約 3,227,255 件
https://w.atwiki.jp/takakengassaku/pages/31.html
http //live.nicovideo.jp/watch/lv261445531 2016/05/01 開場:18 57 開演:19 00 時間 内容 備考 4 00~ 1個目タイトルないね(解像度が異なりgdgdしてしまう) 6 00~ 音MAD:無題 Iphoneの曲のMAD 闇風特攻隊 7 00 飛ばしまくる アンチコメまみれになる 同じようなのばっかりやしね 9 54 字が間違ってる! 建志 10 17~ MAD 世界に一つだけの花 高田建志ver. 健志の歌にあわせたMV 12 18 お葬式で流そう!字間違ってるし 13 08 一つも確認しないから今日はBANの日かもしれない 危ないと思ったら消すから 信用してるから 14 26 コラ ファイナルファンタジー9 コラ画像 健志「すげぇ!」 15 35 つわはす合ってる!スタイナーが! 16 20 15分の奴あるけどこれから飛ばさずに行くわ 17 31 音MAD Kenshione 俺はこの思い出を思い出したくないから! 元ネタ Clione kors k おしゃれ! はげなすび 20 21 思い出したくない思い出だから たかし;; 21 12 MAD 大殺界!?高田の配信日記 絵日記風で今年の出来事 すげえ! 愛がある 22 22 わらし;; 23 59 放送休止の所に絵がないセンスを感じた 1018944 00 24 25 MAD ラブ健志 セピア 恐らく何かのCM サムネの顔が気がかり 遺影にしか見えない かっこいい奴なってるやん!どういうことやねん! 26 45 コラ 高田組・墨 加藤と馬場と久保田 謎 29 30 MAD ストーリーミングファイターV 佐野、森、石川、だーすけ かっけぇやん 2度見る CM MAD ストV 31 00 MAD パズドラCM「転校生高田健志」 パズドラCM すごいよね 33 15 MAD モンブラン健志 森、加藤 いい味が出てる 嘘つきノーランド ワンピース 35 44 謎 リハビリ 謎何かの逆再生 怖い怖い 37 45 MAD デザイン健志 「けんし」という言葉の含まれるものと健志のコラ画像 NHKの番組が元ネタ 39 30 音MAD 不明 いいね短くて ボー蛟ロイド チェリー 40 40 チラ見でもやばい 健志のジャニダン 踊ってみた:ジャニダン 踊ってみたってことやんね 42 40 MAD:タイトル不明 最初に加藤の顔がどんと出るMSSP、つわはす、加藤 十周年動画って言ってその年に開けって送られてきたけど見ます。サムネでお前!ってなる 何なのこれ!? 仮面ライダーディケイドが元ネタ? 45 50 MAD 犯人は誰だ MSSP、馬場、キヨ、レト、syamu スマホで動画作ったって言ってたけど大丈夫なのか 二回みた iMovieで作ったもの? もこうが4んでもよくない?? 49 50 音MAD 不明 元ネタ V dj taka 51 10 たかしで滑った思い出思い出したくない… 52 00 MAD:不明 元ネタ:2001年宇宙の旅 何なのコレ 深い 意味も解らんけどね 馬場 二回見た 謎 KENSHI IS GOD 55 10 音MAD 夢想健志 ボー蛟ロイド 俺の声で汚さないで 動画はコラのスライドショー元ネタ:うたわれるもの 健志も鼻歌 57 50 MAD 高田健志の情熱大陸再編集版 原作者が再編集した物 あれめっちゃ好きやから15分じっくり見よう 森、石川 1 01 森ドン卑怯笑っちゃう 1 01 20 森ドン卑怯笑っちゃう 1;02 58 自分のBL読み上げで笑う 1 06;10 5秒で矛盾させる男 1 07 40 悲しいなぁ… 高田馬場加藤 1 08 20 もうできない;; 1 10 00(追い出された) 満員 Zipの人は見れてない DLできないらしい 1 14 43 おかわりタイム:日記 これすごいよね わらしがマジ似てるからいらつく 1 17 09 みんなこんな俺だけどよろしくな(読み上げる) 1 18 10 最初の音MAD LINEでしょ?(感じない) 電話のやつか 1 19 33 俺アラーム爆発音にしてるから 1 20 50 このあと料理枠やる 食材まだ買いに行ってない 1 21 00 十時ぐらいには 1 21 38 モンブラン健志 全員4ね!4にさらせ!! 1 22 33 実話じゃないですよ 1 24 00 次回決めるわ、カレンダーにかいてどんな仕事も入れない 嘘じゃないよ 1 25 23 8/21 夏休み入ってからの週 1 25 30 出来上がり次第送ってください そのたび保存します 1 25 50 形式はmp4で、面白かったらいいです 1 26 07 解凍できなかったのは次回に回します 1 28 46 アンケで決定 自分は日記かスマホの奴 1 28 50 1位日記、2位ワンピ、3位情熱 1 29 16 デザイン見る 1 29 44 不安定になるとことが健志に合ってる 1 29 55 心してみてな これが10%入ってるんだけどw 1 31 27 日記みて終わりましょう 1 31 40 料理枠10時か11時ぐらいから 1 31 59 最後の晩餐w 明日は健康診断 1 32 37 健志いままでありがとな さよならじゃないから 1 33 00 日記 3回目 絵がいいしわらしも似てるし緑が好きっていうのも合ってる
https://w.atwiki.jp/kamigotou/pages/14.html
日本にキリスト教が伝来したのは、フランシスコ・ザビエルによる1549年のことです。 翌年の1550年にフランシスコ・ザビエルが平戸に上陸したのが、長崎におけるキリシタン の歴史の始まりだと言われています。 1566年、五島藩の第19藩主 宇久純尭(すみたか)公の庇護の下、布教活動が進められ、 五島における信者の数は二千人を超えたと言われます。 領主純尭公は、夫人とともに洗礼を受け、キリシタン大名となっています。 しかし、1587年に豊臣秀吉のキリシタン禁教令によって、五島の教会が閉鎖されます。 1614年には江戸幕府によって禁教令が発布され、五島にも弾圧の手が伸びてきます。 以後、信仰は地下へと潜伏し、潜伏の時代として長い年月を生きていきます。 この潜伏期の1797年、五島藩の要請を受け、大村藩外海地方(現長崎市外海町)のキリシ タン農民第一陣、108人が信仰の自由と安住の地を求めて、五島各地に移住してきます。 その後、その数は三千人以上に達します。 しかしながらご覧のように、上五島地区は、土地は山の傾斜が急で、平地が少なく、開梱 して畑を拓くのは並大抵の苦労ではなく、厳しい弾圧の中、信仰だけが日々の救いであった と言われております。 さらに禁教令が解かれる寸前、1867年長崎の浦上に始まった弾圧の嵐(浦上四番崩れ)が ご当各地でも吹き荒れ、数百人の信徒が殉教しています。 特に、五島崩れと言われる五島市・久賀島の弾圧では、久賀島の宗徒200名近くが6坪の 小屋に押し込まれ、8ヶ月にも及ぶ期間監禁され、39名の方が牢屋で殉教したとされ、今 では牢屋の窄殉教地として、記念碑と記念聖堂が建てられております。 こうした迫害は五島全島に及び、ここ上五島でも各地でキリシタンへの迫害が相次ぎま した。 改宗を迫るため牢に入れられ、毎日、算責めや海中への逆さ吊り等の拷問が行われたそう です。 こうした迫害の嵐が収まりかけた1870年の1月24日の夜には、有川の郷士4名が鯛ノ浦 (鷹ノ巣)地区の寅吉方を襲い、寅吉の一家六人を斬るという、惨殺事件も起きております。 このような信仰の自由のない日本の実情が外国から非難を受け、1873年(明治6年)ついに 禁教令が解かれます。 1879年(明治12年)パリ外国人宣教会のマルマン神父によって、福江島の堂崎後に仮聖堂が 建てられ、ここを弾圧後の五島における宣教活動の拠点として、次々と五島の各地に教会堂 が建てられていきました。 現在五島には、49もの教会が活動しており、上五島にはそのうち29(そのうち、長崎県内 で使われている木造教会としては最も古かった江袋教会が平成19年2月の火事により消失。 現在は復元されています。)の教会があり、島の人口の約23%・約5800人の方がカトリック 信者として信仰を守っております。
https://w.atwiki.jp/takadakenshi_hakaba/
ここは高田健志の墓場です。 ●お知らせ トークンエラー回避用ページ スマホ用ページ コメントログ超過分 コメントログ コメント すべてのコメントを見る やあ -- 2019-05-01 05 29 48 人がいて機能している健志の掲示板って5ちゃんのみ? -- 2017-12-02 23 50 29 墓場避難所チャットできなくなってるんだが -- 2017-11-27 11 57 22 この墓場はどんどんと発展していくのか? -- 2017-11-21 11 55 11 どうするんだよここ -- 2017-11-17 23 39 13 はいどんも -- 2017-11-17 18 59 02 どんもー -- 2017-11-17 08 23 49 みんにょ? -- 2017-11-17 00 45 38 はいこんにゃ -- 2017-11-17 00 30 43 こんにゃ~ -- 2017-11-16 23 52 31 なんなんだ -- 2017-11-16 23 50 27 ここで細々やっていこう -- 2017-11-16 23 22 05 なにここ -- 2017-11-16 23 18 41 管理人は誰? -- 2017-11-16 23 09 30 神 -- 2017-11-16 23 03 17 なんだここは -- 2017-11-16 22 56 39 テスト -- 2017-11-16 22 47 40
