ、再び上京(竜泉府)に都を遷した。また改元して中興とした。華璵が死ぬと、成王と諡された。 欽茂の末子嵩鄰が即位し、正暦と改元した。詔して右驍衛大将軍とし、王位を継がせた。建中年間(720-783)から貞元年間(785-805)にかけて、四度使者が派遣された。嵩鄰が死ぬと、康王と諡された。その子元瑜が即位すると、永徳と改元した。死ぬと、定王と諡された。弟言義が即位し、朱雀と改元し、また王位を継ぎ、その他の称号も以前の通りであった。死ぬと僖王と諡された。 ついでその弟明忠が即位して、太始と改元した。一年で死に、簡王と諡された。つぎに従父仁秀が即位すると、建興と改 元した。四世の祖にあたる野勃は、祚栄の弟である。仁秀は、海北の諸部族を討ち倒して、領土の拡大に成功した。詔して検校司空に任命し、仁秀を王位に就かせた。元和(806-820)年間に、使者がおよそ十六度朝貢に来た。長慶年間(821-824)は四度、宝暦年(825-827)は二度の朝貢であった。大和四年(830)に仁秀が死ぬと、宣王と諡された。その子新徳は早死のため、孫の彝震が即位し、年号を成和と改めた。翌年詔して位を継がせた。文宗代には使者が十二回も来朝し、会昌年間(841-847)には四回遣わされてきた。彝震が死ぬと弟の虔晃が即位し、死ぬと、玄錫が王位を継いだ。咸通年間(860-874) には三度朝貢使が派遣された。 はじめ学生が京師にある大学にしばしば派遣され、古今の制度を習得させ、ここにいたって海東の盛国へと発展を遂げた。行政区画は五京・十五府・六十二州である。粛慎の故地は上京と定め、竜泉府と名付けられ、竜・湖・渤の三州を治めた。南方を中京とし、顕徳府と名付けられ、盧・顕・鉄・湯・栄・興の六州を治めた。かい貊の故地は東京と定め、竜原府とした。これはまた柵城府とも呼ばれ、慶・塩・穆・賀の四州を治めた。沃沮の故地は南京と定め、南海府として沃・睛・椒の三州 を治めた。高麗の故地は西京と定め、鴨淥府とし神・桓・豊・正の四州を治めた。長嶺府は瑕・河二州を治めた。扶餘の故地には扶餘府を置き、常に強兵を配備して契丹に備え、また扶・仙二州を治めた。鄚頡府は鄚・高二州を治めた。挹婁の故地は定理府とし、定・潘二州を置き、安辺府は安・瓊二州を置いた。率賓の故地は率賓とし、華・益・建三州を治めた。払涅の故地は東平府とし、伊・蒙・沱・黒・比の五州を置いた。鉄利の故地は鉄利府とし、広・汾・蒲・海・義・帰の六州を置いた。越喜の故地は懐遠府とし、達・越・懐・紀・富・美・福・邪・芝の九州を置いた。安遠府には寧・郿・慕・常の四州を置いた。また郢・銅・涑の三州は独奏州とした。涑州の近辺に涑沫江(北流松花江)が流れ、それ思うにいわゆる粟末水であろう。竜原府東南の沿海は、日本道である。南海府には新羅道が、鴨淥府には朝貢道が、長嶺府には営州道が、扶餘府には契丹道が、それぞれあった。 俗称では王を可毒夫、あるいは聖主、あるいは基下といった。王の命令を教という。王の父は老王、母は太妃、妻は貴妃、長子は副王、諸子は王子と呼ばれた。官職は、道には左相長官・左平章事・侍中・左常侍・諫議がこれに属す。中臺省には右相・右平章事・内史・詔誥・舎人がこれに属す。政堂省では大内相一人が左右相の上に置かれ、左右司政が各一人、左右平事の下に配置される。これは唐制の左右僕射に相当する。左右允は(唐の)二丞に当たり、左六司は忠・仁・義部の三部を統率し、おのおの一人の卿が属され、これは司政の下に置かれた。その支司に爵・倉・膳の部があって、部の長官は郎中で、員外もあった。右六司は智・礼・信の部を統率し、その支司に戎・計・水の部があり、その卿郎は左に準ずるもので、いずれも六官に相当する。中正臺には大中正が一人置かれ、御史大夫に相当し、司政の下に配置され、少正一人が置かれた。また殿中寺・宗属寺には大令がいた。文籍院は監令といい、監にはすべて少監が属していた。太常寺・ 司賓寺・大農寺は卿である。司蔵寺・司膳寺は令で、(次官は)丞といった。冑子監は監長といわれた。また、巷伯局には常侍の官があった。 武員には、左右の猛賁衛・熊衛・罷衛と、南左衛・南右衛と北左衛・北右衛があり、それぞれ大将軍一人、将軍一人が置かれた。手本がたいてい中国の制度に倣ったものであるというのは、かくのごとしである。官位の秩序形式は、三秩以上の服色は紫色で、牙笏と金魚袋をもつ。五秩以上の場合は緋色で、牙笏と銀魚をもつ。六秩・七秩は浅緋衣で、八秩は緑衣で、それぞれ木笏である。 珍重されるものは、太白山(長白山)の兎、南海の昆布、柵城の豉、扶餘の鹿、鄚頡の豕、率賓の馬、顕州の布、沃州の綿毛、龍州の紬、位城の鉄、盧城の稲、湄沱湖の鯽と、果実では九都の李、楽游の梨である。 その他の風俗は、高麗・契丹とほぼ同じである。幽州の節度府と互いに使者を派遣しあっていた。(幽州の節度のある)営平から唐の都まではほぼ八千里もあり、遠くて、その後朝貢があったかどうか、史家は伝を失い、反乱を起こしたのか、臣附していたかはわからない。 賛にいう、唐の徳の偉大なるかな!領土の際は天の覆うところを、ことごとく臣下として所蔵させた。海辺にいたるまでの広大な地の内外は、州県としないところはなかった。遂に天子を尊んで「天可汗」といった。三皇五帝以来、いまだこのようなことはなかった。辺境の酋長らは唐の印璽や旗印をまって国を治め、すべて賓客としないということはなく、外敵は簡単に捕らえられ、南蛮・東夷の財宝はあいついで朝廷に運び込まれた。衰えるのはきわめて激しく、その禍いは内に移り、天宝年間以降、天下は衰退し、唐軍は北は黄河を越えることなく、西は秦・邠の地でとどまった。外敵を凌ぐこと百年、ついに滅亡した。顧みるに痛ましいかな!そのためにいう、「自分の修養に励んで徳を積み、その徳で人々を感化する、これは聖人がよくすることである」と。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百一十八 列伝第一百四十三 『新唐書』巻二百一十九 列伝第一百四十四 巻二百二十 列伝第一百四十五
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どうにか、列伝編集もひと段落しました。 ところで、新武将のマスクデータはどうしましょうか。 テンプレを改編する必要がありますが… -- (名無しさん) 2010-06-12 15 32 05 >マスクデータ そこまで必要無いかと。列伝読んだ個々のご想像にお任せで -- (名無しさん) 2010-06-12 15 53 48 乙支文徳・・・文武両道・万能の将軍だったようだがそれ故どう評価してよいのか悩むね。殲滅+機略+不屈みたいな感じなのだが、さてどうしたものか? -- (名無しさん) 2010-06-19 05 22 44 >うるち 虚実でよさげ -- (名無しさん) 2010-06-19 07 42 31 中国武将は日本語読みなんだし朝鮮も日本語読みで統一したほうがいいのでは -- (名無しさん) 2010-06-19 10 11 51 列伝を読みやすく整えてくれるのは良いんだが、ドサクサに紛れて能力値まで書き換える必要はないと思うな。 -- (名無しさん) 2010-06-19 12 26 46 ↑↑リシュンシンってなじみが薄いと思って朝鮮読みに統一したんだが 最近の教科書ではどう載ってるんだろう -- (名無しさん) 2010-06-19 14 10 45 こと半島に関しては現地の音に近い表記でほぼ統一されてるっぽい。 李承晩(イースンマン)安重根(アンジュングン)等々。日本語読みは この十年近く見たことない。 -- (名無しさん) 2010-06-19 15 43 02 百済→ペクチェ 新羅→シルラ 高句麗→コグリョ 各国でさえこうです。大陸のほうは殆ど日本読みなのに・・・? -- (名無し) 2010-06-20 21 03 10 ↑の3つまとめて曰く。漢字を自国語式で読むか、ハングルをローマ字みたくそのまま音読するかの違いでしょ?そう考えれば案外合理的かもよ。 -- (名無しさん) 2010-06-20 22 18 54 うるちの能力値を考えるに、李舜臣よりは上だろうとか思ったら(曹操+典韋)のいいとこ取りみたいになるのだが、それって妥当なんでしょうかね? -- (名無しさん) 2010-06-22 11 45 52 >うるち 自由に決めていいと思うが、個人的には曹操や周ユくらいで十分過ぎるくらい優秀でないかと思う。武力90台は個人の武勇で戦を引っくり返せるレベルじゃないかね。 -- (名無しさん) 2010-06-22 14 09 34 おっと・・・ウルチ更新してしまいました。考えられてた方変更どうぞー 李舜臣は自分が更新してないので比較はしてなかったり -- (名無しさん) 2010-06-23 14 09 22 みてる分には面白いけど、やっぱり自分が好きな武将だからか、能力にブースターがかかってるのが半分以上いるな。 -- (名無しさん) 2010-06-23 17 32 48 ↑基本的には有名どころが揃っているわけですから、どうしても強くなりがちになってしまいますね。 いにしえ武将達が強力なのと同じことですから。 -- (名無しさん) 2010-06-23 17 58 22 あー、うるちがいい塩梅にw。乙でした。 -- (名無しさん) 2010-06-23 20 06 50 特に文句を言うつもりはないが、後漢の武将強すぎワロタw 武将の充実度といい高めに設定されたステといい、作成者はここに投稿する歴史好きの中でも群を抜く後漢好きとみえる。 -- (名無しさん) 2010-06-24 03 49 44 作成者です。後漢が格別好きってことはないのですが確かに全体的に贔屓目かも 耿弇・寇恂・岑彭・馮異・祭遵と迷う事ない名将揃いなのも一因かも。 筆頭の鄧禹は最後まで悩んで、最も数値化が分からなかった人物でもあります。 -- (名無しさん) 2010-06-24 10 33 37 そしてちょこちょこ細かいところを 修正訂正してくれてる方ありがとうございます。 ミス多くて申し訳ない。 -- (名無しさん) 2010-06-24 10 37 42 やはり能力値の設定にはどうしても異議が出てくるようなので、少し注を付けてみます。 -- (名無しさん) 2010-06-24 23 22 08 元々人の能力を数値化するのは難しく、まだ三国志は知名度と比較対象の多さで判断し易いが、時代が違っちゃうと尺度がわからない。 そうすると、どうしても自分に馴染の無い人物には辛くなる物。公式の能力ですら議論は絶えません。 あまり気にしなくてよいでは。逆に情報量が多くなる事に難色を示す人もいますし。 -- (名無しさん) 2010-06-25 16 39 29 冒頓の評価高ぇ・・・ でも実際にそのぐらいありそうだから困る。 どこの勢力、または土地に配置するのがそれっぽいかな? -- (名無しさん) 2010-06-27 01 26 31 天水がそれっぽいかと。扶風を脅かすのがいかにもな感じがするのですが・・・ -- (名無しさん) 2010-06-28 00 40 44 欧州…さすがに芸がないと言わざるを得ないわ。 「欧州の偉大な学者たち」という1人の武将にしか見えん。 -- (名無しさん) 2010-06-28 20 58 57 ↑随分前に更新されてたものだから作った人はもういないかもしれない -- (名無しさん) 2010-06-28 22 30 44 そもそも、名前自体入力できませんが… -- (名無しさん) 2010-06-29 03 36 53 まあ、学者はネタでしょw権謀術数と理数系の頭の良さは別物。自分はW盃記念に魔羅道名や怒云雅を作ったが、南米ないな……w -- (名無しさん) 2010-06-29 07 27 34 時代背景いいね。GJ!! -- (名無しさん) 2010-07-04 14 21 11 「以後」にあった金元清関係の武将をそれぞれに移動させました -- (名無しさん) 2010-07-04 14 54 48 しかし、相変わらず伝が丸写しだねえ……中華の歴史上の人物コンプしそうな勢いだし、これではページがいくらあっても足りないんじゃ? -- (名無しさん) 2010-07-04 19 22 40 ↑仰る通りではありますが、武将も無限にいるわけではありませんから… ある程度すれば収まるのではないでしょうか。 -- (名無しさん) 2010-07-04 19 29 45 自分も歴史好きなので薀蓄を披露したい気持ちはわかるが、新武将は攻略とは言えない個人的趣味の世界。 そこを所有者でも無い人間がどんどん拡張してまで追加していくのはどうだろう? 無限ではないと言うが、自分が知ってるだけでも中国史の有名所はまだ相当残っているし、 これが日本や世界の人物、はては架空ネタまで飛び火すれば本当に際限は無くなりますよ。 列伝を小さくと言っているのは、そういった事まで考えた上での話。 正直、個人的には列伝は不要だと思います。 コメの戦国武将一覧みたいに名前と能力だけで遊ぶ分には十分だし、それなら情報量も大した事無い。 PCでないと列伝はいじれませんし、興味持ったらwikiで調べれば済む物では? 参考にしている人も居るかもしれないが、大半の人には不要な情報。それを認識した上で編集していただきたい。 -- (名無しさん) 2010-07-05 10 00 18 大半の人には不要な情報。 興味がないなら新武将のページだけ見なきゃいい話だろ・・・ -- (名無しさん) 2010-07-05 12 29 49 俺は列伝があったほうがいい 今は有志にまとめられて250字くらいで読みやすいし 読めばそこからいろいろ興味もわいたりする あと、容量については管理人が言うことだと思う 全体の容量がどれだけか分からないけどピンチなの? -- (名無しさん) 2010-07-05 14 16 47 まぁ言わんとすることもわからん訳ではないが、簡潔にまとめられているのでOKなのではないだろうか。 「この武将はなんでこんなに高知力なんだ?」とか知らない武将をちょこっと見たいときとかに列伝は有効だからな。 あと、↑3に言いたいのだが、容量云々言うのなら、コメントも簡潔にしてくれ。9行も書く内容ではないぞ? -- (名無しさん) 2010-07-05 14 32 46 言い忘れてた、名前が書ききれない、東郷平八郎とかシュリニヴァーサ・ラマヌジャンとかはどうすればいいんだ? 新武将一覧に必要なのか? -- (名無しさん) 2010-07-05 14 36 01 ↑5だが、自分は別にやめろとは言ってない。ただ、増やす前に削る作業を優先すべきだと言っているだけの事。 ↑も指摘している様に、実用性の無いネタっぽい物やまだまだ伝の長い物は多い。 興味がないからではなく、あるからこその発言であり、改善されたなら自分の発言は消すつもり。 何度も言うが、ここは個人的趣味を公開してるだけなのだから節度が大切。 それとも、みなさんは自重よりもプレイ動画の様にアニメや他のゲームのキャラが乱舞する事をお望みですか? それなら自分もはっちゃけますが……。 -- (名無しさん) 2010-07-05 17 59 02 ↑6の3行目までは納得できるんだけどなぁ。 「そういったことまで考えた上で」と言ってるが、その中身がほとんど現実味を帯びてないんだよなぁ。 「中国史にはめちゃくちゃ詳しいけど欧州史や日本史は全く興味ない」って人はほとんどいないはず。 それなのに最近の更新は中国史に限定されてる。この事実を無視して自重を知らないというのはいかがかと思う。 ましてやアニメやゲームのキャラなんてどこにもいないだろうに。 ちなみに、自分はむしろ能力値より列伝のほうがほしいわ。 能力値は(作者や時代にもよるが全体的に)高すぎてそのまま使うとチート武将無双になるから下方修正かけなきゃいかん。 そういうときにwikipediaを要約してくれている列伝はそれなりに参考になる。 -- (名無しさん) 2010-07-05 18 53 30 ↑↑節度が大切って言いながら最後の2行はなんだよ・・・ 結局自分の思いとおりにしたいだけじゃねえか お子様は帰ってくれ頼む -- (名無しさん) 2010-07-05 20 15 12 みんながみんな揚げ足取りをしているようでは議論は終わりませんよ。 悪い部分ばかり抜き出すのではなく、ちゃんと的を射た事もおっしゃってるんですからね。 個人的には列伝は見ていて楽しいです、が容量の問題が切迫しているのなら、 それに対処するのも決して間違ったことではないでしょう。 ですから、列伝は残しつつ、できる限り要約した内容にしてまとめ、 そこからまた添削していけばいいのではないでしょうか? -- (名無しさん) 2010-07-06 00 27 00 揚げ足を取っているという言い方は正直納得できないが、まぁそれはもういいや。 時々列伝が削られてるみたいだけど、本格的にやるなら何らかの基準が必要だと思うよ。 ちなみに文章削除は慎重にしたほうがいい。個別武将のページでも「加筆は大胆に、削除は慎重に」というのが基本ルールだった。 もう一つ言うと、容量の問題は時々憂慮する声が聞かれるが、実際に管理者が「容量がヤバイ」と言ったことはないはず。 一部の人間の推測だけで文章を削ることに対しては慎重になるべきだと自分は思う。 -- (名無しさん) 2010-07-06 00 41 30 @WIKIについて調べてみたが、1ページあたりの制限はあるが、 ページ数とファイル数の制限は無いようです。 添削については見易い様にしてくれてるのはわかるが、 更新者が入れたかったであろう?エピソードとかがばっさり 切られてるのが見受けられるのは確かに俺も気になる。 まだ残ってるけど長すぎるのはバッサリやってくれていい。 -- (名無しさん) 2010-07-06 00 46 08 添削作業をしてる者だけど「250字以内」「読みやすく」を基準にしてる 後者は言わずもがな、前者は「ここはゲームのwiki」だからゲーム内で使えるサイズにしてるだけなんだ。 「武将の列伝を見るのが好き」な気持ちはわかるけど、本分を大事にしようよ。 どうしても読みたいのなら、wikipediaにリンク張っておくとかね。 -- (名無しさん) 2010-07-06 01 46 06 列伝を削るなとは言わないけど、その作業はあなたの独断で残すエピソードとか決めてるわけでしょ? そりゃ250字だからほとんど残らないかもしれないけど それでも「網羅的な解説をするorある一部のエピソードに焦点を当てる」など、悩むべき点はあるはず。 「本分を大事にすれば何やってもいい」とは思っていないだろうけど、独断専行は誤解を生むよ。 尤も、新武将なんてオマケなんだから列伝編集くらい個人裁量でいいっていう合意が得られれば、俺もお手伝いしますよ。 -- (名無しさん) 2010-07-06 01 59 17 ここが「みんなの新武将」である以上、中国史上の人物であろうと、それこそアニメキャラであろうと同じ新武将のハズ。 それなのに中国史武将はいくら増えても良く、他はダメという理屈はおかしいと思うし、だからこそ他が出てくる前に程々にと言ってる訳です。 列伝を小さく出来ないなら、「みんなのいにしえ武将」を作って中国史の人物と他を差別化しては? いにしえは列伝付きの本格派。新武将は小ネタって感じで明確に別れていれば、規制にもなるでしょう。 -- (名無しさん) 2010-07-06 03 55 09 ↑確かにそのとおりですな。 荒れないためにも分割に一票。 -- (名無しさん) 2010-07-06 05 00 14 ↑2もし↑10と同じ人物なら頭を冷やして自分の主張を読みなおしたほうがいい。 その分割案は現行の武将の列伝を削らないうえに、もう一方のページにはどんな人物も記述していいと認めることになるので 間違いなく今以上に節操がなくなるだろう。 それと、よく読むと列伝を削ること自体に反対している人はいなかったりする。 根本的な考え方の差なのかもしれないけど、今の現状を見てどうして他に飛び火する可能性をそこまで憂慮するかな。 自分は、掲載は中国史の人物が望ましいという暗黙の了解があるから(つまり中国史の人物とアニメキャラを一緒くたにしている人はほぼいない)変にいじるよりこのまま放置した方が穏やかだと思うんだけど。 個々の武将のコメント欄も、最初は記述が殺到して、誤情報もいくつか載ってしまってたこともあるけど今は落ち着いてるし。 -- (名無しさん) 2010-07-06 06 23 50 それとも、みなさんは自重よりもプレイ動画の様にアニメや他のゲームのキャラが乱舞する事をお望みですか? 長々と講釈垂れてると思ったらただの勘違い自治気取りだったのか・・・ -- (名無しさん) 2010-07-06 10 26 36 ↑3だが、みんなの意見を尊重したからこそ、次善策を提示してみたのですが? 最初からよく読み返して欲しいと思っているのは、むしろこちらの方です。 自分の主張は一貫してここは攻略と関係ないから程々にです。 そして元々それは、趣味の領域であるここへの風当たりが、更新履歴が目立つ事によって強くなる事を懸念しての忠告であり、現在頻繁に更新している方なら話がわかる方と思っての物でした。 アニメや容量の話を持ち出したのは例えに過ぎませんし、列伝いらないと言うのは個人的な感想でそうしろとは言ってないつもりです。 今回の分割案は、そんなに要望があるなら史実武将を趣味から攻略に昇格させてはと提案しているんです。 暗黙の了解が本当に成立するなら、暴言や他人の意見を勝手に消したりといった最低限のマナーに反する言動も無くなるはずでは? もちろん、そういった人は一部でしょうが、すみませんが、自分は全ての人を信頼してはいません。 大分前の更新ですが、信長や西洋の学者といった前例もありますし、最近の種分けで埋もれていた物が目立つようにもなりました。 それを真似して、例えば信長の武将を大量に列伝つきでのせる人が現れないとも限らない。 そしてそれが起きた時、いくら文句を言おうと強制的に消せるのは原則管理者さんだけのハズ。 だから、そうなった時にそれを容認するのか、ダメなら先に何らかの手をうつべきとの問題提起もこめ、様々な例えを出してみたのですが……。 そんな事は絶対起きるはずが無いと皆さんが仰るなら何も言う事はありません。 まあ、ここが意外と皆さんに好意的に受け入れられている事がわかりましたので、以後口出しせず見守る事にします。 -- (名無しさん) 2010-07-06 18 45 17 もう言ってる事がムチャクチャだな。 -- (名無しさん) 2010-07-06 21 58 46 ↑2・・・コメント長すぎだってば。 で、結局名前が入りきらない欧州の人物はいるの?いらないの? -- (名無しさん) 2010-07-06 23 17 04 すまん、よく見てなかった!もうなくなってたよ(-_-;) -- (すぐ上の愚か者) 2010-07-06 23 18 39 >自分は全ての人を信頼してはいません。 何様のつもりなの? -- (名無しさん) 2010-07-07 10 26 06 もう、やめようよ・・・ -- (名無しさん) 2010-07-07 10 29 24 …どうにか、後漢編も終わりました。 これで、一つの山が終わったかと思います。 -- (名無しさん) 2010-07-08 22 41 17 投稿された列伝や能力値は投稿者以外でもいじってよろしい? 一部「やりすぎ」感のあるものは修正したいのですが。 -- (名無しさん) 2010-07-09 13 16 54 能力値の編纂は編集合戦になりかねないから好ましくない 「やりすぎ」感のある将と理由と書いて賛同を得るのが筋かと -- (名無しさん) 2010-07-09 13 22 17 ていうか新武将なんだしゲーム内で自分好みに変えればいいんでは? -- (名無しさん) 2010-07-09 14 29 19 ↑そりゃそうだ!理由を書いたら書いたで新たな紛争のネタになるだけ。 -- (名無しさん) 2010-07-09 14 33 58 ↑x2ゲームでこの設定を採用する気はさらさらないけど 同じ項目内にある武将と比べてしまうからヲイヲイと思う事はある 他と比較しない独自見解のみの人は、一旦コメント欄で書いて反応見てから追加してくれないかな 特に女武将。 -- (名無しさん) 2010-07-09 18 45 16 王元姫に丁氏、有名でも美女でもない人の魅力90台はちと引く。 前者は他の数値も高すぎると思う。そこまでの実績ないでしょ? -- (名無しさん) 2010-07-09 19 38 01 丁氏と曹操の悲恋話は比較的有名かと。 第一、美女かどうかなんて実際誰にも分ったことではないし、 正室になるくらいなら、美貌も、ある程度の才も備えているはず。 引くほど過大だとは思いませんが? -- (名無しさん) 2010-07-09 23 26 23 ・・・また始まるのかい? -- (名無しさん) 2010-07-09 23 39 36 伝や解説だけ書いて投稿すればいいんじゃないかな?能力値や適性を入れるから、くだらないケンカが起きる。 リアルっぽさを求めて新武将作りたい人が殆どだろうから、それだけで十分資料になりうると思う。テンプレをなくしちゃえばいい。 -- (名無しさん) 2010-07-10 02 03 03 だからここは議論する場じゃないっつーに ヲイヲイって思ってたらいいんだよ勝手にな -- (名無しさん) 2010-07-10 10 53 49 引くって言い方は悪いが、魅力90代は傾国の美姫ってイメージはわかる。 能力値はイメージの近い武将に似せたり、同年代武将と比較するといいと思う 丁氏なら弁氏やビ氏辺りと、元姫は張春香かな。 後はやや弱めにして特技を実用的な物(丁氏なら仁政とか)にしたりしてバランスをとるとか。 武将データ詳細版は能力値順とかにも出来るから、それを参考にしたりね。 -- (名無しさん) 2010-07-10 12 58 36 まぁ、そーやって一生懸命能力値を考えてみても、万人が納得する能力値なんて作れっこない。 ↑2は、口こそ悪いが言っていることは正しく思える。あと、生年が「?」の人物がいるが、なんとなくのイメージでいいから、生没年を数字にしてほしいなぁ。 能力値以上に迷う・・・ -- (以降能力値の議論は止めよう) 2010-07-10 17 13 36 ↑仰りたいことは分かりますが… 本当に資料不足でイメージすら特定出来ないというのが正直なところです。 -- (名無しさん) 2010-07-10 23 34 55 水滸伝補完(地煞星七十一員)の残りの好漢を早く追加してくれ -- (名無しさん) 2010-07-12 19 15 46 楽しみにしてるのはわかるが、完全にボランティアなんだから「お願いします」くらいは礼儀だろう。 -- (名無しさん) 2010-07-12 21 04 13 楊文里 【ヤン・ウェンリー】 統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 98 48 100 85 93 神算 C S A C S S 知ってる人は知っている「エル・ファシルの英雄」 -- (名無しさん) 2010-08-06 19 34 54 ↑読みにくくなってしまいましたね。申し訳ございません。 一応特技を・・・槍C 戟S 弩A 騎C 兵器S 水軍S です。 守りで活躍した武将には戟Sが多いのでヤンもSにしました。 -- (名無しさん) 2010-08-06 19 39 13 あれ?楊志の特技って駆逐でしたっけ?疾走だった気がするんですが・・・。 -- (名無しさん) 2010-08-06 22 26 15 ↑あと瓊英と張清は白馬だった気がします。 -- (名無しさん) 2010-08-06 22 27 15 新武将作る時、特殊漢字ってゆー項目ありますよね? その漢字の並び順ってどうなってるんですか? もしくは、どうすれば順番変えられますか? -- (もみあげ) 2010-08-15 12 31 20 ↑おそらくCS版の特殊漢字だと思いますが、あの文字の一覧は基本的に部首並びのはずです。 あれは、常用漢字外の文字をコーエーの側が特別に使用可能にしたものなので、順番を変えたりはまず出来ないはずです。 使えるだけましだと考えるより他ないでしょう。 -- (名無しさん) 2010-08-15 18 44 02 新武将の名前として女媧が入力できなかったのですが、これはゲーム側で認識できない文字だからどうしようもないという事なんでしょうか? 無双シリーズには出てたのに名前使用不可とか悲しい事に… どなたか分かる方いらっしゃったら回答お願いします。 -- (名無しさん) 2010-08-16 01 06 15 ↑×2さん【。+゚ぁりヵゞとぅご±゛ぃまUナ=。+゚】ヾ(・ω・`o) ケイカのケイの字とか、ない漢字もあるんですか? ハンカイのカイの字もない>< 解答お願いします -- (もみあげ) 2010-08-16 07 10 24 新規武将の名前決めれないときは、西洋名を中国語にしてみるとおもしろいかも。 ゼウスだと宙斯、オーディンだと奥丁みたいに。 72柱やデビルマンの元ネタで有名なアモンは中国語で書くと亜蒙とか、 他だと巴力でバール、阿加雷斯でアガレス、巴巴妥司でバルバトス、貝雷特でベレト、 阿斯莫徳でアスモデウス、彼列でベリアル、但他林でダンタリオン。 その他の悪魔 別西卜でベルゼブブ、路西法でルシファー、阿舍塔羅でアスタロト、巴風特でバフォメット、 阿努比斯でアヌビス、比蒙でベヒモス、利維坦でレヴィアタン。 後、元から中国人名風なクーフーリンは庫胡林、ついでに貝奥武夫でベオウルフ 威廉泰爾でウィリアムテル 羅賓漢ロビンフッド 参孫サムソン 浮士徳ファウスト 加百列・ガブリエル 法老・ファラオ 漢尼抜・ハンニバル 大流士・ダレイオス 席徳・エルシド 亜暦山大・アレクサンドロス 奥徳修斯・オデュッセウス 聖女貞徳・ジャンヌダルク 彼得・ピョートル 希特勒・ヒトラー なんかも使いやすくて面白いと思う。 漢尼抜ってなんかエロいよね…… -- (名無しさん) 2010-08-28 07 26 35 ↑どういう規則?で書いてるんですか -- (名無しさん) 2010-10-15 20 21 36 書いた本人ではないけど、だいたいが北京語読みの当て字ですな ゼウス=宙斯(ジョゥス)ガブリエル=加百列(ガァボゥリィェ)みたいに。 ジャンヌダルク=聖女貞徳(ジャンニゥジェンドゥ)なんかは良い字を当ててると思う -- (名無しさん) 2010-10-15 21 17 40 東郷平八郎と山本五十六は名前が入らないね。みんなこの2人はどうしてる? それとも日本人は作ってない? -- (名無しさん) 2010-10-15 21 40 38 ↑もう一つの名前は、どうでしょうか? 例えば戦国時代の黒田官兵衛なら、黒田考高〔もしくは如水〕 とか。最も東郷さんと山本さんに、詳しくないので、 そういった名前が有るかは、知りませんが・・・。 -- (名有りさん) 2010-11-16 15 47 36 私は 長宗我部元親なら 長宗元親 で字に我部 石川五右衛門なら 石川五右 で字に衛門 と無理やり作ってますよ -- (名無しさん) 2010-11-19 23 06 50 ↑字だったら〔長宗我部〕目上の人には〔元親〕と呼ばれますな。 ナイスアイデアです。場合によっては〔長宗元親〕になる事も 有りそうですが、其処は脳内補完でって所ですな。 -- (名有りさん) 2010-11-23 10 49 45 偉そうで、すみませんでした。 -- (名有りさん) 2010-11-23 10 57 36 小さなことですし、前にも議論になっていますが、 朝鮮・韓国の人物のみ日本読みではないので、やはり統一しませんか? -- (名無しさん) 2010-11-24 00 30 24 朝鮮半島では日本人の名前を日本語読みにしているので、朝鮮民族も日本語読み。 中国では日本人を中国人の名前も中国語読みなので、日本でも漢民族の名前は日本語読みと聞いた。 -- (名無しさん) 2010-11-28 15 02 17 まちがえた朝鮮民族は朝鮮語読みな。 -- (名無しさん) 2010-11-28 15 02 47 本当に今更ですけど、宋朝四姦の能力高くないですか。 個人的には、小心者の悪人のイメージなので・・・。 -- (雑兵A) 2010-12-13 18 19 16 北方謙三の水滸伝では童貫はとても非凡なものを持っていたのに三国志11ではとても弱くてびっくりしました。がっかりです。 -- (豹子頭1ststyle) 2010-12-21 20 40 07 私事ですが…例えばオーディンなら王電(オウデン)、トールなら闘瑠(トウル)、ロキなら魯鬼(ロキ)にして最強北欧神話軍団を造ったりしてます♪ 闘瑠と魯鬼は義兄弟で。 あくまでイメージと理想ですが… 王電 統97武力95知80政74魅92 特技は神将 槍兵S戟兵A弩兵B騎馬S兵器B水軍A 闘瑠 統84武力99知45政37魅85 特技は闘神 槍兵S戟兵S弩兵C騎馬A兵器C水軍B 魯鬼 統99武力82知94政96魅97 特技は虚実 槍兵S戟兵S弩兵A騎馬A兵器S水軍C 本当はテュール(威風?)やスルト(火神!!)も造りたいのですが…皆さんはどんな感じで造ってますか? 評価なんかも聞かせてもらえたら嬉しいです☆ 長文乱文失礼しました m(__)m -- (ゆんぼ) 2010-12-22 18 44 59 ロキが強すぎる気がするw 自分はネルソンやアレクサンドル・スヴォロフなど 海外の人を作ったりしますね。 アレクサンドル・スヴォロフ 急襲もしくは飛将 統100 武90 知88 政60 魅80 槍S 戟A 弩S 馬S 兵器A 水軍C 飛将だと強すぎるから遁走とも思ってるけど 遁走の意味が逃げるなんだよねぇ(笑) 問題は名前 姓スヴ名ロフですw -- (名無しさん) 2010-12-23 06 28 46 ご指摘ありがとうございます! 確かにロキは強すぎますが、ひいきなキャラなんで♪ アレクサンドル・スヴォロフは飛将が合ってると思いますよ (^_-)-☆ 強すぎても良いじゃないっすか☆ 西洋の名前は無理矢理つけるしかないもんね… 顔もないし ( _ ) -- (ゆんぼ) 2010-12-23 12 51 55 キモッ チラ裏逝け -- (名無しさん) 2010-12-24 21 47 39 たしかにきもいが だいたい、なんでここに新武将書くんだろう テンプレにしたがって新しいページ作って書き込めばいいのに どうせ、めんどくさいとかそんな理由だろうけど -- (名無しさん) 2010-12-24 23 21 05 いや、自重してくれてるんじゃないかね。ページなんか作られたらカオスになるよ -- (名無しさん) 2010-12-25 00 02 08 どなたか、朱蒙や善徳女王、アルチョンなんかも作ってくださ~い。 -- (名無しさん) 2010-12-25 20 02 47 できたら 『レッドクリフ』の孫叔材(?)や夏候儁 『三国志(同年の映画)』の羅平安や曹嬰 も、どなたかに作っていただきたいですね… -- (名無しさん) 2010-12-25 21 11 06 なんでも人任せはよくない 枠と列伝だけ作っておけば、他の人が埋めてくれるかもよ 以前、中国史での新武将で能力空欄にしたのいくつか作ったけどいつの間にやら埋まってたもの -- (名無しさん) 2010-12-25 22 00 06 ↑すみませんが、編集をするためには何か手続きをするのですか? また、どのように新武将を作ればよいのですか? -- (名無しさん) 2010-12-25 22 36 09 自分で考えることを放棄したらおしまいだよ? 「このページを編集する」てところを押して、新しいタブで編集画面を開いてみな。 あとは、元のページと編集画面を比較して作りな。 おれは今も詳しい作り方なんかは知らないけど、そういったやり方で作ってる。 -- (名無しさん) 2010-12-25 23 04 12 ↑ありがとうございます m(__)m -- (名無しさん) 2010-12-26 09 47 49 甘興ってわざわざ欄あるけど甘寧本人だよな モデルがどうとかじゃなく -- (名無しさん) 2010-12-26 22 15 07 ここ最近の更新履歴が「みんなの新武将」で埋まってますが、 何か有ったんですか? 新武将は編集されても何処が変わったのか分かり難いです・・・。 -- (雑兵A) 2010-12-28 23 38 17 ページ名に「みんなの」っていうのを加えただけかと… -- (名無しさん) 2010-12-29 00 11 40 質問に答えて頂き、有難う御座います。 チェックを怠って居たので気付きませんでした。 すいません・・・。 -- (雑兵A) 2010-12-29 17 37 01 高句麗って、朝鮮史に入るんですか? -- (名無しさん) 2011-01-06 23 23 48 高句麗(こうくり、紀元前37年 - 668年)は、 ツングース民族による国家であり、最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。 半島南西部の百済、南東部の新羅とともに朝鮮半島における三国時代を形成。 隋煬帝、唐太宗による遠征を何度も撃退したが、唐と新羅の連合軍により滅ぼされた。 (wikipediaより抜粋) ・・・とwikipediaは申して居ります。 三国志で例えたら魏みたいな国ですね。(長文すいません) -- (雑兵A) 2011-01-08 05 57 17 高句麗は朝鮮人の国ではないけど、朝鮮半島の大部分を領有していた。 そのために、中国と朝鮮どちらの国の歴史に含まれるかで対立している。 -- (名無しさん) 2011-01-08 11 24 16 山川日本史B、第一学習社の世界史図説見たら朝鮮史の項目で 朝鮮三国時代の一国として記述されてたよ。 中国が高句麗は中国史と言いだしたのは2000年代初頭からだな。 東北工程という政治的な国家プロジェクトなんだがね。 このプロジェクト以降、学生向けの教材、中国社会科学院のHP の朝鮮史の項目から高句麗は削除されていった。 ネットの一部じゃ朝鮮憎しのあまり、中国の主張を支持する 意見が強いけどね。 -- (名無しさん) 2011-01-14 15 34 23 ああ、それと中国がいい加減な国だからか、何か政治的な意図があるからか は知らないけど、2005年に刊行された列國志シリーズの韓国編 では普通に高句麗を記述して朝鮮史扱いしてるね。 -- (名無しさん) 2011-01-14 15 44 46 ヨーロッパ諸国の人物ほしいなぁ~ ナポレオンとか強そう・・・ -- (名無しさん) 2011-01-18 01 47 58 アッティラやティムール等も万能型になりそうですな -- (名無しさん) 2011-01-19 19 40 22 水滸伝の梁山泊好漢、全員補完しました。容量が大きくなりすぎたので分割しましたが、 方臘軍の項目名を間違えてしまいましたので、どなたか削除お願いいたします。 -- (名無しさん) 2011-01-22 23 46 25 王進と羅真人も作っていただけませんか? 宜しくお願いします -- (名無しさん) 2011-01-29 19 03 13 すいません 見落としてました 作っていただけてましたね ありがとうございます -- (名無しさん) 2011-01-29 19 04 33 羅真人の武力90は間違いですか? 何か逸話ありました? -- (名無しさん) 2011-01-30 03 16 18 韓滔や彭玘など PS2版に文字が登録されてないのは 作った方どうしてます? -- (名無しさん) 2011-02-01 12 12 15 轁とか己とか代字を使ってますね -- (名無しさん) 2011-02-01 19 59 27 朱元璋はまだ作られて無いんだね 結構良い感じの能力値になりそう -- (名無しさん) 2011-02-09 05 47 52 新武将で士壱と士匡と士徽と士祗で後期の呉を補強したいのですが、彼らの能力と夢、寿命、性格、没年、生年を教えて下さい。 お願いします。 (士爕は後漢末の人物に書いていましたが、夢、没年、生年、性格を教えて下さい。) -- (名無しさん) 2011-02-10 19 35 17 自分が三国志ds1持っていて、それに士爕一派がいたので自分でつくりました。 零リョウとケイ陽領土にして新武将プレイしてます。 なんとなく交州が好きなんで、やってみました。 交州の都市がマップにあってほしいです。 南海とか、日南とかあったらなあ。 -- (↑を書いた奴) 2011-02-11 20 15 41 新武将でこんなん作ってみた。 名前覇王特技覇王適性全S・・・ってこれ最強じゃないか。そうではない。 全能力1!コイツは面白い。 -- (名無しさん) 2011-03-01 22 46 43 春秋戦国時代の武将達もっといますよね -- (名無しさん) 2011-04-05 14 35 37 ↑きりが無いから煽らんでいい。 -- (名無しさん) 2011-04-05 19 29 46 ↑×2自分で作れば?俺も思ったことあるけど途中で気力がなくなってやめた。 -- (名無しさん) 2011-04-14 19 11 51 無駄に容量増やすな -- (名無しさん) 2011-04-21 22 52 47 なあに、きみの存在に比べればけっして無駄じゃないさ -- (名無しさん) 2011-04-21 23 36 24 ↑×8とりあえず10での能力と生没年を挙げるね。 士爕(137~226) 統率53武力31知力76政治80魅力86 士壱(?~242?) 統率48武力36知力67政治74魅力69 士匡(?~?) 統率58武力45知力64政治58魅力64 士徽(165?~226)統率69武力64知力44政治31魅力54 士祗(163?~226)統率63武力58知力51政治52魅力46 こんなところかな。長文になって申し訳ない。 -- (名無しさん) 2011-05-16 17 10 02 ↑書き上げて上を良く読んだらもう解決してたのかorz -- (↑を書いちゃった奴) 2011-05-16 17 15 51 ↑いえいえこれを参考にしてこまめな能力調整していきますんで。 -- (↑×9、↑×10) 2011-05-16 18 24 49 ↑じゃあ書き上げたのは無駄じゃなかったのね、よかった。 追記すると士徽は空気を読まずに仲謀の挑発に乗って呉に反乱を起こした愚か者だから性格は猪突のほうがしっくりくると思うよ。 陳寿にもボロクソに言われてるし。 あくまで私のイメージだけど。 -- (↑×2,↑×3) 2011-05-18 16 43 33 本当にありがとうございます。士爕一派プレイ頑張ります!!! -- (名無しさん) 2011-05-18 18 31 44 茲と爕と棗の漢字の位置が分からない。どの読み方にあるの? -- (名無しさん) 2011-05-25 19 48 18 爕はショウです。それ以外わかりませんwww -- (↑×2) 2011-05-25 20 13 40 棗は「なつめ」で変換できました -- (棗大策) 2011-09-19 20 21 29 「裔」「弩」の漢字の位置がわかりません。どこにあるのでしょうか? -- (名無しさん) 2011-11-29 20 36 52 PCのIMEでは、 「裔」は「末裔(まつえい)」の「えい」で、「すえ」とも。 「弩」は「ど」「いしゆみ」等で変換出来ます。 -- (名無しさん) 2011-11-30 11 35 38 すみません。PS2では、「裔」「弩」はありますか?説明不足ですみません。 -- (名無しさん) 2011-11-30 21 07 34 えっと… 新しく作るには(登録するには) どうしたら良いんですか??? -- (孔雲) 2012-03-21 03 55 51 蚩尤とか、伝説時代の皇帝とかも欲しい 蚩尤「工神」…史記の「兵主神」より -- (名無しさん) 2012-03-25 00 27 10 そんな事したら、収集付かなくなるんじゃ… -- (孔雲) 2012-03-25 05 35 38 いいね -- (亀) 2012-03-25 10 28 23 では、神農は、「火神」ですね。 -- (麟華) 2012-03-25 23 36 49 ヨーロッパの武将とはか作らないのかな? -- (名無しさん) 2012-09-11 23 18 40 アーサーとかかいね? -- (ペンドラゴンです) 2012-10-29 15 42 10 サラディンとかバイバルスとか作ろうと思ったけど文字数足りない辛い -- (名無しさん) 2013-04-26 13 55 46 恐らく明確な基準は無いけど 武力はこんな基準でコーエーさんは決めてるんじゃないか という推測 武力60~70…前作の賊並 武力70~80…武芸に長ずると書かれる武将 武力80~85…武芸に優れるor何らかの見せ武器がある? 武力85~90…武芸百般~もしくは怪力~と大体書かれる 武力90~95…猛将クラス、日本の戦国時代の剣豪なら印可クラス 武力95~100…単騎駆けで敵の一軍団が混乱もしくは進軍を止めるレベル 番外で50以下は一般文官レベルの様です 間違いなら申し訳ない -- (名無しさん) 2013-04-26 14 20 23 ↑×2 文字数に困ったときの中国語表記。 サラディンなら薩拉丁、バイバルスなら拜巴爾とか。 -- (名無しさん) 2013-04-26 16 31 17 最近、新武将の能力値の編集が頻繁なので注意点の部分に加筆してみました。 問題があるようでしたら以前の記述に差し戻してください。 -- (名無しさん) 2013-06-01 04 13 26 てか、能力盛衰とかでも調整したらいいんじゃないでしょうか? -- (名無しさん) 2013-06-04 12 56 38 一番初めの頃の能力値が最もしっくり来る内容だった。 後漢を編集した人間は万死に値すると個人的に思う。 それと日本の戦国武将は編集合戦になりやすいし、 いらないんじゃないかな? -- (名無しさん) 2014-04-06 02 16 56 編集合戦になりやすいのは 戦国武将に限った事ではない 過去には唐、後漢の項目でも発生している 編集合戦になる最たる理由は つけた能力値を理由なく勝手に変更すること。 これをなくせば編集合戦はなくなるし 裏を返せばこれが起こると編集合戦になる。 後漢の劉秀は完全にこれの応酬だった -- (名無しさん) 2014-04-06 14 17 22 ↑↑とりあえず注意書き置いておきました -- (名無しさん) 2014-04-06 14 28 25 せっかくコメント欄あるんだから使おうよとは思うね -- (名無しさん) 2014-04-13 12 18 56 注意点の箇所に能力値の変更についてこちらにも加筆しておきました 問題があるようでしたら以前の記述に差し戻してください。 -- (名無しさん) 2014-04-30 04 59 30 あれ? 高句麗や百済なんかの武将は消されたんですか? 久しぶりにこのページ見てみたら・・・。 -- (名無しさん) 2014-06-04 22 07 59 ↑ ホントだ。私が作った朱蒙や尊徳女王が消されている・・・。 -- (名無しさん) 2014-06-17 19 57 01 個人的に「神話時代?」の人物とか欲しいんですが・・・ 無理ですかね? -- (名無しさん) 2014-06-26 04 31 52 悪いとまでは言わないけど、正直に言って 神話時代の人物までいくとこの攻略wikiで 取り上げるべきことではないように感じる。 -- (名無しさん) 2014-06-26 09 55 53 信長のあの能力じゃ互角の兵力だった場合生涯負けなしの古今無双の軍神でなければおかしいけど10分の一兵力の馬場信春に負けたり圧倒的寡兵の浅井に押されまくったりと戦術家としては常勝無敗の名将というほどの安定感やイメージは一般的にはないよ 信長が卓越しているのはやっぱり戦略であって統率なら99でも100でもかまわないけど一部隊を率いたときの殲滅力は統率武力合計190以上の武将というイメージを持っている歴史オタはほとんどいないよ -- (名無しさん) 2014-07-25 13 57 47 あれ?日本のスレでうったつもりがミスった -- (名無しさん) 2014-07-25 13 59 16 信長って後世の史料で勝手に後付で弱いみたいな扱いされてるけど 同時代の人間から明らかにその時代で一番強いという扱いされてますよ まあ信長の場合、負けそうになるとさっさと逃げたり、外交戦略を駆使するという点でも強さを維持する特徴がありますけど。 -- (名無しさん) 2014-07-25 14 25 48 大敗の類が一切ないのは地味ながら凄いと思うわ 家康の三方ヶ原、信玄の上田原、曹操の徐栄戦、劉備の夷陵のような 大敗北が見当たらない。最期の本能寺が一番致命的かと 思うとマジで項羽みたいだ。長々とすまん -- (名無しさん) 2014-07-25 15 04 13 ↑↑ 信長は戦略家としては文句なく一番だと思うけど戦術家としてはこのサイトで付けられているほど無敵ではないと思うけど 当時の民草の常識で戦術家としては信玄や謙信が存命中にこの二人より強い扱いになっていたとは思えないし聞いたこともないんだが 無論信長が戦下手なんて云うつもりは毛頭ないけどあの統率武力の合計値は無い 酒に酔っぱらっても16人切ったなんて話がある曹操でも武力70台なのに彼とと比較すると贔屓の前倒しが過ぎるよあの武力99は -- (名無しさん) 2014-07-25 15 51 15 謙信や信玄が最強扱いされたのは江戸時代の影響なんだけどな 信玄は村上義清に何度も負けてあわや戦死寸前だったし、 謙信も椎名や本庄といった地方勢力にかなり苦慮している 少なくともこの2人が最強扱いされたことは一切なく 秀吉も川中島も指して徒労だと言っていたりするくらいだ 少なくとも信長は個人武勇の逸話も多く 仮に下げるとしても95は固いから誤差の範囲 つうか曹操は武勇に関しては過少でしょ 統率は過大の気があるけど -- (名無しさん) 2014-07-25 16 01 54 当時の最強論は結局水掛け論になるからするつもりはないけど この公式の武力設定は軍の制圧力以上に個人武勇で評価されているわけだけどあの能力だと白起以上の指揮能力と勝率に呂布や項羽と互角に戦える個人戦闘力がある完璧超人ということになるんだけどね信長 曹操の武勇は過小なのは同意だけどこのサイトの公式キャラの能力を自分が納得するように動かすわけにはいかない以上不満があっても公式キャラの能力と実績とイメージで比較するべきだと思うが 正直「、僕の考えた完璧超人織田信長様」的な無茶な能力値振りはだれるんだよ 神がかりな采配をしつつ信長が単身自ら敵兵をけちらして義元や信玄や謙信の首をあげたって言うならともかく -- (名無しさん) 2014-07-25 16 46 07 一応長良川、稲生、浮野の戦いでそういう逸話あるんだけどな 刀根坂、天王寺も信長自ら先頭に立って敵兵を蹴散らしている 稲生は敵総大将を信長自ら討ち取って決着をみているし 動乱の時代に後ろでどじこばって声しか出さない武将自体が稀少だし つうか仮にも歴史上の偉人なのに舐めすぎじゃね? チートすぎて嫌だとか言い出したら大半の偉人消えるじゃん そういう傍目に見てチートな実績作ってるから偉人なんだしな -- (名無しさん) 2014-07-25 17 22 47 だから公式が曹操とかを全能力オール90台後半とかに設定してあるのならともかく公式チートの曹操よりも総合で20,30違うのは盛りすぎだと思うんだわ さすがに個人武力まで個人の武を極めたとされる猛将と互角に設定するのはねえ それとも本当に信長が一騎打ちで呂布や項羽と互角にやり合えると思っているんならもうなにも言うことはないけど -- (名無しさん) 2014-07-25 17 41 04 曹操は結構負けているし三国志ではチートでも他の時代だとそこまでじゃない つうか呂布はアイテムや一騎討ち補正あるだろ -- (名無しさん) 2014-07-25 18 28 25 ほかの時代だとうんぬん言ってしまったらそもそも三国志と戦国を比較すること自体ナンセンスなんだけどね そりゃ三国時代の軍と戦国時代の軍が戦ったら戦国時代の軍が勝つに決まっているし政治体制も戦国時代のほうが洗練されているに決まっている それらを承知の上できるだけ歴代シリーズに触れてきた多くの人にもできるだけ納得される数値にすべきだと思うんだがこの数値が歴代ファンに納得されていると思う? 