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私の裏サイト「紗玲貴尋会」に関する情報 mixi関係など 橿原松香会 郁心連合会 玉野紗香会 京都千尋会 中島盛代恵美会 柳梓会 紗恩龍星会 若林紀一家 石川一家 角田一家 武内一家 扇綾会 光海一家 佳織領家 理江總家 山志一家 木村連合 伊予唯心会 秋葉玲会 紗香翼竜会 興正山慈会 松順一家 一条尚心会 中條千晴領家 高崎一家 古橋一家 山東領家 末永会 広祥一家 泉裕一家 三香会 高田一家 二代目山桂会 越野一家 古島一家 香乃会 森由美会 森真理会 嬉野一家 今城一家 安芸紫香会 越真領家 塚美希会 松村一家 三井一家 橋本一家 後月恵心会 藤真会 谷智会 山和一家 高槻悠心会 極東白明領家 樋口一家 江華一家 柳禎一家 西宮山麻会 音羽吉田会 白石一家
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一元論 心身問題での一元論は、「ココロもカラダも1つのモノの表れだ」という見地。 唯物論 「心身はどちらも物質だ」という見地。 唯心論 「心身はどちらも精神だ」という見地。 中立一元論 「心身はどちらも、物質でも精神でもない究極的ななにかでできている」という見地。ちょうど唯物論と唯心論の中間の意見。 唯物論 行動主義(心理学) もともとは心理学の一分野で、「自由意志は錯覚であり、行動は遺伝と環境の組み合わせによって決定されていく」という見地。 フロイトやユングに対抗するように、ココロ――とくに無意識――は計測したり実証することができないため、目に見える『行動』に目を向けた。 行動主義者によって考えがまちまちだが、ある程度は以下の法則性がある。 行動の観察が心の動きを研究する最高・最善にして唯一の方法である。 行動のみが心理学の研究対象である。例えば「信念」や「性格」といった心のカタチを表す言葉は、単に行動への傾向性を主題とするための方便にすぎず、指示対象として何らかの心的実体を伴う訳ではない。 心身問題での行動主義は1960年代には衰退し、心脳同一説にとって代わられていった。だが、行動主義の方法論のいくつかは機能主義に受け継がれている。 (心脳)同一説 「ココロとは脳の反応そのものだ」という見地。 サブカテゴリとして、「タイプ同一説」と「トークン同一説」がある。 タイプ同一説……同じココロの反応であれば、誰でもいつでも同じ脳の反応になる。 トークン同一説…同じココロの反応でも、同じ脳の反応などない。 ここでのタイプ・トークンとは、「タイプ=抽象」「トークン=具体」という解釈で申し分ないと思う。この同一説での特徴的な固有名詞と思っておいたほうがたぶん楽。 機能主義 心身問題では、「人間のココロの反応をトレースして、同じ反応を得られればそれがココロだ」という見地。原因(インプット)と結果(アウトプット)に着眼して、ココロの本質については保留している。 過程を重視してあるので、どんな素材のロボットでも同じ反応が得られるのであれば、それはココロだということになる。 非法則一元論 「ココロはカラダから生じるが、カラダがココロと同じだとは限らない」という見地。 消去主義的唯物論 「ココロは錯覚だ」という見地。 これまでの歴史で新たな主張や発見があるなかで、適切でなく誤りであるとされた言葉や概念は「消去」されていく、という考えが下地にある。 中立一元論 汎神論 「すべての物体・精神は、神だ」という見地。 日常生活にある自然や、人間のつくった人工物などの物質から、人間の精神に至るまで、すべてのものは「神」だとする。 似たものに、アニミズムがある。 参考: 心の哲学まとめ 行動主義心理学 - Wikipedia 行動主義 心の哲学の説明を試しに書いてみました - 蒼龍のタワゴト-評論、哲学、認知科学- 心の哲学について質問です。 - Yahoo!知恵袋 トークンとタイプ:token and type タイプとトークン - ebikusuの博物誌 名前 コメント すべてのコメントを見る
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心身問題は、哲学の伝統的な課題のひとつで、「人間の心と体の関係」についての考え。 ”心身”とは銘打たれているが、実際には「ココロとは、なんなのか?」という疑問についての様々な考えに近い。そこから「ココロとは、カラダに対してどういう位置づけにあるのか?」と発展し、「ココロとカラダの関係」となった、と考えるとわかりやすいかも。 現代では「心の哲学」と称することが多いが、正面きって「心の」とかいっちゃうと新興宗教っぽくてイヤなので、ここでは「心身問題」と統一しておく。世間では「心の哲学」で統一されているようなので、ご注意を。 大まかには、一元論と二元論に分けられる。 一元論には大別して、唯物論・唯心論・中立一元論がある。 二元論には大別して、実体二元論・性質二元論・神秘主義がある。 名前 コメント すべてのコメントを見る
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結論 結論で、本書においてわたしたちが展開した諸観念を要約することは無駄ではないだろう。 わたしたちの目的は、絶対的義務と絶対的制裁がないある道徳とは何かを探求することであった。つまり、この道程において、実証科学はどこまで行きうるのか?、もろもろの形而上学的思弁の領域がはじまるのはどこにおいてなのか?ということである。 諸事実に先行し優越する法=法則、したがってア・プリオリで定言的な法を方法的に退けて、わたしたちは諸事実そのものから出発し、諸事実のそのものの法=法則を引き出し、現実から出発して現実の理念を引き出し、自然本性から出発して自然本性の道徳性moralitéを引き出さねばならなかった。さて、わたしたちの自然本性を構成し本質的である事実、それはわたしたちが、生き、感じ、考える存在(生物)であるということである。われわれが行為の原理を求めるべきだったのは、生にであり、物質的かつ精神的moraleである生の形式にしたがってこそだった。 この原理が二重の性格を提示するのは不可避である。というのは、人間のもとでは生そのものが無意識的生と意識的生にいわば二重化されているからである。唯心論者たちの大部分は、ほとんど意識の領域しかみない。しかしながら、行為性の真の基底であるのは、無意識ないしは潜在意識である。本当のところ、意識はいつかは反作用し、遺伝の薄暗い(なぞめいた)綜合が個人と人々のもとに蓄積したものを、分析の明晰さ(明るさ))によって徐々に破壊する。意識は、功利主義学派そして進化論学派さえもが考慮しえない打ちこわしえない力をもつ。そこから、意識の内省と無意識的本能の自発性の間に調和を再構築する必要性がでてくる。つまり、二つの領域に共通であり、したがって、自己意識を持つことで自らを破壊するよりもうまく自らを力づけていくような行為の原理を、見出す必要があるのだ。 