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瑞州内戦(ずいしゅうないせん、英:Zuish Civil War)は、1947年6月17日の鹿毛川幕府による当時の政権や新国防軍への宣戦布告から、国防軍の勝利によって、1949年3月10日に戦争の終了が宣言されるまでの期間行われた戦争である。 前史 八・一ニ事件 国防軍の設置 内戦 サンダースクリーム作戦 行方・鹿嶋の戦い 第一次水砥の戦い 南三勢砲戦 由螺-森山絶対防衛線 三洲・若山の戦い 瑞京攻勢 桜小路大佐の思惑 鹿毛川事件 軍閥の形成と連邦の大反攻 ジャイアントキリング作戦 国防省包囲戦 エンド・オブ・ドリーム作戦 ミルキーウェイ作戦 三郷の戦い 戦後 年表 瑞州内戦 年月日:1947年6月17日 - 1949年3月10日 結果:瑞州国防軍の勝利。鹿毛川幕府、旧連邦軍の崩壊。文民統制体制の成立。 交戦勢力 鹿毛川幕府陸軍参謀本部海軍軍令部幕府陸軍(旧連邦陸軍)幕府海軍(旧連邦海軍) 瑞州合衆国連邦統合幕僚監部 国防陸軍 国防海軍 国防空軍 指導者・指揮官 増地保幸大将軍新垣道雄陸軍総裁大屋太一郎海軍総裁 陣内龍三大統領 前史 国家が国防方針を策定する場合には国家戦略と軍事戦略との整合性が重要であり、この整合を「政戦略の一致」と言う。1900年代に入ると、瑞州軍の統帥権の独立を巡って、軍部が外務省などを筆頭とした政府と対立するという深刻な政軍関係上の問題が発生することになり、この政治的対立によって政戦略の不一致がもたらされることになった。この頃の瑞州は対外拡張主義(覇権主義)と不干渉主義の議論が最も盛んであり、軍部(対外拡張を主張)と、外務省を中心とした政府(不干渉・国際協調による平和を主張)の争いもそれに乗じたものであった。瑞州が空中分解しなかったのは、ひとえに軍部と政府の間に立つ最高権力者である大統領たちの功績が大きいが、大統領たちは自身の主張を明確化していなかった。 その対立の最中である1945年、当時の大統領である農民環境党の慶田茂裕は(明確な表明こそしていなかったものの)不干渉主義の中でも軍縮派と呼ばれる考えを支持していた。彼と農民環境党の主流派は軍の予算を削減し、多くの将官を予備役とすることで軍縮を実行しようとしていたが、4月2日、過激派右翼の青年である甚野塁に瑞京駅で暗殺された。しかしながら後年、甚野は軍部に暗殺を依頼されたヒットマンであると自供している。 慶田の暗殺に伴い、副大統領の陣内龍三が大統領に昇格する。陣内は農民環境党内の派閥順送りの慣例で、慶田の属していた主流派とは別の派閥に属しつつも副大統領に任命されており、陣内は慶田ほどの軍縮を望んでいなかった。しかし軍部は農民環境党自体を壊滅させることを選んだ。 八・一ニ事件 8月、陣内内閣の組閣直後の就任式典において、就任したばかりである閣僚たちが軍部の差し向けた刺客により一斉に殺害された(八・一二事件)。殺害実行犯の河野浩司(*1)、梶原智之(*2)は、物影に潜んで閣僚たちを強襲した。彼らは機関銃で閣僚たちを連続して射殺するという暴挙に出、動揺しつつも立て直した警備兵にその場で射殺された。 八・一二事件の被害者の一覧を以下に示す。 陣内龍三大統領:事件発生時に護衛が身を挺して庇ったが、その際に床に腕を強打し、冷却措置を受ける。後にこの事件がPTSDの原因となっているが、任期最後まで大統領を務め切った。 中谷孝明陸軍大臣:陸軍大将。即死。 竹内隆文海軍大臣:海軍大将。即死。 深津和秀副大統領:即死。 中濱幸平内務大臣:即死。 海野勝敏外務大臣:即死。 新島武夫大蔵大臣:重傷。緊急搬送され、当面の入院措置。政界に復帰することは叶わなかった。 井波啓輔法務大臣:即死。 大室忠之農商大臣:即死。 三代和成労働大臣:重傷。緊急搬送され、2日後に死亡。 須山俊亮厚生大臣:即死。 芝田昌昭国土大臣:即死。 長屋隆光文部大臣:即死。 三崎佳嗣大統領首席補佐官:重傷。緊急搬送され、3日後に死亡。 なお警察による捜査の過程において、陸軍参謀本部や海軍軍令部も事件に加担していたことが判明し、目の前で部下を惨殺され怒りに震える陣内は、犯人らが軍人であることが確認されたその日の内に新垣道雄陸軍参謀総長、大屋太一郎海軍軍令部長を罷免し、公職から生涯にわたって追放した。事件後、国民と政府、一部の合衆国軍部隊は軍部の武力による政治介入を批判し、次第に軍部への風当たりは強くなっていった。この事件によって、軍部大臣現役武官制はただちに廃止され、臨時に陣内自身が陸軍・海軍大臣を兼任した。 またこの事件を契機に、政府要員が一同に会した場所で全滅するというリスクがよく考えられるようになり、立法府を維持するための両院の議員各党1人ずつと、行政府を維持するための閣僚1人以上が欠席し、会場から離れた非公開の安全な場所に待機することを定めた指定生存者制度が施行された。 国防軍の設置 翌1946年、陸海軍を国防陸海空軍として再編し、軍を文民(議会・大統領)の統制のもとに置くこと(文民統制)を明文化した「国防軍法」、そして瑞州情報局(ZIA)の創設を盛り込んだ「国家安全保障法」が議会で制定された。軍部は猛烈に反対したものの、既に自身の起こした事件のせいで軍部大臣現役武官制は廃止され、政策決定の場に軍部の意向を反映できる者などおらず、結局は国防軍法の成立を指をくわえて見過ごすことしかできなかった。 同年4月1日、大統領府に国防部が新規に設置され、その指揮下に臨時に国防軍が組織された。国防部および国防軍は旧軍基地・部隊の抽出・編入・戦力建設作業に努めた。この時に旧第一歩兵師団や旧第六歩兵師団、旧第一○二近衛師団や各地の地域旅団を母体に機甲第1師団から騎兵第8師団までの師団が編成されたが、旧第二歩兵師団など軍部派の部隊がそれを拒否。八・一二事件の際に罷免されていた新垣前陸軍参謀総長と大屋前海軍軍令部長を主導者と仰ぎ、四六革命と称し、武装状態で各基地や駐屯地、砦に立て籠る事態が発生した。 戦力は拮抗、もしくは劣勢状態にあると危機感を抱いた国防陸軍司令部は、国防陸軍への編入を拒否した部隊の代替として、同年7月までに機甲第9師団や空挺第10師団、歩兵第11師団を編成。また第11師団の後、第12、第13…と師団編成を続ける予定だったが、人員不足により編成されたのは独立機甲第15旅団や、第1特殊作戦任務部隊から増強改編された特戦第18旅団などの師団未満の旅団級部隊だけにとどまった。それらも後々、機甲第15師団や特戦第18師団としてさらなる増強改編される予定であったが、やはり人員不足や必要性の低下により改編は見送られ、結局現在に至るまで師団へと改編されることはなかった。 翌年4月、大統領府国防部から昇格する形で国防省が設置、正式に国防軍が編成された。国防軍は陸軍の後継組織である国防陸軍、海軍の後継組織である国防海軍、陸軍航空軍から改組した国防空軍で構成された。 内戦 陣内大統領率いる国防軍と、編入を拒否した旧連邦軍の各部隊は、当初はにらみ合ったままであった。旧連邦軍を主導する新垣と大屋は、既に現役を退きつつも、未だ各界に大きな影響力を及ぼす増地保幸退役陸軍元帥を担ぎ出し、瑞州の歴史上長らく使われていなかった「大将軍」(*3)を名乗らせた。首班として全体の指揮を任された増地は、淡葉州鹿毛川市を新首都とした軍事独裁政権(鹿毛川幕府(*4))の樹立、そして瑞州合衆国連邦への宣戦布告を1947年6月17日に行った。これを以って正式に瑞州内戦が勃発した。 鹿毛川幕府の勢力範囲は、広大な太平洋を遊弋する他国艦船や潜水艦を目にする機会がたくさんあり、「武力によって瑞州の地位をより強固にすべきである」と考える西海道地方や北西地方の軍部隊が多かった北部瑞州だった(*5)。対して、陣内大統領率いる合衆国連邦の勢力範囲は南部瑞州に限定された。 新規に編成された国防陸軍や国防空軍の部隊は、そのほぼ全てが対旧軍部隊のために最前線となっている中央地方に配備されていた。例外は南州地域で後方支援・教育・治安維持・国境防衛任務に当たっていた歩兵第6師団や歩兵第11師団、ごく少数の地域兵団(*6)であった。地域兵団は各州の防衛に大きな役割を果たし、後の州兵の編成に繋がる。 サンダースクリーム作戦 サンダースクリーム作戦 Operation Thunder Scream 国防軍から見た開戦時の戦力配置。友軍は青色、敵軍は赤色で表示されている。 年月日:1947年6月17日-7月日 目標:敵首都までの打通。 結果:作戦失敗。瑞州国防軍の後退。 指導者・指揮官 増地保幸大将軍新垣道雄陸軍総裁大屋太一郎海軍総裁 陣内龍三大統領 内戦という最悪の事態を予測していた国防軍上層部は、敵軍の宣戦布告とほぼ同時に先手を打って進撃を開始。鹿毛川幕府の勢力範囲をより北方に限定し、また電撃戦をもって敵首都まで進もうとしていた。この目標のために発動されたのが、かねてより計画されていた作戦計画D-7 サンダースクリームである。 国防陸軍は前もって各師団を4個軍団に分けていた。東岸戦線を担当する野戦第1軍団(指揮官:藤井一樹中級陸将)、中部戦線を担当する野戦第2軍団(指揮官:川原茂昭中級陸将)、西岸戦線を担当する野戦第3軍団(指揮官:長野浩由中級陸将)、後方支援を担当する野戦第4軍団(指揮官:千代原健一中級陸将)である。サンダースクリーム作戦では、砂漠地帯のために敵の基地が少ない常陸中方面から淡葉の鹿毛川まで進撃するものと定められ、野戦第3軍団と野戦第2軍団がこの侵攻線を通り、野戦第1軍団は彼らの側面を突かれることを防ぐため東海州の敵部隊を引き受けるものとされた。 宣戦布告と同日中にこの作戦は発動され、第2・第3軍団は進撃を開始した。18日、濃前州と尾治州から進出した第1独立騎兵連隊と歩兵第7師団、騎兵第8師団は、中濃州にある塩四里要塞と常陸中州の守屋要塞に立て籠もる幕府陸軍・第十三地域旅団への攻撃を開始した(塩四里・守屋要塞の戦い)。砲兵旅団である第十三旅団の正確無比な砲撃と、増援に駆け付けるだろう北部の幕府軍部隊に怯えながらの攻撃となったが、20日には両要塞とも沈黙。第十三旅団は降伏した。しかしながらこのとき、常陸中州北部にいる第十地域旅団や第七歩兵師団、濃波州の第十二地域旅団といった、幕府丁方面軍に属する各部隊は、実際には増援に向かっていなかった。 また第1軍団では陽動のため、瑞州東岸を北上するという進路を取り、嶋海州や静駿州から出撃した歩兵第2師団や第2独立砲兵連隊、歩兵第4師団が出撃していた。18日午後、それを阻止せんとする幕府乙方面軍との交戦となった(狭間似の戦い)。第一騎兵旅団や第十八地域旅団といった騎兵科の機動力に勝る部隊と、第二十歩兵旅団の組み合わされた防備に国防軍は手こずり、戦線は膠着するも、21日に遅れて到着した機甲第1師団と第3独立歩兵連隊の活躍もあり、翌日に幕府乙方面軍は後退した。 行方・鹿嶋の戦い 行方・鹿嶋の戦い Battle of Namekata-Kashima 6月末の戦況。国防軍第3軍団は側面攻撃により窮地に陥る。 年月日:1947年6月22日-7月12日 結果:国防軍の辛勝、なれども進撃停止。 交戦勢力 鹿毛川幕府軍・丁方面軍 ・第七歩兵師団 ・第七地域旅団 ・第十地域旅団 ・第十二地域旅団 国防陸軍・野戦第2軍団 ・歩兵第4師団 ・騎兵第8師団・野戦第3軍団 ・歩兵第7師団 ・歩兵第9師団 ・第1独立騎兵連隊 指揮官 ・藤松昌樹陸軍大将 ・五嶋秀雄陸軍少将 ・梅村憲明機甲大佐 ・成田正英歩兵大佐 ・上地康平砲兵大佐 川原茂昭中級陸将 髙橋晴雄陸少将 吉田義紀少級陸将 長野浩由中級陸将 榊原康宏少級陸将 柴田雅大少級陸将 阿部幸司一等陸佐 22日、敵の奇襲を警戒しながら常陸中州の砂漠地帯・鹿嶋郡に到達した第2・第3軍団司令部は、敵軍が行方郡から鹿嶋郡を通り、隣の能石州葉咋市まで伸びる防御線(行方-葉咋ライン)を構築し、瑞州最北部の淡葉州にいたはずの機甲部隊・第七地域旅団が待ち構えていることを偵察によって知った。 両軍は防御線を挟んでしばらくにらみ合ったままであった。26日に長野中将は川原中将に要請し、第2軍団に幕府軍の築いた防御線正面への偽装攻撃を行わせながら、自身の指揮する第3軍団の機甲部隊を防衛線の西から迂回させ、その背後の幕府軍機甲部隊を攻撃するために進出した。この攻撃は成功したかに見えたが、防御線西端の行方郡まで進出した折、濃波州から進出してきた第十二地域旅団による側面攻撃で物資の補給がままならなくなり、第3軍団の機甲部隊や随伴歩兵は燃料と弾薬が欠乏し、かえって不利な立場に置かれることになった。 7月1日、長野は第7師団及び第9師団を攻撃部隊として、物資補給路の障害となっている南方に陣取った第十二旅団に対する攻撃を行った。攻撃は失敗し、行方に陣取る第十二旅団はさらに10日間も戦闘を続け持ちこたえた。 しかしながら、防御線後方にいた丁方面軍前線司令部は、防御線の突破によって淡葉州の首都が危険に晒されることを懸念し、第十二旅団の陣地に援軍を送り込み、防御陣地を築くことに集中していた。このため、丁方面軍は状況対応が遅れ、7月11日にようやく前面の第2軍団への反撃を開始したものの、側方の第3軍団には準備日数を与えてしまっていた。長野中将は行方-葉咋ラインの中央に補給路を開くため、東へ向かい戦力を集中して攻撃を加えた。12日までに形勢不利と見た丁方面軍は戦場から撤退した。この戦闘で第七旅団などの機甲部隊は大きく損耗し、行方-葉咋ラインは中央の鹿嶋郡で寸断され補給路は再びつながったが、大きく損害を被ったのは国防軍も同様であった。 戦闘は戦車を多く犠牲にしながらも国防軍の勝利に終わったものの、その後の戦いにおいて重要な役割を果たすべき機甲部隊が損耗してしまい、常陸中州北部へ退却した丁方面軍に決定的な打撃を与えることができなかった。このため、国防軍の開戦以来の進撃は、行方・鹿嶋付近で停止した。 第一次水砥の戦い 第一次水砥の戦い Battle of Mito Ⅰ 年月日:1947年7月20日-24日 結果:幕府軍の勝利。 交戦勢力 鹿毛川幕府軍・丁方面軍 ・第七歩兵師団 ・第七地域旅団 ・第十地域旅団 ・第十二地域旅団 国防陸軍・野戦第2軍団 ・歩兵第4師団 ・騎兵第8師団・野戦第3軍団 ・歩兵第7師団 ・歩兵第9師団 ・第1独立騎兵連隊 指揮官 ・藤松昌樹陸軍大将 ・五嶋秀雄陸軍少将 ・梅村憲明機甲大佐 ・成田正英歩兵大佐 ・上地康平砲兵大佐 川原茂昭陸中将 髙橋晴雄陸少将† 吉田義紀少級陸将 長野浩由中級陸将 榊原康宏少級陸将† 柴田雅大少級陸将 阿部幸司一等陸佐 行方・鹿嶋で辛勝した国防軍であったが、主力となる機甲部隊の損耗は激しいものであった。しかしながら戦争の早期終結を目指す大統領らはサンダースクリーム作戦の続行を強く希望していた。そうして、まずは北西地方第二の都市である水砥を制圧する攻撃計画が練られた。水砥市は製造業が盛んであり、ここを奪取することで幕府軍の継戦能力を削ぐ目標があった。 7月20日、第8師団の第8装甲騎兵偵察中隊が威力偵察を実施し、市内に布陣する大規模の幕府軍や強制的に組織された市民軍の存在を初めて確認する。彼らは市民軍との意思疎通を図ったが、市民軍の背後には幕府軍の武官数名から構成される督戦隊がおり、結局市民軍から銃撃を受けてその場を退かざるを得なかった。 後方で報告を受けた野戦第2軍団長・川原中級陸将は、敵の防備が市民軍を交えたことで予想以上に強力になっていた点を鑑み、これに対処するため軍団主力を集中的に運用する必要があると判断した。国防軍は第4師団や第7師団を主力に、その他の部隊を支援・後方警戒に回し、翌21日夜明けに攻撃を開始した。 第4師団や第7師団で構成された部隊は、市民軍と小競り合いを繰り広げつつも、21日の午前9時には市内に進出していた。市内では予想されていた激しい抵抗も起きることはなかった。不審に思った第4師団と第7師団は第4・第7偵察中隊を隠密偵察に放ったが、前日に第8装甲騎兵偵察中隊が確認していた場所に幕府軍の姿は一切なかった。一晩で消えた敵軍にいぶかしみながら、両師団は郊外に布陣する市民軍と遠距離での銃撃戦を行った。ここで全面攻勢をかけて市民軍を殲滅するのは「国防」軍にとしては避けたいというのが、指揮官たちの本音であった。日付が変わるまでに市街地全てのクリアリングが完了し、物影からの奇襲を警戒していた国防軍は一息ついた。上層部は水砥に前線司令部を作り、瑞州第三の都市・埼武江州太刀川市の攻略までここに腰を落ち着けるように命じた。設営中の司令部には、野戦第2・第3軍のうち、第4師団長の髙橋陸少将と第7師団長の榊原陸少将が先行して到着した。 一方、幕府軍は20日までに水砥市の工業能力などを太刀川市などに移転させ終わっていた。市民軍を郊外に配置して水砥市中心部に国防軍をほぼ抵抗なしで入らせたのも、幕府軍が一晩で撤退したのも、全て国防軍に対する罠であった。 事態が動いたのは23日の午前7時である。野戦第2・第3軍の軍団司令部は当時、濃前州諏方市に置かれていたが、そこを目掛けて幕府軍が突っ込んできていた。