https://w.atwiki.jp/iyeongdeok/pages/15.html
近代世俗主義の先駆けとして隠れユダヤ教徒(マラート)を評価しようとしている。 しかし隠れキリシタンと同列に併記することは難しいと個人的には思う。 歴史上の人物や本を書くにあたって実際にあった方々が非常に魅力的に描かれており、 作者を含めた 人物 フランシスコ・ザビエル イエズス会創設者の一人、海外での献身的な布教活動で知られるが、異端者、異教徒に対しては容赦なく、 ルイス・デ・アルメイダ マラーノでイエズス会士、医師としても活躍し、日本初の西洋医学の病院を建設するが、 彼の用いた薬用天秤が隠れキリシタンの家で(御神体)として代々まつられてきた。 クリストヴァン・フェレイラ(沢野忠庵) サバタイ・ツヴィ 本島等 元長崎市長、日本の第2次世界大戦における戦争責任を重視し、 広島原爆ドームの世界遺産登録に反対、高校生の修学旅行に広島、長崎が多いことにも意義を唱えるが、 右翼団体による暗殺未遂の被害にも遭う。 不干斉ファビアン 最初修道士であったが後に棄教し、キリシタンを排撃する書を著した。 古賀十二郎 在野の長崎郷土史家、 遠藤周作
https://w.atwiki.jp/unkochan_uki2/pages/58.html
高田健志 音声スターターパック 下記の外部リンクから最新版を利用できます。 荒らされていた場合は履歴から復元してください。 音声スターターパック - takakengassaku @ ウィキ - atwiki(アットウィキ) 高田健志素材 - takakengassaku @ ウィキ - atwiki(アットウィキ)
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/16.html
当ページでは、橋爪・大澤による「ふしぎなキリスト教」以外の、良質な入門書を紹介します(書籍紹介ページなので当ページは「ですます」調です)。 「ふしぎなキリスト教」が解り易いのだから、細かい少しの間違い(実際には量的に膨大、質的に最悪な間違いが沢山あるのですが)を気にせずに読んでもらえばいいじゃないか、と仰る方が結構巷間にみられますが、それはずっと良質な本を書いている他の人(実際に居ます)に失礼というものではないでしょうか。 批判者達は「もっと良質な本がある」事を知っているからこそ、批判しています。 一般日本人が「これだからキリスト教ってのはよく解らないんだよね(嘲笑)」という、結論が見えて居る内容の出鱈目な本ではなく、もっと真摯に「キリスト教ってどんな宗教なんだろう」と知りたい人に勧められる本を紹介して参ります。 (管理人より)ウィキシステムは使いますが、本ページでは「外部リンクに挙げられているトゥギャッターで、複数の人の間で高い評価を得た本を挙げる」という基準を設けます。 総合入門書 『なんでもわかるキリスト教大事典』 (朝日文庫) 八木谷涼子 ISBN 9784022617217 「ふしぎなキリスト教」を批判する人たちの間で複数から推されていたのがこれ。 外面的なところまでしか踏み込んでおらず、教派の違いを列挙するだけにとどまっていますので、それこそ専門家には深みの無い内容ではありますが、しかしだからこそ、「知ったかぶり」の無い、対象に誠実に取材した良書になっています。イラストも豊富で、各種考証が仕事で必要になる方にもお勧め出来ます。 950円という大変お手頃な価格も高評価。 『知って役立つキリスト教大研究』(新潮OH!文庫) 八木谷涼子 ISBN 9784102901335 の改訂増補版が上記『なんでもわかるキリスト教大事典』 (朝日文庫) になります。 『総説キリスト教―はじめての人のためのキリスト教ガイド』(キリスト新聞社) アリスター E.マクグラス (著), 本多 峰子 (翻訳) ISBN 978-4873955247 こちらは割りと本格的なキリスト教の総合入門書。 しかし、結構なお値段なので、図書館などのご利用もオススメします。 教派(宗派)について 『よくわかるキリスト教の教派 新装版』(キリスト新聞社) 徳善義和, 今橋朗 ISBN 9784873954974 キリスト教では、厳密には「宗派」ではなく「教派」といいます。。 八木谷氏の本とは違い、この本は、現在の日本にある教派につながる様々な流れを通時的に理解するのに役立ちます。 あと、分裂の歴史を持つプロテスタントの流れを追うのにも適していたり。 <注>日本における正教会の団体として、「ロシア正教会モスクワ総主教庁駐日ポドウォリエ」についても記載されているのですが 正教における用語として不適切な「皇帝教皇説」なども挙げられていたりするなど欠点も見受けられます。 神学の入り口 『キリスト教の精髄 (C.S.ルイス宗教著作集4)』(新教出版社) C.S. ルイス (著), 柳生 直行 (翻訳) ISBN 9784400520542 『ナルニア国物語』などで知られる作家、C.S. ルイスはキリスト教に関する著書を多く書いています。 特にこの本は定評のある本です。原題はMere Chrisitianity、つまり「ただのキリスト教」というタイトルなのですが、 日本語版は「キリスト教の世界」とか「キリスト教の精髄」とか、大げさなタイトルになってしまいます。 でも、それだけ、体験を通した信仰と、しっかりとした神学に裏付けられた本だからだと思います。 神学 『キリスト教神学基本用語集』(教文館) Justo L. Gonzalez (原著), 鈴木 浩 (翻訳) ISBN 9784764240353 西方教会についての用語が殆どで、東方教会については殆ど言及していないという弱点はありますが、逆に「東方についての知ったかぶり」はありません。「用語集」ですが著者は一人なので、「メソジストのフスト・ゴンサレスが一人で書いた」ことは念頭に置いた方がいいですが、お手頃価格で西方教会の神学用語のあらましを知ることの出来る良書です。 東西教会比較 『ギリシア正教 東方の智』 (講談社選書メチエ) 久松 英二 ISBN 9784062585255 「カトリック教会の神学者が正教会とカトリック教会を比較して書いた」という視点についての前提のもとで読むと大変興味深い良書。 正教会 『ギリシャ正教』(講談社学術文庫) 高橋保行 ISBN 9784061585003 1980年に書かれた本であり、世界の正教会の状況について書かれた部分はデータとして古くなっては居ますが、今も使える正教会についての総合的な入門書です。カトリックやプロテスタントの人物による翻訳・著作ではなく、正教会の司祭(神父)による著作なので、日本正教会での日本語表現・語彙のあらましも知ることが出来ます。 『東方正教会』(文庫クセジュ) オリヴィエ・クレマン(著), 冷牟田 修二(翻訳), 白石 治朗(翻訳) ISBN 9784560056073 「正教会の神学者が正教会について書いた」という前提のもとで読むと大変興味深い良書です。ただし、若干の基礎知識が要求されますので、総合的な入門としては上記がお勧め。神学面での入門書としてはこちら。 カトリック教会 『カトリック教会のカテキズム要約(コンペンディウム)』(カトリック中央協議会) 日本カトリック司教協議会 常任司教委員会 ISBN 9784877501013 バチカン認可の『カトリック教会のカテキズム』、さらにその要約版を、これまた教皇認可のもとにわかりやすく編集されたもの。 カトリックの内部向けだけでなく、外部にも、他の信仰を持つ人にも読んでほしいQ&A集。 『カトリックの信仰』(講談社学術文庫) 岩下 壮一 ISBN 9784061591318 戦前の書ですが、日本語で書かれた教義解説書の中で、今に至るも最高峰に位置します。聖書学などで著者の見解には乗り越えられた部分も多々あると思いますが、しかし、基礎的な教養として知っておいても損にはなりません。厳格な新スコラ主義的教育の薫陶を受けたと思われる硬質な文体もまた、現在の日本では失われたに等しい曖昧さや妥協を嫌う理知の輝きというものを放っています。 聖公会 (英国国教会) 『道をたずねて―祈祷書に基づいたカテキズム』(聖公会出版) B.D. タッカー(著), 赤井 勝哉(翻訳) ISBN 978-4882740834 またカテキズムになってしまうけれど、これもすごくまとまった良書です。 日本の大学で教鞭を執っていたタッカー教授が、できるだけわかりやすく、かつ神学的に正しくまとめたもの。 緑の表紙にケルト十字の表紙です。 『聖公会が大切にしてきたもの』(聖公会出版) 西原 廉太 ISBN 978-4882742111 2009年に聖公会関係学校教職員研修会で行われた講演をもとにまとめられた本。 日本の歴史などとからめ、身近な話題からに「聖公会とは何か」を優しくわかりやすく解説した本。 ルター派(ルーテル派) 『マルティン・ルター――ことばに生きた改革者』(岩波新書) 徳善 義和 ISBN 978-4004313724 ルターの伝記仕立てという読みやすい構成ながら、随所にルターの思想のかんどころや後世への影響を書いているので、読むだけでルターのことがなんでもわかってしまう。 音楽の才能にも恵まれたルターが作った讃美歌が、後のバッハやメンデルスゾーンの音楽に影響を与える一方、ナチスに利用された負の歴史もちゃんと紹介しています。 