約 181,620 件
https://w.atwiki.jp/fadv/pages/1897.html
コリーニ事件 題名:コリーニ事件 原題:Der Fall Collini (2011) 作者:フェルディナント・フォン・シーラッハ Ferdinand von Schirach 訳者:酒寄進一 発行:東京創元社 2013.4.15 初版 2013.6.20 3刷 価格:\1,800 ドイツの小説を読むときに注意しておかねばならないポイントをうかつにも忘れてしまうと、作品のどこかで足元を掬われることになる。ぼくが事実そうであった。ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』のときにも感じた同じ暗闇にいきなり出くわしてしまったときの大いなる恐れもその類(たぐい)だ。 本書はイタリア系移民のコリーニという67歳の人物が、高齢の大物起業主ハンス・マイヤーを殺害し自首するというあまりにも疑惑の余地なき事件を扱う。若き国選弁護人カスパー・ライネンを主人公に真摯で厳粛な法廷ものの気品を漂わせた本書を取り巻くのは、実は一連の血なまぐさい暴力といってもよく、現実というもののダークサイドを様々なエピソードで綴りつつ、なぜコリーにはマイヤーを殺したのか? という一点に物語の行方は収斂してゆく。 コリーニはマイヤーの頭部を打ち抜くと、倒れて絶命した後のマイヤーの顔を靴で何度も何度も踏み抜き、憎悪をぶつける。あるいは、幼き頃マイヤーの息子フィリップと親友であったライネンは、フィリップと両親の悲惨な交通事故を回想する。ライネンが立ち会う検死の描写もこれまで見たことがないほど、リアルで無音で法的で管理されたものである。 それらの悲惨な暴力の描写を淡々と描く作者の本業は、刑事弁護士である。彼の作者紹介を読むと、彼の祖父のことについて言及されている。それらは巻末解説でも同様であり、それらごく近き祖先たちの世界と作者を隔てるものは何であるのかを、本書では作者が自らに問うているようにも思えてくる。作者の投影された姿であるカスパー・ライネンの真実への旅は、過酷でありながら、国家の抱えているある理不尽な法律という一点に行き着く。巻末の作者の補遺に関連法令が提示され、その問題点が明らかに提起されている 本の力を侮るべきではない、と改めて気づかされる一冊である。本書が提示してみせた法律の落とし穴をきっかけに、ドイツ連邦法務省はこの件に関する調査委員会を立ち上げた。許されざる者、裁かれざる者が、生きている時間の中で正当な鉄槌を受けることを心から望みたくなるような読後感である。 それと同時に国家の底にこのような闇が眠り、暗い人生を生き延びてきた悪魔たちが跋扈したり人生を謳歌したりしてきている真実に途方もない悔しさを感じる人が、本書をきっかけに限りなく群れを成しているのではないかと、ドイツという国家に起きた小さな渦が起こす波紋にまで心が及ぶ。日本という国にも同様の懸念がないわけでもなく、だからこそ、このような文学が謳われる時間が貴重だと思える。 ちなみに完結にしてテンポよく短い文体。そもそも『犯罪』という短編集が本屋大賞を獲得したことで知られるようになた作者シーラッハであるが、長編としても完結かつ行間に込められた間合いや気迫という意味で、とても優れた作家であるように思える。ライネンの心情描写をすることなく行動や回想によって描き切ったハードボイルドの方式による語り口も実に好感の持てる作風である。多くの読者に読まれ、本年の賞を獲得し、さらに世界的に普及されることを期待してやまない一作だ。 (2013.07.28)
https://w.atwiki.jp/puyaken/pages/68.html
2005年5月の終わりに、 サークル室に残った四川が鍵を部屋に置いたまま鍵をかけてトイレへ行ってしまい、 6時から8時過ぎまで締め出しを食らった事件。 サークル室前の黒板に悲痛な叫びが残されていた。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/542.html
中山艦事件(ちゅうざんかんじけん)は、1926年3月20日中華民国の広州で軍艦中山艦の回航をきっかけに、黄埔軍官学校長蒋介石が中国共産党員らの弾圧を開始した事件。「三二〇事件」「広州事変」とも。この事件をきっかけに中国国民党内での蒋介石の地位が急速に上昇し、また翌年4月の上海クーデターで第一次国共合作が破綻へ向かう端緒となったが、事件の中核の経緯は未だにはっきりしていない。 事件の背景 1924年中国国民党は第一次全国代表大会で「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示。ソ連のコミンテルンの指示を受けた中国共産党もこれに応じ、共産党員が国民党に入党するという形式で両党の間に国共合作が行われることになった。それよりやや以前から国民党総理孫文(孫中山)はソ連式の軍人教育にならって将校を育成する機関の必要性を感じ、蒋介石をソ連へ派遣していたが、これを機に広東省広州の長洲島にある黄埔に軍官学校(士官学校)を建設することを決定した。国共合作の実を挙げるため、同校の校長には蒋介石が就任する一方で、政治部主任などの要職に国民党幹部の廖仲愷・戴季陶や共産党幹部の葉剣英・周恩来などが就き、さらにソ連からの軍事顧問団が教官となるなど、呉越同舟の組織となり、三民主義とマルクス主義が同時に教えられた。しかし、国民党主催の学校であるにも関わらず、共産党やソ連軍事顧問団が擡頭してきたことに校長の蒋介石は危機感を募らせていた。 また、1925年孫文の死にともない、国民党首脳部は混迷を極める。党内左派の領袖廖仲愷が暗殺され、その暗殺の首謀者と目された右派の胡漢民は国外へ逃亡。常務委員会主席・軍事委員会主席で人望のあった汪精衛(汪兆銘)も指導力を発揮できず、国民党の悲願である北伐(全国統一)を開始できない状況にあった。発言力の大きかったソ連軍事顧問団のキサンガらも北伐は時期尚早であると反対しており、北伐推進派の蒋介石はこの状況の中で主導権を握る機会を狙っていた。 中山艦の回航と弾圧開始 1926年3月18日、国民党海軍局所轄の軍艦「中山」が突如として広州の黄埔軍官学校の沖合に現れた。蒋介石はこれを中国共産党員による蒋介石拉致のための策謀と断じ、3月20日艦長の李之竜(共産党員)をはじめ共産党・ソ連軍事顧問団関係者を次々に逮捕、広州の共産党機関を捜索し労働者糾察隊の武器を没収し、広州全市に戒厳令を発するという挙に出る。 蒋介石の主張によれば、この中山艦の行動は、汪精衛とソ連軍事顧問らが共謀して蒋介石を拉致し、ウラジヴォストークへ強制連行しようと謀議し、共産党員が実行に移したものであるという。しかし、果たして本当にそのような計画が存在していたかは定かではない。この事件をきっかけに蒋介石の党内の地位は急速に上昇していくことになった。 事件の影響 それまで蒋介石は国民党軍の総監という比較的低い地位に留まっていたが、事件後には国民党軍事委員会主席に就任し、党内の実権を握っていった。汪精衛は蒋介石の傀儡となることを拒み自発的に辞任して、妻を伴いフランスへ逃れた。国民党の主導権を確立した蒋介石は以前から危機感を持っていた共産党員の擡頭に対処するため、軍事委員会に「整理党務案」を通過させ、共産党員を国民党の訓令に絶対服従させるとともに、国民党の要職から共産党員を排除していく。