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ボヨウヨウ(3)(慕容瑤) 中国の五胡十六国時代の西燕の皇帝。 関連: ボヨウチュウ (慕容沖、父)
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501 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 18 55 33 ID XvdfT6pW0 まあ徐達は敵に単騎で突っ込んでいったりはしないだろうなw 502 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 22 05 33 ID hj44a9pU0 485 >明末の女将軍。女なのにすごいのである。 なにが凄いのかあまりにも漠然としてるので代わりに紹介しとく。 つーか推薦するのかしないのかはっきりしろw 秦良玉 四川省忠州の人。馬千乗の妻で騎射を得意とし、文章に通じ、常に男装していた。 万暦二十七年夫とともに播州の乱を討って功績を挙げる。 馬千乗が事件に連座して獄死すると、その職を継ぎ、石[石主]宣撫使に任ぜられた。 その部衆は白杆兵と称し、勇敢なことで知られた。 天啓元年、援遼の戦に出兵、後金軍と戦う。また奢崇明の乱の平定でも活躍。 その功により都督僉事に任ぜられ、総兵官となった。 崇禎年間には農民反乱の討伐の為、各地を転戦。 その功により太子太保・都督となる。 十七年には張献忠の侵入を阻止したが病死している 張献忠は李自成と朋輩で湖南・江西から四川に入って独立勢力を樹立。 のちに成都に拠って称帝を称し、大西国を建てた人物。 ちなみに張献忠の養子で南明と結んで清に抵抗した。李定国ていう奴もいる。 503 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/20(日) 01 24 58 ID DiRdFEqc0 朱元璋政権がある程度大きくなる前に散っていった武将ってあんまいないな~・・・ こんなんおるけどどう? 胡大海 比較的初期の段階から朱元璋軍に参加した武将で、 明史はその人物を長身鉄面、智力過人と評している。 朱元璋軍が太平を陥れるぐらいまでは突出した活躍は見せないが、 朱元璋軍が徽州を攻略し、間も無く苗族の元将であり、 張士誠の宿敵でもあった楊完者が十万の兵を率いて攻め込んでくると、 胡大海は兵を率いて見事にこれを撃退するという戦功を挙げる。 そして、これより彼の華々しい戦跡が刻まれていく。 鄧愈・李文忠とともに元の将軍の守る建徳を破り、再び楊完者を撃破して三万人の捕虜を得、 次に元将石抹厚孫の守る婺州を、石抹宜孫の派遣した胡深率いる二万の援軍を破りつつ占領。 更に、張士誠領の諸曁を攻略し、その勢いで紹興(お酒で有名)まで侵攻。 しかし、張士誠も黙ってはいない、呂珍(私見では張士徳亡き後の張士誠軍随一の名将)を派遣して諸曁の地の奪回を図る。 胡大海は急ぎ救援に向かい、堰を決壊させて水攻めを行おうとしていた呂珍から堰を奪い取り、 逆に呂珍軍営を水浸しにして、呂珍を捕え、これを釈放した。 ついで元将石抹宜孫の守る処州を攻撃、武将の胡深を降伏させ、 更に石抹宜孫と浙東の四先生と称される章溢や葉琛率いる処州軍を破り処州を占領する。 んでもって、陳友諒配下の将である李明道(犬好きで有名)が信州に侵攻してきた際には、 これを迎撃して、李明道を降伏させている(後に叛旗を翻し再び陳友諒に寝返るのだが・・・)。 これより先、胡大海が建徳を攻略した後、楊完者の配下の将であった蒋英等が投降してきた。 主である楊完者が張士誠(当時は元に降伏していた)と同僚であったはずの 元将達識帖木児の手によって謀殺され、拠るべき所を失っていたのである。 胡大海は蒋英らの勇猛さに惚れ込み、すぐさまこれを自己の配下に組み入れた。 (これからは少し推測が入る) 楊完者の軍は漢民族から見れば野蛮な苗族の軍団であり、 軍の綱紀は緩みっぱなしで、略奪、淫行、殺傷等は是とされていた。 しかし、朱元璋軍は綱紀が非常に厳しく胡大海自身も平時から 殺人と淫行と放火だけは絶対にやってはならんと兵に厳命していた。 蒋英等は次第にそんな窮屈な軍団に嫌気がさし、そして、彼らは遂に行動を起こす。 胡大海の守護する婺州にて、反乱の狼煙を上げ、胡大海を殺害してしまったのだ。 蒋英らはその後胡大海の首を持って方国珍に降ろうとしたが、 朱元璋の怒りをかう事を恐れた方国珍は兄の方国璋に境界線を守らせた。 これに怒った蒋英は方国璋を殺害して、結局は張士誠に降った。 その後、李文忠が杭州を攻略した際、蒋英は捕えられ、 朱元璋によって処刑され、その血をもって胡大海を祀ったとされている。 長文スマソ 504 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/20(日) 01 44 46 ID /nNiDMhI0 胡大海好きなんだけど十選はきついだろうなぁ その時代には徐達常遇春をはじめとして六王に、馮勝や傅友徳、 ちょっと下がって藍玉と錚々たるメンツがいるし 個人的には徐達・常遇春と並んで朱元璋が最も信頼してた将軍だったけど クーデター企てて処刑されて正史に伝も立ててもらえなかったっていう邵栄が気になる 505 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/20(日) 02 01 38 ID giuFVJcO0 明はよくわからんので明の名将でぐぐってみた 于謙 袁崇煥 戚継光 兪大猷 李如松 シラネ 506 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/20(日) 02 04 34 ID DiRdFEqc0 もいっちょ 胡深 父は元朝の官僚であり、由緒正しい処州の学者先生であったが、元末の兵乱が激化し、 郷里の周囲でも群盗が猛威を振るうようになると、胡深は郷里の子弟を集め義兵を組織し賊に対抗した。 そして、処州の元将 石抹宜孫に見出され、参軍事として彼の帷幕に加わる。 その後は、数千の兵を集めて山賊を駆逐し、温州の韓虎を破るなど多くの戦功を挙げる。 この間、同じく石抹宜孫に助力していた劉基や章溢(以前からの学友でもある)、葉琛などの著名な学者達と親交を深める。 至正十八年(1358)、朱元璋の軍が婺州に迫ると胡深は救援軍の司令官に抜擢され、 数万の民兵と百両の戦車を率いて婺州へと向かった。 しかし、婺州への道中、朱元璋軍に遭遇して敗れ、撤退。 救援の望みを絶たれた婺州は朱元璋に降伏した。 至正十九年(1359)、朱元璋の処州攻撃が始まると、 胡深は処州の龍泉、慶元、松陽、遂昌の四県を以って抵抗したが、 降伏派に傾いていた四県の士民の説得を受け、遂に降伏。 以前から胡深の名を聞き知っていた朱元璋は、 早速胡深を応天に招待し、日々天下のことを論じ合ったという。 後、胡深は命を受けて処州へと向かい、もともと率いていた兵士たちを招集し、江西征伐に参加。 至正二十二年(1362)、処州の苗族の兵士達が反乱を起こし守将の耿再成を殺すと、平章の邵榮に従い討伐に従事。 この功を以って浙東行省左右司郎中の官を授けられ、処州の軍民を総制した。 この時、処州の治安はあまり良いと言える状態ではなく、各地で賊が出没していた。 その為、胡深は数万の兵を募って賊の一斉討伐にかかり、その首領たちを捕えることに成功する。 至正二十三年(1363)、諸曁の守将 謝再興が朱元璋に叛旗を翻し、 張士誠の軍とともに東陽を攻めると、胡深は李文忠の先鋒として活躍し、遂に謝再興は敗走。 謝再興を破った後、胡深は諸曁を張士誠軍に対する防衛の鼎にしようと進言して聞き入れられ、五指山に新城を建設した。 後、張士誠の将 李伯昇が大軍を以って攻め入った際、この新城をどうしても抜くことが出来ず、敗走。 胡深は、新城建設を建言した功により、朱元璋より名馬を賜ったという。 至正二十四年(1364)、胡深は継続して処州を守り、方国珍の従子 方明善を破るなどの戦功を挙げる。 後、陳友定の軍が処州の境を侵したので、胡深はこれを破り、更にこれを追って捕城を攻略。 胡深は戦勝の勢いに乗って進撃を続け松渓の守将 張子玉を捕える。 そして、朱元璋が派遣した朱亮祖・王溥の軍と合流し、進撃を再開。 しかし、これまでの進撃があまりに性急過ぎたことから、軍に乱れが出始めていた。 胡深はこれに気付き、少し進撃の速度を緩めようとするが、 朱亮祖の反対にあい、結局そのままの調子で陳友定の本拠である延平に向かった。 そして、胡深たちが錦江を行軍していると、陳友定の将 阮徳柔の奇襲にあい、 胡深は何とか撤退しようと柵を二つ破るが、陳友定自らが率いる精鋭の攻撃を受け、遂に捕えられてしまう。 捕えられた胡深は礼をつくして迎えられ、陳友定から自分の部下にならないかと誘われたが、 胡深は頑としてこの要求を受け付けなかった。 陳友定は殺すのは惜しいと思いつつも、元朝の使者がいる目の前で賊軍の将を生かしておくことは出来なかった為、 ここに到って胡深は遂に処刑されてしまった。 後に、朱元璋は陳友定を捕えると「貴様は我が参軍を害した」と痛罵し、 これをその子もろとも殺したという記述が明実録に載っており、 また、陳友定の屍肉を胡深の墓に祀ったという話も伝わっている。 胡深の死後、宋濂と朱元璋は胡深の人物を論じ合い、宋濂は「文武の才」と評し、 朱元璋は宋濂の評価を認めたうえで「浙東の一障であり、私はこれに頼っていた」と語り、その才を賞賛したという。 文武両道に通じていたという、当時としては珍しいタイプの将軍さんです。 相変わらず長文になってしまいました。 507 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/20(日) 02 26 49 ID IMB/AYN20 朱元璋政権がある程度大きくなる前に散っていった武将 真っ先に花雲が思い浮かんだ コイツの最後の言葉を読んだ後に、洪武帝の粛正を見ると虚しい…… 508 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/20(日) 03 04 49 ID 3W7CTJwJ0 504 朱元璋が最も信頼していた三人の一人になんでしょ?>邵栄 505 袁崇煥、戚継光は一応紹介文を挙げてるよ。 于謙は宣宗に従って漢王・朱高煦の乱の鎮圧したり、 オイラートから北京を死守したりしてる。 あまりに堅固な守りにエセンも攻め切れなかった。 兪大猷 嘉靖期の対倭寇戦で戚継光と共に活躍し、 海賊の討伐などに功績を挙げ、広東の防衛に抜擢され総督・欧陽必進に重く用いられ、 対ベトナム戦では数々の功績を挙げている。 李如松はボバイの乱の鎮圧で功績を挙げ、秀吉の朝鮮出兵の際には援軍の総督として活躍している。 うーん明末とか詳しい人いないんのかな? 話題が洪武帝陣営に偏ってますなぁ。 509 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/20(日) 03 28 07 ID aY64Pf2/0 鬼石曼子ちゃんの猛勇っぷりには明の名将もタジタジだよ 510 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/20(日) 10 47 02 ID YjfsUI+3O 509 碧蹄館に島津居たっけ? あれの日本軍主力は小早川、宇喜多、立花あたりでしよ 511 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/20(日) 11 29 43 ID 3W7CTJwJ0 510 碧蹄館に島津は参加してないよね。 島津が主に活躍したのは慶長の役。 鬼石曼子(おにしまづ)と恐れられたのは泗川の戦いだし。 512 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/20(日) 12 28 56 ID DiRdFEqc0 邵栄は伝がないからきついな~・・・ 取り敢えず史料から適当に記述を拾って組み合わせてみるか。 邵栄の取り敢えずハッキリしている戦績 対張士誠戦 至正十八年(1358)、徐達とともに張士誠領の宜興を攻略 至正十九年(1359)、餘杭において張士誠軍を破る。 張士誠領の湖州を攻撃するが失敗し、一時撤退、 勢いに乗じて張士誠配下の将李伯昇が攻め寄せてくるも、 事前にこれを察知していた邵栄は兵を伏せてこれを迎え撃ち大いに破った。 杭州を攻めるが張士誠は達識帖木児と共同戦線を張りこれに対抗、 ちなみに張士誠の書記である陳基の残した記録には、 この時邵栄の軍は四方を略奪し、民家を焼き、墓を暴くなどの蛮行を働いたと記されている。 至正二十年(1360)、杭州の包囲は三ヶ月に及んだが結局攻めきれず撤退。 至正二十二年(1362)、蒋英の反乱に乗じて張士誠は兵を上げ、弟の張士信に兵を預けて諸曁を大軍を持って攻撃、 諸曁の守将謝再興はこのままではこらえ切れないと援軍を要請、 邵栄は徐達とともに援軍に赴き、張士信はこの援軍を見て殆ど戦わずして逃亡した。 その他 至正二十年、陳友諒が応天府に向けて軍を発したので、諸将とともにこれを迎え撃ち、 陳友諒の弟陳友仁を拒むなどして戦功を挙げる。(史上名高い江東橋の計) 至正二十二年、婺州の苗将蒋英が反乱を起こしたことを知った、 お隣処州の苗将李祐之は蒋英に続けとばかりに反乱を起こし守将の耿再成を殺害、 邵栄は胡深らとともにこれを平らげる。 513 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/20(日) 13 09 20 ID 3W7CTJwJ0 512 邵栄の事って他の奴の伝とかにちらほら記載されてる程度なんだろ? 514 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/20(日) 13 33 30 ID DiRdFEqc0 513 確かに明史の太祖本紀では確かに反乱を起こしたことしか書いていません。 しかし、実録とかの記述を丁寧に見ていけば結構見つかります。 まぁ、俺が参考にしたのは国初群雄事略の引用文だけどね。 515 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/20(日) 13 39 01 ID /nNiDMhI0 明史なんて実録の索引くらいにしか役に立たないなんていう人もいるくらいだし 516 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/20(日) 16 35 21 ID 3W7CTJwJ0 514 朱元璋って邵栄の指揮能力を高く評価していたんでしょ? 国初群雄事略ですかいいなー。 てっきり、あちこちから記述を探してきたんだろうな、 乙だなぁーと思ってたからね。 それと貴重な推薦文職人が居てくれるのは大変有り難いことです。 515 なるほど。 いろいろな話が聞けるのがここスレの良いところだよな。 517 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/20(日) 18 17 19 ID XkY4aN8NO 489 韓世忠の嫁さんの梁夫人なんかも結構女傑として有名だよな。 女傑と云えば戚継光夫人の王氏なんかも、自ら軍勢を率いて倭寇と戦ったりしてるんだって。 やっぱ似たもの同士は引かれ合うのかな? 518 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/20(日) 18 33 54 ID Ooz8jJqI0 いや、戚さんはMだし・・・ 519 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/20(日) 20 47 33 ID OxJaL/s+0 517 戚継光は有名な恐妻家だぞ。 ジョークのネタにもなってる。 520 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/20(日) 22 19 05 ID 3W7CTJwJ0 王守仁 余姚(浙江)出身。字は伯安、号は陽明。王陽明として知られている。 文臣としては明代を通じて武功第一と称される。 当時の江西省の南籟地方、福建省の汀州、澄押や広東省の治安維持を命ぜられ、 約一年半の間にこれらの地方の険難なところに要塞を作り、賊の討伐に当たった。 この地方には過去にも多くの武将が賊討伐を命ぜられ遠征したが、 ことごとく敗退し、いまだ平定されていない危険な土地として知られていた。 王守仁は既にあらゆる兵法に通じ、向かうところ敵なしの圧倒的な強さを誇った。 王守仁は寧王の乱を14日で鎮圧し、南京兵部尚書・新建伯に封じられ、 広西瑤族を平定するが帰途に江西省南安で没している。 寧王の乱について 寧王、諱は宸濠。 太祖の第17子の寧献王権の曾孫の康王覲鈞の長子。 弘治十二年に寧王を継ぎ南昌に居した。 寧王は軽佻かつ貪欲でしかも兵事を好み、劉瑾への贈賄で護衛兵数の回復を画策、 都指揮使殺害・知府幽閉・群盗との結託するなど非道であり、 広東からは仏郎機銃などの武器を調達し、同時に私造を行ない、 正徳十四年6月に至って討伐令が発せられた。 初めの内は官軍をたびたび撃退して武宗を南京まで親征させるも、 まもなく巡撫の王守仁に鎮圧された。 武宗期の地方叛乱では最大規模とされ、 しかも首謀者が宗室で計画的である点でも重視されている。 十傑入りは無理だろうが王守仁は一発屋と扱うのは過少評価し過ぎだと思う。 取り敢えず紹介文をあげただけどね。結構この人好きだしw 521 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/20(日) 23 10 21 ID S8yY944J0 鄭和ってよくわからんな 名将っていえるのか 522 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/20(日) 23 29 45 ID Rbu/mWV3O 普通は呼ばないな。 523 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/21(月) 22 59 15 ID rlTC2dHe0 519 戚継光が部下の兵士たちに女房を恐れない男こそ真の勇者だと言ったあと 女房が怖い奴は俺の側に来いと命令したら一人だけ来なかった奴がいて その訳を聞いたら女房に話が聞こえない時は、その場でじっとして動くな って言われてるんですと答えたんだろ? 524 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/24(木) 00 11 18 ID WAVCnusI0 田中某氏「中国武将列伝」 ttp //www1.ocn.ne.jp/~matsuo3/books/chugokubusho.htm 525 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/24(木) 09 18 19 ID X82UmEN7O この人の名将百選は頭に『小説のネタになりそうな』ってのがつくよね 526 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/27(日) 03 21 57 ID WinA/SEIO 李自成に滅ぼされた明と同様、このスレも完全に滅んだな… 527 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/27(日) 09 34 56 ID Ypeu+frZ0 526 語り尽くされた感じだからね 俺は楽しかった一睡夢 528 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/27(日) 09 49 48 ID bbIxGFfk0 ぶっちゃけ明以降面白くないんだよね~ 529 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/27(日) 12 58 42 ID TMRvy98P0 せっかく今まで議論を尽くしてきたんでどなたかこれまでに決定した百選リストをまとめてもらえないでしょうか? 530 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/27(日) 13 56 57 ID WinA/SEIO 春秋戦国 【確定】 楽毅、楚の荘王(熊侶)、白起、李牧、王翦、呉起、廉頗、孫武、樗里疾 【候補】 士会、魏無忌(信陵君)、趙の武霊王 統一秦~前漢 【確定】 韓信、項羽、霍去病、衛青、趙充国、陳湯、周亜父、章邯、灌嬰(暫定) 【候補】 劉邦、曹参、彭越、鄭吉 新・後漢 【確定】 劉秀、馮異、樊崇、耿 (エン)、呉漢、班超、段 (ケイ)、馬賢、曹操 【候補・議論中】 岑彭、周瑜 三国~両晋 【確定】 トウ艾、石勒、祖逖、王猛、劉曜、慕容垂、慕容恪、桓温、拓跋珪 【候補】 陶侃、石虎、謝艾、謝玄、冉閔 南北朝 【確定】 劉裕、檀道済、韋叡、陳慶之、拓跋 (トウ)、蘭欽、斛律光、高洋、韋叔裕、段韶 隋・唐 【確定】 楊素、李世民、李靖 、李勣、裴行倹、薛仁貴、郭子儀、李光弼、李克用、史思明 【候補・議論中】 李晟 or 李愬(郭子儀 or 李光弼との入替) 五代~北宋・遼 【確定】 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊師厚、狄青、李存審、 (チュウ)師道、楊延昭、李継遷、耶律徳光 【確定】 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、伯顔(バヤン)、トゥルイ、阿朮(アジュ)、速不台(スブタイ)、察罕帖木児(チャガン・テムル)、 【候補・議論中】 海山(カイシャン)、張弘範 、郭侃、阿里海牙(アリハイヤ)、張俊 拡廓帖木児(ココテムル) 明 【確定】 徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥 、朱元璋、張士徳、李文忠、李自成 【候補・議論中?】 李自成、邵栄、秦良玉、胡深 議論保留中の武将もいるので 529さんこんなんでいいっすか? 531 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/27(日) 14 04 30 ID WinA/SEIO スマソ 530を訂正 明 【確定】 徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥 、朱元璋、張士徳、李文忠 【候補・議論中?】 李自成、邵栄、秦良玉、胡深 532 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/27(日) 14 24 17 ID TMRvy98P0 530-531 レスサンクスです こうやって改めて眺めてみるとなかなかいい人選ですね 某作家の百選よりもだいぶ良いものが出来たんじゃないでしょうか 533 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/27(日) 14 29 15 ID WinA/SEIO 何度もスマソ 改めて貼り直して置くよ 532さんさっきのは忘れてw 春秋戦国 【確定】 楽毅、楚の荘王(熊侶)、白起、李牧、王翦、呉起、廉頗、孫武、樗里疾 【候補】 士会、魏無忌(信陵君)、趙の武霊王 統一秦~前漢 【確定】 韓信、項羽、霍去病、衛青、趙充国、陳湯、周亜父、章邯、灌嬰(暫定) 【候補】 劉邦、曹参、彭越、鄭吉 新・後漢 【確定】 劉秀、馮異、樊崇、耿 (エン)、呉漢、班超、段 (ケイ)、馬賢、曹操 【候補・議論中】 岑彭、周瑜 三国~両晋 【確定】 トウ艾、石勒、祖逖、王猛、劉曜、慕容垂、慕容恪、桓温、拓跋珪 【候補】 陶侃、石虎、謝艾、謝玄、冉閔 南北朝 【確定】 劉裕、檀道済、韋叡、陳慶之、拓跋 (トウ)、蘭欽、斛律光、高洋、韋叔裕、段韶 隋・唐 【確定】 楊素、李世民、李靖 、李勣、裴行倹、薛仁貴、郭子儀、李光弼、李克用、史思明 【候補・議論中】 李晟 or 李愬(郭子儀 or 李光弼との入替) 五代~北宋・遼 【確定】 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊師厚、狄青、李存審、 (チュウ)師道、楊延昭、李継遷、耶律徳光 【確定】 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、伯顔(バヤン)、トゥルイ、阿朮(アジュ)、速不台(スブタイ)、察罕帖木児(チャガン・テムル)、 【候補・議論中】 海山(カイシャン)、張弘範、郭侃、阿里海牙(アリハイヤ)、張俊 拡廓帖木児(ココテムル) 明 【確定】 徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥、朱元璋、李文忠、張士徳、馬芳 【候補・議論中?】 李自成、邵栄、秦良玉、胡深 534 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/27(日) 15 15 22 ID TMRvy98P0 533さん度々ありがとうございます 後漢の確定に樊崇が入ってますけど、候補になっている岑彭、周瑜を上回る功績があるんですかね? 樊崇外して岑彭、周瑜の二人を確定に繰上げで良いような気もするんですが… 535 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/27(日) 16 17 51 ID WinA/SEIO 534 岑彭、周瑜については散々話合いましたが決着はついていません。 故に【候補・議論中】となっております。 また光武帝陣営に偏らないようバランスを配慮して話合いましたし、 樊崇は一応天下を取ってるなども配慮に入れて確定入りとなった訳で。 なお当時樊崇の確定入りに強い反対意見はなかった様な… 【王莽】新~後漢初【光武帝】のスレとはいろいろと事情が異なりますし。 そちらでも同じ様な話してますね、 あちらには前スレよりのレスも投下されてますし。 まあ後漢王朝が立ち直れなかった様にここも立ち直れず滅んだわけで… 536 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/27(日) 17 05 48 ID jTP/VHA/O つーか、明代は9人確定してんだし、次に進まない? 議論してるわけじゃないし、誰か特別に推薦したい人物もいないみたいだし。 