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このページはhttp //bb2.atbb.jp/kusamura/topic/65936からの引用です kusamura(叢)フォーラム @BBの閉鎖(2015.5.31)に伴い、 @WIKIへ移動します。(作業中)http //www9.atwiki.jp/kusamura/ トップ»ロロ・メイ著作集1 「失われし自我をもとめて」(1953)» 第2部 第4章 存在への闘い 「母親」「依存性」に対する闘い All times are JST(+900) ロロ・メイ著作集1 「失われし自我をもとめて」(1953) Page1of1 [ 10 posts ] 1 投稿者 メッセージ kusamura 題名 第2部 第4章 存在への闘い 「母親」「依存性」に対する闘い 時間 2011-11-06 20 40 32 no rank Joined Posts 第4章 存在への闘い 自己認識への道は、変化に富んだ、困難や葛藤の峰々や 絶望の打ち続く道ではなかろうか。 事実、ここで、人間になるということの いっそうダイナミックな側面をみてみよう。 たいていの人にとって、とくに 自分自身の力で人間になろうとする彼らを阻止した幼児体験 を克服しようとする成人にとっては、 自己の意識化を成就すると、闘争と葛藤が出てくる。 彼・彼女らは次のことに気づく。 すなわち、 人間になるためには、 感じ方、経験のし方、欲求のあり方を学ぶだけではなく、 自ら率直にものを感じ、 欲することを阻むものに対し、たたかうことを学ぶことが 必要である。 彼・彼女らは、自分を抑制する鎖のあることに気がつく。 これらの鎖は、本質的には 彼・彼女らを両親(*あるいは重要な他者)に結びつけるきづなであり、 とくに現代社会では、それは母親への結びつきである。 人間の発達は 集団から個人としての自由への、 連続的な分化の過程である。 潜在力のある人間は、もともと胎児として母親と一体の存在であった。 胎児は 子宮内で母親ないし赤ん坊側からの何の選択もなしに、 へその緒を通して、自動的に養われる。 胎児が生まれでて、 身体的なへその緒が断ち切られるとき、 胎児は身体的個体となり、 その後、 養育には 相方の側のなんらかの意識的選択 が含まれている。 母親は、イエス・ノーを言うことができる。 しかし 幼児はまだほとんど母親に依存している。 彼・彼女が、個体になるのは、 無限に続く段階を通してである。―責任と自由の萌芽をともなう 自己の意識化、 ―学齢期の親の膝下からの解放、 ―思春期の性的個体への成熟、 ―大学生として外界へ出るためのたたかい、 ―職業選択、 ―結婚にともなう新家族への責任 など。 全生涯にわたって、 人間はその全体からの連続的な分化過程を、一歩一歩、 新しい統合へ向かって進んでゆく。 事実、すべての進化過程を、全体からの分化過程とみることができる。 それは、また 集団から個人の分化であり、しかもその各部分は、 より高い次元で、相互に連関し合っているのである。 人間は、石や化学的混合物と対照的に、 彼の個的人格をただ意識的に、責任をもって選択することによってのみ充実することができる。 したがって、人間は身体的個体だけではなく、心理的、倫理的個体とならなければならない。 厳密にいって、 子宮から生まれ、集団から切り離されて自由になり、依存的態度が選択行為に変わる過程は、 人生のあらゆる決断場面で反復され、 死の床においてすら、人間の直面する課題である。 このように、人間すべての生涯が、 分化という一つの図表によって表現できる。 どこまで、自動的依存状態から自由になれたか、 との程度、独立の個体になれたか、 そしてどのくらい、自己選択の愛情、責任、創造的仕事といった新しいレベルに立って、 他者と交わることができるだろうか。 次に、 個人の集団からの分化に際して体験される心的闘争について 考えてみよう。 Top リンク kusamura 題名 #2 時間 2011-11-06 22 54 21 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 心理的なへその緒の切断 (1) 誕生によってへその緒が切断されるとき、 赤ん坊は 身体的には個体になる。 しかし心理的なへその緒がしかるべきときに切断されないうちは、 両親の家の前庭にある杭にくくりつけられている ヨチヨチ歩きの子どもと同じである。 そのロープの長さ以上には遠くへ行けない。 彼・彼女の発達は阻止され、 屈服した成長への自由は、内側に向かい、怨恨・怒りとなってうづきだす。 こういう人間は ヨチヨチ歩きのロープの範囲内では かなりうまくやっているように見えるかもしれないが、 結婚に直面したり、仕事についたり、最後に死に直面したりすると、 混乱してしまう。 危機に直面するといつでも、比喩的にせよ、文字通りにせよ、 「母親のもとへかえってゆく」傾向にある。 ある若い夫はそれを次のように表現している。 「自分はあまりにも母親を愛しているため、妻を十分愛せない。」 彼の間違いは、母親への関係を「愛」ということばでよんでいることである。 ほんとうの愛は、 拡張的なものであって、決して他者を愛することを拒まない。 すなわち排他的で、妻を愛することを拒んでいるのは、母親への結びつきである。 今日、この 鎖でつながれたままの傾向はとくに強い。 個人に対し、一貫して最小限の支えを与える という意味で、 社会はもはや「母親」の役を果たせなくなるほど、分裂してしまっている。 彼・彼女は 幼児期の身体的親へ もっと緊密にしがみつこうとするからである。 実際のケースによって、これらの結びつきがどのようなものであるかを より具体的に理解できる。 さらに、それらの 結びつきを断ち切ることがいかに難しいかもわかる。 Top kusamura 題名 #3 時間 2011-11-07 01 16 44 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 心理的なへその緒の切断 (2)事実、そのケースの特異な面は、母親の行為が 多くのケースにみられるように微妙でもなく、偽装もされていないことである。 才能のある三十才になる男が 同性愛的感情に悩んでいた。 彼には婦人に対し何ら積極的な感情がわかず、同時に 婦人に対し、ひどい恐怖感をもっていた。 彼はだれとも親密になることを避けた。 そしてまた、 大学院のドクター論文の完成を前に、 どうしても完成できなかった。 ほんの子どもであった頃の彼は、弱々しく 母親の尻に引かれている父親に対し、軽蔑感を抱くようになった。 母親はしばしば子どもの面前で、父親をさげすむことがあった。 彼は、かつて 議論の中で母親が父親に向かって、 「お前さんなんか、生きているより死んだ方がましだ。 だけどお前さんは臆病で、自殺もできないんでしょう」 と言っているのを立ち聞きした。 彼は登校のときも母親によってていねいに服を着せられており、 喧嘩もできず、 息子を乱暴者から護る必要があるときには、母親がよく学校へ出かけた。 彼女(母親)はとうとうその息子に親しくうちあけた。 どれほどひどく彼女が父親のことで苦悩したかを話した。 母親は息子に、彼のきらいなトイレの躾けをよく守ってくれるようもとめた。 大学生になっても彼は、休暇で帰省すると、 母親が夜中に二階にあがってくる足音をきいて、 自分が服を脱いでいるときに、母親が部屋に入ってきやしないか、 という不安のため、よく麻痺することがあった。 彼が少年のとき、母親はむしろ大っぴらに、夫以外の男性と関係をもっていた。 そしてそのことは、彼をひどくろうばいさせた。 彼が思春期に達したとき母親は、彼が少女たちに逢うのを邪魔しようとした。 しかし母親は、そのデートによって自分の社会的地位があがるような家族の娘と 息子をデートさせようと努力した。 少年のころ、彼は学校や日曜学校の練習で、 「あなたの父母を敬いなさい」というおきてが朗唱できず、両親を大変困らせた。 そして母親が婦人の集まりで、彼にピアノをひかせようとすると、 以前にはどれほどよく知っていた曲にせよ、それをよく忘れてしまうのであった。 彼は非常にできのいい少年で、学校でよい成績をとっていた。 そして後年、軍隊では信望を得た。 これらは、母親によって、彼女自身の威信を高める手段にされた。 読者は疑いもなくすでにお気づきのように、 彼の博士論文仕上げにブレーキがかかっていることと、ピアノの独奏を忘れることの間には 大いに共通のものがある。 両者とも 彼の成功を母親が食いものにすることに対する反抗であった。 だれかが あなたの成功を食いものにしようとするとき、それを防衛する方法は、 他人が利用できるようなことをなにも成し遂げないことである。 彼の治療中、 彼あてにやってくる母親からのたびたびの手紙には、 軽い心臓発作についての長々とした訴えや記述があり、 それといっしょに、 彼が家に帰り、母親の面倒をみてくれという露骨な要求と、 もしこれ以上彼女のことに関心を示さないなら、また発作が起きるかもしれない ということがほのめかされていた。 この青年の問題は、 いくつかの点で、現代社会の多くの青年にみられる典型的な問題である。 第一に彼のかかえた問題は、 感情の欠除、性的役割の混乱、潜勢力の欠除 である。 いわば、性と仕事との上に両親(*重要な他者)に悩んでいる。 第二の典型的な側面は、その家族パターンである。 これは、 フロイドがエディプスの原理ではじめて公式化したとき念頭にあった 父権性家族とは、大いに異なっている。 この青年の家族では、母親が支配的な人物であって、 父権は弱く、息子の目には、やや卑しむべき存在に映っている。 第三の面は、 その少年が母親のお気に入りで、いわば 女王の父君(prince consort)になっていて、父親の地位に据えられており この偏頗な扱いは、 少年が母親をよろこばすかぎり続くということである。 しかし王冠をいただいた頭は落ち着かなかった。 この青年はその王座についても、 何ら ほんとうの安全感や 力の充実を感じることはなかった。 というのは 彼自身の実力でそこの座をしめたのではなく、 母親のあやつり人形として、そこに据えられていただけだからである。 たしかに古典的なエディプスの場面が、この場合でてくる。 しかし重要な相違がある。 少年は去勢=権力の喪失を死ぬほどおそれている。 しかし彼を去勢するのは母親であって、父親ではない。 父親はライバルなんてとんでもないことで、母親がライバルのように見えた。 息子は同一視すべき男性的な力にみちた人物像を何ももたなかった。 したがって 成長過程にある少年にとって必要な 正当な権力経験のもとになるものが欠けていた。 この権力が欠けているかわりに、 彼はただ母親のお追従、甘やかし、そしておせっかいな世話やきを体験した。 こういう若者は、期待どおりにしばしば自分が文字どおり王子である という夢想にひたる。 彼のナルシズムは非常に大きい。 というのは、そのナルシズムが、 自分はほとんど完全に無力だという 実際の内的感情にたいする補償の役割を果たしていた。 彼はなにかを成し遂げないことや、 ときどきことばの上でのいさかいによって 母親に対し、ほんのわずか反抗できただけある。 しかしこれは 主人に対する奴隷の受動的な反抗にすぎなかった。 この男性が婦人を死ぬほどおそれているということは少しも不思議ではない。 また、仕事面、愛情面、他者とのなんらかの親密な関係をもつという点で、前進できないほど ひどい内的葛藤にとらわれていることも驚くに当たらない。 かかる病的なからみ合いから脱する道は何だろうか。 もちろん、こどもは、できるだけ自分を縮小して、 食いものにされることから身を守ることによって、 一時的に逃れる道を知っている。 そして残虐な運命の仕打ちを避けようとする。 弱々しい、アルコール中毒の父親と 支配的な殉教者タイプの母親とのあいだにはさまれて苦しんだ少年時代を回想して 彼が若い頃、自分自身をどう見ていたか、彼がそれを詩の形で表現している。 お前はそこに テーブルの側に立っている まだおもちゃの熊にしがみついている 人に見られないよう 身をちぢめてしまう やっとおまえは ひとりぼっちになって 人に見つからないよう 人の欲しがらないようなものを固守している それでも ―これは一般に後で起こることだが― 彼は「限りない苦悩にそなえて武器をとる」ことができる。 そして自分自身の権利で 人間としての自由を達成しようと積極的にたたかうことができる。 その問題に移ろう。 Top kusamura 題名 #4 時間 2011-11-07 19 02 02 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 母親に対する闘い (1) かかる自由に対する戦いは、あらゆる時代を通して 最高傑作ドラマの一つ、「オレステス」の中にあらわれている。 人間の葛藤を扱ったこの偉大な物語は、古代ギリシアのエスキュロスによって書かれた。 これを、現代詩として「悲劇の彼岸にある塔」という形で、ロビンソン・ジェファースが再現した。 (*以下は、主にジェファースの作品に依るものと思われ、オリジナル(悲劇作品や伝承神話)とは所々異同がある) ミケーネの王 アガメムノン がギリシア軍を率いて出征中、 彼の妻 クリタイムネストラ は、 彼女の叔父 エジステウスを情夫として引き入れた。 アガメムノンが戦場から無事に帰還すると、彼女はこの夫を殺害してしまった。 続いて彼女は 自分の幼い息子 オレステス をも国外に追放した。 娘のエレクトラも奴隷の地位に堕とした。 追放された幼い息子 オレステスが成年に達すると 彼はこの母親を殺すべくミケーネに帰ってきた。 宮殿の前で、剣を抜いて立った息子を見たクリテムネストラは 父親を非難することで、息子の同情を誘おうとする。 「わたしの運命はわたしに過酷だった。我が子よ。」 続いて脅かすように叫ぶ。 「わたしの呪われた運命は決してその手をゆるめない。 それはおまえを生んだのろいだ。」 これらの戦略が役に立たないとみると、 最後に彼女は、オレステスをいつわりの愛情表現、 抱擁、キスで情熱的に息子の心を迷わそうとする。 彼は突然へたへたとくず折れてしまい、 「自分には抵抗できない。力が抜けてしまった。」 と、ことばと一緒に、剣を落としてしまう。 この突然の活力の抜けた無抵抗状態について驚くべきことは、 実は、これは物語のうえだけではなくて、 今日、あらゆる精神治療家が多くの若者のケースで観察していることなのである。 すなわち、 支配的な母親とのたたかいで、その潜勢力喪失からくる行為である。 オレステスが立ちあがってその力を回復し、一撃を加えるのは、 ただ母親がすみやかに自分の兵士たちを呼び出すため、彼の無抵抗の瞬間を利用しているのだ と気づき、母親クリテムネストラのいわゆる愛などは、全然愛ではなくて 息子を自分の権力下に置こうとする策略だと悟るときである。 その時、実際は、オレステスが気狂いになってしまう。 “復讐の女神たち”、「もつれあった蛇の絡み合う」頭髪をもった こらしめの“夜の精たち”につきまとわれる。 この女神像は、 自責や良心のとがめを擬人化したギリシャ神話に出てくる姿であり、 人をねむらせず、 神経症や精神病にさえ追いやることもある責めさいなむ罪悪感のシンボル化を、 ギリシャ人がいかにするどく、正確に記述しているかを知って驚かざるをえない。 オレステスは、復讐の女神に駆りたてられ、眠れず、へとへとになってしまう。 そして最後に、 デルフォイのアポロの祭壇のまわりに武器をもったままたおれてしまう。 そして、そこでしばしの休息を得る。 それからアポロの保護のもとに、女神アテナのもとへ送られる。 彼は、アテナの主宰する大法廷の前で、裁かれる。 法廷で解決さるべき大きな争点は、 子どもに対し支配的で、子どもを食いものにする母親を殺すことが はたして罪に値するか である。 人類の未来に対して重要な問題なので、オリンパスから神々が その論争に参加するため山を下りてくる。 多くの弁論のあと、女神アテナは陪審員に向かって説示を与え、 「あなた方の高い権威を、埒を越えて放棄することのないよう」誓わせる。 それは、神々の尊厳や聖なる恐怖を保持し、 一方では(*地上が)「無政府状態」になる危険を、 他方では「奴隷的支配」なる危険をさけうためである。 陪審員は投票し、それは同点と出る。 そこで市民的徳と客観性と智慧をそなえた女神アテナが 決定票を投ぜねばならない。 アテナは法廷に布告する。 もし人類が進歩すべきものなら、たとえそれが親殺しを含むにせよ、 人々はかかる憎むべき親へのきずなから自由にならなければならない。 そして女神アテナの投票によって、オレステスは許される。 このほんの筋書きだけのもとにあるものは、 人間的情熱の恐るべきもがきであり、 人間が経験することいずれにもおとらず深く基本的な葛藤である。 そのテーマは母親殺しであるが、実際その意味するところは、 人間として生きてゆくための、息子オレステスの苦闘である。 それは、心理的、精神的存在としての人間が 「生くべきか、死すべきか」苦悩する姿にほかならない。 アテナや他の神々がその裁判の弁論のシーンは 暗黒の地下から出てきたエリニエスによって代表される「旧い」生き方、慣習と道徳 と、もう一方、 アポロとアテナによって支持され、オレステスの行為によって人格化される「新しい」生き方 との間の論争である。 これは、E・フロムが彼の著書「忘れられたことば」の中で説明しているように、 旧い母権制に対する新しい父権性の戦いとして社会学的に説明できる。 しかし、われわれがここで注目したいのは、その葛藤の“心理的内容”である。 魅惑的な心理的明敏さをもって、エスキュロスは指摘している。 オレステスは選ぶことこそできなかったが、その頂点をきわめることができた。 もし彼がその行為にでなかったら、彼は永遠に病むことになったであろう。 その結論へ導かれるクレセンド(漸進楽節)の中で、ギリシャ・コーラス(コロス)に 「兄がやってきた。日は白々と明けそめてゆく」と歌わせている。すなわち オレステスの行為とともに、世界には新しい光がさし、夜明けがやってくる。 たしかにクリテムネストラは極端な例である。 実際に人間を動かす動機は、純粋の憎悪、愛情、権力への欲望といったものではなく、 むしろこれら諸動機の 複雑な混合物である。 クリテムネストラは一人の人物というよりむしろシンボルといった方が正しい。 子どもの潜在力を「追放」し、押しつけるところの親の中にある 支配的な、権力主義的傾向をあらわすシンボルである。 われわれがこのドラマを今日の問題と関連づけてみるとき、 多くの人々にとってこのドラマについてもっともショッキングなことがらは、 それがオレステスについて述べていることではなく、 ある母親たちがクリテムネストラ似ているという意味合いにある。 (*クリテムネストラのアガメムノン殺害は、長女を戦争への生け贄として アガメムノンに殺されたことへの復讐という側面もあるらしい。 イーピゲネイア参照) Top kusamura 題名 #5 時間 2011-11-07 21 39 01 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 母親に対する闘い (2)(*この悲劇において)親を殺すということは何を意味するのか。 その苦闘の本質は、 オレステスのような成長する人間が、 その成長と自由を窒息させるような権威主義的圧力に抗するたたかい といえる。 家族サークル内でのこうした権力は 父親ないし母親(*または養育する重要な他者)の中に台頭してくる。 なるほど フロイドは次の点を多かれ少なかれ普遍的なことと信じていた。 すなわち、 その葛藤が父親と息子との間にあるということ。 ―父親は息子を追放し、息子から権力をとり去り、 去勢してしまおうとすること、 そして、エディプスのように、息子は存在権を確立するために 父親を殺さざるを得なくなるだろう ということである。 しかし今日われわれは、そのエディプス「コンプレックス」が 普遍的なものではなく、文化的、歴史的要素によるものであることを知っている。 二十世紀半ばのアメリカでは、たとえば、 いま二十才から五十才の人の育った家庭では、 父親ではなく母親が支配的な人物であったということ、 それから 母親への関係がもっとも重大な問題を提起し、 オレステス神話こそ、自分たち自身の経験を もっとも切実に表現していると思っていること が挙げられる。 (私は、職業上精神療法を行った人々の深層の感情や夢だけでなく、 私が一緒に話し合ったほかの治療家の経験にももとづいて述べているのである) 前述のケース(*#3)のように、息子は 母親をよろこばすことだけによって褒美を得るようになる、という点で、 しばしば母親に鎖でつながれている。 それはあたかも その息子の潜在力が その母親の高い期待にしたがって生活するという目的だけに生かされている ようなものである。 潜在力が、だれか他人の命令によってのみ活用できるというのでは、 それは全然力とはいえない。 彼が、母親への結びつきから解放されるまで、 彼は個人としての自分の発達や、他人を愛することに自分の力を利用できない のはあきらかである。 ここで支配的な母親との葛藤について述べると 読者の中には 最近流行のマミズム(Momism)についての論議を思い出される人もあろう。 マミズムの中にどれほどの真実がこめられているか。 私は、知ったふうをするのをよそう。 精神科医エドワード・A・ストレッカーが指摘しているように、 アメリカでは、そのシステムが母権制に似てきだした。 精神分析家E・エリクソン は、その『こども時代と社会』の中で、 母権制の発展を論じて、 「マムは勝利者であるよりも被害者である」とみ、アメリカでは、 父親は週末だけ家にいる。そのため家族での中心的な位置を失いつつある。したがって 母親が権力の座につかざるをえないと述べている。 「父親がバップ(父ちゃん)になったときだけ、母親はマム(母ちゃん)になった。」 母権制は当面の問題である。 それにしても、 当今の母権制で婦人の行使する権力が、 強要的な性格なのはなぜだろうか。 Top kusamura 題名 #6 時間 2011-11-07 22 30 09 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 母親に対する闘い (3)現在の母親たちは一般に、混乱している。 こういう問題が現代社会にでてきたのは、とくに、ひとつ前の世代の母親たちからである。 私にはその状況の心理的要因がわからない。 われわれがいえるのは、せいぜい、 前に引用した、青年を去勢しようとする母親のように、 精神療法をうけるこれら患者の母親が、非常に大きな失望を経験しているかのように振る舞うという点である。 クリテムネストラは「年来の憎しみ」からああしたのだといっている。 たしかに、それ相当の理由がないなら、 クリテムネストラのような立場の人はだれもあのように 食いものにするような、要求がましい権力の使い方をしようとはしない。 その理由は一般に、彼女自身非常に傷つけられたということであり 将来の苦痛から自分を守るための唯一の方法が、 他人を支配することであると考えていることである。われわれの社会において、 一つ前に世代の婦人は、 男性から受け取れるものについて大きな期待がかけられていたであろうか。 それは、 婦人たちが特別の価値をもっていた開拓者心理が 婦人達たちの尊敬されていた後期ヴィクトリヤ朝の態度と融合した結果であったろうか。 それではこれら婦人たちは、 彼女らがいつまでも変わらずサービスしてもらえるような期待を抱きえたのであろうか。時代が進むにつれて、 婦人としての彼女らの機能は、どうしたことか根本的に挫折してしまった。 