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STOYANA STOYANOVA キリル文字 Стояна Стоянова 所属 王立モエシア空軍 階級 中尉 誕生日 3月12日 その他モエシア空軍で最初のネウロイ撃墜を果たし、また最初にエースとなったウィッチ。 孤児の生まれで、父は小規模な怪異との戦いで落命している。 新聞配達をしながら戦争孤児の学校に通い、奨学金が出る事から士官学校へ入校。優秀な成績で卒業し騎兵少尉に任命される。 航空ウィッチとしての適正が判明すると王立陸軍士官学校の航空コースを受講。中尉に昇進し航空ウィッチとなった。 カールスラントに派遣され、ストライカーユニットでの高等戦術と多数のユニットを用いた機種転換訓練を終了し帰還。 航空学校の教官任務に就いた直後にネウロイが襲来し出撃、初撃墜を果たすも、基地にはカールスラントやオストマルク、ギリシャなどから派遣されたウィッチ部隊が駐留する事になり、国内のウィッチ育成の為に後方へと移動。 ダキアの陥落でモエシアにネウロイが迫ると、民衆を撤退させる為に最後まで基地に残って戦闘を続けるが、満身創痍で弾薬切れの寸前にアルトラントから来たゴロプ少佐の部隊に救出された。 負傷しておりアルトラントの基地に移動、回復の後ゴロプ少佐の部下として行動を共にし、「最も長い撤退戦」をくぐり抜けた。 個人としての戦闘技能の優秀さに加え指揮能力も高く、柔和な人柄から多くの人に好かれている。アレリューヒン大尉とは良く意見が合い、部下の面倒を任される事も多い。 イメージモデル ストヤン・ストヤノフ (1913-1997)撃墜数 14 その他ブルガリア初のエース。 出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第四集
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連合軍第505統合戦闘航空団「ミラージュウィッチーズ」 司令グレーテ・M・ゴロプ 戦闘隊長アーリャ・V・アレリューヒン 隊員コンスタンティア・カンタクジノ ストヤナ・ストヤノワ ヴァシリーサ・M・ヴァシリアデス 犬房由乃 所属時期不明黒江綾香 注意:各ウィッチの英字表記・キリル文字表記・ギリシャ文字表記・誕生日はイメージモデル等からの推測も含まれます。 連合軍第505統合戦闘航空団「ミラージュウィッチーズ」 505th Joint Fighter Wing "MIRAGE WITCHES" 司令 グレーテ・M・ゴロプ GRETE M GOLLOB フルネームはグレーテ・マクシミリアーネ・ゴロプ(Grete Maxmiliane Gollob)等であると推測される。 所属 オストマルク空軍 階級 少佐 誕生日 6月16日 使用機材メッサーシャルフ Bf110 メッサーシャルフ Bf109 その他オストマルク中央に近いグラーツに生まれる。幼少時からウィッチとしての力が発現していた為、兵学校生徒としてオストマルク空軍へ入学。優秀な成績で飛行訓練を完了し、少尉任官の上、教育中隊の指導官となった。 優秀だが尊大かつ冷酷で、ユーモアを理解しない面白みのない人物だと評価されていたが、その教育中隊ではスパルタ教育で多くのウィッチが飛び方を学び、また戦場における生き延び方を身につけたと言われている。 中尉昇進と共にカールスラントから供与されたをBf110を使用する駆逐隊に配備され、オストマルク国境防衛の任に就く。防衛戦の中でBf109に機種転換。 ネウロイ襲撃時から多くのスコアを稼ぎ、リヴォフ方面での防衛の要となった。 ダキアの戦況悪化に伴い、トランシルヴァニア南方の都市アルトラントの防衛任務に就く。防衛の要地でもあるこの地で次々と撃墜数を増やしていった。戦況の悪化に伴い首都ブカレストが陥落、次いでオストマルク南方の要地である鉄門を突破され、ネウロイがオストマルク国内に侵入するが、部下の多くの撤退進言を退け防衛を続行。 この働きによって結果的にトランシルヴァニアはオストマルク、ダキア、モエシア陥落後に最後に残された人類の版図となるが、補給が無い状況での部隊や難民の維持は困難であり、苦渋の決断の末撤退を決断。 ネウロイの主力がいる西方への撤退は困難であり、逆にネウロイの根拠地である黒海方面へ撤退する計画で、これが後に「最も長い撤退戦」と呼ばれる激戦の始まりであった。 イメージモデル ゴードン・ゴロプ (1912-1987)フルネーム ゴードン・マックス・ゴロプ 撃墜数 150(ドイツ空軍24位) その他ドイツ空軍初(=人類初)の150機撃墜を達成した大戦初中期のエース。 メルダース、ガランドに続く、全軍で3人目の宝剣付き柏葉騎士鉄十字章授章者。 オーストリアのウィーン出身。グラーツで機械工学を学んだ後、砲兵としてウィーナー・ノイシュタットの士官学校に入校。