約 2,252,923 件
https://w.atwiki.jp/kakis/pages/10643.html
上位標目 第九期新生アルカ概説 比較 使役_na14 使役2008/10/01 (水) 13 34 27のコピー sols(使役)やvars(強制)を動詞として使い、yulに使役内容を述べる。 yulにはしばしば節がくるが、これは従属節なので、従属節の時制_na9の扱い方に注意しなければならない。 [ova] an solsat la ke(彼を行かせた) 使役を受ける相手は、ke の動作主であるla。 英語と違ってto不定詞と原形不定詞のどちらを取るのか動詞ごとに覚えなくてよいので、楽である。 上位標目 第九期新生アルカ概説 比較 使役_na14
https://w.atwiki.jp/cod4-ls/pages/49.html
Ri-na 試合中、調子が出てくると無意識のうちに語尾に「ピョン」をつける。 みんな若干引いている。 本人を傷つけないように、謎の語尾について指摘するのはLS内ではタブーとなっている。 ニンジンが好物。
https://w.atwiki.jp/kakis/pages/10640.html
上位標目 第九期新生アルカ概説 比較 代動詞_na14 代動詞2008/10/01 (水) 13 30 18のコピー 代名詞の動詞版のことである。 日本語の「する」、英語のdo などに当たり、エスキモー語でも使われる。 制アルカではあらゆる代詞が代動詞になったが、実際に使うのはto, so, soa だけで、稀にxe が使われる程度だった。 me などは使われず、副詞として使われた。 実情を考慮するに、to, so だけで十分であろう。 ti tot la?(彼に何をしたの?) so xe a non(私にあることをしてほしいの)。制ではxe-al としていたが、使わなかったのでso の組み合わせで代用。 so me(もう一度して) 上位標目 第九期新生アルカ概説 比較 代動詞_na14
https://w.atwiki.jp/magicwand/pages/5.html
T O P W O R L D V I E W M E M B E R S ∟H E L O I N E S ∟G R Y F F I N D O R ∟H U F F L E P U F F ∟R A V E N C L A W N O V E L C O M M O N R O O M
https://w.atwiki.jp/standalonecomplex/pages/25.html
S.A.CとP2Pの関係について、恐らく最初に、そして最も詳細に記したのはスタンド・アローン・コンプレックスとP2P(Mutteraway)であろうと思われます。 正直な話、上のリンクを読んでいただければ、ここで記述することは殆ど何もありません。しかし、あくまで僕のS.A.C考察の一環として、上記記事の内容を取り込み再整理する、また言葉の定義を整合したりするという目的の上で、敢えて1ページ割こうと思います。 そんなわけで、内容がほぼそのまんまだったり、画像が無断転載されているのは仕様ですのでご了承下さい。 第1部 P2Pの形態とその発展1.原始P2P 2.ナップスター型P2P 3.グヌーテラ型P2P 第2部 S.A.Cの形態とその発展1.S.As(スタンド・アローンズ) 1.N型S.A.C 3.G型S.A.C 4.補足・・・S.A.Cと集合的無意識 ここでは、まずP2Pにおける形態とその発展を追い、後でそれをS.A.Cに適応するという順に進めていきます。 第1部 P2Pの形態とその発展 1.原始P2P P2Pとはpeer to peerというコンピュータ用語の略称で、その意味するところは間に何かを介さない、1:1の直接的なコミュニケーションのような感じだと思って下さい。イメージにすると下のような感じです。 (ここより無断転用) そして、このような1:1の繋がりを持った個人のいる社会は下のような感じになります。 (ここより無断転用) この状態では、個人個人が各々好きな情報を交換しているため、方向性・統一性がありません。そこで次のナップスター型P2Pが登場する。 2.ナップスター型P2P まずは図を見てみましょう。 (ここより無断転用) 一番上に「影響者」がでかでかと書かれ、原始P2Pの構成員全体に影響を及ぼしています。 ここで大切なことは、影響者によって、P2P構成員同士の繋がりはなんら制限されていないという点です。原始P2P自体は維持されているので、影響者がいなくとも活動に全く支障は無い。よって、P2Pの構成員たちは、必要からではなく、自主的に影響者に影響を受けた行動をするようになるのです。 こうして、秩序の無かったP2Pに、一定の方向性が生まれました。もちろん、これも大切なことですが、各人によって影響の程度は様々なので、必ずしも全員が同じような行動を取るというわけではありません。 しかし、全体的に見て、少なくとも原始P2P社会よりは何らかの方向性を持っているということは十分注目に値します。 ではこれで万事解決かというと、そういう訳ではありません。影響者がいるうちはこのナップスター型P2Pは安泰です。しかし、1人の影響者が、長期間その影響力を保持し続けるのは無理があります。 では、影響者の消失と共に、ナップスター型P2Pは原始P2Pに戻ってしまうのでしょうか? それを解決したのが、次のグヌーテラ型P2Pです。 