約 548 件
https://w.atwiki.jp/wanisita/pages/2145.html
問題 解答 補足 14~18世紀にパキスタンのシンド地方を治めたサンマー朝、アルグン朝、タルハーン朝の首都があった世界遺産の都市は? タッタ 16世紀に建造が始まった高さ6mから20mもの城壁はアジア最長を誇り、世界遺産にも指定されたスリランカ南部の都市は? ゴール 1144年にミャンマーのバガンに建造された、高さ約60mもある「全知」という意味をもつ遺跡は〇〇〇〇寺院? タビニュ 1405年に李氏朝鮮の第3代太宗により正宮・景福宮の離宮として建造された、宮廷建築の傑作である世界遺産は〇〇宮? 昌徳 1885年にイギリス人によって紅茶産地として開拓され、マレー半島屈指の高原リゾート地で知られるのは○○○○○ハイランド? キャメロン 1911年に創立された北京にある中華人民共和国の大学で北京大学と双璧をなすのは○○大学? 清華 1936年に楊虎城と共に蒋介石を拘束する西安事件を起こし、第二次国共合作を認めさせた中国の軍人は? 張学良 1941年から1955年までカンボジアの国王を務めた人物で、1945年3月にカンボジアの独立を宣言し「独立の父」と言われるのは誰? シハヌーク 1951年から53年に渡って朝鮮戦争の休戦会談が行われた北緯38度線にある場所は? 板門店 1952年に日本海において「イスンマンライン」を宣言した当時の韓国の大統領は? 李承晩 1955年にティンプーに遷都されるまでブータン王国の首都が置かれていた都市はどこ? プナカ 1958年より、中国において毛沢東の指導のもと実施された高度経済成長政策は「○○○政策」? 大躍進 1960年のノーベル生理学・医学賞をピーター・メダワーと共に受賞したオーストラリアの学者はフランク・○○○○○? バーネット 1970年にカンボジアでロン・ノルがクーデターを起こして樹立し自ら初代大統領を務めた国は○○○○共和国? クメール 1973年に日本で静養中に誘拐事件に遭遇した韓国の政治家は? 金大中 1976年に毛沢東が死去すると四人組を逮捕して文化大革命を終わらせた中国の首相は? 華国鋒 1983年にアメリカから帰国した際マニラ国際空港で暗殺されたフィリピンの政治家はベニグノ・○○○? アキノ 1984年には日本の動物園へ初のコアラを贈っている、1916年にシドニーに開園した動物園は〇〇〇〇動物園? タロンガ 1985年に調印された南太平洋における核兵器の使用、保有、実験を禁止した条約は〇〇〇〇〇条約? ラロトンガ 1986年に世界遺産に指定された14~16世紀に南インドを支配したヴィジャヤナガル王国が築いた都の遺跡は○○○の都市遺跡? ハンピ 1986年に完成した、バーレーンとサウジアラビアを海上で結ぶ橋は「キング・○○○○・コーズウェイ」? ファハド 1987年に起工されるもその後長年放置され、「世界最大の廃墟」と呼ばれた、現在も平壌に建設中の高さ330mのビルは〇〇ホテル? 柳京 1987年のラグビーW杯でメイン会場となった、ニュージーランドのオークランドにあるスタジアムは〇〇〇〇・バーク? イーデン 1988年にパキスタンの首相に就任し、イスラム国家における初の女性首相となった政治家はベナジール・○○○? ブット 1992年に大統領に就任した際には「文民政権」と呼ばれた韓国の政治家は? 金泳三 1992年からミャンマー軍事政権のトップとなり20年近く独裁体制を築いていた政治家はタン・○○○? シュエ 2001年に女性として初めてインドネシアの大統領に就任した政治家は○○○○○・スカルノプトゥリ? メガワティ 2004年からインドネシアの第6代大統領を務めている通称をSBYという政治家はスシロ・バンバン・○○○○? ユドヨノ 2008年にオランダで亡くなった超越瞑想(TM瞑想)で有名なインドのヒンズー教指導者はマハリシ・マヘシュ・○○師? ヨギ 2008年にフォード傘下のジャガーとランドローバーを買収した、インドの自動車会社は○○・モーターズ? タタ 2009年にオーストラリアのジョーディ・マッケンジーが始めたファッションブランドは「○○○○ TWIN」? EVIL 2010年5月より「生きている海と沿岸」をテーマとした国際博覧会が開催されている韓国の都市は? 麗水 2010年には小惑星探査機はやぶさのカプセル着陸地点にもなったオーストラリアにあるロケット打ち上げ施設は〇〇〇〇試験場? ウーメラ 2011年8月、キャッシュカードの発行数でVISAカードを抜いて世界最大となった中国の企業は「中国○○」? 銀聯 2011年8月、女性として初めてタイの首相に就任した政治家は○○○○○・シナワトラ? インラック 2012年11月より、中国共産党・中央委員会の第5代総書記を務めている政治家は? 習近平 2012年にノーベル文学賞を受賞した、『赤い高粱』『白擅の刑』などの作品で知られる中国の作家は? 莫言 2013年6月にスパコンの計算速度世界ランキングの第1位となった、中国のスパコンは「○○2号」? 天河 2014年8月に、日本法人が日本での国内線の運航を開始した中国の格安航空会社は「○○航空」? 春秋 2015年5月に日本政府が国家承認した、首都をアロフィに置くニュージーランドの自治領である国は○○○? ニウエ 2019年には日本も参加したアメリカ軍とオーストラリア軍が2年に1度実施する合同軍事演習は○○○○○・セイバー? タリスマン 2019年11月に新型コロナウイルス感染症(COVIDー19)が初めて確認された中国の都市は〇〇市? 武漢 「風の宮殿」など街並みを彩る建物の色から「ピンクシティ」と呼ばれるインドの都市は? ジャイプール 「空母キラー」とも呼ばれる中国軍が開発し、2011年より各地に配備されている対艦弾道ミサイルは「○○21D」? 東風 「湿ったお茶」という意味がある、飲む「ラペチョウ」に対して発酵食品として食べられるミャンマーのお茶は? ラペソー 「チュラロンコーン」の愛称で呼ばれた、1868年に即位して近代化を推し進めたチャクリ朝のタイの国王は○○○5世? ラーマ 「中国版Twitter」とも呼ばれるソーシャルメディアは? 微博 アジアの国・韓国の首都は? ソウル アジアの国・東ティモールの首都は? ディリ アジアの国・フィリピンの首都は? マニラ アニメ映画『千と千尋の神隠し』のモデルになったとされる町九フンがある、台湾で最も人口が多い都市はどこ? 新北 アフガニスタン暫定行政機構の議長を務めた後、2004年にアフガニスタン初代大統領に就任したのはハーミド・○○○○? カルザイ アポリジニの家畜犬が野生化したものといわれるオ ー ストラリアでカンガル ーなどを襲う野犬といえば? ディンゴ アポリジニの文化に触れることができる、オーストラリア北部ダーウィン近郊にある国立公園は〇〇〇〇国立公園? カカドゥ ある人物の足跡に見立てて名付けられた、世界遺産にもなっているスリランカ中央部にある標高2238mの山は○○○スピーク? アダム イギリス人が入植する以前に現在のニュージーランドに先住していた民族は? マオリ 以前は米問屋が多かったことからタイ語で「白米」という意味のバックパッカーの聖地と呼ばれるバンコクの通りは○○○○通り? カオサン 一面に広がるカルスト地形や美しい風景を堪能出来る「漓江下り」で有名な、中国・広西チワン族自治区にある都市は? 桂林 インド独立の父ガンジーにも影響を与えた、叙事詩マハーバーラタの一部であるヒンズー教の重要な聖典はバガバッド・○○○○? ギーター インドネシアの伝統的な影絵芝居「ワヤン・クリ」において人形を操る人のことを特に「○○○」という? ダラン インドの通貨単位・ルピーの補助単位は? パイサ 映画『きっと、うまくいく』のラストの舞台となった、標高4200mと世界一標高が高い塩湖であるインドの湖は○○○○湖? パンゴン オーストラリア・ビクトリア州の州都で、人口が同国2番目である都市は? メルボルン オーストラリア大陸のダーウィン・アデレード間を2泊3日で結ぶ長距離列車の愛称は「ザ・○○」? ガン オーストラリアの奥地から都会にやってきた男が起こす騒動を描いた1986年のコメディ映画は『クロコダイル・○○○○○』? ダンディー オーストラリアの砂漠に生息する働き蟻が集めた蜜を体内に貯めるタンク役のカーストがいることで有名なアリは〇〇〇〇アリ? ミツツボ 会議場や図書館なども兼ね備えたUAEの首都アプダビにある大統領官邸の宮殿の名前はカスル・アル・〇〇〇? ワタン カタールの首都ドーハの沖合にある、ショッビングモールや高級ホテルが立ち並ぶ人工島は「ザ・○○○」? パール 韓国初の世界自然遺産、済州島にある、火山から流出した溶岩が形成した世界で最も長く複雑な溶岩洞窟は○○岳溶岩洞窟群? 拒文 漢字で「瑙魯」と書く南太平洋の島国は? ナウル カンボジアにある遺跡アンコール・トムの中央部にあるその形は須弥山を表しているという巨大な人面像がある寺院は? バイヨン カンボジアにあるこの観光名所はアンコール・○○○? ワット カンボジアにある仏教遺跡アンコール・ワットの回廊の柱に落書きを残した江戸時代の平戸藩士は○○右近太夫? 森本 漢字では「雪濃湯」と表記する牛の肉や骨を煮込んだ韓国のスープ料理は? ソルロンタン 韓国のソウルの南に朝鮮王朝の第22代王である正祖が作らせ1796年に完成した世界遺産の城塞遺跡は〇〇華城? 水原 韓国最南端に位置し「韓国のハワイ」ともいわれるリゾ ー トの島は〇〇島? 済州 紀元前13世紀にエラム王国のウンタシュ・ナピリシャ王が建設した世界遺産の都市遺跡はイランのチョガー・○○○○○? ザンビール 旧日本陸軍少尉・小野田寛郎が1974年3月に帰国するまで終戦を知らないまま潜んでいたフィリピンの島は○○○○島? ルバング 巨大な石を貨幣のように使用していたことで知られる西太平洋の島国、ミクロネシア連邦にある島は〇〇〇島? ヤップ キング・アブドゥルアズィーズ国際空港があり、メッカ巡礼における海の玄関口となっているサウジアラビア第二の都市は? ジッダ 国を挙げてのイベントではよく会場になることで有名な中国の北京にある広場は? 天安門広場 クローブ、シナモンなどのスパイスを混ぜ合わせて作られる、インド料理に用いられる混合香辛料は? ガラムマサラ 結婚しているヒンズー教の女性が、眉間の辺りにあるチャクラ・アージュニャーに付ける、赤い点のような装飾を何という? ビンディー 憲法裁判所からの与党解党命令を受け、2008年に失脚したタイの元首相は〇〇〇〇〇・ウォンサワット? ソムチャイ 現在のシンガポールドル紙幣全てに肖像が印刷されているシンガポールの初代大統領はユソフ・ビン・○○○○? イサーク 高麗の次の王朝である1392年から1910年まで存在した朝鮮半島の王朝は○○朝鮮? 李氏 五穀豊穣の祈りを捧げた祈年殿などの建造物からなる、明の時代に建築された、中国の北京にある世界遺産は○○公園? 天壇 国家元首がバンダリ大統領であるアジアの国は? ネパール 国家元首がボルキア国王であるアジアの国は? ブルネイ 国家元首がワンチュク国王であるアジアの国は? ブータン この中国の世界遺産は何? 莫高窟 固有種の生息する原生地域が世界遺産になっているオーストラリアの島は〇〇〇〇〇島? タスマニア 最古の脊椎動物の一種ミロクンミンギアの化石が発見された、中国・雲南省にある世界遺産は○○動物群? 澄江 サウジアラビアの首都リヤドにある、王室のアル・ワリード王子が所有する、市内で最も高いビルは「〇〇〇〇〇センター」? キングダム 作家の大岡昇平が太平洋戦争中に捕虜となったフィリピンの島で、小説『俘虜記』などの舞台になっているのは〇〇〇〇島? ミンドロ サンスクリット語でインダス川を意味する言葉に由来する州都をカラチに置くパキスタンの州は〇〇〇州? シンド 三重水素の発見者として有名なオーストラリアの物理学者はマーク・○○○○○○? オリファント 自然の要害に築かれたヨルダンの世界遺産で、映画『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』のロケ地にもなったのはどこ? ペトラ 釈迦が初めて説法をした「鹿野苑(ろくやおん)」に当たるとされているインドの聖地は? サールナート 首都をアピアに置く南太平洋の島国は? サモア 首都をフナフティに置く南太平洋の島国は? ツバル 首都をクアラルンプールに置く東南アジアの国は? マレーシア 首都をヌクアロファに置く南太平洋の島国は? トンガ 首都をネピドーに置く東南アジアの国は? ミャンマー 首都をマニラに置く東南アジアの国は? フィリピン 重要な航路となっているインドネシアのスマトラ島とジャワ島の間にある海峡は○○○海峡? スンダ 人口100万人以上が指定されるための条件となる、日本の政令指定都市に似た、韓国の地方行政制度は「○○市」? 広域 人造山の万寿山や人造湖の昆明湖がある、清の乾隆帝が建造した庭園を西太后が復元して改称した世界遺産の夏の離宮は〇〇園? 頤和 スール制を開いたシェール・シャーが、1541年に岩塩鉱山の上に建設した、パキスタンにある世界遺産は○○○○城塞? ロータス 優れた人と例えた言葉「白眉」の由来となった中国・三国時代の武将は? 馬良 スペインのハモン・セラーノ、イタリアのパルマハムと共に「世界三大ハム」と呼ばれる中国のハムは○○ハム? 金華 スポーツの試合でよく耳にする中国語で「頑張れ!」という意味がある漢字2文字は? 加油 世界遺産のシャーラマール庭園など、ムガール帝国の遺跡が多いことから「ムガールの庭園」とも呼ばれるパキスタンの都市は? ラホール 世界最大の砂島として有名なオーストラリアのクイーンズランド州にある世界遺産の島は○○○○○島? フレーザー セポイの反乱で勇猛に戦い「インドのジャンヌ・ダルク」と呼ばれた英雄的女性は〇〇〇〇〇〇・バーイー? ラクシュミー 千手観音を模して作られたという観世音菩薩の浮き彫りで有名なカンポジア北西部の遺跡はバンテアイ・〇〇〇〇? チュマル 善悪を見分け、正義を守る韓国の伝説上の動物をモデルとした2009年に誕生したソウル市のシンボルキャラクターは? ヘチ 前海、後海、西海の3つの湖からなる中国・北京の景勝地で付近におしゃれな店が多いことから人気なのは「○○海」? 什刹 その表面は綿花栽培に適した黒土に覆われている、インド半島の大部分を占める高原は〇〇〇高原? デカン ソフトバンクのCMにも登場した世界一高い場所にあるプールで有名なシンガポールの施設はマリーナ・ベイ・○○○? サンズ 第一次世界大戦のガリポリの戦いを記念した、オーストラリアとニュージーランドの祝日は○○○○○・デー? アンザック 第一次世界大戦においてニュージーランドとオーストラリア出身の人々が結成した義勇軍は? ANZAC 代表作に『逃亡』『バス停』『霊山』がある、2000年にノーベル文学賞を受賞した中国出身のフランスの作家は? 高行健 正しくは「ビア・シン」というサンスクリット語で「ライオン」を意味するタイのビールは? シンハー 探検家マゼランを撃退した英雄の名前がついたラプ=ラプ市を中心とする、フィリピンのセブ州にある島は○○○○島? マクタン 近くにある善き羊飼いの教会も観光名所となっている、世界一星空が美しいといわれるニュージーランド南島の湖は〇〇〇湖? テカポ チベット仏教においてダライ・ラマに次いで高い地位にある人物のことを○○○○○・ラマという? パンチェン 綿密な都市計画により1927年に建設されたオーストラリアの首都は? キャンベラ 中国各地の名勝を再現している清の康煕帝が着工し、乾隆帝が完成させた、河北省にある世界遺産は○○の避暑山荘? 承徳 中国燕の王、盧綰の部下であった人物が紀元前195年に建国した朝鮮半島の国は○○朝鮮? 衛氏 中国で海南島に次いで2番目に面積が大きい島である世界最大の沖積島は○○島? 崇明 中国の国家『義勇軍進行曲』の作詞者は? 田漢 中国料理のうち、黒臭料理や富貴火腿を代表的なメニューとするのは「○○料理」? 湖南 中東アジアの国・カタールの首都は? ドーハ 中央アジアの国アフガニスタンの首都は? カブール 中央アジアの国サウジアラビアの首都は? リヤド 中央アジアの国ジョージアの首都は? トビリシ 中央アジアの国バングラデシュの首都は? ダッカ 中国系やインド系が多い多民族国家のマレーシアで行われている公務員の採用や大学入試におけるマレー人優遇政策を何という? ブミプトラ 中国初の人工衛星「東方紅1号」の打ち上げにも用いられた中国の人工衛星打上げロケット1号機は「〇〇1号」? 長征 中国南部の広東省にある海南島に向かって突き出た半島は○○半島? 雷州 東南アジア10ヶ国による地域協力組織「東南アジア諸国連合」の略称は? ASEAN 東南アジアの国・ベトナムの通貨単位は? ドン 唐の詩人・陸亀蒙の元住居に1509年に中央政府を失脚した高官の王献臣が造営した、中国の蘇州にある世界遺産の庭園は〇〇園? 拙政 東南アジアの国・カンボジアの公用語は○○○○語? クメール 東南アジアの国・カンボジアの通貨単位は? リエル 盗賊団の頭目から政治家に転身したインドの女性で映画にもなったのは○○○○・デーヴィー? プーラン 南東部には青島市がある中国では最も面積が大きい半島は○○半島? 山東 西アジアの国・イエメンの首都は? サヌア 西アジアの国アゼルバイジャンの首都は? バクー 西アジアの国アルメニアの首都は? エレバン 西アジアの国・バーレーンの首都は? マナーマ 日本ではサントリーウーロン茶のCMソングを歌ったことで有名な本名を「巫慧敏」という中国出身の女性歌手は? amin 日本の資本によって開発されたオーストラリアのクイーンズランド州東部にある炭田は「〇〇〇炭田」? モウラ ニュージーランドの最高峰の名を冠した国立公園で、1990年に世界遺産に登録されたのはマウント・○○○国立公園? クック 人気のコーヒー豆「マンデリン」が作られているのはインドネシアの○○○○島? スマトラ 年に一度沼の底から姿を現し乾季の終わりを告げる大雨を降らせるという、オーストラリアのアボリジニが信仰した妖精は? イピリア パキスタン最大の港湾都市で1959年まで同国の首都が置かれていたのは? カラチ バンジージャンプの元になったと言われる、バヌアッ共和国のペンテコステ島で行なわれていた通過儀礼は? ナゴール ひたいに一定の間隔でオイルを垂らし続けるというインドに伝わる療法「アーユルヴェーダ」の施術を何という? シロダーラ フィリピンのミンダナオ島を拠点として政府と抗争を繰り広げたイスラム教徒による武装組織は○○民族解放戦線? モロ プーケットの不夜城といわれるバングラー通りがあるタイのプーケット島にある同島最大のビーチは○○○ビーチ? パトン フェンダー・カタリデスの設計で2007年に完成した、メルポルンにあるオーストラリアで2番目に高いビルは〇〇〇〇タワー? ユーレカ 富士山を描いたタイルで有名なバングラデシュの首都ダッカにあるイスラム寺院は○○○モスク? スター プノンペンを首都とする東南アジアの国は? カンボジア 別名「ボルネオ島」とも呼ばれるマレーシア、インドネシアブルネイの3国で占められているのは○○○○○○島? カリマンタン ベトナム語で「刷新」といった意味がある、1986年にベトナムで始まった、市場経済の導入を中心とする改革を何という? ドイモイ ベトナムの首都ハノイの紅河デルタを埋め立てた千拓地にある 1 1 世紀李王朝の皇城遺跡は世界遺産の〇〇〇〇遺跡? タンロン 細切りにした生の牛肉を卵黄、ごま油などで和えて作る韓国の肉料理は? ユッケ 香港の観光名所である山ビクトリア・ビークの山麗と山頂を結ぶケープルカーの名前は「ビーク・〇〇〇」? トラム マオリ語で「夜のオウム」という意味がある、世界で唯一飛べないオウムである、ニュージーランドに生息している鳥は? カカポ マカオジョッキークラブやマカオスタジアム、マカオ国際空港などがある、中国のマカオで最も小さい島は○○○島? タイパ マレーシアにあるユーラシア大陸最南端の岬は○○○岬? ピアイ マレーシアのリンギット紙幣全てに肖像が描かれているマレーシア独立の父である初代国王はアブゥドル・○○○○? ラーマン マレーシア発祥のスポーツ・セパタクローで、3人で組むチームのことを何という? レグ マレー半島とインドネシアのスマトラ島を隔てているのは○○○○海峡? マラッカ ミンダナオ島にそびえるフィリピンの最高峰は○○山? アポ 胸ビレと腹ビレを使って海底を歩く、オーストラリアに生息する魚は○○○フィッシュ? ハンド 元々は1935年の映画『風雲児女』の主題歌だった中華人民共和国の国歌は『○○軍進行曲』? 義勇 モンゴル語で「青い峰」という意味がある、中国・青海省のチベット高原にある原始的な生態を保つ世界遺産の自然保護区は? フフシル 床がガラス張りの水晶車も人気がある、2006年に香港のランタオ島に開業した観光用ロープウェイは○○○○360? ゴンピン ユニバーサル・スタジオやシロソビーチなどがあるシンガポール本島の南に位置する島は○○○○○島? セントーサ 李氏朝鮮の創始者・李成桂が建設したソウルにある王宮で「慶会楼(キョンフェル)」などの名園で知られるのは? 景福宮 リゾートアイランドとして人気のモルディブの公用語は○○○○語? ディベヒ 龍虎塔がある蓮池潭公園や六合夜市、瑞豊夜市で有名な台湾の南部にある同国最大の港湾都市はどこ? 高雄 歴代の中国王朝が科した刑罰の中でも最も重い、人間の肉を生きたまま少しずつ切り落として殺す刑のことを「○○刑」という? 凌遅 ワールズ・エンドと呼ばれる絶壁で有名な、スリランカの中央高地にある世界自然遺産は〇〇〇〇・プレインズ国立公園? ホートン
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2431.html
また極端に能力値の高い武将がいるな… -- (名無しさん) 2011-07-29 08 57 43 劉秀ってあんなに武力高いか? 武力94だと甘寧・龐徳・文醜と同じで、黄忠(93)や張遼(92)より上になるんだが… -- (名無しさん) 2011-07-29 09 33 14 自分は記載されている数値は単なる参考値と捉えてますね 登録する場合は列伝参照したり、史料を調べて自分なりの値で登録してますし 数値の編集が頻繁になると、新武将の親ページのコメントログにもありますが編集合戦の懸念もありますしね 個人的には、自分の主観以外での数値(他人の評価値)が見れるので逆に面白いと思ってます (余談ですが自分は劉秀は武力80台後半で登録しています) -- (名無しさん) 2011-07-29 19 58 09 ↑>記載されている数値は単なる参考値と捉えてますね そんなのみんなそうだろ ただインフレした能力の奴ばかりだと今度は全く参考にならなくなるからある程度の的確さは必要 もっと言えば最近新武将ページで主観入りまくりのインフレ評価が連発されてるから少し過敏になってるんだろ 個人的には雲台二十八将の一部が過大な気がする -- (名無しさん) 2011-07-29 20 22 09 ↑3劉秀の能力は武力も含めて抑え気味になってる。正直100にしても良いぐらい。 ↑別に過大ではないだろ、関羽が28人いるようなもんやねんから。 -- (名無しさん) 2011-07-30 04 01 47 こんなの書いてる奴の自己満なんだから、数値の文句なんて水掛け論になるだけよ 高すぎるのを不満に思うのは分からんでもないが、言い合って結論出るもんでもないから大人なら程々に引きましょう ちなみに以前信長の野望で劉秀がボーナス武将として出たときの数値↓ 政治 96 戦闘 89 統率 98 智謀 95 -- (名無しさん) 2011-07-30 04 30 37 少し下げておいた -- (名無しさん) 2011-07-30 04 52 52 甘寧や、龐徳や、文醜や、黄忠が劉秀より武力高いとは思わない。 正史見てそう思った。 -- (名無しさん) 2011-09-02 02 28 52 実際こいつの歴史見てると甘寧や龐徳はおろか呂布より武力高いことしてるからなぁ。 ゲームバランス考えないと出現さえできない武将(皇帝)の一人。 -- (名無しさん) 2011-09-13 12 57 42 歴史的勝者だから過大に書かれてる可能性もある 呂布なんかは歴史的敗者だから実際強かったんだろうけど -- (名無しさん) 2011-09-13 15 02 41 ザッと見たが予想以上のチート軍団過ぎて笑ったw いくらなんでも強すぎね?とは思うが、正直「やる夫が光武帝になるようです」でしか、この時代知らないから余り言えない -- (名無しさん) 2011-09-21 23 05 40 呉漢とか、正にジェノサイドマシーンな活躍(?)だからねぇ……。 -- (名無しさん) 2011-09-22 04 00 43 耿紀(吉本の乱の時に処刑)は耿況の子孫、 呉懿・呉班は呉漢の子孫(呉班の父呉匡が呉漢の子孫と記されている) 來敏(蜀の文官・新武将に記載あり)は來歙の子孫、 岑昏は岑彭の子孫。 なお、諸葛亮が曹植との書簡の中で光武帝と二十八将を評して、 「二十八将はそれぞれが韓信・張良に匹敵するチートだったけど、光武帝が一番チートだから目立たなかった」 といっている。 -- (名無しさん) 2011-12-16 23 16 33 雲台二八将のお陰で、完全な人望を持ってるっイメージがあるけど 最も信頼する部下二人に反乱起こされるなど、決して順風満帆な人生ではない なんか魅力100にされると、そりゃもう人外だろって感じがしてどうも -- (名無しさん) 2012-01-05 19 58 08 チラ裏になるが、もう少し劉秀を 主人公にした時代劇できないかね。 -- (名無しさん) 2012-01-25 14 45 35 ↑完璧超人すぎるから無理だなw まあ、前王朝の再興を完全に成し遂げたんだから 当然といえば当然だが、 劉秀と息子・孫、32将ゲームに出したら、 集結シナリオで余裕で10年以内クリアできちまった。 -- (名無しさん) 2012-01-25 14 49 48 個人的には、 過大評価:劉秀・耿弇(魅力)寇恂・耿純(知力・政治) 祭遵・堅鐔・邳彤・李忠・耿舒・李通・伏湛・侯覇(知力) 馮異・岑彭・任光・陳俊・臧宮・卓茂(政治)万修(統率) (備考)三国時代に繋がる特殊な開拓の功を持つものも多いとはいえ、名太守レベルで政治90越えは行きすぎ。 ただし丹陽太守李忠の功績が丹陽兵に繋がったと思えば彼だけは妥当かも知れん。 李通の政治も、狩野直偵『後漢政治史の研究』によって明らかになった梁統との法制議論への司空としての参加を思えば妥当か。 あと他の能力に引っ張られて高すぎる能力も散見される。 耿舒は知力逸話的に二発屋なのにこの知力の高さはない。 対匈奴奇襲の功を高く見積もりすぎたか?こういう手合いは89くらいで抑えておけ。 寇恂は蕭何の功ありと謳われるが、中原制圧時の功が主で全体的な功はそこまで大きくはない。 交渉などにも功有る故に90台までは問題ないとはいえ、制度設計に関わらない彼を政治100にするのは様々な問題があるだろう。 この時代の最高政治は故事、祭祀、封禅への貢献や運河事業、屯田や督委輸としての功などから張純だろう。 耿純は方針提示の功も多少あるとはいえ、奇襲と暗殺が主なので知力90台ということはあるまい。 過小評価:鄧禹(統率・武力)銚期(武力)馬援・趙憙(知力・政治)陳俊(統率・武力・知力)卓茂(魅力) 鄧禹は仮にも中央を抑えていた時期の更始帝軍の、赤眉に向かってない側の半数を完全に壊滅に持って行った功がある。 軽々しい軽視は宜しくない。赤眉相手の失策は性格:猪突で表現すれば宜しい。 銚期はwikiなどには書かれていないが、南レンの戦の時に、 三国時代の英傑でもあまり見ない「手ずから」の首級50人を行っている。 その後も敵中に入って数十の首を「手ずから」取ってくるなど、一種の呂布の様な功績を挙げている。 これでこの武力は余りに過小だろう。 馬援は羌はおろかベトナムでも崇拝される、郡故事を用いるなど、統治・異民族慰撫方面での功績が素晴らしい。 馬具発明の功も合わせると、政治は90前半あってもけして過大ではあるまい。 馬援は知力も疫病で死んだ最後の遠征だけで過小評価されるのは頂けない。 そもそも最後の遠征も引き継いだ宋均が場の収拾をしただけで遠征自体は成功させているのだ。 伝を参照すれば様々な大戦略に関わる上奏が載っており、彼の内通工作が隗囂戦を決した。 知力もまた90前半でも決して高くはあるまい。 双方wikiだけで評価決めでもしたのかと聞きたくなる低さだがどうなっているのか。 趙憙は逆に太守と軍人としての功しか顧みられてない様に思う。 彼は光武帝の後半から大尉として、また明帝期に大尉、章帝期初期に録尚書事として国家指導を行っている。 彼はもう少し政治知力ともに高くて良いだろう。 陳俊は全能力80台のタイプだろう。計略の進言も行っているし、 また単騎かつ徒歩で敵に追撃をかけた例があるなど、武勇逸話もある。 様々な残党討伐でも名を挙げており、海賊討伐なども有名だ。 水軍もBくらいで良いのではないか。 卓茂は少なくともこの時代はもう少し魅力特化で良いだろう。 -- (名無しさん) 2012-02-04 22 14 20 劉秀や耿弇の魅力についての言及を忘れていた。 彼は後漢初において、勢力的な意味での正統性などの優位を一切保持していない。 劉子輿(王郎)には血統と河北地盤の不足で何度も募兵すら出来ない状況に陥っているし、 主君である劉玄(更始帝)を見捨てたのは時代的に瑕疵だろう。 また劉永には血統と勢力の大きさで負けている。 劉備の魅力を高く評価する文脈から行けば、彼の魅力はもうちょい低い数値で良い。 耿弇はむしろ魅力が高い理由が分からん。 意図的な略奪も露骨に行っているし、魅力の低い謀臣の典型ではないか? -- (名無しさん) 2012-02-05 00 07 51 自分のブログでやれとしか言いようがないのだが -- (名無しさん) 2012-02-05 20 17 49 こんな議論掲示板でもないオマケの自己満査定ページに何十行も反論書いても嫌がられるだけだろ -- (名無しさん) 2012-02-06 07 34 57 長すぎ笑ったwwww 本当名将の宝庫だよなー後漢初頭。祭肜とかwikiにも登録されてないけど名将過ぎる -- (名無しさん) 2012-02-16 05 13 17 劉秀は、覇王! それだけでいいの… -- (孔さん) 2012-03-06 02 17 34 wikiだから何行も書くより編集すればいいと思うのだが -- (名無しさん) 2012-05-01 21 51 04 そこはホレェ説得したいってゆーがんぼ~があるんちゃいます? -- (名無しさん) 2012-05-04 04 10 06 後漢初か微妙だが名族もとい袁家の先祖の武将(官僚)も忘れないで上げて下さい。 -- (名無しさん) 2012-05-05 00 14 45 ウーム今の日本建て直したら耿純くらいはいくのかねぇ さておき「劉秀」は「知力・武力+3」で「魅力-1」で「神将(老仙がなんか言った故事もあるし)」でどうでしょう? -- (名無しさん) 2012-05-05 02 33 53 ○将系は武力を抑えるとチート感も抑えられて良い 自分も劉秀は神将にしてるが武力は80台後半にしてる、それでもチートだが -- (名無しさん) 2012-10-27 00 04 30 新の人物と合わせて一通り作ったが、劉秀の親愛武将は候補多すぎて5人に絞れないな 鄧禹と朱祜は必須として 逆に劉秀への親愛はもっと多くて、やりすぎるのどうかと思うんで匙加減が難しい -- (名無しさん) 2012-11-16 11 28 07 なんでこの時代のコメント欄だけ伸びてんの? やるおでわかるシリーズで取り上げられたから信者が増えてんのか?(笑) 「この時代はチートな人物が多すぎる」とか痛すぎる発言やめてw -- (アスタリスク) 2012-11-17 10 08 36 やはり、光武帝劉秀の特技は、 「神将」か「仁政(安定した治世を現出させたし、彼の人徳か彼の配下の将は誰も裏切っていないから)」が相応しいと思う。 -- (名無しさん) 2013-05-09 22 40 43 ↑ 配下の将は誰も裏切っていない 鄧奉とか龐萌とか…。 鄧奉が背いたのは呉漢の略奪癖が原因だけど。 重箱の隅を突いてすまん。 -- (名無しさん) 2013-05-10 10 04 11 ↑ 鄧奉は呉漢の略奪が原因だし、 龐萌は疑心暗鬼の結果の裏切りで、 二人とも野心があっての裏切りではないし、 劉秀が原因の裏切りではないから↑↑のコメントもあながち間違いじゃないんじゃないか? -- (名無しさん) 2013-05-13 14 08 07 ↑劉秀が原因ではないのは百も承知。 でも「誰も裏切っていない」と言われれば、実際に謀反は起きているから語弊があると感じただけ。 なので「重箱の隅」と断ったわけでして。 -- (↑×2) 2013-05-13 15 54 28 彭寵の謀反の時は、劉秀の対応もまずかったかもね。 朱浮に讒言されて恐れていたのを知りながら意図的にスルーしちゃったから。 もちろん後に糾弾されるように主原因は朱浮だし、彭寵にも問題があったんで、非常に些細で微々たる失点だけど。 劉秀の高評価が変わるわけじゃないけど、劉秀でもミスすることがあると思うと人間味が感じられて何となく安心する。 -- (名無しさん) 2013-05-13 16 17 10 いろいろ言われてるけど、次々と粛清を行った劉邦やキチガイとしか思えない孫権ですら、 あれだけの高魅力値なんだから、劉秀には充分魅力100たる資格があるように思えるけどなあ。 武力も史書の記述が正しければ、間違いなく90台はあるだろうし、特技が神将というのも 関羽程度と一緒と思うと、正直なんだかなあという気分になります。覇王か仁政が妥当じゃないかな。 唐の李世民で、あの能力値なんだから最低でもこれくらいか、 あるいはもっと高くてもいいはず。 -- (名無しさん) 2013-05-16 15 27 15 ↑かと言って、項羽と一緒なのも正直なんだかなという感じ。 これは水掛け論にしかならない。 候補としての特技を記載しているサイトなんだから、 書いておいて実際は読者に選んでもらうのがいいと思う。 武力も一騎当千の強者に一騎討ちなどで勝っているというより、 かなりの人数を斬り倒し生き残っているという感じなんだから、 89位でもかなりいい線に行っていると思う。 魅力に関しては賛同できるかな。 -- (名無しさん) 2013-05-16 23 00 40 能力値なんか人によって評価が変わるもの。 自分の理想な数値じゃないからって編集合戦するのは無意味。 -- (名無しさん) 2013-05-17 01 02 29 太閤立志伝Ⅴの日本武将で似たことやっている武将を基準に考えてみよう まず、統率・・・100戦以上戦って敗戦一敗および周り全部敵・・・該当者なしチートクラス一番近いことやってるのは「織田信長」の包囲網戦で「統率96」 続いて武力・・・42万(新軍)に3千で中央突破して敵大将「王尋」ぶった切る・・・該当者一番近いことやっているのは「島津義弘」の「関ヶ原中央突破(退却)」で「武力90」 続いて知力・・・該当者不明 続いて政治・・・郡国制・貨幣統一・検地・租税引下げ(前漢と同じ基準に戻す)・人身売買の停止・等々etc…・・・一番近しいことをやっているのは「徳川家康」と「豊臣秀吉」で、それぞれ「家康99」「秀吉93」となる 最後に魅力・・・配下多種多様書ききれないので↑を参照・・・一番近しいことをやっているのは「豊臣秀吉」で「魅力93」ただし恐らく後年の残忍な措置を加えた数値であるためあくまで基準 以上の事から恐らくコーエー基準で考えると 劉秀は「統率96前後」「武力90前後」政治は足して二で割って「政治96前後」「魅力93より上」と思われる 参考記事「Wikipedia」「光武帝・劉秀の面白さとは何か」能力検索「火間虫入道 『太閤立志伝V』『太閤立志伝5』武将総覧」 ※注・あくまで個人の考えとコーエーさんの基準を勝手に使用したものです「劉秀(文叔)」さんの能力値の基準値目安としてお考えください 追記・・・長文ながながと失礼しました -- (名無しさん) 2013-05-17 12 09 42 編集合戦ヤメロ いい加減にしてくれい -- (名無しさん) 2013-05-20 21 33 53 諦めましょ、こうしてる間にまた編集が・・・ -- (名無しさん) 2013-05-20 23 29 52 劉秀の武力が96と92で行ったり来たりしてますね……。 96だと、趙雲や許褚と同じで、典韋、甘寧、ホウ徳、文醜、太史慈、黄忠、顔良より武力があることになりますね。 92だと、張遼や孫策、魏延や華雄と同じで、文オウ、夏侯淵、周泰より武力が高くなります。 42万(新軍)に3千で中央突破して敵大将「王尋」ぶった切る功績は、濡須口の甘寧や合肥の逍遥津での張遼の働きに似ていますね。 特に張遼の逍遥津での戦いは、先頭に立って敵陣に突入し、敵兵を数十人殺し、2人の将校を斬り、孫権の将旗の近くまで迫ったもので、かなり似ていますから、 劉秀の武力も93か92辺りが妥当なのかな?と思います。 参考になったら幸いです。 -- (名無しさん) 2013-05-21 20 04 01 細かい数値の調整に拘るだけなら自分が新武将登録する時に決めればいい問題。 武力96派と92派で対立しているなら、双方に不満は残っても落とし所(間をとって94とか?)をつけとかないとキリがない。 -- (名無しさん) 2013-05-21 21 15 29 ↑確かに、試しに94で編集しておきます。 さて、96と92、どちらに書き換えられるか楽しみです。 どちらが聞き分け、分別のない、大人げない方々でしょうかね。 -- (名無しさん) 2013-05-22 15 38 01 もう94でいいじゃん。 劉秀はかなりの確率で後世の人たちに美化されているんだから、ここでも美化しとけばいいよ。 あとは↑2の言ってる様に、各人が登録する際に決めればいい話だ。 -- (名無しさん) 2013-05-22 15 46 00 “劉秀と息子・孫、32将ゲームに出したら、 集結シナリオで余裕で10年以内クリアできちまった。” 実際に河北に行ってから13年で統一を果たしてるからなー。 河北の初期はまだ兵力も武将も揃ってなかったから、苦戦したり してた訳で。それが最初から揃っていたらどうなるか、推して知るべし。 -- (名無しさん) 2013-06-09 04 52 34 やっぱり続く編集合戦・・・ 放置が一番いいかと・・・いくらやっても 結局のところ登録は個々個人でやるわけですし・・・ -- (名無しさん) 2013-06-14 11 04 18 にしても、最早ギャグにしか見えない能力値だなww紀霊、閻行、兀突骨より武力の高い馮異、魏延、楽進より統率の高い鄧禹とか -- (名無しさん) 2013-06-27 18 57 46 劉秀の特技は幸運でもいいんじゃないか? 血筋的にもそれっぽいし -- (名無しさん) 2013-07-07 23 31 55 光武帝をモデルにしたカイザーラインハルト陛下をモデルに、 人類史上最高の天才だが、戦術家としてはヤン・ウェンリーに一歩劣る くらいの能力値にした方が現実味がある。 光武帝の本質は戦略家であり、統率が少し高く、政治力が少し低いように感じる。 -- (名無しさん) 2013-08-11 00 38 26 この時代好きなんで登録しまくったが、全員一回り大人しい能力にしてるな 神将とかも武力80代なら、反則臭くなくていい感じ とは言え二十八将がチート揃いなのは事実なんで調性しながらプレイしてるが -- (名無しさん) 2013-09-19 10 48 10 なんか、個人の判断っていっても、能力値が「ぼくのかんがえたさいきょうぐんだん」になっているのは笑った 上のコメで李世民が出た時点で、絶対に光武帝が李世民より高くしようして、天井知らずになっているだろ 他時代と比べるなら、強いと言っても、北方民族も服属してる唐や元よりは平均値は劣らなくてはおかしいんだが 28将の上位が李靖とほぼ同レベルなのは、個人の願望入りすぎだろ -- (名無しさん) 2013-10-09 23 15 01 マジレスすると一番初期のパラメータが一番しっくりきた。 今のは明らかにおかしい。 -- (名無しさん) 2013-10-10 10 40 49 ↑賛成。 今のは明らかにおかしいが、光武帝の能力を初期のころのパラメーターに戻すと、何時の間にか今のものに戻されて編集合戦になる。 一番いいのは放置することだな。 -- (名無しさん) 2013-10-10 19 58 05 光武帝をモデルにしたキャラ一覧・・・ マルス(ファイヤーエンブレム) アルスラーン(アルスラーン戦記) キルヒアイス(銀河英雄伝説) -- (名無しさん) 2013-11-17 20 46 33 能力値勝手に変更しちゃダメだよ -- (名無しさん) 2014-11-01 06 18 59 この時代の特徴として、 ①勝利者である劉秀の勢力の一方的な勝利 ②後漢が異民族を制覇できず、前時代の前漢に比べても王朝の勢威は小さい だから、全体的に能力値が円満型だが、時代を超えて傑出した力を持つものは少ない印象だな 光武帝は後漢書が後漢時代に書かれた歴史書をベースにして状況証拠もあるから盛っていると考えるべき 全武将に全ての能力を、-7か-8にして、S→Aに代えて、特技は弱い方を採用したら ちょうどいい感じ -- (名無しさん) 2014-12-06 14 15 54 王莽には悪いが新勢力が弱すぎるというのもあるよなあ -- (名無しさん) 2014-12-07 00 37 13 ↑2 それを言い出したら司馬遷の史記だってそうな訳で。 君は司馬遷が信用ならない資料も多々参考にして書いたから それを以て晏嬰や田穰苴の能力まで全て下げるべきと言うのか? 晋書のように曲筆と指摘する証拠がある訳でも無いものまで疑ってたら やってられないよ。 -- (名無しさん) 2014-12-07 04 01 22 正史で、ほとんど取り柄のないしょぼい能力しか持たないように書かれている 新勢力や新時代の群雄に圧勝しても、これほどの高能力は評価できないってことだよ 他の時代を圧倒する業績が後漢はほとんどない、歴史家からも停滞の時代って言われてる 北宋より評価されていないのに、創業者だけは最強って単純にへん -- (名無しさん) 2014-12-08 20 27 40 少しだけ良いだろうか? 知識、文化、歴史的な飛躍がこれからの過渡期的な時期とそれらの積み重ねの上にあるものを一概に同一視はできない あくまで能力は登録時の基本と考え、自己流で調整をしていただきたい -- (名無しさん) 2014-12-09 02 28 14 ↑2 停滞の時代?後漢が中国史においてどれ程重要な時代かは新代以前と後漢以降を比較すれば、一目瞭然な事実だと思うけどね。 そんな馬鹿げたことを言ってる歴史家がいるなら、名前を教えて欲しいね。どんな理由を以て後漢を停滞の時代などとと呼ぶのか興味があるから。 それから正史の記述が過大であろうから、能力を下げろと言い、 正史に記された敵対群雄が弱小であるから、これまた能力を下げろと言う。 君の言っていることは明確なダブルスタンダードで他者から理解を得るのは難しいと思う。 -- (↑3史記) 2014-12-10 22 44 21 ↑ 横槍失礼。 ↑3は、漢書や後漢書は後漢贔屓で書かれているから、後漢に尽くした人物は高く評価され、 逆に後漢と敵対した人物は低く評価されている、と言いたいのでは? もっとも、それをいえば、三国志の正史は魏贔屓で、演義は蜀贔屓で書かれていて、 ゲームの方もそれに準じているわけだから、難しく考えるだけ損だと思うけど。 -- (名無しさん) 2014-12-12 00 38 24 連投失礼 ↑は、後漢側の人物が高く評価され、後漢と敵対した人物が低く評価された結果、 両者の差が開きすぎて、後漢側の人物の高評価の根拠が薄れている、 と↑4は言いたいのであり、ダブルスタンダードには当たらない、という意味です。 後漢が中国史においても重要な時代である、という点は同意。 儒教の国教化が完成した時代という説もあるのに、他を圧倒する業績がない、はどうかと思う。 -- (↑) 2014-12-12 01 38 24 停滞っていうのは言ってしまえば「安定」ってことじゃないか? 日本でも江戸時代とかは、軍事的技術的には停滞の時代だとマイナス表現されるけど 文化や政治的な業績を鑑みればかなり評価が高い。 中国史で鑑みても、内政史にはよい時代だと思うのだが、 軍事史で考えれば、異民族を征服しきれなかったり、相手とする新がイマイチ振るわないこともあって 他の時代と比べても、正直なところ貧弱な感は否めない。 いつの間にか劉秀の能力値に「中華統一後(43歳以降)Ver」が増えてるけど こういう能力値の方が実情に即していると思う。細かい差異は各人でやればいいと思うけど。 -- (名無しさん) 2014-12-12 09 32 00 軍事的に強いか弱いかってのは国外戦争で強さが決まる気もする いくら国内で無双したって史料に書かれていても、国外戦争でからっきしじゃ美辞麗句だと思われる 世界における超大国と言われたモンゴルやオスマンも、世界をまたにかけて他国を滅ぼしまくったからあれだけ強い強い言われてる。 日本でも戦争に明け暮れて国外にまで領土求めた戦国時代は強いと言われるが、とりあえず戦争して制度作って終わりの奈良時代の扱いは微妙だし -- (名無しさん) 2014-12-12 17 50 29 つまり、匈奴に苦戦していた呉漢よりも、衛青、李靖、永楽帝らの方が上だと? ……うん、確かにその通りだな。 王莽が派手に失敗した後だから、光武帝が対外戦争に消極的なのは当然なんだが、 そういう意味では呉漢は「停滞の時代」に足を引っ張られたのかも知れない。 -- (名無しさん) 2014-12-13 01 04 38 ↑4&5 その方の言ってることと貴方の言っていることは明らかに違うと思うが、 仮に貴方の見解が正しいならば、何故その方は新代の群雄の能力向上を要望しないのだろうか? そもそも何故新代の群雄があれ程に弱く描かれるかと言えば、 光武帝が河北進出から僅か13年足らずで天下統一を成し遂げたからだ。 光武帝が劉邦の様に敗北続きなら、新代の群雄達がさぞかし立派な敵に描かれたことは間違いない。 -- (史記) 2014-12-13 17 53 30 ↑2~4 貴方たちは一を知って十を知らず、木を見て森を見ていない。 8つくらい上で他の方も述べていることだが、後漢初期と貴方達が比較している時代の違いを調べてみたことがありますか? 人口が違います、経済力が違います、冶金技術が違います、鐙の有無が違います。 戦国時代から漢民族を苦しめた匈奴を決定的に衰弱せしめた時代は何時ですか?後漢です。 “火災を予防するものは評価されず、火災を消すため必死になるものは賞賛される”とは諸葛亮の巧妙な例えですが、諸葛亮の爪の垢が現存していれば、貴方たちに煎じて飲ましてあげたい。 -- (史記) 2014-12-13 18 08 54 ↑8 「史記」とかいう人 >そんな馬鹿げたことを言ってる歴史家 宮崎市定が後漢全体を不景気が続いた時代ととらえているし、 宇都宮清吉や陳舜臣(小説家だが「中国の歴史」は名著)が 光武帝の政策や後漢を沈滞の時代と評しているね それから、↑12で、自分が「下げろ」なんて書いたか? 自分が適切と思う評価を述べただけ ましてや、新時代の人物を下げるべきなんて全く思っていない 彼らは正史の評価はともかく、もう少し実績は評価されるべきと思っている とにかく、今のままじゃおかしいと思ったから書いただけ ↑6はちゃんと意味を正しく解している -- (名無しさん) 2014-12-13 19 53 30 (連投すまぬ) とにかく、史記という名前のあなたは 「勝手に勘違い」、「ダブスタなどという言いがかり」、「上から目線」の上に 国内戦争の圧勝は都合良く高評価にカウントし、対外戦争は時代の変化で全てノーカウントというダブスタぶり、会話にならない では、同じくらい国内線で圧勝した唐・元・清は、対外戦争も勝っているのに、なぜ後漢の創業者よりかなり劣った評価なのか? 説明して欲しいものだな >戦国時代から漢民族を苦しめた匈奴を決定的に衰弱せしめた時代は何時 これは前漢の武帝の時代だろ、 光武帝時代は匈奴に勝てなかったのに、匈奴に飢饉が起きて内部分裂して、南匈奴に内地への移住を許した結果を、全て後漢の功績とするのか? 後漢書にも、後漢の策略や工作の結果なんて記述はないし、随分と風が吹けば桶屋がもうかる的な都合のいい解釈だな 内田吟風先生はそんなこと書いてなかったし、それはどこの先生の解釈だろうか? -- (名無しさん) 2014-12-13 20 13 10 ↑3 失礼、言葉が足りなかったようだ。 武帝期の前漢、太宗期の唐、永楽帝期の明は経済力が充実しており、匈奴、突厥、北元などに対して存分に軍事行動を起こせた。 それに対し、初期の後漢は王莽の失政、及び新滅亡後の戦乱の直後であるため、対外戦争を行う余力が無かった。 呉漢が衛青、李靖、永楽帝らに及ばないのは、衛青らが国家から強力な戦力を与えられていたのに対し、 呉漢は匈奴に勝つために必要十分な戦力を与えられておらず、そもそも初期の後漢にはそのような戦力を整備する経済力が無かった。 つまり、衛青、李靖、永楽帝らは時代の寵児であり、だからこそ対外戦争で大活躍できたが、呉漢は時代に恵まれず、衛青らのようには活躍できなかった。 要するに、わたしの主張はあなたと同じで、呉漢が活躍できなかったのは生まれた時代が悪かったからだ、と言いたかった。 ちなみに、わたしは匈奴に対する後漢の勝利は、軍事ではなく政治と外交の勝利であり、 また匈奴が衰退した直接的、かつ決定的な要因は、前漢の武帝期から始まった東アジア全体の寒冷化だと考えている。 念のために言っておくが、だから後漢は他の時代に劣る、と言いたいわけじゃないぞ。 軍事の劣勢を政治と外交で覆した当時の後漢の手腕は高く評価されるべきだ、というのがわたしの主張だ。 -- (名無しさん) 2014-12-14 01 49 06 光武帝は河北進出から僅か13年足らずで天下統一を成し遂げた、という文章を見てふと思ったが、 高祖は沛で挙兵してから8年で天下を取ったんだよな。 連戦連敗で天下統一に8年も要した高祖。 連戦連勝で僅か13年で天下を統一した光武帝。 ……とりあえず、新末の群雄はもっと評価されるべきだな。 -- (名無しさん) 2014-12-14 02 54 43 ↑2 そうかな? なんでも時代のせいにできるのか? それなら、国内戦争の圧勝も時代のせいとできないか? 例えば、唐初は経済としても苦しいのに、匈奴よりはるかに巨大な突厥帝国を滅ぼした李靖が呉漢と同等って意見に説得力あるのかな どの時代だってそれなりに苦しい条件があるのに、努力して対外戦争を勝ち抜いたことを完全に無視するのか? とにかく、後漢の創業人物の平均評価が他の戦乱を勝ち抜いた創業人物の平均よりかなり高いことへの説得力はない 後漢の創業者は、中興だから比較的楽であったという評価もあるから、前漢・唐・元・明・清の創業者より少し低く、 北宋の創業者よりは強いが政治の平均値はかなり下ぐらいが適切と思うんだけど 最低でも新時代は評価を上げないと、バランス的にもおかしいだろ -- (名無しさん) 2014-12-14 20 48 00 皆さん、名前を付けて欲しいな。議論しにくいから。 返答する前に確認させて欲しいが、2014-12-06 14 15 54、2014-12-08 20 27 40 2014-12-13 19 53 30、2014-12-13 20 13 10、2014-12-14 20 48 00 これらは一人の発言と受け取って良いのかな?違うなら、どれが違うか教えて欲しいね。 そうでないと論旨の捉え方や、返答すべき内容が変わってくるから。 -- (史書) 2014-12-15 01 16 07 ↑3 私が光武帝の統一を13年と書いたのは河北戦線からが事実上の独立勢力である。 そう見做したからであって、そういう意味では高祖は漢中行きから僅か4年近くで天下を統一したことになるね。 ただ高祖に味方する群雄は少なくなかったが、光武帝に味方する群雄は殆どいなかったし。 そして、何より光武帝は高祖と違って韓信も英布も彭越も必要としなかった。 -- (史記) 2014-12-15 01 33 54 ↑2は私のコメントです。 -- (史記) 2014-12-15 01 40 33 ↑6 これはこちらこそ失礼しました。それならば私も全く同意見です。 私が後漢こそが匈奴を衰退せしめたと言う所以は貴方の言う政治・外交も含めて、戦略的に優れていたという点です。 定住しない民族である匈奴を完全に滅ぼして統治することは当時の政治制度・経済状況・技術力では事実上不可能でした。 故に光武帝や明帝は、境界線近くに住む民の内地への移住と必要最低限の防備をもって対処し、富国強兵に専念した。 結果として未曾有の旱魃と蝗害という天運に恵まれたことにより、匈奴を衰退せしめることが出来ました。 光武帝や明帝は歴史や学問をよく学んだのでしょう。高祖や武帝の愚を犯しませんでした。 武帝には一見すると華々しい功績があるように感じますが、結果として彼が漢に齎したのは 旨味の少ない新領土と実在したか疑わしい軍馬数千、交易という利点の反面、統治の維持が困難な西域 そして民衆の疲弊と財政の傾きです。終わり2つの責任全てが外征に帰する訳ではありませんが、大きな要因の1つです。 正直に言って霍光がいなかったならば、前漢はかなり危うい情勢になり得たのではないかと思います。 -- (史記) 2014-12-15 02 29 24 ↑5 またしても言葉が足りなかった、申しわけない。 わたしは、呉漢は生まれた時代が悪かったのだから、対外戦争での不振を評価に含めるべきではない、とは考えていない。 どの時代の人物も、その時代特有の制約を受けた上で、各々の事跡を評価されている。 もし呉漢が衛青らに及ばないと判断されたとしても、それは後漢初期という時代に生まれた呉漢の宿命であり、受け入れなくてはいけない。 そうでなければ逆に不公平だと思う。 呉漢は「停滞の時代」に足を引っ張られた、とわたしが述べたのは、純粋に呉漢への評価の一部であり、呉漢を擁護しようとしたわけではない。 少なくとも、わたしはそのつもりで意見を述べている。 -- (2014-12-14 01 49 06) 2014-12-15 06 49 05 ↑4 それは、天下統一に要した時間の長さは、必ずしも強弱を測る基準にはならない、という意味だと解しても? もしそうなら、光武帝が十三年で天下を統一したことは、新末の群雄を低く評価する根拠としては弱い、ということになると思うが。 -- (2014-12-14 01 49 06) 2014-12-15 06 52 13 ↑6その通り ↑5 >高祖に味方する群雄は少なくなかったが、光武帝に味方する群雄は殆どいなかった 外交で圧倒的に劉邦が優れていたことにならないかな >何より光武帝は高祖と違って韓信も英布も彭越も必要としなかった 二十八将は必要ないってこと? 一人で天下をとれるとでも? 韓信・英布・彭越が危険人物ってことなら、それさえも使いこなした劉邦の人材操作能力は劉秀を遙かに上回るってことになるだろ ↑3民の内地の移住は、呉漢らの討伐の失敗後だからね 兵力5万程度ってことは、初期の衛青の兵力より多いし、遠征に耐えうるってことだから精鋭だったはず、本気の討伐に失敗している 武帝の愚を犯さなかったのではなく、武帝になれないから消極策に転じたってことだろ これ失敗したら、東アジア全体の寒冷化がなければ、より中心部に攻め込まれただけとも思える、幸運に恵まれただけかも知れない とにかく、後漢書でも後漢の戦略の勝利なんて記述は見あたらないし、学者の書いた書籍でもその意見は確認できない ↑1「史記」って人は、とにかく光武帝を高く評価したいみたいだね 結論が存在して、無理に論理を組み立てているから、おかしくなっている感じ 逆に、武帝時代の犠牲の上で匈奴が大勢力でなくなっており、光武帝たちを救われたとは考えないのか -- (名無しさん) 2014-12-15 22 08 03 ↑2失礼、今度は私の言葉が足りませんでしたね。言いたいことは高祖の天下統一は光武帝の時代だけでなく、他の様々な時代と比べても特異なものだったということです。 というのも、秦末漢初における群雄の殆どが当初は秦打倒のための同志ないし同盟勢力だったということ、そのため楚漢戦争時には大半の群雄達は独立することではなく、 項羽と劉邦のどちらに付くかとということを考えていたことが天下統一における大きな要素であったということです。これは、それだけ項羽と劉邦が秦打倒で果たした役割が大きかったということでもあります。 ↑の方にも言うつもりですが、私は多くの要素を総合的に検討して評価しているに過ぎません。個人の能力に対する評価というものが相対的に決まるものである以上、単に戦勝という結果を見るのではなく、 その時代ごとの要素を考慮に入れて考えるべきだと思うからです。勿論あくまでも可能な範疇の限りではあります、軍学というものは後代になればなるほど発展するもので、政策は後代になればなるほど革新的では なくなるものですから。銃の出現する前と後などは最早比較出来るものではありませんし、本当のことを言えば一世紀以上時代の違う人物を比べること自体がそもそも“暴挙”と呼ばれるべきことですからね。 -- (史記) 2014-12-16 00 15 10 ↑2まずは私の失言に対して謝ります「そんな馬鹿げたことを言ってる歴史家がいるなら」と言ったことです。これに関しては私の不明です、失礼しました。 ただ言わせて貰いますが、宮崎市定先生の意見は飽くまで経済史学に主観を置いたものですし、陳舜臣氏の意見は統治方法に対するものですが、現代の我々から見た結果論に過ぎません。 またどちらも人物の評価や優劣(特に軍人)を論じている貴方の論旨とは外れたものですし、むしろ貴方の一部の意見に対して論を弱めるものになっています。 陳舜臣氏は後漢が儒教による礼教国家であることを指して“沈滞の時代”と言っておられますが、その大本である下地を作ったのは貴方の評価する武帝の儒教奨励ですし、 そもそも後漢の大儒たる陳寔の末裔と自称する陳舜臣氏が、そのような意見を書くこと自体苦笑いするしかありません。 また宮崎市定先生の経済史学の観点は“軍事における戦果に対して時代性による要因が大きい”とする私の意見を否定するあなたとは対立するものです。 経済史学の話が出たので関連する点を先に書きますが、“どの時代だってそれなりに苦しい条件が”……貴方はこう仰ってますが、宮崎市定先生が書いておられるように 時代ごとの経済・財政の差は間違いなく存在します。貴方は衛青と呉漢の兵力差に触れていますが、史書にも三万騎と書かれているように衛青が与えられた兵の殆ど全ては騎兵です。 通常、金食い虫である騎馬隊は全軍に対して15~30%程の割合ですから、衛青がどれ程優遇されており、武帝期前半の財政が如何に充実していたかということが分かります。 騎兵と歩兵の差に関しては李靖の多大なる活躍と李陵の悲惨な敗戦を比べれば説明するまでもないでしょう。そして私が光武帝や明帝が匈奴討伐に本気でなかったとする論拠もこの点にあります。 匈奴を本当に討伐するのであれば、当時に於いて多数の騎兵は必要不可欠です。またその点から言っても、歩兵戦力と騎兵戦力を同一のものとして捉える貴方の感覚は私には全く理解できません。 そして、そもそも呉漢が5万の兵を率いていったのは、彼方此方から侵攻する匈奴に対する防衛戦であり、衛青や霍去病というより張奐や当初の李広に類するべき戦いで、その様相がかなり異なります。 唐初も経済的に苦しかったと仰っておられますが、史書には太宗が国力の充実を以て突厥討伐を決定したと書かれています。元々均田制すら無い後漢の経済と同一視することが間違っているのです。 同じコメント内で触れておられる外交に関しては↑に書いた通り、韓信・英布・彭越に関しての貴方の意見に関しては正直空いた口が塞がりません。彼らと二十八将を同一に扱うなど、それこそ歩兵と騎兵程の差があります。 これに関しては当時と後漢における封建制度の違いも絡んできますが、簡潔に言えば高祖は項羽に勝つために彼らの力がどうしても必要であったので、多大な恩賞を以て彼らを釣り上げたに過ぎません。英布・彭越に関しては特にそうです。 もし自身の力と古参の忠誠心ある諸将で充分であったら、何があっても後に禍根を残すような真似は絶対にしなかったでしょう。劉秀で例えて言えば、鄧奉や樊崇に大国を与えて味方にするようなもので、せずに済むのならしないに越したことはありません。 貴方の意見の内、枝葉末節となる部分への反論は以上の通りです。次のコメントで論旨となる部分に反論させて頂きます。それから名前を付けて下さいね、分かりにくいので。 -- (史記) 2014-12-16 03 34 52 貴方の意見の内、枝葉末節とな↓ 貴方の意見の内、枝葉末節となる部分への反論は以上の通りです。次のコメントで論旨となる部分に反論させて頂きます。それから名前を付けて下さいね、分かりにくいので。 -- (史記) 2014-12-16 03 37 47 まず一つ誤解されているので、それを解消させて頂きます。「↑12で、自分が「下げろ」なんて書いたか?」……これは私の「正史に記された敵対群雄が弱小であるから、これまた能力を下げろと言う」 この発言に対してのものだと思いますが、私の言葉が足らなかったようです。真意は「正史に記された敵対群雄が弱小であるから、これまた(後漢の武将の)能力を下げろと言う」というものです。 またこれに関して「ダブスタなどという言いがかり」と仰られていましたので反論させて頂きます。その後の発言を見れば理解出来ますが 当初の貴方の「光武帝は後漢書が後漢時代に書かれた歴史書をベースにして状況証拠もあるから盛っていると考えるべき」という意見と 「正史で、ほとんど取り柄のないしょぼい能力しか持たないように書かれている 新勢力や新時代の群雄に圧勝しても、これほどの高能力は評価できないってことだよ」 等の発言だけでは(親切な方が真意を推測して下さってますが)新代の群雄が過小評価されていると書かれておらず、ダブルスタンダードであるとしか感じ取れません。 改めて論旨に入らせて頂きます。私と貴方の議論の要点は国内統一と国外征伐に於いて、時代の違いによる影響力に差があるのかというものです。 これに関しては私は確信を持って時代の違いによる影響力には内外で差があると断言出来ます。というより、むしろ何故貴方が同一視出来るのかと理解に苦しみます。 人口や経済は国内統一に於いても、影響力が大きいことは三国志の証明するところですが、古代中国では学問・政治制度・技術力の時代差は主に国外征伐にこそ大きな影響力を持ちます。 考えてみれば当たり前のことで、同じ水準の学問・政治制度・技術力を持つ漢民族に対しては優位を保つことは出来ません。しかし異民族相手の国外征伐にはこれらの時代による差は圧倒的な優位となります。 最も分かり易い例は鐙でしょう。産まれた時から馬と慣れ親しむ北方異民族に対して鐙はその優位性を大きく縮めるものです。対して国内戦争に於いては鐙によって騎馬隊が強化されても余り意味がありません。 相手も同じことだからです。李靖の得意とした長距離奇襲戦法も鐙があったことによる影響力は無視出来ません。それこそ衛青や霍去病の時代に鐙が存在していれば、武帝の匈奴征伐は凄いことになったでしょうし、高祖の頃にあれば敗戦するにしても幾らかマシだったことでしょう。この他に先程挙げた均田制も分かり易い例の一つですし、冶金技術の発展による鉄製の武器や防具、輜重の金具の差なども同じくそうです。 後漢以前の武帝期にについては先程のコメントで触れたので省略させて頂きますが、恐らく経済や財政の状況から推測して、人口も光武帝期に比べて二倍前後であったと思われます。 前漢には人口に関して確りと信頼出来る資料が末期にしかないことが残念ですね。 -- (史記) 2014-12-16 05 45 11 度重なる連投失礼します。 ↑とまあ以上の様にここまで書きましたけど、私は衛青や霍去病は兎も角として、李靖と呉漢が互角とは思っていませんし、言ってもいません。実際李靖は現在も呉漢に統武知の合計で勝っていますし、 私が李靖の能力を編集した時はもう2、3知力を高くしてましたから。いつの間にか下がりましたが…。李世民が光武帝に政治力で勝っていることについても私も賛成です。というか唐・モンゴル(元にあらず)はもっと高くても良いのではないでしょうか? 私は貴方の最初の意見が総合的に見れば、余りに根拠に乏しいものだったので反論したのみです。 それに国外征伐をすればするほど高評価になるなら、チンギスハーンやナポレオンはもっと凄い能力でないと辻褄が合いませんし、 逆に一時期話題になっていた日本の戦国時代は軒並み能力を下げなければいけなくなります。 最後に唐・モンゴルを除いた時代と比べて後漢の武将の能力が全体的に高いことに関しては(三国志もそうですが)後代と比べて文武官の区別がはっきりしていなかった時代であるというのも一つの要因であると思います。 後は史書に書かれている内容をそのまま信じるならば、左程におかしいこととは思いません。 以上、長くなりましたが、貴方への反論となります。 -- (史記) 2014-12-16 05 57 55 国外遠征を考慮するなら日本の戦国時代はむしろ上がるぞ。 日本が国外で中国と戦争したのは歴史上わずか3回。 白村江でボコボコにされた奈良時代はともかくとして、 豊臣政権の唐入りと、明治新政府の日清戦争は日本でも屈指の戦力と認定できるはず。 唐入りは秀吉本人と家康や利家、もっと言えばそれ以前の英傑が出陣していない状況で数に勝る明・朝鮮相手に優位展開だったし 日清戦争も高杉や大村、西郷木戸といった連中も既に亡くなってる。 ナポレオンは恐らく最後にボロボロになった分が差し引かれているからあまり上がってないのだと思うが、 チンギスは十分高いのではないか?モンゴルはチンギス以外にも優秀な武将がいるし バトゥとかまだ登録されていなかったはずだしな。 -- (名無しさん) 2014-12-16 21 52 56 あ、日中戦争いれてなかった -- (名無しさん) 2014-12-16 21 54 38 ちょっとな。 2014-12-09 02 28 14だが聞いていいか 俺達、何やってるんだろうな・・・ 個々で調整すればいいと思うんだ。俺は -- (名無しさん) 2014-12-17 02 13 34 ↑8 丁寧な返答、痛み入ります。 戦勝という結果のみで判断すべきではない、というあなたの意見に同意します。 ザマの会戦で大スキピオに敗れたハンニバルは、勝者である大スキピオよりも偉大な名将でした。そのことは当の大スキピオが誰よりも認めていました。 諸々の要素も考慮に入れるべき、ということは重々承知しているつもりですが、もしかしたら、わたしは結果に重きを置きすぎているのかも知れません。 正直、あなたに「諸葛亮の爪の垢を飲ませたい」と言われた時はどうなることやらと思いましたが、互いに誤解を解くことが出来たようで何よりです。 強いて言えば、衛青の評価に若干の差異があるようですが、そこは新武将作成の注意事項にあるように、武将の評価は人それぞれ、ということで手打ちにしてください。 -- (2014-12-14 01 49 06) 2014-12-17 06 38 06 ↑2 恐らくは、能力値の編集禁止というルール変更に対する一種の反動ではないかと思う。 無言で編集合戦が繰り返されるよりは、まだしも活発な議論が行われているだけマシだろう、とわたしは考えることにする。 -- (2014-12-14 01 49 06) 2014-12-17 06 42 06 能力値変更を強制しないような歴史認識の交換は、 個々が能力値を調整する時の判断材料にもなるから、 そこまで悪いものでもないんじゃないか? ここから「いやこの能力はおかしいから変えろ」とか言い出すとアレなことになるが -- (名無しさん) 2014-12-17 06 45 05 ↑6 その評価の仕方は著しく日本に対して偏った見方ですね。“もっと言えばそれ以前の英傑が出陣していない状況で” 明軍とて参加した人物の中で主力らしいのは劉綎のみです。当時日本に比べて戦らしい戦もなく、 既に衰退しつつあった明に対して、練度・装備で圧倒的に勝る日本軍が多少優位に立ったことがそれ程凄い事でしょうか? 貴方が他に挙げた例も全て当時の中国が国内事情や外圧で混乱を起こし、日本軍が兵力以外の軍事要素で圧倒的に有利であったものしかありません。 また戦国時代の能力値を見て来ましたが、織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も直接自身で国外征伐をしていませんが李靖と互角かそれ以上の能力値になっています。 単に外征でどれだけ敵を征服したかということで能力が決まるのなら、チンギスハーンは限界突破して統武の合計値だけで250くらいでないとおかしいと思いますよ。 -- (史記) 2014-12-18 01 04 07 別に日本に対して偏った見方であるとは思いませんが 明軍は李成梁の子である李如松が参戦していますし、他にも鄧子龍や麻貴など当時東方方面にいた人物が出陣しています。 そもそも日本軍が概算15万の動員に対し、朝鮮が非正規軍を含め22万、明の軍勢が10万~20万、これに加藤清正が喧嘩を売った女真族まで来てますから はっきり言ってしまえば日本軍はほぼあらゆる状況で不利なのですが。朝鮮が不毛地帯で飢えや寒さに苦しんだという記述もありますし。 それこそ日本軍が優っているところなんて兵の練度、あるいは武将の質や統一体制くらいのものですが。 ちなみにこの兵力比は日本・朝鮮・中国全ての史料で明示されていますよ。 >>国外征伐をしていませんが李靖と互角かそれ以上の能力値になっています >>単に外征でどれだけ敵を征服したかということで能力が決まるのなら 別にそこまでは言ってませんよ。彼我の兵力差も考慮する必要ありますからね。 ただ、国内で軍事活動を終えた政権は、国内『のみ』でしか判断材料ができないわけです。 その判断材料のみで「この人物はこれだけ活躍をした」と言われても 単純にそれだけ凄い人物なのか、あるいは後世に権威付けするために後付した美辞麗句なのかわからないわけですよ。 国外戦争をしていれば、相手の範疇での評価が入るので、仮に美辞麗句で作られた功績であるならば 相手方、つまり敵国の第三者の目が入るわけですよ。 三国志の諸葛亮が凄い凄いと言われるのは、敵である魏側の評価が高いからというのも一因でしょう? -- (名無しさん) 2014-12-18 01 25 41 ↑5 こちらこそ毎回丁寧なコメント痛み入ります。 そうですね、そのことが分かっていたスキピオの非凡さも並大抵ではありませんが、それだけに晩年を思うと酷く痛々しい気持ちになります。勝敗ということであれば、 豊臣秀吉などはこのサイトでは圧倒的な能力値ですし、実際に殆どの戦いで勝っています。しかし彼の勝利の多くは部下の献策と敵に勝る兵力・財力あってのものです。一概に勝利=能力とは思えません。 その段は失礼致しました。衛青(特に知力とか知力とか)ももっと高い能力で良いと私も思います。敵の心理を逆手に取るところなど李靖に良く似ており、当時鐙があればなーと思わず言いたくなるほどです。 -- (史記) 2014-12-18 01 30 15 ↑2 敵に勝る装備を備えているにも関わらず“日本軍はほぼあらゆる状況で不利”とは何かの御冗談ですか?当時の日本は世界で最多の火縄銃の所有国であり、有数の金産出国ですよ。 また仮に貴方の言うことが正しいのであれば、そんな戦略的に苦しい戦いを部下に強いた豊臣秀吉は愚か者以外の何物でもありません、中世のページで豊臣秀吉の能力を低く登録すべきとコメントしてきては如何ですか? “それこそ日本軍が優っているところなんて兵の練度、あるいは武将の質や統一体制くらいのものですが”……つまり兵站と兵力の不利以外、全て勝っているということです。 李如松や麻貴の名を挙げていますが、私は彼らが名将であったという話は見たことも聞いたこともありません。 以前にも言いましたが、具体的な証拠もなく史書の信憑性を疑い始めたら切りがありません。史記は講談紛いの話を数多く盛り込んで記されていますし そもそも項羽や諸葛亮が敵国において高く評価されるのは彼らが高祖や司馬懿を打ち破ったことがあるからに過ぎません。彼らを弱く描けば、敗北した王朝の始祖をも貶すことになるからです。 いいですか、完全に真実であると証明出来る史書なんかこの世に無いんです。いい加減にご自身の見解が根拠に乏しいことに気づいて下さい。 -- (史記) 2014-12-18 02 06 06 敵に勝る装備を備えているにも関わらず“日本軍はほぼあらゆる状況で不利” 「それこそ日本軍が優っているところなんて兵の練度、あるいは武将の質や統一体制くらいのものですが。 」と書いてあります。 ちゃんと読んでください見識がどうのと言う前に。ついでに言えば朝鮮はともかく日本と中国にそこまで装備の差はありません。金産出国自体はほとんど関係ないですよ。 >>戦略的に苦しい戦いを部下に強いた豊臣秀吉は愚か者以外の何物でもありません ちゃんちゃらおかしい話ですね。その理屈ですと寡兵で敵を破った武将は「戦略的に苦しい戦いを部下に強いた愚か者」ということになりますが。 それこそあなたのいう李靖や、もっと言えば光武帝も彼我の兵力をはかれず、無謀な戦を仕掛けた愚か者ということになりますが。 >>兵站と兵力の不利以外、全て勝っているということです。 基本的に兵站と兵力の不利を指して「劣勢」というのですよ。 李靖や光武帝と置かれた状況と何が違うのです? >>李如松や麻貴の名を挙げていますが、私は彼らが名将であったという話は見たことも聞いたこともありません 別に相手が名将であるかどうかというのは判断材料の1つに過ぎないと思うのですが。 相手が凡庸でダメな武将なら下げなくてはいけないんですか?なら王尋を破った光武帝は評価に値しなくなりますよ? いい加減にご自身の見解が根拠に乏しいこと そっくりそのまま返します。私は判断材料の1つを提示したにすぎませんし -- (名無しさん) 2014-12-18 02 57 44 基本的に、新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 新武将の能力値や適性の 決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物 であり、 その正誤も、各人それぞれ異なります。 当然、 万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。 (能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。) 可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には 各プレイヤーの裁量次第 であることをお忘れなきようお願い致します。 理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。 (過去に何度も編集合戦が起きています。) どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、 お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する ことをおススメします。 もう一度言いますが新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。 ここはあなただけのページではありません。 -- (名無しさん) 2014-12-18 03 41 08 基本的に、新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 -- (名無しさん) 2014-12-18 03 41 29 新武将の能力値や適性の 決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物 であり、 その正誤も、各人それぞれ異なります。 -- (名無しさん) 2014-12-18 03 41 51 当然、 万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。 (能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。) 可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には 各プレイヤーの裁量次第 であることをお忘れなきようお願い致します。 -- (名無しさん) 2014-12-18 03 42 16 可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には 各プレイヤーの裁量次第 であることをお忘れなきようお願い致します。 -- (名無しさん) 2014-12-18 03 42 36 理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。 (過去に何度も編集合戦が起きています。) どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、 お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する ことをおススメします。 -- (名無しさん) 2014-12-18 03 43 06 もう一度言いますが新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 -- (名無しさん) 2014-12-18 03 43 28 能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。 -- (名無しさん) 2014-12-18 03 43 49 ここはあなただけのページではありません。 -- (名無しさん) 2014-12-18 03 44 19 以上、ローカルルールを転記 -- (名無しさん) 2014-12-18 03 44 40 能力値の議論が具体的に出てきてしまっていたこと 流れが明らかに議論のたぐいを越えつつあったこと 以上2点を考慮し流させていただきました 以降、荒んだ議論のない平常運転でお願いします。 -- (注意点をよく読むように) 2014-12-18 03 45 59 ゲームとして考えれば、 光武帝勢力の大過なき国内統一と統治、世界史や歴史文学としては不振っという事実の特色を出すために、 能力値はあえて平均的に高いこのままで、兵科のSやAを三国志の人物より同程度の能力値の人物よりかなり減らした上で、 特技を使い勝手の悪いもので登録してしまえば、欠点は少ないが派手さがなく、後世に英名を残せなかったという個性を出すことができると思う -- (名無しさん) 2014-12-19 00 17 03 これで議論終わりでいいか?