約 181,597 件
https://w.atwiki.jp/7000/pages/181.html
アクセス規制 凱旋の指輪事件 フィッシュランキング事件 赤魔セット販売詐欺疑惑 GMとの対話6/21本名と同じ名前のキャラからtellされて 爺鯖板3度目の削除要請 ブログwでの対話? プログ閉鎖
https://w.atwiki.jp/schmithland/pages/17.html
大湊事件 この項目では大湊事件について説明しています。そのほかの企画については過去企画を参照してください。 この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(141年9月) 大湊事件(おおみなとじけん、独:Die Ohminato-Affäre)は、津軽解放戦線による十洲・東北の統治反対デモにスミトラント軍人が接触し発生した事件である。「血の土曜日事件」とも呼ばれる。 目次 [非表示] 1. 背景 2. 概要 3. 各国の対応 4. 関連項目 5. 参考文献 大湊事件 ▲ 交戦勢力 スミトラント王国 津軽解放戦線 東北連邦 十洲連合王国 指導者・指揮官 ハインリヒ9世 津軽解放戦線指導部 一色賢司 戦力 4,300 20,000~30,000 損害 死傷者104 死傷者3,000~4,000 背景 津軽解放戦線は日常的に十洲・東北の統治に対してデモを起こしていた。デモが求める内容はごく簡単で、先住民族「ネイティヴ・アオモリン」たちによる青森の統治を求めていたのである。反発は日に日に強まるばかりであったが、そこへ偶然スミトラント練習艦隊が大湊軍港に寄港し、本事件が発生した。 概要 統一暦141年9月19日10時ごろから、大湊軍区を中心とした津軽解放戦線による大規模デモが発生した。軍警官隊による鎮圧もままならず、昼を過ぎても大規模デモは収まらなかったうえ、13時ごろにはデモの一部が歓楽街にまで広がり、店員や客と揉め事が発生し始めてしまった。その中に泥酔したスミトラント海軍フリゲート艦「クリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ」所属の数名が含まれ、これとデモ隊の一部が衝突して乱闘騒ぎとなった。その場は民間人によって落着したものの、「スミトラント軍人が我々を攻撃した」という噂は瞬く間に解放戦線内に広まり、解放戦線指導部はデモ隊に対しスミトラント艦隊が停泊する大湊軍港への「突貫」を指示。一気に殺到したデモ隊に港湾警備隊が抑えきれなくなったところ東北陸軍へ支援を要請し、東北陸軍上層部はこれを認可、大湊軍区には即時戒厳令が敷かれ軍政下におかれた。 16時ごろには大湊軍港周辺に集まるデモ隊が約2万人を超えるようになり、軍港を取り囲むフェンスの突破を図るようになった。16時27分、東北陸軍指揮下にあった青森特警第3部隊一色賢司隊長は部下に独断で発砲を許可、フェンスを突破しかけていたデモ隊は次々に銃弾に倒れた。これに呼応して、許可が出たと思い込んだ他の部隊も発砲を開始し、デモ隊に死傷者が多数発生、デモ隊は撤退し一応鎮圧される。津軽解放戦線側の最終的な死傷者数は今でも推計となるが3000~4000人と見られる。一方で鎮圧側の死傷者数は各国政府の発表によるとスミトラント海軍負傷者2名、青森特警死者8名・負傷者72名、東北陸軍死傷者22名であった。 各国の対応 スミトラント連邦王国 スミトラント連邦王国はその日中に国防大臣、海軍司令長官、参謀長の連名で声明を発表した。本声明は事件発生の原因となった軍人に対する処分と、十洲連合王国・東北連邦に対する再発防止の要請に留まった。後日記者会見において大統領が内政干渉にあたるとして津軽解放戦線の不支持を正式に発表している。 十洲連合王国 連合王国政府は事件を受けて大使館を通じ瑞国に対し謝罪を行ったほか、国王平取宮が「青森管区統治議会議長」の一人として謝意を述べるなど異例の対応をとった。また、国内の津軽解放戦線などの青森系団体に対する風当たりは一層強くなり、国内でも幾つかの団体が解散命令の対象となった。 東北連邦 連邦政府、特に東北連邦戦略陸軍は、招かれた客人への襲撃に対し幹部が激怒した。政府は戦略軍情報戦略部隊への津軽開放戦線の監視を命令した。戦略陸軍は大湊軍区における警備部隊を増備を指示、戦略海軍に至っては基地警備の厳戒態勢と各出入り門の設備改修、および増備を実施。 両軍総司令官及び国王は、スミトラント連邦王国へ謝罪をした。 影響 影響は起こってるなうだよ 関連項目 ● スミトラント連邦王国 ● 東北連邦 ● 十洲連合王国 参考文献 ● 本間 煮阿点『大湊事件再考』2017年、鷽矢出版 ● 歳津世 羅馬「大湊事件と国際関係への影響」軍事部大学政治学部論文集『祀 Vol.65』所収、2018年7月、軍事部大学出版
https://w.atwiki.jp/mesi_ikoka/pages/25.html
桜事件とは、ネットワークアプリケーション演習にてHPの画像を張り付ける際に、ヘコキットが桜の画像をウンコの画像に差し替えたというとんでもない事件。 ちなみに被害者は番長だが、単位は取れた模様。 信じる者は救われる。
https://w.atwiki.jp/battlefieldv/pages/33.html
GD事件とはBFV界の鮫島事件である。GDに所属するBFV唯一の女子高生プレイヤーだったほのあいす氏が詳細は不明だがクラン内で酷いセクハラを受けBFVから引退してしまった事件。そもそもGD自体KeRという大人数クランからほのあいす氏とその囲いが独立して結成されたクランである。 あまりに酷い内容であったのか詳細が不明と言う気味の悪い事件である。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/586.html
北海事件(ほっかいじけん)は、1936年に起きた中国広東省北海における殺人事件である。 概要 1936年9月3日の夕方、北海に長く住まう薬種商の日本人・中野順三が暴徒により殺害された。同地方は広西軍の新編独立第一師翁照垣麾下の旧十九路軍及び第六十一師丘北琛部隊の暫駐地であり、排日意識が暴動の背因をなしていた。 事件の一報が伝わると、当時成都事件直後の日中関係は緊迫していたため日本は軍艦を派遣、また調査員を送った。9月20日、翁照垣軍の撤退を待って現地調査を行い、9月24日調査を完了。近郊に隠れていた被害者の妻(中国人)及び子供を救出した。 事件について日本側は大使川越を通じて成都事件とあわせて厳重な交渉を国民政府と行い、幾多の紛糾を重ねて12月30日、国民政府の陳謝、責任者及び犯人の処罰、被害者の遺族に対し3万元を贈ることその他を決定した。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月3日 (水) 12 23。
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/2416.html
{{Infobox 事件・事故 |名称 = 白鳥事件 |正式名称 = 白鳥警部射殺事件 |画像 = |脚注 = |場所 = {{JPN}}・札幌市南6条西16丁目 |標的 = |日付 = 1952年(昭和27年)1月21日 |時間帯 = 夜 |概要 = |原因 = |手段 = |攻撃側人数 = 1(実行犯) |武器 = 拳銃 |死亡 = 1 |被害者 = 白鳥一雄警部 |犯人 = |容疑 = |動機 = |関与 = |防御 = |対処 = |謝罪 = 中核自衛隊に所属していたTによる謝罪。主犯・実行者、関与が疑われた日本共産党による謝罪はなし。 |補償 = |賠償 = |刑事訴訟 = |影響 = 主犯格とされた村上国治の再審請求の特別抗告に関連して、いわゆる「白鳥決定」が判示された。 |遺族会 = |被害者の会 = |管轄 = }} 白鳥事件 (しらとりじけん)は、1952年(昭和27年)1月21日に北海道札幌市で発生した、日本共産党による日本の警察官|警察官銃殺|射殺事件である。 {{TOC limit}} == 概要 == 実行犯と目された人物らは日本共産党の幇助により国外逃亡したものの、日本共産党札幌軍事委員会{{Efn|共産党札幌委員会の地下組織 ref name=" 2" {{Cite web|和書|url=http //chikyuza.net/archives/20864|title=「白鳥事件は冤罪ではなかった!」新資料・新証言による60年目の真実|accessdate=2017-11-30|author=渡部富哉|date=2012-03-18|publisher=ちきゅう座}}) /ref 。}}委員長であった村上国治が主犯格として逮捕され、1963年(昭和38年)10月17日に懲役刑が確定した ref name=" 18" {{harvnb|渡部|2012|p=230}} /ref ref name=" 0" {{harvnb|立花書房|2009|p=203}} /ref 。 しかし、日本の警察|警察の捜査の過程での証拠捏造や自作自演を指摘する声が根強く、日本共産党による冤罪キャンペーンや松本清張の『日本の黒い霧』での推論、当局による証拠捏造疑惑などにより一般の間でも冤罪の声が強まった ref name=" 2"/ ref name=" 27" {{Cite book|和書|title=日本共産党の戦後秘史|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-136291-5|oclc=269438831|year=2008|author-link=兵本達吉|pages=177-185|author=兵本達吉}} /ref 。 受刑者となった村上は無罪を訴えて1965年(昭和40年)に再審請求を行った。これに対する審理においては村上の一部主張が認められたものの、村上の関与を裏付ける新たな証拠が検察側から提出され、最終的に村上の特別抗告は最高裁判所 (日本)|最高裁判所によって1975年(昭和50年)に棄却された ref name=" 19" {{Cite web|和書|title=昭和46(し)67|url=https //www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51033|website=裁判所ウェブサイト|accessdate=2019-07-11|publisher=最高裁判所}} /ref 。 再審制度においても『疑わしきは罰せず|疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用されるとする判断をこのとき最高裁判所が下したことから、以後確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じれば再審を開始できるようになった。この判断は事件の名をとって「白鳥決定 」と呼ばれる。 == 事件の経緯 == 1952年(昭和27年)当時、「51年綱領」の採択を経て武装闘争路線を採っていた日本共産党{{efn|当時の党主流派は所感派であったが、非主流派の国際派 (日本共産党)|国際派も武装闘争の契機となったコミンフォルム批判を出したソ連に忠実な立場であった ref {{Cite web|和書|title=戦後日本共産党史の見直しを|url=http //gendainoriron.jp/vol.05/column/col05.php|website=現代の理論|accessdate=2021-12-18|author=富田武|authorlink=富田武}} /ref 。}}による警察官襲撃事件が、全国で相次いでいた。党札幌委員会では委員長の村上国治や副委員長のSが軍事方針を立て、「時間があり、頭も悪くない」北海道大学の学生らを中心に中核自衛隊を組織。列車運転業務妨害事件(赤ランプ事件)や検事・市長宅への投石事件などを起こしていた ref ただし、鉄砲玉のような役割は労働者にやらせていた /ref 。これに対し、札幌市警察本部警備課課長であった白鳥一雄 警部は、市内の丸井今井|丸井百貨店で開催されていた丸木位里・赤松俊子の日本への原子爆弾投下|原爆の図の展示会を「連合国軍最高司令官総司令部|占領軍の指示」として中断させたほか、ビラまきや座り込みデモを行う共産党員を多数検挙し、「弾圧の急先鋒」として党関係者などから敵視されていた{{sfn|渡部|2012|pp=18-33}}{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}} ref name=" 9" {{国会会議録検索システム|101304280X01019520225|name=衆議院会議録情報 第013回国会 行政監察特別委員会 第10号|accessdate=2018-09-03}} /ref ref name=" 3" / {{sfn|今西|2020|pp=232-234}}。 同年1月21日午後7時42分頃{{Efn|NHKラジオの「三つの歌」が流れていたという証言がある{{sfn|追平|1959|p=22}}。}}{{sfn|今西|河野|2012|p=10}}、札幌市(現在の中央区 (札幌市)|中央区)南6条西16丁目の路上で、自転車{{Efn|この自転車は、警察署の駐輪場に停められていたものを持ち出したもので、事件後に元の場所に戻されたとされる{{sfn|今西|2020|pp=232-234}}。}}に乗る男が、同じく自転車で帰宅途上の白鳥に向けて後ろから拳銃を発砲し、心臓に弾丸を受けた白鳥は絶命した。犯人はそのまま自転車で逃走した ref name=" 2" / {{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}} ref name=" 9" / 。 遺体は北大病院で解剖され、死因は命中した拳弾丸による出血多量とされた{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}}。