約 1,936,327 件
https://w.atwiki.jp/mangaaa/pages/1218.html
ゆ 有閑倶楽部 遊☆戯☆王 幽玄漫玉日記 勇者エクスカイザー 勇者王ガオガイガー 勇者カタストロフ!! 勇者警察ジェイデッカー 勇者特急マイトガイン 勇者ライディーン UKキングダム 優駿の門 UKキングダム 円盤皇女ワるきゅーレ UFOロボグレンダイザー 幽☆遊☆白書 幽霊旅行代理店ソウルメイトツーリスト 雪の桜の木の下で… 雪の女王 ユート ゆび ゆびさきミルクティー ゆみみみっくす 夢色Jank 夢かもしんない 夢使い 夢のクレヨン王国 夢見るトッポ・ジージョ ゆめりあ 百合星人ナオコサン ゆるりずむ
https://w.atwiki.jp/nagatomo/pages/35.html
【解説】 最終節で長友(右SB)から、キヴ(左SB)へのセンタリング→ヘッドという流れから。 両SBが上がって、しかもセンタリング→ヘッド得点(未遂)とか・・・・どんなチームだよ!(笑) 【オリジナル】 【AA】 ヘ( `Д)ノ <ユート、中で待つからパスよこせ! ≡≡≡≡≡ (┐ノ 。; 。; / (#´∀`) <コイツらうぜえ・・・ (王子 )ヾ | 〉 ヘ( `Д)ノ <キブさん行きますよ! ≡≡ (┐ノ 。; / 。;○,'
https://w.atwiki.jp/mochewiki/pages/888.html
《幻影死槍(ファントム・デススピア)》 永続魔法 ①:自分フィールドのモンスターを対象とした相手の罠カードが発動した時に発動できる。 相手に100ダメージを与える。 ②:相手の罠カードが発動した時、自分の墓地からこのカードを除外して発動できる。 その罠カードの発動を無効にして破壊し、相手に100ダメージを与える。 使用キャラクター ユート タグ一覧 通常魔法 魔法カード
https://w.atwiki.jp/akbdata/pages/375.html
https //ja.wikipedia.org/wiki/ソーユートコあるよね%3f https //48pedia.org/ソーユートコあるよね%3f
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/302.html
目次 1.出発点としての心 2.中道の理論 3.足ることを知る 4.魂修行の過程 5.オーラによる尺度 (1988年4月17日の霊示) 1.出発点としての心 さて、本章でもユートピアについて、さらに勉強を進めていきたいと思います。ユートピアについて考えるに際しても、いろんな切り口が、もちろん考えられるわけですね。いろんな角度からの探究が考えられるわけですし、本章でもいろんな角度から、ユートピアについて突っ込んで考えてみたいと、ま、このように思っています。 さて、そこでまず第一に、出発点としての心ですね、「出発点としての心」ということで、話をしてゆきたいと思います。 まず、私は生前から、心の話を随分してきたわけでありますけれども、人間は心の偉大性ですね、これについてあまり考えていない。偉大な心、心が本当はどれだけ偉大な力を持っているのか、その神秘、これについて深く考えていないし、心について、本格的に教えてくれる方もいないわけです。学校教育で「心とは何か」ということを、みなさん本当に教わったでしょうか。あるいは学問の領域において、哲学なら哲学で、みなさん「心とは何か」というのを解明されましたでしょうか。哲学書のどれを繙(ひもと)いたら、「心とは何か」がわかるでしょうか。人間の心は何だっていうことを説明していますか。そうじゃないでしょう。説明なんかないでしょう。わかりやすい、納得がいく説明がありますか。ないでしょう。 宗教家、誰が一体、心について納得のいく議論、これをしていますか。どこの和尚さんに聞けば、心とは何かを言ってくれますか。禅宗なんかで「心なんかない」って言ってみたり、まあ、ある最近の神道系の団体でも、「本来心なし、肉体なし」なんて言っています。「実相のみある」なんて言っています。ま、ただ、それでは十分に心について答え切っているとは言い兼ねる部分があると思います。 喝(かつ)として、あるいは人間に考える指針を与えるという意味において、そうした言い方もあるでしょうが、やはり心というものは非常に大切な部分であって、これについての解明というのはなされなければならないと思います。心があるとかないとか言っても始まらないのであって、あるとかないとか言って議論している人間の心もあるのですから、この心について、まず探究するところから始めていかねばならんと思います。 そして不思議なことに、心というものは、単に与えられているものではなくて、創造的な性質を持っているんです。創造的な性質というのは何かって言うと、創っていく力です。物事を創っていく力、これがあるんですね、心のなかには。そして、この心を創っていくことによって、地上に生きている人間の生き方に、あるいは生きていく人間の周りに、さまざまな奇跡が起きていくんです。私はこれを生前、発見したわけです。心というものが、これほど難しいものか。また、その運転の仕方ということを気付いた時に、これほど簡単に、それを操縦することもできるのか。そうしたことに私は気付きました。ところが大多数の人たちは、肉体のままに生き、欲望に溺(おぼ)れ、そして自らの心のコントロールの仕方を忘れているのです。 私はよく説きました。「肉体というのは舟であって、魂が船頭さんです。この魂の中心部分が心です」。こういうことを、何度も何度もみなさんにお話したはずです。まさしくその通りです。肉体は舟です。人間は肉体という舟に乗り込んで、そして魂という船頭さんが乗り込んで川を下っている。これが人生の姿そのものであります。 したがって、船頭さんの部分がしっかりしていなければ、これは、舟は必ず岸に乗り上げたり、岩にぶつかったり、あるいは滝から落ちたり、こういうことをするようになるわけですね。舟というものは、波、あるいは川の水のまにまに漂(ただよ)うわけですから、これをどうにかして、正しい方向に持っていく必要があるんです。そのための船頭さんが魂であるし、実は舟の櫂(かい)の部分、これを司(つかさど)っているのが心と言われる領域なのです。一艘(そう)の舟です。各人というのはみんな一艘の舟、肉体舟です。これに船頭さんがひとり乗っています。魂と呼ばれています。この船頭さんがオールと言ってもいい、櫂と言ってもいいですが、この櫂を持っているんです。この櫂をどのように使うかによって、このオールをどのように使うかによって、どうした人生を生きるかが決まるんですね。 櫂があっても、その使い方を知らなければ舟はどうなりますか、みなさん。舟はもみくちゃになってしまいます。下流まで辿(たど)り着けません。たいていの場合ね、川っていうのは真(ま)っ直(す)ぐ流れていません。あっちいったり、こっちいったりしてます。浅瀬になったり、深瀬になったり、あるいは急に曲がってみたり、滝になったり、いろんなことがありますね。