537 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/27(日) 17 48 06 ID WinA/SEIO 536 つーか、明代は9人確定してんだし、次に進まない? あれが確定かどうかは知らないけど あくまで要請に答え俺が勝手に投下してみた訳であり (確定の9人は今までのレスを読んで勝手に判断しただけ) あとで俺のせいにされたくないからこれが9人が確定確定だとは断言できない。 そんなに次の時代に行きたければ言い出しっぺの貴方が仕切ればいいじゃん。 ただそれだけの話… 538 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/28(月) 09 52 16 ID ca8WQ46h0 536 次に進まない?と言うだけで結局は自分は何もしないんだな・・・ 539 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/28(月) 12 24 01 ID x11xoASi0 清 ヌルハチ ホンタイジ 540 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/28(月) 18 58 56 ID qtfZRqEt0 538 それはちょっとひどい言い草だと思うぞ。 まとめしてくれてるんだよ、その人。 541 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/28(月) 19 56 47 ID 56ZmtU4M0 曽国藩 李鴻章 542 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/28(月) 20 21 15 ID IBQjnampO 540 537だけど明の確定9人は俺の勝手な判断だって言ってんじゃん。 だったらこれでいいかい?って提案するなり清の候補貼り付けるなり なにかしら行動起こしたらいいんじゃないか? 結局、何もしないんじゃ言うだけかとか他力本願に見られても仕方ないと思うぞ。 543 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/28(月) 22 07 59 ID qtfZRqEt0 542 そりゃすまん。 最近ROM専なもんで、とやかく言えた義理ではないわな。 544 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/28(月) 22 55 51 ID IBQjnampO 543 いやいや別に貴方のこと責めた訳でないよ。 俺自身何度か仕切ったこと経験があるから意見を述べただけなんだよ。 言うだけじゃなんだから例として一応貼って置くよ 明 【確定】 徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥、朱元璋、李文忠、張士徳、馬芳 【候補・議論中?】 李自成、邵栄、秦良玉、胡深 以上9名が確定でいいかな? 既に清に移ってます異論がなければよ続行でよろしいですかね? てな感じで投下したらいいんじゃない? ついでに清の候補も貼って置くよ。 清 【候補】 奴児哈赤(ヌルハチ) 、ホンタイジ、阿巴泰(アハタイ) 、多爾袞(ドルゴン) 、費英東(フィヤントン) 康熙帝・玄? 、岳鐘 、策稜(ツェリン) 、僧格林沁(サンゴリンチン)、宋景詩 、関天培、 明亮、楊遇春、李長庚、関天培、李秀成、石達開、 劉永福、曽国藩、李鴻章 545 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/29(火) 20 01 43 ID pzG7H9OR0 オナニースレ 546 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/30(水) 22 18 42 ID 2aGO/LBC0 ドルゴンや康熙帝って、名将って言うより名宰相の範疇のような・・ 皇帝を「名宰相」っていうのもヘンだが。 547 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/31(木) 17 50 57 ID v5UBkifv0 鄭成功は名将ではないのかな。 あと、施ロウとか。 548 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/31(木) 19 06 07 ID 7H/ReGAz0 張煌言が居てこその鄭成功だからなぁ。 最後に別動隊任せなかったらとも思うが、張煌言以外には任せられんかったしな。 549 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/31(木) 19 44 17 ID 7H/ReGAz0 別に上司と配下といった関係でもないが。 550 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/31(木) 22 07 05 ID m/4VvuWu0 わからん 551 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/31(木) 22 56 25 ID YOe+66RB0 戦場を選ばなかった呉三桂はどうか 552 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/31(木) 22 59 38 ID uowr7EiP0 呉三桂は前スレだと明のほうの候補に挙がってたな 推す人がいなかったからかいつの間にか消えてるけど 553 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/31(木) 23 33 06 ID WxfhWzwA0 過去ログ見れないのか 蒙恬や馬援、高仙芝、尉遅敬徳、高長恭とか 知名度高いのが入ってないと寂しいな 純粋な戦績だけで判断してるのかね? 人格や名声、感化力・影響力は関係ナッシング? 554 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/31(木) 23 37 03 ID XSFT4IIP0 553 ある程度まとまった大軍を指揮して、あげた戦績のみで評価している。 人格や名声、感化力・影響力は評価の範囲外。 555 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/01(金) 00 52 36 ID PixSUAiD0 まあここの住人の気質だと心理的にそんな選び方になるのも仕方あるまい 大輪の華より小粒でもいぶし銀ってか 556 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/01(金) 01 19 32 ID ZUetwaSG0 アンチ田中ってのもあるっぽいしなw 557 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/01(金) 17 21 54 ID 5MIIGfx60 確かに英雄が抜けてると地味で小粒に見えるな… 558 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/01(金) 18 47 32 ID Ngu8f8gr0 今ランクインしてる奴だって 蒙恬や馬援、高仙芝、尉遅敬徳、高長恭とかに劣らない程の知名度だと思うが 559 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/01(金) 18 50 05 ID 8W74ryDg0 今度は軍事面に限定せずに、総合的な能力で百選でも決めてみる? 560 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/01(金) 21 08 13 ID bH0h+rEOO 薛仁貴とか人気面から入った人もいるけど? 561 ◆RQdk7scN8s sage 2007/06/01(金) 21 14 23 ID wJmrVkd40 なんだか、自分好みな話題になりつつあるな。 合理的な能力、実績主義だけじゃなく、人格や人気、あるいは民衆受けする名将というのも、おいおい語りたいものだ。 高仙芝、尉遅敬徳 は一刀に乱麻を断たれていたように記憶する。 高仙芝は歴史的敗戦、尉遅恭は猛将色がより濃いから、だっけ… 562 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/01(金) 21 23 15 ID GTGWB+la0 いいんじゃない 所詮おまえらのオナニーなんだし 563 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/01(金) 22 07 24 ID VII9dHmAO 562 じゃあ来るな!! 564 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/01(金) 23 35 56 ID glnEbLVX0 551 今スレでは呉三桂の推薦文も推す声もなかった。 553 蒙恬 オルドスを撃ってたりするが実績不足。推す声はあったが結局落選。 馬援 推薦文も後押しもしたが二度の反乱鎮圧程度じゃ駄目なんだって。 高仙芝 一人躍起になって推す人が居たが タリム河での敗北が大きなマイナスポイントとして指摘されやはり落選。 尉遅敬徳 >尉遅恭・秦瓊の「門神コンビ」も絶対に外せないところですね。 これ以外記憶に残ってない… 高長恭 推したが名将とは言い難いと却下された。 558 同意 そんなに知名度ない連中ばかりとは思えないし。 565 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/01(金) 23 36 57 ID glnEbLVX0 連投スマソ 561 ◆RQdk7scN8sさん久しぶりの登場だね。(この間はどうもでした) ◆oOLAqFKRB.さんはもう参加しないつもりなのかな? ところで皆さん取り敢えず清を片付けないの? 前スレで清は奴児哈赤(ヌルハチ)、阿巴泰(アハタイ)、施琅、策稜(ツェリン)、僧格林沁(サンゴリンチン)が確定 あとは洪承疇と宋景詩を推してる人がいたんで、 とりあえずこの2人は暫定的に確定にしてたね。 候補は楊遇春、李長庚、明亮、兆恵、阿桂。 あと林則徐も推す声があったな。 566 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 00 09 10 ID r9LAgQ5N0 知名度っていうより、押しのけて選ばれてる割に華がない面子が多いんだよな ドライっていえばドライな人選なんだろうが ただの戦争の達人100選って感じ 人格や名声も大事な要素だと思った 567 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 00 18 25 ID hsxZFuK80 まあ4スレ消費した現在、今更方針変えても仕方ないし、 名声や人望含めたら田中某氏のと変わりなくなっちゃうから これはこれでいいんじゃね? 568 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 00 27 14 ID rhDYg+KE0 蒙恬や馬援、高仙芝、尉遅敬徳、高長恭って華があるのか? 後ろ二人はまぁ、そう言えるかも知れないが 高長恭は同時期に斛律光が居て、彼の方が明らかに功績が大きいという理由だ 569 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 00 30 45 ID I6O/iX3A0 まあ話合いの中で選定基準が自然と決まっていったからね。 華がないとは例えば誰? 570 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 00 39 57 ID dVrWM6S90 一人で選ぶなら人格とかイメージとか含めてもいいけど 多人数でやるならなるべく選考基準を単純にしないと紛糾してしょうがない 571 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 00 40 40 ID d7qBIgsm0 566 ROMるなりしてたらこのスレの趣旨や傾向性がわかるよ。 そろそろ清の名将について語ろうか。 ↓ 572 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 00 46 08 ID gOKN0tFJ0 568 ああ、蒙恬や馬援とか言ってるのは俺じゃない。普段はただのROMだ 横槍すまんかった 通常通り続けてくれ 573 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 00 50 13 ID dVrWM6S90 565 林則徐の軍事的功績って何があったっけ? 574 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 00 54 13 ID uRbrcXKD0 人格やエピソードの面白味などを基準にすると、どうしたって個人の差異が現われてくる。 570氏がおっしゃられているが、一人が選別するのならそれでいいし、個人の趣味嗜好をとやかく 言う事ではないが、複数人でやるのならそれは単なる雑談で百選にはならないだろう。 少なくとも、選別してふるいにかける基準にはならない。 575 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 00 56 49 ID QjYrM3Dh0 林則徐はアヘン奪って焼き払ったイメージしかないな・・・ それに彼は政治家だろ? 576 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 01 15 48 ID B3NM3b5m0 そりゃエピソードの面白みを語るだけじゃ個人の趣味嗜好に偏りますわな。 むしろ人格そのものっていうより、それにともなう後世への影響力の方が大事。 名声が高い人は死後各地に祀られたりしてるし、十分客観的な判断になる。 かといって関羽を百選に推すわけではないので悪しからず。 しかし、例えば清だと袁世凱の実績は素晴らしくても名将に上げる人間はいないと思うが、 やはり何かしら人格を加味して見ているからだろう。 結局イメージなんだよね。 577 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 01 21 46 ID rhDYg+KE0 洪承疇は軍閥じゃないから安心して清に使われたみたいだけど 逆に言えば、私兵じゃないのにしっかり活躍してるのは彼の指揮能力じゃないか 578 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 03 18 12 ID I6O/iX3A0 573 575 林則徐はアヘン戦争での指揮を執ってるらしい。 576 エピや人格も全面に押し出して語っていたら荒れた事もあったのさ。 さっきもいったが話合いの中で決まっていったんだよ。選定基準が。 はっきり言って人格は無視されてるし。 初代、二代目のスレが途中までだかキャッシュに残ってるから 特に 576は読んだ方がいい。このスレのことがよく分かるはず。 579 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 07 21 08 ID I6O/iX3A0 前スレより 195 ナナシ 2007/01/08(月) 00 35 43 ID LKoNrYsf0 左宗棠入れるなら林則徐のほうがよくないか? ただ硬骨なだけの政治家という勿れ、 保守的な清朝にあってポルトガル砲や洋式銃を輸入して 西欧列国に対抗しようとした戦略眼は並々ならぬものがある。 第一次アヘン戦争では見事イギリス軍を撃退したし。 二度目はなかったけどな、さすがに。 580 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 09 33 49 ID llfI/jNi0 人気の岑彭、周瑜を外して、樊崇を入れているところにこのスレの誇りや凄みをむしろ感じる。 自分は渋い人選だと思っているよ。(司馬懿や陸遜まで落選させているし) 華や知名度、人格の後世への影響力を加味する人選なら、田中某がすでにしているし、 もはや必要ないと思われる。 また、三国志のスレですら、それを考慮して関羽・趙雲の話になったら、荒れることが多い。 やめた方が無難。 581 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 10 17 02 ID ubomuLi+O 華や知名度、人格の後世への影響力とかの話はもういいから清の武将の話、選定をしようぜ。 確定から外れてる自分の贔屓の武将はその人自身が名将だと認知してればいいじゃん。 ここはここのやり方で今まで選定して来たんだからそれはそれで納得しとけ。 582 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 10 40 50 ID rhDYg+KE0 579 しかしそれでも軍事的功績・能力なら左宗棠ジャマイカ 583 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 12 06 58 ID y1a+m0DA0 林則徐は中国の民族的英雄には選出できるだろうけどね。 このスレの趣旨に従うなら、両者を比べた場合どちらかと問われればやはり左宗棠だろうな。 584 勝手にテコ入れしてる人 sage 2007/06/02(土) 12 32 51 ID I6O/iX3A0 582-583 前スレで挙げた本人でも無理に推すつもりはないし、 あくまでテコ入れのつもりで前スレよりコピペしただけなので、 このスレ的にも将としても左宗棠>林則徐なら左宗棠に代えてもいいと思うよ。 580 >このスレの誇りや凄みをむしろ感じる。 >自分は渋い人選だと思っているよ。 春秋・戦国から明まで選考に関わり数多くの推薦文を挙げてきた内の一人としては、 そう言ってもらえると嬉しい限りだよ。 585 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 13 09 10 ID ohsItivw0 費揚古(フィヤング)って入って無いの? ジュンガル遠征でガルダン・ハーンを破ったらしいが… 586 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 13 34 09 ID dVrWM6S90 579 >保守的な清朝にあってポルトガル砲や洋式銃を輸入して >西欧列国に対抗しようとした戦略眼は並々ならぬものがある。 これはこのスレでは評価外だな >第一次アヘン戦争では見事イギリス軍を撃退したし。 これはなんのことだろ? 587 勝手にテコ入れしてる人 sage 2007/06/02(土) 14 34 48 ID I6O/iX3A0 585 またまた前スレよりコピペ >費揚古(フィヤング)は名将というにはちょっと不足の気が。 >オヤジのコネで軍隊司令官になったわけで、個々の戦場でも >目だった戦績(寡兵で大軍を破るとか)があるわけでもなし。 >岡田英弘『康熙帝の手紙』読む限り、ジュンガル戦の功績も >「勝つべくして勝った戦」のような気がする。 >それを言ったら乾隆年間の征服戦も圧倒的兵力で突き進んだわけで、 >個々の武将の力量というのもあまり影響していない。 とのこと。 自分の推したい武将がいる人は 2にも書いてるし、 今まで散々言ってきたんだけど推薦文を投下したらいいんじゃない。 あと 578にも書いたけど初代、二代目のスレは、 ある程度のところまでレスが残ってるから読んでみれば。 588 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 18 16 20 ID wcsLY3N10 やっぱおまえらとは趣味が合わんわ 一生世間から隠れて論評してろや じゃあな 589 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 18 36 00 ID CG7RHPO40 安易に名将って銘打つから紛らわしいんだよきっと。初めての人が文句言うのもわからんでもない。 名将100選じゃなくて戦争の達人100選、 もしくは、私のオナニー100選なら皆が納得すると思うよ。 590 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 18 53 12 ID 02lqZA9u0 林は軍隊指揮してないだろ?戦争始まったらすぐ総督解任されてるし。 アヘンの名将を挙げるなら関天培や陳化成かと。 591 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 19 32 09 ID 8H41AyIe0 関天培も陳化成も一矢も報いることが出来ずに敗死してるから、 名将とは言いがたいかと。 592 勝手にテコ入れしてる人 sage 2007/06/02(土) 19 58 48 ID I6O/iX3A0 林則徐については勉強不足なのに思い込みで書いた部分があった・・・スマソ 関天培や陳化成は駄目みたいたが(どっちかと言えば英雄だね) 太平天国の乱から名前が挙がってる曽国藩・李鴻章はどうなの? 593 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/02(土) 19 58 57 ID 02lqZA9u0 そうかと? 確かに名将というより英雄かと。 594 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 00 00 23 ID y2eKuzIw0 曽国藩は「本人が前線に出たら負ける」なんて評判があったとか。 政治家、オルガナイザー、戦争指導者としては評価できるが、このスレで求められる 前線指揮官としてはちょっと。 595 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 00 53 15 ID bWEglzWQ0 南北戦争のマクレランみたいなもんかな 596 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 02 01 31 ID t5J2vuuj0 マクレランはアンティータムで勝ってるじゃん。 597 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 11 08 12 ID hUFR8iaAO 五代・宋・元あたりまでいたコテ連中の行為は正にオナニー 自分達だけ気持よくなって出すもん出したらティッシュ丸めてポイ、あとは知らん顔だもんな 598 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 11 36 29 ID U8cdgx6E0 日清戦争は日本が強すぎたのか清側に目立った名将がいないな。 しかし、もう既に戦艦や大砲で戦う近代兵器の時代なんだな。 >・対象となる武将は、近世以前の武将とし、近代以降の軍人は含めない。 清仏戦争もNGか? 599 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 12 02 44 ID jsWq8mMR0 1912年の清滅亡までならいいんじゃないの? 544に貼ってる清の候補(?)には清仏戦争や日清戦争後に日本軍に抵抗した、 劉永福みたいな人物も一応入ってるし。 前スレでは馬上で指揮を執ってたらいいんじゃないって書いてた希ガス… 600 ◆RQdk7scN8s sage 2007/06/03(日) 15 53 18 ID 5GhkhSOV0 597 ほんとうに、それ以降の歴史を知らんから、言い返せない。 暖かく見守っているつもりではあるが。 それに、専門以外のところで不用意なアホ発言すると、結構な恥をかくので滅多なことは言えないなぁ。 ま、あの長文は自分でも度が過ぎたと思っているんだ、そう何度もほじくり返さないでおくれ。 601 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 17 06 58 ID jsWq8mMR0 600 ◆RQdk7scN8sさん 気にしなさんな。 荒らしてるアホな奴が出没してますがスルーでヨロ 出来れば南北朝の時みたいに何かしら意見を言ってもらうだけでも嬉しいのですが… (ちなみに貴殿のよく知ってる自分は細々とテコ入れなどして参加しております。) 602 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 17 49 35 ID ZW+HtchEO 馴れ合いや自己紹介のレスを入れる暇あったら 何かしら建設的な意見だすべきだろーけど 近代戦争に片足突っ込んだ清末は難しい その上、清末は清の負ける時代だし 一応、太平天国が区切りという話もある 李秀成とか候補だし 603 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 18 11 17 ID jsWq8mMR0 602 >何かしら建設的な意見だすべきだろーけど 頻繁に意見を述べ、あくまで勝手にだがテコ入れもしてるから そこまでとやかく言われる筋合いはないと思うが。 >太平天国が区切りという話がある 599にも書いたが清仏戦争や日清戦争後に日本軍に抵抗した、 劉永福みたいな人物も一応入ってる。 別に馴れ合ってなどないけどなまあどうにでもとればいいさ。 604 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 18 12 11 ID U8cdgx6E0 清末はなあ・・・ 日本の軍人より明らかに劣ってるし、スケールが小さすぎるんだよな・・・ 605 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 18 52 56 ID jsWq8mMR0 清の末期は時代に取り残されてるというか、西大后みたいな奴が居たりするし、 はっきりいって終ってるよな… 挙げ句の果てには列強に侵食されまくってるし。 