約 106,749 件
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/42.html
戦時体制とファシズムとの混同(ドイツやイタリアとはちがって、日本ではまず先に戦争(※注:1937.7.勃発の支那事変)があって、それへの対処として国内体制が生まれ、一国一党やそのイデオロギーは後になってからつくりだされた。 ~ 竹山道雄(ドイツ文学者)『昭和の精神史』(1955年) 社会主義・共産主義への“進歩”を「歴史の必然」と考えるマルクス主義者・戦後民主主義者(進歩的文化人)によって、進歩に逆行する反革命、すなわち「天皇制ファシズム(日本ファシズム)」と断罪された戦前期日本の国家体制 <目次> ■1.マルクス主義◆1.マルクス主義の構成と、弁証法的唯物論(史的唯物論)◇1.弁証法的唯物論、史的唯物論 ◆2.マルクス主義の政治体制論と、二段階革命論◇1.マルクス主義と二段階革命論 ◇2.マルクス主義の体制論・革命論 ■2.近代日本の政治体制論◆1.近代日本の政治体制の評価◇1.日本におけるマルクス主義の展開 ◇2.マルクス主義以外の体制論 ◆2.丸山眞男と、天皇制ファシズム論◇1.天皇制ファシズム論(日本ファシズム論) ◇2.その他関連用語 ■3.ご意見・情報提供 ■1.マルクス主義 ◆1.マルクス主義の構成と、弁証法的唯物論(史的唯物論) ◇1.弁証法的唯物論、史的唯物論 ↓本文はここをクリックして表示 +... マルクス主義Marxism※日本語版ブリタニカ百科事典より K.マルクスとF.エンゲルスとの共同作業によって打ち立てられた理論。ドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義を批判対象としつつ、これらを継承することで成立した。その根本思想は、世界をあれこれと解釈するのではなく、変革していかなければならないとする実践的唯物論であり、その変革の主体としてのプロレタリア階級を初めて歴史的に位置づけた。人間生活の現実的前提は物質的生活諸条件であり、歴史もまたその中から見出され基礎付けられなければならない、とする唯物史観に立脚し、歴史を階級闘争の歴史として総括する。マルクス主義は、資本主義社会をブルジョアジーとプロレタリアートの対立として捉え、プロレタリア階級の勝利によって無階級社会(社会主義・共産主義)を実現していかなければならない、としている。マルクス主義では、唯物史観に基づくがゆえに、この資本主義社会の科学的把握としての経済学に重要な位置が与えられており、『資本論』はその精華である。 弁証法的唯物論dialectical materialism※(社会科学事典―新日本出版社)より マルクス主義理論の三つの構成部分(哲学、経済学、科学的社会主義)の一つ。そのおもな特徴は次のことにある。 1. 唯物論的であると同時に弁証法的であること。すなわちそれまでの唯物論が形而上学的(機械的)であった欠陥を克服して、最も全面的で内容豊かな、かつ深遠な発展の学説である弁証法をヘーゲル哲学から受け継ぎ、しかもヘーゲルの観念論的弁証法を唯物論の立場からつくり変え、こうして唯物論と弁証法とを不可分に統一していること。 2. このことによって、自然をも社会をも一貫して唯物論的に捉えることが出来るようになり、従来の唯物論の欠陥を克服して、社会とその歴史の理解にまで唯物論を貫徹させて、史的唯物論を確立したこと。 3. 世界を変革すると言う実践の立場に立ち、かつ真理の基準としての実践の意義を明らかにしたこと 。 4. 自然科学が得た新しい成果を総括して、自然の弁証法的性格を捉え、自然科学の理論的基礎を明確にしたこと。 5. 労働者階級の革命的・歴史的な使命を認識して、この階級の哲学であることを宣言したこと。したがってこの哲学はマルクス主義政党の世界観である。 弁証法的唯物論は19世紀40年代にマルクスとエンゲルスによって打ち立てられたが、その後第二インタナショナルの時代にこの哲学に対する軽視や、これを修正する動きが現れた。 これに対してレーニンは、こうした修正主義を克服し、弁証法的唯物論と科学的社会主義とは切り離せないことを強調するとともに、観念論の新しい諸流派との闘争の中で、資本主義の発展と科学の新しい発展に対応して、この哲学を一層発展させた。 弁証法的唯物論は、このように新しい事態の出現に対応して発展してゆく創造的な性格を持ち、実践活動並びに理論的研究の指針となるものである。 弁証法的唯物論に基づかなければ、一面性と主観主義を生み、思想を硬化させ、実践から遊離させ、事物や現象を正しく分析する能力を失い、修正主義的な又は教条主義的な誤りや政策上の誤りをもたらす。 弁証法的唯物論から離れることは、労働者階級の立場から逸脱し、革命の事業を裏切り、社会主義から共産主義へと進む、建設の大義を放棄するに等しい。 史的唯物論historical materialism※(社会科学事典―新日本出版社)より マルクス主義の歴史観で、唯物論的歴史観(唯物史観)とも言う。史的唯物論は弁証法的唯物論の見地に立って社会の構造・その発展の原動力・その法則を明らかにしたものである。これによって社会とその発展とに関する見解は、従来支配していた観念論的歴史観や地理的唯物論の誤りを克服して新に科学的な歴史観となった。史的唯物論は人間の願望や意識又は超人的な精神的存在や神などによって歴史を説明するのではなく、人間社会とその歴史的発展は、人間が生存し活動する為に必要な生活資料の生産、すなわち物質的生産に基づくことを明らかいにした。物質的生産は一方では人間が自然に働きかけて生活資料を得る生産力と、他方ではこの生産における人と人との関係である生産関係とから成り、両者は統一してその時代の生産様式を形作る。生産様式は社会の物質的な骨組みであり、生産力と生産関係との矛盾を通じて変化・発展し、人類の歴史は生産様式の違いによって、原始共同体・奴隷制・封建制・資本主義・共産主義の五つの発展段階に分けられる。それぞれの生産様式のもとで、それぞれの政治や精神活動の所産(イデオロギー)等の社会的諸現象が生産関係を土台として形作られる。政治や精神活動の所産は、究極的には土台に規定されつつ、一定の独自性を持って発展し、土台に対しても一定の反作用を及ぼす。従って史的唯物論は経済的歴史観の一面的見解とは根本的に異なって、政治や精神活動の所産の大きな意義を承認する。社会の矛盾は、階級社会では生産力の発展を担う革命的階級と、現存の生産関係を保持し続けようとする保守的階級との間の階級闘争となって現れ、階級闘争は社会発展の生きた原動力となる。史的唯物論は、物質的生産が社会とその発展において果たす意義を明らかにしたことによって、物質的生産に携わる人民大衆の歴史における創造的役割を明確にした。こうして史的唯物論は今日、弁証法的唯物論とともに労働者階級と勤労者全体の革命闘争を新に科学的に導く指針である。→歴史観、歴史における大衆の役割。 ◆2.マルクス主義の政治体制論と、二段階革命論 ※サイズが画面に合わない場合はこちらをクリック願います。 ◇1.マルクス主義と二段階革命論 ↓本文はここをクリックして表示 +... 古典的なマルクス主義では、政治体制は、?絶対主義体制→(ブルジョア革命)→?ブルジョア民主制→(プロレタリア革命)→?プロレタリア民主制、と順に「進歩」すると考える(歴史法則主義) ところが1933年1月にドイツで、?ブルジョア民主制→(反革命)→?ナチ政権(ファシズム体制)、という「歴史法則外」の体制変動が発生し、ドイツ共産党が弾圧され、ソ連がナチ政権の打倒対象と名指しされた事態を受けて、1935年8月のコミンテルン第7回大会で、ファシズム体制や帝国主義国の植民地・従属国となっている地域に関する新たな革命戦術(人民戦線戦術)が提起された。 古典的なマルクス主義も、反ファシズム・反帝国主義の革命戦術も、共に、?まず民主共和制の樹立→?次に社会主義体制の樹立、という「二段階革命論」を提起している。 以下、日本語版ブリタニカ百科事典より引用。 なお、用語は「民主主義」と「民主制」が混在しているが、democracy は -ism(思想)ではなく -cracy(制度) であり、厳密には「民主制」が正しいことに注意。 ブルジョアジーbourgeoisie 歴史的概念として、封建社会を打倒し封建的土地所有を廃棄して、資本制生産様式に基づく近代社会を生み出した近代民主主義革命、すなわちブルジョア革命の担い手たる階級をいう。ブルジョアジーの闘争は、市民的自由、すなわち基本的人権と、市民的国家の確立の要求を掲げ、自らを聖職者・貴族の支配階級と対置した意味での「第三身分」と認識して行われた。ブルジョア革命ののち、ブルジョアジーは資本家階級として、自らが生み出した労働者階級であるプロレタリアートと対立するに至った。 プロレタリアートproletariat 階級としての資本家、すなわちブルジョアジーに対立する概念で、資本主義社会において、生産手段を持たず、自らの労働力を資本家に売ることによって生活する階級としての労働者を指す。奴隷や農奴とは異なって生活手段の所有から解き放たれているばかりでなく、人格的な自由を持ち、自己の労働力を商品として資本家に販売することのできる自由な労働者が多数生み出されたのは、ブルジョア革命と本源的蓄積過程においてであり、産業革命以後、社会は大きく?ブルジョアジーと?プロレタリアートに分離された。彼らを社会階級として初めて認めたのはA.スミスであったが、マルクスは、労働者階級は唯一の価値の創造者であり、歴史変革の主体であると規定した。語源はラテン語の proletetarius (無産者)。かつては無産者階級、今日では労働者階級と訳されるが、労働者階級が経済学的規定を持つ用語であるのに対して、プロレタリアートはより広義の歴史的・社会的な概念を含む用語として用いられることが多い。プロレタリアを労働者、勤労者、無産者、プロレタリアートを労働者階級、無産者階級と訳して区別することもある。 社会構成体 マルクス主義の社会構造論。 