卒業後は初め少尉でオーストリア空軍に配属され教官を務めていたが、ドイツによるオーストリア併合に伴いドイツ空軍に中尉で転籍、3/ZG76に配属された。乗機はBf110。 ポーランド空軍との戦闘で初撃墜を記録、以後バトル・オブ・ブリテン、バルバロッサ作戦等でスコアを伸ばす。 1942年8月29日、史上初となる150機撃墜を達成。柏葉騎士鉄十字章を授与されると、以降は飛行任務を禁止され本国に召還、様々な要職を歴任。大戦末期には罷免されたアドルフ・ガランドを継いで最後の戦闘機隊総監となる。 ユーモアを解さない堅物で、競争心強く尊大。ガランドとは対立しており、ドイツ空軍には少なかったナチストでもあった為に同僚や部下からの人望に乏しかった。 中世の騎士的な人気のあるルフトヴァッフェのエースの中でも、ヘルマン・グラーフと並び、珍しく悪役・憎まれ役的な印象の強い人物。 出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第四集 戦闘隊長 アーリャ・V・アレリューヒン ALYA V ALELJUHIN キリル文字 Аля В Алелюхин フルネームはアレクサンドラ・ヴァシーリエヴナ・アレリューヒン(Alexandra Vasilievna Aleljuhin)であると推測される。 所属 オラーシャ空軍 階級 大尉 誕生日 3月30日 その他普段は物静かで親しみ易い性格だが、いざという時には威嚇するかのような強い威厳を発揮する。 指揮能力の高さと信頼できる人間性で、部下を強く引っ張って行く事ができる。 モスクワの北方250キロ程にあるケソヴァ・ゴラ村の出身で、工場労働者の父親の元で育つ。 本人はウィッチの素質があるとは思っておらず、普通の学生生活を送っていたが、やがてウィッチの力が発現したため飛行学校へと再入校。 卒業後チカーロフ軍事航空学校に入校。ネウロイ襲来前には中尉として黒海沿岸の港湾都市オデッサに送られた。オデッサでは戦闘機連隊の副司令を務めていたが、ネウロイ襲来に対しても冷静に部隊を統率して抗戦。 ネウロイの攻勢が強くなると連隊はオデッサからロストフへと移動し防衛を行う。クリミア半島に拠点を構えるゴロプ少佐達と知り合ったが、所属部隊の違いもあり、あまり親交はなかった。 ロストフからの撤退後、ツァリーツィンで人員不足のゴロプの部隊と共同で戦い、その中で親交を深めた。 撤退戦の中で大尉へと昇進し、その後もゴロプの右腕として第505統合戦闘航空団をまとめ上げている。共に有能でありながら、方や冷酷で傲慢、絶対的な威厳で部隊をまとめるゴロプと、物静かで笑いを絶やさず人当たりの良いアレリューヒンの組み合わせは、撤退戦の中で動揺しがちな部下達をまとめるのに適していたと思われる。 イメージモデル アレクセーイ・ヴァシーリエヴィチ・アレリューヒン (1920-1990)撃墜数 40 出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第四集 隊員 コンスタンティア・カンタクジノ CONSTANTIA CANTACUZINO 所属 ダキア空軍第7戦闘航空群 階級 予備大尉 誕生日 11月11日 使用機材IAD80(改良型) その他裕福な公爵家に生まれ、幼少時から様々なスポーツで優れた成績を収めた才媛。親戚の所持している飛行学校で飛行訓練を受け、僅か2週間で基本レベルの航空ウィッチ訓練を終了している。 より高度な飛行免許も取得し、自家用航空機と旧式のストライカーユニットを購入。曲技飛行に磨きをかけていた。ネウロイ襲来直前の1939年にはダキア曲技飛行チャンピオンになっている程の腕前。 どんなユニットも扱えるという能力を持っており、戦場で手に入れたオラーシャ製やリベリオン製のユニットも、初使用であろうと問題なく使用する事ができる。 ネウロイ襲来に際し予備中尉として軍に招集され、ダキアの優秀なウィッチを集めた第53戦闘飛行隊に配属。 防衛に従事し、配属後僅か1週間にして初撃墜。その後も撃墜数を伸ばし予備大尉に昇進するも、公爵家という家柄から後方任務に下げられてしまう。 ネウロイの攻勢は強まる一方だった為、前線勤務を申請し続けたところ上層部も根負けし、第7戦闘航空群に配属された。 ダキア陥落の際は首都ブカレストの防衛の任に就いており、最後まで民衆を避難させる為戦い続けた。多少の夜間視力があったと言われており、ドラム缶数本の灯の中で夜間出撃を続けた。 多大な戦果を挙げていると思われるが、戦果を確認する人間がいなかった事と、必要以上に戦果を語らない本人の寡黙な性格から記録には残されていない。 ダキア陥落後はアルトラントに撤退、ゴロプ少佐率いる部隊と合流し戦闘を続け、「最も長い撤退戦」の末に第505統合戦闘航空団へ参加。 第506統合戦闘航空団の設立に際し連合軍司令部より転属の要請があったが、第505統合戦闘航空団と同部隊の支援を行っている扶桑陸軍の猛反対もあり実現には至らなかった。 