約 3,227,221 件
https://w.atwiki.jp/bokuserve/pages/2413.html
【元ネタ】戦国時代 【CLASS】セイバー 【マスター】 【真名】明石全登 【性別】男性 【身長・体重】171cm・68kg 【属性】秩序・善 【ステータス】筋力C+ 耐久A 敏捷B 魔力C 幸運C 宝具C 【クラス別スキル】 対魔力:B 魔術発動における詠唱が三節以下のものを無効化する。 教会の秘跡には対応しない。 騎乗:B 騎乗の才能。大抵の乗り物なら人並み以上に乗りこなせるが、 魔獣・聖獣ランクの獣は乗りこなせない。 【固有スキル】 軍師の忠言:C 軍師系サーヴァントに与えられるスキル。 状況を把握、分析することにより味方側に正しい助言を与えることができる。 Cランクであれば不測の事態がなければ60%の確率で的中する。 軍師の指揮:A 軍師系サーヴァントに与えられるスキル。自己を含めた軍としての力を最大限に引き出す。 Aランクであれば、軍全体が百戦錬磨の精鋭に等しい力を持つ。 戦闘続行:A 生還能力。 瀕死の傷でも戦闘を可能とし、決定的な致命傷を受けない限り生き延びる。 信仰の加護:A 一つの宗教観に殉じた者のみが持つスキル。 加護とはいうが、最高存在からの恩恵はない。 あるのは信心から生まれる、自己の精神・肉体の絶対性のみである。 【宝具】 『花十字の御旗(マーティーズ・フラッグ)』 ランク:C 種別:対軍宝具 レンジ:0~30 最大捕捉:300人 大阪の陣に置いて掲げた十字架の旗が宝具化したもの。 セイバーと信仰を同じくする者の士気を大幅に上昇させる。 また、水野勝成隊と伊達政宗隊の同士討ちを発生させた逸話から、敵勢の統率力を低下させ、同士討ちを発生させる効果もある。 【Weapon】 『一期一振』 短刀の名手であった藤四郎吉光が唯一作ったという伝説を持つ(事実とは異なる)太刀。 元は秀吉の刀で、大阪の陣の際、秀頼から拝領したという。 【解説】 戦国時代の武将、大名。宇喜多家に仕え、関ヶ原の戦いでは宇喜多秀家の軍師を務めた。 宇喜多家が取り潰された後は大阪城に入城し、大阪牢人五人衆の一人として奮戦した。 熱烈なキリシタンであったことでも知られる。 父明石行雄と共に宇喜多家に仕えた。 宇喜多家の政治的内紛がお家騒動(宇喜多騒動)に発展し、優秀な家臣団や一門衆の多くが宇喜多家を退去する事になると 彼らに代わって宇喜多家中を一手に取り仕切ることとなり、天下人、豊臣秀吉からも知行を受けて十万石取りの大名となった。 関ヶ原の戦いに際して宇喜多家は石田三成方の西軍につき、全登は。 伏見城の攻略や杭瀬川の戦いで功績を挙げ、関ヶ原本戦でも敵の先鋒・福島正則を一度は退却に追い込む奮戦ぶりを見せたが、 戦いは小早川秀秋の裏切りを切っ掛けに東軍方の勝利に終わる。 全登は、敗戦を悟って斬り死にせんとする秀家を諌めて逃がし、自身は殿軍を務めた。 宇喜多家が没落した後の消息は不明瞭だが、同じキリシタンであり旧交もあった黒田家に匿ってもらっていたという説が有力である。 徳川家と豊臣家の対立が深まり大坂の陣が勃発すると、信仰上の理由(徳川家はキリスト教を禁止する方針を示していた)から豊臣方につく。 冬の陣では後藤又兵衛と真田信繁の諍いを仲裁する一方、 戦いでは砦を留守にしている間に蜂須賀至鎮に陥落させられるという失態を演じている。 夏の陣ではまず道明寺の戦いに参戦し、敵方の水野勝成・伊達政宗部隊を混乱させ同士討ちさせる活躍を見せた。 天王寺・岡山の戦いでは300の決死隊を率いて家康本陣への突入を図っていたが、毛利勝永隊が逸ったことで作戦は瓦解。 友軍の壊滅を知った全登は、徳川方の包囲網からの離脱を図り突撃を敢行した。 以後の消息は定かではない。この戦いで討ち死にしたとも、包囲網を突破して九州に落ち延びたともされる。 突拍子もないものでは南蛮に逃亡した、などという説もあるが信憑性は薄い。 徳川家康は全登の武名とキリシタンへの影響力を恐れ、大阪夏の陣後の落ち武者狩りの中でも特に「明石狩り」に注力したが、 全登が発見されることはなかった。 島原の乱の後に生存説が浮上した為、三代将軍家光の命で再び「明石狩り」が行われたが、その時も見つかることは無かったという。 【蛇足】 ドリフターズに漂流者側で出られそう。
https://w.atwiki.jp/marowiki001/pages/4023.html