1 生産力の一定の発展段階に見合う生産関係(生産・分配・交換・消費を巡って形成される社会関係)が社会の下部構造を成し、 2 その現実的土台の上に政治的・法律的制度や組織が整えられ、 3 更にそれが宗教的・芸術的・哲学的、また理念的・イデオロギー的な社会的意識が照応する形で上部構造が成立する。この様にマルクス主義の社会構造は建築のアナロジーで組み立てられている。この枠組みを用い、生産力と生産関係、生産関係と上部構造の矛盾調和のダイナミズムという視点から歴史を全体的に捉えようとするのが史的唯物論のアプローチである。 共産主義社会communist society マルクス主義の理論によって提示された社会形態。私有財産制と国家を廃絶し、財産の共有を基礎として人間疎外を止揚した人類史の最高段階と位置づけられている。共産主義は低次の段階としての社会主義と区分される。 1 社会主義段階では、資本主義の痕跡を残しており、能力に応じて労働し、労働に応じて消費する。 2 だが共産主義の段階に至ると、資本主義的要素は全て取り除かれ、能力に応じて労働し、必要に応じて消費する。ここに至って初めて疎外は止揚され、人間の解放は実現する、とされる。 歴史法則主義historicism 個人を歴史的に無意味な道具とみなしつつ、偉大な理念・民族・階級・指導者に注目して、歴史のうちに何らかの普遍的な発展法則を発見しようとする歴史哲学的世界観。従って、歴史主義 historism とは区別される。歴史法則主義はマルクス主義に代表される大規模な「計画」と「統制政策」の根拠になっているが、K.R.ポパーは著作『歴史主義の貧困』の中で、これが多くの点で誤った科学理解に立脚したものであることを批判した。 二段階革命論 前資本主義的関係が残存している後進資本主義国における革命は、まずブルジョア民主主義革命であり、然る後に社会主義革命へと転化する、という理論。K.マルクス、F.エンゲルスは1848年の『共産党宣言』で、 1 ブルジョア革命は封建秩序と政治的絶対主義を打ち壊し、ブルジョア民主主義と資本主義とを労働者階級と共に建て、 2 次いで労働者階級はブルジョア民主主義によって整えられた諸条件の下で、自らを組織して資本主義を転覆し、社会主義の建設へと向かうと定式化した。これを受けてN.レーニンは、1905年の『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』において、ロシア革命の戦略を、 1 労働者は農民と同盟を結び専制政治を完遂し、 2 その後、貧農など半プロレタリア分子と手を結び社会主義革命を完成する、とした。ロシア革命後、28年7月コミンテルンはその第6回大会で綱領を採択したが、そこでは、 1 資本主義が高度に発達した国における革命が社会主義革命であるのに対して、 2 資本主義の発達が中位の国の革命は、社会主義革命に転化するブルジョア民主主義革命、すなわち二段階革命である、とされ、これが二段階革命論を全世界に普及させ、定着化させるもととなった。 人民戦線people s front 1934~35年頃の世界に台頭してきたファシズム勢力に対抗して結成された反ファシズムの広範な共同戦線。35年8月ファシズムの世界的台頭という状況に直面したコミンテルン第7回大会は、 1 G.ディミトロフ、P.トリアッチらの努力によって、社会民主主義政党を当面の敵としていた従来の社会ファシズム論を改め、 2 各国の共産主義者・社会民主主義者が労働者・農民・小ブルジョアジーを基礎に広範に提携して人民戦線を形成し、ファシズムに対抗する、という新しい方針を打ち出し、画期的な戦術的転換を行った。この転換は国際共産主義運動史上重要な意義を持ち、既にイタリア・フランス・スペイン・中国などに芽生えていた統一戦線への志向を更に促進することとなった。(1) フランスでは、早くも34年2月以降、極右勢力の台頭に抗して、社会党と共産党の統一行動が展開され、35年6月には急進社会党などの諸政党・諸団体もこれに加わって人民戦線が成立した。36年春の総選挙では人民戦線派が勝ち、社会党党首L.ブルムを首班とする第一次人民戦線内閣が成立した。しかしブルム内閣は、やがて内外の保守勢力の抵抗、スペイン内乱を巡る国際情勢の変化に直面して下野し、人民戦線は崩壊した。(2) スペインでは34年9月共産党と社会党の接近が始まり、36年1月正式に人民戦線が結成された。同年2月の総選挙ではスペイン人民戦線派も勝ったが、同年7月F.フランコ将軍の反乱にあい、以降2年8ヶ月の激しい内乱となった。しかし結局、人民戦線は39年3月崩壊した。(3) 中国では35年8月1日に中国共産党が抗日救国のための民族統一戦線結成を訴える「八・一宣言」を発し、翌36年12月の西安事件を経て第2次国共合作が実現、やがて抗日戦争の勝利がもたらされた。(4) 日本では、36年日本無産党が人民戦線の結成を提唱したが、37年冬から38年春にかけて政府の弾圧を受け、多数の逮捕者を出し(いわゆる人民戦線事件)、人民戦線運動は失敗に終わった。 ◇2.マルクス主義の体制論・革命論 ↓本文はここをクリックして表示 +... 絶対主義absolutism 主として近世初頭のヨーロッパにみられる支配形態で、国王・君主が何者にも拘束されない絶対的な権力を持つ政治体制を意味する。歴史的には、中世の封建制社会が解体し始め、一方で近代の資本主義社会が確立するに至らない過渡期に出現した。絶対主義国家は中央集権的な統一国家の機構を整えた点で権力の分散を特徴とする封建制国家とは区別されるが、封建的土地所有を認め、身分制的階層秩序を依然として維持し、人民を無権利の状態に置いた点で近代国家とも異なった。国王は全国的な徴税と司法の担当者としての官僚組織、及び国内の治安確保と王朝的な国家利益の追求のための国王直属の常備軍の拡充を図り、身分制的協賛機関であった議会の権限を縮小した。また教会の国家に対する服従を勝ち取り、王権神授説を用いて絶対王権の防衛に当たった。代表的な絶対主義君主としては、スペインのフェリペ2世、イギリスのヘンリー8世とエリザベス1世、フランスのアンリ4世とルイ14世、プロシアのフリードリヒ2世(大王)、オーストリアのマリア・テリジア、ロシアのピョートル大帝とエカテリーナ2世が挙げられる。しかし、この政治形態も市民革命によって崩壊した。 ブルジョア民主主義bourgeois democracy 労働者階級の全面的解放を目指すプロレタリア民主主義に対峙させて、資本主義社会における市民の政治的自由の保障を根幹とした民主的思潮と運動を概括的に表現したもの。こうした理解からすると、近代市民革命は、ブルジョアジーが封建制度の桎梏を打破するためのブルジョア革命であることが強調され、それを経て具体化された法治諸制度の形式性が主張される。しかし、その歴史的所産である人権規定に関しては、普遍的に妥当する理念として積極的に評価されることが多い。 プロレタリア民主主義proletarian democracy 究極的にはプロレタリアート独裁によって実現される民主主義をいう。マルクス=レーニン主義によれば、 1 ブルジョア民主主義が普通平等選挙権、基本的人権、社会権などを認めるにも拘らず、実際には少数者の利益保護に終わっているのに対して、 2 プロレタリアートを始めとして多数の被搾取者の利益を推進しようとするものである。 プロレタリアート独裁proletarian dictatorship マルクス主義の革命理論の中心概念であるが、マルクスは『共産党宣言』においては二段階革命に囚われてプロレタリアート独裁については何も触れていない。だが「共産主義者同盟中央委員会への回状」や『フランスの階級闘争』などで、L.ブランキの唱えた永続革命論やプロレタリアート独裁論を積極的に評価し始めた。そして1850年4月の「革命的共産主義者万国協会」の規約第1条では永続革命とプロレタリアート独裁が明確に打ち出されている。しかしブランキ派とマルクス派とが決裂したため、またもマルクスはプロレタリアート独裁の用語を使用しなくなった。ところがマルクスはパリ・コミューンを考察して再びこの用語を復活するようになった。彼はパリ・コミューンをパリの大衆が実現した真に民主主義的な「本質的に労働者階級の政府」であると考えた。そしてプロレタリアート自身が公的暴力を組織し、現実の国家機構の解体のうえに新しい労働者の国家を実現するための過渡的な形態として「プロレタリアートの階級独裁」をと捉え直したのである。そしてこの考えは、レーニンの『国家と革命』にも受け継がれて、ロシア革命の原則となった。しかし革命後のソビエトにおいて、この概念は共産党の一党独裁を正当化し、その他の勢力に対する抑圧の手段となった結果、スターリン時代の粛清を生み出すこととなった。その結果、フランス、イタリア、スペインなどの共産党はプロレタリアート独裁を放棄し、複数政党制と議会制民主主義に基づく社会主義への平和的移行を唱えるユーロ・コミュニズムという独自路線をとるようになった。 人民民主制people s democracy 旧ソ連以外の社会主義国家体制の総称。第2次世界大戦の末期から戦後にかけて、ファシズムとの戦いの中で、あるいは植民地支配との戦いを通じて誕生した、社会主義を目指す諸国家の政治体制。初めヨーロッパ諸国に成立した政治体制を指していたが、その後に出現した中国・北朝鮮・ベトナムの政治体制も、一括されることとなった。いずれもソ連型とは異なる社会主義国家への道であるとされた。その革命目標は?民族解放と?民主主義で、ファシズムに対しては、東ヨーロッパ諸国におけるような国民戦線が形成され、中国においては無産市民・農民・民族ブルジョアジーを含めた抗日民族解放運動が展開されたのが端緒である。しかし、 1 東ヨーロッパ諸国では、戦後になってブルジョア民族主義の再建を目指すブルジョア勢力と社会主義体制の実現を目指す労働者勢力とが分裂し、後者は、国民戦線を基本として、人民会議を最高機関とする政治体制を主張し、産業の国有化ないしは土地革命の遂行を目標として実権を掌握するに至った。 