わたしたちは、この原理を、物質的かつ精神的観点から、もっとも強度があり、可能なかぎり延長した生において見出したと思う。自己意識をもつことによって、生は、その強度と延長をもち、自らを破壊することには向かわない。それは自己固有の力を増すばかりである。 しかしながら、生の領域においては、諸個人が闘争状態におかれることによって生み出されるアンチノミー、あらゆる存在が幸福をもとめる競争によって、あるいは時には生存existenceをもとめる競争によって生み出されるアンチノミーも存在している。 自然において、生存競争のアンチノミーは解決不可能なものではまるでない。唯心論者の夢はそれを解決すること、あるいはすくなくとも、可能なかぎりそれを縮減することだった。そのために唯心論者たちは、生そのものに優越する法、つまり叡智的、永続的、超自然的法を援用したがるのである。この法を、少なくとも法則としては、援用することをわたしたちは断念した。わたしたちは、叡知的世界をもろもろの仮説の世界のなかに置き直したのである。そして、法が由来しうるのは、ひとつの仮説からではない。したがってわたしたちは再度、生を規制するために生に訴えなくてはならない。だがそのさい、より完全でなくより小さい生を規制しうるのはより完全でより大きな生なのである。事実、ひとえに科学的な道徳にとって、可能なる唯一の規制はそうしたものである。 利己主義と利他主義―唯心論者の賢者の石である結合―を、ある限りにおいてわたしたちに結びつけることを許す生の性格、それはわたしたちが精神的=道徳的多産性(豊饒性)féconditéと呼んだものである。個人的生は、他者へと、他者のなかへと広がり、必要な場合には、身を捧げなければならない。といっても、この膨張=拡張は、その自然本性に反しない。逆にそれは、自らの自然本性に従っているのである。さらには、それは真の生の条件そのものである。功利主義学派は、私とお前との、私のものとお前のものとの、個人的利害と私たちの一般的利害とのこうしたアンチテーゼの手前で、多かれ少なかれ躊躇して止まっている。だが生ける自然は、こうした断固としたものであり論理的に厳正な分割にとどまってはいない。個人的生は、それが多産であるゆえに他者へと膨張的であり、それが生であるこということそれ自体によって、多産なのである。私たちがそれを見たように、物質的=身体的観点から、他なる個人を生み出すことこそ個人の欲求であるがゆえに、この他者はわたしたち自身の生の条件として生成するのである。生は、火のように、伝わることによってのみ自らを保つ。そしてそれが、身体のみならず知性の真理である。知性を聖火のように自己に閉じ込めておくことは不可能である。知性は放射するようにつくられている。感性における膨張の力ですらそうだ。わたしたちはわたしたちの喜びを、また苦痛を分かち合わなければならない。社交的sociableであるのがわたしたちすべてのあり方なのだ。生は論理学者と形而上学者の分類も絶対的分割もしらない。生は、たとえ利己主義者であろうとしても、完全に利己主義者ではありえない。わたしたちはいたる所から開かれている。いたる所から侵入し、侵入されるのである。それは、生物学がわたしたちに提供する根底的法則、生は単に栄養摂取なのではなく、生産と多産=生殖力である、に起因する。生きること、それは獲得することでも消費することでもあるのだ。 こうした身体的かつ心理的な生の一般法則を提示した後に、いかにしてそれから義務の一種の等価物を生じさせうるかをわたしたちは探求した。結局のところ、そのゆえに絶対的命令も超越的法も認めないところの義務とは何なのか。-衝動のある形式である。実際に、「道徳的義務」、「義務」、「道徳的法」を分析してみよ。それらに能動的actifな性格を与えるもの、それはそうした性格と分離不可能なものである衝動、すなわち実践されることを求める力である。そう私たちには、この衝動力こそが、超自然的義務の第一の自然的等価物に思われるのである。 功利主義者たちは、いまだに目的性の考察に夢中になっている。彼らは目的にとらわれている。目的とは彼らにとっては、自体が快楽に還元されうるところの功利性である。かれらは快楽主義者である。つまり彼らは、利己主義の形式もしくは共感の形式のもとに、快楽を精神的生活の原動力とみなす。反対にわたしたちはといえば、目的性ではなく因果性の観点に身を置く。目的としての快楽の誘引それ以前でさえ作用agirしている原因を、わたしたちは認める。すなわちこの原因とは、その自然本性そのものによって、増大し、発散することを目指す生、このようにして快楽を帰結としてはみなすが必然的には目的finとはみなさない生、である。生きものは、純粋かつ単純にベンサムにおける計算機ではない。彼の偉大な本によるところの収支の均衡をなす金融家ではない。生きることは、計算することではなく、行為agirすることである。生きものうちには、力の蓄積、つまり、消費される快楽のためではなく、消費されることが必要であるがゆえに消費される活動性の貯蔵、が存在しているのである。一つの原因は、目的を考慮に入れることさえなしに、もろもろの自らの結果を生み出さずにはおれないのである。 かくして、わたしたちは、わたちしたちの根底的定式、「義務とは、行為に必然的に移行する傾向のある力=可能pouvoirの遊離した表現でしかない」、に到達した。わたしたちが義務という言葉によって描写するのは、力―現実を乗り超え、現実との関係で理念となり、みずからしかるべきものでありうるがゆえに、また現在をすでに溢れ出す未来の萌芽であるがゆえにみずからがあるべきものとなる力―のみである。わたしたちの道徳には、いかなる超自然的原理も存在しない。すべてが由来するのは、生そのもの、生に内属する力からである。生は、絶えず発展することを渇望することで、自らを自らの法=法則としている。生は、行為する自らの力能によって行為することをみずからの義務とするのである。 私たちは、「わたしはなすべきである、ゆえになしうる」と言うかわりに、そうしたことを示したのであり、「わたしはなしうる、ゆえになすべきである」というほうが正しい。そこから、行為する力そのものによって生み出される或る非人格的義務の存在が帰結する。以上が、神秘的、超越的義務の第一の自然的等価物である。
