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現在新潟市では、在日本中国総領事館の移転が問題となっています。 この問題の始まりは2010年9月頃に中国領事館が旧万代小学校跡地に移転するとの要望があったとする報道から始まりました。 しかし、市民の間には 中国領事館が設置されてから1年も経っていないこと。 設置されて間もなく、領事館業務を行うのに十分なスペースがある様子が地元のテレビ報道があったにもかかわらず、移転の理由が「狭くなったから」ということ。 に対して疑問点があげられるようになりました。 ※移転を余儀なくされるほど狭くなった中国領事館内部の様子 新潟への在日本中国総領事館の設置は、故・田中角栄による日中国交正常化の後の、新潟県、新潟市を挙げての悲願でもあり、新潟県、新潟市は誠意をもって新潟県内で一番安全である朱鷺メッセ・万代島ビルへの設置に取り組んできました。 にもかかわらず中国総領事館は、設置以来中国側の都合で断りもなく領事館の移転や土地を購入するという身勝手な行為を行ってきました。 このことは、新潟市民の日中友好の心を踏みにじるだけでなく日中国交正常化に尽力した故・田中角栄の顔に泥を塗ったととらえられ、中国国民が増加することによる治安の悪化・安全な生活の破壊などの不安感。中華人民共和国、ひいては中国国民への不信感を呼び起こすきっかけとなりました。 「中国領事館移転問題」現在もなお続いています。これまでの経緯については「これまでの経緯」を。 個別の移転問題については 領事館旧万代小跡地移転問題 領事館西大畑町移転問題? 領事館新光町移転問題 を参照してください。 あなたの町にも中国領事館が来る!? ※旧万代小学校跡地空撮写真(Google mapより) 中国領事館側の要求 点在する移転候補地 西大畑移転後の動き 西大畑移転について新潟県が中国領事館に西大畑のNSG所有ビルを紹介しましたが、ウイーン条約によると「領事館の移転は事前に接受国(日本政府)の承認が必要」であるとされています。 この件について外務省に確認したところ、事後報告のみで違反であることがわかり、NSG新潟総合学園の西大畑ビル移転は条約違反であることが発覚しました。 (西大畑説明会で新潟市国際課のS課長の「国と国との取り決めは総領事館を作るということで、お互い合意して取り決めたということで、どこに置くかとか、どういう形でビルを借りて契約するとか、あるいは所有するかは、日本の法律に則って契約するので、いわゆる民間同士の契約と同じです」という発言は嘘ということになる。) こうしたことから新潟市に住む市民の反対活動は今も続いています。 反対活動については「地元住民による反対活動」を参照してください。
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平和への結集ブログ 「私の発言 弁護士 河内謙策」 posted on 5月 28th, 2006 河内謙策と申します。私は、5月21日に行われた自由法曹団の5月集会で、以下のとおり発言しましたので、皆様の参考になれば、と思い送信させていただきます。皆様の親しい方への転送・転載は自由です。 河内謙策 東京支部の河内です。私は、統一戦線運動と団の役割、という点について、問題提起をさせていただきたいと思います。私の発言を正確なものにするために発言原稿を作成してきましたので、それを読ませていただきたいと思います。 国内外の現在の情勢が、きわめて深刻なものであることについては、割愛させていただきます。私が言いたいのは、それを根本的に打破するには、広範な統一戦線を結成して、平和や自由・民主主義を求めるエネルギーを総結集する以外にない、ということです。 広範な統一戦線の結成は、時代の流れ、ということができると思います。21世紀になって、急に、様様な国において、様様な運動において、統一戦線が話題になってきました。ごく最近でも、世界社会フォーラム運動はもちろんのこと、昨年のドイツにおける総選挙での左翼党の前進や今年に入ってからのイタリアの「オリーブの木」の勝利、フランスのCPE反対運動でも様々な傾向の組合などが打って一丸となっている様子が日本のテレビでも報道されました。日本国内に目を転じてみても、同様です。沖縄の名護市長選挙の敗北と沖縄市長選挙の勝利は、鮮やかに平和統一の意味を浮き彫りにさせてくれました。私が最近感激したのは、JR採用差別事件の勝利的解決をめざす4.4集会でした。この集会自体は、学者・文化人等36人の呼びかけによるものでしたが、そこでは、国労、全動労、動労千葉がガッチリとスクラムを組んでいました。昔は、動労千葉との連帯、というと、“中核を認めるのか”と言われたもので、関係者のご努力を思い、感無量でした。 憲法改悪反対運動の勝利をどうやって実現するか、という点から考えると、今、4つの統一戦線を結成することが求められているとおもいます。憲法改悪反対の国際的な統一戦線、国内における憲法改悪に反対し、憲法を活かすための大衆的な運動のレベルにおける統一戦線、国会における平和政党を支える統一戦線、地方のレベルにおける改憲の先取り的な動きに反対し憲法を活かすための統一戦線、の4つです。 この4つの統一戦線のうち、私が今日問題提起したい中心は国会における平和政党を支える統一戦線です。これは、もっと端的な形で言えば、当面、広範な平和勢力の統一の力で、憲法9条を守る議員もっと当選させること、参議院または衆議院の議員の三分の一以上を占めるようにすることだと思います。私は、このことの重要性を考え、昨年末から始まった“「平和への結集」をめざす市民の風”の運動に参加しています。同運動は来年の参議院選挙での平和共同候補・平和共同リストを求める運動を展開しています。念のために言えば、この運動は平和政党に共同候補を求める運動で、自分たちが立候補する運動ではありません。現在、400名をこえる賛同者が結集しています。本集会の資料の袋の中に、同運動の資料や呼びかけ人・賛同人一覧を入れさせていただきましたので、御覧になってください。 この運動に参加して一番感じるのは、平和共同候補を求める声が国民の間に如何に強いか、ということです。ごく最近到着した手紙を読んでみます。 「美しい初夏の候ですがご精励のことと存じます。 さて、突然お手紙を差し上げまして、失礼いたします。私は現在62歳で、私立高校の教員をしている者です。この度、世界5月号に発表されました声明を読みました。趣旨に全く同感です。60年安保よりこの数十年間、日本の革新勢力がまとまって協力体制ができることを遥かに期待して来ましたが、残念ながら、その様にはなりません でした。 私自身殆ど無力で、何ら積極的に動くこともできませんでした。もし革新勢力がこの方向でまとまり、協力体制ができるなら、現在の絶望的な状況を変える希望が生まれます。[以下、略]」 平和共同候補の必要性はわかるが、国政選挙は憲法9条だけでないから条件がない、という意見も聞きます。しかし、では何故2004年に糸数選挙で共闘が実現したのでしょうか。また、実際の選挙の政策という点でいけば、あまり細かい点まで政策の一致を求めるのは妥当でない、と思います(去年の総選挙では、郵政民営化、のシングル・イッシューが争点になりました。)中国共産党と中国国民党の合作は、その直前まで、国民党が共産党員を殺している事態の下でも実現しました。日本の支配層は、来年の参院選挙で憲法の争点を隠し、あたらしい参議院・衆議院の下で、超党派で憲法改正案を作り、国会の名の下で、これを国民に押し付けようとしているのです。そのような重大な事態だからこそ、単に条件が無いのでは、済まされないのです。 また、平和共同候補の必要性はわかるが、政党の状況をみると実現が困難だ、という意見もよく聞きます。たしかに、困難でしょう。それは、日本の平和政党に根強い自政党第1主義があるからです。私は、これを克服するのは、政党自身の努力では限界があると思います。また、昔のように、少数の顔のきく知識人が間に立って話をまとめるのも困難と思います。広範な市民が間に立って調整役・接着剤になるしかない、と思います。それは、市民が政党に指図するものだ、という意見も聞きますが、そのような意見に基づけば、市民が政党を批判することができなくなります。市民と政党の間を、形式的・概念的に区分するのでなく、市民と政党が相互に交流する中で、相互に成長していく関係が求められていると思います。 私は、市民が政党間の調整役・接着剤になっていくうえで、自由法曹団の果たす役割が非常に大きいと思っています。しかし、現実には、そうなっていません。むしろ、“自由法曹団は口だけだ”“自由法曹団は、本当は平和の統一をのぞんでいないんだ”“自由法曹団は共産党の直属部隊じゃないか”という悪い噂が一部で一人歩きをしています。これは悲しいことです。私は、自由法曹団は、平和の統一のためのコーディネーターでなければならない、と思っています。そのためには広範な平和勢力から信頼されることが前提です。どのような政党に対しても、モノをいうべきときにはモノをいう。それでこそ、広範な平和勢力に信頼されるのです。自由法曹団は、そういう団体だったのではないでしょうか。 私は、自由法曹団員で、かつ、共産党員の人、社民党員の人、新社会党員の人、緑のテーブルの人に言いたいのです。本当に重要な問題については、政党の決定に基づいて考えるのでなしに、1人の法律家として、1人の人間として考えて行動してほしい、と。そうでなければ、自由法曹団は、自由法曹団でなくなるでしょう、と。 時間がないので、以上で触れられなかった点は、特別報告集86頁以下の私の原稿や、資料袋の中に入っている7.7シンポジウム関係のビラ等を読んでください。 最後に、私達が、歴史に対する責任を自覚し、全力を挙げて広範な統一戦線結成の道を歩むことを訴えて発言を終わらせていただきたい、と思います。 以 上 河内謙策氏のマルチポスト論考【尖閣問題以前】
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百詩篇第5巻 4番 原文 Le gros mastin1 de cité2 deschassé3, Sera fasché de l’estrange alliance4. Apres aux champs5 auoir6 le cerf7 chassé, Le loup8 l’Ours9 se donront10 deffiance. 異文 (1) mastin Mastin 1672, matins 1588-89, matin 1653 1665 1840 (2) cité Cité 1672, ciié 1665 (3) deschassé 1557U 1568 1611A dechassé T.A.Eds. (sauf descassé 1557B, déchassé 1668P) (4) alliance Alliance 1672 (5) champs camps 1557B, champ 1605, Champs 1672 (6) auoir anoir 1605 (7) cerf chef 1557B 1589PV 1649Ca, serf 1611B 1981EB, Cerf 1672 (8) loup Loup 1557B 1649Ca 1981EB 1672, loups 1867LP 1716 (9) Ours ours 1611 1644 1649Ca 1650Le 1653 1665 1668 1840 (10) donront douront 1589PV, donneront 1649Ca 日本語訳 都市から追い払われた大きなマスチフ犬が、 異国の同盟に悩まされるだろう。 野で牡鹿が追われた後に、 狼と熊が互いに不信を抱くだろう。 訳について 既存の訳についてコメントしておく。 大乗訳は、3行目 「あとで彼は野原で雄鹿をまもり」(*1)以外は、やや強引でも意訳として許容範囲と言えなくもない。 しかし、「雄鹿をまもり」は明らかに誤訳である。ヘンリー・C・ロバーツの英訳でも have hunted があてられており、なぜ 「まもり」 となったのか不明。あるいは 「狩り」 と 「守り」 が編集時や印刷時に取り違えられたのかもしれないが、いずれにせよ支持すべき理由はない。 