攻勢をかけたのは東海地方北部にいた乙方面軍・第五戦車旅団と第十五・第十六地域旅団であった。彼らは国防軍の前線と司令部が離れることを見越して、南下して攻撃態勢に入っていたのである。この動きは同州三屋田市で後方警戒に当たっていた第8師団に察知されたが、防御陣地の構築も間に合っておらず、また乙方面軍は第8師団の撃滅ではなくその後ろを叩くことに専念していたため、第8師団は各所で分断された後、やすやすと防御線を突破されてしまった(三屋田の戦い)。 23日正午、丘谷-千野方面と上諏方-得木方面に部隊を二分した上で、幕府軍は同時に諏方市の国防軍司令部に対する攻撃を開始した。司令部は直ちに予備の第1独立騎兵連隊(一部部隊欠)を投入して反撃を試みたが苦戦を免れず、既に諏方市内にも幕府軍の砲弾が落下するなか、防御部隊は後退を開始した(諏方の戦い)。 司令部攻撃さる、の報を受け、後方警戒に当たっていた第9師団などは警戒地点から引き返していたが、機甲・歩兵の大規模諸兵科連合である乙方面軍に太刀打ちできるかどうかは微妙であった。また水砥市内の部隊にも動揺が走り、前線司令部では退くか退かないかで意見が対立していた。しばらく水砥から離れ撤退を偽装していた幕府軍はのろのろとした撤退運動を中止。急速反転し、23日午後2時から水砥市内は幕府軍の集中砲撃を受けた。建造物の損害を度外視したその砲撃により国防軍はたちまち恐慌状態に陥り、混乱の中前線司令部も砲撃を受け、師団高級幕僚が全員戦死するという悲劇が起こった。 幕府軍が水砥市に突入したのは午後3時30分ごろであった。国防軍は先刻の砲撃のせいで組織的な市街戦を行なう用意がなく、中隊以下の小規模部隊ごとに戦闘を展開した。第42対戦車砲中隊などの、幕府軍戦車に対する57mm対戦車砲および肉薄攻撃の攻撃は効果がなかったものの、第4独立高射自動火器大隊第1中隊が幕府軍戦闘機を撃墜することに成功した。一方、第73歩兵連隊第3大隊の一部部隊は、結樹市境において幕府軍戦車12両と歩兵部隊が市内に侵入しているのを発見し、肉薄攻撃を敢行したものの、戦車の破壊は確認できなかった。小御霊市境においては、第7武器整備中隊の将兵が最後まで抗戦し、生存者は遊撃戦に転じた。これら部隊の抵抗は組織化されてはいなかったが極めて頑強で、幕府軍は市境を突破したのちさらに中央部に進出するまでに10時間を要するほどであった。 撤退した部隊は多洗市や行方郡で再集結したが、司令部が攻撃されたという点と後退ルートが遮断されかけているという点を鑑み、これ以上常陸中州内での戦闘は不可能であると結論した。後退を始めた彼らであったが、それを許さない幕府軍の猛追を受けた。ただし幕府軍もこれに先立つ移転作業や偽装撤退、撤退からの急速反転で消耗しており、追撃も限定されたものになった。それでも第2・第3軍団が濃前州との州境を越えたときには40%が損害を受けており、ほとんど戦闘能力を喪失していた。しかしその後も常陸中州内においては、脱出の機会を逸した国防軍将兵が潜伏しており、ゲリラ戦を展開した後に脱出したりするなど個人単位での原隊復帰が続いたが、幕府軍に捕捉された例も多かった。 南三勢砲戦 南三勢砲戦 Battle of Minamisanze 年月日:1947年8月23日-25日 結果:瑞州国防軍の撤退成功。 交戦勢力 鹿毛川幕府軍・第二歩兵師団・第一○一騎兵師団 ・第一騎兵旅団・第五三戦車師団 ・第五戦車旅団 国防陸軍・野戦第1軍団 ・歩兵第2師団 国防海軍・第12駆逐隊・第17駆逐隊 指揮官 ・兒玉幸弘陸軍少将・柳瀬孝徳陸軍少将・谷山一正陸軍少将 藤井一樹中級陸将 富樫敏則少級陸将 久保井雅之一等海佐 安藤義洋一等海佐 南三勢砲戦とは、1947年8月23日から25日にかけて、三勢州南三勢市で起こった砲撃戦である。南下を進める幕府陸軍に対し、鳥羽・嶋方面に撤退する国防陸軍歩兵第2師団を支援するため、国防海軍第12駆逐隊・第17駆逐隊が洋上から支援砲撃を行った。 6月の内戦勃発後、歩兵第2師団は紀山州から出撃し、北上して三勢州南部や重賀州東部から幕府軍を駆逐していた。しかし体勢を立て直した幕府軍が反撃を始めると、前線や補給路が伸び、また幕府軍の物量もあって、歩兵第2師団は苦しい状況に置かれていた。師団長の富樫敏則少将は遊撃部隊である騎兵第8師団や独立機甲第15旅団の増援派遣を再三上層部に具申していたが、彼らも別の戦闘線に従事しており、思うように動かすのは難しいことであった。7月中旬になると前線と本部の間を行き来していた輸送部隊が幕府軍に襲撃される事態も発生し、前線部隊が包囲されることを恐れた富樫は前線の後退を決断。三勢州から撤退し、新たに嶋海州の鳥羽・嶋市付近で敵軍を迎え撃つことに決定した。 そのために前線に展開していた部隊には撤退命令が下されたが、余裕のない状況下で撤退を始めたため、幕府軍・第二歩兵師団に撤退を察知されてしまった。展開していた第21戦闘団や第23戦闘団は彼らや増援の第一騎兵旅団・第五戦車旅団の猛追を受けながら撤退し、8月22日には州境の町である南三勢市に到達していた。 しかしながらここで撤退計画に誤算が生じる。軍事独裁を敷く鹿毛川幕府を恐れた南三勢の市長や住民らが、自分たちも一緒に嶋海州まで行きたいと申し出たのである。南三勢にはすでに他地域から逃れてきた東海地方北部の避難民で溢れており、南三勢もじきに陥落するなら、せめて陸軍に護衛されながら逃れたいということであった。鹿毛川幕府は7月1日には「居住地域からの逃散を禁止する」と表明しており、彼らに逆らって逃げたということが判明すれば、彼らの憲兵隊からどんな仕打ちを受けるか分からないため、住民や避難民は一刻も早く彼らから離れたがっていた。 富樫はこの申し出を受諾したが、それは部下に死ぬことを要請していることに変わりなかった。実際、州境での撤退作業中に前線部隊には都市部での遅滞戦闘が命じられたが、機甲・騎兵・歩兵の戦力を擁する幕府陸軍に対し、各戦闘団は少なくない被害を出している。それでも富樫は部下をやすやすと見捨てるような指揮官ではなかった。師団砲兵を効果的に運用したり、州防衛隊を民間人の撤退作業に動員した。この時富樫に突き動かされた国防軍司令部は、南三勢まで後退していた三勢州政府に対して州防衛隊の出動を掛け合ったが、州政府は「人手不足」を理由に断ったため、見かねた嶋海州が出動を申し出た。実際、居住地から避難しなかった住民も多く、住民たちから構成される三勢州防衛隊は完全に定員を満たさず、指揮系統も不明瞭であったが、後の調査によると三勢州の他地域からの避難民の中には撤退作業の支援に必要な人数は揃っていたとされる。この代わりとして嶋海州防衛隊と自主的に組織された「南三勢市防衛隊」が民間人の撤退を支援し、大きな混乱なく全員が州境を越えられたが、この件は後々まで尾を引き、戦後、南三勢市は自主的に嶋海州に編入された(*7)。 また、富樫は上層部を強請って、海軍による対地砲撃支援の約束を取り付けた。この時、東海湾では北部の夜日市鎮守府から離脱し南下していた国防海軍の艦隊がいたが、命令を待たずして(*8)、嶋海州沖には2個駆逐隊が進出していた。富樫は彼らに攻撃命令を出せる指揮官の説得に成功したのである。 23日の昼間から、南三勢付近を射程範囲に収める距離に進出した第12駆逐隊・第17駆逐隊の駆逐艦による対地砲撃が開始された。これに気がついた第二歩兵師団砲兵部隊による応射も実施され、戦闘は次第に撃ち合いとなった。このとき、駆逐艦は弾着観測機を飛ばすことができないため、地上の第2師団が弾着観測を実施している。砲撃戦は休止を挟んで二日間にも及び、この砲撃戦の最中も歩兵第2師団は撤退を継続した。25日、両駆逐隊の全艦が砲弾を撃ち尽くしたところで撤退作業が完了した。 歩兵第2師団は少なくない損害を出したものの、どの部隊も全滅することなく撤退に成功した。一方、駆逐艦隊による砲撃を受けた第二歩兵師団ら幕府軍は、主要な攻撃の標的となった兵站部隊や砲兵部隊に被害が集中し、これ以上の前線の維持は難しいとして、第2師団の追撃は諦めざるを得なかった。この後、第2師団は嶋海州や海北駐屯地を拠点として戦闘を継続するが、体勢を立て直した幕府軍の進撃を止めることができず、10月から11月に掛けて紀山州南部まで後退した。 由螺-森山絶対防衛線 前線が突破されたことで一気に戦力を削がれた国防軍は、8月後半、紀山州の由螺市から近海州森山市を結ぶ由螺-森山絶対防衛線(Yura-Moriyama Definitely Defence Line)を構築し戦線の立て直しを図った。国政機関が密集しており、制圧が政治的にも大きな意味を持つ首都・瑞京府を死守するために、陣内は国防軍の全ての部隊にこの防衛線の堅持を命じた。 おおむね州境をなぞるこの防衛線は、いくつかの州境となる河川や山脈をなぞり、また遊撃部隊として戦線を補強し続けた騎兵第8師団(指揮官・郡山夏雄少将)の活躍もあり、幕府軍は紀山州由螺町から近海州森山市の間に引かれた防衛線の突破に数か月を費やした。その間、国防軍統合幕僚監部は瑞京の死守を最重要目標と設定、瑞京付近の部隊を一元的に指揮する「国防軍瑞京方面隊」を1947年10月に編成する一方で、陣内は瑞京府に緊急事態宣言を発令、一般市民の強制避難および一部政府機能の薩鹿州薩鹿川内への疎開を命じ、最悪の事態に備えた。 三洲・若山の戦い 1948年1月21日、幕府軍は紀山州若山市付近まで突出した国防軍の攻勢部隊を受け止めつつ、第五一戦車師団が岡豆州三洲市付近の防衛部隊の撃破に成功(三洲・若山の戦い)し、由螺-森山絶対防衛線が突破されるという事態が起こる。これにより国防軍は一気に瑞京まで攻め込まれる結果となった。 瑞京攻勢 由螺-森山絶対防衛線の突破を許した国防軍は、いよいよ首都瑞京府を死に物狂いで守らなければならない状況にまで追い込まれていた。対する幕府軍は、あと一歩のところで悲願である瑞京府を手中に収めることができると、兵站輸送網構築を軽視するような進撃速度で軍を進めた。 桜小路大佐の思惑 桜小路道徳は、古海幕府の重臣クラスの中でトップクラスの権勢を誇った五老家の内の一つ・桜小路氏を出自とする海軍大佐だった。旧軍時代、彼は航空機の先進性に着目し、「瑞州航空機研究会」を発足させ、集った同志と共に航空機運用の研究を日夜行っていた。このため、彼は陸軍と海軍がそれぞれ航空戦力を持っていること、即ち効果的な航空作戦の実施が難しいことに危機感を抱き、空軍の設立運動を瑞州航空機研究会のメンバーと繰り広げた。「桜小路派」と呼ばれた彼らは、しかし旧態依然とした参謀本部・軍令部の説得に失敗し、桜小路以下全員が左遷の憂き目に遭った。海軍軍令部付であった桜小路は海軍航空戦技教導隊隊長に就任したが、正面戦力に機体が引き抜かれており、この隊は実態として骨抜きの状態にあった。 鹿毛川幕府の成立時、彼は「将軍の武力を以って国を統べ、外患に対する備えとする」先軍政治を掲げた鹿毛川幕府の方針に共鳴し幕府軍に合流したが、内心では鹿毛川幕府の指導体制に不満を持っていた。五老家の出身故に、幕府の長たる大将軍には、正統性のある家系を出自とする人間が就くべきであり、決して退役陸軍元帥ごときに務まる職ではないと彼は考えていた。また鹿毛川幕府軍も旧軍の編成をほぼ引き継ぎ、陸軍と海軍がそれぞれ航空戦力を有することまで引き継いでいたため、彼の失望は頂点に達していた。しかし航空戦技教導隊隊長としてできることは少なく、内戦が勃発しても失意の日々を後方の基地で悶々と過ごす羽目に陥った。その最中、戦局の好転および戦域の拡大に伴い、彼は第六五海軍航空隊の空中指揮官として前線に配属され、時には自らも空戦に参加し、最終的に国防軍機を7機撃墜する戦果を挙げている。瑞京の戦いが始まる直前までに、彼は同海軍航空隊の司令官にまで出世していた。しかし、彼の心は晴れることはなかった。幾度となく自身は陸軍航空隊との協調に失敗しているのに、敵である国防軍は空軍を設立し、効果的な航空作戦を実施していた。さらに国防空軍を設立し初代航空幕僚長としてこれを指揮するのは、かつて瑞州航空機研究会の同志として肩を並べ、内戦前に国防軍に編入した宇佐美正隆上級空将だと聞き及ぶにあたり、彼の堪忍袋の緒はついに切れた。瑞京の戦いが始まる頃には、彼の精神状態は極度に悪化し、作戦会議や執務中に些細な部下の失態で怒鳴り散らすことが多くなったという。 それを見計らったのか、この頃から瑞州中央情報局が幕府軍内に送りこんだ工作員が桜小路への接触を開始した。この工作により、桜小路の敵意は国防軍や自身の部下にではなく、幕府上層部へと向けられた。瑞京の戦いにおいて、彼の部隊には近接航空支援任務が命じられていたが、彼の指揮は精彩を欠いており、結果として航空支援を得られない幕府軍は甚大な被害を被り、瑞京攻略に失敗した。この結果に幕府上層部は激怒し、桜小路の召喚および審問会の開催を決定。首都である鹿毛川市への出頭を命じたが、これが彼の、そして中央情報局の作戦であった。 鹿毛川事件 1948年9月2日、出頭を命じられた桜小路は、護衛編隊を伴いつつ自身も戦闘機で前線飛行場から飛び立った。操縦資格を持つ指揮官が移動の際に、少数の護衛機を伴う戦闘機を使うことは珍しくなかったが、しかし彼が引き連れた護衛編隊は通常(多くても4機)より3倍ほど多かった。この編隊は、途中で瑞州航空機研究会OBが司令を務める航空基地で補給を受けつつ、一路鹿毛川市へ向かった。 審問会の開始時刻になっても一向に現れない桜小路に対し、出席した幕府軍上層部がいら立ちを感じ始めていた頃、新垣と大屋、増地のトップ3名は「近衛師団の対空部隊が、友軍機から機銃掃射を受けた」という信じられない報告を伝令から受けた。幕閣閣議場の会議室の窓から、上層部の面々が市街地に目をやると、機影は認められなかったが、飛行機のエンジン駆動音や発砲音は確かに聞こえていた。それに気を取られ注意力が散漫となったのか、彼らは上空から響く、航空爆弾の投下音に気が付かなかった。戦闘機隊の一部から投下された爆弾は正確に幕閣閣議場の建物に着弾し、不発の数個を除く7個の爆弾が炸裂した。ダメージをもろに被った建物の柱は自重を支えきれなくなり、瞬く間に幕閣閣議場を崩壊させた。集まっていた幕府軍上層部は退避が遅れ、ほとんど全員が崩壊した建物の下敷きとなり死亡した。増地はすんでのところで瓦礫を回避し、幸運にも重傷で済んだものの寝たきりとなり、これ以降の政務の遂行は不可能となった。 幕府軍の戦略指揮機能を一挙粉砕した桜小路の部隊は、先んじて叩いておいたために近衛師団の対空部隊による反撃も受けることなく、故障不時着以外の損失をゼロのままに拠点へと帰投した。そしてこの数日後、彼や彼の部隊は国防軍に投降するも、ほとんど罪に問われることなく釈放され、今度は国防軍側として戦うこととなった。これも工作員による調略の成果だが、桜小路が調略に応じたのは、当時の瑞州中央情報局局長の説得が功を奏したともされる。この時の瑞州中央情報局局長は、桜小路家が主君として仰いできた古海幕府将軍家の出身である古海武尚が務めていた。主君からの説得となれば、桜小路も応じるしかなかった。 主導者を三人も失った幕府軍諸部隊は、「大老」職にあり、陸軍総裁を兼務していた鷲頭広隆(旧連邦軍では陸軍中将)を新たな大将軍として祭り上げた。しかし鷲頭には政治の才覚がまるでなく、支配地域の内政を担当していた増地子飼いの部下・神保憲二政事総裁らからの反感を買っていた。加えて、幕府軍内部での派閥抗争もあり、幕府軍の力は衰える一方であった(後述)。9月末には前線作戦指揮所での師団長レベルでの喧嘩があり、相手の態度に怒り狂った第五歩兵師団長の若佐幸祐陸軍少将が指揮下の部隊に撤収を命じている。 一方で弱体化した幕府軍を後目に、国防軍は戦力の回復に成功し、鹿毛川事件からしばらく経った後、本格的な反転攻勢が始まる。桜小路も国防軍としてこれに参加、戦後まで戦い抜き少将の階級で軍歴を終えた。戦後、彼は民間軍事会社「ショーグネイト」を設立し、払い下げられた軍用機を用い、主に空中戦仮想敵業務を請け負うようになったが、会社所有の航空機に「幕府空軍」と塗装するなど、叶わなかった夢を別の形で叶えた。 軍閥の形成と連邦の大反攻 鹿毛川事件による幕府上層部の壊滅の混乱は、瞬く間に幕府支配地域全土に波及した。鹿毛川幕府は先軍政治を掲げ、軍事指揮官たちに担当地域の行政権をも与えて統治に当たらせるという、封建制への回帰を段階的に実施していた。これは各地の地力を軍事に大幅に注ぎ、外患に備えるという意義があり、当初こそカリスマ性のある増地がトップの大将軍となることで外患にまとまって対処するという方針を達することができていた。しかし増地が鹿毛川事件で重傷を負い、これ以降の政務の続行が不可能となると、軍事指揮官たちの関心は如何に自分が力を蓄えて支配領域を広げるかという方向へシフトしていった。 