目次 【時事】ニュースキリシマ アルペジオ 【参考】ブックマーク 関連項目 タグ 最終更新日時 【時事】 ニュース キリシマ アルペジオ 『World of Warships Legends』で『蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-』とのコラボが開催。“ハルナ”と“キリシマ”がコラボ艦艇として登場 - ファミ通.com 「World of Warships」にTVアニメ「蒼き鋼のアルペジオ」の戦艦“ARP Yamato”と重巡洋艦“ARP Maya”が登場。Musashi用のコラボ迷彩も - 4Gamer.net 『劇場版 蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-』の新デザインホログラムTシャツの受注を開始!!アニメ・漫画のオリジナルグッズを販売する「AMNIBUS」にて - PR TIMES 『蒼き鋼のアルペジオ』の名(迷?)コンビ・ハルナとヨタロウ(キリシマ)がそろってfigma化! - 電撃ホビーウェブ アスキーゲーム 難易度大幅ダウン! World of Warships×アルペジオコラボ第二弾発動中 - ASCII.jp 横須賀に着艦!「劇場版アルペジオ」スタッフ、キャスト舞台挨拶にキリシマ着ぐるみも大熱演 - アニメ!アニメ!Anime Anime 【参考】 ブックマーク サイト名 関連度 備考 ピクシブ百科事典 ★★ 関連項目 項目名 関連度 備考 参考/蒼き鋼のアルペジオ ★★★★ 登場作品 参考/内山夕実 ★★★ キャスト タグ キャラクター 設定 最終更新日時 2014-02-03 冒頭へ
https://w.atwiki.jp/matome3435/pages/1872.html
ロクシタンカフェにて 2009年4月20日 (月) クロックムッシュとスープロクシタン、カフェロクシタン。 2人でシェアしました。 パンはおかわりできます♪ LOCCITANE大好き☆ おいしい出来事 かなえキッチン : ごはん日記 2009年04月
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/62244.html
【検索用 ほくはしった 登録タグ 2012年 UTAU nwnw ほ 曲 曲は 綴音アルゴ】 + 目次 目次 曲紹介 歌詞 コメント 作詞:nwnw 作曲:nwnw 編曲:nwnw 唄:綴音アルゴ 曲紹介 曲名:『僕は知った』(ぼくはしった) 歌詞 僕は世界を敵に回せるだろうか 荒む心を抉った 牙は既に折れて 僕は 人を 恐れ 人は 僕を 拒む この溝は深まるばかり 僕は知った 僕は胎児(こども)のままで良いと 『産まれてこなければ……』なんて 贅沢なことは言わないから 僕は自分を押し殺せるだろうか? 暴れる心を宥める 腕も既に枯れて 僕でさえも騙し 僕を嘘で固め その嘘は真実(ほんとう)になって 僕は気付く 僕は孤独のままで良いと 『都合の良い人』(やさしいひと)を演じて 僕は僕を 見失う 僕は獣のままで良いと 優しさを知ってしまった 僕はどうすれば良いんだ……? 何時まで僕は此の侭? 弱さを盾に? 脆い箱には何も無くて…… 僕は嘆き そして言った 僕は化石のままで良いと 見付からなければ屹度 平穏なまま眠れたのに 僕は胎児のままで良いと 居場所も名前も捨てた 僕は何処で 泣けば良いんだ……? コメント 名前 コメント コメントを書き込む際の注意 コメント欄は匿名で使用できる性質上、荒れやすいので、 以下の条件に該当するようなコメントは削除されることがあります。 コメントする際は、絶対に目を通してください。 暴力的、または卑猥な表現・差別用語(Wiki利用者に著しく不快感を与えるような表現) 特定の個人・団体の宣伝または批判 (曲紹介ページにおいて)歌詞の独自解釈を展開するコメント、いわゆる“解釈コメ” 長すぎるコメント 『歌ってみた』系動画や、歌い手に関する話題 「カラオケで歌えた」「学校で流れた」などの曲に直接関係しない、本来日記に書くようなコメント カラオケ化、カラオケ配信等の話題 同一人物によると判断される連続・大量コメント Wikiの保守管理は有志によって行われています。 Wikiを気持ちよく利用するためにも、上記の注意事項は守って頂くようにお願いします。
https://w.atwiki.jp/matome3435/pages/2492.html
スープロクシタン 2009年5月14日 (木) ロクシタンカフェに行くと必ず注文する、スープロクシタン。 添えられたパンには、有機オリーブオイルをつけて食べます。 ブイヤベースっぽい魚介風味のスープなのですが、固形物はトッピングのチーズだけ。このスープ、真似できない美味しさです。 おいしい出来事 かなえキッチン : ごはん日記 2009年05月
https://w.atwiki.jp/trinity_kristo/pages/184.html
キリスト教の影響を受けた欧米諸国では伝統的に、同性愛は性的逸脱であり、宗教上の罪(sin)としてきた。一方、近年の医学の発達により、同性愛も異性愛と同様に生まれつきの性的指向であり、不当な扱いをされるべきではないとの認識が広まっている。 まず、今回の項目を書くにあたり、当サイトが「聖書無謬説」を採用していないことを宣言する。聖書は人による神の記録であり、聖書自体は神ではないからである。 旧約時代の律法における同性愛(男色)の禁止 旧約聖書では、創世記のソドムとゴモラの逸話において、神が同性愛(正確には男色)を理由に、ソドムとゴモラを滅ぼしたとされている。 ソドムとゴモラの破滅の経緯は、創世記18 20-21にかかれている。 主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」 その故に滅ぼすと、二人の御使いは言っている。