約 7,432 件
https://w.atwiki.jp/suana/pages/16.html
冒険者ギルド 魔術ギルド 盗賊ギルド 大道場 プチパルギルド メイド協会 フィドル聖教団 ドルイド教団 魔人教団 本山 幕府 海魔神殿 ブラックマーケット 天竜傭兵団 暁傭兵団 金十字魔法師団 フィドル聖堂騎士団 タランチュール ショクシュ教 秘密結社セト
https://w.atwiki.jp/bargikopoi/pages/222.html
ギコっぽいの裏を操るギコぽい幕府旗本(幹部)である。 いきなり卑猥な言葉を連発するがいざ喧嘩となると神並みのタイプ力と語彙力を用いていままでに10数人を論破させている。 要注意人物である。
https://w.atwiki.jp/okodukai/pages/4.html
☆メール受信で稼ぐ ちょびリッチ Info-Cash ゴールドハンター フルーツメール ECナビ スターポイント GetMoney! だぶるくりっく ネットマイル POINTBET POINTIN まんぷく島 CMサイト stock style W-Point 得だわ幕府 ポイントアドベンチャー POPOT げん玉 ポイントタウン
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/34811.html
登録日:2016/07/18 (月) 01 58 35 更新日:2024/05/07 Tue 21 59 23NEW! 所要時間:約 20 分で読めます(折り畳み部分抜きで約14分) ▽タグ一覧 Lone Wolf and Cub SHOGUN ASSASSIN アイズナー賞 クエンティン・タランティーノ ストイック フランク・ミラー ロード・トゥ・パーディション ワンマンアーミー 一人の軍隊 三船敏郎 主人公 乳母車 人類最強候補 仕事人 公儀介錯人 冥府魔道 剣士 剣聖 剣豪 劇画 北大路欣也 子連れ狼 小島剛夕 小池一夫 手榴弾 拝郷家嘉 日本刀 日本男児 時代劇 漆黒の意思 漢の中の漢 漢の義務教育 無双 田村正和 真の漢 胴太貫 若山富三郎 萬屋錦之助 高橋英樹 拝一刀とは、小池和夫作の劇画漫画を原作とし、数度に渡ってドラマや映画にもなった名作『子連れ狼』の主人公である。 ■人物 かつて江戸幕府の公儀介錯人(こうぎかいしゃくにん)を務めていたが、公儀介錯人の職を狙っていた裏柳生(*1)の総帥・柳生烈堂の策略によって濡れ衣を着せられ、当時はまだ数え年で一歳の我が子・大五郎と共に江戸を脱出。 それ以降は刺客を請け負いながら、過酷な放浪の旅を続けている。 その貫録を表現するために実写化の際は皆高齢の役者ばかりが選ばれるため、一刀と大五郎は祖父と孫にすら見える。 しかし、この拝一刀、大五郎が産まれ、刺客業に手を染めた時点でまだ20代。 つまり、最も長生きした場合で見積もっても享年32歳。生き急いだ人生である。 一端の剣客なら知らぬ者は居ないほどで、真の剣聖と称賛された人物であったが、作中では歳月を経て更なる高みへと至った。 また、元々幕府の重臣として城勤めをしていただけあり、農耕や商業、治安維持体制など政(まつりごと)に関わる知識も豊富。 対柳生に備えてか、多種多様な軍略、剣術流派にも精通している。 毒や人質を始め数多の策略や攪乱を潜り抜けた彼に最早そうした業は通じず、催眠等の精神誘導も含む全てを看破する無心の境地をも会得。 心技体の極致に到達した彼はありとあらゆる苦境を打開していく。 同じく1970年代に連載が始まった名だたる名作にして若干先輩の『ゴルゴ13』の影響も指摘されているが、イメージとしては、その力量や振る舞いはいわば時代劇版デューク東郷。 彼に息子への愛情を加えて、銃技を剣技に置き換えた存在だと思えば良いだろう。 恐らく、無数の達人がひしめき合う時代劇というジャンルにおいて最強の剣士である。 一子・大五郎を箱車に乗せ、親子で「冥府魔道を往く者」と自称し、刺客業の遂行以外は可能な限り俗世との交わりを断っている。 彼への依頼方法は、牛頭馬頭の描かれた六道護符(*2)を貼った依頼人に対して、一刀が石で作った道中陣で自身の居場所へ誘導して依頼を聞く、という手順。 六道護符を目立つ場所に貼り出しながら子連れ狼に出くわすまで街道を練り歩く手もあるが、いずれにせよ余程切羽詰まっている依頼人以外からは話を聞かない。 刺客の依頼料は、標的一人につき500両(*3)。 諸藩の家老クラスですら容易には調達出来ない莫大な金が依頼には必要となる。 最終的に貯めた合計額は5万両を優に超えている。一刀は刺客をおおよそ5年ほど続けているため、柳生や賞金稼ぎ達の奇襲を退けつつ、最低でも2週間に一度は仕事をこなしている計算になる。 宿敵たる裏柳生は、普段は多勢で一つの的に群がる卑劣な戦法にも及ぶものの、腐っても柳生。 たとえ下級の忍草(しのびぐさ)であっても、2人も居れば小藩の剣術指南役とも渡り合える、剣術に秀でた精鋭軍団である。 一刀はそれらが頭数2桁の集団で襲いかかって来ようとも、さして苦もなく蹴散らす。 小藩のへっぽこ侍が相手であれば、長巻など刀以外の武器も駆使し、時には火縄銃による狙撃すら体捌きで掻い潜り盾を使って一斉斉射を凌いで、冗談抜きで数百人だろうが相手してしまう。 その気になれば小藩程度ならば単独で真正面から叩き潰せるその様は、最早「人間兵器」と呼ぶにふさわしい。 ■公儀介錯人 公儀介錯人についてだが、これは現実には存在しない架空の役職。 