キリスト教を「ことばの宗教」ととらえ、「ことばに生きた」ルターがやった宗教改革は、聖書という「ことば」によってキリスト教を改革しようとしたことだと、「ことば史観」でルターをまとめあげたのも見事です。 <注>正教会に関して p109で、「(東欧は)北はロシア正教、南はギリシア正教」のような誤った記述が見られるなど、欠点も見受けられます。 『ルター―異端から改革者へ 』(教文館) T・カウフマン(著),宮谷尚実 (翻訳) ISBN 978-4764266858 ルターについての一般向けの概説として、良い本です。訳文も比較的、分かりやすいです。 カルヴァン派(改革派・長老派) 『長老教会の問い、長老教会の答え:キリスト教信仰の探求 』(一麦出版社) ドナルド・K・マッキム(著), 原田浩司(翻訳) ISBN 978-4900666818 問いと答え、という形式で、初歩的なところから細かく丁寧に解き明かしていく構成になっている本です。 会衆派(組合派) 『祈りのこころ』(一麦出版社) ピーター・テイラー・フォーサイス(著),大宮溥 (翻訳) ISBN 978-4-86325-002-4 会衆派(組合派)は、その長い歴史の中で、そしてそれぞれの会衆の中で、幅の広い神学を示してきました。 清教徒革命時やピルグリム・ファーザーズなどの清教徒の要素が強い時代から、19世紀以降の超教派的姿勢まで。 その中で、この教派の神学をきちんと追求し、広く認められている神学者がフォーサイスです。 この本は彼の本の中でも、わかりやすく「祈りについて」書かれたものです。 メソジスト 『メソジストって何ですか―ウェスレーが私たちに訴えること』(教文館) 清水光雄 ISBN 978-4764269019 メソジストの歴史から、その神学までわかりやすく書かれた入門書です。 聖公会・カトリック・東方正教から継承した信仰の遺産や、18世紀英国とアメリカ独立戦争とメソジストの関係などにも触れてあります。 福音派 注:「福音派」とは教派名ではありません。聖書信仰を重視し(聖書主義)、十字架の購いを重視し(十字架中心主義)、回心を重視し(回心主義)、伝道を重視する(行動主義)の教派やグループの総称です。 『わたしの使徒信条 ~キリスト教信仰の真髄~』(いのちのことば社) 藤本満 ISBN 9784264029694 基本信条である使徒信条を読み解きながら、信仰を総合的に体系的に解き明かし、告白する本です。 『総説 現代福音主義神学』(いのちのことば社) 宇田進 ISBN 9784264028970 現代という時代の文脈において、福音派の神学を解き明かした本です。 同じ著者の『福音主義キリスト教と福音派』とあわせ、神学校でも広く用いられている本です。 『信じてたって悩んじゃう〔合本・愛蔵版〕』(いのちのことば社) みなみななみ ISBN 9784264028970 タイトルにもあるように、「信じてたって悩んじゃう」等身大のキリスト教徒の姿を描いたもの。 信徒がさまざまな問題にぶつかって悩んでいく姿を等身大で描いています。 古典的著作 入門書とは少し異なりますが、おさえておきたい古典的著作を挙げます。 『世界の名著 16 アウグスティヌス』 (中公バックス) アウグスティヌス (著), 山田 晶 (翻訳) ISBN 9784124006261 言わずと知れた西方教会最大の教父、アウグスティヌスの有名な書、『告白』です。 『キリスト者の自由・聖書への序言』 (岩波文庫) マルティン・ルター (著), 石原 謙 (翻訳) ISBN 9784003380819 ルターの著作の中で最も有名なもののひとつ。短い文でやさしく語りかけながら、同時に信仰、特にプロテスタント信仰の基本を語る書です。 『信仰の手引き』 (新教新書) ジャン・カルヴァン(著), 渡辺信夫 (翻訳) ISBN 9784400540014 カルヴァンの『キリスト教綱要』の初版が出版された翌年に書かれたもの。『キリスト教綱要』の初版の考えをコンパクトにまとめた本としても評価が高い書です。 ページ一覧 間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」 (2012年6月2日現在、2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。今後さらにページを分割することも有り得る。) 歴史篇(上記ページが容量オーバーになったため分割されたもの、以下同様) 聖書篇(総合・旧約) 聖書篇(新約その1) ・ (新約その2) 神学篇 他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?) 疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
https://w.atwiki.jp/trpg_summary/pages/1015.html
レスバス :高田健志 キャラクター詳細 ステータス STR CON POW DEX APP SIZ INT EDU HP MP SAN IDE KNO LUC 50 45 40 50 70 65 70 80 40 70 80 60 技能値 サバイバル(ジャングル):60 考古学:99 回避:75 射撃(拳銃):28 聞き耳:30 目星:35 ナビゲート::99 信用:5 威圧:99 人類学:57 設定 HO3:叡智を求める者 お前にあの石版を取ってこれるわけ無いだろwww と煽られ、我を忘れるほどに怒り狂い 気づけば行きたくもない石版探しの旅に出ていた。 登場セッション 22.3.27 新クトゥルフ神話TRPG『冒涜都市Z~深碧の魔境~』なな湖,たけぉ,高田健志
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/17.html
当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)に記述されている、聖書に関して発言された部分での膨大な量の間違い・誤りを扱う。間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」が容量オーバーになったため、聖書篇を分割して作成。 2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。 ※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者や読者に失礼。 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。 p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。 ※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。 間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」 歴史篇(上記ページが容量オーバーになったため分割されたもの、以下同様) 聖書篇(新約その1) ・ (新約その2) 神学篇 他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?) 疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介 (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^) 聖書についての間違い 目次 1 総論 2 旧約 3 新約その1 新約その2 総論 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p182 「「地獄」というものは、ありません。聖書には書いていない。火で焼かれる。」 「地獄は永遠か」という設問は古くからキリスト教で問われてきた問題ではあるし、「地獄」の意味についても諸説あるが、聖書には「地獄」の単語は書かれている(本当に聖書を読んだのか?)。訳語の問題はある。γέενναとᾍδηςにつき、正教会訳では両方「地獄」の漢字を当てるが(但しルビで訳し分けている)、他方、新改訳聖書はそれぞれ「ゲヘナ」「ハデス」と訳している(但し新改訳聖書を使用する諸教会が「地獄は無い」と主張しているわけではない)。橋爪氏は新改訳聖書しか読んでいないのかもしれないし、「『地獄』とは誤訳だ」と言いたいのかもしれない。しかしだとしたらきちんとそう言うべきだ。「聖書には無い」などと断言する前に、日本聖書協会訳の新共同訳聖書と口語訳聖書で検索をかけてみる事くらいは、学者としてやっておくべきではないか。 新共同訳聖書の「地獄」検索結果 口語訳聖書の「地獄」検索結果 p244, p246, p247 「まず聖霊は、使徒行伝に出てくる」(p. 244) 「でも、イエス・キリストはいなくて、代わりに聖霊がいる。ともかく、使徒行伝には聖霊の記述がある」(p. 246) 「なぜ聖霊が必要かというと、パウロの書簡を神の言葉(聖書)」にするためなんです」(p.247 彼の記述や論理だと聖霊が登場するのは使徒行伝が最初のようだが、使徒行伝が最初ではない。旧約では意見が分かれるが、ギリシャ語訳ユダヤ教聖書(いわゆる「70人訳聖書」)にも新約聖書と同じ単語で「聖霊αγιον πνευμα」が出てくる(詩51 13;イザ63 10,11;ダニ5 12;6 4etc)。