共産党員は当然これに反撥したが、スターリンの意向を受けたソ連軍事顧問団はこれを抑制。むしろ蒋介石と対立していたキサンガらを召還するなど、蒋介石に妥協している。こうしてかろうじて国共合作は引き続けられた。 邪魔者を排斥した蒋介石は国民革命軍総司令に就任し、同年7月1日念願の「北伐宣言」を発表して北伐戦争を開始した。北伐戦争は順調に進み各地軍閥を圧倒、翌1927年には武漢・南京・上海などを占領する。しかし、蒋介石の独善的な指導に党内にも反蒋的な空気が横溢し、解放された武漢や上海では共産党員・国民党員らが蒋介石から独立した動きを見せるようになり、南昌に本拠を移した蒋介石に対抗した。こうしたなかの4月12日蒋介石の指揮により上海で大規模な共産党員弾圧(上海クーデター)が開始され、第一次国共合作は完全に崩壊するに至った。 関連項目 蒋介石 汪兆銘 中国国民党 国共合作 黄埔軍官学校 北伐 上海クーデター 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月7日 (日) 14 47。
https://w.atwiki.jp/dagamatome/pages/28.html
だがアホ事件とは、2012年2月25日に起こった事件。 だがが自演を失敗し、その隠蔽工作にも失敗した。 事件が起きたのはこのスレなのだが、 2万5千で上洛 信玄 http //ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328973112/ 以下の2つにも飛び火したため、以降、事件の経過を分かりやすくするため、レスの頭にスレッド名前をつけて記す。 信長は信玄と謙信、どっちが脅威だったの? http //ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1295693653/ 【みんなの】だがを見守るスレ【アイドル?】 ※2代目の方 http //ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328312352/ 事件はだがのレスから始まった。 2万5千で上洛 信玄 205 :人間七七四年[]:2012/02/25(土) 21 42 23.33 ID ZOaihqup 佐々木哲も朝倉義景が近江南部に領地を持っていたからこそ、 義輝が殺された時に朝倉が主導して義昭を近江南部に逃がすことに成功したと論証してるな。 義景が六角出身の養子で、 六角義秀死去後に 義景が花押を六角氏様に変更してるし。 六角出身の仁木義政が義昭が義景邸を訪問した際に、 義景の後見人として振舞っていたり。 学者の名前の持ち出し方、不自然な改行、たどたどしく中身のない文章、 すぐに「だが」と分かるレスである。 事件はこの直後に起こった。 2万5千で上洛 信玄 206 :人間七七四年[]:2012/02/25(土) 21 45 27.18 ID eXXXs02Z 佐々木哲も朝倉義景が近江南部に領地を持っていたからこそ、 義輝が殺された時に朝倉が主導して義昭を近江南部に逃がすことに成功したと論証してるな。 義景が六角出身の養子で、 六角義秀死去後に 義景が花押を六角氏様に変更してるし。 六角出身の仁木義政が義昭が義景邸を訪問した際に、 義景の後見人として振舞っていたり。 207 :人間七七四年[]:2012/02/25(土) 21 46 28.61 ID eXXXs02Z 206 まじかよ! それはひょっとしてギャグでやってるのか?と言わんばかりの自演失敗に、住人は大爆笑。 2万5千で上洛 信玄 212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 23 23 11.00 ID G1yd6ctS 206-208 また自演失敗かよwww 相手してやってて情けなくなるわwwwww 213 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/25(土) 23 30 03.03 ID EsVhbTwt もはや伝説の域に達してるだろだがさん… だがは大慌てで別スレに行き、自演を取り繕うレスをする。 信長は信玄と謙信、どっちが脅威だったの? 684 :人間七七四年[]:2012/02/25(土) 21 49 38.82 ID eXXXs02Z だがアホ ……もう少しマシなレスはなかったのだろうか。 もっと酷い悪口を書くなり、もしくは信長を褒め称えるなりすればいいのに、そういう事は絶対にしたくないらしい。 自己愛の強い性格なのか、もしくは相当いじけた性格なのか。 ともあれ、格好のネタを得た住人が早速だがスレに晒す。 【みんなの】だがを見守るスレ【アイドル?】 75 自分:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/25(土) 23 26 24.95 ID G1yd6ctS はーい、またやらかしましたー 206 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/25(土) 21 45 27.18 ID eXXXs02Z 佐々木哲も朝倉義景が近江南部に領地を持っていたからこそ、 義輝が殺された時に朝倉が主導して義昭を近江南部に逃がすことに成功したと論証してるな。 義景が六角出身の養子で、 六角義秀死去後に 義景が花押を六角氏様に変更してるし。 六角出身の仁木義政が義昭が義景邸を訪問した際に、 義景の後見人として振舞っていたり。 207 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/25(土) 21 46 28.61 ID eXXXs02Z 206 まじかよ! 自演で自分を擁護するだが。 【みんなの】だがを見守るスレ【アイドル?】 79 :人間七七四年[]:2012/02/26(日) 07 01 08.12 ID sAFn6TZH eXXXs02Zの他のレス見たら明らかに織田厨じゃんよワロタw 2万5千で上洛 信玄 216 :人間七七四年[]:2012/02/26(日) 07 02 32.09 ID sAFn6TZH eXXXs02Zの他のレス見たら明らかに織田厨じゃんよワロタw こんな工作が通じるわけもなく。 2万5千で上洛 信玄 217 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/26(日) 10 33 32.46 ID dY2FCqy5 自演失敗して違うIDで2度書き込んじゃったんだなwww 218 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/26(日) 13 38 36.32 ID 56V3uz0J 久しぶりに来てみたらクッソワロタwww 仕事辞めてお笑い芸人目指せよwww 【みんなの】だがを見守るスレ【アイドル?】 80 自分:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/26(日) 13 30 07.06 ID bfW4a1Zx これがですか?w 684 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/25(土) 21 49 38.82 ID eXXXs02Z だがアホ 同志のはずの武田厨にすらたしなめられる始末。 