約 2,141 件
https://w.atwiki.jp/kuizu/pages/2630.html
鱓/田作り/古女/五万米 自作 昔は大量に採れたために田んぼの肥料ともされていた、おせちにもよく用いられるカタクチイワシの稚魚のことを何という? (2013年2月14日 3 ) (2013年3月27日 #短文 ) 力の無いものが悔しがることは「これの歯軋り」という、 乾燥させた片口鰯の幼魚をから煎りして醤油や砂糖・味醂などで味付けしたもので、 特に正月のお節料理の具として見るものが多い料理は何でしょう? (2011年4月16日 漢字二文字クイズ ) タグ:生活 Quizwiki 索引 あ~こ
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/873.html
趙璋 ?-? 唐末の武将。黄巣の宰相。広明元年(880)黄巣が長安で即位すると宰相に任じられた。黄巣は百官に命じて趙璋の邸宅に名銜(官位姓名を書いたもの)を提出させた。中和三年(883)二月、尚譲らとともに十五万を率いて李克用と戦ったが、大敗して捕虜となった。 列伝・史料 『新唐書』巻二百二十五下 列伝第一百五十下 逆臣下 黄巣 『資治通鑑』巻二百五十五 唐紀七十一 広明元年十二月己亥条
https://w.atwiki.jp/shion-atori/pages/670.html
#blognavi 今日は人が少ない(と言っても二千人くらいはいたが)ので明日以降確実に混雑する場所と 立地的に時間があるうちに言っておきたいホテル関係を回ってみた。 まずこの施設で一番とんでもないものはアトラクションではなく合計二万人が宿泊できるという各ホテルだろう。 驚いたことに最初は五万人の収容数を考えていたらしい。本土にある有名リゾートからの概算だそうだ。 ノルンの常識を疑うような話を昴と流馬がなんとか今の形に妥協させたのだという。 というか五万人以上も来場したら明らかにアースガルドの対処可能人数を越えると思うんだが。 ホテルは外周に近い場所に立地し、アースガルド全体を眺められるものや海に面したものが多かった。 全十社でグレードは一流のものから安価に泊まれるものまで一応揃っているようだ。 俺達も分かれて泊まるのだが、くじ引きの結果俺は最も庶民的なところに泊まることとなった。 博士、楯、閃一君、護が同じホテルに泊まっているらしい。 最高級のホテルに泊まることとなった譲と決斗がドレスコードのことで慌てていた。 食事処も揃っており、ここだけで数日楽しもうと思う客も出てくるかもしれないと感じた。 だが、ホテルの中に若干数明らかに人間向けでない部屋が用意されているのは危ない感じがした。 非現実を味わってもらうためと宣伝しているが、使う気がある気がしてならない。 次にフードスペースを見て回った。全部で約三十店舗。 アトラクションスペース、シネコンスペース等から比較的近い場所に纏めて立地しており、 いくつか有名フードチェーンの名前も見えた。 上手くこのアースガルドの雰囲気に溶け込ませた外装や店員の服装で看板にも違う名前が書かれ、 その下に小さく本当の名前が添えられている。金侍のアイデアだというので驚いた。 ワルハラの憩いという比較的小さなレストランはヴァルキリーが直営する店だった。 リサとチロルが甦ったことでモイラ以外にも料理のできる人員が増えたためだそうだ。 食べて見ると非常に美味しかった。素朴だが何度も食べたくなる味だ。 エミュレイターを生み出す奴らはこういうのを見習わなければならないと思う。 自身有り気に料理を運んできたリサの顔が忘れられない。実際旨かったのが少し悔しかった。 遊戯施設をほとんど通らなかったからか今日は誰とも会わなかったな。 カテゴリ [報告] - trackback- 2010年10月10日 00 04 49 #blognavi
https://w.atwiki.jp/perryrhodan/pages/271.html