白鳥の体内から摘出された弾丸と現場に残された薬莢から、暗殺に使われたのは.32ACP弾|32口径ブローニング・アームズ|ブローニング拳銃{{Efn|科学警察研究所|国家地方警察本部科学捜査研究所の鑑定では「1912年型ブローニング拳銃」とされたが、実際にそのような型式は確認できないため、世界的に流通していたFN ブローニングM1910|1910年型の誤りでないかといわれる ref name=" 14" {{harvnb|後藤|2013|p=17}} /ref {{sfn|長崎|2003|pp=(9)-(14)|loc=拳銃と弾丸}}。警察庁は、白鳥事件の捜査に関連して北大理学部の地下室から武器の製造研究に使われた火薬類・試験管・軍事方針のパンフレットが見つかったことを明らかにしている ref name=" 25" / 。札幌委員会軍事部は、上述のブローニング拳銃に加えてイタリアのベルナルデリ社製護身用小型拳銃を保有していたものと推察される。この小型拳銃は、撃針が不調で北大工学部の工作室で修理が試みられたが、スプリングを調達できず、後日提供者に返還されている{{sfn|大石|2014|p=87}}。ベルナルデリ銃の持ち主は札幌市内のカフェ経営者であったが、1952年に変死している{{sfn|追平|1959|pp=138-143}}。}}とされた ref name=" 14" / {{sfn|長崎|2003|pp=(9)-(14)|loc=拳銃と弾丸}}。 自転車上で片手で拳銃を発射し一撃で急所に命中させるという、極めて難易度の高い犯行であったが、白鳥には事件前から「昨年はきさまのおかげでおれたちの仲間が監獄につながれた。この恨はきっとはらす。おれたちは極めて組織的にきさまをバラしてやる。」などと書かれた脅迫状が相次いで届いていたことから{{efn|1月4日には、村上・鶴田(後述)らが集まり宣言文「新年に当り警察官諸君に宣言す」と題する以下の文書を作成し、警察関係者や高田富與札幌市長らに送りつけている{{sfn|渡部|2012|pp=32-33}}。{{Quotation|親愛なる札幌の警察官諸君、新しい年を迎え、我々は諸君たちに重大なる決意を固めていただかなければならなくなった事を遺憾とするものである。それは、(中略)占領政策違反の名目で、労働者市民を抑圧しアメリカの手先として日本人を奴隷にする道と、今一つはかかる民族の利益を裏切り、日本人をアメリカに売り渡す売国奴共の命令を拒否し敢然として、日本人の利益のために闘う道とである。(中略)既に我々の兄弟たちは各所で実力の闘いを始めた。練馬事件|東京で諸君たちの同僚、もっとも悪らつな国民の敵である巡査が撲殺されたのは周知の事実だ。(中略)我々の行く手を遮るものは何人といえども容赦はしない。準備はできた。売国奴、国民の敵の功罪表は整備された。(白鳥ら警察官の実名)その他弾圧を積極的にやった外勤の巡査、及び警備課の諸君…警察官諸君、我々はこれらの敵、新しい敵を国民の名においてひとりひとり葬り去ることを宣言する。(後略)}}}}、捜査当局は日本共産党による犯行とみて捜査を開始した ref name=" 3" {{harvnb|後藤|2013|p=72-88}} /ref ref name=" 5" {{harvnb|後藤|2013|p=89-107}} /ref {{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}} ref name=" 22" {{Cite web|和書|title=「日本で一番悪い奴ら」北海道警察VS日本共産党|url=https //nikkan-spa.jp/plus/1190290|website=日刊SPA!|date=2016-09-02|accessdate=2021-01-16|publisher=|author=砂澤陣|authorlink=砂澤陣}} /ref {{sfn|追平|1959|pp=30-33}}。 事件発生後、共産党員が市内で「見よ、天誅遂に下る! 自由の兇敵、白鳥市警課長の醜い末路こそ、全ファシスト官憲どもの落ちゆく運命である ref name=" 22" / 」と日本共産党札幌委員会名で書かれたチラシ|ビラ(「天誅ビラ」 ref name=" 13" {{Cite journal|和書|year=1971|journal=刑事裁判月報|volume=3|issue=7|pages=869-955|publisher=最高裁判所事務総局}} /ref )を配布した{{Efn|天誅ビラには「下る」と書かれたものと「降る」と書かれたものの2種類があり、渡部は「降る」の版は共産党の犯行を市民に印象付けるためにスパイを通じて原稿を入手した国警が撒いたものであると主張し{{sfn|渡部|2012|pp=113-143}} ref {{Cite web|和書|url=http //chikyuza.net/archives/21216|title=「白鳥事件は冤罪ではなかった!」新資料・新証言による60年目の真実③|accessdate=2017-11-30|author=渡部富哉|date=2012-03-23|publisher=ちきゅう座}} /ref 、国警が白鳥暗殺の事前情報を得ておきながらあえてこれを泳がせて犯行後にすかさずビラを増刷して弾圧のきっかけとしたとしている{{sfn|渡部|2012|p=191}}。一方、後述のTは「国治さんは古いタイプの人間だから『降る』と『下る』のどちらの文字を使ったと思うかと聞かれたら、『降る』の方じゃないかという気がします」と述べている{{sfn|今西|河野|2012|p=35}}。}}{{efn|再審請求審において、札幌高裁が「右ビラの文体は、簡潔でしかもなかなかの名文であつて、申立人(村上)以外に、このような文案を起草できる者がいないことは、多くの関係者の一致して指摘するところであるが(後略)」と言及している ref name=" 13" / 。}}。これに対し、事件の翌々日に党北海道地方委員のMが「『天誅を下す』なんて言葉はわれわれの辞書にはない」「われわれ地方委員会では二、三日中にデッチ上げということをはっきりさせたい」と関与を否定する声明を出したが、その翌日には「誰が白鳥事件の犯人であるかは知らない。党と事件の関係については何とも言えない。白鳥氏殺害はwikt 官憲|官憲の弾圧に抵抗して起きた愛国心|愛国者の英雄的行為で個人的なテロリズム|テロではない。かく闘うことは愛国的行動である。白鳥を殺害した犯人は白鳥自身である」と、党の関与を曖昧にしながら一転して犯行を称賛する声明を出した ref name=" 3" / {{sfn|今西|河野|2012|pp=11-12}}{{sfn|追平|1959|pp=34-41}}。 事件直後の党指導部では、態度を決めかねたのか「共産党のやったことではないという日和見的な意見を克服して、党の意思の革命的統一を図る必要がある」「共産党のやったことではないということに、合法的宣伝は統一する」と指示が錯綜し{{Efn|後の裁判では、札幌委員会の「極左冒険主義」を批判する党北海道委員会による声明書が証拠として引用されている ref name=" 27" / 。}}、事件後に気勢を上げて過激なビラを撒いたり職安事務官を襲撃して川に投げ込むなどの「暴走」を始める党末端との違いが浮き彫りとなった ref name=" 3" / 。 政権与党の対応は素早く、吉田茂内閣総理大臣|首相は事件翌日に「現下の国際情勢を反映いたしまして、共産分子の国内の破壊活動は熾烈なるものがあると考えられるのであります。まことに治安上注意を要する次第であります。かかる事態に対処して、本国会に所要の法律案を提出する所存であります」と施政方針演説を行い ref {{国会会議録検索システム|101305254X00619520123|name=衆議院会議録情報 第013回国会 本会議 第6号|accessdate=2018-11-26}} /ref 、同年4月には破壊活動防止法を制定させた。本事件を始め共産党員による事件が連日報道され、日本共産党は同年10月の第25回衆議院議員総選挙で全議席を失うなど、自らの犯罪|非合法活動によって国民の支持を失っていったが、それらの事件群の中には冤罪事件である菅生事件{{Efn|本事件後の1952年6月に発生。}}なども含まれている ref name=" 3" / も全体的に見れば日本共産党による凶悪な暴力事件の件数の多さの中から見れば極めて例外な件であった。 市井では、「白鳥に不正を察知されたと考えたメタンフェタミン|ヒロポン中毒のS信用組合の理事長が殺し屋を差し向けた{{Efn|元共産党員で組合員総代であった人物による公開質問状により流布した。この人物の名をとって「原田情報」と呼ばれる。理事長はその後服毒自殺した{{sfn|渡部|2012|pp=91-100}}{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}{{sfn|追平|1959|pp=138-143}}。}}」「軍用拳銃の闇市への横流しを知りすぎた白鳥が消された。証拠の弾丸をすり替えて事件を共産党のせいにした」などと怪情報が流された ref name=" 4" {{harvnb|後藤|2013|p=17-21}} /ref ref name=" 10" {{harvnb|後藤|2013|p=169-173}} /ref 。 事件発生から4か月後、静岡県で行き倒れ、警察の保護を受けた後に寿司屋で働いていた青年が、保釈中に逃走した北海道庁細胞_(政党)#戦後|細胞所属の共産党員Nと判明する。その青年が検察官|検事らの情に絆されて札幌の共産党組織の情報を提供したことにより事態が急展開する{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}}{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}} ref name=" 5" / {{sfn|追平|1959|pp=91-115}}。党関係者が白鳥殺害に関与しているとの情報を得た警察は、札幌地区委員らを逮捕 (日本法)|逮捕した。8月28日に逮捕された札幌委員会副委員長Sは11月28日に自供を始め{{efn|「Sはスパイだ、裏切った」と書かれた党地下組織の文書を警察に見せられてSは観念したのだという{{sfn|大石|2014|pp=70}}。}}{{sfn|今西|2020|pp=234-236}}、札幌の地下組織の最高指導者は村上委員長であり、白鳥射殺の実行犯は円山細胞の『ひろ』{{efn|この人物は元大日本帝国海軍|日本海軍震洋|第6震洋隊の下士官で実戦経験があり、戦後ポンプ職人をしていた{{sfn|渡部|2012|pp=80-91}}。T(後述)の証言によれば、『ひろ』は事件の一週間前にも白鳥の暗殺を試みたが、弾が発射されず未遂に終わっている{{sfn|渡部|2012|pp=35-91}}。}}である旨を供述{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}}{{sfn|追平|1959|pp=91-115}}。さらに翌1953年4月9日に逮捕された札幌委員会常任の追平雍嘉も供述手記を執筆してこれを裏付けた{{Efn|追平は「事件の前、『ひろ』の家で実包入りのブローニング拳銃をみた」「事件後、『ひろ』に会ったら『オレがやった』といっていた。『手ぬぐいに包んで撃ったので、二発目の薬きょうが引っかかって残ってしまい、あとが撃てなかった』などとも語っていた」と証言している{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}}。}} ref name=" 2" / {{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}}{{sfn|今西|2020|pp=234-236}}。また6月9日に共犯として逮捕されていたTが「生きることに怠惰であってはいけない」などと訴えかけた安倍治夫検事の説得を受けて7月11日に転向し{{efn|大石は、吉田岩窟王事件の再審を支援し、三鷹事件や松山事件の冤罪を語った安倍が誘導じみたことをするはずがないとしている{{sfn|大石|2014|p=66}}。安倍自身も同僚検事の誘導尋問の手法(「査問」を逃れて警察に保護を求めた党員(後述)に対して行われた、泣き落とし。これによって自ら白鳥を射殺したとの言質を取ったが、ベテラン捜査官たちによって否定され、本人の供述も何度も覆ったため、殺人での起訴はされなかった{{sfn|追平|1959|pp=82-84}}。)を紹介しながら、「それがしかし、捜査本部におけるそういう偽り、でっち上げ、間もなくばれるんですね。同様に共産党内ビューローにおけるいろんなでっち上げも間もなくばれることになると、こういうことなんです。やっぱり強いのは真実が強い」「そういう(模擬裁判で警察の捜査本部が出してきた指紋鑑定について偽物と発言した札幌の検事正)下に立って私どもは捜査したんですからね。[…]私が誘導尋問ででっち上げの調書を作ったなんていうことは、もう根も葉もないということはすぐわかるんですよ。それを松本清張が『日本の黒い霧』を書いて、安倍という男はどうも怪しいと言い出したんだから、これはもう松本清張の負けですね」と述べている{{sfn|渡部|2012|pp=68-70}}。}}{{sfn|今西|2020|pp=234-236}}{{sfn|今西|河野|2012|pp=39-40}}、1月3日から1月4日頃に村上国治ら7人が集まり、白鳥警部殺害の謀議を為した旨を供述した{{Efn|1月4日には村上側にアリバイがあることなどから、冤罪説を擁護する者たちはTの偽証を主張した。一方、Tの供述は事件から2年後のことであり、T自身も「(一般的には)謀議というのはもっと緻密にいろんな計画を建てるとか方針はこうだと。(中略)正式にはそんなものだと思うんだけども、そんなにきちっとしたあれした謀議じゃないわけですよ。だからもうそんな日にちなんて忘れちまいますよ。(中略)普通の事件であれば、その謀議がいつ行われたか、どこでやった、誰がやったのかということがものすごく大事なことになるんだけれども、我々にとってはあまり大事なことではないわけですよ」と述べている{{sfn|渡部|2012|pp=63-64}}。