山根訳についても同様で、「大きなマスチフ犬」 を 「巨大な猛犬」(*2)と訳すことの是非 (マスチフ犬は番犬や闘犬に用いられるが、一般に性格は穏和とされる) を除けば、意訳として許容範囲内だろう。 信奉者側の見解 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は、クロムウェル時代のイングランドをめぐる情勢と解釈した。追い出されるマスチフ犬は (処刑された) イングランド王の隠喩で、「狼と熊」はフランスとスイス (またはサヴォワ) を指すとした(*3)。 アンリ・トルネ=シャヴィニー(1860年)は、マスチフ犬をルイ=フィリップの隠喩として、フランスの七月王政と解釈した。共和派とオルレアニスト (狼と熊) が一致してブルボン朝のシャルル10世 (牡鹿) を追い出したまでは良かったものの、直後から相互に不審を抱いた状況が後半の描写なのだという(*4)。 アナトール・ル・ペルチエ(1867年)はマスチフ犬をボルドー公 (シャルル10世の孫。いわゆるシャンボール伯アンリ)、牡鹿をシャルル10世、狼をルイ=フィリップ、熊を共和派とするなど、比喩の解釈に違いはあるが、やはり七月革命と解釈した(*5)。ル・ペルチエの読み方はチャールズ・ウォード(1891年)にも引き継がれた(*6)。 アンドレ・ラモン(1943年)はマスチフ犬を英国、牡鹿をポーランド、狼をドイツ、熊をロシアの隠喩と見なし、第二次世界大戦の予言と解釈した(*7)。 同時代的な視点 ロジェ・プレヴォはリミニの暴君パンドルフォ・マラテスタ (Pandolfo Malatesta) がモデルではないかと推測した。マラテスタ家は13世紀以来リミニに君臨していたが、16世紀初頭に逐われた。1522年に一度返り咲いたものの、教皇クレメンス7世によって1528年に再追放された。動物への喩えは、当時のマキァヴェッリの著作に見出されるという(*8)。マラテスタとする読み方は、ピーター・ラメジャラーが支持している(*9)。 なお、ラメジャラーはかつて『ミラビリス・リベル』に収録された聖ビルギッタの予言との関連性を指摘していたが、ジャン=ポール・クレベールも同様の指摘をしていた(*10)。 クレベールのフランス語訳に従って、該当する部分を抜粋すると以下の通りである。 「教会は荒れ果てていた。戦士たちに近づく狼と熊が指揮棒を持ち去った。恐るべき時が近づいていた。熊はケルンの教会を引き裂きに行ったし、別の教会の敵である狼は兵糧を奪うべくトリーアへと上京した」。 なお、クレベールは『ミラビリス・リベル』に収録された節のもととなった長文を、1524年に刊行された聖ビルギッタの予言集からも抜粋しているが、やはりケルンやトリーアが舞台となっている。 もしも直接的に聖ビルギッタがモデルになっているのだとすれば、プレヴォのようにリミニと読むことは妥当ではないかもしれない。逆に言えば、そういう直接的な出典が見付からない限り、固有名詞の登場しない曖昧なシンボルなど、現に信奉者側の解釈が論者によってまちまちなように、どのようにでも解釈できてしまうだろう。 コメントらん 以下のコメント欄はコメントの著作権および削除基準を了解の上でご使用ください。なお、当「大事典」としては、以下に投稿されたコメントの信頼性などをなんら担保するものではありません (当「大事典」管理者である sumaru 自身によって投稿されたコメントを除く)。 1-2行は国際連盟(大きなマスチフ犬)から脱退した日本を指す。 1933年、日と独が連盟から脱退、1937年に伊も脱退。日本は独と並んで枢軸国の代表だった。 牡鹿は後にシナ大陸から追放された中国国民党軍、3行は国共合作(1937~1945年)の後を表している。狼は伊、熊は露、両国は独に不信感を抱いた。後者は独ソ不可侵条約の破棄で。 -- とある信奉者 (2013-04-17 21 31 14) 名前 コメント
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Template Infobox 軍人? 松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)、中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官、ハルピン特務機関長、陸軍大将。正三位勲一等功一級。ポツダム宣言受諾後、南京大虐殺の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(BC級戦犯松井は東京裁判でA級戦犯容疑で起訴されて有罪判決を受けたが、「a項-平和に対する罪」では無罪であり、訴因第55項で有罪となったため、実際にはBC級戦犯である。しかし、世間では東京裁判が日本の戦争犯罪人を裁く裁判として強く印象に残っていること、東京裁判は「a項-平和に対する罪」によって有罪判決を受けた被告で殆ど占められたために「東京裁判の被告人=A級戦犯」という印象が強く、松井石根がA級戦犯であるという認識が浸透している。)を受け、処刑された。現在は靖国神社に合祀されている。 生涯 出自 愛知県出身。旧尾張藩士松井武国、ひさの六男として生まれた。成城学校から陸軍士官学校(9期次席)、陸軍大学校(18期首席)を卒業。陸大在学中に日露戦争に従軍した。 中国に駐在中は孫文の大亜細亜主義に強く共鳴し、孫文の革命を支援。中国国民党の袁世凱打倒に協力。昭和8年(1933年)に大亜細亜協会の設立発起人となり(後に会長に就任)、同年8月には台湾亜細亜協会を設立した。また日本に留学した蒋介石とも親交があり、蒋が政治的に困難な際に時の日本の首相田中義一との会談を取り持ち事態を打開させたのも松井である。昭和9年(1934年)4月勲一等旭日大綬章。軍紀に厳しいことで知られ、昭和3年(1928年)に起きた張作霖爆殺事件では、首謀者である関東軍河本大作の厳罰を要求した(この事から、若手の将校の間では、松井を頑固者扱いして、敬遠する声も多かったと言われている)。 日中戦争期 日中戦争勃発前は予備役であったが、第二次上海事変が勃発すると軍務に復帰、上海派遣軍司令官として上海に派遣された。参謀本部と政府は上海事件の不拡大を望んでいたが、松井は上海近辺に限定されていた権限を逸脱して、当時の首都南京を攻撃・占領した。その際に南京攻略戦前に当時の中国の首都であった“南京攻略要綱”を兵士に徹底していたつもりであったが、南京戦後に、一部の兵士によって略奪行為が発生したと事件の報を聞いたとき、彼は「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。 昭和13年3月に帰国後に、静岡県熱海市伊豆山に滞在中に、今回の日中両兵士の犠牲は、アジアのほとんどが欧米諸国の植民地がいずれ独立する事の犠牲であると位置づけ、その供養についての考えている事を、滞在先の宿の主人に相談したところ、昭和15年(1940年)2月、日中戦争における日中双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝観音経をあげていた。巣鴨プリズンに収監されてからも毎朝、観音経をあげるのが習慣だった。また、重光葵によると、人の依頼に応じて揮毫する文字は決まって「殺身為仁」であり、獄中では常に人民服姿だったという。 敗戦と東京裁判 戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受けるラダ・ビノード・パール判事は、南京で日本軍による一定の犯罪行為の存在を認定する一方で、「裁判の在り方自体に有効性がないため『有罪』という概念そのものが成立しない」との立場から、松井を含めた被告全員の無罪を主張した。。 処刑 昭和23年(1948年)12月23日に巣鴨プリズン内で処刑(絞首刑)が執行された。辞世の句は、「天地も人もうらみずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く」、「いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば」、「世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等誠の心」。昭和53年(1978年)年、他のA級戦犯と共に靖国神社へ合祀された。 評価 中国の見方 現在の中国においては、国民党、共産党を問わず、南京大虐殺の責任者として松井は日本軍による非道の象徴的人物と位置づけられており、単なる軍司令官にもかかわらず、国家中枢にあったとされるA級戦犯と同格に位置づけられている。 年譜 1896年(明治29年)5月 - 陸軍中央幼年学校卒業。 1897年(明治30年)11月 - 陸軍士官学校卒業(9期)。 1898年(明治31年)6月 - 少尉に昇進。歩兵第6連隊附。 1900年(明治33年)11月 - 中尉に昇進。 1904年(明治37年)2月 - 歩兵第6連隊中隊長。 4月 - 日露戦争に従軍(~1906年1月)。 8月 - 大尉に昇進。 1905年(明治38年)7月 - 第2軍副官。 12月 - 第2軍兵站監部参謀。 1906年(明治39年)11月 - 陸軍大学校卒業(18期恩賜)。参謀本部出仕。 1907年(明治40年)1月 - 清(北京・上海)駐在(~1911年4月)。 1908年(明治41年)11月 - 参謀本部員。 1909年(明治42年)11月 - 少佐に昇進。 1913年(大正2年)4月 - フランス領インドシナ出張。 1914年(大正3年)5月 - 欧米出張(~1915年8月)。 1915年(大正4年)8月 - 中佐に昇進。歩兵第22連隊附。 12月 - 参謀本部附(上海駐在)(~1919年2月)。 1918年(大正7年)7月24日 - 大佐に昇進。 1919年(大正8年)2月20日 - 歩兵第29連隊長。 1921年(大正10年)5月26日 - ウラジオストク派遣軍参謀。 1922年(大正11年)11月6日 - 関東軍司令部附(ハルビン特務機関長)。 1923年(大正12年)3月17日 - 少将に昇進。 1924年(大正13年)2月4日 - 歩兵第35旅団長。 1925年(大正14年)5月1日 - 参謀本部第2部長。 1927年(昭和2年)7月26日 - 中将に昇進。 1928年(昭和3年)12月21日 - 参謀本部附(欧米出張)。 1929年(昭和4年)8月1日 - 第11師団長。 1931年(昭和6年)12月9日 - ジュネーブ一般軍縮会議全権委員。 1933年(昭和8年)3月18日 - 軍事参議官。 8月1日 - 台湾軍司令官。 10月20日 - 大将に昇進。 1935年(昭和10年)8月28日 - 予備役編入。 1937年(昭和12年)8月15日 - 召集。上海派遣軍司令官(~12月1日)。 10月30日 - 中支那方面軍司令官(~1938年3月5日)。 1938年(昭和13年)7月 - 内閣参議(~1940年1月)。 関連項目 田中正明 資料 Template imdb title? The Battle of China ダウンロード on the Internet Archive THE FAKE OF NANKING on Youtube 外部リンク 興亜観音ホームページ (略伝他) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月20日 (土) 10 36。 考察 松井大将は、南京の軍事法廷で裁くべきであった。そうすれば、谷寿夫は死なずにすんだであろう。