過去レスを読む限り答えは明らかなんだが -- (名無しさん) 2014-07-25 19 29 14 こうこうこういう話があるから能力を下げると言うならまだしも 好みにそぐわないから変えると言うのは意味わからん ぶっちゃけ俺も変更したい人物はいくらでもいるが、 編集合戦を誘発するから変えないでくれ、とLRにあるから変えてない。 そう決まった以上そうすべきだし、基本的に下げたい派は根拠乏しいじゃん 白起が呂布や関羽より弱い公式データをだされても 俺には白起が過少だから、あげればいいじゃんとしか言えんよ -- (名無しさん) 2014-07-25 21 48 45 ああ、呂布は白起に負けてたなスマン -- (名無しさん) 2014-07-25 21 54 08 「下げたい派は根拠乏しいじゃん」と言われても自分には武力99まで上げる根拠が乏しいふうにしか見えんよ お互いの時代で政治、軍事、文化に多大な影響を及ぼしたけど天下統一にはならなかったという点から見ても信長のほうが曹操より格が上と言い切れる根拠がわからない、単純に支配した領土の広さにおいて比較にならないほど曹操が上だけど 能力合計では 曹操449 信長480、秀吉486、家康483、といずれも曹操よりより30以上高く秀吉にいたっては個人的武勇伝もある光武帝485より高いときているし 公式データが自分の好みに会わなければ変えればいいのは同感だがそれはあくまで自分のセーブデータ内だけにしとくべき ここは三国志11の共用サイトなんだから三国志11のトップキャラに能力を合わせたほうが無難なのにあの能力差では荒れるのは最初から目に見えているじゃん 秀吉がその智謀を恐れたといわれる黒田官兵衛なんか395だぞ、この能力じゃ恐れんよ ほかの人が空気をよんで武将の能力編成しているなかでエゴ丸出しの能力設定はとんでもなく目立つし浮いてるぞ -- (名無しさん) 2014-07-25 23 46 23 文句つけるなら歴史認識くらいきちっとやれ 織田信長の最大勢力範囲は属領は九州から東北までで 九州の大友島津龍造寺、東北は伊達葦名南部までもが既に信長の戦略下に 入っていて、この時点で戦後統治に入っている 後漢の家臣で劉備や孫権に名目を与えた状態で死んだ曹操とは比較にならない あと総合能力を出すあたりがいかにもわざとらしいが 官兵衛の知略は93で十分恐れられる域だし 光武帝の武力は94で秀吉より高いじゃん -- (名無しさん) 2014-07-26 06 43 28 官兵衛はあと2~3ポイント+して90後半にしてくれ~ と個人的には思ったりする -- (名無しさん) 2014-07-26 07 26 15 これ言うと怒られそうだけど三国志自体、世界史、中国史基準で言うと微妙だよね・・・。 群像劇としては面白いけど英雄劇としてみると「ん?」ってなると思う。 朱元璋とかここだとなぜか評価低いけど事績や軍歴なら曹操より上じゃないかな。 -- (名無しさん) 2014-07-26 17 30 32 日本史内での能力ならあれでもいいんじゃねえの 三国志の武将と比較してるからおかしく見えるだけで -- (名無しさん) 2014-07-26 19 05 40 時代が下れば兵器や武器の質も上がる それは当然一騎打ちのバリエーションが増えるという話でもある 悲しいかな世界史の世界で言えば呂布はシモヘイヘに瞬殺である -- (名無しさん) 2014-07-26 19 36 36 一騎打ちに関して言えば 体格(一丈)・武技・膂力・修羅場を潜った数(精神力) など武器・兵器以外にも色々と要因があるから一概には言えないと思う それでも鉄砲には勝てないと思うが・・・ -- (名無しさん) 2014-07-26 21 04 40 体格はそこまで関係ない 一騎打ちはプロレスじゃないから一突き入れば大体は死ぬ 小兵で強かったと言われる人間もいるのである 膂力もまた同じ、まあ鍔迫り合いくらいかのう。滅多に起こらん話ではある -- (名無しさん) 2014-07-26 22 22 05 もう周辺諸国の新武将を全て消去しませんか? 後漢や唐代ですら、インフレだという人がいる中で 欧州・諸大州・日本の能力設定は余りにも酷過ぎる。 完全に一部の人間達の自己満足に過ぎないものを、 この攻略wikiに掲載する必要性があるのか。 -- (名無しさん) 2014-07-27 00 17 13 ↑と同じ者 この攻略wikiは皆の役に立つ情報のためにあるのであって、 三英傑やナポレオン、カエサル、ヒトラー、のような 面白くもないギャグのためにあるわけじゃないハズ。 -- (名無しさん) 2014-07-27 00 30 05 自分が気に入らないから消せ消せコール 論外にも程がある 全世界の英雄を集結させるのは、中華ツールでも古くからある 需要のあるジャンル。おまえみたいな奴が、上コメントにある高句麗消去とかやったんだろうな -- (名無しさん) 2014-07-27 07 20 11 んー確かに正直言って三国志に出てこない人物なんてどうでもいいとは思う。みんなの新武将とか攻略wikiとしてはまったく必要ではないが、まぁ娯楽というか雑談というかさ。別に消すほどでもないとおもうよ?どうでもいいから俺はまったく見てなかったし。消すべきといってる人も見なければいいのでは?それともこのサイトは君だけのものかい?なら好きにすればいい -- (名無しさん) 2014-07-27 08 10 37 CSユーザーには不要だろうけど、PCユーザーには必要。 -- (名無しさん) 2014-07-27 08 23 17 ↑3 気に入る・気に入らないの問題じゃなく、君の言葉を借りるなら 『論外にも程がある』能力値ばかりだから、この攻略wikiを 見ている人達の参考にならないような能力値しか設定出来ないのなら 作成・掲載しても意味がないと思うけどね。それに需要というけれど、 孫策や太史慈に、一騎打ちで完勝するような信長に一体どれほどの 需要があるというんだろうか? -- (名無しさん) 2014-07-28 00 27 19 ↑3 勝手に三英傑の能力をギャグにしてしまった誰かさん達と違って、 このサイトを自分だけのものだなんて思っていないから、 勝手に編集をせずにこの場にわざわざコメントをしているわけなんだけどね。 -- (名無しさん) 2014-07-28 00 41 30 綺麗事もここまでくると噴飯モノだな。 「三英傑の能力が気に入らない」というだけで 「もう周辺諸国の新武将を全て消去しませんか?」と極論を呼びかける知性の浅さ。 自分が気に入らない、と言うのを、さももっともらしく理由をつけているのがバレバレ。 あとこの機会だから言わせてもらうが、 LR無視してしつこく三英傑の能力を下げまくってたのおまえだろ? 他の奴も迷惑がってたぞw素直になれよw -- (名無しさん) 2014-07-28 07 19 56 「注意点 基本的に、新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 特に能力値や適性などは万人が納得する絶対値が存在するわけでなく、水掛け論となって編集合戦を誘発しやすくなっています。 (能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。) 可能な限り公正を心掛けるべきですが、最終的には プレイヤーの裁量次第 であることをお忘れなきようお願い致します。 理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますのでご遠慮ください。 (過去に何度も編集合戦が起きています。)」 以上、抜粋でした。 気になるのなら自分の所有する三国志11で変更なさってください 絶対にノータッチですし満足もできるかと・・・ -- (名無しさん) 2014-07-28 08 04 17 ↑ わざわざお疲れ様です 結局個人の差配次第ですよね -- (名無しさん) 2014-07-28 08 30 18 信長の野望・創造 みんなの新武将(創造に『魅力』はない) 織田信長 380 385 (成長:維持) 豊臣秀吉 368 386 (成長:普通) 徳川家康 369 386 (成長:晩成) まず揉めるほどか?っていうね。ちなみに創造は武将の 成長スピードがかなり早いので実際はこれよりかなり伸びる。 -- (名無しさん) 2014-07-28 18 01 34 なおこのページの素質盛衰表http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1787.htmlを おおよそ考慮すると初期ステはこうなる。ちなみに信長の野望はこれが初期ステで劣化はない。 信長の野望・創造 みんなの新武将(カッコ内は成長タイプとその後) 織田信長 380 368 (成長:維持 385 能力このまま) 豊臣秀吉 368 356 (成長:普通 386 晩年劣化+魅力マイナス41) 徳川家康 369 337 (成長:晩成 386 能力このまま) -- (名無しさん) 2014-07-28 18 18 41 ついでにピーク、劣化の歳に起こった歴史的事跡も調べてみた。 織田信長(ピークを迎えるのは25歳で1559年換算。翌年桶狭間の戦いが発生) 豊臣秀吉(ピークを迎えるのは30歳で1567年換算。美濃三人衆が寝返り斎藤家が滅亡する。劣化するのは51歳で1588年換算。前年九州征伐が終わる) 徳川家康(ピークを迎えるのは40歳で1582年換算。半年後本能寺の変が発生して織田信長が死ぬ) -- (名無しさん) 2014-07-28 18 41 58 横からすまないがこのサイトは三国志11だから成長システムが違う創造を例にだされても 一番の問題は三英雄以外の戦国武将の能力を編成した人たちは三国志武将の能力を比較してできるだけ荒れないようにしている配慮が見られるけど 三英雄の能力にはそれがないから3英雄とそれ以外の戦国武将の能力差がえらいことになっている 仮にもしこのままの能力で信長の野望シリーズを出したらゲームの出来云々の前に間違いなくファンが発狂する能力差だと思う たとえば「信玄にウンコもらされた家康がなんで家康より弱いんだよ、秀吉なんてそのウンコもらしに負けたくそ雑魚ジャン、信長なんて信玄や謙信に手紙でへいこらしてたじゃん」とか出てきそう 家康の全盛期はこの後だし小牧の勝敗も複雑だけど多くの名だたる名将がいるなかでわずかな数値の差でも武将の上下ランクに厳しい野望ファンの中に3人だけ頭抜けたバランスでそれも調整が出来ない無印をだそうものなら回収騒ぎになりかねないな -- (名無しさん) 2014-07-28 22 12 26 あっでもみんなの武将記事は見てておもしろいから残していてほしい -- (名無しさん) 2014-07-28 22 15 59 それは戦国でしか見ていないからじゃないか? 信長の野望はあくまでゲームバランス重視で 史実の実績は三英傑が頭1つ以上抜き出ているよ。 その名将達が数多いる中でそれらを抑えつけて天下取ったわけだから。 それに他の武将が低いというけど、いうほどかな? 戦国時代に限っても北条氏康がみんなの新武将基準で総合449。 毛利元就が同じ基準で総合444。他の時代でも天武天皇こと大海人皇子が総合461と 高い水準に収まっている。中国編でも五胡十六国の慕容恪は472、隋の楊堅が444。 後漢と唐はいまさら上げるまでもないと思うが、とにかく屈指の偉人にはそれだけの評価が成されているのが現状。 -- (名無しさん) 2014-07-28 23 18 06 ↑3 ここで何言っても無駄だよ。必ず三英傑の信者か 西洋史の信者が出てきて↑の方に何度もある展開になるだけだから。 彼らは「偉人だから」の一言で勝手にインフレさせた能力値を 押し通すような連中で、相対的な評価や考え方なんか欠片も持ち合わせてないからね。 彼らの様な人達にとっては関羽や張飛より武力の高い信長も、 中国史上の屈指の名君、唐の太宗より能力合計値の高い秀吉や家康も、 法典を作ったからといって百日天下で終わった人物に政治・100を 与えることも、全て違和感も疑問も感じないことなんだよ。 それも当然さ。だって「偉人なんだから」ね。 -- (名無しさん) 2014-07-29 10 56 45 ここまでしつこいとそろそろ在日朝鮮人かと疑いたくなるなw 徳川家康の政治力なんて世界でも評価されまくってるのに -- (名無しさん) 2014-07-29 11 39 08 真面目に何がやりたいんだろう みんなの新武将を消しましょうと言い出したり、 嫌なら見なければいいじゃんとか、 ローカルルールを提示してくれる人も無視 これだけ見てるとただの荒らしだよ -- (名無しさん) 2014-07-29 11 53 37 関羽や張飛に一騎打ち補正があって、実際は武力数値以上に強いことも知らないみたいだしな。 http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/30.html#id_14483a36 -- (名無しさん) 2014-07-29 12 08 57 劉邦「俺なんか小役人から秦や項羽を倒して天下取って長期政権作ったのにあの能力だよ(泣) 三英雄の能力つけた人に俺の能力も改変してほしいよ、きっと能力オール100のナイスガイにしてくれるに違いないぜ(確信)」 -- (名無しさん) 2014-07-29 22 26 46 韓信ならともかく劉邦は無理 韓信に政治100は望み薄だが -- (名無しさん) 2014-07-29 22 50 07 つうか、この手のゲームの能力値で最も能力高くなるのは「天才の独裁君主」だからな。 要所で家臣に頼るような人間は孫権をはじめ能力が抑えられ気味だし、 ましてや劉邦のような天下を『取らせてもらった』系はすこぶる能力が抑えられる。 自分で行動して自分で功績を立てて、ましてや自分で天下を取った人間が評価されるのは当たり前のこと。 -- (名無しさん) 2014-07-29 23 36 22 たかが作成例のお話だろ?そんな曖昧な人それぞれな話するから荒れるんだ。なぜこんなの作った?とまったく関係ない興味ない俺からみて思ったね。ここは三国志11の攻略サイトだろう?こういうのは個人の趣味レベルの話じゃないのか?攻略サイトに必要な話なのかい?がんばって上からコメントみてるともう雑談でもつくってやってくれレベルの内容じゃないか。三国志11を攻略するために必要な話ではないように感じる、不要な議論だ。みんなの新武将だなんてこんな話し合いの場をなぜ作った?100%もめるだろこんなの。それでもコメント書くなら、否定しあわず勝手なことせず人それぞれというのは前提で話し合いしろよ。 -- (戟兵+飛将+心攻+藤甲) 2014-07-30 21 09 34 新武将に色々な武将を登録したい ↓ みんなの新武将を作ろう ↓ 「○○の能力はおかしい」「××の能力が過小評価」 ↓ 編集合戦が発生 ↓ 「歴史論を語りだすとキリがないので、能力値はあくまで参考にしよう」という意見が出る ↓ 「後漢とかで揉めたし、それがいい」という意見が出、LRが決められる ↓ 「最終的な能力は個人の判断で」と言う風潮がまかり通る ↓ 「一部の人間の能力高すぎ」「秀吉や信長がこんなに強いわけないだろ」と議論を蒸し返す奴が出る ↓ 同じ奴が「能力が高すぎる。もうこんなページ全て消去しませんか?」と言い出す 誰が見ても悪い奴は明白 -- (名無しさん) 2014-07-31 00 08 48 はっきり言えば「○○の能力がおかしい」なんてのはしょせん些事。 みんなの新武将は合計1000人以上データがある。それら全てのデータに納得ができる人物はまずいない。 でも、ローカルルールで揉める原因とされた能力値の勝手な書き換えが禁止されてからは、暗黙の了解が行われてやってきた。 それが、そのローカルルールを無視するどころか、あまつさえ該当ページ全部消せと言い出す奴が出てきた。 あれだな、「大義を失した」ってやつ。 -- (名無しさん) 2014-07-31 00 24 20 一人で顔真っ赤にして連投しすぎ、だれもいまさら能力変えろとは要ってないんだから流しておけばいいんだよ -- (名無しさん) 2014-07-31 03 03 00 他人が同じ人に見える人が -- (名無しさん) 2014-07-31 03 07 28 俺には今の能力にした奴がごり押ししてるようにしか見えないが… -- (名無しさん) 2014-07-31 16 38 20 …議論や説得もめんど~だからもう一つ作ったら? -- (名無しさん) 2014-07-31 17 11 34 能力が適正かどうかは置いておいても、現状維持が最も望ましいのは言うまでもない。 例えば、後漢の劉秀は武力を96にするか、92にするかという 端から見たら愚の骨頂としか思えない争いで、編集合戦が発生した。 結果的に仲裁者が出て、真ん中の94にするという裁定でようやく解決が図られた。 能力を上下させるというのは、それだけ端から見ればつまらない理由で揉める原因になることであり、 そのためにローカルルールでわざわざ制限を設けられているわけだからね。 仮に、今「能力を下げたい」という人の言い分を呑んで、能力を編集して下げたらどうなるだろう? 知力1の人間でも、その後どうなるかはわかるってもんだ。 -- (名無しさん) 2014-07-31 19 15 57 あれはもうみんながみんな(一部の分からず屋を除く) うんざりしたのちに行き着いた終着駅。 何が言いたいかと言うと くだらんからもうやめてくれ の一言 -- (名無しさん) 2014-07-31 19 41 52 ↑ ↑↑ お二方の意見に大いに同意。 どう見ても平行線になるし、 とりあえず注意点をさらに厳しくしておきます -- (名無しさん) 2014-07-31 19 45 49 過去にもういろいろあったようだな。そこにあらたに誰かが混ぜ返してるわけか。最初のほうに書いたが、消すべきといってる子さ「君のサイトなのかい?」勝手に変更したらだめだろう。君のブログででもやりなさい、攻略サイトは攻略するためにあるものだ、話し合いの場ではないし効率求めるものだ。それでもこんなもめる話し合いするならちゃんとマナー守らなきゃ。同じ三国志プレイヤーじゃないか、悲しいぞ。 -- (戟兵+飛将+心攻+藤甲) 2014-07-31 20 12 13 2014-07-31 19 45 49さん提案感謝です -- (名無しさん) 2014-07-31 21 08 19 ↑2 どうもお騒がせしております。私としては以下の3点から今回のような提案をさせて頂きました。 1.7月25日から他の方々の議論が必要以上に白熱していて収拾が付きそうも無かったこと。 2.そもそも現在の周辺諸国の能力設定がローカルルール設定以降に、相次ぐ編集によって出来たものだったこと。 3.正直に言って、周辺諸国の新武将の設定が歴史に詳しくない人や 三国志を初めてプレイする人達が参考にするには余りに公平性・客観性を欠いているように感じられたこと。 飽くまで、勝手に変更・消去するつもりは無く、提案して後に複数人の賛同を得てからのすもりでしたが、 自分自身の発言が些か礼を失したものだったこと、売り言葉に買い言葉で失礼なコメントに、より挑発的な コメントを返したことからこのような事態になってしまったのでしょうね。それに関しては率直に申し訳なく思います。 ただ今後も25日~26日のような議論や編集合戦が予期される以上、 周辺諸国の欄に関しては削除してしまうのも一つの手だとは今も思っています。 少なくとも、この攻略wikiに必ずしも必要なものでは無いと思いますので。 それから今更ですが言っておくと、ローカルルールが設定されて以来、 私は戦国時代に関しては編集・削除をしたことはありません。 -- (削除を提案した者) 2014-08-01 00 23 53 まぜっかえすつもりはないんだが三国や野望のゲームバランスになれた人が初めてみんなの戦国武将ページを開いて ひととおり戦国武将の能力を確認したらたいていの人が三英雄の能力だけとびぬけすぎと感じると思う いくら英雄の編集者が史実がとか、公式は間違っている、俺の歴史知識は正しいんだーと言っても戦国武将の評価は千差万別、ひとそれぞれ それに比べるとほかの武将はシリーズに慣れ親しんだ人には抵抗が少ないのはコメント欄を見れば明らか 編集しろとは言わないけど周りと温度差がある能力を設定してその能力を編集不可のルールをつけるまでこぎつけておきながら コメント欄にまで少しでも自分に意を唱えるおそらく初見の人のコメントは放置できないというのは高望みしすぎだな おそらく多くのシリーズ常連の人初めてぺージを開けば「ギャグにしか見えない」と思ってもしょうがないと思うが別に編集にむかって編集しろと言っているわけではないんだし 愚痴ぐらいスルーしたらどう?この能力設定にしている限りこれからも初見さんの愚痴ぐらい出てくるだろうし それが荒れると分かりきっていながら自分の顕示欲を満たす為に無茶をごり押しした人間の身の施し方だと思うが 正直自分なら反対が出た時点で三人の能力を30減らして自分のゲーム内で30増やせばいいだけだと思うんだがなんでこの掲示板じゃないとだめなんだろう? ああ、思っただけで返答も改変も求めていない、きりないし -- (名無しさん) 2014-08-01 02 11 41 俺は逆に「創造をやってないんだな」って思ったけどね。 http //hima.que.ne.jp/souzou/souzou_data.cgi?up1=0 keys3= IDv001= IDn001=and sort=down17 print=20 engine=Himamushi keyword= このページ見ればわかるけど、1位の織田信長と11位の小早川隆景は30近く離れている。 「信長秀吉家康が高い」と言うのが、今回の一連の流れを見る限り議題のようだが、どちらかというと 「信長秀吉家康が高い」ではなく、「他の武将が低すぎ」と言うのが今回の真相のような気がしてならない。 例を挙げれば、信長の野望創造で、信長秀吉家康と同じくらいの能力を持つ武田信玄は 創造だと379の2位だが、このページでは魅力抜きで311しかない。実に68も下がっている。 毛利元就も、創造の373に比べ、このページでは30近く低い。北条氏康も創造では370と秀吉家康より上だが、 このページでは実に20近く低い。こういう「信長秀吉家康と、ほぼ同程度の能力を持つ戦国武将」が 軒並み能力がさげられていたがために、3人の高さがより強調されてしまった。 -- (名無しさん) 2014-08-01 02 32 49 上のテンプレをお借りしつつ、信長の野望創造と みんなの新武将両方にいる有名武将を照らし合わせるとこうなる。 全員を同じ人が作ったというのは、現実味がないので誰かを咎める気はしないが、 歴史認識の差異の参考までに。 信長の野望・創造 みんなの新武将 差異 北条早雲 381 320 -61 大内義興 342 350 +08 三好長慶 339 334 -05 武田信玄 379 311 -68 上杉謙信 343 330 -13 今川義元 345 329 -16 北条氏康 370 353 -17 毛利元就 373 348 -25 織田信長 380 385 +05 豊臣秀吉 368 386 +18 徳川家康 369 386 +17 明智光秀 364 350 -14 柴田勝家 313 314 +01 小早川隆景 353 321 -32 直江兼続 350 306 -44 真田昌幸 360 305 -55 伊達政宗 364 338 -26 有名武将しか載せてないけど、マイナス幅の多い武将が数多くいることが分かってもらえると思う。 -- (名無しさん) 2014-08-01 02 55 59 ↑×3 流石におまえ、それはすさまじくブーメランだぞ・・・・。「まぜっかえすつもりはない」と言いながら、散々言いたいことぶちまけて、「無茶をごり押しした人間は愚痴ぐらいスルーしたらどう?」と相手を挑発しておいて「思っただけで返答も改変も求めていない」と他人の意見をシャットアウト。禰衡より酷いぞ -- (名無しさん) 2014-08-01 03 33 40 注意事項を特定人物のごり押しとか邪推する奴は頭骨をえぐってもらったら? -- (名無しさん) 2014-08-01 04 01 57 諸葛亮 曰く、 ほかにすることはないのですか -- (荒れるのでこの話題終わり) 2014-08-01 04 08 56 劉禅「えーと……よくわからないけどだめっぽい気がするので終わりにしよう」 -- (大事なことなので) 2014-08-01 04 11 27 1、荒れるのと話し合いは違う。過去にどれだけ意見が出尽くしたとしても、プレイヤーや見る人は変わるから多少の意見のぶつかりあいはいいと思う。 