約 3,227,252 件
https://w.atwiki.jp/takakengassaku/pages/22.html
残念だけどこれからも魔作を作ってくれるよなぁ!? -- 名無しさん (2014-08-09 23 59 16) ゴミすぎワロタ -- ダルシム矢野 (2014-08-10 17 57 15) まだボーヤの心は折れてないよなぁ!? -- 名無しさん (2014-08-11 01 36 45) 合作とは関係のない話なんだけど、ワンダーボーイチルドレンの名前に改名した以上は うんこちゃんと○○シリーズを上げるのが筋なんじゃないの?(高田健志と○○シリーズでも別にいいと思うけど) -- 名無しさん (2014-08-11 02 15 15) 悲しいなぁ -- 名無しさん (2014-08-12 14 40 32) ボーヤは絶対に名を馳せる。大成するのを待ってるからな -- 名無しさん (2014-08-13 06 48 34) だれでも編集できるようにしなさい -- 名無しさん (2014-08-16 02 55 48) 誰でも編集可能にしました、改良お願いします -- ワンダーボーヤ (2014-08-18 20 38 05) ドラクエMADのルーミアが腕と足を広げてる素材だけ下さい -- (名無しさん) 2014-09-01 05 27 20 大成功の前には必ず大敗があるわけよ。 -- (名無しさん) 2014-09-06 14 34 53 メニューとトップページを更新 -- (名無しさん) 2014-09-07 13 39 53 ページ作成は管理者じゃないとできないのか -- (名無しさん) 2014-09-08 23 00 21 なんかやれ -- (名無しさん) 2014-09-14 18 33 51 最近MAD少なくないか? -- (名無しさん) 2014-09-15 20 30 05 のんじゃってー!のクロマキー公開してくれ 制作支援wikiなんだろ -- (名無しさん) 2014-09-16 23 19 17 誰でもページ作れるようにしろ!! -- (名無しさん) 2014-09-19 16 31 49 わぁ!?綺麗だなぁ!? -- (名無しさん) 2014-09-26 10 37 05 健ちゃんのMADマダー? -- (名無しさん) 2014-10-01 00 26 01 トップページ重いから虹色健志流さなくていいよ -- (名無しさん) 2014-10-05 20 58 39 おい!ワンダーボーヤ見てるか? -- (名無しさん) 2014-10-07 01 26 45 緑がないんだよね -- (名無しさん) 2014-10-09 22 23 00 おいワンダーボーヤ頼む高田健志の素材上げるろだ作ってくれ -- (名無しさん) 2014-10-13 22 32 35 http //livedoor.4.blogimg.jp/jhot/_f/201401/20141124a.gif -- (名無しさん) 2014-11-28 23 40 45 http //www.nicovideo.jp/watch/sm25219878 これワンダーボーヤ? -- (名無しさん) 2014-12-29 02 01 27 おい、弱虫ワンダーボーヤ逃げんじゃねーぞ 早くMAD作って俺らを見返してみろ -- (名無しさん) 2015-01-06 22 06 38 #image(http //www.dotup.org/uploda/www.dotup.org120835.jpg) -- (名無しさん) 2015-01-23 02 39 52 ワンダーボーヤはきっくんに○されたんだ・・・ -- (名無しさん) 2015-03-08 14 33 58 名前をもとに戻しました(takuya) -- (ワンダーボーヤ) 2015-03-09 23 36 33 PCが長らく壊れており、更新できない状態が続いてましたホントにすみません まず片づけなければいけない問題が3つあるので説明します。 ①ページ作成が管理人以外できない ⇒これはなんとかしておきます。誰でも自由に編集出来たほうがいいwikiができるかと思います ②素材ろだ作ってくれ ⇒しばらくお待ちください ③これワンダーボーヤ? ⇒違います、恐らくなりすましの一種なので相手にしないのが吉です -- (takuya) 2015-03-09 23 48 03 高田健志スターターパック音声追加 - ネタを披露する高田健志 お手数ですが、素材ろだは障害発生中なので、斧にあげてタイトルとURLをここに貼ってください -- (takuya) 2015-03-11 21 44 39 やっと来たか -- (名無しさん) 2015-03-12 20 42 46 これでまた高田健志MAD業界は盛り上がるよなぁ!? -- (名無しさん) 2015-03-23 23 21 23 プラグイン/関連ブログ -- (名無しさん) 2015-03-26 19 42 09 結局某カテのあの人とは別人ってことでいいの? 向こう側では同一人物ってことになってるけど -- (名無しさん) 2015-03-27 14 00 41 あの人はなりすましですが特に目に余る行為を行っていないのであのままスルーでもいいかと -- (takuya) 2015-03-28 20 29 18 「うんこちゃん・高田健志・ダルシム矢野といった生主のMADジャンルは"沼"と称した下手クソの正当化が 流行っている状態です。こういうことをしていると向上心が薄れ、まともな動画があがらなくなり、 人が去り衰退を招く原因となっています。takuyaさんはそういった状況を打開できる自信はあるのでしょうか?」 -- (名無しさん) 2015-03-30 01 27 11 透過pngまとめるアップローダやサイトつくってくれ -- (名無しさん) 2015-04-02 01 51 58 新素材 http //twitter.com/abc2513/status/582530569080217601 -- (名無しさん) 2015-04-02 18 51 49 うんこ健志はともかく矢田はMADジャンルじゃないだろ -- (名無しさん) 2015-04-12 20 15 34 矢田って誰だよ -- (名無しさん) 2015-04-27 23 24 22 もうさ、高田健志の知名度を上げるよりMADの作り方をみんなに教えて高田狂いMAD製作者増やした方いいんじゃない? というわけでブロマガでMAD制作過程の記事あげないかぁ!? -- (名無しさん) 2015-05-06 22 10 24 カメラ配信とかまとめてあったからここから素材取れ http //com.nicovideo.jp/community/co2814343 -- (名無しさん) 2015-05-10 20 52 32 過疎 -- (名無しさん) 2015-07-24 19 11 24 ボーヤのアカウント消えてね? -- (名無しさん) 2015-07-29 03 19 28 http //www.nicovideo.jp/user/36776036 メンヘラ -- (名無しさん) 2015-07-29 05 59 32 mother2のおとのいしのMADを作ろうと思ってたんだけど、 音程合わせるの難しいから誰か作ってください -- (名無しさん) 2015-08-04 12 35 38 ↑殴るぞ・・・ -- (名無しさん) 2015-08-05 08 58 13 VIPマリオ4素材の宝庫だぞ -- (名無しさん) 2015-08-30 19 07 29 高田健志vsヒカキンボイパ対決動画作って子供を呼び込もう -- (名無しさん) 2015-08-31 19 15 55 ワンダーボーヤ、動画一覧を非公開にするのやめろ後wikiの編集もう少ししてくれ -- (名無しさん) 2016-04-24 23 33 34 同一IPアドレスの編集上限無制限にしてくれ きーたよ・。・v -- (名無しさん) 2016-06-24 01 58 31 高田健志 器物損壊罪 置石 通貨偽造罪 偽札 遺棄罪 強要罪 脅迫罪 押し売り -- (名無しさん) 2016-08-08 10 19 56 てすと -- 2016-10-19 02 20 07 今年の11月以降の放送分はないの -- 2016-12-30 03 50 36 裏レイカの無修正どこにあるの -- 2017-04-06 10 11 06 健志ってサイレンと動物以外にホラーゲーやってる? -- 2019-08-10 01 26 16 sizex(7){てs} -- 2020-07-12 16 23 27
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/23.html
当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)に記述されている、聖書に関して発言された部分での膨大な量の間違い・誤りを扱う。間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」が容量オーバーになったため、聖書篇を分割して作成。 2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。 ※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者や読者に失礼。 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。 p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。 ※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。 間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」 歴史篇(上記ページが容量オーバーになったため分割されたもの、以下同様) 聖書篇(総合・旧約) 聖書篇(新約その1) 神学篇 他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?) 聖書についての間違い 目次 1 総論 2 旧約 3 新約その1 新約その2 新約その2 (その1はこちら) 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p208 「福音とは、これを聞いている人は救われるという意味です」 「福音」とは元来、「良い知らせを持って来た使者に与えられるほうび」あるいは「そのような良い知らせを受けた時、神々にささげる供え物」あるいは「良い知らせそのもの」のことであり、それが所謂キリスト者によって、イエスが伝えたメッセージあるいはイエスに関するメッセージを指すために用いられるようになった。福音を聞いた結果救われる、と考えるキリスト者がいることは事実であるが、福音の意味は「これを聞いている人は救われるという意味」ではない。 W・バークレー『新約聖書のギリシア語』滝沢陽一訳、日本キリスト教団出版局、2009年、108頁以下 p231 「十二人も直接の弟子がいた」 「十二人も」と言うが、この十二人は数多いるイエスの弟子の中から選ばれたのであって(ルカ福音書6章12節では、はっきりとこう書かれている)、つまりイエスの弟子は十二人だけに限られない、と考えるのが適切であろう。