約 1,540,803 件
https://w.atwiki.jp/ankoss/pages/1248.html
・即興小ネタ ・ゆっくちスレの胴付きみょんみて脊椎反射で思いついた ・非合法行為ネタ注意 ・HENTAIがいやな人は閉じるかチル裏でドスにせいっさいを依頼してね ・作者の実体験ではありません、断じて……おねがい信じて 性欲と食欲のあきが今まで書いたの ふたば系ゆっくりいじめ 673 昆布巻き ふたば系ゆっくりいじめ 682 ゆ虐カフェ ふたば系ゆっくりいじめ 704 展示品 ふたば系ゆっくりいじめ 712 れいみゅ地獄 ふたば系ゆっくりいじめ 714 キャベツ畑とコウノトリを信じてる純真なゆうかにゃんを・・・ ふたば系ゆっくりいじめ 744 錆びた金バッジ~餡子話版 nue024 不夜嬢レッド draw004 錆びた金バッジ~どろわ版 【みょんの間】 ある町の、ラブホテル街を抜けた辺りにある裏路地。 窓からピンク色の照明が漏れて見える、百軒あまりの小さな店が所狭しと並んでいる。 「「「「「「「「「「ち~んぽ!」」」」」」」」」」 「「「「「「じゃおぉぉん!」」」」」」 「「「こぼね~!」」」 それぞれの店の中から聞こえるのは、人語を解さないタイプのゆっくりたちの 甘えるような鳴き声が聞こえてくる。 大多数を占めるみょん種特有の、男性器を求めるような卑猥な鳴き声に混じって、 めーりん種や、僅かながらゆゆこ種の鳴き声も聞こえる。 「いらっしゃい」 その中の一軒に入る。 狭いカウンターの中には、愛想の悪い老婆が一人。 「いくらだ」 「白毛なら二枚、赤毛は三枚、ピンクはうちにはいないよ、どっちも一枚で延長できるよ」 「じゃあ、白毛をロングで」 生ぬるいビールを飲みほし、老婆に文豪の顔が印刷された紙を三枚握らせると、階段を上がった 二階の狭い一室に案内される。 「ち~んぽ!まらっ!」 年季の入ったせんべい布団の上にしゃがみ込んでいたのは、すこしやつれた顔の胴付きみょん。 皺の付いた黒いリボンに、飼いゆっくり登録バッジは付いていない。 みょんは慣れた手つきで、ズボンのファスナーを開き、そこから出たものをすばやく口に含んだ。 「びっぐまらぺにす!」 あっという間にみょんの口から出たそれは、臨戦状態になっていた。 「ちーんぽ!まらっ!まらっ!とのがたのぉぉ!びっぐまらぺにすぅぅぅぅぅ!」 30分ほどみょんのまむまむを堪能し、栗の花の香りがする部屋を後にした。 ここは、かつて「ちょんの間」と呼ばれた非合法の売春を行う店が集まっていた路地。 いまは、人間の女性に変わり、胴付きゆっくりたちがそれを行っている。 言葉を話せない、めーりん種やゆゆこ種、そして大多数を占めるみょん種が集まるここは、 HENTAIお兄さん立ちの間で「みょんの間」と呼ばれていた。 おわり すいません、また出来心でHENTAI作品書いてしまいました。
https://w.atwiki.jp/forestpolicy/pages/10.html
(仮) 年 林政 国内動向 林野災害 国際動向 明治元年(1868年) 明治2年(1869年) 版籍奉還 明治3年(1870年) 明治4年(1871年) 明治5年(1872年) 明治6年(1873年) 林野の官民有区分 地租改正 明治7年(1874年) 明治8年(1875年) 明治9年(1876年) 官林調査仮条例制定 明治10年(1877年) 明治11年(1878年) 明治12年(1879年) 明治13年(1880年) 明治14年(1881年) 農商務省設置(国有林設置) 明治15年(1882年) 明治16年(1883年) 明治17年(1884年) 明治18年(1885年) 明治19年(1886年) 内務省北海道庁、北海道国有林分離成立 明治20年(1887年) 明治21年(1888年) 明治22年(1889年) 宮内省御料局、御料林分離成立 明治23年(1890年) 明治24年(1891年) 明治25年(1892年) 明治26年(1893年) 明治27年(1894年) 明治28年(1895年) 明治29年(1896年) 河川法制定 明治30年(1897年) 森林法、砂防法制定 明治31年(1898年) 明治32年(1899年) 国有林野法制定国有林特別経営事業開始 明治33年(1900年) 明治34年(1901年) 明治35年(1902年) 明治36年(1903年) 明治37年(1904年) 日露戦争勃発 明治38年(1905年) 明治39年(1906年) 明治40年(1907年) 森林法改正(公有林等による施業案制度の創設) 明治41年(1908年) 明治42年(1909年) 明治43年(1910年) 明治44年(1911年) 大正元年(1912年) 大正2年(1913年) 大正3年(1914年) 第1次世界大戦勃発 大正4年(1915年) 大正5年(1916年) 大正6年(1917年) 大正7年(1918年) 大正8年(1919年) 大正9年(1920年) 公有林野官行造林法制定 大正10年(1921年) 大正11年(1922年) 大正12年(1923年) 大正13年(1924年) 大正14年(1925年) 昭和元年(1926年) 昭和2年(1927年) 昭和3年(1928年) 昭和4年(1929年) 昭和5年(1930年) 昭和6年(1931年) 昭和7年(1932年) 昭和8年(1933年) 昭和9年(1934年) 昭和10年(1935年) 昭和11年(1936年) 昭和12年(1937年) 森林火災国営保険法制定 昭和13年(1938年) 昭和14年(1939年) 森林法改正(50町歩以上の森林所有者に施業案編成義務等)林業種苗法制定(昭和51年現行法制定) 第2次世界大戦勃発 昭和15年(1940年) 昭和16年(1941年) 木材統制法制定 昭和17年(1942年) 昭和18年(1943年) 昭和19年(1944年) 昭和20年(1945年) 第2次世界大戦終戦 昭和21年(1946年) 昭和22年(1947年) 林政統一(国有林野事業特別会計法制定) 昭和23年(1948年) 昭和24年(1949年) 昭和25年(1950年) 造林臨時措置法制定(要造林地の指定等による積極的な造林の推進)森林病害虫等防除法制定 昭和26年(1951年) 森林法改正(森林計画制度・伐採許可制度の導入)国有林野法制定 昭和27年(1952年) 昭和28年(1953年) 昭和29年(1954年) 保安林整備臨時措置法制定 洞爺丸台風 昭和30年(1955年) 昭和31年(1956年) 森林開発公団法制定(森林開発公団設立) 昭和32年(1957年) 国有林生産力増強計画策定森林法改正(普通林広葉樹の伐採届出制に変更等) 昭和33年(1958年) 分収造林特別措置法制定(分収方式による造林事業の推進) 昭和34年(1959年) 伊勢湾台風 昭和35年(1960年) 治山治水緊急措置法制定農林漁業基本問題調査会答申「林業の基本問題と基本対策」 国民所得倍増計画策定 昭和36年(1961年) 国有林木材増産計画策定森林開発公団法改正(水源林造成事業の導入) 昭和37年(1962年) 森林法改正(全国森林計画、地域森林計画の新設等) 昭和38年(1963年) 森林組合合併助成法制定 昭和39年(1964年) 林業基本法制定 昭和40年(1965年) 中央森林審議会答申(「国有林野事業の役割と経営のあり方」) 山村振興法制定 昭和41年(1966年) 入会林野等に係る権限の近代化の助長に関する法律制定森林資源基本計画策定 昭和42年(1967年) 昭和43年(1968年) 森林法改正(森林施業計画制度の創設等) 昭和44年(1969年) 昭和45年(1970年) 昭和46年(1971年) 国有林野の活用に関する法律制定 昭和47年(1972年) 林政審議会答申(「国有林野事業の改善について」)国有林野における新たな森林施業を通達 国連人間環境会議 昭和48年(1973年) 森林資源基本計画改定 円為替変動相場制への移行第1次オイルショック 昭和49年(1974年) 森林法改正(林地開発許可制度の創設等) 昭和50年(1975年) 