2万5千で上洛 信玄 219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 20 03 37.30 ID 6eOk/AJr eXXXs02Zは他のスレで だがの中傷してるのに 必死に歪曲する織田チョン 220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 20 44 57.42 ID dY2FCqy5 219 アホがバレバレだから、もうその話題はやめた方がいいと思う。 あとお前、他人のスレでスレ違いの話題するのやめろ。 スレ違いなのに自作自演、糞レス、煽りとやりたい放題されて迷惑なんだけど。 まだこりない。 2万5千で上洛 信玄 223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 06 50 55.70 ID ePiz7tFf 221 そもそも別な人のコピペじゃんw 205 人間七七四年 02/25(土) 21 42 ZOaihqup 佐々木哲も朝倉義景が近江南部に領地を持っていたからこそ、 義輝が殺された時に朝倉が主導して義昭を近江南部に逃がすことに成功したと論証してるな。 義景が六角出身の養子で、 六角義秀死去後に 義景が花押を六角氏様に変更してるし。 六角出身の仁木義政が義昭が義景邸を訪問した際に、 義景の後見人として振舞っていたり。 うん、まったくの別人だね(棒読み) もはや誰にも相手にされなかったが、そんな事を理解する精神的余裕があるのかないのか、だがは一刻も早く話題を変えたいばかりに別の話題を持ち出す。 226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 09 17 28.78 ID aYyjA2/4 でさ、織田チョン自慢の最強九鬼水軍の一次史料はまだなの? そして即座につっこまれる。 227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 11 22 34.03 ID Wf7Lty3G 226 何度でも聞くが、武田水軍が織田の長島一向一揆殲滅に協力したってことでいいんだな? だがはいまだにこの質問から逃げ回っている。そりゃそうだ。 だがの言う通りに「武田軍が伊勢湾を席巻していた」とすれば、信長の第三次長島一向一揆攻め(2万人を焼き殺したやつ)の時、武田水軍は一向一揆が皆殺しにされるのを黙って見てたことになるのだから。 以上、だがアホ事件の顛末でした。 ここまで見てくれてありがとうございます。 上洛スレ60事件→「アスペルガー」姓の下賜→だねえ事件→上洛スレ64事件 →ウィキペ参照事件→美濃御料所崩れ→投票否定事件→だがアホ事件→教科書改変事件 →創造・天道の屈辱→対立煽り失敗事件検証→したらば落ち→10.1事件10.1事件考察 →筆頭家老・佐久間信盛の変→菅沼遼太発禁事件→だが2世事件だが2世事件・後編 →
https://w.atwiki.jp/pspt/pages/66.html
素粒子研事件 夏合宿が素粒子研と日程が重なった事件。PSは毎年恒例行事として、理工学部の施設、八海山セミナーに行きプログラム作成を行う。この年(2006年)の夏合宿では、日程が素粒子研の日程と全く持って重なってしまった偶然に、当時の部員に衝撃が走った。3泊4日という宿泊日数まで同じであったことから、PSの事件史として名を残した。
https://w.atwiki.jp/xdoumori/pages/57.html
ポエマー事件 幻影とポエマーの戦争(事件)である。 年月日 2010年?月?日?時頃~2010年?月?日?時頃 交戦勢力 幻影vs悠久のポエマー 結果 悠久ポエマーの勝利... ポエマー事件 概要 交戦勢力 原因・背景 経過開戦 終戦締結 影響 結果 概要 Wi-Fiおでかけ掲示板で古参潰しを行っている悠久のポエマーとの戦争である。 交戦勢力 幻影側 幻影 悠久のポエマー側 悠久のポエマー 原因・背景 Wi-Fi掲示板にて古参潰しを行っていた新参の悠久のポエマーが、 以前から叩いていた戻しを卒業まで追い込むことに成功する(戻し以外にも被害者は多数)。 戻しはyahoo!知恵袋でいじめられているなどの質問をしたり、尿がおかしいなどの質問をしていたため、 それをダシに使われた可能性が高い。それを見ていた幻影(HostSamuraiやまさよん)はそんなことで卒るのかと、 戻しに「その程度で卒るとか雑魚だな。」などの罵倒をしていた(実際は、戻しを助け、 悠久のポエマーを潰し、敵を討つつもりだったのだが、その罵倒のせいで誤解してしまった)。 それに激怒した戻しは悠久のポエマーに「卒るので幻影代表を潰してほしい。」という交渉を持ちかける。 一石二鳥だとばかりに、悠久のポエマーは承諾(何故幻影代表かというと、戻しはHostSamuraiを怖がっていたようで、 スレに来られることを嫌がっていた)。それに応戦すべく、敵を討つために結成されていた部隊を、 応戦するために出動させることを決意(元々は敵討ちのための部隊だったが、戻しを叩くことも視野に入れた)。 経過 開戦 相手が悠久のポエマーということもあり、幻影は万全の対策を取った。 まず、スレを一時閉鎖し、サイトも一時閉鎖した。パスクラなどの可能性を最低限抑えるためである。 幻影の攻撃方法は至ってシンプル。総当りである。悠久のポエマーを完全に潰すことが目的であった。 HostSamuraiを中心に活動し、自演やステハンに成り済まし、アンチポエマースレを乱立するなど、さまざまな手を使った。 悠久のポエマーのことは殆どの住民が迷惑がっており、幻影を支持する住民が多かった。 その一方で、幻影を批判するステハンはいたが、幻影に影響はなかった。 主に、戻しのスレで論争が行われ、HostSamurai、まさよん、ひれんじゃくが奮闘した。 小太郎は何をしていたのか不明。だが、3人の実力は乏しく、とても敵う相手ではなかった。 まさよんはこれでは埒が明かないと考え、特設BBSを作成し、そこで論争することを決めた。 主に、HostSamuraiと悠久のポエマーが論争していた。若干悠久のポエマーが押していたが、 勝敗が決定できるようなレスではなかった。論争中に、アンチポエマーと思われる半値が3人ほどおり、 彼らをHostSamuraiの自演だと睨んだ悠久のポエマーはHostSamuraiに「こいつらがお前の自演なら幻影を畳め。」と、 HostSamuraiに言った。HostSamuraiの自演であったが、バレることはないだろうと思い、承諾した。 終戦締結 論争が平行線のまま続き、とうとう悠久のポエマーが特設BBSのパスを解読。 これにより、HostSamuraiの自演が確定した。だがHostSamuraiは契約を破り、 畳むことはなかった。結果、悠久のポエマーを潰すことはできず、更には戻しが卒ることもなくなった、 という何の意味も持たない戦争であった。この日を境に幻影の支持率は著しく低下した。 影響 なんか結局戻しは卒った。 結果 現在、悠久のポエマーは昔ほど叩きをやっておらず、住民とも仲良くなっている。 幻影との交流は未だにあり、詩人という半値を使ったりもしている。