現状、見るのしんどい 22年(地皇3年)の旗揚げから、36年(建武12年)の統一まででわずか14年。兵科のSはいくつか必要だろう。槍・戟・騎兵の陸上三種は特に どうであれこれだけの速度での天下統一という偉業時点で生半可な特技・能力にはなり得ないだろう、 のちの光武帝の業の上にいったい何が成り立ったかを考えてもらいつつ、これを 「基本的に、新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 新武将の能力値や適性の 決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物 であり、 その正誤も、各人それぞれ異なります。 当然、 万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。 (能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。) 可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には 各プレイヤーの裁量次第 であることをお忘れなきようお願い致します。 理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。 (過去に何度も編集合戦が起きています。) どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、 お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する ことをおススメします。」 観てる側としてもう疲れたよ -- (名無しさん) 2014-12-19 02 02 02 早くに天下統一できたからいいってもんでもねーぞ 能力値の話は全面同意だが -- (名無しさん) 2014-12-21 19 13 25 ↑3のようなここの能力値の自己流登録のやり方さえもコメントできないなら、なにができるのかと思うが ↑2の議論終了は同意及び了解、これからぐだぐだになり、荒らしを招くのは目に見えていた ↑2は、さりげなく、能力値議論の結論をつけようとしなければ格好良かったんだけどね -- (名無しさん) 2014-12-22 21 53 46 実際後世の英名は謎と言えば謎。 中国本国でも評価がそこまで高いわけじゃないらしいし 項羽や劉曹のような強力な勢力がいないからか? -- (名無しさん) 2014-12-24 10 20 54 多分、大衆に受けるタイプの英雄じゃないからだろう。 中国で人気がある武将といえば、関羽、楊業、岳飛、李自成、鄭成功などがいるが、こいつらは強いけど勝てなかった武将だ。 日本史でいうと、源義経や楠木正成、真田幸村のようなもんだな。このタイプの武将は人気が出る。 一方、光武帝と雲台二十八将は、強くて勝った武将だ。こちらのタイプは基本的に人気が出ない。強いやつが勝つのは当たり前で、面白くも何ともないからだ。 強いなら強いで、李靖のように異民族相手に無双していれば、それはそれで人気が出たんだろうが、後漢は対外戦争では不振と来ている。 光武帝と雲台二十八将が後世に英名を残せなかったのは、その辺りが原因だろうな。 -- (名無しさん) 2014-12-24 21 35 10 光武帝が前王朝の皇族と言うのも大きいかもな 立身出世で身をたてたって言うのも当てはまらない。 王朝再建では唯一と言っていいが、いまいちピンと来るものがないな。 三国志の劉備も、演義では筵売りの設定がついて庶民アピールしているし -- (名無しさん) 2014-12-25 11 53 50 ライバルがいないから天下取りに面白みがない、たまたま良い文学作品に恵まれなかった ってのがネットでの光武帝好きの意見だけど、それでは短い戯曲や芝居の題材にもならなかったことの説明がつかないな 自分は元々対外戦争が不振で統一戦の中では地味な上に、これといった参謀が名を残せず、武将の活躍が光武帝に奪われ、 さらに武功を二十八将で分けるものだから、韓信や李靖に比べ、人物像がぼやけてしまったと思う ついでに、馬援以外は他勢力から抜擢した人物はほとんどおらず、二十八将が河北や南陽の子飼いで小粒な印象で、 「人材、綺羅星の如し」って雰囲気からほど遠い印象だからだろうな 陳舜臣もそんなこと書いてたし、光武帝配下を他時代と比較しても強いっていうのは近年のネットの中だけだよ -- (名無しさん) 2014-12-25 22 38 14 小説や戯曲の題材にならなかった理由については、突き詰めれば↑3に行き着くんじゃないか? つまり、もともと大衆に受ける素材ではなかったから、大衆娯楽の担い手である小説家、戯曲家、舞台作家などに見向きもされなかった。 -- (名無しさん) 2014-12-25 23 47 47 ↑それだけだと、圧勝した唐に所属して国内線で活躍した秦叔宝、程知節らが中国で人気ある説明が難しいと思うよ 馬援だけは人気があるところを見ると、二十八将が単独で印象に残るほどのエピソードに乏しい 光武帝が優秀な人物を他勢力から抜擢するということがほとんどないため、 政権がこぢんまりしてロマンやスケールに欠けるってのも大きいと思うよ 大衆にうけるための地元の英雄が河北と南陽に偏るっても結構痛い -- (名無しさん) 2014-12-27 18 54 23 単純に数が多い 武田や徳川の24将や16神将も全員言える人ほとんどいないし しかもそれだけの数がいながら国外戦線は不調 小粒の量産型だとかなり苦しい -- (名無しさん) 2014-12-28 01 24 03 ↑2 秦叔宝には有名な門神ネタがある。中国では道教系の民間信仰が盛んだから、門神ネタの存在は大きいだろう。 程咬金の人気に関しては、もともとは秦叔宝の七光りではないかな。 秦叔宝が講談や芝居の主役になった時に、張飛や李逵のような「乱暴者の弟分」という役が程咬金に割り振られ、 そのキャラクターが一人歩きして人気が出たのではないかと思う。 雲台二十八将の人物像の薄さに関しては、人物像が薄いから題材に選ばれなかったのではなく、題材に選ばれなかったから人物像が薄いのだと思う。 もし題材になっていれば、ある程度は人物像の薄さが改善されたかも知れない。さすがに全員の人物像を膨らませるのは無理だろうけど。 ついでながら、二十八将から受ける全体的な小物感も、知名度の低さと人物像の薄さが主な原因で、講談や芝居の題材になっていれば、ある程度は解消されたと思う。 出身の偏りに関しては、当時の講談師らの目線で見れば、それほど悪いことではないように思える。 出身地が近ければ、若き日の武将たちの交流を創作しやすい。二十八人全員に義兄弟の契りを結ばせる、なんてことも出来るかも知れない。 互いに義兄弟の契りを交わした二十八人の武将が、光武帝の下で大活躍する。そこだけ切り取れば、水滸伝や八犬伝に通じる面白さを感じるのは、自分だけだろうか? 光武帝が文学作品に恵まれなかったのは偶然ではない、という点は同意する。 ついでに言うと、もし光武帝に強力なライバルがいたら、間違いなくライバルに人気を奪われていたと思う。 でも、光武帝が大衆娯楽の題材にならなかった理由については、大衆に受ける素材ではない、という一点に尽きるのではないかと思う。 -- (名無しさん) 2014-12-29 21 21 16 ↑>互いに義兄弟の契りを交わした二十八人の武将が、光武帝の下で大活躍する。そこだけ切り取れば、水滸伝や八犬伝に通じる面白さを感じるのは、自分だけだろうか? それは確かに面白そうだな、二十八将は二十八宿に対応するという説もあるようだしね、呉漢も李逵のような乱暴者と解釈すれば味方にしても存在理由ができる でも、三国志の人物の能力値が高くなっているのは、実際は実績評価よりも演義による補正と 世説新語などの人物評価のためのエピソードが重視された時代背景による人物描写が生き生きとした三国志注釈によるものだろう 対して、後漢初期は讖緯による予言書による運命論が流行だから、人物エピソードは軽視されたんだと思う とすると、能力値の登録は個人の判断だろうけど、これといったエピソードに欠ける正史の実績評価のみなら、対外不振もあるし、ここの評価基準でも他の時代より少し弱く評価されるぐらいが妥当という気がするな 後漢初期が平均して全時代最強という現在の判断は、エピソードが少ないがゆえに欠点が正史にあまり記述されない光武帝やその配下を減点方式で評価した結果であり、他時代に比べてもほとんど独自の基準で決まっているような印象だよ -- (名無しさん) 2014-12-30 15 53 31 減点方式で評価すると大体の偉人がマイナス要素逆算されまくって 何もせずに勝ち馬に追従する人が高くなってしまうからねぇ 日本だと聖徳太子や歴代天皇が最強クラスになってしまう -- (名無しさん) 2014-12-30 16 55 12 現状の後漢初期最強を成立させる条件 ①国内統一戦争に勝った勢力を高く評価する。統一ができなかった時代は低レベルの争いとみなす。 後漢の勢力範囲の狭さは時代の差異のため減点にならないが、北宋や遼・金はお互いの存在のために、一段低く評価する。 ②時代別の国内統一の優劣は、決起から統一年数の早さと戦の勝率で判断する。 劉邦勢力は、統一が早いが敗北が多いため、低く評価。また、基盤の大きさは考慮しない ③対外戦争の勝利は時代により差異が激しいため、評価しない。ただし、劉邦や隋、北宋のように大きな敗北をした場合は、減点の対象とする。 ④外交や戦略は相手にもよるため、ほとんどの勢力を同時に相手をし、武力に訴え続けた光武帝勢力は減点の対象とならない。 外交や戦略を駆使し、項羽以外と戦わずして勝った劉邦は、時代の差異によるものとして評価しない。 ⑤対抗勢力の強さは、正史による評価がいかなるものでも、時代の差異として同レベルとみなす。ただし、統一勢力はあくまで後漢初期が最強である。 ⑥講談・古典小説など文学の描写は創作として無視する。稗史、野史など正史にない記述が反映している可能性は考慮しない。 また、できるだけ、正史以外の史料も信憑性の低いものは排除する。 書き込んでいて笑ってしまった。 ③とか、光武帝最強論をとなえる人は喜んで、唐は高句麗、元はベトナムの外征失敗を減点しそうだけどな。 能力修正しても編集合戦になるだけだし、禁止された以上書き込んだものが勝ちで、各自で判断するしかないんだろうけど。 ここまで都合いい基準をもってくれば、そりゃ、戦乱の時代ならどの時代でも最強になるわ。 -- (名無しさん) 2014-12-31 10 19 58 創業者である光武帝の強さはまあーしゃーないとしても、部下の強さがどこから来るのか全く伝わってこないな。 馬援はまあわからんでもないが、他の武将はこんなに強くする必要あるのか? 新の連中は強者揃いかと思えば、別にそんなことはなさそうだし -- (名無しさん) 2014-12-31 14 19 52 年開けるまでには終わらせてください。 -- (名無しさん) 2014-12-31 15 34 18 うんざりされておられる方も多かったようですし、流される方まで出たので自粛したのですが、久しぶりに来たら、余りにも酷くお粗末なコメントがあったので反論させて頂きます。 ↑3 色々ありますが、まず人が言ってもいないことを然も言ったかのようにコメントするのは如何なものかと思いますよ。大前提としてまず私は後漢初期が最強だとも言っていません。 ①我々は神ではありません、ですから実際に見たことが出来ない以上歴史人物がどれ程に偉大であったかは史書の記述や事績・当時の状況から判断するしかありません。 その上で統一出来たか否かというのは多少は判断する内容には入りますが、最終的には上で言ったように事績や状況に拠ります。曹操があのように高い評価を受けるのも 統一出来なかったとはいえ、他の戦乱の時代の群雄に比べて困難な状況にありながら、広大な領土を獲得し、多様な分野で偉大な功績を遺したからです。 そして何より疑問なんですが、統一云々を仰るなら、五胡十六国・南北朝や五代十国のページに何故書き込まれないのですか?私はそれらのページで不満を訴える人を殆ど見たことがありませんが。 “北宋や遼・金はお互いの存在のために、一段低く評価する”仰っていることの意味を少々理解しかねます、澶淵の盟のことでしょうか? ②誰もそれだけとは言っていません。国内統一においても人口や経済の差はあるとはっきり申しております。劉邦勢力の置かれた状況が他時代と比べて特殊であることは 他の方への返答で書いておりますし、また劉邦の統一事業の功績の大部分は三傑及び陳平・曹参らに帰するものですが、三傑の内韓信以外は兵を率いて戦ったという記述が殆どなく 軍事能力が低く設定されるのは致し方ないことでしょう。韓信について言えば武力が過小評価に過ぎる思いますが、劉備や曹操と同様にゲーム制作側が既に決めてしまっているものは みんなの新武将の対応外です。曹参・灌嬰・夏侯嬰(特に前二者)は幾らか過小評価ですが、それ以外は大まかに言って妥当な評価であると思いますね。 “基盤の大きさは考慮しない”発言するのはご自由ですが、もう少し考えてからにされたら如何ですか?甚だしい無学さですね。漢王であった劉邦・北朝の名門であり、隋の外戚であった 李淵と その子息である李世民、いずれも皇室の一門とはいえ傍系で地方の小豪族であった劉秀より強い基盤の持ち主です。北宋に至っては後周の政権をそのまま禅定によって獲得しています。 更始帝政権から逃れるように河北に向かった劉秀とは比較するのも馬鹿馬鹿しい程です。 ③“ただし、劉邦や隋、北宋のように大きな敗北をした場合は、減点の対象とする”こんなことは私を含めて、誰も言っておりませんが。というかこれに関しても正気を疑う発言ですね。 劉邦の能力に関しては白登山の戦いを引用するまでもなく彭城の戦いで充分ですが、この戦いに於いての劉邦の敗北は言い訳の出来ぬものです。まず韓王信を敵方に追いやってしまうという 戦略的なミスを犯し、その後事態の収拾を図るも偽退却を信じ込んで追撃するという戦術的なミスを犯して敗北しています。呉漢らのように方々から攻め込んでくる匈奴に対して苦戦したこととは訳が違います。 太宗の高梁河の戦いは曹操の赤壁とよく似ていますね。準備不足で敵領に攻め込んで地の利も無く不利な状況の末の敗北、戦略・戦術ともに太宗の判断ミスはありますが、燕雲十六州の重要性を考えると厳しく責めることも酷かとは思いますね。 ④“ほとんどの勢力を同時に相手をし、武力に訴え続けた”……唐初期とて殆ど同じ状況ですが、何らかの問題点があるのでしょうか? “外交や戦略を駆使し、項羽以外と戦わずして勝った劉邦”ジョークとしては面白いですが、妄想の産物ですね。 劉邦自身が項羽と対峙して時間を稼いで、項羽に味方する勢力を韓信率いる別働隊で悉く攻め落とすというのが劉邦軍の戦略です。項羽以外との戦闘は数多くありますし、だからこそ韓信・張良があれ程に高評価をされているのです。外交に関しては それ程に目立った功績は無く、最大の功績足り得た斉の無血降伏は肝心の韓信が無意味なものにしてしまいました。貴方の言う劉邦の駆使した戦略・外交とは具体的にどのようなものなのでしょうか? ⑤“ただし、統一勢力はあくまで後漢初期が最強である。”繰り返しますが、誰もそのようなことは言ってません。そもそも新末の群雄はその記述を見ても隋末等と比較して決して弱くは無いと思いますし、五代十国における名君の大半は趙匡胤が即位する以前に没しています。 ⑥“稗史、野史など正史にない記述が反映している可能性は考慮しない”……可能性とやらを証明する具体的な方法が見つかったら教えて下さい、確か魏略には劉禅が晋の文公のように放浪した話がありましたから、是非貴方が研究なさったら如何でしょうか? “唐は高句麗、元はベトナムの外征失敗を減点しそうだけどな”貴方がどのように妄想されるも貴方の自由です。“書き込んでいて笑ってしまった”笑いは健康の秘訣ですからね、私も貴方の書き込みを読んで、笑いを禁じ得ませんでしたよ。 -- (史記) 2015-01-04 06 27 53 ↑ 北宋や遼・金はお互いの存在のために、一段低く評価する。 恐らくは、宋と遼、金、ついでに西夏や元との戦いは内戦と見なす、という意味では? あれはどう考えても対外戦争だし、あれを内戦だと考えている人は、少なくともこのwikiにはいないと思うが。 -- (↑4に非ず、赤の他人です) 2015-01-04 13 20 05 ↑2そういう能力値に対する議論に直結する具体的な反論は完全にNGって注意されたのじゃないのか? 注意されたルールも守れない人が意見言ってもな、また同じ事繰り返すつもりなのか 英名の有無に対する議論や、現状の能力値への感想すら、おそらくは議論をうみだしかねないので、 ↑4で、注意がなされているのであろうに。もう、スルーするべきだろ -- (名無しさん) 2015-01-04 18 11 29 反論の長さを見るに作った本人なんじゃね? 第三者からすれば能力の多少の違いとかどうでもいいし ま、下げたい人は下げて、そのまま使いたい人は使えばいいんじゃない? -- (名無しさん) 2015-01-04 19 57 33 ↑↑ 反論の長さを見るに作った本人なんじゃね? 確かに、編集合戦を起こして禁止状態にさせた張本人と考えれば、色々納得できるな しつこさとマナーへの無配慮、自分が作った結論への固執や過失を他人のみにあると考える思考パターン、自意識過剰 その可能性は高そうだ >ま、下げたい人は下げて、そのまま使いたい人は使えばいいんじゃない? 結論はそれだな -- (名無しさん) 2015-01-04 22 09 50 今更こんなことを言うのは何だが、↑5は余計なことまで反論しすぎていると思う。 時代の差異という言葉をご都合主義的に使って後漢を擁護している、という↑8の誤解を解くに留めるべきで、 一から十まで反論する必要は無かった。 あと、↑と↑2も、確実な証拠も無いのに決めつけるような言い方をするのはどうかと思う。 まともに反論できないから人格攻撃に走っている、と第三者に受け取られるかも知れない。 勿論、自分はそうは思ってはいないが、そういう誤解から場が荒れることを避けるためにも、 挑発的に聞こえる言動は出来るだけ慎んだ方がよいと思う。 -- (名無しさん) 2015-01-04 23 52 58 いや、でもそう思われても仕方ない 一時期劉秀の武力が96と92を行ったり来たりしたように 一部の編集者にとっては数値1の差も重要だが 第三者にとってはどっちであろうとさほど大差ない。 使う時にどうするかは作成者それぞれの判断に委ねられる。 もちろんこれは俺の憶測にすぎない。根拠がないと言われればそれまで。 でも、そうじゃなかったら落ち着けるだろ?数値1の差などぶっちゃけ大差ない。 -- (名無しさん) 2015-01-05 01 21 48 ↑1~5の皆様、度々お騒がせしております。初めに名言させて頂きますが、私が後漢で編集を行ったのは光武帝の知力・魅力と鄧禹・耿弇・班超等の編集前に過小評価に過ぎると 感じた人物のみです。皆様同様、光武帝の武力が92か96かは些細なことであると思いますし、1の差など論ずる意味も価値も無いと考えております。 ただ一か月近く前に“全武将の全ての能力を、-7か-8にして、S→Aに代えて、特技は弱い方を採用したら”と仰る方が出た時は、論拠も乏しいのに暴論が過ぎると感じたため、反論させて頂きました。 二週間近く前のコメント後に注意を書き込まれる方がいらっしゃったので それ以降の反論をするつもりはありませんでしたが、発言していないことまで 発言したかのように捏造をする書き込みに対して堪えきれず、再度のお目汚しをしてしまいました。 ↑2・確かに些か反論が過ぎたかもしれません、今後は気を付けさせて頂きます。 ↑6・うーん、どうなんでしょうか?流石にそれは無いと思いますが、仮にそうだとしたら この方の中では、私は余程に後漢最強論を唱えるだけの狂戦士のように思われているんでしょうね。 -- (史記) 2015-01-05 02 48 07 ↑それでは了解したのだな? 以前、連投コメントで能力の議論は禁止とコメントされているのだから、 具体的な人物の能力を語り、相手の意見に反駁する議論行為はもうやめてもらいたい あなたは、本当に自意識過剰に過ぎる ↑11で、あなたがいちいち反論を加えた自分のコメントの光武帝最強論をとなえる人とは、あなたを指すのではない 確かにあなたのコメントを少し参考にしたが、他の時代とのバランスを無視して平均的に他の時代をかなり上回る現在の評価をつけた人の思考を想像して書いただけだ あなたの意見に全く同意できないが、あなたは一応、他の時代の人物の能力もあげるべきといっているので、光武帝最強と主張はしていないのは理解している それより、自分が行った議論の元になったコメントや↑11もただ現状の能力値への感想を書いたもので、別に能力値変更を提案しているものでもない 無理に全てにわたる議論をしたがるあなたは、ただ、知識をひけらかして、相手を屈服させて悦にひたりたいだけ、 あるいは劉邦を光武帝より高く評価する人の気持ちなどを考えず、自分の評価を他人に押しつけたいだけと思える 不満があるなら、現状が正しいという個人的な見解の論拠を示すだけでいいわけだけだから、ルールを破ってまで誰かに議論をいどむ理由をいどむ必要はない -- (名無しさん) 2015-01-10 22 40 40 個人的には、場の空気を読んで冷静に議論できるのであれば、 武将の能力値に触れることを杓子定規に禁止することはない、と思うんだけどな。 現状の荒れようを見る限りでは、全面禁止も已む無しか。 ↑ 複数の人間が異なる意見を主張すれば、議論という形にならざるを得ないのでは? 冷たい言い方に聞こえるかも知れないけど、批判や反論を受けることを厭うのなら、 それが感想の類であったとしても、自分の意見を表明するべきではないと思う。 -- (名無しさん) 2015-01-11 01 44 04 能力値のページである以上、能力値の数字に触れずに議論するのはかなり難しいからな。 仮に当人同士がそのつもりでやっていても、第三者が「そういうわけなら能力値下げれば?」って一度言い出すと収拾つかなくなる。 実際、能力値の変更が全面禁止にされてから、過去にいろんな場所で起こっていたような能力値の編集合戦は今のところ一切起こっていないね。 -- (名無しさん) 2015-01-11 03 41 57 第三者から見たら荒れる元となる様なコメントばかりする↑3も、それに一々全部反論する↑4も変わらんわ。 ↑3劉邦を光武帝より高く評価する人の気持ちなどを考えず わざわざ後漢のページに来て他時代と比べれば後漢の人物は能力が低いとか言ってる奴が書いてもブーメランにしかならんやろ。 ↑4あんたが色々詳しいのは分かったから、もうその辺にしとこうや。こんなところで↑3相手に延々反論しとってもしょうがないやろ。 -- (名無しさん) 2015-01-11 17 38 15 ↑4だよ(↑3、↑2は返事ありがと) ↑3あの時は、コメント欄が埋まるぐらい禁止って注意されたからな どの程度が許容範囲かよく分からないのも事実だし、議論はともかく他人の意見には興味あるから、能力議論しないのは前提って感じで書きこんだ 複数の人間がそれぞれ異なる意見を主張して、同意かそうでないかを表明できれば議論で荒れるのはとにかく避けれるかなと思ったんだけど 結果的に荒れてるなら、もうやめるしかないけど ↑2議論そのものを避けて、同意or同意せずに自分の考えの表明だけだったら、一応、避けられるんじゃないの? 他のところのコメントは、誰が高い、誰が低いと書かれるだけで大抵終わっている 批判や反論を前提にして、相手の考えを変えさせようとすることが議論が続いて荒れるんじゃないかな? ルールは破る人間は絶対にいる以上、仕方ないというのなら、もうやめる ↑1相手の意見を変えようとして議論することと、ただ考えを言うことは大きく違うんじゃないの? 結果的に荒れるかもしれないなら、どんなコメントもダメだろうし そこまで断言するのなら、あなたにはどこまでが許容範囲かはっきりさせて欲しいな -- (名無しさん) 2015-01-11 23 12 46 どうも↑がいう議論の定義がわからないな。 複数の人間が異なる意見を出し合い、相手の意見に同意できない場合は同意できない理由を述べ、 その理由に納得できなければ納得できない理由をまた述べる、 というのは議論の基本形だと思うのだが。 あと、コメントの許容範囲については、あくまで個人的な見解だけど、 後漢の新武将作成例と関係がある話題で、かつコメント欄が荒れることさえなければ何でもよいと思う。 自分も他人の意見には少なからず興味があるし、参考にできる意見は参考にしたいから、 上でも述べた通り、場の空気を読んだ冷静な議論であれば歓迎する。 -- (↑4) 2015-01-12 01 50 35 ↑2仮にそうだとしても、注意コメントが連投されるまで史記とかいう奴と散々議論しとったあんたが今更それを言ってもな。 許容範囲を決めるってのは難しいけど、少なくともあんたがしたらしい事の発端になったコメントも具体的な数値や適正を避けてたり、全武将の全能力なんて書き方せんかったら、ここまで大事にはならんかったんじゃないか? ↑17のコメントは完全にアウトやろ。大して後漢が好きでもない俺から見ても悪意のある煽りにしか見えんわ。大して書く必要のあるコメントにも見えんし、あれをただの感想と言うのは無理だと思うけどな。 -- (↑3) 2015-01-12 13 44 21 ↑2議論ってのは、相手の意見への反論に続いていつまでも終わらないから、ルールで禁止されていると解釈したので 特定の意見を否定せず、各自の意見の表明と根拠の提示だけならよいと思ったが 結果責任として、自分は荒れる原因をつくったからダメってことね。それなら分かるな ↑>散々議論しとったあんたが今更それを言ってもな 注意があってそれなりに反省して方針変えた人間も許されんのか、全体的に高すぎって書いていた人は前からいたのに、 少し具体的に書いたら、長文を避けて省略した部分まで説明責任を求められ、個々の人物や日本史までの論議が続く流れになるとは誰が予想できるか 後漢初期を高くするように編集した人たちの根拠はなにか分析したのもそこまで悪いとも思わないな、他時代より優遇されているわけだから興味もわく だが、これ以上書く必要はないし、荒れる可能性があるからここでのコメントはとりあえずやめようと思うからもう勘弁な -- (↑3) 2015-01-13 02 10 38 ↑ コメントはもうやめる、とのことなので最後に一言だけ。 あくまでも個人的な感想だが、あなたが始めた議論があれほどに荒れたのは、 ①史記氏が余計なことを言いすぎた (「一を知って十を知らず~」「空いた口が塞がりません」等、相手の感情を傷つけかねない言葉が文章に含まれており、 さらに枝葉末節にまで逐一反論したせいで議論を拡散させた) ②あなたが感情的になりすぎた (議論をするつもりはないはずなのに、2014-12-13 20 13 10のコメントで史記氏に反論し、結果的に議論に参加した。 余談だが、2014-12-15 06 49 05で似たような立場に立たされた2014-12-14 01 49 06氏は、 あなたの真意を察していたのか、それとも議論の拡散を避けるためかは不明だが、あなたへの直接的な反論を控えている) 以上の二点が主な原因だと思う。 実際、あなたや史記氏と議論していた2014-12-14 01 49 06氏は、比較的冷静に議論できていたように感じる。 特に、衛青と呉漢の優劣に関する議論を、場の空気を読んで自重しているところは、見習うべき点があるのではないかと思う。 もしまた自分の意見を書き込む時は、その辺りに注意を払えば、あなたが望んでいるであろう穏やかな意見交換が出来るのではないかな。 -- (↑3) 2015-01-13 21 35 53 やたら能力が高いので個人作成では-5から-10くらい低くしましたね。 自分は三国志の楽進、顔良、陸遜、馬忠、王悦などの史籍記事と見比べながらだと能力が高すぎる設定にはならないですね。 -- (名無しさん) 2015-01-26 17 25 18 ↑ 一つだけ質問しても良いかな? 史書と比較して参考にしたと言ってるけど、殆ど記述の無い顔良や王悦の何を参考にしたの? -- (名無しさん) 2015-01-26 20 56 08 結局「史料をどこまで信用するか」とか「(演義のような)講談、創作をどこまでいれるか」によって 評価なんてマチマチになるからあんまり考えなくてもいいんじゃないか? マイナーな武将が妥当評価になりやすいのは、まず講談や史料の記述が少ないから評価基準がわかりやすいというのもあるし -- (名無しさん) 2015-01-27 06 23 32 評価がマチマチって……王悦は花関索伝で姉のオマケとして嫁になっただけ 顔良は正史の中では孔融に袁紹軍の勇将の一人と紹介されることを除けば、 荀彧・沮授には貶されて、後は関羽に打ち取られたとしか記述がされてないし。 何をどう比較して参考にするって言うんだ? -- (名無しさん) 2015-01-30 18 32 06 それは実際に能力を決める個人の判断によるだろ 君にとっては「比較に値しないこと」でも 別の人は比較材料にしている可能性はある -- (名無しさん) 2015-01-31 00 47 11 自分も↑5が顔良の史籍記事をどう参考にしたのか、具体的に知りたいな。 勿論、評価の基準は人それぞれだが、自分には無い発想なので純粋に興味がある。 これくらいなら「歴史認識の交換」の範囲内に収まるだろうし、差し障りがなければ教えてもらえないだろうか? -- (名無しさん) 2015-01-31 17 08 28 ↑2それが不思議に感じたから聞いてるんじゃないか。何故毎回、↑6さんじゃない君が答えてくるんだよw ↑1だよね。楽進や陸遜は記述が豊富だから採用されたのも分かるけど、何故敢えて記述が殆ど無い顔良や王悦を選んだんだろうか? 能力値を決めるために史籍記事を参考にするんなら、記述の多い武将の方がやりやすいだろうし。不思議なチョイスだよね。 -- (名無しさん) 2015-01-31 21 13 58 章帝や和帝の頃ももう少し増やして欲しいかな~なんて -- (名無しさん) 2015-02-02 14 23 19 ↑↑ いや、俺は荒れそうな流れだと思ったから止めただけだよ ただ能力値の関係ない範疇なら俺も興味がある。確かに参考までに教えてほしいところだ。 -- (名無しさん) 2015-02-02 16 04 32 ↑10 せっかく一連の議論が終わったのに、何でまた荒れる原因になりそうなコメントするんや。 あんたにはコメント欄の文章が読めんのか?まさかとは思うが、↑12とか戦国ページに粘着してる連中の成りすましじゃないやろうな? -- (名無しさん) 2015-02-02 20 52 13 (コメントをやめると言ったものだが、このままでは、図星なので反論できないと思われたままになるのがいやなのでコメントする) ↑1 コメントの指定がずれているみたいだが、 そこでいう↑10は文脈から見て「やたら能力が高いので」ではじまるコメントだろうし、とすると、↑12は当然「↑2議論ってのは、」の自分のコメントのことだよな? 『戦国ページに粘着してる連中』とは、さっぱり分からないし、関係もなく、 一応、マナーを了解してコメントをやめるとして、同じ趣旨のコメントもないのに、一緒くたに勝手に気にいらない相手を全て荒らし扱いか? そっちが決めつけるならこっちの決めつけるが、その関西弁の文体のコメント、同じ人間だろうから ①荒れるのを止めることを大義名分に公平な第三者を名乗り、乱暴なコメントを行い、好きなように暴れたい ②光武帝が大好きで完璧超人であると他人臣事させたくて、とにかく低く評価する人間のコメントをやめさせたり、荒らし扱いにして説得力をなくしたい このどっちかか、もしくは両方を兼ねている人間のコメントしか思えないけどな 他の人も論争が起きていた時は対処が早いが、こっちの方は注意しないんだな こっちとしては、同じ人がなりすましても分からないことを前提に受け入れているのに、不誠実だろ ↑1から、丁寧な言葉によるちゃんとした釈明と、過失を認めた場合は、謝罪して欲しいな 釈明もなく、ただ荒れさえしなければ全てよしという姿勢なら、もう従う必要も感じないし、今後の対応を考えさせてもらうよ。 -- (名無しさん) 2015-02-08 13 53 19 ↑1もう呆れて物も言えんわ。誤解を解きたいなら違うとだけ書けばいいやないか?無意味な議論しとる連中とか↑11みたいに余りにも場の流れが読めん奴を注意しとるだけの俺にまで 光武帝が大好きで云々かんぬんとか訳の分からんことまで言い出して、お前さんちょっと病気やないか?それに↑11があんたやないなら、説得力云々も気にする必要ないやろ?本当に訳が分からんわ。 余りにも酷いタイミングで、ぎこちない文章と似たようなコメントやから疑っただけや、少なくともあんたが何回もしとるみたいに断定はしてないぞ。 それになりすましが分からんのは皆一緒やし、釈明とか謝罪とか片腹痛いわ。俺や他の人があんたを注意した時の一連の会話を読み直して来てみろよ。 人がどんだけ注意しても、改善案を提示しても反省どころか開き直っとっただけやないか。それが人に対して誠実な姿勢と言えるんか? その上、言うに事欠いて謝罪して欲しい?どういう神経しとるんじゃ。俺が謝罪せんといけんのやったら、お前は何回謝罪せんといけんくなるんやろーな。 最後に、俺のは関西弁やなくて九州弁や。なんか勘違いしとるぞ。 -- (↑2) 2015-02-09 01 43 51 ↑2 自分は2015-01-13 21 35 53だが、今まで↑3のコメントに触れなかったのは、 2015-01-26 17 25 18が「違う」と返答し、ついでに2015-01-26 20 56 08の質問にも答えてくれたら丸く収まるだろう、 と考えていたからで、別にあなたや2015-01-26 17 25 18を荒らし扱いしようとしたわけではない。 少し楽観的すぎたかも知れないことは認めるけど、不誠実と言われるのは心外だな。 ↑ あんたが言いよることは理屈としては正しか。ばってん、もう少しふわっとした言い方をした方がよかとやなか? 自分は九州人やけん、きつく注意しようとやからきつか言い方になるとは当たり前たいね、と思うけど、 九州弁に慣れとらん人には「きつか」やなくて「乱暴か」ち聞こえるとかも知れん。 せっかく注意してくれよっとに、そげんか誤解から場が荒れたら元も子もなかやろう、と自分は思うとやけど、どげんよ? -- (名無しさん) 2015-02-09 20 10 27 ↑2そのコメントで大体分かったよ、君が日本語の基本すら全くできていない人間だということがな 自分は九州に住んでいるが、九州弁ってのは↑1のを言うんだぞ 日本人として常識以前の問題さえ分からない人間が、ただ人の非を暴きたくて暴れているだけから、今までのようなコメントになるとすごく理解できた そりゃ、他人に道徳的な行いを強制した以上、多少の不満があっても自分が模範となる姿勢を示す責任がある、ということが分かるはずがない もう、コメントするのも面倒だったが、君と会話しても意味がないし、君の言っていることに何の価値もないことは分かった、もうそれでいい ↑1 あなたも、他人にあれこれ言うわりには、誠意が感じられないな とにかく丸くおさめたいのか、知らないが、↑1に「あんたが言いよることは理屈としては正しか」とか言ったら、調子に乗ってまた暴れるだけだと思うけどな とにかく、後はこっちで判断するから 全体のルールは尊重するけど、あなたと色々言った約束は、もうなしにするよ -- (名無しさん) 2015-02-18 22 36 14 ↑ あなたが頭の中で何を考えて、どう判断しようとも、それはあなたの自由だ。 けれど、頭の中で考えていることを発表したら、発表されたものに対して批判を加える自由が、あなたの周りの人間にはある。 そのことを忘れないでいてもらえれば、自分はそれでいいよ。 それから、言う必要が無いと思ったから黙っていたが、2014-12-12 00 38 24のコメントで、 史記氏にダブルスタンダードと誤解されたあなたを弁護したのは、何を隠そう、この私だ。 当然のことをしたまでだから、別に感謝の言葉を求めたりはしないけど、周りの人間の誠意を疑わしく感じたとしても、 それを表に出すのは賢明な判断ではないと思う。 最後にもう一つ。2015-01-13 21 35 53のコメントの繰り返しになるが、あなたはもう少し冷静になるべきだと思う。 ↑の例でいえば、こちらは「あんたが言いよることは~」という文章の七倍の文字数を費やして↑3に苦言を呈しているのに、 それを無視して「誠意が感じられないな」と言われても、こちらとしては困惑するしかない。 あなたは↑の文章の中で「日本語の基本すら全くできていない」と↑3を批判しているが、 文章の要点を読み取れず、さらに誤字脱字も↑3とは比較にならないくらい多いところを見ると、 その批判はあなた自身にこそ当て嵌まるように感じられる。 勿論、あなたは少し感情的になりすぎているだけで、決して日本語の基本が出来ていないわけではないのだろうが、 そういう印象を周囲に与えてしまうのは、これも賢明な判断とは言えないように思う。 -- (↑2) 2015-02-19 21 06 29 ↑2自分が謝罪せん人間が人に謝罪を求めたり、散々議論しとった上で議論を慎めとか他人に注意したり、挙句の果てにお前が模範を示せとか、お前さん本当にブーメランの名人やな。 日本人としての常識と日本語の基本が云々とか言っとるけど、日本人としての常識や美徳が身に付いとる人間がよくもそんな礼儀も謙虚さも感じられんような文章を 最初のコメント以降延々と書き込めるなあ、感心するわ。それと日本語の基本すら出来てない俺が坊ちゃんに教えてやるけど、『ただ人の非を暴きたくて』←こういう場合は 暴くやなくて責めると書くのが正しい日本語の使い方やぞ。俺が態々暴かんでも、お前さんに多大な非があるのは最初のコメントから一連の騒動を見れば、誰でも分かることやからな。 それとすぐバレるのに嘘をついとるんか、それとも北九州在住の学生(ただしヒキコモリ)かは知らんけど、何で九州に住んどる奴が博多弁以外の九州弁を知らんのじゃ?恥を曝すような発言は止めとき。 ↑1・3あんたの冷静な態度も発言も立派やと思うけど、こんな晩年の孫権みたいな相手に配慮したって何の意味もないと思うぞ。 相手の意見が正しいかどうかやなくて、自分の思い通りの意見かどうかで判断しとるような人間に礼儀を尽くしても虚しいだけやからなあ。 -- (↑4) 2015-02-25 00 00 24 発端がなんなのかしらんけど、もうそろそろどっちも自重してくれんかね・・・ゲーム攻略的にもゲームを楽しむ上でも無意味なログがびっしりと・・・ -- (名無しさん) 2015-02-25 00 17 37 ↑もはや議論でなく意地の張り合いなので放置しかないかと思われる。 で、一応。 「新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。 ここはあなただけのページではありません。」 -- (名無しさん) 2015-02-25 00 57 10 というか、この時代関係の人物の能力値を全般的に高くしたくて、編集合戦を繰り返していた 当該の人物が、最近まで間違いなく存在していたんだろ? しかし、その本人はコメント欄には根拠を示したことがない また、新時代は特に上げていないところを見ると、ただ光武帝好きが好悪で決めているだけだろ だとするなら、ただの好悪で、そこまで執念を燃やして数値を入れ続けてきた人物が、 数値が全般的にもっと低いのが適正というコメントを放置するはずがない そりゃ、後漢初期低能力or普通能力派が手を引くまで延々とあらゆる攻撃が繰り返されるだろうよ -- (名無しさん) 2015-03-28 16 45 15 つーか、光武帝の能力もだが、他の時代は大抵控えめに評価してる人が多いのにこの時代の評価は甘くないか 明の洪武帝とか永楽帝とか、業績に対してかなり控えめだぞ 統率一〇〇とかやりすぎやん。いにしえで持ってるの、無敗の白起と逸話と補正込みの韓信だぞ カイゴウとかに勝ち切れてない戦いもあるのにさ。三国志武将に対してつけるんなら、そうしたくなるのも分からんでも無いが -- (名無しさん) 2015-05-10 00 16 03 ↑ 光武帝(正確には呉漢や岑彭や耿弇や馮異だが)が隗囂に負けたのは、 兵站の不備による厭戦気分の蔓延が原因で、統率ではなく政治の問題だろう。 光武帝の配下には一人の蕭何もいなかった、というより、 自分以外の人間に権限を集中させることを光武帝が嫌ったんだろうな。 高祖「お前に附き従って戦う者の忠誠を疑うのか?」 光武帝「疑いはしない。頼らぬだけだ」 -- (名無しさん) 2015-05-11 00 12 42 確かに光武帝は一回だけ敗北を喫している。しかし、無敗でなければ、統率100たる資格無しというのであれば テムジンことチンギス・カンやナポレオンも無敗とは程遠いし、逆にダヴーは統率100でなければイケナイよね。 -- (名無しさん) 2015-05-12 06 58 16 無敗だから統率100とは限らないしな。 コーエー他作品だと武田信玄が統率100だが、信玄は別に無敗ではない というか無敗の人物なんているんか? 平和な時代で戦争する必要がなくて無敗というのはともかく -- (名無しさん) 2015-05-12 08 44 36 というか一番アレなのは光武帝じゃなくて家臣だと思う 全盛期を築いた君主が評価されるのはわからなくもないが その家臣がそこらの君主より強いのが一番信憑性に欠ける モンゴル、ヨーロッパ、唐や戦国も家臣の能力はそこまでインフレ激しくない まあ編集合戦にはしたくないので弄りはしないけど -- (名無しさん) 2015-05-12 08 56 44 確かに見てると一部過剰だなとは思うけど、そこらの君主より強いとか言ったら公式である三国志の武将からしてそうじゃね? それにいつの間に決まったかは知らんが、みんなの新武将では武力は部隊攻撃力で設定することになってるらしいし。 -- (名無しさん) 2015-05-13 02 44 02 まあ一騎打ち基準にすると大体の時代の大体の人物が能力つけられなくなるからなあ 公式の三国志ですらそうなので、そこは基準上仕方ない気はするが、 ただ「全盛期を演出した君主」よりも家臣が強いのには違和感覚えたんだよ 具体的には賈復とか耿弇、寇恂あたりとかね。 君主だからって有能とは限らないけど、一勢力にこれだけの人物が揃っているのはなあ・・・ 三国志で言えば曹操の配下に諸葛亮や周瑜陸遜クラスがうじゃうじゃいるような気がしてね 世界的な大帝国を築いたモンゴルより君主や家臣すら強いのはどうなのかなと -- (名無しさん) 2015-05-15 11 23 24 二十八将が強いのは確かだけど、その二十八将に大勝した鄧奉や隗囂は、二十八将に比べて明らかに評価が低いんだよな。 呉漢、賈復、耿弇、岑彭、馮異らの統武知の合計の平均が約280に対し、鄧奉は260、隗囂は241。 特技も呉漢が飛将or疾走、賈復が威風or闘神、耿弇が虚実or神算、岑彭が強行or神将、馮異が心攻or深謀に対し、鄧奉は怒髪、隗囂は繁殖と大きな差がある。 戦闘の勝敗だけで能力が決まるわけではないとはいえ、こんなにも勝者が敗者に劣ると確かに違和感があるな。 -- (名無しさん) 2015-05-16 19 41 10 結局、この時代の能力値について、質問者が行っている ①なぜ、この時代の光武帝勢力が世界帝国の唐、モンゴルや清より高く評価するのか ②なぜ、新時代の対抗勢力の能力値はさほど高くないのに、光武帝勢力はこれほど高いのか ③光武帝個人にしても、あくまで不振な後漢の創始者であり、配下の能力値が高い場合ここまで高く評価できるのか って質問にこの能力値を支持する側が個別の質問に答えるぐらいで、 質問者に全体的に納得できる回答を用意できないことが問題なんだな 代替的にどの程度下げて各自で登録って提案をすると、個別問題でけちをつけられるし 光武帝はネットで異常なまでに持ち上げられているし、たいした根拠もなく高い能力を維持したいだけの人がいるのが本当の原因じゃないかな 自分も、権限を集中して与えられず結果的に功績が少なくなった二十八将の上位が、 権限を与えられて大きな実績をあげた前漢や唐の人物に勝るのにも違和感バリバリだけどね -- (名無しさん) 2015-05-17 15 13 53 時代が違う武将の比較については、武成廟の十哲と七十二賢が参考になるかも知れない。 武成廟というのは太公望を祀った廟で、古代から唐代までの歴代の武臣の格付けが行われた(あくまでも“武臣”なので、王や皇帝は除外されている)。 それによると、十哲、つまりトップ10に選ばれたのは、 孫武、司馬穣苴、呉起、楽毅、白起、韓信、張良、諸葛亮、李靖、李勣の十名。 七十二賢に選ばれたのは、 後漢末からは皇甫嵩。 曹魏からは張遼、鄧艾。 孫呉からは周瑜、呂蒙、陸遜、陸抗。 蜀漢からは関羽、張飛。 西晋初期からは羊祜、杜預、王濬。 雲台二十八将からは鄧禹、呉漢、馮異、耿弇、寇恂、賈復(ちなみに馬援も七十二賢に選ばれている)。 ついでにキングダム勢からは廉頗、李牧、王翦が選出されている。 これを見ると、唐朝が公認する後漢~三国時代最強の武将(劉秀、曹操、司馬懿は除く)は、諸葛亮(演義補正なし)ということになる -- (名無しさん) 2015-05-18 00 49 31 “英名の有無に対する議論や、現状の能力値への感想すら、おそらくは議論をうみだしかねないので、 ↑4で、注意がなされているのであろうに。もう、スルーするべきだろ” このような注意がされたので、最後のコメント以降は時折訪れた時にコメントが増えていても自重しておりました。 しかし、一向に上記の注意で書かれているようなコメントが途絶える気配がありませんし、 レスする際に指定がされてないだけで実質議論としか思えないコメントの応酬が多々見受けられます。 皆様がルールを遵守されないのであれば、私もそのようにさせて頂いてもよいということでしょうか。 -- (史記) 2015-05-18 06 29 30 ↑2 諸葛亮最強説はともかく、↑5の「周瑜陸遜クラスがうじゃうじゃいる」というのは、唐の公式見解的には正しいのか ↑ 個人的に他の人の話を聞くのは楽しいし、勉強にもなると思うので、長くなりすぎない程度にお願いします -- (名無しさん) 2015-05-18 18 08 36 ↑3同じ唐代に選ばれた名将凡六十四人では光武帝配下では鄧禹 賈復 寇恂 馬援の4人だけだったからね 参考にするのはよいけど、選定基準が曖昧なのも事実 ↑2あなたは特定の人の意見に独自見解を述べた上に挑発して反論を重ねさせ、本題を外れた議論そのものに持っていったからね 自分は、あなたと議論をしたい、して欲しいと思わないので、少なくとも指定しての特定への反論レスはやめて欲しいな どうせ編集できないし、現状の能力値にどう思うか、その根拠はなぜかぐらいはいいと思うけど -- (名無しさん) 2015-05-18 22 34 29 もし仮に武成廟の格付けを基準に二十八将の能力を決めるとしたら、 一つの能力値は100に届かず、統武知の合計は最大でも270前後、 特技は覇王だけは厳禁、神算も十哲の専売特許だから駄目、飛将と神将と闘神は許される、という感じだろうか? 今と比べると少しだけ弱体化するけど、それでも凄まじい強さだな。 ↑ それは片側だけ。もう片側には呉漢・馮異・耿弇の名前がある。 というか、名将凡六十四人図形のメンバーは、武成廟の七十二賢と同じだ。 唯一、唐の張斉丘の名が七十二賢では削られ、代わりに安史の乱で活躍した李光弼が入れられているが、 これは名将凡六十四人よりも七十二賢の人選の方が正しいだろう。 -- (名無しさん) 2015-05-19 00 04 59 ↑1>それは片側だけ。もう片側には呉漢・馮異・耿弇の名前がある。 それは間違い、訂正すまんね >今と比べると少しだけ弱体化するけど、それでも凄まじい強さだな。 その程度なら、↑5で違和感を述べた自分も納得かな 権限を大きく与えられて応えた楽毅、白起、韓信、李靖、李勣との差も説明できるしね、十哲は各自で上げればいいな 自分なら光武帝の能力値が高いことと、対外で結果が出てないから、もう少し低くして騎兵能力を少し下げるけど 後、新は大勢力で敗れているから仕方ないとして、新代の群雄の能力値は各自で上げてしまえば問題ないと思う でも、後漢書の記述が群雄に厳しすぎるから、ここで引っ張られるんだよね -- (↑2) 2015-05-19 00 32 15 一人二人程度の方が連投しているのか、コメント数と同じだけの方々が参加しておられるのかは定かではありませんが、注意する人がおらず盛り上がっているなら能力変更及び追加以外のローカルルールは守らなくてもよいということですね、了解しました。 取り敢えず、先に前提として私個人もこのページの全ての能力が妥当だとは思えないということを申し上げておきます。その上で意見を言わせて頂くと、以前にも申し上げた通りこのページの能力を下げるよりも唐・モンゴルなどの能力を上げて登録するべきであると思います。 そして、その上で後漢ページであからさまにおかしい能力(例……呉漢の魅力・賈復の統率・耿弇、岑彭の政治など)を下げるべきであると思います。理由は単純明快で↑の方で他の方も少し触れておられますが、 “みんなの新武将でのルールである武力=部隊攻撃力であることを維持する”“公式設定である三国志の武将達を基準として事績を比較した上で能力を決定する”この二つの条件を両立させようとすると 後漢にしろ、唐・モンゴルにしろ一部の一線級の武将達は統武知の合計値が280近くになってしまいがちだからです。 というか前者の条件はいつ決まったのか知りませんが、私の気のせいでなければ変更禁止のルール成立以前に決まった能力では後漢や三英傑、李靖など一部の武将にしか適用されてないような……。 -- (史記) 2015-05-19 21 07 53 この件に関する私の意見は上記の通りです。それを踏まえた上でいくつかのコメントに言及させて頂きます。まず後世の評価を参考にする件についてですが、 これは個人的にはあまりオススメ出来ません。というのも評価した人物によってかなり評価がマチマチで、時として矛盾するものも少なくないからです。 例えば、以前例の彼と私が議論した際に高祖と光武帝のどちらが優秀かというこのにちらっと触れましたが、これに関しても後世に評価した人物毎にかなり異なります。 最も分かり易いものとして五代十国の石勒は「高祖に会えば従うしかないが、光武帝とは覇を競うことになるだろう」と述べ、逆に唐太宗・李世民は李靖と共に『李衛公問対』にて 「真に将の将たるは光武帝であり、高祖や項羽はこれに及ばぬ」と石勒とは正反対の意見を述べており、早速人物ごとに評価が矛盾しています。こういった場合より評価の高い太宗 や李靖の評価を採用すべきだと個人的には思いますが、それも「時代の近い石勒の方が精確に事績が伝わっていたかもしれない・能力で上回っている方が人物眼まで上とは限らない」 このように反論しようとすれば、いくらでも反論することが出来る以上、結局どちらを採用するかは個々人の裁量次第ということになってしまうからです。 上に挙げられている十哲と七十二賢に関しても同様で、そもそもランキングそのものが非常に矛盾したものとなっています。というのもこの通りに受け取れば、王や帝を除いて 諸葛亮が後漢最高の軍人ということになりますが、以前私や他の方々が述べている通り諸葛亮自身が光武帝の臣下はいずれも高祖の臣下(三傑含む)に劣りはしないと述べており (私が再三に亘って述べている意見も、この諸葛亮の意見に諸々の観点からいくつかの要素を付け加えたものに過ぎない) 十哲に数えられた諸葛亮が十哲を否定しているという、世にも訳の分からない状態になっている訳です(おそらく徳宗と周囲の人物がよく調べもせずに好みで決めたのだろう)。 -- (史記) 2015-05-19 22 01 29 ↑(書き忘れ)その証左として、事績のはっきりしない孫武・兵を率いたことすら少ない張良らが李靖らと並べられた挙句、 後代には武勇伝が乏しいからという驚きの理由で白起が七十二賢に降格させられています(呉起も同時に降格させられている)。 また↑9の方(何だか例の彼とよく似た文体だけれども)を含めて、似たようなことを言ってらっしゃる方々に二言三言言わせて貰えば、これだけ反論する人が出たり(私含む) すんなり意見が通らないのは皆さんの意見の提示の仕方や論拠が非常に曖昧であることも大きな原因と言えるのでは無いでしょうか?例の彼が最初に提示した無茶苦茶な意見も そうですし、論拠に関しても 後漢書で光武帝勢力が盛られて記述されている、新代の群雄が正史で弱いから→宮崎市定の経済史学や陳舜臣の社会史学や文化史学を能力議論に持ち込む →対外戦争における成果の有無が重要→世界帝国であったか否か→大きな権限を与えられていたのかどうか……←今ここ。 このように論拠とするものが二転三転四転五転と変わっている上にそれぞれの内容があまりに曖昧で適当過ぎます。以前事実を提示したものや反論したものは省略しますが 新しく提示された“世界帝国であるか否か”“大きな権限を与えられていたのかどうか”という二つの論の欠陥を簡単に指摘させて頂きますと “世界帝国であるか否か”←そもそも世界史の用語としての世界帝国では前漢・後漢も世界帝国に定義されます。また代表として挙げられているいくつかの国の中でモンゴル帝国と それ以外の帝国の差が激しすぎます。これを論拠とするなら唐・清はモンゴル帝国より低能力にしなければなりませんし、時代性による差異を否定されるみなさんの意見に従えば 殷~秦以前の国々は前漢・後漢より低評価でなければならないということになりますね。 “大きな権限を与えられていたのかどうか”←これもかなり曖昧な認識で仰られているのではないでしょうか?率直に言ってかなりナンセンスな意見だと言わざるを得ません。 というのもみなさんが挙げられた人物の内、大半の人物は大きな兵力を与えられていただけで、他時代と比較して大きな権限までは与えられていないからです。 見た限り楽毅、白起、韓信、李靖、李勣らが挙げられていますが、この中で軍事における処罰や戦術の自由を許す専断権以外の権限を与えられたのは五ヶ国連合軍総帥時の楽毅と 突厥征伐で一度大勝した後の李靖だけです(両名とも特定の国への外交権)。このように一時的に権限を与えられていたのみで、他三名は軍事的専断権以外に与えられたことは無く 例外として韓信が何度か勝手に判断を行っていますが、その度に劉邦の怒りを買い、後の粛清の遠因となってしまいます。 -- (史記) 2015-05-19 23 35 01 武成廟について最初にコメントした者です。 ↑ 別の人が「参考にするのはよいけど、選定基準が曖昧なのも事実」とコメントしているように、 自分も武成廟の格付けは絶対的な基準にはならないだろうし、そもそも絶対的な基準など存在するわけがないと考えています。 ただ、春秋戦国から唐代までの武将を一堂に並べた格付け表というのは、それ自体はあまり例がない貴重なものであり、 個々人が自らの裁量で新武将を作る際の叩き台としては、かなり有用なのではないか、と考えて提示しました。 結果的には、武成廟の格付けを二十八将に当て嵌めても、統武知の合計が少し下がる程度で今と大して変わらない、ということになったようですが、 このこと自体はあなたの「このページの能力を下げるよりも唐・モンゴルなどの能力を上げて登録するべきである」という主張を補強するものであり、 またあなたと意見が対立している↑4の人も「その程度なら、↑5で違和感を述べた自分も納得かな」と述べておられるので、 武成廟の格付けを基準にすることは、新武将を作成する上で有効である、と現時点では考えています -- (↑9) 2015-05-20 01 51 53 “みんなの新武将でのルールである武力=部隊攻撃力であることを維持する” これは半分正しくて半分間違いだぞ みんなの新武将の武力も、公式が定める基準に準拠している http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1598.html#id_eaa35867 ここで注意しなくてはいけないのは「武力は一騎打ちの強弱、『だけ』で決まるものではない」ということ。 三国志でも一騎打ちやっていない武将なぞ山ほどいるわけで、じゃあそいつらはどうやって武力を定めているのか?という話に行きつく。 そこから、一騎打ちをしていない武将における武力の基準が決まっているから、これは「みんなの新武将だけの独自ルール」ではない。 -- (名無しさん) 2015-05-20 01 52 54 ↑2 曖昧だといったのは自分だけど、武成廟の格付けは参考としてあなたの言うとおり新武将を作成する上で有用だと思う まず、正史の記載だから実際に格付けを行った信憑性は高いし、現代人としては納得しがたい基準は含まれるだろうけど 王朝の大事な行事がいい加減に決めるはずもないだろう ↑4~7は、人の意見をやたら評論しているけど、何を根拠に、徳宗と周囲の人物がいい加減であると思い込んで 後世の人の仮託の疑いがある『金楼子』や『李衛公問対』の言葉を正史の記載を対等と決めつけているの? 孫武、張良が十哲なのは、司馬穰苴が入っていることが分かる通り、現代日本人のいう「名将」と違う感覚で兵法や戦略が高く評価されたんだろ 後、自分も武成廟で初歩的な勘違いをしたけど、石勒は五代十国じゃなくて五胡十六国なんだけど -- (↑6) 2015-05-20 23 37 35 おっと間違い ↑の ↑4~7→↑3~6 名前は↑6→↑7ね すまんね -- (↑8) 2015-05-20 23 41 06 ↑3 私はその半分正しい点について言及してる訳です。あなたがリンクを載せているのは飽く迄ゲーム内で武力が作用する項目であって コーエイが武力を定める基準としたものでは無いでしょう。 少なくともコーエイが武力を定める際、部隊攻撃力より個人的武勇を重視して決めたであろうことは(そうでないと説明のつかない武将が 大勢いる以上)あなたも否定はされないだろうと思います。 ↑4 みんなの新武将において、武成廟を基準とすることは個人的に3つの問題があると思います。まず一つは十哲と七十二賢は公式設定である 三国志武将といにしえ武将を含んでいますが、この統武知の合計値が必ずしも十哲>七十二賢ではなく、公式設定と全くそぐわないこと。 二つ目はあなた自身も認められる通り、基準があまりに曖昧で、現代の我々が用いる判断基準としては適していないこと。 三つ目はこのサイトを利用しているのは必ずしも歴史に関して知識豊富な方とは限らないこと。 特に問題なのは三つ目で、(あなたや私を含め)ここで議論している人達のようにある程度の知識を持っておられる方々にとっては 武成廟の何がおかしいのか一目瞭然ですが、そうでない方々にとっては何がどうおかしいのかは理解出来るものではないでしょう。 利用する人達の知識量は千差万別ですし、このサイトは必ずしも中国史マニアのためだけにある訳ではありません。 このような環境下で一定以上の精確性に欠いたものを判断基準として提示することは(ただでさえ滅茶苦茶なみんなの新武将で) 更なる混乱を招くだけなのではないかと思います。 -- (名無しさん) 2015-05-24 07 14 32 ↑5(書き忘れ)“結果的には、武成廟の格付けを二十八将に当て嵌めても、統武知の合計が少し下がる程度で今と大して変わらない” “またあなたと意見が対立している↑4の人も「その程度なら、↑5で違和感を述べた自分も納得かな」と述べておられるので” あなたと彼とでかなり認識に開きがあるのではないでしょうか?もし、そうでないとするなら 『反論の長さを見るに作った本人なんじゃね? 第三者からすれば能力の多少の違いとかどうでもいいし』 『一時期劉秀の武力が96と92を行ったり来たりしたように 一部の編集者にとっては数値1の差も重要だが』 このように多少の能力の違いくらいで云々と散々私に発された罵倒とレッテル貼りは一体何だったというのでしょう。 ↑3 “石勒は五代十国じゃなくて五胡十六国なんだけど”←これは稚拙な間違いを失礼致しました。 さて話を戻しますが、まず提示したご本人がその基準としての曖昧さを承知されておられるのに、ここで提示されるまで武成廟に関して 詳しく知らなかったご様子であり、且つ“曖昧だ”と指摘した御本人が、今になってその有用性や精確性を擁護されるというのは、滅茶苦茶な主張過ぎると思いますが? “現代日本人のいう「名将」と違う感覚で兵法や戦略が高く評価されたんだろ”←こう仰っておられますが、現代日本人の感覚で設定されている 『みんなの新武将』において、現代日本人と違う感覚で評価されたものを判断基準としようというのは、これ又何ともおかしな主張に聞こえます。 もう少し、ご自身の中でお考えを整理されてはいかがでしょうか? 言っておられることがあまりに滅茶苦茶過ぎて“後漢時代を否定出来れば正確性はどうでもよい”このように受け取られかねませんよ? “後世の人の仮託の疑いがある『金楼子』や『李衛公問対』の言葉を正史の記載を対等と決めつけているの? ”←正史として評価の高い後漢書を “盛っている”等と主張する人物の発言とは俄かに信じがたいものがありますね。『李衛公問対』は兎も角、『金楼子』クラスの史料まで仮託を疑い始めたら 史書において信用出来る発言など、皇帝の発言以外殆ど無くなってしまうと思いますが? また『李衛公問対』に関しても近現代以降、いくつかの新発見からその史料としての評価を高めており、このようなネット上のサイトで用いるには充分だと思います。 -- (名無しさん) 2015-05-24 08 15 26 劉禅「そう言えば今度入った料理人が凄腕なんだってさ………………ちょっと行ってくる!あぁ、みんなは適当に解散しといて」 -- (どちらもいい加減に汁) 2015-05-24 09 34 23 劉禅「そう言えば今度入った女官が かなり可愛いんだってさ………………ちょっと行ってくる!あぁ、みんなは適当に解散しといて」 -- (キリがないし) 2015-05-24 09 35 29 劉禅「えーと……よくわからないけどだめっぽい気がするので終わりにしよう」 -- (正直言って) 2015-05-24 09 36 04 劉禅「はぁ……なんか疲れた。終わりにしよっと」 -- (どうでもいい) 2015-05-24 09 36 42 基本的に、新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 新武将の能力値や適性の 決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物 であり、 その正誤も、各人それぞれ異なります。 -- (名無しさん) 2015-05-24 09 37 18 当然、 万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。 (能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。) -- (名無しさん) 2014-08-12 04 32 30 -- (名無しさん) 2015-05-24 09 37 45 可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には 各プレイヤーの裁量次第 であることをお忘れなきようお願い致します。 理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。 (過去に何度も編集合戦が起きています。) -- (名無しさん) 2015-05-24 09 38 00 どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、 お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する ことをおススメします。 -- (名無しさん) 2015-05-24 09 38 26 以上、注意点より抜粋 -- (名無しさん) 2015-05-24 09 38 58 どちらもローカルルールに違反しており 攻略にも全く関係ないので流させて頂きました。 さて、どちらが大人げない方々かな。 -- (名無しさん) 2015-05-24 09 44 07 どうも彼(こう書くとパワパフのカレやハリポタのヴォルデモート卿みたいだ)と史記の人が直に議論すると場が荒れるな。 こんなことを言うのは何だが、今後、彼と史記の人は直にコメントを交わさない方がよいと思う。 -- (名無しさん) 2015-05-24 12 10 04 まああまり白熱しすぎるのはよくないね -- (名無しさん) 2015-05-24 12 30 19 ↑2の方へ 私としては一応彼ら二人だけでなく、ここで能力値の議論をしていた人達全員に対しての注意を込めて流させて頂いたつもりです。 ただ彼ら二人が議論しない方が良いという意見には同意。史記氏は他人の意見を否定し過ぎて他の人へ慇懃無礼な印象を与えているし、 彼は彼で、以前は講談や野史にも注目すべきというようなことを言ってるのに、今度は正史が絶対というような以前と正反対のことを言ってる。 正直、彼らが議論すれば何回やっても場が荒れることになると思う。 -- (↑3) 2015-05-24 23 50 30 武成廟の人が二度目にコメントした時は、両者の和解の可能性が見えた気がしたんだけどな -- (名無しさん) 2015-05-25 00 42 40 よそで悪口を書かれているのを知って、読み返してみたけど さすがに、石勒を五代十国時代の人と堂々と勘違いしている人とは議論は無意味だろうしね タイプミスってのはありえないだろうし ↑2もわざわざ否定するだけしてコメント禁止にする態度がいやな感じだし ↑あちらさんは、なんでもいいから、荒れさせてコメント禁止にすればよかっただけじゃね? -- (名無しさん) 2015-08-29 23 05 28 ↑1 何のこっちゃと思ってググってみたら2chの後漢スレに辿り着いて爆笑させてもらったわwww ごきげんよう前スレの964君wもしくはQoMmriaP0君wここ数年お前ほど痛くて粘着質なアンチ久々に見たよw 今時ガノタやアイドルオタのアンチだって、ここまで拗らせてるのは珍しいぞwww貴重な休日に笑いを提供してくれてサンクスw -- (名無しさん) 2015-08-30 12 02 53 ここは2chではないので・・・・ 前にも「別の場所で暴れていたからこいつの言い分はナシ!」みたいなこと 言ってた方がいましたけど、正直よそはよそ、ここはここですから そういうのはそれこそ実際の2chとかでやってもらいたいものですな -- (名無しさん) 2015-08-30 22 41 18 言ってた方がいましたけど → 議論の相手の方に言ってた方がいましたけど -- (名無しさん) 2015-08-30 22 41 58 まあ、蒸し返すのもなんだけど、正直ここが揉めまくる全ての原因はこの 新 ページにある気もするんだよなあ 一流、超一流揃いの武将達が破ったライバル勢力にしてはあまりに雑魚。 後漢や三国の英傑はおろか、成帝様の軍ですら勝てそうな弱さだ。 項羽と劉邦、源氏と平家、曹操と劉備、秀吉と家康、ハンニバルとスキピオ、 評価される英傑と言うのは強力な群雄と並び、あるいはそれを越えて超世の英傑となるというのに ここまで弱いと、それを破った勢力の実力が疑われるのも無理はない -- (名無しさん) 2015-10-28 19 05 43 ↑それが根本なのに、色々まぜかえされたわけど。かといって根拠もなく新ページを高能力にしてもこまるしな このコメント欄は、これでいいんじゃね?能力値変更できない以上、もうどうしようもないし。 人格攻撃や延々と抗弁する人間がいる以上、荒れたら禁止ルールじゃ決着つかない この平均的に異様に高い能力値を支持する人もいれば、変更を求める人もいる。さすがにどっちも単独ではないだろう。 このページを見た人がコメントを見て、なんとなく異論があることを知ればそれで充分 -- (名無しさん) 2016-02-15 20 13 07 史記って人が今時珍しいくらい痛々しいなと思いました。 -- (名無しさん) 2016-03-04 00 39 43 その勢力の信者が偏ったバイアスで能力設定するとこうなるといういい例だな 有能英傑最強のオンパレードで、君主も家臣も同じような無個性能力値になる -- (名無しさん) 2016-03-08 11 03 03 唐・明・清辺りが遠慮してる分余計に酷さが目立つ -- (名無しさん) 2016-03-08 19 27 28 劉禅「そう言えば今度入った料理人が凄腕なんだってさ………………ちょっと行ってくる!あぁ、みんなは適当に解散しといて」 -- (名無しさん) 2016-03-08 20 27 58 劉禅「そう言えば今度入った女官が かなり可愛いんだってさ………………ちょっと行ってくる!あぁ、みんなは適当に解散しといて」 -- (名無しさん) 2016-03-08 20 28 34 劉禅「えーと……よくわからないけどだめっぽい気がするので終わりにしよう」 -- (名無しさん) 2016-03-08 20 28 54 劉禅「はぁ……なんか疲れた。終わりにしよっと」 -- (名無しさん) 2016-03-08 20 29 16 基本的に、新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 新武将の能力値や適性の 決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物 であり、 その正誤も、各人それぞれ異なります。 -- (名無しさん) 2016-03-08 20 29 35 当然、 万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。 (能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。) -- (名無しさん) 2016-03-08 20 29 51 可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には 各プレイヤーの裁量次第 であることをお忘れなきようお願い致します。 理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。 -- (名無しさん) 2016-03-08 20 30 11 どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、 お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する ことをおススメします。 -- (名無しさん) 2016-03-08 20 30 33 以上、注意点より抜粋 -- (名無しさん) 2016-03-08 20 30 55 荒れかねないコメントが多数投稿されるようになったので、再度流させて頂きました。 2chでの争いをこちらにまで持ち込んだり、お互いに人格攻撃しあったり、 極少数の方々がやってるのでしょうが、いい加減にして頂きたいものですね。 -- (2015-05-24 23 50 30) 2016-03-08 20 36 17 異論が噴出するような能力で固定されてんだから荒れるのもやむなし いっそのことコメントフォーム撤去でもするか? -- (名無しさん) 2016-03-09 00 20 55 本当にこいつら、いつまで幼稚なことやってんだろうな。三英傑のページですら最近は荒らしなんていないのにねえ。 -- (名無しさん) 2016-03-09 00 45 25 いっそのこと能力議論版を建てる -- (名無しさん) 2016-03-09 11 58 58 三英傑のページすらって・・・・ここは三英傑クラスの武将が山程いるから言われるんじゃねーの 確かに向こうも褒められたもんじゃないけど、はっきり言ってここよりはマシだぞ -- (名無しさん) 2016-03-09 13 19 31 2016-03-09 11 58 58氏 能力値議論板だと正直意味はないと思われ。 というのも能力値だけでなく適正や特性、成長速度で実際の武将の強さは決まる 能力値はただのマスクデータにすぎないからそれだけ議論しても意味はない 極論、成長「開眼」の武将は実際の強さがマスクデータより大幅に高くなる -- (名無しさん) 2016-03-09 13 24 45 後漢どうこうより、単純に「メアリー・スー」化してるのが一番酷いんだよなあ すなわち、後漢の劉秀、および彼に味方協力した者たちは おしなべて能力がインフレを起こすほど高く、他の時代の君主英雄クラスがゴロゴロいるし、 逆に 新 に代表するように 後漢の光武帝ないし彼の味方に抗う者は全て矮小化されて能力値が低く、特技も不遇。 「ぼくのかんがえたさいきょうのひーろー」と「そんなひーろーにあらがうおろかであわれなぞくぶつたち」になっているのが 一番の原因であって、もうそれが解消することができない以上延々と言われると思うけどな 能力値だけなら後漢に匹敵する人物もいるが、彼らに抵抗し敵対した連中も同じくらい高い評価を貰ってるわけで -- (名無しさん) 2016-03-09 14 57 29 人格攻撃や特定個人への誹謗中傷を擁護派・批判派ともにしている時点で 能力値がどうとかいう以前の問題です。ここ一年近くのコメントを見ていても 能力値の是非よりも相手を攻撃することが目的になりつつあるようにしか見えません 仮にそうでないとしても、現状のルールではどちらのコメントも不毛でしかありませんし みんなの新武将への不満があるのはあなた達だけではなく、このページだけでもありません あなた達と違って迷惑をかけないように我慢して、ルールを守って下さってるだけです どうしても議論したいのなら、他の方も言われているように2chなど他所でご自由にして下さい 元々そちらから流れて来られた方々もいらっしゃるようですし、その方があなた達も思う存分出来るでしょう -- (2015-05-24 23 50 30) 2016-03-09 20 12 35 人格攻撃をやるつもりはないし、編集改竄をするつもりはないが そういう問題が健在なままである、というのは残しておくべきじゃないか? ましてや他のページを出して「後漢よりあっちの方が酷い」だの言うのは問題外だろう? それすら嫌ならもうコメント欄を封鎖した方がいい 「朝鮮韓国」のページには確かコメント欄なかったはず -- (名無しさん) 2016-03-09 20 21 27 確かにここはコメント欄をなくした方がよさそう。2011年からあるにも関わらず5年経って流れがよくなる気配が一向になかった。それこそ一時期揉めていたページとかでもここまで異論、批判が出続けるのは皆無で、もう明らかに他のページとは異なる状況だろう。少人数がずーっと粘着してるにしても非現実的すぎるし、それだけ他のページとは違う「何か」がここにはあるということ -- (名無しさん) 2016-03-09 20 34 03
https://w.atwiki.jp/teikokuss/pages/1456.html
