約 1,638,761 件
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/114.html
目次 1.愛の本質 2.愛と執着 3.現代人の苦悩 4.情欲 5.真実の愛 6.天使の生涯 1.愛の本質 さてみなさん、土屋書店さんでのシリーズも、第二集に入りました。前回、『高橋信次の新復活』という話でやりまして、まあそこそこ読者からの期待が集まりましたんでね、いよいよお待ちかね、本書では「天国と地獄」へご案内致したいと思っています。 ただ天国と地獄と言っても、まあ広大無辺(こうだいむへん)でございますから、まず天国と地獄を分ける出発点としての「愛」ですね。これについてお話をしたいと思うんです。 まあ、「愛」の本質というわけでありますが、私はね、生前あまり愛については話をしなかったんですね。なぜ話をしなかったか。これには複雑な個人的事情ももちろんあったわけでありますが、まあ、難しいんですね、愛っていうのはね。難しい面がずいぶんあるんです。 それは本当にね、包丁(ほうちょう)みたいなものなんですね。包丁っていうのは、刺身を切ったり、あるいは肉を切ったりできるけれども、逆にね、悪い用途にも使えますね。 そういうふうに、「愛」というのは両面あるんですね。非常に難しいのです。だから愛なんかなければ、苦しみもない面もあるんですね。だから愛があるから素晴らしいところもあるけれども、愛があるから逆に苦しみが増えているところもある。 で、現代人のこの全般を見ておるとね、やはり愛というものはどちらかと言うと、まあすばらしいことが多いよりも、苦しみの方、これが多いような気がしますね。 これは私だけが言っておるんではなくて、インド時代のお釈迦様もやはり似たようなこと言っておるんですねえ。愛っていうのを、決していい意味で、彼は使ってないですね。愛というのはやはり執着ですね。そういうふうな別名のように使っていることがある。 まあしかし、イエス様というのは、愛というのをこれを素晴らしいもの、こういうふうにしてとらえましたね。だからこのへんに、愛の本質についての基本的な考え方がね、多少違うことがあると思うんですね。 じゃあなぜ仏陀は愛を苦しみととらえ、なぜイエスは愛を喜びというか、素晴らしいものとしてとらえたのかね。このへんの違いについて、もうちょっと話をしていきたい。まあ、こういうふうに思います。 これはね、非常に個人的な事情も私はあったと思うんですね。あのような大聖者であってもね、やはり個人の側面、問題もあったと思うんですね。問題点があったと思うんです。釈迦は二十九歳で、カピラ城を出ましたね。そしてヤショーダラという妻と、ラフラという子供があり、また第二、第三、第四王妃がいっぱいおったのに、ほっぽり出して出たわけですね。 そうすると、そうした環境でいくと、釈迦にとっての愛って何だったかって言うと、こうした妻たちをかわいがるということですね。あるいはラフラという子供、これを父親としてかわいがるということでしたね。ただ、まあ、それはそれで人間の道であって、良かったんだけども、残念ながら難しい点としてね、大いなる何と言いますか、悟りですね、成道(じょうどう)のやはり妨げにはなっておった。こういうことが言えると思うんですね。 だから、釈迦も妻を愛するということには、もちろん決して奉仕をしない気持ちはなかったんでありますが、ただ妻に奉仕すると人類に奉仕できない。まあ、こういう面があったわけですね。こういうことで、振り切って出て行った。 これに反してイエス様の場合はちょっと違いましたね、事情がね。やはり独身ということもありましたね。独身ですからまあ、愛に飢えておった、と言うと、こらもう語弊(ごへい)があってもちろんおこられちやいますが、そういうわけでもないんでしょうが、愛というものに対してやはり、イエス様はかすかなあこがれをやっぱり持っておったんではないかなあ。まあ、こういう気がしますねえ。 そして聖書なんか見ても、イエス様っていうのは、やはりイエスを取り巻く女性たちね。いろいろと出まわるわけですが、熱いまなざしをですね、投げかけている面がずいぶんある。まあ、こういうふうに思います。 結構娼婦(しょうふ)なんてかわいがってますが、やはり娼婦っていうのはやっぱりね、顔立ちが悪いと商売できないんですね。だから娼婦の条件ていうのはやはり男好きがするという、そういうことがね、そういう顔立ちであるということ、容姿であるということ、これまあ前提条件ですね。これ外れるとやっぱりお金くれませんからね。そういう人は百姓するなり、大工のおかみさんするなり、やっぱり他の道を探さにゃいけない。 だから娼婦をやるというのは、それなりの社会的ステータスがいるわけですね。女性としての、やはり武器を持ってない人は娼婦になれない。 で、イエス様のまわりにも娼婦がいろいろと出入りしておりましたけれども、一番有名な娼婦がマグダラのマリアって言うのがおりましたねえ。これは高級娼婦でございましてね。なかなか普通のユダヤ人では手が出せないような高級娼婦だったんですね、マグダラのマリアっていうのは。家が貧しかったからそういう娼婦をやっておったわけであるけれども、まあ彼女が主として相手にしておったのは、もちろん地位、名誉のある人が、主(おも)だったんですね。 そういう人であって、イエス様もお金がなかったからねえ、そういう高級娼婦とはお付き合いできなかったわけだけども、マリアっていうのはその罪の意識というのが非常に強かったから、やはりなんとかしてその贖罪(しょくざい)ですねえ、罪をあがないたいっていう気持ちがあった。そこへ神の子イエスが登場した。まあ、そういうことでもって、非常にイエスにすがろうという気持ちがあったわけです。 イエスはイエスでやっぱり神理を説こうと思ったけれども、齢(よわい)三十歳、やはり女性を見ればね、ちょっと目がキョロキョロする。美しい女性が目の前を通ると、やっぱり目がキョロキョロッ、キョロキョロッと、やっぱりね、そらさないわけではなかったんですよね。ま、そういう気持ちはあった。 だからまあ、イエス様も愛を実行できないから、せめて言葉の中では愛についてね、やはり一生懸命言っておった。 「わかってほしい、ね、マリアたちよ。おかあちゃんじゃない方のマリアたちよ。わかってほしい。僕がどれだけ苦しいか」 まあ、こういう気持ちがあったのかもしれませんね。 だから、愛の本質と言って一般論が述べられるかと言う意見もあるでしょうが、そういうふうに聖者たちも個人的事情によってね、多少その色彩、愛についての色合い、とらえ方がね、やっぱりあったんじやないでしょうかね。その違いがあったと思います。 2.愛と執着 まあ、釈迦とイエスの例を話しましたが、高橋信次の愛の本質とはどうなのかと、こういうことありますわねえ。だから私も愛については、そう多くを語りたくない。まあ、こういう個人的事情がいろいろあるんですねえ。 これを言うと、ま、読者が悲しむこともあるんで、読者の中にもいろいろ意見がありましてねえ。GLA時代からの私のファンとか、崇拝者もおるんですね。そしたら私が霊言集の中でいっぱい、「ああいうのが違ってた、これも違ってたって修正するもんだから、「信次先生、もう修正いいから、修正やめてね、もう本論、法の本論入って下さいよ」ってね、痛切に願ってくれる人もいます。私の格が下がったりね、私がかわいそうだと思ってくれるんでしょう。 なぜ、かわいそうか。まあ、そら私も愛の部分で相当苦しんだからですねえ。まあ愛というのはね、人と人を結び付けるもんだけれども、やはりね、人と人を結び付けるところはあるが、この逆にね、胴体にロープを結びつけてね、車のタイヤ引きずっているような面もあるんですね。スポーツ選手なんかはタイヤを引きずってね、体鍛(きた)えておるけれども、通常の人はそうはなかなかいかない。 だからかあちゃん、子供がいると、もうロープで数珠(じゅず)つなぎにうしろにつながってるようなもんでね、身動きできんのですね。車なんかでも、たとえば事故車ってありますねえ。あれを引きずって、クレーンカーかなんか知らんが引きずってんのありますねえ。ああいう、うしろに車引きずって走っとる車見たら、もうどこも行けんですね。 あんなので、あなたドライブなんか絶対できないですね。恥ずかしくって、あんなのじゃイヤヨって言いますね。うしろに引きずるカンカラぐらいならいいんだけど、ああいう車引きずっては無理ですね。