約 21,986 件
https://w.atwiki.jp/pipopipo777/pages/87.html
◎続く空襲 【メール その8】 件名 今のところ無事だが…… 大切なレイチェルへ 私も家族も無事だが、緊張が続き神経がすり減っている。依然、電気は止まったままで、おまけに自家用発電機にもトラブルがあった。 2時間前、隣の建物がヘリから小ロケット弾を食らった。標的はアパートの 7階。私の自宅は 4階にある。それから、通りの向かいにあるアパートの 5階も攻撃された。耐え難い状況だ。 住民は正真正銘のパニックになっている! 昨晩、F16型戦闘機がアル=アクサ衛星放送局を攻撃し、粉々にした。周囲のビルも多くが居住不可能になってしまった! ビルの持ち主も住人たちもビルを見捨てて、どこかよそへ移る羽目になった! シファー病院の向かいにある小さなモスクも粉々になり、その攻撃のせいで周りの住宅も深刻な被害を受けた。私の友人の家もその一つだ。 自分が目にしたことはほとんど言葉では言い表せない、とにかく家はひどい被害に見舞われた、と彼は言う。また、彼の 56歳になる姉[または妹]は重傷を負った! さらに政府の主要庁舎(アル=サライヤ)もやられた。英軍が委任統治時代に建設した建物だ。 なかでも標的になったのは刑務所だった! 収容されているのは一般の囚人や政治犯だというのに。マスコミは死者280人、負傷者1000人以上と報道しているが、シファー病院の医師として働く私の友人の一人は、死者は約500人にのぼる、と教えてくれた! 今、ラファの国境地帯で攻撃はエスカレートしていて、イスラエル空軍はラファの[地下]トンネルを破壊するための作戦を展開している。何百人ものパレスチナ人がブルドーザーであるいは徒歩でエジプト国境に怒涛のように押しよせているが、エジプト側の容赦ない発砲に遭って、誰も国境を越えられないでいる。 【メール その9】 自家発電で命がけで世界に発信された現地(ガザ)の声
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/539.html
南進論(なんしんろん)とは、日本が南方地域へ進出すべきであるという第二次世界大戦前の対外論である。 概要 古くは明治時代から提唱され台湾領有や第一次世界大戦後の南洋諸島の委任統治の際にも論じられ、特に日中戦争の頃に主唱された。初期の南進論は必ずしも日本による領土拡張や軍事的進出と結びついたものではなかったが、1930年代以降、日本における「自存自衛」理念他国から見るともちろん侵略行為である。また大東亜戦争も危機的な情勢としては日露戦争と同様に生存戦争だが、日本人自身も戦後教育のため、「軍国主義による侵略戦争」として捉えられることが多い。但し、盧溝橋事件後の日中戦争については自他共に認める侵略行為で、結果的に自らの首を絞め、太平洋戦争を起こす要因となった。と結びつき、「武力による南進」が志向されるようになった幕末に佐久間象山などが唱えた攘夷運動(外国の力を取り入れ、日本が植民地になること防ぐという概念)に起源を持つ。日露戦争後、アジアでの影響力を巡り、日本と欧米の対立が強まる中、経済制裁を加えられ、物資が不足すると日本は自国(日本)の維持のため、アジア進出を目指した。。「北守南進論」とも称される。 明治・大正期の南進論 南進論は田口卯吉・志賀重昂・菅沼貞風などの民間の論客が提唱したもので、自由貿易主義の流れを汲むものとアジア主義の流れを汲むものに大別され、彼らはオセアニアや東南アジア島嶼部への貿易・移民事業を試みた。日清・日露戦争以降、日本の国策の基本は朝鮮・満州・中国大陸など東北アジアへの進出を図る北進論となったため南進論は民間・非主流派の対外政策論にとどまった(日清戦後のフィリピン独立革命(1898年)の際、日本軍が独立派を支援することでこの地に勢力を扶植することが模索されたが、結局は断念された)。 1914年第一次世界大戦参加にともない、日本海軍がドイツ領ミクロネシア(南洋群島)を占領し、戦後この地が日本の委任統治領として事実上の植民地になると、南洋群島は「裏南洋」、すなわち「表南洋」(東南アジア島嶼部)への進出拠点と位置づけられ、一時的な南進ブームが高まった。しかしこの時期の南進論の主流は貿易・投資・移民を軸に平和的な経済進出を唱道するものであった。 昭和戦前期における南進論 1930年代、満州事変以降、英米との関係が悪化して日本の国際的な孤立が進むと、「南進」はその後の国策の有力な選択肢の一つと考えられるようになり、場合によっては武力を伴ってでも実施すべきものであるとされた。 しかし武力南進が実際に国策として決定されたのは1940年のことである。この時日中戦争の泥沼に陥っていた日本は、1940年4月から6月のドイツの電撃戦により東南アジアに植民地を持つオランダ・フランスがドイツに降伏し、イギリスも危機に瀕していたため、このことを利用して東南アジアを自己の勢力を組み込めば危機的状況から脱出できると考え、武力南進を決意したのである。 この武力南進は周到に準備された国策というよりは泥縄式に決められた政策であった。7月27日の大本営・政府連絡会議で、場合によれば武力を行使しても東南アジアに進出することが決められた油井大三郎・古井元夫著、 『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』 中央公論社 1998年 pp.136-137。 日本の武力南進の最初はフランス領インドシナで、当時のインドシナは中国国民政府(蒋介石政権)に対する英米の支援ルートになっており、日本軍はフランスとの合意に基づき1940年9月この地に進駐した(北部仏印進駐)。 南進論を実行した結果、アメリカ合衆国によって石油の全面禁輸に踏み切られて対米戦争に突入し、最終的には敗戦する原因となった。 日本が南進で確保を目指した資源 中国大陸 小麦、綿花、麻、石炭、鉄鉱石、ボーキサイト、タングステン アメリカ領フィリピン 米、小麦、砂糖、木材、タバコ、麻、ポプラ、石炭、鉄鋼、銅、鉛、硫黄、クローム、モリブテン、金、マンガン 仏領インドシナ 米、とうもろこし、ゴム、ジュート、石炭、亜鉛、タングステン イギリス領ボルネオ 米、砂糖、タバコ、石油 オランダ領東インド 米、とうもろこし、砂糖、ゴム、コプラ、キニーネ、石油、石炭、ボーキサイト、ニッケル、錫、金 イギリス領マレー 砂糖、綿花、ゴム、タバコ、石炭、鉄鉱石、錫、ボーキサイト、タングステン タイ 米、砂糖、木材、タバコ、鉄鉱石、石炭、錫、亜鉛、アンチモン、タングステン、マンガン 英領ビルマ 米、小麦、豆類、綿花、タバコ、石油、石炭、銅、錫、鉛、亜鉛、タングステン、ニッケル、金、銀以上、太平洋戦争研究会編著、『オール図解30分でわかる・太平洋戦争戦争-太平洋で繰り広げられた日米の死闘のすべて-』、2005年7月29日初版による 脚注 関連項目 仏印進駐 北進論 アジア主義 酋長の娘 / 冒険ダン吉 - 大衆文化のレベルで南進論を唱道あるいは反映したもの。 参考文献 志賀重昂 『南洋時事』 菅沼貞風 『大日本商業史』 岩波書店 1940年 竹越与三郎 『南国記』 1910年 矢野暢 『「南進」の系譜』 中公新書 矢野暢『日本の南洋史観』 中公新書 油井大三郎・古田元夫 『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』 中央公論社 1998年 ISBN 4-12-403428-8 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月14日 (金) 11 24。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/213.html