実際、この後期ヴィクトリア朝の婦人たちは性的にきわめて欲求不満であったようだ。婦人たちはフロンティア地区で尊敬され、同時にフロンティアを文明化するよう期待されていたとき、 はたして婦人たちは、婦人であるということだけでどうして簡単によろこび満足することが できたであろうか。 この世代の母親たちは 男性からすばらしいものを期待するよう導かれてきたので、 彼女らの夫に深く失望し、 息子を過度に所有し、支配することによって、その失望を補おうとした ということだろうか。 おそらくこれら全ての点が、 この特定のわれわれの社会における母子結合と なんらかの関係をもっている。 しかしギリシャ人は、これらの問題を 社会学的、心理学的に提出することに満足しないで、 つぎの点を示唆することでわれわれの議論の基礎をゆるがす方向にある。 彼らはきわめて素朴に、 母と子との間には生物学的な結びつきがあり、 それが 子どもを親から解放するのを難しくしている。 (*と示唆している)この問題がドラマの中では、オレステスを許す票を投ずるのがアテナであるとうい事実に示されている。 アテナは本人が述べているように 「自分を生んでくれた母親の子宮を全然知らず」、父親ゼウスの額から 完全正装のまま飛び出してきた女神である。 これは熟考に値する驚くべきアイデアである。 第一、 子宮のおかげなしの生誕はそもそも十分驚くべき事である。 しかしギリシャ人がこのアテナを 智慧の女神としている事実を考えると この誕生はさらにとまどいを与える。 女神は、 自分は全然子宮のなかにいたことがないので、 この(*母親殺しオレステスという)「新しい」ものの味方であって、オレステスのために投票するのだという。 これは次のような意味だろうか。 依存と偏見・未成熟から、 独立・知恵へと向かう人間の行路は どうみても難路であって、身体的、心理的なへその緒によって妨げられるので、 知恵と市民道徳を代表する神話の女神は、 へその緒に立ち向かって闘わねばならぬ者として描かざるをえない ということだろうか。幼児は、 その子宮の中で懐胎され、 その乳房で養われる母親に対し、父親に対する以上の親密さをもつ。 幼児は、 母親の血をその血とし、その肉をわが肉としているがゆえに、 常に母親への結びつきによって縛られており、 母親関係というものは、未来よりもいっそう過去に向かっていて、 革命的であるよりもむしろ保守的である。 こういう風にギリシャ人たちは考えたのだろうか。 人間の知恵というものは、 そうした母子関係のきづなの全くないところに存在するということ、 あるいは、結びつきそのものの中に、なにか間違ったものがあるということ、 それ以上のことをギリシャ人は知っていた。 彼らは、 オレステスで述べているように、「庇護されたい」という誘惑が、 子宮に復帰したいという傾向によって象徴されていること、 および、 個人としての成熟、自由が、この諸傾向の反対であるということ を言おうとしているのかもしれない。 これが、 知慧の女神が子宮をぜんぜん知らない という理由であろうか。 こうした問題に対する答えは、読者の判断にまかせたい。 話をオレステスの方に戻そう。 Top kusamura 題名 #7 時間 2011-11-07 23 48 34 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 母親に対する闘い (4)(*last)われわれの興味は、情動的葛藤にあるこの青年(*オレステス)が、 人間として生きるため 自分の自由をいかに達成するか ということである。 母親を殺したあと、一時的狂気の状態にあったとき、 オレステスは、「幻視をわずらって」森の中をさまようことになる。ロビンソン・ジェファースは、その詩の中で、 オレステスはそれからミケーネの宮殿にかえり、そこで妹エレクトラが 父に代わって王になるよう彼を招く場面を描いている。 オレステスは、おどろいてエレクトラを見つめ、そしてたずねた。 母親を殺すというおそろしい行為をやったのは、 アガメムノンに代わってミケーネの王になるためだった、というふうに考えるほど、 お前はどうしてそんなに無分別になれるのか、と。 彼にはそんなつもりはなかった。 「都市国家の人々より成長していた」彼は去っていく決心をした。 彼の悩みを、 彼が婦人を必要としているのだとうけとったエレクトラが、彼に 結婚しなさい、と進言したとき、彼は 「そう言わせているのは、おまえの中にいるクリテムネストラである」 と叫んだ。 さらに、自分たちの不幸な家族が抱えている全体の悩みは近親相姦であることを指摘した。 オレステスはひとりで、自分は 「内面的にやせ衰えるようなことはしない」という決心をした。 もし彼が彼女の願いを受けいれて、ミケーネに止まっているならば 彼は「動く石に」に化してしまうだろう、と妹は悟った。 彼がミケーネの近親相姦の巣から離れるとき、幾世紀経ても代わらぬ響きを伝える句 「自分は外へ向かう愛におちいった」ということばで詩は結ばれている。 近親相姦という言葉は、 心なり、生活が家族の方、 「内側」に向けられ、したがって「外向きに愛すること」ができない ということの性的、身体的なシンボル化である。 心理学的にみて、 近親相姦的欲求が思春期をすぎても続くときには、 それは親に対する病的依存性が性的シンボルをかりて現れたものである。 その近親相姦的欲求は、「成長し」きっていない、 自分を親に結びつけている心理的なへその緒のきれていない人間に、 とりわけ、起きるのである。 性的満足は、 母親に授乳されているとき、そのこどもの受けとる口唇の満足に近い。 オレステスが述べているように、 近親相姦的関係にあって目立つことは、 相手からなめてもらいたい欲求。 「相手は自分をほめるべきだ」という考えである。 それは、幼児的依存性へ帰ってゆきたい、という要求であり、 それは、宗教的、心理学的にいってもイエスが宣言する内容と正反対のものである。 イエスは述べている。 「われ地に平和を投ぜんがために来たれりと思うな。 平和にあらず、かえって剣を投ぜんがためにこれり。 それわが来たれるは人をその父より、 娘をその母より、嫁をその姑より分かたんためなり。 人の仇はその家の者なるべし。」(マタイ伝10 34-36) あきらかに、憎悪とか不和を唱道しているのではなく、 もっと根本的な形で、精神的発達というのは近親相姦から離れ、 隣人や異邦人を愛しうる能力に向かうことであると 述べようとしているのである。 ほとんどあらゆる社会で見いだされる近親相姦に対するタブーは、 それが「新しい血液」と「新しい遺伝子」を導入されることになるとか、 あるいは、もっと正確には、 変化と発展の可能性を拡大するという点で、健全な心理社会的価値をもっている。 近親相姦は赤ん坊に身体的害をあたえない。 それは単に、こどもの中の同じ遺伝形質を二倍にするだけである。 すなわち、近親相姦の禁止は、 人間の発達途上、より大きな分化に役立つ。 そして統合が同一段階を通してでなく、より高いレベルで見いだされることを要求する。 すなわち、人生航路である分化の連続に必要なものは、 近親相姦から離れ、外向きに愛しうる能力への発展である。 Top kusamura 題名 #8 時間 2011-11-08 00 39 35 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 依存性への反抗 オレステス劇の精神は、全ての人が銃をとって母親を殺せといっているのではない。 断たねばならないものは、自分を親に結びつけている幼児的な依存性のきづなである。 このきづなは、外に向かって他人を愛することをさまだげ、独立性の創造を拒んでいる。 これは突然の解決によって道が開けたり、 自由の一大爆発でことが終わるような単純な事業ではなく、 また両親(*あるいは養育情上の重要な他者)に対する「爆発的激情」によって 完成するものでもない。 実際、現実生活において、それは 新しい統合にむかって、成長という登り坂の長い道程をたどることになる。 精神治療をうける人は、しばしば数ヶ月にわたって、 自分のいろんなパターンを徐々にくぐり抜けてゆかねばならない。 そしてそれと気づかず、 どれほど自分が親と結びつけられているかを発見し、 この鎖が人を愛すること、結婚を妨げているかを繰り返し見いだすことになる。 彼は、しばしばかなりの不安と、時には実際の恐怖を伴う。 こうした鎖を断ち切るためにたたかっている者が オレステスの一時的狂気にも似た おそろしい情動的混乱や葛藤を経験するのは不思議ではない。 その葛藤は、本質的に、 保護されている、打ちとけた生活の場から、新しい独立場面へ、 また支えられている状況から一時的な孤立へとつき離されるときの葛藤である。 それと同時に、当人は不安や無力感を覚える。 その個人が、 発達段階上たどるべき諸段階を卒業できないときには、 そのたたかいはひどい形態(すなわち、神経症)をとる。 なにが人を親に結びつけておくのか。 典型的なギリシャ人であるエスキュロス(*アイスキュロス)は その問題の源を客観的に描き出している。 ミケーネの王家では、数世代にわたって邪悪な事態が続いた。 それゆえ、オレステスにできることは母親を殺すことだけであったという。 典型的な近代人であるシェークスピアは、ハムレットの似たような「存在への戦い」を 良心、罪悪感、勇気と優柔不断という 両面価値的感情(*アンビバレンツ)を伴う内面的、主題的葛藤として提出している。エスキュロスもシェークスピアもどちらも正しい。 こうしたたたかいは内側と外側の双方に起こる。 人が幼児期に耐えるところの権威主義的な束縛は 外面的なものである。 成長する幼児は、 それがこどもを食いものにする親の子であろうとも、 あるいは反ユダヤ的偏見をもった国に生まれたユダヤ人であろうと、 外面的環境の犠牲者である。 こどもは是が非でも、自分の産み落とされた世界に対決し、 適応してゆかねばならない。 しかし、何人の発達過程にあっても、 権威主義的な問題は、内面化(internalized)されてゆく。 成長過程にある人間は、そのルールを引き継ぎ、 それを自分自身の中へ植えつけてゆく。 そして彼・彼女は、自分を奴隷にしようとする根源的な力と、 あたかも生涯かけてたたかい続けているがごとき態度をとる。 今日ではそれが内面的葛藤となってきた。 幸いにも、 この点ここには好都合な教訓がある。人間は、抑圧的な力に身を受けつつ、 それを自分自身の中で動かし続けるがゆえに それらの力に打ち勝つ力 をも 自分の中にもつ。 つぎに、 自己を再発見しようと努力している成人にとっても その戦いは主として内面的な闘いである。 「人間になるための闘いは、その人自身の中で起こる」 たしかに、 われわれは全員残らず、 自分を食いものにする人物、あるいは環境内の外的な力 に対して自分の態度を決めてかからなければならない。 われわれのたたかわねばならない心理的な闘いは、 われわれの依存欲求とのたたかいであり、 自由に向かって前進するときたちあらわれてくる不安、 および罪悪感に対するたたかいである。 Top kusamura 題名 #9 時間 2011-11-08 01 50 34 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 自己意識の諸段階 (前) 人間になるこということは、 いくつかの自己意識の段階を経過することであることをみてきた。 第一は、自己意識の生まれる前の幼児の無心(innocenceイノセンス)の段階である。 第二は、抵抗(rebellion)の段階で、 人が自分自身の権利で、なにか内的な力を打ちたてるため自由になろうとするときである。 この段階には挑戦と敵意が含まれるかもしれない。 その程度はともあれ、反抗は人が旧い結びつきを断ち切って、 新しい結びつきをつくろうとするとき、 必然的にでてくる過渡的過程である。 第三は、われわれが 通常の自己意識(ordinary consciousness of self)と呼び得るものである。 この段階では、ある程度自分の間違いがわかり、自分の偏見に手心をくわえることができ、 自分の罪悪や不安感を、学習経験として利用でき、 責任をもって自己決定を行うことができる。 これはたいていの人が、パーソナリティの健康な状態 というときに考えている内容である。 ところで、 大部分の人はまれにしか経験しないという意味で 非凡な「第四」の意識段階がある。 この段階は、ひとがある問題に対し、突然その洞察を得る、という場合に もっともよい例がみられる。 ―突然、見かけのうえではどこからともなく、 空しく何日も模索していた解答がひょっこりあらわれる ということがある。 時に、こういう洞察は夢の中にあらわれる。 あるいは、他の何か考え事をしているおゆな夢想の瞬間にあらわれる。 いずれの場合にも、その解答が パーソナリティの 潜在意識的な水準 とよばれるところからやってくることはよく知られている。 このような意識は、 科学的、宗教的、芸術的活動の中に、同じようにでてくるものである。 それらは時に、「アイデアの出現」(dawning of ideas ) あるいは「霊感」(インスピレーション)と呼ばれる。 創造的活動をおこなうすべての研究者があきらかにしているように、 この意識レベルはあらゆる創造活動に出てくるものである。この意識レベルを何と呼ぶべきだろうか。 ある東洋的思考で呼ばれている 「客観的自己意識」(objective self-consciousness)、 これはその意識が、客観的真理をかいま見せてくれたからつけられた名称だがどうだろうか。 それともニーチェが名づけたごとく 「自己超絶的意識」(self-surpassing consciousness)、あるいは倫理宗教界で伝統的な 「自己超越的意識」(selftranscending consciousness)はどうか。 私自身は、 とくにきわだってはいないが、おそらく今日にあっては比較的満足できる 「創造的自己意識」(creative consciousness of self)を提案する。 この意識性(awareness)に対する古典的な心理学用語はエクスタシー(ecstacy)である。 このことばは、文字通りには、 自己の外に立つこと すなわち、自己の通常のかぎられた視点外の見通しに立って、 あることについてある見方を把握したり、それを体験することを意味する。 普通われわれが 自分のまわりの「客観的世界」内に見ているものは、 それをわれわれが「主観的に」見ているという事実によって多かれ少なかれゆがめられ、 曇らせられている。人間としてのわれわれの見ているものは、いつも個人の目をとおしてであり、 自分自身の私的な世界をとおして、各人、各様に解釈される。 われわれは、 いつも主観性と客観性との間の二律背反につきまとわれている。 この意識の第四段階は、 まだ主客に分裂しないその下の層にその機能をもつといえる。 一時的ではあるが、われわれは、意識的パーソナリティの通常の限界を超えることができる。 洞察ないし直観と呼ばれているもの、 あるいは創造性に含まれるところの、ただ漠然と理解されている別の過程を通して われわれは、 現にあるがままの客観的真理をかいま見ることができたり、 非利己的な愛情体験の中に、何か新しい倫理的可能性を感じとるかもしれない。 Top kusamura 題名 #10 (Last) 時間 2011-11-08 04 42 19 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 自己意識の諸段階 (後)last ニーチェをはじめ、倫理学について述べている著者総てが指摘しているように 自分自身の資質を十分に発揮する人間は、自己を「超越する」過程を経るのである という指摘は、非科学的感傷ではない。 これは 成長してゆく健康な人間の基本的な性格特性の一面、 瞬間ごとの、自分自身、および世界についての認識を拡大しつつあるということである。 多くの人は、この意識(*自己の超越)を、ある特別な瞬間だけ体験するかもしれない。 たとえば、音楽に耳を傾けるとか、新しい愛情や友情体験のような、 一時的にせよ、自分たちを、日常の閉ざされた、きまりきった生活のわくから 連れ出すような体験である。 それはあたかも、人が山頂に立ち、 自分の人生を広大な無限の見通しに立って眺めるようなものである。 人はその頂きからの眺望によって、自分の方向感覚を会得する。 また努力が鈍り、インスピレーションもわかず、 ためにしきりとそれが望まれるとき、 何週間も、辛抱強く低い丘の上をとぼとぼと徘徊するための導き手となる 心象地図を描き出すことができる。 というのは、ある瞬間、われわれ自身の偏見によって曇らせられない真実を直視できること、 求めることなき他者への無償の愛に身を捧げうること、 今やりつつあることに没頭することによって生まれるエクスタシーの中で、創造活動のできるという事実 ―こうしたなにかをかいま見たという体験の事実は、 われわれのその後の生活行動すべての基礎になる 意味と方向 を与えてくれる。 たしかに、 この(*第四の)意識段階には、ある種の自己-忘却が含まれている。 しかし、この自己-忘却(self-forgetting)という表現は、 その意識段階を伝えるには不十分である。 もうひとつの意味は、 この意識には人間実存のもっとも自己実現された状態(fulfilled state of human existence)が含まれるということである。 ここで論じている認識は、「求めれて得られる」ものではない。 それは 働きかけの行為のときよりも、むしろ受けて待つ態度や(receptivity)くつろぎの瞬間にしばしばやってくるものである。 にもかかわらず、創造的人間を調べてみてわかることは、 その洞察自体は心のなごんだ瞬間にやってくるかもしれないが、 日ごろ、忍耐と勤勉をもってとり組んできた個々の問題について(*だけ) その洞察を得ているということである。 たとえば人は夢を見ようとして見れるものではない。 しかし、 自分がやっていることに積極的な関心をもち続けているかぎり、 それらの夢からみのり豊かな洞察を得ることができる。 また、自分自身の夢に対する感受性を訓練によって、とぎすますこともできる。 ニーチェは、ゲーテについてこういっている。(*紫:本では傍点) ゲーテは、 自分自身を完成に向かって鍛えあげていった。 そして自分自身を創り出していった。 …こうした自由無碍な魂の持ち主は、 よろこびに満ちた、 まかせきった運命感を持して、 宇宙のただ中に立っている。 完成されたものの中にあっては、 全てのものが回復され、すべてが肯定される、という信念をもっていた。 ゲーテはもはや何ものも否定しない。 ニーチェは、このとき、 ゲーテの人間像を、創造的自己意識の人として描いたのである。 Top リンク Page1of1 [ 10 posts ] 1 新しい記事有り 新しい記事無し 重要トピック 新しい記事有り(人気) 新しい記事無し(人気) 告知トピック 新しい記事有り(ロック) 新しい記事無し(ロック) 新規投稿 不可 返信 不可 自分の記事の編集 不可 自分の記事の削除 不可 投票への参加 不可 Powered by SuwaBB as @BB like phpBB ©2013 atfreaks
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コメント 式神がないけどスペルとイベントはそこそこ揃ってるから、相手に水銀さえいなければ大丈夫。 相手に水銀がなかった。(裏鍵) リプレイ 裏鍵//一家L藍パ「藍汁(香草風味)」//八雲 藍-八雲 紫-パチュリー-橙- kiwamu//借り物デッキ//鈴仙-鈴仙-八意 永琳-八意 永琳- 裏鍵の呪力は今1(+1)です。 賽が投げられて、裏鍵の先攻になった。 kiwamu こいっ! 裏鍵 よっしゃ kiwamu orz 配置:結界「夢と現の呪」 起動:結界「夢と現の呪」 Turn 2 - kiwamu//体力19( 22) 呪力1( 1) 手札7( 6) 山33( 34) スペル0( 1) 裏鍵 よっしゃあああああああああ kiwamu ちぃぃぃぃっ kiwamu そしてないルナ 裏鍵 って kiwamu うがーー 配置:覚神「神代の記憶」 裏鍵 高草だった 起動:覚神「神代の記憶」 Turn 3 - 裏鍵//体力22( 19) 呪力1( 0) 手札6( 6) 山33( 33) スペル1( 1) 手札:式神強化//式神「八雲藍」//式神「八雲藍」//式神「八雲藍+」//式輝「四面楚歌チャーミング」//式神「八雲藍+」// kiwamu だぜ 戦闘:裏鍵 - 結界「夢と現の呪」 vs 覚神「神代の記憶」 - kiwamu 結果:裏鍵 - Dmg 1 2 Dmg - kiwamu 配置:式輝「四面楚歌チャーミング」 起動:結界「夢と現の呪」 Turn 4 - kiwamu//体力17( 21) 呪力2( 0) 手札7( 5) 山32( 33) スペル1( 2) 配置:狂夢「風狂の夢(ドリームワールド)」 裏鍵 高草にこの手札はまずい 起動:覚神「神代の記憶」 Turn 5 - 裏鍵//体力21( 17) 呪力2( 1) 手札6( 6) 山32( 32) スペル2( 2) 手札:式神強化//式神「八雲藍」//式神「八雲藍」//式神「八雲藍+」//式神「八雲藍+」//萃集// 戦闘:裏鍵 - 結界「夢と現の呪」 vs 覚神「神代の記憶」 - kiwamu 結果:裏鍵 - Dmg 1 2 Dmg - kiwamu 起動:結界「夢と現の呪」 配置:式神「八雲藍」 Turn 6 - kiwamu//体力15( 20) 呪力4( 1) 手札7( 5) 山31( 32) スペル2( 3) kiwamu うーん…手札がびみょん 配置:薬符「胡蝶夢丸ナイトメア」 起動:覚神「神代の記憶」 Turn 7 - 裏鍵//体力20( 15) 呪力4( 3) 手札6( 6) 山31( 31) スペル3( 3) 手札:式神強化//式神「八雲藍」//式神「八雲藍+」//式神「八雲藍+」//萃集//神隠し// kiwamu これがルナならなぁ… 戦闘:裏鍵 - 結界「夢と現の呪」 vs 覚神「神代の記憶」 - kiwamu 結果:裏鍵 - Dmg 1 2 Dmg - kiwamu 裏鍵 さて水銀怖い 裏鍵 橙がないか・・・ 配置:式神「八雲藍+」 裏鍵 こっちだ・・・! 裏鍵は萃集を手札から捨てました。 裏鍵は萃集を場に出しました。 kiwamu ふむ… 裏鍵 いおいおおおおおおちkつ kiwamu どっちだよw 裏鍵の呪力が-1 (3) 裏鍵の呪力が-1 (2) 裏鍵の呪力が-1 (1) 起動:結界「夢と現の呪」 Turn 8 - kiwamu//体力13( 19) 呪力7( 0) 手札7( 4) 山30( 31) スペル3( 4) シーン 萃集 kiwamu ルナきたぁぁ 裏鍵 うぎぎ 配置:波符「月面波紋(ルナウェーブ)」 kiwamu でもちょっとおせぇ… 起動:波符「月面波紋(ルナウェーブ)」 シーン:催眠廊下 裏鍵 うぐぅ Turn 9 - 裏鍵//体力19( 13) 呪力4( 3) 手札5( 5) 山30( 30) スペル4( 4) シーン 催眠廊下 手札:式神強化//式神「八雲藍」//式神「八雲藍+」//神隠し//パワーアップ// 戦闘:裏鍵 - 結界「夢と現の呪」 vs 波符「月面波紋(ルナウェーブ)」 - kiwamu 結果:裏鍵 - Dmg 2 2 Dmg - kiwamu 裏鍵 ないと賭けるしかないか・・・ 配置:式神「八雲藍+」 起動:式神「八雲藍」 Turn 10 - kiwamu//体力11( 17) 呪力8( 0) 手札6( 4) 山29( 30) スペル4( 5) シーン 催眠廊下 kiwamu ちっ kiwamu なんか、上手くできてやがるw 裏鍵 まだいける! 