そういうふうになる。 だから私もね、やはり愛の問題ですいぶん、まあ恥ずかしながら苦しんだことがあります。その愛というのは、決して男女愛だけじゃなくてね。幼い頃からいろんな苦しみ受けてきました。家庭環境の中でね。 まあ、信州の方に生まれて、貧農の出でね。貧乏人の子沢山(こだくさん)。まあ、まだ身内生きてますから、あんまり言うといけないんだけども、証明のためには言うといいんだけど、まあ言うと、身内がやっぱりいやがるからね。こらこんなこと言われたら嫁に行けんとかね。婿(むこ)が来んとかいろいろ言われるといかんから言えんけども、まあ、貧乏人の子沢山ていうんで、すいぶん苦労しました。 えー父はまあ純情な方でね、一徹(いってつ)な方でしたし、母は信仰一筋の方でした。まあ信仰の方であったと思いますね。真実の母、それから貧乏人であったけども信念の父と、まあこういう両親のもとに生まれて、子沢山でね、ずいぶん経済的な問題でも苦しみましたし、それ以外にもいろいろとね、幼少時から苦悩することが多かったです、私はね。苦労しました。 また私の本の中にもいろいろ触れてありますようにね、十歳の頃から原因不明の病気ということで、何度も死に見舞われると、まあ、こういう経験もしましたんでね、両親はずいぶん私のことは特別に、なんて言うかね、気を遺(つか)ってくれました。まあ、そういうこともありましたね。だからずいぶん、両親の愛という面で私は飢えてませんでしたけどね、両親の愛というのはずいぶん面倒見てもらったと思います。 ただ何と言いますかね、幼少時にやはりいろんな悩み、苦しみ、家庭環境や自分の境遇、逆境に対するね、悩み、苦しみ、こういうものを持ちましたね。そしてなんとかしてそれを打開しよう、それから抜け出そうと努力したり、もがいたりしましたし、まあ勉強もしたこともあるんですがね。私は大して頭が良くないですから、そんな秀才コース乗るわけでもありませんでしたけどもね。勉強もやはり、したこともあります。 それから戦前、戦後、飛行機乗りから始まって、石けん売りからラジオの組み立てまで、いろんなことやって生活をつくっていったわけですがねえ。その頃にはやはり苦しみ、ありましたねえ。 そしてそうした環境の中で、私が思ったことはね、やはり人間は、自分の力というものでね、なんとか環境を克服(こくふく)していかねばならん。まあこういうことが、私自身の悟りでもあったわけなんですね。 なんとかして環境を克服したい。いろんな不幸や不遇(ふぐう)があるけれども、これに流されてしまったんでは、何のために今世(こんぜ)生を受けたかわからん。だからこの悩み、苦しみをね、なんとか切り抜けてやはり自力でね、立ち上がっていかねばならん。まあ、こういうことが私の強い出発点、これになったわけなんですね。人生の出発点はまず、自分の力で、自分の両足で立つっていうことですね。 それは、まあ私を見てあざけったりね、笑ったりした友だちもいっぱいいましたけども、そういう恵まれた環境にいる人はともかく、やはりね、裸一貫で出てきたんだから、裸一貫でどこまでやれるかが、やはり今世の勝負だということで、私はね、自分でやはり立つということを強く考えました。 父や母は私を愛してくれましたが、ただ父や母が私に残してくれたものっていうのは何もなかったわけですね。何もない。だから愛はいただきましたけども、それ以外のものはなかった。社会に出て私がそれが武器になるようなものは何もなかったですね。貴族の出でもないし、金があったわけでもないし、ね、そんなに学があったわけでなし、まあいろんな悩み、苦しみがありました。 だからそういう環境で育って私は、自分自身振り返ってみると、愛というけれども、愛という言葉の響きの中にあるセンチメンタルな部分ですね、これに対して私はほど遠い感じがするんですね。愛という言葉になんと言いますかねえ、霧がかかった橋の上で、男女がこう睦(むつ)み合うって言わないんでしょうね、何て言うんでしょうか、言葉を交わし合う雰囲気ね。「今度いつ会えるの」って言って、指輪交換するような情景というのは、私にとっては無縁であったわけであります。 私は霧のかかった橋のたもとで、ござ広げて商売する雰囲気でありましてね。私が商売してる上で、そういう男女が睦み合う姿がございましたが、そういうのをやはり下から仰ぎ見ておったような、まあ、こういう青春時代でありましたね。 そういう意味で愛というのにそういうなんと言うか、センチメンタルなものが付きまとうと、なんと言いますかね。なんと言うか、恥ずかしいっていう雰囲気ですね。 もちろん十代でも好きになった女性もおりましたが、私はね、人前に出るとやっぱりね、みなさんね、私がテープとか講演で大威張(おおいば)りで太鼓腹(たいこばら)出して言うとるから「あいつ厚かましい野郎だ」なんてね。「面(つら)の皮一センチぐらいあるんじゃないか」なんて思ってる人もすいぶんいるでしょうが。 「なんだ、釈迦だ、モーゼだ、イエスだ言うてギャーギャー偉そうに言うんだからよっぽど鉄面皮(てつめんぴ)に違いない」って言う人もいらっしゃるでしょうが、ま、私は純情でございましてね。ま、正直な話、だから好きな女性でてもねえ、もうほんと赤面症で、もう女性の前出ると真っ赤になって何も言えない。そういう性格だったんです。 だから妻と結婚して子供ができたなんて人前で恥ずかしいーってね。なんで子供ができたんだろう、恥ずかしいっていうのはね。ま、そういう純情な私でございました。 だから愛というものに対しては、もう恥ずかしいーっていう気持ちのほうが強かったですね、どっちかと言うと。だからそういう豊かな恋愛感情っていうのはあまり持てなかった。 まあ結婚したわけですから、妻との出合いとかいろいろございますが、このへんは向こうもまだ生きている身でございまして、GLAってとこの会長やっておる身でございましょうから、あんまりね、私が古い話を言うと商売差し支えることもあるんで、このへんは濁(にご)しておきたい。ま、こういうふうに思いますね。 ただ私はね、愛というものに、一つの悲しさというのを感じたんですね。悲しさって何かって言うとね、ま、愛というものは、その自分の希望がかなえられた時っていうのは非常に嬉しいんですけども、なんと言うか、やはり裏切られることって多かったですね。 そしてさっぱりした性格の人はそれでいいけれども、やはりね、執着っていうのがあるんですなー。執着というのがある。 皆さん、ご経験があるでしょうか、読者のみなさんはねえ。女性にふられてねえ、下宿の二階で「あーあ、なんとかちゃーん」ね。「良子ちゃーん」「桂子ちゃーん」ね。「ミカちゃーん」なんてね。「あー僕は恥ずかしいー」ってね。「ミカちゃーん」なんてね。こういう気持ちがあるでしょうか。どうでしょうか、わかるでしょうか。ふられてねえ、もう一年経(た)って「あー」なんてね。下宿の二階で時どき遠吠えしたりしてね。四つん這いになって、六畳の部屋四つん這いで這い回ってね。「あーあーあー」なんてね。「恥ずかしい」なんてね。こんなことをね、思った経験、言った経験がみなさんありましょうかね。 そして最後のデート誘って、映画館に入ろうとしてね。「僕と結婚しない?」なんて言って、「なにバカなこと言うのよー」なんて、「私は他にいい人いるわ。あんたなんて遊びよー」なんて言われてカクーッときてね。そして、ものすごくふかーく深手を負って、そして下宿の二階で六畳で四つん這いして「アオアオアオー」って、あなた動物の吠え声の真似(まね)してね、吠える真似したりして、叫んどると、洗濯物干しとった下宿の奥さんが心配してね。「どうしたのー、どうしたのー」ってね。「信次ちゃん、どうしたのー?」ってね。「春雄ちゃん、どうしたのー?」「春雄ちゃん、気でも狂ったの。頭、大丈夫?」「いや、奥さん大丈夫ですよ。僕、心配ないです」「でも今、『ミカちゃーん』とか、ねえ、『エリコちゃーん』とか言って叫んでなかった?」って。「いや、そんなことないです。あれはあのう、学園祭で今、あのう劇やっててその稽古してるんですよ、そうですよ」「春雄ちゃん、本当?」「そうですよ、僕、大丈夫ですよ。正常ですよ」って。「でも、その割には、夜中に時どきワオーワオーって吠え声が来るんじゃない?」なんてね。まあこんな瞬間もあったでありましょう。 まあそういうことでね、愛と言うにはなんか悲しい執着をね、私は感じます。