約 20,892 件
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/38102.html
ことうなお【登録タグ 作こ 作こた 作り手】 【ニコニコ動画】 【ニコニコ動画】 特徴 作り手名:『後藤尚』(ごとうなお) 2009年より作曲を始め、現在はElectronica、FutureBass、FutureHouse、Trapなどを軸とした楽曲を製作している。 宵闇レコーズ、Teen’s Joy、Atmospace Records所属。 バーチャルクソザコネカマバレDTMerおじさん。シンセと三ツ矢サイダーが大好き。 リンク アーティストプロフィール(宵闇レコーズ) pixivFANBOX SoundCloud YouTube Tumblr Twitter 曲 Android/後藤尚 CD ボカロEDM8 動画 コメント 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/3size/pages/84.html
後藤真希 プロフィール(スリーサイズ、カップ情報) ゴトウ マキ 生年月日:1985年09月23日(36歳) 身長:158.8 体重:43 B:83 W:60 H:88 カップ: 備考:元モーニング娘。 Wikipedia: https //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E7%9C%9F%E5%B8%8C 関連URL: https //ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E7%9C%9F%E5%B8%8C oldid=53905071 所属アイドルグループ モーニング娘。 コンテスト 出演ドラマ 関連タグ:モーニング娘。 後藤真希
https://w.atwiki.jp/3size/pages/617.html
後藤郁 プロフィール(スリーサイズ、カップ情報) ゴトウ カオル 生年月日:1995年10月16日(26歳) 身長:156 体重: B:85 W:58 H:81 カップ: 備考:元アイドリング!!!25号 Wikipedia: https //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E9%83%81 関連URL: 所属アイドルグループ アイドリング!!! コンテスト 出演ドラマ 関連タグ:アイドリング!!! 後藤郁
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/33254.html
登録日:2015/12/07 (月) 00 51 59 更新日:2024/09/04 Wed 07 55 51NEW! 所要時間:約 7 分で読めます ▽タグ一覧 アニヲタ野球選手名鑑 オリックス・バファローズ オリックス・ブルーウェーブ オリ後藤 ゴッツ プロ野球 プロ野球選手 八郎潟町 南秋田郡 川崎製鉄千葉 後藤光尊 東北楽天ゴールデンイーグルス 法政大学 秋田県 秋田高校 野手 今日は結婚記念日なのでホームランを打てて良かったです 後藤光尊とは、元プロ野球選手である。 解説 秋田県立秋田高等学校 ↓ 法政大学(中退) ↓ 川崎製鉄千葉 ↓ オリックス・ブルーウェーブ(2002~2004) ↓ オリックス・バファローズ(2005~2013) ↓ 東北楽天ゴールデンイーグルス(2014~2016) 1978年7月27日に、秋田県南秋田郡八郎潟町で生まれる。 身長は175cm・体重は78kg。 右投・左打で、ポジションは主に内野手をこなすが左翼も守れる。 選手としての愛称は『ゴッツ』『オリ後藤』などがよく使われる。 妻はかつてイエローキャブに所属していたタレントの斉藤ますみ。 アマチュア時代は、秋田県立秋田高等学校から川崎製鉄千葉を経由(中退した法政大学は表記されないことが多い)。 2001年のドラフト会議で当時のオリックス・ブルーウェーブから10位指名を受け入団。 その後は球団合併による分配ドラフトによって、合併球団オリックス・バファローズに分配。 しばらくして、鉄平選手との交換トレードで東北楽天ゴールデンイーグルスに入団。 引退後は楽天の球団職員に就職。 魅力溢れるプレースタイルと数少ないベテラン青波戦士として一定以上の知名度と人気を誇った選手だった。 選手としての特徴 打撃面・守備面でも色々と印象に残るのが後藤光尊という選手である。 打撃面では高いパンチ力を持つ中距離打者。 新人時代から長打力をアピールしており、長打力に悩む2015年の楽天の中でも9HRを記録している。 広い球場である京セラドームが本拠地であるオリックス時代のホームランボールが印象に残っている人は多いはず。 左投手には強くなく、長年レギュラーに定着できなかった原因でもある。 一時はそこそこ対左打率が向上したが、結局完全な弱点克服とはならなかった。 基本的にボール球を拒否する傾向の打撃であり、四球で出塁することは少ない。 2014年に至っては、54試合に出場した中で四球出塁はたったの一回のみ。 ボール球を拒否するのは、悪球打ちが得意なことで、明らかなボール球でもヒットにしてしまうためでもある。 ただし、高齢になってからは言われるほど悪球打ちでもなくなっている。 守備面では、二塁手・三塁手・遊撃手・左翼手と幅広く守れるユーティリティープレイヤー。 身体能力が高いため、時々観客を沸かせるファインプレーを行う。 …しかし、守備力は低い選手であり、守備面的な記録は決して高くない。というかむしろ低い。 2015年は得意でない遊撃手での失策数は12、二塁手での失策は5で合計17もの失策数を記録した。 走力も悪くなく、2008年には13盗塁・2011年には14盗塁を記録。 高齢になった2015年でも、大久保監督の『超機動力野球』の元、13盗塁となかなかの数字を残している。 実際なところ、2015年の盗塁成功率はそこまで高くないのだが。 指導に関しては、若手には「見て覚えろ」というスタイルで自分から教えにいくことはないらしい。 しかし、技術的な事を聞かれれば長時間使って教えるという評判がある。 解説者・コーチ転身以降は打撃理論の解説などに定評があった。 しかし、その解説や技術に拘る理論は自身の現役時代のプレイスタイルとは真逆とも言えるため、ファンからは突っ込まれることに。 経歴 プロ入り前 八郎潟町立八郎潟中学校時代は高い身体能力を生かし、野球とラグビーを兼任していた。 後藤に目を付けた秋田工高に1年からレギュラー確約条件にスカウトされるが拒否し、進学校の秋田高校に進学。 秋田高校では3年時にエース投手として活躍し、甲子園にも出場した。 甲子園球児となった後藤は、スポーツ推薦で法政大学に進学する。 しかし、法政では上級生らによりいじめを受けて留年が確定、大学を中退してしまった。 そのいじめというのは履修登録の日に寮に監禁され、留年が確定したという物らしい。 いじめに発展した理由は分からないが、『練習試合でスカウトが視察していた先輩投手から空気を読まずホームランを打ったから』という噂がある。 ちなみに、噂の中に出てきた投手はこの説を否定している(ただし昔の事なので記憶が曖昧らしい)。 その後、秋田高校OBで川崎製鉄千葉野球部監督をしていた斉藤正直に誘われて同野球部に参加し、入社。 そこで様々な活躍を遂げ、シドニーオリンピック野球日本代表候補にも選出された。 なお、当時のチームメイトには藤田太陽がいた(同じ秋田出身でもある)。 そして、2001年のドラフト会議でオリックス・ブルーウェーブから10位指名を受け入団。 