https://w.atwiki.jp/onthecorner/pages/366.html
【1972/08/16 霧積温泉女性殺人事件 群馬・松井田町】 ------------------------------------------------------------------------- 上毛新聞 昭和47年(1972)8月17日(木) 1面工事現場に女性の死体 乱暴され殺さる 全身に数ヵ所の傷 他で殺し運ぶ? 霧積ダム 十六日午後五時ごろ、碓氷郡松井田町の霧積ダム建設現場付近の 小屋の中で、伊勢崎市昭和町、店員××××さん(二四)の 死体が発見されたと父親の同所、撚糸業××○○さん(五五)から 松井田署に届け出があった。 同署では現場に急行して調べたところ、××さんの死体は 工事現場付近の物置き小屋の中で頭を南にあお向けに倒れ、 着衣はノースリーブのブラウスに白スカートをつけ、スカートが まくれているなど着衣の乱れがあるほか、死体の右腕に長さ 五センチ、幅三センチの切り傷があり、他にも左胸、首などに 多数の外傷が発見され、同署では殺人事件として本格的な捜査に 乗り出した。 捜索の父親が発見 ××さんが死体で見つかった場所は国道十八号線、碓氷峠 カーブ3から霧積温泉方向に霧積川に沿って約七キロ入った地点、 林道から一段下がった数年前に堰堤(えんてい)工事に使った 作業小屋だった。 小屋は板張りで八畳と六畳の二間あり、××さんは八畳の間の 真ん中であお向けになって死んでいた。 死体は首の右と左腕、右手の三ヵ所に鋭利な刃物で刺したと みられる傷があり、濃い紺のワンピース、白の運動ぐつをはいていた。 小屋の東側には出入り口があるが、西側の窓がこわされていた。 死体の傷に出血が少ないので、他の場所で殺されて乱暴されたあと 車で運び込まれたらしい。小屋に入る道路上に乗用車のタイヤ跡が 残っていた。 小屋の中には××さんが持っていたカメラ、ハンドバッグなどは なかった。 同署の調べによると、××さんは十二日に東京都小金井市緑町にいる 実弟の銀行員△△さん(二二?)ら二人と同温泉に宿泊する予定だったが、 △△さんらの到着が遅れて一人で泊まった。翌十三日午前十時ごろ、 一人で旅館を出た。旅館の人が自動車で送るといったが、 「歩いて帰る」と松井田方面に向かい、消息を絶った。 ××さんを発見した父親の○○さん(五五)は××さんの安否を 気づかって近所の人十人と”私設捜索隊”を組み、同温泉へ向かう途中、 十六日午後四時半ごろハエがむらがっている小屋を見つけ、 不審に思って中へ入ったところ、××さんが死んでいたという。 ××さんの自宅では、帰宅予定の十四日になっても××さんが 帰らないため、家族が心配して姉の□□さん(二八)が同温泉に探しに行き、 さらに十六日になって○○さんが伊勢崎署に家出人捜索願いを出した。 ××さんは無口で友人関係などあまりないが、きちょう面なので これまで遅刻や無断欠勤はなく、職場では信頼されていた。 また、旅行ずきで、休みにはよく温泉などに出かけていた。 霧積川には四十五年秋から多目的の霧積ダムを建設しており、 約百人の作業員が働いているが、十二日から盆休みで工事現場には いなかった。 同署は霧積温泉に現在泊まっている客八十人に話をきく一方、 すでに旅館を出た人や車ではいった人を調べているが、犯人像については 全く見当がついていない。現場は指紋採取のむずかしいところで、 捜査は難航している。 ------------------------------------------------------------------------- 上毛新聞 昭和47年(1972)8月18日(金) 1面 霧積山女性殺人事件 変質者の犯行? 現場に地下タビ跡 残忍、二十数ヵ所に刺し傷 碓氷郡松井田町坂本の霧積川沿いの作業員小屋で惨殺された 伊勢崎市昭和町、ガソリン店員××××さん(二四)の殺人事件を 捜査している県警捜査一課、同鑑識課、松井田、伊勢崎の両署は十七日、 ××さんが殺されていた小屋付近の現場検証を中心に、十二日夜に 宿泊した霧積温泉の旅館など××さんの行動を調べ、犯人との”接点”の 発見に努めた。しかし、同日の調べでは小屋に犯人のものとみられる 地下タビによる足跡と犯行時に使用したとみられる軍手で血を つけたような手の跡が見つかっただけで、××さんの下腹部にも 刺しキズがあり猟奇的な事件から変質者の犯行とみて捜査は その線にしぼって進められている。 なお、十七日夜、松井田署に 温井守夫 松井田署長を本部長とする 「霧積山女性殺人事件捜査本部」を設置した。 同日は捜査員約百人が動員され、松井田町内と××さんの実家のある 伊勢崎市内で捜査を行なった。××さんが十六日夕方、変わりはてた姿で 発見された小屋付近で鑑識課員らが検証したが、死体のあった南側の 八畳間の西の端に、××さんが持っていた手編みの白色帽子、カメラ、 紺色の布バッグ、旅行ブック、下着類など四十三品がブリキ板で 隠されていた。 また、入り口のある奥の六畳間には××さんの死体を引きずった らしい血跡が約二メートルにわたってついており、室内と小屋の外には 地下タビの足跡と血のついた軍手による跡が数ヵ所残されていた。 このほか、同日の調べで、××さんは十二日夜、霧積温泉の 金湯館=※※※※さん(六九)経営=の二十八号室に一人で泊まり、 翌十三日朝、朝食のあと午前十時ごろ、同旅館の嫁の◎◎さん(二七)が 「マイクロバスに乗っていったらー」と呼びかけに対し、 「歩いて行きます」と答えて出発している。その後、午後二時ごろ、 旅館から約五キロ下った地点でブラブラ歩いている××さんを同じ旅館に 親子三人で泊まり午後帰った安中市内の人が出会い、車に乗っていくよう 声を掛けたが、××さんはここでも断っている。 これらの足取りから、捜査陣は群大での××さんの解剖の結果と 考え合わせるとこの直後に××さんは犯人と会ったものらしいと みており、さらに一・五キロ下った小屋になんらかの方法で 連れ込まれたものとみられる。 犯人については、殺害の手口から地下タビをはいて刃渡り十センチ、 刃幅二・五センチの鋭利な刃物を持った男一人の単独犯行とみており、 捜査本部は十二日から十三日にかけて金湯館と同じく※※さんが経営する 霧積館に宿泊した客約二百人と、死体が発見された小屋の下流で建設中の 霧積ダムの工事関係者の身元を調べた。 その結果、宿泊客の大半は家族連れで、若い人たちのグループもいたが、 ハイキングで鼻曲山-軽井沢のコースを歩いている。また、工事関係者は 盆休みで十二日夜に富山県出身者がマイクロバス一台で、青森県出身者が 大型バス一台で帰郷、十三日には作業員たちの食事の世話をしている ●●さん(五九)、〒〒さん(五四)の夫婦たち九人が宿舎にいただけだった。 そのうえ、小屋に残されていた地下タビの足跡はダム工事現場で 作業員たちが使っているもの以外の製品であることから、 今までの調べではダム関係者には犯人はいないものとみている。 捜査本部では、今日十八日は機動隊員も出動させて霧積川や 山道沿線で××さんを殺害した凶器の発見や、さらに××さんを 目撃した人たちから詳しく話を聞くことにしている。 