だから、天上界に還って今、思うのにね、地上に出ている男女がね、みんな愛が成就されてね、思った通りみんなハッピーになっていったらいいなーと思うんだけど、見ていると失恋の方が多いんですなー。悲しい話の方が多くてね、世の中は。苦しみばかりが多い世の中で、なかなか成就せんのですよ。で、たまに成就すると、またそこに苦悩があるんですねー。これを次の節で話をしましょう。 3.現代人の苦悩 まあそういうことで、愛は悲しくつらいもの、そして執着になるとやはり切ないもの、ま、こういう話しして来ましたが、本節で現代人の苦悩ということでね、ちょっと話したいと思うんだな。 現代人の苦悩はね、僕は結局ここにあると思うんだ。経済問題だな。愛に関する苦悩の一番は、経済問題だと思うんだね。やはりね、結婚するということによって、男は相当なやはり重荷ですよ。これは重荷です。 少なくとも奥さん食わさにゃいかん。ま、子供が出来ちゃうんだな、不思議にね。なんにもしないのにね。なんかあのう、神社の木の股(また)から子供が生まれちゃうんですよね。こうのとりが運んで来るんですね。子供が出来ちゃうんです、ポコポコとね。えー佳子だとか、真由美だとか言うて子供ポコポコ出来ちゃうんですよ、ね。不思議に出来るんです。こうのとりが運んでくるんですね。 ご主人は聖者であるからそんなこと絶対あり得ないんだけども、こうのとりがどこからともなく運んで来て、ペリカン便で運んで来て、子供が出来ちゃうんですね。 出来た時、まあ男性はもちろん「自分の分身が出来てよかった」と思う人と、[分身が出来て、しまった!]と思う人いるんですね。「あー自分そっくりだ、いやだなー」なんて思う人と、「お、自分そっくりでかわいいじゃねえかー」なんてね、思う人。「しまったー、これから二十年間おれは働かにゃいかん」って思う人ね。子供大きくせにゃいかんから。まあこういう苦悩もあるんですねえ。 そうすると男はそれでね、やはり結婚、それと子供が出来るということで、少なくともまあ二十年じゃだめだね。二十五年は要するに、もう借金と一結なんですね。借金してんのと一緒で、ローンですね。一種の、住宅ローンと一緒で二十五年間は、要するに払い続けにゃいかんわけですね、その借金を。そういうことと一緒なんです。 それを考えて結婚の時ね、あんな美しい女性ね、あーミロク菩薩か、聖観世音菩薩かと思って飛びついた女性がこんな大きな苦悩生むとは思わなかった。ということで、非常な後悔をするわけですね。 女性に対する男性の幸福感、喜びっていうのはほんの一瞬で終わってしまって、苦悩の方はもうニ十年、三十年、と続いていくんですね。まあ、こういうことで、どう差し引き計算しても損したと思い始めるんですね。男性っていうのは。ま、九分九厘そう思います。「あっ、しまった!」あとは言い訳の人生が始まるんですね。「おとうちゃんはやりたいことがいっぱいあったのに、おまえや子供たちのために犠牲になった。おまえたちのために身を粉にして働いた。おまえたちのために面白くもない仕事を一生懸命やった。おまえたちのために出世も出来なかった。出世の声がかかったけども、おまえたちのために転勤を拒否して、わしはヒラのままで終わった」とかね。「こんな仕事とっくにやめたかったのに、おまえたちのために」ね。「おまえたちのために」という言葉で生きていくんですねえ。こうして偽(いつわ)りの人生、まあこういうのが始まるわけですね。 だからこの愛の問題ね、つきつめてみると、やはり経済の問題に僕は行きあたると思いますね。だから経済の安定と、あと男の自己実現ですね、男性の。こういう問題になると思うんだな。 この世の中でね、現在、管理社会って言いますが、そう簡単に自分の思い通りの人生送った人っていっぱいいないですねえ。なかなかいないんですねえ。難しいですねえ。そういう世の中なんですね。抑圧の強い世の中でしてね。どうやって自分を殺すか、身を殺すかということばかりが大部分なんですね。 こうした中で、男性は、まあ女性も一部はそうでしょうが、管理社会の中で、非常に圧迫感、これを受けてくるんですね。かたや経済的重荷がある。自由にものが言えない。言いたいことあっても、それをグッと我慢して、抑え込む。こういうことで非常にサムライ社会のような、抑圧された管理社会になるんですね。 まあ、これももっと自由自在にしてやりゃいいのだけれども、そういう自由自在にしようと思ったら、昔のお百姓さんのようにやるしかないんですね。自分とこで畑で作物つくっとる分にはね、誰も何も言わんからそれでいいんですが、今さら肥桶(こえおけ)担いであなたね、大根つくったり、サツマイモつくったりする人いませんよ。みんなネクタイぶら下げて行くんだね。なんとか物産だとかね。なんとか商事。あるいはなんとか生命とかね。こういう会社の名前で生き甲斐を感じとるんだな。こういうふうになってくる。 で、職場ではやはり、自己実現が出来ない。家庭では奥さんと子供、こうしたものとの板挟みね。奥さんはだんなさんが何をしているか全然知らない。お子さんは、「もうパパは要するに月給取りよ」って。こうのとりじゃない「月給取り」で、ねえ、「給料日だけは早く帰って来るけど、あとは帰って来ないのよ」ってね。給料日だけポンと札たばを出したらあとはいばっちやって、その給料日もだんだんいばれなくなっちやって、なんでかって言ったら、自動振り込みになっちやって、銀行振り込みになって、月給袋くれないもんだからいばれない。だから印刷した袋出して、 「これ、この通りだぞ、こんだけ入ったぞ」 「まあ、あなた、今月もずいぶん引かれてるのね。天引きが多いわね。天引き二十万もされてるわよ」 「うーん、だけど額面は多いぞ」 「額面は多いけどあなた、これローン引いたらもう手取り二十万ないじゃないの」ってね。 「どうやって生活するの、こんなので。あんた今月は五万円以上使っちゃだめよ、おこづかい」 なんてね。こういうこと言われますね。苦悩ですね。現代人の苦悩。大きいですね。 女性は女性で苦悩がありますねえ。そういう主婦みたいなのがいやなら、OLやっとるわけだけども、OLはOLでね、今、心がものすごく荒んでますよー。OLの心はね。 まあだんだん給料は上がっていくんだけど、収入は増えていくんだけども、だんだん男性がね、相手にしてくれないんですね。二十五過ぎたら急速にみんな遠ざかってね。ところが毎年、春、四月になると新入女子が入って来るんですねえ。高卒や短大卒の二十(はたち)前後のかわいい女性が入ってくると、男性社員はねえ、「おい、OOちゃん、おい、飲みに行こうかー」とかね。「おい、カラオケ行こうぜ」ってね誘いに行く。「わたしは?」って言ったらね、知らん顔して「あ、残業ご苦労さんですな」って、横通り過ぎて行くんですね。くやしいねー。だけど早く五時半に家帰ったって何もすることないしねえ。お稽古ごとはね、入社して三年間ぐらいお稽古ごともやったけど、入社して五年も、十年もしたらね、お稽古ごとも、もうやる気はないんだよね。 「あー十年前はよかったなー。十年前は月から木まではもう、びっしりお稽古ごとでね。そうねえ、月と水はソニーの英会話よ。で、火曜日はお花の、ね、お花の勉強、ね。で、木曜日はね、私はヨガやってました。金曜日だけしょうがないからあけてたら、もうお付き合いでいっぱい。申し込みが殺到するから。で、土日って言ったらもう男の子がテニスに行こうぜってね。もう、ドライブに行こうって誘われてうるさくて、一週間疲れがたまって、もう休まる時なかったわ」ってね。十年前のことボーッと思い出してますね。 そして職場でね、七時ぐらいまで、七時、八時まで残業するんですね。パチパチやってて、残ってたら男性も二、三人残ってる。 「声がかかるかな、もう八時近いから、『春子さん、食事しに行かない?』ってかかるかな、かからないかな」と思いながら計算機パチパチはじいていると、「じゃあ、春子さん」って、ドキッとしてハッと思うと、「お先に」なんて言ってね。帰っちゃうんですね。 あるいは結婚している男性になると、もう夜七時過ぎたらね、部長とか役員がいなくなるもんだから、帰っちゃってね。そして電話とって、私用電話ですねえ。会社の電話回して、「おい、今日はな、ちょっと付き合いあるからなあ。帰るの十時過ぎるからね」とかね。「おい、帰るぞ。メシつくっとけよ」とか言ってかけてるんですねえ。ご主人さんがね、会社の電話で。くやしいですね、こんなの聞いてるんですね。 八時まで経理パチパチやってるとね、社内放送かかりましてね。