例えば、ルカ福音書10章1節でイエスは十二人の「ほかに七十二人を任命し」とある。その他、十二人以外の弟子が現れる個所は福音書に多数ある。にも拘らず、イエスの弟子が12人だけというのが史実で、弟子が沢山いたという記事が史実を反映していないというならば、証拠を挙げて論じるべきであろう。 参考として、ルカ福音書において「弟子」が現れる個所 p232 「あるとき、パウロは、馬に乗ってエルサレムからダマスコに移動する最中、突然、イエス・キリストに『会って』しまう。目が視えなくなって馬から転がり落ちた」 パウロの所謂「回心」(或は「召命」)の物語は、使徒言行録9章1節以下、22章6節以下、26章12節以下に記されているが、「馬に乗って」いたとも、「馬から転がり落ちた」とも書かれていない。尤も、この場面を描く絵画等で馬から落馬しているパウロがしばしば描かれることから、古来よりそのように考えられていた、ということは指摘しておこう。しかし、パウロがダマスコ途上で復活のイエスを見ただろうことはほぼ確かだろうが(ガラ1:16-18参照)、この使徒言行録に収められている形でのパウロの回心/召命物語は、後代の創作である可能性が非常に高い、と一般に考えられているが、それはパウロ自身がこの出来事について詳細に語っていないからである。この点もここで指摘しておきたい。 使徒9章使徒22章使徒26章 p233 「パウロがなぜ手紙を書いたかというと、布教活動をしている最中に、拘禁状態になって、自由がなくなったんですけど、ローマの市民権を持っていたので、手紙が書けた。で、手紙をたくさん書いた。それがいくつか残っているのです。」 パウロの真正書簡の内、彼が獄中で書いた書簡、所謂「獄中書簡」は、『フィリピの信徒への手紙』と『フィレモンへの手紙』のみである。パウロは拘禁されていない時にも手紙を書いている。 サンパウロホームページ p234 「まず、十二人の弟子の能力があまりに低かった。ユダは、金銭の管理もまかされているし、ほかの連中よりも学があった。と言うか、他の連中は学がなさすぎた。シモン(ペテロ)がいちおう弟子たちのリーダーということになっているが、漁師とか、まあふつうの人びとですね」 何を根拠にこのように言っているのか、不明である。聖書ではシモン(とその兄弟アンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネ)が漁師であることは語られているが、その「能力」がどの程度であったかは語られていない。またマタイは徴税人であったのだから、金銭の計算には一定程度の職能を有していたと思われる。シモンが漁師であることに言及して「十二人はふつうの人びと」で、だから「能力があまりに低かった」と言う橋爪氏の主張は、職業差別ではないだろうか。 教皇ベネディクト十六世の55回目の一般謁見演説教皇ベネディクト十六世の64回目の一般謁見演説 p238 「キリスト教徒は扉を閉めてこっそり祈る。いつ祈るかは個人の勝手でわからない、というふうになっていました」 キリスト教の初期において、迫害を恐れたために扉を閉めてこっそり祈る人々もいただろう。しかし、「いつ祈るか」が「個人の勝手」とは意味不明である。これはキリスト者は個々人が自分の都合に合わせて祈っていた、という意味か。この想定が正しいとするならば、橋爪氏は、キリスト者は扉を閉めてこっそりと隠れて、それぞれの都合に合わせて祈っていたから、祈りの様子はおろか祈っているかどうかも分からない、と言いたいのだろう。しかしこれは誤りである。個人で祈ることももちろんあったが、初期の教会でも現在と同様に、集団での祈りがあったことは、例えばコリントの信徒への手紙一14章1節以下、使徒言行録1章14節に記されているし、祈っていることがキリスト者以外にも伝わることもあったことは、使徒言行録16章25節に記されているからである。なるほど、使徒言行録は史実を語っているとは言えないかもしれない。しかし、使徒言行録はまったくのフィクションではなく、ある程度史実を反映しているとも言えるだろうから、全くの間違いとして退けることもできまい。そもそも、使徒言行録がまったくのフィクションであり史実を反映していない、という見解は少数意見である。使徒言行録が史実に忠実ではない、ということと、史実を反映していない、ということは別問題である。 使徒1:14使徒16 25 p245 「イエス・キリストが出番を終わって退場したあと、もう預言者が現れることはできない。預言者は、イエス・キリストの出現を預言していたわけで、もう用済みだ」 「イエス・キリストが出番を終わって退場したあと」のパウロの時代にもまだ預言者が教会にいたことが、そして重視されていたことが『コリントの信徒への手紙一』12章28節以下から明らかである 『コリントの信徒への手紙一』に現れる預言者 p245-6 「聖霊がルートを変えなさいと教えてくれた。これはパウロの第六感かもしれないし、パウロが関わっていた諜報機関の友人が情報をこっそり教えてくれたのかもしれない。こうしたはたらきがみな、聖霊です」 第六感が聖霊の働き、と言うのであればまだ分かるが、「パウロが関わっていた諜報機関の友人が情報をこっそり教えてくれた」のを聖霊の働き、というのは理解に苦しむ。これは人間の働きであろう。聖霊が「諜報機関の友人」に働きかけて、パウロに教えてくれた、という意味であると言うことか?それでは言葉が足りない。そもそも、パウロが関わっていた諜報機関とは意味不明であり、新約聖書にはそんな機関はどこにも書かれていない。 p246 「信徒が集まっているところには、私もいると思いなさい、とイエス・キリストが語っていた。でも、イエス・キリストはいなくて、代わりに聖霊がいる」 根拠不明。橋爪氏が語っているのはマタイ福音書18章20節であるが、ここの前後にもマタイ福音書の全てを見ても、「イエス・キリストはいなくて、代わりに聖霊がいる」、とは一言も語られていない。自説に都合の良いように聖書を書き換えてはいけない。 マタイ福音書18章20節 p247 「パウロは…復活のイエスとも会っていない。旅の途中で幻をみただけ」 例えばパウロは『コリントの信徒への手紙一』15章8節で、キリストが自分に現れた、とはっきりと語っている。 『コリントの信徒への手紙一』15章8節 p343 掲載されている主の祈りの「最終行(編者注。マタイ福音書では6章13節)は福音書にない、付加部分」 福音書にないのではなく、後代の付加である、というのが正しい。そもそも橋爪氏は日本語の主の祈りに続けてKJVのマタイ福音書6章9節以下の主の祈りを引用しているが、そこには「福音書にない、付加部分」と橋爪氏が呼ぶ個所が記されている("For thine is the kingdom, and the power, and the glory, for ever. Amen")。これを橋爪氏あるいは大澤氏はどのように説明するのか。KJVに含まれているマタイ福音書は福音書ではない、と主張するのか。この橋爪氏あるいは大澤氏の説明を敷衍して考えると、KJVだけでなく、同様の箇所を含むルター訳聖書などのマタイ福音書も福音書ではないことになり、日本語の聖書の新改訳聖書などのマタイ福音書も福音書ではないことになる。 KJV版マタイ福音書 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
https://w.atwiki.jp/takakengassaku/pages/27.html
高田健志って偉いよなぁ!!!!!!!!!! -- 2016-02-07 10 45 03 きも -- 2016-03-16 21 46 11 けんC -- 2016-05-05 14 30 58 鋼兵最強!鋼兵最強!鋼兵最強!鋼兵最強!鋼兵最強!鋼兵最強!鋼兵最強!鋼兵最強!鋼兵最強!鋼兵最強!鋼兵最強!鋼兵最強! -- 2016-06-16 21 30 17 鋼兵!? -- 2016-06-16 21 53 40 キモイです -- 2017-04-23 13 04 11 ቻンቻンがቺቻቺቻ -- 2021-06-29 14 32 23 草。 -- 2022-03-03 00 13 24
https://w.atwiki.jp/trpg_summary/pages/1007.html
2022 1~6月 + クリックすると開きます 3/27:PL 新クトゥルフ神話TRPG『冒涜都市Z~深碧の魔境~』なな湖,たけぉ,高田健志 7~12月 + クリックすると開きます
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html
当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教}』(講談社現代新書)に記述されている、単純な事実に関する膨大な量の間違い・誤りを扱う。 2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。 ※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者に失礼。 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。 p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。 ※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。 キリスト新聞2011年10月22日2面に掲載された橋爪大三郎氏のインタビュー記事を引用しておく。 ――インターネット上では、事実誤認という声もあるが。 橋爪:この本に事実が書いてあると思うのが間違いです。 ――では、どういうものとして捉えてほしいのですか。 橋爪:漢字に楷書・行書・草書があるでしょ。この本は言わば草書体なんです。草書体の字に向かって、画数が違うとか点が省略されているとか言ってもしょうがない。そういうものなんだから。じゃあ、草書体はいい加減か?私はこの本はこの本で実に精密にできていると思う。数学みたいに精密なものなの。ただその表現が漫才みたいなの。/飲み屋で酔っ払って話している二人組みたいじゃないかって言っている人がいた。そういうふうに仕上げてあります。だからそう楽しんでくれていいんだけど、でも言っていることは、よそに書いていないことで、しかも精密なことが書いてある。/論文にしたければ、どの1ページから、論文が何本も書けます。そういうふうに思う人は、クロウトのひと、もの書きの人です。そういう人には概して評判がよろしい。 つまり橋爪氏は「間違いを少し書いてしまった」のではなく、「ハナから間違いを回避しようとしていない」。自分の生み出す本に品質保証をしないと宣言しているも同然。 疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介 (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^) 歴史に関する事実誤認の記述を断りなく訂正 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは p41 「初代のサウル王は、北側のベニヤミン族の出身だった」→「初代のサウル王は、北側にもつながりのあるベニヤミン族の出身だった」(6刷で変更) サウル王の属するベニヤミン族は北側ではなく南側に属する。