約 12,004 件
https://w.atwiki.jp/shinsen/pages/8036.html
土岐屋敷 (ときやしき) 場所 美濃 : 『は−ニ』付近 旅マップは→こちら←からご確認ください。 敵NPC 名前 レベル 徒党数 備考 ドロップアイテム 見破り 土岐門衛 32 1-7 土岐護衛兵 33-38 1-7 飛騨神主 33-41 1-7 別館 土岐一族 35-43 1-7 姉小路一党 35-43 1-7 別館姉小路系の武将と交互POP 小さな手水鉢【家具】 ボスNPC 名前 レベル 徒党数 備考 ドロップアイテム 見破り 姉小路頼綱 34 7 本館奥 小さな手水鉢【家具】 姉小路良綱 35 7 本館奥 小さな手水鉢【家具】姉小路の直垂【水干】 土岐頼次 34 7 別館 獅子王の剣【剣】 土岐頼元 32 7 本館手前 土岐氏黒染大鎧【大鎧】 土岐頼芸 35 7 本館手前 土岐の鷹【絵画】 ゾーンドロップ 入魂材 : 各・入魂材+2or3 他 : 土岐一族のまげ【クエスト】 / 格式帳 関連情報 その他情報 破天後からボスは全員アクティブに。姉小路一党はお供のみになったかも。 -- 連投失礼。頼次か頼元のどっちかが別館に移動。ほかの土岐の二人は本館正面の部屋、姉小路は2人とも本館最奥にPOPしてます -- 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/287.html
第二次輪島港防衛戦 第二次輪島港防衛戦(だいにじわじまこうぼうえいせん)は永禄10年10月に能登輪島で起こった戦い。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・輪島港守備兵総勢30307 守将:高城胤辰 弾幕部隊:鉄砲隊1000×7:鈴木重秀(雑賀孫一)・鈴木重泰・黒田孝高、鈴木重兼・伊吹萃香、小島職鎮・鈴木重意・レティ・ホワイトロック・佐々成政 上杉・柏崎港守備兵(先発) 第一部隊:小早船隊8500:北条景広、チルノ、中野宗時 第二部隊:小早船隊8500:延沢満延 第三部隊:小早船隊8000:新発田景家 第四部隊:小早船隊7500:水原親憲 春日山城兵(後詰) 第一部隊:小早船隊6500:直江景綱 第二部隊:小早船隊6000:斎藤朝信 姉小路側は前回より兵数、将の質が向上しており万が一にも負けることはない。 概要 9月5日、上杉軍は姉小路領輪島港へ侵攻を開始した。 柏崎港より北条景広8500を先鋒するとする3万4千5百、春日山城より直江景綱6千5百、斉藤朝信6千が後詰めとして出陣した。 姉小路軍は主だった将を輪島港へ派遣、沿岸からの銃撃をもって対応した。 波状的な強襲で上陸を試みる上杉軍であったが、姉小路軍の銃撃の前に沿岸にたどり着く事もできず、 また、小早の薄い装甲では防ぐ事もかなわず前衛の新発田、北条、延沢、水原隊は早々に撃沈。 結局は柏崎港を発した上杉軍は全滅ということになり、生き残った兵もことごとく姉小路軍に投降した。 後詰めの直江、斎藤隊は姉小路軍と接触することなく撤退した。 姉小路軍の追撃を防ぐために後詰が待機していたが、姉小路軍は戦線の拡大を望まなかったので追撃を行われなかった。 この戦いの実質的な戦闘は十日に満たなかったと思われる。 合戦の影響 上杉軍の損失は3万を超えている。上杉軍と言えど、度重なる敗戦は後方領、他戦線への負担を大きいものとした。 また、その損害は兵だけではなく、伊達、奥州斯波家に勝利して大いに高揚していた士気も下げる結果となった。 出兵の理由 上杉軍は先の輪島港防衛戦での敗戦で小早を使って輪島港を奪取することは困難であることは分かっており、 また、特に姉小路家に対して内部工作やその他の調略を行った形跡は見られない。 その上出兵規模も前回の輪島港防衛戦を下回っている。 つまり、上杉方にはこの作戦で輪島港を陥落させる意図があったとは考えにくい。 