約 198,990 件
https://w.atwiki.jp/pangai/
豊橋市を中心とする愛知県東三河地方のラーメン店についての紹介するwikiです。 wikiをご覧の方からの投稿も大歓迎です! 携帯電話からも同じURLでご覧になれます。 注 このwikiに書かれている内容は作成者の個人的な意見です。 □アンケート Q.好きなラーメンのスープは? 選択肢 投票 しょうゆ (82) とんこつ (155) みそ (57) しお (41) その他 (13) □ラーメンの情報、このwikiへの意見などはこちらへ 浜松情報も知りたいです -- (みゆ) 2006-06-19 11 24 17 >みゆさん 浜松べんがら横丁の「でびっと」に行ってみました☆ -- (管理人) 2006-06-23 07 05 19 丸源曙が二代目としてリニュアル!! -- (k) 2006-12-05 17 28 11 >そうですね…あまり評判がよくないですが… -- (管理人) 2006-12-06 09 18 41 二代目ってイマイチなんすか?仕事でたまに豊橋行くんで、次こそはって思ってるんですけど…ならじゃんだらにしようかな? -- (せあぶら) 2006-12-22 15 36 14 豊橋だと、くるまやが一番うまい!と思う -- (らめん) 2007-10-16 18 56 08 《汐崎・DODAN・ラーメン零・清和園・宝塔・虎龍》豊橋でお気に入りはこのお店!ハズレはないと思うよ。くるまやはニンニク臭くなるでなぁ〜… -- (お子様ランチ) 2007-12-24 03 22 56 ラーメン屋じゃないけど、悟空亭の塩バターラーメンがうますぎる。 -- (すい) 2008-10-31 15 24 20 宝塔どう考えてもうまくないだろ(W -- (え~~) 2008-11-10 17 45 54 汐崎が一番 -- (がっつり) 2010-11-29 23 59 01 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/kataware_senpuri/pages/135.html
レア度 属性 隊列適正 コスト 最大攻撃力 最大守備力 SSR 従 後衛-大将 32 23600 11800 最大奥義 前衛の攻撃力が34%アップする 救出大作戦竹千代編の社開放報酬将姫。 虹の太鼓の恩恵で入手率は高かった。 鍋乃助と同じくロリ巨乳枠。 その豊満な体に似合わず粗相してしまう様はほほえましい。
https://w.atwiki.jp/yaruopokenaru/pages/946.html
┏【種族名】━━━━━━┳━━┓┃ アイアンメイデン - 三河型 ┃ ♀ ┃N :三河┗━━━━━━━━━━┻━━┻【好感度:180】━━──【状態】普通 γ´ -‐ - ヽ r'´>´ i、 ` ト \ , ' ∧}∨ } ハ ヽ \ _/ /{ .{ } .,' } ‘, \ /,' .{ .マ } {从从 .i \ ← 超マイペース. / | 从 ヽ /レィ芹ミ、 i ,' 从从i.,ィチ㍉ 込汐ア | く. i 〈 杙r | { |\ }. | i .从 } ''´ | } ,' \/. | i从{ ヽハ _ | ,' i/ }. | !V .. | / / ´ ̄ ̄ ̄ ̄ ≧=- 、. |i V \ / レ'ル从{从/ ./ / } ヽ i{ヽ从ハ从ハ >、 イ / `ヽ / / / }/ γ´ ̄_} x≦ {⌒´ヽト / / `Y´ / } >''´ ̄ ヽ {-- 7/ _ゝ__/ r'} / | / ,'. γ´ } / >''´ / ',/ { / |_/ヽ / |i /{ ゝ-‐´ >''´ 八//{ ,' ,'ニニ∨ / |i /ヽ r' /_ -=ニ ヽ{ { /ニニニヽ / 八 {i ム//´ ∨ /ニニニニニヽ ヽ / r' _.ム_/ニニニニニニニゝ、. , ' { | γ´ } `ヽニニニニニニニニ} i { | ,' ハ 〉ニニニニニニ/ l { | {  ̄`ヽ ∨ /ニニニニニニ/ 八 \ ゝ ヽシニニニニ>''´ ____________________【持ち物】 霊のジュエル |┏【ステータス】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ |┃ Lv. 50 H - 135/135 A - 120 B - 110 C - 95 D - 99 S - 137 |┃ Exp: 0/100 |┣【タイプ】━━━━━── |┃ 鋼 ゴースト |┣【特性】━━━━━━── |┃ 頑丈 マジックガード |┣【性格】━━━━━━── |┃ 無邪気 S↑↓D |┣【努力値】 508 / 508(保留中) ━━━── |┃ H P - |┃攻撃.- |┃防御.- |┃特攻.- |┃特防.- |┃素早.- |┣【覚えてる技】━━━── |┃ ●シャドークロー ●ステルスロック ●瓦割り ●剣の舞 |┃ |┃ 引っかく 睨みつける 連続切り いちゃもん 騙し討ち |┃ 怖い顔 メタルクロー 切り裂く |┃ ステルスロック 守る 雨乞い 影分身 恩返し 電磁波 |┃ 10万ボルト シャドーボール シャドークロー フラッシュ |┃ 居合い切り 草結び 目覚めるパワー 泥棒 雷 破壊光線 |┃ 自然の恵み 砂嵐 峰打ち 瓦割り しっぺ返し 空元気 |┃ 投げつける リサイクル 八つ当たり 剣の舞 誘惑 |┃ 敵討ち 穴を掘る 岩石封じ 岩砕き 気合球 |┃ 駄目押し 金属音 差し押さえ 鉄壁 辻斬り |┃ 身代わり 燕返し ローキック |┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 【ばつぐん(4倍)】 --- 【ばつぐん(2倍)】 炎/地面 【いまひとつ(1/2)】 氷/飛行/エスパー/岩/ドラゴン/鋼 【いまひとつ(1/4)】 草/虫 【こうかなし】 ノーマル/格闘/毒 ※三河の技説明 133スレ目(184日目)に登場。 イッシュ地方・ホドモエシティで出会った藍羽ルリがやる夫への礼として贈った様々な土産のうち、量産三河型と呼ばれる人型ポケモン「アイアンメイデン」10体のうちの一体。 量産型たちはそれぞれの得た情報を全体で並列処理できる機能が搭載されており、チャットや掲示板のような共通領域で会話を繰り広げている。アイギスら他のワンオフ型アイアンメイデンたちともデータ共有が可能で、やる夫の過去の活躍をそこから知識として得た。 そのため誰か一人が得た好感度が全員に影響する場合がある(安らぎの鈴などの効果も同様)。これらは彼女らの任意でオンオフ可能。 代表で話していたことから彼女はそのまま「三河」と名付けられた。 135スレ目(190日目)、三河型アイアンメイデン10人全員に料理を手伝ってもらったことでイベント:『三河自動人形侍女ネットワーク!』発動。 10人全員いっぺんにやる夫の恋人となった。同時に好感度100を突破し「愛の絆」を獲得している。 所持スキル 名称 説明 紅茶マイスターLv5 作ったお茶はやる夫のHPを回復できる。お値段も究極レベルである。 茶人Lv5 作ったお茶はやる夫のHPを回復できる。お値段も究極レベルである。 日本料理人Lv4 料理人として凄いレベル。高い金額に換金する事ができる。 洋食料理人Lv4 料理人として凄いレベル。高い金額に換金する事ができる。 中華料理人Lv4 料理人として凄いレベル。高い金額に換金する事ができる。 パテシエLv4 料理人として凄いレベル。高い金額に換金する事ができる。
https://w.atwiki.jp/pangai/pages/2.html
メニュー トップページ リンク 管理人のプロフィール 豊橋駅前 黒田屋 本店 らーめん蔵家 らーめん工房 豊栄 豊橋西部 じゃんだら スガキヤ 豊橋柱フィール店 ラーメン宝塔 藤沢本店 ラーメン竜笑 赤ラーメン 豊橋東部 東京拉麺 桃山商店 多米本店 三河開化亭 豊橋店 幸楽苑 豊橋岩屋店 豊橋南部 よってこや 丸源ラーメン 曙店 らーめん工房 善の家 らーめん屋台 零 豊橋二川 福ちゃんラーメン 大岩店 福ちゃんラーメン 二川店 来来花 豊川 らーめん駒 番外編 浜松 でびっと がんこラーメン 検索 このページのアクセス数: - 本日: - 昨日: -
https://w.atwiki.jp/asterisk99/pages/125.html