}}{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}}。 その過程において、面子にかけても犯人を逮捕しなければならなかった警察は、容疑者の誤認逮捕(被疑者|容疑者と別人の共産党員)を犯したり、期限切れで釈放すると見せかけて迎えに来た父親の目の前で別件で再逮捕して長期拘留捜査するなどして、手段を選ばずに強引な捜査を行いながら調書を作成していったという。逮捕者や党員の中には生涯精神を病む者や自殺者も出たが、一方で日本共産党も組織防衛に奔って釈放された党員らを「査問 (日本共産党)|査問」し、身の危険を感じた党員が逃亡して警察の庇護を受けるということも起きた ref name=" 5" / {{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}{{sfn|渡部|2012|pp=91-100}}{{sfn|追平|1959|pp=138-143}}{{sfn|追平|1959|pp=73-77}}。 しかし、村上国治らの逮捕後も犯行に用いられたとされるブローニング拳銃自体は発見されず{{efn|犯行後に複数の党員を経由して近郊の畑に埋められたと言われる{{sfn|今西|2020|pp=232-234}}。}}、"事件の2年前に行われた中核自衛隊による射撃訓練の遺留品"であるとされ、「被害者の体内で摘出されたものと異なる銃器から発射された確率は1兆分の1より小さい」との施条痕の鑑定結果が出された弾丸(「ニ個の弾丸」 ref name=" 13" / )のみが、裁判に提出された直接的な物証となった。この弾丸は、T立ち合いのもとで行われた幌見峠での札幌市警による捜索で発見されたものである{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}} ref name=" 6" {{harvnb|後藤|2013|p=173-186}} /ref ref name=" 1" {{Cite book|title=「無罪」を見抜く|date=2013-11-27|publisher=岩波書店|author=木谷明|pages=103-107}} /ref {{sfn|大石|2014|pp=73-75}}{{sfn|長崎|2003|pp=2-3}}。 直接の下手人をはじめ共謀したとされた党員らは、日本共産党の密航船群「人民艦隊」で不法出国し、当時日本と国交が無かった中華人民共和国へ逃亡している{{Efn|東京に潜伏していたメンバーは組織の公然化のためかばうことができないと党中央統制委員から告げられ、乗船訓練を受けて1955年10月頃に焼津港などから上海市|上海へ向けて出港している{{sfn|今西|2020|pp=234-236}}。}}{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}} ref {{国会会議録検索システム|102903933X00219580717|name=第029回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第2号|accessdate=2017-12-01}} /ref ref {{harvnb|後藤|2013|p=161-168}} /ref 。 == 白鳥警部 == 事件の被害者となった白鳥一雄は、北海道芽室町に生まれ、帯広中学(現・北海道帯広柏葉高等学校)を卒業後、1937年(昭和12年)に北海道庁巡査になった。太平洋戦争中は大日本帝国陸軍特務機関系のハルピン学院 (旧制専門学校)|ハルピン学院でロシア語を学んだ後に特別高等警察|特高警察の外事係として活動しており、戦後も公安警察|公安警察官として左翼活動の監視に加えて在日韓国・朝鮮人|在日朝鮮人の密輸|密貿易や風俗営業の取り締まりを行っていた。1948年(昭和23年)3月に札幌市警の警備課|警備課長に就任した白鳥は、警察内部においても秘密主義を徹底し、上司も白鳥が日本共産党の秘密組織についてどこまで掴んでいたか報告を受けておらず、皮肉にもそのことが自治体警察 (旧警察法)|自治体警察である札幌市警による事件後の捜査を困難なものにした ref name=" 9" / {{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}} ref name=" 4" / ref name=" 12" / {{sfn|追平|1959|pp=29-30}}。 生前の白鳥とも直接の面識があった安倍検事が語ったところによれば、普段の白鳥は物静かで礼儀正しいが、その共産主義を憎悪する精神は、シベリア抑留での経験によるものか、熾烈なものであったという ref name=" 12" {{harvnb|渡部|2012|pp=60-61}} /ref 。 家庭内では仕事の話をすることもなく良き父親を通しており、事件当日も3歳と5歳の娘に「きょうは給与|給料日だし、お土産を買って早く帰るよ」と出かけて行った。事件後の司法解剖では、白鳥の胃袋に直前に飲食したものはなく、上衣のポケットには月給袋が手つかずのまま納められていた。死亡時の年齢は36であった ref name=" 8" {{Cite news|title=「白鳥事件」更新続く最古の逮捕状 札幌で60年前に警官射殺|date=2012-11-24|url=https //www.nikkei.com/article/DGXNASDG24003_U2A121C1CC1000/|accessdate=2018-09-01|publication-date=|language=ja-JP|work=日本経済新聞 電子版}} /ref 。 == 当時の札幌の情勢 == 朝鮮戦争が継続中の当時、ソビエト連邦と接する北海道では、後方補給基地の安定確保のためのアメリカ軍情報部による特殊活動が活発に展開されていた{{sfn|渡部|2012|pp=21-22}}。その中心である札幌では、日本の警察|日本警察の国家地方警察(国警)本部と札幌市警察本部、アメリカ陸軍防諜部隊(CIC)、そして裏社会の間で、互いに反目したり協力したりしながら公安情報の収集が行われるある種の「シンジケート」が形成されていた。白鳥はCICがアジトにしていたすすきののとあるバー (酒場)|バーに頻繁に通っており、そこにはギャングや右翼も出入りしていたという ref name=" 4" / 。 松本清張は『日本の黒い霧』で本事件を取り上げてCICによる謀略説を唱えているが{{efn|一方、松川事件においては活発に冤罪を主張した、広津和郎らは静観している{{sfn|渡部|2012|pp=21-22}}。}}{{efn|渡部は松本の冤罪説について「主観的で勝手な推測、ねじ曲げが随所に登場する」としている{{sfn|渡部|2012|pp=38-39}}。例えば、『ひろ』は射撃演習には参加していないのだから、(演習の遺留品である弾丸と施条痕が一致するとされた)事件に使われたピストルを所持しているはずがない旨の記述をしておきながら、4ページ後には「何回も拳銃の射撃練習に行っている」と記述している。松本は『ひろ』を"シロウト"として扱ったが実際には元軍人であり、軍装品として用いられていたブローニング拳銃の心得があったとしても不自然ではない{{sfn|渡部|2012|pp=80-91}}。松本が「暴露」したのは実のところ自らが批判する追平の『白鳥事件』の丸写しであったが{{sfn|渡部|2012|p=191}}、追平と『ひろ』の会話を書き換えて「Tは大丈夫か」とあたかもTの裏切りを心配していたかのような文脈に仕立て上げていることも確認されており、渡部は「松本清張が白対協(日本共産党が組織した白鳥事件対策協議会のこと)の提出する材料を無批判に書いたというものではない極めて意識的な虚構だ。当時、Tは白対協や弁護団から、S、追平雍嘉と並ぶ裏切り者として糾弾されていたからだ。これは単なるミスでは済まされない」と松本がTにありもしない罪をなすりつけたとして批判している{{sfn|渡部|2012|pp=228-229}}。}}、事件を取材していた北海日日新聞(後の北海タイムス)の編集部長は「白鳥警部は左翼関係の情報収集力にかけてはピカ一だった。CICとしては彼を消せば元も子もなくなってしまう。CICが重宝している子飼いの白鳥をやっつけるはずがない」と語っている ref name=" 10" / 。 == 裁判 == {{最高裁判例|事件名= 爆発物取締罰則違反等|事件番号=昭和35(あ)1378|裁判年月日=1963(昭和38年)10月17日|判例集=刑集 第17巻10号1795頁|裁判要旨=#証拠によつて認定した事実は、他の事実の証拠となり得る。 #伝聞供述となるかどうかは 、要証事実と当該供述者の知覚との関係により決せられるものと解すべきであつて、甲が一定内容の発現をしたこと自体を要証事実とする場合には、その発現を直接知覚した乙の供述は、伝聞供述にあたらないが、甲の発言内容に符合する事実を要証事実とする場合には、その発言を直接知覚したのみで、要証事実自体を直接知覚していない乙の供述は伝聞供述にあたる。 #刑訴法第三二四条第二項第三二一条第一項第三号所定の要件を具備した伝聞供述の原供述者が特定の甲または乙のいずれであるか不明確であつても 、それだけの理由でその伝聞供述が証拠能力を有しないものとはいえない。|法廷名=第一小法廷|裁判長=入江俊郎|陪席裁判官=下飯坂潤夫、齋藤朔郎|多数意見=全員一致|意見=なし|反対意見=なし|参照法条=刑訴法317条,刑訴法318条,刑訴法320条1項,刑訴法321条1項2号,刑訴法321条1項3号,刑訴法324条2項|url=https //www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=56987}} === 村上の懲役確定まで === 1955年8月16日、検察側は村上国治を殺人罪 (日本)|殺人罪の共謀共同正犯で、共犯2人を殺人罪の幇助犯として起訴し、「村上らは武装蜂起の訓練のため幌見峠で射撃訓練をした。そして、彼らの活動の邪魔になる白鳥警部を射殺した」と主張している。 第1審札幌地方裁判所|札幌地裁は共同謀議を認定し、村上を無期懲役、共犯1人を懲役5年・執行猶予5年と判決 (日本法)|判決している。途中から公判分離されて共同謀議を自供した共犯Tは、1957年(昭和32年)5月に懲役3年・執行猶予3年と判決されて確定している。控訴審札幌高等裁判所は1960年(昭和35年)6月の判決で村上を懲役20年に減刑し、共犯1人は控訴を棄却している。1963年(昭和38年)10月17日、最高裁判所 (日本)|最高裁判所は二審判決を支持し上告を棄却し、村上の懲役20年の実刑判決が確定した ref name=" 0" / ref name=" 26" {{Cite web|和書|title=昭和35(あ)1378|url=https //www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=56987|website=裁判所ウェブサイト|accessdate=2021-08-14}} /ref 。 物的証拠として提示された弾丸について、弁護側は、中国での実験結果などをもとに、発射から発見まで2年が経過しているにもかかわらず応力腐食割れが生じていないことを指摘した{{sfn|長崎|2003|pp=(15)-(138)}}。さらに検察が裁判で提出した「ニ個の弾丸」の鑑定書は、アメリカ軍極東犯罪捜査研究所のG曹長が実質鑑定したものであった{{efn|当時日本には銃鑑定の専門家がいなかった{{sfn|長崎|2003|p=37}}。}}旨の証言が上告棄却後に得られ、捏造の可能性が疑われた ref name=" 6" / ref name=" 1" / {{sfn|長崎|2003|pp=61-68}} ref {{Cite web|和書|url=https //kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=105805206X03319680524|title=第058回国会 法務委員会 第33号|accessdate=2017-12-01|date=1968-05-24|publisher=国会会議録検索システム}} /ref ref {{国会会議録検索システム|106005206X00119681217|name=第60回国会衆議院法務委員会第1号昭和43年12月17日|accessdate=2022-06-24}} /ref {{sfn|長崎|2003|pp=70-71}}。 この弾丸が「発見」された捜索では、訓練中の実験で使用された不発の手製手榴弾がTの証言通りに発見されており、Tの証言を補強する間接的物証とされたが、これについては弁護側からも否定されていない{{sfn|今西|河野|大石|2013|p=24}}{{sfn|今西|河野|大石|2013|p=76}}。 === 再審請求 === 日本共産党{{Efn|日本共産党は1955年1月1日に『赤旗』社説で極左冒険主義を自己批判し、公然化を宣言した{{sfn|今西|2020|pp=234-236}}。}}は冤罪キャンペーンを張り、110万人に及ぶ最高裁再審要請署名を集めた。党の支援を受けた村上国治は、無罪を主張して1965年(昭和40年)に再審請求を行い、最高裁判所への特別抗告まで争った ref name=" 2" / 。 しかし、1953年6月23日に獄中の村上国治が弁護士を経由して「''とくにモグらせた人間 {{Efn|当時札委関係。}} は絶対に活動させぬ様出来れば外国えやつて貰ひたいことを支店へ伝えて貰ひたい ref name=" 19" / ''」と証拠隠滅の為に実行犯グループを国外へ逃がすよう指示{{Efn|この指示が上述の人民艦隊による関係者の不法出国に関わっているとされる{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}。