2 中国でも、国民党・共産党の分裂抗争に象徴されるように、ブルジョア勢力と労働者勢力との分裂が見られ、共産党の政権掌握による人民共和国が誕生した。 3 北朝鮮、ベトナムの場合も、民族解放のための戦いが、戦後、ブルジョア民主主義との対立に転化して、人民共和国の実現を見たものである。いずれも議会主義、権力分立を否定し、人民会議を形式的に最高機関とする。政党については、ソ連の一党独裁とは異なり、民族解放のための統一戦線からの継承として多党制をとる場合があるが、共産党によって実質的に支配される点で共通する。しかしソ連型の社会主義国家と同様、そこでは思想・表現の自由をはじめとする基本的人権が実質的に存在せず、また当初に期待されたほどの生活水準の向上も実現しなかった。特に東欧では国民の不満をソ連の軍事力を背景に抑えつけていたが、社会主義政権の崩壊と相前後して、東欧の人民民主制は一気に瓦解した。 社会主義国家socialist state マルクス=レーニン主義における政治上の概念で、革命を通じて権力を獲得したプロレタリアートが、社会主義経済の建設と社会主義社会の実現に向けて打ち立てるプロレタリアート独裁の国家のこと。 1 古典的マルクス主義によれば、社会主義の指標として「国家と階級の死滅」が挙げられており、それへ至る過渡期にプロレタリア独裁国家の必要性が説かれる。従って、その意味からすれば、社会主義国家といわれているのは、理論的にはプロレタリア独裁国家のことに他ならず、社会主義国家ということが形容矛盾であるといわなければならない。 2 しかしながら、スターリン以降のマルクス=レーニン主義に従えば、社会主義においても国家は残り、階級闘争も残存する、とされ、「一国社会主義建設」の下に社会主義国家は理論づけられている。 マルクス=レーニン主義Marxism-Leninism レーニンがK.マルクスを正しく承継したことを強調するために作られた用語。特にレーニンの正統性を立証しようとするのは、革命に関する理論である。すなわちレーニンはマルクスの国家論を正しく受け継いで、革命のための理論と戦術とを構築し、プロレタリアート独裁を擁護したとされている。(⇒レーニン主義) 毛沢東思想Maoism 中国の政治家・思想家 毛沢東の革命思想の総称。1927年の国共分裂後、毛沢東は農村革命根拠地を拡大して都市を包囲するという戦略方針のもとで、農民を主体に階級闘争を推し進め、広範な民衆に依拠する大衆路線を採りながら、マルクス=レーニン主義を半植民地・半封建社会の中国に適応させつつ、新民主主義革命あるいは人民民主主義革命としての中国革命を遂行していった。また思想改造を重視し、42年以後、幹部の思想改造運動、整風運動を行った。経済部門での社会主義的改造が基本的に達成された57年以後、社会主義社会でも人民内部になお矛盾が存在するという見解を表明し、更にそれを発展させて、資本主義から共産主義への過渡期である社会主義社会でも、なお長期にわたり階級闘争が続く、と主張した。この理論は66年以後の文化大革命の理論的基礎となり、更に民族解放運動の重視、大国主義の否定、不断革命論に基づく大同の理想の追求なども、毛沢東思想の主要な特徴として挙げることができる。(⇒中国共産党) ■2.近代日本の政治体制論 ◆1.近代日本の政治体制の評価 ※サイズが画面に合わない場合はこちらをクリック願います。 ◇1.日本におけるマルクス主義の展開 ↓本文はここをクリックして表示 +... 日本の政治体制・経済発展段階と共産主義者が採るべき革命方針に関して、「日本民主革命論争」「日本資本主義論争」と呼ばれる論争があったが、1932年にコミンテルン32年テーゼ(方針書)がモスクワから出され、これを遵守してブルジョア革命を目指す者を「講座派」、最初から社会主義革命を目指す者を「労農派」と区別した。 講座派は戦前・戦後を通じて日本共産党の理論家グループを構成し、労農派は戦後に発足した日本社会党の最左派・社会主義協会の理論家グループを構成した。 講座派は1936年、労農派は1937~38年にかけて一斉に検挙され、一時日本からマルクス主義者は消滅したが、その後も密かにマルクス主義の理論・方法論を摂取し、戦後にこれをベースに日本の政治・社会を「天皇制ファシズム」と断罪した丸山眞男のような隠れマルクス主義者も存在する。 以下、日本語版ブリタニカ百科事典より引用。 日本民主革命論争 日本のマルクス主義者・社会主義運動の指導者たちの間で、当面する日本革命の綱領・戦略を巡って戦わされて論争。1926年日本共産党の再建の頃から、32年テーゼの発表に至る時期まで行われたもので、日本共産党の機関紙『マルクス主義』と、山川均・猪俣津南雄らの主宰する『労農』の間でやりとりされた。主要な対立点は、当時の日本国家権力の規定すなわち、絶対主義天皇制(『マルクス主義』)か、あるいはブルジョア独裁(『労農』)かということであったが、これに関連して明治維新の歴史的評価や封建遺制の残存の有無、更には同盟軍・統一戦線の問題などが論争点となった。32年にこの論争は一応は終結するが、以降、封建論争、あるいは資本主義論争といわれる学者・理論家の経済学的分析に関する論争へと発展する。なお民主革命論争・資本主義論争を区別せず、総じて日本民主主義論争ということもある。 32年テーゼ 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし、来るべき日本革命は天皇制を打倒し。地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり、社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには27年・31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論・社会主義運動理論に大きな影響を与え、活発な論争を引き起こした。 日本資本主義論争 昭和初期おもにマルクス経済学者・マルクス史学者の間で行われた日本資本主義の発達と明治維新の主体及びその性質についての論争。1923年志賀義雄と赤松克麿の論争を発端とし、山川均派と渡辺政之輔、野呂栄太郎らの論戦によって本格化したものである。 1 前者(労農派)は日本における封建制は消滅し、国家権力はブルジョアジーが掌握しており、きたるべき革命は社会主義革命であるとしたのに対して、 2 後者(講座派)は封建制の残存物を重要視し、きたるべき革命をブルジョア民主主義革命であるとした。32年『日本資本主義発達史講座』の刊行に伴い、労農派と講座派の論争は多岐にわたって展開された。主なものに「小作料論争」「経済外的強制に関する論争」「マニュファクチュア論争」「明治維新に関する論争」などがある。36年講座派検挙(コム・アカデミー事件)、37~38年労農派検挙(人民戦線事件)によって論争は中断されたが、第2次世界大戦後も講座派内部での新封建論争、国家論を巡る志賀・神山論争などに両派の問題視角は継続されている。代表的論客は上記のほか、 1 労農派では猪俣津南雄、向坂逸郎、土屋喬雄らが、 2 講座派では山田盛太郎、平野義太郎らがいる。 講座派 1925~35年頃、日本資本主義の性格規定を巡って日本のマルクス経済学界を二分した「日本資本主義論争」において、日本資本主義の本質は軍事的半封建的性格にある、と主張した人々。講座派の名称は当初この派の人々が主に岩波書店刊行の『日本資本主義発達史講座』(1932~33)に自己の学説を唱えたことから発した。その代表的論客は、山田盛太郎、平野義太郎であり、それぞれの主著はのちに『日本資本主義分析』(34)、『日本資本主義社会の機構』(34)として刊行された。主な論客は他に、羽仁五郎、服部之総、山田勝次郎、大塚金之助らがいる。これに対抗したのは、向坂逸郎、伊藤好道、土屋喬雄、大内兵衛らの学者・評論家のグループ(いわゆる労農派)であったが、その論争は決着をみないまま第2次世界大戦後に持ち越され、日本共産党と日本社会党との一線を画す論点の一つとなった。 労農派 1927年に創刊された雑誌『労農』の同人またはそれを軸とするマルクス主義の一系譜で、講座派に対立した潮流をいう。第1次日本共産党の解党後、27年テーゼによる党の再建案に反対し党を離れた山川均・猪俣津南雄・荒畑寒村らは雑誌『労農』を発刊。以後日本共産党系の学者いわゆる講座派との間に日本資本主義の分析を巡って「日本資本主義論争」を展開していった。その主張は、明治維新は不徹底な面はあるがブルジョア革命であると規定し、当面する革命を社会主義革命とした。主な論客は前記3名の他に、櫛田民蔵、土屋喬雄、大内兵衛、向坂逸郎、宇野弘蔵らがいる。また代表作として、『日本資本主義の諸問題』(向坂逸郎)、『日本資本主義発達史論集』(土屋喬雄)が挙げられる。36年7月の講座派の検挙で論争は決着を見ないまま、労農派もまた翌37年12月と38年2月に一斉検挙を受けた(第1次・第2次人民戦線事件) 社会主義協会 1951年創立の社会主義理論研究集団。第2次世界大戦前の労農派グループの山川均、大内兵衛、向坂逸郎らに、太田薫、岩井章ら実践家グループも加わり、日本社会党左派の理論的支柱となった。67年、向坂協会派と太田協会派に分裂したが、向坂協会派は社青同(日本社会主義青年同盟)や労働大学を基盤に勢力を拡大、党の若手活動家を握った。68年採択の「社会主義協会テーゼ」はレーニン主義による前衛党組織を採用した。1970年代半ばから、社会党内で協会の「党中党的逸脱、共産主義的偏向」に対する反協会派の反発が強まり、78年1月の大会で協会は、「テーゼ」を「提言」と改め、また理論研究集団へと性格を変えた。 ◇2.マルクス主義以外の体制論 ↓本文はここをクリックして表示 +... マルクス主義以外の体制論では、政治体制を、?全体主義体制、?自由民主制、?権威主義体制に3分するのが今日では一般的である。(ポパー、アレント、リンスの研究より) このうち、?全体主義体制は、 1 共産主義・社会主義体制(マルクス主義体制)と、 2 ファシズム体制、に更に2分される。(ポパー、アレント) なお、?