約 236,144 件
https://w.atwiki.jp/orenonobumemo/pages/22.html
マエオ・マンと称していた当時の皇尊皇 皇尊皇(すめらみこと すめらぎ)はここ一番に用いる自称であると言う。 他称は多くあり、「奈良王」or「奈良」、「フルハムロード」or「フルハム」or「三浦和義」、「ペテン師」、「口八丁」、「エッフェル」、「チン・モゲール」、「猫またぎ」等が確認されているが、他不明のものも多く存在するらしい。(判明する都度記入する) この人物が天津教に果たした役割は、全く不明である。しかし、幕末から昭和初期にかけて、ホロゾンタの重要人物の記録中に度々登場するのがこの人物である。小鳥はもちろん、いんにょうえ、環陀夛、きのやまさを、川本らと親交が厚かったようだが、どういうポジションの人間であったかさえ不明である。 ただ、天才的にそそのかすのが上手かったのは明らかで、小鳥の彼らしからぬ傍若な落書も彼の術中にはまったものであると、後に新選組副長助勤島田魁は語っている。また、川本に、セムQへのアメフト勧誘を勧めたのも彼で、単なる田舎の小悪党だった環陀夛を歴史の表舞台に立たせたのも彼である。事あるごとにいんにょうえに酒を勧め、その度に好きな女性の名前を絶叫させたりもしていたようだ。きのやまさをの論文完成に歯止めをかけたのも彼だという説があり、鯛谷と小走り隊を結びつけたのも彼である。何故彼を交友の和の中に入れていたのかが早く解明され、天津教創生期の正史を紡ぎたいものである。 生涯 三重・伊賀上野のサンカの子として生まれる。テンバを転々とする間に、その類い希なる運動能力とかいな力を買われ、伊賀流忍者から諜報活動を依頼されるようになる。その頃から多くの変名を使用し、実名を知る者は、サンカ仲間にもいなかったと言う。とは言え、実態は伊賀流忍者に使われる日雇いのようなものであった。そのうち、尊皇攘夷の気風が高まり、無学な彼もその影響を少なからず受けるようになる。そして、諜報活動の報酬としてこつこつと貯めていた三両を手に上京したが、その三両を京都先斗町季節割烹『大壇』で一夜にして散在してしまったのは、無学故の悲しさと言うべきであろうか。一夜にして無一文になった彼の出来る仕事と言えば、非合法なものしかなかった。サンカが持つ独特の武器「ウメガイ」を駆使し、尊皇・佐幕関係なしに切りまくったという。時には、日本酒二合のために人を斬った夜もあったという。一時、尊皇派も佐幕派も夜間の外出を控えたのは、彼の暗躍によることがその理由である。京で暮らす間に、徐々に知り合いも出来、書物にも触れるようになり、自らのスタンスについて深く悩むようになる。そんな時、彼の話を真剣に聞いてくれたのが、小走り隊であった。 しかし、いきなり「隊」といわれても読者諸兄には全く意味不明であろう。少し行を費やし、説明せねばならない。「小走り隊」とは、読んで字のごとく、小走る部隊のことである。小走るとは、無論、足の歩幅を小さく小刻みに素早く前進する様を言う。股関節を支点とし、コンパスの足を激しく振動させるかのようにして前進する。個の小走りがそれである。それが徒党を組んでいる状態が、プルーンな小走り隊である。奈良王の話を聞いた小走り態は、幾つか京に存在するうちのもっとも小柄なユニットだったという。斯羅伊・輿縞・娑沙鬼が織り成す小走りは、シルク・ド・ソレイユを遥かに超越するファンタジーであったとは、口さがない京町雀たちの弁である。三歩進んで三歩進む、と流行歌にも歌われたそのコミカルな動きは、それまでの人生観を変えてしまうほどの躍動感に満ち満ちていたという。鯛谷が交際をしていた小走り隊は、その本流の流れをくむ三世代後の「NEO・小走り」である。 話が逸れたが、一応、小走り隊に対する一応の理解は出来たと思う。彼女らの話を掻い摘んで言えば、「きのやまを斬れ」というものであった。小走り隊の実態は、日本ゾロアスター協会京都支部であり、布教する上で、ホロゾンタは目の上のたんこぶであった。 しかし、彼はきのやまには少なからずの恩義があった。と言うのも、彼の活動拠点がきのやまの下宿だったからである。彼は生まれて初めて、人を斬ることを躊躇う。その葛藤の末、京都のヤゾウ(サンカの長)に相談に行く。ヤゾウは、しばらく地下に潜れと指示を与え、彼はその指示に従った。その後、三年間の行方不明の期間が過ぎ、表舞台に現れ出た時、既に明治の治世となっており、世間は文明開化に華やいでいるように見えた。その不明の三年の間に、上記したような「そそのかし」によって、人々の人生は千々に乱れていたのである。 三年後、再び京に現れた寄る辺なき皇尊皇が頼ったのが、きのやまさをであった。小走り隊は既に壊滅し、構成員たちは市井の中に隠れてしまっていた。天涯孤独となった皇尊皇を、きのやまさをは暖かく迎え、天津教の真髄を日夜優しく伝道し、荒れ果てた人間性を陶冶したという。 三年間の大半を紀州田辺の南方熊楠宅に居候していたという資料が、南方熊楠記念館の膨大な資料の中から発見され、脚光を浴びつつある。熊楠は用心棒として皇尊皇を敷地内に住まわせたのだという。