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梅田修一朗 出演作品 Disney+映画 私ときどきレッサーパンダ
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村田修一 031「ループ実装! ゴンさんを守れ!」にて突然多村と共に息を引き取って混乱した読者もいるかもしれない 実は「内川コピペ」と呼ばれるネタであり、ゴンさんの脳内の改装はそのコピペのパロディである バトロワに参加していないが、ちゃっかりGAME OVERと表示されている
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横浜 村田修一をお気に入りに追加 プロフィール 凡例 内野手 25 1980/12/28 177/88 右右 福岡 村田修一@ウィキペディア 村田修一 村田修一とは 村田修一の93%はマイナスイオンで出来ています。村田修一の4%は知識で出来ています。村田修一の2%は時間で出来ています。村田修一の1%は宇宙の意思で出来ています。 横浜とは 横浜の94%は鉄の意志で出来ています。横浜の6%は時間で出来ています。 村田修一の掲示板 名前(HN) カキコミ すべてのコメントを見る 村田修一のリンク #blogsearch2 ページ先頭へ 横浜 村田修一 このページについて このページは横浜 村田修一のインターネット上の情報を時系列に網羅したリンク集のようなものです。ブックマークしておけば、日々更新される横浜 村田修一に関連する最新情報にアクセスすることができます。 情報収集はプログラムで行っているため、名前が同じであるが異なるカテゴリーの情報が掲載される場合があります。ご了承ください。 リンク先の内容を保証するものではありません。ご自身の責任でクリックしてください。
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最後の息子 吉田修一 文芸春秋 \505 「パーク・ライフ」の軽快な文体に好感色だった僕は、続いて文藝会「新人賞」作品「最後の息子」を手にした。こちらは3つの中編が入っている。「パーク・ライフ」も中編くらいのボリュームだった。いつかこの作家の長編を読むことを想像しつつ、軽やかに足を踏み入れるのだった。 表題「最後の息子」とは?、ああ、そう言うことか、とちょっと感激のタイトルでもあった。そんなシャレタ感覚が似合うのも、文体の醸し出す雰囲気がそう思わせるのだ。オカマの「閻魔ちゃん」と同棲する主人公の撮ったビデオ映像。ある日まとめて「見直していた」という設定が、物語らせるリズムをうまく作っている。小説の描写が映像的であるという、僕らの癖を逆手にとったような批判性をも感じさせる構成だ。映画にまつわるエピソードもそれなりにある。そんな僕好みの要素を確認しつつ、「破片」、「Water」と読む。 「最後の息子」では橋口監督の描く軽快な日常ドラマを思い出させ、「破片」においては中上健次を思わせる自然と労働の快楽を感じ、「Water」においては恥ずかしいくらいの青春描写に目頭が熱くなる。この多彩な作家を感じる自分の中へ「今」という時代性を発見できる。それは吉田修一を読む態度の中へ、明らかにコンテンポラリーな感覚を認めようとする自分があり、関係性を描くというデザインに近い行為を、清々しく提示してくれる安心感を認めるからだ。 k.m2002.09.14 コメントをぜひ 名前 コメント カテゴリー 小説 関連リンク
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今までに取り上げた作家リスト よしもと・たかあき ドストエフスキー 保坂和志 吉田修一 大竹昭子 宮崎誉子 岡崎京子 羽田圭介 角田光代 金井美恵子 金原ひとみ カテゴリー カテゴリー コメントをぜひ. 名前 コメント
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悪人 登場人物 コメント 日本の小説家・吉田修一の長編小説。またそれを基にした実写映画。 登場人物 カクレオン:堤下 だましうち必須 コメント 名前 コメント すべてのコメントを見る