3.グヌーテラ型P2P グヌーテラ型P2Pには図がついていないので、想像して下さい。それは、ナップスター型P2Pから「影響者」が消え去ったものです。そして、代わりに「仮想中心」という言葉を書き加えてください。 この「仮想中心」は、もちろん実際に存在するものではありません。これは、P2P構成員たちが「影響者」に共鳴して作り上げた謂わば「仮想の影響者」です。 こうなると、影響者が消えたあとも、じばらくの間P2Pの方向性は保持されることになります。あたかも、一度磁石にくっついた鉄釘が、しばらくの間磁石として作用するかのように。 では、以上を踏まえて、P2Pの考え方をS.A.Cに応用していこうと思います。 第2部 S.A.Cの形態とその発展 1.S.As(スタンド・アローンズ) S.A.Cには自立した個人(スタンド・アローン)が必要であると既に述べたかもしれないし、述べてなかったかも知れません。とにかく、原始P2Pに相当するのは「自立した個人」です。ここで言う「自立」とは、独力で他者と繫がることが出来、何かを行うのに他人の助けが必要でない状態であると定義します。そして、そのS.Aたちが、各々自由に動いている社会をS.Asと呼ぶことにします。ここでは、個人個人が好き勝手に振舞っているだけなので、まだComplex(複合体)とは呼べないからです。 1.N型S.A.C S.Asに「影響者」が現れると、それはN型S.A.Cになります。つまり、今まで好き勝手に動き回っていた個人に緩やかな方向性が生まれ、それが外部から見るとあたかも複合体を為しているように見えるわけです。 この「影響者」は、あまり厳格な目標を定めませんし、内部の競争も起こさせません。厳格な目標を定めると、それは個々のS.Aの目指す方向性と離れていってしまうからです。結果、目標のためにS.Aの動きが制限されることがあれば、S.A.Cはその瞬間に壊れてしまいます。また、内部の競争は、情報の制限を生み、S.A.Gの基本である「P2Pによる情報のシェア」を阻んでしまいます。そうではなく、個々のS.Aたちが、自分のやりたいことをやりたいだけするのがS.A.Cの原則です。 さて、そう考えると、この「影響者」は必ずしも人間である必要はないということに気付きます。実際、2ちゃんねるという交流の場そのものが影響者になることもあります。(毎日新聞抗議事件) 補足 現時点で、N型S.A.Cが必ずS.Asから発展させなければならない (つまり、S.Asのある状況からしかN型S.A.Cは生まれない)のか、 「影響者」の立ち回り次第で、無から一気にN型S.A.Cに持っていけるのか はよく分かっていない。 ただ、「影響者」が1からN-S.A.Cを作る場合には、強力なリーダーシップ を発揮してはならない気がする・・・今のところ。 3.G型S.A.C N型S.A.Cから、偶然・必然的に「影響者」が消失すると、G型に移行します。そこでは、S.A.達が「仮想中心」を作り出し、無意識下でその影響を受けます。つまり、個人個人は自分で判断し、自由に行動しているのに、全体としてはある方向性を持っているという、理想的なS.A.Cが構築されるのです。 ちなみに、上の文だけ読むと洗脳系新興宗教か何かを彷彿とさせますが、ここで述べているのは全く異なる概念です。 洗脳系宗教では、信者に情報の制限を行います。会誌しか読ませない、メディアは嘘つきで自分達が正しいと教え込む、上下関係が絶対・・・等々。上にも書きましたが、S.A.Cの前提は情報が殆どリアルタイムにシェアされること、言い換えれば誰でも望む情報を発信でき、また受信できるということです。 これは非常に大切なことなので、頭の片隅に留めておいていただければ幸いです。 4.補足・・・S.A.Cと集合的無意識 本当は、ページを改めて書くつもりでしたが、上で情報について少し述べてしまったので、とりあえずここに書いておこうと思います。将来的に移動させるかも知れません。 「集合的無意識」とは心理学者のユングが提唱した概念で、簡単に言うと個人個人の意識をずっと下に下りていくと、潜在意識の更に下で他人と繫がっている部分があるという考え方です。ヨモギという植物は、あちこちから茎葉を伸ばしていますが、根っこでは1つにつながっています。これを人間に当てはめると、茎葉が個人で、地面の下の根が集合無意識ということになります。 なぜ突然集合的無意識の話になったかというと、実はS.A.Cは集合的無意識を最大限に利用した民主的な組織システムだからです。これに関して連山改に素晴らしい図がありましたので、いつもながら下に無断転載致します(一段落したらきちんと許可をとろうと思います)。 ここから無断転載 人間は、毎日色々なことを考えています。政治に関する怒り、少ない給料のこと、職場の可愛い後輩、独立する夢、妻のこと、息子の学費、車の車検の時期、etc...... これらのことが頭の中を駆け巡った末、結局「車検の時期だけ確認して終わる」といったことが日常茶飯事に起こっています。しかし、実は頭の片隅には「政治に対する怒り」だとか「独立への夢」だとかも渦巻いているわけです。 この人が、例えば「○○党の政治家が汚職」という記事を読んだとします。そして、政治家に怒りを感じてmixiの日記に何気なく書いたとします。そうしたら、もしかしたらその日記に「政治に対する怒り」に共感するコメントが書かれるかも知れないし、その人が知らなかった情報をコメントする人がいるかも知れない。 