増地の後任となる大将軍の選定は、当時北瑞州各地に派遣されていた軍事指揮官たちの合議によって行われたが、前線で国防軍と相対していた前線の指揮官たちはこの決定に参加することができず、このときの遺恨が後の大分裂の遠因となった。またこの合議においても、増地の下で大老職にあり、陸軍総裁を兼務していた鷲頭広隆が大将軍に選出されたことに不満を持った派閥もあり、次第に彼らは私兵化した幕府軍部隊同士での武力衝突に身を投じていくことになる。 ジャイアントキリング作戦 ジャイアントキリング作戦 Operation Giant Killing 年月日:1948年9月5日 結果:幕府軍第一、第二独立対空戦車中隊の壊滅。 交戦勢力 鹿毛川幕府軍・第一独立対空戦車中隊・第二独立対空戦車中隊 国防陸軍 ・特戦第18旅団 ・第3レンジャー大隊 指揮官 ・矢野嘉昭機甲少佐・大塚金太郎機甲少佐† 本馬毅一等陸佐 酒田健三郎二等陸佐 幕府軍は新兵器のI号重対空戦車を完成させ、瑞京攻勢のさなか、第一・第二の独立対空戦車中隊に配備していた。8.8cm高射砲を連装としたこの車両は対空・対地攻撃に猛威を振るい、国防陸軍や国防空軍の近接航空支援機を苦しめた。一方で、瑞州情報局(ZIA)はこの新兵器の存在を既に把握しており、対峙するであろう前線部隊への通達は行ってこそいたが、予想を上回る威力に前線は手も足も出ず困り果てていた。I号重対空戦車は機動力こそ壊滅的であるが、ベースになった試製XLVI号超重戦車譲りの堅牢な装甲に、8.8cm高射砲の凄まじい攻撃力はそれを補って余りあるものだった。瑞京への攻勢へを少しでも食い止めようとすれば、I号重対空戦車により未帰還車・未帰還機が多数出るという状況に、防衛司令部は悩ませられていた。 状況が変わったのは1948年9月2日、鹿毛川事件の直後である。内通者の指導者への直接的な奇襲という事態に際し、瑞京攻勢を担当していた幕府軍は浮足立った。ZIAはその隙を見逃さず、以前から計画していた、自組織と陸軍コマンド部隊の連携によるI号重対空戦車隊の無力化を目標とする計画を軍上層部に提出。調整の後、翌3日朝には計画の承認が降り、ジャイアントキリング作戦として関係諸部隊に通達された。実行部隊として、敵による被害が少なく、精鋭中の精鋭と判断された特戦第18旅団・第3レンジャー大隊が選択された。 3日夜には、瑞京府防衛のために各所に伏兵として配されていた第3大隊の隊員やZIAの局員たちが府中央部に集められ、疎開先の薩鹿川内市から急行してきたZIAの運用指揮官(蟹江相馬作戦本部次長)から作戦の説明を受けた。分散配置されていた第3大隊だったが、これは第1・第2・第4大隊とのローテーション配置であり、暇があれば敵部隊指揮所の隠密強襲・無力化の演習を行っており、蟹江が求める作戦の遂行にはうってつけの部隊であった。酒田健三郎二佐ら大隊本部との話し合いの結果、実行は5日夜と決定された。 幕府軍第一独立対空戦車中隊は岡豆州と京東区の境に、第二独立対空戦車中隊は東岡豆市南部に展開し、国防軍の瑞京守備隊を東西から圧迫していた。酒田は大隊指揮下の4個中隊を二手に分け、これらへの同時刻での攻撃を命じた。これは、片方だけ攻撃すれば通報され、もう片方が掩護に駆け付けるかもしれないという予測からの命令であり、各個撃破のリスクを取ってでも酒田は同時殲滅に拘った。一方でレンジャー中隊全滅の場合に備え、酒田は上官の本馬旅団長に対し、他レンジャー大隊の後備を要請している。 5日の21時00分、全中隊が配置についたとの報告を聞き、酒田と蟹江は作戦開始の命令を下した。両独立対空戦車中隊の野外司令部は突然の襲撃にパニックに陥り、混迷の中で大塚少佐(第二中隊長)が狙撃され戦死した。機甲部隊ではなくコマンド部隊の近接強襲に、I号重対空戦車隊はなす術もなかった。そもそも乗員が乗り込むところを狙い撃ちされたりなど、戦車を動かすこともままならず、それでもなんとか車両に乗り込んだ兵士による機銃掃射によってわずかに数名のレンジャー隊員を殺傷したのみであった。それでも白兵戦で幕府軍はよく耐えていたが、形成不利とみた矢野少佐(第一中隊長)と滝野少佐(第二中隊副長)は、それぞれ21時42分、22時01分までにI号重対空戦車の爆破および撤退を命令した。しかしながら、幕府軍の不十分な補給体制では、I号重対空戦車の自爆に対して十分な量の爆薬の確保にさえ失敗し、撤退に失敗した両中隊の大多数の隊員たちと共に捕らえられてしまった。 I号重対空戦車は、総生産輌・総配備数22輌のうち1輌がジャイアントキリング作戦に先立つ戦車戦の中で撃破、3輌が故障により前線放棄とされていたものの、作戦の結果として6輌が自爆の後に大破・走行不能、残りの12輌は国防軍に無傷のまま鹵獲された。鹵獲されたI号重対空戦車は試製48式対空戦車と改称され、その威力に注目していた陸軍は試験部隊で運用・整備方針を確立しつつ順次反抗作戦に投入、と予定した。しかし輸送中に終戦を迎え、48式が前線へ姿を現すことは遂になかった。 この作戦の成功は、苦しいところで耐え抜いていた国防軍守備部隊を奮い立たせ、後の反攻作戦に繋がっていった。 国防軍瑞京方面隊には、旧陸軍航空隊の首都防空軍団から改編された首都航空集団(国防空軍)、旧陸軍の近衛師団から改編された山岳第3師団、担当地域から撤退してきた歩兵第4師団などが隷下として含まれていた。瑞州全土から集まった部隊を統合し、物量に勝る幕府軍に対して、旧首都防空集団の独立飛行中隊には「首都防空」という至上命令のもと全国から集められた腕利きの飛行機乗りたちが揃っており、それをそのまま指揮下部隊として編入した首都航空集団は、数の差をひっくり返すような大きな戦力を有していた。それを裏付けるように、首都航空集団からは5機以上の撃墜で認められるエースパイロットが多数輩出された。 内戦時に5機以上を撃墜したエースパイロットは以下の通り。 + ... 氏名 陣営 所属 搭乗機 撃墜数 備考 雪野明信 国防軍 首都航空集団・第5飛行中隊 I-1 47機 内戦を通じてのトップエース。旧軍所属時には五式戦に搭乗していた時期もある。戦後国防海軍に転属、VF-61に所属した。通称は「シュネー(ドイツ語で雪の意)」。 赤羽俊典 国防軍 首都航空集団・第4飛行中隊 I-1 45機 旧軍所属時には六式戦に搭乗していた時期もある。ある戦闘で被弾し右翼端を喪失、バランスを崩しながらも1機を撃墜して帰還した。これ以降彼は自らの名前に因んで、自分の機体の左翼端を赤色に塗装した。通称は「アカバネ」「レッドウィング」。 服巻益男 国防軍 首都航空集団・第4飛行中隊 I-1 32機 大角知人 国防軍 首都航空集団・第3飛行中隊 I-2 28機 I-2でのトップエース。 陣野原正満 連邦軍 飛行第四師団・第十二戦闘戦隊 四式戦闘機 25機 連邦軍のトップエース。連邦軍の中でも突出して撃墜数が多く、彼を危険視したZIAの工作員により暗殺されかかる(未遂)。後に特殊作戦「ロビンフッド作戦」において、エースパイロットのみを集め彼を殺害することのみを目的とした特殊飛行隊によって撃墜され、戦死。通称は「焼野原」。 緋村広信 国防軍 首都航空集団・第3飛行中隊 I-2 21機 眞部清吾 国防軍 首都航空集団・第1飛行中隊 I-1 20機 漆山徹朗 国防軍 首都航空集団・第6夜戦飛行中隊 I-1 20機 夜戦に長けたパイロットで、装備レーダーと自身の目によって夜間の奇襲を行った。自身の機体を黒塗りにしていたことで知られる。通称は「漆塗りのテツ」「黒い死神」。 白浦博治 国防軍 首都航空集団・第101戦闘飛行隊 F-1 16機 ジェット機におけるトップエース。通称は「高速のエース」。 植岡和三 国防軍 首都航空集団・第102戦闘飛行隊 F-1 14機 F-1の初撃墜を記録。通称は「一番槍」。 川辺隼人 国防軍 首都航空集団・第3飛行中隊 I-2 12.5機 共同撃墜1。空戦がしたいがために上司に直談判して国防海軍航空隊から国防空軍へ転属した異色の経歴の持ち主。通称は「ルフトピラート」(Luftpirat、空賊)。 志々目隆典 国防軍 首都航空集団・第1飛行中隊 I-1 10機 第1飛行中隊長。指揮官機区別用の線を機体に描いた最初の人物で、後に敵機に取り囲まれて撃墜され戦死した。司令部は指揮官機区別線をやめさせるかどうかで悩んだが、結局他の指揮官も志々目に倣って線を描いた。通称は「二本線」。 倉脇武昭 国防軍 首都航空集団・第102戦闘飛行隊 F-1 10機 芦塚茂男 連邦軍 飛行第九師団・第十戦闘戦隊 六式戦闘機 9機 新貝信久 連邦軍 飛行第十一師団・第四十五戦闘戦隊 七式戦闘機 8.5機 第二飛行中隊長。戦隊・師団司令部の方針に逆らい部下ごと連邦軍に残留、連邦軍側の第四・第九師団に合流して戦闘に参加した。通称は「稲妻一条」。 春崎喜範 国防軍 第3空母航空群・VF-25 I-3 7機 国防海軍のトップエース。うち5機は旧軍の哨戒機。 津花文吉 国防軍 首都航空集団・第101戦闘飛行隊 F-1 7機 和佐田正高 国防軍 首都航空集団・第5飛行中隊 I-1 6機 森矢靖孝 国防軍 首都航空集団・第2飛行中隊 I-1 5機 第2中隊は地上攻撃に従事していたが、自身も空戦で5機を撃墜している。うち3機は空対地ロケットでの撃墜であるから、ロケットアローという通称が付いた。 神之田寿明 国防軍 首都航空集団・第5飛行中隊 I-1 5機 坂江桂 連邦軍 飛行第九師団・第十戦闘戦隊 六式戦闘機 5機 国防省包囲戦 迫る幕府軍を前に、避難する市民や政府の護衛は南州地方などの後方部隊が担当し、国防軍瑞京部隊は彼らの撤退が完了するまで時間稼ぎを行うことを余儀なくされた。3月から5月まで瑞京府内では激しい市街戦が展開され、内戦直前に急造された愛宕・高瀬の両駐屯地は5月中旬までに幕府陸軍に制圧されてしまった。この時点で瑞京部隊の指揮決定上層部は薩鹿川内に脱出しており、愛宕・高瀬が陥落した時点で「瑞京部隊」として動くことは永久に不可能となった。 この時点で瑞京府内に残る国防軍の施設は国防省八幡地区だけであったが、地下に張り巡らされたトンネルや地下指揮所の頑丈な構造もあり、攻め込んできた幕府軍を度々撃退している。一方で地下トンネルの一部が連邦軍の火炎放射器によって焼き払われ、降伏を宣言していた国防軍の一部部隊が虐殺されるという悲劇も起こった( 第四五トンネル事件 )。 国防省八幡地区の難攻不落さに手を焼いた幕府軍は、正面切っての攻勢を掛けるのではなく、同地区を包囲し、時間を掛けてこの地に立てこもる国防軍の一掃を図った。八幡地区やその付近には騎兵第8師団や山岳第3師団の戦闘部隊が居残ったままであり、彼らは降伏する気は一切なかった。この時、駐屯地防衛のための指揮系統がバラバラだと防衛に不備が出かねないという懸念から、防備統合司令部が残存部隊で結成され、地区内の全部隊がこの司令部の決定に従うものとした。6月13日、防備統合司令官に就任した諸隈伸弘陸少将(駐屯地内で最先任)は、全部隊に向けて演説を行った。 ──平和を守るという使命を忘れ、単なる戦争屋と成り下がった奴らは、もはや軍人、同国民ですらない。躊躇することはない。 その言葉に裏打ちされたように、八幡地区の防衛部隊は躊躇することなく攻め手の幕府軍を猛撃し、多大な損害を与え続けていた。薩鹿川内に後退した国防軍総司令部にも同地区の現状が伝えられるやいなや、ただちに救援部隊が送り込まれたが、それは幕府軍の包囲陣に阻まれていた。しかしながら制空権は国防軍が維持しており、付近の飛行場から発進した戦闘機や攻撃機によっても幕府軍の被害は拡大していた。背後に山を戴いた同地区は、守るに易く攻めるに難い土地であり、軍内の厭戦気分もあって、一か月を包囲に費やすも、連邦軍はついに攻め落とすことができなかった。 6月21日、防備統合司令部は幕府軍が攻勢に出ないと見るや、攻撃計画を策定し、比較的包囲の手薄な山を夜陰に乗じて通り、包囲陣を背後から急襲することで包囲を破ることを目指した。厭戦気分が広がっている幕府軍将兵に精神的なダメージを与えることも目的であった。この作戦は月の出ない日に行うことが決定され、実行部隊には山岳戦に特化した山岳第3師団の部隊が選ばれた。 23日の深夜に作戦は決行され、実行部隊は包囲軍に気付かれることなく山を通過、翌24日の午前1時に包囲側の部隊を急襲した。突然の襲撃に慌てふためいた幕府軍はまともな迎撃さえできず、大損害を被った。これに呼応して防備統合部隊の全部隊が出撃し、包囲を突破、大混乱に陥る幕府軍に第二撃を与えた後、悠々と包囲を突破し国防軍の勢力範囲内まで後退した。連邦軍の面目は丸つぶれとなり、この包囲戦を指揮していた池羽公一郎中将以下4名は利敵行為を行ったとして、十分な裁判もないままに銃殺刑に処されている。 幕府軍に手痛い損害を与え、大多数の戦力が包囲を突破することに成功したことは、結果として瑞州合衆国連邦に大きなアドバンテージを与えたが、一方で瑞京を失陥したことに変わりなく、戦線は依然として幕府優位の状況にあった。 エンド・オブ・ドリーム作戦 カラフトマス作戦成功後、主導者を失った幕府は一気に勢力が減退し戦線を押し戻された。幕府軍も戦略的な機動を封じられ、各駐屯地から国防軍を各々で迎撃しに行くことで精一杯であった。これを好機と見た合衆国連邦は、国防軍の大規模反攻作戦「 エンド・オブ・ドリーム作戦 」を10月に発令した。 ミルキーウェイ作戦 ミルキーウェイ作戦 Operation Milkyway 年月日 :1948年11月30日-1949年1月4日 場所 : 瑞州合衆国連邦大西洋 結果 :瑞州国防軍の上陸成功。北海半島への橋頭保構築。 交戦勢力 鹿毛川幕府軍・第五歩兵師団・第一地域旅団・第二地域旅団・第三地域旅団・第四地域旅団・第五地域旅団 国防陸軍・歩兵第4師団 ・第41歩兵連隊 ・第43歩兵連隊 ・第4砲兵連隊 ・その他師団支援部隊・第15独立機甲連隊・特戦第18旅団・空挺第10師団 国防海軍・第1艦隊 ・第1空母戦闘群 ・第3空母戦闘群 ・第4空母戦闘群 指揮官 ・若佐幸祐陸軍少将・中村康敏歩兵大佐・谷山一正歩兵大佐・竹尾直紀歩兵大佐・森田雅歩兵大佐 吉野誠司陸少将 遠藤宏紀一等陸佐 笠原信一一等陸佐 前田健雄陸少将 ミルキーウェイ作戦 とは、国防軍の大規模反抗作戦「エンド・オブ・ドリーム作戦」中の作戦である。北海半島の上陸、敵防衛部隊の撃滅を主目標としており、1948年末にはほとんど達成した。 ミルキーウェイ作戦は、主作戦である ミルキーウェイ (作戦行動中はM作戦と呼称)、副作戦である 大マゼラン (同、D作戦)と 小マゼラン (同、S作戦)によって構成される。M作戦に先立って行われたS作戦では、北海半島南部(岩陸州上空)の制空権を奪取・鹿毛川幕府軍の哨戒機・戦闘機部隊を破壊し空からの目を奪うことを目標とした。D作戦では沿岸の灯台や哨戒所・要塞・砲台を破壊し、地上からの目を奪うことを目標としていたが、これをM作戦に先立って行うと、国防軍の上陸計画が露呈するため、D作戦はM作戦と同時に行われた。またこの作戦全体を指揮した松村義人陸中将は念には念を入れて、敢えて上陸まで最短距離の航路である北海湾を通らず、北海半島の太平洋側まで回り込んでからの上陸を決断した。揚陸艦や輸送船団は鈍足であるため、本来これは敵艦や哨戒機等に捕捉され撃退される自殺行為である。しかし既に旧海軍の艦艇は全艦が国防軍についており、また小マゼラン作戦の成功もあって、制空権・制海権を完全に自分のものとしていたからこそ、松村はこの決断を下した。また、今までは中央地方の前線に戦力を貼り付けざるを得なかったのが、9月に幕府陸軍第五歩兵師団が喧嘩騒ぎで前線から離脱していたこともあり、多少余裕があったからこその決断とも言える。第五歩兵師団は国防軍が今から攻める北海半島を管轄地域としており、本隊から離れたところを一気に叩く狙いもあった。 1948年12月11日がM・D両作戦の出立日となった。早朝5時に新徳海軍基地やその他多くの港湾から出撃した、揚陸部隊を内包する第1艦隊の規模は、異常なほど大きく膨れ上がっていた。彼らは沖合で合流し、一路太平洋を目指した。翌12日、北海半島の太平洋側の沖合に到達した艦隊は、D作戦を行う第3空母戦闘群(旗艦:CV-06 やくも)と第4空母戦闘群(旗艦:CV-04 おわり)を離脱させた。彼らはその艦載航空機部隊と隷下の巡洋艦・駆逐艦隊を以て敵の地上の目を奪うことを企図していた。第1空母戦闘群(旗艦:CV-02 つくし)は第1艦隊本隊の露払いの任に就いた。第1艦隊は岩陸州氷山市に向かって突き進んでいった。 12日の午前8時からM・D両作戦が発動、攻撃と揚陸が開始された。海岸沿いに配置されていた灯台などの監視網は、空母から発進した戦闘機や攻撃機、巡洋艦・駆逐艦隊の対地攻撃により無力化された。いくつかの哨戒所や砲台からは敵艦隊現ると第五歩兵師団司令部などに通報していたが、艦隊陣形の中央にいた揚陸部隊を見る前に、その全てが沈黙した。そのため第五師団は敵艦隊が水上打撃部隊のみであると誤解し、沿岸砲兵部隊の掩護のために第二四歩兵連隊(仙代)が急行したものの、師団全体が上陸阻止に動くのは大きく遅れた(*9)。 