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桜羅連合社会主義共和国 各公用語による正式名称桜羅語:桜羅連合社会主義共和国(oula fanka jotekouivea tafogou)星羅語:桜羅連合社会主義共和国(ou1ra sou3tet1 jok2tes1fei2xel2san1ou3 mei2fa1gou1)リリィスタ語:ファシル語: Mirafid Amzhimanih Muesartha Ohria ミュルネニヤ語: fankasen arperhazkder d ditiergen chafi ofes fon orla 国旗 国章 地図 imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (【国章ファイル名】) imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (【地図ファイル名】) 先代 次代 星羅社会主義共和国(~1626)涙華社会主義共和国(~1626)リリアスタシカ(~1630)桜羅労働者統一共和国(~1765) 桜羅連邦共和国(1748~)北桜羅労働共和国(1748~) 国の標語 革命の前に敵なし 国歌 革命主義者よ、立ちあがれ! 基礎情報 目次 公用語 桜羅語 概要 歴史 政治 外交 ファタ・モルガナ帝国との関係 フレルミエ連合王国との関係 本京国との関係 晋迅共和国との関係 グランダ帝国との関係 コユール連合王国との関係 軍事 陸軍 海軍 空軍 領域 地域 都市 施設 関連項目 首都 涙華市 最大の都市 涙華市 政府 【国家元首称号】 最高評議会議長 【行政長称号】 首相 面積 総計 【面積】km 2 水面積率 【水面積率】% 人口 総計 約3億人 人口密度 【人口密度】人/km 2 その他 建国 【建国】年 通貨 【通貨】 桜羅連合社会主義共和国は南オリエンス大陸に位置する。社会主義連邦国家である。 建前上桜羅革命防衛評議会による一党独裁体制だが、湊川、宵崎、花畔、海崎、空野、小鳥遊、桃瀬の七家の当主からなる最高評議会に権限が集中している。 概要 歴史 政治 桜羅の政治 を参照 中央においては最高評議会に権限が集中している。 下位においては独特な七権分立体制を採用している 地方は建前上連邦制を採っているが、リリアスタシカ以外は桜羅内乱以後、最高評議会七家の者が任命されており地方自治は形骸化している。 外交 桜羅は涙華社会主義国際同盟の盟主として、共産圏に対しリーダーとしてふるまっている。また、国連常任理事国であり、国際社会においても大国であると認識されている。 ファタ・モルガナ帝国との関係 敵の敵 本来であれば敵対関係であってもおかしくないものの共通の敵が次々に現れるため敵対関係にいたることは稀。 ちなみに、オリエンス大戦直後のわずかな期間においてはちゃんと友好国でありこの間に色々もらっており、一応盟主をやっていける国力を身に着けている。 桜羅の兵器はファタ・モルガナ帝国の影響を受けているといわれるがこれは南ワーレリア諸国を勢力圏に収めた時についてきた工場などから吸収した技術であり特に友好関係とは関係ない。 フレルミエ連合王国との関係 極めて険悪であるが核不拡散の点においてだけは協力を維持できている 本京国との関係 すごい邪魔 晋迅共和国との関係 北西センリーネ政府の親玉でありすぐにでも殴り掛かりたいがファタ・モルガナ帝国の友好国であり何もできないのが現状である。 グランダ帝国との関係 育ての親。初期に大量の支援を受けており、ある程度より前の兵器にはグランダの影響がみられる。 コユール連合王国との関係 建前上は互いに非難しあっているが互いにファ帝を敵視してることから 非公式の 貿易関係が存在している。 軍事 陸軍 海軍 空軍 領域 地域 都市 施設 関連項目 リリアスタシカ義勇共和国リリアスタシカリリィスタ語共同体維持政治宗教及び科学評議会治安維持部第十一課装備政治軍事装備 国家 アウレージ大陸 フレルミエ - グランダ帝国 - コユール - シャノワール - ナルヴァウレジア - ファタ・モルガナ - ワーシイワ - エレイソネス 北オリエンス大陸 晋迅共和国 - ガイエン - 本京 - リベント 中央オリエンス大陸 フェレス合衆国 - 中島国 - レーンカルストン - ユーリア - ナリシア - 八沙魏 南オリエンス大陸 センリーネ - エイネルイッファ - 桜羅連合社会主義共和国 - 副紗社会主義共和国 ワーレリア大陸 北ワーレリア連邦 - グリア共和国 アウメア大陸 アウメア環境保護協会(ミュルネニヤ・ゼルディアヴェニ、スゴマドローニア、ハウヤメ大衆国、タラニア静寂委員会、ユラフ共和国)-MAM勢力圏(マズストュミア共和国、ルフィスマ連邦共和国)-ベルン主義勢力(アウメア・ベルン主義諸州連合)-その他(ショウツキ共和国、ソビメア連合国、ヴュルス・ベルン国、パルガ合衆国)
