約 20,971 件
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2138.html
この論考は某サイトにて、汚い言葉で汚された状態で晒されています。それが忍びなく、著作権の問題を感じつつ掲載することにしました。著作権者からのご注意があれば削除いたします。 琉球新報 2009年6月19日~24日(四回連載) 検証「集団自決」ジェンダーの視点から 宮城晴美 検証「集団自決」ジェンダーの視点から 宮城晴美(一)権力による“殺人”ミクロの視点の欠如 軍からの「憎悪発話」 (ニ)絶対的な「兵隊さん」監視下の住民 錯綜する情報 (三)犠牲者 座間味部落のみ「集団自決」の諸相 (四)痛ましい父と子の関係「玉砕」「集団自決」 証言者に敬意 (一)権力による“殺人” 犠牲者の83% 女性・子ども 2005(平成17)年8月に、座間味村、渡嘉敷村の元戦隊長とその家族による、ノーベル賞作家の大江健三郎氏と岩波書店の提訴があり、それ以来、この数年間に県内外で「集団自決」にまつわるさまざまな動きがあったことは論をまたない。とりわけ、教科書検定がもたらした危機感は、黙して語らなかった「集団自決」体験者に重い口を開かせ、県民に沖縄戦史に向き合うパワーを与えた。 しかしながらその一方で、法廷における元戦隊長らを擁護する立場から歪んだ「証言の再構築」(隊長は命令しなかったという新証言なるものなど)が浮上したり、「集団自決」の用語を封じる手段として、援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法)と「靖国思想」をからませた論理で、その当事者を糾弾するような言説が見られることなど、立場こそ違え、モノ言わぬ島の人々や死者を鞭打つような暴力的論調に強い懸念を抱くものである。 ミクロの視点の欠如 そのことについては後に触れるとして、こうした弱者切り捨ての視点は、権力者(軍隊)の思想と軌を一にするといっても過言ではないだろう。「集団自決」の犠牲は女性・子どもが圧倒的に多い。そこには、住民を「死」へと追い込んでいった「力」が、軍隊という強い者から最も弱い住民へと幾重にも及んでいったことがわかっている。にもかかわらず、「集団自決」が強制された住民同士の「殺し合い」として、その要因が一括りにされてきた感は否めない。こうしたことでは、地域性、年齢、ジェンダー役割等ミクロの視点が欠落し、沖縄で起こった軍官民の「集団自決」が十把ひとからげに論じられ、その本質が見えにくくなってしまう。 「殺し合い」というのは、「力」関係が対等であることが前提となる。しかし「集団自決」は、強大な「力」を持つ軍隊が、地元の指導者を通して住民を強制・誘導することで、家族の中の「力」のある者が、最も弱い者から手にかけていったという、「不平等な力関係」のもとで起こっている。こうした「集団自決」の本質に迫るには、ジェンダーの視点での分析が必要になってくる。 「ジェンダー」というだけで、男性の多くが拒否反応を示すことは知っている。その言葉の持つ意味が「女らしさ」(弱い、優しい、しとやかなど)、「男らしさ」(強い、潔い、雄々しさなど)という、社会的・文化的に作られた性差として批判の対象になっているからであり、「女は女らしく」と願望する男性にとって、不都合なことが多いことは確かだ。 しかしながら、「ジェンダー」は単に女・男の「不平等な力関係」だけでなく、軍隊と民間人、あるいは地元指導者と一般住民という階級的差異、家父長制下の家族構成などといった階層秩序と相互に連動することで、抑圧構造を強化していくことがわかっている。言いたいことは、「集団自決」はまさにこうした構図の中で繰り広げられたということである。 軍からの「憎悪発話」 本稿では、私がこれまで調査をしてきた座間味島の具体的事例をもとに、「集団自決」の構造を弱者(家族の中の子ども、軍隊に対する民間人など)の視点から検証し、また「集団自決」の用語をめぐる問題にも言及するつもりである。 座間味島の場合、「集団」で「自決」したのは、家族・親族単位の防空壕が最も多く、私が調査した限りにおいて、犠牲者の83%が女性・子ども(満12歳以下)であった。その行為遂行者のほとんどが男性であり、男手のある家族ほど犠牲者が多かったことを示す。そこには家族を守らんとする家父長制下の男性の論理があり、その「守り」は、日本軍に隷属させられたことで体現されたものだった。 つまり、「敵に捕まると男は八つ裂きにされ、女は強姦されてから殺される」、敵への投降、スパイ行為の絶対禁止、「生きて虜囚の辱めを受けず」(戦陣訓)など、軍民が混在するなか、日本軍からの憎悪発話がくり返し住民にもたらされ、現実に敵を目前にしたとき、先に妻子を、男手のないところは母親が子どもを手にかけ、自らは最後に「自決」することで日本軍の要求に応ずるという、権力への隷属的構図に巻き込まれた人々の姿があった。 座間味島の「集団自決」は、「お互いの殺し合い」ではなく、「乳幼児が自決することはあり得ない」(安仁屋正昭著沖縄戦のはなし)と言われるように、軍隊→兵事主任→伝令から家族の中の力のある者へ、そして最も弱い者へと重層的に作用した権力による殺人であったと思っている。なぜこうした事件が起こったのか、「集団自決」を最も弱い立場の視点からあらためて検証してみたい。 (ニ)絶対的な「兵隊さん」 捕まる前に「玉砕」促す 座間味村の有人離島の一つ座間味島は、役場や学校、郵便局などの官公庁が集中する座間味村集落をはじめ、北東に阿佐、西に阿真という三つの小さな集落から成る。1944(昭和19)年9月中旬、この島に、未成年を中心に組織された海上挺身第一戦隊(梅澤裕戦隊長)という陸軍の海上特攻隊と、彼らが搭乗する特攻艇のの整備、秘匿壕堀り、陣地構築の役割をもつ約900人の海上挺身基地第一大隊(以下、基地隊という)がやってきた。 監視下の住民 那覇に最も近い慶良間諸島は、米軍が沖縄本島に向かう際、一斉に特攻艇を出撃させて背後から敵艦に体当たりするという第三十二軍の作戦計画に基づき、座間味島の海上挺身第一戦隊をはじめ、阿嘉島に第二戦隊(野田義彦戦隊長)、渡嘉敷島に第三戦隊(赤松嘉次戦隊長)が配備され、秘密基地化されていった。 座間味島に配備された日本軍は、特攻隊員が学校を宿舎にしたのに対し、基地隊の将兵はすべて座間味集落の民家に割り振られた。家族は裏座敷に追われた格好になる。当時、人口約600人の座間味集落に、倍近い日本軍将兵が分宿したため、集落内は日本軍であふれかえった。 