創世記19 12-13より。 二人の客(二人の御使い)はロトに言った。「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」 これについての明確な説明はないが、創世記19 4-9の記述から、男色などの姓の乱れが原因とされる。 彼ら(二人の御使い)がまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、言った。「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」男たちは口々に言った。「そこをどけ。」「こいつは、よそ者のくせに、指図などして。」「さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした。 そして、後に神による律法としてまとめられたレビ記18 22に次の記載がみられる。 女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである。 このように、主は同性愛(正確には男色)を罪だとしていると解釈されてきた。 しかし、ここで留意すべき点が二つある。 一つ目は、ソドムとゴモラについては、レビ記の記載と合わせ、伝統的には「同性愛がはびこったゆえに滅ぼされた」とされてきたが、実際には天使にも性交渉を迫ろうとするほどの乱交や、エゼキエル書で示されているような高慢さを原因だと解釈するのが自然である。 エゼキエル16 46-50 お前〔エルサレム〕の姉はサマリアであり、彼女とその娘たちはお前の北に住んでいる。また、お前の南に住んでいるお前の妹はソドムとその娘たちである。お前は彼女たちの道を歩んで、忌まわしいことを行ったばかりでなく、やがて、すべての道において、彼女たちよりもいっそう堕落した。 わたしは生きている、 と主なる神は言われる。 お前の妹であるソドムも、その娘たちも、お前とお前の娘たちが行ったようなことはしなかった。お前の妹ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。彼女たちは傲慢にも、わたしの目の前で忌まわしいことを行った。そのために、わたしが彼女たちを滅ぼしたのは、お前の見たとおりである。 二つ目は、レビ記において否定されているのは「男性同士の性交渉」のみであり、同性愛そのものが否定されているわけではないことである。 それに加え、そもそも律法は旧約の時代にのみ有効とされるものだという点も問題となる。 新約の時代の律法 ユダヤ人に対して宣教をしていたグループが書いたとされるマタイ福音書には、確かに新約の時代であっても律法は守らねばならないという趣旨のことが書かれている。(マタイ5 17) (イエスは言った。)「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」 しかしながら、イエスは律法を文字通り守らなければならないとは言っていない。 たとえば、律法では安息日には仕事をしてはならない、と書かれている。(レビ記23 3) 六日の間仕事をする。七日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である。あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。どこに住もうとも、これは主のための安息日である。 安息日規定については律法だけではなく、最も重要な戒律である十戒にすら書かれている。(出エジプト20 8-11) 安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。 しかし、安息日の労働の逸話でもわかるように、イエスは律法至上主義に見られるような形式主義を批判しており、律法は人のためにあるのであって、人を批難する道具としてあるわけではないことをはっきり明言している。 パウロの見解 このような経緯を組んだのか、異邦人にたいして宣教をしていたパウロは、「ローマの信徒への手紙」の中で、律法は旧い契約であって、新約の時代に守る必要はないことが宣言されている。(ローマ10 4) キリストが律法を終わらせたので、信じる人はみな義と認められるのです。 このことから、イエスによる神との新しい契約により律法は終わらされたため、ユダヤ教の者はともかくとして、イエスを信じる異邦人(この場合ユダヤ人以外を指す)は、律法を守る必要はないということがわかる。 パウロの考える同性愛 パウロは、以下の二つの書簡において、同性愛について語っている。 一つは、ローマ1 20-28にある。 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼ら(不義によって真理の働きを妨げる人間)には弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。 ここではパウロは明らかに、「神を信じない」ことと「自然の関係でない情欲を行うこと」とを混同していることがわかる。