約 12,004 件
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/177.html
御山御坊の戦い 御山御坊の戦い(おやまごぼうのたたかい)とは永禄3年に越前朝倉家、姉小路家、加賀一向一揆の3つの勢力の 間で行われた戦いである。 また、畠山家の拠る輪島港攻略を併せて行われた二面作戦でもある。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・富山城兵、七尾城兵 加賀攻略先鋒:騎馬隊7000:斎藤義龍、博麗霊夢 加賀攻略本隊:足軽隊7000:竹中重治、蜂須賀正勝 本願寺・御山御坊城兵5015 守将:本願寺顕如 朝倉・大聖寺城兵 第一部隊:朝倉宗滴 第二部隊:紅美鈴 御山御坊攻略部隊は姉小路家の看板武将と呼ぶべき二人が率いており、朝倉家の攻撃により消耗した城を落とすことはそう難しくないだろう。 ナイスハイエナ。 概要 この戦いは大聖寺城に侵攻した下間頼廉率いる一向一揆勢を朝倉家の実質的な当主であった朝倉宗滴が打ち破ったことをきっかけに始まる。 この敗北で一向一揆勢の兵力が大いにそがれたので、宗滴はこれを機に加賀一向一揆を完全に鎮圧しようと御山御坊に侵攻した。 一向一揆勢は野戦を挑んだが破れ、城に押し込まれた。 当時、当代の名将と謳われた朝倉宗滴の攻撃は苛烈を極めたが、本願寺門主顕如を中心に固く結束した一向一揆の前に攻めあぐねていた。 結局、朝倉勢が多くの死傷者を出したため一度後方にて軍を再編することとなった。 そこに突如として斉藤義龍を先方とした姉小路軍が介入。 紅美鈴隊は辛くも逃れたが、殿軍を務めて多くの負傷兵を抱え、疲労困憊していた朝倉宗滴隊は壊滅。 先の戦いで疲弊しきっていた御山御坊もすぐに落城するかに見えた。 しかし、その守りは依然として堅く、矢玉が尽きてもなおつぶてで攻撃し姉小路勢も損害をこうむった。 だが、斉藤義龍、竹中重治両将率いる倍以上の軍を支え続けることはできず、多勢に無勢の形で御山御坊は落城した。 この戦いで敗れはしたものの、一向宗門徒の結束の固さと戦闘能力の高さは大いに知られるようになった。 この戦いにおける影響 姉小路家は加賀国の大部分を手に入れた。また、以前から小競り合いの多かった本願寺の影響力がなくなることで、北陸における姉小路勢力が確固たるものとなった。 一方、本願寺側は北陸における勢力基盤を失ってしまい、今後は近畿における勢力拡大を目指すこととなった。 朝倉家もまた多くの兵を失ったが朝倉宗滴が健在であり大聖寺城の守りを固めたため姉小路としても攻める隙がなかったといわれる。 加賀における民政改革 この戦いによって姉小路家は大きな損害もなく加賀国を手に入れたが、問題はこの土地の治めにくさであった。 そこで、門徒の指導者として各地域を取り仕切ってきた豪農達を懐柔した。 武士に代わって徴税などを行わせるかわりに役料を徴収することを認めることで徴税を円滑に行うことが出来るようになり、 農民達にとっても直接の支配者が変わらないことから動揺が少ないなど、加賀の国勢は大いに安定したと言われている。 また懐柔の際、戦に負けて捕虜となった顕如を交渉の材料として使ったとされ、実際に顕如は無事に解放されている。 これらの施策を立案したのは前田玄以と言われており、後の加賀の民政にも大いに参考にされたという。 戦後の朝倉家 この戦いに朝倉家は敗れて、大聖寺城はの兵力の多くを失って非常に危険な状況であった。 しかしながら、朝倉宗滴は敗れた後に迅速に兵をかき集めて守りを固め、姉小路家に攻め入る隙を与えなかったという。 また、その際にアリス・マーガトロイドが朝倉義景を動かして一乗谷から非常に迅速に支援を行ったという説がある。 御山御坊の戦いに敗れる直前から既に支援する準備に入っていたという。 姉小路家の二正面作戦について 輪島港の戦いでも述べたが、この作戦は輪島港攻略と御山御坊攻略を同時に行う必要があった。 姉小路家は大国になりつつあり、二正面作戦を行うだけの戦力と人材が備わっていたが、万が一敗れることとなっては姉小路家の領する越中能登両国が危険にさらされることとなり、その作戦は慎重に立てられた。 朝倉勢と一向一揆勢の双方の疲弊が最大限に達したその瞬間を狙って攻撃を仕掛けるというのは情報を扱うのに長け、かつ機を見るのに敏でないとならない。 その点、姉小路家の将達の戦術眼は確かなものであったといえよう。主将副将4人全員がまさに今と判断して攻め入ったといわれている。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/189.html
雑賀城の戦い 雑賀城の戦い(さいかじょうのたたかい)とは当時紀伊の代表者で、雑賀衆棟梁である鈴木重意と姉小路家と三好家との間で起こった戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・筒井城兵 第一部隊:騎馬隊6000:竹中重治、アリス・マーガトロイド、ルーミア 第二部隊:騎馬隊6000:斎藤義龍、十六夜咲夜、霧雨魔理沙 鈴木・雑賀城兵総勢3445 守将:鈴木重意 援軍:10000:森田浄雲、寒川元隣 迎撃部隊:5000:鈴木重兼 第二部隊:5000 ?(鈴木重秀か?) 三好・総勢23500(阿波讃岐) 第一部隊:弓隊5000:三好長慶 第二部隊:5000:十河一在 第三部隊:6500:三好長逸 第四部隊:7000:三好義興 ほぼ姉小路が漁夫の利を得る形となっている。 三好は長距離行軍のため士気減退、しかも各隊の連携も悪く単独での落城は不可能。 鈴木は先の筒井城攻撃のため兵力を損耗、熊野港から援軍を行っているが総勢2.5倍の敵兵力を撃退するのは困難であろう。 概要 三好長慶は雑賀衆を攻撃するために姉小路家にが、総大将三好長慶の指揮で混乱が起きるどころか即座に反撃、竹中隊に城の櫓からの攻撃と三好軍の攻撃が集中して不利な状況が作られた。 しかし、その隙に斉藤義龍隊が一機に雑賀城を攻め落とし占領してしまった。 城を落された後も城の外にいた雑賀衆と三好軍は抵抗したが、拠点を奪われた雑賀衆と後方への連絡の絶たれた三好軍では流石に長く抗戦できずに敗走、雑賀衆は熊野港に十分な余力を残していたが姉小路家の降伏勧告をうけ降伏。雑賀衆は姉小路家に吸収された。 三好家の遠征の理由 三好家は姉小路家に道を借りて陸路にて雑賀城へ遠征している。これは非常に無理のある行軍である。 