胸の傷が致命傷 ××さん解剖 殺害された××さんの遺体は十七日午前十時から約二時間にわたって 群大法医学部教室で古川研同大医学部助教授の執刀で解剖された。 死因は左胸の心臓に達する深さ八センチ、長さ五センチの傷が 直接の原因とみられ、出血多量で死んだ。 死亡推定時間は十三日昼から夕方にかけてとみられており、 同日午前十時ごろ、霧積温泉の旅館を出てまもなく殺されたらしい。 心臓の傷はアバラ骨三本を切るすさまじいもので、このほか下腹部など 全身にわたって二十数ヵ所の刺し傷や切り傷があり、鋭い刃物で メッタ切りされていた。 (1面下のコラムもこの事件について述べていますが略) ------------------------------------------------------------------------- 上毛新聞 昭和47年(1972)8月18日(金) 9面霧積山女性殺人事件 猟奇殺人に発展 計画的? 手袋使う 血まみれを引きずる 床板を真っ赤に染めたおびただしい血痕、犯人は残酷にも血の吹き 出している死体を六、七メートルほど引きずり回していた-。 伊勢崎市昭和町、ガソリンスタンド店員××さん(二四)が、霧積温泉近くの 造林小屋で殺されていた事件を捜査中の松井田署と県警捜査一課では、 十七日早朝から、現場検証を行なう一方、ダム工事関係者、温泉宿泊者など からの聞き込み、被害者の身辺捜査など本格的な捜査に乗り出した。 しかし現在のところ、犯人割り出しの有力なキメ手はもちろん、 上半身に二十四ヵ所の刺し傷、切り傷がある文字通りの惨殺振りから 怨恨、痴情、流しいずれの犯行とも決めがたく、事件のナゾはますます 深まる気配さえ見せている。そこで××さんの足取り、目撃者の証言、 殺害状況などから事件のナゾを解明してみた… ××さんの行動 これまでの捜査から判明している××さんの足取りは、十二日 午前十時ごろ、霧積温泉に一-二泊の予定で父親の○○さんに 伊勢崎駅まで送られた-という事実を出発点に、単身行動ではあったが ××さんと接した人たちの証言から確実な日時を断定する”点”は いくつか出ている。 十二日午後零時四十分ごろ、××さんは、松井田町にある霧積温泉の 出張所になっている▲▲さん宅を訪れた。一般の温泉客は横川駅から 旅館のマイクロバスを利用するのに、なぜ××さんは駅から約三キロもある ▲▲さん宅を訪れたか(しかも徒歩と思われる)。 ここで××さんは▲▲さんとこんな会話をしている。 「ここから霧積温泉までどのくらいかかりますか」 「三-四時間はかかります。ましてハイヒールでは無理です」 このため××さんはちかくの雑貨店でマップシューズを買った。しかし、 ▲▲さんに説得されてマイクロを待つことにして、あがって一時間以上も 話し込んだ。 「どこからきたの」「伊勢崎です」「おばさんはわたしの学校時代の 担任の先生に似ている」 ××さんは今月初めに出張所に電話で予約をしているのに、このことは 一言も触れず、名前もいわなかったという。さらに疑問なことは、 家族の話では××さんは同温泉にはこれまで二回行ったことがあるのに 初めての客のように装っていることだ。 同夜温泉の金湯館に一泊した××さんがここを出発したのは 翌十三日の午前十時ごろと見られている。(未確認)。そしてマイクロに 同乗することを断って歩いて帰路についたという。 午後二時前後、安中市内に住む親子三人づれのAさん一家が車で帰る途中、 死体発見現場から約一・五キロ手前を一人で歩いている××さんを認めて、 車に同乗するよう誘ったが、これも断った。事件発生当日とみられる 十三日に××さんを目撃したのはAさん一家だけで、いまのところ この”点”を”線”に結びつけるものは何ひとつ出ていない。 犯人像は… 心臓部をえぐりロッ骨三本を切断した傷、長さ七センチに及ぶ 右頸部の切創、左手首を貫通した刺し傷-背中、臀部も含めて 上半身二十四ヵ所の生々しい傷口は殺人事件の中でもあまり 類をみない残酷さ。現場検証の結果から、犯人は北側の部屋で ××さんを殺害したもので、犯行現場と死体発見現場同一説が 強まっている。 犯人は何の目的か、血の吹き出ている××さんを約六、七メートルも 引きずって南側の部屋に移したようだ。このため、この間は血のりが ベットリと本床にしみ込み、部屋の仕切り部分の腰板には、××さんを いったん置いたのか多量の血痕が付着している。 さらに痛々しいのは、××さんが犯人の”魔手”から逃れようとしたために 刃物を握ったと見られる左手の”防御創”-これらのことを総合して 殺害時の状況を推理してみると、犯人はおそらく逃げまどう××さんを メッタ切り、あたりかまわず突き刺し、最後のトドメで心臓部を えぐったというまさに”狂気の殺人”といえるようだ。 これまでの捜査から犯人を特定するポイントとしてあがっているのは、 死体発見現場の造林小屋から採取できた犯人のものと思われる 「地下タビに似た足跡」数個と「血のついた手袋の痕跡」数個が 発見されたこと。 犯人が証拠隠滅を図って手袋をしていた-これが確実に裏付けられれば 捜査にとっては大きな前進。すくなくとも××さんとまったく面識がなく、 しかも通りすがりという”流し犯行説”はとり除くことができよう。 さらに犯人の犯行が計画的であったことを裏付ける要素として、現場の 造林小屋内部の状況、死体に二枚のトタンがかぶせてあったほか、 血痕の付着した床板、腰板すべての場所をトタンで覆い隠している。 また、××さんの所持品も「十時九分」を指して止まっていた腕時計など 四十数点をそっくり布袋に入れて隠し置いたことなどで、狂気の犯行後にとった 犯人の証拠隠滅行為はまさに冷静そのものの”殺人プロ”的な要素も ないわけではない。 しかしまったく逆の推理も成り立つ。犯人は意外に小心者で、 ××さんがひとりで山を下るのを見て乱暴しようと企てて造林小屋に連れ込んだ。 しかし激しい抵抗にあって思わず持っていた刃物で一突き、血潮が吹き出すのを みて狂乱しメッタ突きにした。さらに暴行が成功しなかったことから 下腹部にも切りつけるという”猟奇殺人”へとエスカレートしていったことも 考えられる。 今後の捜査 犯人逮捕に結びつけるためには今後、捜査本部が解明しなければ ならない点は非常に多い。 (1)犯行動機 (2)犯人は単独か複数犯か (3)車を使った犯行かどうか (4)犯行現場と死体発見現場が同一かどうか-これらのナゾはすべて 同一捜査線上にあり、関連しあう疑問点ではあるが、ひとりで歩いていた ××さんの目撃者が意外に少ないということから捜査は早くも 難航のきざしを見せている。 現在、捜査本部が、解明の端緒としているのは、旅館の泊り客、 ダム関係作業人、民・国有林の下草刈り人、釣り人、ハイカーなどからの 聞き込みのほか、××さんの身辺捜査。さらに有力なキメ手となる 「地下たび」のメーカー割り出しと利用者の キャッチ。とくに発見が急務とされているのは凶器と犯人が返り血を 浴びたために捨て去ったと見られる衣類がある。 これまでのところ、捜査の有力な決め手を欠いたまま長期化の様相を 見せているが、十七日に捜査本部が事情を聞いた関係者の中で証言が あいまいな点のある者がいたようで、もしこの辺を突破口にして 事件の核心に触れることができれば意外に早期解決が望めそうな要素もある。 