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【登録タグ M 叶 曲 鏡音レン】 作詞:叶 作曲:叶 編曲:叶 唄:鏡音レン 歌詞 (作者ブログより転載) Carpe diem (今この瞬間を楽しめ) Carpe diem (今という時を大切に使え) Carpe diem quam minimum credula postero (明日に信を置かず、その日の花を摘め) 研究に精魂を傾ける少年は ある日運命的な心の偏向により 一つの信仰を持つまでに至り 悟りの境地を築き続けた 有神論 運命論 決定論 唯心論 長い時を費やし編纂された書物には ただの偏執狂と印象を残さない 尚も少年の持説は続く Carpe diem (今この瞬間を楽しめ) Carpe diem (今という時を大切に使え) Carpe diem quam minimum credula postero (明日に信を置かず、その日の花を摘め) やがて民衆は辟易し始めて 青年は異端者扱いされるようになった そして青年は何者かの手によって 残酷な死を遂げる 青年の摘んだその花々は 人生を彩るのに足りたのか それは青年が愛でる前に全て 無残にも ああ 儚く散った 彼の死後 民衆は彼の行動を 千慮の一失だと言う 悲劇は美談として伝播し始めた ああ 彼は 死の警告(メメントモリ)を 理解するより まず人を理解すべきだったのだ コメント 名前 コメント
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★5弾一覧 月属性武将 陽属性武将 木属性武将 水属性武将 火属性武将 月属性武将 武将名 進 御 攻 奥 秘 覚 武 施 !|「聖誕探索」支倉常長|?|?|?|?|?|?|?|?| !|「湯桶忍」猿飛佐助|?|?|?|?|?|?|?|?| 「伊賀守」安藤守就 ? ? ? ? ? ? ? ? 陽属性武将 武将名 進 御 攻 奥 秘 覚 武 施 「畏怖降臨」天草四郎 B B B B A A C A 「雑賀衆」土橋守重 B B A A A B B A 「三位法印」三好吉房 C C B A A C B C 木属性武将 武将名 進 御 攻 奥 秘 覚 武 施 「陰陽銃」幸徳井友景 A A A A B A B B 「見据世」鈴木重時 B C B A A A B A 「数奇者」島井宗室 C C C A A A B C 水属性武将 武将名 進 御 攻 奥 秘 覚 武 施 !|「公家唯心」日野輝資|?|?|?|?|?|?|?|?| 「関白」豊臣秀吉 B B A B A C B C !|「爆恋娘」足利青岳尼|?|?|?|?|?|?|?|?| !|「仁王門」鍋島直茂|?|?|?|?|?|?|?|?| !|「水鉄砲一」今川義元|?|?|?|?|?|?|?|?| !|「悲雪遊将」最上義光|A|B|A|A|C|A|B|C| 火属性武将 武将名 進 御 攻 奥 秘 覚 武 施 「黒船」ペリー B B A B C B C C 「悠々茶湯将」牧村利貞 ? ? ? ? ? ? ? ? 「砂浜排球」鍋島直茂 ? ? ? ? ? ? ? ?
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中立一元論(英:Neutral monism)とは、心身問題についての考え方のひとつで、心的だとか物理的だとかいうものは、ある一つの実体、または出来事の、二つの性質のことだとする理論である。性質二元論はほぼ同じ立場である。 中立一元論は物質的なものと心的なものが実在するとする実体二元論と対立する。また存在論的には一元論であるが、物理的なものだけが存在するとする物理主義や、心的なものだけが存在するという唯心論と対立しつつ、その両者の中間的位置を取る。バートランド・ラッセル、ウィリアム・ジェイムズ、ピーター・ストローソンがこの立場である。デイヴィッド・チャーマーズの自然主義的二元論は中立一元論の一種である。スピノザは汎神論的な一元論者であるが、心身問題に関しては中立一元論といえる。 中立一元論は、心的なものについての説明が困難な物理主義の欠点と、物理的なものの実在性と対立している観念論の欠点を、それぞれ回避しているという点で支持する者が多い理論である。 しかし現代の物理主義者は物理領域の因果的閉包性を前提に、中立一元論者がいう「性質としての心」も、因果的に排除可能だと論じており、心的因果を擁護できるか、また因果的提灯や現象判断のパラドクスを回避できるかが課題となる。 中立一元論のバリエーションの一つであるトロープ説では、心的性質と物理的性質はコインの表裏のように不可分なものとして心的因果を擁護しようとするが、しかしその不可分性の強調は、心的性質の物理的性質への依存に過ぎないと物理主義者は批判している。 参考文献 S・プリースト『心と身体の哲学』河野哲也・安藤道夫・木原弘行・真船えり・室田憲司 訳 1999年 参考サイト http //en.wikipedia.org/wiki/Neutral_monism
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認識論 心身問題 廣松渉(ひろまつ わたる、1933年8月11日 - 1994年5月22日)は日本の哲学者。東京大学名誉教授。 高校進学と同時に日本共産党に入党。東京学芸大学に入学するが、中退して東京大学に再入学する。当初はエルンスト・マッハに対する関心が強かったが、指導教官の勧めなどがあってカント研究に専念。東京大学大学院に進学し、1965年に博士後期課程を単位取得退学している。共産党との関係では、1955年の六全協を受け復党するも、翌1956年に出版した共著書『日本の学生運動』が問題とされ離党した。1958年12月に共産党と敵対する共産主義者同盟(ブント)が結成されて以降、理論面において長く支援し続けた。 認識論 廣松は主観・客観図式による伝統的な認識論を批判する。主観・客観とされているいずれの側も二重になっており、全体として世界の存在構造は四肢的だと指摘し、認識の「四肢的構造連関」を主張した。主観と客観という二つの項は切り離されているのではなく、それぞれ「レアール real」 と「イデアール ideal」 という二肢的二重性をもって構造的に連関し合っている。つまり認識の客観的側面と主観的側面とがそれぞれ二肢的に文節化され、合わせて四つの契機から成る連関態として把握されるとするものである。 まず「客観」について言えば、われわれは客観的対象を生のままの所与として受け取るのではなく、それを所与以上の或るものとして意識している。たとえば、黒板にチョークで円を描くとする。その際われわれは単に黒板上のチョークの痕跡というレアールな所与を知覚しているのではなく、その所与を「円」というイデアールな意味として把握している。ただし、レアールな所与とイデアールな或るものは空間的に離れて存在しているわけではなく、イデアールな或るものはレアールな所与において、つまり黒板上のその図形の中にいわば「受肉化(inkarnieren)」しているのであり、この事態を廣松は「即自的な対象的二要因のイデアール・レアールな二肢的統一構造」(著作集第一巻、37頁)と呼ぶ。 「主観」についても同様の二肢的統一構造がある。たとえば日本語や英語など言語において、複数の国の人物たちがある同一の言葉を聞いたとしても、それぞれの母国語に応じて、同じ音声であるにも関わらずその聞こえ方は全く違うことになる。