配置:波符「赤眼催眠(マインドシェイカー)」 裏鍵 よし! kiwamu イリュージョンこえぇ 裏鍵 ねーよw kiwamu あれって2だっけ? 裏鍵 2 kiwamu そうかw kiwamu じゃ、呪力ほしけりゃルナ安定化 起動:波符「月面波紋(ルナウェーブ)」 kiwamu うーん Ping sent. kiwamuは実験をkiwamuのリーダーにつけました。 kiwamuは山札を丸ごと見ました。 裏鍵 む kiwamuは高草郡をkiwamuのリーダーにつけました。 kiwamuは山札を見るのをやめて、山札をシャッフルしました。 Turn 11 - 裏鍵//体力17( 11) 呪力5( 3) 手札5( 4) 山29( 29) スペル5( 5) シーン 催眠廊下 手札:式神強化//式神「八雲藍」//神隠し//パワーアップ//パワーアップ// イベント(裏鍵):神隠し 裏鍵 高く差 kiwamu うがー kiwamuは高草郡を場から捨札に送りました。 裏鍵は神隠しを場から捨札に送りました。 戦闘:裏鍵 - 式神「八雲藍」 vs 波符「月面波紋(ルナウェーブ)」 - kiwamu 結果:裏鍵 - Dmg 1 4 Dmg - kiwamu 配置:式神「八雲藍」 起動:結界「夢と現の呪」 kiwamu こいつは厳しい kiwamuの呪力が-1 (2) - 実験 Turn 12 - kiwamu//体力7( 16) 呪力8( 1) 手札5( 3) 山27( 29) スペル5( 6) シーン 催眠廊下 kiwamuは危険な薬を裏鍵のリーダーにつけました。 kiwamuは回復薬をkiwamuの波符「月面波紋(ルナウェーブ)」につけました。 裏鍵 む kiwamuの体力が+1 (8) - 回復薬 起動:波符「月面波紋(ルナウェーブ)」 配置:散符「栄華之夢(ルナメガロポリス)」 Turn 13 - 裏鍵//体力16( 8) 呪力7( 0) 手札4( 2) 山28( 27) スペル6( 6) シーン 催眠廊下 手札:式神強化//パワーアップ//パワーアップ//結界「夢と現の呪」// 戦闘:裏鍵 - 結界「夢と現の呪」 vs 波符「月面波紋(ルナウェーブ)」 - kiwamu 結果:裏鍵 - Dmg 2 2 Dmg - kiwamu 配置:結界「夢と現の呪」 裏鍵の体力が-1 (13) - 危険な薬 裏鍵の呪力が+1 (4) - 危険な薬 起動:式神「八雲藍」 Turn 14 - kiwamu//体力6( 13) 呪力7( 4) 手札3( 3) 山26( 28) スペル6( 7) シーン 催眠廊下 裏鍵 しんどい kiwamu こっちもなー 配置:狂夢「風狂の夢(ドリームワールド)」 kiwamuは高草郡をkiwamuのリーダーにつけました。 kiwamuの体力が+1 (7) - 回復薬 起動:波符「月面波紋(ルナウェーブ)」 Turn 15 - 裏鍵//体力13( 7) 呪力11( 3) 手札4( 1) 山27( 26) スペル7( 7) シーン 催眠廊下 手札:式神強化//パワーアップ//パワーアップ//木符「シルフィホルン」// kiwamu ふはは 戦闘:裏鍵 - 式神「八雲藍」 vs 波符「月面波紋(ルナウェーブ)」 - kiwamu イベント(kiwamu):パターン避け イベント(裏鍵):パワーアップ kiwamuはパターン避けを場から捨札に送りました。 裏鍵はパワーアップを場から捨札に送りました。 kiwamu ちぃぃっ 裏鍵 式神来ないけど 裏鍵 真っ青じゃないしOKか 裏鍵 むむ・・・ kiwamu こっち手札ぜろだしなぁ… イベント(裏鍵):式神強化 裏鍵は式神強化を場から捨札に送りました。 結果:裏鍵 - Dmg 1 6 Dmg - kiwamu 配置:木符「シルフィホルン」 裏鍵の体力が-1 (11) - 危険な薬 裏鍵の呪力が+1 (7) - 危険な薬 起動:結界「夢と現の呪」 裏鍵の体力が-1 (10) - 危険な薬 裏鍵の呪力が+1 (5) - 危険な薬 起動:式輝「四面楚歌チャーミング」 裏鍵の体力が-1 (9) - 危険な薬 裏鍵の呪力が+1 (1) - 危険な薬 起動:式神「八雲藍+」 Turn 16 - kiwamu//体力1( 9) 呪力8( 1) 手札1( 1) 山25( 27) スペル7( 8) シーン 催眠廊下 裏鍵 高草 精製 チーム 2回だけか kiwamu 無理だろw 裏鍵 ってか kiwamu 藍+寝かせなきゃどうしようもないし 裏鍵 手札1枚でした(笑) kiwamu 手札なくなるんだぜw 配置:薬符「壺中の大銀河」 kiwamuは薬符「壺中の大銀河」を場から捨札に送りました。 kiwamu 一応藍+ 裏鍵は式神「八雲藍+」を準備状態にしました。 kiwamuの呪力が-1 (7) 裏鍵 これは・・・ 裏鍵 ちゃああああああああああああああああああああああああああああああみんぐ kiwamu ちゃーみんぐがwwww 裏鍵 で決めるフラグ・・・?? kiwamu 他になにがw kiwamu まぁ、こっちに選択肢はあるけどね 裏鍵 他のは避けられるし kiwamu 呪力がもうひとつあればー 裏鍵 メガロポリスじゃ夢現 kiwamu ちくしょうだぜ 裏鍵 ナイトメアならチャーミング kiwamu メガロ立てて夢現に殴られるよりは kiwamu チャーミングで死ぬさw 裏鍵 b kiwamuの体力が+1 (2) - 回復薬 起動:波符「月面波紋(ルナウェーブ)」 起動:薬符「胡蝶夢丸ナイトメア」 Turn 17 - 裏鍵//体力9( 2) 呪力8( 3) 手札2( 0) 山26( 25) スペル8( 7) シーン 催眠廊下 手札:パワーアップ//結界「夢と現の呪」// 戦闘:裏鍵 - 式輝「四面楚歌チャーミング」 vs 薬符「胡蝶夢丸ナイトメア」 - kiwamu 裏鍵 ちゃあああああああああああああああああああみんぐ!!!! 裏鍵の呪力が-1 (7) 裏鍵の呪力が-1 (6) 裏鍵の呪力が-1 (5) kiwamu TUEEEEEEEE 結果:裏鍵 - Dmg 2 3 Dmg - kiwamu 裏鍵 ありがとうございましたー 裏鍵 うはwwwwwwwwww kiwamu とりあえず、先攻とらなきゃ無理w kiwamu ありがとうございましたー 裏鍵 ありがとうございましたー kiwamu うーん 裏鍵 sikasi kiwamu まぁ、これはこっちの立ち回りというより 裏鍵 先手でこれだけあると 裏鍵 あっても kiwamu そっちが完璧すぎたぜ 裏鍵 や、次点です 裏鍵 式神が1枚もありません kiwamu あー、まぁそうなんだが kiwamu 十分だぜw 裏鍵 水銀引かれてたらやばいw kiwamu あー kiwamu というか、初手ルナなら kiwamu もうちょっと夢見れたw 裏鍵 きびしぃ 裏鍵 w 裏鍵 では戻りますか 裏鍵 ノシ kiwamu ノシ
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script src="//ajax.googleapis.com/ajax/libs/jquery/1.9.1/jquery.min.js" /script script function sample(){ var timer; var delay = 100; x=0; var loop = function () { x=x+10; y=x; if(x 490)x=0; paint(); clearTimeout(timer); timer = setTimeout(loop, delay); } loop(); } function paint(){ var sub=new svgpaint(); str=" svg width=\"500\" height=\"500\" "; str=str+sub.line(x,y,500,500,4,"green"); str=str+" /svg "; $("#memo").html(str); } /script script class svgpaint{ chop(strp){ this.strx="\""+strp+"\""; return this.strx; } rect(x1,y1,w1,h1,col){ this.strx=" rect x="+this.chop(x1)+"\" y="+this.chop(y1)+"\" width="+this.chop(w1); this.strx=this.strx+"\" height="+this.chop(h1)+" fill="+this.chop(col)+"/ "; return this.strx; } text(x1,y1,size,strp){ this.strx=" text x="+this.chop(x1)+" y= "+this.chop(y1)+" font-size="+this.chop(size)+" "; this.strx=this.strx+strp; this.strx=this.strx+" /text "; return this.strx; } circle(x1,y1,r,col){ this.strx=" circle cx="+this.chop(x1)+"\" cy="+this.chop(y1)+"\" r="+this.chop(r)+" fill="+this.chop(col)+"/ "; return this.strx; } line(x1,y1,x2,y2,wide,col){ this.strx=" line x1="+this.chop(x1)+" y1="+this.chop(y1)+" x2="+this.chop(x2)+" y2="; this.strx=this.strx+this.chop(y2)+"style= \" stroke "+col+";stroke-width "+wide+"\"/ "; return this.strx; } } /script
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コメント リプレイ コメント kiwamuRX。 USAおいしいです。後手でスペル止るとしんどいのは仕方ないね… リプレイ kiwamu//レミリア1咲夜3//レミリア-十六夜 咲夜-十六夜 咲夜-十六夜 咲夜- hai//うっうー//八雲 紫-レミリア-レミリア-レミリア- kiwamuは山札をシャッフルしました。 賽が投げられて、kiwamuの先攻になった。 haiがデッキ(893be282)をロードし、ニューゲームが始まりました。 haiは山札をシャッフルしました。 hai どぞ kiwamu いきまー kiwamuの呪力が-1 (0) 配置:必殺「ハートブレイク」 Turn 2 - hai//体力21( 18) 呪力1( 0) 手札7( 6) 山33( 34) スペル0( 1) タイマー00 00(00 15) 配置:結界「夢と現の呪」 起動:結界「夢と現の呪」 Turn 3 - kiwamu//体力18( 21) 呪力2( 0) 手札6( 6) 山33( 33) スペル1( 1) タイマー00 15(00 20) 手札:天罰「スターオブダビデ」//咲夜の世界//幻符「殺人ドール」//時間停止//チェックメイト//幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」// 配置:天罰「スターオブダビデ」 起動:天罰「スターオブダビデ」 Turn 4 - hai//体力21( 18) 呪力1( 1) 手札7( 5) 山32( 33) スペル1( 2) タイマー00 20(00 20) 戦闘:hai - 結界「夢と現の呪」 vs 天罰「スターオブダビデ」 - kiwamu 結果:hai - Dmg 1 2 Dmg - kiwamu 配置:「紅色の幻想郷」 Turn 5 - kiwamu//体力16( 20) 呪力4( 1) 手札6( 6) 山32( 32) スペル2( 2) タイマー00 21(00 27) 手札:咲夜の世界//幻符「殺人ドール」//時間停止//チェックメイト//幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」//時符「シルバーアキュート360」// kiwamu うーむ 配置:幻符「殺人ドール」 起動:天罰「スターオブダビデ」 Turn 6 - hai//体力20( 16) 呪力4( 3) 手札7( 5) 山31( 32) スペル2( 3) タイマー00 26(01 00) hai ^^; 起動:結界「夢と現の呪」 Turn 7 - kiwamu//体力16( 20) 呪力6( 3) 手札6( 7) 山31( 31) スペル3( 2) タイマー00 58(00 37) 手札:咲夜の世界//時間停止//チェックメイト//幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」//時符「シルバーアキュート360」//幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」// kiwamu スペルどまい>< 戦闘:kiwamu - 天罰「スターオブダビデ」 vs 結界「夢と現の呪」 - hai 結果:kiwamu - Dmg 1 2 Dmg - hai 配置:幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」 起動:幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」 Turn 8 - hai//体力18( 15) 呪力6( 1) 手札8( 5) 山30( 31) スペル2( 4) タイマー00 37(01 17) 配置:「紅色の幻想郷」 起動:「紅色の幻想郷」 起動:結界「夢と現の呪」 Turn 9 - kiwamu//体力15( 18) 呪力5( 0) 手札6( 7) 山30( 30) スペル4( 3) タイマー01 14(01 04) 手札:咲夜の世界//時間停止//チェックメイト//幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」//時符「シルバーアキュート360」//幻符「殺人ドール」// 戦闘:kiwamu - 幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」 vs 結界「夢と現の呪」 - hai 結果:kiwamu - 回避 3 Dmg - hai 配置:幻符「殺人ドール」 起動:幻符「殺人ドール」 Turn 10 - hai//体力15( 15) 呪力3( 2) 手札8( 5) 山29( 30) スペル3( 5) タイマー01 01(01 36) hai 高速忘れてた>< kiwamu >< イベント(hai):畏怖すべき存在 kiwamu まぁ、事故っすなぁ… hai ミス>< haiは畏怖すべき存在を場から手札に戻しました。 kiwamu おk haiの呪力は今3(+3)です。 hai すんません(´・ω・`) kiwamu いえいえー 配置:天罰「スターオブダビデ」 起動:天罰「スターオブダビデ」 haiは天罰「スターオブダビデ」を準備状態にしました。 起動:結界「夢と現の呪」 Turn 11 - kiwamu//体力15( 15) 呪力6( 2) 手札6( 7) 山29( 29) スペル5( 4) タイマー01 55(01 47) 手札:咲夜の世界//時間停止//チェックメイト//幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」//時符「シルバーアキュート360」//根性避け// 戦闘:kiwamu - 幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」 vs 結界「夢と現の呪」 - hai haiは結界「夢と現の呪」の1番目の特殊能力を使いました。 イベント(kiwamu):根性避け kiwamuは根性避けを場から捨札に送りました。 結果:kiwamu - 回避 3 Dmg - hai 配置:時符「シルバーアキュート360」 Turn 12 - hai//体力12( 15) 呪力4( 3) 手札8( 4) 山28( 29) スペル4( 6) タイマー01 44(02 24) イベント(hai):畏怖すべき存在 hai ドール haiは畏怖すべき存在を場から捨札に送りました。 戦闘:hai - 「紅色の幻想郷」 vs 幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」 - kiwamu 結果:hai - Dmg 3 4 Dmg - kiwamu 起動:結界「夢と現の呪」 Turn 13 - kiwamu//体力11( 9) 呪力9( 0) 手札5( 7) 山28( 28) スペル6( 4) タイマー02 25(02 34) 手札:咲夜の世界//時間停止//チェックメイト//幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」//チェックメイト// 戦闘:kiwamu - 幻符「殺人ドール」 vs 結界「夢と現の呪」 - hai 結果:kiwamu - Dmg 1 3 Dmg - hai 配置:幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」 起動:幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」 起動:幻符「殺人ドール」 Turn 14 - hai//体力6( 10) 呪力5( 1) 手札8( 4) 山27( 28) スペル4( 7) タイマー02 28(02 50) 配置:冥符「紅色の冥界」 起動:結界「夢と現の呪」 起動:天罰「スターオブダビデ」 Turn 15 - kiwamu//体力10( 6) 呪力7( 3) 手札5( 7) 山27( 27) スペル7( 5) タイマー02 43(03 43) 手札:咲夜の世界//時間停止//チェックメイト//チェックメイト//タイムパラドックス// イベント(kiwamu):咲夜の世界 kiwamuは咲夜の世界を場から捨札に送りました。 イベント(kiwamu):タイムパラドックス kiwamuは山札を丸ごと見ました。 kiwamuは幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」を捨て札から起動状態で場に出しました。 kiwamuはタイムパラドックスを場から捨札に送りました。 kiwamuは山札をシャッフルしました。 kiwamuは山札を見るのをやめて、山札をシャッフルしました。 戦闘:kiwamu - 幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」 vs 天罰「スターオブダビデ」 - hai 結果:kiwamu - Dmg 0 3 Dmg - hai 戦闘:kiwamu - 幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」 vs 結界「夢と現の呪」 - hai イベント(hai):運命操作 haiは天罰「スターオブダビデ」を場から捨札に送りました。 haiは運命操作を場から捨札に送りました。 結果:kiwamu - 回避 2 Dmg - hai kiwamuは幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」を場から捨札に送りました。 Turn 16 - hai//体力1( 10) 呪力5( 0) 手札7( 3) 山26( 26) スペル4( 7) タイマー04 06(03 31) 起動:結界「夢と現の呪」 Turn 17 - kiwamu//体力10( 1) 呪力6( 4) 手札4( 7) 山25( 26) スペル7( 4) タイマー03 23(04 25) 手札:時間停止//チェックメイト//チェックメイト//時間停止// 戦闘:kiwamu - 幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」 vs 結界「夢と現の呪」 - hai 結果:kiwamu - 回避 3 Dmg - hai kiwamu ありがとうございましたー hai ありがとうございました~ kiwamu 後手のスペル事故はしゃーないっす>< hai ;; haiは山札を丸ごと見ました。 kiwamu 特にレミは呪力を効率よく打点に変えるキャラだから kiwamu 序盤とまるときついからなー haiは山札をシャッフルしました。 haiは山札を見るのをやめて、山札をシャッフルしました。 hai まあ、高速忘れてたのが痛かったです^^; kiwamu ですな… 誘導弾つけて対処しても呪力きついし… hai どちらにせよきつかったでしょうけれど・・・ kiwamu まぁ、どんまいっす。残り試合お互いがんばりませうー hai スルーもしたくないのに>< hai はいなw kiwamu それでは戻りー hai ありがとうございました~ノシ kiwamu ノシ
https://w.atwiki.jp/samurize/pages/40.html
ImportExportTool.exeを使う Samurizeに付属しているImportExportTool.exeとは、自分の作ったコンフィグを他の人に公開できるようにしたり(=エクスポート)、逆に公開されたコンフィグファイルを自分のSamurizeへ取り込んでくれる(=インポート)便利なツールです。 Samurizeのコンフィグは通常、普通にiniを公開しただけでは他人の環境では動作しない場合が多いため、公開する必要がある場合はこのツールを使うようにしましょう。 パッケージングされたファイルは「スイート(Suite)」と呼ばれ、拡張子は「.sam」となります。.samはSamurizeのインストール時にImportExportTool.exeに対し関連付けされているはずです。 ~ここまでのまとめ~パッケージングされた設定ファイル一式 … 「スイート」,「.sam」 スイートを取り込むこと … 「インポート」 スイートを作ること … 「エクスポート」 スイートをインポート/エクスポートするためのツール … 「ImportExportTool.exe」 インポートしよう スイートをインポートするのは非常に簡単です。 1. .samファイルをダブルクリックします。すると、ImportExportTool.exeのインポート画面が現れるでしょう。 2. 「ファイルの上書き時に警告する」「readmeファイルを表示する」にチェックが入っていることを確認します。 3. 「テストモード」のチェックが外れていることを確認します。 4. 「インポート」ボタンを押します。 5. インポートが完了したらreadmeに従い、設定等を済ませます。 6. Client.exeを起動して、インポートされたiniを表示させれば完了です。 簡単ですね(´ー`) 特に教えることもありません。強いて一つ注意するならば、ファイルの上書きには気をつけましょう。例えば既存のスクリプトが上書きされてしまうと、今まで使っていたiniが上手く動作しなくなったりする可能性があるでしょう。 エクスポートしよう 通常、エクスポートするには以下の手順を踏みます。 1. ImportExportTool.exeを起動する 2. 「スイート名」に名前を入れる 3. Readmeファイルを指定する 4. 「設定ファイル」→「追加」でパッケージングしたいiniを選択 5. 「パフォーマンスメーターと…」、「標準的でないフォントを…」の各項にチェック 6. 「エクスポート」ボタンを押す これで一発、上手く行く…はずなのですが、そうも行きません。エクスポート機能は完成度が低く、これだけではダメなケースが多発します。そこで、ここでは自分で.samファイルを作る方法を学びましょう。 .samファイルを自分で作ろう 執筆中さ(´ー`) バグについて 任意のメータ→「表示タイプ 画像」→「パス」欄に記入した画像ファイルはパッケージングされません。→「パス」欄は使わず、「デフォルト画像」を使用しましょう。 サブフォルダに格納されているiniも全て...\Samurize\Configs以下に展開されます。どうしてもサブフォルダに展開の必要がある場合は、自分でSettings.iniを作成し、パッケージングします。