すなわち、「神を信じるものによる同性愛」という観点が存在していないのである。では何をその根拠としているのか。 このことは、1コリント6 9-10でよりはっきりとする。 正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼(μαλακοὶ)、男色をする者(ἀρσενοκοῖται)、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。 ※μαλακοὶ(malakoi)(pl.)とはμαλακός(malakos)(sg.)の複数形であり、「男娼」の意味。 ※ἀρσενοκοῖται(arsenokoitai)(pl.)とはἀρσενοκοίτης(arsenokoites)(sg.)の複数形であり、「他の男性たちと性行為に励む男」の意味。 この箇所をイエスの言葉と比較してみる。 マタイ15 17-20 すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。 イエスが語る「人を汚すもの」と、パウロが語る「正しくない者」の対応は具体的には次の通りである。 イエス パウロ 「人を汚すもの」 「正しくない者 悪口 人を悪く言う者 姦淫 姦通する者・みだらな者 みだらな行い みだらな者・男娼・男色をする者 盗み 泥棒・人の物を奪う者 悪意 なし? 殺意 なし? 偽証 なし? なし 偶像を礼拝するもの、強欲な者、酒におぼれる者 これを見ると、イエスが語ったはずの「悪意」と「殺意」と「偽証」については触れられておらず、代わりに「姦淫」や「みだらな行い」の内容ばかりが占めることがわかる。パウロの時代は福音書はまだ無く、イエスの言行録のようなものはあったかもしれないが、いずれにしてもイエスの説教は人づてにしか聞いていないため、そもそも細かい内容は知らなかった可能性はある。しかしながら、悪意や殺意や偽証に関する内容が一つもないにもかかわらず「みだらな行い」だけが三項目にも分かれているのは、パウロが性に関する問題ばかりを重視していたということを暗に示しているだけである。 また、なぜ「男色をする者」が「みだらな行い」であるのかの根拠は不明である。パウロがそう思ったということ以上の根拠はない。「自然の関係でない」から、「恥ずべき情欲」だから、という主観のみによって説明しているのであり、何ら神学的な根拠に基づいていないため、「なぜ自然でないのか」「何を以て自然であるのか」「何をもって恥ずべきなのか」という説明は皆無である。パウロは神ではないため、神学上の根拠なしに「パウロが否定するから認められない」という帰結にはなりえない。 そもそも、ここでパウロが指摘しているのはいわゆる「神殿男娼婦の腐敗」であり、「同性愛一般への否定」ではないという意見も存在する。 なお、福音書には、イエスが同性愛を否定したとする記述は見られない。 パウロの言葉は必ずしも正しくない また、パウロが非常に男尊女卑的な思想を持っていたことも知られている。(1コリント11 3) ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。 それどころか、女性には発言権すらないと述べている。(1コリント14 34-35) 婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。 イエスが律法を終わらせたと言っておきながら、まったく矛盾した発言である。この時点でパウロの言葉の正当性はかなり疑わしいものとなる。なぜなら彼は、律法の都合の悪い箇所は守る必要がないが、(彼にとって)都合のよい箇所は守れと言っているからである。 しかしながら、イエスは男女を差別するかのような発言は一切ない。特に、外典「トマスによる福音書」には次のようなアグラファが載っている。(トマス114) シモン・ペテロが彼らに言った、「マリハム(マグダラのマリア)は私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである。」イエスが言った、「見よ、私は彼女を(天国へ)導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る生ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るだろうから」 外典ではあるものの、近年の研究から、イエスの言葉を実際に記述した可能性が高く指摘されている福音書であり、イエスが男女平等を訴えていた強い根拠となるだろう。このことからも、性に関するパウロの言葉の正当性というものは極めて疑わしいものである。 字義的には異性愛もよくない そもそもキリスト教では、異性愛自体がよくないことであるとされている。 以下に例を示す。 マタイ5 29-31 (イエスは言った。)「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲(エピスミア)をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。」 ※エピスミアとは、ギリシャ語で「恋愛で相手に会いたいという感情」を意味する。 マタイ19 12 (イエスは言った。)「天の国のために自らを去勢する者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」 ※ローマ教皇が童貞に限られるのはこれが理由である。 これを字義的に読むと、異性愛も本来よくないものであり、去勢した方がよいという意味にさえなってしまう。 また、イエスの弟子ヨハネ、もしくはその影響を強く受けた「ヨハネ教団」の作によるとされるヨハネの手紙一には、次のような記載さえある。(一ヨハネ2 15-17) 世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。 つまり、あらゆる俗世的な情愛の全てが本来はよくないということになる。同性愛だけを恥ずべき情愛だと訴えるパウロによる手紙の内容は、イエスの教えを正確には反映していないことがはっきりわかる。 ダビデとヨナタン ところで、男性同士の性交渉を禁じている旧約聖書には、後に王となるダビデと、サウル王の息子ヨナタンに関する逸話が書かれている。 サムエル記上18 1-4 ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。サウルはその日、ダビデを召し抱え、父の家に帰ることを許さなかった。ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた。 その後、ヨナタンはサウロ王がダビデを殺そうとするたびに、ダビデを逃がすために手助けをした。 ヨナタンが戦いによって亡くなった時、ダビデは次の様に言っている。 サムエル記下1 25-26 ああ、勇士らは戦いのさなかに倒れた。 ヨナタンはイスラエルの高い丘で刺し殺された。 あなたを思ってわたしは悲しむ 兄弟ヨナタンよ、まことの喜び 女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。 こういった記述から、ダビデとヨナタンの間にあった愛は、わざわざ「女の愛」という表現を用いていることからも、単なる友情を超えた愛、すなわち同性愛関係であると解釈される場合もある。 旧約聖書の記述では、性交渉を含めた同性愛行為が認められるということはないが、ダビデとヨナタンの例が好意的に聖書で取り上げられていることからわかるように、神の目で見てプラトニックな同性愛は必ずしも否定されていない。 神の判断に委ねる したがって、次の結論が導かれる。 ソドムとゴモラが滅びた理由が高慢さであることの根拠はあるが、同性愛が理由であるとの根拠はない。 律法では「性交渉を伴わない男性同士の同性愛」も「性交渉の有無を問わない女性同士の同性愛」も否定されていない。 ダビデとヨナタンのように、男性同士の強いプラトニックな愛が認められる場合がある。 新約聖書では、律法の形式主義はイエスにより破棄されており、律法を根拠に「男性同士の性交渉」を常に否定することはできない。 新約聖書では、そもそも異性愛・同性愛を問わず、肉欲自体が肯定されていない。 複合的な理由から、パウロによる男性同士の同性愛の否定は根拠にならない。 このことから「同性愛である」という理由で罪になるとは言えず、それが許されうるモラルに適った関係か否かの判断につながるのである。その意味で、罪にならない行いを心がけ、その判断は神に委ねるのが正しいと言える。
https://w.atwiki.jp/utauuuta/pages/2400.html
ぼくはしった【登録タグ nwnw ほ 曲 綴音アルゴ】 作詞:nwnw 作曲:nwnw 編曲:nwnw 唄:綴音アルゴ 曲紹介 じっとしていれば良かったと嘆きながら ただ,寂しい後悔の歌です(投稿者説明文より 歌詞 (動画歌詞より転載) 僕は世界を敵に回せるだろうか 荒む心を抉った 牙は既に折れて 僕は 人を 恐れ 人は 僕を 拒む この溝は深まるばかり 僕は知った 僕は胎児(こども)のままで良いと 『産まれてこなければ……』なんて 贅沢なことは言わないから 僕は自分を押し殺せるだろうか? 暴れる心を宥める 腕も既に枯れて 僕でさえも騙し 僕を嘘で固め その嘘は真実(ほんとう)になって 僕は気付く 僕は孤独のままで良いと 『都合の良い人』(やさしいひと)を演じて 僕は僕を 見失う 僕は獣のままで良いと 優しさを知ってしまった 僕はどうすれば良いんだ……? 何時まで僕は此の侭? 弱さを盾に? 脆い箱には何も無くて…… 僕は嘆き そして言った 僕は化石のままで良いと 見付からなければ屹度 平穏なまま眠れたのに 僕は胎児のままで良いと 居場所も名前も捨てた 僕は何処で 泣けば良いんだ……? コメント 凄く素敵です。もう何時聴いて最高! -- 名無しさん (2018-05-11 23 26 21) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/zetu0508/pages/231.html