でどの辺りまで活躍した武将をセーフにする? 太平天国の乱までにする?それとも1912年まで含める? 太平天国以降は劉永福ぐらいだしな… 606 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 19 32 08 ID AZCG1L9V0 明清は既に二流国家に落ちぶれてる 清末に井の中の蛙が露呈しただけ 列強に火器で劣ってる時点で名采配も糞もない 607 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 19 49 02 ID jsWq8mMR0 明は鄭和が世界に先駆けてアフリカ辺りまで航海してたり、 清はロシアとネルチンスク条約を結んだりしてたりして一応は頑張ってたんだけどな。 まあ清末には井の中の蛙が露呈したというか時代の流れについて行けなかったというか そんな感じはあるよな。 608 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 21 07 15 ID rXkO9HOW0 いくら知恵と勇気と腕力があっても、 機関銃の敵に対して竹槍兵与えられたら采配も糞もないだろうことを考えると 名将の定義って何なんだろうなって思うことはある。 例えば丁汝昌の北洋艦隊だって海軍予算が大幅に削減されてなければどうなっていたかわからんしな。 それまではそれなりに名将だったんだから。 逆もまた然り。 609 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 21 08 43 ID M3rqG10d0 あくまで“清末”はってトコだが 明清は中国の生産力が爆発した時代だろうし まあ科学面や軍事面では爆発したとは言えないんだろうけど 610 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 22 18 13 ID y2eKuzIw0 ターニングポイントはアヘン戦争だろうな。 611 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 22 34 13 ID jsWq8mMR0 二流というか結局トップしだいじゃないのかな? 康熙帝なんかはロシアに勝利したけど通商を結びたかったからネルチンスク条約を締結させたりしてんだよな。 日本だと徳川慶喜なんかは結構先進的な人物で いち早く合議制を取り入れ様としてたり考えてたんだよな。 (思惑は別のところにあるみたいたが) 小栗上野介みたいに時代の先を読んでた幕臣もいたりするし。 名将についてはそりゃー大軍を統率して連勝を重ねたり、名声や後世への影響力は当然の事だが、 ある程度装備が劣っていたり、兵力差あってもそれを覆す様な事を やった人物だってれっきとした名将と言えるじゃないたろうか。 むしろ後者の方を名将と呼ぶに相応しくないか? 612 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 22 54 10 ID jsWq8mMR0 連投スマソ ここに挙がってる武将って名将じゃなくそれは戦争の達人とか言ってる奴がいるけど じゃあ将ってなんだよってならないか? 軍事の専門家を言うじゃねーの? 中には将と相を兼ね備えた人物もいるけどそんな奴は中々にいないだろ? じゃあ韓信とか岳飛はどうなるんだよと言いたいが… 613 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 23 51 00 ID k9Xh+Zvm0 60万の兵と優秀な参謀をひとり付けてくれたら その日から俺も名将の仲間入りだな 614 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 23 53 21 ID k9Xh+Zvm0 ああ、あと高い官位も必要だな 615 ◆RQdk7scN8s sage 2007/06/03(日) 23 57 14 ID 5GhkhSOV0 613 その60万をびっちり統率できれば、名将だな。 ただ制度的に自分の部下、というのでは名将とはいえない。 将は率いる、だからこのスレは戦争の達人選抜という観もなくはない。 616 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/03(日) 23 59 35 ID k9Xh+Zvm0 おまえは参謀には向いてないなw 617 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 00 23 32 ID WYUZLwnS0 611 そりゃ寡兵で大軍を破った人間こそ名将といっても差し支えないだろう。 むしろ衛青や霍去病みたいに大軍与えられて、勝つべくして勝ってるのは果たして名将なのか と言ってるんではないか? 618 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 00 45 06 ID bGodukXv0 アヘン以降の清は無様すぎる とりあえず劉永福、曽国藩、李鴻章は外してもいいんじゃないか 李鴻章は太平天国の乱鎮圧に貢献したのかもしれんが その後の政治家としてのイメージが濃すぎる 619 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 00 55 17 ID AjIB7eES0 617 万以上の単位の集団をそつなく統率するのであればそれは名将だろ 勝つべくして勝つという能力は貴重だよ 620 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 01 31 23 ID pZzelEPC0 618 後者二人は軍人というよりは政治家だな 私兵を背景に政治するって中国じゃ珍しい型だが、それも清末という時代の特殊性かしらね 劉永福は所詮ゲリラ屋だし、国外だし、候補止まりだと思う 621 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 01 57 57 ID iqHNfqMu0 候補にある明亮がググっても出てこないんだがどういう人? 622 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 03 06 38 ID UzuXMx4G0 617 どちらの場合も名将とは思うが、己の価値観にそぐわないからって アホな事言ってるのはどうなんだと言いたいのだが。 619の意見は最もだと思う。 それに60万の兵と優秀な参謀を与えられたぐらいで誰でも名将になれれば苦労はしない。 618 李鴻章はその後の政治家としてのイメージが濃すぎても 将としての実績が評価出来るのならそれはそれでいいんじゃないのかな? 623 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 10 29 21 ID 1ja2dAyP0 622 将として評価できる部分で考察すると、候補どまりだと思う。 曽国藩も李鴻章も前線指揮は部下(曽国藩は弟に任せたそうだが)にやらせている。 特に李鴻章は、清仏戦争も日清戦争も当人は北京で戦地にも赴いていない。 このスレの評価対象からは外れるんじゃない? 624 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 10 51 21 ID +Rv6kacb0 617 このスレでは少なくとも万単位の人を率いて戦いに勝たないことには名将扱いされないようで 完顔陳和尚なんかは400じゃ少なすぎると言うことで確定入りできなかった まあ最後に負けたってのも入らない理由のひとつではあったけどね 625 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 15 10 06 ID UzuXMx4G0 623 自身が戦場で直接指揮、采配を振ってないのなら 曽国藩も李鴻章は候補止まりになりますね。 どの様な身分でも直接指揮を執っているのが評価の対象ですし。 624 陳和尚が落選したのは対スプタイ戦以外の戦績がはっきりと証明できなかったからで 率いた兵が万未満だから落選したのとはちょっと違うかと。 626 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 18 02 15 ID kMBAjNQl0 624 曽国藩も李鴻章も前線で直接指揮を執ってるよ。 曽国藩は負けまくってるけど。 627 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 19 22 05 ID UuWf6eu90 清スレから住人連れてきてくれよ 素人ばっかりじゃ話にならん 628 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 19 32 16 ID UuWf6eu90 622 えー、俺60万の兵がいれば名将になれる自信あるんだどなー 629 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 20 31 19 ID pZzelEPC0 無理だよ 俺が60万の兵でお前をボコボコにするから 630 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 20 40 32 ID gVZatzkd0 ボコボコで済むのか 生易しい戦争だなw 631 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 20 48 38 ID pZzelEPC0 だって俺は名将じゃないから 精々、ID UuWf6eu90を打ち負かして ID UuWf6eu90が糞尿漏らしながら逃げ回るのを観察するぐらいしか出来ないよ 632 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 20 56 18 ID gVZatzkd0 引っ張るほどのネタじゃねえよ つまらん 633 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 20 59 53 ID LxWyKIkZ0 626 それは彼が前線に立つと皆が功をはやって命令を聞かずに 功をたてようとしたせいじゃないのか? それが理由で彼は戦争では前面には立たないと日記だか家書に 書いている 李鴻章に関しては政治家というイメージが強い気がする。 蘇州の税金徴収とかを淮軍なり湘軍なりの軍費にあてたりしてるの みると、政治的実務にたけてないとそこまでしない気もするし、 所詮、軍人というより科挙受けて受かったことに自分のプライドの スタンスにしてるあたり、文人将軍なんじゃないだろか。 というか清末あたりの(武科挙でなく)科挙合格者で 戦場に出てる李鴻章、曽国藩、左宗棠とかは逆に将軍という判断を してもらいたくない人たちだった気もする。 李鴻章も曽国藩も、結構な年齢になってから、自分の人生で唯一の悔いは、 戦場に行き過ぎてて科挙の試験官になれなかったことだとか言ってるし。 まあ、じゃあ、僧格林沁とかが旗人系がすごいのかと言われるとまた 謎だが。 634 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 21 04 06 ID pZzelEPC0 左宗棠は違うと思う 635 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 21 43 22 ID u4Lg8KA9O ID UuWf6eu90よ偉そうなこと言ってるが君は清が得意分野なのか? 一応あちこちに頼んどいたがまず自分が行動起こせよ!! まあ 633氏は詳しいみたいだな。 あとID UuWf6eu90はSLGのやり過ぎみたいだし、もういいからROMってろ!! 636 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 21 43 35 ID uClfV08Q0 スレ停滞してるしちゃっちゃと決めて入れ替え議論に移行しようぜ そのうち寝台に詳しい人出てくるだろ 637 ◆RQdk7scN8s sage 2007/06/04(月) 22 06 59 ID +eEVxaxn0 とりあえず、上に戻るのがめんどくさい人用に、 544からコピペしておきます。 清 【候補】 奴児哈赤(ヌルハチ) 、ホンタイジ、阿巴泰(アハタイ) 、多爾袞(ドルゴン) 、費英東(フィヤントン) 康熙帝・玄? 、岳鐘 、策稜(ツェリン) 、僧格林沁(サンゴリンチン)、宋景詩 、関天培、 明亮、楊遇春、李長庚、関天培、李秀成、石達開、 劉永福、曽国藩、李鴻章 清て時代は意外にマイナーなのか? 専門スレもあるにはあるが、進んでないみたいだし。 声かけてくれている人、ご苦労様です。 638 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 22 23 45 ID LxWyKIkZ0 635 個人的に道光とかの軍人皇帝とか(自分の着ていた服のボタンを銃に入れて 戦ったりしたとことかwww)、水師作った彭玉麟とか、 文盲だったが曽国藩との意志連携が完璧だった鮑超とかの方が 名将というカテゴリに配属される気はするが。 候補の中では個人的に石達開と僧格林沁が名将ではないかと思う。 635氏 全然詳しくなくて、勉強したくてこのスレ来たwww 639 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 22 42 50 ID UzuXMx4G0 637が貼ってくれてますが一応、現在までの経過 清 【確定】 奴児哈赤(ヌルハチ)、阿巴泰(アハタイ)、施琅、策稜(ツェリン)、僧格林沁(サンゴリンチン) 【候補】 楊遇春、李長庚、明亮、兆恵、阿桂、左宗棠、 皇太極(ホンタイジ)石達開、李秀成、関天培 費英東(フィヤントン)、劉永福、曽国藩、李鴻章 は 支持されてないみたいなので外してもいいかな? 道光、彭玉麟、鮑超も一応候補に入れとく? 出来れば推薦文挙げたてくれると有り難いのだが。 あとスレ停滞してるしみたいなので 出来れば 636がちゃっちゃと決めてくれると助かるが… 640 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 22 55 48 ID 1ja2dAyP0 ヌルハチは反対かなあ。この人は明らかに外国人扱いでしょ。 641 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 23 03 11 ID u4Lg8KA9O 637 ID UuWf6eu90が口先はがりで行動を起こさないみたいだから代わりに動いたまでの話さ。 638 ID LxWyKIkZ0氏謙遜なさるな。さっきのレス非常に助かったよ。 僧格林沁(サンゴリンチン)は元々確定入りしてるのでそのまま確定でいいんじゃないかな。 ホンタイジは寧錦で袁崇煥に負けてるがそうマイナスポイントにならないと思うので 個人的にはホンタイジのことを推す。 642 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 23 13 59 ID UzuXMx4G0 640 ヌルハチは 7に示されてる定義の >征服王朝の先行政権における武将の場合、中国本土に攻め入って領土を攻め取るか橋頭堡を作り、 >そのうえでのちに来る征服王朝の樹立に貢献した武将を資格ありとする。 のいずれかに適合するから問題ないと思うんだけど。 643 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/04(月) 23 58 25 ID ilmHMaM20 642 長城すら越えてないから、話にならないと思うが・・・ 644 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/05(火) 00 12 22 ID ZJ3Dv51O0 正直、gdgdになったからあまりこだわる必要はないかもしれないけども、 現状の定義に従えばヌルハチはもちろん、ホンタイジとアハタイも権利なしじゃないかと思う。 645 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/05(火) 00 39 23 ID vMEZfICR0 クソッ!おまえら、俺の背後にいる60万の兵見たらそんな偉そうな口も聞けなくなるぞ! 仕方ない、ここは名将である俺の秘策、 三 十 六 計 逃 げ る に し か ず だ ! さ ら ば っ (ダッ 646 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/05(火) 02 37 24 ID 0JEnddP80 三十六計言いたいだけやん 647 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/05(火) 02 44 11 ID CoeAGwrH0 李広利なんてみたら、軍隊を統率して、脱走者を出さずに戦場まで 連れて行くという能力だけでも大したもんだと思わざるを得ないなw 648 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/05(火) 05 23 40 ID T/c/pjXb0 621 明亮 ttp //ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/chu088.html 649 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/05(火) 09 52 19 ID EJe9/uf0O 李元コウや阿骨打と同類でないかね?ヌルハチは。 650 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/06(水) 21 45 48 ID 8oizCetpO ほしゅ 651 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/06(水) 22 34 54 ID PFVroa650 644 ヌルハチはわかるがホンタイジは資格有りそうだと思うけどな。 清は実質、彼の代から始まる訳だろ? アハタイはよくわからない。 あと岳鐘・兆恵・楊遇春と明亮に一票入れとく。 652 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/06(水) 22 36 10 ID mCLCFpV20 中国は文明の実験場 653 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/06(水) 22 46 11 ID uIzwvkDw0 651 ドルゴンが呉三桂の手引きを受けて山海関超えるまで、 防備の薄いところで長城を超えて略奪するくらいで、 長城内の領土を獲れていないんだから、 7の定義に当てはめれば対象外でしょ。 アハタイ(アバタイ?)も活躍したほとんどが長城越える前だから対象外。 654 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/06(水) 23 40 07 ID NBaIvmIg0 中華の人をビビラせていたら有資格なんじゃないの? 655 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/06(水) 23 46 57 ID uIzwvkDw0 654 これまでその項目が適用されたことはない。 そして判断基準が曖昧すぎだから適用しようもない。 656 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/07(木) 00 51 08 ID 1YxDJzYQ0 漢民族を多数支配下に収めた時点で中華王朝な 覚えておこうぜ 657 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/07(木) 01 26 52 ID Rdy8Harn0 もう一度貼り直しとく。 清 【確定】 施琅、策稜(ツェリン)、僧格林沁(サンゴリンチン)、洪承疇、宋景詩 【候補】 楊遇春、李長庚、明亮、兆恵、阿桂、左宗棠、 石達開、李秀成、関天培 、康熙帝・ 玄ヨウ、岳鐘、道光、彭玉麟、鮑超 奴児哈赤(ヌルハチ)、阿巴泰(アハタイ)皇太極(ホンタイジ)は資格なしということで。 洪承疇、宋景詩と康熙帝・玄ヨウ、岳鐘を入れ忘れてたので追加。 で洪承疇は一応は確定入りにしてるがこいつは清の武将として扱っても問題ないのか? 呉三柱と同様に明の武将として扱った方がいいような。 656に任すから決めてくれ。 658 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/07(木) 01 48 09 ID Rdy8Harn0 657に多爾袞(ドルゴン)も入れ忘れてたので候補に追加。 659 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/09(土) 00 08 17 ID zDQ99AIg0 WEBより抜粋 洪承疇 延綏巡撫・陜西三辺総督に累進し、陜西の農民叛乱を鎮圧。 河南・山西・陜西・湖広の軍務を統轄し、高迎祥や李自成の軍を破った。 清に降った後、湖広・広東・広西・雲南・貴州を経略し、 経略大学士の印を賜り、南明永暦政権への進攻にかかる軍務をつかさどった。 岳鐘 都統法喇に従ってチベットに入り、ジュンガル兵を駆逐。 青海のロブザンダンジンの乱の平定に参加して、功を挙げる 兆恵 ジュンガルのアムルサナ(阿睦爾撤納)の乱と大小ホージャ(和卓)の乱の平定 明亮 イリに鎮して、回部の乱ビルマに遠征僧格桑の乱、平定貴州・湖南の苗族の乱、湖北の白蓮教の乱のを鎮圧 内乱平定や外征に将軍としてたびたび用いられた。 660 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/09(土) 00 15 42 ID zDQ99AIg0 連投スマソ 康熙帝・玄ヨウ 廟号は聖祖。在位1661~1722。 順治帝(福臨)の三男。順治十八年(1661)、八歳で即位。 翌年には南明最後の永暦帝を昆明で処刑し、康煕三年(1664)には大順軍(李自成)の残党も一掃した。 八年(1669)、後見者のオーバイ(鰲拜)を罷免して親政をはじめた。 十二年(1673)に三藩の乱が起こると、これを九年がかりで鎮圧した。 海上では鄭氏海軍を破り、台湾を占領。 二十八年(1689)、北方のロシアとネルチンスク条約を結んで、和平した。 三度にわたって西北に親征して、ジュンガル部のガルダンを逐った。 李秀成 洪秀全の金田村の蜂起に参加し、各地を転戦して功績を重ねた。 八年(1858)、江南大営の包囲から天京を救い 十年(1860)には再び江南大営を破り、翌年には安慶の囲みを解いた。 石達開 洪秀全の金田村の蜂起に参加した。永安で太平天国が成立すると、翼王を称し、 五王のひとりとなった。各地で転戦して、曾国藩はじめ清軍を苦しめた。 661 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/09(土) 00 18 36 ID zDQ99AIg0 またまた連投スマソ 左宗棠 曽国藩の部下で大臣。捻軍や回族の乱を平定する。 清仏戦争では総司令官として戦うが 大損害を受けて やがて病死する。 彭玉麟 曽国藩の元で水師となり太平天国の乱平定に貢献する。 1883年、兵部尚書に任命され 広西、雲南 各地で兵を募集して黒旗軍を 支援し 清仏戦争で活躍する。 道光帝・旻寧 紫禁城に乱入した天理教徒を掃討した。 662 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/09(土) 06 15 14 ID yMqDKoSh0 武功が反乱平定だけってどうなんだ 王朝末期でもなきゃ負けること無いだろ普通 それこそ60万の兵与えられれば誰にでも、って感じ 堂々と会戦で蹴散らしてこそ真の名将 663 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/09(土) 06 16 48 ID yMqDKoSh0 いや、でも・・・ ま、いいや。上の書き込み無視して。 664 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/09(土) 12 04 10 ID zDQ99AIg0 662 >武功が反乱平定だけってどうなんだ 少数派の満州人が大多数の漢人などを押さえ付けてる政権だからね。 その政権の性質上、武功が内乱平定や他民族の制圧に偏るのは仕方ないかと… それに康熙・雍正帝の頃が清の絶頂期で乾隆帝以降は勢力が落ちていったしな。 >王朝末期でもなきゃ負けること無いだろ普通 乾隆帝の頃の満州族の軍勢は江戸時代末期の旗本の様に軟弱に成り下がってた様で、 天地会の反乱では満州族による軍団は惨敗し反乱、鎮圧に手を焼いたみたい、 そこで仕方なく漢民族で構成された軍団に任せる羽目に。 あとはお約束通り(?)文官が足を引っ張ることに… (清が専門じゃないからあまり偉そうなこと言えないけど) 665 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/09(土) 12 05 42 ID zDQ99AIg0 鮑超 湘軍水師(湘軍の水上部隊)に参加し、楊岳斌のもとで哨官となり、 「長龍」型軍船一隻を指揮して、湘軍が太平軍を討伐に参加。 曽国藩(湘軍の最高司令官)は、曽国藩は鮑超の才能を認め、とても重用し、 鮑超は、守備、営官、都司、遊撃、副将の職を歴任。 1860年、曽国藩が祁門で包囲されたとき、鮑超は百里以上の距離を急いで救援に向かい、 祁門の包囲を解くも、 解雇されその後は何度か起用しようとされたが、 ついに功績を挙げることなく晩年を過ごしたそうだ。 666 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/09(土) 19 58 20 ID gyeA/lao0 662 すると例えば、唐代に反乱平定で活躍したことで選出された名将たち、 李晟、李愬、郭子儀、李光弼などは軒並み資格なしということで? 