「もう八時になりました。女子社員の方は全員お帰り下さい」こんな社内放送かかるんですね。そしてスゴスゴ帰る。暗いアパートにまっすぐ帰るんですねー。寂しいですねー。 時々悲しくなってね、渋谷かなんかの雑踏に出るんですねえ、夜の八時から。そして街角歩いてみるんですね、一人でOLがフラフラと。声かからんかなーと思って。かかると、たいていもうチンピラのあんちゃんですね。「男かな」と一瞬思うんだけど、黒メガネかけとるんで、怖くなって逃げますね。こうして寂しい寂しい三十代に入っていくんですね。だから男女とも、苦悩というのがあります。 4.情欲 本節は非常に大事な節なんですね。そういうふうに現代人というのは苦悩に苦悩を重ねておって、男性は抑圧されておる。女性は女性でね、女の盛りは短くて、もう桜の咲くのはもう数日間、あとはもう花は散ってね、もう寂しいものなんですね。声がだんだんかからなくなる。 だから、二十三、四の頃のあのときめくような緊張感、ね。もう二十五までには結婚するんじゃないかと思って、ね。会社に入ったら人事の、人事課長からね、女子社員への訓辞がある。そして「いいですか。あのーみなさん、クリスマスケーキっていう話をご存知ですか。えー知らないって、知ってる人」って誰も手を上げないね。女子社員、知ってても手上げない。「あーわかんないですか。クリスマスのケーキっていうのはね。みなさん二十三日売れると思いますか。売れると思う人、手上げなさい」って言ったらみんな手上げるね。「じゃあ、二十四日、クリスマス・イブは売れると思いますか」って言ったら手上げるね。「二十五日、クリスマス当日は売れると思いますか」って言ったら手上げる。「二十六日売れると思いますか」って言ったらね、誰も手が上がんない。 「わかりましたか。クリスマスのケーキが、ね。当社人事部ではね、そういうふうにクリスマスのケーキ理論でもって、女子社員教育やってますからね。いいですか、みなさんね、クリスマス・イブをねらうんですよ。最悪でもクリスマスの当日に売れるように。二十六日になったらもう買手つきませんよ。あとはもう百円で売らないと、一箱百円ですよ。もう大晦日(おおみそか)になったら買う人誰もいないですよ、ね。わかってますか」なんて教えられるんですね。 そしてね、「ムッ」とするんですね、話聞いて。「なによ。女性はこれからよ」。「年齢じゃないわ。キャリアよ。キャリア・ウーマンよ」なんて、思うんだけど、現実二十五あたりで苦悩をつくりますね。そして、六、七、八と行きますね。悲しいですねー。 まあそのあたりでね、だいたい二十五過ぎたあたりで結婚行きそびれると、やけになるんですね。だからやけになってね、女性は三十までにはね、もうとにかく「もうええわ」ってね。「もうなんでもええから、すっきりしなきゃあ」って言うんでね。 まあ男女の経験ないままに三十過ぎる人はそんなに多くないんですね。私が天上界から見てて、男性の経験なしに三十過ぎるOLというのは、そうだね、でもやっぱり二割はおるねえ。どう見ても一割とは言わんね、二割はおるようですが、みんないろいろ経験したようなふりしてやってますねえ。 あとの人はそれこそ職場の上司とかね、そうなるとやけのやんぱちで酒飲んでね、酔っぱらったふりして花を散らすわけですね。で、二十代前半はいろんな男性から声かかるんですね。そして会社の中でまた社内結婚の前提だと思ってね、いろんな男性といろんなお付き合いをする。 けれどもまあやがて、勝負運が強ければね、誰かとくっつくんだけども。くっついてね、社内の男性、ご主人は苦悩が始まるんですね。あとで知るわけですね。「チェッ、あの野郎、おれの後輩のくせにうちのかあちゃんと、そうかー、おれの前にできとったか」って、後輩の首絞め上げて「おまえ、おまえ、うちのかあちゃんと、おまえ、おまえ、許さんぞ!」って言ったら「いや、先輩、先輩、僕だけじゃないんです。あいつもそうなんですよ」「なにっ、あいつもか」「いや、あいつだけじゃないんです、あいつもそうなんです」「うそ、うちのかあちゃん、この野郎、一人だけと思ったら三人、あーくやしい」ってね。ここにおいて、男はもうくやしい思いがあるんですね。 だから男性どうしがヒソヒソ話してたら「あっ、おれのこと言ってるんじゃないか」「『あいつはかわいそうにさあ。後輩のねえ。あーあーねえ、中古でねえ。かわいそうにねー』なんて、考えてるに違いない」なんて気がするんですね。被害妄想になってきます。そして社内で、非常にくやしい思いをする。 そうすると男性はね、三十過ぎると、今度はもう夜の巷(ちまた)に繰(く)り出し始めるんですね。面白くないから。「あの野郎。あんなの嫁にもらっちゃって、今さらもう部長が仲人(なこうど)したからどうしようもない」ね。「しょうがない。しようがないからもうそら離婚はしないけどクソ面白くねえ。もう子供さえ出来ればどうでもいいやー、女じゃねえやー」なんてね。 あとはもう夜の巷(ちまた)繰り出しちゃいますね。そしてカラオケ、お酒、ね。それからあとはもうお定まりのコースですね。日本人がいやならもう最近はフィリピン人、いろいろありますね。まあ、そんなところへ放浪してます。悲しいですねえ。 で、男性はなぜそんなところを放浪するかって言ったら、結局のところ見ればやっぱりその最初のね、結婚運のところに問題がある場合もあるんだな。そういう時にやはり可憐(かれん)なね、純情な結婚したかったのが、なかなか現代の社会ではそうはいかない。ま、こういうことがありますね。そして、うさ晴らしをしておるんですね。 奥さんは奥さんでやってますねー。だんなが夜帰って来ないね。金曜日の妻、金妻(きんつま)って言って、もう絶対帰らない。だから金曜日の夕方になったらお化粧パタパタしてね、もうお友だちの奥さんたちと一緒に組んじゃってどっか遊びに行くんですね。お付き合いやるんですね。なかにはひどい商売している人もいますね。こういうことします。 あるいは商社マンだ、銀行マンだって言って、夫が単身赴任、あるいは海外勤務ね、なんて大変ですね。特に最近は単身赴任の問題、非常に多いですね。 銀行マンなんかと結婚した人はね、商売は堅いし、銀行というのは間違いないということで見合い結婚して、銀行マンの妻になったのはいいけども、銀行マンは転勤が多いんですねえ。奥さんはそんなことあんまり考えずに結婚しちやった。職が堅いと思ったら、銀行二、三年おきに転勤あるんですね。支店めぐりが。何でやるかっていったら、長いことおって金使い込んじゃったらいけないからね。あるいは地元とくされ縁出来ちゃって、地元の企業や会社とね、くされ縁出来ちやって不正融資(ふせいゆうし)したりね、あるいは乱脈経営したり、いろんなことするから二、三年おきに転勤するんですね。 だけど奥さんそんなことわかんないもんだから、「うちの主人ったらもう二年おきよ。もう支店から支店ヘグルグル人工衛星よ。どうなってるのかしら。よっぽど出来が悪いんかしら。どうなのかしら。問題あるんじやないかしら」ってね。こういうふうに思いますね。 そして会社の寮、あるいは社宅に入っていろんな近所の奥さんと話ししていると、「お宅のご主人、ほんと転勤多いね、支店ばーっかり。どうせまあ五十過ぎて支店の次長で終わりよ。どこか田舎の支店の次長で終わりよ。宅の主人なんか支店は一度だけ東京支店で経験しましたが、あとはずっと本店ですわ。本店で企画部門ずっとやってますのよ。もうエリートですわ」なーんてね。こんなことやる人もいますね。奥さんは奥さんで欲求不満たまってきますね。なんせご主人の顔も見えないんですからねえ。 単身赴任て言って、まあ東京にいて家があって、名古屋だ、大阪だ、単身赴任しますねえ。で、会社によっていろいろ違うけど単身赴任手当とかね、ま、月四万とか、出るわけですね。月四万円たってあなた新幹線で往復したら二万かかっちやいますね。それだけじゃない。おみやげ買わないかん。なんかかんかいったら月二回以上往復したら、足が出ちゃうね。単身赴任手当、足が出ちゃう。月一回になるね、帰ってくるのは。 そして、ご主人は単身赴任寮で、寂しく洗濯物洗っとんですね。ハイターかなんかでね。キッチンハイター、あ、キッチンじゃないね、ハイター、ブルーダイヤでやっとるんです。で、たまに電話する。「おい元気か」「あ、元気よ。子供はもう寝てるわ。じゃあね」なんてね、これで終わっちゃいますね。こういう単身赴任の問題ありますね。これで、女性は苦悩つくります。 だから単身赴任の場合も、まあ、貞淑な妻っていうのも減ってきておりますねえ。「どうせ結婚前にいろいろ経験した私。今さら何の操(みさお)よ。もう古いわ、そんな古い宗教概念なんてもう通用しないわ。現在ではもう全然ダメよ。隣りの奥さんだってもうエンジョイしてるんだから。だんなっていうのは要するに月給持って来るための、月給取り。もう働きバチよ。女は女の生き甲斐があるのよ。私だってもう早くスカンクの首巻き(注、ミンクのえり巻きのことと思われる)かなんかしてみたいわ。うちの主人のあれじゃあれだから、もうちょっといい遊び相手でも探さなきや」なんてね。こんなことを考えますねー。抑圧されてますねえ。非常に、非常に悲しい。悲しい現実というのがあります。