キリシアの茶 [きりしあのちゃ] 飲料物:茶 トトル商国から輸入された物が好んで飲まれている。 存外庶民の中でもこれが手に入り易く、庶民がこれを口にする事も多い。 王侯貴族が購入したが、古く成って香りが薄くなってしまった物を商人が買い取り、それを安く庶民に販売した事が契機である。 ダヴェン地方ではこれに牛の乳を入れ、黍の粉末を少量加えて飲む事が一般的である。 または、蜂蜜を入れたり、ジャムを入れたりと地方色によって飲み方は異なる傾向が多い。
https://w.atwiki.jp/nostradamus/pages/2198.html
『新約聖書』はキリスト教の教典。正典は西暦1世紀半ばから2世紀にかけて作成された27の文書によって構成されている。 成立 個々の文書のうち、最も早い時期に属するパウロ書簡(第一テサロニケ書)は西暦50年前後に書かれたと考えられているが、もともとの聖書(現在のキリスト教徒が言うところの旧約聖書)に対し、キリスト教徒が独自の聖典をまとめようとする動きは鈍かった。 それを促した大きな契機がマルキオン聖書であった。マルキオンは現在では異端とされているが、彼は独自の基準によって、ルカ福音書と一部のパウロ書簡のみをまとめた「聖書」を2世紀半ばに作成したのである。これは異端として排除されたが、正統派も何らかの基準で正典を作成すべき必要が徐々に認識されていくようになったのである。 しかしながら、現在の27文書を正典とすることが最終的に認められたのはようやく4世紀末になってのことであった(*1)。 【画像】 田川建三 『書物としての新約聖書』 構成 『新約聖書』の構成は以下のように大別できる(*2)。成立年代などはリベラル派の聖書研究に依拠しているので、保守的な聖書学者の見解とは一致しない箇所も少なくないことをあらかじめお断りしておく。 福音書 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる4つの福音書が含まれている。最初の3つは共観福音書と呼ばれ、重なり合う要素も多いが、それぞれの視点で編集されている。 かつて最も評価されていたのはマタイであったが、19世紀以降の聖書学の発展の結果、マタイやルカの縮約版と過小評価されていたマルコ福音書が最古の聖書であることはほぼ確定している。その年代は西暦65年頃から70年代のいずれかに置かれるのが一般的だが、田川建三のように50年代にまで遡れる可能性を指摘する者もいる。 マタイ福音書とルカ福音書はマルコ福音書のほか、共通する別伝承に依拠したことが確実視されており、その共通する別伝承は一般にQ資料と仮称されている。マタイ、ルカとも、それぞれ独立におおむね80年代にまとめられたと見なされている。 ヨハネ福音書は西暦90年から125年までに作成されたと考えられており、福音書中で最も成立が遅く、しかも他の福音書と比べて思想上も相違が見られる。現存するヨハネ福音書は原著者とは別人によって大きく加筆されているとされ、ギリシア語本文にも明確な差が認められるという。この別人による改訂は、原著者と同じ思想的立場によると想定されることがしばしばだが、田川のように、原著者の思想が当時の主流派の思想と大きく異なるために、主流派の側に組み込むことを目的にしてなされたと推測する者もいる(*3)。 使徒行伝 使徒行伝(使徒言行録、使徒のはたらき)は、福音書に続いて収録されている文書であり、四福音書とまとめて新約聖書の中での「歴史書」と分類されることもある。 その内容は、イエスの昇天と復活のあとの使徒たちの宣教をまとめたものであり、著者がルカ福音書の著者と同一であることはほぼ確実である。成立は田川が西暦70年から80年頃、荒井献(岩波翻訳委員会)が80年代後半から90年代前半と見積もっている。 パウロ書簡、擬似パウロ書簡 パウロはもともとキリスト教徒を弾圧していたが、ある時に復活のキリストの声を聞いたことから回心し、熱心なキリスト教徒となった。新約聖書にはそのパウロが折に触れて書いた様々な書簡が収録されている。 全部で13通あるが、現在までの研究の結果、その中にはパウロに仮託して別人が執筆した書簡も少なからず含まれていることが確実視されている。これを第二パウロ書簡とか、擬似パウロ書簡と呼ぶが、ヘブライ書のみはかなり異質とされ、第二パウロ書簡にも含めないことが多い。 確実に真正パウロ書簡と認められているのは以下のものである。最も早いと考えられている第一テサロニケ書が西暦50年前後の成立で、それ以外の書簡も遅いものでも50年代後半から60年代前半までには成立していたものと考えられている。 ローマ書 (ローマの信徒への手紙) 第一コリント書 (コリントの信徒への手紙一) 第二コリント書 (コリントの信徒への手紙二) ガラテヤ書 (ガラテヤの信徒への手紙) フィリピ (フィリピの信徒への手紙) 第一テサロニケ書 (テサロニケの信徒への手紙一) フィレモン書 (フィレモンへの手紙) 以下は擬似パウロ書簡だが、中には第二テサロニケ書やコロサイ書などのように、かなり見解の分かれるものもある。