こうした時に、うまく上流から下流まで流れ着くためには、このオール、あるいは櫂といったものを十分に使わなければいけません。この櫂が付いているにもかかわらず、この使い方を知らないで、これはいったい何だろうかと思って、放って置いた人は、やがて人生の急流に際して、迷子になっていきます。こうしたものですね。 したがって、この櫂をどのように使うかによって、舟旅がどうなるかは決まります。快適な舟旅を送るということは、すなわち快適な人生を生きるということであり、快適な人生を生きるということはどういうことかと言うと、結局、上手な櫂の使い方を知っているということです。これによって、人生の苦難を乗り越えて、舟は楽々と進んで行きます。これが、出発点としての心の問題であるし、ユートピア建設の第一歩でもあると私は思うのです。どのように櫂を使うか。どのようにオールを使うか。まず、ここから入ってゆかねばなりません。 2.中道の理論 さて、「中道」ということも、生前から私はよく話をしてまいりました。「中道に入(い)れ」という言葉でもって象徴されている、釈迦の教えであります。この中道とは何かと言うと、先ほどのたとえ話を延長するとするならば、結局、浅瀬に行かず、急流に行かず、滝に向かわず、川の中程、底が深い所、ゆったりと流れている所を下ってゆきなさいということを、意味しているわけです。ところが、ともすればこの中道の理論を忘れて、人びとは岸辺の方に行ってみたり、浅瀬に行ってみたり、急流のなかにはまってみたり、川が曲がっているにもかかわらず、そのまま突っ込んでみたり、こうしたことをします。こうして、転覆(てんぷく)の人生を送ってゆくようになっていくのです。 したがって、人生航路を渡っていく舟として、みなさん方が生きていくためには、常に中道に入(い)るということ、川の中程を流れて行くということが大事です。川の中程を流れて行くということ。川は中程がやはり流れが深いのです。そして安全です。そうした所です。これを流れて行くことが大事です。 では、その中道に入るためには、どうしたらいいんでしょうか。これはます、川の中程に入るためには、目の付け所を忘れてはいけないということですね。どこが岸辺であるか。どこが浅瀬であるのか、急流であるのか。こうしたものをしっかりと見ていく必要がある。そうして、自らの身を常に安全な、川の中程に置く。これが大事です。 ところが魚を取ったり、いろんなことをしていると段々忘れていきます。釣をしていたりしてだんだんに舟が片寄っていきます。いろんな所へ行くようになります。これが大多数の人たちであります。どうしても欲望、魚釣というような欲望に惹(ひ)かれて「あのよどみには魚がいるかも知れない。あの浅瀬には魚がピチピチと跳ねている」、こうしたことでもって、舟をそちらの方に進めて行く。これが大多数の人たちの姿であります。 もちろん、人生の途中においては、魚を釣ることがあっても結構。岸辺に舟を寄せることもあっても結構でしょう。しかしながら、やはり、人生はひとつの旅であって、目的性と方向性があるのです。どこまで辿(たど)り着かねばならんという、その方向があるんです。そうであるならば、やはり、安全な方策をとっていくということが大事です。このために、中道に入るということが、とても大事になります。 では、中道に入るためにはどうしたらいいのか。これを考えてみたいと思いますが、結局こういうことです。すなわち、「左右の両極端を捨てる」ということですね。これが大事です。「そうしたことをすると、出っ張りのない人生になるじゃないか」とおっしゃるような方もいらっしゃるでしょう。「浮き沈みがあるからこそ人生は面白いんだ」と言うでしょう。そういう方もいるでしょう。ま、それも真実かも知れません。浮き沈みが多いことによって、人生のあやが出、こくが出ることも真実でしょう。しかし、そうしたことによっては、本当の意味において、幸せというものを満喫することはできないのです。 みなさんは、浮き沈みの激しい人生を生きていて、本当の意味で確固とした幸福感を持っている人がいますか。確固として「自分は幸せだった」と言える人がいますか。たとえば、若い時に名声を博したとしても、中年以降に急速に落ち込んでいく、落ちぶれていく人を見て、それを幸せだと言えますか。若い頃から苦労ばっかりして、失敗ばっかりして、亡くなる前にやっと人に評価されて、そして死んだ人のことをいいと思いますか。たとえば、間違えて死刑因にされて、そして再審の門を間いて六十年後にやっと無罪になったというような人。死ぬ間際に無罪になったというような人。こうした人の人生を見て、みなさんは本当に幸せだとお思いでしょうか。どうでしょうか。 かの悲観論哲学のショーペンハウエルという人も、随分若い頃から世の中のことをシニカルに見て、否定的に生きてきたそうです。そして彼の評判もあまり良くなかったそうです。晩年になってやっと、世界的な評価を受けるようになったそうですが、そうした悲観の哲学を説いたショーペンハウエルに、みなさんはそれほど心を惹(ひ)かれるでしょうか。どうでしょうか。 やはり私は、人生を通した旅というものを見た時に、そこに中道に入って人生を渡り切った人に、見事な完成の美を見るのです。両極端が好きな人というものは、一時的なものに目をひかれていることが多いのです。長い目で、六十年、七十年、八十年という長い人生を見た時に、やはり中道に入るということに、無限の発展の可能性が見えてくるわけであります。そして、大樹の如く大成していくということが、可能になっていくのではないかと思います。 木を見てもそうです。そんな曲がりくねっている木で、大木となった木があるでしょうか。右に曲がり左に曲がった木で、そんな天を突くような大木になったのがあるでしょうか。天を突くような巨木は、必ず真(ま)っ直(す)ぐに伸びています。盆栽用の松は、曲がっている方が姿はいいかも知れないけれども、盆栽用の松で、大木となったものはないのです。 やはり、天を突くような大木になっていくためには、真(ま)っ直(す)ぐに伸びていく、素直な心で生きるということが、何にも増して大事なこととなるのです。素直な心で生きる、これが大事です。中道に生きるとは、結局、素直な心で生きるということと同じことなのです。素直に生きる。謙虚に生きる。おごらず、へつらわず、また、自虐的(じぎゃくてき)にならず、素直に生きる。天命のもとに、素直に生きる。すなわちこれが、「中道」であるということであります。 3.足ることを知る さて、「中道の理論」の話をして、この話をしなければ片手落ちになってしまいます。それが「足ることを知る」ということです。足ることを知るとは、すなわち、自分が現在与えられているもの、これへの感謝、これに起因するわけです。みなさんは、どうかすれば、現在まで自分が生きてきたことを当然と思います。そして悩みの材料としては、現在から未来、これに関して悩みの材料をつくっていきます。 たとえば、結婚前の人であれば、結婚さえできればいいと思う。ところが結婚すると、奥さんがもっといい人であればいいと思う。また、子供ができればいいと思う。子供ができたらできたで、今度はその子供が上手に成長するといいと思う。