オリックス・ブルーウェーブ時代 プロ1年目から早速開幕スタメンとして出場。 高い長打力をアピールし、プロ初本塁打をジェレミー・パウエルから放っている。 プロ二年目の2003年は故障で出遅れたが、出場試合数を大きく伸ばす。 この頃から完全にオリックスの遊撃手として定着した。 安打数・本塁打数・打率も、1年目から向上させた。 2004年は大きな打撃不振に陥る。 結果的に他の内野手のライバル達に差を付けられる不本意な年に終わった。 そして2004年を最後にオリックス・ブルーウェーブは大阪近鉄バファローズと合併。 この時に生じた、新球団との合併ドラフトで後藤は合併球団に配分される。 合併球団での背番号の問題が生じた(後述)が、後藤は引き続き同じ背番号を着用することになる。 オリックス・バファローズ時代 合併球団での1年目は初めて100試合以上に出場。 規定打席には到達しなかったが、打率は三割近い数字を残した。 仰木彬監督の采配や打線事情などもあり、全ての打順でのスタメンを経験する。 2006年は中村紀洋などのライバルが登場したが、彼らの故障で出番はあまり減らなかった。 前年度より打撃成績は落とすが、打撃面・守備面では貴重な存在だった。 ところが、オフシーズンに就任したコリンズ監督が背番号1を使用するため、背番号24に変更。 2007年はプロで初めて左翼手を経験する。 この年は初めて二桁本塁打に到達し、打点もチーム4位の34打点を記録した。 2008年は開幕直後こそ不振に苦しむも、自然に復調。 夏には怪我での一時的な戦線離脱というアクシデントがあったが、復帰後の9月は月間21打点を記録。 完全な戦力として定着し、二桁本塁打を維持・打点や打率もチームトップレベルだった。 コリンズ監督が辞任したことにより、背番号もかつて愛用していた1が帰ってきた。 2009年は開幕こそスタメンだったが、怪我による離脱を繰り返す。 出場試合数は前年の半分以下に落ち込み、成績も低下した。 2010年は岡田新監督に見込まれ、3番打者に任命。 さらにはチームリーダーも任されたが、元々積極的に人と交流する性格ではないため一時はこの立場に悩んだ。 開幕こそ低調気味だったが、交流戦では打率.369を記録し、チーム初の交流戦優勝に導く。 特に対阪神タイガース戦は4試合で17打数10安打2本塁打7打点という驚異的なキラーっぷりを見せた。 最終的にこの年は打率.295・16本塁打・73打点、安打数は自己最多の174安打を残した。 オフには国内FA権を行使し、中日などが獲得調査を行うが最終的には残留。 この際に5年以上にも及ぶ複数年契約を結んでいた事が後々判明する。 2011年には全打順でのホームランを達成する。 パ・リーグでは歴代五位となる26試合連続安打記録も作る。 開幕当初こそ不調だったが、最終的にこの年の打率は自身初の三割台に乗せた。 2012年は開幕から調子を上げることが出来ず、二軍降格も経験する。 通算999安打目をサヨナラ打、通算1000安打達成などの記録もあったが、打撃面での不振は続く。 レギュラーではあったが、打率.242・4本塁打という不甲斐ない数字でこの年を終えた。 2013年は開幕から低調で、案の定成績の停滞が続いた。 二軍での調整も相次ぎ、成績は2010年以降の数字としては過去最低の記録を残す。 そしてシーズン終了後、鉄平選手との交換トレードで東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍することとなった。 トレードされるお互いがチームの顔であったため、両球団のファンの間で広がる衝撃は大きかった。 楽天側は、片岡治大のFA争奪戦に敗れたことによる代役探しと東北出身枠という事情で後藤を欲しがったようだ。 なお、このトレードによってブルーウェーブ時代からオリックスのみに在籍する選手が消滅する。 2010年からの複数年契約の残りは、楽天側が負担することとなった。 楽天時代 楽天時代の背番号は4。 開幕前のキャンプなどでは、松井稼頭央に気にかけられながらチームに慣れる努力をする。 2014年の開幕当初は左翼手として起用された。 開幕直後はそこそこな働きをするが、徐々に成績を下降させていく。 三塁手や遊撃手などもこなすものの、打撃面は前年からさらに数字を落とした。 このようにチームの為に全く働けていないことから、早速楽天ファンからは批判の対象となる。 楽天が昨年の日本一から最下位に転がり落ち、一方の後藤のいなくなったオリックスは久々にAクラスに入った。 上記の順位や、かなり高いが下げられない年俸の件もあり、楽天ファンから不幸の置物呼ばわりをされる。 批判されながら迎えた2015年は、遊撃手のレギュラーとして働くはずだった西田哲朗が故障で離脱。 この時の後藤は春先から2試合連続本塁打など調子が良く、遊撃手のポジションを獲得する。 チーム全体が長打力不足に苦しむ中、数少ない長打を放てる可能性のある選手として、移籍後初の4番も経験。 一方で、守備面ではかなり失策数が多く、結構投手の足を引っ張ってしまう場面も。 それに、高齢な体では1年通しての好調維持は厳しく、シーズン後半は打撃不振気味に。 しかし、最終戦では3年ぶりとなる規定打席到達に成功する。 この年で複数年契約を終えた後藤だったが、契約更改では減額制限40%いっぱいの年俸減少が行われる。 6000万円の減少の9000万円でサインし、後藤も1年を通して活躍できなかったことを謝罪した。 ただ、球団側からは『後藤がいなかったら大変なことになっていた』とまで感謝されたらしい。 まあ、2015年の楽天内野陣の戦力を考えたら貴重な存在だったのは間違いない。 それでも9000万円というのは割高に感じるファンもいるかもしれないが。 ちなみにこの年は谷佳知や平野恵一、中嶋聡などのブルーウェーブ所属経験者が引退。 この時点で、NPBに残る最後の青波戦士と化してしまった(MLBを含めるとイチローが健在)。 2016年は楽天球団のシーズン最初のホームランを放つ。 藤田が開幕直後に戦線離脱をしたことで、二塁手のスタメンとしてしばらく代役をしていた。 代打成功率が高く、広島戦でも得意の悪球打ちで勝利にも貢献しているが、夏頃になると調子を落として一軍登録抹消。 その後は一軍復帰を果たせず、10月初頭にベテランの栗原健太・川井貴志と共に戦力外通告をされる。 成績だけ見るとまだまだ楽天内野陣では上の方(降格後の二軍成績も良かった)だが、年齢とコストパフォーマンスの問題が大きかったと見られる。 引退を決意し球団にスタッフとして残ることを決めた二人とは反して、後藤は12球団合同トライアウトへの参加を表明し退団。 甲子園でのトライアウトでは最年長の参加となり、打撃はヒット一本という微妙な結果だった反面、守備では大きくアピールした。 しかし、2016年度は戦力外選手の内野手獲得がそもそも少なく、後藤にもオファーの声はかからず。 そんな中、楽天の立花陽三球団社長が球団職員のオファーを後藤に出したらしく、これを切っ掛けに引退を決断した。 「もう一年でも二年でもやりたかったのが本音」と無念を見せながらも、「両親に『10年くらいできればいいと思っていたけど15年も出来て誇りに思っている』と言われました」とも述べた。 野球人口の減少を問題視していたらしく、球団職員として今後ばその課題に取り組んでいく模様。 「これからは表に出ることはないと思いますけど、陰から見守ってください。」とコメントしている。 ドラフト10位の戦士としてはトップレベルの実績を残した選手の引退試合がなかったことを悔やむファンの声も多く見られた。 最終的に後藤の引退で、2016年でNPBにおけるブルーウェーブ所属経験を持つ「青波戦士」は絶滅した。 