特集 花郎(ファラン) 2009.8.29 第二巻 第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料 p.91 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(43項目)p.259 ※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式(Windows Macintosh ハイブリッド対応)。 ※ この作品は青空文庫にて入力中です。翻訳・朗読・転載は自由です。 (c) Copyright is public domain. 【T-Time 無償ダウンロード】 VOYAGER / ボイジャー 【新JIS漢字を表示できるフォントを入手しよう】 青空文庫 / —明日の本棚— (略)そうして新羅の地理上の位置は、他の諸国に比してすこぶる遜色がある。半島の東方に偏在して、海岸線が短かく、山岳が多くて肥沃なる大平野がない。のみならず直接に大陸と交通する便宜を欠いていたから、文化の発達もおくれていた。だからこの国が周囲の圧迫にたえてゆくには、是非ともおのずからたのみとする力強い何ものかを持たねばならぬ。そういうものがなければ、国家の存立すら危うくなる。いわんや進んで国力を振張せんとするにおいてをやである。祖国の擁護のためには身命をかえりみない武士的精神、——忠と勇とを基調とする愛国的精神は、かような関係から自然に涵養(かんよう)せられたであろう。のみならずそれがまた奨励せられたであろう。そうしてことに真興王の領域拡張の結果、百済・高句麗二国の共同の圧迫が、いっそう強く加わるようになると、それに正比例して、こういう精神はますます強烈の度を加えたにちがいない。それは上に目(もく)をかかげた忠臣義士の伝が、いずれもこの時代に属するのを見てもあきらかである。かくのごとき国家多難の時代において、特にその衝(しょう)にあたった偉大なる政治家には金春秋があり、抜群なる武将には金?信(ゆしん)があった。これら二人の努力の結果は、ついに新羅をして半島全体の主人たることに成功せしめた。しかも彼らの背後には、彼らを支持する有形無形の民衆的の強い力のはたらいていたことを認めなければならないのである。 2_6.rm (朗読:RealMedia 形式 360KB、2'54'') 花郎 かろう/ファラン 国仙。新羅の、愛国的な貴族子弟の精神的・肉体的修養団体である花郎徒の指導者。新羅滅亡までに二百人ほどが数えられる。貴人の子弟で美貌なものを選んで、白粉をつけて化粧し、美しく装わせる。これを花郎といい、国人はみなこれを尊び仕えている。農村の青少年集団組織で、村落の防衛・祭祀・生産・教育など各方面に活動した。新羅の国家形成期に、この農村組織を国家的に拡充したのが花郎制度。ただし、各花郎集団の独自性が強固で、貴族連合体制下ではその成果が発揮できたが、王権が確立するとその組織は凋落した。花郎の理念は原始社会の信仰形態を基本に、儒・仏・道の三教を包摂したもの。新羅にかぎらず、朝鮮の思想には、外来思想との積極的に習合する傾向がある(井上訳注)。 真興王 しんこうおう 534-576 新羅第24代の王。国勢を拡大、百済を圧迫し伽耶諸国を併合。(在位540〜576) 金春秋 キム チュンチュ/きん しゅんじゅう → 武烈王 武烈王 ぶれつおう/ムヨルワン 602?-661 新羅の第29代の王(在位 654年 - 661年)。姓は金、諱は春秋。父は第25代真智王の子の伊?(2等官)の金龍春、母は第26代真平王の娘の天明夫人。654年3月に先代の真徳女王が死去し、群臣に推戴されて王位に就く。在位中に百済を滅ぼし、三国統一の基盤を為したことから新羅の太宗の廟号を贈られ、太宗武烈王とも称せられる。 金?信 キム ユシン/きん ゆしん 595-673 父は舒玄、もしくは逍衍。妻は智?婦人。新羅統一期の功臣。金官加羅国の後裔で、年少のとき花郎となり、年と共に武名をあげ、唐の百済・高句麗の遠征には将軍として新羅軍をひきいて大功あり、660年(武烈王7)大角干、つづいて太大角干の最高位にのぼる。対外戦だけでなく、内乱鎮圧にも功があり、新羅統一の大業は彼の武功によるところが大きい。武烈王の推戴も彼の力であった(東洋)。享年七十九。 ◇参照:Wikipedia、『広辞苑』『新編東洋史辞典』(東京創元社、1980.3)、『三国史記1・4』金富軾(撰)井上秀雄(訳注)(平凡社、東洋文庫、1988.10)、『まんが朝鮮の歴史2・3・4』安宇植(訳)(ポプラ社、1992.4)。 #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第二巻 第六号】 ※ ダウンロードを開始します。 (492KB) 池内宏 いけうち ひろし 1878-1952(明治11.9.28-昭和27.11.1) 東洋史学者。東京生れ。東大教授。朝鮮・満州史を研究。著「満鮮史研究」「元寇の新研究」など。祖父は儒学者の池内大学。朝鮮総督の依頼で満鉄調査部歴史調査部にて実証主義的(考証的)な満蒙・朝鮮の東洋古代史研究の基礎を確立した。朝鮮古代史の乏しい資料の中で花郎の研究、また慶長の役などの全体像を描き出すことに尽力したことでも知られている。 ◇参照:Wikipedia、『広辞苑』。 底本 底本:『滿鮮史研究 上世第二册』吉川弘文館 1960(昭和35)年6月15日発行 初出:『史学雑誌』第40編、第8号 1929(昭和4)年6月稿 NDC 分類:221(アジア史.東洋史:朝鮮) http //yozora.kazumi386.org/2/2/ndc221.html 年表 六世紀はじめ 新羅の智証王、国号をさだめて新羅といい、王と称し、また欝陵島の于山国を征服してこれを半島の属領とした。 五五一(真興王十二) 真興王、半島の中部の広大なる地方を略有。 五五四(真興王十五/聖王三十二) 百済の聖王、みずから大軍をひきいて新羅に攻めこみ、戦死。 五八九(真平王十一) 新羅の円光法師、南朝の陳に入る。十一年間留学。 六〇〇(真平王二十二) 円光法師、帰朝。 六〇二(真平王二十四/建福十九) 百済の大兵が新羅を侵して阿莫城を囲んだ時、貴山の父なる武殷は、将軍の一人として出征し、貴山も箒項とともに従軍。三人とも戦死。 六〇八(真平王三十) 王が兵を隋に請うて高句麗を伐とうとした時、その乞師の表を円光法師に草せしめる。 六一〇(真平王三十二/建福二十七) 讃徳、選ばれて?岑城の県令となる。 六一一(真平王三十三) ?岑城が百済の出だした大兵に囲まれ、内地の諸州から遣わされた新羅の救援軍は、敵の優勢なのを見てそのまま引きかえす。讃徳は孤城を死守、死没。 六一八(真平王四十/建福三十五) 讃徳の子、奚論、?岑城を回復する命を受けて出征。闘死。 六二八(真平王五十/建福四十五) 大飢饉。沙梁官の舎人どもが、官倉の穀をぬすみだす。剣君、穀を受けることをこばみ、宴席にて毒殺。 六四七(真徳王元) 金?信が新羅に攻め入った百済の大兵を防ぎ、味方の旗色の悪かったとき、?信の命を受けた丕寧子、率先して敵陣に突入する。戦死。子挙真および家奴合節も戦死。 六五五(武烈王二/唐高宗永徽六) 助川城が百済に侵され、それを救うために金?信ら出陣。驟徒、従軍して没する。 六五五(太宗王二) 金?運、金?信の裨将として助川城の役におもむき、力闘して死ぬ。 六六〇(太宗七/唐高宗顕慶五) 百済討滅の役、新羅の二将軍品日・欽春は、おのおのその子を戦死せしめ、味方の士気を鼓舞、敗戦を勝戦に転ぜしめる。 六六〇 百済滅亡。 六六八 高句麗滅亡。新羅三国統一。 六七一(文武王十一/唐高宗咸亨二) 驟徒の長兄の夫果、百済の故地——当時唐の占有する——を侵略する軍に参加し、百済人と熊津の南に戦って死没。 六七二(文武王十二/唐高宗咸亨三) 新羅が高句麗の余党の反乱を助けるために、大同江南の地に出兵し、平壌から出動した唐兵と戦って大敗。この戦役のさい、金?信の子元述は将軍暁川・義文らの裨将となって軍中にいたが、二将軍が戦死。元述は戦場から逃れかえり田園に隠遁、翌年父の薨じた時にも、喪に会することを許されず。 六七五(文武王十五/唐高宗上元二) 大伯山にかくれていた元述は、唐兵が新羅の西北境を侵して買蘇川城を攻めた時、力戦して功を立てる。 六八四(神文王四/唐則天武后文明元) 夫果・驟徒の弟逼実は、金馬渚の高句麗の反賊の残党を報徳城に討つ。戦死。 ◇参照:『広辞苑』、Wikipedia。 登場キャラ一覧 奈勿尼師今 なこつ にしきん ?-402 新羅の第17代の王。 長寿王 ちょうじゅおう 394-491 高句麗の第20代の国王。広開土王の長子。 智証麻立干 ちしょう まりつかん 437-514 新羅の第22代の王。 文咨明王 ぶんしめいおう ?-519 高句麗の第21代の王。 法興王 ほうこうおう ?-540 新羅第23代の王。 聖王 せいおう ?-554 百済の第26代の王。先代の武寧王の子。 欽明天皇 きんめい てんのう ?-571 記紀に記された6世紀中頃の天皇。継体天皇の第4皇子。 真興王 しんこうおう 534-576 新羅第24代の王。 