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合計: - 今日: - 昨日: - 日韓併合100年と、中国の近隣諸国の併合問題に関する抗議 予告 来る平成22年8月22日(日) 午後 1時→在名古屋中国領事館前 以上の予定で「日韓併合100年と、中国の近隣諸国の併合問題に関する抗議」を以下の抗議文でストリーミング情宣いたします。 ※ライブの配信はナシ、カムコーダーと音声ファイルによる撮影のみ、ニコニコとヨウツベに編集・アップロードの予定。 ご報告 ゆっくり街宣・日韓併合100年と、中国の近隣諸国の併合問題に関する抗議 平成22年8月22日(日) 在名古屋中国領事館 ※以下抗議状況の動画です。 日韓併合100年と、中国の近隣諸国の併合問題に関する抗議 http //www.nicovideo.jp/watch/sm11842048 ---------------以下・抗議文--------------- 中華人民共和国駐名古屋総領事館総領事 張 立国殿 本日、2010年8月22日は、1910年8月22日に、大日本帝国と大韓帝国との間で締結された、 韓国併合ニ関スル条約から、100年目となります。 これに先立つ、平成22年8月10日。 日本政府菅内閣は、内閣総理大臣談話として、この韓国併合100年の節目に、 菅談話と称する、日本の主権国家としての尊厳を無視するような、国辱的な談話を発表いたしました。 http //www.kantei.go.jp/jp/kan/statement/201008/10danwa.html この菅談話は、過去の、 平成5年8月4日発表の、「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」という表題の、河野談話。 http //www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html 平成7年8月15日発表の、「戦後50周年の終戦記念日にあたって」という表題の、村山談話。 http //www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/07/dmu_0815.html とともに、これらの談話の当事者である、 河野洋平、村山富市、菅直人の三名を、日本のネットウヨクの世界では、 「談話三兄弟」と呼んでいます。 さて、中華人民共和国駐名古屋総領事館総領事 張 立国殿 菅談話において、韓国併合は植民地支配であったと談じていますが、 韓国併合が朝鮮半島の植民地支配であったとしても、当時の日本としては、その植民地に多大な投資を行い、 清の冊封体制から朝鮮を解放した史実に触れられていないことはたいへん残念であり、 日本の現・首相の無学を露呈した談話として、日本国民としてたいへん恥ずかしく思っております。 ところで、我が国・日本は、この韓国併合に対する謝罪という失政によって、 未来永劫、韓国に頭を下げ続けなければならない事態に陥っておりますが、 はたして、中国は、だいじょうぶでしょうか? チベット、ウイグル、南モンゴル、満州・・・・・多数派の漢族に対する、中国少数民族の併合は、 かつての、大日本帝国をも凌駕する規模での、植民地支配であります。 近い将来、これらの諸民族が独立し、中国に謝罪を要求した時、 中華人民共和国の政権は、すなおに謝罪することが出来るのでしょうか? 今からでも遅くはありませんので、その時が来るまでに、談話の準備をされておかれることを、 お勧めしておきまぁーーーーーーーすぅ 平成22年8月22日 ゆっくりぃーーーー。
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444 :パスティス:2014/06/17(火) 22 20 52 『米国の探偵』 シャーロック・ホームズは英国を動かない。 調査と推論の結果、そう結論づけた夢幻会は正直胸をなでおろしたと言っていいだろう。 多種多様な諜報員や私立探偵が存在する世の中ではあるが、シャーロック・ホームズほどの推理力の持ち主は早々居はしない。 まさかと思って、エルキュール・ポアロなどが存在はしまいかと探ったが 流石にそれほどの人物はいなかったようだ。 有名ドコロ、というので、ホームズの物語にも存在し、米国で隆盛を誇ったピンカートン探偵社なども調べたが 1936年には既に探偵業を廃業し掛けていた彼らは、今やカリフォルニア共和国やカナダで身辺警護の仕事を請け負う位であった。 「やれやれ、何にせよ後十年すればホームズは亡くなるはずです。 我々も十年後には何人が生きているかはわかりませんが……そこは後継者に頑張ってもらうとしましょう」 嶋田や辻、近衛などはそう頷き合って議論を終えた。 実際ホームズがいる、とわかってしまえば、後は出入国に気をつけていればよいのだ。 夢幻会では若干楽観論がホームズに関して占められていた・ だが――英国ではなく、米国から名探偵が来ようとは、夢幻会でも――いや、彼らが『日本人』であるから気付かなかった。 北米大陸、カリフォルニア共和国。 アメリカの精神的後継者と目されるここは、今では唯一といっていい米国人が米国人として生きていける場所であった。 無論戦前のように傍若無人に振る舞うことは出来ないが、彼らの開拓精神あふれた不屈の心は生きているのだ。 それらが国外に向けられ、侵略的要素を持つときは実に不愉快なものだが 少なくとも苦境から脱しようとする人間の輝きを、押しのけられる人間以外には否定できるものでもあるまい。 その中に一人、実にでっぷりと肥え太った老人がいた。 いや、老人というには少々厳しいだろうか。 彼の生年月日ははっきりとしていないが、恐らくは1892年から1893年頃のことだろうと見られている。 彼の名前は特に戦前のニューヨーカーやFBIといった連中には知られていたのだが 誰もそれが本当の名前だとは思っていなかった。 彼は肥満症であり、また傲慢で怠惰であった。 ニューヨークの自宅から動くことは少なく、彼が遠出するときは蘭の品評会か、はたまた美味の為でしかない。 それ以外で動くとなれば、まさに天地がひっくり返ったようなものだと言われたものだ。 だが今の彼はニューヨークではなく、遠く離れたカリフォルニアのビルに事務所を構えている。 もっとも、確かに天地がひっくり返ったような東太平洋大津波などという天変地異が起こったのだから この巨漢の男がカリフォルニアにいるのも仕方ないな、と知人は口を揃えるのだ。 「やはりミソ・ペーストは匂いが気になるな。 腕の良い日系人の店があったが、あの店は今も忙しいし、呼びつけるには辛いだろう」 「お言葉ですがね、一枚百五十ドルする肉を気軽に食えるカリフォルニア人ってのも少ないと思いますよ」 「だからといって一枚五ドルのステーキを食って満足しては経済が回らんさ」 助手である男と軽口の応酬をしながら、皿の上の肉料理を片付け、ナプキンで口を拭う。 お気に入りだったブルゴーニュのワインが飲めず、ここ最近は少しストレスが溜まっていた彼だったが 今のところ、目下の悩み事について腐心している最中であり、自慢の蘭の世話も ニューヨーク時代は一日四時間をかけていたものを、なんと一日二時間に短縮する有り様であった。 これには彼のお抱え料理人すら驚き、友人である男に精神カウンセリングを頼めないか相談する程の衝撃を与えていた。 445 :パスティス:2014/06/17(火) 22 21 44 「しかし……いや、これは困ったものだな。 依頼料は充分過ぎるし、心もくすぐってくれるのだが」 椅子から億劫そうに体を持ち上げ、事務所の窓から街を見下ろす。 日本帝国の経済的支援の下、かつての繁栄を取り戻そうとするカリフォルニアの街。 だがそもそもそれが『かつての繁栄』となったのはかの東太平洋大津波のせいであり 米日戦争のせいでもある。 ――彼は探偵業を営んでいる。 