何の皮肉か、吸収した旧近鉄所属経験の選手の方がNPBに残った年数が長くなってしまった。 これにより、世界における青波戦士はイチローだけという状況になっていたが、イチローは2019年に引退し、世界から青波戦士は消滅したのだった。 引退後 楽天球団の職員として働き、ジュニアコーチとして働いていた。 その一方で解説者としてデビューすることになり、よく宮城のローカルにおける試合解説を担当していた。 何故かオリックス時代の上司である岡田彰布が宮城で解説者としての活動を精力的に行っていたので、時折実況で共演することになった。 2018年を最後に楽天の球団職員を辞任し、2019年からオリックスに二軍内野守備・走塁コーチとして就任した。 翌年には一軍打撃コーチに転身するなど順調なルートだったが、チームの大低迷による西村徳文監督の途中解任の影響による大規模な人事異動により、二軍打撃コーチへと配置転換された。 その後は独立リーグの監督をしていたが、イチローに感化されて2022年より監督兼任という形で現役復帰。まさかのブルーウェーブ戦士の復活である。 エピソード ■背番号 オリックスの合併時の際、当時の後藤の背番号であった『1』の扱いについて議論があった。 何故なら、背番号1はオリックスに吸収される近鉄の永久欠番(鈴木啓示)だったためである。 この中で、後藤は引き続き同じ背番号を着用することを希望した。 鈴木啓示も、自分の背番号は近鉄の物であるという姿勢を見せたと同時に、後藤の存在に配慮して背番号1の着用を許可した。 ■Aクラス 実は、今のところ所属してきた今までの球団で一回しかAクラスの経験が無い。 Aクラスを経験したのは2008年のオリックス時代の一回だけ。 後は旧オリックス時代や楽天時代を含めて全てBクラスに終わってしまっている。 同じように一回しかAクラスを経験しなかった選手には吉田豊彦などが存在する。 この事実から、一部のファンからは不幸の置物という印象を持たれている。 …後藤のいるチームは低迷するという印象を早めに振り払ってほしいところではある。 しかし、チームの順位に後藤一人では大きい影響を与えられないので仕方ないことではあるが。 ■立花理香に胡蝶蘭 オリックスコーチ時代、教え子の若月健矢捕手の妻である声優 立花理香が京セラドームでライブした際に非常に大きな胡蝶蘭を寄贈。 普通に考えるなら「部下の妻」であるから華を贈っても不思議ではないのだが、逆に言うと贈らなくても問題はない。 それなのに選手の妻の活動に寄贈するという後藤の律儀さは評価されることとなった。 追記・修正は、後藤光尊選手を応援しながらお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] YouTube最強内野手 -- 名無しさん (2015-12-07 12 26 17) ここに記載されるほど面白い経歴をもっているとは思わないんだけど…なんで? -- 名無しさん (2015-12-08 19 37 11) 後藤 孝志の方がおもしろいエピソードもってるな。3連続同じ場所に自打球とか、子供時代中日ファンで巨人に入った槙原に「裏切り者~」と野次を飛ばしておきながら自分も巨人に入るという -- 名無しさん (2018-04-15 05 45 05) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/375.html
{{政治家 |各国語表記 = ごとう しんぺい |画像 = Shimpei Gotō.jpg |画像説明 = |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1857年7月24日 |出生地 = 陸奥国胆沢郡塩釜村 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 京都 |出身校 = 須賀川医学校 |所属政党 = |称号・勲章 = 伯爵 |配偶者 = 後藤和子 |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = 日本 |職名 = 第39代内務大臣 |内閣 = 第2次山本内閣 |就任日 = 1923年 |退任日 = 1924年 |退任理由 = |国旗2 = 日本 |職名2 = 第34代内務大臣 |内閣2 = 寺内内閣 |就任日2 = 1916年 |退任日2 = 1918年 |退任理由2 = |国旗3 = 日本 |職名3 = 第33代外務大臣 |内閣3 = 寺内内閣 |就任日3 = 1918年 |退任日3 = 1918年 |退任理由3 = |国旗4 = 日本 |職名4 = 第20代逓信大臣 |内閣4 = 第3次桂内閣 |就任日4 = 1912年 |退任日4 = 1913年 |退任理由4 = |国旗5 = 日本 |職名5 = 第18代逓信大臣 |内閣5 = 第2次桂内閣 |就任日5 = 1908年 |退任日5 = 1911年 |退任理由5 = }} 後藤 新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家である。 経歴・人物 伯爵(明治39年(1906年)男爵、大正11年(1922年)子爵、昭和3年(1928年)伯爵)。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。 計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名されたが、帝国主義日本の有能な植民地経営者で都市設計者。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し日本の大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道の整備に貢献した。 また、関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。 生い立ち・医師としての後藤新平 陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区)出身。後藤実崇の長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の大叔父に当たり、甥に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔、演出家の佐野碩をもつ。 胆沢県大参事であった安場保和にみとめられ、後の海軍大将・斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ県庁に勤務しのち15歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三のもとで門番兼雑用役になる。安場との縁はその後も続き、安場が岩倉使節団に参加して帰国した直後に福島県令となると新平は安場を頼り、16歳で福島洋学校に入った。 新平本人は最初から政治家を志していたとされるが母方の大伯父である高野の弾圧等の影響もあって医者を進められ、恩師・安場や岡田(阿川)光裕の進めもあって17歳で須賀川医学校に気の進まないまま入学。ただし同校では成績は優秀で卒業後、山形県鶴岡の病院勤務が決まっていたが安場が愛知県令をつとめることになり、それについていくことにして愛知県の愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。