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◇1.目次 国 体 の 本 義 一、本書は国体を明徴にし、国民精神を涵養振作すべき刻下の急務に鑑みて編纂した。 一、我が国体は宏大深遠であつて、本書の叙述がよくその真義を尽くし得ないことを懼れる。 一、本書に於ける古事記、日本書紀の引用文は、主として古訓古事記、日本書紀通釈の訓に従ひ、又神々の御名は主として日本書紀によつた。 目 次 緒言(1) ※数字は何ページ目を示す 第一 大日本国体(9) 一、肇国(9) 二、聖徳(21) 三、臣節(32) 四、和と「まこと」(50) 第二 国史に於ける国体の顕現(63) 一、国史を一貫する精神(63) 二、国土と国民生活(85) 三、国民性(91) 四、祭祀と道徳(101) 五、国民文化(114) 六、政治・経済・軍事(126) 結語(143) ◇2.緒言 ↓本文はここをクリックして表示 +... 現代日本と思想問題 我が国は、今や国運頗る盛んに、海外発展のいきほひ著しく、前途弥々多望な時に際会してゐる。産業は隆盛に、国防は威力を加へ、生活は豊富となり、文化の発展は諸方面に著しいものがある。夙に支那・印度に由来する東洋文化は、我が国に輸入せられて、惟神(かむながら)の国体に醇化せられ、更に明治・大正以来、欧米近代文化の輸入によつて諸種の文物は顕著な発達を遂げた。文物・制度の整備せる、学術の一大進歩をなせる、思想・文化の多彩を極むる、万葉歌人をして今日にあらしめば、再び「御民(みたみ)吾(われ)生ける験(しるし)あり天地(あめつち)の栄ゆる時にあへらく念(おも)へば」と謳ふであらう。明治維新の鴻業により、旧来の陋習を破り、封建的束縛を去つて、国民はよくその志を途げ、その分を竭くし、爾来七十年、以て今日の盛事を見るに至つた。 併しながらこの盛事は、静かにこれを省みるに、実に安穏平静のそれに非ずして、内に外に波瀾万丈、発展の前途に幾多の困難を蔵し、隆盛の内面に混乱をつつんでゐる。即ち国体の本義は、動もすれば透徹せず、学問・教育・政治・経済その他国民生活の各方面に幾多の欠陥を有し、伸びんとする力と混乱の因とは錯綜表裏し、燦然たる文化は内に薫蕕(くんいう)を併せつゝみ、こゝに種々の困難な問題を生じてゐる。今や我が国は、一大躍進をなさんとするに際して、生彩と陰影相共に現れた感がある。併しながら、これ飽くまで発展の機であり、進歩の時である。我等は、よく現下内外の真相を把握し、拠つて進むべき道を明らかにすると共に、奮起して難局の打開に任じ、弥々国運の伸展に貢献するところがなければならぬ。 現今我が国の思想上・社会上の諸弊は、明治以降余りにも急激に多種多様な欧米の文物・制度・学術を輸入したために、動もすれば、本を忘れて末に趨り、厳正な批判を欠き、徹底した醇化をなし得なかつた結果である。抑々我が国に輸入せられた西洋思想は、主として十八世紀以来の啓蒙思想であり、或はその延長としての思想である。これらの思想の根柢をなす世界観・人生観は、歴史的考察を欠いた合理主義であり、実証主義であり、一面に於て個人に至高の価値を認め、個人の自由と平等とを主張すると共に、他面に於て国家や民放を超越した抽象的な世界性を尊重するものである。従つてそこには歴史的全体より孤立して、抽象化せられた個々独立の人間とその集合とが重視せられる。かゝる世界観・人生観を基とする政治学説・社会学説・道徳学説・教育学説等が、一方に於て我が国の諸種の改革に貢献すると共に、他方に於て深く広くその影響を我が国本来の思想・文化に与へた。 我国の啓蒙運動に於ては、先づ仏蘭西啓蒙期の政治哲学たる自由民権思想を始め、英米の議会政治思想や実利主義・功利主義、独逸の国権思想等が輸入せられ、固陋な慣習や制度の改廃にその力を発揮した。かゝる運動は、文明開化の名の下に広く時代の風潮をなし、政治・経済・思想・風習等を動かし、所謂欧化主義時代を現出した。然るにこれに対して伝統復帰の運動が起つた。それは国粋保存の名によつて行はれたもので、澎湃たる西洋文化の輸入の潮流に抗した国民的自覚の現れであつた。蓋し極端な欧化は、我が国の伝統を傷つけ、歴史の内面を流れる国民的精神を萎靡せしめる惧れがあつたからである。かくて欧化主義と国粋保存主義との対立を来し、思想は昏迷に陥り、国民は、内、伝統に従ふべきか、外、新思想に就くべきかに悩んだ。然るに、明治二十三年「教育ニ関スル勅語」の渙発せられるに至つて、国民は皇祖皇宗の肇国樹徳の聖業とその履践すべき大道とを覚り、こゝに進むべき確たる方向を見出した。然るに欧米文化輸入のいきほひの依然として盛んなために、この国体に基づく大道の明示せられたにも拘らず、未だ消化せられない西洋思想は、その後も依然として流行を極めた。即ち西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義及び自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎へられ、又続いて民主主義・社会主義・無政府主義・共産主義等の侵入となり、最近に至つてはファッシズム等の輸入を見、遂に今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至つた。 国体の自覚 抑々社会主義・無政府主義・共産主義等の詭激なる思想は、究極に於てはすべて西洋近代思想の根柢をなす個人主義に基づくものであつて、その発現の種々相たるに過ぎない。個人主義を本とする欧米に於ても、共産主義に対しては、さすがにこれを容れ得ずして、今やその本来の個人主義を棄てんとして、全体主義・国民主義の勃興を見、ファッショ・ナチスの擡頭ともなつた。即ち個人主義の行詰りは、欧米に於ても我が国に於ても、等しく思想上・社会上の混乱と転換との時期を将来してゐるといふことが出来る。久しく個人主義の下にその社会・国家を発達せしめた欧米が、今日の行詰りを如何に打開するかの問題は暫く措き、我が国に関する限り、真に我が国独自の立場に還り、万古不易の国体を闡明し、一切の追随を排して、よく本来の姿を現前せしめ、而も固陋を棄てて益々欧米文化の摂取醇化に努め、本を立てて末を生かし、聡明にして宏量なる新日本を建設すべきである。即ち今日我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱は、我等国民がよく西洋思想の本質を徹見すると共に、真に我が国体の本義を体得することによつてのみ解決せられる。而してこのことは、独り我が国のためのみならず、今や個人主義の行詰りに於てその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。こゝに我等の重大なる世界史的使命がある。乃ち「国体の本義」を編纂して、肇国の由来を詳にし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、以て国民の自覚と努力とを促す所以である。 ◇3.第一 大日本国体 ※省略 ◇4.第二 国史に於ける国体の顕現 ※省略 ◇5.結語 ↓本文はここをクリックして表示 +... 我等は、以上我が国体の本義とその国史に顕現する姿とを考察して来た。今や我等皇国臣民は、現下の諸問題に対して如何なる覚悟と態度とをもつべきであらうか。惟ふに、先づ努むべきは、国体の本義に基づいて諸問題の起因をなす外来文化を醇化し、新日本文化を創造するの事業である。 我が国に輸入せられた各種の外来思想は、支那・印度・欧米の民族性や歴史性に由来する点に於て、それらの国々に於ては当然のものであつたにしても、特殊な国体をもつ我が国に於ては、それが我が国体に適するか否かが先づ厳正に批判検討せられねばならぬ。即ちこの自覚とそれに伴ふ醇化とによつて、始めて我が国として特色ある新文化の創造が期し得られる。 西洋思想の特質 抑々西洋思想は、その源をギリシヤ思想に発してゐる。ギリシヤ思想は、主知的精神を基調とするものであり、合理的・客観的・観想的なることを特徴とする。