約 2,887,470 件
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/51090.html
【検索用 ねむれないよるに 登録タグ MURASAKI VOCALOID からんころん ね 初音ミク 曲 曲な】 + 目次 目次 曲紹介 歌詞 コメント 作詞:MURASAKI 作曲:MURASAKI 編曲:MURASAKI イラスト:からんころん(twitter) 唄:初音ミク 曲紹介 __静まれよ怒レル僕の鼓動__ 曲名:『眠れない夜に』(ねむれないよるに) 初音ミクの歌声と鬱々としたビートをお楽しみください(概要欄より) MURASAKI氏の14作目。 歌詞 (piaproより転載) 眠れないないナイト こんな夜 砂糖をひとつかみミルクティー くるりくるくるくるりかき混ぜて あたたかいうちに 眠りについて (間奏) 世界 予知 未来 都市 宇宙船 目指した星 どこにも行けないのは誰だ すくんだ手 くすんだ目 怯えきって震えていた 救い差し伸べたのはなんだ 鳴らないラジオ しなびた林檎 大切なものを詰め込んで 今日という日とサヨナラだ 眠れないないナイト こんな夜 砂糖をひとつかみミルクティー くるりくるくるくるりかき混ぜて あたたかいうちに眠りについて 夢でみるみるうちに羊たち 溢れちゃっても焦らないでよね いやよ嫌々しても変わらない 鎮まれよ怒れる僕の鼓動 沈んでったイカれた脳の味噌 (間奏) 不安そうな瞳 泳ぐ魚 何度だって蘇る 景色 ここはどこだろう 夢とキスした あの日から抜け出せない 眠れないないナイトこんな夜 ミルクティーにうつる自分を見て 情けないないと首を振る 違えちゃった距離感つきとめて 変われないないないととため息を ついてはまた呑んで繰り返す いやよ嫌々しても変わらない 鎮まれよ怒れる僕の鼓動 ここ痛いたいたいよぎゅっと胸 しめつけられ目を逸らし暮らす くらいCRY喰らいついて目指す帰路 ユートピア遥か遠くのよう 孤独ドクドクドクと脈を打つ 僕はちっさな存在なんだよ 宇宙ちゅうちゅうネズミ笑ってる 小人が足元でダンスした 踏み潰しても腐ってく日々だ 死んじまったら意味はないもんな コメント 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/green-p/pages/142.html
藤村 淳 【JUN FUJIMURA】 仕事:幽霊屋敷の庭師 役職:南亭のコリーのボス 動物:人情派の青い狼 サイトG.P.で知り合った14才も年下の彼氏と、ラブラブ恋愛、同棲中? が、しかし、ここまで水の合わないカップルも珍しいってくらいに、年中大喧嘩を勃発しては、周囲に苦笑をもたらしている。 まぁ犬も食わないって言うし(⌒▽⌒ゞ仲の良さの象徴として♪ shell.gif 《寝室》MENUへ戻る 《玄関》へ戻る
https://w.atwiki.jp/prima/pages/3062.html
Blogs on 田村麻子 #bf レパートリー 作曲家名(全角フルネーム)に置き換えてください [部分編集] 作曲家名(全角フルネーム)に置き換えてください 作品名(全角)に置き換えてください役名(全角)に置き換えてください Last Update 2019/05/25 02 24ページ先頭へ
https://w.atwiki.jp/gensouutage_net/pages/7852.html
コメント リプレイ コメント kiwamuRX 変身なんていらなかったんや…第2回 リプレイ kiwamu//慧音4//慧音(人間)-慧音(人間)-慧音(妖怪)-慧音(妖怪)- 砂井裏鍵//逢魔用神奈子4//八坂 神奈子-八坂 神奈子-八坂 神奈子-八坂 神奈子- 砂井裏鍵は山札をシャッフルしました。 賽が投げられて、kiwamuの先攻になった。 砂井裏鍵 まぁフランだろ・・・ 砂井裏鍵 ( ゚д゚ ) kiwamu >< kiwamu いくぜ 砂井裏鍵 どうぞどうぞ 配置:葵符「水戸の光圀」 Turn 2 - 砂井裏鍵//体力22( 20) 呪力1( 1) 手札7( 6) 山33( 34) スペル0( 1) タイマー00 00(00 14) 配置:「マウンテン・オブ・フェイス」 Turn 3 - kiwamu//体力20( 22) 呪力3( 1) 手札6( 6) 山33( 33) スペル1( 1) タイマー00 12(00 06) 手札:転世「一条戻り橋」//倭符「邪馬台の国」//プレインエイジア//根性避け//パターン避け//三種の神器// 配置:転世「一条戻り橋」 Turn 4 - 砂井裏鍵//体力22( 20) 呪力3( 3) 手札7( 5) 山32( 33) スペル1( 2) タイマー00 01(00 23) 配置:天竜「雨の源泉」 砂井裏鍵は威光を砂井裏鍵のリーダーにつけました。 Turn 5 - kiwamu//体力20( 22) 呪力6( 0) 手札6( 5) 山32( 32) スペル2( 2) タイマー00 18(00 12) 手札:倭符「邪馬台の国」//プレインエイジア//根性避け//パターン避け//三種の神器//三種の神器// 砂井裏鍵 あ、やべ 砂井裏鍵 隠しておくべきだった kiwamu これ奪えないのかw 配置:倭符「邪馬台の国」 起動:倭符「邪馬台の国」 kiwamuは三種の神器をkiwamuの倭符「邪馬台の国」につけました。 砂井裏鍵の呪力が+1 (1) - 威光 Turn 6 - 砂井裏鍵//体力22( 20) 呪力4( 1) 手札6( 4) 山31( 32) スペル2( 3) タイマー00 05(00 59) 砂井裏鍵 ・・・・・・・・・・ イベント(砂井裏鍵):侵略 kiwamuの呪力が+1 (2) - 慧音(人間)・上白沢 慧音 砂井裏鍵 やめてください kiwamuは三種の神器を場から捨札に送りました。 砂井裏鍵は侵略を場から捨札に送りました。 kiwamu >< 配置:神祭「エクスパンデッド・オンバシラ」 起動:神祭「エクスパンデッド・オンバシラ」 Turn 7 - kiwamu//体力20( 22) 呪力5( 0) 手札5( 4) 山31( 31) スペル3( 3) タイマー01 01(00 30) 手札:プレインエイジア//根性避け//パターン避け//三種の神器//未来「高天原」// 砂井裏鍵 要らなかった気がする 戦闘:kiwamu - 倭符「邪馬台の国」 vs 神祭「エクスパンデッド・オンバシラ」 - 砂井裏鍵 結果:kiwamu - Dmg 2 4 Dmg - 砂井裏鍵 配置:未来「高天原」 起動:未来「高天原」 砂井裏鍵の呪力が+1 (1) - 威光 Turn 8 - 砂井裏鍵//体力18( 18) 呪力5( 0) 手札5( 4) 山30( 31) スペル3( 4) タイマー00 22(01 33) 砂井裏鍵 おいばかやめろ 配置:月の兎 起動:神祭「エクスパンデッド・オンバシラ」 Turn 9 - kiwamu//体力18( 18) 呪力4( 3) 手札5( 4) 山30( 30) スペル4( 4) タイマー01 21(00 46) 手札:プレインエイジア//根性避け//パターン避け//三種の神器//歴史遮断// kiwamu うぎぎ… 戦闘:kiwamu - 未来「高天原」 vs 神祭「エクスパンデッド・オンバシラ」 - 砂井裏鍵 イベント(kiwamu):パターン避け kiwamuはパターン避けを場から捨札に送りました。 結果:kiwamu - 回避 5 Dmg - 砂井裏鍵 砂井裏鍵 ないよ(´・ω・`) kiwamu いや、スペルとまった^q^ 砂井裏鍵 で?w 砂井裏鍵の呪力が+1 (4) - 威光 Turn 10 - 砂井裏鍵//体力13( 18) 呪力9( 1) 手札5( 4) 山29( 30) スペル4( 4) タイマー00 34(02 04) kiwamu さぁw 起動:神祭「エクスパンデッド・オンバシラ」 Turn 11 - kiwamu//体力18( 13) 呪力5( 7) 手札5( 5) 山29( 29) スペル4( 4) タイマー01 49(00 55) 手札:プレインエイジア//根性避け//三種の神器//歴史遮断//転世「一条戻り橋」// 砂井裏鍵 まさにでっていう 戦闘:kiwamu - 未来「高天原」 vs 神祭「エクスパンデッド・オンバシラ」 - 砂井裏鍵 結果:kiwamu - Dmg 2 5 Dmg - 砂井裏鍵 配置:転世「一条戻り橋」 起動:未来「高天原」 砂井裏鍵の呪力が+1 (8) - 威光 Turn 12 - 砂井裏鍵//体力8( 16) 呪力13( 0) 手札6( 4) 山28( 29) スペル4( 5) タイマー00 36(02 20) 起動:神祭「エクスパンデッド・オンバシラ」 起動:「マウンテン・オブ・フェイス」 Turn 13 - kiwamu//体力16( 8) 呪力5( 3) 手札5( 6) 山28( 28) スペル5( 4) タイマー02 00(01 02) 手札:プレインエイジア//根性避け//三種の神器//歴史遮断//歴史遮断// 砂井裏鍵 俺の方がスペル少ない件 戦闘:kiwamu - 未来「高天原」 vs 神祭「エクスパンデッド・オンバシラ」 - 砂井裏鍵 結果:kiwamu - Dmg 2 5 Dmg - 砂井裏鍵 起動:葵符「水戸の光圀」 kiwamuは歴史遮断を砂井裏鍵のリーダーにつけました。 砂井裏鍵の呪力が+1 (4) - 威光 Turn 14 - 砂井裏鍵//体力3( 14) 呪力8( 1) 手札7( 4) 山27( 28) スペル4( 5) タイマー00 41(02 48) 戦闘:砂井裏鍵 - 「マウンテン・オブ・フェイス」 vs 葵符「水戸の光圀」 - kiwamu 結果:砂井裏鍵 - Dmg 0 3 Dmg - kiwamu 配置:神符「杉で結ぶ古き縁」 起動:神符「杉で結ぶ古き縁」 Turn 15 - kiwamu//体力11( 3) 呪力7( 5) 手札5( 6) 山27( 27) スペル5( 5) タイマー02 28(01 18) 手札:プレインエイジア//根性避け//三種の神器//歴史遮断//未来「高天原」// 配置:未来「高天原」 起動:未来「高天原」 起動:葵符「水戸の光圀」 砂井裏鍵の呪力が+1 (6) - 威光 Turn 16 - 砂井裏鍵//体力3( 11) 呪力11( 0) 手札7( 4) 山26( 27) スペル5( 6) タイマー00 53(03 01) 戦闘:砂井裏鍵 - 神符「杉で結ぶ古き縁」 vs 葵符「水戸の光圀」 - kiwamu 結果:砂井裏鍵 - Dmg 2 3 Dmg - kiwamu 配置:神祭「エクスパンデッド・オンバシラ」 起動:「マウンテン・オブ・フェイス」 Turn 17 - kiwamu//体力8( 1) 呪力6( 3) 手札5( 6) 山26( 26) スペル6( 6) タイマー02 37(01 28) 手札:プレインエイジア//根性避け//三種の神器//歴史遮断//隠蔽// 戦闘:kiwamu - 未来「高天原」 vs 「マウンテン・オブ・フェイス」 - 砂井裏鍵 結果:kiwamu - Dmg 3 5 Dmg - 砂井裏鍵 kiwamu ありしたー 砂井裏鍵 乙 砂井裏鍵 どうにもならん kiwamu まぁ、そもそも神奈子はきつそうだ 砂井裏鍵 いや 砂井裏鍵 後手と《未来「高天原」》見た瞬間 砂井裏鍵 投了でもいいんだが kiwamu カードプールの狭さから歴史遮断つかいたかっただけーという kiwamu まぁ、だろうなぁ… 砂井裏鍵 戻るお 砂井裏鍵 ノシ kiwamu あいさ kiwamu ノシ
https://w.atwiki.jp/kingofsamurai/pages/4.html
ニュース @wikiのwikiモードでは #news(興味のある単語) と入力することで、あるキーワードに関連するニュース一覧を表示することができます 詳しくはこちらをご覧ください。 =>http //atwiki.jp/guide/17_174_ja.html たとえば、#news(wiki)と入力すると以下のように表示されます。 ウィキペディアを作ったiMacが箱付きで競売に登場。予想落札価格は約96万円!(ギズモード・ジャパン) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース メトロイド ドレッド攻略Wiki - Gamerch(ゲーマチ) ツムツム攻略Wiki|ゲームエイト - Game8[ゲームエイト] 【グランサガ】リセマラ当たりランキング - グランサガ攻略wiki - Gamerch(ゲーマチ) アイプラ攻略Wiki|アイドリープライド - AppMedia(アップメディア) Among Us攻略Wiki【アマングアス・アモングアス】 - Gamerch(ゲーマチ) マニュアル作成に便利な「画像編集」機能を提供開始! - ナレッジ共有・社内wikiツール「NotePM」:時事ドットコム - 時事通信 マニュアル作成に便利な「画像編集」機能を提供開始! - ナレッジ共有・社内wikiツール「NotePM」 - PR TIMES 【Apex Legends】ヴァルキリーの能力と評価【エーペックス】 - Gamerch(ゲーマチ) モンハンライズ攻略Wiki|MHRise - AppMedia(アップメディア) ポケモンBDSP(ダイパリメイク)攻略wiki - AppMedia(アップメディア) SlackからWikiへ!シームレスな文章作成・共有が可能な「GROWIBot」リリース - アットプレス(プレスリリース) 【ウマ娘】チャンピオンズミーティングの攻略まとめ - Gamerch(ゲーマチ) 【ウマ娘】ナリタブライアンの育成論|URAシナリオ - Gamerch(ゲーマチ) 【ウマ娘】ヒシアケボノの育成論|URAシナリオ - Gamerch(ゲーマチ) 【ウマ娘】カレンチャンの育成論|URAシナリオ - Gamerch(ゲーマチ) 【ウマ娘】フジキセキの育成論|URAシナリオ - Gamerch(ゲーマチ) ドラゴンクエストけしケシ攻略Wiki - Gamerch(ゲーマチ) 【スタオケ】カード一覧【金色のコルダスターライトオーケストラ】 - Gamerch(ゲーマチ) 【スマブラSP】ソラのコンボと評価【スマブラスペシャル】 - Gamerch(ゲーマチ) 【ブレフロレゾナ】リセマラ当たりランキング【ブレイブフロンティアレゾナ】 - ブレフロR攻略Wiki - Gamerch(ゲーマチ) 【ポケモンユナイト】サーナイトの評価と性能詳細【UNITE】 - Gamerch(ゲーマチ) 仲村トオル、共演者は事前に“Wiki調べ”(オリコン) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 【ENDER LILIES】攻略チャートと全体マップ【エンダーリリィズ】 - Gamerch(ゲーマチ) 【ウマ娘】あんしん笹針師の選択肢はどれを選ぶべき? - Gamerch(ゲーマチ) 【ポケモンユナイト】アップデート情報・キャラ調整まとめ - ポケモンユナイト攻略Wiki - Gamerch(ゲーマチ) 【Apex】シーズン11の新要素と最新情報まとめ【エーペックス】 - Gamerch(ゲーマチ) ロストジャッジメント攻略Wiki - Gamerch(ゲーマチ) 【Among us】新マップThe Airship(エアシップ)の解説【アモングアス】 - Gamerch(ゲーマチ) ハーネスについて小児科医の立場から考える(坂本昌彦) - 個人 - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース ゼルダ無双攻略Wiki|厄災の黙示録 - AppMedia(アップメディア) 【テイルズオブルミナリア】リセマラ当たりランキング - TOルミナリア攻略Wiki - Gamerch(ゲーマチ) ウマ娘攻略Wiki - AppMedia(アップメディア) ゲトメア(ゲートオブナイトメア)攻略Wiki - Gamerch(ゲーマチ) 【白夜極光】リセマラ当たりランキング - 白夜 極光 wiki - Gamerch(ゲーマチ) お蔵入りとなった幻の『スーパーマリオ』 オランダの博物館でプレイ可能?(リアルサウンド) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース ナレッジ共有・社内wikiツール「NotePM」が「ITreview Best Software in Japan 2021」のTOP50に選出 - PR TIMES 真女神転生5攻略Wiki|メガテン5 - AppMedia(アップメディア) 【B4B】近接ビルドデッキにおすすめのカード【back4blood】 - Gamerch(ゲーマチ) ポケモンスナップ攻略wiki - AppMedia(アップメディア) 富野由悠季「ブレンパワード」作り直したい!ファンを前に意欲(シネマトゥデイ) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 【ウマ娘】査定効率から見た取るべきスキルとおすすめキャラ【プリティーダービー】 - Gamerch(ゲーマチ) 【スマブラSP】カズヤの評価とコンボ【スマブラスペシャル】 - Gamerch(ゲーマチ) ナレッジ共有・社内wiki「NotePM」が「ITreview Grid Award 2021 Fall」で、チームコラボレーションとマニュアル作成部門において「Leader」を5期連続でW受賞! - PR TIMES メモ・ドキュメント・wiki・プロジェクト管理などオールインワンのワークスペース「Notion」が日本語ベータ版提供開始 - TechCrunch Japan 【ギアジェネ】リセマラ当たりランキング【コードギアス】 - ギアジェネ攻略Wiki - Gamerch(ゲーマチ) モンスターファーム2(MF2)攻略wiki|アプリ・Switch移植版 - AppMedia(アップメディア) 【ブラサジ】最強キャラTierランキング【ブラックサージナイト】 - Gamerch(ゲーマチ) 【パワプロ】鬼滅の刃コラボ情報まとめ - Gamerch(ゲーマチ) 【SPAJAM2021】第3回予選大会は「クイズ!WIKIにゃんず!」を開発したチーム「かよちゃんず」が最優秀賞! | gamebiz - SocialGameInfo 検索結果における「ナレッジパネル」の役割とは・・・ウィキメディア財団とDuckDuckGoの共同調査 - Media Innovation ナレッジ共有・社内wikiツール「NotePM」が「BOXIL SaaS AWARD 2021 Autumn」にて「コラボレーション部門」を受賞! - PR TIMES Wikipediaが「中国人編集者の身の安全を守るため」に一部の編集者アカウントをBANに - GIGAZINE 【ドッカンバトル】3.5億ダウンロードキャンペーン最新情報 - ドッカンバトル攻略Wiki - Gamerch(ゲーマチ) BTS(防弾少年団)のV、8月のWikipedia閲覧数が韓国アーティストで1位!