そのために差し替えたのだろうが、どちらにせよ間違い。逆に、訂正のせいでより意味不明になっている p93 「(契約の)箱には、金属の輪が四隅について、棒を通して担げるようになっている。その構造の詳しい説明が、旧約聖書の『レビ記』に載っています」→『レビ記』を『出エジプト記』に訂正。なお、この訂正は正しい。 どの刷で訂正したか不明であるが、版を改めないにもかかわらず内容を訂正するのは、不適切であると思われる。講談社(及び日本の出版社)はこのようなことを一般的に行なっているのだろうか? 単純な事実に関する間違い 目次 1 歴史 2 教会生活 3 教会論 4 聖書 1 総論 2 旧約 3 新約その1 ・ 新約その2 5 神学 6 東方教会(正教会・非カルケドン派) 7 西方教会(カトリック・聖公会・プロテスタント) 8 科学 9 キリスト教音楽 10 キリスト教美術 11 哲学 12 言語 13 キリスト教以外の宗教についての誤り(仏教・神道・イスラムについての無理解) 歴史 当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(歴史篇)を参照 教会生活 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p67 「キリスト教の祈りは、外から見えない。これみよがしに祈るな、とイエスが命じたから」 根拠不明である。確かにイエスは隠れて祈るように命じたが(マタ6 5以下)、しかし右の動画に映っている人びとは祈っていないとでも言うのだろうか。これでは、正教会の奉神礼、西方教会の典礼・礼拝、それをベースに発展した教会音楽が全く説明出来なくなる。それとも橋爪氏は「教会音楽は祈りでは無い」とでも認識しているのだろうか。橋爪氏がどう「祈り」「教会音楽」を理解しようと自由であるが、少なくともキリスト教において一般的理解ではない独自説を「キリスト教では云々」として流布するのは問題あろう。 (正教会)Патриарх совершил литургию в Рождественск. cочельник(カトリック教会)主の祈り(カトリック南山教会)(プロテスタント)Behold the Glories of the Lamb.mp4 (非カルケドン派)قداس عيد الفصح في كاتدرائية مار افرام حلب-سورياSyriac Easter in aleppo p67 大澤「祈りの最後に「アーメン」という言葉をつける場合が多いですね。これはどういう意味ですか?」橋爪「(引用前略)「その通り、異議なし」という意味です。新左翼が集会で「~するぞー」「異議ナシッ!」とやっているけど、あれと同じです。」 まず単純に過ぎる。少なくとも「かくあらんことを(そうありますように)」を外しては、数多くの祈願の祈祷文の最後に唱えられる場合の意味が丸きり解らなくなるだろう(こうして橋爪氏と大澤氏による解釈は、「大枠では解り易い」どころか、却って「大枠の理解の妨げ」となるのである)「その通り」というのは語義のごく一部でしかないのである。 なお、八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』(352頁、朝日文庫)には、アーメンの意味として「真実に」「確かに」「同意します」「そうなりますように」を記しており、橋爪、大澤よりも正確かつ簡潔である。 Аминь(Энциклопедический Словарь Ф.А.Брокгауза и И.А.Ефрона)CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Amen p237 「聖餐式ですけれど、最初はほんとうに食事をしていたらしい。でもそれをすると、みなお腹を空かせてやってきて、教会の財政が大変なので、食事はやめになり、象徴的なパンとブドウ酒の儀式になった」 ・「ほんとうに食事をしていた」とは、恐らく、『コリントの信徒への手紙一』11章17節以下などを根拠としているのだろう。なるほど、パウロの時代には聖餐と愛餐の区別が曖昧であり、実際の食事(愛餐)と聖餐式が一続きで行われたと考えられる。更に、使徒教父文書の一つ『ディダケー』(100年頃)の9-10章の記述からも、愛餐と聖餐は一続きで行われていたと考えられる(10章1節「"満腹"した後」)。ギリシア教父・殉教者ユスティノスの『護教論』(150年頃)にも食事としての描写がある。この点で、「最初はほんとうに食事をしていた」とは、曖昧な表現であるにせよ、許容出来る表現であるかもしれない。しかし、「ほんとうの食事」が「象徴的な…儀式になった」という主張の根拠は不明。聖餐は、最初期に実際にどのように行われていたかは不明であるが(実際の食事の形をとるにせよ、それと連続して行われているにせよ、独立したものであるにせよ)、イエスによって命じられた、つまりそもそもの最初から象徴的な儀式である(1コリント11章23節以下及びマルコ福音書13章22節以下)。・聖餐・聖体拝領・領聖(ユーカリスト)はキリスト教にとって最も重要な儀式のひとつ。ただの食事ではない。キリストの受難と贖罪を記念する儀式であり、聖書にも記された儀式である。「食事の」記念ではない。もしかすると橋爪氏は愛餐(アガペーの食事)と聖餐・聖体拝領・領聖(ユーカリスト)を同一視しているのかもしれない(そのような説があるなら、それを説明すべきである)。なお、聖餐論には世界史で習うレベルの話だけでも、主に実体変化・共在説・霊的臨在説・象徴説がある。「象徴」をそのような意味で定義するかによるが、ツヴィングリの時代まで、パンとぶどう酒を「象徴」のみと限定し、アナムネーシス(想起)に限定する考えはなかった。それまでは実体変化とする考えが主流だった。橋爪氏の所属するルーテル教会は象徴説を取らない。共在説である。そのために、ルターは多くの論争を戦った。プロテスタント内部に分裂も起こった。そういったことも知らないのだろうか? 小林信雄「『ディダケー』における聖餐の祈り」『神學研究』 26, 109-144頁 CiNii PDF - オープンアクセス 小林信雄「マルコ福音書における供食物語 聖餐の起源との関わりにおいて 」『神學研究』 28, 19-55頁 CiNii PDF - オープンアクセス CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Eucharist 日本福音ルーテル教会 ルーテル教会の信仰 ウエストミンスター信仰基準 日本基督改革派教会 正教会とは 日本正教会 Holy Mystery A United Methodist Understanding of Holy Communion. (Cayle Carlton Fenton, 2006. p. 33) p294 「(プロテスタントの教会に)カトリック教会の信徒がやってきても、聖餐にあずかれます。逆もそうだと思う。」 カトリックではプロテスタント信徒に対して聖体拝領を許可しない。それどころかプロテスタント内でも「他教派の人間に聖餐を許すかどうか」については議論が分かれるのが現状(特にバプテストにクローズドの傾向が顕著)。1998年、当時のアメリカ大統領だったビル・クリントン(プロテスタント・バプテスト派)が南アフリカ訪問中にカトリック教会を訪れたとき、カトリックの聖体にあずかったため、論争となったこともある。Bil Clinton + Catholic + Communionなどのキーワードでネット検索すれば、当時の記事や論争などが大量にヒットします。「逆もそうだと思う」などと、軽々しく発言できる問題ではない。基本的な事実誤認。これで「世界がわかる」とは言えない。逆に世界を誤解します。 Why Close Communion And Not Open Communion(By O. L. Hailey, D. D. Editor Arkansas Baptist Little Rock, Arkansas ) 栗林輝夫『アメリカ大統領の信仰と政治――ワシントンからオバマまで』キリスト新聞社 2009年 p.216-217 New York Times "President Took Communion -- And Criticism" By JAMES BENNET Published April 07, 1998 教会論 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p291 「カトリック教会には、ミサとか、聖職者(司祭や神父)とかあるが、それらは聖書に根拠をもたない。ゆえに存在すべきでない。教会堂もなくてよい。極端を言えば、聖書さえあればよく、自分と神だけが対話している、これが理想です」 「司祭や神父」は橋爪氏がこの本の他の箇所や、他の著書でも犯す間違い。「司祭」(職名)、「神父」(呼称)。これは別の例で言えば「教諭と先生」「代表取締役と社長」というようなもの。つまり橋爪氏は「司祭」が何か、「神父」が何か、の辞書的意味すら把握していない。また、プロテスタントも礼典・教職、教会堂を持っているが、これらも聖書的根拠がプロテスタントによって示されている。なお、「(カトリックの聖職者制度は)聖書に根拠をもたない」というのは、あくまでプロテスタントがカトリック教会を批判する際に言うものであるが、中立的観点からすれば、カトリック教会も教職制について根拠となる聖書箇所を挙げていることには言及しても良いのではないか(Ⅰペテロ 2:2、Ⅰテモテ 5:17ほか)。プロテスタントの一方的主張だけを「入門書」で書くのは、入門書としての役割を果たしているとは言えない。正教会にも聖職者制度があるが、これも同様に根拠として挙げられる聖書箇所がある(ピリピ 1:1。Ⅰテモテ 3:1 - 7ほか)。概して他の箇所にも言えることだが、当該教派がどういう主張をしているか真摯に調べるという姿勢が決定的に橋爪氏には欠けている。 CATHOLIC ENCYCLOPEDIA PriesthoodCATHOLIC ENCYCLOPEDIA Priest CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Hierarchy of the Early Church Ecclesiastical Buildings "The Orthodox Study Bible Ancient Christianity Speaks to Today s World" p1612, Thomas Nelson Inc; annotated版 (2008/6/17) 八木谷涼子 東方正教会&ローマ・カトリック 聖職者対照表 八木谷涼子 教派いろいろ対照表 (『知って役立つキリスト教大研究』の巻末附録・9教派対照表 (p.362-381)の増補版) 聖書 当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(聖書篇)を参照 神学 当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(神学篇)を参照 東方教会(正教会・非カルケドン派) 橋爪氏も大澤氏も、正教については「皇帝教皇主義」と「言語による分裂」しか言及しておらず、以下指摘の通り、大枠でも「誤りしか書いて居ない」。0点である。 