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パタゴニア社会主義共和国の選挙とは、パタゴニア社会主義共和国における選挙・政治に関する事柄である。以下に、議会についての説明と歴代選挙の記録を示す。 議会 国家議会議長 アイダ・アマンダ 国家議会副議長 エドゥアルド・ファビオ 国家議会議員連盟長 ピオ・クラソス 各政党代表(国政政党) パタゴニア社会主義党 アウレリオ・コルテス 主権民主党 フェルディナント・ヘルマン・ボース パタゴニア保守党 エルメネヒルド・ウーゴ 各政党代表(その他) 反パタゴニア統一戦線 不明 Iglesia del Santo Sepulcro ハコブ 自由パタゴニア イルデフォンソ・ジャック 歴代役職 国家議会議員連盟長(初代) エルネスト・フラビオ(故) 概要 パタゴニア社会主義党 議会開設前は唯一存在していた社会主義政党。”パタゴニア独自の社会主義”を掲げ、革命以降は党によって国が運営されていた。民権派による抗議や陳述書の山に屈し、仕方なしに議会を開設することを選んだ。党首はアウレリオ・コルテス同志。かつてはニカラグア内戦に従軍し、また各地の内戦に従事しつつ革命に目覚めていったとされている。党のイデオロギーは「パタゴニア社会主義」である。 主権民主党 民権派が結成した民主主義政党。現在の党首はフェルディナント・ヘルマン・ボース。歴史は古く、かつては旧アルゼンチン政府時代から政治に参画していた政党であったが、革命により一度離散。その後再結集し、民権派の受け皿となる形で政界に再び参画した。党のイデオロギーは「民主自由主義」である。 パタゴニア保守党 アメリカ系のパタゴニア人が結成した保守主義政党。権威的民主主義の傾向が強く、また自由主義経済開放のための言説をとっている。現在の党首はアメリカ系パタゴニア人のエルメネヒルド・ウーゴ。パタゴニア社会主義党とは真っ向から反対する立場である。党のイデオロギーは「保守主義」。 反パタゴニア統一戦線 旧アルゼンチン政府派の過激派が結束し、旧アルゼンチン政府からの援助を受けながら破壊活動を繰り返すテロリスト集団。今選挙においては1議席も取れなかったが、民衆にその名が広まった。イデオロギーは「復権派」 Iglesia del Santo Sepulcro キリスト系協会らが立ち上げた政党。とはいえ、表立った行動はほとんど行っていない。現在党首とされているハコブも、積極的に政治展開はしないと明言している。教会系議員を擁立する際の特別機関として、寛大なる同志アウレリオから許諾を受けた。 自由パタゴニア 旧アルゼンチン政府派の穏健派が結成した民主社会主義政党。現在のパタゴニア社会主義党の急進的姿勢に反発し、穏健左派と目される人々が集う。現在の党首はインデフォンソ・ジャック。次回選挙へ既に動き出している政党の一つ。 歴代選挙 第一回国家議会統一選挙 概要 民権派によって開設された国家議会による初選挙。パタゴニア社会主義党、主権民主党、パタゴニア保守党が議席をとった。 選挙結果 定数 469 パタゴニア社会主義党 352 主権民主党 130 パタゴニア保守党 14 第二回国家議会統一選挙 概要 第二回目となった今回選挙。特徴的なのは、他政党が力を伸ばしてきたところだ。パタゴニア社会主義党、主権民主党、パタゴニア保守党、自由パタゴニアが議席をとった。 選挙結果 定数 469 パタゴニア社会主義党 329 主権民主党 115 パタゴニア保守党 15 自由パタゴニア 10
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ようこそ我が皇国へ! 国旗 説明 ロシアの内陸部に位置する民主国家。まだまだ発展途上の為,各国に支援を必要としている。 歴史 紀元前からクラフティング文化が栄え、遺跡群やクラフターによって造られた建造物など,多くの遺跡が残されている。マインクラフターやクラフティングの発祥はここだという説もある。 資源 南部には石油地帯があり、西部の山脈には鉄などの資源が豊富であり、我が国の資源使用の方針から予測して、後50年は持つという。 カウンター 今日の訪問者数 - 昨日の訪問者数 - 国家体制 A 通常 B 国内でテロ C 付近の国家が戦争状態 D 戦争準備体制 イマココ E 国家戦争状態 F 戦争が劣勢 G 敗戦が決定的 S 災害による国家非常事態 政体スライダー 民主的 ■---- 独裁的 右派 -■--- 左派 解放社会 ■---- 閉鎖社会 自由経済 -■--- 計画経済 常備軍 ■---- 徴兵軍 タカ派 --■-- ハト派 犬派 ----■ 猫派 介入主義 -■--- 孤立主義 情報 国家名 ワークベンチ創造主義皇国(Workbench Creation Empire) 略号 WCE,作国 国家元首 スティーブ・ワークベンチ2世 人口 約6571万人 首都 ゴルノ=アルタイスク 言語 日本語,ドイツ語,ロシア語 通貨 ライヒスマルク ニュース 神聖同盟vsレグルス連合帝国 開戦 注意!現在,このページは工事中です。 皇国軍 皇国陸軍 +... 我が国は内陸国のため,強固な陸軍力が必要であるにも関わらず,あまり軍備が整っていない。 主力戦車 DNT-30-1改 大比那連合王国の主力戦車を,我が国向けに改修した我が国のMBT。 全170両,国境周辺や,重要都市の基地に重点的に配備されている。 対戦車砲 11式対戦車榴弾砲 主力の対戦車砲。戦車の数が足らないので「手軽に運用できる対戦車兵器」として量産されている。 全1140門,全ての歩兵大隊,対戦車連隊に配備されている。 輸送トラック 12式半軌道車 国産の主力輸送トラック。派生型もあり,こんな見た目だが市販もされていたりする。上の対戦車砲の牽引にも使用される。 全1300両,全ての皇国陸軍部隊にまとまった数配備されている。 皇国空軍 +... 主な国防任務を遂行する陸軍へ,空からの作戦支援を行う。人口が少ないので,無人機を主力とした部隊が殆ど。 無人戦闘機 MQ-10A 「ストライダー」 武装:TC-13 TNTキャノンx1 我が国の主力戦闘機。無線制御式なので撃墜されても人的資源の損耗に繋がらない。 全ての空軍基地,また偽装されているコンテナなどから発進する。 無人機航空母機 WBS-01「サイクロプス」 無人機の大規模移動が可能な基地,という構想で設計が開始。長い年月を掛けてやっと完成に漕ぎ着けた。同型艦が5隻建造された。 皇王親衛隊 +... 要人の警備,諜報を行う某赤い国のKGBみたいな所。愉快なお友達がたくさんいるよ! 同盟、条約 同盟、条約申請用discord https //discord.gg/ZUNCDYF 同盟申請用コメント欄 エルキメデア連邦公国外務省の者です。よろしければ同盟を結んで頂けないでしょうか?ご検討よろしくお願いします。 -- erukiccp12 (2019-07-17 12 04 35) 名前 コメント 条約申請用コメント欄 名前 コメント その他,交流用コメント欄 テスト -- 作業台 (2018-09-17 15 31 49) 名前 コメント