真智王 しんちおう ?-579 新羅の第25代の王。真興王の次男。 真平王 しんぺいおう ?-632 新羅の第26代の王。真興王の太子銅輪の子 。 善徳女王 ぜんとく じょうおう ?-647 新羅の第27代の王。新羅初の女王。真平王の長女。 真徳女王 しんとく じょおう ?-654 新羅の第28代の王。父は第26代真平王の母方の叔父である国飯(国芬とも記される)葛文王。 武烈王 ぶれつおう/ムヨルワン 602?-661 新羅の第29代の。金春秋。百済を滅ぼし、三国統一の基盤を為したことから新羅の太宗の廟号を贈られ、太宗武烈王とも称せられる。 蘇定方 そ ていほう 592-667 唐の軍人。 金?信 キム ユシン/きん ゆしん 595-673 父は舒玄、もしくは逍衍。妻は智?婦人。新羅統一期の功臣。金官加羅国の後裔。 文武王 ぶんぶおう ?-681 新羅の第30代の王。武烈王の長子。高句麗を滅ぼし、また唐の勢力を朝鮮半島から駆逐して、半島の統一を果たした。 高宗 こうそう 628-683 唐の第3代皇帝。第2代皇帝・太宗の第9子。 神文王 しんぶんおう ?-692 新羅の第31代の王。文武王の長子。 源満仲 みなもとの みつなか 912-997 平安中期の武将。経基の長子。鎮守府将軍。 源信 げんしん 942-1017 平安中期の天台宗の学僧。通称、恵心僧都。大和の人。著「往生要集」。 熊谷直実 くまがい なおざね 1141-1208 鎌倉初期の武士。武蔵熊谷の人。 池内宏 いけうち ひろし 1878-1952 東洋史学者。東京生れ。 熊谷直家 くまがい なおいえ 1169?-? 平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。熊谷直実の長男。治承8年(1184年)の一ノ谷の戦いに参加。 恵心 えしん → 源信 貴山 きざん 沙梁部の人。父は武殷阿干。 挙真 きょしん 丕寧子の子。 金?運 きん きんうん 奈密(奈勿)王の八代目の子孫。父は達福。文努という花郎の門徒。 金令胤 きん れいいん 沙梁部の人。盤屈の子。欽春の孫。真平王の時に花郎となる。文武大王は宰相として登用する。 暁川 ぎょうせん 将軍。 奚論 けいろん 讃徳の子。父の功をもって大奈麻の位を授けられる。 元述 げんじゅつ 金?信の第二子。蘇判。副将軍。 合節 ごうせつ 丕寧子・挙真の家奴。 讃徳 さんとく 牟梁部の人。奚論の父。真平大王の命により?岑城の県令となる。 驟徒 しゅうと 沙梁部の人。父は聚福。出家して道玉。実際寺の僧。 真徳 しんとく 真徳女王か。 薛頭 せつ けいとう 善徳 ぜんとく 善徳女王か。 箒項 そうこう 貴山の友人。 太宗 たいそう 武烈王か。 多田満仲 ただの みつなか → 源満仲 淡凌 たんりょう 元述の副官。補佐役。 竹竹 ちくちく 大耶州の人。父は?熱。 智証王 ちしょうおう → 智証麻立干 訥催 とつさい 沙梁部の人。大奈麻、都非の子。 奈勿王 なこつおう → 奈勿尼師今 丕寧子 ひ ねいし 匹夫 ひっぷ 沙梁部の人。父は尊台。659年、七重城下の県令となる。 逼実 ひょくじつ 父は聚福。驟徒の弟。 武殷 ぶいん 阿干。貴山の父。 金仁問 キム インムン/ きん じんもん 太宗大王(武烈王)の第二子。金?信の外甥。 金春秋 キム チュンチュ/きん しゅんじゅう → 武烈王 官昌 クワンチャン/かんしょう 品日の子。花郎。 階伯 ケベク/かいはく 百済の将。 欽春 フムチュン/きんじゅん 欽純。新羅の将軍。金?信の次弟。 品日 プムイル/ひんじつ 新羅の将軍。欽春とともに将軍として今突城に郡を進める。文武王代まで活躍。 IMG gaiji src="土+皆.gif" 泊 階伯。 円光法師 六世紀末から七世紀前半の新羅で活躍した僧。隋・唐に学び、帰国後大乗経典を講じる。 義文 将軍。 近郎 花郎。 剣君 仇文の子。沙梁部の舎人。近郎(花郎)の徒。 智? 金春秋の第三女。金?信の妻。五男四女をもうける。 転密 僧。金?運の仲間。 夫果 父は聚福。驟徒の兄。 文努 花郎。 聚福 沙梁部の人。 2009.9.2:公開 2011.8.2:更新 目くそ鼻くそ/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - NDC 分類の記述をちょっとだけ調整。 -- しだ (2011-08-02 06 02 44) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/scavenger/pages/32.html
情報更新レス 【第4農場】 8570 _ __ _ イ `Y´ ` ニ、.... ,イ i ハ ヽ { _> ´  ̄  ̄ ` .、 〉 ヽ >´/ ヽ`ヽ<ハ ヽ/ / ハ '; ', .ヽ ヽ ヽ. ,' ; ,' i ;' } l i .ゝイ ‘, ,' ; { { | |! | ; l } ヽ l 八ハ_ハ li |! i l | ,イ ハンターオフィスにようこそ。 ,イ{ l ィ==x ィ==xl l | ∧ ゝ{ l 乂ク 乂ク i ; ,イ. 初日に来いよ(ボソッ _ i . ; ;マ 广 > ´ i ゝ ;' ; .}仆' .<¨≧x |`ヽ マ ヾ ;;;;;;;;;;;;;;;\ ` //;;;;;;;;;イ ヽ´ γ ニヽ |.{ マ マ {ヽ ,イ ≧ 、 イ { Y ,イ } ,イ ,イ、 ヽマ |.∨ マ マ | ヽ { { `ヽ,イ .l l l / } l ,イ ,イ マ } 八. ∨マ ヽマ ∧ 八 ノ i ,イ .ゝ イノ,' } lイ ,イ } l .l ヽゝヽ .マ ∧/ マ´ ゝィイ ゝ=イUi / } ,イ l l l ヽ ≧ェ マ } 人/ , イ l,' ,イ< ,'/ l γ i ヽ/ } ,' イ {,イ ヽ 〆 / l ,' γ -‐ ´ / } ゝ---------------------------------------------------------------------------- 出展 三河の侍女人形(境界線上のホライゾン) 初登場 【第2農場】 3384 受付三河 好感度 EX(旦那様) ステータス 【第4農場】 8570 西の樹海 出発直前 三河 ペット:自動人形 好感度:EX(旦那様……♥) LV98 HP:4950/4950 EXP3900000 next4000000 性格:フリーダムな自由人形 戦闘レベル:144 運転レベル:1 腕力:419 体力:768 素早さ:435 特技 囮よせEX 指定した敵をおびき寄せる、1日5回まで。 特技 武器の知識EX 武器の威力が30%上昇 特技 ATスラッシュEX 装甲を豆腐のように切り裂く強烈な2回攻撃! 特技 突進EX 全力全開の体当たり! 特技 葉隠の教えEX. 剣によるダメージが30%上昇 特技 鉄壁モードEX . 迎撃・回避・反撃の三拍子! 1戦1回まで。 特技 真空斬りEX 会心爆発の対空攻撃! 特技 制空の刃EX 凄まじい切り払い率! 特技 ぶっぱなすEX 所持している全ての武器を全力全開ぶっぱ。 武器1 果物ナイフ (419)+5+1d5(U1) 武器2 無し 武器3 無し 防具1 三河ボディ 物理ダメージ5割減 音波・ガス・冷気無効 防具2 無し 持ち物 今のところ無し memo 【第4農場】 6939 三河さんがペットとしてPTに加わりました。 【第3農場】 6861 >今更だけど、三河さんってオフィスじゃなくてこっちに居て大丈夫なの? 居てくれた方が嬉しいけど 問題ありません。すでに他の三河が配置されましたので。 >なぜそんなによくしてくれるのん? 旦那様に尽くすのは当然かと。 >サルモネラの情報を全て下さい(頭を撫でながら) 南西の洞窟の奥深くに群れで生息している……以外の情報は今のところございません。
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/55748.html