667 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/09(土) 22 02 49 ID KXGXwUrQO スルーしてくれと言ってるのに喰いつく粘着さん達w 668 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/09(土) 22 23 50 ID joUeIna50 そんだけスレが停滞してるということかもね 669 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/09(土) 23 55 31 ID +gFBf4sj0 清は名将いないよ 戦争弱すぎ 670 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/10(日) 10 00 33 ID OtrIQ7TGO 666 > すると例えば、唐代に反乱平定で活躍したことで選出された名将たち、 > 李晟、李愬、郭子儀、李光弼などは軒並み資格なしということで? シッタカせずに、せめて名前をあげた人物の活躍ぐらい調べろよw そのレベルの知識でツッコむなよw 671 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/10(日) 10 10 54 ID pbeKjx/iO 670 自分が真のシッタカということに気付かない罠 672 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/10(日) 10 41 22 ID bQFwTtexO 釣人のいない餌に食い付いた小魚に更に食い付くお魚さん 食物連鎖の勉強もできる良スレですね 673 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/10(日) 11 00 25 ID Q9cJoTVf0 669 確かに英仏などの列強諸国に負けてるけど、 康煕帝期の清は積極的な西欧近代化政策を推進したロマノフ王朝のピョートル1世の時代の ロシアに勝ってネルチンスク条約を締結してんじゃん。 あと乾隆帝期には苦戦もあり失敗もあれど、 ジュンガル、金川、グルカに各二回ずつ、回部、台湾、ビルマ、安南は一回ずつ 計十回の遠征を成功した件は無視ですか・・・ 僧格林沁(サンゴリンチン)や戦う豆腐屋、宋景詩の存在は無視ですか。ああっそうですか・・・ 674 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/10(日) 17 38 50 ID 4rIS75qb0 それだけ清を語れるならさっさと候補絞ってくれ 675 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/10(日) 18 20 22 ID Q9cJoTVf0 674 絞ってやるけどさ、この前から紹介文投下したり、個人的に武将を推したりしてんだし、 偉そうに指示するなら少しは 657-658の中の武将を推すなり、反対するなりぐらいしろよ。 それすらできないのか? 676 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/10(日) 18 38 52 ID 4rIS75qb0 675 669 677 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/10(日) 21 15 13 ID Q9cJoTVf0 清 【確定】 施琅、策稜(ツェリン)、僧格林沁(サンゴリンチン)、宋景詩、康熙帝、楊遇春 【候補】 岳鐘、兆恵、明亮、李秀成、石達開、彭玉麟、左宗棠 康熙帝、楊遇春は確定でいいと思う。 あと李秀成と石達開、彭玉麟と左宗棠は共に似たり寄ったりな印象があるな。 まあ好みでどちらかに選べばいいんじゃないか? 洪承疇は呉三柱と同様に明代に入れたほうがいいと思うし、 多爾袞(ドルゴン)は山海関を越え、李自成軍を追い払い、北京に入城してはいるけど 摂政王として政治家の側面の方が強いので外した。 ID 4rIS75qb0よこれで満足か? 678 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/10(日) 22 12 19 ID 3e65yVd+0 康煕帝、別に陣頭指揮とった訳じゃないだろう 679 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/11(月) 10 33 03 ID Yk6jLNPG0 同意。 康熙帝と多爾袞は名将というより政治家。 680 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/11(月) 10 57 21 ID xTFM0f0u0 政治家とはいえドルゴンの実績が 677のとおりで他の候補より勝ってるのならば 普通に確定に入れていいんじゃないか? 過去の時代で確定に入ってる奴でもそんなのいくらでもいるし 康熙帝に関しては前線に出てないんだったら 678、 679に同意。 実際指揮した将に登場してもらって本人はこのスレからの退場願うしかないだろな 681 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/11(月) 12 34 01 ID e2BonjR50 李鴻章が外された理由と同じなら排除だな>康熙帝 682 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/11(月) 16 11 58 ID qc6Jmzba0 康熙帝を入れるなら明珠を入れるべきかと。 ・・・良将とは思うが名将とは思わないので推薦しないが。 (個人的意見だが。) 683 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/11(月) 17 41 15 ID u5SmbWhzO この時代詳しくない俺が言うのもなんだが なんか薄いな。人名見て素直にうなずけるのがいねぇw 明まではそんなことなかったんだけど 684 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/11(月) 17 54 23 ID S8ljlQla0 669 685 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/11(月) 18 24 47 ID +IS8P3OS0 684 そんなの踏まえた上で敢えて選出してんだよ。 清をさっさと終わらせたいんだろ?おまいも少しは協力しろよ。 686 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/11(月) 19 08 40 ID mNjAKuwJ0 岳鐘って岳鐘琪のこと?ググっても出てこないんだけど 687 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/11(月) 19 30 36 ID +IS8P3OS0 686 つ 659 688 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/11(月) 19 37 35 ID mNjAKuwJ0 それ同一人物なの? あとツェリンってジュンガル部のガルダン・ツェリンのこと? 689 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/11(月) 19 44 15 ID TCKNgTE00 686 岳鐘琪だろう 岳鐘って人物は少なくとも清史稿には出てこないはず 687 答えになってないんじゃ? 同じか違うか答えないと 690 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/11(月) 19 56 12 ID +IS8P3OS0 688 岳鐘○ 字は東美 Ttp //ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/chu087.html スマソ俺のボロPCでは〇のとこが表示されてないから岳鐘だと思ってた… ガルダン・ツェリンではないと思う。確かもう一人居たような… 689 スマソ上にも書いたが表示されないんだ。 で岳鐘〇の三文字目はなんてなっての? 691 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/11(月) 19 59 54 ID TCKNgTE00 690 なるほど、それはしょうがない 三文字目は「棋」の木へんが王へんになったやつ 692 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/11(月) 20 24 27 ID +IS8P3OS0 691 混乱させて誠に申し訳ない。 なにせそんなに得意じゃ時代だがなんとかテコ入れしようと頑張っているのだが 至らぬ箇所が多々あると思うのでその辺りを了承してくれると助かるのだか… 693 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/11(月) 20 46 24 ID 8xtcpyEU0 なんかもうぐたぐたやん 確定してる武将だけでもきちんと紹介してくれ あと、清は無理に10人あげなくてもいいだろう なぜなら 669 694 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/11(月) 22 08 37 ID K3qXEdTZ0 ドルゴンの弟のドドってどうかね? WEBから丸写しですまんが、入関後の業績。 順治元年(1644)、入関して、李自成軍を破り、定国大将軍に任ぜられた。 軍を率いて揚州を落とし、江南に下って南明の福王を捕らえた。和碩徳豫親王に進んだ。 三年(1646)、揚威大将軍となり、モンゴルのスニト部を平定した。 翌年、輔政叔徳豫親王に進んだ。のち病没した。 695 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/11(月) 22 39 47 ID +IS8P3OS0 693 こちらもwEBから丸写しで申し訳ないが… 施琅 福建省晋江の人。はじめ鄭芝竜の部下として左沖鋒をつとめた。 清に降ってのち、同安副将・同安総兵・福建水師提督を歴任し、 内大臣に任ぜられ、漢軍 黄旗に属した。 康熙三年(1664)、靖海将軍となった。二十年(1681)、福建水師提督に再任した。 二十二年(1683)、軍を率いて澎湖を攻めて勝ち、台湾を討って鄭克爽を降伏させた。 功により靖海侯に封ぜられた。 センゲリンチン(僧格林沁) 博爾済吉特氏。モンゴルのコルチン部左翼の出身。 道光五年(1825)、科爾沁郡王の爵位を継いだ。十四年(1834)、御前大臣・侍衛内大臣・都統に任ぜられた。 咸豊三年(1853)、参賛大臣となり、太平天国の北伐軍に対して、兵を率いて防戦した。 七年(1857)、英仏軍が天津海口を犯すと、欽差大臣となって軍務を統括した。 九年(1859)、英仏軍が大沽を攻めると、軍を率いて防御にあたり、敵船十数隻を沈めた。 翌年、英仏軍が北塘より上陸し、大沽砲台を占拠すると、軍を通州に退いたが、八里橋で敗れた。 このため爵位と役職を奪われた。北京条約締結後、郡王の爵位を回復した。 長槍会の乱、白蓮教徒の乱、劉徳培の乱、文賢教の乱などの鎮圧に奔走した。 同治元年(1862)、魯豫の軍務を統括するよう命じられた。 四年(1865)、捻党討伐で戦死した。 宋景詩 山東省堂色の人。塩商人の子。 咸豊十年(1860)、郷里の抗糧紛争に参加した。 翌年、魯西の白蓮教の叛乱に参加し、部衆を黒旗軍と称して河北・山東を転戦した。 のちに清の欽差大臣勝保の招撫を受けて、捻軍や回民の叛乱鎮圧にあたった。 勝保が処刑されると、かれも排斥を受けたため、 同治二年(1863)に清軍を離脱して山東に帰り、再び反清の旗を掲げた。 まもなくセンゲリンチンの軍に敗れて、その終わるところは知られない。 一説に四年(1865)、センゲリンチンを戦場でたおしたという。 また一説に十年(1871)、安徽巡撫英翰に捕らえられて、殺されたという。 策稜(ツェリン)は ガルタン・ツェレンが雍正九年(1731)には和通泊で傅爾丹率いる清軍を破ったが、 翌年にツェレン親王率いる清軍に大敗し敗走した。 ぐらいしかWEBには載ってないな。 WEBの清史稿から抜粋したいが漢文苦手だし… 696 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/11(月) 22 41 49 ID +IS8P3OS0 もう一回投下 楊遇春 福康安に従って苗族の乱鎮圧にあたった。功により副将に上った。 嘉慶年間、白蓮教徒の乱を鎮圧。総兵・提督となった。 十八年(1813)、李文成の乱を平定。道光五年(1825)、陝甘総督となった。 翌年、新疆の叛乱平定にあたり、カシュガル・ヤルカンド・ホータンを回復した。 黒旗を標にして、生涯に大小数百回の戦いに参加したが、 一度も手傷を負わず、楊家軍の総帥として恐れられた。 697 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/11(月) 23 00 39 ID +IS8P3OS0 もう一回投下 多爾袞(ドルゴン)は総司令官ぽいし、北京に入城は呉三柱の活躍が大きいみたいだし、 694氏がドド(多鐸)を紹介しているので山海関を越えた後に活躍した他の武将をの功績を紹介。 アジゲ(阿済格) 順治元年(1644)、入関して、李自成軍を破った。 和碩英親王に封ぜられ、靖遠大将軍に任ぜられて、 陝西におもむき、李自成を追った。 孔有徳 字は瑞図。遼寧省蓋州衛の人。 入関後、陝西の李自成軍を攻め、ついで江南に攻め下った。 順治三年(1646)、平南大将軍となり、湖広・広東の制圧にあたった。 六年(1649)、定南王に改封され、広西に入った。 九年(1652)、桂林で李定国の軍に囲まれ、自殺した。 尚可喜 順治元年(1644)、ドルゴンに従って入関し、農民叛乱軍と各地の反清軍の鎮圧にあたった。 六年(1649)、平南王に改封された。 南明政権に対して攻勢をかけ、広東に鎮し、清初の三藩のひとつとなった。 オマケ 明珠 康熙帝が三藩の乱を平定するのを助け、康熙帝のジュンガル遠征に従った。 698 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/12(火) 00 18 29 ID ZwtdXQMy0 697 アジゲは名将というより単なる猪武者だからなあ。 張飛が名将でないように。 699 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/12(火) 01 35 42 ID Any/iQ8G0 693 じゃあ、人民解放軍とかから出してみる? 700 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/12(火) 04 02 43 ID B3GS2f150 しかし清の顔ぶれは地味すぎだろ… 個々の武勇が目立たない時代なのかねぇ 701 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/12(火) 07 29 48 ID cguC+I+20 700 率直に言ってそういう事 名将はいるんだろうけど、他の時代と違って少数で大軍を・・・とか派手な(講談的な)武功が少ない分、判りづらくなっている 695 >策稜(ツェリン) 「超勇」なんて呼ばれたエピソードが無かったっけか この人には少数で大軍に突っ込んだエピソードがあった気がする うろ覚えなので無かったらスマヌ 702 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/12(火) 10 26 03 ID wpDzSkG30 大苦戦したあげくに物量でようやく、っていうイメージが強いんですよね清将って。 田中氏の百選だと誰がランクインしていましたっけ? 703 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/12(火) 10 36 02 ID I+pKaNt50 ドルゴン、明亮、楊遇春、李長庚、関天培、僧格林沁、李秀成、石達開、劉永福 ですな。 704 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/12(火) 13 35 32 ID O2lvZiKT0 701 策稜(ツェリン)のエピについて サイン=ノヤン本名は策稜(ツェリン) トシェト汗家の出身。康熙帝の第十皇女を娶って多羅郡王とされた。 1725年に雍正帝の北辺防禦策の一環として近族とともにトシェト汗家から独立し、 サイン=ノヤンの称号を得て副将軍としてアルタイ方面の清軍を指揮した。 1731年、靖辺大将軍フルダン軍を全滅させたジュンガルのツェリン=ドンドブを撃退して最高位の和硯親王とされ、 同年再びツェリン=ドンドブ軍をハンガイ山のエルデニ=ジョーで大破し、超勇の号を受けた。 701氏の仰る様に超勇は策稜(ツェリン)エピですね。 705 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/12(火) 15 41 07 ID HLL9Aa1i0 ツェリンがツェリンを征伐したのか ややこしいなマイナー同士のくせして 706 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/12(火) 17 51 24 ID PbpsCTYt0 ドルゴンだのツェリンだの 元以降、明らかに中国人じゃない面子ばかりで萎える 707 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/12(火) 19 33 37 ID TYNOKJAhO 706 漢人なら話はわかるが。元以前にも中国人なんていないけどw 708 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/12(火) 21 54 24 ID 1Rta0D100 706 五胡の進入以降は、民族ごった煮状態で中国人なんて定義できませんが? 709 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/12(火) 22 20 29 ID TYNOKJAhO 突き詰めていけば秦、楚、呉越も元は中華外だったんだよね。 710 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/12(火) 22 53 44 ID PXAtnD4VO 突き詰めが甘いな 711 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/12(火) 23 23 11 ID CaEzgAT50 707-708 ドルゴンだのツェリンだの 元以降、明らかに漢人じゃない面子ばかりで萎える 712 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/12(火) 23 24 25 ID CaEzgAT50 708 漢人風の名前なら五胡でもOKかな 713 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/12(火) 23 45 00 ID BhN43V7c0 712 おまえの趣味など知るかよ 714 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/12(火) 23 47 09 ID 1Rta0D100 712 まーそれなら漢人限定の選出する別スレ立ててやってればいいんじゃないか? チラシの裏の愚痴は、停滞気味のスレがさらに白けるから真面目に止めてほしい 715 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/14(木) 19 41 43 ID FuWrveaB0 話を戻してスマンが、南宋の余玠(王へんに介 字・義夫)は誰も推薦してはくれなかったんだね。 モンゴルの陰にかくれちゃったのかな~と。 716 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/14(木) 21 07 12 ID lJQOaw+yO お引き取り下さい 次に宋時代の話ができるまでこのスレがあること願っててくださいね^^ 717 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/14(木) 21 54 42 ID IkKLXU0f0 715 つーか話題にすらなってない。 716 白けることばかり言う輩がいなくなれば存続の可能性はあるかと… そこそこ話合ってたのにその輩が原因で流れが止まっちゃった罠。 718 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/14(木) 22 06 08 ID BDoY1dZ30 697 ドドとアジゲで比較したらドドかな・・・と。アジゲってドルゴンの兄とはとても思えんw 孔有徳と尚可喜は、洪承疇や呉三桂が清でなく明の扱いなら同じにすべきじゃないかな。 自分としては、追い詰められたとはいえ反乱した呉三桂と違って、 降伏した後は清に忠誠をつくした洪承疇は清の扱いでいいんじゃないかと思うのだが、どうでしょ? 703 ドルゴンは、ホンタイジの下で武将やってた頃の実績でいえば十分なのだろうけど、 入関後はあんまり自ら指揮してないような感じだから選外かもね・・・ (あまり正確な知識じゃないから間違ってたら指摘お願いします) 719 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/14(木) 22 48 06 ID IkKLXU0f0 718 ドルゴン、劉永福は名将として扱うことに反対意見が挙がってるので外してもいいと思う。 洪承疇は清の扱いでいいとは思ったんだけど一応聞いてみた。 ここは合議で決めるスレだし。 さして反対が無ければ清将として扱ってもいいんじゃない? ドルゴンはやはり総司令官って感じがする。 実際に現場で活躍してたのはトドやアジゲ、孔有徳、尚可喜だしね。 北京を陥落させたのも呉三柱の力が大きいし。 それにこのスレでは重鎮・司令官は選外としてるし。 720 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/15(金) 00 17 37 ID Kztqq/0B0 宋景詩って確定にするほど実績十分なのか? 劉永福がゲリラ屋って理由で除外されるなら宋景詩もそうなんじゃないの? 僧格林沁破ったのだって一説にはって但し書き付きで確定情報じゃないし、 共産体制化で毛沢東に持ち上げられただけって気がするのだが・・・ 721 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/16(土) 16 42 34 ID Pikg6C9Q0 ここらで話題に上がった内容をいったん整理 間違ってたら指摘お願い 【確定で特に異論なし】 施琅、策稜(ツェリン)、僧格林沁(サンゴリンチン)、楊遇春 【確定有力か?】 洪承疇・・・清の枠に入るなら確定? 左宗棠/彭玉麟・・・どちらか一人? 石達開/李秀成・・・どちらか一人? 【確定に異議あり?】 宋景詩・・・実績十分なのか? 【候補】 阿済格(アジゲ)、多鐸(ドド)、孔有徳、尚可喜 岳鐘琪、阿桂、兆恵、李長庚、明亮、 鮑超、道光帝、関天培 【落選確実?】 劉永福・・・ゲリラ屋、国外? 康熙帝・・・政治家・総司令官タイプ、前線実績ない? 多爾袞(ドルゴン)・・・政治家・総司令官タイプ、入関後は実績ない? 722 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/16(土) 17 56 52 ID Ag0/lemg0 721 乙 洪承疇は清の扱いでいいんじゃないかな。然したる反対もないし。 宋景詩は人物自体がマイナーらしくあまり功績が知られてないんだとさ… 720が言うように毛沢東が持ち上げたのはあるけどそれは宣伝戦略として 宋景詩を利用したみたいだけどね。 まあ前スレで取り敢えず確定にしとくか程度の扱いなんで外してもいいけど。 左宗棠/彭玉麟と石達開/李秀成はホント好みでいいかと。 もしくは左宗棠or彭玉麟、石達開or李秀成として有力候補にしとく? 阿済格(アジゲ)、鮑超、道光帝、、阿桂、関天培は外してもいいんじゃないかな。 あと康熙帝、多爾袞(ドルゴン)も 劉永福のゲリラをどう評価するかが問題。ゲリラを過小評価してる様なキガス。 723 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/16(土) 19 37 43 ID e8BsmYCi0 入関以降の清の統一戦の功労者として 漢人武将の代表として、呉三桂 満族武将の代表として、多鐸(ドド) この二人を推す。特に呉三桂はこの後の反乱も含めて、清に入れていい人物かと。 本当はこれに抗清側の代表も出したかったんだけど、該当者がみあたらなかった。 強いてあげれば名声、知名度からいって代表は鄭成功になるのだろうけど、この人 戦術面では失策が多いしねえ。 724 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/16(土) 19 49 06 ID CiWG7QKV0 やっぱり施琅と比べると鄭成功の方がワンランク下がる感じ 725 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/16(土) 19 58 25 ID Pikg6C9Q0 722 自分も洪承疇確定入りは賛成です。 宋景詩はとりあえず保留にしといて、枠埋まりそうになければ入れるくらいか? 似たもの同士は多数決で決めるしかないか・・・ 個人的な印象度でいくと左宗棠と石達開推し。 候補外れる面々はしばらく様子見でいろんないなら落としましょう。 