(ヘブライ語からだと聖霊とは訳せないが。明らかに「聖霊」となる語を新約から探しても、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ 1.35)、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(ルカ 3.21~22)「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(ヨハネ20.22)、その他ヨハネ14 15-17,26, 16 5-15など。ヨハネ14 15-17,26, 16 5-15 は助け手(パラクレーシス)たる聖霊の役割についても詳しく言及されている。聖霊のこの役割に触れないのも不可解。あるいは不勉強。 新共同訳聖書の「聖霊」検索結果 口語訳聖書の「聖霊」検索結果 p291 「聖書が成立したあと、公会議で聖書の読み方(学説)を決めたが、それも含めて聖書と考える」 そのような聖書の定義をしている教派は無い。公会議で定められた信条は聖書に収められていない。教会が聖書の正典を定めたことを指しているのだろうか?聖書につきカトリックでは旧約46巻・新約27巻、計73巻編成の文書を正典とし(ウルガタ訳聖書の影響)、正教では旧約49巻、新約27巻を正典とし(70人訳ギリシア語聖書)、プロテスタントは旧約39巻、新約27巻、計66巻を正典とする(旧約をマソラ本文のあるものに限定したため)。また、その他の正典を定める教派もある。しかし、正典の編纂と考えてもおかしい。なぜなら、プロテスタントは公会議で聖書の正典を定めたわけではないからである。カトリックは「聖書と聖伝」とし、プロテスタントは「聖書のみ」(聖書自身が聖書であることを証する限りにおいて)、正教は「聖伝は聖書を含む」と考えるが(聖書も公会議も聖伝の構成要素)、「公会議で聖書の読み方を決めた」教派は無いし、「公会議の内容も含めて聖書とする」教派も無い。 教え-聖書:日本正教会 The Orthodox Church in Japan Holy Scripture In The Orthodox Church "The Bible" Compiled by Father Demetrios Serfes CATHOLIC ENCYCLOPEDIA The Bible Canon of the Old Testament Canon of the New Testament 旧約 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p17 「『メシア』はヘブライ語で、救世主という意味」 ヘブライ語での意味は「油つけられし者」(「メシア」のギリシャ語訳である「キリスト」も同様の意味)。「ヘブライ語で」などと言わず、「メシアとは救世主を意味するようになった単語です。」などという説明であれば正解だったが。 CATHOLIC ENCYCLOPEDIA MessiahХристос(Краткий церковнославянский словарь) p29 「たとえば、王妃のイザベラがバアル神を拝んだので、預言者エリヤがバアルの祭司四百五十人を殺害した事件(『列王記上』18章)は有名です」 どうしてイゼベラだけを取り上げるのか、理解に苦しむ。『列王記上』16章31節によれば、王アハブが「進んでバアルに仕え、これにひれ伏した」とある。そもそも、エリヤが「バアルの祭司四百五十人」を殺したのはイザベラがバアル神を拝んだから、というまとめは、読解力の欠如を疑わせる。もっとも、「風が吹けば桶屋が儲かる」というような理屈を理解しろと言うのであれば、話は別であるが。なお、ここで橋爪氏は「バアルの祭司」という言葉を用いているが、正確には「預言者」である。55頁及び109頁に見られる誤り(下記参照)のため、つまり、自説に都合良くするためにバアルの預言者という言葉遣いを避けたのであろう。 列王記上16 31列王記上18章 p33 「さて、ヤハウェにどうやって仕えるか。(中略)第一は、儀式を行う。牛や羊などの犠牲を献げるのですね。犠牲の献げ方にもいろいろあるが、特にヤハウェに献げる場合には、「全焼の供儀」といって、黒焼きにした。」 動物だけが捧げ物ではない。まるで他の祭儀は神に捧げていないかのような口ぶりだが、灌祭(ブドウ酒を捧げる)も素祭(種なしパンを捧げる)も神に献げられるもの(祭司は分け前にあずかるだけ)。 レビ記「素祭」検索結果 民数記「灌祭」検索結果」 p49-50 「ニネベはアッシリアの首都で、そんな異教徒の国のど真ん中で、ヤハウェの言葉を伝えるなんて、自殺行為です。ヨナは嫌だから、反対の方向に向い船に乗った」 確かにヨナは神の言葉に従わなかった。しかし、ニネベで「ヤハウェの言葉を伝える」のが「自殺行為」で、それが嫌だから逃げた、とは、ヨナ書の1章にもどこにも書かれていない。むしろ、4章2節から、神の命令通りにニネベの人びとに神による災いを伝えても、神が思い直し、結果として自分の預言活動が無駄になることが嫌で逃げた、と考えられよう。 ヨナ1章ヨナ4 2 p50 「でも、沖合に出たら大嵐になって、『こいつのせいだ』と、ヨナは海にほうりこまれた」 ヨナ書の記述と異なる。ヨナは自分から申し出て海にほうりこまれたのである。 ヨナ1:12 p50 「ヨナはニネベが破壊されるのを楽しみにしていたのです」 ヨナは「ニネベが破壊されるのを楽しみにしていた」、とはどこにも書かれていない。神が思い直したのが腹立たしいのである。他の箇所でもそうであるが、橋爪氏は聖書を勝手に書き換え、自分の理屈に合うように読む傾向がある。 ヨナ4 2 p50 「ヤハウェは、いや、私は悔い改めたニネベが栄えるのを見るのがうれしい、と答える。」 あまりに元の文章からかけ離れている。元は「ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか。」(口語訳聖書ヨナ書4 11)「栄える」も「うれしい」も書いておらず、疑問文。ヨナ書は神からのヨナへの問いかけであるこの疑問文で終わっている(聖書に、神からの問いかけ・疑問文に人がどう答えたかを敢えて書かないことで、読者自らが自分の答えを出すことを期待していると、教派によって解釈し得る箇所が時々出てくる。)。「惜しむ」という単語は、直前でヨナが日よけのとうごまの木が枯れたことを惜しんでいることと対応している。この文章が重要なのは、「異邦人の人々」に神の配慮が行き届く信仰内容が示されているにとどまらず、「家畜」という動物にまで神の配慮が行き届くことが示されてもいることにもある。これらの意義が全く抜け落ちてしまう橋爪氏の紹介文は、もはや国語でいう要約の態をなしていない。 口語訳聖書ヨナ書4 11"The Orthodox Study Bible Ancient Christianity Speaks to Today s World" p1023, Thomas Nelson Inc; annotated版 (2008/6/17) p53 橋爪「ヤハウェは、ノアに語りかける。神の声を聞いたノアは、預言者みたいなものですが、ノアの一族以外の人びとは洪水で全滅していますから、人類の一部分に語りかけたわけではない。ノアの子孫が地上に拡がったあと、ヤハウェは今度は、アブラハムに語りかけた。人類の一部に語りかけたというのは、アブラハムが最初でしょ?」大澤「言われてみると確かにそうですね。」橋爪「これが、イスラエルの民(のちのユダヤ民族)の出発点になる。」 創世記4 6で、神はカインに語りかけている。さらにノアについても、まだ洪水の起きる前に話しかけているから(創世記6 13)、やはり「一部に」語りかけている。口語訳聖書で15頁にも満たない創世記の冒頭部分すら、橋爪氏も大澤氏も碌にチェックしていない。ちなみに「語りかけられた」だけでは神の民の出発点にはならないことは、カインがその後どうなったかを見れば明らか。こうして橋爪氏と大澤は、既に出発点の意義から、テーマとなっている一民族について理解していない。 創世記4 6創世記6 13 p54 「イスラエルの民は…エジプトに移り…人数が増えて六十万人にもなった。それが、モーセに率いられて、エジプトを脱出した」 正確には、エジプトを脱出した「一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった」のである(出エ12 37。更に民11 21参照)。 出エジプト記12章37節民数記11章21節 p55 「モーセのあとにも、預言者が大勢現れ、ヤハウエはイスラエルの民に語りかけ続ける。アブラハムの子孫以外には、預言者が現れない。この意味で、彼らは、神に選ばれた民族なのです」 ユダヤ人以外でヤハウェから語りかけられた預言者として、バラムがいるので、誤り。 民数記22、23、24章 p68 「『ヨブ記』は、さっきの『ヨナ書』と同じく旧約聖書の「諸書」の一つです」 『ヨブ記』が「諸書」の一つであることは正しいが、『ヨナ書』は「後の預言者」に分類される。 和田幹男 プロテスタントとカトリックにおける旧約正典の比較 p69 「(ヨブは)友達もなくしてしまった」 批判した相手は友達ではない、と考えているのだろうか。個人的にそのように考えて振る舞うのは勝手だが、ヨブ記にあてはめるべきではない。ヨブを批判した三人が批判し終わった後でもヨブにとっては友人であり続けた、と考えられていることは、42章10節「ヨブが友人たちのために祈った」から明らか。 