グループでは4ヶ月連続トップ - Kstyle 【イース6オンライン】リセマラ当たりランキング|召喚ガチャの開放条件は? - Gamerch(ゲーマチ) BacklogからNotePMへwiki情報を自動API連携する「Backlog to NotePM」をSaaStainerに掲載開始 - PR TIMES ライザのアトリエ2攻略Wiki - AppMedia(アップメディア) 真女神転生3リマスター攻略Wiki|メガテン3 - AppMedia(アップメディア) タスクも文書もWikiもデータベースもまとめて管理できる「Notion」とは? - ASCII.jp ナレッジ共有・社内wikiツール「NotePM」が、見るだけ専用ユーザー『無料』の新プランを発表! - PR TIMES 【かのぱず】リセマラ当たりランキング【彼女お借りします】 - Gamerch(ゲーマチ) 【乃木フラ】リセマラの必要はある?【乃木坂的フラクタル】 - Gamerch(ゲーマチ) 【パワプロ】生放送まとめ|パワフェス2021 - パワプロ攻略Wiki - Gamerch(ゲーマチ) 【ポケモンユナイト】サーナイトのおすすめビルド(わざ・持ち物) - Gamerch(ゲーマチ) ルーンファクトリー5攻略wiki|ルンファク5 - AppMedia(アップメディア) シャーマンキングふんばりクロニクル攻略Wiki - Gamerch(ゲーマチ) 【絶句】Wikipedia(ウィキペディア)に去年より低い金額を寄付したら…あまりにも酷い仕打ちを受けた - ロケットニュース24 簡単操作で自分専用Wikiを構築できるMarkdownエディタ「Obsidian」のモバイル版を使ってみた - GIGAZINE ディーサイドトロイメライ攻略Wiki - Gamerch(ゲーマチ) 情報マネジメントツール「Huddler」がwiki機能を刷新 - PR TIMES シェアエコ配送アプリ「DIAq(ダイヤク)」のアンカーアプリで、高層ビル・商業施設の入館方法などお役立ち情報をまとめた「DIAqwiki」を公開 - アットプレス(プレスリリース) 異常熱波のカナダで49.6度、いま北米で起きていること(森さやか) - 個人 - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 【ツイステ】マスターシェフの攻略~辛味のふるさと~【料理イベント】 - Gamerch(ゲーマチ) 【ラグナロクオリジン】リセマラは不要?おすすめ職業は?【ラグオリ】 - Gamerch(ゲーマチ) 白夜極光攻略wiki - AppMedia(アップメディア) 【バイオミュータント】2.02アプデ|アップデート1.4情報 - バイオミュータント攻略Wiki - Gamerch(ゲーマチ) ニーアレプリカントリメイク攻略wiki|ver.1.22 - AppMedia(アップメディア) 【ウマ娘】ゴルシウィークはいつから?キャンペーン情報まとめ - Gamerch(ゲーマチ) シーズン66 - 【超速GP】ミニ四駆 超速グランプリ攻略まとめwiki - 電撃オンライン 乃木坂的フラクタル攻略Wiki - Gamerch(ゲーマチ) 「こんなことになるとは…」13年前のエイプリルフールについた“嘘”がネットで… ある男の告白(BuzzFeed Japan) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 整理不要の情報共有ツール(社内Wiki)「Nerve」シードラウンドで総額約3500万円の資金調達を実施 - PR TIMES Nerve - 整理不要の情報共有ツール(社内Wiki) ローンチカスタマー募集開始のお知らせ - PR TIMES パニシンググレイレイヴン(パニグレ)攻略wiki - Gamerch(ゲーマチ) 【ひなこい】最強ひな写ランキング - ひなこい攻略Wiki - Gamerch(ゲーマチ) 稲作アクションRPG『天穂のサクナヒメ』における「農林水産省攻略wiki説」は本当なのか? - AUTOMATON スタスマ攻略Wiki【スタースマッシュ】 - Gamerch(ゲーマチ) 無料とは思えない多機能っぷりなWikiインフラ「Wiki.js」レビュー、自前でホスト&外部サービスと連携可能 - GIGAZINE Microsoft Teamsの基本と活用(24) TeamsのWikiを使う - マイナビニュース 『ゲーミングお嬢様』での提起が話題に “企業系wiki”に横たわる問題点とは - リアルサウンド 「エイリアンのたまご」,自動周回機能と公式wikiが登場 - 4Gamer.net 【リゼロス】Re ゼロから始める異世界生活 Lost in Memories攻略まとめwiki - 電撃オンライン 【世界初!】モノの背景を全方位で執筆できるVintage Wiki「VOV」を正式リリース - PR TIMES プロジェクトセカイ攻略Wiki【プロセカ】 - Gamerch(ゲーマチ) パワプロ2021/2020攻略Wiki - Gamerch(ゲーマチ) ヌーラボ、「Backlog」の絵文字入力の補完機能やWiki編集の自動マージ機能を改善 - CodeZine(コードジン) ヌーラボ、プロジェクト管理ツール「Backlog」の絵文字入力の補完機能・Wiki編集の自動マージ機能を修正改善 - PR TIMES Backlog、Wikiにファイル添付が容易にできる機能をリリース -- グローバルバーの視認性改善なども実施 - PR TIMES GK川島、パンチング失点でWiki書き換え炎上 「セネガル代表」「プロボクサー」... - J-CASTニュース
https://w.atwiki.jp/kusamura/pages/42.html
このページはhttp //bb2.atbb.jp/kusamura/topic/65942からの引用です kusamura(叢)フォーラム @BBの閉鎖(2015.5.31)に伴い、 @WIKIへ移動します。(作業中)http //www9.atwiki.jp/kusamura/ ログインユーザ登録 メンバーリストグループ設定 トップ»ロロ・メイ著作集1 「失われし自我をもとめて」(1953)» 第1部_第2章 現代の病根 「重要な価値の喪失」 All times are JST(+900) ロロ・メイ著作集1 「失われし自我をもとめて」(1953) Page1of1 [ 19 posts ] 1 投稿者 メッセージ kusamura 題名 第1部_第2章 現代の病根 「重要な価値の喪失」 時間 2011-11-25 20 32 39 no rank Joined Posts 第2章 現代の病根 (*前文) 問題解決の第一歩は、なによりその問題のよってきたるべき原因を理解することである。 個人のみならず国家それ自体がかくも混乱と動揺の渦に投げ込まれている事態をみるに、 一体われわれ西欧世界に何が起こっているのか。 まず歴史的な背景を一べつするとともに、現代を不安と空虚の時代にするような、 いかなる根源的変動が生じつつあるのか。これを考えてみたい。 現代社会における中心的価値の喪失(1)(*個人間競争) 重要なことは、一つの生き方がまさに瀕死の状態にあり、 もうひとつの生き方がいま生まれつつあるといった、そういう時代、 そういう歴史の一時点にわれわれが生きているということである。ルネッサンス以来、現代人には二つの中心的価値があった。 一つは、個人的競争という価値であった。 経済的な私利私欲を追求し、金持ちになることをめざして働けば働くほど その人間はその社会の物質的進歩にそれだけますます貢献していることになるという 信念があった。 経済におけるこの有名な自由放任(laissez-faire)論は、数世紀にわたって十分その任を果たしてきた。 相手なり、自分なりが、その取り引きの増大、向上の拡大によって富の蓄積に努力することは、 結果的には、その社会のため、より多くの物質財を生産することになる。 このような考えが、現代産業主義や資本主義の初期および発達期においては真実性をもっていた。 企業競争の追求は、その全盛期にあってはすばらしい勇気ある理念であった。しかし十九世紀ないし二十世紀になると、状況はかなり変化する。 大企業と独占資本主義の支配する今日、 どれだけの人間が「個人競争者」として成功を克ちとることができようか。 医師、精神療法家、若干の農民にみられるように、 なお自らの力で経済的ボスになり得る余裕をもてる集団はほんのわずかである。 しかし彼らでさえ、物質の変動、市場の変化に従う点では例外ではない。 大多数の労働者、資本家たち、専門的な職業人、ないし実業家でさえ、 それぞれの労働組合なり、大企業なり、大学機構のごとき 広範囲の集団に適合してゆかねばならない。 さもないと、彼らは経済的に生き残っていくことが全く不可能になる。 われわれはたえず他人を追い抜くよう努力せよと教えられてきた。 しかし現実には、今日われわれの成功は、 自分の職場仲間とどれほどうまく一緒に仕事ができるようになるかに かかっている。 今日では、一人一人のギャングでさえ、単独では成功がおぼつかないといわれる。 まずその詐欺なりゆすりの仲間に加入しなければならない。個人的努力やイニシヤティブをとることそれ自体になにか問題があるといっているのではない。 事実、本書でとくに論じたいと思っている点をあげると、 各人、独自の能力や創造性を再発見することが必要であり、 その貴重な能力が、適合という集団主義的計略の中へ融解されてしまうことなく、 社会のためになるような仕事として活用されることである。 科学そのほかの進歩によって、世界的にもまた国内的にも、 いっそう緊密な相互依存関係におかれている20世紀において、 いまや個人主義は、、 各自他人におかまいなく、われがちに私利を追求する という形とは別の形態をとらなければならない。 Top リンク kusamura 題名 #2 時間 2011-11-25 20 44 53 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 現代社会における中心的価値の喪失(2)(*個人主義的競争) 2世紀前なら、辺境の森林から伐り拓くべき農場をもつなり、 前世紀にあっては、新しい事業に着手するためのささやかな資本をもっておりさえすれば、 各自、独力で(each man for himself)、 という哲学が、各自にとってもっともよいことであったし、 また社会にたいしても最善の結果を生んだ。 しかし、社長の婦人連すら、パターン(*社長夫人とはどうあるべきか)への適・不適が審査される時代に、 かかる競争的個人主義ははたしていかなる効果をもっているのだろうか。 個人的な私利の追求は、結局、平等な社会福祉を強調せず、 もはや自動的に社会の善に貢献することにはならない。 この種の個人主義的競争にあっては、 取り引きの上で、相手の失敗はそのままこちらの成功に通じる。 お互いに成功のはしごをよじ登る途上にあるため、相手の失脚は、 それだけこちらを一段せりあげることになる。 こうした個人競争は、自然、隣人を自己の潜在的な敵にしてしまい、 人間関係に、相互の敵意や憤懣を生み、 不安をいやがうえにも増大し、 相互の孤立をまぬがれない。 この敵意がこの2~30年間に、ますます表面化する傾向にある。 そのため、その敵意をカバーするため、さまざまなくふうが試みられてきた。 たとえば、いろんな種類の奉仕機関に加入すること、 (それには、ロータリークラブから、1920年、30年代に生まれたオプティミスト・クラブがあげられる) また、 みんなから好感をもたれるような仲間づくりがある。 しかしその内的矛盾は、遅かれ早かれ爆発する運命にある。 このことは、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』の主人公 ウイリー・ロマンの生き方の中に、見事に、しかも悲劇的に描きだされている。 ウイリー・ロマンが教えられ、また自分の息子たちに教えてきたことは 仲間をのりこえ、金持ちになることこそわれわれの目標であり、 これにはまずイニシヤティブをとる必要がある、 という教訓である。 息子の少年たちがボールや材木を盗むとき、ウイリーは口さきでは叱るが、 息子たちが大胆不敵な奴だといういことに満足しており、 「おそらくコーチは、その進取の気性をほめてくれることだろう」と述べる。 ウイリーの友だちは、彼に、刑務所が「大胆不敵な仲間」の一杯いるところだと忠告してくれた。 しかしウイリーは、「株式取引所もそうなんだ」と答えている。 ウイリーは、二、三十年前のたいていの人がそうであったように、 「よく好かれる」ことによって、 自分のうちにある競争意識をカバーしようとしている。 一老人として、会社の変わりゆく政策によって、石炭殻入れに投げ込まれるように 自分が見捨てられたとき、彼は途方にくれ、 「しかし、自分は一番好かれていたんだのに」と繰り返すだけであった。 自分の教えられてきたことがなぜ役に立たないのかという価値の矛盾にとまどう彼は、 ついに自殺という極限にまで自己を追い込んでしまう。 墓場で息子の一人はいう。 「おやじはなんでも一番になろうという、結構な夢をみていた」と。 しかしもうひとりの息子は、 かかる価値の変動からくる矛盾を正確に見ぬいている。そして 「父は自分がいったいどういう人間であるかすらわからなかったのです」という。 Top kusamura 題名 #3 時間 2011-11-26 14 44 06 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 現代社会における中心的価値の喪失(3)(*理性への信頼の喪失) 今日、われわれを支配している第二の中心的信念は、人間個々のもつ理性への信頼 であった。 先に論じた個人的競争という価値に対する信念と同様、ルネッサンス期に迎え入れられたこの信念は、 17世紀啓蒙時代の哲学的探求となって結実することになる。 しかもこれは、 科学の発達および普通教育運動に対する高貴な人権宣言としての役を果たした。 現代のはじまりである最初の何世紀かにあっては、個々人の理性は、また 「普遍的理性」(universal reason)を意味した。 万人がそれによって幸福に暮らせる普遍原理 を発見することこそ、 知性人の立ち向かうべき目標であった。 しかし再び、20世紀になって顕著な変化があらわれてきた。 心理学的に、理性は「感情」と「意志」から分離されるようになってきた。 デカルトは、かの有名な、肉体と精神の二分法というかたちでパーソナリティを分割した。 (この肉体と精神という問題は、本書全体をつらぬく課題でもある) この二分法の結果19世紀から20世紀の初頭にかけて、理性こそあらゆる問題に答えうるものであり、意志力こそ理性を効果あらしめるもの と考えられた。 また感情は、一般に妨害するものであるが、しかも十分抑圧できるものであった。 これは一体どういうことであろうか。 われわれはそこにパーソナリティ分割のために利用された理性を見いだす (今日これは、知性主義的合理、と変形されている)。 その結果、フロイドがうまく記述しているように、 本能、自我、超自我間の抑圧、葛藤、という問題がでてくるのである。 17世紀にスピノザが理性ということばを使ったとき、それは、精神が、 感情と倫理的目標、および「全人間性」のもつ諸相とを結びつける場 としての人生態度をしめした。 今日、その言葉がもちいられる時には、 ほとんど常に、パーソナリティの分割がほのめかされている。 すなわち 「自分は理性に従うべきか、 あるいは、 感性的情熱や欲求に道をゆずるべきか、 それとも 自己の倫理的義務に忠実であるべきか」 と。 Top kusamura 題名 #4 時間 2011-11-26 17 52 03 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 現代社会における中心的価値の喪失(4)(*理想的価値) いま述べてきたこの 個人的競争 や 理性への信念 は、 現実に、今日の西欧文化の発展を指導してきた信念である。 しかし、その信念はかならずしも“理想的価値”ではない。 多くの人によって“理想的なものとしてうけいれられている価値は「汝の隣人を愛せ」とか、社会への奉仕とか、 かかる教訓からなる 倫理的人間主義 に結びつくヘブライ的キリスト教的伝統のもつ価値であった。 これらの理想的価値は、 個人的競争と理性の強調と並んで、学校や教会で教えられてきた。 この二組の価値の、 一方(*理想的価値)は 古代パレスチナ、ギリシアの倫理的、宗教的伝統へその源を何世紀も遡るものであり 他方(*個人主義・競争原理・理性尊重)はルネッサンスに生まれたものであるあるが、 両者は、ある程度からみ会っている。 たとえばプロテスタンティズムは、 ルネッサンスにはじまる文化革命のもつ宗教的側面であるが、 これは自らの力で宗教的真理を見いだそうという各自の権利や力を強調することで 新しい個人主義を表現している。この数世紀間に、両パターン間の争いは、かなりよく調整されてきた。 人間同胞(brotherhood)の理想は、かなりの程度、経済的競争によって促進された。 科学的進歩、新しい向上建設、産業機構のさらにめまぐるしい発展、これらは、 人間の物質的繁栄、身体的健康をおおいに増進してくれた。 そして、歴史上、はじめて、現代の産業や科学は 地球上から飢餓や物質的欠乏を一掃することの可能なほど大量に生産することができるようになった。 科学と競争的勤勉さが、人類を 普遍的な同胞愛という倫理的理想へさらに近づけつつあると主張しても過言ではない。 しかし過去2~30年間のうちにはっきりしてきたことは、両者の結合は矛盾にみちていたということである。 今日、 学校で人一番よい成績をとることであれ、 日曜学校で人気を得るため主役を演ずることであれ、 また、経済的に成功して救いの確証をつかむことであれ、他人に一歩先んずることが強調されている、という事実は、 隣人の愛の可能性を大いに妨げるものである。 しかも、このように、ほかにぬきんずるような風潮は 同じ家族内、兄弟間で、また夫婦間の愛情をさえ、妨げることになる。 現代社会に胚胎する矛盾を示すところの終局的な爆発としては ファシズム的全体主義があげられる。 そこではヒューマニズムやヘブライ・キリスト教的価値、 とくに人格の尊厳というようなんものは、 バーバーリズムの巨大な波の前に、ただ軽べつの目を投げかけられるだけである。 