約 2,253,219 件
https://w.atwiki.jp/a_boy/pages/12.html
a-boy掲示板
https://w.atwiki.jp/evergreenforest/pages/227.html
1783年 伊勢神昌丸、アムチトカ島に漂着 1727年、九右衛門(久兵衛とも)、若松村で生まれる。 1737年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、ナイシュロット(フィンランド、当時はスウェーデン領)で出生 1742年、幾八(儀八、義八とも)、若松村で生まれる。 1747年?、小市(幸市、本名長右衛門とも)、若松村で生まれる。 1749年、ラジシチェフ、モスクワの貴族の家に生まれる。 1751年、大黒屋光太夫、伊勢国亀山藩領河曲郡若松村 (現,三重県鈴鹿市若松)で生まれる。大黒屋は実家の屋号。長じて 亀屋四郎兵衛道伯の後家の養子となる。兵蔵といったらしいが,父方親戚の家を継ぎ大黒屋光太夫と改めた。木綿商売を営む。 1752年、庄蔵、若松村で生まれる。 1752年ごろ、アンドレイ・イヴァノヴィチ・タタリノフ、南部多賀丸漂流民(H1744a)三之助の子としてヤクーツクで生まれる。日本名三八。 1756年、イヴァン・フィリポヴィチ・トラベズニコフ、南部多賀丸漂流民(H1744a)久助の子としてイリムスクで生まれる。測地士となる。 1757年、清七、若松村で生まれる。 1758年、藤吉、美濃国石部郡(岐阜県石津郡か、現養老郡石津町付近)で生まれる。 1758年、新蔵、若松村で生まれる。 1758年、亀屋四郎治(大黒屋光太夫の父)、光太夫8歳のとき死亡。 1759年、藤助(藤七、仁三郎とも)、若松村で生まれる 。 1762年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、ロシアに定住。 1763年、磯吉(豊松、豊吉とも)、神昌丸親父三五郎の次男として、若松村北浜で生まれる。 1764年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、学士院通信会員 東部シベリアに出発。 明和1年(1764)、光太夫、このころ江戸小網町にあった母方の木綿商の出店に奉公に出る。 1765年、アンドレイ・イヴァノヴィチ・タタリノフ、父三之助の請願によりイルクーツク日本語学校に入学。 1766年、アダム・キリロヴィッチ・ラクスマン、キリル・ラクスマンの次男として生まれる。 1766年、ラジシチェフ、ドイツのライプチヒ大学に留学。 1767年、与惣松、若松村で生まれる。 1776年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、学士院の経済・化学部門の正会員に選任。 1771年、ラジシチェフ、帰国して元老院に勤務。 1773年、ラジシチェフ、軍法会議の法務官に転じた。 1777年、ラジシチェフ、商務省に勤務。 安永7年(1778)、光太夫、亀屋四郎兵衛家の家督相続人として迎えられ故郷に帰る。亀屋四郎兵衛を名乗る。廻船の賄職となる。 安永9年(1780)、光太夫、30歳。一見彦兵衛配下の沖船頭となる。 1780年、ラジシチェフ、ペテルブルグ税関の副長。 安永10年2月(1781)、光太夫の先代が病死。大黒屋光太夫を名乗るようになる。 天明1年(1782)、光太夫、このころから神昌丸船頭。 1782年6月、藤吉、従弟の若松村権右衛門方に来る。 1782年7月、藤吉、神昌丸に乗り組む。 天明2年10月(1782)、光太夫、諫右衛門配下となる。 1782/11/04、アンドレイ・イヴァノヴィチ・タタリノフ、「日本語単語集」を基礎として「レキシコン」と呼ばれる露日辞典を編集し科学アカデミーに提出。 天明2年12月9日(1783/01/11)、船頭大黒屋光太夫ら17人を乗せ、江戸に向かって白子を出帆。積荷は紀州藩廻米500石のほか、江戸大伝馬町の廻船問屋一見屋勘右衛門方に届ける木綿・薬種・紙・什器などであった。その日、鳥羽港に入り風待ち。 大黒屋光太夫 神昌丸船頭。出帆時32歳。 小市 賄(事務長)。出帆時36歳。 磯吉 水主。出帆時21歳。 作次郎 上乗(積荷采領役、紀州藩廻米送方)。伊勢国安芸郡稲生村(鈴鹿市稲生)生まれ。 三五郎 船親父(船頭の次席で取締役。水夫長)。出帆時65歳。 次郎兵衛 楫取(航海士)。伊勢国桑名郡桑名村(三重県桑名市)出身。 安五郎 水主。伊豆国賀茂郡子浦(静岡県賀茂郡南伊豆町子浦)出身。 清七 水主。出帆時29歳。 長次郎 水主。志摩国答志郡小浜村(三重県鳥羽市小浜町)出身。 藤助 水主。出帆時23歳。 与惣松 炊(炊事雑用掛、見習船員)。出帆時15歳。 勘太郎 水主。志摩国小浜村出身。 九右衛門 水主。出帆時55歳。 藤吉 水主。出帆時24歳。 庄蔵 水主。出帆時31歳。 新蔵 水主。出帆時24歳。 幾八 水主。出帆時42歳。 天明2年12月13日(1783/01/15)、西風を受けて鳥羽港を出帆。同夜半、駿河湾に差し掛かったとき、激しく北風が吹き西風とせり合って船は大波にもまれ、楫を折られて遭難した。 天明2年12月14日(1783/01/16)、鳥羽港を出帆。駿河灘で暴風雨に遭い、舵を折られて遭難する。 天明2年12月14日(1783/01/16)、朝、跳荷をする。 天明2年12月15日(1783/01/17)、小市、磯吉(助手役)、三五郎(筈緒の切断役)、帆柱を伐り倒す。昼過ぎ頃まで大島の三原山が見える 。 天明2年12月20日(1783/01/22)、一時的に北西に進むが夜には南東に進む。 天明3年2月(1783/3月)、帆を作り帆走する。北へ流される。 天明3年2月末(1783/3月末)、水が乏しくなり、水桶に錠をおろす。 天明3年3月初旬(1783/4月)、錨を失う。