ヨブ42 10 p69 「わしはリヴァイアサンを鉤で引っかけて、やっつけたんだぞ。ビヒモス(ベヘモット)も退治した」 ヨブ記で神はそのようなことは言ってはいない。誰がリヴァイアサンを鉤で引っかけられるか」、「お前ヨブはベヘモットを捕らえられるか」とは語っているが。尤も、橋爪氏がヘブライ語からそのように読めると主張するのであれば話は別であるが(ヘブライ語からそのように理解するのは大変難しいが) ヨブ40章 p69 「ヤハウェも、ちょっとやりすぎたかなと反省した」 そのようなことはどこにも書かれていない。 (各自ヨブ記を読まれたし) p75 「エデンの園には、食べ物が十分にあって、働かなくていい」 創世記2章15節に「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」とあるが、この「耕し」はヘブライ語で「働く」を意味する単語である(LXXでも同様)。エデンの園でも人間は働いていたのである。 創世記2章15節ヘブライ語版創世記ギリシャ語版創世記 p75 「この二つの樹の実を食べてはいけないよ、それ以外の実は食べてもいいけど、と言い置いて、神様は(楽園から)出て行ってしまうわけです。」 どこに「出て行った」というのか?そのようなことはどこにも書かれていない。「最強のキリスト教入門書」を謳うなら、聖書に書いていない橋爪氏による創作物語ではなく、(同箇所は短い文章なのだし)聖書をそのまま引用すべきだろう。なお橋爪氏は他の箇所でも「神が留守」「神が出て行った」という表現をしており、「瑣末な間違い」ではなく、橋爪氏の一貫した誤解であることが判る。→下記p76と、間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(神学篇)(p312) 創世記2章参照創世記3章9節「あなたはどこにいるのか」の注解 p76 「で、神の留守に、蛇が出てくる。蛇はサタン。反対者ですね。イブに「知恵の実を食べてみないか、きっとおいしいよ」とそそのかす。」 「神の留守」「食べてみないかとそそのかす」そのようなことはどこにも書かれていない。蛇の誘惑はより狡猾なものであった。イブは自らの意思で食べたのである。またイブに勧められたアダムも、自分の意思で食べている。蛇は「食べたらどうだ」とは言っていない。この後、神からの問いかけに対して人が責任転嫁を行っていることが、神の前に罪を犯した人間の好ましくない有り様であると捉えることが、殊に正教会、カトリック教会における重要な告解理解に繋がるのであって、瑣末な間違いではない。ここも、「最強のキリスト教入門書」を謳うなら、聖書に書いていない橋爪氏による創作物語ではなく、(同箇所は短い文章なのだし)聖書をそのまま引用すべきだろう。なおここから先は「細かい間違い」かもしれないが、橋爪氏は「蛇はサタン。」と述べているが、そう捉えない教派・解釈例もあるので、特定教派もしくは特定思潮の立場をとらない書籍において簡単に断言してしまうのは、厳密には不適当もしくは偏向である。 創世記3章参照『旧約聖書略解』p14, 日本基督教団出版局, 1986年5月10日 40版"The Orthodox Study Bible Ancient Christianity Speaks to Today s World" p6, p8, Thomas Nelson Inc; annotated版 (2008/6/17) p80 大澤「だいたい、理由も言わずにただ」知恵の樹と生命の樹の実を「『食べてはいけない』なんて言われたら」(橋爪氏、これを否定せず) 理由は神によって語られている。「食べると必ず死んでしまう」からである(創世記2章17節及び3章3節参照) 創世記2章17節 3章3節 p84 大澤「ところが神については、逆で、『俺は神を見た』と言ってしまえば、それはほんものの神ではなくて、偶像になってしまいます。神に関しては、その存在を確認するうえでのあらゆる方法が禁じられている。預言者でさえも、たとえばモーセでさえも神をまともに見ていない」(橋爪氏、これを否定せず) 大澤氏が念頭に置いている聖書箇所は恐らく出エジプト記33章20節以下及びヨハネの福音書1書18節、ヨハネの手紙一4章12節などであろう。なるほど、出エジプト記33章20節には「人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」(新共同訳)とあり、モーセが見れたのは神の後ろ姿だけであったと述べられている。しかし、大澤氏(と恐らく橋爪氏)は出エジプト記33章11節に「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」とあることも、更に同書24章9節以下でモーセのみならず「アロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老」がイスラエルの神を見たと語られていることも無視している。更に言えば、創世記32章31節でヤコブも神を見たと語られている。士師記13章22節では、マノアとその妻が「神を見てしまった」ことが語られている(尤も、神とマノアが呼ぶ存在は、地の文では「神の御使い」と呼ばれているが)。案外と神を見た人間はいるのである。 出エジプト記33章11節以下、同24章9節以下、創世記32章31節、士師記13章22節 p93 「(契約の)箱には、金属の輪が四隅について、棒を通して担げるようになっている。その構造の詳しい説明が、旧約聖書の『レビ記』に載っています」 契約の箱の構造について詳しい説明があるのは、『レビ記』ではなく、『出エジプト記』の25章10節以下である。なお、どの刷からかは不明であるが、『出エジプト記』と修正されていることを付記しておこう。なるほど、誤った情報が正しい情報に訂正されたのは喜ばしいことではあるが、版を改めるではなく内容を修正するというのは、業界の慣習かもしれないが、問題であると思われる(これは著者にではなく、講談社に対する批判)。 出エジプト記25章 p100 「サラが亡くなったとき、墓地が必要になって、ブドウ畑の隅っこでいいから売って下さいと、(アブラハムは)地元民に交渉するのですが、なかなか売ってくれない。」「寄留民の土地所有は認められていなくて、墓地なら例外的に取得できたのです。ヤハウェに約束の地を与えられたというものの、実態はこんなものだった。そうやって苦労のすえ墓地を手に入れたと、いかにも自慢そうに『創世記』は記しています。」 そのようなことは創世記に書かれていない。むしろ「じゅうぶんな対価を払って」購入を希望するアブラハムに対し、地元民(ヘテびとエフロン)は「わたしはあの畑をあなたにさしあげます」と提案している(23章11節)。それに対してアブラハムは「代価を払います」と述べ、無償で譲渡されることを断わっている。そこでエフロンは畑の価格を「銀400シケル」と述べるが、ここでもエフロンは「売ります」とは言っておらず、とにかく「あなたの死人を葬りなさい」とだけ言っている。これに対し、アブラハムはエフロンに対して銀400シケルを量って渡し、無償譲渡の申し出を断って購入している。「『創世記』にはこう書かれているが、実態は某説によればこんなものだったろう」といった言い方なら場合によっては成立するかもしれないが、結局「自慢そうに『創世記』は記しています。」の文言で、単純な誤りになってしまった。他の個所でも同種の傾向を有するものがあるが、「アブラハムの寄留民としての実態はこんなもの」という橋爪氏の考える結論がまず先にあり、その結論に合わせて前提となる事実(記述内容)が捻じ曲げられているのが、この誤りの本質的問題である。 創世記23章 p109 「預言者。これは一神教にしか、考えられない存在です」 所謂「多神教」にも預言者がいたとは、たとえば列王記上18章などに明記されている(「バアルの預言者」「アシェラの預言者」)。なお、「バアルの預言者」「アシェラの預言者」という表現の「預言者」に当たるヘブライ語名詞は、ヤハウェの「預言者」を指す際に用いられるのと同じものである。 バアルの預言者アシェラの預言者 p146 『列王記下』4章42~44節では、エリシャが「わずかな食糧で」「百人を満腹させた」奇跡が語られていると橋爪氏は語る。 満腹したとは書かれておらず、「食べ残した」と書かれている。なるほど、満腹したから食べ残したのであろうが、エリシャの奇蹟はイエスの奇蹟との関連で言及されており、そのイエスの奇蹟では、人びとが食べ残した点に強調点が置かれている記事もあるのだから、正確に語るべきである。 列王記下4:43、44節及びマルコ8:19-21参照 p151 「イエスは、預言者として、活動した。預言者だと思った人が大勢いた。だから、「エリヤの再来」と言われたのです。ちなみに、預言者エリヤは、生きたまま天に上げられたと信じられたので(『列王記下』2章11節)、再来してもおかしくない」。 イエスは預言者と考えられていた、というのは福音書に記されているので(マルコ6章15節、8章28節等)、イエスを預言者と考えた人びとが実際にいたかもしれない。しかし、イエスは預言者として活動した、「だから」、エリヤの再来と言われた、という言葉は、「再来のエリヤ」思想を無視していると思われる。イエスをイザヤでもなくサムエルでもなくエリヤだとする考えの背後には、終末の直前にエリヤが再来するという思想があるからである(マラキ書3章1、23-24節、シラ書48章10節)。つまり、イエスは終末の接近を告知しており、それが終末直前に再来するエリヤという伝承を思い出させた、だからイエスを再来のエリヤと同一視した人がいた、と考えられるのである。