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p256 「教会で何語を使うか。東方教会はギリシア語を」 4世紀のシリアの聖エフレム(東西両教会で聖人)、7世紀のシリアのイサアク(正教会で聖人)はシリア語で著述していた。「東方=ギリシア語のみ」ではない。 St. Ephrem (Ephraem, Ephraim) the Syrian, (A.D. 373)(シリア正教会 アメリカ合衆国西部大主教区)Oriental Fathers Syriac Literature p256, p261 橋爪氏「東方教会は、ヴェーバーのいう皇帝教皇主義、すなわち政治的リーダーと教会のトップとが一致する体制をとったので」大澤氏「ビザンツ帝国では、先ほど(橋爪氏が)おっしゃっていたように、教皇がすなわち皇帝であって」 皇帝と総主教は非兼任。そもそもビザンツに教皇は居ないし、「教皇不在⇒皇帝が兼任」という理解をしているのだとしたら、ただ知識と理解の不足。そもそも東方教会に「イエス・キリストに代わって一人が束ねて教導する教会」という教会論が無い。教会が皇帝に抵抗したり阻止したりしたケースも歴史上複数あり、「『皇帝教皇主義』説は、西欧からの偏見」で片付けられるのが現代ビザンチン研究者の間での常識。世俗領域の、非専門家向け・一般向けの世界史書籍(『山川世界史小辞典』p230, 2007)ですら、「(ビザンツの)皇帝教皇主義」は「不正確な説」扱いになっている。そもそも東方教会に言及するのに、正教会のみならず現代ビザンツ学界までをも完全に無視して、なぜ事欠いてヴェーバーなのか。 久松英二『ギリシア正教 東方の智 (講談社選書メチエ)』76頁 - 77頁 『山川世界史小辞典』p230, 2007 p257 「ロシア語を使うロシア正教会、セルビア語を使うセルビア正教会」 各独立正教会が成立する過程の文脈で語られているが、成立時の奉神礼用語はいずれも教会スラヴ語。セルビア正教会がセルビア語を奉神礼で使うようになったのは20世紀。今でもロシア正教会では教会スラヴ語が奉神礼で使われている。 Church Slavonic (The Columbia Electronic Encyclopedia, 6th) Reform of liturgical language in Russia (Serbian Orthodox Church, Official web site) p257で橋爪氏が、p268で大澤氏が 「総主教座の分裂」の要因を「使用言語」としている そもそも「独立正教会の成立」「総主教庁の新設」を普通「分裂」とは言わない。正教会における独立正教会・自治正教会といった教会組織の関係には、「母教会」「子教会」という解り易い表現がある。子が母から自立することを「家族関係の分裂」とは言わない。なぜ「解り易い」表現を使わずに、わざわざ誤った記述で解り難くしているのか不明。また(「分裂」の語彙を使わなかったとしても)言語の違いを「独立正教会の成立」「総主教庁の新設」の要因とするのも根拠不明。ブルガリア正教会もロシア正教会も教会スラヴ語を今でも使っているが、使用言語が同じでも全く別の組織を構成している。上述の通りセルビア正教会がセルビア語を奉神礼で使うようになったのは20世紀以降。セルビア総主教座は(途中廃止された時期もあったが)最初のものは14世紀に成立していてむしろ順序が逆。独立正教会たるキプロス正教会は5世紀に独立しているが、ギリシャ語を今日まで使い続けている。「使用言語の違い→総主教座の分裂」は当たらない。本書全体に共通する特徴だが、ここでも間違いだらけの知識から間違いだらけの結論が導き出されている。 Old Church Slavonic language -- Britannica Online Encyclopedia THE SERBIAN ORTHODOX CHURCH - A SHORT HISTORY (Vladimir Vukašinović) Confrontation of Liturgical Theologies in Translations of Holy Liturgies into Serbian Language in the 20th Century(PDF) 知多半島の正教会の歴史石巻ハリストス正教会・聖使徒イオアン聖堂 p281, p282 「理性だけは、神の前に出ても恥ずかしくない」「理性は、神に由来し、神と協働するものなんです。」 理性(νους)が邪悪な想いと結びついた時には理性は神との交わり"παρρησία"を失うと指摘した表信者(証聖者)聖マクシモス(東西両教会で聖人)を完全に無視(理性が悪に傾く可能性をマクシモスは認識している)。東西両教会についての違いは「皇帝教皇主義」と「使用言語」だ、くらいの認識しか橋爪氏にも大澤氏にもないから、そもそも理性についての認識で東西の間に差があるという教理関係の違いに一切踏み込めない。西方はラテン語だが東方はギリシャ語だ(これもシリア語を考慮していない間違い)と色々論じているのに、語彙に含まれる概念差が神学の見解に反映されている蓋然性について全く考慮していない。 ※ギリシャ語の"νους"(ヌース)は「心」「精神」「理性」と訳され多義的であり、ラテン語の"ratio"と一対一対応するものではない。ラテン語の"ratio"にはギリシャ語の"λογος"が対応するとする場合もある。いずれにせよ橋爪氏が「"νους"は考慮に入れず、あくまで"ratio"のみを考慮に入れた」のだとしたら、「西方教会では」もしくは「ラテン語圏では」の但し書きが必須であろう。 『哲学事典』p1074, p1462 - 1463, 1984 平凡社 加藤信朗『ギリシア哲学史』p18 - p19, 東京大学出版会 2001 『中世思想原典集成 (3)』p550, p556 上智大学中世思想研究所 西方教会(カトリック・聖公会・プロテスタント) 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p253 大澤「日本人がキリスト教についてイメージするときに、どちらかというと中心にあるのは、カトリックですね。」 こういうことを言う割には、聖餐論も聖職者制度も含めてほぼ一切ローマカトリックの考え方は紹介されず、「煉獄」「免罪符」を巡っても完全な誤りを述べている(293頁)。大澤氏も橋爪氏もカトリックについて真剣に調べた形跡が無い。 p292 「カトリック教会は、聖書に書かれていないし公会議の正当な解釈でもない、根拠のあいまいな教会の伝承などに従って、聖人崇拝や煉獄の教えや免罪符の販売や告解や七つの秘蹟などを行ってきた。それらを、プロテスタントは認めません。」 まず単純に、告解(ゆるしの秘跡)は、七つの秘蹟の一つ(告解の他に七つあるのではない)。橋爪氏は用語一つ、辞典レベルの単純な語義すら確認していない。そもそもこの個所の前後は、宗教改革の文脈で述べられているとはいえ、聖人崇拝(そもそもこの用語も間違い。後述)・煉獄・免罪符の販売・告解・七つの秘蹟につき、「聖書に書かれていない」「公会議の正当な解釈でもない」「根拠のあいまいな教会の伝承」と断言するのは、あまりに中立的な観点を無視し切っているとの誹りは免れまい。せめて「 - カトリックでは聖書にも根拠があるとし、公会議で教理の確認をしていますが - 」「プロテスタントの視点から言えば」といった但し書きが、仮にも学者の書くものであれば必須であろう。また、「崇拝」と「崇敬」に繊細な使い分けをカトリック教会が行い、少なくともカトリック教会自身は「聖人崇拝」はしておらず「聖人崇敬」をしていると自己規定していることは、カトリックに批判的なプロテスタントですらも、認識していることである。「カトリックは聖人崇拝をしている」というのは、プロテスタントからカトリックを批判する際の言い方であって、カトリック自身はあくまで聖人を「崇敬」していると考える(「これも細かい間違い」ではない、カトリックとプロテスタントとの間での重要な論点となってきたタームである)。さらに、カトリック教会の七つの秘跡(サクラメント)のうち、二つ(洗礼・聖餐)は、(理解が違うとはいえ)礼典(サクラメント)としてプロテスタントも認めているのだが、この文章ではサクラメントの考え方すらプロテスタント全てに存在しないかのように誤解を招きかねない。なお橋爪氏の所属教派であるルター派も、二つ(洗礼・聖餐)は、礼典(サクラメント)として認めている。このように、橋爪氏はカトリック教会の基本的な事柄を抑えていないばかりか、プロテスタントからの(それも著しく通俗的で誤りも含んだ)カトリック批判のみを紹介しており、学者が書く入門書としては許されない偏向も際立っている。 七つの秘蹟 — カトリック鹿児島司教区CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Sacraments尊者・福者・聖人(カトリック中央協議会)What are the sacraments? - Evangelical Lutheran Church in America p293 「宗教改革のあと、いろいろ批判されて、(中略)煉獄とか免罪符とかの教義は(カトリック教会から)すべてなくなった」 煉獄の教えは現代カトリック教会にも健在。免罪符についてはそもそも「贖宥状」「免償符」という用語を使わない時点で、カトリック教会における位置付けをおそらく橋爪氏は把握していないと思われる。「罪を免れる」ものではなく「償いを免れる」もの。「免償」の教えも現代カトリック教会に健在。ルターはちゃんと意味を解っていた上で、その意味の上で批判したのだが、カトリック教会はその批判に同意しなかった。他方、正教会には「赦罪の後の償い」の考え方が元来、無い。つまり免償、煉獄を認めるか認めないかは、現代においてもなお「プロテスタント、カトリック、正教」の違いの代表例の一つなのだが、その「違いの代表例」が橋爪氏の中では宗教改革の時代に消滅しているらしい。橋爪氏が「『免償符』は今のカトリックには無い」という意味にも取れる言葉で言ったのならまだ良かったのだが、ハッキリと「煉獄とか免罪符とかの教義は」と言ってしまっているので、単純に誤りある記述となってしまった。なお、14刷では「煉獄とか免罪符とかの教義はすべてなくなったんだけど」が「免罪符の販売などもやめることにしたんだけど」と、訂正されていることも付言しておこう。 教皇ベネディクト十六世の254回目の一般謁見演説 第29回 「免罪符」のウソ(尾崎明夫神父の「みなさんちょっと聞きなはれ」中学3年生のための哲学入門より) 正教会とは:日本正教会 The Orthodox Church in Japan 科学 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p309-315 大澤「自然科学というものは、やはりキリスト教の文化、とりわけプロテスタンティズムから生まれてきている。ぼくらが、今日、『自然科学』として理解しているような真理のシステムは、簡単にいえば、十六世紀から十七世紀にかけて西洋で起こった『科学革命』以降のものだと考えてよいと思います。…そして、その自然科学を生み出した科学革命は、実は時期的に宗教改革の時期とだいたい重なっています。そのうえ、科学革命の担い手となった学者…は、決して信仰心が浅いわけではない。