成長したらしたで、その子供が親孝行な子供になってくれたらいいと思う。こういうふうに、人生の幸福感というのは、常に先取り先取りを意味していて、決して心が休まることはない。こうしたことが、現実に多いわけであります。ここに、永遠に自らの影を追い求めているかの如き人間の姿があるわけです。 昔、こうした童話があったと、私は記憶しています。それは、自分の影を売った男の話です。自分の影さえ売れば、あるいはその影さえ買わしてもらえば、思うことは何でもその望みをかなえてくれる。ま、こうした人が出てくるわけです。魔法使いと思ってもいいです。魔法使いが現れてきて、「何々さん、あなたのその影を売ってくれ」と言うわけですね。影を売るぐらいなら、どうってことはないと思いますね。 みなさんは日々生きていて、自分に影ができているということを、考えたことがないでしょう。どうですか。この読者、この本の読者、何万人もいるでしょうが、その何万人の読者のなかで、自分に影があるということを考えたことがある人、何人いますか。それは、何十年か生きた人生のなかで、過去何回かは考えたことがあるでしょう。しかし、毎日毎日自分に影があって有り難いなんて思う人がいるでしょうか。いないんじゃないでしょうかね。影があることなんか考えたこともないでしょう。当然のことだと思うでしょう。 この影を売った男の場合も当然だと思ったんですね、「影なんかあってもなくても関係がない」、こう思ったわけですね。そして影を売り飛ばすわけです。自分の影を売り飛ばす。そうすればお金が入ってくる。あるいは、思うことを何でもかなえてくれる。こういうことですね。これで生きていくわけですね。 ところが、他人に影がないことを気付かれる。「お前、影がないぞ」と言われますね。影がない人間というのは、まるで幽霊みたいなものです。そうしたことを言われる。そうすると今度は、影がないということを非常に気に病んでくるわけです。お金をいくら積まれても、宝石をくれても、影がないのでは、人間として生きていく基本的人権がない。こういうことで、その男は非常に悩むわけですね。ま、こうした話を面白くおかしく、教訓を込めて説いた話がありますけれども、こうしたものなんです。 読者のみなさんで、自分に影があることを感謝した人なんか一人もいないけど、影がないとなったらまた困るんですね。往来を歩いていて、もし「お前、影がない」と言われたらどうしようか。デートに誘われていって、「あなた、影がない」って言われたらどうするか。そういうことですね。パーティーに行って、「影がない」って言われたらどうするか。子供であっても、子供たちは注意深いから、友人に影がなかったりしたらびっくりしますね、「お前、影がない」ってことを言います。大変です。学校へ行けなくなります。登校拒否です。こうした基本的なこと、普段感づきもしないようなことでも有り難いのですね。こうしたことが人間の盲点になっています。 あるいは、昔、王様でね、やはり魔法か何かは知りませんが、こうしたことをかなえられた人がいますね。指先で触(さわ)ったものが、すべて純金になるという魔法ですね、こういう魔法をかけられた。そうしたら、王様はうれしかったのですね、触ったものがみんな金(きん)になっていくんです。山に触れば山が金になる。家に触れば家が金になる。川に触れば川が金になる。こんな有り難いことはないですね。自分は世界一の大富豪になった。これで喜ぶわけです。 ところが、自分の愛する娘、お姫様がいて、このお姫様を抱きしめた時に、お姫様が金になってしまうのです。金の像になってしまって、もう還(かえ)って来ない。ま、これで王様はさめざめと泣きに泣くわけです。こうしたことがある。 触れたものがすべて金になるっていうのは、非常に素晴らしいことのように思うけれども、自分の愛する者を、抱きしめることができないわけです。愛する者に触ることができない。これがどれほど辛いことか。 みなさん方は、純金とか欲しいでしょう。純金でなくたって、お金でいいですね。福沢諭吉さんの肖像画のあるお札でいいけれども、欲しいと思うけれども、触ったものが全部お札になったら素晴らしいと思うでしょうか。触ったらすべてお札になるような、そういうことがあったら大変なことになりますね。 たとえば誰でもいいですけれども、あなたの親友と手握ったら、その親友がたちまちお札の山になる、こんなことになったらどうなりますか。大変な世界ですね。こういうふうにならないということを、みなさん喜ばなくてはいけない。たとえば、お米とか麦とかなりますが、お米の代わりに稲にですね、お札がなったらみなさんどうしますか。最初は嬉しいでしょう。「うちの田んぼにお札がなった」って言うけれども、お札ばっかりがもう全部なったら、どうしますか。食べ物どうするんですか。お札がいくらあっても、食べ物がなかったらどうにもならないですよ。 こうしたこと、つまり「足ることを知る」ということをね、人びとは忘れがちです。現在の自分のことを当然と思わないで、たとえば影があることを感謝するような人がいますか。自分の手に触(ふ)れたものがみんな純金にならないことを、感謝する人がいますか。けれども、もしそういうことがあったら、それは大変な苦しみになるということは、これは事実なんですね。その事実に目をつぶってはいけない。 私たちが当然と思ってること、何も与えられていない、恵まれていないと思うことのなかに、実は大いなる過ちがあるということを知らねばなりません。今の時代に、この地球に、人間として生まれるということ、この有り難さというのは、なかなかみなさんにはわかりません。動物たちや昆虫たちから見たら、人間に生まれるということはどれほど幸福であるか。それをみなさん考えたことがあるでしょうか。これを知った時に、やはり、幸福感というのは大きく変わってくるのではないでしょうか。私はそう思いますよ。きっとそうだと思いますよ。 4.魂修行の過程 さて、「足ることを知る」という話をしてまいりましたけれども、結局ね、こういうことなんですよ。私たちは幸、不幸というものを単純に考えることがあるけれども、やはりね、人間にはいろんな人生経験があっても、それをすべて魂修行の過程として捉(とら)えていくという観点、こういう観点が基本的に必要なんですね。この観点を忘れた時に、不幸が始まっていくのです。不幸がね。やはり不幸ですよ、こういう観点を忘れたら、これはまったくの不幸です。 魂修行はね、やっぱりね、いろんなものがあっていいですよ。みなさんが思った通りのことが起きないかも知れないけれども、思った通りのことが起きない、そういう現実であるからこそ、また、生き甲斐があるんですよ。 たとえば、異性であってもね、なかなか思った通りにならんでしょう。たいていの人が結婚するまでの間に、まあ五人や六人にはふられるわけですよ、現実ね。まあ、初恋の人と結婚するっていう人もいるでしょうが、まあ非常に稀(まれ)な場合です。初恋の人と結婚したと言いつつ、結婚してからでも他の女性を見たり、男性を見たら、「ああいう人と結婚すりゃあよかったなあ」と思うことはいくらでもあるんです。やはりこれは現実です。だから世の中、そんなにうまくいかんのですね。うまくいかないことがいっぱいあります。