預言者として活動したからではない。 マルコ6:158:28等マラキ3:1、23-24シラ48:10 p153p167 「イエス・キリストは『神の子』だ、という考え方です。…これはもう、ユダヤ教の考え方ではない」「ユダヤ教には、…神の子という考え方はなかったと思う」 創世記6章2、4節、詩篇28章1節、知恵の書2章18節、5章5節、18章13節に「神の子」という表現が見られる。従って、イエスが神の子であるという主張はユダヤ教の考え方であってもよく、仮に問題があるとすれば、ユダヤ教の観点からイエスが神の子と言えるかどうかであろう。 新共同訳聖書「神の子」検索結果 p158 大澤「(人の子の)もうひとつのとらえ方として、聖書学の田川建三さんが次のようなことを書いていました」 この後に大澤氏が語るアラム語での「人の子」理解は、『イエスという男』(三一書房、1980年、333頁)からのものであり(引用元を書かないのは問題である)、田川氏の本からの要約引用にそれほど間違いは無い。しかし、田川氏は自身の「人の子」理解を「主としてC・コルペによる」と明記しているのだから、大澤氏はこの点まで引用しておく、あるいはC・コルペの研究に目を通し、C・コルペ氏の主張と語るべきであろう。 田川建三『イエスという男』三一書房、1980年 p158-9 大澤「『人の子』と言えばメシアのことだなというのは、当時のユダヤ教に精通している人たちには通じたんだと思うんですね。…、もちろんイエスは旧約聖書に精通しているわけだから、『人の子』と言えば、旧約聖書に由来する救世主という含みももちうることがわかっていたはずです」 「人の子」はイエスの生前のユダヤ教においてメシア的称号であったという学説に対しては、様々な批判が寄せられていることを考えれば、このように簡単には言えない。尤も、本書が新書であること、そして大澤氏も橋爪氏も聖書学者ではないことを考えれば、このような単純化はしょうがないかもしれない。 上村静「メシア的称号としての『人の子』の起源」『イエス―人と神と』関東神学ゼミナール、2005年、pp105-135 p188 「動物もひとつがいずつ箱舟に乗り込んで、助かった」 創世記7章3節に従って正確に言えば、「清い動物」は七つがいずつ、清くない動物は一つがいずつである 創世記7:3 p228 「カインは…弟のアベルを…刺し殺してしまった」 これは創世記4章8節のことであるが、そこでは「刺し殺した」とは書いていない。 創世記4:8 新約 当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(新約聖書篇)を参照 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/19.html
当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)に記述されている、聖書に関して発言された部分での膨大な量の間違い・誤りを扱う。間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」が容量オーバーになったため、聖書篇を分割して作成。 2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。 ※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者や読者に失礼。 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。 p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。 ※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。 間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」 歴史篇(上記ページが容量オーバーになったため分割されたもの、以下同様) 聖書篇(総合・旧約) (新約その2) 神学篇 他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?) 疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介 (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^) 聖書についての間違い 目次 1 総論 2 旧約 3 新約その1 新約その2 新約その1 (その2はこちら) 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p134 「マルコによる福音書が一番古く、後からの福音書は先のものを参照して書いている。つまり、ひとつの系統の文書なんです」 ヨハネによる福音書がマルコによる福音書を始めとした共観福音書を参照して書いているか、つまり同じ一つの系統に属す文書であるかは不明である。なるほど、この点は間違いではない、と反論されるかもしれない。しかし、137頁にある「福音書の系譜関係」においては、ヨハネによる福音書と他の福音書との関係がないように、つまり別系統の文書(というか、独立した文書)として示しているのだから、本書内で矛盾した主張をしていることになる。従って、論理的に橋爪氏は誤っているのである。 荒井献他『総説 新約聖書』日本キリスト教団出版局、1981年、175頁以下 p137 大澤「(共観福音書は)相互に比較対照しながら一緒に読む福音書という意味でしょう」(橋爪氏、これを訂正せず) マタイ、マルコ、ルカ福音書が「共観福音書」と呼ばれるのは、これら3つの福音書で多くの記事が重複しており並べて共に観ることができるから、あるいはこれらが共通した視線を有しているからである。研究者でもない限り、相互に比較対照しながら一緒に読まなくてもいっこうに構わない。 Catholic Encyclopedia Synoptics p139 「イエスは、自分で書物を書かなかった。最後は十字架で死んでしまうという話ですから、本人がそれを記録するわけにはいかない。」 どの福音書も「イエス・キリストの復活」で話が終わっている(マルコ福音書においても、現代残されている最後の部分は後代の加筆だとする説に則るとしても、十字架による刑死が最後ではなく、「空の墓」が最後の記述であって、十字架が最後の場面ではない)。橋爪氏は「復活の話は後代に付け加えられたもの」という説を唱えているためこのような話し方をしているのかもしれないが、少なくともそれは全キリスト教に適用出来る見解ではない(むしろ全体からみれば少数派)。むしろ「復活したイエス・キリスト自身が、自身の復活について書いた福音書」の方が説得力があるであろうに、そうされてはいないという実際の状況が、橋爪氏の説では全く説明がつかない。 マタイによる福音書 28章マルコによる福音書 16章ルカによる福音書 24章ヨハネによる福音書 20章・21章 p141 大澤:福音書には「いちおう著者の固有名詞が各テキストにはついていますが、ルカとかマルコといった名前は、象徴的なものにすぎなくて、じつは共作のようなものかもしれない」。 「象徴的なもの」が何を意味するのか不明である。そもそも、マタイ福音書およびマルコ福音書の著者がマタイ及びマルコであるとは2世紀前半のパピアスの言葉(エウセビオス『教会史』3巻39・15以下に収められている)に、ルカ福音書の著者がルカであるとはエイレナイオスの言葉(エウセビオス『教会史』5巻8・3に収められている)に遡るが、そこでこれら3つの福音書の著者がマタイ、マルコ、ルカであると言われているのは、この著者名が象徴的なものとして考えられてではなく、福音書の由来を使徒にできるだけ遡らせようとしたためである。この点では、139頁で橋爪氏が、福音書の「作者は、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ。ほんとうに彼らが著者なのか、議論があります」と語っているのが、正しい。大澤氏の左記の言葉は、橋爪氏のこの言葉を無視してしまっている。 荒井献他『総説 新約聖書』日本キリスト教団出版局、1981年、127、146、162頁 p145 「いちばん古いマルコ福音書は、復活の記述がなく、墓がからっぽだったというところで、唐突に終わっている」 確かにマルコ福音書の終わりは唐突である。しかし、イエスの顕現物語は語られないにせよ、16章6節で、天使と思われる若者によってイエスの復活が女性たちに語られて、その後で唐突に終わっているのであって、墓がからっぽだったというところで終わっているわけではない。なお、マルコ福音書のイエスは自身が復活すると何度も語っていることも指摘しておこう(8 31; 9 31; 10 33; 14 28)。 マルコ福音書16章1-8節参照(なお、9節以下は後代の加筆であり、元来のものではない) p152-3 「福音書のなかに、復活をめぐって、それを信じるパリサイ派と、信じないサドカイ派が論争する場面が出てきます」 正しくは、使徒言行録である(23章6節以下) 使徒言行録23:6-8 p153p244 「イエスはガリラヤで、弟子たちのもとに現れ、そのあと天に昇った、と信じられるようになります」「復活したイエスに、ガリラヤ地方に行ったら会えるというので、そちらに行くと、弟子たちのところにイエスが現れた。