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カルサクロフ民主主義共和帝国 ·首都=アルトズシュツヘスト区地方都市 ·宗教=カスマ教 ·人口=32625443256人
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平和主義国最大手のコンビニエンスストアチェーン。競争激化で一時期経営が悪化していたが、05年に首都商事と資本提携を結んだ。提携で仕入れコストを削減した他、首都商事から巨額の資金協力を受け店舗を大幅に増やしたことで経営再建に成功し、07年にはコンビニ新都を売上で抜き国内トップのコンビニエンスストアになった。 種類 株式会社 市場情報 新証1部・ネクスト・海証 本社所在地 〒004-0007 新都府沖野区三塚1丁目1-3 大帝国地所臨海都市開発ビル 業種 小売業 事業内容 コンビ二エンスストア事業など 代表者 北川 昇 資本金 550億3,900万円 売上高 2,891億7,990万円(連結) 従業員数 3,010人(連結) 主要株主 首都商事 20% ヨーロッパ系投資ファンド 7% 首都銀行 2% 子会社・関連会社 Kストア24チケット(チケット販売) 100% Kストア24流通サービス(物流事業) 100% Kストア24システムズ(システム開発・管理) 100% Kストア24エイティエム(ATMの設置・管理) 100% 首都・Kストア24商事(商品卸売) 40% Kストア24クリエイト(商品開発) 100%
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前節までで、差し当たり本書の議論は尽くされている。 しかし、保守主義というテーマは、いかにも誤解され易いテーマであって、有り得べき誤解に対して、あらかじめ何等かの釈明を試みて措くことは、あながち無益ではなく、むしろ必要ですらある。 もし、そうであるならば、前節までの行論の中で、当然予想される誤解について、逐一予防線を張って措けばよさそうなものであるが、そうもいかない。 何故ならば、保守主義という言葉は、本論で問題としている議論領域を遥かに越えた、極めて多様なイメージを伴って用いられているのであって、保守主義を巡る誤解もまた、その多様なイメージに因って来るものだからである。 従って、保守主義を巡る誤解についての釈明は、本論の議論水準とは一段異なった、より広い土俵において為されねばならない。 本節では、本論に述べられた意味における保守主義が、自らの呼び醒ます多様なイメージの中にあって、一体何でないのか、すなわち、保守主義とは何でないかを論じることによって、保守主義を巡る幾つかの誤解に対するささやかな釈明を試みて措きたい。 保守主義、わけても新しい保守主義と言えば、いわゆる新自由主義(Neo-Liberalism)のことかと思う向きも、あるいは少なくないかも知れない。 たとえば巷間ハイエクは、新自由主義の泰斗ということにされている。 保守主義と自由主義との関係については、おそらく最も誤解の生じ易い論点であるに相違ないので、是非とも釈明して措かねばならない。 また、保守主義は、近代の産業主義と民主主義、あるいは合理主義と個体主義を根底的に批判する、反啓蒙の思想に外ならない。 それでは、保守主義は、たとえば環境社会主義(Eco-Socialism)に代表されるような、いわゆる反近代の思想なのであろうか。 保守主義と反近代主義との関係については、近代文明における保守主義さらには進歩主義の位置付けを迫る論点であり、是非とも釈明して措かねばならない。 さらにまた、保守主義は、何よりも社会・文化の伝統を擁護せんとする態度である。 従って、保守主義は、たとえば日本の社会・文化に固有な伝統をどのように捉えるか、といった問題を避けて通る訳にはいかない。 保守主義といわゆる日本主義(Japanism)との関係については、保守主義の近代文明における位置付けとも複雑に絡まった論点であり、是非とも釈明して措かねばならない。 本節では、以上の三つの論点について、極簡単に触れることにする。 いずれの論点も、かなり大きなテーマであることもさりながら、本節の狙いは、飽くまで本論に述べられた保守主義を巡る、有り得べき誤解を防いで措くことに限られるからである。 この20世紀末の現代において、保守主義と言えば、自由主義、わけても新自由主義を思い浮かべることは、むしろ当然である。 19世紀の最後の四半分に端を発して1970年代に至る、ほぼ一世紀の長きに亘って、進歩主義の旗印は、福祉社会主義あるいは民主社会主義さらにはケインズ主義を含む、最も広い意味での社会主義によって担われてきた。 20世紀は、経済的成長や社会的平等といった福祉(welfare)を目的として、経済社会を合理的に管理せんとする運動が、言わば最高潮に達したという意味において、まさに社会主義の世紀だったのである。 このような社会主義の進攻に直面した保守主義が、社会主義の対抗思想としての側面を持つ自由主義と、ほとんど分離不可能なまでに接近して見えたということは、あまりに当然である。 保守主義は、19世紀を通じて真剣を交えてきた当の相手である自由主義と、社会主義なる新たな敵を前にして、公然と手を結んだかに見えたのである。 