けれども、そうした現実であってもね、やはり魂修行の過程ということでは、意味があることがあるんですね。 たとえば私なんかでも、おもちが非常に好きだとしますね。おもちが好きなら、稲の穂(ほ)におもちがなりゃあ、こんなにいいことはない。そうしたら正月のもちがいくらでも食べられる。できたら、稲の穂の先にあんころもちがなった方がいいですね。もちの中にあんこでも入ってりゃあもっといい。あんこだけじゃ嫌だから、ときどきね、あべかわもちがなったりね。それから、青のりですか、青のりが入ったもちがなったりね、丸もち、角もち、いろんなおもちがなったらいいなあと思うかも知れないけれども、やはリね、お米として取り入れて、脱穀(だっこく)してね、まあめんどうくさいけど、それで御飯炊(た)くわけでしょ。炊いて、臼(うす)で叩(たた)いてね、そしてこねて、もちにしてね、そしてみんなが「正月だあ」と言って祝って食べるんでしょ。これは大変無駄なように思いますよ、現実にね。稲の穂にもちがなりゃあ、こんな簡単なことないんだから。しかし、実際はそうはならないわけです。 それが果たして無駄かどうかというと、これは無駄じゃないんだね。その過程でいろんな人が働くわけだけれども、創造の喜びというものをみんな味わっているわけだ。ね、こうしたもんですよ。家なんかでも、天上界でいやあ、思ったらパンと建つんですね、心のなかで思ったらパンと建っちゃう。ところがこの地上ではなかなか建たない。まず、お金儲けなきゃいけない。しっかり働いて、金がたまって、銀行からローン借りて、そして大工さん頼んで建てるんでしょ、一年かかってね。そういうふうに不自由だけど、そこになんか喜びがあるんだな。 すなわちね、僕はこういうこと言ったらいいと思うんだよ。今、自己実現流行(ばや)りだけど、自己実現までに時間の差があるね。実際に思ってから、願いが成就するまで時間の差があって、その間なかなかトロトロして進まないように思う。それは非常な苦しみのように思うけれども、その苦しみの途中でね、やっぱり何て言うかな、魂に輝きが加わる。ま、こういうふうに僕は思うんだよな。苦しみの途中で魂に輝きが加わってるよ。実際、そう思うね。その魂の輝きがね、結局、その人の何と言うかね、悟りと言ってもいいし、幸福とも言ってもいい。そうしたものになっているのではないかな、魂の輝きっていうのが。結局そうだと思うよ。魂が輝けば、そこにね、やはりひとつの悦(よろこ)びがあるんだよ。 だからね、みんなね、ユートピアの話してるわけだけれども、ユートピアというものも、ポコーンとね、出て来りゃそれでいいわけじゃないんだ。理想的な家庭なんて、ポコッと出て来りゃそれでいいんじゃないんだ。努力してつくっていく。その間、時間がかかるけれども、努力してつくっていくところにね、本当に素晴らしいものっていうのが拓(ひら)けるんだよ。そんなもんなんだよ、みんなね。それを知らなきゃいけないよ。 5.オーラによる尺度 さて、ユートピアの基礎として、心の問題をいろんな角度から話してきたわけだけどもね、ま、そのユートピア度、どの程度のユートピアになったか、これを確かめる方法として、私はひとつの提案と言いますかね、方策があることを、お教えしておきたいと思うんですよ。 それが何かって言うと、結局ね、オーラだな、オーラによる尺度です。これなんですね。それがあるからやれるんですね。 すなわちね、ま、二千五百年の昔に、釈迦弟子になるには、一週間、山の中で禅定(ぜんじょう)して、反省して、頭からオーラが出なければ入門が許されなかった。まあ、そういう厳しさがあったわけですね。そういう難しいオーラによる判定というのが釈迦教団にはありました。 このね、オーラっていうのは非常に正確なものなんです。霊視できないみなさんにはわからないでしょうが、非常に正確なものであって、その人の後光の部分ですね、頭の後ろに出ている後光の部分の量、これを視(み)ることによって、如何(いか)に心が調和されているかがわかるんですね。すなわち、その人の心のユートピア、内心のユートピアという問題をとった時に、どれほど調和されているか、ユートピア度が高まっているかっていうのがわかります。心の調和度によって、このオーラの量が違うんですね。 オーラってわかるかな。仏像を見ると、たいてい後ろに立ってるでしょ、なんか金色にピカピカピカしたものがね、背中に立ってるでしょ、あれがオーラなんですよ。霊視で見ると、ああいうふうに金ピカのオーラがあるんだな。これが普通の人だと、まあ体からちょっとだけ出ている程度だけれども、心が調和されるにつれてね、段々大きくなっていくんだな。 霊界くらいの人だと、まあ体の周り十センチくらい出ているかもしれないけども、これがたとえば菩薩になってくるともっと大きくなってくるね。神界の人で、まあちょっと頭の周り二、三十センチぐらい出ていることがあるけれども、菩薩になってくるとポコッとね、ちょっとお盆みたいなのが出ることがある。如来になってくるともっと大きいですね。全身がポコーッと光の束ですね、丸い光の束みたいになってますね。こういうふうにオーラの大きさが違います。 こうしたオーラの大きさによる尺度でね、その人の心がどれほどユートピア化しているか、こういうことがわかりますね。だから隠せないのですね。特に霊的な能力を持った者には隠せないのです。 また、地獄霊にはオーラなんか絶対出ていません。これを特に言っておきたいと思います。たまにはね、地上界にも如来、菩薩を騙(かた)って地獄霊たちが出て来ることがあります。出て来ることがあるけれども、彼らの姿を視ていると、このオーラがたいてい青光りをしていたり、暗いものが多いです。妙なオレンジ色をしていたり、赤黒い光を放っていたり、そんなことがありますね。動物霊たちが出すようなオーラっていうのは、みんな赤黒い、青い色ですね。 だから霊視ができて、「青い光が見えた!」なんて得意がっている人ね、青い光なんか視えたらたいてい違ってますよ。こんなの動物霊がほとんどですよ。動物霊が化けてるんですよ。「青白い光、見た!」とかね、こういうの危ないですよ。本当のオーラっていうのは金色ですよ、金色しかありませんよ。金色、眩(まばゆ)い金色、あるいは淡い光ね、こういうのが出てるんです。ね、青い光や、黒い光や、赤い光やあなた、緑色とか、こんなの出ちゃだめですよ。絶対だめですからね。ま、こういう「オーラによる幸福の尺度」、これがあるんですね。 ま、これによってね、その人の心がどれほどユートピア化しているか、これがわかりますね。こうした、オーラに満ちた、金色のオーラに満ちた人びとが一人でも多く出ること、これが大事です。もちろん、オーラのなかにはいろんな色、色彩がありますが、心に応じていろんな色彩があるけれども、まず、金色ですね、金色のオーラを出さなければ、本当に心は調和されたとは言えない。ま、こういうことを私は言っておきたいと思います。 以上でね、本章「ユートピアの基礎」として、個人の心の領域について話をしてきましたが、やはり出発点はここですよ、いつもここに戻ってくるんですよ。これから後、大きなユートピア、全体のユートピアの話もしていくけれども、出発点はいつもここにある。個人の心が出発点である。そして、いろいろやっててうまくいかなくなったら、また、この個人としての「ユートピアの原点」「ユートピアの基礎」、ここに戻ってくる必要がある。これをね、くどいけど、何回も何回も僕は言っとくよ。