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Template Battlebox? 徐州会戦(じょしゅうかいせん)は、日中戦争中の1938年3月15日から5月19日に発生した日本軍と中国国民軍と大規模な戦闘である。日本側は北支那方面軍及び中支那派遣軍、中国側は李宗仁の中国国民軍が戦闘を行った。 背景 1937年12月に南京戦役で勝利した日本の支那派遣軍は、大本営の戦線不拡大方針を無視して戦線を拡大、北京と南京を結ぶ打通作戦を企図した。このためには、1912年に開通していた津浦鉄道(天津-蘇州・浦口)の確保が要件として上げられていた。この中で、台児荘の激戦が発生する。 台児荘 1938年3月頃、日本軍は省都済南も含め、山東省北部を占領していた。北支那派遣軍の第5師団(師団長:板垣征四郎)と第10師団(師団長:磯谷廉介)は合流、共同で要衝の徐州を攻略することとしていた。これに対して国民党山東省主席の韓復矩は兵力の温存を図り、天険の要害である黄河の防衛線もがら空きにした。 この結果、津浦鉄道の守備は手薄となっており、情報を察知した磯谷師団は板垣師団との合流を待たずに単独で進軍を開始し、泰安・済寧・滕県と順次攻略していった。戦わずして後退した中国軍の戦意はかなり低く、まともな戦闘にはならなかった。 しかし、他方では板垣師団は国民革命軍の名将張自忠により臨沂で膠着状態にあり、磯谷部隊との合流に向けた前進が阻まれていたのである。 3月15日徐州を目の前にした大運河の北岸の町・台児荘(現在の山東省棗庄市の一部)に到達した磯谷師団の瀬谷支隊(歩兵第33旅団基幹)は予想外に有力な兵力の抵抗を受ける。敗退を繰り返した軍をまとめた総司令官の李宗仁は、大運河を背にした要衝・台児荘を徐州の防衛拠点として約10万人の兵力を結集していた。 磯谷師団は約一ヶ月の間台児荘攻略のために攻撃を繰り返しても功を奏しなかった。国民党軍は戦えば負ける戦闘の繰り返しであったが、徹底抗戦の構えであり、板垣師団を抑えていた張自忠も同作戦地域に転進させる。 この間、日本軍は局地戦では戦果があったものの、情報の乱れもあり最終的に台児荘攻略がならないままで推移していた。国民革命軍湯恩伯軍団の北東方向からの圧迫を受けたこと、既に台児荘が陥落したとの誤報が流れたことなどから、4月7日に磯谷師団はやむを得ず撤退する。 国民党軍は4月8日に忽然と敗退した日本軍を知り、狂喜した。日本軍の実態を把握できなかった国民党軍にとって、上海戦役・南京戦役と続いた敗戦の中で久々の勝利であり、日本軍撃退を大々的に宣伝、戦意高揚に努めた。 徐州攻略作戦 磯谷師団の撤退により、大本営もこの地域に有力な中国軍が存在することを認識し、津浦鉄道全線掌握の大きな障害になることを鑑み、戦線不拡大路線を転換、徐州作戦を展開することとなる。 北から磯谷師団、東から板垣師団に加えて、南からも中支那派遣軍派遣(3個師団基幹)を決定。ひたすら「徐州徐州と人馬は進む」といわれた行軍を続け、5月20日に徐州占領を完了、津浦線の打通に成功する。日本軍に三方から囲まれたため、中国軍は数では優勢であったが張自忠部隊以外は全般に戦意が上がらず、撤退というよりは散開に近い有様で逃げ惑い、5月19日には徐州を放棄していたのである。一ヶ月前に台児荘で日本軍を撃退した同一の部隊とは思えない体たらくである。日本軍は中国軍に大きな打撃を与えたものの、華北平野の中の街をわずか数師団で完全包囲することは困難であり、数十万の中国兵の包囲環からの脱出を防ぐことには失敗している。 しかし、李宗仁は徐州の維持は放棄したものの、日本軍の南進を阻止することを放棄したわけではなかった。黄河の堤防を決壊させ、決壊地点から東シナ海に至る江蘇省北部周辺を大湿地帯にして日本軍の南進と漢口への進撃を阻止した。戦線はこの後膠着する。 その後 河北方面で戦線が膠着し、国民政府も依然として抗戦の構えを崩さないことから武漢作戦が発令されることとなり、さらに泥沼の中国戦線が広がることとなる。 戦果 日本軍戦死者 約一万五千名 中国軍戦死者 約二万二千名 徐州陥落 韓復矩は戦わずして済南・黄河を放棄したことで蒋介石により銃殺刑に処された。 関連項目 武漢作戦 国民党軍 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月4日 (木) 09 49。
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昨日 - 今日 - 「戸井田報告」=「南京の実相」批判のページ(2) 日本の前途と歴史教育を考える議員の会 平成十九年六月十九日 南京問題小委員会の調査検証の総括 「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」が2007年6月に記者会見を開き、南京問題小委員会(委員長:戸井田とおる)報告書を発表しました。2008年8月11/01 には、その日本語、英語の両方を収録して「南京の実相」という本にしたそうです。しかし、若干の資料を除いて本文は「報告書」のままだと聞いています。 「戸井田報告書」はWEBでPDF公開されていますのでここに転載します。 http //www.toidatoru.com/pdf/nankin.pdf(戸井田徹サイト) みんなで論点、批判点を出し合いましょう。コメント欄に書き込んでいただいたものは、逐次、本文に書き込んでいき、批判のページを完成させたいと思います。 私がこの「戸井田報告」に注目したのは、産経新聞の誤報に関連してのことです。この誤報には、「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の活動が連動しています。 (引用者注)まずは、戸井田さんもしくは小委員会の皆さんに、南京事件 初歩の初歩をお読みになるようにお勧めします 目次(場所を分かりやすくするために、章の見出しに番号をつけました) 「戸井田報告」=「南京の実相」批判のページ(1) 「戸井田報告」=「南京の実相」批判のページ(2) 南京問題小委員会の調査検証の総括4 《東京裁判で復活した「南京虐殺事件」》…16 5 《『偕行南京戦史』とは何か》…23 6 《「南京大虐殺」の政治宣伝とは何か》…25 7 《「南京大虐殺」の捏造写真について》…26 8 《「南京大虐殺」の政治宣伝にたいして》…27 9 《報道機関への要望》…29 10 《中国への要望》…29 11 資料一覧 4 《東京裁判で復活した「南京虐殺事件」》…16 一九四六年、東京裁判(偽証罪がない)が開廷しても、政治宣伝としての南京での「虐殺数」は「二万人」だった事は前述した通りである。 (引用者注)前述した通り顧維鈞の国際連盟演説は、海外に報道された新聞記事を引用したにすぎません。 ここでは、事後法で裁いた東京裁判の管轄権など国際法上の問題点については触れないが、どのような状況で開廷したのか。それは、GHQ占領下の洗脳政策の責任者民間情報教育局(CIE)局長K・R・ダイク代将(大佐)が、一九四六年三月二十日に第四回極東委員会で報告した日本人に対する指令の趣旨が参考になる。 「指令を発する敏速さは、いわば戦争中の戦略にも譬えられようかと思います。現在なお、いくさなのです。日本では、一種の戦闘状態にあると私は言いたいのです。平時の作戦ではないのです。と申しますのは、戦闘中は相手のバランスを崩そうとします。右のジャブをうまく出し、相手が立ち直る前に左のジャブを出すということです。日本人の教育のため、一つの指令を日本人が十分理解してからさらに他の指令を出すという意志は私どもにはありません。」 (『資料・占領下の放送立法』東京大学出版会、「第四回極東委員会会議議事録」抜粋六十ページ) 占領下の混乱期に何がどうなっているか分からない状況で、矢継ぎ早に一方的情報を出して、日本人が立ち直れないように強力な洗脳政策を実行すると断言していた。東京裁判も一種の戦闘状態で裁かれていたという事になる。 引用部分に洗脳政策などとは一言も書いていない。(scopedog) また、ダイク代将は、占領下を平時でなく、戦時と規定している事で、正確な意味での終戦は、主権を回復した一九五二年四月二十八日という事になる。 法的に(サンフランシスコ講和条約締結国との間で)戦争が終わったのはたしかにその時をもってしてである、ということができる。そうすれば、東京裁判を平時の刑事裁判と比較するのはあまり意味がなく、むしろ日本軍が戦時中に行なった軍律裁判や軍法会議さらには裁判抜きでの「処刑」と比較すべきである。果たしてどちらが「より酷い」裁判であったか? (Apeman) 極東委員会とは、GHQを管理していた上部機関である。その極東委員会の中国代表は、一九三八年二月二日国際連盟理事会で公式に「虐殺の犠牲者二万人」との「南京虐殺宣伝」をした顧維鈞であった。 (引用者注)極東委員会およびその対日理事会はGHQの『上部機関』ではなくて『諮問機関』である。軍事駐留であるマッカーサーの司令部GHQに対する統制力はなかった。有していたのは国際世論に対する影響力にすぎない。 一九四八年十一月の東京裁判の判決は、「南京虐殺」の犠牲者数に関して二通りの判決が出ている。それは、南京攻略戦の総司令官松井石根大将個人の「十万人」と南京攻略戦の「二十万人」以上の異なった判決が出ていたのである。いずれにしても、南京での「虐殺数」は唐突に一桁増えたのである。 裁判のための調査や立証活動によって情報が収集された。その一つが「戸井田報告」でも言及している埋葬記録である。38年1月2月の顧維鈞演説と違うからという理由で東京裁判を否定するのはまったくのナンセンス。(Apeman) それは、「南京事件」後四ヶ月間に十一万二千二百六十六人の遺体を処理したという崇善堂の埋葬記録を検察側が加算した結果の犠牲者数である。 いうまでもないが崇善堂の埋葬記録だけでは、2万と20万の差は埋まらない。 (Apeman) 「南京事件」後四ヶ月間、崇善堂が活動していなかった事は、昭和六十年八月十日付産経新聞が報道した阿羅健一氏のスクープ記事で証明されている。(資料11) 南京事件FAQ「崇善堂が埋葬活動をしていたことは事実」参照。「1938年2月6日付けで南京市自治委員会に宛てた手紙で「査するに弊堂が埋葬隊長を成立させてから今まで一ヶ月近くたち」とあるので1月から作業をはじめていることがわかる。」(Apeman) この事実だけで、松井大将個人の判決から崇善堂の「約十一万二千人」を引くと犠牲者数は、約マイナス一万二千人になってしまう。 なぜ「20万人」から引かない?(Apeman) また、活動記録のあった紅卍字会の埋葬記録の中にも不自然な記述がある。それは、東京裁判に提出された埋葬記録一覧表によると、一ヶ所だけ「埋葬箇所と備考」が空白の日があり、ほとんどが三桁にもかかわらず、最大の埋葬数六四六六名となっている事だ。(資料12)その月日は、十二月二十八日となっているが、その日、南京は「曇り午後小雪を交へた雨夜雪になる」だったのです。 (引用者注)これと同じデータだろうか? 南京事件資料集「世界紅卍字会南京分会救済隊埋葬班死体埋葬数統計表 」 (引用者注)なお、この疑義は古く田中正明氏によるものだが、これに対して洞富雄氏は20年以上前に既に次のように回答している。南京事件資料集「紅卍字会12月28日埋葬に関する洞富雄の見解」 南京攻略戦に上海派遣軍参謀として従軍して、その後一九三八年二月から中支那派遣軍南京特務機関長になって一年間南京に居た大西一大尉が、一番詳細に南京の事を知る立場にあった。 またしても無根拠な「一番」。岡村寧次が調査させた「宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、抗州特務機関長萩原中佐等」よりも、大西一大尉が「一番」よく知りえたとする根拠は? (Apeman) その大西氏は、強姦を一度見たと証言しているが、日本軍による暴行、略奪は「見た事がない。私は特務機関長として、その後一年間南京にいた。この間、南京はもちろん、蕪湖、太平、江寧、句容、鎮江、金壇、丹陽、揚州、除県を二回ずつ廻ったが虐殺を見た事も聞いたこともない」と証言している。また、四万三〇七一人を埋葬したという紅卍字会について「中国兵の死体は中国人が埋葬しました。埋葬するのに日本軍に連絡するように頼んだ事がある」とか「紅卍字会が中心にやっていた」と述べている。しかし、約十一万人を埋葬したという〝崇善堂"については「当時、全然名前を聞いた事はなかったし、知らなかった。それが戦後、東京裁判で、すごい活動をしたと言っている。当時は全然知らない。」と証言している。(『「南京事件」日本人48人の証言』)大西大尉の証言は、前述した阿羅健一氏のスクープ記事を裏付けている。 (引用者注)大西大尉は上海派遣軍2課の情報参謀で、やっちまえという虐殺命令を出したとして知られる長勇参謀の下にいた。 (引用者注)南京事件FAQ「崇善堂が埋葬活動をしていたことは事実」 朝日新聞などは、『「南京事件」日本人48人の証言』で証言した自社の記者を含め前著証言者の誰にも取材しないで、自らかかわった日本人洗脳番組「真相箱」の南京の内容を正当化できる中国人の証言を中心に報道している。 「真相箱」では「実に婦女子二万名が惨殺された」とされていたと、この「総括」自身が述べていたのではないか? 朝日新聞は「犠牲者2万人」説を正当化しようとしている、とでもいうのか? およそ犯罪報道において被害者側の主張に耳を傾けることは当然である。(Apeman) 中華民国軍政部長何應欽の軍事報告書(『何上将抗戦期間軍事報告』上冊文星書店(台湾)中華民国五一年六月)の南京攻略戦(上海から南京)での戦死者数(陣亡)は、三三〇〇〇名となっている。(資料13) (引用者注)これも、田中正明氏による30年も前の疑義だが・・・。南京事件FAQ 「何応欽の軍事報告は「虐殺」の報告を目的としていない」 参照。 この軍事報告書には、南京攻略戦においての南京陥落前後から、それ以降のことを詳細に記載してあるが、南京に関した日本軍の「戦時国際法違反」としての「虐殺」は、一行も報告されていない。それは、大西一特務機関長の証言を裏付けている。また、一年目の死傷者数三十六万人は中国全土のものである。つまり北京や天津も含んでいた。 そして、南京陥落前の一九三七年十二月七日まで南京にいた蒋介石は、国民党の軍紀の乱れを 「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ。(中略)敗れたときの計画を先に立てるべきだった。撤兵時の略奪強姦など軍紀逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ」 と蒋介石の日記(十一月三十日の月間総括欄)に記載されていた事を二〇〇七年五月二十五日産経新聞が報道した。この国民党軍が南京城内に雪崩込んでいたのである。 (引用者注)松井石根司令官も、日本軍の軍紀の乱れを嘆き、陣中日記に記していたはずである。そういうことは、覆い隠そうというのか?昭和十三年二月六日 松井大将の日記から「 支那人民の我軍に対する恐怖心去らす寒気と家なき為め帰来の遅るる事固とより其主因となるも我軍に対する反抗と云ふよりも恐怖不安の念の去らるる事其重要なる原因なるへしと察せらる 即各地守備隊に付其心持を聞くに到底予の精神は軍隊に徹底しあらさるは勿論本事件に付根本の理解と覚悟なきに因るもの多く一面軍紀風紀の弛緩か完全に恢復せす各幹部亦兎角に情実に流れ又は姑息に陥り軍自らをして地方宣撫に当らしむることの寧ろ有害無益なるを感し浩歎の至なり」こういう重要部分を改竄・脱落させて平然としているのは、戸井田氏や中山氏が師と仰ぐ故田中正明氏のプロパガンダ方法論でもある。 世界紅卍字会南京分会長陳漢森は、比良艦長、土井中佐へ礼状を出している。そこには「…閣下は民衆が飢えている状況を察され、小麦粉と食用油を賜り、大勢の民衆の命をお助けになりました。且つ自らご指導に当たられました。(略)近隣である日中両国の親善を祈願したいと存じております。(以下略)」と述べている。(資料14) (引用者注)比良艦長土井中佐は、南京城外揚子江岸下関区の東端にあった「宝塔橋難民区」に正月のプレゼントをしたようです。統治者である日本軍が食料物資を供給するのは当然の施政です。しかし被占領民としてはそれを当然のこととして礼を失することはできません。必ず「感謝状」をさし上げ、プレゼントのチャンスを増やそうと努力したでしょう。なお、その「宝塔橋難民区」でも日本軍の暴行から免れることはできなかったことも知っておく必要があります。 ところが、紅卍字会の陳会長が感謝状で述べた事と、まったく逆の証言を紅卍字会の許伝音副会長は、東京裁判で陳述している。 (引用者注)被占領民としての立場と、それを脱して法廷に立つ立場とが変わるのは当然でしょう。 南京攻略戦以前から敗戦まで陸軍将兵は、ポケットサイズの「陸軍刑法、陸軍懲罰令」を常時携行し、その第八十六條には「…婦女子ヲ強姦シタルトキハ無期又ハ七年以上ノ懲役ニ處ス」、また、第八十八條には「…死ニ致シタルトキハ死刑又ハ無期懲役ニ處ス」と第九章掠奪ノ罪で戦争犯罪に対して厳命されていた。(資料15) また、松井大将は、南京攻略を前にして、国際法学者齋藤良衛博士を招いて助言を受け、「南京攻略要項(引用者注)ママ:正しくは南京城攻略要領」を指令していた。その内容は、七項目からなり、「不法行為等絶対ニ無カラシムルヲ要ス」とか「中立地帯(安全区)ニハ必要ノ外立入ヲ禁シ所要ノ地点ニ歩哨ヲ配置ス」「外国権益ノ位置等ヲ徹底セシメ絶対ニ過誤ナキヲ期シ」「略奪行為ヲナシ又不注意ト雖モ火ヲ失スルモノハ厳罰ニ処ス」などと不法行為の厳禁を松井大将自らも厳命していた。 (引用者注)「南京城攻略要領」http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/364.html (引用者注)厳命したけど守られなかったことは、「戦史研究所:杭州占領に伴う秩序維持と配宿等に関する丁集団(第十軍)の命令」http //homepage1.nifty.com/SENSHI/data/145.htmには「一、掠奪婦女暴行、放火事ノ巌禁ニ關シテハ縷次訓示セラレタル所ナルモ本次南京攻略ノ實績ニ徴スルニ婦女暴行ノミニテモ百餘件ニ上ル忌ムヘキ亊態ヲ發生セルラ以テ重複ヲモ顧ミズ注意スル所アラントス」とある さらに松井大将は、南京城攻撃を前にして、上海派遣軍と第十軍の末端兵士に対しても訓戒を次のように述べている。 「南京ハ中国ノ首都テアル之カ攻略ハ世界的事件テアル故ニ慎重ニ研究シテ日本ノ名誉ヲ一層発揮シ中国民衆ノ信頼ヲ増ス様ニセヨ特ニ敵軍ト雖モ抗戦意志ヲ失ヒタル者及一般官民ニ対シテハ寛容慈悲ノ態度ヲ取リ之ヲ宣撫愛護セヨ」と発令していた。 訓戒したことと、それが守られたかどうか、さらに守られなかった場合にどう対処したかは、それぞれ別の話である。飯沼上海派遣軍参謀長の日記から、朝香宮上海派遣軍司令官が、松井大将の統制入城などの指令を愉快に思っていなかったことがわかる。(Apeman) この松井大将が現在、中国側の主張によるとホロコーストに比肩する「南京大虐殺」の責任者としてA級(注・A・B・Cは罪の大小でなく訴因の項目)戦犯で処刑された事になっている。しかし、東京裁判の松井大将に対する訴因を詳細に分析すると、「南京大虐殺」がなかった事を東京裁判が証明している。それは、A項(A級)戦犯として処刑された七名の中で、松井大将以外の六名は、事後法の「平和に対する罪」(A項)の訴因三十六項目の中で、二.六が有罪になっている。ところが、松井大将は「平和に対する罪」の訴因三十六項目すべて無罪であった。 「平和に対する罪」は戦争の計画や謀議に参画したことに関するものだから、南京事件のような戦争犯罪には関係がない。軍政畑で要職についていたわけではない松井が「平和に対する罪」で有罪にならなかったのは不自然ではない。(Apeman) そして、松井大将は、「通例の戦争犯罪」の訴因五十五項(俘虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反)の一つだけが有罪で処刑されたのである。(資料16) 仮に中国側が主張するホロコーストに匹敵する「南京大虐殺」が国家による組織的「ホロコースト」であれば、人道上看過できない犯罪として松井大将は「平和に対する罪」と「人道に対する罪」がすべて無罪にはなりえない。 (引用者注)この一説は「仮に」で始まることで分かるように、中国側の主張を確認して述べているのではなくて、筆者の適当な想像の上にたって述べているに過ぎない。中国側が、ホロコーストという言葉と「南京大虐殺」とをどう結びつけているかは、明らかではない。おそらくこれは、 アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』のサブ・タイトルが『The forgotten Holocaust of World War II(第2次世界大戦の忘れられたホロコースト)』とあることからの連想なのだろう。 日独それぞれの国家犯罪・戦争犯罪の「象徴」として南京大虐殺がホロコーストに「匹敵」するということと、犯罪の性格として両者が類似しているかどうかは自ずから別問題である。ホロコーストは自国民(ユダヤ系ドイツ人、身体障害者など)に対する犯罪を含んでいるという点で南京事件とは性格が異なり、南京事件を裁くには「人道に対する罪」は不可欠ではなかった。(Apeman) (引用者注)戦時国際法違反で有罪になったことが、戦時国際法違反の市民および捕虜「虐殺」の無罪証明になる? この事実は、東京裁判において、「南京大虐殺」が虚構であった事を証明している事になる。 ならない。単に極東軍事法廷が松井石根を「人道に対する罪」「平和に対する罪」では有罪にしなかった、ということを示すだけである。(Apeman) 直前に「訴因五十五項(俘虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反)の一つだけが有罪で処刑されたのである」と書いてある以上、「南京大虐殺」が虚構どころか事実であった証明にしかならないはずだが・・・捕虜や一般人に対する条約遵守の責任を果たしていないわけだし。(scopedog) 5 《『偕行南京戦史』とは何か》…23 南京戦史は一九八〇年代の朝日新聞などの「南京大虐殺」大キャンペーンに対して、南京攻略戦に従軍した将兵が中心になって編集したと一般的に認知されているが、その実体は違う。その編集委員の中に戦場を知らない者が入っていた。 これは板倉由明サンのことか(笑) (Apeman) (引用者注)証言による南京事件参照 その実態は『ゼンボウ』平成三年九月号で同編集委員、鵜飼敏定氏が「南京事件を旧陸軍の罪業の一つと位置づけて旧軍の罪業を暴き、虐殺の数字を検証して日本軍は南京で何万あるいは何千人を虐殺したかを明らかにする事と南京戦史を書く目的とする委員と戦史を書く事によって戦争の本質と戦場の実相を明らかにして南京事件とは何かを問おうとする委員とに分かれたため、総括者が両者の極端を捨てて、ほど良いところをとる所謂折中方針によって編集を指導した。参戦した委員と戦争を知らない委員との史観は相反した。」と述べている。 (引用者注)偕行社の『証言による南京戦史』は、そもそもが虐殺シロ説を確固たるものにしたいという趣旨で、南京戦に参加した会員からの証言を集め、戦史を確立しようとしたものであった。編者は畝本正己氏で機関紙「偕行」編集部も執筆中の討議に加わった。しかし会員からの証言の中には虐殺クロの証言が少なからずあり、それを否定することは出来なかった。その結果編者および編集部は、日本軍の不法行為を認め、その犠牲者数(畝本3~6千、板倉8千~1.3万)をあげて中国人民に謝罪した。 上記鵜飼氏の議論はそれが気に入らないという言いがかりであろう。偕行編集部「会員諸賢に」、および「証言による南京戦史―その総括的総括」参照。番外編には、鵜飼氏の編集部宛て批判文も掲載されており、偕行編集部がそれらに答えている。<会員投稿に答える>偕行編集部参照。 このような、戦後のイデオロギーが混入した状況で編集された『偕行南京戦史』は、正式な戦史でない事が明らかで、参考資料の一つ以上のものではない。 戦後の民間団体である偕行社が編纂する戦史は、もともと「正式な戦史」であるはずがない。当然のことだが、「正式な戦史」でないからといって内容が不正確であるともいえない。「正式な特別職」である国会議員が書いたものだからといって内容が正確であるともいえない、ということと同じです。 二〇〇七年三月の「南京問題小委員会」に講師として参加された青山学院大学名誉教授で国際法が専門の佐藤和男博士は、『偕行南京戦史』に記載されている捕虜の処断を検証した。 (1) 第九師団歩兵連隊による安全区掃討作戦において摘出した便衣兵六六七〇名の処断。 (2) 第十六師団歩兵第三三連隊の太平門、下関、獅子山付近で捉えた捕虜三〇九六人の処断。 (3) 第十六師団歩兵第三〇旅団が南京西部地区警備中に捕らえた敗残兵数千人の処断。 (4) 第百十四師団歩兵第六六連隊第一大隊が雨花門外で捕らえた捕虜一六五七人の処断。 (5) 山田支隊が幕府山付近で捕らえた捕虜数千人の処断。 以上、右列記した事例について佐藤博士は、いずれも戦時国際法違反でないと断定し、現在、南京問題研究者が素人判断で捕虜の処断を「虐殺」とする研究に対して苦言を呈していた.(資料17) 佐藤博士が問題ないと断定した右(1).(5)の事例は、中国側も当時、戦時国際法違反があったと国際連盟に提訴していない。 捕虜の処刑が問題ないという法的論拠がまるでない。 あと、ここでいう「当時」とはいつなのか?戦争中であれば、(1)~(5)の事例のいずれも中国側が正確に知りえるはずもなく、提訴以前の問題。「当時」が戦後を指すのなら、ちゃんと容疑事実として挙がっているので事実に反する。(scopedog) 「根拠不明」というscopedogさんの指摘への補足として。裁判と歴史記述とでは評価基準が違っているのは当然である。歴史記述が取り上げるものは、法的に立件されたもの、といった狭い範囲に限られない。(Apeman) 6 《「南京大虐殺」の政治宣伝とは何か》…25 一九三八年二月の国際連盟での顧維釣中国代表の演説「二万人の虐殺と数千人の暴行」が政治宣伝の最初であれば、文書による中国国民党政府の政治宣伝は、マンチェスター・ガーディアン記者ティンパーリーによる『戦争とは何か=中国における日本軍の暴虐』が原点になる。 郭沫若『抗日戦回顧録』によると、国民政府政治部は陳誠を部長に、周恩来を副部長とし、その下に四つの庁を置いて抗日宣伝、情報収集等を行っていた。『戦争とは何か』は、一九三八年七月、中国語に訳され、郭沫若が序文を書き抗日宣伝の教材として頒布された。 ティンパーリーが中国国民党中央宣伝部の顧問だったことは、鈴木明氏が突き止めた。そして、前掲書が国民党の宣伝本だった事は、北村稔立命館大学教授が中国国民党中央宣伝部国際宣伝処長曾虚白の『自伝』に「我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いて貰い、印刷して発行する事に決定した・・・・二つの書物は、売れ行きの良い書物となり、宣伝の目的を達した」と記載されている事を明らかにしている。 井上久士教授の反論「つまり国際宣伝処が金を渡して本を書かせたのではなく、ティンパリーが「正義感に燃え」て編集した原稿を国際宣伝処は買い取ったのである。」(※)を完全に無視している。反論を無視する主張に学術的な価値はない。 (Apeman) (引用者注)(※)『現代歴史学と南京事件』(柏書房)所収の井上久士「南京大虐殺と中国国民党国際宣伝処」のこと。ゆうさんの「小さな資料集『南京事件 初歩の初歩』の後尾に収録されている。 日本での「南京大虐殺」の政治宣伝は、東京裁判を原点とするが、活字による「政治宣伝」は、一九七一年の朝日新聞の連載「中国の旅」からであろう。それは、写真集としての中国の旅『中国の日本軍』(本多勝一著・一九七二年)の巻頭に郭沫若(中日友好協会名誉会長)の推薦文が掲載されている事が物語っている。(資料18) また、『中国の日本軍』の解説は、中国帰還者連絡会会長の藤田茂氏が寄稿している。藤田茂氏は、一九六五年周恩来首相に招待されて、中帰連会員とともに人民大会堂を訪れている。 ここの文は意図が不明(というよりあまりにも下劣な印象操作で醜悪極まる)。中国を訪れた人間が解説を寄稿したら、その本は信用できなくなるのか? 周恩来に招待されたら一体なんだというのか? 藤田茂は元第59師団長で中国側に戦犯として捕らえられ釈放された中では高位の将官であるので、中国との行き来があってもおかしくない。 もし、このような関係を以て藤田氏が中国側のスパイであるかのように印象付けたいのであるなら人として最低である上に、安倍晋三の祖父・岸信介がアメリカのスパイであることも疑うべきだろう。 (scopedog) 7 《「南京大虐殺」の捏造写真について》…26 本来、報道写真は「誰が」「いつ」「どこで」撮影したものか明らかに出来ない写真などは無価値である。ところが、「誰が」「いつ」「どこで」撮ったものかわからない写真が「南京大虐殺」の証拠写真として一人歩きしているのが現状である。また、そのような写真を一つ一つ検証する事は、中国側の策略に踊らされている事になる。 (引用者注)大虐殺は写真によって証明されているのではなく、日本軍兵士の証言や日本軍の陣中日誌などによって実証される。写真は「一つ一つ検証」いくなかで、その写真が撮影された時の状況がわかってくる。「誰が」「いつ」「どこで」撮影したものか、その要件がそろわない無名の兵士が撮影したものでも、状況検証によって立派な史実資料になりうる。 日本側の立場としては、そのような写真をまとめて報道写真として無価値であると声を大にして訴えれば済むことである。 8 《「南京大虐殺」の政治宣伝にたいして》…27 「南京大虐殺」の政治宣伝は、一九三八年の国際連盟理事会において、顧維釣中国代表が「二万人の虐殺と数千の女性に対する暴行」があったとする政治宣伝が原点であると判断した。南京問題小委員会は、顧中国代表が国際連盟の「行動を要求」したにもかかわらず国際連盟は、決議案に「日本非難決議」として採択しなかった事を最重要と判断する。 すでに述べたように、中国代表の演説は決議案が作成された後に行なわれている。(Apeman) また、東京裁判において、南京攻略戦総司令官松井石根大将の判決で、「平和に対する罪」「人道に対する罪」の訴因すべてが無罪だった事を重視するものである。 以上、人道に反する「南京大虐殺」は、国際連盟、東京裁判においても否定されていたものと判断する。 尚、南京攻略戦での犠牲者数に関しては、当時、世界最大の取材班を送り込んでいた朝日新聞約八十名、毎日新聞約七十名の両社とも、二〇〇七年二月「南京大虐殺」の犠牲者数は「特定しておりません」と公式見解を出している(資料19)。 南京攻略戦を一番詳細に取材していた両新聞社ですら、特定できない犠牲者数を国会議員が特定する事など不可能である。 (引用者注)両新聞社は、昭和12年の上海―南京の戦争の時には、軍のお先棒を担いで翼戦報道に邁進していた。両新聞社が、戦争の被害者に目を向けるようになったのは戦後になってからのことである。昭和12年のころから戦争被害に目を向けていたら、軍の意向に逆らってでも犠牲者数の調査をしていたかもしれないという意見もあるが、昭和12年には既にジャーナリズムの灯は殆ど消えていた。 国家間で平和条約を締結後の歴史認識問題は、歴史の専門家の研究に委ねられる事と判断する。 ならば黙っていてはどうか? そして「歴史の専門家」の研究成果を尊重してはどうか? Apeman) 同小委員会は、一次資料を中心にした検証の結果、南京攻略戦が通常の戦場以上でも以下でもないとの判断をするに至った。 小委員会は、偕行社が明らかにした捕虜殺害を「いずれも戦時国際法違反でない」としているが、捕虜殺害そのものは否定していない。合法・違法は敢えて問わないとして、短期間にこれほど(六六七〇+三〇九六+数千+一六五七+数千)の数の捕虜を殺害した事例が、第二次世界大戦の全戦線を通じてどれだけあるというのか?(Apeman) 9 《報道機関への要望》…29 南京攻略戦を取材した世界のメディアは、自社が報道した当時の記事と他社が報道した記事の真偽を再度検証して真相を明らかにして頂きたい。 10 《中国への要望》…29 一.中国の温家宝首相が二〇〇七年四月に来日して国会で演説したように、「日中友好」は重要な事である。そこで、日中友好親善を推進する為にも、中国側歴史研究者も間違いを認めた「南京屠殺記念館」に表示してある犠牲者数三十万人を直ちに外して頂きたい。 一.各戦争記念館及び「南京屠殺記念館」に展示してある写真のほとんどが「誰が」「いつ」「どこで」撮影した写真かを明らかにしていない。このような写真は、国際的に報道写真として無価値である。また、戦時中、日本人が撮影した写真の解説を変えて展示している写真もある。 以上、報道写真の原理原則を満たしていない、日本に関係した写真は、中国が速やかに撤去することで、二十一世紀の真の日中友好親善が推進できるものと判断した。 個別の検証を行なわずして撤去を要求することが「友好親善」に役立つとは、ずいぶんと虫のいいはなしである。(Apeman) 平成十九年六月十九日 「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」 会長中山成彬 事務局長西川京子 南京問題小委員会 委員長戸井田とおる 結局この戸井田報告は、昭和62年発行の田中正明著「南京事件の総括 虐殺否定15の論拠」の焼き直しであり、すでに公開されていた外務省史料を、『新発見!』『新発見!』と騒ぎ立てて新たな味付けに使った、モノのようです。 田中正明氏の論点はここにありますが、無用なmusicにはご注意ください。 11 資料一覧 (資料1)笠原十九司氏、一九九八年十二月二十三日号の「SAPIO」 (引用者注)笠原十九司氏の1998年12月23日号「SAPIO」論文は、「ホドロフスキの記録帳」さん書き起こしていますhttp //d.hatena.ne.jp/Jodorowsky/20080216#1203164119。それを読めば、この報告書の引用が典型的な『トリミング末法』であることが分かります(笑)。 (資料2)第百会期国際連盟理事会(一九三八年一月二十六日~二月二日)の議事録 (引用者注)議事録の翻訳文は2通りあるようです。http //1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Liar_Koo.html 英文の一部は こちらに。 (資料3)二〇〇七年二月二十一日衆議院内閣委員会で取り上げられ、戸井田とおる衆議院議員の質問 (引用者注)衆議院内閣委員会議事録http //www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000216620070221002.htm (資料4)昭和十三年二月十八日付 外務省機密文書「第百会期国際連盟理事会の議事録に於ける日支問題討議の経緯」 (引用者注)「機密文書」を「発見」したと勿体ぶっているが、これは既にアジア歴史資料センターで公開済みの資料だ。レファレンスコード B04013944900 (資料5)一九三七年十二月十七日付朝日新聞での南京戦従軍記者九名による紙上座談会 (資料6)朝日新聞上海支局次長 橋本登美三郎の証言「『南京事件』日本人48人の証言」(阿羅健一著) (資料7)ニューヨーク・タイムズ、ロンドン・タイムズなどの一九三七年十二月~一九三八年一月まで二ヶ月間の報道 (資料8具体不明)NHKが「真相箱」を翻訳して放送した? (資料9具体不明)アリソン事件関連? (資料10)『ドイツ外交官の見た南京事件』一四三頁 (資料11)昭和六十年八月十日付産経新聞、阿羅健一氏の崇善堂に関する記事 (引用者注)南京事件FAQ「崇善堂が埋葬活動をしていたことは事実」参照。「1938年2月6日付けで南京市自治委員会に宛てた手紙で「査するに弊堂が埋葬隊長を成立させてから今まで一ヶ月近くたち」とあるので1月から作業をはじめていることがわかる。」 (資料12)紅卍字会の埋葬記録? (引用者注)これと同じデータだろうか? 南京事件資料集「世界紅卍字会南京分会救済隊埋葬班死体埋葬数統計表」 (資料13)中華民国軍政部長 何應欽の軍事報告書(『何上将抗戦期間軍事報告』上冊 文星書店(台湾)中華民国五一年六月) (引用者注)南京事件FAQ 「何応欽の軍事報告は「虐殺」の報告を目的としていない」 (資料14)世界紅卍字会南京分会長 陳漢森の、比良艦長、土井中佐への礼状。 (引用者注)http //t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/3/hcfqrf/aebqrf.html#aebqrf (資料15)「陸軍刑法、陸軍懲罰令」 (資料16具体不明)松井石根に対する東京裁判判決? (資料17具体不明)佐藤和男博士の『偕行南京戦史』への苦言 (資料18)『中国の日本軍』(本多勝一著・一九七二年)の巻頭に郭沫若(中日友好協会名誉会長)の推薦文 (資料19)朝日新聞、毎日新聞の、二〇〇七年二月「南京大虐殺」の犠牲者数は「特定しておりません」との公式見解? 「戸井田報告」=「南京の実相」批判のページ(1)へ戻る 南京事件庫 コメント欄(戸井田2) アラシが入りましたので、コメントフォームは閉鎖しました。 ご意見は「掲示板」でお願いします。 http //tree.atbbs.jp/pipopipo/index.php?mode=expn