ましてや、さいもの社会主義もようやく陰りを見せ、小さな政府や自由な市場を求める新自由主義の運動が、かなりの勝利を収めたかに見える、20世紀の最後の四半分において、保守主義が、社会主義による積年の抑圧から解放された喜びを、自由主義と共に分かち合っているように見えたとしても、また、極めて当然である。 社会主義との、ほぼ百年に及んだ戦いもひとまず終わり、勝利の美酒を同盟軍と共に酌み交わすひととき、といった具合である。 しかし、保守主義と自由主義との、このような同盟関係は、うたかたの夢に過ぎない。 何故ならば、自由主義とは、19世紀を通じて、保守主義と死闘を繰り広げて来た、進歩主義の尖兵に外ならないのであり、20世紀に入って、進歩主義の旗手たるの地位を、社会主義に追い落とされたと言えども、その啓蒙の嫡出子としての本質には、些かの変りもないからである。 蓋し、自然権としての個人の自由は、人間的自然としての理性による支配とともに、啓蒙の精神の求めて止まぬ処であった。 自由主義の、進歩主義としての性格は、言わば骨絡みなのである。 従って、20世紀における、保守主義と自由主義との接近は、社会主義の凋落が決定的となった今日においては、むしろ両者間の距離にこそ注目すべきなのである。 それでは、保守主義と自由主義わけても新自由主義は、いかなる点において重なり合い、また、いかなる点において袂を分かつのか、このことが問われねばならない。 ここで注意して措かねばならないことは、自由主義と呼ばれる社会思想の中には、必ずしも社会主義と対立せず、むしろ広い意味での社会主義に含まれると言った方が良さそうなものがある、ということである。 たとえば、個人の自由を(形式的にではなく)実質的に保障するためには、個人の自由に任せて措くだけでは全く足りず、国家が、社会に対して(消極的にではなく)積極的に介入し、これを合理的に管理せねばならない、とする類いの自由主義(※注釈:いわゆるリベラリズム=マイルドな社会主義)である。 このような自由主義は、なるほど自由主義を名乗ってはいるが、社会全体に対する合理的な管理を要請するという点において、むしろ広義の社会主義と呼ぶべき主張である。 因みに、このような自由主義は、バーリーンの言う積極的自由を称揚する態度であり、19世紀末には、新自由主義(※注釈:T.H.グリーンらのnew liberalism であり、neo-liberalism とは違うことに注意)と呼ばれた立場である。(世紀末には新自由主義が流行るようだ。) ここでは、このような自由主義を、社会主義に含めて考えることにし、自由主義としては言及しないことにしたい。 自由主義とは、差し当たり、他者による強制のない状態としての自由、すなわち、バーリーンの言う消極的自由を擁護する態度である。 従って、自由主義は、国家が社会全体を合理的に管理せんとする態度と両立しない。 何故ならば、社会全体を合理的に管理することは、たとえば社会全体の福祉といった目的を効率的に達成すべく、社会に内蔵する資源を動員し行為を配列することに外ならないのであって、それは、個人が、自らの資源と行為を自由に処分することと、真っ向から対立せざるを得ないからである。 言い換えれば、社会全体の合理的な管理は、国家による個人に対する何等かの強制、すなわち、国家による個人の自由の制限を、不可避的に含意しているのである。 もっとも、自由主義は、国家による個人に対する強制の総てを否定する訳ではない。 たとえば、個人の行為が、他者の自由を侵害して為される場合、国家が、その行為の差し止めや、他者に与えた損害の賠償などを、個人に強制することは、自由主義と言えども全く否定しない。 むしろ、自由主義とは、個人の自由を他者による侵害から保護することにこそ、国家の役割があるとする主張とさえ言い得る。 しかし、国家が、個人の(消極的)自由を、その侵害から保護することと、個人の(積極的)自由を、たとえば無知や貧困や失業やといった、その障害から解放するために、社会全体を合理的に管理することとは、全く異なる事態なのであって、自由主義は、前者の国家のみを肯定し、後者の国家を厳しく否定するのである。 従って、自由主義は、社会全体の秩序を、(他者の自由を侵害しない限りにおける)諸個人の自由な行為に委ねることになる。 すなわち、自由主義は、社会全体の秩序を、国家が合理的に設定するものではなく、諸個人の自由な行為の累積的な帰結として自然発生的に生成されるものである、と捉えるのである。 因みに、ハイエクの言う自由主義とは、まさにこの意味における自由主義に外ならない。 ハイエクは、社会を合理的に設定された組織として捉える、最広義の社会主義に抗して、社会を自然発生的に生成された自生的秩序として捉える、このような自由主義を擁護するのである。 この意味における自由主義が、保守主義とほとんど過不足なく重なり合っていることは明らかであろう。 すなわち、この意味における自由主義は、社会を合理的に管理せんとする進歩主義に対抗する、保守主義の一局面そのものなのである。 しかし、そうであるからと言って、自由主義のあらゆる局面が、保守主義と一致する訳では必ずしもない。 自由主義には、社会を、個人の意図や情緒や欲求やに還元し得るし、また、すべきであるとする傾きが、避け難く存在している。 たとえば、社会のルールとしての法を、自然権を保有する自由な諸個人の合意に還元する、社会契約論や、さらには、社会のルールとしての法を、何ものにも制限され得ない自由な主権者の意志に帰着する、主権論といった、近代啓蒙の個体主義は、いわゆる自由民主主義として、今日なお、自由主義の内にその命脈を保っている。 自由主義は、なるほど、近代啓蒙の合理主義に対して、保守主義とその批判を共有しているのであるが、しかし、近代啓蒙の個体主義に対しては、必ずしも一線を画してはいないのである。 