ソル系とも呼ばれる、テラナーの故郷。 水星 第一惑星。基本的に不毛の地であるが、太陽のエネルギーを利用するATGフィールドなどのために技術施設が建設されている。 金星 第二惑星。ローダンシリーズにおいては、巨大な恐竜が跋扈するジャングル惑星。大気は呼吸可能であり、植民が行われている。紀元前八千年ごろ、アルコン人によって巨大ポジトロン脳つきの基地が置かれた。 ヴィーナス・シティ テラ(地球) 第三惑星。人類発祥の地である。紀元前20万年ごろにカピンによる遺伝子実験場となり、現生人類が形成されたと思われる。その後、紀元前五万年ごろにはレムール人?が地球を中心としたレムール帝国?を建設。銀河の広範囲を支配下に置くが、その後ハルト人と戦争になりレムール帝国は滅亡。生存者はいたものの知識はすべて失われ、ふたたび宇宙に乗り出すまで五万年を要した。紀元前一万年ごろにはアルコン人の植民地が置かれたが、ほどなく植民地は破壊され、アトランティス大陸は水没した。レムール時代やカピンの遺跡が発掘されることがある。ラール人?の侵攻から逃れるため、月とともに一時的に太陽系から外れたこともある。 カピンたちはロトロンと呼び、レムール帝国時代はレムールと呼ばれた。 テラニア(ギャラクト=シティ) ゴビ砂漠のゴシュン湖ほとりに位置する首都。第三勢力の時代にはギャラクト=シティと名づけられ、のちにテラニアに改名された。 ルナ(月) 1971年にアルコンのアエトロン探検隊が不時着し、それをローダンが発見したことですべては始まった。のちにアルコンIIIを参考とした巨大建艦廠となり、巨大インポトロン脳のネーサン?も月に建造された。太陽系帝国でもっとも重要な天体の一つ。ラール人?の侵攻から逃れるため、地球とともに一時的に太陽系から外れたこともある。 火星 第四惑星。 ツォイト 紀元前5万年ごろまで存在した第五惑星。ハルト人との戦争で破壊され、小惑星帯になった。カピンたちはタイモンと呼んでいた。 木星 第五惑星。 土星 第六惑星。 タイタン 1982年にはスプリンガーの基地が存在した。 天王星 第七惑星。 海王星 第八惑星。 冥王星 第九惑星。現実では惑星のカテゴリから外されてしまったが、ローダンシリーズでは当然惑星扱いである。主に哨戒基地が置かれていた。3400年代に太陽系に侵攻してきたカピンの貯蔵庫群の自壊に巻き込まれ、破壊された。 タグ:天体 星系 第1話 第三勢力サイクル
https://w.atwiki.jp/kasutera/pages/16.html
ご自由に編集どうぞ ■ 丐 ■ かすみ ■ かつ丼 メントスかつどん味 そろそろメントスにしようぜ ■ 狩って戰宗君 かっちょろい 『狩ってファミリー』の家長 ねじのストーカー 勝手戦争はそんなにしない ■ 辛子明太子 帰るざますwwwwww ■ からす 名も無きカラスよ飛びまわれー ■ Karma か……ーま? かぁああああああああぁぁぁあぁあああああまああぁああぁあああああ!!!!!!! かるま 実は違う名前でやってる ■ KissBacca ■ きまぐれ銀杏 いつの間にか復帰 サイト更新早く ■ ギム ギンガナム ■ ギャッツビー 整髪剤 マクロに定評がある ■ きょう キキョウシティのジムリーダー きょうちゃん ■ キルア バグ使い ■ キルヒアイス ■ クゥ たん 女の賞味期限は35才〜68才まで クゥたん…… 墓場キター ぺどやろう 皇帝返上まだー ■ くえ 良い人 ■ クスィー 3転で称号フルコンプ&また覇者とかどんだけ〜 えいえんのじゅうななさい 怒るとかわいい 怒らなくてもかわいい 怒ると怖い 怒らなくても怖い (‘∀゜∩ ツンデレ+素直クール−デレ アイコン反映人 舞-HiME好き アイコン怖い 常に敬語 怖い ファンネルミサイル! みんな元気?私は恋する乙女クスィー♪いっけない、遅刻しちゃーう☆今日は運命の王子様に会えるかな?クスィードキドキが止まらないッ☆将来の夢はもちろんアイドル!小さいころからの憧れだったの☆でもお嫁さんもいいなー…って何言わせるのよもうっ…/// ■ くつべら 可愛い デコ ■ 玖渚友 僕様ちゃん ちびろりの飼い犬 ■ 来栖 柾 ■ 黒神 皇帝取らせて貰えない建国厨 おじたま 重複登録で未処分 今黒龍 ■ 黒崎 一護 ばんかいもり 黒崎君よろしく アポロ 嫌いだった ■ CrossBone 目をさまぁしてよお きっみーの声ーが ↑スターゲイザーだろ ■ 黒館有栖 小説家 ツンギレ 美人 ■ 黒姫 有栖と親友 僕のおっぱい 巨乳ホスト ふたこぶらくだ 現・綾兎 ■ kwsk ■ 鳧 ゆーめををー書いたテストのー裏ー 元補佐 終わってる ■ 神山新月 現BLACK THUNDER ■ 神山満月 玉こんにゃくぶつけられる 玉こんにゃくは故郷の心 幻の玉こんにゃくを探索中 撫子入ってたのね csには玉響がグルでしょう タイピ…7 玉響…3 たまゆらがきたかよ! タイピも3割あるかあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 有栖と大親友 ■ 氷 とけて空気になった 溶けた氷の中に 恐竜が居たら 玉乗り仕込みたいね ■ 駒次郎 帰ってこい… ■ 五万 五万家のお父さん あさたなはまやらわん