ではいかなる目的をもっての侵攻かについては以下の説がある。 ①義理出兵 永禄九年十一月に武田は姉小路領となっていた尾張へ出兵して奪還しており、姉小路軍に対して戦果をあげている。 上杉方は永禄九年四月に越中で敗戦して以来姉小路への出兵は無く、このまま永禄十年に一度も出兵がないとなると包囲網の盟主の一人としての面目に関わる。 また上杉軍が伊達家、奥州斯波家を次々に攻略していることは 姉小路家攻略より奥州制圧を第一としていると国外(特に侵攻に晒されている西国諸国)から白眼視されており、 このままでは包囲網全体へ悪影響を及ぼすこととなる。 この説の根拠として上杉家に向けた包囲網参加諸国及び足利義昭からの催促の書状が数多く存在している。 ②牽制 上杉家の立場としては姉小路包囲網に同調しない陸奥出羽諸国を背後にして姉小路家攻略を本格化させることは得策ではないと思われる。 そこで柏崎や春日山に大軍を詰めて守りを固め、上杉謙信自身は陸奥出羽諸国制圧に乗り出したと考えられている。 柏崎、春日山勢としては上杉謙信が東北諸国制圧を終えるまで時間稼ぎをすればよいのであるが、 敵が戦力を越中富山城に集中させることは後の謙信の騎馬隊での侵攻の妨げになるために避けなければならない。 そこで、定期的に輪島港へ攻撃を加えて目を向けさせ、越中富山城に戦力を集中させることを防ぐ意図があったのではないか?といわれている。 逸話
https://w.atwiki.jp/aoari/pages/3129.html
土岐屋敷 (ときやしき) 場所 美濃 : 『は−ニ』付近 旅マップは→こちら←からご確認ください。 敵NPC 名前 レベル 徒党数 備考 ドロップアイテム 見破り 土岐門衛 32 1-7 土岐護衛兵 33-38 1-7 飛騨神主 33-41 1-7 別館 土岐一族 35-43 1-7 姉小路一党 35-43 1-7 別館姉小路系の武将と交互POP 小さな手水鉢【家具】 ボスNPC 名前 レベル 徒党数 備考 ドロップアイテム 見破り 姉小路頼綱 34 7 本館奥 小さな手水鉢【家具】 姉小路良綱 35 7 本館奥 小さな手水鉢【家具】姉小路の直垂【水干】 土岐頼次 34 7 別館 獅子王の剣【剣】 土岐頼元 32 7 本館手前 土岐氏黒染大鎧【大鎧】 土岐頼芸 35 7 本館手前 土岐の鷹【絵画】 ゾーンドロップ 入魂材 : 各・入魂材+2or3 他 : 土岐一族のまげ【クエスト】 / 格式帳 関連情報 その他情報 破天後からボスは全員アクティブに。姉小路一党はお供のみになったかも。 -- 連投失礼。頼次か頼元のどっちかが別館に移動。ほかの土岐の二人は本館正面の部屋、姉小路は2人とも本館最奥にPOPしてます -- 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/180.html
小谷城の戦い 小谷城の戦い(おだにじょうのたたかい)は永禄4年2月に姉小路家と浅井家との間で行われた戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・稲葉山城兵 攻城部隊:足軽隊10000:竹中重治、博麗霊夢、霧雨魔理沙 浅井・小谷城兵総勢12500 守将:浅井長政 迎撃部隊:弓隊7000:浅井長政、浅井久政、磯野員昌 堅牢で知られる小谷城である。城門突破までに兵力をどこまで維持できるかが勝負である。 概要 姉川の戦いで浅井家を破った姉小路家は浅井家を制圧すべく、姉小路良頼は竹中重治に兵を預けて浅井家の本拠である小谷城を攻めさせた。 対する浅井家当主浅井長政は兵を率いて城下にうって出て姉小路軍に3割の損害を与えたが自身の軍も深く傷つき小谷城に引き返した。 それでもなお、この行動に浅井家家臣の面々の士気は上がった。 しかしながら攻城戦に移ってからは竹中重治の独壇場であった。 