Top kusamura 題名 #5 時間 2011-11-26 18 29 15 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 現代社会における中心的価値の喪失(5)(*バラバラの人間) 読者の中には、 「なぜ、経済的な努力が、同胞と反目することになるのか。 なぜ、理性は、感情と相反する必要があるのか」 と、お考えの方もあると思う。 そのとおりである。しかし今日のような変動期の特色はこまかにみてみると、 あらゆる人が誤った問いを尋ねている、ということである。 旧来の目標、規範、原理は、なおわれわれの心情や「慣習」の中に生きているのに、 それらがもはや現実に適合しなくなっている、ということである。 したがって 大部分の人が、決して正しい解答のみつかりもしない問題を問い続け、 たえずフラストレーション下にある。 あるいは、人々は矛盾する答えの混乱のなかに迷い込んでしまう。 教室にいるときは「理性」が働き、 恋人を訪ねるときには「感情」が働き、 試験勉強のときには「意志」が働き、 葬儀や復活祭の日には「宗教的義務」が働くことになる。 このような価値と目標の区分化は、パーソナリティの統一を破壊することになる。 そして 内も外も「バラバラ」の人間(the parson in pieces)は、 すすむべき方向を知らない。 19世紀から20世紀初頭に生きた何人かのすぐれた人物は、 パーソナリティに分裂が起こりつつある事実を感知していた。 文学におけるイプセンはそこに起こりつつある事態を認識し、 芸術家のセザンヌと、人間性を科学的に研究しようとしたフロイドもそれを実感していた。 これらの人物はいずれも、われわれに新らしい生の統一の必要なことを力説している。 イプセンは『人形の家』という劇の中で、次のことを示している。 すなわち 19世紀のよき銀行家のように、もし夫が仕事と家族を別々に区別して、勤め場所へでかけ、 妻を人形のように扱うならば、その家はつぶれてしまう。 セザンヌは、19世紀の人工的でセンチメンタルな芸術を攻撃し、 芸術は生命のいつわりない現実(honest reality)を扱うべきこと、さらに 美は小ぎれいさよりも統合(integrity)をめざすものである旨を主張した。 フロイドは、人間がその感情を抑圧し、性や怒りがあたかも存在しないかのように振る舞うなら その人はやがて神経症になる旨を指摘している。 かくてフロイドは、 抑圧されてきたパーソナリティの、より深い層にある無意識的「非合理」なレベルをあらわにし、 人間が、考え、感じ、意志する、統一体になるのに役立つような技術を達成した。 今日おおくの人は彼らを現代の予言者であるとみているほどである。 たしかに、それぞれの貢献は、おそらく、それぞれの分野でもっとも重要なものである。 しかし彼らはある面で、新しい時代の最初の人というより、 旧い時代の最後の傑出者ではなかったか。 というのは彼らの新しいテクニックがいかに重要なもの、不朽のものであるにせよ、 彼らもやはり時代の児で、自己の生きた時代の目標に沿って進んでいた。 彼らはうつろな時代のもうひとつ前の時代に生きていた。 さて、あいにく、20世紀なかばの真の予言者たちは、 S・キルケゴール、F・ニーチェ、F・カフカのように思える。 ここで私があいにく(unfortunately)といっているのは、 われわれがやろうとしていることが難しいものであるということを意味する。 これらの人は、いずれも、今日、価値の破壊が起こっていること、 すなわち20世紀のわれわれを飲み込んでしまう孤独、空虚、不安、を予知していた。 彼らは、われわれが、過去からの目標に則ってはゆけないことを知っていた。 この三人は、各自がたいへんな力と洞察をもって、 ほとんどあらゆる知性人の目下直面している個々のジレンマを予知していた。 [/list u] Top kusamura 題名 #6 時間 2011-11-26 19 26 44 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 現代社会における中心的価値の喪失(6) (*ニーチェ「神は死んだ」) ニーチェは、 19世紀においては、科学が製造工場になりつつあることを宣言し、 倫理や自己理解の面で、それにふさわしい進歩もないのに、 技術面での偉大な進歩はニヒリズムへ進む恐れあり、と述べている。 彼は20世紀にいかなる事態が起こるかについて、 予言的な警告を発し、「神の死」をめぐる譬え話を書いている。 それは 「神はどこにいるのか」と叫びながら村の広場へかけこんでゆく狂人についての 忘れがたい物語である。 回りの人々は神を信じない。すなわち彼らは笑い、そして言う。 神はおそらく航海に出てしまったのだ、あるいは、ほかへ移住してしまったのだ、と。 そのとき、その狂人は叫んだ。 「神はいずこへ行くのだ」と。 私は君に告げよう。彼(神)を殺してしまったのはわれわれだ。君と僕だ。 ……どのようにして、こんなことをやってしまったのか。…… 全地面を一掃するために、スポンジをわれわれに与えたのはだれか。 われわれがこの地球をその太陽から引き離したとき、われわれは何をやったのか。 ……いま、われわれはいずれの方向へ動いているのか。われわれは一切の恒星から 遠ざかってゆくのか。われわれはこの瞬間にも落ちつつあるのではないか。うしろへ わきへ、まえへ、そしてあらゆる方向へ、 しかも上下しながら、無限の虚無(naught)を通るとき、われわれは道を踏みあやまらないだろうか。 うつろな空間の微風を感じないか。いよいよ寒気を覚えるではないか。もうこれから ずっと夜という夜はやってこないのか。 …神は死んだ。神は死んだままだ。……神を殺したのはわれわれだ。… ここで狂人は沈黙し、再び、聞き入る人々へに目を向けた。 人々も黙って彼を眺めた。 ……「自分はあまりにも早く来過ぎた。」そのとき彼は言った。… 「この恐るべき事態はまだその途上にある」と。 (*ニーチェ『悦ばしき知識』) ニーチェは、 伝統的な神信仰への復帰を呼びかけてはいない。 しかし二ーチェは 社会がその価値の核心を失うとき、何が起こるかを教えている。 彼の予言の真実性は、20世紀半ばの大虐殺、とくに ユダヤ人虐殺(pogrom)や暴政の打ち続く恐怖の中に示されている。 大変な事態が起こりつつあった。 現代の人道主義的、ヘブライ・キリスト教的価値がかくも軽べつされているとき、 われわれの上におおいかぶさってきたのはバーバーリズムの暗い宵闇であった。 その解決法は、もろもろの価値の中心となるものを新たに発見することである とニーチェはいう。 それは彼が、すべての価値の再評価(revaluation)ないし、 価値の転換(transvaluation)とよぶところのものである。 「すべての価値の再評価」 これこそ 人類による究極的な自己省察(self-examination)行為のための私の処方である と彼は主張する。 いわば、近代を形成する過去数世紀にわたり、 統合の中心であった価値や目標が、もはや信服力をもたなくなったということである。 われわれの目標を建設的に選び出せるような、 そして、どの道を進むべきかを知ることができない苦しいとまどいや不安、 それを克服できるような新しい中心はまだみつかっていない。 *晩年のニーチェ映像:youtube Top kusamura 題名 #7 時間 2011-11-26 20 26 23 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 自我感の喪失 (1) (*喪失の歴史) 現代のもつ、もう一つの病根は、人間存在としての価値観や威厳の喪失である。 このことを予言するかのようにニーチェは述べている。 個人は群衆の中に呑み込まれており、われわれは 「奴隷道徳」(slave morality)によって生きている マルクスもまた、現代人は「非人間化」(de-humanized)の状況にあると宣言することによって これを予告している。 カフカは、その驚くべきストーリーの中で、 人間がいか、人間としての自己同一性を失い得るものであるかを示している。 しかしこの自我感(*自己価値感)の喪失は一夜のうちに起こったものではない。 1920年代に生きた人間は、 自我(self=*自己)というものを表面的に、 しかも過度に単純化して考える傾向が次第に高まりつつある事実を想起できる。 当時「自己表現」(self-expression)ということは、 自分の頭にふと思いうかんだことを何でもやってしまうことだ、と考えられていた。 自我とは何かでたらめの衝動とまるで同義であるかのようにとられ、 またその決断の下し方も、当人の人生哲学にもとづくだけでなく、 しばしば食事を急いだためにの消化不良ともとれる気まぐれによって決められるかのようである。 「なんじ自身であれ」(to be yourself)ということは、 好みの赴くままに、したいようにするという、最低の共通分母を満足させるための 言い訳になっている。 「自分自身を知る」(to know one s self)ということは、 ことさら難しいことだとは考えられていない。 パーソナリティの問題は、よりよく「適応する」ことで比較的容易に解決できた。 これらの見解はワトソン一派の行動主義のように、 過度に単純化された心理学によってさらに助長された。 犬の唾液が食事を知らせるベルの音だけで分泌するのと本質的に違わないテクニックによって 子どもを、恐怖、迷信、そのほかの問題からのがれるよう条件づけできるといって、 われわれはよろこんだ。 人間状況についての、このような皮相的見解は、 経済的進歩の自動性にたいする信仰によってさらに強化された。 われわれはすべて、たいした苦労や苦悩なしに、 ますます金持ちになれるという信念がそこに支配していた。 しかもこれらの考え方は、 1920年代にさかえた宗教的道徳主義(religious moralism)の中に、 その決定的な味方を得ることとなった。 その宗教的道徳主義というのは、日曜学校の域を出るものでなく、 歴史上の倫理的、宗教的指導者たちにみられる深い洞察よりもむしろ 自己暗示説(Coueism)や盲目的楽天主義(Pollyannaism)に近いものであった。 事実、当時およそものを書くほどの人はすべて、 人間についての同じくあまりにも単純化された見解を抱いていた。バートランド・ラッセルは、(今日、彼の見解は当時とは全く異なっているとは思うが)1920年代にはこう述べている。 ―科学のかくも急速な進歩は、やがてわれわれに、 その人間に好みのままのいかなる気質でも与え得るようになろう、と。 すなわち 怒りっぽい気質にせよ、あるいは臆病にせよ、性的に強い人、弱い人も、 ただ注射によって思いのままになるという夢であった。 この種、押しボタン式心理学を、オルダス・ハックスリーは、 その著『勇敢な新世界』の中でしきりに皮肉っている。 1920年代は、人間が自己の力におおいに確信を抱いた時代のようにみえるが、事実はその反対であった。 人々が信をおいたのは、技術やちょっとした機械装置(ガジェット)であって、人間性そのものではなかった。 実際、 あまりに単純かされた機械的な自己感は、その根本において 人格の尊重、その複雑な機構、またその自由にたいする信頼の欠除を示している。 1920年代からこちら、この20年間に、 人間の力や人格の尊厳に対する不信感がますます表面化してきた。 それは、個我(indibidual self)がとるに足りない存在に見え、 個人の選択行為など問題にならないような多くの具体的な場合が つぎつぎと立ちあられてきたということである。 大不況のごとき、また 全体主義的な動きや、制御しがたい経済変動に直面して、 われわれは、 人間としての卑小感、微力感をいやというほど味わされ、 個我は、大洋の波浪に押し流される砂粒にも似て、非力な存在と化してしまった。 Top kusamura 題名 #8 時間 2011-11-26 22 15 12 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 自我感の喪失 (2) (*無力な自分1 希薄な自己感) 今日、たいていの人は、自己存在としての自分が、いかにとるに足らぬもの、 また非力なものであるかを思い知らされる材料にこと欠かない。現代の巨大な経済的、政治的、社会的変動に直面して、 いかに対処すればよいのか、われわれはとまどう。 政治の世界はいうまでもなく、宗教や科学の世界にあっても、 権威主義がじょじょに受け入れられつつある。 それは とくに、多くの人が明確に権威を信じているためではなく、 一人一人が無力で、不安な自分を感じとっているからである。 考えてみると、 政治的な指導者に従うか、―あるいはアメリカにみられるように―慣習、世論、社会的要望に従う以外、われわれは一体どんなことができるのか。 このような「推論」には、何かが忘れられていないだろうか。 それは、人間の価値にたいする信念の喪失が、 ある程度、社会的政治的大衆運動の原因をなしている という事実である。 さらに詳しくいうと、 自我(*自己価値観)の喪失および集団主義運動の発生は、 ともに現代社会の底辺にある同じ歴史的変動の生起を示すものである。 それゆえ、われわれは両側面に向かって戦いを挑まなければならない。 すなわち全体主義およびそのほか、非人間化の傾向に反抗するとともに、 他方では、 人間の価値や人格の尊重を自ら感じとり、かつそれらに対する信念を回復する必要がある。 現代社会における自我(*自己)感の喪失(lose of the sence of self)という驚くべき光景は、 現代フランス作家アルベルト・カミュの『異邦人』の中に如実にしめされている。 それはどの点からしても例外者ではなく、ありふれたフランス人の物語である。 事実、彼は「平均的」現代人とよんでよい。 彼は母親の死を経験し、仕事につき、日常生活のきまりをせっせとつとめ、 恋愛事件をおこし、性的経験をもった。 しかしこれらの経験には、すべて自分の側に、何ら明白な決意や認識がない。 彼は後になって、ある男を射殺することになる。 本人自身の心の中では、その発砲が偶然だったのか、それとも 正当防衛のためであったのかさえはっきりしない。 彼は殺人罪に問われ、恐ろしいまでの非現実感をもったまま、 あたかも、万事が偶然彼のうえにふりかかってきたことのごとく 処刑されてしまう。 すなわち、彼は決して自分自身で行動しているのではなかった。 この本には、カフカの他の物語の中にみられる同じ不決断のもやに似た 挫折感や心的打撃のあいまいな影がただよっている。 まるで万事が夢の中で起こっているようで、 そこには、外界なり、自分のやっていることが、現実には、 自分とはまったくかかわり合いもなく起こっているふうに受けとっている人間がいる。 外からみれば、悲劇的事件であるに違いないが、 彼には、自己自身についての認識がないため、勇気とか絶望といったものさえ持ち合わさない人間である。 処刑をまっている最後の時になって彼は ジョージ・ハーバートのことばにあるような体験をほのかに感じとっている。 あちこち、ぶちあたりながら 波のまにまに漂うこわれた船 神さま、私は私自身で決めます 全くというのではないが、この実感が貫き通されるには、まだほとんど十分な自我認識がない。 この小説には ほんとうに自分自身にとって『異邦人』である現代人特有の、 何かつきまとわれているような、 正体の知れぬおそろしさにおののく者の姿が描かれている。 Top kusamura 題名 #9 時間 2011-11-26 22 17 24 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 自我感の喪失 (3) (*無力な自分2:受動性) 自己の無力感を示す例は、現代社会のわれわれのまわりにころがっている。 実際、それは珍しいことではなく日常化しているため、一般に われわれはそれらをそういうものとして受けとっている。 たとえば 今日ラジオ番組の最後に「ラジオ聞いてくれてありがとう」(thanks for listening)と きまってつけ加えるが、 聞き手を楽しませ、また一応価値のある何かを与えているほうの人間が、それを聞いている聴取者に なぜ感謝しなければならないのか。 これは、 お客である聞き手の気まぐれによって、その行為に価値が与えられたり、 またその価値が剥奪されることを示している。ラジオの例ではその顧客は、いわば公衆という名の皇族であった。 ラジオアナウンサーのことばに似たものは、宮廷道化師にみられる。 宮廷道化師は、演技を披露するだけでなく、同時に、顧客である皇族に対し 楽しんで下さるよう懇願しなければならなかった。 この特質は、現代を貫流している一つの態度を示すものである。 現代、多くの人々は、自己の行為の価値を、その行為自体に基づいて判断するのではなく、 その行為がいかに受けいれられるかという、その受けいれられ方によって判断するのである。 それは まるで、聴衆を見るまでは、常に自己の判断を保留しなければならないかのようである。 その行為が向けられているなり、その人のためにその行為がなされるといった、 その行為の受け手のほうが、その行為者自身よりも、その効果を左右できる立場にいる。 このように、 われわれは、主体的自己として生き、かつ行為する人間であるよりも、 むしろ生活の「演技者」(perfomers)であろうとしている。 性の領域から一例をあげると 男の方で、婦人に「どうぞ満足してください」と懇願する態度で交接しているように見える。 これはしばしば現代の男性に、一般に考えられている以上に、広範囲に現存する態度である。 しかもこの態度が、 人間関係の場に、いかに影響しているかを見るため、次のことを付け加えてもよい。 もしその男性の関心が、もっぱら、婦人を満足させることにありとすれば、 その人間の男性らしい率直な態度や、活動的な力は その対人関係の場にはいってこないということである。 しかも多くの場合、よくみてみると、 これが婦人の方で完全な満足が得られない理由にもなっているということである。 (*この時期アメリカではキンゼイ報告によって性生活の広範囲なアンケート結果がもたらされていた)ジゴロ(gigolo=男めかけ)のテクニックがいかに上手であろうとも、 それを実際の情熱の代わりに選ぶという婦人があるだろうか。 ジゴロや宮廷道化師の態度の本領は、 人間の力や価値は、その人の積極的行為によってきまるのではなく、 もっぱら受け身に立つことにあるという見方である。 Top kusamura 題名 #10 時間 2011-11-26 22 36 32 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 自我感の喪失 (4) (*ユーモア) 今日いかに自己感の分解がおこっているかを知るもう一つの例は、ユーモアと笑いである。 