正午から上陸は開始され、歩兵第4師団や第15独立機甲連隊などで構成された上陸部隊と、阻止に動いた第二四歩兵連隊と第一地域旅団(仙代、輜重兵で構成されるが最低限の戦力を急派した)、駆け付けた第二地域旅団(秋羽州鶴丘)との間で戦闘となった。戦闘は機甲戦力を擁する国防軍側に優位に進み、夜間までには全部隊の上陸が終了していた。翌日までに第二四歩兵連隊や第一・第二地域旅団は不利を悟って後退、第五師団本隊が追い付いてくることや氷山以南に配置されていた部隊が上陸部隊の裏から奇襲することを祈った。しかしその目論見は、上陸戦開始数時間後に最南端の町・若松市に空挺降下した特戦第18旅団や空挺第10師団によって粉砕されていた。結局12日・13日の二日間で、第五師団などの鹿毛川幕府軍各部隊は、岩陸州第2の都市・氷山市をはじめとした9市を立て続けに失ったのである。 岩陸州にはまだ服島市や仙代市といった要地があったものの、これらに近い航空部隊基地である大埼飛行場は既に沈黙し、第五歩兵師団ら幕府陸軍は航空掩護の少ないままの防衛線を行わざるを得なかった。怒涛の勢いで進撃する国防軍を前に、服島市は12月19日に陥落。勢いに乗った国防軍は23日には大埼飛行場を陸上制圧し、恒久的な航空拠点を獲得。沖合に展開する空母の艦載部隊が大埼からも出撃できるようになったという状況は、国防軍にとって大きなアドバンテージであった。仙代市に残る第五歩兵師団など幕府陸軍への攻撃準備は着々と進められていった。 年の瀬も迫る30日、年末年始も返上で国防軍による仙代攻略が開始。市街戦となって仙代市の各所でがれきが積みあがっていく中、第五歩兵師団などはよく持ち堪えたものの、結局1月3日までに越野州まで撤退。州政府官庁街を掌握した国防軍は、翌日に岩陸州の解放を宣言した。 三郷の戦い 三郷の戦い Battle of Misato 年月日 :1949年1月14日-20日 結果 :瑞州国防海軍の拠点確保。 交戦勢力 鹿毛川幕府軍・第五歩兵師団・第一地域旅団・第二地域旅団・第三地域旅団・第四地域旅団・第五地域旅団 国防陸軍・歩兵第4師団 ・第41歩兵連隊 ・第43歩兵連隊 ・第4砲兵連隊 ・その他師団支援部隊・第15独立機甲連隊・特戦第18旅団・空挺第10師団 国防海軍・第1艦隊 ・第1空母戦闘群 ・第3空母戦闘群 ・第4空母戦闘群 指揮官 ・若佐幸祐陸軍少将†・中村康敏歩兵大佐・谷山一正歩兵大佐†・竹尾直紀歩兵大佐・森田雅歩兵大佐 吉野誠司陸少将 遠藤宏紀一等陸佐 笠原信一一等陸佐 前田健雄陸少将 岩陸州を失陥した第五歩兵師団ら幕府陸軍は、当初越野州の絶対的防衛を主眼に部隊を再配置していたが、越野州北部の三郷鎮守府を奪取されると戦況が一気に国防軍有利へと傾くため、越野州北部を集中的に守る態勢を取った。そのため越野州南部に展開していた第五歩兵師団や第一・第二地域旅団は北上、第三・第四・第五地域旅団と合流し、国防軍は抵抗のないまま越野州を北上していった。 1949年1月10日、ミルキーウェイ作戦に参加後、越野州を北上していた各部隊に「三郷鎮守府の制圧」という任務が通達された。由李湾に作られたこの鎮守府を奪取すれば、海軍艦艇の恒久的な基地を獲得できるため、この先も国防海軍による支援を必要としていた国防陸軍にとっては、ぜひとも奪い取っておきたい基地であった。司令部では、その日のうちに攻撃計画が策定された。 13日、州高速道路などをフルに活用して展開を終えた国防軍は、翌日から攻撃を開始した。戦闘は主に三郷市を擁する由李県で行われ、待ち構えていた幕府陸軍と交戦した。第4師団は三郷市の南の横出市から、第15連隊は東の本荘市から突入、第18旅団や第10師団は守りが手薄な由李湾北部に侵入し、湾を取り囲んだり侵入を許さないように配置されていた砲兵陣地・哨戒所を19日までに全て制圧した。本荘市では15日の戦車戦に打ち勝った第15連隊が防衛線を突破、三郷鎮守府へ目と鼻の先まで迫った。また、第一艦隊ではミルキーウェイ作戦で主砲弾を撃ち尽くし帰投した艦や、帰投する揚陸部隊の護衛についた艦もあって、戦力は以前より減っていた。それでも第一艦隊は残った艦で地上部隊の支援を続けた。 一方、敵の主力を相手取った第4師団は苦戦していた。鎮守府の制圧・占領には歩兵部隊が必要不可欠であるが、そうはさせないと、幕府陸軍は徹底的な防御戦闘を行ったのである。前線視察中の若佐幸祐陸軍少将(第五歩兵師団長)や前線指揮を執っていた谷山一正歩兵大佐(第三地域旅団長)が狙撃によって戦死するなどの激戦となった。しかし、18日には消耗した幕府陸軍を第4師団が突破。指揮官を失っていた第五歩兵師団や第三地域旅団は指揮系統が崩壊し、各隷下部隊長の権限で降伏する部隊も続出した。第四・第五地域旅団は国防軍に囲まれる前に戦場を離脱できたが、取り囲まれてしまった第二地域旅団は旅団全てを挙げて降伏せざるを得なかった。 鎮守府の守備兵力には、艦隊とは異なって旧軍残留を選んだ三郷鎮守府海兵団や陸戦隊(防備隊)がいた。彼らは湾や鎮守府を背後に、三郷市内に進撃してきた国防軍と向かい合ったものの、湾内に突入してきた第一艦隊から砲撃を受け、部隊や鎮守府施設に甚大な被害が及んだ。彼らは必死に抵抗したものの、新兵教育・隊員補充・拠点警備を元来の任務とする海兵団では国防軍の前線部隊との力量の差も激しく、20日夜までには全部隊が降伏した。 半壊した鎮守府を制圧した歩兵第4師団等の工兵部隊は、すぐさま鎮守府の港湾設備の復旧に当たった。 3月までに幕府全部隊が国防軍に鎮圧され、鹿毛川幕府は完全に瓦解した。3月10日、古屋は完全な戦闘の終息宣言を発し、ここに瑞州内戦は終わりを告げた。 戦後 1949年末までに、国防軍を支持しなかったり、鹿毛川幕府に参加した陸軍省・海軍省の役人や軍人は全員が内乱罪などで逮捕・起訴され、両省は解体された。彼らは釈放後も公職に就くことは制限され、この公職追放が撤廃されるのは1960年初頭まで待つことになる。 国防軍では旧軍の暴走の反省から、陸軍省や海軍省などの軍種ごとに軍政を司る役所は消滅し、陸軍大臣や海軍大臣のポストも廃止され、国防大臣には現役の武官ではなく、文民が配されることとなった(文民統制)。一方で、叛乱軍の掃討に一役買った国防軍は政治的影響力を獲得しており、完全なる文民統制が機能するのは、1954年の第二次古屋内閣による改正国防軍法の成立以降である。同法で現役武官の政治的行為はほとんど制限された。 海兵隊については、軍政面から見ると海軍省下の部局に過ぎず、政治的影響力もないに等しかったため、そのまま国防省下の部局となった。軍令面では国防軍法によって単独の軍としての独立性が保障されていることから、指揮系統において国防省内では海軍と並列になっている。こうして陸軍・海軍・空軍・海兵隊の並立の関係性が生まれた。 国防軍が勝利をおさめた一方で、国防軍は緒戦で敗北が続き、いくつかの地域を失陥するという失態を演じていた。そのために国防軍は、戦後しばらくの間、国民には歓迎されないという事態も起きている。 年表 1945年 7月 5日:横山良一大統領が辞任を表明。 22日:大統領選挙で古屋祥平が当選。 8月 12日:八・一二事件。陸軍大臣・中谷孝明(陸軍大将)、海軍大臣・竹内隆文が殺害される。責任を取らされて新垣道雄陸軍参謀総長、大屋太一郎海軍軍令部長が罷免、公職追放。 9月:軍部大臣現役武官制廃止。 1946年 1月:国防軍法、国家安全保障法が臨時議会で制定。 3月:陸軍省、海軍省が廃止。 4月:臨時に国防軍が編成。旧軍からの移管・編入作業を行う。 1947年 4月:国防軍法、国家安全保障法が施行。大統領府国防部から国防省に昇格。正式に国防軍が編成される。 6月 17日:増地保幸を最高指導者とする鹿毛川幕府が瑞州北部に成立。瑞州内戦が開始。国防軍がサンダースクリーム作戦を発動。 8月 23日:南三勢砲戦。撤退する国防陸軍歩兵第2師団・現地住民を、国防海軍第12駆逐隊・第17駆逐隊が掩護。 25日:南三勢砲戦が終了し、歩兵第2師団が撤退に成功。 10月 1日:瑞京府の絶対死守を任務とする国防軍瑞京方面隊が編成される。 1948年 1月 21日:三洲・若山の戦いで由螺-森山絶対防衛線が鹿毛川幕府軍に突破される。 3月 18日:国防省包囲戦(八幡の戦い)が開始。 31日:瑞京府内の愛宕駐屯地が陥落。 5月 10日:瑞京府内の高瀬駐屯地が陥落。 23日:第四五トンネル事件。 6月 13日:防備統合司令部が結成、瑞京府内に包囲された国防軍全部隊を指揮下におく。 23日:防備統合司令部による包囲脱出作戦が決行。鹿毛川幕府軍に損害を与えつつ、全部隊が合衆国連邦勢力範囲まで後退。 7月 1日:防備統合司令部が正式に解散。 9月 2日:瑞州中央情報局(ZIA)によるカラフトマス作戦が決行。新垣道雄、増地保幸が殺害され、大屋太一郎が逮捕される。 10月 3日:国防軍によるリメンバー作戦が決行。 1949年 3月 10日:完全な戦闘の終息宣言が古屋大統領により発される。
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中国共産党「日本解放第二期工作要領」全文 スパイウェア中国製日本語入力ソフト
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1928年12月18日に勃発したソフィア王国の大規模な内戦。 クロヴィスの乱後、ソフィア王国国王に即位したクロヴィスは議会制民主主義を導入した。しかし議会は影響力の強いクロヴィスを疎んじこれを廃位。クロヴィスは復権を賭けてクーデターを起すが失敗。大規模な内戦へと発展する。
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他のファンタジーで言うところの、 白魔法や黒魔法等の分類はあまり存在しない。 J801では、魔法は魔法理論の種類によって分類されることが一般的である。 C共和国共通魔法理論は、J801ではもっともメジャーな魔法理論体系である。 魔法の法則だけでなく、行使できる魔法の種類まで事細かに決められている。 C共和国共通魔法理論には幾つかのレベルが存在し、 レベルの高い魔法は簡単に手に入れることはできない。 使える人 C共和国出身の人間であれば約99%の者が同魔法理論を利用する事ができる。 (学校で教わるそうな…) 特徴 C共和国の出身であれば習得が比較的簡単。 四大の属性をカバーする。 レベルが上がるにしたがって、強力な魔法を使えるようになる。 欠点としては、闇魔法や光魔法が利用できないこととイマイチ破壊力に欠けるところか…
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第1話 200X年1月14日 その年、北海道は久方ぶりに例年に無いほどの大雪が全土に降っていた。 そして、この日も朝から雪が轟々と風とともに舞い降りていた。 そんな吹雪の中、かつて旧ソ連太平洋艦隊が駐留していた最大の軍港であり、現在は日本人民海軍苫小牧地方隊の基地がある、ここ苫小牧軍港から艦隊が出航のサイレンをバックミュージックに、次々と港を離れていった。 今、この国は政治の季節を迎えていた。 日本民主主義人民共和国共産党最高幹部会議長であり現首相の危篤、このことが今、世界の目を日本へと向けさせていた。 現首相の健康悪化は数年前からささやかれていたが、一週間前の党大会の演説中に倒れ、危篤状態に陥っていた。 三代目首相である彼が死ぬことは、現在の“赤い日本”トロイカ体制(党政治局による共産党書記長、首相を選出する集団指導体制) の崩壊の危険があると、アメリカは考えているようだ。 士官食堂では、つけられたままのテレビの中で、レポーターが視聴者に向かい喋っていた。 『我が国を恫喝せんとする米帝は、輝かしき人民軍の手によって粉砕されることでしょう!』 大湊から出航した赤衛海軍第三艦隊は、現在太平洋に展開しているアメリカ海軍の監視のために出航していた。 各艦の鐘楼に掲げられた海軍旗が、緩やかな潮風に翻っている。 「機関は順調かね?」 「は、艦長!出力、現在二十万馬力。速力三十ノット。極めて好調です」 エンジンの調子を尋ね、何の問題もないことを知った艦隊司令官は軽く頷いた。 この艦は艦齢五十年近い老齢艦だが、艦の心臓たるスイスBBC社に発注された二十万馬力のタービンは、いまだに力強く動いていた。 彼が乗っている艦は、西側自慢のハイテクの塊であるイージス艦を模倣したような形の22350型フリゲートでなければ、航空機を多数船内に抱える航空母艦でもない。 彼が乗っている船、それは戦艦である。 「さすがは戦艦、といったところかな?」 「まったくです」 と、答えたのはこの艦の艦長。 司令官とは赤衛海軍幹部候補生学校で先輩後輩の間柄であった。 彼らはCICを離れ、艦橋へと歩いていく。 「そういえば、この“解放”の退役がもうしばらく伸びるそうだ。もちろん、呉の“大和”もな」 「このソヴィエツカヤ・ウクライナも、中々に数奇な運命をたどっていますね。設計者も極東の同盟国の元で使われるなんて思いもしなかったでしょうね」 「まったくだ。船は仕えられる主を選べないからな」 ソヴィエツカヤ・ウクライナ。 かつての共産主義国家の盟主ソヴィエト連邦が作り出した超ド級戦艦の二番艦。 1936年に海軍拡張計画が策定され、この中で“プロジェクト23”と名付けられた戦艦建造計画が発動。 第三次五カ年計画のもと四隻の戦艦建造が1938年1月21日に正式決定した。 そして、この戦艦のネームシップ“ソヴィエツキー・ソユーズ”は、独ソ戦終戦後の1948年に完成された。 だが、スターリンの関心はすでにこの戦艦にはなく、米国が中国で使用した原爆という新兵器に向いていた。 スターリンはアメリカに負けじと原爆開発に必死になり、物資・人材ともに全てをそちらに注ぎ込んだのだ。 この結果、ソ連初の超ド級戦艦となったソヴィエツキー・ソユーズ級は捨て置かれる羽目になった。 そしてそれから数年後、モスクワの国防省のある役人が、この船を最高の状態に保っておけばいつか役立つ日が来るかもしれないと進言し、これが受け入れられ、ソヴィエツキー・ソユーズ級は命を救われたのだ。 しかし、建造途中だった二番艦“ソヴィエツカヤ・ウクライナ”とそれ以降の計画艦は運がよくなかった。 ニコライエフのマルティ南工廠にて起工したこの戦艦は、独ソ戦時にドイツ軍に鹵獲され、44年の撤退時に船台を爆破し建造中止とせざる終えなくなった。 結果、二番艦以降の計画は全て中止となり、工事進歩率75%という状態で、ソヴィエツカヤ・ウクライナはスクラップとして廃棄されるはずだった。 だがこの船に救いの手が差し伸べられた。 それは他ならぬスターリン自身だった。 彼はようやく手に入れた極東の防壁たる日本を失いたくは無かった。 そのため、彼は再建中だった日本人民軍のために様々な援助を行った。 この建造途中だったソヴィエツカヤ・ウクライナを日本へ譲渡もその一貫であった。 結果、紆余曲折を経てスターリンの死んだ53年、ソヴィエツカヤ・ウクライナは九州の大神に作られた旧帝国海軍最大の造船工廠に運ばれ、そこで第二の人生を歩むことになった。 譲渡されたソヴィエツカヤ・ウクライナは日本の手により建造が再開され、1960年4月1日に竣工した。 このとき、日本は新たな名前をこの艦にあたえた。 『解放』 この戦艦が、いつの日にか行われる南の解放という聖戦のときに、シンボルとなるように。 という意味を含め、時の日本軍首脳部はこの艦にこの名を与えたのだ。 「しかし、本当に戦争になるのでしょうか?」 艦橋に向かうエレベーターの中で、艦長が言った。 それは若干の不安を孕んだ声であった。 「……東京のごたごたが落ち着けば、この馬鹿騒ぎは止まるだろう」 実際、司令官も艦長もアメリカ海軍に勝てるなどとは思ってもいない。 アメリカ海軍は少なくとも空母三隻(ニミッツ、アイゼンハワー、エンタープライズ)、戦艦二隻(アイオワ、ニュージャージー)、その他二十数隻という大艦隊だ。 対するこちらは戦艦一隻、航空巡洋艦二隻、原子力偵察艦一隻、巡洋艦五隻、駆逐艦九隻程度だ。 「だが、この作戦は訓練にはもってこいだ。相手は世界最強のアメリカ海軍だ。将兵にもいい刺激になるだろう」 「えぇ、特に“祥鳳”の神崎中佐は気合十分なようです」 「彼女か。まぁ、何事も無ければいいがな」 彼らはそういうと、『解放』の艦橋からすぐ右横にいる『祥鳳』を見た。 同時刻、航空重巡洋艦『祥鳳』 赤衛海軍第三艦隊所属の航空巡洋艦『祥鳳』。 元は旧ソ連海軍太平洋艦隊所属だったキエフ級航空重巡洋艦“ノヴォロシースク”である。 外の飛行甲板では、対艦ミサイルを装備した国産VTOL戦闘機F-1(西側名称:ハリアースキー)が飛び立とうとしている。 その『祥鳳』のCIC(戦闘情報中央指揮所)は、薄暗い部屋に何十台と設置されたディスプレイが埋め込まれ、そこから発する光が、操作員の顔を染めていた。 