彼は堅城で知られる小谷城を正面から攻める愚を避け、この戦いの以前から多くの浅井家の小勢力と内通して姉小路家に下るという旨の密約を結んでいた。 そして密約の通り、攻城戦になると数千の兵が姉小路側に下った。 さらに竹中は数千の兵が姉小路側に下ったことによる浅井家側の動揺をも利用してさらに多くの兵を篭絡し、ますます小谷城を孤立させていった。 結局、小谷城は抵抗むなしく落城。久政を皮切りに主だった人物のほとんどが捕縛された。 重治は戦をするにあたって前もって間者を数十人も埋伏させておき多くの工作をさせていたという。この戦いでは姉川の戦いで浅井家を破った時に多くの間者を紛れ込ませ、内部から切り崩していったらしい。 この戦いの影響 この戦いで浅井家は完全に姉小路家に降伏することとなり、姉小路家の主だった家臣団の一つである近江衆を形成することとなる。 姉小路良頼は降伏する者は罪を問わないと寛容な態度を示したからであったという。優秀な近江衆を家臣に加えることとなった姉小路家はさらに興隆する。 浅井長政について この戦いにおいて多くの脱走者を出したが、いかに長政が優れた武将で大いに家臣に信頼されていたとはいえ、 姉川の戦いでの敗戦やその後の当主交代に関するごたごたによって浅井家から離れてしまった兵の心をわずか4ヶ月で取り戻すのは不可能であっただろう。 実際、姉小路家の妨害にもかかわらず彼はまがりなりにも戦をするにあたって12000もの兵を集めることが出来た。また、戦闘中も主だった家臣は裏切っていない。 篭絡されたのは足軽組頭や小豪族など小単位の部隊の長であり、むしろ、それらをまとめて100人ほども篭絡した重治の手腕を褒めるべきであろう。 後日談 この戦いの後ににわかに小谷城下で博麗霊夢と霧雨魔理沙が美人であると評判になった。 きっかけについてはよくわかっていないが、どうも浅井家直参の家臣の妻子が長政が話したこととして流した噂であるらしい。 ほどなくして、城下で女性が巨大な黒い三角帽子を被ったりや肩を出した服装をすることが一時的に大流行し、土地の古老達を大いに嘆かせたという。 また、彼女らのさまざまな恋愛物語や美人画も描かれたが、一部に卑猥に過ぎた物があった為貸本屋などで置くことができず、野天にて売られることが多かった。 盆と正月前などは広場などで数十店舗が並ぶなど大々的に売られることもあったという。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/201.html
弓木城の戦い 弓木城の戦いは永禄9年10月下旬に姉小路家と山名家の間で起こった合戦である。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・敦賀港守備兵 先鋒隊:騎馬隊12000:浅井長政、十六夜咲夜、紅美鈴 前衛部隊:騎馬隊8000:斎藤義龍、磯野員昌、細川藤孝 火力部隊:鉄砲隊5871:明智光秀、レティ・ホワイトロック、原長頼 火力部隊:鉄砲隊5000:リグル・ナイトバグ、斎藤利三、明智秀満 八上城兵 支援部隊:騎馬隊5000:八意永琳、海北綱親、ルーミア 山名・弓木城兵総勢12364 守将:山名豊定、レミリア・スカーレット 迎撃部隊:弓隊6500:山名豊定 兵力・将の質共に姉小路が優勢である。弓木城の備えがどこまで行われているかが鍵となろう。 概要 美濃において武田を撃退した姉小路は、西国制圧のため丹波・摂津に続き山名家が領する丹後へと侵攻を開始した。 美濃・近江衆の精鋭を主力とする軍であり、誰もが勝利を確信していた。 対する山名家は半年前に赤松家を滅ぼし姫路城を手にしていたが、そのために割いた兵力が姫路城に集中しており、弓木城の守りはいささか手薄であった。 しかし、鉄砲櫓を始め市場に罠を設置するなど防御態勢を取っていた。 これは降将である黒田孝高の手配によるものと言われている。