高額な依頼料は時に十万米ドル――第二次世界大戦前の価値でだ――を超える高額過ぎるモノであり それに見合うだけの推理力と解決力を兼ね備えている。 だが行動力、というものは全く存在せず、概ね彼の助手が集めてきた情報を組み合わせるという安楽椅子探偵であった。 この本名も不明な大男が、一体いつどこでどうやってそのような推理力を培ったのかは定かではないが 史実世界では密やかに語られ、研究されている事がある。 その研究成果を見れば、彼の推理力もさもあらんという所だろう。 彼は戸棚の上に置かれた手紙――国際郵便――に手をやった。 わざわざイギリス王立海軍の館長手ずから渡しに来たものだ。 その差出人の名前はフルネームで書かれていない。 ただ『S・H』とだけ書かれている。 「……何年ぶりでしょうかね、父さん」 彼は父親に甘えることは出来なかった。 また母親に甘えることも、また少なかった。 1903年に彼の母親は亡くなっているし、彼の父親は遠く離れた欧州の島国にいたからだ。 その父親も、既に90という老人となり、何時この世を去ってもおかしくはない。 まして欧州はナチスドイツという巨大な存在が席巻しており、また太平洋の覇者である大日本帝国という存在があった。 世界が動乱に包まれる中、欧州の島国――大英帝国の至宝といってもいい彼を動かすことは難しい。 万が一、他国で亡くなったとするならば、それが例え老衰であろうとも、疑惑の目が向けられるだろうからだ。 それほど彼の父親は高名な人物であり、かつ恨みを買う人物でもあった。 「宜しい。 大日本帝国の中枢であり脳髄。 英国と米国を出し抜く存在――夢幻会。 貴方に変わって調査致しましょうとも」 男がニヤリと笑い、助手――アーチー・グッドウィンという、目の前の男を大日本帝国へと向かわせる手続きを取る。 「ドン・キホーテになるおつもりで?」 「残念ながら相手は紛うことなき東洋のドラゴンだ。 アーチー、半月後にわたしも行く。それまでは体に気をつけろよ」 「忌憚なく意見を言わせてもらうとすればですね、あなたは家財道具一式を売り払って養護施設に入るべきだと思いますよ。 大日本帝国へ喧嘩を売りに行こうってんだ、FBIのフーヴァーに脅しをかけるよりも厄介な仕事だ。 仮に何ぞ情報を掴んで相手方の顔にコーヒーをぶっかけたとしましょう。 その日からぼくは玄関の電気をつけるにも爆弾を警戒しなくちゃならなくなるでしょう」 「ふふん。アーチー、怖いか?」 男のその言葉に、アーチーは肩をすくめて答えた。 「勿論。 例え目の前に十万ドルの小切手があったとしてもお断りですね。 ……でも、あなたの下に来たその手紙は十万ドルじゃ効かない価値があるし ここまで長年一緒にやってきた相手を、ただの一人で銃剣突撃させるほど薄情でもないんだ」 「宜しい。焼き加減は頼んだ」 「承知いたしました、料理長」 これは英国政府からの依頼でもあり、同時にカリフォルニア共和国にいる商売敵を出し抜く行動でもある。 かの悪名高きピンカートン探偵社はカリフォルニアにおいて幾度と無く男の邪魔をしているのだから、かなり鬱憤が溜まっているのだ。 ――この主人の名前はネロ・ウルフ。 美食家であり、傲慢で、尊大な、しかし偉大なる男。 米国人らしくない皮肉とユーモアに満ちた男の父親と母親は、物好きによる研究によって、史実ではひとつの結論が見られている。 『シャーロック・ホームズとアイリーン・アドラーの息子』として。 ※1 ネロ・ウルフ-米国作家レックス・スタウトにより作られた名探偵。 米国ではシャーロック・ホームズにまさるとも劣らぬ人気を誇るが 日本ではアルセーヌ・ルパンよりも翻訳に恵まれておらず、知名度も低い。 ミルキィホームズで一時期有名になったので翻訳されるかと期待したが空振りに終わった。 ※2 アイリーン・アドラーは『ガス灯に浮かぶその生涯』ではニュージャージー州生まれのクララ・スティーヴンズ嬢の芸名とされている。 つまるところネロ・ウルフは英国と米国の知性の後継者と言える。
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538: ホワイトベアー :2021/10/13(水) 13 03 38 HOST om126133230077.21.openmobile.ne.jp Muv-Luv Alternative The Melancholy of Admirals 序章 西暦1967年、地球では共産主義と資本主義と言う2つのイデオロギー対立と言うお遊戯にふけっていた人類は、地球から384,400 kmも離れている月において、日米が協力して築き上げた恒久月面基地プラトー1所属の地質調査チームの全滅、後に「サクロボスコ事件」と呼ばれ形で火星生命体、後に人類に敵対的な地球外起源酒=BETA呼ばれる存在とのファーストコンタクトを迎えた。 それはある意味で念願の、されど誰もがこのような形では望んでいなかった出来事であった。 地質調査チームの全滅はその生々しい映像とともに大日本帝国航空宇宙軍が月軌道に配備していた偵察衛星によりプラトー1と地球に送信され、また数日後には月面各地の観測拠点がBETAに襲撃されたことにより、人類はBETAとの平和的接触計画を完全に破棄。プラトー1を運用していた日米は月面に観測基地を持つ各国にプラトー1の一時使用を許可。各国も最も堅牢かつ安全性の高いプラトー1に観測基地要員を退避させる。 地球ではBETAの月面侵攻と言う事態に際してニューヨークの国連本部にて緊急招集された安全保障理事会で、直ちに日米英仏ソの常任理事国と非常任理事国の全会一致で国連憲章第43条に基づく国際連合軍の編成と、プラトー1を前線基地とし、日米両国の宇宙軍がJAXAやNASAと共同で運用していた大型月軌道ステーションの1つであるゲートウェイⅠを司令部とする月面方面軍の設置を決定。 幸いにして西暦1958年に火星生命体が発見された時から大日本帝国が月面における軍事力を増強していたことにより、西側東側とわず月にはそれなりの軍事力を駐留させていた。 特に月面最大の恒常基地であるプラトー1には約1個師団近い戦力と小火器や火砲、月面用に開発されていた戦闘車両群、MMUの構造と理論を応用して開発されたES(ExosKeleton=強化外骨格)兵装、大型MMUを発展させた大型人型兵器であるNCAF-3などの大量の兵器、約10万トンとという潤沢な弾薬が夢幻会の手により配備されており、また、地球軌道上の大型軌道ステーションには大量の物資を搭載して地球ー月までの往復を可能とした物資輸送船が大量に待機していた。 このため、人類は急増兵器で補給が途絶え途絶えな戦場で戦うという絶望的な事態は避けられたが、それでも月面で繁殖したのか大量に増幅したBETAに対して人類側は戦力が足りず、国連軍は低軌道戦力が豊富な日米ソ3カ国の宇宙軍から人員をかき集め、日本製の武器とともに月面に派遣する。 国連軍とBETAによる月面での戦闘は一進一退を繰り返していた。数にまさるBETA側は、後に地球でも見られる事になる数と強靭な肉体を武器とした単純な人海戦術を多用し、これに対して数と兵站能力でBETAに劣る人類は、偵察衛星からの情報とNCAF-3やES兵装などの俊敏な三次元機動を可能とする機動兵器による確実な攻撃、再突入型装甲巡洋艦を主力とした月軌道艦隊からの補給物資の軌道投下や軌道爆撃など戦術的には人類が優勢に立つことの方が多かったが、戦略的には圧倒的な数を誇るBETAが優勢であり、ジリジリと国連軍は押し込まれていた。 月面という土地も人類にとってBETAの圧倒的な物量に匹敵するほどの難敵であった。その長すぎる補給線はもちろん、真空、±300°という昼夜の温度差、宇宙線に高速粒子などの月の環境は地球では僅かな損傷程度で済む傷でも致命傷としてしまい、些細なミスも死に直結する月での戦闘は地球で戦うよりも遥かに重い負担を兵士にかける。 