いまはしばしば科学者が宗教批判を熱心にやりますが、科学革命の担い手は、むしろ熱心なキリスト教徒、しかもたいていプロテスタントでした」橋爪「自然科学がなぜ、キリスト教、とくにプロテスタントのあいだから出てきたか」大澤「同じキリスト教でも、東方正教からではなく、カトリックに反抗して出てきたプロテスタントから、自然科学的なものの考え方が出てきました」橋爪「教会の権威に頼らず、自分の理性をたのむ点で、カトリックよりはプロテスタントのほうがこれら(自然科学的な考え方)を真剣に発展させて行きやすい」 「科学革命以降の知」が現代の自然科学的な考え方と同じであることが指摘され(310頁)、「プロテスタントから、自然科学的なものの考え方が出てきました」(313頁)と語られているが、その「科学革命」がまさにローマ・カトリックの律修司祭であるコペルニクスから始まった点で事実と異なっている(尤も、彼らが語る「科学革命」でどの研究者の定義する「科学革命」を指しているのか不明であるが。ここではバターフィールドの語る意味での科学革命を彼らが想定していると考え反論している)。(データを掲載していないのだから、根拠不明であるが)科学者にプロテスタントが多いとの主張が仮に正しいとしても、ローマ・カトリックにも多くの優れた科学者がいて、科学の発展に貢献したことを橋爪氏も大澤氏も無視してしまっているのではないか。なるほど、本書は新書であるから単純化は避けられないが、「科学革命」の主要な担い手であるコペルニクス、ケプラー、ガリレイ、ニュートンの4人の内、2人、つまりコペルニクスとガリレイ(橋爪氏は後者を「科学革命の担い手だったと言ってよいと思います」と評価している)がローマ・カトリック信徒であったことには言及すべきであったと思われる。更に、16世紀から17世紀における科学革命の担い手は「たいていプロテスタント」だった、とか、「カトリックよりはプロテスタントのほうがこれら(自然科学や数学)を真剣に発展させて行きやすい」、との主張は、何を根拠にして言っているのか不明である。たとえば、16-17世紀の科学者でありローマ・カトリックに属するキリスト者である、コペルニクスやガリレイ、マラン・メルセンヌ、デカルト、ピエール・ガッサンディ、パスカル、ニコラウス・ステノらによる科学に対する多大な貢献を考えてみよ。 キリスト教音楽 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p320 「教会で、ミサのときに、あんまりやることがない。そこで、時間つなぎに歌うことにした。それでグレゴリオ聖歌とかができたんですけど・・・」 問題外の記述。ミサ・礼典の意味はおろか、宗教音楽の歴史に対してまったく無知をさらけだしている。ユダヤ教の詩篇から歌っていたことは常識である。グレゴリオ聖歌の成立に関しても誤解以前の問題である CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Gregorian Chant p321 「プロテスタントは、宗教音楽を簡素にし」 橋爪氏はルター派の音楽家であるバッハの、たとえばマタイ受難曲(これは聖金曜日の晩課のために書かれたものである!)を聞いたことが無いのだろうか。「簡素にし」という表現で何を意味しているのか不明であるが、プロテスタントが宗教音楽を「飾り付けがなく、質素なものとした」という意味で語っているのであれば、特にルター派が音楽に与えた影響を捉えきれていない。「この世紀(注。16世紀)後半になると、コラール編曲はさらに充実したものとなり、とくにイタリアの技法を同化したハンス・レオ・ハスラー、ミヒャエル・プレトリウス(一五七一ころ-一六二一)らは大規模な器楽伴奏つきコラールを作曲している。偏狭なカルヴァン派とは対比的に、ルター派の音楽に対する開かれた態度は、この後のドイツ音楽の発展にはかりしれない好ましい影響を与えることになり、次代のハインリヒ・シュッツやヨハン・セバスティアン・バッハらのすぐれた宗教音楽作品を生み出す土壌を用意することとなった」(皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』講談社学術文庫、2011年第2刷、195頁) マタイ受難曲皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』 キリスト教美術 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p321-322 「識字率が低かったので絵で見せるしかなかった」「プロテスタントの画家は仕方ないから静物画を描いたり、風景画を描いたりした」「絵画で風景画や風俗画,静物画などが宗教画に劣らないジャンルになったのは16世紀頃」 まず「識字率が低かったので絵で見せるしかなかった」というのは中世初期のカトリック教会によるゲルマン人布教限定の説明。また、この説明では肖像画と宗教画を混同しており、プロテスタントは肖像画すら描けないことになる。また、静物画などが宗教画に劣らないジャンルになったのは16世紀頃、とあるが逆である。西洋絵画のジャンルヒエラルキーが構築されたのは17世紀のフランス・アカデミーとするのが一般的。また,風景画というジャンルに至ってはそもそも誕生したのが16世紀以降で,ルネサンスの頃は宗教画との区別が存在していない。また、「宗教画」というカテゴリは当時なく、神話画など他の最高位に置かれたものを含めて「歴史画」である。また、聖書の場面を描いたプロテスタントの画家も多い。レンブラントやフェルメール(注。フェルメールは結婚を機会にカトリックとなったと主張する研究者もいる。Johannes Vermeer’s influence and inspirationやessentialvermeer.com参照)など無数に存在する。 CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Ecclesiastical Art 静物画:現代美術用語辞典|美術館・アート情報 artscape 哲学 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p281 「理性は、人間の精神のうち神と同型である部分、具体的には、数学・論理学のことなんです」 典拠不明の珍説。『哲学事典』(p1462, 1984 平凡社)によれば、理性とは「一般には見たり聞いたりする感覚的な能力に対して、概念によって思惟する能力をいう」。哲学事典を引かずとも、大辞泉に、一般的な語義、カント哲学における語義、ヘーゲル哲学における語義に至るまでが簡潔にまとめられて書かれている。橋爪氏による独自珍説を読むよりも、一般向けの辞典を読んだ方がはるかに無難であることが示されている。カトリック教会においても理性につき「数学・論理学のこと」といった語義は与えていない。スコラ哲学においては理性の働きはintellectusとratioとに分類され、intellectusはギリシア語のノエシスもしくはヌース(νους)の意味に、ratioは論証的な認識という意味で用いられた。※正教会においては理性について西方教会とは別の捉え方がされてきたことについては別項「東方教会」節において詳述してある。 大辞泉り‐せい【理性】『哲学事典』p1462, 1984 平凡社REASON (Lat. ratio, through French raison) (Originally appearing in Volume V22, Page 947 of the 1911 Encyclopedia Britannica)CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Reason 言語 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p234-5 「イエスと十二人の弟子たちはヘブライ語(ないしは、昔の説だと、ヘブライ語の方言であるアラム語)を話していた」 イエスらがアラム語を話していた、というのは別に「昔の説」ではなく、現代でも多くの研究者が主張していることは、細かい指摘であるから置いておくにせよ、アラム語が「ヘブライ語の方言」であるとは誤り。ヘブライ語もアラム語も北西セム語派に属しているが、しかし前者は北西セム語派のカナン語群に、後者は北西セム語派のアラム語群に属する。従って、親戚関係にあるが、方言とは言えない。 左近義慈『ヒブル語入門』(新装版)教文館、2002年、p.2 キリスト教以外の宗教についての誤り(仏教、イスラームについての無理解) 当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(仏教・神道・イスラムほか篇)を参照 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
https://w.atwiki.jp/nicoten/pages/1151.html
用意したティッシュで涙を拭いた よういしたてぃっしゅでなみだをふいた 【タグ】 09-11-21最終更新 random_imgエラー:ご指定のファイルがありません。アップロード済みのファイルを指定してください。 「用意したティッシュで涙を拭いた」とは、賢者になる気満々だったのに想定を裏切られ、しかしどこか心が満足した男たちの物語である。 エロとみせかけて実は・・・な動画につけられるタグである。 動画検索 「用意したティッシュで涙を拭いた」でタグ検索 random_imgエラー:ご指定のファイルがありません。アップロード済みのファイルを指定してください。 動画 や行の単語一覧にもどる 「タグ」に関する単語の一覧 トップページにもどる - -
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/15.html