ユーモアの感覚が人間の自己感といかに密接に結びついているかは、一般に知られていない。 普通、ユーモアには、自己感を保持する機能がある。客観的状況に呑みこまれてしまわない主体としての自己を体験できるというのは、 人間独自の能力であって、 ユーモアはその能力の一表現である。 それは、自己とその問題との「距離」を認識する健康な方法であり、 局外にあって、しかもある見通しをもって問題を見ることのできる一方法である。人は不安恐慌にあるとき笑えない。 というのは、 そのときには、人はその場の状況に呑み込まれており、主体としての自己と、自己の回りの客観的世界との間の区別を失ってしまうからである。 さらに、人は笑えるかぎり、不安や恐慌に支配されることは全くない。 ことわざにいう 「危険に際し、笑えることは、勇気のあるしるしである」 ということばの真実味もでてくる。 精神病が疑われるような人の場合、その当人にユーモアの感覚が保たれているかぎり、 すなわち、笑うことができるかぎり、あるいは、ある人が述べているように 「なんと自分は気が狂った奴だったんだろう」という気持で自分自身が眺められるかぎり、 彼は、自己意識としての自己同一性を保持していることになる。 われわれだって、神経症であろうとなかろうと、自己の心理的問題に洞察が得られたとき、 普通の自発的反応は、かすかに笑うことである。 いわゆる「ははぁー」という納得了解の声である。 客観界で活動する主体としての自分自身について、新しい評価が生まれるからである。 さて、一般にユーモアが、人間にたいし果たしている機能をみてきたので、 次は現代社会においてユーモアや笑いに対する一般的な態度がどんなものであるかみてみよう。 そのもっとも顕著な事実は、笑いが一個の商品化 されているということである。 われわれは 「一個の笑い」について語るなり、 笑いがあたかも一ダースのオレンジやリンゴのごとく計量化しうるものとして、 映画やラジオのプログラムには計算機か数量登録機によってでてくる「しかじかの数の笑い」がある などと考える。 たしかに若干の例外はある。まれな例ではあるが、E・B・ホワイトの著作をあげよう。 これをみると、ユーモアというものが、いかに読者の人間としての価値観を高め、 人格の尊厳を認識させてくれるものであるかがわかる。 また回避しがたい問題に遭遇したとき、ユーモアがいかに読者の目を盲目にせず、 現実を直視させてくれるものであるかがわかる。 しかし一般に、今日では ユーモアと笑いは、たとえば、ラジオ用のギャグ作家の作品のように、 通信販売や押しボタン式技術によって生産される量的な形の「笑い」(laughs)になっている。 実際、ギャグ(gag=場当たり文句)という用語はぴったりしたことばである。トルスタイン・ヴェブレンははっきり次のように述べている。 笑いは、ガス自体のはたらきに似て、感受性や知覚のはたらきを鈍らせる「笑いガス」としての役を果たしているという。 笑いは途方にくれたとき、 新しいしかもさらに勇気ある見通しを得るための方法よりも、むしろ 不安と空虚からの一時しのぎの逃避であって、いわば頭隠して尻隠さず式の逃避で、 完全な問題解決にはなっていない。 しゃがれ声のバカ笑い(raucons guffaw)としてしばしば表現されるこのような笑いは、 飲酒やセックスのような単なる緊張解消機能はもっているかもしれない。 しかし 最適の現実逃避手段としてそれにふけるときのセックスや飲酒のように、この種の笑いは、その笑いのときがすぎれば、人をもとの孤独と自己疎外に帰してしまう。 もちろん ある種の笑いは、復讐的な意味をもっている。 これは勝利の笑いであって、その笑いのかくしがたい特質は、 その笑い(laughter)は、ほほえみ(smiling)と何の関係もないということである。 人はかくて、憤慨や激怒の中にあっても笑うことができる。 私はしばしば次のような感じをもった。 ほほえんでいるものととれそうなヒットラー写真顔のなかに読み取れる、一種のしかめ面が、 この怒りの中の笑いだと。復讐的な笑いには、 人格の尊厳や人生の意味を喪失した人々のユーモアが繁栄されている。 自我の重要性や自己の価値に対するみずみずしい感覚が失われてしまっていることが、 ある読者にとっては、本書で展開する議論についてゆくうえで、大きなつまづきのひとつになるだろう。 世慣れた人もそうでない人も、ともに多くの人々が、 自我感の再発見という問題とがいかに重要なものであるかということに確信を失っている。 人々はなお「自己本来の自我(*自分自身)であること」(being one s self)は、 1920年代に、「自己表現」(self-expression)ということばがもっていた意味と同じ だとみている。 したがって次のような問い方をする。 (自分たちの仮定を正当なものとしたうえで) 自己本来の自分でないことが、非倫理的で退屈なことになるだろうか。 また、われわれはショパンを弾くことの中に、自己を表現すべきだろうか。 このような問のだし方それ自体が、自己本来の自分に立ち返ることの深い意味が いかにはなはなだしく失われているかを示すものである。 このように、 今日、多くの人々は、「なんじ自身を知れ」という教えのなかで ソクラテスが、人間に対し、なによりももっとも困難な問いかけを行っている ということがほとんど理解できなくなっている。 また、キルケゴールが、 「もっとも高い意味で、冒険することは、まさしく、 自己本来の自分を意識することだ」 と述べている意味内容を(現代の)人々はほとんど理解できない。 Top kusamura 題名 #11 時間 2011-11-27 18 45 31 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 コミュニケーション用語の喪失 (前) 今日、自我(*自己)感の喪失と並んで、深い個人的な気持を伝え合う ためのことばが失われつつある。 これは、現在西欧の人々が体感している孤独の重要な一面である。 たとえば「愛」(love)ということばをとってみよう。 これはあきらかに、個人的心情を伝え合うのに欠かすことのできないことばであるが 今日、愛ということばが使われるとき、聞く方の耳にはさまざまに響く。 たとえばそれはハリウッド的な愛であったり、 流行歌の「私の私の赤ちゃんが好きなの、私の赤ちゃんも私が好きなの」 とセンチメンタルな感情であったり、 あるいは宗教的博愛あり、友情あり、またそれは、性的衝動でもある。 ほかのいかなる重要語、「真実」「誠実」「勇気」「精神」「自由」 さらに「自己」ということばについても同じことがいえる。 われわれは、たいていこのような言葉にたいし、 各自、自分の隣人がもっている意味とはまったく違った、私的な意味内容をかかえている。 したがって、ある人たちは、かかるコトバの使用をことさら避けようとしている。エリッヒ・フロムが指摘しているように、 われわれは専門領域については、すぐれた語彙をもっている。 多くの人が、自動車エンジンの部品名をはっきりいうことができる。 しかし それが意味深長な人間関係のこととなると、残念ながら、われわれはいうべきことばをもたない。 われわれはことばに詰まり、孤立してしまう。エリオットは、このことを「うつろな人間」の中で次のように述べている。 われわれが一緒にささやくとき われわれの無味乾燥なことばは 乾し草の上吹く風のごとく また 地下室の内なるガラスの上をゆくねずみの足音のごとく 単調で意味をもたない コトバの影響力がこのように失われている事態は、妙なことに、分裂した時代の一徴候である。 ある時代にはコトバが生き生きと活動し、人を動かさずにはおかなかった。 たとえば、紀元前5世紀のギリシアを想起してみよう。 それはエスキュロスやソフォクレスが、卓越したギリシャ語を駆使して名作を書き上げた時代である。 また、シェークスピアが活動し、欽定訳聖書(訳注 1611年に翻訳編集された英訳聖書)の書かれた エリザベス朝の英語をあげることもできる。 ほかの時代には、コトバの力が弱くあいまいで、人を動かす力もなく、よどんでいた。 たとえば、ヘレニズム時代のギリシア文化の分裂、分散があげられる。 多くの研究から次のことがいえると思う。 ある文化が統一へ向かって発展途上にある、といった歴史的局面にあっては、 その文化がもつ言語に、その統一と力が反映され、 一方、文化が変動、消散、分解の過程にあるときには、 同じくそのコトバもその力を失うときときである。 「私が十八才のとき、ドイツは十八才だった」と語ったゲーテは、 その当時、国民の理想が統一と力の方向へ向かいつつあったという事実を指すだけでなく、 作家としての自己の力量を発揮する手段であるコトバもまた、 その発展の途上であったということを示している。 今日では、語義学(semantics*=意味論)の研究は、たしかに重要な価値をもっている。 おおいに推進さるべき問題である。 しかし、ここでつまづきになる問題は、 いったん、お互いのコトバを学んでしまうと、 もうそれ以上、心を伝え合うため時間もエネルギーも使おうとしなくなっている一方、 なぜわれわれは、 それぞれのコトバのもつ意味内容について、かくも多く語らねばならなくなったのか、 ということである。 Top kusamura 題名 #12 時間 2011-11-27 19 01 52 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 コミュニケーション用語の喪失 (後)(*バラバラなスタイル) コトバ以外にも人間的なコミュニケーションの方式がある。 たとえば、美術、音楽があげられる。 絵画と音楽は、 いわばその社会内での鋭敏なスポークスマンの声であって、 これは同じ社会内に住む他者だけでなく、ほかの社会、ほかの時代へも深い個性的な意味を伝達する。 しかし、現代美術や現代音楽の中にはコミュニケーションの役を果たさないコトバが見いだされる。 たいていの人、たとえ知性ある人でも、その絵を解く秘密の鍵を知らないかぎり、実際なにも理解できない。 われわれは、ありとあらゆる種類の流派の絵に接する。印象派あり、抽象派あり、具象派あり、非形象絵画(nonobjekutive painting=*アンフォルメル)がある。さらにモンドリアンになると正方形と長方形だけ、 ジャクソン・ポロックになると、大きなキャンバスにペンキをはねかけ、ほぼ偶然といっていい形を描きなぐっている。 しかも作品につけられたタイトルは描かれた日付けだけである。 もちろん私はこれら芸術家について批評がましいことをいうつもりはない。 とにかくこのふたりともたまたま見る私を楽しませてくれる。 才能ある芸術家は、こうしたわずかなコトバでコミュニケーションできるということは、 現代(*アメリカ)社会について、なにか重要なことを示していないのだろうか。 ニューヨークには、教員およびもっとも代表的な学生団体として最大の芸術家集団である画学生連盟がある。 そこを訪ねてみると、それぞれみな異なるスタイルで、画室ごとに、びっくりさせられるだろう。 画室から画室へ、二十歩あるくたびに、感情のギアを変えてゆかねばならない。ルネッサンス期にあっては、普通だれでも、ラファエロ、レオナルド・ダヴィンチ、ミケランジェロの絵を見ることができ、 その絵の中に、 生命一般について、しかもとくに自分自身の内的生命について理解できる何かを 自分に語りかけているのに気づくことができる。 しかし 何も教えられていない人間が今日、ニューヨーク市57番街にある画廊を歩き、 たとえばピカソ、ダリ、マアリン(*不明、マリンのことか)などの作品に接するなら、 そこに人はなにか重要なものがコミュニケートされていることには同意するだろう。 しかし彼は、疑いもなく、ただ神と芸術家だけが、それが何であるかを知っていると主張するだろう。 彼自身としては、おそらくとまどい、やや苛立っているだろう。 ニーチェによると、人間はその人の「スタイル」によって、すなわちその人の行動に基本的な統一と差別性を与える独特の「パターン」によって認識されるはずだという。 文化についてもある程度おなじことがいえる。 しかし今日、「スタイル」がなんであるかを尋ねるとき、 そこには現代的と呼び得るようなスタイルが何もないことに気づく。 セザンヌやヴァンゴッホの偉大な仕事にはじまる、多くの派を異にする芸術運動に共通なことは、 それらの運動のいずれもが、19世紀芸術の偽善性と感傷性を突破しようと 絶望的な努力を続けているという事実である。 意識的にせよ、無意識的にせよ、 世界を体験する自己という確固たる現実から、絵画によって語りかけようとしている。 しかし、それぞれの分野におけるフロイドやイプセンのごとく、真実を求めて 絶望的な探求を続ける姿は非常なものであるが、この努力のかなたには、たださまざまのスタイルが雑然と並んでいるだけである。 ルネッサンス期におけるほどに、 時代というものが、現代という一時期を形成するまでに変貌を終えていないことを当然考慮にいれるとしても、 しかもなお、 この各流派の雑居状態が現代の不統一を如実に示していることは事実である。 現代芸術がいかに多様であるにしても、その不調和と空虚な絵は、このように 現代の状況をそのまま反映するものである。 その光景は、あたかも真の芸術家すべて、いかなるコトバによれば、 自分の仲間に形と色をもった音楽を伝え得るものか、いま、 いろんなコトバを狂気のようにテストしているのだともいえる。しかし、そこにはまだ何も共通言語が見つかっていない。 ピカソのごとき巨匠は、その生涯にわたって何度となく、描画のスタイルを変えている。 ある面ではそれは、過去40年にわたる西欧社会の性格変貌を反映するものであり、 ほかの面では、彼が自分の仲間に語りかけのできる波長をキャッチしようと、 大洋上で空しくダイヤルを回している人間のようでもある。しかし芸術家も、そうでないわれわれも、精神的に孤立のまま洋上にただよっている。 われわれは、自分の孤独をまぎらわすため、ことばの通じ合う話題を求めて 他人とおしゃべりするのである。 ワールド・シリーズ、職場のこと、最近のニュース記事など。心のさらに深層にある情動的経験は押し流され、 われわれは、ますます空虚で、孤独なものになってゆく傾向にある。 Top kusamura 題名 #13 時間 2011-11-27 19 36 47 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 自然への共感の喪失 (1)(喪失の歴史) 主体的自己としての自己同一性の感覚を失ってしまった人間は、また 自然にじぶんが結びついているという感覚も失う方向にある。 精神療法にくる空虚感をもっている人は、いかにもくやしそうにいう。 ほかの人たちは、日没を見て感動できるのに、自分にはそれが感じられない。 また、ほかの人の目には、 大洋が壮大なもの、おそろしいものに見えるのに、自分は 海岸の岩に立っても、何も大した感じがわいてこない、と。 われわれの自然に対する関係は、われわれの空虚感によって破壊されるだけでなく、 われわれの抱く不安によっても破壊される傾向にある。 学校で原子爆弾にたいし、いかに身を守るか という授業を聞いて帰った少女が 「おかあさん、どこか空なんてないようなところへ引っ越しできないの」 と両親に尋ねた。 この話は、 不安がいかに人間を自然から撤退させるものであるかをよく象徴している。 もっと日常的なレベルでみると、 人が自らの内なる空虚さを感じはじめるとき、 彼は、自分の回りの自然もまた空虚で、かわききったもの、死んだものとして体験するようになる。 この二つの空虚体験は、対生命関係の衰弱という同一状態の二側面をあらわしている。 自然に対する結びつきの感覚が近代において、いかに栄え、やがえ衰えていったかをふりかえってみると われわれの自然に対する感情喪失がどんな意味をもつのか、いっそうあきらかになる。 ルネッサンスのもつ主たる特質の一つは、あらゆる形での自然に対する熱狂がもりあがってきた、ということであった。 人間の目は動物に、樹木に、あるいは天空の星や色彩といった無生物にもそそがれた。 中世芸術の、様式化され、こわばった自然を見たあと、 初期ルネッサンスのジオットの絵画を見るとき、われわれは、そこに 生命への新しい接近感 ―えもいわれる魅惑的な羊、生き生きとした犬、愛嬌あふれんばかりのロバなど―が 美しく描きだされているのを見る。ジオットは、岩や木を、 それ自体がそなえている美によって人間をたのしくしてくれる自然の形態 として描き上げているのであって、単に宗教的なメッセージを伝える象徴的なものとはみていない。 自然に対する新しい評価は、ルネッサンスにおける人体への強い関心となってあらわれている。 たとえばボッカチオの物語にみられる官能性、ミケランジェロの絵画における、たくましく調和のとれた肉体がある。 また、シェイクスピアのドラマには、生命に対する多面的で、有機的なアプローチのひとつとして 肉感的なものがある。 しかし19世紀までに、その自然にたいする興味は、じょじょに技術的なものとなり、 人間の関心は、自然を支配し、巧みに処理することに代わった。 P・ティリッヒの見事な表現の通り、 世界は「呪術からの解放」をされてきた。 この呪術からの解放過程は、はじまりをすでに17世紀にまで遡る。 当時デカルトは、肉体と精神の分離を説き、 (長さと目方として測定可能な)物質的自然や肉体という客観世界は、人間の心とか「内的」体験とは 根本において異なるものであると教えている。 この二分法の中の「心的」側面が棚上げされてしまい、 現代人は、人間体験の機械的な、測定可能な面だけに、ことさら血道をあげることになった。 そして19世紀までに、自然は 科学の場におけると同様、徹底的に非人間化されるなり、金儲けのための算定対象になってしまった。計算できるもの、操作可能なものにたいする過度な強調は、 あきらかに産業主義とブルジョワ的商取引の発展と手をたずさえて出てきたと主張しても、 それは機械や技術の進歩そのものの批判をしようというのではない。 ただ指摘しておきたいことは、この発展にともなって、自然は個人の主観的、感情的生活から切り離されてしまったという 歴史的事実である。 Top kusamura 題名 #14 時間 2011-11-27 19 59 09 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 自然への共感の喪失 (2)(*神話・民話・迷信) 19世紀の詩人、ウイリアム・ワーズワースは、だれよりも明白に 自然にたいする〈*近代人の)感受性の喪失をはっきり認めており、 ある程度、その原因でもある空虚をも読みとっていた。彼は、 よく知られている十四行詩の中で、現に起こりつつある事態を次のように表現している。 世界はわれわれにとってもう沢山だ。 