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/28461.html
ゆーとぴあ【登録タグ ゆ 初音ミク 曲 青屋夏生】 作詞:青屋夏生 作曲:青屋夏生 編曲:青屋夏生 唄:初音ミク 曲紹介 近未来SF的なイメージです。(作者コメントより) 歌詞 (動画より書き起こし) 夢見てるような 不思議な感覚 あたりは銀色 未来色 足を踏み出して 少し飛ぶだけで 月にも楽々手が届く 重力に逆らって 伸びる摩天楼 ここでは誰もが 上がるテンション きらびやかな 街の灯りは 蛍光 Hey Boy Hey Girl 既に終わった 流行 排除 退屈な日常 飽きたらおいでよ 方法は 赤いピル選んで それを飲み込んで それだけで 目の前には ユートピア 1、2、3、で開始 古臭い 考えなんて 廃止 二つの衛星が 空で弧を描く 幻のような 甘美な贅沢 偽物の月が光ってる 人も機械も ごちゃまぜ あべこべ 太陽さえも 掴み取れる 現実と仮想が 混在 して 存在 あの子にも 触れられる 現在 ポップで キュートな ヴァーチャルアイドル あなたの 耳と心を 奪い取る 体は デジタル 食事は ケミカル この高音がだんだん クセになる その退屈な 現実に飽きたら いつでもおいで ここが ユートピア 1、2、3、で開始 最新の考えあって 邁進 作り物の太陽が 今日も街を照らす 1、2、3、で開始 古臭い 考えなんて 廃止 二つの衛星が 空で弧を描く 1、2、3、で開始 最新の考えあって 邁進 作り物の太陽が 今日も街を照らす コメント ええ曲やで -- 名無しさん (2015-03-07 04 37 42) 曲の雰囲気とミクの声があってて好き -- 名無しさん (2015-08-09 21 20 07) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/mochewiki/pages/1215.html
《幻影騎士団(ファントム・ナイツ)ラギッドグローブ》 効果モンスター 星3/闇属性/戦士族/攻 1000/守 500 ①:このカードを素材としてX召喚したモンスターは以下の効果を得る。 ●このX召喚に成功した場合に発動する。 このカードの攻撃力はターン終了時まで1000アップする。 使用キャラクター ユート タグ一覧 効果モンスター 幻影騎士団
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/304.html
目次 1.仏教とユートピア 2.儒教とユートピア 3.ギリシャ哲学とユートピア 4.キリスト教とユートピア 5.ユートピア思想 (1988年4月18日の霊示) 1.仏教とユートピア さて、みなさん、お早う。今日は、ユートピア思想そのものについても、勉強していきたいと考えます。 まずね、いろんな教え、正法神理がありますが、それらの正法神理とユートピアとの関係って言いますかね、兼ね合い、思想のなかのどういうところに、ユートピアの考えが出ているか。こうしたことをザッと見てみたい。こういうふうに思います。 まず最初に、私にとって最も興味もあるし、得意でもあった仏教ですね、仏教の考え方とユートピアの関連について考えてみたい。このように思います。 仏教はみなさんご存じの通り、今から二千五、六百年前に、インドでお釈迦様が生まれて、そして説いた教えですね。四十五年間、いろんな教えを説きました。この間の事情は、私の書いた『人間釈迦』四部作、こういうものにもいろいろと出ていると思いますし、それ以外にも仏教ということでは、随分いろんな文献が出ていますので、みなさんもなるほど仏教というものはこんなもんだなと、こういうふうに思ってるでしょう。 あるいは旅なんかしてホテルなんかに泊まってみると、ホテルのなかでね、いつも机の上に二冊本が置いてありますね。ひとつは聖書ですね。もうひとつは仏典ですね。仏典の対照訳って言いますかね、口語訳って言いますか、そういうのをのせていますね、置いてあります。旅先で仏典を読んで寝れるようにと、まあこういう工夫が、いろんなホテルでなされているように思います。 まあこうして仏教というのは、私たち日本人にとって非常に関(かか)わりの深い教えであります。切っても切れない縁があると思います。決して、奈良とか京都に行けば仏教に会うというのではなくて、私たちの日常生活のなかにも非常に深い関わりがあります。ただその仏教も、いかんせん二千教百年の流れのなかで、その歴史的な意味合いを薄くし、そして現在では亡骸(なきがら)に近い格好になっていると思うのです。 で、まあそうした仏教だけれども、もともとお葬式のためにだけやっていたのかというと、そんなことないんですね。お釈迦様はお葬式の作法なんて、そんなの興味もなかったんです。もともと肉体に興味のなかった方ですから、お葬式の作法なんてどうでもいいんだね。また、お釈迦様は観光収入なんか全然気にしてませんでしたから、そうした仏教ではなかったと思います。 やはり仏教と言いつつも、ひとつの真実の学問であった。まあこういうことが言えます。神理の体系、また神の教えを、大学でも教えてくれないような、そうした神の教え、神への学問、神の学問を教えていた。そしてお弟子さんたちは、それを一生懸命勉強していた。そして自らの悟りを得ようとした。そして、それを広げようとしていったと、まあこういう歴史であったと思うのですね。 さて、じゃあ仏教思想のなかに、どういうふうにユートピアとの関連が見出(みいだ)されるか、こが問題となるわけであります。こうしてみるとね、結局仏教のなかでも小乗仏教、大乗仏教、いろいろあるけれども、小乗っていうのは結局ね、個人のユートピアだな、個のユートピアの探究ではないかなと思うんです。私も、もうすでに語ってきましたけれども、人間の心が結局は幸福への鍵(かぎ)である。そしてユートピアづくりの鍵である。まあこういうことを何度も言いましたが、まさしくその通りですね。そして、心の問題について徹底的に探究したのが、仏教でもあったんじゃないか。まあそういうふうに言えると思います。 心が調和されて安らぐ、そして幸福感に満ちている。これはまさしく、個人の内部でのユートピアの建設そのものになるわけですね。したがって仏教は、そういう意味で、非常に個のユートピアということを重視した。そう言えるんじゃないかと思います。 そして、大乗の段階に至って、いろいろ人びとを救っていく。大乗っていうのは、まあ大きな乗り舟だねえ。大きな船、乗り物、そういうことですから、まあ渡し舟でも千石船(せんごくぶね)みたいな大きな船でね、それで多く人も乗せられる。まあこういうことだね。こういうユートピア建設、すなわち、個人一人が楽しんでいればいいというのではなくて、やっぱり集団で、その幸せな感覚を共有し合う、そして維持する。