https://w.atwiki.jp/tkonishi73/pages/388.html
第1回.教育の情報化とは何か 「教育の情報化に関する手引」について(文部科学省) http //www.mext.go.jp/a_menu/shotou/zyouhou/1259413.htm 教育の情報化 情報教育 子どもたちの情報活用能力の育成 教科指導におけるICT活用 各教科等の目標を達成するための効果的なICT機器の活用 校務の情報化 教員の事務負担の軽減と子どもと向き合う時間の確保 情報教育の目標 A.情報活用の実践力 B.情報の科学的な理解 C.情報社会に参画する態度 (参考) 日経PCオンラインより □■【1】教室に電子黒板、児童1人に1台のタブレットPCが来た! 「フューチャースクール推進事業」セミナー、成果と課題を発表 http //pc.nikkeibp.co.jp/article/news/20110613/1032328/?set=mle 東京で開かれた教育関連のイベント「New Education Expo 2011」で2011年6月4日、教育の情報化に関するセミナーが開催された。 題して「1人1台PCを活用した協働教育の取り組み~フューチャースクール実証校の事例から~」。 教育分野の情報化に関するキーパーソンと、フューチャースクール実証実験に参加する東日本の小学校全5校の代表者らが一堂に会し、それぞれの立場から、フューチャースクール推進事業の成果と課題を発表した。 電子黒板とデジタル教科書を活用した算数と国語の授業 http //pc.nikkeibp.co.jp/article/news/20110606/1032233/?set=mle 筑波大学付属小学校は2011年6月4日、「New Education Expo 2011」の会場で、電子黒板とデジタル教科書を活用した算数と国語の授業を公開した。 公開した授業は、3年生の算数と2年生の国語。 授業では、デジタル教科書と「IWB(インタラクティブ・ホワイト・ボード)」と呼ばれる電子黒板を利用した。 デジタル教科書は、パソコンや電子黒板などの情報機器で扱う電子教材。 電子黒板上で内容を大きく表示したり、一部分を拡大して分かりやすく掲示したりできる。 日本マイクロソフト、クラウドを活用した教育環境づくりに踏み出す http //pc.nikkeibp.co.jp/article/news/20110610/1032315/?set=mle 日本マイクロソフトは、2011年7月から開始する同社新年度において、クラウドを活用した新たな教育環境づくりに取り組む姿勢を示した。 同社パブリックセクター担当・織田浩義執行役が、6月3日に行われた報道関係者向けの説明会で明らかにしたもので、すでに一部の自治体と交渉を開始しており、今後数カ月以内に公表できるという。 日本マイクロソフトが行うクラウドを活用した教育環境の提案では、学校でのクラウド利用だけにとどまらず、家庭、地域の企業や研究者、ボランティアなどの関係者とも連携する。 関連記事 「デジタル教科書」ではなく「電子教科書」と呼びたい 東京工業大学 清水康敬監事・名誉教授 http //pc.nikkeibp.co.jp/article/trend/20110117/1029662/?set=mle 総務省、教育分野におけるICT活用のガイドラインを公表 「フューチャースクール推進事業」の成果を踏まえる http //pc.nikkeibp.co.jp/article/news/20110411/1031212/?set=mle 教育情報化の最新事情が分かる「New Education Expo」開幕 http //pc.nikkeibp.co.jp/article/news/20110602/1032152/?set=mle 自分で考えコメントする--「教室で1人1台タブレット」の授業 http //pc.nikkeibp.co.jp/article/trend/20110307/1030645/?set=mle 2.情報メディアについて 情報量について デジタル(digital)とアナログ(analog) デジタル=digit(桁)から派生して「断片的」なもの。0と1の世界 アナログ=analogy(類似する)から派生して「連続的」なもの。 ○デジタルは0と1しかなく、途中の値がないので、雑音が除去できる。 ビット(bit=binary digit、2進数の1桁) 1bitで、0、1を表現する。 2bitで、00、01、10、11の4通り 3bit・・・000、001、010、011、100、101、110、111の8通り ビットが1つ増えると表現が倍になる 4bit・・・16通り 5bit・・・32通り 6bit・・・64通り 7bit・・・128通り 8bit・・・256通り (例)0~9の数字(10個)と、アルファベット大小文字(大26文字、小26文字)をビットで表現しようとすると、 10+26+26=62文字だから、6ビットで表現できる。(違うパターンとして区別できる) これらに、記号(!”#$%&’など)を加えると、約100文字あるので、半角英数字は1文字=7ビットで表現できる。 さらに、カタカナ(約55文字)を加えて、半角英数カナ文字が、1文字=8ビットで表現できる。 バイト 1バイト(Byte)=8bit かな漢字1文字=2Byteで表現できる。 単位 通常は、1K(kiro、キロ)=1000 1M(Mega、メガ)=1000K=1000000(100万) 1G(Giga、ギガ)=1000M=1000000K=10億 1T(Tera、テラ)=1000G=1兆 であるが、情報量は、「2の10乗=2を10回かける=1024」を単位として数える。 1K(kiro、キロ)=1024 1M(Mega、メガ)=1024K=1024×1024=1048576(約105万) すなわち、1MB=105万B 1G(Giga、ギガ)=1024M=1048576K=1073741824 1T(Tera、テラ)=1024G=1兆 記録メディア メディア(media)とドライブ(drive) メディア=情報を記録する媒体のこと ドライブ=メディアにデータを記録する装置のこと データの記録方法 磁気による記録 ・・・ 磁気テープ、カセットテープ、フロッピーディスク 光と磁気による記録 ・・・ 光磁気ディスク(MO)、MD 光と素材変化による記録 ・・・ CD-R、CD-RW、DVD-R/RW、BD-R など 半導体に記録 ・・・ USBメモリ ハードディスクとSSD ハードディスク=複数枚の磁気ディスクを重ねて記録 SSD(Solid State Disc)=半導体に記録する(USBメモリの大きいもの) リムーバブルディスク リムーバブル(removable 取り外しできる)ディスク 磁気テープ(カセットテープ) 磁気ディスク 光磁気ディスク(MO) 光ディスク(CD,DVD) ICメモリ USBメモリ 解像度 VGA SVGA XGA WXGA SXGA SXGA+ UXGA フルHD WUXGA QXGA 携帯電話 QVGA 次回から、音楽の取り込みなどを実習していきますね。 【用意するもの】データを保存するUSBメモリ、音楽を取りだしたいCD
https://w.atwiki.jp/kameyama2011/pages/186.html