それを聞いたその人は、ネットで更に情報を調べるかも知れないし、調べないかも知れない。またその日記を読んだ人たちも同様に情報を調べるかも知れないし、回りの人との雑談のときに汚職の話をするかも知れない。 もちろん、動くかどうかは各人の自由です。しかし、もしかれらが「動いた」としたら、それは、色々な人が、実は頭の隅の方に政治に対する怒りを持っていたことを意味します。 1人の人間は、そう簡単に他人の考えを変えてしまうことはできません。ある人が他人の行動を促したとすれば、それは促された人の頭の中にもともと「種」があったからです。 この、たくさんの人の頭の中に種がある状態、これを「集合的無意識」とここでは定義します。 種が開花した人々は、それぞれ動き出します。個人個人は、それぞれ一本の植物だと思っています。ついでに言えば、その中には花の咲いているものもあれば、双葉が出たばかりのもの、また枯れかかっているものもあるでしょう。 しかし、それを遠くからみると、あたかもそこに一面の花畑があるようにみえるのです。 先ほどの新興宗教の話を補足しておきましょう。 S.A.Cというシステムでは、普通の人が種を持っていないような考え方は育ちません。多くの人がそう考えているからこそ、そこにS.A.Cが成立するのです。 その意味で、S.A.Cは真の意味での民主主義と言えるのかも知れません。 編集
https://w.atwiki.jp/kakis/pages/10777.html
上位標目 第十四期新生アルカ概説 比較 代動詞_na9 代動詞(2009/02/03 (火) 10 20 16)より転記 代名詞の動詞版のこと。 日本語の「する」、英語のdo などに当たる。エスキモー語などでも使われる。 制アルカではあらゆる代詞が代動詞になったが、実際に使うのはto, so, soa だけで、稀にxe が使われる程度だった。 me などは使われず、副詞として使われた。実情を考慮するに、to, so だけで十分であろう。 ti tot la?(彼に何をしたの?) so xe a non(私にあることをしてほしいの)。制ではxe-al としていたが、使わなかったのでso の組み合わせで代用。 so se me(もう一度して) 上位標目 第十四期新生アルカ概説 比較 代動詞_na9
https://w.atwiki.jp/genesis-ticket/pages/199.html
【国名】 P.A.Oda 【読み方】 ピーエー・オーディーエー 【対応国】 織田家+オスマン帝国 【トップ】 織田・信長 【登場巻】 ―――― 【詳細】 極東の近畿から東海にかけて存在する国。2巻下以前はP.A.ODAと表記されていた。 アニメでの呼称は「ピーエー・オーディーエー」。原作もそれに準じていると思われる。 オスマン帝国との合一である以上、使われる言葉はトルコ語のはずなのだが、P.A.Oda用語のルビはアラビア語である。 主な教導院はP.A.O.M.。ムラサイ側ではP.A.M.と呼ぶ。 制服は砂漠地帯であることを考慮し軽量系。靴が砂に沈みこまないようになっている。(ただし、史実のオスマン帝国の版図は砂漠地帯は少ない) 各部のハードポイント技術が中世からあまり発展していないため、他国に比べ数が少なく、デザインも実用主義のものとなっている。 服に付けたバッジ型のものは重量で価値が決まる代理貨幣。前歴不問であり、実力主義。 配られた聖譜は勇気【フォーティチュード】。その枢要徳に対応した聖譜顕装は、 聖骸の勇気・旧代 と 聖骸の勇気・新代 。 大罪武装は、教譜がムラサイであるため配られていない。 本編より八年前に織田・信長の襲名者が登場し、歴史再現を利用した暗殺を警戒して表に出てこないまま、他国へと征服行為を行っている。 現在は聖連から半脱退状態で、三河と同盟中。M.H.R.R.と連携を結び、協力関係にある。 末世を解決するための手段として創世計画を打ち出しているが、実はその計画は三河側が持ちかけたものであったことが一巻における騒動で発覚する。 そして1巻の最終章にて、柴田・勝家が五大頂を引き連れ武蔵を牽制するために登場した。 織田信長は確かに日本史、戦国時代において天下布武を掲げ日本の大部分を統一する武将であり、 その再現を行う権利を持つこの国は莫大な国力と兵力を有する。 しかし次代である羽柴がM.H.R.R.の旧派、皇帝勢力と協同し前面に押し出しているため、P.A.Odaそのものの露出は少ない。 4巻では上越露西亜への侵攻を行っているが、それも本能寺の変の先送りを目的としたものではないかと疑われている。 生徒会及び総長連合のメンバーは協同を行っているM.H.R.R.側と被っているメンバーが多く、それを利用して本来関われないはずの織田家やオスマン帝国側を越えた歴史再現に首を突っ込んでいけるのが特色。 だが信長が起動した創世計画のためいなくなり、羽柴たちも山崎の合戦を終え実質的に親たち、武蔵側となりこれまでの激戦で重役の面々が戦死するなどして外れていった結果、ヴェストファーレンを前にして組織の大改革を迫られることとなった。 国としては存在感を常に発揮してきたP.A.Odaであるが、信長が表舞台に出ない分羽柴が動き回っていたため、実のところ国としての情報量が他国に劣る印象を受ける。 極東の支配者が信長の地盤を受け継いだ羽柴が成すことも有り、織田家としての襲名者は最低限にしぼり、本来は用意しておく信長の息子等の襲名者は選出されていなかった。 創生計画を羽柴の主導のもと行うことを想定しM.H.R.R.旧派との連携を強めていった結果でも在るが、創生計画のための準備を進めていた丹羽・長秀や前田・利家らは羽柴側が武蔵に敗北しごっそり抜けてしまったため、計画が順調に進めば問題なかったであろう様々な事情が裏目に出てしまう結果となった。 現在P.A.Odaは復帰したスレイマンと総長となりまとめている状態である。 生徒会側は丹羽等が役職持ちとなっているため、極東+世界側の合一国家である状態は変わっていない。