ここで彼はめざましく昇進し24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。またこの間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助を診察している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。またこの時期安場の次女、和子を妻にもらう。 医師として高い評価を受ける一方で、先進的な機関で西洋医学を本格的に学べないまま医者となったことに強い劣等感を抱いていたとも伝わっている。 明治15年(1882年)2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも病院・衛生に関する行政に従事することとなった。 明治23年(1890年)、ドイツに留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する一方で同時にコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、明治25年(1892年)12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。 明治26年(1893年)、相馬事件に巻き込まれて5ヶ月間にわたって収監され最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する破目となった。 台湾における後藤新平 明治28年(1895年)4月1日、相馬事件で辛酸を舐めたが友人の推薦で復帰。日清戦争の帰還兵に対する検疫業務に広島・宇品港似島で臨時陸軍検疫部事務長官として従事し、その行政手腕の巧みさからこの件の上司であった陸軍参謀の兒玉源太郎の目にとまる。 明治31年(1898年)3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、台湾総督府民政長官となる。そこで新平は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法を後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している(比喩で「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない」と語っている)。それは、社会の習慣や制度は生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというものであった。 台湾の調査事業 まず、台湾における調査事業として臨時台湾旧慣調査会を発足させ京都大学教授で法学者の岡松参太郎を招聘し、同時に自ら同会の会長に就任した。また同じく京都大学教授で法学者の織田萬をリーダーとして当時まだ研究生であった中国哲学研究者の狩野直喜、中国史家の加藤繁などを加えて、清朝の法制度の研究をさせた。これらの研究の成果が『清国行政法』であり、その網羅的な研究内容は近世・近代中国史研究に欠かせない資料となっている。 人材の招聘 開発と同時に人材の招聘にも力を注ぐのが新平の手法であった。アメリカから新渡戸稲造をスカウトする際には病弱を理由に一度は断られるが、執務室にベッドを持ち込む事などの特別な条件を提示して承知させている。スカウトされた新渡戸は、殖産局長として台湾でのサトウキビやサツマイモの普及と改良に大きな成果を残している。また、生涯の腹心となった中村是公と出会ったのも台湾総督府時代であった。 阿片漸禁策 当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっており大きな社会問題となっていた。また、「日本人はアヘンを禁止しようとしている」という危機感が抗日運動の引き金のひとつだった。これに対し新平はアヘンを性急に禁止する方法はとらなかった。まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、アヘン患者は徐々に減少した。総督府によると、明治33年(1900年)には16万9000人であったアヘン中毒者は大正6年(1917年)には6万2000人となり、昭和3年(1928年)には2万6000人となった。なお、台湾は昭和20年(1945年)にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。これにより新平の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶、アヘンを重要な資金源としていた黒社会の勢力を大きく後退させる事にしたという見方がある一方、これによって新平自身が、杉山茂丸らをパートナーとして阿片利権・裏社会との関わりを深めていったという見方も存在する。 満鉄総裁 明治39年(1906年)、新平は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。また満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄内に調査部を発足させている。 当時、清朝の官僚の中で満州に大きな関心を持っていたのは袁世凱を中心とする北洋軍閥であり、明治40年(1907年)4月の東三省建置に当たっては彼の腹心である人物が多く要職に配置された。彼らは日本の満州における権益独占を好まずアメリカを盛んに引き込もうとし、その経済力を以って満鉄に並行する路線を建設しようとした。これは大連を中心に満鉄経営を推し進めていた日本にとって大きな脅威であった。 そこで新平は袁に直接書簡を送ってこれが条約違反であることを主張し、この計画を頓挫させた。ただし満鉄への連絡線の建設の援助、清国人の満鉄株式所有・重役就任などを承認し、反日勢力の懐柔を図ろうとしている。また北満州に勢力を未だ確保していたロシアとの関係修復にも尽力し、満鉄のレールをロシアから輸入したり伊藤博文とロシア側要路者との会談も企図している(ただしこの会談は伊藤がハルピンで暗殺されたために実現しなかった)。 当時の日本政府では満州における日本の優先的な権益確保を唱える声が主流であったが、新平はむしろ日清露三国が協調して互いに利益を得る方法を考えていたのである。 拓殖大学学長 thumb|300px|right|拓殖大学の昭和4年の卒業写真。中央が後藤新平学長。左隣は[[永田秀次郎次期学長]] 大正8年(1919年)、拓殖大学(前身は桂太郎が創立した台湾協会学校)学長に就任(在職:大正8年(1919年)8月2日-昭和4年(1929年)4月13日)。拓殖大学との関係は台湾総督府民政長官時代、設立間もない「台湾協会学校」の良き理解者としてたびたび入学式や卒業式で講演をし物心両面において支援していたが、大正8年(1919年)より第3代学長として直接拓殖大学の経営に携わることとなった。そして当時発令された大学令に基づく「大学(旧制大学)」に昇格すべく各般の整備に取りかかり、大正11年(1922年)6月、大学昇格を成し遂げるなど亡くなる昭和4年(1929年)4月まで学長として拓殖大学の礎を築いた。 学内での様子は当時の記録として「後藤先生は学生に対しては慈愛に満ちた態度を以て接せられ、学生もまた親しむべき学長先生として慈父に対するような心安さを感じていました」と当時の記録にあるように学生達に心から慕われていた。 