海路で熊野港を落して熊野港から雑賀城を狙うという方法もあったのにこのような無理な行軍を行ったのは何故だろうか、という疑問が生まれる。これを説明するのに以下のような説がある。 三好が庇護している織田信長に鉄砲隊の重要性を吹き込まれ長慶が雑賀衆を手に入れたいと思った為。 熊野港の守りは堅く、油断しているであろう雑賀城を攻撃する方がたやすいと希望的観測をした為。 熊野港を落せば北条家領伊勢と領土を接することになり、熊野港を維持するのは難しい為。 近畿の大部分を押さえている姉小路家に対して、一つの拠点を押さえておきたかった為。 しかし、仮に雑賀城を落せたとしても孤立した城を維持することは事実上不可能であるし(姉小路家ですら戦後に紀伊の維持の難しさから放棄している)、雑賀衆を手に入れるどころではないだろう。 この行軍はどう考えても愚策であり、三好長慶が心身に異常をきたしていた証左であると考えられてきた。 しかし、後に姉小路家の最新式の鉄砲『明智筒』の技術が盗まれ、三好家でも製造されていることから、この戦いと何らかの関係があるのではないかという説が出てきている。 雑賀衆の鉄砲隊について 雑賀衆は日本に鉄砲が伝来してよりすぐに射法と製造方法を学び取り、強力な鉄砲隊を持っていた。姉小路軍の鉄砲隊は鉄砲の数と質では圧倒的に勝っていたが、鉄砲隊の練度という点では劣っていたとされる。 その鉄砲隊の練度は鉄砲による「武将の狙撃」を史上初めて戦術に組み込んだほどであったという。多勢に無勢で敗れたとはいえ、この戦いでも雑賀の鉄砲隊は活躍した。 姉小路家の三好攻撃について この戦いの途中で三好と姉小路家との同盟期間が切れ、姉小路家は三好家の不意を突く形でその側背を攻撃している。 この策の立案は松永久秀とも竹中重治とも言われているがよくわかっていない。ただ姉小路良頼には両者の連名で献策されたといわれている。 この作戦行動には微妙な外交問題が関わるために前線は竹中重治、後方支援に松永久秀という形になっている。 この作戦の効果は三好家の近畿への影響力は弱めたこと、雑賀城を容易に落すことができたことであると言われている。 この戦いの影響 三好家は二万三千の兵を失って近畿への影響力が弱められた。そして姉小路家との関係は修復不可能なまでに悪化した。 対する姉小路家は優秀な鉄砲隊を持つ雑賀衆を吸収して、鉄砲隊がより強化された。ただし、紀伊国については維持の難しさから放棄している。 逸話 この戦いの最中鈴木重秀と霧雨魔理沙との間で一騎打ちが行われたと言われている。 実際には交戦の最中の出来事で、馬が行き交い矢が飛び交う中で行われた戦いであるため、純粋な一騎打ちと言えるかどうかは微妙ではある。 ただ、二人が弾を撃ちあっている様は美しく、周りの者が戦いの最中にもかかわらず魅入ってしまったといわれている。 その戦いは激しく、撃っては避け、撃ちながら避けを繰り返し、お互いの体に弾が掠めあうほどであったという。 結果の方は分かっていないが、戦後互いに無傷であったと言われるから勝負がつかなかったと思われる。 BGM "Cradle - 東方幻樂祀典 -"より東方妖々夢 "遠野幻想物語"
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/359.html
柏崎港の戦い 柏崎港の戦いとは永禄十二年8月に姉小路家と姉小路包囲網勢力との間で起こった戦いである。 上杉家と姉小路家との戦闘が行われた柏崎の地名をとって呼称されているが、 姉小路家が上野沼田城、信濃海津城を占領した事についても包括して扱う。 参加兵力及び戦力評価 上杉家・柏崎港7155(+援軍5000) 姉小路家 柏崎港攻略隊 混成前衛隊:足軽隊5000:本願寺顕如、真柄直隆、小島職鎮 雑賀鉄砲隊:鉄砲隊6000:鈴木重秀(雑賀孫一)、原長頼、鈴木重兼 近江鉄砲隊:鉄砲隊5000:浅井長政、アリス・マーガトロイド、鈴木重泰 別働隊 海津城攻略隊:足軽隊10000:黒田孝高、伊吹萃香、レティ・ホワイトロック 沼田城攻略隊:足軽隊9000:磯野員昌、海北綱親、朝倉景紀 概要 上杉家では南越後攻略戦の大敗によって、対姉小路を担っていた兵力がほぼ消滅した。 姉小路家はこの好機を逃さず未だ戦塵くすぶる南越後の安定化と柏崎港に残る上杉家の残存兵力の掃討、加えて武田家への牽制を行うために三方面への同時侵攻を行った。 海津城攻略隊1万、柏崎港攻略隊1万6千が7月26日出陣。沼田城攻略隊9千は少し遅れて8月5日出陣。 対する柏崎には兵7155。海津城及び沼田城には兵が全くといってよいほど駐在していなかった。 なぜ全く兵を置いていなかったのかには諸説あるが、有力説に対姉小路包囲網の盟約で海津城及び沼田城を非武装地域として軍事的な空白地域とし、武田上杉間の紛争を予防していたという協定説がある。 いずれにしても海津城は8月20日、沼田城は9月4日に姉小路家の攻撃開始と同日に開城している。 一方、柏崎では上杉方は先の大敗で士気が下がり兵も少ないので部隊出撃もままならず、篭城を強いられていた。 篭城といっても柏崎の防備は堀と低い壁で囲まれている程度であるため、姉小路方の一方的な攻撃によって陥落を待つばかりとなっていた。 この閉塞感漂う柏崎に8月27日、庄内地方で開拓に従事していた北楯利長が庄内地方や揚北地方から集めた援軍5千を引き連れて到着した。この時点で兵力だけは1万を超え、8月29日村上義清が7千の迎撃隊を率いて出陣。 しかし手持ちの兵糧が少なかったことに加えて足軽隊によって港との連絡を遮断されたために9月1日に柏崎港へ撤退した。この後は抵抗らしい抵抗もできず、9月10日に柏崎港は陥落した。 この戦いの影響 姉小路方はこれまで上杉家の侵攻に脅かされていた輪島港が後方領となり、対上杉家の前線を柏崎港のみに収束することに成功した。加えて信濃のみならず上野の武田領にも圧迫を加え、武田の大生産拠点である関東8州に楔を打ち込んだ。 本来、越後から険しい三国峠を超えて三国街道の先にある沼田城を落とすのは困難である。これを、容易に落とす事ができたのはまさしく幸運であった。 武田は上述のとおり、信濃、関東を圧迫された。 上杉はさらに兵力を失って新発田城の陥落も時間の問題となってしまった。 逸話
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/195.html