https://w.atwiki.jp/songunarmy/pages/80.html
2012年3月5日、海外メディアに公開された演習にてロケット弾を発射する人民軍陸軍第2旅団の勝利-61NA(画像出典 わが民族同士) ロケット砲に加えてMANPADSも装備した勝利-61NA(画像出典 KCTV) 概要 ソ連製のGAZ-63を勝利-61として生産したトラックのモディファイモデル。勝利-58KAに酷似しているが、四輪駆動であるため四駆デフの有無や若干上げられた車高で見分けがつく。1979年から生産され、現在も生産中と言われる。 オフロードに強い四駆とあって、特に人民軍での軍事利用が目立つ。その中でも代表的なのが、荷台に63式107mm多連装ロケット砲を搭載した簡易な自走ロケット砲として運用するものである。ロケット砲は荷台中央で前方を向いた状態で備わるが、発射時は荷台のアオリを開いて、真横へ90度旋回し固定される。ロケット弾の一斉射には振動が発生するが、車体を支えるアウトリガーが無く、積み上げたブロックや固めた土で車体を固定している。ロケット砲とキャビン後方の隙間にはロケット弾が収納される弾薬箱らしきものと消火器が確認できる。通常の63式は4列×3の12連装だが、勝利-61NAに搭載される63式は6列×4の24連装と、火力が倍に増強されている。 また、追加でMANPADS(携行式防空ミサイルシステム)を2基、スタンドを用いて装備することが出来る。しかし搭載位置からして照準・発射可能な角度が制限され、使い勝手は悪いと見られる。パレードで見られる装備であるため、対空戦闘能力強化の誇示を狙ったものかもしれない。 要目 全長 不明 全幅 不明 全高 不明 ホイールベース 不明 重量 不明 積載量 2t エンジン 直列6気筒4ストロークガソリンエンジン 馬力 70馬力 最大速度 不明 最大トルク 不明 トランスミッション 4速マニュアル 参考文献・出典 https //tanks-encyclopedia.com/107-mm-mrl-on-sungri-61na/ https //www.chinesecars.net/content/sungri-61na
https://w.atwiki.jp/evergreenforest/pages/249.html
文化10(1813)年10月初め。重吉ら14名督乗丸に乗り込む。 重吉、督乗丸船頭。乗船時29歳。長右衛門、金兵衛とも。尾張国知多郡半田村荒古(半田市半田)出身の百姓。同国幡豆郡一色村佐久島(一色町佐久島)の善三郎次男で、半田村荒古の庄兵衛養子。15歳より船に乗り、文化10年伯父長右衛門に代わって督乗丸船頭。宗旨浄土真宗。菩提寺半田市中村の雲観寺。のち小栗姓を与えられる。叔父の長右衛門は、督乗丸の本来の船頭。この時、船頭は支障があり、重吉が仮の船頭を頼まれた。箱館での文書には長右衛門として差し出している。 音吉、水主。出帆時27歳。伊豆国加茂郡子浦中野町(静岡県賀茂郡南伊豆町)出身。甚太郎次男で伝蔵の弟。18歳頃より船乗渡世。宗旨浄土宗。 要吉、水主。尾張国名古屋矢場(名古屋市中区矢場)出身。 七兵衛、水主。七蔵とも。半田村出身。 藤助、楫取。半田村荒古出身。藤七倅。宗旨浄土真宗。菩提寺半田雲観寺。 房次郎、炊。出帆時15歳。半田村荒古出身。 庄兵衛、水主。半田村西町出身。宗旨浄土真宗。菩提寺雲観寺。 福松、水主。伊豆国加茂郡子浦出身。 孫三郎、賄。出帆時42歳くらい。半田村西町出身。宗旨浄土真宗。菩提寺雲観寺。 為吉、水主。亀吉とも。知多郡乙川村〔半田市乙川〕出身。 三之助、水主。三郎助とも。伊豆国加茂郡柿崎(静岡県下田市柿崎)出身。 重蔵、水主。亥蔵とも。伊豆国加茂郡田子浦(賀茂郡西伊豆町田子)出身。 安兵衛、水主。伊豆国加茂郡子浦出身。 半兵衛、水主。知多郡亀崎村(半田市亀崎)出身。 督乗丸、尾張国名古屋納屋町(名古屋市中村区)の小島屋庄右衛門持船。1200石積。尾張廻米その他諸商物を積みいれ、江戸に向けて同国師崎(熱田港)を文化10(1813)年10月初め出帆。知多半島の師崎(愛知県知多郡南知多町師崎)の船番所で船改めを受け一路江戸に向かう。 江戸に着くと、問屋石橋弥兵衛を通じ廻米を納め、その他の積荷も売り払って、代わりに大豆700俵、その他諸道具を積んで、文化10(1813)年10月末江戸出帆。 浦賀船番所を経て、文化10年11月3日(1813/11/25)伊豆子浦(静岡県賀茂郡南伊豆町子浦)に入る 文化10年11月4日(1813/11/26)、伊豆の子浦(ねのうら)を午前10時ごろ出帆し尾張へ帰国の途に着く。その夜御前崎沖で東北の暴風雨に見舞われ遭難。このときの雨を最後に翌年8月まで雨が降らなかった 文化10年11月4日(1813/11/26)夜、要吉、御前崎沖で水死。戒名随善信士。 文化10年11月5日(1813/11/27)午前2時ごろ、御籤で伊良湖崎という御告げがある。