関東大震災と帝都復興計画、逝去 第2次桂内閣の元で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(在職:明治41年(1908年)7月14日 - 明治44年(1911年)8月30日)、寺内内閣の元で内務大臣(在職:大正5年(1916年)10月9日 - 大正7年(1918年)4月23日)、外務大臣(大正7年(1918年)4月23日 - 9月28日)、しばし国政から離れて東京市長(大正9年(1920年)12月17日 - 大正12年(1923年)4月20日)、第2次山本内閣の元で再び内務大臣(大正12年(1923年)9月2日 - 大正13年(1924年)1月7日、後述)などを歴任した。 鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でたまらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州の肥薩線にその名前を取った「しんぺい」号が走っている。 関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので13億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約1年分)のために財界などからの猛反対にあい、当初計画を縮小せざるを得なくなった(議会に承認された予算は5億7500万円)。それでも現在の東京の都市骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評価されている。この復興事業は既成市街地における都市改造事業としては世界最大規模であり、世界の都市計画史に残る快挙と言ってよい。 特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小がされながらも実際に建設された。当初の案ではその幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので自動車が普及する以前の時代では受け入れられなかったのも無理はない。現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付近に見ることができる。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は新平に負っていると言ってよく、特に下町地区では帝都復興事業以降に新たに街路の新設が行われておらず、帝都復興の遺産が現在でも首都を支えるインフラとしてそのまま利用されている。 昭和通りの地下部増線に際し、拡幅や立ち退きを伴わず工事を行なえた事でその先見性が改めて評価された事例もあり、もし彼が靖国通りや明治通り・山手通りの建設を行っていなければ東京で頻繁に起こる大渋滞はどうなっていたか想像もつかない。その反面、東京の都市機能拡充の引き換えに江戸以来の情緒を喪失させ、無機質な町に変質させてしまったとの批判もある。しかしながら帝都復興事業が行われた区域は震災の大火災によって灰燼と化した地域に限定されており、そもそも江戸の情緒を残す町並みはほとんど残されていなかったこと、震災前の東京は交通や衛生など現在にも共通する多くの都市問題を抱えていたことなどを考慮すると、「江戸の情緒を喪失させた」という批判は決して的を射ているとは言えないものであろう。 大正12年(1923年)、東京市長時代に国民外交の旗手として後藤ヨッフェ会談を伊豆の熱海で行い、成立せんとするソビエト連邦との国交正常化の契機を作った。ヨッフェは当時モスクワに滞在していたアメリカ共産党員・片山潜の推薦を受けて派遣されたもので、仲介したのは黎明会を組織した内藤民治と田口運蔵等の社会主義者であった。一部から新平は「赤い男爵」といわれたが、新平はあくまで日本とロシアの国民としての友好を唱え共産主義というイデオロギーは単なるロシア主義として恐れるに足らず、むしろソビエト体制の軟化のために日露関係の正常化が望ましいとしていた。 大正13年(1924年)、社団法人東京放送局が設立され、初代総裁となる。試験放送を経て翌大正14年(1925年)3月22日、日本で初めてのラジオ仮放送を開始。総裁として初日挨拶を行った(大正15年(1926年)、東京放送局は大阪放送局、名古屋放送局と合併し、社団法人日本放送協会に発展的解消する)。 昭和3年(1928年)、新平はソ連を訪問しスターリンと会見し国賓待遇を受ける。日本ボーイスカウト連盟会長として、当時の少年達1人が1粒を送った握り飯を泣きながら食べて訪ソしたという。日中露の結合関係の重要性は新平が暗殺直前の伊藤にも熱く語った信念であり、田中義一内閣が拓務省設置構想の背後で構想した満洲委任統治構想、もしくは満洲における緩衝国家設立を打診せんとしたものとも指摘される。しかし、詳細は未だに不明である。後の満鉄総裁・松岡洋右が日ソ中立条約締結に訪ソした際、「後藤新平の精神を受け継ぐものは自分である」とソ連側から盗聴されていることを知りながらわざと大声で叫んだとされる。 なお、しばしば総理大臣候補として名前が取り沙汰されながら結局死ぬまで選ばれなかった原因として、第3次桂内閣逓信大臣だった第一次憲政擁護運動時に前首相で政友会総裁の西園寺公望の失脚を画策し、最後の元老となった西園寺に嫌われていたことが大きいことを徳富蘇峰が語っている。 晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。昭和4年(1929年)、遊説で岡山に向かう途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。 最後の言葉 三島通陽の『スカウト十話』によれば、新平が倒れる日に三島に残した言葉は「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。 逸話 新平は日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を勤めている。新平はスカウト運動の普及のために自ら10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。ボーイスカウトの半ズボンの制服姿の新平の写真が現在も残っている。制服姿の新平が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕等の好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニコ」と歌声が上がったという。 晩年はソビエト連邦との国交回復に尽力する一方、数の論理で支配される政党政治を批判し、倫理確立による選挙粛正を唱え全国を遊説した。 新平はシチズン時計の名付け親でもある(彼と親交のあった社長から新作懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を贈った)。 虎ノ門事件の責任を取らされ内務省を辞めた正力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった新平は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。その後、事業は成功し借金を返そうとしたが、もうすでに新平は他界していた。そこで、正力はその恩返しとして新平の故郷である水沢町(当時)に新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、1941年に日本初の公民館が建設された。 地下鉄の父・早川徳次の「東京に地下鉄を作りたい」という構想に理解を示し、支援者に名を連ねたひとりであった。 