登録日:2024/02/14 Wed 17 30 00 更新日:2024/09/10 Tue 18 26 12NEW! 所要時間:約 15 分で読めます ▽タグ一覧 いろんな描かれ方 かませ犬←ちゃんと活躍はしている どうする家康 インテリ 今川義元 何故かなかなか立たなかった項目 公家キャラで描かれがちな人 名家 名門 序盤の強敵 悲運 戦国時代 戦国武将 日本史 東海道 桶狭間の戦い 武将項目 海道一の弓取り 織田信長被害者の会 遠江 野村萬斎 静岡県 駿河 今川義元(いまがわよしもと)は、戦国時代の武将・大名。 駿河(するが)および遠江(とおとうみ)の二国を治めた守護大名で、今川氏第11代当主でもあった。 「海道一の弓取り」の異名を持つ。なお、本姓は源氏。(*1) 優れた手腕で今川家の全盛期を築き上げるが、尾張に侵攻した際に「桶狭間の戦い」で織田信長軍に討ち取られる。 ●目次 【生涯】◇家督相続まで ◇悪戦苦闘 ◇領国拡大 ◇体制強化 ◇桶狭間の戦い ◇死後 【人物】 【各作品】 【生涯】 ◇家督相続まで 永正16年(1519年)に生誕。父親は今川氏親。母親は正室の寿桂尼とも、側室の子ともされる。 三男として生まれており、今川家の跡継ぎとしてはすでに二人の兄がいたので優先順位は低く、生後すぐに出家させられ、寺で少年期を過ごした。 なお僧侶としての名前は栴岳(せんがく)承芳(しょうほう)。 最初は駿河国の寺にいたが、十歳から京都に行き、建仁寺や妙心寺で修行。 後に「軍師」と言われる太原雪斎はこの頃からの師僧である。 さて、父・今川氏親は大永6年(1526年)に没し、今川家は長兄・氏輝が後を継いでいた。 しかし天文5年(1536年)、この長兄・氏輝と次兄・彦五郎が同日に逝去してしまう。 氏輝は病弱だったとされ、すでに死期を悟っていたのか、京都から三弟・義元を呼び寄せて後事を託していた。 義元は長兄の依頼を快諾し、まずは還俗したうえで、室町幕府の征夷大将軍・足利義晴から一字を賜り、義元と名乗った。 しかし、こういう君位の継承というものがスムーズに進むためしがない。 今川家も例外ではなく、家臣団の有力者、福(く)島(しま)氏が、義元の異母兄・玄広恵探(げんこうえたん)を擁立して反発、内乱を起こした。玄広恵探は福島家の娘が産んだ公子だからである。 これを「花倉(はなくら)の乱」という。 玄広恵探・福島家の連合軍は、最初のうちは激しく攻撃を掛けたが、今川義元・太原雪斎・岡部親綱らも頑強に抵抗し、やがて福島側が勢いを落とす。 さらに義元が伊豆・相模を領する北条氏(後北条氏)からの支援をとりつけたことで形勢逆転。花倉城が陥落して恵探も自害したことで、今川義元が新当主となった。 しかし、内乱で殺し合った今川家傘下の武士たちは、その後も諍いを続けることとなる。 ◇悪戦苦闘 天文6年(1537年)2月、義元は隣国・甲斐国の守護大名、武田信虎と同盟を結ぶ。義元は武田の娘を嫁にとった。 これは隣国の関係を良好にしようというものだった……が、これで怒ったのが北条家である。 もともと、武田家は南に今川家、東に北条家に接しており、それぞれ隣国同士で利害関係があった。 それでも、今川家と北条家はながいこと友好関係にあった(たとえば北条早雲は今川氏親を擁立した人物である)が、北条家と武田家の対立は根深いものとなっていた。 その「北条家の宿敵」武田家に、今川家が同盟を結んだというのは、北条家にとっては裏切りに等しかったのである。 戦国情勢は複雑怪奇なり 怒った北条氏綱は、八つ当たりのごとくに駿河に侵攻。 今川義元も反撃しようとしたが、前年の内乱からすぐのことで反対や様子見に回る傘下武士団が多く、河東(静岡県東部)一帯を失った。 失地を挽回できないまま三年が経過した天文9年(1540年)。今度は尾張の織田信秀が、三河国に攻め込んだ。 三河が織田の手に落ちれば、今川は西から襲われることになる。すでに東の北条家に対して劣勢ないま、東西に挟まれるのは避けたい。 というわけで義元は三河の諸侯軍と連合して、織田軍に対して決戦を仕掛けるが、天文11年(1542年)に大敗した。 なおこのいわゆる「第一次小豆坂の戦い」は松平氏単独の戦で今川家は関係していなかったのではないかという説もある。 ただ、前年の天文10年(1541年)には北条氏綱が死去。 さらにこの年には甲斐守護・武田信虎が息子の武田信玄(このころは「晴信」)により追放される。(甲斐国志によれば双方合意の上で、信虎が隠居したとされる) 今川義元は武田信虎の亡命を受け容れ、また武田信玄とも友好関係を築いたため、どこかで折り合いを付けたようだが、いずれにせよ近隣諸侯の関係は少し変わっていた。 (義元は晴信に、信虎の隠居料を請求する書状を出しており、晴信もそれに応じた。以後、信虎の隠居費用は武田家から支払われ続けた。) ◇領国拡大 この時期までは軍事的に劣勢だったが、今川義元は北条家と代々対立している、山内上杉氏と同盟を締結。東西から北条家に攻め込む計画を立てた。 さらに、今川本隊には武田家の援軍も加え、また分裂していた上杉家が「共通の敵」北条家を倒すべく一時休戦。 天文14年(1545年)にそれぞれの連合軍を率いて、失地挽回をかねて攻め込んだ。 東西から攻め込まれた北条家は苦戦するが、北条家新当主北条氏康はここで武田晴信を介して今川義元と外交交渉を開始。 実はこの戦いから少し前には武田家は信濃侵攻のために北条家とは誼を通じていた。 天文6年(1537年)に占領した河東一帯を、今川家に返還することで和睦した。 失地挽回を果たした今川義元は満足して撤退、武田信玄も自分の顔が立てられたと言うことで満足して帰還。 そして西部戦線の戦力を東部戦線に集中できた北条氏康は、一転して上杉連合軍に逆転勝利を収めた。上杉はいい面の皮である。 その後、北条家は関東や上杉家へと戦力を集中。今川家との関係は徐々にだが和らいでいった。 今川家の西にある三河でも、動きがあった。 西三河の豪族・松平広忠が今川義元に帰順し、嫡男・竹千代(後の徳川家康)を人質に出した。 三河のさらに西にある尾張の織田家にとっては、東の敵がさらに強くなるので当然好ましいものではなく、竹千代を拉致するなど妨害を図ったが、全体としては今川勢が優位を保った。 天文17年(1548年)には織田信秀が三河に出兵するが、今川軍は軍師・雪斎と重臣・朝比奈泰能らを将として織田軍を撃破、三河での優位を安定させる。 翌・天文18年(1549年)には松平広忠が死去、また嫡子・家康はこのころ織田の人質となっていたので、このままではまた三河に干渉されると嫌がった今川義元は、 三河の岡崎城を占領する 織田軍支配下の三河安祥城を攻め落とす 織田信秀の庶長子・織田信広を捕らえて人質交換により家康を奪還する などして、松平家の傘下だった三河の中小領主を今川家の支配下に取り込んでいった。 天文20年(1551年)には織田信秀も死去し、今川義元の三河・尾張への攻勢はますます激しくなった。 ◇体制強化 天文22年(1553年)、亡父の定めた分国法「今川仮名目録」を改訂。 これは、 「現在、今川家の領土を治めているのは足利将軍家の権威によるものではなく、今川家の実力によるものである」 「室町幕府からの守護使不入の権を認めない」などの趣旨で、 領国内における室町幕府の権威の全面否定と今川家の権威を顕揚したものである。 これを持って「今川家は守護大名から戦国大名に転換した」とも言われる。 天文21年(1552年)には、今川義元の娘を武田信玄の子・義信に嫁がせており、 また翌年には武田信玄の娘を北条家に嫁がせて、こちらも婚姻同盟がなっていた。 そして天文23年(1554年)には、北条氏康の娘(早川殿)を今川家嫡子・今川氏真に嫁がせ婚姻同盟を強化。 世に言う「甲相駿三国同盟」「善徳寺の会盟」である。 まあこの手の同盟はいつ崩れてもおかしくないものではあるが、とりあえず関係改善と相成った。 おかげで軍事的に余裕のできた今川義元は、駿河・遠江・三河で検地を行うなど、国内整備に邁進した。 三年後の弘治元年(1555年)には「第二次川中島の戦い」が勃発したが、 今川義元は武田信玄と上杉謙信(当時の名前は長尾景虎)の和睦を成立させた。これも三国同盟による行動かも知れない。 一方、三河を巡る織田家との対立は激化。 永禄元年(1558年)には、義元は家督を嫡男・氏真に譲って自らは「隠居」した。 まあ実際には義元がいわゆる「大御所」として君臨していたようだが、 「本国」となる駿河・遠江の行政文章は氏真名義になるなど、禅譲はある程度本気だった模様。 その分、つまり本国経営は嫡男に任せながら、自分は三河とその先の尾張など、西部方面の鎮圧・経営に集中した模様。 ◇桶狭間の戦い 永禄3年(1560年)、今川義元は駿河・遠江・三河の三国から二万あまりの大軍(*2)を動員、尾張国への侵攻を開始した。 この戦略目標に関しては諸説あって、「京都に攻め込んで室町将軍や天子を擁立して天下に覇を唱えんとするもの」とする説もあれば、 「目標はあくまで尾張で、織田家を倒すか痛撃を与えて、三河の安定と尾張への侵略をするためだった」とする説もある。 また先鋒隊には徳川家康(当時の名前は松平元康)も参加しており、織田軍を蹴散らして優位を保っていた。 今川義元の率いる本隊は、大高城へと移動を開始した。 ところがその途上、休憩中だった桶狭間山で織田信長の率いる部隊に奇襲攻撃を受ける。 今川義元は駕籠から降りて部下たちを率いて奮戦。 自らも刀を抜いて、襲い来る敵兵の膝を叩ききって撃退する、相手の刀と切り結ぶ、飛び付いてきた敵兵の指に噛みついて食いちぎるなど、 死に物狂いの抵抗を見せたが、その織田家家臣・毛利良勝(*3)によってついに首を取られてしまった。