石山御坊の戦い 石山御坊の戦い(いしやまごぼうのたたかい)とは永禄8年から9年にかけて姉小路家と本願寺との間で起こった戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・勝竜寺城兵 前衛部隊:足軽隊9000:蓬莱山輝夜、八意永琳、遊佐続光 本隊 :騎馬隊9000:朝倉宗滴、アリス・マーガトロイド、ルーミア 後衛部隊:鉄砲隊7578:鈴木重秀(雑賀孫一)、霧雨魔理沙、鈴木重意 本願寺・石山御坊城兵総勢10643+傷兵 迎撃部隊:足軽隊6000:本願寺顕如 波多野・八上城兵 第一部隊:騎馬隊13000:波多野晴通 第二部隊:騎馬隊10000:波多野宗高 第三部隊:足軽隊5000:波多野秀治 石山御坊は三層天守を備えるなど堅固なことで知られる城である。加えて同盟者である波多野からの援軍もあり戦闘単位としてはなかなかのものである。士気の高さも折り紙付きである。 対する姉小路はの陣容は半年前の洛南会戦を戦い抜いた精鋭であり、こちらの士気も天を衝かんばかりである。 本願寺側としては籠城し続ければ撃退する芽はあるだろうが、野戦に持ち込まれれば敗北は必死であろう。 概要 相次ぐ敗戦によって本願寺勢の資金は底を尽き、領国も疲弊して既に姉小路家と対峙できるほどの力は失われていた。 そのような状況の本願寺勢を完全に併合すべく、姉小路軍は総勢石山御坊へ向かった。 総大将は朝倉宗滴。鈴木重意と蓬莱山輝夜も各々軍を引き連れて帯同した。 鈴木重意は武力で屈服させることに反対しており、朝倉宗滴の同意を得て本願寺との交渉を行った。 しかし、その交渉の途中で波多野晴通率いる兵が本願寺への援軍として着陣したことで波多野軍と姉小路軍の衝突が起こり、それにつられる形で本願寺勢も城下で迎撃せざるを得なくなった。 波多野軍には丹波鬼波多野宗高、赤鬼赤井直正、青鬼籾井教業と三人の勇将がおり、嫡子波多野秀治も優秀であったが肝心の総大将であった波多野晴通は戦下手と言われていた。 また、晴通と家臣の間に溝があると知っていた朝倉宗滴は、波多野氏本拠八上城で謀反が起こったと偽の情報を流した。 晴通はこの虚報を真に受けて即座に引き上げ命令を出したが、攻撃命令直後に急に出した撤退命令であったため、陣内は大混乱に陥った。 友軍の混乱に本願寺軍も巻き込まれてしまって動きが取れなくなってしまった。 その隙を姉小路軍が見逃すはずも無く、総攻撃を加えたので本願寺、波多野両軍は敗走した。 残った本願寺勢は石山御坊に篭るも既に抵抗する力は無く、前田玄以の降伏勧告に応じて開城し、降伏した。 波多野参戦の姉小路家の反応 姉小路側はこの戦いに波多野家が参戦してくることを期待していた説がある。 当時、波多野家と朝廷との関係は深かった。波多野宗高は即位式の洛内の警備をして帝の覚えもよく、赤井直正は関白近衛前久の妹を妻にしていた。 よって波多野家を姉小路家から攻めるとなると、朝廷との関係の悪化が心配される。 しかし、波多野から攻撃を仕掛け、その反撃として姉小路家が攻め入るということならば朝廷に与える印象がずいぶんと違う。 また、少なくとも姉小路家は波多野参戦を予想していたと思われる。 本願寺に篭っていた1万程度を攻めるのに姉小路家は2万5千余りも率いている。 俗に城攻めには3倍いるというが、この場合は装備差、士気の差、訓練の差から考えて2万5千は多すぎる。姉小路家が波多野参戦を予想していたことの証左であろう。 波多野参戦と波多野晴通について 波多野晴通が本願寺との盟を守って出撃を決定したとき、家臣達は八上城が守りきれないと猛反対したという。 しかし晴通は反対意見をまったく聞き入れず独断でほぼ全軍で出撃して敗れ、その上この行動を姉小路家に咎められて犬上城を攻撃されて結局城を落とされた。 晴通はその判断の誤りや戦場での采配の悪さ、後に八上城が落ちたときの無様な進退もあって多くの者から暗君であると評価されている。 ただ、近畿の大部分を制圧している姉小路家と敵対するにはこの戦いしか機会は無く、他には姉小路家に降伏する以外の道は無かった。 本願寺との盟約を頑なに守ってあくまで姉小路家と対決するという意思を持っていたとすれば、一応の弁護の余地はある。 しかし、それにしても家臣を省みず希望的観測から決定的に判断を誤り自身の家名すら守れなかったというのは大名として失格の部類になってしまうだろう。 降伏後の本願寺勢のついて この戦いで降伏した一向宗教主の本願寺顕如や家老の下間頼廉など、優秀な能力を持った僧侶達は武将として姉小路家に仕えることとなった。 姉小路良頼は廃れかけていた一向宗を建て直し一大勢力にまで押し上げた彼らの手腕を高く評価していた。 かなり厚遇されていた様子で顕如などは良頼が直々に朝廷に奏して朝廷位を授けてもらったほどである。 しかし、良頼は自身の政権があまりに宗教的になりすぎることを好まず、彼らをあくまで武将として扱っている。 領国経営で一向宗の者達を抑えるために交渉させるなどは命じたようだが、敵国で一向一揆を扇動させることは禁止した。 この戦いの影響 この戦いに敗れて本願寺は降伏した。 姉小路家は本願寺顕如や下間頼廉など優秀な武将達が傘下に入れ、さらに家臣団が強力になった。 なによりも大きかったのは、姉小路家の領内に大勢いた一向宗の門徒達の統治がしやすくなったことである。 これ以降、姉小路家は一向一揆に悩まされることも無く、領国経営がさらに安定した。 また、波多野家は姉小路家に開戦の口実を与えた上に多くの兵を失い、八上城での戦いで実力を発揮することができなくなった。 逸話 この戦いの前に鈴木重意は本願寺勢に対して説得を試みている。総大将の朝倉宗滴は対一向宗鷹派であり、これを機に一気に攻め潰してしまうことを考えていた。 鈴木重意は自身が一向宗門徒でもあり対一向宗鳩派であったので戦わず穏便に事を済ませたいと考えていた。 朝倉宗滴はこのことを快く思わず、説得できなかった時は鈴木重意の責任問題にするつもりであった。 一説には説得できなかった場合、鈴木重意が一向宗に通じて時間稼ぎを行ったと判断し、総大将の権限で更迭する意思があったという。 軍内に亀裂を生みそうな処置であるのでそこまですることは考えにくいとはいえ、朝倉宗滴の一向宗に対する厳しい態度から言ってありえないことではない。 一方、本願寺側は鈴木重意の説得に一切耳を傾けなかった。説得のために許された約束の刻限まであとわずかな時間しか残っていない、そのタイミングで本願寺勢に援軍が到着し、姉小路軍と交戦になった。 これにより本願寺側も強制的に戦闘を行わざるを得ない状況となったので、鈴木重意が説得できなかったのはやむをえないこととして責任をとらずにすんだ。 