ハム交信で連絡 発見は私設捜索隊 ××さんの遺体は父親の○○さん(五五)らで編成した”私設捜索隊” 十人によって発見されたが、この一報は同市昭和町、左官業▽▽さん(四二)の ハム交信により現地から自宅で待機していた二男の$$君(十五) =市立殖蓮中三年=に伝えられた。$$君はとぎれとぎれに聞こえる 父親の話の内容から、××さんが遺体で見つかったことを知り、 すぐ××さん宅にこのことを知らせた。 このことから、伊勢崎署は現地と連絡のうえ、松井田署員が現地に急行、 ××さんの遺体確認となった。 ------------------------------------------------------------------------- 上毛新聞 昭和47年(1972)8月19日(土) 7面 誰が撮ったこの写真 ナゾ秘めた五コマ 顔見知りの犯行か 霧積山中の造林小屋で、伊勢崎市昭和町、ガソリンスタンド店員 ××さん(二四)が殺された事件を調べている松井田署、捜査本部では 十八日、新たな目撃者の発見や泊まり客、旅館関係者などからの 聞き込みなど前日に引き続いて基礎捜査を継続する一方、機動隊員 四十人を動員、犯人の遺留品捜索のため、現場付近七キロにわたって 検索を実施した。しかし、いぜんとして事件に直接結びつく有力な 手がかりは得られなかったが、××さんのカメラにはだれがとったのか、 本人のポーズ写真が残されており、事件解明に一歩前進した。 同日、捜査本部では、現場の造林小屋内に隠されていた××さんの 所持品を再点検、このうちカメラは××さんが帰路途中で、だれかに 撮影を頼んだとみられるものなど五コマをとらえていた。 このコマは「霧積館」から三百メートルほど上ったところにある 「忍の池」のえん堤付近で撮ったもの。このため、捜査本部では、 何かの理由で××さんと一緒になって撮影を頼まれた人が、事件発生当日の 十三日午後二時前後に安中市のAさんに目撃される時点まで、 空白になっている××さんの行動を解明する重要なカギをにぎっている ものと見て、発見に全力をあげている。 一方、この日の捜査から、犯人割り出しの大きなポイントになると 見られていた「地下たび足跡」数個はかなり古いものとわかり、 足跡面からの捜査は振り出しにもどったようで、現在、犯人が現場に 残したもので確実なのは、死体や血痕を隠すために使用した ブリキに付着している「血のついた手袋の痕跡」だけとなった。 捜査本部では、”××さんがだれかに写真を撮らせた”という 新しい事実から、これまでナゾとされていた空白の四時間 (午前十時ごろ、金湯館を出発してからAさんが目撃した午後二時ごろまで) を解明する端緒をつかんだ。しかし、この事実は××さんがだれかと行動を ともにした裏づけであり、事件は「顔見知りの犯行」説が有力になってきた ともいえる。このため捜査本部では、 (1)××さんが旅館宿泊中に親しくなった人がいるかどうか (2)××さんが友人と会う約束をした事実があるか (3)事件当日、顔見知りの人が偶然に霧積温泉を訪れて××さんに出会ったか どうか- などについて捜査を始めた。 凶器は牛刀類? 現場捜索で発見できず ××さんの上半身に集中してメッタ突きした凶器は、十八日の現場付近の 捜索でも発見されなかった。とどめとなった左胸の長さ七・五センチ、 幅四センチ、心臓、肺臓を貫通した傷は、ロッ骨三本を切断するほどの 威力だった。 総計二十四ヵ所の傷跡から、捜査本部では凶器は”先端鋭利で 幅は二・五センチぐらい、長さは十センチを上回る”と推定している。 しかし、これに該当するものとしては柳葉包丁、登山ナイフ、 牛刀、料理用ナイフ類などいろいろあり、特定は困難だ。 ただ胸の傷跡のように一度刺して骨を切り、引っ張るときに 引き裂かれたような状況から、厚みのある相当上部なものでなければ ならないし、持ち運びの容易な長さ、大きさという制限がある。 この点から肉厚が二・五-三ミリもあり、肉切り用として作られた 牛刀、これに類似するチャッパーナイフなどが考えられる。 刀身は小さいもので十二-十五センチ程度で、持ち運びや人目に ふれない利点が大きい。 この種の包丁を扱っている刃物店の話では、牛刀類は料理店で 動物の骨をそぎ落とすのに使用される特殊のもので、買って行く人も 限られているようだ。 三百人が冥福 ××さんの告別式 (文章略) ------------------------------------------------------------------------- 上毛新聞 昭和47年(1972)8月20日(日) 11面”最後の写真”は私が撮った 東京の釣り師名乗り きょう、くわしい状況を聞く 「新聞に出ていた殺人事件の被害者の写真はわたしが撮った」-霧積山殺人事件 捜査本部は、被害者の伊勢崎市昭和町、ガソリンスタンド店員 ××さん(二四)のカメラから現像された”最後の写真”撮影者の 割り出しを急いでいたが、十九日夜、××さんに頼まれてシャッターを 押した-と都内に住む人が電話で名乗り出た。 撮影時間の特定と、××さんの帰路途中、”接点”を持った人の出現は 現在の捜査段階では重要なポイント。このため捜査本部では きょう二十日、この人から当時の状況をくわしく聞く方針。 この人は東京都世田谷区下北沢×ノ×、××マンション内、 修理工☆☆さん(二二)で、同日午後八時半ごろ、上毛新聞社に 電話で名乗り出たもの。 ☆☆さんの話によると、☆☆さんは十三日車で友だちと二人で 群馬県に釣りに来た。 碓氷郡松井田町横河のドライブイン「荻野屋」で霧積川がいいと教えられ、 霧積温泉に行き、同温泉の旅館の駐車場に車を置いて、忍の池の滝付近で 釣りをしていた。そこへ××さんと思われる女性がきて、 「ちょっとすいません、シャッターを切ってください」 と声をかけた。☆☆さんは「カメラには弱いので」といったん断ると、 女性は「シャッターを押すだけですから…」というので二回シャッターを 切ったという。 そこで別れた。時間ははっきりしないが昼過ぎだったと☆☆さんはいっている。 ☆☆さんはその日車で帰京したが、きょう谷川岳に友だちと登山したあと、 県警に出向き、その当時の事情ともようを説明するという。 撮影者の判明により、旅館を出発してからの××さんの行動の中で いぜんとして空白な時間帯はいよいよ犯行現場と見られる造林小屋付近の わずかな時間にしぼられてきた。 ××さんの最後の目撃者は午後二時十分ごろ、現場から一・五キロ手前で 車に乗るように呼びかけた安中市のHさん(五二)であることがこれまでの 捜査でわかっている。 このため、現場の小屋付近に来た××さんは、えん堤の池を見るため 道から一段さがった小屋に近寄ったところ、釣りか、山の下刈り、 ハイキング途中の犯人に声をかけられ、危険を感じて逃げようとしたところ、 小屋の中に連れ込まれ殺害されたものらしいとみている。 捜査本部では十三日午後、付近に約三十台の車が駐車していたことから、 今日二十日午前三時から現場近くで釣りの人を対象に、十三日に霧積川に 釣りに来たかどうか、来たのなら不審者に会わなかったかどうか調べ、 リストアップされていないものに捜査を広げることにしている。 しかし、これまでの捜査では××さんの一人歩きを目撃した人はいても、 ××さんがだれかと連れだって複数行動をとっていたのを見たという 届け出はなく、いぜんとして犯人らしい者との”出会い”は捜査線上に 浮かんでいない。 