https://w.atwiki.jp/vocaloidenglishlyric/pages/1099.html
【Tags Miku tS ←P O】 Original Music title -オトアメ-音雨 English music title -Sound Rain- Sound Rain Romaji music title -Oto Ame- Oto Ame Music Lyrics written, Voice edited by ←P Music arranged by ←P Singer(s) 初音ミク (Hatsune Miku) Click here for the original Japanese Lyrics Romaji lyrics (transliterated by motokokusanagi2009): umaku warau koto nante dekiru hazumo nakatta naki warai kimi no koe todokanai boku no koe itsumo no yōni nemuru kimi wa mō okiru koto wa nai gozen yoji shimesu hari mō ugokanai ah tsui ni kita nda na kakugo wa shiteta noni nā taeteta namida ga afurete yamanai ya shiroi shiroi kono heya wa omode iro somari masu nari yamanai amaoto yande otoame kimi ga saigo ni kureta taisetsu na kotoba "waratte?" ga ima mo atama kara hanare nai nuno de ōwareru kimi no saigo no hyōjō wa yasuraka na egao yokei kanashī moratte bakari mada nanimo shite nai yo? nē me o akete yo ai takute mō ae nakute mada dokoka ni waratteru kimi ga isō na ki ga shite sagashite miru kedo doko nimo inai hontō ni sayonara nan dane sora wa namida iro kimi wa mō hako no naka kazaru takusan no hana a mō icchau nda ne kimi sō kuroi kuruma yura yura yureru shanai fuwa fuwa noboru kemuri za~ za~ amaoto shiro kuro shikai shihai chiku chiku kizamu hari ai mai kimi no koe za~ za~ otoame kimi ga saigo ni kureta taisetsu na kotoba "waratte?" ano hi umaku warae nakatta kara motto chīsana hako ni natte kaette kita kimi ni "okaeri" warai nagara itte yaru nda ganbatta yone dare yori tsurakatta yone mō yasunde īkara wakatteta me o somuke teta "saigo no toki mo egao de iyō" nante yakusoku mo hatasu hi ga konai yōnitte tsuyoku negatte tanda ai takute demo ae nakute ichiban tsurai hazu no kimi wa egao de boku ni "waratte? socchi no hō ga suteki dayo" tte nando mo itta dakara rokujū nen tachi mata au hi made kimi no mae dewa kanashī kao wa shinai yo waratte mukō de atta sono toki niwa kimi no suki na kono egao o miseru yo []
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このページはhttp //bb2.atbb.jp/kusamura/topic/65942からの引用です kusamura(叢)フォーラム @BBの閉鎖(2015.5.31)に伴い、 @WIKIへ移動します。(作業中)http //www9.atwiki.jp/kusamura/ ログインユーザ登録 メンバーリストグループ設定 トップ»ロロ・メイ著作集1 「失われし自我をもとめて」(1953)» 第1部_第2章 現代の病根 「重要な価値の喪失」 All times are JST(+900) ロロ・メイ著作集1 「失われし自我をもとめて」(1953) Page1of1 [ 19 posts ] 1 投稿者 メッセージ kusamura 題名 第1部_第2章 現代の病根 「重要な価値の喪失」 時間 2011-11-25 20 32 39 no rank Joined Posts 第2章 現代の病根 (*前文) 問題解決の第一歩は、なによりその問題のよってきたるべき原因を理解することである。 個人のみならず国家それ自体がかくも混乱と動揺の渦に投げ込まれている事態をみるに、 一体われわれ西欧世界に何が起こっているのか。 まず歴史的な背景を一べつするとともに、現代を不安と空虚の時代にするような、 いかなる根源的変動が生じつつあるのか。これを考えてみたい。 現代社会における中心的価値の喪失(1)(*個人間競争) 重要なことは、一つの生き方がまさに瀕死の状態にあり、 もうひとつの生き方がいま生まれつつあるといった、そういう時代、 そういう歴史の一時点にわれわれが生きているということである。ルネッサンス以来、現代人には二つの中心的価値があった。 一つは、個人的競争という価値であった。 経済的な私利私欲を追求し、金持ちになることをめざして働けば働くほど その人間はその社会の物質的進歩にそれだけますます貢献していることになるという 信念があった。 経済におけるこの有名な自由放任(laissez-faire)論は、数世紀にわたって十分その任を果たしてきた。 相手なり、自分なりが、その取り引きの増大、向上の拡大によって富の蓄積に努力することは、 結果的には、その社会のため、より多くの物質財を生産することになる。 このような考えが、現代産業主義や資本主義の初期および発達期においては真実性をもっていた。 企業競争の追求は、その全盛期にあってはすばらしい勇気ある理念であった。しかし十九世紀ないし二十世紀になると、状況はかなり変化する。 大企業と独占資本主義の支配する今日、 どれだけの人間が「個人競争者」として成功を克ちとることができようか。 医師、精神療法家、若干の農民にみられるように、 なお自らの力で経済的ボスになり得る余裕をもてる集団はほんのわずかである。 しかし彼らでさえ、物質の変動、市場の変化に従う点では例外ではない。 大多数の労働者、資本家たち、専門的な職業人、ないし実業家でさえ、 それぞれの労働組合なり、大企業なり、大学機構のごとき 広範囲の集団に適合してゆかねばならない。 さもないと、彼らは経済的に生き残っていくことが全く不可能になる。 われわれはたえず他人を追い抜くよう努力せよと教えられてきた。 しかし現実には、今日われわれの成功は、 自分の職場仲間とどれほどうまく一緒に仕事ができるようになるかに かかっている。 今日では、一人一人のギャングでさえ、単独では成功がおぼつかないといわれる。 まずその詐欺なりゆすりの仲間に加入しなければならない。個人的努力やイニシヤティブをとることそれ自体になにか問題があるといっているのではない。 事実、本書でとくに論じたいと思っている点をあげると、 各人、独自の能力や創造性を再発見することが必要であり、 その貴重な能力が、適合という集団主義的計略の中へ融解されてしまうことなく、 社会のためになるような仕事として活用されることである。 科学そのほかの進歩によって、世界的にもまた国内的にも、 いっそう緊密な相互依存関係におかれている20世紀において、 いまや個人主義は、、 各自他人におかまいなく、われがちに私利を追求する という形とは別の形態をとらなければならない。 Top リンク kusamura 題名 #2 時間 2011-11-25 20 44 53 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 現代社会における中心的価値の喪失(2)(*個人主義的競争) 2世紀前なら、辺境の森林から伐り拓くべき農場をもつなり、 前世紀にあっては、新しい事業に着手するためのささやかな資本をもっておりさえすれば、 各自、独力で(each man for himself)、 という哲学が、各自にとってもっともよいことであったし、 また社会にたいしても最善の結果を生んだ。 しかし、社長の婦人連すら、パターン(*社長夫人とはどうあるべきか)への適・不適が審査される時代に、 かかる競争的個人主義ははたしていかなる効果をもっているのだろうか。 個人的な私利の追求は、結局、平等な社会福祉を強調せず、 もはや自動的に社会の善に貢献することにはならない。 この種の個人主義的競争にあっては、 取り引きの上で、相手の失敗はそのままこちらの成功に通じる。 お互いに成功のはしごをよじ登る途上にあるため、相手の失脚は、 それだけこちらを一段せりあげることになる。 こうした個人競争は、自然、隣人を自己の潜在的な敵にしてしまい、 人間関係に、相互の敵意や憤懣を生み、 不安をいやがうえにも増大し、 相互の孤立をまぬがれない。 この敵意がこの2~30年間に、ますます表面化する傾向にある。 そのため、その敵意をカバーするため、さまざまなくふうが試みられてきた。 たとえば、いろんな種類の奉仕機関に加入すること、 (それには、ロータリークラブから、1920年、30年代に生まれたオプティミスト・クラブがあげられる) また、 みんなから好感をもたれるような仲間づくりがある。 しかしその内的矛盾は、遅かれ早かれ爆発する運命にある。 このことは、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』の主人公 ウイリー・ロマンの生き方の中に、見事に、しかも悲劇的に描きだされている。 ウイリー・ロマンが教えられ、また自分の息子たちに教えてきたことは 仲間をのりこえ、金持ちになることこそわれわれの目標であり、 これにはまずイニシヤティブをとる必要がある、 という教訓である。 息子の少年たちがボールや材木を盗むとき、ウイリーは口さきでは叱るが、 息子たちが大胆不敵な奴だといういことに満足しており、 「おそらくコーチは、その進取の気性をほめてくれることだろう」と述べる。 ウイリーの友だちは、彼に、刑務所が「大胆不敵な仲間」の一杯いるところだと忠告してくれた。 しかしウイリーは、「株式取引所もそうなんだ」と答えている。 ウイリーは、二、三十年前のたいていの人がそうであったように、 「よく好かれる」ことによって、 自分のうちにある競争意識をカバーしようとしている。 一老人として、会社の変わりゆく政策によって、石炭殻入れに投げ込まれるように 自分が見捨てられたとき、彼は途方にくれ、 「しかし、自分は一番好かれていたんだのに」と繰り返すだけであった。 自分の教えられてきたことがなぜ役に立たないのかという価値の矛盾にとまどう彼は、 ついに自殺という極限にまで自己を追い込んでしまう。 墓場で息子の一人はいう。 「おやじはなんでも一番になろうという、結構な夢をみていた」と。 しかしもうひとりの息子は、 かかる価値の変動からくる矛盾を正確に見ぬいている。そして 「父は自分がいったいどういう人間であるかすらわからなかったのです」という。 Top kusamura 題名 #3 時間 2011-11-26 14 44 06 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 現代社会における中心的価値の喪失(3)(*理性への信頼の喪失) 今日、われわれを支配している第二の中心的信念は、人間個々のもつ理性への信頼 であった。 先に論じた個人的競争という価値に対する信念と同様、ルネッサンス期に迎え入れられたこの信念は、 17世紀啓蒙時代の哲学的探求となって結実することになる。 しかもこれは、 科学の発達および普通教育運動に対する高貴な人権宣言としての役を果たした。 現代のはじまりである最初の何世紀かにあっては、個々人の理性は、また 「普遍的理性」(universal reason)を意味した。 万人がそれによって幸福に暮らせる普遍原理 を発見することこそ、 知性人の立ち向かうべき目標であった。 しかし再び、20世紀になって顕著な変化があらわれてきた。 心理学的に、理性は「感情」と「意志」から分離されるようになってきた。 デカルトは、かの有名な、肉体と精神の二分法というかたちでパーソナリティを分割した。 (この肉体と精神という問題は、本書全体をつらぬく課題でもある) この二分法の結果19世紀から20世紀の初頭にかけて、理性こそあらゆる問題に答えうるものであり、意志力こそ理性を効果あらしめるもの と考えられた。 また感情は、一般に妨害するものであるが、しかも十分抑圧できるものであった。 これは一体どういうことであろうか。 われわれはそこにパーソナリティ分割のために利用された理性を見いだす (今日これは、知性主義的合理、と変形されている)。 その結果、フロイドがうまく記述しているように、 本能、自我、超自我間の抑圧、葛藤、という問題がでてくるのである。 17世紀にスピノザが理性ということばを使ったとき、それは、精神が、 感情と倫理的目標、および「全人間性」のもつ諸相とを結びつける場 としての人生態度をしめした。 今日、その言葉がもちいられる時には、 ほとんど常に、パーソナリティの分割がほのめかされている。 すなわち 「自分は理性に従うべきか、 あるいは、 感性的情熱や欲求に道をゆずるべきか、 それとも 自己の倫理的義務に忠実であるべきか」 と。 Top kusamura 題名 #4 時間 2011-11-26 17 52 03 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 現代社会における中心的価値の喪失(4)(*理想的価値) いま述べてきたこの 個人的競争 や 理性への信念 は、 現実に、今日の西欧文化の発展を指導してきた信念である。 しかし、その信念はかならずしも“理想的価値”ではない。 多くの人によって“理想的なものとしてうけいれられている価値は「汝の隣人を愛せ」とか、社会への奉仕とか、 かかる教訓からなる 倫理的人間主義 に結びつくヘブライ的キリスト教的伝統のもつ価値であった。 これらの理想的価値は、 個人的競争と理性の強調と並んで、学校や教会で教えられてきた。 この二組の価値の、 一方(*理想的価値)は 古代パレスチナ、ギリシアの倫理的、宗教的伝統へその源を何世紀も遡るものであり 他方(*個人主義・競争原理・理性尊重)はルネッサンスに生まれたものであるあるが、 両者は、ある程度からみ会っている。 たとえばプロテスタンティズムは、 ルネッサンスにはじまる文化革命のもつ宗教的側面であるが、 これは自らの力で宗教的真理を見いだそうという各自の権利や力を強調することで 新しい個人主義を表現している。この数世紀間に、両パターン間の争いは、かなりよく調整されてきた。 人間同胞(brotherhood)の理想は、かなりの程度、経済的競争によって促進された。 科学的進歩、新しい向上建設、産業機構のさらにめまぐるしい発展、これらは、 人間の物質的繁栄、身体的健康をおおいに増進してくれた。 そして、歴史上、はじめて、現代の産業や科学は 地球上から飢餓や物質的欠乏を一掃することの可能なほど大量に生産することができるようになった。 科学と競争的勤勉さが、人類を 普遍的な同胞愛という倫理的理想へさらに近づけつつあると主張しても過言ではない。 しかし過去2~30年間のうちにはっきりしてきたことは、両者の結合は矛盾にみちていたということである。 今日、 学校で人一番よい成績をとることであれ、 日曜学校で人気を得るため主役を演ずることであれ、 また、経済的に成功して救いの確証をつかむことであれ、他人に一歩先んずることが強調されている、という事実は、 隣人の愛の可能性を大いに妨げるものである。 しかも、このように、ほかにぬきんずるような風潮は 同じ家族内、兄弟間で、また夫婦間の愛情をさえ、妨げることになる。 現代社会に胚胎する矛盾を示すところの終局的な爆発としては ファシズム的全体主義があげられる。 そこではヒューマニズムやヘブライ・キリスト教的価値、 とくに人格の尊厳というようなんものは、 バーバーリズムの巨大な波の前に、ただ軽べつの目を投げかけられるだけである。 Top kusamura 題名 #5 時間 2011-11-26 18 29 15 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 現代社会における中心的価値の喪失(5)(*バラバラの人間) 読者の中には、 「なぜ、経済的な努力が、同胞と反目することになるのか。 なぜ、理性は、感情と相反する必要があるのか」 と、お考えの方もあると思う。 そのとおりである。しかし今日のような変動期の特色はこまかにみてみると、 あらゆる人が誤った問いを尋ねている、ということである。 旧来の目標、規範、原理は、なおわれわれの心情や「慣習」の中に生きているのに、 それらがもはや現実に適合しなくなっている、ということである。 したがって 大部分の人が、決して正しい解答のみつかりもしない問題を問い続け、 たえずフラストレーション下にある。 あるいは、人々は矛盾する答えの混乱のなかに迷い込んでしまう。 教室にいるときは「理性」が働き、 恋人を訪ねるときには「感情」が働き、 試験勉強のときには「意志」が働き、 葬儀や復活祭の日には「宗教的義務」が働くことになる。 このような価値と目標の区分化は、パーソナリティの統一を破壊することになる。 そして 内も外も「バラバラ」の人間(the parson in pieces)は、 すすむべき方向を知らない。 19世紀から20世紀初頭に生きた何人かのすぐれた人物は、 パーソナリティに分裂が起こりつつある事実を感知していた。 文学におけるイプセンはそこに起こりつつある事態を認識し、 芸術家のセザンヌと、人間性を科学的に研究しようとしたフロイドもそれを実感していた。 これらの人物はいずれも、われわれに新らしい生の統一の必要なことを力説している。 イプセンは『人形の家』という劇の中で、次のことを示している。 すなわち 19世紀のよき銀行家のように、もし夫が仕事と家族を別々に区別して、勤め場所へでかけ、 妻を人形のように扱うならば、その家はつぶれてしまう。 セザンヌは、19世紀の人工的でセンチメンタルな芸術を攻撃し、 芸術は生命のいつわりない現実(honest reality)を扱うべきこと、さらに 美は小ぎれいさよりも統合(integrity)をめざすものである旨を主張した。 フロイドは、人間がその感情を抑圧し、性や怒りがあたかも存在しないかのように振る舞うなら その人はやがて神経症になる旨を指摘している。 かくてフロイドは、 抑圧されてきたパーソナリティの、より深い層にある無意識的「非合理」なレベルをあらわにし、 人間が、考え、感じ、意志する、統一体になるのに役立つような技術を達成した。 今日おおくの人は彼らを現代の予言者であるとみているほどである。 たしかに、それぞれの貢献は、おそらく、それぞれの分野でもっとも重要なものである。 しかし彼らはある面で、新しい時代の最初の人というより、 旧い時代の最後の傑出者ではなかったか。 というのは彼らの新しいテクニックがいかに重要なもの、不朽のものであるにせよ、 彼らもやはり時代の児で、自己の生きた時代の目標に沿って進んでいた。 彼らはうつろな時代のもうひとつ前の時代に生きていた。 さて、あいにく、20世紀なかばの真の予言者たちは、 S・キルケゴール、F・ニーチェ、F・カフカのように思える。 ここで私があいにく(unfortunately)といっているのは、 われわれがやろうとしていることが難しいものであるということを意味する。 これらの人は、いずれも、今日、価値の破壊が起こっていること、 すなわち20世紀のわれわれを飲み込んでしまう孤独、空虚、不安、を予知していた。 彼らは、われわれが、過去からの目標に則ってはゆけないことを知っていた。 この三人は、各自がたいへんな力と洞察をもって、 ほとんどあらゆる知性人の目下直面している個々のジレンマを予知していた。 [/list u] Top kusamura 題名 #6 時間 2011-11-26 19 26 44 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 現代社会における中心的価値の喪失(6) (*ニーチェ「神は死んだ」) ニーチェは、 19世紀においては、科学が製造工場になりつつあることを宣言し、 倫理や自己理解の面で、それにふさわしい進歩もないのに、 技術面での偉大な進歩はニヒリズムへ進む恐れあり、と述べている。 彼は20世紀にいかなる事態が起こるかについて、 予言的な警告を発し、「神の死」をめぐる譬え話を書いている。 それは 「神はどこにいるのか」と叫びながら村の広場へかけこんでゆく狂人についての 忘れがたい物語である。 回りの人々は神を信じない。すなわち彼らは笑い、そして言う。 神はおそらく航海に出てしまったのだ、あるいは、ほかへ移住してしまったのだ、と。 そのとき、その狂人は叫んだ。 「神はいずこへ行くのだ」と。 私は君に告げよう。彼(神)を殺してしまったのはわれわれだ。君と僕だ。 ……どのようにして、こんなことをやってしまったのか。…… 全地面を一掃するために、スポンジをわれわれに与えたのはだれか。 われわれがこの地球をその太陽から引き離したとき、われわれは何をやったのか。 ……いま、われわれはいずれの方向へ動いているのか。われわれは一切の恒星から 遠ざかってゆくのか。われわれはこの瞬間にも落ちつつあるのではないか。