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2539.html
http //mainichi.jp/select/seiji/news/20100201ddm002010156000c.html 日中歴史共同研究:NHK放送映像、中国国内で遮断 【北京・浦松丈二】中国国内で31日夜、日中歴史共同研究について報道したNHKの海外向け放送の画面が真っ黒になり、数秒にわたって視聴できなくなった。天安門事件の映像を中国当局が遮断したためとみられる。 中国メディアは同日夜、「日中歴史共同研究委員会」が報告書を初めて発表したとのニュースを簡単に報じているが、詳しい内容は一切伝えていない。 毎日新聞 2010年2月1日 東京朝刊 日中歴史共同研究
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/528.html
『「慰安婦」問題調査報告・1999』 雲南・ビルマ最前線におけ慰安婦たち一死者は語る 浅野豊美 ソース:http //www.awf.or.jp/program/pdf/p061_088.pdf 注 当事者の記憶との乖離を埋めることができなかったのは、そのような分析手法にも問題があったといえるかもしれない。 英語名は「Myitkyina」、中国名は「蜜支那」、よって日本側では「ミイトキーナ」或いは「ミチナ」と2通りで呼ばれた。ビルマ語の発音に近いミチナを使うこととする。 RG111 SC230147( BOX85)( National ArchiveⅡ Washington D.C. )CBI-44-29969 3SEPT.1944 LOT #10158..写真裏面のキャプション原文は以下の通り。PHOTOG PVT. HATFIELD; FOUR JAP GIRLS TAKEN PRISONER BY TROOPS OF CHINESE 8 TH ARMY AT VILLAGE ONSUNG SHAN HILL ON THE BURMA ROAD WHEN JAP SOLDIERS WERE KILLED OR DRIVEN FROM VILLAGE. CHINESE SOLDIERS GUARDING GIRLS. RG338 Records of Allied and US Army commands, CBI Theater of Operation RG338-290-D-5-3 Public relation Section Box (OldSystem) No. 791-792 Roundup(日時不明1944年11月).『ラウンドアップ』は、CBI(中国-ビルマ-インド)方面に駐留するアメリカ軍が出していた週刊新聞。The CBI Roundup is a weekly newspaper published by and for the men of the united states Army Forces in China, Burma and India from news and pictures supplied by the staff members, soldier correspondents the United press and the war department. この記事は、同資料を切石博子調査員の協力の下で、筆者と秦郁彦日本大学教授が閲覧している最中に、同教授が発見されたものである。また、ワシントンの資料館で長期間独自に資料調査を進めていらっしゃる方善柱杏林大学教授も、既にこの資料を発見しておられ、当地で面会した際にこの資料の存在について御教授頂いた。関係の方々、特に粘り強く資料閲覧を続けられ、快く資料の提供に応じて下さった秦教授には改めて感謝申し上げたい。 松山が9月7日午後4時に完全に中国第8軍主力によって制圧された際に、「敵軍九名、内有中尉一員、此外並俘敵婦五名」を「俘虜」にしたとある。「遠征軍司令長官衛立煌自保山報告攻占松山及俘獲與我軍傷亡情形電-民国三十三年九月七日」『中華民国重要史料初編-対日抗戦時期第二編 作戦経過』中国国民党中央委員会党史委員会、1981年、505頁。この史料の存在と閲覧に関しては、台北にある中央研究院近代史研究所の研究員、朱浤源氏と、その弟子の林宗達氏から便宜を賜った。朱浤源氏は駐印遠征軍中の将軍に関する伝記研究を長年にわたって進めている。孫立人は、蒋介石と共に台湾に渡った後、一時はアメリカとの個人的パイプ故に全軍の司令官ともなったが、やがて蒋介石から疑いを掛けられ長期間軟禁状態に置かれてきた。こうした個人的パイプは、ビルマでの戦いの最中に築かれたものであるし、台湾で孫立人が初めて台湾で組織した、「女青年大隊」は、ビルマ戦線で目撃した米軍の女性部隊をモデルとしたとも考えられる。いずれにせよ、朱浤源氏は、孫立人が台湾の民主化によって解放された直後に、孫立人と面会しインタビューもしておられるので、近く長年の成果をまとめられる予定である。関係資料についての閲覧をさせていただいたことに対して、厚く感謝申し上げ、孫立人研究の一刻も早い完成を願って止まない。 防衛庁防衛研修所戦史部『戦史叢書 イラワジ会戦-ビルマ防衛の破綻』朝雲新聞社、1969年、277頁。 RG111 SC230148 写真の裏側には、以下のようなキャプションが付されている。A JAPANESE GIRL CAPTURED IN VILLAGE ON SUNGSHAN HILL BY TROOPS OF CHINESE 8 TH ARMY. WHEN ALL JAP MEN WERE KILLED IN CAVE, THE CHINESE SOLDIERS FOUND THIS GIRL HIDING IN CORNER OF CAVE. CHINESE SOLDIERS CALLING ARMY HQS. TO TELL OF THE CAPTURE. (大文字原文) RG111 SC247349。9月7日に撮影された写真には以下のようなキャプションが付けられている。Tec 5 Myer L. Tinsley, Yarnaby, Okla., gives first aid to Japanese girl wounded by Chinese 8 th Army artillery and taken prisoner from cave on Sung Shan Hill where Jap soldiers were all killed trying to hold the cave. Two Chinese soldiers display captured Jap flag. China, 9/7/44; Signal Corps Photo #CBI-44-29992(Pvt. Charles H. Hatfield), from 164 Sig Photo Co, released by PRD 7/15/46. Orig. neg.Lot 12541 pg. 西野留美子『日本軍「慰安婦」を追って』マスコミ情報センター、1995年、136頁。 陸軍一級上将黄杰『嗔西作戦日記』国防部史政局、1982年、307頁。 前掲『イラワジ会戦』、289頁。 RG111 SC212091(CBI-44-60370)キャプションの原文は以下である。15 Sept 44 PHOTO BY T/4 FRANK MANWARREN BODIES OF JAP TROOPS AND WOMEN (下線部は手書きにより挿入)KILLED IN THE CITY OF TENGCHUNG WHEN THE CHINESE TROOPS STORMED THE TOWN. CBI-44-60371, 15 Sept 44 PHOTO BY T/4FRANK MANWARREN BURIAL PARTY STARTING TO WORK AT INTE□□NG(2文字手書きにより修正、INTERRNGと読める。しかしINTERROGの書き間違えか)THE WOMEN KILLED AT TENGCHUNG WHILE THE JAPANESE AND CHINESE TROOPS FOUGHT OVER THE CITY. MOST OF THEM ARE KOREAN WOMEN KEPT INT HE JAP CAMP. 前掲『イラワジ会戦』、80-87頁。 陶達綱『嗔西抗日血戦写実(民国三三年-三四年)』中華民国国防部史政編訳局、1988年。 中国語原文は「狼狽不成人形」。眼をぎらぎらさせ、髪の毛が汚れきった浮浪者などに使う言葉で、日本語の狼狽とは異なる。この点は、坪田敏孝氏からご指摘頂いた。 「遠征軍第二十集団軍総司令霍揆彰自保山報告攻占来鳳山及騰衝経過電-民国三十三年九月十四日」、中国国民党中央委員会党史委員会『中華民国重要史料初編-対日抗戦時期第二編作戦経過』1981年、507-508頁。 三浦徳平『一下士官のビルマ戦記-ミートキーナ陥落前後』葦書房、1981年、247-248頁。 前掲『イラワジ会戦』、59頁。 カール・ヨネダ『アメリカ情報兵士の日記』PMC出版、1989年、100頁。 前掲『イラワジ会戦』、53頁。 RG111 SC262578 写真の裏に付いているキャプションの原文は、以下の通り。Sgt. Karl Yoneda, San Francisco, Calif., Japnese interperter( interpreter の誤りか), questions Kim a Japanese "Comfort Girl" at the M.P.Stockade on the Air strip, while Edward J. St.John, Franklin, Maos. Stands guard in the rear. Kim served as a nurses aid in Myitkyina. Burma, India. 3 Aug 1944. (財)女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成⑤』(以下『政府調査資料⑤』とのみ記す)龍溪書舎、1998年、215頁にも、同写真及びそのキャプションが写真製版にて掲載されている。 カール・ヨネダの日記を翻訳したとされる、『アメリカ情報兵士の日記』(PMC出版、1989年)によれば、その経歴は以下の通り。1906年ロサンゼルスに生まれる、1913年来日、広島中学校に学ぶ、1926年帰米後、労働運動に従事、1933年アメリカ共産党日本語機関紙『労働新聞』主筆。1942-45年米軍情報部軍曹として従軍、1957年国際沖仲仕・倉庫員組合の活動家、1983年サンフランシスコより名誉表彰状。この経歴には、書かれていないが、戦後のマッカーシズムの時代には、元OWIのオーウェン・ラティモア同様ひどい弾圧を受けたはずである。 ヨネダ、前掲書、4-5頁。 同上、74頁。 同上、96頁。 同上、97-98頁。 同上、101頁。 同上、109頁。 Won-loy Chan, Burma The Untold Story.,Presidio Press, 1986, pp.3~4. 同上、pp. 92-93. 原文は、"Kim was a "comfort girl" and looked the part in an above-the-knee length dress that was obviously all she was searing." 西野留美子は、「looked the part in ~dress」の部分を、「膝上までの衣服しかつけていないように見えた」と訳しているが、これはlookが第2文型の動詞であり、その補語として、the part が機能しており、theという定冠詞が、その直前のcomfort girlを指していることを見逃している。