このことは聞き取る主観が単なる「私」ではなく「私以上の私」、すなわち「われわれとしての私」であることを示している。それゆえに「”主体”の側もまた、イデアール・レアールな二重構造においてある」(著作集第一巻、44頁)と廣松は考える。つまり感覚器官を備えたレアールな私個人が、イデアールな「われわれ」、意識の共同主観と表裏一体であり、主観の二肢的二重性は、経験的主観と超越的主観の関係のようにア・プリオリなものではなく、言語のように社会的協働を通じて歴史的に形成されていくのである。 以上のように、認識の客観的側と主観的側面とがそれぞれ二肢的に文節化され、合わせて四つの契機から成る連関態として把握されていること、これが認識の「四肢的構造連関」と呼ばれるものである。ただしこれら四つの契機はあくまでも関数的、機能的に連関し合っているのであり、それぞれ独立に自存するものではない。この関数的連関から切り離して変数を独立の実体として捉えるところから、いわゆる「物象化的錯視」が生じるとする。「物象化 Verdinglichung」 という概念はマルクスに由来する。廣松哲学の立場からすれば、西欧哲学の基本概念である「個物」「普遍」「自我」「超越的主観」などはすべてこの物象化的錯視の所産ということになる。 心身問題 廣松は基本的にはマルクス主義を擁護しながらも、マルクス/エンゲルスの唯物論では心身問題の解決が困難であることを指摘しており、また廣松自身も「唯物論者」と呼ばれることは侮蔑と捉えていた。そして脳の作用が心的現象を産出するという唯物論の基本的セオリーを、唯心論とは同根で表裏の、一種の「オカルト」に等しいとみなしていた。 廣松はエンゲルスの、「人は将来、意識現象の本質は脳髄の分子運動に還元するであろう。だが、果たして、意識現象の本質は脳髄の分子運動ということで尽くされるであろうか」という言葉を援用し、自身も「還元」を認めるものの、意識の本質はそれでは尽くされないという。 廣松はデカルトが異質なものとして分離したように、心的なものは物理的なものと異なって空間的規定性がないことを認め、心的なものが「実体」であったとしても「状態」であったとしても、心的なものは体内に場所を占めないという。そして空間的存在たる身体と没空間的存在たる意識の間に「因果」「随伴」「並行」という概念を適用するのはカテゴリーミステイクであるとする。確かに身体が傷ついたりした場合には「痛み」など意識現象が伴うことを確認できるが、それは身体と意識現象に「照応関係」があることを示しているに過ぎない。一定の身体現象が意識現象を伴うということは、身体の分析から出て来ることではなく、先行的な了解事項なのである。そして廣松は精神現象は肉体現象に還元されるという見方を「俗流唯物論」として批判し、「世界――身体――精神」という三項化された図式を廃却すべきであるという。 廣松は心身問題の諸説を以下のように分類した。 ■第一網(実体二元論) ①直接的作用説 a.相互作用説 b.随伴現象説 ②心身並行存在説 a.機会原因論 b.予定調和説(ライプニッツ) ■第二網(一元論) ①精神実体説(唯心論的同一説――唯心論、観念論) ②身体実体説(唯物論的同一説――物理主義) ■第三網(中立一元論) 心身はいずれも実体として完結しない。 ①一実体両属性説(スピノザ) ②同一事態相貌説(心脳同一説) 廣松はそれぞれの問題点として、第一網は相互作用のメカニズムが解き難く、第二網は証明が不可能であり、第三網の一実体両属性説は第一網の問題を同様に持つとする。因果説、随伴説、並行説は原理的に実証不可能な形而上学的想定であるとし、ゆえに論じるに足るのは第三網の同一本体相貌説であり、これは心身の二元性という構図を止揚しうるゆえに、新たな第四の類型として扱おうという。 知覚の在り方については、廣松はフランス現象学のパラダイムを認めている。人は自分の身体を皮膚によって外部から隔絶されたものとして理解するが、それはいわば客観的に他者の視点から眺められた身体である。それに対しフランス現象学では、感覚によって「自分の手の痛み」とされるような、直接的に体験される主体的身体を区別し、その主体的身体から心身関係を考え直そうとした。廣松は触覚の場合について、手で何かに触れた時は、「手で対象を感じている」とも、「対象に触れる手の状態を感受している」ともいえるとし、ここでは対象の側(所知)と主体の側(能知)が未分化、というより渾然一体となっているという。これが主客未分の「能知的所知=所知的能知の渾一態」である。 エルンスト・マッハは主客未分の立場から要素一元論を主張し、世界は「感覚」と呼ばれる中性的な要素から成り立ち、それが脈絡に応じて物理的存在や心理的存在とされると考えた。しかし廣松はマッハ同様に主客未分から出発していても、世界が何かの「もの」的な、根本的要素から成り立っているという立場を拒否する。これはゲシュタルト心理学の成果を踏まえたものといえる。廣松は、世界とはどういう「こと」かを問う必要があるという。 参考文献 廣松渉『心身問題』青土社 1988年 廣松渉『今こそマルクスを読み返す』講談社現代新書 1990年 参考サイト http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%A3%E6%9D%BE%E6%B8%89 http //furuido.blog.so-net.ne.jp/2007-04-15
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目次 1.唯物論と唯心論 2.マルクスの唯物論とダーウィンの進化説は逆流現象 3.人間はアメーバーから進化してきたのではない 4.心とは一体何なのか 5.生命の実相と正しき心の探究 6.地球人類、数億年の歴史を語る 7.古事記とコーランの成立が同時代である事実 8.天之御中主之神と天照大御神の実像 9.「生長の家」の大神の主神は天之御中主、副神は住吉大神 (1987年6月29日の霊示) 1.唯物論と唯心論 谷口雅春です。引き続き、第2章に入っていきたいと思います。本章においては、谷口哲学の本質とも言える、「唯神実相哲学」についての話をしていきたいと思います。 これは、生前の私の説に対して、まあ、さらにこちらの世界に還ってからの研究を加えて発表をしたいものだと考えております。 さて、この世の中の成り立ちを説明する仕方としては、古くから二つの説明の仕方があると言われておりました。すなわち、唯心論と唯物論、この対立であります。唯心論というのは、心ですね。心しかないという考え方。唯物論というのは、ものしかないという考え方。この両者が対立的に、論争されてきたわけであります。 まず、唯物論の考え方としては、やはり世界というものは、現にあるものがあるのであって、現にないものをあるように言うのはおかしい、と。