https://w.atwiki.jp/parallelparadox/pages/320.html
高町恭也の一撃入魂技。 「――――乾き罅割れ砕けて霞む、我が永き旅路の最果てで ――――十五万二千二百九十九の夜を越え ――――八千七百八十三万四千五百四十八の命を奪い ――――六千五百四十二万八千百二十一の死を重ね ――――歩み続けた旅路の果て、更なる旅路の途上にて ――――ここに我が物語を再生し ――――その歩みを知らしめる ――――揺籃の一薙から、極伝の一閃までの ――――我が果てなき研鑽を、その目で見よ――――!! 絶滅せしめよ、“龍景・双閃天魔鳴神”――――!!」 ⇒高町恭也【たかまち・きょうや】
https://w.atwiki.jp/idatenhistorimateri/pages/30.html
美川秀信:「いだてん~オリムピック噺~」 史実での「美川秀信」 美川秀信の史料・文献金栗四三 伝記『走れ二十五万キロ』 熊本県南関町在住の「美川秀信さんの親族」 インターネット上に散在する「美川秀信の足跡」■1910年:明治43年 ■1911年:明治44年 ■1912年:明治45年 ■1915年:大正4年 ■1916年:大正5年及び1917年:大正6年 ■1918年:大正7年 ■1919年:大正8年から1921年:大正10年 ■1922年:大正11年 ■1923年:大正12年 ■1924年:大正13年 関連人物 関連項目 登録タグ 美川秀信:「いだてん~オリムピック噺~」 演:勝地涼 主人公・金栗四三の同郷の友人。 彼の誘いで四三は「東京高等師範学校」へ入学する事になる。 ところが当の美川は、東京高師で落第生の烙印を押され、遊女「小梅」に入れあげた挙げ句、東京高師からいつの間にやらいなくなり、 寄席やら駆け落ちやらカフェーやら満州やらと、ありとあらゆる状況と場所で四三や美濃部孝蔵その他諸々の人たちの前に出没し、 出るたびに何かをやらかしては登場人物と「いだてん」クラスタをお騒がせし、 逆に出ないとあっては「なんで出ない??」「どこ行った美川??」「美川を探せ!!」と大騒ぎとなり、 「いだてん」随一のネタキャラとして愛された。 あ、愛され………?!? うん、愛され。 美川秀信 (みかわひでのぶ)とは【ピクシブ百科事典】 史実での「美川秀信」 そしてこの美川秀信。 実在した「金栗四三の幼馴染みの友人」が基になって出来た登場人物である。 金栗四三が伝記制作の折りに「美川秀信の思い出話」を語った事から史料に残り、 日本で、いや世界で最も過酷な駅伝と言われる「富士登山駅伝」の誕生に関わった人物であるにも関わらず、 富士登山駅伝 - Wikipedia 長らく「謎の人物」とされてきていた、のだが。 美川秀信の史料・文献 金栗四三 伝記『走れ二十五万キロ』 美川秀信の事が金栗四三から語られたのは、伝記である『走れ二十五万キロ』においてである。 走れ二十五万キロ マラソンの父 金栗四三伝 復刻版(第2版) - 熊日出版 走れ二十五万キロ マラソンの父 金栗四三伝 復刻版(第2版) 熊本日日新聞社:Amazon 概略するとこんな感じ。 二人は玉名中学校の同級生だった。 共に東京高師に入学し、上京。 夏休みの帰郷の際、富士登山に挑戦したが途中で断念した。 美川は「俺は教師になんかなりたくない」と言いだし始め、徐々に授業にも出なくなった。 そして金栗四三が本科一学年(二年生)に進級した頃には、美川は東京高師から姿を消していた。 その後、金栗四三は美川秀信の消息を訪ねる事は無かったので、その後、美川がどうなったのか、金栗四三が知ることは無かった。 そして金栗四三は、 美川がいなくなって寂しくなった。 なんとしても東京高師に留まらせておけばよかった。 と回想していた。 ところが。 熊本県南関町在住の「美川秀信さんの親族」 「いだてん」制作の取材過程で、ドキュメンタリー番組「ファミリーヒストリー」スタッフから「遺族や親族の探し方のノウハウ」を聞いて、それを実行した結果、 『いだてん』取材担当・渡辺直樹インタビュー 前人未到の大河ドラマ『いだてん』はいかにして作られたのか 取材担当者が明かす、完成までの過程|Real Sound| ファミリーヒストリー - Wikipedia 熊本にいた、美川秀信の親族が見つかった。 