昭和51年(1976年) 林業改善資金助成法制定 昭和52年(1977年) 松くい虫防除特別措置法制定(昭和57年に「松くい虫被害対策特別措置法」へ) 昭和53年(1978年) 森林組合法制定(森林法から独立)国有林野事業改善特別措置法制定国有林野事業に関する改善計画策定 昭和54年(1979年) 林業等振興資金融通暫定措置法制定 第2次オイルショック 昭和55年(1980年) 森林資源基本計画改定林業振興地域整備計画創設新林業構造改善事業(新林構造) 昭和56年(1981年) 昭和57年(1982年) 昭和58年(1983年) 森林法改正(森林整備計画制度の創設等)分収造林特別措置法改定(分収育林制度の創設) 昭和59年(1984年) 保安林整備臨時措置法改正(特定保安林制度の創設)国有林野法改正(国有林野の分収育林制度の創設)国有林野事業改善特別措置法改正国有林野事業59年改善計画策定 昭和60年(1985年) プラザ合意 昭和61年(1986年) 国際熱帯木材機関設立 昭和62年(1987年) 国有林野事業改善特別措置法改正国有林野事業62年改善計画策定森林資源基本計画改定 昭和63年(1988年) 平成元年(1989年) 平成2年(1990年) 林政審議会答申(「今後の林政の展開方向と国有林野事業の経営改善」) 平成3年(1991年) 森林法改正(「国有林の地域別の森林計画」、特定森林施業計画制度の創設)国有林野事業改善特別措置法改正国有林野事業3年改善計画流域管理システム 平成4年(1992年) 国連環境開発会議(地球サミット) 平成5年(1993年) 平成6年(1994年) 平成7年(1995年) 緑の募金による森林整備等の推進に関する法律制定 阪神・淡路大震災 平成8年(1996年) 林業経営基盤の強化等の促進のための資金の融通に関する暫定措置法改正林業労働力の確保の促進に関する法律制定木材の安定供給の確保に関する特別措置法制定森林資源基本計画改定 行政改革プログラム 平成9年(1997年) 林政審議会答申(「林政の基本方向と国有林野事業の抜本的改革」)森林組合合併助成法の一部を改正する法律制定森林病害虫等防除法改正 地球温暖化防止京都会議 平成10年(1998年) 国有林野事業の改革のための特別措置法制定国有林野事業の改革のための関係法律の整備に関する法律制定森林法改正(市町村森林整備計画制度の拡充等) 地球温暖化対策推進法制定地球温暖化対策推進大綱策定建築基準法改正 平成11年(1999年) 営林局・営林署から森林管理局・署へ名称変更緑資源公団発足中央森林審議会答申(「今後の森林の新たな利用の方向」) 住宅の品質確保の推進等に関する法律制定 平成12年(2000年) 林政審議会取りまとめ「新たな林政の展開について」林政改革大綱、林政改革プログラム公表 教育課程に「総合的な学習の時間」導入国等による環境物品等の調達の推進等に関する法律(グリーン購入法)制定 平成13年(2001年) 森林・林業基本法、森林法、林業経営基盤強化資金暫定措置法の改正森林・林業基本計画決定森林総合研究所、林木育種センターを独立行政法人化 第7回気候変動枠組条約締約国会議(COP7)において京都議定書の運用ルールを合意 平成14年(2002年) 地球温暖化防止森林吸収源10カ年対策の策定 自然再生推進法制定 地球温暖化対策推進大綱見直し、「京都議定書」を締結持続可能な開発に関する世界首脳会議(WSSD)の開催(ヨハネスブルグサミット) 平成15年(2003年) 林業改善資金助成法改正(貸付資金の拡充等)独立行政法人緑資源機構の設置森林法改正(森林整備保全事業計画の策定等)国有林野の管理経営に関する基本計画改定 環境の保全ための意欲の増進及び環境教育の推進に関する法律制定 第3回世界水フォーラム(京都、滋賀) 平成16年(2004年) 森林法改正(特定保安林制度の恒久化、普及指導職員の一元化等)「新流通・加工システム」国有林野事業の組織機構の再編(分局の廃止、森林環境保全ふれあいセンターの設置等) 平成17年(2005年) 森林組合法改正(事業範囲の拡大等)地球温暖化防止森林吸収源10カ年対策改定 京都議定書発効京都議定書目標達成計画の策定 平成18年(2006年) 森林・林業基本計画策定 簡素で効率的な政府を実現するための行政改革の推進に関する法律制定(国有林野事業の業務見直し) 平成19年(2007年) 「新生産システム」美しい森林づくり推進国民運動の展開森林総合研究所と林木育種センターの統合 建築基準法改正 平成20年(2008年) 森林の間伐等の実施の促進に関する特別措置法制定 平成21年(2009年) 森林・林業再生プラン公表 民主党政権樹立 平成22年(2010年) 公共建築物等における木材の利用の促進に関する法律制定 平成23年(2011年) 森林法改正(「森林施業計画」を「森林経営計画」に変更、森林の土地の所有者届出制度の新設等) 東日本大震災 平成24年(2012年) 国有林野の管理経営に関する法律等の改正(国有林野事業特別会計の廃止等) 平成25年(2013年) 国有林野事業の一般会計化森林の間伐等の実施の促進に関する特別措置法の改正(特定増殖事業の新設) 平成26年(2014年) 平成27年(2015年) 平成28年(2016年) 森林・林業基本計画の改定森林法等の一部を改正する法律の成立合法伐採木材等の流通及び利用の促進に関する法律(通称「クリーンウッド法」)制定 熊本地震 平成29年(2017年) 九州北部豪雨 平成30年(2018年) 森林経営管理法の制定 建築基準法改正 北海道胆振東部地震 令和元年(2019年) 森林環境税及び森林環境譲与税に関する法律の制定国有林野の管理経営に関する法律等の一部を改正する法律(樹木採取権制度の新設)の制定 令和元年東日本台風 令和2年(2020年) 森林組合法改正(多様な連携手法の導入、正組合員資格の拡大、事業の執行体制の強化) 令和3年(2021年) 森林の間伐等の実施の促進に関する特別措置法の改正(特定植栽事業の新設) 令和4年(2022年) 令和5年(2023年) 令和6年(2024年) 参考文献 林野庁「林政年表」https //www.rinya.maff.go.jp/j/kouhou/nenpyou.html 『改定 現代森林政策学』
https://w.atwiki.jp/enemy/pages/693.html
スレ186より 412 名前:1/3[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 12 37 57 0 長文になりそうですが・・・ うちは3LDKの分譲マンション住まい。旦那私小学生の子2人。それからトメ。 2年前にウトが60代で亡くなり、トメがあまりにショックを受けていたので 遠方に一人にしておけず、狭い我が家のマンションで同居スタート。 部屋割りは、夫婦で一部屋。子供達で一部屋。トメはリビング横の和室を使ってもらってる。 かなり家事をしてくれたり子供の塾のお弁当は担当してくれたり、トメなりに気を遣ってくれてるのが わかるので、今までは表向きは結構うまくやってきたと思う。(不満は勿論いっぱいあるw) この間、トメから「この辺でいい産婦人科ある~?」と聞かれたので、どこか具合悪いのか心配したら なんと、今妊娠7ヶ月位のコトメが「里帰り出産希望」だと言う。 それも結構当たり前っていうか、なんの疑問もなく「里帰りするからこっちでいい病院見つけないとね~」って感じでビックリ。 今でさえ3LDKの狭いマンションできちきちに生活してるのに、物理的に絶対無理と言ったのだが、 「私たち(+赤ちゃん)はこの和室で大丈夫だから~」とか訳わかんないことを言って通じない。 いや、大丈夫じゃないのはこっちだよ。マンションのリビング横の和室なんで、 ほぼリビングの続き状態。今でもそこにトメが居ることで申し訳ないが息苦しいのに、 そこにコトメと赤ちゃんなんて絶対無理。 413 名前:2/3[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 12 38 38 0 「トメさんがコトメちゃん自宅にしばらくお手伝いに行ってあげたらどうですか?」