こういうことができるようになっていく。これが大乗的ユートピアの世界ですね。 だから仏教は、やはりその根本に、ユートピア思想を持っていると考えていいでしょう。どうしたら人間が本当の意味で幸せになるか、これを探究したのではないか。こう言えるんではないかと思います。これが、「仏教とユートピア」というお話です。 2.儒教とユートピア まあ仏教は、そういうことで話をしましたが、儒教はどうか。儒教っていうのも、やはり今から二千五百年、あるいは二千四百年かね、よく知リませんが、その昔に、中国に孔子様という偉い方が出られて、そして説かれた教えというふうになっていますね。 まあ『論語』とかいろいろありますねえ、孔子様の教えというのが、弟子との対話篇で『論語』というのがあります。そしてこれも二千何百年にわたって、中国大陸でも読み継がれてきましたし、日本でも随分、勉強されてきた本ですね。そして、人びとの生きる糧(かて)となった。則(のり)となった。まあこういうことがあると思います。 さて、『論語』において孔子様がいかなる思想を開陳(かいちん)しているか。まあこれは私に聞くより孔子様に聞いた方が、もちろん早いでしょうね。そう思いますが、ただね、彼はあまり霊的なものは重視しなかった、という事実はありますが、やはり人間づくりということに、非常なウェイトを置いたんですね。学問の徳と言いますかね、学問をする、学ぶということを通して、どのように徳性を磨いていくか、こうしたことに孔子様はウェイトを置きました。 なぜそういうことをしたかと言うと、結局、霊的世界のみにどっぶりと浸(つ)かってしまうと、人間はやはり勝機(しょうき)を逸してしまうことが多いと。そういうことだね。霊的世界について、孔子様は本当に知らなかったかといったら、そんなことないんです。知ってたんですね。知ってたし、いろんなインスピレーションと言いますか、指導霊の指導を受けていたことは、事実そういう状況にはあったわけです。 ただ、彼は非常に頭のいい方であった。頭のいい方だったんですね。まあ政治家でもあって、官僚でもあったわけだけれども、また説法家でもありましたが、頭のいい方であった。そして、多くの人を長い時間、何百年、何千年にわたって導いていくためには、どのようにしたらよいかということを考えたけれども、やはりそれには普遍的な方法論が必要である。霊的体験というのは個人に属するものであって、普遍的なるものとはどうしても言えない。こういうことで「学問的知性」というものを、かなり重視したのではないかと思います。 そしてソクラテスなんかもそうでしょうが、「学徳」というものね、これの探究をしたんではないか。そして、いろんな徳目をあげて、それを磨くように努力せよ、こういうことを人びとに教えたわけですね。そうしてこの思想そのものが、後の中国の官僚制度と言いますかね、人材登用に用いられていった。これはみなさん今は当然のことだと思っているかも知れないけれども、非常に画期的なことでもあったんです。 今、日本では司法試験とか言って法律の試験があったり、あるいは公務員試験とか言ってね、教養試験だ、専門試験だなんてやってますが、そうしたものじゃなくて、この孔子の『論語』であるとか、あるいは『大学』であるとか『中庸』であるとか、いろんな本があの時代に出ていますが、こうしたものがテキストになって、その後、何百年の間、中国の約千年以上でしょうか、官吏登用の試験題目になったんだね。そして、それを学んでよくできた人が登用された。これを「科挙(かきょ)」と言いますね。科挙の制度がありました。 こうしてみると、光の天使の言行録や思想を勉強した者が、国家の有為(ゆうい)な人材として認められていく。こういうシステムが、厳としてあったわけです。これをみると、現代、いろんなことをやっていますが、ここに孔子の儒教、あるいは釈迦の仏教、これらを兼ね合わしたような構想が、裏にあるということが窺(うかが)われるわけです。本当に勉強して身につくと言いますか、損をしないものというのは、実は、光の天使たちの言葉の勉強、あるいは神理の勉強なんですね。 これは、この世とあの世を貫いていく勉強であって、この世で勉強したことが、あの世でそのまま役に立つんですね。まあ天国への予備校にもなるわけです。そうした天国への予備校ともなる、天国への入学試験ともなるような試験を、地上の官吏登用にやった。こういうことが、中国における面白い特色として挙げられると思うんです。 こうしてみると、孔子の考えとユートピアというのは、どの辺に構想があったかというと、この神理の言葉を、できるだけ常識的な形でまとめて、そして、優秀な人たちにそれを学ばさせる。こういう方法をとったわけです。つまり人材輩出の方法、人材選出の方法、人材を磨いていくための方法として、神理というものを使った。まあこういうところがあると思うのです。 これは非常に面白いですね。まあ個人としての徳目、いくつかの徳をつけるために勉強していくわけですが、これが結局、国家社会的な人材にもなり得るということで、全体的なユートピアの戦士となれる。こういう方法があったわけです。 これはまた、私は現代にも生きる考え方だと思います。神理をより多く学んだ者が、政治や経済や、あるいはその他のいろんな領域で活躍できる。こういう時代が来なければ嘘(うそ)だし、本当の意味でのユートピアはできないですね。この意味において、神理をひとつの勉強対象として、人びとが我を争って勉強する。こういう体制をつくっていくことが、非常に素晴らしいことではないか。この勉強はまったく無駄がない。本当にそうだと思いますね。 そういう意味で、儒教のなかにも、ユートピアの対象として考えるべき思想が流れている。まあこういうふうに、私は思います。 3.ギリシャ哲学とユートピア さて、仏教、儒教というお話をしてきましたけれども、ギリシャの哲学はどうか考えてみたいと思います。まあ高橋信次がギリシャ哲学を勉強したのかと言うと、全然私は勉強していないんですがね。勉強してはいませんが、まあものの話としていろいろ聞いています。ソクラテスやプラトンやね、アリストテレスが偉大であることぐらい、みんな知っていますよ。当然知っています。私だって知っているぐらいですから、小学生でも知ってるかもしれませんね。 それほどギリシャ哲学というものも、大きな影響を持ちました。このソクラテス、プラトン、それからアリストテレスという三人の如来(にょらい)ですね、偉大な如来たちが同時代にバトンタッチして出て来たということ、この三人が山の尾根みたいになって、ギリシャ哲学を押し上げてるんですね。そして、彼らの思想というものが、西欧の歴史を創ってきた。まあこう言っても過言ではないと思います。 根本的な思想っていうのは、いつもそうなんですね。異常に高い思想があるんです。あるいは深い思想、一本の大木のような思想があるんです。そして、その周りにいろんな枝がついていき、葉が繁っていき、段々見事なものになっていくんですね。こういうふうに、ギリシャ哲学というものも非常に難しいですし、観念論的でもありますし、難解ですが、この難解さを超えたところに、やはり根本となるべき法の高みがあったのではないかと思います。 