第一章 日本論の現在 →ナリグラ 1人類社会の壮年時代 2日本人の自己認識-その現状 第二章アジア大陸周辺の架け橋-日本列島の実像 1アジア東辺の内海 2列島と西方地域の交流 3列島の北方・南方との交流 4東方の太平洋へ 5列島社会の地域的差異 第三章列島社会と「日本国」 →梶原、山崎 1「倭国」から「日本国」へ 2「日本国」とその国制 3百本国」と列島の諸地域 4列島諸地域の差異 5「日本・日本人意識」の形成 第四章「瑞穂国日本」の虚像 1「日本は農業社会」という常識 2「百姓=農民」という思いこみ 3山野と樹木の文化 第五章「日本論」の展望 1進歩史観の克服 2時代区分をめぐって 関連項目 【天皇儀礼】 歴史的に一貫して支配者の宗教儀礼であった天皇儀礼を、民衆的な民俗儀礼の代表、特に単一の日本文化の顕現と見ることはおかしい。柳田国男らの民俗学によって天皇儀礼は稲作神事に起源をもつとされている。だが、近年の縄文文化論や非農業民の民俗学が示すように、稲作文化のみを日本文化の伝統(ましてその本質)であるとはとてもいえない。また、農耕儀礼としても天皇儀礼は民衆世界の多様な農耕儀礼にくらべて一面的であるだけでなく、それが高座神事とセットであるようにあくまで支配者の儀礼でしかない。しかも、「単一の日本文化」という発想は、天皇万世一系論とともに近代ナショナリズムが創出したひとつのフレームに過ぎず、多様な民衆文化、地域文化の抑圧をふくんでいる。 cf.『現代日本の「宗教」を問い直す』第4章現代日本の宗教批判の視座
https://w.atwiki.jp/iizukaarmy/pages/10.html
稲村純一とは主にTwitterを拠点に活動する通報組織”飯塚軍”の首謀者である。 飯塚軍を結成し、他者への脅迫や他グループの乗っ取りによってその規模を拡大していたが8月に団員が特定され恒心教に宣戦布告するも無事特定されネットのおもちゃと化した。 年表 2020.8.7 団員が特定されTwitterで活動する恒心の者に脅迫を行う 8.8 特定され、掲示板に晒される 8.10 恒心教への宣戦布告 9.29 ニコニコ動画にて恐喝現場の動画が投稿される 10.2 恐喝で得た100万円の画像が投下される 特徴 無職 自称暴力団員 日本語が使えない 安価が使えない(安価とは 〇〇のように誰に向けて発言したのかをわかりやすくする機能) 身体障害一級 いつも隣に警察がいる 人間性 一言で表すならば「恣意的な独裁者」といえる 論理的な思考ができず 専守防衛という大義名分を掲げているにも関わらず、証拠がなくても構わないというスタンスで あるため敵と認定したものにはまるで事実であるかのように勝手な妄想で決めつけ責めたてる。 また、団員を駒としか思っていないため、不祥事が起きた場合責任を押し付け平気で切り捨てる 懲役刑や暴力団員を名乗って粋がる田舎のチンピラ中学生のような権威主義的精神性を持ち合わせており、慰謝料をせびったり、百万寄越せなどと脅迫するいわば「弱い者いじめ」を好む。 常軌を逸した言動 言語がJapaneseじゃないのか、お前わ? ブーメラン−都合の悪いことを言われた場合に発する鳴き声のようなもの 縄跳びで後ろ手縛りをする 飯塚に証拠はいらねえんだよ ガッハッハやグワッハッハなどの特徴的な笑い方 特定の個人に対して粘着行為をし続ける 自分に対して批判的な人間が皆〇〇〇〇(個人情報のため伏せます)だと思いこんでいる 害悪な行動 一般人のふりをして一般ユーザーに近づいては気に入らない奴の悪評を広める
https://w.atwiki.jp/ketpic/pages/18.html
Scilab(「サイラボ」と発音します)とは,無償の数式処理プログラムです.以下のwebページから自由にダウンロードすることができます.最新版はバージョン5.5.2です. Scilabのダウンロード Scilabのインストール手順 FAQへ戻る.
https://w.atwiki.jp/manshinsoui/pages/4.html
https://w.atwiki.jp/kappappa/pages/15.html
当たり前の事なのですが、この寄稿文が私の主観によって書かれている以上内容・意見もまた私の主観であることは当然なのですが、いやしくも人様に読んでもらう以上、少しでも為になるものであったらと思い、いい問題というものについて超簡単に触れてみます。 個人的に色々具体的な意見も持っているのですが、一通り「設問はむじゅかしい」「設問はむじゅかしい2」に書きましたし、「かくあるべし」という意見はウミガメスレにおいてナンセンスこの上ないと思うので止めておきます。 で、ここで何するかって言うと、単に「いい問題」というものに対する色々な人の意見を例によって無断で掲載するだけデス。 本心は、他の人の意見を列挙する事によって少しでも自分の言ってる事に対する風当たりを緩くしようとの狙いからですが、それは内緒ということでひとつ。 (1)ビリー・ミリガンの良問の12条件 昔々、ビリー・ミリガンというコテさんがおりまして、酔っ払った勢いで暴れて良問の12条件を書いたことがあります。 この人、お酒さえ飲まなければいい人なんですけどネエ。 ビリーさんとは知り合いなので、許可を得て掲載。 1.問題文で、人が死ぬなどの何がしかの暗さを有する事 2.問題文に解くべき謎が明記されており、不思議であること 3.問題文が解答文に対して簡単過ぎないこと 4.問題文にウソがないこと 5.問題文が明瞭であること・当てろ形式になっていないこと 6.問題が解かれるまでに停滞しすぎない事・瞬殺されない事 7.誘導しすぎない事 8.ミスリードしないこと 9.問題がガイシュツでないこと 10.特殊すぎる知識を必要としないこと 11.解答が意外なものである事・ひねりがあること 12.解答が最適解であること この12条件は正確に言うと「この条件を全部満たしたらオレが良問推薦してやるぜ」というものらしく、メチャクチャハードルが高い上に無茶いってるので反論があるのも当然だとは思います。 (註:反論の例 つ↓ 良問というものに対するあるコテさんの考え・最後2行に注目) ======================================= スタートから解説まで出題者がどう回答者を惹きつけ、どこを難所として使い、それをどう突破させるかというように質疑 の進行の展開をきちんとあらかじめ考えてある問題。 出題者がゲームマスターとしてゲームの展開に責任を持ち、回答者に無意味な負担を強いることのない問題。 それさえちゃんとしているなら特殊な知識を要求する問題だろうと問題文が抽象的過ぎてどんな回答も思いつけてしまう問題 だろうとべつにいいんじゃないかと思ってます。 ======================================= さて、私が考えてみるにハッキリ言ってこの12の条件を満たした問題ってちょっと思いつきません。 ビリーさんも出せてないみたいです。あくまで理想は高く持ちましょう、という心構えの問題でしょう。 (2)「亀丼」のいい問題の条件 「亀丼」はネット上で好評公開中です。見てない人は見てみるが吉です。 一応許可を得てます。偉いぞ、オイラ様。 1.不思議さがある 2.別解が思いつかない 3.嘘が含まれない 4.簡潔 5.写実的 6.問題文だけでは答えが出せない (3)「300目前!朝までウミガメ生談義 」で語られた良問の条件 因みにこの中にカッパさんの意見はないようです。 ======================================= 451 名前: 朝生司会者 (pel7Co0w) 投稿日: 2004/05/16(日) 05 39 「良問」の条件とは何でしょう?ご自分の価値観で語って下さい! ======================================= 452 名前: ウミガメ信者 投稿日: 2004/05/16(日) 05 40 美しい問題。 ======================================= 453 名前: ウミガメ信者 投稿日: 2004/05/16(日) 05 42 やはり自分の考えもしなかった答えが解説を見るとすっきり当てはまっているというのでしょうか 気持ちよくだまされたってのがいいですね ======================================= 454 名前: ウミガメ信者 投稿日: 2004/05/16(日) 05 43 私は「ジグソーパズルの最後の一片がピタリとはまる」という感覚を 目指しています。 