船体に漏水を生じるが修復する。 天明3年5月(1783/6月)、雪が降る。 天明3年7月10日(1783/08/07)、三五郎、昆布が近くを流れているのを見つける。 天明3年7月15日(1783/08/12)、幾八、北太平洋漂流中、船中にて病死。享年43歳。 天明3年7月17日(1783/08/14)、海が荒れ、船の損傷大。新蔵、顔にやけどを負う。 天明3年7月20日(1783/08/17)、アムチトカ島に漂着。小市、磯吉、清七、庄蔵、新蔵は土民に着いていきニビジモフ(モスクワ商人ヴァシリー・ヤコブレヴィチ・ジガレフの使用人)らに会う。清七、庄蔵、新蔵は、ニビジモフらに同行し光太夫のもとへ戻る。 天明3年7月21日(1783/08/18)、船を失う。 天明3年7月22日(1783/08/19)、艀を失う。 天明3年7月23日(1783/08/20)、ニビジモフの集落にて合流。 天明3年8月9日(1783/09/05)、三五郎、アムチトカで病死。享年66歳。宗旨真言宗。菩提寺南若松心海寺。 天明3年8月20日(1783/09/16)、次郎兵衛、アムチトカで病死。 天明3年10月16日(1783/11/10)、安五郎、アムチトカで病死。 天明3年10月23日(1783/11/17)、作次郎、アムチトカで病死。 天明3年12月17日(1784/01/09)、清七、アムチトカで病死。享年26歳。 天明3年12月20日(1784/01/12)、長次郎、アムチトカで病死。 1784/10/11、藤助、アムチトカで病死。享年25歳。 1786年7月、ティエホン・イヴァノヴィチ・サポジニコフ、カムチャツカの基地ニジニ・カムチャツクから24名のロシア人を乗せたアポストル・パヴェル号に乗り組みコマンドルスカ島からアムチトカ島へ来るが座礁。 1787年、アダム・キリロヴィッチ・ラクスマン、カムチャツカのギジギンスクの警察署長に赴任。 1787年春、大黒屋光太夫ら、ロシア人と協力して船の建造にとりかかる。 1787/07/29、光太夫ら9人は作った船キリル・アレクサンドロスキー号で25人のロシア人とアムチトカを出帆。 1787/09/03、カムチャツカのウスチカムチャツカ港着。 1787/10/05、コノン・ダニロヴィチ・オルリョンコフ少佐とニジネカムチャツカへ。光太夫は、長官のコノン・ダニロヴィチ・オルリョンコフ家に厄介になる。光太夫以外は、秘書のヴァシリー・ドブレニン家に厄介になる。 1788/04/16、与惣松、ニジニ・カムチャツクにて病死。享年21歳。 1788/04/22、勘太郎、ニジニ・カムチャツクにて病死。 1788/05/19、藤吉、ニジニ・カムチャツクにて病死。享年30歳。 1788/06/26、光太夫ら6人はニジネカムチャツカを発つ。テモヘイ・オシポヴィチ・ホッケヴィチ隊長以下13名の護送隊がオホーツクまで同行する。南部多賀丸漂流民(H1744a)利八郎の義兄アファナシ・オチェレジン、通訳として光太夫らに同行。 1788/07/12、チギリ着。 1788/08/12、チギリ出帆。 1788/09/12、オホーツク着。 1788/09/23、オホーツク発。軍曹ワシーリイ、光太夫らの輸送隊指揮官として同行。医師ビリュチコフ、オホーツクでの任期を終え、光太夫らに同行。 1788/11/20、ヤクーツク着。 1788/12/24、ヤクーツク発。 1789/02/20、イルクーツク着。光太夫、小市、磯吉、久右衛門は、ホルコルフという蹄鉄工の家に起居。当初は日本語学校で起居との説も。 1789年、庄蔵、凍傷の悪化により足を切断。 1789年、南部多賀丸(H1744a)漂流民の久太郎の子トラペズニコフ、三之助の子タタリーノフが来訪。 1789年4月下旬、大黒屋光太夫、イルクーツクでテモヘイ・オシポヴィチ・ホッケヴィチと会う。 1789年8月、帰国願いに対し「帰国の儀は思いとまり、この国にて仕官すべき旨」の返答を受ける。 1789年9月の終わり、ホッケヴィチの紹介でキリル・ラックスマンを訪ねる。 1789年冬、庄蔵、受洗。ロシア名フョードル・ステパノヴィチ・シトニコフ。 1789/12/24、ラックスマン邸でアダム・ラックスマン、シェリホフと会う。 1790/01/26、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマンが、磯吉、新蔵とサイの化石を採集する。 1790/02/14、2度目の帰国願いに対し「商人になるなら税金も免除し、家も与えよう。もし仕官するのであれば、だんだんとカピタンにまで取り立てよう」との返答を得る。 1790/02/18、3度目の帰国願いを提出。 1790年5月、ラジシチェフ、「ペテルブルグからモスクワへの旅」を出版。 1790年6月、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、ビリュイ川流域に鉱物の調査に出かける。 1790/07/11、ラジシチェフ、逮捕されペトロパウロフスク要塞に監禁 シベリアのイリムスクに流刑を命じられる。 1790年10月中旬、庄蔵、入院。 1790年10月中旬、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、ビリュイ川流域に鉱物の調査から帰る。 1791年、庄蔵、新蔵、イルクーツク日本語学校教師となる。 1791/01/24、九右衛門、イルクーツクにて病死。享年64歳。 1791/01/26、大黒屋光太夫、ラックスマンとイルクーツクを発つ。 1791年、新蔵、入院。 1791年1月下旬、大黒屋光太夫、トボリスク着。流刑地に赴くラジシチェフと会う。 1791/03/12、大黒屋光太夫、ペテルブルグ着。1791年春、新蔵、受洗。ロシア名ニコライ・ペテロヴィチ・コロトゥイギン。1791/05/07、大黒屋光太夫、ペテルブルグで新蔵と会う。 