2、本当に現状維持が正しいことなのかはわからんが、気に入らないのなら見なければいいし、自分の気に入った能力でプレイすればいい。 3、この話題終わりでいいが、他になんか話し合うことってあるの?結局はまた誰かさんの能力がどうのこうのだろ?また繰り返しそうな気がするが仕方ないことなのかな。 -- (戟兵+飛将+心攻+藤甲) 2014-08-01 17 50 27 少なくとも能力値議論は基本的に不毛だから 終わらせるのは悪くないと思うよ 史料の取捨選択をするだけでも全然別の結果が出るし 特徴を前面に出すイメージ論と、功績を全て書き出す史実論に 差が出るのは当たり前だしね。イメージとしての劉備に 戦争が上手だったりする印象はなかったり、三国志の世界でも多いよ -- (名無しさん) 2014-08-03 20 05 50 率直に言うと、作ってる側の身としてはデフレよりインフレの方がまだありがたいってのはあるね。 例えるなら、呂布の武力がインフレして120になっても、そこまで問題はないのに対し、 もしも逆に、呂布の武力がデフレして80になったとすると、武力80以上の人間も全部変更しなければならなくなる。 呂布の武力を80にしました→「関羽や張飛が高いぞ、下げろ」 →関羽と張飛は武力70後半にしました→「他の馬超や張遼なども下げろ」「なんで邢道栄が呂布と同じ武力80で関羽や張飛より高いんだ」・・・・・・・・・・っと デフレしすぎると能力調整がすごーく面倒なことになってしまうんだ。黄皓がオール100とかあからさまなのはともかく、 自分的にはあんまりデフレデフレしてほしくないっていう本音。 -- (名無しさん) 2014-08-04 04 15 39 あえて悪意的な言い方をすると、 能力値にいちゃもんつける連中って 大体は知識や歴史に疎い人間であることが多いんだよな。 例えば485の光武帝や468の李世民はボロボロに酷評されてるが、 472の慕容恪は全くツッコミが入ってない。 これはツッコミを入れている側に慕容恪に対する知識がなく、 「慕容恪がどういう人物かわからないから、能力値にいちゃもんをつけられない」と言うのが 偽らざる真実ということなんだよな。だから結果的にその人物が有名であればあるほど いちゃもんがつき、無名な人物は誰も知らないからスルーされるという状態がずっと起きていた。 -- (名無しさん) 2014-08-05 02 54 49 揉める原因の主要因は数字ではなく、文句をつける側の問題 -- (名無しさん) 2014-08-05 02 56 36 せっかく終わったのに能力編集者はまだ荒らしたり無いのか.. -- (名無しさん) 2014-08-05 04 21 46 そりゃあ「能力がデタラメばかりだし消した方がいい」なんて言われたら 文句の一つや二つ浴びせたくもなるわ。こういったページの削除議論で そのまま発言通りに削除して、溜飲が下がっていい目を見るのは能力に文句をつける側。 信長とかの話は俺は編集ノータッチなんで領分ではないが、流石に作成者に喧嘩売っておいて 「謝罪したけど俺の意見は間違ってない」って言って終わりとか失礼にも程があるんじゃねーのか? -- (名無しさん) 2014-08-05 06 44 24 とりあえず……もう終わろうぜ 能力値議論をしかけた方が悪いのは皆わかってる 削除しようという意見が間違いなのもわかってる 作った人の作成例を馬鹿にするのは間違いなのもわかってる それで終わりでいいやないか -- (名無しさん) 2014-08-05 07 58 11 終わりなのは終わりでいいが、終わったのに結局また能力値の話題。そしてまた終わりでいいじゃないか。一生続くのかこのスパイラルはwwまぁでもこれ以外話し合うことなんかないものな。 -- (戟兵+飛将+心攻+藤甲) 2014-08-05 19 52 59 本日、この言葉を持って、 この不毛なる戦を終わらせる 「論争終了」 を宣言いたします。 以後、能力編集・論議(特技提案は除く)などを行う方は 気分的に迷惑者の代名詞「2代目麟華」と勝手に呼ばせていただきます -- (名無しさん) 2014-08-05 23 39 43 肥大した愛国心が気持ち悪い奴が現れてから、ここのサイト陳腐化したね。 -- (名無しさん) 2014-08-08 08 09 32 嫌なら見なければいいのに、わざわざ火種は撒いていく。実に醜くていいねw -- (名無しさん) 2014-08-08 10 29 45 負け犬のなんたらってやつですな 荒らしらしい最期と言える -- (名無しさん) 2014-08-08 13 15 23 結果的に論争ってか荒らしが終われば何でもよし ・・・ぶちゃけ疲れたよ -- (名無しさん) 2014-08-08 13 53 11 呑気な奴らだな このサイト、新武将でググると上位で出てくんだぞ。 この一般認識(コーエーが植えつけた)からはずれた日本の新武将欄が ある限り、永遠に編集合戦も荒らし?もなくならないと思うよ。 -- (名無しさん) 2014-08-08 14 07 14 コーエー史観は天下人+武田信玄の超優遇なんだけどな昔から 本当に戦国時代のこと知ってんのかすら怪しい。 大方三国志しか知らん連中が能力高い人物に手あたり次第噛みついてるだけだろ -- (名無しさん) 2014-08-08 15 55 13 ローカルルールの書き換えで「能力変更」が「否」となった今 文句をつける人間の最終手段は項目そのものを抹消させることだからねぇ。だから 「能力値おかしいだろ」って言いまくって、最終的には「揉める原因になるし消しましょうよ」って第三者を装って 項目そのものを抹消させるのが主目的。このWiki、編集履歴で残っちゃうから、勝手に全部消しても復旧するの簡単だからね。 さしずめ山頂に布陣して水の手を断たれて慌てる某登山家さんのようですな -- (名無しさん) 2014-08-08 16 07 41 能力値の表示を無くせばいいよ -- (ぽ) 2014-08-08 20 55 11 もともとないも同然なんだけどなあ 信長の野望や三国志12の能力まで引用されてるのに -- (名無しさん) 2014-08-08 21 02 55 ここや向こうの記事を読むと武将の能力以上に編集者の性格に突っ込み入れたくなるな よくもまあ自分の史観を唯一無二の史実と信じ他人の史観を否定しきれるもんだ、歴史観なんて人や時代で大きく変わるのに まあ記事を消すべきではないとは俺も思うがこの性格を変えない限り喧嘩を売る人間は後を絶たないだろうな -- (名無しさん) 2014-08-09 13 57 17 わざわざ講談査定突っ込んでやったんだから 「○○の能力が高すぎる」と言い出す人間は講談査定で登録しなさい -- (名無しさん) 2014-08-09 14 11 38 気になったから編集者に聞きたいんだけどなんで信長の初期編集の武力70から99に変えることで編集合戦や記事が荒れるとは思わなかったの? 自分には急激な能力上昇で編集合戦や場荒れることが予測できなかったとは思えないだが場が荒れることよりも自分の歴史観を貫くほうが大事だったわけかな? 少なくとも初期の能力のほうが自分には万人向けだと思うけど編集者には99のほうが万人向けだと思った? -- (名無しさん) 2014-08-09 15 25 21 「 基本的に、新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 新武将の能力値や適性の 決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物 であり、 その正誤も、各人それぞれ異なります。 当然、 万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。 (能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。) 可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には 各プレイヤーの裁量次第 であることをお忘れなきようお願い致します。 理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。 (過去に何度も編集合戦が起きています。) どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、 お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する ことをおススメします。」 もう一つ 「みんなの新武将」の武力は一騎打ち=武力ではなく 部隊の殲滅力=武力と仮定しております 一騎打ち補正が設定できないので武器・アイテムで補正してください -- (名無しさん) 2014-08-09 16 39 17 だからどういう目的で能力を変えたのかと聞いているんですけどね 少なくとも編集合戦や議論を避けようとする意思は過去コメからは感じ取れるものがなかったもので 自分以外の史観やコーエができるだけ批判を避ける為に長い年月でバランスをとってきた能力値を意に介す必要が無いような発言が目立ったんですけど それを突き通したら「みんなの新武将」じゃなくて「自分の新武将」になるじゃないですか? 少しでも他人の史観にも配慮されているコメがあったならこんなことは言わないんですけどね コーエーの能力をそのままコピペするべきだったなんて言いませんけど 自分の予想ですけど編成合戦の時にせめて三人の武力を10減らすことに妥協していればこんなに荒れなかったと思いますよ? 無論思っただけで今さら編集すべきとは言いませんけど -- (名無しさん) 2014-08-09 17 59 09 あっ編成じゃなくて編集でしたW -- (名無しさん) 2014-08-09 18 03 36 「 基本的に、新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 新武将の能力値や適性の 決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物 であり、 その正誤も、各人それぞれ異なります。 当然、 万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。 (能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。) 可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には 各プレイヤーの裁量次第 であることをお忘れなきようお願い致します。 理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。 (過去に何度も編集合戦が起きています。) どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、 お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する ことをおススメします。」 もう一つ 「みんなの新武将」の武力は一騎打ち=武力ではなく 部隊の殲滅力=武力と仮定しております 一騎打ち補正が設定できないので武器・アイテムで補正してください ご協力をお願いいたします -- (名無しさん) 2014-08-09 18 09 18 ↑これが出てきた時点で、能力値表示乗せる意味なんてなくなったと 俺も思う。そもそも武力が部隊の攻撃力及び一騎打ちに反映される 三国志11であるのに、新武将は一騎打ちと攻撃力を分けて仮定表記してる とか突っ込まれどころ満載だろ。 -- (名無しさん) 2014-08-09 18 10 55 「 基本的に、新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 新武将の能力値や適性の 決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物 であり、 その正誤も、各人それぞれ異なります。 当然、 万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。 (能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。) 可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には 各プレイヤーの裁量次第 であることをお忘れなきようお願い致します。 理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。 (過去に何度も編集合戦が起きています。) どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、 お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する ことをおススメします。」 もう一つ 「みんなの新武将」の武力は一騎打ち=武力ではなく 部隊の殲滅力=武力と仮定しております 一騎打ち補正が設定できないので武器・アイテムで補正してください ご協力をお願いいたします -- (名無しさん) 2014-08-09 18 09 18 -- (名無しさん) 2014-08-09 18 22 06 何回言わせる気だと言いたいが説明するぞ ・武力を99にした理由 これは単純明快。史料の実績を見て考慮し、それが一番理想だと思ったから。 一応三国志の武将は照らし合わせているが呂布、関羽、張飛、許チョあたりは どうせ一騎打ち補正で能力値より強くなるので全く問題がなかった。 ・なぜ武力を上げたのか これも散々既出だが俺が編集した当時は武力70というのがまず周りから疑問を呈されまくっていた。 俺以外にも武力90越えの能力を設定していた人もいたし、信長の野望でも信長の武力は90に近い数字を出してる。 つまり俺が強引に「武力70→武力99」としたのではなく、他の人間の編集も混ざって結果的にそうなっただけ。 当時は「能力書き換え禁止」というルールはなかったのでそれで進んだ。 ・コーエーの情報をなぜ無視したのか なぜかよく言われるが全く無視していない。特に信長の方は天道・創造の数値も凝らすように見て ギリギリのところで調整したのでむしろ自信作と言ってもいいくらいだ。あと俺は本来剣豪を強くすることは大反対で 当時でも剣豪はあくまで職人の一つでしかなかったし、ゲームでも創造では剣豪の武力は高くない(上泉信綱ですら武力84) ・他人の史観にも配慮されるべきでは? あからさまに間違いとされるのは流石に間違いと言う。それだけの話でしかない。 朱然や呂蒙が関羽の呪いで死んだとか言われるのを違うというのと同じこと。 それ以外は別に何も触れていない。 ・編集合戦の際に能力を下げればよかったのでは? 他の武将との兼ね合いで作ったのでバランスが狂うという点が1つ 能力値でバランスとるより素質でバランスを取りたかったのが1つ そもそも文句つけている側が完全に聞く耳持ってなかったのでそれに反発したのが1つ 納得しろとは言わんが正当な理由もないのに下げろと言われてはいそうですかと言えるわけない。 -- (名無しさん) 2014-08-09 18 57 27 おいさっきから「基本的に」ってうっとおしいぞ、こういうのが荒らしだろう。この新武将というページのありかたをそれぞれが意見だしてるだけだろう、いいことだ。同じ文章コピペ張り続けるなうっとおしい。勝手に編集したりわけのわからん文句言って荒してるわけでもないだろうくだらないことするな。こういう話し合いくらいはかまわんだろう、勝手に言わせておけばいいんだ。言いたいだけ言わせてやれよ -- (戟兵+飛将+心攻+藤甲) 2014-08-09 19 00 18 あとな、突っ込まれる前に言っておくけどな わざわざもう1回史料突き詰めなおして講談準拠でもう1個能力作成例作ったんだ。まあ半兵衛を作った時に発案したんだけどな。 おまえらの言う「謙信や信玄を恐れる信長」だの「竹中に知恵を借りて黒田を恐れる秀吉」だの「真田に苦戦して死にかける家康」ってのも 講談枠で作ったんだから、能力の高さが気に入らないならそっち使いなさい。 どうも話を聞いてると、数字の低下ありきで文句つけてきて話にならんよ 「この歴史事実と反する」じゃなくて「数字高いから下げろ」が先に来てる不毛な意見 -- (名無しさん) 2014-08-09 19 23 36 ↑×2 いや、実際議論自体はかなり不毛だから気持ちはわかるよ。 俺は史料を見て、ゲームの能力値を見て、その上で能力評価してるが 実際この議論吹っかけてる人間がそれをやってるかと言われると、どうにも信じがたい。 特に俺は、信長の武勇の根拠として、信長の若年時代の活躍を基にしているが、 正直まずこの史実事項を知らん奴が大半なのではないか?と思えてならない。 はっきり言うと返答の歯切れが悪くて、実際どういう活躍や歴史的事項があるのかわかってないんじゃないか?とすら思える。 仮にその状態だとすると、俺が評価基準を出しても暖簾に腕押しなんじゃねっていう -- (名無しさん) 2014-08-09 19 30 51 …すまない、この論議の終着地点は? 史実・講談と作って「各プレイヤーの裁量次第」とも書いてある 欄については現状維持で個人個人の三国志11で好きに編集すれば良いのでは? わざわざまた能力について論議する必要性が少ないと感じるのですが…? 対処するとしてもコピペで注意すれば根比べでも弊害や労力は少ないと思うし -- (名無しさん) 2014-08-09 20 03 58 ないよ 三国志12、信長の野望創造、史実、講談と例が既に4つある -- (名無しさん) 2014-08-09 20 27 42 ですよね・・・ やっぱり、不毛 -- (名無しさん) 2014-08-09 20 31 14 返答どうもありがとう、自分は編集者に少しでも他人の意見や考えを汲み取る度量があったのか確認したかったので質問させてもらったけど まあ予想通りでしたね -- (名無しさん) 2014-08-09 20 49 50 結局は平行線なんだし参考にするかどうかは個人個人でいいのに 他の項目はそれでうまくいってなぜ戦国ではうまくいかないのか -- (名無しさん) 2014-08-09 22 38 52 秀吉はともかく、織田信長の項目は何年も前から存在するのに、 これほどまで荒れたことはなかった。 その発端は言うまでもなく、今の編集が起きてからだ。 つまるところ、戦国がうまく行かないのは上がってる能力値が 少数派の見解によるものであって、万人が妥協できるレベルを 超過している点にある。 編集者には編集者の理由があるのだろうが、定着してしまったイメージという奴は 払拭できるものではない。この先も疑問を呈する人間は後を絶たないだろう。 編集者は編集したものの責務として永遠に説明し続ければいい。 どうせ編集者が勝手にやったことだ。 -- (名無しさん) 2014-08-10 01 01 55 解りましたから…でも不毛だから たった何人かのために色んな人に迷惑かけるのが 一番の不毛だから まともな「みんなの新武将」の追加意見すら出てないから -- (名無しさん) 2014-08-10 07 10 40 昔は荒れる前に編集合戦になってたからな いちいちコメントに書くより勝手に能力変更した方が早い 「万人が妥協できるレベルを超過している点にある。」ともっともらしいことをいうが ぶっちゃけこんなところで能力議論している時点で既に「少数派」と言うものだ。 信長の野望ならいざ知らず、ここ三国志のページだしな つうか、編集した俺が言うのもなんだが、ぶっちゃけ「能力変更禁止」の注意ルールができた時点で たまたま俺の能力評価がそこにあったというだけだし、他の武将にしても全く同じ。 たまーに俺が強引に今の能力値でゴリ押ししているなんて、知力1レベルの発言が出ているが それを言うのは俺じゃなくて「能力変更禁止」の注意ルールを作った人たちだろ。 まあ、俺としては今の荒れ具合を見る限り英断だったと言わざるを得んけどな。 「編集したものの責務として永遠に説明し続ければいい。」と言うのも、列伝わざわざ拡大させて 評価基準載せてる俺にとっては完全な捨てゼリフにすぎんし。 -- (名無しさん) 2014-08-10 09 46 30 ↑↑ というより、議論の仕方が悪いから不毛になってるってのもある。 俺個人としては、「『建設的な議論に基づく』能力変更」に関しては、むしろ賛成だ。 例えば「○○には~~~という逸話が・・・・と言う史料にある。これを考慮して、○○の能力を上げor下げるのはどうだろう?」 と言う意見提起は、俺自身にも参考になるし、立派な理由にもなる。こういう議論は大歓迎したい。 でも、今の論調はそうじゃなくて「能力下げろ、根拠はない」という、半ば煽りあいの構図になってる。 概して反対意見と言うのは、賛成意見より声がデカくなるというのもあるし、 何よりこういう論調で能力書き換えることが問題になったからこそ、今の注意ルールがあると俺は思っている。 それでは到底能力を変更することなどできんし、仮に能力を書き換えたところで 注意ルールを作ってここを平和にしたいと考える人達の労力が無になるしな。 当時はそんなルールがなくて、能力変更自体はかなり頻繁に起きていたが、今の状況ではそれもできん話 -- (名無しさん) 2014-08-10 10 23 12 能力編集を頻繁に起こして、論争の火種になり、 今現在も火種になってる人間が素知らぬ顔でよく言うぜ。 -- (名無しさん) 2014-08-10 11 24 39 まるで俺以外はまともな人間だと言いたそうだな 編集合戦なんて1人で起こるわけねーのにw -- (名無しさん) 2014-08-10 15 53 19 編集合戦→編集論争 -- (名無しさん) 2014-08-10 15 53 57 手段と目的が逆になっている人多いね。 ここはあくまで、新武将を登録するための場所 武将の能力をサンプルとして提供する場所 能力にたいしてとやかく言うのは、根本的に間違っている それとも、LRの簡単な日本語すらわからないの? -- (名無しさん) 2014-08-10 19 29 35 武将の編集を勝ち抜くのはとどのつまりどれだけこのサイトに居座り続けられるかで武将議論にはまったく変える力はないんだよ 「たまたま最後に編集したのが自分」と言っても数日前突然現れた「ギャグみたいだな」と批判コメ打った人間に6分で反応返せるほどこのサイトに巣作りしている人間に編集合戦で勝てるわけが無いだから 過去コメ見ても恐ろしいほど早く反応しているしこの編集者に目を付けられた時点でもう諦めるしかなかった 議論で心変わりする人間かは過去コメみればわかるだろう?そろそろ諦めようぜ -- (名無しさん) 2014-08-10 19 51 25 久しぶりに見に来てみたら、まだギャースカー言ってんのかよwwww 能力値に異議がないならそのまま設定して登録、低いと思ったら高めに設定して登録、高いと思ったら低めに設定して登録、簡単じゃねーかwwww ・・・・・ははーん、さては「実際に記載されている新武将を登録・使用したことがない」ってオチかwwww 使いもしない新武将の能力を延々と議論して、ご苦労だねぇwwww -- (名無しさん) 2014-08-10 19 58 19 コメントのログ読んでて1つ思ったんだけどさ、 今「例の人」にわーわー言ってる人って この「みんなの新武将」で、どれくらいの数の人物を提供したの? 確かに、「例の人」のコメント対応はお世辞にも上手くない。 けど、自分のように武将のデータを参考にさせて貰ってるだけの人にとっては 率直な話、データや列伝を提供してくれる人の方がありがたいし、この項にも貢献していると思うんだが。 上の方でページ消去の案を出してた人もいたけど、この項目でどれだけデータ提供してるの? 実はワーワー騒ぎたいだけです、とかやめてね? -- (名無しさん) 2014-08-10 20 16 08 あと、この内容は「例の人」にも聞きたい。 -- (名無しさん) 2014-08-10 20 19 20 俺は30程度かな。 しばらくたってから「例の人」に片っ端から編集されて、 元に戻したら、何理由もなく勝手に編集してんだよって 咬み付かれて、面倒くさいから編集するのやめたw -- (名無しさん) 2014-08-10 21 19 53 例の人ってのが俺っぽいから答えておく。 自分が新規に作った武将ってことでいいんだよな? 倭:古代 10人 倭:中世 21人 倭:近世 43人 倭:近代 20人 欧州 8人 諸大州 8人 合計 110人 覚えている限りではこんなもん -- (名無しさん) 2014-08-10 21 39 07 ミスった 倭:江戸 8人 これ抜けてたから118人 -- (名無しさん) 2014-08-10 21 40 12 「みんなの新武将」から「俺様の新武将」に改名しろよもうwまぁいいじゃねぇか、勝手にかきかえたりはもうしてないんだろう?だったら言いたいだけ言わせてやればいいんだ。はじめから答えなんてひとそれぞれだとわかりきってる。こういうことになるのは承知で作ったんだろう?ならいいじゃないか。そんなことよりおれは三国志の話よりも、信長だ秀吉だってよ、三国志よりも戦国のほうが話題になってもりあがってるほうがショックだねwここ三国志11攻略サイトだぜまったく。 -- (戟兵+飛将+心攻+藤甲) 2014-08-10 22 30 22 まあ一応ルールを逸脱することはしてないよ 俺が書き換えた時は書き換えアリだったし 俺自身も経験している。 -- (名無しさん) 2014-08-10 22 37 57 本当に戦国武将のデータを参考にしている人は 三国志12の戦国武将データを参考にして下さい(koeiのデフォルトデータがあります) ここは荒らしの人達がいる様にか思えまん -- (名無しさん) 2014-08-10 22 53 19 何を今更既出の情報誘導をしてるんだ -- (名無しさん) 2014-08-10 23 16 45 まああそこで主に活動している俺が言うのもなんだが、 該当ページを見させないように誘導するのははっきり言って無駄な労力だ。 別に負け惜しみや捨て台詞でもなく、もともと日本の戦国時代に人気があるのは周知の事実だからだ それゆえに、あそこのページの新武将はわざと特殊にしてある(俺が作っていない新武将は別だけど) 信長の野望をやりこんでいたら、まず気づくはずの簡単なもんだけどな -- (名無しさん) 2014-08-10 23 53 40 三国志12の戦国武将の能力自体微妙 -- (ぽ) 2014-08-11 17 06 18 結局、削除を提案した自分がいなくなっても。提案前と何ら変わらない状況なのね。 予想通りだけど、このまま変えたい人複数と作成者1人のバトルがいつまで続くんだろうか。 -- (削除を提案した者) 2014-08-11 18 02 20 勝手に1人にするなよ。例の人だけのページじゃねーんだよ。例の人に愚痴愚痴言いたいのは勝手だけどな、ガソリン撒いといて被害者ぶるのはやめろ。 -- (名無しさん) 2014-08-11 18 43 23 非常に同感です。 確かに「例の人」のコメントは、御世辞にもいいとは言えない。 しかし、「例の人」が「ただ能力値を改竄して、場を荒らすだけの人」ではなく、 「実際にここにデータをたくさん提供している人」ということが判明しました。(もちろん、事実であればですが) 結局、彼にわーわー騒いでいた人も、データ提供数を答えてくれた人は1人だけ。 これまた、御世辞にも正当性のある人たちとは言えません。 お互いのコメントは褒められるようなものではないが、データの提供数では圧倒的な差がある。 個人的には「例の人」の肩を持ちたいですよ、口調は治してほしいですが。 彼にワーワー言ってる人の肩を持っても、どうやらここが廃れて終わりそうですし -- (例の質問をした人) 2014-08-11 19 08 50 変えたい奴って要は私怨だもんな。そんなつまらん理由のためにぐちゃぐちゃにされちゃかなわん。 -- (名無しさん) 2014-08-11 19 15 57 非難する前にちょっと大人になって (議論するなら、史実・講談などの最低限の理論・論理的武装をしてから議論を発議してください) (抜粋)「お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する ことをおススメします。」 -- (名無しさん) 2014-08-11 20 10 58 過去コメに「3英雄より勝率高い白起より能力高いんだが」という返答に 「公式がおかしいんだから白起の能力上げればいいじゃん」とコメしている人にどう議論すればいいと? 結局3英雄より勝率高い武将を例に挙げれば「過小評価されている武将の能力値がおかしいだけ」で逃げられるだけじゃね? -- (名無しさん) 2014-08-11 20 41 39 勝率の高さって実際アテにならないからね。 例えば日本だと徳川家光が勝率100%の常勝将軍だけど 徳川家光に卓越した軍事能力があるかと言われればNo -- (名無しさん) 2014-08-11 20 57 46 ×徳川家光 ○松平信綱 -- (名無しさん) 2014-08-11 21 00 34 勝率の高い低いほど論ずる意味がないものも珍しい。 相手が弱小勢力だったり、相手総大将の資質が劣っていれば倒すことなど造作もない。 そういう連中とばかり戦って勝率稼いだ人間は、超一流のひしめく世界ではあまり評価されないのが歴史の常だしな。 「誰と」「どういう状況で」「どう戦ったのか」ってのが一番重要な世界で、彼我の兵力すら満足にわからない白起をだされてもな。 常勝将軍の割に項羽より軍事能力低いって、要はそういうことだろ? -- (名無しさん) 2014-08-11 21 24 37 光武帝とかそんな感じだよな。昆陽の戦いとか規模は凄いが、率いてる敵の王尋は雑魚っていう。逆に韓信は相手の項羽も強いから最強扱いされやすい -- (名無しさん) 2014-08-12 02 00 52 厳密には直接戦ったことなかったな、誤りすまん -- (名無しさん) 2014-08-12 02 04 54 劉禅「そう言えば今度入った料理人が凄腕なんだってさ………………ちょっと行ってくる!あぁ、みんなは適当に解散しといて」 -- (キリがないのでこの話題終わり) 2014-08-12 04 28 31 劉禅「そう言えば今度入った女官が かなり可愛いんだってさ………………ちょっと行ってくる!あぁ、みんなは適当に解散しといて」 -- (キリがry) 2014-08-12 04 29 23 劉禅「えーと……よくわからないけどだめっぽい気がするので終わりにしよう」 -- (キリry) 2014-08-12 04 30 17 劉禅「はぁ……なんか疲れた。終わりにしよっと」 -- (キry) 2014-08-12 04 30 59 基本的に、新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 新武将の能力値や適性の 決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物 であり、 その正誤も、各人それぞれ異なります。 -- (名無しさん) 2014-08-12 04 32 02 当然、 万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。 (能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。) -- (名無しさん) 2014-08-12 04 32 30 可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には 各プレイヤーの裁量次第 であることをお忘れなきようお願い致します。 理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。 (過去に何度も編集合戦が起きています。) -- (名無しさん) 2014-08-12 04 33 05 どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、 お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する ことをおススメします。 -- (名無しさん) 2014-08-12 04 33 36 以上、注意点より抜粋 -- (名無しさん) 2014-08-12 04 36 53 他の利用者に迷惑をかけるのはやめましょう 私は正しいことをやっている そう思ってるのは、あなた達自身だけ -- (名無しさん) 2014-08-12 04 39 42 ただこころなしかコメントが荒れたおかげで最近Wikiが活気づいたに見えるのは気のせい? ほかの武将のコメント履歴も以前よりずいぶん増えてるようなw -- (名無しさん) 2014-08-12 21 37 38 雨後の筍 -- (名無しさん) 2014-08-12 22 06 11 こういうのも「戦争景気」と言うのかな? -- (名無しさん) 2014-08-14 14 46 32 戦国時代に需要ありそうなので、ページをわけようとしましたけど どうやら不要みたいなので、早合点して申し訳ない。 -- (名無しさん) 2014-08-15 03 13 20 今の状態だと新規に作る利点はないよ 作りたいときはコメント欄で相談を -- (名無しさん) 2014-08-15 03 22 25 そうですね。重ね重ね申し訳ない。 -- (名無しさん) 2014-08-15 03 27 14 織田家などが数が多いので見やすくする(家ごとに分けて表示する)なら賛成 -- (名無しさん) 2014-08-15 05 28 52 はい、おっしゃる通り家ごとに分けようとしたんですよ ただ今現時点で登録されている武将って家もバラバラなんですよね。 もともと「信長の野望」「三国志12」に登場しない人物を優先的に入れられているみたいなので 織田家とか豊臣家とか徳川家以外だとほとんどバラバラで項目数>武将数になりかねないかなと。 もう少し他の家の武将が増えてきたら悪くはないかなと思いました。 -- (名無しさん) 2014-08-15 05 57 42 後漢末~三国みたいにすればよいのでは? -- (名無しさん) 2014-08-15 06 10 37 ↑ 案ありがとうございます。 とりあえずその通りにして一旦纏めてみました。 織田、豊臣、徳川が多かったので、その辺は近世の方に残し 後は各大名ごとに区分けして転記しました。 これで他の大名家の武将にも視野が当たればなーと思ってます -- (名無しさん) 2014-08-15 06 47 51 英雄豪傑に普通の人が混じるとどんな感じなんだろう?誰か夏目漱石の『坊っちゃん』の登場人物でお願いします。 -- (名無しさん) 2014-08-17 23 34 15 ふと疑問に思ったんだけど、三国時代以外の中国史の架空人物を載せる時は、どこに書いたらいいのかな? 三国志関係? その他? それとも、別にページを作るべき? 自分は別に書く気はないけど、中国の武侠小説の登場人物を載せたい、という人もいるかも知れないので、念のため。 -- (名無しさん) 2015-02-22 12 14 16 現状、その他の創作人物のところでいいのでは? 西洋史の人物ばかりが記載されてますけど、「西洋史限定」とは 書かれていなかったはずなので。 あまり数が多くなれば、分離とかさせてもいいと思いますけど 三国志や日本の架空人物と比べて、書き手が増えにくいとは思います -- (名無しさん) 2015-02-22 17 20 38 能力値変更NGって何年何月何日に決まったの? 履歴を見ると、昨日今日のも含めて2014以降も随分と変更されてるみたいだけど? -- (名無しさん) 2015-03-23 01 01 10 たぶん其れは特技とかの追加補完とか○○歳バージョンとかの分じゃないか?戦国三傑とか一部の例外は除くと -- (名無しさん) 2015-03-23 12 41 46 2015-03-23 12 41 46 質問の答えとしては 何月何日にうんぬんは編集履歴でチェックしてくれとしか言えない、追加された時期は2014年の中頃には注意書きはあったと思う 後漢・戦国三傑などの有名所で編集合戦がおきて、そのことに起因して現れた文章だからこれから先のことを考えて荒れないための保険として扱ってもらいたい -- (名無しさん) 2015-03-23 12 52 14 能力値の変更がNGと明確に決まったのは去年の今頃じゃなかったかな? もともと能力値に関しては万人が万人なりの回答を持ってるから、 気をつけましょうって言ってたのを、一部の人間達が無視して、収拾つかなくなったから明文化された。 編集合戦が起きたのも一因にはあるけど、最終的には削除しよう、必要ないとまで言い出す人も出てきて、 該当箇所(後漢・唐・戦国など)だけで収拾つかなくなったのが一番の原因だと思う。 補完とか年齢の変遷が問題視されていないのは、恐らく元の能力値の改変ということではないからだろうね。 一番問題になったのは、変更というよりも「書き換え」「削除→新成」の部分だし。 -- (名無しさん) 2015-03-23 16 52 46 日本(近世)のコメント欄に「若年Ver.や晩年Ver.の能力値は本当に必要か?」と書き込んだ者だけど、 信長・家康の若年Ver.や秀吉の晩年Ver.、孫権や洪武帝の皇帝即位後Ver.等の能力値は本当に必要なのかな? 向こうでは「既存の成長期システムでは表現できない能力変化も書いてあるということでは?」という指摘を受けたけど、 その内、やれ壮年Ver.だの老年Ver.だの、上洛前後Ver.だの関白太閤征夷大将軍Ver.だのと、 そういう名目で自分が考えた能力値を書き加える人が際限なく出てくるかも知れないことを考えると (実際、現編集前なる項目を作って能力値を書き加える人が出ているし、それに対する批判も既に述べられている。 詳しくは日本(近世)のコメント欄の2015-03-26 17 36 01からのコメントを参照)、 能力値は一つに統一した方が無難ではないかな? -- (名無しさん) 2015-03-28 20 08 00 誰が能力値を書いたかわからない以上削除は危険ではないかな? かえって編集合戦を誘発する危険性がある。 今後他の人物でそういうのを規制するのはむしろ賛成だと思う。 -- (名無しさん) 2015-03-28 22 32 18 ちなみに、現編集前の能力追加している人に対しては コメント欄見てくれるとわかると思うけど、 ルール改訂後に勝手に他の人物の能力変更した前科があるので 言い分を認める必要は一切ないと思う。 -- (名無しさん) 2015-03-28 22 35 46 とりあえず暫定的に能力値追加禁止のルールを設定しました。全ての追加能力値を弄くることはどうなのか?という意見もあったので、スルーされてる追加能力値はそのままということにしてあります。 -- (名無しさん) 2015-03-29 00 37 27 迅速な対応、ありがとうございます -- (↑) 2015-03-29 10 25 16 ↑の名前欄は↑4の間違いです。失礼しました -- (名無しさん) 2015-03-29 10 27 42 3月30日22時頃、突然全ての「みんなの新武将」ページから 3月29日のローカル改定分の記述が削除されていた。 また、問題となっていた 倭・近世 のページで 「現編集前」なる問題に取り上げられていたステータスが復活していたことから、該当者が荒らしたと判断し、以下の処置を行った 一、全てのページを3月29日ルール改定分へと差し替え ニ、悪質度の高い 倭・近世 のページに関しては 一度全ての編集ログを流し、「復元」コマンドによる編集合戦に近い差し戻しを阻止することとした。 三、該当行為による報復的荒らし行為を防ぐため、全てのページで現段階における記述のコピーを取り、それをペーストして保存。 今のところ保存のみだが、何かしらの形でこちらに公開する可能性有。 四、一連の該当行為におけるルール違反、荒らし行為の所業が同一人物だった場合、Wiki管理人への連絡も検討中 以上。今回の編集について -- (とある自治厨) 2015-03-31 04 13 18 https //archive.today/pKczs -- (名無しさん) 2015-03-31 04 49 44 把握。こういう時に注意事項あると便利だね。どっちに非があるか明白だ。 -- (名無しさん) 2015-03-31 06 45 38 倭武将の項目荒らしてるやつって 信長スレから流れてきた制海権野郎なのか -- (名無しさん) 2015-04-16 13 10 31 どうでもいい -- (名無しさん) 2015-04-17 13 22 11 歴史イベント(みんなの新武将用)作れんかな… 収拾つかなくなるか -- (名無しさん) 2015-04-21 18 29 26 実際に作るとなると、改造でも難しいんじゃないか? 勢力全て操作して、それっぽく再現するだけなら可能だろうけど -- (名無しさん) 2015-04-21 19 27 41 250字以上の列伝は各自で添削するように、というルールが追加されたけど、さすがにこれは問題ありでは? 荒れるのを未然に防ぐため、という意図は理解できるし、何かと荒れやすい戦国三傑への編集だから神経質にならざるを得ないのもわかる。 けど、一応は新武将作成例のページなんだから、そのままコピーして使えるよう最低限の体裁は整えておくべきではないかな? 250字を超えた列伝というのは、例えるなら1000を超えた能力値のようなもので、ツール類を使用してもゲームに登場させることは出来ない。 加えて、あくまで私見だけど、新武将作成例からは列伝だけを拝借して能力値等は自分で決める、という利用者も多いようだし、 wikiとしては列伝の添削を禁止するのではなく、むしろ列伝の体裁を整えることを奨励するべきではないかな? その方がwikiの利便性の向上に繋がるだろうし、禁止するのは既に250字内の列伝だけで十分だと思うけど。 -- (名無しさん) 2015-05-08 19 08 07 取り繕った方がいいのは確かだが、250越えてる登録武将がかなり多くて 実質このルール自体があまり機能してないという現状があるからね 膨大な数の列伝書き換えるより、各自でやってもらった方が早いと思う。 極論、日本語がわかれば省略できるところもわかるし -- (名無しさん) 2015-05-12 08 38 28 ↑ 250字の制限が必ずしも守られていないことや、列伝の添削が大変なことはわかるけど、 それらの問題と列伝の添削をルールで禁止することは別なのでは? 現状のルールは「作成例の体裁をきちんと整えることを認めない」と宣言しているようなもので、 いくら何でも規制の度が過ぎるというか、みんなの新武将というページの本質を見失っているように思えるけど。 -- (↑2) 2015-05-12 22 40 03 認めないというわけではない。俺が言ってるのは「普通に骨が折れるだろう?」ということだ。 三傑だけ編集すれば終わり、って言うなら特に問題はないが 現状250字を越える列伝を持った人物はかなり多い。 そしてそれ全てを修正するのは膨大な時間がかかる。 つまり「あなたの方法は現実的ではない」と言いたいのだ。 それよりも、列伝の添削を各自に任せることで、 ある程度融通をきかせた方がよいのではないか?というのが個人的な考えだ。 正直なところ、実際に登録するとわかるが、列伝自体はさほど必要かと言われると微妙なところがある。 列伝の存在そのものを否定する気はないが、登録武将を登録する上で列伝は絶対必要なわけではない、ということだ。 -- (名無しさん) 2015-05-13 08 48 40 ↑ だから、列伝の添削が大変なことは、列伝の添削を禁止する理由にはならないでしょう? 自分は別に「250字を超えた列伝は是が非でも修正すべきだ」と主張しているわけではないよ。 ただ、現状のルールは「ゴミのポイ捨てが後を絶たないから、捨てられたゴミの後片付けを禁止する」と言っているようなもので、 あまりにも支離滅裂なルールだと感じたから、そこの部分は元に戻すべきではないかと述べているだけだよ。 -- (↑2) 2015-05-13 19 34 08 ルール上そうしたい、というならまだしも、修正するだけというなら余計やめておいたほうがいいかと。列伝の編集合戦というのもあるので。横槍失礼 -- (名無しさん) 2015-05-15 11 27 13 ↑ 最初のコメントの繰り返しになるけど、自分も編集合戦を防ぐための規制は必要だと考えている。 でも、そのままコピーして使えるよう最低限の体裁は整えておく、というのが理想のはずだから、 規制するのは既に体裁が整えられている列伝に限定して、250字以上の列伝の添削は認めるべきではないかと思う。 もし添削後の列伝の内容が気に入らなければ、その時こそ各自のPC内で調整すればよい。 ↑3は「三傑だけ編集して終わりというわけにはいかない」という意味のことを言っているけど、 有名な三傑だけでも添削の手間を省けるようになるなら、それ自体は便利なことだと思うし、 そもそも、なぜ三傑だけ編集して終わりというわけにはいかないと、三傑を編集してはいけなくなるのか、そこがわからないんだよね。 -- (↑2) 2015-05-15 21 03 41 今、気付いたけど、現行のルールだと250字未満の列伝については言及されてないし、 250字以上に書き換えられたら修正できなくなるから、ますます列伝の使い勝手が悪くなる可能性があるね。 この部分は早めに書き直した方がよいと思う。 -- (↑) 2015-05-15 21 34 43 議論は尽くされたと判断して、列伝の編集に関するルールを変更しました。 -- (↑) 2015-06-26 21 38 16 役に立つページ -- (名無しさん) 2016-01-10 17 30 14 http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1173.html コメント欄についての要望があったので、後漢のコメントページの項目を削除しました。 ログについてはこのページの下部から見れるようになっています。 -- (名無しさん) 2016-03-09 20 45 29 http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2431.html 追加で後漢の項目下部にも置いておきました -- (名無しさん) 2016-03-09 20 54 57 朝鮮のとこ、乙支文徳とか淵蓋蘇文がいつの間にやら居なくなってるんだな コメントフォームがないとこういう時不便ね -- (名無しさん) 2016-03-09 23 33 22 編集履歴見ると能力値で揉めて結局削除になってるみたいだね さてどうしたものか -- (名無しさん) 2016-03-09 23 42 26 2013/09/28 (土) 03 03 19の編集で消えてるけどこれ荒らしの編集だよね、多分 -- (名無しさん) 2016-03-09 23 45 56 http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/71.html とりあえず朝鮮・韓国の記事について ・ 荒らしと思われる全空白記事のすぐ直前の記事で復旧 ・ ただし高朱蒙に関しては、ローカルルール設定後に別の能力値になっているため、そちらを優先 ・ 全削除以後にできた武将は、そのままマスクデータを変更することなく転記 コメント欄は戻すことができなかったので恐らく管理人さんの処置だと思われます -- (名無しさん) 2016-03-09 23 54 37 http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2471.html コメントログはちなみにこれです -- (名無しさん) 2016-03-09 23 56 46 暫定案なのでもし異論がある方はこちらでお願いします -- (名無しさん) 2016-03-10 00 03 26 元のコメント欄の続きをさせてもらうけど、 その時は元の編集者側が折れたのかもしれないけど、今回あるいは次以降もそうなるとは限らない 自分はむしろ「折れざるを得なかった」という点に注目したい。 ここがゲームの攻略wikiである以上、「ゲームの制限を守れ」というのは不動の正論であり、 個々人の歴史観の違いで意見が分かれることはありえない。 そもそも列伝の編集は既に規制されているから、編集合戦の心配はないんじゃないかな? というわけで、編集前の列伝を残すことをルールで義務化する必要は無いと思う。 制限を超過している列伝の多さを考えると、ページの容量を肥大化させることになりかねないし、 それに、これは前にも書いたけど、ゲームに使えない列伝をゲームのwikiに載せておいて、 ゲームで使えるように修正されたら怒り出すような人たちに、そこまで配慮する必要があるかな? むしろ「この列伝は悪意にまみれている!こんなの俺が認めない!変更させろ」ってなってしまうと それこそ全く収拾つかなくならないか? 認めないと思うのは個々人の勝手。250字以上の列伝であれば、添削はむしろ大歓迎。 でも、250字以内の列伝に手を出したら許さない。 ……では駄目かな? -- (名無しさん) 2016-04-12 01 18 31 ページそのものの容量の多さについては確か別ページを新たに作ることで解消できるはず このWikiは「1ページごとの容量」は決まっているけど、新たにつくるページの容量制限はないからね。 それと、列伝編集を訂正者の個人的な書き方に任せるのはかなり危険を内包してる。 今回のような一部で「悪意にまみれた」と言われた列伝が今後増えてくる可能性がある。 そうなった時に「250字以内にしたしいいじゃん」と発言されると、また火種ができかねない そこまで考える必要あるのか?と言われそうだけど、問題を抑える必要のあるローカルルールで 新しく問題を作っては世話ないと思うのが一番の理由。 -- (名無しさん) 2016-04-12 01 44 38 よって現状では ・ とりあえずこれ以上の問題が起きないように列伝改変を禁止(字数制限のための訂正は改変しない場合のみ可) とすることにより、もともとの編集者及び作成者の内容を尊重しつつ ・ 列伝は必ずしも通説や講談、各人それぞれの歴史観に倣っているわけではない として、反対意見、異なる歴史観の存在も認めている形にしてあります -- (名無しさん) 2016-04-12 01 47 26 もともとの編集者及び作成者の内容を尊重しつつ 「前の編集者を尊重すべき」という言葉に囚われすぎてない? なぜ制限が守られていない列伝が出来たかといえば、編集者が文章を250字以内にまとめられなかったからで、 敢えて厳しい言い方をすれば、編集者の過失ということになる。 前の編集者を尊重すべき、というのはその通りだけど、過失まで杓子定規に尊重することはないと思う。 列伝編集を訂正者の個人的な書き方に任せるのはかなり危険を内包してる。 