この意味において、自由主義は、依然として、進歩主義の一翼を担っている。 因みに、急進的な自由主義が、何ものにも制限され得ない国民主権を標榜する、無制限の民主主義に変転する例は枚挙に暇がない。 個人が自らの行為を自由に選択し得るとするならば、自らの属する社会の制度もまた、自らの自由な同意に基づいて選択されるべきだ、という訳である。 保守主義が批判するのは、まさに、このような無制限の民主主義に外ならない。 なるほど、保守主義にとっても、個人の行為は自由に選択され得るものであり得るが、しかし、社会の制度全体は、個人の行為を可能にする前提となりこそすれ、個人の合意によって自由に選択され得るものでは決してあり得ない。 従って、保守主義は、このような無制限の民主主義を帰結する、いわば社会契約論的な自由主義とは、全く両立し得ないのである。 因みに、ハイエクは、このような無制限の民主主義を峻拒している。 すなわち、ハイエクもまた、保守主義と同様に、社会契約論的な意味における自由主義とは、ついに両立し得ないのである。 従って、保守主義は、社会を諸個人の自由な行為の累積によって生成される秩序として捉える、言わば自然発生論的あるいは慣習論的な自由主義とは、ほとんど過不足なく重なり合うが、社会を諸個人の自由な意志の一致によって設定される秩序として捉える、社会契約論的あるいは自然権論的な自由主義とは、全く両立し得ない。 また、保守主義が、社会を諸個人の欲求の自由な実現のために(国家が)制御すべき対象として捉える、いわゆる功利主義的な自由主義(ここでは社会主義に含めた)と、鋭く対立していることは言うまでもない。 言い換えれば、保守主義は、自由主義のヒューム的(慣習論的)な伝統には極めて親しいが、そのロック的(自然権論的)な伝統、さらには、そのベンサム的(功利主義的)な伝統には全く疎遠なのである。 現代における自由主義の復興は、そのベンサム的な伝統を排除することにおいては、なるほど意見の一致を見ているが、そのヒューム的な伝統あるいはロック的な伝統のいずれを継承するかについては、必ずしも意見の一致は見られない。 ハイエクのようにヒューム的な伝統に棹さす者もいれば、ノージックのようにロック的な伝統の嫡流たらんとする者もある。 いずれにせよ保守主義は、自由主義あるいは新自由主義のあらゆる潮流と手を結び得る訳ではない。 保守主義は、自由主義のただ一つの潮流とのみ与し得るのである。 あるいは、そのような自由主義は、自由主義の一つの潮流であると言うよりも、むしろ保守主義そのものであると言うべきなのかも知れない。 蓋し、自由主義のヒューム的さらにはバーク的な伝統こそが、保守主義の本流を形成してきた当のものに外ならないとも言い得るからである。 保守主義は、近代の産業主義と民主主義、あるいは、啓蒙の合理主義と個体主義を懐疑する、反啓蒙の思想である。 それでは、保守主義は、近代文明を否定しまた超克せんとする、反近代の思想であるのか。 ここに、保守主義を巡る、最大の陥穽が潜んでいる。 本書で明らかにしたかったことは、啓蒙の合理主義と個体主義とが、あたかも、その最も誇るべき価値であるかのように見なされている近代社会と言えども、社会という事態である限り、啓蒙の合理主義と個体主義とによってはついに捉え得ない、第三の性質を俟って始めて存立し得るということである。 すなわち、近代文明もまた、一個の文明である限り、啓蒙の精神の最も忌み嫌う、何等かの伝統に係留されて始めて存続し得るのである。 従って、反啓蒙の思想は、必ずしも反近代の思想ではあり得ない。 むしろ、反啓蒙の思想は、近代という社会の存立の秘密に接近し得る、ほとんど唯一の思想なのである。 この反啓蒙の思想と反近代の思想とを取り違えた処に、保守主義を巡る、幾多の悲喜劇が生じたのであった。 なるほど、保守主義を貫く反啓蒙の精神は、時として、近代文明そのものを拒絶しているかのようにも見受けられる。 たとえば、バークが、フランス革命を否定するに当たって、あたかも、中世への復帰を唱導しているかのように見える処がない訳ではない。 あるいは、日本において、伝統への回帰が語られる時、あたかも、古代の復古が号令されているかのように見えることもないとは言えない。 しかし、真正の保守主義は、いまここに生きられている社会をこそ、その存立の秘密の顕わとなる深みにおいて肯定せんとする営みなのであって、いまここに生きられている社会を、少なくともその最深部において否定し去ることなど決してあり得ないのである。 いまここに生きられている社会とは、差し当たり、近代社会の外ではあり得ない。 あうなわち、保守主義は、反啓蒙の精神を採ることによって、いまここに生きられている、近代という社会を、その存立の深みにおいて肯定せんとしているのである。 しかし、そうであるからと言って、近代を肯定することは、古代や中世を否定することでは些かもない。 真正の保守主義は、近代の社会を存立させている秘密と、古代や中世の社会を存立させていた秘密とが、それほど違ったものではあり得ないことを、重々承知しているからである。 社会を存立させる秘密の顕わとなる、その最深部においては、時代の如何に拘わらず、常なるもの、すなわち、伝統が、生きられているのである。 啓蒙の精神とは、古代や中世やさらには近代において生きられている伝統の一切を否定して、人間の理性と個人の自由の下に、全く新しい社会、すなわち、彼らの言う近代社会を建設せんとする試みに外ならない。 保守主義は、啓蒙の精神を懐疑することによって、古代や中世の伝統を生きられたそのままに肯定する一方で、それが、近代社会の存立をその最深部において支えている伝統と、それほど遠いものではなく、むしろ、密かに連なりさえしていることを承認するのである。 すなわち、保守主義は、生きられている伝統を擁護することによって、啓蒙の進歩主義ばかりが如何にも目立つ近代文明を、その最深部において肯定しているのである。 