闇の零 (4) 家の影に身を寄せ、ルキアニスは屋根の向こうをうかがう。 帝都は夜を知らない街だけれど、あちこちの灯明はすでに消されて、残された光と星明り、そして機装甲の魔道の双眸が頼りだ。まっすぐな道は、荷馬車が詰まらないようにするためだけれど、その道も闇に沈んでいる。 もともとは運河の倉庫の一つで、倉庫一つ一つに番がいるのだというが、その一人一人を内務省は訪れて、倉庫から立ち退かせている。残っているのは、これから向かう先の目標だけだという。 目標は、機神格とだけ知らされていた。初めは黒騎士小隊が主に相対するのだと思っていたから、そうなのだくらいだったのだけれど、今はルキアニスたち自身が相対せねばならない。 だからマルクスが土の術で、それが起き上がる前にうずめる役で、シニス騎士長とともに表の道を行く。ルキアニスとサイモス騎士長は裏道から抑える。 上手くいってくれるといいけれど、そうルキアニスは思う。 合図はぎりぎりまで近づいてる内務省の者が、知らせの花火を焚いたときか、港の方の連隊長たちが知らせの花火を打ち上げた時。いずれもまだ見えない。 こんなことになるとは思ってもみなかった。さっきまで毛布にくるまって寝てた。連隊の皆はどうしてるだろう。大門前広場あたりだろうか。あそこの帝都衛士もとんだとばっちりだっただろうなと思う。それから、あそこでの不思議な感じ。あれは何だったのだろう。 『前方注意』 不意にサイモス騎士長の声が魔道で響く。 『花火だ。確認せよ!』 その通りだった。石畳の道に、赤い花火が投げ出されてくるくる回りながら燃え、煙を噴き出している。 『突入信号と認識する』 サイモス騎士長が言う。すぐにシニス騎士長の声が応じる。 『こちら側にも花火一を確認。突入指示信号と認識する。我が方の突入信号上げ、突入信号上げ。一班突入する』 『突入信号上げ。二班突入する』 その二班とはルキアニスたちのことだ。通りの前側のサイモス機が立ち上がり、駆けだす。右手に携えた大斧を、右肩に負うようにして。ルキアニスも機を立ち上がらせ、そのあとを追った。左手見やると倉庫と倉庫の隙間で、駆ける白の六の姿が見え隠れする。 ルキアニスは魔力を練る。練るとしか言いようがない。右手の平に力を集めて、それが現世に顕現するように、練る。前を行くサイモス機が石畳を踏みしめる。火花が散って、さらに転がっていた花火の知らせを蹴り飛ばす。行き脚を殺したサイモス機は、わずかに態勢を立て直し、それから裏口を蹴った。石積みの壁ごと内側に吹き飛んで、ごっそり穴が開く。だがまだ中は見えない。ルキアニスも地を踏んで行き脚を殺す。滑りかかったまま身構える。右の掌に魔力の炎が膨らむ。 「!」 聞こえた大きな音は、表の道から。マルクス達が表の大扉を蹴破った音だ。 「マルクス!」 待ちきれずルキアニスは叫ぶ。まだ応答はない。敵がいるのか、いないのかも。 「マルクス!どうしたの!」 『確認中だ』 少しして、わりとのんびりとマルクスの応えが届く。 『敵は無し。繰り返す、敵は無し。内務省班を突入させる。そちらも頼む』 ルキアニスも拍子抜けした気持ちだ。右手の魔力の術を解く。そうしながら機の胎外へ向けて言った。 「内務省班、突入、突入、突入」 防具と抜身の剣を持った内務省班が、一列になって壁際を進み、蹴り開けられた破孔を前に止まる。それから流れるように倉庫に突入してゆく。 頭上に、今更のように突入信号の花火が尾を引いて飛んで行く。これで港のほうにも、こちらが突入したことが伝わるはずだ。その間に内務省突入班の第二梯団の列が壁沿いに進んでくる。同じく防具に身を固め、こちらは捕縛のための棒の獲物を持っている。うかつに入らないのは、味方同士の切りあいにならないためだ。まだ中から逃げ出してくるものはいない。敵も、味方も。それらは道を封じた別班が抑えることになっている。何が起きているのか、わからないまま時がじりじりと流れてゆく。 『機装甲班聞こえるか。こちら突入隊長。内部を掌握した。機体は見られない。警戒解除。内部に機体は見られない。内部に機体は見られない』 「どういうこと?」 『こちらは抜け殻さ』 マルクスが応える。 『あるとしたら港だ。もうどちらにも無いかもな』 何が起きてるのか、さっぱりわからない。そもそも内務省と一緒に、帝都の中で、機神格の何かと戦うかもしれないということから、訳が分からない。 そもそもそれは何だったのだろう。 機神格のものが、あるのかないのかわからない。そんなことで大丈夫なのだろうか。 もちろん、大丈夫などではなかった。 「・・・・・・」 どこをどう間違えればそうなるのだろうと、ルキアニスは戸惑うしかなかった。 まず、駐屯地に引き上げることができなかった。 一旦、もとの待機場所へ戻って休憩した後、連隊長に移動を命じられた。 追従せよ、と言われて、歩速移動しながら途中で気づいた。進む先の門は、外へ向かう門ではない。 帝都の中にあって、さらにあんな大きな門があるところは一つしかない。 宮城だ。皇帝陛下のおわすお城だ。ルキアニスが驚き臆したところで、先を行く連隊長機の脚は緩まない。そもそも待ってくださいなどといえば、何が起きたのか、どうかしたのかという話になる。たとえば、宮城に行くなんて聞いていませんなどと迂闊に言ったとしても、ではこれより宮城に向かうといわれるのがせいぜいだ。いや、それさえ言われないかもしれない。 隊列は少しも緩まず進み続ける。 門前の橋には、袂に灯明が焚かれ、警衛の姿があるけれど、まったく止めることもない。石橋を機装甲のまま渡り、そして城門をくぐる。 まったくなにごともなく。帝都に入った時のような悶着などひとつもなく。 そこが皇帝陛下のおわす宮城だった。 あたりを見回すゆとりなどない。ただ命じられるままに降機しただけだ。 連隊長は、先任騎士、つまり軍旗小隊のサイモス騎士長に任せ、迎えの皇宮衛士とともにどこかへ行ってしまった。任せられたサイモス騎士長も、どうすりゃいいのさ、と口に出す始末で、とりあえず機側待機を命じられた。われ関せずなのは黒騎士小隊だけで、たぶんあの人たちはどこででも同じなのだろう。それに、建制の建前では黒騎士は黒騎士大隊からほかの部隊へ臨時配属されている。先任順でも、指揮官序列でも部隊指揮を継承するのは最後に近い。しかし黒騎士たちにはそれら指揮系統上とは違う提言の権限があって、配属先の指揮官にいつでも戦術上の提言をしてよいことになっている。今のようなときは、本当にわれ関せず、だ。彼らは最も厳しい場所に送り込まれる。宮城くらいどうということはないのだろう。 「ねえ、マルクス」 ルキアニスは隣の機で、脚に寄りかかっているマルクスへと問うた。マルクスも宮城くらいどうってことない、って顔をしている。 「ここ、お城でいいんだよね?」 「たぶん三の丸だ。ここまでなら諸侯の家臣格でも入れる。控えどころだな。幕舎を張って主を待つところだ」 あたりはまだ暗く、よくはうかがえない。入ってきた門のほかに、もう一つ門があって、いずれも篝火が焚かれ、開いたままだ。そちらの門へと、連隊長は消えていった。左右には城壁が張り出し、ぐるっとめぐっているらしい。ところどころ城壁の上に灯明が見える。 足元は石畳だ。よく見ると何列か、何個かに一か所、小さく石の欠けているところがある。よく見ると鉄杭が打ち込まれていた。それが幕舎を張るためのものなのだろう。マルクスは言う。 「昔は、参内する諸侯が幕舎のきらびやかさを競った、ってさ。今は諸侯の話は元老院とか、枢密院とかになってるから、ここは、今、どんな風に使ってるんだろうな」 問われてもルキアニスにはわからない。だから問い返す。 「皇帝陛下には、どれくらい近いの?」 「遠い。全然遠い。諸侯家臣が入れるところだぞ」 「わかんないよ」 「まあ、そりゃそうだろうな」 己の機の脚に寄りかかったままマルクスは応じる。 「俺たちを入れて待たせるには都合がいいんだろうが。こんなところ、ふつうは入れないよな。皇族部隊だからか」 そんなことを聞かれてもルキアニスには答えようもない。なのにマルクスは自身でさらっと答えを言い出す。 「次があるからっぽいな。帝都の外に戻すにはまだ早いんだ。たぶんな」 怖いことをマルクスは平気で続ける。 「皇帝陛下には、黒の龍神の守りがあるとして、俺たちみたいな一般部隊が、内務省部隊と一緒に動いているんだ。動けるところが他にないのか」 「憶測はそこまでにしておけよ」 シニス騎士長が低く言う。はい、とマルクスは口をつぐむ。ルキアニスは息をつく。空はまだ暗い。明るい星がいくつも見える。そういえば今何刻なんだろうとも思う。寝入りばなを起こされて、そのままここまで来たけれど、気が抜けると急に眠くなる。警戒配置ではないけれど、機側待機だから眠り込んでしまうのは拙い。いつもだったらお茶の一杯くらい飲めるのだけれど、行軍装具を携行してないから、それも無い。そういえば憚りはどうすればいいんだろう。宮城でその場に、なんて絶対にない。そう思うと、なんだか行きたい気がしてくる。冷たい機の脚に背を預けたまま、石畳に座り込む。うとうとしかけて、はっとして、二度繰り返して、立つことにした。 そのとき皆が動いたのもわかった。二つ目の門、たぶん城内に続く方から人影が出てくる。門を照らす篝火を背に、長い影が薄く石畳に揺れる。後ろにいるのはたぶん皇宮衛士、そして前を歩く姿がシルディール連隊長なのはすぐにわかった。 「集合」 駆け集まると、連隊長は皆を見まわす。 「ご苦労。夜明け前に再出撃する。全機をもっての単一目標への攻撃を支援する。攻撃実施は内務省部隊が行い、我々はその一般支援にあたる。まずは行動計画説明を行う。連隊長に続け」 向かったのはこの石畳の続く先だった。 城内へ続く門の近くに、石造りの建物がある、その中だ。マルクスは、詰所か、とつぶやいた。入ってすぐの広間にはおなじみの机があり、地図が広げてある。いつも通りと言っていいくらいだ。ほかに良い打ち合わせのやり方があるかどうかは知らないけれど。すでに何人もの人がいたけれど、帝國軍の軍装ではない。内務省だ。 「これではない。これか」 連隊長が机の地図をめくる。 ルキアニスたちも地図を囲む。示されたところは、まだ城壁の中だ。見覚えのある通りの名がある。一度行ったことのあるところだ。 アル・カディアから帰ってきた後、手紙を届けに。アリア姫とともにアル・カディアに行った近衛騎士デラムィウスからの手紙を、だ。ルキアニスはマルクスを伺いみる。彼は面に何も浮かべていなかった。ただ黙って聞いている。連隊長は続ける。 「これを目標一と呼称する。連隊の任務は、機神格の敵が隠匿されていた時に備えての配置だ。目標近辺は狭隘なため、隊を三つに分け、かついずれも要があるまでは目標に近接しない」 近衛騎士宅は、貴族の邸宅とは全く違う。貴族の家がこの帝都でどれくらい広いかというと、憚りだけでルキアニスの住んでいた家くらいの広さがある、というのはそれほど冗句でもない。近衛騎士宅はずっと普通だ。 連隊長が示す配置場所は、先の倉庫の時のように、その目標の前までつながる道の辻だ。黒騎士小隊はその正面側へ、裏は軍旗小隊が行う、と連隊長は言う。臨時第二軍旗小隊は―連隊長はマルクスとルキアニスを見た―連隊長とともに、控置位置で予備となる、と。 「現在までの情報収集では、機神格の敵の兆候は無い。現在目標一に推定されるのは、警備数名とみられる。門の破砕は内務省機卒が行う。要請あるまで目標に近接するな。内務省部隊に被害を出す恐れがある。火災の恐れは高い。これに備えよ。黎明前から通行は増える。移動には十分注意。質問は」 「魔道戦の必要性は」 エイクルが問い、連隊長は応える。 「機神格対処前進の必要があれば、これを許可する。連隊長が命じる」 「了解。周囲については」 「魔術戦の余波を含めて、特に考慮の要はない」 ルキアニスは思わず息をのむ。連隊長は続ける。 「この作戦の特性上、事前の避難行いえない。目標一以外の目標についても内務省部隊は捜索摘発を実施する。作戦上の要請に従い、対象の撃破を最優先とする」 「・・・・・・」 摘発、と今連隊長は言った。事前に避難は行えないとも。 それではまるで、近衛騎士の誰かが、機神格の何かを隠しているかのようだ。 今までに聞いた中で、いちばん、何が起きているかに近いこと、そう思える。ちらりとマルクスを見る。聞きながら考えに耽る風だ。その面からは、何を思っているのかはわからない。連隊長は言った。 「ほかになければ、準備開始」 敬礼と答礼。皆が息をつくのがわかる。そして今まで、周りにいた内務省の者らは、一言も口を利かなかった。ただルキアニスたちを見ていただけだ。部隊のほかの人も同じだ。軍旗小隊組も、マルクスもだ。黒騎士小隊は、変わりないのかどうかよくわからない。どうでもいいのかもしれない。 三の丸の石畳の広場に戻った時に気づいた。騎兵小隊がいない。いつからだろう。その時になってようやく思い出した。倉庫で待機していた時だ。 「騎兵小隊がいない」 ルキアニスを追い越しながら、マルクスは言う。 「さっきの時からだよ。要るのは俺たちだけ。機密保持だろ。俺たちが三の丸で待機しているのもな」 ここならば、外の目は容易には入ってこない。その間にこちらは次に備える。どこで何をする気なのか、誰かに気取らせないためだ。そして一気に押し掛ける。 誰かって誰だろう。それ自体を探しているのかもしれない。 何が起きているのか、もしかしたら誰も知らないままなのかもしれない。 ただ機体だけは、機装甲だけは、確かなものとして闇に侍って待っている。魔道光を灯してやっても、機体は何も示しはしない。ルキアニスがその手で手入れをしてやって、胎内で仮面をつけて一つになってやらねば、動くこともない。 誰もが黙って機体を手入れしていた。終わらせて、手の油を拭い、それからマルクスを見た。 「何だよ」 以外に明るく彼は応じる。ルキアニスは訳もなくくちごもる。 「・・・・・・うん」 「近衛騎士はついこないだまで累代受け継ぐものだったんだ。何代も皇帝陛下を護持する側だった。帝都に何かあれば、それぞれの近衛騎士の家は、護持の壁になるんだ」 「壁?」 「陣地だよ。本当にそうするかどうかはともかく、いざとなればそうする覚悟だそうだ。だから昔は、機場のところまでなら機装甲を入れられた」 「機場」 「旗本街のすぐ近く」 「帝都の場所は、よくわからないよ」 「そういうところがあったんだよ。知らないか。機場の決闘って」 「知らない」 まあ、いいか、とマルクスはつぶやく。ルキアニスを見て言う。 「それで、何が気になるんだよ」 そんなことは言ってなかったはずだけれど、でも気になることはあった。 「あの人、覚えてるでしょ。シナプス卿の家も、近いし。それに教官の家も」 「卿のほうがわかってるはずさ。近衛騎士であることも、それに何かしらの疑いがかかった時のことも」 その疑いが何なのかも、ルキアニスは知らない。機神格の目標に備えろということしかしらない。その二つが、どこで重なるのかも、判らないままだ。 「それにな、片目のことは知らねえよ」 マルクスは言う。マルクスも覚えていたんだ、と変に可笑しく思える。そんな場合じゃないのに。 「大丈夫か」 マルクスが言う。ルキアニスは応える。 「うん」 しっかりしろよ、とマルクスは言う。俺たちが近衛騎士になんてなることは無いだろうからな、とも笑う。 自分が都内の人間ではなく、庶民街の人間だとつくづく思うのが、帝都の話の時だ。 都内の千代田区のイメージではなく、新宿より西とか、東京湾側とかしか思い浮かばない。旧諸藩邸跡地の広大さのイメージがないから、小さくなってしまうのだが、本来帝都は江戸のように巨大だが、僕にはうまく書けない。 ルキアニスが寡婦の家を借りていたという10年前のアイデアは、時系列外になりそうだ。 まあ、あのころは時系列自体が帝國SSに無いも同然のアレだったから仕方ない。むしろあの辺のアレこそが、時系列を強化していったわけで、ジェネレーション1のルキアニスの時系列が矛盾するのはやむを得ない。 なので、蟹様から八相魔導が出てきた時、僕は大喜びしたし、その設定を僕なりに受け止めると、ルキアニスの相は虚と物霊に自動的に決まってしまった。ルキアニスの主観から書かれたものが多いのもその辺だ。 これらは、どの時点のルキアニスが観測した不明だが、ルキアニスが追憶している何がしかが主なものなのだ。 観測者と被観測者の間を意識せずに行き来しながら、さらに存在していた時間軸さえ揺らいでいる。だから起きたことが事実なのかどうか、実はどうでもいい。棄却上等とか言ってたのも、その認識からだ。そのことが無くなってしまっても、実は全然平気なのだ。だから弓の機神が出て来たり、出てこなかったりするのも、どっちでもいいのだ。そういうことができる世界なのだ。 ただ、ルキアニスが思い出すべき時には、あの寡婦の家で起きたことは起きたことになるし、そうでないときもある。帝國SSのあらゆることが相対化されながら、最もあやふやな存在がルキアニスになる。だから、スヴェルスガルド将軍のアレが出てきたからこそ、これが書けている。メタ的には、ルキアニスが記憶を抹消しているのと同じだ。シャルロッテを消し去るために。あるいは、消し去らないために。 これだけ強力な存在に、実は9年前くらいにはもうなっていた。これだけ強力な存在ならば、あの世界の最強の術者が干渉するのも、創作世界ルール的に当然なのだ。 こういう超絶な創作共有世界をに出会える確率ってどれくらいだと思うよ。 ほとんど0さ。 だからこそ、僕はやめられないんだと思う。もうすこし、甘えさせてもらえれば、と思っている。 しかしその割に手は落ちてゆく一方だ。 そして10年の時間を経ねば、書けなかった。本当はもっと早く書けてもよかった。ただいい加減な思い付きを、この世界で形にするには、相応の積み重ねが要る。これをそう簡単に書けるものか。そう簡単に書かれてたまるものか。 ここに至ってこう書くのは、はやりこれまで書かせてもらえたからなのだ。 もちろんこれら一連のスケッチは、8~9年前のセッションによっている。 セッションのときには、機神保有者と、機神の所在確認が行われるだろうっていうのがあったんだが、それは13Rの任務にはならなそうなので、この辺になる。 本当は(江戸城)三の丸ではなくて、大手門でレオニダス公爵家の馬車とすれ違うくらいやればよかったのかもしれないけど、やっぱり部隊と、ケイロニウス一門とがそんなところですれ違うのはおかしい気がして、カットとなった。 朝になればミノール・マルクス・ケイロニウス・レオニダス太宗公爵が、参内して機神の安堵を報告するはず。ケイロニウス一門に何柱あるかはともかく、皇帝の名で直に報告を求めて、城内に一時的に囲い込むことで、実は皇帝のすぐに使えるアセットが強化できる、みたいな。その意味でも、レオニダス公爵家の機神が長く無い、というのは本当に末席なのだと思う。機神の復活で、皇帝のアセットが増えるというのは、それなりに価値がある、と。 現在の時系列だと、黒の零が無いことがわかり、これをすぐに報告し、徹底捜索が行われ、やはりないのがわかり、関係担当に「尋問」を行ったところ、そこでゲロって、持ち出されたことが分かった。この時点で、すでに帝都にはないのだけれど、内務省が追跡して、倉庫まで特定したけれど、相手が黒の零なので、そのままでは手を付けられずに、皇族部隊の投入となった。 目的が不明のままの持ち出しであるから、帝都での(スケールの小さな)核爆発を想定せざるをえなかったし、その標的として皇帝陛下、副帝、おねいちゃんが普通に想定されていた、と。 まあ、セッション通り、重厚な組織力を使って逆に狩り出すことを選択し、宮城の態勢を強化しながら、認知していた情報に基づいて、摘発を進めた、と。ここで絶対的に情報漏洩の危険なく運用可能で、かつ黒の零と対抗可能な稼働戦力として13Rを想定した、と僕は考えている。 セッション通り、そしてそのほかの予告通りに、黒の零は持ち出され、オスミナへと持ち込まれる。 その後の未来にイサラが何かしたかもしれない。しないかもしれない。 その時系列のヴェルキンとアレシアは、すでに越境してるだろう。オスミナのリメスを突破するのに、戦力とリソースの多くを消耗し、諸侯軍は厳しい情勢に置かれているだろう。オスミナ軍は反撃に移り、情勢打開のために、運び込まれたばかりの黒の零は、その力を発揮するだろう。 しかしそれも拙く敗れ、諸侯軍はほとんど残党となりながら撤退し始めるだろう。そしてそれらを、レイヒルフトはただ収容せよとは言わないだろう。 再び21Bは出動する。 そのための皇族部隊なのだから。 そして10年の時間を経ねば、書けなかった。本当はもっと早く書けてもよかった。ただいい加減な思い付きを、この世界で形にするには、相応の積み重ねが要る。これをそう簡単に書けるものか。そう簡単に書かれてたまるものか。 ここに至ってこう書くのは、はやりこれまで書かせてもらえたからなのだ。
https://w.atwiki.jp/tsugan/pages/118.html
資治通鑑巻第十五 漢紀七 太宗孝文皇帝下 前十一年(壬申、前一六九) 1冬,十一月,上行幸代。春,正月,自代還。 1. 2夏,六月,梁懷王揖薨,無子。賈誼復上疏曰:「陛下即不定製,如今之勢,不過一傳、再傳,諸侯猶且人恣而不制,豪植而大強,漢法不得行矣。陛下所以爲藩扞及皇太子之所恃者,唯淮陽、代二國耳。代,北邊匈奴,與強敵爲鄰,能自完則足矣;而淮陽之比大諸侯,廑如黑子之著面,適足以餌大國,而不足以有所禁御。方今制在陛下,制國而令子適足以爲餌,豈可謂工哉!臣之愚計,願舉淮南地以益淮陽,而爲梁王立後,割淮陽北邊二、三列城與東郡以益梁。不可者,可徙代王而都睢陽。梁起於新郪而北著之河,淮陽包陳而南揵之江,則大諸侯之有異心者破膽而不敢謀。梁足以扞齊、趙,淮陽足以禁呉、楚,陛下高枕,終無山東之憂矣,此二世之利也。當今恬然,適遇諸侯之皆少;數歳之後,陛下且見之矣。夫秦日夜苦心勞力以除六國之禍;今陛下力制天下,頤指如意,高拱以成六國之禍,難以言智,苟身無事,畜亂,宿祝,孰視而不定;萬年之後,傳之老母、弱子,將使不寧,不可謂仁。」帝於是從誼計,徙淮陽王武爲梁王,北界泰山,西至高陽,得大縣四十餘城。後歳餘,賈誼亦死,死時年三十三矣。 2. 3徙城陽王喜爲淮南王。 3. 4匈奴寇狄道。 時匈奴數爲邊患,太子家令穎川晁錯上言兵事曰:「兵法曰:『有必勝之將,無必勝之民。』由此觀之,安邊境,立功名,在於良將,不可不擇也。 臣又聞,用兵臨戰合刃之急者三:一曰得地形,二曰卒服習,三曰器用利。兵法:歩兵、車騎、弓弩、長戟、矛鋋、劍楯之地,各有所宜;不得其宜者,或十不當一。士不選練,卒不服習,起居不精,動靜不集,趨利弗及,避難不畢,前撃後解,與金鼓之指相失,此不習勒卒之過也,百不當十。兵不完利,與空手同;甲不堅密,與袒裼同;弩不可以及遠,與短兵同;射不能中,與無矢同;中不能入,與無鏃同;此將不省兵之禍也,五不當一。故兵法曰:『器械不利,以其卒予敵也;卒不可用,以其將予敵也;將不知兵,以其主予敵也;君不擇將,以其國予敵也。』四者,兵之至要也。 臣又聞:小大異形,強弱異勢,險易異備。夫卑身以事強,小國之形也;合小以攻大,敵國之形也;以蠻夷攻蠻夷,中國之形也。今匈奴地形、技藝與中國異,上下山阪,出入溪澗,中國之馬弗與也;險道傾仄,且馳且射,中國之騎弗與也;風雨罷勞,飢渇不困,中國之人弗與也;此匈奴之長技也。若夫平原、易地、輕車、突騎,則匈奴之衆易撓亂也;勁弩、長戟、射疏、及遠,則匈奴之弓弗能格也;堅甲、利刃,長短相雜,游弩往來,什伍倶前,則匈奴之兵弗能當也;材官騶發,矢道同的,則匈奴之革笥、木薦弗能支也;下馬地斗,劍戟相接,去就相薄,則匈奴之足弗能給也;此中國之長技也。以此觀之,匈奴之長技三,中國之長技五。陛下又興數十萬之衆以誅數萬之匈奴,衆寡之計,以一撃十之術也。 雖然,兵,兇器;戰,危事也。故以大爲小,以強爲弱,在俛仰之間耳。夫以人之死爭勝,跌而不振,則悔之無及也。帝王之道,出於萬全。今降胡、義渠、蠻夷之屬來歸誼者,其衆數千,飲食、長技與匈奴同。可賜之堅甲、絮衣、勁弓、利矢,益以邊郡之良騎,令明將能知其習俗、和輯其心者,以陛下之明約將之。即有險阻,以此當之;平地通道,則以輕車、材官制之;兩軍相爲表里,各用其長技,衡加之以衆,此萬全之術也。」 帝嘉之,賜錯書,寵答焉。 錯又上言曰:「臣聞秦起兵而攻胡、粤者,非以衞邊地而救民死也,貪戻而欲廣大也,故功未立而天下亂。且夫起兵而不知其勢,戰則爲人禽,屯則卒積死。夫胡、貉之人,其性耐寒;揚、粤之人,其性耐暑。秦之戍卒不耐其水土,戍者死於邊,輸者僨於道。秦民見行,如往棄市,因以謫發之,名曰『謫戍』;先發吏有謫及贅婿、賈人,後以嘗有市籍者,又後以大父母、父母嘗有市籍者,後入閭取其左。發之不順,行者憤怨,有萬死之害而亡銖兩之報,死事之後,不得一算之復,天下明知禍烈及己也。陳勝行戍,至於大澤,爲天下先倡,天下從之如流水者,秦以威劫而行之之敝也。 胡人衣食之業,不著於地,其勢易以擾亂邊境,往來轉徙,時至時去。此胡人之生業,而中國之所以離南□也。今胡人數轉牧、行獵於塞下,以候備塞之卒,卒少則入。陛下不救,則邊民絶望而有降敵之心;救之,少發則不足,多發,遠縣才至,則胡又已去。聚而不罷,爲費甚大;罷之,則胡復入。如此連年,則中國貧苦而民不安矣。陛下幸憂邊境,遣將吏發卒以治塞,甚大惠也。然今遠方之卒守塞,一歳而更,不知胡人之能。不如選常居者家室田作,且以備之,以便爲之高城深塹;要害之處,通川之道,調立城邑,毋下千家。先爲室屋,具田器,乃募民,免罪,拜爵,復其家,予冬夏衣、稟食,能自給而止。塞下之民,祿利不厚,不可使久居危難之地。胡人入驅而能止其所驅者,以其半予之,縣官爲贖。其民如是,則邑里相救助,赴胡不避死。非以德上也,欲全親戚而利其財也;此與東方之戍卒不習地勢而心畏胡者功相萬也。以陛下之時,徙民實邊,使遠方無屯戍之事;塞下之民,父子相保,無繋虜之患;利施後世,名稱聖明,其與秦之行怨民,相去遠矣。」 上從其言,募民徙塞下。 錯復言:「陛下幸募民徙以實塞下,使屯戍之事益省,輸將之費益寡,甚大惠也。下吏誠能稱厚惠,奉明法,存恤所徙之老弱,善遇其壯士,和輯其心而勿侵刻,使先至者安樂而不思故郷,則貧民相慕而勸往矣。臣聞古之徙民者,相其陰陽之和,嘗其水泉之味,然後營邑、立城、制里、割宅,先爲築室家,置器物焉。民至有所居,作有所用。此民所以輕去故郷而勸之新邑也。爲置醫、巫以救疾病,以修祭祀,男女有昏,生死相恤,墳墓相從,種樹畜長,室屋完安。此所以使民樂其處而有長居之心也。 臣又聞古之制邊縣以備敵也,使五家爲伍,伍有長;十長一里,里有假士;四里一連,連有假五百;十連一邑,邑有假候。皆擇其邑之賢材有護、習地形、知民心者。居則習民於射法,出則教民於應敵。故卒伍成於内,則軍政定於外。服習以成,勿令遷徙,幼則同游,長則共事。夜戰聲相知,則足以相救;晝戰目相見,則足以相識;歡愛之心,足以相死。如此而勸以厚賞,威以重罰,則前死不還踵矣。所徙之民非壯有材者,但費衣糧,不可用也;雖有材力,不得良吏,猶亡功也。 陛下絶匈奴不與和親,臣竊意其冬來南也;壹大治,則終身創矣。欲立威者,始於折膠;來而不能困,使得氣去,後未易服也。」 錯爲人峭直刻深,以其辯得幸太子,太子家號曰「智囊」。 4. 十二年(癸酉、前一六八) 1冬,十二月,河決酸棗,東潰金堤,東郡大興卒塞之。 1. 2春,三月,除關,無用傳。 2. 3晁錯言於上曰:「聖王在上而民不凍飢者,非能耕而食之,織而衣之也,爲開其資財之道也。故堯有九年之水,湯有七年之旱,而國亡捐瘠者,以畜積多而備先具也。今海内爲一,土地、人民之衆不減湯、禹,加以無天災數年之水旱,而畜積未及者,何也?地有遺利,民有餘力;生谷之土未盡墾,山澤之利未盡出,游食之民未盡歸農也。 夫寒之於衣,不待輕暖;飢之於食,不待甘旨;飢寒至身,不顧廉恥。人情,一日不再食則飢,終歳不製衣則寒。夫腹飢不得食,膚寒不得衣,雖慈母不能保其子,君安能以有其民哉!明主知其然也,故務民於農桑,薄賦斂,廣畜積,以實倉廩,備水旱,故民可得而有也。民者,在上所以牧之;民之趨利,如水走下,四方無擇也。 夫珠、玉、金、銀,飢不可食,寒不可衣;然而衆貴之者,以上用之故也。其爲物輕微易藏,在於把握,可以周海内而無飢寒之患。此令臣輕背其主,而民易去其郷,盜賊有所勸,亡逃者得輕資也。粟、米、布、帛,生於地,長於時,聚於力,非可一日成也;數石之重,中人弗勝,不爲姦邪所利,一日弗得而飢寒至。是故明君貴五穀而賤金玉。 今農夫五口之家,其服役者不下二人,其能耕者不過百畮,百畮之收不過百石。春耕,夏耘,秋獲,冬藏,伐薪樵,治官府,給繇役;春不得避風塵,夏不得避暑熱,秋不得避陰雨,冬不得避寒凍,四時之間亡日休息;又私自送往迎來、吊死問疾、養孤長幼在其中。勤苦如此,尚復被水旱之災,急政暴賦,賦斂不時,朝令而暮改。有者半賈而賣,無者取倍稱之息,於是有賣田宅、鬻妻子以償責者矣。而商賈大者積貯倍息,小者坐列販賣,操其奇贏,日游都市,乘上之急,所賣必倍。故其男不耕耘,女不蠶織,衣必文采,食必粱肉;無農夫之苦,有仟伯之得。因其富厚,交通王侯,力過吏勢,以利相傾;千里游敖,冠蓋相望,乘堅、策肥,履絲、曳縞。此商人所以兼併農人,農人所以流亡者也。方今之務,莫若使民務農而已矣。欲民務農,在於貴粟。貴粟之道,在於使民以粟爲賞罰。今募天下入粟縣官,得以拜爵,得以除罪。如此,富人有爵,農民有錢,粟有所渫。夫能入粟以受爵,皆有餘者也。取於有餘以供上用,則貧民之賦可損,所謂損有餘,補不足,令出而民利者也。今令民有車騎馬一匹者,復卒三人;車騎者,天下武備也,故爲復卒。神農之教曰:『有石城十仞,湯池百歩,帶甲百萬,而無粟,弗能守也。』以是觀之,粟者,王者大用,政之本務。令民入粟受爵至五大夫以上,乃復一人耳,此其與騎馬之功相去遠矣。爵者,上之所擅,出於口而無窮;粟者,民之所種,生於地而不乏。夫得高爵與免罪,人之所甚欲也;使天下人入粟於邊以受爵、免罪,不過三歳,塞下之粟必多矣。」 帝從之,令民入粟邊,拜爵各以多少級數爲差。 錯復奏言:「陛下幸使天下入粟塞下以拜爵,甚大惠也。竊恐塞卒之食不足用,大渫天下粟。邊食足以支五歳,可令入粟郡縣矣;郡縣足支一歳以上,可時赦,勿收農民租。如此,德澤加於萬民,民愈勤農,大富樂矣。」 上復從其言,詔曰:「道民之路,在於務本。朕親率天下農,十年於今,而野不加辟,歳一不登,民有飢色;是從事焉尚寡而吏未加務。吾詔書數下,歳勸民種樹而功未興,是吏奉吾詔不勤而勸民不明也。且吾農民甚苦而吏莫之省,將何以功焉!其賜農民今年租税之半。」 3. 十三年(甲戌、前一六七) 1春,二月,甲寅,詔日;「朕親率天下農耕以供粢盛,皇后親桑以供祭服;其具禮儀。」 1. 2初,秦時祝官有祕祝,即有災祥,輒移過於下。夏,詔曰:「蓋聞天道,禍自怨起而福繇德興,百官之非,宜由朕躬。今祕祝之官移過於下,以彰吾之不德,朕甚弗取。其除之!」 2. 3齊太倉令淳於意有罪,當刑,詔獄逮繋長安。其少女緹縈上書曰:「妾父爲吏,齊中皆稱其廉平;今坐法當刑。妾傷夫死者不可復生,刑者不可復屬,雖後欲改過自新,其道無繇也。妾願沒入爲官婢,以贖父刑罪,使得自新。」 天子憐悲其意,五月,詔曰:「詩曰:『愷弟君子,民之父母。』今人有過,教未施而刑已加焉,或欲改行爲善而道無繇至,朕甚憐之!夫刑至斷支體,刻肌膚,終身不息,何其刑之痛而不德也!豈爲民父母之意哉!其除肉刑,有以易之;及令罪人各以輕重,不記逃,有年而免。具爲令!」丞相張蒼、御史大夫馮敬奏請定律曰:「諸當髡者爲城旦、舂;當黥者髡鉗爲城旦、舂;當劓者笞三百;當斬左止者笞五百;當斬右止及殺人先自告及吏坐受賕、枉法、守縣官財物而即盜之、已論而復有笞罪皆棄市。罪人獄已決爲城旦、舂者,各有歳數以免。」制曰:「可。」是時,上既躬修玄默,而將相皆舊功臣,少文多質。懲惡亡秦之政,論議務在寬厚,恥言人之過失,化行天下,告訐之俗易。吏安其官,民樂其業,畜積歳增,戸口浸息。風流篤厚,禁罔疏闊,罪疑者予民,是以刑罰大省,至於斷獄四百,有刑錯之風焉。 3. 4六月,詔曰:「農,天下之本,務莫大焉。今勤身從事而有租税之賦,是爲本末者無以異也,其於勸農之道未備。其除田之租税。」 4. 十四年(乙亥、前一六六) 1冬,匈奴老上單于十四萬騎入朝那、蕭關,殺北地都尉卬,虜人民畜産甚多;遂至彭陽,使奇兵入燒回中宮,候騎至雍甘泉。帝以中尉周舍、郎中令張武爲將軍,發車千乘、騎卒十萬軍長安旁,以備胡寇;而拜昌侯盧卿爲上郡將軍,甯侯魏□爲北地將軍,隆慮侯周灶爲隴西將軍,屯三郡。上親勞軍,勒兵,申教令,賜吏卒,自欲征匈奴。羣臣諫,不聽;皇太后固要,上乃止。於是以東陽侯張相如爲大將軍,成侯董赤、内史欒布皆爲將軍,撃匈奴。單于留塞内月餘,乃去。漢逐出塞即還,不能有所殺。 1. 2上輦過郎署,問郎署長馮唐曰:「父家安在?」對曰:「臣大父趙人,父徙代。」上曰:「吾居代時,吾尚食監高祛數爲我言趙將李齊之賢,戰於巨鹿下。今吾毎飯意未嘗不在巨鹿也。父知之乎?」唐對曰:「尚不如廉頗、李牧之爲將也。」上搏髀曰:「嗟乎!吾獨不得廉頗、李牧爲將!吾豈憂匈奴哉!」唐曰:「陛下雖得廉頗、李牧,弗能用也。」上怒,起,入禁中,良久,召唐,讓曰:「公奈何衆辱我,獨無間處乎!」唐謝曰:「鄙人不知忌諱。」上方以胡寇爲意,乃卒復問唐曰:「公何以知吾不能用廉頗、李牧也?」唐對曰:「臣聞上古王者之遣將也,跪而推轂,曰:『閫以内者,寡人制之;閫以外者,將軍制之。』軍功爵賞皆決於外,歸而奏之,此非虚言也。臣大父言:李牧爲趙將,居邊,軍市之租,皆自用饗士;賞賜決於外,不從中覆也。委任而責成功,故李牧乃得盡其智能;選車千三百乘,彀騎萬三千,百金之士十萬,是以北逐單于,破東胡,滅澹林,西抑強秦,南支韓、魏。當是之時,趙幾霸。其後會趙王遷立,用郭開讒,卒誅李牧,令顏聚代之;是以兵破士北,爲秦所禽滅。今臣竊聞魏尚爲雲中守,其軍市租盡以饗士卒,私養錢五日一椎牛,自饗賓客、軍吏、舍人,是以匈奴遠避,不近雲中之塞。虜曾一入,尚率車騎撃之,所殺甚衆。夫士卒盡家人子,起田中從軍,安知尺籍、伍符!終日力戰,斬首捕虜,上功幕府,一言不相應,文吏以法繩之,其賞不行,而吏奉法必用。臣愚以爲陛下賞太輕,罰太重。且雲中守魏尚坐上功首虜差六級,陛下下之吏,削其爵,罰作之。由此言之,陛下雖得廉頗、李牧,弗能用也!」上説。是日,令唐持節赦魏尚,復以爲雲中守,而拜唐爲車騎都尉。 2. 3春,詔廣增諸祀壇場、珪幣,且曰:「吾聞祠官祝釐,皆歸福於朕躬,不爲百姓,朕甚愧之。夫以朕之不德,而專饗獨美其福,百姓不與焉,是重吾不德也。其令祠官致敬,無有所祈!」 3. 4是歳,河間文王辟強薨。 4. 5初,丞相張蒼以爲漢得水德,魯人公孫臣以爲漢當土德,其應,黄龍見;蒼以爲非是,罷之。 5. 十五年(丙子、前一六五) 1春,黄龍見成紀。帝召公孫臣,拜爲博士,與諸生申明土德,草改暦、服色事。張蒼由此自絀。 1. 2夏,四月,上始幸雍,郊見五帝,赦天下。 2. 3九月,詔諸侯王、公卿、郡守舉賢良、能直言極諫者,上親策之。太子家令晁錯對策高第,擢爲中大夫。錯又上言宜削諸侯及法令可更定者書凡三十篇。上雖不盡聽,然奇其材。 3. 4是歳,齊文王則、河間哀王福皆薨,無子,國除。 4. 5趙人新垣平以望氣見上,言長安東北有神氣,成五采,於是作渭陽五帝廟。 5. 十六年(丁丑、前一六四) 1夏,四月,上郊祀上帝於渭陽五帝廟。於是貴新垣平至上大夫,賜累千金;而使博士、諸生刺六經中作王制,謀議巡狩、封禪事。又於長門道北立五帝壇。 1. 2徙淮南王喜復爲城陽王,又分齊爲六國;丙寅,立齊悼惠王子在者六人:楊虚侯將閭爲齊王,安都侯志爲濟北王,武成侯賢爲菑川王,白石侯雄渠爲膠東王,平昌侯卬爲膠西王,扐侯辟光爲濟南王。淮南厲王子在者三人:阜陵安爲淮南王,安陽侯勃爲衡山王,陽周侯賜爲廬江王。 2. 3秋,九月,新垣平使人持玉杯上書闕下獻之。平言上曰:「闕下有寶玉氣來者。」已,視之,果有獻玉杯者,刻曰「人主延壽」。平又言:「臣侯日再中。」居頃之,日卻,復中。於是始更以十七年爲元年,令天下大酺。平言曰:「周鼎亡在泗水中。今河決,通於泗,臣望東北汾陰直有金寶氣,意周鼎其出乎!兆見,不迎則不至。」於是上使使治廟汾陰南,臨河,欲祠出周鼎。 3. 後元年(戊寅、前一六三) 1冬,十月,人有上書告新垣平「所言諧詐也」;下吏治,誅夷平。是後,上亦怠於改正、服、鬼神之事,而渭陽、長門五帝,使祠官領,以時致禮,不往焉。 1. 2春,三月,孝惠皇后張氏薨。 2. 3詔曰:「間者數年不登,又有水旱、疾疫之災,朕甚憂之。愚而不明,未達其咎:意者朕之政有所失而行有過與?乃天道有不順,地利或不得,人事多失和,鬼神廢不享與?何以致此?將百官之奉養或廢,無用之事或多與?何其民食之寡乏也?夫度田非益寡,而計民未加益,以口量地,其於古猶有餘,而食之甚不足者,其咎安在?無乃百姓之從事於末以害農者蕃,爲酒醪以靡谷者多,六畜之食焉者衆與?細大之義,吾未得其中,其與丞相、列侯、吏二千石、博士議之。有可以佐百姓者,率意遠思,無有所隱!」 3. 二年(己卯、前一六二) 1夏,上行幸雍棫陽宮。 1. 2六月,代孝王參薨。 2. 3匈奴連歳入邊,殺略人民、畜産甚多;雲中、遼東最甚,郡萬餘人。上患之,乃使使遺匈奴書。單于亦使當戸報謝,復與匈奴和親。 3. 4八月,戊戌,丞相張蒼免。帝以皇后弟竇廣國賢,有行,欲相之,曰:「恐天下以吾私廣國,久念不可。」而高帝時大臣,餘見無可者。御史大夫梁國申屠嘉,故以材官蹶張從高帝,封關内侯;庚午,以嘉爲丞相,封故安侯。嘉爲人廉直,門不受私謁。是時,太中大夫鄧通方愛幸,賞賜累巨萬。帝嘗燕飲通家,其寵幸無比。嘉嘗入朝,而通居上旁,有怠慢之禮,嘉奏事畢,因言曰:「陛下幸愛羣臣,則富貴之;至於朝廷之禮,不可以不肅。」上曰:「君勿言,吾私之。」罷朝,坐府中,嘉爲檄召通詣丞相府,不來,且斬通。通恐,入言上;上曰:「汝第往,吾今使人召若。」通詣丞相,免冠、徒跣,頓首謝嘉。嘉坐自如,弗爲禮,責曰:「夫朝廷者,高帝之朝廷也。通小臣,戲殿上,大不敬,當斬。吏!今行斬之!」通頓首,首盡出血,不解。上度丞相已困通,使使持節召通而謝丞相:「此吾弄臣,君釋之!」鄧通既至,爲上泣曰:「丞相幾殺臣!」 4. 三年(庚辰、前一六一) 1春,二月,上行幸代。 1. 2是歳,匈奴老上單于死,子軍臣單于立。 2. 四年(辛巳、前一六〇) 1夏,四月,丙寅晦,日有食之。 1. 2五月,赦天下。 2. 3上行幸雍。 3. 五年(壬午、前一五九) 1春,正月,上行幸隴西;三月,行幸雍;秋,七月,行幸代。 1. 六年(癸未、前一五八) 1冬,匈奴三萬騎入上郡,三萬騎入雲中,所殺略甚衆,烽火通於甘泉、長安。以中大夫令免爲車騎將軍,屯飛狐;故楚相蘇意爲將軍,屯句注;將軍張武屯北地;河内太守周亞夫爲將軍,次細柳;宗正劉禮爲將軍,次霸上,祝茲侯徐厲爲將軍,次棘門;以備胡。上自勞軍,至霸上及棘門軍,直馳入,將以下騎送迎。已而之細柳軍,軍士吏被甲,鋭兵刃,彀弓弩持滿,天子先驅至,不得入。先驅曰:「天子且至!」軍門都尉曰;「將軍令曰:『軍中聞將軍令,不聞天子之詔!』」居無何,上至,又不得入。於是上乃使使持節詔將軍:「吾欲入營勞軍。」亞夫乃傳言「開壁門」。壁門士請車騎曰:「將軍約:軍中不得驅馳。」於是天子乃按轡徐行。至營,將軍亞夫持兵揖曰:「介冑之士不拜,請以軍禮見。」天子爲動,改容,式車,使人稱謝:「皇帝敬勞將軍。」成禮而去。既出軍門,羣臣皆驚。上曰:「嗟乎,此眞將軍矣!曩者霸上、棘門軍若兒戲耳,其將固可襲而虜也。至於亞夫,可得而犯耶!」稱善者久之。月餘,漢後至邊,匈奴亦遠塞,漢兵亦罷。乃拜周亞夫爲中尉。 1. 2夏,四月,大旱,蝗。令諸侯無入貢;弛山澤,減諸服御,損郎吏員;發倉庾以振民;民得賣爵。 2. 七年(甲申、前一五七) 1夏,六月,已亥,帝崩于未央宮。遺詔曰:「朕聞之:蓋天下萬物之萌生,靡有不死。死者,天地之理,物之自然,奚可甚哀!當今之世,咸嘉生而惡死,厚葬以破業,重服以傷生,吾甚不取。且朕既不德,無在佐百姓;今崩,又使重服久臨以罹寒暑之數,哀人父子,傷長老之志,損其飲食,絶鬼神之祭祀,以重吾不德,謂天下何!朕獲保宗廟,以眇眇之身托於天下君王之上,二十有餘年矣。賴天之靈,社稷之福,方内安寧,靡有兵革。朕既不敏,常畏過行以羞先帝之遺德,惟年之久長,懼於不終。今乃幸以天年得復供養於高廟,其奚哀念之有!其令天下吏民:令到,出臨三日,皆釋服;毋禁取婦、嫁女、祠祀、飲酒、食肉,自當給喪事服臨者,皆無跣;絰帶毋過三寸;毋布車及兵器;毋發民哭臨宮殿中;殿中當臨者,皆以旦夕各十五舉音,禮畢罷;非旦夕臨時,禁毋得擅哭臨;已下棺,服大功十五日,小功十四日,纖七日,釋服。它不在令中者,皆以此令比類從事。佈告天下,使明知朕意。霸陵山川因其故,毋有所改。歸夫以下至少使。」乙巳,葬霸陵。 帝即位二十三年,宮室、苑囿、車騎、服御,無所增益;有不便,輒馳以利民。嘗欲作露台,召匠計之,直百金。上曰:「百金,中人十家之産也。吾奉先帝宮室,常恐羞之,何以台爲!」身衣弋綈;所幸愼夫人,衣不曳地;帷帳無文繡;以示敦樸,爲天下先。治霸陵,皆瓦器,不得以金、銀、銅、錫爲飾,因其山,不起墳。呉王詐病不朝,賜以幾杖。羣臣袁盎等諫説雖切,常假借納用焉。張武等受賂金錢,覺,更加賞賜以愧其心;專務以德化民。是以海内安寧,家給人足,後世鮮能及之。 1. 2丁未,太子即皇帝位,尊皇太后薄氏曰太皇太后,皇后曰皇太后。 2. 3九月,有星孛于西方。 3. 4是歳,長沙王呉著薨,無子,國除。 初,高祖賢文王芮,制誥御史:「長沙王忠,其令著令。」至孝惠、高后時,封芮庶子二人爲列侯,傳國數世絶。 4. 孝景皇帝上 元年(乙酉、前一五六) 1冬,十月,丞相嘉等奏:「功莫大於高皇帝,德莫盛於孝文皇帝。高皇帝廟,宜爲帝者太祖之廟;孝文皇帝廟,宜爲帝者太宗之廟。天子宜世世獻祖宗之廟,郡國諸侯宜各爲孝文皇帝立太宗之廟。」制曰:「可。」 1. 2夏,四月,乙卯,赦天下。 2. 3遣御史大夫靑至代下與匈奴和親。 3. 4五月,復收民田半租,三十而税一。 4. 5初,文帝除肉刑,外有輕刑之名,内實殺人;斬右止者又當死;斬左止者笞五百,當劓者笞三百,率多死。是歳,下詔曰:「加笞、重罪無異;幸而不死,不可爲人。其定律:笞五百曰三百,笞三百曰二百。」 5. 6以太中大夫周仁爲郎中令,張歐爲廷尉,楚元王子平陸侯禮爲宗正,中大夫晁錯爲左内史。仁始爲太子舍人,以廉謹得幸。張歐亦事帝於太子宮,雖治刑名家,爲人長者,帝由是重之,用爲九卿。歐爲吏未嘗言按人,專以誠長者處官;官屬以爲長者,亦不敢大欺。 6. 二年(丙戌、前一五五) 1冬,十二月,有星孛于西南。 1. 2令天下男子年二十始傅。 2. 3春,三月,甲寅,立皇子德爲河間王,閼爲臨江王,餘爲淮陽王,非爲汝南王,彭祖爲廣川王,發爲長沙王。 3. 4夏,四月,壬午,太皇太后薄氏崩。 4. 5六月,丞相申屠嘉薨。時内史晁錯數請間言事,輒聽,寵幸傾九卿,法令多所更定。丞相嘉自絀所言不用,疾錯。錯爲内史,東出不便,更穿一門南出。南出者,太上皇廟堧垣也。嘉聞錯穿宗廟垣,爲奏,請誅錯。客有語錯,錯恐,夜入宮上謁,自歸上。至朝,嘉請誅内史錯。上曰:「錯所穿非眞廟垣,乃外□耎垣,故冗官居其中;且又我使爲之,錯無罪。」丞相嘉謝。罷朝,嘉謂長史曰:「吾悔不先斬錯乃請之,爲錯所賣。」至舍,因歐血而死。錯以此愈貴。 5. 6秋,與匈奴和親。 6. 7八月,丁未,以御史大夫開封侯陶靑爲丞相。丁巳,以内史晁錯爲御史大夫。 7. 8彗星出東北。 8. 9秋,衡山雨雹,大者五寸,深者二尺。 9. 10熒惑逆行守北辰,月出北辰間;歳星逆行天廷中。 10. 11梁孝王以竇太后少子故,有寵,王四十餘城,居天下膏腴地。賞賜不可勝道,府庫金錢且百巨萬,珠玉寶器多於京師。築東苑,方三百餘里,廣睢陽城七十里,大治宮室,爲覆道,自宮連屬於平台三十餘里。招延四方豪俊之士,如呉人枚乘、嚴忌,齊人羊勝、公孫詭、鄒陽,蜀人司馬相如之屬皆從之游。毎入朝,上使使持節以乘輿駟馬迎梁王於關下。既至,寵幸無比,入則侍上同輦,出則同車,射獵上林中。因上疏請留,且半歳。梁侍中、郎、謁者著籍引出入天子殿門,與漢宦官無異。 11.