作中の江戸幕府には、諸大名が死神のように恐れる強大な役職が存在する。 幕府や諸藩の不正を取り締まり、藩取り潰しの口実を探る公儀探索人(と裏柳生忍草)を取り仕切る「総目付」と、幕府から切腹を命じられた大名の介錯を行う「公儀介錯人」である。 この公儀介錯人は、幕府が取り仕切る介錯の代理人として、将軍と御三家のみに許された三葉葵の紋を着用して公務にあたる例外的存在。 つまり、限定的ながらも将軍家の代理人として、腐っても高貴な存在である大名を手にかけるだけの重責にふさわしい人材が務めなければ将軍家の沽券にかかわる……という基準で選定される。 そのため、公儀介錯人という役職は、江戸幕府が「剣術・知識・精神、全てにおいて武士として日本一」と公認した証として機能するのだ。 そんな事情ゆえ、将軍家にとって「元・公儀介錯人」が「刺客・子連れ狼」として活動を続けるという事実が存在することは 「ねぇねぇ、公儀介錯人が刺客に堕ちた今、どんな気持ち?」 「『刺客に堕ちる外道こそ当代幕府にふさわしい日本最高の剣士である(キリッ』とか太鼓判押しちゃったも同然な将軍様、今どんな気持ち?」 と全身全霊で煽られ挑発され続けているに等しく、幕府の威信を揺るがす恥辱として捉えられている。 そして、一刀に自分の行ってきた謀略を暴露されないためにも、烈堂は他の人間を介入させず柳生家のみの手で一刀を始末する必要がある。 にも関わらず、一刀の始末を一任しておいていつまでもそれを達成出来ない。 そんな状況は烈堂を追い込み、柳生家を困窮させる助けにもなる。 ■冥府魔道 作中の人物が語る「冥府魔道」とは、作者の造語であり、その人生観についての詳細な解説はない。 ありていに言えば「自ら人としての幸福を捨て、外道に堕ちた者」とでもいった意味合い。 原作において、高潔な人物だった一刀が冥府魔道に自ら堕ちた理由については明言されていない。 しかし、一族郎党は無論、身籠っていた妻も柳生の手の者に問答無用で斬殺。 ただ一人、大五郎だけが妻の亡骸から自ら這い出て、臍の緒が繋がった状態で泣いていた(*4)――そんな惨状に加えて、逆賊の濡れ衣を着せられ、大切に継承してきた家督は潰され、裏柳生が相手では弁明の余地も機会もない。 何もかも奪われた一刀の柳生への怨念は相当なものであり、その柳生に対抗して復讐を果たせる唯一の手段は、最早刺客業しかなかったことは容易に想像できる。 一刀が刺客となって金の亡者に堕ちたか、と言われればそれは違う。 柳生との決戦に備えて莫大な資金が要るという事情もあるが、一刀自身、人の命の重さ、刺客業が最低の生業であること、自分に刺客を依頼するのは地獄の牛頭馬頭にすらすがるしかない者の最後の手段ということを強く意識している描写は数多く見られる。 元来、極めて高潔な人間だっただけに、自分自身が地獄の牛頭馬頭そのものになるまでに堕ちたと諦観する趣もあるが、命や誇りを賭して自分に依頼を持ち込んだ人間には、たとえ依頼料を捻出出来なくとも誠意をもって応じる。 さる老中がぼんくら揃いの藩の存続を想って一刀に依頼し、その成就のために頼み人である忠臣達が命を落とした案件では、依頼料だった千両もの価値のある名刀を、「忠臣達への弔いと藩の老中達への戒めのために、藩の家宝にしろ」と告げて突き返している。 武士としての忠義を果たし藩を守るために死んだ者であれば、自分や息子の命を狙った相手でも称賛する――そんな、武士としての矜持は今も一刀の中に残っているのだ。 ■一子、大五郎に対して 一刀は大五郎と共に冥府魔道を往く運命にあると覚悟を決めている。 柳生への復讐のみに人生を捧げ、「冥府魔道を往く我ら親子は士道に非ず。人の世とは縁を切った」といった主旨を他人に語る。 その復讐の旅の過程で、たとえ大五郎が人質に取られようとも、それで死ぬべき運命であれば止むなしという姿勢を貫き、時に見捨てるような行動にも平然と及び、「父が帰らなければ共に死ぬしかない」と大五郎に言い聞かせることもある。 しかし、これは一刀が自分自身に言い聞かせるための宣言に等しく、同時に大五郎に自分達親子の歩む先の厳しさを諭すためでもある。 見捨てるような行動に出るのも、そうしなければ二人揃って死ぬ公算が高い時のみであり、本心では大吾郎の安否とその行く末が気になって仕方がない。 大五郎の行く末に関しては一刀自身相当な負い目があり、他者からそれを指摘されれば、珍しく声を荒げることすらある。 上記の台詞に反して、一刀が刺客業の最中に仕損じて道半ばで死んでも、大五郎が独りでも生き延びられるようにとサバイバル技術を叩き込んでいる。 大五郎が高熱で倒れた時には、 「大五郎を救ってくれれば、柳生への復讐を果たす悲願を叶えぬままこの場で自分の命を奪っても構わない」 と大願を擲って地獄の牛頭馬頭や羅刹に祈りを捧げるまでに、厳格に徹しきれない深い愛情を抱いている。 実は手に入れた膨大な依頼料を全て投擲雷などの対柳生に注ぎ込んではおらず(*5)、まだまだ残る莫大な遺産を大五郎に遺し、その場所の手掛かりを胴太貫に隠していた。 恐らく自分一人命を落とし、幼い子を雨の中骨にしかねない一刀の心情が窺える(*6)。 ■主な技と武器 水鴎流 様々な流派の中でも名高い「水鴎流」を一刀は極めている。 古流らしく槍や弓、体術とあらゆる武術に精通しているが、その卓越した所作ゆえか特に足場が悪い川や池でも全く動きに衰えがないという特徴がこの流派にはある。 川などの水場に敵を誘い込み、下段に構えて水面下に刀身を隠して、敵に間合いを錯角させつつ、水によって敵の足運びが鈍っている隙を突いて切り上げ仕留めるという奥義「波切りの太刀」はその特徴が顕著に現れた一太刀である。 