そこには、都市を中心として文化が創造せられ、人類史上稀に見る哲学・芸術等を遺したのであるが、末期に至つてはその思想及び生活に於て、漸次に個人主義的傾向を生じた。而してローマは、このギリシヤ思想を法律・政治その他の実際的方面に継承し発展せしめると同時に、超国家的なキリスト教を採用した。欧米諸国の近世思想は、一面にはギリシヤ思想を復活し、中世期の宗教的圧迫と封建的専制とに反抗し、個人の解放、その自由の獲得を主張し、天国を地上に将来せんとする意図に発足したものであり、他面には、中世期の超国家的な普遍性と真理性とを尊重する思想を継承し、而もこれを地上の実証に求めんとするところから出発した。これがため自然科学を発達せしめると共に、教育・学問・政治・経済等の各方面に於て、個人主義・自由主義・合理主義を主流として、そこに世界史的に特色ある近代文化の著しい発展を齎した。 抑々人間は現実的の存在であると共に永遠なるものに連なる歴史的存在である。又、我であると同時に同胞たる存在である。即ち国民精神により歴史に基づいてその存在が規定せられる。これが人間存在の根本性格である。この具体的な国民としての存在を失はず、そのまゝ個人として存在するところに深い意義が見出される。然るに、個人主義的な人間解釈は、個人たる一面のみを抽象して、その国民性と歴史性とを無視する。従つて全体性・具体性を失ひ、人間存立の真実を逸脱し、その理論は現実より遊離して、種々の誤つた傾向に趨る。こゝに個人主義・自由主義乃至その発展たる種々の思想の根本的なる過誤がある。今や西洋諸国に於ては、この誤謬を自覚し、而してこれを超克するために種々の思想や運動が起つた。併しながら、これらも畢竟個人の単なる集合を以て団体或は階級とするか、乃至は抽象的の国家を観念するに終るのであつて、かくの如きは誤謬に代ふるに誤謬を以てするに止まり、決して真実の打開解決ではない。 東洋思想の特質 我が国に輸入せられた支那思想は、主として儒教と老荘思想とであつた。儒教は実践的な道として優れた内容をもち、頻る価値ある教である。而して孝を以て教の根本としてゐるが、それは支那に於て家族を中心として道が立てられてゐるからである。この孝は実行的な特色をもつてゐるが、我が国の如く忠孝一本の国家的道徳として完成せられてゐない。家族的道徳を以て国家的道徳の基礎とし、忠臣は孝子の門より出づるともいつてゐるが、支那には易姓革命・禅譲放伐が行はれてゐるから、その忠孝は歴史的・具体的な永遠の国家の道徳とはなり得ない。老荘は、人為を捨てて自然に帰り、無為を以て化する境涯を理想とし、結局その道は文化を否定する抽象的のものとなり、具体的な歴史的基礎の上に立たずして個人主義に陥つた。その末流は所謂竹林の七賢の如く、世間を離れて孤独を守らうとする傾向を示し、清談独善の徒となつた。要するに儒教も老荘思想も、歴史的に発展する具体的国家の基礎をもたざる点に於て、個人主義的傾向に陥るものといへる。併しながら、それらが我が国に摂取せられるに及んでは、個人主義的・革命的要素は脱落し、殊に儒教は我が国体に醇化せられて日本儒教の建設となり、我が国民道徳の発達に寄与することが大であつた。 印度に於ける仏教は、行的・直観的な方面もあるが、観想的・非現実的な民族性から創造せられたものであつて、冥想的・非歴史的・超国家的なものである。然るに我が国に摂取せられるに及んでは、国民精神に醇化せられ、現実的・具体的な性格を得て、国本培養に貢献するところが多かつたのである。 新日本文化の創造 これを要するに、西洋の学問や思想の長所が分析的・知的であるに対して、東洋の学問・思想は、直観的・行的なることを特色とする。それは民族と歴史との相違から起る必然的傾向であるが、これを我が国の精神・思想並びに生活と比較する時は、尚そこに大なる根本的の差異を認めざるを得ない。我が国は、従来支那思想・印度思想等を輸入し、よくこれを摂取醇化して皇道の羽翼とし、国体に基づく独自の文化を建設し得たのである。明治維新以来、西洋文化は滔々として流入し、著しく我が国運の隆昌に貢献するところがあつたが、その個人主義的性格は、我が国民生活の各方面に亙つて種々の弊害を醸し、思想の動揺を生ずるに至つた。併しながら、今やこの西洋思想を我が国体に基づいて醇化し、以て宏大なる新日本文化を建設し、これを契機として国家的大発展をなすべき時に際会してゐる。 西洋文化の摂取醇化に当つては、先づ西洋の文物・思想の本質を究明することを必要とする。これなくしては、国体の明徴は現実を離れた抽象的のものとなるであらう。西洋近代文化の顕著なる特色は、実証性を基とする自然科学及びその結果たる物質文化の華かな発達にある。更に精神科学の方面に於ても、その精密性と論理的組織性とが見られ、特色ある文化を形成してゐる。我が国は益々これらの諸学を輸入して、文化の向上、国家の発展を期せねばならぬ。併しながらこれらの学的体系・方法及び技術は、西洋に於ける民族・歴史・風土の特性より来る西洋独自の人生観・世界観によつて裏附けられてゐる。それ故に、我が国にこれを輸入するに際しては、十分この点に留意し、深くその本質を徹見し、透徹した見識の下によくその長所を採用し短所を捨てなければならぬ。 諸般の刷新 明治以来の我が国の傾向を見るに、或は伝統精神を棄てて全く西洋思想に没入したものがあり、或は歴史的な信念を維持しながら、而も西洋の学術理論に関して十分な批判を加へず、そのまゝこれを踏襲して二元的な思想に陥り、而もこれを意識せざるものがある。又著しく西洋思想の影響を受けた知識階級と、一般のものとは相当な思想的懸隔を来してゐる。かくて、かゝる情態から種々の困難な問題が発生した。嘗て流行した共産主義運動、或は最近に於ける天皇機関説の問題の如きが、往々にして一部の学者・知識階級の問題であつた如きは、よくこの間の消息を物語つてゐる。今や共産主義は衰頽し、機関説が打破せられたやうに見えても、それはまだ決して根本的に解決せられてはゐない。各方面に於ける西洋思想の本質の究明とその国体による醇化とが、今一段の進展を見ざる限り、真の成果を挙げる事は困難であらう。 惟ふに西洋の思想・学問について、一般に極端なるもの、例へば共産主義・無政府主義の如きは、何人も容易に我が国体と相容れぬものであることに気づくのであるが、極端ならざるもの、例へば民主主義・自由主義等については、果してそれが我が国体と合致するや否やについては多くの注意を払はない。抑々如何にして近代西洋思想が民主主義・社会主義・共産主義・無政府主義等を生んだかを考察するに、先に述べた如く、そこにはすべての思想の基礎となつてゐる歴史的背景があり、而もその根柢には個人主義的人生観があることを知るのである。西洋近代文化の根本性格は、個人を以て絶対独立自存の存在とし、一切の文化はこの個人の充実に存し、個人が一切価値の創造者・決定者であるとするところにある。従つて個人の主観的思考を重んじ、個人の脳裡に描くところの観念によつてのみ国家を考へ、諸般の制度を企画し、理論を構成せんとする。かくして作られた西洋の国家学説・政治思想は、多くは、国家を以て、個人を生み、個人を超えた主体的な存在とせず、個人の利益保護、幸福増進の手段と考へ、自由・平等・独立の個人を中心とする生活原理の表現となつた。従つて、恣な自由解放のみを求め、奉仕といふ道徳的自由を忘れた謬れる自由主義や民主主義が発生した。而してこの個人主義とこれに伴ふ抽象的思想の発展するところ、必然に具体的・歴史的な国家生活は抽象的論理の蔭に見失はれ、いづれの国家も国民も一様に国家一般乃至人間一般として考へられ、具体的な各国家及びその特性よりも、寧ろ世界一体の国際社会、世界全体に通ずる普遍的理論の如きものが重んぜられ、遂には国際法が国法よりも高次の規範であり、高き価値をもち、国法は寧ろこれに従属するものとするが如き誤つた考すら発生するに至るのである。 個人の自由なる営利活動の結果に対して、国家の繁栄を期待するところに、西洋に於ける近代自由主義経済の濫觴がある。