1791/05/08、大黒屋光太夫、ツァールスコエ・セロ着。 1791/07/09、大黒屋光太夫、エカチェリーナ2世に謁見。 1791/07/21、大黒屋光太夫、2度目の謁見。 1791年8月、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、皇太子に伺候。 1791年9月下旬、大黒屋光太夫、ペテルブルグに戻る。 1791/10/10、大黒屋光太夫、アレクサンドル・アンドレエヴィチ・ベズボロドコ邸を訪ね、ウォロンツォーフから帰国を許された旨伝えられる。 1791/10/20、大黒屋光太夫、エカチェリーナ2世に謁見。 1791/11/19、大黒屋光太夫、ウォロンツォーフ邸で勲章を受ける。 1791/12/07、大黒屋光太夫、新蔵、ラクスマン、ペテルブルグを発つ。ツァールスコエ・セロのブシ邸に寄る。 1791/12/08、大黒屋光太夫ら、ツァールスコエ・セロを発つ。 1791/12/10、大黒屋光太夫ら、モスクワの豪商ジガレーフの家に着く。 1791/12/22、大黒屋光太夫ら、モスクワ発。 1791/12/25、大黒屋光太夫ら、ニジニ・ノヴゴロド着。1791/12/31、大黒屋光太夫ら、ニジニ・ノヴゴロド発。 1792/01/16、大黒屋光太夫ら、エカチェルリンブルグ着。 1792/01/17、大黒屋光太夫ら、エカチェルリンブルグ発。 1792/01/21、大黒屋光太夫ら、トボリスク着。エゴル・イバノヴィチ・トゥゴロコフ、ラスクマンの日本遠征隊員を拝命。改めて光太夫に日本語を学ぶ。 1792/01/24、大黒屋光太夫ら、トボリスク発。 1792/02/03、大黒屋光太夫ら、イルクーツク着。 1792/02/17、ラジシチェフ、イリムスクにてヴォロンツォーフ公爵宛てに書簡を書く。ラクスマン教授との対面を心から待ちわびていたことを明らかにしている。 1792/05/31、大黒屋光太夫、ラックスマンとイルクーツク発。テモヘイ・オシポヴィチ・ホッケヴィチ、光太夫らを見送る。 1792/05/31、小市、磯吉、トベズニコフ、トゥゴロコフが光太夫とは別にイルクーツク発。 1792/06/03、大黒屋光太夫ら、カジカ着。 1792/06/04、小市ら、カジカ着。 1792/06/05、大黒屋光太夫、ラックスマン、グレゴリー・イヴァノヴィチ・シェリホフ|Grigorii Ivanovich Shelikhovらとカジカを川舟で発つ。 1792/06/26、大黒屋光太夫ら、ヤクーツク着。 1792/06/28、小市ら、ヤクーツク着。 1792/07/13、大黒屋光太夫、ラクスマン、トラベズニコフ、ヤクーツク発。 1792年夏、航海学校に日本語クラスが創設。庄蔵、新蔵がここの教師となった可能性が高い。 1792/08/14、大黒屋光太夫ら、オホーツク着。 1792/08/19、小市ら、オホーツク着。 1792/09/01、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、オホーツクを発ちイルクーツクに戻る。 1792/09/24、大黒屋光太夫、小市、磯吉、エカチェリーナ号でオホーツク発。ギジギンスクの守備隊長をしていたアダム・キリロヴィッチ・ラクスマンが公使、イヴァン・フィリポヴィチ・トラベズニコフが事務長として乗り込む。 1792/10/07、北海道東岸沖に投錨。寛政4年9月3日(1792/10/18)、バラサン海岸(別海町)に投錨。アダム・キリロヴィッチ・ラクスマン、武装した兵13名と上陸し、近くにアイヌの集落があることを聞き、飲料水を補給して帰船。この日をもって、歴史上、アダム・キリロヴィッチ・ラクスマン、公式にロシアを代表して日本に通商をもとめるために、根室に来航。 寛政4年9月4日(1792/10/19)、ラクスマン、光太夫、西別に上陸。 寛政4年9月5日(1792/10/20)、カチェリーナ号根室湾に投錨。ラクスマン、根室に上陸 根室詰めの松前藩士熊谷冨太郎と会見、日本との通商についての直接交渉の斡旋を依頼する。 1792年10月下旬、ラクスマン、上陸して営舎を建てる地を卜した。 寛政4年9月8日(1792/10/23)、ラクスマン、「松前藩主宛来航覚書」「光太夫口書」「赤人通詞口上之趣」を提出。熊谷冨太郎、ロシア船来着の報をラクスマンが差し出した書簡を添え急使をもって松前に届ける。 1792/10/29、営舎が落成し上陸。 1792/11/16、ラクスマン、松前藩士・工藤庄右衛門を訪ね、重ねて使命の趣旨を伝える。 寛政4年10月15日(1792/11/28)、ラクスマン、上陸して越冬宿舎に入る。 寛政4年末、ラクスマンら一行がスケートをする。松前藩士がその様子をスケッチした。 寛政4年11月2日(1792/12/15)、幕府が、ラクスマンとの交渉のため、目付・石川忠房と西丸目付・村上義礼を松前派遣の宣諭使に任命する。 寛政5年1月22日(1793/03/04)、幕府の宣諭使・石川忠房と村上義礼が、ロシア使節来航に関する処置のため江戸を出立し、蝦夷松前に向かう。 寛政5年3月2日(1793/04/12)、宣諭使松前着。 寛政5年4月2日(1793/05/11)、小市、根室で壊血病で死亡。享年51歳。宗旨真言宗、菩提寺若松村宝祥寺、戒名釈転流道友信士。 寛政5年4月23日(1793/05/30)、ラクスマン、ロシア船の砂原(内浦湾西岸、茅部郡砂原町)までの航行を認められ妥協。 寛政5年5月26日(1793/07/04)、箱館湾投錨。 寛政5年6月6日(1793/07/13)、大黒屋光太夫、磯吉、ラクスマン、トラベズニコフらが、箱館上陸。 寛政5年6月18日(1793/07/25)、大黒屋光太夫ら、泉沢村発。 寛政5年6月19日(1793/07/26)、大黒屋光太夫ら、福島泊。 