あと劉永福は、西洋が装備的に圧倒してる状況で、フランスを度々撃退したのは、 ゲリラとか関係なく入れても遜色ないと思うのだがなあ・・・ 723 漢人代表は洪承疇でいいのでは?という気もしますな。 多鐸(ドド)確定入りは賛成。 抗清側・・・強いてあげるなら鄭成功よりは史可法とか? 726 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/16(土) 20 44 09 ID ga0wl5HR0 ある程度の大軍を率いるのが最低条件らしいからゲリラなら除外じゃない? 727 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/16(土) 20 50 55 ID Pikg6C9Q0 726 そんな定義はこれまで一切なかったと思うよ? むしろ寡兵・弱兵で大軍・強兵を破る方がこのスレの歴史的にはポイント高い 728 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/16(土) 20 59 13 ID Ag0/lemg0 呉三桂は李自成の乱の時、清と手を組んで北京を陥落させ、 その功績により平西王に封ぜられたり また李自成軍を討ち破り、四川・雲南・貴州を平定し、南明の永暦政権を滅ぼして 三鎮の一人となったが清将として扱うのはどうなんだろ? 明を話合ってる時に呉三桂は清じゃねーの?って思ってたけど 誰も異を唱えなかったしなぁ。 あと清の為に忠節を尽くした洪承疇は清でいいが、呉三桂は明の方がいいんじゃって 誰かいってなかったっけ? 鄭成功も明に入ってるし。 洪承疇と多鐸(ドド)はもう確定でいいんじゃない? どう? あと戦う豆腐屋こと宋景詩はとりあえず保留というこで。 劉永福は 725の意見に同意。 劣勢な状況で成果をあげているのは評価してもいいはずだし、 さっきも言ったがゲリラを過小評価してる人っているよな。 ( 725は違うと思うが) 個人的には岳鐘[王其]と兆恵、楊遇春、明亮を推すよ。 726 勝手に自分の価値観でいってた人がいただけでそんな最低条件などないよ。 たぶん陳和尚の率いた兵がが400では少なすぎと言ってたことだろ? それは落選の理由じゃないし… 729 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/16(土) 21 06 38 ID ga0wl5HR0 書き込んでる人が少ないからそんな劉永福を推されるとそうなのかと思ってしまう まあ俺はどっちでもいいから好きにすればいいさ 730 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/16(土) 21 43 46 ID Ag0/lemg0 729 確かにカキコしてる人数は少ない罠。 俺はゲリラだからってなんか戦術的にショボいって思うのは ちょっと違うぞと思う。 ゲリラはあくまで手段の一つにすぎないんだし。 あと主張が通らないからって投げ遣りになるなよ。 731 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/16(土) 21 52 00 ID Pikg6C9Q0 推薦上がってる将をざくっと時代別に配分してみるとこんな感じ? ○は確定、△は有力候補 明掃討戦 : ○洪承疇(呉三桂を推す声も)、△多鐸(ドド) 康熙~乾隆: ○施琅、○策稜(ツェリン)、△岳鐘琪、△兆恵 嘉慶~道光: ○楊遇春、△明亮 阿片後の清: ○僧格林沁、○左宗棠か彭玉麟、△宋景詩 太平天国 : ○石達開か李秀成 清末期 : △劉永福 洪承疇確定でよいとすると現時点で○が7で残り3枠 バランス的に劉永福は入れておきたい あとは多鐸(ドド)と明亮で10枠でどうかな? 岳鐘琪か兆恵を上3人のどれかと入れ替えでもよいかも 732 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/16(土) 21 55 56 ID Pikg6C9Q0 729 730 確かに人少ないけど、ここ最近の中では人多い方じゃないかな・・・? せっかく久々に動きが出たので、ある程度方針をまとめておいた方がよいように思う 案を出して様子見ておいて、異論が出るようならまた見直せばよいし 733 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/16(土) 22 09 02 ID ga0wl5HR0 730 投槍っていうか萎えたよ ゲリラを評価するならすればいいさ 俺は好きじゃない 734 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/16(土) 22 28 24 ID K6flS/CaO 733 つ 713 735 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/16(土) 22 31 44 ID ga0wl5HR0 734 ゲリラ戦術を肯定する人間は糞 死ねばいいよ 736 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/16(土) 22 53 53 ID HtKiM4cU0 んなこといったら戦争を肯定(ry 737 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/16(土) 23 10 49 ID ga0wl5HR0 736 そういう問題じゃない 近代戦をもっと勉強しろ無能 738 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/16(土) 23 23 43 ID Ag0/lemg0 737 ミサイルとかといいたいんだろ? じゃあ毛沢東やベトナム、アフガン、キューバとかはどうなる。 孫武は孫子の中でマキャベリは戦術論でゲリラの有効性を説いてるぞ。 739 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/17(日) 00 17 49 ID XFnoHVh20 ID ga0wl5HR0は彭越を評価しなかった項羽と同じ末路を迎える事だろう。 740 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/17(日) 00 29 34 ID 1unkIMyY0 ナルサスのモデルというだけで明亮を推すのはどうだろう。 阿桂とか額森特とかの方が武勲の規模は大きいと思う。 741 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/17(日) 00 41 23 ID Pdx77GOOO そんな理由で明亮推してる奴いるか? 742 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/17(日) 01 01 43 ID Np6lZIxi0 740 如何せん明以降、史料を元に情報提供してくれる方がほとんどいなくて、 日本語サイトの限られた情報の中で無理やり選別してるような状況です・・・ もしも可能なら正確な情報提供してくださいませんか? 今までの流れだと阿桂は兆恵との比較で落とされてる感じかと。 ちなみに明亮は「田中ヨッシーがナルサスのモデルで推してる」という話題が かなり昔に出てたくらいで、このスレで推される理由にはなってないはずです。 743 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/17(日) 07 28 28 ID TsChKRkP0 742 阿桂 乾隆十三年(1748)、大金山土司の叛乱平定に参加。 ジュンガル・ビルマ・大金川の討伐に従軍し、また回族の叛乱平定にも参加。 黄河治水、甘粛回民の鎮圧などを行ない、イリに鎮して屯田を行う。 五十一年(1786)、台湾の林爽文の叛乱を鎮圧するために献策した。 それは悪かった。最初の方で誰も推薦文を挙げたり、功績を紹介したり はたまた候補を整理してくれないんで 清は専門じゃないがいろいろと調べたりしてずっとテコ入れしてたわけで、 正確な情報提供してないようなら下りるが・・・ ちなみにナルサス知らんし。知っててもそんな理由なんかで推さないし。 744 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/17(日) 09 30 14 ID 6fMdNO6/0 738 ちげーよバカ おまえらぜんいんしねっ!(たむらけんじ) 745 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/17(日) 09 45 21 ID XQKdaf3BO 744 おまいこそ軍事のなんなるかをわかってないな。 迷惑だから二度とこないでね。 がっかりだよ!! (にしおかすみこ) 746 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/17(日) 09 46 22 ID HZyy8qeo0 追加 【確定】 施琅、策稜(ツェリン)、僧格林沁(サンゴリンチン)、楊遇春 劉永福 747 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/17(日) 10 39 19 ID frnHvkvT0 「サンゴリンチン」って、なんか馴染みのある響きだなーと思ったら 「うんこちんちん」だったよ・・・ 748 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/17(日) 10 48 41 ID TsChKRkP0 746 洪承疇、多鐸(ドド)は確定じゃダメか? 推す声もあるし、逆にこの二人には反対意見がないように見えるけど。 あと岳鐘[王其]を推してるのだがどうなんだろう?賛否の意見すらが出てないようなキガス… それと左宗棠と石達開を 725で推してるな。 左宗棠/彭玉麟と石達開/李秀成はホント好みでいいから特に反対なければ、 左宗棠と石達開に絞ってもいいと思う。 749 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/17(日) 15 54 08 ID Np6lZIxi0 それじゃあ 【確定】9名 洪承疇、多鐸(ドド)、施琅、策稜(ツェリン)、楊遇春、僧格林沁(サンゴリンチン)、左宗棠、石達開、劉永福 って感じか 残り1枠は ・岳鐘琪( 651 728 748) ・阿桂( 740) ・兆恵( 651 728) ・明亮( 651 728) ・宋景詩(評価保留) この中では岳鐘琪を推す人が多そうかな? (・・・といっても推す声自体が少なくて被りまくりだが) 750 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/06/17(日) 16 21 37 ID TsChKRkP0 749 個人的には確定の9名は異論ないのだがいいのか? (つーかさっき伺い立てた面子が入っただけなんだが・・・) 岳鐘[王其]・兆恵・明亮を推してるのは俺一人だな。 ( 651 728は俺のレスだし・・・) 宋景詩は元々暫定で確定入りしてただけだしどうなんだろ? (一応弁護はしたけど・・・) みんなが賛否のレス投下してくれなきゃ実質二人で決めちゃってるキガス。
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中国シナリオ#1-男性キャラクター(中編の後編) キョンシーの親父と貴族の息子の話。 厳密に言えばシルクのキョンシーは死体ではない模様 韓国版のキョンシーは何故か緊縛されてますが、この人の趣味なのかどうかは謎です。 鳳 帝君(フォン・ディジン) 韓国版名:徳羅法王 職業:死体呪術師 年齢:42 中国北のモンゴル地域には山奥で世間の目を避けて生活をしている部族がひとつあった。 人々がよく密教と呼ぶ人々は人間の死骸を利用して邪悪な呪いを繰り広げる教団に仕えており、そ の呪いの力を利用して隠密の事項を処理して金をもらい、生計を立てている人々であった。 この隠密の密教の部族に徳羅(日本版名:鳳帝君)という青年がいた。天性が善良で暖かい心をもっ たこの少年は村で行われている残忍で恐ろしい呪いが嫌いであった。そして呪いを広げる儀式をサ ボるためにあらゆる言い訳をして村の重要な仕事から抜けようとしたが、そんな行動をするかれに 帰ってくることはおびただしい量の労働と冷たい蔑視だけであった。 たとえ体が大変で心が痛くても、自分の手で邪悪な行為をしないということに気を慰めて黙々と生 きていたある日、偶然徳羅は村を掃除している途中、村人たちが徳羅の親を連れて糾弾している姿 を見た。 村人たちは徳羅の行動が周りの若者たちに悪い影響を与えている上、村の雰囲気も曇っているので 、儀式に出なければ徳羅もその親も良くない事に遭うと脅した。そして前にも何回も話したがまっ たく直らないので今度の仕事が本当に最後の仕事になるといった。 ひそかにその話を盗み聞きしていた徳羅は自分の行動のために両親が脅迫に遭っているということ を夢にも思わなかったので、村人たちの話に大きな衝撃を受けた。そして両親が自分の代わりに脅 迫に遭っていたということを考えると胸が張り裂けそうになった。 その晩いつものように村人のことをまったく言わず明るい話のみをする両親を見て徳羅はひとつの 決心をする。 翌日から徳羅は部族の家を訪ねて今までの過ちに対して跪いて容赦を求め、これからは村に絶対的 に忠誠することを誓った。その日から徳羅は本格的に僵屍(キョンシー)術を学んで村で行う全ての 隠密事にたいして先立って動き、村で認定を受けてますます地位が高くなっていった。 僵屍術を学んで徳羅は他人が邪悪な呪いというこの呪いだが、いい方面へと利用すると非常に役に 立つのろいだということがわかり、いい方面へと僵屍術を利用するための研究を始めてますます呪 いの魅力に落ちるようになった。 こうして数年後、村では相当な信望を得た徳羅は若い年で法王の座にのし上がるようになり、部族 の中でもとても高い地位に立つことになった。法王の座は一般的に部族の長老の一人が引き受ける 地位として、僵屍術に対する研究を担当する非常に重要な地位であった。 法王になった徳羅は徳羅法王と呼ばれて部族を導いていく大きな力になり、自分がやっていること が気に入らなかったが表面では立派に自分の仕事を処理する姿を見せていたので大きな問題もなく 生活に満足していた。 しかし運命は彼に平穏な生活を容易く承諾しなかった。急に部族に近づいた疫病は人々の命を多く 奪い、徳羅法王の両親も疫病の魔手を避けられずに生涯を終えた。 両親を失った悲しみにくれる徳羅法王に下された指令は、疫病にかかって死んだ人々の体を利用し てもっと力強い僵屍術を開発せよということであった。いくらいやなことであっても両親がいたか ら耐えることができた徳羅法王であったが、その大事な良心をなくしてしまったことで、両親の体 を僵屍術の材料にするということは到底受け入れることができなかった。 そして、徳羅法王は残った部族の人々を保護するという名目で疫病にかかって死んだ死骸を村の外 に移した後、そこで僵屍術を研究するふりをして脱出口を作った。 人の目を避けて3ヶ月かけてやっと完成した脱出口で徳羅法王はまず両親を移し、嵐吹く夜に乗じ て自分も脱出を敢行した。嵐を利用して兵士たちの監視を避けて脱出に成功した徳羅法王は、まず 近くに両親の墓を荒っぽいが作った後、後々必ずまともな場所に移す場所を約束して村からの逃亡 を図った。 部族の人々に捕まればその場で処刑されることをしっているので徳羅法王は狂ったように逃げ出し た。しかし徳羅法王の脱出は思ったよりも早く部族の人々にばれ、追跡は早くから始まった。僵屍 術については部族の中でも最高の実力を持っていた徳羅法王は、死に物狂いで逃げ出す途中にも死 んだ動物の死骸を見るたびに僵屍術を使って追っ手を攻撃するようにした。徹底的に計算された徳 羅法王の逃走経路と疫病が広がっていたおかげで思ったよりもたくさんあった動物の死骸を利用し て、徳羅法王はやっとのことで部族の追い討ちを振り放してモンゴルを脱出し、唐に進入すること に成功した。 唐に入ると部族の追い討ちが消えたことを感じた徳羅法王はやっと緊張を緩め、唐を歩き回って自 分が勤める場所を探した。 僵屍の魅力に取り付かれていた徳羅法王は隠れてすごしながら、人間の死骸を使わない自分だけの 僵屍術を創造しようとする計画を持っていて、その作業に必要な人の目立たなくて僵屍術に必要な 材料を容易く手に入れられる場所を探した結果、中国長安の東にある秦稜山深部の洞窟が目に入っ た。 幸い先にすんでいる動物がいなかったのでねぐらを用意した徳羅法王は洞窟をきれいに片付けた後 、部族を脱出したときに持ってきた金で長安に行って必要な品物を買い求め、捨てられた洞窟は人 の住むに値する空間になった。こうして徳羅法王は中国での生活を始め、これ以上の圧迫を受けな いので自由に僵屍術に対する研究が進行されていった。 数年後両親の命日にモンゴルに不始末に埋めてきた両親に対してすまない気がした徳羅法王は両親 の骨を取り戻してちゃんとした墓を作るためにモンゴルにある部族に危険な潜入を試みた。 もう自分に対する追跡をあきらめたはずだと思った徳羅法王は慎重にというよりは手早く遺骨を回 収して中国へ戻ってきた。しかし速やかに仕事をこなそうとしていた徳羅法王は自分を見守ってい たひとつの視線を感じることができず、その視線は中国までついてきていたのだ。 中国に帰ってきてまともな墓を作り、両親の遺骨を安置した徳羅法王はもう気にかかることがひと つもなかったので平穏な気持ちで研究にだけ没頭することができ、彼の研究は進行されていった。 長年の準備と研究の結果、徳羅法王は人間の死骸ではない多様な物質を混合して人間とまったく同 じ外見を持っている物体を作り出し、その物体に九天を流れる人間の魂を入れる方法を探し出した 。 いよいよ自分があこがれていた完璧な僵屍術を完成させた徳羅法王は自分が作った物体に人間の魂 を呼び入れるための儀式を始める前に身と心を清めるために近くにある水屋で体を洗いにいった。 徳羅法王が僵屍術を完成させるころ、長安では急な妖怪達の出現で人々が脅威に遭っていた。どこ から来たのかもわからないこの妖怪達は畑を台無しにして家畜を食べ、人々を攻撃した。 兵士が出動して妖怪を処理する作業がずっと進行されていたが妖怪の数はまったく減らず、人々は 損害に出ることができずに不安な日々を送った。 そんなある日、長安では長安の東にある秦稜山に邪悪な呪いを使う密教の呪術師が暮らしており、 その呪術師が妖怪を召喚しているのだといううわさが広がり始めた。 うわさはあっというまに長安全体に広がっていき、人々はますますそのうわさを信じるようになっ た。そしてその呪術師を片付けるために人々は広場に集まって集会をすることになり、軍隊で兵士 の支援ももらってかなり多くの人が集まると彼らは秦稜山で呪術師を探すための道を発った。 そしてその日こそが徳羅法王が新しい僵屍術を完成させた日であった。 そんな事実も知らなかったまま風呂を終えた徳羅法王は洞窟に入って魂を呼び入れるための儀式を 始めた。数時間後位置少女の魂が徳羅法王の儀式に導かれて洞窟の中へと尋ねてきて、あらかじめ 準備しておいた人間に似ている物体の中に入っていき始めた。 もう徳羅法王はその少女の魂を浄化して過去の記憶を全て消してしまい新しい人間に生まれ変われ ばいい儀式の最終段階になった。 そのとき急に洞窟の入り口でガラガラと音が聞こえ、徳羅法王の目に骸骨の妖怪2匹が洞窟に入っ てくる姿が見えた。人目で自分の部族が使う僵屍術によって蘇生された骸骨だということを徳羅法 王は気づき、その骸骨が自分の親の骨を利用して作ったということを悟ると怒りがこみ上げ、追い 込みにいたった儀式を中断するわけには行かなかったので彼は血が出るほど唇をかんで全ての精神 を儀式に集中しようとした。 しかし洞窟に入ってきた骸骨の妖怪は徳羅法王の位置を把握するやいなや彼を傷つけるために攻撃 をし始め、徳羅法王は骸骨の攻撃に血が飛び散り肉が断たれたが儀式を終えるために死に物狂いで 耐えた。 しばし後人が一人洞窟へと入ってきた。骸骨を召喚した張本人である密教の刺客は徳羅法王が骸骨 に攻撃されている間に、今まで徳羅法王が研究した資料と研究を整理した本を盗んで逃げようとし た。 必要なものをみな集めた刺客は、徳羅法王が最後まで骸骨に抵抗せずに意識を集中姿を見るとなん だか怒りがこみ上げ、今まで徳羅法王のために自分がしてきた苦労を思い出して腹が立ったので、 探検を徳羅法王に刺してしまった。決定的な一撃を受けた徳羅法王は結局耐えることができずに倒 れてしまい、完成まですぐであった儀式はそこで終わってしまった。 しかししばらく後、身は倒れたがおびただしい怒りに包まれていた徳羅法王は結局精神が肉体を支 配し始めた。そこに倒れて到底立ち上がれそうになかった体を起こした徳羅法王は力強い呪いによ って自分を攻撃した両親の骸骨を支配しはじめ、その骸骨はまっすぐに密教の刺客に向けてその攻 撃の手を向けた。 その光景を見守っていた刺客は骸骨の攻撃が眼前に迫ってから気がつき、やっとのことで骸骨の攻 撃を避けた。 前後に入ってくる骸骨の攻撃に刺客は逃げ出すことができず、戦いの中、肉体の苦痛により徳羅法 王の支配が少し緩んだ隙に乗じて骸骨を撃破することに成功した。 しかし、勝利の喜びもそこそこに逃げようとした刺客の胸には自分が徳羅法王に刺した短剣が刺さ っていた。 倒れる刺客を眺めて徳羅法王は自分もあのように倒れて二度と起きなければいいと思った。 しかしまだ儀式を終わっていなかった僵屍を眺め、その中で苦しんでいる少女の魂を見ると死ぬこ とができなかった。 徳羅法王は僵屍を破壊して封印をとけば少女の魂を開放できることを知っているので僵屍を破壊す るために短剣を握り締めて一歩づつ歩み寄った。 しかし、その時洞窟の外で人々のざわめき声が聞こえ、幾人かの兵士達が洞窟の中に飛び込んでき た。 その兵士達は骸骨が散らばっていて人が死んでいる姿を見ると、ここがその呪術師の洞窟だと言っ て大声を出し、横になっている僵屍を生きている人だと勘違いして徳羅法王が人を殺そうとしてい ると思って体を飛ばして徳羅法王を阻止した。 徳羅法王は急に現れた人々の姿を気にせず、僵屍を破壊しなければならないという念だけで体を動 かした。しかし気を失いそうな徳羅法王の体は彼の意思とは裏腹に兵士達の捕縛され、あがく事も できずに倒れて気を失った。 どれくらい時がたったのか徳羅法王が目覚めたときには周囲には一面人々の死骸だけであり、僵屍 はどこにも見当たらなかった。何が起こったかはわからなかったが徳羅法王は僵屍を探さなければ ならなかった。 僵屍を探して少女の魂の状態を把握し、危ない状態であれば一日でも早く処理をしなければならな いと思った。死骸を全て洞窟の中に入れて燃やしてしまった徳羅法王は、炎が燃え盛る洞窟を後に し、自分が作った僵屍を探す旅を始めた。 劉 済洪(リュウ・ジホン) 韓国版名:慕容風 職業:お坊ちゃん 年齢:26 唐皇宮で忠臣として人々に広く知られている皇宮の邦県令には彼につく者が多くあった。 彼らの中に慕張良という者がいたが、この者も心が強直で悪いものをを見ると耐えることができな い性格で、邦県令につく官僚達の中で一番性分が真っ直ぐだと知られており、邦県令も慕張良を一 番寵愛していた。 空が崩れて明日にでも死を迎えるとしても正しいことのみをいって暮らすような慕張良であったが 、そんな彼にも大きな心残りがひとつあった。 慕張良には40歳になってから生まれた慕容風(日本版名:劉済洪)という大切な子供がいた。慕容風 を産んだときに妻を亡くした慕張良は唯一残っている肉親である慕容風に全ての心を注ぎ込み、そ んな理由で慕容風は幼いころから過保護に育っていった。 慕張良の子供に対する愛情は慕容風が10代になっても冷めず、高位官僚の子供な上、父に甘やかさ れて育った慕容風は完全に傍若無人な生活をした。どんな悪戯や事故を起こしても父が全て後始末 をしてくれ、そんな慕容風のまわりには悪い友人ばかり集まってくることになった。 慕張良もそんな息子の行動が気に入らなかったが、目に入れても痛くないほどの子供だったので、 子供が事故を起こせば怒りながらも哀れな気分になり、息子の変わりに事故の解決をするのであっ た。 慕容風が20代になると彼の行動はますます度を越え、長安の全ての人々が慕容風とその仲間を見る と被害を受けないように遠く避けてしまうほどになった。 道端でぶつかるだけでも気を失うほど暴行をすることは日常茶飯事で、どんな家にでも入っていっ て女子供に悪戯したり、他人がかろうじて育てた農作物や家畜に何気なく被害を与えるほどであっ た。 人を殺すことはなかったが、人々は慕容風は人を殺してももみ消してもらえるのでただ見つからな いだけだと話し合った。 そんな慕容風の蛮行を聞くに堪えない邦県令が慕張良の家を訪ね、慕容風に一言二言苦言を呈した が、慕容風は聞いたふりをしながらも別のことをしていた。あまりにも腹が立った邦県令は慕張良 に大きな音で注意を与えて家を出たが、あまりにも廉恥がなかった慕張良は邦県令の言葉によって慕張良に制裁を加えようとしたが、やはり哀れな気がしてどうしても殴ることができずにその日を 終えた。 邦県令にあまりにも廉恥がなかった慕張良は翌日、邦県令の家を訪ね、自分が官職を辞めるとこの 子供の癖が直るかもと言って辞表を提出した。しかし、慕張良の優れた能力と真っ直ぐな性分が惜 しい邦県令は子供の問題を自分に任せるのだといい、慕張良の辞職を後へと延ばすことにした。 数日間悩んだ邦県令は皇帝を尋ね、現在の状況を打ち明けた後、慕容風を一定期間父の下を去るよ うにして親の大切さを悟らせるには長いたびに出さなければならないといい、今度シルクロードを 通って東欧の首都であるコンスタンティノープルへ行くキャラバンに慕容風を参加させる使命を懇 請した。 指名を受けた慕容風は晴天の霹靂のような知らせに父を捕まえ、自分をキャラバンから外す様にし てくれとなきながら懇願したが、慕張良は今度だけは慕容風の頼みを聞き入れられないということ がわかり、息子の手助けを振り放して家を出た。 そして振り返ることができないと思った慕容風はコンスタンティノープルへ行く準備をするために 家を出、彼の旅が始まった。
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ボヨウイ(慕容暐) 中国の五胡十六国時代の前燕の皇帝。 関連: ボヨウシュン (慕容儁、父) ケイショウコウゴウ (景昭皇后、母)