539: ホワイトベアー :2021/10/13(水) 13 06 31 HOST om126133230077.21.openmobile.ne.jp 「月は地獄だ」いくら優れた兵器があろうともBETAと言う人をむさぼり喰らう異形を相手にし、少しの傷が致命傷となる月面と言う過酷な戦場での消耗戦は多くの兵士を重度のPTSDに追い散らせ、当時の国連軍月面方面軍司令官にそう言わせるほど苛烈を極めていく。 無論、人類側も何の対策も行っていない訳ではない。日本やアメリカでは日本の全領域歩行戦闘機であるNCAF-3やES兵装の後継機開発が進められており、1968年には日本がNCAF-3よりも重装甲でありながら高い機動性を誇り、近接戦用短刀、近接戦用長刀、105mm滑腔砲・20mm機関砲を搭載する突撃砲などの強力な武装を装備可能でジャンプユニットを搭載する事で地球上でも運用可能な全領域歩行戦闘機であるNCAF-4を実戦投入。 1972年にはアメリカがNCAF-4と比べると装甲や主機出力こそ低いものの、NCAF-4と同じ武装を使用可能な上で生産・整備・経済性に優れ、軽快な運動性を誇るNCAF-5を、日本は複合装甲を採用することで防御力を維持したまま重量を削減し、オペレーション・バイ・ワイヤによる機体制御を採用した新機軸の戦術歩行戦闘機であるF-1A 陽炎を月面戦線に投入するなど新型兵器を次々とロールアウトしていき、さらに人的資源の損耗を抑えるために無人兵器の積極的な開発と投入がされていく。これら新型兵器の投入により月面での戦闘は人類の支配領域をジリジリと減らしながらであるが何とか戦線の維持ができていた。 また、日米は国連宇宙総軍と共同でこれ以上のBETA着陸ユニットの地球圏着陸を防ぐために、日米両国がソ連の弾道弾を迎撃するシステムとして戦略防衛構想に則り構築していた攻撃衛星、偵察衛星、軌道ステーションを転用する形で築かれたBETA着陸ユニット迎撃システムである「テルースの首飾り」と、大日本帝国が火星生物発見後に整備した月軌道上の攻撃衛星、偵察衛星、軌道ステーションを転用したBETA着陸ユニット迎撃システムである「ルーナの首飾り」の2つのBETA着陸ユニット迎撃システムを構築。この二重の護りで人類の本拠地たる地球へのBETA侵攻を防いでいたことから何とか国連軍月面方面軍は10年間以上月面においてBETAと戦う事ができていた。 国連軍の決死の消耗戦と日米両国宇宙軍と国連宇宙総軍が共同で開発した2つの首飾りにより生まれた時間的余裕を夢幻会は無駄にはせず、地球での対BETA戦闘も見込んだ次世代人型機動兵器を筆頭にした対BETA兵器・兵装の開発や地球上での対BETA戦ドクトリンの研究、低軌道艦隊による精密軌道爆撃の実用化などを相次いで実施していき、さらに大型人型機動兵器のパイロット育成制度や施設、設備の充実化や人型機動兵器の生産ラインの増設、NCAF-4の製造ライン流用した低価格戦術機の開発などが、帝国政府が行った自重を捨てた莫大な軍事予算の下に行われていく。 こうした大日本帝国の投資と研究が合わさり、1972年には地球上での対BETA戦を見越した世界初の戦術歩行戦闘機であるF-1A 陽炎とF-4A 時雨が、1974年にはより安価なF-2A 不知火が帝国軍で相次いで採用されていき、BETA地球侵攻を前に大日本帝国軍では本格的な戦術機甲部隊の編成に成功する。また、予備役であった戦艦の近代化改修を施した上での再就役や、同様に予備役であった大型空母を戦術機母艦改装した上で再就役させるなど他国から、いや少しでも軍事の知識を持つ人間なら異常と思える軍備計画や装備の採用を次々と実行していった。 540: ホワイトベアー :2021/10/13(水) 13 07 32 HOST om126133230077.21.openmobile.ne.jp 無論、こうした軍備計画は主導した夢幻会自身もこれらの計画はあくまでも念の為に備えた保険的な計画でしかなく、馬鹿げた軍備計画と笑いものになる未来を望んでいた。だが、彼らの願いが神に届くことはなく、1978年12月16日、夢幻会が知る原作から5年遅れではあるが、火星より撃ち出されたと思われるBETA着陸ユニットが「テルースの首飾り」の迎撃を突破し、ソビエト連邦新疆ウイグル自治区カシュガルに着陸。人類は遂にBETAの地球侵攻を許してしまう BETAの地球侵攻を許してしまった人類であったが、この時の人類は一部を除いて月面戦線で経験したことのない圧倒的なBETAの物量を目にしてもなお、地球上でのBETAの殲滅に絶対的な自信を抱いていた。この背景には戦場が地球という今まで人類が発明してきたあらゆる兵器・戦術が投入可能なホームグラウンドで、さらにBETAに対空兵器、航空兵力が一切存在しないと言う事実があり、カシュガルを領土とするソ連はBETA研究の独占を図るためにBETA着陸を自国の国内問題だとして国連軍の介入に対し拒否権を発動。自国単独での対BETA戦を開始する。 世界で唯一BETAの真の恐ろしさを知る日本ではカシュガルへの核攻撃を実施寸前まで行ったものの、これを察知した米国が世界大戦を恐れたためにソ連や欧州と協力して全力で日本を抑え込むと言う、後に米国史上最大の判断ミスと呼ばれる行為を行ってしまい、未遂に終わってしまう。 日本の核攻撃により世界があわや第三次世界大戦勃発かと言う危機的状況に陥っていた一方でカシュガルでの対BETA戦は航空機の投入によりソ連軍の一方的な虐殺と言える状態であった。しかし、1978年12月30日、新年を前に航空機やミサイル、果には砲弾まで空中で撃破してしまう新種のBETAである光線級が出現。ソ連軍の航空優勢は瓦解し、地球上でならBETAを殲滅できると言う考えが妄想に過ぎなかった事をソ連軍もちろん人類は思い知らされた。 光線級の登場により航空優勢を喪失したソ連軍に対してBETAは地を文字通り埋め尽くさんとする圧倒的な物量で現地のソ連地上軍を粉砕。これに慌てたソ連は上海協力軍を招集、残存極東ソ連軍、中華人民共和国人民解放軍を中核にベトナム、ラオス、カンボジア軍からなる上海協力機構軍を編成しカシュガルに送り込む。しかし、極東ソ連軍主力を粉砕できるだけの圧倒的な物量を誇るBETAに対して、航空攻撃はもちろん輸送機による補給やヘリコプターによる輸送、果には航空偵察などの航空支援全般を封じ込められた状態である上海協力機構軍が対応できるはずもなく、ソ連や中華人民共和国がかき集めた大規模地上部隊はその殆どがBETAの腹の中に消えていった。 こうした事態に陥り、ようやくソ連や中国は核兵器をもちいた攻撃を開始するも、光線級による万全の防空体制が敷かれていた着陸ユニット周辺地域には投入は不可能であり、BETAの一時的な遅滞には成功したものの根本的な解決手段とならなかった。また、日本側が提案した低軌道艦隊をもちいた戦略核による軌道爆撃は、カシュガルにBETAの巨大前哨基地であるハイブが築かれた時点で日本側がリスクが高いと撤回したことでこれまた未遂に終わり、上海協力機構軍は敗走に次ぐ敗走を重ねる事になる。ときここいたり、ようやくソ連は日米や欧州西側諸国を中心とした国連軍の介入を認める。 戦術機甲部隊やAL弾などの対BETA戦兵装が充実した大日本帝国陸軍が参戦した事でBETAの東進は抑えられ、さらに日米の2大工業大国が自国の工業力を活用してNCAF-4を地球仕様に改装したF-108 初凪やNCAF-5を地球仕様に改装したF-5 タイガーなどの戦術機を増産。戦術機を欲するユーラシア各国に大量に供給した事でBETAの侵攻は夢幻会が知る"原作"よりかも遥かに遅く、ワルシャワ条約機構軍や中東連合軍は遥かに善戦した。 541: ホワイトベアー :2021/10/13(水) 13 08 24 HOST om126133230077.21.openmobile.ne.jp それでもワルシャワ条約機構軍を主力とする欧州戦線や中東連合軍を主力とする中東戦線ではBETAの進撃を完全に止めることができず、人類は地球でもその支配領域をズルズルと減らしていき、1983年にはイラン領マシュハドにマシュハドハイブが、1984年にはソ連領ヴェリスクにミンスクハイブが建設され本格的に欧州とアラビア半島に戦火が迫ることになる。 これは、そんな未だに希望の燈火が消えぬ世界で語られるアイとユウキの御伽噺である。 542: ホワイトベアー :2021/10/13(水) 13 10 20 HOST om126133230077.21.openmobile.ne.jp 以上になります。多分にご都合主義的な展開もありますが、原作がご都合主義悪い主義なんでそれでもヨシ。wikiへの転載はOkです。