遅かれ早かれ われわれは獲得と消費をくりかえしながら われとわが力を荒廃させてゆく 自然の中には われわれというものがほとんど見あたらない われわれは 人間的心情を棄ててしまった むさくるしい贈り物でも捨て去るように その胸を月にさらしているこの海 四六時中 ほえ猛っているのに いまは ねむれる花のごとく 凪いでいる風 これにたいし またすべてのものに対し われわれの心の琴線はもう触れあわなくなってしまった それはわれわれの心を動かさない 大いなる神 私はむしろ 使い古された信条に育まれる異教徒でありたい そうだ 私はこの美しい草原に立って 私を孤独にすることの少ない光景をみたい 海からのぼってくるプロテウスをみたい 老トリトンの吹き鳴らす 花輪かざりのついた角笛の声に耳傾けたい (*改行 鍵写者恣意)ワーズワースがプロテウス、トリトンのような神話的創造物にあこがれたのは、 詩的空想の問題ではない。 これら人物は、自然の相を人格化したものである。 たとえば プロテウスは、その姿、形をたえず変貌してやまない海の神であって、 運動を色彩をたえず変えていく海を象徴するものである。 また トリトンは、海の貝殻を笛とする神であって、その調べは海浜の大きな貝にこだまする声である。 プロテウスもトリトンも、くわしくいえばわれわれが今日失ってしまったものを示している。 われわれは自然の中に、自分自身の姿や、自分自身の心を読みとる能力や、 自分自身の体験を、より深く豊かなものにして自然へ関係づける力を失ってしまった。 デカルトの二分法によって 現代人は、魔女信仰から逃れるための哲学的基盤を得た。 これは事実、18世紀の妖術(witchcraft)克服に大いにあずかって力あった。 これが人類にとって大きな利得であったことは確かだ。(*魔女狩りの根絶など)しかし同時に、われわれは妖精(fairies)や小妖精(elves)、岩屋に住むという巨人(trolls) それに森や大地に住むという小人たちまですべて、われわれの世界から追放してしまった。 人心から「迷信」や「呪術」をきれいに一掃するのに役だったという点から、これもまた一応いいことだった。 それでも、私はこれは間違いだったと思う。 われわれが、妖精たちから逃れるためにやったことのすべては、 われわれの生活を貧しくすることではなかったか。 しかも、この心情生活の貧困化は、 人心を迷信から一掃するためいつまでも変わらない良い方法といえるだろうか。 ここで古い寓話をあげてみよう。 自分の家から悪い妖精を一掃してしまった男があった。 しかしその妖精は、その男の家がきれいさっぱり空っぽになったのを知って、 今度は、七匹のもっと性の悪い妖精をひきつれてもどってきた。 そして事態は前にもまして悪化してしまった。 ここで述べたいのは、 全体主義的神話やエングラム、太陽が静止するときが来るといった奇蹟など、 新しい、しかもさらに破壊的な近代的迷信にとりつかれるのは、こうした空虚で内容のないうつろな人間だ、 ということである。 今日の世界は、呪術から解放された。 だがそれは、われわれと自然との調和をくずしてしまっただけでなく 自己自身との調和もくずしてしまった。 Top kusamura 題名 #15 時間 2011-11-27 20 50 20 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 自然への共感の喪失 (3)(人間と自然) 人間としてのわれわれは、存在の根を自然の中にもっている。 それは 単に、われわれの肉体の化学成分が本来、空気や土や草と同じ成分からなっている という事実によるものではない。 別の多面的な方法で、われわれは自然に参与しているのである。 四季のうつりかわり、昼夜の交替、などのリズムが、たとえば 身体のリズム、空腹感と満腹感、眠りと覚醒、性的欲求とその満足など 無限にあらゆる面に反映されている。 われわれが自然に関係をもつとき、それはわれわれが、自己のよって立つ根を、その生まれた土壌へ据えるという作業をやっているに過ぎない。 しかし、もうひとつの点で、人間はほかの自然とは非常に性格を異にする。 人間は、自己自身についての意識をもっているということ、すなわち自己同一性の認識という点が、ほかの生物体、無生物体から人間を区別する。 しかも自然は人間の自己同一性など問題にしない。 自然と人間との関係性というこの重要点が、本書の中心テーマである、 人間の認識への欲求 という課題を前景に押し出すことになる。 自然は非人格的なものであるのに、人間は人格を確認できねばならず、 また自然の静寂を自己自身の内的生命力で満たすことができねばならない。 のみこまれてしまうことなく、 自然とじゅうぶん連関をたもつには、強力な自己意識、すなわち自己同一感が必要となる。 というのは、 事実、自然の中に、その沈黙や無生物的性格を感じるということはおそろしいことである。 岩だらけの岬に立って、怒濤さかまく海上に目をやり、 しかも「海は他人の悲哀に決して涙することもなく、他人の考えていることに何の関心も示さない」 ということを、ほんとうに現実感をもって感じとるとすれば、 また 人の生命は、創造というとほうもない、やむことのない化学運動の中へ、 寸分たがわぬ計算通りに仕組まれているのだという気持がほんとうに感じられるとすれば、 それはおそろしいことである。 あるいは、 山の峰々を眺め、その頂の高さに心を奪われるとして、しかもその同じ瞬間に、 「われわれが、峰の下の岩床のうえにこなごなにななきつけられようと、 人間としての自己の消滅など花崗岩の壁にはなんの関係もない」 と認識するとすれば、それはおそろしいことである。 これは、無(nothingness)ないし非存在(non being)への深い怯えであって、 人が無生物と自己との冷ややかな関係に、直面したときに体験するものである。 そして「汝は塵(ちり)なれば、塵に帰るべきなり」 ということばは、事実、うつろななぐさめに過ぎないことを想起されたい。 自然との関係において、このような体験は、たいていの人にとって、あまりにも大きな不安である。 人々は、自己の創造を遮断し、 もっぱら、考えを、昼食を何にしようか、というような実際的な日常茶飯事に向けることで 恐怖をまぬがれようとしている。 あるいは、 海は自身たちには危害を与えないものとして「人格化」することにより あるいは銘々自己の神を信じ、 「お前が石につまづかぬよう、神はお前の重荷を天使にゆだねてくださる」 ということによって、かかる恐怖からまぬがれようとする。 既に述べたように、 自然と創造的な関係をもつには、 深い自己認識と大量の勇気が必要になる。 しかし、自然の無生物にたいしては 自己の同一性が確認できることによって、より強靱な自我(*自己認識)が生まれるのである。自然への関係の喪失と自己認識の喪失とは平行するのである。 Top kusamura 題名 #16 時間 2011-11-27 21 34 21 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 悲劇に対する感受性の喪失 (前) 悲劇がわかる、ということは、 ただ、個々の人間存在がいかにかけがいのない大切なものであるかを 信じられるようになって、はじめて出てくる問題である。 悲劇には、 人間そのものにたいする、つきない畏敬の念や、 人間の権利や運命への献身が含まれる。 ―そうでなければ、オレステス、リア王、それに現にここにいるあなたと私が、 人生の苦闘にあって、倒れようとそれに対し立ち向かおうと、 そういうことは問題ではなくなる。 アーサー・ミラーは、その劇作『セールスマンの死』のまえがきで、 今日という時代に、悲劇の乏しい理由について触れている。 「悲劇的人間とは、もし必要なら、たった一つのこと、すなわち、 自己の人格の尊厳のために、 自己の生命すらあえて投げ出すことを辞さない人間である」 悲劇の面目は、 そこにあっては、個の人格がみごとに開花し、自我が実現されている状況にある。 このような状況が過去の西欧において目撃されるのは、 また偉大な悲劇の続出した時代でもある。 5世紀のギリシアでは、アイスキュロス、ソホクレスが エディプス王やアガメムノン、オレステスという傑出した悲劇を書いた。 エリザベス朝の英国に目をやると、 そこではシェークスピアがリヤ王、ハムレット、マクベスを書いている。 しかし今日のような空虚さの支配する時代にあっては、 劇作として悲劇に接することもまれである。 あるいはもし、悲劇が書かれるとしても、それはE・オニールのドラマ『氷人来たる』にみられるように、人間生活のかくも空虚な状況を描きだしたものである。 この劇はサロンで演ぜられる。 その登場人物はアルコール中毒患者あり、売春婦あり、 しかも、劇の進行中に精神病になる人物が主役を演ずる。 これらの人は、その生き方の面で、 人々がなにか信ずることのできた時代を、かすかに思い出させてくれる。 このドラマに、古典悲劇のもつ憐憫の情や恐怖感をひきださせてくれるものは、 この空虚さの支配するただ中にあって、 わずかに残っている人間的尊厳の反映である。 既述のアーサー・ミラー『セールスマンの死』は、それ自体、特定の人、 アルコール中毒患者や精神病者の身の上に起こるといった事態ではなく、 ごくありふれたわれわれの身の上にもいつふりかかってくるかもしれない 数少ないいくつかの悲劇の一つである。 彼もわれわれ大部分の者とおなじく、このアメリカで生まれ、 この国でなにがしかの社会的な立場をもっている人間である。 (映画化されたものでは、セールスマン、ウイリー・ロマンは残念なことに、哀れっぽく作り上げられている。 映画だけを見た人は、彼の体験している悲劇のほんとうの意味を見失う恐れがある) ウイリーは、彼の住む社会の教訓をまじめにうけとった人物であった。 すなわち、 成功はまじめな精力的な働きによってもたらされるものであり、 経済的な向上はひとつの抜き差しならぬ現実であり、 適切な社会的交際をたもっているかぎり、成功と救いもそれに伴うものと心得ていた。 われわれが斟酌してウイリーの考えは幻想に過ぎなかったこと、さらに 彼の不手ぎわなやり方をいろいろ評価して笑いものにするだけなら、きわめてやさしいことである。 しかし、そんなことは何にもならない。 大事なことは、ウイリーが何かを信頼しきっていたということである。 彼は教えられたとおりのことが、そのとおりそのまま人生に期待できると信じていたのである。 彼の妻は、ウイリーの失敗を息子たちに語るに当たって、 「私は彼が偉大な人物だなんて思いません。しかし彼は人間です。そして あるおそろしい事態が彼にふりかかっているのです。そのところをよく注意しなければなりません」 と語っている。 この場合、事態が悲劇的なのは、ウイリーがリヤ王のごとき偉大な人物、あるはハムレットのような 内面の豊かな人物だということではない。彼の妻が語っているように、 「彼はただ港を探している小舟にすぎない」のである。 これは現代という歴史上の一時代、そのもののはらむ悲劇性である。 ここで教えられたとおりを信じているのに、この変化の多い時代にあっては、 その教えられたことがもはや役に立たなくなっていることに気づいているウイリーのような人間をあげていくと、 何千何万とあげることができる。 しかも、そこにわれわれは、古代悲劇にみる同じ同情や恐怖に心を動かされる。 「彼は自分が誰であるかをぜんぜん知らなかった。」 しかも、知る、という自己の権利をまじめに行使したのである。 ミラーによると、「悲劇的人物にみられる内面的な自己意識の分裂は、 当人の威厳や、 当人にとって当然ととられている自己の地位をおびやかすものに直面し、 いままでのように受動的でありたくない、 という 意志の反抗 がそこにあらわれているのに他ならないし、 またそれ以外ではありえない。 さらに、 ただひたすら受け身の体勢にあり、 積極的な反撃にでることもなく、 自己の運命に従順なだけの人には、そうした人格の裂け目がみられない。 たいていのわれわれは、そのカテゴリーに入る。」 ミラーはわれわれを感動させる悲劇の本質について次のように述べている。「自分はだれかと取り替えられてしまうのではないか、 という基底恐怖、 いま自分は、この世界にあって、 これこれの名前と仕事をもったしかじかの人間だと思っているのに、 その独自性が消されてしまうのではないか、という恐怖、 これが現代に住むわれわれの悲劇性である。 今日、 われわれの中に巣くうこの恐怖は、いまなおおとろえるどころか、 むしろいよいよ高まりつつある現状である。」 ここで悲劇の喪失をなげくからといって、 われわれがペシミスティックな見方を主張しているだと解されては困る。 反対に、ミラー自身のことばによると、 悲劇の中には喜劇の場合よりも、その著者自身のより強烈な楽天観が支配している。 ……悲劇のもつ究極のねらいは、観客のもっている人間という動物についての もっとあかるい見方を強化することでなければならない。 というのは、悲劇的観点というのは、 人間の自由や自己実現の要求を真剣にとりあげることにほかならない。 すなわち悲劇は、「自己の人間性を全うしようという不屈の意志」を信じることである。 Top kusamura 題名 #17 時間 2011-11-28 19 38 51 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 悲劇に対する感受性の喪失 (2) 精神療法によってあきらかになる 人間性についての智恵や、無意識的葛藤にたいする洞察、 これによってわれわれは、 人間の生の営みが孕んでいる悲劇的性格を確認できる新しい基盤 を与えられる。 精神治療者は、ある人間が 自分自身と内的な戦いを繰り返し、 自己の尊厳を傷つけるような外的な力と激しい苦闘を続けるさまを、 親しくつぶさに知ることがゆるされている。 したがって治療者は こうした人々に対しあらためて畏敬の念を抱くとともに、 人間性のもつ潜在的な威厳にふれることになる。 週のなか何度となく、相談という仕事の中で治療者が体験することは何かというと、こうした人々が 自分自身に対してだけは、最後まで嘘でごまかしきれるものではないという事実を認め ついに、自己と真剣にとりくめるようになったとき、その人は いままで知ることのなかった、しかもしばしば顕著な治癒力を自らの中に発見すること である。 現代の病根をたずねてゆくと、それは荒涼たる診断に帰着する。 しかし、その診断は必ずしもそのまま荒涼たる予後を意味するものではない。 というのは、その積極的な側面は、 ただ前進する以外にとるべき道を持たないという事実である。 われわれは、 精神分析を経て、自我の防衛や幻想から離脱する人々に似ている。 しかも選ぶべき唯一の道は、よりよきなにものかをめざして突進することである。 (われわれ、ということばで全ての人をさすことにして、) 自分の生きている歴史的状況を認知しているわれわれは、 老いも若きも、1920年代の「迷える世代」には属さない。 この「迷える」(Lost)ということばは、 第一次大戦に続く青年による反抗時代の人々に適用されるとき、それは、人が一時的に家郷を離れてはいるが、自立して生きることがおそろしく、 重荷になったときには、いつでも引き返すことができる という意味をもっている。 しかし、われわれはもはや、引き返すことのできない世代に属する。 20世紀半ばにいるわれわれは、再び舞い戻ることのできない限界線を越えてしまったパイロットに似ている。 嵐がこようがと何がこようと、ただ前進する以外にない。 われわれのいまなすべき仕事は上述の分析であきらかである。 われわれは、 自己自身の中に、力と統合の根源を再発見しなければならない。 もちろんこれは われわれ自身の中や社会の中に、統一の核心となるような価値の発見と、 その価値の確認が同時発生的である。 しかし、価値づけをおこなう先天的能力、つまり生きるうえのよりどころとなるような価値を積極的に選択し、確認する能力 なしには いかなる価値も効を奏さない。 これを実行するのはあくまでも個人である。 彼・彼女は、 ルネッサンスが中世の分裂から生まれたように、混乱の時代から生まれる新しい建設的社会の 基礎固めをすることになる。 ウイリアム・ジェームスがかつて述べているように、 世界をより健全なものにしようと思うなら、まずなにより、 自分自身を健全にすることから始めるべきである。 われわれは、さらい一歩進めて、 自分自身の中に力の中心を見いだすことが、長い目でみると、われわれが仲間にたいしてなし得る最大の貢献である と述べておこう。 ノルウェー近海の漁師は、大渦巻きが自分の船にむかってくるのを見るとき、 前進して、そのわき立つ渦巻きの中へオールを投げ込もうとする。 もし、彼にそれができれば、大渦巻きは止む。 そして、彼も彼の船も、無事にその危機を脱し得る。 全くおなじように、 生来、内的力の豊かな人は、まわりの人たちの間でどんな恐慌がおこっても、 その鎮め役として大きなはたらきをすることになる。 これこそ現代の求めているものであって、 新しいアイデアや発明は、いかに重要なものであろうと、社会の求めているものでなく また、それは天才や超人でもない。 ほんとに社会が必要とするのは、「あるべき」人間の姿であって、 自分自身の中に、力の核心を把握している人物である。 こうした内なる力の源を見いだすことが、本書における次章以下の問題である。 第2章 了 Top kusamura 題名 #18 (第7章、最終項目、追加) 時間 2011-11-28 19 52 16 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 (第7章、最終項目) 真実を見る勇気 (前)(*哲学的真理探究) ニーチェのひらめく警句は、新しい全景を一挙に照らし出すいなずまのようである。 彼は、「人間が誤ちを犯すのは、おくびょうだからだ」(Error is cowadice)と宣言している。 つまりわれわれが真実が見えないのは、 書物の読み方が不十分ということではなく、あるいは 十分な学位をもっていないということではなく、 われわれに十分な勇気が欠けている、ということである。 真実ということばで、われわれが意味しているものは、科学的事実だけというのではなく、 あるいは科学的技術だけをさすというのでもない。 事実を扱うとき問題になるのは正確さということである。 ところが、どのような仕事をするか、愛しているのかいないのか、 学校で問題を抱えたわが子をいかに助けるか、 あれこれの事柄になにを感じ、何を欲するのか、 それは、われわれを、昼間から、あるいは夜半の夢のなかですら 捕らえて離さない問題であるが、こういう問題では、技術的な証明はほとんど役に立たない。 われわれは冒険をしなければならない。 しかも最善の解答に達しうるかどうかは、当人の成熟と勇気の度合いに 非常に密接に関係している。 真理探究に欠くことのできない内なるたたかいについて、 哲学者ショーペンハウエルがゲーテあてに書いた手紙のなかに如実に示されている。 