住民の行動は軍の厳しい監視下におかれ、日常生活のすべてが軍主導へと変わっていった 日本軍が駐屯したその日から、住民に特攻艇揚陸にからむ作業が命じられ、その後連日、防空壕堀りや陣地構築、食糧増産のため、役場職員の伝令が住民への集合を呼びかけた。とりわけ婦人会員には、会長ら役員が各家庭を回り、徹底して動員を強要した。体調が悪いだけでは容赦しなかったという。さらに日本軍は、スパイ防止のため、漁に出る住民はおろか、集落内の往来でさえ、スパイではないという証明のマークの着用を強制するのである。 その一方で、一つ屋根の下で暮らす将兵と住民は、家族のような親しい関係も築いていった。やがて日常の付き合いの中で、住民は「鬼畜米英に捕まると男は八つ裂きにされ、女は強姦されてから殺される」という恐怖心を将兵から植え付けられる。そして捕まる前に「玉砕」するよう剣を渡されたり、あるいは自分でできないなら殺してあげるから日本軍の壕まで来るように言われた人たちも少なくない。特に夫や息子を兵隊にとられ、子ども、年寄りを抱えた女性たちにとって、自家に宿泊する「兵隊さん」の存在は絶対だった。 女性たちはまた、日本軍将兵の性の相手として朝鮮半島から連れて来られた「従軍慰安婦」の存在も意識せざるを得なかった。朝鮮人という民族差別に加え、いわば「淫売」としての彼女たちに憐憫の情を寄せることで、将兵を前に「淑女」としての自らのステータスを高めた。 錯綜する情報 日本軍駐屯から半年後の1945(昭和20)年3月23日、座間味集落は米軍による突然の空襲で、乳児を含む23人が死亡、ほとんどの家屋が焼失してしまい、その日から、全住民の防空壕生活がはじまった。空襲は翌日も続き、さらに25日には艦砲射撃が加わった。空襲後の艦砲射撃は、敵の上陸の前触れであることを住民は知っている。 真っ赤に飛んでくる艦砲弾で壕の周りは火の海と化し、途切れることのない炸裂音におびえる住民の元へ、夕刻、村当局から非常米の配給が告げられた。さらにその日夜遅く、今度は、毎日のように集合を呼びかけてきた役場職員の伝令から、忠魂碑前での「玉砕」命令がもたらされた。ただ、いずれもすべての防空壕に届いたわけではなかった。「米の配給だ」「いや玉砕だ」と住民の情報が錯綜し、危機感をもった子連れの女性たちの一部が、阿佐集落の裏海岸にある大きなガマ(洞窟)への移動をはじめた。その一方で、直接、「玉砕」命令を聞いた人たちは、最後の食糧を口にし、晴れ着に着替えて忠魂碑に向かった。情報の届かなかった防空壕の人たちは、外の気配に気づかなかった。 飛んでくる艦砲弾をぬうように忠魂碑に向かったものの、ほとんどの人たちが自分の家族だけ、あるいは少人数という不安感で引き返し、またしばらく留まった人たちも照明弾の落下で四散するなど、結果的にこの場所での「集団自決」の決行はなかった。 引き返したところ、必ずしも自家の壕とは限らなかった。「兵隊さん」と一緒に玉砕しようと、日本軍の壕へ向かった家族がいたり、また、子ども、年寄りを連れ、どうしてよいかわからない女性たちは、役場職員のいる農業組合壕をめざした。しかしながら、日本軍の壕は、すでに将兵が移動した後で空になっており、また農業組合壕では、役場職員とその家族が入るという理由から、ほとんどの人が入れてもらえなかった。 3月26日午前、米軍の上陸を合図に、各防空壕で「集団自決」がはじまった。直に米軍を目にした者は、はじめて見る人種「鬼畜米英」を前にパニックになり、次々と妻子を手にかけていった。 (三)犠牲者 座間味部落のみ 組織の指導者ら全員死亡 敵の上陸を予期しなかった座間味島住民の防空壕は、空襲から身を守ることを目的に、家族・親族単位で掘られ、場所は集落の近くに集中した。当初は、「兵隊さん」の近くが安心だと、日本軍の壕近くに掘った人たちがいたが、空襲がはじまったことで移動を命じられ、ほとんどが役場職員のいる西の方へ移っていった。 「玉砕」命令の伝令が回ったのは、農業組合壕を中心にした西の防空壕だった。防空壕は島全体で50から60あったといわれるが、私がこれまで調べてわかった「集団自決」の犠牲者の出た所は、地図で丸印のついたAからHの八つの防空壕(場所はおおよその位置)である。 A、B、Cは日本軍の壕だった。「兵隊さん」と一緒に「玉砕」するつもりでやってきたというAの家族のように、B、Cもその可能性は高い。Cは八つの壕の中で、唯一、女性、子どもだけだった。 そしてDが役場職員とその家族の入った農業組合の壕、Eが学校長を中心とした学校職員とその家族、それに一般住民が入った。Fは姻戚の二家族、Gが婦人会長の家族、Hは一家族で、FからHは自家壕であった。そのほとんどの人たちが、忠魂碑まで行って引き返してきたことがわかっている。 上陸した米軍は、集落を通ってこれらの壕の前に突如として現れたのである。逃げ場を失った人々は、防空壕内で「集団自決」を繰り広げた。 「集団自決」の諸相 A 日本軍の武器庫のため、その中にあった銃剣が武器となった。「軍隊アガヤー」(軍隊経験者)といわれた50代の男性が、自分の妻子・嫁・孫・座間味区長を務めていた兄、それに実家と行動を共にした兄の娘・孫らに発砲、自身は着剣で割腹自殺。 B 壕を補強するための坑木の上部からロープを通し、二家族それぞれが父親(夫)によって縊死させられる。残った30代の父親は、「子どもたちと約束したから」と、妻子を死なせ半狂乱になっている40代の男性に懇願し、ロープを引っ張らせて「自決」。40代の男性も「自決」をはかるが、1人だけ生存する。 C 子ども二人を両脇に抱えた母親が、「天皇陛下バンザイ」の叫びとともに手榴弾を叩く。子ども二人は軽傷で助かるが、母親と周りにいた母子が巻き込まれて死亡。その母親は、婦人会の活動家だった。 D 最も犠牲の大きかったのが、村民の食糧庫でもあったこの壕である。村の三役をはじめ、その家族を中心に67人が入ったが、全員が死亡したため、武器に何が使用されたか不明。 E 日本軍の防空壕で、学校長と学校職員の家族、それに逃げ場を失った子連れの女性たちが多く入った。Dの防空壕が「集団自決」を決行したことと、米軍がすぐ近くまで来ているという情報により、校長の音頭で「天皇陛下バンザイ」が三唱され手榴弾が叩かれた。それによって、女性教師ら2人だけが死亡。「自決」失敗にあわてた校長はカミソリを取り出し、とっさに妻ののどに切りつけ、そして自分の首を切って死亡。 F 姻戚2家族と実家にもどってきた子連れの女性の家族。主に農薬の猫いらず(ヒ素を使った殺鼠剤)が使われた。