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超然主義(ちょうぜんしゅぎ)とは、外の動静には関与せず、超然(平然)として独自の立場を貫く主義をいう。一般的には、大日本帝国憲法発布後、帝国議会開設から大正時代初期頃までにおいて、藩閥・官僚から成る政府が採った立場を指し、政府は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという主張であるとされる(異説坂野潤治や御厨貴らは、超然主義には本来の意味である議会や政党の存在・主張を無視するという意味の他に、どの政党に対しても親疎の差を付けずに公平に扱い党派争いに関与しないという意味でも用いられており、超然主義及び超然内閣が必ずしも政党そのものを無視・否定したものではないとする説を提示している。また、政府と議会を独立させるという意味では、アメリカ合衆国では大統領を始め、閣僚は非国会議員に限定している。実態として大統領は議会の有力党派で争われるが、議会選挙とは独立して選出されるのはこのためである。あり)。また、この主義を採る内閣を超然内閣という。 なお、旧制高等学校の中には第四高等学校をはじめとして「超然主義」を標榜した学校がある。これは議会政治とは全く関係なく、「栄華の巷低く見て」という一高寮歌「嗚呼玉杯」の一節に代表されるように、超然主義の本来の意味に近いものである。 超然主義演説 超然主義は、第2代内閣総理大臣の黒田清隆が、大日本帝国憲法公布の翌日である1889年(明治22年)2月12日、鹿鳴館で催された午餐会(昼食会)の席上、地方官らを前にして行った、以下の演説(いわゆる「超然主義演説」)において表明された。 Template quotation? 翌日、大日本帝国憲法起草を主導した伊藤博文も同様の主張を表明する演説を行った。 これに対して、伊藤以外の憲法起草のメンバーである井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎らは批判的であった。すなわち、黒田・伊藤らの主張は「ビスマーク流の專制政治を我邦に施さんとする」ものであり、国務大臣は議会に対して責任を負うものではないものの、 「民の声は神の声なり」(=天声人語)というホメロスの『オデュッセイア』にある言葉 「朕民の心を追つて朕の心とする」という禹王の故事 明治天皇が五箇条の御誓文において誓った「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という言葉 を引いて、「天皇は國民の輿論を荷はない所の内閣を信任し玉ふ道理がない故に國務大臣の責任は法理上天皇に對して之を負ふと云ふも實は議會を通じて國民に對して負ふべき」ものであるとし、「輿論とは沒交渉で議會から不信任を受けても天皇の信任ある間は進退すべきではないと公言するは民の聲を以て神の聲とし、民の心を以て朕の心とすとの玉ふ名君を貶し、萬機公論に決すと宣へる聖旨を裏切る」ものであると主張した。 超然主義の脆さ だが、実際に帝国議会が開かれると、「民党」と称された民権派の流れを汲む野党勢力が激しく抵抗した。黒田内閣による民党分裂工作と条約改正交渉の失敗、第1次山縣内閣による民党買収による予算案通過、第1次松方内閣による選挙干渉事件などが、却って議会の審議を停滞させたばかりでなく、一般国民の反発を買った。 実は帝国憲法そのものが超然主義を前提に制定されたものでなかった。例えば、帝国憲法第71条においては、本予算(当初予算)が年度開始前までに成立しなかった場合には前年度の予算がそのまま新年度予算として執行される規定があった。これは政府予算が議会側によって人質に取られて妥協を強いられる事の無いようにという趣旨で井上毅が提案したものであった。ところがそれは裏を返せば前年度予算がそのまま実行された場合には、当時の日本にとっての緊急の課題であった殖産興業や富国強兵政策のための新規事業が実施できなくなるという事も意味していた。このため、政府側は新規の政策のための予算を必要とする官庁や軍からの突き上げを受ける事になり、民党に対してポストや金で抱き込んででも予算案を通過させる必要性が出てきてしまったのである。また、親政府勢力と見られた温和派(吏党)も国粋主義色を強めるにつれて政府と対決姿勢を見せる事例も現れた。 こうした状況を見た伊藤博文は考えを改めて、超然主義を取って議会との対立を続けるよりも自らが目指す近代国家の方向性を実現させるための政党結成に乗り出す事を考え、1900年に立憲政友会を旗揚げして政府の内側から超然主義を否定する動きに出たのである。 その後も貴族院では、山県側近の清浦奎吾の研究会と平田東助の茶話会という2大会派が超然主義を奉じて、政党政治の排除の動きを行った。やがて、1924年に成立した清浦内閣は研究会を中心とした総理大臣(前枢密院議長)と外務大臣(外交官)・陸海軍大臣(共に現役武官)以外を全て貴族院議員が占めるという文字通りの超然内閣を樹立させた(ただし、この内閣が間近に控えた総選挙の実施のための選挙管理内閣としての側面があった事に留意する必要がある)。だが、この内閣は立憲政友会などの政党側のみならず一般国民からも反感を買い、第2次護憲運動によって倒された。大正デモクラシーの時流の中で時代遅れとなった超然主義に存立の余地は無かったのである。 脚注 関連項目 立憲主義 天皇機関説 山縣有朋 オール野党 外部リンク 「地方長官に対する訓示」(1889年2月12日、黒田清隆内閣総理大臣) - 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月17日 (水) 02 53。
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593 :YVH:2012/02/14(火) 14 40 02 ※拙著→572、艦載機関連小ネタ。ノーズアート 技術者A「この機体なら、リ○・ミ○メイだろう?」 技術者B「小娘に興味は無いっ!ミ○ア様こそ、正義!!」 技術者C「ハァ・・これだから年寄りは・・・ファイヤーボンバーだろjk」 技術者D「何を言っているんだ、貴様らは!嶋田閣下のビキニ姿こそが 大日本帝国軍らしかろうがっ!!!」 A・B・C『!!』 -数日後- 山本「おい、嶋田。貴様この前、会議に出ていなかったが如何した?」 嶋田「・・ああ、ちょっとな・・・艦載機の事で技術者連中と O・HA・NA・SIしてたんでな・・・ふふふふ・・」 山本「?そうか・・・。熱心なのは結構だが、会議はちゃんと出ろよ」 嶋田「ああ、そうするよ。もう、大丈夫だろうから・・・・」 単なるネタです。
