約 5,620 件
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/1002.html
陸奥国 耶麻郡 五目組 赤崎(あかさき)村 大日本地誌大系第32巻 110コマ目 この村3区に住し上赤崎・中赤崎・下赤崎の小名あり。 上赤崎は府城の北に当り行程6里4町余。家数13軒、東西48間・南北1町52間。 中赤崎は上赤崎の南2町40間余にあり。家数6軒、東西32間・南北1町14間。 下赤崎は中赤崎の南4町10間余にあり。家数8軒、東西44間・南北48間。 共に東は田圃(たんぼ)にて日中川に近く、西は松林に連なり南北に菜圃(さいほ)あり。 村南に一里塚あり。 東5町57間栗生沢村の界に至る。その村は丑寅(北東)に当り9町20間余。 西31間赤崎松林に界ふ。 南15町8間吉志田村の界に至る。その村まで23町10間余。 北8町48間金屋・黒川両村の界に至る。金屋村は亥(北北西)に当り8町余、黒川村は北に当り13町50間余。 また 辰巳(南東)の方13町中村の界に至る。その村まで30町40間余。 この辺田圃の間にて往々石砮を得ることありという。 山川 日中川(につちゆうかわ) 村東2町計にあり。 栗生沢村の境内より来り、南に流るること22町50間吉志田村の方に行く。 赤崎林 村西にあり。 本村及び上三宮村・吉志田村・鷲田村・下谷地村・五目村・根岸村・針生村・上野村・金屋村の地に亘り、喬松(きょうしょう)森々(しんしん)として更に他木なく松の気色他にすぐれ、封内に松林多けれどもこの林を第一とすべし。 天正の頃(1573年~1593年)まではこの村の境内に大林とて東西2町・南北6町計の林と上三宮村の地に願成寺林とて東西3町余・南北2町計の林のみにてその余は皆萱原なりしが、年々繁栄し今は処により東西3、4町より6町余に至り南北は1里4町余あり、都(すべ)て赤崎林という。傍の諸村に命じてこの松を切採る事を禁遏(きんあつ)せしむ。 また林中に熱塩温泉に行く街道あり。道の西に上三宮村より金屋村まで1里余の間に、南より北に次第して三十三観音の石像を安置す。何れの頃にか本村の富豪瓜生出雲というもの建立せりという。土人これを石室観音という。 神社 麓山神社 祭神 麓山神? 相殿 伊勢宮 鹿島神 鬼渡神 石神 鎮座 不明 村より未(南南西)の方2町にあり。 鳥居拝殿あり。 神職 大久保播磨 享和2年(1802年)上三宮高村能登が譲をうけ当社の神職となる。 府下北小路町に居住す。 古蹟 銭神壇(せにかみだん) 村より亥(北北西)の方1町余にあり。 瓜生出雲銭を埋し所なりという。 の居住せしという。 Google Map赤崎上赤崎地区 中赤崎地区 下赤崎地区 赤崎林 - 赤崎林という住所はありませんが地名としては残っており、下記の地区全体が該当するようです。土地開発のため田んぼとなり広大な松林は残っていません。松原 鷲田山 五目山 根岸山甲 大森乙 石室観音石室観音は28体現存し、いくつか集会所に集められてはいますが数体は上三宮~金屋間の道沿いに点在しているとの事です(参照:赤崎三十三観音(石室観音)) 麓山神社 銭神壇? 赤崎林三十三石仏群(金屋地区)案内板には草木塔との説明文あり。 社?
https://w.atwiki.jp/rinseidou/pages/177.html
平成21年4月5日① 高輪 東京は桜が満開だという知らせを聞き、ぶらりと散歩をしながらの花見に行ってきました。 東北新幹線で終点の東京まで行き、そこから山手線で新橋に向かってのですが、ぼんやししていたら乗り越してしまいました。 分単位で一日のスケジュールを立てて来たので、すぐに戻れば修正できると思ったのですが、これまでの経験から、こういう不測の事態に対してはジタバタせず、流れに身を乗せてしまうのがよいと知っています。 考えて来た旅の行程を逆ルートでめぐることに決定し、品川で下車しました。 向かう先は泉岳寺。 ここも東京で過ごした大学時代には一度も訪れたことがない場所です。 駅から泉岳寺まで歩いていると、あちこちに桜が咲いているのが見えます。 境内に入ると、「義士祭」と書かれた提灯が並んでいました。 ちょうど義士さんたちのための法要が営まれる日に当たっていたようです。 墓所に向かう途中に、仇討ちを終えた浪士たちが吉良上野介の首を洗った井戸が残されていました。 四十七士の物語では、吉良上野介は悪役として憎まれていますが、領民や家臣からの信頼は非常に篤かったそうです。 四十七士の墓所では、義士ひとりひとりの墓に線香を手向け、手を合わせて来ました。 先日赤穂に行ったばかりなので、本懐を遂げて潔く散った義士たちの墓を詣でることができた感慨はひとしおでした。 泉岳寺には、松の廊下で刃傷に及んだ後、即日切腹となった浅野内匠頭が葬られていました。 大石内蔵助をはじめとする義士たちが吉良の首を供え、仇討の報告をしたのが、まさにこの場所です。 大石内蔵助は統率する立場にあっても、最初に焼香することを一番槍をつけた間十郎左に、次の焼香を二番太刀の武林唯七に許しました。 このことにも、大石という人物の大きさが表れていると感じます。 その後、義士たちは4つの大名屋敷に分散して預けられ、幕府からは切腹の沙汰が下るのでした。 しかし死後、主君のそばに眠ることを許された義士たちの魂は、いたって安らかであったことだと思います。 赤穂浪士記念館では、討ち入りの口上書などが展示されています。 