いやがる子どもたちには黒糖を混ぜて強引に飲ませるが、のたうち回って苦しむ子どもを見るにみかねた父親が壕の前の小屋に火をつけてその中に放り込んだり、壕の土壁に叩きつけるなどして死なせる。実家にもどった女性は農薬を飲んで苦しみながら、生後2カ月の乳児を授乳しながら窒息させ、他の幼子たちは叔父にあたる弟に手をかけさせた。 G 婦人会長の家族壕である。見つかったときは全員が白いハンカチを顔にかけて整然と横たわっていたという。ここも生存者がいないため、どのような方法がとられたか不明だが、婦人会長宅に分宿した軍の幹部から、いざというときのために、多量の睡眠薬が渡されていたことがわかっている。 H この家族は、忠魂碑からもどる際、1人の兵士から自分の壕で玉砕するよう手榴弾を渡されたが、死ぬ気を逸し、捨ててしまった。しかし、壕の前で銃剣をかまえて立ちはだかった大勢の米軍を見てパニックになり、40代の男性が妻をはじめ子どもたちの首をカミソリで次々に切っていった。男性も最後に「自決」をはかったが、男児1人が死亡し、残りは米軍に救助された。 これまで調査した限りでは、八つの防空壕には175人が避難し、そのうちの135人が亡くなったことがわかっている(この数字は座間味村の「集団自決」犠牲者の総数ではない)。 座間味島の「集団自決」は、官公庁の集中する、しかも日本軍の分宿した座間味集落在住者だけにもたらされた事件だった。そして役場の全幹部(助役は兵事主任、防衛隊長なども務める)、学校長、婦人会長、青年団長、女子青年団長、座間味区長という組織の指導的立場にある人たちが、すべて亡くなった。 (四)痛ましい父と子の関係 戦時下、国家権力が「利用」 「玉砕」命令は、日本軍からもたらされたものだった。その結果、駐留する日本軍に最も隷属し、住民と軍をつないだ村の幹部や学校長ら指導者層は、住民を「死」へ誘導するメッセンジャーの役割を果たすとともに、率先して「軍命」を履行した。もちろん、座間味島の頂点に位置する日本軍の守備隊長(戦隊長)が自決することはなかった。 こうした階層秩序による「力」の作用は、女性、子どもに大きな犠牲をもたらした。とりわけ、父親と子どもの関係は痛ましい。 Bの防空壕では、先に子どもを死なせた男性が、「子どもたちに父ちゃんも一緒だと約束したから、自分も死なせてくれ」と「自決」の幇助を頼んだ事例、Dで亡くなった男性は「死」を決して忠魂碑に向かう前、子供たちを抱きかかえて「お父さんも一緒だから恐くないよ」と言い含め、Fの壕では男児が叔父に手をかけられる直前、「お父さんの所に行く」と防衛隊に参加している父親を求めて泣き叫んでいたこと、Hの壕では父親に首を切られた11歳の男児が、息を引き取りながら「お父さん」と最期の言葉を発したなど、「死」を理解できない子どもたちに、「父親が一緒だから」と説得したという証言は多い。 その底流には,「強い父親」と子どもの信頼関係、そして家族間の主従関係が横たわっていた。 「敵の手にかかるよりは自分の手で」と、家族を守らんとする家父長制下の父親役割と子どもたちのこうした規範が、戦時下ではかくも残酷に国家権力に利用されたのである。 「玉砕」「集団自決」 私は、これまであえて「集団自決」という用語で、座間味島で起きた戦時下の事件について書いてきた。1970年代に聞き取り調査をはじめた当初は、住民の証言は「玉砕」だった。ところが、1953年3月28日付の渡嘉敷村遺族会が出した「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」では、すでに、玉砕、自決、集団自決の表記がなされており、また座間味村役場の文書である「座間味戦記」でも、同様に玉砕と自決が入り交じっている。 はじめて「集団自決」の用語が使われたのは、沖縄タイムス社の「鉄の暴風」(1950年)といわれるが、なぜ住民証言の「玉砕」ではなく、「自決」を使用したのか、「集団自決」を造語したという太田良博氏からその説明はなかったと思う。 「集団自決」の証言者は、ほとんどが「玉砕」を使用する女性たちだった。その証言を公文書に記録したのは、戦後復員してきた男性たちである。昭和18年のアッツ島における日本軍全滅を糊塗するため、大本営が国民向けに使いだした「玉砕」という軍隊用語を、それまで関係ないと思っていた座間味島の住民も、米軍上陸前夜の昭和20年3月25日夜から、自分自身にふりかかった「死の強要」として受けとめるようになった。ただ、住民の表現する「玉砕」という用語は、自分自身では死ねないので「みんなと一緒に」という、表象的で受動的な意味合いが強い。 それに対して、「自決」は、武士道の「ハラキリ思想」に通じる。「男らしさ」を象徴するこの武士道こそ、男性には、敵への投降が許されず軍の命令に忠実であることが求められたものだった。したがって、軍隊を経験した座間味・渡嘉敷島の男性たちが、女性たちの「玉砕」証言を記録する際、軍隊の価値観で「自決」「集団自決」と記したことが考えられる。 新渡戸稲造は、その著書「武士道」において、「女子の武器に頼りて其貞潔(貞操)を守るに切なるは、男子の其君主を護るに似たり」といい、女性が貞操を守ることは命にも勝ると説いた。武士道の論理でいえば、「慰安婦」とは違う「淑女」としての女性たちは、敵に捕まり強姦されると、共同体社会の中で生きていくこと自体許されなかったのである。 こうしたジェンダー役割に規定され、国家の犠牲にされた住民の体験の記憶は、証言する過程において「玉砕」、後に「集団自決」という用語で表現され、それを私たちは記録してきた。しかしながら、「集団自決」という用語が、国レベルで「崇高なる犠牲的精神の発露」として美化されたり、軍人用語だから住民には使えないなど、さまざまな問題点が指摘されだした。そして「集団自決」に対する用語として、すぐれた沖縄戦研究者によって「強制集団死」という言葉の使用が提唱されている。 証言者に敬意 それでも私が「集団自決」にこだわる大きな理由は、つらい思いをこらえながら自分や親族の体験を話してくれた座間味村民の用語として敬意を払いたいことと、座間味・渡嘉敷村の近現代史に必要不可欠の用語になっているということである。ほとんどの方が故人になったが、現在でも生き残りの方々は、「集団自決」を証言する。その人たちがいま最も懸念していることは、「靖国」を賛美する人たちによって、「集団自決」の悲惨さが美化されだしたことや、援護法適用のために「集団自決」の軍命が「方便」であったとして、元戦隊長らを擁護する動きが出ていることである。 住民の心に負った傷口をさらに鋭利な刃物でえぐるようなこうした言動があればこそ、告発の意味を含めて、弱者の視点から「集団自決」を記録し、継承することが、体験者のII世、III世、そして戦後世代の大きな役割だと思っている。 (沖縄女性史家) 15年戦争資料庫