この戦いの最中、顕如は戦場の真ん中でいきなり説法を始めた。 その声は合戦中にも関わらず遠くまで響いて戦場の多くの兵士達に届いたという。 その説法は毎日続けられ、将兵達は彼を幾度も討とうとしたが、その豪胆さと朗々たる声に圧倒されて触れることすら出来なかったという。 また、彼の迫力は凄まじさから頭痛を訴える者が続出した。戦後にこの戦いに参加した多くの兵士が一向宗に改宗している。 一説によると改宗した兵士は万を超えたという。異能の者たちや将の中にも心が動かされそうになった者もいたらしい。 この戦いで降伏の使者となった前田玄以は元延暦寺の僧侶であった。彼は美濃斉藤家に仕えていた当時は一向宗を嫌い、一時は弾圧まで考えていたほどであったという。 ただ、後方支援などで領民と交渉したり、領国経営などで対一向宗のために施策の必要性から教義を学ぶうちに、一向宗門徒に理解を示すようになった。 そういった経緯から家中で第一に一向宗に詳しい者となり、一向宗の盛んな加賀の民政改革の立案を任されたりしている。 各地で後方支援を担当しているうちにさらに多くの民とふれあって、この戦いが起こった頃には一向宗門徒よりも一向宗門徒に詳しいほどになっていたという。 前田玄以は使者となることを自ら志願した。顕如や高僧達は玄以が説得する前はなおも強硬であったが、 玄以に一向宗門徒達が戦いを望んでいないことを諄々に説かれていく内に、自分達があまりに足元を見なさすぎたことを悟り、降伏することに同意したという。 姉小路家の主力は鉄砲であり、火薬の原料である硝石は生命線であったがその多くを南蛮からの輸入に頼っていた。 雑賀は硝石の生産をわずかながら行っていたがその方法は古土法といって古い家屋の下の土を利用したもので一度採取すれば数十年採取できなくなるので大量生産には向かなかった。 一方、本願寺は4~5年で硝石を採取できる培養法による硝石生成に成功していた。 戦後、硝石生成の研究チームに八意永琳を加えたことでさらなる大量生産が見込めるようになり、越中国五箇山に生産拠点をおいて大量生産を開始した。 この結果戦後5年後には自国消費の五割を超えるの硝石を生産できるようになり、硝石を今まで以上に安定して手に入れることが出来るようになった。 BGM プレインエイジア Cradle -東方幻樂祀典-
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/276.html
月山富田城の戦い 月山富田城の戦い(がっさんとだじょうのたたかい)は永禄10年に尼子家と姉小路家との間で起こった戦い。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・鳥取城兵43059+傷兵、此隈城兵 旗本隊 :足軽隊18500:姉小路頼綱、遠藤直経、ルーミア 第一鉄砲隊:鉄砲隊5000:斎藤利三、明智秀満、リグル・ナイトバグ 騎馬隊 :騎馬隊8289:磯野員昌、海北綱親、紅美鈴 第二鉄砲隊:鉄砲隊9000:明石全登、稲富祐秀、遊佐続光 八橋城兵14177(5月5日出撃) 後詰鉄砲隊:鉄砲隊7857:一色義道、原長頼、浦上宗景 後詰本隊 足軽隊6320:三木顕綱、江馬輝盛、別所就治 尼子・月山富田城兵33860 第一迎撃部隊:足軽隊9000:尼子晴久 第二迎撃部隊:足軽隊9000:尼子義久、山中幸盛 第三迎撃部隊:足軽隊6500:佐世清宗 姉小路軍は各軍団長が戦線を離れたものの、姉小路頼綱が陣頭に立ったため士気旺盛であった。 加えて、美濃・北近江衆の精鋭、播磨衆がいるため、戦力としてはなかなかのものである。 対する尼子軍はいくらか不本意な戦であるためか、士気はあまり高くない。 しかしその中でも山中幸盛配下は士気・練度共に高く侮れない存在である。 概要 姉小路頼綱は出雲侵攻の足がかりとして、別所就治に八橋城築城を命じた。 城は三月初頭完成し、これを受けて3月5日、鳥取城より頼綱は総勢4万余の軍で月山富田城へ進軍した。 この報を受けた尼子家は美保関港に最低限の守備兵を残し、ほぼ全軍を月山富田城に集結させた。 月山富田城はその城下が鉄砲櫓と弓櫓が複雑に配置されている難攻の城であり、姉小路軍も当初は城下の一部に火をかけたのみで積極的に城攻めを行わなかった。 3月30日、尼子軍はほぼ全軍をもって城下町の外まで迎撃している。 これは、尼子軍は一部を除いてな士気も低く、長期戦となれば諸将が分裂する恐れがあったので、 迎撃して勝てばよし、負けても余力を残して敵を城下に引き込み地の利を生かして篭城をするという策をたてていたと言われている。 4月10日交戦開始。尼子軍の先鋒は尼子晴久の嫡子義久を擁した山中幸盛隊9000であった。 姉小路軍磯野員昌隊は突出した山中幸盛隊と佐世清宗隊の間に割り込んで山中隊を孤立させようと試みたが、 鉄砲櫓の支援を受けた佐世隊と尼子晴久隊の連携の前に被害の拡大が予想されたため、断念せざるを得なくなった。 しかし、姉小路軍の鉄砲隊の実力は尼子方の予想以上であった。 山中隊は佐世隊、晴久隊の盾となる形でその集中砲火を受けつつ戦線を維持したが、瞬く間に撃ち減らされ、10日後敗走した。 晴久隊がこの敗走を助けたので山中隊は無事月山富田城までたどり着けたものの、 今度は晴久、佐世隊の退路を磯野隊及び姉小路頼綱本隊が断った。 尼子方は晴久が鉄砲隊の攻撃に耐えつつ、佐世隊が退路を塞いだ姉小路軍にしきりに攻撃を仕掛けていたが、 磯野、頼綱隊は鉄砲櫓の被害を受けつつも佐世隊の攻撃を受け止め、逆に反撃を加えた。 5月1日、晴久隊佐世隊共に壊滅し、晴久は僅かな近習を従えて月山富田城に敗走した。 5月10日攻城戦開始。姉小路軍は後詰も次々に着陣した。 城下の鉄砲櫓や弓櫓によって姉小路方は被害は相当な被害をうけたという。 しかし、月山富田城は攻城戦開始よりわずか1ヶ月で落城した。 これは姉小路軍が5万もの大軍だったこと、先の迎撃で尼子側の被害が尼子方の予想より遥かに大きかったので月山富田城ほどの巨城を守るほどの兵がいなかったこと、 月山富田城がやや古い城で鉄砲対策が完璧でなかった事等の理由が考えられる。 尼子晴久、義久共に捕らえられ、落城後も孤軍奮闘していた幸盛も奮戦の末に紅美鈴によって捕縛された。 この戦いの影響 尼子家は主力を完全に喪失、降伏を受け入れる他なくなる。 姉小路家は毛利との本格的な交戦状態に入る。 戦後処理について この戦いの後、立原久綱は頼綱に面会して銀の供出と兵役を条件に尼子家の存続と領土の安堵を求め、頼綱はこれを許している。 