それから、天に昇って行った」 復活したイエスのガリラヤでの顕現について語っているのはマタイ福音書であるが、この福音書では「そのあと天に昇った」、とは書かれていない(マタイ28 16以下)。復活顕現のあとで「天に昇った」と書かれているのはルカ福音書と使徒行伝であるが(ルカ福音書と使徒行伝は同じ著者によって著された)、これらにおいてはイエスが弟子たちに現れたのは、ガリラヤではなく、エルサレムである(ルカ24 36以下、使徒1 3以下)。何故橋爪氏が、復活したイエスは天に昇ったと語っているにもかかわらず、イエスが現れた場所をルカ福音書に従ってエルサレムとはせず、マタイ福音書に従ってガリラヤとしたのかは、不明である。 マタイによる福音書28 16ルカによる福音書24 36以下使徒行伝1 3以下 p153p165p167 橋爪氏:「イエス・キリストは『神の子』だとする考え方を、確立したのはパウロです」大澤氏:「最終的には、パウロによる解釈が定着して、イエスは『神の子』だということになったわけですが」「イエス・キリストが神の子だと決めたのは、パウロです」 典拠不明。一般に、イエスが神の子であるとパウロがはじめて主張したとは考えられていない。と言うのも、パウロが会ったこともないローマの教会の人びとに宛てた手紙の冒頭で、イエスが神の子であることを共通の前提として語っているからである(ロマ1 4)。これは、イエスが神の子であるとは、パウロが受け取った教えであることを示しているだろう。 ローマの信徒への手紙 1 4 p154 大澤「イエス・キリストだったら救世主という意味ですよね。神の子だったら、一段神に近づいていますよね。」「おっしゃるように、イエス・キリストを神というか、神の子というふうに見たことで…」 大澤氏も橋爪氏も「神の子」を神と同じ存在だと考えているが、「神の子」とは「義人」の意味で、つまり決して神ではない人間に対して用いられる呼称である場合もある(知恵の書2章12節以下参照)。だからパウロはキリスト者を「神の子ら」と呼べるのである(ガラテア3 26、4 5 etc)。この点を理解せずに、「神の子」という文字面だけから、神の子が神と同じような存在だと判断している橋爪氏及び大澤氏の判断は、誤りである。 知恵の書2章12節ガラテア3 26、4 5 etc p154 「それから、処女懐胎の話は、もう少し、古い層に属する、ありがちな奇蹟の話だと思う」 ここで橋爪氏は、パウロがイエス・キリストを「神の子」とした(注。これが誤りであることは上記参照)時期よりも古くに「処女懐胎の話」が成立したと述べているのだが、パウロのどの書簡にも、更に70年頃に成立したと考えられているマルコによる福音書にも処女懐胎の話が語られていないのだから、こんなことは言えないはずである。なるほど、「思う」と語尾につけているのだから留保がある、だから間違えとは言えない、と反論する方がいるかもしれないが、大澤氏が続けて「そうですね」と肯定しているのに対して橋爪氏が何も言ってはいないのだから、誤りと指摘できよう。そもそも留保すれば何でも勝手なことを言っても良いわけではないと思う。 p155 橋爪「福音書をよく読むと、イエスを『神の子』と明言していないんです。…福音書は…イエスが『神の子』であるかどうかに関して、及び腰である。」大澤「唯一『神の子』を明言しているヨハネ福音書は…」 例えば、マルコ福音書では1章1、11節、9章7節、14章61-62節、15章39節という決定的な個所でイエスが(しかも、場合によっては神自身によって)「神の子」であると明言されているし、マタイ福音書では16章16節、ルカ福音書では1章35節という決定的な個所でイエスが神の子であると語られている。 新共同訳聖書「神の子」検索結果 p156 大澤「共観福音書ではごくわずかしか『神の子』という語は用いられていませんし、それらにしても、他人がそれほど深い思想的な意味も込めずに、思わずイエスをそう呼ぶ場面で出てくるだけです(百人隊長が十字架のイエスをそう呼んだり、悪魔がイエスを挑発したりする場面)。」 新共同訳聖書でイエスが「神の子」と語られている個所を検索すれば、マタイによる福音書で9カ所、マルコによる福音書で4カ所、ルカによる福音書で6か所であるが、これが「ごくわずか」と言えるのだろうか。何故なら、「『神の子』の概念を明言している」と橋爪氏が語るヨハネ福音書では8カ所だからである。従って、マルコ福音書が少ない、とは単純な検索結果としては言えるが、「共観福音書ではごくわずかしか『神の子』という語は用いられていません」とは言えない。なお、上でも触れたが、共観福音書では神がイエスを「愛する子」「わたしの子」と言っている場面が記されており(マルコ1 11、9 7、マタイ3 17、17 5、ルカ3 22、9 35)、神がイエスをそのように呼んだ箇所まで含めれば、イエスを「神の子」と呼ぶ個所はさらに増える。従って、「共観福音書ではごくわずかしか『神の子』という語は用いられていません」とは言えない、と考えるのが適当である。百人隊長や悪魔がイエスを神の子と呼ぶのも深い意味があるとキリスト教では考えられているが、同箇所に深い思想的な意味もない、と大澤氏が述べた根拠は不明。特にマタイによる福音書16 16におけるシモン・ペテロがイエスを「神の子」とした箇所は、直後の箇所と合わせて、ペテロに連なるローマ教皇権の根拠としてローマカトリック教会では非常に重要視されており、同箇所につき教皇権の根拠としての解釈を否定する正教会およびプロテスタントとの間で今も議論になる箇所である。ペテロの「信仰告白」が「他人」による「深い意味も無い」ものとして判断した大澤氏の根拠は不明。なお、マタイによる福音書27章42- 43節では、イエスを十字架につけた側である祭司長、律法学者、長老らが、十字架にかけられたイエスを「今救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから。」と嘲弄しており、イエスが神の子とされていたことは敵対者にも認知されていたことが記されている。 新共同訳聖書「神の子」検索結果The Church Fathers' Interpretation of the Rock of Matthew 16 18 by William WebsterEKK新約聖書註解 p157 大澤「弟子たちに『お前たちは俺のことをどう思うか』と尋ねたら、ペテロが『あなたはメシア、生ける神の子』と答える。これに対してイエスは、否定も肯定もしていないんです。強いて言えば消極的な肯定という感じで、『そのことはお前の胸にしまっておけ」と告げている。…」橋爪「はい。それはマタイ福音書(16章16節)に書いてありますね」 マタイ福音書16章17節でイエスはペテロの答えに対して、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(Μακάριος εἶ, Σίμων Βαριωνᾶ, ὅτι σὰρξ καὶ αἷμα οὐκ ἀπεκάλυψέ σοι, ἀλλ’ ὁ πατήρ μου ὁ ἐν τοῖς οὐρανοῖς.)と賞賛している。この「幸いだ」に当たるギリシア語(Μακάριος)の意味は全くの賞賛であることは、マタイ福音書5章3節以下「真福九端(八端)」に繰り返し登場する「幸いである」と同じ単語であることにも示されている。イエスがペテロの答えに「否定も肯定もしていない」のは、挙げられているマタイ福音書ではなく、マルコ福音書である(8章29-30節、ただしこちらには「神の子」は言われていない)。 Matthew 16 17 Greek Texts and Analysis (ΚΑΤΑ ΜΑΤΘΑΙΟΝ 16 17 Greek NT Greek Orthodox Churchからギリシャ語部分は引用) p158 「メシアはまず、軍事的リーダー、軍司令官なんです。もっと端的に言えば、どこかの国の王が、解放者としてやって来る」 確かに軍事的リーダーであるメシアもいる。しかし、レビ記4章5、16節等では祭司が「メシア/キリスト」と呼ばれている。そもそも、歴代誌上16章22節に現れる「メシアたち/キリストたち」(ヘブライ語及びギリシア語で複数形!)はイスラエルの民一般を指すと考えられている。また、イエスの同時代のクムラン教団では、王的メシアと並び祭司的メシアも言及されている。従って、「メシアはまず、軍事的リーダー、軍司令官なんです」とは、言えない。メシア/キリストとは神によって選ばれた人物のことであって、その役割が固定しているわけではないし、どこかの国の王だと決まっているわけでもない。 死海文書入門講座Ⅴ 和田 幹男 V 死海文書概観 2 p160 大澤「誰でも知っているように、イエスは…三日後に復活しました」 確かにマルコ福音書ではイエスが「三日の後に」復活すると語られているが(8:31、9:31、10:34)、しかしそのマルコ福音書にしてもイエスが復活したのは三日目である(十字架につけられた金曜日が一日目、土曜日が二日目、復活した日曜日が三日目。なお、マタイとルカはマルコのこの表現をきちんと訂正して「三日目」としている)。この点では橋爪氏が207頁で「三日目に復活する」と語っているのが正しい。 聖書に現れる「三日」 p168-9 橋爪氏:(パウロがイエスを「神の子」と考えたことに関連して)イエスは「生まれた最初から」神の子であることが「計画されていた。そうすると、処女懐胎で生まれたりすると、都合がいい」。「初めから、神の計画によって生まれた特別な存在、と考えられる」。 