うしろへ わきへ、まえへ、そしてあらゆる方向へ、 しかも上下しながら、無限の虚無(naught)を通るとき、われわれは道を踏みあやまらないだろうか。 うつろな空間の微風を感じないか。いよいよ寒気を覚えるではないか。もうこれから ずっと夜という夜はやってこないのか。 …神は死んだ。神は死んだままだ。……神を殺したのはわれわれだ。… ここで狂人は沈黙し、再び、聞き入る人々へに目を向けた。 人々も黙って彼を眺めた。 ……「自分はあまりにも早く来過ぎた。」そのとき彼は言った。… 「この恐るべき事態はまだその途上にある」と。 (*ニーチェ『悦ばしき知識』) ニーチェは、 伝統的な神信仰への復帰を呼びかけてはいない。 しかし二ーチェは 社会がその価値の核心を失うとき、何が起こるかを教えている。 彼の予言の真実性は、20世紀半ばの大虐殺、とくに ユダヤ人虐殺(pogrom)や暴政の打ち続く恐怖の中に示されている。 大変な事態が起こりつつあった。 現代の人道主義的、ヘブライ・キリスト教的価値がかくも軽べつされているとき、 われわれの上におおいかぶさってきたのはバーバーリズムの暗い宵闇であった。 その解決法は、もろもろの価値の中心となるものを新たに発見することである とニーチェはいう。 それは彼が、すべての価値の再評価(revaluation)ないし、 価値の転換(transvaluation)とよぶところのものである。 「すべての価値の再評価」 これこそ 人類による究極的な自己省察(self-examination)行為のための私の処方である と彼は主張する。 いわば、近代を形成する過去数世紀にわたり、 統合の中心であった価値や目標が、もはや信服力をもたなくなったということである。 われわれの目標を建設的に選び出せるような、 そして、どの道を進むべきかを知ることができない苦しいとまどいや不安、 それを克服できるような新しい中心はまだみつかっていない。 *晩年のニーチェ映像:youtube Top kusamura 題名 #7 時間 2011-11-26 20 26 23 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 自我感の喪失 (1) (*喪失の歴史) 現代のもつ、もう一つの病根は、人間存在としての価値観や威厳の喪失である。 このことを予言するかのようにニーチェは述べている。 個人は群衆の中に呑み込まれており、われわれは 「奴隷道徳」(slave morality)によって生きている マルクスもまた、現代人は「非人間化」(de-humanized)の状況にあると宣言することによって これを予告している。 カフカは、その驚くべきストーリーの中で、 人間がいか、人間としての自己同一性を失い得るものであるかを示している。 しかしこの自我感(*自己価値感)の喪失は一夜のうちに起こったものではない。 1920年代に生きた人間は、 自我(self=*自己)というものを表面的に、 しかも過度に単純化して考える傾向が次第に高まりつつある事実を想起できる。 当時「自己表現」(self-expression)ということは、 自分の頭にふと思いうかんだことを何でもやってしまうことだ、と考えられていた。 自我とは何かでたらめの衝動とまるで同義であるかのようにとられ、 またその決断の下し方も、当人の人生哲学にもとづくだけでなく、 しばしば食事を急いだためにの消化不良ともとれる気まぐれによって決められるかのようである。 「なんじ自身であれ」(to be yourself)ということは、 好みの赴くままに、したいようにするという、最低の共通分母を満足させるための 言い訳になっている。 「自分自身を知る」(to know one s self)ということは、 ことさら難しいことだとは考えられていない。 パーソナリティの問題は、よりよく「適応する」ことで比較的容易に解決できた。 これらの見解はワトソン一派の行動主義のように、 過度に単純化された心理学によってさらに助長された。 犬の唾液が食事を知らせるベルの音だけで分泌するのと本質的に違わないテクニックによって 子どもを、恐怖、迷信、そのほかの問題からのがれるよう条件づけできるといって、 われわれはよろこんだ。 人間状況についての、このような皮相的見解は、 経済的進歩の自動性にたいする信仰によってさらに強化された。 われわれはすべて、たいした苦労や苦悩なしに、 ますます金持ちになれるという信念がそこに支配していた。 しかもこれらの考え方は、 1920年代にさかえた宗教的道徳主義(religious moralism)の中に、 その決定的な味方を得ることとなった。 その宗教的道徳主義というのは、日曜学校の域を出るものでなく、 歴史上の倫理的、宗教的指導者たちにみられる深い洞察よりもむしろ 自己暗示説(Coueism)や盲目的楽天主義(Pollyannaism)に近いものであった。 事実、当時およそものを書くほどの人はすべて、 人間についての同じくあまりにも単純化された見解を抱いていた。バートランド・ラッセルは、(今日、彼の見解は当時とは全く異なっているとは思うが)1920年代にはこう述べている。 ―科学のかくも急速な進歩は、やがてわれわれに、 その人間に好みのままのいかなる気質でも与え得るようになろう、と。 すなわち 怒りっぽい気質にせよ、あるいは臆病にせよ、性的に強い人、弱い人も、 ただ注射によって思いのままになるという夢であった。 この種、押しボタン式心理学を、オルダス・ハックスリーは、 その著『勇敢な新世界』の中でしきりに皮肉っている。 1920年代は、人間が自己の力におおいに確信を抱いた時代のようにみえるが、事実はその反対であった。 人々が信をおいたのは、技術やちょっとした機械装置(ガジェット)であって、人間性そのものではなかった。 実際、 あまりに単純かされた機械的な自己感は、その根本において 人格の尊重、その複雑な機構、またその自由にたいする信頼の欠除を示している。 1920年代からこちら、この20年間に、 人間の力や人格の尊厳に対する不信感がますます表面化してきた。 それは、個我(indibidual self)がとるに足りない存在に見え、 個人の選択行為など問題にならないような多くの具体的な場合が つぎつぎと立ちあられてきたということである。 大不況のごとき、また 全体主義的な動きや、制御しがたい経済変動に直面して、 われわれは、 人間としての卑小感、微力感をいやというほど味わされ、 個我は、大洋の波浪に押し流される砂粒にも似て、非力な存在と化してしまった。 Top kusamura 題名 #8 時間 2011-11-26 22 15 12 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 自我感の喪失 (2) (*無力な自分1 希薄な自己感) 今日、たいていの人は、自己存在としての自分が、いかにとるに足らぬもの、 また非力なものであるかを思い知らされる材料にこと欠かない。現代の巨大な経済的、政治的、社会的変動に直面して、 いかに対処すればよいのか、われわれはとまどう。 政治の世界はいうまでもなく、宗教や科学の世界にあっても、 権威主義がじょじょに受け入れられつつある。 それは とくに、多くの人が明確に権威を信じているためではなく、 一人一人が無力で、不安な自分を感じとっているからである。 考えてみると、 政治的な指導者に従うか、―あるいはアメリカにみられるように―慣習、世論、社会的要望に従う以外、われわれは一体どんなことができるのか。 このような「推論」には、何かが忘れられていないだろうか。 それは、人間の価値にたいする信念の喪失が、 ある程度、社会的政治的大衆運動の原因をなしている という事実である。 さらに詳しくいうと、 自我(*自己価値観)の喪失および集団主義運動の発生は、 ともに現代社会の底辺にある同じ歴史的変動の生起を示すものである。 それゆえ、われわれは両側面に向かって戦いを挑まなければならない。 すなわち全体主義およびそのほか、非人間化の傾向に反抗するとともに、 他方では、 人間の価値や人格の尊重を自ら感じとり、かつそれらに対する信念を回復する必要がある。 現代社会における自我(*自己)感の喪失(lose of the sence of self)という驚くべき光景は、 現代フランス作家アルベルト・カミュの『異邦人』の中に如実にしめされている。 それはどの点からしても例外者ではなく、ありふれたフランス人の物語である。 事実、彼は「平均的」現代人とよんでよい。 彼は母親の死を経験し、仕事につき、日常生活のきまりをせっせとつとめ、 恋愛事件をおこし、性的経験をもった。 しかしこれらの経験には、すべて自分の側に、何ら明白な決意や認識がない。 彼は後になって、ある男を射殺することになる。 本人自身の心の中では、その発砲が偶然だったのか、それとも 正当防衛のためであったのかさえはっきりしない。 彼は殺人罪に問われ、恐ろしいまでの非現実感をもったまま、 あたかも、万事が偶然彼のうえにふりかかってきたことのごとく 処刑されてしまう。 すなわち、彼は決して自分自身で行動しているのではなかった。 この本には、カフカの他の物語の中にみられる同じ不決断のもやに似た 挫折感や心的打撃のあいまいな影がただよっている。 まるで万事が夢の中で起こっているようで、 そこには、外界なり、自分のやっていることが、現実には、 自分とはまったくかかわり合いもなく起こっているふうに受けとっている人間がいる。 外からみれば、悲劇的事件であるに違いないが、 彼には、自己自身についての認識がないため、勇気とか絶望といったものさえ持ち合わさない人間である。 処刑をまっている最後の時になって彼は ジョージ・ハーバートのことばにあるような体験をほのかに感じとっている。 あちこち、ぶちあたりながら 波のまにまに漂うこわれた船 神さま、私は私自身で決めます 全くというのではないが、この実感が貫き通されるには、まだほとんど十分な自我認識がない。 この小説には ほんとうに自分自身にとって『異邦人』である現代人特有の、 何かつきまとわれているような、 正体の知れぬおそろしさにおののく者の姿が描かれている。 Top kusamura 題名 #9 時間 2011-11-26 22 17 24 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 自我感の喪失 (3) (*無力な自分2:受動性) 自己の無力感を示す例は、現代社会のわれわれのまわりにころがっている。 実際、それは珍しいことではなく日常化しているため、一般に われわれはそれらをそういうものとして受けとっている。 たとえば 今日ラジオ番組の最後に「ラジオ聞いてくれてありがとう」(thanks for listening)と きまってつけ加えるが、 聞き手を楽しませ、また一応価値のある何かを与えているほうの人間が、それを聞いている聴取者に なぜ感謝しなければならないのか。 これは、 お客である聞き手の気まぐれによって、その行為に価値が与えられたり、 またその価値が剥奪されることを示している。ラジオの例ではその顧客は、いわば公衆という名の皇族であった。 ラジオアナウンサーのことばに似たものは、宮廷道化師にみられる。 宮廷道化師は、演技を披露するだけでなく、同時に、顧客である皇族に対し 楽しんで下さるよう懇願しなければならなかった。 この特質は、現代を貫流している一つの態度を示すものである。 現代、多くの人々は、自己の行為の価値を、その行為自体に基づいて判断するのではなく、 その行為がいかに受けいれられるかという、その受けいれられ方によって判断するのである。 それは まるで、聴衆を見るまでは、常に自己の判断を保留しなければならないかのようである。 その行為が向けられているなり、その人のためにその行為がなされるといった、 その行為の受け手のほうが、その行為者自身よりも、その効果を左右できる立場にいる。 このように、 われわれは、主体的自己として生き、かつ行為する人間であるよりも、 むしろ生活の「演技者」(perfomers)であろうとしている。 性の領域から一例をあげると 男の方で、婦人に「どうぞ満足してください」と懇願する態度で交接しているように見える。 これはしばしば現代の男性に、一般に考えられている以上に、広範囲に現存する態度である。 しかもこの態度が、 人間関係の場に、いかに影響しているかを見るため、次のことを付け加えてもよい。 もしその男性の関心が、もっぱら、婦人を満足させることにありとすれば、 その人間の男性らしい率直な態度や、活動的な力は その対人関係の場にはいってこないということである。 しかも多くの場合、よくみてみると、 これが婦人の方で完全な満足が得られない理由にもなっているということである。 (*この時期アメリカではキンゼイ報告によって性生活の広範囲なアンケート結果がもたらされていた)ジゴロ(gigolo=男めかけ)のテクニックがいかに上手であろうとも、 それを実際の情熱の代わりに選ぶという婦人があるだろうか。 ジゴロや宮廷道化師の態度の本領は、 人間の力や価値は、その人の積極的行為によってきまるのではなく、 もっぱら受け身に立つことにあるという見方である。 Top kusamura 題名 #10 時間 2011-11-26 22 36 32 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 自我感の喪失 (4) (*ユーモア) 今日いかに自己感の分解がおこっているかを知るもう一つの例は、ユーモアと笑いである。 ユーモアの感覚が人間の自己感といかに密接に結びついているかは、一般に知られていない。 普通、ユーモアには、自己感を保持する機能がある。客観的状況に呑みこまれてしまわない主体としての自己を体験できるというのは、 人間独自の能力であって、 ユーモアはその能力の一表現である。 それは、自己とその問題との「距離」を認識する健康な方法であり、 局外にあって、しかもある見通しをもって問題を見ることのできる一方法である。人は不安恐慌にあるとき笑えない。 というのは、 そのときには、人はその場の状況に呑み込まれており、主体としての自己と、自己の回りの客観的世界との間の区別を失ってしまうからである。 さらに、人は笑えるかぎり、不安や恐慌に支配されることは全くない。 ことわざにいう 「危険に際し、笑えることは、勇気のあるしるしである」 ということばの真実味もでてくる。 精神病が疑われるような人の場合、その当人にユーモアの感覚が保たれているかぎり、 すなわち、笑うことができるかぎり、あるいは、ある人が述べているように 「なんと自分は気が狂った奴だったんだろう」という気持で自分自身が眺められるかぎり、 彼は、自己意識としての自己同一性を保持していることになる。 われわれだって、神経症であろうとなかろうと、自己の心理的問題に洞察が得られたとき、 普通の自発的反応は、かすかに笑うことである。 いわゆる「ははぁー」という納得了解の声である。 客観界で活動する主体としての自分自身について、新しい評価が生まれるからである。 さて、一般にユーモアが、人間にたいし果たしている機能をみてきたので、 次は現代社会においてユーモアや笑いに対する一般的な態度がどんなものであるかみてみよう。 そのもっとも顕著な事実は、笑いが一個の商品化 されているということである。 われわれは 「一個の笑い」について語るなり、 笑いがあたかも一ダースのオレンジやリンゴのごとく計量化しうるものとして、 映画やラジオのプログラムには計算機か数量登録機によってでてくる「しかじかの数の笑い」がある などと考える。 たしかに若干の例外はある。まれな例ではあるが、E・B・ホワイトの著作をあげよう。 これをみると、ユーモアというものが、いかに読者の人間としての価値観を高め、 人格の尊厳を認識させてくれるものであるかがわかる。 また回避しがたい問題に遭遇したとき、ユーモアがいかに読者の目を盲目にせず、 現実を直視させてくれるものであるかがわかる。 しかし一般に、今日では ユーモアと笑いは、たとえば、ラジオ用のギャグ作家の作品のように、 通信販売や押しボタン式技術によって生産される量的な形の「笑い」(laughs)になっている。 実際、ギャグ(gag=場当たり文句)という用語はぴったりしたことばである。トルスタイン・ヴェブレンははっきり次のように述べている。 笑いは、ガス自体のはたらきに似て、感受性や知覚のはたらきを鈍らせる「笑いガス」としての役を果たしているという。 笑いは途方にくれたとき、 新しいしかもさらに勇気ある見通しを得るための方法よりも、むしろ 不安と空虚からの一時しのぎの逃避であって、いわば頭隠して尻隠さず式の逃避で、 完全な問題解決にはなっていない。 しゃがれ声のバカ笑い(raucons guffaw)としてしばしば表現されるこのような笑いは、 飲酒やセックスのような単なる緊張解消機能はもっているかもしれない。 しかし 最適の現実逃避手段としてそれにふけるときのセックスや飲酒のように、この種の笑いは、その笑いのときがすぎれば、人をもとの孤独と自己疎外に帰してしまう。 もちろん ある種の笑いは、復讐的な意味をもっている。 これは勝利の笑いであって、その笑いのかくしがたい特質は、 その笑い(laughter)は、ほほえみ(smiling)と何の関係もないということである。 人はかくて、憤慨や激怒の中にあっても笑うことができる。 私はしばしば次のような感じをもった。 ほほえんでいるものととれそうなヒットラー写真顔のなかに読み取れる、一種のしかめ面が、 この怒りの中の笑いだと。復讐的な笑いには、 人格の尊厳や人生の意味を喪失した人々のユーモアが繁栄されている。 自我の重要性や自己の価値に対するみずみずしい感覚が失われてしまっていることが、 ある読者にとっては、本書で展開する議論についてゆくうえで、大きなつまづきのひとつになるだろう。 世慣れた人もそうでない人も、ともに多くの人々が、 自我感の再発見という問題とがいかに重要なものであるかということに確信を失っている。 人々はなお「自己本来の自我(*自分自身)であること」(being one s self)は、 1920年代に、「自己表現」(self-expression)ということばがもっていた意味と同じ だとみている。 したがって次のような問い方をする。 (自分たちの仮定を正当なものとしたうえで) 自己本来の自分でないことが、非倫理的で退屈なことになるだろうか。 また、われわれはショパンを弾くことの中に、自己を表現すべきだろうか。 このような問のだし方それ自体が、自己本来の自分に立ち返ることの深い意味が いかにはなはなだしく失われているかを示すものである。 このように、 今日、多くの人々は、「なんじ自身を知れ」という教えのなかで ソクラテスが、人間に対し、なによりももっとも困難な問いかけを行っている ということがほとんど理解できなくなっている。 また、キルケゴールが、 「もっとも高い意味で、冒険することは、まさしく、 自己本来の自分を意識することだ」 と述べている意味内容を(現代の)人々はほとんど理解できない。 Top kusamura 題名 #11 時間 2011-11-27 18 45 31 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 コミュニケーション用語の喪失 (前) 今日、自我(*自己)感の喪失と並んで、深い個人的な気持を伝え合う ためのことばが失われつつある。 これは、現在西欧の人々が体感している孤独の重要な一面である。 たとえば「愛」(love)ということばをとってみよう。 これはあきらかに、個人的心情を伝え合うのに欠かすことのできないことばであるが 今日、愛ということばが使われるとき、聞く方の耳にはさまざまに響く。 たとえばそれはハリウッド的な愛であったり、 流行歌の「私の私の赤ちゃんが好きなの、私の赤ちゃんも私が好きなの」 とセンチメンタルな感情であったり、 あるいは宗教的博愛あり、友情あり、またそれは、性的衝動でもある。 ほかのいかなる重要語、「真実」「誠実」「勇気」「精神」「自由」 さらに「自己」ということばについても同じことがいえる。 われわれは、たいていこのような言葉にたいし、 各自、自分の隣人がもっている意味とはまったく違った、私的な意味内容をかかえている。 したがって、ある人たちは、かかるコトバの使用をことさら避けようとしている。エリッヒ・フロムが指摘しているように、 われわれは専門領域については、すぐれた語彙をもっている。 多くの人が、自動車エンジンの部品名をはっきりいうことができる。 しかし それが意味深長な人間関係のこととなると、残念ながら、われわれはいうべきことばをもたない。 われわれはことばに詰まり、孤立してしまう。エリオットは、このことを「うつろな人間」の中で次のように述べている。 われわれが一緒にささやくとき われわれの無味乾燥なことばは 乾し草の上吹く風のごとく また 地下室の内なるガラスの上をゆくねずみの足音のごとく 単調で意味をもたない コトバの影響力がこのように失われている事態は、妙なことに、分裂した時代の一徴候である。 ある時代にはコトバが生き生きと活動し、人を動かさずにはおかなかった。 たとえば、紀元前5世紀のギリシアを想起してみよう。 それはエスキュロスやソフォクレスが、卓越したギリシャ語を駆使して名作を書き上げた時代である。 また、シェークスピアが活動し、欽定訳聖書(訳注 1611年に翻訳編集された英訳聖書)の書かれた エリザベス朝の英語をあげることもできる。 ほかの時代には、コトバの力が弱くあいまいで、人を動かす力もなく、よどんでいた。 たとえば、ヘレニズム時代のギリシア文化の分裂、分散があげられる。 多くの研究から次のことがいえると思う。 ある文化が統一へ向かって発展途上にある、といった歴史的局面にあっては、 その文化がもつ言語に、その統一と力が反映され、 一方、文化が変動、消散、分解の過程にあるときには、 同じくそのコトバもその力を失うときときである。 「私が十八才のとき、ドイツは十八才だった」と語ったゲーテは、 その当時、国民の理想が統一と力の方向へ向かいつつあったという事実を指すだけでなく、 作家としての自己の力量を発揮する手段であるコトバもまた、 その発展の途上であったということを示している。 今日では、語義学(semantics*=意味論)の研究は、たしかに重要な価値をもっている。 おおいに推進さるべき問題である。 しかし、ここでつまづきになる問題は、 いったん、お互いのコトバを学んでしまうと、 もうそれ以上、心を伝え合うため時間もエネルギーも使おうとしなくなっている一方、 なぜわれわれは、 それぞれのコトバのもつ意味内容について、かくも多く語らねばならなくなったのか、 ということである。 Top kusamura 題名 #12 時間 2011-11-27 19 01 52 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 コミュニケーション用語の喪失 (後)(*バラバラなスタイル) コトバ以外にも人間的なコミュニケーションの方式がある。 たとえば、美術、音楽があげられる。 絵画と音楽は、 いわばその社会内での鋭敏なスポークスマンの声であって、 これは同じ社会内に住む他者だけでなく、ほかの社会、ほかの時代へも深い個性的な意味を伝達する。 しかし、現代美術や現代音楽の中にはコミュニケーションの役を果たさないコトバが見いだされる。 たいていの人、たとえ知性ある人でも、その絵を解く秘密の鍵を知らないかぎり、実際なにも理解できない。 われわれは、ありとあらゆる種類の流派の絵に接する。印象派あり、抽象派あり、具象派あり、非形象絵画(nonobjekutive painting=*アンフォルメル)がある。