当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)に記述されている、疑問符のつく見解、および偏見としか思えない見解を扱う。 ※ 当ページ編集者は、「面白ければいいじゃないか」「解り易ければいいじゃないか」という価値観には拠らない。たとえば乗法計算が出来ない人に虚数・複素数を説明して「解り易い」と思わせているとしたら、それは「解らせた」ことにならない(予備校で同様のことをやっていたら詐欺行為)。理系でも文系でも、最低限求められるレベルというものがあるのは同じ。 ※ 橋爪も大澤も、「日本人が西洋を理解するのには、根底にあるキリスト教理解が不可欠」として本書を売っている。だったら当のキリスト教でどう理解されているのかを正確に語る必要があるだろうし読者もそれを期待するのだが、中身が一般にキリスト教の見方からかけ離れた「橋爪教」というのでは、一種の詐欺。 ※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。 姉妹ページ 間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」 (2012年7月18日現在、130個以上の誤りが指摘済み、さらに誤りが見付けられることも有り得る) 歴史篇(上記ページが容量オーバーになったため分割されたもの、以下同様) 聖書篇(総合・旧約) 聖書篇(新約その1) ・ (新約その2) 神学篇 他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?) 「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介 (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^) 疑問符のつく見解 目次 1 日本の神々はお友達 2 橋爪教では伝統的信仰内容は知ったことではありません(でも欧米の理解には役立つと宣伝します) 3 一神教=キレまくるエイリアン教です 4 ふしぎな独自の説が出される→それがもっとふしぎな疑問を生む→橋爪と大澤の二人でもっともっとふしぎがる=最もふしぎなループ。 5 無神経・偏見としか思えない見解 6 ウィキペディアだったら「誰」(誰がそんな事をどこで言っているのか?)タグがつけられます 7 社会学? 8 意味不明 9 思いつき 10 14刷で唐突に巻末に「主の祈り」と「使徒信条」を追加し、更にその説明が不適切 日本の神々はお友達 頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献 p21 「日本語で「神」というと、どうしてもなれなれしいニュアンスがまぎれ込んでしまうので、以下、一神教の神をさすことをはっきりさせたい場合には、なるべく「God」ということにします。」 柳父章も示している見解ではある。しかしなぜ英語のGodなのか?散々他の箇所で「(ローマ教会も)本来なら、ギリシア語であるべきですね」(p258)などと述べて「キリスト教、特に東方教会と言えばギリシア語」という見解を披歴しているのに、日本語の「神」との比較対象が英語だけというのは矛盾してはいないか。ちなみに英語の"god"もギリシア語"θεος"も、複数形にしてそれぞれ"gods", "θεοί"として「神々」とする語義があり、一神教だけで使われる語彙ではない。英語もギリシア語も現代においては最初一文字を大文字にするか小文字にするかの違いはあるが、古典時代のギリシア語には小文字は無く、多神教の神々も"ΘΕΟΙ"と書いていた。つまり多神教で使われる語彙を一神教にも使うということ自体は、日本語の専売特許でも異常な現象でも何でも無い。日本語聖書の訳語について考察した著作としては柳父章の『ゴッドと上帝』は大いに参考になるが、柳父章も橋爪も、英語やギリシャ語でも多神教に適用される語彙がキリスト教にも使われているという事実には関心が薄いようだ。 Ὁμήρου Ὀδύσσεια Ραψωδία α' - Θεῶν ἀγορά. Ἀθηνᾶς παραίνεσις πρὸς Τηλέμαχον. Μνηστήρων εὐωχία.(ホメーロス『オデュッセイア』の実例) p20 「(日本の)神様は、ちょっと偉いかもしれないが、まあ、仲間なんですね。友達か、親戚みたいなもんだ。」 早良親王、菅原道真が「仲間」?男か女かも解らない金屋子神が「親戚」?道祖神が「友達」?橋爪氏の多神教についてのイメージは一面的に過ぎる。 橋爪教では伝統的信仰内容は知ったことではありません(でも欧米の理解には役立つと宣伝します) 頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献 p21 「Godは、人間と、血のつながりがない。」 至聖三者(三位一体の神)のうち、父なる神・聖霊についてはそれでいいかもしれない。しかし受肉(藉身)した第二位格たるイエス・キリストは眞の神としてキリスト教で捉えられているのだから(表現方法について対立があるとはいえ、非カルケドン派に至るまで現代の伝統的キリスト教の大半から「イエス・キリストは神であり人(神性と人性)」という見解は認められている)、少なくとも至聖三者(三位一体の神)のうち、第二位格(イエス・キリスト)については「人の肉体をもって」おり、血のつながりどころの話ではない。「三位一体の神全部と血のつながりがあるわけではない」のなら何とか解るが。ちなみに右参考文献『キリスト教神学基本用語集』では受肉(incarnation)について「キリスト教を他の一神教から区別する重要な点の一つ」としているが、この「重要な点」を橋爪は全く押さえていない。尤も、橋爪は169頁でアリウス派異端的な誤解を披瀝しているから(というよりキリストの神性を認めていない)、こうした記述も橋爪にキリスト論の基本知識そのものが無いことによるものと思われる。橋爪がキリストの神性を認めようと認めまいとどうでも良いのだが、これを「キリスト教はこう信じています」とすれば、それは虚偽か誤りでしかない。 Justo L. Gonz´alez (原著), 鈴木 浩 (翻訳)『キリスト教神学基本用語集』p123 - p126 p23 「(Godと人間の)よそよそしい関係を打ち砕こうと、イエス・キリストは「愛」をのべて、大転換が起こるんです。」 イエスがこの世を生きた時代の律法学者の間でも、申命記6章5節「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。」レビ記19:18「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。」が一番大事な教えだということは認識されていた。だからこそイエスの問いかけに対して律法学者がこの箇所を「律法の一番大事な部分」として答える場面が、「サマリヤ人のたとえ」の手前(ルカ福音10:27)にある。愛を説いたのはイエス・キリストが最初ではないし、旧約聖書で「愛」を探せばいくらでも出てくる。 むしろ大転換というのなら、モーセすら見ることのできなかった神(の第二位格)が、受肉(藉身)によって「見ることの出来る神・人になった」ことこそ挙げなければならないのだが、非カルケドン派が分裂した原因を「三位一体論」と述べてしまいキリスト論が分裂の原因であったことを知らない誤りから判る通り、橋爪は基本的なキリスト論(眞の神・眞の人)を全く認知していない。 口語訳聖書「愛」検索結果 新共同訳聖書「愛」検索結果 Justo L. Gonz´alez (原著), 鈴木 浩 (翻訳)『キリスト教神学基本用語集』p123 - p126 p47 「ユダヤ教には、原罪という考え方はない。」 他のところでも言える事だが、本書では見解が分かれる問題につき、あっさり断言する傾向が目立ち過ぎる。あくまで「ユダヤ教多数派には原罪という考え方は受け入れられて居ない」が、受け入れるユダヤ教神学者も居ないわけではない。なお、原罪はキリスト教全部に受け入れられると橋爪は考えているようだがこれも間違い。正教会は「原罪」という考え方から距離をとっている。 SIN - JewishEncyclopedia.com教え-罪と救い:日本正教会 The Orthodox Church in Japan p33 「バビロンには、天地創造の神話や大洪水の物語などがあって、それを取り入れた。聖書の冒頭の『創世記』もこうして出来あがった。」 そう信じていない人も少なくない。「モーセが書いた」という伝承をそのまま信じる人も居る、という断り書きが必須だろう。こうまで完全にキリスト教全部で信じられているかのように断言されると、なぜアメリカで公教育の場で進化論が問題になっているのかが解らないし、「一部の原理主義者が騒いでいる」位に誤解しかねない。実際には現代でも、「モーセが書いた」という伝承をそのまま伝えるか、もしくは「そういう伝承があることは、伝承として一応教える」教会は少なくない。 "The Orthodox Study Bible Ancient Christianity Speaks to Today s World" p1, Thomas Nelson Inc; annotated版 (2008/6/17) p94 橋爪「これを矛盾なく受け取るにはどうしたらいいか。私の提案ですが、人間は神に似ているが、神は人間に似ていない、と考えればいい。言っていること、わかります? たとえば神を、四次元の怪物みたいなものと考えるのです。それを三次元に射影すると、人間みたいなかたちになる。人間が神をみると三次元だから、自分とおんなじだと思うかもしれないが、神の存在そのものは、人間より次元が高いから、目がいくつもあって、ヒンドゥー教の神みたいな怪物のかたちでもおかしくない、どう?」大澤「なるほど、おもしろい解釈ですね」 ヒンドゥー教の神を「怪物みたいなかたち」と言うのはそもそもどうであろうか。問題ある発言ではないだろうか。「わたしの提案ですが」と断り、一般的な意見として紹介していないところは認めるにしても、創世記1章27節他に現れる「人間は神の似姿である」という、ユダヤ教理解にとってもキリスト教理解にとっても重要なテーマを、過去2000年以上に亘りユダヤ教徒やキリスト教徒によってなされた真剣なそして膨大な議論に全く触れずに、橋爪氏の理解のみ紹介するというのはどういうことであろうか。本書の目的は読者が「キリスト教を理解する」ためだったはずだが、実は橋爪氏を理解するためなのだろうか。 一神教=キレまくるエイリアン教です 頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献 p21 「(Godって)エイリアンみたいだと思う。だって、知能が高くて、腕力が強くて、何を考えているかわからなくて、怒りっぽくて、地球外生命体だから。」 キリストの神性を認識していない橋爪にとっては、真の神であり真の人であると理解されるキリストも「地球外生命体」で「エイリアンみたい」なのか。すると、聖母マリア(生神女マリヤ)は「エイリアンを生んだ」と?「真の神・真の人」というキリスト論の理解が根底に無いことがここでも露呈している。 「怒りっぽいエイリアン」論では、イエス・キリストによる病人達の癒しの話や、異民族で仮想敵国の将軍ナアマンを癒した神の愛(列王記下5章)といった話が伝えられていることにつき説明がつかない。 結局、我田引水的に「こわーいエイリアンっぽい」要素だけを抜き出して列挙しただけ。橋爪論法は大体がこの調子。1、まず橋爪氏の思い込みによる結論を立てる、2、その思い込みに合致するものだけを列挙する。 Богочеловек(…ボゴチェロヴェク、神(Бог)+人(человек)、直訳すると「神人」。神性人性の両性論を前提とした、イエス・キリストを指すロシア語での表現。 p20 「すると、一神教がふしぎです。(中略)なぜ神様にあんなに怒られて、それでも神様に従おうとするんだろう?」 怒られても、それ以上の恩恵を受けていたら子どもは親の家にとどまることを考えれば、何が不思議なのか判らない。「生かされていること、奴隷の境遇から脱出させてもらったこと、病気を癒してくれたこと、神であり人であるキリストが人々の来世の命のために十字架で死んで復活してくれたこと」が信じられていることは一切スルーして「ふしぎです。」と言っているが…、これも「ふしぎ」という結論に合わせて、ふしぎな「キレまくるエイリアン」くらいにしか「キリスト教の神観」を書かないのだから、ふしぎ以外の結論が出よう筈も無い。そもそも多神教でも怖い神様は結構居て、日本では「祟り神」が、祟られることもあるにも関わらず信じられている(場合によってはそれを上回る御利益があるから)。結局橋爪氏は一神教だけでなく多神教もよく知らない。 口語訳聖書「恵み」検索結果 新共同訳聖書「恵み」検索結果 ふしぎな独自の説を出して、それがもっとふしぎな疑問を生み、二人でもっともっとふしぎがる、というふしぎループ。 頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献 p23 「Godを信じるのは、安全保障のためなんです。