湊入りの火を見せてくださいと願立てする。夜明けごろ、先に人を落とした御前崎の辺りまでやってきた。伝馬船を捨てる。 子浦沖で楫を折られ、船の覆るのを防ぐため帆柱をきる。8時ごろに切り始め、午後2時ごろにやっと切り倒す。 午後8時ごろ、伊豆諸島の土島と新島の間を流される。新島の西の陰で約100尋(180m)くらいのかがす(苧(お)で綯った太い綱)3本つないで300尋(540m)くらいにして碇を下ろすが、もっとそこは広くて届かなかった。 文化10年11月6日(1813/11/28)、朝、三宅島の前を流されていったので、麾(まねき)をあげる。 文化10年11月7日(1813/11/29)、大風が続く 文化10年11月8日(1813/11/30)、最後に山影を見失う。孫三郎は剃髪し(出家し)、重吉は日記をつけ始める。 文化10年11月9日(1813/12/01)、大風が続く 文化10年11月10日(1813/12/02)、金毘羅様の御縁日の午前10時ごろ、白い鳥が2羽飛んできて午後2時ごろまで船の周りを立ち去らなかった。この間、波風も少しは静まっていた 文化10年11月11日(1813/12/03)、少し風が穏やかになる 文化10年11月12日(1813/12/04)、初めて風がすっかりおさまる 文化10年11月13日(1813/12/05)、また、西北の方から大風が吹いてきて大波が立つ 文化10年11月14日(1813/12/06)、やはり大風。1ヶ所に円くなって座り、念仏を唱えるほかなかった 文化10年11月15日(1813/12/07)、大神宮及び氏神八幡宮の御縁日。青い鳥が2羽、午前10時ごろから午後2時ごろまで船の周りを旋回する。このあと、必ず10日には白い鳥、15日には青い鳥が群れてくる。 文化10年11月16日(1813/12/08)、少しは風が穏やかになる。御籤によると八丈島から500里南。この時点で、米5斗入り6俵、水一人当たり3升5合、豆700俵。米は5升を万一の備えに貯えて置き、残りを13人に割り当てて渡す。 文化10年11月17日(1813/12/09)、水が乏しくなり、重吉がランビキをする。1日に7、8升ほどとれる。 文化10(1813)年11月下旬、暑気が厳しくなり始め、赤道直下へ流されてきたのであろうと思われた 文化10(1813)年閏11月、皆のものは浪を見ることさえうっとうしくなって、2人3人ずつ船底に入っては、ごろごろ横になる唐になった。それでも、朝な朝な水垢離を取って、信心することだけは怠らなかった。 文化10年大晦日(1814/02/19)、松飾など正月の準備をする 文化11年1月1日(1814/02/20)、正月の儀式をする ごろ、乗組員が次第に病人になる 文化11(1814)年3月半ばごろ、重吉以外のもの病に臥す。非常用の米を出せと言い出し食べさせるが10日でなくなる。 文化11年4月の末(1814/06中ごろ)、自失した病人が出てくる 文化11年5月8日(1814/06/25)、七兵衛、死亡。戒名得善信士。死体は船中に置く 文化11年5月16日(1814/07/03)、藤助、死亡。法名覚善信士 文化11年5月28日(1814/07/15)、房次郎、死亡。享年16歳。戒名説善信士か? 文化11年6月12日(1814/07/28)、庄兵衛、死亡。法名応善信士。 同日、福松、死亡。 文化11年6月13日(1814/07/29)、孫三郎、死亡。法名教善信士 文化11年6月16日(1814/08/01)、為吉、死亡。戒名法善信士か 文化11年6月18日(1814/08/03)、三之助、死亡。戒名光善信士 文化11年6月20日(1814/08/05)、重蔵、漂流中死亡。戒名誠善信士 文化11年6月28日(1814/08/13)、安兵衛、漂流中死亡。重吉、音吉、半兵衛の3人となる 文化11年8月1日~2日(1814/09/14~15)、2日間、大雨が降る。文化10年11月4日以来の雨 文化11年8月3日(1814/09/16)、重吉、鰹を7本釣る。このあとさまざまな魚が釣れる 文化11年8月20日ごろ(1814/10月初め)、魚を食べたからか、病人2人も釣りができるまでに回復する 文化11年9月末(1814/11月)、船に積んだままの死体の処分について御籤を引き、1ヶ月待って海中に捨てることにする 文化11年10月28日(1814/12/09)、夕方、10人の死体を海中に捨てる 文化11年11月5日か6日(1814/12/16か17)、鰐鮫40匹が群れてやってきて、船の虫に付いた魚を追い散らし、このあと魚が釣れなくなった 文化11年11月20日ごろ(1814年末ごろ)、またも重吉を残して2人が病人になる 文化11年大晦日(1815/02/08)、重吉、死ぬ決心をする 文化12年1月1日(1815/02/09)、重吉、御籤を引いて、生き残る決心をする 文化12年1月26日(1815/03/06)、北東の方向に山のようなものが見える 文化12年1月27日(1815/03/07)、山であることがはっきりするが、暮れ方から北風にかわり、風に道筋が悪くなる 文化12年1月28日(1815/03/08)、午前4時ごろにまた西風に変わる。夜が明けてみると、20町隔てて国が見える 文化12年2月7日(1815/03/17)、夕べから、山が見えなくなる 文化12年2月13日(1815/03/23)、午後8時ごろ、誰ともわからない2人が船に現れる夢を見る 文化12年2月14日(1815/03/24)、午前2時ごろ、また人2人が現れる夢を見る。 