享年42歳。 ◇死後 今川義元の戦死の衝撃は想像以上に大きかった。 家督は嫡男の氏真がすでに継承していたが、父の戦死直後から徳川家康が独立するなど、主に三河の武士団が次々と独立。 さらに今川家の本土と言うべき駿河国でも、正誤も定かならぬ風聞が飛び交って大混乱に陥り、疑心暗鬼のるつぼに陥ってしまった。 さらに、肝心の今川氏真は若いこともあってか家臣団をまとめられず、無理に重臣を殺害したことで却って人心を失うなど、ミスを重ねる。 今川義元の戦死から九年後の永禄12年(1569年)、今川氏真は武田信玄と徳川家康によって駿河・遠江を追われてしまい、大名としての今川家は滅亡した。 【人物】 戦国大名と言われる人物には、もともと室町幕府から守護大名として任命されていたタイプと、 いわゆる「下剋上」により守護大名を倒して大名として扱われるようになったタイプとが存在する。 後者の代表が北条家や織田家であり、前者の代表が武田家や、この今川家である。 つまり今川家は歴史的に「室町幕府の名門」と言える家柄で、また今川義元は京都の公家文化によく通じ、 京都の公家・僧侶などをよく招き交流して、その文化を領国に導入していた。 義元自身も、招いた公家から和歌の指導を受けたり、月一回・定期的に歌会を開いたり(これは非常に珍しいことだったという)、 自ら公家流の化粧をしていた、馬に乗らず輿に乗っていた、と言った話が伝わる。 そして公家と言えば、戦乱のない(あるいは戦乱から無視された)京都でひたすら権謀を弄び、高い官位をいかに獲得するかに執心するイメージが古来あったため、 その公家文化を率先して取り入れていた今川義元は、その最後のあっけなさも含めて、 「乱世に向かない軟弱なお貴族さま」「武士のくせに貴族の道に没頭し、軟弱になった名門出のボンボン」と言うイメージがよく付けられていた。 もっとも、公家の様式を整えるのは格式の高い守護大名なら当然の権威付けであるとか、武士の化粧は普通のことだったとかも言われる。 和歌を中心とした貴族趣味も、ただの平和ボケではなく、教養の高さを示すものであった。 いかに武士社会と言えども大名クラスとなれば教養を問われるもので、疎かにしていいものではない。 むしろ今川義元および家臣団の和歌は下手クソだったらしい。教養とは言っても、しょせんは田舎武者と言うことか…… また今川義元は、少なくとも「軟弱」でなかったのは事実である。 確かに桶狭間の戦いでは一朝にして戦死してしまったが、最後の場面では自ら刀をとって襲いかかる敵兵に斬りかかり、 最後の敵となった毛利良勝に対しても指を食いちぎったなど、武芸と闘志に満ちた人物だったことは間違いない。 また、今川義元が使っていた輿は塗輿(ぬりごし)という守護だけに許された格式の高いもので、 これに乗っていたのは身分の高さを示して織田信長との格の違いを見せつけるための振る舞いであったと言われる。 馬に乗れないということもなく、桶狭間の戦いでは敵襲を受けて馬に乗り換えたとも伝わる。 当主となって間もないころは、 迂闊に武田家と結んだためにこれまで良好な関係だった北条家と対立する 北条家に領土を奪われ、挽回に何年もかかる 同時期に織田家に攻められ東西から苦戦する などミスや苦労もあったが、 数年後には武田家に加えて上杉家とも手を組んで北条家に攻め込む、北条との和睦交渉を受け容れて失地挽回を果たす、など外交手腕を発揮。 軍事面では、西から迫る織田軍をほぼ単独で撃退し、係争地・三河の支配権を固めて敵地・尾張にも勢力を扶植するなど、 親から受け継いだ土地だけでなく自らの代で勢力を広げもした。 内政面では、今川家の権威を高めて室町幕府からの独立を果たす、石高検知や金山開発や交通網整備にも力を尽くすなど多くの手腕を見せた。 もともと武士社会、特に鎌倉~戦国の武士は、 家臣の武士一人一人がそれぞれ武士団をもち、大名はそれら武士団の連合体 君権は意外と弱く、配下の武士団にいろいろ利害調整をして話を付けないと募兵さえままならない 割と簡単に寝返ったり、昔の遺恨をいつまでも引きずる という、中世西洋の封建的無秩序そのものな状態であった(*4)が、 寄親・寄子制度を導入・整備して、主従間の契約や利権保護を明確にし、家臣たちの統制を図っていた。 彼が戦死したときはまだ42歳。戦国大名としては、あと十年生きていてもおかしくない年であった。 桶狭間で戦死しなければどうなっていたかは分からないが、更なる飛躍ができた可能性もあるだろう。 彼は戦国の世に現れた風雲児である織田信長に敗れてしまったが故に時代から見放された「悲運の武将」でもあった。 【各作品】 古い作品ほど「公家かぶれの軟弱な大名」「革命児・織田信長の引き立て役」として扱われていた傾向にある。 場合によっては息子と融合されて「蹴鞠に興じるボンクラ」という、いくらなんでもおかしいキャラ付けにされることすらザラ。 蹴鞠は京都文化の一つで、今川義元が京都文化に精通していた以上、実際に蹴鞠はたしなんでいたかもしれないが。 遺された和歌はうまくなかったらしいので、下手の横好きだった可能性もある 一方、ここまで語ったように「織田信長をして一発逆転に賭けざるを得なかった強敵」と評価される機会もまたある。 例えばセンゴク外伝桶狭間戦記(2007)では公家かぶれの信長の噛ませ犬という従来の描かれ方ではなく、戦国大名化を進めた才気に溢れる大人物として描かれる。 2019年に地元の静岡にて今川義元公生誕500年祭が行われ、それを機に再評価する流れが作られている。 その二年前、2017年のNHK大河ドラマ『おんな城主直虎』にて、それまでの軟弱なイメージを真っ向からぶち破るような、 恐るべき戦国大名・今川義元を春風亭昇太氏が見事に演じ、話題になった影響もあるのかもしれない。 また、本来の意味とは異なるが海道一の弓取りと言う異名から弓道が得意だったりすることも多い。 司馬遼太郎「国盗り物語」 桶狭間の戦いに登場。 京都の風雅な文化人として振る舞いながらも、三国を治める壮大な気宇もある豪傑として描かれる。 あくまで脇役なので出番こそ少ないものの「凡庸な男ではない」「東海の覇王」とその才覚・功績を称賛されている他、 「信長は今川義元を討ったような奇襲作戦は二度としなかった」「信長にとってはそれ以外に打つ手がなかった」など、 勝利こそできたものの、信長にとって義元はかなりの強敵であったことを示唆する記述も見られる。 2017年大河ドラマ「おんな城主 直虎」 上述の通り、落語家である春風亭昇太氏が演じた。 演者が『笑点』にも出演している落語家ということもあって、どういう義元となるのか話題となっていたが、 ふたを開けてみれば、時代背景を考えれば昇太氏のトレードマークの一つである眼鏡を外すのは当然としても、 『笑点』でお馴染みの笑顔を見せないどころか、下の身分の者がいる場では直答することすらなく、 所作や側近の者を通じて自らの意思を示し、下の者の謀反を疑えば容赦なく粛清する冷徹な「太守様」として描かれ、 主人公の井伊直虎を含む井伊家やその家臣団、そしてテレビの前の視聴者を震え上がらせたが、桶狭間の戦いで討たれた。 メインが井伊家なのでその死に様は詳細には描かれず、『笑点』では「いつの間にか死んでた」とイジられた。 2023年大河ドラマ「どうする家康」 「否~!!我らは民に生かされておるのじゃ。民に見放された時こそ我らは死ぬのじゃ!」 義元を演じたのは狂言役者でもある野村萬斎氏。 まだ「松平元康」と呼ばれていた頃の、若き徳川家康が人質として過ごした駿府の当主として第一話から登場する。 部下たちの思いはどうあれ、若き家康にとっては尊敬する君主であり、義元もまた家康が尊敬するに足る名君主として描かれるが、 第一話の終盤に桶狭間の戦いが勃発し、家康に金色の鎧を贈って「これからも今川家に尽くしてくれ」と彼を激励したその後に、 魔王感マシマシで登場した岡田准一氏演じる信長に、討ち取られた首を括りつけた槍をぶん投げられるという、 ある意味即オチ二コマめいたギャグ描写にも見える、第一話にして討ち死にするという衝撃的な展開が描かれた。 こうして義元は第一話にして死亡し、松本潤氏演じる松平元康は大いに悩みながらも戦国時代を生き抜くこととなるが、 生前の義元の名言・格言は、彼の死後も元康(家康)の中に根付いており、彼の助けとなるのであった。 信長の野望 意外と第1作から全体を通して真っ当な評価を受けている。 一貫して、統率力と政治力と魅力に優れた、君主として優れた人物。 とはいえ数値上は80代後半がほとんどで、信長、信玄、氏康、謙信といった超一流と比較すると明らかに一段劣るという位置づけだった。 特に馬に乗れないほど太っていたという俗説からか、武力は極端に低く評価されている作品も。 しかし近年は再評価が著しく、統率と政治は90の大台を突破し、武力と知謀も80台後半と、高水準でバランスの良い名将となっている。 