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416 :New ◆QTlJyklQpI:2012/03/07(水) 00 25 03 ネタSS ~憂鬱自衛隊1943~ 2003年10月13日 東富士駐屯地 「電源の物理的カット!急いで!」 「駄目です!止まりません!」 「的場一佐!!」 対プラズマ用人工磁場シールド実験中の暴走事故により第3特別実験中隊消滅。 世間には演習中に弾薬を積載したヘリの墜落事故で全員死亡したと発表された。 そして演習場にはその後2年たった今も”何の兆候も見られず”そのまま人工磁場シールドは凍結された。 1943年 帝都東京 夢幻会の会合 「・・・・メキシコ戦の後始末が済んだと思ったら、戦国自衛隊ですか・・・・」 嶋田首相は纏められた報告書を読みながら頭を抱えていた。 1943年の富士駐屯地で大規模な発光現象を確認、陸軍が駆け付けて見ると見た事もない戦車やオートジャイロを発見し 睨みあいの状態になった。そして交渉として赴いた者からの情報で陸上自衛隊第3特別実験中隊という組織であることが確認された。 「どうやら戦国時代に行かずに並行世界に来てしまったみたいですね」 「そういえば揺り戻しの3日は過ぎてるはずだが反応は?」 「いえ、全くないですね。恐らく別の世界なので修正力も働かないのでしょう」 困ったものですと言いつつも辻の口は笑っている。そして陸軍を中心とするメンバーもほくほく顔だ。 90式戦車や地対艦ミサイル、更にAH-1S対戦車ヘリなど技術の山が出現したのだから。 「そんなに装備を手に入るのが嬉しいのか?」 「ええ、そりゃもう。何せシールドの実験でしたから機種などが違えど高精度のコンピューターに付属の電子機器が盛りだくさん ですからね。それにあの”土産”も・・・・」 土産という単語で嶋田は眉間に皺を寄せる。 「確か小説版ではアメリカの核だったな。映画版ではMHD電池だったが・・・・どっちだったんだ?」 「なんと両方です!それにコミック版に出てきたTPexもセットで!」 おお!と技術者一同は目をギラギラさせている。正真正銘の宝の山を想像して涎を垂らさんばかりだ。 「それに人員もですね。技術者もそうですが2年で自衛隊を迎撃するだけの能力を持った部隊です。 彼らのノウハウを陸軍にフィードバック出来れば海外展開時に非常に有用かと」 陸軍側もプッシュするため嶋田は頭痛を感じながらも第3特別実験中隊との接触を行う事を決定した。 「仕方あるまい(こうなったら的場を会合に引き込めば苦労を分かち合うこと出来るだろうし、な。ふふふ)」 「(ゾクッ)!!」 「どうしました?一佐」 「・・・いや、なんでもない(なんだったんだ、今の悪寒は?)」 的場毅はその後、この悪寒を見過ごしたことを後悔することになる。
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525. ひゅうが 2011/11/02(水) 13 23 19 ――西暦1943年8月 ニューブリテン島 「腹減ったな・・・」 男はフラフラとジャングルを歩いていた。 ジャングルが楽園だというのは嘘っぱちだと彼ははじめて知った。 彼は知らなかったがすでに掃討戦は終了し、部隊はポートモレスビーへ引き上げた後だった。 鳥取連隊に所属し、本来なら派遣先のポートモレスビーに駐留しているはずの2年兵である彼がこのニューブリテン島にいるのにはわけがあった。 「あの源田とかいう根拠地隊司令・・・次にあったらどうしてくれようか・・・いや、無理か。ビンタはいやだし。それにあいつ海軍だし。」 日本海軍では有名な男、源田実。彼は、戦闘機無用論を木端微塵に打ち砕かれた後、空中勤務を解かれ、僻地の航空基地司令を歴任していた。 それなりに有能であり、組織作りの面では才能があった彼はほどほどに認められ、海軍がほこる根拠地建設隊を指揮し、太平洋の各地に滑走路に毛が生えた程度ではあるがそれでもあったら便利な航空基地を建設していた。 意外にも彼は、そんな現状に満足していたらしい。 そんな源田が、パルミラ諸島やライン諸島などの最前線に近い基地群の整備を一段落させた後でとりかかったのは、日豪連絡線の外郭に位置するギルバート諸島やソロモン諸島の哨戒用基地づくりだった。 中でも、豪州領であり、それなりに大きな町を有するニューブリテン島のラバウルは、彼の基地づくりの才能を如実に示している。 花咲山と名付けられた火山の降灰を避けるようにして作られた3000メートル級の滑走路とそれをとりまく施設群。 さらには現地の余っていた物資を使って別府もかくやという温泉施設を作ったのだ。 現地の英連邦軍と豪州軍などにも感謝され、彼はご満悦だったという。 