https://w.atwiki.jp/trebor/pages/707.html
世良田東照宮太田市世良田町3119-1 世良田八坂神社太田市世良田町1497 徳川東照宮太田市徳川町387-1【世良田東照宮にて書置】
https://w.atwiki.jp/niconicokaraokedb/pages/4126.html
太田美知彦 おおたみちひこ【登録タグ 歌お 歌手】 曲一覧 SLASH!! コメント 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/anime_wiki/pages/20922.html
Blu-ray ハンドレッド 1 初回限定版 ハンドレッド10―ドリーム・ソルジャー―ドラマCD付き限定特装版 発売日:6月24日/4月16日 ■トーク ライブスペシャルイベント優先販売申込券(2016年9月18日実施) (出演予定 長谷川芳明、大久保瑠美、吉岡茉祐、奥野香耶、 羽多野渉、大坪由佳、衣川里佳、牧野由依、D-selections) ■大熊猫介描き下ろし全巻DISC収納BOX ■キャラクターデザイン田中紀衣描き下ろし特殊ケース 2016年4月放送開始。 http //hundred-anime.jp/ 監督 小林智樹 原作 箕崎准 シリーズ構成 白根秀樹 キャラクター原案 大熊猫介 キャラクターデザイン・総作画監督 田中紀衣 キャラクター総作画監督補佐 小関雅 メカデザイン 森木靖泰 リトルガーデンデザイン 宮武一貴 アクション総作画監督 榎戸駿 エフェクト総作画監督 橋本敬史 プロップデザイン 枝松聖 デザインワークス 滝川和男、小川浩 美術監督 斎藤幸洋 美術設定 工藤由美 色彩設計 山崎朋子 撮影監督 口羽毅 撮影監督補佐 伊藤遼 3Dディレクター 渡辺哲也 特殊効果 石原智美 編集 丹彩子 音響監督 藤田亜紀子 音響プロデューサー 西名武 音響効果 野崎博樹 録音調整 平野延平 録音助手 川崎千遥 音楽 鳴瀬シュウヘイ アニメーション制作 プロダクションアイムズ 脚本 白根秀樹 平林佐和子 犬飼和彦 大内珠帆 絵コンテ 小林智樹 島津裕行 なかの★陽 西島克彦 演出 下司泰弘 清水一伸 駒屋健一郎 徐恵眞 安藤健 山本天志 前園文夫 村上勉 小林智樹 作画監督 田中紀衣 榎戸駿 橋本敬史 小関雅 安田祥子 山田英子 谷口繁則 しまだひであき 李明振 金正男 Han Sung Hui 岡辰也 山村俊了 津熊健徳 飯飼一幸 飯塚葉子 ヘバラキ 松岡秀明 北川大輔 小園菜穂 片山敬介 飯田清貴 國行由里江 小和田良博 竹谷徹平 福永純一 吉田功介 眞部周一郎 滝川和男 佐藤このみ ■関連タイトル Blu-ray ハンドレッド 1 初回限定版 ハンドレッド10―ドリーム・ソルジャー―ドラマCD付き限定特装版 OPテーマ BLOODRED EDテーマ EYES ON ME ハンドレッド8 -全世界武芸大会 下 - ドラマCD付き限定特装版 原作小説 ハンドレッド -ヴァリアント覚醒- ドラゴンコミックスエイジ ハンドレッド 1 ハンドレッド 文庫 1-9巻セット rakuten_design= slide ;rakuten_affiliateId= 053df7e0.7c451bd1.0c852203.190c5695 ;rakuten_items= ctsmatch ;rakuten_genreId=0;rakuten_size= 468x160 ;rakuten_target= _blank ;rakuten_theme= gray ;rakuten_border= on ;rakuten_auto_mode= on ;rakuten_genre_title= off ;rakuten_recommend= on ; javascript plugin Error このプラグインで利用できない命令または文字列が入っています。
https://w.atwiki.jp/shooto/pages/382.html
太田 拓己(おおた たくみ) 誕生日:1978年6月29日 出身:鳥取県米子市 所属:PUREBRED鳥取 身長:169cm 階級:ライト級 戦績 年月日 対戦相手 結果 大会 その他 2007/5/13 伊藤一宏 × 1R 腕ひしぎ十字固め GRAPPLINGMAN6 闘裸男 2007/8/5 西野英紀 ○ 2R スリーパーホールド SHOOTING DISCO 2 2007/9/22 粕谷さかえ ○ 1R TKO BACK TO OUR ROOTS 05 修斗 2007 BEST 2008/3/16 グスタヴォ・ファルコローリ △ 2R 判定*-* Shooto III & Pro Boxing 2008/5/18 赤澤誠 ○ 1R スリーパーホールド GRAPPLINGMAN7 闘裸男 2008/10/13 田村一聖 × 2R 判定0-2 プロフェッショナル修斗公式戦 2009/5/10 西浦“ウィッキー”聡生 × 2R 判定0-3 修斗伝承 ROAD TO 20th ANNIVERSARY FINAL DVD収録試合 2010/4/4 不死身夜天慶 × 2R 判定0-3 GRAPPLINGMAN 10 闘裸男 2011/3/21 田中半蔵 × 2R 判定0-3 GENESIS ■1978年生まれ ▲鳥取県出身 ▼ライト級 ◆PUREBRED鳥取
https://w.atwiki.jp/sotsuten2012/pages/41.html