また、垣屋光成が18000の兵を輸送している最中でもあった。 優勢な状況に慢心したのか斎藤義龍隊が罠にかかるという事態あったものの、八雲藍の支援により体勢を立て直した。 迎撃に出た山名豊定の部隊を手際よく片づけ、11月が入るまでに攻城戦に移った。 兵力は半減したものの、弓木城にはレミリア・スカーレットが守備の指揮に当たっており、竹束隊の効率的な運用により明智光秀、明智秀満隊の射撃を防ぎきると言う奮闘を見せる。 しかし、寡兵であり、独力で赤松を滅ぼしたレミリアといえどこれを守りきることはできず、弓木城は姉小路家としては最短の一月で落城した。 なお、最短の戦闘は越中防衛戦であるがこれは野戦で元々姉小路側に有利であったことを考えれば、ここに至るまでに姉小路家の成長が伺える。 ちなみに支援部隊として八上城から出撃した八意永琳の部隊は罠にかかったため、攻城戦に加わることはなかった。 輸送部隊が姉小路の攻撃より早く到着していれば状況はまた変わったと考えられるが、山名家としてはかなりタイミングが悪かったとしか言いようがない。 この戦いの影響 丹後を押さえたことにより姉小路家は畿内を完全に手中に収めた。 また、山陽道の玄関口といわれる摂津と、山陰道の玄関口といわれる丹後を押さえたことで、中国地方併合の足がかりが出来た。 弓木城の防衛と姉小路軍の作戦 弓木城は対姉小路の前線として山名祐豊の指示で防御策がとられていた。備えとしては完成に至っていなかったとはいえ、その防衛設備は強力であった。 山名側としては輸送部隊の到着まで、あるいは後巻きの到着まで十分に耐えられるという計算であったが、わずか一ヶ月で落ちてしまった。 姉小路軍がこの作戦において速さを重視し、多少の被害は覚悟の上で、弓櫓を無視し、いつもであれば念入りに行う罠の探知もそこそこに切り上げ、とにかく早く城を落とすことを優先させたといわれている。 このような作戦を行った理由は弓木城と鳥取城、姫路城の位置にある思われる。 姫路城と弓木城の間には道がなく、また、姫路城自体も対姉小路家の前線であるので援軍を出すことが出来ない。 援軍を出すとすれば鳥取城からであるが、鳥取城と弓木城の間には但馬を挟んで相当な距離があるので、山名家が対応するのにはかなりの時間が必要である。 つまり姉小路軍は、山名家が姉小路軍侵攻の報を聞いてから鳥取城からの援軍が到着するまでのタイムラグを最大限利用するために一見拙速とも思える作戦を実行したのである。 この戦いで敗れたとはいえ、山名祐豊の戦術眼は悪くなく、弓木城の防衛策などむしろ今回の戦いに関しては優れていたといえるかもしれない。 しかし、弓木城は以下のように維持しがたい城であった。 鳥取城と弓木城の距離が開いていること。 姫路城と弓木城間で連絡がとりづらいこと。 そもそも弓木城自体が低い山に築かれていて守備に向かないこと。 丹後の地は維持しにくいのにも関わらず維持に固執してしまったのは戦略的観点から言って多少の落ち度と言えるかもしれない。 だが、大名にとって領土を維持することは本質的な役割であり、放棄するといったことは通常考えられない発想である。ここは姉小路軍の神速の用兵を褒めるべきであろう。 逸話 斎藤義龍、八意永琳を罠に嵌めたのは赤松家から降った黒田孝高であった。 彼はかつての主である赤松晴政を見限っており、また山名家もそう長くないと考えていた。 黒田は山名にいくらかの恩を売ると同時に、姉小路家へ己を実力を見せる手段を講じたのであった。 月の頭脳と称される八意永琳への罠が成功したことにより、自身の知略を知らしめることとなった。 当然のことながら宣伝工作も怠らず、山名家における地位向上、姉小路に罠の存在を警戒させる、と言った効果をあげ、一石三鳥の成果を得ている。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/188.html