現在の中国大使館は新平宅の跡地でる。 著作 『海水功用論 附海濱療法』(1882年) 『国家衛生原理』(1889年) 『日本膨脹論』(1924年) 『政治の倫理化』(1926年) 参考文献 主な伝記 鶴見祐輔『後藤新平』全4巻(後藤新平伯伝記編纂会、1937-1938年) 鶴見祐輔、一海知義校訂『〈決定版〉正伝 後藤新平』全8巻・別巻1(藤原書店、2004-2007年) 杉森久英『大風呂敷』(毎日新聞社、1965年) 主な研究書 信夫清三郎『後藤新平 科学的政治家の生涯』(博文館、1941年) 北岡伸一『後藤新平 外交とヴィジョン』(中央公論社、1988年) ISBN 9784121008817 小林道彦『日本の大陸政策 1895-1914 桂太郎と後藤新平』(南窓社、1996年) ISBN 9784816501944 駄場裕司『後藤新平をめぐる権力構造の研究』(南窓社、2007年) ISBN 9784816503542 関連項目 文装的武備論 日本の改軌論争 郷仙太郎 - 歴史小説『小説 後藤新平 -行革と都市政策の先駆者-』で後藤を描いている 星新一 - ノンフィクション小説『人民は弱し 官吏は強し』、『明治の人物誌』中で後藤を描いている 阿南常一 - 後藤の側近として帝都復興に参画 森戸辰男 - 社会政策を専攻する森戸と交流があった(森戸辰男とその時代、森戸文書研究会、p14) 外部リンク 後藤新平の会 後藤新平記念館 政治結社 大行社 拓殖大学 後藤新平(近代日本人の肖像(国立国会図書館)) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月17日 (月) 14 01。
https://w.atwiki.jp/ivdd/pages/2477.html
後藤麻衣子 出演 画像・動画検索 Google/Yahoo!/Bing/NAVER/Baidu/YouTube 後藤麻衣子「MY まいこ」 監督 高坂正樹 メーカー イーネット・フロンティア 発売日 2003/11/25 通販 Amazon.co.jp DMM
https://w.atwiki.jp/stuffy/pages/258.html
後藤 ランク:C E(寄生獣) 属性 ・男・統率者・パラサイト 固有の敗北条件 自分が使用したことのあるシルエットを使用している(E)でない人間が生きていると敗北 能力値 ESP能力レベル 5 ESPパワー 25 耐久力 5 精神力 5 特殊能力 ・一つ分かったことがある。俺にとっては戦いこそが![戦闘前] ランダムに変身を5回行ってもよい。 そうした場合、この戦闘中能力値と能力が以下のように変化し、 能力を1つ得る。 *ESP能力レベル:1枚目のシルエットのESP能力レベル *ESPパワー :2枚目のシルエットのESPパワー *耐久力 :3枚目のシルエットの耐久力 *精神力 :4枚目のシルエットの精神力 *能力 :5枚目のシルエットからランダムに1個獲得。 ・変身可能[全般][支援] 変身可能。このときシルエットはランダムに選ぶ。 ・白兵能力[戦闘][格闘(白兵):1] ・人間は地球上でもっとも賢い動物のはずだろ[戦闘前] シートが表の(E)の人間が手下を宣言したときに使用。 その戦闘中、その手下のLVが1高いものとして扱う。 ・だからこうして斜めの角度ではじく[戦闘][対抗(攻撃)] シェルターを使用して防御に成功したときに発動。 攻撃を行ったキャラクターはESP能力レベルチェックを行う 失敗した場合、攻撃を行ったキャラクター以外の対象に [LV:攻撃-1、火力:攻撃と同値]で攻撃を行う。 備考 [常動] * ** 顧客の要望を真正面から受けてしまえばパラサイトでも致命傷を負いかねない。だからこうして斜めの角度ではじく。 上振れすると手札が弱くなり、下振れするとそのまま死ぬ可哀想なキャラ。でも楽しいから皆引く。 Q&A Q. A. このキャラクターへの意見 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/senshuuraku/pages/17.html
役員 【監督】 喜屋武豊 【主将】 小谷周平 【副主将】 中森章太 【PC担当】 後藤将司 喜屋武豊 背番号 10 生年月日 1982/10/15 ポジション 外野全般 サブポジション 三塁手、遊撃手 投打 右投左打 座右の銘 道険笑歩 憧れの選手 前田智徳 選手兼監督兼球団代表として、チームの重役を一身に担う 選手としては主に外野手として出場するが、その日のメンバーの集まりによっては内野手もする。 小谷周平 背番号 8 生年月日 1987/5/25 ポジション 二塁手 サブポジション 外野全般、遊撃手 投打 右投右打 座右の銘 自勝者強 憧れの選手 川崎宗則、西岡剛 中森章太 背番号 6 生年月日 1987/8/11 ポジション 遊撃手 サブポジション 内野手全般 投打 右投両打 座右の銘 男なら、やるしかない 憧れの選手 イチロー、中島裕之 後藤将司 背番号 12 生年月日 1989/12/12 ポジション 右翼手 サブポジション 二塁手 投打 右投右打 座右の銘 明鏡止水 憧れの選手 坂本勇人、堂上直倫
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/46873.html
登録日:2020/12/31 Thu 22 26 03 更新日:2024/08/07 Wed 21 06 50NEW! 所要時間:約 3 分で読めます ▽タグ一覧 だから、遅すぎたと言ってるんだ! みんなで幸せになろうよ やる時はやる ゆうきまさみ エラ張り オールバック カミソリ後藤 サンダル ヘビースモーカー ペテン師 ワル 三白眼 中年 中間管理職 仲代達矢 入谷 公安警察 公私混同 切れ者 台東区 多趣味 大林隆介 奥手 始末書 宮沢喜一 後藤喜一 後藤田 後藤田正晴 悪人面 悪党 悪徳警官 押井守 担任 放任主義 昼行灯 東京都 機動警察パトレイバー 正義の味方 水虫 瀧伸 無神経 特車二課 独身 猫背 監督 第二小隊 策士 能ある鷹は爪を隠す 苦労人 警備部 警察 警察官 警視庁 警部補 運動不足 隊長 頭かいいわ 頭脳派 黒帯 みんなで幸せになろうよ プロフィール ごとうきいち 機動警察パトレイバーシリーズの登場人物 CV 大林隆介 実写版のシルエットは瀧伸 警視庁警備部特車二課第二小隊の隊長を務める中年男。階級は警部補。 東京都台東区入谷の出身で、大学を卒業後に警視庁へ奉職。派出所勤務からスタートして新宿署や本庁公安課等を経て特車二課の隊長職に収まった。 本庁時代は"カミソリ後藤"の名で知られた切れ者であった。 が、とある理由によって閑職である特車二課に島流しも同然に左遷されたとされる。親交の深い松井刑事に言わせれば「キレすぎた」為であるらしいが詳細は不明。 そういった過去やプライベート等も含めて謎の多い人物で、部下の隊員達がそれを探ってやろうと盛り上がっていたこともあるが、大体は煙に巻いている。 二課にやって来てからというもの「切れ者」として鳴らしていた過去を微塵も感じさせない風貌と振る舞い。緩めたネクタイに水虫予防の為にサンダル履き、気怠るそうにタバコを吸ったり新聞を広げるその姿は正しく昼行灯。 だが、いざというときは往年の冴えっぷりを存分に発揮し、更には人を自分の意のままにコキ使う動かす油断のならない男。 競馬、ゴルフ、カラオケ、釣り等々多彩に趣味を持つ。 ベテランの警官らしく柔道は黒帯の腕前だが、特に発揮される場面はない。 