https://w.atwiki.jp/go-syuin/pages/41.html
新宿区 神社:8社拝受済 神社名称 直書 書置 鎮座地 拝受日 備考 花園神社 ○ 新宿5-17-13 平成30年5月1日 成子天神社 ○ 西新宿8-14-10 平成30年1月30日 十二社熊野神社 ○ 西新宿2-11-2 平成30年1月30日 市谷亀岡八幡宮 ○ 市谷八幡町15 平成30年3月12日 茶ノ木稲荷神社 ○ 市谷八幡町15 平成30年3月12日 *市谷亀岡八幡宮の境内社。市谷亀岡八幡宮で拝受可。 夫婦木神社 ○ 西大久保2-27-18 平成31年1月24日 鎧神社 ○ 北新宿3-16-18 平成31年1月10日 築土八幡神社 ○ 築土八幡町2-1 平成31年1月24日 新宿区 真言宗系寺院:2寺拝受済 宗教法人名 寺院名称 直書 霊場 所在地 拝受日 備考 真言宗豊山派 円照寺 ○ ○ 北新宿3-23-2 平成31年1月10日 真言宗豊山派 南蔵院 ○ ○ 箪笥町42 平成31年1月24日 新宿区 浄土宗寺院:1寺拝受済 寺院名称 直書 七福神 霊場 所在地 拝受日 備考 太宗寺 ○ ○ ○ 新宿2-9-2 平成30年5月1日 御朱印拝受時間は17時まで。3種類のご朱印全てを拝受するためには3回訪問するようにとのこと。 新宿区 日蓮宗寺院:2寺拝受済 寺院名称 直書 書置 七福神 所在地 拝受日 備考 経王寺 ○ ○ 原町1-14 平成30年9月27日 瑞光寺 ○ 原町2-34 平成30年9月27日
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/535.html
唐書巻二十二 志第十二 礼楽十二 周・陳より以降、雅(雅楽)・鄭(俗楽)が混雑して区別がなかった。隋の文帝ははじめて雅楽・俗楽の二部を分かち、唐になるとさらに「部当」と呼んだ。 おしなべていわゆる俗楽は二十八調で、正宮(D、E、F♯、G♯、A、B、C♯のオクターブ。以下同じ)・高宮(D♯、F、G、A、A♯、C、D)・中呂宮(F、G、A、B、C、D、E)・道調宮(G、A、B、C♯、D、E、F♯)・南呂宮(A、B、C♯、D♯、E、F♯、G♯)・仙呂宮(A♯、C、D、E、F、G、A)・黄鍾宮(C、D、E、F♯、G、A、B)を七宮とし、越調(D、E、F♯、G、A、B、C、D)・大食調(E、F♯、G♯、A、B、C♯、D)・高大食調(G、A、A♯、C、D、D♯、F)・双調(G、A、B、C、D、E、F)・小食調(A、B、C♯、D、E、F♯、G)・歇指調(B、C♯、D♯、E、F♯、G♯、A)・林鍾商(C、D、E、F♯、G、A、A♯)を七商とし、大食角(F♯、G♯、A、B、C♯、D、E)・高大食角(G、A、A♯、C、D、D♯、F)・双角(A、B、C、D、E、F、G)・小食角(B、C♯、D、E、F♯、G、A)・歇指角(C♯、D♯、E、F♯、G♯、A、B)・林鍾角(D、E、F、G、A、A♯、C)・越角(E、F♯、G、A、B、C、D)を七角とし、中呂調(D、E、F、G、A、B、C)・正平調(E、F♯、G、A、B、C♯、D)・高平調(F♯、G♯、A、B、C♯、D♯、E)・仙呂調(G、A、A♯、C、D、E、F)・黄鍾羽(A、B、C、D、E、F♯、G)・般渉調(B、C♯、D、E、F♯、G♯、A)・高般渉(C、D、D♯、F、G、A、A)を七羽とした。みな濁より清にいたるまで、その声を入れ替え、下はますます濁で、上はますます清であった。緩やかなものは節を過ぎ、急なものは蕩を流したようであった。その後楽器は次第に異なっていき、あるいは宮調の名があり、あるいは倍四を度とし、律呂とともに同名があって、声が近からずして雅なものであった。その宮調は夾鍾の律に応じ、燕楽で用いた。 絲に琵琶・五絃・箜篌・箏があり、竹に觱篥・簫・笛があり、匏に笙があり、革に杖鼓・第二鼓・第三鼓・腰鼓・大鼓があり、土には革に付属して鞚となり、木に拍板があり、方響は金を体として石に応じるから、八音が備わった。倍四はもとは清楽に属しており、形類は音を雅として、曲は胡部から出たものである。また銀字の名があり、中管の格は、すべて前代の律の器に応じていた。後世失伝して、異名で替えたから、そのため俗部の諸曲はすべて雅楽を源とした。 北周・隋の管絃雑曲は数百あり、すべて西涼の音楽であった。鼓舞曲は、すべて亀茲楽である。ただ琴工はなお楚・漢の旧声および清調を伝えるかのようであり、蔡邕の五弄・楚調の四弄、これを九弄といった。隋が滅亡すると、清楽は散逸し、ある者はわずかに六十三曲であった。その後伝えるものは、平調・清調で、北周の房中の音楽の遺声であった。「白雪」、「楚曲」であり、「公莫舞」、「漢舞」であり、「巴渝」は漢の高帝が工人に命じて作らせたものであり、「明君」は漢の元帝の時に作られたものであり、「明之君」は漢の鞞舞曲(舞踏曲)であり、「鐸舞」は漢の曲であり、「白鳩」は呉の払舞曲であり、「白紵」は呉の舞であり、「子夜」は晋の曲であり、「前渓」は晋の車騎将軍の沈充が作ったものであり、「団扇」は晋の王珉が歌ったものであり、「懊儂」は晋の隆安が初めて謡ったものであり、「長史変」は晋の司徒左長史の王廞が作ったものであり、「丁督護」は晋から宋にかけての曲であり、「読曲」は宋人が彭城王義康のために作ったものであり、「烏夜啼」は宋の臨川王義慶が作ったものであり、「石城」は宋の臧質が作ったものであり、「莫愁」は石城楽から出たものであり、「襄陽」は宋の隨王誕が作ったものであり、「烏夜飛」は宋の沈攸が作ったものであり、「估客楽」は斉の武帝が作ったものであり、「楊叛」は北斉の歌であり、「驍壺」は投壺の楽であり、「常林歓」は宋から梁にかけての曲であり、「三洲」は商人の歌であり、「採桑」は「三洲」の曲から出たものであり、「玉樹後庭花」・「堂堂」は陳の後主が作ったものであり、「泛龍舟」は隋の煬帝が作ったものである。また呉の音楽に「四時歌」・「雅歌」・「上林」・「鳳雛」・「平折」・「命嘯」などの曲があり、その音楽と歌詞はすべて誤っていたり失われており、十のうち一や二すらも伝えられなかった。 思うに唐は太宗・高宗より三大舞が作られたが、入り混じっては燕楽に用いられ、その他の諸曲はある時に出た作であり、純雅ではないとはいえ、なお淫放には至らなかったのだろう。武后の禍に、継いで中宗は物の道理がわからなかったから、もとよりとりたてて言うほどのこともなかった。玄宗が平王であったとき、散楽一部あり、韋后の難を平定して、すこぶる謀に預かった。即位すると、寧王に命じて藩邸の楽を司らせ、太常寺に対抗し、双方を分けて優劣を競わせた。内教坊を蓬莱宮の側に置き、新声・散楽・倡優の伎を居らせ、面白ければ金帛朱紫を賜ったが、酸棗県尉の袁楚客が上疏して厳しく諌めた。 はじめ帝は邸宅を隆慶坊に賜り、坊の南の地を池に変え、中宗は常に舟を泛べてその祥を厭っていた。帝が即位すると、「龍池楽」をつくり、舞者は十二人、芙蓉冠を被り、履(くつ)をはいて、備えるに雅楽を用いたが、ただ磬は用いなかった。「聖寿楽」をつくり、女子に五色の繍襟を着させて舞わせた。また「小破陣楽」をつくり、舞者は甲冑を着用した。また「光聖楽」をつくり、舞者は鳥冠・画衣を着て、以歌王の事績が興ったのをうたった。 また楽を分けて二部とし、堂下に立奏するから立部伎といい、堂上で座奏するから座部伎という。太常寺は座部を管轄して、教えることができない者は立部に隷属し、また教えることができない者は雅楽を習った。 立部伎は八あり、「安舞」、「太平楽」、「破陣楽」、「慶善楽」、「大定楽」、「上元楽」、「聖寿楽」、「光聖楽」である。「安舞楽」・「太平楽」は北周・隋の遺音である。「破陣楽」以下はすべて大鼓を用い、雑楽は亀茲楽を用い、その声は震厲(雷のような大声)である。「大定楽」もまた金鉦を加えた。「慶善舞」は恭しく西涼楽を用い、声は非常に閑雅である。郊廟を祀るごとに「破陣楽」・「上元楽」・「慶善楽」の舞を皆用いた。 座部伎は六あり、「燕楽」、「長寿楽」、「天授楽」、「鳥歌万歳楽」、「龍池楽」、「小破陣楽」であり、「天授楽」・「鳥歌万歳楽」はみな武后の作である。天授というのは年号の名である。鳥歌は、鳥がよく人の言葉で「万歳」と言っていたことがあったから、楽をつくった。「長寿楽」以下は亀茲舞を用い、ただ「龍池楽」だけがそうではなかった。 この時、民間で帝(玄宗)が潞州より京師に帰還し、夜半に挙兵して韋皇后を誅殺したから、「夜半楽」・「還京楽」の二曲がつくられた。帝もまた「文成曲」を作り、「小破陣楽」とともにさらに演奏した。その後、河西節度使の楊敬忠(楊敬述)が「霓裳羽衣曲」十二遍を献上した。だいたい曲が終るときには必ず「唯霓裳羽衣曲」のみで終わりとし、音の高低・緩急はますます緩くした。 帝はまさに神仙の事を喜び、詔して道士の司馬承禎に「玄真道曲」をつくらせ、茅山道士の李会元に「大羅天曲」をつくらせ、工部侍郎の賀知章に「紫清上聖道曲」をつくらせた。太清宮が完成すると、太常卿の韋縚は「景雲曲」・「九真曲」・「紫極曲」・「小長寿曲」・「承天曲」・「順天楽」の六曲をつくり、また商調(異なる調の小曲を組み合わせて)で「君臣相遇楽曲」をつくった。 はじめ、隋に法曲があった。その音は清く雅に近かった。その楽器に鐃・鈸・鐘・磬・幢簫・琵琶があった。琵琶は体が丸く頚があって小さく、「秦漢子」と呼ばれた。思うに絃鼗の遺製で、胡中から出て秦・漢につくられたものであろう。その声は金・石・絲・竹の次をもって作る。隋の煬帝はその音の穏やかなのを嫌い、曲の終わりにまた解音を加えた。玄宗は音律に詳しく、また法曲を偏愛し、座部伎の子弟三百人を選び梨園で教えた。音に誤りがあった者は、帝は必ず気付いて直させた。「皇帝梨園の弟子」と呼ばれた。宮女数百もまた梨園の弟子となり、宜春北院にいた。梨園法部は、さらに小部音声を三十人あまり置いた。帝は驪山に行幸し、楊貴妃の誕生日に小部に命じて長生殿に楽を設け、よって新曲を演奏させた。まだ曲名がなかったが、ちょうどその時に南方から荔枝が献上されたから、名を「荔枝香」といった。 帝はまた羯鼓を好み、寧王は善く横笛を吹き、高位の大臣はこれを慕い、みな喜んで音律を言った。帝は常に「羯鼓は、すべての楽器の領袖で、他の楽器とは比べ物にならない」と言っていた。思うにもとは戎羯の楽で、その音は太蔟調の調整にあわされており、亀茲・高昌・疏勒・天竺部でみな用いており、その音は焦殺(急でせまるような、途切れ途切れになる音)で、特に衆楽とは異なっていた。 開元二十四年(736)、胡部を堂上に昇格させた。天宝の楽曲はすべて辺地の名をつけたことは、涼州・伊州・甘州の類のようなものである。後にまた詔して道調法曲と胡部新声を合作させた。明年、安禄山が反乱し、涼州・伊州・甘州はすべて吐蕃の手に落ちた。 唐の盛時には、おしなべて楽人・音声人・太常寺の雑戸の子弟は太常寺及び鼓吹署に隷属し、全員交代勤務し、すべて音声人と号し、数万人にもなった。 玄宗はまたかつて馬百匹を飾り付けて左右に分け、三重の榻を施し、舞っては盃を傾けること数十曲、立派な男に榻を挙げさせたが、馬は動かなかった。楽工の少年で容姿が優れている者十数人に黄衫・文玉帯を着せて左右に立たせた。千秋節のたびに勤政楼の下で舞い、後に宴を賜って酺宴を設けた。また勤政楼に会した。その日未明、金吾は駕騎を引いて、北衙四軍は儀仗をならべ旗幟を並べ、黄金の甲、背中に刺繍を施した上着を着用した。太常卿が雅楽を引き連れ、部ごとに数十人、その間に胡夷の技を繰り出した。内閑厩使が馬を曲芸させ、五坊使が象・犀を引き連れて、入場して拝舞した。宮人数百人が錦の刺繍の服を着て、幕から出て雷鼓を打ち、「小破陣楽」を演奏したが、毎年このようであった。 千秋節は、玄宗が八月五日に生まれたから、よってその日を節(祝日)の名としたが、君臣が共に荒楽し、当時の流行・風俗は多くその事を伝えて盛事であるとしてきた。その後巨盗が蜂起し、両京は陥落し、これより天下は兵を用いて休まることはなく、離宮の牧苑はついに荒れ果てては埋もれ、ただその余声や遺曲は人間を伝わり、聞く者はそのため悲涼して感動した。思うにその事はたまたま戒めとする価値があったからであろうが、法を考察することはできなかったから、二度とそれを詳細に著すことがなかった。粛宗より以後、すべて生日を節としたが、徳宗は節を立てず、しかし群臣が盃をあげて寿いだだけにとどまった。 代宗は広平王として二京を回復して以来、梨園供奉官の劉日進が「宝応長寧楽」十八曲を献上し、皆宮調であった。 大暦元年(766)、また「広平太一楽」があった。涼州の曲で、もとは西涼が献上したものであった。その声は本宮調で、大遍・小遍があった。貞元年間(785-805)初頭、楽工の康崑崙がその声を琵琶によせて、玉宸殿にて演奏したから、「玉宸宮調」と呼ばれた。諸楽にあわせる場合は黄鍾宮で演奏した。 その後、方鎮は多く楽舞を作曲して献上してきた。河東節度使の馬燧は「定難曲」を献上した。昭義軍節度使の王虔休は徳宗の誕辰(誕生日)を祝うのにいまだに大楽が決まっていなかったから、そこで「継天誕聖楽」を作曲し、宮をもって調とした。徳宗はこれによって「中和楽舞」をつくった。山南節度使の于頔もまた「順聖楽」を献上した。曲が半ばになろうとすると、舞の列は皆伏せ、一人だけがその中を舞い、また女伎をして佾舞(八人八列の六十四人の舞)し、雄健かつ壮妙で、「孫武順聖楽」と呼ばれた。 文宗は雅楽を好み、太常卿の馮定に詔して開元雅楽をもとに「雲韶法曲」と「霓裳羽衣舞曲」をつくらせた。「雲韶楽」は玉磬四虡あり、楽器編成は琴・瑟・筑・簫・篪・籥・跋膝・笙・竽でそれぞれ一人で、登歌は四人、立堂を堂上と堂下に分けて、童子は五人、衣に金の蓮花を縫い付けて導き、舞者は三百人、階下に錦筵を設けて、内宴の時に演奏した。大臣に言って、「笙磬は同音で、低音で唄えば味を忘れる。はからずも音楽というのはこのように到るものなのだ」と述べた。これより臣下で功績が高い者にもたやすく賜った。音楽が完成すると編曲して「仙韶曲」とした。会昌年間(841-846)初頭、宰相の李徳裕は楽工に命じて「万斯年曲」をつくらせて献上した。 大中年間(847-860)初頭、太常寺の楽工は五千人あまり、そのうち俗楽は一千五百人あまりいた。宣宗は群臣に宴を開くたびに、百戯を揃えた。帝は新曲をつくると、女伶(女性の楽人)数十人数百人に教え、真珠や翡翠の飾りがついた衣装を着せて、袂を連ねて歌わせた。その音楽の中には「播皇猷」の曲があり、舞う者は高い冠に四角い靴をはき、儒者の服を着て俯いて小走りし、規則を中とした。また「葱嶺西曲」があり、士女に歌にあわせて足踏みして隊列をなし、その詞に葱嶺の民が河州・湟州の故地で音楽を奏でて唐に帰順するというのがあった。 咸通年間(860-874)、諸王は多く音声・俳優の雑技を習い、天子がその院に行幸すれば、駕を迎えて楽を演奏した。この時、藩鎮も次第にまた「破陣楽」を舞ったが、舞者は絵を描いた甲冑をつけ、旗斾を持つものはわずかに十人のみであった。思うに唐の盛時にあった楽曲の所伝は、唐の末年にいたってともすれば散逸してしまった。 北周・隋と北斉・陳と両地の境界が接しており、そのため歌舞雑に四方の楽がある。唐になると、東夷楽は高麗・百済があり、北狄は鮮卑・吐谷渾・部落稽、南蛮は扶南・天竺・南詔・驃国があり、西戎は高昌・亀茲・疏勒・康国・安国があり、おしなべて十四国の楽、八国の伎があり、十部の楽を列した。 中宗の時、百済楽の工人が散り散りとなり、岐王は太常卿となって、再度この設置を奏上した。しかし音楽の技能に多く欠けていた。舞者は二人、紫の大袖がある裙襦(はだぎ)・章甫の冠・衣履(皮履)である。楽に箏・笛・桃皮觱篥・箜篌・歌があるだけである。 北狄楽はすべて馬上での演奏であり、漢より後は鼓吹し、また軍中楽で、馬上でこれを演奏したから、鼓吹署に隷属していた。後魏の楽府ははじめ北歌があり、または「真人歌」といい、都が代にあった時、宮人に命じて朝夕これを歌わせた。周・隋の時にはじめて西涼楽とともに雑奏した。唐になって現存していたものは五十三章、しかし名がわかっているのは六章だけであった。「慕容可汗」、「吐谷渾」、「部落稽」、「鉅鹿公主」、「白浄王」、「太子企喻」である。その他の辞は多くは可汗の称で、思うに燕・魏の時の鮮卑の歌であろう。隋の鼓吹はその曲があるが同じではなかった。貞観年間(623-649)、将軍の侯貴昌は、并州の人で、代々北歌を伝えてきた。詔して太楽に隷属させたが、訳しても通じることができず、年月が久しいから理解できなかった。金吾が持つ大角は、魏では「簸邏回」といい、工人は「角手」といい、鼓吹に備えた。 南蛮・北狄の習俗は断髪であったから、舞者は縄で首を囲って髪をまとめた。新声があって河西より到れば、胡音と号し、亀茲散楽はすべてこのために次第に衰えていった。 扶南楽は、舞者が二人、朝霞を着て、赤皮の靴を履いた。天竺の伎は自ら手足を断ち、腸や胃を刺すから、高宗はその驚くべき習俗を嫌い、詔して中国に入らせなかった。睿宗の時、婆羅門国が人を献じたが、逆立ちして足で舞い、仰向きになって銛刀をたて、身を伏せて鋒をつけ、顔の下をへてまた背にたて、觱篥の奏者が腹の上に立ち、曲が終わっても傷がなかった。また伏せてその手を伸ばし、二人がこれを踏みつけ、その上で旋回すること百回に及んだ。開元年間(713-741)初頭、その楽はなおも四夷の楽と同列であった。 貞元年間(785-805)、南詔の異牟尋が遣使して剣南西川節度使の韋皋に詣で、夷中の歌曲を献上したいと言ってきた。そこで驃国(ピョー)に音楽を奉らせた。韋皋は「南詔奉聖楽」と作曲し、黄鍾の均を用いた。舞は六成で、楽人は六十四人、賛引二人で、序曲は二十八畳(繰り返し)、羽を持って舞い「南詔奉聖楽」字とした。曲が終わろうとすると、雷鼓を四隅で鳴らし、舞者はみな拝し、金声がなって起きると、羽を持って稽首し朝覲をつかさどった。跪拝するごとに節は鉦鼓を鳴らした。また五均をなしたが、一は黄鍾均で宮調の宮(C音)、二は太蔟均で商調の宮(E音)、三は姑洗均で角調の宮(C♯音)、四は林鍾均で徴調の宮(G音)、五は南呂均で羽調の宮(G♯音)であった。その文義は煩雑で、また記載することができない。徳宗は麟徳殿で閲すると、太常寺の工人に授け、これより殿庭での宴では立奏し、宮中では座奏した。 貞元十七年(801)、驃国(ピョー)の王の雍羌が弟の悉利移(シリー)城王の舒難陀(シュエナンドー)を遣わしてその国の音楽を献上してきた。成都に来ると、韋皋はまたその声調を譜に記録し、またその舞容・楽器を描いて献上した。おしなべて工器は二十二、その楽器は八で、金・貝・絲・竹・匏・革・牙・角で、おおむね皆夷狄の楽器であり、その声曲は役人に属さず、そのため取るに足らないものであったといわれる。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二十一 志第十一 『新唐書』巻二十二 志第十二 巻二十三 志第十三
https://w.atwiki.jp/civilization/pages/117.html
MOD/CIV Gold! 公式 CIV Gold!@CivFanatics 日本語化+α CIV GOLD翻訳板 目次 概要 文明・指導者 概要 現在、有志の手によってCIV Gold!の日本語化+αが鋭意進行中です。 従って、以下の情報はすでに陳腐化している恐れがあります。 文明・指導者 ※日本語化 ver 1.01 (2008/10/25現在)。127文明 ※下記には従来の文明・指導者も含んでいます。 (テンプレ) 指導者 初期技術 UU UB アイヌ民族 指導者 シャクシャイン(カリスマ+防衛) 初期技術 漁業、狩猟 UU 毒弓兵(弓兵) UB プ(穀物庫) アイルランド共和国 指導者 ニオール・ノイアイラック(宗教+創造)、コリンズ(カリスマ+攻撃) 初期技術 神秘、採鉱 UU アイルランド剣士(剣士) UB 出版社(図書館) アステカ 指導者 モンテスマ(攻撃+宗教)、クワイテモック(攻撃+組織) 初期技術 神秘、狩猟 UU ジャガー戦士(剣士) UB 生贄の祭壇(裁判所) アッシリア王国 指導者 アッシュール(拡張+創造) 初期技術 狩猟、採鉱 UU 破城槌(カタパルト) UB イカール マシャルティ(兵舎) アニシナーベク連邦 指導者 ティカムサ(攻撃+組織)、ドンナコナ(勤労+創造) 初期技術 漁業、農業 UU オジブワ族弓兵(弓兵) UB ミデウィウィン(図書館) アパッチ族 指導者 コチシュ(拡張+組織)、ジェロニモ(攻撃+宗教) 初期技術 農業、狩猟 UU コードトーカー(海兵隊) UB ホーガン(市場) アボリジニ帝国 指導者 イェーガン(攻撃+宗教)、ユヌピング(宗教+創造) 初期技術 狩猟、神秘 UU ヌーラ ヌーラ(戦士) UB ボーラリング(モニュメント) アメリカ 指導者 ワシントン(拡張+カリスマ)、ルーズヴェルト(勤労+組織)、リンカーン(哲学+カリスマ) 初期技術 漁業、農業 UU シールズ(海兵隊) UB ショッピングモール(スーパーマーケット) アメリカ先住民 指導者 シッティング・ブル(哲学+防衛) 初期技術 農業、漁業 UU 犬戦士(斧兵) UB トーテムポール(モニュメント) アラビア 指導者 サラディン(防衛+宗教)、ムアー・ウィア1世(帝国+カリスマ)、シェイク・ザイード(拡張+創造) 初期技術 車輪、神秘 UU ラクダ弓兵(騎士) UB マドラッサ(図書館) アルゼンチン共和国 指導者 ペロン(勤労+攻撃) 初期技術 採鉱、神秘 UU 擲弾騎兵(騎兵隊) UB ダンススタジオ(劇場) アルバニア帝国 指導者 ジェルジ・カストリオティ(組織+哲学)、テウタ(拡張+攻撃) 初期技術 神秘、農業 UU アルバニア騎士団(騎士) UB ロイガー(兵舎) アルメニア共和国 指導者 アンドラニク(カリスマ+防衛) 初期技術 車輪、農業 UU フェダーイー(騎兵隊) UB ハシュカー(モニュメント) イエメン王国 指導者 ヤフヤ(防衛+宗教)、マケダ(宗教+創造) 初期技術 狩猟、車輪 UU マキルの騎士(騎士) UB カート市場(雑貨商) イギリス 指導者 エリザベス(哲学+金融)、ヴィクトリア(帝国+金融)、チャーチル(カリスマ+防衛)、ヘンリー8世(帝国+防衛) 初期技術 漁業、採鉱 UU イギリス赤服兵(ライフル兵) UB 証券取引所(銀行) イスラエル国 指導者 ダビデ(宗教+金融)、ベン=グリオン(勤労+攻撃) 初期技術 神秘、車輪 UU マカビー(剣士) UB コリーム(病院) イタリア共和国 指導者 ヴィットーリオ(拡張+組織)、ロレンツォ(創造+カリスマ)、ガリバルディ(哲学+カリスマ)、ムッソリーニ(カリスマ+拡張) 初期技術 漁業、採鉱 UU アルピノ(ライフル兵) UB サッカー競技場(コロシアム) イヌイット族 指導者 ハナデルファ(カリスマ+金融) 初期技術 漁業、狩猟 UU イヌイット族の狩人(戦士) UB イグルー(溶鉱炉) イロコイ連邦 指導者 ハイアワサ(哲学+拡張)、デガナウィダ(組織+カリスマ) 初期技術 漁業、農業 UU モホーク族弓兵(長弓兵) UB イロコイ族長屋(裁判所) インカ 指導者 ワイナ・カパック(勤労+金融) 初期技術 農業、神秘 UU ケチュア戦士(戦士) UB 棚畑(穀物庫) インダス文明 指導者 リシ(宗教+金融) 初期技術 車輪、農業 UU プリーストキング(スパイ) UB インダス水道(水道橋) インド 指導者 アショーカ(宗教+組織)、ガンジー(宗教+哲学) 初期技術 神秘、採鉱 UU 熟練労働者(労働者) UB 霊廟(刑務所) インドネシア共和国 指導者 スハルト(宗教+組織) 初期技術 神秘、漁業 UU コパサス(海兵隊) UB 香辛料庫(穀物庫) ヴァイキング 指導者 ラグナル(金融+攻撃)、カヌート(攻撃+創造) 初期技術 漁業、狩猟 UU ベルセルク(鎚鉾兵) UB 交易所(灯台) ウィグル遊牧帝国 指導者 モユンチュル(攻撃+勤労) 初期技術 農業、狩猟 UU アルタイ族騎兵(騎士) UB 葡萄棚(劇場) ヴェーダ文明 指導者 アジャータシャトル(攻撃+宗教) 初期技術 神秘、農業 UU ヴェーダ戦車兵(チャリオット兵) UB ヴェーダ数学(図書館) ウェールズ 指導者 ルウェリン(拡張+勤労) 初期技術 漁業、狩猟 UU ウェルシュ長弓兵(長弓兵) UB カエル(城) ウクライナ 指導者 ティモシェンコ(勤労+金融)、ユシチェンコ(勤労+防衛)、スヴャトスラフ1世(組織+帝国) 初期技術 神秘、狩猟 UU SBU諜報局員(スパイ) UB カルイーナ・アカデミー(劇場) エジプト 指導者 ハトシェプスト(宗教+創造)、ラムセス2世(宗教+勤労)、クレオパトラ(カリスマ+防衛)、ピアンキ(宗教+勤労)、アメンホテプ3世(哲学+勤労) 初期技術 車輪、農業 UU 重チャリオット兵(チャリオット兵) UB オベリスク(モニュメント) エチオピア 指導者 ザラ・ヤコブ(創造+組織)、セラシエ(哲学+組織) 初期技術 狩猟、採鉱 UU オロモ戦士(マスケット兵) UB ステラ(モニュメント) エトルリア 指導者 ポルセナ(組織+哲学) 初期技術 農業、採鉱 UU エトルリア戦車兵(チャリオット兵) UB ローマ式神殿(裁判所) オーストラリア連邦 指導者 カーティン(勤労+防衛)、メンジーズ(宗教+勤労) 初期技術 採鉱、農業 UU アンザック帝国軍(海兵隊) UB スポーツ研究所(コロシアム) オーストリア王国 指導者 マリア テレジア(攻撃+金融)、フランツ ヨセフ(勤労+組織) 初期技術 採鉱、狩猟 UU 王室親衛隊(ライフル兵) UB オペラハウス(劇場) オクサス文明 指導者 パティーシャ(防衛+金融) 初期技術 農業、狩猟 UU マルガスの監視者(槍兵) UB ディワー(防壁) オスマントルコ 指導者 メフメド2世(拡張+組織)、スレイマン(帝国+哲学) 初期技術 車輪、農業 UU イェニチェリ(マスケット兵) UB ハマム(水道橋) オランダ 指導者 オラニエ公ヴィレム1世(創造+金融)、ベアトリックス(カリスマ+防衛) 初期技術 農業、漁業 UU 東インド貿易船(ガレオン船) UB ダイク(堤防) オルメカ文明 指導者 ポ・ングベ(宗教+創造) 初期技術 農業、狩猟 UU ブラックアクス(斧兵) UB ストーンヘッド(モニュメント) カナダ 指導者 マクドナルド(拡張+組織)、キング(勤労+組織)、ピアソン(創造+勤労)、トルドー(カリスマ+組織)、ジャン(哲学+カリスマ) 初期技術 漁業、狩猟 UU カナダ隊(歩兵) UB 無線基地局(放送塔) カナダ先住民族 指導者 スキドゲイト(宗教+金融) 初期技術 漁業、神秘 UU 刺し網漁船(作業船) UB トーテムポール(モニュメント) カネム-ボルヌ帝国 指導者 アローマ(宗教+勤労) 初期技術 車輪、採鉱 UU アイアンヘルム(マスケット兵) UB オアシス(銀行) ガラティア王国 指導者 レオノリオス(攻撃+拡張) 初期技術 採鉱、農業 UU クレルコイ(剣士) UB ネメトン(モニュメント) カルタゴ 指導者 ハンニバル(金融+カリスマ)、ディド(カリスマ+帝国)、マシニッサ(帝国+哲学) 初期技術 漁業、採鉱 UU ヌミディア騎兵(弓騎兵) UB コトン(港) キューバ共和国 指導者 マルティ(組織+哲学)、カストロ(攻撃+カリスマ) 初期技術 農業、漁業 UU マンビーズ(騎兵隊) UB クラブ・トロピカーナ(コロシアム) ギリシャ 指導者 アレクサンドロス(哲学+攻撃)、ペリクレス(哲学+創造)、フィリップ2世(帝国+勤労)、レオニドス1世(組織+防衛) 初期技術 漁業、狩猟 UU ファランクス(斧兵) UB オデオン(コロシアム) クシャーナ朝 指導者 カニシカ(攻撃+金融) 初期技術 神秘、狩猟 UU ノマドホーデ(弓騎兵) UB ガンダーラスクール(劇場) クメール 指導者 スーリヤヴァルマン2世(拡張+創造)、ジャヤーヴァルマン(帝国+宗教) 初期技術 狩猟、採鉱 UU クメール戦象(軍用象) UB バライ(水道橋) クロアチア独立国 指導者 トミスラヴ(哲学+宗教) 初期技術 神秘、農業 UU クロアチア機甲旅団(機械化歩兵) UB キングスタワー(防壁) ケルト 指導者 ブレヌス(宗教+カリスマ)、ブーディカ(カリスマ+攻撃) 初期技術 狩猟、神秘 UU ガリア戦士(剣士) UB ダン(防壁) コイサン族 指導者 ウィトブーイ(カリスマ+防衛) 初期技術 神秘、狩猟 UU コイサンレイダー(槍兵) UB ラウンドハウス(穀物庫) ゴート王国 指導者 アラリック1世(攻撃+防衛) 初期技術 狩猟、神秘 UU ゴシック騎兵(弓騎兵) UB プルンダー(刑務所) コンゴ共和国 指導者 ニミ(拡張+攻撃) 初期技術 神秘、狩猟 UU フィダルゴ(剣士) UB ンキシ(病院) サーミ族 指導者 スヴァーシ(拡張+創造) 初期技術 漁業、神秘 UU ルーン・ドラマー(鎚鉾兵) UB ドゥオッチ(溶鉱炉) シャイエン族 指導者 ルイ(攻撃+組織) 初期技術 狩猟、神秘 UU 犬戦士(斧兵) UB トレードフォーツ(市場) ジャマイカ 指導者 モデファート(拡張+金融)、バスマンテ(カリスマ+組織) 初期技術 漁業、農業 UU ド・グラス戦艦団(フリゲート艦) UB タバーン(雑貨商) シュメール 指導者 ギルガメッシュ(防衛+創造) 初期技術 農業、車輪 UU 死鳥隊(斧兵) UB ジッグラト(裁判所) ジンバブエ共和国 指導者 ムトタ(組織+金融) 初期技術 神秘、狩猟 UU ロズウィ(鎚鉾兵) UB ジンパ(城) スウェーデン王国 指導者 カール12世(攻撃+勤労) 初期技術 採鉱、漁業 UU カロリン(マスケット兵) UB 国立銀行(銀行) ズールー 指導者 シャカ(攻撃+拡張)、セテワヨ(攻撃+組織) 初期技術 農業、狩猟 UU インピ(槍兵) UB イカンダ(兵舎) スー族 指導者 シッティング・ブル(哲学+防衛)、タ・シェンカ・ウィトコ(宗教+創造) 初期技術 神秘、狩猟 UU ブルーレ族騎兵(騎士) UB セブン・ファイヤ(裁判所) スキタイ王国 指導者 アタイアス(攻撃+創造) 初期技術 狩猟、農業 UU スキタイ騎兵(弓騎兵) UB スキタイ式厩舎(厩舎) スコットランド王国 指導者 ロバート・ブルース(勤労+組織)、メアリー スチュワート(勤労+宗教) 初期技術 狩猟、神秘 UU ハイランダー(剣士) UB メルカト・クロス(市場) スペイン 指導者 イザベル(宗教+拡張)、フランコ(宗教+帝国) 初期技術 漁業、神秘 UU コンキスタドール(胸甲騎兵) UB 城塞(城) セレウコス朝 指導者 セレウコス(拡張+帝国) 初期技術 採鉱、車輪 UU 銀盾隊(剣士) UB セレウケイオン(裁判所) ソマリア共和国 指導者 ウスマン(哲学+組織) 初期技術 漁業、神秘 UU グールワダヤール(SAM歩兵) UB 解放戦線(兵舎) ソンガイ帝国 指導者 アスキア(宗教+金融) 初期技術 車輪、神秘 UU マンデカルー(騎士) UB ポロ(裁判所) タイ王国 指導者 モンクット(創造+哲学)、ラームカムヘーン(拡張+勤労) 初期技術 神秘、農業 UU 戦象兵(軍用象) UB ホー・トライ(図書館) ダキア 指導者 デケバルス(カリスマ+拡張) 初期技術 採鉱、神秘 UU ドゥラプナイ(斧兵) UB ダキア河港(港) チェコスロバキア共和国 指導者 マサリク(哲学+組織) 初期技術 採鉱、農業 UU レギオン(ライフル兵) UB ラジオ放送塔(放送塔) チェロッキー国 指導者 オセオーラ(哲学+宗教) 初期技術 漁業、農業 UU チェロキー族戦士(戦士) UB ディダナウィシギ(病院) チベット王国 指導者 ソンツェン・ガンポ(宗教+勤労) 初期技術 神秘、採鉱 UU ドブ ドブ(剣士) UB ゴンパ(大学) チリ共和国 指導者 オイギンス(勤労+創造) 初期技術 採鉱、神秘 UU カラビニエ(機関銃兵) UB 銅工場(工場) デンマーク王国 指導者 マルゲレーテ1世(カリスマ+勤労)、クリスチャン4世(拡張+創造) 初期技術 漁業、狩猟 UU ガード軽騎兵(胸甲騎兵) UB マナーハウス(城) ドイツ 指導者 フリードリッヒ(哲学+組織)、ビスマルク(拡張+勤労) 初期技術 狩猟、採鉱 UU パンツァー(戦車) UB 総合組立工場(工場) トゥピナンバー族 指導者 クニャンベベ(防衛+攻撃) 初期技術 漁業、狩猟 UU タモイオ(斥候) UB マロカ(裁判所) トーゴ共和国 指導者 エイヤデマ(攻撃+金融) 初期技術 狩猟、神秘 UU トーゴ機甲歩兵(機械化歩兵) UB 焼き絵工房(溶鉱炉) トルテカ王国 指導者 トビルツィン(宗教+防衛) 初期技術 採鉱、農業 UU コヨーテ戦士(鎚鉾兵) UB 金星の神殿(モニュメント) トロイ 指導者 ヘクトル(防衛+帝国) 初期技術 車輪、狩猟 UU アポロンの守備兵(長槍兵) UB アゴラ(市場) ナイジェリア連邦共和国 指導者 オバサンジョ(金融+カリスマ) 初期技術 農業、狩猟 UU NA長距離砲(長距離砲) UB ジュジュ・ホール(劇場) ナチス・ドイツ帝国 指導者 フリードリッヒ(哲学+組織)、ビスマルク(拡張+勤労)、ヒトラー(攻撃+帝国)、アドルフ・ヒトラー(攻撃+創造)、アドルフ ヒトラー(攻撃+哲学)、コンラート・アデナウアー(勤労+防衛)、ロンメル(攻撃+組織)、パーペン(防衛+拡張) 初期技術 狩猟、採鉱 UU パンツァー(戦車)/メッサーシュミット BF109(メッサーシュミット BF109)/フォッケ・ウルフ Fw190(フォッケ・ウルフ Fw190)/パンツァー(パンツァー)/タイガー II型(タイガー II型)/タイガー I型(タイガー I型)/パンツァー ?