西洋に発達した近代の産業組織が我が国に輸入せられた場合も、国利民福といふ精神が強く人心を支配してゐた間は、個人の溌剌たる自由活動は著しく国富の増進に寄与し得たのであるけれども、その後、個人主義・自由主義思想の普及と共に、漸く経済運営に於て利己主義が公然正当化せられるが如き傾向を馴致するに至つた。この傾向は貧富の懸隔の問題を発生せしめ、遂に階級的対立闘争の思想を生ぜしめる原因となつたが、更に共産主義の侵入するや、経済を以て政治・道徳その他百般の文化の根本と見ると共に、階級闘争を通じてのみ理想的社会を実現し得ると考ふるが如き妄想を生ぜしめた。利己主義や階級闘争が我が国体に反することは説くまでもない。皇運扶翼の精神の下に、国民各々が進んで生業に競ひ励み、各人の活動が統一せられ、秩序づけられるところに於てこそ、国利と民福とは一如となつて、健全なる国民経済が進展し得るのである。 教育についても亦同様である。明治維新以後、我が国は進歩した欧米諸国の教育を参酌して、教育制度・教授内容等の整備に努め、又自然科学はもとより精神諸科学の方面に於ても大いに西洋の学術を輸入し、以て我が国学問の進歩と国民教育の普及とを図つて来た。五箇条の御誓文を奉体して旧来の陋習を破り、智識を世界に求めた進取の精神は、この方面にも亦長足の進歩を促し、その成果は極めて大なるものがあつた。併しそれと同時に個人主義思想の浸潤によつて、学問も教育も動もすれば普遍的真理といふが如き、抽象的なもののみを目標として、理智のみの世界、歴史と具体的生活とを離れた世界に趨らんとし、智育も徳育も知らず識らず抽象化せられた人間の自由、個人の完成を目的とする傾向を生ずるに至つた。それと同時に又それらの学問・教育が、分化し専門化して漸く綜合統一を欠き、具体性を失ふに至つた。この傾向を是正するには、我が国教育の淵源たる国体の真義を明らかにし、個人主義思想と抽象的思考との清算に努力するの外はない。 かくの如く、教育・学問・政治・経済等の諸分野に亙つて浸潤してゐる西洋近代思想の帰するところは、結局個人主義である。而して個人主義文化が個人の価値を自覚せしめ、個人能力の発揚を促したことは、その功績といはねばならぬ。併しながら西洋の現実が示す如く、個人主義は、畢竟個人と個人、乃至は階級間の対立を惹起せしめ、国家生活・社会生活の中に幾多の問題と動揺とを醸成せしめる。今や西洋に於ても、個人主義を是正するため幾多の運動が現れてゐる。所謂市民的個人主義に対する階級的個人主義たる社会主義・共産主義もこれであり、又国家主養・民族主義たる最近の所謂ファッショ・ナチス等の思想・運動もこれである。 併し我が国に於て真に個人主義の齎した欠陥を是正し、その行詰りを打開するには、西洋の社会主義乃至抽象的全体主義等をそのまゝ輸入して、その思想・企画等を模倣せんとしたり、或は機械的に西洋文化を排除することを以てしては全く不可能である。 我等の使命 今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とをなし遂げた。これ正に我が国体の深遠宏大の致すところであつて、これを承け継ぐ国民の歴史的使命はまことに重大である。現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。 世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによつて、維れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て弥々天壌無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ。これ、我等国民の使命である。
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(1) ブリタニカ・コンサイス百科事典(communismの項)より全文翻訳 全ての資産の所有権は共同体にあり、その利益は各人の必要に応じて全員に分配される、と提唱する政治理論。 この理論は、主としてカール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスの業績である。 彼らの『共産党宣言』(1848年)は、“プロレタリアート(無産階級、労働者階級)独裁”即ちマルクスの言う処の「社会主義」という過渡期について特記している。「共産主義」は最終段階であって、そこでは階級の区別だけでなく組織立った国家-マルクスによれば不可避的に抑圧の道具であるもの-すら克服されるという。 この(社会主義と共産主義の)区別は、間もなく見失われ、“共産主義者(という言葉)”は最終的なゴールよりも政党名に適用されるようになった。 ウラジミル・イリイチ・レーニンは、プロレタリアートは、共産主義(への道)を案内するプロの革命家を必要とするのだ、と主張した。(レーニン主義を見よ) ヨシフ・スターリン版の共産主義(スターリン主義を見よ)は、多くの点で全体主義と同義語となっている。 毛沢東は支那の共産主義革命で、都市のプロレタリアートよりも、貧農達を動員した。(毛沢東主義を見よ) 西欧共産主義(eurocommunism)はソ連邦の崩壊(1991年)によって支持者の殆どを喪失した。 「共産主義政党」「弁証法的唯物論」「第一インターナショナル」「第二インターナショナル」を見よ。 (2) オックスフォード英語事典(communismの項)より抜粋翻訳 全ての資産は共同体によって所有され、各人は各々の必要に応じて奉仕し、また受益する、とする社会機構に関する理念または制度。 最も身近な共産主義の形態は、1917年のロシア革命の後で樹立されたボルシェヴィキ(ソ連共産党の前身)である。そして、それは旧ソ連と東欧の同盟国、また1949年以降の支那、そしてキューバ、ベトナム、北朝鮮といった幾つかの発展途上国で実施された制度を表す言葉として理解されている。 共産主義の形態では、資本主義制度が打倒された後は、国家は衰退し消滅していくものとされている。 しかし実際には国家は共産主義社会のあらゆる局面を管理するものとして肥大化した。 東欧の共産主義は、①人々の経済的期待に沿うことに失敗したこと、②政治的生活の上で、もっと民主的な制度への移行、③ソ連邦を解体に導いた増大していくナショナリズム、を背景として1980年代末から1990年代初めにかけて崩壊した。 (3) コウビルド英語事典(communismの項)より全文翻訳 共産主義とは全ての人々は平等であり、労働者は生産手段を管理すべきだ、とする政治的信条である。(≠資本主義 capitalism)
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『国民主権』は『ルソー主義』であり『共産主義』であり全面否定しなければならない -- 名無しさん (2011-01-12 10 54 28) 『国民主権』論には『ナシオン主権論』と『プープル主権論』の2つがありルソーが唱えたのは『プープル主権論』である -- 名無しさん (2011-01-17 14 22 17) http //www.47news.jp/CN/201012/CN2010122901000218.html -- 名無しさん (2011-01-28 15 15 58) 阪本昌成教授の著書「法の支配~オーストリア学派の自由論と国家論~」がよいと思います -- 名無しさん (2011-12-16 01 45 25) 私はデモクラシーとは一種の精神安定剤だと思っています。デモクラシーを平和的な(血を見ない)政権交代の手段として評価し守っていくべきではありますが、それ自体を目的としてとらえ、人民主権論に走れば、必然的に全体主義を招来することを我々は歴史から学ぶことができます。適量の服用は気持ちを落ち着かせても、飲みすぎれば発狂する向精神薬と非常に似ていると思うのは私だけでしょうか。 -- 政治家志望の一高校生 (2012-01-09 04 48 15) ◆4についてなんだけど、ヒトラー失脚はソ連と米に喧嘩売ったせいだと思う 不利になった英は何としてでも米を戦争に引き込もうと躍起になっていたし、結果論だが英がヒトラーに譲歩したことが原因ともいわれる。共産主義の悪しきところは蛮行、危険思想だからと決めつけるのは良くない、自由を捨てることが堕落だとしても、自由を追求した結果も堕落、貧富の差が激しく不道徳な結果が起こっているのにそれに何も感じないなんて社会おかしい 英米的法の支配に対する批判も少し欲しい。基礎としてそちらを主軸とするべきという主張はいいと思うけど、良い面だけを教えられると信用していいのかと不安になる。 自分で様々な立場の本読むのが一番いいかもなんですが - 名無しさん 2015-11-14 01 28 18 上の高校生?のコメントを参照してみてください。その為の情報収集だと思います。 - 名無しさん 2016-02-17 21 16 38 続きです。恐らく記事作成主の言いたいことは、英米法で主流とされる「法の支配」の理解がどうなのかという点であって、自由の追求云々は言及しないに尽きたのではないかと思われます。法の支配を「英米法のまま」で導入すれば、それこそ日本の國体法に沿うわけがありませんから、日本法体系式の「法の支配」が必要不可欠となるわけです。その例が大日本帝国憲法であり、児嶋惟謙に始まる司法権の独立に沿う形が歴史上見られたものではないかと個人的には思いますね。つまり、法の支配は「良き慣習と伝統」が前提条件にありますから、慣習法が国民生活に沿わなければ、法の支配が機能しにくいことになるのではないでしょうか。批判は書籍等を見ると案外多いものですが、日本式にはどうか?を何度も自問自答して考えるようにすれば、記事作成主の言いたいこともわからなくないと思います(あくまで私見ですが)。 - 名無しさん 2016-02-17 21 28 57 ふと思い出したので、何度も失礼いたしますが付け足します。共産主義の悪しき~の件で、キリスト教が悪しき~という話を誰かがしていた覚えがあります。沿う考えますと、名無しさんの考えも一理あると思います。 - 名無しさん 2016-02-17 21 32 35
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<目次> 一 主権の意味 ニ 国民主権の意味《問題の所在》 《考え方の筋道》 《アドヴァンス》 《One Point》 《How To》 LEC『C-Book 憲法Ⅰ《総論・基本的人権》』 p.65~ 国民主権 一 主権の意味 ① 国家の統治権としての主権 統治権としての主権国家権力そのもの(国家の統治権)というときの主権 ex. 「日本国ノ主権ハ、本州、北海道、九州、及ビ四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」(ポツダム宣言8項) ② 最高独立性としての主権 国家への主権の集中(最高独立性)というときの主権 ex. 「政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」(前文3段) ③ 国政の最終決定権としての主権 国家における主権の所在(国政の最終決定権)というときの主権 国の政治の在り方を最終的に決定する力または権威という意味であり、これが国民に存することを国民主権という。ex. 「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」(前文1段) ニ 国民主権の意味 《問題の所在》 日本国憲法は、前文第1段で「主権が国民に存する」、1条で「主権の存する日本国民」と規定し、国政の最終決定権が国民に属するという国民主権原理を採用している。 それでは、ここにいう「国民」を全国民と考えるべきか、それとも有権者の総体と考えるべきか。 国民主権の原理において、国の政治の在り方を最終的に決定する権力を国民自身が行使するという権力的契機と、国家の権力行使を正当づける究極的な権威は国民に存するという正当性の契機をどのように考えるかという点と関連して問題となる。 《考え方の筋道》 Step① 憲法は個人の尊厳を確保するため、政治は国民の自律的意思による政治でなければならず、国政の最終決定権が国民に属するという国民主権原理を採用した(前文1段、1条) ↓ この点 Step② 主権者たる国民を有権者の全体と捉え、「主権」の本質を憲法制定権力であるとして、有権者としての国民が国政の在り方を直接かつ最終的に決定すること(権力的契機)が国民主権であると考える見解もある。 ↓ しかし Step③ それでは、独裁を許す危険があり、また、国民が主権者たる国民とそうでない国民とに二分され、治者と被治者の自同性に反し、妥当でない。 ↓ そこで Step④ 基本的には、国民主権とは、主権者たる国民は一切の自然人である国民の総体と捉え、国民主権とは全国民が国家権力の源泉であり、国家権力の正当性を基礎づける究極の根拠であると解する。 ↓ ただ Step⑤ 憲法改正権の存在(96条)等から、国民(有権者)が国の政治の在り方を直接かつ最終的に決定するという権力的契機も不可分に結合していると解すべきである(折衷説)。 ↓ Step⑥ 以上のように解すると、原則として国民は直接には権利行使をなしえないから、代表民主制の採用が必然となり、代表者たる議員は「全て」の国民の代表者となる(43条Ⅰ参照)。 《アドヴァンス》 A 有権者主体説 「国民」を有権者の総体と考える見解。 a-1主権=憲法制定権とすることを根拠とする説(清宮) 主権を憲法制定権(力)、すなわち一定の資格を有する国民(選挙人団)の保持する権力(権能)とする。従って、憲法制定権の主体である国民には天皇を含まず、また権能を行使する能力のない、未成年者も除外されるとする。→権力的契機を重視するが、そこから導かれる具体的な制度上の帰結を示していない(批判)①全国民が主権を有する国民と主権を有しない国民とに二分されることになるが、主権を有しない国民の部分を認めることは民主主義の基本理念に背く。②選挙人の資格は法律で定めることとされているため(44)、国会が技術的その他の理由に基づいて年齢・住所要件・欠格事項等を法律で定めることによって主権を有する国民の範囲を決定することとなり、論理矛盾となる。③代表民主制を国政の原則とする前文の文言と、解釈上必ずしも適合的でない。 a-2フランスの議論を採り入れる説(杉原) 日本国憲法は、リコール制を認めたと理解しうる15条1項や、95条、96条1項のように人民(プープル)主権に適合する規定もあるが、基本的な性格としては、43条1項や51条に示されているように国民(ナシオン)主権を基礎とする憲法である。しかし、憲法の歴史を踏まえた将来を展望する解釈が必要であるから、日本国憲法の解釈は人民(プープル)主権の論理に基いてなされなければならない。従って、国民の意思と代表者の意思を一致させるために、43条の国民代表の概念や51条の議員の免責特権の再検討が要請される。→権力的契機の重視とともに、そこから導かれる具体的な制度上の帰結を示している。(批判)上記①から③の批判に加え、フランスの議論は必ずしも全ての国の憲法に法律的意味においてそのまま妥当する議論ではない、という批判がなされている。 B 全国民主体説(宮沢、橋本) 「国民」を、老若男女の区別や選挙権の有無を問わず、一切の自然人たる国民の総体をいうとする見解。→このような国民の総体は、現実に国家機関として活動することは不可能であるから、この説にいう国民主権は、天皇を除く国民全体が国家権力の源泉であり、国家権力の正当性を基礎づける究極の根拠だということを観念的に意味することに過ぎなくなる。(批判)国民に主権が存するということが、建前に過ぎなくなり、国民主権と代表制とは不可分に結びつくが、憲法改正の国民投票(96)のような、直接民主制の制度について説明が困難になる。 C 折衷説(芦部) 「国民」を、有権者(選挙人団)及び全国民の両者として理解する見解。