すなわち、目の前にあるもの、机であり、椅子であり、家であり、大地であり、草花であり、動物であり、人間の肉体でありますが、このような現に目で見、耳で聞き、手に触れられるものこそ、実在であって、これ以外のものがあるわけではない、と。こういうふうに考えるわけであります。非常に、現実主義的な考え方とも申せましょう。 しかし、唯心論の側から、これに対して、反駁(はんばく)が加えられるわけであります。宇宙があると言うのは、宇宙を、宇宙として認識しているお前の心があるからではないのか。心があってこそ初めて、地球も、宇宙も、岩も、山も、川も、海も、他の人間も、あるのではないのか。お前という者に心なくして、そのような存在が一体あり得るであろうか。唯心論者は、このように言うわけであります。 唯物論者は、これに対して、さらにまた反駁し、その心、心というお前を乗せておる地球は、お前が心を語っておる間にも、クルクルと自転をしておるのだ。すなわち、心で見るだとか、見ないだとか、そう言っておる間にも、お前が立っている大地は、動いておるのだ。これこそが実在でなくして、一体何か実在であるのか、と。まあ、こういうふうに言うわけであります。 この辺に関して、さらに突っ込んだ説明をしたうえで、私の唯神、つまり、神のみがあるという唯神実相哲学へと話を進めていきたいと思うのです。 2.マルクスの唯物論とダーウィンの進化説は逆流現象 そこでまず、唯物論について、今少し検討をしてみたいと思います。唯物論というのは、考え方としては、もちろん大昔からあるわけでありますが、マルクス以来、つまり、ここ百年ばかり、非常に唯物論が一世を風靡(ふうび)してきたかのごとくであります。そして、このマルクスの唯物論と、科学者のダーウィンによる人類の進化の仮説、この二つがたまたま相まって、この百年ほどは、唯物論が時代の主流を占めているかのごとき景観を呈していると思われます。 その時代の流れのなかにある人間は、ともすれば、そのことを当然だと考えがちでありますが、しかしながら、これは必ずしも当然の流れではないのであります。 たとえて言えば、川というものがあります。川の水は上から下へと流れていくのでありますが、そのところどころにおいて、流れが逆転し、逆流しておるところがある。ここがひとつの淵とか、淀(よどみ)とか言われるところであって、そういう淀の部分に流れが入ってくると逆流して、まるで水の流れが川下から川上へと流れているようにグルグルと廻っているように見えるのです。 しかし、これは、本来の川の流れではないのです。同じように、人類の思想の流れというものを見てきても、大部分は上から下へと流れてきたものではあっても、その一時期、こうした川の淵のなかに入って、水が逆流しているかのごとき現象が出ることがあります。 人間を一枚の木の葉だとするならば、この木の葉が逆流したときに、彼らは、どちらが正しい流れかがわからなくなることもあるわけです。しかし、大きな目で見れば、川は上から下へと流れている。それが、わかる。これは真実であります。 私たち宗教家の教えというものは、結局、こういうことであります。いつの時代でも、川の流れというものは、上から下へと流れていくのだ。つまり、唯一の神から人間へと、そして、地上へと降りてきておるものだ、と。いつも、このように教えているものであります。 したがって、ダーウィンの進化説だの、マルクスの唯物論などが、一世を風靡(ふうび)しておるように思っても、これは、いわゆる逆流現象にしかすぎないのではないかということを、よくよく心に留めていく必要があると思うのです。 3.人間はアメーバーから進化してきたのではない 日本では、現時点において、共産主義というのがそれほど人気がないがために、マルクスの思想というものが過大評価されることは少ないと言えましょう。しかし、ダーウィンのほうの進化仮説に関しては、文部省までもがテコ入れをして、全国的に普及をしておるようであります。 ただ、真実を語るとするならば、やはり進化論のなかにも、重大な誤りがあると言わざるを得ません。その重大なる誤りとは、一体何か。結局のところ、霊的なるものの存在を認めてはいないということです。これが、重大なる誤りだと言えます。進化論が扱っておるものは、結局、肉体としての生物がどう変わってきたのかを追っているにすぎません。猿が人間になったのかどうか。あるいは、魚が両棲類(りょうせいるい)となり、両棲類が爬虫類(はちゅうるい)となり、爬虫類から哺乳類が出て、哺乳類が進化して、現在の人間になったかどうか。と言うことは、結局のところ、肉体の歴史を追っておるだけなのであります。 もちろん、こちらの世界から見た霊的な歴史観から見れば、地上の動物というものも、何百万年、あるいは、それ以上の歳月のなかにおいて、さまざまにその形が変わってきたことは事実であります。しかし、形が変わってきたそのつどつどに、神が粘土をこねてそういう動物を創ったわけではないことも、また事実なのです。 鳥なら鳥というものが現われたときに、その鳥がさまざまに変化していったという、そういう変化の道筋というものが確かにあったとは言えましょう。また、人間の人体というものも、長い歴史のなかにおいて、さまざまに変化してきたことも、事実です。すなわち、それらは、やはり、この地球という環境に適応するような形に変わってきたのです。 それは、外見だけにとらわれなくても、つまり、うわべだけの人間が、二本手があり、頭がひとつで、足が二本、目が二つ、鼻がひとつ、口がひとつ、耳が二つ、というような、こういう大きな外見だけにとらわれなくても、皮膚の色ひとつを見ても、そうです。熱帯地域に住んでおる人たちは、やはり黒い色をしております。熱帯に住んでおって、白い色をしたという人はいない。 また、純粋に北方の地方に住んでおって、黒人のような色をしている人はいない。もちろん、アフリカから移住して来た場合も考えられるから、黒い色をしておる人がいないわけではない。ただ、熱帯地方の人は黒く、北方の人は白い、これは、事実であります。こうしてみると、結局、人体にも、環境による影響が現われているわけです。 洞窟のなかに住む生物とか、深海のなかに潜(ひそ)む生物は、太陽の光を受けないがために、真っ白な体をしておるようによく言われております。同じように、光の薄いところには、そうした白い肌の人たちが数多く出て、目の青い、透きとおるような目をした人が数多くおるのです。一方、直射日光を受けるところでは、あたかもサンマが火に焼かれるがごとく、皮膚の黒い人たちが数多く出ておることも事実です。 また、食べものによっても、変化がありましょう。草食民族と肉食民族とが、体型においてもかなり違っておることは、あきらかです。肉食を中心とした人種は、やはり体が大きい。逆に、草食、つまり、稲作であるとか、麦作であるとか、こうしたことを拠所(よりどころ)として生活をしてきた人たちは、全般に、やはり小柄である。こうしたことは、否めない事実であろうと私は思います。 ただ、このように、環境的変化は変化として、人体に影響を与えてはおるわけですが、そうした肉体以前に、人間という観念が宿った霊があったということ、これは、否定できないのです。