って提案するも、 「嫁子ちゃんも里帰りしたもんね♪(コトメもそれに憧れてる♪みたいなこと)」とかほんと訳わかんないこと言われて 頭ぶっとんでたので、とりあえず旦那帰宅してから話し合った。 旦那もそれ聞いたときは「ちょw絶対無理だろここじゃ」って反応。 でもトメは「第一子は里帰りするもの」「嫁子ちゃんも実家でお世話になったじゃない」 思わず「それは里帰りする所があったから出来たことで、今は状況が違う。 こっちで産むことにこだわらなくても、トメさんが手伝いに行けばコトメちゃんの負担もその方が少ない」と言ってしまった。 トメは「そんなひどいこと言わなくても」とかモニャモニャまだ訳わかんないこと言って引かない。 しかも言うに事欠いて、「だって里帰りするつもりでコトメは今の病院で分娩予約もしてない」とか。 しかも、産科激戦地域だとかで、7ヶ月にもなったコトメはもう今さらそこで産みたいって言っても 絶対無理だから可哀相だとか。 ばかじゃないの?こっちの都合も聞かずに勝手にかよ。 旦那も呆れて「知るかよ」「まずはこっちに聞くのが筋だろう。」 414 名前:3/3[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 12 39 39 0 里帰り里帰りって、ここはコトメにとってふるさとでもなんでもない見知らぬ土地だろうに。 と言ったことを少しオブラートに包みつつ言ったら 「嫁子ちゃんには実家があるからいいけど、あの子には帰る実家がないから可哀相」 「私がいるここがあの子の実家のはずなのに。たった2ヶ月程のことなのに。」とべそかいてる。 するとそれ聞いた旦那がなぜか、「まぁたった2ヶ月ほどのことだし」とか言い出した。 たしかに、父が早くに亡くなって、実家と呼べる場所がなくなってしまったのは気の毒だし、 うちを実家だと思ってもらうのは全然問題ない。 だから普段から、遊びに来てもらうのは歓迎だし。 でも、2ヶ月間、それも赤ちゃんがいる「生活」となると話はまったく別だろ。 うちにも子供がいるし、一人は受験だって控えてる。 心情じゃなくて、状況が許さない。 「こっちにも家族がいる」と私が言った途端、旦那が鬼の首とったみたいに言って私ポカン。 「お前も弟くんがいるのに里帰りしたじゃん♪」 たしかに私の実家では当時まだ大学生だった弟も同居してた。 それとこれとがどう繋がると? 独身で学生の兄弟のいる家に里帰りするのと、もう所帯持った兄弟の狭い狭い家に 里帰りするのと、状況がいっしょだとでも? なんか情けない。 とにかく無理って言い続けててまだ話平行線だけど、みんな私を悪者にしてるよ。 シラネーヨ! 421 名前:名無しさん@HOME[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 12 47 34 O 戸建てすら買えないくせに中受なんて身分不相応なことするからだよ。 そんな経済状況で私学行って苦しいのは子供だよ。 今回コトメ里帰りはいいきっかけだと思って生活を見直すべき 425 名前:名無しさん@HOME[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 12 52 17 0 414 受験を控えている子供の事を旦那は何だと思っているのかね? そのたった二ヶ月で大切なシーズンを邪魔されて 不本意な結果になってしまったら、どう償うのかな 旦那さんに、今のあなたは旦那でも父親でもないって言ってやりたいな それに「たった二ヶ月」も怪しいw 居心地がよくってズルズルいきそうな悪寒 この状況下で子供を守れるのは414だけだから頑張って欲しい そんなにgdgd&元気な言うトメなら、別居モードonでもいいんじゃ? 428 名前:名無しさん@HOME[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 12 52 31 0 コトメが「里帰り出産希望」 お前らがコトメだったら、くつろげるか? 小姑いる家に来たいと思う?部屋もないんだよw ネタネタw 429 名前:412[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 12 54 18 0 421 確かに裕福ではないからそうかもしれないけど、 (今も手狭なんで、せめて4LDKに住み替えを計画中だけど、次もマンション予定だし、 それも今の部屋が売れなければどうにもならないし) この辺りの公立は日教組が強過ぎて、受験は止むを得ない選択なんです。 つか、きっかけも何もうちがこの状況だからこそ、コトメの里帰りなんてとんでもないんだよね。 433 名前:412[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 12 54 59 0 428 ネタだったらどんなにいいかorz 435 名前:名無しさん@HOME[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 12 56 19 0 412 ネタ疑惑を晴らすためにも ここに私学の授業料、入学金など必要経費を書いてみたら? 月々の見積とか、旦那の年収とか、生活費の内訳とか 436 名前:名無しさん@HOME[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 12 56 24 0 トメの自宅はもう無いの? 439 名前:412[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 12 59 09 0 425 一応、「受験のことは心配だけど・・・」みたいなことは言うんだよね。 でも、トメの一言(コトメに実家がなくて可哀相)で、 「父を早くに亡くした自分たち。実家のなくなった可哀相な自分たち」みたいな方向に 考えがぶっとんだんだと思う。 いい大人が何言ってんだって思うけど。 「コトメの立場になって考えてやってほしい」って言うけど、 誰も私や子供たちの立場にはなってくれないんだね!って返したら、 やっぱり私が冷たい悪者らしい。 453 名前:412[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 13 06 28 0 435 なんで経費書かなくちゃいけないんだw そもそもそんなこと何の関係もねー。 436 遠方なので同居を機に処分したんです。ちなみにトメの両親は既に他界。 元のトメ実家にはトメ兄家族が住んでいて、トメ自身にも実家と呼べる実家がないんだよね。 だから余計にコトメ里帰りに固執してるのか?冗談じゃないけど。 もう元気みたいだから、家売ったお金とウトの残してくれたお金ででマンション借りるなり買うなり してもらう方向にしないと、無理かもわからん。 503 名前:名無しさん@HOME[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 13 22 51 0 トメをどっかアパートでも借りさせたら? そこが実家になるんでしょ。 もう元気みたいだし大丈夫!赤ちゃんお世話で元気に慣れるよ!って おだてたら駄目かしら。 509 名前:412[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 13 24 13 0 ありがとう。 トメからは一応、生活費は入れてもらってます。 住み替えの件でも、自分もお金出すみたいなことはトメから言われたんだけど、 とりあえずは今の部屋が売れないことにはどうにもならない(維持出来ないし)から、 まだどうなるかは未定。 住み替えに関してはトメとしては、お金出したい。 旦那は、あんまりトメに出してもらいたくない。 ってスタンス。 2年前同居を始めた当時は、本当にトメが落ち込んでボロボロだったので 私も心配でたまらない位(だから同居もできた)だったけど、 今では随分立ち直ったし、住み替え計画自体も変更の余地が出てきたかも。 