→「国民」=全国民である限りにおいて、主権は権力の正当性の究極の根拠を示す原理であるが、同時にその原理には、国民自身(≒有権者の総体)が主権の最終的な行使者(憲法改正の決定権者)だという権力的契機が不可分の形で結合しているとする(ただし、あくまでも正当性の契機が本質) 【ナシオン(Nation)主権とプープル(peuple)主権】 フランスの主権論 ナシオン主権 ⇔ プープル主権 憲法 1791年憲法 ⇔ 1793年憲法 主権者 Nation 仏 (= Nation 英 ) ⇔ Peuple 仏 (= People 英 ) 国民 観念的統一体としての国民 →具体的人間の集合体という意味はない ⇔ 具体的に把握しうる諸個人の集合体としての国民 権力行使 授権によってのみその権力を行使しうる →専ら代表制(代表者としての立法府と君主を指定) ⇔ 国民が直接権力行使を行う →直接民主制が徹底した形 授権の内容 代表者意思に先行するナシオン自身の意思なし ⇔ 代表機関の意思のほかにプープル自身の意思あり 契機 国家権力の正当性の根拠が国民に存する ⇔ 主権の権力契機が前面に出て、最高権力を行使するのはプープル 諸制度 制限選挙・自由委任 ⇔ 普通選挙・命令委任 歴史的意義 絶対王政を否定すると同時に市民革命がより貫徹されること抑圧す機能をもつ(現状維持的) ⇔ 市民革命の課題をより貫徹する勢力のシンボルとして機能(現状変革的) 《One Point》 学説では、折衷説が近時の通説であり、全国民主体説はかつての通説、有権者主体説は少数説です。 なお、本論点は、憲法が明文で定めた場合(79Ⅱ、95、96)以外に国政において直接民主制の採用(ex. 一定の事項についての国民投票、有権者による衆議院解散請求の制度)が認められるかという論点と関連します。 この点に関しては、フランスの議論をとり入れる説に立てば当然に肯定説につながりますが、それ以外の説からは論理必然的に帰結が導かれるものではありません。 《How To》 近時の通説である折衷説に立つのがよいでしょう。 なお、折衷説を論じる際、論証が長くなりがちです。 直接民主制の採用に関する問題等、本論点が前提として問われた場合には、コンパクトに論じることが必要でしょう。
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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 国家と憲法の基礎理論 第四章 立憲主義と法の支配 p.59以下 <目次> ■第一節 立憲主義の歴史的展開[64] (一)最古の意味での立憲主義にいう constitution はルール概念と結びついていた [65] (ニ)中世における constitution は「統治」と「司法」との区別を知っていた ■第ニ節 「法の支配」の観念の成立[66] (一)立憲主義的 constitution は「基本法」による統治を求める [67] (二)「基本法」のもとでの統治は「法の支配」を意味する [68] (三)18世紀のイギリスにおいて法の支配は定着期を迎える [69] (四)「法の支配」は、その後一時低迷する [70] (五)法の支配はアメリカにおいて新たに継承・発展させられた ■第三節 「法の支配」の公式化[71] (一)法の支配はA. ダイシーによって公式化された [72] (二)ダイシーの法の支配の理解は完全無欠ではなかった [73] (三)H. ハートは「法の支配」を形式的・手続的正義として公式化し直した [74] (四)「法の支配」の小括 [75] (五)日本国憲法も、法の支配の思想に強く影響されている ■ご意見、情報提供 ■第一節 立憲主義の歴史的展開 [64] (一)最古の意味での立憲主義にいう constitution はルール概念と結びついていた 立憲主義(constitutionalism)の体系は、18世紀になって確立された([3]参照)。 もっとも、その起源は、古代ギリシャに遡り、封建時代にあってもその思想は消え去らなかった。 それは、ときには宗教的な主張として、ときには歴史的な主張として、その内容に変遷をみせながらも、宗教的・歴史的な秩序による統治者(統治権)の制限を説く理論から、道徳哲学によって支えられた法体系による制約論へと、理論体系化されたのである。 その過程は、円滑なものではなかった。 最古の立憲主義は、国家権力の恣意的行使(専制政治)を防ぐために、constitution によってそれを統制することを目指した。 そこでの constitution は、先にふれたように([30]参照)、「ルールを定める行為」またはかく定められた「ルール」を意味した。 もっとも、それは、政体の長所短所を判定する物差しにとどまり、強制力をもつものではなかった。 その後、中世までは、恣意的統治に対する法の勝利は、莫大な血とエネルギーの代価の割には、緩慢であった。 なぜなら、正常時においては、領主とその下の領民は、旧き良き法、良き慣習によって包まれる法共同体であったために法の必要は意識されず、不正規状態にあっては、それまでの立憲主義は、constitution に反する恣意的な統治に対して有効な「制裁」を用意していなかったからである。 それでも、立憲主義の思想は、歴史から消え去ることはなかった。 [65] (ニ)中世における constitution は「統治」と「司法」との区別を知っていた イギリスにおいては、「立法」という思考はなく、法は作られるのではなく発見され維持されるものであると考えられてきている。 中世におけるコモン・ローは、宣言された法の集積であり、基本的な法の体系とみられたが、王権全体を統制する法力まで持たなかった。 その法上の空隙部分は、王権といえども法のもとにあるという理論によって補充され続けた。 13世紀の法律家H. ブラクトンは、王権にも、法によってその行使の制限されている領域と、制限されざるそれとがあることを指摘した。 前者は jurisdictio (司法)と呼ばれ、後者は gubernaticum (統治)と呼ばれた(マクワルワイン著、森岡敬一郎訳『立憲主義 その成立過程』)。 ブラクトンは、jurisdictio の領域に関しては、王権の行為であっても、立法行為であっても、コモン・ローによって拘束されていると説き、また、H. ボーリングブルクは、国民の歴史から確定されるはずの実体的な制約原理として、太古からの憲法(ancient constitution)が存在してきた、とも主張した。 これが後世の立憲主義思想の母胎となる。 これに対して、ヨーロッパ大陸諸国では、この思想は、意図的に排斥されてしまう。 ■第ニ節 「法の支配」の観念の成立 [66] (一)立憲主義的 constitution は「基本法」による統治を求める 「人間に服従するのではなくて、ただ法に服するときに、人々は自由である」(I. カント)。 「神の支配」や「人の支配」に代わる「法の支配」は、自由の法的表現であり、近代立憲主義の追究してきたのは、まさにこの点にある。 constitution は、近代に至って初めて「基本法」(fundamental law)としての属性をもつに至る。 その属性をもつに至った歴史的背景を、イギリスについてみれば、次の通りである。 第一は、 ブラクトンの説いたように、「統治」と区別された「司法」(jurisdictio, ius)という概念が一貫して存在し続け、これが君主の統治権を絶対的・無制約とさせない力として作用していたためである。16世紀の重大な政治的軋轢は、「司法」と「統治」との両者を分かつ不明確な境界線を巡って反復された。その闘争の中で、コモン・ローの比類のない強靭さの故に、司法領域の最終的判定者は、パーラメントと裁判所とであり、それらの機関も、法のもとにある、との思想が17世紀にかけて勝利を収めるに至る。国王の大権に基づいて、コモン・ロー手続に拠らない裁判をしていた星法院の廃止(1641年)は、このコンテクストで捉えられる。 