詳細は不明だが、通説によれば塩屋秋貞との間で以下のように取り決められたと言われる。 一、尼子家が出雲国内に所有する領土はこれを安堵する。家臣についても同様である。 二、石見国についても同様に安堵するが、石見国の内五万石に関してはこれを銀山経営に充てるよう命ず。 三、石見銀山の所有権は姉小路家で召し上げる。ただし、採掘権は尼子家に永久貸与する。 四、尼子家は銀の採掘量の四割を姉小路家に納める義務を負う。 五、尼子家及びその家臣は貫高に応じた兵役の義務を負う。 姉小路家に降った大名家の待遇はさまざまであり、美濃斉藤家、近江浅井家、越前朝倉家などのように大名として存続を許された家もあれば、 近江六角家、能登畠山家、越中神保家などのように大名としては取り潰された家もある。 その中でも尼子家の条件は美濃、近江、越前に次ぐかなりの好条件といえよう。 これは月山富田城が落城し、当主尼子晴久、嫡子義久親子が捕虜となってなお尼子方が激しく抵抗したことから、 単に当主及び嫡子の生命の保証のみでは抵抗がおさまらないことが明らかとなったためであろう。 尼子家残党勢力と毛利家が結ぶ危険を考えれば、いち早く尼子領を平定する必要があったため、このような好条件での降伏を認めたと推察される。 逸話 この戦いは三木顕綱の初陣である。 三好家へ人質に出されていた事もあって当時としてはかなり遅い23歳での初陣となった。 これを補佐したのは江馬輝盛、別所就治両名である。 庶子とはいえ、主君姉小路良頼の子の初陣を補佐するという大役に、一度主家を裏切った輝盛を充てる人事には疑問の声が上がったという。 結果としては三木顕綱隊が戦場に到着した頃には大勢は決まっていた事もあって、さほど大きな過ちもなく勝利に貢献している。 補佐の二人は立派に大役を務めることができたと言えるであろう。 戦後、多くの傷兵を抱える姉小路軍は温泉で傷を癒した。 月山富田城の至近には鷺ノ湯温泉が存在するが、この温泉だけでは数多くの傷兵を収容するのには不十分であったので出雲、石見の各地に温泉を求めた。 元々、玉造の湯をはじめとして出雲風土記の時代から著名な温泉が多い土地であったが、姉小路軍によってより大人数が宿泊、逗留できるように設備が整えられた。 このことがきっかけとなって後にこの地方は日本有数の温泉地として栄えるようになった。 紅美鈴は山中幸盛との戦いで重傷を負ったが、湯の川温泉につかるとみるみる回復し、傷跡も残らなかったという。 この伝説から湯の川温泉は美肌、美人の湯として知られるようになった。 海潮温泉は元々水の美しい赤川を一望できる温泉であったが、リグルが逗留してから源氏蛍の数がにわかに増えたことにより、通称「蛍の温泉」として知られるようになった。 毎年5月、6月には『光の洪水』と比喩されたその光景を一目見ようとする温泉客で賑わったという。 この戦いの直前に石見銀山において釜屋間歩(かまやまぶ)という新たな鉱脈が発見された。この発見によって石見銀山は最盛期を迎える事となった。 姉小路家への運上銀は時に数千貫にものぼり、その莫大な銀は石見銀山-温泉津-敦賀-長浜-観音寺と海路や湖路を使ってへ観音寺城へ運ばれた。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/233.html
播磨防衛戦 播磨防衛戦(はりまぼうえいせん)とは永禄9年に姉小路家と三好家の間で起こった戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・姫路城兵52077 火力部隊:鉄砲隊9000:明石全登、熊谷信直 突撃部隊:騎馬隊14500:斎藤義龍 三好・岡山城兵29500 第一部隊:鉄砲隊14500:三好長慶 第二部隊:弓隊7500:安宅冬康、パチュリー・ノーレッジ 第三部隊:足軽隊7500:十河一存 姫路城に詰めていた武将達は斎藤・明石を残し鳥取城攻めのために弓木城に移動している。 兵数は姉小路側が優勢であり、斎藤・明石の二将がいれば落城の危険は少ないだろう。 なお、この戦いの前に山名8000が攻め入っているが手もなく壊滅させられている。 概要 三好家は包囲網参加勢力の一翼として姉小路が山名より奪った播磨へ約3万の軍を持って攻め入った。 このとき播磨姫路城には姉小路西国勢の内、主立った者は因幡侵攻のため弓木城に終結、または美濃への援軍へ向かっており、斎藤義龍、明石全登ら5名の将しか残っていなかった。 しかし、歴戦の猛将である義龍率いる騎馬隊と明石全登の猛烈な反撃を受け、安宅冬康隊の半数が討たれ三好軍は早々に撤退。それを追撃した姉小路軍は備前にまで侵入し、十河一存隊を壊滅させた後姫路城に帰還した。 この戦いの影響 双方とも大きな消耗はなく、小競り合い程度の戦いであったため大勢への影響は少ない。 逸話 三好の播磨侵攻の報を受けた姉小路頼綱は至極冷静に「義龍殿に任せよ」とだけ言い、あとは放置している。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/336.html
堺撤退戦 堺撤退戦(さかいてったいせん)とは永禄11年に姉小路家と三好家の間で起こった戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・堺駐留兵 0(正規軍に限る) 守将:七里頼周(三好の攻撃開始の際には既に撤退済み) 残物資 馬:0 鉄砲:0 (ただしこれは三好攻撃直前に限る) 撤退部隊(10月3日) 輸送隊10109 七里頼周 三好・勝端城兵11217 鉄鋼船:鉄砲隊6500:三好長逸、織田信長 鉄砲の性能、実戦運用に関しては姉小路側に一日の長があったが、三好は最新兵器、鉄甲船を実戦に投入し、不利を補おうとした。 姉小路は多方面で作戦を行っており、この三好の進撃への対応は、実質的に不可能の状態だったといえるだろう。 合戦概要 第二次姉小路包囲網結成後、虎視眈々と畿内奪回の機会を伺っていた三好は姉小路の尾張攻勢、上杉の越中攻勢をその好機と考え、堺への攻撃を決断した。 9月下旬に三好軍主力は勝端城への集結、編成を完了、10月に入るなり出撃を開始した。 姉小路にその方が伝わったのは、四国沿岸に少なくない労力を払い、弱体ながらも張り巡らしていたピケットラインが街道を北上する三好軍を発見した10月3日が有力とされている。 この頃の姉小路にとって、海というのは全くの異質の存在であった。飛騨出身の重鎮達はその戦い方を知らず、意外な事に異能の者達でさえ、海のなんたるかを知った者は不在であった。 