だが、1943年6月。ハワイ沖海戦の後になり、平和だった島は混乱状態となる。 米海軍最後の強襲攻撃によりギルバート諸島を攻撃した米第56.8任務部隊から落伍していた特設巡洋艦「サンタバーバラ」が同島北部に座礁。 兵員2000名あまりがジャングルに紛れ込んだのだ。 輸送船を兼用し、あわゆくばラバウル基地の占拠を目的とした投機的な動きだったが、これがある程度成功したのだ。 源田は、ポートモレスビーの第45軍司令部に掃討作戦の支援を要請。 自らも根拠地隊を率いてジャングル内での掃討作戦を開始したのであった。 男が命じられていたのは、その支援だった。 ところが源田という男は、領分を守って仕事をしていれば有能なのだが陸戦ともなると並みの指揮官でしかない。 上陸した米海兵隊第2海兵旅団の一部部隊は、指揮官ホーランド・S・スミス少将の采配もあり倍以上の掃討部隊を相手に互角以上に奮戦してのけたのだ。 そして、その割を食ったのは、殿として源田たちを守った男に集約されていた。 5日間にわたりジャングルをさまよった男は、空腹の極みに達していたのだ。 「もう・・・無理じゃね?おやじ。お袋、すまね。俺、のんのんばぁんとこいくわ。」 男は、倒れた。 そんな様子を見ていた、背の低い原住民たちがいた。 源田の施政はそれなりに現地の評価を得ており、この原住民たちも、「肌が少しだけ白い人たち」には敬意を持っていた。 ゆえに、男は助けられる。 男がいないと知ってあわてた本土の――夢幻会上層部の命令によって救助隊が来るまで3週間、男はこの原住民たちと行動を共にすることになった。 原住民の中でも男が特に仲良くなった者の名をトペトロといった。 戦後、男が描く漫画は人気を呼び、当時としては珍しかったカラーでアニメ化もされるほどになる。 男の名を、武良茂。ペンネームを水木しげるという。
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280. New ◆QTlJyklQpI 2009/08/03(月) 00 46 48 人間には幸福よりも不幸のほうが二倍も多い。 ホロメス 親愛なる×××へこの内容を読んでる時僕が生きてるか保障できない。だがアメリカ国民として、罪を背負った人間としてここに記す。 支援SS 〜ある米兵の日誌1942〜 僕らは今、日本軍の爆撃に晒されている。僕らが彼らについて聞いてたのは恐らくあなたが聞かされてたのと一緒の内容だと思う。 「日本人はジャングルに住む未開の蛮族でまだ帆船に乗っていて、知性がなく、狩猟で暮らしていて粗暴である。」 「彼らは飛行機を操るが飛行機は先進国のデッドコピーでまともに飛べたら僥倖といわれ、攻撃は機銃・爆弾を作れないから 体当たりで皇帝の名を叫んで突っ込んでくる。」 「艦艇は旧式の英国艦のマネで砲も滅多に当たらず、中には燃料がないから蒸気機関で動いているものもある。」 「戦車は紙のように薄っぺらで歩兵は槍やサーベルで攻撃してきて最期には降伏せずに腹を刺して死ぬ。」 こんなとこだろう。だが僕らが相手にした航空機は全く違った。僕らの航空隊は全く歯が立たず僕も辛うじて脱出したに過ぎない。 彼らの乗る飛行機はまさに猛獣のように荒れ狂って在中米陸軍航空隊を全滅させてしまった。 なぜこうなってしまったかは今ならいくつか考えられる。 1、僕らは主に対地支援が任務で航空機同士での実戦なんてなかった。訓練も低空で機銃掃射したり低空ばかり飛行していて 防空なんて考えてなかった。 2、対地支援といっても相手が中国人だから半分以上の機体には7.62mm機銃を搭載していて頑丈な日本機に効かなかった。 3、宣戦布告しても日本機は航続距離がないだろうと警戒がおざなりになっていた。 さらに僕らは内側の敵にも遭遇している。中国軍の軍人だ。彼らは僕らが思ってた日本人像以上だ。 航空機を上げたら次の日には機器を剥ぎとって補給を要求し、銃の手入れもせず。平気で近くの村を襲ったり。 僕らが戦ってても平気で逃げ出して、探してみると味方の死体から金目のものを奪っていた。 航空機のパイロットも財閥のボンボンで訓練をすっぽかすし、麻薬を吸い、編隊飛行なんてする前に勝手に格闘戦をする。 こんな奴らが僕らを日本軍に売るんじゃないかと僕は恐れている。僕らは、今まで言えなかったが、ここで数々の罪を犯した。 共産党狩りと称して村を焼き払って住民を皆殺しにして、死体の頭蓋骨をアンティークにしたり、骨をペンにして家族に送ったりした。 僕らがここで負けたら、恐らく中国人が押し寄せて僕らを皆殺しにするだろう。僕らは戦う相手を間違えたんだ。僕らはステーツを 守るべきだった。こんなアジアなんて来るんじゃなかったんだ!この戦争は勝てない!君なら解ってくれるだろう友よ! PS ママたちには愛してるって伝えてくれ。すまなかった、ママの言うとおり農場継ぐべきだったって。 ー米軍兵士が米新聞記者の友人に充てた手紙。筆者は爆撃を受けて書いて数日で戦死ー