岸和田城の戦い 岸和田城の戦い(きしわだじょうのたたかい)は永禄7年に織田家と姉小路家との間でおこった戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・堺港守備兵 先発隊:騎馬隊4500 朝倉宗滴、霧雨魔理沙、紅美鈴 後詰隊:足軽隊5000:浅井長政、アリス・マーガトロイド、ルーミア 織田・岸和田城兵総勢4234 守将:織田信長 岸和田城は織田が三好から奪って以来城壁が放置されており、防御力既に皆無。加えて寡兵であり、落城は時間の問題である。 概要 武田、北条、姉小路の3家に敗れ、大半の領土を奪われた織田信長は、生き残ったわずかな将士と共に岸和田城に入った。 この後、雑賀衆や本願寺勢に攻められたが、苦戦しつつもかろうじて撃退した。 そのような風前の灯ともいえる状況の織田家を完全に併合するべく姉小路良頼 は朝倉宗滴、浅井長政に岸和田城の攻略を命じた。 岸和田城は相次ぐ雑賀衆や本願寺の攻撃を受けており、すでに大きく傷ついて補修もままならない状況であった。 織田家側も奮闘したが、長政の支援を受けて城内を縦横無尽に駆け回る宗滴の前に、次々と兵士が倒れていくありさまであった。 結局、10月5日に落城。尾張から始まり、一時は4カ国を支配していた大大名の織田家は滅亡した。 この戦いの影響 戦国の生んだ天才と言われる織田信長を滅ぼしたことは姉小路家の名声を高めるのに十分な戦果だった。 また、多くの優秀な元織田家家臣を配下にできたことは武田、上杉に対抗する上で非常に重要なことであった。 一方、敗れた織田信長は西国に落ち延び、三好長慶の元に庇護されることとなった。 三好家と姉小路家は同盟国であったが、やがてこの件がきっかけで関係が悪化していくこととなる。 逸話 姉小路家が攻撃する直前の岸和田城の様子は従軍していた右筆の記録に残っている。 矢倉は焼け落ち、大手門は破壊されて一応の応急処置がしてあるだけ、壁もところどころ崩れていたという。 岸和田城は和田高家が1334年に築城して以来、代々の城主が改修増築していたが元々規模の小さな平城であった。 このような城で雑賀衆や本願寺勢の攻撃を受けたのであるから、姉小路軍の攻撃を受ける前から城といえないほどの損害を受けていたと思われる。 姉小路良頼は信長やその家臣達を惜しんで竹中重治を通して、内々に降伏を打診したらしい。 しかし、織田信長は一切応じなかったという。また、城内にいる者達も姉小路家からの調略には一切のらず、岸和田城に篭った4234名は織田家が滅びる最後まで戦い続けた。 織田信光は姉小路家の捕虜になっていたが、岸和田城が落城寸前であることを知って、篭城に参加するために牢を破り脱出を試みている。しかし、結局は逃走途中に捕まっている。 姉小路家に捕虜にされていた織田家家臣たちが落城の報を聞いた時の反応は様々であったという。 信光は深く落胆し、羽柴秀吉はさばさばと受け入れ、松永久秀は無表情で反応が見られなかったという。 いずれにしても、後に捕虜になっていた者のほとんどは姉小路家に仕えている。 戦後、信長は捕虜になった後、その翌日に看守の隙を突いて牢を脱出している。 度重なる城攻めで城が崩れかけるほどの損害をうけていたこともあるが、厳重な警備を脱出できたのは、何者かによる外部からの手引きがあったのではないだろうか、と言われている。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/268.html