このような記述が、スペイン語で残されており、解読が急がれる。 墓所 彼の死にはいくつかの説があり、一つ目はチベットにて客死し鳥葬されたというもの。二つ目は、プロシアにて行われていた現代で言う『プロレス』に参加。受身に失敗し、骨折死。そのまま郊外の森に変死体として捨てられたというもの。三つ目は、肝試しに出かけたまま、消息を絶ったというもの。四つ目は、春画を買いに行ったまま戻らないというもの。どの説をとっても、墓地はない。 逸話 上京してすぐ、安芸の国から売られてきた華子という娘に心を奪われ、無一文にもかかわらず毎日通い詰めた。無銭のため店に上がることは出来なかったが、華子が座敷に出ている間、二階の障子に浮かぶその姿をじっと見守っていたという。その逸話を元に作られたのが、POLICEの『見つめていたい』である。 imageプラグインエラー ご指定のURLまたはファイルはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLまたはファイルを指定してください。 『小走』という名字は現実に存在し、「こばしり」と読む。大和地方にある。 晩年、執筆活動に勤しみ、数々のペンネームで多くの書物を世に送り出した。判明している限りの作品群は以下の通りである。 「死ねと言われれば、死にますが」 「黙ってジャガーに付いて行け」 「どたま、かち割ったろか?とっさの一言集」 「果てしなきエロ道 けがれなく 天高く」 「裏声で歌え!マイムマイム」 「真実のシートン動物記」 「真実のファーブル昆虫記」 「お客様の中に、産婆はいらっしゃいますか?」 「力道山から江頭2:50まで 黒タイツの歴史」 「いくら教養があろうと、貴様は米ぬかのようなものだ」 「京の血の雨がアフリカに降ったら、野菜は実るのか?」 「山より大きい猪はいないが、穴よりでかいネズミはいる」 「怒りん坊と俺の棒」 「モザイク映像を目を細め見ている自分の顔を、一度見てみるがよろし」 「ゲンと言う子どもの80%は、はだし」 「うっかりYESと言って、長年後悔したことはないですか?私にはあります」 「暴飲暴食は、野菜や水でやっても駄目なのか?」 「痛いの痛くないのって、痛い」 異常に性欲に溢れ、一日三回のマスターベルトは欠かせぬものであったらしい。遅漏であるがゆえに、女人とのセックスよりマスタルベルッテ(日本語で自慰行為)を好んだとも言われる。 サンカが、いわゆる「トケコミ」に成功し、一般社会で功をなした魁と言われる。 サンカ研究家の三角寛の余りの荒唐無稽さに怒り、その命を夜襲にて奪おうとしたことは有名であるが、卑怯者の三角が自宅を150名の傭兵に守らせていたため、果たせなかった。しかし、傭兵の147人を殺害し、残り三人になった時、三角が放った炸裂弾によって重傷を負い、後一歩のところまで追い込んだのは殊勲と言える。 きのやまさをと同様、自動車を愛好し、皇尊皇は六連星、さをは美射屠をこよなく愛したという。二人が共通して愛したのが、ロータス・エスプリで、天津教の開祖コーリン・チャップマンとここで結びつくのである。 風貌に似合わず、小動物の飼育が得意であったらしい。特に小鳥やリスの飼育が得意で、繁殖の技術では、専門家をうならせたという。 関西で言う「せこい」性格だった彼は、細かい部分でけちけちする割りに、様々な局面で大損をしていたらしい。 波乱の半生を送った彼であったが、三十半ば頃からは落ち着いた生活を送るようになり、殊に、民俗学について強い興味を示すようになる。当時、圧倒的な主流であった柳田民俗学ではなく、赤松民俗学に染まったのは、いかにも彼らしい。一説によると、『イタカおよびサンカ』の論文について彼自身の生活を元にした真実を柳田に書簡で伝えたところ、研究方針に合わないということで無視されたのが、柳田民俗学から彼を遠ざけた理由であるらしい。民俗学に傾倒する余り、偶然出会った座敷わらしと結婚して一男をもうけたのは、度が過ぎるというべきであろうか。 文盲であった彼が、京都遁走中に紀州の南方熊楠の下、字を学習し、教養を深めていったというのはもはや常識になりつつある。また、教養だけではなく、熊楠から伝授されたのは、猥談であった。彼は京に戻ってからは、島原遊女目録を作成し、それを全て暗記していたと言う。また、吉原遊女目録も作成していたとの未確認情報もある。ただ、サンカの習性が抜けなかったのか、実際に遊郭に足を運ぶことは皆無であったという。 旅行先のチベットで客死し鳥葬されたとの情報があり、鳥を飼うのも食べるのも好きだった彼にとっては本望といえるだろう。特にせせりが好きだったとのことだ。 座敷わらしと結婚後、終の棲家を得た彼は、サンカ生活との決別を行った。いわゆる、定住という選択をしたのである。小さな庭に畑を作り、サツマイモやたまねぎを栽培する彼の姿を見た昔のサンカ仲間たちは、憤怒の涙を流したという。先鋭的な彼の暗殺行動を影ながら支持してきたサンカ集団にとって、魂を抜かれたかのような安定志向は目を疑うものであったに違いない。しかし、その実、皇尊皇の屋敷の屋上は密かに物見櫓として機能するよう作られており、日々、四方360度を見渡していたとのことだ。その先進的な構造は、日本が誇る重巡洋艦摩耶の艦橋構造に引き継がれている。