寛政5年6月21日(1793/07/28)、ラクスマン、幕府宣諭使・石川忠房と村上義礼と松前で第1回会見。 寛政5年6月24日(1793/07/31)、ラクスマン、宣諭使と第2回会談を行い、イルクーツク知事ピーリの「日本政府宛公文書」を提出して、大黒屋光太夫ら漂流民の引取りを要請する。 寛政5年6月24日(1793/07/31)、大黒屋光太夫、磯吉、夕方、幕府に引き渡される。寛政5年6月24日(1793/08/03)、ラクスマン、宣諭使と第3回会談を行い、幕府側が通商に関する国法を伝達して、長崎への回航を要請する。信牌をもらう。 寛政5年6月30日(1793/08/06)、ラクスマンら松前発(陸路)。 寛政5年7月4日(1793/08/10)、ラクスマンら箱館着。 寛政5年7月16日(1793/08/22)、エカチェリーナ号、箱館出帆。大黒屋光太夫、磯吉、松前を出立。石川忠房・村上義礼、松前の要地および津軽・南部藩領の沿岸巡視に出発。 1793/09/19、エカチェリーナ号、オホーツク港入港。 寛政5年8月17日(1793/09/21)、大黒屋光太夫・磯吉、江戸に到着 1793年10月、アダム・キリロヴィッチ・ラクスマン、イルクーツクへ発つ。 寛政5年9月18日(1793/10/22)、大黒屋光太夫・磯吉、将軍家斉の前で漂流中の話をする。 寛政5年10月7日(1793/11/10)、石川忠房・村上義礼、帰府。 寛政5年10月10日(1793/11/13)、大黒屋光太夫・磯吉、郷里の人々(磯吉兄清吉・光太夫甥彦八)との会見を許される。 寛政5年11月1日、村上義礼、蝦夷地・奥羽巡視の使命を果たし、帰府して将軍・家斉に謁見。 1794年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、ペテルブルグを訪れて、大路の大官に、新たに日本に使節を送ることを提案。ラックスマンが個人の資格で日本に赴くことが許可される。グレゴリー・イヴァノヴィチ・シェリホフ、ラックスマンが日本に再度使節を送る意見に反対。レザノフと出会う。 寛政6年6月11日(1794/07/07)、大黒屋光太夫・磯吉、番町明地薬草植付場に移されることに決定。 寛政6年7月1日、大黒屋光太夫・磯吉に番町植場に移されることが申し渡される。 寛政6年7月3日、幕府、亀山藩に小市身寄りのものの調査を命ずる。 寛政6年7月21日、亀山藩から幕府に小市の妻けんが家をまもっていると報告する。 寛政6年8月2日、幕府、小市妻けんに銀10枚を下賜。 寛政6年8月5日、幕府、小市妻けんに小市の遺品を下げ渡す。 寛政6年9月6日、小市遺品、若松村に届く 寛政6年9月18日、大黒屋光太夫・磯吉、将軍家斉が謁見。 寛政6年9月18日~22日、若松村宝祥寺で、小市の追善供養が行われた際に、小市の遺品が一般に展覧された。 寛政6年11月1日(1794/11/23)、大黒屋光太夫、大槻玄沢に招かれる。 寛政6年閏11月11日、大黒屋光太夫、蘭学者たちのオランダ正月を祝う席に招かれる。 1795年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、ペテルブルグを出発、シベリア街道を東に向かった。 1795/07/31、シェリホフ没。彼の作った会社を基礎にして彼の死後〈露米会社〉が設立された。この会社の総支配人で遣日使節に任命されたレザノフは彼の女婿である。今日ではオホーツク海北部のシェリホフ湾とコディアク島の北のシェリコフ海峡にその名をとどめている。 寛政7年8月9~27日、小市遺品、名古屋の七寺(ななつじ)(稲園山)境内の一乗院で展観される。 1795年12月、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、シベリア商人に「信牌」を下付し、商船を長崎に派遣することは、ヨーロッパ諸国がフランス革命戦争に煩わされている今こそ、対日通商関係樹立の好機である旨の上申書を提出する。 1796年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、トボリスクから約100kmのヴァガイ河(イルトゥイシ河へ注ぐ)の畔で病死。 1796年、庄蔵、イルクーツクで若宮丸儀兵衛(H1793a)と同居する。 1796年夏、庄蔵、イルクーツクで死亡。享年45歳。若宮丸儀兵衛(H1793a)に見とられる。 1796/07/20、ラジシチェフ、イルムスクにてヴォロンツォーフ宛て書簡。ラスクマンの死を確認し、深い哀悼の念にみちている。 寛政9年(1797)、大黒屋光太夫に嗣子、大黒梅陰が生まれる。 寛政10年(1798)10~11月、磯吉、故郷に帰り1ヶ月滞在する。 寛政11年3月13日~4月2日(1799/04/17~05/06)、京都の伏見桃山で小市遺品が展観される。 1802年、ラジシチェフ、自殺。 享和2年4月22日(1802/05/24)、大黒屋光太夫、帰郷を許され、亀山代官所に到着する。 享和2年4月23日(1802/05/25)、大黒屋光太夫、村役人や親類の者たちと同道して若松村に帰る。 享和2年6月、大黒屋光太夫、若松村を離れ江戸に帰る。 1803年、アダム・キリロヴィッチ・ラクスマン、没。 1803/04/28、新蔵、若宮丸漂流民(H1793a)とイルクーツク発。 1803/06/15ごろ、新蔵、ペテルブルグに到着。 文化3年11月27日(1807/01/05)、磯吉、蔵前の札差夏目成美邸の俳席随斎会で漂流話をする(小林一茶証言)。 1810年、新蔵、イルクーツクで死亡。享年52歳。ロシア人の最初の妻マシウエヤ・ムシヘイオナとの間に、男子2人、女子1人、2番目の妻カテリナ・エキムフモオナとの間に女子1人あり。 文政11年4月15日(1828/05/28)、大黒屋光太夫、江戸番町植場内で死亡。享年78歳。宗旨真言宗、菩提寺江戸本郷興安寺。戒名釈道誓信士。若松村墓碑では久味。養家先亀屋の菩提寺は若松の緑芳寺。 天保9年11月15日(1838/12/31)、磯吉、江戸番町植場内で死亡。享年77歳。宗旨真言宗、菩提寺江戸本郷興安寺、南若松心海寺、戒名釈順誓信士。 参考文献 荒川秀俊, 1995. 異国漂流物語. 社会思想社. 木崎良平, 1991. 漂流民とロシア. 中央公論社. 山下恒夫, 2004. 大黒屋光太夫. 岩波書店.