今回のような一部で「悪意にまみれた」と言われた列伝が今後増えてくる可能性がある。 そうなった時に「250字以内にしたしいいじゃん」と発言されると、また火種ができかねない そこまで考える必要あるのか?と言われそうだけど、問題を抑える必要のあるローカルルールで 新しく問題を作っては世話ないと思うのが一番の理由。 自分は訂正前の文章を残すことの方が危険だと思う。 これまで編集合戦が起きたりコメント欄が荒れたりしたのは、個々人の歴史観の違いが原因で、 歴史観の違いを解消することが極めて困難である以上、これからもコメント欄が荒れることは十分にありうる。 コメント欄が荒れた時、我々が場を収めるために言えることは「ルールを守れ」の一語だけ。 でも、ふと列伝の方を見ると、ゲームの制限が守られていない文章が、ルールに守られて大切に保存されている。 そして、ここがゲームの攻略wikiである以上、「ゲームの制限を守れ」という正論を否定することは出来ない。 この状況で、それでもルールを守らなければと思う人間が、果たして何人いるだろうか? 自分はコメント欄が荒れることよりも、ルールの信頼性が損なわれることの方が遥かに危険ではないかと思う。 -- (名無しさん) 2016-04-12 22 33 38 確かに編集者の過失といえばその通りです。 ですが、このローカルルールができるまで「250字以上の列伝は問答無用で改変される」という 制約は今までありませんでした。もっと言えば250字以上の列伝でも 暫定的に消されず残っていたわけです。放置されていた、特に気にされていなかった、というのが現状でしょう。 それがいきなり「たった今から250字以上の列伝は添削の対象になった。だからここ消して改変するね」とするのは どうでしょう?それこそ「横暴だ!」とか「いきなり勝手にルールを決めて好き勝手するな」とルールそのものに 対する反対意見、ひいてはルールの信頼性の損失に繋がると思うのですが? 歴史観の違いが編集合戦を招いているなら尚更です。新しくルールに則って作られる列伝が 最初の列伝作成者及び編集者の歴史観にそぐわないことは当然でるでしょう。 そうなった時、もしそこで反発が起きてしまっては、何のためのルールでしょうか? 今回のケースのような、「列伝が悪意的すぎる」という一部の反発から起こったケースを 改善するどころか、さらなる悪化を招いてしまう気がなりません。 既にちらほらと上がっていますが「ゲームの制限に則る」という目的であれば、 現行の「列伝切り離し+別枠での存続」でいちおう、達成できているわけで そこから「列伝による歴史観の内容」に介入するのは、正直得策ではありません。 あくまでローカルルールは体裁を取り繕うためのもので、提言者が好き勝手定められるわけじゃないですから -- (名無しさん) 2016-04-13 00 16 41 これは、ローカルルールで議論の末、追加されたかつての能力値変更禁止ルールの時もそうでした。 あの時も「当時記載されている新武将作成例の能力値は全て認めて、以後能力値を勝手に変更してはならない」という内容でした。 これが例えば「この武将の作成例能力値は認める。だが、あの武将の作成例能力値は~~という理由により認めない」など 記載された武将作成例ごとに主観的な判断基準が無理やり定められていたらどうでしょうか? 間違いなく反発が必至だったと思われます。今の状況も恐らくなかったでしょう。 ローカルルールはあくまでもフェア、お互いのことを尊重していく必要があります。 一方を優遇すると、もう一方が反発するのはまだマシで、優遇された側が錦の御旗を掲げるように好き勝手動くかもしれません そうならないように、決めるところ、決めないところは厳格に線引した方がいいと思います。 -- (名無しさん) 2016-04-13 00 26 49 せっかく書いてもらったのに申しわけないけれど、論点がずれてない? 少し整理すると、自分が主張しているのは「編集前の列伝を残すことをルールで義務化すべきではない」ということ。 その理由は、第一に、前の編集者の過失まで尊重する必要があるとは思えない。 第二に、ゲームの制限が守られていない列伝をルールで保護することは、編集者の過失をルールが庇う形になり、 かつゲーム攻略wikiの「ゲームの制限を守れ」という正論とも矛盾するので、ルールの信頼性を著しく損ねる可能性がある。 論争や編集合戦が起きた時、我々が場を収めるために言えることは「ルールを守れ」の一語だけ。 でも、ルールの信頼性が損なわれたら、その魔法の言葉が通用しなくなる。 そうなるくらいなら、コメント欄で不毛な議論を繰り返して、頃合を見て「ルールを守れ」で解散した方がまだしも平和ではないかな? ……というのが自分の意見。 で、その上で意見を返させてもらうけど、 ですが、このローカルルールができるまで「250字以上の列伝は問答無用で改変される」という 制約は今までありませんでした。 いや、あったよ? というか、「250字以上の列伝を改変してはいけない」というルールが定着したことは今までなかったよ? それどころか、親切にも「250字以上の列伝は添削の対象になる可能性があります」と注意喚起までされていたよ? それがいきなり「たった今から250字以上の列伝は添削の対象になった。だからここ消して改変するね」とするのは どうでしょう?それこそ「横暴だ!」とか「いきなり勝手にルールを決めて好き勝手するな」とルールそのものに 対する反対意見、ひいてはルールの信頼性の損失に繋がると思うのですが? すぐ上で述べた通り、話の前提が全く異なるので、その仮定は成り立たない。 歴史観の違いが編集合戦を招いているなら尚更です。新しくルールに則って作られる列伝が 最初の列伝作成者及び編集者の歴史観にそぐわないことは当然でるでしょう。 そうなった時、もしそこで反発が起きてしまっては、何のためのルールでしょうか? そこは過失を犯した編集者が責任を取り、自らの列伝を取り下げて添削された列伝を受け入れるのが筋ではないかな? ルールで守られるのは、優良な編集者に限られるべきで、全ての編集者を守ろうとするのは逆に不公平だと思う。 「ゲームの制限に則る」という目的であれば、 現行の「列伝切り離し+別枠での存続」でいちおう、達成できているわけで そこから「列伝による歴史観の内容」に介入するのは、正直得策ではありません。 個々人の歴史観に対する自分の姿勢は、個々の歴史観を等しく無視することで公平を持する、 つまり「歴史観はどうでもいい、それよりもルールを守れ」で一貫させているつもりだけど、 自分のコメントのどの辺りを歴史観への介入と感じたの? -- (名無しさん) 2016-04-13 23 33 00 ↑の続き。 これは、ローカルルールで議論の末、追加されたかつての能力値変更禁止ルールの時もそうでした。 あの時も「当時記載されている新武将作成例の能力値は全て認めて、以後能力値を勝手に変更してはならない」という内容でした。 これが例えば「この武将の作成例能力値は認める。だが、あの武将の作成例能力値は~~という理由により認めない」など 記載された武将作成例ごとに主観的な判断基準が無理やり定められていたらどうでしょうか? 先人曰く、「250字を超えた列伝は四桁以上の能力値と同じ」。 もし四桁以上の能力値が当時作られていたら、間違いなく認められなかったろうし、 列伝の字数が250字を超えているか否か、或いは能力値の数字が三桁以下か四桁以上か、という判断は主観的とはいえないと思う。 ローカルルールはあくまでもフェア、お互いのことを尊重していく必要があります。 一方を優遇すると、もう一方が反発するのはまだマシで、優遇された側が錦の御旗を掲げるように好き勝手動くかもしれません そうならないように、決めるところ、決めないところは厳格に線引した方がいいと思います。 そうだね。だから、自分はこれまでこう主張してきた。 他人の歴史観を認めないと思うのは個々人の勝手。250字以上の列伝であれば、添削はむしろ大歓迎。 でも、250字以内の列伝に手を出したら許さない。 そして、ルールで守られるのは優良な編集者に限られるべきで、そうでない編集者まで守ろうとするのはフェアではない。 -- (名無しさん) 2016-04-13 23 34 30 確かに、ルールに厳密に則るのであれば、恐らくそちらの方が正しいと思います。 しかし気になっている大きな点が1つありまして 「そもそも250字以上の記述が、今回の議題の発端になったのか?」という点であります。 私が知る限り、今回の列伝で問題視されたことに関してはあくまでも「一部の武将の悪意的なその内容」であって、 250字を越えているかどうかというのは、果たして問題になったのか?ということです。 確かに250字以上を越えている事に関する問題を解決するためならば 「とりあえずルールのもとに250字以内に列伝を収める」ということで解決を図れると思いますが、 今回クビライの列伝を元に疑問を呈した方たちは、その解決法を欲していたのか?という点なのです。 で、もし仮に今回の発端が「悪意的な内容」によるものだとすれば、 「250字以内に添削する」という内容では足りないのではないのか? 「悪意的な内容」の押し付け合いになるのではないか? 「250字以内の列伝はノータッチ」とするなら、いっそのこと内容もノータッチさせた方が さらなる火種を生まない分よいのではないか?というのがこちらの主張になります。 要は「本当に250字以上の列伝だけが論争になったのか?」ということでして 確かに「編集者の過失は守る必要がない」とは言いますが、ページの容量制限的にも ガッツリ削る必要もあまり感じないので残した方が安全な軟着陸になるのではないか?と思うのですよ -- (名無しさん) 2016-04-14 06 53 33 横からで申し訳ないが武将情報はできる 限り多く表示してくれる方が助かります マイナーな武将だと何をどうやったのか 把握しづらいですし、情報が多いとこちらで 能力を上げ下げする時楽ですから -- (名無しさん) 2016-04-14 16 53 27 ↑2 しかし気になっている大きな点が1つありまして 「そもそも250字以上の記述が、今回の議題の発端になったのか?」という点であります。 もし仮に今回の発端が「悪意的な内容」によるものだとすれば、 「250字以内に添削する」という内容では足りないのではないのか? 「悪意的な内容」の押し付け合いになるのではないか? 「250字以内の列伝はノータッチ」とするなら、いっそのこと内容もノータッチさせた方が さらなる火種を生まない分よいのではないか?というのがこちらの主張になります。 でも、これまで繰り返し述べたように、添削前の列伝を残すことを義務化するという方法では、 さらなる火種を生むばかりか火を消す手段を失うことになりかねない。 そこで提案したいんだけど、添削前の列伝を残すことを義務化するのではなく、列伝の内容に関する議論を禁止する、というのはどうかな? 要は能力値の例に倣おうというわけで、これはこれで反発を招きそうではあるけれど、 お互いが挙げた危惧は解消させられるのではないかと思うので、検討してみてはもらえないだろうか? ↑ なるほど、そういう再利用法もあるね。 でも、そうすると今度は補足欄で「悪意的な内容」の押し付け合いが発生する可能性が出てくる。 もしかしたら、補足欄に参考と称して能力値を書き込む輩まで出るかも知れない。 それを防ぐにはどういう規制を設ける必要があるか、大いに論じたいところではあるけれど、 今、自分が住んでいる地域では地震の余震が続いていて、それどころではないんだよね。 -- (名無しさん) 2016-04-14 23 12 47 補足の用途を絞るのが一番な気がする 具体的には、wikiなどを省略urlで 載せるなどを行えば、荒れる要因は発生しないのではないか? あくまでも列伝はゲームの基準に準ずるということもできるはず -- (名無しさん) 2016-04-15 01 08 34 なるほど。お二方の言い分に理があると思いますので、ローカルルールはそれで行くのがいいかもしれませんね。 とりあえずお二方の言い分を反映させて暫定案を出しておきますので、異論ある方は再度こちらでお願いします。 -- (名無しさん) 2016-04-15 01 22 55 http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1270.html ルールに則り、クビライなどの列伝が250字以上の武将の列伝を添削しました 補足としてWikipediaの項目ページを引用してあります。 -- (名無しさん) 2016-04-15 02 24 48 250字以内にするというのは、ゲームの仕様上理解出来る。 だけど今回の編集された内容を読むと単に250字以内に収めようという努力だけでなく、 どう見ても添削者の主観による意図的な改変があまりに多過ぎると思うんだが? 実際、ただ数行を削れば事足りるのに内容そのものを書き換えてるものばかりだ。 250字以上であることを理由に単に短くするだけでなく、 内容を好き勝手に書き換えるというのは、個人的にどうかと思うが。 -- (名無しさん) 2016-04-15 03 06 27 ゲームの三国志や信長の列伝って、そもそも歴史観が入っているのかな 基本的には、その武将の足跡紹介程度になってると思う 良くも悪くも当たり障りのない内容というかね で、クビライなんだけど 明らかに偏った歴史観が入ってた それこそ今回の編集なんて、比較にならない程に主観が入ってたよ その他、元のページのコメントで抜粋されてる武将達にしても かなり悪質で卑猥な文章が使われてる しかもそれらは元あった列伝を編集された結果なわけだ 付け加えるなら、それらに使われている表現は 歴史観がどうのって持出せるないようではない その人物の編集内容は、主観による意図的な改変ではなく 公平な行動で 今回の編集は主観による意図的な改変で好き勝手やったものとし 主張されるのでしょうか クビライの以前の列伝は ぱっと読んだだけでも、他の元の項目の武将達の 列伝と比較して、明らかに浮いていたと思う 何しろ生涯の行動や、伝わっている故事と 丸っきり矛盾する内容が書かれていたんだからね -- (名無しさん) 2016-04-15 04 24 10 列伝の内容がどうこうという話題は、補足のWikipediaなどで完全に補えると思うけどな 例え悪意的な内容だろうが、逆に肯定的な内容だろうが、Wikipediaを見れば ある程度大きな情報が手に入り、その人物の正の面、負の面がある程度把握できる 実際、列伝の内容で事足りない、情報が欲しいと考える人は実際調べるだろうし、 それによって「編集者の歴史観とは異なる人」に対する救済措置にもなっているはず -- (名無しさん) 2016-04-15 17 58 27 クビライは今回議論の元になったのだから分からなくもないが、 三英傑や光武帝をはじめとして、ただ数行を減らせば済むものまで わざわざ内容を付け足したり書き換えたりしている。 ただ250字以内にしようとするだけなら、そんなことする必要あるか? Wikipediaで補えるのなら、益々こんなことする必要ないと思うんだが。 -- (名無しさん) 2016-04-15 20 03 56 そんなに騒ぐほど内容が書き換えられているかな? 例えば織田信長の場合、「天才的」「卓越した」「柔軟性に富んだ」「優秀」「戦争の天才」「慧眼」 「時代を超越する先見性」「豪胆でありながら繊細」等のしつこいほどに過剰な礼賛や、 「合理的な戦術戦略判断」と「勝つべくして勝つ条件を合理的速やかに整える」等の内容が重複した文章が省略されたくらいで、 書いてあること自体は以前とあまり変わらない気がするけど。 -- (名無しさん) 2016-04-15 22 39 39 光武帝に至っては、「聖人君子然とした人物だが、特に諧謔の精神にも恵まれていたと伝わる」の一文が削られて、 「中国史上唯一、旧王朝の再興を旗印としこれに成功した君主」が「中国史上有数の皇帝と呼ばれる」に変更されているだけだね。 これが「添削者の主観による意図的な改変」? 「内容そのものを書き換えてる」? -- (名無しさん) 2016-04-15 23 39 59 省略することが問題なんじゃなくて、これまでに無い語句に書き換えたり 付け加えたりすることがどうなのかと言ってるんだけど。 しかも「日ノ本一の弓取」「超人的な殲滅力」「戦国一の出世頭」「中国史上有数の皇帝と呼ばれる」 「織田家・伊達家・島津家ら外様大名の掌握を行いつつ」「織田家、毛利家、上杉家、徳川家などを支配下に置き」 と、このように書き換えてる内容がどれも書き換える意味の無いものばかりだ。 それも250字以上の列伝なんか他にもたくさんあるのに狙ったように三英傑や光武帝、大海人皇子など 以前編集合戦や能力値議論が起こって荒れる要因になった人物のものばかりだし。 飽く迄250字以上であることを理由に編集が許されている以上、クビライのような例外を除けば 出来るだけ元の表現を利用した形で添削を行っていくべきだろう。 書き換える必要の無い部分まで自分の表現に書き換えてるんじゃ、違う理由で編集してると思われかねないし、 程度が違うだけでクビライの列伝を以前編集した人物と変わらないよ。 -- (名無しさん) 2016-04-15 23 56 25 結局は程度の問題なんだろうけど 確かに一理あるかもな 個人的には、今回の騒ぎで特に問題があったのって 極々一部の編集者だけだったと思う そいつは魅力1桁、特技は強奪にほぼ統一 歴史観などとはいえない卑猥な文章や 異常に偏った歴史観が記載されてたし -- (名無しさん) 2016-04-16 01 30 15 具体的な事績に書き換えられたのなら別だと思うけど、単に表現を変えることに意味は無いし、 それなら能力値等と同様にローカルルール設定時のものを尊重するべきだと思う。 取り敢えず、クビライ以外のものは差し戻した上で ローカルルールに新たに注意を書き加えておきます。 異論のある方は再度こちらでお願いします。 -- (名無しさん) 2016-04-16 02 29 51 注意の例として、天武天皇・持統天皇・光武帝を添削致しましたので、よければご覧下さい。 いずれにせよ、出来る限り現在の列伝を尊重し、その文章を使用することで250字以内に添削するようにして下さい。 また、添削しなおさなかった物も含め、補足は再度掲載しておきました。 -- (名無しさん) 2016-04-16 04 35 00 ちょっと待った。 差し替え前と差し替え後の編集列伝の文章見たけどほとんど変わってないぞ 前のクビライのような反論が出る文章ならまだしも、 この列伝を差し戻す理由が全くわからない。 しかもそれ以外の武将は元に戻ってしまっているおかげで添削を不意にしてしまっている。 これでは「内容に問題があると思ったから勝手に編集差し戻しましたよ」としか思われない。 それでは編集合戦を生む要因にしかならないのだが? -- (名無しさん) 2016-04-16 04 48 15 そもそも字数を節約するために語彙の書き方を変えることの問題があるのか全くわからん 例を挙げれば光武帝の「中国史上唯一、旧王朝の再興を旗印としこれに成功した君主」 「聖人君子然とした人物だが、特に諧謔の精神にも恵まれていたと伝わる」という表現を 「中国史上有数の皇帝と呼ばれる」という内容に変更して、どこらへんに瑕疵を生じるのか全くわからない。 明らかに字数的に無駄となる表現を廃して、本人の事績を細かく伝えようとしているとしか思えないが? もしかしてこの列伝を書いた人がこの表現に拘ってるがために無理やり添削をなかったことにしたの? としか思えないんだが?どうなのこれ -- (名無しさん) 2016-04-16 04 59 31 http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2712.html とりあえず倭・近世の項目が何一つ改善されていなかったのでローカルルール直後の記事に差し戻し 問答次第では他の項目も差し戻す予定でいます -- (名無しさん) 2016-04-16 05 03 40 出来る限り、ローカルルール設定時の文章を尊重する形にするべきだと思いますが それがおかしいことでしょうか? そもそも今回の添削に関わった方々のやり様の方が問題だと思ったので対処したのですが。 クビライの件も議論することで編集しておきながら、列伝の内容や歴史観に関する議論を禁止する ローカルルールを決定したり、250字以内に収めることを目的とした添削のはずなのに 字数に関係無い内容の書き換えを行ったりと、言っていることと行為が全く一致しておられません。 しかも三英傑や光武帝、大海人皇子など以前編集合戦や能力値議論が起こって荒れる要因になった 歴史人物の列伝に集中してそのような編集の仕方をするというのは余りに配慮が無いと思います。 そのため、一度差し戻した上で新しく書いた注意の例として編集させていただきました。 -- (名無しさん) 2016-04-16 05 13 36 やりように問題があるというのなら正直そちらの方が横暴だと思う そもそも最初にローカルルールが決めた段階で 「列伝の歴史観による討論、介入は禁止」というルールがあったはず それが今回の編集でなぜか削除されなくなっている。 そして、一部の武将がルールに基づき添削されたのにもかかわらず、 それを無理やり差し戻してなんら処置はしないというのは明らかに配慮がないのでは? もしその後でクビライの悪意的な内容を書いた人が書き直して問題になったらそれこそどうするの? そりゃあ、「光武帝は悪辣で残虐」みたいな書き方されてりゃ別だけど 差し戻し編集見た時にどう見ても表現の違い程度しか思えなかったんだが、 内容の検閲をしたらキリがないよ、という点から始まって今のルールができたのに そのルールを勝手に変えて内容の検閲してりゃ全くの本末転倒です -- (名無しさん) 2016-04-16 05 19 24 もし、あなたが「ローカルルール設定時の文章を尊重する」という 表現を入れたかったのであれば、ローカルルールに付け加えればいいだけでしょ。 それを勝手に独断で変えて、あまつさえ添削をもう一度やり直して、 しかも一部の武将はそれすらも放棄してじゃ、独断専行だと思われても仕方ない。 「今後は元の列伝を尊重してくださいね」でローカルルールに付け加えて終わる話を なぜ編集合戦になりえる手法まで使ったのか、それが目当てだと思われても仕方ないでしょ -- (名無しさん) 2016-04-16 05 25 34 なぜかやたら光武帝の列伝にのみ拘っておられる方がいらっしゃいますが、 彼の列伝は「聖人君子然とした人物だが、特に諧謔の精神にも恵まれていたと伝わる」 という文章を削除した時点で以前の添削では250字以内です。 250字以内におさめるためなら、それ以上書き換える必要がありませんし、 同様に「戦国の出世頭」を「戦国一の出世頭」に書き換えることも 「戦争の天才」や「時代を超越する先見性」を「日ノ本一の弓取」「超人的な殲滅力」 などと書き直すことも、250字以内にするために全く必要な書き換えとは思えません。 先程も言ったようにクビライの件も議論することで編集しておきながら、列伝の内容や歴史観に関する議論を禁止する ローカルルールを決定したり、250字以内に収めることを目的とした添削のはずなのに 字数に関係無い内容の書き換えを行ったりと、言っていることと行為が全く一致しておられません。 -- (名無しさん) 2016-04-16 05 32 39 その時のローカルルールでは「元の列伝を尊重して添削する」という文言がなかったからでしょ まずはゲームのルールとして250字以内にすること、であって内容は不問だったのですよ んで、キリのない歴史観の議論を防ぐためにWikiなどで補い、とりあえず情報だけ載せようというのが今回の大元のルールです。 あなたには時系列という視点が欠けている。 クビライの内容が悪意的だというのは、今回のローカルルールを定めるにあたり 全く関係ありません。強いて言えば「クビライのような例を『次に出した時の対処』を考える」のが 目的であり、クビライはただのきっかけにすぎません。 そしてあなたの最大の愚は、事実上ルール改変という名のもとに 「既に250字以内に添削された列伝を、内容を改変した上で再度250字以内の列伝として書き加えた」こと。 ルールにこだわるのであれば、これがいかに愚挙であるかわかると思いますが、 これをあなたがやったことによって、心ない編集者が「それなりの理由をつければ字数に関わらず列伝を添削してもよい」と考えるやもしれません。 はっきり言ってしまえばこちらがあなたのことを「横暴だ」とするのは全てここに集約されています。 列伝の内容は元の列伝を尊重すべき、というのは対処法としていいと思いますが、 少なくともやり方に関しては語るに値しないです。 -- (名無しさん) 2016-04-16 05 41 04 http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/126.html とりあえずローカルルール直後の段階に記事を差し戻し、 ローカルルールに「添削する際は出来る限り現在の列伝を尊重し、その文章を使用することで250字以内に添削するようにして下さい。」の 文言を付け加えさせていただきました。 差し戻した理由については、歴史観がどう、内容がどう、ではなく 「1度250字以内に添削された列伝を、それ以上編集してはならない」という ルールに則ったものであり、どちらがよい悪いの話ではないことを記しておきます。 -- (名無しさん) 2016-04-16 05 55 33 それを言うなら、そもそも前もって元の列伝を尊重して添削することを 予め考えておくべきではないですか?