夜が明けてみると、西南の方角に唐船と思われる2本檣で帆数をいっぱいかけた大船が1艘、西から東の方へ走っていくのを見つけた。その距離、およそ3里ばかり。この船に見つけられる。 船は1町隔てて帆を下ろし、伝馬船を下ろして6人が乗って督乗丸にやってきた。異国人一人(道計り役人エデメツ)が梯子をあがってきた。午前9時ごろ船に乗り移る。 10時ごろ、茶に砂糖を入れて黒人が持ってくる。 正午頃、パン1切れ、牛肉一切れ、豚肉1切れと、水を1杯持ってくる。チーズは食べられなかった。 夕方になって、パン2切れ、牛肉、茶2杯が出る。牛肉はやはり食べられない。 イギリス船フォレスター号(船長ピケット)にノバ・イスパニアのサンタ・バーバラ沖で助けられる。(漂流484日間。この日は、重吉の記録による。フォレスター号のアダムズ氏の談話では、救助は1814年という) 1814/02/14、重吉、音吉、半兵衛の3名はメキシコ沖でイギリス船フォレスタ号に救助され、乗っていた督乗丸は焼き払われた。 1815文化122月H1813a督乗丸英船に助けられ、丑の方に向て馳せること4日。一大島に着す。英人皮船14艘を下し、クリル人をして漁労をなさしめ、更に丑の方に向て馳せること2日「シュハント」に着し海岸に沿って渓谷の間を行くこと1里、人家僅かに5、6戸。多く馬を産す。逗留10日又開行すること10日。外交志稿 1815/03/24文化122月14日H1813a督乗丸船長日記 1815/03/24文化122月14日H1813a督乗丸 このあと、サンタ・バーバラに上陸。記録上、初めてアメリカ本土に上陸した日本人漂流民となる。荒川秀俊 異国漂流物語 1815/03/25文化122月15日H1813a督乗丸朝食は、パン3切れと牛肉。昼食になって普通の食事となる。船長日記 1815文化123月H1813a露領「ルキン」に着す。人家20余戸、露米の船10艘あり。留まる30日。英船より監酒を露人に送り、獣皮と交易す。英船、我漂民の故を以て迂途、ナホツカに向かう。海上40日。外交志稿 1815文化126月H1813aカムチャツカの岬を望み、更に馳せてナホツカに向かう。風潮あしく便を得ず。外交志稿 1815/09/03*文化128月H1813aカムチャツカ、ヘトルハチロスク港に着し、居る月余外交志稿 1815/09/17*文化128月15日ごろ9月5日頃H1813aフォレスタ号重吉ペテロパウロフスクに入港。木崎良平 漂流民とロシア 1815/09/17*文化128月15日ごろ9月5日頃H1813aフォレスタ号音吉ペテロパウロフスクに入港木崎良平 漂流民とロシア 1815/09/17*文化128月15日ごろ9月5日頃H1813aフォレスタ号半兵衛ペテロパウロフスクに入港木崎良平 漂流民とロシア 1815/10/03*文化129月H1813a薩摩の漂民喜三左衛門ら(H1812a)ナホツカ港より来るに逢う。外交志稿 1815/10/04*文化129月2日ごろH1813a重吉ら薩摩の漂民ら(H1812a)と会う。以後、ルダカウ宅で6人で同居船長日記 1815/10/2310月中旬H1813aフォレスタ号ピケット船長、ベネツ事務長、召使の黒人3名を残し広東に向け出港していった。木崎良平 漂流民とロシア 1816文化135月H1813a露船に乗りヘトルハチロスクを発す外交志稿 1816/06/16*文化135月末H1813a帰国の準備が整う船長日記 1816/06/23*文化135月28日ごろH1813aペテロパウロフスクを出港船長日記 1816/06/25文化136月初めH1813a聖パヴェル号重吉ペテロパウロフスクを出港木崎良平 漂流民とロシア 1816/06/25文化136月初めH1813a聖パヴェル号音吉ペテロパウロフスクを出港木崎良平 漂流民とロシア 1816/06/25文化136月初めH1813a聖パヴェル号半兵衛ペテロパウロフスクを出港木崎良平 漂流民とロシア 1816/07/05文化136月11日H1813a聖パヴェル号半兵衛ペテロパウロフスクから択捉島への帰国船上で死亡。戒名歓善信士。水葬にする木崎良平 漂流民とロシア 船長日記 1816/07/22文化136月28日H1813a聖パヴェル号重吉午後2時ごろ、脚船を与えられ放環される木崎良平 漂流民とロシア 船長日記 1816/07/22文化136月28日H1813a聖パヴェル号音吉午後2時ごろ、脚船を与えられ放環される木崎良平 漂流民とロシア 船長日記 1816/07/22文化136月28日H1813a夜8時ごろ、ウルップ島の北東の砂浜に着き野宿船長日記 1816/07/24文化136月30日H1813a重吉濃霧と風の中、ウルップ島東北岸に吹き付けられ上陸。この日東浦のワニナウに移り風待ち木崎良平 漂流民とロシア 1816/07/24文化136月30日H1813a音吉濃霧と風の中、ウルップ島東北岸に吹き付けられ上陸。この日東浦のワニナウに移り風待ち木崎良平 漂流民とロシア 1816/07/24*文化136月30日ごろH1813a最初に上陸した砂浜に1日、2日留まったあと、西南の方に廻って、ワニナウで風待ちする。ここでラソワ人13人を見る船長日記 1816文化137月H1813a択捉島シベトロに着す。外交志稿 1816/07/31文化137月7日H1813a重吉択捉島北端のアトイア岬に渡る。