}}した書面が国警に押さえられており{{sfn|今西|2020|pp=234-236}} ref {{harvnb|渡部|2012|p=255-264}} /ref 、それが裁判資料として提出されたことなどから、札幌高裁は1969年(昭和44年)6月18日に「弾丸の証拠価値は、(中略)たんに『原判決当時に比べいささか薄らいだ』というに止まらず、大幅に減退したと言わざるを得ない」と認めつつも、「各事件に、申立人(村上)が関与している事実は証拠上明白」であるにもかかわらず「明白な事実をことさらに否定しようとする申立人の供述には、その信ぴょう性に疑問をいだかざるをえない」などとして、村上の申立を棄却した ref name=" 13" / ref {{Cite book|和書|title=最高裁判所刑事判例集|year=1975|publisher=判例調査会|editor=最高裁判所|volume=29|issue=5|pages=321-347}} /ref ref {{Cite web|和書|url=http //chikyuza.net/archives/21084 |title=「白鳥事件は冤罪ではなかった!」新資料・新証言による60年目の真実② |accessdate=2017-12-01 |author=渡部富哉 |date=2012-03-22 |publisher=ちきゅう座}} /ref {{sfn|長崎|2003|pp=3-5}}。 最高裁も、1975年(昭和50年)5月20日に札幌高裁の決定を支持して村上の特別抗告を全員一致で棄却した ref name=" 2" / ref name=" 19" / {{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}}{{sfn|大石|2014|pp=73-75}} ref name=" 1" / {{sfn|長崎|2003|pp=3-5}}。 村上は1969年(昭和44年)11月14日に半分近い刑期を残して仮釈放を受けている{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}。 {{Clear}} == 白鳥決定 == {{最高裁判例 |事件名 = 再審請求棄却決定に対する異議申立棄却決定に対する特別抗告事件 |事件番号 = 昭和46年(し)第67号 |裁判年月日 = 1975年(昭和50年)5月20日 |判例集 = 刑集29巻5号177頁 |裁判要旨 = #刑訴法四三五条六号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」とは、確定判決における事実認定につき合理的な疑いをいだかせ、その認定を覆すに足りる盡然性のある証拠をいう。 #刑訴法四三五条六号にいう 「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」であるかどうかは、もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとすれば、はたしてその確定判決においてされたような事実認定に到達したであろうかという観点から、当の証拠と他の全証拠とを総合的に評価して判断すべきである。 #刑訴法四三五条六号にいう 「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」であるかどうかの判断に際しても、再審開始のためには確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りるという意味において、「疑わしいときは被告人の利益に」という刑事裁判における鉄則が適用される 。 |法廷名 = 第一小法廷 |裁判長 = 岸上康夫 |陪席裁判官 = 藤林益三・下田武三・岸盛一・団藤重光 |多数意見 = 全員一致 |意見 = なし |反対意見 = なし |参照法条 = 刑訴法435条6号 |url=https //www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51033}} 上述の通り最高裁判所は再審請求を棄却したが、「再審制度においても『疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用される」との判断を示し{{Efn|主文の続きでは、「この見地に立つて本件をみると、原決定の説示中には措辞妥当を欠く部分もあるが、その真意が申立人に無罪の立証責任を負担させる趣旨のものでないことは、その説示全体に照らし明らかであつて、申立人提出の所論証拠弾丸に関する証拠が前述の明らかな証拠にあたらないものとした原決定の判断は、その結論において正当として首肯することができる」とされ、「所論は、事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、刑訴法四三三条所定の適法な抗告理由にあたらない」「要するに、所論の証拠弾丸に関する新証拠は、原判決の認定について合理的な疑いをいだかせるに足りないというべく、右新証拠が刑訴法四三五条六号所定の証拠の明白性の要件を具備しないとした原決定の判断は、その結論において正当として是認することができる」と結論づけられている ref name=" 19" / 。}}、事件にちなんで「白鳥決定 」と通称されるようになる ref {{Cite Kotobank |word=白鳥決定 |encyclopedia=デジタル大辞泉 |accessdate=2022-03-15}} /ref 。従前の再審裁判では証拠を完全に覆すに足る証言や証拠を求められることが通例であり、その厳しさは「開かずの扉」と呼ばれるほどであったが、この白鳥決定以後は裁判時の証拠や証言に対して「ある程度の合理的疑いが存在する場合」も再審の対象として扱われるようになった{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}} ref {{Cite web|和書|title=白鳥事件/白鳥決定|url=https //imidas.jp/genre/detail/F-105-0086.html|website=情報・知識&オピニオン imidas|publisher=集英社|accessdate=2020-08-25|author=伊藤真 (弁護士)|伊藤真}} /ref ref name=" 16" {{Cite Kotobank |word=再審 |encyclopedia=日本大百科全書 |accessdate=2022-06-24}} /ref 。 白鳥決定は、下級審の再審に関する姿勢も変えさせた極めて重要な判示となった{{efn|この白鳥決定については、傍論ないし傍論的なものと見做す見解がある一方で、一般的法命題も判例に含める前提に立つのであれば白鳥決定はこれに該当するとした意見もある ref {{Cite journal|和書|author=金築誠志|author-link=金築誠志|date=2016-03-31|title=判例について|url=http //id.nii.ac.jp/1648/00008078/|journal=中央ロー・ジャーナル|volume=12|issue=4|page=36|issn=1349-6239}} /ref 。}}。これに続く形で、1980年代には死刑の確定判決が出されていた免田事件・財田川事件・松山事件・島田事件・徳島ラジオ商殺し事件(死後再審)において無罪判決が相次いで出され、司法界に大きな衝撃を与えた{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}} ref name=" 16" / 。 == 後年の推移 == === 亡命者 === 事件に関与して中華人民共和国(中国)に逃亡した党員たちの多くは、文化大革命を経て日中国交正常化後に帰国したが、不起訴にされている。一方、日本共産党は『しんぶん赤旗|赤旗』でこの者たちを「反党盲従分子」と攻撃し、村上と接触させなかった{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}} ref {{Cite journal|和書|date=1975-12-28|title=いずれも反党盲従分子 {{small|中国から帰国の5人}}|journal=赤旗|page=15}} /ref 。 1955年(昭和30年)頃、実行犯として指名手配された3人は中国へ不法出国により亡命した ref name="20120329-OYT1T01212" {{Cite news|title=白鳥事件・最後の実行メンバー死亡…北京で|newspaper=YOMIURI ONLINE|date=2012-03-29|url=http //www.yomiuri.co.jp/national/news/20120329-OYT1T01212.htm|accessdate=2012-03-30|publisher=読売新聞社|archiveurl=https //web.archive.org/web/20120330223817/http //www.yomiuri.co.jp/national/news/20120329-OYT1T01212.htm|archivedate=2012年3月30日}} /ref 。彼らは北京機関解体後に四川省に追いやられ{{Efn|これらの白鳥事件に関与して四川省に滞在していた者たちは「四川組」と呼ばれ、中国名を名乗っていた ref name=" 21" {{Cite journal|和書 |author=国谷哲資 |title=北京追憶 若者が体験した戦後日中関係秘史 |journal=アジア社会文化研究 |ISSN=1346-1567 |publisher=アジア社会文化研究会 |date=2019-03-31 |issue=20 |pages=43-71 |naid=120006621681 |doi=10.15027/47472 |url=https //doi.org/10.15027/47472}} /ref 。}} ref name=" 20" {{Cite web|和書|url=http //e-kyodo.sakura.ne.jp/tejima/140320kounotamio.pdf|title=「白鳥事件を考える札幌集会」の報告|accessdate=2020-08-27|publisher=インターネット事業団|author=河野民雄}} /ref 、射殺の実行者とされた『ひろ』を含むこのうちの2人が1988年(昭和63年)に悪性腫瘍|癌で病死し、革命烈士として八宝山革命公墓に埋葬された{{Efn|2人共白酒 (中国酒)|白酒を浴びるように飲んでいたという{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}。}}{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}{{sfn|今西|2020|pp=238-243}}。 最後の生き残りとなった鶴田倫也 {{efn|鶴田の事件との関わりは明らかにされていないが ref name=" 23" / 、事件当日に白鳥警部を発見するまで『ひろ』と同行し、犯行に使ったブローニング拳銃の隠蔽に関わったとされる{{sfn|今西|2020|pp=232-234}}。暗殺の実行者だったとする主張もある{{sfn|大石|2014|pp=76}}。}}は北京外国語大学で「唐沢明{{Efn|教科書では中国語で同じ発音({{ピンイン|Tángzémíng}})となる「唐則銘」という名義を用いた。「中国の恩を覚えておく」という意味が込められているという ref name=" 23" / 。}}」という通称で日本語教師をしており、鶴田が編纂した教科書は多くの大学で使われた ref name=" 21" / ref name=" 23" {{Cite journal|和書|author=菅原裕和|date=2012-06-05|title=中国に逃亡した鶴田容疑者が日本史の教科書を執筆していた|journal=エコノミスト|volume=90|issue=24|pages=90-93}} /ref ref name=" 7" / 。 1996年1月9日に関係者の訪問を受けた鶴田は泥酔し「俺らのやったことはオウム真理教と同じだという奴がいる。俺はな、単なるやくざ者で白鳥をやったのとは違う。あんなごろつきやって何が悪いんだ」「おれはここにいてプロレタリアート|プロレタリア国際主義の立場から日本革命を考えている」とくだを巻いたという{{sfn|今西|2020|pp=238-243}}。 鶴田は訪中した日本人から身を隠すようにして定年後は大学構内の教職員宿舎に居住していた{{efn|鶴田の現地での暮らしぶりは安定していたが、同居する配偶者が中国当局の監視役であったことが示唆されている{{sfn|大石|2014|pp=82}}。}}。1997年(平成9年)6月、時事通信の記者が北京市内で鶴田との接触に成功したが、鶴田は事件の真相を語らなかった。このとき、一向に事件について語ろうとせず「ここ(中国)にいられないようにしてやる」とすごむ鶴田に対し記者が「わかりました。この件については自分の判断でやります」と言うと、鶴田は「俺は昔から新聞記者は嫌いだったんだ!」と捨て台詞を吐いた。このころ渡部富哉らによる鶴田帰国支援運動が別途行われていたところであるが、時事通信の取材後に鶴田は消息不明となり、国際刑事警察機構|ICPOを通じて照会を求めた日本の警察庁に対して中国側は「鶴田なる人物は中国にはいない」と回答した。鶴田は心臓疾患を患い2012年(平成24年)1月頃から体調を崩し、3月14日に北京で死亡したことが報道されている{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}} ref name=" 21" / ref name=" 7" {{harvnb|後藤|2013|p=263-274}} /ref ref name="jiji2012032900320" {{Cite news|title=白鳥事件の鶴田容疑者が死亡=逃亡先の北京で-警部射殺から60年、真相語らず|newspaper=時事ドットコム|date=2012-03-29|url=http //www.jiji.com/jc/c?g=soc rel=j7 k=2012032900320|accessdate=2012-03-30|publisher=時事通信社}}{{リンク切れ|date=2013-04-18}} /ref ref {{harvnb|渡部|2012|p=288-290}} /ref 。