このため、本部は松井田、安中周辺地域に有線放送を通じて 目撃した人の協力を訴える一方、さらに聞き込み、地取り捜査を徹底して 実施する方針。今後の捜査は第一段階ともいえる基礎捜査も間もなく終わる予定で、 この段階で犯人割り出しに直接結びつくような有力な手がかりが得られるかどうか、 第一のヤマ場にさしかかっている。 工事関係者は”シロ” 釣り人捜査などに重点移す 捜査本部(本部長・温井守夫 松井田署長)は十九日、××さんが殺害された 前夜に泊まった霧積温泉の旅館関係や宿泊人、ダム工事関係者、実家のある 伊勢崎での交友関係などを対象に捜査員九十人を動員して犯人逮捕への 足がかり捜査をした結果、温泉やダム工事、伊勢崎の知人などすべてが” 一応シロ”で、捜査本部では今日二十日以降、いままで捜査線上に リストアップされていない釣り人、草刈り作業員、ハイカーなどに捜査重点を 移して全力をあげることを決めた。しかし、犯行のあったとみられる 十三日午後には霧積ダム工事現場から小屋をはさんで温泉の旅館まで 約六キロ間に釣り人のものらしい車が三十台前後駐車していたのが 確認されているが、所有者はほとんど判明していないので事件は早くも 難航する気配となってきた。 同日の調べでは、霧積温泉にある二軒の旅館に十二、十三日に宿泊した客は ××さんを含めて約三百人。大半が家族連れでその他若いグループが 数組あったがほとんど複数で行動しており、××さん殺害とは無関係。 また、旅館従業員たちも十三日は客が多かったこともあり、全員が旅館から 出ていない。 次にダム建設関係者は大半が盆休みで故郷に帰っていたので、 工事現場の宿舎には十数人しかいなかったが、ほとんど全員にアリバイがあった。 また、伊勢崎での知人もすでに××さんと親しかった高崎市内の電気製品 セールスマン(二九)や高校時代の同級生だった女の友人を含めた十三人について 調べたが全員疑わしいところはなかった。 このほか、十三日午後には殺人現場をはさんだ約六キロの山道に三十台の 釣り人の車が駐車されていたことが旅館宿泊客の証言から情報として 捜査本部に寄せられている。 殺しの現場で供養 ××さんの兄弟 (文章略) ------------------------------------------------------------------------- 昭和47年8月17日(水) 毎日新聞 娘さん、殺される 山奥の作業小屋で 【高崎】十六日午後五時ごろ、群馬県碓氷郡松井田町坂本の霧積ダム建設工事現場 付近の作業小屋の中で、同県伊勢崎市昭和町、ガソリンスタンド店員、△△△△さん (二四)=写真=が死んでいるのを探していた父親が見つけた。 松井田署の調べによると、両腕や肩、首など四ヵ所に刃物によるものとみられる切り傷 などがあった。下着も乱れており、同署は殺人事件とみて捜査を始めた。 △△さんは十二日午後二時ごろ、東京小金井市に住む弟の○○さん(二五)と 現地で落ち合う連絡をして、同ダムから約五キロ奥に入った霧積温泉に出かけた。 しかし、○○さんは都合が悪く旅行を中止。 △△さんは十三日午前十時ごろ、「一人で歩いて帰る」といって旅館を出たため、 父の撚糸業、井上××さん(五五)が十六日朝、伊勢崎署に捜索願を出すとともに、 家族や親類が総出で周辺を探していた。 現場は長野県境寄りで、国道18号線の松井田町坂本の旧宿場町から 霧積温泉へ向かう県道を約四キロ登った山奥。昨年秋から霧積川(碓氷川支流)で 霧積ダムの工事が始まり、県道沿いには飯場や作業場の小屋が点々としている。 ------------------------------------------------------------------------- 昭和47年8月17日(水) 朝日新聞 殺人か 女の死体 群馬県の山の小屋 十六日午後四時半ごろ、群馬県碓氷郡松井田町坂本の霧積温泉近くの 霧積ダムえん堤の工事小屋で、同県伊勢崎市昭和町、ガソリンスタンド店員 △△△△さん(二四)が死んでいるのを、父親の××さん(五五)らが見つけ、 松井田署に届けた。 死体の胸などに刃物でつけたキズがあり、乱暴された形跡があることから 群馬県警と同署は、殺人の疑いで捜査を始めた。 ××さんの話だと、△△さんは十二日午後二時ごろ、会社を休んで 「霧積温泉へ行く。二泊くらいするかもしれない」 と家を出たまま行方不明になっており、十六日朝、××さんが伊勢崎署に 捜索願を出すとともに、近所の人たち十数人と同温泉一帯を捜していた。 △△さんの死体があった現場は、松井田町の国道18号から北へ六キロはいった 長野県境の霧積温泉へ向かう山道の途中。 工事小屋は無人で、近くでダム工事をしており、昼間は工事の作業員などもいる。 これまでの調べだと、△△さんは十二日は同温泉に一泊、十三日朝十時ごろ 「歩いて松井田町までくだる」 と一人で出かけたという。同温泉はふだんマイクロバスで松井田町まで 客を送迎しているが、山好きだった△△さんは、歩いておりることにしたのではないかと みられている。 △△さんの死体は紫色のノースリーブのブラウスと白いスカートをつけたままだったが、 下着が乱れていた。 腕や胸、首などに刃物でつけたような切り傷、打撲傷が無数にあった。 また、家を出るとき紙袋に入れて持っていたカメラやハンドバッグ、現金などが 袋ごとなくなっていた。 工事小屋は間口四メートル、奥行き七メートルで△△さんは仰向けに倒れており、 現場の状況などから県警と松井田署では、よそで殺されてから運び込まれた疑いが 濃いとしている。 -------------------------------------------------------------------------http //blog.goo.ne.jp/mikaiketu_2008/e/d418621a159f379296b8c7b2e6fa3b15 (こちらのリンクのほうが詳しいと思います↑)http //anchorage.2ch.net/test/read.cgi/occult/1252117790/ 未解決事件スレ55 566 :本当にあった怖い名無し:2009/10/25(日) 22 07 57 ID DSpUcqWK0 564 うちの本棚から探してきました。 もう持ってたらごめんね。 (略) 別冊宝島Real053「迷宮入り!? 未解決殺人事件の真相」 このスレや懐かしニュース板でもたびたび話題になる本。 各事件についてプロファイリングをしているのがあの田宮元捜査一課長なので 最初はpgrしていたが、意外にも地に足のついた真面目な分析をしている。 「ワラビ採り殺人事件」と「霧積温泉女性客殺人事件」は圧巻。 585 :本当にあった怖い名無し:2009/10/26(月) 20 23 29 ID Y2wcONGn0 566 そう、このスレでは話題に出ないけど、 霧積温泉の事件は異常に不気味だったな。 犯人が撮ったと思われる被害者の生前の写真が何枚かあって、 たしか最後の1枚が 586 :本当にあった怖い名無し:2009/10/26(月) 20 25 50 ID /Qu+L9K8O 585 最後の一枚が…?((((゜Д゜;)))) 590 :本当にあった怖い名無し:2009/10/26(月) 21 13 25 ID Xr+8v/8V0 と思ったら「群馬県松井田町霧積山24歳女性殺人事件」ってやつか。 