型(パンツァー ?型)/パンツァー ?型(パンツァー ?型)/パンツァー I型(パンツァー I型)/エレファント(エレファント)/Waffen SS(Waffen SS)/戦艦ビスマルク(駆逐艦)/ユンカース Ju88(ユンカース Ju88)/ハインケル He219(ハインケル He219)/Sd.Kfz 251(Sd.Kfz 251)/ホルテン Ho229(ホルテン Ho229)/チュートン騎士(チュートン騎士)/ヤクトハンター(ヤクトハンター)/U-Boat(潜水艦)/火炎放射兵/フォッケ・アハゲリス Fa223(フォッケ・アハゲリス Fa223) UB ナチス軍総合組立工場(工場) ニュージーランド 指導者 クラーク(組織+創造) 初期技術 神秘、採鉱 UU ディガー(歩兵) UB 羊毛刈り小屋(雑貨商) ヌビア国 指導者 タハルカ(攻撃+勤労)、アマニシャケト(金融+防衛)、シャバカ(攻撃+宗教) 初期技術 車輪、農業 UU メジャイ族弓兵(弓兵) UB クシテピラミッド(天文台) ネズパース族 指導者 ヒンマトン=ヤラクティット(哲学+攻撃) 初期技術 漁業、狩猟 UU ウォーチーフ(胸甲騎兵) UB ハッチェリー(灯台) パイユート族 指導者 ウォヴォカ(宗教+拡張) 初期技術 神秘、農業 UU ゴーストダンサー(探検家) UB ペヨーテ(病院) パイレーツ 指導者 ヘンリー・モーガン(金融+攻撃)、アン・ボニー(組織+カリスマ) 初期技術 漁業、狩猟 UU パイレーツガレオン(ガレオン船)/ダーク・セイル号(私掠船) UB 隠れ港(港)/海賊城砦(宮殿)/ブルワリー(穀物庫) パキスタン共和国 指導者 ムシャラフ(攻撃+組織)、ブットー(哲学+宗教) 初期技術 狩猟、神秘 UU SSG(海兵隊) UB シャリマール庭園(図書館) バクトリア王国 指導者 ディオドトス(金融+勤労) 初期技術 採鉱、狩猟 UU バクトリア槍兵(槍兵) UB バクトリア国ミント(溶鉱炉) バタヴィア族 指導者 ユリウス キウィルス(組織+攻撃) 初期技術 漁業、狩猟 UU バタヴィア槍騎兵(弓騎兵) UB バタヴィア厩舎(厩舎) バビロニア 指導者 ハンムラビ大王(組織+攻撃)、ネブカドネザル2世(勤労+攻撃) 初期技術 農業、車輪 UU バビロニア弓兵(弓兵) UB 庭園(コロシアム) ハンガリー王国 指導者 アールパード(攻撃+拡張)、イシュトヴァーン1世(攻撃+宗教) 初期技術 狩猟、農業 UU フサール騎兵(騎兵隊) UB ハンガリー式ユルト(厩舎) ピクト王国 指導者 カルガクス(カリスマ+防衛) 初期技術 狩猟、農業 UU クルースニ(剣士) UB クラノグ(港) ビザンチン 指導者 ユスティニアヌス1世(宗教+帝国)、テオドラ(宗教+哲学)、バシリウス(拡張+勤労) 初期技術 車輪、神秘 UU カタフラクト(騎士) UB ヒッポドローム(劇場) ヒッタイト帝国 指導者 シュッピルリウマ1世(宗教+拡張) 初期技術 狩猟、車輪 UU 三人乗り戦車(チャリオット兵) UB 神の柱(モニュメント) フィンランド 指導者 ケッコネン(金融+勤労)、マンネルハイム(防衛+組織) 初期技術 狩猟、漁業 UU イェーガー(歩兵) UB サウナ(コロシアム) フェニキア帝国 指導者 ヒラム1世(勤労+金融) 初期技術 漁業、神秘 UU 古代ガレー船(ガレー船) UB 染料施設(税関) ブラジル連邦共和国 指導者 ドン・ペドロ2世(拡張+創造) 初期技術 神秘、農業 UU プラシーニャ(歩兵) UB サッカー競技場(コロシアム) フランス 指導者 ルイ14世(勤労+創造)、ナポレオン(組織+カリスマ)、ド・ゴール(勤労+カリスマ)、リシュリュー(宗教+カリスマ)、ジャンヌ・ダルク(宗教+カリスマ) 初期技術 車輪、農業 UU 銃士隊(マスケット兵) UB サロン(天文台) ブリヤード共和国 指導者 ジーザー(哲学+宗教) 初期技術 農業、狩猟 UU 青狼戦士(斧兵) UB ユルト(コロシアム) ブルガリア共和国 指導者 スタンボロフ(金融+組織) 初期技術 狩猟、神秘 UU ブルガール騎兵(弓騎兵) UB チタリシテ(図書館) ベトナム社会主義共和国 指導者 ホーチミン(哲学+組織)、チュン(カリスマ+攻撃) 初期技術 漁業、農業 UU ベトナム人民軍(歩兵) UB 青空市場(市場) ベネズエラ=ボリバル共和国 指導者 ボリヴァル(拡張+カリスマ) 初期技術 神秘、車輪 UU リベルタドール(騎兵隊) UB チュアオ(市場) ペルシャ 指導者 大キュロス(カリスマ+帝国)、ダレイオス1世(組織+金融) 初期技術 農業、狩猟 UU 不死隊(チャリオット兵) UB 薬屋(雑貨商) ポーランド共和国 指導者 カジミェシ3世(勤労+組織)、ソビェスキ3世(拡張+攻撃)、ワレサ(組織+金融) 初期技術 狩猟、農業 UU 重騎兵(騎士) UB ファブリカ(工場) ポリネシア 指導者 カメハメハ(攻撃+拡張)、サラマシナ(組織+創造) 初期技術 神秘、漁業 UU 航海カヌー(ガレー船) UB ポリネシア流漁業(灯台) ポルトガル 指導者 ジョアン2世(帝国+拡張)、アフォンソ1世(攻撃+拡張) 初期技術 漁業、採鉱 UU キャラック船(キャラベル船) UB フェイトリア(税関) マオリ族 指導者 ヘキ(攻撃+カリスマ) 初期技術 狩猟、漁業 UU ワカ(ガレー船) UB パ(城) マサイ族 指導者 ムバティアン(宗教+組織)、レナナ(哲学+宗教) 初期技術 神秘、狩猟 UU モラン(戦士) UB グループ牧場(穀物庫) マジャパヒト王国 指導者 ガジャ・マダ(宗教+防衛) 初期技術 神秘、漁業 UU シラット・アデプト(剣士) UB カイトラトリビュート(裁判所) マダガスカル王国 指導者 ナンポイナ(拡張+組織) 初期技術 漁業、採鉱 UU メナランバ(槍兵) UB サレギーホール(劇場) マヤ 指導者 パカル2世(金融+拡張) 初期技術 採鉱、神秘 UU ホルカン(槍兵) UB 球技場(コロシアム) マリ 指導者 マンサ・ムサ(宗教+金融) 初期技術 車輪、採鉱 UU スカーミッシュ兵(弓兵) UB ミント(溶鉱炉) ミノア文明 指導者 サトゥル1世(創造+金融) 初期技術 漁業、農業 UU ミノア式三段櫂船(三段櫂船) UB パレスセンター(城) メキシコ合衆国 指導者 カルデナス(哲学+カリスマ)、イダルゴ(勤労+宗教) 初期技術 車輪、採鉱 UU ルラレス(胸甲騎兵) UB チャレアーダアリーナ(コロシアム) モロッコ王国 指導者 ハッサン2世(防衛+金融) 初期技術 神秘、狩猟 UU ムーア人騎士(騎士) UB ベルベル人牧草地(穀物庫) モンゴル 指導者 チンギス・ハーン(攻撃+帝国)、フビライ・ハーン(攻撃+創造) 初期技術 車輪、狩猟 UU ケシク(弓騎兵) UB ゲル(厩舎) ヤマノミ族 指導者 コペナワ(防衛+カリスマ) 初期技術 漁業、狩猟 UU ワユ・フー(弩兵) UB シャボノ(穀物庫) リトアニア大公国 指導者 ミンダウガス(金融+拡張) 初期技術 採鉱、狩猟 UU ヴィーティス(騎士) UB セミナリー(大学) ルーマニア公国 指導者 クザ(組織+金融)、ミハイ(攻撃+カリスマ)、ヴラド3世(防衛+攻撃) 初期技術 農業、神秘 UU 山岳猟兵(海兵隊) UB アルマーリェ(溶鉱炉) ローマ 指導者 ユリウス・カエサル(組織+帝国)、アウグストゥス(帝国+勤労)、マルクス(哲学+防衛) 初期技術 漁業、採鉱 UU プラエトリアン(剣士) UB 公共広場(市場) ロシア 指導者 ピョートル(哲学+拡張)、エカテリーナ(創造+帝国)、スターリン(勤労+攻撃)、レーニン(拡張+勤労)、イヴァン?世(攻撃+拡張)、プーチン(金融+組織) 初期技術 狩猟、採鉱 UU コサック兵(騎兵隊) UB 研究施設(研究所) 仰韶文化 指導者 禹(勤労+創造) 初期技術 農業、狩猟 UU 園芸家(労働者) UB 粟畑(穀物庫) 神聖ローマ帝国 指導者 シャルルマーニュ(帝国+防衛)、カール5世(組織+帝国) 初期技術 神秘、狩猟 UU ランツクネヒト(長槍兵) UB ラートハウス(裁判所) 西インド諸島 指導者 パターソン(勤労+組織)、ウィリアムズ(哲学+組織) 初期技術 漁業、狩猟 UU 中米防衛軍(海兵隊) UB クリケットグラウンド(コロシアム) 中国 指導者 始皇帝(勤労+防衛)、毛沢東(拡張+防衛)、康煕(創造+帝国)、太宗(創造+帝国) 初期技術 農業、採鉱 UU 連弩兵(弩兵) UB 楼閣(劇場) 朝鮮 指導者 王建(金融+防衛)、金正日(防衛+組織) 初期技術 漁業、狩猟 UU 火車(カタパルト) UB 書院(大学) 縄文王国 指導者 神武(宗教+創造) 初期技術 農業、狩猟 UU 縄文戦士(戦士) UB 土器工房(溶鉱炉) 南アフリカ共和国 指導者 ボータ(勤労+防衛)、マンデラ(哲学+カリスマ) 初期技術 漁業、採鉱 UU ボーア軍コマンド(騎兵隊) UB ブラーイ(スーパーマーケット) 日本 指導者 徳川家康(防衛+攻撃)、裕仁(帝国+防衛) 初期技術 漁業、車輪 UU 侍(鎚鉾兵) UB シェール油精製施設(火力発電所)
https://w.atwiki.jp/awata/pages/51.html
(01)太祖の建隆三年(962)夏四月、太常寺博士の聶崇義が『三礼図』を上呈した。 これ以前、周の世宗の時代、禘祭を太廟で行おうとしたことがあったが、「宗廟に祧室がなければ、禘祭と祫祭はできない」と言うものがいた。崇義は次のように弁駁した。その概略に曰う―― 魏の明帝は景初三年正月に崩じ、五年二月に祫祭を行い、明年にまた禘祭を行っております。これ以後、五年に一度、禘祭を行っております。魏は武帝が太祖ですから、明帝でようやく三人目の皇帝となります。〔太廟の〕位牌を毀ってから禘祫の祭を行うことなどありませんでした。これが第一の証拠です。 宋の文帝の元嘉六年、祠部が十月三日に大祫の祭を行うことを決定したとき、太学博士は「禘祫の祭は、三年に一度、五年に二度」と論じております。宋は高祖から文帝に至るまで、三人の皇帝しかおりません。位牌を毀ってから禘祫の祭を行うことなどありませんでした。これが第二の証拠です。 梁の武帝は謝広の発議を用い、三年に一度禘祭を行い、五年に一度祫祭を行い、それを大祭と呼んでおりました。夏に禘祭を行い、冬に祫祭を行ったのです。梁の武帝は王朝の創始者ですから、禘祫の祭は四代前の親を後から尊んだにすぎません。祭りというものは、子孫が祖先に感謝を示すものです。時が流れ季節が移ると、親を憶う子の心が生じます。ですから供養には〔四時の〕第一月を用い、祭りには第二月を用い、四時の祭りの間に禘祫の祭を行って、〔太廟の位牌を〕昭穆に並べる。――これが礼のあり方です。宗廟に〔位牌が〕揃っているかどうかは、関係ないことです。これが第三の証拠です。 崇義の主張に従った。世宗は郊廟で用いる祭玉について調べさせた。そこで崇義は三礼を研究し、この時(太祖の建隆三年)になって上奏した。帝はそれを見て喜び、詔を下した。―― 礼の器具や図は代々受け継がれてきたものだが、時間の経過にともなって誤りも生じるものである。聶崇義は、太学に奉職し、儒者の学問を修め、故実を研究し、〔伝来の〕誤りを是正し、職責を全うしており、まことに讃美すべきである。崇義には労に応ずる褒美を与えよ。上呈した『三礼図』については、太子詹事の尹拙に命じ、儒学者三五人とともに、さらなる調査をさせよ。より正確詳細を求めるべく、〔聶崇義の意見と〕異同があれば、適否を明らかにせよ。 (02)尹拙が『三礼図』を駁正すると、聶崇義は再び経文を引いて弁解しので、工部尚書の竇儀に裁定させた。儀は次のように報告した。 謹んで考えますに、聖人は礼を作り、それを永久の未来に伝えましたが、儒者が経書に拠って伝えたところには、時として異同が生じました。年月が〔聖人から〕遠くなればなるほど、図絵に欠落が生じ、矛盾は徐々にひどくなり、確かな根拠がなくなります。聶崇義は伝来の学説を研究し、礼経に心を潜め、旧図に比べてまことに斬新な見解をもっております。尹拙は陛下の命令を受け、従来の成果を十分に尽しております。尹拙の駁論と聶崇義の反論文の各四巻。臣が再調査した上、適宜に是正増損を加え、注釈を施したもの、全十五巻。以上を上呈いたします。 詔してこれを頒布させた。 拙と崇儀は再び祭玉と鼎釜の異同について申し立てたので、中書省に意見をまとめさせた。吏部尚書の張昭らは次のように上奏した。 聶崇義の意見には、「天を祭るときは、九寸で中央に穴のある円形状の蒼璧を用いる。地を祭るときは、八寸で中央に穴のない黄琮(八角柱)を用いる。圭・璋・琥は、いずれも長さ九寸」とあります。崇義が言うには、周の建徳三年に田敏らと、『周官』玉人の職および阮諶・鄭玄の旧図を調査したとき、この制度が載っていた、と。 我々の調査によりますと、『周官』玉人の職には、ただ「璧琮は九寸、瑑琮は八寸」、および「璧の直径は度尺、璧の穴は三尺、これを単位とする」との文があるだけで、蒼璧・黄琮についての記載はありません。注文には『爾雅』の「辺が穴に倍する」ことが引かれておりますが、これは「璧の直径は度尺」に対する注で、蒼璧についてのものではありません。また、鄭玄は自身が『周礼』に注を施したときには尺寸を記載しておりません。それが別に画図を作ったとき、かえって経文に違えて異説を立てるでしょうか。 『四部書目』には『三礼図』十二巻があります。これは隋の開皇年間に礼官に編修させた勅撰物です。その図の第一と第二の表題には「梁氏」とあり、第十の後題には「鄭氏」とあります。梁氏や鄭氏の身分は不明であるとされています。現在、書庫に『三礼図』があり、その表題にも「梁氏」「鄭氏」とありますが、身分は書かれておりません。後世、梁正なるものが――彼は前代の図記を集めて研究したのですが――、『三礼図』について「陳留の阮士信は、礼学を穎川の綦冊君に受け、その学説を用いて『礼図』三巻を作った。しかし礼経の文を調べず、漢代の礼論を引いており、鄭君(鄭玄)と相違がある。わたくし正は、〔三巻の本図を〕つづめて二巻とした」と記しております。文中にいう阮士信は諶のことです。梁正の言う通りならば、諶に誤釈のあったことも明らかです。さらに三巻の『礼図』を二巻につづめたのなら、現行の『礼図』の中にあるはずですが、祭玉を改めたとする説はありません。 我々が検討したところ、周公が礼を定め、叔孫通が再定して以後、礼に緯書が生まれ、漢代の諸儒にも極めて多くの著述がありました。しかし祭玉の尺寸について調査しても、どこにも書かれておりません。魏晉以後、鄭玄や王肅の学問にはそれぞれに弟子がおり、三礼・六経についても随分研究されました。しかしそれらの書物を調べても、祭玉の尺寸については書かれておりません。我々が画図本書を調査したところ、周公所説の経文には尺寸の記述がありませんでした。もし現在伝わる尺寸が後世の人間の誤釈であるならば、周の図に入れてよいものでしょうか。崇義崇らは諸侯が入朝したときに天子や夫人に献納される琮・璧のことを祭玉とし、それに「直径の尺度」や「辺と穴」の言葉を結びつけ、強いて尺寸を作っております。古今の大礼について、誤解に順いながら誤解を正すというのは、道理として通じません。 また尹拙の学説ですが、礼神の六玉について、拙みずから言うところによれば、梁の桂州刺史の崔霊恩の手になる『三礼義宗』の所説――昊天および五精帝の圭・璧・琮・璜はどれも長尺二寸と十二時に倣ったものである。地を祭る琮は、長さ十寸、地の数に倣ったものである―― と、『白虎通』の所説――中が四角で外が円形のものを璧といい、中が円形で外が四角のものを琮という――を根拠としたものです。崇義はこれを批判して、「霊恩には周公の才もなければ周公の位もない。一王朝の撰述でもって、直ちに六玉の闕文を補うなどは、最も礼に合致しない」と言っております。 我々が考えるところによりますと、劉向が『洪範』について論じ、王通が『元経』を作ったのは、決して聖人になぞらえて上公の位に居ろうとしたものでなく、教化に有益であれば、またそれも美事だとしたまでです。我々は霊恩の著書から古訓を案じ、祭玉が十二の数である理由を考えてみました。 天に十二次あり、地に十二辰あり、日に十二時あり、封山の玉牒(玉製のふだ)には十二寸あり、圜丘の籩豆には十二列あります。「天子は鎮圭で外を守り、王后は大琮で内を守る」ときの鎮圭や大琮は十二寸です。王者が宗廟を守るために用いる祼圭は十二寸となっております。君主みずから行う〔天地を祭る〕郊祭では、壇に登って酒を献じ、大裘を着込み、大圭を夾んで祭を行います。そこで〔聶崇義のいうように〕十二寸の圭を手に九寸の璧を献じるとなると、これでは宗廟に献ずるとき用いる〔十二寸の〕祼圭より短くなります。天を父とし地を母としているのですから、人情として穏当ではありません。 つまり霊恩の議論は道理として誤っておりません。そのため『義宗』が世に出てからというもの、梁・陳・隋・唐を経た四百年、礼に言及するものは、『義宗』を規準として来たのです。今の『五礼精義』『開元礼』『郊祀録』はいずれも『義宗』を規準としております。近代の晉漢両朝は、なお旧制に依拠しておりました。周の顕徳年間、田敏らは妄りに穿鑿を加え、勝手に改変を加えました。唐の貞観以後、みたび五礼の大改訂がありましたが、いずれも隋朝の典故に依拠しておりました。礼制の諸規定を改訂することがあっても、祭玉を改めることはありませんでした。 以上から、『白虎通』『義宗』『唐礼』の制度を規準とすべきであると進言いたします。 また尹拙は旧図には釜が画かれているが、聶崇義は釜を削除して鑊を画いていると言っております。我々が旧図を調査したところ、いずれも釜の図はあるものの、鑊の図はありませんでした。調べてみますと、『易』の説卦伝には「坤を釜と為す」とあり、『詩』にも「維れ錡及び釜」や「之が釜鬵を漑(そそ)がん」とあり、『春秋伝』(左伝)にも「錡・釜の器」とあり、『礼記』にも「黍を燔(や)き豚を捭(さ)く」とあり、『礼記』の文は「古にはまだ甑釜がなかったので、黍を燔き豚を捭いて祭った」と解釈されています。釜の来歴は古いのです。ですから『礼図』にも入っているのです。 今、崇義は『周官』の祭祀に「鼎鑊に省す」「鼎鑊に供す」とあり、また『儀礼』に「羊鑊」「豕鑊」の文があることから、「釜を画くよりは鑊を画くべきである」と言っております。他の経書に釜の記載があるのですから、確かに削除すべきではありません。しかし『周礼』『儀礼』に「鑊」が記載されているのですから、両者ともに図示すべきでしょう。また諸家の祭祀の画と現行の礼制とを調査したところ、大祀の前の一日に光禄卿が鼎鑊を視察しております。鑊の図を鼎の図の下に画くべきです。 詔を下し、これに従った。 (03)乾徳元年(963)二月、太常の竇儼が訴えた。 三王五帝が王朝を創設したとき、礼や楽は引き継ぎませんでした。偉大なる聖宋が天子の位に立った以上、宋朝一代の楽を立てねばなりません。楽章を新たな言葉に変え、古くからの道理に従われますように。 これに従い、儼に任せた。 儼は周の楽の中、文舞である「崇徳」の舞を「文徳」の舞に改め、武舞である「象成」の舞を「武功」の舞とした。楽章の十二の「順」を改めて十二の「安」とした。これは「治世の音は安くして以て楽しむ」から取ったものである。天を祭るときには「高安」を、地を祭るときには「静安」を、宗廟には「理安」を、天地宗廟の登歌には「嘉安」を、皇帝の臨軒には「隆安」を、王公の出入には「正安」を、皇帝の飲食には「和安」を、皇帝の受朝と皇后の入宮には「順安」を、皇太子の軒県出入には「良安」を、正冬(十一月)の朝会(皇帝謁見)には「永安」を、郊廟で俎豆を用いるときには「豊安」を、祭享・酌献・飲福・受胙には「禧安」を、文宣王と武成王を祭るときには「永安」を、籍田や先農の祭りには「静安」を用いた。 五月、有司から「僖祖の文献皇帝の室(宗廟の部屋)では「大善」の舞を奏し、順祖恵元皇帝の室では「大寧」の舞を奏し、翼祖簡恭皇帝の室では「大順」の舞を奏し、宣祖昭武皇帝の室では「大慶」の舞を奏したい」と言ってきたので、それに従った。 翰林学士承旨の陶穀らは、詔を奉じて感生帝を祭るときの楽章と曲名を撰定した。降神(神を迎える。以下、祭礼の順序)には「大安」を、太尉の礼には「保安」を、玉幣を献納するときには「慶安」を、司徒の奉俎には「咸安」を、酌献には「崇安」を、飲福(神に酒肉を捧げ終わること)には「広安」を用い、亜献には「文安」を、送神には「普安」を用いた。 五代以来、楽工(楽人)に不備があったので、この歳の秋に行われる郊享の礼(天地と山川百神を祭る礼)のため、開封府の楽工八百三十人を選び、臨時に太常寺で雇い、鼓の打ち方や笛の吹き方を教えさせた。 (04)四年(966)春、拾遺の孫吉を遣わし、成都にあった孟昶の宮県(楽器の配置のさま)を京師に取り寄せた。太常に調査させたところ、楽器が音律に合っていないことが分ったので破棄させた。 (05)六月、判太常寺の和峴はこう訴えた。――「大楽署の旧制では、宮県の三十六柱を庭に設け、登歌(楽器。大朝会に用いる)の両架を殿上に設けておりました。有司に命じて造らせて下さい。また徐州に泗川の石を持ってこさせ、それを磬(打楽器)の材料に充てることをお許し下さい。」これを許可した。 これ以前、晉の開運末年に礼楽の器具が失われた。ここに至り、ようやく有司に命じて二舞十二案の制度を整えさせた。二舞郎と引舞一百五十人については、教坊(楽工などを管理する部署)の開封所属の楽工を調査し、楽工の子弟を選び、楽隊を整えた。冠や衣服は旧制に準じた。鼓吹十二案の制度は、十二の氈牀を設け、熊羆の踊り立った形状を作って下を承けた。案ごとに大鼓・羽葆鼓・金錞を各一人、歌・簫・笳を各二人、総計九人を揃えた。冠服は引舞と同じにした。 (06)十月、峴はまた上奏した。―― 楽器の中に叉手笛があります。楽工が調査したところ、どれも雅音(正しい音楽)と相応しておりました。調べてみますと、唐の呂才は「白雪」の琴の歌を作り、馬滔は「太一」の楽を用い、当時にあっては宮県の席に与り得ました。ましてやこの笛は十二旋宮に相当しているのですから、八十四調に通すこともできます。形状は雅笛に似て、それより小さく、長さ九寸。黄鐘管に等しく、左に四つ右に二つ、穴が六つあります。楽人が手に取るときは、両手を交わらせ、拱揖(両手を前に組んで会釈すること)したようになります。拱宸管と名づけたいと思います。十二案・十二編磬・登歌両架に一つずつ設置することを法規に定めて下さい。 これを許した。 (07)太祖はいつも雅楽は音が高くて悲哀な感じが漂い、中和に合っていないと感じていた。王朴・竇儀は音楽に詳しい人物であったが、両人とも既に亡くなっていた。そこで和峴に原因を調べさせた。峴は「朴が定めた律呂の尺は、古制である西京銅望臬の石尺に比べて四分短くなっております。音が高いのはこれが理由です」と答えた。そこで古法により、別に新尺を作らせ、律呂を定めさせた。これ以後、雅音は和やかで伸びやかになった。これについては〔『宋史』の〕「律暦志」に記載されている。 (08)国初以来、〔帝が〕正殿に臨み朝賀を受けるときには宮県を用い、別殿で群臣の祝寿に臨むときには教坊楽を用いていた。この年の冬至、帝は乾元殿に臨んで慶賀を受けると、群臣は大明殿に詣でて長寿を祝ったが、始めて雅楽・登歌の二舞を用いた。 (09)この月(十月)、和峴がまた上奏した。―― 郊廟の殿庭では「文徳」と「武功」の舞を用いております。しかし舞人の陣容が武功・文徳を表しておりません。古訓によりますと、禅譲によって天下を得たものは、まず文舞を用い、放伐によって天下を得たものは、まず武舞を用います。陛下は禅譲を受けたのですから、さきに文舞を用いるべきです。 『尚書』によりますと、舜が驍の禅譲を受けたとき、「玄徳升聞し、乃ち命ずるに位を以てす(奥深い徳が天朝に聞こえ、天子の位を命じた)」とあります。殿庭で用いる文舞を「玄徳升聞」の舞に改められますよう請い願います。その舞人は唐の太宗の舞図に拠って、八佾の数(六十四人)の倍である一百二十八人とし、それを八行に分け、行ごとに十六人とします。みな履物で、払(塵払いの器具)を執り、袴褶を着け、進賢冠をかぶります。引舞は二人、各々五采纛(舞の道具)を持ちます。その舞状・文容・変数については、いくつか改変を加えます。 さらに陛下は神武で以て天下を統一されたのですから、〔文舞に〕続いて武舞を用いるべきです。『尚書』によりますと、周の武王は「一たび戎衣して天下大いに定まる(一たび軍服を身にまとうと、天下は統一された)」とあります。〔従来の武舞を〕「天下大定」の舞に改められますよう請い願います。舞う人の数や行例については、全く文舞と同じにします。舞人は黄金の鎧をまとって戟を持ちます。引舞は二人、各々五采旗を持ちます。舞は六舞です。一変は六軍の挙兵を象り、二変は上党平定を象り、三変は淮揚平定を象り、四変は荊胡の帰復を象り、五変は邛蜀の帰順を象り、六変は六軍の帰還とその整備を象ります。また別に舞曲と楽章を撰定します。鐃鐸・雅相・金錞・鼗鼓、そして二舞などを引く工人の衣冠は楽令に拠ります。「文徳」「武功」の舞は郊廟でもと通り行って下さい。 また唐の貞観四年のことを調べてみますと、景雲(瑞祥の一つ)が現れ、黄河が透き通ったとき、張文収は古代の「朱雁」「天馬」の義を採り、「景雲河清歌」を作り、「燕楽」と名づけました。元会第二奏はこれを指します。謹んで考えますと、今年、荊南から甘露(瑞祥の一。以下も同じ)が献上され、京兆と果州から嘉禾が奉られ、黄州から紫芝が進められ、和州から緑毛の亀が上せられ、黄州から白兎が納められました。月律により、「神亀」「甘露」「紫芝」「嘉禾」「玉兎」の五瑞につき各々一曲を作り、朝会の登歌ごとにまずこれらの楽曲を奏して下さい。 詔を下した。――「二舞の人数と衣冠は旧制に拠れ。楽章については請願の通りにせよ。」 (10)六年(968)(1)、峴がまた言った。―― 漢朝では天馬・赤雁・神鼎・白麟の瑞祥があれば郊歌を作りました。国朝になって、合州は文字を著した瑞木を進呈し、象は遠方から贈られ、秦州は白い烏を献じ、黄州は白い雀を納めております。いずれも音楽によって褒め称え、郊廟に奉納すべきものです。 そこで峴に瑞文・馴象・玉烏・皓雀の四つの瑞楽章を作らせ、登歌として備えさせた。 (11)すぐにまた峴は訴えた。―― 『開元礼』を調べますと、郊祀の車駕が宮殿に還ったとき、嘉徳門に入ると采茨の楽を用い、太極門に入ると太和の楽を用いております。今、郊祀の礼が終わり、恩赦を下した後、宮殿に還ると、宮県は「隆安」を用いるだけで、「采茨」を用いておりません。そもそも「隆安」の楽章は本来朝廷に臨むときの言葉です。礼の本旨を考えますと、「隆安」の楽は内から出たときに用い、「采茨」の楽は外から戻ったときに用いるものです。併用しなければ旧典に悖ることになります。今、大楽署丞の王光裕は唐の「采茨曲」を暗誦しておりますので、月律によって別に言葉を撰定させ、郊祀が終わり、車駕が初めて入れば奏でさせ、恩赦が終わり宮に還れば、「隆安」の楽を奏でさせますように。 すべてそれに従った。 〔注〕 (1)六年:乾徳は六年十一月に改元。『会要』楽四によると、この上奏は六年十月二十七日に繋る。
https://w.atwiki.jp/studykorea/pages/170.html