そして美川秀信役の勝地涼が親族の方たちと面会したり、 「いだてん」勝地涼が語る“ストレイシープ”な美川の気持ち「コミカルだからこそ切ない」<前編> | ザテレビジョン 「中村勘九郎さんとは絶対に一緒にやりたかった。幼なじみ役で出演できてうれしいです」勝地涼(美川秀信)【「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」インタビュー】 | エンタメOVO 勝地涼、『いだてん』で“全髪クネ男”好演!「金栗氏~」の一言で印象付け | マイナビニュース 熊本県南関市のローカル誌に「実際の美川秀信に関する特集記事」が掲載された。 しっとんね vol.27 | kumamoto ebooks | 「勝地涼さん演じる『美川秀信』は南関の人」(1) 「勝地涼さん演じる『美川秀信』は南関の人」(2) インターネット上に散在する「美川秀信の足跡」 そして現在、日本や韓国(!!)のあちらこちらのインターネットデータベースで「美川秀信の足跡」を確認し、辿る事が出来る。 ネット時代、すげえ。 以下、判明した「美川秀信の足跡」を年代順に記述していく。 ■1910年:明治43年 金栗四三と共に「東京高等師範学校」に入学。 東京高等師範学校一覧. 明治43年4月-44年3月 - 国立国会図書館デジタルコレクション 東京高等師範学校一覧. 明治43年4月-44年3月 - 国立国会図書館デジタルコレクション 美川秀信さん、実際には「数物化学部」で理系だったんですね。 (「いだてん」では「国語漢文科」設定です) ■1911年:明治44年 美川秀信、東京高師からいなくなる。 東京高等師範学校一覧. 明治44年4月-45年3月 - 国立国会図書館デジタルコレクション ところが。 ■1912年:明治45年 美川秀信、農商務省管轄の「水産講習所 製造科」に入学する。 官報. 1912年07月16日:彙報 / 入學許可 水産講習所(農商務省) - 国立国会図書館デジタルコレクション ちなみにこの「水産講習所」とは、後の「東洋海洋大学」に連なる学校となる。 水産講習所 - Wikipedia 沿革:東京海洋大学 ■1915年:大正4年 美川秀信、「水産講習所」を卒業する。 官報. 1915年10月22日:彙報 / 卒業證書授與 水産講習所(農商務省) - 国立国会図書館デジタルコレクション そして美川秀信の「水産講習所」への入学許可が、官報にて公示された1912年7月16日の前日は、 金栗四三がストックホルムオリンピックのマラソンに出場し熱射病で昏倒、目覚めた翌日の1912年(明治45年)7月15日に当たる。 金栗四三 - Wikipedia なにこの偶然。いったいどういうことなんです?? ■1916年:大正5年及び1917年:大正6年 「水産講習所 助手」を務める。 水産講習所一覧. 自大正4年至5年 - 国立国会図書館デジタルコレクション 水産講習所一覧. 自大正5年至6年 - 国立国会図書館デジタルコレクション ■1918年:大正7年 「日本醸造株式会社」在籍。 水産講習所一覧. 自大正6年至7年 - 国立国会図書館デジタルコレクション ■1919年:大正8年から1921年:大正10年 「中村水産研究所」在籍。 水産講習所一覧. 自大正7年至8年 - 国立国会図書館デジタルコレクション 水産講習所一覧. 大正9年 - 国立国会図書館デジタルコレクション しかもこの史料には「在 青島」の文字が。 水産講習所一覧. 大正10年 - 国立国会図書館デジタルコレクション 青島?!って、もしかしなくても中国の?!?www 美川秀信さん、満州どころか中国に行ってたの?!? ■1922年:大正11年 「中華●業株式会社」技師(青島) 水産講習所一覧. 大正11年 - 国立国会図書館デジタルコレクション 美川秀信さん、まだ中国・青島にいらっしゃる模様。 なお「●」は「塩」の旧字の「鹽」だそうです。 お答えのTwitterツイート ということは「中華鹽(塩)業株式会社」ということになります。 ■1923年:大正12年 大正12年の『水産講習所一覧』が国会図書館デジタルに掲載されていない為、不明。 ■1924年:大正13年 「星製薬株式会社」所属。 水産講習所一覧. 