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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) 第Ⅱ部 日本国憲法の基礎理論 第2章 現行憲法制定の法理 本文 p.115以下 <目次> ■1.大日本帝国憲法の制定とその特質[76] (1) 明治維新と大日本帝国憲法の制定 [76続き] (2) 明治憲法の特質 [77] (3) 明治憲法の病理 ■2.明治憲法から新憲法へ[77] (1) 全面改正までの経緯 [78] (2) 「改正」論争 ■用語集、関連ページ ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 ■1.大日本帝国憲法の制定とその特質 [76] (1) 明治維新と大日本帝国憲法の制定 明治維新は、復古の名のもとで国民国家を樹立した(「維新」は、グローバル・スタンダードでいえば、市民革命または王政復古のいずれかである。明治維新は市民革命ではない、と私はみている。我が国の維新期の指導者たちが「国民国家」を市民革命によらずして樹立したことこそ、まさに、革命だった)。 国民国家の樹立は、それまでの藩体制(日本版等族国家)を否定し中央政府を作り上げることから始まった(そのための施策としては、廃藩置県が最重要だった。これによって初めて、国民国家の基礎である租税徴収体制を全国一律に張り巡らせることが可能となったのだ)。 議会の開設を約束した明治政府の課題は、何よりも国制(憲法)を整備することにあった。 先進国における憲法事情調査のために、伊藤博文等の憲法調査団が、明治15年、ヨーロッパに派遣された。 伊藤等は、主としてプロイセン、オーストリアにおいて、憲法を制定することの意義についてL. シュタインやグナイスト等から修得して帰国した。 憲法制定の狙いは、復古の体制を堅固とすることにあり、そのために、まず、貴族院への布石として華族令が(明治17年)、内閣への布石として内閣官制が制定された(明治22年)。 憲法典の起草に着手されたのは明治19年になってからだった。 [76続き] (2) 明治憲法の特質 憲法典を起草するにあたっては、プロイセンの範に倣って、 (ア) 欽定憲法とすること、 (イ) 漸進的性格とすること、 (ウ) 議会の権限を希釈すること、 (エ) 天皇の地位を不可侵とすること、 等が前提とされていた。 が、プロイセン憲法とは別の特異さも準備された。 明治維新が復古の形式をとった関係上、大日本帝国憲法(以下、「明治憲法」という)は、「国体」を宣言することを目的とした。 「国体」とは、発布勅語にいう「祖宗ノ遺烈ヲ承ケ」た主権(統治権および制憲権)が天皇に帰属することのみならず、天皇家や天皇の身体について国民またはその代表者が容喙すべきでないことを意味した。 そこでまず明治憲法は、その告文で、「皇室典範及憲法ヲ制定」する目的は「皇祖皇宗ノ後裔ニ胎シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スル」ことにある点が明らかにされた(平易にいえば、「先祖代々と天皇の子孫に伝えられた統治の手本を受け継ぎ、これによる」こと)。 続いて、発布勅語に、「朕カ祖宗ニ承クルノ大権」という天照大神にまで遡る神勅による制憲権を謳ったうえで、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(1条)と定めた。 神権主義的天皇制の採用である。 また、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(3条)との定めは、天皇の政治的・刑事的無答責のみならず、不敬の禁止、廃立の禁止を含意していた。 これらは後知恵からいえば、西洋の王権神授説を遥かに超えた、自らを神としようとする選択を近代憲法の中で敢えて謳う無謀な国制だった。 しかしながら、当時の指導者の立場に立ったとき、それは国民国家を人為的に樹立するためには止むを得ざる選択だったように思われる。 とはいえ、その神秘的色合いが、皇室による無数の神道儀式、教育勅語、軍人勅諭、戦陣訓等々、憲法周辺のプラクティスの中で次第に増幅されてしまった。 この点が現行の憲法と比較されたとき、負の部分として浮かび上がり、「昭和維新」以後、民主主義論者による批判の対象となった。 現行憲法との比較や後知恵の助けなしに明治憲法をみたとき、それは誕生したばかりの国民国家に立憲主義を平和裡に植え付けたのであり、まさに革命的な事柄だった。 このことは、フランス革命やアメリカ革命が流血の惨事を掻い潜った後に立憲主義を誕生させたことと対照すればよく分かるだろう。 「明治憲法が立憲主義を我が国に植え付けた」といっても、それは、立憲君主制を限定的に採用したことを指す。 立憲主義よりも国体を優先させる憲法は西洋の立憲君主制からはズレていた。 明治憲法は、近代立憲主義の核心である法の支配、権力分立、さらには「行政の法律適合性原則」等の理論を、理論どおりには実現しなかった。 そのことを以って後世は、明治憲法典が「外見的」立憲主義を採用したにとどまった、と評価することになる。 明治憲法が立憲君主制的な色合いを持っていることは、 ① 天皇は統治権の総攬者であること(4条)、 ② 天皇は議会の協賛をもって立法権を行使し(5条)、法律の裁可権を有すること(6条)、 ③ 天皇の輔弼機関として大臣が置かれること(55条)、 ④ 憲法典の明文保障する基本権を制約するには「法律の留保(*注1)」原則を満たさねばならないが、それ以外の利益は勅令や命令により得るとされていること、 に典型的に表れている([56]もみよ)。 ところがそれでも、明治憲法における立憲君主制の基調は、憲法発布勅語にみられるように、「此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ」統治することを約する「主権者の自己拘束の理論」にあった。 そればかりか、告文や発布勅語にみられる神権主義は、立憲君主制にも、西洋の王権神授的絶対主義にもみられない要素だった。 (*注1)法律の留保の意義について法律の留保といわれるものにも、ふたつの用法がある。第一は、本文に述べた用法である。第二は、“基本権は法律の範囲内で保障される”という用法である。後者においては、この言葉が基本権規定に使われているとき、“議会は法律によって基本権を制限できる”ことを意味している。 [77] (3) 明治憲法の病理 「此ノ憲法ノ条章」の間隙に現れたのが「統帥権の独立」というマジカル・タームだった。 明治憲法は、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(11条)と定めていた。 統帥事項は、陸海軍の編成・兵額の決定(12条)とは違って、議会や内閣の関与を許さない事項だ、との解釈が幅を利かせ、ガン細胞のごとく増殖し、日本という国を蝕んでいったのである。 その病巣は、明治憲法の抱えていた神権主義的憲法観が立憲君主制思想に打ち勝つうちに、ますます転移していった。 それが、我が国特有の「国体」護持として、太平洋戦争の敗戦後まで国家の哲学とされてしまった。 ■2.明治憲法から新憲法へ [77] (1) 全面改正までの経緯 アメリカ、イギリス、ソ連、中国が発したポツダム宣言は、「平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府」が「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ」樹立されること(12項)、その実現まで占領軍が支配力をもち、日本国の独立性は否定されること、等を明らかにしていた。 日本政府は、同宣言が「国体」の変更まで要求していないことを確認しようとしたものの、連合国側の拒否を受けたまま、昭和20年8月14日、同宣言を受諾した。 この受諾は、決して無条件降伏の承認ではなかった。 にもかかわらず、連合軍による日本の占領が開始された後、無条件降伏であることが前提了解であったかのように、占領政策が進められた。 占領政策の最重要課題が明治憲法の「改正」だった。 連合軍最高司令官D. マッカーサーは、ポツダム宣言にいう「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従」う、民主的な憲法制定を当時の幣原内閣に指示した。 