英語構文の理解が不可能なまま、何とか日本語にこじつけた訳といわざるを得ず、チャンからは彼女が慰安婦という役のように見えたというのが直訳である。西野留美子『日本軍「慰安婦」を追って』マスコミ情報センター、1995年、131-132頁。 Japanese Prisoner of War Interrogation Report No.49., October 1, 1944. RG226 OSSE154 BOX 102 FIELD STATION FILESKANDY - REG - INT -7 thru 8 A-1, Entry 154, OWI miscellaneous material. この資料の写真製版は、『政府調査資料⑤』203-209頁に収録されており、日本語訳は吉見義明編『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年、439-452頁に掲載されているが、脱出の経過に関しては449頁を参照。 東南アジア翻訳尋問センター「心理戦尋問報告第二号」1944年11月30日、吉見編、前掲書、459頁。 前掲書。 Japanese Prisoner of War Interrogation Report No.48(Interrogation of Miyamoto Kikuye)RG226 OSS E154 BOX 101. この資料を最初に発見されたのは方善柱先生であり、「米国資料に現われる韓人〈従軍慰安婦〉の考察(韓国語)」(『国士館論叢』第37集、1992年)という論文がまとめられている。その中ではキムが、最初慰安婦とされたものの、実は、看護婦であったことが、日付を根拠に簡単に触れられている。またこの尋問記録は、キムがひどい差別的待遇に置かれてきたことを証明する資料として位置付けられている(234-235頁)。 Chan、前掲書、94頁。ここで、チャンはミチナ陥落の3日の時点で、約21名の慰安婦がそこにいたとも述べているが、チャンの意図は、3日に少なくとも21名がいて、その内1人は3日の時点で捕虜になり、その残りの20名余が3日の夜に脱出し、1週間後に捕虜となったという形の事実理解を組み立てることにあった。これを見ても、慰安婦達の脱出が、実は31日の夜であったという尋問記録をチャンが見ていないのは明らかである。 前掲『政府関係資料⑤』215頁。 前掲『イラワジ会戦』51、53頁。 吉見編、前掲書、452頁。 同上、459頁。 同上、458-459頁。 同上、464頁。 菊山砲第十八連隊史編集委員会「砲声」(太田毅『40年目のビルマ戦』葦書房、1983年、237-238頁より重引) 吉見編、前掲書、456頁。ハ(河)の名前は、Hとのみ記載されている。 RG226 OSS E154 BOX 101 Interrogation of U KIN NAUNG and TAN LEO. 文玉珠語り・森川万智子解説『ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私』梨の木舎、1996年、179-180頁にも、ビルマ中部にあるビルマ第2の都市マンダレーに駐留した55師団が、イギリス軍の残したスコッチウィスキーや、武器・食料・車両を自由に使っていた記述がある。 和田春樹「『慰安婦』問題の歴史を考える」、大沼保昭・下村満子・和田春樹編『「慰安婦」問題とアジア女性基金』東信堂、1998年、8頁。 この説は、筆者が、ワシントンで調査をしていた折、方善柱教授から最初に示唆を受け、それを更に私なりに展開したものである。 Chan、前掲書、95-97頁。 西野、前掲書、133頁にも、同じ個所からの翻訳があるが、何故慰安婦達が笑い、泣き出したのか、チャンは何故胸を締め付けられるように感じたのかについて、訳出に誤りがある。 ラングーンにいた朝鮮人の慰安婦は、「アリラン部隊」と呼ばれていた。榊山潤『ビルマ日記』南北社、1963年、194頁。55師団司令部付の慰安婦であった、文玉珠も1942年7月10日釜山から出発した輸送船に、ミチナに送られた女性達と共に乗り込んでいたが、船中では出身地対抗演芸会が頻繁に開かれ、朝鮮各地域の様々なバリエーションのあるアリランが最後に歌われたという。この船には、全部で703名の朝鮮の女性達がのっており、もしかすると、拉孟に送られた慰安婦達も、6月ではなく7月にこの船で送られたのかもしれない。文玉珠、前掲書、52、181-182頁。 Chan、前掲書、95頁。ここでチャンは、「それまで女性の売春婦が日本人に奉仕しているという話を聞いたことはあったが、半分しか信じていなかった。しかしそれが今目の前にいる」という表現で驚きを示している。これを見ても、最初に捕虜となったキムのことを「慰安婦」と認定したのは、後のことであることが分かる。 文玉珠、前掲書、182頁。 小野沢あかね「『国際的婦女売買』論争(1931年)の衝撃-日本政府の公娼制度擁護論破綻の国際的契機-」、津田塾大学『国際関係学研究』No.24、1997年、93-110頁。1931年来訪した国際連盟婦女売買調査団に対し、日本政府は公娼制度を擁護すべく、強制性を伴わない売春斡旋を婦女売買とは認めないとする見解に立って反論したが、前借金契約の違法性や、女衒などの芸娼妓斡旋業の不道徳性自体に対しては沈黙せざるを得ず、それが内務省をして公娼制廃止へと歩み出させるまでに至ったことが述べられている。日本軍による慰安婦制度は、こうした前借金契約の違法性を不問にし、売春斡旋業者を許可制とし管理することを本質としていたといえよう。 雲南・ビルマ最前線における慰安婦達index
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プロローグ 「この戦争の結果、長江から日本本土にかけて、鉄のカーテンが降ろされた」 ―――ウィストン・チャーチル(英国首相、1952年) 1945年3月に終わった第二次世界大戦の結果、日本はソビエト連邦の傘下に加わることとなった。 その原因の全ては1944年にある。その年は時代が急激な変化を始めた年であった。 6月20日、アメリカ合衆国副大統領ヘンリー・ウォレスが、中国訪問中に帝国陸軍機の攻撃を受け乗機と運命をともにしたのを皮切りに、世界のあちこちで急激な変化が起こった。 共通の敵“日本”を倒すために同盟していた中国国民党と中国共産党は、アメリカの仲裁も聞かずに内紛をはじめ、中国大陸は日本、国民党、共産党が三つ巴の争いを始めた。 ヨーロッパでは、その一ヵ月後の7月20日、ヒトラー総統が総統大本営にて暗殺され、直後ベルリンで発足した臨時政府は米英に降伏する旨を発表した。 しかし、東部戦線ではソ連側が(スターリンの命令で)この降伏宣言を無視しさらに西進を進めたことで、米英に過剰な危機感を植えつけた。 そして何よりも決定的だったのは、フランクリン・デラノ・ルーズベルトが国民向けラジオ演説“炉辺談話”の生放送の最中に急性脳卒中により急死したことだった。 親中親ソ反日のルーズベルトの死は、その後のアメリカに大きな影響を与えた。 ルーズベルトの後任は、ウォレスの死後副大統領に昇格したばかりのハリー・トルーマン。 そして大統領に就任したばかりのトルーマンに、最初の試練は訪れた。 “カチンの森暴露事件”と“セント・クリスピンの虐殺”である。 前者は、ルーズベルトが握りつぶしたはずだった、ソ連秘密警察NKVD(НКВД)によるポーランド人将校虐殺事件の調査報告書を、密使としてバルカンに派遣されたジョージ・アール大尉が国内外のメディアに暴露し、アメリカ国内世論を揺るがしソ連邦への疑惑を大きくした。 後者は日本海軍がレイテ湾で上陸船団及び海岸堡に対する艦砲射撃を行い、陸軍のダグラス・マッカーサーをはじめ二十万人もの兵員と百万トンにも及ぶ多数の艦船を失い、合衆国の対日戦略を見直しせざるをえなくなった。 トルーマンは後者について、ソ連向けレンドリースの中止によって浮いた人員と艦船の配備で、その穴を埋めることを決定したが、これは前者の事件に対するソ連への制裁的手段でもあった。 一方、日本でも事態は急変していた。 海軍がレイテ沖に突入しようとしていたその日、モスクワでは日ソ中立条約の破棄が言い渡され、その一週間後の宣戦布告が言い渡された。 満州国および関東軍はこの報告を受けて、急遽居留民の避難と厳戒態勢をしき、ソ連との開戦準備に備えた。 レイテを血で染めた連合艦隊がブルネイに到着したとき、ソ連は日本に宣戦布告し満州で矛を交えた。 日本軍は準備をしていたとはいえ、圧倒的な数と火力を持つソ連赤軍に圧倒され、12月23日の皇太子誕生日には満州のほぼ全土を占領されてしまう。 ところがこうした中、赤軍は何故か突然南進を停止した。 ヨーロッパの赤軍が、日本軍と比べ物にならない難敵と激突したからだ。 アメリカ軍と英国軍という名前の敵と、最初に戦闘を行ったのは、ゲオルギー・ジューコフ元帥指揮下の第一親衛戦車軍であった。 ベルリンに最初に入場を果たした米英軍とソ連軍の戦いは、最終的にはソ連側の勝利に終わったものの、両者の友好関係は破局的になった。 この事件でソ連は、いや、スターリンはこれ以上の敵を増やすことを恐れた。 極東での急な進撃停止は、この事件勃発直後であった。 そして、日本の運命が決したのは、翌年の三月だった。 ヨーロッパでは東ヨーロッパを押さえたソ連と、アメリカを中心とする連合国が火花を散らしており、一方太平洋ではアメリカ軍は“セント・クリスピン”の痛手から立ち直れずにいた。 三月。 呉にブルネイから連合艦隊が帰還したその日、帝都で陸海軍の合同部隊によるクーデターが起こった。 クーデター部隊は帝都を占領し、臨時政府の樹立を宣言。 さらに日本はソ連に降伏することを発表した。 無論交戦派の暴走も予想されたので、クーデターの首魁である寺津賢次郎陸軍少将は、天皇陛下に玉音放送を流す許可をもらい、民心と軍隊を抑えたのであった。 これが日本がソ連の傘下に入った事の顛末である。 なお、天皇はその後アメリカが占領した沖縄へ亡命し、それに続いて、一部の政治家が沖縄で亡命日本政権をたてていた。 この天皇亡命事件は、“立憲君主制社会主義国”を掲げる日本民主主義人民共和国にとって、名目上の元首たる天皇が逃げ出したことは誤算であり、その後の教育現場では“天皇陛下は資本主義者に誘拐された”と教えることになる。 それから半世紀。 日本民主主義人民共和国は、ソビエト連邦の忠実な同盟国であった。 オイルショック後の西側経済の混乱のさなかに急激に力をつけ、1970年代末に日ソの経済力が完全に逆転しても、日本はソビエト連邦を主として仰ぎ続けた。 むろん、ぼろぼろに打ちのめされた日本が世界でも有数の経済力を有するには、それなりの過程があった。 日本民主主義人民共和国と名を変えた日本は、終戦時のクーデターを起こした寺津が首相となり、日本の再生を国民に約束した。 46年に寺津はモスクワを訪問し、日ソ相互通商援助条約を締結、その代償として北海道がソ連に租借された。 無論、この日ソ相互通称援助条約には、日本への経済支援のほかに軍事支援も含まれていたことは、国民は知らなかった。 この日ソ相互援助条約締結を知ったアメリカは、日本の再軍備化と拡張主義の再燃を強く懸念し、ソ連に抗議したが、スターリンはこの抗議後、日本に対する軍事支援を強化した。 これには、スターリンの考えが大きく現れていた。 スターリンは日本を盾として使うことを考えたのだ。 特に、日本はソ連以上の質を誇る海軍を保有しており、一部の艦船は戦時賠償として引き渡されていたが、それでもまだまだ日本は強大な海軍力を保有している。 ソビエト赤軍は、陸軍こそ世界最強を誇っていたが、西側の盟主たるアメリカには(特に航空戦力と海軍力が)質でも量でも完全に劣勢だった。 特に、アメリカはトルーマン・ドクトリンを発表しており、すでにスターリンは西側との戦争は避けられない状態まできたのだと悟っていた。 そして、45年に再発した中華動乱が再び大きくなろうとしていた1946年5月、スターリンは日本に対する支援をさらに強化し、満州に駐留するソ連赤軍向け物資生産を日本に命じた。 日本経済再生の序曲が始まった瞬間であった。 1948年には中華動乱は本格的に戦火が大きくなっていった。 また、朝鮮半島でもアメリカの支援を受けた李承晩の大韓民国とソ連の支援を受けた金日成の朝鮮民主主義人民共和国の関係悪化に伴い、日本の特需はさらに高まることとなった。 