自大正12年至13年 - 国立国会図書館デジタルコレクション 「星製薬株式会社」って、ここのことかな? SF作家の星新一のお父さんですか。 星製薬について 星製薬のあゆみ|星製薬株式会社 (とんでもなく長いので、少しずつ追記していきますー。) 関連人物 金栗四三 関連項目 東京高等師範学校 朝鮮総督府 登録タグ 東京高等師範学校 美川秀信 金栗四三 ↓↓イイネ!!はこちら ↓↓↓↓↓ 1940年:昭和15年1月11日。 美川秀信さんが日本統治下朝鮮総督府京畿道仁川府にて亡くなりました。 享年49でした。 National Library Media Integrated Viewer Service
https://w.atwiki.jp/parallelparadox/pages/124.html
不破恭也の魂熾 「――――乾き罅割れ砕けて霞む、我が永き旅路の最果てで ――――十五万二千二百九十九の夜を越え ――――八千七百八十三万四千五百四十八の命を奪い ――――六千五百四十二万八千百二十一の死を重ね ――――歩み続けた旅路の果て、更なる旅路の途上にて ――――ここに我が物語を再生し ――――その歩みを知らしめる ――――揺籃の一薙から、極伝の一閃までの ――――我が果てなき研鑽を、その目で見よ――――!! 絶滅せしめよ、“龍景・双閃天魔鳴神”――――!!」 ※当然だが祝詞の数字はその時によって変わる。 ⇒不破恭也
https://w.atwiki.jp/dungeon-travelers2/pages/428.html
まとめみやすくて便利です、ありがとう -- 2013-04-29 22 41 55 ベヒモスは、ポータル使用後塔を逆走して一階に向かうことでSN扉を無視できるルートがあり、実質職制限なしで挑戦可能。 -- 2013-04-30 02 12 22 寺院の五万ってなんやねんww -- 2014-03-06 21 07 58 ボス行くのに通行料5万って事だな -- 2014-03-06 21 35 49 装備品ドロップの[1][2]って1回目と2回目以降って意味なんでしょうか? -- 2016-11-09 18 19 44 ボスの第一形態・第二形体という意味です -- 2016-11-10 00 32 24
https://w.atwiki.jp/tohohopeacewalk/pages/111.html
K-K - 02/06/05 00 10 27 電子メールアドレス 渡辺さんへ コメント K-Kです。 こんにちは、渡辺さん。 私もこれを機に、中帰連の購読を申し込みました。 夏号を楽しみにまっています。 渡辺 - 02/06/04 02 10 50 電子メールアドレス 「中帰連」など コメント ゆうさん:> 早速、「定期購読」の申し込みをさせていただきました。 ありがとうございます。 「中帰連」に偏見を持っている人がいるのは残念です。 私も購読者の一人にすぎませんが、その志が受け継がれるよう願っています。 最新号(夏号)は第21号でした。ちょうど1年分、4回の連載になるそうです。 内容的には、4回では足りないので、Timperleyの更に詳しい"伝記"は、別の機会をつくって発表します。 Timperleyがジャーナリストというのは、その人生の一部分にしかすぎず、なかなかの人物であったことが分ってきました。これは、 Timperley について(誠意を持って)調べた人が共通にいだく印象のようです。大きな仕事をしても前面に出ないような立場のことが多い上、地味な性格で目立たないわけです。 原稿に添えた写真は、多分1930年代のものですが、聡明で誠実な感じで、誰もがハッとするような風貌です。 他の写真も見ましたが、ネクタイと胸元のハンカチはトレードマークみたいです。写真からは、わかりませんが小柄で、かなりタフな人だったようです。 つまらなさそうな事でも、確認するのは大変で、調べるといろいろ出てきます。 ゆう - 02/06/02 07 58 24 電子メールアドレス 「中帰連」申し込みました コメント 早速、「定期購読」の申し込みをさせていただきました。 楽しみにしています。 渡辺 - 02/06/02 04 09 45 電子メールアドレス 中帰連 コメント 季刊「中帰連」20号が6月に発行されます。 小生の 北村稔『「南京事件」の探求』批判の第一弾が掲載されることになっていますので、下記URLを通してお買い求めください↓。 