鶴田は「唐沢明として革命公墓に入ると骨を調べられる。DNA型鑑定|DNA鑑定もできないように海に流せ」と遺言を残し、遺言どおりに天津市|天津沖で散骨されたという{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}{{sfn|今西|2020|pp=238-243}}。 白鳥の妻は上述の時事通信記者から鶴田生存の報を聞くと「生きてらっしゃるのですか」と驚いたが、「いまさら憎んでもしょうがないでしょう。亡くなった人間が帰ってくるわけでもないし。月日もたって思い出したくありません。そっとしておいてください」と答えた ref name=" 7" / 。 国外逃亡を続けて中国で客死した、上述の3人の公訴時効#公訴時効の停止|公訴時効は停止している。中華人民共和国公安部|中国公安当局による死亡確認を得られていないことを理由に両名の逮捕#通常逮捕|逮捕状は半年間隔で更新され続けており、効力を有する日本の逮捕状としては最古のものとなっている(逮捕状の有効期限は原則7日) ref name=" 18" / ref name=" 8" / ref {{Cite news|title=更新続く「最古の逮捕状」 白鳥事件で北海道警|date=2012-11-24|url=https //www.chibanippo.co.jp/newspack/20121124/111330|accessdate=2018-09-01|publication-date=|language=ja}} /ref ref {{Cite news|title=更新続く「最古の逮捕状」 白鳥事件で北海道警|date=2012-11-24|url=https //web.archive.org/web/20131023061210/http //www.47news.jp/CN/201211/CN2012112401000993.html|accessdate=2013-04-18|agency=共同通信社|publisher=47NEWS}} /ref 。2022年4月の時点で鶴田容疑者は161回、佐藤博容疑者は180回更新された。 === 川口の告白 === 1998年(平成10年)、事件当時の北海道地方委員会軍事部門幹部であった川口孝夫{{Efn|川口は妻とともに1956年3月に人民艦隊で中国大陸に渡り{{sfn|今西|2020|pp=236-238}}、滞在中の1967年に起きた北京空港事件で砂間一良を庇い、その後監禁・査問を受けた。田中角栄訪中後の1973年12月に帰国した川口は、鶴田の帰国にも取り組み、帰国後は真相を語ること、弁護士は国選弁護人にすることなどで1997年4月に鶴田と合意したという。しかし、上述の時事通信のスクープ報道後、鶴田からの連絡は途絶えた{{sfn|今西|2020|pp=244-267}}{{sfn|今西|2020|pp=238-243}}。}}が、軍事活動を知りすぎて党に日本を追放された旨を主張する『流されて蜀の国へ』という回顧録を自費出版した。川口はその際の北海道新聞のインタビューで、「謀略ではなかったと言ってよい」と松本清張などが提唱した米軍謀略説を否定し、党員の犯行であったことを認めている。川口は「事件に関与していないが、事件後に報告を受けました」として中核自衛隊の元隊員Tの証言が自分が受けた報告と合致することを認め、さらに党の真相調査に対して「事実」を報告していたことも明かされた。なお、村上が裁判闘争を続けたことについては「彼は、私の入党責任者{{efn|川口は1947年に村上の勧誘を受け、日本共産党に入党している{{sfn|今西|2020|p=232}}。}}。『左』の路線の時も、すごい活動家だった。間違いを犯したのは共産党の方針が間違っていたためで。彼個人の責任とは考えません。彼も晩年は気の毒な人でした」とした ref name=" 15" {{harvnb|後藤|2013|p=279}} /ref ref name=" 17" {{Cite news|和書|date=1998-10-29|title=白鳥事件 党員の犯行裏付け 元共産党軍事部門幹部が証言 米軍謀略説を否定 事件直後「報告聞いた」|newspaper=北海道新聞|page=1}} /ref ref {{Cite news|和書|date=1998-10-29|title=白鳥事件で証言 川口孝夫さんに聞く 「当時の党 方針間違い」|newspaper=北海道新聞|page=27}} /ref ref {{Citation|和書|title=現代史への一証言(上)川口孝夫著『流されて蜀の国へ』を紹介する|last=中野|first=徹三|year=1999|url=https //doi.org/10.11501/1817138|work=労働運動研究|publisher=労働運動研究所|issue=356|pages=34-37|doi=10.11501/1817138}} /ref ref {{Citation|和書|title=現代史への一証言(下)川口孝夫著『流されて蜀の国へ』を紹介する|last=中野|first=徹三|year=1999|url=https //doi.org/10.11501/1817139|work=労働運動研究|publisher=労働運動研究所|issue=357|pages=30-33|doi=10.11501/1817139}} /ref 。 共産党は同紙の取材に対しては「党が分裂していた当時の一方の側の問題で、党としてコメントする立場ではない ref name=" 17" / 」と言及を避けた一方で「歴史の暗部の断層にうごめいて生き血を吸い、腐肉を喰らう男」と川口を激しく誹謗した。事件に関連して中国に逃亡した者からも「軍事方針の直接の実行部隊幹部であったことを自認し、非合法の軍事方針を実践していたことを確認しておりながら、彼は下部組織の犯行であって自分は関与していないと白を切っている」と川口に対し批判の声が上がった。中国への逃亡の後に帰国した人物は、「当時の共産党は組織原則が厳しく、党員は絶対服従することが義務付けられていた」「白鳥事件についても村上国治が上部組織の許可なしに計画実行することなどあり得ない」「川口がこの事件の直接の策謀者だと信じている」と見解を述べている ref name=" 11" {{harvnb|後藤|2013|p=220-222}} /ref 。 『流されて蜀の国へ』に対しては「事件の真相を曖昧にしている」との批判もあったが、川口は「妻は何の理由もなく異国に送られ、十八年もの長き年月を強制的に中国に滞在させられ、悲しくつらい思いをし、苦しめられた。その原因である『白鳥事件』の真相の公表を、妻は人生の最後まで望んでいた。私は六〇年間の長い年月の苦労の旅をともにしてきた(妻の名前)の最後の願いを実現させる事こそ、私に残された最後の仕事と考えている{{sfn|今西|2020|pp=244-267}}」として事件に関する自らの体験を記した『いまなぜ「白鳥事件」の真相を公表するか』と題した遺稿を2002年に書き上げ、2004年に他界している{{sfn|今西|2020|pp=238-243}}。この中で川口は、中核自衛隊の射撃訓練に参加したことや村上の強い要請で『ひろ』の逃亡に加担したことを明かしている{{efn|川口が的屋グループに属する甥に依頼して『ひろ』を奈井江白山の鉱山飯場へ送り込んだことは、裁判で用いられた参考人調書でも確認される{{sfn|渡部|2012|pp=144-153}}。}}{{sfn|今西|2020|pp=244-267}}。 === Tによる謝罪 === 2012年(平成24年)2月24日、裁判で用いられた自供を行い、自身も暗殺計画に参加したとして殺人罪 (日本)|殺人幇助などの罪で執行猶予判決を受けたTは、「中核自衛隊が計画を進めていたのは事実」と中核自衛隊の犯行であったことを改めて認め、説明責任を果たすため手記を公表予定と読売新聞の取材で述べていた{{efn|川口らとの共著を五月書房から刊行する動きがあったが、2021年現在出版は確認されていない{{sfn|今西|河野|2012|p=13}}。}} ref {{Cite news|url=http //www.yomiuri.co.jp/e-japan/hokkaido/news/20120224-OYT8T00017.htm|title=「白鳥事件」銃撃、数日前に失敗…地下組織の元隊員60年後の証言|newspaper=YOMIURI ONLINE|publisher=読売新聞社|date=2012年2月24日|archiveurl=https //web.archive.org/web/20120227075103/http //www.yomiuri.co.jp/e-japan/hokkaido/news/20120224-OYT8T00017.htm|archivedate=2012年2月27日}} /ref 。 Tはその後、「裏切り者とかイスカリオテのユダ|ユダと悪罵を投げかけられながらも60年間ジッと耐えて我慢してきたTに一回喋ってもらい、記録に残したい」として有志が同年10月に小樽商科大学のサテライト教室で開催した、『白鳥事件を考える集い』に参加し ref name=" 20" / 、「若く幼稚な正義感から白鳥警部殺害に関与してしまった。当時は白鳥氏には妻子がいることに思いが及ばず、白鳥警部のご家族に多大のご迷惑をかけたことを、今となっては遅きに失するが心よりお詫びしたい。また、この事件で多くの札幌市民を不安に陥れたことを深く反省している{{sfn|今西|河野|大石|2013|p=21}}」と謝罪の言葉を述べ、「共産党は55年の日本共産党第6回全国協議会|6全協で極左冒険主義を清算したといいます。だが、その具体的内容には触れておらず、白鳥事件のことなど一切出てきません。それどころか、事件は一部の分派の飛び跳ねた部分がやったということで、ぼくらや仲間のやったことを切り捨て、現在の党には関係ないといいます。果たしてこんなことで、一般の国民を納得させられるでしょうか{{sfn|今西|河野|大石|2013|p=24}}」と疑問を投げかけた ref name=" 20" / 。またTは、出所後の村上と面会し、互いに事件のことには触れずに2時間ほど回顧談をしたことを明かしている{{sfn|渡部|2012|pp=15-16}}{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=25-26}}。 === その他 === 2002年(平成14年)に長野県松本市の松本市歴史の里|旧司法博物館にあった白鳥事件の裁判資料を有志が整理して公開されたが、博物館が同市に移管されてからは、多くの個人情報が含まれることなどから公文書等の管理に関する法律|公文書管理法第16条第2項の「不開示情報」として閲覧禁止となっている ref name=" 2" / 。市立博物館側は「デリケートな情報が多く自治体として公開に至る判断はできなかった」としていたが、2021年12月8日の松本市議会で同市教育部長が研究機関への寄贈を打診していることを明らかにした ref {{Cite journal|和書|date=2021-12-09|title=白鳥事件裁判資料譲渡へ|journal=市民タイムス|page=1}} /ref 。 2011年(平成23年)3月27日、HBC北海道放送が事件関係者へのインタビューなどを通じて白鳥事件の真相を追ったラジオドキュメンタリー『インターが聴こえない~白鳥事件60年目の真実~』(HBCラジオ開局60周年記念ドキュメンタリー)を放送し、同年5月に第37回放送文化基金賞ラジオ部門優秀賞 ref [http //www.hbc.co.jp/hbc/press.html HBC北海道放送 プレスリリース 2011年] /ref を、同6月に第48回ギャラクシー賞ラジオ部門大賞 ref {{Cite news | url = https //web.archive.org/web/20130927001822/http //www.47news.jp/CN/201106/CN2011060201000949.html | title = 秋田放送の番組がテレビ部門大賞 第48回ギャラクシー賞 | agency = 共同通信社 | publisher = 47NEWS | date = 2011-06-02 |accessdate= 2013-04-18}} /ref を受賞している。番組の終盤には、鶴田との接触を持ち、中国共産党とのパイプを持つ人物へのインタビューの録音が流されるが、その人物は関係者が全員死なないと話せないと証言を拒んでいる。 == エピソード == 北海道大学教授の布施鉄治はイールズ声明|イールズ闘争世代であり反骨の学者と知られていたが、「白鳥運動」に取り組もうとしていた者に対して、「白鳥にかかわったとされる多くの党員学友が行方不明になっている。自分の親友もいた。おそらくは中国へ脱出したのだ。冤罪と思っている人は北大にはいない。白鳥事件を三鷹事件や松川事件と同列に論ずるわけにはいかない。これが現地北海道の常識だから深入りしないように」と釘を刺していた。松川・青梅事件|青梅・芦別事件などでは無罪判決が出され、そのほとんどが冤罪事件とされる戦後の公安事件の中にあって、白鳥事件は「検察最後の砦」であり、近年に至るまで北海道でのタブーとされていた ref name=" 15" / {{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}。共産党議員であった志賀義雄も、『ドキュメント志賀義雄』を編纂していた横堀洋一に事件の真相について意見を求められ、次のように述べて口を閉ざしている{{sfn|渡部|2012|p=258}}。 {{Quotation|もちろん、国会で追求するつもりだった。ところが、種々調べてみると下手な発言ができないことが次第にわかってきた。そこで、手づるを求めて当時、自民党の大物議員だった賀屋興宣に面会して、意見を聞いてみた。すると賀屋興宣は「志賀君、君のために忠告しておくが、それだけはやめておいたほうがいい。村上国治は獄中から弁護士の面会の際に、関係者を国外に逃がせ、というレポを渡し、それが当局の手に渡っているんだよ」と言うんだ。}} 自由法曹団の団長を務め上告審から本事件に関与した上田誠吉は、1977年のインタビュー ref {{Cite journal|和書|year=1977|title=上田誠吉氏に聞く--白鳥事件のことなど(法曹あの頃-26-)|journal=法学セミナー|issue=273|pages=84-88|publisher=日本評論社}} /ref で、戦後の公安事件の多くで無罪判決が出された中において白鳥事件は有罪となっている点について問われ、「当時、ある種の極左冒険主義があったことは間違いないんで、これが巧みに(治安当局に)利用されているんです。一部の人たちが武器を作り、集めていたということはあるようで、(中略)あの状況の中で白鳥警部が射殺される、共産党の周囲の近しい人、あるいは内部の人自体が、〝ははあ、これはうちの関係者がやったのではないか〟と疑うこと、これがこわいですね」と答えた。また『ひろ』ら中国への逃亡組について触れられると、「何人か帰国した人たちがいるようですが、この人たちも強く無罪を主張しているようですね。くわしいことはわかりませんが」と述べた ref {{Cite book|和書|title=法曹あの頃(上)|year=1978|publisher=日本評論社|pages=75-76|author=野村二郎|series=日評選書}} /ref 。 札幌地検の次席検事として村上国治の取り調べをした高木一(帝銀事件で平沢貞通の取り調べを行った検事)は、ヤメ検になったあとの1980年に行われたインタビューで ref {{Cite journal|和書|year=1980|title=高木一氏に聞く-下-白鳥事件(法曹あの頃-51-)|journal=法学セミナー|volume=24|issue=2|pages=32-35|publisher=日本評論社}} /ref 、「私は、個人的には、村上は正直ないい男だと思いますよ」「結局、村上は党の方針にあおられていたのだと思います。しかし、党内では、農民的一揆主義の突出行為だという批判を受けています。それはそうだと思いますが、あおった党の軍事方針に非常に大きな危険をはらんでいたと思いますね」と述べ、後年、別の公安事件(芦別事件)の法廷で白髪頭になった村上に傍聴席からヤジを飛ばされ、なつかしい気持ちで「おお」と声をかけると「おおでないよ」と言われたエピソードを紹介している。帝銀事件にくらべ「白鳥事件はその百倍も苦労しました。相手もそうだし、味方もコントロールしなければなりません。臆病になってもいけないし、逃げ回ってもいけない。まして行きすぎても行けない。戦争だからやっつけましょう、という意見もあるんです。そうしたのを押さえながら捜査を進めるんですからたいへんでした」と当時の苦労を明かした。なお、高木は帰国した中国逃亡組が起訴猶予になったのは「大いに賛成」と述べている ref {{Cite book|和書|title=法曹あの頃(下)|year=1981|publisher=日本評論社|pages=187-190|author=野村二郎|series=日評選書}} /ref 。 == 年譜 == 1951年 4月 - 村上国治(当時:留萌委員長)が『平和のこえ』紙頒布のかど(占領目的阻害行為処罰令違反)で逮捕される{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 7月 - 村上が旭川刑務所から釈放{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 10月 - 広島県オルグであった追平雍嘉が札幌委員会常任に就任{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 10月16・17日 - 日本共産党第5回全国協議会(五全協)が開催され、51年綱領・武装軍事方針を採択。川口孝夫が道委員会軍事部に転出{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 10月20日 - 村上が留萌地区委員長から札幌委員長に就任{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 10月下旬 - 追平がビューロー員となる{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 10月23日 - 日共北海道地方委員会が下部組織に対し"帝国主義者の走狗"に対する攻撃集中を指示。白鳥警部については「特高あがりで、共産党に対して最も悪辣である」と付記され、「北海道に於いては悪辣な村巡査に至るまで村八分を実施し、主婦や子供を徹底的に仲間外れにするまでビラ、伝単で攻撃をくわえられたい」と指示{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 11月中旬 村上がSに「琴似方面でブローニングが手に入るのだが4千円ほど欲しい」と連絡{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 Sがベルナルデリ小型拳銃の持ち主の情報を村上に伝え、村上が「その話はおれの方で預かろうではないか」と答える{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 村上がSにブローニングが入手できたと伝える{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 11月末 - 日本電気産業労働者組合(電産)社宅にある党員U宅で新綱領・軍事方針についての講習会を実施。この席で村上が「白鳥はもう殺してもいい奴だな」と発言 ref name=" 26" / {{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 12月10日 - 幌見峠で拳銃射撃訓練{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 12月23・24日 - 村上がSに対し、「全党に模範を示すんだろう。警察官の1人や2人殺ったって浮かないさ」「どうだ、白鳥を堂々と襲撃しようかい」「日本共産党を名乗って白鳥課長の家を襲ってやっつけるんだ」などと発言。これに対しSは「やるなら暗殺を狙うべきだ」と意見を述べる ref name=" 26" / {{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 12月27日 - 餅代よこせ事件。札幌市自由労働組合(自労)20数人が市役所内で座り込みを行う。要請を受けた白鳥警部らが出動し、有力党員11人を検挙。同日、東京都練馬区で練馬事件が発生。村上が追平に「東京に先にやられた」と語る{{sfn|今西|河野|2012|p=10}}{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 12月29日 - 白鳥射殺の実行を決定{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 12月30日 - 白鳥警部宅に脅迫ビラ十数枚が貼られる{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 1952年 1月3日 - S宅で開かれた新年宴会を兼ねた新綱領の学習会の席上で、『ひろ』が「白鳥課長らは労働者を弾圧しているひどい人間だから、ああいう人間を生かしておく必要はない」などと発言{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 1月4日 - 村上が中核自衛隊員に対し白鳥殺害は拳銃をもってやることを告げる{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 1月5~6日 - 手榴弾の実験を兼ねた幌見峠射撃訓練{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 1月10日 - 川口が『ひろ』に「白鳥を殺ったら浮くか浮かないか」と問われる。これを受けて川口は北海道地方委員会議長に宛てて計画中止を求める緊急レポを出すが、回答はなかった{{sfn|今西|2020|pp=232-234}}{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 1月中旬 - Tが『ひろ』の部屋でブローニング拳銃を見る{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 1月15日 - 白鳥警部と路上で遭遇した『ひろ』が射殺を試みるが、弾が出ずに失敗{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。Tらが拳銃のオーバーホールを行う{{sfn|今西|2020|pp=232-234}}。 1月21日 - 19時40分頃、白鳥警部射殺{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}} 。現場で薬莢1個が押収される{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。 1月22日 - 北大にて司法解剖。体内から弾丸1発(206号弾丸 ref name=" 13" / )が摘出される{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。 1月23日 - 北大正門前・札幌鉄道局北海道旅客鉄道苗穂工場|苗穂工場や大通東2丁目札幌職安労働者集合所などで「天誅ビラ」が撒かれる{{sfn|今西|2020|pp=232-234}}{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。札幌市警本部長が「一応日教関係の犯行とみなし、威信にかけても犯人は検挙してみせる」と発表{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。 1月26日 - 苗穂町駐在所に抗議に押しかけた共産党員らが、苗穂工場前で「白鳥事件を口実として民主団体を弾圧するとは何事だ。直ちに手を引かないと第二の白鳥がでるゾ」と書かれたアジビラを配布する{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 1月27日または28日 - 村上がSに実行犯が『ひろ』であると打ち明ける{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 4月12日 - 道庁細胞長Nが逮捕される{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 6月2日 - 菅生事件。 8月上旬 - Nが伊豆伊東で発見され、札幌に移送される{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 8月28日 - Sが逮捕される。以降、共産党札幌委員会活動家の逮捕が続く{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 10月1日 - 村上が街頭での選挙運動中に逮捕される{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 12月23日 - S信用組合理事長が服毒自殺{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 1953年 4月9日 - 追平が八王子駅付近街頭で逮捕される{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 6月23日 - 村上、実行犯グループの潜伏の徹底・国外逃亡を特別弁護人に指示{{sfn|今西|2020|pp=234-236}}{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 7月8日 - 上述の村上レポが警察当局に押収される {{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 7月11日 - Tが脱党を声明{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 7月13日{{Efn|11日とも{{sfn|今西|2020|pp=234-236}}。}} - 村上、苫小牧警察署からの逃亡を企て失敗(1回目){{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 8月19日 - 幌見峠で発射弾丸1発(207号弾丸 ref name=" 13" / )が「発見」される{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。 9月4日 - 上記207号弾丸と白鳥の体内から摘出された206号弾丸について、同一の銃器から発射されたものと「直ちには断定することが出来ないものと認められる」との鑑定書(銃鑑第七五九号)を国警科学捜査研究所が出す{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}{{sfn|長崎|2003|pp=106-110}}。 