イメージモデル コンスタンティン・カンタクジノ (1905-1958)愛称 「ブズ(Bâzu)」 撃墜数 43 その他ARR方式勝利数におけるルーマニア軍トップエース。 ブカレストで裕福な公爵家であるカンタクジノ家に生まれ、少年の頃から様々なスポーツに才能を示し、国内外問わず多数のトロフィーを得た。 27歳で親戚のイオアナ・カンタクジノが経営する私立の飛行学校に入り、講習僅か2週間で基本レベルの免許を取得。 その2年後に多発輸送機パイロットのライセンスを得てLARESに入社。 同年に自家用機としてフリートF-10D複葉機を購入、続いてコードロン、フリート、ICAR、ビュッカー等を購入、長距離飛行と曲芸飛行の経験を得、曲技で1939年のルーマニア・チャンピオンに選ばれるまで上達。 ソ連との開戦を前に予備役中尉として招集され、ARRのエリート戦闘機部隊のひとつ第53戦闘飛行隊に配属。開戦後はハリケーンを駆り、初実戦から1週間も経たぬうちに初撃墜を記録、その後もスコアを伸ばす。 この戦いが終わるとLARESに復帰し主席パイロットに昇進、この間にBf109Eへの機種転換コースへの参加やMiG-3への試乗を行なう。 実戦部隊復帰後はBf109Gに機種転換、第7戦闘航空群に配属され、順調にスコアを伸ばしシェルバネスクとトップ・エースの座を競う。 1943年6月から7月にかけて行われたソ連襲撃機に対する28度に上る夜間迎撃で、夜戦についての正式な訓練は全く受けていないにもかかわらず、ドラム缶数本の灯火に照らされた飛行場から出撃し応戦。 ルーマニアにアメリカ陸軍航空隊が出現するようになると、首都防衛を任務とする第7戦闘航空群第57戦闘飛行隊に配属されこれを迎撃。 1943年から1944年にかけて猩紅熱に倒れスコアを伸ばせなかったものの、シェルバネスクが戦死すると最終的にARRの勝利点ランクのトップとなった。 1944年8月23日にクーデターが発生するとアメリカ人捕虜のジェイムズ・ガン3世中佐を伴い連合軍に接触する為イタリアのフォッジアに飛行。乗機のBf109GをP-51Bと交換してしまい、全く操縦法を教わっていないにも関わらず難なく操縦し翌日帰投。 第7/9戦闘航空群司令に任命されて後は枢軸側のドイツ空軍と戦い、He111H、Fw190F等を撃墜。これによりルーマニアが交戦したソ連・アメリカ・ドイツの全ての空軍に対してエースとなった。 戦後は商業パイロットに復帰、旧LARESから改名されたTARSに戻るが、共産主義政権下でルーマニア人パイロットが迫害された事から亡命。フランス、次いでスペインに移住し没。マドリードに埋葬された。 貴族出身の予備士官で、飛行任務を軍人の義務というよりむしろスポーツと見なしていたカンタクジノは、正規士官であるシェルバネスクとは反りが合わなかったと言われる。 出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第四集/第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第五集 ストヤナ・ストヤノワ STOYANA STOYANOVA キリル文字 Стояна Стоянова 所属 王立モエシア空軍 階級 中尉 誕生日 3月12日 その他モエシア空軍で最初のネウロイ撃墜を果たし、また最初にエースとなったウィッチ。 孤児の生まれで、父は小規模な怪異との戦いで落命している。 新聞配達をしながら戦争孤児の学校に通い、奨学金が出る事から士官学校へ入校。優秀な成績で卒業し騎兵少尉に任命される。 航空ウィッチとしての適正が判明すると王立陸軍士官学校の航空コースを受講。中尉に昇進し航空ウィッチとなった。 カールスラントに派遣され、ストライカーユニットでの高等戦術と多数のユニットを用いた機種転換訓練を終了し帰還。 航空学校の教官任務に就いた直後にネウロイが襲来し出撃、初撃墜を果たすも、基地にはカールスラントやオストマルク、ギリシャなどから派遣されたウィッチ部隊が駐留する事になり、国内のウィッチ育成の為に後方へと移動。 ダキアの陥落でモエシアにネウロイが迫ると、民衆を撤退させる為に最後まで基地に残って戦闘を続けるが、満身創痍で弾薬切れの寸前にアルトラントから来たゴロプ少佐の部隊に救出された。 負傷しておりアルトラントの基地に移動、回復の後ゴロプ少佐の部下として行動を共にし、「最も長い撤退戦」をくぐり抜けた。 個人としての戦闘技能の優秀さに加え指揮能力も高く、柔和な人柄から多くの人に好かれている。アレリューヒン大尉とは良く意見が合い、部下の面倒を任される事も多い。 イメージモデル ストヤン・ストヤノフ (1913-1997)撃墜数 14 その他ブルガリア初のエース。 