1567年1月現在の状況 本項では1567年1月(Act77)における姉小路家・姉小路包囲網参加勢力の状況を示す。 姉小路家 参加勢力の一つである山名家を降した矢先、宇喜多直家配下長船貞親が放った刺客により明智光秀が重傷を負い、前線を離脱。(明智兵部暗殺未遂事件) 時同じくして美濃での情勢不安定化に伴い、美濃防備を担当していた蜂須賀正勝はかつての国主・斎藤義龍の召還を要請。義龍もまた西国から離れる。(美濃の抱える諸問題) また、近江衆軍団長である浅井長政も、山名家の客将であったレミリア・スカーレットが毛利以外との戦いを望んだため、それに付きそう形で離脱。 これにより、西国勢の三軍団長が一気に抜けたが、姉小路頼綱 が陣頭指揮を執ることで結束した。 武田家 稲葉山会戦では参加兵力の半数を失ったものの、尾張撤退戦ではそれを上回る兵力を投入し尾張を奪取している。 また、美濃への扇動を始め妨害工作も引き続き実施している。 上杉家 第二次越中防衛戦での敗北後目立った動きを見せてはいない。次に姉小路領に攻め込むことがあれば、ついに上杉謙信が動く可能性もある。 今までの敗北は軍神たる彼の参加がなかったからと考えられる。 北条家 稲葉山会戦、亀山城の戦い、清洲城の戦いで兵力の大部分を失い、領土も伊勢・霧山御所と東海道のいくつのか港を残すのみとなっている。ただし、霧山御所は最新の築城技術が注ぎ込まれ、難攻不落となっている。 三好家 播磨防衛戦後、目立った動きはない。 山名 生野の戦いにおいて主力を喪失し、1567年1月に姉小路家に降伏。山名祐豊を始め、家臣団は助命され姉小路家配下となる。 毛利 正面から戦うのは不利と判断。宇喜多直家による明智光秀暗殺計画を始めとする妨害工作を実施。 尼子 山名家が降伏したことによって地上で姉小路に接する。
https://w.atwiki.jp/otassya2/pages/7775.html
土岐屋敷 (ときやしき) 場所 美濃 : 『はーニ』付近 旅マップは→こちら←からご確認ください。 敵NPC 名前 レベル 徒党数 備考 ドロップアイテム 見破り 土岐門衛 32 1-7 土岐護衛兵 33-38 1-7 飛騨神主 33-41 1-7 別館 土岐一族 35-43 1-7 姉小路一党 35-43 1-7 ■黄ネーム 別館姉小路系の武将と交互POP 小さな手水鉢【家具】 ボスNPC 名前 レベル 徒党数 備考 ドロップアイテム 見破り 姉小路頼綱 34 7 ■黄ネーム 別館 小さな手水鉢【家具】 姉小路良綱 35 7 ■黄ネーム 別館 小さな手水鉢【家具】姉小路の直垂【水干】 土岐頼次 34 7 ■黄ネーム 本館 獅子王の剣【剣】 土岐頼元 32 7 ■黄ネーム 本館 土岐氏黒染大鎧【大鎧】 土岐頼芸 35 7 ■黄ネーム 本館 土岐の鷹【絵画】 ゾーンドロップ 入魂材 : 各・入魂材+2or3 他 : 土岐一族のまげ【クエスト】 / 格式帳 関連情報 その他情報 破天後からボスは全員アクティブに。姉小路一党はお供のみになったかも。 -- 連投失礼。頼次か頼元のどっちかが別館に移動。ほかの土岐の二人は本館正面の部屋、姉小路は2人とも本館最奥にPOPしてます -- 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/nolnol/pages/8644.html
土岐屋敷 (ときやしき) 場所 美濃 : 『はーニ』付近 旅マップは→こちら←からご確認ください。 敵NPC 名前 レベル 徒党数 備考 ドロップアイテム 見破り 土岐門衛 32 1-7 土岐護衛兵 33-38 1-7 飛騨神主 33-41 1-7 別館 土岐一族 35-43 1-7 姉小路一党 35-43 1-7 ■黄ネーム 別館姉小路系の武将と交互POP 小さな手水鉢【家具】 ボスNPC 名前 レベル 徒党数 備考 ドロップアイテム 見破り 姉小路頼綱 34 7 ■黄ネーム 別館 小さな手水鉢【家具】 姉小路良綱 35 7 ■黄ネーム 別館 小さな手水鉢【家具】姉小路の直垂【水干】 土岐頼次 34 7 ■黄ネーム 本館 獅子王の剣【剣】 土岐頼元 32 7 ■黄ネーム 本館 土岐氏黒染大鎧【大鎧】 土岐頼芸 35 7 ■黄ネーム 本館 土岐の鷹【絵画】 ゾーンドロップ 入魂材 : 各・入魂材+2or3 他 : 土岐一族のまげ【クエスト】 / 格式帳 関連情報 その他情報 破天後からボスは全員アクティブに。姉小路一党はお供のみになったかも。 -- 連投失礼。頼次か頼元のどっちかが別館に移動。ほかの土岐の二人は本館正面の部屋、姉小路は2人とも本館最奥にPOPしてます -- 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/187.html