大日本帝國 国旗 準国章 菊花紋章 標語 (なし) 公用語 日本語(事実上の公用語)朝鮮語、台湾語なども使われていた。 首都 東京 面積 675千km sup 2 /sup (昭和初期の領土) 人口 9770万人 (昭和10年国勢調査での領土内の人口) 政府 1889年以前は絶対君主制、1889年以降は立憲君主制。1930年代以降は軍国主義の傾向。 国家元首 明治天皇 → 大正天皇 → 昭和天皇 内閣総理大臣 内閣総理大臣の一覧を参照 通貨 円 国歌 君が代 大日本帝国(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく、旧字体 大日本帝國)は、1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布時から1947年(昭和22年)日本国憲法施行時までの約58年間、天皇が統治する日本が使用していた国号のひとつ。1868年(明治元年)の明治維新から1945年(昭和20年)の太平洋戦争(大東亜戦争)の終戦時までの日本そのものを指す事も多い。最盛時には現在の日本国の領土に加え、南樺太、千島列島、朝鮮半島、台湾などを領有していた他、北東アジアや太平洋にいくつかの委任統治領や租借地を保有した。 以下は大日本帝国憲法下の国家について記述する。 国名 経緯 明治天皇は1868年1月3日(慶応3年12月9日)、岩倉具視や大久保利通らの画策の元で王政復古を宣言。1889年(明治22年)2月11日には大日本帝国憲法(帝国憲法)が発布され、1890年(明治23年)11月29日、この憲法が施行されるにあたり大日本帝國という国名を称した。初め伊藤博文が明治天皇に提出した憲法案では日本帝國であったが、憲法案を審議する枢密院会議の席上、寺島宗則副議長が、皇室典範案に大日本とあるので文体を統一するために憲法も大日本に改めることを提案。これに対して憲法起草者の井上毅書記官長は、国名に大の字を冠するのは自ら尊大にするきらいがあり、内外に発表する憲法に大の字を書くべきでないとして反対した。結局、枢密院議長であった伊藤博文の裁定により大日本帝國に決められた枢密院会議筆記明治21年(1888年)6月18日午後。。 帝国憲法の半公式の英訳(伊東巳代治訳)では「the Empire of Japan」 と訳され、「大」の意味合いはなかった。当時は国名へのこだわりがなく、帝国憲法と同時に制定された皇室典範では日本帝國、大日本國と表記し、外交文書では日本、日本國とも称したし、国内向けの公文書でも同様であった。その後、世界情勢の悪化などにより国名への面子に対する拘りが表面化した1936年(昭和11年)、外務省は外交文書上「大日本帝國」に統一した。国号参照。 第二次世界大戦後、日本政府が1946年2月8日に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) に提出した憲法改正要綱では、国名を「大日本帝國」のままにしていたが、2月13日、GHQ/SCAPのホイットニーにより、憲法改正要綱の不受理通知とGHQ/SCAP草案が吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣らに手交され、その草案の仮訳からは国名が日本國となり、1947年(昭和22年)5月3日日本国憲法施行により憲法上は日本國の名称が用いられることとなった。 通称 通称では帝国と呼び、また皇国とも称した。日本海海戦での「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ」が有名。もちろん日本や日本国とも称された。 現在「帝国」の文字が公的機関に記されているのは東京都千代田区に所在する日本水準原点標庫のみである。民間では帝国データバンク、帝国劇場(通称「帝劇」)、帝国ホテル、帝国書院、帝国制帽、帝国石油のように、「帝国」を使用しているものもある。 2004年に東京地下鉄(東京メトロ)が運営を引き継いだかつての営団地下鉄も、運営者の正式名称は帝国の首都を意味する「帝都」を冠した帝都高速度交通営団であった。京王電鉄も同様に、社名変更前は「京王帝都電鉄」(京王電鉄と帝都電鉄が合併した名称)と「帝都」を冠し、警備会社ではテイケイが「帝国警備保障」を、帝人が「帝国人造絹糸」と「帝国」を冠していた。 国土 大日本帝国の国土は、完全な領有権を有する領土のほか、領土に準じる区域として、他国から借り受けた租借地、国際連盟に統治を委任された委任統治区域があった。このほか、行政権及び自国民への裁判権を有する一部統治区域があった。 首都 憲法や法令に首都の規定はないが、大正12年9月12日詔書で「東京ハ帝国ノ首都」とされている。東京は大日本帝国の首都として帝都と称され、宮城(きゅうじょう、皇居)が所在し、内閣、各省、枢密院、大審院が位置し、帝国議会が開かれ、戦時には大本営が置かれた。 東京以外の首都機能としては、天皇の所在を示す高御座が京都御所に安置され、即位の礼や大嘗祭が行われていたことから、京都市がその一部を担っていたといえる。また広島は、日清戦争中に天皇の行在所や大本営が置かれ、帝国議会が開かれたので、臨時の首都を務めたとも言える。なお、大東亜戦争で本土決戦になる場合は天皇と大本営を長野県松代町の地下壕に移す予定であったが、本土決戦が行われることなく終戦したため実現しなかった。 領土 領土は完全な領有権を有する区域であり、内地、樺太(後に内地に編入)、台湾、朝鮮からなる。このほか一時遼東半島を領土としたことがあった。各領土の来歴は下記のとおり。領土面積は最大675千km2。各領土の概要は下記のとおり。 内地 日本列島及び周辺の島嶼からなり、現在の日本国の領土とほぼ一致する。内地の来歴は以下のとおり。 本州・九州・四国:日本の古来からの領土(東北地方は平安時代以降)。古事記は淡路、対馬、壱岐、隠岐、佐渡と合わせて大八島と呼ぶ。 北海道:中世以来徐々に統治権を及ぼす(参照:和人地)。