トップページ>韓国>民族文化研究 『民族文化研究』60、2013.8 特集:朝鮮時代知識・知識人清算体系:17-18世紀驪州李氏を中心に 김형찬「驪州李氏・星湖学派の知識論争と知識権力の形成」 조성산「朝鮮後期星湖学の「地域性」談論」 尹載煥「驪州李氏星湖家系知識伝承の一様相:玉洞李漵を中心に」 송혁기「剡渓李潜の丙戌年上疏研究」 부유섭「星湖李瀷の補録類図書の知識源泉と性格」 전성건「先祖の善徳と後孫の記憶:驪州李氏の家史継承を中心に」 論文 원혜영「敦煌寺本『金光明最勝王経』に関する書誌的考察:現代出版物における誤謬と再編を中心に」 林亨洙「高麗怯薛の機能と改革方向」 田耕旭「高麗俗謡の旧音と「囉哩嗹」「羅犁羅」の関連様相」 허태용「『景宗実録』を通じて見た少論の政治義理の検討」 백진우「鄭覚先の筆記雑録『杜陵漫筆』研究」 이재정「洛東契字を通じて見た朝鮮時代文人の知的交流」 선승혜「『箋註靖節先生集』に掲載された金禔(1524~1593)の陶淵明の肖像画と帰去来図」 최기숙「諺文小説の文化的位置と文字的近代の逆説:近代初期「春香伝」の媒体変移と表記文字、読者層の相互関連性」 이상혁「近代啓蒙期「国語教科読本類」の文体研究:学習者との相関関係を中心に」 이형대「分断体制成立期南北漢文学士の近世詩歌認識と正典化様相:『韓国文学史』と『朝鮮文学通史』の詩調・私説詩調・歌詞を中心に」 『民族文化研究』59、2013.5 特集平和と統一の事件史 김진환「変動の追憶:金日成死亡と弔問政局」 양무진「北核問題と南北関係、葛藤と協力の二重奏:アンサンブルのために」 鄭昞旭「北韓大飢饉の歴史的起源:日帝時期咸鏡道地域を中心に」 이수정「「脱冷戦民族スペクタクル」:2000年夏、南北離散家族相逢」 鄭泰憲「1980年代鄭周永の脱理念的南北経協と北方経済圏構想」 芮大烈「牛歩千里の第一歩が南北を変化させる:鄭周永の牛群訪北と南北社会の変化」 조대엽、홍성태「対北支援の政治経済と引導主義のジレンマ」 김근식「南北正常会談と南北関係:貴重な「追憶」と忘れた「記憶」」 홍종선「民族語の統合統一と「民族語大辞典(겨레말큰사전)」南北共同編纂」 特集:東アジア伝統文化のなかの死と死後観 조현설「骸骨、死と生の媒介者」 김정숙「韓中あの世の体験談のなかのあの世の描写と思想的傾向の比較」 고영란「前近代韓日女性怪談のなかの女性の死と復讐:17-19世紀有名女性怪談を中心に」 論文 박종우、이창희「白湖林悌詩の美的特質:主に詩的話者の累計と関連して」 윤상수「黄宗羲の古文論:至情と窮経を中心に」 정종현「京都の朝鮮留学生雑誌研究:『学友』『学潮』『京都帝国大学朝鮮人留学生同窓会報』を中心に」 임성수「『度支田賦考』を通じて見た戸曹の財源把握方式と財政構造の変化」 許殷「アメリカの文化冷戦と「自由東アジア」の構築、連鎖、そして亀裂:アメリカ政府の図書計画と韓国社会知識人の認識」 이도길「共起語(co-occurrence word)で見た新聞別類似度比較研究:朝鮮日報、東亜日報、中央日報、ハンギョレ新聞を中心に」 김문용「崔漢綺自然学の性格と志向」 『民族文化研究』58、2013.2 特集:韓国文学のなかの民主主義、民主主義の目でみた韓国文学 이선미「「政治嫌悪」の文化的起源と新聞小説の世論民主主義:1950年代鄭飛石の新聞小説を中心に」 최현식「大衆的平等の自由あるいは個性的差異の自由:維新期詩批評のふたつの傾向」 함돈균「人民の恨みと政治的なもの、そして民主主義:植民地政治小説との連帯意識下から見た維新期のふたつの小説」 김수이「「民主化」の逆説と労働詩の新しい様相:民主化以後の時代の労働詩と韓国民主主義」 特集:センチメンタル・イデオロギー:「李光洙」という課題 이만영「近代的読書慣習の創出と系図的美学の道:李光洙の文学論と『無情』との関連性を中心に」 김항「個人・国民・難民の間の「民族」:李光洙「民族改造論」再読」 서영채「自己犠牲の構造:李光洙の『再生』と尾崎紅葉の『金色夜叉』」 서은주「解放後李光洙の「自己叙述」と告白の倫理」 論文 李鎮漢「高麗前期致仕制の運営と官人の引年致仕」 김경「朝鮮後期散文における奇:李用休散文を中心に」 김대중「魏禧と朝鮮後期漢文学:徐有榘の事例を中心に」 김환희「韓国「パンチョギ(반쪽이)」説話の世界的な普遍性と韓国的な特殊性に関する比較研究」 박영민「申芙蓉堂の生涯と文学研究」 송양섭「磻渓柳馨遠の公田制論とその理念的志向」 연규동「「大清全書」ロンドン大SOAS図書館所蔵本に見える赤色加筆の価値」 김유범、김미미「『同文類解』の満州語ハングル表記体系について」 문현수「韓国語否定詞「못」に対応する満州語否定表現について」 최동권「満州語接続文研究」 김찬기「近代初期国語教科書と啓蒙の言語」 김기형「孫晋泰説話研究の特徴と意義」 이승희「東アジア近代劇場の植民性と政治性」 鄭昞旭「植民地の農村青年と在日朝鮮人社会:慶南咸安郡周氏の日記(1933年)の検討」 박유희「孤立した戦士、境界の他者:脱冷戦時代韓国戦争映画に表れた「北」の表象」 김일환、정유진「「大選」関連語の推移分析と展望:16代~18代大選を対象に」 『民族文化研究』57、2012.12 特集:脱近代、脱植民、脱民族:ポスト談論20年の省察 진태원「「ポスト」談論の幽霊たち:哀悼を哀悼するために」 김정한「ポスト社会科学:社会的なものの科学、その後?」 이명원「文学の脱政治化とポスト談論の破錠」 特集:日記を通じて見た伝統と近代、植民地と解放 Isabel Richter「自己を書く:18世紀と19世紀ドイツ語圏日記に現れた経験、主体性、そして個人性について」 金何羅「『欽英』、分裂した自我の記録」 山本浄邦「大韓帝国期光州における奥村兄妹の真宗布教・実業学校設立をめぐって:新史料『明治三十一年 韓国布教日記』による通説の再検討」 李炯植「朝鮮憲兵司令官立花小一郎と「武断統治」:『立花小一郎日記』を中心に」 太田修「解放直後ある動労者の日常生活:仁川の電気工I氏の日記から」 一般論文 김승우「金泰俊の詩歌史認識と高麗歌詞」 강혜정「姜鏞訖の英訳時調の特性:最初の詩調選集『Translations of Oriental Poetry』を中心に」 権純会「『古時調大全』の編纂過程と主要特性外観」 신경숙「時調文献編纂の歴史:『青丘永言』から『古時調大全』まで」 조재룡「鄭寅燮と翻訳の活動性:翻訳、世界文学の唯一の道」 임준철「朴趾源『幻戯記』の幻術考証と分析」 이동석「全州歴史博物館所蔵「ハングル飲食訪問」について」 김양진、이효윤「訳学書に現れた色彩語系列「馬」名称研究:『御製增訂清文鑑』の満州語の解釈を中心に」 『民族文化研究』56、2012.6 特集:東アジアの鬼神・妖怪・異物の比較文化論 김정숙「17・18世紀韓中鬼神・妖怪談の逸脱と欲望」 고영란「近世期韓日女性怪談比較研究:『薔花紅蓮伝』と累(かさね)怪談を中心に」 정진선「古代中国器物精怪物語の発生とその意味:『太平広記』精怪部を中心に」 강상순「朝鮮前期鬼神物語に秘められた社会的敵対」 特集:崔章集の韓国民主主義論 김용복「韓国民主主義の発展と政党政治:崔章集教授の政党民主主義論に対する批判的考察」 박영균「「民主主義以後の民主化論」に対するマルクス主義的批判」 진태원「崔章集とエティエンヌ・バリバール:民主主義の民主化のふたつの方向」 一般論文 권태효「井戸の空間的性格と象徴性研究」 김일환、정유진、이도길「歴代総選別「選挙」関連語の変化様相:東亜日報を対象に」 김형찬「安東金門の知識論争と知識権力の形成:農巌金昌協の学問的立場を中心に」 백지은「「情義文学論」と近代文学概念の未分化様相の考察」 전성건「先徳と祖訓の記憶:安東金門の家史継承を中心に」 이혜령「人格とスキャンダル:林鍾国の歴史叙述と民族主義」 『民族文化研究』55、2011.12 特集:非西欧文化の正典性と他者性 박상진「正典研究の新しい指標:正典性の政治学」 강상순「古典小説の近代的再認識と正典化過程:1920-1930年代を中心に」 백승욱「ラテンアメリカ文学正典の形成と新しい可能性:疎外された文学ジャンルの正典化に対する小考」 一般論文 이상호「丁若鏞の改革思想と井田制:近代志向的解釈に対する批判を中心に」 석진주「『海東楽府』を通じて見た李福休の現実認識」 오양진「金東里小説に現れた自然のクロノトプ(Chronotope)研究:「カチの声」を中心に」 『民族文化研究』54、2011.6 一般論文 이혜령「親日派という者の名:脱植民化と固有名の政治」 이선미「アメリカ的価値の大衆的受容と統制のメカニズム:1950年代大衆物語の夫婦・家族の表象を中心に」 류시현「解放後安在鴻の日帝強占期に関する記憶と感性」 백진우「歴史の余白と文学的想像力:史論・散文の史実解釈方式について」 鄭雨峰「バークレー大所蔵詩文選集の資料的価値と意義」 이동석「現行「接続ㅅ(사이시웃)」規定と関連する諸問題」 도원영、범기혜「「中韓辞典」の用例についての辞典学的検討」 김만태「民族信仰を読む符号、十干・十二支についての根源的考察」 장숙필「盤谷成以心の「人易擬議圖説」とその思想的特徴」 朴鶴来「鳳棲兪莘煥の哲学思想研究」 『民族文化研究』53、2010.12 特集:文化研究の批判的省察 이상길「文化研究の研究文化:言論学界における制度化効果に関する省察」 허영란「韓国近代史研究の「文化史的転換」:歴史大衆化、植民地近代性、経験世界の歴史化」 강상순「韓国古典文学研究に受容された脱近代・脱民族談論に対する批判的考察:고미숙と姜明官の議論を中心に」 박헌호「「文化研究」の政治性と歴史性:近代文学研究の現況と反省」 김현경「「文化」概念と「性差」関連概念に関する諸考察:1990年代以後韓国社会「フェミニズム文化研究」を中心に」 一般論文 임준철「燕行録に現れた幻術認識の変化と朴趾源の「幻戯記」」 金光年「敬山宋伯玉の生涯と著述について」 강영미「植民地時代新聞連作時調研究」 윤영실「『少年』の「英雄」物語と東アジア的な脈絡」 이경수「白石白夔行の紀行詩編に現れた場の心相地理」 임수영「時代的反省と捜索方法の模索:1940年代中・後半の詩文学を中心に」 이창민「徐廷柱郷歌取才詩編の動機と作方」 이은하「李奎報題画詩を通じて見た高麗花鳥画の一考察」 김광섭「李晩秀の『投壺集図』を通じて見た朝鮮後期投壺遊戯様相」 김양진「満文史料『琿春副都統衙門档』について:朝鮮関連資料を中心に」 조성택「近代韓国仏教史記述の問題:民族主義的歴史記述に関する批判」 『民族文化研究』52、2010.6 一般論文 권내현「朝鮮後期平民同姓村落の成長」 류시현「1920-1930年代文一平の民族史と文化史叙述」 이상호「白南雲の普遍史観と朝鮮学:文化史的脈絡の逆説を中心に」 김항「脱近代の哲学、反近代の政治」 임종명「脱植民初期(1945.8-1950.5)南韓国家エリートのアジア紀行記とアジア表象」 김종수「解放期出版市場における李光洙の位相」 조윤정「植民地朝鮮の教育的実践、小説のなかの夜学の意味」 김남석「1930-1940年代大衆劇団金姫座の公演史研究」 한흥섭「朱熹の「淫奔詩」考察」 김일환、이도길、강범모「世宗形態意味分析コーパスを越えて:SJ-RIKS Corpus」 도원영、왕보하「「中韓慣用語辞典」編纂のための研究:マクロ構造構成とミクロ綱目の記述を中心に」 『民族文化研究』51、2009.12 特集 도원영、차준경「『高麗大韓国語大辞典』の総合的考察」 김양진、이현희「『高麗大韓国語大辞典』の形態分析情報」 서태길、김혜령「『高麗大韓国語大辞典』の文法及び語義の情報」 박미영、정경재「『高麗大韓国語大辞典』の関連語情報」 一般論文 안세현「15世紀後半~17世紀前半性理学的事由の寓言的表現様相とその意味」 김승우「『龍飛御天歌』の制作基盤研究:先行楽章に対する評価と活用様相」 최난경「「水田歌(논매는 소리)」の分布:慶尚道水田歌と全羅道水田歌を中心に」 김지영「文学概念体系の系譜学:新聞分類法の変化過程を中心に」 신지연「民族語と国際共通語の間:金億を眺める一観点」 이상우「植民地劇場に展示された満州の表象:1940年代初の満州活劇とアイデンティティのパフォーマンス」 남경완「周時経文法「드」構成成分の体系と機能」 한학성「我が国外国語教育の伝統と19世紀末ヨーロッパの改革教授法」 金子祐樹「行実図系教科書の展開と忠行為の推移:17世紀初期の官撰教科書『東国新続三綱行実図』の分析を通じて」 장숙필「明代気論的傾向との比較を通じて見る朝鮮時代理気二元論の特徴」 안영상「明代中和寂感論との比較を通じて見た朝鮮時代四端七情論の特徴」 진태원「国民という奴隷?全体主義的国民国家論に対する批判的考察」 『民族文化研究』50、2009.6 一般論文 박영민「19世紀地方官衙の教坊政策と官妓の経済現実:江界府の「教坊節目」を中心に」 정길수「「九雲夢」原典再論」 강정구「申庚林の叙述詩と話法」 이승연「朝鮮末漢学書「華音啓蒙」と場面・対話分析研究」 유혜원「韓国語構文分析方法論研究:複文構造分析を中心に」 김항「「我々-内-存在(In-dem-Uri-sein)」という哲学的転回:朴鍾鴻とハイデッカー」 朴鶴来「解題:『海東文献総録』と敬窩金烋」 『民族文化研究』49、2008.12 신경숙「歌曲演唱方式における「中大葉・慢大葉と台歌」」 鄭雨峰「序跋類を通じて見た朝鮮時代逸失本文章選集の編纂現況とその意味」 심경호「漢学基礎学史叙述と序跋文資料の活用」 임준철「対清使行の終結と最後の燕行録」 김인환「自作開設の限界:「巫女図」の場合」 조은숙「有声機音盤に込められた昔話:1930年代金福鎮の口演童話音盤を中心に」 최승연「女性国劇の混種的特徴についての研究」 홍정하、김주영、강범모「世宗構文分析コーパスの構築と通辞範疇及び機能の統計的分布」 한흥섭「世宗の「新楽」は韓国の雅楽か?」 정호섭「高句麗壁画古墳の現況と被葬者についての再検討」 『民族文化研究』48、2008.6 一般論文 김승우「宗廟祭礼楽章「保太平」、定大業の特性と変貌様相」 박종우「16世紀湖南漢詩の風流論的考察」 염인수「『血の涙(혈의누)』と「地球性味来夢」の作品主体研究」 윤영실「国民国家の主導力、「青年」と「少年」の間:崔南善の『少年』誌を中心に」 문혜윤「「随筆」ジャンルの名称と形式の樹立過程」 장석원「韓龍雲詩のリズム」 강헌국「反再現論の方向:金東仁の小説論」 이찬「金東里小説「率居」連作研究」 김한식「解放後純粋文壇と世界文学の概念:金東里と趙演鉉を中心に」 이승준「壬辰倭乱の文学的形象化:洪盛原の『月と刀(달과 칼)』研究」 심지연「開化期フランス人の韓国語研究について」 최민우、강범모「世宗形態(意味)分析コーパス構築の実際」 계승범「恭嬪追崇過程と光海君の母后問題」 朴鶴来「蘆沙の奇正鎮の性理説をめぐる畿湖学系の論争:「猥筆」を中心に」 特別寄稿 정규복「鄭吉洙教授の「九雲夢元典の探索」を読んで」 『民族文化研究』47、2007.12 一般論文 鄭雨峰「李奎報の美学思想」 엄기영「志鬼説話の形成背景と歴史的意味」 서정화「李奎報碑誌類散文の一考察」 심경호「韓国類書の種類と発達」 이승수「葯窓朴燁論:歴史的評価を中心に」 임준철「意象批評の伝統と17世紀朝鮮の意象批評」 신경숙「近代初期歌曲教習:初期朝鮮正楽伝習所を中心に」 유지현「個人のアイデンティティと家の空間分化:『金薬局の娘たち(김약국의 딸들)』を中心に」 崔徳寿「第1次ハーグ国際平和会議(1899年)と『独立新聞』」 장숙필「河東学派と崇仁学派の思想的特徴と朝鮮性理学者たちの反応」 한흥섭「百戯歌舞を通じて見た高麗時代八関会の実相:八関会は仏教儀礼か?」 関根英行「韓国人と日本人の系統研究とパラダイム」 『民族文化研究』46、2007.6 一般論文 김동준「翻訳学の観点における韓国学問文学作品翻訳再論:漢詩の翻訳を中心に」 박영민「19世紀女性詩会と文学空間:雲楚グループを中心に」 김남석「劇団アランの運営方式研究:1939年9月から1941年9月まで」 김종훈「韓国「近代長詩」の特徴と形成」 엄성원「1930年代印象主義批評研究:金煥泰批評論の定立過程と実際の詩批評を中心に」 박진영「『ちびが見上げた小さな空(난장이가 쏘아올린 작은 공)』の悲劇性と恐怖の修辞学」 송홍규「国語結果構文の構成について」 김의수「「대개」の修飾とその機能負担量:「대략, 대강, 대체로, 거의, 대부분」との比較から」 裵亢燮「最近の北韓学界における東学農民戦争研究動向と特徴」 한흥섭「雅楽考」 資料批評 崔在錫「1880年の日本参謀本部の『[皇朝兵史]』批判:古代韓日関係を中心に」 『民族文化研究』45、2006.12 特集論文:韓国近代仏教の人文学的再照明 고재석「韓国近代仏教と文学の相関性」 김광식「近代仏教史研究の省察:回顧と展望」 조성택「近代仏教学と韓国近代仏教」 一般論文 鄭雨峰「韓国修辞学における「修辞」談論とその脈絡」 심경호「韓国・中国の漢詩と自然」 양원석「世祖「文字策問」における文字学諸説についての議論(1)」 조은숙「植民地時期「童話会」研究:共同体的読書から読書の共同体へ」 신지연「1920-1930年代「同姓(恋)愛」関連記事の修辞的脈絡」 우미영「新女性崔英淑論:女性の暮らしと再現の距離」 남경완、최정혜「両義性語節の文法範疇別累計研究」 서형국「国語連結語尾の統合関係」 박현숙「6世紀百済と日本の文物交流とその背景」 이규수「日本の国粋主義者、志賀重昂の韓国認識」 『民族文化研究』44、2006.6 尹在敏「「洞仙記」のジャンル的性格」 権純会「歌曲演唱方式における中大葉の一場の可能性」 최승연「ミュージカル「火の剣(불의 검)」の公演方式とその意義」 김남석「朝鮮演劇舍の公演史研究」 이동석「『東亜日報スタイルブック』についての国語学的研究」 趙珖「朝鮮後期西学書の受容と普及」 이정주「世祖代後半期の仏教的祥瑞と恩典」 한형주「許稠と太宗~世宗代国家儀礼の整備」 林学成「戸籍関連古文書を通じて見た朝鮮後期の家族構成様相:韓国家族史の実態を究明するためのひとつの試み」 손장권、안호용「修辞学と弁証法の位相変化に関する研究」 이나미「日帝時期朝鮮自治運動の論理:独立運動論、参政権論との関係を中心に」 『民族文化研究』43、2005.12 一般論文 金興圭「江湖詩歌と西欧牧歌詩の類型論的比較:漁夫-江湖モチーフと牧童-アカディアモチーフの考察」 강영미「李漢稷論:現実認識の変化過程を中心に」 임현순「「つぶる目(감는 눈)」の視線と暴力への抵抗:尹東柱の詩を読む新しい方法」 차재은「1930年代の韓国語音長についての研究:「普通学校朝鮮語読本」の音声資料を中心に」 남경완「状態性と動作性についての考察」 신상현「韓国固有漢字調査研究:人名用固有漢字を中心に」 宋圭振「中日戦争時期朝鮮の対三国貿易政策と貿易実相」 金炫「韓国学と情報技術の学際的教育プログラム開発に関する研究」 朴鶴来「大谷金錫亀の性理説研究」 韓国学資料 이군선「薫谷洪羲俊の『華東音源』解題」 『民族文化研究』42、2005.6 一般論文 이동석「中世国語用言「계오다/계우다」の通時的変化」 유호진「曹偉詩の天機描出様相とその意味:精神的自由への志向を中心に」 이형대「金剛山紀行歌詞の視線と風景」 権純会「蔑み形態の遊びとしての閨房歌詞」 강헌국「想像の物語化:『無情』論」 신지연「『少年』の文体研究」 이경수「1990年代以後在日同胞の韓国語詩文学の変貌」 최호석、강신애「朝鮮時代雪景山水画の時空間的分布とその意味」 차미희「朝鮮後期粛宗代の壬辰科獄研究」 이상식「朝鮮粛宗代備辺司の政治的機能と王権強化」 『民族文化研究』41、2004.12 特集:朝鮮時代電子文化地図開発と文化研究(2) 한형주「朝鮮時代国家祭祀の時代的特性」 허용호「民俗遊びの全国的分布と農業的基盤:綱渡り(ジュルダリギ)と相撲(シルム)を中心に」 이민주「17・18世紀朝鮮時代の社会現象と服飾変化」 최난경「民謡の種類と音楽的特性の分布研究(1):作付け歌、舟漕ぎ歌、満船農楽曲歌を中心に」 一般論文 황국정「中世国語の格助詞省略についての考察:釈譜詳節と釈読口訣資料を中心に」 윤경희「金昌翕の丹丘日記研究」 이기대「資料発見を通じてみた南啓宇の芸術世界」 김정녀「『金華寺夢遊録』の異本系列と善本」 김응교「青葉薫と李燦の戯曲「歳月」と親日文学:李燦文学研究(5)」 전용호「白鉄文学史の版本研究」 김동석「蔡萬植小説の内的原理研究:解放期を中心に」 여태천「金洙暎詩の場所的特性研究:「房」と「家」を中心に」 李喜中「李聖善詩における蝶の意味研究:『荘子』を参照に」 강유정「金承鈺小説のナルシズム研究」 金炫「性理学的価値観の拡散と女性」 안영상「東西文化の融合・衝突過程に現れた星湖学派の哲学的特徴の一断面:人体観に現れたpneumaと心気論を中心に」 1-20 21-40 41-60 61-80
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/394.html
唐書巻一百八 列伝第三十三 劉仁軌 裴行倹 光庭 稹 倩 均 婁師徳 劉仁軌字正則、汴州尉氏人。少貧賤、好学。値亂、不能安業、毎動止、畫地書空、寓所習、卒以通博聞。武徳初、河南道安撫大使任上疏有所論奏、仁軌見其、為竄定数言。驚異、赤牒補息州参軍。轉陳倉尉。部人折衝都尉魯寧者、豪縱很法、県莫敢屈。仁軌約不再犯、而寧暴橫自如、仁軌榜殺之。州以聞、太宗曰:「尉而殺吾折衝、可乎?」召詰讓。仁軌對曰:「寧辱臣、臣故殺之。」帝以為剛正、更擢咸陽丞。 貞観十四年、校獵同州。時秋斂未訖、仁軌諫曰:「今茲澍澤霑足、百穀熾茂、收纔十二。常日贅調、已有所妨。又供獵事、繕橋治道、役雖簡省、猶不損数万。少延一旬、使場圃畢勞、陛下六飛徐驅、公私交泰。」璽書褒納。拜新安令。累遷給事中。為李義府所惡、出為青州刺史。顕慶五年、伐遼、義府欲斥以罪、使督漕、而船果覆沒。坐免官、白衣隨軍。 初、蘇定方既平百済、留郎将劉仁願守其城、左衛中郎将王文度為熊津都督、撫納殘黨。文度死、百済故将福信及浮屠道琛迎故王子扶餘豊立之、引兵圍仁願。詔仁軌検校帶方州刺史、統文度之衆、并發新羅兵為援。仁軌将兵嚴整、轉闘陷陣、所向無前。信等釋仁願圍、退保任存城。既而福信殺道琛、并其衆、招還叛亡、勢張甚。仁軌與仁願合、則解甲休士。時定方伐高麗、圍平壤不克。高宗詔仁軌拔軍就新羅與金法敏議去留計。将士咸欲還、仁軌曰:「春秋之義、大夫出疆、有可以安社稷・便国家者、得專之。今天子欲滅高麗、先誅百済、留兵鎮守、制其心腹。雖孽豎跳梁、士力未完、宜厲兵粟馬、乘無備、撃不意、百下百全。戦勝之日、開張形勢、騰檄済師、聲援接、虜亡矣。今平壤不勝、熊津又拔、則百済之燼復炎、高麗之滅無期。吾等雖入新羅、正似坐客、有不如志、悔可得邪?扶餘豊猜貳、表合内攜、勢不支久。宜堅守伺變以圖之、不可輕動。」衆従其議、乃請益兵。 時賊守真峴城、仁軌夜督新羅兵薄城扳堞、比明、入之、遂通新羅饟道。而豊果襲殺福信、遣使至高麗・倭丐援。會詔遣右威衛将軍孫仁師率軍浮海而至、士氣振。於是、諸将議所向、或曰:「加林城水陸之衝、盍先撃之?」仁軌曰:「兵法避實撃虚。加林險而固、攻則傷士、守則曠日。周留城、賊巣穴、群凶聚焉。若克之、諸城自下。」於是仁師・仁願及法敏帥陸軍以進、仁軌與杜爽・扶餘隆繇熊津白江會之。遇倭人白江口、四戦皆克、焚四百艘、海水為丹。扶餘豊脱身走、獲其寶劍。偽王子扶餘忠勝・忠志等率其衆與倭人降、獨酋帥遅受信據任存城未下。始、定方破百済、酋領沙吒相如・黒歯常之嘯亡散、據險以應福信、至是皆降。仁軌以赤心示之、畀取任存自、即給鎧仗糧糒。仁師曰:「夷狄野心難信、若受甲済粟、資寇便也。」仁軌曰:「吾観相如・常之忠而謀、因機立功、尚何疑?」二人訖拔其城。遅受信委妻子奔高麗、百済餘黨悉平。仁師等振旅還、詔留仁軌統兵鎮守。 百済再被亂、殭屍如莽、仁軌始命瘞埋弔祭焉。葺復戸版、署官吏、開道路、營聚落、復防堰、賑貧貸乏、勸課耕種、為立官社、民皆安其所。遂營屯田、以経略高麗。仁願至京師、帝勞曰:「若本武将、軍中奏請、皆有文理、何道而然?」對曰:「仁軌之辭、非臣所能。」帝歎賞之、超進仁軌六階、真拜帶方州刺史、賜第一區、厚賚妻子、璽書褒勉。 先是、貞観・永徽中、士戦歿者皆詔使弔祭、或以贈官推授子弟。顕慶後、討伐恩賞殆絶。及破百済・平壤、有功者皆不甄。州県購募、不願行、身壯家富者、以財参逐、率得避免。所募皆儜劣寒憊、無闘志。仁軌具論其弊、請加慰賚、以鼓士心。又表用扶餘隆、使綏定餘衆。帝乃以隆為熊津都督。 時劉仁願為卑列道総管、詔率兵度海、使代舊屯、與仁軌倶還。仁軌曰:「上巡狩方岳、又経略高麗。方農時、而吏與兵悉被代、新至者未習、万一蠻夷生變、誰與捍之?不如留舊兵畢穫、等級遣還。仁軌當留、未可去。」仁願不可、曰:「吾但知準詔耳。」仁軌曰:「不然。苟利国家、知無不為、臣之節也。」因陳便宜、願留屯。詔可。由是以仁願為不忠。 始、仁軌任帶方州、謂人曰:「天将富貴此翁邪!」乃請所頒暦及宗廟諱、或問其故、答曰:「當削平遼海、頒示本朝正朔。」卒皆如言。及封泰山、仁軌乃率新羅・百済・儋羅・倭四国酋長赴會。天子大悅、擢為大司憲。遷右相、兼検校太子左中護。累功封楽城県男。 総章元年、為熊津道安撫大使、兼浿江道総管、副李勣討高麗、平之。以疾辭位、進金紫光禄大夫、聽致仕。俄召為隴州刺史、拜太子左庶子・同中書門下三品、監脩国史。咸亨五年、為雞林道大総管、東伐新羅。仁軌率兵絶瓠蘆河、攻大鎮七重城、破之。進爵為公、子及兄子授上柱国者三人、州黨榮之、號所居為「楽城郷三柱里」。俄拜尚書左僕射兼太子賓客、仍知政事。 吐蕃入寇、命為洮河道行軍鎮守大使。永隆二年、加太子少傅。数乞骸骨、聽解左僕射。帝幸東都、太子監国、詔仁軌與裴炎・薛元超留輔。及太子赴東都、又詔太孫重照留守、仁軌副之。武后臨朝、復拜左僕射。太孫廢、仁軌專知留守事。上疏辭疾、因陳呂后・禄・産禍敗事以規后、后遣武承嗣齎璽書慰勉。改文昌左相・同鳳閣鸞臺三品。卒年八十五。詔百官赴哭、冊贈開府儀同三司・并州大都督、陪葬乾陵。賜其家實封三百戸。 仁軌雖貴顕、不自矜踞、接舊故如布衣時。嘗為御史袁異式所劾、慢辱之、脅使引決。及拜大司憲、異式尚在臺、不自安、因醉以情自解。仁軌持觴曰:「所不與公者、有如此觴。」後既執政、薦為司元大夫。然宦由州県至宰輔、善致聲譽、得吏下歡心。及鎮洮河、奏請機急、多為中書令李敬玄抑卻、仁軌乃表敬玄為帥以代己、果覆其衆。裴炎下獄、仁軌方留守京師、郎将姜嗣宗以使来、因語炎事、且曰:「炎異於常久矣。」仁軌曰:「使人知邪?」曰:「知。」及還、表嗣宗知炎反状不告。武后怒、拉殺之。 子濬、官太子舎人。垂拱中、為酷吏所殺。中宗即位、以仁軌有東宮舊、再贈司空。濬子晃、開元中、為給事中、表請立碑、追謚曰文獻。 裴行倹字守約、絳州聞喜人。父仁基、隋光禄大夫、自王世充所謀歸国、被害。贈原州都督、謚曰忠。 行倹幼引蔭補弘文生。貞観中、挙明経、調左屯衛倉曹参軍。時蘇定方為大将軍、謂曰:「吾用兵、世無可教者、今子也賢。」乃盡畀以術。遷長安令。高宗将立武昭儀、行倹以為国家憂従此始、與長孫忌・褚遂良秘議、大理袁公瑜擿語昭儀母、左除西州都督府長史。麟徳二年、擢累安西都護、西域諸国多慕義歸附。召為司文少卿。遷吏部侍郎、與李敬玄、馬載同典選、有能名、時號「裴馬」。行倹始設長名榜・銓注等法、又定州県升降・資擬高下為故事。 上元三年、吐蕃叛、出為洮州道左二軍総管、改秦州右軍、並受周王節度。儀鳳二年、十姓可汗阿史那都支及李遮匐誘蕃落以動安西、與吐蕃連和、朝廷欲討之。行倹議曰:「吐蕃叛換方熾、敬玄失律、審礼喪元、安可更為西方生事?今波斯王死、其子泥師質京師、有如遣使立之、即路出二蕃、若權以制事、可不勞而功也。」帝因詔行倹冊送波斯王、且為安撫大食使。徑莫賀延磧、風礫晝冥、導者迷、将士饑乏。行倹止營致祭、令曰:「水泉非遠。」衆少安。俄而雲徹風恬、行数百歩、水草豊美、後来者莫識其処。衆皆驚、以方漢貳師将軍。至西州、諸蕃郊迎、行倹召豪桀千餘人自隨。揚言「大熱、未可以進、宜駐軍須秋」。都支覘知之、不設備。行倹徐召四鎮酋長、偽約畋、謂曰:「吾念此楽未始忘、孰能従吾獵者?」於是子弟願従者万人、乃陰勒部伍。数日、倍道而進、去都支帳十餘里、先遣其所親問安否、外若閑暇、非討襲者。又使人趣召都支。都支本與遮匐計、及秋拒使者、已而聞軍至、倉卒不知所出、率子弟五百餘人詣營謁、遂禽之。是日、伝契箭、召諸部酋長悉来請命、並執送碎葉城。簡精騎、約齎、襲遮匐。道獲遮匐使者、釋之、俾前往諭其主、并言都支已禽状、遮匐乃降、悉俘至京師。将吏為刻石碎葉城以紀功。帝親勞宴、曰:「行倹提孤軍、深入万里、兵不血刃而叛黨禽夷、可謂文武兼備矣、其兼授二職。」即拜礼部尚書兼検校右衛大将軍。 調露元年、突厥阿史徳温傅反、單于管二十四州叛應之、衆数十万。都護蕭嗣業討賊不克、死敗係踵。詔行倹為定襄道行軍大総管討之。率太僕少卿李思文・營州都督周道務部兵十八万、合西軍程務挺・東軍李文暕等、総三十餘万、旗幟亙千里、行倹咸節制之。 先是、嗣業饋糧、数為虜鈔、軍餒死。行倹曰:「以謀制敵可也。」因詐為糧車三百乘、車伏壯士五輩、齎陌刀・勁弩、以羸兵挽進、又伏精兵踵其後。虜果掠車、羸兵走險。賊驅就水草、解鞍牧馬。方取糧車中、而壯士突出、伏兵至、殺獲幾盡。自是糧車無敢近者。 大軍次單于北、暮、已立營、塹壕既周、行倹更命徙營高岡。吏白:「士安堵、不可擾。」不聽、促徙之。比夜、風雨暴至、前占營所、水深丈餘、衆莫不駭嘆、問何以知之、行倹曰:「自今弟如我節制、毋問我所以知也。」降。又禽大首領奉職而還、餘黨走狼山。行倹既還、阿史那伏念偽稱可汗、復與温傅合。明年、行倹還総諸軍、頓代州之陘口、縱反間、説伏念、令與温傅相貳。伏念懼、密送款、且請縛傅自。行倹秘不布、密以聞。後数日、煙塵漲天而南、斥候惶駭、行倹曰:「此伏念執温傅来降、非他也。且受降如受敵。」乃敕嚴備、遣單使往勞。既而果然。於是、突厥餘黨悉平。帝悅、遣戸部尚書崔知悌勞軍。 初、行倹許伏念以不死、侍中裴炎害其功、建言:「伏念為程務挺・張虔勗脅逐、又磧北回紇逼之、計窮而降。」卒斬伏念及温傅於都市。行倹之功不録。封聞喜県公。行倹歎曰:「渾・濬之事、古今恥之。但恐殺降則後無復来矣!」遂稱疾不出。永淳元年、十姓突厥車薄叛、復為金牙道大総管、未行卒、年六十四、贈幽州都督、謚曰獻。詔皇太子遣官護視家事、子孫能自立乃停。中宗即位、再贈揚州大都督。 行倹工草隸、名家。帝嘗以絹素詔寫文選、覧之、秘愛其法、賚物良厚。行倹毎曰:「褚遂良非精筆佳墨、未嘗輒書、不擇筆墨而妍捷者、余與虞世南耳。」所譔選譜・草字雜體数万言。又為營陣・部伍・料勝負・別器能等四十六訣、武后詔武承嗣就第取去、不復伝。 行倹通陰陽・暦術、毎戦、豫道勝日。善知人、在吏部時、見蘇味道・王、謂曰:「二君後皆掌銓衡。」李敬玄盛稱王勃・楊炯・盧照鄰・駱賓王之才、引示行倹、行倹曰:「士之致遠、先器識、後文藝。如勃等、雖有才、而浮躁衒露、豈享爵禄者哉?炯頗沈嘿、可至令長、餘皆不得其死。」所引偏裨、若程務挺・張虔勗・崔智・王方翼・瓽金毘・劉敬同・郭待封・李多祚・黒歯常之、類為世名将、傔奏至刺史将軍者数十人。 嘗賜馬及珍鞍、令史私馳馬、馬蹶鞍壞、懼而逃。行倹招還之、不加罪。初、平都支・遮匐、獲寶不貲、蕃酋将士願観焉、行倹因宴、出示坐者。有碼盤廣二尺、文彩粲然、軍吏趨跌盤碎、惶怖、叩頭流血。行倹笑曰:「爾非故也、何至是?」色不少吝。帝賜都支資産皿金三千餘物、橐駝馬牛稱是、行倹分給親故洎麾下、数日輒盡。 子光庭。 光庭字連城、早孤。母厙狄氏、有婦徳、武后召入宮、為御正、甚見親寵、光庭由是累遷太常丞。以武三思、坐貶郢州司馬。開元中、擢兵部郎中・鴻臚少卿。性靜默、寡交游、雖驟歴臺省、人未之許、既而以職業稱、議者更推之。 玄宗有事岱宗、中書令張説以天子東巡、京師空虚、恐夷狄乘間竊發、議欲加兵守邊、召光庭與謀、對曰:「封禪者、所以告成功也。夫成功者、徳無不被、人無不安、万国無不懐。今将告成而懼夷狄、非昭徳也。大興力役、用備不虞、非安人也。方謀會同、而阻戎心、非懐遠也。此三者、名實乖矣。且諸蕃、突厥為大、贄幣往来、願修和好有年矣、若遣一使、召其大臣使赴行在、必欣然應命。突厥受詔、則諸蕃君長必相率而来、我偃旗息鼓、不復事矣。」説曰:「善、吾所不及。」因奏用其策、突厥果遣使来朝。 東封還、遷兵部侍郎。久之、拜中書侍郎・同中書門下平章事、兼御史大夫。遷黄門侍郎、拜侍中、兼吏部尚書・弘文館学士。撰搖山往則・維城前軌二篇獻之。手制褒美、詔皇太子・諸王於光順門見光庭、謝所以規諷意。光庭又引寿安丞李融・拾遺張琪・著作佐郎司馬利賓直弘文館、撰續春秋経伝、自戦国訖隋、表請天子修経、光庭等作伝。書久不就。時有建言唐應為金徳者、中書令蕭嵩請百官普議。光庭以唐符命表著天下久矣、不可改、亟奏罷之。二十年、封正平県男。初、知星者言、上象變、不利大臣、請禳之。光庭曰:「使禍可禳而去、則福可祝而来也!」論者以為知命。卒、年五十八、贈太師。 初、吏部求人不以資考為限、所拔惟其才、往往得俊乂任之、士亦自奮。其後士人猥衆、專務趨競、銓品枉橈。光庭懲之、因行倹長名榜、乃為循資格、無賢不肖、一據資考配擬。又促選限盡正月。任門下省主事閻麟之專主過官、凡麟之裁定、光庭輒然可、時語曰:「麟之口、光庭手。」素與蕭嵩輕重不平、及卒、嵩奏一切罷之、光庭所引、盡斥外官。博士孫琬以其用循資格、非勸之誼、謚曰克平、時以為希嵩意。帝聞、特賜謚曰忠憲、詔中書令張九齡文其碑。 子稹、以蔭仕、累遷起居郎。開元末、寿王瑁以母寵、欲立為太子、稹陳申生・戻園禍以諫、玄宗改容謝之、詔授給事中。稹曰:「陛下絶招諫之路、為日滋久、今臣一言而荷殊寵、則言者将衆、何以錫之?」帝善其讓、止不拜。俄授祠部員外郎、卒。子倩、字容卿、歴信州刺史。勸民墾田二万畝、以治行賜金紫服、代第五琦為度支郎中。卒、謚曰節。子均。 均字君斉、以明経為諸曁尉。数従使府辟、硜硜以才顕。張建封鎮濠・寿、表團練判官。時李希烈以淮、蔡叛、建封扞賊、均参賛之。以勞加上柱国、襲正平県男。遷累膳部郎中、擢荊南節度行軍司馬、就拜荊南節度使。劉闢叛、先騷黔・巫、脅荊・楚、以固首尾、均發精甲三千、逆撃之、賊望風奔却。加検校吏部尚書。 初、均與崔太素倶事中人竇文場、太素嘗晨省文場、入臥内、自謂待己至厚、徐観後榻有頻伸者、乃均也。徳宗以均任方鎮、欲遂相之、諫官李約上疏斥均為文場養子、不可汚台輔、乃止。 元和三年、入為尚書右僕射、判度支。上日唱・授桉・送印、皆尚書郎為之、文武四品五品・郎官・御史拜廷下、御史中丞・左右丞升階答拜、時以為礼太重。俄検校左僕射・同中書門下平章事、為山南東道節度使、累封郇国公。以財交權倖、任将相凡十餘年、荒縱無法度。卒、年六十二、贈司空。 婁師徳字宗仁、鄭州原武人。第進士、調江都尉。揚州長史盧承業異之、曰:「子、台輔器也、當以子孫相諉、詎論僚吏哉?」 上元初、為監察御史。會吐蕃盜邊、劉審礼戦沒、師徳奉使收敗亡於洮河、因使吐蕃。其首領論賛婆等自赤嶺操牛酒迎勞、師徳喩国威信、開陳利害、虜為畏悅、後募猛士討吐蕃、乃自奮、戴紅抹額来應詔、高宗假朝散大夫、使従軍。有功、遷殿中侍御史、兼河源軍司馬、并知營田事。與虜戦白水澗、八遇八克。 天授初、為左金吾将軍、検校豊州都督。衣皮、率士屯田、積穀数百万、兵以饒給、無轉饟和糴之費。武后降書勞之。長寿元年、召授夏官侍郎、判尚書事、進同鳳閣鸞臺平章事。后嘗謂師徳:「師在邊、必待營田、公不可以劬勞憚也。」乃復以為河源・積石・懐遠軍及河・蘭・鄯・廓州検校營田大使。入遷秋官尚書・原武県男、改左肅政御史大夫、並知政事。證聖中、與王孝傑拒吐蕃於洮州、戦素羅汗山、敗績、貶原州員外司馬。万歳通天二年、入為鳳閣侍郎・同鳳閣鸞臺平章事。後與武懿宗・狄仁傑分道撫定河北、進納言、更封譙県子・隴右諸軍大使、復領營田。 聖暦三年、突厥入寇、詔検校并州長史・天兵軍大総管。九月、卒于會州、年七十。贈幽州都督、謚曰貞、葬給往還儀仗。 師徳長八尺、方口博脣。深沈有度量、人有忤己、輒遜以自免、不見容色。嘗與李昭徳偕行、師徳素豊碩、不能遽歩、昭徳遅之、恚曰:「為田舎子所留。」師徳笑曰:「吾不田舎、復在何人?」其弟守代州、辭之官、教之耐事。弟曰:「人有唾面、絜之乃已。」師徳曰:「未也。絜之、是違其怒、正使自乾耳。」在夏官注選、選者就桉閲簿。師徳曰:「容我擇之可乎?」選者不去、乃灑筆曰:「墨汚爾!」 狄仁傑未輔政、師徳薦之、及同列、数擠令外使。武后覺、問仁傑曰:「師徳賢乎?」對曰:「為将謹守、賢則不知也。」又問:「知人乎?」對曰:「臣嘗同僚、未聞其知人也。」后曰:「朕用卿、師徳薦也、誠知人矣。」出其奏、仁傑慚、已而歎曰:「婁公盛徳、我為所容乃不知、吾不逮遠矣!」総邊要・為将相者三十年、恭勤樸忠、心無適莫、方酷吏殘鷙、人多不免、獨能以功名始終、與郝処俊相亞、世之言長者、稱婁・郝。 賛曰:仁軌等以兵開定四夷、其勇無前、至奉上則瞿瞿若不及、行倹臨下以恕、師徳寬厚、其能以功名始終者、蓋近乎勇于敢則殺、勇于不敢則活者邪!