松本蒸治を委員長とする憲法問題調査委員会が憲法の改正作業に入った。 同調査会は、国体に変更を加えない方針だった。 これを知った連合国軍総司令部は、 (ア) 元首たる地位におかれる天皇の権限は、憲法に基づいて行使されること、 (イ) 国家の主権的権利としての戦争を、紛争解決のためであれ自衛のためであれ、放棄すること、 (ウ) 日本の封建制を廃止し、予算のタイプを英国の制度に倣うこと、 の三原則を内閣に示した。 「マッカーサー三原則」である。 マッカーサーは総司令部民生局に憲法草案の検討を命じ、9日間で作成された「マッカーサー草案」が昭和21年2月に政府に提示された。 これを拒絶することは許されない雰囲気のなかで、政府はこれを基礎にして憲法改正草案要綱を作成した(昭和21年3月)。 同要綱に若干の修正を加えた帝国憲法改正案が、枢密顧問の諮詢を経て、明治憲法73条所定の改正手続に従って第90帝国議会に附議された(昭和21年6月)。 その際の勅書は、「朕・・・・・・国民の自由に表明した意思による憲法の全面改正を意図し、・・・・・・」と述べた(頭点は阪本)。 この全面改正案は、衆議院による若干の修正の後可決され、貴族院によっても若干の修正のうえ可決された後、枢密顧問の諮詢さらに天皇の裁可を経て、公式令3条により、日本国憲法として昭和21年11月3日に公布された(施行は昭和22年5月3日)。 [78] (2) 「改正」論争 このように、日本国憲法は、明治憲法73条の改正手続に従って、国家における主権(制憲権)の所在を天皇から国民へと転換せしめた。 これは、改正という名のもとでの新憲法の制定であっただけに、“法理上、あり得ない事態ではなかったか?”との疑問が生じてくる。 これが、先に憲法改正の限界を論じた際にふれた、制憲権と改正権との繋がり如何、という論点である(⇒[46])。 今日まで日本国憲法の素性の正当性に疑問を抱く人たちがいるのは、日本国憲法が「明治憲法の改正」として成立したこの事情も絡んでいる。 上のような日本国憲法「制定」の経緯は、通説的な憲法改正限界説に立つとき、一貫性をもって解明することは困難である。通説的な憲法改正限界説は、《改正権は制憲権に変更を加えられない》という前提に出ることは既にふれた(⇒[46])。そうなると、明治憲法の「改正」手続で国家の根本構造を変更することは法理上不能だ、ということになる。しかし、だからといって、“改正権の限界を超えて制定された日本国憲法は無効だ”と結論することは避けたい(無効だ、と主張する少数説もないわけではない)。そう考えた論者は、国家の根本構造が変わったという契機を明治憲法の改正という国内の事情に求めないで、ポツダム宣言の受諾という国際的な事情に求めた。つまり、同宣言の受諾にあたって寄せられた連合国の回答(バーンズ回答)にいう「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ依リ決定セラルヘキモノ」との条件を日本国が受諾した時点で(昭和20年8月11日)、“我が国は国民主権へと主権原理を転換していたのだ”というわけである。この説の提唱者は、これを「8月革命」と名付けた。8月革命説は、数々の弱点を持っていた。たとえば、ポツダム宣言とそれに基づく降伏文書のごとき国際法上の法文書が国内における主権の転換をもたらすことはあり得ないはずだった。が、それでも、改正限界説を前提とする限り、これ以外に説得的な論理がなかったために8月革命説は世に受け入れられていったようだ。 憲法改正無限界説にでる論者であれば、欽定から民定へと制憲権帰属をまったく異にする新たな憲法が「改正」によって誕生すると説くことは、容易なはずだった。実際、ある学者は、“日本国憲法は明治憲法の改正によって成立した欽定憲法だ”と論じてみせた。ところが、学界では、主権在民を謳う新憲法(民定憲法)護持の立場が圧倒的で、改正無限界説からの分析は精緻にされることはなかった。 ※以上で、この章の本文終了。 ※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。 ■用語集、関連ページ 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第ニ部 第一章 現行憲法制定の法理 ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 名前 コメント
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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) 第Ⅱ部 日本国憲法の基礎理論 第2章 現行憲法制定の法理 本文 p.115以下 <目次> ■1.大日本帝国憲法の制定とその特質[76] (1) 明治維新と大日本帝国憲法の制定 [76続き] (2) 明治憲法の特質 [77] (3) 明治憲法の病理 ■2.明治憲法から新憲法へ[77] (1) 全面改正までの経緯 [78] (2) 「改正」論争 ■用語集、関連ページ ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 ■1.大日本帝国憲法の制定とその特質 [76] (1) 明治維新と大日本帝国憲法の制定 明治維新は、復古の名のもとで国民国家を樹立した(「維新」は、グローバル・スタンダードでいえば、市民革命または王政復古のいずれかである。明治維新は市民革命ではない、と私はみている。我が国の維新期の指導者たちが「国民国家」を市民革命によらずして樹立したことこそ、まさに、革命だった)。 国民国家の樹立は、それまでの藩体制(日本版等族国家)を否定し中央政府を作り上げることから始まった(そのための施策としては、廃藩置県が最重要だった。これによって初めて、国民国家の基礎である租税徴収体制を全国一律に張り巡らせることが可能となったのだ)。 議会の開設を約束した明治政府の課題は、何よりも国制(憲法)を整備することにあった。 先進国における憲法事情調査のために、伊藤博文等の憲法調査団が、明治15年、ヨーロッパに派遣された。 伊藤等は、主としてプロイセン、オーストリアにおいて、憲法を制定することの意義についてL. シュタインやグナイスト等から修得して帰国した。 憲法制定の狙いは、復古の体制を堅固とすることにあり、そのために、まず、貴族院への布石として華族令が(明治17年)、内閣への布石として内閣官制が制定された(明治22年)。 憲法典の起草に着手されたのは明治19年になってからだった。 [76続き] (2) 明治憲法の特質 憲法典を起草するにあたっては、プロイセンの範に倣って、 (ア) 欽定憲法とすること、 (イ) 漸進的性格とすること、 (ウ) 議会の権限を希釈すること、 (エ) 天皇の地位を不可侵とすること、 等が前提とされていた。 が、プロイセン憲法とは別の特異さも準備された。 明治維新が復古の形式をとった関係上、大日本帝国憲法(以下、「明治憲法」という)は、「国体」を宣言することを目的とした。 「国体」とは、発布勅語にいう「祖宗ノ遺烈ヲ承ケ」た主権(統治権および制憲権)が天皇に帰属することのみならず、天皇家や天皇の身体について国民またはその代表者が容喙すべきでないことを意味した。 そこでまず明治憲法は、その告文で、「皇室典範及憲法ヲ制定」する目的は「皇祖皇宗ノ後裔ニ胎シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スル」ことにある点が明らかにされた(平易にいえば、「先祖代々と天皇の子孫に伝えられた統治の手本を受け継ぎ、これによる」こと)。 続いて、発布勅語に、「朕カ祖宗ニ承クルノ大権」という天照大神にまで遡る神勅による制憲権を謳ったうえで、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(1条)と定めた。 