1855年の日本国魯西亜国通好条約(安政元年12月21日締結)により択捉島と得撫島の間に国境を確定。 沖縄:日清両属の琉球王国だったが、1872年、第一次琉球処分により琉球藩を設置して琉球国王を藩王とし(明治5年(1872年)9月14日詔勅)、領土であることを確認(公文録明治5年外務省付録)。 千島:1875年千島樺太交換条約(明治8年太政官布告第164号)により得撫島以北の18島を領土に加える。 小笠原:1876年、官吏を派遣し実効統治する旨を各国に通知し、領土として確定(明治9年10月17日小笠原島ニ関スル在本邦各国使臣宛文書)。 このほか以下の島々を内地に編入した。 北大東島・南大東島:1885年調査隊を派遣し国標を建設。同年沖縄県編入(公文録明治18年内務省ノ部)。 硫黄島・北硫黄島・南硫黄島:1891年小笠原島庁の所轄とする(明治24年勅令第190号)。 南鳥島:1898年小笠原島庁の所管とする(明治31年(1898年)東京府告示第58号)。 魚釣島・久場島:1895年沖縄県の所管とし標杭建設を決定(明治28年内甲第2号閣議決定)。現在は尖閣諸島と呼ばれる。 沖大東島:1900年沖縄県に編入(明治33年沖縄県告示第95号)。 竹島:1905年島根県に編入(明治38年島根県告示第40号)。 中ノ鳥島:1908年小笠原島庁の所管とする(明治41年東京府告示第141号)。その後再発見できず、1946年水路図誌から削除。 沖ノ鳥島:1931年東京府小笠原支庁の管轄とする(昭和6年内務省告示第163号)。 樺太 日持上人が訪れるなど、古くは鎌倉時代から日本との関わりがあり、江戸時代は松前藩の陣屋やアイヌなどとの交易場所なども設けられていたが、樺太島仮規則などの不平等条約でロシアとの雑居地とされた後、1875年、千島樺太交換条約によりロシアに譲渡。1905年、日露戦争(樺太作戦)で占領し、同年のポーツマス条約(日露講和条約、明治38年勅令号外)により北緯50度以南を割譲させ回復。1943年内地に編入した(昭和18年法律第85号)。樺太庁を参照。 台湾 台湾本島と澎湖島を日清戦争で占領し、1895年、下関条約(日清講和条約、明治28年勅令号外)により、清国に割譲させて獲得。1938年、新南群島を台湾高雄市に編入した(昭和14年台湾総督府令第31号、台湾総督府告示第122号)。日本統治時代 (台湾)の項を参照。 遼東半島(奉天半島) 日清戦争で占領し、1895年、下関条約により清国に割譲させて獲得したが、三国干渉を受けて、同年中の奉天半島還付ニ関スル条約(明治28年勅令号外)により返還した。この間、ごく短期ではあるが、領土であった。 朝鮮 1910年、韓国併合ニ関スル条約(明治43年条約第3号)により領土に加え、(明治43年勅令第318号)により朝鮮に改称した。日本統治時代の朝鮮の項を参照。 租借地 租借地は領土とは異なり、潜在主権を租貸国が有し、租借期限があり、また在来の住民に日本国籍が与えられない。中国から関東州と一時膠州(青島)を租借した。 関東州 遼東半島先端の大連・旅順近辺。ロシアの租借地だったが、日露戦争で占領。1905年、ポーツマス条約により清国の承諾を条件に租借権を譲り受け、日清間満洲ニ関スル条約(明治39年勅令号外)により清国の承諾を得て租借した。租借期限は1923年までだったが、1915年、南満洲及東部内蒙古ニ関スル条約(大正4年条約第3号)により1997年まで延長(ポツダム宣言受諾により1945年に失効)。 膠州 山東半島南岸の青島近辺。ドイツの租借地だったが、第一次世界大戦で占領。1920年同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約(大正8年条約第1号)により租借地とするが、2年後の(大正11年条約第3号)により中華民国に返還。 委任統治区域 南洋群島 西太平洋赤道以北の広い範囲に散在する島々。ドイツ領であったが、第一次世界大戦で占領、1920年同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約(大正8年条約第1号)により、国際連盟の委任に基づき統治する委任統治区域とした。国際連盟脱退後も引き続き委任統治を行う。 一部統治区域 南満洲鉄道附属地(満鉄附属地) 南満洲鉄道(満鉄)の線路両側数十メートル程度の地帯、および駅周辺の市街地や鉱山などからなる。満鉄に関するロシアの権利を1905年のポーツマス条約で譲り受けた際に、その一部として鉄道附属地における行政権を獲得した。行政権のほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有した。1937年、行政権を満洲国に移譲するとともに、治外法権を撤廃した(昭和12年条約第15号)。 租界 専管租界を1897年杭州と蘇州に、1898年天津に、1898年漢口に、1901年重慶に、それぞれ開設した。また、上海の共同租界に参加していた。北京には正式な租界ではないが、事実上の共同租界として機能した公使館区域があった。このほか沙市、福州、厦門に租界を設置する権限があったが設置しなかった。租界では行政権を行使するほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有した。1943年、中華民国(汪兆銘政権)に対し租界を還付し治外法権を撤廃した(昭和18年条約第1号、同第2号)。 住民 大日本帝国の国籍を有する者を日本人又は帝国臣民といった。帝国憲法では日本臣民と呼ぶ。国籍の要件は国籍法(明治32年法律第66号)で規定された。下のいずれに属するかによって法制度上異なる取り扱いを受けることがあった。 国民 内地人 内地人とは戸籍法(明治31年法律第12号)の適用を受ける国民である。現在の日本国民にほぼ相当する。内地人には華族、士族、平民の別があり、華族は貴族院議員たる資格を有するなど特殊な地位にあったが、士族と平民の間に差異はなく、法的にも1914年(大正3年)に族籍記載が撤廃された。1947年の戸籍法改正により、これらの別は完全に消滅した。 樺太人 樺太人は樺太の在来住民であり、樺太ニ施行スヘキ法令ニ関スル件(明治40年法律第25号)などの法令では土人と呼ばれた。また樺太土人ともいう。樺太人は日本国籍を有しなかったという説(百瀬後掲書)もあるが、当時の憲法学書では日本国籍を有するものとしていた(美濃部後掲書)。樺太人のうち8割近くが樺太アイヌであり、他にニヴフ、ウィルタ(当時の通称はオロッコ族)などがいた。1932年、樺太アイヌが内地人になり(昭和7年勅令第373号)、他は1943年の樺太の内地編入(昭和18年法律第85号)の際に内地人になった。 台湾人 台湾人は台湾の在来住民である。本島人ともいう。1895年台湾割譲の際に日本国民になった。戸籍法の適用を受けず、民籍という籍を有した。本島人のうち9割が漢族、1割が高砂族である。