さらにモンドリアンになると正方形と長方形だけ、 ジャクソン・ポロックになると、大きなキャンバスにペンキをはねかけ、ほぼ偶然といっていい形を描きなぐっている。 しかも作品につけられたタイトルは描かれた日付けだけである。 もちろん私はこれら芸術家について批評がましいことをいうつもりはない。 とにかくこのふたりともたまたま見る私を楽しませてくれる。 才能ある芸術家は、こうしたわずかなコトバでコミュニケーションできるということは、 現代(*アメリカ)社会について、なにか重要なことを示していないのだろうか。 ニューヨークには、教員およびもっとも代表的な学生団体として最大の芸術家集団である画学生連盟がある。 そこを訪ねてみると、それぞれみな異なるスタイルで、画室ごとに、びっくりさせられるだろう。 画室から画室へ、二十歩あるくたびに、感情のギアを変えてゆかねばならない。ルネッサンス期にあっては、普通だれでも、ラファエロ、レオナルド・ダヴィンチ、ミケランジェロの絵を見ることができ、 その絵の中に、 生命一般について、しかもとくに自分自身の内的生命について理解できる何かを 自分に語りかけているのに気づくことができる。 しかし 何も教えられていない人間が今日、ニューヨーク市57番街にある画廊を歩き、 たとえばピカソ、ダリ、マアリン(*不明、マリンのことか)などの作品に接するなら、 そこに人はなにか重要なものがコミュニケートされていることには同意するだろう。 しかし彼は、疑いもなく、ただ神と芸術家だけが、それが何であるかを知っていると主張するだろう。 彼自身としては、おそらくとまどい、やや苛立っているだろう。 ニーチェによると、人間はその人の「スタイル」によって、すなわちその人の行動に基本的な統一と差別性を与える独特の「パターン」によって認識されるはずだという。 文化についてもある程度おなじことがいえる。 しかし今日、「スタイル」がなんであるかを尋ねるとき、 そこには現代的と呼び得るようなスタイルが何もないことに気づく。 セザンヌやヴァンゴッホの偉大な仕事にはじまる、多くの派を異にする芸術運動に共通なことは、 それらの運動のいずれもが、19世紀芸術の偽善性と感傷性を突破しようと 絶望的な努力を続けているという事実である。 意識的にせよ、無意識的にせよ、 世界を体験する自己という確固たる現実から、絵画によって語りかけようとしている。 しかし、それぞれの分野におけるフロイドやイプセンのごとく、真実を求めて 絶望的な探求を続ける姿は非常なものであるが、この努力のかなたには、たださまざまのスタイルが雑然と並んでいるだけである。 ルネッサンス期におけるほどに、 時代というものが、現代という一時期を形成するまでに変貌を終えていないことを当然考慮にいれるとしても、 しかもなお、 この各流派の雑居状態が現代の不統一を如実に示していることは事実である。 現代芸術がいかに多様であるにしても、その不調和と空虚な絵は、このように 現代の状況をそのまま反映するものである。 その光景は、あたかも真の芸術家すべて、いかなるコトバによれば、 自分の仲間に形と色をもった音楽を伝え得るものか、いま、 いろんなコトバを狂気のようにテストしているのだともいえる。しかし、そこにはまだ何も共通言語が見つかっていない。 ピカソのごとき巨匠は、その生涯にわたって何度となく、描画のスタイルを変えている。 ある面ではそれは、過去40年にわたる西欧社会の性格変貌を反映するものであり、 ほかの面では、彼が自分の仲間に語りかけのできる波長をキャッチしようと、 大洋上で空しくダイヤルを回している人間のようでもある。しかし芸術家も、そうでないわれわれも、精神的に孤立のまま洋上にただよっている。 われわれは、自分の孤独をまぎらわすため、ことばの通じ合う話題を求めて 他人とおしゃべりするのである。 ワールド・シリーズ、職場のこと、最近のニュース記事など。心のさらに深層にある情動的経験は押し流され、 われわれは、ますます空虚で、孤独なものになってゆく傾向にある。 Top kusamura 題名 #13 時間 2011-11-27 19 36 47 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 自然への共感の喪失 (1)(喪失の歴史) 主体的自己としての自己同一性の感覚を失ってしまった人間は、また 自然にじぶんが結びついているという感覚も失う方向にある。 精神療法にくる空虚感をもっている人は、いかにもくやしそうにいう。 ほかの人たちは、日没を見て感動できるのに、自分にはそれが感じられない。 また、ほかの人の目には、 大洋が壮大なもの、おそろしいものに見えるのに、自分は 海岸の岩に立っても、何も大した感じがわいてこない、と。 われわれの自然に対する関係は、われわれの空虚感によって破壊されるだけでなく、 われわれの抱く不安によっても破壊される傾向にある。 学校で原子爆弾にたいし、いかに身を守るか という授業を聞いて帰った少女が 「おかあさん、どこか空なんてないようなところへ引っ越しできないの」 と両親に尋ねた。 この話は、 不安がいかに人間を自然から撤退させるものであるかをよく象徴している。 もっと日常的なレベルでみると、 人が自らの内なる空虚さを感じはじめるとき、 彼は、自分の回りの自然もまた空虚で、かわききったもの、死んだものとして体験するようになる。 この二つの空虚体験は、対生命関係の衰弱という同一状態の二側面をあらわしている。 自然に対する結びつきの感覚が近代において、いかに栄え、やがえ衰えていったかをふりかえってみると われわれの自然に対する感情喪失がどんな意味をもつのか、いっそうあきらかになる。 ルネッサンスのもつ主たる特質の一つは、あらゆる形での自然に対する熱狂がもりあがってきた、ということであった。 人間の目は動物に、樹木に、あるいは天空の星や色彩といった無生物にもそそがれた。 中世芸術の、様式化され、こわばった自然を見たあと、 初期ルネッサンスのジオットの絵画を見るとき、われわれは、そこに 生命への新しい接近感 ―えもいわれる魅惑的な羊、生き生きとした犬、愛嬌あふれんばかりのロバなど―が 美しく描きだされているのを見る。ジオットは、岩や木を、 それ自体がそなえている美によって人間をたのしくしてくれる自然の形態 として描き上げているのであって、単に宗教的なメッセージを伝える象徴的なものとはみていない。 自然に対する新しい評価は、ルネッサンスにおける人体への強い関心となってあらわれている。 たとえばボッカチオの物語にみられる官能性、ミケランジェロの絵画における、たくましく調和のとれた肉体がある。 また、シェイクスピアのドラマには、生命に対する多面的で、有機的なアプローチのひとつとして 肉感的なものがある。 しかし19世紀までに、その自然にたいする興味は、じょじょに技術的なものとなり、 人間の関心は、自然を支配し、巧みに処理することに代わった。 P・ティリッヒの見事な表現の通り、 世界は「呪術からの解放」をされてきた。 この呪術からの解放過程は、はじまりをすでに17世紀にまで遡る。 当時デカルトは、肉体と精神の分離を説き、 (長さと目方として測定可能な)物質的自然や肉体という客観世界は、人間の心とか「内的」体験とは 根本において異なるものであると教えている。 この二分法の中の「心的」側面が棚上げされてしまい、 現代人は、人間体験の機械的な、測定可能な面だけに、ことさら血道をあげることになった。 そして19世紀までに、自然は 科学の場におけると同様、徹底的に非人間化されるなり、金儲けのための算定対象になってしまった。計算できるもの、操作可能なものにたいする過度な強調は、 あきらかに産業主義とブルジョワ的商取引の発展と手をたずさえて出てきたと主張しても、 それは機械や技術の進歩そのものの批判をしようというのではない。 ただ指摘しておきたいことは、この発展にともなって、自然は個人の主観的、感情的生活から切り離されてしまったという 歴史的事実である。 Top kusamura 題名 #14 時間 2011-11-27 19 59 09 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 自然への共感の喪失 (2)(*神話・民話・迷信) 19世紀の詩人、ウイリアム・ワーズワースは、だれよりも明白に 自然にたいする〈*近代人の)感受性の喪失をはっきり認めており、 ある程度、その原因でもある空虚をも読みとっていた。彼は、 よく知られている十四行詩の中で、現に起こりつつある事態を次のように表現している。 世界はわれわれにとってもう沢山だ。 遅かれ早かれ われわれは獲得と消費をくりかえしながら われとわが力を荒廃させてゆく 自然の中には われわれというものがほとんど見あたらない われわれは 人間的心情を棄ててしまった むさくるしい贈り物でも捨て去るように その胸を月にさらしているこの海 四六時中 ほえ猛っているのに いまは ねむれる花のごとく 凪いでいる風 これにたいし またすべてのものに対し われわれの心の琴線はもう触れあわなくなってしまった それはわれわれの心を動かさない 大いなる神 私はむしろ 使い古された信条に育まれる異教徒でありたい そうだ 私はこの美しい草原に立って 私を孤独にすることの少ない光景をみたい 海からのぼってくるプロテウスをみたい 老トリトンの吹き鳴らす 花輪かざりのついた角笛の声に耳傾けたい (*改行 鍵写者恣意)ワーズワースがプロテウス、トリトンのような神話的創造物にあこがれたのは、 詩的空想の問題ではない。 これら人物は、自然の相を人格化したものである。 たとえば プロテウスは、その姿、形をたえず変貌してやまない海の神であって、 運動を色彩をたえず変えていく海を象徴するものである。 また トリトンは、海の貝殻を笛とする神であって、その調べは海浜の大きな貝にこだまする声である。 プロテウスもトリトンも、くわしくいえばわれわれが今日失ってしまったものを示している。 われわれは自然の中に、自分自身の姿や、自分自身の心を読みとる能力や、 自分自身の体験を、より深く豊かなものにして自然へ関係づける力を失ってしまった。 デカルトの二分法によって 現代人は、魔女信仰から逃れるための哲学的基盤を得た。 これは事実、18世紀の妖術(witchcraft)克服に大いにあずかって力あった。 これが人類にとって大きな利得であったことは確かだ。(*魔女狩りの根絶など)しかし同時に、われわれは妖精(fairies)や小妖精(elves)、岩屋に住むという巨人(trolls) それに森や大地に住むという小人たちまですべて、われわれの世界から追放してしまった。 人心から「迷信」や「呪術」をきれいに一掃するのに役だったという点から、これもまた一応いいことだった。 それでも、私はこれは間違いだったと思う。 われわれが、妖精たちから逃れるためにやったことのすべては、 われわれの生活を貧しくすることではなかったか。 しかも、この心情生活の貧困化は、 人心を迷信から一掃するためいつまでも変わらない良い方法といえるだろうか。 ここで古い寓話をあげてみよう。 自分の家から悪い妖精を一掃してしまった男があった。 しかしその妖精は、その男の家がきれいさっぱり空っぽになったのを知って、 今度は、七匹のもっと性の悪い妖精をひきつれてもどってきた。 そして事態は前にもまして悪化してしまった。 ここで述べたいのは、 全体主義的神話やエングラム、太陽が静止するときが来るといった奇蹟など、 新しい、しかもさらに破壊的な近代的迷信にとりつかれるのは、こうした空虚で内容のないうつろな人間だ、 ということである。 今日の世界は、呪術から解放された。 だがそれは、われわれと自然との調和をくずしてしまっただけでなく 自己自身との調和もくずしてしまった。 Top kusamura 題名 #15 時間 2011-11-27 20 50 20 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 自然への共感の喪失 (3)(人間と自然) 人間としてのわれわれは、存在の根を自然の中にもっている。 それは 単に、われわれの肉体の化学成分が本来、空気や土や草と同じ成分からなっている という事実によるものではない。 別の多面的な方法で、われわれは自然に参与しているのである。 四季のうつりかわり、昼夜の交替、などのリズムが、たとえば 身体のリズム、空腹感と満腹感、眠りと覚醒、性的欲求とその満足など 無限にあらゆる面に反映されている。 われわれが自然に関係をもつとき、それはわれわれが、自己のよって立つ根を、その生まれた土壌へ据えるという作業をやっているに過ぎない。 しかし、もうひとつの点で、人間はほかの自然とは非常に性格を異にする。 人間は、自己自身についての意識をもっているということ、すなわち自己同一性の認識という点が、ほかの生物体、無生物体から人間を区別する。 しかも自然は人間の自己同一性など問題にしない。 自然と人間との関係性というこの重要点が、本書の中心テーマである、 人間の認識への欲求 という課題を前景に押し出すことになる。 自然は非人格的なものであるのに、人間は人格を確認できねばならず、 また自然の静寂を自己自身の内的生命力で満たすことができねばならない。 のみこまれてしまうことなく、 自然とじゅうぶん連関をたもつには、強力な自己意識、すなわち自己同一感が必要となる。 というのは、 事実、自然の中に、その沈黙や無生物的性格を感じるということはおそろしいことである。 岩だらけの岬に立って、怒濤さかまく海上に目をやり、 しかも「海は他人の悲哀に決して涙することもなく、他人の考えていることに何の関心も示さない」 ということを、ほんとうに現実感をもって感じとるとすれば、 また 人の生命は、創造というとほうもない、やむことのない化学運動の中へ、 寸分たがわぬ計算通りに仕組まれているのだという気持がほんとうに感じられるとすれば、 それはおそろしいことである。 あるいは、 山の峰々を眺め、その頂の高さに心を奪われるとして、しかもその同じ瞬間に、 「われわれが、峰の下の岩床のうえにこなごなにななきつけられようと、 人間としての自己の消滅など花崗岩の壁にはなんの関係もない」 と認識するとすれば、それはおそろしいことである。 これは、無(nothingness)ないし非存在(non being)への深い怯えであって、 人が無生物と自己との冷ややかな関係に、直面したときに体験するものである。 そして「汝は塵(ちり)なれば、塵に帰るべきなり」 ということばは、事実、うつろななぐさめに過ぎないことを想起されたい。 自然との関係において、このような体験は、たいていの人にとって、あまりにも大きな不安である。 人々は、自己の創造を遮断し、 もっぱら、考えを、昼食を何にしようか、というような実際的な日常茶飯事に向けることで 恐怖をまぬがれようとしている。 あるいは、 海は自身たちには危害を与えないものとして「人格化」することにより あるいは銘々自己の神を信じ、 「お前が石につまづかぬよう、神はお前の重荷を天使にゆだねてくださる」 ということによって、かかる恐怖からまぬがれようとする。 既に述べたように、 自然と創造的な関係をもつには、 深い自己認識と大量の勇気が必要になる。 しかし、自然の無生物にたいしては 自己の同一性が確認できることによって、より強靱な自我(*自己認識)が生まれるのである。自然への関係の喪失と自己認識の喪失とは平行するのである。 Top kusamura 題名 #16 時間 2011-11-27 21 34 21 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 悲劇に対する感受性の喪失 (前) 悲劇がわかる、ということは、 ただ、個々の人間存在がいかにかけがいのない大切なものであるかを 信じられるようになって、はじめて出てくる問題である。 悲劇には、 人間そのものにたいする、つきない畏敬の念や、 人間の権利や運命への献身が含まれる。 ―そうでなければ、オレステス、リア王、それに現にここにいるあなたと私が、 人生の苦闘にあって、倒れようとそれに対し立ち向かおうと、 そういうことは問題ではなくなる。 アーサー・ミラーは、その劇作『セールスマンの死』のまえがきで、 今日という時代に、悲劇の乏しい理由について触れている。 「悲劇的人間とは、もし必要なら、たった一つのこと、すなわち、 自己の人格の尊厳のために、 自己の生命すらあえて投げ出すことを辞さない人間である」 悲劇の面目は、 そこにあっては、個の人格がみごとに開花し、自我が実現されている状況にある。 このような状況が過去の西欧において目撃されるのは、 また偉大な悲劇の続出した時代でもある。 5世紀のギリシアでは、アイスキュロス、ソホクレスが エディプス王やアガメムノン、オレステスという傑出した悲劇を書いた。 エリザベス朝の英国に目をやると、 そこではシェークスピアがリヤ王、ハムレット、マクベスを書いている。 しかし今日のような空虚さの支配する時代にあっては、 劇作として悲劇に接することもまれである。 あるいはもし、悲劇が書かれるとしても、それはE・オニールのドラマ『氷人来たる』にみられるように、人間生活のかくも空虚な状況を描きだしたものである。 この劇はサロンで演ぜられる。 その登場人物はアルコール中毒患者あり、売春婦あり、 しかも、劇の進行中に精神病になる人物が主役を演ずる。 これらの人は、その生き方の面で、 人々がなにか信ずることのできた時代を、かすかに思い出させてくれる。 このドラマに、古典悲劇のもつ憐憫の情や恐怖感をひきださせてくれるものは、 この空虚さの支配するただ中にあって、 わずかに残っている人間的尊厳の反映である。 既述のアーサー・ミラー『セールスマンの死』は、それ自体、特定の人、 アルコール中毒患者や精神病者の身の上に起こるといった事態ではなく、 ごくありふれたわれわれの身の上にもいつふりかかってくるかもしれない 数少ないいくつかの悲劇の一つである。 彼もわれわれ大部分の者とおなじく、このアメリカで生まれ、 この国でなにがしかの社会的な立場をもっている人間である。 (映画化されたものでは、セールスマン、ウイリー・ロマンは残念なことに、哀れっぽく作り上げられている。 映画だけを見た人は、彼の体験している悲劇のほんとうの意味を見失う恐れがある) ウイリーは、彼の住む社会の教訓をまじめにうけとった人物であった。 すなわち、 成功はまじめな精力的な働きによってもたらされるものであり、 経済的な向上はひとつの抜き差しならぬ現実であり、 適切な社会的交際をたもっているかぎり、成功と救いもそれに伴うものと心得ていた。 われわれが斟酌してウイリーの考えは幻想に過ぎなかったこと、さらに 彼の不手ぎわなやり方をいろいろ評価して笑いものにするだけなら、きわめてやさしいことである。 しかし、そんなことは何にもならない。 大事なことは、ウイリーが何かを信頼しきっていたということである。 彼は教えられたとおりのことが、そのとおりそのまま人生に期待できると信じていたのである。 彼の妻は、ウイリーの失敗を息子たちに語るに当たって、 「私は彼が偉大な人物だなんて思いません。しかし彼は人間です。そして あるおそろしい事態が彼にふりかかっているのです。そのところをよく注意しなければなりません」 と語っている。 この場合、事態が悲劇的なのは、ウイリーがリヤ王のごとき偉大な人物、あるはハムレットのような 内面の豊かな人物だということではない。彼の妻が語っているように、 「彼はただ港を探している小舟にすぎない」のである。 これは現代という歴史上の一時代、そのもののはらむ悲劇性である。 ここで教えられたとおりを信じているのに、この変化の多い時代にあっては、 その教えられたことがもはや役に立たなくなっていることに気づいているウイリーのような人間をあげていくと、 何千何万とあげることができる。 しかも、そこにわれわれは、古代悲劇にみる同じ同情や恐怖に心を動かされる。 「彼は自分が誰であるかをぜんぜん知らなかった。」 しかも、知る、という自己の権利をまじめに行使したのである。 ミラーによると、「悲劇的人物にみられる内面的な自己意識の分裂は、 当人の威厳や、 当人にとって当然ととられている自己の地位をおびやかすものに直面し、 いままでのように受動的でありたくない、 という 意志の反抗 がそこにあらわれているのに他ならないし、 またそれ以外ではありえない。 さらに、 ただひたすら受け身の体勢にあり、 積極的な反撃にでることもなく、 自己の運命に従順なだけの人には、そうした人格の裂け目がみられない。 たいていのわれわれは、そのカテゴリーに入る。」 ミラーはわれわれを感動させる悲劇の本質について次のように述べている。「自分はだれかと取り替えられてしまうのではないか、 という基底恐怖、 いま自分は、この世界にあって、 これこれの名前と仕事をもったしかじかの人間だと思っているのに、 その独自性が消されてしまうのではないか、という恐怖、 これが現代に住むわれわれの悲劇性である。 今日、 われわれの中に巣くうこの恐怖は、いまなおおとろえるどころか、 むしろいよいよ高まりつつある現状である。」 ここで悲劇の喪失をなげくからといって、 われわれがペシミスティックな見方を主張しているだと解されては困る。 反対に、ミラー自身のことばによると、 悲劇の中には喜劇の場合よりも、その著者自身のより強烈な楽天観が支配している。 ……悲劇のもつ究極のねらいは、観客のもっている人間という動物についての もっとあかるい見方を強化することでなければならない。 というのは、悲劇的観点というのは、 人間の自由や自己実現の要求を真剣にとりあげることにほかならない。 すなわち悲劇は、「自己の人間性を全うしようという不屈の意志」を信じることである。 Top kusamura 題名 #17 時間 2011-11-28 19 38 51 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 悲劇に対する感受性の喪失 (2) 精神療法によってあきらかになる 人間性についての智恵や、無意識的葛藤にたいする洞察、 これによってわれわれは、 人間の生の営みが孕んでいる悲劇的性格を確認できる新しい基盤 を与えられる。 精神治療者は、ある人間が 自分自身と内的な戦いを繰り返し、 自己の尊厳を傷つけるような外的な力と激しい苦闘を続けるさまを、 親しくつぶさに知ることがゆるされている。 したがって治療者は こうした人々に対しあらためて畏敬の念を抱くとともに、 人間性のもつ潜在的な威厳にふれることになる。 週のなか何度となく、相談という仕事の中で治療者が体験することは何かというと、こうした人々が 自分自身に対してだけは、最後まで嘘でごまかしきれるものではないという事実を認め ついに、自己と真剣にとりくめるようになったとき、その人は いままで知ることのなかった、しかもしばしば顕著な治癒力を自らの中に発見すること である。 現代の病根をたずねてゆくと、それは荒涼たる診断に帰着する。 しかし、その診断は必ずしもそのまま荒涼たる予後を意味するものではない。 というのは、その積極的な側面は、 ただ前進する以外にとるべき道を持たないという事実である。 われわれは、 精神分析を経て、自我の防衛や幻想から離脱する人々に似ている。 しかも選ぶべき唯一の道は、よりよきなにものかをめざして突進することである。 (われわれ、ということばで全ての人をさすことにして、) 自分の生きている歴史的状況を認知しているわれわれは、 老いも若きも、1920年代の「迷える世代」には属さない。 この「迷える」(Lost)ということばは、 第一次大戦に続く青年による反抗時代の人々に適用されるとき、それは、人が一時的に家郷を離れてはいるが、自立して生きることがおそろしく、 重荷になったときには、いつでも引き返すことができる という意味をもっている。 