従って、保守主義は、反近代主義ではあり得ない。 保守主義は、たとえばマルクス主義や国家社会主義のように、近代の超克を志している訳でもないし、たとえばロマン主義や環境社会主義のように、前近代の桃源郷を夢見ている訳でもない。 マルクス主義や国家社会主義は、反近代を標榜しているにも拘わらず、実は最も急進的な合理主義を帰結するという意味において、まさしく啓蒙の嫡出子と呼ばれるに相応しいし、ロマン主義や環境社会主義は、なるほど反啓蒙の思想ではあるが、近代文明の唯中に、帰るべき常なるものを見出し得なかったという意味において、ついに反近代の思想でしかあり得ない。 マルクス主義や国家社会主義は言うまでもなく、ロマン主義や環境社会主義もまた、ついに保守主義ではあり得ないのである。 さらに、わけても環境社会主義は、たとえばエコロジーや反原発といった、その反近代の運動において、極めて急進的な個体主義の様相を呈することが、少なくないのであって、むしろ、啓蒙の自然権論を体現していると言っても、ほとんど言い過ぎにはならないのである。 総じて、マルクス主義や国家社会主義、さらには環境社会主義をも含む、比較的狭い意味における社会主義は、最も急進的な啓蒙主義以外の何ものでもない。 保守主義は、このような反近代の仮面を被った啓蒙主義とは、決して両立し得ないのである。 保守主義は、人間とその社会が、何等かの伝統に係留されて始めて存立し得ることを強調する。 しかし、社会やあるいは文化の伝統とは、(本書に述べられた《遂行的なるもの》であるがゆえに)その具体的な様相に一歩でも踏み込もうとするならば、それが遂行されている地域や歴史に相対的なものとして示されざるを得ない。 すなわち、具体的に生きられている伝統は、たとえば、イギリスの伝統であり、日本の伝統であり、あるいは、東京の伝統であり、京都の伝統であり、はたまた、西ヨーロッパの伝統であり、東アジアの伝統なのである。 従って、保守主義が伝統を擁護すると言った場合、その擁護すべき伝統は、具体的には、何等かの地域や歴史に固有な伝統であらざるを得ないことになる。 言い換えれば、保守主義は、具体的には、地域あるいは歴史に固有な保守主義としてしかあり得ないのである。 従って、たとえば日本において保守主義を語ることは、取りも直さず、日本において生きられている伝統を擁護する、日本に固有な保守主義を語ることに外ならない。 それでは、そのような保守主義は、自文化中心主義、ナショナリズム、あるいは日本主義と、どこが違うのであろうか。 日本の保守主義など、皇国主義と大同小異ではないのか。 このような疑問が当然に生じて来ると思われる。 さらに、このような疑問は、日本に特徴的なもう一つの事情によって、いよいよ深まらざるを得ない。 なるほど保守主義は反啓蒙の思想であった。 しかし、そもそも啓蒙思想とは、西欧近代において誕生した、西欧近代に固有の思想に外ならない。(もっとも、啓蒙思想が西欧に固有な思想であるか否かは、なお検討すべき課題である。) 西欧近代は、その色鮮やかな表層のみに目を奪われるならば、あたかも、啓蒙思想一色によって塗り潰されているかのように見受けられる。 言い換えれば、保守主義は、反啓蒙の立場を採ることによって、反西欧の態度を帰結するのではないか。(保守主義が、反近代の態度を帰結し得ないことは既に述べた。) すなわち、保守主義は、その西欧における機能はいざ知らず、日本を含む非西欧においては、啓蒙という名の西欧文化中心主義あるいは西欧文化帝国主義に対抗する、反西欧の思想として機能しているのではないか。 このような推測のしばしば行われていることも、無下には否定し得ない。 もし、このような推測が、当を獲たものであるとするならば、日本の保守主義は、反西欧主義という意味において、ますます日本主義に接近するのではないか。 なるほど、日本主義は、近代の合理主義と個体主義との対極にあるとされる、日本の伝統に立脚した、反啓蒙の思想であることには間違いない。 しからば、日本の保守主義は、反啓蒙の伝統文化の咲き誇る東亜の盟主として、啓蒙の革新文明に堕落したあ西欧に宣戦すべきなのであろうか。 しかし、ここで想い起こすべきは、保守主義が、反近代の思想ではついにあり得ないということである。 すなわち、保守主義が、伝統を擁護すると言った場合、そこで語られている伝統は、いまここで生きられている近代社会の存立を、その深層において支えている伝統に外ならないのである。 従って、日本の保守主義が、日本の伝統を擁護すると言った場合、そこで語られている伝統は、いまここに生きられている日本近代の存立を、その深層において支えている伝統の外ではありえない。 言い換えれば、日本の保守主義は、近代文明の日本における顕現を、その深層において、肯定しているのである。 現代の日本において生きられている社会が、紛れもなく近代社会である以上、日本の保守主義は、日本の近代社会に、肯定すべき何ものかを見出さざるを得ない。 保守主義とは、そういったものなのである。 従って、日本の保守主義は、日本の伝統を、それが反近代であるから擁護するということでは些かもない。 むしろ、それが日本近代の存立に不可欠であるからこそ擁護するのである。 この間の事情は、西欧においても全く変わりはない。 たとえば、イギリスの保守主義は、イギリスの伝統を、それがイギリス近代の存立に不可欠であるからこそ擁護するのである。 このように言えば、イギリスの伝統と日本の伝統とは全く違う、といったお馴染みの議論がすぐにでも思い浮かばれよう。 もとより、イギリスの伝統と日本の伝統とが同じである筈もない。 しかし、近代文明における反啓蒙の橋頭堡という意味においては、彼我の伝統は、いわば機能的に等価なのである。 すなわち、近代文明における啓蒙の精神は、近代文明の圏内においては、ほとんど同一であり、その意味において、普遍的である。 