行政上は日本国との平和条約の発効により日本国籍を喪失したものとして扱われたが、判例上は日本国と中華民国との間の平和条約の発効により日本国籍を喪失したとされている。 朝鮮人 朝鮮人は朝鮮の在来住民である。1910年の韓国併合の際に日本国民になった。戸籍法の適用を受けず、民籍という籍を有した。朝鮮人のうち旧大韓帝国の皇族は王公族、一部の両班や韓国併合に功績のあった者は朝鮮貴族に封じられた。これらの人々は1952年、日本国との平和条約の発効により日本国籍を喪失した。 国民以外 正式な領土とされなかった統治区域の在来住民は、日本国籍が与えられず、国民として扱われなかった。 国際連盟からの委任統治区域であった南洋群島の在来住民を島民といった。島民は国籍がなかった。島民の大部分はカナカ族であり、他にチャモロ族がいた。 租借地である関東州や満鉄附属地の在来住民は当初清国籍、後に中華民国籍を経て、1932年に満州国が建国されたあとは満洲国籍とみなされたただし満州国には国籍法が存在しなかったため、法的な「満州国民」は存在しなかった。満州国を参照のこと。。租界の在来住民は清国籍・中華民国籍とみなされた。これらの大部分は漢族である。 統治機構 大日本帝国は1890年帝国憲法施行に伴い立憲君主国家に移行した。帝国憲法上は国家元首である天皇が統治権全体を掌握する建前であったが(憲法第4条)、実質上は国家の各機関が権限を分掌していた。これは「統治構造の割拠性」といわれる(辻清明)。 内閣と宮中 統治権に関する天皇の権限は国務大臣の輔弼(補佐)に基づいて行使された(憲法第55条)。内閣は国務大臣で組織され(内閣官制第1条)、帝国憲法上天皇大権とされた権限は原則として内閣の決定に基づいて行われた。 内閣総理大臣は国務大臣の首班であり、重要決定事項を天皇に報告し、その了解に基づいて行政を統制した(内閣官制第2条)。内閣総理大臣の選任方法については、明文の規定はなく、元老(のち重臣)とよばれる有力者たちが内閣総理大臣を選んだ。 天皇の実際の役割は、内閣の決定に従ってこれに形式的な裁可を与えて国家意思を確定することであった。ただし、天皇は単なる傀儡ではなく、当時のイギリス国王など他の立憲君主と同様、政治上の決定に関与していた(伊藤之雄)。天皇の側近には、侍従長や内大臣などがおり、特に内大臣は昭和期に天皇の政治秘書として活動した。その他、皇室の事務については宮内大臣が輔弼した。なお、内大臣と宮内大臣は国務大臣ではなく内閣に関与しない。 帝国議会と枢密院 立法権は、天皇が帝国議会の協賛(同意)に基づいて行った(憲法第5条)。帝国議会は貴族院・衆議院の二院制であり、貴族院は皇族華族と勅任議員(元官僚など)で組織され、衆議院は公選された議員から組織された(憲法第33 - 35条)。 帝国議会は法律の制定について協賛(同意)する権限を持った(憲法第37条)。国民の権利・義務に関わる事項は原則として法律によらなければ(すなわち帝国議会の同意がなければ)侵害されなかった(憲法第2章)。また、帝国議会は毎年の予算に対しても協賛権を持った(憲法第64条)。予算が不成立の場合は前年度の予算が施行されるが(憲法第71条)、前年度予算では行政が成り立たないため、帝国議会の予算審議が内閣の死命を制することとなり、これにより政党内閣への道が開かれた。ただし、他の立憲諸国と比較すれば、以下の点で議会の権限は弱かった。 政府は法律の定めのない事項につき独立命令により法規を定める権限を有した(憲法第9条)。 国際条約の締結に関して帝国議会の協賛は不要であった(憲法第12条)。 教育関係の規定は、国民の権利義務に関わる事項であっても、法律ではなく勅令で定められる慣習があり、帝国議会の協賛は不要であった。 皇室典範改正については帝国議会の協賛は不要であった(憲法第74条)。 憲法改正については帝国議会に発案権がなかった(憲法第73条)。 もっとも、これらの事項に関しても政府が自由に裁量できるものではなく、帝国議会の代わりに枢密院の審議を経る必要があった。枢密院は天皇の諮詢(相談)を受けて重要な国務を審議する機関にすぎないが(憲法第56条)、これらの事項に関して事実上の拒否権を有した。枢密院は行政への関与を禁じられたが(枢密院官制第8条)、しばしば政府に干渉した。 裁判所 司法権は天皇の委任により裁判所が行った(憲法第57条)。民事・刑事の裁判については、大審院を頂点とする通常裁判所が裁判したが(裁判所構成法)、欧州大陸型の司法制度に倣って、行政訴訟は特別の行政裁判所が扱った(憲法第61条、行政裁判法)。 陸海軍 陸海軍の統帥(憲法第10条)は国務大臣の輔弼の外に置かれ、統帥部が担当した(統帥権の独立)。統帥部は陸軍の参謀本部と海軍の軍令部が並立し、戦時に両者は形だけ統合して大本営が置かれた。統帥部は内閣を経ないで天皇に決定を求める帷幄上奏権という特権を有した。陸軍大臣と海軍大臣は、国務大臣であるとともに統帥機関としての地位も有し、やはり帷幄上奏権を行使したほか、帷幄上奏を通じて統帥に関する勅令の決定を求め、これに副署する権限を有した。この勅令は総理大臣の副署を要しなかったが、1907年の公式令制定によって全ての勅令に総理大臣の副署が必要になると、勅令とは別に「軍令」という法形式を新設し(明治40年軍令第1号)、陸海軍大臣のみが副署する権限を保った。 この統帥権の独立によって陸海軍に対するシビリアンコントロール(文民統制)が機能せず、その結果軍部の独走を助長し、国内の混乱及び諸外国との軍事的衝突をいたずらに広める結果になったとする意見もある中曽根康弘、石原慎太郎共著『永遠なれ日本』(PHP研究所 2001年)p.115。 外地統治 内地以外の国土を総称して外地あるいは植民地などという。外地には朝鮮総督府、台湾総督府、樺太庁、関東庁、南洋庁といった官庁が置かれ、統治が委任された。これら外地官庁の要職は内地人で占められていた。外地官庁が定める法令は、法律に相当する規定であっても帝国議会の協賛を要しなかった。 Template Main? 国際連盟常任理事国 大日本帝国は1920年に発足した国際連盟の常任理事国であり、1933年3月27日(正式には1935年3月27日)に脱退するまで大きな役割を果たしてきた。 その他 台湾の領有により、日本最高峰は富士山から玉山(新高山)へと変わった。 第二次世界大戦中、軍部の使用に便を図るため、東京のタクシー会社は4社に統合させられた。これら4社大和自動車交通・日本交通・帝都自動車交通・国際自動車の各社名は、「大日本帝国」を分割したものに由来するといわれている。東京四社営業委員会を設立し、戦後も業界大手として営業し、タクシーチケット、タクシークーポンの共通化など連携した営業行動をとる。現在でも、東京四社営業委員会に属するタクシー会社4社の通称として「大日本帝国」と呼ぶことがある。 脚注 Template 脚注ヘルプ? Template Reflist? 参考文献 美濃部達吉著『憲法撮要』改訂第5版、有斐閣、1932年(復刻1999年) 百瀬孝著・伊藤隆監修『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』吉川弘文館、1990年 ジョン・トーランド著『大日本帝国の興亡』ハヤカワ文庫、毎日新聞社訳、1984年 関連項目 天皇 国体 天皇制 日本帝国主義 明治 大正 昭和 大日本帝国憲法 大日本帝国陸軍 大日本帝国海軍 軍服 (大日本帝国陸軍) 帝国 大東亜共栄圏 君主制 帝国議会 ポツダム宣言 日本国皇帝 統帥権 君主主権 植民地