しかし、われわれはもはや、引き返すことのできない世代に属する。 20世紀半ばにいるわれわれは、再び舞い戻ることのできない限界線を越えてしまったパイロットに似ている。 嵐がこようがと何がこようと、ただ前進する以外にない。 われわれのいまなすべき仕事は上述の分析であきらかである。 われわれは、 自己自身の中に、力と統合の根源を再発見しなければならない。 もちろんこれは われわれ自身の中や社会の中に、統一の核心となるような価値の発見と、 その価値の確認が同時発生的である。 しかし、価値づけをおこなう先天的能力、つまり生きるうえのよりどころとなるような価値を積極的に選択し、確認する能力 なしには いかなる価値も効を奏さない。 これを実行するのはあくまでも個人である。 彼・彼女は、 ルネッサンスが中世の分裂から生まれたように、混乱の時代から生まれる新しい建設的社会の 基礎固めをすることになる。 ウイリアム・ジェームスがかつて述べているように、 世界をより健全なものにしようと思うなら、まずなにより、 自分自身を健全にすることから始めるべきである。 われわれは、さらい一歩進めて、 自分自身の中に力の中心を見いだすことが、長い目でみると、われわれが仲間にたいしてなし得る最大の貢献である と述べておこう。 ノルウェー近海の漁師は、大渦巻きが自分の船にむかってくるのを見るとき、 前進して、そのわき立つ渦巻きの中へオールを投げ込もうとする。 もし、彼にそれができれば、大渦巻きは止む。 そして、彼も彼の船も、無事にその危機を脱し得る。 全くおなじように、 生来、内的力の豊かな人は、まわりの人たちの間でどんな恐慌がおこっても、 その鎮め役として大きなはたらきをすることになる。 これこそ現代の求めているものであって、 新しいアイデアや発明は、いかに重要なものであろうと、社会の求めているものでなく また、それは天才や超人でもない。 ほんとに社会が必要とするのは、「あるべき」人間の姿であって、 自分自身の中に、力の核心を把握している人物である。 こうした内なる力の源を見いだすことが、本書における次章以下の問題である。 第2章 了 Top kusamura 題名 #18 (第7章、最終項目、追加) 時間 2011-11-28 19 52 16 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 (第7章、最終項目) 真実を見る勇気 (前)(*哲学的真理探究) ニーチェのひらめく警句は、新しい全景を一挙に照らし出すいなずまのようである。 彼は、「人間が誤ちを犯すのは、おくびょうだからだ」(Error is cowadice)と宣言している。 つまりわれわれが真実が見えないのは、 書物の読み方が不十分ということではなく、あるいは 十分な学位をもっていないということではなく、 われわれに十分な勇気が欠けている、ということである。 真実ということばで、われわれが意味しているものは、科学的事実だけというのではなく、 あるいは科学的技術だけをさすというのでもない。 事実を扱うとき問題になるのは正確さということである。 ところが、どのような仕事をするか、愛しているのかいないのか、 学校で問題を抱えたわが子をいかに助けるか、 あれこれの事柄になにを感じ、何を欲するのか、 それは、われわれを、昼間から、あるいは夜半の夢のなかですら 捕らえて離さない問題であるが、こういう問題では、技術的な証明はほとんど役に立たない。 われわれは冒険をしなければならない。 しかも最善の解答に達しうるかどうかは、当人の成熟と勇気の度合いに 非常に密接に関係している。 真理探究に欠くことのできない内なるたたかいについて、 哲学者ショーペンハウエルがゲーテあてに書いた手紙のなかに如実に示されている。 ショーペンハウエルは、 自分の考えが着想として自分の中に芽生えたあと、 その考えをしあげるときの労苦について、述べている。 「…そのとき、自分は自分の魂の前に立つのだ。 それは 拷問台にのせられた囚人が 冷酷な裁判官の前に立たされるようなものである。 そして何も残らないまでに、解答を迫られる。 教義や哲学は、 誤ちや名状しがたい愚劣な内容に満ちている。 しかもそうした教義や哲学のすべてが、私には、 誠実さの欠除からきているように思われる。 真理は見いだされなかった。 それは真理を求めようとしなかったからではなく、 その真理発見の意図はあざむかれ、 見いだしたものは、真理ではなく、先入観であり、 あるいは少なくとも気にいっている考えを傷つけないこと、であった。 こういうねらいがあるため、ほかの人々だけでなく 思想家自身にとっても、 言い抜けが必要であった。 哲学者をつくるものは、 あらゆる問題に直面して、 残らず打ち明けることのできる勇気である。 哲学者はソフォクレスのエディプスのようでなけれがならない。 エディプスは、 自分のおそろしい運命をたずねあかそうとして、占ってみたところ 自分を待っているものが戦慄すべきおそろしい事態であるとわかったときでさえ、 俯仰不屈の探求を続けていくのである。 しかしたいていわれわれは、心の中に、 それ以上探求しないでくれ、後生だからと エディプスに嘆願する母ジョかスタを住まわせているのである。 そしてわれわれは、彼女に道をゆずることになる。 それが哲学が現に立っている場所に立っている理由である。 …哲学者は、あわれみをかけることなく、 自分自身に尋問「しなければならない」。 しかし、この哲学的勇気は、 内省から生じるのではなく、決意によって絞り出されるものでもなく 心の先天的傾向なのである。」 (*エディプスについては次節で詳述)精神分析家フィレンチは この手紙を引用してショーペンハウエルの見方に同意している。 われわれも次の点でショーペンハウエルに賛成である。 つまり真理がわかりたいならこうした誠実さが必要だということ、そして、 このような誠実さは知性そのものからくるのではなく、 生得的な自己認識能力の一部であると述べている点である。 ただわれわれは、「それが生得の傾向」であって、 自分ではどうしようもないという点だけは賛成しかねる。 こうした誠実さは倫理的態度であって、 そこには、勇気とか、そのほか自己意識に 自分をいかに関係づけるか、の諸面が含まれている。 もしある人間が、 人間として自己実現をはかろうとするとき、 その態度はある程度発展させうるものだというだけでなく、 発展させねばならないものである。 Top kusamura 題名 #19 last 時間 2011-11-28 20 24 27 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 真実を見る勇気 (後)(*エディプス) 真理を直視するに必要な恐るべき勇気の例として、 ショーペンハウエルはエディプス王についてよく言及し、 真理を避けたい誘惑の例として、 母であるジョカスタのことばについてふれている。 (*エディプス=オイディプス王あらすじ)エディプス王は、 自分の誕生にまつわるものとうすうす気づいている おそろしい神秘的事実を解決しようと意を決し、 ある老羊飼いを探そうとする。 新生児としての彼を殺すよう、ずっと以前に命令されていたこの老羊飼いは、 エディプスが実際、母親と結婚したのかどうかの問題を解き得る当の人物である。 ソフォクレスのドラマで、母ジョカスタは、 (*息子であり夫でもある)エディプスを思いとどまらせようとする。 いちばんいいことは 殺してしまうことです だれかがやるかもしれない 彼がだれのことを言ったのかと なぜたずねるのです いえ、気にしてはなりません ぜったいに エディプスがなおも(*真実に)固執すると、彼女は叫ぶ それを探してはなりません 私は病気です それで いいではありませんか かわいそうに あなたは 自分がいったい 何ものなのか 決してわからないのです しかしエディプスはひきさがらない。 全貌がわかるまで そんなことばに 耳をかすものか 自分はためらわない なにが起きようと打ち砕く たとえそれが困難であろうと わが出生の真実を つきとめるまで あとにはひかぬ その時とき飼いが叫ぶ。 おお 自分はいま ものを言うのがおそろしい エディプスが応じる。 それでもなお 自分は聞くのだ 真実を聞かねばならぬ 自分が父親を殺し、母親のジョカスタ(*イオカステ)と結婚した というおそろしい事実を知ったとき エディプスは(*自ら両眼を刺し)失明する。 これはきわめて象徴的行為である。 「眼が暗む」(self-blinding)という動作は、 文字どおり 人間が深い葛藤に遭遇したとき起こるものである。 多かれ少なかれ自分のまわりの現実から自分を閉め出そうととして 自ら盲目になるのである。 いかに自分が幻想の中に生きてきたか を知ったあとのことである。 これは、 自分自身および自分の出生についての真実を 知ろうとするときの悲劇的困難、人間の「有限性」ならびに「盲目性」を象徴する行為 と解することもできるのである。 エディプスの状況は、例外的なものに見えるかもしれない。 しかし、真実を直視する彼のたたかいと、 ありふれた生活下のわれわれのたたかいとの間の相違は 程度の差であって、まったく別根のものとはいえない。 このドラマはわれわれ自身についての真実を発見しようとするときの 内的苦悩や葛藤といった 古くしてしかもつねに新しい状況をわれわれに提示してくれる。 フロイドの神話の選び方(*“エディプス”コンプレックス)が天才技なのは、 エディプスが自分の母親と寝たということより、 むしろドラマのもつこの側面である。真理探究には、つねに、自分が見たくないものを暴きだす という危険を犯すことが伴うのである。 それによって、いままで生きてきた信念や、 日常の価値から切り離されるかもしれない、という危険を犯すことが できるためには、 自分の自己意識に対するその種の関係や、 究極的な価値にたいするその確信を必要とする。 「真の愛知なるものは、 人間生活においては、そうざらにあるものではない」 というパスカルのことばは、当然のことである。 ここで論じてきた人間のもつほかのユニークな特性とならんで、真実直視は、自己を意識できる人間の能力にかかっている。 人間はこのようにして、おかれている直接の状況を越えでることができ、 「人生をまじめに眺め、人生を全体として把握できるのである。」 人は、自己を意識すること(self-consciousness)によって、 自己自身の内面を探求できる。 そしてそこに、 多かれ少なかれ聞く耳をもったすべての人に話かけてくる智恵を 見いだすのである。 了 Top リンク Page1of1 [ 19 posts ] 1 新しい記事有り 新しい記事無し 重要トピック 新しい記事有り(人気) 新しい記事無し(人気) 告知トピック 新しい記事有り(ロック) 新しい記事無し(ロック) 新規投稿 不可 返信 不可 自分の記事の編集 不可 自分の記事の削除 不可 投票への参加 不可 Powered by SuwaBB as @BB like phpBB ©2013 atfreaks
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たいていの人にとって、不十分で萌芽的であるかもしれないが、これが 「汝の隣人を愛し」自分自身の行為とコミュニティの幸福との間の関係を意識できる能力 の始まりである。 人間は、「価値や目標の選択」ができるだけでなく、 人格の統合(*抑圧や矛盾のない自己同一性意識の獲得)をめざすなら、 ぜひそうしなければならない動物である。 というのは、 価値(人間が進んでゆく目標)は、 人間にとって心理的センターであって、 磁力の中心が磁力線を引き寄せるのと同様、自分のもっている諸力をひきよせる 一種の統合中心としての役を果たすからである。 われわれが、自分がいま何を「欲しているのか」を知ることは こどもや青年にとって、自己-方向づけ能力の萌芽として重要なものである。 まず、自分がいま一体何を欲しているか を認知するということは、成熟してゆく人間にとって、 価値をみずから選択できるという能力を証拠だてるものであり、 その第一歩である。 Top kusamura 題名 #2 時間 2011-11-11 22 26 46 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 ここまでの章で見てきたように、 現代人の慢性的な心的障害である、不安、当惑、空虚は主として さまざまな価値の混乱、価値間の矛盾によって生じている。 われわれには依るべき心的核心が欠けている。 個人の内在力や完成(integrity)の度合いは、 当人がよりどころとしている価値を、 どれほど信じているかにかかっている。 本章では、諸々の価値を、人間がどのていど、 成熟的、創造的に選択し、確認できるかをみていこう。 まず第一に、 あなたがどんな価値を抱き、私がどのような価値を奉ずるか それを確認することの難しさは、 ひとえに、われわれの住んでいる時代にかかわっている。 つねにそうなのであるが、 何を考えるにしても、懐疑主義や疑惑が伴ってでてくる過渡的時代には、 各自はより困難な課題を背負わされている。 伝統的な意味での信念(faith)をかつぎ回ることには 何の意味も見いださなかったゲーテは、次のように記している。「どんな形体であれ、信念によって導かれている時代はつねに、 本質的に輝かしいもの、向上的、稔りある時代であって、繁栄に向かうものである。 いかなる形であれ、 懐疑主義が、あてもなく支配している時代は、かりに一時の光彩をはなったことはあっても その意味を喪失してしまう。……」 (なぜなら) 「本質的に不毛なもの」ととり組んでも、よろこびは見いだされないからである。 やや誇張された表現であるが、もしゲーテがここで、信念という言葉によって 社会に充満し、その社会に意味の中心を与え、その社会の構成員に目的意識を与えるような確信(convictions) のことを語っているとすれば、それは歴史的にみて正しい。 ペリクレス時代のギリシャ、 イザヤ時代、 十三世紀のパリ、(*ルイ9世の時代、ノートルダム大聖堂やサン=ドニ大聖堂が完成した繁栄期) あるいはルネッサンス、および十七世紀 をかえりみてみるならば、 こうしたそれぞれの時代の確信が、その時代の想像力をいかに結集したかがうかがえる。 しかし、史上、ヘレニズム時代の終わりや、中世思想の黎明期のような 過渡期、ないし崩壊期においては、その「信念」は解体する傾向にある。そこに一般に二つのことが起こってくる。 第一に、 社会内に根づいた信念や伝統は、個人のバイタリティを抑制する 死せる形態 に結晶化する傾向が起きる。 たとえば、 中世の衰退期になると、かってはげしく利用されたシンボルは ドライな空虚な形式となり、論じやすいが内容のないものになってしまった。 過渡期にあらわれる第二のことがらは、 ヴァイタリティが伝統から剥離し、 地上のあらゆる方向に流れていく水のように力をなくした散漫な反抗 になってしまう傾向になる。 我々自身の生きてきた1920年代にもこのことは多かれ少なかれあてはまることである。 おおよそこれは今日われわれのかかえているジレンマではなかろうか。 一方には権威主義的傾向があり、 他方では方向を失ったヴァイタリティがとまどいしている。 たしかに歴史はさまざまの角度から説明されるが、 現代のような社会変動の時代、(*1950年代のアメリカ)人々は「根無し草」のように安定感を欠き、 嵐のときの安全地帯として、権威や安定した制度にしがみつこうとする。 リンド夫妻がその「過渡期のミドルタウン」(不景気時代のアメリカの研究)で述べている。 「たいていの人は、生活のあるゆる領域での変動や不安定に同時に耐えることができない」 ―そこでミドルタウンの市民たちは、経済・政治面で、さらに保守的な権威主義的信条に走り、 いっそう厳格な道徳的態度へ向かっていき、自由な教会よりも、 ファンダメンタリズム(根本主義)の教会メンバーになる人の数が増えていった。― この二十世紀半ばに、われわれの直面している危険は、 何を信じていいのかわからず、混乱し、当惑し、時には恐慌状態を呈する人々が、 (1930年代のヨーロッパもそうであった) 破壊的で、デーモン的な(重力的な)価値をひっつかむということである。 共産主義は、「既成宗教の衰退によって生まれる信仰の空白を満たすためにはいってくる」 とアーサー・M・シュレディンガーは書いている。 「共産主義は、内的不安とか疑惑といった傾向をいやすところの目的意識を提供してくれる。」 アメリカ国民が共産主義になるとは思われないが(少なくとも私には思われないが)、 しかし現代社会において、破壊的価値にとびつく結果は、別の形をとってあらわれてくる。 宗教・教育・哲学、それに科学における独断主義の傾向の中に、 権威主義的傾向が育ちつつあることは否めない。 脅かしや、不安を感じている人々はいっそうかたくなり、 内に疑惑を抱いているときには、独断的になりがちである。 (*そのことによって)自分自身のヴァイタリティ(*生命力・活力)を失ってしまう。 人々は、防衛のための隠れ家をつくるため、 名残りの伝統を利用し、その背後に尻込みしてしまう。 しかし 多くの人は、過去への逃避がききめのないことに気づいている。 (幸いにも、ヘンリー・リンクの『宗教への復帰』は一時的には人気があったが、影響力はつかの間であった) こうした努力は、基本的には、自己敗北的(self-defeacting)である。 われわれは、 外側から何か「センター」になるものを、あてがうことは決してできない。ギルバート・マレーが述べているように、 混乱したヘレニズムの時代のごとく、「活力の喪失」(failure of nerve)のために起こる宗教的関心の復活は 社会あるいは人々自身に対してなんの役にもたたない。 その事業はいかに難しくても、 自分の自己認識活動なり、われわれの住む社会を受け入れねばならない。 われわれは、 歴史的状況に勇気をもって直面するだけでなく、我々自身をより深く理解することによって、 自らの倫理センターを見いださなければならない。過去数年間の中に、 「宗教への復帰」とは違うもうひとつの動きが起こってきた。 多くの知識人をはじめ、鋭敏な人々は、 文化のもつ宗教的・倫理的伝統から逃避していることの損失、ならびに イザヤ、ヨブ、仏陀、老子の思想を知らないということは、 価値発見の必要な時代に、なにかとりかえしのつかないほど重要なものを失いつつあるのではないか と考えるようになった。 人々は過去の倫理的、宗教的智慧に新しい関心を示しだした。 この傾向はデヴィット・リースマンのアメリカン・スカラー誌 の中での「フロイド・科学・宗教」のごとき論説や、ホバート・マウラーの著述の中に見いだされる。 (*オーヴァル・ホバート・マウラー(Orval Hobart Mowrer 1907年 - 1982年) アメリカの心理学者。邦訳「疎外と実存的対話」(O・ホバート・マウラー、上里一郎、誠信書房、1969年初版、絶版または重版未定) 1950年のパルティザン・レヴュー誌は連続四号にわたって「宗教と知性」というトピックをめぐって、 作家、詩人、哲学者など二十人の論説を全面的にかかげている。 こうした傾向が単に現代不安の産物でないというなら、それは実際、健全な傾向といえよう。 しかし、危険もある。 宗教的伝統といっても、その比較的芽につきやすく、 華々しいが、健全とはいえない傾向にしがみつく傾向である。 宗教に対する知識人の興味が、 主として権威主義ならびに反動の発展にそそがれるようになれば、 失われるものもいよいよ大きい。 問題は、倫理・宗教的の点で健全なもの、 しかも個人的価値・責任・自由を減らすよりもむしろ増大してゆくような確かなものを 何が生みだすか を識別することにある。 前章までに触れてきたように、 健全な倫理意識はどのように人間の中に生まれ、 かつ、発展するかをたずねることから始めよう。 Top kusamura 題名 #3 時間 2011-11-12 00 34 15 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 アダムとプロメチュース (1)(*アダムとイブ)人間は、 太陽に向かって花が生長するように、自然に倫理的判断ができるようになるのではない。 自由をはじめ、人間の自己-意識から生まれる側面と同様、 倫理的認識は、内的葛藤や不安という代価をはらって得られるものである。 この葛藤は、 最初の人間についての魅力的な神話、 アダムに関する聖書物語の中に描かれている。 これは実は、紀元前八五〇年ごろ、旧訳聖書の中へもちこまれ、 書きなおされた古代バビロンの物語であるが(*参考サイト①、②、他多数) この物語は、 倫理的判断と自己意識が、どのようにして同時に生まれるかを描いている。 アダムとイブは、 神が「見てたのしく、食べておいしいあらゆる種類の木を生成させた」エデンの園に住んでいる。 この楽園は、あくせく働く必要もなく、欠乏ということを知らない。 さらに重要なことは、 アダムとイブには何の不安も罪の感傷もなかった。 いわば「自分が裸のままであることを知らない」彼らは、 生活のため大地にたたかいを挑む必要もなく、自らの中に何らの心的葛藤もなく、 神とも何の精神的葛藤もなかった。 ただ、アダムとイブは神によって、 善悪を知る智慧の木の実や、生命の木の実を食べてはならないよう命じられていた。 それは 「彼らが善悪を知る神に似ることのないためであった」。 アダムとイブがはじめて木の実を食べてしまったとき、 「彼らは目を開けた」 そして、 はじめて善悪を知ったことの印は、不安と罪の経験として現れてきた。 彼らは「自分の罪を意識した」。 そしてこの物語の作者が、そのこどもらしい、魅力的な文体で記しているように、 真昼に、神が毎日の散歩に楽園をよこぎるとき、 アダムとイブは、神に見られないように木々の間に身をかくした。 彼らの不服従を怒った神は、彼らに罰を割りあてた。 婦人はその夫に対して性的あこがれ(sexual craving)を抱き、 出産の苦しみを味わうよう宣告された。 そして、男性には 労働という罰を与えた。 おまえは 額に汗して生活の資を稼がねばならぬ おまえが大地にかえりつくまで―― おまえはちりだから ちりにかえらねばならない。 この有名な物語は、事実、初期メソポタミアの素ぼくな表現をとっているが、 あらゆる人間の発達途上、1~3才の間のある時期に、遭遇するところのこと、 すなわち、自己意識の出現を述べているのである。 そのときまで、各自は エデンの園に住んでいるのである。 エデンの園は、幼児、動物、天使たちに固有の状態を代表している。 そこでは、倫理的葛藤も、責任も存在しない。 恥も、罪も知らない無垢(イノセンス)の時代である。 生産活動のないパラダイス(楽園)の状況は文学作品の中で さまざまな形で現れている。 それらの描写は、自己認識の生まれてくるまえの初期状態、 あるいは無垢の時代と心理学的に大いに共通点をもつ さらに極限的な状況、つまり、 子宮内生存に対する ロマンチックなあこがれに立ち戻ってゆくことを示している。 Top kusamura 題名 #4 時間 2011-11-12 01 06 45 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 アダムとプロメチュース (2)(*アダムとイブ) 「無垢(イノセンス)状態」の喪失、および倫理感覚の萌芽を手始めに、 人間は、自己意識、不安、罪悪感といった人間特有の重荷を相続するものであることを アダムとイブ神話は示している。 後になってのことかもしれないが、 同じく人間は、自分が「ちりからできている」という認識に達する。 