出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第四集 ヴァシリーサ・M・ヴァシリアデス VASILISSA M VASSILIADES ギリシャ文字 Βασίλισσα Μ Βασιλειάδης フルネームはヴァシリーサ・ミカエラ・ヴァシリアデス(Vasilissa Michaela Vassiliades)であると推測される。 所属 ギリシャ空軍 階級 准尉 使用機材ホーク・エアクラフト ハリケーン その他ギリシャのキオス島で裕福な船主の子供として生まれる。 家の伝統に従い海軍に入ろうと考えており海洋学校に入学したが、近隣を飛行するブリタニア空軍のストライカーユニットを見て空へ憧れるようになる。 空軍アカデミーへの転属を希望するが、魔法力不足と判断され入校する事は出来なかった。 海洋学校で教官を務める元ギリシャ海軍航空隊の退役ウィッチと知り合い、密かに旧式ユニットでの訓練を受ける。 その後ネウロイの襲撃を知ると退役ウィッチの推薦を受け直ちに空軍へと志願。著名な退役ウィッチからの推薦もあり受諾され、学生身分のままオストマルク方面防衛派遣軍の一員として送り出された。 ギリシャ空軍には過剰ユニットがなかった為、オストマルク方面に駐留していたブリタニア空軍で旧式のハリケーンを使用して実戦訓練を受けた後に少尉任官、モエシアに駐留していたギリシャ空軍部隊に配属された。 ダキア陥落後は、部隊が南方のギリシャへ撤退を開始した際に連絡のため滞在していたアルトラントに取り残され、そのままゴロプ少佐の指揮下に入った。 ウィッチとしては新米に数えられる。 イメージモデル バシリオス・ヴァシリアデス (1920-1945)フルネーム バシリオス・ミハエル・ヴァシリアデス 愛称 「ヴァス(Vass)」 撃墜数 11.5 その他 出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第四集 犬房由乃 いぬふさ ゆの 所属 扶桑皇国陸軍飛行第50戦隊(推定) 階級 曹長 誕生日 3月31日 使用機材長島飛行脚 キ43一式戦闘脚 隼 その他元は陸軍の装甲歩兵で、陸上ウィッチとして扶桑海事変に参加していた。上空支援を行なっていた航空ウィッチが飛ぶ姿に憧れ、航空部隊への転属願いを出す。 戦況の悪化から航空ウィッチが不足しており、転属願いが受理され下士官学生として熊谷飛行学校へ入校。速成教育を受けた後、欧州派遣を視野に入れた野戦補充飛行隊に転属。優秀な成績を収め、カルパティア山脈での怪異監視任務の為の扶桑からの派遣ウィッチの一人に選抜される。 欧州派遣後はカールスラント方面で義勇飛行兵団の一員として活動を続けていたが、中型ネウロイとの戦闘中に被弾し墜落。墜落地点がダキアのカンタクジノ公爵の領地だった為、そのまま公爵家に留まり治療を受けた。 この際使用していたユニット(キ43)も損傷したが、ダキアのIRDに送られ新品同様に修理されている。IRDではこのキ43の調査結果を反映し、IRD80にキ43の構造を取り入れた新型ユニットの開発を検討。1機のみ作られた試作機はカンタクジノ予備大尉の元へ送られた。 扶桑陸軍では既に戦死したと見なされており、意識が戻った時点で原隊へ連絡したところ大変驚かれたという逸話が残っている。 傷が癒えた後も原隊に復帰せず、カンタクジノ予備大尉と行動を共にし「最も長い撤退戦」に従軍。 元装甲歩兵という経歴からかサバイバル能力に長けており、度重なる撤退戦の中で物資や食料の調達、水の確保、敵中突破等に多大な貢献を示す。バクーでの待機中、ペルシア湾方面の扶桑陸軍との連絡に成功し、ストライカーユニットや武器弾薬、物資の補給を受けて部隊を再編。 イメージモデル 大房養次郎 (1918-)撃墜数 19 その他中国・ビルマ・インド戦域における飛行第50戦隊のエース。 1930年に入営、ノモンハン事変で地上部隊の砲兵曹長として従軍。航空部隊の活躍を知り戦闘機パイロットへの転属を志す。 1942年6月、熊谷飛行学校に入校。卒業し仏印の第1野戦補充飛行隊に所属の後、錬成教育を受け1943年1月にビルマの飛行第50戦隊に配属。 1943年11月24日、ミートキーナ上空で第7爆撃航空群のB-24と交戦、1機を撃墜したものの、同機からの反撃で被撃墜。落下傘降下で脱出するもその後41日間を病院で過ごす。 復帰後は仏印・サイゴン・プノンペンと移駐しながらもスコアを伸ばし武功徽章(乙)を授与され、台湾で終戦を迎えた。 戦後は樋口に改姓。 出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第四集/ワールドウィッチーズ扶桑皇国版 其の十二 所属時期不明 黒江綾香 くろえ あやか 所属扶桑皇国陸軍飛行第1戦隊(1937年) 扶桑皇国陸軍航空審査部(1945年) 階級少尉(1937年) 大尉(1939年) 少佐(1945年) 身長 170cm 年齢17歳(1939年) 22歳(1945年)『キミとつながる空』のキャラクター紹介では23歳、大尉となっている。 