https://w.atwiki.jp/cgwj/pages/289.html
本項ではユエスレオネ連邦の司法制度を解説する。 目次 概要裁判所一覧 判例 概要 「ユエスレオネ連邦/法律」も参照のこと。 ユエスレオネ連邦における司法制度は、ユエスレオネ連邦憲法第四章「司法・警察・戦力の役割と分離」に規定されており、三審制である。 構成主体ごとの法に関しては、構成主体裁判所(地方裁判所、celanasch flarskaval)による裁判が行われる。例えば、スローヴェ共和国では、共和国法に関しては司法院下の最高法院、高等法院、地方法院、簡易法院が担当する。 一方、憲法・連邦法・特殊裁判に関わる裁判はどの構成主体であっても連邦裁判所が担う。なお、本土たる構成主体であるユエスレオネ国民国の管轄裁判所は連邦裁判所(fankasanasch flarskaval)である。 刑事裁判では、審議中に管轄裁判所が変更することも勿論あるが、犯罪捜査法に基づき移行猶予が設けられている。 行政的には、これら裁判所の運営などに関しては法務省人民裁判院(LFK)が担う。 裁判所一覧 連邦裁判所普通裁判所……通常裁判第一審裁判所(1te fonti'aven flarskaval) 第二審裁判所(2te -) 第三審裁判所(3te -) 特殊裁判所憲法裁判所(inisopiton fonti'aven flarskaval / IFF)……違憲審査権†憲法裁判所特別法廷(radierfen fhanka fon IFF)……2005年から2045年の間に設置された特別法廷 革命裁判所(xolanfylili'a flarskaval)……国家、行政、検察、議員、裁判官などの弾劾裁判 構成主体裁判所(地方裁判所)デュイン総合府 ファルトクノア共和国ユフィシャール地方裁判局(ファルトクノア委任統治領西方サレンガート・ユフィシャール諸島) クラナ大陸国家連合最高法院、高等法院、地方法院、簡易法院(スローヴェ共和国) 判例 ユエスレオネ連邦/法律/禁酒・禁煙法/禁酒・禁煙法違憲訴訟 ユエスレオネ連邦/法律/キャスカ・シェラフ宙尉圧政機構責任刑事訴訟
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/814.html
thumb|320px|アメリカ国立公文書館に現存する計画書による日本の[[分割統治計画。東京23区は米中ソ英4か国、近畿と福井県は米中2か国による共同統治。]] 日本の分割統治計画(にほんのぶんかつとうちけいかく)は、第二次世界大戦において、ドイツやオーストリアが降伏後米・英・ソ・仏4カ国に分割統治されたように、本土決戦後の日本も北海道・本州・九州・四国を連合国それぞれが統治しようとした計画。 概要 実際の歴史 連合国は第二次世界大戦中、日本が明治維新以降に『暴力的に獲得した地域』を連合国によって分割する方針を打ち出していた。連合国は日本降伏後、かかる地域を以下のように分割占領した。 ソ連 南樺太(ポーツマス条約で獲得、内地、1943年3月31日までは外地) 千島列島(樺太・千島交換条約で獲得、内地) 朝鮮北緯38度線以北(日韓併合条約で獲得、外地) 関東州(旅順・大連)(ポーツマス条約で獲得、租借地。1950年代に中国へ返還) アメリカ 朝鮮北緯38度線以南(日韓併合条約で獲得、外地) 沖縄(琉球処分、内地) 奄美(連合国は沖縄の一部と解釈) 旧十島村は、軍政下に置かれた島(現十島村)とそれ以外の島(現三島村)に分割された。 小笠原(明治に領有宣言) 委任統治領南洋群島(ヴェルサイユ条約で獲得) 中華民国 台湾(下関条約で獲得、外地) これらは、1945年(昭和20年)の日本降伏後、速やかに実行された。 これら占領地域には、日本が内地とした地域もあり、その点で言えば、日本領土は史実でも分割されている。しかし、本土決戦の回避により、上記以外の日本本土を構成する北海道・本州・四国・九州及び付属島嶼は、連合国軍最高司令官総司令部(通称GHQ、実質は米国)によって1952年(昭和27年)まで統一した占領統治下におかれ、分割されることはなかった。本計画では、これらの本土地域も細かく分割することになっており、この項目で指す分割とは、この計画を指している。 計画による統治区域 アメリカにある国立公文書館に現存する計画書によると、北海道と東北はソ連占領地域、関東・中部・福井県を除く北陸及び三重県付近はアメリカ占領地域、四国は中華民国占領地域、中国・九州はイギリス占領地域として統治し、首都東京の23区は米・中・ソ・英の、福井県を含む近畿は中華民国とアメリカの共同管理下に置くという計画であった(地図参照)。 廃案 この計画が廃案となった理由ははっきりしていない。有力な説としては以下が挙げられる。 米軍が原子爆弾の開発・運用に成功し、核戦力を入手した事。 核戦力の獲得に乗じ、ヤルタ会談で合意した事項の幾つかを撤回する動き・兆候をソ連が推測・警戒した事。 ドイツ降伏直前で急死した親ソ連のルーズベルト大統領に代わり就任していたトルーマン大統領による対ソ連外交政策転換の兆しへの嫌悪・不満。 アメリカがチャーチル英国首相から繰り返し警告されていた、戦後の社会主義国との対立を睨み、極東での陣地拡大と基地化を目論んでいた事。 その他にも、以下のような説などさまざまな主張がある。 終戦直前、ソ連が南樺太や千島列島に加えて、北海道北部(留萌市 - 釧路市を結ぶ線から北東側全域。留萌市・釧路市については分割せずソ連が占領)をも併合しようとする貪欲な姿勢を見せたため。 日本で学んだ経験のある蒋介石が「報怨以徳」(怨みに報いるに徳を以ってする)に基づいた反対意見を出した為。 ダグラス・マッカーサーと親密な吉田茂の猛反発があったため。 アメリカが権益を独占しようとした策略。 対日戦で中心的役割を果し、かつ日本を占領したのは米国軍部隊であるにも関らず、その日本をイギリス人、ロシア人、中国人と後から分割統治することに対する反発。実際にドイツや朝鮮半島など、連合国で分割統治計画があった地域でもほぼ自軍の占領範囲を統治することになった。 ポツダム宣言は、北海道、本州、四国および九州と諸小島を領土とし、内地の一体性を認めているため、これを後から分割統治とすると、宣言内容と矛盾してしまう。