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編集(管理者のみ) 1900年 ジャック・プレヴェール 生誕 1901年 ウォルト・ディズニー 生誕 1903年(明治36年) 小津安二郎 生誕 1904年(明治37年) 笠智衆 生誕 小国英雄 生誕 1905年(明治38年) 成瀬巳喜男 生誕 志村喬 生誕 1906年(明治39年) 杉村春子 生誕 マルセル・カルネ 生誕 1909年 田中絹代 生誕 1910年 黒澤明 生誕 1911年 加東大介 生誕 1912年 木下恵介 生誕 1914年 菊島隆三 生誕 1915年(大正4年) 市川崑 生誕 1918年 橋本忍 生誕 1919年 野村芳太郎 生誕 1920年 原節子 生誕 三船敏郎 1924年 高峰秀子 生誕 淡島千景 生誕 1925年 「戦艦ポチョムキン」 1927年 「メトロポリス」 1929年 オードリー・ヘプバーン 生誕 1940年 「独裁者」 1941年 岩下志麻 生誕 1945年 「天井桟敷の人々」 吉永小百合 生誕 1949年 「晩春」 .
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357. ひゅうが 2011/11/20(日) 17 03 41 ※ なぜかできてしまったやっつけネタですw 提督たちの憂鬱 ネタSS――光を繋いだ男たち〜関門トンネル1941〜 ――1941年8月 関門海峡 海面下 長かった・・・ 帝国建設の大杉錬 工長は万感の思いで100メートルあまり先の壁面を見つめていた。 等間隔で小さな穴が開けられており、そこからは1本ずつ線が延びている。 そしてその先端は、大杉の立つ長卓の上の四角い装置に集約されている。 工事開始から700日・・・関門海峡の複雑な地盤を掘り進み、海底のさらに下へと向かった道程が走馬灯のようによぎる。 第2次五カ年計画の目玉である「関門鉄道トンネル」建設。 それを任されはしたが、当初は予定期間の半分程度で済むと思われた期間は結局は「総研」の予測ぎりぎりにまでずれこんでいた。 広軌軌道を2つと予備通路を含む巨大なトンネルは箱根で経験済みだったが、海底トンネルとしてははじめてであった。 このトンネルを作り上げることができなければ、予定されている宗谷海峡や津軽海峡、さらに豊予海峡や紀淡海峡など夢のまた夢だ。 だからこそ、はじめてシールドマシンという巨大な機械を投入したのだが、はじめての技術にはトラブルがつきもの。 切歯が歯が立たない地層の処理作業中には頻繁に落石事故も起こった。 『それを、こいつは受け止めてくれた。』 大杉は、今や自分の相棒といっていい立ち位置にいる外国人の男に視線を向けた。 初老の、いかめしい中にもどこかユーモラスな顔立ちをした男。自分も無口だが、こいつはそれに輪をかけて無口だった。 だが、それでも肝心な時は頼りになった。 現場での意見の対立の時は無言で割って入って双方からこぶしをもらうことになりながらも「無口の大岡裁き」という快挙を成し遂げていた。 あの異常出水と戦った時は、ほぼ四六時中土のうを積み続け、三日三晩の持久戦を共に闘った。 その甲斐あって、今は3本線のヘルメットを得るに至った――というより今まで固辞していた分を一気に出世しただけだろうと大杉は思っていたが――彼は、今、いつものようにこの場を冷静に見つめていた。 「最後の発破だ。」 大杉は言った。 「ジョーンズ、お前やれ。」 仲間から肩をたたかれながら、初老の男――ジョーンズが前に進み出る。 彼は危なげない手つきで卓上の「装置」を握る。そして。 「ハッパ!」 握柄を回す。 轟音。 壁面が吹き飛んだ。 向こう側――門司側から照らされているサーチライトの光が目に飛び込んできた。 「はっは・・・」 喉から乾いた笑いが漏れる。 すると、全員が手を叩き始めた。 「ばんざーい!ばんざーい!」 感極まった工員が叫び始める。 700日の努力の結果がこの目の前の光景に結実しているのだ。これほど嬉しいことはない。 「バンザーイ!バンザーイ!!」 ジョーンズも力いっぱい手を振り上げている。 今日は、開通記念ということで上から差し入れられた新製品らしい「B●SS」という缶コーヒーを皆にふるまうことができる。 そうだ、飲もう。このろくでもなくもすばらしい世界(現場)で。