神権主義的天皇制の採用である。 また、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(3条)との定めは、天皇の政治的・刑事的無答責のみならず、不敬の禁止、廃立の禁止を含意していた。 これらは後知恵からいえば、西洋の王権神授説を遥かに超えた、自らを神としようとする選択を近代憲法の中で敢えて謳う無謀な国制だった。 しかしながら、当時の指導者の立場に立ったとき、それは国民国家を人為的に樹立するためには止むを得ざる選択だったように思われる。 とはいえ、その神秘的色合いが、皇室による無数の神道儀式、教育勅語、軍人勅諭、戦陣訓等々、憲法周辺のプラクティスの中で次第に増幅されてしまった。 この点が現行の憲法と比較されたとき、負の部分として浮かび上がり、「昭和維新」以後、民主主義論者による批判の対象となった。 現行憲法との比較や後知恵の助けなしに明治憲法をみたとき、それは誕生したばかりの国民国家に立憲主義を平和裡に植え付けたのであり、まさに革命的な事柄だった。 このことは、フランス革命やアメリカ革命が流血の惨事を掻い潜った後に立憲主義を誕生させたことと対照すればよく分かるだろう。 「明治憲法が立憲主義を我が国に植え付けた」といっても、それは、立憲君主制を限定的に採用したことを指す。 立憲主義よりも国体を優先させる憲法は西洋の立憲君主制からはズレていた。 明治憲法は、近代立憲主義の核心である法の支配、権力分立、さらには「行政の法律適合性原則」等の理論を、理論どおりには実現しなかった。 そのことを以って後世は、明治憲法典が「外見的」立憲主義を採用したにとどまった、と評価することになる。 明治憲法が立憲君主制的な色合いを持っていることは、 ① 天皇は統治権の総攬者であること(4条)、 ② 天皇は議会の協賛をもって立法権を行使し(5条)、法律の裁可権を有すること(6条)、 ③ 天皇の輔弼機関として大臣が置かれること(55条)、 ④ 憲法典の明文保障する基本権を制約するには「法律の留保(*注1)」原則を満たさねばならないが、それ以外の利益は勅令や命令により得るとされていること、 に典型的に表れている([56]もみよ)。 ところがそれでも、明治憲法における立憲君主制の基調は、憲法発布勅語にみられるように、「此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ」統治することを約する「主権者の自己拘束の理論」にあった。 そればかりか、告文や発布勅語にみられる神権主義は、立憲君主制にも、西洋の王権神授的絶対主義にもみられない要素だった。 (*注1)法律の留保の意義について法律の留保といわれるものにも、ふたつの用法がある。第一は、本文に述べた用法である。第二は、“基本権は法律の範囲内で保障される”という用法である。後者においては、この言葉が基本権規定に使われているとき、“議会は法律によって基本権を制限できる”ことを意味している。 [77] (3) 明治憲法の病理 「此ノ憲法ノ条章」の間隙に現れたのが「統帥権の独立」というマジカル・タームだった。 明治憲法は、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(11条)と定めていた。 統帥事項は、陸海軍の編成・兵額の決定(12条)とは違って、議会や内閣の関与を許さない事項だ、との解釈が幅を利かせ、ガン細胞のごとく増殖し、日本という国を蝕んでいったのである。 その病巣は、明治憲法の抱えていた神権主義的憲法観が立憲君主制思想に打ち勝つうちに、ますます転移していった。 それが、我が国特有の「国体」護持として、太平洋戦争の敗戦後まで国家の哲学とされてしまった。 ■2.明治憲法から新憲法へ [77] (1) 全面改正までの経緯 アメリカ、イギリス、ソ連、中国が発したポツダム宣言は、「平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府」が「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ」樹立されること(12項)、その実現まで占領軍が支配力をもち、日本国の独立性は否定されること、等を明らかにしていた。 日本政府は、同宣言が「国体」の変更まで要求していないことを確認しようとしたものの、連合国側の拒否を受けたまま、昭和20年8月14日、同宣言を受諾した。 この受諾は、決して無条件降伏の承認ではなかった。 にもかかわらず、連合軍による日本の占領が開始された後、無条件降伏であることが前提了解であったかのように、占領政策が進められた。 占領政策の最重要課題が明治憲法の「改正」だった。 連合軍最高司令官D. マッカーサーは、ポツダム宣言にいう「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従」う、民主的な憲法制定を当時の幣原内閣に指示した。 松本蒸治を委員長とする憲法問題調査委員会が憲法の改正作業に入った。 同調査会は、国体に変更を加えない方針だった。 これを知った連合国軍総司令部は、 (ア) 元首たる地位におかれる天皇の権限は、憲法に基づいて行使されること、 (イ) 国家の主権的権利としての戦争を、紛争解決のためであれ自衛のためであれ、放棄すること、 (ウ) 日本の封建制を廃止し、予算のタイプを英国の制度に倣うこと、 の三原則を内閣に示した。 「マッカーサー三原則」である。 マッカーサーは総司令部民生局に憲法草案の検討を命じ、9日間で作成された「マッカーサー草案」が昭和21年2月に政府に提示された。 これを拒絶することは許されない雰囲気のなかで、政府はこれを基礎にして憲法改正草案要綱を作成した(昭和21年3月)。 同要綱に若干の修正を加えた帝国憲法改正案が、枢密顧問の諮詢を経て、明治憲法73条所定の改正手続に従って第90帝国議会に附議された(昭和21年6月)。 その際の勅書は、「朕・・・・・・国民の自由に表明した意思による憲法の全面改正を意図し、・・・・・・」と述べた(頭点は阪本)。 この全面改正案は、衆議院による若干の修正の後可決され、貴族院によっても若干の修正のうえ可決された後、枢密顧問の諮詢さらに天皇の裁可を経て、公式令3条により、日本国憲法として昭和21年11月3日に公布された(施行は昭和22年5月3日)。 [78] (2) 「改正」論争 このように、日本国憲法は、明治憲法73条の改正手続に従って、国家における主権(制憲権)の所在を天皇から国民へと転換せしめた。 これは、改正という名のもとでの新憲法の制定であっただけに、“法理上、あり得ない事態ではなかったか?”との疑問が生じてくる。 これが、先に憲法改正の限界を論じた際にふれた、制憲権と改正権との繋がり如何、という論点である(⇒[46])。 今日まで日本国憲法の素性の正当性に疑問を抱く人たちがいるのは、日本国憲法が「明治憲法の改正」として成立したこの事情も絡んでいる。 上のような日本国憲法「制定」の経緯は、通説的な憲法改正限界説に立つとき、一貫性をもって解明することは困難である。通説的な憲法改正限界説は、《改正権は制憲権に変更を加えられない》という前提に出ることは既にふれた(⇒[46])。そうなると、明治憲法の「改正」手続で国家の根本構造を変更することは法理上不能だ、ということになる。しかし、だからといって、“改正権の限界を超えて制定された日本国憲法は無効だ”と結論することは避けたい(無効だ、と主張する少数説もないわけではない)。そう考えた論者は、国家の根本構造が変わったという契機を明治憲法の改正という国内の事情に求めないで、ポツダム宣言の受諾という国際的な事情に求めた。