ポツダム宣言を反故にすると、速やかに帝国陸軍を武装解除できず、日本軍は降伏を撤回し、最後の一兵まで戦う可能性があったとも言われる。 いずれにせよ、この計画が実行されなかった事は日本にとっては良い結果をもたらしたといえよう。仮にドイツや朝鮮半島、ベトナムのように資本主義を支持する国と社会主義を支持する国で分割統治された場合、前述の国の例を鑑みれば、そのまま複数の国に分断されてしまい、最悪の場合は朝鮮戦争やベトナム戦争のように、日本人同士が相討つ事態になる可能性があった。また東京の共同管理にもベルリンと同様の困難を伴ったであろう。また、すべての困難を乗り越えてドイツのように国家の再統合を達成しても、旧西ドイツと旧東ドイツのように互いの国民の精神や生活水準に著しい差異が生じ、現在の日本においても見られる日本人同士での対立や差別が顕在化する可能性があった。 関連項目 分割統治 分断国家 架空の日本 五分後の世界 連合国軍占領下の日本 外部リンク 幻の日本分割占領案 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月10日 (水) 10 25。
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/374.html
638 :第三帝国:2011/12/10(土) 03 30 15 TSネタで支援 「いやはや、私まで人気が出るとは・・・」 帝国が誇る空母の一室で魔王は深い、深いため息をついた。 あれから、東シナ海で中韓の連合艦隊を文字通り粉砕。 一隻残らず撃沈というかの東郷元帥を超えるパーフェクトゲームを実現させた。 しかし、弾道ミサイルは一発だけ迎撃に失敗。 結果、あらかじめ狙っていたのか分らないが広島に着弾、死者50万を超える大惨事が起こる。 これに歓喜する特定アジア、そして宇宙人に支配された内閣はこれを受けても右往左往する混乱っぷりをみせる。 さらに、 アメリカ参戦で戦局が不利と判断したのか最後の足掻きとばかりに、 日本国内に潜伏していた中韓の工作員が官邸、ならびに省庁へのテロを敢行。 連絡員として官邸に滞在していた大蔵省の魔王はその不死身っぷりを発揮したが、 その他閣僚、議員にはそのような運もなく、全員死亡してしまう。 その場の空気で辻は平成日本の指揮を取ってしまい、 結果、自衛隊による治安維持活動が実現され、国内の左派勢力はこれを機に死滅した。 戦火は僅か二ヶ月ほどで、 戦後の戦い、すわ後始末で平成の議員など知らぬとばかりに、 いつの間にか平成日本の権力を手にした辻はあらゆる政策を出し続け3・11以後以上の復興を遂げた。 結果、魔王だの変態だの言われてきた辻は、 平成日本の国民から拍手喝さいを受けつつ、政治やら何やらした後なし崩し的に平成日本を委任統治することに相成った。 「普通に考えれば、 こんな暴挙は許されるはずがないのですが ・・・まあ、あの宇宙人を選んだ平成だかでしょうか?」 第三者から見ればGHQ再びであるが、 頭のネジがゆるみにゆるんで、いるせいかどうでも良いらしい。 いや、または彼のような人物を期待していたのかもしれない。 「頭が痛い問題です・・・」 かつていた世界がまさかここまで、 デモクラシー的終わっているとは思わず、再度深いため息をついた。
https://w.atwiki.jp/intellipedia/pages/284.html
シャロン元首相とは、イスラエルの元首相、軍の英雄でタカ派であり、虐殺の汚名もある。2005年一度脳卒中で倒れ回復したが、2006年1月4日にもう一度脳卒中で倒れそのまま回復することなく2014年死去した。 シャロン・イスラエル元首相死去 華麗な軍歴と虐殺の悪名(産経新聞 2014/01/12) ※その他の報道はニュース系サーチエンジン2003~(シャロン首相|シャロン元首相)でチェック。 シャロン・イスラエル元首相死去 華麗な軍歴と虐殺の悪名(産経新聞 2014/01/12) 【カイロ=大内清】イスラエルのシャロン元首相には、華麗な軍歴とともに、国防相在任中だった1982年のレバノン侵攻の際に起きたパレスチナ難民虐殺事件などをめぐる悪名もつきまとった。 英国委任統治下のパレスチナで生まれたシャロン氏は14歳でイスラエル国防軍の前身であるハガナに入隊し、48年の独立戦争(第1次中東戦争)にも参加した。50年代には特殊部隊を率いて、ガザ地区を拠点とするパレスチナ武装勢力に対する報復作戦に従事するなど、最前線で軍歴を積み重ねた。 73年にいったん退役したものの、同年10月に発生した第4次中東戦争で機甲師団司令官として現役に復帰。当時、イスラエルの占領下にあったシナイ半島を急襲したエジプト軍に対し、スエズ運河を逆渡河して撃破する作戦を指揮し、イスラエルの「英雄」となった。 政界進出後の82年6月、イスラエルが、パレスチナ解放機構(PLO)が拠点としていたレバノンに侵攻した際には国防相として戦争を指導。強いリーダーシップを発揮した半面、当時のベギン首相に対する独断専行も目立ったとされる。 この戦争でイスラエルは、PLOを率いるアラファト議長(当時)に大きな打撃を与え、8月にはPLOをレバノンから退去させている。 だがその直後の9月、同国の首都ベイルートにあるサブラ・シャティーラのパレスチナ難民キャンプで、イスラエル軍が包囲する中、親イスラエルのキリスト教民兵による難民虐殺事件が発生、シャロン氏は間接的な責任を問われ国防相を辞任。パレスチナ人らから「殺戮(さつりく)者」とも呼ばれた。 関連項目 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/32328.html
登録日:2015/06/05 (金) 01 27 21 更新日:2023/08/22 Tue 14 51 50NEW! 所要時間:約 3 分で読めます ▽タグ一覧 アンガウル島 アントニオ猪木 イノキアイランド スキューバダイビング ダイビング パラオ パラオ共和国 パラオ語 ペリリュー島 ペリリュー神社 世界の国シリーズ 国家 国家項目 太平洋 委任統治領 島国 日本語 日系人 英語 英霊が眠る島 親日国 高温多湿 パラオ共和国とは、日本から南に約3000kmに位置する太平洋上の島々からなる国である。基本的にパラオと略される。漢字表記は帛琉。 ●基本データ 首 都:マルキョク(2006年より) 国 歌:我等がパラオ 人口:約20,000人 公用語(○は一部地域のみ):パラオ語・英語・○日本語・○ソンソロール語・○トビ語 現トップ: 第10代大統領スランゲル・ウィップス・Jr 通貨:アメリカ合衆国ドル 国土面積:458km2(194位) 【概要】 200以上の島々からなる国。もっとも実際に人が住んでいるのは僅か9島であるとのこと。 ちなみにその内の一つに、アントニオ猪木氏が名誉オーナーを務めるイノキアイランドがある。 