ここではとりあえず、ギュンター・ボルンカム、岩波新約聖書翻訳委員会、田川建三が共通して擬似パウロ書簡としているものを挙げる。これらの推測成立時期は論者による推測の幅が大きい。真正書簡と考える論者が他の真正書簡と同じ時期に位置づけようとするのは勿論だが、擬似パウロ書簡に位置づける者にも、2世紀に入るか入らないかという時期にはあらかた成立していたと見る保坂高殿(岩波翻訳委員会)のような立場もあるし、牧会書簡(テモテ2通とテトス)を2世紀後半と見る田川のような立場もある。 コロサイ書 (コロサイの信徒への手紙) エフェソ書 (エフェソの信徒への手紙) 第二テサロニケ書 (テサロニケの信徒への手紙二) 第一テモテ書 (テモテへの手紙一) 第二テモテ書 (テモテへの手紙二) テトス書 (テトスへの手紙) このほか、前述のようにヘブライ書 (ヘブライ人への手紙) も伝統的にはパウロの書簡と位置づけられてきたが、批判的な意見が強い。パウロ本人の手になるものではないと見る論者たちは、パウロの死後、遅くとも90年代までには成立していたと考えている。 その他の書簡 聖書には、他にもいくつもの書簡が収められているが、それは一般に「公同書簡」と総称される。特定の教会に宛てたものではなく、広く一般信徒に読まれることを想定しているからで、おおむね1世紀末から2世紀前半にかけて成立した書簡である。イエスの兄弟であるヤコブとユダ、使徒であるペトロとヨハネの名を冠しているが、リベラル派の聖書研究ではほとんど(もしくは全て)が偽名書簡とされる。 ヤコブ書 (ヤコブの手紙) 第一ペトロ書 (ペトロの手紙一) 第二ペトロ書 (ペトロの手紙二) 第一ヨハネ書 (ヨハネの手紙一) 第二ヨハネ書 (ヨハネの手紙二) 第三ヨハネ書 (ヨハネの手紙三) ヤコブ書 (ヤコブの手紙) ユダ書 (ユダの手紙) 黙示録 『新約聖書』の巻末に置かれているのが『ヨハネの黙示録』である。西暦90年代頃に成立したと見なされている黙示文学であり、伝説的には使徒ヨハネの著書と見なされてきたが、古くから批判も根強かった。このヨハネは福音書を書いた著者とも、手紙を書いた長老ヨハネとも異なる人物であろうと推測されており、パウロの権威を持ち出した第二パウロ書簡などと異なり、自らの名で啓示を記した点にも特徴がある。 その終末論的ビジョンは、古来多くの亜流となる黙示文学や解釈を生み出してきた。この文書は正典に入れるかどうかでも大いに揉めてきた歴史を持っている。 校訂と翻訳 新約聖書の原典はギリシア語で書かれている。もちろん、収録されている27文書のいずれについても原本は見つかっていない。その結果、4世紀以降の様々な写本 (ごくわずかな断片なら西暦125年ごろのヨハネ福音書の断片など、より古いものも確認されている) を校合して原文を確定させる必要が出てくる。 そうした校訂版の中で最も評価が高いのが、主要な異読を網羅する形でアパラトゥス (異読を記した欄外註) を充実させているネストレ版 (ネストレ=アーラント版)である(*4)。 【画像】 ネストレ=アーラント28版のうち、比較的評価の高い NRSV と REB という二つの英訳が併録されている版。 聖書の翻訳は世界中で刊行されており、英語版に限っても欽定訳をはじめ夥しい数が存在している。英語版では改訂標準訳 (Revised Standard Version, RSV) の評価が高く、田川建三は「古今東西の最高の聖書翻訳の一つ」とまで評している(*5)。フランス語訳ではエルサレム聖書(エルサレム聖書学院主宰のフランス語訳聖書)について、田川は「聖書翻訳史上、最高の貢献の一つとして今後長く評価され続けることになろう」(*6)と述べている。 【画像】 エルサレム聖書(ポケット社版、2002年)。旧約・新約両方が収録されているが、最大の特色である本文の註は割愛されている。 日本語訳も当然多い。 最も多く流布しているのは日本聖書協会のものであろう。同協会は(前身の団体のものも含めると)明治にいわゆる明治訳、大正時代にいわゆる大正改訳(現在「文語訳」として知られるもの。新約のみで旧約は明治訳のまま)を刊行し、1954年から1955年にかけて口語訳、1978年に共同訳(新約のみ)、1987年に新共同訳を刊行してきた。同協会の公式サイトによると、新共同訳は「日本の教会やキリスト教主義学校で使用されている聖書の八割を占める」(*7)という。 田川建三は口語訳と新共同訳を比較して、こう述べている。「原典の意味をなるべく正確に理解するという目的のためには、口語訳の方が新共同訳よりもすぐれている。六分四分か、あるいはもっと口語訳の方がすぐれていると言える。しかし、新共同訳の方がすぐれている点も多いから、両者を比べて用いるのがよい、ということになろう」(*8)。 しかし、田川が日本聖書協会(および母体となったイギリスの聖書協会)の問題点として挙げているのが、註の欠如である。聖書は原文の確定自体に議論があり、その選定に宗派ごとの立場も影響する。翻訳においても同様であり、たったひとつの確定した読みを提示することなど不可能な箇所も少なくないし、また、原典に忠実に訳した場合に註釈なしには理解が著しく困難になる箇所もある。 