ショーペンハウエルは、 自分の考えが着想として自分の中に芽生えたあと、 その考えをしあげるときの労苦について、述べている。 「…そのとき、自分は自分の魂の前に立つのだ。 それは 拷問台にのせられた囚人が 冷酷な裁判官の前に立たされるようなものである。 そして何も残らないまでに、解答を迫られる。 教義や哲学は、 誤ちや名状しがたい愚劣な内容に満ちている。 しかもそうした教義や哲学のすべてが、私には、 誠実さの欠除からきているように思われる。 真理は見いだされなかった。 それは真理を求めようとしなかったからではなく、 その真理発見の意図はあざむかれ、 見いだしたものは、真理ではなく、先入観であり、 あるいは少なくとも気にいっている考えを傷つけないこと、であった。 こういうねらいがあるため、ほかの人々だけでなく 思想家自身にとっても、 言い抜けが必要であった。 哲学者をつくるものは、 あらゆる問題に直面して、 残らず打ち明けることのできる勇気である。 哲学者はソフォクレスのエディプスのようでなけれがならない。 エディプスは、 自分のおそろしい運命をたずねあかそうとして、占ってみたところ 自分を待っているものが戦慄すべきおそろしい事態であるとわかったときでさえ、 俯仰不屈の探求を続けていくのである。 しかしたいていわれわれは、心の中に、 それ以上探求しないでくれ、後生だからと エディプスに嘆願する母ジョかスタを住まわせているのである。 そしてわれわれは、彼女に道をゆずることになる。 それが哲学が現に立っている場所に立っている理由である。 …哲学者は、あわれみをかけることなく、 自分自身に尋問「しなければならない」。 しかし、この哲学的勇気は、 内省から生じるのではなく、決意によって絞り出されるものでもなく 心の先天的傾向なのである。」 (*エディプスについては次節で詳述)精神分析家フィレンチは この手紙を引用してショーペンハウエルの見方に同意している。 われわれも次の点でショーペンハウエルに賛成である。 つまり真理がわかりたいならこうした誠実さが必要だということ、そして、 このような誠実さは知性そのものからくるのではなく、 生得的な自己認識能力の一部であると述べている点である。 ただわれわれは、「それが生得の傾向」であって、 自分ではどうしようもないという点だけは賛成しかねる。 こうした誠実さは倫理的態度であって、 そこには、勇気とか、そのほか自己意識に 自分をいかに関係づけるか、の諸面が含まれている。 もしある人間が、 人間として自己実現をはかろうとするとき、 その態度はある程度発展させうるものだというだけでなく、 発展させねばならないものである。 Top kusamura 題名 #19 last 時間 2011-11-28 20 24 27 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 真実を見る勇気 (後)(*エディプス) 真理を直視するに必要な恐るべき勇気の例として、 ショーペンハウエルはエディプス王についてよく言及し、 真理を避けたい誘惑の例として、 母であるジョカスタのことばについてふれている。 (*エディプス=オイディプス王あらすじ)エディプス王は、 自分の誕生にまつわるものとうすうす気づいている おそろしい神秘的事実を解決しようと意を決し、 ある老羊飼いを探そうとする。 新生児としての彼を殺すよう、ずっと以前に命令されていたこの老羊飼いは、 エディプスが実際、母親と結婚したのかどうかの問題を解き得る当の人物である。 ソフォクレスのドラマで、母ジョカスタは、 (*息子であり夫でもある)エディプスを思いとどまらせようとする。 いちばんいいことは 殺してしまうことです だれかがやるかもしれない 彼がだれのことを言ったのかと なぜたずねるのです いえ、気にしてはなりません ぜったいに エディプスがなおも(*真実に)固執すると、彼女は叫ぶ それを探してはなりません 私は病気です それで いいではありませんか かわいそうに あなたは 自分がいったい 何ものなのか 決してわからないのです しかしエディプスはひきさがらない。 全貌がわかるまで そんなことばに 耳をかすものか 自分はためらわない なにが起きようと打ち砕く たとえそれが困難であろうと わが出生の真実を つきとめるまで あとにはひかぬ その時とき飼いが叫ぶ。 おお 自分はいま ものを言うのがおそろしい エディプスが応じる。 それでもなお 自分は聞くのだ 真実を聞かねばならぬ 自分が父親を殺し、母親のジョカスタ(*イオカステ)と結婚した というおそろしい事実を知ったとき エディプスは(*自ら両眼を刺し)失明する。 これはきわめて象徴的行為である。 「眼が暗む」(self-blinding)という動作は、 文字どおり 人間が深い葛藤に遭遇したとき起こるものである。 多かれ少なかれ自分のまわりの現実から自分を閉め出そうととして 自ら盲目になるのである。 いかに自分が幻想の中に生きてきたか を知ったあとのことである。 これは、 自分自身および自分の出生についての真実を 知ろうとするときの悲劇的困難、人間の「有限性」ならびに「盲目性」を象徴する行為 と解することもできるのである。 エディプスの状況は、例外的なものに見えるかもしれない。 しかし、真実を直視する彼のたたかいと、 ありふれた生活下のわれわれのたたかいとの間の相違は 程度の差であって、まったく別根のものとはいえない。 このドラマはわれわれ自身についての真実を発見しようとするときの 内的苦悩や葛藤といった 古くしてしかもつねに新しい状況をわれわれに提示してくれる。 フロイドの神話の選び方(*“エディプス”コンプレックス)が天才技なのは、 エディプスが自分の母親と寝たということより、 むしろドラマのもつこの側面である。真理探究には、つねに、自分が見たくないものを暴きだす という危険を犯すことが伴うのである。 それによって、いままで生きてきた信念や、 日常の価値から切り離されるかもしれない、という危険を犯すことが できるためには、 自分の自己意識に対するその種の関係や、 究極的な価値にたいするその確信を必要とする。 「真の愛知なるものは、 人間生活においては、そうざらにあるものではない」 というパスカルのことばは、当然のことである。 ここで論じてきた人間のもつほかのユニークな特性とならんで、真実直視は、自己を意識できる人間の能力にかかっている。 人間はこのようにして、おかれている直接の状況を越えでることができ、 「人生をまじめに眺め、人生を全体として把握できるのである。」 人は、自己を意識すること(self-consciousness)によって、 自己自身の内面を探求できる。 そしてそこに、 多かれ少なかれ聞く耳をもったすべての人に話かけてくる智恵を 見いだすのである。 了 Top リンク Page1of1 [ 19 posts ] 1 新しい記事有り 新しい記事無し 重要トピック 新しい記事有り(人気) 新しい記事無し(人気) 告知トピック 新しい記事有り(ロック) 新しい記事無し(ロック) 新規投稿 不可 返信 不可 自分の記事の編集 不可 自分の記事の削除 不可 投票への参加 不可 Powered by SuwaBB as @BB like phpBB ©2013 atfreaks
https://w.atwiki.jp/samurize/pages/40.html
ImportExportTool.exeを使う Samurizeに付属しているImportExportTool.exeとは、自分の作ったコンフィグを他の人に公開できるようにしたり(=エクスポート)、逆に公開されたコンフィグファイルを自分のSamurizeへ取り込んでくれる(=インポート)便利なツールです。 Samurizeのコンフィグは通常、普通にiniを公開しただけでは他人の環境では動作しない場合が多いため、公開する必要がある場合はこのツールを使うようにしましょう。 パッケージングされたファイルは「スイート(Suite)」と呼ばれ、拡張子は「.sam」となります。.samはSamurizeのインストール時にImportExportTool.exeに対し関連付けされているはずです。 ~ここまでのまとめ~パッケージングされた設定ファイル一式 … 「スイート」,「.sam」 スイートを取り込むこと … 「インポート」 スイートを作ること … 「エクスポート」 スイートをインポート/エクスポートするためのツール … 「ImportExportTool.exe」 インポートしよう スイートをインポートするのは非常に簡単です。 1. .samファイルをダブルクリックします。すると、ImportExportTool.exeのインポート画面が現れるでしょう。 2. 「ファイルの上書き時に警告する」「readmeファイルを表示する」にチェックが入っていることを確認します。 3. 「テストモード」のチェックが外れていることを確認します。 4. 「インポート」ボタンを押します。 5. インポートが完了したらreadmeに従い、設定等を済ませます。 6. Client.exeを起動して、インポートされたiniを表示させれば完了です。 簡単ですね(´ー`) 特に教えることもありません。強いて一つ注意するならば、ファイルの上書きには気をつけましょう。例えば既存のスクリプトが上書きされてしまうと、今まで使っていたiniが上手く動作しなくなったりする可能性があるでしょう。 エクスポートしよう 通常、エクスポートするには以下の手順を踏みます。 1. ImportExportTool.exeを起動する 2. 「スイート名」に名前を入れる 3. Readmeファイルを指定する 4. 「設定ファイル」→「追加」でパッケージングしたいiniを選択 5. 「パフォーマンスメーターと…」、「標準的でないフォントを…」の各項にチェック 6. 「エクスポート」ボタンを押す これで一発、上手く行く…はずなのですが、そうも行きません。エクスポート機能は完成度が低く、これだけではダメなケースが多発します。そこで、ここでは自分で.samファイルを作る方法を学びましょう。 .samファイルを自分で作ろう 執筆中さ(´ー`) バグについて 任意のメータ→「表示タイプ 画像」→「パス」欄に記入した画像ファイルはパッケージングされません。→「パス」欄は使わず、「デフォルト画像」を使用しましょう。 サブフォルダに格納されているiniも全て...\Samurize\Configs以下に展開されます。どうしてもサブフォルダに展開の必要がある場合は、自分でSettings.iniを作成し、パッケージングします。
https://w.atwiki.jp/kusamura/pages/49.html
このページはhttp //bb2.atbb.jp/kusamura/topic/65939からの引用です kusamura(叢)フォーラム ロロ・メイ著作集1 「失われし自我をもとめて」(1953) トップ»ロロ・メイ著作集1 「失われし自我をもとめて」(1953)» 第3部_第6章 創造的良心Ⅰ(倫理・価値・神話にみる反抗) [ 9 posts ] 投稿者 メッセージ kusamura 題名 第3部_第6章 創造的良心Ⅰ(倫理・価値・神話にみる反抗) 時間 2011-11-11 07 02 22 no rank Joined Posts 第六章 創造的良心 人間は倫理的動物である。 ―たとえ不幸にして、現実にはそうでないにしても、 可能性の点では倫理的である。 人間の倫理的な判断能力(自由や理性、その他人間固有の特質との関係) は、人間の自己意識性にもとづいている。 数年前、ホバート・マウラー博士はハーバートの心理学実験室でささやかな実験を行った。 その計画は、動物がある種のネズミ・エチケットとでもいうものを学ぶことであった。 ―すなわち、食物をつかむ前に、三秒間待つことである。 ねずみはもし待たないなら、オリの床を通してある電気ショックによって罰を受けた。 ねずみは直ちに罰が与えられた場合、 すぐ、「行儀良く」待って、それを食べ、安心してそれを享受することを学習した。 しかしその罰が、9秒ないし12秒遅れると、ほとんどのネズミが学習できず、 罰のことなどおかまいなしに食物にくらいつくか、それとも 「神経症」になってしまう。(食物からまるで引き下がり、飢えとフラストレーションに陥る。) 要するにねずみたちは、 食物に対する「目前の」欲求行為をやれば、「さきで悪い結果」をまねくということを 比較考量できない。 人間は「あとさき」をふりかえることができる。 人間は直接の瞬間を超出できる。 過去を想起し、未来に向かって計画をたてることができる。 人間は、ささいな直接の善をさておいて、 ある未来の瞬間まで現れない大きい善を選ぶことができる。 同じ理由で、人間は、 他人の欲求や願望の中へ自分を移しいれて、 それをじかに感じることもできる。 また自分を他人の立場において考えることもできる。 自分自身だけでなく、仲間の善をめざして、自己の選択を下すこともできる。 たいていの人にとって、不十分で萌芽的であるかもしれないが、これが 「汝の隣人を愛し」自分自身の行為とコミュニティの幸福との間の関係を意識できる能力 の始まりである。 人間は、「価値や目標の選択」ができるだけでなく、 人格の統合(*抑圧や矛盾のない自己同一性意識の獲得)をめざすなら、 ぜひそうしなければならない動物である。 というのは、 価値(人間が進んでゆく目標)は、 人間にとって心理的センターであって、 磁力の中心が磁力線を引き寄せるのと同様、自分のもっている諸力をひきよせる 一種の統合中心としての役を果たすからである。 われわれが、自分がいま何を「欲しているのか」を知ることは こどもや青年にとって、自己-方向づけ能力の萌芽として重要なものである。 まず、自分がいま一体何を欲しているか を認知するということは、成熟してゆく人間にとって、 価値をみずから選択できるという能力を証拠だてるものであり、 その第一歩である。 Top kusamura 題名 #2 時間 2011-11-11 22 26 46 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 ここまでの章で見てきたように、 現代人の慢性的な心的障害である、不安、当惑、空虚は主として さまざまな価値の混乱、価値間の矛盾によって生じている。 われわれには依るべき心的核心が欠けている。 個人の内在力や完成(integrity)の度合いは、 当人がよりどころとしている価値を、 どれほど信じているかにかかっている。 本章では、諸々の価値を、人間がどのていど、 成熟的、創造的に選択し、確認できるかをみていこう。 まず第一に、 あなたがどんな価値を抱き、私がどのような価値を奉ずるか それを確認することの難しさは、 ひとえに、われわれの住んでいる時代にかかわっている。 つねにそうなのであるが、 何を考えるにしても、懐疑主義や疑惑が伴ってでてくる過渡的時代には、 各自はより困難な課題を背負わされている。 伝統的な意味での信念(faith)をかつぎ回ることには 何の意味も見いださなかったゲーテは、次のように記している。「どんな形体であれ、信念によって導かれている時代はつねに、 本質的に輝かしいもの、向上的、稔りある時代であって、繁栄に向かうものである。 いかなる形であれ、 懐疑主義が、あてもなく支配している時代は、かりに一時の光彩をはなったことはあっても その意味を喪失してしまう。……」 (なぜなら) 「本質的に不毛なもの」ととり組んでも、よろこびは見いだされないからである。 やや誇張された表現であるが、もしゲーテがここで、信念という言葉によって 社会に充満し、その社会に意味の中心を与え、その社会の構成員に目的意識を与えるような確信(convictions) のことを語っているとすれば、それは歴史的にみて正しい。 ペリクレス時代のギリシャ、 イザヤ時代、 十三世紀のパリ、(*ルイ9世の時代、ノートルダム大聖堂やサン=ドニ大聖堂が完成した繁栄期) あるいはルネッサンス、および十七世紀 をかえりみてみるならば、 こうしたそれぞれの時代の確信が、その時代の想像力をいかに結集したかがうかがえる。 しかし、史上、ヘレニズム時代の終わりや、中世思想の黎明期のような 過渡期、ないし崩壊期においては、その「信念」は解体する傾向にある。そこに一般に二つのことが起こってくる。 第一に、 社会内に根づいた信念や伝統は、個人のバイタリティを抑制する 死せる形態 に結晶化する傾向が起きる。 たとえば、 中世の衰退期になると、かってはげしく利用されたシンボルは ドライな空虚な形式となり、論じやすいが内容のないものになってしまった。 過渡期にあらわれる第二のことがらは、 ヴァイタリティが伝統から剥離し、 地上のあらゆる方向に流れていく水のように力をなくした散漫な反抗 になってしまう傾向になる。 我々自身の生きてきた1920年代にもこのことは多かれ少なかれあてはまることである。 おおよそこれは今日われわれのかかえているジレンマではなかろうか。 一方には権威主義的傾向があり、 他方では方向を失ったヴァイタリティがとまどいしている。 たしかに歴史はさまざまの角度から説明されるが、 現代のような社会変動の時代、(*1950年代のアメリカ)人々は「根無し草」のように安定感を欠き、 嵐のときの安全地帯として、権威や安定した制度にしがみつこうとする。 リンド夫妻がその「過渡期のミドルタウン」(不景気時代のアメリカの研究)で述べている。 「たいていの人は、生活のあるゆる領域での変動や不安定に同時に耐えることができない」 ―そこでミドルタウンの市民たちは、経済・政治面で、さらに保守的な権威主義的信条に走り、 いっそう厳格な道徳的態度へ向かっていき、自由な教会よりも、 ファンダメンタリズム(根本主義)の教会メンバーになる人の数が増えていった。― この二十世紀半ばに、われわれの直面している危険は、 何を信じていいのかわからず、混乱し、当惑し、時には恐慌状態を呈する人々が、 (1930年代のヨーロッパもそうであった) 破壊的で、デーモン的な(重力的な)価値をひっつかむということである。 共産主義は、「既成宗教の衰退によって生まれる信仰の空白を満たすためにはいってくる」 とアーサー・M・シュレディンガーは書いている。 「共産主義は、内的不安とか疑惑といった傾向をいやすところの目的意識を提供してくれる。」 アメリカ国民が共産主義になるとは思われないが(少なくとも私には思われないが)、 しかし現代社会において、破壊的価値にとびつく結果は、別の形をとってあらわれてくる。 宗教・教育・哲学、それに科学における独断主義の傾向の中に、 権威主義的傾向が育ちつつあることは否めない。 脅かしや、不安を感じている人々はいっそうかたくなり、 内に疑惑を抱いているときには、独断的になりがちである。 (*そのことによって)自分自身のヴァイタリティ(*生命力・活力)を失ってしまう。 