16の行政区域に分かれており、各州の自治は州政府によって執り行われている。 一方で伝統的な酋長制度も現存しており、うまい具合に共存している。 日本以上に高温多湿な土地で、年間平均気温は27℃で湿度は82%。生物なんかすぐ腐る。 また紫外線の強さは日本の7倍とされており、現地に向かうならば日焼け止めが必須である。 アメリカと自由連合協定を締結している。アメリカがパラオの防衛・安全保障を受け持っており、協定維持費として15年間で5億ドルの資金援助を行っている。 主産業は漁業・農業・観光業で、歳入の殆どはアメリカからの無償援助である。 世界遺産である「ロックアイランド群と南ラグーン」を始めとして自然が豊か。 特に世界でも一二を争うほど有名なダイビングスポットで、ダイバー達からは聖地と言われている。 【歴史】 第一次世界大戦まではドイツの植民地であったが、日本軍がドイツ軍を降伏させ占領。 その後の講和会議で日本の委任統治領となる。 第二次世界大戦ではパラオ最大の都市であるコロールは海軍の作戦拠点となる。 そのため連合国軍の攻撃対象となり、ペリリュー島の戦い・アンガウルの戦いが行われた激戦地となった。 特にペリリュー島の戦いは日米両軍とも甚大な被害を受け、西側の海岸は米軍の血で染まったことからオレンジ・ビーチと呼ばれるようになった。 大戦後はアメリカの信託統治を受けることになる。1981年に自治政府としてパラオ共和国が誕生。憲法も発布される。 そして冷戦終結後の1994年に独立。同年に国連にも加盟する。 【日本との関係】 日本とパラオは極めて強い繋がりがある。 日本の委任統治領となった後は、ドイツが行わなかった学校・病院の設置や道路などのインフラ整備を行い、パラオを近代的な町並みへと変化させた。 日本語の教育も行われるようになり、そのため当時教育を受けていた住民の方は今でも問題なく日本語を話すことができる。 また一部日本語がパラオ語として組み込まれており、「センプウキ」や「クマデ」、「アリガトウ」、「コクバン」、「ベントー」などの言葉が使われている。 ただ少々不自然に伝わってしまった日本語もあるようで、以下はその一例 アジダイジョウブ→美味しい ツカレナオース→お酒を飲む チチバンド→ブラジャー サッポロイチバン→インスタントラーメン アタマグルグル→混乱している まあ意味は合っているのだけれど。こういうのはどの言語にもよくある話なのだ。 魚の生食文化も日本が由来。家の中は土足厳禁というのも日本統治時代の名残で、当時流行っていた相撲は、流石にしている人は居ないが見るのは大好きなようで、日本の大相撲が人気のテレビ番組であるらしい。 また、コロール島には南洋神社という神社があり、往時と比べて規模は小さいものの、戦前の外地にあった神社のうち唯一、祭神もそのままに復興された神社である。 両国の繋がりを表すエピソードとして、「日本・パラオ友好の橋」が挙げられる。 1977年に韓国の企業「SOCIO」が建設した、コロール島とバベルダオブ島を結ぶ橋、通称KBブリッジが1996年に崩落。死者2名負傷者4名以上の惨事となった。 これによりバベルダオブからコロールへ送られていたライフラインが橋の崩落によって断絶され、国家非常事態宣言が発令される事態となった。 これを1997年に日本の無償援助で鹿島建設が再建し、2002年に二代目KBブリッジが完成。以後「日本・パラオ友好の橋」とも名付けられ、両国の友好の象徴となっている。 なお、このSOCIOは入札時に鹿島の半額という破格にも程がある低価格で落札しており、この時点で初代の命運は確定していたと言える。 更にSOCIOは1994年に韓国で崩落事故を起こした聖水大橋の建造にも関与していた(施工は別の会社)。 また、初代の唯一の痕跡である記念碑も韓国の国名が削り取られた上に落書きまでされた挙句放置されており、パラオにおいて韓国がどう思われているかがうかがい知れる。 他にもペリリュー島の戦いにて玉砕した10,000人を越える英霊を合祀するために再建したペリリュー神社や、 日本の日の丸をリスペクトして作った(*1)国旗など、パラオは世界でも1,2を争う親日国として知られている。 また、アンガウル州ではパラオ語、英語と並び日本語が公用語に制定されている(ただし、公式な使用例はない) 人気テレビ番組『笑点』では座布団10枚の景品でロケを行ったこともある。 パラオに「第二若竹」と言う不吉な名前の演芸場を作り、小遊三師匠が落語を披露した。 先述の通りパラオは日本語のわかる人が多いため、割とうけていた。 なお、第二若竹はその後跡形もなく撤去されており、経営破綻した演芸場「若竹」と同じ運命を辿った。 最近では、2015年4月8日から9日にかけて天皇皇后両陛下が国際親善と戦没者慰霊のため訪問された際には、それこそ国を挙げての歓迎ムードとなり、道路の整備までも行われた。 当日は道路脇に幾つもの日の丸が掲揚され、9日は供花のためペリリュー島を訪問された際は、ペリリュー島の職場・学校が休みになり全島民で両陛下を出迎えた。 更にはこの4月9日を「天皇皇后両陛下ご訪問の日」として州の祝日にすることが決定した。 豊かな自然に親日的な人々、そして決して忘れてはならない戦争の傷痕に眠っている英霊たち。我々日本人が訪れるべき要素が盛り沢山のパラオ共和国。長期休暇の旅行先に選んでみてはどうだろうか? 追記・修正はパラオに行ったことがある人がよろしくお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] ツカレナオース -- 名無しさん (2015-06-05 06 58 10) ジャストコーズ2の舞台になってたな -- 名無しさん (2015-06-05 19 35 31) パラオといえば中島敦が浮かぶ 中国に造詣が深い事は有名だが、パラオに関する著作も結構ある -- 名無しさん (2015-06-12 12 38 45) パラオの日本語で一番好きなのは「チチバンド」かな。ブラジャーのことなんだが、うん、まあ全然違うわけじゃないんだがw -- 名無しさん (2017-01-24 21 19 23) ↑ 誰だそんな用語を現地で流行らせたのはww -- 名無しさん (2017-04-21 15 29 32) チチバンド…1916年生まれのうちのバアさんが使ってたな…年代的にも符合するぜ。 -- 名無しさん (2018-10-13 13 02 49) ↑ 海援隊の母に捧げるバラードでも乳バンドってフレーズ出てきたな -- 名無しさん (2018-10-13 13 22 59) 米中関係がギリギリやばいくらいまで悪化してきたら、ここに移住するのもいいかもしれないな。