また、有力な将のほとんどが不在の状況下でもあり、姉小路側は戦えばいたずらに損害を増やすと判断し、撤退を決断した。 最終的に堺が三好の手に落ちる11月28日までの間、堺の街はかつてないほどの慌ただしさを迎えることとなる。(詳しくは後述) なお、同時に進められていた吉田郡山攻めはあっさりと追い返されている。 この戦いの影響 三好はこの勝利によって再び近畿への足がかりを手にすることができた。だが、既に堺の街の機能はほぼ失われており、三好の期待した莫大な戦略物資、及び姉小路の築いた畿内の交易ネットワークの破壊は行えず、姉小路の収益にわずかな打撃を与えたに過ぎなかった。 逸話 余談ではあるが、以前にも三好は堺への侵攻を行ったことがある(1565年10月・Act50)が、そのときは清水宗治にあっさりと追い返されている。このときの兵力は姉小路10000、三好15000であったことは当時の三好水軍の貧弱さを物語っている。(あるいは水上での鉄砲戦に馴れていなかっただけか) ついでに言えば、今回の三好軍は織田信長が参加している。かつて織田家によって畿内を追われ、その信長と共に畿内への帰還を果たした三好家。長逸あたりは心中複雑であったことだろう。 「天下の大夜逃げ」堺撤退戦 堺の特徴 後の歴史ではあまり深くは語られていないが、この三好の堺攻勢は永禄11年に起こった合戦の中では、尾張攻略戦と並ぶ極めて重要な戦いであった。 尾張への攻勢は、武田に対する東征の始まりを意味したものなのは、最早語る必要もないだろう。武田にとっても尾張は、疲弊した経済、軍事力を立て直す要衝であり、状況次第では弱体化した北条にとどめを刺す為の攻勢拠点であった。 尾張が軍事的に重要であったのに対し、堺は別の意味、すなわち経済の面で非常に重要な都市であった。 この時代、既に堺の街の人口は8万を越え、なおも増加する傾向を見せていた。 平安時代、熊野詣や、弘法大師信仰を広める際の宿場町として歴史に登場した堺は、数百年の時をかけて徐々にその商業・軍事的特性を強めていた。 三好→織田→本願寺と名だたる大名家によって制圧された後でも、堺の自治組織(納屋衆や三十六人衆)はそれらに対し時には牙を向け、時には交渉することで他とは異なる一定の自治を認めさせていた。 織田信長はそれを徹底的に弾圧、破壊する予定だったのだが、他家からの侵攻に呑まれ、実行する機会はついになかった。 姉小路が支配下になってからもそれは変わらなかった。(姉小路家は他の町と同等にしたかったようだが、高度な生産加工能力をも合わせ持つ堺の取り扱いにはかなり苦労したようである。) もちろん、数々の大名家を苦しめた中には名だたる豪商が多数おり、彼らは堺を起点に畿内の各所で商売を行っていた。 米、日用品、酒、醤油、塩などの生活物資、鉄砲、弾薬、槍、刀、武具といった軍需物資を収めた蔵は堺の至る所に存在し、その総量は姉小路の軍事活動を丸3年は支えられる程であった。 また、畿内最大の人口を要し、交通の要衝でもあった大坂の街の台所という側面もあり、大陸から運ばれた硝石貿易の終着点でもあった。 本願寺が支配した経緯から一向宗の門徒や、南蛮貿易や布教のために訪れた宣教師なども大勢住んでいた。 文化的にも、宗教的にも、或いは経済的にも極めて重要な都市であった。 姉小路の経済特性 姉小路の保有する総資金額は武田に大幅に劣っている。だが、これはあくまで表面上であり、その内実は全く違った。 武田はその収益のほとんどを市場に流さず、手持ちに留めていた。これは民衆に力を蓄えさせず、反乱を起こさせない狙いだった。 そのため、兵一人一人に武具を買い与えなくてはならず、その武具の調達にも姉小路とは比べものにならない費用と時間がかかっていた。(流通網と市場が発達していないため) 一方の姉小路は絶えず資金を流動させる事によって、市場の活性化を狙っていた。これによって民の生活を肥えさせ戦役に伴う不満を逸らす狙いだった。 そのため、姉小路手持ちの資金は少なくとも、民や兵自体の生活レベルは比較的高く(美濃は例外的といえる)武具の調達等を個人単位で行える者が少なくなかった。(中には職人に頼み元込銃の銃身を切り詰めるなど、独自の改造を行った兵士もいたという)。その他にも物資の流通を良くするための街道整備や、疫病(脚気や結核から伝染病に至るまで)対策、寺子屋の設営、実施などの教育分野への投資。(飛騨、白川には武将専用の教育施設があったとされるが、後の地震によって該当地が、その他運営記録は火災によって焼失、詳細は不明となっており、何者かによる陰謀説も囁かれている) などの数々の政策は、いわば将来的な投資として実行していた。これによって姉小路の収益自体は年ごとに桁違いに増加し続けたと考えられている。 姉小路領内の循環資金は、その時代の他家全ての資金を合わせた額をも遙かに凌駕していたという。 そしてその流動資金が多く集まるのも、堺の特徴であった。 余談だが、姉小路は武将の統括については、武田、北条に比べ遙かに劣っていた。 松永、滝川、異能の者全般や本願寺などを抱えた大所帯とはいえ、その軋轢は大きかったという。 話を戻すが、今回の三好の攻勢によって、この経済圏が一気に破壊される可能性が出てきた。 それを恐れた姉小路側は、当時からは考えられないほどの大規模な撤退戦を決心する。 豊かになったを言い換えれば、力をつけたといえる民衆がそれを後押ししたのも大きかった。特に商人的な思考が強く「権力に反抗的で戦に向かない」との風評がある摂津、河内の風土の特性が色強く出たということだろう 三好側の状況もそれを後押しした。当時三好の軍港となっていた宇多津には小規模な水兵が配属されているに過ぎず、陸軍の大多数は勿論、水兵までもを勝端城に駐留させていた。理由としては、畿内を失い弱体化した戦力を少しでも補うため姉小路の同盟国、長宗我部を隙あらば攻撃し、軍門に下らせようという狙いがあったと見られている。 陸上戦闘ではほとんど戦力としてあてにできない水兵をも配置したのは、長宗我部に対する戦力的な欺瞞工作という面が強かった。 姉小路の渡洋侵攻能力では宇多津を含めた四国東部に上陸してくることはありえないという判断の結果でもあった。 これが今回、裏目に出た。 勝端から出撃港となった宇多津(鉄甲船の整備が出来るのはここの港のみだった)までの行軍に無駄な時間を要することになる。 勝端に駐留していた水軍兵が、普段輸送にも関わっていない兵ばかりで、陸軍への転換を行っている最中だったのがさらに状況を悪化させた。 