まだトメ自身若いし、住み替えで出してくれるつもりだった(?)お金で近くに住まいを構えてもらうっていうのが 一番お互いにとっていいのかもしれない。 元々、同居の件は旦那がトメを心配で引き取りを決意。 トメは最初同居はしたくないって言ってたんだよね。半ば旦那が押し切ったというか、 その時点ではトメの状態がその位悪かったから。 そこから今、トメの同居に対する思いがどうなのかわからないけど、 「ひとりでマンション」とかいう選択肢はなさそうなのはたしか。 コトメの出産までまだもうちょっとあるから、引越し強く勧めてみることにします。 トメだってコトメだって、トメ自身の家が出来ればその方が「実家」としてくつろげるだろうし。 ・・・うまくいけばいいけど。 515 名前:名無しさん@HOME[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 13 25 35 0 509 コトメ旦那実家に凸はないの? 537 名前:名無しさん@HOME[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 13 32 13 0 412 コトメ旦那に相談。まずはコレだと思う。 トメ・旦那から「余計な事スンナ!」って言われるかもしれないけど、トメ達は現状を理解していないみたいだし。 412がまず守るべきは子供達なんだしさ。 私がコトメの立場なら里帰りなんざしないけどなあ…。無駄に気を遣うもの。 538 名前:名無しさん@HOME[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 13 32 22 0 515 コトメ自身とは電話で話したけど、なんとかお願いしたいって涙声。 どうもコトメはこっちで産むことにこだわってるのと、 コトメ自宅付近の病院では分娩予約が取れないって言い張ってるけど、 どうにか産めるところはないのか探すことを含め、今の状況と、コトメの説得を コトメ旦那・実家にお願いすることと、トメ引っ越しの件を並行して進めていこうと思います。 (※ 412子どもさんの中学受験を辞めるよう促すコメントやネタを疑うコメントが断続的に書き込まれる。) 583 名前:412[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 13 50 00 0 ありがとう。 コトメ妊娠と「実家」のことで、コトメトメ、何より一番うちの旦那がお花畑になっちゃって 「他人じゃないのに♪」「たった2ヶ月のことなのに♪」 「ここが実家なのに♪」「嫁子オマイ冷たい♪」って、全ての台詞に音符つきみたいな 状態で悪者にされて、「シラネーヨ!」と言いつつ頭おかしくなりそうだったので、 話し聞いてもらえて良かったです。 コトメ実家にはまだ電話とか出来てなかったし、 旦那やトメから断ってもらおうとしてた私まだまだ甘かったと思う。 トメコトメ旦那の親子3人はまともに話が通じないんだから、 直接自分が相手方にお願いしないとだめだよね。 目が覚めました。 とにかくうちで受け入れるのは不可能ってことをブレさせない。 コトメ旦那+実家に放す。 トメ引っ越しの提案をする。 コトメ自宅付近で産める所を探させる。 それでなかったら、コトメ旦那実家で産んでもらう。 一番手っ取り早いのは、トメ引っ越しな気がする。 今までは結構うまくやってきたと思ってたけど、 もうそんな風に思えないし、引っ越して欲しいwそうなるよう頑張って動くことにする。 ほんとありがとう。 あと、荒れさせてしまったみたいで申し訳ないです。 636 名前:412[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 14 19 28 0 荒れさせてしまってすみません。 もう来ませんので許してください。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/385.html
{{政治家 |各国語表記 = |画像 = Takayoshi Kido suit.jpg |画像説明 = |国略称 = |生年月日 = 天保4年6月26日(1833年8月11日) |出生地 = Template JPN?長門国・萩・呉服町(現:山口県・萩市) |没年月日 = 明治10年(1877年)5月26日 |死没地 = |出身校 = |前職 = 長州藩士 |現職 = |所属政党 = |称号・勲章 = |世襲の有無 = |親族(政治家) = |配偶者 = 木戸松子 |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = JPN |職名 = 第2代文部卿 |就任日 = 明治7年(1874年)1月25日 |退任日 = 明治7年5月13日 |退任理由 = |元首職 = |元首 = |国旗2 = JPN |職名2 = 第2代内務卿 |就任日2 = 明治7年(1874年)2月14日 |退任日2 = 明治7年4月27日 |退任理由2 = |元首職2 = |元首2 = }} 木戸 孝允(きど たかよし、天保4年6月26日(1833年8月11日) - 明治10年(1877年)5月26日)は、日本の武士・長州藩士、政治家。いわゆる「長州閥」の巨頭。 江戸時代(幕末)には、桂小五郎(かつらこごろう)として知られていた尊王攘夷派の中心人物で薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」として並び称せられる。名の孝允は「コウイン」と有職読みされることもある。 略歴 吉田松陰の弟子、長州正義派の長州藩士、江戸練兵館塾頭の剣豪、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者・指導者・藩庁政務座の最高責任者として活躍するが、志士時代には徹底的に闘争を避け「逃げの小五郎」と呼ばれた。 維新を総裁局顧問専任(実質的な初代宰相)として迎え、当初から「政体書」による「官吏公選」など開明的諸施策を建言し続けていた。文明開化を推進する一方で、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に務め、薩長土肥四巨頭の参議内閣制を整えた。海外視察も率先して行う。帰朝後は、かねてから建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進する。長州藩主毛利敬親、明治天皇から厚く信頼される。妻は、幕末動乱期の命の恩人かつ同志でもある京都の芸妓幾松(木戸松子)である。 明治維新政府では、木戸の合議制重視の姿勢のため分かりにくいが、木戸が初代宰相、西郷が第二代宰相、大久保が第三代宰相に相当する。純粋で律儀、地に足の着いた開明派巨頭であったため、政策や手法を巡っておよそ心外の権力闘争が繰り返され続ける明治政府の中にあっては、結局、最期まで、心身を害するほどの精神的苦悩が絶えなかった。西南戦争の半ば、出張中の京都で謎の脳病再発により死の床に就き、朦朧状態の中でも西郷と明治政府双方の行く末を案じながら、息を引き取った。 昭和21年(1946年)正月元旦、昭和天皇による「人間宣言」の際、戦後の大方針として木戸孝允による「五箇条の御誓文」があらためて示されている。 名前 「木戸」姓以前の旧姓は、15歳以前が「和田」、15歳以後が「桂」である。小五郎、貫治、準一郎は通称名である。命を特に狙われ続けた幕末には、「新堀松輔」「広戸孝助」など10種以上の変名を使用した。 「小五郎」は生家和田家の由緒ある祖先の名前であり、五男という意味ではなく長男である。 「木戸」姓は、第2次長幕戦争前(慶応2年(1866年))に藩主毛利敬親から賜ったものである。それ以降、それまでの「桂」姓に替えて使用し始める。 「孝允」名は、桂家当主を引き継いで以来の諱(いみな)を兼ねた桂家当主としての名前であったが、戊辰戦争終了の明治2年(1868年)、腹心の大村益次郎と共に東京招魂社(靖国神社の前身)の建立に尽力し、近代国家建設のための戦いに命を捧げた同志たちを改めて追悼・顕彰して以降、自ら諱(いみな)のはずの「孝允」を公的な名前として使用するようになる。 