https://w.atwiki.jp/harukaseike/pages/3.html
カウンター 今日 - 人 昨日 - 人 合計 - 人 現在-人が閲覧中。 更新履歴 取得中です。
https://w.atwiki.jp/orenonobumemo/pages/8.html
動画(youtube) @wikiのwikiモードでは #video(動画のURL) と入力することで、動画を貼り付けることが出来ます。 詳しくはこちらをご覧ください。 =>http //atwiki.jp/guide/17_209_ja.html また動画のURLはYoutubeのURLをご利用ください。 =>http //www.youtube.com/ たとえば、#video(http //youtube.com/watch?v=kTV1CcS53JQ)と入力すると以下のように表示されます。
https://w.atwiki.jp/orenonobumemo/pages/21.html
生涯 本名の記録はない。昭和から平成への過渡期、バブルと呼ばれた時代に彗星のように現れ消える。牛魔王によって固められたホロゾンタの結束を、内部より瓦解させようと試みた。牛魔王に勝つとも劣らない激しい性衝動に全てを委ねた生活は、普段禁欲生活を強いられるホロゾンタ末端からすれば、サンクチュアリのように映った。 最近解明されつつある『小走り隊』(もう一つのホロゾンタとも呼称される)と深い繋がりがあり、それを背景に、勢力拡大に成功したとも言う。しかし、時間と共に、性欲の爆弾・女人ピストン運動と揶揄された小走り隊でさえ、鯛谷の性衝動に応えることは出来なくなり、関係は自然消滅へと向かう。と、同時に、彼のホロゾンタ末端に対する支配力は弱まっていった。 ホロゾンタを脱退した後、一般人に溶け込んでいたが、観光で訪れた登別の熊牧場で熊運動場に落下し、あえない最期を遂げる。糞の中から発見された彼の遺物は、二本の歯ブラシだけだったと言う。享年 38歳。 口癖は「てめぇ、ぶっとばすぞ!」であったが、彼がぶっ飛ばした姿を見た者はいない。 教団内の生活用品販売組織『姑宇婦』の雑誌「あみい」の編集に携わっていたらしい。 彼が結婚をした日、関東地方を覆い尽くすかのような大雪が降り、公共交通機関は麻痺した。彼が踏み台にした女性の呪いであろう、と安倍晴明の子孫である陰陽師がつぶやいたらしい。 熊の糞便の中から発見された遺品の歯ブラシ(実際には歯をみがくためには使用されなかった) 鯛谷が全盛を誇った在京時、小走り隊の女人群を喜悦せしめるために、夜毎使用されたと伝えられる逸品で、現在でも充分に使用可能である 墓所 熊の糞便から取り出された二本の歯ブラシのうち、一本は係員の不手際により紛失。もう一本は、奈良県明日香村にある入鹿の首塚に、遺族のたっての希望により埋葬される。それが平成23年の飛鳥寺外溝遺跡発掘時、これも係員の不手際により何物かに持ち去られたという。ヒグマの糞から発見された歯ブラシなど誰が欲しがるのかは、全くの不明であるが、好事家とはそういうものかも知れない。よって、現在、墓所はない。 逸話 きのやまさをと同郷であるが、郷里での親戚関係はないようだ。しかも、ホロゾンタに属しながら、きのやまさをの名前さえ知らなかったと言う。昭和後期になると、きのやまさをは、ホロゾンタ内で教団を支えた要人として崇められていたので、その名前を知らないと言うことは、三国志を半分以上読んだ後、「劉備って誰?」と言うに等しい。故に、本当にホロゾンタの信者であったのかが怪しまれるのである。 彼の激しい性衝動は、小柄な女性に向けられることが多かったようだ。言うまでもなく、小走り隊は小柄な集団である。 彼が関係を持った小走り隊は、第三期である。 彼を賞味した熊は、最終的に第28歩兵連隊1800名が出動したという記録が残る、数度にわたり民家を襲い、当時の開拓民7名が死亡、3名の重傷者を出したという三毛別羆事件(吉村昭『熊嵐』に詳しい)の子孫であったと伝え聞く。
https://w.atwiki.jp/orenonobumemo/pages/6.html
更新履歴 @wikiのwikiモードでは #recent(数字) と入力することで、wikiのページ更新履歴を表示することができます。 詳しくはこちらをご覧ください。 =>http //atwiki.jp/guide/17_117_ja.html たとえば、#recent(20)と入力すると以下のように表示されます。 取得中です。
https://w.atwiki.jp/orenonobumemo/pages/2.html
概要 ヌティーク・セム・ホロゾンタ ヴォイテム・レリク 殉教十一烈士(五十音順) アホとめぐみ いんにょうえ 川本 木口小鳥 きのやまさを 牛魔王 コーリン・チャップマン 皇尊皇(すめらみこと すめらぎ) 鯛谷 森膿伸太郎 縁者 環陀夛(かんだた) 小西蜜柑男(こにしみかお) セム チャー・コ 堀タキ子・タキタロウ