同所で二晩野宿木崎良平 漂流民とロシア 1816/07/31文化137月7日H1813a音吉択捉島北端のアトイア岬に渡る。同所で二晩野宿木崎良平 漂流民とロシア 1816/08/02文化137月9日H1813a重吉アトイア岬を迂回して途中であったアイヌの案内で、択捉島シベトロ番所に帰着木崎良平 漂流民とロシア 1816/08/02文化137月9日H1813a音吉アトイア岬を迂回して途中であったアイヌの案内で、択捉島シベトロ番所に帰着木崎良平 漂流民とロシア 1816/08/02文化137月9日H1813a7月10日の朝にかけて、取調べ役配下の役人村上貞助、同心木村十平、北小山倉之助の取調べを受ける船長日記 1816/08/07文化137月14日H1813a高田屋嘉兵衛の弟、嘉十郎がやってきて、14日に、木村十平、嘉兵衛が付き添い、蝦夷の人が水夫でここを船出し、海岸を西の方へ回り、午後4時ごろにヲトイマハシというところの番小屋に到着した船長日記 1816/08/10文化137月17日H1813a15日、16日は雨が降り船が出ず、17日に出帆し、ベツトウブというところの番小屋で泊まる船長日記 1816/08/11文化137月18日H1813aサナというところの番小屋に泊まる船長日記 1816/08/12文化137月19日H1813a雨が降って、サナに逗留船長日記 1816/08/13文化137月20日H1813aフルヱベツ到着船長日記 1816/08/13文化137月20日H1813a重吉フレベツ会所に送られ、7月20日付けで「口書」が作成された木崎良平 漂流民とロシア 1816/08/13文化137月20日H1813a音吉フレベツ会所に送られ、7月20日付けで「口書」が作成された木崎良平 漂流民とロシア 1816/08/24文化138月2日H1813a重吉フレベツ会所発。取り調べ役配下役人塚田富次郎、同じく三橋勝次郎、同心松井卯内、高田屋の下僕助四郎が付き添う。ヲトイで泊まる木崎良平 漂流民とロシア 船長日記 1816/08/24文化138月2日H1813a音吉フレベツ会所発。取り調べ役配下役人塚田富次郎、同じく三橋勝次郎、同心松井卯内、高田屋の下僕助四郎が付き添う。ヲトイで泊まる木崎良平 漂流民とロシア 船長日記 1816/08/25文化138月3日H1813a12里ほど行って、ヲダシツという所の番小屋で泊まる船長日記 1816/08/26文化138月4日H1813a陸路2里でナイボウで泊まる。5日~7日は雨が降る船長日記 1816/08/30文化138月8日H1813a船を出し、タネモイというところに至り、番小屋に泊まる船長日記 1816/09/01文化138月10日H1813aクナシリへ渡航、7里を渡る。アトイヤで泊まる船長日記 1816/09/02文化138月11日H1813a天気は良いが、二百十日だから船を出さない船長日記 1816/09/03文化138月12日H1813aアトイヤ発船長日記 1816/09/08文化138月17日H1813aところどころの番所に泊まり、この日セセキに至る船長日記 1816/09/10文化138月19日H1813aトマリに至る。取調べを受ける。船長日記 1816/09/15文化138月24日H1813aトマリ発。付き添いは変わらず。海上5里でネモノ(根室?)に渡る。そこから砂浜2里でノツケについて泊まる船長日記 1816/09/15文化138月24日H1813a重吉国後島泊会所を経て、この日、北海道野付〔野付郡別海町野付〕に渡る木崎良平 漂流民とロシア 1816/09/15文化138月24日H1813a音吉国後島泊会所を経て、この日、北海道野付〔野付郡別海町野付〕に渡る木崎良平 漂流民とロシア 1816/09/17文化138月26日H1813aノツケ発船長日記 1816/09/22文化13閏8月1日H1813aアツケシ着船長日記 1816/10/22文化139月2日H1813a重吉午後4時ごろ松前到着。牢へ入れられる木崎良平 漂流民とロシア 船長日記 1816/10/22文化139月2日H1813a音吉午後4時ごろ松前到着。牢へ入れられる木崎良平 漂流民とロシア 船長日記 1816/10/23文化139月3日H1813a午前10時ごろに箱館の奉行所へ呼び出されて取調べを受ける。船長日記 1816/12/22文化1311月4日H1813a重吉奉行本田淡路守繁文の取調べの後、この日松前発木崎良平 漂流民とロシア 1816/12/22文化1311月4日H1813a音吉奉行本田淡路守繁文の取調べの後、この日松前発木崎良平 漂流民とロシア 1817/01/201月20日12月4日H1813a重吉江戸千住の中屋六右衛門方に着木崎良平 漂流民とロシア 1817/01/201月20日12月4日H1813a音吉江戸千住の中屋六右衛門方に着木崎良平 漂流民とロシア 1817/01/201月20日12月4日H1813a千住の宿に到着。中村六左衛門という者の家で休憩。蝦夷会所から受け取りの役人が来て、受け取って、江戸の霊岸島にある蝦夷会所の長屋に連れて行き、松前からの付き添い、松井、村井とともにこの長屋に留め置かれる。