ですから、人間だけの知性と理性を備えたものが、偶然にできてきたという考えがありますが、これは、まったく世界を惑(まど)わす考え方であると言わざるを得ません。 皆さん方は、本当にあの進化論を信ずることができるのでしょうか。アメーバーが何億年かしたら、本当に人類のようになってくるのでしょうか。そうしたことを信じられるでしょうか。もしアメーバーが人類になって、こうした知的遺産を残すようになるとするならば、そのアメーバーが人類になるがごとき方向に導いているエネルギーに対する敬礼脱帽というものをせざるを得なくなるのではないでしょうか。私は、そう思います。 人間というのは、魂において、やはり神から分かれてきたものなのです。神の属性を、その本来の属性として持っておるものなのです。こうした霊的側面から見るならば、進化論、あるいは、唯物論というのは、大変な間違いであると言えると思います。 4.心とは一体何なのか 日本の昔の歴史書、たとえば、古事記とか、日本書紀をひもといてみると、日本列島というのは、伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の命(みこと)によって国づくりがされたということが記されております。雲の上から鉾(ほこ)でもってかき回して、その雫(しずく)が落ちたところが、すなわち、日本列島のさまざまな島になったというような神話が残されております。まあ、神話は神話でありますが、少なくとも、こうした日本列島のような島国をつくるに際しても、それをつくるという計画が、すでに神の国においてなされておったということは、事実であるわけであります。 このように、この地上的なものごと、こうしたものは、単に偶然にできるのではなくて、大きな計画のもとに、やはりなされておるのです。 こうしてみると、唯物論、唯心論の両方を紹介いたしましたが、どちらもまだ不十分なところがあると言わざるを得ません。 なぜならば、唯心論と言われているものも、唯心の心、これが単なる心だととらえているかぎりにおいては、まだ探究の不足が、そこにあると思われるからです。つまり、その心とは、一体何なのかということがわからない。 この心というのを、単なる知覚能力、認識能力だというふうに受け取るとするならば、これは、あきらかに間違っていると言えましょう。自分が見ることができるならば地球はあるけれども、見えなければ地球がないとか。目が見える人にとっては赤い色が実在するが、目が見えない人にとっては赤い色はないとか。こういう議論は、不毛であります。現に赤は赤としてあるわけです。それは、目が見える見えないには関係しないのであります。 また、心のなかで地球というものを認識しようがしまいが、地球というものが、一日二十四時間で自転をし、一年三百六十五日で太陽の周りを公転している、これもまた、事実であります。こうしてみると、心というのを単なる認識能力、知覚能力と考えた場合には、それのみでもって、この世界観、宇宙観を説明をするのは無理であります。 そこで、この心というものが本当の意味で何なのかということを、さらに私は検討してみたいと思うのです。 まあ、「正しき心の研究」ということを標榜(ひょうぼう)しておるようであるけれども、そもそも、この正しき心というのは一体何なのか。これを、私の実相哲学と比較して考えてみなければならぬと思うのです。 私は、あるところでは、「本来心なし」と言い切ったこともあります。これは、禅で言う「喝(かつ)」でもあるわけですけれども、宗教家の陥りやすい陥穽(かんせい)、つまり、井戸として、心、心と言って、心にとらわれすぎるところがあるんですね。 そして、いつの間にやら、それに振り回されておる。一日中思ったこと、たとえば、何かを思うと、「ああ、こうぃう思いをする自分はダメだ」とか、どうだとか。こうして、一生懸命自分自身を裁くもうひとりの自分というものを見い出したりしておるようです。心、心と言っておるうちに、自分というのが非常に惨めに、情けない存在へとなっていって、その結果、人生に希望も勇気もなくなるというような、こういうことが多々あるわけであります。 すなわち、心という言葉に、あまりにも多義的な意味が与えられすぎておるわけであります。私は、「心なし」と言ったこともありますが、「心なし」と言った理由は、そうした迷うような心は、本来ないのだということを言っておるのです。ああ思った、こう思った、失敗した、間違った、ああした、こうした、という胸のなかを去来している想(おも)いというのは、本来のものではない。心、心と思っておるけれども、こういうのは、たとえば、木炭車が走るときに出るような、スモッグ、いねば、煙であって、本来のものではないのです。 本来の人間の本質には、どのようなことがあっても動じない、迷わない、そうした金剛石のようなものがあるのです。そして、この部分は、各人、すべてに共通しているのです。そして、こうした金剛石の部分がなければ、何故(なにゆえ)に、すべての人に対して、真理だとか、正法だとかいうような、こうした普遍の原理を押しつけることができるでしょうか。 心というのが、各人の自由になるものであって、それぞれ勝手にいろんなことを思ってよいのであるならば、どうしてこれこそが真理だと言って、日本人や外国人、あるいは、いろんな地域に住んでおる者に対して、それを押しつけることができるのでしょうか。そういう安売りは、できないはずであります。 そうした押し売りができるということは、結局のところ、それぞれが得手勝手に、心、心と思って振り回しておる心の中心に、共通の一本の黄金の糸があるということを示しておるのです。 5.生命の実相と正しき心の探究 そして、この中心にある黄金の糸、心を操(あやつ)っておるところのさらに中心部分こそが、私の言う「生命の実相」の部分なわけであります。 すなわち、人類の心のなかに共通に織り込まれている黄金の糸、これが生命の実相であるということです。 私の考えによれば、私の言うこの生命の実相というのは、実は、現在、「〇〇〇〇〇」というところで言っておる正しき心の探究ということと異ならないと思うのであります。正しき心の探究とは、結局、仏性の探究であろうし、仏性というのは、結局、人間神の子の思想、すなわち、生命の実相であろうと思うのですね。 こうして見ると、人間の思い、あるいは、行動というものも、この仏性がどのように現われて展開していくという過程であり、また、この地球にある万生万物、動物や、植物や、鉱物、これらすべても、実は、仏性が自己展開していく姿にしか他ならないということができると思うのであります。 では、仏性とは一体何なのでしょうか。仏性とは、すなわち、神の意志であります。あるいは、神の光の本質であります。結局のところ、そういうことであります。唯一の神から分かれてきた人間が、そのさまざまな場面、場面、段階、段階に応じて、仏性、神性の発現のために努力精進しておるということなのです。 