ついでに顔グラも白塗りデブからイケメン貴公子へと別人レベルの変貌を遂げた。 また、弓取りの意味を弓道の弓と解釈しているようで弓に関する適性や戦法を与えられていたり、グラフィックでも弓を持っていることも多い。 義元存命時は恵まれた駿河、遠江という立地、バックは武田と北条に守ってもらえる。まだ小さい頃の織田を倒せば後は流れで上洛するのみ。 配下も質・量ともに豊富で、初心者にもプレイしやすいと評判。……その優秀な配下が殆ど後の徳川家なのには目を瞑るとして。 一応純粋な家臣の中では岡部元信や朝比奈泰朝あたりはそれなりに強く、政治面なら母・寿桂尼は優秀。 固有の戦法や政策が与えられていることも多く、『大志』では強制的に停戦を結ばせる「雪斎の教え」が猛威を振るった。 なお、定番の一つたる1560年シナリオでの扱いは作品によって様々。 開始直後に桶狭間の戦いが始まって死亡することもあれば、選択肢次第で戦死を回避できる場合もある。今川家を担当している場合はそもそも桶狭間が起こらないなんてことも。 ちなみに、詳細は氏真の項に譲るが義元死後の今川家は途端にハードモードとなる。 センゴク外伝桶狭間戦記 センゴク本編には出ないが外伝である桶狭間戦記にて信長とのダブル主人公として描かれた。 珍しく義元の若かりし頃が描かれ、名軍師太原雪斎との出会いから物語が始まる。 奔放な性格の優男だがカリスマ性に溢れ、人心掌握や政略に天賦の才を持つ。 豊かな領国に流入した流民を差配し、今川仮名目録追加や寄親寄子制による軍事力の強化を進める。 それにより人口が膨大化したため、その軍事力を持って尾張への侵攻を開始した。 信長の忍びシリーズ 信長の尾張統一後の最初の強敵としてそれなりに存在感がある。 武将としては有能だが油断癖があり、生前の雪斎から度々説教を受けている。 弱点は息子が馬鹿なこと。あと麻雀が弱いこと。 殿といっしょ 武将達が大体ギャグキャラにされがちな本作きっての常識人だが、同時に家人に「この世で一番モテない男」扱いされるレベルの非モテキャラ。 しかも戦国時代基準での常識人であるが故に生まれる時代を間違えた息子の才能に気付いておらず、その息子が父親と正反対のイケメンキャラである事もあって完全にナメられている。 戦国無双 詳しくは該当項目を参照。 ナヨナヨしたおじゃる口調で喋る、厚化粧に肥満体という、戦国の荒々しさがかけらも感じられないデザイン。 さらに息子の設定まで導入されて、蹴鞠好きになっている。信長の野望とは対照的に、色物義元の典型例である。 上述通り、蹴鞠も京文化なので実際にやっていないとは限らないが、彼の場合は「蹴鞠を通じて日の本を統一する」などとのたまうネタキャラと化した。 おまけに戦国無双のゲーム自体がある意味信長を中心に回るので、桶狭間で戦死する役割でしかないことも多い。 特に1の新武将シナリオでは、織田信長の奇襲を一度は撃退したのに二度目の奇襲を受けて死亡する最期で、あまりの扱いの悪さが後々まで語り草になっている。 だが小物だった1を除けば彼なりに戦を無くそうとしている事は見て取れる。その辺りは同じような扱いがされている劉禅と同じだろうか。 「4」でも実質は「桶狭間で散るだけの標的」である……が。 「4」の突然の描写のせいか、設定が大きく変更された「5」では筋肉質な武将として大きく変更された。 戦国BASARAシリーズ 詳しくは該当項目を参照。 こっちも定番のおじゃる口調公家風デザインだが、創作の今川義元にありがちなでっぷり体型ではなくかなりの細身である。 「ぱっと見ただの変人に見えて要所要所で冷静に物事を見据えている」という戦国BASARAシリーズでは逆によくある方の色物。 戦国BASARA全体の色物具合から相対的に考えても、色物系の義元にしてはマトモかもしれない。 戦国乙女 「今川ヨシモト」名義で登場。詳しくは該当項目を参照。 天然系お嬢様で、ネタ枠というほどではないがネタ色もそこそこある。 あと、弓使いである。今更ながら、「弓取り」は武士の比喩であり、別に弓が得意であるという意味ではないことを補足しておく。 戦国大戦、英傑大戦 戦国大戦は最初のバージョンから登場。それどころか勢力の1つが「今川家」であり、織田、武田、上杉と並んでの大抜擢であった。 勢力の共通意匠は「顔の化粧」であり、当主たる今川義元も口元が黒い蝶のような化粧で覆われている。 「圧倒的、圧倒的よぉ」と同じ言葉を2回繰り返しながら、非常に高い武力上昇とそれに釣り合ったデメリットを持つ全体強化計略「上洛の幻」で敵を蹂躙していく。 更に効果終了時に兵力(HP)が大幅に減るデメリットは娘の瀬名のお陰でペイできた。…為にその娘の計略にメスが入れられてしまった。 なおストーリーモードに当たる「群雄伝」だが、最初のバージョンの副題が「1560 尾張の風雲児」なのでやっぱりやられてしまう。 …のだが、今までの創作では信長本人にトドメを刺されることが多かった彼が、 群雄伝では梁田政綱の情報を元に突撃してきた毛利新助に討ち取られるという史実に近い描かれ方をされた。 そのお陰で一人のシナリオライターがSEGAへの入社を決意したのはまた別の話。 その後も今川軍は継戦能力の高さと義元の爆発力のある号令で環境には居続けたものの、 ストーリー的にはもう死んでいるため、追加カードも少なめで群雄伝では影も形もない状態が続いた。 しかし時代設定が過去となった「1477 破府、六十六州の欠片へ」にて若い頃の義元が追加。 こちらの計略「花倉の戦火」は単体強化で強力であるがやはりデメリットが重いというものであった。 更に群雄伝に彼の伝が追加。今まで語られることが少なかった「花倉の乱」を主軸に今川義元という男を紐解いていく。 最初は「1477」で追加された義元が主役だが、途中で1560版のSRに成長する。 …も、そこからは破滅への物語であり、最後には織田信長を討ち取った…と思いきやそれは空想オチであり、 結果史実通りに討ち取られるという何処かで見たような終わり方をするのであった…。そういや勢力カラー一緒っすね。 とはいえ若干滑稽に見えるもののいわゆる暗愚としての扱いはされておらず、 また化粧を外した顔は意外とイケメンだったりするので扱い的には非常に良いと言えよう。 英傑大戦でもSR版の姿で登場。 なんというかテンションが爆上がりしており非常にポジティブ。 様々な時節行事を「今川の季節ッ!!」と言い張る等ほぼネタキャラであるが、その言葉の節々には部下思い、仲間思いな一面も見て取れる。 特に贈り物台詞の「これ以上、有能な家臣が増えてしまっては戦すら起らぬぞッ!」と言い高笑いする姿は彼の本質を表していると言えるだろう。 一方で妻の定恵院も戦国大戦時代から登場しており、彼女はなぜか常に包帯姿であった。一方で仲は良く、英傑大戦では義元の彼女に対する意外な姿も見られる。 なお計略自体は使いやすいものに変更されているが、計略を使っても同じく計略を使った織田信長に一歩及ばないステータスになるのは皮肉だろうか。 「否~!!我らはWiki篭りに生かされておるのじゃ。Wiki篭りに見放された時こそ我らは死ぬのじゃ!」 という事で、真の主であるWiki篭りの皆様方、追記・修正よろしくお願い致します。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 今までなかったのかこの人 -- 名無しさん (2024-02-14 18 49 10) 作成乙です。「信長に負けた武将」のイメージしかなかったけど、多くの危機を乗り越えて巧みな手腕で勢力を拡大した傑人であることがわかって面白かった。ありがとう -- 名無しさん (2024-02-14 19 17 16) モンストでも弱いイベクエ星4キャラなんだよなぁ… -- 名無しさん (2024-02-14 19 57 13) センゴク 桶狭間戦記の義元は信長にとって乗り越える壁であり師ともいえる存在 -- 名無しさん (2024-02-14 20 00 29) 桶狭間の戦いで今川義元が勝ってたら最終的に今川家が天下を獲っていたのかな? -- 名無しさん (2024-02-14 20 48 37) 仁王2ではまさかの声がフリーザ様…それに加えて台詞やモーションもかなり格好良くて好き。 -- 名無しさん (2024-02-14 21 06 19) 信長の忍びでも実力があり油断もないが運がなかった強キャラって扱いだったな -- 名無しさん (2024-02-14 21 45 02) 当時の資料、それも味方側の資料に「桶狭間はまぐれ勝ち(意訳)」と書かれてるとかなんとか -- 名無しさん (2024-02-14 22 26 10) 一星龍、魔人ブウ、フリーザ、トッポ、戸愚呂兄、ギルガメッシュと強キャラに定評のある声優が担当する事が多いな -- 名無しさん (2024-02-14 22 33 29) センゴク(桶狭間戦記)、風林火山(大河ドラマ)あたりから再評価されつつあったイメージあるなぁ。