別館には、四十七士ひとりひとりの木像も。 討ち入りから主君が眠る泉岳寺まで歩いた道を再現するビデオ上映も行われていました。 平成21年4月5日② 東海道(国道15号)を歩く 泉岳寺をあとにし、現在の国道15号線を北に向かって歩きました。 すれ違う人たちの表情も様々ですが、車椅子の女性がご主人らしき人に押されて散策しているのを見た時、こちらまでが幸せになるほど幸福な表情をしているのに気付きました。 鼻にはチューブを挿しており、重い病を抱えておられるようにも見えましたが、大好きなご主人とまた春を迎えて桜が咲くのを見ることができたという喜びが、満たされた表情に表れています。 自分も、いまの仕事が思い通りに進まずとも、決して暗い顔・怖い顔をしてはいけないのだと反省しました。 途中の歩道橋の上からは、東京タワーがコンクリートジャングルの狭間によく見えました。 田町駅の前は、西郷南洲と勝海舟が江戸開城の会見をした場所であり、記念の碑が建てられています。 幕末期、敗色の濃い幕府軍は起死回生の策として、薩長軍を江戸城下におびき寄せ、町ごと丸焼きにしてしまうことを検討していました。 もしそうなっていれば、日本の国力の損失は膨大なものとなり、後に列強と渡り合うための力はおろか、東京という首都の誕生もなかったでしょう。 しかし、幕府を追いだした新政府が、結局あの大戦争によって東京を焦土にしてしまったことも、忘れることはできません。 平成21年4月5日③ 増上寺 お昼になってので、途中に食事処でもあれば入ろうと思っていたのですが、気安く入れそうな店もないので、そのまま増上寺に向けて歩き続けました。 首都高の高架をくぐった時、近くでサイレンの音が聞こえました。 それは、北朝鮮が日本列島を横切る形で「飛翔体」を発射したことを知らせるサイレンでした。 軍事目的のミサイルであることは間違いないのですが、それを「飛翔体」と言い換えるところに、北朝鮮という野蛮国への遠慮が見え隠れしていて、非常に不快でした。 そうこうするうちに、増上寺へ到着。 こちらも春の法要の日程に当たっていて、花見客と合わせてかなり混雑していました。 浄土宗の宗祖法然上人の忌日、御忌大会という法要でした。 また、浅野内匠頭が勅使饗応役として畳替えをすべきところ、吉良からその必要性を教えられなかったのがこの増上寺で、松の廊下の刃傷に及ぶきっかけとなりました。 境内では、和太鼓の演奏が賑やかに響いています。 また、徳川家墓所の特別公開も行われていました。 増上寺は徳川将軍家の菩提寺であり、2代秀忠公をはじめとする6名の将軍と、家茂公の正室である皇女和宮、そして将軍の正側室や夫人子女など38名の女性が眠っております。 ちなみに初代将軍家康公は日光東照宮に、他の将軍は上野の寛永寺に眠っています。 ここにはもともと霊廟がありましたが、戦災によって焼失し、現在は宝塔のみが残されています。 この地下には、歴代の将軍が、座った状態で江戸城を向いて葬られています。 事前に調べたわけでもなく、このような特別な機会に参拝できたことは、大変幸運なことであったと思います。 幸運というばもう一つ、舞楽の上演が行われる直前でした。 最初に降りる駅を間違えたのも、今になって振り返ると正解だったようです。 この日の曲目は納曽利(なそり)。 緑系の装束からも分かるように、右方の舞です。 桜の花見も堪能できたので、増上寺をあとにしました。 ここで、メールを入れておいた古い友人から電話が来ました。 ちょうど仕事が休みなので、会うことができるということです。 実に4,5年ぶりの再会です。 どうやら起床したばかりらしく、家を出るまで1時間はかかるとのこと。 こちらとしても、もう一か所行っておきたい所があったので好都合です。 平成21年4月5日④ 愛宕神社 今回の日帰り旅行最後の目的地は、増上寺から北の方角にある愛宕神社です。 愛宕神社が鎮座する愛宕山は、天然の山としては東京23区の最高峰です。 寺院らしきものを見つけ、そちらに向かって歩くと、愛宕神社参拝者はエレベーターに乗るようにと表示がされていました。 他に参道らしきものも見えなかったため、そのままエレベーターに乗りました。 愛宕神社は、江戸幕府が開かれた慶長8年、将軍徳川家康公の命によって江戸の火防の神として祀られました。 神社のホームページには、愛宕神社と愛宕山にまつわる秘話が紹介されていますが、そこから一つ。 愛宕山にはNHKの最初の放送局が置かれ、日本で初めての生中継は、陸軍参謀本部の馬丁だった岩木利夫が、馬で愛宕神社の石段を登った状況を中継したものだったそうです。 境内には池があり、桜の花びらが浮かんで春の錦をなしていました。 ちらほらと参拝客の姿も見え、都心の隠れた名所となっていることが分かります。 少し離れた広場には茶店もあり花見をしながら軽食をとれますが、友人と会うまで食事は我慢。 おいしそうに食べている人たちを、なるべく見ないように心がけました。 境内には、桜田烈士を顕彰する石碑が建てられていました。 後で分かったのですが、ここは井伊直弼を襲撃するための水戸浪士たちが集合した場所でした。 初代将軍によって建てられた神社に集合、祈願した後に井伊大老を襲ったのですから、彼らは本心から幕府そのものに対して叛逆するつもりのなかったとこが窺えます。 帰りは表参道の階段を降りました。 その後、新橋で友人と再会し、お互いの仕事のことや生活のことなど報告し合いました。 日帰りとは思えないくらい、充実した旅行になりました。