そして、その様子を眺めていた女性士官がいた。 整った顔立ちにきめ細かい白い肌、茶色の艶やかなロングヘアー、海軍の白い制服に包まれたグラマラスな体つき。 百人中百人の男性が、彼女を見れば“美人”というであろう。 「神崎副長」 彼女を呼ぶ声が聞こえる。 彼女は声が聞こえた方を見ると、そこには制帽をかぶった上官、『祥鳳』艦長の竹内孝義大佐がいた。 「どうかしましたか、艦長?」 「少し肩に力が入りすぎてるぞ。楽にしていなさい。アメリカは先に喧嘩を吹っかけるような無茶はしない」 彼はそう言って白い歯をむき出して笑った。 第二次フォークランド紛争と、イラン・イラク戦争に義勇軍として参加した実戦経験を持つ彼は、その反政治的言動が無ければ、とっくに将官に昇進していてもおかしくはない人間だった。 「ですが、万が一ということもあります。艦長」 「そのために呉の第一艦隊も合流するんだろう? 心配ないさ」 綾香はそう単純には考えられなかったが、あえて発言はしなかった。 だが、彼女の胸の中にはなにかもやもやしたものが渦巻いていた。 それがなんなのかはわからない。 だが、彼女はその不快感が気になって仕方が無かった。 竹内艦長はそんな彼女の横顔を見て、内心ため息をついた。 (やれやれ、人民軍参謀総長どのの御息女は、今の回答にも不安ありか。これが初めての初陣になるのかもしれないのだから、無理も無いか) 「味方航空部隊、上空を通過します」 CICのディスプレイに友軍機を示す青い五つのブリップが表示された。 「識別でました。空母“信濃”航空隊です」 「ほぉ、となると“白き猟犬”か。こいつは心強い」 「白き猟犬? まさか第二次黄海海戦の英雄?」 白き猟犬。 ホーリー・ハウンド小隊と呼ばれる、海軍航空隊の最新鋭機Su-37jk(米軍名:ジーク)で構成された、海軍第二艦隊空母信濃航空隊所属のパイロットの異名である。 ソ連崩壊から今日まで、ユーラシア大陸では旧ソ連を中心に、たがが外れたように紛争が日常茶飯事に起こっていた。 特に、分断国家となっていた中国では南北国境でいさかいが絶えず、その中でも南中国(中華民国)の飛び地となっている山東半島では、一触即発の危機が頻繁に起こっていた。 50年代に起こった国共内戦と70年代の渤海事件、この二回の国境紛争は、どちらか一方が国連の仲介により停戦すると、再び元のにらみ合いに戻るということを繰り返していた。 しかし、ソ連崩壊後におこった三回目は違った。 赤い日本(日本民主主義人民共和国)、朝鮮民主主義人民共和国、日本(日本共和国)、アメリカ合衆国を巻き込んだそれは、大規模な紛争に発展。 赤い日本は即座に義勇軍を派遣を決定した。 そんな派遣軍の中で、ホーリー・ハウンド小隊は、日本人民空軍が世界に誇る最強のエース部隊“第156戦術戦闘航空団アクィラ”(通称 黄色中隊)や“第009戦術飛行隊シュトリゴン”と同等の戦果をあげ、日本海軍航空部隊の技量を世界に知らしめた。 その第三次中華動乱(米軍呼称:第三次山東紛争)の最中に黄海でおこった日本義勇軍と中華民国空軍の空戦で、同小隊長“秋元 健太”中尉は単独で中華民国空軍機十機を撃墜し、部隊全体で五十機以上の戦果をあげたという。 「彼らが空にいるのなら、安心できるな」 「そうですね」 そのときさらにブリップが追加された。 今度は緑のマーク、友軍機ではあるが空軍機だ。 「空軍のフランカーもきたようだな」 正確には、そのとき上空に飛来したのはSu-27ではなく、それをベースに複座・マルチロールファイター化したSu-27シリーズの最新作たるSu-30MKJだった。 ソ連崩壊後、赤い日本はソ連の技術者たちを自国へと招聘し、内乱の泥沼につかろうとしていた赤い大国から有能な技術者たちを引き抜いていた。 そしてその結果、わが国は世界でも有数の技術力を誇る国家となっていったのだ。 次々と現れる友軍のブリップ。 太平洋は双方の航空機で溢れんばかりであった。 一方。 日本民主主義人民共和国首都東京。 かつて帝都と呼ばれた、徳川の時代から続くこの大都市の郊外に、ひっそりとたたずむ洋館があった。 華族と呼ばれた、形を変えた特権階級が存在していた50年以上前に、その中の一人が建設したものだ。 だが、時代と支配者が変わり、日本が(建前上)労働者の天国たるべき共産主義国家となると、華族制度は廃止されその財産は政府に没収された。 この洋館もその一つである。 そして、ここは今物々しい空気に包まれていた。 周りを囲む森林には獰猛で訓練されたドーベルマンを連れたロシア系の元スペツナズ隊員と、国家保安軍特殊部隊の将兵たちが警戒しており、さらに洋館に向かうまでには四つ以上の検問が作られていた。 そして、白亜の洋館の前には、おびただしい数の高級車がそろっている。 いずれも防弾使用の国産車で、党幹部専用のものばかりである。 持ち主たちはみな、この館の一階に設けられた豪勢な会議室にいた。 その会議室にいるのは、いずれも党政治局の高官たちであった。 出席者は党中央委員会の議席を持つ三十五人の人間たちであるが、その中の最高決定権を持つものはわずかに十人で、諸外国からは“十人委員会”と呼ばれていた。 大半は背広姿の政治家だが、軍服姿の人間も見受けられた。 「アメリカ軍は今週中にも、さらに増援を追加するでしょう。同時に、沖縄の傀儡政権からも艦艇の出動を確認しました」 日本の秘密警察兼諜報機関である国家保安省を牛耳る男、寺津勝成がまず口を開いた。 彼は日本民主主義人民共和国最初の首相となった、寺津賢次郎の息子である。 国家保安軍元帥の制服を着こなした彼は、恐らくこの部屋の中で最も恐れられている人間だろう。 「宗像上級大将、あなたはどう思われますか?」 「当たり前の話ですが、我が軍はアメリカ軍にかないません。この場にいる皆様にあえて言う必要はありませんが、核攻撃を前提とした先制攻撃を行えれば、展開しているアメリカ軍を壊滅させることは十分可能です」 寺津の問いに丁寧な口調で答えたのは、腕に空軍の紋章がついたワッペンが縫いこまれている紺色の軍服を着ている、まだ五十代前半の若き将官、宗像孝治空軍上級大将である。 数年前に病死した藤堂守人民空軍元帥の副官であり腹心であった人物だ。 西側で“イエロー・ゲーリング”と呼ばれていた故藤堂守元帥は、日本人民空軍を共産圏最強の技能を有する集団にまで育て上げた、ジェット戦闘機黎明期のエースパイロットである。 そして、その腹心である宗像も(この部屋の中では)若いが、優秀な熟練パイロットであり、特殊部隊員でもあった。 「……海軍としてはどうなのかね?」 神経質なのか、ハンカチで厚手のめがねレンズを先ほどから拭いている国家産業会委員長が、日本人民海軍幕僚総監である藤堂進海軍元帥へと質問した。 彼は藤堂守空軍元帥の弟であり、兄に劣らない優秀な海軍軍人である。 「海軍はいつでも出動命令さえ出ればアメリカ海軍の迎撃を行える。すでに各艦隊には厳戒態勢を勧告しているし、舞鶴の空中艦隊は攻撃命令を下せば即座に出撃できる」 「しかし、いつまでも臨戦態勢のままというのは、賛成は出来ません」 政治局唯一の女性政治局員である、茅葺よう子外務大臣(兼財務貿易産業大臣)が発言する。 彼女も若いながら、その辣腕ぶりは彼女が“国家経済計画委員会”(Jゴスプラン)時代から知られており、西側マスコミは、彼女を“赤いサッチャー”と呼んでいる。 「今の戦時レベルを維持すれば、わが国の備蓄燃料はもって一ヶ月、下手をすれば二週間で枯渇します。さらに、半島と北中国が余計な動きをしかねません。特に、北中国はすでに警戒レベルをあげています。もし向こうが暴走すれば、我々は好む好まざるに関わらず、戦争という泥沼につからなければならなくなります」 「だが」 と、そのとき会議室へノックの音が響いた。 中に入ってきた警備員が何事かを大澤一最高幹部会議議長にささやくと、彼は警備員を追い払い、室内の全員に言った。 「諸君、同志首相の容態が急変されたそうだ。いったん会議を終了し、後日改めて再開したい」 洋館からあわただしく大澤最高幹部会議議長と、彼の取り巻きが出て行った。 タイヤを軋ませながら急発進した高級車を尻目に、寺津は洋館からゆっくりと出てきた。 黒塗りの高級車がハンドルを切って洋館の正面へと回され、車の運転手と思しき大男が外に出て後部ドアを開き、寺津を車内へと導く。 「ご苦労様です」 「あぁ、すまんな」 車内には先客がいた。 寺津の部下で、国家保安省第二総局公安部第九課の課長を務める荒巻大輔大佐だった。 公安九課は国家保安相直轄のカウンター・テロ部隊であり、その長である荒巻は、寺津の懐刀と呼ばれるほどの切れ者であった。 「ずいぶん早く終わりましたな」 「首相の容態が急変したそうだ。まぁ、大澤の本音は政治的遺言を残していないかどうか確認だろう。まったく」 「やはり首相は?」 そういいながらも、口調はまったく驚いていない荒巻に、寺津は嫌悪感からかはき捨てるように喋る。 「あぁ。実際のところ、あの人はもう一週間前に死んでいた。ただ、政治的な都合で生かされていただけだ……それより」 彼は声を低くし、荒巻に話かける。 「問題は大澤だ。首相の容態が急変したということは、やつが事起こすに絶好の機会だ。厚生省の麻薬取締局と陸軍の首都防衛第二師団の一部が不穏な動きを見せているそうだな?」 厚生省は大澤派の人間が取り仕切っており、その中で、厚生省の武力部門である麻薬取締局強制介入隊の人間が、陸軍の大澤派の将校と接触を持っていたことが、荒巻からの報告で上がっていた。 さらに、麻薬取締局強制介入隊は最近武装と人員を大幅に増加させており、表向きは麻薬犯罪対策への強化とも見れるが、新巻の報告ではこれらの部隊に配属された人員は、陸軍の中でも大澤派に属している(と思われる)将校たちの息のかかった元軍人であった。 これの兆候から、意味するものはただ一つ。 クーデター。 無論、彼らはそうは言わないだろう。 世界平和のために、周辺国との融和政策のため。 近年日本に蔓延りだした自称平和主義者たちが好みそうな美辞麗句を掲げ、自分たちの行為を正当化するだろう。 戦後間もなくに作られた憲法九条には、「戦争の放棄」、「戦力の不保持」、「交戦権の否認」など、もしそのままあれば世界史上に例を見ない素晴しいものとなったろう。 だが、それは“日本を取り巻く環境”という点を考慮にいるのを忘れた、夢物語に過ぎなかった。 「ネット世界では、ずいぶんと好き勝手に言っていますな。現政権は原点に返り、反省しなければならない。無用な戦争を煽るのをやめよう。………ですが、暴力が嫌っている、という点では我々は同じです」 「だが、それは偽善にしかすぎんぞ。君がそれを一番良く知っているはずだ、大佐。彼らは夢だけを求めて現実を見ようとしていない。むしろそれを煽ろうとしている。前に君の部下が言っていただろ? “世の中に不満があるならまず自分が変わらなければならない。それが嫌なら耳と目を閉じ口を噤んで孤独に暮らせばいい ”ってな。 冷戦が終わった今、この国はやっと親父の望んだ真の独立国になったんだ。それをいまさら、あんな現実を見ようとしないで自分の利益ばかり優先させる連中が幅を利かせてみろ。ソ連の二の舞だ」 それについて荒巻は何も答えない。 むしろ本心では納得さえしている。 ソビエト連邦という巨大な国家を崩壊させたのは、軍事力でも経済力の差でもない。 崩壊に導いたのは人間なのだ。 国を作るのも人間であれば、壊すのも人間だ。 ウラジミール・レーニンが築き上げた労働者の天国、共産主義の総本山は、スターリンという鋼鉄の意志が礎を築き上げ、フルシチョフがそれを否定し、ブレジネフが腐らせて行ったのだ。 止めを刺したゴルバチョフは、自身が進めたペレストロイカとグラスチノフで膨れ上がり破裂した民族主義が原因で、レーニンの築き上げた国家をばらばらにしてしまい、最後は自分自身も民族テロの業火に焼かれた。 「国民は甘やかされた餓鬼と同じだ。一つおもちゃを与えると次のおもちゃをねだりだす。与えられなければ、ろくでもないことしか言わないその口で自分自身の正しさを延々と語りだす。 大澤たちはそんな国民にいい顔をして、事を有利に進めようとするだろうが、最後はソ連と同じになる。自分自身の欲望につぶれる。だが、そうなったころにはこの国は政治的な植民地になってるだろう。だからこそ、今奴らに事を起こされるのはなんとしても避けたい」 「日本という国が、今以上に混乱するのを防ぐために、ですな」 「そうだ。南北で別れてしまったこの国が、真の独立を保つために。そのためにはどんな代価でも払わなければならん」 車内に沈黙が戻った。 車はやがて幹線道路に入り、首都中心部へと入りつつあった。 「大澤の飼い犬どもが事を起こすその前に、すべて抑えるんだ。大澤はこちらのほうで身柄を押さえる」 「……わかりました」 荒巻が懐から携帯電話を取り出す。 「少佐、堰が切られた。行動を開始しろ」 東京 西新宿某所 「もはや猶予は無い!」 高層ビルの窓をバックに、太った男は叫んだ。 演台の周りは黒服のボディガードがおり、興奮しきった聴衆をサングラスで隠した鋭い視線で油断無く見張る。 「米帝や傀儡はすでに我が国を滅ぼさんと軍を集結させている! いつまでも政治的空白を作るわけには行かない!」 「そうだー!」 聴衆から賛同の声が飛ぶ。 皆現在の政権に不満を、いや、現在の政権を、日本の未来を“憂いている”と主張しているメンバーである。 そして演台の男、首都防衛部隊所属の特殊戦部隊“国家防衛師団”の師団長は、党の左派の首領格である大澤の親友であった。 「ただちに党は早急に指導者を決め、米帝に対して断固とした措置をとるべきである! それが受け入れられないのであれば、我々は命を掛けて党を説得しようではないか!」 『あらそう?』 演説に酔いきった男の耳に届いたのは、聴衆の歓呼の声ではなく、嘲笑交じりの女の声。 『じゃあ死になさい』 同じ声とは思えないほど、鋭く冷たい声。 瞬間、その言葉を実行するかのように男の全身を高速徹甲弾が襲った。 放たれた弾丸は、その軸線上ある全てを容赦なく撃ち抜き、撃ち貫き、撃ち倒した。 あっという間に窓もろとも、男は上半身をミンチにされ、蜂の巣へと早変わりして崩れ落ちた。 「窓の外だ!」 拳銃を懐から取り出したボディガードが叫ぶ。 打ち砕かれた窓の下を見た彼らは見た。 地上へと落ちていく、サブマシンガンを持った女を。 その女が周辺の景色と溶け込むように消えていった光景を。 「そ、そんな…馬鹿な……こ、光学迷彩だと……」 驚愕に満ちた声を絞り出すボディーガードたち。 そんな彼らを尻目に、後ろの聴衆たちは我先にと会場から逃げ出していた。 だが、彼らを地上で待っていたのは、完全武装の警視庁機動隊と国家保安軍特務憲兵隊であった。 この日、新宿に集まった大澤派の決起集会は主催者の死亡と参加者の一斉検挙で幕を閉じた。 同時に、厚生省麻薬取締局が国家騒乱罪および秩序維持法違反で検挙、切り札を失った大澤派は翌日党から追放処分並びに秩序維持法違反の容疑で全員が国会から締め出されたのであった。 ちょうちん持ちのマスコミ各社はこぞって号外をだした。 「号外、号外ーっ!」 新聞売りの高らかな声とベルが東京の街に響いた。 新聞の見出しは“反動主義者、国会から一斉追放。茅葺政権成立へ!” 戦後日本の政権で、いや、日本近代史上初めての女性総理の誕生であった。 前項 表紙 次項