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横田順彌 横溝正史 横溝美晶 横光利一 横山信義 横山秀夫 吉岡平 吉川潮 吉川英治 吉川良太郎 吉田修一 吉永みち子 吉田満 吉村昭 吉村達也 吉村萬壱 よしもとばなな(吉本ばなな) 吉屋信子 吉行エイスケ 吉行淳之介 米澤穂信 米田淳一 米原万里 米村圭伍
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東京湾景 吉田修一(著) 価格:1,470円 新潮社 先日読んだ「ランドマーク」がストイックな印象だったからか、この「東京湾景」はとてもストレートな恋愛小説に思えた。 携帯の出逢い系サイトで知り合う。いかにも現代的なネタだ。けれどこのシチュエーションへ既に違和感を持ってしまう人は、吉田修一の作品すべてに共感が薄いかもしれない。というのも、彼の作品はそんな微妙な位置を常に歩いているように思えるのだ。 たとえば、女性のほうは最初に名乗った偽名のまま交際を続けている。一方男性はそのことを知ってもあまり気にしない。この部分へ「普通ショックだろう」と突っ込みを入れてしまうことは彼のファンにはほとんどありえないことだと思う。そして同時にその部分へ違和感をもつ人も多いと思う。 恐らくこの温度差が微妙に響いてくるのだろう。現代を生きる若者(ヘンな言い方だけど)はある意味で両方の現実を行ったり来たりしているのではないか。現実に正直なほど違和感をもつけれど、そういったシチュエーションをまったく受け入れられる現実感を持っている。 作品の中でこの振幅はだんだんと大きくなっていく。二人が付き合いだした後、互いの身体をモノのように欲望していくことや、男性の胸にある火傷の原因を小説を読んで知った女性の動揺など。このあたりになると、両方に対して微妙に受け入れがたくもなる。 当然、この振れの大きさこそ作家の狙う部分なのだろうし、そこで惹きつけられるからこそクライマックスを迎えられるのだ。けれどいつも思うのは、ちょっと「あざとい」ということ。吉田修一の作品が面白くもあり、一方で昔のトレンディードラマのような印象をもってしまうのはこの「あざとさ」だ。 映画を撮るときに引用が避けがたいように、作家の中ではこの「あざとさ」こそ腕の見せ所なのだろうか。確かにそう気づいた頃には、ちょっとほくそえむ程度でむしろ物語りにはまっている自分を見つけてしまうのだから。 それにしてもわざわざ小説家を登場させ男性の過去を無理やり語らせることによって、彼の恋愛感というかトラウマのようなものを引き出すというのはどうだろうか。女性も似たような過去を持っていて、それは同級生が突然現れて語ることで明らかにされる。思えばどちらも強引な設定だ。 このように主人公自身について(自然に)語らせることは映画においても大変難しい部分だ。不自然なプロットを踏まずして感じさせる名作の存在がある証でもないか。そういう意味で「東京湾景」は名作ではないと思う。けれど吉田修一を読む体温の中へ既に名作へ向かう用意はされていないし、作家自身それをよく知っているのではないか。彼の魅力はそこから先にあって、だからこそ「微妙な位置」であり、だからこそ惹きつけられるのだ。2004-05-25/k.m 「恋愛小説論」を読んで 『小説トリッパー』に掲載された仲俣さんの『蹴りたい背中』と『東京湾景』の評論。 ネットで公開されていた。(●引用は主にと『東京湾景』について書かれた部分) http //www.big.or.jp/~solar/odaiba23.html 本人いわく「恋愛小説論」のようです。 ●コミュニケーションにさきだつ一種の過敏さばかりを抱え込んでいるがゆえに、亮介と美緒はすれ違い続ける。 ●話せばなんでも分かり合えるということを前提とする近代的な「友情」なんかよりは、たとえ「すれ違い」ばかりにせよ、その先にあるなにかをこの二人は求めているからだ。 前文が吉田修一の小説でよく出てくる「乾いた部分」で、後文がそれゆえに浮かび上がってくる「情念的な部分」だとすれば、自分が惹かれるのは両者のバランス感覚に対してかもしれない。そして仲俣さんは以下のように恋愛小説を定義している。 ●恋愛とは特殊な形式の友情である、そして、恋愛というプロセスを通ることではじめて一般的な人間関係が形成されるような人間同士の出会いというものがこの世には存在する、恋愛小説とはそうした特殊な友情の成立にいたる経過を描いた小説のことである 確かに上記の定義にしたがえば、『蹴りたい背中』と『東京湾景』も充分に恋愛小説になると思う。定義があいまいであるが故に「これって恋愛小説?」とか「こういうのは好きだけど恋愛小説はあんまり・・」といったような意見を生むのかもしれない。もちろん「ささやかな」意見なんだけど。 結局仲俣さんは上記の小説を「恋愛小説」だと言ったようなものだけど、それってどんな意味があるのだろうか。他者を発見したり、人間関係が形成されたりすることを「友情」と呼び、恋愛も広義(あるいは特殊)な意味でそれに含まれることを再認識されているのだけど。もちろん今の社会は恋愛至上主義だとか言われるくらいに、コミュニケーションへの際限なき願望があるようだ。 では、そこには上記の「恋愛への曖昧な定義感覚」のようなものが原因にもなっているのだろうか。確かに『蹴りたい背中』と『東京湾景』が恋愛小説という「在り来たりではないかもしれない」という感覚によって読者を獲得しているとすれば、TV番組に見られる疑似恋愛モノの氾濫は「これって恋愛かもしれない」という感覚によって視聴者を獲得しているとも見れる。 両者は反転しているが、同じ欲望に基づいている。そこから見えてくるものは、むしろ「恋愛」よりも人と繋がっていたいという「関係への欲求」ではないか。だから小説でもTV番組でも「熱い」人間関係を描いてくれれば「売れる」のだ。それが恋愛かどうかは、商品名のようなもので中身とはあまり関係ない。さらに実生活においてもそれが恋愛だろうが友情だろうが、重要なのは関係が築けたかどうかで、両者に本質的な区別は希薄なのかもしれない。 結局同じような所にもどってきた・・。けれどそのように曖昧なものを再定義するのではなく、どうして関係性なのだろかと考えたい。なぜそこまでして繋がりたいのか。関係したいのか。あるいは関係を妄想したいのか。 ●携帯電話的なコミュニケーションのもつ過敏さの罠から亮介と美緒の二人が自由になれたとき、この小説はようやく終わる。 確かにハッピーエンド的にこの小説は終わった。けれどこの「希望の兆し」のようなエンドマークは正直物足りなかった。むしろ上記にある「コミュニケーションのもつ過敏さの罠」のほうへ興味が湧いた。罠というからには、そこへ引き寄せられる姿とはまってしまった自身の姿とがある。けれどそのことはあまり深く描かれていなかったように思う。 関係への注目がこれほどに高まっている時代ならば、もっとそこへ的を絞った小説を読んでみたい。2004-08-25/k.m カテゴリー-小説
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死の棘 監督:小栗康平 原作:島尾敏雄 脚本:小栗康平 出演: 松坂慶子/岸部一徳/木内みどり 事前に原作を読んでおきたかったけれど、すっかり忘れていた。以前に小栗康平の「NHK人間講座」を見たのがきっかけだった。動きのない静かな演技で、機械的な冷たさは同時に滑稽な空気を醸し出していた。それが意図する所をうまく言い表せないけれど、結構笑いながら見てしまうほどだ。 女性の激情という、自身を興奮へ導いてしまう堂々巡りが笑ってしまうほど酷い。それは一方で締め付けられる思いになる。頼りなく男性がそばへ佇むばかりなのは、映画にはよく見られる状況だ。しかしこの作品がやや違ったふうなのは、夫も次第に妻の堂々巡りへ引き寄せられ、二人とも精神病院へ入ってしまうことだ。 競い合うように気のふれをおこす二人。それは防衛手段のようだった。世界を閉ざすことで問題の解決をさらに困難とし、一方で解放をさけることが互いの防衛手段にもなっているという、なんとも抜け出しがたい輪の中を彷徨っている。 二人の子供達が面白い。奇妙に閉じた世界にいる子供という他者。その存在は自由気ままで、時に小道具のように転がって、時に腹話術のように互いを代弁する。まだ「他者=自らを写し取る存在」には至らない未熟さとして、閉じた世界をかき回しているのだ。 激情の原因は夫の浮気にあったのだろうか。彼の機械的な態度にこそ認められ、妻自身を卑しめる堂々巡りがそこへ隠されている。