強敵に対して一方的優位に立てる反面、使い手も水をものともしない錬度でなければ水がそのまま枷になる。 自身と刀の長さを完璧に把握し、踏み込む川の深さを切り合いの中で瞬時に看破するのが前提条件になる。 水鴎流は「水鴎流居合剣法」という名で実在するが、この作品を執筆していた際には作者がその存在を知らずに筆を進めていたため、漫画原作においては架空の流派である。 波切りの太刀以外の奥義として、敵が乗馬しつつ川を渡ろうとしている際に水中に潜んで昇龍拳の如く馬上の敵を馬ごと切り上げる大技「水鴎流斬馬刀」などもあるが、どっからどう見ても人外の技である。こんな所業を現実で成せる訳が無い。 ただし、実写作品も含めむ今では、全く無関係というわけでもない。 その存在を知った作者は後にこの流派を実際に学び修得した他、一刀を演じた萬屋錦之介氏も実際にこの流派を学んで烈堂との決戦の殺陣に反映させているからである。 ある程度アレンジは加わっているが、この流派の所作を作品から窺い知ることも出来る。 胴太貫 戦国時代に鍛えられた実戦刀。 甲冑だろうが石灯篭だろうが問答無用で真っ二つにし、並の刀であれば一合目で容易く断ち割ってしまうため、文字通り太刀打ちはほぼ不可能。 刃渡りが長く分厚い拵えの所為でまともに振るうことも難しく、江戸の世においてこれを帯刀しているのは常軌を逸するほどの達人か、必死で虚勢を張る無知な阿呆のみ。 「斬馬刀」という技については上述したが、その切れ味故に映画やドラマにおいては、この胴太貫もまた斬馬刀と称されることがある。 歴代山田朝右衛門のうち、胴太貫を所有していた三代目吉継(*7)とも一刀は勝負したが、まず二人は準備運動代わりに石仏3体を真っ二つにしている(*8)。 色々突っ込み所が多過ぎて戸惑う話だが、この胴太貫の威力が見て取れる。 現実に存在する刀「同田貫」と同一視して謳い文句にする資料も度々見かけるが、これらは元々は全く別の刀だった。 まず、この胴太貫は清水甚之進という尾張の刀鍛冶の作品という設定。 もう一つの柳生にして新陰流の正統にあたる(*9)尾張柳生が愛好する刀鍛冶の作を振るう拝一刀と、江戸柳生の烈堂の戦いという、昭和期における時代劇の解釈を込めた意図(*10)があると推察出来る。 対して、現実の同田貫は九州の方の肥後菊池一族の中の一派が生み出した刀であり、縁も由も無い。 しかし、流石に独り歩きし過ぎて巨大化した 「胴太貫=同田貫」 という宣伝文句を歴史から抹消することも出来ないためか、続編『新・子連れ狼』では同一の刀という設定に変更されている。 読みの方も、同田貫は「ドウ“ダ”ヌキ」と読むのだが、この作品の存在によって「ドウ“タ”ヌキ」と言う呼称がメジャーになったという経緯がある。 このあたりは、商業的大人の事情も見え隠れする。 箱車 時代劇を知らない人でも『子連れ狼』と聞けば誰もが連想するだろうアイテム。 『子連れ狼』のパロディ作品において、一刀や特に大五郎が戦闘サイボーグ化する原因である。 江戸時代にこういう乳母車の類は存在しないが、全て一刀オリジナルなので気にしてはいけない。 一刀の工夫が様々な所で施されており、仕込み武器だけでなく、防水加工によって緊急時に船代わりに使ったり、車輪を車体の下に取り付けソリにして雪上を滑ったり出来る。 以下は仕込みの兵装。 長巻 手摺の部分には仕込み刃があり、連結しても使える。長さ違いが合計3本。 手裏剣のように気軽に投げることも出来るため、いろんな場面で重宝する。 鉄板 箱車の底に分厚い鉄板を仕込んでおり、咄嗟の時に盾にする。 一刀と大五郎を銃弾の雨から救ってきたナイスガイ。 だが、どう考えてもコイツのおかげで乗り心地は最悪である。 大五郎にとっての冥府魔道とは、痔との戦いだったのかもしれない。 斉発銃 箱車最大のアピールポイント。『子連れ狼』の箱車と言えばコレ。 20丁の火縄銃を一斉に撃つだけだったが、後に連射式に改造するための設計図を入手。鍛冶場を貸し切り、単独で改造した。 あまりにも強烈な存在感を放つため、こいつをとにかく乱射して有象無象をなぎ倒すイメージが根付いている視聴者も多く、実際映画版でもそうして一刀無双を開幕している。 しかし原作では、この秘密兵器は対柳生戦では一切出番がない。 柳生に渋々従う公儀探索人「黒鍬衆(くろくわしゅう)」の軍勢相手に一度使ったのが、集団戦での最初で最後の使用例。 後は威嚇射撃くらいで、柳生との最終決戦に至っては奇襲によって使用前に箱車ごと破壊された。 荒唐無稽が過ぎる代物だからか、北大路版では存在が抹消された。 投擲雷(とうてきらい) トンデモ武器その2。 対柳生に備えて廻船問屋から大量に仕入れた南蛮渡来の手榴弾で、一刀は刺客業で得た軍資金の多くをこれに費やした。 これの存在によって、一刀がボンバーマンと化して敵を薙ぎ払うイメージがこれまた持たれたりするが、烈堂の政敵であり一刀を狙う阿部頼母がトチ狂って、新川水門を開いて一刀と烈堂を江戸ごと水没させようという暴挙に出た際、2発を残して濁流を堰き止めるために使用。 残り2発は最終決戦時に使用。 柳生への牽制に1発使った後、大五郎が一刀の窮地に柳生の馬を混乱させるためにもう1発投げ、本来目論んだ用途にはほとんど使われなかった。 ■関連の深い人物 登場人物や名場面が凄まじく多いので、極めて関係の深い人物2名のみ記載する。 柳生烈堂 言わずもがな、一刀の宿敵。 柳生宗矩の末っ子で、数が多過ぎたために出家させられ、その後職務怠慢で寺を追放させられたのかいないのか、とにかく研究が進んでいない「列堂義仙」がモデル。 