自由民主制(liberal democracy)については、下記のように「民主主義体制」と表記されることが多いが、democracy の正確な訳語は「民主主義」ではなく「民主制」なので厳密にはこれは正しくない。 以下、日本語版ブリタニカ百科事典より引用。 政治体制political regime 一定の支配=服従関係を中心とする政治的統一形態。機能主義的概念として構築された政治システムと区別して用いられる。全体主義体制、天皇制支配体制などはその例である。R.A.ダールはポリアーキー概念により「民主主義体制」の相対化と操作化をもたらし、政治体制の比較分析、民主主義体制に至る過程研究の道を開いた。またJ.J.リンスは現実の政治体制の多くは「全体主義」と「民主主義」の二元論で把握できるものではなく、その中間にある様々なタイプの「権威主義体制」に属するとしている。現代社会において、支配階級は当の政治体制を維持するための権力装置やイデオロギーを公的権力および普遍的イデオロギーとして正当化しようとする。それに対し、被支配者側が支配階級と対抗し、変革を志向する場合、体制維持に対して反体制運動、体制イデオロギーに対して反体制イデオロギーを形成する。本来、体制という概念は社会構成体と同義であったが、それとの相関においてまたその派生体として「政治体制」という概念が成立したと考えられる。 開かれた社会とその敵The Open Society and Its Enemies 批判的合理主義の代表的思想家であるK.R.ポパーが、ファシズムとマルクス主義という2つの全体主義の思想的源泉を探求した政治哲学書。1945年刊。ポパーは呪術的でタブーに満ちた「閉じた社会」と、批判的な態度を持ち知性による非暴力的改善を目指す「開かれた社会」とを区別し、前者から後者への移行を押しとどめ閉じた社会にとどまろうする哲学的伝統こそが全体主義をもたらすと批判した。具体的には、プラトン・ヘーゲル・マルクスがこうした伝統に属する哲学者として厳しく分析されている。 全体主義の起源The Origins of Totalitarianism アメリカの政治学者H.アレントの代表的著作。初版1951年。第2次世界大戦後、最も早い時期に発表された最初の体系的な全体主義研究として知られる。第一部「反ユダヤ主義」、第二部「帝国主義」、第三部「全体主義」の3部構成。全体主義運動は階級社会の崩壊を基盤として成立したもので、一定のイデオロギー実現のために、孤立した諸個人をテロルの鉄枷で締め上げるところに、支配の本質がある、と論じ、そのような体制は厳密には?ナチズムと?スターリニズムのみであると主張する。初版では反ユダヤ主義と帝国主義とを「西洋史の伏流」と捉え、全体主義はその表面化であるとされたが、改訂版以降は、全体主義は西洋史の連続性を切断する現象とされ、前2部との統一性は必ずしも明確ではなくなっている。 全体主義totalitarianism 個人の利益よりも全体の利益が優先し、全体に尽くすことによってのみ個人の利益が増進する、という前提に基づいた政治体制で、一つのグループが絶対的な政治権力を全体、あるいは人民の名において独占するものをいう。歴史的には、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリアなどのファシズム政治体制が挙げられるが、スターリニズムや毛沢東主義などを含むこともある。?一党独裁、?政権の不誤謬性、?議会民主主義の否定、?宣伝機関の独占、?経済統制、?軍国主義、という共通点がある。20世紀に出現した現象であり、マス・コミュニケーションと兵器の技術進歩によって、初めて可能となった。従来の専制政治と異なるのは、大義が強調され、その下に個人の生活全般にまで統制が行われる点である。 権威主義体制authoritarian regime スペイン出身の政治学者ホアン・リンスによって唱えられた概念。従来の民主主義と全体主義の二分法では捉えきれない中間形態を権威主義体制と考え、「権威主義体制とは、制限されており、しかも責任の所在が不分明な多元主義を持ち、練り上げられた指導的イデオロギーでなく、内容の上でも高度な政治的動因もなく、指導者が形式的には無制限だが、実際には完全に予測可能な範囲内で権力を行使するようなシステム」と定義した。具体的には、スペインのフランコ体制が出発点となるが、朴・全時代の韓国、マルコス時代のフィリピンなど、経済成長を目指す権威主義体制は、現代的な課題である。 権威主義体制<ラテンアメリカの> 自発的結社や個人ではなく、国家が許可した少数の主体にのみ政治の実質的関与が限定され、全体主義ほど厳しい統制はないのが最大の特徴である体制。民主主義に近いコスタリカ、コロンビア、ベネズエラと、全体主義に近いキューバを除いて、程度の差はあるが、ブラジル、アルゼンチン、チリ、ペルーなど多くの国の軍政時代、及び文民政権のメキシコがこの分類に入る。経済危機や世辞的要求の高まりから、1980年代に入り、いずれも民主化の課題を抱えることになった。 ファシズムfascism 狭義には、イタリアで資本主義が全般的危機に陥った第1次世界大戦以降、労働者階級の革命運動の高揚に対抗して登場し、議会制民主主義を否定して反革命独裁を志向したムッソリーニに率いられた「ファシスト党」の運動・体制及びそのイデオロギーをいう。「ファシズム」の語は「結束」を意味するイタリア語ファッショ fascio がファシスト党の母体である戦闘集団(Fasci de Combattimento)に使用されたことに由来するが、この語はさらに、古代ローマの執政官の権標であった儀式用具ファスケス fasces (斧を中心に木の棒を束ねたもの)にまで遡るという。一般概念としては、それ以降の類似の現象を指すが、近年、多義的に用いられている。極右政党・軍部・官僚中の反動分子らによる政治独裁を目指し、自由主義・社会主義を排撃し、全体主義・軍国主義・ナショナリズムの高唱などを特色とする。具体的には、1920年代から30年代にかけて登場したドイツのヒトラー、スペインのフランコらによって指導された「権威主義体制」の運動及び体制が挙げられる。このように当初はムッソリーニの運動だけを指す固有名詞であったファシズムは、やがて30年代に入ってヨーロッパを初め各国にそれと類似する運動が勃興するに及び、これらを一般的に総称する名称に転化した。 ◆2.丸山眞男と、天皇制ファシズム論 丸山眞男まるやま・まさお(1914-1996) 政治学者。日本思想史家。東京大学法学部卒業後、同大助教授を経て1950年教授に就任し、71年退官。46年発表の「超国家主義の論理と心理」で、軍国主義日本の指導者の没主体性を鋭く指摘し、天皇制国家の無責任構造を批判する新視点を提起して論壇に一大衝撃を与えた。『日本政治思想史研究』(52)では、江戸期にさかのぼって日本の政治思想を検証し、政治思想史研究の方法論を確立した。第二次世界大戦直後の代表的論文をまとめた『増補版・現代政治の思想と行動』(64)は、「丸山政治学」のバイブルと呼ばれ、英訳されて海外でも評価を得ている。また、60年安保闘争(cf.安保改定問題)などを通じ、戦後民主主義運動の精神的支柱となったが、後年は日本思想の研究に専念した。日本思想の根本的な構造を明らかにした『日本の思想』(57)は思想界に大きな影響を与えた。そのほか『丸山眞男座談』9巻(96)がある。 ※サイズが画面に合わない場合はこちらをクリック願います。 ●丸山眞男 『ファシズムの諸問題』 (1953.10) 「ファシズムは二十世紀における反革命の最も尖鋭な最も戦闘的な形態である。 ちょうどジェスイット主義が十六世紀における反宗教改革の前衛であり、メッテルニヒ支配が十九世紀初頭における反革命を集中的に表現していたように。 反革命はいうまでもなく革命を前提し予想する。 そうして十六世紀における宗教改革、十八世紀末におけるフランス革命の地位を二十世紀において占めるのはロシア革命であることもまた疑いを容れない。 」 ⇒ このように、日本が主権を回復した翌年の1953年には、丸山は「ロシア革命」が宗教改革やフランス革命に匹敵する「進歩」である、とする認識を表明しており、彼の「日本ファシズム論」のベースが マルクス主義の体制論・革命論にあることが見て取れる。 なお、丸山は1950年代に、「赤狩り」後のアメリカの「ファッショ化」に警鐘を鳴らす一方で、中共の政策をほとんど無条件に絶賛し、あるいは、 フルシチョフの「スターリン批判」に対してスターリンの“功績”を擁護する論文を幾つも発表している。 丸山眞男の天皇制ファシズム論に関しては、丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 も参照。 ◇1.天皇制ファシズム論(日本ファシズム論) ↓本文はここをクリックして表示 +... 日本ファシズム 満州事変以降第2次世界大戦までの十五年戦争の期間における、日本の国家の形態を指す言葉。 ①中国における革命運動の進行や、②1929年世界大恐慌の影響による社会的・経済的危機の増大、③階級矛盾の激化を、(1)軍部独裁による民族排外主義の鼓舞と、(2)国民の強権的統制による侵略戦争への動員によって乗り切ろうとした一連の動きを支えたイデオロギーであり、 天皇制ファシズムとも呼ばれる。その背景には、政党内閣の無力による国家的展望の喪失があった。次のような特色をもつ。(1) ヨーロッパのように小ブルジョワの民間における独自な組織化とそれによる権力の奪取として進行したのではなく、上からの再編としてなされていったこと、 (2) 天皇制をイデオロギー的支柱とし、天皇制を支える伝統的社会集団・統治機構をファシズム的に再編したものであること。 従って民間・在野における右翼・国粋主義の活動も、大衆を組織することはできず、五・一五、二・二六事件などの青年将校によるクーデターもそれ自身の展望を持つものではなく、上からの再編への圧力に過ぎなかった。 (補足説明) 見取り図で示したように、コミンテルン32年テーゼは日本の現状を「絶対主義的天皇制」と規定し、日本に来るべき革命は「ブルジョア民主主義革命」と断定しており、 日本共産党はこれを遵守して、戦前日本の国家体制を「ファシズム体制」と規定することには否定的であった(スターリンに最も忠実な理論家とされた神山茂夫が否定論の代表者)。 しかし、1940年から46年1月まで中国で毛沢東に従って行動した野坂参三は、戦前に早くも『日本の共産主義者への手紙』の中で「軍部ファシスト独裁」という言葉を使用しており、 更に戦時中に獄中で非転向を貫いてGHQによって出獄した志賀義雄が、1946年末頃から「日本ファシズム肯定論」を提起して、日本共産党内で以降長期に渡って「神山-志賀論争」と呼ばれる最初の「日本ファシズム論争」が展開された。 一方、非共産党員で東大で政治思想史を研究していた丸山眞男は、1946年5月に岩波書店の雑誌『世界』に論文「超国家主義の論理と心理」を発表し、戦前日本のイデオロギーを「超国家主義(ウルトラ・ナショナリズム)」と断じたのを皮切りに、 翌47年6月に東大で行った講演(のちに論文「日本ファシズムの思想と行動」として発表)で、戦前日本の国家体制を「ファシズム体制」であると断定して、当時の言論界に大きな衝撃を与えた。 以降、丸山眞男の「日本ファシズム(天皇制ファシズム)論」は、「進歩的文化人」と呼称された隠れマルクス主義者と労農派マルクス主義者に広く受容され、それをベースとして様々な追加研究が発表されるようになった。 こうして「日本ファシズム論」は、1980年代までに歴史教科書や憲法解説書さらには宗教解説その他様々の分野の著作物に現れる国家観・歴史観のベースをなす概念として広く普及していった。 しかし、その一方で1980年代に入ると旧ソ連・東欧など社会主義国の経済的・社会的低迷が目立つようになり、やがて1990年前後にこれらの体制が崩壊・解体するに及んで、 日本ファシズム論の元となったマルクス主義の体制論・革命論の枠組み自体が疑問視されるようになり、日本人研究者による追加的研究は下火になって行った。 現在では、戦前日本の国家体制を「天皇制ファシズム(日本ファシズム)」などと呼称するのは、姜尚中(東大政治学教授)など在日系の学者か、中国・韓国の研究者ばかりである。 上記の日本語版ブリタニカ百科事典の「日本ファシズム」の説明も、「十五年戦争」という日本では通常は使われない用語が使用されていることに注意。 (※1931年9月の満州事変勃発から1945年8月の日本敗戦までの期間の日中の対立関係を、中国では「十五年戦争」と称しているが、厳密には途中に塘沽協定に基づく約3年の和平期間があり、これを連続した「戦争」と呼ぶのは、日本人の感覚では些か誇張された表現である。特に中国に迎合した研究者でない限り普通は、この用語は用いられない) ◇2.その他関連用語 ↓本文はここをクリックして表示 +... 昭和維新 1930年代初め頃から軍部革新派の青年将校や、超国家主義者が用いたスローガン。財閥・議会政治などを倒して、天皇と国民が「君民一体」となった国家へ改造することを内容とした。明治維新にならって昭和維新と自称したが、ニ・ニ六事件で皇道派が力を失い、軍上層部・政府が挙国一致の国家総動員を推し進めるようになると、このスローガンは使われなくなった。 錦旗革命 1930年代の右翼運動のスローガンであるが、具体的には1931年10月、荒木貞夫を担いで国家改造を企図した未発のクーデター計画を指す。十月事件ともいう。橋本欣五郎、長勇など陸軍将校を中心とし、民間からは大川周明らが参加した。軍首脳部の躊躇と分裂のために未発に終わったにせよ、これによって若槻内閣は退陣を余儀なくされた。この事件を契機として軍は政治的発言を強め、その後のクーデターを容易にする前例を作った。なおこの事件は軍内部に「統制派」と「皇道派」とを分化させるなど、軍閥暗闘史の上からも注目される事件であった。 上からの革命 一般に革命は下部の民衆の側から起こされるものであるが、まれに支配階級の側から起こされる場合がある。つまり支配階級は革命的情勢を予知して、自己防衛のため先手を取ろうとするのである。もちろんそれが単なる部分的改革に過ぎないことはいうまでもない。 クーデターcoup d Etat 一般に武力による奇襲攻撃によって政権を奪取することを言う。通常の政権交代方式と違って非合法であることに特徴がある。また革命は支配階級に対する大衆の蜂起とそれに続く既存の体制の転覆であるが、クーデターは支配階級内部の権力争奪である点で革命とも違っている。歴史上有名なのは1799年のブリュメール十八日のナポレオンのクーデターである。なお日本の二・二六事件はクーデターの失敗した例である。 国民革命(広辞苑より) ①1925~28年、国民革命軍の北伐による中華民国国民政府の中国統一運動。大革命ともいう。②1923年ミュンヘンに運動を発し、33年独裁権力を握るに至ったナチ党が、その過程で掲げたスローガン。 ■3.ご意見・情報提供 ↓これまでの全コメントを表示する場合はここをクリック +... マルクス主義のお勧めサイト http //messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN action=m board=1835217 tid=a5dea5ka5afa59a4h2j3xa1a28bdbe sid=1835217 mid=1 first=1 -- 名無しさん (2011-11-04 19 31 02) 以下は最新コメント表示 マルクス主義のお勧めサイト http //messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN action=m board=1835217 tid=a5dea5ka5afa59a4h2j3xa1a28bdbe sid=1835217 mid=1 first=1 -- 名無しさん (2011-11-04 19 31 02) 名前 ラジオボタン(各コメントの前についている○)をクリックすることで、そのコメントにレスできます。 ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
https://w.atwiki.jp/r3group/pages/70.html
与えられた微分方程式が以下の形で表されるとき、変数分離形と呼びます。 この方程式の解は容易に求めることができます。 まず両辺をQ(y)で割ります。(ここではQ(x)≠0とします。) ここで合成関数の微分法から、 また、Q(b)=0 となる定数bが存在するとき、 定数関数、y=b も解であることを忘れてはならない。
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/161.html
中川八洋公式掲示板に3/24付けで記事あり。言葉づかいは相変わらず激しくてちょっとどうかとは思うが、論旨明快で参考になる。「立憲主義」を振り回す“反・立憲主義”の朝日新聞 ──「集団的自衛権」への第九条解釈変更こそ“立憲主義”http //nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2014/03/24/131147 -- 名無しさん (2014-04-03 02 23 43) 松尾光太郎氏blog記事。一記事に内容が詰め込まれすぎていて(思想の累多)とてもではないが全部理解するには行かない、という珍しい(そして貴重な)タイプ br()立憲主義の無知が爆裂した朝日新聞 br()http //blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/archive/2014/02/08 -- 名無しさん (2014-04-05 03 28 05)
https://w.atwiki.jp/zatchbell/pages/1602.html
S-213 分離! 術 MP0 特殊 自分のターン 非バトル 自分の「ビクトリーム」を「分離状態」にする。 ●「分離状態」の「ビクトリーム」にはこのカードをつける。 ●自分は、「分離状態」の「ビクトリーム」で、「マグルガ」と「荘厳回転3・6・0」以外の術を使えない。 ●自分のバトルフェイズに1アクションを使って、「分離状態」を解除することができる (このカードを自分の魔本の空いているページにもどす)。 ビクトリーム専用コマンド 頭部を切り離す、ビクトリームが元々持つ能力。 LEVEL 6 R 「荘厳回転3・6・0」を使うために、ビクトリームを分離状態にする。 S-214 荘厳回転3・6・0の使用条件として必須になるが、これ自体にメリットはないばかりか、むしろ使える術に制限が掛かる。 よってS-214 荘厳回転3・6・0のためだけのカードとなるが、そちらも使いやすいカードとは言い難い。 詳細はS-214 荘厳回転3・6・0を参照。 このカードの効果はステイやスタンバイではないので、それらを取り除く効果で解除される心配はない。 しかし、場に出して付けるカードなので、E-070 黒い覇道等の除去で解除される可能性がある点には注意。 また、S-214 荘厳回転3・6・0はステイ効果なので、コンボを決めるためには結局そちらへのステイ解除対策が必要となる。 収録パック LEVEL:6 紫紺の千年闘争 タグ:MP0 ビクトリーム 特殊 自分のターン 自分の魔本の空いているページにもどす 術 非バトル
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/41726.html