http //www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/ 評判がよければ、しばらく連載されます。 以前、投稿したものがベースになっていますが、印刷されて出版されれば厳しい目で見られますので、より厳密に考証して記事にしました。今回の内容は「ティンパーリーの略歴」、「北村氏の誤読」、「曾虚白自伝の誤り」、「身元を秘さなかったティンパーリー」などです。 従来、あまり知られていないティンパーリーの写真が(編集部が忘れていなければ)掲載されるはずです。 ティンパーリーの略歴も、いままで発表されたものに比べると、詳しくなっています。 1937年の9月頃、南京で結婚した元奥さんの証言にも言及しましたが、ティンパーリーの経歴については、更に詳しく調べてから別の記事にする予定です。 なお、今回の記事にはあまり詳しく書きませんでしたが、身元を秘したティンパーリーという北村説は 大笑いで、記事は書く、演説はする、ニュース映画には出るで、全く身元を秘してはいませんでした。 これを機会に、季刊「中帰連」を購読ください。 渡辺 - 02/06/02 03 17 38 電子メールアドレス 便衣 コメント 掲載用に修正するので、しばらくお待ちください。 「便衣」は中国語で「平服」のことです。 上海戦で消耗していない部隊を南京の最前線に送ったのです。 南京攻略部隊でゲリラにであった可能性があるのは、百一師団です。元同盟通信の前田雄二氏『戦争の流れの中に』(善本社)P20によると、百一師団のこととして、参謀から「男だけでなく、女までが、隠し持った小銃や手榴弾で、不意に日本兵を襲った」と聞いたとのことです。 上海ではテロもありましたから、こういうことが皆無であったとは思いませんが、従軍日記や実体験を探すと、なかなか出てこないので、よくあることではなかったのではないかと疑っています。陸戦隊なら、何か出てくるかもしれませんが、海軍関係は証言や資料があまりないんです。 それから、それがテロであるのか、正規兵が平服で襲撃したのか、そういうこともはっきりしないんですね。 ところで、「百一師団の参謀たちは、こういう状況の中で、老人子供のようにハッキリ非戦闘員と分るものは別として、住民といえども敵として扱わなければ危険であることを強調した」P21 ということです。 杭州に上陸した 第六師団の通ったあと2,3キロに渡り「犬猫でさえ死に絶えていた」P52 凄惨なものだったようですから、ゲリラというのは口実で、あまり関係ないのでははないかと思います。 『戦争の流れの中に』で、初めて知ったのですが、同盟の記者も拳銃で住民を脅して荷物を運ばせようとしたというのですから、むちゃくちゃです。一部始終をじっと見ていた子供の目が恐ろしかったと前田氏は回顧しています。(P48-) 建前は蒋介石だけを敵としても、実際は民衆が被害を受けるわけですから、民衆がすべて「敵」に見えてくるわけです。 とほほ - 02/06/02 02 28 21 コメント | >ただし、便衣兵狩りと称して上海市内の家屋を探索した事実はあるが、私 | は 戦闘で「便衣隊の存在を経験」したとする記録を いまだ見つけることが | できない。 | | ありゃ、そうだったんですか。私は何となく上海戦では「便衣兵」が活躍し | たかのようなイメージを持っていたのですが(「否定本」に毒されています | ね(笑))、よく考えると、確かに具体的な記述にお目にかかった記憶がな | い。 私も勘違いしてました(^^; 自分のHPでも便衣兵狩りが熾烈であった根拠として上海戦での便衣隊の存在を根拠にしてしまっている(^^;(^^; でもそうしますと 「一、遁走せる敵は、大部分便衣に化せるものと判断せらるるをもって、 その疑いある者はことごとくこれを検挙し適宜の位置に監禁す一、青壮年はすべて敗残兵または便衣兵と見なし、すべてこれを逮捕監禁すべし 」 とかいうような上層部の判断というのはただ単に「ゲリラ戦に警戒する」というだけのものだったのですかね?大体「便衣」と言う言葉自体いつ頃から何に対して使われるようになったのですかね?これって中国語ですか? ゆう - 02/06/01 08 35 00 電子メールアドレス 「論文」の感想 コメント まだ十分読み込んでいないうちの「部分感想」で申し訳ありません。 「別途、構成を変えて発表」されるとのことですが、K-Kさんのおっしゃるように、ぜひ、今の時点でのHPへの追加をお願いします。