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名稱:黑蜘蛛 伺服器及顏色:5服綠類型:武 性別:男 生命值:620 武力:43 智力:11 防禦:13 敏捷:24 運勢:20 敘述:慕容山莊的家丁,知盡天下事,人稱『江湖百曉生』。更有一身好輕功,一直暗戀慕容九卻不敢表達。出自於《絕代雙驕》。
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ボヨウジン(慕容仁) 中国帝王の系譜に登場する人物。 関連: ボヨウカイ (慕容廆、父)
https://w.atwiki.jp/gods/pages/90018.html
ボヨウヒョウ(慕容評) 中国帝王の系譜に登場する人物。 関連: ボヨウカイ (慕容廆、父)
https://w.atwiki.jp/gods/pages/90015.html
ボヨウカン(慕容翰) 中国帝王の系譜に登場する人物。 関連: ボヨウカイ (慕容廆、父)
https://w.atwiki.jp/gods/pages/90041.html
ケイショウコウゴウ(景昭皇后) 中国帝王の系譜に登場する人物。 関連: ボヨウシュン (慕容儁、夫) ボヨウイ (慕容暐、息子)
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唐書巻二百二十一上 列伝第一百四十六上 西域上 泥婆羅 党項 東女 高昌 吐谷渾 焉耆 亀茲 跋禄迦 疏勒 于闐 天竺 摩掲陀 罽賓 泥婆羅(ネパール)は、吐蕃の西にある楽陵川からすぐのところにある。国土は赤銅とヤクを多く産出した。国人の風俗は翦髪で、前髪が眉にまで達している。耳には穴を穿っていた。アーチ状になった竹筒で楕円形の枠をつくり、ゆるやかに肩に至るのがよいとされた。さじと箸がないので、国人は手づかみで食べた。その国の器はみな銅製である。その家屋の板囲いに模様を描いた。牛を使用した耕作方法を知らないため、田畑が少ない。それゆえ、国人は生業として商業に習熟している。一枚の布で体を覆い、一日に数回、沐浴する。博戯を重んじ、天文学と暦術に通じていた。天神を祀るのに石を刻んで像をつくり、この像に毎日、水を浴びせ、煮た羊肉をそなえて天神を祀る。銅を鋳造して貨幣をつくる。貨幣のおもてに人のかたちを描き、裏側に牛や馬のかたちを描いた。この国の君主は、真珠、瑠璃、車渠(貝殻)、珊瑚、琥珀を身につけ、纓絡(ネックレス)をたらし、耳には金鉤・玉の耳飾りをつけ、宝剣を腰に帯びて、獅子の足の格好をした四脚寝台に座り、香を焚いて花を堂にしいた。大臣は地べたに座って敷物をしかない。左右に武器を持った兵士数百が待っている。宮中には七重の楼閣があり、その屋根は銅製の瓦で覆われていた。柱と梁はみな様々な宝石で飾られており、宮殿の四隅には銅製の水槽が置かれていた。その下には黄金の龍がおり、龍の口からは激しく水が流れ出て槽の中に注ぎ込んでいた。 初め王の那陵提婆(ナーレンドラ・デーヴァ)の父親が、叔父によって殺されたため、提婆は吐蕃に亡命した。吐蕃が提婆を受け入れたので、提婆は吐蕃に臣従した。貞観中、太宗は李義表を天竺に派遣した。李義表が泥婆羅を通過したので、提婆はたいそう喜び、使者を案内して阿耆婆池(アジーヴァ)を一緒に見学した。池の広さは数十丈、その水はいつも沸騰していた。その水は、日照りの時も大雨の時も、涸れることも溢れることもなかったと伝えられている。池の中に物を投げ込むと、たちまち煙が生じ、その上に釜をかけると、すぐに煮あがってくる。 貞観二十一年(647)、泥婆羅の使者が入朝し、波稜(ホウレン草)、酢菜、渾提葱を献上した。永徽の時(650-656)、王の尸利那連陀羅がまた使いを派遣して入貢した。 党項(タングート)は漢代の西羌の別種で、魏晋の後、次第に甚だしく衰微した。北周が宕昌、鄧至を滅ぼしたので、党項は初めて強くなりはじめた。その地は昔の析支であり、東は松州、西は葉護(西突厥)、南は春桑・迷桑などの羌、北は吐谷渾に隣接していた。険しい山谷に居住し、その長さは三千里にわたる。姓のちがいによって部落をなし、その一つの姓がまたさらに分かれて小部落をなし、大きいものでは万騎、小さいものでは数千の兵力を持っており、互いに相手を服属させることができないでいる。そのため、細封氏、費聴氏、往利氏、頗超氏、野辞氏、房当氏、米禽氏、拓拔氏があり、拓拔氏が最強で、定住し、家屋があり、ヤクの尾、羊毛を織って家を覆い、一年に一度、その毛織物を交換した。党項は武を尊び、法令も賦役もない。人々の寿命は長く、多くのものが百歳を越えた。盗みを好み、互いに略奪しあった。彼らは、復讐することを最も重んじた。復讐をいまだに果たせていないものは、蓬のように髪をふり乱し垢まみれの顔で、裸足のまま過ごし、草を食べる。復讐を遂げた後に、ようやく普通の生活に戻る。男女は、皮衣と粗い繊維の衣服を着用し、毛織物をまとった。ヤク、ウシ、ウマ、ロバ、ヒツジを牧畜して食べ、耕作はしなかった。その地は寒く、五月に草が生え八月に霜がおりた。文字はなく、草木の様子をうかがって歳時を識別した。三年に一度、互いに集まり、牛と羊を殺して天を祀った。他国から麦を得て酒を醸造した。父親の妾、伯母・叔母、兄嫁、息子や弟の妻を妻としたが、ただ同姓の女性は娶らなかった。年老いて亡くなった場合、子孫達は泣かなかった。しかし、幼くして亡くなると、天柱と称して、家族は悲しんだ。 貞観三年(629)、南会州都督の鄭元疇は使者を派遣して降服するように説得したので、党項の酋長・細封歩頼が部落を挙げて降服した。太宗が璽を押した詔を下して彼らを慰撫したので、細封歩頼はこれより入朝し、太宗から与えられる宴や賜わりものは、他とは違って別格であった。太宗は細封歩頼の領地を軌州となし、細封歩頼に刺史を授与した。細封歩頼は、兵を率いて吐谷渾を討伐したいと請願した。その後、酋長達がことごとく内属したので、その地を州、奉州、厳州、遠州の四つの州となし、首領たちを刺史に任じた。拓赤辞というものがおり、初めは吐谷渾に臣従していた。谷津の慕容伏允が、赤辞を厚遇して通婚したので、諸々の羌族はすでに唐に帰順していたにもかかわらず、赤辞だけがひとり唐に帰順してこなかった。李靖が吐谷渾を討伐した時、赤辞は狼道峡に駐屯して唐軍に抵抗した。廓州刺史の久且洛生が、赤辞を説得して降伏させようとしたが、赤辞は「吐谷渾王は私のことを腹心として遇してくれている。他のものなど知らぬ。もし速やかにこの場から立ち去らないのなら、おまえを斬り殺して私の刀を穢すことになるぞ。」と言い返してきたので、久且洛生は怒り、軽騎兵を率いて粛遠山で赤辞を撃破し、数百級を斬首して雑畜六千を捕獲した。太宗は、この勝利によって、降服すれば生命の保障をしたので、赤辞の従子・思頭は、ひそかに唐に帰順し、その部下の拓拔細豆もまた降伏した。赤辞は宗族が離反してしまったので次第に自らも帰順することを望み、岷州都督の劉師立も帰順を勧誘したので、赤辞は思頭とともに唐に内属した。そこで、太宗はこの地を懿州・嵯州・麟州・可州など三十二の州となし、松州を都督府となして、赤辞を西戎州都督に抜擢し、李姓を賜わった。それ以後、党項からの朝貢が絶えることはなかった。これによって、黄河の源流にある積石山から東の地はすべて中国の領地となった。この後、吐蕃が次第に隆盛したので、拓抜は恐れて内地への移住を請願した。そこで初めて慶州に静辺などの州を設置して党項をここに住まわせた。この地が吐蕃の領土と化すと、この地に住んでいるものはみな吐蕃に従属する事となり、さらに弭薬(ミーニャク)と号するようになった。 また黒党項という部族もいた。黒党項は、赤水の西に住んでいた。その部族長は、敦善王と号し、吐谷渾の王・慕容伏が李靖の軍に敗北してこの地に逃走してきた時には、伏允は敦善王を頼ってきた。吐谷渾が唐に服従するようになると、敦善王もまた朝貢してきた。雪山に住んでいるものたちを破氏といった。 白蘭羌という部族がいた。吐蕃はこれを丁零と呼んでいた。白蘭羌は、その左の部族が党項に属し、右の部族は多弥と隣接していた。勝兵を一万人擁し、戦闘において勇敢に戦い、用兵を善くするところは、民族的に党項と同じであった。武徳六年(623)、使者が入朝した。翌年、高祖はこの地を維州と恭州の二州となした。貞観六年(632)、数十万とともに内属した。永徽年間(650-656)には、特浪の生羌の楼と大首領・凍就が部衆を率いて到来し、内属したので、その地を剣州となした。 龍朔年間(661-663)以後、白蘭、春桑、白狗羌が吐蕃の臣下となり、吐蕃に兵士を提供してその先鋒になった。白狗と東会州は隣接し、勝兵はわずかに千人であった。西北にいるもので天授年間(690-692)の間に内附したものは、戸数にして約二十万だった。唐は、その地を朝州・呉州・浮州・帰州などの十州となし、霊州と夏州の間に散居させた。至徳年間の末(757)、党項は吐蕃に誘われ、吐蕃の間諜となって辺境地帯を略奪した。しかし、彼らは急に後悔して来朝し、霊州の軍糧運送を援助したいと請願した。乾元年間(758-760)、安史の乱が原因で中国がしばしば乱れたので、党項は邠州と寧州に入寇した。粛宗は、郭子儀に詔して朔方・邠寧・鄜坊の三節度使の任務を統括させて、鄜州刺史の杜冕と邠州刺史の桑如珪に二部隊に分けて出撃させた。郭子儀が邠州・寧州に到着すると、党項は潰走した。 上元元年(760)、涇州・隴州の部落十万人が、鳳翔節度使の崔光遠のもとに来て降伏した。上元二年(761)、党項は渾・奴刺と連合して、宝鶏を襲撃し、吏民を殺害して財物を掠め取った。大散関(宝鶏の南)を焼き、鳳州に入寇して、刺史の蕭槐、節度使の李鼎がこれを追撃した。翌年、党項がまた梁州を攻撃したので、刺史の李勉は逃走した。このため党項は奉天まで進撃し、華原・同官を大いに略奪して去った。詔して、蔵希譲を李勉に代えて刺史とした。これによって、帰順・乾封・帰義・順化・和寧・和義・保善・寧定・羅雲・朝鳳のおよそ十州の部落が蔵希譲を訪れ、よしみを通じて節と印を乞うたので、詔してこれを認めた。 僕固懐恩が叛いた時(764)、懐恩は党項・渾・奴刺を誘って入寇した。僕固懐恩は数万の兵を率いて鳳翔と盩厔を略奪した。党項の大酋長の鄭廷と郝徳は同州に入寇したので、同州刺史の韋勝は逃走した。節度使の周智光は、鄭廷らを澄城で撃破した。一ヵ月後、鄭廷らがまた同州に入寇し、官庁および民間の家屋を焼き、馬蘭山に塞を築いた。郭子儀は軍勢を派遣してこれを襲撃し、退却して三堡を保った。それから、郭子儀は慕容休明を派遣して、鄭廷と郝徳を諭させて降伏させた。 郭子儀は、党項と吐谷渾の部落を塩州・慶州などの州に分散させて住まわせた。それらの地と吐蕃が非常に近く、互いに連合して脅威になりやすかったので、上表して、静辺州都督、夏州・楽容などの六つの府の党項を銀州の北、夏州の東に移動させ、寧朔州の吐谷渾を夏州の西に住まわせて、引き離して唐の脅威にならないよう防いだ。静辺州の大首領、左羽林大将軍の拓拔朝光ら五人の刺史を召して入朝させ、厚く賜わりものを与えて帰還させ、各々の部族を安んじさせた。これより以前、慶州には、破丑氏族が三部族、野利氏族が五部族、把利氏族が一部族おり、おのおの吐蕃と婚姻して互いに援助しあっていたので、吐蕃の賛普は、これらを王とした。このため辺境地帯が乱れること十年餘に及んだ。郭子儀は上表し、工部尚書の路嗣恭を朔方留後、将作少監の梁進用を押党項部落使とし、行慶州を設置させた。さらに郭子儀は「党項は、ひそかに吐蕃と結んで事変を起こそうとしております。ですから党項に使者を派遣し、これを招慰して謀叛の機会を取り除くべきです。また梁進用を慶州刺史に任命し、厳しく警邏させて、党項と吐蕃との交通路を遮断すべきです」と進言した。代宗は、郭子儀の意見をもっともであるとした。また、郭子儀は上表して、静辺、芳池、相興の三州に都督と長史を置き、永平、旭定、清寧、寧保、忠順、静塞、万吉などの七つの州に都督府をそれぞれ置くよう進言した。ここに至り、破丑、野利、把利の三部族と、思楽州の刺史・拓拔乞梅らは、みな入朝し、宜定州刺史の折磨布落、芳池州の野利部は、並びに綏州、延州に移された。 大暦の末、野利禿羅都と吐蕃が結んで叛き、他の部族にも謀叛をけしかけたが、他部族はこれに呼応しなかった。郭子儀が、野利禿羅都を撃って、禿羅都を斬ったので、野利景庭、野利剛は、部族数千人を率いて雞子川において帰順した。六州の部落というのは、野利越詩、野利龍児、野利厥律、児黄、野海、野塞などで、慶州に住んでいるものを東山部と号し、夏州のものを平夏部と号した。永泰年間(765-766)の後、党項は次第に石州に移動したが、その後、永安の将・阿史那思昧による税の取立てが際限なかったので、ついに耐え切れず、党項は河西に逃走した。 元和(806-820)の時、宥州を復置して党項を護ったが、大和年間の中頃になると党項は次第に強盛になり、しばしば国境地帯を略奪した。党項は、武器や防具が鈍くて粗末なので、唐兵の武器の精強さを恐れ、良馬を売っては鎧を買い、良い羊を売っては弓矢を購入した。そこで、党項を危険視した鄜坊道軍糧使の李石が上表し、商人が、軍旗、甲冑、種々の武器を持って党項の部落に入ることを禁止した。もし密告したものがいたら、その密告者に罪人の財産を没収し、褒美として与えた。開成年間(836-840)の末になると、党項部族はいよいよ盛んになり、富裕な商人が絹織物を持ち込み、党項からヒツジ・ウマを買い入れた。藩鎮の役人はそれに便乗して、ヒツジ・ウマを無理やり売らせて代価を与えない事があった。このため党項の部族民は怒り、互いに誘いあって反乱を起こし、霊州、塩州に攻め込んだので道が不通になった。武宗は侍御史を使招定に任じ、三印に分け、邠州、寧州、延州を崔彦曽に属させ、塩州、夏州、長澤を李鄂に属させ、霊武、麟州、勝州を鄭賀に属させて、みなに緋衣と銀魚の印を賜わったが、功を奏さなかった。 宣宗の大中四年(850)、党項が邠州と寧州を略奪したので、鳳翔節度使の李業、河東節度使の李拭に詔して節度している軍勢を併せて、これを討伐するよう命令し、宰相の白敏中を都統となした。宣宗が近苑に出向いたところ、あるものが一本の竹を屋外に植えていた。見ると、その竹は、わずか一尺の高さで、宣宗から百歩ばかり遠ざかっていた。宣宗は矢の命中の成否にことよせて言った。「党羌は、いまや追いつめられた敵だが、窮地に陥りながらも、なお年ごとに唐の辺境を荒らしている。いま私は約束しよう。もし竹まん中に命中することができれば、党項はまさに、おのずから滅びるであろう。命中しなければ、私は天下の兵を求めて党項を殲滅しよう。この賊に子孫を残させないぞ」と。近臣たちが注目するなか、宣宗がひとたび矢を放つと、竹が割れ、矢が貫通したので、近臣らは万歳と叫んだ。一ヶ月もたたないうちに羌は果たして破れ滅び、残党は南山に逃亡した。 初め天宝年間(742-756)の末に、平夏部の族長、拓跋思恭が戦功を上げたので、容州刺史、天柱軍使に抜擢した。拓跋思寂の子孫の拓跋思恭が、咸通年間(860-874)の末に、ひそかに宥州を占領して刺史を自称した。黄巣が長安に侵入したので、拓跋思恭は鄜州刺史の李孝昌とともに壇を築いて犠牲を供え、賊を討伐する事を誓った。僖宗はこれを賢明な行為とし、拓跋思恭を左武衛将軍、権知夏綏銀節度事に任命した。拓跋思恭が、王橋に留まった時に黄巣に打ち破られたが、鄭畋ら四人の節度使とともに盟約して渭橋に駐屯した。中和二年(882)詔して拓跋思恭を京城西面都統、検校司空、同中書門下平章事に任命した。にわかに拓跋思恭を昇進させて、四面都統、権知京兆尹となした。黄巣が平定されると、拓跋思恭に太子太傅を兼ねさせ、夏国公に封じて、李姓を賜わった。嗣襄王李熅の乱が勃発すると、拓跋思恭に詔を下して賊を討伐させたが、軍勢が出撃する前に、拓跋思恭は亡くなった。そこで、思恭の弟の思諫を代わりに定難節度使に任じ、もう一人の弟の思考を保大節度使鄜・坊・丹・翟などの州の観察使、ならびに検校司徒、同中書門下平章事に任命した。王行瑜が抜くと、拓跋思孝を北面招討使に任命し、拓跋思諫を東北面招討使に任じた。拓跋思孝もまた、この反乱によって鄜州を取り、ついに節度使となり、累進して侍中も兼ねたが、年老いたために弟の思敬を推薦して保大軍兵馬留後となし、にわかに節度使となした。 東女国は、蘇伐刺拏瞿咀羅(スヴァルナゴトラ)ともいい、羌族の別種である。西海(インド洋)にも、女の王を戴く国があるので、区別するために「東」をつける。東は吐蕃、党項、茂州(四川省)に接し、西は三波訶国に属し、北には于闐、東南は雅州の羅女蛮、白狼夷に属していた。この国の面積は、東西に九日、南北に二十日行程の広さであった。八十の城を有し、女を君主に戴いている。延川に住み、険しい土地が四方を取り囲んでいた。弱水が南に流れている。人々は革を縫いあわせて船を造った。戸数は四万戸で、勝兵は一万人であった。王のことを「賓就」といい、官のことを「高霸黎」といったが、これは宰相に相当した。外にいる役人は、男子をこれにあてた。およそ号令は女官が内廷から伝え、男の役人がこれを受け取って実行に移した。王の侍女は数百人おり、王は五日に一度、政務をとり行った。王が亡くなると、国人は金銭数万を王族に納め、王族の中から淑女二人を求めて、そのうちの年長者を大王とし、年少者を小王となした。大王が死ぬと、小王を後継ぎに立てた。あるいは、姑が死ぬと嫁がその後を継いだ。王位の簒奪はなかった。住まいはみな重屋で、王は九層、国人は六層であった。王は、青毛の綾のスカート、青色の袍を着用したが、服の袖は地面に引きずった。冬は子羊の皮衣を着用し、文錦で飾った。小さな髪をつくり、耳にはイヤリングをたらした。足には皮靴を履いた。皮靴とは履き物のことである。この国の習俗では、男子を軽んじた。身分の高い女性はみな男を従者として有していた。侍男は、被髪で、顔面を青く塗り、ただ戦争と耕作にのみ努めた。子供は母親の姓に従った。その地は寒く、麦をよく産し、羊馬を牧畜し、黄金を産出した。風俗はだいたい天竺と同じであった。十一月を年始とした。巫者は十月に山中に詣で、酒かすと麦を敷き、まじないを言って鳥の群れを呼ぶ。にわかにやって来る鳥があって、その姿は鶏のようである。その腹を割いて腹の中を見、腹の中に穀物があれば、その年は豊作であるが、そうでなければ災厄が訪れる。それで、この占いの名を鳥といった。三年間喪に服し、衣服を変えず、くしけずる事も沐浴もしなかった。貴人が亡くなると、その皮膚を剥ぎ取り、骨を甕の中に収め、金粉を塗って、墓に埋める。王を葬る際には、殉死するものは数十人に及んだ。 武徳年間(618-626)に、王の湯滂氏が初めて遺使して入貢した。高祖はこれに対して厚く報いたが、西突厥が略奪するので通じることができなくなった。貞観年間中、使者がまたやって来たので、太宗は璽制して使者を慰撫した。顕慶の初め、遣使して、高覇黎の文と王子の三盧を来朝させたので、高宗は彼らに右監門中郎将を授与した。王の歛臂が、大臣を遣わして官号が欲しいと請願したので、則天武后は歛臂を冊立して左玉鈐衛員外将軍を授与し、瑞錦の服を下賜した。天授と開元の間、王と王子が再び来朝したので、玄宗は詔して宰相とともに長安の曲江池で宴をし、王の曳夫を封じて、帰昌王、左金吾衛大将軍となした。後には男子を王となした。 貞元九年(793)、王の湯立悉は、白狗君、及び、哥隣君の董臥庭、浦租君の鄧吉知、南水君の薛尚悉曩、弱水君の董避和、悉董君の湯息賛、清遠君の蘇唐磨、咄覇君の董藐蓬とともに、みなで剣南節度使の韋皋のもとに赴き、唐への内附を希望した。その種族は、西山、弱水に散居し、自ら王を称していたけれども、けだし小さな部落ばかりであった。吐蕃に河西隴右を奪われた後、これらの部落は尽く吐蕃の下に従属した。その部落は数千戸であったが、県令を置き、年ごとに絲(絹と綿)を吐蕃に輸出した。しかし、ここに至り、天宝の時に天子から賜わった詔勅を取り出して、韋皋に献上した。韋皋は、東女の民人を維州、覇州などに住まわせ、牛や糧食を与え、なりわいを治めさせた。湯立悉らが入朝すると、官禄を賜わったが、それには差があった。ここにおいて松州の二万口も踵を接して内附してきた。湯立悉らは刺史を与えられ、みな代々官職を世襲したが、しかし、ひそかに吐蕃に内附したので、これを両面羌と称した。 高昌(トルファン)は長安の西四千余里の所にあり、国土の面積は東西八百里、南北五百里で、およそ二十一の城を有していた。首都の交河城は、漢の車師前王国の王庭があったところである。田地城は戊己校尉の治所である。勝兵は一万いた。土壌は肥沃で、麦、稲は、二毛作であった。高昌には白畳(綿花)という名前の草があった。人々は白畳の花を摘んで織り、布を作った。この国の風俗では、弁髪にし、髪の毛をうしろに垂らした。 高昌の王麴伯雅は、隋の時、皇帝の親族字文氏の娘を妻にした。宇文氏は華容公主と号した。唐の武徳の初め、麴伯雅が亡くなり、息子の文泰が即位し、遣使して伯雅の死を告げたので、高祖は使者に命じて弔問させた。五年後の武徳七年、高昌は、身長が六寸、体長が一尺余の犬を献上した。この犬は、馬の手綱を口にくわえて先導することができ、また燭台を口にくわえることもできた。犬は払菻が原産であると言われ、中国はこれによって初めて払菻狗を有する事になった。 太宗が即位すると、黒狐の皮衣を献上したので、太宗もそのお返しに、妻の宇文氏にかんざしを一つ下賜した。これに対し、宇文氏も太宗に玉盤を献上した。およそ西域諸国の動静は、高昌が、すぐにこれを唐に奏上した。貞観四年(630)、麹文泰が来朝したので、太宗は礼賜を甚だ篤く与えた。また文泰の妻の宇文氏が李王室の皇族になりたいと申し出たので、太宗は詔して宇文氏に姓を賜わり、常楽公主に封じた。 これよりしばらくして麴文泰と西突厥が通好した。西域諸国は朝貢する際に高昌を通過したが、これ以後、使者達はみな麴文泰によって朝貢路を遮られ、唐への献上品を奪い取られた。伊吾(ハミ)は、以前西突厥に臣従していたが、唐に内属したため麴文泰と西突厥の葉護は共謀して伊吾を攻撃した。太宗は詔を下して麴文泰の背信行為を訪問し、高昌の大臣冠軍・阿史那矩を召し寄せて相談しようとしたが、麴文泰は太宗の命令にそむき、阿史那矩を唐には派遣せず、代わりに長史の麴雍を派遣して謝罪した。初め、隋の大業年間の末、中国の多くの民が東突厥に亡命したが、東突厥の頡利可汗が敗北すると、高昌に亡命するものがあった。太宗は詔を下して、中国から高昌に逃亡したものを中国に護送するように命じたが、麴文泰は彼らを高昌に拘留して中国に帰さなかった。また麴文泰は西突厥の乙毘設とともに焉耆の三つの城を撃破し、焉耆の民を捕虜にしたので、焉耆王は太宗に高昌の所業を訴えた。 太宗は、虞部郎中の李道裕を派遣して麴文泰の行状を詰問させた。麴文泰がまた遣使して太宗に謝罪したので、太宗はその使者を引見し叱責して言った。「おまえのあるじ麴文泰は、数年来、朝貢をしてこない。麴文泰には臣下としての礼がない。勝手に官職を設け、中国の百僚を僭称し、まねている。正月には万国の使者達がことごとく来朝したが、麴文泰は来なかった。かつて唐の使節が高昌を訪れたが、麴文泰は唐使に向かって横柄に言った。〝鷹が天に舞えば雉は草むらに隠れる。猫が堂で遊べば鼠は穴の中に逃げて安んじる。おのおの、その適所を得て、どうして心を楽しませないことがあろうか?〟西域の使者達が入貢しようとすると、高昌は、ことごとくこれを拘束する。また麴文泰は薛延陀に遣使して、こう言ったそうだな。〝あなたはすでに自ら可汗になった。唐の天子と同等である。なんで唐の使節に拝謁する必要があろうか?〟朕は来年、軍隊をおこして、なんじの国を虜にする。帰って、なんじのあるじに言うがよい。よく自ら図れ、とな」と。この時、薛延陀の可汗が、唐軍のために教導をしたいと請願してきた。そこで民部尚書の唐倹が薛延陀に行き、可汗とかたく約した。 太宗はまた璽書を下して麴文泰に禍福を示し、入朝を促させたが、麴文泰はついに病気を理由に入朝しなかった。そこで太宗は、侯君集を拝して交河道大総管となし、左屯衛大将軍の薛萬均、薩孤の呉仁をその副官に任命し、契苾何力を葱山道副大総管となし、武術将軍の牛進達を行軍総管に任じて、突厥と契の騎兵数万騎を率いさせて、高昌を討伐させた。群臣は太宗を諫めた。「万里も行軍しては、兵士の志気を得るのは難しい。それに、天界の絶域を得たとしても、これを守りきることはできない」と言って群臣は太宗に諫言したが、太宗は聞き入れなかった。一方、麴文泰は近臣に言った。「昔、私が隋に入朝した時、秦隴の北にある城邑を見たが、荒れていた。隋の時代の比ではない。唐は、いま高昌を討とうとしているが、兵が多ければ兵糧は及ばない。もし唐軍の兵力が三万以下ならば、私はよくこれを制圧する事ができよう。砂漠を渡れば唐軍は疲労し、動きも鈍くなる。気楽に唐軍の疲弊を待ち、横になって敵の疲弊を収めればよいだけだ」と。しかし貞観十四年(640)、麴文泰は唐軍が磧口に達したという事を聞いたとたん、動悸がし、驚きふるえあがって、はかりごとも思い浮かばなくなった。麴文泰は病を発して死んでしまった。息子の麴智盛が即位した。 侯君集は田地城を襲撃し、契苾何力が先鋒部隊となって死に物狂いで戦った。その夜、流れ星が城中に墜ちた。翌日、田地城は陥落し、唐軍は七千余人を捕虜にした。中郎将の辛獠児が軽騎兵を率いて夜間に高昌の都に迫ったので、麴智盛は侯君集に手紙を送って言った。「天子に対して罪を犯したのは先王の文泰です。先王の咎は深く、罪は堆積しています。智盛は位を継いでまだ日が浅い。公よ、どうか私を赦してください」と。しかし、侯君集は答えていった。「よく過ちを悔いるものは、後ろ手に縛って軍門に下るべきだ」と。智盛は答えなかった。唐軍は出撃し、濠を埋め衝車を引き、投石器から飛ばされた石が飛ぶさまは雨のようであった。城内の人々は大いに震撼した。麴智盛は、大将の麴士義に都に留まって町を守護するよう命令した上で、自身は綰曹の麴徳俊とともに唐の軍門を訪れ、改めて天子に仕えたいと懇願した。君集は、麴智盛を降伏させようと考え説得したが、麴智盛の言葉遣いが傲慢だったので、薛万均が急に顔色を変えて立ち上がり、「先に城を奪い取るべきである。小僧と話しても話しにならん」と言って、指揮旗をふるって唐兵に進撃を命令したので、麴智盛は汗を流し地に伏し、「ただ、公の命令に従います」と言い、すぐに降伏した。侯君集は軍を分け、高昌をほぼ平定した。およそ、州の数は三、県の数は五、城は二十二、戸は八千、人口は三万、馬は四千であった。これより前、高昌の人々は童謡をうたっていた。「高昌の兵は霜や雪のようなもの。唐軍は日月のようだ。日月が照れば、霜と雪はほどなく自ら溶けて消滅する」と。麴文泰は戯れ歌を歌い始めたものを捕らえようとしたが、結局、捕まえる事はできなかった。 戦勝報告が長安に届けられると、太宗はたいそう喜び群臣を宴に招いて論功行賞を行った。高昌国の支配下にあった諸都市をゆるし、高昌の地に州県制を設置して、西昌州と号した。しかし、特進の魏徴は太宗を諌めて言った。