10月19日 - 公判廷において村上が裁判長に殴りかかる{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 1954年 1月16日 - 村上、苫小牧警察署からの逃亡を企て失敗(2回目){{sfn|今西|2020|pp=234-236}}{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 2月15日 - 村上、苫小牧警察署からの逃亡を企て失敗(3回目){{sfn|今西|2020|pp=234-236}}{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 4月30日 - 幌見峠試射場で2発目の弾丸(208号弾丸 ref name=" 13" / )が「発見」される{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。 7月1日 - 改正警察法の施行により、国家地方警察と自治体警察が廃止され、警察庁と都道府県警察へ統合。 7月30日 - 幌見峠で「発見」された207号弾丸・208号弾丸(「ニ個の弾丸」 ref name=" 13" / )と206号弾丸について、「同一銃器によって発射されたもの認定するに足る程度の類似発射痕特徴を発見し得なかった」との鑑定書(銃鑑第九七九号)を警察庁科学捜査研究所が出す{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}{{sfn|長崎|2003|pp=111-113}}。 10月18日 - Sに懲役3年、執行猶予4年の判決{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 1955年 7月 - 日本共産党第6回全国協議会。極左軍事冒険主義を転換{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 11月1日 - 札幌地検(高木一)の委嘱を受けた磯部孝東京大学教授が、「ニ個の弾丸」と206号弾丸について、「仮に異なれる銃器によって発射されたとするならば、現弾丸に見られる如き、線状痕の一致の生起する確率は極めて小さく、大きく見積もっても〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇一より小さいことが認められる」とする鑑定書(磯部鑑定書 )を出す{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}{{sfn|長崎|2003|pp=121-126}}。 1957年 5月8日 - Tに懲役3年、執行猶予3年の判決{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 1958年 4月13日 - 警視庁が「人民艦隊」第1勝漁丸関係者らを逮捕し、同船が中共に密出国させた乗客は『ひろ』ら白鳥事件容疑者4人と発表{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 1963年 10月17日 - 最高裁判所(第一小法廷)が上告を棄却し、村上の実刑判決が確定 {{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。 11月28日 - 村上が網走刑務所に収監される{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。 1965年 10月21日 - 再審請求書が札幌高裁に提出される{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。 1967年 11月18日~21日 - 鑑定人3名に対し、事実取り調べが行われる{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。 11月21日 - 磯部鑑定書について、磯部に対し取り調べが行われる。その中で磯部は、自らが弾丸の鑑定については素人であること、東大には比較顕微鏡もないため最高検察庁の者から米軍を紹介され、G曹長に鑑定を丸投げしていたことを証言 {{sfn|長崎|2003|pp=61-68}}{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。 1968年 8月5日 -科捜研鑑定書 {{Efn|これらの鑑定書は法廷に提出されておらず、2度にわたる弁護団からの札幌高裁への照会要求によって内容が明らかとなった{{sfn|長崎|2003|pp=68-70}}。}}(銃鑑第七五九号・銃鑑第九七九号)が弁護団に提出される {{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}{{sfn|長崎|2003|pp=68-70}}。 1969年 6月13日 - 札幌高裁が再審請求申立を棄却{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。 11月14日 -村上が仮釈放を受ける {{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。 1973年 12月13日 - 川口らが中国から帰国{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 1975年 5月20日 - 最高裁判所(第1小法廷)が村上の特別抗告棄却を決定 {{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。 1988年 『ひろ』ら2人が北京で客死{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 1994年 11月3日 - 村上が焼死{{Efn|事件の事情を知る、川口の帰国後の動きを悲観しての焼身自殺であったとも言われる ref name=" 27" / 。}}{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 1997年 6月8日 - 時事通信社が「鶴田、北京で確認」と発信{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 1998年 10月29日 - 川口が事件直後に報告を聞いたと暴露し、Tの証言を肯定{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 2012年 3月14日 - 鶴田死去{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 10月27日 - 「白鳥事件を考える集い」開催{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|20em|refs= ref name=" 25" {{Cite web|和書|title=【風を読む】学があってテロに走ったのはオウム入信者だけではない 論説副委員長・榊原智|url=https //www.sankei.com/article/20180710-UAWSROJBJRNKPNBZHY3L5LYCJU/|website=産経ニュース|date=2018-07-10|accessdate=2021-12-06}} /ref }} == 参考文献 == {{Citation|和書|title=白鳥事件|year=1959|last=追平|first=雍嘉|url=https //doi.org/10.11501/1669593|publisher=日本週報社|doi=10.11501/1669593}} {{Citation|和書|title=戦後政治裁判史録2|year=1980|publisher=第一法規出版|editor1-last=田中|editor2-last=佐藤|editor1-first=二郎|editor2-first=功|editor3-last=野村|editor3-first=二郎}} {{Citation|和書|title=作られた証拠 白鳥事件と弾丸鑑定|year=2003|publisher=アグネ技術センター|last=長崎|first=誠三|author-link=長崎誠三|isbn=978-4901496025}} {{Citation|和書|author= |title=新警備用語辞典 |publisher=立花書房 |year=2009 |NCID=BA91464482 |ISBN=9784803713022 |url=https //iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010544351-00 |ref={{Harvid|立花書房|2009}}}} {{Citation|和書|last=今西|first=一|last2=河野|first2=民雄|date=2012-07-25|title= 白鳥事件と北大 高安知彦氏に聞く |url=https //hdl.handle.net/10252/4928|journal=商学討究|volume=63|issue=1|pages=1-50}} {{Citation|和書|title=白鳥事件 {{small|偽りの冤罪}}|publisher=同時代社|year=2012|month=12|ISBN=978-4886837363|last=渡部|first=富哉|author-link=渡部富哉}} {{Citation|和書|last=後藤|first=篤志|title=亡命者 {{small|白鳥警部射殺事件の闇}}|publisher=筑摩書房|year=2013|month=9|ISBN=978-4480818379}} {{Citation|和書|ref=harv|title=シンポジウム・歴史としての白鳥事件|last=今西|first=一|last2=河野|first2=民雄|last3=大石|first3=進|year=2013|month=dec|url=https //hdl.handle.net/10252/5243|journal=商学討究|publisher=小樽商科大学|volume=64|issue=2/3|pages=3-95|ISSN=0474-8638|naid=120005360098}} {{Citation|和書|last=大石|first=進|title=私記 白鳥事件 |publisher=日本評論社 |year=2014 |NCID=BB17240101 |ISBN=9784535520806 |url=https //iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I025875093-00}} {{Citation|和書|last=今西|first=一|year=2020|title=白鳥事件と中国 川口孝夫の「遺書」|journal=アリーナ|issue=23|pages=230-267|publisher=中部大学|isbn=978-4-8331-4150-5|oclc=1227470235}} == 関連書籍 == {{Citation|和書|title=壁あつくとも 村上国治獄中詩・書簡集|publisher=日本青年出版社|year=1969|editor=白鳥事件中央対策協議会|last=村上|first=国治}} {{Citation|和書|title=白鳥事件の謎 ノンフィクション・スパイシリーズ|publisher=東洋書房|year=1968|last=宮川|first=弘}} {{Citation|和書|title=網走獄中記 白鳥事件-獄中18年たたかいの記録|publisher=日本国民救援会中央本部|year=1974|last=村上|first=国治}} {{Citation|和書|title=白鳥事件研究 昭和史の発掘|publisher=白石書店|year=1977|month=3|author-link=山田清三郎 (作家)|last=山田|first=清三郎}} {{Citation|和書|title=国治よ 母と姉の心の叫び 謀略白鳥事件とともに生きて|publisher=光陽出版社|year=1997|month=11|ISBN=978-4876622122|last=長岡|first=千代}} {{Citation|和書|title=白鳥事件|publisher=新風舎|year=2005|month=10|ISBN=978-4797498516|last=山田|first=清三郎}} 柳原滋雄『実録・白鳥事件ー「五一年綱領」に殉じた男たち』論創社、2023年12月。
https://w.atwiki.jp/fweo/pages/810.html
注意 このページに対し、多くのユーモアセンスの欠片もない荒らしが改竄が試みられています. 荒らしクンのお顔がまっかっか😭😭😭 東和事件とは、2021年11月中旬頃に起こった事件である。 内容 当時福川一の企業として幅を効かせていた財閥・東和グループを、当時の首相であったぴざが画策し、半ば強制的に国有化しようとした事件。 この計画は東和グループ総裁の、TOP IXの反対と抵抗で白紙撤回されたが、その後の東和グループの増長も相まって、長らく福川国に禍根を残すこととなった。 類似事件 er事件と似ている。 後日談 その後も東和グループはTOP IXの強力なリーダーシップと優秀な経営によって発展し続け、2月上旬にはNOXYグループが発足したが、これにぴざは抗議するだけしかできなかった。なお、ぴざ一派はこの雪辱に耐えきれないのか、今もなお無駄な足掻きとしてTOP IXのwikiを荒らし続け、歴史修正と捏造を試みている。
https://w.atwiki.jp/tlegend4483/pages/13.html
かすみん事件 ふすまの向こうで事件 効果なんすか? バージェストマのフィールド魔法
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/421.html