https://w.atwiki.jp/orenonobumemo/pages/20.html
生涯 ホロゾンタ技術開発局第2科・科長(戦備担当)であり、ホロゾンタ最高位の導師でもある。教団一の武闘派でありつつ、温厚で朴訥で善良そのもの、いわば宮沢賢治的とでも言いうるような顔も併せ持つ。幼少期から、『近江の鉈』として地元では恐れられ、巧みな柔道技で邪魔者を屈服させていった。裕福な豪農の長男として育ち、地域に社会教育の概念を定着させた。 兵器開発の特異な才能を開花させたのは、消防団所有の消防車を修理した時であったという。修理前は12メートルの射出しかできないホースが、彼の修理後、339メートルという驚異的な数字を叩き出す。その場にいた全ての人が、その水圧で跳ねとばされ尻餅を突いたという。その後、「水圧を自由に操る魔術師」とホロゾンタ内では呼ばれ、その能力は当然、海中兵器にも応用されるのは必然である。 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 放水実験を行う森膿博士 水圧協会所蔵 科長になってからも、時折部下の労を労うため、自らギターを爪弾いたという。 人間魚雷回天の技術を盗み出すために、志願して予科練に入り、第一回出陣において、ウルシー環礁でアメリカ重巡洋艦および駆逐艦三隻を、一人で撃沈させ殉職。技術的に不可能とされた巡航艦に対する回天による攻撃を唯一成功させるにとどまらず、駆逐艦同士の衝突までをも計算し、それによって生じる爆雷の飛散によって重巡洋艦を轟沈した。猛将ミニッツ中将が、「この男が日本海軍上層部にいなくて良かった。アドミラル・ヤマモト以上に手強い相手になり、われわれは再度オーストラリアに押し出されるところだった」と娘にひそかに語ったと言う。 ただ、本来の目的であった技術漏洩をせず死地に臨んだ理由は、今も不明である。 墓所 彼が出陣前に残した爪と髪は、靖国神社遊就館に展示されている。 逸話 伸太郎は、近江大学人類学部で学ぶ傍ら、そこで知り合った女性に恋をしていた。女性の名は、櫻井遊亀。男の亀を持て遊び、人生を狂わせる魔性の女だった。清楚な外見からはおおよそ想像出来ない奔放な性情は、近江大学の男子学生を虜にして話さなかった。遊亀と伸太郎との間に、皇尊皇の存在があったことは確かであるが、どういう役割を果たしたかは不明である。ちなみに、皇尊皇の著した『青春オーロラスピン』は、攘夷派の間で必読書と言われ、100年後に宮沢りえ主演でドラマ化がなされた。 遊亀の存在が、ホロゾンタの秘密兵器 ヴォイテム・レリクの開発を一年以上遅らせたと言うのが歴史家の間での定説となっており、この女さえいなければ間に合った、と教団内で地団駄を踏む者が当時後を絶たなかったと言う。 当時、船舶製造のほとんどがリベット溶接であった。太平洋戦争半ばからは、米軍が大型艦の電気溶接に成功するが、日本での製造は不可能とされていた。新造空母の大鵬でさえ、リベット溶接であり、一日数百リットルの海水が船内に侵入し、手作業で汲み出されたという。それは長門は無論、大和も同様である。しかし、森膿伸太郎発案の、溶接をしない『圧力糊付け』を海軍が取り入れていれば、アメリカの造船力を凌ぐ艦艇製造が可能であったと、当時の技術者は唇を噛む。「水圧の魔術師」の面目躍如と言える逸話である。ちなみに、人間魚雷回天は、電気溶接である。 柔道の達人であった伸太郎は、彼の命を狙って研究室に侵入した五人の賊を、全て背負い投げで投げ即死させたという。 幼少期のあだ名である「近江の鉈」は、自ら命名したものである。 近江大学の一回生の時、仕込み杖を常に携帯していたと、友人の日記にある。 彼の性衝動については不明である。友人間でも余りその手の話をしなかった様である。櫻井遊亀についても、性衝動よりも純粋な愛と理解するのが妥当であろう。そういう一途な態度が、回天出撃を彼に決意させたと言えるのかも知れない。 皇尊皇とは昵懇の仲であったのは周知の事実である。温厚な彼の性情が、とにかく過激な皇尊皇と衝突しなかったせいであろう。また、きのやまさをとも親交が深く、三人で連れ立って風呂屋に出かけたという。そして、時折、隙を見てはきのやの住処からエロ写真をこっそり持ち帰ったという。それは皇尊皇も同様である。 伸太郎の父は、まさをが下京する際、明治新政府のお尋ね者であると知りながら、湖東から彦根まで馬で送った。近江人の実直さを物語るエピソードである。
https://w.atwiki.jp/orenonobumemo/pages/14.html