無論、アメリカは蒋介石の国民党もそうだが、李承晩にも大規模な支援を送っている。 その理由としては、大韓民国の地理的位置にあった。 ソ連などの共産圏に近く、さらに“ジャパン・ネイヴィー・ガーデン(日本海軍の庭)”と呼ばれるほど影響が強かった日本海における日ソの支配を脅かすことが出来る好位置に、この国があったからである。 しかし、極東を舞台にした米ソの代理戦争は社会主義陣営の敗北に終わった。 戦争初期こそ、1950年に朝鮮半島でも戦火が広がったことで、アメリカを中心とする国連軍が参戦し、アメリカの支援を受けた国民党・韓国両軍が優勢に事を進めたが、アメリカの目がヨーロッパに再び集中しはじめ、支援が先細りになっていた上に、農民を中心とした人心を失い、幾多の戦闘で兵士の士気も低くなったことなど、しだいに共産軍が優位に立ってきた。 一方国連軍はリッジウェイ中将率いる第8軍が山東半島を占領していたが、共産軍の攻撃により国民党軍が南に下がったことで、孤立する危険性が出てきた。 何しろ強大な海軍をいまだ保持する共産日本が、海軍を派遣する可能性もあったからだ。 アメリカは、1951年からB-29による日本への空爆を再開していたが、ソ連から貸与されれたMiG-15戦闘機や、旧軍の本土防空戦でB-29と戦ったパイロットなどにより、WWⅡ時よりもB-29の損害は非常に大きくなっていた。 そして、決定的な破局は、1952年の南京放棄宣言と、ソ連の支援を受けた北朝鮮軍の大攻勢開始であった。 双方の戦線で、国民党軍と韓国軍は惨敗、蒋介石の首都南京放棄による戦線崩壊と李承晩の立てこもるプサン陥落は、もうだれにもとめることはできないかに見えた。 アメリカはもはや蒋介石と李承晩が共産軍を食い止められないと判断し、最終手段を用いた。 すなわち、中国と朝鮮半島への原爆投下である。 投下された十一発の原爆のうち、中国には九発、朝鮮には三発投下された。 偶然その日朝鮮人民海軍の視察に出かけ、平壌を留守にしていた金日成を除き、毛沢東を含めた中国共産党幹部と北朝鮮共産党幹部陣は、核の炎により一掃された。 戦争はさらに激化するかにみえた。 しかし、スターリンの病死(暗殺の可能性がある不可解な死)と北朝鮮軍の持てる物を全て出し尽くした最後の大攻勢により、戦争はようやく最終幕へと進んでいった。 朝鮮半島では北朝鮮軍の攻勢により前線は崩壊、徹底抗戦を主張した李承晩が国民を捨てて沖縄へ脱出しようとした寸前に、自身の護衛に裏切られ、捕らえられた挙句、即決の人民裁判により電柱に吊るされた。 中国では国民党軍の反撃と、党指導部のごたごたによって人民軍解放軍は敗走、長江を挟んでのにらみ合いへと至った。 こうした状況の劇的な変化によって、停戦協定が結ばれることとなった。 無論、大韓民国はこの停戦協定が始まる前に、すでに国家元首を含めた国土すら保有してないこともあり、事実上朝鮮半島の支配権は朝鮮民主主義人民共和国へと移った。 一方の中国はといえば、現在の戦線たる長江を挟んだ停戦ラインが確定し、以後南北中国はドイツと同じ分断国家の悲しむべき歴史を歩むこととなった。 なお、国連軍が占領していた山東半島は、アメリカのごり押しで中華民国側の飛び地となった。 これは後々まで禍根を残す領土問題となる。 この停戦が発表された時点で、日本は空前絶後の超好景気を迎えていた。 約十ヶ月続いた米軍の爆撃などの被害もあったが、この超好景気の間に、日本経済は第二次世界大戦前並の水準にまで回復し、1957年の経済白書には「もはや戦後ではない」とまで記され、戦後復興の完了が宣言された。 それと平行して、ソビエト側の承認の元、本格的な再軍備が開始された。 戦後、日本軍は完全な解体はされず、日本側でいうところの“警察予備隊”という準軍事的集団と銘打っていたが、本質的には旧軍と変わらなかった。 しかし、陸海空軍ともに徹底的なソビエト化がなされていた。 当然のことながら、ソ連以外の連合国で構成された“極東委員会”が、戦争放棄と戦力不保持を明記した新憲法の草案は闇に葬られ、戦争反対を唱える平和主義者や知識人は、反体制派の政治犯としてが樺太に送られ、白樺の肥やしになった。 こうして日本は50年代~91年まで、ソ連指導の下、繁栄を謳歌していったのであった。 しかし、ソビエト連邦は誕生からわずか69年であっけなく崩壊。 この結果、日本民主主義人民共和国は、ソビエト崩壊の影響をモロに受けることになった。 元々日本は、ソ連産の工業原料やエネルギー資源に依存していたため経済成長が完全に失速し、1992年には初めて経済成長はマイナスを記録し、日本は長期不況に突入した。 その間、日本をめぐる国際情勢はめまぐるしく変化していた。 そしてその変化とともに、日本の望まぬ物語の幕は開こうとしていた。 前項 表紙 次項
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310 政治 311 政治学 自然状態 功利主義 312 政治史 自由民権運動 民撰議院設立建白書を提出し、国会の開設を求めた “明治時代の日本において行われた政治運動・社会運動”を 【 何 】運動というでしょう。 16/02/13「建国記念」 313 内閣 Ans. 持ち回り閣議日本の「閣議」といえば、「定例閣議」「臨時閣議」とあと1つは「[ 何 ]閣議」でしょう。 15/12/13「F」 313.1 「内閣総理大臣」 英:Prime Minister Wikisource カテゴリ:安倍晋三 2016/01/01 安倍内閣総理大臣 平成28年 年頭所感 「石の上にも三年」安倍総理による2016年 “年頭所感”の冒頭で用いられた、“つらくても辛抱して続ければ、いつかは成し遂げられる”ことを指すことわざといえば【 何 】でしょう。 16/01/03「金杯」 「内閣総理大臣の一覧」 代 人 内閣総理大臣 生没年 始/終 出身 所属 出来事 出題 1 1 伊藤博文① いとう・ひろぶみ 1841/10/16 1909/10/26 1885/12/22 1888/04/30 周防国 山口県 長州閥 明治20年の危機枢密院に転じる 07/10/26「初」◆4OclOpf.WQ 08/04/04「初」◆CDTV/p321g アナグラム 11/04/30「C」◆KAna/6VkVI 11/05/06「初」◆KAna/6VkVI 44歳 2 2 黒田清隆 くろだ・きよたか 1840/11/09 1900/08/23 1888/04/30 1889/10/25 薩摩国 鹿児島県 薩摩閥 大日本帝国憲法公布超然主義演説 08/05/17「A」◆VxGFJXzcso 11/01/19「A」◆k.D2pTMHV. 25 15 若槻礼次郎 わかつき・れいじろう 1866/03/21 1949/11/20 1926/01/30 1927/04/30 出雲国 島根県 憲政会 昭和金融恐慌 大正天皇崩御、昭和改元 前任の“加藤高明”が急逝したことで、第25代内閣総理大臣に就任。 大正天皇崩御、昭和改元の時に総理を務めたことで、 昭和最初の内閣総理大臣となった人物は【 誰 】でしょう。 16/04/30「昭和記念」 45 32 吉田茂① よしだ・しげる 1878/09/22 1967/10/20 1946/05/22 1947/05/24 東京府 東京都 日本自由党 組閣の大命(最後) 公職追放、農地改革日本国憲法 施行 71 72 73 45 中曽根康弘 なかそね・やすひろ 1918/05/27 1982/11/27 1987/11/06 群馬県 高崎市 自由民主党 ずばり今から《30年前》、 1986年に日本の“内閣総理大臣”だった人物は【 誰 】でしょう。 16/04/02「定期化記念」 93 60 鳩山由紀夫 はとやま・ゆきお 94 61 菅直人 かん・なおと 1946/10/10 2010/06/08 2011/09/02 山口県 宇部市 民主党 東日本大震災 菅おろし [2011/02/21-朝日新聞] “【 ○ 】内閣、支持率最低20% 「早く辞任を」49%” 16/02/27「毎日杯」 95 62 野田佳彦 のだ・よしひこ 96 安倍晋三 あべ・しんぞう Ans. 小泉純一郎 1998年の自民党総裁選挙における田中眞紀子氏の発言で“凡人”は小渕恵三、“軍人”は梶山静六のことですが、“変人”といえば【 誰 】のことを指していたでしょう。16/03/05「弥生賞」 Ans. 2006年 2001年に内閣総理大臣に就任した小泉純一郎氏が、 総辞職し内閣総理大臣を最後に辞任したのは西暦 何 年の出来事でしょう。 15/04/26「改装記念」 ・甘利大臣 現金受け取り認め閣僚辞任を表明 [16/01/28-NHK] 314 国会・議会 衆議院 参議院 定数 475議席 242議席 任期 4年 (解散あり) 6年 3年毎半数改選 選挙権 18歳以上 18歳以上 被選挙権 25歳以上 30歳以上 314.1 衆議院 ・英語:House of Representatives ・定数:475名(小選挙区選出:295名、比例代表選出:180名) 314.2 参議院 定数:242名(小選挙区選出:146名、比例代表選出:96名) 「選挙権」 国政選挙:日本国民で年齢満20歳以上の者 都道府県知事・都道府県議会議員選挙: 日本国民で満20歳以上であり、引き続き3ヶ月以上その都道府県内に住所のある者 市区町村長・市区町村議会議員の選挙: 日本国民で満20歳以上であり、引き続き3ヶ月以上その市区町村に住所のある者 「被選挙権」 25歳 : 衆議院議員総選挙、都道府県議会議員、市町村議会議員、市町村長 30歳 : 参議院議員通常選挙、都道府県知事 314.22 貴族院 314.32 公職選挙法 Ans. 20年 “現在”の「公職選挙法」第9条の条文です。 空欄に入る数字は【 いくつ 】でしょう。 “日本国民で年齢満【 何 】年以上の者は、衆議院議員及び参議院議員の選挙権を有する。”16/01/03「金杯」 Ans. 当選確実 選挙速報などで用いられる言葉で、 「当確」といえば、【 何 】という言葉を略したものでしょう。 16/02/06「如月特別」 315 政党 315.1 「日本の政党一覧」 民主・維新の合流 新しい党名は「民進党」 [16/03/14-NHK] “【 ○○ 】党(英: The Democratic Party)は、日本の政党。”・・・ “衆議院と参議院で自由民主党に次ぐ第2会派を形成し、 所属国会議員数では野党第1党である。” 日本語版ウィキペディアの記事解説文の抜粋です。 空欄に入るのは【 何 】でしょう。(表記はかなでも構いません。)16/04/02「定期化記念」 土井たか子 1993年から1996年まで、女性としては初となる 「衆議院議長」を務めた日本の女性政治家は【 誰 】でしょう。16/05/21「伊勢志摩記念」 316 317 行政 317.1 「日本の行政機関」 318 地方自治 ・野々村竜太郎 『大きな駄々っ子』。評論家、大宅壮一氏の夫人、昌さんが、40年間の結婚生活を綴った本の題名である。 今や、元兵庫県議の野々村竜太郎被告(49)を表現するのに、これほどふさわしい言葉はない。 [16/01-27-産経抄] Ans. 魚 法務大臣を務めた“秦野章”(はたの・あきら)の発言です。 「政治家に徳目を求めるのは、 八百屋で【 何 】をくれというのに等しい」でしょう。 16/04/30「昭和記念」 「在職者」 役職 在職者 天皇 明仁(今上天皇、第125代、1933年生) 内閣総理大臣 安倍晋三(自由民主党、第90、96、97代) ローマ法王 フランシスコ(第266代、アルゼンチン、2013-) アメリカ大統領 バラク・オバマ(民主党) イギリス女王 エリザベス2世(1926年生) イギリス首相 デーヴィッド・キャメロン(保守党) 韓国大統領 朴槿恵(パク・クネ)(セヌリ党) 台湾総統 馬英九(中国国民党) → 蔡英文(民主進歩党) 中国 習近平(国家主席)、李克強(首相) ドイツ首相 アンゲラ・メルケル(ドイツキリスト教民主同盟) フランス大統領 フランソワ・オランド ロシア大統領 ウラジーミル・プーチン ロシア首相 ドミートリー・メドヴェージェフ 2016/01/17(2015/11/03) 更新 世界各国の指導者一覧