雅号としては、「木圭」「猫堂」「松菊」「鬼怒」「広寒」「老梅書屋」「竿鈴」「干令」などがある。 名前の大まかな推移は、和田小五郎(元服して正式に桂家を継ぐまで)→桂小五郎(15歳以降)→木戸貫冶(33歳)・木戸準一郎(33歳以降)→木戸孝允(36歳以降)である。43歳(年齢はいずれも満年齢)で逝ってからは「松菊木戸孝允」「木戸松菊」あるいは「松菊木戸公」とも呼ばれる。 経歴 少年時代 天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩呉服町(今の山口県萩市)萩藩医 和田昌景の長男として生まれる。和田家は毛利元就の七男毛利元政の血を引くという。母はその後妻。前妻による姉が二人いる。長男ではあるが、病弱で長生きしないと思われていたため、長姉に婿養子文讓が入り、また長姉が死んだ後は次姉がその婿養子の後添えとなっていたため、天保11年(1840年)、7歳で向かいの桂家の末期養子となり(養父:桂九郎兵衛(家禄150石))、長州藩の大組士という武士の身分と秩禄を得る。翌年、桂家の養母も亡くなったため、生家の和田家に戻って、実父、実母、次姉と共に育つ。 少年時代は、病弱でありながら、他方、いたずら好きの悪童でもあった。萩城下の松本川を行き来する船を船頭ごと転覆させて快哉(かいさい・かいや)を叫ぶといういたずらに熱中していた。あるとき、水面から顔を出し「さあ船をひっくり返そう」と船縁に手をかけたところを、業を煮やしていた船頭に櫂(かい)で頭を叩かれてしまう。小五郎は、想定の範囲内だったのか、岸に上がり、額から血を流しながらも、ニタニタ笑っていたという。この当時の、いたずら好きとしての勲章が額の三日月型の傷跡として後世まで残り続ける(写真では見えない)。 10代に入ってからは、藩主毛利敬親による親試で二度ほど褒賞を受け(即興の漢詩と『孟子』の解説)、長州藩の若き俊英として注目され始める。 嘉永元年(1848年)、次姉・実母を相次いで病気で失い、悲しみの余り病床に臥し続け、周囲に出家すると言ってはばからなかった。 嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される(のちに松陰は、「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる)。 剣豪桂小五郎 弘化3年(1846年)、長州藩の師範代である新陰流剣術内藤作兵衛の道場に入門している。嘉永元年(1848年)、元服して和田小五郎から大組士桂小五郎となり、実父に「もとが武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」ことを言い含められ、それ以降、剣術修行に人一倍精を出し、腕を上げ、実力を認められ始める。嘉永5年(1852年)、剣術修行を名目とする江戸留学を決意し、藩に許可され、ほか5名の藩費留学生たちと共に江戸に旅立つ。 身長6尺(約174センチメートル)で当時としてはかなりの長身だった。江戸三大道場の一つ、「力の斎藤」(斎藤弥九郎)の練兵館(九段北三丁目)に入門し、神道無念流剣術の免許皆伝を得て、入門1年で練兵館塾頭となる。大柄な小五郎が、得意の上段に竹刀を構えるや否や「その静謐(せいひつ)な気魄(きはく)に周囲が圧倒された」と伝えられる。小五郎と同時期に免許皆伝を得た大村藩の渡邊昇(後に、長州藩と坂本龍馬を長崎で結びつけた人物)とともに、練兵館の双璧と称えられた。 ほぼ同時期に、 「位の桃井」(桃井春蔵)の士学館(鏡新明智流剣術、新富一丁目)の塾頭を務めた武市半平太 「技の千葉」(千葉定吉)の桶町千葉道場(北辰一刀流剣術、八重洲二丁目)の塾頭を務めた坂本龍馬 も免許皆伝を得ている。 幕府講武所の総裁、男谷精一郎の直弟子を破るなど、藩命で帰国するまで5年間、練兵館の塾頭を務めおおせ、その間、剣豪の名を天下に轟かせる。大村藩・鳥居藩・内藤藩などの江戸の藩邸に招かれ、請われて剣術指導も行った。 一説には、安政5年(1858年)10月、小五郎が武市半平太や坂本龍馬と、桃井道場の撃剣会で試合をしたとされるが、当時の武市・坂本は前月から土佐藩に帰ったままである。 留学希望・開国・破約攘夷の志士 練兵館塾頭を務める傍ら、ペリーの再度の来航(1854年)に大いに刺激され、すぐさま師匠の斎藤弥九郎を介して伊豆・相模・甲斐など天領五カ国の代官である江川太郎左衛門に実地見学を申し入れ(江戸時代に移動の自由はない)、その付き人として実際にペリー艦隊を見聞する。 松陰の「下田踏海」に際しては自ら積極的に協力を申し出るが、弟子思いの松陰から堅く制止され、結果的に幕府からの処罰を免れる。しかしながら、義弟となる来原良蔵とともに藩政府に海外への留学願を共同提出し、松陰の「下田踏海」への対応に弱っていた藩政府を更に驚愕させる。 倒幕方針をまだ持っていない藩政府が江戸幕府の鎖国の禁制を犯す海外留学を秘密裏にですら認める可能性は乏しく、小五郎は、これまで通り練兵館塾頭をこなしつつも、常に時代の最先端を吸収していくことを心掛ける。 兵学家で幕府代官江川太郎左衛門から西洋兵学・小銃術・砲台築造術を学ぶ 浦賀奉行支配組与力の中島三郎助から造船術を学ぶ 江戸幕府海防掛本多越中守の家来高崎伝蔵からスクネール式洋式帆船造船術を学ぶ 長州藩士手塚律蔵から英語を学ぶ 文久2年(1862年)、藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、周布政之助、久坂玄瑞(義助)たちと共に、松陰の航海雄略論を採用し、長州藩大目付長井雅楽の幕府にのみ都合のよい航海遠略策を退ける。このため、長州藩要路の藩論は開国攘夷に決定付けられる。同時に、異勅屈服開港しながらの鎖港鎖国攘夷という幕府の路線は論外として退けられる。 欧米への留学視察、欧米文化の吸収、その上での攘夷の実行という基本方針が長州藩開明派上層部において文久2年から文久3年の春にかけて定着し、文久3年(1863年)5月8日、長州藩から英国への秘密留学生五名が横浜から出帆する(日付は、山尾庸三の日記による)。 この長州五傑と呼ばれる秘密留学生5名、すなわち、 井上馨(聞多) 伊藤博文(俊輔) 山尾庸三 井上勝 遠藤謹助 の留学が藩の公費で可能となったのは、周布政之助が留学希望の小五郎を藩中枢に引き上げ、オランダ語や英語に通じている村田蔵六(大村益次郎)を小五郎が藩中枢に引き上げ、開明派で藩中枢が形成されていたことによる。 5月12日、小五郎や高杉晋作たちのかねてからの慎重論(無謀論)にもかかわらず、朝廷からの攘夷要求を受けた江戸幕府による攘夷決行の宣言どおりに、久坂玄瑞率いる長州軍が下関で関門海峡を通過中の外国艦船に対し攘夷戦争を始める(この戦争は、約2年間続くが、当然のことながら、破約攘夷にはつながらず、攘夷決行を命令した江戸幕府が英米仏蘭に賠償金を支払うということで決着する)。 5月、藩命により江戸から京都に上る。京都で久坂玄瑞、真木和泉たちとともに破約攘夷活動を行い、正藩合一による大政奉還および新国家建設を目指す。 池田屋事変 元治元年(1864年)に会津藩お預かり新選組が勤皇の志士を襲撃した池田屋事件で小五郎は、到着が早すぎたので一度本拠地にもどり時間を待っている間に事件が起こってしまい難を逃れた…と言われているが、それは自叙に基づくもので、京都留守居役であった乃美織江は手記に「桂小五郎議は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由…」と書き残している。 乃美織江の手記に基づくなら、桂小五郎は池田屋事件当時池田屋にいて、逃げ延びたと言うことになる。 その後も、小五郎は危険を顧みず京都に潜伏し続け、他藩の志士たちには正藩合一思想の種を植え続け、長州および長州派公卿たちの復権のため、久坂らとともになおも活動をし続ける。 