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5 :ひゅうが@恢復中:2014/07/03(木) 19 58 07 戦後夢幻会ネタSS――前史 「情報戦 1945年」 ――西暦1945年4月27日 アメリカ合衆国 ホワイトハウス 「なんだねこれは!」 アメリカ合衆国第34代大統領 ヘンリー・A・ウォレスは怒りをこめて報告書をデスクに叩きつけた。 「大統領閣下。私は…」 「ハル『元』長官。私は君が有能な国務官僚であることはよく知っているしそれには感謝している。だが――」 顔を真っ赤にし、涙を浮かべたウォレスは、周囲の男たち――アメリカ海軍長官チェスター・ニミッツ元帥 合衆国艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス元帥など――が止めるのを手で制して叫んだ。 「戦争を望んだ挙句、在米日本資産凍結という『先制攻撃』をしていた、しかもそれがモスクワの奴らの誘導下にあったと聞いたらはらわたが煮えかえらないわけがないだろう!!」 「…私もです。」 歯を食いしばったハル元国務長官は少し俯いた。 ハルの部下であった人々の中に、ことにハーバード出であったりする東部エスプリの出身者の中に多く「赤い細胞」が存在したことだけでもハルにとっては衝撃だった。 それだけでなく、前ルーズベルト政権下の数名の高官がモスクワと繋がりがあった、そして5年前の日米交渉時に活発な「資金と情報と」のやりとりがあったことも資料は示している。 「…これを日本側が持ってきたときは、私も半信半疑だったよ。」 ウォレスが少し落ち着き、秘書にコーヒーを頼む。 数十秒とたたずに人数分が持ってこられたカップのうちひとつを、ウォレスは立ち上がってハルに渡した。 「砂糖は?」 「いたたきます。ミルクもいただければ。」 「追加を頼もう。私もほしい。」 人懐っこく「苦い」笑みを浮かべるウォレスは、なるほど巷の人気がある「アメリカの良心」だった。 「だが、日本側のスパイ網がモスクワからマンハッタン計画の詳細を入手していることは無視できなかった。」 「大統領閣下、マンハッタン計画が漏れていたのですか?!」 ソロモン海の死闘の結果、太平洋艦隊司令官から海軍省へと「飛ばされ」、今またマリアナ・レイテの大失敗から中央へ戻ってきたニミッツが目を剥いた。 マリアナ後に一時降格人事でハルゼーの下についていたスプルーアンスも驚きを示している。 「ああ。マンハッタン工兵管区、グローブス准将、ロスアラモス、ハンフォード、オークリッジ、ウラニウム235、重元素239… すべて精確な情報だったよ。 濃縮手順から何から、赤い細胞に探り出されていたようだ。」 忌々しいとばかりにウォレスが言う。 「何より、笑えぬのがこの戦争の開戦経緯だよ。 すぐ屈服すると驕って先制攻撃を誘発しようと対日圧力をかける、それはまだいい。 だがその意思決定に介入していたのがあのスターリンだったというのがいただけない。 あのパールハーバーの時点で我が国はウキウキしながらあの一撃を待ち受けていたのだよ。 まぁグアムやフィリピンだと舐めてかかられていたようだが。」 6 :ひゅうが@恢復中:2014/07/03(木) 19 58 40 そして、とウォレスは続けた。 「頼りにしたのは、腐敗と虐殺に満ちた国民党のうちでもアジアン・ナチ的色彩の強い蒋介石だった。妻が美人のクリスチャンだからといってもやりすぎだよ。 君たちは私とスティルウェル将軍がチャイナから送ったレポートを読んでいるかね? 1944年の日本陸軍の大攻勢に際しての。」 「チャイナの国民党政権は民心を完全に失い、共産党軍や日本軍旗下への相対的な比重が上昇中。国民党は対外援助15億ドルの8割以上を権力者の懐にいれているというアレですか。」 ニミッツが言った。 「そうだ、つまりモスクワとその同志たちこそがこの戦争の最大の受益者となろうとしているのだ。 チャイナとロシア、そして彼らが『解放』しつつある東欧諸国、巨大な赤い経済圏の誕生だ。 そこで何が起こるのかはこれを見てもらえばわかるよ。」 ウォレスは、デスクの中から数枚の写真を取り出した。 全員が顔をしかめた。 「1939年のポーランド、スモレンスク郊外カチンの森だ。 日本軍は伝統的に反ソ的な立ち位置からポーランドとのつながりが強い。奇跡的に生き残った一人から入手した写真だそうだよ。 我々は忘れていないか?あのポーランド分割で涎を垂らしてヒトラーと握手したのは奴らだということを。」 ――1945年4月、沖縄において日本海軍とアメリカ海軍が最後の死闘を展開しつつある中、アメリカ政府に強い衝撃が走った。 ストックホルムとベルンにおいて断続的に日本側の外交官と接触していた情報員たちは、日本側からある大きなスーツケースに満載にした資料を渡されたのである。 