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/774.html
陸奥国 大沼郡 野沢組 出原(いつがはら)村 大日本地誌大系第33巻 157コマ目 昔何人にか伊豆国より来て紙を漉くことを教し故(ゆえ)伊豆原村といいしを後今の字に改むという。 府城の西に当り行程8里8町。 家数29軒、東西35間・南北2町30間。 長谷川に傍て山間に住す。 東5町20間二栗村の山に界ふ。 西11町山口村の山に界ふ。 南9町20間黒沢村の界に至る。その村は午未(南~南南西の間)に当り31町40間余。 北8町牛尾村の界に至る。その村まで13町。 山川 高栗山(たかくりやま) 村西3町にあり。 頂まで2町30間。山口村と峯を界ふ。 雑木多し。 長谷川 村西にあり。 黒沢村の境内より来り、北に流るること21町牛尾村の界に入る。 清水 村中にあり。 周3尺。大清水という。 この水にて紙を製す。 土産 紙 その品杉原紙に比すればやや及ばざれども堅強にして久に耐ふ。本組の諸村にて製するもの多けれども初てこの村より漉出せし故総て出原紙と称す。この村にて今は杉原紙をも製出す。 神社 伊豆神社 祭神 伊豆神? 相殿 伊勢宮 総社 御稷神 鎮座 不明 村より寅(東北東)の方30間にあり。 鳥居あり。牛尾村沼澤治部が司なり。 天満宮 祭神 天満宮? 草創 不明 村より丑(北北東)の方30間にあり。 神體(しんたい)は銅像にて、長6寸9分。その背に『北野天神延文六』と彫付けあり(延文6年:1361年)。その余支干日月の文字見ゆれど分明ならず。 鳥居あり。沼澤治部これを司る。 山神社 祭神 山神? 勧請 不明 村西11町にあり。 村民の持なり。 寺院 西連寺 村中にあり。 光徳山と號す。府下七日町阿弥陀寺の末山浄土宗なり。 開基の年代詳ならず。 本尊弥陀客殿に安ず。 観音堂 村中にあり。 3間四面西向き。秘佛の観音を安ず。 延元元年(1336年)に創建すという。その後文安2年(1445年)(舊事雑考に文安3年とあり)道祐という者修補を加え、天正7年(1579年)沼澤出雲眞道という者再びこれを修理せり。慶長16年(1611年)8月の地震に頽顛(たいてん)しければ、同17年(1612年)村民力を勠(あわ)せて再興せり。 その時の棟札、共に寛文中(1661年~1673年)までありしという。今その写しあれば左に載す。 また舊事雑考貞和2年(1346年)の記に、4月17日稲川荘伊豆原村圓満寺観音堂寶器成とあり(今はなし)。 またこの村の農民五兵衛という者の家にて毎年7月7日の朝「まんたら」と號し小さき団子を製しこの堂に蒔ことあり。何の謂れを知らず。 棟札 ※国立公文書館「新編会津風土記94」より 別当 圓満寺 境内にあり。 縛曰羅山と號す。 延元元年(1336年)に草創すろいえども開基の僧を詳にせず。 真言宗野沢原町如法寺の門徒なり。 本尊不動客殿に安ず。 Google Map下谷宮ノ後(出原) 高栗山? 大清水? 伊豆原山神社 天満宮? 山神社? 西連寺 圓満寺観音堂 円満寺観音堂 会津三十三所順禮(会津三十三観音巡り)の1つ 国の重要文化財 本尊は「聖観世音菩薩」 円満寺観音堂 出ヶ原和紙 出ヶ原和紙工房
https://w.atwiki.jp/akatonbowiki/pages/1031.html
このページはこちらに移転しました またあした 作詞/にゅる 通り過ぎた夕立ちを追い掛ける素振りを見せて 何もない日常だから、そんな事でも僕ら笑えた。 君を自転車の後ろに乗せて、買ってきた海老せんべいかじり 神社の境内で、たわいもない話を続けてた。 未完成な課題曲と風景画。夕焼けをバックに片付けてしまおうか。 君よ、憶えていますか?写真には映らない思い出を。 「変わってしまった」なんて当たり前だろ?辛くなった時思い出すあの笑顔。 笑って「また、明日」見えなくなるまで手を振った。 疑うなんて信じるの次の手段。君はそう笑ってた。 君よ、憶えていますか?別れ際の約束を。 大人になるその時まで、僕らは笑い続けていよう。 笑って「また、明日」見えなくなるまで手を振った。 夕焼け空が目に染みて、泣いたんだ。 約束を破ってしまったのは、どっちが先だったのかな? 君よ、憶えていますか? 君よ、憶えていますか? 君よ。 君よ。 (このページは旧wikiから転載されました)
https://w.atwiki.jp/wiki6_piro/pages/2079.html
関山 中尊寺 かんざん ちゅうそんじ 岩手県平泉町にある、天台宗の東北大本山の寺院。 往時を偲ぶ約3000点の国宝、重要文化財、史跡などがある。 境内が特別史跡に指定されている。 所在地 岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202 料金 800円 時間 8:00~17:00 URL http //www.chusonji.or.jp/ 850年(嘉祥3年)に高僧・慈覚大師円仁によって開山されたとされる。 12世紀の始めに、藤原清衡が理想の楽土建設を願い再興したが、1337年(建武4年)の火災によりほとんどのものを焼失。 建築物では、国宝・金色堂と重要文化財・経蔵だけが難を逃れた。 伽藍 金色堂 この覆堂の中に入っている。国宝の金色堂は撮影禁止。 経蔵 重要文化財 金色堂旧覆堂 重要文化財 関連項目 2006年8月15日 2006年8月17日 2006年夏合宿プレ 寺院建築 歴史的建造物一覧 歴史的建造物写真 美しい日本の歴史的風土100選 タグ 2006年8月15日 おすすめ 国宝 室町 寺院 寺院建築 岩手県 平安 平泉町 歴史 歴史的建造物 特別史跡 重要文化財 鎌倉