蛤御門の変 八月十八日の政変の不当性が認められない上、池田屋事件まで起こされた長州藩は、小五郎や周布政之助・高杉晋作たちの反対にもかかわらず、先発隊約三百名が率兵上洛し、久坂玄瑞軍が山崎天王山に、来島又兵衛軍が嵯峨天龍寺に、福原越後軍が伏見に陣取り、朝廷に長州藩主父子や長州派公卿たちの雪冤を迫る。朝廷もそれに応じ、京都守護職を会津藩から長州藩に変えようとする所まで行くが、一橋慶喜から「もしそうしたいのであれば、幕府側は一切朝廷から手を引かせて頂く。お好きなようになされるがよい」と半ば脅され、幕府・会津藩と完全な敵対関係に入る覚悟までは持ち併せていない孝明天皇および公卿たちは、あっさりとひるんでしまう。そこで劣勢を回復した中川宮朝彦親王などの佐幕派公卿たちは逆に、朝廷と長州派公卿を介した長州との交渉を打ち切らせ長州軍を挑発して一気に蹴散らしたい幕府側(一橋慶喜・会津・薩摩守旧派)の意向をそのまま受けて、長州軍の退去を期限付きで最後通告して来た。 長州軍としては武門の名誉に賭けて、何も果たさず、何も戦わずに、すごすごと国許まで帰ることは、まず不可能である。天皇直訴と集団諫死に賭けた長州先発隊は、まだ瀬戸内海上にいる世子定広率いる長州軍本隊二千名に引き上げを要請した上で、蛤御門の変(禁門の変)を敢行する。 来島又兵衛率いる嵯峨天龍寺の長州軍は、会津軍を破り、禁裏に後一歩と迫るも、薩摩軍に横腹を付かれ、来島が倒れた後は総崩れとなって、散り散りに敗走する。 福原越後率いる伏見の長州軍は御所に辿り着けず、早々と大阪方面へ退避する。 久坂玄瑞率いる天王山の長州軍は、淀川のぬかるみで出遅れ、御所に辿り着いたときは戦闘がほぼ終わっており、鷹司邸を根城にして天皇に直訴だけは行おうとするが、これもかなわず、久坂たちは自らは大将として自刃し、残りは天王山方面へ退避させる。 このとき小五郎は、因州藩を説得し長州陣営に引き込もうと目論み、因州藩が警護に当たっていた猿が辻の有栖川宮邸に赴いて、同藩の尊攘派有力者である河田景与と談判する。しかし河田は時期尚早として応じず、説得を断念した小五郎は一人で孝明天皇が御所から避難する所を直訴に及ぼうと待った。しかしこれもかなわず、燃える鷹司邸を背に一人獅子奮迅の戦いで切り抜け、幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借りながら、潜伏生活に入る。会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくると、但馬出石に潜伏する。 第一次長州征討 朝敵となって敗走した長州藩に対し、更に第一次長州征討が行われようとした時点で、長州正義派は藩政権の座を降りた。不戦敗および三家老の自裁、その他の幹部の自決・処刑という対応で武士らしく責任を取った。 ところが、長州俗論派政権がここぞとばかり正義派の面々を徹底的に粛清し始めたため、高杉晋作率いる正義派軍部が反旗を翻して軍事クーデターを成功させ、俗論派政権による恐怖政治を終わらせた。この後、小五郎がどこかに潜伏しているらしいことを察知した高杉晋作・大村益次郎たちによって小五郎は長州正義派政権の統率者として迎えられる。長州政務座に入ってからは、高杉たちが所望する武備恭順の方針を実現すべく軍制改革と藩政改革に邁進する。 薩長同盟 長州藩は土佐藩の土方楠左右衛門・中岡慎太郎・坂本龍馬らに斡旋されて薩摩藩と秘密裏に藩レベルでの薩長同盟を結ぶ。慶応2年(1866年)1月22日に京都で薩長同盟が結ばれて以来、桂は長州の代表として薩摩の小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛・黒田清隆らと薩摩・長州でたびたび会談し、薩長同盟を不動のものにして行く。薩長同盟の下、長州は薩摩名義でイギリスから武器・軍艦を購入し、薩摩は不足している米を長州から支援してもらった。 第二次長州征討 長州藩の武備恭順や大村益次郎たちによる秘密貿易を口実として幕府側(会津藩・新撰組)は、第二次長州征討(四境戦争)を強行してくる。 薩長同盟を介した秘密貿易で武器や艦船を購入し、近代的な軍制改革が施されていた長州軍の士気は、極めて高かった。長州訪問中の坂本龍馬が感激して薩摩に「長州軍は日本最強」と手紙をしたためたほどであった。 初戦は手薄だった大島口への幕軍による奇襲攻撃によって開始され、珍しく慌てた木戸貫冶(小五郎)は小倉口の指揮官だった高杉晋作を急遽大島口に回らせ、高杉晋作艦による幕軍への艦砲射撃によって形勢が逆転し、その後は第二奇兵隊の活躍によって長州側の勝利が確定した。 大村益次郎が指揮官だった石州口・芸州口は、隣接する津和野藩の手引きや、広島藩の長州征討への消極的態度にも助けられ、長州側があっさり勝利を収めた。 ことに芸州口を担当していた井上馨率いる長州軍は幕府本陣のある広島国泰寺のすぐ近くまで押し寄せ、幕府軍だけでなく安芸藩まで慌てさせた。 肥後軍の高みからの猛攻撃により八ヶ月に及んでいた小倉口の戦いは、幕府側の劣勢にもかかわらず戦おうとしない幕艦・幕軍にあきれ果てた肥後軍の撤退によりあっさり幕を下ろした。 大島口・芸州口・石州口の三カ所で極めて短期間の内に幕府軍を撃破し、残りの小倉口も高みから徹底抗戦し続けていた肥後藩士たちの戦意喪失により長州側の全面的圧勝が確定する。この結果、浜田藩(天領・石見銀山含む)と小倉藩の主要部分は明治2年(1869年)の版籍奉還まで長州藩の属領となる。 明治維新政府で 明治新政府にあっては、副総裁の岩倉具視からもその政治的識見の高さを買われ、ただひとり総裁局顧問専任となり、庶政全般の実質的な最終決定責任者となる。太政官制度の改革後、外国事務掛、参与、参議、文部卿などを兼務していく。明治元年(1868年)以来、数々の開明的な建言と政策実行を率先して行い続ける。五箇条の御誓文、マスコミの発達推進、封建的風習の廃止、版籍奉還・廃藩置県、人材優先主義、四民平等、憲法制定と三権分立の確立、二院制の確立、教育の充実、法治主義の確立などを提言し、明治政府に実施させる。 なお、昭和戦後まで実現はしなかったが、軍人の閣僚への登用禁止、民主的地方警察、民主的裁判制度など極めて現代的かつ開明的な建言を、その当時に、維新の元勲の立場で行っている。 五箇条の御誓文 一 廣ク會議ヲ興シ、萬機公論ニ決スヘシ。 一 上下心ヲ一ニシテ、盛ニ經綸ヲ行フヘシ。 一 官武一途庶民ニ至ル迄、各其志ヲ遂ケ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス。 一 舊來ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ。 一 知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スヘシ。 我國未曾有ノ變革ヲ爲ントシ、朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ、天地神明ニ誓ヒ、大ニ斯國是ヲ定メ、萬民保全ノ道ヲ立ントス。衆亦此趣旨ニ基キ、協心努力セヨ。 第一条の「廣ク會議ヲ興シ(広く会議を起こし)」、第四条の「舊來ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ(旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし)」の二つが木戸により全く新たに挿入された五箇条の御誓文の最重要精神である。 その他には、 福岡孝弟の会盟の「人心をして倦まざしむるを要す」という言葉遣いをより洗練された表現「人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」に修正したり(ただし、前半の「官武一途庶民ニ至ル迄、各其志ヲ遂ケ」という表現は福岡孝弟独自の表現をそのまま尊重している)、 「知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スヘシ」を最後の第五条に持って来て、「日本人は世界人となって、大いに国民的基盤を整備しなければならない」という明治維新の最重要課題を国民全員に印象付けることに留意する などの修正を施している。 