出家し損ねて柳生家に戻り、裏柳生を担った、とでもいったところなのだろうが、詳細は謎。 柳生烈堂は、公儀介錯人の職を得る以前から、前述の総目付と幕府にとって不都合な人間を始末する公儀刺客人を擁する総帥という、表と裏から幕府を実質的に支配する立場にあった。 警察・検察・裁判官を全部一人で担っているようなものだから、やりたい放題である。 「忍草(単に『草』とも)」と呼ばれる、全国諸藩に様々な身分で根付かせた覆面構成員に、お家騒動に繋がる情報を探らせている。 江戸の幕閣とて例外ではなく、それを元に脅迫や裏工作も実行して江戸幕府の実権を欲しいままにしている。 ダメ押しに公儀介錯人の地位まで加わり、最早烈堂に意見しうる者など、将軍か大老くらいのもの。 その将軍も、その有能さに加え柳生家が剣術指南役を担っている事情もあるからか、烈堂のことを「爺」と親し気に呼ぶ間柄。 そんな惨状にあっては、一刀には訴え出る場も頼るべき人間も、何一つ存在しない。 一介の親子が立ち向かうにはあまりにも強大な敵である。 勿論、伊達で柳生家総帥を担っているわけではなく、縦横無尽に動き回って前線の様々な人間を惑わせる一刀の思惑を、草からの伝聞を聞いただけですぐさま看破する彗眼の持ち主。 そして当然武術にも優れる。 烈堂の子らも武術の技量だけ見れば一刀に迫るとされており、烈堂も然り。 寄る年波には勝てず、万全な一刀相手に真っ向勝負を申し込んでも勝ち目はほぼないが、烈堂もまた並の鎖程度なら軽々斬り飛ばす、達人の中の達人である。 ちなみに、裏柳生の忍草による調査機構は「烈堂やその先代の裏柳生が勝手に組織した、将軍家に弓引く組織」と勘違いされることもあるが、これは烈堂の祖父・石舟斎が初代将軍家康の命で編成した組織である。 本来は隠密裏に諸藩を監視して幕府の体制を盤石にするための存在であり、総目付及び目付直下の治安維持体制が幕閣の承認の下確立した時点で、とうに不要になっている。 しかし、二代目将軍秀忠にすら存在を秘匿するほどに機密性を高くし過ぎたために存続し続けて暴走し、烈堂の代には、幕府を私物化する獅子身中の虫と化してしまった。 烈堂を語る上で何より重要なのが、拝親子との関係だろう。 無論作品によって幾らか差異はあるが、拝親子に対して彼が抱いている感情は、単なる仇敵、憎悪の対象というだけではない。 息子達を殺されたという恨みに加え、権威権力を堅持するための障害と看做してはいるが、その力量や生き抜く覚悟には一目置き、度重なる攻防を通してある種畏敬の念を抱いている。 謀略を張り巡らせて家を存続することに執心し続けるあまり規模は膨張の一途を辿り、周りを見れば力と情報で捻じ伏せた敵ばかり(*11)。 そして、柳生家を預かる立場だからこその、裏柳生を守りうる後継者の不在が悩みの種になっている節が烈堂にはあった。 そのためか、特に大五郎に対しては、類稀な素養を見込んで羨んでいた。 最後は一族の力を結集して、傷つき疲弊し切った一刀と死闘を繰り広げ、これに勝利する。 そして、斃れた父の仇を討つべく戦いの中から拾い上げた槍を持って自分に突っ込んでくる大五郎を受け入れ、敢えて自ら討たれた(*12)。 この直後、烈堂は大五郎を抱き上げて「我が孫よ……」と呟き、物語は終了する(*13)。 一刀との長年に渡る死闘によって、表はまだしも裏柳生はもはや維持も出来ないほど人員が減った中で大五郎に告げたこの言葉の意味は、今でも読み手によって色々解釈の分かれるものである。 しかし、この言葉による物語の締め括りや烈堂というキャラクターの在り様が、やるせなさや壮大さ、親子の絆という作品のテーマを象徴していると言えるだろう。 拝大五郎 父一刀と共に、修羅が司る修羅道ならぬ牛頭馬頭の棲む冥府魔道を歩む息子。 芥子頭(坊主頭)で箱車に納まり、「ちゃ~ん」を連呼し続けるイメージが染み付いた幼児。 原作では寡黙ではあるが喋りもする異常なまでに利発な子なのだが、ドラマでこの印象がついてしまい、時としてアホの子と誤解される模様。 世代によっては、番組の合間合間にひたすら3分待ってはボンカレー食い続ける我慢の子としての印象が強い。 まだ大五郎が1歳に満たない時、柳生家によって全てを奪われた一刀は、最後の手段として刺客業を営みながら生きる道を選んだ。 その際、一刀は刀と毬を大五郎の前に差し出し、どちらを手に取るかで共に冥府魔道に堕ちても生きていける修羅の子か、ごく普通の幼子かを見定めようとした。 結果、大五郎は刀を選んでそれで遊びだしたため、一刀は子と共に冥府魔道に生きる道を選び、共に刺客の子として生きている。 一刀と過酷な刺客の道を歩むうちに、大五郎は多くのものを身に着けた。 まず特徴的なのは、「死生眼」だろう。 戦国の凄惨な戦場を生き抜き、地獄のような光景が目に焼き付いた歴戦の武将くらいにしか備わらないと言われる目つきで、武術に精通した人間はその本質を理解し、たった3歳の幼児がこうなってしまったことに怖れ慄く。 さらに、天性の女殺しとも言われる。 これは『子連れ狼』の中に母性を扱ったエピソードが多く、幼児ながら見せつける漢気(*14)によって出会う女性を片っ端から引き寄せてその女性の愛情を一身に受けることも多かったため、近年ドラマ版を見た視聴者の中には「天然ジゴロ」「幼児の皮を被る子狼」などと呼ぶ者もいた。 大五郎は父の心情は理解しているため、父と子は深い絆で結ばれており、時として冥府魔道から大五郎だけでも救おうとする人物をも拒否して父に付き添い、数多くの修羅場を潜り抜けていた。 