そのトップの帳面に記されていた英語に、アメリカ戦略情報部(OSS)は震撼する。 「アメリカ合衆国の新兵器開発計画『マンハッタン計画』に対するソヴィエト連邦の情報活動と同国のコピー完了時期推定」 それは、日本帝国がソ連への情報活動を展開し、合衆国の極秘の新兵器開発計画を完全につかんでいることを示していた。 さらにはクレムリン内の「匿名の情報提供者」と日本側の情報網は、赤く染まった英国の情報網を使って合衆国の高官たちの決定に大きくモスクワの意思が関わっていることを突き止めている。 慌てて調査を命じた新大統領ウォレスは、FBI長官エドガー・フーヴァーの辣腕と「ファイル」から日本人の掴んでいる情報がほぼすべて正しいことを知らされる。 ゆゆしい事態だった。 「我々はすべて知っているぞ」 という、それは日本側の怒り混じりの宣言だったのだ。 ウォレスは、この情報を政府内部にとどめておき、ハリー・ホブキンスを筆頭にした赤い細胞を拘束しようとするが、それは半分失敗に終わった。 なぜなら、この情報を入手したフーヴァーは、国内の反ソ派を通じて情報の概要をマスメディアにリーク。 厳重な「口止め」をする。だが、「先走った」ニューヨークタイムズの手によってこの情報は全米を駆け巡ることになったのである。 ――「真珠湾の裏切り」――そう称されたこの大事件は、ほぼ同時に発生した沖縄沖海戦、そのクライマックスとなる戦艦「大和」の沈没しつつある写真(燃え盛り大傾斜する艦橋で写真に向かって敬礼をしつつある日本側士官と、それに答礼する米側将兵たちという構図)によって強烈なインパクトを米国民に与えることになったのだった。
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31 :ひゅうが:2012/08/18(土) 05 53 10 提督たちの憂鬱支援SS―――「ヴォルガ点描1945―鳥は空にいない―」 ――「ポーランド人の子供は、四年制の基礎学校以上の教育を受けることは許可しない。 職業学校は存続させる。 ポーランド人の子供は500までの簡単な計算ができ、名前を書ければ十分である。 文字が読める必要はない。 地理・歴史・文学史などの科目は禁止する。 授業時間は午前中を通じて二時限、午後は水曜日と土曜日を除いて一時限とする。」 H・ヒムラー親衛隊(SS)全国指導者承認済み 1940年 大ドイツ帝国ポーランド総督府・東方植民省布告 ――「すなわち彼ら(ドイツ人・ハンガリー人・フィン人・ルーマニア人)は祖国ソヴィエトへブルジョワ的な野心と唾棄すべき感情の結果としてその数数千の第五列を匿っている。ことに現状大祖国戦争を戦っている主敵たるドイツ人はその性向が非常に強く民族そのものが利敵行為を働いていると云えよう。 よって祖国ソヴィエトを守るべくソヴィエト最高会議幹部会は、(中略)サラトフ州・スターリングラード州のドイツ人を『移住』せしめることとする準備を開始せよ。」 イヴァン・セロフ内務人民委員代理 1941年8月28日 ソ連最高会議幹部会命令 ――承前 ヴォルガ河はヨーロッパ・ロシア有数の大河である。 遠く1500キロ以上離れたモスクワ北方のルイビンスク湖(と北ウラルヴァイ丘陵の広大な森林)の本流、そしてそこからさらに東方1000キロに位置するウラル山脈中北部のカマ河の二つに源を発するこの大河はちょうど「Y」の字のように南へと流れて、かつてこの地を支配したモンゴル人の末裔であるタタール人の古都カザン付近で合流。その後は北斗七星と微妙に似ていなくもないような筋道を大地に描きつつ南方のカスピ海へと注いでゆく。 そう。カスピ海である。 激戦地スターリングラードの北方に隣接するこの地の隣国はタタール人の国という意味のタタールスタン共和国かカザフスタン共和国というユーラシア大陸の中央部に位置していた。 このあたり一帯はヴォルガ河西岸のヴォルガ高地を大河が削り取り、さらにはるかウラルの彼方から運ばれてくる土壌とあわせて東岸にこれでもかと堆積させた場所だった。 有名なウクライナの黒土と同様の地味豊かな大地がそこには広がっていたのだ。 だが、ロシアの多聞に漏れずこのシベリアとロシアのほぼ中間に位置する場所は国土の広大さに比して開発する人手が足りずに18世紀後半までは放置されていたようなものだった。 ロシア人がかつてのモンゴル人への恐怖からか大河を利用して東方への拡張を行っているうちに町が作られたとはいえ、ロシアの町というものは紀元前の中華の「国」と同様城壁か柵で囲まれた耕作地と住居の集合体のようなものである。 それら「点」と無数の河川という「線」の間をコサックという東欧版モンゴル人が移動していく。 それは彼らルーシの民の記憶「タタールの軛」の時代からまったくそのままである。 