努力しておる人間というものが、神から分かれてきたものであるならば、この神から分かれてきた人間も、やはり神の心によって創られ、この地上において生活をしておるのです。そして、神の子が、結局、神の創られたもののなかで生きておるのですから、そこは本来、この世もあの世もない実相世界しかないとみるのが筋なわけです。 この世というものを有限の世界、限られた世界と思い、この世の法則のみをすべての法則だと思うところに、人間の悩みや苦しみの根本の原因、すなわち、無明(むみょう)というのがあるのです。 そして、この無明というのは、摧破(さいは)せねばならん。この迷いというものを、打ち破らねばならん。私が、聖経『甘露(かんろ)の法雨(ほうう)』のなかで語っておるように、そういう無明というものは迷いであるのだから、これは一蹴せねばならぬのです。 本来は、神の子の実相しか現われておらんのであり、本当にその神の子の本質に目覚めた目で見れば、この地上世界というものも、山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくどしつかいじょうぶつ)、すべてこれ仏性ありということです。 釈迦が悟ったとき、山も、川も、草も、木も、動物も、植物も、すべてそこに仏性、すなわち、神の子としての本質が光っておるということを悟ったと言われております。そして、そういう悟りを開いたときに、苦の世界と、苦しみの世界と思われていたこの地上が、実は輝ける黄金の世界であり、金剛石の世界であるということに気がつくわけです。 なぜならば、この地上で存在しているものすべてが何故(なにゆえ)存在しているのかを知ったときに、その本質を知ったときに、すべてが仏の生命の現われであると悟ることができるからです。 こうした見地から見ると、たとえば、昔から言う、本来悪というのがあるのか、ないのか。こうした問題は、けりがつくわけであります。 本来悪というものはないのです。悪と見えしものは、これはやはり、川の流れのなかに生じてくるうたかたの泡(あぶく)のごときものであり、また、逆巻く波のようなものであって、波は波としてあるように思うけれども、風が治(おさ)まってみれば、実は波というものはないのです。すなわち、悪というものは、本当はないのです。 神理というものは、あるいは、人間の仏性、神性というものは、春の小川のように、サラサラと流れているものなのです。とはいえ、サラサラと流れているなかに、春一番の風が吹いて、表面に小波(さざなみ)が立つように見えることがあります。 この小波のことを悪と言ったり、迷いと言ったりしておるのですが、その小波が本来あるものでないことの理由は、やがて風が止めば、そうした小波が治まり、元のサラサラと流れる春の小川となっていくことからもわかりましょう。 6.地球人類、数億年の歴史を語る まあ、そうしたことで、大まかな説明をしてまいりましたが、せっかく谷口雅春が如来界に還って、さまざまな見聞をしておるわけでありますから、この谷口哲学、唯神実相哲学というものを、実相の世界から見た考えというものの再検討というものを、もう一度してみねばならんのではないか。と、このように考えるわけであります。 そうしてみると、ここに、私はひとつの問題点があったことを認めざるを得ないと思うのであります。すなわち、それは、私が神という言葉で定義をしておったものの本質についてであります。 古事記や日本書紀に現われてくるような神というもの、たとえば、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)というのが、根本神のひとつとして記されておりますが、私は、この天之御中主之神というものを、いわば、宇宙の中心神、根本神であるというふうに考えておりました。 ちょうど大日如来が、仏教のほうで言うと、大宇宙の神か仏であるように言われているのと同じく、天之御中主之神こそが、宇宙の根本神のように考えておりました。 しかし、こちらの世界に還って来て、どうやら事情が違うらしいということに気がついたわけであります。つまり、私は、生前、人類の歴史というものは、たかだか数千年、あるいは、数万年程度のものだと思っておったのでありますが、こちらに還って来て、人類の歴史というのは、そんな浅い歴史ではないということを知りました。 現在、人類の祖先である直立猿人であるとか、北京原人であるとか、こうしたものは、五十万年前、百万年前の存在だと学問的には言われておるそうだけれども、実際の人類の歴史というものは、もっともっとはるかに古いものだということを、私は知ったのです。まさに、気が遠くなるような古い昔から、人類というのは、実はこの地球で魂修行をしておったのだということを、私は知りました。 恐竜の時代と言われる、そういう何億年か昔の時代があったことを知っていると思いますが、その恐竜の時代に、すでに人類はひとつの文化文明を持っておったことがあきらかにわかったわけであります。すなわち、人類の起源は、地球においては、すでに数億年の歴史を持っておるということを、私はこちらの世界に来て、知ったのです。 これは、生前、私がとうてい悟り得ていないことでありました。恐竜の時代においても、やはり人類は住んでおって、恐竜たちから身を守るための文化というものを生み出しておったのです。そういう文化や技術というものを持っておったのです。 ただ、いかんせん、一億年、二億年、三億年前の話であるからして、ほとんどその痕跡が残っておらんのです。その痕跡が残っておらん理由は、さまざまな地殻変動が起きてきたからです。 現在エベレスト山のようになっておる一万メートルもあるような、ああいう高い山であっても、かつては、海底の底にあったのです。そして今、海底の底にあるものが、かつて山であったり、あるいは、大陸であったのです。過去何億年の間に、地球の表面というものは浮いたり沈んだりして、幾度かの地殻変動を繰り返してきていることを、私は知りました。 それはちょうど、古事記、日本書紀で言うところの国づくりのように、島ができたり、国引きをされたりするようなことが、現実にあったわけです。ある島が浮上して大陸となり、地続きとなったり、文明を誇っておった大陸が沈没して、海の底に横たわったり、こうしたことが数かぎりなくあった。そういうわけで、かつての文明の面影というのがほとんどなくなってしまった。また、ノアの箱舟のような現象も数多くあって、そのつど、人類はひとつの洗礼を受けて、新たな文明を再スタートするという、こういう歴史があったわけです。 7.古事記とコーランの成立が同時代である事実 三億年ぐらいにもなりましょうか、こうした人類の歩みというものを振り返ったときに、たかだかここ三千年ぐらいの歴史というものは、ほんの昨日、今日であります。ほんの昨日、今日にあたるわけです。人類の歴史というものを、人間の七十年という人生に比較してみるならば、私たちが人類の歴史として現在知っておるような三千年ぐらいの歴史というのは、本当に昨日のことです。