https://w.atwiki.jp/wiki6_piro/pages/1188.html
風猛山 粉河寺 ふうもんざん(かざらしさん) こかわでら 和歌山県紀の川市にある天台宗系の粉河観音宗総本山の寺院。 西国三十三箇所第3番札所。本尊は、千手千眼観音菩薩。清少納言の『枕草子』にも、「寺は石山、粉河、滋賀」といわれた名刹。 1585年(天正13年)、豊臣秀吉が紀州に攻め入り、根来寺や雑賀衆とともに抵抗したものの全山焼失した。 現在の伽藍はほとんどが江戸時代の再建。 大門から南に約1km続くJR粉河駅前通は、門前町として栄えたが、県道の拡幅工事により、かつての面影はなくなってしまっている。 所在地 和歌山県紀の川市粉河2787 料金 境内自由、本堂300円 時間 8:00~17:00 地図 より大きな地図で 和歌山県 を表示 庭園 本堂の擁壁を兼ねた前庭は、豪壮な石組みに植栽を合わせた座視式の枯山水蓬莱庭園である。 桃山時代・上田宗固の作庭とされる先例のない様式で、国指定名勝である。 関連項目 2003年3月22日 2003年春合宿プレ 寺院建築 歴史的建造物一覧 タグ 和歌山県 国指定名勝 寺院 歴史 紀の川市
https://w.atwiki.jp/toho/pages/4465.html
Beyond The Infinite サークル:Sound∞Infinity Number Track Name Arranger Original Works Original Tune Length 01 境内の蝋燭 ~epic candle SEAL* 東方靈異伝 A Sacred Lot [-- --] 02 ALicE,MirAcuLOuS Yuuna Kamishiro 東方怪綺談 不思議の国のアリス [-- --] 03 幻蹇冥跏 ~Psychedelic vicinity Yuuna Kamishiro 東方妖々夢 広有射怪鳥事 [-- --] 04 Scent of Fall ~秋染の風 Yuuna Kamishiro 東方風神録 フォールオブフォール [-- --] 05 CORE PHOENIX Yuuna Kamishiro 東方永夜抄 月まで届け、不死の煙 [-- --] 06 非統一硬核音楽論(仮称) SEAL* 東方夢時空 非統一魔法世界論 [-- --] 07 櫻鳴 Yuuna Kamishiro 東方妖々夢 さくらさくら [-- --] 08 Disaster The Heaven Yuuna Kamishiro 東方緋想天 有頂天変 [-- --] 詳細 サンシャインクリエイション41(2008/10/5)にて頒布 イベント価格:500円 ショップ価格:?円(税込:?円) レビュー 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/junrei/pages/25.html
古事記 + ... 原文 現代語訳 備考 爾速須佐之男命、白于天照大御神 そこでスサノヲノミコトは、アマテラスオオミカミに、 「我心淸明、故、我所生子、得手弱女。因此言者、自我勝。」 「私の心が清らかだったので、私が生んだ子が女だったのです。ですから当然、私の勝ちです。」 云而、於勝佐備此二字以音、 といって、勝った勢いに任せて乱暴を働きました。 離天照大御神之營田之阿此阿字以音、埋其溝、亦其於聞看大嘗之殿、屎麻理此二字以音散。 アマテラスオオミカミが作った田の畔を壊したり溝を埋めたりし、また食事をなさる御殿に糞便をし散らしました。 故、雖然爲、天照大御神者、登賀米受而告 このようなことをなさいましたけれどもアマテラスオオミカミはそれを咎めるどころか、 「如屎、醉而吐散登許曾此三字以音、我那勢之命爲如此。又離田之阿・埋溝者、地矣阿多良斯登許曾自阿以下七字以音、我那勢之命爲如此。」 「糞便のようなものは酒に酔って吐き散らしたのでしよう。田の畔を壊し溝を埋めたのは地面を惜しまれた結果です。」 登此一字以音詔雖直、猶其惡態不止而轉。 と善いように仰せられましたけれども、その乱暴な所業は止みませんでした。 天照大御神、坐忌服屋而、令織神御衣之時、 アマテラスオオミカミが神聖な機織場で神樣の御衣を織らせていた時に、 穿其服屋之頂、逆剥天斑馬剥而、所墮入時、天服織女見驚而、於梭衝陰上而死。訓陰上云富登。 機織場の屋根に穴をあけて天斑駒の生皮を投げ入れたため、驚いた機織女が機織りに使う板で陰部を突いて死んでしまいました。 故於是、天照大御神見畏、開天石屋戸而、刺許母理此三字以音坐也。 さすがのアマテラスオオミカミも頭にきたため、天の岩屋の中にお隱れになりました。 天岩屋 爾高天原皆暗、葦原中國悉闇、因此而常夜往。 そのため高天原も、葦原中国も暗くなりました。夜が明けなくなってしまったのです。 於是萬神之聲者、狹蠅那須此二字以音滿、萬妖悉發。 そこで多くの神々が騷ぎたて、あらゆる災難が生じました。 是以八百萬神、於天安之河原、神集集而訓集云都度比、高御產巢日神之子・思金神令思訓金云加尼而、集常世長鳴鳥、令鳴而、 多くの神樣たちが天安河の河原に集まられ、タカミムスビノカミの子のオモヒガネノカミに考えさせ、まず常世の国の長鳴鳥を集めて鳴かせました。 