ゆえに――土地の全てを活用するような使い方をするにはある民族の登場を待たねばならない。 132 :ひゅうが:2012/08/18(土) 05 53 57 ヴォルガ・ドイツ人。 そう彼らは呼ばれる。 プロイセン人であった女帝エカテリーナの御代より大規模に行われたこれら移民は、宮廷や商工業といったロシア帝国のトップ集団に地位を確立しつつあったドイツ系の集団に比べて影響力は比べるべくもなかったが数は最大であったといってもいい。 北米大陸と同様、ロシアは農業革命で生じた多くのドイツ人を飲みこむことになったのである。 1763年から1766年にかけて徴募人の募集に従った彼らは、肥沃ではあったがまったく未開拓な土地に直径60ヴェルスタ(64キロメートル)から70ヴェルスタほどの円形の土地を「管区」として定住。 出身地や宗派によって分かれたこれら「管区」は当初は番号で呼ばれたものの、のちに出身地や入植者の「姓」で呼ばれるようになる。 現地化のはじまりだった。 のちにこれが発展し、ヴォルガ東岸地域の名もなき土地には名称がつけられていく。のちにロシア語の名称も名付けられるものの、現地住民がそう呼ぶことはなかった。 当初3万人程度だった人口は19世紀末(1897年)には39万人の大台を突破するに至っている。 発展に従って自治州化がなされ、身分も入植者かられっきとしたロシア帝国臣民へと「格上げ」される。 そしてそれは、徴兵がなされることでもあった。 この頃までに世代を重ねた入植者たちはドイツ語を話すものの、立派なヴォルガの「住人」となっていた。 ソ連成立時の内戦の間に自治を達成したヴォルガ・ドイツ人自治州は、スターリングラード州の東北、カザフ共和国に隣接する総面積27500平方キロ(1922年)の「ヴォルガ・ドイツ人自治共和国」へと昇格する。 エカチネルシュタットと呼ばれていた町をマルクスシュタットと改名してその政治的中心地としたこの国は、ロシア内戦時や農業集団化時などで多くの悲劇に見舞われていたものの基本的には他のロシアと同様の地位にあった。 ――1941年までは。 ――西暦1945(昭和20)年7月 大ドイツ帝国 東方地域(オストラント) ヴォルガ・ドイツ共和国 首都サラトフ 金髪碧眼やドイツ人らしい無骨な面立ちをした男たちが舗装された道をゆく。 こわごわとした者もいるが、大半は肩で風を切っているといってもいい。 当然だろう。 彼らを恐怖で支配した鋼鉄の男は既になく、彼らは危ういところでではあったが念願であった「独立」を達成していたのだ。 南方、かつてスターリングラードと呼ばれたヴォルゴグラード市を中心にした緩衝国家カルムイキア共和国とならび、この大地は8月事件以後に乱立した新興独立国のひとつとなっていたのだ。 隣接するカザフ共和国やタタールスタン共和国とならび、彼らはこれらと同等以上の地位にある。 第2次大戦の結果、根こそぎ動員を行われたうえ戦場と化したヨーロッパ・ロシア地域ではロシア人が激減。 反対に前線への投入をためらわれたヴォルガ・ドイツ人たちは一定の人口を維持していたのであった。 さらに、ウクライナや白ロシアを自国の勢力圏とした大ドイツ帝国(よく第3帝国と呼ばれるが彼らの自称はグロース・ドイッチェ・ライヒである)は彼らヴォルガ・ドイツ人を「来るべき東方生存圏のさきがけ」として称揚した。 これはバグラチオン作戦の失敗で多数が捕虜になったヴォルガ・ドイツ人に収容所で対面した総統の感激もあったが、宣伝相ゲッベルスの手によるものでもある。 内外蒙古の合同が話し合われる現在、尻尾をふるソ連をあやしつつイランとカスピ海を通じてカザフ地域やことにタタールスタン共和国と友好関係を深めつつある日本人たちに対抗する手段は必須であった。 それに―― 133 :ひゅうが:2012/08/18(土) 05 54 32 ―――道をゆく男たちは、車道となる部分を歩く別の真っ黒い集団を意図的に無視していた。 長旅の果て、苦悩をもできなくなった虚ろな表情をした人々は男だけではなく女や子供もいる。 汚れた格好を取り除けばむしろ外見は歩道の人々よりも美男美女であろう。 だが、彼らを分かつものがある。 二等市民や一等市民といった戸籍上の区分(必ずしも法的な差別というわけではなかったが)以上に、俗に奴隷と自由人と呼ばれるもの以上に、勝者と敗者という言葉がそれだった。 かつてポーランド人と呼ばれた人々が集団の名前だ。 現在は西プロイセンと呼ばれる地域に住んでいた人々は、この数ヶ月前にこの地を通った東部ポーランドの住人達に続き「労働軍」の一員として東北シベリアの大地へ向かっている。 一部はウラルの工業地帯へ。そして大半は極北のコリマ金山やレナ炭田、ドネツ油田へ。 冬季にはマイナス40度以下に下がるシベリアの大地では彼らの大半が生き残れる保証はない。 