■電気チェック 日時:1月14日(月)11 00〜※取手校地 各場所 電気を使用した作品は芸大からの電気業者から電気チェックを受ける必要があります。 電池の作品でも対象となります。 11月に行ったプロポーザルと一緒に出した、「電気届け」にw数を記入した人が対象になります。 電気チェックは、審査会のタイミングで行います、取手校地でのチェックとなります。(審査会の作品がそのまま上野にも搬入されるという認識で、審査会の作品を対象としています) 14日は祝日ですが、搬入最終日という事で、この日にチェック日が設定されています。 14日は美術館のみの搬入スケジュールとなっていますが、14日は電気チェックを受ける展示場所のスペースを全て開けます。 対象者は、自分の作品の近くにいて、電気チェックを受けて下さい。 急遽、電気が必要になった場合でも、当日用紙を書けばチェックを受けれます。 文末にw数リストがあります。w数変更や内容変更ある場合は書き換えをお願いします。書き換えたら、田中迄簡単で良いので返信をお願いします。 <学部> 名前 W数 備考 小林あずさ 無 白井亜沙美 200w 森未央子 無 山田朝日 200w 太田沙絵 470w 太田良 無 講義室、講堂での上映 玉川翔太郎 無 中村奈緒子 100w 村山加奈恵 無 安積知里 無 浅古綾香 120w 足立靖明 300w 飯田有佳子 297w 石谷恵 40〜500w 江原愛梨 120w 大谷透 400w 片山慈子 180w 金野恵利香 ?w 杉原玲那 無 仙石高記 無 谷内春菜 無 田村かのこ 300w 土井つかさ 5w 長塚梨南 無 西川紗帆 400w 萩原梨奈 無 平澤岳 無 松原優子 400w 丸山菜々子 無 三嶋一路 無 森美由紀 80w <修士> 名前 W数 備考 林加奈子 500w 伊藤友二 500w 伊福紗代 無 金瑞姫 無 八田綾子 180w 三浦真琴 500w 村上萌 1500w 上地由衣 無 鎌田友介 無しになりました 久保ガエタン 1200w 熊沢里美 無 小室萌佳 700w 謝花翔陽 414w 鈴木諒一 460w 豊永純子 400w 野口健吾 200w 朴娜炫 400w 橋本匠 500w 林友深 無 原田吾朗 560w 保坂いずみ 60w 松之木香衣 無 松原成孝 400w 三野新 300w 望月勇作 550w
https://w.atwiki.jp/politica/pages/1799.html
太田俊男をお気に入りに追加 太田俊男のリンク #blogsearch2 太田俊男の報道 衆院憲法審会長に森英介氏 自民内定(写真=共同) - 日本経済新聞 太田俊男とは 太田俊男の97%は下心で出来ています。太田俊男の2%は大阪のおいしい水で出来ています。太田俊男の1%は波動で出来ています。 太田俊男@ウィキペディア 太田俊男 掲示板 名前(HN) カキコミ すべてのコメントを見る ページ先頭へ 太田俊男 このページについて このページは太田俊男のインターネット上の情報を集めたリンク集のようなものです。ブックマークしておけば、日々更新される太田俊男に関連する最新情報にアクセスすることができます。 情報収集はプログラムで行っているため、名前が同じであるが異なるカテゴリーの情報が掲載される場合があります。ご了承ください。 リンク先の内容を保証するものではありません。ご自身の責任でクリックしてください。
https://w.atwiki.jp/nmb48/pages/13.html
太田里織菜プロフィール ニックネーム りおな 生年月日 1996年12月31日 出身地 岐阜県 身長 151.0 cm 好きな食べ物 キウイ・ピーマン #blogsearch #blogsearch2
https://w.atwiki.jp/gunshooting_love/pages/570.html
アピナ太田 住所 〒373-0813 群馬県太田市内ケ島町907−1 最寄り駅 東武小泉線 竜舞駅 営業時間 ■バッティング・大型ゲーム機(A)エリア 月~金 10:00 ~ 24:00 土・日・祝日 9:00 ~ 24:00 ■その他、アミューズメントゲーム機(B)エリア 月~金 10:00 ~ 24:00 土・日・祝日 9:00 ~ 24:00 最終確認日 2022/11/28 設置機種 タイムクライシス4 ザ・ハウス・オブ・ザ・デッド4(撤去) エレベーターアクション デスパレード(撤去) ターミネーターサルベーション(撤去) ホーンテッド ミュージアム Let's GO JUNGLE! DARK ESCAPE 3D ミュージックガンガン(1or2)(撤去) トランスフォーマー・ヒューマンアライアンス その他(メンテ等) エレベータアクションの扉が閉まらない仕様になっているため、少し戸惑いました ミュージックガンガンがあったが1作目か2作目どちらか不明 HOD4の初期ライフが6つありました 2021/9/2 HOD4撤去確認 2022/11/28 エレベータアクション、ターミネーター、ミュージックガンガン撤去確認。 タイムクライシス4 1P調整中。 ホーンテッドミュージアム 画面左上の方がまれに反応が消える場合がありますが、プレイに大幅な支障は無し。 レッツゴージャングル 2P持ち手の右側が取れそうなのを確認。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/898.html
大江健三郎陳述書(本論部分)下 沖縄タイムス 連載「視座・沖縄ノート 大江健三郎陳述書」 http //www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu.html 大江健三郎陳述書(本論部分)上 (1)「集団自決」疑いなし (12月9日朝刊総合6面)「鉄の暴風」根拠に執筆 (2)日本人の戦争責任問う (12月11日朝刊総合7面)再度の「国家犯罪」を危ぐ (3)タテの軍構造に責任 (12月12日朝刊総合4面)「集団自決」通し自己批判 (4)民衆の死 抵当に生 (12月13日朝刊総合10面)酷たらしい現場から今に (5)多様なかたちの「命令」 (6)記憶歪め 和解を期待 (12月15日朝刊総合7面)本土側が沖縄ねじふせ (7)守備隊長 確実に責任 (12月16日朝刊総合7面)別人の繰り返しありうる (8)「罪」否定の自己欺瞞 (12月17日朝刊総合6面)虚偽の物語 自ら意識せず 大江健三郎陳述書(本論部分)下(9)島民の「友好」を幻想 (12月18日朝刊総合6面)償い語らぬ死の責任者 (10)「最後の時」放置の責任 (12月19日朝刊総合4面)逃れようのない結末に (11)罪責感ない守備隊長 (12月20日朝刊総合9面)架空法廷 ドイツとは逆に (12)悲劇を繰り返す懸念 (12月21日朝刊総合6面)「ノート」の根本的な動機 (13)軍の自決命令を確信 (12月23日朝刊総合9面)内容に訂正の必要なし (9)島民の「友好」を幻想 (12月18日朝刊総合6面) 償い語らぬ死の責任者 「本土においてはすでに」で始まる次の段落は何を述べたものか? この段落において、私は先の段落で書いている、一九四五年に行われた集団自決の悲惨が、本土においてしだいに表立った声にならなくなってゆく時代状況のなかで、その守備隊長として責任のある人物が(ここでも個人名をあげていませんが、私は渡嘉敷島の旧守備隊長を指しています)、本土においてと同様、沖縄においても、自分を批判する声は起こらなくなっているのではないか、と夢想し、幻想することがあったはずだ、という私の想像を語っています。 