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トップページ>歴史>歴史学報 『歴史学報』180、2003.12 論文 李賢惠「韓国初期鉄器時代の政治体首長についての考察」 金塘澤「都堂を通じてみた高麗禑王代の政治的状況」 陳商元「朝鮮前期政治事件の処罰と伸冤:金宗直の事例を中心に」 元在麟「朝鮮後期星湖学派の「下学」観と「道器一致」論」 鄭炳俊「李正己一家藩鎮と高沐:穏健派と強硬派の内部分裂と対立」 朴昔順「大宰府の対外関連業務事例研究」 任雄「法史料を通じてみた帝政初期ローマの売春と売春婦:アウグストゥスの婚姻法と姦通法を中心に」 朴珍彬「20世紀初アメリカ母性主義的福祉政策の発展」 李貞姫「1930年代スターリン大粛清に関する批判的考察:大粛清の背景と規模を中心に」 論壇 金容燮「私の韓国農業史研究回顧」 書評 朴漢済「窪添慶文『魏晋南北朝官僚制研究』汲古書院、2003年」 崔宰栄「ユーラシア大陸のなかの隋唐長安、宇宙の王都:妹尾達彦『長安の都市計画』講談社、2001年」 金泰雄「박지향『일그러진 근대 100년전 영국이 평가한 한국과 일본의 근대성』푸른역사, 2003」 『歴史学報』179、2003.9 韓国歴史学界の回顧と展望、2001-2002年:韓国史 鄭萬祚「総説」 李泳鎬「古代」 都賢喆「高麗」 韓亨周「朝鮮前期」 金成潤「朝鮮後期」 徐栄姫「近代Ⅰ(1876-1910)」 金正仁「近代Ⅱ(1910-1945)」 田鉉秀「現代」 韓国歴史学界の回顧と展望、2001-2002年:西洋史 朱明哲「総説」 車転桓「古代」 朴駿徹「中世」 趙庸旭「イギリス史」 尹承駿「フランス史」 姜声湖「ドイツ史」 尹龍善「ロシア史」 金延珍「アメリカ史」 金源中「スペイン・ラテンアメリカ史」 金賢植「思想史・歴史理論」 韓国歴史学界の回顧と展望、2001-2002年:美術史 朴恩和「美術史」 『歴史学報』178、2003.6 金基興「『花郎世記』二写本の性格」 李起雲「朝鮮時代王室の比丘尼院設置と信行」 李鮮馥「雷斧と世宗の淋疾について」 李敏雄「朝明連合艦隊の形成と露梁海戦結果」 盧大煥「朝鮮後期「西学中国源流説」の展開とその性格」 鄭求先「甲午改革以後薦挙制の変化」 南基鶴「鎌倉時代の「武威」についての一考察:中世日本の自己認識の一形態」 全寿蓮「ドン・カルロス(Don Carlos)対ドン・カルロ(Don Carlo):ユゴーとヴェルディが記述した一六世紀のエスパニア」 薛惠心「帝国主義とセクシュアリティ」 論壇 李泰鎮「日本の韓国併合「不法性」大討論:国際学術会議「「韓国併合」に関する歴史的・国際法的再検討」」 書評 尹龍爀「地域史研究の新しい可能性:변동명『한국중세의 지역사회 연구』학연문화사、2002年」 趙庸旭「이영석『역사가가 그린 근대의 풍경』푸른역사、2002年」 『歴史学報』177、2003.3 金鐘明「『直指』の禅思想とその意義」 李浩龍「申采浩のアナーキズム」 朴羊信「19世紀末日本人の朝鮮旅行記に現れた朝鮮像」 朴相昱「第1次世界大戦前半期ドイツ・ザクセン王国の企業経済問題、1914-1916」 朱明哲「「王妃のダイアモンド首飾り事件」の文化的意味」 批評論文 朴漢済「胡漢体制論のための弁明:金裕哲・周偉洲・川本芳昭教授の論評に答える」 安秉稷「過去清算と歴史叙述:ドイツと韓国の比較:付記;批判に答える」 書評 李基白「金載元『韓國과 中國의 考古美術』문예출판사、2000年」 『歴史学報』176、2002.12 論文 李栄薫「『花郎世記』における奴と婢:三国時代身分制再論」 蔡美夏「新羅宗廟制の受容とその意味」 金洛珍「高麗初期の内軍と禁軍」 李煕煥「扶安金氏を通じてみた朝鮮末期相尚の風潮」 金栄済「南宋代江西路撫州の両税額と財政収支:天一閣蔵『弘治撫州府志』の記録を中心に」 田寅甲「生産過程の制度化と労働界の対応:1930年代上海労働界を事例に」 姜明喜「張東蓀の中間路線論:国共内戦時期を中心に」 崔豪根「第1次世界対戦と歴史家たち:ドイツとアメリカの歴史家の参戦活動比較」 権亨鎮「雇用創出政策を通じてみたナチの景気浮揚政策」 金応鍾「歴史思想家マキャベリ」 論壇 池承鍾「「『花郎世記』における奴と婢」に対する論評」 盧明植「私は如何にして西洋史を学ぶようになったか」 書評 都冕会「ポストモダニズム、爆風なのか「茶盞のなかの爆風」なのか:김기봉 외『포스트모더니즘과 역사학』푸른역사、2002年」 『歴史学報』175、2002.9 韓国歴史学界の回顧と展望、2000-2001:韓国史 権延雄「総説」 趙法鍾「古代」 蔡雄錫「高麗」 金建泰「朝鮮前期」 車長燮「朝鮮後期」 韓哲昊「近代Ⅰ(開港前後~1910)」 金基承「近代Ⅱ(1910-1945)」 鄭秉峻「現代(1945~)」 韓国歴史学界の回顧と展望、2000-2001:東洋史 李成珪「総説」 李成九「中国古代」 金裕哲「中国中世(魏晋南北朝隋唐)」 李瑾明「中国近世Ⅰ(宋・遼・金・元)」 金弘吉「中国近世Ⅱ(明・清)」 朴基水「中国近代」 車雄煥「中国現代(1911-)」 尹炳男「日本前近代」 咸東珠「日本近現代」 盧英順「東南アジア」 李玉順「インド」 丁載勲「中央アジア」 宋京根「西アジア」 韓国歴史学界の回顧と展望、2000-2001:考古学 盧爀真「先史考古学」 朴広春「歴史考古学」 韓国歴史学界の回顧と展望、2000-2001:科学史 정혜경「科学史」 朴元熇「陳智超『美國哈佛大學哈佛燕京圖書館藏 明代徽州 方氏親友手扎七百通考釋』安徽大學出版社、2001年」 『歴史学報』174、2002.6 論文 金在庚「新羅土着信仰の分化進展」 邊東明「高麗時期順天の山神・城隍神」 宋亮燮「18・19世紀屯田における屯民の抵抗と定総制の採択」 韓相禱「華北朝鮮独立同盟と中国共産党」 徐仁範「明代の損納制と軍戸」 咸東珠「近代日本の形成と歴史像:田口卯吉の『日本開化小史』を中心に」 安煕惇「アウグストゥスの穀物平民(plebs frumentaria):ヴィルルーベ(C. Virlouvet)の見解を中心に」 李泰淑「W.バジョット(Walter Bagehot)のイギリス憲政論:ビクトリア期の保守主義?」 崔成哲「文化としての歴史?:ヨハン・ホイジンガ(Johan Huizinga)における「歴史」と「文化」、そして「文化史」」 羅仁昊「ドイツ概念史と新しい歴史学」 批評論文 皇甫永祚「スペイン内戦研究の流れと展望」 論壇 朴相益「我が人文学と翻訳」 書評 宋基豪「日本における接近した渤海史:酒寄雅志と石井正敏の著書を読んで」 『歴史学報』173、2002.3 徐栄教「羅唐戦争の開始とその背景:国際情勢変化と関連して」 金昌賢「高麗開京の羅城門と皇城門」 金アネス「高麗初期の都護府と都督府」 蔡雄錫「麗末鮮初郷村社会の変化と埋香活動」 河宇鳳「壬辰倭乱後国交再開期泗溟堂惟政の講和活動」 徐銀美「北宋代福建臘茶と茶法」 孫承会「軍閥と土匪:老洋人集団の成立と性格」 朴薫「徳川末期水戸藩の南上運動と政治空間」 全寿蓮「ウェルキンゲトリクス(Vercingétorix le Gaulois)、あるいは再創造されたフランス古代の英雄」 趙承来「産業革命時代イギリスの急進的な性談論」 批評論文 金裕慶「1525年のドイツ農民戦争:初期ブルジョア革命か?平民革命か?:農民戦争の性格議論と残された問題」 趙志衡「新しい世界史と地球史:ポストモダン時代の省察的歴史」 書評 金奉哲「허승일, 외『로마사 재정연구』ソウル大出版部、2000年」 姜玉楚「西川正雄『現代史の読みかた』平凡社、1997年」 『歴史学報』172、2001.12 論文 金杜珍「新羅見登之の華厳成仏思想」 盧明鎬「高麗時代の分家規定と単丁戸」 金容燮「高麗忠烈王朝の「光山県題詠詩序」の分析:新羅金氏家貫郷の光山地域定着過程を中心に」 金建泰「朝鮮後期農家の農地所有現況とその推移:晋州地方を中心に」 李恩廷「オスマン帝国ギルド内の「伝統」と変化:17世紀初・中葉イスタンブールの事例を中心に」 車惠媛「清代の行政改革と清官論の展開:康煕年間前半を中心に」 孫準植「密輸方法と従事者を通じてみた華北密輸」 崔惠英「オウィディウスの追放原因と言論自由の限界」 李炳哲「フライブルク・サークル(Freiburger Circle)のナチズムに対する抵抗と戦後の新秩序案」 李相信「未来の歴史学的意味」 批評論文 権泰檍「同化政策論」 書評 沈載勲「20世紀韓国上古史研究に対する半生:Hyung Il Pai『Constructing "Korean" Origins』Cambriage Harvard University Press, 2000」 兪長根「任桂淳『淸史 - 滿洲族이 통치한 中國』신서원, 2000年」 金賢植「Roberto Ridolfi、곽차섭 訳『마키아벨리 평전』아카넷, 2000年」 『歴史学報』171、2001.9 韓国歴史学界の回顧と展望:韓国史 李栄薫「総説」 全徳在「古代」 李益柱「高麗」 韓嬉淑「朝鮮前期」 呉宗禄「朝鮮後期」 徐栄姫「近代Ⅰ(1876-1910)」 張錫興「近代Ⅱ(1910-1945)」 金光雲「現代」 韓国歴史学界の回顧と展望:西洋史 許勝一「総説」 呉興植「古代」 姜日休「中世」 趙承来「イギリス史」 李英霖「フランス史」 鄭鉉栢「ドイツ史」 石和静「ロシア史」 孫世浩「アメリカ史」 陸栄洙「思想史・歴史理論」 韓国歴史学界の回顧と展望:美術史 李柱亨「美術史」 『歴史学報』170、2001.6 金塘澤「高麗仁宗朝の西京遷都・称帝建元・金国征伐論と金富軾の『三国史記』編纂」 金成潤「茶山丁若鏞の洪範説研究」 韓永浩「西洋幾何学の朝鮮伝来と洪大容の『籌解需用』」 朴秀哲「戦国時代近江守護六角氏の「地域統合」過程:延暦寺の関係を中心に」 李成珪「漢帝国中央武庫収蔵目録の発見:尹湾漢簡「武庫永始四年兵車器集簿」の正体」 金奉哲「古代ギリシャにおけるヨーロッパの形成過程に関する歴史的分析:ヨーロッパ概念の誕生と変遷過程を中心に」 尹進「ヘレニズム時代スパルタ「革命」とナビス(Nabis)」 任雄「ローマ帝政後期小作人の隷属化と隷属小作制の成立」 論壇 李鍾旭「実証史学の壁を越え新しい歴史読解:韓国古代史研究100年:現在-争点」 李成茂「朝鮮時代史序説」 書評 李惠玉「박종진『고려시대 재정운영과 조세제도』ソウル大学校出版部、2000年」 具仙姫「최문형『한국을 둘러싼 제국주의 열강의 각축』知識産業社、2001年」 徐東晩「김성보『남북한 경제구조의 기원과 전개』歴史批評社、2000年」 金賢植「韓国歴史研究会 編『20세기 역사학, 21세기 역사학』歴史批評社、2000年」 『歴史学報』169、2001.3 論文 鄭演植「華城空心墩の由来と機能」 呉美一「1920年代ブルジョア民族主義系列の協同組合論」 徐仲錫「後期新興武官学校」 権仁溶「明末清初徽州の役法変化と里甲制」 尹輝鐸「「満州国」の「二等国(公)民」、その実像と虚像」 金命煥「イギリス・サンディカリスム(syndicalism)の革命概念:戦闘的な漸進主義」 朴枝香「イメージと国家利益:イギリスの対日・対韓認識と対外政策決定、1860-1920」 李来珠「第1次世界大戦とイギリスの1918年教育法:定時制学校設立に対する起業家の反応を中心に」 崔丞完「ソ連占領地域(SBZ)/東独(DDR)でのナチ過去清算作業についての批判的検討」 論壇 李揆河「時代による歴史の解釈と意味:南北統一と関連して」 書評 安秉佑「盧明鎬『韓国古代中世古文書研究(上・下)』ソウル大学校出版部、2000年」 高英津「朝鮮時代思想史の隙間を埋める:신병주『남명학파와 화담학파 연구』一志社、2000年」 『歴史学報』168、2000.12 論文 朴恩卿「高麗の事審官と朝鮮初の留郷所について」 崔文衡「露日の対立と「閔妃」弑害事件」 洪錫律「5・16クーデターの原因と韓米関係」 権五重「滄海郡と遼東東部都尉」 朴漢済「魏晋南北朝時代各王朝の首都選定とその意味:洛陽と鄴都」 丁載勲「ウイグルの摩尼教受容とその性格」 柳鏞泰「孫文の国民会議所集論:武力と国民の結合」 李鎔在「労働総同盟(C.G.T)の連盟構造改編をめぐる論争:職能別労組主義対産業別労組主義」 論壇 金駿錫「「全国歴史学大会」の過去と未来:新しい跳躍のための自己検証」 金栄漢「全国歴史学大会の改善方案」 資料:各国の歴史学大会 趙明哲「日本の歴史学界と全国大会」 梁豪煥「アメリカとイギリスの歴史学大会:現況と特徴」 崔甲寿「ドイツとフランスの歴史学界の全国大会とその組織」 書評 金基興「新羅上古史の新しい理解体系:강종훈『新羅上古史研究』ソウル大学校出版部、2000年」 蔡雄錫「韓国中世社会経済史研究のガイダンス:金容燮『韓國中世農業史硏究 -土地制度와 農業開發政策』知識産業社、2000年」 金駿錫「韓国歴史研究会朝鮮時期社会史研究班『조선은 지방을 어떻게 지배했는가』아카넷、2000年」 金永植「技術と遺物を中心にみた韓国科学史:전상운『韓国科学史』사이언스북스、2000年」 金徳鎬「이보형、황혜성 編『미국 역사학의 역사』비봉出版社、2000年」 『歴史学報』167、2000.9 韓国歴史学界の回顧と展望:韓国史 李範稷「総説」 梁起錫「古代」 朴鍾進「高麗」 高英津 「朝鮮前期」 呉永教「朝鮮後期」 金度亨「近代Ⅰ(1876~)」 全遇容「近代Ⅱ(1910~)」 韓洪九「現代(1945~)」 韓国歴史学界の回顧と展望:東洋史 崔韶子「総説」 金秉駿「中国古代」 金貞姫「中国中世(魏晋南北朝隋唐)」 金容完「中国近世(宋遼金元)」 田炯権「中国近世(明清)」 金泰丞「中国現代(1911~)」 朴秀哲「日本前近代」 趙明哲「日本近代」 崔秉旭、李玉順「東南アジア・インド」 宋京根「西アジア」 李平来「中央アジア」 韓国歴史学界の回顧と展望:考古学 安承模「先史考古学」 林永珍「歴史考古学」 韓国歴史学界の回顧と展望:科学史 文重亮「科学史」 論壇 趙志衡「ポストモダン歴史理論と「開かれた」歴史学:『「歴史とは何か」を越えて(역사란 무엇인가를 넘어서)』の批判的検討」 地域史研究の理論と実際:ミクロ的接近 조한욱、김현식「ミクロ史の理論と実際」 권인용、정병철「清初徽州の一生員の郷村生活:詹元相の『畏齋日記』を中心に」 김준형、井上和枝「朝鮮後期丹城県法勿面地域村落の変化」 이훈상、김필동「ミクロ史と多声性の物書き:朝鮮後期郷吏集団と彼らをめぐる視線」 백승종、이종범「18世紀全羅道のある両班たちの「門銭」:高利貸と郷村社会」 書評 林起煥「전호태『高句麗古墳壁画研究』사계절、2000年」 李潤甲 「延世大学校国学研究院 編『韓國近代 移行期의 中人硏究』신서원、1999年」 李石佑「임희완『청됴도 삶・운동・사상』아가페文化社、1999年」 裵永洙「양동휴 編『1930년대 세계 대공황 연구』ソウル大学校出版部、2000年」 『歴史学報』166、2000.6 論文 李賢惠「4-5世紀栄山江流域土着勢力の性格」 洪承基「高麗前期の事審と郷吏」 金塘澤「高麗両班社会と韓国史の時代区分」 李昇輝「孫文と国民会議」 金賢植「伝統的歴史学と新しい歴史学:変化する歴史学の昨日と今日」 車転桓「ローマ帝政初期奴隷解放を制限する法」 申倖先「第1次世界大戦以前フランス労働者の集会に現れた「祖国」の意味(1895-1914)」 金承烈「ド・ゴール主義者は超国家的ヨーロッパ統合の賛成者なのか、反対者なのか?:ド・ゴール主義者とヨーロッパ軍事政治統合、1950-1954」 論壇 李鍾旭「『韓国古代史の新しい体系』(1999)のための弁論」 書評 林相先「柳得恭の『渤海考』異本:승기호 訳『渤海考』弘益出版社、2000年」 金甲童「채웅석『高麗時代의 國家와 地方社會:‘本貫制’의 施行과 地方支配秩序』ソウル大学校出版部、2000年」 鄭演植「金澔『허준의 동의보감 연구』一志社、2000年」 禹龍済「植民地教育の典型と形成:『식민지 초등 교육의 형성』教育科学社、2000年」 趙庸旭「이영석『다시 돌아본 자본의 시대』소나무、1999年」 徐廷勲「박지향『제국주의 신화와 현실』ソウル大学校出版部、2000年」 『歴史学報』165、2000.3 論文 李仁哲「新羅統一期私的土地所有関係の展開」 金洛珍「高麗時代牽龍軍の設置と任務」 都賢喆「『経済文鑑』の引用典拠で見た鄭道伝の政治思想」 金相泰「日帝下尹致昊の内面世界研究」 趙志衡「ポストモダン時代の記号学的歴史学:禍諍記号学を中心に」 金昌成「ローマ共和政期イタリア同盟国の社会構造と土地保有関係:統一の社会・経済的指標」 朴興植「小商人同業組合と中世都市の排他性:三北ドイツ都市(Lüneburg, Goslar, Hildesheim)を中心に」 金應鍾「フィリップ・コミン(Philippe de Commines)の『回想録』に現れた人間と神の姿」 論壇 河世鳳「1930年代東アジア域内交易の放射線型構造」 韓国歴史学界の争点と展望 김현식、김응종「伝統的歴史学と新しい歴史学:変化する歴史学の昨日と今日」 배경한、김세호「中国現代史の範囲と下限問題:「歴史学の危機」と中国現代史の「変身」模索」 権泰檍、허수열「近代化・同化・植民地遺産:解放前後の連続と断絶問題と関連して」 성정용、権五栄「古代戦争技術の変化:馬韓・百済地域の武器・馬具体系の変遷を中心に」 書評 盧重国「李鍾旭『한국 고대사의 새로운 체계 100년 통설에 뺴앗긴 역사를 찾아서』소나무、1999年」 孫浩哲「失われた50年代を探して:『조봉암과 1950년대(상, 하)』歴史批評社、1999年」 崔煕在「김호동『근대 중앙아시아의 혁명과 좌절』사계절、1999年」 姜玉楚「The NEw History of the Italian South; The Mezzogiorno Revisited, Robert Lumley and Jonathan Morris (ed.), 1997, University of Exeter Press」 『歴史学報』164、1999.12 論文 李泰鎮「外系衝撃大災難節(Neo-Catastrophism)と人類歴史の新しい解釈」 金基興「新羅と聖骨」 蔡煕淑「高麗光宗の科挙制実施と崔承老」 白承鍾「18世紀前半西北地方で出現した『鄭鑑録』」 韓永浩、李載孝、李文揆、徐文浩、南文鉉「洪大容の測管儀研究」 徐仁範「明中期の損納制と軍餉調達」 