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中国、唐の音楽家。 字は劉二(次)郎。 『日本三代実録』、『平家物語』巻七「青山之沙汰」に、 承和年間に入唐した掃部頭藤原貞敏が廉承武より琵琶の秘曲 (『平家物語』では玄象、青山、獅子丸の琵琶三面も)を授かったとする記事が載る。 •『平家物語』巻七「青山之沙汰」、他『古事談』『十訓抄』に、村上天皇が玄象を弾じた際、 廉承武の霊が現れ、秘曲を授け残したため魔道に沈んでいると訴え、 [[青山]]を弾いて「上玄」「石上」(じょうげん、せきしょう)の二曲を伝えた、という話が載る。 参考文献 『平家物語(七)』 平家物語(七) (講談社学術文庫)
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琵琶の名器。 『平家物語』巻七「青山之沙汰」によれば、仁明天皇の御宇に、 掃部頭藤原貞敏が、同じく琵琶の名器である青山と共に唐より持ち帰ったとする記述がある。 『平家物語』巻七「青山之沙汰」、他『古事談』『十訓抄』に、村上天皇が玄象を弾じた際、 廉承武の霊が現れ、秘曲を授け残したため魔道に沈んでいると訴え、 青山を弾いて「上玄」「石上」(じょうげん、せきしょう)の二曲を伝えた、という話が載る。 また、『平家物語』および『吉記』によれば、この玄象は平家都落ちの際に、平時忠により、 和琴の名器「鈴鹿」と共に持ち出したという。 参考文献 『平家物語(七)』 平家物語(七) (講談社学術文庫)
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浙江省寧波市太白山の麓に所在。 中華五山の一つ。 『平家物語』巻三「金渡」の段に、平重盛が三千両の金を宋の育王山阿育王寺に贈り、 己の後世を弔うように申し伝えた、という記事が載る。 (この記事は延慶本など諸本に見え、『平家物語』成立のかなり早い段階から存在した逸話と見られる) 参考文献 『平家物語(三)』 平家物語(三) (講談社学術文庫)
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中納言藤原家成の三男。 鹿ケ谷の陰謀に参加。 『平家物語』では、陰謀発覚後、吉備津神社の後方にある小山(中山)で、 鉄のさすまたを並べた上に落とされて絶命したとされている。 また『平家物語』「鹿谷段」に、左大将のポストが空いた際、その職に就くため石清水八幡宮に百人の僧を籠らせ 大般若経を読ませたところ、摂社の甲良大明神の御前にある橘の木に山鳩が飛んできて、 互いに食い合って死に、占いの結果「天下騒動の前兆」と出た、といった怪事の記事が載る。 参考文献 『平家物語(一)』 平家物語(一) (講談社学術文庫)
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琵琶の名器。「せいざん」と読む。 『平家物語』巻七「青山之沙汰」に、仁明天皇の御宇に掃部頭藤原貞敏が 唐より玄象と共に持ち帰ったとする記事が載る。 『平家物語』巻七「青山之沙汰」、他『古事談』『十訓抄』に、村上天皇が玄象を弾じた際、 廉承武の霊が現れ、秘曲を授け残したため魔道に沈んでいると訴え、 青山を弾いて「上玄」「石上」(じょうげん、せきしょう)の二曲を伝えた、という話が載る。 また同書に、平家都落ちの際、平経正が仁和寺の御室、守覚法親王に この青山を返却した話が載る。 参考文献 『平家物語(七)』 平家物語(七) (講談社学術文庫)
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『平家物語』巻十二「土佐房被斬」の段で、源義経暗殺のために源頼朝より派遣された刺客。 系譜未詳。 『平家物語』では昌俊の義経襲撃は1185年(元暦二年)九月三十日、 『吾妻鏡』『百錬抄』では十月十七日。 『玉葉』には昌俊の名はなく、同日に小玉党が義経を襲撃した、とある。 『平家物語』では、昌俊は義経を襲撃するものの失敗し、 鞍馬山へ敗走、僧正ヶ谷で現地僧に捕縛され、六条河原で斬られたとしている。 (zsphereコメント:無論の事、僧正ヶ谷といえば義経が幼少の頃、鞍馬山大僧正に剣術を教わった場所。 果たして関係あるやなしや) 参考文献 『平家物語(十二)』 平家物語(十一) (講談社学術文庫)
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『平家物語』巻四に記す、源頼政が鵺退治の功績により、近衛天皇より下賜された剣。 参考文献 『平家物語(四)』 平家物語(四) (講談社学術文庫)
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『平家物語』覚一本に縁起譚が載る。いわく、 善光寺本尊の阿弥陀如来は、中天竺の舎衛国で疫病が流行したために、 釈迦、目連、月蓋長者が竜宮城から閻浮檀金(えんぶだきん)という砂金を得て 作ったといい、のち百済を経て日本に来たと伝える。 この本尊について、信濃国の農民本田善光が如来像を信濃に運ぶ際、 昼は善光が阿弥陀を運び、夜は阿弥陀が善光を背負ったという。 (この逸話は同じ『平家物語』でも屋代本、八坂系諸本などには無いといい、 『善光寺縁起』などを元に、比較的後に挿入されたのではないかと見られているとか) 参考文献 『平家物語(二)』 平家物語(二) (講談社学術文庫)
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『平家物語』巻四「信連」の段、平家打倒の動きが露見した以仁王が御所から園城寺に移る際、 女装して身を隠し移動する描写がある。 その姿のまま軽々と溝を飛び越え、周囲の人々に「はしたなの女房の溝の越えやうや」と訝られたとか。 参考文献 『平家物語(四)』 平家物語(四) (講談社学術文庫)
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伊賀守藤原有家の子。 1004年(寛弘元年)生まれ、1084年(応徳元年)没。 権僧正心誉の弟子。 頼豪が戒壇建立が成らなかった怨みのために鼠となったという記事は『神明鏡』『尊卑分脈』にあり、 『平家物語』延慶本もこの逸話を載せる。 『平家物語』覚一本、巻三「頼豪」の段では、断食して抗議の餓死をしようとする頼豪をとりなすため、 頼豪を師僧としている大江匡房が遣わされている。 史実では頼豪の没年は1084年(応徳元年)五月四日で、 説話で頼豪が取り殺したとされる敦文親王の没年はその七年前の1077年(承保四年)、 死因は赤斑疱瘡によるとされている。従って説話で語られる内容と合致しない。 (zsphereコメント:この手の説話ではよくあること) 参考文献 『平家物語(三)』 平家物語(三) (講談社学術文庫)