人々は、防衛のための隠れ家をつくるため、 名残りの伝統を利用し、その背後に尻込みしてしまう。 しかし 多くの人は、過去への逃避がききめのないことに気づいている。 (幸いにも、ヘンリー・リンクの『宗教への復帰』は一時的には人気があったが、影響力はつかの間であった) こうした努力は、基本的には、自己敗北的(self-defeacting)である。 われわれは、 外側から何か「センター」になるものを、あてがうことは決してできない。ギルバート・マレーが述べているように、 混乱したヘレニズムの時代のごとく、「活力の喪失」(failure of nerve)のために起こる宗教的関心の復活は 社会あるいは人々自身に対してなんの役にもたたない。 その事業はいかに難しくても、 自分の自己認識活動なり、われわれの住む社会を受け入れねばならない。 われわれは、 歴史的状況に勇気をもって直面するだけでなく、我々自身をより深く理解することによって、 自らの倫理センターを見いださなければならない。過去数年間の中に、 「宗教への復帰」とは違うもうひとつの動きが起こってきた。 多くの知識人をはじめ、鋭敏な人々は、 文化のもつ宗教的・倫理的伝統から逃避していることの損失、ならびに イザヤ、ヨブ、仏陀、老子の思想を知らないということは、 価値発見の必要な時代に、なにかとりかえしのつかないほど重要なものを失いつつあるのではないか と考えるようになった。 人々は過去の倫理的、宗教的智慧に新しい関心を示しだした。 この傾向はデヴィット・リースマンのアメリカン・スカラー誌 の中での「フロイド・科学・宗教」のごとき論説や、ホバート・マウラーの著述の中に見いだされる。 (*オーヴァル・ホバート・マウラー(Orval Hobart Mowrer 1907年 - 1982年) アメリカの心理学者。邦訳「疎外と実存的対話」(O・ホバート・マウラー、上里一郎、誠信書房、1969年初版、絶版または重版未定) 1950年のパルティザン・レヴュー誌は連続四号にわたって「宗教と知性」というトピックをめぐって、 作家、詩人、哲学者など二十人の論説を全面的にかかげている。 こうした傾向が単に現代不安の産物でないというなら、それは実際、健全な傾向といえよう。 しかし、危険もある。 宗教的伝統といっても、その比較的芽につきやすく、 華々しいが、健全とはいえない傾向にしがみつく傾向である。 宗教に対する知識人の興味が、 主として権威主義ならびに反動の発展にそそがれるようになれば、 失われるものもいよいよ大きい。 問題は、倫理・宗教的の点で健全なもの、 しかも個人的価値・責任・自由を減らすよりもむしろ増大してゆくような確かなものを 何が生みだすか を識別することにある。 前章までに触れてきたように、 健全な倫理意識はどのように人間の中に生まれ、 かつ、発展するかをたずねることから始めよう。 Top kusamura 題名 #3 時間 2011-11-12 00 34 15 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 アダムとプロメチュース (1)(*アダムとイブ)人間は、 太陽に向かって花が生長するように、自然に倫理的判断ができるようになるのではない。 自由をはじめ、人間の自己-意識から生まれる側面と同様、 倫理的認識は、内的葛藤や不安という代価をはらって得られるものである。 この葛藤は、 最初の人間についての魅力的な神話、 アダムに関する聖書物語の中に描かれている。 これは実は、紀元前八五〇年ごろ、旧訳聖書の中へもちこまれ、 書きなおされた古代バビロンの物語であるが(*参考サイト①、②、他多数) この物語は、 倫理的判断と自己意識が、どのようにして同時に生まれるかを描いている。 アダムとイブは、 神が「見てたのしく、食べておいしいあらゆる種類の木を生成させた」エデンの園に住んでいる。 この楽園は、あくせく働く必要もなく、欠乏ということを知らない。 さらに重要なことは、 アダムとイブには何の不安も罪の感傷もなかった。 いわば「自分が裸のままであることを知らない」彼らは、 生活のため大地にたたかいを挑む必要もなく、自らの中に何らの心的葛藤もなく、 神とも何の精神的葛藤もなかった。 ただ、アダムとイブは神によって、 善悪を知る智慧の木の実や、生命の木の実を食べてはならないよう命じられていた。 それは 「彼らが善悪を知る神に似ることのないためであった」。 アダムとイブがはじめて木の実を食べてしまったとき、 「彼らは目を開けた」 そして、 はじめて善悪を知ったことの印は、不安と罪の経験として現れてきた。 彼らは「自分の罪を意識した」。 そしてこの物語の作者が、そのこどもらしい、魅力的な文体で記しているように、 真昼に、神が毎日の散歩に楽園をよこぎるとき、 アダムとイブは、神に見られないように木々の間に身をかくした。 彼らの不服従を怒った神は、彼らに罰を割りあてた。 婦人はその夫に対して性的あこがれ(sexual craving)を抱き、 出産の苦しみを味わうよう宣告された。 そして、男性には 労働という罰を与えた。 おまえは 額に汗して生活の資を稼がねばならぬ おまえが大地にかえりつくまで―― おまえはちりだから ちりにかえらねばならない。 この有名な物語は、事実、初期メソポタミアの素ぼくな表現をとっているが、 あらゆる人間の発達途上、1~3才の間のある時期に、遭遇するところのこと、 すなわち、自己意識の出現を述べているのである。 そのときまで、各自は エデンの園に住んでいるのである。 エデンの園は、幼児、動物、天使たちに固有の状態を代表している。 そこでは、倫理的葛藤も、責任も存在しない。 恥も、罪も知らない無垢(イノセンス)の時代である。 生産活動のないパラダイス(楽園)の状況は文学作品の中で さまざまな形で現れている。 それらの描写は、自己認識の生まれてくるまえの初期状態、 あるいは無垢の時代と心理学的に大いに共通点をもつ さらに極限的な状況、つまり、 子宮内生存に対する ロマンチックなあこがれに立ち戻ってゆくことを示している。 Top kusamura 題名 #4 時間 2011-11-12 01 06 45 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 アダムとプロメチュース (2)(*アダムとイブ) 「無垢(イノセンス)状態」の喪失、および倫理感覚の萌芽を手始めに、 人間は、自己意識、不安、罪悪感といった人間特有の重荷を相続するものであることを アダムとイブ神話は示している。 後になってのことかもしれないが、 同じく人間は、自分が「ちりからできている」という認識に達する。 つまり、自分はやがて死ぬものであるという自覚、自己自身の有限性を意識するようになる。 その積極的な側面を考えるなら、 智慧の実を口にすること、正邪(right and wrong)の区別を学ぶことは 心理的、精神的人間の誕生を現している。ヘーゲルは人間の堕罪神話を、「上向きの堕罪」(fall upward)であると述べている。 神話を創世記のなかにとりいれた古代ヘブライ人は、それを天井の歌をもってたたえ、 歓喜すべきこととしている。 というのは、 アダム創造のときより、むしろ、このときこそ 人間がほんとうに人間存在として生まれる日だからである。 しかし、驚くべきことは、これが全て、神の意志、神の命令に「そむく」できごととして 描かれていることである。 神はここでは怒れるるものとして描かれている。 神はいう。 「人間のやつは善悪を知ることによって、おれたちに似てきた。 このままにしておいて、もし人間が手をのばして、生命の木の実を手に入れ、 それを口にするようなことになったらどうなるか。 あいつらは永遠に生きることになる」 この神は、 人間が智慧を身につけ、倫理的感覚をもつことを望んではいなかったと考えるべきだろうか。 ―創世記神話に出てくるように、 この神が人間を自らの姿に形どって造ったということに、何らかの意味が含まれているとすれば、 それは、自由、創造性、倫理的選択という点で、神に似ることを意味する。 神は、人間を 「無垢」のまま、心理的・倫理的盲目状態のままにおくことを望んでいた と解すべきだろうか。 こうした解釈は、 神話についての鋭い心理学的洞察とはあまりにかけ離れているので、 われわれは他のいくつかの説明を見つけなければならない。 たしかに それが紀元前3,000~1,000年へのかけての萌芽の時代に端を発するものではあるにしても この神話は素ぼくな見方を示している。 素ぼくな語り手たちが、 建設的な自己意識と反抗を区別できなかったことは理解できる。 (今日でも、多くの人たちにとってその区別は難しいのだから) この神話の神は、 もっとも古く、素ぼくなヘブライ種族の神、ヤッハウェー(yahweh)であって、 この神は、嫉みと復讐の神として有名である。 後の予言者たちが反抗したのは、 ヤッはウェーの残忍な、非倫理的なやり方に対してであった。 ここで、 同じ古代に生じたオリンパス山のゼウス・そのほかの神々という 併立するギリシャ神話に目をやるならば、 われわれは、アダム神話のもつ奇妙な矛盾に光をあてることができる。 Top kusamura 題名 #5 時間 2011-11-12 05 35 14 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 アダムとプロメチュース (3)(*プロメテウス) プロメチュース(*以下プロメテウスと表記)は、 神々から火を盗み、 それを、人間が暖をとり生産に利用できるよう、人間に与えてしまう。 ある晩、 地上に燃えるあかりを見たゼウスは、人間どもが火をもっていることに気づき、 怒りのあまり、 プロメテウスをつかまえ、コーカサスへ追放し、 鎖で山頂に繋いでしまう。 ゼウスのたぐいまれな想像力は、 昼は、はげたかにプロメテウスの肝臓を食わせ、 夜の間にそれが再生されてもとに戻ると、次の日、再び、はげたかの餌食になる という拷問をつくった。 これは不運なプロメテウスに対し、絶えることなき苦悩を保証するものである。 罰に関するかぎり、残酷さの点ではゼウスのほうがヤハウェーよりも上手である。 今や人間が火を所有してしまったことに怒りを燃やしたギリシャの神は、 一切の病気、悲しみ、悪徳を、蛾のような動物の形にしてひとつの箱の中に閉じ込めてしまい、 マーキュリーにそれを持たせて、 パンドラやエピメテウスが幸福な暮らしをしている 地上のパラダイスに運ばせた。 好奇心の強いパンドラがその箱をあげたとき、 それら生きものが地上にとび出した。 そして人類は、これら決して尽きることのない苦悩にさいなまれることになる。 神の 人間に対するこうした扱いにみられるデーモン的要素は、たしかに美しい情景ではない。 アダムの物語が自己-意識の神話であるように、 プロメテウスは創造性のシンボルである。 ―すなわち人類に新しい生き方をもたらすのである。 実際、プロメテウスの名は「予想」(*pro(先・前)metheus(考える者)=先見の明を持つ者*wiki) を意味する― すでに述べたように、 将来を見通し、計画を立てる能力は、自己意識の一面にすぎない。 プロメテウスの苦悶は、創造性に伴う内的葛藤をあらわしている。 それは不安と罰をあらわしている。―そしてそれは、ミケランジェロ、トーマスマン、ドストエフスキーその他多くの創造的人物が われわれに語っているように― 人類に新しいものをもち込む人間の当然うくべきものである。 アダム神話の場合と同じように、 ゼウスは人間の向上衝動を嫉妬し、罰という形で復讐をはかっている。 ここにも同じ問題が起きる。 ―神々が人間の創造性に反撃するということはどんな意味をもつのか、と。 たしかにアダムとプロメテウス、いずれの行為にも神々への反抗がみられる。 これが、あるがままのそれら神話が意味をもってくるポイントである。 ギリシャ人、ヘブライ人たちは次のことを知っていた。 すなわち、人間が自己の人間的限界を超出しようとするとき、無理を押す罪を犯すとき、(ダビデがウリヤの妻を奪った行為)傲慢のきわみをなすとき、(トロイを征服したときのアガメムノン)あるいは、 身に万能の力ありと僭称するとき、(近代ファシズムの観念論)自己の限られた知識をもって究極の真理ととるとき、(宗教的、科学的を問わず、ドグマ(教条主義)的人間のやるごとく) そのとき人間は危険な状況にある。 ソクラテスは正しかった。 智慧の始まりは、自己の無知を認めることであり 自己の能力の限界を認めてかかるときだけ、 ある程度その限界を超えることができるのである。 神話は、誤った自惚れに対して警告する点で健全である。 Top kusamura 題名 #6 時間 2011-11-12 07 03 38 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 アダムとプロメチュース (4)(*抵抗) ところで、上述の神話が描いている反抗は、あきらかに正当であると同時に建設的である。 したがって、それらの神話を、 自己の有限性、および、自惚れに対して人間の闘う姿として簡単に捨て去ることはできない。 これらの神話は、次のような心理的葛藤を描いている。 こどもが「開眼し」、自己-認識を得るには、つねに、 それが親(*あるいは親代理となる重要他者)であれ、神であれ、 権力をもつ者との潜在的な葛藤を引き起こす しかも、 こうした抵抗は、 それを抜きにしては、 子どもは、自由、責任、倫理的選択を主張できるだけの潜在力をもち得ず、 人間固有のもっとも高価な性格特性が眠ったままになってしまうような この抵抗がなぜ非難されねばならないのか。 これら神話の中には、 ねたみの神々によってあらわされている強固な権威と、 新しい生命や創造性の急激な出現とのあいだには、古くからの葛藤があることが語られている。 新しいヴァイタリティの出現は いつもある程度、既存の習慣や信仰を破壊してゆくものであり、 それは、成長してゆく人間だけでなく、 権力の座にあるののにたいしても脅威と不安をよび起こすものである。 「新しいもの」を代表する人々は、 オレステスやエディプスが見いだしたように、 堅固な権力との死闘の中に身をおくことになるかもしれない。アダムの不安とプロメテウスの体験したような苦悩は、 創造的人間それ自身の中には、前進することの恐怖のあることを心理学的にもの語っている。 これら神話の中には、 人間の勇気ある側面だけでなく、 自由よりも逸楽を求め、 成長より安定を好むところの奴隷根性的側面が語られている。 アダムとイブの神話の中で科せられる罰が「性的欲求」と「労働」であるという事実は 重要なポイントである。 というのは、土を耕し、食物を生産し、自ら手を下すことによって創造する機会、 これを罰としての労働と考えさせるのは、 われわれの中にあって、 いつまでも面倒を見てもらいたいという欲求のためではなかろうか。 性的欲求それ自体を重荷ととるのは、自分自身が不安であることを示すものではなかろうか。 実際オリゲネスがやったように、 自らの自己認識を去勢してしまうことは、 欲求を切断することによって、葛藤を避けようとするものである。 確かに、自分自身の生活の糧を生産しなければならないことに伴う不安と罪、 それに性欲、自己意識のもつほかの側面に含まれる問題は 苦しいものである。 ときどき、それはたしかに大きな葛藤や苦悩をひき起こすことがある。 精神病のような極端な場合をのぞくとしても、自己認識、創造性といった冒険のために払う代償としては、 不安や罪悪感はあまりにも高価である。という主張もありうる。 無垢な幼児であるよりむしろ人間存在であろうとするための 力を得るためたの代償として、それらはあまりに高価すぎるのだろうか。 これらの神話は、 それがギリシャ、ヘブライあるいはキリスト教のものであるにせよ、 あらゆる宗教的伝統のもつ権威主義的側面を示している。 それらが、新しい倫理的洞察にたいして反撃してくるのである。 それは嫉みと、復讐の神ヤハウェーの声としてあらわれたり、 息子の地位と権力に嫉妬して、自分の息子を棄て狼にゆだねる王、エディプスの父親の声にみられる。 あるいは、若々しいもの、 成長するものを押しつぶそうとする首長や僧職者の形をとることもある。 さらに 新たな創造性に抵抗するドグマティック(教条的)な信念や厳格な習慣にもみられる。 たしかに、全ての社会が両面をもたねばならない。 一方には、新しいアイデアや倫理的洞察を生みだすところの根源力が必要であり、 他方には、過去の価値を保存する制度というものがなければならない。 新しいヴァイタリティと古い形式、変化と安定、 現存の制度を攻撃する預言的宗教と制度を保護する僧職宗教 といった両面なしに いかなる社会も永続することはできない。 しかし、すでにみたように、今日、われわれの直面している問題は、 順応することを目標とする圧倒的傾向がみられる(*ことである)。 (*次節へ) [/b] Top kusamura 題名 #7 時間 2011-11-12 08 21 42 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 アダムとプロメチュース (5)(*順応・服従) 今日、順応することを目標とする圧倒的傾向がみられる。 集団が自分に期待している通りに、 死にものぐるいになって生きようとするレーダー型の人間(*周囲に合わせるため常に周囲へアンテナを張っている人間)は、あきらかに 自己の所属集団の基準に「適応する」ことをもって道徳と思っている。 こうした時代においては、倫理とは、 いよいよ「服従」と同一視される傾向にある。 われわれは 社会と教会の指示に従っているかぎり「善良」ということになる。 アダム神話をひととおり見るだけなら、この傾向はうまく合理化されている。つまり、 ―もしアダムが服従していたなら、 彼は決して楽園を追放されることはなかったことを指摘できる。 この見方は、 現代の混乱した時代においては、きわめて強力に訴えるものがある。 心配も、欠乏も、不安も、葛藤も、個人的責任もない パラダイスによって象徴される状態が、 不安の時代においては切に望まれるからである。 このように、 自己意識を発達させないことが、暗黙のうちによいこととされ、 それはあたかも、 文句をいわず、服従するのがよいこととされ、 個人的責任をひき受けることが少なければ少ないほどよいこと とされているようなものである。 服従することがどうして倫理的とされるのか、 われわれの目標が単なる服従であるとすれば、われわれは 犬を要求される通りに動くよう訓練できる。事実、犬は、 その飼い主の人間以上に、いっそう「倫理的」になるかもしれない。 飼い犬は、 自由が抑圧され、拒否されることに対する抗議として、 たえずくすぶっている神経症的なものを、 なにか不服従の「行為」の形で爆発させることをしないように 仕付けられているからである。 