船長日記 1817/01/2112月5日H1813a重吉霊岸島の蝦夷会所の長屋に止宿木崎良平 漂流民とロシア 1817/01/2112月5日H1813a音吉霊岸島の蝦夷会所の長屋に止宿木崎良平 漂流民とロシア 1817/05/19文化144月4日H1813a重吉申し渡しを受け、市ヶ谷の尾張藩屋敷へ引き取られる木崎良平 漂流民とロシア 1817/05/19文化144月4日H1813a音吉申し渡しを受け、領主の旗本河原林三郎左衛門の屋敷に引き取られる木崎良平 漂流民とロシア 1817/06/04文化144月20日H1813a重吉藩蔵方役人付添で江戸出発木崎良平 漂流民とロシア 1817/06/04*文化144月20日ごろH1813a江戸出発。尾張藩御蔵方役人が付き添い木曽路を経由して帰藩船長日記 1817/06/16文化145月2日H1813a重吉木曽路経由でこの日名古屋着。清水御門の藩奉行所で取り調べののち、親族と対面。半田村支配の鳴海代官所を経て帰村木崎良平 漂流民とロシア 1817/06/16*文化145月2日ごろH1813a名古屋着船長日記 1817/07/14*文化146月H1813a重吉藩の水主に召抱えられる。江戸を出るとき与えられた2人扶持を合わせ7石4人扶持となり、苗字帯刀を許された。小栗姓を名乗る船長日記 1818/07/31文政16月29日H1813a重吉藩の水主を辞し半田村字西端で湯屋を開業。かたわらロシアからの持ち帰り品を諸所で展観して、死没乗組員の供養碑建立資金集めに奔走した木崎良平 漂流民とロシア 1821/03/18*文政42月15日~5月7日H1813a重吉笠寺観音でロシア持ち帰り品の展観を行い、「魯西亜衣類器物披露来由書」という刷り物を作り、これを1部12文で売って、供養碑の資金の足しにした。木崎良平 漂流民とロシア 1822/01/23*文政5H1813aこのころ供養碑が出来上がっていたと思われる木崎良平 漂流民とロシア 1822/12/13*文政511月H1813a重吉三河国新城(愛知県新城市)の菅沼家の用人池田寛親と会い、寛親はその漂流話を「船長日記」としてまとめた(11月は端書の日付)木崎良平 漂流民とロシア 船長日記 1824/01/31*文政7H1813a尾張漂流民供養碑が、尾張藩儒者秦鼎の選文を得て、愛知郡笠寺村〔名古屋市南区笠寺町)の笠覆寺、俗に言う笠寺観音に建てられたが、のち熱田白鳥町の成福寺に同寺第4代住職的山和尚の手によって移され、現在にいたる木崎良平 漂流民とロシア 1837/02/05天保8H1813a重吉湯屋を廃業。熱田伝馬町の侠客鬼半方に寄宿木崎良平 漂流民とロシア 1853/02/09嘉永61月2日H1813a督乗丸重吉尾張熱田伝馬町の女郎屋鬼半方で死亡。享年69歳。法名釈良心信士木崎良平 漂流民とロシア 網野善彦ほか(編集), 1993. 海と列島文化別冊 漂着と漂流. 小学館. 荒川秀俊, 1995. 異国漂流物語. 社会思想社. 稲田浩治, 2001. 船長日記. 文芸社 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省. 木崎良平, 1991. 漂流民とロシア. 中央公論社.
https://w.atwiki.jp/kyabe2/pages/57.html
党員のご紹介です。 ぬぁああ~、どっすんがぁぁが口ぐせ。Alma-naさんです。 #close ID Alma-na ニックネーム あるさん、まなさん、まなっち、まなまな、など 好きなコース ワイルドサーキット(乱戦になり易く、勝ちやすいから) 嫌いなコース モッドバーン(ドラム缶が多すぎてうざい)。注:うざい=邪魔くさい 技術評価値 1664 勝率 31.76%(560/1763) よくいる時間 仕事の都合でよくズレるが、概ね夜10時-明け方5時ごろ 党首から一言 名前を間違えるとかとんだ失礼を・・・。マナは関係なかったようだ。実はあまりしゃべったことがなく謎が多いけどまなさん対どっすんの戦いには注目していきたいです。マナ・パワーでどっすんをこちらから粉砕だ! コメント用です。言うまでもなく、誹謗中傷などはご遠慮くださいね。 まなさん入党したんだ!よろしく~w また一人速い人増えたな・・・勝てねぇw - nemuize_mazide 2010-11-29 05 49 57 manaさん!(*^- )/~☆Bonjour♪★*♪。☆*★*♪。 ってか… loveさんってば失礼ねぇ~(;¬_¬) 名前くらいちゃんと書いて欲しいものですヽ( )`ε´( )ノ ぶぅぅ!! まぁそれもloveさんの愛嬌って事でお許しを…(^∧^) すまん - eternity-one 2010-11-29 17 22 42 eteさん、ご指摘ありがとうございます・・・。光速で修正させていただきました。まなさん悪かった! - キャベツ 2010-11-29 18 39 03 まなさん~♪ 入党早々のフレ登録ありがとうございましたw 挨拶遅れましたが、これからもよろしくねっ☆ - risara 2010-12-02 12 23 08 まなさん☆ 入党おめめとぉ~(*^^*) こちらのキャベツ党のほうでも、白菜とかわらず仲良くしてやってください☆ まなさん、これからもよろしく~~♪ - i-217 2010-12-04 18 02 46 親睦会来てくれてありがとうね。どっすんはかわせましたか。次の機会でもよろしければお会いしたいです。 - キャベツ 2010-12-13 08 26 15 ぶるぁ!もしよろしければ、今度の集会いらして下さいね。 - キャベツ 2011-01-22 09 13 13 まなさん?たまにレースはいかがですか。皆でお待ちしています。 - キャベツ 2011-06-30 08 51 00 名前