登録日:2019/03/28 Thu 14 45 00 更新日:2024/04/19 Fri 01 15 18 所要時間:約 10 分で読めます ▽タグ一覧 IGシリーズ STARWARSドロイド項目 STAR_WARS イライラ棒 エレクトロンスタッフ グリーヴァス将軍 スターウォーズ スター・ウォーズ ドゥークー伯爵 ドロイド バトルドロイド マグナガード 側近 兵器 分離主義勢力 独立星系連合 衛兵 「ええい殺せ! 切り刻んでやれ!」 マグナガードとは、スターウォーズシリーズに登場するロボット兵器「バトル・ドロイド」の一種。 マグナシリーズとは関係ない。 ●目次 【開発までの経緯】 【機体特性】 【劇中の活躍】◆映画本編 ◆アニメシリーズ 【余談】 【開発までの経緯】 自立型ロボット兵器バトルドロイドは、人間型のB1・B2バトルドロイド、昆虫型のドロイディカを中心として多くのタイプが存在する。 しかし共和国を二分する「クローン大戦」が始まると、独立星系連合の軍事司令官グリーヴァス将軍は、既存のバトルドロイドの性能に不満を抱いた。 まず、基本となるBシリーズ・バトルドロイドは極めて高い生産性・整備性と汎用性は持っていたが、個々の戦闘能力は非常に低く、戦力として問題があった。 もう一つの主力・ドロイディカは優れた戦闘能力を誇ったが、その汎用性の低さは問題であり、使いどころが限られていた。 グリーヴァス将軍は前線の司令官として大軍を統率する立場にある。その意味ではB1・B2バトルドロイドの「兵士」としての優秀さは認めてはいたものの、超常的な戦闘力を持つジェダイ相手に、Bシリーズ・バトルドロイドは非力すぎる。 ドロイディカはそのジェダイをも圧倒できる戦力であるが、いかんせん使いにくい。 グリーヴァス自身やアサージ・ヴェントレス、ソーラ・バルク、ダージ、そして独立星系連合の指導者ドゥークー伯爵といったトップ層は充分ジェダイ並の戦力ではあったが、たった数人ではどうにもならないし、そもそも自分が命令できる相手ではない。 そこでグリーヴァス将軍は「単独でもジェダイと渡り合え、かつ人間に準ずるほどの汎用性も持つ」超高性能バトルドロイドを求めた。(*1) それが、マグナガードである。 【機体特性】 基本的な外見は人間型。しかし、同じく人間型ながらもほっそりしすぎて貧弱なB1タイプ、マッシブ過ぎて鈍重なB2タイプとは異なり、非常に人間的な、均衡のとれたスタイルをしている。 手足は太さと長さを両立していて、がっしりとしていながらもしなやかで、いかにも「強そう」な印象を与えている。 メインコンピューターは胴体にあり、頭部や腕の一本ぐらいが破壊されても戦闘を続行できる。 実際、運動性能はドロイド全般で見てもトップクラス。 グリーヴァス将軍の直属として要望されただけあって、グリーヴァス将軍に使われたサイボーグ技術がフィードバックされており、手首を高速回転させたり、高度な武術を再現したりといった、高度な「格闘術」を使用できる。 頑丈に作られているので防御力も高く、人間が素手で破壊することは不可能。 知能に付いては「学習機能がある」という程度でハッキリした描写が見られないが、少なくともBシリーズのようなトンチキっぷりは見せない。 こうした基本ポテンシャルから繰り出される近接戦闘能力は破格で、グリーヴァス将軍やドゥークー伯爵の眼鏡にも叶い、直属の精鋭部隊に抜擢された。 ドロイドでありながらその戦闘能力は二流のジェダイぐらいには匹敵し、複数機でかかれば一流のジェダイでも圧倒できる。 マニピュレーターは人間に近い。 基本的にどんな武器でも運用できるが、劇中では特にエレクトロスタッフを用いた棒術を得意とする。 このエレクトロスタッフというのは、柄の左右から紫のエネルギー電流を放出する、一種の電磁棒であり、触れた相手に強烈な電撃を流して苦悶させることができる。 槍やライトセーバーのような貫通力こそないものの、相手をダウンさせて生け捕りにするのには向いている。もちろん、強烈な電撃を浴びせ続ければ相手を殺害することも可能。 なにより特筆するべきは、エレクトロスタッフはライトセイバーの光刃ともまともに切り結ぶことができたということである。両端の電磁領域だけでなく、柄の部分でもライトセイバーを止められた。 近接戦闘では無敵のライトセイバーを防ぐことができたというのは大きなアドバンテージであり、対ジェダイ戦には積極的に運用された。 ただ、どれだけポテンシャルが高かろうともあくまでドロイドであり、二流のジェダイならまだしも、一流のジェダイを討ち取るのは厳しかった。 グリーヴァス将軍も、マグナガードでは疲弊させるのが精一杯、自分の支援はできても代わりにはなりえないと考えていたようである。 四機がアナキンを圧倒したこともあるが、それはドゥークー伯爵がアナキンのライトセイバーを弾き飛ばしてくれたからだった。 それにいくら運動性能が高くても、対ジェダイ戦を除けば戦闘では射撃が優位なのは事実。 もちろんマグナガードもブラスターなどの射撃兵器は使えるのだが、砲撃能力では強力な連装ブラスターを二基搭載し、かつシールドも展開できて攻防に優れたドロイディカにはとても及ばなかった。 ドロイディカと違って場所を選ばずに運用できるというメリットはあったが、直接戦闘能力では一歩譲る。 当然生産コストも高いため(*2)、満足な数は揃えられず、要所要所でピンポイントな運用に留まっている。 もちろん、船のクルーや荷物の輸送などに贅沢に使うわけにはいかない。 【劇中の活躍】 ◆映画本編 「EP3 シスの復讐」にのみ登場。 初登場は独立星系連合の旗艦「インヴィジブル・ハンド」の司令室にて、グリーヴァス将軍の直属として二機が登場。 オビ=ワン・ケノービとアナキン・スカイウォーカーが攻撃を開始すると、エレクトロスタッフを用いて迎撃。 まともに渡り合い、一方的に斬られるだけだったB1・B2ドロイドとは格の違うところを見せた。 しかし当時最強クラスのジェダイとなっていた二人にはどうしようもなく、アナキンにはストレート負け。 オビ=ワンと戦っていた機体は、頭をはねとばされても攻撃を続けたことで驚かせたが、「たかがメインカメラをやられただけだ!」とはいかず、二機とも哀れスクラップに。(*3) その後、惑星ウータパウの本部でオビ=ワンを倒すべく四機のマグナガードが前進するが、オビ=ワンがいきなりフォースでクレーンを落としたため、あっさり潰された。 かろうじて足だけが潰れた一機がヤバイヤバイと叫んでいたのが印象深い。 映画本編の活躍はこれだけで、そこそこ強いがドロイディカほど戦果は挙げられず、微妙な立ち位置だった。 ◆アニメシリーズ しかしカートゥーンアニメ「クローン大戦」およびCGアニメ「クローンウォーズ」では、映画本編とは打って変わって活躍。 カートゥーン「大戦」ではコルサント奇襲・パルパティーン最高議長の誘拐作戦に投入される。 うち四機がグリーヴァス将軍と行動をともにし、ジェダイ評議員の一角シャアク・ティを含む三人のジェダイと交戦。 他のドロイドでは真似できない、飛んだり跳ねたりといった運動性で大立ち回りを演じ、彼女らと互角の激戦を演じた。 しかしこの四機はやがてシャアク・ティらの猛反撃で全滅。 その後、別に十数機のマグナガードが、殿軍に残ったシャアク・ティを攻撃。何機か撃破されながらも押していた。 しかしこれは囮であり、そのあいだに別行動をとったグリーヴァスがジェダイ二人を殺してパルパティーンを確保したので撤収している。 CG版「クローンウォーズ」でも要所要所で登場。 さすがに「大戦」ほどではないが高いポテンシャルを発揮している。 しかし三機がかりでパダワンのアソーカ・タノに返り討ちにあったり、四機がオビ=ワンに真っ向勝負で撃破されたりと、強いことは強いが最後まで押し切れないところがある。 ドゥークー伯爵が率いた四機がアナキンを圧倒したときもあった。このとき、ドゥークーは剣を収めてのんびり歩いている場面が多く、あまり手助けしていない。 もっとも、最後はアナキンがフォースで吹っ飛ばしていたので、彼らだけでは勝てなかっただろう。アナキンを直後に倒したのもドゥークーだった。 【余談】 グリーヴァスはマグナガードに対して自らの種族であるカリーシュの戦士文化を教え込み、 ・武功を立てた個体には伝統的なマントを授ける ・せっかく連合が用意したジェダイの戦闘データを「戦場で学ばせるのだ!」と言って消させる ・訓練や実践などでつけられた傷やパーツの欠損を「名誉の負傷だ!」と言って修理させない など、効率を重視するドロイド軍らしからぬ振る舞いをさせていた。しかしこれは結果として「ライトセーバー傷のあるマグナガードはジェダイと対峙して生き残った」「性能には個体差があり、マントがある個体はとりわけ強力である」など、随所に威圧感を与え敵を牽制する効果があったようである。 なお、ドゥークー伯爵直属の個体にはマントや傷はなかった。(*4) マグナガードの形式番号は「IG-100」。 これは、EP5でハン・ソロ追撃のため招集された賞金稼ぎの一体「IG-88」と同系列の機体IGシリーズ・バトルドロイドであることを示している。 他のIGシリーズには、カートゥーン版「大戦」にて不死身の賞金稼ぎダージに率いられてバイクに乗り突撃槍を装備した「IGランサー・ドロイド」(形式番号不明)、 CG版「ウォーズ」にてズィロ・ザ・ハットなどが暗殺用に運用していた「IG-86」などがある。 なお、IGシリーズのうち「ランサー」「86」「88」は顔のパーツや細い腕などが酷似しているが、「100」マグナガードだけはデザインがかなり異なる。 帝国期に作られたIG-88よりも古いマグナガードの形式番号が100なのは、88が86以前の機種の発展型であるのに対して、マグナガードは完全新規設計だからと思われる。 追記・修正にはこちらのエレクトロスタッフをどうぞ。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] ひとつ前の項目に触発されて先行投下。ドゥークー伯爵とアサージ、サヴァージは四月中には投稿できるかと思われます。 -- 作成者 (2019-03-28 14 48 50) 完全にグラブルの項目だと思ったわ -- 名無しさん (2019-03-28 14 52 47) カートゥーン版だと手がロケットハンドみたいにすげえ伸びたり、CG版だとライトセーバーでスタッフを輪切りにされたり -- 名無しさん (2019-03-28 15 23 06) 正直マグナガードよりドロイディカのほうが好き、というか脅威を感じる(アニメ未視聴勢)。