取天安河之河上之天堅石、取天金山之鐵而、求鍛人天津麻羅而麻羅二字以音、 次に天安河の川上にある堅い石と天の金山の鉄を取り、鍛冶屋のアマツマラという人を尋ね求め、 科伊斯許理度賣命自伊下六字以音、令作鏡、科玉祖命、令作八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠而、 イシコリドメノミコトに命じて鏡を作らせ、タマノオヤノミコトに命じて大きな勾玉が沢山ついている玉の緒の珠を作らせ、 八咫鏡 召天兒屋命・布刀玉命布刀二字以音、下效此而、內拔天香山之眞男鹿之肩拔而、取天香山之天之波波迦此三字以音、木名而、令占合麻迦那波而自麻下四字以音、 アメノコヤネノミコトとフトダマノミコトを呼び、天の香具山の雄鹿の肩骨を抜き、天の香具山のハハカの木で焼いて占いました。 天香山波波架の木 天香山之五百津眞賢木矣、根許士爾許士而自許下五字以音、 於上枝、取著八尺勾璁之五百津之御須麻流之玉、於中枝、取繋八尺鏡訓八尺云八阿多、 次に天の香具山の茂った賢木の、上の枝に大きな勾玉の沢山の玉の緒を懸け、中の枝には大きな鏡を懸け、 下枝、取垂白丹寸手・青丹寸手而訓垂云志殿、此種種物者、布刀玉命・布刀御幣登取持而、天兒屋命、布刀詔戸言禱白而、 下の枝には麻だの楮の皮の晒したの等を下げ、フトダマノミコトが賢木をささげ持ち、アメノコヤネノミコトが荘重に祝詞を唱え、 天手力男神、隱立戸掖而、天宇受賣命、手次繋天香山之天之日影而、爲𦆅天之眞拆而、 アメノタヂカラヲノカミが天岩戸の陰に隱れ立ち、アメノウズメノミコトが天の香具山の日影蔓を手襁に懸け、眞拆の蔓を鬘として、 手草結天香山之小竹葉而訓小竹云佐佐、於天之石屋戸伏汙氣此二字以音蹈登杼呂許志此五字以音、 天の香具山の小竹の葉を束ねて手に持ち、アマテラスオオミカミのお隱れになった天岩屋の前に桶を覆せて踏み鳴らし、 爲神懸而、掛出胸乳、裳緖忍垂於番登也。爾高天原動而、八百萬神共咲。 神懸して胸も露わにしながら裳の紐を陰部に垂らして踊りましたので、高天原中が鳴り響くほどに大勢の神が笑いました。 於是天照大御神、以爲怪、細開天石屋戸而、內告者 そこでアマテラスオオミカミは訝しみ、天の岩戸を細目に開けて内側から、 「因吾隱坐而、以爲天原自闇亦葦原中國皆闇矣、何由以、天宇受賣者爲樂、亦八百萬神諸咲。」 「私が隱れているので天の世界も下の世界も皆暗いだろうに、どうしてアメノウズメノミコトは舞い遊び、また多くの神は笑っているのですか。」と仰せられました。 爾天宇受賣白言「益汝命而貴神坐。故、歡喜咲樂。」 そこでアメノウズメノミコトが、「あなたよりも尊い神樣がおいでになりましたので、楽しく遊んでおります。」と申しました。 如此言之間、天兒屋命・布刀玉命、指出其鏡、示奉天照大御神之時、 その間に、アメノコヤネノミコトとフトダマノミコトが鏡をさし出し、アマテラスオオミカミに見せたので、 天照大御神逾思奇而、稍自戸出而臨坐之時、其所隱立之天手力男神、取其御手引出、 アマテラスオオミカミはいよいよ不思議に思いになって少し天岩屋から出かけた所を、隱れ立っていたアメノタヂカラヲノカミがその手を取って連れ出し、 天岩戸 卽布刀玉命、以尻久米此二字以音繩、控度其御後方白言「從此以內、不得還入。」 さらにフトダマノミコトがその後ろにしめ縄を引き渡し、「これから内にはお還り入り遊ばしますな。」と申しました。 故、天照大御神出坐之時、高天原及葦原中國、自得照明。 かくてアマテラスオオミカミがお出ましになったので、高天原も葦原中国も自然と明るくなりました。 於是八百萬神共議而、於速須佐之男命、負千位置戸、亦切鬚及手足爪令拔而、神夜良比夜良比岐。 ここで神樣たちが相談をしてスサノヲノミコトに沢山の品物を出させて罪を償わしめ、また髯と手足の爪を切って高天原から追放しました。 「天岩屋=岩窟」「天岩戸=岩戸」として区別しています。 ゆかりの寺社(御朱印視点) 引続き調査中ですので、掲載もれがあるかも知れません。 【おススメ度 ☆☆☆☆☆】御朱印帳があります。(売切御免) 都道府県 寺社名 所在地 備考 宮崎県 天岩戸神社・天安河原宮 西臼杵郡高千穂町岩戸1073-1 天岩屋 【おススメ度 ☆☆★★★】普通の御朱印です。 都道府県 寺社名 所在地 備考 長野県 戸隠神社 長野市戸隠3690 天岩戸 和歌山県 日前神宮・國懸神宮 和歌山市秋月365 八咫鏡 京都府 天岩戸神社 福知山市大江町佛性寺字日浦ケ嶽206 天岩屋【皇大神社or元伊勢観光センターにて拝受】 三重県 二見興玉神社 伊勢市二見町江575 天岩屋 【おススメ度 ☆★★★★】御朱印が頂けるか不明です。 都道府県 寺社名 所在地 備考 岐阜県 戸隠神社 郡上市和良町宮地1 天岩戸 愛知県 正蔵寺 岡崎市岩戸町大久後3 天岩戸 奈良県 天岩戸神社 橿原市南浦町772 天岩屋 奈良県 天香山神社 橿原市南浦町608 波波架の木 岡山県 茅部神社 真庭市蒜山西茅部1501 天岩屋 徳島県 天磐戸神社 美馬郡つるぎ町一宇法正 天岩屋 奈良県 天乃石立神社 奈良市柳生町789 天岩戸 【おススメ度 圏外】寺社以外の関連施設です。 都道府県 寺社名 所在地 備考 三重県 高倉山古墳 伊勢市豊川町 天岩屋 三重県 恵利原の水穴 志摩市磯部町恵利原 天岩屋 宮崎県 天香山 西臼杵郡高千穂町三田井 天香山 天岩屋 天岩戸神社:京都府 日室岳の下を流れる宮川渓流に、秘境天岩戸神社があり、岩壁にはりつくように鎮座しています。