齢3つにして「生きることとは、じっと我慢して耐え抜き、戦って勝ち取るしかない。歩みを止めれば死あるのみ」と悟りきってしまった子である。 そして、柳生一族総員を相手に父一刀はそれまでの刺客業で得た軍資金で揃えた武器でもって親子で立ち向かった。 その壮絶な死闘の末に父は死に、天涯孤独の身となった。 『新・子連れ狼』『そして… ~子連れ狼 刺客の子~』では彼を主役とし、その後の姿が描かれている。 父と烈堂、二人の亡骸を守るために一人その場に留まり続け、大五郎も衰弱死寸前でついに倒れた。 が、武者修行の旅に出ていた示現流の開祖・東郷重位に救われ、重位に諭されて共に旅に出る決意をする。 大五郎は、「日本第一の剣士だった父上に恥じない立派な男になるべし」という重信の教育方針の下、徹底的に示現流を叩き込まれつつ、彼を慕うようになる。 父の残した遺産を狙う賊の襲撃を退けつつ旅をしていた二人だったが、薩摩藩取り潰しを企む幕府老中・松平伊豆守の陰謀に巻き込まれ、その過程で死んだ人々の無念を引き継いだ重信と大五郎は、共に江戸城に特攻。 重信は伊豆守と相討ちになり、大五郎もまた幕府に捕えられて『新・子連れ狼』は終了する。 幕府も裏柳生や伊豆守との抗争の経緯(*15)から、大五郎に同情する者と即打ち首にすべきとする者で二分されており、将軍も判断に迷っていた。 そして、大五郎に興味を持った剣術指南役・小野忠常が、「せめて武士の子として死なせてやりたい」と進言。 果し合いで大五郎を死なせてやろうとしたのだが、大五郎は逆に忠常を倒してしまった。 死生眼を含め、こうまで異常なものを目の当たりにしては、将軍は大五郎を人間とは到底思えず、幕府に憑りついた呪詛の類が幼児の姿をしているようにしか見えない。 大五郎を怖れた将軍は、大五郎を幕府の手で処刑して後に禍が降りかかることすら忌避して、天海僧正が江戸城建造の際に「元々穢れた土(穢土)を封じて、浄化された江戸にする」という目的で、江戸城で蓋をするようにして形成し、迷宮とした空間「ダンジョン弾掌(だんじょう)」に追放。手を汚さずに浄化処刑するという采配をとった。 真っ暗闇の弾掌には、諸々の経緯から処刑も出来ず放逐された得体のしれない人間も幾らか存在し、そいつらと問答や戦闘を繰り返しつつ大五郎は脱出を図る――というのが、『そして…』のあらすじ。 5歳児と人生の哲学を語らう怪人らはかなりシュール。 時に力尽きかけながらも、あの世から届く二人の父の言葉に助けられ、大五郎はついに弾掌を突破するのだった。 ここまで読めば分かるだろうが、見た目はいまだ幼児であるが、世紀末リーダー伝・大五郎たけし状態。 満7歳になったら胸毛と髭が凄いことになるかもしれない。 一刀と旅をしていた3歳の時点で水鴎流の技を再現したこともあったが、そこからさらに成長してしまった。 わずか5歳にして、軽く1mは跳躍して刺客の不意打ちを回避し、脇差を自在に振るって一流の剣士が相手だろうが示現流の極意「壱の太刀」で斬り伏せる。 もはや、かなりの達人でもない限り相手にさえならない。 大五郎と戦った者は、「このまま成長すればいずれ父と同じ剣聖に至れるであろう」と称賛している。 礼節を弁え、敬語も使いこなし、相手に対して敬意を持って話しかけるその立派な佇まいは、逞しいとかいう次元ではない。 というか、このペースで成長しないと追いつけない一刀とは一体何なのか。 弾掌を出た後、東北の藤原氏の隠し財産や自身のルーツを巡り、大五郎は自身の旅を始めるべく歩み出した。 雑誌の廃刊と共に連載は中断してしまったきりだが、大五郎はその後も立派な剣士としての人生を歩み続けることだろう。 ■名台詞(多過ぎるので最終決戦時のみ) 一刀「大五郎、川は何処に流れつくぞ」 大五郎「海」 一刀「うむ、川は海に注ぎて波となる。大きなうねりの波、小さなうねりの波、 寄せては返し、くりかえし、くりかえして絶ゆることのない」 「人の生命もこの波と同じく、生まれては生きて、死んではまた生まれる」 「ほどなく、父の五体はもの言わぬ屍となろう。だが生命は波に同じく絶ゆることはない」 「来世と言う岩頭に向いて、また生まれ変わるべくうねっていく。五体は死んでも父の生命は不滅なのだ」 「お前の生命も然り。我らの生命は絶ゆることなく不滅なのだ」 「皮破るるとも、血が噴くともうろたえるな。父の五体倒るるとも怯むな」 「父の眼閉じらるるとも、その口開かるるとも恐るるな」 「生まれ変わりたる次の世でも父は父、次の次の世でも我が子はお前ぞ」 「我らは永遠に不滅の父と子なり」 冥府魔道アニヲタ道を往く人にのみ、追記修正をお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 冥府魔道って子連れ狼が初出だったのね。前世紀のラノベかなんかだと思ってた。 -- 名無しさん (2016-07-18 18 36 13) 大五郎は別項目でよかないか -- 名無しさん (2016-07-18 19 55 29) ↑ 最初は烈堂共々項目3つ作成しようかとも思ったものの、出自や立場の解説の内容が被りまくり、いっそのこと一つの項目にまとめた方が収まりが良いかなと思った次第 -- 名無しさん (2016-07-18 20 23 18) ごっつええのコントしか思い出せない -- 名無しさん (2016-07-18 21 12 26) ↑×2 それなら子連れ狼作れよ… やはり過多すぎるよ -- 名無しさん (2016-07-19 12 32 49) ↑ 最近は文字数制限なくなった影響で20~30分もザラだから、そうでも無い -- 名無しさん (2016-07-19 13 03 15) 大五郎は亡骸守ってる間に成長したとかじゃなくそのままなのか。