https://w.atwiki.jp/cwcwiki/pages/50.html
ダービースタリオンP ダービースタリオンPID+ゲーム名資金 通算年数 ステータス表示 ステータス(1頭目) 馬名(1頭目) Book Full種牡馬全開 海外種牡馬全開 ID+ゲーム名 _S ULJS-00045 _G dabisutarion p 資金 _C money 9,999,999,900 _L 0x20322F08 0x05F5E0FF _L 0x2035FA90 0x05F5E0FF ※百円単位 通算年数 _C years _L 0x20322F0C 0xyyyyyyyy _L 0x2035FA94 0xyyyyyyyy yyyyyyyy=1h~7FFFFFFFh ステータス表示 _C0 status display _L 0x2016a3d0 0x24C2000B ※表示内容(2桁表示、3桁目は表示されない) 右芝 現在SP 現在ST 現在根性 現在気性 左芝 最大根性 最大気性 ダート適性 健康 右ダ 人気 成長 最大SP 最大ST 左ダ 回復 ステータス(1頭目) 2頭目以降は+58h _C1 1st status _L 0x00325912 0x000000xx 年齢 _L 0x00325913 0x000000xx 毛色/性別([毛色/性別]参照) _L 0x0032591B 0x000000xx 現在スピード _L 0x0032591C 0x000000xx 現在スタミナ _L 0x0032591D 0x000000xx 現在根性 _L 0x0032591E 0x000000xx 現在気性 _L 0x0032591F 0x000000xx 人気(0~100|00h~64h) _L 0x00325920 0x000000xx 成長型(0~45|00h~2Dh) _L 0x00325921 0x000000xx 最大スピード(0~128|00h~80h) _L 0x00325922 0x000000xx 最大スタミナ(0~128|00h~80h) _L 0x00325923 0x000000xx 最大根性(0~100|00h~64h) _L 0x00325924 0x000000xx 最大気性(0~100|00h~64h) _L 0x00325925 0x000000xx ダート適正(0~5|00h~05h) _L 0x00325926 0x000000xx 健康(0~7|00h~07h) _L 0x00325927 0x000000xx 疲労度回復(0~30|00h~1Eh) _L 0x20325944 0xxxxxxxxx 総賞金(単位:万円) _L 0x20325948 0xxxxxxxxx 本賞金(単位:十万円) _L 0x0032594D 0x000000xx 馬体重 _L 0x00325955 0x000000xx 疲労度(00hで疲労なし) _L 0x00325958 0x000000xx 調子([調子]参照) ※馬体重は00hでベスト体重、1hごとに2kg増減 01h:ベスト体重+2kg FFh:ベスト体重-2kg +[毛色/性別] [毛色/性別] 毛色 性別 毛色 性別 毛色 性別 毛色 性別 00 栗 牡 01 栗 牝 02 栗 騸 03 栗 (無表示) 04 鹿 牡 05 鹿 牝 06 鹿 騸 07 鹿 (無表示) 08 黒鹿 牡 09 黒鹿 牝 0A 黒鹿 騸 0B 黒鹿 (無表示) 0C 栃栗 牡 0D 栃栗 牝 0E 栃栗 騸 0F 栃栗 (無表示) 10 青鹿 牡 11 青鹿 牝 12 青鹿 騸 13 青鹿 (無表示) 14 芦 牡 15 芦 牝 16 芦 騸 17 芦 (無表示) 18 青 牡 19 青 牝 1A 青 騸 1B 青 (無表示) 1C 白 牡 1D 白 牝 1E 白 騸 1F 白 (無表示) ※+20h:市場取引馬 ※+40h:父内国産馬 ※+60h:父内国産馬&市場取引馬 +[調子] [調子] 00 カイ食いが落ちているようで あまり体調が良くありません 01 少しずつ調子は上がってきましたが 本調子には まだまだですね 02 だいぶ疲れも取れたようです カイ食いも良くなってきました 03 順調にきています もうひと追いすればカンペキです 04 いい状態に仕上がりました この分ならかなりやれそうです 05 相変わらず元気です 調子はまずまずキープしてます 06 調子は特に良くもないですが 悪くもありません 07 このところ少しバテ気味で ちょっと調子が落ちてる感じですね 08 カイ食いが落ちているようで あまり体調が良くありません 09 少しずつ調子は上がってきましたが 本調子には まだまだですね 0A だいぶ疲れも取れたようです カイ食いも良くなってきました 0B 順調にきています もうひと追いすればカンペキです 0C いい状態に仕上がりました この分ならかなりやれそうです 0D 相変わらず元気です 調子はまずまずキープしてます 0E 調子は特に良くもないですが 悪くもありません 0F このところ少しバテ気味で ちょっと調子が落ちてる感じですね 馬名(1頭目) 2頭目以降は+0Eh _C1 name _L 0x0032551C 0x000000xx 1文字目 _L 0x0032551D 0x000000xx 2文字目 _L 0x0032551E 0x000000xx 3文字目 _L 