天照皇大神がお隠れになったという伝説の地。天降った神々が座したと伝えられる巨大な岩「御座石」、神楽を舞ったと伝えられる岩「神楽石」など巨岩とうっそうと茂る森が、神秘的な雰囲気を感じさせます。この少し下流には神様が湯あみをしたという産釜・産だらいという大きな甌穴(水の流れが小石を転がしてできた岩のくぼみ)があり、日照りの年でも水が湧き出てくると言い伝えられています。大本教の開祖出口ナオ、王仁三郎は、当地を元伊勢として尊崇していたことが知られています。天岩戸神社にある産釜・産だらいの岩穴の霊水「生粋の水晶のお水」を汲み取り、これをご神水とされました。 元伊勢内宮 皇大神社 天岩戸神社:奈良県 香具山(かぐやま)の麓にある神社で本殿はありませんが、日の神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)が隠れた天岩窟(あまのいわや)または、天岩戸(あまのいわと)と言われる巨石がご神体です。太陽神である天照大御神は、弟の須佐之男命(すさのおのみこと)があんまり乱暴を働くので、岩戸に隠れてしまいました。日の神が隠れたことによって世の中は闇に包まれてしまいます。そこで、神々は思案し一計をめぐらしました。天岩戸の前に集まって、ある神様が踊り出し、これをほかの神様も笑いながら楽しみました。隠れていた天照大御神が外の様子が気になって岩戸から顔を覗かせたとき、天手力雄神(あめのたぢからお)がとうとう外に出してしまいました。そして、また世の中はもとどおり明るくなったということです。境内には毎年新しい竹が7本育つ代わりに、別の7本が枯れ死するという「7本竹の不思議」が伝わっています。 橿原市 高倉山古墳 三重県中部、伊勢神宮外宮(豊受大神宮)神域の高倉山(標高116メートル)山頂に築造された古墳である。古くは鎌倉時代の文献に記載が見え、江戸時代には天岩戸として広く信仰対象となっており、その関係もあって墳丘は流出・削平で大きく改変を受けている。これまでに実測調査のほか、1975年(昭和50年)に発掘調査が実施されている。 Wikipedia 二見興玉神社 天の岩屋について参道の突堤のほとりに東面の岩窟がありますが、この岩窟は往古より宇迦御魂大神を祀った三宮神社がご鎮座されておりましたが、文禄年間に外側の境内に遷祀されました。古来より日の出を拝む夫婦岩とともに日の大神がお隠れになった天の岩屋と伝えられて崇拝されております。文治二年東大寺衆徒参詣記おもしろく見ゆる二見の浦わかな岩戸のあけし昔ならねど 慶尊二見潟天の岩戸のあけくれもながめて世をばすきぞしぬべき 景惠古来の岩屋のほとりにて菊酒と稱する神酒及び無垢塩草を授与し、貝殻を販されており、現在の岩屋授与所がその旧地であります。境内にて夫婦岩を拝する展望を有し、明治45年5月、皇后陛下行啓の際に、此の所に御休憩され、全面に於ける海女の作業を台覧あらせられて展望を賞讃あそばされました。 二見興玉神社 恵利原の水穴 ひんやりとした空気に包まれた道の先に、天照大御神が弟・須佐之男命の悪事を戒めるために隠れたという伝説がある洞窟が残っています。岩穴から湧き出る清水は「名水百選」に認定されています。天の岩戸の道中には樹齢360年以上の一本桜のオオシマザクラ「岩戸桜」があり、春には若葉を伴って純白の花が咲きます。 伊勢志摩観光コンベンション機構 天岩戸神社:宮崎県 古事記(こじき)、日本書紀(にほんしょき)等に皇祖天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)は御弟素盞鳴尊(すさのおのみこと)を御避け遊ばして暫く天岩戸(あまのいわと)へ御籠り遊ばされた事を記して居ますが、当神社は其の霊蹟天岩戸(あまのいわと)を斎ひ奉る神社です。境内社殿の背後断崖の中腹に御窟あり天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)籠らせ給ひし処と伝へ、古より其の御神域を御神体としてお祭り致して居ります。社殿は東本宮(ひがしほんぐう)と天岩戸(あまのいわと)直拝の西本宮(にしほんぐう)と岩戸川(いわとがわ)の渓谷を挟み相対して御鎮座ましますが東本宮(ひがしほんぐう)関係の昌泰(しょうたい)年間の記録に天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、天岩戸(あまのいわと)より御出ましの節、思兼神(おもいかねのかみ)其の御手を取りて東本宮(ひがしほんぐう)の土地に御造営の御社殿へ御鎮りを願ったと記してあります。弘仁壬辰三歳中秋には三田井(みたい)候の遠祖、大神大太惟基(おおかみたゆうこれもと)公霊夢に恐惶して頽廃せる社殿を再興し深く其神明を崇敬したと申します。又神社に由縁の舞楽として岩戸神楽(いわとかぐら)三十三番の古雅なる手振を宮司社家代々伝へ氏子達習ひ伝へて祭典に奉奏する外、毎年十一月下旬より二月初旬にかけ、各集落において、民家に〆かざりして終夜舞続け黎明に及びて岩戸開(いわとびら)きと称するを舞納むる慣習があります。 住時名士の此の地を訪ふ者も多く寛政の奇士高山彦九郎(たかやまひこくろう)の参詣紀行あり薩摩の歌人八田知紀(はったとものり)礼参し、水戸の烈土井上主人義秀(いのうえもんどよしひで)等八名参籠して俳句「落つるには 手もなきものよ 蝸牛(かたつむり)」を残して居ます。又大宝の昔京都神祇宮卜部朝臣(うらべあそん)参拝の記録あり相当古くより中央に認られて居た事が考えられます。