誕生日 2月17日 通称 「魔のクロエ」ネウロイに肉薄して扶桑刀で切り裂くという勇猛な戦いぶりから、賞賛と畏怖を込めて。 使い魔 薩摩犬 固有魔法 特性把握 使用機材長島飛行脚 九七式戦闘脚 ノースリベリオン P-51C その他扶桑海事変より参戦したベテラン。穴拭智子、加藤武子、加東圭子の「扶桑海三羽烏」と共に飛行第1戦隊に所属していた。 第47独立飛行中隊にて欧州に送られ、鬼神の如き戦いを繰り広げた。他人からは無謀ともみえる戦い方だが、明確な勝算があっての事。 扶桑刀による近接戦闘能力は歴代ウィッチの中でもトップクラスで、十指に入ると言われる。刀の切っ先に魔法力を集中させる事により、ネウロイのコアごと一刀両断する秘剣「雲耀」を会得している。大型ネウロイの撃墜にも成功している。 坂本少佐に7年振りの再会を求められた際、P51-Cのデータ収集を兼ねた模擬戦でこの技を披露、結果的に伝授する形になっている。(キミとつながる空) 大らかで明朗快活な上、気配りも出来る性格。 部隊運営能力も高く、部下に慕われ多くの部隊で転戦を繰り返した。部隊の士気高揚に長けており、地の底まで落ちていた第42統合戦闘飛行隊の士気を回復させた事は伝説となっている。 20歳で一度退役したが、前線に出ない事を条件に再志願、航空審査部に勤務しテストパイロットを務める。テストパイロットとしての能力も高く、ユニットの特性や出力バランス等を明確に数値化して表現出来るので技術者からも信頼されている。 趣味は魚釣りで、飛行第64戦隊配属時には暇さえあれば釣りばかりしていた。 イメージモデル 黒江保彦 (1918-1965)通称 「魔のクロエ」 撃墜数 51実数は30とも言われる。 その他陸軍士官学校出身者の中ではトップエース。 加藤建夫亡き後の長い期間、先任中隊長として飛行第64戦隊を実質的に取り仕切る。 有名な「飛行第六十四戦隊歌」に次ぐ、飛行第64戦隊のもう一つの隊歌「印度航空作戦の歌」の作詞者。 釣りがとても好きだった。 弱武装、低速の一式戦闘機「隼」でドイツ空軍も苦戦したP-51やモスキートを撃墜。 陸軍航空審査部でテストパイロットを務める。 戦後は航空自衛隊に参加して将官(空将補)まで登りつめ、小松基地司令を務める。 妻が止めるのに悪天候の中を海釣りに行って津浪にさらわれ死亡。 出典 コンプエース/世界の航空歩兵シリーズ/キミとつながる空/第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第一集/ストライクウィッチーズ零
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ストライクウィッチーズ世界のウィッチ一覧を作ろう! 修正、追記、変更などの編集はお気軽に。 記述の体裁など細かいことは気が向いた人がやってくれるでしょう。 2010年9月19日にページの分割について提案されました。編集人の方はご意見をお願いします。 注意:各ウィッチの英字表記・キリル文字表記・誕生日はイメージモデル等からの推測も含まれます。 +モエシア モエシア王立モエシア空軍ストヤナ・ストヤノワ モエシア イメージモデル ブルガリア王国 王立モエシア空軍 イメージモデル ブルガリア空軍 ストヤナ・ストヤノワ STOYANA STOYANOVA キリル文字 Стояна Стоянова 所属 王立モエシア空軍 階級 中尉 誕生日 3月12日 その他モエシア空軍で最初のネウロイ撃墜を果たし、また最初にエースとなったウィッチ。 孤児の生まれで、父は小規模な怪異との戦いで落命している。 新聞配達をしながら戦争孤児の学校に通い、奨学金が出る事から士官学校へ入校。優秀な成績で卒業し騎兵少尉に任命される。 航空ウィッチとしての適正が判明すると王立陸軍士官学校の航空コースを受講。中尉に昇進し航空ウィッチとなった。 カールスラントに派遣され、ストライカーユニットでの高等戦術と多数のユニットを用いた機種転換訓練を終了し帰還。 航空学校の教官任務に就いた直後にネウロイが襲来し出撃、初撃墜を果たすも、基地にはカールスラントやオストマルク、ギリシャなどから派遣されたウィッチ部隊が駐留する事になり、国内のウィッチ育成の為に後方へと移動。 ダキアの陥落でモエシアにネウロイが迫ると、民衆を撤退させる為に最後まで基地に残って戦闘を続けるが、満身創痍で弾薬切れの寸前にアルトラントから来たゴロプ少佐の部隊に救出された。 負傷しておりアルトラントの基地に移動、回復の後ゴロプ少佐の部下として行動を共にし、「最も長い撤退戦」をくぐり抜けた。 個人としての戦闘技能の優秀さに加え指揮能力も高く、柔和な人柄から多くの人に好かれている。アレリューヒン大尉とは良く意見が合い、部下の面倒を任される事も多い。 イメージモデル ストヤン・ストヤノフ (1913-1997)撃墜数 14 その他ブルガリア初のエース。 出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第四集