0x0032551F 0x000000xx 4文字目 _L 0x00325520 0x000000xx 5文字目 _L 0x00325521 0x000000xx 6文字目 _L 0x00325522 0x000000xx 7文字目 _L 0x00325523 0x000000xx 8文字目 _L 0x00325524 0x000000xx 9文字目 Book Full種牡馬全開 _C0 Book Full ALL _L 0x80322FDE 0x001C0008 _L 0x00000004 0x00000000 _C0 Book Full _L 0x0032zzzz 0x00000004 zzzz=[Book Full種牡馬]参照 +[Book Full種牡馬] [Book Full種牡馬] 2FDE サンデーサイレンス 2FE6 ブライアンズタイム 2FEE トニービン 2FF6 エンドスウィープ 2FFE フレンチデピュティ 3006 アフリート 300E ダンシングブレーヴ 3016 フォーティナイナー 301E アグネスタキオン 3026 タイキシャトル 302E ダンスインザダーク 3036 コマンダーインチーフ 303E サクラバクシンオー 3046 フジキセキ 304E スペシャルウィーク 3056 ワイルドラッシュ 305E クロフネ 3066 ボストンハーバー 306E ジェイドロバリー 3076 ニホンピロウイナー 307E ミルジョージ 3086 モガミ 308E リアルシャダイ 3096 アンバーシャダイ 309E ウォーニング 30A6 エルコンドルパサー 30AE タマモクロス 30B6 アドマイヤベガ 海外種牡馬全開 _C0 Overseas stallion ALL _L 0x8032348E 0x00470008 _L 0x00000005 0x00000000 _C0 Overseas stallion _L 0x00323zzz 0x00000005 zzz=[海外種牡馬]参照 +[海外種牡馬] [海外種牡馬] 48E A.P.Indy 496 Afternoon Deelites 49E Bering 4A6 Boundary 4AE Broad Brush 4B6 Caerleon 4BE Capote 4C6 Carson City 4CE Cherokee Run 4D6 Conquistador Cielo 4DE Cozzene 4E6 Crafty Prospector 4EE Cryptoclearance 4F6 Danehill 4FE Danzig 506 Darshaan 50E Diesis 516 Fantastic Light 51E Fusaichi Pegasus 526 Giant s Causeway 52E Gilded Time 536 Go for Gin 53E Gone West 546 Grand Slam 54E Green Desert 556 Gulch 55E Hennessy 566 Highest Honor 56E Holy Bull 576 Honour and Glory 57E Indian Ridge 586 Kingmambo 58E Louis Quatorze 596 Machiavellian 59E Maria s Mon 5A6 Meadowlake 5AE Mt.Livermore 5B6 Nureyev 5BE Old Trieste 5C6 Our Emblem 5CE Peintre Celebre 5D6 Phone Trick 5DE Pine Bluff 5E6 Pleasant Tap 5EE Rahy 5F6 Rainbow Quest 5FE Red Ransom 606 Royal Academy 60E Sadler s Wells 616 Salt Lake 61E Seeking the Gold 626 Selkirk 62E Silver Deputy 636 Silver Hawk 63E Singspiel 646 Southern Halo 64E Spend a Buck 656 Spinning World 65E Storm Cat 666 Stormin Fever 66E Sultry Song 676 Swain 67E Theatrical 686 Thunder Gulch 68E Unbridled 696 Unbridled s Song 69E Vettori 6A6 Victory Gallop 6AE Wild Again 6B6 Woodman 6BE Zafonic
https://w.atwiki.jp/evergreenforest/pages/149.html
オランダ船、陸奥南部に漂着 1643年(H1643a) 1643年、オランダ人、マルテン・ゲルリツェン・フリース、第 2 回太平洋探検隊の司令官としてカストリクム Castrikum 号に乗船,僚船ブレスケン号を伴い日本の東岸を北航して,サハリン (樺太) 東岸のテルペニエ (知床) 岬の北,北緯 48°54"に到達した。この間,択捉 (えとろふ) 島とウルップ (得撫) 島を発見して,それぞれをスターテン・ラントとコンパニース・ラントと命名し,サハリンと千島のアイヌとも接触 寛永20年6月13日(1643/7/28)、南部山田港(岩手県下閉伊郡山田町)に入る。乗組員のタタール人が「モスコヴィア」国出身のものであると告げる。 1643/8/16、北海道の厚岸(あつけし) で船を修理した(~9/1)が,そのさい松前藩の蝦夷交易船上乗役小山五郎兵衛の船体調べを受けている。(ここまで、木崎良平「漂流民とロシア」) 「外交志稿」では以下のとおり 寛永20(1643)年5月、オランダ船1隻10人、陸奥南部に漂着す。砲術医術に通ずる者5人あり。之を江戸に送り、其術を伝習し後、其国に還らしむ。北海烏舶記に曰く、1643年オランダ商舶咬[口留]吧より出帆し悪風に遇い室韋(しい)東北部カムチャツカに漂泊し、因って野作(えぞ)余東北の諸島を歴て7月曷桀什(かつけし)海(案ずるに即ち今釧路州厚岸郡)に碇泊す。松前藩吏、状を具して其藩に報ず。蘭船南に向て去り、松前の東洋を経て南部山田浦に抵り小船に駕し岸に上り水を取る。南部藩人を遣わし之を捕え江戸に送ると即ち此事(寛永20年5月オランダ船)なり 参考文献 木崎良平, 1991. 漂流民とロシア. 中央公論社. 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