木口 小鳥(きぐち ことり(天保6年3月20日 - 慶応2年5月11日))は、嘉永~慶応期を代表する幕末随一の天才狂歌師。 諱は義豊。 雅号は豊玉。 日本におけるヌティーク・セム・ホロゾンタの創始とされる。 家紋は左三つ巴。 唯一残された小鳥とおぼしき人物の写真 歴史研究家所蔵 生涯 大阪生まれ。大阪町奉行で碌をはむ裕福な武家の長男として生まれる。特に努力をするとか、苦労をするとかと言うこととは無縁の成長を遂げ、それは決断力の欠如という歪んだ性格を生む。「精神勝利法」は阿Q正伝中に出てくる概念であるが、小鳥は幼少の頃から既にそれを獲得していたという。魯迅もびっくりである。その性格の歪みを心配した父親が、彼を丁稚奉公に出し矯正しようとしたのは必然である。しかし、当時同世代の丁稚奉公の給金が、一ヶ月に10両であったところ、父親の影なる配慮で200両を得ていたのは、茶番であるとしか言えない。 まさに可もなく不可もなくと形容せざるを得ない幼少期を過ごす。ここに、彼の異常とも思える臆病さの原点とも言える逸話が残っている。幼少期、彼が犬の散歩に出かけた時、その犬がマムシに噛まれ、驚いた愛犬が小鳥に噛みついた。マムシの毒が噛まれた箇所から回るという思いこみによる恐怖感から、腰が抜け、放尿、脱糞、放屁を繰り返した後、失神。帰宅が遅いことを心配し探しに来た母親がどぶ川で彼を発見するまで、意識不明だったと言う。その上、母親に揺り起こされた彼は、母親をマムシと勘違いし、抜刀したとのことである。しかし、悲しいかな、母親に手刀で刀を叩き落とされ、その面目丸つぶれだったと酒宴の席で彼自身が、どう言うつもりであろうか、語ったことがある。 父の仕事のおかげで何不自由ない生活を出来ているにも関わらず、青年期特有の何かと皮肉っぽい解釈で父親を見、反発し、過激尊皇浪士と付き合うようになる。18歳になり京の町を遊学で訪れた時、たまたま僧籍を獲得するために上京していたいんにょうえと出会い、意気投合する。聞きかじりの尊皇攘夷思想は、いんにょうえに多大な影響を与え、一時は二人の関係は師弟関係に近いものであった。 それが、徐々にメッキが剥がれ、底が見え始めるとその関係は逆転する。緊張すると声がひっくり返ってしまう癖が、それに拍車をかけた。ただ、平均身長が160に満たない時代に、180を超える大柄な体躯は、それだけで彼の内面を知らない者に畏怖の念を与えるのだった。 いんにょうえが日露戦争直前、遺書代わりに書いた手紙に残された中身によれば、天津教を興したのが、上京して数日後のことだったと言う。大阪での丁稚奉公時代に春画と共に購入した怪文書『全世界の普遍的かつ総体的改革』と『友愛団の名声』《逸話に詳しい》を既に般若心経のように暗記していた小鳥は、その存在の小ささをカバーすべく、洋書の力を大いに利用しようとした。それは見事に成功し、秘密裏のうちに多くの信者を集めることとなった。それは日本にとどまらず、果てはまだ当時ダウンアンダーと呼ばれていたオーストラリアの流浪民、イヌイット(当時のエスキモー)、コイサンマン(当時のブッシュマン)までも広がったと言う。 いんにょうえと川本を中心として、今で言う「ドッキリ企画」を小鳥に実行した折、いんにょうえの余りの迫真の演技に、小鳥はおろか周囲にいた者全てが恐れおののいたと言う。小鳥はその時、失禁・脱糞した上に、記憶を失うという失態を演じた。その仕返しを、川本には詩歌で行うことには成功した。小心と大胆・用意周到と場当たり的という相反する性格が絡み合う人格は、彼を余り知らない者にとっては恐怖であったが、良く知る者にとっては分かりやすいものだった。 四年で遊学を終えるはずであったが、何となく京都にとどまり、それが彼の寿命を終わらせる結果となった。 捕縛~処刑 七条大宮辻での落首騒動によって、小鳥は京洛の治安を騒擾する不逞分子として、新撰組から決定的な憎悪を買うこととなった。 騒動後数日の内に、新撰組は監察・山崎 烝の内偵によって小鳥が首謀者であるとの目星を付けており、その潜伏先も特定していたという。 小鳥襲撃の夜、京都三条六角上料亭『膿蛇尼(うみたに)』に同席していたのは、川本であった。小鳥は舶来のワインを飲み、川本は日本酒であったと伝えられている。 二人は芸妓衆を総揚げして夜半まで痛飲。 丑の刻を回った頃、川本がいつものように退席するやいなや、新選組がなだれ込んで小鳥を捕縛した。 このため、一時は川本に裏切りの嫌疑がかかった。 川本には小鳥に対する十分な殺人動機があった。 無論、小鳥が落手したあの歌である。 しかし、実際裏で糸を引いていたのは、いんにょうえであり、小鳥の首班としての行動の浅薄さを見限り、川本にスライドさせようと試みたが、川本がその直後に謎の失踪を遂げたことにより、その計画は頓挫した、とするのが、多くの研究者の間で現在の主流となっている学説である。 小鳥が市中引き回しの折、彼が贔屓にしていた芸姑、山濃と原濃は、その後の咎も恐れず二人して小鳥の前に走り寄り、山濃が金平糖を口移しにした。原濃の「美味しおすか!?」の絶叫に対し、小鳥は相好を崩して一言「おいちい」と返したと言う。 この時の小鳥の表情は、一種、えもいわれぬほど愛らしい乳児のような様であったと、その晩年、原濃は語っている。 山濃と原濃 (左が原濃) 小鳥に直接の手を下したのは、新撰組美男五人衆に数えられる馬越三郎であったと伝えられる。 後述する検死記録が、非常にクセの強い馬越の手に似るためである。 