つまり、自分はやがて死ぬものであるという自覚、自己自身の有限性を意識するようになる。 その積極的な側面を考えるなら、 智慧の実を口にすること、正邪(right and wrong)の区別を学ぶことは 心理的、精神的人間の誕生を現している。ヘーゲルは人間の堕罪神話を、「上向きの堕罪」(fall upward)であると述べている。 神話を創世記のなかにとりいれた古代ヘブライ人は、それを天井の歌をもってたたえ、 歓喜すべきこととしている。 というのは、 アダム創造のときより、むしろ、このときこそ 人間がほんとうに人間存在として生まれる日だからである。 しかし、驚くべきことは、これが全て、神の意志、神の命令に「そむく」できごととして 描かれていることである。 神はここでは怒れるるものとして描かれている。 神はいう。 「人間のやつは善悪を知ることによって、おれたちに似てきた。 このままにしておいて、もし人間が手をのばして、生命の木の実を手に入れ、 それを口にするようなことになったらどうなるか。 あいつらは永遠に生きることになる」 この神は、 人間が智慧を身につけ、倫理的感覚をもつことを望んではいなかったと考えるべきだろうか。 ―創世記神話に出てくるように、 この神が人間を自らの姿に形どって造ったということに、何らかの意味が含まれているとすれば、 それは、自由、創造性、倫理的選択という点で、神に似ることを意味する。 神は、人間を 「無垢」のまま、心理的・倫理的盲目状態のままにおくことを望んでいた と解すべきだろうか。 こうした解釈は、 神話についての鋭い心理学的洞察とはあまりにかけ離れているので、 われわれは他のいくつかの説明を見つけなければならない。 たしかに それが紀元前3,000~1,000年へのかけての萌芽の時代に端を発するものではあるにしても この神話は素ぼくな見方を示している。 素ぼくな語り手たちが、 建設的な自己意識と反抗を区別できなかったことは理解できる。 (今日でも、多くの人たちにとってその区別は難しいのだから) この神話の神は、 もっとも古く、素ぼくなヘブライ種族の神、ヤッハウェー(yahweh)であって、 この神は、嫉みと復讐の神として有名である。 後の予言者たちが反抗したのは、 ヤッはウェーの残忍な、非倫理的なやり方に対してであった。 ここで、 同じ古代に生じたオリンパス山のゼウス・そのほかの神々という 併立するギリシャ神話に目をやるならば、 われわれは、アダム神話のもつ奇妙な矛盾に光をあてることができる。 Top kusamura 題名 #5 時間 2011-11-12 05 35 14 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 アダムとプロメチュース (3)(*プロメテウス) プロメチュース(*以下プロメテウスと表記)は、 神々から火を盗み、 それを、人間が暖をとり生産に利用できるよう、人間に与えてしまう。 ある晩、 地上に燃えるあかりを見たゼウスは、人間どもが火をもっていることに気づき、 怒りのあまり、 プロメテウスをつかまえ、コーカサスへ追放し、 鎖で山頂に繋いでしまう。 ゼウスのたぐいまれな想像力は、 昼は、はげたかにプロメテウスの肝臓を食わせ、 夜の間にそれが再生されてもとに戻ると、次の日、再び、はげたかの餌食になる という拷問をつくった。 これは不運なプロメテウスに対し、絶えることなき苦悩を保証するものである。 罰に関するかぎり、残酷さの点ではゼウスのほうがヤハウェーよりも上手である。 今や人間が火を所有してしまったことに怒りを燃やしたギリシャの神は、 一切の病気、悲しみ、悪徳を、蛾のような動物の形にしてひとつの箱の中に閉じ込めてしまい、 マーキュリーにそれを持たせて、 パンドラやエピメテウスが幸福な暮らしをしている 地上のパラダイスに運ばせた。 好奇心の強いパンドラがその箱をあげたとき、 それら生きものが地上にとび出した。 そして人類は、これら決して尽きることのない苦悩にさいなまれることになる。 神の 人間に対するこうした扱いにみられるデーモン的要素は、たしかに美しい情景ではない。 アダムの物語が自己-意識の神話であるように、 プロメテウスは創造性のシンボルである。 ―すなわち人類に新しい生き方をもたらすのである。 実際、プロメテウスの名は「予想」(*pro(先・前)metheus(考える者)=先見の明を持つ者*wiki) を意味する― すでに述べたように、 将来を見通し、計画を立てる能力は、自己意識の一面にすぎない。 プロメテウスの苦悶は、創造性に伴う内的葛藤をあらわしている。 それは不安と罰をあらわしている。―そしてそれは、ミケランジェロ、トーマスマン、ドストエフスキーその他多くの創造的人物が われわれに語っているように― 人類に新しいものをもち込む人間の当然うくべきものである。 アダム神話の場合と同じように、 ゼウスは人間の向上衝動を嫉妬し、罰という形で復讐をはかっている。 ここにも同じ問題が起きる。 ―神々が人間の創造性に反撃するということはどんな意味をもつのか、と。 たしかにアダムとプロメテウス、いずれの行為にも神々への反抗がみられる。 これが、あるがままのそれら神話が意味をもってくるポイントである。 ギリシャ人、ヘブライ人たちは次のことを知っていた。 すなわち、人間が自己の人間的限界を超出しようとするとき、無理を押す罪を犯すとき、(ダビデがウリヤの妻を奪った行為)傲慢のきわみをなすとき、(トロイを征服したときのアガメムノン)あるいは、 身に万能の力ありと僭称するとき、(近代ファシズムの観念論)自己の限られた知識をもって究極の真理ととるとき、(宗教的、科学的を問わず、ドグマ(教条主義)的人間のやるごとく) そのとき人間は危険な状況にある。 ソクラテスは正しかった。 智慧の始まりは、自己の無知を認めることであり 自己の能力の限界を認めてかかるときだけ、 ある程度その限界を超えることができるのである。 神話は、誤った自惚れに対して警告する点で健全である。 Top kusamura 題名 #6 時間 2011-11-12 07 03 38 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 アダムとプロメチュース (4)(*抵抗) ところで、上述の神話が描いている反抗は、あきらかに正当であると同時に建設的である。 したがって、それらの神話を、 自己の有限性、および、自惚れに対して人間の闘う姿として簡単に捨て去ることはできない。 これらの神話は、次のような心理的葛藤を描いている。 こどもが「開眼し」、自己-認識を得るには、つねに、 それが親(*あるいは親代理となる重要他者)であれ、神であれ、 権力をもつ者との潜在的な葛藤を引き起こす しかも、 こうした抵抗は、 それを抜きにしては、 子どもは、自由、責任、倫理的選択を主張できるだけの潜在力をもち得ず、 人間固有のもっとも高価な性格特性が眠ったままになってしまうような この抵抗がなぜ非難されねばならないのか。 これら神話の中には、 ねたみの神々によってあらわされている強固な権威と、 新しい生命や創造性の急激な出現とのあいだには、古くからの葛藤があることが語られている。 新しいヴァイタリティの出現は いつもある程度、既存の習慣や信仰を破壊してゆくものであり、 それは、成長してゆく人間だけでなく、 権力の座にあるののにたいしても脅威と不安をよび起こすものである。 「新しいもの」を代表する人々は、 オレステスやエディプスが見いだしたように、 堅固な権力との死闘の中に身をおくことになるかもしれない。アダムの不安とプロメテウスの体験したような苦悩は、 創造的人間それ自身の中には、前進することの恐怖のあることを心理学的にもの語っている。 これら神話の中には、 人間の勇気ある側面だけでなく、 自由よりも逸楽を求め、 成長より安定を好むところの奴隷根性的側面が語られている。 アダムとイブの神話の中で科せられる罰が「性的欲求」と「労働」であるという事実は 重要なポイントである。 というのは、土を耕し、食物を生産し、自ら手を下すことによって創造する機会、 これを罰としての労働と考えさせるのは、 われわれの中にあって、 いつまでも面倒を見てもらいたいという欲求のためではなかろうか。 性的欲求それ自体を重荷ととるのは、自分自身が不安であることを示すものではなかろうか。 実際オリゲネスがやったように、 自らの自己認識を去勢してしまうことは、 欲求を切断することによって、葛藤を避けようとするものである。 確かに、自分自身の生活の糧を生産しなければならないことに伴う不安と罪、 それに性欲、自己意識のもつほかの側面に含まれる問題は 苦しいものである。 ときどき、それはたしかに大きな葛藤や苦悩をひき起こすことがある。 精神病のような極端な場合をのぞくとしても、自己認識、創造性といった冒険のために払う代償としては、 不安や罪悪感はあまりにも高価である。という主張もありうる。 無垢な幼児であるよりむしろ人間存在であろうとするための 力を得るためたの代償として、それらはあまりに高価すぎるのだろうか。 これらの神話は、 それがギリシャ、ヘブライあるいはキリスト教のものであるにせよ、 あらゆる宗教的伝統のもつ権威主義的側面を示している。 それらが、新しい倫理的洞察にたいして反撃してくるのである。 それは嫉みと、復讐の神ヤハウェーの声としてあらわれたり、 息子の地位と権力に嫉妬して、自分の息子を棄て狼にゆだねる王、エディプスの父親の声にみられる。 あるいは、若々しいもの、 成長するものを押しつぶそうとする首長や僧職者の形をとることもある。 さらに 新たな創造性に抵抗するドグマティック(教条的)な信念や厳格な習慣にもみられる。 たしかに、全ての社会が両面をもたねばならない。 一方には、新しいアイデアや倫理的洞察を生みだすところの根源力が必要であり、 他方には、過去の価値を保存する制度というものがなければならない。 新しいヴァイタリティと古い形式、変化と安定、 現存の制度を攻撃する預言的宗教と制度を保護する僧職宗教 といった両面なしに いかなる社会も永続することはできない。 しかし、すでにみたように、今日、われわれの直面している問題は、 順応することを目標とする圧倒的傾向がみられる(*ことである)。 (*次節へ) [/b] Top kusamura 題名 #7 時間 2011-11-12 08 21 42 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 アダムとプロメチュース (5)(*順応・服従) 今日、順応することを目標とする圧倒的傾向がみられる。 集団が自分に期待している通りに、 死にものぐるいになって生きようとするレーダー型の人間(*周囲に合わせるため常に周囲へアンテナを張っている人間)は、あきらかに 自己の所属集団の基準に「適応する」ことをもって道徳と思っている。 こうした時代においては、倫理とは、 いよいよ「服従」と同一視される傾向にある。 われわれは 社会と教会の指示に従っているかぎり「善良」ということになる。 アダム神話をひととおり見るだけなら、この傾向はうまく合理化されている。つまり、 ―もしアダムが服従していたなら、 彼は決して楽園を追放されることはなかったことを指摘できる。 この見方は、 現代の混乱した時代においては、きわめて強力に訴えるものがある。 心配も、欠乏も、不安も、葛藤も、個人的責任もない パラダイスによって象徴される状態が、 不安の時代においては切に望まれるからである。 このように、 自己意識を発達させないことが、暗黙のうちによいこととされ、 それはあたかも、 文句をいわず、服従するのがよいこととされ、 個人的責任をひき受けることが少なければ少ないほどよいこと とされているようなものである。 服従することがどうして倫理的とされるのか、 われわれの目標が単なる服従であるとすれば、われわれは 犬を要求される通りに動くよう訓練できる。事実、犬は、 その飼い主の人間以上に、いっそう「倫理的」になるかもしれない。 飼い犬は、 自由が抑圧され、拒否されることに対する抗議として、 たえずくすぶっている神経症的なものを、 なにか不服従の「行為」の形で爆発させることをしないように 仕付けられているからである。 さて、社会学的レベルでは、受け入れている規範に従うことがなぜ倫理的なのか。 一九〇〇年代において、その当時の理想とされる生活を充実させる人は 当時のほとんどの人と同様、性的に抑圧されてきていた。 一九二五年になると、その同じ人物が、当時うけ入れられている生活様式にたいし、 おだやかではあるが、反抗的になってきた。 一九四五年になると、 キンゼイ報告にでてくるような行動様式のほぼ平均的なもので、その行動を導くようになってきた。 それを「文化的」ないし「道徳的」ルール、あるいは 絶対的な宗教的教義と呼んで、そのルールをいかめしくしたところで、 こうした「順応性」のどこが倫理的なのか。 あきらかにこのような行動は、人間的倫理の 本質から、はずれている。 ―すなわち、 ここには他者との独自なかかわり合いを敏感に認識するとか、 ある程度の自由と責任をもって、創造的関係をつくりあげることがなされていない。 倫理的感受性と現在の制度との間に生ずる葛藤ならびに 倫理的自由に伴う不安について、 もっともはっきり描きだしているのはドストエフスキーの「大審問官」である。 (次節へ) Top kusamura 題名 #8 時間 2011-11-12 09 53 06 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 アダムとプロメチュース (6)(*ドストエフスキー)倫理的感受性と、 現在の制度との間に生ずる葛藤 ならびに、倫理的自由に伴う不安について、 もっともはっきり描きだしているのはドストエフスキーの「大審問官」(*『カラマーゾフの兄弟』中の一章)である。 ある日、キリストがこの世に還ってきて 静かに、控えめに町の人々を治療したが、 誰もがそれを認めていた。 それはたまたまスペインの宗教裁判中であった。 老枢機卿である大審問官は町でキリストに逢い、 彼を獄につないでしまった。 真夜中のこと、審問官が獄にやってきた。 それは なぜキリストが地上に還ってこなければならかったかという理由を、 だまっているキリストに説明するためであった。 一五〇〇年の間、教会は、 キリストの行った、人間に自由を与えるという 根本的な間違いを 是正するためにたたかってきた。 そして審問官はいう、 人間どもは、自分たちのやったことをイエスがもとにもどすことを 許さないであろう。 キリストの間違いは、 「厳格な古代法のかわりに、キリストが、自由な心情をもって、 何が善であり、悪であるかを単独で決定しなければならない」 という重荷を人間に課したことであり、 自由選択というこのおそろしい重荷は人間の手に負えないものである。 キリストは、このうえもなく人間を尊敬した、と審問官は主張する。 そしてキリストは、次のことを忘れてしまったという。すなわち 人間は実際のところ、こども扱いされ、「権威」と「奇跡」によって導かれることを願っている ということである。 キリストは、悪魔が誘惑して述べているように、 人間に単にパンのみを与えるべきであった。 それなのに、 「キリスト、おまえは人間から自由を奪わず、私の申し出をことわってしまった。 考えてみるに、もし服従がパンであがなえるとすれば、その自由になんの価値があろうか。…… しかし結局人間どもは、その自由をわれわれの足下にさし出して、 われわれに請うことになる。私たちをあなたの奴隷にしてください。 その代わり、食べさして下さい。と、…… キリストよ、お前は忘れてしまったのか、 人間は善悪を知る選択の自由よりも、平安と死をさえ望んでいることを。」 キリストの 自由な生き方にしたがうことのできる少数の英雄的に強い人間がいる、と その老審問官は続ける。 だが、たいていの人間が求めているのは、 「すべてが一つの、同意見の、調和ある蟻塚に合体されることである。… 私はお前に告げよう。不幸な人間がもっとも苦しめられるのは、人間が もってうまれた自由という あのさずかりものを、手渡してしまえる相手を 一刻も早く見つけたいという心配なのだ。 そのさずかりものを受け取るのは教会である。 “われわれは、その人間が従順か否かに従って、彼が妻や愛人と暮らすこと こどもをもつこと持たないことを、許可したり、禁じたりすることになる そして人間どもは、よろこんで、心からわれわれに服従するであろう。…… というのは、服従は、 自分の力で自由な決断を下そうとするとき、耐えねばならぬ大きな不安や、 おそろしい苦悩から人間を救ってくれるからである”。」 その老審問官は、「なぜお前はわれわれの仕事の邪魔に戻ってきたのか」 と、いくぶん悲しそうにことばを変えて質問し、 去り際に、明日キリストは焼かれることになると告げてゆく。 もちろんドストエフスキーは、 審問官がカトリックとかプロテスタントとかの味方であると いっているのではない。 彼はむしろ、 「同意見の…蟻塚」を求める宗教のもつ 生-妨害的な側面を描きだそうとしているのである。 これは人間を奴隷にし、 一杯のポタージュのためもっとも高価なものを犠牲にしてしまったエソウのように、 もっとも貴重なもの、自由と責任の放棄を誘うような要素を指摘している。 したがって、 それを中心に自分の生活を統合できるような価値 を求めている今日の人間に必要なことは、 容易に手に入る簡単な出口は何もないという 事実を直視することである。 Top kusamura 題名 #9 last 時間 2011-11-12 23 55 35 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 アダムとプロメチュース (終)(*倫理と宗教) 歴史をふりかえってみると、 倫理的預言は、宗教的伝統の中に生まれ、かつ育ってきた。 ―それを知るには、アモス、イザヤ、イエス、聖フランシス、老子、ソクラテス、スピノザなどを思い出せばよい。 しかし他方、 倫理的に敏感な人間と、宗教制度との間には、よりきびしい闘いが存在する。 倫理的洞察は、現存の慣習に順応することを攻撃するところから生まれてくる。 山上の垂訓で、 キリストは自分の提出する新しい倫理的洞察それぞれを述べる前に、 次のような言葉を繰り返して言っている。 「…と言えるをなんじら聞けり、されどわれはなんじに告ぐ」と。 この体験は、倫理的感受性をもった人間には、たえず繰り返されるものである。 すなわち「新しい酒は、古いつぼに入れてはならない。さもないと つぼは破裂し、酒はこぼれてしまう。」* (*邦訳聖書ではつぼではなく革袋)これは常にあることであって、 ソクラテス、キルケゴール、スピノザのような、倫理的に、創造的な人間は、 伝統的組織のもつ公式化された「規律」とは反対の、 新しい倫理的「精神を」見いだそうとしている。 これら倫理的指導者と、既存の宗教・社会制度との間にはたえず緊張関係が続き、 時として、歴然としたたたかいとなる。 倫理的指導者はしばしば教会を攻撃し、教会は彼らに敵としての烙印を押す。 ―「神に酔える哲学者」(God-toxicated philosophar)スピノザは破門された。 ―キルケゴールの著書のひとつは、『キリスト教徒への攻撃』(attack upon christendom)と題されている。 ―イエスやソクラテスの処刑されたのは、道徳的、社会的安定をおびやかすものとしてであった。 歴史的事実として、 ある時代の聖者たちがいかにしばしば、前の時代のいわゆる無神論者(atheist)であったかを知ると 驚かざるを得ない。 今日、倫理的成長に反するものとして、既存の宗教的制度を攻撃する人の中に ニーチェ、フロイドがあげられる。ニーチェは、 キリスト教道徳は、怨恨(ルサンチマン)によって動機づけられているとして抗議し、フロイドは、 宗教は人を、幼児的依存症に安住させるものとしてそれを批判する。 彼らの表明しているのは、人間の幸福や、自己、(*フロイドの場合は精神分析本来の意味での自我) 実現(fulfillment)に対する倫理的関心である。 ある地方では 彼らの考えは宗教に敵対するものとみなされてきたが(ある部分はそうである) やがて先の世代では、彼らの重要な洞察は、倫理宗教的伝統の中に吸収されてゆき、 宗教は彼らの貢献によってさらに重要なもの、より有効なものになることと思う。 たとえば、ジョン・スチュアート・ミルによると、 彼の父親、ジェームス・ミルは、宗教を「道徳の敵」と考えていたとのことであるが、 父親のミルは、スコットランドの長老派教会で教育を受けている。 しかし後になって教会から離脱している。 それは、予定説に説かれるような、 人は自らの選択によることなく、そこへ向かいつつあるということを承知のうえで、 神は地獄をつくることができた、という考えを受けいれることができなかったためである。 彼は次のように考えた。 人間の意志行為によって成り立つものである道徳の規準を、 根本からだめにしてしまったものが宗教である。 しかもこの宗教は、実際には人間のことを惜しみなくお世辞のことばを使っておだてているが、 よくみると、人間をあきらかに憎らしいものとして描いている。 (息子の)ミルは19世紀中頃にあらわれるこの種の「不信仰者」(unbeliever)について次のように述べている。 「不信仰者の中のもっとも立派な人たちは、… もっぱら、自分だけが宗教的であると僭称する人々よりも、 宗教ということばのもつほんとうの意味での、真実、宗教的な人である」 と。 ニコライ・ベルジャエフは、ロシアの正当派神学者かつ哲学者である。 その彼も、 前述のミルが述べている同じサディズム的な教義に抗議している。 そして、次のような事実に反撃している。 「キリスト教徒は、低頭し、へつらい、平伏することによって、 自分がいかに敬虔であるかを表明してきた。しかしこんなものは 奴隷根性(servility)や屈辱を示すジェスチャーにすぎない。」 史上まれにみる倫理#2C4E16的預言者すべての例にもれず、ベルジャーエフは、常に 「神の名において神にたたかいを挑むのである」 と述べている。 「自分がそれに反抗を決意すべき対象を裁くあたって、 私は、ある究極的な価値(ultimete value)にふれることなく、 またその究極的価値の名においてではなくして、反抗を打出すことはできない。 いいかえれば、私は神の名において反撃するのである。」 このように、 新しい洞察と、旧慣墨守的な権威とのたたかいの中には、 共通のモチーフがある。 アダムとヤハウェー、 プロメテウスとゼウス、エディプスと父親、 オレステスと母権制権力 といった二者間の葛藤、実際の人間倫理史上の予言者の中にみられるたたかいである。 それは、レベルこそ違え、 われわれが、こどもと親とのあいだの葛藤の中に思い出すのとおなじ心理学的モチーフ ではないだろうか。 もっと正確にいうと、(*以下原文傍点)それは あらゆる人間に見られる自己意識の拡大、 成熟、自由、責任性、の確立をめざしてたたかう傾向と、 他方、 いつまでもこどものままでいて、 親あるいは親に代わるべき者の保護下にいたいという傾向、 この両者間の葛藤ではなかろうか。 第6章 Ⅰ 了 Top Page1of1 [ 9 posts ] 1 新しい記事有り 新しい記事無し 重要トピック 新しい記事有り(人気) 新しい記事無し(人気) 告知トピック 新しい記事有り(ロック) 新しい記事無し(ロック) 新規投稿 不可 返信 不可 自分の記事の編集 不可 自分の記事の削除 不可 投票への参加 不可 Powered by SuwaBB as @BB like phpBB ©2013 atfreaks
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