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キャラクター一覧。国ごとにまとめる 【ネクロラルド】 バルブ・ラ・パッケルニア 【ノーヴァ】 リディア・シルヴィード YGPA-1「アグニヤ」 【リトス】 スペルビア・ルビー シャーロット・ヴィクスン 【日出国】 登雷稲実天轟/真名 神絶 清白涼 国城月光 【ティターニウム】 ゼプト国外 リタ国外 【連邦】 村雨真夜 ヒットレル アガーテ・マックス・ゴロプ ジエト・クラウシア 【アカデミー】 セルド・マキシバス 【無所属】 ヤマダ コールミー=ルーザーチワワ
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高、愛順 コヴァチ、リカルド コヴァレフスキー、ローゼマリー コーチャ、アウグスト コーディー、ヒルダ ゴーティエ、ガビー コーデリア、ナタリエ コーラ、ユールフェン コーリング、イーリス コール、アシュレイ コール、ジェーン コールウェル、ロリィ ゴールデンロッド、キャラウェイ ゴールドスミス、エリナ コールハース、コゼット コールマン、ナタリー 谷、英美 コクー、イリス コスタ、フェルナンド コスタクルタ、キッカ コスト、ダニエル コストイリョーフ、ガリーナ コダケビッチ、デヤン ゴッツ、フランツィスカ ゴッドフリー、ジェーン 後藤、育美 コニャック、カイル コマセビッチ、スザンナ ゴメス、ルーリット コリンズ、ソフィア コルチ、アレッシア コルテス、レオニード コレー、フランセット コレン、ユーノ ゴロプ、グレーテ コンティ、カーリー
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クーデリア、フォン・フォイエルバッハ グーニラ、ランツ クドリャフカ、ストルガツカヤ クニグンデ、モレンツ クラウディア、クイルンハイム クラウディア、ノーラン クララ、アルベルダ クララ、セオドルフ クラリーチェ、アマデイ クラリッサ、ファルホーフ クラリッサ、アンダーソン クランベリー グリアー、グライド クリシェンヌ、リベロス クリスティアーノ、フィッティパルディ クリスティーナ、リベラ クリスティナ、オクセンシェルナ クリステル、ツィーデ グリゼル、マーフィー クリフィルド、アルトマン クレア、マジョラム グレーテ、ゴロプ グレーテル、イェッケルン クレオ、ブランド クレメンティナ、ベレッチ クロエ、ブリクセン クローディア、モーンス グンドュラ 、ラル
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フェデリカ・N・ドッリオ ドミニカ・S・ジェンタイル ジェーン・T・ゴッドフリー パトリシア・シェイド アンジェラ・サラス・ララサーバル グレーテ・M・ゴロプ コンスタンティア・カンタクジノ 犬房由乃 フェデリカ・N・ドッリオ 順位 選択肢 得票数 得票率 投票 1 柚木涼香 29 (20%) 2 新井里美 28 (19%) 3 ゆかな 19 (13%) 4 日笠陽子 14 (9%) 5 久川綾 13 (9%) 6 真田アサミ 11 (7%) 7 喜多村英梨 10 (7%) 8 小林ゆう 10 (7%) 9 雪野五月 9 (6%) 10 野中藍 3 (2%) 11 伊藤静 1 (1%) 12 山口理恵 1 (1%) その他 投票総数 148 ドミニカ・S・ジェンタイル 順位 選択肢 得票数 得票率 投票 1 浅川悠 24 (32%) 2 井上麻里奈 14 (19%) 3 斎賀みつき 10 (13%) 4 本田貴子 8 (11%) 5 豊口めぐみ 5 (7%) 6 朴ロ美 3 (4%) 7 東條 加那子 2 (3%) 8 田村睦心 2 (3%) 9 皆川純子 2 (3%) 10 合田彩 1 (1%) 11 小林ゆう 1 (1%) 12 日笠陽子 1 (1%) 13 林原めぐみ 1 (1%) 14 花澤香奈 1 (1%) その他 投票総数 75 ジェーン・T・ゴッドフリー 順位 選択肢 得票数 得票率 投票 1 中原麻衣 21 (24%) 2 金本寿子 18 (21%) 3 福原香織 11 (13%) 4 金元寿子 11 (13%) 5 井口裕香 10 (11%) 6 花澤香菜 7 (8%) 7 阿澄佳奈 5 (6%) 8 佐土原かおり 1 (1%) 9 戸松遙 1 (1%) 10 赤崎千夏 1 (1%) 11 野水伊織 1 (1%) その他 投票総数 87 パトリシア・シェイド 順位 選択肢 得票数 得票率 投票 1 田村ゆかり 89 (60%) 2 日笠陽子 