小鳥検死記録 一、左肩に五寸大に『ぽち』といふ刺青あり 生前飼ひし犬の名と言ふ 一、土壇場で終始抵抗し、制御するに能わず よって、刺殺しける後、斬首す 一、辞世の句を残しけり 以下に記す 『発情の 後の心に比ぶれば 昔はまらを 触らざりける』 一、そのまら、大なり 形容擂り粉木に似たり 一、斬首せし係への因縁あるべからず 作法通り、首落としたる後、まぶたを十字に切りける 以上が、2011年に偶然発見された小鳥の検死記録である。 惜しむらくは、半分以上が消失していることで、上記の内容は、ほんの一部分である。 しかし、辞世の句から推察すると、剛胆な部分も垣間見られることから、往時より「小心者」「びびり」と揶揄され続けた評価が、意図的に歪曲・創作されたものであるとの説を採る研究者も少なくない。 今後の更なる小鳥研究が待たれる所である。 墓所 斬首された胴体のみ、故郷十三にある劇場舞台下に埋められている。晒された首は、不明であるが、イギリス人旅行者のキーホルダーになったとの未確認情報もある。 歌 充ち満ちた 道は幾筋 あるとても 未知の道なり 豊中の森 淀川に たとえ浮かぶと 知ったとて 淀みに浮かぶ よど号事件 母衣よりも ホロゾンタにて ほろほろと 滅んで行くも またをかしけり 山濃の 割れ目を我は 大好きだ 遊べや親の ない小鳥たち 拙い技巧に失笑さえ浮かぶ数々の歌であるが、大胆不敵とも言えるその歌風は、小鳥が歌ったことで息吹を吹き込まれているのである。 逸話 小鳥は幼少期からきわめて早熟で、大阪の商家に丁稚に出されたばかりの頃、初めてもらった給金で枕絵草紙を購入した。 まだ年端もゆかぬ小僧の分際で春画を手に入れるために、小鳥は当時ようやく日本に出回り始めた洋書を二冊手にし、その間に枕絵草紙をはさんで会計したという。 この時、たまたま購入した洋書のひとつが、当時欧州を席捲した怪文書『全世界の普遍的かつ総体的改革』であり、もう一方が、その付録である『友愛団の名声』であった。 奉公先の狭い寝床の中で思う存分春画を堪能した小鳥は、事後の虚無感を払拭するために、購入した洋書に手を伸ばした。 この偶然の邂逅を以って、日本におけるヌティーク・セム・ホロゾンタが発祥したとするのが、我が国における定説とされている。 また、以上の様な経緯から、小鳥が後に結社した天津教は男女の和合を教義の機軸とした真言立川流とも関係がきわめて深いとされており、その儀式の端々に卑猥な所作・卑語を多用することがたびたび指摘されている。 小鳥は、狂歌師としての名声が上がるにつれて次第に増上慢となり、丁稚の年季が明けて半月もすると、貯め込んだ給金をつぎ込んで松原遊郭に通い詰めるようになった。 当時馴染みの太夫は、「山濃」と「原濃」であったという。 そう美人でもないこの姉妹を、小鳥はこよなく愛した。 維新後、山濃が語った所によると、小鳥は座敷に上がるたび「手足を縛り、きつく叱ってくれ」と懇願したと言う。 山濃が彼の言うようにし、きつく叱ると、「鬼畜よのぉ、鬼畜よのぉ」と、感涙にむせび泣いていたとのことである。 現代で言う、『どM』の魁といえるであろう。 小鳥の狂歌の腕がいかほどのものであったかは、物証の乏しい現代では証明がきわめて難しい。 かの有名な「川本のアメフト勧誘・・・」の歌も、実際は当時全盛を誇っていた堀滝太郎の作だとする説が有力である。 堀滝太郎は、幕末の井原西鶴と謳われる程、経済に精通した狂歌師であった。 日本永代蔵に並ぶと評される、母・滝子との共作『お隣は払ってらっしゃいますよ』は、それを読んだエンゲルスが「東洋にもマルクスがいた」と、つぶやいたと言われている。 小鳥を語る時、避けては通れない人物に、同じく鳥の名を持つ英雄・三戸天狗党出身、芹沢鴨がいる。 小鳥が同時代に生きた芹沢に憧れ、自らを「小鳥」と号したことはよく知られた逸話であるが、本来は小鳥と書いたつもりではなく、「鶴」と書こうとしたが、その手のあまりの拙さ故に「小鳥」と誤読されてしまったというのが事の真相である。 その訂正さえ、あまりの小心さからその場で言い出すことかなわず、結果としてなし崩し的に、やむなく「小鳥」と号することとなった。 「大胆不敵なこの二人の決定的な違いは、胆の大きさであった」と、当時から揶揄され続け、それを覆すことかなわぬまま現在に至っている。 小鳥の性器は常識を越えるサイズであったと、湯屋でそれを見た者は全て口を揃える。膝まであったとか、くるぶしにかかっていたとか、果ては、引きずって歩いていたなど、懐疑的にならざるを得ないような文句の羅列が、幕末の『京町奴湯屋落とし文』にある。おおよそ信じられないものであるが、新選組の沖田総司が一秒間に突きを三回繰り出せたとか、芹沢鴨が一刀のもとに力士を斬ったとか、現代の常識を覆すようなことがあったのかも知れない。 愛人山濃と初めて京都見物に出かけた折、金閣寺から銀閣寺まで、駕籠を使わず徒歩で踏破したという。銀閣寺に着いた時、山濃の足の爪は割れ、座り込んだまま立てない状態だったと言う。怒り心頭の山濃を前に、どう言葉をかけて良いか分からず、ただただうろたえるばかりであったらしい。それを詠んだ歌も存在したらしいが、小鳥が歴史の中に埋没するのと比例して、人々の記憶からも消え去っていったという。 こよなく猫を愛し、彼の家の襖の下紙からは、「猫」と書かれた半紙が多数発見されている。