どっちも強いのはわかってるんだけどアナキンやオビワン達がこいつらと出会ったときのリアクションの差が… -- 名無しさん (2019-03-28 17 28 53) EP5のやつのほうが型番が古いのは何故なんだぜ?昔に作られたやつが長く運用されてるのかな。 -- 名無しさん (2019-03-28 21 39 02) PS2で出たEP3のゲームだと中ボスのコイツらがやたら強い上に、一部のモードではプレイアブルキャラという優遇っぷりだった -- 名無しさん (2019-03-28 22 30 44) カートゥーン版だと、学習機能があるから、シャアク・ティのセイバーに対応できて、スタッフ使われたら未学習で負けたんだっけ? -- 名無しさん (2019-03-29 09 43 50) IG-88とどっちが高性能なんだろうか?あっちの方が後継機だけど単純な戦闘力だけならこっちに軍配が上がるかな? -- 名無しさん (2019-03-29 10 56 26) もしこいつらがライトセイバー扱えてたらどれくらい脅威になってたんだろ -- 名無しさん (2019-03-30 17 01 18) たしかエレクトロ「ン」スタッフじゃなくエレクトロスタッフだった気がする -- 名無しさん (2019-03-30 18 32 48) ↑直したよ -- 名無しさん (2019-03-31 08 59 00) ドゥークゥーがep3で側近にこいつじゃなくてB2スーパーバトルドロイドを使っていたのには何か訳があるのかな。 -- 名無しさん (2020-02-23 22 22 35) クローンウォーズでは普通にマグナガードも側近として採用してるし。深い意味はないんじゃない? -- 名無しさん (2020-02-23 22 37 33) あの頃はカノン扱いだったアニメだと議長誘拐に多数投入されて全滅してるし艦に残ってるのがあんまいなかったんじゃないかな -- 名無しさん (2020-07-14 21 50 09) 小説版だと斬り合いで形成不利になった時に、後方に控えさせたスーパーバトルドロイドに援護射撃させてるし、プラスターの有無で選んだのかもしれない -- 名無しさん (2020-12-24 12 06 18) ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ -- 名無しさん (2024-04-19 01 15 18) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/220.html
阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) 第Ⅱ部 日本国憲法の基礎理論 第1章 日本国憲法における立憲主義 本文 p.111以下 <目次> [74] (1) 立憲主義の意義 [75] (2) 日本国憲法の特異さ [75続き] (3) 日本国憲法と法の支配 ■用語集、関連ページ ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 [74] (1) 立憲主義の意義 立憲主義は、大きく、「近代立憲主義」と「現代立憲主義」に区別することが出来る。 前者の近代立憲主義は、また大きく、「立憲君主制」と「立憲民主制」とに分けることが出来る(但し、私自身は、「立憲民主制」というタームは避けることにしている。なぜなら、既に [22] でふれたように、近代立憲主義の狙いは、民主制の実現にはなかったからである。立憲民主制なる用語は、「君主制でも、貴族制でもなく、僭主制でも寡頭制でもない立憲主義」を表そうとして選択されたのだろう。が、それは、立憲主義の本来のニュアンスである《憲法によって統治権を制限すること》を表し切れていない、と私は確信している)。 体系書または教科書は、上のような幾つかの立憲主義を念頭に置いたうえで、「近代立憲主義から現代立憲主義へ」の展開に言及することが多い(⇒[24]~[25])。 このふたつの違いと展開は、通常、こう説明される。 近代立憲主義とは、 自由権(国家からの自由)の保障を第一義とするために「制限された権力をもっての統治」を目指す憲法体制のことをいう。これに対して 現代立憲主義とは、 「社会国家の樹立を目指すために権力を積極的に行使する統治」を容認する憲法体制をいう。現代立憲主義は、近代立憲主義のもたらした負の遺産、すなわち、貧富の差、経済恐慌、失業等に有効に対処するために20世紀当初以降立ち現れたのだ(⇒[24])。 ところが、不思議なことに、「社会国家」の真の意味は明確にされたことがない。 私の推察するところ、それは、「ブルジョア(市民)/労働者または弱者(社会)」という亀裂を念頭に置いて(⇒[8])、“社会権(社会保障)を充実させることが国家の任務だ”という国家観をいう(「社会」の意味は、「市民法秩序/社会法秩序」といわれるとき、最も明確に浮かび上がる。この点については [25] をみよ)。 社会国家の原型は、ヴァイマルそして今のドイツにあり、思想的論拠は「社会民主主義」にあり、その最大の特徴は所得再分配政策である。 ドイツ理論の影響を受けて、我が国の憲法学者の相当数が、“日本国憲法は、社会国家原理を採用してきた”と論じてきた。 が、私は、この理解に大いに批判的である(社会権や社会保障については、『憲法2 基本権クラシック』において、私は既に私見を披瀝した)。《日本国憲法は、想像以上に、古典的な種類の立憲主義憲法に属している》と私は診断しているからである。 日本国憲法が採用している、法の支配、権力分立、議会制、議員の地位、条約締結、普通選挙制、自由権保障等々は、近代立憲主義に忠実である。 また、議会(国会)について二院制を採用していること、各院に強い自律権を保障していること、執政府について内閣制を採用していること、司法府について自律権を保障しアメリカ型司法審査権まで付与していること(司法審査制はアメリカ建国時に既に気づかれていた)、硬性憲法としていること等も、日本国憲法が近代立憲主義、なかでも古典的な種類のそれに属していることの反映だといえる。 社会権はこの例外だ、と考えたほうがいいだろう([80]もみよ)。 [75] (2) 日本国憲法の特異さ もっとも、日本国憲法における統治構造には、主要立憲主義国の現行憲法には見出し難い、独自の特徴が見出される(基本権保障については、ここではふれない)。 第一は、 かつての君主であった天皇につき、世界でも稀な象徴天皇制(*注1)としている点である。天皇が元首かどうか論議があるとはいえ、憲法の全体構造のなかで天皇制を考えれば、日本国憲法が立憲君主制によっていないことは明らかである(この点については、後の [84] 参照)。象徴天皇制は、社会国家とか現代立憲主義とかに特徴づけられる日本国憲法にあって、いかにも古色蒼然とした色合いをみせている。これは、現代立憲主義から大きくズレており、内閣(宮内庁)の天皇に対する処遇は、明治憲法の臭いすら感じさせるところがある。 第二は、 日本国憲法には、自衛戦争まで放棄する決意まで読みとれる、徹底した「平和主義」が謳われている点である(9条は天皇制の存続と引き替えとしてGHQから提案されたと指摘する論者もいる。この視点からすればこの第二点も第一点と絡んでいる)。9条の解釈論争については後の [95] でふれるとしても、その文理を一読したとき、主要立憲主義国家の憲法を「抜け出ている」との印象は免れない([89]もみよ)。この特異さを“現代立憲主義の一要素だ”と考えてよいか、それとも、“普通の立憲国家からの逸脱だ”と考えてよいか、この評価の違いが9条の解釈に反映されるだろう。 我が国の憲法学界は、明治憲法に否定的な評価を与え、他方で、日本国憲法を“民主的に”解釈すればするほど正しい姿勢である、といてきたところがある。 確かに、現実の統治過程には、明治憲法におけるプラクティスまたは習律が、時々顔を覗かせており、私にとっても気になるところがある。 上にふれた天皇の処遇以外について、少しばかり例を挙げると、 (1) 予算を法律の形式で審議議決しないこと、 (2) 閣議に全員一致を要するとしてきたこと、 (3) 院の自律権よりも、国会の議決(法律)を優位としてきたこと、 (4) 地方公共団体を国家の下位機関であるかのように扱ってきたこと、 (5) 法の支配を法治主義と同じものであるかのように意味づけてきたこと 等である。 なかでも(5)は、統治の要であるはずの法の支配が我が国に根付かないことの原因となっている。 (*注1)象徴天皇制についてアメリカのある論者は、“象徴天皇制は談合オリエンタリズムだ”と、それが日米の妥協の産物だったことを絶妙な表現で象徴天皇制の由来を指摘した。いわゆる国旗・国歌法の制定(平成11年)にあたって小渕総理大臣は「君が代の『』は日本国および日本国民統合の象徴であり、その地位が日本国民の総意に基づき、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のことを指しており・・・・・・」との解釈を示した(平成11年6月29日衆院本会議)。この芒洋とした一文は、天皇制と国民主権との不整合さを浮かび上がらせている。 [75続き] (3) 日本国憲法と法の支配 以下では、近代立憲主義が法の支配とセットとなって歩んできたことの重要な意味に留意しながら、日本国憲法の統治構造を概観していこう。 その基本的な構造を理解するには、第Ⅰ部でみた基礎理論を応用すればいい。 そのままのかたちで応用できない箇所があれば、その理由を考えればいいのだ。 もっとも、「基礎理論を応用する」といっても、その応用の仕方には、論者それぞれの選好が反映される。 先にふれたように、我が国の多くの憲法学者であれば、“民主的に”応用することを好むだろう。 それに対して、私のように、“自由主義的に”応用することを好む研究者もいるだろう(民主主義、自由主義の意義については、既に [26]~[29] でふれた)。 この本の筆者として正直にいえば、基礎理論の部分を私は既に“自由主義的”に語ってきた。 この第Ⅱ部では、自由主義的に構成された基礎理論をさらに自由主義的に日本国憲法へ刻み込もうと私は努めるだろう。 ※以上で、この章の本文終了。 ※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。 ■用語集、関連ページ 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第四章 立憲主義と法の支配 第五章 立憲主義の展開 ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/syukensya1990/pages/336.html