16 (11%) 3 早見沙織 12 (8%) 4 荒浪和沙 10 (7%) 5 折笠富美子 8 (5%) 6 寿美菜子 6 (4%) 7 竹達彩奈 5 (3%) 8 堀江由衣 1 (1%) 9 平野綾 1 (1%) その他 投票総数 148 アンジェラ・サラス・ララサーバル 順位 選択肢 得票数 得票率 投票 1 小見川千明 71 (62%) 2 坂本真綾 17 (15%) 3 小林ゆう 11 (10%) 4 水樹奈々 9 (8%) 5 藤村歩 5 (4%) 6 井口裕香 1 (1%) 7 花澤香奈 1 (1%) その他 投票総数 115 グレーテ・M・ゴロプ 順位 選択肢 得票数 得票率 投票 1 0 (0%) その他 投票総数 0 コンスタンティア・カンタクジノ 順位 選択肢 得票数 得票率 投票 1 0 (0%) その他 投票総数 0 犬房由乃 順位 選択肢 得票数 得票率 投票 1 渕上舞 1 (50%) 2 中上育実 1 (50%) その他 投票総数 2
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オーストリア国籍の選手 アニエス・ミラン アレクサンドラ・シェルバネスク アンリエッタ・トリステイン イザベラ・エレーヌ ウルリカ・シュテルンブルグ エレオノール・ラヴァリエール カトレア・ラヴァリエール キュルケ・ツェルプストー クリスティナ・オクセンシェルナ グレーテ・M・ゴロプ ケティ・ラ・ロッタ シェフィールド・ミョズニトニルン シャルロット・エレーヌ シルフィード・イルク スターシャ・スカルスキ ティファニア・ウエストウッド ナノカ・フランカ ネネ・ハンプデン パナビア・トーネイド フォーリィ・キャラット ベアトリス・クルデンホルフ ホセファ・マーリク マチルダ・サウスゴータ ミシェル・ガナーズ モンモランシー・ド・モンモランシ ライズ・ハイマー ラウラ・トート ルイズ・ラヴァリエール レイグレット・クタニエ
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VASILISSA M VASSILIADES ギリシャ文字 Βασίλισσα Μ Βασσιλειάδης ? フルネームはヴァシリーサ・ミカエラ・ヴァシリアデス(Vasilissa Michaela Vassiliades)であると推測される。 所属 ギリシャ空軍 階級 准尉 使用機材ホーク・エアクラフト ハリケーン その他ギリシャのキオス島で裕福な船主の子供として生まれる。 家の伝統に従い海軍に入ろうと考えており海洋学校に入学したが、近隣を飛行するブリタニア空軍のストライカーユニットを見て空へ憧れるようになる。 空軍アカデミーへの転属を希望するが、魔法力不足と判断され入校する事は出来なかった。 海洋学校で教官を務める元ギリシャ海軍航空隊の退役ウィッチと知り合い、密かに旧式ユニットでの訓練を受ける。 その後ネウロイの襲撃を知ると退役ウィッチの推薦を受け直ちに空軍へと志願。著名な退役ウィッチからの推薦もあり受諾され、学生身分のままオストマルク方面防衛派遣軍の一員として送り出された。 ギリシャ空軍には過剰ユニットがなかった為、オストマルク方面に駐留していたブリタニア空軍で旧式のハリケーンを使用して実戦訓練を受けた後に少尉任官、モエシアに駐留していたギリシャ空軍部隊に配属された。 ダキア陥落後は、部隊が南方のギリシャへ撤退を開始した際に連絡のため滞在していたアルトラントに取り残され、そのままゴロプ少佐の指揮下に入った。 ウィッチとしては新米に数えられる。 イメージモデル バシリオス・ヴァシリアデス (1920-1945)フルネーム バシリオス・ミカエル・ヴァシリアデス 愛称 「ヴァス(Vass)」 撃墜数 11.5 その他 出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第四集
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62: 新人艦長 :2017/11/10(金) 14 45 30 <倉崎グループ> 倉崎グループ(ドイツ語:Kurasaki-Gruppe)とは1930年代半ばから第二次大戦終結までおもにドイツで活動した日本人技術者・軍人の総称。 名前の由来はそのなかでも中心的存在として活動していた倉崎重蔵から。 (始まり) 1936年に締結された日独伊防共協定締結後、日本側からドイツに日本人技術者と一部軍人を研究等のため留学させたいという申し出により、1937年より始まった日独人材交流計画で日本からドイツにやってきたのが倉崎重蔵以下の技術者20名前後と陸海軍の軍人10名が始まりである。 彼らは日本で提案したものの、上層部の無見識無理解、技術力不足などを理由に日本で没になった各種設計図、戦術、理論に関する書類を丸々持ってきており、留学した企業やドイツ軍に対して提案し、大きな衝撃を与えた。 