このままググれば詳細見つかる。 591 :本当にあった怖い名無し:2009/10/26(月) 21 19 10 ID ZxNPiXBHi 590 最後の写真については何も記載がないよね 592 :本当にあった怖い名無し:2009/10/26(月) 21 37 11 ID Xr+8v/8V0 うん、その後も調べたけど見つからないねえ。 詳細誰かよろしく。 609 :566:2009/10/27(火) 12 36 22 ID +Umc6g7d0 霧積温泉女性殺人事件の最後の写真の話。 被害女性の遺留品の中にカメラが残されており、 フィルムの最後の方に女性が一人で写っている写真が数枚あった。 女性は一人旅の筈だったので、写真を撮った人物は最後まで女性と 行動をともにした人物-つまり真犯人の可能性が高い。 そして、最後の写真は……。以下引用。 「警察から恵子ちゃんの持ち物が全部戻されたときに、 あたしも見せてもらったんです。その中にあの娘が最後に写っている という写真があったんです。それが気味悪いのよ。笹やぶの中に ボォーッと立ってるんだけど、足の途中から白い煙だか雲みたいなものが 出ていて、下の方が切れてるの。それに表情も生気がなくて、 まるで抜け殻みたいだった」 795 :本当にあった怖い名無し:2009/11/05(木) 23 31 38 ID 17POobO60 別冊宝島で霧積山女性殺人事件を読んだ。 事件概要は未解決事件FILEを見てくれ。http //blog.goo.ne.jp/mikaiketu_2008/e/d418621a159f379296b8c7b2e6fa3b15 5枚の写真について…数字は枚数 ①②泊まった金湯館の水車(旅館アルバイトに撮影してもらった) ③忍の池堰堤付近(ポーズをとっている) …上毛新聞(1972.8.19)に〈誰が撮ったこの写真、ナゾを秘めた五コマ〉として掲載。 石田と名乗る男が「自分が撮影した」と名乗り出たが、実在しない人物だった(イタズラ?) ④金剛の滝(滝をバックに欄干にもたれかかっている) …旅館の主人が証言 ⑤笹やぶ…返却された写真を見た家族知人(捜索参加)の妻証言 「それが気味悪いのよ。笹やぶのなかにボォーッと立ってるんだけど。 脚の途中から白い煙だか雲みたいなものが出ていて、下の方が切れてるの。 それに表情も生気がなくて、まるで抜け殻みたいだった」 ・①②以外は撮影者不明 ・③→④→⑤は旅館から殺害現場の小屋までの道順と重なる。
https://w.atwiki.jp/perusuma/pages/36.html
➔名前(ナマエ) 三千歳市市長。 数年前まで雛田町の町長だったがある日突然合併案を持ちだしあれよあれよと言う間に新しい市の市長におさまった。 どうやらペーティメンバーの学校の担任の遠縁の親戚筋らしく数度学校内でも見かける事になる。 事件に対し問題意識を持ち、励ましの言葉をくれる優しい人物。 ➔七瀬 綾鷹(ナナセ アヤタカ) アルカナ:死神 物語中盤で関わってくる謎の大学生二人組の片方。 ペルソナについても何故か詳しく、事件の異常性も軽く受け入れている。 行動派で口数が少ない。妹が居るよう。花田とは腐れ縁らしい。 隣の中津市に住んでいる。 ➔花田 篠史(ハナダ ササフミ) アルカナ:女帝 物語中盤で関わってくる謎の大学生二人組の片方。 事件の発生をどう察知したのかは不明だがパーティメンバーに助言めいた事をしてくる。 理論派で口数が多く試すような言動も多い。七瀬とは腐れ縁らしい。 隣の中津市に住んでいる。
https://w.atwiki.jp/adou/pages/24.html
ポテトチップス事件 ポテトチップス事件とは 転職を控え廃人狩りをこなしていたHiNa^A レベルアップ直後の休憩、お菓子に手を伸ばす これから彼を待ち受けるのは幾度と無く倒してきたMobで あと少し頑張りさえすれば、と言う希望だけが彼の唯一の味方だった そんな中訪れた心休まるひと時 大好物かどうかは定かではないが、ポテトチップスの袋を空け 「え!?なんだコレ!?」 「どうしたどうした?」「何が起きたんだ!?」 突如として叫びだしたHiNa^Aに動揺の色を隠しきれないメンバー達 そしてHiNa^Aが発した驚くべきその内容は 「なんかポテトチップスの量が4分の1少なかった・・・。」 その後 ふつうにたべた。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/662.html
哲学館事件(てつがくかんじけん・てつがっかんじけん)とは1902年に私立哲学館(現在の東洋大学)で発生した事件である。 明治期の初め、学校の卒業と同時に無試験で教員になることができたのは国立の学校のみで私立にはその権利がなかった。しかし、哲学普及のために教育者を育成することを目標としていた私立哲学館の井上円了は私立学校にも卒業生に対して無資格で教員となることができるよう、1890年から当時の文部省に対して陳情を行っていた。文部省からなかなか良い返事をもらえなかった井上は、慶應義塾(現在の慶應義塾大学)、國學院(現在の國學院大學)、東京専門学校(現在の早稲田大学)と私立学校の連合を組んで再度陳情を行い、1899年に中等学校の教員免許について、卒業と同時に無試験で認可されることとなった。 1902年にはこの4校で最初の卒業生が誕生し、私立学校ではじめての無試験教員が誕生するはずであった。しかし、哲学館の卒業試験を検定した視学官隈本有尚が中島徳蔵の出題した内容を問題視した。この内容はミュアヘッドの書物の一節からとられたもので「動機が善ならば弑逆(親など目上の人を殺すこと)も許されるであろうか」という課題である。これに対して学生が「許される」としたため、哲学館の教育方針は「目上を殺してよいということは天皇も殺してよいということだ。この思想は国体を危うくする恐れがある」という見解をまとめた。その結果、文部省は哲学館の教員免許無試験認可を取り消すこととした。 この事件は私立学校における教育の自由や学問の自由に関する議論となった。当時の新聞紙上では私学の自由を犯すものであるという見解が出る一方で、そもそもこの思想を教授した方法に問題があったのではないかという擁護論も交わされた。こうした状況は帝国議会でも問題となった。ミュアヘッドも文部省の見解に対してイギリスから反論するなど、日英間の国際問題となりかけた。 この後、哲学館は東洋大学となり、1928年に大学令による大学となるが、申請をしたにもかかわらず他の大学に比べて認可が遅れた(早稲田大学や國學院大學などは1920年に認可)のは哲学館事件が尾を引いたからではないかと当時の新聞は論説を書いている。また、公文書の開示結果、1920年に既に認可できる要件は整っていたが、この事件が影響して認可できないという内容が残されていることが判り、東洋大学が遅れた存在ではなかったことが証明された。 哲学館事件は現在でも日本の教育史では大きなトピックとなっており、松本清張の「小説東京帝国大学」(1969年、新潮社)などのように小説や論説の題材として使用されている。 関連項目 東洋大学 井上円了 教育 私立学校 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月20日 (木) 12 06。