ただ、惜しむらくは、けものへんが誤字であったことである。 キャンプファイアーでよく歌われる「燃えろよ燃えろ」は、そもそも、小鳥が火付けを楽しんでいる時期に口ずさんでいたメロディーが原型である。「燃えろよ燃えろよ、徳川燃えろ。火の粉を巻き上げ、ちんこをこがせ」が原曲であると伝え聞く。しかし、小鳥が斬首されるやいなや、「燃えろよ燃えろよ 木口よ燃えろ。壬生狼を怒らせ、ちんこを斬られ」と変形して歌われた。さすが長らく都の政変を乗り切ってきた京町雀の変わり様と言える逸話である。 小鳥は、当時、舶来の貴重品であった「ワイン」を好み、朝まで痛飲することもしばしばであったという。小鳥の舶来かぶれは巷では有名で、「倒幕浪士の集まりでもっぱら英語を用いていた」とは、井上馨の言葉である。ただ、彼の英語は誤用がほとんどで、それが一時、長州の知識階級の中に定着したため、その是正に時間がかかったのは周知の通りである。 捕縛され、斬首される小鳥であるが、最後の言葉が「川本は元気ですか」だったと言う。現在では、捕縛の黒幕だと歴史的定着を見せる川本を、彼は最後の最後まで信用し、その身を案じていた証拠となる逸話である。彼は川本をせせら笑いながら、最も信頼していたのである。斬首される姿を、川本がせせら笑いながら見ていたことも知らずに・・・・・・。 直腸内に空気を注入し、琵琶湖湖底に這いつくばって追っ手をやり過ごそうとしたが、大方の予想通り失敗する。空気を送り込む部位が肺ではなく直腸であった理由は、今も不明である。 壬生新選組屯所跡からこのたび発見された芹沢鴨直筆の書であるが、長年ふすまの下紙であったため劣化がひどく読み取れない部分も多いが、数カ所「小鳥」の文字が見えるの確かである。書簡の下書きと思われる。以下、関係する箇所のみ、要約したものを記す。 「禁門の変で御所入場の際、いきり立つ守備兵の槍を扇子にて仰いでやったら、近藤、土方ともにひどく感心していた。後日、その守備兵が自分を訪ねてきて、是非とも弟子にしてくれと言う。名を聞けば木口とか小口とか言う大阪浪士だという。ひどく早口でよく聞き取れなかった、これも何かの縁だと、弟子には出来ないが名前をやると言って『ネギ』とせよと命じると、悲しそうな顔をして引き返した。それが何故か後に聞けば、ネギではなく「小鳥」と名乗っていた。どの様な経緯かは分からないが、命名を願っておいてこれは許せんということで、新見、野口、沖田、原田、斉藤を率いて大阪まで捕縛しに行った。酔うと人を斬りたがる斉藤はしばらく飲んでいるうちにいきり立ち、是非とも俺に斬らせてくれと言う。好きにしろと言うと勇んで出て行った。程なくして帰ってきたが、小鳥は既に逃げた後で、振り上げた刀をそのまま下げる訳にもいかず、天満界隈で無礼な力士を斬り殺して来たと言う。つまらんことをしたと言って少し後悔もしていた様子だったが、直後、仕返しだと言って力士が二十名以上、宿屋に六角棒を持ってなだれ込んだので、仕方なく反撃した。」 新撰組始末記の記述と比較すると大きな違いが随所に見られる。力士を切ったのは芹沢だというのが定説であるが、今回の芹沢本人による手記からは、全く逆の真実が見て取れる。芹沢研究が深まる昨今、稀有な証拠の登場といえるだろう。 何の戯れか、暴れ牛と一対一で戦ったことがある。大方の予想通り、足の付け根を一突きされ深手を負う。背骨にまで達するかという大怪我であったという。別に酔っていたわけではなかったようだが、さすがに恥ずかしかったようで、しばらく有馬温泉にて山濃と共に療養することとなる。そこで、七卿落ち(1863年(文久3年)の八月十八日の政変において、7人の公家が京都から追放された事件)の三条実美と偶然接触し、過激な尊皇攘夷思想を更に固くしたと言われる。 坂本龍馬とは昵懇の仲だと、酔うとしきりにつぶやいていたと言う。しかし、坂本の多くの記録からは、小鳥の名は発見されていない。 【木口子寅】 木口小鳥に、三歳年下の実妹がいたことは、あまり知られていない。その名を子寅と言う。子寅は本名である。『ひとつひとつは美人の鑑に遠けれど、ものを言う声の細く涼しき、身のこなしの活き活きたるは、快きものなり。』と、彼女を見た抽象画家は語っている。兄を殺した憎き新撰組隊士の追及に生涯を捧げた。大正末期まで数少ない情報を頼って追い続け、一人一人残虐な手段を持って復讐を遂げていったという。情報収集の過程で、子母沢寛でさえ知りえなかった隊士の些細な情報を得、全て詳細に日記に書き留めていた。そしてそれを、彼女の終焉の地である徳島にて、モラエスに託した。 モラエスは、最期、借家にて孤独死を遂げるが、その処理の際、彼女の貴重な日記が使用されてしまった。 ちなみに子寅は、コマンド・サンボの達人であったが、それをいつどこで習得したかは不明である。
https://w.atwiki.jp/orenonobumemo/pages/29.html