第二は、 宗教上の見解の対立によって、一つの教義によって統治することができなくなった結果、宗教的教義に代わる基本的・世俗的な統一的価値が求められた背景がある(宗教教義による統治権の制約から法理論による制約へ)。そればかりか、16世紀の宗教改革は、不正な支配者に対する抵抗と不服従の宗教的正当性を説いた。この宗教的抵抗義務を、権利の概念に再編成したのが、モナルコマキと呼ばれる抵抗権論者であった。彼らは、「法が国王をつくる」とするアリストテレスの言葉に依拠することによって、「神によらざれば権力なし」としてきた王権神授説を打破しようとしたのだった。 こうした歴史的背景は、フランスについても基本的に妥当する。 同国においても、フランスの国王の至上権を拘束してきた三つの枷として、16世紀の思想家たちは(J. ボダンでさえ)「王権の基本法」、「司法」および「宗教」に言及していたのである(同国の政治的実践は、現実にはこれを侵犯してしまう。それでも、立憲主義思想は、完全に死滅することはなく、市民革命という形で一挙に噴出したのである。それは、立憲主義の見方をも根本的に変えたという意味でも、まさに「革命」だった)。 [67] (二)「基本法」のもとでの統治は「法の支配」を意味する 「基本法」にいう「基本」(fundamental)とは、統治に先立って存在し、統治を先導し、拘束する性質をもつこと、そして、通常の法的手続によって改廃されないこと、をいう。 また、“law”(法、法則)とは、人間の意思を超える永遠の真理を表した。 これらが含意することこそ「法の支配」の意である。 「法の支配」(rule of law)とは、語源からみると、「法(則)による統治」(government by law)を意味した。 立憲主義(constitutionalism)とは、基本法としての属性をもった憲法による統治を指す。 18世紀末にみられた市民革命は、統治者が「法」(law)と「立法」(legislation)、「司法」と「統治」との区別を無視したために勃発した。 当時の立憲主義は、統治権からの法や司法への侵入に対して、それを保護する法的制裁方法に欠けていたために、ブルジョアジィからの実力による制裁として発生したのである。 「法の支配」の前提には、次のような思想が流れている。 ① 統治主体が誰であろうと、統治と憲法(国制)とは、同じものではないこと。または、法と統治権力とが同じ源泉に拠らないこと。 ② 憲法(constitution)は、統治を先導し、拘束するものでなければならないこと。 ③ 憲法は、人民が政府に委託する権能を規定していること。それ故に、憲法は、統治権限を制限するものであること。 ④ 如何なる統治であれ、憲法の示す制限を越えた権能行使は、正当ならざる権力の行使であること。「法は王である(Lex, Rex.)」とか「もともと法(lex)とは正しきこと(ius)の確認である」ともいわれる。 ⑤ 統治そのものが憲法であるとする国家、すなわち、統治に対して憲法が制限を課していない国家は、憲法をもっておらず、専制国家であること。 こうした思想は、さらに、統治が憲法上の限界を逸脱しているか否かの判定を為す独立機関の必要性を気づかせ、それがまずは司法府の独立保障として、そして、やがてアメリカにおける司法審査制として結実するのである。 右のような思想を底流にもつ「法の支配」は、次第に、統治者を拘束するための具体的な内容と形式とを持つものとして次のように実定法体系中に明示化されていき、法執行の正しさをも実現しようとしている。 (a) 法令の規定なく刑罰は科せられないこと。 (b) 法令は遡及的に適用されないこと。 (c) 行政官の裁量は、厳しく制限されるべきこと。 (d) 裁判官は、法が語ることを伝える口述者に過ぎないこと。 [68] (三)18世紀のイギリスにおいて法の支配は定着期を迎える 裁判官が法を発見して、それを伝える口述者としてふさわしい権能をもつためには(法の支配の一内容である右の(d)を実現するためには)、原則的に、その地位を他の政治部門の影響の外に置かなければならない。 イギリスにおいては1701年の王位継承法が裁判官の独立保障につき次のように謳ったのは、この点に配慮したためである。 「裁判官の任命は、『罪過なきかぎり』続くものとして為されるべきであり、その俸給は不動のものとする。但し、議会の両院の奏上に基づいて裁判官を罷免することは、合法である。」 この裁判官の独立保障は、後世代によって権力分立の一要素であると理論構成されるばかりでなく、裁判官の準拠する法は、君主の「命令意思としての法」ではないこと(「法を確認し維持する《司法》」と「君主の意思を確認し執行する《裁判》」との違い)を気づかせる契機となったのである([412]、[501]参照)。 その他、法の支配の内容として、前記(a)、(b)、(c)を具体化する罪刑法定主義や、一般的・抽象的法の定立と、そのもとでの平等な処遇を意味する「法の平等保護」が摘示されるようになる。 人の自由に対して強制を加えるときには、《未知の無数の将来の事例に等しく適用される法に拠らなねばならない》と考えられたからである(法の一般性・抽象性・平等普遍性)。 この「法の支配」の原型は、D. ヒュームの法哲学に求めることができる。 彼は、自由な国家においては、為政者の恣意的な裁量が廃止されるべきこと、為政者は「すべての政府構成員と被治者に予め知られている一般的で平等な法に従って行動しなければならない」こと、「法が明確に犯罪と定めた行為以外は、いかなる行為も犯罪とされてはならない」ことを述べた(ヒューム著、小松茂夫訳『市民の国について(下)』162、216頁)。 ところが、イギリスにおいて、議会主権という観念と慣行が形成されると共に、議会が制定したものが「法」である、と考えられがちとなって、ヒューム的思考は後退していった。 これに対して、植民地アメリカにおける人々は、当初、旧き良き法の保障する権益に訴えかけることによって、イギリス人としての生命・自由・所有権を正当化しようとしたが、独立戦争を契機として、自然法と結びついた「法の支配」思想を強調するに至った。 それが独立宣言中の「自然の法と自然の神の法」との表明となったのである。 [69] (四)「法の支配」は、その後一時低迷する ところが、その後法の支配の理念は、フランス革命と、大陸的合理主義哲学(真の自由を知らない抽象的理論、人民の意思が法を作るとする意思中心主義、民主主義と自由主義とを区別しない理論)の影響によって、停滞する。 というのも、意思中心主義を採る限り、誰の意思によって制定されるかという手続が明示的に形式化されれば「法」となると観念されてしまうからである。 ここに、議会または多数者の意思が定めたものであれば、正当な意思の源泉がそこに示されている、といわれることになる([60]において既にふれた、憲法典の正当性を人民の意思に根拠づけようとする理論も、これと無関係ではない)。 こうした思考が、すぐ後の[72]でふれる形式的法治主義に繋がるのである。 [70] (五)法の支配はアメリカにおいて新たに継承・発展させられた 独立戦争は制限君主制を求めて勃発した。 為にアメリカにおいては、統治機関は人民によって委託された権能だけを行使するものと考えられた。 そのために、全ての統治機関は、基本的な法文書によって特定の権力を与えられ(授権規範としての憲法)、同時にその権力も「基本法としての憲法典」のもとで、厳格に限界を定められなければならない(制限規範としての憲法)とされた。 《憲法典は法の支配を具体化した法文書である》と観念することは、法規範の構造を階梯的に捉えることでもある。 アメリカ合衆国憲法上、司法審査に関する明文規定がないにも係わらず、裁判所は、憲法典に違反する下位法の効力を否定しうるとされてきたのは([444]参照)、法規範構造を階梯的に捉えた帰結である([93]でふれるケルゼンの法段階説と比較対照せよ)。 統治機関が人民によって委託された権能だけを行使するということは、全ての権力が人民に由来することでもある。 