ロシア人が働く西シベリアのチュメニ油田(第3バクー油田)やノヴォシビリスクのクズネツク炭田と比べれば天国と地獄というものだった。 それを知っているからこそ彼らの表情は「ない」のだ。 ソ連は第1次ソ連・ポーランド戦争で自国の弱みに付け込んで領土拡大を成し遂げたポーランド人に逆恨みじみた感情を抱いていたし、ドイツは敗戦のどさくさにまぎれて自国の入植者を追い出し、数百年来定着していた西プロイセンを奪い去ったポーランドを許さない。 そしてこれにソ連の壊滅した工業の復興と欧州の復興という大義名分があわされば恐るべき化学反応が生じるのもむしろ当然かもしれなかった。 この二つの国家は巨大な官僚機構を有し、人間の理性を偏愛するような機械じみた哲学を有していた。 これに民族感情が加わり、ひとつの結論を導き出す。 「民族浄化」とのちに呼ばれる「東方問題の最終的解決」がそれであった。 ドイツ人はいう。「中部ポーランド人は『除去』しよう。労働力にならぬ者は日本人のいうように北米に移すのもよい。だが、我らから富と土地と誇りを奪った挙句露骨な敵視とあわゆくばドイツを占領しようと企てた西プロシアの盗人どもはゆるすことはできぬ」と。 ロシア人はいう。「力が足りぬ。そこに人がいる。必ずしも従順ではない。ならばやることはひとつだ」と。 二者に共通していたのは、その「対象」を理解する意思のないこと。そして「対象」の労働力にのみ興味があることであった。 かくて――人は東へゆく。 やってみればあまりにそれは簡単であった。 総力戦を実現した国家という怪物は身じろぎするだけですべてを可能とし、鉄道や船舶といった大量輸送設備は「たった数百往復」で数百万の人々を1万キロ以上も移動させることができた。 ならば、いずれ人は慣れるのだろう。 「不自然な」国境線と複雑な環境は厳密に区分された。 まず独ソ双方にとって一定の満足すべき結果であろう、と両国政府は信じた。 人は忘れることができる生き物である。 ポーランドと呼ばれた大地ではかつて西プロイセンで行われたように都市や土地の名前が変えられ、それを伝える人々も「どこかへ」消えた。 そして語られる言葉もなくなった時、記憶は歴史になる。 それが人為的にか時の流れの果てにか、あるいはその双方を兼ねるのかはともかく。 「さて、家に帰らなければ。」 歩道を歩く誰かが言った。 車道を歩く誰かが振り返ったが、歩道を歩く人々は気付くことがなかった。 134 :ひゅうが:2012/08/18(土) 05 55 27 ※ 補足1―――1955年の統計では、旧ポーランド総督府、現ノイエプロイセン州・クラカウア州・レンベルク州・ノイエルーベン州の総人口は1245万人。 内訳は1等市民(ドイツ本国系人)93パーセント、準1等市民(東方系ドイツ人)5.6パーセント、2等市民0.7パーセントである。 ※ 補足2―――1960年、カリフォルニア共和国と太平洋同盟諸国は旧モンタナ州から旧アイダホ・ワイオミング州における自由ポーランド軍管区地域を5年後をめどに自治州へと昇格させる方針で合意した。同地域の住民は420万人。 内訳はポーランド人85.7パーセント、カナダ人8.8パーセント、カリフォルニア人3.2パーセントである。 135 :ひゅうが:2012/08/18(土) 06 03 18 【あとがき】――この物語はフィクションです。ただしヴォルガ・ドイツ人は実在します…というよりしました。 冒頭に挙げたように史実1942年において他のカフカス諸民族などとともに中央アジアカザフスタンなどへ強制移住させられ人口を激減させるも故郷に戻れることはありませんでした。 現在、旧ヴォルガ・ドイツ人自治共和国は存在していません。 コンセプトは憂鬱版「民族の悲劇果てしなく」。 136 :ひゅうが:2012/08/18(土) 09 34 52 【追記です】 ※ 補足3―――タタールスタン共和国…首都カザン。人口はタタール人が大半を占める。彼らはもとはキプチャク・ハン国を構成したモンゴル人やテュルク系の人々、イスラム商人を中心にした人々である。 タタール人自体はソ連全土に500万人程度が居住し、うち300万人程度の「カザン・タタール人」がここに居住する。1552年のイヴァン雷帝による征服以後ロシアの版図に入りソ連時代は自治共和国。 憂鬱世界ではチュヴァシ共和国・バシコルトスタン共和国・ウルドムト共和国といった故地の一部を追加したうえで「高度な自治」を実現。 モスクワから1000キロという戦略的な位置にありヴォルガ水系中部の要衝であるため憂鬱日独のソ連東西分断政策の要でもある。 ※ 補足4―――カルムイキア共和国…あるいはカルムイクとも。現首都はエリスタ。中央アジアのモンゴルにルーツをもつかつてのオイラト人、カルムイク人の国である。旧ソ連時代はスターリングラード州およびヴォルガ・ドイツ人自治共和国、カザフスタンに隣接。 カルムイク人は1630年に内乱を避けて同地に移住。人口約20万人程度。なお、カルムイク人は熱心なチベット仏教の信徒であり、ロシア唯一の仏教国でもある。 憂鬱世界ではスターリングラード州・ロストフ州・アストラハン州の一部を追加した緩衝国家となっている。 廃墟となったスターリングラード市を挟んでヴォルガ・ドイツ共和国に隣接。 チベット仏教国家であるため憂鬱チベットとは友邦である。