ソクラテスやプラトンなども転生輪廻(てんしょうりんね)ということを信じていましたし、プラトンなんかは、熱心な、実在世界の唱道者であったわけです。イデアの世界という話を随分していますが、地上を去った世界には、実在界には、本当のエデンの園というのがあって、そのエデンの園の影を私たちが見ているに過ぎない。こういうことを、プラトンは言っているようであります。 現実に、ソクラテスやプラトンも幽体離脱という行為を通して、肉体から抜け出して天上界に還(かえ)り、そしてさまざまなことを学んでいた。そして、ソクラテスなども守護霊がいて、いつもその守護霊の声に従って行動していた。まあそういうことが言われています。 これは、現代の哲学者たちがいくら考えてもわからないんですね。抽象的なことではないか、何かたとえ話じゃないかと思ってるのですが、守護霊と話をするってことが、現代の哲学者には全然わからないから、ソクラテスの行為というのは非常に難しい。わからなくなってます。だから霊的な側面を捨て、思想としてのみ取り上げようとする人もいるし、まあいろいろあります。ただ、結局、そのギリシャ哲学の高みはどこにあったかというと、実在世界の存在というものを、知的描写、知的方法によって、この地上に解き放った。こういう面があると思いますね。これを言うことができる。 また、ギリシャで大事なことは、いわゆる共同体社会っていうのが出来たことですね。ソクラテスの頃にね、ポリス社会って言うんでしょ、ポリスと言う都市国家ですね、小さな都市国家がいっぱい出来て、そのなかで自治が行われて、政治に参画するっていうことは非常に名誉なこと、名誉な政治参画ということになっていた。そして共同体建設のために、みんな頑張ってやったわけですね。こういうポリス社会というのがありました。都市国家というのがあったね。こうして、その市民であるということが非常に名誉であった。まあこういう時代であったと思います。 ここにやはり、個としてのユートピア、つまり個人としての悟りを求めて人間としての徳性を磨くという方向と、同時に、社会への波及、共同体のなかでのそうした理想の実現という現象、この両面があったと言えると思うんです。すなわち、やはり本当の正法神理と言いますか、まあ神理というのは、常に個人としてのレベルアップの側面と、共同体としての理想化の側面、この両方を持っているんですよ。この両方がなければ、本当のものとは言えない。ギリシャ哲学のなかにも、ちゃんとそうした流れはあるっていうことです。これを私たちは認めなきゃいけないと思います。 凡庸な哲学者であったのではなくて、彼らは非常に現実に対してね、厳しい目を注いでいた。ソクラテスにしても、現実に対して非常に厳しい目を注いでいて、このアテネの何と言いますか、詭弁家(きべんか)と言いますか、ソフィストですか、相手に知的議論を次々にふっかけて論破していったわけですが、結局現実の腐敗と言いますかね、これに対する非常に厳しい姿勢を持っていたと思うのです。 そのアテネのソフィストと言うか、詭弁家たちっていうのは、現代で言えばいろんな新興宗教でしょう。彼らは新興宗教家たちの間違いを、正していったということですね。こういう面があった。現実に随分配慮していたし、プラトンなんかも、随分、現実社会をどうやって光明化していくかということに心を配った。そういう形跡が窺(うかが)えるわけです。 4.キリスト教とユートピア さて、仏教、儒教、ギリシャ哲学と来ましたが、キリスト教についても触れておきたいと思うんですね。 キリスト教とユートピア思想との関連、ということですが、やはりこれもあります。ただ、イエス様はユートピア思想として、神の国ということを、もうはっきり打ち出しています。神の国という思想、英語でなんて言うんですか、ザ・キングダム・オブ・ゴッドと言うんですか、神の王国ですね、これを持ち来たらさんとする、地上にね、持って来た、私は持って来た、ということを言ってますね。 そして、聖書のなかでも非常に面白い思想として、悔い改めの大事さを言っていますね。仏数的に言えば反省ですが、「汝ら悔い改めよ。悔い改めた時に神の国はそこに近づく」「天国はそこに現出するんだ」。こういうことを随分言っています。「心改めなければいけない。考えを改めなければいけない。そこでグラッと神様の方に心が向いた時に、天国が出て来るんだよ。神の王国っていうのは、そこにあり、かしこにありというような、そんな王国じゃないんだ。そうではなくて、それは心の王国なんだ」。こういうことをイエス様は言っているのですね。「だから、人びとが間違った念(おも)いや行いというものを悔い改めた時に、そこにたちまちにして神の王国が現れるんだ」。こういうことを言っているわけです。 まことにこれは、革命的な言葉であったわけです。当時、王国というのは、やはり建造物といいますか、お城があって、兵隊がいっぱいいて、そして国を守って、王国ができる。こういう考えがあったわけですが、イエス様の言う王国というのは、そうじゃない。一人ひとりの心のなかにつくる王国であったわけです。心のなかの王国、これがイエス様の言った王国なんです。 そして、イエス様はその心のなかの王国というのを、単に人間の本当の胸のなかに入っている、小さな王国だけを意味したとは思えないふしがあるわけです。「こうした胸のなかに小さな王国をつくっていくわけだが、その王国は実は神の天国とつながっているのだ。心のなかに王国をつくるということは、すなわち天国の住人になるということを意味しているのだ。神の王国にいるということと同じなんだ」、まあ、こういうふうに言ってますね。 ただ、イエス様もこのユートピア思想を説くにあたって随分、苦難、困難があったことは、みなさんもうご存じの通りです。大変ですね。だから神理をいろいろ説いたけれども、招かれる者は多いが選ばれる者は少ないと、そういうふうな言葉で言うように、なかなかイエス様の真実の言葉、神理がわかった人は少なかった。このように言えると思います。 でもみなさん、どうですか、聖書だと思わずに、キリスト教の思想だと思わずに、考えてごらん。胸に手を当てて考えてごらん。「悔い改めよ。天国は近づけり」、まあこういうふうに言ってますね。これは「反省をせよ。反省した時に、心が光に満ちたユートピアとなっていくのだ」、こういう教えですよ。簡単なことなんです。基本はいつも簡単です。 ですから、日々に自らの心を反省して、間違った念いや行いに関しては、徹底的に反省することです。そして、神様に詫(わ)びることです。「神よ、どうか許してください」。神に詫びるのが悔しかったら、高橋信次に詫びればいいですね。「高橋信次先生どうもごめんなさい。先生の本を読んで、これは漫才のネタ本だと思ってたら、実はいいこと書いてありました。私の罪を許して下さい。あなたを馬鹿にしたことの罪を許して下さい。本当はあなたは素晴らしい教えを説いていた。それをダジャレのタネ本だと思っていた私は、大変恥ずかしかった。先生どうぞ許して下さい」。こういうやり方ですね。 そういうふうに悔い改めた時に、神様や、あるいは高橋信次は、「よしよしええ子じゃ、ええ子じゃ」とね、「わかってくれたらいいんだよ。