さて、社会学的レベルでは、受け入れている規範に従うことがなぜ倫理的なのか。 一九〇〇年代において、その当時の理想とされる生活を充実させる人は 当時のほとんどの人と同様、性的に抑圧されてきていた。 一九二五年になると、その同じ人物が、当時うけ入れられている生活様式にたいし、 おだやかではあるが、反抗的になってきた。 一九四五年になると、 キンゼイ報告にでてくるような行動様式のほぼ平均的なもので、その行動を導くようになってきた。 それを「文化的」ないし「道徳的」ルール、あるいは 絶対的な宗教的教義と呼んで、そのルールをいかめしくしたところで、 こうした「順応性」のどこが倫理的なのか。 あきらかにこのような行動は、人間的倫理の 本質から、はずれている。 ―すなわち、 ここには他者との独自なかかわり合いを敏感に認識するとか、 ある程度の自由と責任をもって、創造的関係をつくりあげることがなされていない。 倫理的感受性と現在の制度との間に生ずる葛藤ならびに 倫理的自由に伴う不安について、 もっともはっきり描きだしているのはドストエフスキーの「大審問官」である。 (次節へ) Top kusamura 題名 #8 時間 2011-11-12 09 53 06 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 アダムとプロメチュース (6)(*ドストエフスキー)倫理的感受性と、 現在の制度との間に生ずる葛藤 ならびに、倫理的自由に伴う不安について、 もっともはっきり描きだしているのはドストエフスキーの「大審問官」(*『カラマーゾフの兄弟』中の一章)である。 ある日、キリストがこの世に還ってきて 静かに、控えめに町の人々を治療したが、 誰もがそれを認めていた。 それはたまたまスペインの宗教裁判中であった。 老枢機卿である大審問官は町でキリストに逢い、 彼を獄につないでしまった。 真夜中のこと、審問官が獄にやってきた。 それは なぜキリストが地上に還ってこなければならかったかという理由を、 だまっているキリストに説明するためであった。 一五〇〇年の間、教会は、 キリストの行った、人間に自由を与えるという 根本的な間違いを 是正するためにたたかってきた。 そして審問官はいう、 人間どもは、自分たちのやったことをイエスがもとにもどすことを 許さないであろう。 キリストの間違いは、 「厳格な古代法のかわりに、キリストが、自由な心情をもって、 何が善であり、悪であるかを単独で決定しなければならない」 という重荷を人間に課したことであり、 自由選択というこのおそろしい重荷は人間の手に負えないものである。 キリストは、このうえもなく人間を尊敬した、と審問官は主張する。 そしてキリストは、次のことを忘れてしまったという。すなわち 人間は実際のところ、こども扱いされ、「権威」と「奇跡」によって導かれることを願っている ということである。 キリストは、悪魔が誘惑して述べているように、 人間に単にパンのみを与えるべきであった。 それなのに、 「キリスト、おまえは人間から自由を奪わず、私の申し出をことわってしまった。 考えてみるに、もし服従がパンであがなえるとすれば、その自由になんの価値があろうか。…… しかし結局人間どもは、その自由をわれわれの足下にさし出して、 われわれに請うことになる。私たちをあなたの奴隷にしてください。 その代わり、食べさして下さい。と、…… キリストよ、お前は忘れてしまったのか、 人間は善悪を知る選択の自由よりも、平安と死をさえ望んでいることを。」 キリストの 自由な生き方にしたがうことのできる少数の英雄的に強い人間がいる、と その老審問官は続ける。 だが、たいていの人間が求めているのは、 「すべてが一つの、同意見の、調和ある蟻塚に合体されることである。… 私はお前に告げよう。不幸な人間がもっとも苦しめられるのは、人間が もってうまれた自由という あのさずかりものを、手渡してしまえる相手を 一刻も早く見つけたいという心配なのだ。 そのさずかりものを受け取るのは教会である。 “われわれは、その人間が従順か否かに従って、彼が妻や愛人と暮らすこと こどもをもつこと持たないことを、許可したり、禁じたりすることになる そして人間どもは、よろこんで、心からわれわれに服従するであろう。…… というのは、服従は、 自分の力で自由な決断を下そうとするとき、耐えねばならぬ大きな不安や、 おそろしい苦悩から人間を救ってくれるからである”。」 その老審問官は、「なぜお前はわれわれの仕事の邪魔に戻ってきたのか」 と、いくぶん悲しそうにことばを変えて質問し、 去り際に、明日キリストは焼かれることになると告げてゆく。 もちろんドストエフスキーは、 審問官がカトリックとかプロテスタントとかの味方であると いっているのではない。 彼はむしろ、 「同意見の…蟻塚」を求める宗教のもつ 生-妨害的な側面を描きだそうとしているのである。 これは人間を奴隷にし、 一杯のポタージュのためもっとも高価なものを犠牲にしてしまったエソウのように、 もっとも貴重なもの、自由と責任の放棄を誘うような要素を指摘している。 したがって、 それを中心に自分の生活を統合できるような価値 を求めている今日の人間に必要なことは、 容易に手に入る簡単な出口は何もないという 事実を直視することである。 Top kusamura 題名 #9 last 時間 2011-11-12 23 55 35 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 アダムとプロメチュース (終)(*倫理と宗教) 歴史をふりかえってみると、 倫理的預言は、宗教的伝統の中に生まれ、かつ育ってきた。 ―それを知るには、アモス、イザヤ、イエス、聖フランシス、老子、ソクラテス、スピノザなどを思い出せばよい。 しかし他方、 倫理的に敏感な人間と、宗教制度との間には、よりきびしい闘いが存在する。 倫理的洞察は、現存の慣習に順応することを攻撃するところから生まれてくる。 山上の垂訓で、 キリストは自分の提出する新しい倫理的洞察それぞれを述べる前に、 次のような言葉を繰り返して言っている。 「…と言えるをなんじら聞けり、されどわれはなんじに告ぐ」と。 この体験は、倫理的感受性をもった人間には、たえず繰り返されるものである。 すなわち「新しい酒は、古いつぼに入れてはならない。さもないと つぼは破裂し、酒はこぼれてしまう。」* (*邦訳聖書ではつぼではなく革袋)これは常にあることであって、 ソクラテス、キルケゴール、スピノザのような、倫理的に、創造的な人間は、 伝統的組織のもつ公式化された「規律」とは反対の、 新しい倫理的「精神を」見いだそうとしている。 これら倫理的指導者と、既存の宗教・社会制度との間にはたえず緊張関係が続き、 時として、歴然としたたたかいとなる。 倫理的指導者はしばしば教会を攻撃し、教会は彼らに敵としての烙印を押す。 ―「神に酔える哲学者」(God-toxicated philosophar)スピノザは破門された。 ―キルケゴールの著書のひとつは、『キリスト教徒への攻撃』(attack upon christendom)と題されている。 ―イエスやソクラテスの処刑されたのは、道徳的、社会的安定をおびやかすものとしてであった。 歴史的事実として、 ある時代の聖者たちがいかにしばしば、前の時代のいわゆる無神論者(atheist)であったかを知ると 驚かざるを得ない。 今日、倫理的成長に反するものとして、既存の宗教的制度を攻撃する人の中に ニーチェ、フロイドがあげられる。ニーチェは、 キリスト教道徳は、怨恨(ルサンチマン)によって動機づけられているとして抗議し、フロイドは、 宗教は人を、幼児的依存症に安住させるものとしてそれを批判する。 彼らの表明しているのは、人間の幸福や、自己、(*フロイドの場合は精神分析本来の意味での自我) 実現(fulfillment)に対する倫理的関心である。 ある地方では 彼らの考えは宗教に敵対するものとみなされてきたが(ある部分はそうである) やがて先の世代では、彼らの重要な洞察は、倫理宗教的伝統の中に吸収されてゆき、 宗教は彼らの貢献によってさらに重要なもの、より有効なものになることと思う。 たとえば、ジョン・スチュアート・ミルによると、 彼の父親、ジェームス・ミルは、宗教を「道徳の敵」と考えていたとのことであるが、 父親のミルは、スコットランドの長老派教会で教育を受けている。 しかし後になって教会から離脱している。 それは、予定説に説かれるような、 人は自らの選択によることなく、そこへ向かいつつあるということを承知のうえで、 神は地獄をつくることができた、という考えを受けいれることができなかったためである。 彼は次のように考えた。 人間の意志行為によって成り立つものである道徳の規準を、 根本からだめにしてしまったものが宗教である。 しかもこの宗教は、実際には人間のことを惜しみなくお世辞のことばを使っておだてているが、 よくみると、人間をあきらかに憎らしいものとして描いている。 (息子の)ミルは19世紀中頃にあらわれるこの種の「不信仰者」(unbeliever)について次のように述べている。 「不信仰者の中のもっとも立派な人たちは、… もっぱら、自分だけが宗教的であると僭称する人々よりも、 宗教ということばのもつほんとうの意味での、真実、宗教的な人である」 と。 ニコライ・ベルジャエフは、ロシアの正当派神学者かつ哲学者である。 その彼も、 前述のミルが述べている同じサディズム的な教義に抗議している。 そして、次のような事実に反撃している。 「キリスト教徒は、低頭し、へつらい、平伏することによって、 自分がいかに敬虔であるかを表明してきた。しかしこんなものは 奴隷根性(servility)や屈辱を示すジェスチャーにすぎない。」 史上まれにみる倫理#2C4E16的預言者すべての例にもれず、ベルジャーエフは、常に 「神の名において神にたたかいを挑むのである」 と述べている。 「自分がそれに反抗を決意すべき対象を裁くあたって、 私は、ある究極的な価値(ultimete value)にふれることなく、 またその究極的価値の名においてではなくして、反抗を打出すことはできない。 いいかえれば、私は神の名において反撃するのである。」 このように、 新しい洞察と、旧慣墨守的な権威とのたたかいの中には、 共通のモチーフがある。 アダムとヤハウェー、 プロメテウスとゼウス、エディプスと父親、 オレステスと母権制権力 といった二者間の葛藤、実際の人間倫理史上の予言者の中にみられるたたかいである。 それは、レベルこそ違え、 われわれが、こどもと親とのあいだの葛藤の中に思い出すのとおなじ心理学的モチーフ ではないだろうか。 もっと正確にいうと、(*以下原文傍点)それは あらゆる人間に見られる自己意識の拡大、 成熟、自由、責任性、の確立をめざしてたたかう傾向と、 他方、 いつまでもこどものままでいて、 親あるいは親に代わるべき者の保護下にいたいという傾向、 この両者間の葛藤ではなかろうか。 第6章 Ⅰ 了 Top Page1of1 [ 9 posts ] 1 新しい記事有り 新しい記事無し 重要トピック 新しい記事有り(人気) 新しい記事無し(人気) 告知トピック 新しい記事有り(ロック) 新しい記事無し(ロック) 新規投稿 不可 返信 不可 自分の記事の編集 不可 自分の記事の削除 不可 投票への参加 不可 Powered by SuwaBB as @BB like phpBB ©2013 atfreaks
https://w.atwiki.jp/nitendo/pages/5972.html
メトロイドⅡ RETURN OF SAMUS とは、【ゲームボーイ】用のゲーム。 概要 ストーリー ゲームシステム キャラクター 味方キャラクター 敵キャラクター アイテム・武器 地名 関連作品 紹介動画 リンク 移植・リメイク 余談 コメント 概要 メトロイドⅡ RETURN OF SAMUS 他言語 Metroid Ⅱ Return of Samus (英語) ふりがな めとろいど つー りたーん おぶ さむす ハード 【ゲームボーイ】 メディア 2メガビット+64キロRAMロムカセット ジャンル 探索型アクション 発売元 任天堂 開発元 任天堂 プロデューサー 横井軍平 ディレクター 清武博二木村浩之 プレイ人数 1人 発売日 1992/01/21 (日本) 値段 GB 3,500円(税込)3DS 411円(税込) レーティング CERO A シリーズ メトロイドシリーズ 移植・リメイク 3DS 【メトロイド サムスリターンズ】?3DS 【バーチャルコンソール】Switch 【ゲームボーイ Nintendo Switch Online】 北米で発売され、その後日本で発売されたメトロイドシリーズの第2作。前作【メトロイド(ゲーム)】にて登場した敵キャラクター【メトロイド】に焦点が当てられている。 ストーリー 「惑星ゼーベス」でのスペースパイレーツとの死闘が片付いたあと、銀河連邦は事態を重く見てメトロイドを宇宙の脅威と認定し【サムス・アラン】にその殲滅を依頼する。 依頼を受けたサムスが降り立ったのは、最初にメトロイドが発見された地である「惑星SR388」。溶岩が流れるその惑星には巨大な地下洞窟が広がっており、メトロイドはそこに縄張りを築いている。中には進化し手強くなっているものもいるらしい。 果たしてサムスは無事に全てのメトロイドを殲滅することができるだろうか… ゲームシステム メトロイドカウンター惑星SR388に存在するメトロイドの数が分かるカウンター。画面の右下に表示されている。本作の殲滅対象であるメトロイド、及びその進化形態を倒すことで1つ減る。 溶岩もう1つの本作の特徴。エリアにいる一定数のメトロイドを倒すと上下し、別のエリアに進むことができる。中に入ると当然ダメージを受ける。 セーブ台本作からはセーブ台が登場し、セーブ台に乗りSTARTボタンを押すとセーブが可能になる。コンティニュー時はここから始まることになり、セーブ時のエネルギーとミサイル残弾が引き継がれる。 回復アイテム前作にはなかったエネルギーとミサイルの残弾数を全回復するアイテムが存在する。エネルギーはビッグエネルギーボール、ミサイルはミサイルバッテリーに触れるとそれぞれ全回復する。 キャラクター 味方キャラクター 【サムス・アラン】本作の主人公。前作よりも様々な機能がパワーアップしている。エネルギーの初期値は99、ミサイルの残弾数は30である。 敵キャラクター 【ユンボ】 【ツムリ】 【モヒーク】? 【ナード】 【グルグ】 【ニードラー】 【シールーク】? 【チュート】? 【パプー】? 【ユーミー】? 【ガウロン】? 【スコープ】 【グルバル】? 【グロー】? 【フラゾ】? 【ムンボ】? 【センジュー】? 【ハラーサン】? 【フリット】 【ピンサー】 【TPO】 【オートラック】? 【オートAD】? 【シャーク】 【オートム】 【ブロボ(メトロイドⅡ RETURN OF SAMUS)】? 【モーシン(メトロイドⅡ RETURN OF SAMUS)】? 【ドリベル】? 【クリーク】 【ガンズー】? 【メボー】? 【ラムキ】? 【オクトロル】? 中ボス 【マルカラ】 メトロイド 本作の殲滅対象で、中ボスの扱い。 【メトロイド】 【アルファメトロイド】 【ガンマメトロイド】 【ゼータメトロイド】 【オメガメトロイド】 大ボス 【クイーンメトロイド】 その他 【セプトー】 【ベビーメトロイド】 アイテム・武器 ビーム 通常攻撃。本作でも切り替え式でノーマルビーム以外は該当ビームを取るたびに変わる。 ノーマルビーム初期装備のビーム。ロングビームと同じく画面端まで届く。 アイスビーム敵を凍らせることができる。幼生体のメトロイドに唯一有効な武器。 ウェイブビーム波打つビームで攻撃範囲が広がる。 スペイザー初登場。3本のビームを出す。 プラズマビーム初登場。地形を貫通するうえ、攻撃力も高い。 ミサイル ビームより強い攻撃。敵が落とすものを拾うことでも回復可能。 ミサイル今回は初期装備。ミサイルを飛ばす。成体のメトロイドに有効な武器。 ミサイルタンク横に倒れているミサイルのマーク。1つ取るごとに残弾数が5つ増える。 ミサイルバッテリー初登場。縦になっているミサイルのマーク。触れるとミサイルの残弾数が全回復する。 エネルギー サムスの体力。0になるとゲームオーバーになってしまう。敵の出す小さいエネルギーボールでは5、大きいエネルギーボールでは20回復する。 エネルギータンク取るとエネルギーが全回復し上限が100増える。 ビッグエネルギーボール初登場。触れると体力が全回復する。 各種装備 丸まり本作では標準装備。本作の時点でもまだモーフボールとは呼ばれていない。 爆弾丸まり状態で爆弾を設置できるようになる。本作の時点でもまだボムとは呼ばれていない。 スパイダーボール初登場。地形に沿って動くことができる。ダメージを受けるかジャンプをすると解除される。 ハイジャンプブーツジャンプ力が上がる。 バリアノーマルサムスからパワーアップサムスへと変身するアイテム。本作ではダメージ軽減だけでなく、速度が上がる効果もある。 スペースジャンプ初登場。回転ジャンプ中にもう1度回転ジャンプを繰り出すことができる。スクリューアタックを取ったあとは電気を纏いながら連続ジャンプできる。 スプリングボール初登場。丸まり状態でジャンプできるようになる。 スクリューアタック回転ジャンプに電撃が付与される。 地名 惑星SR388「別名 死の惑星」である本作の舞台。巨大な地下洞窟が広がっており、溶岩が流れ出している。また、メトロイドの成長はここの環境下でしか見ることができない。 関連作品 【メトロイド(ゲーム)】前作 【スーパーメトロイド】次回作 【メトロイド サムスリターンズ】?本作のフル3Dリメイク。新たな要素として「エイオンアビリティ」が登場。ボスや敵の特徴が異なる。 紹介動画 リンク 公式HP 移植・リメイク 【メトロイド サムスリターンズ】?【ニンテンドー3DS】向けに発売されたリメイク作品。 【バーチャルコンソール】ニンテンドー3DS向けに2011/09/28から配信。 【ゲームボーイ Nintendo Switch Online】2023/02/09から配信。 余談 日本版のCMではラストに「メトロイド、オモロイド」のキャッチが使われており、後の作品である【METROID Other M】?のCMや【スーパーマリオRPG】でもこのフレーズが使われている。 本作に使用された一部のSEは【スーパーマリオランド3 ワリオランド】にそのまま流用されている。 コメント 名前 全てのコメントを見る?
https://w.atwiki.jp/iliasion/pages/966.html
Kimura、馬頭る 2023年11月3日、X(旧Twitter)でオカルトともラーメンとも関係ないKimuraの投稿がバズった事件。この投稿を振り返り、後にKimura本人は「馬頭ってる」と述べた。 該当の投稿