シュールだ。 -- 名無しさん (2016-07-28 01 35 55) 柳生宗家にあたる尾張柳生が愛好する~ 少なくとも江戸時代の柳生宗家は江戸だぞ 明治以降になってから尾張の主張が通るようになったけど -- 名無しさん (2017-02-25 23 52 21) 尾上亮っていう子連れ仮面ライダーが登場したけど名前の由来はやはりコレなんだろうか -- 名無しさん (2020-10-08 12 25 49) 北大路欣也さん版ドラマの歌「子らよ」と劇中曲が素晴らしかった。因みに拝一刀の由来は狼一頭らしい -- 名無しさん (2023-01-27 19 03 18) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/ijinnotanjyoubi/pages/94.html
江戸時代の医学者。長らく禁制とされてきた人体解剖を幕府の医官として日本で初めて行い、その記録を公表した「親試実験」主義の先駆者の一人。日本近代医学の端緒を打ち立てた人物と評される。 誕生日:2月1日 知名度:2
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/583.html
Template 武士/開始? Template 武士/肖像? Template 武士/時代? Template 武士/生誕? Template 武士/死没? Template 武士/改名? Template 武士/別名? Template 武士/墓所? Template 武士/官位? Template 武士/幕府? Template 武士/氏族? Template 武士/父母? Template 武士/妻? Template 武士/子? Template 武士/終了? thumb|300px|[[小栗上野介屋敷跡(東京都千代田区神田駿河台)]] 小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣。 通称は、又一(任官前)。安政6年(1859年)、従五位下豊後守に叙任。のち文久3年(1863年)、上野介(こうずけのすけ)に遷任。小栗上野介とも称される。新潟奉行・小栗忠高(小栗氏の当主)の子、生母はくに子。 概要 安政6年(1859年)に目付。万延元年(1860年)、34歳にして日米修好通商条約批准のため米艦ポウハタン号で渡米、地球を一周して帰国した。その後勘定奉行、軍艦奉行など多くの奉行を務め、財政再建やフランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。 徳川慶喜の恭順に反対し、大政奉還後も薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)、罷免されて領地である上野国(群馬県)群馬郡権田村(高崎市倉渕町権田)に隠遁。東善寺を住まいとし学問塾の師事や水田整備の日々を送った。同年、薩長軍に逮捕。翌日烏川のほとりで斬首。 逮捕の理由には多数の説がある。大砲2門・鉄砲20挺の所持と農兵訓練。また勘定奉行時代に徳川の大金を隠蔽した説(徳川埋蔵金説)。しかし実態は創作であり、明治政府が発足した当時坂本龍馬や勝海舟などを英雄視した反面、小栗の風評が下がる結果となったが、近代になり小栗忠順の評価は見直された。作家司馬遼太郎は「明治の父」と記した。 生涯 文政10年(1827年)、新潟奉行・小栗忠高の子として江戸駿河台邸に生まれる。幼名は剛太郎。8歳の頃から文武に抜き出た才能を発揮し、自身の意志を誰憚ることなく主張する事から「天狗」と揶揄される事もあった。 天保14年(1843年)、17歳になり登城。その文武の才に注目されるのに時間はいらず、若くして両御番となり手腕をふるう。その率直の言い方が疎まれて、官職を変えられることも幾度もあったが、やはり才腕を惜しまれ幾度も官職を戻される。その頃から官職を変えられても結果を残すなど、その多才は発揮されていた。 嘉永6年(1853年)アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀来航。その後、多くの異国船が来航するのに対処する詰警備役となったが、戦国時代そのままの関船しか所持していない状態では同等の交渉もできず、開国の要求を受け入れることしかできなかった。この頃から造船所を作るという発想を持ったと言われている。その2年後、父である忠高が死去。家督を相続する。 安政7年(1860年)、遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興が乗船するアメリカ海軍軍艦ポーハタン号で渡米。随行艦として咸臨丸に勝海舟が乗っており、奉行従者には福澤諭吉がいた。2ヶ月の船旅でサンフランシスコに到着し、歓迎される。代表は新見正興であったが、目付の忠順が代表と勘違いされ、行く先々で取材などを受け、新聞などにも忠順の名が上がっている。勘違いの理由として、多くの同乗者は異人と接したことがなく困惑していたが、詰警備役として異人との交渉経験がある忠順は落ち着いていたために、代表に見えたと言われている。 またフィラデルフィアでは通貨の交換比率の見直しの交渉に挑んだ。これは日米修好通商条約で定められた通貨の交換比率が不適当で、経済の混乱が生じていた為である。