僕の気持がわかったらいいんだよ。ね、だから僕のことなんか別に気にしなくていいから、僕の本読んだらね、それで変わらなきゃいけないよ」ってね。全然変わらないんだったら、何のために読んだかわからない。本を読んだっていうのはね、ただ活字に目を通しただけじゃ意味ないんですよ。読んだら変わらなきゃいかん。心が変わらなきゃ嘘(うそ)です。心が変わったら、それを実行することです。そうでしょう。 そして私たちの本を読んで、霊的世界が本当にあるということがわかって、神への感謝の念が湧いてきたら「報恩」ということですね。感謝に対しては報恩、恩を報いていくということが大事ですよ。だから私の本を読んでね、神理を悟ったら、そのご恩返しは高橋信次にしなくてもいい。高橋信次の肖像画置いて、そこにお宴銭を上げたりね、灯明上げたりする必要は全然ありません。ないから、ただその有り難いという気持があったら、それを世の中に還元していきなさい。自分の周りの人に、自分が接する人に、その感謝の気持を還元していきなさい。 じゃあ感謝の気持を還元するというのは、いったいどういうことかね、どういうことだと思うかい。それはね、結局こういうことですよ。自分が知った神理、それをね、日々に実践していくこと。神様はそうした偉大な計画でもって、ユートピアづくりに励んでこられたんだ。そして、いつの時代も休むことなく働いておられるんだ。そういうことを知った時に、自分もユートピアの一員として、ちょっとは何かお返しをしたい、働いてみたいなあと、こう思うのが人間として当然のことですよ。これは当然の筋なんです。筋道なんですね。 だから、そういうふうに思ったら、やはり実践してみることです。イエス様の教え、キリスト教、クリスチャンでなければ救われんとか、教会に行かなければ救われんとかね、特定の教会に登録しなければ救われんとか、こんな思想はおかしいです。そうじゃありません。 結局ね、イエス様の思想というのはね、まあいろいろあるけれども、要約したらこの二点だと僕は思うんですよ。「悔い改めよ」「悔い改めた時に、神の国は近づけり」。まあこういう思想と、もうひとつは「愛」ですね、「愛せよ」ということです。「とにかく愛せよ。徹底的に愛せよ」ということです。「いろんなもの、人、神を、すべてを愛しなさい」。この二つです。これが、イエスの思想の核であろうと、私は思います。そしてね、ユートピアの原理もここにある。こういうふうに思えるのですね。やはり「反省と愛」、これがユートピアの原理なんです。 5.ユートピア思想 まあ以上、いろいろとユートピアについて、過去の思想に照らした話をしてきたわけですが、ユートピア思想というのもありましたねえ。「中世のユートピア思想」、まあこれは、私が言うよりも、『黄金の法』という本のなかに、中世ユートピアの思想のこともいろいろ書いてありますから、そうしたものも勉強されたらいいと思います。 結局、光の天使っていうのは、お坊さんだけではないっていうことだな。思想家としても出て来ているということです。そして、いろんなユートピアの思想というのが説かれた。これを学んでね、近代の国ができてきたんだ。社会ができてきたんだ。そうしたことを知ってほしいと思うんです。 そしてね、いつの時代にもね、根本にある核は、これなんですよ。いろんな思想家っていうのが出ますね。思想家が輩出するし、哲学者だとか、学者だとか出るけれども、それで時代というものに、その流れに乗って一時期脚光を浴びるけれども、やがて消えていく人と、脚光を浴びるか浴びないか知らないけれども、何百年、何千年経っても思想が残っていく人との違いはどこにあるかというと、根本にやはりユートピアがあるかないかなんです。 ユートピア思想が根本にある人の思想は、やがて残っていくんですよ。それは、ユートピアという考え方自体が、ひとつの大きな愛の流れだからです。これは愛なんです。愛の流れなんです。これがある人は残っていくんです。 それと、霊的世界について悟っている人、知っている人、この霊的世界というものを実感し、それをまあ、そのままストレートに語るか、あるいは脚色するか、やり方はいろいろありますが、この霊的世界、この実感をつかんでいる人の思想というのは深いですね。深いものがある。そして人の心を揺り動かすものがある。こうして、やがて多くの人たちを救っていき、多くの人たちに影響を与えていく。こういう面があるということです。 ここに、ユートピア思想の本当の姿があるわけなんです。だから、まあ宗教のなかにもご利益(りやく)信仰というような形で現れるものもあるけれども、こうしたユートピア思想というような、一層純粋化した姿で現れるものもあるということです。 中世にもいろんなユートピア思想家がいました。トマス・モアであるとかは『ユートピア』っていうような書物を出したそうですね。それ以外にもまあいくつかの思想家がいると思いますが、これからもまた、新たなユートピア思想が説かれていく時代が来ている。私はそう思います。 いろんなユートピアの原理を考えていく時代が来る。そして、人間としての理想のありかた、それから職場での理想のありかた、共同体としての理想のありかた、こうしたものが、段だん探究されていく必要があると思います。またそういう時代が来ているんですよ。みなさんは、そういう時代に生きているんです。 現代のユートピアとして、あなたは何を考える。どういう世界が展開したら、それをユートピア世界だと認定するか。まあこれを考えて下さい。私もこれから考えていくけれども、みなさん方一人ひとりも現代的ユートピアとはいったい何なのか、これを考えていただきたいと思います。まあそういう試験問題も出してみたいね。「君は現代のユートピアとはいったい何だと思うか。そのユートピア建設のために、どのような努力が必要だと思うか。それについて述べてみよ」なんてね、そんな試験問題も出してみたいなあっていう気持がします。まあそういうことですから、みなさんもこれをひとつのテーマとして、考えていただきたいと思います。
https://w.atwiki.jp/climaxloststars/pages/122.html
『私、ショックです。』 変身者 加頭順 CV コン・テユ 復活モード なし 基本モード ユートピア・ドーパント モードチェンジ なし 強化モード なし 最強モード なし 究極モード なし 関連アイテム 変身アイテム ユートピアメモリ 搭乗機 なし 武器・武装 理想郷の杖 サポートアイテム なし 他アイテム なし
https://w.atwiki.jp/mochewiki/pages/1955.html
《幻影騎士団(ファントム・ナイツ)カースド・ジャベリン》 エクシーズ・効果モンスター ランク2/闇属性/戦士族/攻 1600/守 0 レベル2モンスター×2 ①:1ターンに1度、このカードのX素材を1つ取り除き、 相手フィールドのモンスター1体を対象として発動できる。 そのモンスターの攻撃力は0になり、効果は無効化される。 この効果は相手ターンでも発動できる。 使用キャラクター ユート タグ一覧 エクシーズモンスター 幻影騎士団