特に開発が始まったばかりだったジェットエンジンとレーダーにおいて大きな影響を与えた。 63: 新人艦長 :2017/11/10(金) 14 46 00 (主な影響) メッサーシュミット社では倉崎重蔵の知識量に衝撃を受け、当時設計中だったBf109の改良型の設計に関わらさせ、Me210の設計主任として設計させた。 BMWは開発中だったBMW801とBMW003エンジンの設計に関して日本人技術者の協力により想定以上のスピードで開発に成功、これがなければ戦中の独本土防空戦は数倍の被害を食らっていたといわれる。 テレフンケン社は日本人技術者の持ち込んだ短波方向探知機とレーダーの設計開発に影響を受け、38年にはKLG(Kurzwellenrichtungsdetektor:短波方向探知機)の開発量産に成功。 このシステムによりグラーフ・シュペーは捜索中の英艦隊を先に発見し追跡を躱すことに成功、大型であったためUボートには搭載されなかったものの、水上艦に搭載され多くの輸送船を潜水艦から守ったことで知られる。 レーダー開発では39年にリヒテンシュタインとウルツブルグレーダーを開発、43年までに航空機用のNK(Notwendiges Kampfradar:要撃戦闘用レーダー)と爆撃照準用のBZ(Bombenzielradar:爆撃照準用レーダー)を、警戒用レーダーとしてFUMG-41フレイヤを開発。高い精度と信頼性により防空戦で活躍した。 64: 新人艦長 :2017/11/10(金) 14 46 34 軍では、いくらスペイン内戦での実戦経験があるとはいえ、現在進行形で中国で戦っている日本軍の航空機運用や陸軍や海軍のノウハウを得るため受け入れるがそこで日本側から各種新戦術を得ることになる。 陸軍では日本から来た陸軍将校による大規模な夜間強襲戦術や新たな砲兵運用システムを即座に導入。また日本側から教えられた戦略、縦深突破戦術と縦深防御はドイツ軍内部で大きな反響を呼び、電撃戦を中心としながらもこの戦術を歩兵閥は積極的に取り入れた。また対ゲリラ戦術なども積極的に取り入れた。 海軍では水雷戦術や砲術に関して日本側からの影響を受け、建造中であったティルピッツの設計を一部変更して間接防御を追加するなどした。 空軍は日本からの影響を最も濃く受け、まず一撃離脱一辺倒だった戦術に機織り機動と呼ばれる編隊戦闘戦術を取り入れたことにより、ドックファイトにおける不利を補ったほか、夜間戦闘戦術「ザーメ・ザウ」と「ヴィルテ・ザウ」を取り入れ、大規模な夜間対地攻撃部隊の創設を提言するなど夜間戦闘では日本側の影響が濃かった。 そのほかに対爆撃機編隊戦術「シュトルム・イェーガー」や上方背面垂直攻撃戦術はコンバットボックスを打ち破るのに重宝された。 また空戦戦術の体系化にも関与、爆撃機部隊の編隊飛行法「Kampfbox」などを提案した。 これら戦術は当時ドイツ空軍の訓練パイロットだったものに特に強い影響を与え、特にヘルマン・グラーフはこれら戦術を使い「ヤンキーキラー」の異名で恐れられたほか、世界第3位のエースパイロットギュンター・ラル氏も戦後の著書でこれら戦術がなければ多くの戦友を失っていたと書いている。 これら以外にも多くの影響をドイツなどに与えた。 65: 新人艦長 :2017/11/10(金) 14 47 04 (その他) そのほかにこのグループには変人も多かったとされ、中には「邪気眼」なるものを持っていたという技師もいたほか、ナチスの魔の手から多くのユダヤ人女性を救い戦後、諸国の中の正義の人を授与されたものも存在する。 このグループの強い影響を受けたドイツ空軍ではよく日本人が描いていた絵を機体に描くことが流行したという。 彼らの薫陶を受けた多くの軍人は戦後、日本を訪れ、ゴードン・ゴロプやヘルマン・グラーフを初めとする一部はそのまま帰化し新生ドイツ空軍と日本国防空軍の交流を支えた。 彼らの影響を受けたのは戦闘機パイロットだけでなく爆撃機パイロットも影響を受けており、スツーカ大佐として知られるハンス・ウルリッヒ・ルーデルは戦後、日本空軍で対地攻撃の専門家として教鞭を振ったほか、自伝で「どういうわけか日本人は私のことを気にかけてくれた。」と書いている。 戦後多くの戦前~戦中期のドイツを描いた作品では日本の変人技術者が主人公やユダヤ人女性を救うといった役柄で多く登場したりする。 またこのグループの代名詞的存在である倉崎重蔵は某パンツじゃないから(ryにおいて彼をモデルにした倉科重子というキャラが登場する。 66: 新人艦長 :2017/11/10(金) 14 49 29 はいいかがでしょうか? ちょっと遊んでみました。 別に倉崎と「自重?なにそれくえるの?」な奴しかいない(偏見)転生者ならこのぐらいやりそう。 ちなみにゴロプさんとグラーフさんの人生滅茶苦茶変わってます