さらに、近代文明が、啓蒙の精神のみによっては存立し得ず、反啓蒙の伝統を俟って始めて存立し得るという事態もまた、普遍的である。 しかし、近代文明の存立に不可欠な反啓蒙の伝統が、具体的に何であるかとなると、これは、近代文明の圏内においても、様々であり得る。 すなわち、近代文明という、いわば地球大の文明の存立に不可欠な伝統は、近代文明の圏内にある様々な文化に固有な伝統以外ではあり得ないのである。 言い換えれば、近代文明とは、それを担う様々な文化に固有な伝統を前提として、始めて可能であるような文明なのである。 従って、近代文明において、啓蒙の進歩主義は、なるほど普遍的であり得るが、反啓蒙の保守主義は、反啓蒙という一点を除いては、決して普遍的ではあり得ない。 近代の保守主義は、反啓蒙という機能においては等価であるが、それを担う実体としては異文化である、固有の伝統のいずれかに係留されざるを得ないのである。 これは、社会あるいは文化の伝統が、本書に述べた《遂行的なるもの》であることの、ほとんど必然的な帰結である。 このような立論は、近代文明と西欧文化との間に如何なる差異も認めない向きにとっては、なかなか理解し難いものであろう。 しかし、近代文明とは、ほとんど全地球を覆う、優れて普遍的な文明なのであって、西欧文化や日本文化をも含む、極めて多様な文化あるいは社会によって担われている、と考えることはそれほど無理なことであろうか。 古代や中世の歴史においては、単一の普遍な文明が、多数の固有な文化あるいは社会によって担われている例は、枚挙に暇がない。 中国文明、インド文明、イスラム文明、ギリシア・ローマ文明など、総て、そのような文明の例である。 そもそも、文明と呼び得る程にも普遍的であり得るためには、その内部に少なくとも複数の分化あるいは社会を包含していることが、ほとんど必須の条件であると言ってもよい。 近代文明もまた、そのような文明の一つなのである。 従って、西欧の社会も、日本の社会も、それが近代文明を担っている社会の一つであるという点においては、些かの相違もない。 しかし、それらの社会が、近代の社会として存立するに当たって、具体的に如何なる伝統を不可欠なものとしているかについては、それぞれに固有の事情が介在しているのである。 たとえば、イギリスの近代社会の存立に当たって、間柄主義の伝統の不可欠である筈もなく、あるいは、日本の近代社会の存立に当たって、アングリカニズムの伝統の不可欠である筈はない。 いずれにせよ、近代の保守主義は、普遍的な近代文明の存立にとって不可欠な伝統を、個別的な地域文化に固有な具体性の中に見出していかねばならないのである。 このような保守主義が、単純な自文化中心主義やナショナリズム、あるいは反西欧主義や日本主義に、そう易々と陥り得ないことは明らかであろう。 保守主義は、いまここに生きられている社会が、近代文明の下にある社会であることを、よく承知している。 さらに、保守主義は、自らの社会に固有な伝統を擁護することが、近代文明の下にある総ての社会にとって、不可避の要請であることも、また、よく承知している。 従って、保守主義は、自らの固有な文化が、近代文明の下にある総ての社会において、生きられるべき普遍の伝統となり得るなどとは夢にも想わない。 ましてや、保守主義は、自らの固有な文化が、近代文明それ自体と対抗せざるを得なくなるとは、全く考えもしない。 保守主義は、自文化中心主義やナショナリズム、さらには反西欧主義や日本主義では、ついにあり得ないのである。 しかし、そうは言っても、近代文明と、それを担っている地域文化、わけても西欧文化との判別は、かなり複雑な課題である。 どこまでが近代文明の普遍的な特徴であり、どこまでが西欧文化の個別的な特徴であるかは、極めて識別の困難な課題なのである。 従って、西欧の保守主義はいざ知らず、日本の保守主義は、近代文明の唯中に極めて分離し難く纏わり付いている西欧に固有な伝統と、自らに固有な伝統との葛藤を引き受けねばならない。 近代文明の下における、地域文化相互間の葛藤は、依然として開かれた問いなのである。 しかし、近代文明が、地域的な固有文化を超えた、全地球的な普遍文明であり得るとするならば、この問題は、必ずや解決されるに相違ない。 そのとき、保守主義の擁護すべきは、地球文明の存立にとって決して逸することの許されない、全地球的に生きられる言わば普遍の伝統であるのかも知れない。 そのときに在っても保守主義は、地球文明のキー・ストーンとして、なお生きられねばならないのである。
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首都交通鉄道 平和主義国の私鉄会社。地方の私鉄も傘下におさめている。現在、大都会地所とともに古井車両基地跡地(中央区)の再開発を進めている。 種類 株式会社 市場情報 新証1部 本社所在地 〒000-0005 新都府中央区古井町4丁目1-1 業種 運輸業 事業内容 鉄道事業・不動産事業等 代表者 泉 滋夫 資本金 134億9,800万円 売上高 1,890億0,200万円(連結) 従業員数 1,210人(連結) 主要株主 首都銀行 6% 大都会地所 4% 栄光証券 2% 子会社・関連会社 首都交通鉄道バス(バス事業) 100% 首都交通鉄道タクシー(タクシー事業) 100% 北山鉄道(鉄道事業) 40% 海山高速鉄道(鉄道事業) 100% 新都港都市鉄道(鉄道事業) 50% 北山貨物循環鉄道(鉄道事業) 100% 新都エレメンタルホテル(ホテル事業) 100% 総合駅ビル開発(駅ビル運営) 100% 泉都市開発グループ(不動産事業・新証2部上場) 39% 泉情報産業(発券機等のシステム管理) 100% 泉広告企画(車内広告事業) 100% 奥野出温泉(温泉事業) 100% 北山観光産業開発(スキー場事業) 100% いずみ駅ナカカフェ(カフェ経営) 100% 路線 新都港線 沖野臨海線 古井線 東新都線