ゆえに田川はすぐれた聖書の翻訳とは註が充実したものとして、自身 『新約聖書 訳と註』 シリーズを2007年から刊行し始め、2017年に完結させた(2018年に訳のみを集めた「本文の訳」も刊行)。このほか、註の充実した聖書としてはフランシスコ会聖書研究所のものがあり、これは田川も高く評価している。 日本聖書協会は2010年以降、新たな註釈つきの共同訳の刊行を計画しており、分冊のパイロット版の販売が行われた。それに寄せられた意見を元にして、2018年12月に聖書協会共同訳が公刊された。 【画像】 『聖書(旧約聖書続編付き) 聖書協会共同訳』 なお、新共同訳には教派的な視点からの批判もあり、福音主義に忠実な立場の専門家たちによって、新改訳聖書(日本聖書刊行会)が出版されている(2003年に第三版、2017年に新改訳2017が発刊)。 註つきの新約聖書ということでは、岩波書店が新約聖書翻訳委員会による『新約聖書』全5巻(1995年 - 1996年、のち合冊版2004年)を刊行している。自身が同委員会に参加した大貫隆はこれを学術的に重要なものとし、「最新の研究を踏まえた訳注が付されており、自主的な聖書研究に最適」と述べている(*9)。 他方で、各文書を担当した訳者ごとの力量差が大きいという田川建三の指摘もある(*10)。また、委員会の中心メンバーである荒井献訳の使徒行伝については、土岐健治が誤訳を指摘した論文を公表している(*11)。 以上のようにギリシア語原典自体、その原文の確定には数え切れない議論があり、立場を問わず共有された正しい原文など存在しない。その原文について、語学的あるいは教派的な立場から様々な翻訳がありうるのだから、特定の訳を無批判に利用するのは信仰上の理由からならば許容されるにしても、非キリスト者の接し方としては問題があるだろう。 総じて言えるのは、通俗的なオカルト本によく見られる、どの翻訳に依拠したのかすら明記せずに聖書を引用して独自解釈を滔々と述べるパターンは、そもそも聖書理解の入り口にさえ立てていないということである (ちなみに、依拠した訳の訳者なり出版社なりに一切触れないのは、著作権法上も問題となりうる)。 当「大事典」での翻訳の選択 当「大事典」では、2018年時点で最も流布している新共同訳、および今後広く流布するであろう聖書協会共同訳を軸に、岩波の新約聖書翻訳委員会訳、田川建三訳、フランシスコ会聖書研究所訳などから適宜引用している(黙示録についての佐竹明訳など、個別の文書ですぐれた註解書がある場合は、その訳を用いる場合もある)。 他方、新改訳は (訳語などの比較対象として言及することはあるが) 章句を引用する際の底本には用いない。それはプロテスタントの信仰との関わりを重視した翻訳であることが明記されているからである。 別に当「大事典」は田川建三の評価のように、新改訳をファンダメンタリストによる翻訳で詳述に値しないとまで位置づけるわけではないが(*12)、少なくともノストラダムスが公的には王党派カトリックの姿勢を一貫させていたことを踏まえるなら、ノストラダムスとの関わりを考察する場面で新改訳を主軸とする必要性は乏しいものと考えられるのだ。 もちろん、現在は本文批評(正文批判)などが大きく進歩していることもあり、新共同訳や田川訳などにしたところで、おそらく主にウルガータ (伝説的にはヒエロニムスに帰せられている古いラテン語訳だが、実際にはもっと複雑な経緯で成立した) あるいはテクストゥス・レケプトゥス(エラスムスらによって校訂されたギリシア語本文。1516年初版)しか目にしていなかったであろうノストラダムスが見ていた新約聖書とは、少なからぬ隔たりがあるだろう。その意味では、ウルガータからの訳だったフェデリコ・バルバロ訳を使うのも一つの手かもしれないが、それは現代イタリア語訳の影響をかなり受けていたとも言われる個人訳であるし(*13)、結局のところ隔たりを埋める決定打にはなりえない。 バルバロ訳を使っても、他の訳を使っても、隔たっていることに変わりないのであれば、より広く流布している新共同訳、今後広く流布するであろう聖書協会共同訳、カトリックによる学問的にも信頼されるフランシスコ会聖書研究所訳、聖書学者の訳である田川訳や岩波の翻訳委員会訳を使うほうが望ましいものと判断している。 ノストラダムス関連 ノストラダムス予言への聖書の影響については、聖書の項目を参照のこと。 なお、ジャン=エメ・ド・シャヴィニーの証言が正しいのなら、ノストラダムスが好んだ『聖書』の章句は Facite vobis amicos de mammona iniquitatis(*14) 不正のマモン(富)によってでも自分のための友人を作れ(ルカ福音書・第16章9節の一部、田川建三訳)(*15) であったという。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
https://w.atwiki.jp/ml-story/pages/394.html
お疲れ様です! -- (イキリシタ) 2023-04-30 13 33 23