「五箇条の御誓文」と称し、明治天皇以下全員が天地神明に誓うという儀式を木戸自身が構想したこともあり、木戸は抵抗する守旧派を説き伏せ、明治天皇には大いに本気になってもらっている。 参議内閣制の確立と崩壊 明治政府草創期の朝令暮改や百家争鳴状態を解消するため、廃藩置県の断行を控えた明治4年(1871年)6月、西郷隆盛(第2代宰相)、大久保利通(第3代宰相)、三条実美(太政大臣)、岩倉具視(右大臣)たちから、木戸(初代宰相)がただひとり参議となるように求められる。「命令一途」の効率的な体制を構築するよう懇請されたわけであるが、リベラルな合議制を重んじ、ファシズム的な独裁体制を嫌う長州の代表である木戸は、これを堅く固持し続ける。大久保による妥協案により、木戸は、西郷と同時に参議になることを了承するが、翌7月には、政務に疎い西郷を補うためという口実で、西郷が「俗吏」と評して嫌っていることを知っていながら、肥前の大隈重信を参議入りさせることを西郷に提案し、西郷も人事では負けじとばかり(自分が先月主張していた「命令一途」体制を忘れて)『それでは土佐の板垣退助も参議にすべきだ』と応じ、めでたく薩長土肥一人ずつの共和制的な参議内閣制が確立される。 しかし、この薩長土肥一人ずつの共和制的な参議内閣体制は、それを打ち立てた木戸自身が海外視察の全権副使として留守にしたため、長くは続かなかった。 海外視察組(岩倉・木戸・大久保・伊藤たち)と留守政府組(三条・西郷・江藤・大隈・板垣たち)との間には、「海外視察が終わるまで、郵送文書での合意なくして明治政府の主要な体制・人事を変更しない」という約束が交わされていた。しかし、それを留守政府が大きく反故にしてしまっていたのである。また、留守政府による征韓論の方針は、海外視察組には到底承伏し難い暴挙にしか見えなかった。 木戸は海外視察へ出かけていたただひとりの参議であり、しかももともと筆頭参議的な存在であるため、帰朝後、あらゆる難題が一気に木戸の下に持ち込まれ、明治政府の難題をひとりで背負わされているかの如き態となり、原因不明の脳発作のような持病が一気に再発・悪化し始めた。この奇妙な持病のため、木戸は以後、本格的に明治政府を取り仕切れなくなった。 何よりも頭が痛かったのは、権力の腐敗と闘争が、木戸の不在時に激化し始めたことであった。長州出身の山縣有朋や井上馨などが汚職事件を起こし、肥前出身の司法卿江藤新平から厳しく責任を糾弾され、失脚に追い込まれていた。これと長州出身の伊藤博文が対立していた。木戸としても、弟分たちの復権を考慮せざるを得なかった。こうして、木戸自身がつくった薩長土肥の参議内閣は、木戸自身ですら調和的にコントロールし得なくなっていた。以後この矛盾は、海外派兵の是非を巡る対立から不平士族の反乱・暴発へと発展していく。 薩長政権の成立 木戸自身、大久保から、事態収拾のため、やはりかつての薩長同盟のように薩摩と長州が組むべきだという提案を受けていた。土肥をも尊重していきたかった木戸としては不本意ではあったが、もはや了承せざるを得なかった。あとは大久保利通の指導力と自分の執事のように動いてくれる伊藤に任せるしかなかった。 こうして、木戸を頂点に担ぐことでかろうじて統合されていた薩長土肥の明治政府は、開明派と守旧派、漸進(ぜんしん)派と急進派という二重のねじれた権力闘争の結果、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・井上馨・山縣有朋・黒田清隆・松方正義たちに代表される、開明的で漸進的な、第二の薩長同盟の如き薩長政府と、土肥の板垣退助・大隈重信たちに代表される、薩長政府から政権を奪取せんとする権力闘争的で急進的で開明的な民権活動家グループ(のちの政党活動家グループ)へと分離していく。 岩倉使節団とその影響 木戸は、幕末以来の宿願である開国・破約攘夷つまり不平等条約の撤廃と対等条約締結のため、岩倉使節団の全権副使として欧米を回覧し、予備交渉と欧米視察を進め、欧米の進んだ文化だけでなく、民主主義の不完全性や危険性まで洞察して帰って来る。 しかしながら、欧米と日本との彼我の文化の差は余りにも甚だしかった。かつての征韓論などは引っ込めて、内治優先の必要性を痛切に感じ、憲法の制定、二院制議会の設置を積極的に訴え、国民教育の充実、天皇教育の充実に積極的に取り組んだ。後に文部卿に自ら就任したのは国民教育を充実させる事を目指したものであった。西郷らが主張する征韓論や大久保らが主張する台湾出兵には一貫して反対し、またあくまで農民を不公正な税制と重税から解放するために積極的に推し進めた地租改正や武士の特権を廃止して彼らに新たな生活の途を探させるための手段として構想された秩禄処分が、財政至上主義のために単なる農民・武士の切捨策として実行された時にはこれに激しく反発した(木戸は井上馨に充てた手紙(1876年12月6日付「木戸文書」所収)では、地租改正反対一揆を擁護すらしている)。そして、無謀と判断していた台湾出兵が不平士族たちの暴発をそらすため決定された1874年(明治7年)5月には、これに抗議して参議を辞職している。 立憲政体漸立 木戸と板垣とを明治政府に取り戻したい大久保利通・井上馨らは、明治8年(1875年)8月、大阪会議に彼らを招待する。木戸・板垣は、立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立を条件として参議復帰を受け入れ、直ちに立憲政体の詔書が発布される。議会(立法)については元老院・地方官会議が設けられ、上下の両院に模された。司法については現在の最高裁判所に相当する大審院が新たに設立されることとなった。 初めての国民的会議 明治元年(1868年)の集議所、同2年(1869年)の公議所など、木戸自身の開明的な方針で国会の下院に相当するものを実際に構成し、機能させようとする努力は当初から為されてはいた。 しかし、江戸時代の封建意識そのままの各地の不平士族たちを出仕させ、自由に発言させただけでは、維新の方針とも現実的な可能性とも乖離(かいり)し過ぎており、保守的な大久保をして「廃止すべし」と断言させるほどに、時期尚早かつ、ほとんど無意味なものであった。また、これらの会議は、「廃刀令」「四民平等」以前に行われたため、薩長土肥以外の、特権を奪われまいとする武士たちの不満の発散所でしかなかった。 このため、現在の国会の衆議院に相当するようなものを模索し続け、その必要性を訴え続けて来た木戸自身が、環境を整備し、タイミングを見計らった上で、第1回の地方官会議(1875年6月20日~7月17日)を、自ら議長として挙行した。それでも不平士族や民権派の多岐にわたる要望や噛み合わない議論の中、議長の木戸は鮮やかな議事進行で法案をまとめて行き、成立させていった。このとき採択された五法案は、地方警察、地方民会など地方自治の確立を促進する画期的な法案であるが、のちの内務省の台頭により、いずれもそのままの形では実施されなかった。 西南戦争 明治10年(1877年)2月、西南戦争が勃発すると、すぐさま西郷をなだめる鎮撫使に立候補する。内務卿の大久保が、それは自分の仕事だと言って認めず、西郷への鎮撫使として木戸の次に立候補してしまう。明治政府の瓦解を恐れた伊藤博文が、これに反対し、結局、西郷をなだめるための鎮撫使が出されないまま、徴兵令による国軍が出動し、木戸は明治天皇とともに京都へ出張する。 かねてから重病化していた正体不明の脳発作が悪化し、明治天皇のお見舞いも受けるが、5月26日、朦朧状態の中、大久保の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去った。享年45。 墓所は多くの勤皇志士たちと同じく、京都霊山護国神社にある。また、長州正義派政権時代に山口の居宅だった場所(山口市糸米(いとよね))に木戸神社がある。 晩年、木戸は現在の東京都文京区本駒込5丁目、豊島区駒込1丁目の別宅で親しい友人を招き過ごしたと言われる。当時の庭園が今も維持されている。JR山手線駒込駅から別邸までの間に木戸坂と命名された坂が残されている。 後半は木戸孝允-2を参照 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月30日 (日) 15 32。