こちらでは09年の平和主義国衆院選のニュース特集を掲載しています。 情報発信元 PN総合通信社 村上内閣誕生へ(09年8月) 新党民主会議の村上代表は未来栄光党、社民連合党、無所属クラブ、スポーツ新党の代表者らと党本部で会合を開き連立内閣樹立で合意した。党のポストは今後協議する。 未来栄光党、連立から離脱。新党民主会議との連立政権を模索へ(09年7月) 未来栄光党は平和自由党との連立を解消し新党民主会議との連立を模索することを発表した。未来栄光党は平和自由党とポストを巡り対立が起きており連立離脱がささやかれてきた。 改革推進党・水田改革党が新党民主会議に合流へ(09年7月) 新党民主会議、改革推進党、水田改革党3党の党代表が府内で会見し改革推進・水田改革の2党が民主会議に合流することを発表した。3党は民主労働党が解党して結成され、再合流を水面下で検討していた。事務処理等の問題から合流した後も党名は新党民主会議を利用する。 平和自由党総裁に岸本氏就任へ(09年8月) 平和自由党総裁選挙が行われ、岸本氏が山崎氏等を破り総裁に就任することが決まった。岸本氏は宇多・岸本派会長を務め、国際派として知られる。また、選挙対策委員長を岸本氏が兼任し、幹事長には岡平氏、幹事長代理に温厚なことで知られる河原氏を起用した他、国対委員長に当選3回の若手議員の猪野氏を起用した。 加藤首相、辞任へ(09年8月) 加藤首相は平和自由党の総裁を辞任すると発表した。衆院選敗北後も留任する声が強かったが最終的に辞任することを決めた。在任中は野党とも積極的に協力して景気対策に取り組むなどして、高い支持率を誇り衆院選敗北後も62%の支持率を得ていた。ただ公共事業削減や高速道路公団改革などを盛り込んだ行財政改革刷新計画が原因で地方組織と対立したことで、支持母体の反感を買った。 民主改革党、党本部売却へ(09年7月) 民主改革党は、党本部を売却すると発表した。同党の党本部は10階建てで65年に建築され耐震強度の不足や老朽化が深刻化していた。同党は衆院選敗北で本部職員の4割に当たる48人を解雇するなど財政難が深刻化している。同党は党本部の売却で10億円の売却益を見込んでいる。今後、党本部は付近のオフィスビルに移転することで調整している。 新時代創造党、知名度不足否定できず・・・(09年7月) 新時代創造党は、2議席減の1議席という結果に終わった。防衛体制の強化や愛国心教育の充実など独自色を出したが、知名度不足で埋没する結果となった。最高顧問に経済通商大臣等を歴任した三田氏を起用し知名度アップを図ったが、選挙資金の不足が影響し候補者の擁立にも苦戦した。 民主改革党、大敗。党首も落選・・・(09年7月) 民主改革党は公示前議席数の29から4議席と大敗する結果となった。当初は民主労働党基盤の地方組織を継承し今回の選挙では優位に立つのではないのかと予想されていたが、民主労働党の最大支持基盤であった平労連が民主改革党を一切支援しないことを発表し状況は変わった。党の幹部によると、その発表以来、地方組織の離反が相次いだという。とある県連では、所属する地方議員・党員の9割が離党し民主会議や水田改革党等の支持に回った。県連幹部によると「もともと民主労働党の解党を招いた民主改革党に対する不満は大きく、平労連の発表をきっかけに党への怒りが爆発した」と話している。今回の選挙により同党は党首、副幹事長、国対委員長が落選し壊滅的ダメージを受けたが、今後再生に向かうのは大変そうだ。 本田代表、代表辞任へ。後任に村上氏(09年7月) 民主会議の本田代表は代表辞任を表明した。本田代表は、民主会議の大勝で首相に就任することが有力視されていたが、選挙直前に体調を崩し入院していた。後任は村上幹事長で党内の調整が進んでいる。 衆院選、平和自由党など与党が過半数割れ(09年7月) 平和自由党、未来栄光党の与党の議席数は233と過半数の250に届かず過半数割れとなった。一方、新党民主会議は132と大躍進となったが、旧民主労働党の支持層の分散で目標としていた単独過半数獲得には届かなかった。また、民主労働党解党の原因となった民主改革党は4議席と大惨敗し、改革推進党、社民連合党、共産新党、無所属クラブは議席数を若干増やし、水田改革党は公示前議席を維持、保守の声と新時代創造党は議席減、スポーツ新党は選挙区で前職の平和自由党候補を破り党首の川野氏が返り咲いた。今後は、政権獲得に向け多数派工作が加速しそうだ
https://w.atwiki.jp/akios/pages/50.html
3. 字句構造 3.1. Unicode 3.2. 字句変換 3.3. Unicodeエスケープ 3.4. 行終端子 3.5. 入力要素とトークン 3.6. 空白 3.7. コメント 3.8. 識別子 3.9. キーワード 3.10. リテラル 3.11. 分離子 9つのASCII文字は分離子(separator)(句読点)です。 Separator one of ( ) { } [ ] ; , . 3.12. 演算子
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/724.html
華北分離工作(かほくぶんりこうさく)とは、華北五省(河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省)を国民政府の支配から切り離し、日本軍の支配下・影響下に置くために日本が行った一連の軍事的・政治的工作の総称である。華北工作・北支分治工作などともいう。 概要 1934年冬から1935年1月にかけては、満州国と中国の国境で、中国軍と日本軍の小規模な衝突がたびたび発生しており、日本軍は華北から抗日勢力を一掃する必要があると認識していた。 1934年12月7日、日本の陸海外三相関係課長間で「対支政策に関する件」が決定され、その中で華北に国民政府の支配力が及ばないようにすることや、華北での日本の経済権益を伸張すること、華北に親日的な傀儡を配置させること、排日意識を低下させることなどが目標に掲げられた。また、1935年1月はじめに関東軍が開催した「対支蒙諜報関係者会同」(大連会議)でも同様の方針が唱えられた。 こうして支那駐屯軍や関東軍は、それぞれ軍事力を背景に国民政府に対して高圧的な協定(6月10日の梅津・何応欽協定・6月27日の土肥原・秦徳純協定)を結ばせ、河北省から国民党勢力と中国軍を、察哈爾省からも国民党勢力と第29軍をそれぞれ撤退させた。 次いで、11月3日に中国が幣制改革を実行すると、日本軍は華北で国民政府の経済的支配力が強まることを恐れて、河北省・察哈爾省に親日的な傀儡政権を樹立しようとしたが国民政府の強硬な抵抗にあい、また日本軍が誘いをかけた諸軍閥にも応じる者がいなかったため、一時しのぎとして塘沽協定による非武装地域を管轄する傀儡政権として冀東防共自治委員会(後の冀東防共自治政府)を11月25日に樹立した。それに対して、国民政府は日本軍の圧力をかわすため、12月18日に河北省・察哈爾省を管轄する冀察政務委員会を設置して、緩衝地帯を設定した。 1936年1月13日、日本は「第一次北支処理要綱」を閣議決定したが、これは華北分離方針を国策として決定したものといえた。4月中旬には支那駐屯軍の増強を決定し、5月~6月に北平・天津・豊台などに配置していった。これに対して国民政府は反対の意向を申し入れ、北平・天津などでは学生・市民による華北分離反対デモが起きる事態となった。中国人の抗日意識は大きく高まり、新たに日本軍が駐屯することになった豊台付近では、日中両軍による小競り合いがたびたび起こり、また中国各地で日本人襲撃事件が多発するようになった。 日本は8月11日には「第二次北支処理要綱」を制定。華北五省に防共親日満地帯設定を企図したものだったが、11月の綏遠事件において中国軍が日本軍(実質的には内蒙古軍)に勝利したことによって中国人の抗日意識はさらに大きなものとなり、さらに12月には西安事件が起こった。 それを受けて日本では、1937年4月16日の「第三次北支処理要綱」において、華北分離工作の放棄も検討されたが、それも確固とした政策とはならず、盧溝橋事件をきっかけとして日中戦争に突入していくこととなった。 参考文献 臼井勝美『新版 日中戦争』中公新書、2000年 太平洋戦争研究会・編、森山康平・著『図説 日中戦争』河出書房新社、2000年 伊香俊哉『満州事変から日中全面戦争へ』吉川弘文館、2007年 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月28日 (金) 19 10。
https://w.atwiki.jp/create_tokyotech/pages/49.html
親機-自由落下機分離試験! Cansat班PMのたなかです。 本日G-sat2の親機-自由落下の分離試験を行いました。 ↓G-sat2ってなに!?って人はこちらをご覧ください。↓ G-sat2紹介資料(PDF) 分離試験では親機のアームによって結合された自由落下機を正常に分離できるかを判定します。 分離は下の写真のようになる(はず)でしたが… 自由落下機とアーム部間の摩擦力が見積もりよりも非常に大きかったために本日の動作確認では分離を行うことはできませんでした。 今週の木曜までに代案を立てて今後の対応を行います。 この分離機構ですが、3月2日に日本大学船橋キャンパスで熊本大学のカイトプレーン投下試験にて完全な動作ができることを目標にしています。 Cansat班PM 自由落下機電装 たなか