「陛下が即位なされたとき、高昌は真っ先に朝謁しました。しかしその後、高昌は商胡を劫略し、貢献を遮ったために高昌王は誅殺を加えられました。麴文泰が亡くなり、罪も止まりました。高昌の民を慰撫し、その子を高昌の王に立て、罪を討伐して民を慰める。これが道であります。いま、高昌の地を利して、常時その地に千人の兵を駐屯させ、数年に一度、駐屯兵を変えるならば、辺境に派遣される兵士は、装備や旅費を自弁で用意せねばならず、親戚と離別しなければなりません。十年もたたぬうちに隴西(甘粛省)が空虚になりましょう。陛下は結局、高昌の一粒の穀物、一尺の絹も得ることなく、中国の軍事費の助けとすることもできないでしょう。これこそまさに、有用を捨て無用に力を費やすということです」と。しかし、太宗は魏徴の意見を採用しなかった。西昌州を西州と改め、さらに安西都護府を設置した。一年に千人の兵を徴発し、罪人を送って守備兵にあてたので、黄門侍郎の褚遂良は太宗を諌めていった。「昔は中華を優先して夷狄を後回しにし、徳化を広めるように務めて、遠方のことは争いませんでした。いま高昌は誅滅され、中国の威光は四方の夷狄を動かしました。皇帝の軍隊が初めて征伐してから、河西は労役に駆り出されて、急いで米を運び、まぐさを転送して出撃の準備を整えるので、十軒のうち九軒がそうした仕事に駆り出されて貧困になり、五年たってもいまだに回復しません。いままた年に駐屯兵を送るなら、荷物は万里を行き、辺防のために去るものは、そのための費用と衣装を自分で調達するために、自分の食べ物を売り、はたを売ってまで費用を調達しなければならず、旅の途上で死亡するものも多く、その数は計り知れません。罪人は、法を犯すことに始まり、なりわいを捨てることに終わり、行いに益がありません。派遣した兵士も逃亡し、役人が逮捕して、逮捕者は芋づる式に相次いで牽かれていきます。張掖や酒泉のように、敵襲を知らせる土煙があがり、烽火があがった時に、どうして、それより更に遠い高昌の一車両一兵卒を得て救援を得られましょうか。隴右、河西から微発するだけです。たとえば、中国内地の河西を自分の腹心であるとするならば、外地の高昌は他人の手足のようなものです。どうして中華を消耗させて役に立たない事につかえるのですか。むかし陛下は東突厥の頡利可汗や吐谷渾を平定なされましたが、みな、その故地に君主を推戴しました。罪を犯せばこれを誅し、降伏すればこれを存続させる。これが、多くの蛮族が陛下の御威光を畏れ、陛下の徳を慕う理由です。いま、高昌を治めるべきものを選んで推戴し、首領達を召し出して、ことごとく故国に帰還させ、長く中国の垣根と柱になすべきです。そうすれば中国に乱れはありません」と。褚遂良はこのように言って太宗を諦めたが、この書聞は太宗によって省みられることはなかった。 初め麴文泰は黄金をもって西突厥の欲谷設に篤く贈物をし、危急の際にはお互いに表裏をなして助け合おうと約束していた。そこで、欲谷設は葉護を可汗浮図城に駐屯させた。しかし、君集の軍勢が襲来すると欲谷設は恐れて援軍を出撃させず、ついに降伏した。そこで、太宗は可汗浮図城を庭州とした。焉耆は太宗に高昌に奪われた五つの城を返し、駐屯軍を留まらせて守ってほしいと要請した。 侯君集は石に刻んで功を記させ、長安に凱旋した。麴智盛ら高昌の君臣たちは捕虜として観徳殿に献上された。皇帝による礼をつくした酒宴がとり行われ、三日間宴が開かれた。高昌の豪傑たちを中国に移し、麴智盛に左武衛将軍、金城郡公、弟の麴智湛に右武衛中郎将、天山郡公を拝した。麴氏は、国を伝えること九世代、百三十四年にして滅亡した。 麴智湛は、麟徳年間中に左驍衛大将軍から西州刺史に任じられ、亡くなった。死後、涼州都督を贈られた。麴智湛には、麴昭という息子がいた。麴昭が勉強好きなので、珍しい書物があると、母親は息子のために箱の中からお金を持ち出し、「珍しい本があれば、どうして息子のためにお金を惜しもうか」と言って、書物をことごとく買い求めてやった。麴昭は司膳卿を歴任したが、文章が非常にうまかった。その弟の麴崇裕は武芸にすぐれていたので、永徽年間中に右武衛翊府中郎将に任じられ、交河郡王に封じられた。邑は三千戸に至り鎮軍大将軍で亡くなった。武后は麴崇裕の死を悼んで美しい錦で織った衣服を贈り、弔いのための賜わりものは甚だ篤かった。麴氏の封爵は、麴崇裕の死によって断絶した。 吐谷渾は甘松山の南、洮水の西にあり、南は白蘭を隔てること数千里である。城郭はあるが、国人はその中には住まず、水と草に従って移動する。テントに住み、肉食をする。その国の官職には、長史・司馬・将軍・王・公・僕射・尚書・郎中がある。おそらく中国王朝の官職の制度をまねて、このような行政組織をつくったのであろう。この国の人々は、文字を知っている。王は、椎髷(髪を後ろにたれ、ひとたばねにしたまげ)にして黒い帽子をかぶり、王の妻は錦の袍を着、織り上げたスカートをはき、黄金の花を首に飾った。この国の男性は、裾の長い服を着用し、絹の帽子か、羃羅(べきら)を頭にかぶった。女性は弁髪にし、うしろにたらして珠や貝殻を綴って髪を飾った。この国の婚礼では、裕福な家は盛大な結婚式を行って嫁を娶るが、貧者は婚礼を挙げられないので妻を盗んだ。父親が亡くなると母親以外の父の妻を娶り、兄が死ぬと兄嫁を妻とした。喪服には規定があり、葬礼が終わるとすぐに解除した。民に対して恒常的に課される税金はなく、不足があれば、富裕商人から税を集めとり、不足分が足りれば微税をやめた。およそ、殺人と馬泥棒は死罪になった。その他の罪は、商品を献上させて贖罪させた。その地は非常に寒く、麦、菽(マメ)、栗、蕪菁(カブラ)を産し、仔馬、ヤク、銅、鉄、丹砂を産出した。青海という湖がある。青海湖の周囲は、八、九百里であった。湖の中に山があり、湖が凍結するのを待って、その上に雌馬を放牧する。翌年、仔馬を産む。この仔馬は龍種であった。吐谷渾は、むかし波斯馬を得たが、これを青海のほとりで放牧しておいたところ、驄(青白色の馬)の仔馬を産んだ。この馬は、一日に千里を歩いた。それで、人々は「青海驄」と称した。西北には、流砂が数百里も続いており、夏には熱風が吹き、旅人を傷つけた。熱風が押し寄せてくると、老いた駱駝が首をひいていななき、鼻を砂中にうずめる。人はそれによって砂嵐の到来を察知し、絨毯で鼻と口をおおって、熱風の害から免れた。 隋の時、王の慕容伏允は歩薩鉢をしていた。かつて慕容伏允が中国の辺境地帯に入寇した時、煬帝は鉄を派遣して慕容伏允を撃破した。煬帝は西平に城壁を築き、また観王雄に命じて吐谷渾を破らせた。吐谷渾の王慕容伏允は数十騎を率いて泥嶺に逃亡したが、仙頭王は男女十余万を率いて隋の軍隊に降伏した。煬帝は、吐谷渾の地に郡県と鎮戍を設置した。それから、慕容伏允の長男で、人質として長安に滞在させておいた慕容順を、逃亡した慕容伏允の代わりに王として推戴した。そして吐谷渾の余衆を治めさせるために、にわかに慕容順を故国に帰還させた。一方、慕容伏允は党項に亡命し、客人として滞在していたが、隋末の乱の折、隋の混乱に乗じて故地を回復した。 唐の高祖李淵が受命したとき、慕容順は江都から長安に帰還した。このとき李軌が涼州に拠っていたが、高祖は慕容伏允と和睦を約し、慕容伏允が李軌を撃って唐のために戦ったならば、息子の慕容順を慕容伏允のもとに護送しようと約束した。慕容伏允は喜び、兵を率いて李軌と庫門で戦い、その後、両軍は退却した。それから遣使して慕容順を帰国させてくれるよう請願した。高祖は約束どおり慕容順を吐谷渾に使わした。慕容順が帰国すると、慕容伏允はこれを大寧王となした。 太宗の時、慕容伏允は使者を遣わして入朝させたが、その使者が帰還しないうちに吐谷渾は州に入寇した。太宗は使者を派遣して慕容伏允の非を責め、慕容伏允を召し出そうとしたが、慕容伏允は病を理由に行けないと言い訳した。その上、息子の尊王のために公主の降嫁を請願し、太宗の心を試した。太宗は慕容伏允の子尊王を召して自ら歓迎したが、尊王もまた病気を口実に入朝しなかったので、太宗は詔を下して、尊王への公主の降嫁を中止にした。太宗は、中郎将の康処真を派遣して慕容伏允の説得に向かわせた。また、慕容伏允が岷州を略奪したので、太宗は都督の李道彦を派遣して吐谷渾軍を撃破し、敗走させた。唐軍は名王二人を捕虜とし、首級七百を斬った。慕容伏允は、この後、毎年名王を派遣して入貢した。しかし、にわかに吐谷渾が涼州に入寇してきたので、鄯州刺史の李玄運は「吐谷渾は青海で放牧しています。軽装の兵で、これを襲って取り囲めば、すべてを捕獲できます」と上表した。そこで、太宗は、左驍衛大将軍の段志玄、左驍衛将軍の梁洛仁に命じて、契苾・党項の兵を率いて吐谷渾を征伐させた。しかし、三十里も行かないうちに、戦いたくなかった段志玄らは陣営を築いて駐屯したので、軍の到来に気づいた吐谷渾は、放牧していた馬を駆って逃走してしまった。副将の李君は、騎兵の精鋭部隊を率いてこれを追撃し、懸水のほとりで後方から襲撃して、吐谷渾の牛羊二万を捕獲して帰還した。 この時、慕容伏允は年老いて政務を取る事ができなかったので、大臣の天柱王が政治を掌握し、太宗の使者、鴻臚丞・趙徳楷を拘束した。太宗は使者を派遣して勅命を与えること十回に及んだが、吐谷渾からは改悛の言葉は返ってこなかった。貞観九年(635)、太宗は詔し、李靖を西海道行軍大総管に、侯君集を積石道、任城王の李道宗を鄯善道、李道彦を赤水道、李大亮を且末道、高甑生を塩澤道の各々行軍総管に任命し、突厥、契芯の兵を率いて吐谷渾を討伐させた。党項に内属する羌族と、洮州羌は、みな刺史を殺害して慕容伏允に帰順した。夏四月、李道宗が慕容伏允を庫山で撃破し、捕虜・斬首は四百に及んだ。慕容伏允は、砂漠に唐軍を誘き寄せようと謀り、野草を焼いたので、李靖の軍馬は食糧がなくなって多くが飢餓に苦しんだ。そのため対策を講じて李道宗は言った。「柏海は河源に近いので、昔からここに至ったものはいまだいない。慕容伏允は西に逃走したというが、その所在は今もって不明である。我が軍の馬は痩せ衰え、食糧も欠乏している。遠方に軍を進めることは難しい。鄯州に駐屯して、馬が元気になってから、再度、吐谷渾征伐を図った方がよい」と。しかし侯君集は、「それはいけない。かつて段志玄が鄯州に至った時、吐谷渾の兵は即座に城に拠った。吐谷渾の力はまだ健在であり、むしろ民衆は命令に従った。しかしいま吐谷渾は大敗し、斥候もいない。君臣も失われた。我らは吐谷渾の難に乗じ、吐谷渾討滅という志を全うすべきである。柏海は遠いが、将兵を鼓舞して到達すべきである」と。李靖は「よし」と言うと、唐軍を二分し、李靖が李大亮、薛万均とともに一軍を率いて北に赴き、その右から出、侯君集と李道宗が一軍を率いて南に赴いて、左から出ることになった。李靖の将、薩孤呉仁は、軽騎兵を率いて曼都山で戦い、名王を斬り殺して、斬首五百級を得た。諸将は、牛心堆、赤水源で戦い、敵将の南昌王の慕容孝を捕縛して、雑畜数万を捕獲した。侯君集と李道宗は、漢哭山に登り、烏海で戦って名王の梁屈葱を捕縛した。李靖は、天柱部落を赤海で破り、雑畜二十万を捕獲した。李大亮は、名王二十人を捕虜とし、雑畜五万を捕獲して、且末の西に軍を宿営した。慕容伏允は図倫磧に逃走し、于闐に逃亡しようと図ったが、薛万均は騎兵の精鋭を率いて逃げる慕容伏允を数百里にわたって追跡し、慕容伏允を打ち破った。唐軍の将兵は水が乏しくなったので、馬を刺して、その血を水の代わりに飲んだ。侯君集と李道宗は、空しく荒野二千里を進軍した。盛夏にもかかわらず霜が降り、水草は乏しく、兵士は氷をかゆ(食糧)として食べ、馬は雪をまぐさにして食べた。一ヶ月を経て星宿川に達し、柏梅の上に到達し、積石山を展望し、河源を観望できた。執失思力は、馬を馳せて、吐谷渾の輜重部隊を打ち破った。両軍は、大非川、破邏真谷で遭遇した。 慕容伏允の息子慕容順は隋に人質に出され、金紫光禄大夫に任命されていた。長男の順が人質として中国にいたので、慕容伏允は、慕容順の弟を太子にした。慕容順は帰国したが、弟に太子の位を奪われたために常に快々として楽しまなかった。慕容順は位を失ったので、功績を上げて皇帝と結びたいと希望していた。そこで、天柱王を斬り、国を挙げて唐に降伏した。慕容伏允は恐れ、千余騎を率いて磧(ゴビ砂漠)中を遁走した。しかし従う兵士達が慕容伏允を見限って次第に逃亡していったので、付き従う従者はわずか百騎だけとなり、慕容伏允の無聊は極まり、遂に自ら縊れて死んだ。国人達は慕容順を立てて吐谷渾王となし、臣を称して唐に帰順した。太宗は詔して、慕容順を西平郡王に封じ、趙胡呂烏甘豆可汗と号した。太宗は、吐谷渾がまだ十分に安定していない事を恐れ、李大亮に精鋭部隊を率いさせて、かの国に駐屯して守らせた。 慕容順が長い間、人質として中国に滞在していたために、国人達は慕容順になつかず、慕容順は臣下によって殺されてしまった。国人は、慕容順の息子、燕王の慕容諾曷鉢を擁立した。慕容諾曷鉢はまだ幼く、大臣達は権力闘争をした。太宗は侯君集に詔し、吐谷渾王のそばに付いて国を統治させたので、慕容諾曷鉢は、初めて太宗に向かって、唐の暦を分けて欲しいこと、子弟を唐に入侍させたいことを請願した。また、詔して慕容諾曷鉢を河源郡王に封じ、烏地也抜勒豆可汗とさせた。また、淮陽郡王の李道明を派遣し、節を持たせ詔書を下して、慕容諾曷鉢に鼓纛(太鼓と旗)を賜わった。慕容諾曷鉢は自ら入朝して感謝し、公主の降嫁を懇願して、馬牛羊を万匹献上した。慕容諾曷鉢が毎年入朝したので、太宗は宗室の女を弘化公主となして慕容諾曷鉢の妻とし、李道明と右武衛将軍の慕容宝に詔して、節を持って公主を吐谷渾まで送らせた。しかし吐谷渾では大臣の宣王が跋扈しており、反乱を謀って、公主を襲撃し、慕容諾曷鉢を掠め取って吐蕃に出奔しようと画策した。慕容諾曷鉢はこれを察知し、軽騎兵を率いて城に逃走した。威信王は兵を率いて慕容諾曷鉢を迎え、果毅都尉の席君買が兵を率いて威信王とともに、宣王を討伐し、兄弟三人を斬ったので、吐谷渾は大いに乱れた。太宗はまた、民部尚書の唐倹と中書舎人の馬周に詔し、節を持して吐谷渾人を慰撫した。 高宗が即位すると、公主が嫁いでいる縁故で慕容諾曷鉢は駙馬都尉を拝した。吐谷渾が名馬を献上したので、高宗が馬の種性をたずねたところ、使者はこたえて「吐谷渾で最良の馬です」と言った。高宗は「良馬は人々の惜しむものである」と言い、その馬を吐谷渾に返すよう詔を下した。弘化公主が表して入朝したいと請願したので、高宗は左驍衛将軍の鮮于匡済を派遣して公主を迎えに行かせた。十一月、慕容諾曷鉢が長安に到着したので、高宗は宗室の女、金城公主を、慕容諾曷鉢の長男の慕容蘇度摸末の妻とし、慕容蘇度摸末に左領軍衛大将軍を拝した。しかし、しばらくして慕容蘇度摸末が亡くなった。そこで弘化公主は、次男の右武衛大将軍・梁漢王・慕容闥盧摸末とともに来朝して、婚姻を請願した。高宗は、宗室の女金明公主を慕容闥盧摸末の妻とした。すでに吐谷渾と吐蕃は互いに攻めあい、高宗に上書して、お互いの善悪を訴えて唐に援軍を要請したが、高宗は双方に対して援軍派遣を許さなかった。吐谷渾の大臣・素和貴が吐蕃に亡命し、吐谷渾の内情を告げたので、吐蕃は出兵し、不意を衝いて吐谷渾の軍勢を黄河のほとりで打ち破った。慕容諾曷鉢は国を保ちきれず、弘化公主とともに数千帳を率いて涼州に逃走した。高宗は、左武衛大将軍の蘇定方を安集大使に任命して派遣し、両国の怨みを静めさせようとした。しかし吐蕃はついに吐谷渾の地を領有した。 慕容諾曷鉢は、唐の国内に移住したいと請願した。乾封初め(666年頃)、高宗は改めて慕容諾曷鉢を青海国王に封じた。高宗は、慕容諾曷鉢の率いる吐谷暉の部衆を涼州の南山に移住させたいと考えたが、群臣の議論は意見が一致せず、高宗も南山への移住は難しいと考えた。咸亨元年(670)、高宗は右威衛大将軍の薛仁貴を邏娑道行軍大総管、左衛員外大将軍の阿史那道真と、左衛将軍の郭待封を副将となし、五万の兵を統率して吐蕃を征伐させ、あわせて慕容諾曷鉢を吐谷渾の故地に帰らせようとした。しかし唐軍は大非川で敗北し、吐谷暉の地はすべて吐蕃に掌握される事となった。慕容諾曷鉢は、親近のもの数千帳とともに辛うじて逃れた。咸亨三年(672)、慕容諾曷鉢は浩亹水の南に移動した。慕容諾曷鉢は、吐蕃が強盛である事、自力では吐蕃に抵抗できない事、鄯州の土地が狭い事などが理由で、また霊州に移動した。高宗は慕容諾曷鉢のために安楽州を設置し、慕容諾曷鉢に刺史を拝して、安らかに、かつ楽しく暮らせるようにと願った。 慕容諾曷鉢が亡くなると息子の慕容忠が立ち、慕容忠が亡くなると子供の慕容宣超が立った。聖暦三年(663)、慕容宣超に左豹韜員外大将軍を拝し、かつての可汗号を襲名させた。吐谷渾の、慕容諾曷鉢が統率する以外の部族は、涼州、甘州、粛州、瓜州、沙州などの州に行って投降した。宰相の張錫と、右武衛大将軍の唐休璟が議論して、これらの吐谷渾人を秦州、隴州、豊州、霊州の間に移住させるようにと言った。この地から吐谷渾を離れさせることはできなかった。涼州都督の郭元振は、次のように言った。「吐谷渾が、秦州、隴州に近づけば、監牧と雑居してしまい問題である。彼らを豊州や霊州に置いても、また突厥の勢力に近くなり、それに取り込まれやすい。仮に、彼らを中華の地に住まわせても、その習性を変えることはできないだろう。かつて王孝傑は、河源軍から耽爾乙句貴を霊州に移住させたが、耽爾乙句貴は抜いて牧坊に侵入し、群馬を略奪して州県を痛めつけた。これすなわち、異民族を中国の地に移して利益のなかったことの証拠である。また、かつて吐谷渾の大臣・素和貴が謀反して去ったが、これは唐にとって損害ではなかった。ただ吐谷暉の数十の部落が失われただけであった。どうして、耽爾乙句貴の場合と比較しないのか。いま降伏している異民族は、無理やり服従させたのではない。みな吐蕃の弓矢や刃をかいくぐり、吐蕃を捨てて来朝した。その事情に従って、これを制するべきである。甘州、粛州、瓜州、沙州に降伏したものは、その場所に置き、投降したところに住まわせれば、彼らの気持ちも安心しやすい。数州を割けば、力はおのずから分散する。彼らの気持ちに順じて、その勢力を分散すれば、人民を乱すことはない。よく夷狄の心を掌握するものと言うべきである。毎年しずめとどめるための使者を派遣して、慕容宣超の兄弟と撫護すれば、互いに侵攻略奪する事もなく、なりわいがしっかり安定する。もし叛き去るものが仮にあったとしても、中国に損害はない」と。高宗は郭元振の意見を採用した。慕容宣超が亡くなると、息子の慕容曦皓が後を継いで立った。慕容曦皓が死ぬと、息子の慕容兆が立った。吐蕃がまた安楽州を奪い取ったので、吐谷渾の残りの部族は朔方と河東に移住した。吐谷渾の名称を訛って「退渾」とした。 貞元十四年(798)、朔方節度副使、左金吾衛大将軍の慕容復を長楽都督、青海国王となし、可汗号を襲名させた。慕容復が亡くなると、後を継承するものが途絶えた。吐谷渾は、西晋の永嘉年間(307-313)から国があったが、龍朔三年(663)に吐蕃によってその地を奪われるに至って、およそ三五〇年、ここに及んで、封じる後継者が断絶した。 焉耆(カラシャール)国は、長安の西七千餘里の所にあり、東西六百里、南北四百里であった。東は高昌、西は亀茲、南は尉犂、北は烏孫であった。水路を造って田に水を注いで灌漑した。その土地は、黍、葡萄をよく産し、魚と塩の利もあった。この国の風俗は、髪を切り落とし、毛織物を着た。戸数は四千、勝兵の数は二千で、常に西突厥に役属していた。この国の風俗は娯楽を好んだ。二月には三日間、野に出て祀った。四月十五日、林で遊んだ。七月七日には祖先を祀った。十月十五日には焉耆王が初めて出遊した。一年が終わると祀りも全て終わった。 太宗の貞観六年(632)、焉耆の王、龍突騎支が初めて遺使来朝した。隋末の乱以来、磧路が塞がったので、西域諸国の朝貢はみな高昌を経由した。龍突騎支は、大磧道(大砂漠の道)を開通して旅人のために交通の便をよくしたいと請願したので、太宗はこれを許した。高昌は怒り、焉耆の周辺を大々的に略奪した。西突厥の莫賀設は、咄陸・弩失畢と仲が悪く、焉耆に逃亡してきたので、咄陸と弩失畢もまた焉耆を攻めた。そこで、龍突騎支は遺使して太宗に状況を告げ、あわせて名馬を献上した。莫賀設の次男が咥利失可汗として即位すると、焉耆とはもともと仲が良かったので、頼りとなって支援した。貞観十二年(638)、処月・処密が高昌とともに焉耆の五つの城を攻め落とし、千五百人を略奪して家を焼いた。侯君集が高昌を討伐しようとし、焉耆に使者を派遣して、焉耆と連合して高昌討伐を行ないたいと言ったので、龍突騎支は喜び、兵を率いて唐軍を支援した。高昌が唐軍に敗北すると、高昌に捕えていた焉耆の捕虜と城を焉耆に返した。焉耆は改めて唐に使者を派遣して謝恩した。 西突厥の重臣屈利啜は、弟のために龍突騎支の娘を娶った。そのため、屈利啜と龍突騎支は互いに約束して持ちつ持たれつの関係となり、龍突騎支は朝貢しなくなった。そこで安西都護の郭孝恪は太宗に焉耆討伐を請願した。たまたま焉耆王の弟の頡鼻・栗婆準・葉護ら三人が来降したので、太宗は、郭孝恪を西州道総管に任命し、軍勢を率いて銀山道から出撃して栗婆準らを道案内として焉耆を攻めるよう命令した。もともと焉耆は都にした場所の周囲三十里が四面すべて大きな山に囲まれ、海水もその外をめぐっていたので、焉耆はこの自然の要害を頼んで恐れることがなかった。郭孝格は、焉耆に向かって倍速で進軍すると、海水を船で渡り、夜のうちに、城壁の物見垣に近づき、夜明け方、大騒音とともに城壁を登った。唐軍の太鼓と角笛が轟き渡り、兵士が攻撃をしかけたので焉耆の人々は混乱して敗北し、千余人の首級が斬られて、龍突騎支は捕らえられた。唐は、栗婆準に政務を取らせた。初め、太宗は近臣に語っていった。「郭孝恪は八月十一日に焉耆に行った。二旬(二十日)で焉耆に到着し、二十二日目に焉耆を落城させるであろう。まもなく焉耆からの使者がやって来よう」と太宗が近臣に推測を語っていたところ、にわかに焉耆からの飛脚が駆け込んできて、戦勝報告を届けた。龍突騎支と、その妻子は捕らえられて洛陽に護送された。太宗の詔があって、彼らの罪は赦された。 屈利啜は軍勢を派遣して焉耆を救おうとしたが、屈利啜が焉耆に着いた時には、郭孝恪が帰還してすでに三日たっていた。屈利啜は栗婆準を捕らえ、さらに吐屯を派遣して王の代行をさせた。焉耆は唐に遺使して、この状況を告げた。太宗が「焉耆は我々が降伏させた。なんじがどうして王になったのか」と言ったので、吐屯は恐れ、焉耆の王になることができなかった。焉耆は、唐の立てた栗婆準を再び推戴したが、従兄の薛婆阿那支は自ら王となって瞎干と号し、栗婆準を捕らえて亀茲に献上した。亀茲は栗婆準を殺害した。阿史那社尓が亀茲を攻撃すると薛婆阿那支は亀茲に逃走し、東の国境地帯に城壁を築いて唐軍に抵抗した。しかし、阿史那社尓に捕らえられた。阿史那社尓は薛婆阿那支の罪を数え上げると、斬り殺して示しをつけた。龍突騎支の弟婆伽利を王となし、焉耆の地を焉耆都督府となした。 婆伽利が亡くなると、国人は前王の龍突騎支を返して欲しいと請願したので、高宗はこれを許し、龍突騎支に左衛大将軍を拝して帰国させた。龍突騎支が死ぬと、龍嬾突が即位した。武后の長安年間、焉耆の国が小さく人口も少ないので、焉耆は、この国を通過する使者や客人をもてなす労力に耐えられなかった。そこで武后は四鎮経略使に詔し、私馬を無料で微発すること、無品官のものが焉耆で肉食することを禁止した。開元七年(719)、龍嬾突が亡くなり、焉吐払延が即位した。ここにおいて、十姓可汗は砕葉に住むことを請願した。安西節度使の湯嘉恵は上表し、焉耆に四鎮を備えさせようとした。そこで玄宗は、焉耆、亀茲、疏勒、于闐に詔して、西域の商人に課税させた。諸国はそれぞれ通行税を徴収した北道を経由していた商人に対しては輪台で税をとった。焉耆は天宝年間まで常に朝貢した。 亀茲(クチャ)は、丘茲とも、屈茲ともいう。東に長安をへだてること七千余里であった。焉耆より西南に徒歩で二百里の距離であり、小山を越え大河二つを経て、さらに徒歩七百余里行って亀茲に到着する。東西の幅は千里、南北は六百里であった。その土地は、麻、麦、秔稲、葡萄をよく産し、黄金も産出した。その国の風俗は、歌と音楽、横書きの書をよくし、仏教を尊んだ。子供が生まれると、木で首をしめつけた。その国の風俗は断髪で、首のところでそろえた。ただ君主だけは髪を切らなかった。王の姓は白氏で、伊邏盧城に住んでいた。北は阿羯田山に守られていた。この山はまた白山ともいった。常に火を有していた。王は錦の帽子を頭にかぶり、錦の袍と宝石をちりばめた帯を着用した。新年の初めに羊と馬と駱駝を七日間戦わせる儀式があった。その勝負を観戦して家畜の繁殖を占った。パミール高原以東の風俗は淫行を喜んだので、亀茲と于闐は娼館を置き、売り上げ金を税として政府に納めていた。 高祖が隋から禅譲された時、亀茲王の蘇伐勃駃(スワルナプスパ)は使者を派遣して入させた。蘇伐勃駃が死ぬと、息子の蘇伐畳(スワルナデーヴァ)が即位し、時健莫賀俟利発と号した。貞観四年(630)、蘇伐畳が馬を献上したので、太宗は璽書を賜い、慰撫して等級を加えた。この後、亀茲は西突厥に臣従した。郭孝恪が焉耆を討伐した時、亀茲は軍勢を派遣して焉耆を支援したので、これ以後、亀茲は朝貢しなくなった。 蘇伐畳が死ぬと、弟の訶黎布失畢(ハリプスパ)が即位した。貞観二十一年(647)、亀茲は二度、遣使朝貢したが、太宗は亀茲が焉耆の反乱を支援した事に怒り、亀茲討伐を議した。この夜、月が昴を食したので、太宗は詔していった。「月は陰の気であるから、これは刑罰を用いる兆しである。星は胡の運命を決める。胡(亀茲)の命運は、いままさに終わろうとしている」と。そこで太宗は阿史那社尓を崑丘道行軍大総管に任命し、契苾何力を副官となして、安西都護の郭孝恪、司農卿の楊弘礼、左武衛将軍の李海岸らを統率させて、鉄勒十三部族の兵十万を出動させて亀茲を討たせた。阿史那社尓は軍勢を五つに分け、亀茲の北方を略奪して、焉耆王の龍阿那支を捕らえたので、亀茲は非常に恐れ、酋長達はみな城を捨てて逃走した。阿史那社尓は磧石に至った。ここは亀茲の王城から三百里の場所であった。先に伊州刺史の韓威を派遣して、騎兵一千先鋒とした。右驍衛将軍の曹継叔がこれに次いだ。多褐に至り、亀茲王と遭遇し、亀茲の将軍の羯獵顛の兵五万と合戦した。韓威が偽って敗走した。亀茲王は、韓威の兵力が少ないのを見ると、指図旗で合図して軍を進め、韓威を追跡した。韓威は退却すると曹継叔と合流し、戻ってきて亀茲の軍勢と戦った。唐軍は亀茲軍を大破すると、逃げる亀茲兵を八十里も追撃した。亀茲王は城壁をめぐらして守ったが、阿史那社尓が城を取り囲もうとしたため、突騎を率いて西へ逃走した。亀茲城はついに陥落した。その後、郭孝恪が亀茲城に守備隊として残った。 沙州刺史の蘇海政、行軍長史の薛万備は、騎兵の精鋭を率いて亀茲王を追いつめること六百里に及んだ。亀茲王の計画は窮まり、撥換城を保とうとした。そこで阿史那社尓は撥換城を包囲した。一ヶ月が経過して亀茲王と将軍の羯獵顛は唐軍に捕らえられた。大臣の那利は夜間に逃亡すると、西突厥と亀茲の国人万余を率いて唐軍と戦った。