ただし不自然な二人の空気は、激情によってガス抜きされているようでもあった。そう見れば精神病院行きは不自然な解決方法で、やはりそれは(いつも映画や文学に登場する仕方で)不条理な環境として機能し、望まれない終末を生むだけだった。2003.06.14/k.m 原作との対比 Mitsuho 『死の棘』って、映画化されてたんですね。昔、小説のほうを読んで、この繰り返される救われない状況に辟易としつつも読まされてしまう、不思議な衝撃をうけた作品でした。二人のあいだで閉じてやりどころのない激情、身のすりへらされるような心持。って小説のほうの感想になってしまいましたが、映画のほうも見てみたいですね。SIZE(10){2003-06-16 (月) 02 46 17} k.m 映画でも似たような感想を持ちました。手法としてはとても変わった演出でしたが、あのように特殊な技法によって、かえってみえてくる世界というのもあって、映画はそういう所が面白いですよねー。SIZE(10){2003-06-16 (月) 20 32 15} りえ 熱烈な島尾ファンの間ではこの映画はあまり評判がよろしくなかったようです。作品の出来ではなく「トシオ」と岸辺一徳のイメージが合わなかったというのが理由のようですが。私もちょっとイメージ違うなーと思いましたが(岸辺さんは吉行淳之介の作中人物などが合いそうな気がします)映画は映画として楽しめました。映画の呼吸に自分の呼吸が合ったように思いました。SIZE(10){2003-06-19 (木) 15 12 50} k.m りえさんは両方に触れていらっしゃるのですね。2つを意識的に比較するのも楽しい考察になりそうですね。さっそく買っておこうかも。岸辺一徳のイメージは松坂慶子よりも強烈でした。彼自身のキャラクターが醸し出すものを監督が狙っていて、それがあの映画の特徴でもあることを思えば、やはりあれはあれで楽しむものなのでしょうね。原作があくまでインスピレーションに過ぎないことはクロエの監督も言っていましたような。SIZE(10){2003-06-20 (金) 01 30 22} りえ k.mさんが感じられた「滑稽な空気」ですが、島尾敏雄自身「救いのない小説ですがその底にある滑稽なおかしみのようなものを感じとってもらえれば…」と語っています(記憶が曖昧なので正確な言葉ではないですが)。してみると映画におけるそれも狙いだったということになるのでしょうか。SIZE(10){2003-06-20 (金) 21 29 04} Mitsuho 小説と、翻案された映像を比較するのって面白いですよね。。/「滑稽な空気」ですか、、たしかにそういったものがあったのかもしれません、ある種、あたたかみと言えるような、、、そういったものがあったからこそ興味深く読みすすめられたのかもしれません。。。SIZE(10){2003-06-25 (水) 00 31 15} 吉田修一「突風」との対比 k.m 今日、吉田修一の「熱帯魚」に含まれている「突風」を読んでいたら、「死の棘」にちかいような感情を抱きました。それは女性にたいするとても切ない感情といいましょうか・・。最後の仕打ちがなんともやるせない気分にさせられて、最近こういうのあったな、それが「死の棘」でした。吉田修一の場合、救いのない行き詰った場所というよりも、果てしない交通の過程に含まれる不条理感といった、ある意味対極な場所を通じて同様な感情を伝えているようでしたが。SIZE(10){2003-06-20 (金) 23 00 43} りえ 『死の棘』は出口のない閉塞的な状況にありますが、場所として考えるにそれは苛烈でありながらも強い存在理由を持つに至るのではないかと思います。『突風』は衝動的な移動で「対極な場所」にあると私も思います。実は今実家にいて読み返すことができないのですが、『突風』の最後の仕打ちは、悪意にまで至らない冷えた感情がよく出ていると思いました。『熱帯魚』は吉田修一の本の中でいちばん好きです。クールで切れている、と思いました。SIZE(10){2003-06-22 (日) 09 22 30} カテゴリー-映画
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→村田修一