皇室の崇敬も厚く秩父宮殿下、秩父宮妃殿下、高松宮殿下、三笠宮殿下、朝香宮殿下、常陸宮(義宮)殿下を始め皇族、侍従の代参等、度々の御参拝がありました。 天岩戸神社 天岩戸 戸隠神社:長野県 「昔、天照大神が、弟の素戔鳴尊の乱暴を怒って天の岩屋へお入りになってしまわれました。世の中は真っ暗闇になり、いろいろの悪い神々が出てきて、恐ろしいことや、悲しいことが次々におこりました。大勢の神様たちは、岩屋の前に集まって、天照大神に岩屋から御出でになっていただくにはどうしたらいいだろうかと、相談をしました。その時、戸隠神社の中社にお祀りされている天八意思兼命が「良いことを思いついた。私たちが岩戸の前で踊ったり歌ったりして楽しそうにしていると、きっと天照大神様は、『あの者たちは何をしているのだろう』とおのぞきになるにちがいありません、・・・」と知恵をしぼって考えをだされました。天八意思兼命のお考えにもとづいて、神様たちは準備をしました。まず鶏を沢山集めて鳴かせました。火之御子社に祀ってある天鈿女命(あめのうずめのみこと)は大変踊りの上手な神様ですが、この神様が伏せた桶の上にのって足拍子も面白く「とんとん、とととん、と」と踊りました。大勢の神様も「やんや、やんや」と手拍子をうってこれに応えました。天八意思兼命が「コケコッコー」と長鳴鶏ながなきどりの鳴き声をまねると、沢山の鶏は一斉にコケコッコーと鳴きだしました。天鈿女命の踊りがあまりに面白いので、神様たちも「わっははは」「おっほほほ」と笑ったりつられて踊りだしたりしました。岩屋のなかの天照大神は何事がおきたのかと、そっと岩戸をあけて外をご覧になりました。その時岩戸のかげで待ち構えていた天手力雄命(奥社にお祀りしてある神様)が岩戸に手をかけ一気にガラガラと渾身の力を込めて、岩戸をあけてしまわれ、天照大神を岩屋からお出ししました。世の中は再び明るくなり、悪い神々は、逃げ去りました。天手力雄命は、また天照大神の御手をとって岩戸にお入りになってはたいへんと、岩戸を「エイッ」と持ち上げ下界へ投げすててしまわれました。岩戸は宙を飛んで日本のだいたい真ん中に落ちました・・・・・・。この時、天手力雄命が放り投げたのが「戸隠山」であるという話は、日本の神話として昔から語り伝えられており、この岩戸伝説と同じような話が、戸隠の古い記録である「戸隠山顕光寺流記」や「戸隠本院昔事縁起」にも記されています。 戸隠神社 戸隠神社:岐阜県 その創建年代不詳。 天の岩戸の磐戸が真っ二つに割れてその片割れが、戸隠神社に飛んできたという「重ね岩」(社殿の後に、神岩、天岩戸という大きな岩があり、指一本で動かすことのできる、実に不思議な岩があります。(この岩は、古事記に出てくる天照大神の「天の岩屋戸こもり」に由来する伝説)史料によると、平安期、天慶元年(938)美濃の国神名帳によれば、郡上7社の内の一社(正6位上国津明神)と記載されている。信濃の国戸隠神社より勧請され、明治7年(1874)戸隠神社と改称される。地頭橘頼綱が、国土安泰と戦勝祈念のため、文永8年(1171)から建治元年(1275)までの5ケ年に亘り大般若経の奥書にある「九頭大明神御宝前」という記録が、当時既に九頭龍宮ここに存在している事を意味するものである。この大般若経を永禄12年(1569)三木自綱が郡上に進入した折に、戦利品として河尻新之丞利廣が飛騨に持ち去り、千光寺(大野郡丹生川村)へ寄進した。現在当社には残簡一部が存在する。文禄3年(1594)に雷火により本殿をはじめ、その他が焼失した。しかし、再び郡上藩主になった遠藤慶隆によって、慶長12年(1607)社殿等再建され、郡上五保の惣社として代々厚く崇敬されて来た。郷中盛衰記天保11年(1840)には和良街道筋の大社として、その偉容と賑わいぶりが記されている。 『大神楽』 大幣帛を持った口上役の大音声によって、大神楽起こし笛が始まり、大神楽・大獅子・岡崎・こすずみの4曲神楽奉納。舞子は、大太鼓打ち2名、ささらすり1名の子供3人で定められた法式によって舞う。楽人は笛、小鼓、小太鼓、があり、衣装に裃をつけ、頭には゛とさか゛をかぶる。曲に合わせ大獅子が宮路地区雄の麒麟獅子、上沢地区が雌の麒麟獅子が舞う。『山車』 上沢の山車は参道を登る時゛ちゃんとこ゛猿田彦命が踊り、境内広場では、からくり人形「那須野与一の的」を演じる。宮路地区の山車は参道を登る時゛おかめ゛天鈿女命(あめのうずめのみこと)が舞い、境内広場では「とんぼかえし」=西洋人の鉄棒演技=を演じる。「馬乗り」「神輿」「伊勢神楽舞」等の奉納もご奉仕いたします。 岐阜県神社庁 天乃石立神社 延喜神名帳に記載されている式内社である。小社としてその中に加わっている。御神体は巨石で前伏磐、前立磐、後立磐と三つに割れている。神代の昔、手力男命が天之岩戸を開けた時、力が余り虚空を飛来しこの地に落下したと伝えられる巨岩崇拝の伝統である。 奈良県神社庁 正蔵寺 正蔵寺の裏に,大きな屏風状の岩石があるので,これより岩戸の名称が起こったようである。伝説によると,むかし,神が,岩中に,天の岩戸をお造りになったとき,そのかけらを落としてしまわれた。それが落ちたところが岩戸だったということである。かけらは2個落ちて,一つは岩中町の盤座の前に倒れ,他の一つは南の山を越えて,岩戸の正蔵寺の裏山に落ちた。そこで,この地を岩戸と呼ぶようになったそうである。 