イエスが「処女懐胎で生まれた」とはパウロは全く語っていないのだから、パウロが処女懐胎を知っていたと論証することは不可能である(パウロが処女懐胎を知ったとしたら信じるかどうか、ということとは別問題である点に注意!)。更に、橋爪氏の主張はローマ書1章4節「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」(新共同訳)と矛盾している。 ロマ書1章(口語訳) p170 「イエスが、ヤハウェを父と呼んでいたから、イエスが神の子と考えられるようになったのではないか」 トビト記(前200年頃成立?)13章4節でトビトは神を賛美した祈りの中で「神は私たちの主であり、私たちの父」と述べている。更に、シラ書23章1、4節、知恵の書14章3節などでも神を父と呼んでいる。つまり、神を父と呼んでいたユダヤ人は、イエスだけではない。つまり、「イエスが、ヤハウェを父と呼んでいたから、イエスが神の子と考えられるようになった」わけではない。 A Critical and Exegetical Commentary according to St. Matthew, p44参照 p175 「イエスの一行が食事をしていると、女性が入ってきて、高価な香油を瓶から髪にかけたり」 マルコ福音書14章3節及びマタイ福音書26章7節に従えば、「髪」ではなく「頭」である。「髪にかけた」は、ルカ福音書7章38節及びヨハネ福音書12章1節以下でイエスの足を女性が自分の髪で拭ったことと混同しているためか。しかし、こちらの場合、女性が高価な香油をかけたのはイエスの頭ではなく、足である。 マルコ福音書14章3節マタイ福音書26章7節ルカ福音書7章38節ヨハネ福音書12章3節 p178 「イエスのいう『神の国』は、これ(注。ユダヤ教的な「神の国」)を裏返したものです。…『ヨハネの黙示録』によると…」 イエスの「神の国」理解を語っているはずなのに、『ヨハネの黙示録』に話が飛んでいるのは、不明。たしかに『ヨハネの黙示録』には、この書物にあることはイエス・キリストによって伝えられたことだ、書かれているが(1章1節等)、橋爪氏は歴史上のイエスの神の国理解を説明していたはずなのだから、ここで『ヨハネの黙示録』を持ち出すのは、おかしい。 p176以下 「9キリスト教の終末論」で「神の国」を「場所」とのみ捉えている点について。 「神の国 η βασιλεια του θεου/των ουρανων」は、神の「領土」「土地」を意味するというよりはむしろ、神の「支配」を意味する。大澤氏は神の国が「イメージしにくいです」(179頁)と語っているが、「神の国」が「神の支配」をも意味することを知らなければ、当然であろう。これは「解釈」のレベルではなく、語義レベルの問題。βασιλειαは新約のギリシャ語でも古典ギリシャ語でも「王国」「領土」のほかに「支配」「主権」を示す語彙である。むしろ岩隈は「王たる事」「王位権」「支配」「統治」を第一義とし、ルカ福音1 33、19 12を挙げている。つまり辞書を引けばあっさり氷解する疑問である。 Catholic Encyclopedia Kingdom of God岩隈直『新約ギリシヤ語辞典』p83, 2006年5月11日"Greek - English Lexicon, Liddell Scott" p128, 1974 p183 橋爪「福音書の中に、一ヵ所だけ呪いの言葉があって、いちじくの樹の話なんですけど、エルサレムでお腹が空いたのでイエスがいちじくの樹のところに行ったら実がなっていなかった。そこで、『枯れてしまえ』と言った。そうしたら、『すぐに枯れた』というのと『しばらくして枯れた』というのと、ふたつのヴァージョンがあるのですが、枯れてしまった。枯れて、火にくべられるだろうというわけです。これはふつう、イエスの言葉を聞かないでパリサイ派に従っている人々のたとえだと解釈することになっています。とにかく呪われたグループがあって、滅びの道に入り、焼かれるということですね、裁きの日に」大澤「もちろん聖書に書いてあることだから、いちじく=パリサイ派だと解釈されているんでしょうけれど」 ここで語られている奇跡物語は、マルコによる福音書11章12-14、20-24節並行マタイによる福音書21章18-22節である。まず、細かいことではあるが、イエスは「枯れてしまえ」とは言っていない。イエスの言葉は、マルコによる福音書では「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と、マタイによる福音書では「今から後いつまでも、お前には実がならないように」である(訳はいずれも新共同訳に従った)。更に、場所はエルサレムではなく、ベタニアとエルサレムの途中においてである(マルコ11章12節、マタイ21章18節)。実のならないいちじくが象徴しているのは不信仰な人々でありその中にはパリサイ派も含まれる、と解釈する人はいるだろうが、「いちじく=パリサイ派」と解釈することになっているわけではない。そもそもマタイによる福音書では、信仰が強ければ不可能と思われることもできるのだ、という話に編集されているので、イエスの言葉を聞かない敵対者を想定する必要はないかもしれない。マルコによる福音書では、サンドイッチ構造から、神殿体制(に関わる人々)が滅びるとは言っているかもしれないが、しかしパリサイ派はここには全く登場しない。祭司長や律法学者が滅びるのだ、と言うのならば、納得できるのであるが、枯れたいちじくは「火にくべられるだろう」とは語られていない。 p194-5 大澤「イエスは、律法を廃棄して、それを愛に置き換えた。ただ、律法を単純に否定し、排除したかというより、むしろ、愛こそが律法の成就だということになっています。弁証法でいう『止揚』という感じです」(橋爪氏、反論なし) イエスが律法を「廃棄」したとは福音書には書かれていない。むしろ、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とイエスは語っている(マタ5章17節)。もしこれをイエスに帰せず、福音書記者の思想とするならば、その根拠を明らかとしなければならない。因みに、愛こそが律法の成就とは、イエスではなくパウロの言葉であろう(『ガラテヤの信徒への手紙』5章14節、『ローマの信徒への手紙』13章8-10節)。 マタ5章17節ガラ5章14節ロマ13章10節 p197 「イエスは答えて…『…律法はこの二つに尽きている」と述べた。たくさんあった律法が、たった二条になってしまった」 橋爪氏が念頭においていたのは、マルコ福音書12章29-31節か、それともマタイ福音書22章37-40節か不明であるが、イエスの言葉は前者では「この二つにまさる掟はない」だし、後者では「律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」なのだから、「尽きている」とは言っていない。なるほど、これらは新共同訳からの引用だから、橋爪氏の見ている日本語聖書にはそう書いてあるから間違いではない、と言う方がいるかもしれないが、マルコ福音書のギリシャ語もマタイ福音書のギリシャ語もどう考えても「尽きている」とは訳せない。自説のために聖書の文面を変えてはいけない。そもそもどちらの福音書であっても、すべての掟が大切であることが前提であり、その上でどの掟がより重要であるか、根本的であるかが問題となっているのだ。従って、「たった二条になってしまった」わけではない。 マルコ福音書12章マルコ福音書12章31節ギリシャ語マタイ福音書22章マタイ福音書22章40節 p198 イエスは「それから、呼びかけに応えるのに、割礼やほかの、どんな具体的な行動も必要ないことにした」 異邦人がイエスをキリストと信じる人々の群れに加わる際に、割礼が不必要であることが決まったのは、50年頃に行われた所謂「使徒会議」(使徒言行録15章1節以下、ガラテヤの信徒への手紙2章1節以下)の決議以降であり、それまでは割礼を必要と考える人々と不必要であると考える人が教会内に混在していた。これは明らかに史的イエスが割礼の不要を語らなかった、あるいは(ユダヤ人の間でのみ活動していために)語る必要がなかったためだと考えられよう。 使徒15章1節以下、ガラ2章1節以下 p199 「12 贖罪の論理」で、橋爪氏が贖罪死を同害報復説の観点から説明している点について。 誰が同害報復説を唱えているのか不明。そもそもマタイ福音書5章38-42節でイエスは同害報復という行いを否定しているが、これとイエスの死の同害報復説とをどのように調和させるつもりなのだろうか。 マタイ福音書5章 (その2に続く) 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
https://w.atwiki.jp/kirisitan/
イエス・キリスト(紀元前4年頃 - 紀元後28年頃、 ギリシア語 ?ησο?? Χριστ??[1]、ヘブライ語 ラテン文字転記:Yhoshuah ha-Mashiah)は、ギリシア語で 「キリストであるイエス」、または「イエスはキリストである」という意味である。 キリストとは、古典ギリシア語「クリストス(Χριστ??, Khristos)」の 慣用的日本語表記である。「クリストス」は「膏(油)を注がれた者」を 意味するヘブライ語「メシア(マーシアハ、????????, Ma-s(i^^(a)h.)」の 訳語であり、旧約聖書中の預言者たちが登場を予言した救世主を意味する。