(もちろん、おんな城主直虎での義元像もプラスに働いたと思ってます) -- 名無しさん (2024-02-14 23 32 37) 信長の野望をプレイした限りのイメージでは「信長みたいなヤツが現れてしまったことが運の尽きだっただけで本人もフツーに強い」という感じだったけど、作品によってはめっちゃ弱そうに描かれてることもあるよね。 -- 名無しさん (2024-02-15 00 31 08) 桶狭間で勝ってたら・・・東海地方統一くらいは間に合いそうだけど、その辺で代替わりが発生しちゃうと氏真にその広大な領地を裁量できるイメージが沸かないなぁ -- 名無しさん (2024-02-15 02 14 36) 「雪斎が生きていれば桶狭間の敗戦はなかったろう」とまで言われてるが、亡くなった時も60歳と戦国時代にしては長命だったし、ほぼありえないもしだけどどうなったかは気になるな -- 名無しさん (2024-02-15 03 06 33) ありとあらゆる面が「序盤の中ボス」に相応しすぎる。もっと若ければ悲運の名将にもなれただろうし、信玄や本願寺と比べても弱小勢力だったころの信長にしてみれば博打度はこっちの方が高かっただろうけど、時間だけで言えばあっさり負けてしまったし、再評価はされても信長と家康に付属した立ち位置はおそらく変わらない気がする -- 名無しさん (2024-02-15 04 09 23) 草の根では2010年前後から結構再評価されてたような -- 名無しさん (2024-02-15 06 09 13) 草の根では2010年前後から結構再評価されてたような -- 名無しさん (2024-02-15 06 09 41) 桶狭間戦記の「今川当主。今川五郎義元じゃ。」と玄広恵探言い放つシーンが好き -- 名無しさん (2024-02-15 07 49 12) 直虎の義元はいつの間にか死んでいたようだが -- 名無しさん (2024-02-15 07 55 05) 「貴族のボンボンかと思ったら戦乱時代の屈指の実力」「天下を目前にしながら一度の大敗で機会を逃す」と三国志の袁紹と被る。負けた相手も曹操・信長と「時代の改革児」と評価されるし。 -- 名無しさん (2024-02-15 10 40 07) センゴク外伝だと「よく信長これに勝てたな」ってくらいの化け物になってたな -- 名無しさん (2024-02-15 15 50 57) 花の慶次時代は無能感ある見た目で回想シーンに1コマだけの出番だったのが、いくさの子でイケメンラスボスへ大出世! -- 名無しさん (2024-02-15 16 46 05) 「大英雄・織田信長 初の大一番の引き立て役というポジにされやすい」「最期が格下のはずの相手に完全敗北というフォローしようがない完敗で終わっている」「同じ東海地域かつ近い時代に徳川家康というこれまた超ビッグネームがいるので、地元の英傑としてのプッシュがかかりにくい」「その徳川家康とは物凄く微妙な関係なのでここでもあまりいい役は貰えない」と、後世あまり良く言われない理由が勢揃いしてしまっているのがこの人の不幸。その辺を抜きにすれば自領を地域大国にして見せる優れたものを持っているのだが…… -- 名無しさん (2024-02-15 20 51 17) 私(50代のおっさん)が子供の頃はほんっとに無能な雑魚扱いだったんだよなあ。朝倉ともども、ずいぶん再評価されたものよ。 -- 名無しさん (2024-02-15 22 47 19) 大河においては風林火山でのイケメン化と今川暗黒会議の影響が大きいと思います ノブヤボ創造の義元も明らかそれに寄ってた 大志や新生は貴族風イケおじで落ち着いた -- 名無しさん (2024-02-16 11 48 14) 天海祐希が主演のSPドラマ「女信長」で、三谷幸喜が演じていた見るからに弱そうな今川義元は忘れられない。 -- 名無しさん (2024-02-16 14 14 09) 麒麟がくるでは猫ちゃんを可愛がってた印象が… -- 名無しさん (2024-02-16 14 27 19) 桶狭間で敗れたとしても義元が生存していれば全く違った歴史になったと思う。松平の離反は無かっただろうし、今川の弱体化も最小限だろうから武田が三国同盟を破棄して南下することもなかったはず -- 名無しさん (2024-02-16 17 06 32) 炎のニンジャマン外伝では今川焼をたべて休憩していたところを強襲された(今川焼は江戸時代生まれです) -- 名無しさん (2024-02-16 19 11 34) TRPG的にいうと信長に成功率5%でクリティカルだされて、その後連続ファンブルであえなくキャラロストしたようなもの -- 名無しさん (2024-02-20 01 00 18) 自分の姪を嫁にしたりと実際のところ家康との関係は良好だったらしい。桶狭間の戦いが無ければ間違いなく尾張は今川家の支配下に入っていただろうし今川家が天下を取るのも十分有り得たと思う -- 名無しさん (2024-04-08 16 09 27) 「雪斎がいなくなったら国が整わなくなった」と家康に評されてるのは、雪斎を用いたのは義元の功績とはいえ同時に限界を示してる感もある。その家康は当時家中の柱だった石川数正が秀吉に走った危機を乗り切って飛躍にまで繋げてる -- 名無しさん (2024-04-20 02 50 54) 仁王2の今川義元はネタっぽいビジュアルで実際掴み攻撃で腹立つ顔のドアップがあったりするけどそれだけで終わらんような貫禄があったわ -- 名無しさん (2024-07-21 04 26 27) 近年だと公家かぶれの麻呂からきちんと海道一の弓取りとよぶに相応しい描写になってて善き。 -- 名無しさん (2024-09-10 18 26 12) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/sakamoto_wado/pages/13.html
武士道とはなにか 武士道とは、武士の道徳原理。著名な武士や学者の筆から生みだされたものが多いが、それだけに武士道は、「侍」の強力な行動規範として拘束力をもった。 侍にとって、勇猛果敢なフェアプレーの精神こそがあらゆる文武の徳の根本とされた。 武士道におけるあらゆる知識は、日々の行動と合致しなければならかった。(知行合一) 孔子と孟子の古典を知るだけでは高い尊敬を受ける事はできなかった。「論語読みの論語知らず」とされ、知性とは行動として現れる道徳的行為だと考えられた。 義とは? 「義」は、もっとも厳格な徳目で、卑劣な行動や、不正なふるまいは忌まわしいとされた。「義」には「正しい行い」と同時に「打算や損得から離れた」との意味が含まれ、人間の欲望を制御しなければなし得ないものだった。 「義理」とは「正義の道理」を意味するが、現代では、義理という言葉は驚くべき言葉の誤用を生んでいる。 世論が定めた果たすべき義務と、世論が期待する個人的義務感を意味するようになり、しばしば詭弁の為に用いられ堕落してしまった。 武士道の基本は「フェア・プレイ」の精神。フェア・プレイの根源とは「義を貫く」ということであり、武士は例え戦いに勝ったとしても、不正な行為をして勝った者は賞賛されなかった。 当時、軍事的な戦略として狡猾な策略がまかり通っていた時代に、率直で正直で男らしい徳として、忠臣蔵の武士たちは、「四十七人の義士」とよばれた。 武士道における「義」は、普遍的な「良心の掟」に基づく絶対的価値観を基本とする精神であり、「義」を遂行するためにはよほどの自立心を養わなければならないとされた。 勇とは? 孔子は「義を見てせざるは、勇なきなり」と説いた。「勇」とは正しいことを敢然と実行することであり、「勇」は「義」によって発動されるのでなければ、徳行の中に数えられる価値がないとされた。 武士道の中では、真の勇気、大事に当たって奮い起こす勇気である「大勇」と、思慮分別なくただ血気にはやる勇気である「匹夫の勇(ひっぷのゆう)」は明確に区別され、人が恐れるべきことと恐れるべきでないことの区別こそが「勇」とされた。 侍にとって、命を投げ出す猪突猛進の行為は賞賛されず、死に値しないもののために死ぬことは犬死とされた。 侍の子は、死の危険や恐怖を前に動じない精神を養おうと、あえて過酷とも言える試練を与えられ、忍耐と勇気を鍛えさせられた。 迫り来る危機を前にして詩歌をつくり、歌を口ずさむ。そういう人こそ偉大なる人と賞賛された。 江戸城の築城者である太田道灌(おおたどうがん)は、槍で刺された時、道灌が歌の達人と知っていた刺客は「かかる時さこそ生命の惜しからめ」という句を詠んだ。道灌は致命傷にも関わらず「兼ねて亡き身と思ひしらずば」と下の句を続けた。侍にとって合戦は野蛮な殺し合いではなく、知的な勝負だった。 {「かかる時さこそ命の惜しからめ かねて亡き身と思い知らずば」・・・「前々から死んだ身と思い知っていなかったら、こんな時はさぞ命が惜しいことだろう。自分は思い知っているから(戦に明け暮れているのだから、生きてはいるがもう死んだと同じだと思い、いつも死ぬ覚悟を決めているから)、こんなときでも命は惜しくないのだ。」 } 上杉謙信は武田信玄を「敵の中のもっとも優れた人物」として尊敬の念を抱いていた。北条氏に塩の供給を断ち切られた信玄に、謙信は「我、公と争う所は弓矢にて米塩にあらず。」と塩を送った。 勇気と名誉は、ともに価値ある人物のみを平時の友とし、戦場の敵とすべきことを求めている。 仁とは? 「仁」とは、愛、寛容、他者への情愛、哀れみの心であり、人間の行うべき最高の徳とされた。 伊達政宗は「義に過ぎれば固くなる。仁に過ぎれば弱くなる」と言った。「義をみてせざるは勇なきなり」で、何が「義」であるのかを決めるのは、人間としての思いやり、つまりは+「仁」である。武士道では、「智」によって「仁」と「義」のバランスをとり、どちらに偏りすぎてもよくないと教えている。 武士の「愛」は盲目的な衝動ではなく正義に対して適当なる顧慮を払える愛であり、また単にある心の状態としてのみではなく、生殺与奪の権力を背後に有する愛だからこそである。特に、弱者や虐げられた者、敗れた者への「仁」は、武士に相応しいものとして賞賛された。 礼とは? 単純な茶の湯の世界ですら芸術の域まで高めた。これが礼の力である。 「礼」の根本は「仁」と「義」という人が人として行うべき道徳を単に内面の精神を、行動の美学、型として表現したものが「礼」である。「礼」の典型は切腹という儀式であり、それらの型は言葉使いから立ち振る舞いまで厳格に守られた。 品性の良さを損なわぬために「礼」が実践されるのであれば、日常の挨拶ですら相手を思いやる心がなければそれは単なる所作であり、「礼」とは言えずかえって「失礼」となる。 「礼」は物事の道理に正当な敬意を払うことでもあり、従って社会的な地位にも正当な敬意を払うことを意味する。 誠とは? 「誠」は、字の通り「言ったことを成す」という意味で、行動規範そのものを表す言葉であり、それゆえに武士は一度「イエス」と承諾したことを命に代えて実行した。ここから「武士に二言はない」という言葉が生まれた。 侍は、嘘つきや不誠実な者を人間として最も卑しき者とし、厳しく嫌った。武士の一言は真実を保証するものであり、古来日本には契約といった概念はなく「口約束」だけで十分事は足りたとされた。 武士のする約束は証文なしで行われ、かつ守られた。証文を書くことは面目を損なうことだと考えられたのである。偽りの言に対する何らかの積極的な戒めがない中、嘘をつくことが罪悪として咎められたのではなく、むしろ弱さとして批判され、それが武士にとっては大いに不名誉なことだったのである。「誠」と「名誉」は不可分であり、一体のものである。 また、武士道では慇懃無礼との言葉もあるように、そこに心がなければいかに形があったとしても「礼」とは認めなかった。 名誉とは? 名誉という感覚には、人格の尊厳と価値の自覚が含まれる。侍の特質をなす一つとされ、幼い頃から教え込まれた。 武士道における「名誉」とは、名を尊び自分に恥じない高潔な生き方を守ること。武士道の「死」とは「生」を高めるための「死生観」であり、それは「どう生きながらえるか」ではなく、むしろ「どう美しく死ぬか」、同時に「何のために生きるか」という根元的な哲学の上に位置するものである。そこから転じて、武士道は死を超えても守らなければならない「義」のために、死をも美学として昇華させたのである。 若者達が追い求める目標は、富でも知識でもなく「名誉」であった。徳川家康の十男、頼宣(よりのぶ)は、大阪冬の陣に際して先鋒軍に加えて欲しいと熱心に懇願するも後陣に配置された。その後、大阪城が落城した際、頼宣は激しく悔し涙を流した。それを慰めた老臣、松平正綱に対して「なんと愚かなことを。我が十三の歳が再び来ると言うのか」と言った。 名誉と名声が得られるのであれば生命は軽いものと考えられていた。それゆえ、生命よりも重い大義が生ずればいつでも、極めて冷静かつ迅速に生命を棄てることができた。 忠義とは なんのために武士は生きるのか? 武士道の道徳律として義、勇、仁、礼、誠、名誉があるが、これらは儒教思想に基づくものであり、武士階級だけでなく他の階級の人々と共通すべき倫理である。 「忠義」武士道の目的となった徳目で、封建社会を特徴づけるものである。武士道の「忠義」は主君に真心から仕えるとの意味であり、忠義心がもっとも重みを帯びるのは、武士道の+「名誉」の規範においてのみである。 武士道において「忠義」の実践に躊躇はなかった。家族、そして広くは組織とその構成員の利害は一体不可分だった。 主君・上位者の命令や彼らへの忠義は絶対的であるが、主君の気まぐれな意志、もしくは妄念邪想のために自己の良心を犠牲にする者に対しては、武士道は低い評価を与えた。 侍が、主君と意見が分かれるとき、家臣のとるべき忠節の道はあくまで主君のいうところが非であることを説くことであった。もしそのことが容れられないとき、武士は自己の血をもって自分の言説の誠であることを示し、その主君の叡智と良心に対して最後の訴えをした。 武士道は、私たちの良心が主君の奴隷になることは要求しなかった。
https://w.atwiki.jp/bsr_e/pages/1483.html
夕日の丘に雁一羽。吹いて抜けるは血風涙風。上がる硝煙土けむり。荒野を埋める死屍累々。 時は慶長五年、秋まだ浅き九月の十五。 ここは美濃国関ヶ原。狭く小さき盆地なれど、荒くれ三河の武士総勢、集まりも集まったり約十万。 迎え撃つは武田の勇士。数は及ばずとも意気込みは負けぬ。 先陣切るは若き虎。暮れる日、血河に倣ったか、纏うは輝く赤揃え。 二槍はっしと両手に構え、両のまなこに炎を宿し。 勇将大軍何するものぞ、真田幸村ここにあり。 いざや轟け鬨の声。ここは美濃国関ヶ原、天下分け目の大決戦!(ベンベン) 「燃えよ我が槍、我が魂!命の限り奮えよ!」 「いや、震えてんの旦那の乳だから」 砂塵を巻き上げ、東の方角から、大軍が押し寄せてくる。 十万の軍勢、その足音に大地は轟き、その熱気に大気が湧き立つ。 国さえ揺るがす鳴動に、武田軍の先頭に立ち、はたと前を見据える幸村の乳も ゆさゆさ揺れる。 赤揃えを大きく押し上げはみ出すそれは、通常ならば流れて垂れるほどの大きさだが、 日ごろの鍛錬の成果か、激しく揺れながらも見事な釣鐘形を保っていた。 柔らかな塊が、上下左右に振られるたび、ほんの申し訳程度に覆った胸甲の隙間から 危ない部分が覗きそうになる。 だがどの角度から覗いても、いけない部分は見えそで見えない。赤い鉄にむにっと食い込んだ 白い肉が、振動にあわせてふるふる震えるばかりだ。 まさに絶対領域。第一衣装は神でござる。 「今が時ぞ!いざ参ろう各々方……おお!?いかがなされましたオヤカタサムァア!」 迫り来る大軍にむしろ心を燃え立たせ、意気揚々と自軍を振り返った幸村の目が、驚愕に見開かれた。 虎子の隠しを一目拝もうと、いっせいに身を乗り出したことで、武田軍は実にその半分が 人雪崩で撃沈していたのだ。 折り重なった人の山を、夕焼けが赤々と照らし出す。ちなみに一番下は信玄だ。 通常ならば五十や百の人の山、歯牙にもかけない信玄だが、今はいろんなものが潰れて動くこともできない。 地に這いつくばり、脂汗を流してうめくしかない主に駆け寄ると、幸村は慌ててその場に膝まづいた。 「なんと、さては徳川の謀略か!?ご無事でございまするかお館さまあ!」 膝を突き、前のめりになったことで、胸甲の間にぐっと深い谷間が生まれた。 言葉や動きに合わせて、ゆさゆさ揺れる肉の壁が、夕日を受けて深い陰影を生み出す。 かろうじて残っていた半数が、苦鳴を上げて前のめりに倒れ伏した。 反して信玄の体は、何故かちょっとだけ浮き上がる。 巨乳ハンター2
https://w.atwiki.jp/sengokuotome3/pages/22.html
・Lv5:期待の足軽 ・Lv10:もののふ見習い ・Lv15:三河の照れやさん ・Lv20:豪傑乙女 ・Lv25:可憐な軍師 ・Lv30:魔法大将・Lv35:いっぱしの武士・Lv40:麗しき足軽大将 ・Lv45:イエヤスLOVE ・Lv50:戦場のアイドル ・Lv55:恋する侍大将 ・Lv60:光魔の乙女 ・Lv65:一騎当千の乙女 ・Lv70:人見知りな武将・Lv75:横綱乙女 ・Lv80:純白の総大将 ・Lv85:征夷大将軍イエヤス ・Lv90:天下無双のお館様 ・Lv95:軍神の花嫁 ・Lv100:イエヤスを極めし者 ヒデヨシ・ケンシン・イエヤス・ヨシモト・シンゲン・マサムネ ノブナガ・ミツヒデ・ソウリン・モトナリ・モトチカ