一乗谷城の戦い ☆このページでは、霧雨の野望における一乗谷城の戦いについて詳細に解説しています。 史実での一乗谷城の戦いについて詳しく知りたい方はwikipediaなどの一乗谷城の戦いを調べてください 一乗谷城の戦い(いちじょうだにじょうのたたかい)は永禄5年に朝倉家と姉小路家との間で起こった戦い。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・大聖寺城兵 先鋒隊:騎馬隊8500:斎藤義龍、霧雨魔理沙、蜂須賀正勝 火力支援:鉄砲隊8086:明智光秀、リグル・ナイトバグ、明智秀満 朝倉・一乗谷城総勢6660 守将:朝倉義景 一乗谷城は寡兵にて士気低く、守将も頼りなし。もはや落城より他なし。 概要 大聖寺城の戦いで勝利した姉小路家は朝倉家に立ち直るための時間を与えないよう、間髪を入れず一乗谷城に攻撃をしかけた。軍を率いたのは斉藤義龍率いる騎兵と明智光秀率いる鉄砲隊であった。対する朝倉家当主朝倉義景はかろうじて兵を掻き集め、一乗谷城に篭って抗戦した。しかし、実際は義龍、光秀の火の出るような猛攻になすすべもなく、ただただ城壁を頼っていただけであった。ただし、彼らの攻撃は頼りの城壁すら撃ち崩す勢いであり、日夜爆音や轟音が鳴り響く様子は城兵も住民もそろって怯えさせたという。あわてて停戦要請をするも姉小路良頼は受け入れず、12月20日に義龍が城内に突入し、義景を生け捕りにして一乗谷城は落城した。 朝倉家の降伏 朝倉義景は捕虜になるもすぐに放たれて、朝倉家領の若狭の港に護送されている。これは身一つの降伏ではなく家臣団を率いての降伏という形にすることで朝倉家の体面を保てるようにする配慮である。 朝倉宗滴については戦後敗走しているところを姉小路頼綱に発見されて説得を受けた後に、姉小路良頼に下った。 明けて永禄6年に朝倉義景は姉小路家の降伏勧告を受諾した。 ここにおいて朝倉家は姉小路家に完全に併呑された。 その際、朝倉家は越前一国を安堵されている。その後朝倉宗滴が朝倉家当主ということとなり、姉小路家を代表する将として前線において激戦を繰り広げることとなる。 一方、元当主の義景は越前の統治に専念した。 なお、朝倉降伏直前に山名家が敦賀港を狙い出兵しているが、宗滴の奇襲により壊乱、撤退している。 このとき、宗滴の実力を改めて姉小路家中に知らしめたのである。 この戦いの影響 姉小路家は朝倉家を併呑し、朝倉家家臣団を吸収してより強大になった。 この時点で日本の中で武田、上杉に次ぐ戦力に至ったと言える。 逸話 一乗谷城は巨城であり多くの公家や僧侶、文人、学者たちがいたといわれている。 その者達が落城後に京にてその攻撃の激しさを言い広めたため、京付近では義龍と光秀のことを鬼神と畏れられるようになった。 姉小路頼綱は朝倉宗滴が腹を切ることを予測しており、彼らの元へ文字通り飛んで行ったと言われている。 彼が発見したとき、朝倉宗滴は真柄直隆の介錯でまさに腹を切ろうとしていたところであったという。 頼綱が説得に成功したことを聞いた良頼は飛び上がって喜び、宗滴が自身の館に来たときには、自ら門前まで出迎えたという。 その後、宗滴は家中第一の扱いを受けることとなる。 また、頼綱は非常に宗滴を尊敬しており師事している。 竹中重治や明智光秀も、度々相談に訪れることがあったという。