隊長として 上位下達の階級社会である警察組織にあって「命令も強制もしない」をモットーとし、部下の隊員に対して階級や役職に物を言わせるようなことも一部の例外を除いてあまりなく、各々の自主性を尊重する放任主義。 普段の訓練から出動先での立ち回りまでを自由にやらせており、自分がだらしないこともあってハメを外すことにも寛容。 更にはそれで失態を犯すようなことがあっても怒鳴り込み散らすようなことはない。 無論完全に放置を決め込んでいるわけではなく、現場では自由にやらせつつも時と場合を見て助言を与え、目に余るようなことがあればそれとなく諌めて自制を促している。 基本的には柔らかい態度で諭すことが多いものの、時には厳しい態度で迫ることもあり、胸ぐらを掴んで凄味を利かせた場面もあった。 また隊内の士気や人間関係にも気を回しており、年若く未熟な部下達に社会人の先輩としてアドバイスを送ることも。また、慣れないフォローに苦心することもあり、野明と香貫花の間に諍いが起きたと見るやわざわざ金を借りてまで飲み会を催している。 このように気配りの巧みさや部下に責任を持っていかない懐の深さを見せる後藤であるが、劇場版二作目では南雲が不在であるにも拘わらず第一小隊に任務を引き継いで帰りたがる部下に「まぁ、良いか」と帰宅を認めながらも本人が去った後で「良い訳ないじゃないの」と嘯くという一幕があり、本当にやる気のない者は全く相手にせずに早々と愛想を尽かすシビアな一面を覗かせた。 導いても救えないものは早々に切り捨てている、ようなもの。 才気 何もない時はいい加減でテキトーなオヤジであるが上にも書いた通り往年から培ってきた頭脳の切れ味は健在。 長年警察官として勤め上げてきた経験と余念なく収集した情報に裏付けされた洞察力は中々のもので、内海や帆場・甲斐や柘植といった「見えない敵」の行動や目論見をいち早く予見し、捕まえる為のお膳立ても怠らない。 「正義の味方」としての己の信念から事件解決という目的に手段を選ばず、責任問題をちらつかせて上層部に黙認を決め込ませるのは最早十八番と言っていい。 人使いもかなり荒く、個人的な興味から遊馬や松井といった他人をタダ働きも同然にコキ使って調べさせたり、上司の福島課長に無茶な手回しを要求したこともあった。 この男の策謀に振り回されながらも頼まれたことに応えてみせる彼らの苦労は察するにあまりある。 ミニパトでは特車二課の貧相な食糧事情と財政を解決するべく、秘密裏に整備班特製『ハゼの干物』を密売する大規模なネットワークを作り上げたことが語られ、南雲隊長から「警察官になっていなければ、稀代の詐欺師になっていた」と評された。 後藤の悪知恵・謀略に割りを食わされる人間は数多く、とある元上司は後藤本人や第二小隊に嫌がらせを繰り返した挙げ句自作レイバーによる二課棟襲撃という暴挙に及んでいる。 人間関係 本庁に所轄、果ては商売敵までありとあらゆる方向に人脈とコネを持ち、それらを通して非公式な協力を取り付けたり持ち出し禁止の資料を入手したりするのはお手のもの。 こういったシンパの中で特に親交が深いのが捜査課の松井刑事であり、プライベートでも情報交換に勤しみつつ一緒に飯を食べたりしている。 一方、上司の側からしてみると「何をしでかすかわからない」ところや、自分以上の能力を垣間見せるところが不気味がられているようで、嫌われる描写が多い。 後藤の側もしばしば(無能と見定めた)上司に責任を押し付けたり、ひどい時には策略でもって破滅に追い込んだりしている時がある。 あまりにも機敏すぎる割に掴みどころがないため、「使う側」の上司にとっては「使いにくい」としか思えないようだ。 もっとも、漫画版の福島課長とは何だかんだで息の合うところも垣間見せており、 福島課長が強い信念や優れた直感を垣間見せた際には(課長も警察官だよ)と頼もしげな表情を浮かべている。 まあ、事件後に上手いことやって全額課長のポケットマネーで課の飲み会をやらせたりもしてるが アーリーデイズでは学生時代に思想家の甲斐冽輝と交流があり志を共にしていたが、彼が過激派ということもあり後に決別している。 人望は厚いが女性とはあまり縁がない様子。 同僚である南雲しのぶとは頭が上がらないと同時に高い信頼を寄せるさながら熟年夫婦のような関係であるが中々進展には至らない。とあるエピソードで一緒に一夜を過ごした時は千載一遇の好機があったものの、「あと一歩」が踏み出せず終わっている。 小説版「ブラックジャック」では祐子という名の妻との死別が語られており、昼行灯と化した要因の一つとされている。(*1) 実写版での特車二課隊長で自身の再来とも呼ばれる後藤田継次は後輩であり、彼の隊長就任以前から面識がある。 彼からは尊敬されているようだが、後藤自身は詰めの甘いところのある彼の手腕を「一言余計」と評している。 余談 話し方、口調は担当声優の大林隆介に寄せて作られたらしい。ちなみに大林氏は小さい頃父親に「昼行灯」と言われていたといい、後藤も「昼行灯」と言われてびっくりしたと語っている。 キャラクターの造形は俳優の仲代達矢で、「みんなで幸せになろうよ」という名言は仲代氏が映画で言ったセリフである。 名前の元ネタは警察OBで官房長官も努めた後藤田正晴氏と元首相の宮沢喜一氏から。「後藤田」の名は劇中で何度か偽名に使われている他、後任の隊長に就任した後輩も後藤田という名前である。ちなみに後藤田氏も「カミソリ」というあだ名があったが、「切れ者→切れ者と言えばカミソリ」からの着想が元になっているとのことなので、こちらは別に元ネタという訳ではない。 実写版では太田・進士と共に小さな警備会社を設立するも、放漫経営が祟って一年足らずで倒産したとのこと。その後の消息は分からないが劇中でその後の二課に関わる行動をとっている。 今野敏原作の「安積班シリーズ」の1作『夕暴雨』にも名前で登場。この作品では、主人公・安積剛志警部補の同期という設定。 押井監督に言わせると後藤が部下の中で思い入れがあるのは実は太田らしい。何でも「自分にないものがあるから」とのこと。 だから、追記・修正しろと言ってるんだ!! △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 初期OVAやら漫画版やら劇場版やらTV版やら小説版やらで、微妙に設定や性格違うんだよなこの人。死んだ奥さんがいた場合とかもあるし -- 名無しさん (2020-12-31 23 07 29) 外伝小説辺りでカミソリ後藤時代の話も読んでみたいな。 -- 名無しさん (2020-12-31 23 43 37) 二課で憧れる男って言われると後藤隊長か太田に二極化するイメージ -- 名無しさん (2020-12-31 23 48 05) ↑3 漫画が好きなかなあ。 -- 名無しさん (2021-01-01 09 55 05) 横手美智子の小説はアーリーデイズの延長線上(後藤の姪っ子が出る熊耳初登場の話がある) -- 名無しさん (2021-01-01 11 59 55) 第一小隊を引き立て役にするとかの悪賢い作戦は当初は主役がやる予定だったが、企画を練る中で隊長が全て担うことになったとか -- 名無しさん (2021-01-01 12 14 20) 理想の上司ってタグあるけど、マジかよ。俺絶対いやだわ。 -- 名無しさん (2021-01-01 17 05 34) この人が派出所勤務してる光景はイマイチ想像できない -- 名無しさん (2021-01-01 17 33 48) 緊急時には来て欲しいけど、毎日会いたい人間ではない -- 名無しさん (2021-01-01 17 53 18) ↑3俺も嫌だわ。警察官としての正義感や矜持を大切にしてるのは分かるけど、それを良い事に他人をコマ扱いして顧みないところあるよね。