この戦いで郭孝恪とその息子が戦死した。唐軍は混乱した。倉部郎中の崔義起は募兵して城中で戦い、曹継叔と韓威もこれを支援し、西突厥と亀茲の軍勢を撃破して、三千もの首級を斬った。那利は敗北したが、逃亡したり離散していた者たちを集めて次第に勢力を盛り返し、亀茲に戻って唐軍を襲撃した。しかし曹継叔はこれに乗じて八千もの首級を斬った。那利は逃走したが、その後、亀茲人によって捕らえられ、唐軍に献上された。阿史那社尓は、亀茲の五つの大城を破り、男女数万人を捕虜にした。そして、使者を派遣して小城七百余を諭して降伏させた。西域諸国は震撼し、西突厥と安国の両国は、降伏のしるしに唐軍に兵糧を献上した。阿史那社尓は、亀茲王の弟の葉護を推戴して亀茲の王となし、石に刻んで功績を記した。 戦勝報告が届けられると、太宗は喜び、群臣に向かって、ゆったりとして言った。「そもそも楽しみというものは幾つかの種類がある。朕はむかし、こう言った事がある。土の城や竹馬を得る事は童子の楽しみである。金翠羅を身に飾る事は婦人の楽しみである。その土地にあるものないものを交易することが商人の楽しみである。高官が高い秩を得る事は士大夫の楽しみである。戦って前に敵がいない事は将帥にとっての楽しみである。四海が安寧で統一されている事は、帝王にとっての楽しみである。だから朕はいま楽しいかな」と。そう言うと太宗は群臣にあまねく酒をすすめた。初め郭孝恪が焉耆を討伐した時、亀茲にいた仏教徒で、よく未来を予言できる人が嘆息して言った。「唐はついに西域を領有した。数年もたたないうちに、わが国もまた滅ぼされるであろう」と。阿史那社尓は、訶黎布失畢・那利・羯獵顛を捕らえて、太廟に献上した。太宗は捕虜達を紫微殿で受け取った。太宗が彼らを責めて言うと、亀茲の君臣はみな頭を地面に打ち付けて身を伏せた。太宗は詔して彼らの罪を赦し、捕虜の身から客人に扱いを改めて鴻臚寺に宿らせ、訶黎布失畢に左武衛中郎将を拝した。初めて亀茲の首都に安西都護を移動し、于闐、砕葉、疏勒を統させて四鎮と号した。 高宗はまた訶黎布失畢を封じて亀茲王となし、那利・羯獵顛とともに帰国させた。これからしばらくして亀茲王が来朝した。那利は、王の妻阿史那と密通したが、王はこれを禁じることができなかった。左右の近臣が王に向かって那利を殺すよう請願したので、これ以後、王は猜疑心を抱くようになった。王と那利の使者がそれぞれ遣使して高宗に状況を報告した。高宗は那利を召してこれを投獄し、王を護衛して亀茲に帰国させた。しかし羯獵顛は王の入国を拒み、使者を西突厥に派遣して阿史那賀魯に降伏した。王はあえて進まず怏々として死去した。高宗は左屯衛大将軍の楊冑に詔して兵を出動させ、羯獵顛を捕らえ、その部党を誅した。そして亀茲の地をもって亀茲都督府となした。さらに訶黎布失畢の息子素稽を王となして、右驍衛大将軍を授け、都督に任じた。この年、安西都護府を亀茲に移動させ、かつて安西都護府があった高昌を西州都督府となした。そして左驍衛大将軍・安西都護の麴智盛を都督に任じた。こうして西域諸国は平定した。高宗は使者を諸国に分散して派遣し、各国の風俗や物産を調査させ、許敬宗と史官に詔して『西域図誌』を撰文させた。 上元年間(674-676)、素稽が銀・頗羅(ガラス)・名馬を献上した。天授三年(692)、亀茲王の延田跌が来朝した。初め、儀風年間(676-679)、吐蕃が焉耆以西を攻撃したので四鎮はみな陥落した。長寿元年(692)、武威道総管の王孝傑が吐蕃を破って四鎮を回復したので、唐は安西都護府を亀茲に置き、三万の駐屯兵を置いて守備を固めた。ここに至り沙磧は荒廃し、民が資金と食糧を供給する事が甚だ苦しくなった。議者は安西の地を放棄するよう請願したが、武后はこれを認めなかった。安西都護には、政務の実績が中国と夷狄の双方において称賛されているものを選んで任命した。武后の時には田揚名、中宗の時には郭元振、開元の時には張孝嵩と杜暹が、各々安西都護を務めた。開元七年(719)、王の白莫苾が死去し、息子の多市が即位して孝節と改名した。開元十八年(730)、孝節は弟の孝義を派遣して来朝させた。 亀茲から六百余里、小さな沙漠を越えると、跋禄迦(バールカー)という小さな国があった。またの名を亟墨といった。漢代の姑墨(アクス)国である。国土は東西六百里、南北三百里であった。風俗と文字は亀茲と同じであったが、言語は少し異なった。目の細かい毛織物を産出した。西に三百里進んで石磧を越えると、凌山(ハン・テングリ)に至る。これはパミールの北の高原である。水は東に流れ、春・夏も山谷には雪が積もっていた。西北に五百里行くと素葉水(スーヤーブ)城に至る。近隣諸国の比国(ソグド)商人が商売のために来て雑居していた。素葉水以西の数十城は、みな君長を立て、西突厥に従属していた。素葉水城より羯霜那国(キシュ)に至る国は、毛織物、皮ごろも、皮や厚地の毛布を着用し、絹布で額を縛っていた。素葉水城の西に四百里進むと千泉に至る。その地はおよそ二百里四方で、南は雪山に面し、三方向には平地が広がっていた。泉や池が多いので千泉と命名した。西突厥の可汗が毎年千泉に避暑にやって来た。そこには鹿の群れが鈴や金属の環を付けられており、人によくなついていた。西におよそ百里進むと呾邏私(タラス)城があり、ここにも近隣諸国の比国(ソグド)商人が雑居していた。小さな城があり、三百余戸あった。この地の人々は、もともとは中国に住んでいたが、突厥に略奪されてきて、この地に住んでいた。彼らはいまでも中国語を話した。西南に二百余里行くと、白水(アクス)城に至る。平原湿潤で、地味は肥えていた。南に五十里進むと笯赤建(ヌージカンド)国があった。国土の広さは千里で肥沃だったので、作物がよく稔り、葡萄をたくさん産した。また二百里行くと石国であった。 疏勒(カシュガル)は佉沙とも言った。国の周囲は五千里で、長安から九千里余離れていた。砂漠が多く土壌は少なかった。疏勒の風俗は詭詐を尊び、子供が生まれると頭を両側から固定して扁平にした。この国の人々は刺青をし、瞳は青色であった。王の姓は裴氏で「阿摩」と自称し、迦師城に住んでいた。西突厥可汗は、娘を疏勒王の妻にしていた。疏勒の勝兵は二千人であった。この国は祆神(ゾロアスター教)を祀っていた。 貞観九年(635)、疏勒王は使者を派遣して名馬を献上し、四年後(639)にもまた朱倶波・甘棠とともに方物を貢いだ。太宗は房玄齡らに言った。「むかし天下を統一して四方の夷狄にも打ち勝ったのは、ただ秦の始皇帝と漢の武帝だけである。朕は三尺の剣を手に四海を定めたので、遠方の狄はおおむね服属した。二君(始皇帝と武帝)に劣らない功績である。しかし二君の末路は自らを保つことができなかった。公らは、よろしく互いに補弼しあって、へつらいの言葉を進めて危機存亡の状態に置かないでくれ」と。儀鳳年間(676-678)に吐蕃が疏勒を打ち破った。開元十六年(728)、初めて大理正の喬夢松に鴻臚少卿を兼務させて疏勒に派遣し、疏勒の君主安定を冊立して疏勒王となした。天宝十二載(753)、首領の裴国良が来朝したので折衝都尉を授け、紫袍と金魚を下賜した。 朱倶波(カルガリク)は、またの名を朱倶槃といい、漢の時の子合国であった。西夜・蒲犂・依耐・得若の四つの種族を併合していた。于闐の西千里、パミールの北三百里、西は喝盤陀、北に九百里行くと疏勒、南に三千里進むと女国であった。勝兵の数は二千人であった。浮層の法(仏教)を尊び、文字は婆羅門と同じであった。 甘棠は、海の南にあり、崑崙人であった。 喝盤陀(タシュクルガン)は、漢陀とも渇館檀とも言い、また渇羅陀とも言った。疏勒の西南より剣末谷に入り、不忍領を六百里進めばその国に至る。瓜州を隔てること四千五百里であり、朱倶波の西に隣接し、南は懸度山で隔てられ、北は疏勒、西は護密(ワハン)、西北は判汗国(フェルガナ)と境を接していた。王の治所はパミール高原の山中に存在した。都城の背後には徒多河(ヤルカンド川)が流れていた。勝兵の数は千人であった。その国の王はもともと疏勒人であり、代々王位を継承して王となった。西南には頭痛山があった。パミールはこの国の人々によって極嶷山と呼ばれ、喝盤陀の周囲を取り囲んでいた。この国の人々は強くて荒々しく、容貌と言語は于闐と同じであった。喝盤陀の法律においては、殺人と盗みを犯した者は死刑であり、それ以外の犯罪者は罪を金銭で贖った。租税として必ず服飾を納めた。王は金の長椅子に座った。北魏の太武帝の太延年間(435-439)に初めて中国に通好した。貞観九年(635)、使者を派遣して来朝させた。開元中に唐は喝盤陀を打ち破り、その地に葱嶺守捉を設置した。これが安西都護府の最果ての辺境守備隊であった。 于闐(ホータン)は、瞿薩旦那とも言い、また渙那とも屈丹とも言った。于闐の事を北狄は于遁と呼び、諸胡(ソグド人)は豁旦と呼んだ。長安を隔てること九千七百里、瓜州から四千余里離れていた。漢の戎盧・杆彌・渠勒・皮山の五国の故地を併合していた。王の居城を西山城と言い、勝兵四千人であった。この国には玉河があり、国人は夜、月の光がひときわ明るく反射するところを見て、必ず美玉を探し当てることができた。王は絵の描かれた部屋に住んでいた。人々は習性として、策略に長け、大言壮語を好んだ。また祅神(ゾロアスター教)や仏法に喜んでつかえた。しかし態度は恭しく謹直で、面会する時はみな跪いた。この国では木で筆を作り、玉で印鑑を作った。国人は書簡を得るとまず首に戴き、それから書を開封した。漢の武帝の時以来の中国の詔書や符節は、于闐の王が代々伝授して受け継いでいた。人々は歌舞を喜び、紡績に巧みであった。西には砂漠があり、その砂漠に住む鼠の大きさは蝟(ハリネズミ)と同じで、色は黄金であった。鼠の群れの長が穴から出入りする時、鼠の群れが従った。初め于闐には桑や蚕がなかったので、隣国にこれを乞うたが、隣国は桑蚕を于闐に輸出してくれなかった。そこで于闐王は隣国に求婚した。隣国が結婚を許したので、于闐王は花嫁を迎える際、花嫁に告げて言った。「わが国には絹がないので、自国から蚕を持ってきて自ら衣服を作るように」と。花嫁はこれを聞くと、綿の帽子の中に蚕を入れて関所を越えたので、関所役人もあえてこれを調べなかった。これ以後、于闐は初めて蚕を有することになった。花嫁は石の上に「蚕を殺してはならない。蚕が蛾となり、飛び去って初めてを処理してよい」という約定を刻ませた。 于闐王の姓は尉遅氏で、名は屋密と言った。もともとは西突厥の臣下であったが、貞観六年(622)、使者を派遣して入献させた。その後三年たって(635)、王は息子を派遣して入侍させた。阿史那社尓が亀茲を平定したので、于闐王の伏闍信は唐を非常に恐れ、息子を派遣して駱駝三百頭を献上した。長史の薛万備は阿史那社尓に向かって「公が亀茲を破ったので西域諸国はみな震え恐れています。願わくば軽装騎兵をお借りして于闐王を拘束し、京師に献上いたしましょう」と言ったので、阿史那社尓はこれを許した。唐の軽騎兵が于闐に到来し、唐の威霊を連ねて天子のもとに入見するよう勧めると、王の伏闍信は使者に従って長安にやって来た。たまたま高宗が即位したので、伏闍信に右衛大将軍を授け、息子の葉護玷に右驍衛将軍を授けて、袍帯と布帛六千段を下賜し、邸宅一区もあわせて授けた。高宗は于闐王をこの邸宅に数ヶ月留まらせてから于聞に帰らせてやった。王は、子弟を留めて宿衛にしてくれるよう高宗に請願した。上元年間(674-676)の初め、于闐王は自ら子弟の酋長や領主七十人を率いて来朝した。伏闍信に吐蕃討伐の功績があったので、高宗は于闐の地に毘沙都督府を設置して十州に分割し、伏闍雄に都督を授けた。伏闍雄が死去すると、武后は、その息子の璥を王に立てた。開元の時、于闐は馬・駱駝・豹を献上した。璥が死ぬと、また尉遅伏師を立てて王となした。尉伏師が死ぬと伏闇達が後を継いだので、唐はその妻の執失を冊立して妃となした。伏闍達が亡くなると尉遅珪が王位を継承したので、妻の馬を妃とした。尉遅珪が死ぬと息子の勝が即位した。至徳年間(756-758)初めは軍を率いて国を救うために赴こうと考え、宿衛として留まりたいと請願した。乾元三年(760)、勝は弟の左監門衛率葉護の曜を大僕員外卿、同四鎮節度副使、権知本国事となした。詳細は、勝の伝に記されている。 于闐の東三百里の所に建徳力河があり、七百里の所に精絶国があった。建徳力河の東には汗弥があった。汗弥の王は、達徳力城(ダンダン・ウィリク)に住んでいた。達徳力城はまた拘弥城と言った。達徳力城というのは即ち寧弥の故城である。みな小国であった。 初め徳宗が即位した時、内給事の朱如玉を安西に派遣して于闐の玉を求めさせた。朱如玉は、圭一つ、珂佩五つ、枕一つ、帯胯三百、簪四十、奩三十、釧十、杵三、瑟瑟百斤、その他の珍宝などを得た。しかし朱如玉は帰国するに当たり、回紇人の領地を通過した時に回紇人に玉を奪われたと嘘を言った。久しくして事は露見し、市場で売られていた玉が得られたので、朱如玉は恩州に流刑となり、死んだ。 天竺(インド)国は漢の身毒国のことである。あるいは摩伽陀(マガダ)とも婆羅門ともいった。長安を去ること九千六百里で西域都護の治所からは二千八百里離れていた。パミールの南に位置し、その周囲は三万里であった。東・西・南・北・中の五つの天竺に分かれていた。各国は数百の城邑を有していた。南天竺は海(インド洋)にせまり、師子(ライオン)・豹(ヒョウ)・駱駝・犀・象・火斉・琅玕・氷砂糖・黒塩を産した。北天竺は雪山(ヒマラヤ山脈)によって隔てられており、山が壁のように取り巻いており、ただ南には出口があり、その谷あいを国の門戸となした。東天竺は海のほとりにあり、扶南・林邑に隣接していた。西天竺は罽賓(カピーシー)・波斯(ペルシア)と隣接していた。中天竺は四つの天竺国が会するところに位置した。都城は茶鎛和羅城(パータリプトラ)といい、迦毘黎(ガンジス)河の河岸にあった。都城以外の城が数百もあり、みな長を置いていた。また別の独立国が数十あり、そこには王を置いていた。舎衛(シュラーヴァスティー)といい、迦没路(カーマルーパ)といい、その国の戸口はみな東に向いていた。迦尸国(カーシー)というのはまた波羅奈ともいい、波羅那斯(ヴァーラーナシー)ともいった。中天竺の家畜に、稍割牛という動物がいた。黒色で角は細く、角の長は四尺あまりであった。十日に一度、角を切ってやらないと稍割牛は苦しんで死んでしまう。ある人は、この牛の血を飲むと五百歳まで寿命が延びると言っている。この牛の年も、これくらいであった。 中天竺王の姓は乞利咥(クシャトリヤ)氏で、または刹利ともいった。王は代々中天竺を支配し、簒奪や弑殺はなかった。中天竺の土地は湿気が多くて熱い。稲は一年に四度熟し、長いものは駱駝の体が没するくらいの高さであった。貝歯(子安貝)を貨幣とした。金剛石(ダイヤモンド)・栴檀・鬱金(サフラン)を産し、大秦(ローマ)・扶南・交趾と貿易した。人は裕福に暮らし、戸籍簿と地籍簿がなく、王の領地を耕作するものは税金を納めた。最高の礼としては足をねぶり踵をさすった。家ごとに奇楽を催す伎がいた。王や大臣はみな錦や毛織物を着用した。螺髻(もとどり)を頭のてっぺんで作り、あまった髪の毛は切って巻き髪にした。男性は耳を穿ってイヤリングをたらした。耳に黄金をかけるものもいた。耳たぶの垂れているものを上類とした。素足で過ごし、衣装は白を尊んだ。婦人は首に金・銀・真珠の首飾を飾った。死者は、その亡骸を焼き遺灰をとって卒塔婆を建てた。あるいは遺体は野原や河に遺棄し、鳥獣や魚・亀の餌にした。服喪の期間は定まっていない。謀反を起こしたものは幽閉して殺された。小さな犯罪を犯したものは金銭で罪を贖った。親不孝者は手足を斬り落とし、耳鼻を削ぎ、辺境地帯に移された。文字があり、歩暦(天文測算術)を善くし、「悉曇十二章」を学んだ。貝多羅に筆記して出来事をしるした。これをみだりに梵天法と言った。仏法を尊び、殺生や飲酒をしなかった。国中の所々を指し示して仏の古跡であると言っている。盟誓を信じ、禁呪を伝え、祈って龍を呼び起こすと雲がわき雨が降ると言っている。 隋の煬帝の時、裴矩を派遣して西域諸国と通好させたが、ただ天竺と払菻(ビザンツ)だけが来朝しなかったので煬帝はこれを恨みに思っていた。武徳年間(618-626)に天竺に大乱が起こった。王の尸羅逸多(シーラーディトヤ=ハルシャ・ヴァルダナ)が軍隊を統率して戦うと向かうところ敵なしの状態であった。戦象は鞍をはずさず兵士も甲冑を脱がず、四天竺を討ったので王達はみな北面して臣従した。たまたま唐の仏教僧の玄奘がその国を訪問した時、尸羅逸多はこれを召し謁見して言った。「なんじの国には聖人が出現し、秦王破陣楽という音楽を作ったというが、試みに私のために秦王(太宗)の人となりを話してくれ」と。そこで玄奘は太宗の神の如き武勇について大まかに説明し、太宗が世の乱れを平定し、四方の諸民族がして物を献上している状況を話して聞かせた。尸羅逸多は喜び、「私は東面して唐に朝貢しよう」と言った。貞観十五年(641)、尸羅逸多は自ら摩伽陀王を称して使節を派遣し、太宗に上書した。太宗は雲騎尉の梁懐璥に命じ節を持たせて派遣し、天竺を慰撫せしめた。尸羅逸多は驚き、国人に問うて言った。「いにしえより摩訶震旦(=中国)からの使いが、わが国に来た事があったか」と。みな、こたえて言った。「摩訶震旦からの使者が来た事はありません」と。夷狄は中国の事を摩訶震旦と呼んだのである。尸羅逸多は拝して太宗の詔書を受け、頭の上に勅書を戴いた。そこでまた尸羅逸多は中国使節の帰国に随行させて使者を答礼使として派遣し、唐に朝貢した。これに対し、太宗は衛尉丞の李義表を報使として天竺に遣わした。尸羅逸多は大臣を派遣して李義表を迎えさせ、都から隅まで李義表一行に自由に見学させて、道中で香を焚いて歓迎した。尸羅逸多は群臣を引き連れ、東に顔を向けて太宗からの勅書を受けた。尸羅逸多はまた使者を唐に遣わして、火珠・鬱金・菩提樹を献上した。 貞観二十二年(648)、太宗は右衛率府長史の王玄策を天竺に派遣し、蒋師仁を副使となした。しかし王玄策が天竺に到着する前に尸羅逸多は死去し、天竺国内は乱れて、大臣の帝那伏帝阿羅那順(ティラブクティ・アルジュナ)が自ら即位し、軍隊を発動して王玄策の入国を拒んだ。このとき王玄策に従う騎兵は僅かに数十だったため、唐軍は阿羅那順に勝つことができず、兵士はみな死没し、諸国からの貢物は阿羅那順に略奪されてしまった。王玄策は遁走し、吐蕃の西の辺境地帯に奔走した。王玄策は周辺諸国に檄を飛ばして兵を徴発した。吐蕃は一千の兵を率いて王玄策のもとに至り、泥婆羅(ネパール)は七千騎を率いてやってきた。王玄策は部隊を分けて進軍し、茶鎛和羅城で阿羅那順の軍勢と戦い、三日間の戦いの後に阿羅那順の軍を打ち破って三千の首級を斬った。この戦いでの溺死者は一万人であった。阿羅那順は国を棄てて逃走し、散兵を合わせて再び陣地を築こうとしたが、蒋師仁がこれを生け捕りにした。捕虜にしたもの斬首したものは一千を数えた。阿羅那順の余衆が、王の妻と息子を奉じて乾陀衛江(ガンダキ)で抵抗したが、蒋師仁がこれを撃ち大破した。蒋師仁は王妃・王子を捕らえ、男女一万二千人を捕虜とし、雑畜三万を獲得し、五百八十の城を降した。東天竺の王の尸鳩摩は牛馬三万、兵糧として唐軍に送り、弓・刀・宝の纓絡もともに贈った。また迦没路国は珍奇なものを献上し、地図も献上して、それから太宗に向かって老子の像と道徳経を賜りたいと願した。王は、阿羅那順を捕らえて長安城に連行し太宗に献上した。役人達は王玄策の宗廟に報告した。太宗は「いったい人というものは、耳と目が(音楽と女色)を愛で、口と鼻が匂いと味を愛でる事にばかり耽るようになるのは、敗徳の源である。もしバラモン(=阿羅那順)が、わが使節を略しなければ、捕虜になることがあろうか」と。と言った。太宗は王玄策を抜擢して朝散大夫にした。 王玄策は天竺において道士の那邏邇娑婆寐(ナーラーヤナスヴァーミン)を得た。那邏邇娑婆寐は自ら年齢が二百歳であると言い、不死の術を持っていると称していた。そこで太宗は改めて住まわせ錬金術を治めさせ、兵部尚書の崔教礼に命じてあつく保護監視させた。太宗はまた中国全土に使者を派遣して、もろもろの奇薬や異石を集めさせ、使節を婆羅門の諸国にも派遣して異を収集させた。いわゆる畔茶法水という薬は、石臼の中から生じる。石人の像があり、これを守っている。水には七種類の色があり、熱くなったり冷たくなったりして、金をよく溶かすことができる。人がそれを手にのせると、たちまち爛れてしまう。そこで駱駝の髑髏を使って瓢の中に注ぐ。咀賴羅という名樹があった。その葉に似ており、奥深い山の中に崖にはえていた。その樹の前には巨大な穴を蝮が守っているため、樹のそばに近づくことができない。しかし咀賴羅の業を採取したいものが四角い鏃の矢を放つと、枝はすぐに落ち、鳥の群れがこの枝を運び去ってくれる。枝を銜えたこの鳥を射落とすと、咀賴羅の枝を入手することができた。奇怪なさまは、このようであった。この後、那邏邇娑婆寐の術に効力がなかったため、太宗は詔を出して天竺への帰国を許したが、帰ることができずに長安で亡くなった。高宗の時代、盧伽逸多というものがいた。東天竺の烏茶(ウドラ)の人で、また方術をもって昇進し、懐化大将軍を拝した。 乾封三年(668)、五天竺の使節がすべて来朝した。開元の時、中天竺は使者を三度派遣した。南天竺は一度使節を派遣し、人の言葉をよく語る五色のオウムを献上した。南天竺の王はそれから玄宗に対し、軍隊の応援を求めて大食と吐蕃を討伐したいといい、その軍隊に名をつけて欲しいと請願した。そこで玄宗は詔して懐徳軍の名を賜った。南天竺の使者が「蕃夷はただと帯をもって寵愛のしるしとなします」と言ったので、玄宗は、錦の袍、金で装飾された革帯、魚袋、七事(佩刀・刀子・火石など軍に必須の七つのもの)を賜った。北天竺の使者は一度だけ来朝した。 摩掲它(マガダ)は摩伽陀ともいう。もともと中天竺に属する国であった。周囲は五千里で、その土地は肥沃で農業をよくし、異稲巨粒(異常なイネと巨大な米つぶ)を有した。これを供大人米(大臣にのみ供給する米)といった。王は拘闍掲羅布羅城に住んだ。あるいは倶蘇摩補羅(クスマプラ)といい、波吒釐子城(パタリプトラ)ともいった。その北には伽河(ガンジス)がせまっていた。貞観二十一年(647)、初めて唐に使節を派遣して自ら太宗に通好し、波羅樹(菩提樹)を献上した。この樹は白楊と似ていた。太宗は摩伽陀に使者を派遣し、その国の熬糖法を学ばせた。それから揚州に詔して諸蔗(もろもろのサトウキビ)を献上させ、汁を圧搾して剤のようにさせた。色と味は西域産の砂糖よりも数段まさった。高宗はまた王玄策を派遣して摩訶菩提祠(マハーボディ)に行かせ碑を立てさせた。その後、徳宗は自らの銘をしるして那爛陀祠(ナーランダ寺院)に賜った。 また、那掲(ナガラハーラ)という国があった。これは摩掲它の属国であった。貞観二十年(646)、那揭は使者を派遣して万物を献上した。 烏茶(ウディヤーナ)という国は、烏伏那とも烏萇ともいい、天竺のすぐ南(正しくは西北)にあった。土地の広さは五千里で、東は勃律を隔てること六百里、西は罽賓の四百里のところにあった。山谷が互いに連なり、金・鉄・葡萄・鬱金を産した。稲は毎年熟した。人は物腰が柔らかで媚びへつらい、禁架術(方士の呪術)を善くした。この国には死刑はなく、死罪に相当するものは奥深い山に放置した。疑いのあるものには薬を飲ませ、尿の清濁を見て罪の軽重を決定した。五つの城があり、王は術曹蘖利城に住んだ。この城は瞢掲釐城(ミンゴーラ)ともいい、その東北に達麗羅(ダレル)川があった。この川はかつて烏萇の土地であった。貞観十六年(642)、王の達摩因陀訶斯が使者を派遣して龍涎香を献上したので、太宗は璽書を下して優答した。大食がこの国の東の辺境地帯に接していた。開元中に、大食がしばしば誘ったが、烏萇王と骨咄・倶位の二王は大食の臣下になることを承知しなかった。玄宗は使者を派遣し、王を冊立した。 章求抜国は章掲抜ともいい、もともとは西羌の種族であった。悉立の西南の四山の山中に住み、後に山の西に移住して東天竺と隣接するようになった。その国の衣服は東天竺と似ており、東天竺に属するようになった。そのは八、九百里あまりで兵は二千人、城郭がなく、掠奪を好んだので商旅はこれに悩まされた。貞観二十年(646)、王の羅利多菩伽が悉立国によって使者を派遣して入朝した。王玄策が中天竺を討伐した時、章求抜国の王は援軍を派遣して王玄策を支援し、功績を立てた。それ以来、朝貢は絶えなかった。 悉立国は、ちょうど吐の西南に位置した。戸数は五万戸で、城邑の多くが渓流のそばにあった。男子は絹帯で頭髪を結び、氈褐(毛織物)を着用した。婦人は短いスカートを着た。婚姻に結納がなかった。穀物・豆をよく産した。死者に葬られ、盛り土をし、木を植えて墓をつくることがなかった。この国では人々は黒衣を着用し、丸一年が過ぎると服喪の期間が終わり、黒衣を脱いだ。刑罰には刖(あしきり)と劓(はなそぎ)があった。常に吐蕃に従属した。 罽賓(カピーシー)は、隋の漕国である。罽賓はパミールの南にあり、長安をへだてること一万二千里余であった。罽賓の南三千里のところに舎衛(シュラーヴァスティー)があった。王は修鮮城で統治し、常に大月氏に属していた。その地は暑くて湿気が多く、人々は象に乗り、仏法に従って支配していた。 武徳二年(619)、使者を派遣して朝貢し、宝石で象嵌された玉帯、金の鎖、水晶製の小さな杯、小さな棗のような形をしたガラスを献上した。貞観中には名馬を献上したので、太宗は大臣に詔して言った。「朕が初めて即位した時、あるものが天子というものは兵を輝かして四方の夷狄を屈服させるものであると申したが、ただ魏徴だけは朕に向かって、文徳を修めて中華を安んじるようにと勧めたものである。中華が安んじれば、遠方の異民族も威服するであろう、と。いま天下は大いに安んじ、四方の君主達はみな来献した。これは魏徴の力によるものだ」と。そこで太宗は、果毅の何処羅抜らを派遣して篤く罽賓国に賜わりものを下し、あわせて天竺も慰撫させた。何処羅抜が罽賓に到着すると、罽賓王は東に向き、頭を地につけて再拝した。また部下を遣わして唐の使節一行を天竺まで護衛して道案内させた。貞観十六年(642)、褥特鼠(マングース)を献上してきた。この鼠は鼻がとがっていて尻尾が赤く、ヘビを取って食べた。毒に刺されたものがいると、褥特鼠はこれを嗅いで尿をかけた。すると傷がたちまち治った。 国人はみな罽賓王の始祖は馨孽(ヒンギラ)といい、曷擷支に至るまで十二代にわたって王位が継承されてきたと伝えている。顕慶三年(658)、罽賓の地を修鮮都督府となした。龍朔の初め、罽賓王を修鮮城等十一州諸軍事および脩鮮都督に任命した。開元七年(719)、罽賓は使者を派遣して天文学の書と秘法の奇薬を献上したので、玄宗は罽賓王を葛邏達支特勒に冊立した。のち烏散特勒灑が年老いて息子の払菻婆に後を継がせたいと請願してきたので玄宗はこれを許可した。天宝四載(745)、玄宗は罽賓王の息子の勃匐準を冊立し、罽賓王と烏萇王を継承させた。乾元の初め(758)、罽賓の使者が朝貢してきた。