堀タキコ・滝太郎 「ビタミン」は世界共通語であるが、「オリザニン」と聞いてピンと来る人は希少であろう。日本の科学者、鈴木梅太郎博士が発見した、いわゆる現在「ビタミン」と呼ばれる栄養素が、オリザニンそのものである。本来ならば、オリザニンが世界共通語として広く知られるはずであったが、翻訳のミスから、後塵をはいすることとなってしまった時代の徒花である。その鈴木博士同様、堀タキコ・滝太郎親子は、経済学の世界において、マルクス・エンゲルス以上に受け入れられるべき存在であった。 親子での共著「お隣は払ってらっしゃいますよ」は、資本家と労働者との関係をこれ以上ないくらいシンプルに著した名著であると、後世の研究者は口を揃える。書かれた時期は早くても、いかんせん世に出た時期が「資本論」に後れを取ったが為に、現在ではクイズ番組の最終問題あたりに出題される難問奇問のジャンルに入れられてしまっているのは残念である。 ホロゾンタと、堀親子の関係は、きのやまさをとの関係に尽きる。さをは生前、痛飲するたびに無頼な過ちを多く残したが、どんなに酩酊していても、こと堀親子に話題が及ぶと、虎が猫に化すかの如くおとなしくなったという。さをは多くを語らないが、彼が京都で潜伏していた時代、頭の上がらないような失態を堀タキコの前で犯していたことは容易に想像出来る。タキコの背景から、それは経済学に関する内容であると大方の予想ではあるが、真相は藪の中である。研究が待たれる所である。 倒幕派の間者 さを担当からの話 諸般の事情にて名は伏せる(昭和3年 西本願寺小講堂にて聞き取り) 「生活の中にほとんど隙を見つけることの出来なかったさをでしたが、一ヶ月に一日だけ、ひどく落ち込んで、または錯乱し、隙が生まれる日がありました。確か、月末だったと記憶していますが、それは決まってさを宅を男女二人が訪れた後でした。その男女二人は恐らく親子、もしくは不貞の関係ではなかったかと。そんな日を狙って何度か襲撃しましたが、さすが幕末を代表する剛の者、逆に痛手を食らったのはこっちの方でした。今思い出してもあの鉄の爪の威力は、震えが来ます。そんなことは良いんでしたっけ。そう、確か、その二人の名前は、『ほろ』とか『ほり』とか言ったと思います。幕府お抱えの学者だと言うことまでしか分かりませんでした。国学者と言うことで、国粋の我々もうかつに手は出せませんでした。二人を尾行していこんな事がありました。さを宅からの帰路、男女の男の方が道に落ちていた何かを拾い上げ、懐に入れました。我々は密書か?と色めき立ったのですが、それは実はミカンの皮でした。彼は懐に手を突っ込み、ずっとその皮を揉みしだいていましたが、そのうち次第にミカンの良い香りが尾行する我々にも匂ってきました。その匂いに釣られるように、家々からこども達が飛び出して来て、いつしか親子を先頭に大行列となっていました。それをそのまま、旧知の八百屋の前まで引き連れて行くと、群衆は自ずとミカンを欲し、前代未聞のミカンの売り上げを叩き出したそうです。私でさえ、職務を忘れて買いましたからね。その様子を見て、女の方が『これぞ、商法の理』とひとりごちたのも、覚えています。さをと二人の間に何があったかは分かりません。しかし、さをほどの人物の心をかき乱すのですから、相当の人物であったと私は思います。」 尊皇尊が戯れに描いた似顔絵が残されていたが、第二次世界大戦中、ナチスに提供された。
https://w.atwiki.jp/orenonobumemo/pages/24.html
『アホとめぐみ』のアホが、最愛の人めぐみに出会うまで片思いだった芸子。 今で言う『つんデレ』の原型で、厳しく叱った後に優しく抱擁という接客スタイルは、多くの男性を虜にした。 アホの告白を、セム同様むげに断ったが、小鳥が歌に詠まなかったため、歴史の闇に消えた。 生涯 ついつい忘れていたが、彼女は、『数理運命哲学』を完成させている。そもそも、その理念は、「神庭・シェットランド・鉄生(1900~1989)」によって生み出される。どの様な哲学であろうと、人間が生物である限り「刺激は理性を凌駕する」という原罪を念頭に置いた哲学を完成させようとした。しかし、象牙の塔を離れた在野の研究家であったのと、その余りに過激な理念が当時の哲学界からは無視される結果を生み出す。後継者を見いだせないまま、この哲学は消え去ろうとしていたが、チャー・コが、大学のゼミ発表で適当な題材を探している時に、やっつけ仕事的に古本屋で投げ捨てられていた神庭・シェットランド・鉄生著『トップブリーダーになるには』を手に取ったことが、きっかけとなって、彼女は数理運命哲学を学び、完成させることになる。 神庭に献身的に師事し、そのうち神庭は、彼女のつんデレに洗脳され、長年連れ添った妻を家から叩き出してしまう。それが1987年、神庭の死の二年前であった。芸子としての芸を磨きつつ、新たなジャンルの哲学を開拓し完成させようとしたチャー・コにもっと光が照られても良さそうなものであるが、小鳥に歌に詠まれなかったため、歴史の闇に消えたことは前述したとおりである。その意味で、小鳥が、場末の様々な境界で影響力を持っていたとも言えるが、よくよく考えると、小鳥は幕末に処刑されているため、平成時代に歌に詠むことは不可能なことです。 墓所 特記事項見つからず。 逸話 哲学を遊び半分で研究していたらしい。