一九七〇年、実際にこの旧守備隊長が沖縄に向かったとき、かれは集団自決を引き起こすことになった日本軍の、この島での責任者として、その罪を認め、償いうる道があれば償いたい、と島民に向けて語るために行ったのではありません。かれは戦後ずっと考えてきた、「おりがきたら」渡嘉敷島を訪れて、島民たちの友好的な雰囲気のなかで「英霊をとむらう」、その企画の実現のために沖縄に向かったのです。ここで私が指摘しているのは(そして批判しているのは)右に述べたような一九四五年の悲劇を忘れ、問題化しなくなっている本土の日本人の態度であり、それに乗じて、沖縄でも、二十五年前の集団自決の悲惨をかれに向けて批判する者はいない、と考えるようになっていた、その旧守備隊長の心理についてです。私は新聞報道からその認識を誘われ、旧守備隊長の持っていたはずの夢想、幻想を、私の想像力をつうじて描きました。それは小説の方法ですが、私はこのエッセイ・評論にあえて用いました。 そこで私の批判した「かれ」は渡嘉敷島の旧守備隊長であり、私は各種の現地からの新聞報道で「かれ」の発している言葉が、「かれ」の戦後作りあげたどのような信条から出ているかを、私が「かれ」に見出すと考える「夢想」「幻想」として書きました。「エゴサントリクな希求」とは、自己中心的なねがいです。 「屠殺者と生き残りの犠牲者の再会」という表現を、私はここで批判的に描いている人物の、「夢想」「幻想」の特殊さを強調するために用いています。「生き残りの犠牲者」とは、集団自決の経験のなかから生き残った人たちです。このような過酷な経験をし、家族を自分の手で殺すこともしなければならなかった、その上での生き残りの人物を、私はその人たち自身犠牲者でもあると考えます。 「屠殺者」という言葉を(私はこの仕方を自分の小説の技法として作ってきたのですが)、日本語であいまい化されている言葉を、それにあたる外国語とつき合わせ、自分としての訳語を作って正確にする、という仕方で使っています。その仕方での私の意味付けは、「むごたらしく人間を殺した者」です。 なぜ私が自分の定義によるこの日本語を使用したか? 現在使われている日本語の辞書としての代表的な『広辞苑』には、「屠殺」はあり、「(肉などを利用するため)家畜などの獣類をころすこと。」という意味があてられています。 しかし明治以来のわが国の翻訳文学、またそれに影響を受けて書かれた小説に見られることのあった「屠殺者」という言葉は、この辞書にはありません。「屠殺者」という日本語はbutcherつまり一般的には肉屋、そしてさきの字義による、家畜などを食用にするためにころす職業につく人のことを示します。ところがbutcherには、比喩的な意味として「むごたらしく人を殺す者」という使われ方もあるのです。 今日の英文字でbutcherは文字通りの「家畜などを食用にするため殺す職業の人」という意味と、いまの比喩的な意味で使われ続けています。しかし、新造語としての「屠殺者」という日本語には、この両方の意味を混在させることで、食用の肉を作る職業人への差別的な使用がなされる危険があります。そこで『広辞苑』からは、この言葉が消されることになったのでしょう。 そのような言葉の歴史を承知した上で、私はあの一節に「屠殺者」という言葉をbutcherの比喩的な意味をきわだたせて使っています。つまり、渡嘉敷島の集団自決においての「そのむごたらしい死の責任を持つ人間と生き残りの犠牲者の再会」ということです。 (10)「最後の時」放置の責任 (12月19日朝刊総合4面) 逃れようのない結末に 「日本本土の政治家が」で始まる段落は何を述べたものか? この段落の文章の構造を説明します。 まず前の段落の、ひとりの人物(かれは渡嘉敷島の旧守備隊長で、この段落では当時「若い将校」であった「ひとりの日本人」と呼ばれています)が、一九四五年渡嘉敷島で、その指導下にある守備隊が島民に強制した集団自決について、事実に反する「記憶」を作りあげての「夢想」「幻想」を抱く、そしてそれを現実に置き換えることが可能だと考えて二十五年後の沖縄におもむく、という場面を私は書いています。 いまやそれができる、それができるようなおりがきた、とこのひとりの日本人が考えて、沖縄に行く。それは「日本本土の政治家、民衆」もいまやそれが事実に反しているといいたてるようでない現在、「そのようなおりがきたのだ」とかれは考えている。その時(以下は、書き手である私の認識の表明です。そのまま引用します) 《 まさにわれわれは、一九四五年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へ追いやったかの、およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の、まったく同一のかたちでの再現の現場に立ちあっているのである。》 「戦争犯罪者」とは誰のことか? 「若い将校」とは誰のことか? 渡嘉敷島の旧守備隊長のことです。 「若い将校」たる自分の集団自決の命令とは、何か? その根拠は何か? 私は、すでにこの陳述書でのべていますが、日本軍―第三二軍―渡嘉敷島の守備隊というタテのつながりのなかで、しかもそれが現実に行われた現場で守備隊の最高責任を持っていた将校として、他に変わる者はいないこの島の守備隊長に、渡嘉敷島の集団自決の直接の責任があると考え、その根拠ものべています。渡嘉敷島の守備隊長は、私の認識を繰り返しますが、さきにいった、タテの構造の一員として、集団自決に責任があります。この集団自決が「最後の時」にはなされなければならないということは、島民に徹底されている(慶良間列島の日本軍が米軍に勝利し、沖縄戦が逆転することがある場合、この「最後の時」は「命令」ではなくなりますが)。そこで、渡嘉敷島の陣地脇に集合させられている島民が「最後の時」が来た、と考えた時、それに対して積極的に実行中止の命令を出しうるのは、現地の守備隊長のみでした。それを旧守備隊長はせず、その夜起こったことを知らなかったとたびたび主張しています。