忠順は小判と金貨の分析実験を行って交換比率の改定に成功し、多くのアメリカ新聞は絶賛の記事を掲載する。また忠順がアメリカの造船所を見学した時、日本との製鉄技術の差に驚愕し記念にネジを持ち帰った。 その後ナイアガラ号に乗り変え、大西洋を越えて世界一周し、品川に帰国。帰国後、外国奉行や勘定奉行などの要職を歴任。財政立て直しを指揮する。当時の最大の出費は幕府が瓦解するまでに44隻の艦船を諸外国から購入していたことであり、その総額は実に333万6千ドル(現在の340億円以上)に上った。そこで駐日フランス公使レオン・ロッシュとの繋がりを作り、造船所の具体的な提案を練り上げた。 文久3年(1863年)12月8日、造船所建設案を幕府に提出。多くの反発をうけたが、小栗はそれまでの手腕によって徳川慶喜の絶大なる信頼をうけており反対派は沈黙。11月26日に実地検分が始まり建設予定地は横浜に決定された。費用は4年継続で総額240万ドル(現在の300億円)。これが徳川埋蔵金説につながったとも言われている。建設に多くの鉄を使用するにあたって、群馬県下仁田町中小坂で鉱山採掘施設との建設ラインを引く。これにより建設日数が短縮された。 慶応元年(1865年)11月15日、「横須賀製鉄所」(後の海軍工廠)の建設開始。規模と建設費用を考えると当時のアジア最大の建設計画である。28歳のフランソワ・レオンス・ヴェルニーを首長に任命。幕府公認の事業では初の外国人責任者だった。それにより職務分掌、雇用規則、残業手当、社内教育、洋式簿記など近代経営の基礎が日本に流通された。また製鉄所の建設きっかけに横浜仏蘭西語伝習所という日本初のフランス語学校を設立。ロッシュの助力もあり、フランス人講師を呼ぶ本格的な授業をしていた。卒業生には明治政府に貢献した人物が多い。 慶応3年(1867年)、陸軍奉行になった小栗は海軍だけではなく、陸軍の力を増すためにフランス師軍事顧問団の指導を受けさせ、洋式による陸軍を日本に広めた。事業や軍隊強化などを成功させた小栗だが、激務で死期を早めたという説もある。大隈重信が後年、「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と発言したほどの人物だった。 慶応3年11月9日、将軍・徳川慶喜は朝廷に大政を奉還。その後、鳥羽・伏見の戦いを経て、江戸城にて主戦派と恭順派の議論が繰り返されていた。議論といっても恭順派は勝海舟など少数であり、ほとんどの人間は主戦派であった。小栗は主戦を説いたと言われているが、倒幕を容認する発言もしている。 慶応4年(1868年)1月27日に罷免されると、小栗は「上野の権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」を提出し、一族そろって権田村の東善寺に移り住む。当時の村人の記録によると、水路を整備したり、学習塾を開くなど、静かな生活をしており、農兵の訓練をしていた様子はない。しかし3ヶ月後、官軍により小栗忠順は捕縛された。 同年閏4月6日朝4ツ半(午前11時)、小栗は取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原(群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)に3人の家臣と共に引き出され、斬首された。享年42。死の直前、大勢の村人と明治政府の役人が口論となると、小栗は「お静かに」と言い放つ。それが最後の言葉と言われている。 忠順は遣米使節目付として渡米する直前、いとこの鉞子(父忠高の義弟日下数馬の娘)を養女にし、その許婚として駒井朝温の次男・小栗忠道を養子に迎えていた。しかし、忠道も高崎で斬首されてしまった。小栗家は、忠順の遺児・国子が成人するまで駒井朝温の三男で忠道の弟である小栗忠祥が継ぎ、その後、国子は矢野龍渓の弟・小栗貞雄を婿に迎えて家督は貞雄に譲られた。 人物 文久元年(1861年)、ロシア軍艦対馬占領事件が発生した。小栗は、幕府の対処できる限界を感じ、英国大使に極秘に相談したという。 大政奉還後も徹底抗戦を主張し、箱根での陸海共同の挟撃策を提案したとされる。これは敵軍(官軍)が箱根関内に入った所を迎え撃ち、同時に当時日本最強といわれた榎本武揚率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅するというものであった。しかし慶喜は、この策を採用しなかった。後にこの策を聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」と畏れるほどの奇策だった(上記の戦術は勝が「こうすれば戦術的勝利を得られるが、その後、江戸は火の海になる」と慶喜を説得するために説いたという説もある。「小栗は登城していなかった」という説が正しいなら、勝が説いたと考えるべきであろう)。 横須賀造船所の建設で相当な費用を幕府に負担させたという説もあるが、後年日露戦争の英雄東郷平八郎は、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」とし、地方の山村に隠棲していた遺族を捜し出し礼を述べた。その後、孫は内務省に勤務することにもなった。 慶応3年(1867年)、株式会社兵庫商社の設立案を提出。大阪の有力商人から100万両という資金出資をうけ設立したが倒幕につれ商社も解散。しかし資金100万両というのは当時設立されていた株式会社の中でも、大きく抜き出ている巨大企業であった。 