岡崎市立秦梨小学校 八咫鏡 日前神宮・國懸神宮 創建二千六百餘年を溯る日前神宮・國懸神宮は、同一境内に座します二社の大社をなしております。日前神宮は日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体として日前大神を奉祀し國懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として國懸大神を奉祀しております。神代、天照大御神が天の岩窟に御隠れになられた際、思兼命(おもいかねのみこと)の議(はかりごと)に従い種種の供物を供え、天照大御神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命(いしこりどめのみこと)を治工とし、天香山(あめのかぐやま)から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡(みかがみ)を鋳造しました。時を同じくして鋳造された天照大御神の二体の御鏡が、日前國懸両神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されております。天孫降臨の際、三種の神器とともに両神宮の御神体も副えられ、神武天皇東征の後、紀伊國造家の肇祖に当たる天道根命(あめのみちねのみこと)を紀伊國造(きいのくにのみやつこ)に任命し、二つの神鏡を以て紀伊國名草郡毛見郷の地に奉祀せられたのが当宮の起源とされています。その後、崇神天皇五十一年、名草郡濱ノ宮に遷宮され、垂仁天皇十六年には名草郡萬代宮すなわち現在の場所に遷幸され、永きに渉り鎮座の地として今に至っております。爾来、天道根命の末裔である紀氏(きいし)によって歴代奉祀され、両神宮の祭神が三種の神器に次ぐ宝鏡とされたために、伊勢の神宮に次いで朝廷からの崇敬も篤く、延喜の制には両社とも明神大社に列し、祈年(としごい)、月次(つきなみ)、相嘗(あいなめ)、新嘗(にいなめ)の祭祀には天皇から幣帛(御供)を賜るほどでありました。また古くから紀伊國一之宮として一般の人々からも崇敬をあつめ、両神宮の総称を「日前宮」(にちぜんぐう)とし、親しみをもって呼ばれています。戦国時代におきましては、豊臣秀吉の天正の兵乱により境内荒廃、社領没収の憂き目に逢いましたが、徳川の時代に入り紀州藩初代藩主、徳川頼宣(とくがわよりのぶ)が入国されるや社殿を再興され、明治四年太政官布告による神格の制が治定されると、官幣大社(かんぺいたいしゃ)に列し、敬神崇祖の大義を示すことと相成りました。大正八年の国費による境内建物すべての改善工事によって旧観は一新され、大正十五年三月の完成をもって現在の姿となっております。 日前神宮・國懸神宮 波波架の木 天香山神社 天香山神社(あまのかぐやまじんじゃ)の祭神は、櫛真智命神(くしまちのみことのかみ)です。境内にある「朱桜」(にわざくら)という古名で知られる「波波架の木」(ははかのき)は、その昔、占いに用いられたと言われています。「古事記」の天岩戸神話(あまのいわとしんわ)には、天香具山(あまのかぐやま)の雄鹿の骨を抜きとって「朱桜」の木の皮で焼き、吉凶を占ったとあります。 橿原市
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/33.html
界沢館(さかいざわだて) 所在地会津若松市高野町界沢 別称堺沢館、境沢館 築城年天授(康暦)~元中(至徳)年間(1379-87)頃か 築城者金屋氏か 城主変遷蘆名氏[金屋氏]… 廃城年不明 現状耕真寺、宅地 概要 界沢館は福島県会津若松市に所在した城館跡であり、中世に会津領主であった蘆名氏の家臣金屋氏が居館したという 。 歴史 蘆名直盛家臣金屋尾張某が居住したとされることから、構築年代は直盛が会津へ下向したとされる天授五年(康暦元・1379)、東黒川館に移った元中元年(至徳元・1384)頃であろうか。 現状・感想 界沢集落内の耕真寺境内地を西端とし、東側の宅地一帯が館跡と比定されている様です。東面して建つ耕真寺裏、墓地と水田の間に土盛りがありますが、これが遺構かどうかを見極める眼力をわたしに求めるのは酷というものでしょう。集落内の鉤形の道路、用排水路は館跡の名残なのでしょうかねぇ…。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/46.html
小田館(おだだて) 所在地会津若松市花見ヶ丘3 別称 築城年承久四年(1221)か 築城者蘆名光盛か 城主変遷蘆名氏(1221…)… 廃城年不明 現状宝積寺 概要 小田館は福島県会津若松市に所在した城館跡であり、中世に会津領主であった蘆名氏の居館の一であったと伝えられている。 歴史 承久四年(1221)蘆名光盛が小田山城を築城し、幕内館(飯寺館か)より居を移した際、その居館となったのが小田館であるとされる。しかしその説も定かでなく、黒川城が築かれるまでの居館の一であったかも知れないが判然としない。 現在は宝積寺の境内地となっており、墓地の一部に土塁、堀の痕跡が見られる。 現状・感想 宝積寺の墓地の一部にははっきりとした高低差が見て取れますが、それが果たして土塁、堀の名残であるかはわたしの節穴では判りません(^-^; 以前訪問した時からだいぶ経過しているので、機会を見て再訪してみたいと考えております。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