それは、いまのべた、現地の指揮官として「最後の時」だ、という島民の認識をそのままにしておいたことで、それまでに積み重ねられた「集団自決」への「命令」が、実際に受けとめられてきたままに実行されたことへの、まやかしの発言なのです。 「渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へ追いやったのか、およそ人間のなしうるものとは思えぬ決断」とは何か? 旧守備隊長は、集団自決のその当日まで、守備隊長として、すでに島民に行きわたっている、集団自決に向けて押しつめられている、かれらに共通の思いに対して、それをやってはならない、と命令する決断ができる立場にいる、島でただひとりの人間でした。かれはそれをせず、大きい悲劇が起こるままにしました。放っておけば「最後の時」として起こることをそのまま放置したことこそが、島民の側からいえば逃れようのない結末をもたらした、直接の責任者のひとつの決断であったのです。 「再現の現場に立ちあっているのだ」とは? 戦後二十五年たって、一九四五年の渡嘉敷島での「ひとりの日本人」の心の働きが、そのまま本人によって再現されている(そうすることで一九四五年の罪が、罪でないものとして自他に受けとめ直されるように企てている)ということです。もし一九七〇年の旧守備隊長の訪沖が、あのように激しく批判されることがなかったとしたら、この企てはマンマと成功したでしょう。 (11)罪責感ない守備隊長 (12月20日朝刊総合9面) 架空法廷 ドイツとは逆に 『沖縄ノート』二百十三ページ三行目から十一行目は、次のように記されています。 《 おりがきたとみなして那覇空港に降りたった、旧守備隊長は、沖縄の青年たちに難詰されたし、渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭では、沖縄のフェリイ・ボートから乗船を拒まれた。かれはじつのところ、イスラエル法廷でのアイヒマンのように沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろうが、永年にわたって怒りを持続しながらも、穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は、かれを拉致しはしなかったのである。それでもわれわれは、架空の沖縄法廷に、一日本人をして立たしめ、右に引いたアイヒマンの言葉が、ドイツを日本におきかえて、かれの口から発せられる光景を思い描く、想像力の自由をもつ。かれが日本青年の心から罪責の重荷を取り除くのに応分の義務を果たしたいと、「或る昂揚感」とともに語る法廷の光景を、へどをもよおしつつ詳細に思い描く、想像力のにがい自由を持つ。 》 私が、この段落で書いていることは、一九四五年の渡嘉敷島で行われた、日本軍から強制されての島民の集団自決が、一九七〇年の日本の青年たちにとってしっかり受けとめられているのではない、それはむしろいまや日本の政治家から日本人一般を包みこむ大きい風潮ではないか、それをあらかじめ見きわめての、渡嘉敷島の旧守備隊長の、渡嘉敷島に渡ろうとする企てではなかったか、ということです。 私は沖縄戦で行われた沖縄住民への日本軍の犯罪の典型的な例として、渡嘉敷島での集団自決の強制がある、と考えていました。それに対していかなる法的機関による裁判も行われていない以上(おなじことの、将来における再現をふせぐために、というのが私の考えの中心にありましたが)なんらかのかたちでの「沖縄法廷」が開かれるべきであった、と考えていました。そしてここでは、ひとつの「沖縄法廷」の架空のものを想像したのです。 その架空法廷で、渡嘉敷島の元守備隊長がどのようなことを語るだろうか、ということを様ざまに考え、私は戦後の(一九七〇年現在の)「日本青年」と「ドイツ青年」の比較を設定しました。そして、私がそこにイスラエル法廷におけるアイヒマンの証言を(ハナ・アーレントの書物から)引用したのは、次の意図からです。 アイヒマンは友人から「或る罪責感がドイツの青年層の一部を捉えている」ということを聞きます。それを契機にかれはナチス・ドイツのユダヤ人虐殺の犯罪を追及する捜索班から逃れることをやめ、逮捕されると、イスラエル法廷に対して(現実にはありえないことでしたが)自分を公衆の前で絞首するようにさえ提案しました。その理由としてかれはこういいます。「私はドイツ青年の心から罪責の重荷を取り除くのに応分の義務を果たしたかった。なぜならこの若い人々は何といってもこの前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動に責任がないのですから。」 一方で私は、「日本青年」にはこうした前の戦争に対する罪責感は一般的にないのではないか、と考えたのです。そしてやはり沖縄戦に対する罪の意識はない旧守備隊長が、「沖縄法廷」でその意見を申したてるとすると、どういう内容となるだろうか? 私はそれをグロテスクに感じる、と書いています。渡嘉敷島の集団自決の、日本軍の責任を現地で担うべき旧守備隊長をアイヒマンになぞらえ、「沖縄法廷」による公開処刑をまで言い出している、とする読み取りは、まったくあたっていません。戦争の責任の考え方について、アイヒマンと渡嘉敷島の旧守備隊長との考え方は逆なのです。アイヒマンはドイツの青年が感じとっている「罪責の重荷」を取り除いてやるために自分で罪を引き受け、絞首によってそれを償おう、と考えたのです。渡嘉敷島の旧守備隊長にも、日本青年にも、罪の意識はないのです。その点を私は比較してグロテスクに感じる、と書いたのです。 (12)悲劇を繰り返す懸念 (12月21日朝刊総合6面) 「ノート」の根本的な動機 『沖縄ノート』は今日まで版を重ねているが、その刊本について最初の版を改訂していないことに関して。 渡嘉敷島について。赤松隊長命令説を否定する文献等が出たことを知っているか?(曽野綾子著『ある神話の背景』、赤松嘉次『私は自決を命令していない』) 知っています。読んでもいます。この陳述書のなかにもすでに赤松嘉次『私は自決を命令していない』を私が信頼しない理由は示してきました。曽野綾子著『ある神話の背景』で直接私の名があげられている部分への、私としての回答も示しました。この本の全体に向けては、私は太田良博氏ら沖縄の知識人たちの批判よりほかの、自分としての批判は持っておりません。その上で私は『沖縄ノート』の守備隊長と自決命令に関する部分、自決命令を前提に論評した部分を訂正する必要はない、と考えています。その理由を申します。 私が「命令」という言葉を『沖縄ノート』で使用しているのは、次の部分です。 