https://w.atwiki.jp/kakis/pages/10751.html
上位標目 第十四期新生アルカ概説 比較 形副詞_na9 形副詞(2009/02/03 (火) 09 20 43)より転記 形副詞は形容詞と副詞の混成である。 両者とも語形が同じなので、こう呼ばれる。 形容詞 形容詞は名詞の後ろに来る。 ket lisで「小さい猫」。 副詞 副詞は「se+形容詞」で作る。seは格詞のひとつ。 「小さい」がlisなら、「小さく」はse lis。 副詞は通常「主語+動詞+目的語」の後に置くが、そこでないといけないということはない。 an badat elen se vien. 私は机を強く叩いた。 se vienで「強く」。 vienだけだと「強い」。 なお、seは母音で始まる単語の前ではs'になる。 an vast tas s'aluut(絶対試験に合格する) 純副詞 上ではs'aluutと述べたが、実はaluutはseがなくとも副詞になる。 aluutは「必ず」という確率の副詞だが、意味的に副詞であることは明らかなので、わざわざseを付けない。 こういう副詞専門の単語を純副詞といい、確率のほかにkalma(しばしば)のような頻度を表すものも純副詞になる。 純副詞は動詞の直前か直後に置かれる。aluutやkalmaは直前である。 なお、程度を表すtinka(非常に)などは意味的には副詞でしかありえないものの、純副詞にはならない。 純副詞かどうかは辞書を確認されたし。 法副詞 英語の助動詞にあたるもので、可能や希望などを表す。 可能はsen、希望はlaxといい、axt senで「書ける」、axt laxで「書きたい」を意味する。 senやlaxは動詞の直後に来てseを伴わないので、純副詞である。 言語学的には「法」を表すため、純副詞の中でも特に法副詞と呼んでいる。 よく使う法副詞 lax ~したい 希望 van ~しよう 意思 sen ~できる 可能 vil ~できない 不可能 das ~したらどうですか 提案 fal ~すべき 義務 flen ~してもよい 許可 xiit ~しましょう 勧誘 同じ位置に来ても、未来時制のsilや受身を作るyuは「法」ではないので、法副詞には含めない。 余禄 前置形副詞、命令も参照のこと。 上位標目 第十四期新生アルカ概説 比較 形副詞_na9
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/9322.html
【登録タグ A Lammmu 曲 鏡音リン】 作詞:Lammmu 作曲:Lammmu 編曲:Lammmu 唄:鏡音リン 曲紹介 「時間の流れはあまりに残酷だと思います。麺は伸びるし菓子は湿気るし。タイトルはアイルランド語らしいけど正直自信ないよ!」(作者コメントより) つらい別れがあることを知りつつもぼくらは出会いをくりかえす(マイリスコメントより) 歌詞 穏やかな空、吹き渡る風 けれども 日が沈む頃、僕の心に 嵐がやってくる 優しい時間、束の間の夢 だけれど それを求めて僕らはまた 悲しみを繰り返す 終わりを告げる鐘に絆は断たれ 約束された 永遠すらも 変えてゆく 人の手で生まれ来る永遠は 儚いもの 僕らの手だけじゃ どうすることも出来やしないのに 絶たれた糸はもう戻せない? それでも 術を求めて 僕は世界を 駆け巡る 愚かな僕らは 同じ後悔を 止め処なく 繰り返す けれど それは決して 無駄ではないから ただ、今を生きよ 終わりを忘れ 友のために、 少しでも長く 君のとなりで 泣き笑うために コメント タイトル Amhran_Taistealaithe です(変更お願いします) -- 名無しさん (2010-05-19 14 07 46) ↑間違えました Amhran_na_Taistealaitheです? -- 名無しさん (2010-05-19 14 11 08) ページ名変更しました -- 名無しさん (2010-05-23 17 46 59) この曲大好きです\(^o^)/ -- 名無しさん (2010-12-23 12 15 42) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kakis/pages/10746.html