そうすれば、「北村信者」への説明は、リンクを貼るだけで間に合いますから。(笑) とりあえず、「3 捕虜の処遇について。虐殺か処刑か」の最初の方です。 誰が見たって単なる「虐殺」でしかない「安全区の敗残兵狩り」を、いかにして「虐殺ではない」と理屈付けるか。「否定論者」にとっては、大きな「テーマ」です(笑)。なお、「第七連隊戦闘詳報」の記載にある、「六、六七○」名の「敗残兵」が「刺射殺」された事実についてまで否定しようとする論者は、私の知る限り存在しませんので、この「事実」は議論の前提です。 (渡辺さん) >最初に指摘したいのは、著者が兵が軍服を脱いで平服でいることと「便衣兵」すなわちゲリラであることを、しばしば区別しないで述べていることである。 >「便衣兵」などとなぜ呼ぶ必要があるのか?ゲリラあるいは不正規兵と呼ぶべきではないのか。 そう、そうです。「便衣兵」とは、「戦闘継続を目的に安全区に潜伏した兵士」と定義できると思います。「敗残兵」のほとんどは「戦意」を失って「安全区」に逃げ込んだのであり、この定義に沿う「便衣兵」(ゲリラ)が、仮に存在したとしてもごく少数であることは、「南京事件」にまともに取り組んでいる方でしたら一見して明らかなことでしょう。「便衣兵」問題は、「虐殺」の言い訳には全くなりません。 (渡辺さん) >ただし、便衣兵狩りと称して上海市内の家屋を探索した事実はあるが、私は 戦闘で「便衣隊の存在を経験」したとする記録を いまだ見つけることができない。 ありゃ、そうだったんですか。私は何となく上海戦では「便衣兵」が活躍したかのようなイメージを持っていたのですが(「否定本」に毒されていますね(笑))、よく考えると、確かに具体的な記述にお目にかかった記憶がない。 手持ちの本をパラパラめくっていたら、「便衣兵」とはちょっと違いますが、辛うじて、鈴木明氏「南京大虐殺のまぼろし」に、次の記述がありました。 <第三師団の先発梯団が本船から呉淞桟橋に上陸しようとしたとき、桟橋の上には、日本の愛国婦人会のような恰好をした多数の女性が、手に手に日の丸の古旗を持って迎えたというのである。兵士たちは安心して、次々に桟橋に降り立ったが、それまで並んでいた女性たちの姿はたちまちにして消え、次に展開されたのは、中国軍の凄まじい一斉射撃であった。不意を衝かれた日本軍の死体は、見る見るうちに山と築かれていった。>(P155~P156) そういえばこの話を、他でもどこかで見たような記憶があります(どこかの「掲示板」だったかな・・・)。しかし、私にはこれの根拠となる「一次資料」がわかりません。果たして、信頼できる話なのかどうか・・・。私にとって「南京事件研究」の最大の教訓は、「もっともらしい話でも、自分で裏をとるまでは信じるな」ですから(笑)。 そのあとのクレーガーとハッツの目撃証言に関する記述も面白いところですが、「感想」があまり長文になっても申し訳ないので、このへんで。 (渡辺さん) >掲示板浄化のため、いそいで投稿しましたので 私も、前回投稿は、「掲示板浄化」のサポートのつもりもありました(笑)。 しかし、「掲示板」更新のピッチが、えらく速くなっています。今年に入ってから、次でもう5回目の更新になりますね。この賑わいに、私もちょっぴり貢献しているかな(笑)。 K-K - 02/05/31 23 09 40 電子メールアドレス こんにちは、渡辺さん コメント K-Kです。 こんにちは、渡辺さん。 すごい!! うーん、これは早くHPに移行させたいですね。 草稿ということですが、仮にHPに載せておくというのはどうでしょう?この掲示板も相当大きくなったので、新しい板に変えなければなりません。過去ログとして残りますが、やはり、この労作を過去ログに置いておくだけではもったいない。 ぜひ、お願いします。 渡辺 - 02/05/31 12 17 57 コメント ゆうさん、 掲示板浄化のため、いそいで投稿しましたので、誤字誤植、わかりにくい表現、訂正したい箇所などありますのでご了承ください。 この文章は、北村批判の一部の草稿として作成したものですが、事情がありまして別途、構成を変えて発表することになりました。 ということで、参考としてご覧ください。 なお、東京裁判の日本語訳の記録は、その場で翻訳されたもので、必ずしも正しくありませんので、引用するときには注意が必要です。数字などは、転載のとき間違ったものもあるようです。 