陸海ともに中途半端な練度しか持ち合わせていないため、行軍中に鉄砲を暴発させたり、方角を間違え、足軽頭もろとも一部隊が行方不明という惨劇すら広げた。 辛うじて港にたどりついてからも、多くの問題が噴出していた。 まず、鉄甲船に問題が発生していた。数年の時を得てパチュリー・ノーレッジが開発した鉄甲船にも経年劣化が生じていた。 三好には新造艦を作る技術も設備もなく、けして効果的ではない修理、整備を行っているだけに過ぎなかった。 汐風によって船体には錆が回り、同時に多数のフジツボが定着、その無様な光景を見た織田信長はあまりの情けなさに笑いだし、哮喘の調子が悪く、吉野川近くの保養地で静養していたパチュリーは報告を聞くと、読んでいた書物を取り落とし、しばし絶句したという。 他にも何気なく兵が船縁を触ったところ、鉄片がポロリと取れたともいわれている。 やむを得ず、研究用に陸揚げしていた一隻の使用を急遽決定。 また、同時に行っていた安芸への進撃の為、鉄甲船に随伴する船が全て出払っており、呼び寄せるのに時間を要した。 港にあった物資だけでは足りず、急遽勝端城から輸送したのも進撃速度の低下の一因となった。 海に出たら出たらで、別の問題が発生した。水軍練度の低下により、航法を間違えた随伴の関船が数隻行方不明になったり、外洋に比べれば凪のような海のうねりに耐えきれず、横転する小早まででた。 それにもめげず、三好水軍は堺まで進撃を続けた。 姉小路側の対応 三好の現状をそれなりの精度で探知していた姉小路は、この大がかりな撤退戦を決断した。 兵、民は本願寺の坊官上がりの七里頼周をこの撤退戦を行える器ではないと見ており、必然的に堺の街の実力者達がその中心となった。 まず、名うての大手馬屋が薬師や産婦の協力の下、手持ちの馬を無償で、老人、子供、妊婦、身障者などに優先的に提供した。 飯屋を経営する者達は続々と撤退先の石山への街道上で炊き出しを行い、街道は炊き出しの湯気が至る所で上がった。避難民の多くは『むしろ、避難しているときの方が旨い物を食べられた』と後に語ったという。 呉服屋や京の高価な織物屋も迫り来る冬に備えさせるため、自ら蔵を開け、進んで着物を提供した。 豪華な錦の着物をきた童女を襲った盗賊衆が、これまた武具商人が提供した武具で武装した町民達に撃退されるという珍事まで引き起こしていた。 七里頼周が撤退の報を聞き、動き始めた頃には既に、民の半数が堺の街から脱出済みだったといわれている。 流通面でも異常ともいえるほどの迅速さでその流れを変えた。 2週間も立たぬ間に、敦賀から搬送された硝石は京都北方の西近江路、朽木街道で止められ、それぞれ坂本、京に一時的に保管された。 堺市内にあった物資は門真、住吉、天満、尼崎などに全て搬送され、後に改めて軍事物資は姉小路が買い上げ石山へと送られた。 貸付金などに関しても、小規模な者は全て豪商達の寄り合いが全額即金で保証し、自らの分は後に姉小路に求めるという形に勝手に決めてしまった。 交易船に関しても、岸和田、湊川などの近隣に避難させ、搬送できないと判断した場合は、これまで寄り合いが買い上げ、すぐさま燃やして、後に姉小路へと請求した。 あらかた終わった後、最後の仕上げとばかりに、鉄砲鍛冶、刀鍛冶の面々が残っていた丸薬を一斉に爆破し、自らの作業場を破壊し、敵が利用するのを完全に阻止した。 姉小路の内政官がせめて蔵の中の貴重品だけでも先に避難させようと意気込んで堺に入ったとき、既に市街地はもぬけの殻で、ねずみ取りの為の野良猫が多数いただけだったという。 それからしばらくして、三好水軍が攻撃を開始、堺を占領するに至る。
https://w.atwiki.jp/yoshua/pages/132.html
2010/09/04 PS 信長の野望天翔記 with パワーアップキット 安価条件 シナリオ本能寺の変 姉小路で天下統一 条件達成 実況時間15時間54分 安価人逃亡 安価条件は姉小路で天下統一だったので本能寺の変でなくても良かったけど、 本能寺の変の姉小路はクリアできてなかったのでこのシナリオでいきました。 難易度上級だと同盟とかの外交は成功しないと思ってたので 最初はいろんな場所攻めてなんとか滅ぼされない方法探してたけど どうも方法が分からず、 なんとなく同盟してみたら成功したのでびっくり^^: 同盟結んで織田から攻められなくなったら姉小路といえど簡単ですよね 結局、前回の佐竹のときより短時間でクリアでした。 これで難しい大名家ではあらかたクリアできたのかな。 出来れば姉小路も同盟無しでクリアしたかったけど。 名前 コメント すべてのコメントを見る test -- (名無しさん) 2010-12-08 10 29 12
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/329.html
第三次越中防衛戦 第三次越中防衛戦(だいさんじえっちゅうぼうえいせん)とは永禄11年に姉小路家と上杉家の間に起こった戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・富山城兵57622 守将:朝倉宗滴 迎撃部隊:足軽隊12500:柴田勝家、富田景政、小島職鎮 第一弾幕隊:鉄砲隊1000:伊吹萃香、黒田孝高、鵜殿長持 第二弾幕隊:鉄砲隊1000:本願寺顕如、天野景貫、氏家行広 第三弾幕隊:鉄砲隊1000:鈴木重秀、長続連、神保長職 第四弾幕隊:鉄砲隊1000:アリス・マーガトロイド、朝倉義景、鈴木重兼 第五弾幕隊:鉄砲隊1000:佐々成政、赤尾清綱 第六弾幕隊:鉄砲隊1000:レティ・ホワイトロック、真柄直隆 第七弾幕隊:鉄砲隊1000:磯野員昌、鈴木重泰 第八弾幕隊:鉄砲隊1000:鈴木重意、朝倉景健 第九弾幕隊:鉄砲隊1000:海北綱親 第十弾幕隊:鉄砲隊1000:朝倉景鏡 第十一弾幕隊:鉄砲隊1000:原長頼、朝倉景紀 上杉・春日山城兵60000 第一部隊:騎馬隊14500:上杉景勝 第二部隊:騎馬隊10000:四季映姫・ヤマザナドゥ 第三部隊:騎馬隊9500:村上義清 第四部隊:騎馬隊9000:斎藤朝信 第五部隊:騎馬隊8500:中条藤資 第六部隊:騎馬隊8000:氏家守棟 柏崎港兵5500 第一部隊:騎馬隊5500:本庄繁長 前回の第二次越中防衛戦では姉小路66000、上杉84500と防御側の優勢を加味すればほぼ同等の戦力であったが、今回上杉側は兵力が二万減少、姉小路側は朝倉宗滴、柴田勝家、雑賀衆に西国から黒田孝高、伊吹萃香、本願寺顕如、近江衆が加わっており、もはや一地方の防衛としては異常なまでに将が揃っている。