(中略)(Godは怖いから)自分たちの安全のために信じる。」 詩篇には「願い事」「感謝」も沢山されているが、詩篇を一篇も読んだことが無いのだろうか?「怖いGodの言うとおりにして怒られないようにする」だけの理解では、聖書もキリスト教も「解り易くなる」どころか、かえって「何も解らなくなる」。 新共同訳「詩篇」で「ください」の検索結果 口語訳「詩篇」で「ください」の検索結果 p37 大澤「どれほど我慢強い人であっても、(相当ひどい目にあった)そのあたりでヤハウェとの安保条約を解消しても良さそうなものです。ところが、まさに、安保条約を破棄してもよさそうなその時期にこそ、ユダヤ教は磨きがかかり、ほぼ完成した。これはいったいなぜでしょうか?」 答え→p23橋爪「Godを信じるのは、安全保障のためなんです。」という断定がそもそも間違っているから、と考えればシンプルに解決。 p39 大澤「安全保障のために契約した神がちっとも安全を守ってくれなかったのに、なぜ信仰が衰えなかったのでしょう?」橋爪「(前略)いじめられっ子の心理。イスラエルの民は弱いので、いじめられる。(後略)」 「いじめられっ子の心理」というような偏見に満ちた表現を教育者でもある大学教授がしている時点で驚きであるが(それは下記の通りここ一カ所ではない)、問題はそれだけではない。ダビデ王朝はオリエント世界で例を見ないほど長命な王朝であったことを完全に橋爪氏も大澤氏も無視している。ダビデ王朝始祖であるダビデ王の治世が紀元前10世紀前半。南ユダ王国滅亡が前587年(年代はキリスト教大事典による)。実に400年以上、ダビデ王朝は存続している。このような長命王朝は単独王朝としてはオリエント世界に類例が無い。これはメソポタミア(アッシリア、バビロニア)とエジプトという両大国に挟まれた地域にある王朝としても特筆すべきことであり、このような困難な地域情勢にあってそれだけの長命政権が存続し得たことにより「神から守られている」と考えるというのは、必ずしも「ふしぎ」な事ではない。またオリエントだけでなく、400年以上存続した王朝が世界史上でどれだけあるかを鑑みれば、果たしてイスラエル・ユダヤ人を「弱者」とだけ片付ければ良いのかどうか、大枠でも疑問が出よう。「ローマ帝国滅亡後、しばらくして、全地公会議が開かれなくなった」といった、約400年を「しばらくして」と表現してしまう橋爪氏の姿勢にも表れているが、橋爪氏も大澤氏も「年代」についての把握が非常に苦手のようである。 山我 哲雄 (著), 佐藤 研 (著) 『旧約新約聖書時代史』p51, p99, 教文館 (1992/02) ISBN 4764279037『キリスト教大事典 改訂新版』 p1082 教文館(第4版) p94 橋爪氏は「人間の目の前をヤハウェが歩き回っている」「だいたい人間と同じ大きさ」と、「創世記を読んで受ける印象」をまとめた上で、「神がもともと姿もなく、世界の外にあって世界を創造した絶対の存在であることと、人間に姿が似ていて、エデンの園を歩き回ったりしていることは、矛盾しないか。」と述べている。 前提がどちらも間違っている。「人間の目の前をヤハウェが歩き回っている」「だいたい人間と同じ大きさ」そのような記述は創世記のどこにも無い。「主なる神の歩まれる音を聞いた」(創世記3 8)の記述を念頭に置いているのかもしれないが、ここでは「音」しか聞こえておらず、姿は見えていない(この「音」の単語・訳語を巡り解釈は割れており、瑣末な問題とは捉えられない)。「だいたい人間と同じ大きさ」に至っては、一切記述がない。「かたちに似せて」作ったものであっても、等身大とは必ずしも限らないことは、世間にある人形、ぬいぐるみ、模型などを見ても明らかであろうが、橋爪氏には「似せて」=「等身大」というふしぎな思い込みがあるようである。また、「神が世界の外にあって」というのも典拠不明の珍説。少なくともキリスト教ではそのように教えられていない。橋爪氏は他の箇所でも「神が留守」「神が出て行った」という表現をしており、ここにも橋爪氏の大枠で一貫した誤解が示されている。→聖書篇(p75, p76)、神学篇(p312)も参照。勝手に、誰も言っても書いてもいない、自分の思い込みを二つ並べ「矛盾しているのでは?」と問いかける橋爪氏。誰も言っても書いても居ないふしぎな独自解釈を前提に、独自議論を展開してふしぎがる。ふしぎ拡大再生産。 Genesis 3 8 Then the man and his wife heard the sound of the LORD God as he was walking in the garden in the cool of the day, and they hid from the LORD God among the trees of the garden.創世記3章9節「あなたはどこにいるのか」の注解 無神経・偏見としか思えない見解 頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献 p20 「(神様は友達みたいなものだ、だったら大勢いた方がいい、)友達がたった一人だけなんて、ろくなやつじゃない。」 友達が少ないいじめられている子どもは「ろくなやつじゃない」とも取られかねない無神経な発言です。ちなみに本書には様々な箇所で「いじめ」に無神経な言葉が沢山出て来ます。大学教授も教育者の筈なんですが。 p44 「イスラム教は勝ち組の一神教。ユダヤ教は負け組の一神教。どちらが本物かというと、負け組のユダヤ教だと思う。(中略)(国家が消滅しても信仰を持続させた)ユダヤ教の戦略の正しさを(イスラエル建国が)証明していると言えるのです。」 「勝ち組」「負け組」という問題が多い二項対立を「宗教社会学者」が宗教の分類に使うという時点で驚き。更に、ユダヤ教が「本物」だとすると、イスラム教は「偽物」「まがい物」であると言いたいのだろうか。ムスリムの方に対して大変失礼な言い方である。また、シオニズムは19世紀後半になってから様々な要因で起きたもの。「イスラエル建国」が「ユダヤ教の戦略の正しさを証明している」と捉えては、イスラエル建国に懐疑的だったユダヤ人達の存在を理解出来なくなる。 p328 大澤「ソ連時代に東方正教はたいへんな被害を受けるわけだけど、それは逆に言うと、マルクス主義があったのでちょうどよかったのかもしれない。正教が排除された空きポストに同じようなものが入ったみたいなところが、ほんとうはあるんじゃないかな。」 何が「ちょうどよかった」のだろうか?意味不明。大澤氏によれば「正教を弾圧する」→「精神面の空隙」→「マルクス主義が入り込む」というように、時系列上の間に「空隙」があるかのようだが、そのような事実は無い。また、かなり無神経な発言でもある。たとえば「中華人民共和国ではチベット仏教はたいへんな被害を受けるわけだけど、それは逆に言うと、マルクス主義があったのでちょうどよかったのかもしれない。チベット仏教が排除された空きポストに同じようなものが入ったみたいなところが、ほんとうはあるんじゃないかな。」などと何の断り書きも無く発言すれば、関係各所から猛烈な抗議が来るに違いない。「たいへんな被害」と一口に片づけた後で、「マルクス主義があったからちょうどよかったのかも」などという能天気な発言からは、どれほどの「被害」があったのか完全に無知なのが知れる。ソ連では1918年から1930年までにかけてだけで30万人(!)の聖職者が殺され、1937年と38年には残っていた52人の主教のうち40人が銃殺されている。なお、この数字は聖職者だけのものであり、膨大な数の一般信徒は含まれていない(つまりさらに犠牲者は多い)。修道女も大虐殺の憂き目に遭った。 高橋保行『迫害下のロシア教会―無神論国家における正教の70年』p125 - p126, 教文館 (1996/01) ウィキペディアだったら「誰」(誰がそんな事をどこで言っているのか?)タグがつけられます 頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献 p22 大澤「宇宙と人間を「創造した」Godが、人間にとってはエイリアン、地球外生命体のようなものであるなら、そんな怖いGodといかに付き合うかが一神教の重大なテーマになりますね?」橋爪「はい。」 誰がどこでこのような考え方を「重大なテーマ」と言っているのか?学者が「重大」というからには根拠がある筈だが。まさか大澤と橋爪の二人だけにとって「重大」という意味では無いだろうが。 社会学? 頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献 p146 橋爪氏:イエスが「わずかな食糧で大勢を食べさせた奇蹟」は、「社会学的に言えば」「実際に起こりうることだと思う」。それは、人びとが隠し持っていた食糧を「イエスがうまく、みんなで分け合うように誘導した。それで、みんな食べられた、というわけです」。 人びとが、自分のために隠し持っていた食糧を云々という解釈は、社会学的な見解でも何でもない。このような解釈は、例えば聖書学者であるV. TaylorがThe Gospel according to St. Mark, London, 1963, p.321に記している(ただし、Taylorはこの解釈を退けている)。一読者としては、このような奇蹟物語がどうして生まれ、何故伝承されていったのかを「社会学的に」考察して欲しかった。 意味不明 頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献 p250 「公会議では、意見の対立があるから、それを決着するんです。」「公会議は多数決。多数決ですらない場合もある。」 多数決なのか多数決で無いのか、どちらなのか? 思いつき 頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献 p17 「イエスの出現は、旧約聖書の預言者がやがてメシアがやってくると、預言していたものです。(中略)特に、『イザヤ書』の真ん中より少し後ろ(第二イザヤの預言と言われる部分)にそのことが書いてある」 メシアの到来が、イザヤ書の第二イザヤが記したと言われている個所に書かれているというのは正しい(イザヤ書52章13節から53章12節)。とは言え、橋爪氏の他の著作にも言えることだが、彼は第二イザヤのメシア預言をのみもっぱら取り上げ、他の箇所をあまり取り上げないのはどうであろうか。例えば、有名な「処女懐胎」をマタイ福音書が語る際、預言として引用している旧約聖書の個所は第二イザヤではなく、第一イザヤが記したとされるイザヤ書7章、所謂「インマヌエル預言」(もっとも、ここの「おとめ」が処女が、ただの若い女かは議論があるが。なお、この個所はルーテル教会などをはじめとして、教会ではクリスマスには必ず読まれるはずの箇所でもある)であるのだから(マタイ1:23はイザヤ7:14の引用。更に、マタイ4:15もイザヤ8:23、9:1の引用)。なるほど、新書という点で分量に制限があるから多くの個所に言及することは出来ないであろうが、そうであったとしても、一般の読者に馴染みがないであろうし説明も為されていない「第二イザヤ」などという言葉を用いず、「イザヤ書」とだけ語り、他の文書、たとえば「詩篇」なども挙げておくのが適切であると考えられる。 Catholic Encyclopedia Isaias p277 「新大陸の発見は、大航海時代をもたらした。