《 慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の 《 部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ 》 という命令に発するとされている。 》(六十九ページ) 《 あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか、とひとりの日本人が考えるにいたる時、まさにわれわれは、一九四五年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へと追いやったかの、およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の、まったく同一のかたちでの再現の現場に立ちあっているのである。》(二百十一~二百十二ページ) 私は、このように書きながら、「命令」という言葉を、渡嘉敷島の守備隊長が、本日**時に、集団自決せよ、と島民たちに告げる「命令書」を書いて渡した、あるいは島民たちの代表に向かって第三者の前で、同じ内容の「命令」を発した、という意味のレベルで、そう書いたのではありません。 すでにのべてきましたが、私は日本軍―第三二軍―渡嘉敷島の守備軍―そして、皇民教育を受けてきた島民というタテの構造のなかで、島民たちが日々、島での戦闘が最終的な局面にいたれば、集団自決の他に道はない、という認識に追い詰められてきたと考えています。米軍の上陸と攻撃が島民たちの現実の問題として迫った時、このすでに島民たちにとって共通の、自分らのとるべき態度はほかにないとされていたことが、実行されたのです。それは日々、島民たちに向けて徹底されてきた、タテの構造におけるその命令が、現実のものとなった、ということです。すでに私の認識は示しましたが、日本国―日本陸軍―第三二軍―慶良間列島の守備隊という「タテの構造」の、「最後の時」における集団自決の実行は、すでに装置された時限爆弾としての「命令」でありました。それを無効にするという新しい命令をしなかった。そしてそのまま、島民たちを「最後の時」に向かわせた、というのこそ渡嘉敷島の旧守備隊長の決断であり、集団自決という行為を現実のものとしたのです。 私が『沖縄ノート』で行っている批判の根本にある動機は、将来の日本人が、同じタテの構造に組み込まれて、沖縄戦での悲劇をもう一度繰り返すことにならないか、という懸念です。私は一九四五年の経験がありながら、日本人一般はこのタテの構造への弱さをよく克服していないのではないか、と惧れています。そこで、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか、という問いを繰り返す『沖縄ノート』を書いたのです。私は『沖縄ノート』を改訂しなければならない、と考えていません。 (13)軍の自決命令を確信 (12月23日朝刊総合9面) 内容に訂正の必要なし 座間味島について。宮城晴美著『母の遺したもの』は読んだか? 読みました。この裁判が、はじまってから、それに向けて提出される各種の資料を読むようになりましたから、その時点においてです。 座間味島を含む慶良間列島の集団自決は日本軍の命令に発するとされている部分を訂正する必要はないか? その必要はない、と考えています。私が直接に座間味島という名をあげず、しかし慶良間列島での集団自決について、日本軍の命令として論評している部分の「命令」についての意味づけは、すでにのべたとおりです。 なお、『母が遺したもの』に記述されている、一九四五年三月二十五日の、座間味村の指導的立場にあった人々とともに五人で守備隊長のいる壕に行く情景には深く印象づけられました。五人のなかの村の助役がこういいます。「もはや最後の時が来ました。私たちも精根をつくして軍に協力致します。それで若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう、忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬をください」。それに対する守備隊長の返事はこうです。「今晩は一応お帰り下さい、お帰り下さい」。 私はこの返事に、強いリアリティを感じます。この通りの返事がなされたのだ、と考えます。もっとも重要な選択を、責任をかけて行わねばならぬ問いかけを受けて、返答を留保する、先送りする。その際の日本人に特有の(といいますのは、私の長年読んできた外国文学で、この言い廻しに出会ったことがないからですが)言い方がこれです。そしてその留保の間に、つまり決して否定されたのではない、それまでに積み重ねられていたタテの構造をつらぬく集団自決の命令が、島民たちによって、現実の問題となったのです。 私は『沖縄ノート』において座間味島の集団自決について、その隊長命令のあるなしを論評していません。そして、現在の私は、渡嘉敷島においてと同様に、座間味島において集団自決への日本軍の命令があった、と考えます。それはこの裁判において、新たに行われている、生き残りの島民たちの証言によっても支えられている確信です。 「書き直す」ことの大切さを述べているが、本件についてはどうなのか?(『石に泳ぐ魚』事件) 私は今年で五十年間、小説(そしてエッセイ、評論)を書いてきました。その経験に立って、私が作り出した小説(そしてエッセイ、評論)の技法の、中心にあるものが、草稿の文章の書き直しを、必要と感じる回数、行い続けることです。私の草稿としての原稿とそれが定稿となる過程を実際に見てきている編集者は、私がelaborationと呼んでいる技法の実際をよく知っています。 なぜ私が、定稿となるまでの様ざまな段階で、文章の書き直し、elaborationを行い続けるのか? それは、自分の表現を正確にするためです。私は原稿用紙にペンで文章を書く段階から、ゲラ刷りになった段階まで、繰り返しこれを行います。さらにもう一度(これも日本に特有といっていい発表形態なのですが、月刊の文芸雑誌に掲載してからも、単行本にする前に)書き直しを行います。そして、いったん単行本にすれば、それによって作者としての最終的な責任をとります。しかし、もちろんミスプリントの訂正は目につく限りしてきましたし、書いてある事実、論評に事実に反するところがあると自分で認めれば、訂正します。『沖縄ノート』については、その必要を認めておりません。(おわり) 沖縄戦裁判