南雲隊長や遊馬に「そういう人の動かし方やめて」と苦言を呈されてるし。 -- 名無しさん (2021-01-01 18 34 38) 渋みはあってカッコいいし正義の側に立ってるけど、主義主張の方向を抜きにした本質的には「悪い大人」だから近付くのは遠慮したいタイプ。そういや恋は雨上がりの店長はずっと後藤隊長って言われてたよな -- 名無しさん (2021-01-01 18 42 32) ↑ゆうきまさみが一筆寄越す始末 -- 名無しさん (2021-01-01 19 38 01) 外から見てる分には楽しそう?だけど関わりたくはない人 -- 名無しさん (2021-01-01 21 39 59) どっちかと言うと「組織においてこういう感じのポジションになりたい」と憧れるタイプの人だと思う 現実になれるかはともかく -- 名無しさん (2021-01-01 21 58 39) 右京さんと似た立ち位置になるのかな~。 -- 名無しさん (2021-01-12 13 15 49) 多分リアルにこの人が上司だったら、仕事のミスとか軽いサボり(仕事の外出中のちょっと寄り道とか)とかも全部把握されてて、手伝ってくれなきゃ困る時にぼそっと言われんだろうなって怖さはある。逆にヤバい時とかは何か裏で手をまわしてどうにかしてくれそうな信頼感もあるが。 -- 名無しさん (2021-01-12 13 26 47) 本質的に社会のルールや法律ではなく自分の内なる正義で動く人だから警察官としては不適当かも。もっとも正義感の無い警察官なんてそれはそれで不適当だから悩ましい所ではあるが -- 名無しさん (2021-01-16 00 23 47) 才能がある人間には合うタイプだと思う。秘めた才能を極限以上に引き出して、しかもどこまで伸ばしても使いこなしてくれる。けど才能がない人間は、捨て駒にも使ってもらえない。玉は磨くが石ころは捨てる。俺はこんなもんじゃない、もっとやれるんだ!世界に挑んでやる!と言う人には向いているかもしれん(気負いほどの才能がなければやっぱりポイ)が、俺はほどほどで、安息こそ正しい、という人間には見向きもしない。そうした二面性が合う合わないの境目だと思う。福島課長が漫画版だけ気の合う感じだったのも、漫画版課長に熱意があったからだろう。そういう熱意なり才気なりがない凡人には、まったく気性が合わないんだろうな。 -- 名無しさん (2021-01-16 01 00 27) 漫画版の福島課長は後藤さんの含みのある会話にきっちり付いてきてたし、頭のキレも良かったしな。中年になった今はむしろ福島課長のあり方に心惹かれるものがある。 -- 名無しさん (2021-02-19 07 23 43) 廃棄物13号篇での福島課長と後藤隊長のやり取り、いいよね… -- 名無しさん (2021-02-22 00 10 23) 後藤隊長は有能な上に良くも悪くも「本質を見抜く」人間だからな、それも「やる時はやる(出来なくとも気概を見せる)」人間以外は切り捨てるタイプ。下手な演技や取り繕いが一切利かないんだから、上司に持つにせよ部下に付かれるにせよ恐ろしい事はこの上ないなw -- 名無しさん (2021-08-01 10 06 28) やる気があって好ましい(あるいは面白い)人材には好意的かつ面倒見の良さでフォローしてくれる(その分そいつの能力を把握して限界までこき使う場合がある)けど、劇場版2の新しい部下みたいにやる気自体皆無なやつを導く気が起きないから人によって評価がすげえブレそう -- 名無しさん (2022-07-06 20 53 37) おそらく作中最もやる気がない人だよね。人使いの上手さと本質を見抜く目は相当なもんなのに、徹底して警察官姿勢を崩さないし。頭が切れすぎて飛ばされたらしいけど、飛ばされて色々冷めちゃったのかね。 -- 名無しさん (2022-07-06 21 15 30) アーリーデイズの頃のイメージアルバムに「夜の桜」というテーマ曲がある。大林氏が歌っているのだが、相当緊張していたとのことでほぐすために泡の出るジュースを飲んだという、どっかで聞いたようなエピソードもライナーノートにあった。 -- 名無しさん (2022-08-09 06 29 38) 「有能なのは分かるけど、使われる側にしたらたまったもんじゃない」タイプ。それでもなんだかんだ二課の面々に慕われてるのは、行動の理由が出世とか利益じゃなくて正義感だからか。 -- 名無しさん (2024-06-28 00 35 06) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/bs-2ch/pages/25.html
後藤光尊 右投左打、内野手、背番号1 ニックネームは「ゴッツ」、「ごっつぁん」 奥さんは元グラビアアイドルのますみ夫人 高校時代は甲子園出場、その後大学へ進学したが その才能を妬んだ先輩に履修登録日に監禁され、留年させるといういじめを受け退学。 しかしその後、川崎製鉄千葉に入社し、都市対抗野球で若獅子賞を獲得、日本代表にも選出され ドラフト10位でプロ入りを果たしたという華やかなプレースタイルとは裏腹に壮絶な人生を歩む苦労人である。 なお、中学時代にはラグビーも掛け持ちしており、名門校にスカウトされるほどの実力を持つ。 (この経験がアクロバティックな守備の礎となっている?) 難しい打球を捌いてみせたかと思えば、イージーゴロをトンネルするファンタジーな守備と 期待していないところでヒットを打つ空気の読めない打撃が得意技 また、悪球打ちも得意でインローの捌きが非常にうまい。 その活躍っぷりにファンは「もっと後藤しっかりしろ」と言いながらも愛されるネタキャラクター 2chでは生意気でぐうたらなネタとして登場するが、本人は練習熱心で極めてまじめな選手である 左投手が苦手であり通算打率は1割台という打てなさっぷりだったが (そのため左投手相手の阿部真宏、右投手相手の後藤と併用が長く続いた) 2007年後半より成長を見せ2008年は二塁レギュラーを完全に手中にした 2008年は規定打席に到達し成績打率.285、本塁打14本、打点57、盗塁13個はチーム日本人内トップ 大石監督からも「内野の要は後藤」と言われるまでの成長を遂げた 2008年シーズン中にファインプレーで右肩を脱臼 選手生命が危ぶまれる大怪我だったのだが一ヶ月少々で一軍に復帰 守備も軽快、さらに以前以上のペースで打ち始め、改めて後藤のファンタジーなキャラが際立つ事になった 2009年は5月に右太ももを肉離れし、早々に戦線離脱。 さらに復帰を焦り、ケガを再発しまい復帰は9月にまで遅れてしまい満足な成績を挙げれなかった。 2010年はどんでんに3番に抜擢され、当初オリファンたちには重責すぎると思われたが チームリーダーしての自覚が生まれ今までは不安定だった打撃が見事開眼。 3番にふさわしい成績をマークし、打率.295、16HR、73打点とキャリアハイの成績を残した。 2010年オフにFA宣言を行使し他球団(中日などが獲得を狙っていた)に移籍すると思われていたが、 11月28日のファンフェスタにて「来年もこれからもオリックスでプレーする事になりました」と残留を表明。 ドラフト大失敗・カブレラ放出などの暗いニュースが続いてきたが、 ファンからの人気が高い後藤の残留は久々の明るいニュースとなった。 2011年はいつも通り序盤に苦しむも終盤にかけて調子を上げ統一球で球界の平均打率が大きく下がる中で自身初の3割を達成した。 http //www.nicovideo.jp/watch/sm5941134 / ̄~ヽ / |___Bs_)_ / (・) ゚∀゚) ミ ⊂===⊂ ⊂ ) ☆ ( ヽ) し(_)