李丙仁「1920年代上海の同郷関係と社会団体」 車龍九「中世の異端と女性」 李英霖「17世紀後半フランスにおける児童教育:シャルル・デミアの無料教育を中心に」 朴根甲「自立と統制:ドイツ国民国家形成期の自由主義と社会政策(1848-1869)」 李順才「トライチケ(Heinrich von Treitschke)の国家論:その力の理論を中心に」 第42回全国歴史学大会参観評 鄭容郁「認識の拡大、分節化と世紀末の歴史学」 裵京漢「21世紀を迎える還国歴史学の現住所」 金基鳳「20世紀歴史家と哲学者が評価した歴史としての20世紀」 書評 朱甫暾「盧泰敦『高句麗史研究』사계절、1999年」 鄭然泰「還国鉄道100周年ぶりに解剖された植民地鉄道の総体像:鄭在貞『일제침략과 한국철도』ソウル大学校出版部、1999年」 李鍾奭「解釈と実証の精巧な出会い:和田春樹、서동만 訳『韓国戦争』創作と批評社、1999年」 朴根七「金鐸敏『中国土地経済史研究』高麗大学校出版部、1998年」 『歴史学報』163、1999.9 韓国歴史学界の回顧と展望:1998、韓国史 洪承基「総説」 李文基「古代」 金光哲「高麗」 柳昌圭「朝鮮前期」 尹煕勉、金徳珍「朝鮮後期」 河元鎬「近代Ⅰ(1876~)」 林京錫「近代Ⅱ(1910~)」 潘炳律「現代(1945~)」 韓国歴史学界の回顧と展望:1998、東洋史 辛勝夏「総説」 崔徳卿「古代」 李周鉉「中世:魏晋南北朝隋唐」 朴志焄「近世Ⅰ:宋遼金元」 金希教「近世Ⅱ:明清」 金世昊「現代(1911~)」 南基鶴「日本」 蘇秉国、李珖洙「東南アジア・インド」 李煕秀「西アジア」 編集部「中央アジア」 韓国歴史学界の回顧と展望:1998、西洋史 李相信「総説」 崔滋英「古代」 姜治遠「中世」 金琪淳「イギリス」 金容右「フランス・イタリア」 金学頤「ドイツ」 趙虎衍「ロシア・東ヨーロッパ」 金辰雄「アメリカ」 金應鍾「歴史理論・思想史」 韓国歴史学界の回顧と展望:1998、考古学 李清圭「先史考古学」 金用星「歴史考古学」 李柱亨「美術史」 文重亮「科学史」 歴史的立場から見た文明圏別価値観の特殊性と普遍性 차하순「特殊性から世界化へ:西ヨーロッパ文化圏の特性と限界」 김성복「アメリカ文明の諸問題と特性」 전지용「ロシアの文化と権力」 김정위「イスラム文明の特性」 백영서「東アジアにおける文明論と国民国家:20世紀前半期の談論構造の再検討」 금장태「儒教文化の特性とその普遍的意味」 조길태「多様性を統一性へと克服したインド文化の伝統」 「総合討論」 『歴史学報』162、1999.6 論文 尹龍九「三韓の朝貢貿易についての一考察:漢代楽浪郡の交易形態と関連して」 鄭景姫「英祖後半期(1749-1776年)経筵と英祖の義理論強化」 曺永禄「唐末五代閩越雪峰門徒の呉越進出と「東国僧」霊照」 金成奎「宋代における国境問題の意義と国境の形態」 銭東鉉「国民革命期国民政府革命外交の理論的性格」 鄭城和「16世紀ヨーロッパ古書に現れた韓国:イメージの胎動」 朴技香「官僚制を通じてみたイギリス帝国統治のメカニズム」 論壇 姜鍾薫「『三国史記』新羅本紀初期記録の紀年問題再論」 書評 李永石「隷属民の比較史、その可能性と限界:歴史学会編『奴婢・奴隷・農奴』一潮閣、1998年」 都珍淳「民族と近代前後、そしてオリエンタリズム:임지현『민족주의는 반역이다』소나무、1999年」 金正仁「Peter Duus『The Abacus and the Sword The Japanese Penetration of Korea, 1895~1910』BerkeleyㆍLos Angeles・London ; University of California Press, 1995」 『歴史学報』161、1999.3 論文 李鍾旭「新羅上代の王京六部」 李栄薫「高麗佃戸考」 李銀子「19世紀後半山東西部民間宗教結社と拳会の動向」 田寅甲「1920年代前半期上海労働者社会の地縁網と労働運動」 陸栄洙「聖シモン主義者(Saint Simonian)と1848年の革命:ふたつの道」 説林 金奉哲「古代アテネの赦免法と殺人罪裁判:崔滋英 先生の反論に対する回答」 崔滋英「古代アテネ赦免法に関する金奉哲教授の「回答」について」 論壇 金基鳳「誰がポストモダンを怖れるか:開かれた歴史学のためのひとつの提言」 車河淳「21世紀はいつ始まるか?」 書評 鄭震英「고석규『19세기 조선의 향촌사회 연구』ソウル大学校出版部、1998年」 1-20 21-40 41-60 61-80 81-100 101-120 121-140 141-160 161-180 181-190 191-200 201-210 211-220 221-230
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内戦履歴のページ このページは、内戦の履歴が書かれています。書かれている内容は以下の通りです。 内戦に参加した人の一覧(本人が断れば非公開になります) 対戦人数 2012年
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目次 ■1.単純明快 中国史◆「統一⇔分裂サイクル説」に沿って中国史を単純化 ◆要点 ◆王朝の滅亡原因 ■2.中国文明考I:女性的感性の欠落(跛行性) ■3.中国文明考II:騎士道精神(あるいは日本風に言えば武士道精神)の欠落 ■4.中国文明考Ⅲ:遵法精神・正義感の欠落、詐術・謀略の横行 ■5.中国文明考IV:支配者や自分の都合によって変わる独善的な歴史認識 ■6.中国文明考V:誠・和の精神の欠如(欲望最大・自己中心・道徳最低)、意味不明(相手によって意味の変わる)な仁、「詐」の文化 ■7.中華人民共和国の歴史◆毛沢東の中国:大いなる実験 ◆天安門事件(第二次天安門事件、1989年6月4日) ◆中国共産党の正体(九評共産党)・・・中国共産党とは何者なのか?「大紀元」(法輪功製作) ■8.参考サイト ■9.補講1.「中国4000年の歴史」というのは真っ赤な嘘。国が連続していない。 2.「国」が始ったのは1912年。それ以前は「国」の概念もない、点の歴史のみ。 3.中国は歴史が真っ直ぐ続いていない。少数民族の歴史を乗っ取って偉そうにしているだけ。 4.乗っ取り潰して入れ替る、そしてそれを繰り返す野蛮王朝。 5.日本文化と中国文化の関係 6.残虐思想の歴史、食人文化、儒教と官僚制度、中華思想 共産党 7.中国は国家としてまとまってない。2つに分かれている。 ■10.ご意見、情報提供 ■1.単純明快 中国史 ◆「統一⇔分裂サイクル説」に沿って中国史を単純化 1. 統一期I 夏~殷~西周 2. 分裂期I 春秋~戦国時代 3. 統一期II 秦~漢 4. 分裂期II 六朝時代:三国~西晋~東晋・五胡~南北朝 5. 統一期III 隋~唐 隋・唐は本来は鮮卑系(五胡の一 モンゴル系またはトルコ系) 6. 分裂期III 五代・遼~北宋・遼~南宋・金 遼は契丹(モンゴル系)、金は女真(ツングース系=満州族) 断絶 7. 統一期IV 元 元はモンゴル族 8. 分裂期IV 明・北元(タタール) 北元(タタール、明では韃靼と蔑称した)は漠北に帰還後の元朝明は規模的に元・清の半分で北元との南北分裂期と見るのが妥当 9. 統一期V 清 清は満州族で、北元よりモンゴル族の大汗位を継承 断絶 10. 分裂期V 中華民国 実態は軍閥・革命勢力・独立派諸民族が割拠 11. 統一期VI 中華人民共和国 「5.中華人民共和国の歴史」参照 ◆要点 分裂期から次の統一期に入る時に「中華」の範囲が拡大している。 大きな断絶が2回ある。 一回目 元朝(モンゴル族)による征服(漢族王朝の完全消滅)「有徳者への禅譲」または「有徳者による放伐」という王朝変遷の建前もここで完全に消滅し、以降は"腕力[または財力]が全て(=モラル欠落)の社会"となる 二回目 王朝制度そのものの崩壊~共産主義中国の出現(文化大革命に代表される過去の文明の否定) 漢族のアイディンティティは、統一期IIの秦~漢時代にある。 しかし実際には、唐滅亡以降~清滅亡迄の千年間は、漢族は北方民族に圧迫され、また支配されていた期間が圧倒的に長い。 | ⇒唐代までに形成され、日本でも幅広く受容された古典思想が、弱体だった宋朝以降に著しく歪んでいった原因(朱子学イデオロギー:理念先行=現実から遊離した空理空論を弄する欺瞞的国家体質が形成される)。 ⇒20世紀には、これに更に共産主義イデオロギーが加味(中華思想+共産主義=欺瞞的・暴力的国家体質が形成される)。 ◆王朝の滅亡原因 1 内乱型(貴族や宦官の専横・党争等で国が乱れ、農民が匪賊化し大乱が発生、豪族や鎮圧軍が各地で軍閥化して内部崩壊)⇒秦(陳勝呉広の乱)・漢(黄巾の乱)・隋・唐(黄巣の乱)・元(紅巾の乱…厳密には北帰で滅亡ではない)・明(李自成の乱)・清(辛亥革命) 2 異民族侵入型⇒西周(犬戎の侵入で東遷)・西晋(五胡の侵入で南遷)・北宋(金の圧迫で南遷)・・・厳密には、これらは滅亡ではない。 3 従って厳密な異民族侵入型(異民族征服型)は、次の一件のみ⇒南宋(元に征服されて滅亡)※なお清は征服王朝だが、明を直接征服した訳ではなく、明を滅ぼした李自成(農民反乱)を討伐して漢土の支配を確立。 ■2.中国文明考I:女性的感性の欠落(跛行性) 日本と中国の精神文化には強い共通性があり、その殆どは中国起源だとする刷り込みが、マスコミ・教育を通じて頻繁に行われている。 しかし最近のチベット虐殺や毒入り餃子事件の件で分かる様に、中国の精神文化は、実は日本とは決定的に違う事を、この際しっかり認識しておこう。 神話の時代からそうだが、日本や欧州の文明では社会や人間の精神的発達に於いて当然ながら「女性」の貢献が極めて大きい。 (1)日本の場合 日本神話 天照大神、神功皇后など 日本文化史 額田王、紫式部、清少納言、菅原考標娘、樋口一葉、与謝野晶子など 日本政治史 卑弥呼、推古女帝、光明皇后、北条政子など (2)欧州の場合 欧州神話 ヘラ、アフォロディテ、アテナ(希)など。あるいは北欧神話のオンディーヌ、聖書のイブ・マリア 欧州文化史 エレオノール=ダキテーヌ(仏)、マリアンナ=アルカフォラド(葡)、ラ=ファイエット夫人(仏)、J.オースティン(英)、ブロンテ姉妹(英)など 欧州政治史 イザベル女王(西)、エリザベス女王(英)、ビクトリア女帝(英)、ポンパドォール夫人(仏)、エカテリーナ女帝(露)、マリア=テレサ(墺)など これに対して中国はどうか。 (3)中国の場合 中国神話 ホウジ、ダッキ(艶女・暴君タイプ) 中国文化史 無し 中国政治史 呂后、武則天(則天武后)、西大后(暴君タイプ)虞美人、楊貴妃、陳円円(艶女タイプ) つまり、神話・実在を問わず、中国史に登場する女性は、男を凌ぐほど残虐な暴君タイプか、男の都合のままに流されて生きる艶女タイプしかない。 おそらく今に至るも男尊女卑の風習が強烈なために(それを儒教的伝統と言うのだが)、中国は自称4000年近い長い歴史を誇るにもかかわらず、日本や欧州のように女性の感性を核とする柔構造の文化をついぞ生み出し発展させることが出来ず、それゆえ弱者への優しさを欠いた跛行的な文明となってしまった、と結論づけられる。 20世紀初頭に至っても、魯迅「阿Q正伝」の精神世界に留まっていたのである(そしてそれは、本質的には今も変わっていない)。 残虐・好色・貪欲の3つに特徴づけられ、女性的感性を欠く跛行した文明が中国文明の本質である。 最近のチベット虐殺や四川省大地震に対する偏向報道は以上の根拠を益々強めるものである。 ■3.中国文明考II:騎士道精神(あるいは日本風に言えば武士道精神)の欠落 漢から六朝を経て隋唐へと連綿と続いた中国の古代貴族制社会は、中唐期の節度使の勢力強大・分立をもって動揺し、晩唐の黄巣の乱を期に崩壊する。 その後、五代十国の時代を経て北宋による統一を迎えるまでの約一世紀(870-980頃)を、中国史上の「武人の時代」と呼ぶ。 同時期に、日本では武士階級の興起があり、西欧でも騎士階級による封建社会の形成の動きがあった。 しかし中国の場合は、おそらく北方民族からの圧力が強力であったために、日本や西欧のように封建諸侯が分立したまま国家を存続させることが困難で、本来は武人勢力の一角に過ぎなかった宋朝による統一が促進され、統一の達成後は、再び国を分裂させないために、唯一絶対の皇帝権の下で武人階級の抑圧が起こってしまった。 結局、中国は中世的封建制社会を形成するに至らないまま、近世的な官僚制皇帝専制国家に移行してしまった。 つまり、日本的な武士道精神や西欧的な騎士道精神が後の世代が頼り・誇りとする精神的遺産として形成されなかったのである。 では、中国社会に存在する武士道(騎士道)に替わる精神的遺産とは何か? それは、私の見るところ「任侠道」である。 楚漢抗争の物語を読んでも、三国史演義を見ても、あるいは後世の水滸伝の世界を観察しても、そこにあるのは義兄弟の誓い等の「任侠道」すなわち「ヤクザの精神世界」である。 これは、武士道や騎士道を特徴づける死や犠牲を超越した精神的美学・美意識が欠落した、自己保存と利益万能を特徴とするご都合主義の精神文化といえる。 台湾を民主化した李登輝前総統が、中国を「土匪国家」と形容したことがあるが、まさに「任侠道」にもとづくヤクザ(匪賊)が成り上がって国家権力を掌握して出発したのが今の中国である、と言うと言い過ぎであろうか。 しかし、中国の国家の成立を見ると、由緒ある古代王朝の系統は、B.C.2世紀の秦の滅亡で完全に絶たれ、それ以降は、 (1) 外来民族による征服国家 (鮮卑系の北魏・隋・唐、モンゴル系の遼・元、満州族の金・清)もしくは (2) 土匪の成り上がり国家 (漢、五代の後梁、明、共産党支配化の現中国) ばかりである(なお、宋は五代の軍閥出身、中華民国も軍閥及び国民党の連合政権)。 多くの日本人が持つ疑問「中国は何故近代に乗り遅れたのか?」の答えが、I.(女性的感性の欠如)、II.(武士道精神の欠落)にある。 ■4.中国文明考Ⅲ:遵法精神・正義感の欠落、詐術・謀略の横行 現代では政府の正統性は、選挙などを通して自由に表明される国民の信認によって付与される。それは国土の大小や人口の寡多や経済力・政治力などの強弱には制約されない世界共通の認識といってよいだろう。 中共政府は自国民の人権を不当に制約する言い訳として、自国が人口過剰な発展途上国であることを挙げるが、それでは「世界最大の民主主義国家」を自認するインドの発展振りはどう説明するのか。中国が直ちに民主化できない理由は一切ないのである。 中国が民主化しない理由は、今や特権階級となった共産党上層部が圧倒的多数の人民を支配する体制を維持するためであって、現在の中共政府に国家統治の正統性があるとは、とても言えない。そして、 政府に正統性がない所では、国民が遵法精神を持ちようがないのである。 加えて、中国の場合は、国家自体が何度も途絶しており歴代王朝の正統性が元々怪しく、日本や西欧のように長期にわたって国家と国民の信頼関係が醸成されるという発展過程が乏しかった、という背景もある (「1.単純明快 中国史」参照)。 中国の庶民に最も人気のある歴史上の人物といえば、南宋初期の武人"精忠報国"岳飛である。 日本で言えば楠木正成に相当する、南宋皇帝高宗に最後まで忠義を尽くした人物だが、彼の場合、実に悲劇的なのは、金朝(女真族)との戦闘自体には勝利目前だったのに、自分が忠義を尽くしている筈の南宋宮廷の謀略に嵌められて、無実の罪で一族もろとも刑死させられた事である。(ただし、中国の忠義は日本の公と異なり、皇帝や宮廷といった絶対的な権力者のためのもの。) 中国の歴史には、このような著しいモラル・ハザードが、枚挙にいとまない。 日本人にも親しみのある例で言えば、忠孝を尽くした劉備・孔明の側ではなく、権勢欲と謀略の権化であった曹操・司馬仲達の側が勝ち続けて栄華を手にするのが中国の常態であり、そのような社会では、美辞麗句を連ねる儒教などの建前とは裏腹に「正義感や信義誠実を尊ぶ精神が育ちようがない」のは当然である。 尚、中華民国・中華人民共和国時代は曹操・司馬仲達が中国人に好まれ国の元首から庶民まで生き方の手本となった。また、劉備にも戦乱の逃亡時の際、漁師の劉安の妻を食べた食人の要素や孔明にも孟獲を自称「徳」で征服した南蛮征伐、劉備が息子の劉禅(阿斗)が無能ならば孔明が政権を奪っていいと言った遺言など中国的な要素が強く日本人の考える忠孝とは大きく逸脱する残酷な話が多い。 ※なお、岳飛については朱子学に基づく中華国粋的傾向が見られ、彼と対立した礼部尚書(文部大臣)・秦檜(皇帝高宗と南宋宮廷の謀略の側面もあり)が金に対して和平交渉を試みたのに対し、岳飛一党が軍事的に弱体でありながら無駄な局地戦を続けたために国や民衆が疲弊し、南宋の滅亡を早める結果となったとする指摘もある。