勝海舟とは敵対していたと言われているが、勝の自伝にはそのような記述はない。勝の「造船所建設など、500年かかっても不可能」という言葉も作られたものという意見が多い。勝が無血開城をやり遂げたのと比べ、小栗は徹底抗戦を唱えていたため、敵対していると後世の人が判断した、という説もある。 「三井財閥中興の祖」と言われる大番頭三野村利左衛門が御用商人として出入りしており、親交があった。小栗失脚後に三井組が新政府への資金援助を開始したのは小栗本人の助言によるとする説もある。 「パリ万博で日本の工業製品をアピールし、フランス政府の後ろ盾で日本国債を発行、六百万両を工面する」計画を立てたが、パリ万博には薩摩藩も琉球と連名で出展、「幕府も薩摩と同格の地方組織であり、国債発行の資格は無い」と主張。この妨害により計画は潰えたが、その際の小栗の様子をロッシュは「小栗氏ともあろう者が六百万両程度で取り乱すとは意外だった」と語ったという。 江戸幕府役職履歴 ※日付=旧暦 安政4年(1857年)1月11日 - 書院番頭(九番組)大岡豊後守清謙組進物番出役から徒頭に異動。又一を称する。 安政6年(1859年) 9月12日 - 徒頭から目付に異動。 11月21日 - 従五位下豊後守に叙任。 万延元年(1860年)11月8日 - 目付から外国奉行に異動。 文久元年(1861年)7月26日 - 外国奉行を辞し、寄合席。 文久2年(1862年) 3月9日 - 小姓組番頭(二番組)に就る。 6月5日 - 小姓組番頭から勘定奉行・勝手方に異動。 閏8月25日 - 勘定奉行から江戸南町奉行に異動。 閏8月27日 - 勘定奉行を兼帯。 12月1日 - 南町奉行から歩兵奉行に異動し、勘定奉行・勝手方を兼帯。 12月10日 - 講武所御用取扱兼帯。 文久3年(1863年) 4月23日 - 勘定奉行・勝手方、歩兵奉行、講武所御用取扱を辞し、寄合席。 7月10日 - 陸軍奉行並と就る。 7月29日 - 陸軍奉行並を辞し、勤仕並寄合と就る。※勤仕並寄合の期間中、豊後守から上野介に遷任。 元治元年(1864年) 8月13日 - 勘定奉行・勝手方と就る。 12月18日 - 軍艦奉行に異動。 元治2年(1865年) 2月21日 - 軍艦奉行を辞し、寄合と就る。 改元して慶応元年5月4日 - 勘定奉行・勝手方と就る。 慶応2年(1866年)8月11日 - 海軍奉行並を兼帯。 慶応3年(1867年)12月28日 - 陸軍奉行並を兼帯。 慶応4年(1868年)1月15日 - 陸軍奉行並、勘定奉行を御役御免、勤仕並寄合と就る。 参考文献 蜷川新『維新前後の政争と小栗上野介の死』 佐藤雅美『覚悟の人 小栗上野介忠順伝』岩波書店、2007年3月。ISBN 978-4-00-022477-2 新人物往来社編『世界を見た幕末維新の英雄たち』、新人物往来社〈別冊歴史読本64〉、2007年3月。ISBN 978-4-404-03364-2、40-41頁 その時歴史が動いた(NHK、2002年11月20日放送) 大島昌宏『罪なくして斬らる』 小栗忠順が登場する作品 「大奥」(1968年、フジテレビ、演:芦田鉄雄) 「勝海舟」(1974年、NHK大河ドラマ、演:原保美) 「影の軍団・幕末編」(1985年、関西テレビ、東映、演:夏八木勲) 「勝海舟」(1990年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:風間杜夫) 「またも辞めたか亭主殿〜幕末の名奉行・小栗上野介〜」(2003年、NHK、演:岸谷五朗) 「黒龍の柩」(2002年、毎日新聞社、著:北方謙三) 関連項目 幕末の人物一覧 小栗かずまた - 玄孫で漫画家。 関口製造所 ロシア軍艦対馬占領事件 外部リンク 小栗忠順|近代日本人の肖像 家系図 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月25日 (木) 13 42。
https://w.atwiki.jp/originoffe/pages/19.html
元ネタの候補 日本の豪族 もずめ-し【物集女氏】 日本語 京都の西側(西岡)を拠点とする豪族。室町幕府に仕えた。現在も京都府向日市の物集女町や、物集女街道などの地名として名が残っている。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kuizu/pages/458.html
まみやりんぞう 自作 近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれた、 幕府の命で樺太を探索し、樺太が島であることを発見した江戸時代後期の冒険家は誰でしょう? タグ:歴史 Quizwiki 索引 ま~英数
https://w.atwiki.jp/zsphere/pages/433.html
天正元年 重大事件 織田信長、足利義昭を京都から追放。室町幕府滅亡 朝倉氏、浅井氏滅亡 政権 織田信長、大安宅船を建造 外交 生誕 死去 宗教界 学術 文学・芸術 市井 地方 伝説など(史実かどうか疑わしいもの) その他
https://w.atwiki.jp/mitamond/pages/163.html
まぼろし城ほか 幕府の腕利き隠密。知勇に優れた颯爽とした青年武士であり、剣を取っては柳生新陰流の達人。まぼろし城事件をはじめとする奇怪な事件の数々を解決し、島原の乱においては、原城に潜入して火を放ち、落城に導いたともいう。