いくら戦争が起こっても、中国はここに核を落としたりはしないだろう; -- 名無しさん (2018-10-13 13 30 05) 中央で廃れた古い言葉が地方に残って方言になるみたいなものだな→乳バンド -- 名無しさん (2023-01-01 23 34 52) お正月にはお汁粉を食べる習慣があるが、餅ではなく白玉 -- 名無しさん (2023-01-02 02 01 01) 記事の後半が著しく偏った党派性(婉曲表現)に囚われてるように見えるけど大丈夫なんですかね(相談所に持ち込むのはめんどくさい) -- 名無しさん (2023-01-02 02 04 46) ↑wikeだから何か違うなと思ったら自分で追記・修正していいんだよ。 -- 名無しさん (2023-02-21 00 35 40) ↑すまん。よく見たらwikiがwikeになってる -- 名無しさん (2023-02-21 00 40 47) 「アニヲタの集い」ができた頃はネット社会の雰囲気がこれでデフォみたいな所がありましたしね。とりあえず、今度ヒマな時にでも直しておきます -- 名無しさん (2023-02-22 01 38 25) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/gionshantveed/pages/24.html
立てユフィシャールよ。(理 Ta jufixarlerssesti ja!, ユ Ta juphixallessaserseti ja!)とは、連邦領西方サレンガート・ユフィシャール諸島の賛歌である。 目次 概要 歌詞(lineparine) 概要 NCF諸島は、Phil.2013(シンテーア暦1775年)に設置されたファルトクノアの委任統治領である。同年に就任したメイア・ド・ノーヴデリエ・メノーヴは「ユフィシャールと社会主義の最高を目指した先進的な地域賛歌」を目指して地域賛歌を募集した。応募によってユエスレオネ軍所属の少尉スカースナ・リーサの作詞作曲である「立てユフィシャールよ。」が採用されることになった。 歌詞(lineparine) Vietist estarl ler lex zeleu la kirten la starskasti mile da. E dels la lex pa marl veles kirto mal dznojuli o cale da. Edixa polto s kiniesj lakim i pen mal kyrna lartass i kele da. Pa, missen fusafaxyal io jeska ad jeskavera niejod liaxu. エスタールから続く破壊の日々よ。 虚しくも都市は破壊され、官府は陥落した。 イェスカは倒れ、広大な地が口を開けて人を飲み込んだ。 だが我々の心の中にはイェスカと社会主義が生きているのだ。 Ta jufixarlerssesti ja. ny velen jeskaveravelmer s ark xelal firki dy lernon niejod fal fqa d la polto. 立てユフィシャールよ。 義勇に溢れた社会主義戦士は 遠くフィークの地から離れ この地に生きたのだ。 klantezen varxlergen jumili a xlais cecossonj mile da. Piesteten als unde d als cexeneraver i falirla cale da miss cecrafnar melx jol kafi a cel sanacanpanqaven staxens ja kele da. Missen jufixarlaverssesti da, Co es xolarkyrferger da liaxu. 偉大なるユミリア元帥は命令を下される 東西南北、全ての世界の侵略主義者を 我々は排撃し、一千万の青星を輝かせるだろう。 我等がユフィシャール、汝は革命の先導者なのだ。 Ta jufixarlerssesti ja. ny velen jeskaveravelmer s nistamelo i shobergon sesnud parcaxeral d lirj. 立てユフィシャールよ。 義勇の精神溢れた社会主義戦士は 銃剣を握って 党司令部を守る。
https://w.atwiki.jp/thanksamillion/pages/30.html
感謝しているエピソード: パラオはフィリピン南西部にあるパラオ諸島から成る国家で、約200もの島々から成る海洋国家です。主要な産業は観光や農業で、特にココナッツ栽培や漁業に力を入れています。この国と日本との関係というとやはり、太平洋戦争です。ここにとても感動的な逸話があるので、紹介していきます。 1899年~1914年まではドイツの植民地でしたが、第一次世界大戦後のパリ講和条約で日本の委任統治領となります。ここで日本が行ったのが、病院や道路、学校などのインフラ整備に力を入れます。同時に日本語の教育を熱心に行い、現地の人々にも浸透していきます。また日本兵は日本語の歌を現地の人達と歌ったり、とても仲良く交流していました。 しかし、それも長くは続きません。戦況が日本に不利になりいつアメリカ軍が上陸してもおかしくない状況になっていきました。そんな時、現地の方々は話し合って日本の守備隊長を訪れて、『自分たちも一緒に戦わせて欲しい』と訴えたそうです。それに対し守備隊長は『帝国軍人が貴様ら土人と一緒に戦えるか!』と激高したそうです。しかしそれには理由がありました。現地の人々を戦火に巻き込むわけにはいかなかったのです。空襲を避けて夜間に、激戦地ペリリュー島からパラオ本島に船を用意し避難させる事になりました。 『日本人は仲間だと思っていたのに、見せかけだったのか!』船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人として、見送りに来なかった。村人たちは悄然として船に乗り込みました。しかし、船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜へ出てきました!そして、一緒に歌った日本の歌を歌いながらちぎれんばかりに手を振って島民を見送ったのです。先頭には笑顔で手を振るあの隊長の姿もありました。その瞬間、彼らは悟ったのです。『あの言葉は、自分たちを救う為のものだったの』ということを・・・ この誠意が通じたのでしょう。戦いが終わって帰島した彼らは、島中に散らばった日本兵の遺体を見て泣きました。島民は日本軍の遺体を葬り、日本の人達がいつ来ても良いようにと、墓地の清掃を欠かしませんでした。 最後に、現地の墓石には、この様な言葉が綴られています。 『この島を訪れるもろもろの国の旅人よ あなたが日本を通過することあらば伝えてほしい この島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と 祖国を憶うその心根を・・・』 参考文献: http //911181.blog.so-net.ne.jp/2011-03-30-1