上位標目 第十四期新生アルカ概説 比較 定義動詞_na14 定義動詞(2008/05/26 (月) 09 58 44)より転記 「意味する」「~である」「~はいくらである」など、行為でも状態でもなく、「主語は目的語である」と定義するための動詞がある。 アルカでは順にeks, et, gartである。 ほかにmols(時間はいくらである)などもこの類である。 eksは行為動詞としては「意味するようになる」という意味を持つ。 状態動詞として「意味するようになっている」つまり「意味する」に等しい。 従って「男でないは女を意味する」という文は本来的にはen vik ekses minとなる。 しかしeksを行為動詞の意味で使うことはまずないため、siinaなどと同じく例外動詞とする。 つまり、無標が状態動詞になる。 ゆえに、en vik eks minでよい。 このことはほかの動詞にも言える。 だが、言えないのがひとつある。繋辞である。 繋辞は「~になる」が行為動詞としての意味であり、「~になっている」が状態動詞としての意味である。 しかし、「~になる」はbeではなくbecomeに当たるものだ。アルカで言えばetでなくemに当たる。 そこで気付いたのだが、esというのはemの状態動詞なのだろう。 今まではetが行為動詞で、その影響相がetesだが、繋辞の場合は特別にetを略してesにしていた。 つまりesの原形はetesだ。esはあくまでetの影響相だ。 だが、行為動詞の意味を考えると、esの原形はem(~になる)のはずだ。 では、etはどこに行くか。 これが純粋な定義動詞として残ればいい。状態ではなく性質を現す繋辞だ。 例えば「これは一時的に濡れている」という状態を表すなら、tu es eves。 「私は女だ」という性質を指す場合は、恒常的な定義なのでnon et min。 性質と状態を言い分けられるのは、従って繋辞のみになる。 意味するなどの動詞では、状態動詞を以って定義動詞とするため、性質と状態の差がない。 恐らくeksやmolsなどの動詞に性質か状態かの区別はいらない。 だが、繋辞には必要だ。川が枯渇していて恒常的に乾いているのと、日照りで一時的に乾いているのでは意味が違う。 一方、あるものの性質によって意味していることと、あるものが状態として意味しているということの区別は、あまり日常的に必要とは思えないからだ。 上位標目 第十四期新生アルカ概説 比較 定義動詞_na14
https://w.atwiki.jp/evergreenforest/pages/145.html
大屋甚吉、鬱陵島に漂着 1617年(H1617a) 元和3(1617)年、大屋甚吉(大谷甚吉とも)、鬱陵島に漂着。一説にはもっと早い時期の可能性もある。 大屋家は但馬大屋谷に居していた和田九右衛門尉良清が始祖でその孫玄蕃尉勝真が現在の鳥取県会見郡の尾高城主杉原盛重に仕え、姓を大谷に変えたという。彼は家老の上席にまで身を置くが途中で武士を捨て隠士となり祖先の墓所である大屋谷に帰り死去している。その玄蕃の甥が甚吉で町人として米子の灘町で廻船業を開始した。大屋は屋号だという。 元和4(1618)年5月16日(一説には1625年)、米子町人の大屋甚吉と村川市兵衛が江戸幕府から「竹島渡海免許」を与えられ、アワビやワカメを採るために、毎年、交代で船を送るようになる。当時、日本では鬱陵島を「竹島」あるいは「磯竹島」と読んでいた。 免許を得るきっかけは、越後国(新潟県)から伯耆国(鳥取県)米子へ船で向っていた大谷甚吉が、遭難して鬱陵島へ漂着したことにあった。その島は、「人家なくして山河産物有り、喬木、大竹繁茂し、禽獣、魚、貝、其品を尽す」(「竹島渡海禁止並渡海沿革」) 帰国した大谷甚吉は、同じく米子町人の村川市兵衛とともに渡海の許可を申し出た。5月16日、幕府の許可は鳥取藩主池田光政へ伝えられた。 渡海事業が続けられる中、鬱陵島への途中寄港地として松島(現:竹島)が新たに発見され利用されるようになり、1600年代中ごろまでには、大谷・村川両家は「松島渡海免許」を授かったと伝えられる。 1696年には鬱陵島渡海を禁じられる。甚吉本人も何回か鬱陵島に渡り、鬱陵島で没したといわれるが時期は不詳。 参考文献 杉原隆, 2006. 日本・韓国間の漂流の歴史と竹島問題. 島根県. 別冊宝島編集部, 2005. ニッポン人なら読んでおきたい竹島・尖閣諸島の本. 宝島社.
https://w.atwiki.jp/ws_wiki/pages/5899.html
autolink() VA/WPR-P05 カード名:“炎のグラフィッカー”Na-Ga カテゴリ:キャラクター 色:黄 レベル:2 コスト:1 トリガー:1 パワー:9500 ソウル:1 特徴:《ビジュアルアーツ》?・《影》? 【自】バトル中のこのカードがリバースした時、このカードをクロック置場に置く。 おぉつ!ペンタブさえあれば1人力じゃわいっ! レアリティ:PR illust.Na-Ga 「ビジュアルアーツ」参戦告知ページより。 2/1キャラでもトップクラスのパワーを持つキャラ。PRの性能とは思えない。 2/1で10000を誇る伝説の英雄アバロンや吹き荒ぶ風のゲーニッツが存在するが、面倒な登場条件や相手へのパンプがないので、500劣っていてもこちらの方が扱いやすい。 また、“金髮ツンデレ好き”樋上いたるのCXシナジーでこき使…もといリアニメイトが可能なので手札やストックにやさしいカードである。 しかしながらデメリットはクロックバウンスとレベル2以降ではいささか以上に厳しいもの。 自身が飛ぶのでアンコールが出来ないのも難点だが、天真爛漫 ランカや傷つきながら戦うさやかの様にCXが落ちる心配がないのが救いか。 上記2枚と違い、此花 ルチア等のクロック送りで1枚しか増えないのもささやかな利点と言えるかもしれない。 ・関連カード カード名 レベル/コスト スペック 色 備考 “金髮ツンデレ好き”樋上いたる 2/1 4000/1 黄 リアニメイト元
https://w.atwiki.jp/tokikakeshinshi/pages/45.html
判定 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (ws000002.jpg) #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (文H6A後半.jpg) 中段クラッシュ、発生は遅い方だがガードさせても微不利 持続の後半部分を起き上がりなどに重ねられれば有利を取れる ダイヤモンドダスト時等は面白いかも知れない 近距離でクラッシュすればAが入る