そうなるには、よい問題だけでなく、適度なレベルの回答者が必要 になりますね。 ======================================= 455 名前: ウミガメ信者 投稿日: 2004/05/16(日) 05 45 良問というのが何を指しているのかが問題です。 もし「良問スレに推される問題」のことを指しているなら、良問スレに上がっている問題というのは 出題者の出す問題とそれを面白い!と思ってくれる回答者の幸せなめぐり合いがあった問題です。 いい問題でもそれを面白いと思ってくれる人に出会わないと評価されません。 私はこれは問題の質と運の関数だと思ってます。質×運。って感じです。 ただ、どんな「質」であれば面白がってもらえる確率が上がるのかは、私はいまだに分かりませんが。 良問が一般的な意味で誰もがいいと認める問題、というならこれは議論は極めて困難だろうと思ってます。 良問のフォーマットやガイドラインがあったとしてもそれにしたがえばみんな面白がってくれるかというと。 んなわきゃないわけで。 過去の出題経験で分かったことは私が思う良問と、他の人の思う良問が違うらしいということです。 幾多のこれはという問題があえなくスルーされ、埋め草のつもりの問題が推薦され・・・ 推薦されてやった、うれしいと思うより先に、え?なんで?うれしいけど、と思った経験の方が多いかもしれません。 ======================================= 456 名前: ウミガメ信者 投稿日: 2004/05/16(日) 05 46 思わず「やられた!」と口走ってしまうような問題。 複雑に絡み合った要素が、綺麗にまとまるような問題。 そんなとこかな…。 ======================================= (4)「設問はむじゅかしい」で見つけた面白い意見 設むじゅ探したら良い問題の条件がサクッと見つかるかと思いましたが、そうでもありませんでした。 みんな同じ方向を向いているが何を見ているかは全然違う、それがウミガメスレというものかもしれません。 しかし幾つか面白い意見を見つけましたので、得意の無断掲載です。 1)「良いウミガメ体験」 317 名前: ウミガメ信者 投稿日: 2002/12/11(水) 01 42 良いウミガメ体験というのは、良い出題+良い誘導+良い解答者+納得する答えがあって初めて 成り立つものなんだなと思った。問題自体が良くても誘導が駄目なら駄問になるし、問題が普通でも 誘導がよければ最高のウミガメ体験ができる。どちらがあっても解答者がいなければ体験としては おもしろくないしね。 そういう意味では、良問集というのはやはり片手落ちだなと思う時がある。良問!と思えたものが必ず しも良ウミガメ体験!というわけではないしね。 ここにきている人達の良ウミガメ体験!というのを聞いてみたい気がする。 2)「昔の代表的な良問についての意見」@例によって独断で代表に決定 331 名前: ウミガメ信者 投稿日: 2002/12/13(金) 03 16 問題の内容に関わらず、出題者の技量で解いてる間は楽しくできるのだろうが、 解いた後に「なるほど」と思える要素が欲しい。ある意味、形式美。 ウミガメの基本構造は「問題文に書かれていない飛躍部分を推測して、 一見不可解な状況を説明する」であろうが、 この飛躍部分の性質が、問題の出来栄えを決定する。 飛躍部分は、問題文から推測できる必要は無いが、解答を見た時に 納得できるものでなくてはならない。 つまり、矛盾していること、根拠のない行動、異常な現象、偶発的な出来事、 等に頼ってはならない。 題材がオカルトやSFであっても、その世界の中では合理的である必要がある。 事実であるからとか、ジョークだから、というのは言い訳にならない。 逆にいえば、筋さえ通っていれば、背後にどんな壮大なストーリーが 用意されていても問題ない。むしろ推奨される。 ただ、運命のいたずらの様な要素が物語にはどうしても盛り込まれるので、 その部分はなんとか解決しなければならない。 3)「良い質問の仕方について」 338 名前: ウミガメ信者 投稿日: 2002/12/14(土) 20 01 設問はむじゅかしいけど、質問もむじゅかしいな。 問題の提示から解答へ至るまでの道筋は、対局ゲームの棋譜のようなもので、 どちらが気を抜いても良い物にならない。 萎える質問を続けられると、折角いい問題でも解き味が悪くなる。 具体的には、へびよけは論外として、ガイシュツの質問、的外れな質問の他にも、 文章があいまいな質問、yes/noで答えられない質問、等は萎える。 センスの悪い質問も避けたい。 それは、A? B? C? D? と一度に訊いて no no yes no と答えさせるのは、 何度も訊く手間を省けていいが、アプローチの仕方の技術が低い。 それを当てると解答に近づく? という質問もよく見るが、そもそもyes/noで答えられないし、 そういうコメントは出題者がヒントとして呈示するべき。 蛇足ですが、私は「理想の問題像(または単純に好きな問題)」と「好きな(尊敬する)コテハン」は、向上心を持つ出題者なら必ず答えられるようにしておくべきだと思っています。理想にするものがなくて上達するはずがないからです。 内容は個々人の自由で全く問題ありませんが、あなたが1ランク上の出題者を目指すのならば、常に「理想」というものは持ちましょう。
https://w.atwiki.jp/ja2047_memorial/pages/858.html
問答有用掲示板より転載 12982 歴史修正主義とは何か? ベルナール 2002/02/13 15 05 「歴史修正主義」(historical revisionism, revisionisme historique) についてのお尋ねについてお答え致します。 まず、「修正」「修正主義」(revision, revisionism) なる用語ですが、日本語としては生硬と思われるこれらの語は、19世紀末以来、ヨーロッパの政治舞台に登場してから、さまざまな文脈で用いられてきました。 (1) ドレフュス事件 まず、この語は、ドイツへの軍事機密の漏洩の濡れ衣を着せられた、ユダヤ系フランス人のアルフレッド・ドレフュス大尉の冤罪を確信した作家・知識人たちの「再審」請求、つまり有罪判決の「見直し」という意味で用いられました。 (2) マルクス主義 19世紀後半の資本主義の新しい段階に直面して,ドイツ社会民主党指導者の一人ベルンシュタインがマルクスの理論体系を修正し,そこから革命的な内容を抜き去り、今日でも共産主義運動の中で改良主義的な立場をとるものを,一般に修正主義と呼んでいます。 (3)ヴェルサイユ条約 第一次世界大戦後のヨーロッパの政治的枠組みを決定したヴェルサイユ体制の懲罰的性格に対して不満を抱く中央諸国から、同条約の「見直し」の要求という文脈でも用いられました。 (4) 中ソ対立 国際共産主義運動における主導権争いから、ソ連と中国が、互いに「修正主義」「教条主義」と誹謗し合いその緊張関係が国境紛争にまで発展したのは、周知の通りです。 (5) 第二次世界大戦の戦争加害 第二次世界大戦の戦争加害に関する「修正主義」には、前に「歴史」という語が付加されいてますが、この語が日本の言論界に定着したのは、『抵抗への招待』(みすず書房) などの著書で知られる鵜飼哲氏が、石田靖夫氏にピエール・ヴィダル=ナケの『記憶の暗殺者たち』の翻訳を薦められたあたりからでしょう。同書の翻訳は、1995年に人文書院から刊行されました。1995年とは、言うまでもなく「マルコポーロ事件」の発生した年です。 ベルナルディとグァラチーノの『ファシズム事典』(Il fascimo, Mondadori, Milano, 1998) の「歴史修正主義」の項目のなかの人名として、ロベール・フォリソンとデイヴッド・アーヴィングなど、欧米の代表的ホロコースト否定論者の名前が挙がっているように、主として第二次世界大戦中の残虐行為、とりわけナチスの「絶滅収容所」の事実である。彼ら はこれを否定したり、その事実のもつ衝撃を弱めるために数字上の見積もりを小さくしたり、別のエピソードをクローズアップすることによって印象操作を行うのである 。 