東中野「徹底検証」P311~も、間違った数字が資料に記録されているのですが、東中野氏は、ただ批判をすればいいという姿勢なので、その基になった資料をチェックしていません。(例えば、「?新河地域」の数字は一桁少間違っています) 判決文中の「その死体は切断された」で「切断された」という表現が、裁判資料にないと思われる人がいるかも知れません。これは mutilate の翻訳で、この場合は「切断された」ということに限定されず、遺体を傷つけるような行為全般を意味しています。 ゆう - 02/05/29 22 26 49 コメント 待ちに待った、渡辺さんの大論文がアップされました。「南京事件の探究」を片手に、ゆっくりと読ませていただくことにします。 しかし、最初の方の北村氏の文、 >南京の裁判では、 WHAT WAR MEANS はすでに述べた『スマイス報告』とともに、「大虐殺」を立証する重要証拠として判決書に特筆された。 は、確かにおかしいですね。例えば、洞氏の、「決定版 南京大虐殺」には、こうあります。 <極東軍事裁判でも、検察側はこの調査書を証拠として提出していない。その資料的価値を認めなかったからであろう。なお、この報告はむしろ被告にとって有利な証拠とみなされなくもないのだが、にもかかわらず、弁護側はこれを書証として提出しなかった。この資料の示す数字の信憑性については、弁護側さえ疑問視していたからであろう。> (P155。なお、この掲示板の常連の皆さんには解説は不要かと思いますが、念のために付記しますと、洞氏は「スマイス調査」の数字が過少である、と考えているわけです) 少なくとも、中国側の主張する「大虐殺」の根拠としては、「スマイス調査」では弱い感は否めないでしょう。 なお、洞氏で思い出しましたが、東中野氏も、北村氏と同じように、やはり洞氏を「誤読」した批判をしています。 (以下引用) <たしかに、ティンパーリ編「戦争とは何か」第四章末尾の匿名原稿は、昭和十三年一月中旬のこととして、「この避難民の数が、恐らくこの避難民地域で十五万人かそれ以上、我々の避難民キャンプで恐らく六万人と大きくなるにつれ、今や我々は大きな避難民問題を抱えるに至った」と記している。 この匿名原稿を典拠として、洞富雄氏は、前者の十五万人を安全地帯内の人口、後者の六万人を安全地帯外の人口と解釈した。一読する限り、そのような解釈も可能であるかのように思われる。 (中略) しかし『チャイナ・イヤーブック』一九三九年版は、一九三八年初めの国際委員会の救済活動に触れて、次のように記録しているのである。 <この責任は軽いものではなかった。緊急事態のピーク時には約二十五万人の避難民が安全地帯に避難し、そのうち七万人近くが二十五ヶ所の藁小屋キャンプに仮住いした。そして残りの人々は、雨宿りできるところならどこでも捜し出したのである。> これによれば、二十五万の避難民が安全地帯に避難した。そのうちの七万人が藁小屋キャンプで過ごしたというのである。これによって、避難民キャンプと避難民地域が、安全地帯の中にあったことになる。> (「南京虐殺の徹底検証」P294~P295) 確かにこりゃ変だ。そもそも、何で「我々の避難民キャンプ」が、「安全地帯外」にあるんだ? 実は私も、ごく最近、洞氏の「南京大虐殺の証明」を読むまでは、この東中野氏の記述を信じていました。(笑) 実際の洞氏の文を引用すると・・・ <私は、十二月十三・十四両日の城内掃蕩が終わったあとの南京城内残留市民の人口は二五万人くらいで、十二月下旬のピーク時には、そのうちの約一五万人ほどが安全区に集住し、一○万人近くが安全区外の住家にとどまっていたものと考えている。安全区内の人口を一五万人としたのは、同区内最大の難民収容所となっていた金陵大学の管理責任者ベーツ博士が、上海の友人に送った一九三八年一月十六日付書簡に、「おそらくこの難民区内の総数は十五万人以上、われわれの収容所では六万ぐらいです」とみえているのによる。>(「南京大虐殺の証明」P115) 洞氏は、「安全区内の人口」十五万人の推定根拠として、このベーツ書簡を使用していたに過ぎません。「六万」は、「安全区外の人口」とは、全くリンクしていません。(安全区外の人口「十万人近く」の根拠がよくわかりませんが、それはまた別の話です) だから、東中野氏の記述は、「原典」に当たるまでは絶対に信じられない(笑)。ま、ご参考までに・・・。 さて、渡辺さんの大論文を、読ませていただかなくては。