秦檜の行動により両国の戦乱が治まり南宋は繁栄したのも事実である。 岳飛の上司であり局地戦の指揮官であった韓世忠などについても同様である。漢人の岳飛信仰の根底には、中華思想による異民族国家(女真(ツングース系 満州族)金朝への蔑視があり、相手と屈辱的な和平を結ぶよりも、実状を無視して徹底抗戦し敵を虐殺する岳飛を、正当化し美化・信仰してきた側面がある。 これは後に南宋を滅ぼしたモンゴル帝国こと後の元朝(モンゴル族)に対しても同様である。日本のような「死ねば神仏になる」考え(山川草木愁皆成仏)とは真逆の中国の「死者の墓を暴き、骨や遺体を徹底的に痛めつけ魂まで食らい未来永劫呪う」強烈な独善思考=鞭屍、恨み骨髄までは、岳飛に対抗して和平交渉を行った秦檜とその妻王氏(他に張俊、万俊などの5奸族)の墓や像に、現在でも観光客が唾を吐きかける、小便をするなどという徹底的な侮蔑を伴っており、このため三国志などと違い、岳飛の物語が日本ではあまり受け入れられない要因となっている。秦檜と同様に扱われる者に明末の清に合流した呉三桂、岳飛と同様に扱われる南宋の史可法、明末の文天祥がそれぞれ奸族(漢奸)、英雄とされる。 また、仇敵(=異民族、外国人、またはそれと組んだ者)を未来永劫許さずその肉(屍肉)を食らう思想は岳飛を描いた「隔簾花影」でも揚州市民が漢奸(金人)を食らう描写を岳飛が賛美したものも見られる。この岳飛の「満江紅」の詞は今でも中国人の間で詠われている。 ■5.中国文明考IV:支配者や自分の都合によって変わる独善的な歴史認識 中国における歴史観は、日本人のそれとは大きく異なり、歴史人物の評価が時の権力者や時勢により大きく変貌・逆転し、突如大悪人=漢奸が大善人・英雄となったり、逆に大善人・英雄が大悪人=漢奸となる現象が度々起こる。 中共政府も鄧小平政権時代には文化大革命を礼賛する文化人が切り捨てられる結果となった。これは中華思想・事大主義に端を発する側面もあり韓国はなぜ反日か?と共通する点も多い。 前述の岳飛も当時は大罪人にあり秦檜の方が評価されたにも関わらず、後世になると以上のように逆転している。 暴君と詠われる秦の始皇帝(政)も文革時代は最大の名君であり、儒教の開祖・孔子(孔丘)は五四運動の際は封建主義の元凶に文革時代には「批林批孔」のスローガンと共に反動派の頭領とされた。 反動的・封建的人物と言われる西太后(慈禧太后)や曾国藩や袁世凱も改革者や愛国者に変わった。近年では共産党と対立した国民党の蒋介石や彼と対立し、死後秦檜夫婦のような弾圧を受ける汪兆銘(汪精衛)は共に売国奴と愛国者の間に見解が変動している。 彼は秦檜同様、当時の日本政府や日本軍と和平交渉や協力を行ったため、売国奴と呼ばれるようになった。 このように中国は外国人・異民族と徹底抗戦することを望む好戦的で残忍な性格が顕著である。 また、英雄と呼ばれた鄭成功は分裂主義者に変わる。このように独善的で朝令暮改で変動的なのが中国の伝統的な歴史観である。 ■6.中国文明考V:誠・和の精神の欠如(欲望最大・自己中心・道徳最低)、意味不明(相手によって意味の変わる)な仁、「詐」の文化 上に挙げる「遵法精神・正義感の欠落、詐術・謀略の横行」とも共通する。孔子(孔丘)の論語の五倫(仁・義・礼・智・信)は日本に伝来した時、聖徳太子により「和・義・礼・智・信」に変更されている。 武士道の代表とされる誠も取り入れられ、「誠・義・礼・智・信」とも後世には呼ばれた。長年、仁は意味不明の徳目とされ、強盗(匪族)には強盗の仁があるとまで言われ、時代ごとにその意味は変更された。仁は日本でもヤクザ(任侠)が好んで用いる物とされる。 中国では詐術・謀略の横行や大虐殺、匪賊の跋扈などにより誠心誠意に代表される『誠』(まごごろ・いつわりのない心)やみんな仲良く手を取り合う『和』(穏やかさ・なごやかさ・のどかさ)が欠如しており、嘘をつくことや人を騙すことが当然とされ、現在でも台湾などでは「詐」の国と呼ばれる。 詐以外にも争・盗・乱・穢の性質を持つ。 ■7.中華人民共和国の歴史 ◆毛沢東の中国:大いなる実験 ◇1 (1950年代まで) 貧困に苦しむ農民、蒋介石の国民党政府(1928)、中産階級と農民の格差、共産党の台頭と国民党による弾圧、抗日戦争と国共合作(1937-1945)、毛沢東・共産党と農民、国共内戦(1945-1949)、国民党の敗北・台湾へ逃避、中華人民共和国の成立(1949)、プロパガンダと思想教育 ◇2 (1958年頃まで) 農地改革と農民、地主の告発集会と処刑、実業家から実質的資産没収、女性の権利拡充、教育、プロパガンダと国民総動員体制、雀撲滅運動、反革命分子告発キャンペーン ◇3 (大躍進政策1958-1960) 人民公社への統合、農工業の大増産政策、人民への厳しいノルマと水増しされた成果、無茶な粗鉄増産、飢饉による大量の餓死者、劉少奇、農民の土地私有復活、生活の正常化 ◇4 (文化大革命1 1966-1967) 毛沢東語録、長江遊泳、伝統文化の破壊、プロレタリア文化大革命、江青女史ら四人組と毛沢東への個人崇拝、原理主義的学生と紅衛兵、劉少奇ら実権派への中傷キャンペーン、 知識層・管理者層のつるしあげ・暴行、走資派レッテルと告発集会 ◇5 (文化大革命2 1967-1989) 過激化する紅衛兵、リンチを受けた女性校長、大量の処刑と自殺、内部抗争する紅衛兵、 学校・病院・工場閉鎖、無政府状態、秩序回復のため人民解放軍の投入、紅衛兵運動停止(1968)、上山下郷運動、毛沢東の死(1976)、四人組逮捕、鄧小平の経済改革 、天安門事件(1989) ◆天安門事件(第二次天安門事件、1989年6月4日) 天安門事件 2/3 天安門事件 3/3 http //www.nicovideo.jp/watch/sm7258151 http //www.nicovideo.jp/watch/sm2129074 天安門事件関係ニュースが流れると放送を止められる瞬間 六四事件(天安門事件)を忘れてはならない 毋忘六四 ※一部グロテスクな画像があります。ご注意下さい。解説⇒ぼやきくっくり様HP ※ところが、NHKクローズアップ現代は「大規模な虐殺はなかった」と中国を庇う捏造報道⇒NHKの正体 ◆中国共産党の正体(九評共産党)・・・中国共産党とは何者なのか?「大紀元」(法輪功製作) 中国共産党の正体(九評共産党)① 中国共産党の正体(九評共産党)② 中国共産党の正体(九評共産党)③ 中国共産党の正体(九評共産党)④ ※大紀元社説シリーズ『共産党についての九つの論評』 【第一評】共産党とは一体何ものか 暴力による恐怖によって政権を奪取し維持する 虚言を以って暴力の潤滑剤と成す 絶えず変化する立場と原則 党性(党是)が人間性に取って代わり、人間性を消滅させる 自然に反し、人間性に反する邪悪な生命体 邪悪な憑き物の特性 自己を反省し、中国共産党の憑き物から逃れる ■8.参考サイト 丸幸亭老人のシナにつける薬 ■9.補講 1.「中国4000年の歴史」というのは真っ赤な嘘。国が連続していない。 中華人民共和国は63年の歴史。(前の中華民国は100年) 国がきれたのは、13世紀後半のモンゴル人による植民地支配(大モンゴル国時代)。中国人最大のトラウマ。 4000年というのは、中華思想によって漢民族・モンゴル・満州民族なども混ぜた上での考え方。チベットが中国というのと同じ。支那の語源・秦でも2000年ほどの歴史をブツ切りにしたものでしかない。存在すら疑わしい伝説上の「夏」などの古代王朝も含めて4000年とされた。 ちなみに、パンダは中国がチベットから盗んだもの。 一方、日本は、日本書紀による讖緯説に基づく紀元の過大な引き伸ばしがあるとはいえ、考古学的にも巻向遺跡に代表される古代ヤマト王権の祭祀が少なくとも3世紀初めには始まっており、かつそれが現在まで宮中や伊勢神宮などの大社で連綿と受け継がれている、すなわち国家祭祀が少なくとも1600年以上連続している奇跡的な国家である。 2.「国」が始ったのは1912年。それ以前は「国」の概念もない、点の歴史のみ。 国という観念はなかった。広い場所に要塞で囲った町、王朝名があったのみ。 単品の王朝の歴史は古いが国全体の歴史は浅く、それらが都合良く書き換えられている。 「日本人は、自分達と同じように連続した歴史の中にある」と勘違いしている。 それを現代の中国が「国」という概念に歴史を書き直している。 1907年の早稲田大学の清国留学生62人は、自分の国籍について、支那18人、清国12人、中華&中国7人、残り25人は自分が何国人かも書けなかった。 漢人の歴史トラウマ 3.中国は歴史が真っ直ぐ続いていない。少数民族の歴史を乗っ取って偉そうにしているだけ。 漢民族は、どんどん他の民族を乗っ取り搾取して成立してきた国。 「漢字を使うのは、中国のもの」という思想の元、都合の良い時には乗っ取り、いらない時は切り捨てる。 土地の6割は元少数民族。(中国の土地ではなかった) 4割の土地の持ち主の漢民族が、人口の9割をしめて乗っ取っている! どうして乗っ取るかというと、資源が欲しいから。チベット(水や空気)ウイグル(石炭石油・ガス)モンゴル(油田)→これらはみんな中国のものだから、と共産党が奪う 台湾、沖縄も取りにくるだろう。 4.乗っ取り潰して入れ替る、そしてそれを繰り返す野蛮王朝。 独裁者が王朝が支配、謀反人や狂信集団がそれを潰して新しい独裁者となり、それを繰り返す。 独裁者は自分の正当性を言うために、前の独裁者に関わる物を皆殺し、文化を吐かして歴史を書き換える。 王朝が変わるために文化財を破壊するから、墓しか残らない。その墓も盗掘が多い。 王朝が変わるたびに人口が大きく減る。飢饉や大量殺戮、人を食わせて全滅させたりが日常茶飯事の国→だから中国人は、生きるために他人を信用しない。幸災楽禍=他人の不幸を喜ぶ精神を持つ。 日本は、殺し尽くさないで調和する考え方(島国だから 許し、水に流す&死者を冒涜しない) 天皇の部下としての武士達が戦う事はあっても、武士は天皇に手を出さないし、武士同士で戦っても皆殺しにはしない。 5.日本文化と中国文化の関係 中国は自分の文化を自分で潰しまくった(文化大革命では孔子孟子を否定し、本は焼かれた) 日本は、どんどん研究していく文化があり、独自の文化になった(漢字など)。 中国共産党は孔子を否定していたが、急に持ち上げ孔子学院(語学学校)を世界2000カ所に設立。 江戸時代以来、論語の本家は日本に移った(実行と解釈の深さ) 唐などの中国の歴代王朝は陸禁・海禁といった徹底した閉鎖的な世界を築いており中華思想で夷狄とみなし見下す外国から文化を取り入れたり、朝貢貿易の分以上に外に出すことはしなかった。諸外国は中国の歴代王朝から高額な金や臣下の礼を強制される屈辱的な外交でぼられたといえる。 他人や国のために生命を投げ出す「玉砕」は.日本文化、中国文化は時の権力者の趨勢で他人を裏切り、新たな支配者の奴隷になる「瓦全」。(これは朝鮮/韓国人も同じ) 日本と中国は理解しあえない 著者 日下公人,石平 6.残虐思想の歴史、食人文化、儒教と官僚制度、中華思想 共産党 中国残虐史、人肉料理文化 儒教には万人平等という思想がない。少数のエリートが多くの愚かな民衆を統治するべきという官尊民卑の思想。 7.中国は国家としてまとまってない。2つに分かれている。 支配階級(搾取する側)と被搾取階級(田舎、農民) これらはとても仲が悪い。内部をまとめるだけで大変。マスコミや中国は隠しているが、そのうちボロがでる。 ■10.ご意見、情報提供 日本は皇紀2600年以上とういうのは歴史学的にみてどうかと。はっきりと2600年前から続いてることを示す資料・遺跡ってありましたか? -- liiu (2014-02-05 23 46 57) あと中国文化史で女性が全く登場しないような書き方していますが居ることにはいますよ(班昭など)。編集し直したほうがいいかと。 -- liu (2014-02-06 00 08 25) 該当箇所を修正。ご意見ありがとう。 -- maron (2014-02-06 19 29 01) 生物学的な意味での -- 名無しさん (2014-04-09 21 07 22) 生物学的な意味での漢民族は存在しない。中原の支配者となった民族が歴代漢民族を自称した。漢民族を自称していないのはモンゴル人と女真族だけ。従って中国〇千年の歴史なんて連続したものは存在しない。 -- 名無しさん (2014-04-09 21 10 34) 支那がおかしいのは誹謗でも何でもない事実。誹謗とする指摘が誹謗である。 -- 名無しさん (2014-06-26 02 23 33) 4000年の歴史が可笑しいというのは、王朝も文化も断続してきたのに、新たな支配者の正当性としてそれを利用しているに過ぎないから可笑しいのだといってるのでは? -- 名無しさん (2014-09-20 18 52 43) こんな勝手な歴史解釈を日本人だけでやっていてもしょうがない。世界に世界の歴史家がどう判断するかだな。 -- 名無しさん (2014-11-15 23 21 22) 日本は今、西暦で2014年、紀元前も存在するとしても日本の歴史は精々2500年ちょっと。今日本は、国として人口が減少し、国自体が存亡の危機にある。中国は日本や米国に付随し、これから発展しているってことは最近国として潰れたって事か?産業が発展していないのに4000年も国家が存在した? -- 名無しさん (2014-11-18 14 22 20) アメリカはヨーロッパの人間によって植民地にされた。それで原住民は迫害され、様々な植民地が合体してアメリカという国家が作られ経済的に進化を遂げてきた。そんな状況を中国という4000年前からあった国家が存亡を繰り返しつつ、指を銜えて眺めてたってことか?おかしくないか? -- 名無しさん (2014-11-18 14 42 06) 結局中華民族・漢民族の定義は中華文明を受け継いだ者だし、人口が激減したのも戸籍逃れ、小作人、浮浪者が増えただけだから -- 名無しさん (2014-12-10 10 26 04) いろいろ穴のある理論だが、少なくとも明が統一でなかったとする論が支持されることはないだろうな -- 名無しさん (2014-12-13 16 29 12) 2年間見ないうちに、工作員の手がここにも来ていたか・・・ -- 名無しさん (2015-01-06 19 46 59) モンゴルによって支配されてるのに中国4000年はやっぱりおかしい。 - 名無しさん 2015-06-17 00 38 23 中国(一応)4000年(笑) - 名無しさん 2015-07-30 11 31 34 中国の民族問題に満州族と雲南の少数民族が入っていない。 - 名無し 2015-08-16 22 01 26 面白いですね。 - 名無しさん 2016-03-17 21 04 06 中国は中華思想というものがあるから 小中華朝鮮は2番目で日本は3番目という事になりますが。 反日サヨクはそれを実行する為に日本が中国と同等であるとした聖徳太子などが実は居なかった、或は皇室制度を廃止して 中華共産主義を実現させ日本を特亜に組み込み 長男中国 次男朝鮮 三男日本と3国社会主義の中で日本を最も下のとする、中華思想を認めた日本人ということになりますな。それは皇室という日本が中国と同等かそれ以上である、が邪魔なので何が何でも皇室廃止を行うとする。小林よしのりもその先兵 - 中華思想と共産主義 2016-03-17 21 08 28 為になりました、今度は中華思想についてもしりたいですね。 - 名無しさん 2016-09-24 23 38 41 香港も独立するべき - 名無しさん (2020-07-18 10 25 44) 名前 ■自虐史観から完全に目覚めるために!セットで読む歴史問題・解説ページ 中国の歴史・中国文明 辛亥革命~中国近代化運動の実際 中国はなぜ反日か? 自虐史観の正体 GHQの占領政策と影響 大東亜戦争への経緯 南京大虐殺の正体 沖縄戦集団自決命令問題 韓国はなぜ反日か? 日韓併合の真実 偏向教科書の正体 NHKの正体 靖國神社と英霊の御心 教育勅語とその精神 右翼・左翼の歴史 戦後レジームの正体 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 政治の基礎知識 歴史問題の基礎知識 ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ 当サイトは、日本人の自虐史観(東京裁判史観)からの完全脱却を応援します。 ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 ⇒ 当サイトは日本唯一の愛国放送・チャンネル桜を応援しています! ■セットで読む中国の民族問題解説ページ■東トルキスタン侵略の正体チベット侵略の正体南モンゴル侵略の正体台湾の真実中国の歴史・中国文明辛亥革命~中国近代化運動の実際