帝人事件(ていじんじけん)は、昭和初期の疑獄事件。斎藤実内閣総辞職の原因となったが、起訴された全員が無罪となり、倒閣を目的にしたでっち上げと言われた。 経緯 帝国人造絹絲株式会社(帝人)は鈴木商店の系列であったが、1927年の恐慌で鈴木商店が倒産すると、帝人の株式22万株は台湾銀行の担保になった。業績が良好で株価が上がったため、この株をめぐる暗躍が起こっていた。元鈴木商店の金子直吉が株を買戻すため、鳩山一郎や「番町会」という財界人グループに働きかけ、11万株を買戻した。その後帝人が増資を決定したため、株価は大きく値上がりした。 1934年1月、時事新報(武藤山治社長)が「番町会」を批判する記事を掲載、その中で帝人株をめぐる贈収賄疑惑を取り上げた。当時文部大臣の鳩山一郎は議会で関連を追及され「明鏡止水の心境」と述べたところ、辞任の意思表示だと報道されたため、嫌気がさして辞任。(なお、3月に武藤山治射殺事件が起きたが、本事件との関係は不明である) その後、帝人社長や台湾銀行頭取、番町会の永野護、大蔵省の次官・銀行局長ら全16人が起訴された。これにより政府批判が高まり、同年7月に斎藤内閣は総辞職した。なお、この事件の逮捕者の拘留期間は200日に及び、拷問による自白の強要もあったという。 起訴された人物は主に次のとおり。 島田茂台湾銀行頭取 - 背任・涜職容疑 永野護(番町会) 河合良成(番町会) - 背任容疑 黒田英雄大蔵次官 - 涜職容疑 大久保偵次大蔵省銀行局長 大野龍太大蔵省特別銀行課長 相田岩夫大蔵省銀行検査官 中島久万吉商工大臣 - 涜職容疑 三土忠造鉄道大臣 高木復亨帝人社長 - 背任・涜職容疑 1937年、起訴された全員が無罪となった。検察による強引な取調べと起訴が批判され、「検察ファシズム」といわれた。 背景 でっち上げの背後にいたのは、司法官僚出身で当時枢密院副議長の平沼騏一郎とされる。平沼は五・一五事件で暗殺された犬養毅の後継内閣総理大臣の地位を願ったが、後継の推薦権がある元老・西園寺公望からそのファシズム志向を嫌われて推薦候補すら上らず、また枢密院議長昇格の要望も西園寺の反対で副議長のまま置かれていた。このため、西園寺とこれを支持する立憲政友会主流派を深く恨んで、同党内部の不満分子を抱き込みながら捜査を進めていったという。 のちに河井信太郎が帝人事件を評して、次のように語っている。 「塩野季彦司法大臣の大英断により控訴を断念したが、検事が証拠品の検討を怠っていたことが無罪の致命傷になった。掛物によく描かれている、水の中の日影を猿が藤蔓につかまってしゃくろうとしている画になぞらえて、影も形もないものを一生懸命にすくい上げようとしているのが検察の基礎であって、検察には争うことができなかった。」 関連書籍 『帝人事件 2 (今村力三郎訴訟記録)』 専修大学今村法律研究室 関連項目 疑獄事件 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月28日 (火) 06 25。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/227.html
大津事件(おおつじけん)は、1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国の皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備にあたっていた巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した、暗殺未遂事件である。行政の干渉から司法の独立を確立し、三権分立の意識を広めた近代史上重要な事件。 事件の内容 シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するため、ニコライは艦隊を率いてウラジオストクに向かう途中、日本を訪問した。ニコライの一行は長崎と鹿児島に立ち寄った後に神戸に上陸、京都に向かった。いまだ小国であった日本は政府を挙げてニコライの訪日を接待、公式の接待係には、イギリスへの留学経験があり当時の皇族中で随一の外国通であった有栖川宮威仁親王(海軍大佐)を任命、京都では季節外れの五山送り火まで行われた。 そして5月11日昼過ぎ、京都から琵琶湖への日帰り観光からの帰り道、ニコライ、ニコライと共に来日していたギリシャ王国王子・ゲオルギオス(ゲオルギオス1世の三男)、威仁親王の順番で人力車に乗り大津市街を通過中、警備を担当していた滋賀県警巡査の津田三蔵が突然サーベルを抜いて斬りかかり、ニコライを負傷させた。ニコライは人力車から飛び降りて脇の路地へ逃げ込んだが、津田はニコライを追いかけなおも斬りかかろうとした。しかしゲオルギオスに竹の杖で背中を打たれ、ニコライに随伴していた人力車夫の向畑治三郎に両足を引き倒され、同じくゲオルギオス付き車夫の北賀市市太郎に自身の落としたサーベルで首を斬りつけられた後、警備中の巡査に取り押さえられた。ニコライは右側頭部に9cm近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。威仁親王は現場に居合わせたものの野次馬に阻まれ、ニコライに近づく事が出来たのは津田が取り押さえられた後だった。 留学経験によって国際関係に精通していた威仁親王は、この事件を自分のレベルで解決できない重大な外交問題と即座に判断。随行員に命じて顛末を急いで書きまとめさせ、東京の明治天皇の元へ電報で上奏するとともに、ニコライに誠意を見せるため天皇の京都への緊急行幸を要請した。これを受けた天皇は直ちに了解し、威仁親王に到着までのニコライの身辺警備を命ずるとともに、京都に滞在していた北白川宮能久親王を名代としてニコライのもとへ見舞わせた。 事件翌日の5月12日早朝、明治天皇は威仁親王の兄の熾仁親王を従えて新橋駅から汽車に乗車、同日夜には京都に到着した。その夜のうちにニコライを見舞う予定であったが、ニコライ側の侍医の要請により翌日へ延期され、天皇はひとまず京都御所に宿泊した。翌日、天皇はニコライを見舞い、さらには熾仁・威仁・能久の三親王を引き連れてニコライを神戸まで見送った。 後日、明治天皇自らが神戸港のロシア軍艦を訪問するとした際に、「拉致されてしまう」と進言する重臣達の反対を振り切って療養中のニコライを再び見舞った。 小国であった日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたとして、「事件の報復にロシアが日本に攻めてくる」、と日本国中に大激震が走り、さながら「恐露病」の様相を呈した。学校は謹慎の意を表して休校となり、神社や寺院や教会では、皇太子平癒の祈祷が行われた。ニコライの元に届けられた見舞い電報は1万通を超え、山形県の某村では「津田」の姓及び「三蔵」の命名を禁じる条例を決議する村まであったTemplate 要出典?。また、天皇が謝罪したにも関わらずニコライが帰国すると、5月20日には、死を以って詫びるとし京都府庁の前で剃刀で喉を突いて自殺し後に「房州の烈女」と呼ばれた畠山勇子のような女性も出現した。 事件の背景 津田が切りつけた理由は、本人の供述によれば、以前からロシアの北方諸島などに関しての強硬な姿勢を快く思っていなかったことであるという。また事件前、西南戦争で敗死した西郷隆盛が実はロシアに逃げ延び、ニコライと共に帰って来るという噂がささやかれており、西南戦争で勲章を授与されていた津田はもし西郷が帰還すれば自分の勲位も剥奪されるのではないかと危惧していたという説もある。ただしニコライを殺害する意図は薄かったらしく、事件後の取り調べにおいても「殺すつもりはなく、一本(一太刀)献上したまで」と供述していたと言う記録もある。他にも当時はニコライの訪日が軍事視察であるという噂もあり、シベリア鉄道もロシアの極東進出政策を象徴するとして国民の反発があったことは確かである。 日本政府の動き 当時の日本は、何とか欧米の植民地にならずに済んだだけで、まだロシアに軍事的に対抗する力を持っていなかったため、賠償金や領土の割譲まで要求してくるのではないかと危惧された。そこで政府は事件を所轄する裁判官に対して旧刑法116条に規定する天皇や皇族に対して危害を与えたものに適用すべき大逆罪によって死刑を適用するよう働きかけた。伊藤博文は死刑に反対する意見がある場合、戒厳令を発してでも断行すべきであると主張した。また松方正義首相、山田顕義法相らが死刑適用に奔走した。青木周蔵外相、井上馨などは消極的反対、逓信大臣・後藤象二郎などは「津田を拉致し拳銃で射殺することが善後策になる」と語った。 司法の動き 旧刑法116条は日本の皇室に対して適用されるものであって、外国の皇族に対する犯罪は想定されておらず、法律上は一般人と全く同じ扱いにせざるを得なかった。つまり怪我をさせただけで死刑を宣告するのは法律上は不可能であった。ただし裁判官のなかでも死刑にすべきという意見は少なくなかった。 時の大審院(現在の最高裁判所)院長の児島惟謙は法治国家として法は遵守されなければならないとする立場から、「刑法に外国皇族に関する規定はない」として政府の圧力に反発した。要するに「国家か法か」という回答困難な問題が発生したのである。 事件から16日後の5月27日、一般人に対する謀殺未遂罪(旧刑法292条)を適用して無期徒刑(無期懲役)の判決が下された。 なお、明治40年制定の現行刑法では、殺人未遂罪に相当すると考えられるが、現行刑法では、自ら積極的に行為を中止した場合(中止未遂)の場合を除き、未遂による減軽は裁判官の裁量によるため、殺人罪の法定刑である死刑となる可能性はある。 ロシアの動き ロシア公使シェービッチは以前から日本に対して恫喝的な態度をたびたび取っており、この事件に関しても事件の対処にあたった青木周蔵、内務大臣・西郷従道らに死刑を強硬に要求し、無期徒刑が決定したことを知らせると「いかなる事態になるか判らない」旨の発言をしている(なお、これに対して青木が「自分は伊藤博文に言われて死刑にする事を約束しただけである」と述べたために、伊藤から嫌悪されて政治家としての栄達を絶たれる原因となる)。ロシア皇帝アレクサンドル3世も暗に死刑を求めていた。しかし結果的には賠償要求も武力報復も行われなかった。ただし皇太子の負傷に関しては、皇帝も皇太子も日本の迅速な処置や謝罪に対して寛容な態度を示しており、日本がこの問題を無事解決できた理由の一つにロシアの友好的な姿勢があることは疑いない。 事件後の影響 この事件判決で司法の独立を達成したことにより、まだ曖昧だった大日本帝国憲法の三権分立の意識が広まった。しかし大津地裁で扱われるべき事件を正常な手続きなしで大審院に移したり(大逆罪の適用を考慮していた為、皇室罪に関する裁判はすべて大審院における一審において判決が下されることから、適用可否判断を含め地裁ではなく大審院に持ち込まれることになった)、裁判に直接関わっていなかった児島が干渉を重ねたことは裁判官の独立等の問題として残った。また天皇もこの事件に干渉するなど、権力の所在や運用が未熟・未分化であった時代を象徴した事件である。これらの問題、つまり三権分立や司法のあり方などは活発に議論されるようになった。また海外でも大きく報じられ、国際的に日本の司法権に対する信頼を高めた。このことは日本が近代法を運用する主権国家として、当時進行中であった不平等条約改正へのはずみとなった。 ただし当時の司法は憲法上はともかく、実際には司法行政や行政裁判の扱いなど完全に政府から独立していたわけではなかった。三権分立の理念は多くの人に理解されながらも、のちに大逆事件のような司法権の侵害が起きるのはそのためである。 さらに政府がこの問題で判決を譲ったのは、元老内部の抗争の影響があったためとする説もある。 補足 人力車夫 向畑治三郎(むかいはた じさぶろう 1854年? - 1928年) 北賀市市太郎(きたがいち いちたろう (安政6年12月3日(1859年12月26日) - 1914年11月3日) この事件で津田を取り押さえるという思わぬ功績を挙げた人力車夫、向畑治三郎と北賀市市太郎の二人は、事件後18日夜にロシア軍艦に招待され、そこでロシア軍水兵からの大歓迎を受けた。そしてニコライから直接聖アンナ勲章を授与され、当時の金額で2500円の報奨金と1000円の終身年金が与えられた。日本政府からも勲八等の勲位と白色桐葉章、年金36円が与えられた。当時、低い身分の職と見なされていた人力車夫に勲位と勲章を与えることはきわめて異例であり、その後も2人は国内で「帯勲車夫」と呼ばれ一躍英雄として脚光を浴びることとなった。 しかし長続きはせず、前科のあった、向畑は博打と売春、怪しげな投機話に明け暮れ、日露戦争が始まり年金が停止されると婦女暴行事件を起こし逮捕されるなど惨めな晩年を迎えた。北賀市は堅実に郷里の石川県で田畑を購入し地主となり、勉学を重ね郡会議員にまでなったが、日露戦争が始まると露探(「ロシアのスパイ」の意)扱いをされ、辛い生活を余儀なくされた。 DNA鑑定 1993年、ロシア皇帝のものと推定される骨の鑑定に使うため、このときにニコライの手当てをした布から彼のDNAが採取された。しかし、サンプルが少なすぎて血液型までしか特定できなかった(1998年になってニコライの骨と認められ、ロシア正教会はニコライ2世を革命の犠牲者として列聖した)。 大津事件を扱った作品 江川達也「日露戦争物語」 吉村昭「ニコライ遭難」 東京ヴォードヴィルショー・三谷幸喜「その場しのぎの男たち」 山田風太郎「明治かげろう俥」 石川淳「ゆう女始末」 夏堀正元「勲章幻影 小説大津事件」 関連項目 日露関係史 日露戦争 条約改正 津田三蔵 ニコライ2世 西郷従道 常磐ホテル(現在の京都ホテルオークラ) 児島惟謙 関西大学 畠山勇子 青木周蔵 有栖川宮威仁親王 皇女アナスタシア 参考文献 児島惟謙著『大津事件日誌』平凡社[東洋文庫]。ISBN 4582801870 児島惟謙著『児島惟謙大津事件手記』関西大学出版部。ISBN 4873543754 楠精一郎著『児島惟謙――大津事件と明治ナショナリズム』中央公論新社[中公新書]。ISBN 4121013581123 外部リンク 京都ホテル100年ものがたり 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月19日 (金) 05 47。