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封魔 【5】 ギガビートル 2匹 【12】 ワーパンサー 9匹 リザードマン 1匹 ケンタウロス 1匹 トイミミック 10匹 ウィル・オー・ザ・ウィスプ 7匹 右上→1944-C(封) 右下→1948-D 左上→1946-B 左下→?-A
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1994年9月11日(日)・熱海市長選 当日有権者数:38016名 投票率:75.11% 立候補者数:2名 当選 川口市雄 15210票 竹内静香 13060票 1994年9月11日(日)・熱海市議補選 当日有権者数: 投票率: 定数:1名 立候補者数:1名 (無投票) TOP INDEX LATEST UPDATE ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
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831 :New ◆QTlJyklQpI:2012/03/14(水) 20 40 19 ネタSS ~憂鬱自衛隊1943 自衛隊サイド~ 平成世界 実験中隊消滅後も神崎怜 二尉は様々な伝手を使い第3特別実験中隊の帰還を成し遂げようとしていた。 しかし、原作と違い虚数空間の発生が全く起きておらず再実験に掛かる費用などを理由にのらりくらりとかわされた。 誰もがFユニット解散を食い止めるために政治的な脅しまでした人間が率いる部隊を助けようと思わず、 アメリカの前で実験失敗と核弾頭を消滅させてしまったのでこれ以上の失態と厄介事は勘弁という感情も加わり 2年を経た今では有能でも色々と煩い二尉を左遷することも検討されていた。 平成世界では第3特別実験中隊が本当に”事故死”したということで処理されそうになっていた。 昭和世界 「的場一佐、お久し振りです!」 「今は”大佐”だ。与田”中尉”」 久方ぶりに会った部下の迂闊さに苦笑しつつ、的場毅は返礼していた。 2003年のシールド実験により第3特別実験中隊は1943年に飛ばされていた。 しかも、ただ過去に遡ったわけでもなく、日本が事実上の太平洋戦争を勝利した並行世界だった。 中隊はあの後、迅速に展開していたT-34に似た戦車や装甲車に囲まれ緊張状態が続いたが 交渉の結果、飛ばされた地点を観測する代わりに大日本帝國に居候することになった。 観測により異変が察知されたら中隊メンバーに知らせ帰還することになっていたがその後1週間がたっても 異変が起こらず、隊員からも諦めの空気が滲み出てきていた。 やむなく的場は救援部隊が来るまで日本帝國に仕えることを決定し帝国側も良しとした。 そして隊員らはあまりにチグハグ過ぎる日本に唖然としつつも徐々に適応していった。 無論、戦車やヘリや技術士官は(かなりアレなテンションの)技術部門に取られたので 手持ちの戦力はなくなったがFユニット時に培った技術と経験は陸軍で重宝され、海援隊などに 混じっての実戦や帝国の兵器に対応してより洗練され今まさに帝国版Fユニットと言うべき部隊創設に 向けて動き始めていた。 最早彼らの中には平成に帰る意志があるものは皆無であり、嘗て太陽フレアでよる電磁波を浴びる事から 「冷凍食品部隊」とも言われた実験中隊でなく完全な「戦える軍隊」として生きていく彼らは今までよりも生き生き していた。 「では行こうか中尉。Fユニットが待ってるぞ」 「わかりました、大佐殿」 後に帝国軍有数の実力を誇る事になる特殊部隊Fユニット。その創設に携わった”鬼才”的場毅の物語は今始まる。 余談 なお、この部隊創設時に的場は「前は無理解な役人が嫌いだったが、あの書類の山を相手にする以上は尊敬に値する」 というコメントを残している。(右腕とも言える与田も「敵を攻撃する前に書類に壊滅寸前になりました」と言っている) そして陸海軍で出回る同人誌に合同運動会、持って行かれた技術士官らの変貌によって彼は自分の良識の維持を固く誓った。