今回ローカルルールが決まるや否や このみんなの新武将で最も荒れた人物達ばかりが編集されています。 これでは邪推しろと言っているようなものではないですか。 実際私と同様の危惧や憂慮を抱かれた方がコメント欄でたくさんいらっしゃったようですし、 私も一連の議論が終結した際は当然そのような配慮や尊重がされた添削になるのだろうと思っていました。 それが実際に添削されてみると、とてもそうとは言えないものばかりで、 これでは荒れる要因になりかねないと思い、対処させていただいた次第です。 -- (名無しさん) 2016-04-16 06 08 01 前もっては考えられていましたよもちろん。 ただ、列伝の内容そのものよりもまずは体裁を整える、 Wikiなどを引用して、情報を揃えることを第一にして、 歴史観の議論をできる限り排除する。今回はこれが目的でしたからね。 あまり言いたくはないのですが、今回はクビライの列伝が悪意的である、と 一部から批判される形で展開しましたが、今後どういう議論や批判がでるかわかりません。 それこそ「この武将の列伝は肯定が行き過ぎていて神格化されてる。史実ではもっと悪どい」などという 批判もあったかもしれず、そういう色んなケースが考慮されて「歴史観は正悪問わず無視しよう」ということになったわけです。 過去に荒れた武将が編集されたことでそう思われたのかもしれませんが、内容を見てみると とても荒れる原因を作ってるようには思えない、むしろ個人的には 「荒れそうな武将を先に編集して批判が集中しないようにする」という 体で編集されたのだと思い、気にも止めなかったです。荒らすつもりなら、もっと 正悪両極端な記述になっているでしょうし、もともとの列伝ともさほどに大差なかったわけですから。 確かにあなたが危惧するのもわかります。実際コメント欄でもそれは指摘されてますし。 ただ、そうであれば「ルール追加の提言」あるいは「250字以上の列伝のある武将を、追加ルールで添削する」 とすべきであったと思います。既に添削されて250字以内の列伝になった武将を添削するのはそもそもルールに抵触しますし、 ルールのことを快く思わない編集者にとって餌を与えるようなものです。 -- (名無しさん) 2016-04-16 06 18 30 そうですか。 私からすれば荒れそうな武将達こそ極力以前の内容を保持したまま編集した方が良いように思いますが。 それに今の在り様だと、250字以内にされた結果クビライの様になってしまったらどうしようもないのでは? -- (名無しさん) 2016-04-16 06 30 44 それはどちらをとっても避けられないです結局は。 今のローカルルールにある「元の編集者を尊重する」を採用したとしても 内容が問題視されている武将の列伝もそのまま改変されることなく添削されますからね。 で、「それはおかしい」って批判が出て、それを認めてしまうと 「いや、あれもおかしい」「おかしいわけがない、これでいい」などと 賛否両論がいろんな場所で巻き起こって全く収拾がつかなくなるわけです。 そういう事態を防ぐための「歴史観を無視する」「情報をWikiなどで載せる」という処置です。 これで理論上、どんな武将をこき下ろした列伝が採用されても、すぐ下にWikiがあるので 誰もが内容をチェックすることができます。そして見る人、利用する人が自身で内容を判断できるようになります。 そして「列伝は史実と合致しているかどうかは問わない」「歴史観と異なる場合もある」とすることで、 必ずしもそれが正確無比ではない、ということを明示し、歴史観の衝突を防げるようにしています。 -- (名無しさん) 2016-04-16 06 37 25 本来であればwikiを貼る必要はなく ゲームの列伝にあるような、当たり障りのない 概要が書いてあれば充分だと個人的には思うけどね 残虐行為と英邁な行為が並ぶ武将っていくらでも存在する でも、ゲーム上でそういう武将の列伝があっても 「専横を極めた」とか「残虐な人物であった」とか 書かれてもこんな程度でしょ 武照が顕著なんだけど 14歳での入宮時には、美しき黒髪に透き通る肌、切れ長で大きな眼に肉感的な肢体とコケティッシュな媚笑を備えた才色兼備な少女だったが、 飽くなき上昇志向で奸計・姦通を駆使し出世の為には実子殺しも厭わず、 密告を奨励し、少しでも気に入らぬ者は罪を捏造し処刑するのが彼女の常套だった。 晩年は専ら色道に耽り、巨大な女性器の持主でもあった彼女は、齢80超でも巨根の男妾を抱えたと謂う。 容姿を褒めるにしても、こんな形容は間違いなくされないし 2行目のような文章も載ることはないだろう クビライ、石虎、武照、安禄山、朱全忠が今回この手の記述を 使われた形跡がある 魅力1桁、特技がほぼ強奪固定ってなっていて 明らかに同じ編集者の行動なんだけど この人の編集行動は「前あった列伝」を とても尊重してるとは思えないし じゃあ、そんな人の「元の編集」として 尊重するのはどうなのかとは思う こういう人が守られるルールに意味はあんのかと -- (名無しさん) 2016-04-16 15 37 27 それを言い出すと他の列伝はどうなのか、と反論が来る可能性は多分にある 人によってどの列伝がおかしいと感じるのは人それぞれ。 また、前の人の列伝を尊重していないから、という理由で現行ルールに対して そのような特例を設けるのは一番ダメ。あれも特例、これも特例、 いやいやこれは特例ではないという議論が起きて結局収拾がつかなくなる。 クビライの件でルールが作られたのは、特定の人間を排除するためではない これ以上被害が出ないようにするためのルールであり、 そもそも特定の人間を排除するためのルールなら、そんなものはルールとは言わない 能力値の編集禁止ルールだって、当時暫定的にあった能力値を一旦全て認めるところから始まってる。 これが「編集合戦の起こった◯◯という武将の能力値は認めない」なんてやっていたら それこそ猛反発を受けてすぐに撤収されていた。 -- (名無しさん) 2016-04-16 18 41 22 議論の最中に申しわけないけれど、ルールに関して一つ提案したい。 現在の列伝を尊重することをルールに明記するのであれば、 未成年者が閲覧する可能性を考慮して猥褻な文章の記載を禁止する、 という内容の一文を付け足した方がよいのではないかと思うんだけど、どうかな? あと、猥褻な文章を削除することは、250字以内の列伝を編集する正当な理由になるのではないかと自分は考えるのだけど、 皆様方はどう思われるか、議論の箸休めに聞かせてはもらえないだろうか? -- (名無しさん) 2016-04-16 22 25 31 基本的に論外でしょう 嫪毐みたいなのは困るだろうけど それだって、巨根が有名になり~程度で 表現終わるんじゃないかな -- (名無しさん) 2016-04-16 22 49 25 なぜ論外と? 未成年者の閲覧が禁止されているわけではないのなら、相応の配慮が必要なのでは? あと、嫪毐については、男性器の大きさが云々ということに触れなくても、 「趙姫に気に入られて密通を重ねた」くらいの文章で十分に事跡を表現できると思う。 -- (名無しさん) 2016-04-16 23 39 05 未成年に配慮しろって簡単に言ってないか? 歴史的な話をすればほとんどの話は未成年お断りみたいな内容ばかりだぞ 三国志でいえば曹操、呂布、董卓あたり未成年お断りの逸話が多く さらに言えば劉備ですら人肉を食ったという逸話がある なんでもかんでも体裁を整えればいいというわけじゃない それなら「閲覧は自己責任でお願いします」とでも書いておけばいい -- (名無しさん) 2016-04-17 02 50 12 論外=猥雑な表現をする事はNGという意味だった 正反対の意味にとられたけど、これは書き方が悪かったわ ↑の人は実際のゲームに載ってる列伝を ちょっと考えて欲しい 人肉を食ったなんてKOEIゲーの列伝には100%載らない 実際に餓えに苛まれて、人肉を食べたエピソードのある 名将って張巡が浮かぶけど 「餓えで立ち上がる事すらできない状況までたたかうも~」 とかって表現に絶対なる これは未成年うんぬんって問題じゃなくて そんなグロテスクな話を、ゲームが元になってるものの 列伝にいちいち書く必要があるかって事 逆に過剰すぎる賛美もどうかと思うけどね -- (名無しさん) 2016-04-17 03 21 32 だからさ、それって要は「内容の検閲」でしょ 猥雑な表現はダメ、グロテスクな表現はダメ、過剰すぎる賛美もダメ いかにも編集合戦の火種を持ち込もうとしているようにしか見えない ゲームでは100%載らないって言ってるけど、じゃあ雛氏や二喬や貂蝉の列伝はどうなるの? 三国志以外なら、白起は数万の兵を殺害して40万人も生き埋めにしていることが 堂々と列伝に載ってるけど?これ未成年にとっては不適切だよね?宦官とか存在自体がもうダメだと思うけど そんなファンタジー歴史って史実と乖離しまくるだけだと思うが -- (名無しさん) 2016-04-17 03 47 29 何を主張したいのかサッパリ 戦争を取り扱うもので、殺害シーンなどの描写があるなんて とてもとても当たり前 だけど、人肉を食べるなんて描写をいちいちするか? 劉備の話を例に取るのであれば 漫画だろうが小説だろうが、あの話を取り上げてるのは 有名どころだと吉川版だけど、それも注釈つき その辺りの明確なラインってのは、完全にひけるわけもないけど 常識的、感覚的にある程度わかるでしょうに だいたい史実と乖離も何も、歴史なんてファンタジーでしょ 劉備が実際にどういう人物で、どういう顔をしてたとか だ~~~~~~~れも知らない 特に三国志関係の人物のイメージなんて、 演義が下地になってる人物が大半じゃないか 横山版の三国志をあなたは表現が猥雑だからといって 未成年には進められないとか主張するの? たかがゲームから発生してる列伝だし その武将の列伝は、簡単な概略が書いてあればいいものってのが 自分の考えです 例に出した張巡の簡単な概略に「人肉を食べた」なんて 表現が必要でしょうか? 功罪どちらも大きい武照の概略に「巨大な女性器」なんて 文章をはめこまないと、彼女は表現できないものでしょうか? また実際のゲームで、そのような文章が組み込まれる事は 確実にありえません 宦官が未成年に不適切だのどうのなんて 感覚自体がおかしい -- (名無しさん) 2016-04-17 04 42 27 常識的・・・・感覚的・・・・ルールを語る上で「もっとも使ってはいけない」言葉ですね なぜならそういうものは十人十色・・・・ここにいる人みーんな違います。 「人肉や虐殺という表現は不適切」「戦争で人を殺したり、宦官の権力闘争はごく当たり前」というのは 所詮「あなた1人の、あなただけの常識や感覚」であることを重々認知してください。 人によっては戦争での殺害描写すら毛嫌いする人もいれば、 虐殺や英雄色を好むといったような描写をなんとも思わない人も当然います。 彼ら1人1人の意見を集約していればキリがありませんし、はっきり言って平行線です。 で、あなたが今やろうとしているのは、言葉は悪いですが早い話「俺ルール」の押し付けです。 「俺様こそが基準だ!俺様の考える常識や感覚に従え!文句ある奴は認めない!」と言っているだけにすぎない そもそも今回の列伝に関するルールは全て「そういった歴史観及び列伝の押し付け」を防ぐためのものです。 1つ聞きますが、もしあなたと真逆の主張をする人がいたらどうしますか?すなわち 「歴史の偉人なんて悪行をやってこそであり、偉人に善人はいない。もっと悪行を事細かに書くべきだし、ルールに武将を神格化正当化してはならないと追加すべき」と 言う人がいたら、あなたは反対しますか?やってることはあなたと一緒ですよ? 自分に言わせてもらえば、どれが猥雑でどれがNGだというのは人それぞれで それぞれ各々が判断すべきことで、そしてなおかつルールで歴史観に関する討論や反論などは 一切禁じられている。よってルールを守ることが先決であり、各人の言う「常識」という名の「主張」の 押し付け合いはやるだけ無駄と言ってるだけですが。 -- (名無しさん) 2016-04-17 06 21 38 人肉を食べるエピソード自体は 蒼天航路が普通に描いてる 食べる人が劉備から董卓に変わってるけど しかも生きた人間の目を刀でくりぬいて そのまま油の大釜にぶち込み、 焼いた目や耳を皿に盛って食事会 皆が吐き出す中無表情で董卓が ゴリゴリ食べるというシーンが 5巻か6巻に書かれてる -- (名無しさん) 2016-04-17 07 19 12 文庫本では3巻 俺は文庫本で所持しているので 単行本でどこにあるかは知らない -- (名無しさん) 2016-04-17 07 20 51 列伝はエロ小説でも猟奇小説でもない その程度の区別も付かない奴が 列伝を書くと今回の問題に挙げられた武将達のような 歴史観なんて語れない文章が出てくるんだと思う 何度でも指摘させてもらうけど 250字程度の概略に「人肉を食べた」なんて文章が必要ですか? それぞれ各々が判断すべき、結局個々の感覚 とは自分も同じ考えですが、これあなたがルール化できないから ダメだって冒頭で書いてる事ですよ? 矛盾があまりにも酷い 宦官は未成年に不適切。なんて極端な感覚の方は何も書けないでしょう こういう人の主張の真逆が 「歴史の偉人なんて悪行をやってこそであり、偉人に善人はいない。もっと悪行を事細かに書くべきだし、ルールに武将を神格化正当化してはならないと追加すべき になるんだよ そもそも自分の主張は、列伝なんて概略であり 歴史観なんてほぼ挟む余地のないもの ゲームが元になってる以上は、大半の方は ゲームで紹介される列伝は感覚的にどんなものか 理解されてる事でしょう こんなもん、いちいち話の種にしようとするのもおかしいくらいだ -- (名無しさん) 2016-04-17 14 14 37 「各々で判断すべき」なんて書く時点で 対立誘導してるとしか思えないよ 編集には公正を心がける。これで充分でしょう そして公正とは言えない武将についてのみ 議論の対象にすればいい 何故話を無理に大きくしようとするのかが理解できない -- (名無しさん) 2016-04-17 14 43 30 はあ・・・・どんだけ自己中心的なんですかね、 この項目の一番上に「歴史観は各々違うから登録する時は自分の好きにしてね」って最初に書いてあるでしょ これが答え。どんな列伝だろうが気に入らなければ自分で書き換え、気に入ったらそのまま使う。どれであろうと同じ。 俺の言う「個人の感覚」ってのはそれ。そしてそれに一切の例外はない。それが今の守るべきルール。 はっきり言いますけど、グロテスクだの猥雑だの過剰な賛美がNGだのって 言うなら、もう自分でホームページ作ってそこで好きにやってください。 そしてそこで自分の言う「常識的な感覚」で揃えた列伝でも好きに書いてください。 だいたい「編集は公正を心がける」ってそれあなたが言うんですか 公正を心がけるなら、どの武将であれ現在のデータを尊重し 公正な手段、すなわち定められたルール通りに添削するのが「公正」でしょうに あなたの言ってるのは「公正」じゃなくて完全な「恣意」ですよ 確かに武将の列伝の内容なんて正直どちらでもよいのですが(登録する時は自分で列伝データを作れるので)、 そんな、どれが対象かもわからない、というか特定の対象だけ勝手に線引して そこで都合よく編集添削しようなんてルールがどうやったら認められるというのか全くわからない。 第一、その主張が通ったとして、次にまた別のあなたのような人間が同じような 理屈で歴史観の内容に検閲をかけ、そしてそれが編集合戦を招くこともわからないのは 酷く独善的な発想であると言わざるを得ません。250字の概略に猥雑やグロテスクな内容は必要か? 答えは「その武将による」で終わりです。 -- (名無しさん) 2016-04-17 17 12 15 「その武将による」に対して異を唱えてはいけないのか? ってのが根本的な自分の意見です これが「異があるから勝手に編集していい」 ってなれば、独善的、公正さに欠ける、自己中心的 な批判は受けるが、自分は編集はしていないし なので、そういった謗りレッテル貼りは認められない 問題提起すら許さない姿勢は、いかがなものかと思う あなたの主張は 「例えその元の列伝が明確に公正さに欠けていても 元の編集は絶対であり、大幅な改定は許されない」 と、おそらくなると思う であるから、例えばクビライの今回の編集について 認めてはいないのだろう 自分は今の列伝と前の列伝を比較すれば 前の列伝の方が「独善的」で「公正さに欠けた」文章だと 考えるのだが、そこは平行線でしょうね また何度でも指摘させてもらう 武照の列伝で「巨大な女性器」って表現は 「歴史観」を盾にできるようなものではない そういったものを「歴史観の検閲」だとする あなたとは、絶対に平行線になってしまうのは 仕方ないと思う -- (名無しさん) 2016-04-17 18 50 53 結局は程度の問題 -- (名無しさん) 2016-04-17 19 00 19 猥褻な表現は禁止すべきではないか、と最初に提案した者だけれど、 歴史的な話をすればほとんどの話は未成年お断りみたいな内容ばかりだぞ 三国志でいえば曹操、呂布、董卓あたり未成年お断りの逸話が多く さらに言えば劉備ですら人肉を食ったという逸話がある ここはあくまでもゲームの攻略wikiである、ということを忘れてない? それなら「閲覧は自己責任でお願いします」とでも書いておけばいい 未成年者に自己責任能力を求めることが出来るのかな? 常識的・・・・感覚的・・・・ルールを語る上で「もっとも使ってはいけない」言葉ですね 自分もそう思うので、具体的に何を以て「猥褻な表現」と定義するのか、主観的ではない判断基準を考えてみたんだけど、 「性器、及び性交に言及すること」という定義はどうだろう? 嫪毐を例にすると、巨根が云々という文章は性器に言及しているから禁止だけど、密通という表現は大丈夫ということになる (手許の漢和辞典によると、密通とは「男女が密かに情を通じる」、「情」とは「男女間の愛」とされており、 つまり密通とは男女が密かに愛し合うことで、愛し合う男女が何をするのかということまでは含まれていない)。 これならば十人十色で意見が分かれるということはないと思うけど、どうかな? 雛氏や二喬や貂蝉の列伝はどうなるの? 貂蝉の「密通」については上の通り。 二喬の「二喬を側室に迎える」「銅雀台に住まわせる」は、性交に触れているわけではないのでセーフ。 雛氏は「見初められた」という表現がグレーゾーンではあるけれど、客観的に黒と断定することは出来ないのでセーフ。 -- (名無しさん) 2016-04-18 00 31 57 武照の列伝で「巨大な女性器」って表現は 「歴史観」を盾にできるようなものではない 同じく猥褻な表現を問題視している者として忠告させてもらうけど、 本当に「歴史観を盾にできるようなものではない」と思うのなら、具体的かつ客観的な根拠を示すべきだと思うよ。 -- (名無しさん) 2016-04-18 00 59 24 いや、それこそ勘違いして貰っては困る こちらは「猥雑及びグロテスクな内容などは絶対に残すべき」とは言っていない。 それは人の範疇によるから、言及すべきではないというのがこちらの主張である。 で、あるから、例えばクビライの列伝に関しては、こちらは一切反対していない。あれは 「250字以上の列伝をルールの名の下に添削し、元の列伝を尊重した結果、字数が大幅に嵩んでいた ものが省略され、一部の表現がなくなった」というものであり、ルール上なんら問題はない。 これは一部で問題視されている武照や朱全忠なども同じで、要は 「250字以内という制限を課すローカルルールを守って添削した結果、語句の異なる似たような文章を使うことで字数を減らすのは 全く問題のない行為であり、その結果一部で批判されるような語句が列伝から消えるのはルール上致し方ない」というのが こちらの主張であり、「内容や語句どうこうそのものは問わない」というのが現行ルールでもあります。 で、具体案の「性器、及び性交に言及すること」という案ですが、 正直なところ、これが未成年への配慮になるのかな、と思う次第でありまして、 というのも、列伝でいくら規制したところで、コメント欄でそのような書き込みがあれば 結局のところ配慮できていないのではないか?と思うんですよ。 まさかここに訪れる全ての人にコメント欄でそういうコメントをするな、とは言えませんし、 そういうことを加味して「閲覧は自己責任で」という案をこちらは出したかったのです。 ですが、「いや、例え列伝だけでも性器、及び性交に言及することを制限することに意味はある」と おっしゃるのであれば、それに関しては止めは致しません。 ただ、最初からおっしゃっていますが、列伝の内容に言及するのはルールにも抵触することですので それ以外(性器、及び性交に言及すること以外)の内容を制限するのは今までどおり反対させていただきます -- (名無しさん) 2016-04-18 03 31 00 おっしゃって → 発言して -- (名無しさん) 2016-04-18 03 34 00 http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/126.html とりあえずこれまでの議論を反映して ルールを一度変更しておきました。 内容の改変については一切を禁じ 「性器、及び性交に言及すること」のみ その語句及び表現を改変することを 許可してあります。 -- (名無しさん) 2016-04-18 03 46 10 そこまで表現に過剰な警戒をする必要あるのかな 嫪毐に関していえば、車輪の話なんて 史記にも載ってるくらいだし ルール化しなきゃいけない程に、そんな表現が出てくるような 武将はとてもレアな気がします その結果一部で批判されるような語句が列伝から消えるのはルール上致し方ない」というのが あと、これって認めていいものなの? -- (名無しさん) 2016-04-18 04 17 14 内容の改変を経ていないけど字数のせいで・・・ってなると流石に 認めざるを得ないと思いますけどね。例えば列伝が250のほぼ倍近くの字数があるとなると 行数を削除しただけでは何がなんだかわからないケースも出てくるわけで それだと本末転倒なわけですよ。例えば 「この武将は清廉潔白で不正をたとえどんな細かいことでも許さず民を愛し仁徳慈愛の精神に長け 博愛主義で民を分け隔てなく愛し民のために政治を行い私利私欲は一切なかった。 民草も彼を敬愛して常に彼を敬い、彼の命令には必ず従い彼と命運を共にすることも厭わず 彼がどんなに苦しくても彼を支え、そのおかげで彼は民に支えられながらも時に苦しみ時に活躍して高貴の身分に登りつめた」 なんて文が列伝にあったとして、これを 「類稀な仁政家で民に慕われ立身出世した」と表現することに問題があるとは思えないんですよね。 -- (名無しさん) 2016-04-18 04 41 18 簡潔にわかりやすく。文章の基本だね 自分もそういうのは問題ないと思うんだけど クビライの列伝の編集は 主観すぎる内容が1文字も残らずバッサリ切られて wikiに差替えだったのよね この処置自体は自分は賛成なんですけど ルール的にはどうなのかなと -- (名無しさん) 2016-04-18 06 19 04 クビライの文章は主観的な文章が本来補足で残っていたんですよ でも列伝2つみたいでどうなのか、という批判があって、 そこから補足についてのルールが定められたので 補足にあったクビライの文章がすっぱり消えてしまった Wikiを使うことに関しては自分はむしろ賛成ですね 正の面負の面があそこには大量に書かれているので 「列伝が気に入らないならWikiあたりで調べて自分で作ってね」で いけますし、何より歴史観が違う者同士の対立がなくなりますね -- (名無しさん) 2016-04-18 06 53 33 具体案の「性器、及び性交に言及すること」という案ですが、 正直なところ、これが未成年への配慮になるのかな、と思う次第でありまして 正直に白状すると、自分が猥褻な表現の規制を主張したのは、 今回、荒れる原因になり、以後も荒れる原因になるかも知れない「悪意的な内容」の文章を放置してよいのだろうか、 客観的な基準を設けて「悪意的な内容」の文章を規制することは出来ないだろうか、 と考えたからであり、未成年への配慮という部分は、より客観的な根拠を模索した結果として出てきた言葉で、 つまりは単なる建前に過ぎず、問題があるようなら「荒れる原因を取り除くため」に修正して改めて様子を見ようと考えていた。 普通に最初から「荒れる原因を取り除くため」でよいだろうに、何を小難しく考えていたのだろう、と今は反省している。 そういうわけなので、非常に申しわけないけれど、改めて規制の是非を問いたい。 荒れる原因を取り除くために、性器や性交への言及を禁止することは、過剰な規制だと思う? 自分としては、列伝の内容への干渉を最小限に留めているつもりではあるんだけど。 -- (名無しさん) 2016-04-19 00 12 22 表現規制自体は個人的には、無意味な規制である というのが感想なんだけど 悪意的な内容を規制する為あえてルール化する。 という趣旨になると、むやみに反対はできないな だいたいが列伝書くにあたって、性器だの性交だなんて ほぼ全ての人物が言及する必要がない事だし 自分の知識だと嫪毐くらいかな。書く要素があるの なんで規制しちゃっても問題はないかなとも思う ただ今このwikiにある列伝で、性器だの性交だの書かれてる人物って 全部読んだわけじゃないけど、極めて少ないよねきっと 大半の人がみて、悪意的な内容の列伝もそう多くはないと思う そういう超少数派を取り締まる為に そういったことまでルール化しなきゃいけないってのも 融通きかなすぎっていうかね まあ荒れない為に明確化するって意図も理解できるけど、、、 -- (名無しさん) 2016-04-19 00 50 14 ただ、「悪意的な内容を規制する」だけだと、それを拡大解釈して 「これは悪意的だ!」