https://w.atwiki.jp/akatonbowiki/pages/9198.html
このページはこちらに移転しました 俺の曲に詞をつけてくれ No.186 作曲/島 音源 繰り返す日々 作詞/jas39 今日も 又 始 まる 熱い風が 街に吹いて 乾いた瞳の 虚ろな人波が流されて 砂の時計 滑り落ちて 夜と昼を 繰り返す 陽射しが 焼けば 影だけ黒く 照らし出す世界 光と影が 対で背中合わせで 目を焼く光と 影の狭間で 立ち尽くした 鉛色の 雲の下で 影を無くした 人ごみの中に紛れ込んで 色が消えた 街を彷徨い 探していた 自分の影を 流れる 雲が笑った 焼かれていた色と光と影の姿に戸惑って 灰色の街では黒い影も無く嘆いている俺さ 嗚呼 嗚呼 又 始 まる 走り去る雲 照りつける陽射し 無くした影が 色を取り戻した 今日も 又 繰り返す 強い風が 雲を散らして 濡れた街並み 孤独な影の俺を照らした 繰り返す日々 砂が落ちて 刻を刻むと 今日が明日へと 流れさて動く 落ちた砂は 今日に変わって 明日への刻を 繰り返してた 流れる 雲が笑った 焼かれていた色と光の影の姿に戸惑って 灰色の街では黒い影も無く嘆いている 俺さ 繰り返す日々(歌:jas39)mp3直link
https://w.atwiki.jp/imas-weeklyrank/pages/749.html
順位 上下 タイトル 登録 再生 pts 1 New 【MAD】Virtual to LIVE -The Contrails of THE IDOLM@STER- 3025 46560 5353 2 New 3分ちょっとで分かる無自覚に暗雲を抱え込む女 872 64020 4073 3 New マブラヴ オルタベルンゴ 1545 34742 3282 - たべるんごのうた 65 56047 2867 - COZMICたべるんご 37 25880 1331 4 New ドラゴンクエスト2~ロトの鉄砲玉伝説・日野茜~ Part13 249 19843 1241 5 11↑ たべるんご飛行 77 22689 1211 6 New Google Chrome × ミリシタ 479 14429 1200 7 New デレステ「Sparkling Girl」MV(ドットバイドット1080p60) 233 17074 1086 8 New 如月千早 arcadia 451 7309 816 9 New 【アイマス×栄冠ナイン】サチカン 南無高悲球録 第15話 182 12427 803 10 8↓ ミリシタ「Glow Map」北上麗花 49 14648 781 11 New Ringo Climbing ?んごにあそばれて?【魔法陣ンゴンゴ】 229 7739 615 12 1↓ アイドルマスターアンビグラムガールズ 186 8187 595 13 New ウェカピポんごのうた 94 9241 556 14 New がんばれはづきさん2 162 5780 451 - さくらんごのうた 47 7937 443 15 200↑ 「たべるんごのうた」をビリーバンバン菅原進が歌ってみた。 28 8205 438 - 恋鐘ちゃんデカいなバスト 29 7869 422 16 New 【虫プリン】双葉杏は怠惰に食べる【スズメバチを添えて】 52 7060 405 - 陣内智則「デレステ難しいなぁ、せやスカチケで練習しよ」 28 7473 401 17 New 【増強版】農園ゲーみたいな山形で栽培されているこいつの名前はどうすりゃいいンゴか? 135 5268 398 18 New 次回予告のうた 87 6211 397 19 New 行列のできるえーりんご直売所 119 4953 366 - たべるんギョのうた 8 7027 359 20 New C-Flyers!!! 152 3971 350 21 New 月曜日のくりぃむしちゅー有田 90 5059 342 - たべるんごげーとのうた 27 6128 333 22 New 綺麗な花火小糸 75 5168 333 23 8↑ 【SideM】キャラクター紹介MAD×声優ライブハイライト【Part3】 113 4234 324 24 New 【モバマス】星輝子とキノコの話54 マツタケ絶滅危惧種指定 112 4076 315 - カノンごのうた 24 5630 305 25 20↓ 【アイマスメドレー】CINDERELLA MEGAMIX!!!! 107 3727 293 - たべるんごのうただ 7 5451 279 - 【MMD】魔王エンジェルにNostalogicを踊ってもらった【修正版】 -1 5494 273
https://w.atwiki.jp/18627/pages/15.html
1.概要 アレス作のWWA一覧である。 1.概要 2.一覧2-1 灯火特急 2-2 カジノゲーム 2-3 ケロッグタワー 2-4 自作画像ゲーム 2-5 糞ゲー大二弾 小さなアドベンチャー 3.関連項目 2.一覧 分かる限り書いていきます。 2-1 灯火特急 登場人物 ラパス:一応主人公、他のゲームにもでていたり ライオ:いろいろなゲームに出ているがマイナーな場所にいる。(出ているのか?) オーマ:これいがいにでたといえばケロッグタワーあたりか?もう死亡しますた。 アレス:出てたりするw 2-2 カジノゲーム 画像が珍しく違うようなゲーム すぐお金がなくなるような... 2-3 ケロッグタワー これの主人公はラパス、家に帰るとなにかが違った・・・これが恐怖の始まりだと誰も知らなかった・・・ ここでの死亡者はオーマ、なので今後オーマは出てこない・・・OTL 本人(アレス)は消して公開しているらしい。 2-4 自作画像ゲーム 無題? アレスの書いた絵をキャラクター等に使った作品。 ずたずただった。 二章が有るらしい 2-5 糞ゲー大二弾 小さなアドベンチャー 125は知りません。 3.関連項目 WWA
https://w.atwiki.jp/18627/pages/7.html
アーカイブ @wikiのwikiモードでは #archive_log() と入力することで、特定のウェブページを保存しておくことができます。 詳しくはこちらをご覧ください。 =>http //atwiki.jp/guide/25_171_ja.html たとえば、#archive_log()と入力すると以下のように表示されます。 保存したいURLとサイト名を入力して"アーカイブログ"をクリックしてみよう サイト名 URL
https://w.atwiki.jp/18627/pages/10.html
関連ブログ @wikiのwikiモードでは #bf(興味のある単語) と入力することで、あるキーワードに関連するブログ一覧を表示することができます 詳しくはこちらをご覧ください。 =>http //atwiki.jp/guide/17_161_ja.html たとえば、#bf(ゲーム)と入力すると以下のように表示されます。 #bf
https://w.atwiki.jp/18627/pages/21.html
ほとんど敵の名前が決まってないので、名前は管理人が決めてしまいます。 備考:階層は四階、四階がボスエリアです。 危険度 ★☆☆☆☆ 深さ ★☆☆☆☆ 出現モンスター モンスター名 生命力 攻撃力 防御力 出現場所 出現アイテム ブルースライム 250 240 250 一階、二階、三階 5G レッドスライム 300 250 250 二階、三階 8G イエローハリネズミ 150 270 270 三階 10G パープルマジック(ボス) 600 230 280 四階 50G 出現武具 武具の名前 攻撃力・防御力 レアリティ 備考 錆びた剣 攻撃力20 G 二階に落ちている、一回取るともう取れない 木の盾 防御力10 G 三階に落ちている、一回取るともう取れない