姉小路側の優勢は間違いないだろう。 概要 上杉家は、足利義昭の要請により、第二次姉小路包囲網に参加。上杉景勝を主将とし、春日山城より65500を富山城に向かわせた。対する姉小路家は西国から転戦してきた黒田孝高、伊吹萃香、本願寺顕如、近江衆らが加わり、万全の態勢を整えていた。 10月5日、上杉軍は富山城への包囲攻撃を開始。これに対し姉小路軍は柴田勝家率いる12500を南門の守備にあて、11000の鉄砲隊を出撃。主将は朝倉宗滴がこれを務める。 途中、斎藤朝信隊が騎馬突撃をかけたものの、宗滴が守る城の守備は固く、10月20日、景勝は撤退を指示。自身と中条藤資隊(撤退時壊滅)を殿とし、撤退した。姉小路軍は前回同様足の速い騎馬隊は追わず富山城へ戻った。 この戦いの影響 この戦いにより、上杉家は半数近い兵を損耗。春日山城に残る兵も1万を割っており、姉小路家に越後を窺わせる機会を与えてしまった。 逸話 都合五度目となった対上杉防衛戦であったが、輪島港は双方が水軍技術に精通してないためいくらか割り引いて見る必要があるかもしれないが、今までの中で最も情けない戦いであったと言える。いくら姉小路側に優れた将が集まっていたとは言え、わずか半月で追い返されたというのは不名誉以外の何ものでもない。 この敗戦で主将であった上杉景勝が切腹しようとしたのも無理はない。(ただし、四季映姫を始めとする将達によって止められている) なお、五度にわたる侵攻戦(第一次越中防衛戦は例外としても)で一度も上杉謙信が参戦していないという点は、姉小路家では様々な憶測を呼ぶこととなった(今回については北征で不在だっただけ)。 曰く、上杉家は参戦のポーズだけで包囲網には本気ではない。あくまで義将との評判を失わぬためだけに足利義昭に組みしているだけだ。本音では姉小路家と和し、東国の支配権を得ようとしているのではないか。 曰く、謙信は実は腰抜けで姉小路の鉄砲におそれを成しているのだ。 曰く、謙信は実は女で毎度月の物で出陣できないからだ などなど。 上杉家の現状から見る、今回の戦 上杉家の今回の出兵理由の考察で、いくつかの説を上げてみよう。 前述にもあるように、上杉軍の主力(謙信や直江)は現在東北の地で南部(正確には南部からの独立を狙う大浦一派)との激しい戦闘を繰り広げている。 大浦為信の知略、そして彼と結びついた異能の者、フランドール=スカーレットの二人の複合力は極めて高い水準にあったが、多方面からの侵攻を弾き返す程の力は持たず、上杉家にとっては致命的問題とはならなかった。南部、大浦、或いはその先に続く蠣崎を含めた東北制圧の目処は既に立っており、戦力の転換は視野に入っていた。 ここで上杉にとって問題となったのは、兵の練度にあった。 北の極寒の地で戦い続けた部隊は姉小路の最精鋭に十分に渡り合える程の力を持っているとされているのに対し、春日山、或いは柏崎に置かれた兵力は、上杉家が本格的に東北平定に乗り出した後に徴収された部隊であり、その練度に一抹の不安があった。 鎮定を終えた主力とそのまま合流させてしまえば、部隊全体の練度を低下させかねないという懸念があり、そのため兵に実戦経験をさせるための出兵だったという説だ。 とはいえ、ほとんどの部隊がまともな戦闘をする間もなく、大きな損害を被ることは想定していたであろうから、この説はいささか突飛ではないかという疑問も多い。 第二の説としては、将の不満を逸らす為という説だ。 上杉は姉小路に対しての包囲網に加わっていたが、武田や三好に比べればその敵対意識は強くなかった。 第二次越中防衛戦以後、姉小路の富山城塞群を突破できる見込みが全く立たなった事、さらには武田が稲葉山の戦いで大きく戦力を衰えさせたのを理由として、むしろ武田を攻めるべきだという意見が広まり始めた。 謙信不在の春日山では、武田に領地を奪われた村上義清などを急先鋒とした信濃、上野への侵攻、つまりは武田攻撃派が力を増大させ続けていたのだ。(中には包囲網の元となった足利義昭を暗殺し、包囲網を瓦解させた後、姉小路と手を結び武田を攻めるべきだという意見さえあった。) 留守を預かる上杉景勝はこれを押さえようと躍起になっていが、年若い彼ではその趨勢を覆す事はできなかった。 それどころか武田を攻撃しないことに業を煮やした本庄繁長などの独立精神旺盛な将に至っては武田はおろか上杉に牙を剥く兆候すら見せ始めていた。 景勝はこれらの問題を一気に解決する(あるいは謙信が帰還するまでの時間稼ぎの)為に、姉小路への攻撃を決定したということだ。 戦略的には愚策であったとしても、あくまで上杉は姉小路を主敵とするという意志を内外に知らしめし、また村上、本庄等の反骨的な将を多忙で覆い尽くす事で上杉内部の軋轢を緩和する狙いがあったと見られている。 もしこれが事実だとすれば、村上や本庄といった将の手持ち兵力をすり減らし、反乱を防止する狙いもあったと考えるべきだろう。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/275.html
月山富田城の戦い 月山富田城の戦い(がっさんとだじょうのたたかい)は永禄10年に尼子家と姉小路家との間で起こった戦い。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・鳥取城兵43059+傷兵、此隈城兵 旗本隊 :足軽隊18500:姉小路頼綱、遠藤直経、ルーミア 第一鉄砲隊:鉄砲隊5000:斎藤利三、明智秀満、リグル・ナイトバグ 騎馬隊 :騎馬隊8289:磯野員昌、海北綱親、紅美鈴 第二鉄砲隊:鉄砲隊9000:明石全登、稲富祐秀、遊佐続光 八橋城兵14177(5月5日出撃) 後詰鉄砲隊:鉄砲隊7857:一色義道、原長頼、浦上宗景 後詰本隊 足軽隊6320:三木顕綱、江馬輝盛、別所就治 尼子・月山富田城兵33860 第一迎撃部隊:足軽隊9000:尼子晴久 第二迎撃部隊:足軽隊9000:尼子義久、山中幸盛 第三迎撃部隊:足軽隊6500:佐世清宗 姉小路軍は各軍団長が戦線を離れたものの、姉小路頼綱が陣頭に立ったため士気旺盛である。加え、美濃・北近江衆の精鋭、播磨衆がいるため、戦力としてはなかなかのものである。 対する尼子軍はいくらか不本意な戦であるためか、士気はあまり高くない。しかしそんな中でも山中幸盛配下は士気・練度共に高く侮れない存在である。 概要 この戦いの影響 尼子家は主力を完全に喪失、降伏を受け入れる他なくなる。 姉小路家は毛利との本格的な交戦状態に入る。 逸話