昨日の日記帳を開けば書いてあるようなことであるわけですね。 そうすると、昨日の日記帳に書いてある天之御中主とか、あるいは、国常立之神(くにとこたちのかみ)であるとか、こういう神様というのは、本当に宇宙の根本神であるかと言えば、実はそうではなかったということであります。 これは、「生長の家」の信徒にとってはひとつの驚きであり、私の考えの大いなる改説であるととられるかもしれないけれども、古事記、日本書紀がつくられたのは、今から千数百年前です。ですから、ほんの千数百年前の人が宇宙開闢(かいびゃく)の神について知っていたと考えるのは、これはやはり、事実認定に誤りがあるのです。 今から二千年後、たとえば、「生長の家」総裁であった谷口雅春も、まあ、根本神か、日本の最初の神様のように言われるようになるでしょう。すなわち、人類の歴史というのは、そう古い記憶を持ってはおらんのです。 そういうものであって、奈良時代に宇宙の根本神と言われておったような神様というものは、結局、その千年か、二千年前に地上に生きて、人びとを指導しておった偉大な人であったということなのです。 三億年というひとつの大きな時間の流れを見れば、ここ二、三千年の間に現われたる神格というものは、やはり宇宙の根本神ではないということです。私は、これを知りました。ですから、古事記、日本書紀そのものを鵜呑(うの)みにしてはならんのです。もっと古い時代から人類の歴史はあったのです。 古事記や日本書紀がつくられた時代というのは、結局のところ、アラビアにおいてマホメットがコーランをつくった時代とそう変わらんわけであります。マホメットは、コーランのなかで、天地創造の神アラーのことを述べておるようですが、真理の書というのは、天地創造について述べねばならぬ義務があるために、そういうことを言っておるのだけれども、天地創造というのは、はるかなる昔に行なわれたものであって、いかんせん、人智を超えておるものなのです。 したがって、真実を語れば、天之御中主之神といい、天照大御神といい、実は、今から三千年近い昔において、日本の国に肉体を持たれた光の天使であったということなのです。その証拠は、あの古事記という書物のなかに、神々の姿があまりにも人間的に描かれているところに現われていると言えましょう。岩戸隠れをしたり、踊り狂ったりする神様方。あるいは、酒を飲み、嫉妬をする。あるいは、喧嘩をし、戦(いくさ)をする神様の存在を見たときに、これは実相の神ではないということです。 すなわち、かつてそういうような優れた方たちが地上に降りたことがあって、その伝承が伝わっておって、古事記や日本書紀にまとめられたというわけであります。 8.天之御中主之神と天照大御神の実像 天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)というのは、いわば日本の中心神、つまり、指導神であって、やはり光の大指導霊のひとりであるわけです。そして、日本神道系では、最高の力を持っておる方のひとりであったということです。 まあ、神武天皇という者がいたというふうに歴史のなかで言われておりますが、実際は、そういう偉大な初代の天皇の姿というのは、今から三千年近い、二千数百年前の昔に天孫降臨した、つまり、実相世界から地上へと肉を持って降り立った、そうした偉大な大指導霊の活躍を語っておるわけであります。 天之御中主之命というのは、現在の天皇家の、いわば肉体先祖にあたると言える方であり、今から二千八百年近い昔に、肉体を持たれた方なのです。 天照大御神(あまてらすおおみかみ)と言われる方も、天之御中主之命、この天之御中主之神が九州の地に肉体を持たれて何代か下がったときに出られた方です。天照大御神、この方も、結局、今の九州の地において、天皇家の前身である九州朝廷のなかの女神、つまり、女性の皇后であったのです。皇后という言葉は正しくないかもしれないけれども、まあ、女性の統治者であったわけです。 そして、この天照大御神と言われている方は、谷口雅春が過去世、前世は伊邪那岐大神(いざなぎおおかみ)、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)であるということについては前巻において述べておりますが、その私が伊邪那岐として地上に肉体を持ったときに、実は、私の長女として生まれた者なのです。 当時、主として南九州のほうに、天之御中主から始まる偉大な王朝というのがあったのです。そして、伊邪那岐命と言われている私は、やや南ではない、今の大分県のあたりの豪族として生まれて、そこで力を持っておったのでありますが、この南九州王朝に出た指導者のなかに、霊的能力を持っておる者がおって、その者に対して、天之御中主之神から神示が下り、「今の大分県のほうに住んでおる伊邪那岐命という者の娘に、天照という者がおる。この者を次期の女王とせよ」という神示が下った。そのため、私の娘であった者が、その朝廷の女性の統治者となったのです。こうした事実があったということです。 まあ、こういうことはにわかには信じがたいかもしれないけれども、人類の歴史というものを、たかだか三千年と考えるからそうなるわけであって、何億年もの歴史があったということを前提にするならば、こういうことも、つい昨日、一昨日のことなのです。 現在の人類が生きておるように、千年前、二千年前、三千年前の人類も、やはり生活をしておって、そのときのみに神々が降臨しておったわけではないということです。 結局、根本神と言われておるのは、それは人間が言っておるのであって、本当の根本神の姿を、人間がつかむことはできないということです。 9.「生長の家」の大神の主神は天之御中主、副神は住吉大神 したがって、天之御中主之神という方も、私のいる世界における最高に霊格の高い神霊のひとりでありますが、いまだ人格を持っておる霊であって、かつて肉体を持たれた方であるのです。 そして、「生長の家」の大神と言われていた方が、実は、この天之御中主之神その人であったということを、私は知りました。この「生長の家」の大神、すなわち、私を悟らしめ、私に、「本来肉体なし」「病なし」の教えを説かした、光明思想を説かしたその張本人が、天之御中主之神であったのです。 住吉大神(すみよしのおおかみ)こそが、「生長の家」の大神だということもずいぶん言いましたが、住吉大神というのは、実は、協力した神のひとりであって、中心神としては、天之御中主之神がおったのです。 そして、その他の「生長の家」のさまざまな活動を助けるがために、住吉大神というのが活動をしておったのです。すなわち、「生長の家」の大神と言われた方も、ひとりではなくて、数名の方がたが活躍しておったということです。 これに関して、私は、生前、明確な悟りを得ることはできていませんでした。ですから、そのことについて、本霊示集において、修正をしておきたいと思うのであります。本章は、以上で、私の唯神実相哲学の話とさせていただきたいと思います。