「あれもそうだ!」なんて言い出す輩は絶対出てくるから 今の厳格なルールでちょうどいいとは思う > 2016-04-19 00 50 14 氏 日本史では確か道鏡がいる。ただこの道鏡はどちらかというと 清廉潔白な人間という逆説があり(最終的には天寿を全うしたため)、 道鏡がいわゆる巨根で称徳天皇を誑かしたという逸話の出処は、 まさしくその嫪毐の逸話をオマージュしたものだ、という説はある。 称徳は最終的に子供ができず、またいわゆる女帝の流れがここで一旦途切れる(次は江戸時代の明正天皇までいない) こともあり、道鏡と称徳が嫪毐と趙太后に仮託されてる可能性がある。 -- (名無しさん) 2016-04-19 08 53 04 http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/?cmd=backup action=show pageid=71 num=2 朝鮮の記事ででルール違反確認したので戻しておきました -- (名無しさん) 2016-04-21 22 48 04 http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/?cmd=backup action=show pageid=71 num=1 あ、URL間違えてました。こっちです。 -- (名無しさん) 2016-04-21 22 49 31 みんなの新武将/朝鮮・韓国 - (2016/04/21 (木) 18 49 48) の編集履歴(バックアップ) 一応日付も -- (名無しさん) 2016-04-21 22 50 25 素直に書いてておかしいと思わなかったのかなこれ 李氏朝鮮が朱子学を唯一国教として掲げ他の学問を 弾圧していたのは事実だが、朱子学は 欲を最大の禁忌とし、常に性(善)でなくなてはならない という、簡単に言えば凄くお堅い学問。 日本だと傾倒していた人物として松平定信がいるが、 彼は自著「宇下人言」にて「房事(性行為)は欲情にかられてするものではない」と 堂々と断言している。そんな治世下で試し腹という Wikiにすら載っていない(というか削除された)風習が 公然とまかり通っていたとするのは流石に無理がある。 第一にそもそも韓国は「姓」よりも「本貫」を大事にする ガチガチの父系社会で、相手を気遣う試し腹が起こりうるはずもない。 -- (名無しさん) 2016-04-22 00 01 28 そこはほれぇ、女に人権はない、っていうのを変な意味で捉えてんのとちゃいます? -- (名無しさん) 2016-04-22 00 44 18 何か今度は国や時代の説明が個人的歴史観を主張する場になりかけてるようだから、 Wikipediaに説明を丸投げできるものは丸投げしてしまおうかと思うんだが、編集してもいいか? -- (名無しさん) 2016-05-02 13 17 22 現段階で問題になるような記述はないし、わかりやすさを考慮しても残しておくべきだと思う 説明も字数制限以外全て列伝のルールに準じるようにするならいいけど -- (名無しさん) 2016-05-02 16 12 13 全ての説明が公平で的確でわかりやすければいいんだが、そうでない文章も散見できるからな。 個人によって見解が分かれる部分は、敢えて触れずにいるのも選択の一つだろうに、 わざわざ触れている辺り、隙あらば自分の歴史観を捻じ込もうとしているようにしか見えん。 特に朝鮮のページなんか、このまま放っておくと消えたままの方がましだったということになるんじゃないか? -- (名無しさん) 2016-05-03 10 29 20 そこまでやると歴史観の検閲に入ってしまうから辞めておいた方がいい これは違うアレも違うと言い出す連中を抑圧できなくなってしまう -- (名無しさん) 2016-05-04 14 46 36 いや、検閲じゃなくて、wikipediaに丸投げできる部分は内容関係無しで丸投げして、 歴史観の主張やら議論やらはそこで好きなだけやってもらおうってこと。 別に↑6を悪く言うつもりはないが、こんなところで朱子学の講義なんかされても、正直困るだろ? -- (名無しさん) 2016-05-04 18 55 12 その文章はもう消えてるよ、列伝も改変してたから Wikiに丸投げでも悪くないけど、わかりやすさは消えるからね 列伝なら「ゲームシステムの関係で」と言えるけど あらすじはゲームシステム関係のない部分だから、わざわざ消してまで、ってなると微妙 今ある文章の下にWikipedia貼るならまだしもね -- (名無しさん) 2016-05-04 20 36 46 いや、もう消えたとかじゃなくてさ、過去にそういうことが起きたなら、今後もまた起きるかも知れないだろ? 説明がある方がわかりやすいという点にしても、↑8はわかりやすいどころか間違った文章だと主張しているわけで、 つまりわかりやすいか否かなんて所詮は主観的な基準で、意見の食い違いから叩き合いに発展する可能性はあるだろ? そして、国や時代の説明はゲームシステムとは無関係な記事なんだから、wikipediaに説明を丸投げしても特に問題は無いだろ? -- (名無しさん) 2016-05-05 00 31 39 だから、問題があるから全部消しましょう、じゃむしろ相手の思うツボなんだって。 元ある文章を改変して自分に都合よくするってことは、裏を返せば元からあった文章が 自分にとって都合が悪い代物だった、だから変えたってこと。能力値の時にもあったろ? 編集合戦何回も起こって、「もうこれ全部消せばいいじゃん」って言ってた連中。 書くことが目的の荒らしもいるけど、消すことが目的の荒らしもいるから、 「問題が起こったし全部消してWikiに丸投げするね」っていうと その問題起こしてる奴が後者だった場合はしてやったり、なんだよ 実際朝鮮・韓国のページは一度何者かによって全削除食らってるでしょ? 他に問題が起きてない以上は最低限の対処で済ませないと、別のページでまた改変して 「消そうよ」みたいな意見が出るのを待ってるかもしれない -- (名無しさん) 2016-05-05 02 31 41 荒らしの思惑よりも攻略wikiの都合の方が先じゃないか? 能力値や列伝はゲームシステムと関係してるから仕方ないが、国や時代の説明はゲームシステムとは全く関係無いわけで、 争いの火種になるかも知れない危険を冒してまで大事に抱え込むことはないだろう。 こういうゲームシステムとは無関係で、しかも主観が入り込む余地がある部分は極力削ぎ落とした方が、 結果的にページの全削除だのコメ欄の凍結だのという事態を避けられると思うんだが -- (名無しさん) 2016-05-05 20 05 47 検閲連呼する方は書く場所間違ってるんじゃないか そりゃwikiでそういう事をしたら問題だけど ここは主になるのは、ゲーム的な話になるわけだし wikiに丸投げで何も問題ないと思うよ -- (名無しさん) 2016-05-06 10 46 11 攻略Wikiの都合というなら尚更置いといて問題ないと思うんだが 歴史観の論争になってるならまだしも、現状一部の荒らしが勝手に改竄している程度でしょ? 早い話が1人のわけわからん奴のために全体のメリット多いコンテンツを全て改変しようって どう考えてもおかしな話じゃないか? それをやらなかったとして、困るのは誰なの?って感じなんだが ページの全削除だの、コメント欄の凍結だのってのは、 基本的に荒らしないし問題点が発生した場合の紛糾が原因だと思うけど 正直こういう原因ってのはどこから起こるかわからない。 能力値なり列伝なり、あるいはコメント欄の何気ないコメントだったりね。 それを防ぐにはそれこそコンテンツ自体を「なかったもの」とするしかない でもそんなことしたら本末転倒でしょ? 今やろうとしているのってまさにそれじゃないの?ってことなんだけどな -- (名無しさん) 2016-05-06 18 06 37 現状では一人二人が騒いでるだけだが、将来的には五人十人と増えるかも知れないだろ? 少数とはいえ既に騒いでる人間がいて、しかもその原因がゲームとは無関係な部分なら、 本格的に荒れ始める前に取り除いた方が誰の迷惑にもならないと思うんだが。 あと、俺は「なぜゲームとは無関係なリスクを攻略wikiが引き受けなければいけないのか」と言っているのであって、 「全てのリスクを取り除くためにコンテンツ自体を消すべきだ」なんて極端なことは言ってない。 能力値や列伝は許容すべきリスクだという前提で、国や時代の説明は許容すべきリスクに入るのか?と言っている。 もしかしたら俺のことを後者の荒らしだと思ってるのかも知れないが、 コンテンツの存続を第一に考えていることはそちらと同じだから、そこのところは勘違いしないでくれ -- (名無しさん) 2016-05-06 19 30 47 で、あるならば基本はWikiに丸投げ、 そしてわかりやすさのためにある程度の解説を載せておく、 歴史観の討論や論争、および改変などは禁止、という風でよいのではないか? 確かに騒ぐ連中が5人10人とあとあと増えるかもしれない。 でもそれは、増えてから改訂すればいいのではないか? 無理に今、ガッツリ削除して利便性を奪うよりは ある程度コンテンツを維持できるような現状+αのWikiで良いように思う。 そちらの言い分も確かにわかる が、それは性急な気がしてならないのだ -- (名無しさん) 2016-05-06 21 35 19 実はこっちも最初はそう考えたんだが、ゲームとは無関係な解説のために新たにルールを作るというのも、 それはそれでおかしな話というか、あまりにも手を広げすぎじゃないか? その情報は本当に載せなければいけないのか?ということをよく吟味して、 よそのサイトに丸投げできるところは丸投げして役割分担した方が、手間が省けると思うんだが -- (名無しさん) 2016-05-06 23 08 33 確かに手間は省けると思う ただ、Wikiは情報量が多いから、利便性では大きく劣る。 実際問題、Wikiで調べればいい、とするなら武将の列伝も載せる必要はない 自分で調べて書いてね、で終わりだけど、それだとデータの意味が無いから 便宜上採用している、といった感じ。列伝がなくても武将登録はできるからね(CS版は列伝そもそもつけられない) で、現状を打開するためなら、削除までする必要はないように感じた。 いっそ能力値や列伝のように固定化するくらいでもいいと思う。 あくまでわかりやすくするために、書いてる人は書いてるだろうし その配慮を摘み取ってしまうのはどうかな、と。 編集合戦を防ぐだけなら、改変禁止でいいと思うし -- (名無しさん) 2016-05-06 23 33 13 なんか微妙に言い分おかしい 現状の異議が出そうなものを固定化しようとする 誘導しようとする意図が読めるんだけど 荒れの要素は削ってはどうか?→全削除やコメント凍結 歴史観的な部分はwikiに誘導すればいい→それなら列伝に意味がない とこの話しの是非は別としても、 明らかに過剰に話を大きくしようとしてるでしょ -- (名無しさん) 2016-05-07 08 40 06 利便性では大きく劣るというから、改めてwikipediaを見てきたんだが、 情報量が多いから不便というのは、こう言っては何だが偏見じゃないか? wikipediaだって利用者がわかりやすいように、まず最初の方で簡単に概略を説明して、 それから各分野の詳細な解説に入る、という手順を踏んでいる。 さすがにそれが専門なだけあって、利用者に対してきちんと配慮してるし、人によってはwikipediaの方が便利だと思うかも知れない。 wikipediaに丸投げしたからといって、別に使い勝手が悪くなることはないと思うんだがな。 あと、もう一度言うが、俺は列伝は許容すべきリスクだという前提で、国の解説は許容すべきリスクに入るのかと問うているんだが、 それがなぜ解説を消すなら列伝を消せという話になるんだ? ゲームと関係があるか否かという線引きで、こっちはその二つをきっちり分けてるんだが -- (名無しさん) 2016-05-07 18 49 55 いやね、まず列伝が「ゲームに関係があって必要」と言われると必ずしもそうじゃないんだよ CS版は自動作成されるのでそもそも各自が自由に列伝を作ることができないし、 PC版でも列伝を省いて武将登録することができる。 そういう点で見れば、列伝と国の説明はわかりやすく、より利便性を利用者に与える、という 点でさほど変わらないのではないか?と思うわけですよ。 >>現状の異議が出そうなものを固定化しようとする 逆に聞きたいんだが、現状の文章で「異議が出そうなもの」ってあるのかな? たくさんあるなら、それはもう仕方ないから利便性を放棄してWikiで丸投げでも いいと思うけど、今のところ見る限りそれっぽいものないよね? それなのに全部削除するのはもったいないんじゃないかな?と。 >>明らかに過剰に話を大きくしようとしてるでしょ ん?Wikiに丸投げってそういうことじゃないのか? 国の説明とか時代背景を全て削除して、Wikiで代用しようって感じでしょ? 俺はむしろ今のところ説明に問題点が見当たらないから、Wikiを添えて、 編集改変を禁止にしたらどうか?って感じなんだが。 そちらの方が今後論争を防げるし、利用者も利便性が確保できていいことづくめじゃないの?と。 -- (名無しさん) 2016-05-07 19 12 04 >>利用者に対してきちんと配慮してるし、人によってはwikipediaの方が便利だと思うかも知れない。 もちろんそれは人によると思う。Wikiの方が便利だと思う人も当然いるだろう。 しかし、もしかしたら逆の人もいるかもしれないだろう?すると両方あれば、 利用者は自分好みの自由な選択で利便性を選択できるというわけ。 別に俺はWiki載せるなとは言ってないからね。選択肢は多い方が楽でしょってだけで。 -- (名無しさん) 2016-05-07 19 16 34 登録させてもらってる身からすると、できれば今の解説も残してくれるとありがたいね。 清 の説明に日本のどの時代に当てはまるのかとか、 五胡十六国時代 の国がいつからいつまでとか凄く助かる。 -- (名無しさん) 2016-05-07 20 02 40 いやいや、ゲームに関係あるか、それとも無関係な文章かという線引きは重要だろ。 だから、そっちも「武将の列伝も載せる必要はない」と言いながら「データの意味が無いから便宜上採用している」と書いたんだろ? 荒れるリスクがあることがわかっていながらも、そのリスクを「それだとデータの意味が無い」という理由で許容しているわけだ。 で、これが俺が再三問うていることなんだが、時代解説は許容すべきリスクに入るのか? なるほど、解説はあった方がわかりやすい。しかし、それはwikipediaの説明で十分だろう。 わかりやすさという点ではwikipediaとて決して負けてないし、情報の大きさや多様さという点では専門であるだけに向こうが上だ。 利便性を選択できるようにする? なるほど、選択の自由はあって困るものじゃない。しかし、リスクを抱え込むことになるなら話は別だ。 しかも、選択できる利便性に大きな差異があるわけじゃないとなると、選択肢を残すこと自体にも疑問が出てくる。 それなら、解説はwikipediaに全部任せた方が合理的じゃないか? その方がリスクを回避できるし、利便性も大体は維持できるんだから。 あと、これは↑へのコメントだが、それくらいの基本的な情報ならwikipediaの最初か右側にも書いてあるぞ -- (名無しさん) 2016-05-08 12 24 30 ↑ あくまで自分だけの理由だけど、正直Wikiはわかりづらかったところがあったよ。五胡十六国だと、Wikiにも確かに国が何年から何年までという情報は確かにある。でも時代の流れが先に入ってるせいで、結局どうなったかってのを把握するまでに時間が少々かかった。あとこのページからWikiへ何回も飛ぶのがはっきり言って面倒だった。かいつまんで流れを把握するってのが、Wikiだと少し面倒だと思うんだよね。メジャーな時代ならそれでいいと思うんだけど、マイナーな時代まで解説消されると不便に感じるよ -- (名無しさん) 2016-05-09 02 30 42 とりあえず、各人の意見を反映してローカルルールを改訂してみました。 ・ 現状のデータ説明に関しては、ひとまず暫定的に残す(ただし改変は禁止) ・ 一部不適切とされる表現(列伝と同じものです)に関しては、その場所のみ添削可能 ・ あまりに問題になる説明文は削除 → Wikipediaで代用 基本的に列伝ルールとほぼ同じですが、「説明文はなくてもいい」とする意見もあったため 問題が起こった場合は削除した上でWikiに置き換えるというルールを設けてあります。 暫定案なので、異論がある場合はこちらでどうぞ -- (名無しさん) 2016-05-09 07 46 09 提案なんだが、朝鮮の解説に関しては、今の内からwikipediaに丸投げした方がよくないか? あまり例外は作りたくないが、あそこはページが全削除されたり、コメ欄も凍結されたり、 今回の議論の発端にもなったりと多くの問題を起こしてきたページだから、あそこに限っては腫れ物扱いした方がいい気がする -- (名無しさん) 2016-05-09 21 31 03 それはそれでいいと思います。 朝鮮に限らずですが、説明文を作るのが面倒だったり、 あるいはいらぬ波風を立てたくない場合はWikiだけでもいいと思います。 どのみち現行のルールだと問題起こったらほぼ削除されてしまう形になってるので 作る側も結構なリスクができてる形になってますし(別にここは必ずしも必要ではないので) -- (名無しさん) 2016-05-10 02 02 14 すまん、書き方が悪かった。朝鮮のページをwikipediaに丸投げと言ったのは、韓国も含めてのつもりだった。 というのも、あそこには「2013年以降は中国への物心の依存度を~」という文章があるが、 これは現代の政治情勢に言及した文章で、内容の是非はともかく、そういう政治情勢はこれからいくらでも変化する可能性があるから、 その都度いちいち書き直してたら限が無いと思うんだよな。 あと、これは清のページに関することなんだが、2016/04/15と2016/04/29の編集で満洲国を清の後継と位置付ける文章が加えられてるが、 満洲国の歴史的な位置付けは人によって意見が分かれていて、だから前の編集者は満洲国については敢えて触れなかったんだと思うが、 2016/04/15からの一連の編集で前の編集者の配慮が台無しになったように感じる。 李氏朝鮮への編集と時期が近いから多少疑心暗鬼になってるのかも知れないが、清の解説は前の文章に戻した方がいいんじゃないか? -- (名無しさん) 2016-05-10 22 53 11 うーん、でもそれは書き換えると歴史観の介入になりはしないかな? 解説や分類自体が問題になるならまだしも、見た感じそれらしい説明は見当たらないですし 確かに歴史的な背景として、中華圏では満州国を認めてはいないけれども、 それを言ったら台湾も同じことだし、以後の方に中華の事情を付け加えておくだけでよいのでは? -- (名無しさん) 2016-05-11 03 28 08 とはいえ、満州のジャンルがせっかくあるなら清にくっつける必要はないか。 清の方が武将数も多いし。 -- (名無しさん) 2016-05-11 03 29 48 一応書き換えておきました。清の方は元に戻し、満州の方は元の説明にプラスしてWikiからの引用文を貼ってあります -- (名無しさん) 2016-05-11 03 37 45 呼称や認識についてもWiki引用の元言及しておきました -- (名無しさん) 2016-05-11 03 45 02 編集ありがとう。自分で戻せと言っといて何だが、戻したら戻したでまた書き加える人間が出るだろうし、今の形がベストだと思う。 それで、韓国に限らず、今現在も新しい歴史を作ってる現行の国家はどう扱うべきだろうか? 例えば北朝鮮の場合、今度の党大会で国のトップの肩書きが委員長に変わったから、 第一書記をトップとする今の解説と合わなくなったが、こういう時はどうするんだ? 個人的には、何か変わるたびに解説を書き改めるよりも、 現状と解説が合ってる間は解説を残して、合わなくなったらwikipediaに丸投げが一番面倒が少ないんじゃないかと思うんだが -- (名無しさん) 2016-05-11 22 05 14 それでいいと思いますよ -- (名無しさん) 2016-05-12 06 35 09 了解した。ついでに韓国の方も、最近の米韓合同軍事演習なんかを見ると、 今の韓国が「反米親中路線を貫徹」しているとは言い切れないと思うので、 現状と解説が合わなくなったと判断して解説をwikipediaに丸投げした -- (名無しさん) 2016-05-12 21 41 08 http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1258.html 一部の武将をこちらから移転させました。 能力値に関しては記入されている部分はそのままとし、 空白の部分は勝手ながら自分がつけさせていただきました。 列伝はローカルルールに伴い一部削減されております。 武将登録されているページですが、理由不明ながらページに表示されないように編集されておりました。 それを復旧して、時代や地域ごとに割り振った次第であります。 -- (名無しさん) 2016-07-18 11 54 02 おい、また後漢の能力が変更されてるぞ 変更しないことを前提にしているんだから書き換えるなよ 一年も前にログは閉じられてるし頼むから確認ぐらい取れよ -- (名無しさん) 2017-03-22 17 08 17 とりあえず戻しておきました -- (名無しさん) 2017-03-22 19 21 21 2017-03-22 17 08 17です 対応有難うございました -- (名無しさん) 2017-03-23 21 17 52 https //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2713.html このページ何が起こってるんだ? 編集中って一体何? -- (名無しさん) 2017-05-24 08 43 33 どうやら白紙化して勝手に荒らしまわっているようだ コメント欄も内容を書き換えて自分の荒らしを正当化している -- (名無しさん) 2017-05-24 09 09 59 朝鮮・韓国の李舜臣の文だけど「国民的英雄」の前に「韓国の」って主語入れとかないと混乱すると思う 句点前に李朝って入っているから大丈夫かもとも思うが読んでて、ん?ってなったのであくまで一応どうか程度の提案 -- (名無しさん) 2017-06-17 22 08 04 個人的にはくどい文章に感じるが、安重根の方には『韓国国内では~』と書かれているから表記を統一する意味ではそれでも良いかもね -- (名無しさん) 2017-06-18 21 18 45 駄目だと思うが存命人物を新武将として作って大丈夫だろうか このページを見ると存命人物を新武将に登録していいかとか特に書かれていなかったので気になった -- (名無しさん) 2017-07-02 15 51 56 存命人物は特に政治家や宗教家で大荒れになりそうだから 個人的には存命人物を新武将にするのはナシだと思う あくまで俺個人の見解だけど、せめてその年亡くなった人とかがギリギリ限度 今年で言えば金正男(金正日の息子で今年亡くなった)とか -- (名無しさん) 2017-07-03 19 28 45 でもこれもかなり甘い措置だと思う 人によっては元号1つ跨がないとダメって考える人もいるかも 近現代に死没した登録武将は ダイアナ妃 (1997年没) 舩坂弘 (2006年没) 金正日 (2011年没) 三笠宮崇仁親王(2016年没) この4名のみ 張作霖の息子である張学良(2001年没 1901年生まれ)とかもいるし このあたりがちょうど昭和を長く生きた人物が没する可能性のあるラインじゃないかな -- (名無しさん) 2017-07-03 19 36 15 李舜臣の能力に対して列伝を見ると疑問を覚えたので、彼の列伝を修正しておきました -- (名無しさん) 2017-10-04 13 49 12 ↑ 申し訳ないが、修正された列伝が250字の制限を超えていたので、ひとまず修正前の列伝に戻した。 ついでに付け加えると、 「既に250字以内にまとめられている列伝については、理由なく編集して内容を改変することは控えてください。 ただし、未成年への配慮として性器、及び性交に言及する表現は改変の対象となることがあります。 その場合は該当する語句及び表現のみが改変対象となります。内容そのものは改変しないでください。 それ以外の内容、思想、歴史観の違いによる列伝の改変などは一切禁止しております」 とルールに明記してあるから、 「能力に対して列伝を見ると疑問を覚えた」というのは修正の理由としては認められないと思うぞ。 -- (名無しさん) 2017-10-04 22 55 46 https //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1257.html 荒らしが該当ページを削除していたので差し戻し コメント欄はどうやら復旧できないようなので、このままとした -- (名無しさん) 2017-11-18 06 52 14