でも、大航海と言えば、中国人だってイスラム教徒だって、航海の能力をもっていた。問題は、航海の能力ではなく、新大陸に移住する動機を持っていたかどうかです。なぜキリスト教徒だけが、新大陸に大挙移住したのか。それは、旧大陸でいじめられたから。宗教改革は、キリスト教にふたたび亀裂をうみ、不寛容と宗教戦争をひき起こした。戦争では、勝ち組と負け組みができる。負け組は居場所がない。ボート・ピープルになって新大陸を目指すしかないんです。旧大陸でそこそこ安楽な暮らしができれば、誰が好んで新大陸に行きますか? だから中国人もインド人もアラビア人も、新大陸に向かう積極的な動機を持たなかった。キリスト教徒だけがその動機を持ったのです」 もちろん動機も大切である。しかし橋爪氏の頭の中には、地理的な有利不利という考えはないのだろうか。ヨーロッパと中国とインドとアラビア、どこが最もアメリカ大陸に近いか、その物理的距離がアメリカ大陸の発見と人々のアメリカ移住にどれだけ有利であるか、読者の皆様は考えられたし。更に、大航海時代の中国やインドやアラビアに住む人々が「そこそこ安楽な暮らし」ができた、と考える根拠も不明である。なお、橋爪氏はアメリカ大陸を「新大陸」と呼ぶが、現在ではこれはヨーロッパ中心主義あるいは植民地主義の言葉であるとの批判がある。 世界地図 p326 「ヘーゲルの弁証法はもっとあからさまに、キリスト教の論理を取り込んだものになっている。三位一体を下敷きにしたものだと思います。ドイツ語には再帰動詞というものがある。『自らを○○する」のような、自動詞でも他動詞でもない第三の動詞なのですが、この動詞の用法が弁証法のロジックとシンクロしている。ルターのドイツ語訳が、この組み合わせを生み出したのだとすると、ヘーゲルも、マルクスも、その残響の中で仕事をしている」 不明である。ヘーゲルの弁証法がどのように「三位一体を下敷きにした」のか説明が無いために、まったく不明である。なるほど、ドイツ語の再帰動詞の「用法が弁証法のロジックとシンクロしている」と橋爪氏は説明しているが、三位一体とドイツ語の再帰動詞と弁証法とがどのような関係にあってどのような意味で「シンクロしている」のか、一切説明せずに、読者の想像力にまかせている点で、何も言っていないに等しい。そもそも、ドイツ語以外にも再帰動詞があるのに、何故ドイツ語だけが「弁証法のロジックとシンクロ」したのか、全く不明であるし、再帰動詞が自動詞と他動詞の関係が、どのような意味で「命題」「反命題」「統合」の関係であるのか、不明である(そんな説明をする言語学者はいない)。要素が3つあれば三位一体だ、というのは、何の説明でもない。 14刷で唐突に巻末に「主の祈り」と「使徒信条」を追加し、更にその説明が不適切 頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献 p343 「※主の祈りは、福音書(マタイ6章、ルカ11章)でイエスがこうして祈れと教えた祈りで、キリスト教徒に共通の祈祷である。教会・教派ごとに表現のちがいはある。ここに載せた日本語は、よくあるものを選んだ。なお、最終行は福音書にない、付加部分。「罪」とあるのは原罪ではなく、咎や過ちの意味である」として、ルーテル教会式文の「主の祈り」の訳と、King James Version Matthew 6 9-13)として英語版のLord s Prayerを掲載 1. なぜ14刷になって、本文中に言及もなかった「主の祈り」を追加したのか2. 「日本語は、よくあるものを選んだ」として、出典をきちんと書かないのは学者として不誠実である3. ルーテル教会式文における「主の祈り」の翻訳は日本キリスト教協議会統一訳と漢字表記が違うだけのものである上、「キリスト教徒に共通の祈祷である」のは確かである。これも真正な「主の祈り」の訳である。しかしなぜ、基本的にルーテル教会限定のみで用いられているルーテル教会式文から引用したのか疑問 4. 英語訳を付加した理由が不明。そもそも原文は英語ではなくギリシア語コイネーである。5. すでに指摘済みであり、繰り返しになるが "King James Version Matthew 6 9-13"として欽定訳聖書から引用しているが、これと「最終行は福音書にない、付加部分」という注釈が致命的に食い違っている。福音書にないのではなく、後代の付加である、というのが正しい。欽定訳聖書のマタイ福音書6章9節以下の主の祈りを引用しているが、そこには「福音書にない、付加部分」と橋爪氏が呼ぶ個所が記されている("For thine is the kingdom, and the power, and the glory, for ever. Amen")。これを橋爪氏はどのように説明するのか。KJVに含まれているマタイ福音書は福音書ではない、と主張するのか。6. この橋爪大三郎の説明を敷衍して考えると、欽定訳聖書だけでなく、同様の箇所を含むルター訳聖書などのマタイ福音書も福音書ではないことになり、日本語の聖書の新改訳聖書などのマタイ福音書も福音書ではないことになる。}7. 橋爪大三郎は日本福音ルーテル教会の信徒ながら、『ふしぎなキリスト教』本文中において「イエス・キリスト=神の子」という概念をふしぎがっているが、キリスト教の基本においてキリストだけが「神の子」であるわけではない。十字架の恵みと聖霊の注ぎによりキリスト教徒すべてが罪人のままあがなわれ、「神の子」として扱われる。その約束のもとに、創造主なる神を「天にまします我らの父よ」と呼ぶことができる、という理解である。これはルターの小教理問答にも書かれている、多くの教派に共通した基本的な理解である。橋爪大三郎のこの著書、および他の著作を読んでも、彼がこの「主の祈り」の一行目すら理解できていないのはふしぎである。また、そのような基本教理の説明もなしに、「主の祈り」を、ふしぎな言い訳のように掲載するのもふしぎである。 ルター 小教理問答 日本福音ルーテル教会カトリック教会のカテキズムによる主の祈り デルコル神父訳 祈り 私祈祷 日本正教会 ウエストミンスター信仰基準 日本基督改革派教会訳 問187-196 p443 「※使徒信条は、カトリック、プロテスタントに共通する信仰箇条(三位一体説を簡潔にまとめたもの)である。日本語はよくあるものを選んだ」として、ルーテル教会式文の「使徒信条」の訳とLutheran Service Bookからの英語訳を掲載 1. なぜ14刷になって、本文中に言及もなかった「使徒信条」を追加したのか2. 「日本語は、よくあるものを選んだ」として、出典をきちんと書かないのは学者として不誠実である3. ルーテル教会式文における「使徒信条」の翻訳は真正な訳である。しかしなぜ、基本的にルーテル教会限定のみで用いられているルーテル教会式文から引用したのか疑問4. 英語訳を付加した理由が不明。そもそも原文は英語ではなくラテン語である。5. 使徒信条は、カトリック、プロテスタントに共通する信仰箇条(三位一体説を簡潔にまとめたもの)とあるが、これは誤解を招く表現である。確かに、この信条による神の三つの位格への信仰告白は、三位一体への信仰告白としても理解される。ルターの小教理問答でもそこを強調している。しかし、三位の位格が「一体」であることの告白文としては弱い。なぜなら、そこがこの信条の主眼ではないからである。一般的な理解において厳密に言えば、三位一体をまとめた基本信条はアタナシオス信条である。5. 使徒信条は主に西方教会で用いられ、東方教会では用いられていない。使徒信条はせめて「西方教会の信ずべき事柄を簡潔にまとめたもの」という位置づけにするのが適切だろう。6. この文脈だと、カトリックでもプロテスタントでもない、正教会は三位一体を採らないように読めてしまうが、東方教会でも西方教会でも共通して使われているニカイア・コンスタンティノポリス信条にもみられる通り、正教会も三位一体を信仰している。そもそもアルメニア教会についての誤認(p256)がある段階で、橋爪氏も大澤氏も碌に東方教会につき調べていないのではと疑われる。幅広く使われているニカイア・コンスタンティノポリス信条を挙げずに、(ルーテル教会訳の)使徒信条を挙げたのはなぜなのか疑問。尤も、東西教会分裂の原因にフィリオクェ問題を挙げていない両氏の姿勢を鑑みれば、同信条を挙げようとしたところで、結局は「子からも」の有無の違いに言及することは出来ないかもしれず、そうなるとやはりいずれにせよ、東西教会の中立的観点は損なわれるが。7. Lutheran Service Bookにおけるこの「使徒信条」の英訳は宗教改革時、カトリックと対立した際に「聖なる公同の教会」にあたる "sanctam Ecclesiam catholicam"という語句を「カトリック(普遍的な・公同の)」の語を避けて"the holy Christian church"と訳したものであり、教派色が強い訳文である。カトリック、聖公会、改革派・長老派、メソジストなどでは"the holy catholic church"という訳を用いる。ELCAなどルーテル派でもエキュメニカル版の使徒信条を作成しており、その訳文では"the holy catholic church"という訳を用いる。8. 著者が大学教授ならば当然理解しているはずだと信じるが、ある特定のテクストを選ぶ際、その選択はある種の主張の表明ともなりうる。日本福音ルーテル教会の信徒である著者がルーテル派の教派色の強い「使徒信条」のこの訳をこの本に掲載したということは、著者はルーテル派の立場に立っている(あるいは代表している)、という主張の表明とみなしてよいのだろうか? ルーテル教会の信仰 日本福音ルーテル教会 ルター 小教理問答 日本福音ルーテル教会Apostles' Creed Catholic EncyclopediaThe Three Ecumenical or Universal Creeds - Book of ConcordThe Large Catechism The Apostles' Creed - Book of ConcordFaith -Emmanuel Lutheran Church, Missouri SynodThe Apostles' Creed - Evangelical Lutheran Church in AmericaApostles' Creed Westminster Presbyterian Church The Apostles' Creed - United Methodist Church 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
https://w.atwiki.jp/takakengassaku/pages/37.html
ルーマニア人デミ
https://w.atwiki.jp/2choogiricgi/pages/41.html
NO 154 名前 隠れキリシタン 得票率 1.89 投稿回数 169 HR回数 0 場外回数 0 1位回数(率)7(4.14%) 平均偏差値 49.03 最終投稿回 44105
https://w.atwiki.jp/2choogiricgi/pages/39.html
NO 136 名前 隠れキリシタン 得票率 2.08 投稿回数 248 HR回数 1 場外回数 0 1位回数(率)10(4.03%) 平均偏差値 49.90 最終投稿回 44894