これは、国家機関の創設権限を有する国民、すなわち、後述する憲法制定権力の主体としての国民、という考え方をアメリカが最初に実定憲法に取り込んだことを表す([118]参照)。 これ以降、「法の支配」が憲法典のもとでの統治と同視されがちとなった。 【表5】「法の支配」の展開 ①「司法/統治」の区別論 → ②「基本法」のもとでの統治 → ③イギリスでの定着 → ④大陸での低迷(形式的法治主義) → ⑤アメリカでの発展的継承 → ⑥大陸での見直し ■第三節 「法の支配」の公式化 [71] (一)法の支配はA. ダイシーによって公式化された A. ダイシー(1835~1922年)は、「法の支配」を成文憲法典による政治権力の統制として捉えなかった(巻末の人名解説をみよ)。 彼は、イギリス独特の不文法的伝統のなかで、法の支配を公式化したのである。 彼のいうその内容は、次の三つである。 ① 専断的権力支配とは対照的に、正式(正規)の法(regular law)が絶対的優位に立つこと。正規の法とは、司法的合理性によって確認された法をいう。そこには、法(law)と立法(legislation)との区別が前提とされており、前者が後者を指導していくものとされている。従って、当然のことながら、立法の実体的側面も法による統制を受けることになる。 ② 何人も正規の法のもとにあり、通常の裁判所の管轄権に服すること(「行政裁判所をイギリス法は知らない」といわれる)。これは、行政官の裁量は厳に統制されるべし、という命題([66]参照)の帰結である。 ③ 憲法は、憲法典によって与えられるのではなく、正式の法の展開(裁判所による適用および議会の活動)の結果である。人権は、正式の法がある限り破壊されることはない。これも、法と立法の区別を前提とした議論であり、人権を実定法たる憲法典で語り尽くすことは不可能でもあり、語り尽くせると想定することこそ危険である、とダイシーは言いたいのである。 [72] (二)ダイシーの法の支配の理解は完全無欠ではなかった 右のような「法の支配」の理念は、その後、誇張され、あたかも不動の価値であるかのように説かれていく。 もともとダイシーのいう「正規の法」が何を意味するか定かではなく、正規の法によって自由を中心とした基本権が守られるというのも、イギリスが不文憲法の国であるとする誇張のうえに成立していた。 また、彼の理論は、大陸における法の支配が不完全であるという誤った前提に立っていた。 ダイシーは、大陸法上の欠陥が行政権の行使につき司法審査(適法性審査)の及ばない点にあるとみた。 そのために、行政行為を通常裁判所によって審査する点こそ法の支配にとっての鍵であるとみたのだった。 ところが、実際には、フランスにおいても、ドイツ(プロイセン)においても、法の支配と同じ観点から「法治主義」が説かれていたのである。 もっとも、フランス第三共和国やプロイセンにおいては、その理論が実践に取り込まれないまま、通常裁判所とは系列を異にする、行政機関のための行政裁判所が設置されてしまう([443]参照)。 これを契機に、R. グナイスト(1816~95)によって理論的に(政治的に)歪められた法治主義の考え方が1860年以降、支配的となる。 そして、その後は、ドイツ的法治主義、すなわち議会の定めたものをもって法とする形式的法治主義と、英米的法の支配とは、あたかも、水と油であるかのように今日まで語り継がれているのである。 形式的法治主義は、ルールが従うべき手続上の制約を課すのみである。 【表6】形式的法治主義 議会の意思による法の定立(意思の発動形式の重視)↓ 【議会と行政との関係】法律のもとでの統治=法律による行政の原理(ア) 法律の法規範創造の原則(イ) 法律の留保原則(ウ) 法律優位の原則↓ 【裁判所と行政との関係】通常裁判所の民事刑事の司法権行使(限定的司法概念)通常裁判所による国家行為の合憲性統制の意識的排除通常裁判所の独立官僚統制のための行政裁判所(ただし、統治行為は審判対象外)行政裁判所裁判官の身分保障 [73] (三)H. ハートは「法の支配」を形式的・手続的正義として公式化し直した 「法の支配」とは何であるか、積極的に定義づけ、さらにその論拠を呈示しようとすることは、容易な業ではない。 法の支配は、よく次のように説明される。 (a) 人の恣意的な意思による支配ではなく(マサチューセッツ憲法前文にいうように、「人の支配ではなく、法の統治」である)、 (b) 形式的法治主義でもない(《法の支配は法律の支配にあらず》)。 ところが、この解明では、 (ア) 人の恣意によらざる支配とは、いかなる支配であるのか(《法が支配する》、との解答は、統治の実態を覆い隠すに過ぎない)、また、 (イ) 法の支配にいう「法」とは何であるのか、 積極的に論証したことにはならないのである。 上の(ア)の疑問に関しては、こう解答することも出来なくはない。 すなわち、《人権をよりよく保障することが、法の支配のいいたいところである》、とか、《個人の尊厳をよりよく保護することである》と説くこと、これである。 ところが、法の支配を個人の尊厳の実現と関連づけることは、《法の支配が何を目指すか》という問に対する解にとどまり、《法の支配にいう法とは何であるか》という、法の内実を問う際の解ではない。 法の支配の意義を積極的に呈示する方向として、二つの見方が存在してきた。 第一は、 問題の法令が、human nature という法則(実体的正義や理性)を体現しているか、という法の実質・内容を問う立場である。その典型的立場が、自然法論である。 第二は、 法の形式を重視するタイプである。これは、問題の法令が、どのような特定の人々をも対象とせず、特定の目的も知らず、一般的で抽象的な形式を満たしているか否かを問うのである。 法の一般性・抽象性・普遍平等性という形式は、次のような普遍可能性原理の応用編である。 ① 法は、人を定数で(固有名詞として)扱ってはならない。私個人と他の個人との間の数的差異を法的には関連性のない要素とみなさなければならない。 ② 私個人にとって重要であるとみられる類的・質的差異を、法は関連性なき要素とみなさなければならない。 以上は、要するに、《全ての人々の観点から受け入れられることのできる原理を法は組み込むべし》、とする思考である(『憲法理論Ⅱ』 [36] もみよ)。 法の支配の要諦は、法が、特定の人々に対して、特定の仕方で、処遇してはならない、という形式性にある。 その形式性は、「具体的効果を知らないこと、これらのルールがどのような目的を促進するか知らないこと」を含意するのである(ハイエク著、一谷藤一郎訳『隷従への道』108、103頁)。 ところが、ヘーゲル=マルクス主義は、この形式性こそ、人々に対して形式的平等と形式的自由だけを与えるものと批判したために、特定の個人の置かれた地位を配慮して、実質的平等・実質的自由を保障する法令が正義に適う、と考えられがちとなって、法の支配の思想が侵食されていったのである。 法の支配の復権にとって重要な視点を提供したのがH. L. A. ハートである。 ハートは、法の支配の内実として、法としての適正の原理と、自然的正義の原理を挙げる。 前者は、 法の一般性、明確性、公開性、不遡及性を要請する。それは、形式的正義をいうものと思われる。 後者は、 個別的適用にあたって不偏不党公平であり、また事実の証明や法律の解釈に当って紛争当事者双方の意見を考慮することを要請する。それは、手続的正義を意味するものと思われる。 法と道徳との必然的関連性を否定するハートは、法の支配の中に、「公正」とか「実体的正義」を含めることに躊躇せざるを得なかった。 この点は、「法律は悪法で、不公正であるかも知れないが、しかし、それを一般的で、抽象的な形に成文化することにより、この危険は極小にまで押さえられる」と考えたデュギーも同様であった。 正義の実体は、いつも論争されてきた。 その論争の中で我々は、得てして過剰な実体を求めがちとなる。 