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秀丸/略奪主義者 「戯言はいいんだよォォッ!! そんなに渇くならお前たちの血だまりで ビチョビチョのベチョベチョにしてやるぜェェッッ!!」 知略 男 知・悪 200/200 【瞬/任】 登場時、場に存在する任意の『キャラ』一体を『属性:奇妙』に変える。 解説
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遊戯王によくある事の1つ。 何故かこの世界ではいくら優秀な能力を持っていようと、攻撃力が貧弱か0ならクズと呼ばれ、揚句の果てに捨てられる。 アニメシリーズでは回を追うごとにとにかく攻撃力を効果で上げまくってインフレさせるという決闘者のプレイングが目立っている。 DMでは超大な攻撃力を誇ったのは20000の《オレイカルコス・シュノロス》ぐらい(*1)だったが、後のシリーズでは魔法効果で攻撃力30000越えの《サイバー・エンド・ドラゴン》が登場。 「攻撃力を2倍にする」「相手モンスターの攻撃力を加える」効果を持つカードが増えて10000越えもさほど珍しくなくなり、十代や遊星は次々とエースモンスターの攻撃力を効果で20000越え。 そしてZEXALでは希望皇ホープが《ダブル・アップ・チャンス》のコンボで容易に5000以上の打点になり、80000越えの未知の領域に到達。 終盤では遂に元々の攻撃力が1万や10万という壮絶なチートモンスターが登場、それに対抗するはゴリ押しの攻撃力20万越えという超必殺の脳筋合戦で最終決戦にケリを着け放ったのであった…。 現在の最大攻撃力ランキング↓ (攻撃力を最高値に上げる前後は除く) 1位:No.39 希望皇ホープ 攻撃力204000(《ライジング・ホープ》《No.100 ヌメロン・ドラゴン》《No.73 激瀧神アビス・スプラッシュ》《ダブル・アップ・チャンス》の効果) 2位:CiNo.1000 夢幻虚光神ヌメロニアス・ヌメロニア 攻撃力100000(元々の攻撃力) 3位:No.39 希望皇ホープレイV 攻撃力83200(《DZW-魔装鵺妖衣》の効果) 4位:No.39希望皇ホープ・ルーツ 攻撃力79200(自身と《ダブル・アップ・チャンス》の効果) 5位:No.104 仮面魔踏士シャイニング 攻撃力41700(《ハンドレッド・オーバー》の効果) 6位:サイバー・エンド・ドラゴン 攻撃力36900(《リミッター解除》《決闘融合 - バトル・フュージョン》の効果) 7位:スフィンクス・アンドロジュネス 攻撃力35000(自身の効果) 8位:オシリスの天空竜 攻撃力28000(人形戦での自身の効果、デッキ切れで負け寸前) 9位:スターダスト・ドラゴン 攻撃力23000(《集いし願い》の効果) 10位:ジ・アライバル・サイバース@イグニスター 攻撃力22000(自身と《裁きの矢》の効果) トップ5を全てZEXALが占拠! トップ10内ではDMの本編と映画版・GX・5D s・VRAINSがそれぞれ1体ずつというバランスである。 最初に語ったようにその逆、攻撃力0のカードはかつてペガサスが使用していた《サクリファイス》であろうと井戸に捨てられる。 しかし井戸に捨てられた攻撃力0カードを寄せ集めてデッキを作った万丈目準がパラレルレアで固めた兄を破り、攻撃力0にも使い道があると実際に体現した。 不動遊星は「クズ」や「不要」という単語を嫌い、サテライトで拾った弱小モンスター中心のデッキで連戦を戦い抜いた。 パワーを何よりも重んじるジャック・アトラスの考えとは対を成しており、最終回のデュエルではいくらレベルが低くてもこれまで戦い抜いたモンスター達の絆の力で《ジャンク・ウォリアー》の攻撃力を5500まで上げて勝利。ジャックの胸に響かせた。…やっぱり攻撃力主義じゃないか! また、洗脳されたゴーシュを救うためにドロワがモンスターの攻撃力を上げて特攻した際にカイトが「あの攻撃力はドロワの想いの強さ」と語っており、向こうの世界では攻撃力=決闘者自身の想いの強さと認識されているのだろう。
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平和主義国最大の鉄道会社。09年にCRCが分割されて誕生した。CRC都市開発やCRC&新急トラベルなどCRCが傘下に収めていた有力企業の株式を継承している。新都新幹線など高収益路線を多数保有しており、駅ビルや高速列車の開発にも力に入れている。 種類 株式会社 市場情報 新証1部 本社所在地 〒000-0003 新都府中央区新大町5丁目8-11 業種 運輸業 事業内容 鉄道事業・不動産事業等 代表者 狩田 英太郎 資本金 1,004億2,100万円 売上高 9,919億210万円(連結) 従業員数 17,329人(連結) 主要株主 首都信託銀行 5% 大都会海上火災保険 4% CRC中央退職者信託 3% 首都銀行 3% 主要子会社・関連会社 CRC中央バス(路線・高速バス事業) 100% CRC中央テクノロジー(情報システム事業) 100% CRC&新急トラベル 30%(新証2部上場・旅行代理店事業) 駅ストア中央(売店事業) 100% CRC中央ホテルチェーン(ホテル事業) 100% CRC中央サービス(清掃・人材派遣事業) 100% CPiD(ICカード事業) 55% CRC中央パーキング(駐車場事業) 80% CRC中央保線工事(鉄道保線事業) 79% CRCバスセンター開発(バスセンターの運営事業) 100% CRC都市開発(不動産事業) 30% 東新都自動車興業(タクシー事業) 36%