特に後者の「相殺メンタリティ」は、世界中の歴史修正主義の通有のもので、南京事件の話に中国の「通州事件」やチベット問題など位相の異なるテーマを闖入させるのは、日本でも『正論』『諸君!』などの論者 (自由主義史観?)の常套手段なのでおなじみのことでしょう。先の『ファシズム事典』には、もう一人、ドイツの歴史家エルンスト・ノルテの名前が見えますが、このノルテがホロコーストを、ソ連における富農階級への迫害と比較し、ナチスによる迫害の残虐を希釈して、「ノーマルな」ドイツしに編入しようと企て、ハーバーマスと議論になった「歴史家論争」は有名です。 こうした相殺法がいかに馬鹿げたことであるかは、少し冷静に考えれば誰でも分かることです。例えば、この掲示板のROM者のなかにも、係累が広島や長崎の原爆や東京大空襲の犠牲になった方々はおいでになるでしょう。その係累の家族にとって、米国側の「戦争の早期終結」「パールハーバーの報復」などという遁辞がどれほどの意味を持つでしょうか。 ドイツのジャーナリスト、ラルフ・ジョルダーノは、その著書『第二の罪 --ドイツ人であることの重荷』(白水社) において、こうした相殺メンタリティの担い手の度し難い「子供」っぽさを指摘していますが、いたずらを母親に発見され、「だって、○○ちゃんもやってるもん」とだだを捏ねる「子供」は、どこの国にもいるものです。スターリンの大粛清、中国の大躍進や文化大革命、ポルポトによる虐殺、大戦末期のドレスデンの空爆、通州事件からチベット問題、天安門事件から法輪講等々、別途検討されるべき位相の異なったテーマを脱文脈的に挿入する芸のない陳腐な議論は、歴史修正主義の担い手たちの知的凡庸さを良く表しています。 先次大戦の戦争加害の問題が、とりわけ1980-90年代になってクローズアップされるようになったのは、もちろん偶然ではありません。高橋哲哉氏が『戦後責任論』(講談社) で指摘するように、戦後間もなく米ソの対立が激化し世界の政治が冷戦構造に組み込まれなければ、戦争加害の問題は、戦後すぐに精査されることになったでしょう。これは、石井軍医中将の「731部隊」などの端的な例を考えれば分かりやすいでしょう。 化学・細菌戦に関する実験データを米軍に引き渡すことによって、石井中将が免罪され、そのデータがヴェトナム戦争時の「枯れ葉剤」爆弾の散布に着想を与えたことは良く知られています。先般、米国の上下院において、ファインスタイン上院議員の提出した旧日本帝国の軍事資料公開法の議案が通過しましたが、同資料に関して、日本の国内法が整備されれば、大陸における日本の戦争加害の大きな部分が明らかになります。 さて、日本本土への空爆の事例を挙げましたが、これらは旧世代の日本人によってもっとも頻繁に語られる「戦争体験」でしょう。先次大戦を考える上で、日本人の多くが、みずからをもっぱら「被害者」として考え、アジア諸国の戦争被害者を、戦後長い間度外視して来たのは、「日米二国間主義症候群」(姜尚中) の極めて病理的な発現でしょう。 1980-90年代という時代は、ソ連と東欧の共産体制が、そのすべての改革の試みとともに頓挫しようとしている時期でした。冷戦時代の二元論的なイデオロギー対立によって封印されていた戦争加害の問題が、亡霊のように回帰してきたのです。戦争加害の問題は、経済的成功によってふくれあがったナルシシズムの「頂門の一針」となったのです。1985年に靖国神社公式参拝を強行した中曽根元首相は、公式参拝に先立つ7月27日の第5回自民党軽井沢セミナーでの特別講演において、「汚辱を捨て、栄光を求めて進むのが国家、国民の姿であり、国のために倒れた人に国民が感謝をささげる場所があるのは当然である。さもなければだれが国に命をささげるか」と言ってのけました。 ホロコースト否定論者には、「ガス室はなかった」などという暴言を吐かない「良識派」も存在します。「強制収容所は確かにあった。だがそれはナチスが最初に発明したのじゃない」「ガス室は確かにあった。だがそれはずっと小規模なものだ」「ガス室は残念ながらあった。だがドイツ国民はみんな知らなかった」「ガス室は確かにあった。だが戦争に残虐行為は付きものなのだ」等々。この「良識派」はあらゆることがらを「ノーマル」なものにしたいと思っているわけです。 こうした論法は、いわば「グローバル・スタンダード」であるのは、例えば、日本軍による「従軍慰安婦」問題を代入し見ても似通ったテーゼが作られてきたことからも分かるでしょう。戦場の血生臭い武勇伝を得々として語り、聞き取り者を当惑させるなどの例はよく聞く話でしょう。例えば、酔余の話として家庭内での団欒の場でさえ、この手の話は出て来かねません。しかし、慰安婦問題はどうでしょう? こんな話を妻子の前ですれば、たちまちの内に家族の尊敬心は雲散霧消し、父親の自己愛は軽蔑によって薬殺されてしまうでしょう。 「従軍慰安婦」問題が、あれほど過熱したテーマになったのは、それが、人種差別や民族偏見とともに秘匿されていたセクシズム (性差別主義) があらわになる特権的な場であるからです。「汚辱を捨て、栄光を求めて進む」はずであった目論見が頓挫 … 歴史修正主義とは、国家の、そして国家に仮託された自己のナルシシズムのほころびを取り繕うさまざまな便法なのです。 戦後の日本が、自国民の三百万の死者を後ろめたい身内の死者と感じながら、二千万のアジアの他国の死者への哀悼と謝罪を口にする「旧護憲派」の「共同的な語り口」と、後者への謝罪に目をつぶって戦争を自尊自衛のための正義の戦いと強弁し、もっぱら身内の死者に哀悼を捧げようとする「旧改憲派」の「共同性に寄り添った語り口」へと「人格分裂」した戦後日本で歴史を引き受ける主体を立ち上げると加藤典洋氏が、物議を醸したその『敗戦後論』(講談社) で語る時、その賭金となっているのも「日本国民の誇り、矜持」(同書の52頁) なのです。 シェイクスピアと演劇の研究で知られる福田恒存氏の弟子筋に、月刊誌『月曜評論』などで論陣を張る松原正氏 がいます。「真正保守」などと形容されることが多いのですが、小林よしのりや西尾幹二等「つくる会」周辺の論者の「粗雑」な議論の「低脳」ぶりへの手厳しい批判者としても知られています。現在の保守論壇で注目すべき数少ない人物です。 松原氏は、自由主義史観を批判して、概要こう述べています … 日本を愛するのは、それが「母親」のようなものだからだ。しかし、「自分の母」を愛するのに、「他人の母」を貶める必要はない。松原氏の卓見に「屋上屋を架する」愚を敢えてなすとすれば、「また、『他人の母』の存在も忘れるべきではない」とでも言うべきでしょうか。これは、郷土や祖先への愛着によるパトリオティズムと他国との貶下的比較にもとづくショーヴィニズムという、二種類の「愛国心」を述べたものです。ウヨサヨ二元論では見えない消息に敏感になること、これこそ歴史修正主義の克服の第一歩と言えるのではないでしょうか。
https://w.atwiki.jp/morichat314/pages/27.html
ソルバム語(Sorvamarka)は、日本の学生Sorvam Nitroによって作られている、異世界プロンテで使われている人工言語のことです。 人工言語といっても、エスペラントなどのように共通言語を目指して作られたものではなく、芸術的な言語です。 地球の文化が一部混じっているという設定で作られているので、アルカのような完全なアプリオリの言語ではありません。 例えば、鉛筆はロシア人に酔ってプロンテに伝来したことになっているので、ロシア語карандашの借用語karandaxが使われています。 ソルバム語は異世界プロンテではフィールカ国とその周辺で使われる言語です。 異世界プロンテで使われる言語にはソルバム語以外に他には、カルドック語やメスティカ語やクマンス語があります。
https://w.atwiki.jp/runewars/pages/23.html
キーワードは文化のなかでの「集団」に属する人の「類似性」を表すためにある(違いを表現するためではない)「ヒョルト人の外交官」は、外交官という集団がないのでありえない 技能セットとは違う キーワードからさらに「定義」することもできる例:リスメルダー部族出身であれば「アンデッドの知識があるよね?」ということで、キーワードの中の技能を定義しなおしてもよい 結局「YGWV」(Your Glorantha Will Vary:俺グローランサが優先)