つまり、同宣言の受諾にあたって寄せられた連合国の回答(バーンズ回答)にいう「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ依リ決定セラルヘキモノ」との条件を日本国が受諾した時点で(昭和20年8月11日)、“我が国は国民主権へと主権原理を転換していたのだ”というわけである。この説の提唱者は、これを「8月革命」と名付けた。8月革命説は、数々の弱点を持っていた。たとえば、ポツダム宣言とそれに基づく降伏文書のごとき国際法上の法文書が国内における主権の転換をもたらすことはあり得ないはずだった。が、それでも、改正限界説を前提とする限り、これ以外に説得的な論理がなかったために8月革命説は世に受け入れられていったようだ。 憲法改正無限界説にでる論者であれば、欽定から民定へと制憲権帰属をまったく異にする新たな憲法が「改正」によって誕生すると説くことは、容易なはずだった。実際、ある学者は、“日本国憲法は明治憲法の改正によって成立した欽定憲法だ”と論じてみせた。ところが、学界では、主権在民を謳う新憲法(民定憲法)護持の立場が圧倒的で、改正無限界説からの分析は精緻にされることはなかった。 ※以上で、この章の本文終了。 ※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。 ■用語集、関連ページ 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第ニ部 第一章 現行憲法制定の法理 ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 名前 コメント
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61 :名無しさん:2013/10/21(月) 12 33 30 批判をしている以上は私も投稿させて頂きます。 DXに関しては私なりの答えです。 名前は原作日本系KMFより使わせていただきました。 KMF【斬月】(愛称【ダブルX】) 分類:第十世代KMF(ハイ) 所属:大日本帝国 外見モデル:ガンダムXのガンダムDX 製造:倉崎重工 全高:5.2m 全備重量:10.08t 推進機関:ランドスピナー×1対、エナジーウィング(ストライクフリーダムと同系)×1対 武装:MVS×2(連結可能)、トランス・ヴァリス×2、ハドロンランチャー×2 スラッシュハーケン×4 特殊装備:下腕部ブレイズルミナス×2、クラッシュブースター、ファクトスフィア×2、G軽減機構 乗員人数:1人 フリーダムを原型に開発された試作量産機であるストライクフリーダムをベースに操作性の改善を行うとともに、宇宙開発に際して開発された宇宙飛行士用のG軽減機構を盛り込むことで殺人的なGを戦闘機並みのものへと提言させることに成功している。 基本的に装備はフリーダムから変更されていないが、ハドロン砲が収束率を高めたハドロンランチャーへ変更された点と、多くの武装があっても一般の将兵では使いこなせないことからレールガンが廃止されるなど装備の簡易化が進められている。 エナジーウイングの形状変更が一時提案されたこともあったが、第十世代KMFがあくまでも第九世代KMFの正式量産機という開発目的、現状の形状が現在考えうる限り最善であるとして将来の課題とされた。 なお、外見イメージがDXとなったのは、フリーダム系統では量産化していく際に行き詰るのではないか?という意見が社内からも出てきたため、フリーダムの装備を引き継ぎやすい外見を持つとして選択された。 KMF【暁】 分類:第十世代KMF(ロー) 所属:大日本帝国 外見モデル:ガンダムSEEDのオオワシ・アカツキ(色は金色じゃないです) 製造:倉崎重工 全高:5.2m 全備重量:9.58t 推進機関:ランドスピナー×1対、エナジーウィング(ストライクフリーダムと同系)×1対 武装:MVS×2(連結可能)、ヴァリス×2、レールガン×2 スラッシュハーケン×4 特殊装備:下腕部ブレイズルミナス×2、簡易型クラッシュブースター、ファクトスフィア×2、G軽減機構 乗員人数:1人 第十世代のローとして開発され、基本的な部分は上記の斬月より引き継いでいる。 武装においては一般のパイロットでは高速で動く相手に狙いがつけ難いと批判の強かったハドロン系装備を廃止し、弾速が速く正確な照準がつけ易いレールガンを復活させている。 又、価格高騰の要因のひとつであるトランス・ヴァリスを標準装備より廃止し通常のヴァリスを標準装備に加えている。 次に特殊装備としてフリーダム時代からの代名詞であったクラッシュブースターであるが、通常のパイロットではその全力を使うことはなく、機体の減速や方向転換する際のスラスターとして最低限の出力で運用することが多いことから、減速や方向転換用のスラスターとしてのみの運用に特化した安価な簡易型を開発しこれを導入している。 尚、外見はSEED派の主張により採用された。ただし彼らも塗装に関しては完全な沈黙を保った。
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明治年間(1868年 - 1912年)は明治時代と呼ばれる。新政府は、天皇大権の下で欧米の諸制度を積極的に導入し、廃藩置県、身分解放、法制整備、国家インフラの整備など明治維新と呼ばれる一連の改革を遂行した。その過程で琉球王国や蝦夷地を日本領とし、現在の日本につながる国土の領域をほぼ確定した。新政府は不平等条約の改正を目指し、帝国議会の設置や大日本帝国憲法の制定など国制整備に努める一方で、産業育成と軍事力強化(富国強兵)を国策として推し進め、近代国家の建設が大きく進展した。日本は、日清戦争と日露戦争に勝利を収め、国際的地位を確保していく中で韓国併合を行なった。 文化面では、欧米から新たな学問・芸術・文物が伝来し、それまでの日本に存在しなかった個人主義に基づく小説という文学が登場するなど、江戸時代以前とは大きく異なった文化が展開し、文明開化と呼ばれた。宗教面では従来の神仏混交(神仏分離)による仏教弾圧(廃仏毀釈)が起こるなどの過激な動きも見られた。
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ユユザレ連邦 WATO加盟国。 目次 基本情報 獲得領土 人事 その他 基本情報 + ... 国名 ユユザレ連邦 漢字 湯々座零連邦 略称湯 英語 Yuyzle Federalist 略称Y.F 公用語 制限はしないが日本語推奨 建国日 2022年2月23日 人口 約17億3400万人(94user) 首都 INFINITY特別首都未来地区 主要都市 ONE市 THREE市 首都の人口 8億3253万人 面積 約89180000㎢ 内訳 国家資金 560億§ 構成国 ユユザレ王国 ロベルネ社会主義平和国 サビュール共和国 ソラノバ共和国 URLはこちら 獲得領土 + ... FUN次元 Boeing次元 UNP次元 SEU次元 SVNU次元 人事 + ... https //scratch.mit.edu/projects/665649855 その他 + ... 同盟国 als王国 Boeing国 仮想帝国ヴェリアリア ドイツ社会主義連邦 クリスタル共和国連邦 small国 大英華帝国連邦 通称カレンデュラ スクラリア ロベルネ社会主義平和国 フォトナ1206国 ピカチュウ社会主義独裁帝国 ディデール共和国 宮本帝国 翔国連邦 ロシア連邦(イーグルさん) ぽむぽむ共和国連邦 北欧帝国連邦 マガレスナ共和国 大おもち帝國 大日本帝国連邦大防災帝国主義 人民君主国 ゴンザ社会主義人民共和国 ボムペイ共和国 ソラノバ共和国 LXV連邦共和国 マインクラフト共和連邦国 scratchscratch国 ネイ王国 素麺連邦共和国 レドゥルム帝国 友好国 ロシア連邦 (最友好国)大おもち帝國 条約 もっきー連邦共和国安全保障条約 バセテリア共和国防衛条約