ハート、デュギーが懸念したのはその点であった。 法は最小限の正義を体現すべきものなのである。 その正義は、誰にも積極的な義務を課すことなく、不正義を為さないよう求める消極的なものでなければならない(負の力としての正義。[47]もみよ)。 [74] (四)「法の支配」の小括 「法の支配」とは、統治機関(立法権を含む)が強制力を用いる場合には、公知の、事前に予知可能で(確実性・公開性を持ち)、平等に適用される、一般的・抽象的立法を要請する「基本法」(fundamental law)のもとでの統治をいう。 「基本的」法は、立法とそのもとでの統治がどうあるべきかに関するルールである(統治を先導するための規範)。 「基本的」であるか否かは、法の権威の源泉(誰の意思が法をつくるか)によって決まるわけではない。 それは、一般性・抽象性・平等普遍性といった形式的正義や、両当事者の意見を聴くべしといった手続的正義に従っているかどうかによって決せられる。 この意味での正義は、先にふれたように、誰にも積極的な義務を課すことはなく、個別的な文脈の中で発見され宣言されるに過ぎない。 では、立法がこうした正義を具備しているか否かを判断するに相応しい構造をもっている機関はいずれであるか。 それは、個別的な文脈のもとで、合理的な手続を踏みながら公正な観察者の視点から法を宣言し維持する権限を与えられている司法府である。 「法の支配」が、司法府の独立のみならず、司法的手続の整備の要請、司法審査制と結びつくのは論理必然的である([446]参照)。 「法の支配」による統治機関の統制は、国家が人の自由に対して強制を加える領域に及ぶ。 もっとも、今日では、いわゆる政府の受益的活動についても「法の支配」を必要とするという立場もみられる。 国家の財政政策を法の支配に服せしめることも重大な視点であろう。 [75] (五)日本国憲法も、法の支配の思想に強く影響されている 日本国憲法は、多方面にわたって法の支配の思想を具体化している。 そのことは、 ① 76条において、司法権を一元的に通常裁判所に帰属させ、司法権の独立を保障し、さらに、特別裁判所の設置を禁止していること、 ② 98条1項において、憲法典の最高法規性を宣言して、階梯的法規範構造を採用し、これに反する国家行為の効力を否定していること、 ③ 81条において、司法府が一切の国家行為につき、統治を先導する基本法(最高法規)と適合しているか否かを判断できるとされていること、 ④ 11条において、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」と定め、さらに、13条において「国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と謳って、形式的法治主義を排除していること、 ⑤ 31条において、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」と定めて、法令の規定なく刑罰を科せられないことを確認していること(31条の解釈によっては、実体規定の明確性まで要請しているとみることもできる)、 ⑥ 39条において、「何人も、実行のときに適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。」と謳って、事後処罰と二重の危険の禁止を定めていること、 等に表れている。 もっとも、以上の諸条規に言及するだけでは、日本国憲法が法の支配を組み込んでいることを論証したことにはならない。 なぜなら、ある法体系内の公理を出発点として当該体系の公理を論証しようとすることは、決定不可能だからである。 これを「自己言及のパラドックス」という。 ■ご意見、情報提供 ※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。 名前 コメント
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金融危機が発生した場合には、一時的に財政出動を増やさざるを得ないのは分かりますが、それを不必要に続けると中期的には必然的に国民負担率の上昇を招きます。つまり、 国民負担率が上昇する = 我々の可処分所得が減る = 我々の行動の自由がその分制約されてしまう という結果になります。 具体的に示すと・・・ ① 一年前にはAさんの月収は20万円で、そのうち税金と社会保険で5万円差し引かれるので、手取りは15万円だった。 負担率=5/20=25% 1970年頃の日本 ② 現在はAさんの月収は20万円で変わらずだが、税金と社会保険で7万円差し引かれて、手取りは12万円になった。 負担率=7/20=35% 現在の日本 ③ 一年後もAさんの月収は20万円で変わりそうもないが、税金と社会保険で9万円差し引かれて、手取りは11万円になる予定だ。 負担率=9/20=45% 10年後の日本? ④ 二年後もAさんの月収は20万円で変わりそうもないが、税金と社会保険で11万円差し引かれて、手取りは9万円になる予定だ。 負担率=11/20=55% 20年後の日本? ※①と③を比較すると、Aさんの経済的自由度は20%も奪われることになり、さらに①と④では30%も奪われることになります。 実際には1970年頃の日本と現在の日本とでは経済規模が大きく違いますから、国民負担率の上昇は国民所得の上昇によって吸収されて国民にはそれほど痛みと感じられませんでした。 しかし、これからの日本は、経済規模の拡大が余り望めない中での国民負担率の上昇を迎えることになりますから、何らかの対策を政府がしっかり取らないと、国民の経済的自由の損失が急ピッチですすんでしまいます。 ※各国の国民負担率の推移 (参考リンク)なおリンク先の「日本を欧州型の福祉社会にする」という主張には強く反対します。欧州諸国のように国民負担率が50%を超えてくると、「額に汗して働き収入を上げて豊かになる」という動機よりも「どうせ働いても政府に吸い上げられるだけであり、上手く政府の補助金や扶助を獲得することを考えるのが得だ」といった考えに傾く国民が多くなってしまい、経済が停滞してしまうからです。図中の各国で、曲がりなりにも一番経済活力が高い国は、国民負担率が一番低いアメリカであり、その次は国民負担率が二番目に低い日本であることがこれを証明しています。)【関連】 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か★国民負担率の数値を示さずに「福祉の充実」を訴える者に注意★選挙になると、それをすると将来に国民負担率がどうなるのかといった数値をまったく示さずに「福祉の充実」「安心社会の実現」などの耳障りの良いスローガンを繰り返す者が必ず現れます。この言葉の真に意味するところは「貴方の収入から、政府が天引きして貴方の知らない誰かのために勝手に使用する金額の割合を今よりも増やします(つまり貴方の自由に処分できる所得を減らします)」ということです。社会民主主義の立場をとる政党が長期に渡って政権を握り続けてきたスウェーデンなど北欧諸国は、そのようにして個人の収入の70%以上が現実に政府に吸い上げられていますし、左翼政党がやはり強い勢力を持つフランスなども国民負担率が60%を超えています。「福祉の充実」「ヨーロッパ型の高度福祉社会の実現」といった言葉に踊らされている人は、本当にそれが自分の望む社会の在り方なのか再検討してみる必要があります。
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test - 名無しさん (2019-07-29 09 07 34)
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みんなの党は小泉改革路線、左派ではない。 -- 名無しさん (2011-12-03 13 14 45) ↑なるほど。みんなの党 補正した。 -- 名無しさん (2013-05-30 15 35 06)